ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 ヨンイルが暴走した。
 虚実入り混じった情報が錯綜して東棟は天地ひっくり返ったような大騒ぎだ。独房脱走犯にして看守殺害犯の静流に鍵屋崎が拉致られて行方不明になってからはや半日、そろそろ人質の体調が心配な頃だ。
 早く鍵屋崎を見つけなけりゃさすがにやばい事になると誰もが最悪の可能性を考慮に入れてあせりにあせっている、その筆頭が西の道化・ヨンイルだ。
 通称手塚トモダチ、鍵屋崎と親しい仲にある西の道化は子分どもを率いて駆けずり回っていたがさっぱり成果が上がらずブチギレたらしい。
 現場は騒然としていた。
 野次馬と看守とが忙しく出入りして殺気立った雰囲気に包まれた地下停留場を見回すもヨンイルの姿はない、ヨンイルが乗っ取ったバスも見当たらない。
 「どこ消えたんだよ、ヨンイルは!?」
 「あ、ヨンイル一の子分発見」
 レイジの声と視線につられてそっちを見れば、顔に傷のあるガキが人ごみの中をあっちへこっちへうろついていた。
 心細げな様子でよちよち歩きしてるガキを叱咤する。
 「ワンフー!」
 ワンフーがびくりとする。
 地獄に仏、地下停留場に元同僚。
 ワンフーが大手を広げて俺たちを歓迎する。
 「ああ、半々!良かった会えて……聞いてくれよ、ヨンイルさんがとんでもねえことしでかしたんだ、よりにもよってバスジャックなんて……上にバレたら独居房送りどころじゃすまねえってのに」
 「イチから説明しろ」
 ざわつく停留場のど真ん中、人ごみの濁流を塞き止めてワンフーと対峙する。
 深呼吸を二度繰り返し、ワンフーが語りだす。 
 「俺たちヨンイルさんの命令で朝からずっと鍵屋崎捜してたんだけど全然見つかんなくて、隅から隅までさがしても出てくるのは塵やゴミや使用済みコンドームも抜け殻ばっかで、いい加減へとへとになってたんだ。ヨンイルさんも相当参ってた。ヨンイルさん鍵屋崎のことすごく心配してて、直ちゃんの身に万一のことがあったら手塚神になんて謝ったらええかわからんて責任感じて、ろくすっぽ休みもせず捜し続けてたんだけど……急に叫んだんだ」
 「なんて?」
 「『わかった、あそこや!』」
 「エウレカ」 
 「えうれか?」
 いつのまにか隣に来ていたレイジが首肯する。
 「気にすんな、続けろ」 
 レイジが顎をしゃくり、ワンフーが再び語りだす。
 「ヨンイルさんは鍵屋崎の居所わかったんだ。だからあんなに慌てて……俺たちが止める間もなく地下停留場に下りて、ちょうど帰ってきたバスのまん前に飛び出して急ブレーキかけさせて、無理矢理バスん中に突っ込んでったんだ。そんでそのまま恐ろしい形相でハンドル回して……砂漠に出ちまって……」
 「やることなすこと極端すぎんだよ、あいつ」
 鍵屋崎心配な気持ちもわかるけど子分の気持ちも考えやがれってんだ。
 俺はワンフーに同情した。
 ワンフーだけじゃない、地下停留場に取り残された西棟の連中はヨンイルの行方に気を揉んであっちへこっちへうろついたり所在なく突っ立ったりおのおの不安を丸出しにしてる。中には相棒の胸を借りて泣き崩れる奴や放心の体で虚空を見詰める奴、「あんた何ぼっと突っ立ってるんだ、西のトップが消えたんだ、バスが転覆して砂に埋もれてたらどうするんだよ、今すぐ捜しにいけよ!」と怖いもの知らずにも看守に食い下がる奴がいる。
 「どうするレイジ?」
 向こう見ずな勢いで地下停留場に来ちまったもののヨンイルを追うには車を出さなきゃいけない。徒歩で砂漠に出るのは自殺行為だ。
 ヨンイルに追いつくには俺たちもバスを乗っ取るかジープを乗っ取るかしないと不可能だ。焦燥に駆られてレイジを仰げば、王様は人の気も知らずに虚空を見詰めている。
 「レイジっ!」
 苛立ちに声を荒げる俺をよそに、レイジが人さし指を立てる。
 「しっ。聞こえねーか?」
 え?
 レイジに促されてあたりを見回す。
 地下停留場の喧騒に耳を澄ます。
 目を閉じて意識を集中、聴覚を研ぎ澄ます。
 興奮のさざめきと野太い怒声がごたまぜになった雑音の坩堝、地下停留場の喧騒に混じる重低音……
 コンクリ床を伝ってくるかすかな振動、蜂の大群の羽音に似た不吉な唸り、可聴域ぎりぎりを這うエンジンの音……
 空気がうねる。
 ざっと鳥肌が立つ。
 嫌な予感。
 「まさか」
 「伏せろ!!」
 レイジが一喝した途端、エンジンの轟音と凄まじい風が殺到する。
 顔面をぶった塵が目を潰す。
 風圧に逆らって瞼をこじ開ける。
 驚愕。
 「ひっ!」
 「地獄の暴走バスだ、逃げろ、轢き殺されるぞ!」
 ひきつけ起こしたように硬直する囚人、まわりの連中を突き飛ばし我先に逃げ出す囚人……阿鼻叫喚の地獄絵図。
 一陣の突風とともに地下停留場に殴り込んだバスはでかい胴体を右へ左へ不安定に揺さぶり、横腹を標識に掠らせてぎゃりぎゃり耳障りな軋り音と金属質の火花を生じさせ、囚人を幾人か薙ぎ倒し跳ね飛ばし、阿鼻叫喚の地獄絵図の中を無軌道に盲進する。
 蜘蛛の子を散らすように逃げまくる囚人どもに殺人バスが襲いかかる。
 タイヤがコンクリを擦る音も耳障りにタイヤのゴムが摩擦熱で焼ける異臭が鼻腔を突き逃げ遅れた俺の方へ真っ直ぐー……
 「ロン!」
 視界が反転、体が跳ね飛ぶ。
 バスに轢かれたわけじゃない、レイジに横ざまに抱きかかえられ二人折り重なってコンクリ床に転がったのだ。コンクリ床に衝突した衝撃で視界がブレて脳震盪を起こすも一瞬のこと、レイジが俺の下になって庇ってくれたおかげでかすり傷だけですんだ。 
 「ヨンイル運転できねーじゃんかよ。死人がでるぞ」 
 このままじゃ味方も敵も手当たり構わず轢き殺しちまいかねない。
 コンクリ床をぎゃりぎゃり削り俺めがけて突っ込んできたバスにぞっとする。バスの巨体に突撃食らったら良くて瀕死、悪くて即死だ。恐慌を来たした野次馬が大挙して出口に殺到する。西棟の連中は無謀にも体当たりでバスを止めようと走り出すも、いざバスと正面衝突となればケツまくってトンズラこく始末だ。
 「ヨンイルさん、おれおれ、俺っスよ!西棟のスリ師でヨンイルさんの腹心のワンフーっス、わかんないんですか!?」
 ワンフーが哀れっぽく名乗りを上げるもバスの速度は落ちず暴走は止まらない。当たり前だ、エンジン全開で暴走するバスの運転手に外から何を叫んだところで聞こえるはずない。
 こめかみを冷や汗が伝う。
 「ヨンイル、何の漫画参考にしたんだよ……」  
 ヨンイルを止めるには直接バスん中に乗り込むしかない。
 素人運転は事故のもとだ。今すぐヨンイルをハンドルからひっぺがさないと大惨事を引き起こしかねない。鍵屋崎を助けるどころじゃない、ヨンイルごとバスが大破炎上したら洒落にならねえ。地下停留場が火の海だ。
 「レイジ、お前運動神経イイだろ。ちょっくらバスの窓蹴破ってヨンイル正気に戻してこいよ」
 「簡単に言うなっつの。俺でもできることとできないことが……」
 レイジが不意に言葉を切る。レイジの視線を追う。エゴ剥き出しに地下停留場を逃げ惑う囚人と看守、その人ごみを巧みに縫って颯爽と一台のジープが現れる。凸凹の激しい悪路も砂漠の道なき道をも走破できる頑丈なジープが、ゴムタイヤの灼ける匂いも香ばしく猛然と地下を突っ切ってくる。
 「HEY、タクシー!」
 「ヒッチハイクかよ!?」
 レイジが親指を突き出す。
 そんなんで都合よく止まるかよと突っ込んだ眼前にジープが急停止。
 「安田!?」
 ジープを運転してたのは副所長の安田だった。
 いつもきっちり纏めてるオールバックが乱れ、一房二房としどけなく額に落ちかかっている。銀縁メガネの奥の双眸は怜悧な鋭さを増し、切迫した面差しには憔悴の色が濃い。着崩れたシャツに無造作にネクタイを締めた安田がレイジと俺を交互に一瞥、事務的に指示する。
 「轢かれたくないなら逃げたほうが無難だ。私はヨンイルを追う」
 凄味を感じさせる表情に眼鏡の輝きが底知れぬ迫力を与える。
 威圧的な言動に気圧される俺をよそにレイジは飄々と笑ってる。
 飄々と笑いながらジープの後部ドアに手をつき、コンクリ床を蹴り、身軽に宙に舞う。
 一呼吸後には後部座席に収まったレイジが、ぼけっと突っ立ってる俺にむかって片目を瞑ってみせる。
 「ヨンイル追うんだろ?だったらちょうどいいや、目的はおんなじだ。俺たちも乗せてくれよ」
 「許可も得ず勝手な真似をするな。副所長の車に囚人が乗り込むなど本来は規則違反、厳罰に処されても仕方ないぞ」
 「かてーこと言うなって。あんた鍵屋崎の居場所も知らねーだろ」
 「……君は知ってるというのか」
 含みをもたせた台詞に安田が眉をひそめ、ハンドルを握ったまま振り向く。頭の後ろで手を組んだレイジがほくそ笑む。
 「ヨンイル追うなんざただの口実だ。あんた本当は鍵屋崎をさがしにいくんだろ?だったら俺を連れてって損はない、俺なら鍵屋崎の居場所がばっちりわかる。あんたにヒントをくれてやれる」
 安田の目に一瞬不審の色が浮かぶも、すぐに消える。
 鍵屋崎の身が危険に晒された状況下で迷ってるヒマはないと判断したらしい。細かいことはぬきに王様の言い分をひとまず信用した副所長がハンドルを握りなおす。
 「君はどうする?」
 安田が俺を仰ぐ。
 答えは決まってる。
 後部ドアに手をつき、勢い良く床を蹴り、宙空にて猫のように身を捻る。
 「半々……じゃないロン、俺もつれてってくれ!ヨンイルさんが心配なんだ」
 言い間違えを訂正、人ごみに揉みくちゃにされたワンフーが這う這うのていでやってくる。ドアをこじ開けて乗せろとせがむワンフーにためらうも、心を鬼にして迷いを振り切る。
 「悪い、定員オーバーだ!」
 安田がアクセルを踏み込む。
 ジープが急発進、ワンフーがもんどりうって吹っ飛ぶ。
 慣性の法則で体に負荷がかかり鋭利な風が頬を掠める。
 副所長の運転する車で砂漠に出たとバレたら独居房送りを覚悟しなきゃならないが、鍵屋崎とヨンイルが死ぬかもしれない一大事にいちいちそんな事構ってられっか。
 風圧で舞い上がる前髪を押さえ、運転席の安田に呼びかける。
 「あんたはいいのかよ副所長、勝手にジープ出したことがバレれば変態所長に怒られねーか?!」  
 風に吹き散らされないように自然と声がでかくなる。
 「鍵屋崎の命が危険に晒されてる時にそんな瑣末なことに拘っていられない。囚人の安全を守るのが副所長の使命だ。所長には後で報告する……しかるべき処罰は受ける」
 安田の横顔に決意の一念が過ぎる。
 手際よくハンドルを操りジープを駆りながら、バックミラー越しにレイジの表情を窺う。
 「……憂慮すべきはむしろ私ではなく君だ。私のジープに同乗して強制労働時間外に砂漠に出たことが発覚すれば君とてただではすまない。君は所長に目をつけられている。規則を破ったことがバレればどんな過酷な罰を受けるかもわからない」
 脅迫、というにはあまりに抑制の利いた口ぶりで安田が指摘する。
 間抜けなことに安田の指摘で初めてその可能性に思い至り、全身の血が逆流する。
 俺の隣でレイジは飄々と口笛を吹く。
 相変わらず音痴な口笛が風にちぎれる。
 頭の後ろで手を組み、ご機嫌な様子で前を向いたレイジに食ってかかる。
 「レイジ、お前いいのかよ」
 「いいんだよ」
 風に流れる茶髪を片手で押さえ、あくびを噛み殺すように付け足す。
 乾いた風に髪を嬲らせ、王様は不敵な笑みを刻む。 
 「なまぬるい責めに飽き飽きしてた頃だ。たまには刺激が欲しくなる」
 「強がり言ってんじゃねーよ。またケツにローター突っ込まれて腰砕けで帰ってきたら俺……」
 「襲う?」
 「『笑蚤』」
 台湾語で悪態を吐き、そっぽを向く。
 地下停留場をさんざんひっかきまわした末に外へ逃亡したバスを追跡、夕映えの砂漠へとジープが飛び出す。
 西空が紅蓮に燃える。
 跳ねっ返りで癖が強い髪を前方から吹いた風がかきまぜる。
 不規則に揺れるジープの中。
 固い背凭れに体を預け、エンジンの嘶きと車体の振動を感じ、呟く。
 「お前に手を出したら、今度こそ所長を殺す」
 安田がこっちのやりとりを聞いてるのはわかったが、いったん堰を切った言葉は止まらない。自分を抱きしめるように体に腕を回し、シートに足をあげる。体に膝を引き付け、こじんまりと折り畳む。
 噴き上げる激情を抑えようとぎゅっと自分を抱きしめ、目を瞑る。
 「……鍵屋崎は俺の仲間だ。不幸せになんかなってほしくない。サムライだってそうだ。東京プリズンでやっと出来た大事なダチ、大切な仲間だ。鍵屋崎にもサムライにも幸せになってほしい。だけどお前は」
 最初から幸せになるのを諦めてるような。
 不幸せでもいいやって笑ってるから。
 だから不安なんだ。
 不安でどうしようもないんだ。
 「お前は俺が幸せにしなきゃいけないんだ。俺が幸せにしてやんなきゃ、幸せになれないんだ」
 鍵屋崎にもサムライにも幸せになってほしい。
 だけどレイジは、俺がいなきゃ幸せになれない。
 俺はレイジを幸せにしてやりたい。おもいっきり幸せにしてやりたい。二度と所長の餌食にさせたくない、レイジの体と心を所長に弄ばせたくない。レイジは俺の物だ。レイジをどうにかしていいのは俺だけだ。他の誰にもレイジをさわらせたくない、抱かせたくない、渡したくねえ。所長の下で淫らに喘ぐレイジを思うと嫉妬で胸が煮えくりかえる、性的いじめだか性的な拷問だかでさんざん嬲られて快感に狂わされるレイジを思うと所長に対する殺意を抑えきれない。
 レイジが好きだ。
 どうしようもなく。
 所長が憎い。
 殺したいほどに。 
 重苦しい沈黙にエンジンの唸りが被さる。
 安田は無言でハンドルを握ってる。
 俺は不規則な振動に身を委ね、レイジを好きに弄ぶ所長への嫉妬と殺意に苛まれた醜い顔を見られたくなくて、膝に顔を埋める。唇をきつく噛み締める。肩に手がかかる。レイジが俺の肩に手をかけ身を乗り出す気配を察する。
 「ロン……」
 「俺、最低だ」
 心配げな声。
 俺は顔を上げられない。
 レイジが所長にどんな目に遭わされるか想像するだけで胸がむかつくのに口ばっか達者で実際は何もできない自分が悔しくて情けなくて顔が引き歪む。膝に顔を伏せたまま身動ぎしない俺の頬に、そっと褐色の指先が触れるー……
 指が肉を挟み、引っ張る。思い切り。
 「ひでででででっでででで!!?」 
 涙目で呻いた俺からパッと手を放し、底が抜けたように笑い転げるレイジ。後部座席にそっくり返り手足をばたつかせ、まんまイタズラに成功した悪ガキのはしゃぎっぷりにあっけにとられる。
 「ざまーみろ、俺の顎に肘鉄食らわせたお返しだ。あ、これキスもイケるかなって期待してたのに雰囲気ぶち壊しで腹立ててたんだよ。これでおあいこだな」
 「てめ、ひとが真面目な話してるときに……!」
 「シケたツラすんなよ。笑っとけ。お前が落ち込むと調子が狂うんだよ。王様の命令」
 赤く腫れた頬をさすり、恨みがましくレイジを睨む。安田がわざとらしく咳払いをする。そこで初めて第三者の存在を思い出し、ひどく気まずい思いを味わう。
 熱っぽい頬に手をあて、俯く。
 レイジに一本とられた腹立たしさと安田に痴話喧嘩を聞かれた恥ずかしさも相俟って不機嫌になった俺は、頬から手をはずし、ぶっきらぼうに呟く。
 「……約束しろよ、レイジ。ちゃんと俺のところに帰ってくるって」
 「ああ」
 「いなくなるなよ」
 「わかってるよ」
 「所長にナニされても感じるなよ」
 「わあ、ロン過激ィ」
 「茶化すな。本気で言ってるんだ。ちゃんと俺の目を見て約束しろ」
 レイジのニヤけ面をしっかり手挟んで強引にこっちを向かせる。
 レイジと真っ直ぐ目を合わせる。
 草一本もない不毛の砂漠が背景に飛び去る。
 濛々と砂埃を蹴立てて疾駆するジープの中、舌を噛みそうな振動に難渋しつつ口を開く。
 「俺以外の男を抱いて感じるな。俺以外の男に抱かれて感じるな。いいな」
 向かい風が髪を蹂躙する。
 西空に夕日が沈み、砂漠が朱に染まる。
 網膜に射しこむ残照に目を細める。
 砂漠の砂を照り返し、大気を染色する太陽の乱反射にレイジもまた片目を細める。
 「……約束するよ。ロン以外の男に抱いても抱かれても感じない。俺のいちばんはロンだ」
 優しく俺の手をとり、恭しく頭を垂れて手の甲に口づける。
 レイジの唇が触れた場所がじんわり熱をおびる。唇から伝わる火照りが心地よい。
 レイジに取られた手はそのままに、残照を映して色合いを深めた瞳を覗き込む……
 「漸く追いついたぞ!」
 安田が歓声をあげる。
 安田の声にハッとして前方を見る。
 扉から身を乗り出した俺の後ろ襟掴んで引っ込めたレイジが、俺の背中に乗っかり前傾姿勢をとる。
 ジープは僅か五メートルを隔ててバスと併走していた。
 安田が額に汗してアクセルを踏み込み、エンジンを噴かす。
 濛々と砂埃を蹴立ててジープが加速、バスの前部へと追いすがる。
 運転席の窓辺にジープが寄り添い、髪を振り乱して安田が叫ぶ。
 「ヨンイル、聞こえるかヨンイル!即刻ブレーキを踏んでバスを止めろ!このまま走行すればいずれ砂にタイヤを取られて転覆する、横転事故は避けられないぞ!」
 血相替えて投降を勧告するも速度の衰えは微塵もなくバスは走り続ける。四輪のタイヤが膨大な量の砂を蹴散らして深々と溝を作る。滝のように飛沫を撒き散らす砂の瀑布が視界を覆う。
 口にも目にも服の中にも砂が入り込んでじゃりじゃりする。
 さかんに唾を吐いて目をしばたたいて上着をはたいて砂利を追い出し、紗がかった瀑布の向こうに叫ぶ。
 「ヨンイル、聞こえてるかヨンイル!お前いい加減正気に戻れよ、鍵屋崎の居場所ほんとにわかってんのかよ、滅茶苦茶に走り回ってるだけじゃんかよ!?鍵屋崎は溶鉱炉だ、溶鉱炉にいるんだ、レッドワークの溶鉱炉につかまってるんだ!鍵屋崎を拉致った犯人もそこにいる、サムライもそこにいる!静流は鍵屋崎を人質にしてサムライと対決する気なんだ、今度こそサムライと決着つけるつもりなんだよ!」
 「それは本当か!?」
 「よそ見すんなばかっ、前見ろ!」
 鍵屋崎の名前を出した途端顔色を変えて振り向いた安田をどやしつけ、首を捻って前に向き直らせる。ああくそ、つい口が滑って副所長に馬鹿って言っちまった俺の馬鹿!
 再三の呼びかけも虚しくバスは一向に速度を落とさず停止の気配を見せない。ヨンイルは何してんだよと苛立ちが募り怒りが爆発、運転席の窓を殴り付けようと拳を振り上げる…… 
 「どわあっ!?」
 運転席の窓を殴打する前に激しい横揺れが襲い、あっけなくひっくり返る。後部座席に倒れて目を回した俺は、夢うつつに激しく言い争う声を聞く。
 乗り物酔いの吐き気を堪えて体を起こし、衝撃的な光景を目撃する。
 運転席に身を乗り出したレイジが安田とハンドルを奪い合ってる。 
 「なにをするレイジ、危険だ、やめろ!」
 「ちんたらやってんなよ副所長。貧弱な坊やに運転任せといたらいつまでたっても追いつけねーよ、いい子でハンドル渡せって!」
 安全運転を心がける安田の非難を鼻先で笑い飛ばし、王様が不敵な笑みで断言。
 いっそ気を失っちまいたかった。
 天下の副所長を貧弱な坊や呼ばわりし肘で押しのけ、華麗な身ごなしで運転席に飛び移るや否や景気よくハンドルを半転させる。ハンドルがきっかり180度回転、それにつれてジープが半立ちになり遠心力でシートの端へと転がる。
 反対側の扉に背中が衝突、肺が圧縮される。
 視界が激震、脳味噌が攪拌される。
 「レイジお前運転できんのかよっ!?」
 語尾が悲鳴に近くなる。ハンドル争奪戦兼ジープの所有権争いに勝利したレイジが叫び返す。
 「運と勘任せ!」
 「お前に任せるんじゃなかったよ!!」
 ジープが転覆、上を向いたタイヤが空転する光景が脳裏を過ぎる。
 安田はどうにかハンドルを奪還しようと悪戦苦闘するも、伸ばした手を邪険に振り払われ、努力が報われずに眼鏡が鼻先にずり落ちる。
 「ハンドルを返したまえレイジ、君の運転は目に余る無謀だ、交通法を無視した暴挙だ!遅かれ早かれジープが転覆して無理心中は免れないぞ!」
 安田の声が風に吹き散らされて切れ切れになる。
 「口閉じとけ、舌噛むぞっ」
 レイジの叱責にぎゅっと歯を噛み合わせ、予期した衝撃に備える。
 ジープが跳躍、凄まじい衝撃が来る。
 宙に踊りあがったジープから振り落とされないよう必死にシートにしがみつく。起伏にさしかかったジープが宙に踊りあがった刹那、俺の視線の高さにバスの運転席の窓が映り、真剣な面持ちでハンドルを握るヨンイルが目にとびこんでくる。
 「ヨンイルっ!!」
 ヨンイルがこっちを向く。その目が驚愕に見開かれる。
 たった今俺たちに気付いたといわんばかりに仰天した表情。
 「―っ、」
 大量の砂を巻き上げてジープが着地、反動で尻が浮上する。
 空を噛んだタイヤが地面で跳ね、ジープが平行に戻る。
 「何が運と勘任せだ、安田道連れに無理心中する気かよ!?」
 「女乗りこなすのが得意でもジープ乗りこなすのが得意たあ限らねーだろ!?」
 「俺一人満足に乗りこなせねーくせにでけー口叩くんじゃねえよ!」
 「乗りこなしてるっつの、アクセルブレーキ自由自在でご覧あれだ!俺の腹の下でさんざ腰のドリフト利かせてる癖に嘘つくなよっ」
 阿呆だ。阿呆すぎる。
 乱暴な運転に命の危険を感じる。
 レイジもこれ以上自分がハンドルを握ってるのはまずいと思ったらしく、乗り物酔いでへたばった安田にハンドルを譲り渡す。安田のネクタイをひっ掴み、扉に片足かけた自分と入れ替わりに運転席に座らせる。
 「後は頼んだぜ安田さん。ちょっくらヨンイルに説教してくるから」
 まさか。
 レイジが安田の懐をまさぐり、背広の内側から銃をとりだす。
 安田が抗議するより早く扉に利き足かけて銃を構える。
 左手で銃底を支え、右手で銃を握って弾道を固定する。
 不安定な足場を絶妙なバランス感覚で維持、風に前髪を遊ばせて呼吸を整える。
 風を孕んだ前髪の奥、物騒な光をためた隻眼を細める。
 危うい均衡の上に重心を保ち、狙い定めて引き金を引く。
 乾いた銃声が連続で轟く。
 躊躇なく六発、窓ガラスに弾丸をぶちこむ。
 射撃の反動に腕をまっすぐ束ねて耐え、仄白く硝煙たなびく銃口をおろす。
 「猛スピードで走ってる車から弾丸撃ちこむなんざ無茶だ……」
 呆れた俺をよそに、レイジが満足げな表情を浮かべる。
 「無茶を可能にするのが王様だ」
 窓ガラスが真っ白に爆ぜ、弾痕を中心に放射線状の亀裂が生じる。
 運転席の窓ガラスに六つ弾痕が穿たれる。
 ひびが入った窓ガラスに決意の表情を映し、深呼吸する。
 いつものおちゃらけた笑みから一転真剣な眼光で窓ガラスを射抜き、走行中のジープから宙に身を躍らす。。
 眼前で腕を交差させ頭を守り、猫科の跳躍を思わせる身を丸めた姿勢で窓ガラスに飛び込む。
 レイジが激突した窓ガラスが砕け散り、宙に破片が舞う。
 「レイジ――――――!?」
 王様、無茶しすぎだ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050430163241 | 編集

 「……………馬鹿な」
 呆然と呟く。衝撃で頭が真っ白になる。
 自分の意志では指一本動かせない全身硬直の状態でひたすら炉を覗き込む。
 たった今サムライを呑み込んで巨大な泡を生み出した炉は、今再び何事もなかったように泥流の表面を保ち間欠的な噴火をくりかえす。
 高温で煮立つ炉から大小の泡が噴出、膨大な量の火の粉が濛々と舞い上がる。
 サムライが死んだ。
 死亡した。
 僕の眼前で真っ逆さまに炉に落ちた、肉と骨を溶かして跡形もなくすマグマの吹き溜まりへと真っ逆さまに落ちて瞬時に蒸発してしまった。
 細胞の一片たりとも残さず、完全に消滅してしまった。
 大気中に散じたサムライの残滓をかき集めようと手を伸ばしかけ、漸く手を吊られてるのを思い出す。
 遥か足元で泡が破裂、炉が沸騰する。
 サムライの姿はない。
 どこにもない。
 完全に僕の視界から消えてしまった。
 「…………あ、」
 「死んだね」
 手摺に手をかけて炉を見下ろし、あっけなく静流が嘯く。
 どこか拍子抜けしたような静流に目を向ける。
 壊れた手摺の向こうには虚空が広がっている。
 サムライが背中を凭せた瞬間、謀ったように体重を預けた手摺が傾ぎ、無防備な向きに倒れたのだ。
 偶然ではない。偶然の筈はない。
 故意だ。作為だ。
 人為的な罠だ、姑息な工作だ、卑劣な小細工だ。
 静流の態度がすべてを物語っている。
 紅を塗らずとも赤い唇を綻ばせ、妖艶に微笑む。
 背徳の色香匂い立つ魔性の微笑み。
 サムライが没した炉で勢い良く火が爆ぜる。
 更に火勢を増して激しく燃え盛る炉を眺め、細めた双眸に踊り狂う火影を映し、感慨深げに独りごちる。
 「漸く終わった。復讐が」
 片手を手摺に添えたまま、空いた手を見下ろす。
 己の手を見下ろし微動だにせぬ静流のまわりを火の粉が取り囲む。
 紅襦袢の裾がたなびくように華美に火の粉が舞う中、先刻まで鉄パイプを握っていた手のひらを見詰め、軽く指を握りこむ。
 「僕のこの手で帯刀の因縁を断ち切ったんだ。長年僕たちを苦しめ続けた帯刀の呪縛を断ち切ったんだ、すべてを終わりにしたんだ。これでもう僕らを苦しめるものはなくなった、諸悪の根源たる帯刀貢は炎に消えた、僕らを帯刀家に縛り付けていたものはなくなったんだよ……姉さん」
 決して掴めぬ物を掴もうとするように指を折り曲げる。
 形なきものを掴もうと五指を握りこむ静流、深々と頭を垂れたその姿は姉と従兄の死を悼んでいるかに見える。
 手摺に縋って面を伏せた静流の頭上にて、宙吊りにされた僕は放心状態から脱することが出来ず、虚ろな目で炉を見詰め続ける。

 「サムライが死ぬわけがない」

 僕を残して死ぬはずがない。
 ずっと僕を守ると約束したんだ。
 今度こそ僕を抱くと約束したんだ。
 武士が約束を破る筈がない。
 誰より高潔で誇り高い侍が、信念を捨てる筈がない。

 『しばし、抱かせてくれ』
 僕はまだ侍のぬくもりを覚えている、侍の心臓の鼓動を覚えている。
 「必ず生き残って、僕を抱くんじゃなかったのか」
 侍。
 『必ず助ける。必ずこの手にお前を抱く』
 サムライ。
 『愛しているんだ、お前を。狂おしいほどに』
 僕のサムライ。

 「君が死んだら、僕は狂うしかない。君がいない世界で狂わずにはいられない。君のいない孤独に耐えられず狂わずにはいられない」
 狂気に似た衝動が噴き上がる。
 胸が痛い。
 痛くて痛くて張り裂けそうだ。
 サムライどうした何故戻ってこない炉から這い上がってこない、この程度で終わりか、終わりなのか?
 君はその程度の男だったのか、口ほどにもない。
 僕を抱いて必ず守ると誓ったあれは嘘か、必ずまた僕のもとに戻ってくるという約束は嘘か、貴様の存在すべてが嘘で塗り固めた虚構だったとでも?
 ……信じない。認めない。
 そんなことは絶対に認めない、こんな現実は絶対に許容しない、鍵屋崎直の全てを賭けてこんな現実否定してやる、サムライが存在しない世界を否定してやる。
 サムライ。
 生まれて初めてできた僕の友達、かけがえのない存在、僕を救い上げてくれた男。君がいればこそどんな過酷な障害も乗り越えられた、来る日も来る日も性欲を剥き出した男に犯される売春班の生き地獄もレイジとロンの関係に亀裂が入った時も、みっともなく見苦しく最後まで足掻いて足掻いて足掻ききることができた。
 プライドをかなぐり捨てて大切なものを守り抜くことで、僕が僕たる最後の一線を死守することができたのだ。  
 それを教えてくれたのはサムライだ。
 みっともなく見苦しく格好悪く、足掻いて足掻いて足掻ききって希望を掴むことを教えてくれたのはサムライだ。
 最後まで諦めるなと背中を押してくれたのはサムライだ。
 辛くて苦しくて挫けそうな僕を叱咤してくれたのはサムライだ。
 僕が東京プリズンで生き抜けたのは彼が、サムライがいたからだ。
 隣に常にサムライがいたからだ。 

 「………はっ!」
 ………そうだ。
 僕ともあろう者が忘れるところだった。
 希望を。

 「勘違いもはなはだしいぞ、静流。これしきのことであの往生際の悪い男が死ぬものか。サムライが男が炉に落ちたくらいで蒸発するような根性なしであるものか、僕が友人と認めた男が簡単に死ぬものか、たとえ炉で煮られ炎で焼かれても彼は不滅だ、僕が愛するかぎり帯刀貢は不滅だ!!」

 僕は全身全霊をかけてサムライを愛する。
 サムライは全身全霊をかけて僕に尽くす。
 僕らが全身全霊で互いを思い合うかぎり僕たちは死なない、僕らは互いを生かし合う。

 「サムライっ!!」
 脂汗が目に流れ込み視界がぼやける。
 鉛の如く重たい瞼を意志の力でこじ開け、重圧に抗う。
 僕は声振り絞り叫ぶ、必死に叫ぶ。
 もはやなりふり構ってなどいられない、恥も外聞もかなぐり捨て全身全霊でサムライに想いをぶつけずにはいられない。
 たとえ傷口が開いて腸が零れようとも激しい痛みと熱で意識が爆ぜ飛ぼうとも泡沫と化したサムライを声の続く限り呼ばずにいられない。
 「貴様この程度で終わるのか、この程度の男なのか、事もあろうに僕を抱くと宣言しておいて戦闘開始から十分ももたず死亡するような
口先だけの男なのか!?もしそうなら貴様には幻滅だ。貴様はこの僕が認めた男IQ180の天才鍵屋崎直が認めた誇り高き侍だ、貴様になら抱かれてもいいと僕に思わせた唯一の男だ、僕の唯一の男だ!!忘れたのかサムライ僕を抱いた時の感触を、僕の息遣いと鼓動を、僕が君に託した熱を!!」

 サムライ。
 サムライ。
 生きててくれ、サムライ。
 僕を残して逝かないでくれ、僕をひとりにしないでくれ、約束を守ってくれ。
 また「直」と呼んでくれ。笑ってくれ。
 そして今度こそ僕を抱いてくれ、僕と繋がってくれ。

 「泣いても喚いても無駄だよ。帯刀貢は哀れ炉の泡と化したんだから」
 手摺に背中を凭せた静流が卑屈に笑うも無視、手首が捻れる激痛に脂汗をかき顔を顰め、叫ぶ。
 「抱いてくれ!!」
 もう一度顔が見たい、手に触れたい、声が聞きたい。
 「頼むサムライ、抱いてくれ。僕を思い切り強く抱きしめてくれ。君に抱かれずに終わるのはいやだ、抱かれずに死ぬのはいやだ、僕は君と………!」

 一緒に生きたいんだ。
 生きていきたいんだ。

 「………一緒に逝きたいなら、お望みどおり後を追わせてあげる」
 手摺から背中を起こした静流が緩やかな動作で鉄パイプを拾い上げ、僕の足元に寄ってくる。
 凶悪に尖った鉄パイプの切っ先が体に近付き、恐怖で喉が鳴る。
 鉄パイプの先がつと滑り、傷が開いた脇腹を掠める。 
 静流の目が嗜虐の光を孕む。
 「業火心中だ。さようなら、直君。短い間だけどそれなりに楽しかったよ」
 「………っ!」
 鉄パイプの切っ先が脇腹を貫く光景を幻視、目を見開く。
 必死に身をよじり静流から逃れようともロープで宙吊りにされていたのではどうしようもない、どうすることもできない。
 中空で暴れる僕に歩み寄り、いっそ無造作に鉄パイプを振り上げる。
 「あの紅襦袢、よく似合ってたよ。あれは姉さんの形見なんだ。あの紅襦袢を羽織れば僕も姉さんになれる気がした、僕の中に姉さんを感じることができた。姉さんの残り香に包まれて幸福な思い出に浸ることができた……」
 「ただ、の服装倒錯では、なかったんだな。つまらない感傷だ」
 さかんに宙を蹴り浮上を試みつつ、口角を吊り上げて不敵な笑みを作る。ただの虚勢だ。
 「あの世で貢くんによろしく」
 清澄に微笑んだまま静流が動く。
 風切る唸りを上げて襲来した鉄パイプが僕の脇腹を抉りー……
 突如として火の粉が舞い上がる。
 視界を覆った火の粉に軌道を狂わされた鉄パイプが手摺に激突、火花を散らす。
 「!?な、」
 静流が驚愕の相で叫び、手摺の外に向き直る。
 
 「まだ死なん」
 声が、した。
 彼の声。

 一段下の足場から届いた声に血相替えて手摺から身を乗り出す静流、僕は宙吊りにされたまま火の粉ふぶく眼下を見る。
 サムライが、いた。
 燃えていた。
 炎上していた。
 後光を背負ったように背中一面が炎上、背中に吹き流れた総髪にも火が燃え移っていた。
 「直を抱くまでは、死なん」
 「サムライ、背中が……」
 思わず息を呑んだ僕を見上げ、サムライが首肯する。
 背中が焼ける激痛に苛まれて意識を保つのも難しいはずなのに、玉の脂汗が噴き出た苦悶の形相で、強靭な意志と堅固な信念を支えに両足で立ち続ける。
 「しぶといね、まだ生きていたのか。てっきり炉に落ちたと思っていたのに」
 静流が舌を打ち、壊れた手摺を一瞥する。
 「……ああ、そうか。さっきはパッと火の粉が舞い上がってわからなかったんだ。あれは手摺が炉に没した泡と音で、火の粉をめくらましにした君は落下の直前に一段下の通路に逃げ込んだわけだ。ははっ、すっかり騙されちゃった!僕もまだまだ未熟者だ、姉さんに怒られちゃうよ。油断は禁物だね」
 火が燃える。
 サムライの背中で火が燃える。
 肉の焦げる匂いが鼻腔を突き、吐き気を催す。
 「今すぐ火を消し止めろ背中が焼けてしまう火傷してしまう、何をぼうっとしてるんだ、頭皮に火が燃え移ったらどうしようもないぞ!他の部位ならまだ皮膚移植でどうにかなるが頭皮の火傷は治りにくく細胞が死んだら髪も生えない、早く火を消すんだ消せ消すんだ、灰になる前に!!」
 次の瞬間、静流が跳ぶ。
 囚人服の上着が風を孕んで膨らみ、裸の背中が垣間見える。
 衣擦れの音も高らかに袖がはためく。
 勢い良く手摺を蹴って宙に身を躍らせるや、鉄パイプを片手に一段下の通路に転がり込む。 
 「今度こそ殺してやる。業火で灼いてやる。帯刀家に終焉をもたらすのは、この僕だ」
 「……俺が今味わってるのは、直の痛みだ」
 サムライが瞼を閉じる。
 苦痛の色濃い面持ちに夥しい脂汗が浮かび、火炙りの激痛に奥歯を食い縛り、肉の焦げる臭気があたりに立ち込める。
 僕にはわかった。
 サムライは自らすすんで炎の責め苦に耐えているのだ。
 僕が味わった痛みを共有しようと、僕が味わった痛みに報いろうと。
 「お前の甘言に騙されて直を手酷く傷つけた。直を裏切ってしまった」
 「いいんだサムライ、僕はいいんだ、こうして生きてるだけで十分だ!これからも君と生きていけるだけで十分なんだ!」
 「直が味わった痛みの何分の一、直が味わった絶望の何分の一でも俺は報いねばならん」
 サムライが深く呼吸し、切腹の構えで体前に鉄パイプを突き出す。
 サムライのまわりに火の粉が吹き荒ぶ。  
 サムライが鋭く呼気を吐き、鋭利な切れ味を誇る鉄棒を一閃する。
 
 僕が成す術なく見守る前で。
 火の粉混じりの風になびく総髪が根元からざくり断ち切られ、宙に舞う。
 鉄パイプの切っ先で断ち落とされた総髪が風に吹きさらわれ、何百本何千本もの毛髪の嵐となり、火の粉に炙られて消滅する。
 
 火の粉の爆ぜる音だけが聞こえる静寂の中。
 炉上にて対峙した修羅の片割れ、今しも自身の髪を切り落とした短髪の剣士が、ひどくゆっくりと目を開ける。
 「いざ参ろうぞ」
 サムライが上着を脱ぐ。    
 殆ど消し炭と化した上着が、炎の坩堝に落下する。 
 「俺は直と生きる。己と直の為に、直と共に地獄を生きる」
 ひどくゆっくりと瞼が開き、清冽な眼光を宿した双眸が現れる。  
 一人の侍がいる。
 過去と決別し、自ら呪縛を解き放ち。 
 炎の中で生まれ変わった侍がいる。
 「俺が振るう刀は己と直の為、直と共にある。帯刀の家名にもはや未練はない。俺は……」
 「僕は」
 背中に酷い火傷を負った侍を見下ろし、口を開く。
 呼吸を合わせ、心を一つにする。
 手が届かなくても指さえ触れ合えずとも、心を寄り添わせることが可能なら。  
 伝えたい想いがある。
 伝えたい言葉がある。
 ただ一言、

 「俺は、直の侍だ」
 「僕は、侍の直だ」
 
 呼吸が合わさり、声が重なる。
 火の粉がちりちりと燻る中、数奇な因縁に導かれた帯刀の末裔が再び対峙する。
 決着の刻。
 死闘のはじまり。
 
 「………僕は?」
 どこか気抜けした様子で鉄パイプを手に預け、静流が哀しげに微笑む。
 先ほどまでの妖艶な毒気を含んだ笑顔とは一変、透き通る微笑。  
 「僕は誰のもの?帯刀家のもの?違う。僕もだれかのものになりたかった。いや違う、僕はだれかのものになんてなりたくなかった。僕は姉さんのものになりたかったんだ、姉さんに独占されたかったんだ」
 舞をおもわせる静けさで足を運び、静流が続ける。
 「なのに結局は、僕も姉さんも帯刀家の物にすぎなかった。帯刀家の者じゃない……ただの『物』だ。帯刀家の血を絶やさぬためだけに生かされた道具だ。僕は薫流姉さんを独占したかった。永遠に僕だけの物にしたかった」
 「薫流を殺して願いは叶ったか」
 静流が疲れたふうに首を振る。
 「………僕の手には何も残らない。血の汚れしか残らない。姉さんは最期の最後まで帯刀家の物だった、帯刀家の物として生を終えた。なればこそ僕も帯刀家の物として生を捨てよう、帯刀家を滅ぼした男への復讐にすべてを捧げようと思ったのに……」
 静流がゆるやかに顔を上げ、真っ直ぐに侍を見る。
 火の粉を映して薄紅に染まる水鏡の目。
 「帯刀家の者になれぬなら、せめて帯刀家の物として死ぬ。姉さんがそうしたように」 
 静流が正眼に鉄パイプを構える。

 これまでとは比べ物にならない殺気を感じる。水の流れに似てあたりにたゆたう殺気……
 あまりに静か故に不吉なそれ。
 
 小揺るぎもせず鉄パイプを構え、伏せた双眸に光を深沈させ、美しき修羅が名乗りを上げる。
 「帯刀分家が嫡男、静流が参ります」
 今ここに帯刀の血脈が生み出した、一人の天才が出現する。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050429184407 | 編集

 「帯刀分家が嫡男、静流が参ります」
 剣を正眼に構えて堂々と名乗りをあげる。
 切っ先は微動もせず、真っ直ぐにサムライをさしている。
 静流の眼差しは揺るがず、ひたりと目に虚空を映している。
 水に棲む魔性の目。
 あらん限りの憎しみを込めてサムライを殺すと宣言しておきながら、その目は一切の邪悪と無縁に澄み切っている。
 まるで水鏡。
 明鏡止水の目。
 名は体を現す。
 己の名を体現するが如く清冽な気を纏い、瞼を下ろし瞑想し気息を整える。
 瞠目。
 宙吊りにされた僕が成す術なく見守る前で静流は完全に世界と同化する、呼吸に合わせて体内で練り上げた闘気が四肢に満ちていく。
 しかし静流自身は緊張とは無縁に穏やかな顔をしている。
 限界まで張り詰めて切れるのを待つ糸のような緊張感も殺気も微塵もなく、生死を決するこの期に及んで異様にリラックスしている。

 この世のしがらみから解き放たれた安らかな表情。
 悟りを開いた恍惚の表情。

 剣を正眼に悠然と踏み構えたその姿には、才の突出した者特有の余裕と威厳が漂っている。
 束の間命が危険に晒された恐怖も忘れ、立ち居振る舞いの美しさに見惚れる。
 日舞の玄人ならではの嫋やかな体捌きは艶めかしく、漣立てず水面を歩く足運びで見るものを幻惑する。
 再び目を開けた時、静流の表情は一転していた。
 口元に仄かに浮かんだ笑みは一瞬の内に消え、瞼の奥から覗いた双眸に怜悧な眼光が宿る。
 直感した。
 今この瞬間、静流こそが本当の天才だと確信した。
 そして唐突に理解した、僕自身が静流を嫌っていた理由を。
 勿論サムライに近付く静流を警戒してたのもある、僕の知らないサムライを知る彼に嫉妬を覚えていたのもあるがそれ以前に、遡れば夕焼けに染まった展望台で初めて出会った時からずっと静流に対する生理的嫌悪を感じていた。
 その理由が漸くわかった。
 彼と僕は同じ生き物だ。
 同じ天才なのだ。
 彼に対して抱いた感情は近親憎悪か同族嫌悪か……否、自己嫌悪の裏返しだ。僕は初対面時にわかっていたのだ、爽やかな笑顔の裏の真実の核を掴んでいたのだ。
 天才は天才を知る。
 そして、嫌悪する。
 僕はこれまでサムライこそが人間国宝の才を受け継ぐ天才だと思っていたが事実は違っていた、実際は異なっていた。
 本家の跡取りとして厳しく育てられたサムライには皮肉にも当主を継ぐ才能が備わっていなかった。真実才能に恵まれていたのは分家の嫡男の静流であり、それを知った莞爾は実の息子に辛く当たった。

 皮肉な行き違いが生んだ悲劇。

 弔いの火の粉が舞いとぶ炉傍で、上着の裾を颯爽とはためかせ静流が疾駆する。
 囚人服の裾が風を孕んで音高くはばたき、パッと舞い上がった火の粉が視界を赤く熱し、前髪を燻す。  
 風圧に舞い上がる前髪にも構わず、細腕の鉄パイプを振り上げる。
 火の粉に焦がされて皮膚に火傷を作りながら間合いに攻め入り、袈裟懸けに斬る。
 流麗に流れる剣は肉を斬り骨を断つ威力でもって致命傷を与える。
 「サムライっ!」
 肉が爆ぜて鮮血を撒き散らす幻覚を見た。
 袈裟懸けに斬られたサムライがよろめき、炉に没する幻覚を見た。
 僕の不安が見せた幻を裏切り、サムライは間一髪斬撃を避けて後方に飛び退いていた。安堵する暇もなく次が来る。

 まさに、水。

 ある時は瀑布を上げる滝のように残像を脳天から断ち割り、ある時は岩をせかるる水のように緩急変化に富む曲線を描く。
 直線と曲線が見事に融和し、身の毛もよだつ冴えを見せる。
 静流が生き生きと舞う。
 美しく優雅にしたたかに、殺戮の高揚に身を委ねる。
 殺戮の衝動に身を委ねる。
 静流はもはや人斬りの本性を隠そうともせず、面に血化粧を施された美しき修羅と化し、静かに流れる水の如き剣筋でサムライを追い詰めていく。
 劣勢に追い込まれたサムライが眉間に縦皺を刻み、切れ長の双眸に憔悴の光を揺らす。
 「僕が天才だって?」
 静流が皮肉に笑う。絶望に蝕まれた微笑み。 
 自嘲的な笑みを浮かべながらも追い詰める剣筋は手を抜かず、冷静に言葉を吐く。

 「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。そんな世迷言は那由他でも阿僧祇でも否定してやる、僕の生が続く限り否定し続けてやる。君が凡人で僕が天才、君が努力の人で僕が天才?認めない、絶対に認めない。本家の長男は生まれながらに何もかもを持っていた、生まれつき優れていた、完全無欠の人間だと周囲にそう聞かされて己を卑下して育ってきたんだよ僕は。さすがは本家の跡取りだ、分家とは出来が違う、立派な跡取りがいて帯刀家も安泰だ、それに比べて分家の跡取りは女々しくて情けない、女みたいななりをして覇気に欠ける、本家の跡取りの爪垢でも煎じて飲ませたらどうだ、いっそ女に生まれてくればよかったものを……
 皆が僕にそう言った、爪剥がれるまで刀を振るい必死に君に追いつこうとする僕をあざ笑った。僕は帯刀家に相応しくない人間だと本家の引き立て役にすぎないのだから分をわきまえろと、誰も彼もがお節介な説教を垂れた。くどくどしく」

 静流の目に狂気の光が揺らめき、剣捌きがさらに速くなる。
 饒舌に唄いながらも振るう剣筋は衰えを知らず切れを増すばかりで文字通り太刀打できない。
 興に乗った静流がいっそぞんざいに鉄棒を叩き付ける。
 鉄と鉄が激突する甲高い音が響き、火花が散る。
 上段からの打ち込みを立てた鉄棒でサムライが受け止める。
 鉄棒と鉄棒がぶつかる。
 技と技が相殺し、力が拮抗する。
 「僕が天才などであるものか。僕が天才なら稽古で一度も君に勝てなかった説明がつかない」
 静かな怒りを孕んだ顔と声で静流が唸り、関節が白く強張った手にさらに力を込める。
 華奢な体躯と折れそうな細腕からは想像もできぬ力でもって鉄パイプを押し込む宿敵と対峙、サムライが抗弁する。
 「お前自身が実力に枷をかけていたのだ。俺に引け目を感じて実力を出しきれなかったのだ」
 「僕が思い込み激しいみたいに聞こえるけど」
 さも心外そうに眉をひそめる静流を見下ろし、僕は呟く。
 「それは違う」
 サムライと睨み合ったまま耳だけこちらに傾ける静流に、腕と脇腹の痛みを堪えて説明してやる。
 「ただ激しいんじゃない、『異常』に激しいんだ」
 息をするたび脇腹が痛む。全身が疲れている。
 吊られた腕が麻痺し、澱のような虚脱感が脳天からつま先へと下りていく。大量の汗で濡れそぼった上着が素肌に貼り付いて気持ち悪い。眼鏡をとられたせいで視界がぼやける。
 それでも意識を保ち続ける為に口を開く、今にも萎えそうな気力を叱咤して今にも蒸発しそうな理性をかき集めて舌を動かす。

 侍の生き様を見届けるために。

 「静流、君は思い込みが激しく暗示にかかりやすい体質の人間だ。それに加えて人格未形成の幼児期から常にサムライと比較され続けてきた。俗に言うマーフィーの法則、パブロフの犬だ。
 もともと心理学ではなく量子力学の三原則から発展した用語だがこの際まあいい、説明を続ける。静流、稽古に際して君の実力が制限されて一度たりともサムライに勝てなかったのは君自身のせいだ。君自身がサムライに劣ると思い込んでいたから皮肉にもその通りになってしまっただけのことだ。本当はサムライより遥かに優れていたにもかかわらず勝てなかったのは他ならぬ君自身が己の才能を疑っていたせいだ、自分の才能を信じきれなかったせいだ」

 誰よりも自分の才能を信じ続けなければならない自分自身がそれを裏切ったのでは全く意味がない。
 生まれつき人より多くを与えられていたとしても自分自身がそれを知らなければ、もとより何も持ってないのも同じ事。
 持たざる者は持てる者を羨み、そのすべてを欲する。
 どこまでも浅ましく貪欲に自滅の道を突き進む。
 
 自分を卑下するのは自己の才能に対する冒涜だ。
 自分を卑下するのは自己に対する最大の侮辱だ。
 何故それに気付かない、気付こうとしない。 
 静流、君ほどの人物が。
 貴様ほどの天才が。
 
 息を継ぎ、叫ぶ。

 「たとえまわりの人間が何を言ったとしても君だけは自分の才能を信じ続けねばならなかった、自分の才能を疑ってはいけなかった、誇りを持ち続けねばならなかった!君が道を踏み誤ったのは他の誰のせいでもない、勿論サムライのせいでも君に復讐を命じた母親とそれを容認した姉のせいでもない、いちばんの原因は帯刀静流貴様自身だ!!
 君には十分選択の余地があった、ここに来る前に何度も何度も引き返すチャンスがあった、最悪の結末を回避する手段があった!!
 姉を愛していたらなら二人で遠くに逃げればいい、だれも君たちが姉弟と知らぬ場所でやりなおせばいい、近親相姦がなんだそんなものどこが禁忌だというんだ、遺伝子の近さで障害児が生まれるのがまずいのか、血の繋がった姉弟で性行為に及ぶのがまずいというのか?!
 前者がまずいのは異常のある子をわが子と思えない場合だけだ。
 全くの他人同士でも障害のある子は生まれるんだ、姉弟間でも何ら異常のない子が生まれる事もあるんだ、将来的に生まれる子供の話など命をだしにした卑劣な言い訳に過ぎない、統計的にも遺伝的にも不確定要素が多すぎて否定材料にならない!
 後者の場合は問題にならない、愛し合ってるなら性行為に及べばいい、愛し合ってる者同士が体を重ねて何が悪い、愛する人間と体も心も深く繋がりたいのは有史以前の当たり前じゃないか!?」

 体の中で出口をさがして激情が渦巻く、脇腹の痛みすら圧してとめどなく湧き上がる感情に翻弄される。
 苗はサムライが弟だと知って首を吊った。
 もしそれが本当に自殺の理由なら苗を恨まずにいられない、血の繋がった姉弟だからとたったそれだけで幸せになるのを諦めたとしたらその潔さを憎まずにいられない。
 何故サムライを独りにした、苗。
 サムライは貴女を愛していたのに、貴女だけが辛い日々の拠り所だったのに、何故最後まで生きて彼のそばにいてやらなかったんだ?

 何故彼を、こんな所に来させてしまったんだ。

 僕は苗を恨む。
 その潔さと誇り高さを憎む。
 どんなに非難されても苦しんでもそれでもサムライと共に生きて欲しかった、サムライと添い遂げてほしかったと呪わずにはいられない。
 何故そんなに簡単に幸せを諦める? 
 潔く誇り高く往生際良く、美しい自己犠牲精神でもって愛する人の手を放せるんだ?  
 僕なら絶対に放さない。
 どんなに見苦しく往生際悪く利己的でも大事な人の手を放したりするものか、サムライの手を放したりなどするものか、サムライをひとりになどさせるものか。
 僕は彼と幸せになるんだ。
 彼と一緒に幸せになるんだ。
 東京プリズンで生き延びて、いつかは生きてここを出るんだ。
 死人にも静流にもサムライは渡さない。
 天才のプライドと威信に賭けて、僕らの生きるこちら側にサムライを引きとめ続けてやろうじゃないか。

 「そんなに薫流が好きながら家のしがらみを断って二人で逃げればよかった、母親と姉に言われるがまま刀で刺し殺したのは君自身だ、即座に刀を捨てて薫流を抱きしめることもできたのにそうしなかったのは君だ、君自身だ!!自分の愚かさ罪深さを他人になすりつけるな、逆恨みをするな、妄想に逃げるな!
 僕は貴様を軽蔑する、帯刀静流。
 なるほど貴様は天才だが一片の尊敬にも値しない男だ、自分の才能を信じ続けられなかった弱さがもたらした悲劇を今なお受け入れるのを拒絶し逃げ続ける惰弱で最低な男だ。僕は貴様を唾棄する、今なおサムライを苦しめ続ける貴様を憎む!!」
 「才能を信じ続ける才能がなかったんだよ、僕は」
 静流が唇をねじまげて嘲弄する。
 儚い諦念の滲んだ微笑。
 「誰も彼もが君のように自信を持てるわけじゃない。あんまりうるさいと縄を切るよ?」
 「直に手を触れるな!」
 静流の言葉にサムライが激昂、両腕に静脈の筋を立てて一気に鉄パイプを押し返す。
 力の均衡が崩れ、静流が素早く飛びのく。
 白鷺の羽ばたきに似た身ごなしで華麗に跳躍、再び鉄棒を構える。
 「……寡黙を尊ぶ帯刀家の人間の癖に口数多すぎだね、僕は。これからは慎むよ」
 恥じらうようにはにかみ、風鳴りに似て鋭く呼気を吐く。
 「!―くっ、」 
 静流の振り被った鉄棒が容赦なくサムライの脛を打ちのめす。
 脛を強打された激痛に苦悶の形相を浮かべるも何とかその場に踏み止まり防御の構えをとるも遅く、鉄棒を水平に伸ばした静流が小走りに間合いに突入する。
 水際立った身のこなしでサムライの間合いに駆け入り、懐に潜り込む。
 静かに流れる水の如く。
 気配も感じさせずにサムライの懐に潜り、灼熱の鉄棒で刺突をくりだすー……
 「サムライが敗けるものかっ!!」
 ささくれだった縄が手首を締めて痛みを与える、その痛みを堪えて檄を飛ばす。
 僕の声に反応したサムライが辛くも兇刃を防ぎきる。 
 「天才が認めた凡人が自身すら認めない天才に敗けるものか!!」 
 「僕だって姉さんに認められていた!」
 「その姉を殺したのは誰だ!?」
 静流が悲痛な顔をする。
 唯一の理解者を自分の手で殺した事実の重さに打ちのめされ、一瞬の隙ができる。
 いまだ。

 「ォおおおおおおおおおおおおおおおォおおおおおおおおおおおおォおおおおおおおっっ!!!!」
 
 裂帛の気合を込め、火の粉で真っ赤に灼けた鉄棒を蒸気噴き上げる手に握り、全身全霊で挑みかかるサムライ。
 実体なき水のように様々に形を変える静流の剣筋とは違う、全てを打ち砕き破壊する迫力の剣筋が大気を貫く。 
 悲劇の連鎖も血の呪縛も。
 見えざるものすら断ち切り炎で浄化させる、烈火の剣。
 この期に及んで無防備にも正面から突っ込んでくるとは予測できず、静流がうっすらと笑う。
 勝ち誇って微笑む静流の眼前、サムライが攻撃に移る。
 鉄パイプの表面にふれた火の粉がじゅっと音たて、瞬時に蒸発する。
 静流は余裕で剣を構え、サムライを迎え討つ準備を整える。
 僕は気付いていた、静流の鉄パイプが傷だらけなことに。
 少しの衝撃で折れそうなことに。
 ひょっとしたら静流自身気付いていたのかもしれない、ぼろぼろに傷んだ手中の鉄パイプで斬撃をふせぎきれるかわからないと。
 それでも静流は剣を引いて体勢を立て直すことなく、体前に鉄パイプを翳してサムライを受けて立つ。
 サムライが渾身の力で鉄パイプを振り下ろす。
 ぼろぼろに傷付き、全身至る所に酷い火傷を被ったサムライが放った必殺の一撃が難なく受け止められる……

 否。
 受け止めきれなかった。

 「!!!」
 宙高く鉄パイプが舞う。
 火の粉が盛大に舞い飛ぶ中、宙に放擲された鉄パイプが僕の鼻先を掠める。
 いつか見た光景が鮮烈に蘇る。
 展望台の突端に佇む少年、夕焼けに染まるコンクリート。
 残照に映える黒髪の少年が緩やかに振り向き、そしてー……

 『久しぶりだね。貢くん』
 玲瓏と澄んだ声が聞こえた。
 幻聴だった。

 現実の静流は眼下にいる。
 眼下の通路にてサムライと対峙している。
 今しも静流の手をはねとばされた鉄パイプが滑るように炉に落下、増殖する泡の中へと呑みこまれていく……

 終わった。
 静流の、敗けだ。

 「……参ったね。今ので腕がへし折れちゃった」
 傷んだ鉄パイプは衝撃に耐え切れなかった。
 腕もまたしかりだ。
 鉄パイプを遡った衝撃に右手の骨が砕けたらしく、無意識に右腕を庇い、そのまま後方へとよろめく。
 サムライは茫然自失の体で立ち尽くしていた。不規則に乱れた呼吸といい額をしとどに濡らした脂汗といい、二本足で立っているのが奇跡に近い疲労困憊の相を呈している。
 だが、ざんばらに乱れた前髪の奥の目は死んでいなかった。
 炉の炎にも負けず旺盛に輝いていた。
 静流は虚ろな無表情をさらしていた。
 利き手は折れ、得物を失い、もはや完全に勝機はなくなった。
 足が縺れ、体がよろめく。
 吸い寄せられるように手摺に身を凭せる。
 背中に体重を預け、手摺を押す。
 「待て静流、その手摺はさっき君が鉄パイプをぶつけた……!!」
 手摺が後ろ向きに傾ぎ、静流が背中から虚空に放り出されたのは次の瞬間。
 ほぼ同時に、僕自身にも異変が起きる。
 「!?っ、」
 さんざん暴れたせいか火の粉に焼き切れたか、僕の手首を縛った縄が緩み、自重でちぎれる。
 耳朶で風が唸る。
 落下の風圧で前髪が捲れる。
 虚空に放り出された僕の眼前、サムライが必死に手を伸ばす……
 「直っ!!!」
 呼びかけに応じ、無我夢中でサムライの手を掴む。
 通路に腹這いになったサムライは手摺が壊れた向こう側へと胸まで乗り出し、その右手で僕の全体重を支えている。
 そして、左手には―……
 静流が、いた。
 虚ろな無表情のまま、サムライに腕を掴まれ宙にぶらさがっている。
 右手に僕を、左手に静流をぶら下げたサムライの顔に大粒の汗が噴き出し、両腕が見る間に青黒く鬱血していく。 
 下方から噴き上がる火の粉が頬を舐める。
 足元では轟々と炎が渦巻いている。
 さっき沈んだ鉄パイプは跡形もなく溶かされて泡に帰してしまった。
  
 サムライは僕ら二人を両手にぶら下げたまま、激しい焦燥に苛まれた葛藤の表情で唇を噛んでいる。

 僕か静流か。
 救えるのはどちらか一人だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050428091631 | 編集

 「レイジっ!」
 風圧に抗い目をこじ開ける。
 腕で頭を庇い窓に突っ込んでいったレイジに手を伸ばすもとどかない、懸命に伸ばした手は空を掴むばかりでレイジの後ろ襟をつかまえられない。レイジが前のように髪長いままなら後ろ髪ひっ掴むこともできたのにそれもままならない。
 褐色のうなじを閃かせて車の縁から跳躍、猫科の俊敏さで宙に身を躍らせたレイジが慣れた身ごなしで窓ガラスをぶち破り車内へ消える。
 窓ガラスがハデに割れる。
 盛大な音が鳴る。
 窓ガラスに放射線状の亀裂が生じる。
 真っ白に爆ぜた窓ガラス、粉微塵の破片が鋭利にきらめき頭上に降り注ぐ。
 ジープが跳ねる。
 おもわず舌を噛みそうになる。
 レイジと入れ替わりにハンドルを握った安田は舌を噛まないよう口元を一文字に引き結び、厳しい面構えで前だけを見てる。
 とにかく事故らないようにまかり間違ってもジープが転覆しないように最大限の注意を払ってハンドルを操りじゃじゃ馬を馴らしている。
 タイヤが砂利を噛み、砂の瀑布を巻き上げる。
 タイヤに抉られた轍が延々とあとに続いている。
 蛇行する轍を作り疾駆するジープの上、転落するぎりぎりまで身を乗り出した俺は固唾を呑み、完膚なく硝子が破砕された窓の中を覗き込む。
 「まったく王様め、無茶しやがって!ロバの耳かよアイツ!?」
 ちょっとは人の説教まじめに聞けってんだ、懲りろってんだ。
 レイジは無事なのか?
 猛スピードで走行中のジープん中じゃ様子がわからない、砂の瀑布に遮られてバスの運転席の様子が窺えない。
 露骨に舌を打ち、砂でじゃりじゃりする口を手の甲で擦って運転席に向き直る。
 「止めろよ安田、レイジはあの中だ、俺もあとを追う!」
 「無茶を言うんじゃない!時速100キロのジープからバスへ飛び移るのは異常な身体能力に恵まれたレイジだからできたことだ、君が実践したら無難に死ぬ!刑務所の秩序と安全をつかさどる副所長として危険なまねを許すわけにはいかない!」
 「あんま堅苦しいこと言ってんとハゲんぞ安田、盗んだジープで走り出したくせにこまけーこと気にしてる場合かよ!?」
 「盗んだのではない、借りたのだ。副所長の権限は逸脱してない」
 焦燥の面持ちでハンドルをさばき、安田がきっぱり言い返す。
 自己弁護はお手の物だ。
 俺は安田の肩に手を添え立ち上がり、背後から首を絞めんばかりの勢いで食ってかかる。
 「レイジが、俺の相棒があの中にいるんだよ!暴走バスん中でヨンイルと殴り合ってんだよ、万一レイジがやりすぎちまった時のために俺がいなきゃまずいだろうが!あんたは知んねーかもしれねーけどレイジを止められんのは俺だけだ、この世でたった一人俺だけだ。今すぐジープを止めて俺を行かせねーと後悔するぞ、この先バスが砂漠に突っ込んでガソリンにエンジンが引火して爆発すんの確実だ」
 安田がちらりと俺を見る。
 銀縁眼鏡の奥の双眸が細まり、嘆きの表情が浮かぶ。
 俺は一歩も意見を譲らない頑固な顔つきで安田を睨みかえす。
 目の下に隈を作り頬がやつれた憔悴の面差しには疲労の色が濃いものの、おそろしく切れ者の印象を与える双眸の鋭さは失われてない。
 眼鏡の奥でしずかに瞼を下ろし安田が自問する。
 俺は運転をトチらないかひやひやして安田の手元に目をやっていた。だが安田はふしぎと運転をミスしなかった、眼鏡の内の目を閉じていてもどこでハンドルを切ってアクセルを踏みブレーキをかければいいかが条件反射として体に染み付いてるらしく円滑な動作でジープを御している。安田が手元をおろそかにしないか心配しつつ、身を乗り出しがちに後部シートに正座して答えを待つ。
 憂慮に眉をひそめ、安田がそっけなく首を振る。
 「ダメだ、副所長として勝手なまねを許すわけにいかない。私の手のとどかぬところで危険に身をさらすのは直ひとりで十分だ。せめて視野に入るところでは囚人の安全を守りたい」
 キレた。
 こめかみの血管がまとめて二三本ぶち切れる音がした。
 俺は衝動的に立ち上がり運転席に身をのりだすや、狼狽する安田からハンドルをひったくる。
 肩から当たって安田を押しのけ強引にハンドルを掴む、足元に視線を落としてブレーキ板をさがす。
 あった、あれだ。
 ブレーキ板に乗っかった安田の足をぞんざいに蹴りどかし、隙間に薄汚れたスニーカーを割り込ます。
 「なにをするロンやめないか、大人しく後部シートに座っていろ、交通法違反で逮捕するぞ!」
 「もう逮捕されてんだよ、前科が積み上がったらロン!て叫んでやるさ!」
 狭苦しい空間に体ごと乗り込み見よう見まねでハンドルを操作する。安田の手の上から右へ左へと勘と気の向くままハンドルを回せば、起伏に乗り上げたジープが盛大にバウンドする。
 俺からハンドルを奪い返そうと必死な安田と激しく言い争いながらも意地でもハンドルは渡さず、ブレーキ板に足をのせる。
 「今助けにいくからな、レイジっ」
 全体重をかけてブレーキを踏み込む。
 もちろん俺は無免許だ、車の運転なんざ出来るわきゃない。
 なにも威張れることじゃないがここまできたらもう開き直るっきゃない、腹を括って突っ走るっきゃない。
 正面の虚空を睨み、奥歯を食い縛り衝撃に耐える。
 「危ないっ!」
 隣で安田が叫び、大声に驚いて咄嗟にハンドルを切る。
 ブレーキを踏み込むと同時に手が滑りハンドルが勝手に回り、砂の飛沫を上げて蛇行したジープがバスの進路方向に踊りだす。
 ハンドルを握る手がじっとり汗ばみ、緊張で異様に喉が乾く。

 よりにもよってバスの目と鼻の先。
 正面衝突は避けられない。

 押しても引いてもうんとも言わず、癇癪起こしてけっぽってもプスンと不機嫌なエンジン音を立てるばかりで完全にヘソを曲げちまった。
 エンジンが故障したのだ。酷使が祟ったエンジンが濛々と蒸気を噴き上げる中、砂でざらつく口を大きく開けて息を吸い込む。
 『停!!』
 停まれ。 
 関節が白く強張る程にハンドルを握り締め、顔を真っ直ぐ上げてガンをとばす。猛然と迫り来るバスの運転席にヨンイルが座ってる。
 その後ろにレイジの姿もちらりと見えた。
 「ロン!」
 耳の裏で安田の声がする。
 放心の体でハンドルを握りながら横に目をやると、焦燥にひりつく面持ちで安田が怒鳴り、俺の肩に手をかけ激しく揺すってる。
 そうだぼんやりしてる暇はない今すぐ逃げなきゃでもジープはどうする故障して動かないのにエンストこのままほうっぽっていやでもバスと衝突はさけられないどうするどうする俺、どのみちこのままじゃバスの自重に押し潰されて安田ともどもー……
 瞼の裏をいつか見た光景が過ぎり、鼻腔の奥に鉄錆びた悪臭が広がる。

 廃車の下敷きになって絶命したチームの連中、手榴弾の爆発で手足がちぎれてぶよぶよと奇怪な肉塊と化したガキども、大破したスクラップ置き場の光景ー……
 おぞましい惨劇の現場。

 「っ………!」
 記憶の中の光景がすぐにも現実になる予感に戦慄し、体が硬直する。今度は俺がバスの下敷きになって潰れる、ひしゃげたジープの下敷きになってみじめな亡骸をさらすばんだ。
 俺の中で何かが切れた。
 狂ったようにハンドルを殴り付けアクセルを踏み込む、甲高い奇声を発して躍起になる。
 だめだ、間に合わない。
 バスはすぐそこまできてる。
 エンジン音が大きくなる、強大な重圧を感じる、バスの巨体が視界を圧して影に呑み込まれる。 
 俺の頭上にバスの巨体が被さってくる……
 「ロンっ!!!!」
 叱責に鞭打ちたれ、体が宙に投げ出される。
 天地が反転、視界を茜空が占める。
 何が起こったのか一瞬わからなかった。
 俺を小脇に抱いた安田が間一髪、衝突寸前のジープから脱出したのだと気付いたのは地面に不時着してからだ。
 ネクタイと背広を翻し砂の上に転がる安田、その小脇に抱かれた俺も落下の勢いを殺せず砂の上を転がる。
 それでも安田は俺を放さなかった。
 俺の体をしっかり抱き抱えたまま砂に叩き付けられ全身を打撲し全身砂まみれで転がり、眼鏡にひびを入れて落下の衝撃に耐え切った。
 安田と衝撃を分担したおかげで、俺自身は擦り傷だけですんだ。
 「ぶっ!」
 突然目の前が暗くなり呼吸が苦しくなり口の中にじゃりじゃり砂が流れ込む。安田が俺の上にかぶさってるのがわかる、背中にぴたり体を密着させ俺を庇うように伏せってるのがわかる。
 でも重い。
 砂に埋もれてこ息ができやしねえ。
 砂から顔を引き抜き、唾と一緒に砂を吐き出す。
 そして、目を見張る。
 目の前でバスとジープが転覆していた。
 「レイジいいいいいいいいいィいいいいいいいいいいいいい!?」
 砂に突っ伏した姿勢から跳ね起き、一散に走り出す。
 砂に足を取られて往生しつつ焦燥に駆られてバスに近寄り、中腰の姿勢でフロント硝子を覗き込む。
 くそっ、一面に砂がへばりついて何も見えやしねえ。
 フロント硝子の砂を拭おうと手を掲げ、こんな悠長なことしてる場合じゃねえと自分の馬鹿さ加減を呪い、はやる気持ちを抑えて横手に回りこむ。
 砂を蹴散らして迂回し、ひどく苦労してバスを攀じのぼる。
 ガラスが爆ぜ飛んだ窓が視界に現れる。
 ついさっきレイジが突っ込んでった窓だ。
 ここからなら出入り可能だと判断、ガラスの破片でギザギザになった窓枠を靴底でならし、窓枠を掴んで中に飛び込む。
 だらりと体がぶら下がる。
 窓枠を掴んだままあたりを見回し、硝子の破片が散乱した惨状に冷や汗をかく。
 バスの中は本来の窓が天井になり平行な床が斜面になり、側壁から座席が生えていた。とっかかりをさがして視線を泳がせるうち床に固定された座席がちょうどいい足場になると発見、息を止めて慎重につま先をおく。
 タイミングをはかり、窓枠からパッと手を放す。
 垂直に落下する途中、手近の背凭れにとびつく。
 「生きてるか、レイジ、ヨンイル?」
 「うぅん…………」
 緊張感だいなしの寝ぼけ声。 
 はっとして視線を落とす。
 窓の片側、すなわち足元の方で呻き声がした。
 窓を背に股開きでひっくり返ってるガキがいた。
 ヨンイル。
 「生きてたのかお前、しぶてーなっ」
 軽く背凭れを蹴った反動で床の斜面を滑り、ヨンイルの所に行く。
 たった今まで事故の衝撃で失神してたらしいヨンイルが薄っすらと瞼を上げ、焦点のおぼつかない目で俺を見る。
 当たり前というか何というか、ヨンイルは擦り傷だらけで結構悲惨な有様だが命があるだけまだしも悪運が強いほうだ。
 無意識にゴーグルをさぐりつつ、朦朧と起き上がったヨンイルの額には硝子の破片が刺さってる。
 「知っとるかロンロン、邪眼の手術てごっつ痛いんやで。傷口をナイフでぐりぐりするのの何十倍も痛いんやて。せやからこん位どってことあらへん」
 「頭打ったのか?気の毒に」
 額からだらだら血を流し寝言をほざくヨンイルを無視、あたりを見回す。
 いた。
 「レイジ!」
 ヨンイルから少し放れた場所にレイジが倒れていた。
 ぐったり倒れ伏せたレイジに這い寄り、意識を失った体を抱き起こす。体じゅうをまさぐり怪我がないか確かめ、ほっと安堵の息を吐く……
 緊張の糸がゆるみ、途端に涙腺が熱くなる。
 「ばかやろう、心配させんなよ。さっきいったばっかじゃねーかよ、心配かけんなって、無茶すんなって。なにが王様に不可能はないだよ、王様だって人間なんだ、走ってる車からバスに飛び移るようなスタントやらかして無事ですむかよ……お前といたら命がいくつあってもたんねーよ」
 ぐったり弛緩したレイジの体に腕を回し、縋るように抱きしめる。
 じんわり熱をおびた瞼をきつく瞑り、規則正しく鼓動する胸に顔を埋め、干し藁に似た匂いを吸い込む。
 「猫には九つ命があるって言うぜ」
 パッと放れようとしたが、遅い。額に熱く柔らかい感触がふれる……忘れようとしても忘れられない唇の感触。意識を失ったふりで俺に寄りかかっていたレイジがしてやったりと笑ってる。悪ガキがそのまま大きくなったような憎めない笑顔に怒りが萎み、いったん振り上げた拳を引っ込める。   
 レイジが無事でよかった。
 ついでにヨンイルも。
 「ロン、二人は無事か?」
 頭上から声が降ってくる。
 いつのまにかバスに攀じのぼった安田が、心配げに窓から覗きこんでる。
 「無事無事。このとおりぴんぴんしてるよ。ドライバーズ・ハイなコイツを運転席から引っぺがすのに少し手こずったけど……ヨンイル、お前今度は何の漫画に影響されたんだ?」
 「ホットロードと特攻の拓……あかん、こんなことしとる場合ちゃう、はやく炉に行かな俺の直ちゃんがさらわれて吊るされてドボンで勇午の二の舞に……ミミズ風呂の恐怖ふたたび……」
 頭を打ったショックで現実と漫画の区別がつかなくなったヨンイルが、破片の刺さった額から血を垂れ流しつつ出口へと這いずっていく。
 ……いや、頭を打ってなくても同じか。
 這う這うの体で座席をよじのぼり、割れた窓から脱出を試みるヨンイルを安田がすかさず救助する。
 俺とレイジもあとに続く。
 どこまでしぶといんだか悪運が強いんだか、擦り傷以外は大した怪我もないレイジは俺の先を越して自力で脱出をはたしちまった。
 助けに来た俺のメンツも考えろっての。
 最後に俺がバスから脱出する。
 安田に右腕をレイジの左腕を引っ張り上げられ、拉致連行される宇宙人さながら二人の間に吊るされた姿勢のまま空を見上げれば、無駄なカーチェイスに時間をとられたせいでとっぷりと日が暮れていた。
 「鍵屋崎を助けに行かなきゃ」
 同意するように安田が深く頷く。
 「ヨンイル、言いたいこと聞きたいことは山ほどあるがとりあえずは後回しだ。現在は鍵屋崎の救出が最優先事項だ。君は、否、君たちは鍵屋崎の居場所を知ってるんだな?鍵屋崎が拉致された場所に心当たりがあるのだな?それは確かか」
 ヨンイル、レイジ、俺を順繰りに見詰めて縋るような面持ちで詰問する。
 内心エリート副所長にこんな人間くさい顔ができることに驚いた。
 眉間に刻まれた皺から割れた眼鏡の奥で真摯な光を宿す目から緊張に強張った顔から、消息不明の鍵屋崎を心配する気持ちが痛い程伝わってきた。
 「あったりまえや。俺がやみくもにバス乗っ取って突っ走ってたように見えたんか?」
 さも心外そうに反論するヨンイルに鼻白む。
 「そうとしか見えなかったけど」
 「しゃあいないやんか、バス運転すんのはじめてやもん!ハンドルがちィとも言うこと聞いてくれへんで肝冷やしたわホンマ。金田一かコナン張りの名推理で直ちゃんの居場所がわかってバスぶんどったはいいものの、ブレーキとアクセル間違えて踏んでまうしハンドルは逆に切ってまうしでミスターノーブレーキ迷走状態やったんや。レイジが来てくれな死んどった」
 「感謝しろよ道化」
 「せやけど何も蹴りいれることはないやろ首のうしろに。人体の急所やで」
 愛嬌たっぷりに八重歯を光らせて、ヨンイルがにっこり笑う。 
 「大丈夫、運がよけりゃ死なねーから」
 反省した素振りもなくレイジがにっこり笑う。
 こめかみに青筋立てたヨンイルが腰を浮かすと同時にレイジも立ち上がり、腕を交差させ互いの胸ぐらを掴む。
 ガキだこいつら。
 鍵屋崎の命がかかってる一大事にやってる場合かよと怒鳴りたいのを堪え、重たい腰を上げて仲裁に入る……
 「鍵屋崎の命がかかってる重大事につまらない喧嘩をしてる場合か、君たちは鍵屋崎の友達じゃないのか!?」
 俺が言おうとした台詞をそっくりそのまま奪い、安田が激発する。
 本気で怒った安田をはじめて見た俺たちは全員揃ってぽかんと口を開ける。レイジとヨンイルは互いに胸ぐら掴んだままあっけにとられ、俺はといえば体の脇に手を垂れ下げたまま間抜けヅラをさらすしかない。
 安田は言い逃れ許さじと毅然たる態度で、辛抱強く俺たちの答えを待っている。
 オールバックは風に吹き乱れて前髪が下り、眼鏡のレンズにはひびが入り、背広のシャツもズボンも全身砂まみれの悲惨な風体はよってたかってレイプでもされたみたいだ。
 だけども不思議な威厳があった。
 どんなに汚れてくたびれていても内から滲みでる高潔さがあった、眼鏡の奥から注がれる眼差しはどこまでも真剣で静かな威圧感があった。
 俺は深呼吸した。
 友達かと問われれば、答えは決まっている。
 「ダチだよ」
 「ダチだ」
 「ダチや」
 暮れなずむ空の下、綺麗に声が揃った。 
 そろそろ残照の最後の一滴が溶け落ちようという頃合で、濃密な暗闇がまわりに立ち込めている。
 俺、レイジ、ヨンイル。
 鍵屋崎のダチだと競うように答えた俺たちひとりひとりに向き直り、その表情を満足げに見詰め、安田が口を開く。
 「なら、やることはひとつだ」
 安田が颯爽と立ち上がる。折から吹いた風が勢い良く砂塵を巻き上げ、安田のネクタイをたなびかせる。
 風に捲れる前髪を片手で押さえ、眼鏡の奥の双眸を細め、はるか砂漠の向こうの巨大な塊に視線をはせる。
 「鍵屋崎を取り戻しにいく」  
 安田を隣に立ち、同じ方向に目を向ける。
 砂丘をこえたはるか向こうに存在する建造物は不気味な威容を醸している。要所要所で直角に折れて連結する鋼鉄のパイプに梯子やら重量感のあるタンクやらが複雑に組み合わさり、直線と曲線が融和した幾何学的な外観は何かの施設か工場をおもわせる。
 「あれか」
 思わず声を上げた俺の隣、伸びた前髪を風に嬲らせ、眼帯で覆われてない右目に愉快げな光を湛えてレイジがうそぶく。
 「焼却炉さ」
 あそこに鍵屋崎がとらわれている。
 サムライと静流がいる。
 「待っててや直ちゃん……今すぐ助けにいくさかいもうすこしの辛抱やで」
 ヨンイルが決意を秘めて拳を握り込み、激しい風から目を守るようにゴーグルをずり下ろす。
 「直を助けるのは、この私だ」
 隙なくゴーグルを装着したヨンイルが先頭きって大股に歩き出し、表情を改めた安田が律動的な歩調で後に続く。
 対抗心を発揮してるんだか何だかヨンイルと張り合って歩を速める安田を見送り、不安を隠せずにレイジの横顔を探る。
 「鍵屋崎とサムライ、ちゃんと帰ってくるよな。俺たち間に合うよな」    
 レイジは答えない。ただ黙って遠くを見詰めている。近くにいるレイジを遠く感じるのはこういう時だ、何も話さずどこかを見ているときだ。
 沈黙に不安が増し、肌寒い風から身を庇うようにレイジに寄り添う。
 視線の先に二対の足跡が続く。 
 無限に連なる砂丘をこえた場所にある巨大な焼却炉へとヨンイルと安田は向かっている。
 取り残された俺たちは互いに寄り添い遠くを眺め、残照の最後の一滴が落ちる束の間、しずかに目を閉じて鍵屋崎の無事を祈るー…… 

 また俺たちが笑い合える日がくるように。
 食堂で馬鹿騒ぎできる日がくるように。
 
 「帰ってくるよ」
 レイジが俺の手をぎゅっと握る。
 俺も手を握り返す。
 しっとり汗ばんだ温かい手に包まれ、覚悟を決める。
 「んじゃ、火遊びが過ぎたダチを迎えにいくか」
 レイジが明るい笑顔で向き直り、俺は自然と苦笑いした。
 「手の焼けるダチをもつと苦労するぜ、本当に」

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050427151156 | 編集

 サムライの手を握り締める。
 強く強く握り締める。
 僕には彼しかいないと切実な想いを込めて。
 一度断たれた絆を結びなおすように。

 「………くっ………」
 熱い。
 全身から汗が噴き出しシャツがぐっしょりと濡れそぼる。
 体力はそろそろ限界だ。
 脇腹の痛みは激化するばかりで、か細く呼吸するだけで精一杯だ。
 体に力が入らない、力が出ない。
 分散しかけた意識をかき集めて今にも消え入りそうな理性を保つのにひどく消耗する。
 脂汗が目に流れ込み視界がぼやける。頭が朦朧とする。
 意識の余力を振り絞り重たい瞼をこじ開け、鈍重な動作で首をもたげ、極限の疲労と激痛にかすむ目にサムライを映す。
 サムライは恐ろしい形相をしていた。
 顎の筋肉が盛り上がっているのは凄まじい力で奥歯を食い縛って荷重に耐えているからだ。
 サムライは僕と静流を両手にぶら下げたまま大量の脂汗を垂らして腕をもがれる激痛に耐えている。
 どちらか一人を選べばらくになる。
 どちらか一人を見捨てればもう一人を助けることができる。
 しかしできない。
 片方を見殺しに他方を助ける残酷な選択を迫られたサムライは僕らを両手に掴んだままどちらを見捨てる決心もつかず、ひたむきに思い詰めた目に絶望を映している。
 「サムライ……」
 震える唇でよわよわしく名を呼ぶ。
 サムライは僕の全体重を預かっている。
 否、僕だけじゃない。
 正確には僕と静流、二人分の体重をひとりで支えているのだ。
 自分の意志で瞼をこじ開けるのさえ困難な僕の隣では静流が宙に吊られている。前髪で表情を隠し顔を伏せている為その内心までは窺えないが、縋り付く意志も這い上がる意地もなくただサムライに掴まれるさまからは生への執着が感じられなかった。
 生命の危機に瀕しても恐怖を覚えることもなく、業火に焼かれる末期に無念を感じるでもなく、俗世に一抹の未練もなく。 
 ありのままを運命と受け入れて、ありのままを宿命と受け止めて死んでいこうとしている。
 「俺の手を放すなよ、直」
 サムライが力を込めて僕の手を握り締める。
 僕の手を放すくらないら死んだほうがマシだと言葉に代えて。
 サムライに叱咤され、無意識にその手を握り返す。
 汗でぬめった手が滑りそうになるたび力強く掴んでくれる、僕は一人じゃないと勇気づけるように逞しく骨ばった手が掴んでくれる。
 悲痛な訴えが聞こえているのかいないのか、静流は首をうなだれたまま顔を上げようともしない。

 助けられるのはどちらか一人だ。
 僕と静流、どちらか一人だ。

 サムライの体力もあまりもたない。
 僕ら二人を支え続けることでサムライが体力を消耗しきってるのは明白。サムライの腕が徐徐に垂れて、宙吊りにされた僕らがずりおちてるのがその証拠。いくら僕らが華奢で体重が軽いとはいえ二人合わせて100キロはある。100キロの錘を吊り下げたままひたすら耐え続けるのは拷問だ。 
 ぽたり、顔に水滴がおちる。
 右の瞼を濡らした水滴が鼻梁沿いに顔を伝い、口の端に流れ込む。
 塩辛い。
 顔に落ちた水滴の正体は汗だった。サムライは全身にびっしょり汗をかいていた。眉間には苦痛の皺が刻まれて双眸には葛藤の光が揺れて、口角が下がった唇は激しくわなないている。
 「くそっ……」
 自力で這い上がれと四肢に指令をだす、これ以上サムライを苦しめるなと自分に命令する。
 だができない。
 僕の四肢はだらりと垂れたまま指一本すら自分の意志で動かない状態で弛緩しきっている。
 サムライの腕を掴んで這い上がりたくとも体が動かないのではしかたがない、どんなに足掻きたくともその力すら残されてないのでは抗いようがないではないか。
 動け動け動け。
 焦燥に焼かれて一心に念じる、死の恐怖が狂気の衝動を呼び覚まし不意に絶叫したくなる。
 いっそ発狂してしまいたい。
 生殺しの状態が続くのは耐えられない、激痛と疲労に苛まれて朦朧とする頭では思考が纏まらず『死にたくない』死への恐怖『生きたい』生への渇望『生きていたい』意志『生きていたい』かすかな希望『サムライと一緒に』生きたい生きたい生きたい……
 感情の洪水が理性を押し流す。
 死ぬのはイヤだ、こんなところでこんなふうに死ぬのはいやだ、恵に会えずサムライと抱き合えず焼け死ぬのはいやだ。
 世界中の本を読み尽くすまで死ねない、生きてここを出るまで死ねない、生きてここを出て恵を迎えに行くまで絶対死ねない。

 「死んでたまるか、畜生」

 下品な悪態を吐き、なけなしの力を振り絞りしがみつく。
 生き汚いと自嘲する心の余裕はない、ぶざまな天才だと卑屈に笑う余裕もない。
 僕はただただ必死だった、生き延びたくて生き残りたくてサムライと一緒に……
 「何故手を放さない?」 
 声が、聞こえた。
 場違いに落ち着き払った声音。
 静流がゆっくりと顔を上げ、水のように澄んだ目でサムライを見る。
 取り澄ました表情に達観の笑みさえ浮かべるゆとりを見せ、抑揚なく疑問を紡ぐ。
 「勝負は決した。僕は敗けた。敗者は潔く死あるのみ、それが帯刀家の掟だ。手を放しなよ、帯刀貢。みじめな負け犬に哀れみをかけるなんて自己満足以外のなにものでもない。それとも……僕が憎くないのかい、貢くんは」
 「憎い」
 沸騰する感情を押し殺しサムライが断言、静流が軽やかな笑い声を立てる。
 「いい答えだ。ずっとそれを聞きたかった。僕が憎いならためらうことはない、早く手を放して炎の坩堝に叩き込めばいい。僕は苗さんを殺した。門下生に慰み者にされて放心の体の苗さんに真実を教えて首を吊らせた、のみならずそこにいる直くんを犯して殺そうとした。姉さんの匂いがする紅襦袢を羽織らせて、生白い肌に手と舌を這わせて、慰み者のあかしの艶めく痣を付けて……」
 「やめろ静流」
 僕の制止を無視し、興に乗った饒舌で続ける。

 「僕に先を越されて悔しいかい?悔しいだろう。本家を引き立てる分家の跡取りと見下してきた僕に先を越されてさぞかしはらわた煮えくり返っているだろうね。嗚呼おかしい、ざまあみろ、君がぐずぐずしてるのが悪いんだよ、肉親の情に振り回されて何度裏切られても肝心な所で僕を見捨てないお優しい貢!!図書室の出来事は傑作だった、最高の茶番劇だったよ。君ときたら僕の演技に簡単に騙されて大事な親友を詰りに詰ってくれちゃって、全部僕が書いた台本どおりに事が運んで腹ん中じゃ笑いが止まらなかったよ!嘘泣きのふりでおかし泣きしてたのに目が節穴の君はとうとう真実に気付かなかったね。身内の情けでまわりを敵に回して僕を庇い続けた結果がこれだこのざまだ、思い知ったか腐れ魔羅!!!」

 静流が仰け反るようにして笑い出す。
 宙に吊られた体が不規則に痙攣し僕の顔にも唾のしぶきがかかる。
 体が言うことを聞くなら静流を殴り飛ばすか蹴り飛ばすかしたかった、暴力を使ってでもサムライへの侮辱を取り消させたかった。 
 静流は狂ったように笑い続ける。
 双眸に絶望と悲哀を去来させ、それでも声高らかに空虚な哄笑を上げ続ける。口汚くサムライを罵り人格を貶めて煽ろうとし、だがしかしサムライが押し黙ったまま表情を変えずにいるのを訝しみ、次第に笑い声が萎んでいく。

 「さあ殺せ殺すんだ殺してくれ僕にとどめをさしてくれ、己の手で僕を地獄に送り恨みをはらせ復讐をはたせ、僕が君にしたように苗と直の仇をとれ、僕と同じ所まで堕ちてこい!!僕も君も所詮は帯刀の人間、血の呪縛から逃げきれず修羅となるべく宿命付けられた武家の末裔なんだ。ならばそれらしく生きて逝こうじゃないか、僕らの中の人斬りの血が命じるままに息絶えるまで殺し合いを続けようじゃないか!!」

 目を爛々と輝かせた邪悪な表情に魅せられる。
 ある時は澄んだ水のように清らかな笑みを浮かべある時は濁った水のような呪詛を吐き出し、清濁併せ呑むさまざまな表情を見せる静流は、相対した人の心を映す水鏡に似ている。相手が憎悪をむければ憎悪を返す、相手が善意をむければ善意で応じる。

 相手次第で汚くも清くもなれる水鏡の本性は、ある意味どこまでも純粋で。
 けなげで。
 生まれてこのかた水鏡の目が映してきたものを思う。
 分家と本家を比べて静流を嘲笑する者たち、周囲から向けられる悪意、誰からも共感されない孤独、自分が欲しかったものを労せず手に入れたかに見える従兄への嫉妬………辛い日々の中の唯一の安らぎだった姉の笑顔。
 水鏡が歪んだのは誰のせいだ。
 何が水鏡を歪ませたんだ。
 静流の目がこんなにも澄んでいるのは、生まれてこのかたずっと汚いものを見てきたが故の自浄作用を備えたからなのか。 

 どこまでも深く澄み底が見えない目を細め、妖艶に紅い唇を蠢かせ、囁く。
 「僕を生かせば彼を殺す」
 吐息と衣擦れに紛れて消えそうなかすかな声は、しかし僕の耳にもサムライの耳にもしっかり届いた。
 艶めく流し目で僕をとらえ、大胆不敵にサムライを挑発する。
 「僕が東京プリズンに来たのは君を殺すため、君を殺して母さんと姉さんの仇をとるためだ。僕は君に幸せになってほしくない、姉さんのいない世界で君に幸せになってほしくないんだ。君は姉さんの伴侶となるべく生まれてきたんだ、他の人と添い遂げるなんて認めない」
 「何度同じ事を言わせれば気が済むんだ、薫流が本当に好きだったのは……っ」 
 サムライの喉が鳴る。
 先を続けていいものか一瞬のためらいが双眸を過ぎる。
 悲嘆に打ちひしがれたサムライを見上げ、虚ろな無表情で反駁する。
 「薫流姉さんが本当に好きだったのは、帯刀貢だ」
 感情を封じた抑揚ない声。
 「違う。薫流が本当に好きだったのは俺ではない………お前だ」
 サムライが首を振る。
 どうしてもこれだけは伝えねばならないと名伏しがたい衝動に駆られ。
 「薫流はずっと俺と苗の仲を羨んでいた。本家を訪れる度どこか物欲しげに俺と苗を見詰めていた。ある日薫流に言われた。道場での稽古を終えて屋敷にもどる途中、紫陽花の茂みのそばで呼び止められたのだ」
 汗でぬめる手を握りなおし、僕と静流を支え、息も絶え絶えに続ける。
 「薫流はこう言ったんだ」

 『貴方たちがうらやましい』
 『稽古を見させてもらったわ。貴方と苗はいつも一緒ね。無心に剣を振るう貴方のそばで苗は幸せそうに微笑んでいたわ』
 『お互いの事が本当に好きなのね』
 『私も苗みたいになれたらいいのに。ああしていつまでも彼のそばに居られたらいいのに』
 『好きだという気持ちを偽りも隠しもせず、ああしてそばに居ることになんら疚しさを感じず、ずっと彼といられたらいいのに』
 『…………しずる。私のしずる』
 『本当は貴方たちみたいになりたかった。貴方たちみたいに愛し合いたかった』

 ごめんなさい、しずる。

 嗚咽を堪えるように筋張った喉が鳴り、自責の念に耐えて瞠目する。
 「……薫流は俺たちの関係そのものを妬んでいた。姉弟だといざ知らず無邪気に無知に惚れあっていた俺たちに激しく嫉妬していた。静流、お前は視線の意味を取り違えていたんだ。同じ嫉妬でもあれは恋敵への嫉妬ではない、己と同じ立場でありながら何らやましさを感じず互いを慕い合う俺たちを妬んでいただけだ」
 視線と視線が絡み合う。
 宙に吊り下げられた静流の目が、ひたりと虚空を映す。
 「薫流はお前の事を愛していた。お前が薫流を愛していたように」

 愛していた。
 本来嬉しいはずのその言葉が、こんなにも残酷に響くのはどうしてだ?
 こんなにも哀しく救いがたく響くのは?

 「……僕には姉さんだけだった。姉さんだけが僕を褒めてくれたんだ。上から見下すでも下から仰ぐでもなく、同じ目線で真っ直ぐに僕を見てくれたんだ。水鏡に映したように面差しの似た僕を、真っ直ぐに」
 瞬きも忘れた目に水がたまる。
 虚ろな無表情のままに、一筋の涙が頬を伝う。

 「『しずるはすごいわね』『本家の貢にもひけをとらないんだから自信をもちなさい』って……。好きだったんだ。どうしようもなく好きだったんだ。姉さんだけど、血の繋がった僕の姉さんだけど、一度好きだと想ったら止まらなかったんだ。後戻りできなかったんだ。莞爾さんが姉さんと本家跡取りの縁談を進めてるって聞いて目の前が真っ暗になった、君は最初から何でも持ってるくせにこの上姉さんまで奪うのかと次には怒りで真っ赤になった。姉さんの幸せのために尽くしたなんて嘘だ、綺麗事だ、僕はただ君の大事なものを奪いたかったんだ、君を不幸にして僕と同じ絶望を味あわせたかったんだ!!だから苗さんを慰み者にした、苗さんを追い詰めて首を吊らせた、小さい頃から優しくしてくれた苗さんを……」

 「静流」
 なめらかな頬をあとからあとから涙が伝い、顎先から垂直に滴る。
 憑かれたように口走り泣きじゃくり、しかし瞬きさえしない無表情のままに心情を吐露する。
 「姉さんごめんなさい、ごめんなさい、姉さんが誇れる弟じゃなくてごめんなさい。分家の跡取りにふさわしくなくてごめんなさい母さん、何も期待に応えられなくて申し訳ありません、どうか許してください、お願いですからこの通りですから帯刀家に生まれた事を許してください、僕がひとを好きになる事を許してください、見逃してください。あとでどんな罰でもうけるから地獄におちても構わないから、せめて姉さんを好きでい続けることだけは許してください。姉さんだけは僕からとらないでください、取り上げないでください」
 「違う、そうじゃない、薫流の心はお前の物だったんだ最初から!」
 サムライが激しく首を振り、砕けそうな力を込めて静流の手を握る。
 「殺したくなかった、刀を捨てて抱きしめたかった。あんな物本当は欲しくなかったのにいらなかったのにどうして捨てられなかったんだ、刀なんて硬くて冷たいばかりでずっと握っていると心まで冷えてしまう、姉さんのほうが余程いい、姉さんのぬくもりのほうがよっぽど……姉さんは僕が苗さんにしたことを知っていたんだ、勘付いていたんだ。だから僕の代わりに罰を受けた、もし僕が苗さんにしたことを知ったら母さんは自害を命じる、だから姉さんは黙ったまま……僕を庇って!!!」

 愛していた。
 愛していた。
 世界中のだれより愛していた。
 もういないひとを。
 だれより近くにいたひとを。 
 愛していたのに殺してしまった。
 愛する人に命じられるがまま、胸の奥深くに刀を突き刺してしまった。
 愛する人を殺すより、愛する人に嫌われるほうが怖くて。

 「僕があやまるのは姉さんだけだ。苗さんにも直くんにも君にも謝罪しない。君に詫びるくらいなら舌を噛み切ったほうがマシだ」
 見開いた目からとめどなく涙を零しつつ、緩慢な動作でサムライの手首に縋り付く。
 「懺悔するくらいなら、散華を選ぶ」
 爪を立てる。
 「!!―っ、」
 「やめろ静流!!」
 静流の爪が容赦なく手首の肉を抉り痛みを与える。
 それでもサムライは手を放さない。
 額に脂汗を滲ませ眉を顰め、すさまじい忍耐力でもって静流の手を握り続ける。僕は我を忘れ静流に食って掛かる、サムライの手首を抉る静流を引き剥がそうと底を尽きかけた体力を振り絞り手をのばすー……
 「サムライを奪わないでくれ!!!」
 炉が炎を噴き上げる。
 華やかに舞い飛ぶ火の粉越しに驚愕の形相の静流を見る。
 長い夢から醒めたような自失の顔つき。
 「ねえさ」
 え?
 静流の唇が儚く動き、かすれた声を紡いだ次の瞬間。
 一際激しい炎が炉から立ち上り、宙吊りにされた僕らを呑みこもうとする。
 
 死ぬ。
 
 死を確信して固く目を閉じた僕は誰かの絶叫を聞く、瞼の向こうで誰かが僕を呼んでいる。
 力強い腕が背中に回されて体を引き上げる、背中が何か固い物にぶつかる。誰かが身を挺して僕に覆い被さる、炉から噴き上がる炎と視界を朱に染める火の粉から身を盾にして僕を庇っている。僕もまた僕に覆い被さる人物を夢中で抱擁する、広い背中に腕を回し強く強く抱きしめる、互いを庇い合うように。
 彼を守りたいと気持ちを込めて。
 閉じた瞼の裏側を過ぎるたくさんの断片。
 僕がまだ外にいた頃の記憶に東京プリズンに来てからの記憶も含まれている。

 『おにいちゃん』
 恵の無邪気な笑顔。 
 『また本かよ鍵屋崎、お前ほんっとネクラだな』
 ロンのあきれ顔。 
 『お前もたまにゃ本読めよ。日本語の勉強になるぜ』
 レイジが茶々を入れる。
 『ロンロンには漫画のがむいとるでー』
 ヨンイルの笑い声。
 『ところで鍵屋崎、ブラックジャックの素晴らしさについて語り合いたいのだが……』 
 入院中のベッドの傍ら、折り畳み式の椅子に腰掛けた安田が眼鏡のブリッジを押し上げる。
 『直』 
 猛禽めいた眼光を宿す切れ長の双眸を僕を見る間だけは優しく和ませ。
 サムライが口を開く。
 『好きだ』
 「僕も好きだ。大好きだ」

 大事な仲間がいる。
 大事な人がいる。
 東京プリズンでの過酷な日々を支えてくれた大事な仲間の為にも僕は生き残らねばならない、侍と一緒に生還せねばならない。
 生き残りたい。 
 どこまでもどこまでも、希望が尽きぬ限り。
 記憶の中の光景が紅蓮に染まる。
 いつか見た展望台の光景に記憶の洪水が収束する。
 紅蓮に染まる展望台の突端にこちらに背を向けて佇む人影、砂漠に沈む太陽をまばゆげに眺める少年……
 今にも残照に溶けて消えそうに儚い笑顔。
 
 目を見開く。
 世界が紅蓮に染まっていた。
 世界に炎が吹き荒れていた。

 紅蓮の嵐が過ぎ去ったとき、静流はどこにもいなかった。 
 「…………しずるは?」
 サムライの肩越しにあたりを見回すも、静流の姿は跡形もなく消失している。
 手摺の一部が壊れた通路のどこにも彼の痕跡はなく、下方の炉が泡立つばかり。
 「……………っ…………」
 あまりに強く抱きしめられて痛みを感じる。
 サムライは僕を抱きしめたまま、火の勢いが衰えて風が止んでも放そうとしない。
 「俺が殺した」
 サムライが吐いた言葉に硬直、探るように表情を覗き込む。
 サムライは僕の肩口に額を預けたまま微動だにせず、茫然自失の体でいる。
 「俺が殺したんだ」
 感情の伴わぬ口調で繰り返し、脱力したように僕の肩に凭れ掛かる。救い難く虚ろな目には何の感情も浮かんでおらず、死のような虚無だけを眼窩に溜めている。    
 「炎から僕を庇うために、自分から手を放したんだな」
 そうするしかなかった。
 そうしなければ二人とも、否、三人とも焼き殺されていた。
 サムライは僕を助ける為に咄嗟に静流を放し、両腕でもって僕を引っ張り上げたのだ。
 静流の辿る運命を予期していながらも僕を助けるにはそれしかなく、炎がおさまるまでのあいだしっかりと僕を抱きしめてくれた。
 全身至る所に酷いやけどを作り、皮膚を爛れさせ、服をぼろぼろにして。
 自分の身を犠牲にしてまでも、約束どおり僕を守り抜いてくれた。
 「俺が殺した。静流を、あいつを………炎で溶かされて跡形もなくなると知っていながら、火炙りの地獄に悶え苦しむとわかっていながら自分の命ほしさに見殺しにしたんだ」 
 「……先の発言には重大な欠陥がある」
 サムライの手首には肉を抉った爪あとが残り、痛々しく血が滲んでいた。
 サムライの手首を慎重にとり、顔の前に持ってくる。
 「『殺した』んじゃない、『助けた』んだ」
 サムライの手を頬にあてる。
 「一度しか言わないからよく聞けよ」
 頬を包む手のぬくもりに安らかに身を委ね、僕は言った。 
 哀しみを癒すことも絶望を救うこともできなくとも、言葉に何もできないと決まったわけではないと一縷の希望を捨てず。 
 掛け値なしの本心を、哀しくなる位不器用で優しい男に告げる。

 「君は人殺しだが人を生かすこともできるんだ。
  現に今、こうして僕は生かされている」

 サムライが前にも増して力強く僕を抱きしめる。
 嗚咽が聞こえてきたのは、それからしばらくたってからだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050426162241 | 編集

 堕ちていく。
 どこまでもどこまでも。
 
 人として生まれ修羅として死に逝く生涯に一片たりとも悔いはない。
 終焉の風が吹く。
 静流は笑った。
 呆れて乾いた笑いだった。
 最期に目に焼き付けた光景が嫌いに嫌いぬいた従兄だなんて皮肉な幕切れもあったものだと自嘲し、上方へ遠ざかるサムライを物憂く仰ぐ。
 体が垂直に落ちていく。
 眼下では凄まじい勢いで炎が暴れている。
 耐え難い熱に苦悶してもいいものを、真っ直ぐ炉におちる己を遥か高見から見下ろしてるような奇妙な感覚に支配され、仇に挑んで自滅に至った哀しみも怒りも悔いもこの期に及んで如何なる情動も湧きあがらない。
 頬にあたる熱風や皮膚を焦がす火の粉や髪を捲り上着の裾をはためかせる風圧さえも他人事めいた錯覚をもたらすのみ。
 やがて訪れる死を予期し、身を苛む熱と皮膚が焼け爛れる痛みを甘んじて受け入れようとしたが、どうやらその一瞬は果てしなく引き延ばされているようだ。
 断罪を引き延ばし、懺悔をしいるように。
 なんという皮肉。
 時間はひどく緩慢に流れた。
 まわりの光景が静止していた。
 音は聞こえる。耳の奥で轟々と唸りを上げる炎の音、続けざまに火の粉が爆ぜる癇性な音。かすかに焦げ臭い匂いもする。
 そこで初めて自分の体が焼けていることに気付く、髪の毛と皮膚が焼け爛れてみるみる醜悪なさまに変貌していく。
 肉の焼ける甘く香ばしい匂いと髪の毛が焦げ付く匂いが混じりあって鼻腔を刺激する。
 安らかに目を閉じる。
 瞼裏の暗闇を過ぎる最期の光景は、憔悴しきった様子でこちらを見て、一途に懇願する直。
 『サムライを奪わないでくれ』
 帯刀貢を道連れにしようとした。復讐が叶わぬなら心中するつもりだった。
 静流は身の破滅を覚悟で貢に挑み、自分の命を引き換えに彼を地獄に連れて行くつもりだった。
 直の叫びさえなければ容赦なく貢の手首に爪を立て肉を抉り一緒に連れていくつもりだった。
 直は命乞いをした。
 自分の命ではなく、貢の命乞いをした。
 思い詰めた光を宿した目には、どこまでも一途な懇願の色があった。
 手首を縛られ宙吊りにされ脇腹から再出血し、口を利くどころか瞼を押し上げるのにも脂汗を振り絞らねばならない状況下で、それでも挫けずに毅然と正面を向き、はっきりとそう言った。
 他人に譲れぬものを内に秘めた、厳しく引き締まった表情に魅入られる。
 直は物怖じせず真っ直ぐ目を覗き込んできた。眼鏡をとられて視界がぼやけているはずなのにその目はしっかりと焦点を結び、矜持と意志を併せ持つ苛烈な眼差しを抉り込んできた。
 目が離せなかった。束の間瞬きも忘れてその表情に魅入られた。
 誰かに似ていた。
 今はもういない愛する人の面影が、直の顔に去来する。
 「ねえさん」
 自然と唇が動いていた。
 最初は声を発した事にも気付かず、驚愕に打たれた様子の直を前に、はじめて唇が音を発したのに思い至った。ああ、どうりで似ているはずだと腑に落ちた。この顔は、この眼差しは、死地に臨んだ薫流と酷似しているんだ。静流の手に刀を掴ませ、一息に自らの胸を刺し貫いた薫流と瓜二つなんだ。
 あまりに真っ直ぐな眼差しに圧倒される。
 なんて強く激しい目だ。
 どうしても譲れないものを持った人間だけが放てる眼差しだ。
 火傷しそうな眼差しだった。
 直の顔に薫流の面影が重なり、血に彩られた記憶が鮮烈に蘇る。
 薫流が静流の手を握り自らの方へ引き寄せる。
 華奢な手に引かれて不覚にも体が傾ぎ、刀がさしたる抵抗もなく肉に沈む。
 綺麗に微笑んだまま口端から一筋血を垂らす薫流に我を忘れ手を差し伸べ、亡骸に縋り付くー……
 静流はつと指を伸ばし、固く強張った直の頬へとふれようとした。
 脂汗が冷たくなり、疲労に青ざめた頬へとつりこまれるように指を伸ばし、安堵の笑みを上らす。
 
 そこにいたんだ、姉さん。
 さがしたよ。

 再び紅蓮の嵐が吹く。
 手首の枷が外れたのは、その瞬間だった。  
 一瞬の停滞、空間の静止。
 手首を解き放たれた静流が呆然と仰ぐ前、苦渋の面持ちでこちらを見つめているのは……
 帯刀貢。
 今にも崩れそうな表情を必死に堪え、忍耐深く口元を引き結び、全ての責を負って非情な決断を下す。
 貢は一回も瞬きをせず、また目を逸らそうともしなかった。
 虚ろな無表情をさらした静流をひたと見据えたまま、愚直としか言えない哀しい潔さでもって自分の手で送り出した最期を余さず目に焼き付ける。
 瞬きすら惜しむように豁然と目を見開き、乾いた眼球に炎を映し、静流が炎に焼かれて灰になるまで完全に見届けようとしている。
 これでいい。
 静流は僅かに首肯した。
 自然と笑みが上ってきた。
 皆が皆生きて幸せに、そんな綺麗事はくそくらえだ。
 現実は常に非情な判断と苦渋の決断を迫り、尊い犠牲のもとに満身創痍で活路を開く事を要求する。皆が皆生きて幸せになる事など現実にはあり得ない。
 静流は今も貢を憎んでいるが、それはあくまで帯刀家を滅ぼした男への復讐心であって今この瞬間自分を見捨てた事についてはむしろ感心している。
 心優しい従兄がどんな想いで自分を見殺しにしたかと考えるだけで、命と引き換えに一矢報いた痛快さで笑いがとまらなくなる。
 遥か頭上で貢が何かを叫ぶ。
 炉へと吸い込まれる静流に全身全霊で追いすがり、みっともなく見苦しく取り乱す。眼窩からせりだした目に絶望が浮かび、反った喉が引き攣り、口が限界まで開かれ、声なき慟哭が大気をびりびりと震わす。

 貢の腕の中に直がいた。
 静流を見殺しに直を引き上げてしっかりと腕に抱きしめ、身を挺して火の粉から庇う。

 羨ましいと想った。
 いまさらながら、羨ましいと。

 『そんなに薫流が好きながら家のしがらみを断って二人で逃げればよかった、母親と姉に言われるがまま刀で刺し殺したのは君自身だ、即座に刀を捨てて薫流を抱きしめることもできたのにそうしなかったのは君だ、君自身だ!!』

 全くその通りだ。
 僕には刀を捨てて姉さんを抱きしめる道もあったのに、姉さんをとるか刀をとるか迷ったばかりに本当に大事な物を見失ってしまった。
 即座に刀を捨てて姉さんを抱きしめていれば、今とは違った結末に辿り着けたものを。 
 風を切って落下しながらゆるやかに瞼を閉ざし、誰にともなく囁く。
 「帯刀家を滅ぼしたのは、僕だ」
 わかっていたんだ、本当は。
 苗さんの死の原因を作った僕こそ帯刀家を滅ぼした張本人だとわかっていながら、事実を認めてしまえば姉さんの死を無駄にする気がして、最期まで沈黙を貫き自分の命と引き換えに僕を生かそうとした姉さんの気持ちを無にする気がして現実から目を逸らし続けた。
 僕は狂っていたわけじゃない、狂ったふりをしていただけだ。
 いっそ狂ってしまえばどんなにラクかと渇望しながらも最後の一線で理性を保ち続け、復讐の正当性をごまかし、自分を偽り続けてきたのだ。
 静流は目を閉じたまま風に身を任せ、重力に従って垂直に落下する。
 風圧に髪がなびく。上着の裾がはためく。
 風切る唸りが耳朶をかすめる中、ませた子供の声がする。
 
 『男の子が泣くんじゃないの、みっともない』
 瞼の裏に懐かしい光景がよみがえる。
 懐かしい姉の声。
 師範に厳しく鍛えられて打ち身を作った幼い静流が庭の隅で泣きじゃくっていると、最後にはいつも薫流が迎えにきてくれた。
 「仕方ないわね」という顔をしてやってきた薫流が言うことはいつも決まっていた。
 男の子がべそべそするんじゃない。あなたは分家の跡取りなんだから自信をもちなさい、胸を張って前を向きなさい。立派な当主をめざして稽古にはげみなさい……お説教は聞き飽きた。姉の叱責は容赦なく、静流の泣き声はますます甲高くなるばかりだった。
 『しようのない子ね』
 大人びたため息を一つ、きちんと膝を揃えてしゃがみこんだ薫流がしかめつらしく静流を覗き込む。 
 『ぼく、は、貢くんに、かなわないんだ。ぼくがみつぐくんみたいにつよくないから、剣の腕がいつまでたっても上達しないから、だから母さんはいつもおっかない顔をしてるんだ。僕を見るたびに首を振るんだ。ぼく、母さんをがっかりさせてばかりいる……』
 嗚咽は止まない。
 涙と鼻水を滂沱と垂れ流し、あどけない顔をくしゃくしゃに歪める弟の顔を熱心に覗き込み、暫し考え深げに黙りこくった薫流がそっと頭をなでる。
 『何を言いだすかと思えばしずるのおばかさん。本家のみつぐにあなたが劣るなんて誰が言ったの?』
 真から不思議そうな声の調子に虚を衝かれて顔を上げる。
 驚きに涙も引っ込んだ。
 静流はただただ呆然と姉を見上げ、幼い頭で必死に考えを巡らす。
 『……みんな』
 『みんなってだれよ。仕返しできないから具体的に言いなさい』
 『おとな。母さんとか、おじさんとか、道場の人たちとか……』
 『目が節穴なのよ。上から見下ろしてばかりいる連中に貴方の剣が見えるものですか』
 憤懣やるかたなく言い切り、きっと静流に向き直る。
 薫流の頬はあざやかに紅潮し、弟の名誉を守ろうと拙い言葉を尽くす顔は生き生きと輝いていた。
 『真っ直ぐに見なきゃなにも見えないのよ。見えていても見えないのよ』  
 偏見と先入観を排し、水のように清く澄んだ心で見れば必ずわかるはずなのに。
 邪念と雑念にまみれた大人の目に、愛する弟の何がわかるのだといたく憤慨して。
 『ねえしずる、あなた水が見える?』
 『みず?』
 突然何を言い出すのだとぽかんとした弟に悪戯っぽく微笑みかけ、優しく頬をなで、指の腹に涙をすくいとる。
 指の腹に舐めとった涙を見下ろし、淡々と続ける。
 『水は色も匂いもない、透き通って目に見えない。あなたの剣も同じよ。しずる、あなたの剣は水なの。水そのものなの。ある時はしずかに流れる水の如く、ある時は岩をも砕く激流の如く。力の入れ具合によってさまざまに形を変え、悠久に変化を続け、世代を経て生き続ける太刀筋……それこそ帯刀流の極意、門外不出の剣』
 薫流の指から涙が滴り落ち、地面に染みる。
 土を黒く染めた一滴の涙を見つめ、自信ありげに断言する。
 『しずる、あなたは本当はすごいんだから自信をもちなさい。本家の跡取りなんて目じゃないわ。私にはわかる、水が見える。あなたはすごい才能を持って生まれたの。あなたの振るう剣は水のように自在に形を変える、何物にも縛られず自由に奔放にひるがえり他を圧倒する』
 『でも稽古では一度も貢くんに勝てない……』
 『あんなのただ激しいだけが取り得の力押しの剣じゃない、ちっとも綺麗じゃないわ』
 薫流が心外そうに鼻を鳴らす。審美眼に恵まれた姉にとっては、見ためが綺麗かそうじゃないかは重大な問題らしい。
 小さな手で静流の顔を手挟み、自分の方へ向かせる。 
 静流の目を真っ直ぐ見つめ、噛み砕くように言い含める。
 『驕りなさい、しずる。才ある者にはそれが許される。私はあなたがどれだけ素晴らしいか知ってる、私の弟がどんなにか物凄い人間かちゃんとわかっている』
 頬を包んだ手からぬくもりが伝わる。
 戸惑う弟の視線をまともに受け止め、薫流はにっこり微笑む。
 『あなたは私の誇り、自慢の弟よ』

 自分自身でさえ誇れない僕を、姉さんは誇ってくれた。
 誇りだと言ってくれた。
 ぼくは「物凄い人間」だから、完璧に復讐を成し遂げねばならない。 
 姉さんの期待を裏切っちゃいけない。
 姉さんを幻滅させたくないという一瞬の躊躇が刀を捨てる事を遅らせ、気付いた時には姉さんに導かれるがまま、姉さんの胸に深々刀を突き刺し息の根をとめていた。
 
 『静流さんと薫流さんは仲がよくて羨ましいわ』
 澄んだ笑い声が響く。
 『小さい頃からずっと一緒だったもの』
 『よく四人で遊んだわね。裏庭の桜の木のまわりでかけっこしたり』
 『静流さんはいつも薫流さんのあとを追いかけていたわ。おいていかれるのがいやで、一生懸命』
 瞼の裏に苗が浮かぶ。
 苗は嬉しそうに笑っている。
 何がそんなに嬉しいのか理解できない。
 僕を迎えに来たのか、嘲笑いにきたのか?……否。苗はただ笑っている。遠い目で昔を懐かしんで微笑んでいる。苗は綺麗な心の持ち主だった。姉さんも苗さんが大好きだった。母さんと莞爾さんの仲が険悪になって本家と分家の行き来が絶えてからも、目が見えない苗さんの事をずっと心配して、時々ひとりで様子を見に行っていた。 

 だからなおさら耐えられなかった。
 僕が苗さんを嵌めたと知り、衝撃を受けた。
 『本当に薫流さんが好きだったのね』 
 そうだよ。
 姉さんのためなら何でもできると思った。
 貴女を殺しても悔いはなかった。
 貴女の幸せを奪って、姉さんの分にあてようとした。
 身勝手な人間だね、僕は。
 自業自得だ。

 『ええ。自業自得です』
 きっと幻聴だ。
 死んだ人間の声がすぐ耳元で聞こえるはずがない。 
 久しぶりに聴いた苗の声はひどく耳心地良く穏やかで、できるならずっと聞いていたかった。
 瞼裏を走馬灯のように過ぎる幾つもの光景……微笑み合う苗と貢、紫陽花が咲く庭に佇む薫流、傘の陰に見え隠れする撫で肩。
 さらに遡る。幸福だった幼い日々、苗と貢を交えて四人で遊んだ頃を思い出す。  
 苗。
 着物の裾を踏んづけて転んだとき真っ先に助け起こしてくれた。
 「大丈夫ですか」と親身に声をかけてくれた。
 折り紙の鶴をくれた。
 そうだ、鶴の折り方は苗さんに教わったんだ。苗さんは目が見えないけど手先がすごく器用で、僕が姉さんにいじめられて泣く度に手のひらにそっと鶴をのせてくれた。

 姉さんを愛していた。
 苗さんが好きだった。
 貢くんも好きだった。
 しあわせだった。
 『自業自得です』
 幸せだった。

 あの鶴は、いつ失くしてしまったんだ?

 「ねえさん、僕は」
 自業自得だ。
 ああ、熱い。
 瞼の奥も紅に染まる。
 静流はもがく。
 みっともなく見苦しく空をかきむしってもがく、体を焼き尽くす業火に抗おうと頭上高く手を差し伸べて何かをむしりとるしぐさをする。
 熱い。
 熱い熱い熱い。体が燃える。
 皮膚が焼け爛れて溶けてあぶくが立ち髪の毛が燃え盛り頭皮が捲れて縮む。
 業火に呑まれてもがき苦しむ耳の奥、玲瓏と幻聴が響く。 

 『  をあいしてるわ 』 
 短い遺言を思い出す。

 自らの胸に刀を突き立て口端から一筋血を垂らし倒れ伏せた薫流、鮮血に染まる畳、赤い血赤い炎赤いめくるめく埋め尽くす一面の……
 『 をあいしてるわ』 
 肝心な部分だけが聞こえないその声が炎の唸りにかき消される。
 静流は声なき声で絶叫する、断末魔の苦しみに身も世もなくのたうちまわり炎に焼かれて修羅となるー……
 姉さん。
 姉さん姉さん薫流ねえさん熱いよイヤだ助けて体が燃えていく炎が纏わり付く嫌な匂い皮膚が溶けて爛れて『自業自得』苗の笑い声『お前を殺す』貢の声『君の責任だ』直の声、熱い耐え難い視界が紅一色に染まる燃える瞼が火を噴く眼球が溶け流れるもう何も見えない暗闇でも熱は感じるこれは地獄ここは地獄ー……
 炎が喉を焼く。
 叫ぶ。
 断末魔を、

 「しずるを愛してるわ」

 はっきりと声が聞こえた。
 炎に焼かれて炉に落下する静流を、突如だれかが抱きしめる。
 静流は目を開ける。瞼は焼け爛れて白濁した目は極端に視界が狭まっていたが、突如虚空に現れた女が自分の方に手を差し伸べ、体を寄り添わせるのがわかった。
 美しい女だった。
 眉の上で真っ直ぐ切り揃えた前髪、気の強そうな柳眉、聡明な切れ長の眦。
 猛威をふるう炎に負けず紅く艶やかな着物を羽織り、神々しい後光を背負った少女が、艶めく微笑みを静流に送る。
 
 嗚呼。
 漸く。

 目尻にうっすらと涙が浮かぶ。
 無意識に手を伸ばし、炎の中で体を重ねる。
 お互いを貪り求めあい、渾身の力を腕に込めて抱き合う。
 「遅いよ、ねえさん」
 姉の背中にきつく腕を回し二度と離さないと誓い、幼子のように胸に顔を埋める。
 子供返りした静流を仕方なさそうに、その実この上なく愛しげに見守り、耳元で囁く。
 「待たせてごめんなさい。漸く追いつけたわ。貴方がおちるの早いのだもの、着物の裾がはだけてはしたないったら……」
 水鏡に映したように面差しの似通った姉が腕の中で微笑み、体が焼け爛れる痛みすら忘れ、満ち足りた幸福を感じる。
 至福の一瞬を少しでも引き延ばそうとかき抱き、真摯に詫びる。 
 「ごめんなさい、姉さん。分家の汚名をすすぐことができなくて……また貢くんに負けちゃったよ。こないだ展望台でやったときは勝ったんだけど、まだまだ修行不足みたいだ。母さんに稽古つけてもらわないとね」
 「見ていたわ、地獄から。炎の中から。もう少しで勝てそうだったのに惜しかったわね。さすが本家の跡取りだけはあるってことかしら。貴方もずいぶん腕を上げたじゃない、しずる。姉として誇らしいわ」
 静流の抱擁に応じて薫流もまた腕の力を強める。
 「敗北を誇りなさい。あなたは十分よくやった。分家の跡取りの使命を立派にはたしてくれた」
 「寂しかったよ」
 「わたしもよ」
 姉のぬくもりに包まれて堰を切ったように激情を吐露、砕けそうな力を込めて炎が形作った幻影をかき抱く。
 腕が焼け爛れるのも構わず。
 「来る日も来る日も血を吐くような想いだった、こんな辛い日々はやく終わらせたいとそればかりだった、はやく姉さんに会いたい迎えにきてほしいと気も狂わんばかりに願ってやまなかった。会いたかった姉さん、大好きだよ、姉弟だって構うものか、互いの肉を貪る畜生道に堕ちるのも望む所だ!!もっと早くこうすればよかった、もっと早く刀を捨ててこうして抱きしめていればよかった、こうして―…………」
 燃え盛る炎の中、腕が灰となる瞬間まで薫流を抱き続ける覚悟を決める。
 静流の腕の中で面を上げ、薫流が品よく咎め立てる。
 「苗にあやまらないの?」
 「悪いと思ってないのにあやまるのは不実だよ」
 「素直じゃない子ね」
 薫流が苦笑する。

 着物の裾が炎と化してたなびく。 
 炎と一体化した薫流はとても綺麗で。
 「愛してるわ、しずる」
 手と手を組み合わす。
 「愛してるよ、かおる」
 指と指を絡めあう。
 「地獄に行きましょう」
 うつくしいひとが誘う。
 「姉さんとならどこへでも」
 喜んで首肯する。
 どちらからともなく見詰め合う。口づけをかわす。炎の接吻を受ける。薫流と重なったまま体が塵に帰りゆく。
 散り散りの灰へと分解されながら遥か上を仰げば、炎の狭間から垣間見える通路にうつ伏せ、貢が直を庇っていた。
 互いの体にしっかりと腕を回し庇い合うふたり。
 固く結ばれた絆。
 
 先に逝くよ。

 別れを告げるのを待つかの如く沈黙を守り、罪業の浄化を司る炎と化して静流の身を焼き滅ぼし、灰燼にかえて。
 ふたりは漸く結ばれた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050425215550 | 編集

 胸騒ぎがやまない。
 「……………っ」
 胸が痛い。
 上着の胸を掴み、落ち着かない気分で前方に迫った焼却炉を見上げる。
 はるばる砂漠を越えて歩き続ける事五分か十分、距離が縮まるに比例して焼却炉がどんどん大きさと不気味さを増して視界を圧迫する。
 近くで見る焼却炉はなおさら奇怪な施設だった。
 大小無数のパイプをはじめ俺にはさっぱり仕組みがわからない機械装置が寄り合わさった外観は工場に似ている。
 ……にしても馬鹿げた大きさだ。
 「どっかで見たことあるなあて思うたら」
 ヨンイルが驚嘆を禁じえない様子で小手をかざす。
 「宇宙戦艦ヤマト?」
 「古すぎるぞ」
 「せやかて似てるやん」
 安田の指摘に興ざめしたヨンイルが不満げに唇を尖らす。
 俺は口を開けっ放しに呆然と焼却炉を眺めるばかり。
 変な話だが、入所時からずっとイエローワーク所属だった俺がレッドワークの仕事場を目の当たりにするのは掛け値なしにこれが初めてだ。基本的にレッドワークの囚人を除いて焼却炉が何処にあるか知らない。仲間内の結束を固めるためだかトラブル防止のためだか知らないが、焼却炉の場所を他部署の連中に漏らさない暗黙の掟が存在するのだ。だいたい東京プリズンを囲む砂漠自体が途方もなく広い。まるごと一つの区を呑み込む面積のどこらへんに焼却炉があるかなんて定時に出るバス以外に移動手段を禁じられた囚人は突き止めようがない。
 焼却炉の威容に気圧されるでもなく眼鏡のブリッジに触れ、安田が口火を切る。
 「ピエール・ブールの『猿の惑星』だな。作中では自由の女神だったが、ここでは前世紀の首都のシンボル東京タワーだ」
 「東京タワー?なんだそれ」
 口を挟んだ俺を眼光鋭く刺すように一瞥、安田がため息を吐く。
 「そういや聞いたことある。むかし東京のど真ん中に趣味の悪い真っ赤な塔があってシャアこと赤い彗星て呼ばれとったって」
 「昔の話だ。スラムを除いて電線が地下に潜った現在では東京タワーも存在意義をなくした。……ちなみにシャアとは呼ばれてない」
 真っ赤な塔でぼんやり思い出す。
 一年と半年前、俺がジープに乗ってここに連れてこられる時にちらっと見た光景……砂に埋もれて錆び付いた円錐形の物体、羅針盤の針みたいに尖ったてっぺんで一点を突き刺した廃墟の塔。
 安田が言ってるのは多分アレのことだ。
 ジープですぐそばを通り過ぎた時、酔っ払い看守が口走った台詞をかき集めてみる。
 『てめえらスラム生まれの在日連中は知らねえだろうが、砂漠のど真ん中に鉄骨の骨組み曝け出して横倒しになってるあの真っ赤な塔はむかしむかし東京のシンボルで、世界中からわんさと観光客が押しかけたんだ』
 『上には展望台があって望遠鏡を覗きゃあ都心一帯が見渡せたんだ』
 『今じゃあのザマよ。むかしむかし東京中に電力を供給してた送電塔の王様も時代の衰勢には逆らえず、都心のスラム化・砂漠化に伴って廃棄されちまった。用済みの烙印を押されて砂漠のど真ん中に捨てられちまった忘れ去れし時代の落とし子さ』
 『お前らと一緒だな。ニーハオ先輩って挨拶しろよ、ははははははははっ』

 …………胸糞悪くなった。
 変な話題を振った安田を呪う。
 「なんで突然東京タワーなんだよ?」
 トラウマを刺激された俺がつっかかれば、安田が焼却炉をこえて遥か遠方に視線を飛ばす。ごまかしてんのかと気色ばんで視線を追えば、焼却炉もこえた遥か遠方、砂の中からちょこんと尖塔を覗かせている赤錆びた物体が目にとびこんでくる。
 そうか。ここからなら東京タワーが見れるんだ。
 「……『猿の惑星』は作者の実体験をもとにして書かれた話だ」
 感情をまじえぬ口調で淡々と話しだす安田の表情には、ただ事実だけをありのままに物語る酷薄さが漂ってる。
 「ピエール・ブールは第二次大戦中捕虜として日本軍にとらわれて虐待を受けた。黄色い猿と侮っていた劣等人種に蔑視されていたくプライドを傷付けられた彼は、そのトラウマを虚構の中で語り直して失われた尊厳を回復するために『猿の惑星』をしるしたと言われる」
 ……捕虜と囚人を同一視してるのかとひねくれた副所長に反感を覚える。まあ、扱いは捕虜のほうがイイくらいだが。
 安田と鍵屋崎が親しいワケがすとんと腑に落ちた。
 要するに価値観が近いのだ。今のなんていかにも鍵屋崎が吐きそうなヒネた台詞じゃないか。
 「喪失と再生は今も変わらぬ文学の命題だ。一種の自慰行為とも言える」
 ほらな。
 先にしびれを切らしたのはヨンイルだった。
 「猿の惑星はどうでもええっちゅねん、猿は猿でもサイヤ人以外の猿に興味あらへんさかい俺は!!」
 時と場所をわきまえぬ薀蓄語りに激怒したヨンイルがやぶからぼうに先頭きって走り出す。
 砂を蹴立てて走り出したヨンイルが向かう先は焼却炉内部に通じる鋼鉄の歩道橋だ。息をもつかせぬ二段とばしで階段を駆け上がるヨンイルを追い、俺たちも走り出す。
 鋼鉄の歩道橋を一息に駆け上がる。
 歩道橋の遥か先に焼却施設への出入り口がある。出入り口めざしてひた走るヨンイルの顔に焦燥が滲む。
 俺の足も自然と速まる。
 俺に付かず離れずのレイジはへたな口笛を吹いている。
 毎度おなじみのストレンジフルーツ……哀愁を誘うメロディー。 
 「こんな時に口笛なんか吹くなよ、鍵屋崎の一大事だってのに不謹慎なヤツだな!」
 「景気づけだよ」
 「わけわかんねえ!」
 コイツほんとに鍵屋崎のこと心配してんのかよと疑問が再発する。さっきは情にほだされちまったが、でも……
 レイジをすっ転ばしたい欲求をぐっと堪え、躍起になって足繰り出すのに専念する。
 「無事でいろよ、鍵屋崎、サムライ」
 思わず声に出し、ガラにもなく祈りを捧げる。
 俺の手に十字架があれば揉みしだいていた。
 ズボンのポケットに片手を突っ込み、十字架の代わりに麻雀牌を握る。緊張でじっとり汗ばむ手に牌を握り込み、鍵屋崎とサムライが無事でいるようただそれだけを一心に念じる。
 かつて俺を助けてくれた麻雀牌に祈りを込める。
 かつてレイジを助けてくれた麻雀牌に縋る。
 一度あることは三度ある。
 一度目と二度目の願いを叶えてくれたんだから今度もまた仲間の命を救ってくれと図々しい期待を抱く。
 がめついな、俺。
 ばちあたりだな、俺。
 ふと隣を見る。道化じみた所作で唇を窄めて口笛を吹くレイジ。
 壊れたハーモニカのような不協和音が流れる中、おそらくは無意識に胸元をまさぐり、不安をごまかすように十字架を握り締める手。
 「レイジ、おまえ……」
 褐色の手が十字架を握るのを見て、おちゃらけた態度の裏にひそむものを汲み取る。
 表面上は平静を保ち、余裕綽々大胆不敵な風情でもって鷹揚な笑みを浮かべた王様が、どこか自分に言い聞かせるように呟く。
 「鍵屋崎は生きてる。サムライもだ。俺が言うんだから間違いない。安心しろよ、ロン」
 敏捷性と瞬発力に優れた豹のごとく軽快に床を蹴り、身を切る風に髪と裾をなびかせ、鮮烈な残像を刻み付ける。
 毅然と前を向いた顔に光あるほうをめざす笑みを浮かべ、優雅な睫毛に飾られた双眸に闘志を宿し。
 「Anyone who believes will be saved.」
 不敵に断言。
 「日本語か台湾語で言え」
 「『信じるものは救われる』さ」
 無敵の笑顔。
 ……レイジに言われるとどんな不可能な事も信じたくなってくるから不思議だ。
 信じるものは救われると口の中で繰り返し己を奮い立たす。
 大丈夫、鍵屋崎もサムライもちゃんと生きてる。
 俺たちがまた食堂で笑い合える日は必ずくる。
 あの鍵屋崎が簡単に死ぬはずねえ、あのサムライが簡単に殺られるわけねえと一直線に思い込む。  
 焼却炉の出入り口が見えてきた。
 レイジを伴いスピードを上げる。
 息が切れる。胸が痛い、苦しい。
 俺はただがむしゃらに走る、体力尽きてぶっ倒れても構わないとやけくそで足を繰り出し盲目的にすっとばす。
 どうかどうか間に合ってくれ、間に合ってくれ手遅れになる前にとポケットの中で砕けそうな力を込めて牌を握り締めて気も狂わんばかりの焦燥に苛まれて祈り続けるー……
 出入り口まであと五十メートル、三十メートル、十メートル……
 「!」
 入り口一歩手前でヨンイルが急停止。
 こちらに背中を向けたヨンイルの隣、安田もまた感電したように立ち止まる。
 なんだ?どうしたってんだ?
 二人の急変に頭が混乱、最悪の予想がにわかに現実味を帯び始める。ヨンイルも安田もどうして止まっちまったんだ、すぐそこの入り口をくぐれば鍵屋崎に会えるってのに、鍵屋崎を助けられるってのに………
 まさか。
 「あかん。手遅れや」
 入り口の向こうに眼を据えたヨンイルが茫然自失の体でひとりごちる。
 全身がそわりと粟立つ。
 「―――っ、サムライ、かぎやざきィいいいいいいいいいいいいいいいい!?」
 そんな馬鹿な。
 俺たちが間に合わなかったなんて嘘だ冗談だと言ってくれ鍵屋崎をみすみす見殺しにしたなんてサムライが死んだなんて二人して炉の泡になったなんてそんなー……そんな馬鹿げたことあってたまるかよ、たらふく砂を呑んで全身に擦り傷作って足を棒にして迎えにきてやったのに!!

 瞼の裏を過ぎる凄絶な光景。
 真っ逆さまに落ちていく鍵屋崎と虚空でその体を抱きしめるサムライ、そして二人は炉の藻屑にー……
 蒸発。
 跡形もなく。
 俺の手が届く前に、

 『没想到!!』
 『shit!!』 
 俺は台湾語でレイジは英語で毒づき、残り十メートルで気力体力を振り絞り猛然とすっとばす。
 ヨンイルも安田も入り口前に突っ立ったままそこを動こうとしない。 虚脱した様子で立ち竦む二人の視線の先に何があるのか『あかん手遅れや』腑抜けた呟き『手遅れや』鍵屋崎サムライ二人は死ー………
   
 いやだ。
 おいてかないでくれ。
 
 「くそっ、くそっ、くそっ!俺をおいてくなんて承知しねえぞ鍵屋崎とサムライ、ダチに一言も告げずあの世にサヨナラなんてふざけんじゃねえぞ、あの世が行き先なら『再見』だって使えねーじゃんかよ!!」
 喉から嗚咽が迸る。瞼がじんわり熱くなる。視界がぼやけるのは涙腺が脆くなったせいだろうか。鍵屋崎いかないでくれサムライいかないでくれ俺はさんざん世話になりっぱなしで借りひとつも返せてねえのにこんな別れ方なしだなしだよ畜生くそったれども!!
 永遠ともおもえる道のりを走破して出入り口に到着、棒立ちのヨンイルを乱暴に突き飛ばす。
 我を忘れて焼却炉の中に駆け込もうとした俺の肩を後ろから誰かが掴みその手を振り払おうとー……

 「………遅参だな」
 奇跡が起きた。

 正面に向き直り、絶句。
 出入り口の向こうに人影が現れる。
 みすぼらしいボロを申し訳程度に纏った長身痩躯の男が、全身至る所に火傷を作り皮膚を爛れさせ、満身創痍の風体でよろめきでる。
 凄惨な……あまりに凄惨な変わりよう。
 気力が枯渇しきったその面構えに圧倒される。
 落ち窪んだ眼窩では激情の残滓が燻っているが、あくまでそれは残滓にすぎず、眼つきに切れが感じられない。 
 何より驚いたことにサムライの髪がざっくり短くなっていた。
 無精で伸ばしていた髪をざっくり切り落としたサムライはすっかり別人に見えた。
 髪と一緒に何か大切なものまでも切り捨てたような、いつぶっ倒れてもおかしくない廃人一歩手前の虚ろな様子。
 『好!』
 衝撃が去ったあと、入れ替わりに込み上げたのは生きてサムライと再会できた喜び。
 「生きてたのかよサムライびっくりさせんなよレッドワークから帰ってこねえからすっげえ心配してたんだぜ、にしてもすげえカッコだな、囚人服が燃えちまってほとんど裸で……うわ、ひっでー火傷!切り傷も!なんだこれ静流にやられたのかアイツがやったのか絆創膏はどこ、」
 「鍵屋崎は!?」
 冷静さを失い安田が声を荒げる。
 サムライは殆ど表情を変えず、自分が背負ったものを示す。
 サムライの背におぶわれていたのは鍵屋崎。上着の脇腹には血が滲み、額には苦痛の汗が滲んでいる。
 「直ちゃん!!」
 ヨンイルが跳ね起きる。
 安田とヨンイルが同時に駆け寄るのを待ち、怪我にさわらないよう細心の注意を払って意識のない鍵屋崎を背中から下ろす。
 そこで不測の事態が起きる。
 意識がないにも拘わらず鍵屋崎がサムライの上着を握ったまま放そうとしないのだ。
 大部分が燃え落ちた上着の切れ端を掴んだ鍵屋崎の寝顔は、疲労の色こそ拭えないものの不思議と安らかだった。
 上着の端切れを握ったまま慎重に床に寝かされた鍵屋崎の傍らに屈み、ヨンイルが詫びる。
 「直ちゃん聞こえるか直ちゃん、西の道化が助けにきたったで。ホンマ遅れてごめん、出遅れてごめん、直ちゃんが辛いのにそばにいてやれんですまん……手塚治虫に顔向けできんわ、ホンマ……」
 端切れを掴んだ手に手を重ね、そっと握ってやる。
 鍵屋崎の手を優しく包んだヨンイルがひたとサムライに向き直り、安堵に和んだ顔を厳しく引き締める。
 「ヨンイル、サムライを責めるな。サムライは十分よくやったよ。体じゅうボロボロになって火傷して、それでも鍵屋崎の身だけは守り抜いたんだ。ちょっとばかし傷が開いた位で死にゃしねーよ、縫い直せばすむこった。見たところ腸だって漏れてねーし鍵屋崎だってピンピン……は、してねーけど。ちゃんと息はしてっし、生きてるだけで万々歳だろ?」
 一触即発、険悪なヨンイルの前に腕を広げて立ちはだかる。
 正直鍵屋崎はとても無事と呼べた状態じゃないが、サムライの背中に全体重を預けきったアイツを見て、俺はなんだかとても安心してしまったのだ。
 鍵屋崎の怪我の心配よりも助かった安堵のほうが大きい俺が割り込めば、レイジが「いいからいいから」と気軽な調子で肩を引き戻す。
 サムライとヨンイルの睨み合いは続く。
 いや、正確にはヨンイルが一方的に睨み付けているだけだ。
 サムライはどこか心ここにあらずといった茫漠の眼差しを虚空に注ぐのみ。
 突然ヨンイルが立ち上がり、正面切ってサムライと相対する。
 挑戦的な態度でサムライと対峙したヨンイルがすぅと深呼吸、思わぬ行動をとる。
 額に手をやりゴーグルを外す。
 精悍に吊り上がった双眸にどこまでも潔い光を宿し、真剣に口を開く。
 「直ちゃん助けてくれて、えらいおおきに」
 ヨンイルが深々頭を下げる。最大限の感謝を込めた口ぶりは道化の名に似つかわしくない誠意があふれていた。
 「………正直悔しいけど直ちゃん守ってくれた事には礼を言うわ。おどれがいなかったら今頃直ちゃん蒸発しとった。火の鳥のように蘇る事なく炉に沈んだまま浮かんでこんかった。そんなのイヤや。俺は耐えられん。直ちゃんは俺の大事なダチや。直ちゃんがそんな死に方するのイヤや、絶対に。せやからサムライ、あんたにはものごっつ感謝しとる。出遅れた俺に代わって直ちゃんをしっかり守ってくれた、今度という今度こそきっちり約束守ってくれた。……すごいわ。カッコよすぎや。俺の出番ないやん」
 ヨンイルは冗談めかして苦笑するが、その笑みには少なからず本気が含まれていた。
 何かを吹っ切ったヨンイルのそば、手際よくネクタイをほどいた安田が止血を施す。
 オールバックが崩れ、前髪がかかった双眸に思い詰めた光を宿し、完璧に応急処置を施す。
 「……怪我は浅い。ひとまずこれで安心だ」
 安堵の吐息を漏らし額の汗を拭う。
 血に濡れた手でなすった額に赤い筋が付く。
 治療を終えた安田がどこかためらがいちにサムライに向き直り、弁解がましい早口で付け加える。
 「君は体力を消耗している。鍵屋崎の運搬は私に任せてほしい。この中における最年長者でもあり副所長たる私には無事囚人を送り届ける義務がある。どうか鍵屋崎を抱かせてくれ」
 サムライが首肯する。
 サムライに許可を得た安田は救われたような様子で鍵屋崎の体を抱き上げる。
 鍵屋崎を仰向けに抱き上げれば、意志を失った四肢がだらりと垂れ下がる。
 「…………おかえり」
 この上なく脆く壊れやすいものを扱うような臆病さで鍵屋崎を腕に抱き、恥ずかしげに俯く。
 安田をぼんやり見つめるサムライに無防備に歩み寄り、何気なく王様が聞く。
 「別嬪のいとこはどうしたんだ」
 「……死んだ」
 サムライが簡潔に答える。
 ヨンイルと安田がハッとする。俺も衝撃に言葉を失う。
 「俺が殺した」
 「事故だ。今回の件は不幸な事故として処理される。炉に落ちたのなら遺体の回収は不可能、よって君が静流を殺したという証拠はどこにもなく事件自体が成立しない。看守一名を殺害した上に医師と看守に傷害を働き重態患者を拉致した凶悪犯だ、もとより彼が生き残る可能性は低かった。君を倒して生き残っても看守に殺されるのは避けがたく私もまたそれを防げなかった」
 腕に抱いた鍵屋崎の重さを確かめるように力を込め、あどけない寝顔に微笑ましく目を細める。
 「君のせいではない。君は全身全霊で直を救ってくれた。……副所長として感謝を」
 「副所長」の前に別の言葉を言おうとして慌てて嚥下したような一呼吸の間があった。
 サムライはぼんやりしていた。
 髪と一緒に魂の一部も蒸発してしまったかのような放心状態で立ち尽くしていた。ヨンイルの礼も安田のフォローもサムライを覚醒させるには至らず、意志の光が失せた空洞の目で虚空を見据える。

 なんて声をかけりゃいいかわからなかった。
 拙い言葉でサムライを救える自信がなかった。

 重苦しい沈黙に居心地悪さを感じてポケットに手を突っ込む。
 くしゃくしゃの紙くずが指にあたる。
 紙の感触で思い出す。いつだったかリョウの房に行く道すがら静流とすれ違ったとき、気まぐれに手渡された折鶴のことを。
 いまさらこんな物渡してどうなる?
 なにもかもすべて終わっちまった後になって。
 躊躇はあった。葛藤もあった。激しく首を振ってそれ全部かなぐり捨てた。慰めにはならない。励ましにもならない。
 でも。
 「サムライ」
 最大限の勇気を振り絞り声をかける。
 沈黙の重圧で口の中がからからに渇いていた。
 ごくりと生唾を呑んで喉を潤し、大股にサムライに歩み寄る。片手はポケットの中に突っ込んだままだ。
 レイジは何も言わずそれでいて何もかも見通したようなしたり顔。
 ヨンイルと安田は不審顔。
 サムライの前で立ち止まり、おもいきり威張って命じる。
 「手を出せ」
 サムライの当惑が伝わってくる。
 構うもんかと開き直り眼光を叩きつける。
 疑問を発するのも億劫らしくのろのろ緩慢な動作で手をさしだす。面と向かって初めて目が赤くなってることに気付いた。
 俺にはサムライの涙なんて想像もできなかった。
 この寡黙で不器用で誇り高い男が顔をくしゃくしゃにして号泣するとこなんか逆立ちしたって想像できなかった。

 ああ。
 サムライも泣けたんだな。

 ポケットからゆっくり手をぬきとる。
 くしゃくしゃに丸めた紙くずを手渡す。
 赤く泣き腫らした目で俺を一瞥、サムライがのろのろと紙くずを開き、丁寧に皺を伸ばす。流麗な筆跡に重ねて面影が浮上したか、表情に乏しい顔に驚愕の波紋が広がる。 
 「前に静流に渡されたんだ。俺にはさっぱり意味がわからなかったけどお前ならわかるだろ。なんだ、これ」
 サムライは微動せず手中の紙を凝視する。
 生前の筆跡を穴の開く程見つめ、極限まで張り詰めた糸が撓むようにため息を零す。
 「恋文だ」
 『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば しのぶることのよわりもぞする』 
 紙にはたった一行そう書かれていた。
 リョウの見舞いにもってく折鶴に託されたのは、自分の身にやがて訪れる破滅を予期した辞世の句。
 どこまでもどこまでも純粋な想い。
 サムライは暫く紙を抱いたまま押し黙っていた。
 サムライの内側に去来する様々な感情、サムライの胸裏に交錯する様々な感情。
 逝きし者への哀悼の念、慙愧、悔恨、自責。
 それら全部が混ざり合った苦悩の嵐が吹き去ったとき、サムライの目は光を取り戻していた。
 その目が真っ直ぐ映すのは、安田の腕の中で眠りこける鍵屋崎。
 サムライが鮮やかな手つきで紙を折り始める。
 あっというまに一羽の鶴ができあがる。
 折鶴を紺碧の天へと翳す。

 「逝け。身は地獄におちるとも想いは浄土へ還れ」
  
 折から一陣の風が吹く。
 風に乗じて鶴が飛び立つ。
 サムライの手から放たれた鶴は紙の翼を羽ばたかせ、どこまでどこまでも高みに昇り、夜闇に儚く溶け込んでやがて見えなくなった。
 
 俺たちは揃って馬鹿みたいに空を見上げた。
 風の鳴る音をかき消して無粋なエンジン音が聞こえてきた。
 「…………ん……………」
 エンジン音に眠りを妨げられて鍵屋崎が目覚める。
 青ざめた瞼が僅かに持ち上がり、焦点の合わない双眸が覗く。
 「起きたか直!」
 「直ちゃん俺がわかるか、直ちゃんの手塚トモダチのヨンイルやで!」
 歓喜の声を上げる安田とヨンイルをたっぷり見比べ、開口一番。
 
 「……………………………………………………めがねは?」  

 「「は?」」
 鍵屋崎が息も絶え絶えに呪詛を吐く。
 「静流に奪われた僕のめがねだ。まさか僕の救出にかまけて付属品たる眼鏡の救出を忘れたのではあるまいな?もしそうなら貴様らはなんて頭が悪いんだ、低脳が低脳たる真価を発揮した貴重な症例と結論付けざるえない。僕の視力は0.03で眼鏡なしでは何も見えないというのに肝心の眼鏡を忘れるなど言語道断、眼鏡に対する配慮がなってないぞこの愚か者ども!!」
 「ちょ、ま、鍵屋崎わかったから落ち着けってそんなに怒鳴ったら腹が破けて腸がべろりとはみ出ちまうよ!?」
 「腸がはみ出る位なんだというんだ、3ミリなら誤差修正可能な範囲だ!」
 慌てて止めに入った俺をきっと睨み付け、胸ぐら掴まんばかりの剣幕で檄を飛ばす。コイツ復活早々理不尽全開じゃんかと内心呆れた俺のそばでレイジがけたたましく笑い出す。
 「はははははっ、それでこそキーストアだ!切れ味鋭い毒舌こそお前の魅力だもんな」
 「貴様の笑い声は傷にひびく。安眠妨害および騒音条例違反で訴訟を起こしたい。控えめに言って声帯に異常があるとしか思えない。どうして笑い声までもそんなに音痴なんだ、貴様のその非常識な笑い声に比べればまだしもサムライの読経のほうが耳ざわりいいぞ」
 これ以上ないしかめ面で反論する鍵屋崎へと軽快に接近、レイジが全身の緊張をとくのがわかった。
 戦闘モードの豹が一変、牙と爪を引っ込めてじゃれあいを楽しむでかい図体の猫になった。

 鍵屋崎の顔をぎょっとするほど近くで覗き込み、極上の笑顔をたたえる。
 『Welcome to Tokyo Prison.
  Please enjoy days here』
 滑らかな発音でご挨拶。
 『As far as there are you.』
 鍵屋崎が皮肉げに口角を吊り上げる。

 エンジンの音がどんどん近く大きくなる。
 砂丘の向こうから急接近する二台のジープ……迎えのジープ。
 そして。
 
 「「な!?」」
 俺とサムライと安田とヨンイルが口を開けて見てる前で。
 尻軽レイジが鍵屋崎にキスしやがった。
 「レイジお前、おま……」
 二の句が継げない。
 怪我の痛みも吹っ飛ぶ仰天ぶりの鍵屋崎を愉快げに眺めて爆笑するレイジ、反省の素振りなどさっぱりない態度にヨンイルが激昂、シャーッと奇声を発してとび蹴りを放つ。
 「レイジお前なにしさらしとんじゃこのボケカスがっ、俺かて自制心総動員して我慢したのに直ちゃんの唇よこからかすめとりしくさって……もう勘弁できん、カメハメハで沈めたる!!」
 「いててててマジで怒んなってヨンイルほんの冗談親愛のキスだよ、今のキスなんて数のうちに入らねーよ!いいじゃんか別に唇じゃなけりゃ、頬っぺなら浮気のうちに入らねーよ、なあサムラ……」
 振り向きざまレイジの笑顔が固まる。
 「サムライ、ヨンイル、許す。東京プリズンの秩序維持の為にその男を砂漠に沈めろ。今なら先の事故で死亡した事にして処理できる」
 鍵屋崎を抱いた安田の腕がわななき、眼鏡の奥の双眸が憤怒に燃え上がる。
 「御意」
 サムライの目は本気だ。
 安田の命令で殺意を剥き出したヨンイルとサムライにじりじりと追い詰められて、自業自得の窮地に嵌まり込んだレイジが半笑いでこちらに助けを仰ぐ。
 「おいおいロンこの大人げない連中にガツンと言ってくれよ。洒落がわかんないんだよなーコイツら。頬へのキスなんて挨拶代わりだってのに頭固いのなんのって……眠ってるキーストア引ん剥いたわけでもねえのにマジギレなんてどんだけ沸点低いんだよ、怒るんなら舌入れてからにしろっての……」
 「レイジ」
 頭に上った血がすっと下りてくる。
 俺は表面上はあくまでにこやかなまま―口角はひくついて目には本気の怒りが宿っていても―
 万国共通のジェスチャーで親切丁寧に地獄をさしてやった。
 『煩死人』
 いっぺん死んでこい。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050424184138 | 編集

 貢さんへ。
 あなたに手紙を書くのはこれが初めてです。
 改めて筆をとるとなんだか気恥ずかしいです。
 無知で無学な故に見苦しい所が多々あるかと存じ上げますが何卒ご容赦を。

 この手紙をあなたが読む頃おそらく私はこの世にいません。
 この手紙をしたためたのはあなたを苦しめるためじゃない、この期におよんでどうしても捨て切れぬ想いを手紙に閉じ込めておいていこうとしただけ。
 どうか嘆かないで、苦しまないで、哀しまないで。
 勝手なお願いだと承知しています。
 私は身勝手な女です。
 どうか呪ってください、憎んでください、恨んでください。
 あなたに罵倒されるなら本望です。
 未練がましい女とお想いですか?
 己が命と引き換えてあなたの執着を繋ぎ止めようとする不憫な女だとお思いですか?
 ……ちがう。
 つらつらとこんな事が書きたかったんじゃない、この世を呪う怨嗟の声を吐き出したかったんじゃない。
 ごめんなさい、不快にさせて。
 ごめんなさい、他に書くべきことがあるはずなのに。
 私自身なにをどう書き出したらいいかわからないんです。
 心の整理がつかないんです。
 嗚呼、なんでこんな事に。どうしてこんな事に。
 あなたを苦しめるために手紙をしたためたんじゃないと前置きしながら未練がましい繰言ばかり。盲いた目でも筆が乱れているのがわかります、手がたえず震えているのがわかります。本当はこんな事書きたくない、私の身に起きた事を綴りたくない。この手紙は今すぐ破り捨てるか焼き捨てるのが賢明だと頭の片隅で囁き声がします。

 今更我が身の不幸を嘆いて何になるの?
 全部終わってしまったというのに。

 いえ、違います。
 私自身の手で終わらせなければいけないのです。
 私は罪を犯した。決して許されぬ罪を。
 過ちではないと信じたい。
 過ちだとは私自身思っていない。
 貢さん、あなたと肌を重ねた行為を後悔した事は一度だってありません。
 どうか信じてください。
 私は貴方の腕の中で安心を得た、愛されている実感を得た。
 幸せだった。
 幸せだったのです、本当に。
 私なんかには勿体無いくて有難くて涙が出そうな位。
 私はもともと莞爾さんの情けで離れに住まわせてもらっている身寄りのない女、天涯孤独の身の上、卑しい使用人ふぜい。莞爾さんが私と貢さんの仲を禁じたのも当たり前です。次期当主と目される本家の跡取りが一介の使用人と恋仲になったとあっては元禄年間から続く帯刀家の名に傷が付くと案じたのです。
 莞爾さんはひどく体面を重んじる方でした。
 私とあなたの関係が表沙汰になったとあっては家の恥と、面と向かって罵られた事も一度や二度ではありません。
 莞爾さんには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 身寄りを亡くした私に幼い頃からよくしてくださったのに、恩を仇でかえすような振る舞いをしてしまいました。
 けれどもあなたを好きになってしまった。
 ひとりの女として好きになってしまった。
 貢さんを好きな気持ちは偽れない。
 たとえそれが当主への忘恩に値するとしても恋情を慎むことができなかった。……はしたない女です。莞爾さんの怒りを買うとわかっていながら、その怒りがあなたに向くとわかっていながら身を引く事ができなかった。
 そしてとうとう後戻りできないところに来てしまった。
 自業自得です。
 悪いのは私。
 恥と意地をかなぐり捨ててもあなたに縋り付こうとした私。
 ……支離滅裂な文章だわ。
 何が言いたいのかしら私。
 自分でもよくわからない。
 ひょっとして頭がおかしくなってるのかしら。
 だってこんなに手が震えて字がのたくっている……みっともないったら。目が見えなくてもわかります。指でゆっくり字を辿ってみれば自分の字がどんなにか見苦しく歪んでいるかすぐわかります。
 せっかく貴方に教えてもらった字なのに上手く書けなくて悔しい。
 拙い字の綴りで気持ちを伝えるしかない己がひどく歯がゆい。
 貢さんにはせめて私の字を覚えていてほしい。
 歳月を経て私の面影が薄れても、せめて私が綴った字だけは記憶にとどめていてほしかった。
 綺麗な字を書きたい。
 できるだけ丁寧に書くつもりです。残された時間を使って。
 一字ずつ心をこめて。
  
 あなたが手紙を読む頃私はすでにこの世にいません。
 首に縄をかけて己の息の根を絶つつもりです。
 あなたは当然理由を知りたがる。
 貢さんは知らない事を知らないままにしておくことができない人だから、白と黒をきっちりつけたがる人だから、私の死の真相を暴こうと奔走するでしょう。
 そして遅からず真相に辿り着く。
 私がどれだけやめてと懇願したところで決してやめないでしょう。
 ならいっそ、死ぬ前に真相を綴るべきと筆をとりました。
 本当はこんな事書きたくない。
 今すぐ筆を捨てて紙を破り捨てたい衝動に駆られて気が狂いそうです。こんな恥ずかしい、おぞましい、おそろしい……嗚呼。あなたにだけは知られたくない。あなたに知られるのが怖い。
 できることなら永遠に胸に秘めて逝ってしまいたい。
 その半面、私の身に起きた事を知ってほしい気持ちもある。
 だれでもいいから話を聞いて、だれでもいいから助けて。
 ひとりで耐え続けるのはもう限界、胸に秘め続けるのは限界。
 心が悲鳴を上げます。
 怖くて怖くて震えがとまらない。
 助けにきて、だれか、だれか……

 みつぐさん。

 私の手をとって無明の暗闇から救い出して。
 どうかこの手を握って欲しい、二度と離れぬようしっかり握って欲しい、ひとりじゃないと安心させてほしい、ひとりで苦しまなくていいと言ってほしい、守ってくれると約束してほしい。
 ……駄目。
 やっぱり駄目。縋っては駄目、縛っては駄目、巻き込んでは駄目。
 貢さんは優しい人だから縋れば必ずこたえてくれる。でも。

 ………この手紙が日の目にふれることはないと信じて続けます。

 私が首を吊る理由の一つは、道場の門下生に犯されたからです。
 全部で十一人いました。
 とある親切な方から不吉な噂を教えられたのです、道場の門下生が結託してあなたを襲おうとしていると。
 必死に走りました。息を切らして走りました。
 貢さんは寡黙を美徳する人だから色々と誤解されやすいのは承知の上、しかし大勢で一人を囲むなど卑劣なまねは許せない。
 私は彼らを止めにいきました。
 どうか仕返しを思いとどまってくれと懇願しました。
 彼らは聞く耳を持ちませんでした。
 私はそれでも必死に縋り付きました。
 押し問答がはじまりました。いつしか揉み合いになりました。目が見えない私は着物の胸元がはしたなく肌蹴たのも知らず「なんでもするから貢さんを助けて」と激情に任せて口走りました。
 なんでもするから、と。
 そのとおりになりました。
 ……その後のことは正直語りたくありません。
 ただただ怖かった。おそろしかった。
 目が見えないことが今だかつてあんなにおそろしかったためしはない。子供の頃から慣れ親しんだ暗闇があんなに得体の知れなかったためしはない。

 怖かった。
 どこをさわられるかわからなくて、
 どこをまさぐられるかわからなくて、
 どこを揉みしだかれるかわからなくて、
 どこに指を入れられるかわらなくて、
 どこを貫かれるかわからなくて、

 助けて助けてと狂ったようにかぶりを振った、頑是無い幼子の如く泣き叫んだ。かわるがわる犯されながらあなたの名を呼んだ。ずっと笑い声を聞いていた……下劣な笑い声を。逃げようとした。何度も何度もがむしゃらに身を翻した、道場の床を這いずって光のほうをめざした。けれどもすぐに引き戻された。着物の裾をひきちぎられて胸元を鷲掴まれて背中にのしかかられて

 『めくらはめくららしく芋虫みてえに丸まってんのがお似合いだ』
 『貢のお古は癪だが我慢してやる』
 『知ってるか?アイツには分家との縁談が持ち上がってるんだとよ。可哀想に、捨てられたんだなお前』
 『貢に遊ばれて捨てられた可哀想なめくらをたっぷりと可愛がってやるよ』

 乳房を乱暴に手掴みされた。痛かった。かわるがわる乗られた。足を無造作に押し開かれて一気に貫かれた。
 痛くて痛くて自然と涙が流れた。
 自分の意志では止められなかった。
 嫌々と首を振った。
 聞いて貰えなかった。
 抵抗すればするほど宴に興を添えた。
 はやく終わって欲しい一刻もはやく終わって欲しい済んでほしいとそればかりでしまいには涙も枯れ果てて体の奥深くを突く熱の塊に痛みすら麻痺して目と同じく虚ろな心に何も感じなくなった。
 何も。
 絶望だけがあとに残った。
   
 でも、それだけじゃない。
 それだけじゃないのよ。
 
 先を続けるのをためらう。
 ここでやめてしまいたい欲求が筆をとめる。
 嫌だ。こんなおぞましいこと書きたくない、暴き立てたくない。何も知らないあなたに真相を明かしてどうするの?あとに残るのは底知れぬ絶望だけ、決して這い上がれぬ暗闇だけ。私がいる場所と同じ暗闇に引きずり込む事になるとわかっていながら先を続ける意味が見つからない。
 でも、苦しいの。
 苦しいのよ。
 せめてこうして手紙に吐き出さなければ苦しくて苦しくて、胸に沈んだ秘密の錘が苦しくて息もできず深みに嵌まって、どんなにもがいても浮かび上がる事ができなくなりそうでとても恐ろしい。
 許してください、貢さん。
 私がこれから言う事を。
 罪深い恋心を。

 私たちは姉弟なの。
 血の繋がった実の姉弟なの。
  
 私の母親は莞爾さんの妾だった。
 莞爾さんは実の父、あなたは腹違いの弟。
 ……真実を知ったのはごく最近。
 とても驚いたわ。
 容易に信じられなかった。
 でもそれで納得がいったの、莞爾さんが私と貢さんの仲に反対した本当の理由が。本家の跡取りと使用人が恋仲になる事を単純に不愉快に感じたんじゃない、莞爾さんの反対にはもっと切実な理由があったのよ。
 どうか莞爾さんを恨まないで。
 たったふたりきりの親子なのだから。
 私の父でもあるのだから。
 莞爾さんは貴方を心配していた、腹違いの姉弟が愛し合うのを容認しがたかった。だから分家との縁談を持ち上げてまで私たちを引き裂こうとした。莞爾さんは必死だった。あなたが人の道を踏み誤らず正しく生きてくれるよう真摯に祈り真剣に悩んでいた。
 
 貢さん。
 子供の頃はあなたを実の弟のように思っていた。
 いつからか淡い恋心に変わった。
 自覚した途端激しい愛情に変わった。
 あなたを守ってあげたかった。ずっと一緒にいたかった。あなたの伴侶として共に添い遂げたかった。たとえまわりの人たちに祝福されなくてもあなたとなら幸せになれると夢見て疑わなかった。いつかは子供が欲しかった。私たち二人とも早くに母を亡くし父親の愛情を得られず育った、その分自分の子供には愛情を注ごうと心に決めていた。

 あなたと家族になりたかった。
 
 あなたへの恋心には今でも変わりない、あなたを愛する気持ちはゆるぎない。
 許されるならずっとあなたのそばにいたかった、あなたの伴侶として終生添い遂げたかった。  
 けれど、許されない。
 実の姉弟で情を通じ肌を重ねた罪深さは耐え難い。
 貢さん、あなたもご存知のはず。
 古く澱んだ帯刀の血をこれ以上濃く澱ませるわけにはいかない、これ以上業を深めるわけにはいかない。
 私たちの子供はきっと幸せになれない。
 生まれながらに業を孕み、帯刀家に縛り付けられて生きていくしかない。
 
 貢さん。
 ついに叶わなかった私の夢を聞いてくれますか。
 遠い将来、もし莞爾さんの許しを得てあなたと伴侶になれたらば、生まれた子供に付けたかった名前があるの。
 「咲」。
 「苗」の子が「咲」だなんておかしいですか?
 貢さんには笑われますね、きっと。
 それでももし二人のあいだに生まれた子が女の子ならば、満開の幸せを願って「咲」と名付けるつもりでした。
 実を言うと子供の頃から自分の名前がきらいでした。
 「苗」。
 地味な名前。なんだかなげやりな感じがする名前。
 薫流さんと静流さん、誰もがおもわず微笑みかけたくなる美しい兄弟の名前を密かに羨んでました。
 薫流と静流。
 生まれたときから幸せが約束されているような華やかな名前。
 二つの流れが一つになりて静かに薫る流れとなる、どこか宿命的な結び付きを感じる名前。
 二人の名前を噛み含むようにくりかえし、続き自分の名前を反芻し、自分だけが仲間はずれにされているような引け目を感じました。 
 「なえ」と自分の名を口の中でくりかえす度、お前はだれからも愛されてないんだぞと思い知らされるようでいやでした。
 自分の名前を好きになれたのは貢さんのおかげです。
 「いい名だ」と貢さんが褒めてくれたからです。
 私は貢さんに救われました。
 何度も、何度も。目が見えない私の目となり貢さんが尽くしてくれたおかげで不便もなく生きることができました。
 いくら感謝の言葉を尽くしても足りません。
 あなたの忠心と献身に報いるには私はあまりに何も持たず生きてきました。
 
 私は苗。
 とうとう咲かずに終わる苗。
 
 すべての苗が芽吹くとは限りません。
 満開に咲き誇るとは限りません。
 咲かずに終わる苗もたしかにあるのです。
 だれかを生かすために芽吹く前に摘まれる苗が、なにかを残すために間引かれる苗もあるのです。
 私は芽吹かない苗でした。
 あなたの隣で幸福に花開くことを夢見て、とうとう果たせずに終わりました。
 たとえ真実を知らなかったといえど実の姉弟で情を通じたのは事実、抱き合ったのは事実。
 私と情を通じたことが表沙汰になれば貢さんに累がおよびます。
 私と手に手をとりあって畜生道に堕ちるような男は次期当主にふさわしくないと一身に非難を浴びます。
 私は幼い頃からずっとあなたを見てきた。
 ある時は母のように姉のようにある時は恋人として、だれより近くであなたの事を見つめ続けた。見えない目で見つめ続けた。
 だからわかります。
 疲労困憊した荒い息遣い、苦しげな喘鳴、それでも挫けず木刀を振るい続ける風切る唸り、虚空に飛び散る大粒の汗、袖が翻る風圧。
 あなたがどれだけ無心に稽古に励み続けたか、文字通り粉骨砕身の努力で剣の腕を磨いたか、私は全部見てきました。
 私と情を通じたことであなたが貶められるのは耐えられない。
 あなたの努力までも無きに等しく扱われるのは耐え難い。 
 
 私はずっとあなたに守られてきた。
 今度は私が守る番です。
 自分の命に代えてあなたの名誉を守る番です。  
   
 貢さん、どうか身勝手をお許しください。
 私が死んだら泣いてくれますか。馬鹿な女だと罵りますか。どうしておいていったと縋ってくれますか。
 ごめんなさい。
 もうこうするしかないの。
 こののち私が生きていればいつか秘密を洩らしてしまう日がくる、錘の重さに耐え切れず口を割ってしまう日が必ずくる。
 それだけじゃない。
 命を断たねば私は諦めきれない、命尽きるまであなたを忘れられず未練を抱き続けるに決まってる、あなたと幸せになりたいと身の程知らずに求めてやまない。
 
 帯刀家が背負った業は私の代で断つ。
 二人で心中するくらいならいっそ私ひとりが間引かれたほうがましです。
    
 勝手なお願いと重々承知の上で言わせて貰います。
 貢さんには幸せになってほしい。生き延びて幸せになってほしい、帯刀家から自由になってほしい。
 芽吹かない苗を嘆かないで。
 いつまでも暗く冷たい土の中に心を残さないで。
 暗く冷たい土の中はあなたの居場所じゃない。
 帯刀家だけがあなたの居場所じゃない。
 あなたの居場所はあなたを愛する人の隣以外にありえない。
 貢さんはこの先何があっても生き続けなくてはだめ、しぶとくしたたかに生き続けなくてはだめ。
 どうか心して聞いてください。
 恋人として最後の、姉として最初の願いです。
 この先あなたを好きになってくれる人が必ず現れる。
 貢さんはとても優しい人だから、だれより一途で高潔な人だから、その優しさと高潔さを好いてくれる人がきっと現れる。
 あなたの脆さ弱さまでもまるごと包み込んで愛してくれる人がきっといる。
 あなたを愛するひとは帯刀家の人間であってはいけない。
 あなたを幸せにできるひとは、血の因果を外れたところにしかいない。
 
 恋人としてあなたを愛した私も結局は血に縛れて死んでいく。
 あなたには同じ道を辿ってほしくない。
 帯刀家とは関係ない所で幸せになってほしい。
 宿命に呪縛されない幸せを掴んでほしい。
 
 ………ごめんなさい、勝手なことばかり言って。
 呪ってくださって結構です。
 恨んでくださって結構です。
 でも貢さん、どうかこれだけは心にとめておいて。
 私はあなたが好きです。真実気も狂いそうなほど……死ぬほどに。
 あなたと幸せをもとめた気持ちに嘘はない。
 あなたの子供が欲しかった気持ちに嘘はない。
 私は芽吹かない苗。暗く冷たい帯刀家の中で死んでいくしかない。
 私は目吹かない苗。あなたは私の目の代わりとなってくれた。
 大好きです、貢さん。
 あなたは私のひかりでした。
 目が見えない私でもあなただけは見える気がした。
 ちょうど目を閉じても顔にあたる光だけはわかるように、些細な息遣いや衣擦れの音やおずおずとふれる手であなたを感じる事ができた。 
 けれど私は光を与えられるばかりで、あなたの光にはなれなかった。
 目が見えない私はこの先帯刀家を出ることができない。
 もし私がいることであなたまでも暗く冷たい帯刀家に閉じこもってしまうなら……
 
 貢さん、逃げて。
 どうか命尽きるまで帯刀家から逃げてください、逃げ続けてください。
 悟ったふりで死を待つよりも必死に逃げ続けたほうが余程いい、私は貢さんにそうしてほしい。
 
 帯刀家の外にこそあなたを愛してくれる人がいるはずだから、
 あなたを抱きしめて守ってくれる人がいるはずだから、
 今度こそ本当の光をつかめるはずだから。

 その人はあなたを抱きしめこう言ってくれる。
 あなたの背中に腕をまわし、あなたを優しく抱擁して。
 私がとうとう与えられなかったものを、あなたに与えてくれる。
 血と血で結ばれた肉親の愛ではなく、想いと想いで結ばれた本当の愛を。
 一方的に生かされる献身ではなく互いに寄りかかる依存ではなく、相思相愛の安らぎを。
 『自分はあなたを生かし生かされている』と。
 
 幸せになってね、貢さん。
 私と咲の分まで咲き誇って頂戴。
 いつかふたりで見た桜のように満開の花を降らして頂戴。

 この手紙は私の部屋の文机の下、和紙を貼った箱にしまっておきます。
 あなたが見ずに終わるならそれがいい。
 世の中には知らないほうがいいことも沢山ある。
 それでも書かずにいられなかったのは死ぬ前に心の澱を吐き出したかった私の我侭です。
 
 最後に、いつかあなたが出会う人に一言。
 貢さんを――弟をくれぐれもお願い致します。
 どうか私と同じかそれ以上に弟を愛してください。
 莞爾の長女にして貢の姉、一族の末席に連なる帯刀苗が切にお願い申し上げます。

 貢さん。
 桜の木の下で咲を抱いてあなたを見守っています。
 しずごころなく花散る春の日は私たちの事を思い出してね。

 幸せにならなかったら承知しませんよ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050423141539 | 編集

 暗闇で何かが割れ砕ける。
 音源は廃工場の奥、暗闇に溶け込むように存在する二十人前後の少年たち。
 場の中心は一人掛けのソファーに座る人物。
 スプリングの壊れたソファーの座り心地はお世辞にも良いとは言えないが、似たり寄ったりの年恰好の集団の中で唯一人特等席に腰掛ける少年は、斬新なコートに包んだ全身から崩れた雰囲気を漂わせている。
 胡乱な半眼の奥、飢えに似た渇望に苛まれて貪欲な光に濡れた目。
 肉の薄い鼻梁と華奢に尖った顎、細く剃った眉が似合う小作りな容貌をそこはかとなく異形めかすのは本来人にはありえないオッドアイ。
 右目が銀、左目が金。
 両方の目に嵌めたカラーコンタクト。
 もう少し表情豊かならばさぞかし女受けがいいだろうと惜しまれる容姿の持ち主だった。
 少年は致命的に表情を欠いたまま、円滑な動作で足元のビール瓶を握る。
 手にした瓶の重みを確かめるように手首に捻りを利かせて軽く振る。
 体の奥底から突き上げる衝動に任せて腕を振りかぶる。
 鞭のように腕が撓り、一直線の軌道で瓶が飛来する……
 「きゃあっ!」
 悲鳴があがる。
 壁際の女が頭を抱え込む。
 その顔の横にビール瓶が激突、木っ端微塵に砕ける。
 宙に飛び散った破片が頬の薄皮を裂き、すっぱり鋭利な傷口から一筋血が流れる。
 血が滲んだ傷口を庇いもせず虚脱しきった様子の女、物問いたげな表情が哀しみに覆われていく。
 どうして?
 目の奥底から浮上する純粋な疑問。
 「対不起……許して、道了」
 女は下腹部を抱いて震えている。
 自己防衛の本能か腰砕けに座り込みたい誘惑と必死に戦っているのかはわからない。目にはしっとりと涙の膜がかかっている。破片ですっぱり切れた頬から血が滴り落ちる。キャミソールの紐がしどけなく肩からずりおちて乳房の膨らみが覗く。しかし女は紐をあげようともせず、睫毛の淵で潤んだ目に一途な哀願の色を浮かべている。
 「気にさわったなら謝る。ただあなたが心配だったのよ。お酒の飲みすぎは体に悪いからそれ以上はやめてってお願い……」
 胸の前でひしと手を組んだ女が言い募るのを遮り、二本目の空き瓶が飛ぶ。
 「ひっ!」
 反射的に女が首を竦める。
 二本目の酒瓶は女の頭すれすれを掠めた。
 直撃すれば脳挫傷は避けがたい。一人掛けのソファーに怠惰に沈み込んだ少年は、何の感慨も無い空洞の目に女を映している。致命的な無表情。感情を欠損した顔。わざと狙いを外してやったのだと言わんばかりにふてぶてしく開き直った態度。
 「道了……」
 震える唇から零れ出る哀願、報われない懇願。
 不規則な呼吸音に紛れて呼ばれた名にも無反応を決め込み、至って無造作に、それでいて的確に三本目を投擲。
 正確無比なコントロール、完璧なフォーム。背凭れから僅かに身を乗り出す前傾姿勢をとり、鋭い呼気に乗せて腕を振り被る。道了の手を放れた酒瓶は女の遥か頭上で割れ砕け、大小無数の破片を降らす。
 「惜しい、はずれだ」
 「道了、ちゃんとど真ん中を狙えよ」
 「安心しろよ梅花ちゃん、折れた歯はちゃんと拾ってやっからさ。鼻がひん曲がったくらいで嘆き哀しむこたぁねえさ、整形の口実できてかえって万々歳だろが」
 「どうせなら一本残らず歯あ引っこ抜いちまえよ、フェラがやりやすくなるぜ。尺八の達人になりゃわんさか客が押し寄せるぜ」
 「俺たちがかわるがわる突っ込んでやるよ」
 「そん時は奥までずっぽりしゃぶってくれよ」
 廃工場の最奥、最も闇が濃く澱んだ場所で哄笑が弾ける。
 女のまわりに散らばった少年たちが一斉に笑い出す。
 下品な嘲笑と野卑な口笛が飛び交う中、壁際に佇んだ女は両手で顔を覆って泣き崩れる。哀切な嗚咽が零れる。
 激しく泣きじゃくる女のまわりに群れ集まる少年たち、弱者をいたぶることに快感を見出した醜悪な笑顔。中のひとりが梅花を小突く。肩を小突かれて梅花がよろめく。中のひとりが梅花の髪を引っ張る。女の命とも呼ばれる髪に触れられた不快感に梅花が身をよじる。
 嬲り者。慰み者。恋人公認の。
 「道了、正気に戻って。こんなのやめさせてよ」
 梅花が抗議の声を上げる。
 滂沱の涙で溶け流れた化粧の下に大小の青痣が見え隠れする。
 酒乱の恋人に暴行されて痣だらけになった素顔。
 しかし道了は退廃的に足を組んだまま、恋人の悲痛な訴えにも心動かさず四本目の瓶を弄んでいる。
 梅花の表情が失望を通り越した絶望に凍りつく。
 梅花の恐怖を煽るようにひどくゆっくりと瓶を掲げる。
 肘掛けに置いた肘を起こし、予備動作で手首を伸ばす。
 壁に背中を付けて漸く起き上がった梅花が惰性で首を振る。
 己の無力を痛感し諦念に覆われた表情、力の抜けきった弱々しい動作。壁に背中を凭せて何とか立ち上がった女が下腹部を守る。
 無意識な動作で下腹部を抱く女を一瞥、オッドアイを細める。
 「『漏らした』のか、梅花」
 意地悪く口角を吊り上げる。梅花の表情が強張る。
 スカートから突き出た下肢がかすかに痙攣する。失禁の兆候。
 破裂寸前の尿意を堪えてけなげに立ち上がった梅花は、いじらしく下腹部を抱き、内腿を性急に擦り合わせている。
 羞恥に頬を染め、涙ぐんで道了を睨む。
 「悪い、まだか。今まさに『漏らしそう』なのか」
 人を食った口ぶりで追い討ちをかける。
 取り巻き連中が追従して笑う。
 梅花は下唇を噛んで耐える。
 「いいぜ、漏らせよ。躾けのなってねえ雌犬らしく床に小便撒き散らしちまえ。その代わり後始末は自分でやれよ。床に漏らした小便は一滴残らず這いつくばって啜らせるからな。いや、待て。気が変わった。俺の可愛い子分どもに雌犬の下の始末を手伝わせてやるよ。ぐしょ濡れの下着を脱がして股ぐらに口付けて陰唇啜ってやる。どうした梅花その顔は、風邪でもひいたか?処女でもねえくせに顔真っ赤にして恥ずかしがるふりすんじゃねえ。そうやって男の気を引こうって魂胆か?図々しいビッチめ。言いたことがあんならはっきり言え」
 息継ぎもせず捲くし立てた道了を睨み、梅花が何度も深呼吸する。
 そして。
 さんざん躊躇った末に、今にも消え入りそうな小声を搾り出す。
 「………トイレに行かせて………」
 戦々恐々と道了の顔色を窺う。
 上目遣いに道了を探り見て、緊張に乾いた唇を舐める。
 唇が剥け、鉄錆びた血の味が舌の上に溶ける。
 「もう一度」
 魔性めいた金銀の目を光らせ、道了が冷徹に命じる。
 恋人の機嫌を損ねたらさらにむごい折檻が待ち受けている。
 究極の選択を迫られた梅花は、取り巻き連中にも聞こえる大声を張り上げる。
 「トイレに行かせてください」
 恥も外聞もかなぐり捨て叫ぶように懇願する。
 焦燥に駆り立てられた梅花を取り巻き連中がさんざん笑いのめす。
 死ぬほど恥ずかしい思いを味わって面を伏せた梅花、その両足は絶えず震えている。性急な貧乏揺すり。小刻みな振動で尿意を紛らわそうという苦肉の試み。
 大儀そうにソファーから腰を上げた道了の手にビール瓶が垂れ下がる。
 頭に命中すればひとたまりもない。
 床一面に脳漿をぶちまけて絶命する末路を予期し、少しでも距離をとろうと壁に密着する梅花。
 間延びした喘鳴、呼吸に合わせて上下する胸郭。
 喘息の発作でも起こしたみたいに呼吸が引き延ばされる。
 内腿の摩擦が激しくなる。尿意は限界に来ている。これ以上はとても保たない。ちょっとした刺激でもイってしまいそうだ。
 羞恥、恐怖、哀しみ、怒り……それらを混沌と煮詰めた最低の気分。たまらなくみじめな気分。
 「道了、助けて、殺さないで!!」
 半ば無駄だとわかっていながら最後の抵抗をする。
 しかし梅花の叫びを無視し、道了はひどくゆっくりと片腕を振り上げる。余裕をもった動作。取り巻き連中に見せつけるように。取り巻き連中が緊迫の面持ちで見守る中、梅花の延長線上に立ち塞がった道了が無防備に天を仰ぐ。

 「あぁああああああああああああぁああああああああっ!!!」

 脳天から甲高い奇声を発する。
 梅花は来たるべき衝撃を予期しきつく目を瞑る。風圧が前髪を捲る。耳元で轟音、鼓膜が麻痺。鋭利な痛みを肌に感じる。
 木っ端微塵になった瓶の破片が四肢に刺さる痛み……
 「ひあああっ……」
 官能の喘ぎにも似た苦痛の呻きが漏れる。
 スカートから突き出た下肢が今にも屑折れそうにがくがく震える。
 下腹部を抱え込んでしゃがみこんだ梅花、あられもなく捲れ上がったスカートから剥き出された太股、内腿から踝にかけてを伝う尿……
 膝が挫けた梅花の下に湯気だつ水溜りができる。
 「大勢の男に見られて興奮したのか、売女」
 口汚く唾棄し、投擲の姿勢からゆっくり上体を起こす。 
 「どうせお前の事だ、スカートの下じゃだらしなく股ぐら濡らしてたんだろが。大勢のガキに視姦されて興奮してたんだろ?だらしなく緩んだ股ぐらにビール瓶の一本二本突っ込んで欲しいってねだってたんだろ?俺らに輪姦される妄想膨らまして子宮疼かせたくせに被害者ぶってんじゃねえよ」
 道了が大股に歩み寄り、梅花の髪を鷲掴む。
 梅花が悲鳴を上げるのを無視、力任せに髪を掴んで振り回す。
 「俺にでかい口叩くなよ、股ぐらおっぴろげて誰彼構わず男を咥え込むド淫乱の売女の分際で」
 「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの、ただあなたの体が心配でそれで……」
 「脱げよ」
 「え?」
 涙の跡も生々しい放心の表情で梅花が問い返す。
 梅花の額を突き放し、わざとらしくスカートの端を摘む。
 「後始末だよ。いつまで小便くさい下着はいてるつもりなんだ?今この場で下着を脱いで床を拭けよ」
 梅花が嫌々と首を振る。いくら道了の命令でもそれだけは出来ないと頑なに。道了は一切取り合わず、布地をひったくろうとする手を邪険に払いスカートをなめらかに巻き上げていく。
 華奢な膝が現れる。
 青痣だらけの太股が引ん剥かれる。
 ついで股間を包む薄地の下着…… 
 「大勢が見てるところじゃいや、こんな所で……」
 「勘違いすんなよ。床を拭けって言ってんだ、俺は。ひとりでできねえなら手伝ってやるよ」
 声音だけは奇妙に優しく道了が宥める。
 梅花が反射的に膝を閉じようとするのを遮り、力任せにこじ開ける。自分を拒んだ罰を与えるように強引に押し開き、ぐっしょり濡れた股間をたっぷり凝視する。尿を吸収して股間にへばりついた下着から縮れた陰毛が透けている。
 「いや、いや、いや!こんな大勢が見てる前は嫌、やめてっ……」
 狂ったように身をよじる梅花を押さえ込み、下着の内側に手を入れ、陰毛の湿った性器をまさぐる。 
 「ヤッちまえ道了!」
 「あとで俺たちに分けてくれよ」
 「俺たちとも遊んでくれよ、梅花ちゃん」
 「もう辛抱たまんねえよ……」
 獣じみて荒い息遣い、生唾を嚥下する音、異様な興奮と熱気。
 「あっ、あふっ、ふあ……ぁ」
 けだものの交尾じみた愛撫に身悶える梅花の痴態に欲情したか、取り巻き連中が自然と股間に手を持っていく。
 中のひとりが張ち切れんばかりに膨らんだ股間に手のひらを被せる。中のひとりがズボンに手を突っ込み荒々しくしごきだす。
 梅花は髪を振り乱し半狂乱で泣き叫ぶ、大勢が見てる前で恋人に犯されるのだけは嫌だと丸めた下着を足首にひっかけて悩ましく身悶える。
 破片が一面に散らばった床に梅花を押し倒し腹這いにのしかかる、その顔に朱線が走る。
 無表情に梅花を見下ろす。
 爪で引っかかれたのだと気付いた瞬間、道了は逆上した。
 「鼻をへし折られるのはこれで何度目だ?」
 爪で抉られた頬がひりひりする。
 手探りで酒瓶を掴む。
 突き上げる憤怒のままに腕を振り上げる。
 梅花が声にならない叫びを上げる。
 恐怖と絶望に歪んだ形相が愉快で愉快でたまらない。
 取り巻き連中が息を呑む気配が伝わる。
 構うものかと開き直る。全体重をかけて馬乗りになる。
 暴力の愉悦に酔った笑み。
 「シリコン入れとけよ」
 梅花の顔面めがけ酒瓶を叩き込む。
 顔面がひしゃげ鼻がへし折れ顎が砕けるあの手ごたえはとうとう伝わってこなかった。梅花の顔に酒瓶を叩き込む寸前、人垣をぶち破って転がり出た小柄な少年が瞬殺の蹴りを放ったのだ。
 酒瓶が木っ端微塵に砕け散る。
 その場に居合わせた全員が闖入者に向き直る。
 「………なにやってんだよ」
 癖の強い黒髪の少年が周囲に睨みを利かせている。
 怒りが滾った目つきには他を圧倒する迫力がある。
 凄味を含んだ表情、小柄な体から発散される怒気。
 少年は猛烈に怒り狂っていた。興奮に息を荒げて半歩ずつ立ち位置を移動、半裸の梅花を背中に隠す。
 両手を広げて下半身を剥かれた梅花を守り、少年が怒号する。
 「お前ら一体なにやってんだよ、女ひとりに寄ってたかって……最低の屑どもが!!」
 怒りのあまり舌が回らず悪態が続かない。
 次に少年がとった行動に誰もが面食らう。
 梅花に跨ったままの道了の胸ぐらを掴むや床に張り倒すも、怒りに任せて振り上げた拳は取り巻き連中によって封じられ、少年自身もまた手荒く押さえ込まれてしまう。
 「放せよくそっ、くそ……俺がちょっと出かけてたあいだにお前らなにしてんだよ畜生、こんなのってありかよ、今度という今度こそ許せねえ、勘弁できねーよ!!道了、梅花はお前の女じゃねえのかよ!?なんでこんな酷い扱いできんだよ、大勢が見てる前で下半身ひん剥いてこんなっ……信じられねえよ畜生、それが恋人のすることかよ、梅花はただお前の事心配してるだけなのにこんな仕打ちアリかよ最低最悪のゴキブリ野郎!!!」
 激情に駆られて罵倒するも道了は表情ひとつ変えない。
 梅花は泣いている。剥き出しの肩を庇って慟哭する。
 肩を抱いて泣き暮れる梅花とその傍らの道了を見比べて咆哮する、おのれの拳が届かない悔しさに激昂する。  
 「うるせーぞこいつ、血の汚れた半々の癖にいい気になりやがって!」
 「お情けで仲間にいれてやってるってのにボスに手ぇ上げるなんざとんでもねえ野郎だ」
 「中国人は薄情で恩知らずって本当だな」
 「構うこたあねえ、手足の一・二本へし折って路上に放り出してやれ」
 「さかりのついた野良犬に可愛いケツ貸してやれよ」 
 取り巻き連中が口々に罵倒して少年を小突き回す。
 手足を押さえ込まれた少年はされるがまま屈辱と痛みに耐える。スニーカーのつま先が鳩尾にめりこむ。少年が跳ねる。肩口に狙いをつけて蹴られる。少年が身を丸める。さんざん殴られ蹴られ唾を吐かれボロ屑と化した少年がやがて動かなくなる。
 「ロン」
 女々しく啜り泣く梅花を残し、道了が歩き出す。
 床に伸びた少年の傍らに片膝つき、前髪を掴んで顔を覗き込む。
 「お前、梅花とできてるのか?」
 痛々しく腫れ上がった瞼がゆっくり持ち上がる。
 切れた唇が歪む。
 反抗的な光を宿した目が道了を捉える。
 「まさかな。お前にそんな甲斐性ないな。梅花にだって好みはあるよな」
 淡々と続ければ取り巻き連中が大いに笑い転げる。
 互いの肩を叩き合い爆笑する取り巻きをよそに、道了はうっそりと口を開く。
 「梅花に惚れてんのか」
 「女の顔に傷を付ける最低野郎が許せねえだけだ」
 愉快この上ない返答に嗜虐的に目を細める。
 ロンと呼ばれた少年が床に肘を付き起き上がる。
 唇の端には血がこびりついている。目は片方塞がっている。
 それでも泣き言ひとつ言わず起き上がったロンの前髪から名残惜しく指を放し、試すように囁く。
 「……お前が身代わりになるなら梅花は許してやってもいいぜ」
 梅花がびくりとする。
 「瓶投げの的になれってのか?いいさ、乗ってやるよ」
 ロンが虚勢を張る。
 だらりと垂れ下がった片腕を庇うようにして立ち上がる。
 梅花が何か言いたげに唇を開き、ロンの目配せでまた閉じる。一同が見守る中、覚束ない足取りで壁際に行き着いたロンが覚悟の面持ちできっかり前を見据える。
 「びびって目え瞑るんじゃねえぞ、半々」
 「アソコが縮み上がって小便もらしちまうんじゃねえか」
 「道了、ど真ん中に当てろよ。クソ生意気なツラを潰してやれ」
 「お情けで仲間に入れてやったのに俺らに歯向かう恩知らずの半々なんざ殺しちまえ」
 『殺!殺!』
 『殺!殺!』
 『殺!殺!』
 殺せ殺せと台湾語の大合唱に後押しされて道了が酒瓶を握る。
 壁際のロンは真っ直ぐこちらを見返している。
 反抗的な目。決して媚びない野良猫の目。
 生傷だらけの顔を厳しく引き締めて道了の目の奥を突き刺すように見ている。
 「投げてみろよ」
 ロンが不敵に微笑む。
 本心は怖くて怖くてたまらない、今にも腰が抜けて座り込んでしまいそうだと腰だめに構えた拳がそう言っている。
 殺せ殺せの大合唱が不可視の重圧となり押し寄せる。
 鉄骨組みの天井にはよく声が反響する。
 壁を背に突っ立ったロンは死の大合唱に屈することなくふてぶてしく笑っている。
 お前の弱味を掴んだとでもいうふうに、
 お前の怯えを見抜いたとでもいうふうに。
 「!!―っ、」

 馬鹿な。
 俺がくそったれ半々にびびるようなことがあってたまるか。

 猛然と酒瓶を投げる。
 歓声が爆発する。
 宙高く舞った酒瓶が急激に落下、硝子の砕ける音が爆ぜる。
 一同息を呑む。道了が渾身の力で投擲した酒瓶はロンの顔の横を穿って木っ端微塵に砕け散った。
 宙に飛び散った破片が頬を裂く。
 ロンの頬に一筋血が滲む。
 頬の傷口から流れる血を親指でひとすくい、意地汚く舐めとる。
 鉄錆びた血の味に顔をしかめ、嘲りを含んだ表情で道了を見上げる。
 「酒乱の台湾人が行き場をなくした半々を哀れんでくれたってわけか?謝謝」
 挑発。
 我を忘れて近くにあった缶ビールを握りしめる。
 まだ栓を開けてない缶ビール。
 道了が奇声とともにぶん投げた缶ビールは凄まじい威力の剛速球と化してロンの腹にめりこんだ。たまらずロンが体を二つに折りへたりこみ、胃袋ごと吐き戻す勢いで激しく咳き込む。咳はやまない。胃液にむせて酸っぱい唾を吐き散らすロンを取り巻き連中がそれ見たことかと嘲笑する。
 「あ、がっ…………」
 あまりの激痛に声もない。
 額がじっとり汗ばむ。
 瀕死の芋虫の如く苦悶に身をよじるロン、極限まで剥かれた目に生理的な涙が浮かぶ。床に転がった缶ビールを拾い上げ、プルトップを引き、豪快に喉を鳴らして呷る。
 「好吃」 
 美味い。
 缶ビールを三分の二ほど空けてロンのもとに歩み寄る。
 床にうつ伏せたロンを必死に抱き起こしているのは……梅花。
 道了の恋人。
 「ごめんなさいロン、私のせいでこんな目に……私が余計なことをして道了を怒らせたから」
 「どけ」
 たどたどしく謝罪する梅花を蹴りどけてロンを見下ろす。
 声もなくのたうちまわるロンの頭上で缶ビールを逆さにする。三分の二ほど残ったビールがロンの顔面に降り注ぐ。
 「起きろよ」
 顔面にぶちまけられたビールが傷口に染みたらしく、ロンが億劫そうに薄目を開ける。髪も顔も服もビールでぐっしょり濡れそぼる。水滴の垂れる前髪を掴んでロンを仰け反らせ、腕力に任せて背後の壁に叩き付ける。
 「がはっ、げほごほっ!!」
 背骨もへし折れんばかりに仰け反るロンを前屈みに押さえ込み、ビールが染みたシャツを力づくで捲り上げる。
 「勘違いするなよ、半々。梅花は俺の物だ」
 濡れそぼったシャツを胸まで捲り上げ、鳩尾に生じた痣を外気に晒す。
 拳ほどの大きさの痣を舌なめずりせんばかりに視姦し、壁に押さえ込まれて身動きできないロンの鳩尾を膝で圧迫する。
 「ぐあっ、あぅぐあ、ひぎっ………!!」
 鳩尾に膝がめりこむ激痛に四肢が跳ねる。 
 缶ビールが直撃した鳩尾に体重かけて膝を入れられる激痛に涙ぐむロン、手足をばたつかせ必死に抵抗する様子に取り巻き連中までもたじろぐ。
 「ロンにひどいことしないで!」
 梅花が金切り声で悲鳴を上げ道了の腰にしがみつく。しかし道了はやめない。壁面に押さえ込んだロンの鳩尾に膝頭をあてがい執拗に抉りこむ。
 息も絶え絶えに首を振るロンの耳に口寄せ、囁く。
 「お前も俺の物だ」
 そして道了は笑った。
 狂気の内の凶暴性を剥き出した笑顔だった。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050422214616 | 編集

 あれから一ヶ月経った。
 静流の死は事故として処理された。
 東京プリズンには再び平和が訪れた。
 「そんなに上手くいはずない」
 そう、そんなに上手くいけば苦労はない。静流の一件が片付いても問題は山積みだ。
 図書室の最奥、巨大な書架が蛍光灯の光を遮る行き止まりは廃棄物が床を覆い尽くす危険地帯。
 使い捨ての注射器や注射針が累々と散乱し赤裸々に荒廃を物語る。
 信じ難い事に煙草の吸殻や使用済みコンドーム、麻薬の粉末が付着したビニール袋やいかがわしいポルノ雑誌までも破棄されている。
 東京プリズンの囚人に良識をもとめるのは愚の骨頂だとわかっていても嘆かずにはいられない廃墟の現状だ。
 幸いここには人けがない。
 重要人物との密会を見咎められずにすむ。
 一度も開かれたことない哲学書が並ぶ一角は利用者もなく静まり返っている。
 話し合いには理想的な空間……とは上記の理由からとても言えないが、人に聞かれたくない話をするには好都合だ。
 憮然と腕を組み、同じようにして向かいの書架に凭れ掛かる男をじっと観察する。
 一筋の反抗も許さず後ろに撫で付けた髪、潔癖に秀でた額。
 理知的と評していい風貌はその淡白さ故にともすると近寄りがたいが、時折見せる笑みはひどく人間くさい。
 しかし今、銀縁眼鏡の奥の双眸は深刻な憂慮の念を浮かべてる。
 背広の懐を手探り、男が精神安定剤の煙草を取り出す。
 「図書室は禁煙だ」
 図書室で喫煙などとんでもない。非常識も甚だしい。
 人類の遺産が灰燼に帰したら責任重大だ。
 険を含んだ目で睨まれた男がわざとらしく咳払い、何事もなかったふうに一度手にした煙草とライターを戻す。
 それでよし。
 目の前の男は安田。東京プリズンの副所長を務める人物。
 背広の内から手を抜いた安田が真っ直ぐ僕を見つめる。
 眼鏡越しの双眸が冷たく光る。
 「鍵屋崎、君の西棟移動の件は白紙に戻した」
 「当然だ。はなからそんな不条理な命令に従う気はなかったがな」
 挑戦的にはねつける。安田は取り合わず続ける。 
 「……少し先走りすぎたようだ。結論を急ぐのは賢明ではない。入所後の記録を見る限り君とサムライは互いに良い影響を与え合っている。もう少し様子を見るべきと検討の末判断した」 
 奥歯に物が挟まったような言い方だ。
 気は進まないが受けいれざるをえないといった諦念も窺えた。
 静流が不慮の死を遂げて脅威が去った今、僕の抵抗を受けてまで西棟に移動させる口実と必要性がなくなったというのが本当の所だろう。

 静流は死んだ。
 炉で燃え尽きた。
 サムライに敗北した静流は潔い死を選んだ。敗残の恥を晒してみじめに生き永らえるのを良しとせず誇り高い死を選んだ。
 従兄への嫉妬に身を焼かれ、実姉に恋焦がれた少年の末路。
 彼もまた血の呪縛に苦しみ一族の業に翻弄される哀しい宿命を背負っていた。

 「……サムライの経過は順調か?」
 不意に話題が変わる。
 「火傷はほぼ治った。日常生活に支障はない。強制労働にも復帰した」
 「そうか」
 安田が複雑そうに黙り込む。眼鏡越しの目に過ぎる痛ましい色。
 「従弟が死んだ場所に毎日通っているのか。辛いな」
 「そう思うなら副所長権限でレッドワークからはずせ」
 くだらない感傷を鼻で笑う。
 「サムライは勤勉な男だ。レッドワークでもブルワークと同じかそれ以上に真面目に働いてる。そもそもたった一度の離脱でブルーワークを外すなど不条理の極み、労働者に対する扱いが中世の炭鉱並みだ」
 一呼吸おき安田の顔色を窺う。安田は黙って僕の話を聞いている。
 よろしい。
 熱心な聴衆に気を良くした僕は、自然と緩んだ頬を引き締める。
 「産業革命期のイギリスを例にとる。都市部の工場で劣悪な環境下におかれた労働者は栄養不足や疲労で次々に倒れていった。非衛生的な部屋に集団で暮らし次々に結核をわずらった。1840年のリバプールにおける労働者階級の平均死亡年齢はわずか15歳だ。日本でも炭鉱労働者は次々に結核で倒れた。退院したてで抵抗力・免疫力が弱まってるサムライもまた結核にかからないとは限らない、結核予防の為にも環境改善をはかるべきだ」
 「次の配置換えで検討する」
 副所長の言質を信用し矛を収める。 
 サムライは全治二週間の重傷だったが、全身至る所に負った大小の火傷が癒えるのを待たず強制労働に復帰した。
 己に厳しい罰を課す事で静流の死を乗り越えようとしているようにも見えた。
 僕はつい先日退院した。
 静流に拉致暴行されて再び開いた傷口を縫い直す必要があったが術後経過は至って順調、ベッドで安静にしていたせいで脇腹の傷も塞がった。
 退院したばかりでイエローワークに復帰するのは正直辛いが、贅沢は言えない。
 「大丈夫か?鍵屋崎」
 安田の声に顔を上げる。
 安田が不安げな面差しでこちらを窺っている。
 安田の真意を推し量るように聞き直す。
 「怪我の事か?」
 「それ以外もだ」
 「幸いにして何も問題はない。僕もだいぶ東京プリズンの環境に馴染んできたようだ。人間関係は円滑にして良好、連日の強制労働のおかげでだいぶ体力が付いてきた。この頃は不眠症も治り食欲も出てきた。至って健康体だ」
 「少し背が伸びた」
 心なし微笑ましげに安田が言う。
 子の成長を喜ぶ親の眼差しに居心地悪さを覚える。
 赤の他人の癖に気色が悪いと反発を抱くも大人げないと自制、兼ねてより気になっていたことに切り込む。
 「僕より貴様だ。ジープを盗んだ事で罰されなかったか」
 「私の事は気にするな。所長との話し合いはもう済んでいる」
 本当か?
 僕を心配させまいと嘘をついてるんじゃあるまいなと疑う。
 胡乱に目を細めて表情を観察する。安田は無表情に徹している。僕如きには本心を悟らせないといった大人の余裕すら感じさせる態度。
 「いかに緊急事態とはいえ所長の許可なくジープを出した私は相応の処分をうけるべきだ。あくまで私と所長の問題だ。君ら囚人が罪の意識に苛まれる必要はどこにもない」
 安田が厳然と言い切る。
 反論を許さない強硬姿勢に言葉をなくす。
 銀縁眼鏡の奥の目を冷徹に光らせる安田、エリートの矜持に支えられた背筋に気圧される。
 何か言おうと口を開き、虚しくまた閉じる。
 安田は心配するなと言ったが今回の件で立場が悪くなったのは確実。サディストの所長に虐げられる安田を想像、おぞましさに鳥肌立つ。
 「心配なのは私よりもむしろレイジだ」
 安田の言葉に顔が強張る。
 安田は厳しい目で虚空を見詰めている。
 「所長はレイジに執着してる。今回の件にはレイジが関わっている。レイジもまた私が盗んだジープに同乗していた。ヨンイルとて同じだ。否、バスを盗んで走り出したヨンイルの方が更に罪が重い……」
 緊張に喉が渇く。鼓動が高鳴る。
 ヨンイルとレイジが交互に脳裏を過ぎる。
 「二人はどうなるんだ?」
 生唾を嚥下して聞く。安田は答えない。痛みを堪えるように沈鬱に押し黙っている。最悪の想像……レイジとヨンイルが無期限で独居房に送られたら?僕の動揺を見抜いたように安田が補足する。
 「二人の処分については近日中に決定が下る。私も出来るだけ二人を弁護する。彼らは君の友人だ。行動は極端とはいえ、君を救いたい一心で規則を破ったのだから情状酌量の余地はある」
 安田の励ましでも不安は解消されない。
 僕に関わったせいで彼らが罰を受けるのは耐え難い。
 体の脇で拳を握り込み、やり場のない激情をぶちまける。
 「レイジとヨンイルは馬鹿だ。何故そんな意味のない事をする、僕を助けたいただそれだけの理由で自分の身を危険にさらす?理解不能意味不明支離滅裂本末転倒だ、彼らは死が怖くないのか、処分が怖くないのか、独居房送りになるとわかっていながら僕を助けるために規則を破ったとそう言うのか?!」
 馬鹿だ。
 馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だと心の中で百万回繰り返す、激情に任せて吐き捨てる。
 またしても僕のせいで迷惑をかけた、彼らを危険な目に遭わせてしまった、所長が甚振る口実を与えてしまった。
 自己嫌悪と後悔が一挙に押し寄せる。
 喉の奥に苦いものが込み上げる。
 もし僕のせいでレイジとヨンイルが独居房に送られたらと考えるだけで全身に冷たい汗が噴き出し動悸が早くなる。
 拳が震える。衝動的に振り上げるもどこに下ろしたらいいかわからない。
 虚空に停止した拳を見下ろす。
 無様に震えている。
 情けない。格好悪い。
 鍵屋崎直ともあろうものがどうしたことだと頭の片隅で自嘲する。
 しかし僕は激しい恐怖に襲われて、せめて爪が手のひらに食い込む痛みで理性を保とうと拳を固く握りこむ。
 「大体漫画の読みすぎなんだヨンイルは、現実と妄想を混同するのも程がある。ろくに運転もできない癖にバスジャックなど慣れないまねをして挙句の果てに大破させてしまった。バス一台大破させた責任をどうとるつもりだ道化は!王様とロンも馬鹿さ加減ではいい勝負だ、呼んでもいないのにジープで助けに現れるとは善意の押し売りだ!!」
 「君が心配だったんだ」
 「わかっている!」
 わかっているから尚更許せない、彼らを巻き込んでしまった僕自身の愚かさが。 
 安田に表情を見られるのを避けて顔を伏せ、小声を搾り出す。
 「……僕は全知全能の天才だ。そんな単純なことわかっている。だからといって彼らが馬鹿だという前提が覆るわけもない」 
 頑固に言い募る僕にも安田は反論せず気遣わしげな視線を向けていた。今回の件でレイジとヨンイル、それにロンまでもが罰せられたらと思うと自己嫌悪の感情に襲われて頭を掻き毟りたくなる。自分を罵倒したくなる。
 レイジとロンとヨンイルは囚われの僕を助ける為に自ら危険に飛び込んだのに彼らの為に僕は何もできないのか、ただ傍観を決め込むのみかと無力を噛み締めて自問する。
 「……鍵屋崎」
 僕の肩をぬくもりが包む。
 安田の手。
 一ヶ月前、意識を失った僕を抱き上げた手。
 安田が僕の肩を掴む。
 そうすることで何か大事なことを伝えようとでもするように、重大な秘密を打ち明けるように……
 反射的に手を振り払おうとした。だが出来なかった。
 安田の目があまりに真剣で、肩を掴んだ手から意志が発露して。
 眼鏡越しに安田を仰ぐ。
 安田の眼鏡に少年が映る。
 僕だ。
 見知らぬ他人と出会ったような心境で眼鏡に映る少年を見返す。東京プリズンに来てからもうすぐ一年、顔つきが大分大人びて引き締まり、目に不安の色を濃く浮かべた少年を。
 そして、安田は言った。
 「友人のために馬鹿になれるのは素晴らしいことだ。馬鹿な友人をもてたことを誇れ」
 誰も間違ってないのだから自信を持っていいのだと。  
 ヨンイルやレイジやロン、そしてサムライがしたことはどれだけ極端であっても決して間違ってないのだと。
 僕が今いちばん信じたいことを、成熟した人格に伴う説得力でもって信じさせてくれた。
 「以前私が言ったことを覚えているな」
 「僕の記憶力に対する挑戦か?」
 虚勢で皮肉な笑みを浮かべる。
 「『生き残りたければ友人をつくれ』……あなたは確かにそう言った。ここで生き残りたければ友人を作れと」
 安田が僕の肩から手を放す。
 「上出来だ」とでもいうふうに満足げな笑みを口元に浮かべて。
 ……なんだかくすぐったい気分になる。
 「君は立派に生き残った。弱肉強食の過酷な環境にも淘汰されず、かけがえのない友人たちと共に一年近くを生き延びた。何度も怪我をして命の危機に瀕し死の恐怖を味わって、しかし仲間への信頼を失わず希望を捨てず生き延びる事ができたのだ。自分を誇れ、直。仲間を誇れ。君のためなら危険も顧みず助けに来る馬鹿さ加減に最上の敬意を表せ。馬鹿を突き詰めた友人をもった素晴らしさを自認しろ」
 安田の声には説教じみた響きはかけらもなく、その言葉には真実の核が宿っていた。
 「馬鹿で結構じゃないか。君の自慢の友人だろう」
 そう言った安田は、何故だか僕以上に喜ばしく誇らしげだった。
 気恥ずかしさをごまかそうとブリッジを押さえ、下唇を舐める。
 「………ひとつ質問があるのだが」
 「なんだ」
 「貴様にも友人がいるのか?」
 僕にとってのサムライのような、レイジやロンやヨンイルのようなかけがえのない友人が。
 単純な疑問から発した質問にたちどころに表情が消える。
 「……昔の話だ。今はもう会う機会もない。おそらくこれから会うこともない」
 よそよそしく吐き捨て、内面の動揺を糊塗しようとブリッジにふれる。突然態度を一変させた安田をいぶかしみつつ、持てる想像力を駆使して漠然としたイメージを膨らます。
 「貴様の友人か。どんな人物だか全く想像できないが、失礼を承知で言わせてもらえば完璧な人格を兼ね備えた聖人君子か人格破綻者かのどちらかだな。根拠を述べよう。貴様のようにプライドが高く潔癖主義・完璧主義、自分が正しいと思った事は絶対に譲らず他人の意見を受け入れない男と友人関係を結べるのは太陽系のように広い心の持ち主かブラックホールのように混沌とした人間に決まっている」
 安田がなんとも微妙な顔をする。
 「究極の二者択一だな。どちらにせよ私と友人関係を結ぶには宇宙と交信できる事が前提なのか?」
 「貴様の友人の顔が見てみたい」
 揶揄とも好奇心ともつかない口ぶりで言えば、眼鏡のブリッジにふれた安田がそっけなく言い捨てる。
 「私は二度と会いたくないがな」
 どういうことだ?
 話はおしまいと安田が踵を返す。
 背中が緊張している。苛立ちの気配が窺える。靴音までもが刺々しく響く。先刻の発言を反芻、安田の気に障った箇所を探りだす。友人の話を出した途端態度が急変した。
 友人の話は安田にとって禁句だったようだ。
 しかし何故?
 喧嘩別れでもしたのか?過去の友人に良い思い出がないのか?
 結論。
 「どちらにせよ大人げない男だ」
 安田の背中を見送り僕もまた歩き出す。
 副所長と囚人が一緒に出てきてはあらぬ誤解を招く。
 緊急の用事で安田と待ち合わせる際はこうして時間をずらして極力注意を引かないようにしてるのだ。
 安田から遅れること三分、完全に靴音が消えた頃に書架を出る。

 図書室一階、図書閲覧用の机が並んだ開放的な空間。
 強制労働終了後の自由時間、暇を持て余した囚人たちが机を占領して談笑している。
 図書室では私語を慎めと怒鳴りたいのをありったけの自制心を発揮して堪える。
 図書室を訪れるのが本を読む人間ばかりとは限らない、むしろ仲間内でだべりにくる囚人の方がずっと多い。嘆かわしいことに東京プリズンの囚人の大半分は図書室と談話室を勘違いしてるのだ。
 中央棟に位置する図書室は、東西南北の囚人が活発に混ざり合う交流の場だ。
 閲覧用の机はほぼ囚人で埋まっている。
 トラブルに巻き込まれる前に足早に出ようとして、手前から三番目の机に見知った顔を発見する。

 机の上座に陣取って下品な冗談を飛ばしている男……
 幹部から末端まで総勢三百人の中国人を傘下に納める東棟最大の華僑派閥のボス、凱だ。

 「だから言ってやったんだよ、青竜刀で脳天から股間までぶった斬られるのと大人しく有り金俺に渡すのどっちがいいかって。そん時のヤツときたら傑作だった。女にイイカッコ見せようって喧嘩ふっかけてきた時の勢いはどうしたよ?連れが見てる前でびィびィ泣き喚いちゃ地べたに這いつくばって命乞い、挙句が『多少銭?』だぜ。壊れたスロットみてーに同じ言葉吐き出しやがってよ!!」
 益体もない話に取り巻き連中が爆笑する。
 中でもいっそう大袈裟だったのが凱の両隣に座る残虐兄弟だ。
 机上に足を放り出した残虐兄弟の片割れ、恐らく弟の方が顎の関節も外れんばかりに大口開けて哄笑する。
 「凱さんにむかって『いくら?』たあ命知らずだな、そいつ!」
 弟の相槌を受けて兄がしきりに頷く。
 「凱さんなんざ頼まれたって買いたくねえっつの、どんだけ趣味わりーんだよ。連れの女ってのも人間のカオじゃなかったに決まっ」
 皆まで言わせず兄の顔面に鉄拳が炸裂、椅子ごと後ろに倒れた兄が鼻血を噴射する。弧を描いて噴出した鼻血を浴び、我が身の危険を感じた連中が脊髄反射で椅子を蹴立てる。
 「あんちゃん!」と悲鳴じみた声をあげた弟の顔面にも拳が炸裂、鼻が潰れる嫌な音とともに兄に勝るとも劣らぬ勢いで両方の穴から血が噴出。
 椅子ごと床に倒れた残虐兄弟はかえりみず、怒り心頭の凱が机を叩く。
 「なに勘違いしてんだよ。俺に喧嘩ふっかけた間抜けが聞いたのは俺の値段じゃねえ、間抜けの命の値段だよ!いくら出しゃ見逃してくれるってそう聞いたんだよ女連れで四川料理食いにきたあの色ボケ野郎は、だれが娑婆で男買うってんだ、刑務所の外で男に値段聞くヤツなんざ真性の変態しかいねえってんだ、てめェら間抜け兄弟が愉快な勘違いしてくれたおかげでオチるもんもオチなくなっただろうが!」 
 「ひゅ、ひゅみまへん凱ひゃん……あやまひゅんだ、おとうとひょ」
 「かんちがいしたのにいちゃんひゃんか、おひぇかんけーねーもん!」
 鼻柱が陥没して顔面を血の朱に染めた残虐兄弟、椅子ごと倒れた二人が戦々恐々と仰ぐ先では野性に返った凱が机を叩き折っている。
 猛烈な剣幕で拳を振り上げ振り下ろし机を真っ二つに叩き折る凱。
 骨折にも似た破砕音をたて、ささくれだった切断面を晒して床に落下した机の残骸を蹴飛ばして、それでもまだ気がおさまらず爛々と血走った目であたりを見回して八つ当たりの対象をさがす……

 目が合った。
 合ってしまった。

 「ひさしぶりだなあ親殺し。悪運尽きて天に召されたかと思ったぜ」
 憤怒の形相から一転、舌なめずりせんばかりの表情で凱が挨拶する。
 「つい先日退院したばかりだ。相変わらず血の気が多いな、貴様は。図書室の備品を壊すのは感心しないぞ」
 心の中で舌打ち。
 非常にまずい状況だ。凱と目が合った不運を呪う。
 僕はうんざりした本心を隠しもせず凱を待った。
 今更逃げても遅いと諦観していた。
 既に出入り口は凱の子分に固められおり、凱の怒りを恐れて分散した取り巻き連中により僕を中心に追い込む包囲網が敷かれている。
 分厚い唇をねじるようにして凱が笑う。
 「噂じゃサムライの従弟に犯られて刺されて炙られたそうじゃんか。脇腹の傷は塞がったのか?今ここで傷口おっぴろげて拳を抉りこんでやろうか?公開フィストファックも乙なもんだぜ」
 「体内外の露出趣味はない。大腸小腸を公開するのはぞっとしない」
 凱が唾を吐く。この回答はお気に召さなかったらしい。
 ただでさえ品性と教養が欠片もない面構えを野卑に歪ませた凱が、木片を塗した拳をもったいぶって掲げる。
 「ひとりか。サムライはどうした」
 「包帯を替えに医務室に行ってる」
 「わざわざ俺たちにマワされにきたってのか?サムライに抱いてもらえなくてよっぽど欲求不満なんだな」
 恥辱で体が熱くなる。軽蔑の目で凱を睨む。
 凱は鼻を鳴らして僕を嘲笑うと、周囲に展開した子分に顎をしゃくり、僕を囲い込む間合いを詰めさせる。
 鼻血で顔面朱に染めた残虐兄弟がよろめきでる。
 他の子分が嗜虐的な笑みを浮かべる。
 絶体絶命の焦燥に駆られる。退路をさがしてあたりを見回す。
 「机を叩き折っただけでは飽き足らず僕の背骨を叩き折る気か。ところで凱、イエローワーク配属以来何本シャベルの柄を叩き折ったか教えてくれないか?砂漠にシャベルの柄の墓場でも作る気か。古代人を模倣して貝塚を作るのか。いっそ類人猿にまで遡ったらどうだ?顔と品性が退化した君なら喜んで仲間に迎えられるはずだ、クロマニョン人は大自然と共存する大らかな精神の持ち主だからな」」
 「今すぐ腸を引きずり出して減らず口利けなくしてやる」
 凱が激怒する。
 包囲の輪が狭まる。
 トラブルに巻き込まれるのを恐れて無関係な囚人が退散、あるいは野次馬根性を発揮して机によじのぼる。
 まずい、このままでは本当に傷口に拳を突っ込まれて腸を引きずりだされるはめになると冷や汗をかく。
 「売春班上がりならフィストファックも当然体験済みだよなあ?」
 間延びした嘲弄とともに腰だめに構えた拳が動き、
 
 『不行!!』
 
 今しも僕の鳩尾に鉄拳を叩き込もうとした凱が前のめりに姿勢を崩す。
 「なんだあ!?」
 人垣がざわめく。子分がどよめく。
 無防備な後頭部にスニーカーの直撃を受けた凱、着弾の衝撃に目を白黒させながら靴が投擲された方を仰ぐ。
 その目が驚愕と憤怒に引ん剥かれる。
 凱とその子分が一斉に振り返った方向、階段の真下に二人の少年がいる。
 一人は額にゴーグルをかけた少年。
 精悍な顔だちに愛嬌を添える八重歯、日焼けした肌に映える龍の刺青、快活な印象。
 もう一人は小柄な少年。
 跳ねっ返りの気性を現すように無造作に跳ね回った黒髪、切れ長の目。への字に引き結んだ口元から生来の強情さが窺える。
 片手を前に突き出す投擲のポーズで静止していた少年が、凱と仲間たちの注視を浴びて大儀そうに上体を起こす。
 ロン。
 そしてヨンイル。
 「大勢でよってたかって一人を小突き回すなんざとてもじゃねーが東棟を代表する華僑のボスの仕業たあ思えねーな」
 ロンが小癪に言い放ち、腰に手をあて凱にガンをとばす。
 「ピンチやなあ、直ちゃん。俺ら上から全部見とったんやけどいつ飛び出たもんか悩んどって、タイミング的にはくしゃみかあくびした時かドラゴンボール全部集め終えた時がええかなーて思うて、ロンロンと揉めてるうちにあれよあれよと追い詰められて事態が悪化してもうて……」
 西の道化ことヨンイルの出現に子分がうろたえる。
 いかに総勢三百人の大派閥を率いる凱とはいえ西のトップ相手に一戦構えるのは分が悪い。
 「薄汚ェ半々の分際で俺様を足蹴にするなんざ調子乗りすだぎだ。頭の後ろから鼻が出てくるまで百万回でも土下座させてやる」
 床に転がったスニーカーを荒々しく踏み躙り、凱が憤然と歩き出す。
 殺気走った目つき、紅潮した顔、荒い鼻息。
 怒りの矛先をロンへと転じ、拳の威力を予想させるように大きく腕を振りかぶり威圧的に近付いていく……
 凱との距離が8メートルに縮まった時点でヨンイルがゴーグルを装着。
 「ピピピッ!スカウター調べによる戦闘力650、対するロンロンは……こらあかん、戦闘力12や」   
 「戦闘力650……誰並だよ」
 「ガーリックJr」
 「マイナーすぎてわかんねえよ」
 「おしゃべりはおしまいだ。道化も子猫も仲良く吊るしてやる」 
 距離がさらに縮まる。ロンが臨戦態勢に入る。
 中腰に屈んだ姿勢で足を肩幅に開き重心を安定、腰だめに拳を構える。
 「今のうちに逃げろ、鍵屋崎」
 ロンが顎をしゃくる。
 躊躇する。
 ヨンイルはともかく凱とロンでは力の差が歴然だ。
 ロンを見捨てて一人逃げ帰るのに抵抗を感じる。すり足であとじさる僕の視線の先、僅か五歩を残してロンと対峙した凱が不潔に黄ばんだ不揃いの歯を剥き出す。
 「相変わらず友達思いで感心感心っと。レイジだけじゃなく親殺しとも出来てんのかよ、色情猫め」
 あからさまな嘲弄、挑発。
 ロンの頬が羞恥に紅潮、怒りに沸騰。
 それでも自制心を振り絞り自分から殴りかかるのを踏み止まるロン、その忍耐を粉々に打ち砕く凱の暴言。
 凱が好色に目を細める。
 肉厚の瞼の奥、獰猛な光を沈めた目がロンを映す。
 分厚い唇が蠢き、臭い息がロンをなでる。

 「『多少銭?』」
 お前はいくらだ?

 ロンが飛び出したのはその瞬間。
 「!まてっ、」
 抜群の瞬発力を生かして凱の懐にとびこむ。
 脳天から奇声を発し激情に任せて凱の腹に拳を叩き込むもダメージは少ない、かえってロンの方が苦痛に顔を顰め、乱打で痛めた拳を引っ込める。
 鉄板の筋肉に覆われた腹は衝撃を体内に通さず跳ね返す、瞬発力はあっても着弾の威力で格段に劣るロンの拳は全く利かず苦戦を強いられる。
 「ヨンイル命令だ、止めろっ」 
 「男同士燃えに燃える仁義なき戦いをジャマしたらかあいそかあいそや」
 階段にうずくまったヨンイルがへらへら笑う。
 役立たずの道化め。
 くそ、僕が止めに入るしかないのか?
 こんな時副所長がいればと一縷の希望に縋ってあたりを見回すも安田の姿はどこにもない、すでに図書室を出てしまったらしい。
 役立たず二乗め。
 「俺は売り物じゃねえっ、百万元積まれようがお断りだ!!」
 ロンが威勢よく啖呵を切り、ふくらはぎに蹴りを入れる。
 「売り物じゃなくて疵物だってか?淫売の股からひりだされた癖にウブなふりしてんじゃねえ、ケツ剥いて男を咥え込むのがお前の特技だろうがっ!!」
 ふくらはぎを蹴られても少しもこたえず、ロンが引く間を与えずその足首を掴み、万力めいた怪力で締め上げる。
 ロンが「しまった」と顔にだす。
 凱が会心の笑みを浮かべる。
 足首を捉えた手を自分の目の位置に持っていきロンを逆さまに吊り下げる、あえなく宙吊りにされたロンが「くそっ、おろせよっ、くそっ」と必死に虚空を蹴り上げるも凱の顔面には掠りもしない。
 「いいカッコだなあ半々。その位置からだと世界がどんなふうに見えるか教えてくれよ」
 「可愛いお口のとこに凱さんの立派なモンが来てんじゃねえか。日頃の礼にご奉仕させていただけよ」
 「ズボン剥いじまえよ凱さん、俺たち全員にもレイジの物咥え込んだケツマンコを見せてくださいよ」
 爆笑の渦が巻き起こる。
 ロンは屈辱のあまり唇を噛み締めている。
 唇を噛みながらもスニーカーのつま先を限界ぎりぎりまで蹴り上げて凱の顔面に一撃入れようという試みをやめず、周囲から更なる失笑を買っている。 
 見ていられない。我慢の限界だ。
 ロンと凱を引き離そうと衝動的に駆け出す、床を蹴り加速し一直線に凱の背中をめざす……
 「直ちゃん、危ない!」
 「え?」
 危ないのはロンだろう、と疑問を覚えたのも束の間。
 凄まじい揺れと轟音が襲った。
 続く振動、連続する悲鳴と散発する怒鳴り声。
 視界が反転、上下が逆転。
 何が起こったかわからないまま僕の体は床を転がり滑り机の脚に激突して漸く停止、人心地つく間もなく机上の本が降り注ぐ。
 「痛っ……」
 誰かが僕に覆い被さっている。
 自ら盾となり本の雪崩から僕を庇ったのは、電光石火の瞬発力で馳せ参じたヨンイル。
 「直ちゃん、大丈夫か。怪我せぇへんかった?」
 ヨンイルの肩越しに濛々と埃が立つ。埃の向こうに目を凝らす。折り重なるようにして倒れた僕とヨンイルの視線の先、切れ切れにたなびきながら次第に晴れていく埃。
 暴かれた光景は……
 「ロ、ン?」
 喉が詰まる。
 本棚が落下していた。
 戦慄。
 本棚が落下したと思しき箇所の手摺が自重で撓んでいた。
 二階の手摺周辺に視線を走らせ、本棚を落とした人物を突き止めようとするも不審者は見当たらない。
 どこへ消えた?
 落下の際に舞い上がった埃を隠れ蓑に逃げおおせたのか?
 どうやらその可能性が高いと判断、犯人を突き止める前にロンの安全を確認すべきと優先順位を変更、咄嗟に走り出そうとして……

 四肢に電流が流れたように硬直する。

 寒気がした。
 ぎこちなく首をもたげ、二階の手摺に沿って再び視線を巡らす。
 誰かがこちらを見ている。気配を感じる。
 敵意。悪意。冷え冷えとした害意の放射。
 絶対零度で凍結した殺意。
 「どないした直ちゃん?スーパーサイヤ人からグレイトサイヤ人に進化した悟空を見たクリリンみたいなカオして」
 「………『彼』だ」 
 見つけた。 
 階下の騒ぎが沈静化するまで書架の奥に姿を潜めていたらしき少年が洗練された足取りで手摺に歩み寄る。
 まだ新しい服を着た囚人……おそらくここ一ヶ月以内の新入りだ。
 少年が手摺に手をおく。
 無表情に階下を見下ろす。
 陥没した床、大破した本棚、床一面になだれ出た圧倒的な量の本……突如頭上から本が降ってきた事に驚愕する囚人、腰を抜かして喘ぐ囚人、躁状態で騒ぎ立てる囚人。
 それぞれ個性的な反応を示す囚人たちの中、落下地点に最も近いロンと凱は互いの胸ぐらを掴み合ったまま完全に硬直、本棚の自重で陥没した床と何層にも堆積した本を見比べる。
 手摺に手をかけた少年が見詰めているのは―……
 ロン。
 凱の胸ぐらを掴んだまま茫然自失するロンを映す目は、冷たく透徹した金属の色。
 右目が銀、左目が金。
 完全に感情を排したオッドアイ。
 体の中に銀色の血が流れているような非人間的な鉄面皮。
 黒が基調の短髪に銀のメッシュを入れた少年は、暫く何の感興も湧かない様子で階下を眺め、上体を起こしがてら無音で囁く。
 唇の動きに目を凝らし、正確に意味を読み取る。

 『好久不見了』
 ひさしぶりだな。

 現れた時と同じ唐突さで身を翻し、どこへともなく去っていく。
 少年が姿を消すと同時に金縛りが解けた。
 緊張の糸が切れた安堵でその場に座り込みたくなるのに抗い、萎えそうな膝を叱咤してロンに駆け寄る。
 「大丈夫か、どこも怪我はないか?」
 「なん、だよ今の」
 ロンの肩を揺すって正気に戻す。
 徐徐に目の焦点が合わさり僕の顔を認識する。
 「鍵屋崎なんだよ今の、普通本棚が頭の上から降ってくるかよ、一歩間違えば俺っ……死っ……」
 ロンの歯ががちがちと鳴る。僕に縋る手が小刻みに震える。
 ショックが癒えぬロンの手を握り返し、オッドアイの少年が姿を消した手摺を仰ぎ見る。
 「犯人はわかっている」
 ロンと凱とヨンイルが一斉に僕を見る。
 落下の衝撃で棚が抜けた書架を見下ろし、直撃すれば即死は免れなかった確信を掴み、金銀の眼差しに込められた真意を汲み取る。
 
 オッドアイの少年は、ロンを殺そうとした。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050421023704 | 編集

 今日の出来事にはさすがにびびった。
 そりゃそうだ。頭の上から本棚が落下すりゃどんだけ肝っ玉がでかいヤツだって仰天する。一歩間違えりゃぺしゃんこに潰れてた。間違いなく即死だ。本棚はかなりの重量がある。人一人で持ち運ぶのは不可能、何人かが踏ん張り利かせて呼吸を合わせて持ち上げなきゃ無理だ。
 しかも本棚には本が入ったままだった。
 結論。
 俺を殺そうとしたやつはひとりじゃない。複数いる。
 まざまざと恐怖が蘇る。
 『ロンっ!』
 鍵屋崎が俺を呼んだ。
 俺は取っ組み合いに夢中で鍵屋崎のほうを見もしなかった。
 世話焼きな鍵屋崎が俺と凱を引っぺがそうと駆け出してくるのが視界の隅にちらりと入った。無視した。俺は怒りで煮えくり返っていた。品性下劣な野次馬どもの前で宙吊りにされて、上着が捲れてヘソが丸見えになって、せめてもの反発につま先を蹴り上げて凱の顔面を踏もうとじたばたしていた。
 文字通りの悪足掻き。
 凱の子分含む野次馬どもは猫の子みたいに宙吊りにされた俺がこぶしを振り回すさまを指さし、これでもかと爆笑した。
 頭に血が上った。
 逆さ吊りの重力法則だとどっかの天才は指摘したかもしれない。
 泣く子も目を覆う顔面猥褻物こと凱は、逆さ吊りの俺が屈辱と憤怒で顔を真っ赤にするのをたっぷりと視姦し、思う存分嗜虐心を満足させた。
 逆さ吊りにされた俺が凱の肩越しに見たもの。
 満面に下卑た笑みを滴らせる凱、その頭上に垂直に落下する巨大な影。表情が瞬時に強張った。理解を超える事態に動きが止まった。俺が急に大人しくなったのを不審がった凱が肩越しに天を仰ごうとし、

 『どわぎゃああああああああああぁあああっ!!?』
 凱が無造作に俺を放り出す。
 宙に舞った体を浮遊感が包む。

 体重がないかの如く凱の巨腕にぶん投げられた俺は風切る投擲の勢いのままに吹っ飛び床に激突、咄嗟に受身を取って落下の衝撃を軽減、勢いに任せてゴロゴロ床を転がる。
 視界の上下がさかんに入れ替わる。床と天井が交互に来た。
 床を転がるあいだに次なる衝撃が襲った。
 凱にぶん投げられた時とは比べ物にならない特大の衝撃、完膚なき破壊の轟音、濛々と舞い上がり視界を閉ざす膨大な量の埃と抜けた棚から雪崩出る圧倒的な量の本。
 『がはごほっ、なんだこりゃ、前が見えねっ……なにが墜ちてきたんだ一体。ロン、てめえの差し金か!?』
 凱のすぐ耳元でがなりたてる。
 声の方に向き直る暇もなく胸ぐら掴まれて引き上げられる。
 足裏が宙に浮く。
 『知るかよ、関係ねーよ!俺はお前と違って卑怯な真似で喧嘩に勝ったりしね……、』
 語尾が途切れる。埃が晴れるにつれ徐徐に現実が浸透してくる。
 凱と胸ぐら掴み合い、その場に棒立ちになって埃に包まれた向こう岸を凝視する。
 わずか50センチ足らずの距離に本棚が倒れていた。
 二階から落下したと思しき本棚は全長6メートルの巨大な代物で、もし俺たちが取っ組み合ったままその場を動かなけりゃ下敷きになってたのは確実。俺と凱は仲良く睨めっこしたままあの世送りになってた。
 間一髪圧死を免れた俺は、前代未聞の戦慄を味わう。

 普通本棚がおちてくるか?
 ひとりでにおちてくるか?
 まさか。んなわけねえ。

 本棚がひとりでに歩いて二階からダイブするなんざ現実的に考えてありえない。誰かがおとしたんだ。でも誰が?こんな重たい物抱え投げるだけで一苦労だってのに……支離滅裂な思考が脳裏に渦巻く。生唾を嚥下する事さえできなかった。
 間一髪命拾いした安堵、それにも増して募る本能的な恐怖と懸念。
 だれかが俺を殺そうとした。
 二階から本棚をおとすようなド派手なやり方で完全にイカレた人間の流儀で、お互いしか見えなかった俺と凱を始末しようとしやがったのだ。
 埃が濛々と立ち込める。埃の向こうで咳の音が聞こえる。
 二階から落下した衝撃で本棚は滅茶苦茶に大破していた。
 被害は床にも及んだ。本棚の自重で陥没した床、隕石の墜落跡みたいに広く抉れた面積……下敷きになったら確実に死んでいた。即死だった。本棚自体も木片の残骸と化していた。もともと本棚の一部だったささくれた板切れが墓標の如く折り重なっていた。
 床一面に本がばらまかれていた。
 全部拾い集めて元に戻すのに余裕で一日はかかりそうな量だった。
 破壊された本棚と床を見比べて茫然自失する俺のもとへ息せき切ってやってくる鍵屋崎、俺の肩を揺さぶり叱咤、懸命に何かを叫ぶ。
 『あっ……、』 
 歯の根ががちがち鳴った。体の芯が凍り付いた。
 脳裏で再生される光景……俺の胸ぐら掴んだ凱のニヤケ面、二階から落下する本棚、凄まじい衝撃と震動、木がへし折れる破砕音、濛々と舞い上がる埃と騒々しくなだれる本……
 『大丈夫か、どこも怪我はないか?』
 ぎこちなく顔を上げる。
 鍵屋崎が心配げな様子で俺を覗き込んでる。
 『なん、だよ今の』
 手のひらがじっとり汗ばむ。
 ひどく苦労して嚥下した唾が喉にひっかかり、ささくれた不快感を覚える。 
 鍵屋崎にしがみつく。
 そうやって誰かに寄りかかってないと今すぐ腰が抜けて座り込んじまいそうで、足腰が萎えて二度と立てなくなる眩暈に襲われて、ただただ必死に鍵屋崎の肩を掴んだ。 
 『鍵屋崎なんだよ今の、普通本棚が頭の上から降ってくるかよ、一歩間違えば俺っ……死っ……』
 先は続けられなかった。

 それがついさっきの出来事だ。
 今、俺は食堂で飯を食っている。
 本棚の下敷きになりかけたショックはまだ癒えてない。
 だからと言って食欲が失せるわけじゃない、なんたって一日十二時間のイエローワークの肉体労働で疲れ切っているのだ。
 俺は空腹だった。
 飯は食える時に食っとかないと泣きを見る。明日の強制労働で貧血起こしてぶっ倒れたら洒落にならない。現に鍵屋崎はしょっちゅう貧血起こしちゃぶっ倒れてる。結論。返事が無い、ただの屍のようだ。どさどさ砂かけられて生き埋めにされるのは御免だ、俺を目の敵にしてる連中の思うツボだ。
 「だけどまさか頭の上から本棚が降ってくるなんてぶったまげたぜ。あと50センチ横にずれてりゃ完璧死んでた。本棚ごと床にめりこんだ俺の死体引っぺがすのに苦労したろうよ。畜生、今思い出してもぞっとする。凱が馬鹿力でぶん投げてくんなきゃ干しイカみたいにぺらぺらになるとこだった、アイツに感謝しなきゃな」
 「しゃべるか食べるかどっちかにしろ、行儀が悪い」
 向かい席の鍵屋崎が露骨に眉をひそめるのを無視、興奮のあまり飯粒を飛ばし捲くし立てる。
 「頭の上に本棚落とされてないからそんな事言えるんだよお前は、天才にとっちゃ所詮他人事だしな!」
 箸の先を向けられた鍵屋崎がこの上なく嫌そうな顔をする。
 さも心外そうに不満を表明する鍵屋崎の隣じゃサムライが素知らぬふりで飯を食ってる。背筋はしっかりと伸びている。竹を割ったような姿勢。サムライはいつも素晴らしく行儀がいい。決して椅子の背凭れに寄りかかることなく凛と背筋を伸ばし、淀みない箸使いで焼き魚を一口大に切り分けている。
 惚れ惚れする程完璧な箸捌き。
 刃物の扱いが上手いやつはやっぱ違うなと妙に感心する。
 片手に椀を預けて箸を舐め、サムライの手元に見惚れる。
 箸を咥えて放心する俺をちらりと一瞥、鍵屋崎が嫌味ったらしく指摘する。
 「食事作法の向上に努力しろ。魚の身を零しているぞ」 
 「うるせえ」
 鍵屋崎の指摘で我に返り、照れ隠しにそっぽを向く。
 皿から口に持ってく途中で焼き魚の身をぽろぽろ零していたのは本当だ。畜生、いつもはこんなヘマはなしないのにと舌打ちしたくなる。
 図書室の出来事で頭が一杯で手元が疎かになってるせいだとそれらしい言い訳を捻り出して自分を慰める。二階から本棚に潰されかけりゃ誰だって忘我の境地になる。
 机上に零れた焼き魚の身を箸で摘み、ぽいぽいと口に放り込む。
 鍵屋崎が物凄く嫌そうな顔をする。
 ざまあみろ。
 「まあ機嫌直せって。二階から本棚が降って来るなんて良くある事さ。前向きに考えろよ」
 「前向きになりようねーよ。適当言うなよ、他人事だと思って」
 ひどく苦労して焼き魚の身を摘みながら隣を睨む。
 俺の隣の席、頭の後ろで手を組んで申し分なく長い足を机上に放っているのは東棟の王様ことレイジ。俺と同房の相棒。寝坊した豹のように怠惰に伸びきった姿勢で椅子を揺すってる。
 早々と飯をたいらげて満腹ポーズ、緩慢なリズムで椅子を揺すりながら飄々と嘯く。
 「二階から本棚おちてきた位でびびってたらこの先いくつ命があってもたんねーぜ。外の世界にゃもっと危険が溢れてんだから」
 「たとえば?」
 「道で待ち伏せしてるゲリラに襲われたり検閲にひっかかって銃器没収されたり角から飛び出した犬に襲われたり」
 「前ふたつはお前だけだろ。付け加えんなら最後のは東京プリズンでも普通にある」
 思った以上に適当な返答に呆れ返る。
 レイジに相談した愚を呪い、歯ごたえのない沢庵をしゃぶる。
 「わかった」
 「なにがだよ」
 期待せずに聞く。
 「その本棚お前が好きだったんだよ」
 「阿呆くさ」
 ほら、ろくでもない話だ。
 「無機物にだってハートが宿る事あるだろ?本棚がお前に恋して二階から身を投げる事も絶対ないとは言い切れないだろ。ロンにキッスしようとして二階からダイブするなんざ随分過激な本棚じゃんか。お前もそう思うだろキーストア」
 レイジが冗談とも本気とも付かぬ感じで鍵屋崎を仰ぐ。
 鍵屋崎はきっちり十回飯を咀嚼し、口に入ってた物をちゃんと嚥下してレイジに向き直る。
 「日本には古来より付喪神の伝承がある」
 「はあ?」
 脳天から間抜けな声を発した俺を完全無視、きちんと揃えて箸をおいた鍵屋崎が姿勢を正して話し始める。
 神経質な手つきで眼鏡のブリッジを押し上げる。
 怜悧な知性を帯びた切れ長の双眸が瞬く。
 「付喪神とは長い年月を経て古くなった対象に魂や精霊などが宿るなどして妖怪化したものの総称だ。『付喪』は当て字で正しくは『九十九』と書く。この九十九は長い時間や経験、多種多様な万物などを象徴する。百を完全なる永遠と定義してそこから一を引いた九十九は永遠に極めて近い年月を現すのだ。
 日本の風俗においては古来より万物八百万に魂が宿るとするアニミズム的な世界観が定着している。長く使った道具・器物には魂が宿り、上位の存在に昇華するという民間信仰がある」
 俺はぽかんと口を開けて長ったらしい講義に聞き入った。
 サムライは興味深げに意見を拝聴し、時折頷いている。
 レイジはにやにやしている。
 三者三様の反応を示す俺たちなど意に介さず、付喪神なんたらの起源と伝承について滔滔と語り終えた鍵屋崎は、どこか満足げな様子で一息吐く。
 「……と、こういうわけだ。本棚に命が宿るという極めて非常識かつ非科学的な現象も、日本人の民間信仰に照らし合わせれば決して理解できない事じゃない」
 「俺、台湾人なんだけど」
 おそるおそる意見を挟む。
 鍵屋崎が冷ややかにこちらを睨む。視線で人が殺せそうな圧力。
 「おい天才、まさかレイジのたわごと本気にしたわけじゃねえよな。本棚がひとりでにダイブなんて……」
 「貴様は馬鹿か?足がない本棚がどうやって手摺付近に移動するというんだ」
 「あ」
 そうだ、本棚には足がない。足がなきゃ歩けるはずもない。
 どうしてそんな当たり前のことに気付かなかったんだ俺の馬鹿……って、そもそも論点がずれてる。つまり鍵屋崎は何が言いたい?本棚が自分の意志で俺を殺そうとしたってか、ってことはつまり本棚が生きてるの前提なのか、待て待て足がない本棚がどうやって移動するってんだ? 頭が混乱する。
 当惑を深めた俺に視線が集中する。
 サムライが気の毒げな顔をする。レイジが笑いを堪える。
 鍵屋崎だけが無表情を崩さず、出来の悪い教え子の返答を待つ教師然として威圧的な沈黙を守っている。
 「は、はは。みんなしてひっかけようったって無駄だぜ、騙されるもんか。本棚が自分から俺を潰そうとするわけねーじゃん。だいたい本棚が生きてるわけないっつの。本棚だぜ本棚?そりゃ俺だって気に入らない事あった時とかめちゃくちゃ気になる漫画の続きが他のヤツに借りられてた時とかむしゃくしゃして本棚蹴ったことあるけど、そういやこの前ドラゴンボール三十七巻が借りられてる事に腹立てて本棚蹴っ飛ばしたらべキッて不吉な音鳴って、人間でいう骨折?みたいな足応えがあったけど、まさかあの時のこと根に持って付喪神なんたらが降臨して……」
 まずい、どつぼに嵌まった。
 このままじゃまずいと自分でもわかってるが口から迸るネガティブな妄想を止められない。
 片手に椀を預けて不安に押し潰された俺を冷ややかに見つめ、鍵屋崎が嘆かわしく首を振る。
 「………本当に救いがたい馬鹿だな。本棚に殺人意志が存在するわけなかろう」
 「はぁああ!?」
 「ついさっき言ったろう。『犯人はわかっている』と」
 鍵屋崎がキザったらしく眼鏡の位置を直す。
 取り澄ました表情、自信過剰な物言い。
 手にした椀と箸の存在も忘れて穴の開く程鍵屋崎を見つめる。確かにさっきそんなような事を言っていた。本棚落下騒ぎのドタバタでうやむやになったまま詳細を聞きそびれていたが、視力が悪い癖にメガネをかけりゃ千里眼の鍵屋崎が本当に犯人を目撃したなら…… 
 「だれだそりゃ」
 興味津々レイジが聞く。
 「中国系黄色人種の少年だ。着ていた服がまだ新しかった点から推理するにおそらくここ一ヶ月以内の新入りだ。外見的特徴は銀の右目と金の左目、銀のメッシュが入った黒髪。推定年齢は17歳、身長179cm」
 鍵屋崎が思わせ振りに言葉を切る。表情が真剣さを増す。
 銀縁眼鏡の奥の切れ長の双眸が真意を推し量るように細まる。
 「ロン、君の知り合いじゃないか」
 心臓が強く鼓動を打つ。
 「なん、でだよ」
 一呼吸遅れ微妙な半笑いで返す、内心の動揺をごまかすように。
 鍵屋崎は笑わない。
 何もかも見通すように透徹した眼差しをじっと注いでいる。俺の笑みも強張る。サムライが怪訝な顔をする。レイジが背凭れから背中を起こす。緊張が走る。 

 銀の右目と金の左目。金銀のオッドアイ。
 黒髪に入れた銀のメッシュ。

 その外見的特徴に当てはまる男をひとりだけ知っている。
 もう二度と会いたくない男だ。
 会うはずもない男だ。
 潮騒のように満ち引きを繰り返す雑音、箸を戦わせて飯を取り合うヤツらの怒声と罵声と呪詛、皿が舞い箸が飛び交いそこかしこで取っ組み合いがおっぱじまる大所帯ならではの悲喜こもごもの食事風景、その中から俺一人浮き上がって空白の世界に運ばれていくような錯覚に襲われる。

 銀の右目と金の左目。
 スタイリッシュなオッドアイ。
 狡猾な細面。恐ろしく酷薄な印象。

 『おねがいっ、ロンにひどいことしないで!』
 耳の奥に絹裂く女の悲鳴が響き渡る。
 荒廃した廃工場の奥、一際濃く闇が蟠った場所。
 床一面に散乱する酒瓶の破片を踏み砕き空き缶を踏み潰し大股にやってくる男、銀のメッシュを入れた黒髪と金銀の目、感情の起伏に乏しい無機質な無表情……
 無造作に伸びた手が胸ぐらを掴む。引き寄せる。引き上げる。
 背中に衝撃。
 背後の壁に体ごと叩き付けられる。女が悲鳴を上げる。
 息を呑む気配が周囲に伝わる。男が俺のシャツを掴んでむりやり捲り上げて肌を暴く。外気に晒された下腹部には拳大の青痣が咲いている。生じたての青痣に容赦なく膝が食い込む。
 激痛。
 『ロンにひどいことしないで!ロンは関係ないでしょねえ、ロンはただ私を庇おうとしてくれただけだからお願いだから許してちょうだい、ロンの分まで私があやまるからやめてよねえっ!!』
 女の嗚咽が激しくなる。
 青痣を膝で圧迫する男の腰に女がしがみつく。
 だが男はやめない。背中から壁に叩き付けた俺の上に屈みこみ腹に膝をめりこませ最大限の苦痛を与え続ける。暴力の愉悦に酔った酷薄な微笑、メタリックに輝く金銀の目、悦に入った表情……

 「ロン?」
 レイジの一声で目が覚めた。
 ハッと顔を上げる。
 一気に現実の物音が戻ってくる。空白の表情であたりを見回す。
 手元を見る。
 手が傾いで椀がひっくり返り、飯を半分ほどぶちまけていた。
 机にちらばった飯粒を数え、すぅっと目を閉じて動悸が鎮まるのを待つ。
 「………知らねえよ」
 冷静さを吸い込み、咄嗟に嘘をつく。
 一瞬臨界点を突破しかけた鼓動が次第に落ち着いていく。
 「東京プリズンには三万人いるんだ。廊下ですれ違ったとか強制労働で一緒になったとかあるかもしんねーけど、そんなヤツの顔までいちいち覚えちゃいられねよ。オッドアイ?だからなんだってんだ。ホセなんかいまどき七三分けに黒縁メガネだぜ。サーシャは銀髪でおかっぱだぜ。ヨンイルはツンツン頭にゴーグル、極めつけは全身の刺青だ。オッドアイ如き珍しくもねえよ、東京プリズンには見た目にハッタリ利かせたヤツがうじゃうじゃしてるんだ。どっかの王様しかり、な」
 目の端でレイジを捉える。
 褐色肌に映える金髪、光加減で猫科動物の黄金にも似る目、とんでもない美形に黒革の眼帯といったド派手な外見の王様はいつになくまじめに俺の横顔を見てる。
 「………そうだな。オッドアイの人間など昨今珍しくもない」 
 意外にもあっさり矛を収めた鍵屋崎に心底安堵する。
 箸を取り直して食事を再開、明るく話題を変える。
 「おおかた凱の子分だろうさ。俺と凱が取っ組み合ってるうちに二階にとんでって、皆で協力して本棚担ぎ上げたんだろうさ。俺の上に本棚おとすつもりが一歩間違えりゃボスまで巻き添えにしちまうとこだった。お笑い種だぜ、まったく」
 忙しく箸を動かし飯をかっこむ。
 大急ぎで咀嚼して飲み込めば飯が喉に詰まり、苦しさに咳き込む。
 そうだ、あいつがここにいるわけない、ここにいるはずない。
 あいつは今も娑婆にいるはず、チームの生き残りをかき集めて新宿の連中に仕返しをもくろんでるはずだ。
 あいつがここに現れるわきゃない、ここまで追っかけてくるはずない、そんな馬鹿げたことあってたまるか本当に。
 「大丈夫かロン。がっつくからだよ」
 レイジが優しく俺の背中を撫でる。
 喉のつっかえがとれて大分ラクになった。
 まだ何か言いたげな鍵屋崎には無視を決め込み、やや強引に話を打ち切る。
 「もういいさ、本棚に襲われた事は綺麗さっぱり忘れる。いちいち気にしてたら命がいくあったって足りやしねえ。東京プリズンじゃ頭の上から本棚が落っこちてくんのも犬に貞操狙われるのもぼうっとしてるあいだに飯が消えてるのも日常茶飯事だもんな」
 「そそ。人生楽しむコツは地獄を天国に変えるポジティブシンキングだ」
 せっせと背中を撫でる傍ら反対の手でつまみ食いしようとしたレイジにあてつけ、ちゃっかり野菜炒めを頂戴した手の甲をつねる。
 「いででででででっ!甲斐甲斐しく背中なでてやった恋人に対してひどい仕打ちすんなよ、ったくもー」
 「恋人って言うな」
 大袈裟に痛がりつつも顔はニヤけてるのが余計腹立つ。
 手をつねられて嬉しがるのはマゾな証拠だ。
 「まだ二・三回っきゃヤってねえくせに恋人面すんな、図々しいんだよ」
 レイジをぎゃふんと言わせたい一心で冷たくあしらえば、王様がわざとらしく指折り数えてみせる。
 「間違えんなよロン、もう四回ヤってるっつの。発情期を先越した子猫みてェにお前が甘ったるく鳴いた初夜とその次、所長にイジメられて傷心の俺を文字通りで体で慰めてくれた夕方。三回目はホセんとこから戻ってきた日の夜の対面座位、またの名を抱きつき抱っこ……」
 「口に出して言うな色鬼!!」
 慌てて口を塞ごうと身を乗り出すも咄嗟に体をずらされ、目測を見誤った俺の手はすかっと空を切る。危うく椅子から転げ落ちかけた俺には構わずレイジが嬉々として続ける。
 「本当のことだろ。出し惜しみするこたねえ、今だにキス止まり、エッチもしてねー清い仲の欲求不満ではち切れそうなサムライとキーストアにも教えてやれよ。俺はもうロンの体の隅々まで完璧に知り尽くしてる。どこを舐めりゃロンが感じるかどこをさわらりゃロンがイイ声あげるかどこをどうすりゃロンが絶頂にイくか王様はお見通しっわけだ。あー可愛かったなあ、俺の股間に顔埋めて夢中でフェラしてくれたロン」
 「……食欲が減退する話はやめろ。食事中に下半身の話題を上らすなど無神経極まる」
 「なんたる破廉恥漢だ。あきれかえった」
 異口同音に非難されてもレイジは全く動じず、だらしなく鼻の下を伸ばして惚気話を続ける。大仰な身振り手振りを交えて昨夜の俺がどんだけ素直で可愛かったかレイジに抱かれて悩ましい媚態と痴態を演じたか、そりゃもう周囲への配慮なんぞ一切なく、微に入り細を穿ちあることないこと吹き込んでくれた。
 顔から火が出そうな俺に、テーブル隔てた向こう岸の二人が同情の眼差しを注ぐ。
 いたたまれねえ。
 「ほんっと可愛いんだぜ、フェラしてる時のロン。こう俺の股間に屈み込んで不器用に舌使ってぺちゃぺちゃ行儀悪く音立てて、けど逆にそれが快感になってくるんだよなー。初々しい風情っての?フェラチオ処女の慣れない感じが出てて下半身の欲望刺激されちゃうわけよ。小さいお口を目一杯におっぴろげて息苦しさに涙ぐんで俺のモン咥えて……」
 「!このっ、メシ食ってる時にフェラの話なんざ最低だぞ!!てめェは床に這つくばって飯を食うのが似合いだレイジいいィいっ」
 キレた。
 今すぐ消え入りたい羞恥を無神経への反発に転換、勢いの余り椅子を蹴倒してレイジの胸ぐらを掴む。
 鍵屋崎とサムライがやれやれと嘆息、痴話喧嘩には付き合いきれないといった疲労の表情でトレイを掲げて起立。
 二人揃ってカウンターにトレイを返却にいこうとした……

 その時。
 非常識なまでに大音量のベルが鳴り響く。

 「なんだ?」
 真っ先に反応したのは鍵屋崎。
 椅子から腰を浮かした姿勢で胡乱げに天井を仰ぐ。
 眼鏡の奥の双眸が警戒心を帯びる。
 サムライは虚空の一点を見据えたまま条件反射で鍵屋崎を背に庇い、剣呑な光を含んだ目を周囲に走らせて動向を探る。
 俺とレイジは縺れ合ったままどちらからともなく虚空を仰ぐ。
 「うるっせえ、なんだこのベルは!?」
 「火事か?浸水か?核弾頭か?」
 「前代未聞の緊急事態ってか。一体全体なんだってんだ、こちとら食事中だってのに……」
 「おおかた所長が飼ってるバカ犬が変な物食って腹でもくだしたんだろうさ。緊急事態にゃちげーねーだろ」
 「犬のビチクソ注意報ってか」
 「メシ食ってる時にクソの話すんなこのクソが」
 食堂のあちこちで非難の声が上がる。
 大音量のベルに気分を害された囚人が各自中指を突き立てる椅子を蹴倒すトレイをひっくりかえす皿を放るなどのジェスチャーで一斉抗議、中指突き立てるジェスチャーに喧嘩を売られたと勘違いした囚人が殴りかかり蹴倒した椅子が隣の囚人にぶつかり、ひっくりかえったトレイの中身を至近の囚人がもろにかぶり宙高く舞った皿が長大な放物線を描いて机を隔てた囚人の後頭部を直撃。
 混乱が混沌を招いてあっというまに収拾つかない騒ぎに発展、腕っ節自慢の看守が怒涛の如くなだれ込む。
 「お前ら勝手な真似すんじゃねえ、豚は豚らしく脇目もふらず餌を食え、無闇に騒ぎ立てるな!」  
 「あぁん?聞き捨てならねえなそりゃ」
 「鼓膜が破れそうなベル鳴らしといて気にすんなたァ滅茶苦茶言うじゃねえか、看守さん。俺なんかベルにおっためげて味噌汁ぶちまけちまったよ。どうしてくれんだよ、え、まだ一口しか飲んでねえってのに!?一張羅の囚人服もこの通り味噌くさくて台無しだ、クリーニング代はもってくれるんだろうな」
 日頃抑圧された鬱憤が爆発、警棒ぶん回して鎮圧に乗り出す看守に囚人が食ってかかる。
 看守と囚人の小競り合いが多発、ますます食堂は酷い状態になる。天井すれすれを飛び交う未確認飛行物体もとい銀色に光るアルミ皿、床一面にぶちまけられた味噌汁と野菜炒めと沢庵、横転した椅子ともんどり打って倒れた食卓。
 「ほら見ろレイジ、お前のせいで下ネタ禁止令発令されちまったじゃねえか」
 「俺かよ!?」
 「罰として上唇から下唇に箸ぶっ刺してだんまり決め込め。アフリカ奥地の原住民族が素敵なアクセサリーだって褒めてくれるぜ」
 とばっちり食らっちゃたまらねえと机の下に緊急避難、レイジが俺の頭を押さえ込む。
 レイジとぴったり体を密着させ、床に腹ばいになったいわゆる「伏せ」の姿勢で狂乱の収束を辛抱強く待つ。
 目と鼻の先にけたたましく皿が落下、独楽のように回転する。
 めまぐるしく入り乱れる足と足、紺のスラックスを履いてるのが看守、黒と白の縞のズボンが囚人……
 「あ」
 鍵屋崎がいた。
 顔を、というよりメガネを守ろうとして危なっかしく手を翳してる。
 乱闘の喧騒にかき消されてよく聞こえないが、唇の動きから察するに『恵と命の次に大事なメガネだけは断じて守りぬく、たとえ僕の身を犠牲にしサムライを盾にしても』と本末転倒な事を呟いている。
 ……大丈夫かアイツ。
 盾に見立てたトレイで皿を跳ね返し、鉄壁の防御を築くサムライ。
 俺の目の黒いうちは鍵屋崎には疵一つつけぬと殺気走っている。
 「鍵屋崎、サムラ……っひあ!?」
 おまえらもこっちに来いよと呼ぼうとして、語尾が悲鳴に紛れる。
 鬼のような形相で振り返る。
 テーブル下の暗がり、人目がないのをこれ幸いと俺の背中に被さったレイジが悪戯っぽい含み笑いで思惑を代弁、腋の下に手を潜らせるや両手合わせて十本の指を独立させて動かし、敏感な所をくすぐりやがったのだ。
 『おまっ………死ね!本当に死ね!今すぐ床に頭突きして死ねっ、他の連中に声聞かれたらどうすんだよ!!』
 『嫌なら我慢しろよ。言う事聞けたらご褒美やる』
 恥知らずの王様め。
 性感にも似たくすぐったい刺激が腋の下から送り込まれ、体が不規則に痙攣する。
 慌てて口を塞ぎ、笑い声とも喘ぎ声とも付かないくぐもった呻きを辛うじて堪える。
 なにがご褒美だ、いちゃつく口実欲しいだけだろ結局。
 体が自由に動くなら思いっきり脛を蹴り上げてやりたいが、レイジにのしかかられたこの体勢じゃ物理的に不可能だと苦汁を飲むしかない。俺が抵抗できないのをいいことにレイジはますます調子に乗り、体の輪郭に沿って緩慢に手を滑らす傍ら、じゃれるように耳朶を食んで反応を探る。
 『あっ……レ、イジ、やめっ……四回ぽっち抱かれてやっただけで調子のって、ん、じゃねえっ……はぁ……お前なんか全然良くなかった、よ………俺は真っ当なんだ、男なんか全然よくねーよ、男なんかちっとも感じねーよ。梅花のがずっと良かった。柔らかくていい匂いがしてキスが上手くて、スカートからはだけた太股は目に染みるような白さで、ああ畜生、思い出したら勃っちまった……』
 俺のバカ。俺の下半身のバカ。
 妄想語りで墓穴を掘った俺の耳元でくすくすと笑い声。ぞっとするほど艶っぽい響きに背筋に快感の電流が走り、硬く張り詰め始めた先端が下着の地を突き上げる。
 『素直になれよロン。下が勃っちまったのは初恋の女の感触思い出したからじゃねーだろ?』
 なにもかも見通したような全知全能の響き。
 決して過剰ではない、男女関係なく虜にする魅力を自覚したヤツにだけ許される等身大の囁き。
 体に沿ってくねりおりた手が衣擦れの音も艶めかしく裾をはだけてシャツの中に忍び込む。

 熱い手が素肌にふれる。
 まさぐる。
 貪欲そのものの動きに徐徐に息が上がり始める。

 片手で口を覆い、目だけ動かして食堂の様子を窺う。
 誰も気付いてない。看守と囚人、囚人と囚人の争いは激化する一方でテーブル下でイチャつく俺たちには誰一人気付いちゃない。
 鍵屋崎がいた。サムライがいた。図書室で別れた凱もいた。
 鍵屋崎を背に庇い、空飛ぶ円盤の如く飛来する皿を片っ端からトレイで防御するサムライ。
 はるか向こうのテーブル上に仁王立ち、こぶしで胸を叩いて勝利の雄叫びを上げてるのは三度のメシより喧嘩好きな凱だ。
 「ふっ…………」 
 やばい。ぞくぞくする。
 レイジの手にふれられただけで体が悩ましく火照り、芯から疼いて疼いて仕方ない。理性が快感に流されかける。
 唇を噛んで踏み止まる。
 喘ぎ声だけは絶対漏らさないと心に誓って快感の波に抗うも、褐色の手がズボンの内側に滑り入った瞬間にその決意は萎えた。
 『でかくなってる』
 首の後ろに冷たい金属の感触……
 レイジの胸にぶらさがった十字架の感触。
 『人が大勢いる食堂で俺にさわられて感じるなんて、所構わず発情する恥ずかしいガキだって笑われてもしかたねーな』
 所構わず発情してんのはどっちだと反論したかったが、うっかり口を開けば言葉の代わりに喘ぎ声が漏れそうで、俺はしっかり奥歯を噛み締め、なすがままにされる屈辱と羞恥と憤怒とそれを圧して沸き起こる凄まじい快感を必死に押さえ込む。
 『いいって言えよ』
 『机の角に頭ぶつけて死んでこい。床に零れた脳漿拾ってやっから………ぁくぅ』
 手の動きが速くなる。
 ズボンの中に潜り込んだ手が怪しく蠢き、絶妙な緩急で俺自身を摩擦する。たまらず腰がへたれる。
 レイジは容赦なく俺を絶頂に追い立てる。俺の性感帯をどこもかしこも本人以上に知り尽くした指使いでもって竿を包み先端を爪弾き、繊細な変化に富んだ刺激を与え続ける。
 「あっ、はっ、ふぁ、は………」
 だんだん声が抑えきれなくなってきた。
 やばい兆候だと自覚するがどうにもならない、気持ちいいもんは気持ちいい。たまらず誘惑に負けそうになる。
 レイジの手に身を委ねそうになる。
 もっともっととねだるように腰が上擦り始める。
 浅ましく上擦った腰にレイジ自身を感じる。
 乱闘の騒音が遠のく。
 まわりで起きてる出来事が異世界の事のような距離感を覚える。
 『気持ちいいだろ』
 「よく、ね………」
 『強情っぱり』
 意地になって首を振る。
 首の後ろに息がかかる。
 はやくイきたいイきたいイきてえと訴えて腰を揺する。
 言ってることとやってることが真逆だと自分でもわかってるがこればかりはどうにもならない理性で自制できない射精寸前まで煽られた欲求を吐き出したくていよいよ本当におかしくなっちまいそうだ。
 目と鼻の先で皿が回る。
 縁の部分を縦に独楽のごとく回転する皿を目で捉え必死に気を散らそうと試みるも無駄だ、俺は床に顔を埋めてレイジの手の動きをもっと感じようと腰をくねらせ内腿に挟み込む。
 『愛してるって言えよ』
 『やなこった』
 『俺がいちばんいいって言え』
 『舌噛んだほうがマシ』
 『俺の手でイカしてほしいって泣いて頼まなきゃずっとこのままだぜ』
 イきたくてイきたくてイきたくてたまらない、このまま焦らされ続けたらおかしくなっちまう。
 拳に握った手で床を打つ。精一杯の抗議。
 レイジは無視。しつこくいじくられたペニスから垂れた雫を指の腹でのばして刷り込み、余裕の笑みを浮かべる。
 頼む、イかせてくれ。
 懇願の言葉が喉元まで出かける。寸手で押しとどめる。
 さすがに苛立ったレイジが俺のズボンごと足首まで引きずり下ろして下半身を裸にさせ………

 全く唐突にベルが止む。
 不吉な静寂が食堂を包む。

 ブツリと異音がした。放送が繋がる独特の音。
 皿とトレイと残飯とが散乱した床の上でくんずほぐれつしていた囚人どもが一斉に虚空を見る。

 ずりおちたズボンからケツの上半分を覗かせたまま肘を使って床を這い、机からひょっこり顔をだす。
 壁のはるか上方、天井に近い部分に等間隔に設置されたスピーカーからノイズまじりの音声が聞こえてくる。
 俺が今いちばん大嫌いなヤツの声。

 『緊急事態発生、緊急事態発生。これより東京少年刑務所の全囚人および全看守を視聴覚ホールに招集する。各自私の命令を最優先に集合するように。繰り返す。緊急事態発生、緊急事態発生。私の名は但馬冬樹、東京少年刑務所の最高権力者たる所長にして政府の信任厚いエリート中のエリートだ。東京少年刑務所の全囚人と職員に告ぐ。本日東京少年刑務所の存続を揺るがす未曾有の大事件が起こった。この放送を聴いた者は一人残らず中央棟の視聴覚ホールに出頭せよ。
 なおこの放送を無視した者は社会秩序に対する挑戦および所長に抵抗の意志ありと見なし看守・囚人の別なく独居房に収容する。諸君らに拒否権はない。この放送が終了次第全員視聴覚ホールに出頭せよ、上の決定に逆らった者は厳しく処分する。私こそが東京少年刑務所の最高権力者にして唯一無二の支配者、無能な家畜を従える霊長類のエリート但馬ふ』
 ぶつり。

 始まった時と同じ唐突さで放送が遮断される。
 変態の演説に嫌気がさした神様のはからいかもしれない。
 食堂が完全なる静寂に覆われる。
 互いの胸ぐら掴んだまま静止する囚人、囚人の頭をかち割ろうと警棒振り上げた姿勢で硬直する看守、どいつもこいつも呆気に取られた間抜けヅラをさらしてる。鍵屋崎とサムライも似たようなもんだ。 
 「緊急事態だあ?」
 「マジかよ。所長自らおでましってわけか」
 「所長自らマイク握って放送たあ前代未聞じゃねーか。聞いたか、あの所長の慌てっぷり。いっつも嫌味な笑い浮かべて俺らを見下してる所長が血相替えてるさまが目に浮かぶぜ」
 「火事か?浸水か?まさか外の世界で核戦争が起こって世界全滅人類絶滅の危機に瀕してて、砂漠のど真ん中の東京プリズンが生き残りだけを集めたシェルターになったとかそういうありがちなオチじゃねーだろな」
 「漫画の読みすぎだろ」
 「所長の焦りようからすると国連の査察でも入ったんじゃねーか。東京プリズンの実態バレたら人権問題に発展するぜ」
 「学がねー癖にわざとむずかしい事言って頭いいふりすんなよ、小卒のスラム育ちが」
 「ざけんな。託児所卒だ。しかも無認可」
 放心状態から立ち直った囚人どもがにわかにざわつきはじめる。
 鍵屋崎とサムライが不安げに顔を見合わせる。
 お気楽極楽レイジよかよっぽど真面目な意見が期待できる二人に今の放送の事を聞こうと机の下から這い出し、
 「「あ」」
 鍵屋崎が俺を見る。サムライが俺を見る。
 周囲の連中が示し合わせたように話をやめて一斉にこちらに向き直る。
 そして俺は思い出す。
 今の自分の状態を、
 ズボンを引き摺り下ろされてケツが半分見えて服はしどけなく乱れて、机の下でナニやってたか一発でわかる……
 自身の下半身を見下ろして硬直した俺の肩をぽんと誰かが叩く。
 ぎこちなく顔を上げる。俺の隣でにっこり笑ってる童顔のガキ……
 癖の強い赤毛とよく動く緑の目、愛嬌たっぷりに潰れた鼻と濃いそばかす、天真爛漫の形容が具現化したような茶目っ気が覗く笑顔……
 可愛い容姿に反比例して中身が黒い売り専の男娼、リョウ。 
 なれなれしく俺の肩に手をのせ、寄りかかるようにして体を凭せる。
 下半身を晒して佇む俺と机の下から顔を出したレイジを見比べ、一部始終合点がいったと頷き、リョウは言った。 
 無邪気な無神経を装った、この上なくタチの悪い愉快犯の笑顔で。

 「わーお。王様のデザートはロンってわけ?ご馳走さまっ」
  
 食堂中に爆笑が巻き起こる。
 リョウの一声で俺を指さし涙を流して爆笑する囚人ども、「俺たちが殴り合ってる時に机の下でいちゃついてたのか」「隅におけねーなあ」「おい半々、レイジに美味しく頂かれた気分はどうだ?」「そりゃもう甘くて瑞々しい最高のデザートだろうさ。一口で蕩ける気分、全部たいらげりゃ糖尿病ってな」「口のよこっちょに何か付いてるぜ半々。レイジの生クリームじゃねえのか、それ」………
 最悪だ。
 考え得うる限り最悪の事態だ。
 全囚人の笑い者になった俺の肩を、だれかが馴れ馴れしく抱く。
 わざわざ顔を上げなくても囚人服の胸にぶらさがった黄金の十字架で一発でわかる。
 「で?ロンの味はどうだった」
 背中で手を組んだリョウがスキップするような足取りで寄ってくる。
 好奇心半分からかい半分のリョウの問いに、胸に十字架輝く満腹の豹めいたご満悦の表情で唇を舐め上げてみせる。
 『He is very delicious』
 言い終わるが早く脛を蹴る。
 「~~~~~~~~~~~~~~~~~~っでえええええェえ!!?」
 これ以上ない的確さでもって脛に蹴りを入れた俺の隣、声にならない声で悶絶する王様をほとほとあきれた顔で眺め、鍵屋崎が俺の心の内を代弁する。
 「いいかレイジ、よく聞け。一般に動物の発情の周期はホルモンによって決まってる。しかし人間はこれに当てはまらない、何故なら人間には理性があるからだ。もし人間が野生動物の如く所構わず発情して交尾に及べば周囲に迷惑をかける、のみならず当事者はわいせつ物陳列罪の罪状に問われて最低でも懲役一年から三年の刑に処される。しかしながらホルモンの過剰分泌が原因で動物並みの理性と節操しか持たず、一年中発情している難儀な体質の人間もいることはいる。大抵の人間はその難儀な体質と折り合いを付け、社会規範から逸脱する事なく生きていく道を選ぶが、他ならぬ貴様が信仰上の理由だか性的嗜好による特殊なこだわりだかでそう出来ないというなら解決方法はただひとつ」
 一呼吸おき、眼鏡のブリッジを押し上げる。
 釘を打てそうに冷ややかな眼差しでレイジを視殺、蔑みとか嘲りとか全部通り越した諦観の表情で結論をのべる。
 「去勢しろ」
 天才に全く同感。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050420171657 | 編集

 「リョウさんあんたってひとはほんとにもー、人をどん底に突き落とす天才っスね」
 「TPOをわきまえない二人が悪いのさ。自業自得だよ」
 緊急放送で夕食を中断された囚人が不満たらたら移動を開始する。
 食堂を出発した大群に混ざり、腹八分目の僕とビバリーもえっちらおっちら歩き出す。
 ぞろぞろと廊下を占拠する囚人たちの間では冗談半分好奇心半分さまざまな憶測が飛び交っている。
 いわく「某国のミサイルがおちた」「日本以外全部沈没」「タジマ弟が病院脱走してヘリジャック、今まさにこっちに向かってるんだ」などなど……
 最後のはマジ勘弁。
 今のところ災害説が有力だけど所長のお話を拝聴するまで真相はわからない。
 「どうでもいいけどさー、所長のお話聞くためにわざわざ視聴覚ホールに行かなきゃいけないの?面倒くさいなあ」
 「最近弛んでますよ、リョウさん。天敵いなくなったからってだらけすぎっス」
 隣を行くビバリーが呆れ顔で指摘。
 天敵……静流。
 そうだ、静流はいなくなった。
 炉の灰となって東京プリズンから消えた。万歳。
 看守に命令して僕を輪姦させた上にクスリやらロープやらをゆすりとったアイツはもういないのだと現実と照らし合わせて再認識、清清しい開放感を満喫する。
 自然と足取りも軽くなる。
 「変わり身はやいってゆーかフキンシンにゲンキンってゆーか、天敵いなくなった途端に即復活なんてリョウさんらしいっスね」
 「とーぜん!僕の弱味掴んでるヤツが消えてくれて今最っ高にしあわせ。人生が楽しくてしょうがない。神様に感謝したい気分」
 両手を広げる僕にビバリーがため息を吐く。
 静流がいなくなってせいせいした。人生ばら色だ。
 これで残り収監日数を何ら憂いなく楽しく過ごせると今の僕は有頂天に舞い上がっている。さようなら灰色の日々。寝ても覚めても四六時中静流の影にびくついてたチキンハートにバイバイ。

 一ヶ月前、鍵屋崎を拉致って消えた静流の死亡が宣告された。
 レッドワーク焼却炉における転落事故が死亡原因らしいけど、詳細はわからない。
 焼却炉に落ちた遺体の回収は不可能。
 ならなんで静流が死んだとわかるんだという疑問は目撃者の存在で解消された。
 現場に居合わせた鍵屋崎とサムライが焼却炉におちて炎に包まれた静流の最期をしっかり証言したのだ。

 なんでその場にサムライがいたのかとか静流とサムライの間に何があったのかとか矛盾をつつけばきりがないけど、とにかく僕は静流が消えてくれただけで万々歳。クスリに頼らなくても最高にハッピーな気分がここ一ヶ月持続している。
 これでもう僕の弱味を掴んで脅迫するヤツはどこにもいないと胸を撫で下ろす。
 ……ん?なにか大事なこと忘れてるような。なんだっけ?
 腕を組んで首を傾げる。
 脳の奥で違和感が膨らむ。
 一体どの箇所にひっかかったんだろうと思考を遡る。
 『これでもう僕の弱味を掴んで脅迫するヤツはどこにもいない』……本当に?何か大事なことを忘れてないかと眉間に皺を刻む。
 「あー、もう少しなのに出てこない!いらいらするっ!」
 あともう少し、もう少しで思い出せそうなのに。
 突如暴れだした僕の背中をビバリーが「どうどう」とさすって宥める。出稼ぎの子守女みたいに癇癪のツボを心得た手つき。伊達に長い付き合いじゃないビバリーは僕の扱い方を心得ている。
 「らしくないな」
 「!」
 はじかれたように顔を上げる。
 僕の視線の先、5メートル前方に鍵屋崎ご一行がいた。
 手足を振り回すのをやめて背後に接近、鍵屋崎の言葉に耳をそばだてる。盗み聞き。ビバリーが咎めるように上着の裾を引っ張るのを振り切り、鍵屋崎の表情と口の動きに集中する。 
 サムライとロンは前を歩いていた。
 憤然と歩くロンを先頭に半歩遅れてサムライ、さらに遅れて鍵屋崎とレイジが並ぶ妙な組み合わせ。
 本来ならレイジとロン、鍵屋崎とサムライが四人二組になるはずなのに、食堂で恥ずかしい姿を披露した腹立ち治まらず大股に突き進むロンが迷子にならぬようにとお目付け役の侍がぴったり尾行する様子が微笑ましい。ある意味抜群のチームワーク、それぞれの立場と役割を弁えた最高の配置だ。
 付かず離れずの距離のサムライとロンを目で追いつつ、レイジと並んで歩く鍵屋崎が思案げに眉をひそめる。
 「前回と同じだ。前回はロンとの初夜の内容を食堂で暴露して不興を買ったというのに、性懲りなく同じ事を繰り返すなど学習能力が欠如してるとしか思えない。君らしくないぞ、レイジ。君がいかに品性下劣で性欲旺盛な男かは正しく現状認識しているつもりだが、ロンが本気で嫌がる事は二度としないと買いかぶっていたのだが」
 眼鏡越しの目が真意を推し量るように細まる。
 相手の心に切り込む鋭い眼光、眼鏡のレンズをも突き抜ける冷徹な眼差し。
 レイジは頭の後ろで手を組み鼻歌を唄っている。
 あくまでとぼける気か?
 聞こえぬふりで答えを拒否る態度に不快指数が跳ね上がったらしく、鍵屋崎の声が氷点下で凍る。
 「ロンの昔の男に嫉妬したのか?」
 鼻歌が不自然に途切れる。不均衡な沈黙。
 周囲の雑音が膨れ上がるのに反比例し、鍵屋崎とレイジのまわりだけ静寂が訪れる。すぐ背後の僕とビバリーも沈黙の重圧に唾を呑む。空気が帯電したように緊張が高まる。
 鍵屋崎とレイジが一瞬目を見交わす。
 長く伸びた前髪の奥、光加減で猫科の黄金にも似る目が細まる。
 知的な銀縁眼鏡の奥、涼しげな切れ長の目が屹然とした意志を宿す。
 「……勘違いすんなよ、キーストア」
 レイジが低く凄味のある声を発する。
 背筋がぞくりとする艶っぽい囁き。
 均整取れた長身をやや前屈みにして鍵屋崎の肩に凭れ掛かる。
 鍵屋崎は動じない。
 肉食獣の大胆でさもって縄張りを侵すレイジにも表立って動揺する事なく悠然と構えている。
 正論を嵩にきて人を見下す不敵な表情、自分にはそうする特権があると信じて疑わない生来の傲慢さ。
 鍵屋崎の肩に顎を載せたレイジが、耳朶を噛み千切るような動作でもって口を開く。
 「ロンの男は俺だけだ。昔も今もな」
 「なら何故そんなに苛立ってる」
 鍵屋崎が不思議そうに聞く。レイジが顔を顰める。 
 「苛立ってなんかねーよ」
 「食堂のアレはなんだ。大方ロンの頭上に本棚を落下させた犯人に対する牽制だろう?ロンが自分の物だと知らしめて手を出すなと宣戦布告したのか。余裕がないぞ、王様」
 「うるせえ。ほっとけ」
 鍵屋崎があきれたふうにかぶりを振り、神経質な指先でブリッジを押さえる。
 「性急だな。ロンに危害を加えようとした人間が東棟の囚人だと決まったわけじゃない。あの時図書室には東西南北の囚人がいた、ロンを狙った犯人が他棟の可能性も十分ある。食堂でロンを愛撫するなど破廉恥な行為に及んでも肝心の犯人が東棟に該当しなければ体当たりの牽制もなんら意味を成さない、単にロンの不興を買って終わるだけだ。君が一方的に不利益を被るだけだぞ?少しは自重しろ」 
 苦言を呈する鍵屋崎の肩にだらしなく寄りかかったまま、ふてくされたガキみたいに押し黙っていたレイジが放り出すように言う。    
 「……東の人間だろうがそうじゃなかろうが関係ねーよ。俺はただ、ロンを独占したいだけだ。完全に俺の物にしたいだけだ。ロンに手を出す命知らずは暴君が焼き滅ぼす。ロンに疵一つでもつけたら命で償ってもらうさ」
 「……呆れた男だ。僕の説得はまるきり無駄か」
 鍵屋崎の顔が疲労に翳る。
 「……ロンは犯人に心当たりがある」
 確信を込めた断言。
 「僕が犯人の外見特徴を述べた瞬間に表情が変わった。おそらく犯人はロンの知り合いだ。過去に因縁があるのかもしれない。何らかの理由でロンを恨んでいる可能性もある。今後もロンに危害を加えるかもしれない」
 「俺がいるさ」
 レイジが挑戦的に笑う。
 十字架の鎖に気障ったらしく指を絡め、掌にのせた十字架の疵だらけの表面にキスをする。
 伏せた睫毛の長さに見惚れる。
 神聖な光景。
 「俺以外の男には指一本ふれさせない。ロンは俺が守る」
 誓いを立てるように十字架を握り締める。
 鍵屋崎の視線の先にはロンとサムライがいる。
 ひとりずんずんと大股に突き進むロン、その背後を歩むサムライが「そんなに速く歩くと転ぶぞ」とお節介を焼く。
 言うが早いが絶妙のタイミングでロンがこける。
 ロンが前のめりにたたらを踏んだ瞬間、背後に控えたサムライが素早く肘を掴んで引き戻す。
 「……早速触れているが」
 「サムライはいーの。例外。アイツはお前しか見てないから」
 レイジが「わかりきったこと言わせんな」とぞんざいに手を振り、鍵屋崎が憮然と口を噤む。
 行進再開。
 無言で歩き出した鍵屋崎から隣のビバリーに目を移す。
 「ロンの昔の男出現か。楽しくなってきたね、こりゃ」
 「リョウさんだけっしょ。もうトラブルはこりごりっすよ」
 ビバリーがおどけて首を竦める。
 可哀想に、恋人に先立たれた傷心がまだ癒えてないのだ。
 危なっかしいロンに付き添うサムライ、二人並んで歩くレイジと鍵屋崎から尾行を気付かれない距離を保って廊下を進むうちに中央棟に到着。
 東西南北の囚人が流入した中央棟は底が抜けんばかりの大騒ぎで、視聴覚ホールに辿り着く前に死屍累々と行き倒れるヤツらが続出した。
 僕らが何とか無事視聴覚ホールに辿り着けたのは王様ご一行の後塵を拝したおかげ、王様の後光のおかげだ。
 東棟イチの実力者、ひるがえっては東京プリズン№1の実力者レイジの顔は先のペア戦で東西南北に知れ渡った無敵の通行証だ。レイジのすぐ後を歩く僕たちは、王様のお成りにびびりまくったヤツらが両岸に退いた道を行けばいい。
 らくちんらくちん。

 視聴覚ホールに到着。

 中は既に満員御礼だけど、王様一行は構わずずんずん進んでいく。王様の金魚のフンもあとに続く。
 「げっレイジだ!」
 「逃げろ、殺されるぞ!」
 ……レイジの顔を見たヤツらが泡を食って逃げ出す中、当の本人は「うひゃー盛況だね」と小手を翳してはしゃいでいる。 
 「すごい人っスねえ。視聴覚ホールに入れなかった連中が廊下に溢れかてるっス」
 視聴覚ホールからあぶれた連中を振り返り、ビバリーが気の毒がる。
 全囚人を視聴覚ホールに集めるのは無理がある。
 どだい三万人が入りきるわけない。三割が限界だ。その三割も人権を無視してぎゅうぎゅうに押し込んだ結果なわけで、人口飽和状態の視聴覚ホールはお世辞にも快適とは言い難く心なし酸素が薄まってる。体は殆ど動かない。立錐の余地もないって表現がどんな状況をさすのか体感する。
 「リョウさん半径1メートル以内を出ないでください、迷子になっちゃったら二度と会えないっスから!」
 「ビバリー、絶対離れないでね!今見捨てられたら僕ボロ雑巾のようにズタボロにされてポイされる運命だからっ」
 ビバリーの物言いも決して大袈裟じゃない。
 人込みに溺れてあっぷあっぷしながら必死にビバリーの手を掴む。
 ふと見れば鍵屋崎も似たような状態だ。
 「畜生、こんなに人がいたんじゃ前のほうで何が起こってるかさっぱりだよ!」
 喧騒が鼓膜を圧する。暴動の兆候。
 サムライがさりげなく鍵屋崎を庇う。
 レイジがロンを庇う。
 僕とビバリーは離れ離れにならないようしっかり手を繋ぎ合う……
 キィン、と耳に痛い金属音がした。
 超音波にも似た金属音が突如雑音を圧して響き渡り、囚人たちが堪らず耳を覆う。
 『静粛に』
 威厳に溢れた第一声がマイクを通して拡声される。
 耳鳴りが止むのを待ち、おそるおそる手を放した囚人たちが正面を仰ぐ。
 視聴覚ホールの正面。
 三段ほど高くなった場所に設置された演台に一人の男が立っている。
 爬虫類と酷似した陰険な双眸を嗜虐の光に濡らし、神経質な鼻梁に不快な皺を寄せ、薄い唇を癇性に痙攣させる。
 視聴覚ホールに集まった囚人たちを縁なし眼鏡の奥の双眸で油断なく睥睨、その一挙手一投足を制限するように眼光で圧する。

 東京少年刑務所所長、但馬冬樹。

 「ようやくおでましだ」
 興奮に弾んだ声で呟く。
 所長の背後には存在感を消して副所長が控えている。
 きちんとオールバックにした髪、銀縁眼鏡が似合う端正な風貌の壮年男性……安田。犬に欲情する変態と同列扱いされるのを固辞するかの如く上司から距離をおいている。
 所長が視聴覚ホールを見回す。
 潮が引くように雑音が止む。
 所長の視線にひと撫でされた囚人がそそくさと目を逸らす。
 挙動不審に俯く囚人たちのただなかで平静を保っているのはごくわずかな例外のみ。
 「もったいぶった登場の仕方」 
 皮肉に笑うレイジ。
 「裁判官か?」
 嫌味を言う鍵屋崎。
 「虫唾が走る」
 苦々しく顔を歪めるロン。
 「同感だ」
 思慮深く首肯するサムライ。
 四人それぞれの呟きが届かなかったのか、壇上に佇立した所長は改めてマイクを握り、冷静さを吸い込むように深呼吸……  
 威儀を正してご託宣を発する。
 『重畳なり、囚人諸君。先の放送から三十二分四十秒が経過、怠惰と怠慢が習慣化した家畜としてはなかなか統率がとれた行進だったと褒めておく。三十分以内に集まればなお良かったが諸君らが汚らしく餌を貪り食らっている最中だった事も踏まえて苦言は控える。私は寛容な人間なのだ』
 「どこがだよ」
 レイジがつっこむ。

 『先の放送で予告した通り所長直々に重大発表を行う。視聴覚ホールの外の囚人もよく聞きたまえ、君らの命運を左右する緊急事態が起こったのだ。無関心は処罰の対象とする。繰り返す。これより私が発表する事は囚人諸君はもとより東京プリズン全体の命運を左右する問題なのだ』

 異論反論を一切許さない弾圧の姿勢を誇示、抑制の利いた口調で告げる。
 切迫した表情から手に汗握る焦燥が伝わってくる。マイクを握り締めた手がぶるぶる震える。無表情に徹して動揺を押し隠そうと努めても激情に駆られているのは明らか。
 所長のただならならぬ様子に動揺が伝染する。
 視聴覚ホールに詰め掛けた囚人がざわめきはじめる。
 「一体なんだっての?東京プリズンでなにが起きたっての?」
 不安を飲み込んでビバリーに縋り付く。ビバリーは蒼白の顔色で押し黙っている。 
 「やっぱミサイルがおちたんだぜ」
 「世界滅亡まで一週間とか」
 「東京プリズンの地下に核シェルターがあるって噂ホントか?」
 「リンチで殺された囚人がゾンビ化してよみがえったんじゃあるめーな……」
 視聴覚ホールに集った一同が所長に注目する。
 狂乱の余熱を孕んだ異様な緊迫感の中、演台に両手を付き、悲嘆に打ちひしがれたか謝罪を乞うているようにも見える前傾姿勢で深々頭を垂れ、憔悴の色濃い所長が苦渋の声音を搾り出す。
 『東京少年刑務所始まって以来の未曾有の大事件が起きた。こんな事になって非常に残念だ。信頼を裏切られた気分だ』
 「だからなにが起きたってのさ、前置き長すぎだって!」
 遂に不満が爆発、所長に食って掛かろうとした僕をビバリーが「どうどう」と押しとどめる。真相を知りたいといきり立つ囚人たちを焦らしに焦らして暴動でも起こさせる魂胆なのか、悲劇の主人公ぶった自己陶酔にひたっているのか、肝心の所長が身動ぎしないまま数分が過ぎる。
 ストレスの蓄積に比例してどよめきが最高潮に達する頃、惰性的な動作で所長が顔を上げる。
 同情を乞う様にたっぷり間をおいて悲哀を演出、泣き濡れて真っ赤に充血した目であたりを見回す。

 『ハルが消えた』
 ………………………………………………………………は?  

 完全な静寂が場を支配する。
 虚ろな沈黙を自分に都合よく解釈した所長が、突如マイクを振り上げて絶叫する。

 『先日私の伴侶にして生涯の親友、種族を超えた絆で心身ともに深く結ばれた愛犬ハルが行方不明となった。副所長の散歩中の出来事だ。副所長の失策だ、彼がリードを付け替えるのに手間どっているあいだにハルは駆け出してしまった。ハルが行方不明になってからはや一日、失踪後24時間が経過しようというのにいまだ行方が掴めず私はハルの身を案じるあまり動悸息切れ眩暈不眠に悩まされている!!
 ああハルよ愛しのハルよお前は今どこにいる、迷路の如く入り組んだ東京プリズンの行き止まりで飢えてはいないか、喉をからしてはいないか、性欲を溜め込んで壁相手に粗相をいたしてないか、1メートル間隔でマーキングをしてはいまいか!?
 おおハルよ、お前の事を考えるだけで私は苦悩に苛まれ睡眠薬を服用しても眠れない。お前の身を案じるあまりトップが神経衰弱に陥っては東京少年刑務所の存続自体が危ぶまれる!!』

 マイク片手にハルへの愛を切々と謳い上げる所長、その剣幕は真剣そのもので一挙手一投足が殺気立っている。
 
 『囚人諸君に召集をかけたのは他でもない。私の魂の伴侶にして生涯の親友、種族を超えた愛の絆で結ばれたハルを見かけた者は即報告せよ!隠し立ては為にならんぞ。但馬ハル、オス、三歳。ドーベルマン。好物はチョコレートだ。人間のオスに欲情する性癖がある。ハルの行方を知る者は即刻名乗り出たまえ。これは所長命令だ!東京少年刑務所には約三万人の囚人がいる、三万人もの囚人が存在するならその何割かは逃走中のハルを目撃したはず、にもかかわらず目撃証言が得られないという事はハルを監禁して身代金を要求しようという悪辣な魂胆に違いない!!』

 「ばっからしい」
 「すわミサイルか日本以外全部沈没かってすっとんできてみりゃ所長の犬ころが逃げ出したって?」
 「変態所長の下の世話に付き合わされちゃ逃げ出したくもなるわな」
 「犬ころに同情」
 「帰ろ帰ろ。晩飯の途中だったんだ」
 あたりに倦怠感が漂う。
 肩透かしを食った囚人たちが三々五々引き上げていく。
 ハルの身を熱烈に案じる所長をよそに、視聴覚ホールを埋めた囚人たちはすっかり白けきった風情で世間話に興じたり下ネタを飛ばしたり小競り合いをおっぱじめる。
 「アルプス一万尺小ヤギのうーえで アルペン踊りをさあ踊りましょ」
 「動物虐待かよ」
 「所長よりマシだろ」
 「ハルもご主人様に愛想が尽きたんだろうさ」 
 「お暇をもらいますワン、てな」
 懐かしい手遊びをはじめるもの調子っ外れな声で唄い出すもの犬の鳴き真似をするもの……所長の演説には見向きもしない。
 「やってらんない。一大事っていうから何かと思って来てみりゃハルの公開捜査かよ」
 うんざり肩を竦めた僕の隣、ビバリーがしきりと首を傾げる。
 「変っスね。所長が犬にさかる変態でも言ってることは間違ってない、こんなに人が沢山いてどうして誰もハルの行方を知らないんでしょ?」
 「知ってても言う気がないだけじゃないの?あんまりばからしくてさ」
 「もしくは……」
 ビバリーが意味深に黙り込む。
 その沈黙に不吉な匂いを嗅ぎ取って身を乗り出す。
 壇上の所長はすっかり興奮している。
 所長の威厳もプライドもかなぐり捨て、行方不明のハルの捜査に血道上げる一人の犬バカに成り下がり、マイクをひっ掴んで涙声を張り上げる。
 『ハルを見つけ出して私のもとに連れてきた者に恩赦を与える』
 爆弾発言。
 視聴覚ホールが瞬時に静まり返る。
 瞳孔が開いた目からとめどなく血涙を流す他は表情筋をぴくりとも動かさず、爬虫類めいた無表情でのべつまくなしに続ける。
 『一年でも五年でも十年でも五十年でも諸君らの望む恩赦を与えようではないか、懲役を軽減しようではないか。ハルは私の伴侶だ。日本の婚姻法が伴侶の種族または性別など瑣末な事にさえこだわらぬなら籍を入れたいと思っている。ハルを無傷で連れ戻した看守には特別手当と出世を約束し、ハルを無傷で連れ戻した囚人には私の独断で恩赦を与える!ハルの身柄の確保最優先で貴君らに檻を出るチャンスを与えようではないか!!』
 視聴覚ホールに音が戻る。
 「マジ、かよ」
 「あのバカ犬を連れ戻せば本当にここを出られるのか?くそったれた刑務所を出て女を抱きにいけるのか」
 「リンチで殺されるのを待たずに大手を振って出てっていいのかよ!?」
 「娑婆のガキに会えるんだな」
 「父ちゃん母ちゃんに会えるんだな」
 「娑婆に出てまた女をヤれるんだな、あんちゃん」
 「そうとも、弟よ」   
 衝撃に硬化した囚人の顔が希望に輝く。
 興奮を孕んだざわめきが活性化し、やがて大歓声が爆発する。
 狂乱。
 所長の口約束を鵜呑みにして先頭切って走り出す者、抜け駆け許さじと慌てて追う者。押し合いへし合い足をひっかけ転ばし合い、エゴ剥き出しの醜い争いを繰り広げてハルの捜索に赴く囚人の中に特別手当に釣られた看守が加わり、怒涛の濁流となって廊下になだれでる。
 『さあ行きたまえ!一刻も早く、一分一秒でも早く私のもとにハルをつれてきた者に恩赦を与える!!』
 恩赦に目が眩んだ囚人どもが廊下に雪崩出たあと、閑散とした視聴覚ホールにとり残された僕とビバリーは、所長の口先に乗せられたバカどもにほとほと呆れ返る。
 「恩赦だって。まっさか」
 「実現するわきゃねっス。実現したら大問題っス」
 がらんとした視聴覚ホールを見回す。
 僕らの他に残っているのはわずかな人数。
 レイジ、ロン、鍵屋崎、サムライ。
 壇上の所長、副所長。
 そして……
 「………前に出たまえ、副所長」
 所長がため息まじりにマイクを置く。
 所長に促されて演台に立った安田が下を向く。
 「なぜハルを逃がした?」
 「故意ではありませんでした」
 「いや、あれは故意だった。君は私に反感を抱いていた。私を苦しめる為にわざとハルを逃がしたのだ」
 被告台に立たされた安田は突如始まった弾劾裁判に苦渋の色を濃くする。
 不条理な理由で詰られる安田を仰ぎ、鍵屋崎が一歩を踏み出す。
 サムライが鍵屋崎の肩を掴む。目が合う。首を振る。
 鍵屋崎が悔しげに唇を噛み、引き下がる。
 「君は以前から私に反抗的だった。私の指導方針が非人道的だと身の程知らずに意見したことさえある。君は以前から囚人に同情的だった。彼ら無能で無価値な家畜どもに感情移入するあまり上に立つ者として冷静な判断ができなくなっていた。まこと嘆かわしい事態だ。エリートの恥だ。そう思わないかね?」
 安田を中心に円を描くように徘徊する所長、その口ぶりが次第に狂熱を帯びていく。
 「君には期待してたのに、まったくもって残念だよ」
 言動の端々に憤激が迸る。性急な歩調で安田を中心に円を描き、ひどく苛立った様子で靴の踵を鳴らす。
 「家畜が好きなら彼らの仲間入りをするか?」
 所長が背広の懐に手を潜らせ何かを掴む。
 懐から出した手を一閃、風切る唸りを上げる鞭が安田を打擲する。
 安田がよろめく。鍵屋崎が息を呑む。ロンの顔が強張る。思わず駆け出しかけた二人をサムライとレイジが制する。
 折檻が始まる。
 「君には、まったく、失望、したよ。ハルの世話ひとつ、満足にできん、とは、エリートもおちぶれたものだな」
 被告台の安田が激しく折檻されて力無くしゃがみこむのを不可視の壁で傍聴席に隔離された僕らはただ呆然と眺めるより他なかった。
 「ハルに、万一の、事があったら、どう責任を、とるつもりだね」
 容赦なく鞭打たれ、安田が体を折り曲げる。
 「やめろ!」
 サムライの制止を振り切り駆け出す鍵屋崎、自ら盾となって所長と安田の間に割り込む。
 その横顔をヒュッと鞭が掠め、眼鏡が後方にはねとぶ。 
 眼鏡が床に落下する。
 鍵屋崎が床に落下した眼鏡に気をとられた隙にその頭上に鞭をかざす―……
 「家畜は死ね」
 サムライが咆哮を上げる。
 「直おおおおおおおおおおおおおおォおおおおおおおおおおおっ!!!」
 突き飛ばした鍵屋崎の身代わりに仁王立ちで鞭を受ける。
 所長が嬉々として哄笑する。
 「胸糞わりィぜ!」
 仲間のピンチにロンが行動を起こす。
 所長めがけて一直線に突っ込んでいくロン、サムライを鞭打つのに夢中で注意力が削がれていた所長はロンを突き倒されてしたたかに背中を強打、その手から弧を描いて鞭が放擲される。
 「今だっ、鍵屋崎と安田を連れて逃げろサムライ!」
 所長とくんずほぐれつしながら喚き散らすロン、その叫びに急き立てられたサムライが鍵屋崎を抱き起こし二人協力して安田を助け起こす。 鍵屋崎に背中を支えられ上体を起こした安田が疵の疼きを堪えて警戒を促す。
 「ロン、前方に注意しろ!『彼』が来る!」
 「え?」
 所長を押し倒したロンの頭上に影がさす。
 反射的に顔を上げる。
 予想外の人物の登場に驚愕、衝撃。
 僕もあんぐり口を開け言葉をなくす。
 悪名高い鉤十字の徽章が付いた帽子を被り、ナチスの軍服を端正に着こなした男が、貴婦人に接吻するように優雅に腰を折って鞭を拾い上げる。
 どこかで見た顔。
 肩で切り揃えた銀髪は雪原の美しさ、健康的な張りと艶をとりもどした肌に映える薄氷の目。悪役の代名詞たるナチスの軍服に身を包み、猛獣使いもかくやとあざやかに腕を一閃して鞭を打ち振ったのは……

 「ご機嫌麗しく久方ぶりとでも挨拶すべきか?主に似てやんちゃの治らぬ王の猫よ」
 
 美しく様変わりしたサーシャだった。 


少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050419205111 | 編集

 驚きのあまり二の句が継げない。
 「なっ………」
 一同愕然とする。
 サムライが不快げに眉を顰める。
 所長と激しく揉み合うロンが振り上げた拳を停止させる。
 レイジが大口開ける。
 一同の注視を浴びて悠然と佇むのは、美しいデザインの軍服にかっちり身を包んだ銀髪隻眼の男。
 サーシャ。
 レイジに敗北した廃帝。
 「サー、シャ?」
 ロンが目をしばたたく。
 自分が目にしてるものが信じられないといった虚心の表情。
 サーシャは冷厳とロンを見下す。
 顔半分を覆う黒革の眼帯が、耽美な容貌に底冷えする凄味を与える。
 「どうした?よもや私の顔を見忘れたか。物覚えの悪い猫ならあり得ることだ」
 歓喜が滴るような囁き。蛇の舌で鼓膜を舐められるような。
 サーシャが生き生きと鞭を振る。腕を振り被った反動で鎌首もたげる蛇の如く勢い良く鞭が跳ね上がる。ロンがびくりと首を竦める。条件反射。
 見違えた廃帝に吃驚するロンのもとへと軍靴の音も粛々と接近する。
 自信漲る足取り。
 規則正しく足を繰り出し指揮棒を振るが如く鞭で床を叩く。
 床で跳ねた鞭が鎌首もたげる蛇の如く邪悪に伸び上がる。
 硬質な軍靴の音が聞こえてくる。軍靴の踵を打ち鳴らして歩み来るサーシャを待つ間ロンは一言も発さず、ただただ目を見開いていた。
 僕もまたサーシャの勇姿に目を奪われていた。
 ナチスの軍服がよく似合っている。
 考えてみればこれ程サーシャにふさわしい服装もない。
 人種差別主義者にして単一民族至上主義者、ドイツ第三帝国の野望に燃えて何百万人ものユダヤ人を強制収容所送りにしたヒトラーとサーシャの思想は極めて近しい。金髪碧眼のアーリア人をこの世で最も優れた人種と見るかロシア人をこの世で最も優れた人種と見るかの違いだけで、それ以外の人種を差別し迫害し嫌悪し唾棄し排斥する過激な言動は間違いなくヒトラーの流れを汲むものだ。
 「偉大なるロシア皇帝の顔を見忘れるとは呆れた猫だ。お前の主人の目を抉った男だぞ。忘れたならとくと覚えろ。私の名はサーシャ。かつて北の皇帝として君臨し今は所長の傍らに仕えて、貴様ら無能なる家畜を強制収容所もといコルホース送りにする役目を仰せつかった偉大なる皇帝の成れの果てだ!!」
 自嘲とも自虐とも付かぬ口調で高らかに宣言し、狂気の哄笑を弾かす。
 饒舌に自己紹介しながら大股に歩を繰り出す。
 その間も床を鞭打つ手は止めない。
 軍靴の音が近付いてくる。狂気の哄笑が大きくなる。ナチスの軍服に身を包んだ皇帝の目が爛々と輝きだす。
 憎悪にぎらつく薄氷の目。
 薄氷が砕けた下から憤怒が迸りそうに苛烈な眼差し。
 ロンは所長に跨ったままあんぐり口を開け茫然自失してる。ロン逃げろと声を限りに叫びたくとも僕自身呂律が回らない。僕は安田の背中を支えたまま、サーシャとロンの距離が徐徐に縮まりゆくさまをまんじりともせず見守るより他ない。今から駆け出しても間に合わない。靴音が止む。踵を揃えて起立するサーシャを前にロンがごくりと生唾を呑む。
 「サーシャ、お前」
 緊張の面持ちで第一声を発する。
 「頭がイカレてるのは前から知ってたけど、服の趣味だけはまともかと思ってたぜ」
 ………言ってしまった。しかも本人に。
 単刀直入、僕が最も指摘したいと思ってた箇所に突っ込んだロンをサーシャが冷え冷えと見返す。
 眼光の威圧。凍り付いたような沈黙。
 のっけから禁句を発したロンはしげしげとサーシャを眺め、感心したような呆れたような微妙な表情を浮かべている。
 否、「物珍しそうに」といった表現がいちばん妥当か。
 自分が所長に馬乗りになっていることも忘れたまま、脳天から爪先まで食い入るように軍服姿のサーシャを見つめては、極めて正常な一般人の反応として眉をひそめる。
 似合っているか否かは別として奇異なものを見る表情。
 即ち理解不能。
 「………皇帝を愚弄する気か、貴様」
 愚直すぎるが故に刺さる問いを投げられ、サーシャの声が氷点下で凍る。
 皇帝の高貴なる服装趣味を解さないとは嘆かわしいといった軽蔑の表情。
 怒りも露わに凄味を発散し、手にした鞭を振り上げようとしたサーシャを止めたのは能天気な笑い声。

 「あっははははははははははははははははははっはははははははは!!!偉大なる皇帝陛下にコスプレ趣味があったなんてびっくり仰天頭が真っ白になっちまったぜ!しかもナチスだあ?。マニア垂涎のナチスの軍服にかっちり身ィ包んで一体そりゃ何の真似だよサーシャ!体当たりで笑いとるつもりならお見事大成功だぜ。偉大なるロシア皇帝が他国の軍服着るなんざ祖国に対する裏切り行為じゃねーのかよ、他国に魂売り渡すような真似してロシア皇帝の誇りはどこへやったよ、棺桶に入れて土の中に埋めちまったのかよ?だいいちナチスの軍服着た自称ロシア皇帝なんざどこの国の人間だか皆目わかんねーっつの」

 ふと見ればレイジが腹を抱えて笑い転げている。
 発狂したような笑い方にこちらまで不安になる。
 床にひっくり返って手足をばたつかせ、かと思えば背中を仰け反らせて身を丸め、平手でバンバン勢い良く床を叩いて全身で笑いを表現するレイジにサーシャはおろか僕らも呆然とする。
 哄笑の発作に襲われてあちらへこちらへ転げ回る姿は滑稽を通り越して奇怪だ。
 怒りを通り越した恥辱にサーシャの顔が上気する。
 鞭を握りしめた手が不吉にわななく。
 睨み殺さんばかりに牽制するサーシャを無視し、空気を読まない王様はさらに無邪気に追い討ちをかける。
 「しっかりロシア皇帝からドイツの軍人に一ヶ月で早変わりなんざ波乱万丈の転落人生だな。退屈してねーみたいで羨ましいかぎり。何がどうしてそんな愉快なことになったんだか教えてくれよサーシャ。ちょっと見ねえあいだにお肌艶ピカの別嬪さんになっちまって、流氷の天使クリオネの化身かと思ったぜ」
 笑いすぎて酸欠寸前、大粒の涙を目にためたレイジがのたうちまわる。
 どうやらツボにはまったらしい。
 笑いの発作が終息するまでの気の遠くなるほど長い間、サーシャは鞭を握り締めてただじっと耐えた。
 怒りが沸点に近い兆候にこめかみが青筋立ち、鞭を握り締めた手がぎりっと軋む。
 歪めた唇の隙間から犬歯が覗く。
 レイジはまだ笑い止まない。
 サーシャの軍服姿を見るたび無限の笑いが込み上げてくるらしく、腹筋が痛くなってもまだ喉を引き攣らせて笑い続けている。
 「あははははははははははっ、おっもしれーなー。もう最高。ロシアの殺し屋おそろしあ、そういうあんたはドコのドイツ人?お前ホント最高だよサーシャ、わざわざナチスの軍服に着替えてまで体当たりで笑いとろうって魂胆ならあっぱれ大成功だよ。つーかなんでナチス?なんで軍服?ロシア皇帝の癖によー。節操なさすぎだろ、さすがに。ウラーロシア!ウラーツァー!って大威張りしてる癖にナチスのかっこいい軍服に憧れたりしちゃってたわけか、流行に敏感な皇帝サマは」
 「レイジ、もうそのへんにしとけよ……」
 一方的に笑いのめされるサーシャがさすがに不憫になったのか、このままでは笑い死んでしまうと不安になったのか、ロンがおそるおそるレイジに声をかける。
 サーシャは思考停止状態だ。
 怒りが沸点に達した証拠に極限まで見開かれたアイスブルーの目が漣だち、不規則な呼吸に合わせて軍服の胸が大きく上下する。
 瘴気を孕んだ銀髪がざわりと揺れる。
 全身から殺気が放たれる。
 「これは、私の趣味ではない」
 漸くそれだけ言った。搾り出すように。
 サーシャが哀愁漂わせて所長を見る。
 床に倒れ伏した所長が息も絶え絶えに命じる。
 「私の上に乗っている囚人を、どかせ」
 サーシャが動く。しなやかに振り上がった腕につられて宙を泳ぐ鞭、風圧。獲物に牙突き立てようと飛来した鞭を間一髪かわすロン、そのはずみに所長の上から転落して背中を強打する。サーシャは巧みに鞭を使いこなす。ナイフに勝るとも劣らぬ巧妙な腕捌きで死角を狙い、手首の捻りと返しを用いた変則的な動きでもって肩や脇腹や腿を打擲する。
 「死ね!皇帝を愚弄する輩は皆死ね、我がロシアがドイツに買収されたと法螺吹く者はギロチンの錆となれ!!」
 「誰も言ってねーよそんな事!?」
 サーシャの猛攻に翻弄されるロンを見るに見かねて叫ぶ。
 「狂人の妄想に惑わされるな、攻撃の回避に集中しろ!」
 サーシャが嬉々と哄笑しながら腕を一閃、腕の延長の如く鞭を操ってロンの肩を痛打する。囚人服の肩が裂けてロンの顔が苦痛に歪む。肩を打擲された痛みにも耐えて踏み止まるロンだが、怒り狂ったサーシャの剣幕に圧倒されてじりじり後退を余儀なくされる。  
 「鞭は卑怯だろ!?こっちは素手だぜ!!」
 ロンの非難にも眉一筋動かさずサーシャが腰を低めて突進、嗜虐の悦楽に酔った笑みが口元に浮かぶ。ロンが慌てて頭上で腕を交差させるも間に合わない、腕の防御をかいくぐった鞭が顔面にー……
 「!?っ、」
 無防備な背中に蹴りが炸裂する。
 レイジだ。
 「俺の事無視すんなよ。遊ぼうぜ」
 レイジが手招く。挑発。間一髪、鞭で額を割られて顔面が血まみれるになる惨事を免れてロンがへたりこむ。
 サーシャの背中を蹴って自分に注意を向かせたレイジがロンに顎をしゃくる。撤退の合図。ロンは唇を噛む。強情な顔つきでレイジを睨み返し、打たれた腕を庇って何とか立ち上がろうとするも、一歩ごとによろける始末で見ていられない。
 「相変わらず優しいな。飼い猫を逃す為に自分が犠牲になるか」
 サーシャが唇を吊り上げて嘲弄する。その手に垂れ下がった鞭を一瞥、レイジが感想を述べる。
 「ナイフから鞭にくらがえしたってわけか。浮気性の皇帝だな。お前にさわってもらえなくなったナイフが泣いてるぜ」
 「勘違いするな」
 サーシャが不機嫌に吐き捨てる。  
 「お前を殺さず嬲るにはナイフより鞭のほうが適してると気付いたまでだ。ナイフは出血が多い。まかり間違って失血死したらつまらない。鞭なら多少手荒いまねをしても血が流れすぎる事はない。幸いにして鞭の扱いも仕込まれているからな、私は」
 サーシャがうっすらと微笑む。肩で切り揃えた銀髪が誘うように揺れる。薄氷の目が冷え冷えと輝く。
 氷のような美貌。
 「ヤク抜きだけでそんなに変わるなんて奇跡だな」
 レイジが感心したように言う。 
 「地獄の苦しみの一ヶ月だった。この一ヶ月というものクスリ絶ちの禁断症状に苦しめられた。皮膚の下の血管を蟲が這う幻覚に苛まれて全身かゆくてかゆくて仕方が無かった。血管の中で蟲が蠢く幻覚で気が狂いそうだった。それでもお前を夢に見ぬ日はなかった。お前とまみえる日を夢見て地獄の苦しみにも耐え抜いた、お前を倒して北に帰る日を夢見てあの地獄から生還したのだ、私は!!」
 薄氷の目がぎらつく。氷の美貌に禍々しい表情が浮かぶ。
 「会いたかったぞ、レイジ」
 サーシャが官能の吐息に溺れる。
 完全に妄想の虜と化した悦楽の表情。
 優雅な動作で腕をさしのべ、抱擁の体勢をとる。
 両手を虚空にさしのべたまま無防備に歩み寄ったサーシャが、不敵に微笑むレイジの前で立ち止まり、麦藁の髪に指を潜らす。
 「ナイフを滑り込ませばたやすく千切れる藁の髪も」
 欲情を煽る指使いで藁色の髪をすくい、指に絡める。
 「刃が食い込めば血に染まる褐色の肌も」
 名残惜しく髪を放した指が褐色の首筋をたどり、シャツの襟刳りに潜り、鎖骨をこする。 
 「綺麗なだけが取り得の出来損ないの硝子の目も」
 シャツの内側に潜り込んで鎖骨をなでる手が不快なのか、うざったそうに顔を背けるレイジと逆にサーシャの行為はエスカレートする。
 「お前に会いたくて仕方が無かった。薄汚れた混血の犬に会いたくて気が狂いそうだった。お前のその混血特有の薄汚れた髪と肌と瞳が恋しくてたまらなかった。お前に会いたかった。お前を犯したかった。地獄の一ヶ月で正気を保てたのはお前の存在あったからこそだ。礼を言うぞ」 
 「所長の手下に成り下がったわけは?」
 サーシャの愛撫に息も乱さずレイジが聞く。
 「彼は『調教助手』だ」
 サーシャの代わりに答えたのは、漸く立ち上がった所長だ。
 ロンに押し倒されたはずみに乱れた髪と服を整えてから、眼鏡の奥の目に陰惨な光を宿し、僕らをねめつける。
 「調教助手?」
 どういうことだと安田を仰ぐ。
 傍らの安田は返答を拒否するかの如く無言で俯く。
 サムライと顔を見合わす。サムライもさっぱりわけがわからないと首を振る。疑問の眼差しを浴びた所長が、さも愉快でたまらないといった様子で声高に説明する。
 「彼はさる筋から斡旋された私の護衛兼調教助手だ。以前から思っていたのだ、東京少年刑務所の風紀を正すには私一人では手が足りないと。私は考えた。政府の信任厚いエリートとして派遣された私は残念ながら東京プリズンの内部事情に通じてるとは言えず、看守や囚人の中には私に反発を抱いてる者も少なくない。そこでだ」
 一呼吸おき、所長が満足げに微笑む。
 「囚人の中からこれはと思う人材を探し出し、私に代わる監視役に任命した。身内の中にスパイを紛れ込ませて規律違反の調査をするのは非常に効率が良い。実は本日の集会で彼を紹介するはずだったのだが……ハルの身を案じるあまりうっかり忘れてしまった」
 「サーシャの優先順位は犬に劣る。つまりサーシャは犬に劣る」
 事実を言った僕に、サーシャが射殺さんばかりの眼光を叩きつける。
 「誇り高い皇帝サマが所長に下る事をよくぞ承知したもんだ。いつからそんなに謙虚になったんだよ?」
 「お前を嬲る事ができるなら飼い殺しの辱めもあまんじてうけよう」
 「彼と私の動機は一致している。即ちレイジ、君を『嬲る』事だ」
 サーシャの傍らに歩み寄った所長の言葉に、今にも飛び出しかねないロンが拳を握る。
 「私と彼は実に共通点が多い。君を犬だと思っている。君に執着している。君を嬲る事に悦びを感じる。君を虐げて性的興奮を覚える。私たちの嗜好は実に似通っている。私の目的は君から『アレ』の在り処を聞き出す事だが、彼はただ君を嬲りに嬲って嗜虐の悦びに酔いたいと思っている。目的は違うにしろ動機と手段が同じなら良い主従関係が結べると思ってね」
 「主従だと?」
 サーシャの顔がひくつく。鞭を握った手に力がこもる。
 所長がよそ見した隙に鞭打ちかねない殺気が膨れ上がる。  
 「さる筋からの斡旋……?」
 嫌な予感がする。
 サムライも同じ疑問を抱き、眼光鋭く視聴覚ホールを見回す。
 所長の扇動で囚人があらかた消えた視聴覚ホールは深閑としてる。
 残っているのは僕たち四人の他には安田、所長、サーシャ、そして……
 「いたのか、リョウ」
 「いたよ!今気付いたのかよ!」
 「リョウさんおさえておさえて!」
 二十メートル離れた場所にへたりこんだリョウが半泣きで抗議するのをビバリーが宥める。
 リョウとビバリーはどうでもいい。
 いてもいなくてもどうでもいい存在だ。
 一旦二人に止めた視線をまた移行させ、広大な視聴覚ホールを見回す………
 ハッとする。
 視聴覚の出入り口付近の壁に凭れている人影が二人。
 一人は額にゴーグルをかけた少年、出入り口を挟んだもう片方の壁に寄りかかっているのは………
 今時七三に分けた髪形、聡明に秀でた額、野暮ったい黒縁眼鏡の奥では柔和な目が微笑んでいる。   
 セールスマン風の地味な容姿を囚人服に包んだ男が、僕の視線に気付いてにこやかに会釈する。
 壁から背中を起こして歩き出す。
 大股に歩き出した男に続きゴーグルの少年もまた軽快な足取りで歩き出す。
 「!」
 二人の接近に気付いたロンが危うく声をあげかけ、ぐっと飲み込む。
 「………」
 サムライの目が胡乱に細まる。
 「………策士だな。あそこでずっと見ていたのか」 
 安田が冷静に評価する。
 「同感だ。いざ事が起こるまで、否、事が起こってからも部外者のふりをしていたのか」 
 苦々しく吐き捨てる僕の視線の先、ふてぶてしい足取りで接近した七三分けの男がサーシャを卒なく賛美する。
 「その軍服お似合いですよ、サーシャくん」
 「………他国の軍服など着たくはなかった。汚らわしい」
 「お兄さんとお揃いが良かった?」
 「!なっ、」
 サーシャの顔が赤くなるのを横目で捉え、笑いを堪えて僕らに向き直ったホセが、悪びれたふうなくいけしゃあしゃあと宣言。
 「そうですとも。サーシャ君を調教助手に推薦したのは何を隠そう我輩ホセですとも」
 「さあ、なにかご質問は?」というように威厳たっぷりに僕らを見回す。
 レイジが手を挙げる。
 「はいレイジ君」
 「サーシャをお持ち帰りして一ヶ月たっぷり洗脳調教したあげく所長に売り渡すなんざ何考えてんだ?ぶっちゃけすげー迷惑」
 「遠路はるばる東京プリズンに来られた所長へ心尽くしの『貢ぎ物』ですよ」
 サーシャが何か言いかけて口を噤む。その反応からして弱味を握られてる疑いが濃厚だ。
 「なにを企んでるんだ?」
 「企んでるだなんてとんでもない。我輩はただ所長とお近づきになりたいだけです。所長と懇意になっておけば何かと融通利かせてもらえるかもしれませんし、今後の南棟の事を考えるなら貢物のひとつやふたつ捧げても惜しくはありません」
 嘘か誠かわからない。
 人を食ったホセの隣にはヨンイルがいる。床にしゃがみこんだ僕のそばに駆け寄り、ぎょっとするほど近くに顔を突き出す。
 「直ちゃんだいじょぶか?どこも怪我ないか?」
 「……眼鏡がおちた」
 「割れてへんなら大丈夫」
 「待て。君はずっとあそこにいたのか。出入り口付近で僕らを眺めていたのか」
 興奮のあまり胸ぐら掴んで詰問すれば、ヨンイルが弱りきった半笑いを作る。
 「いやー。直ちゃんが鞭打たれたらそっこーとびだしてこー思うたんやけど、サムライなら別にかまへんかなーって……ほら、殴られた恨みもあるし」
 「……僕以外は本当にどうでもいいんだな」
 サムライの顔が険しくなる。たははと笑うヨンイルに脱力、ばかばかしくなってその胸ぐらを突き放す。
 「ちょうどよい具合に全員揃ったな」
 不吉な呟きに全員揃って顔を上げる。縁なし眼鏡の弦を押し上げて所長がほくそ笑み、安田、ヨンイル、レイジを見詰める。
 「安田」
 即座に立ち上がる安田。腕の怪我が痛むのか姿勢が前屈みになっている。
 「今を去る事一ヶ月前、所長の許可なくジープを運転して砂漠に出た罪は重い。おまけに君の乱暴なせいでエンジンが故障してしまった。ヨンイル」
 続けて名指しされたヨンイルが、「しゃあないなあ」と渋々立ち上がる。
 「君はバスを暴走させた末に事故を起こした。バスは大破してエンジンが故障、タイヤを全交換するはめになった。窓ガラスもだ。刑務所の管理に従うべき立場の囚人がバスを強奪して暴走するとは重罪に値する」
 一呼吸おいてレイジに向き直る。
 眼鏡の奥の目が一層鋭い光を帯びて細まる。
 「最後にレイジ。君は規則違反だとわかっていながら副所長が運転するジープに同乗し、強制労働時間外に砂漠に出た。囚人が強制労働時間外に砂漠に出るのは脱獄を意図した重大な規則違反だ」
 安田、ヨンイル、レイジの順に並んで立たされた三人の反応は三者三様だ。
 安田は重く責任を感じて所長の言葉を受け止めている。
 エリートの規範たる誠実な態度。
 悄然と項垂れた様子から反省が窺える。
 その隣のヨンイルは至って飄々としている。
 所長のお説教もどこ吹く風と鼻をほじり、「お、でかいのとれた」と指先で捏ねて、事もあろうにサーシャに狙いをつける。
 ヨンイルが指で弾いた鼻くその弾丸は放物線を描いてサーシャへと飛んだが、サーシャの眉間を穿つ前に鞭の一振りで撃ち落とされた。
 「ちぇ。さっちゃんのいけずぅ」
 ヨンイルが舌打ち。
 レイジは黙っている。
 欠伸を噛み殺すような退屈な表情から余裕が窺える。
 挑戦的ともとれる大胆不敵な態度には反省のかけらもない。
 絡み付くようにいやらしい視線で三人をなぶり、所長が決定を下す。
 「今呼ばれた者は所長室に来い。罰を下す」
 「!そん、な」
 ロンが叫び、衝動的に所長の方へ駆け出そうとする。
 「なんでだよ、なんでレイジとヨンイルだけなんだよ!?俺だって安田が運転するジープに勝手に飛び乗ったのに何でお咎めなしなんだよ、ずりーだろそんなの、罰を与えるなら俺もっ………」
 相棒ひとりに罪を負わせられないと胸に手をあて主張するロンを無関心に一瞥、ついでのように言う。 
 「忘れていた。君もいたんだな。君もお仕置きされたいのかね?」
 露骨な嘲弄にロンがぐっと押し黙る。
 体の脇で拳が震える。
 今にも殴りかからんばかりの剣幕のロンを放っておけず、安田やヨンイルやレイジが罰則を破ったのはそもそも僕のせいだという自責に突き動かされ、僕もまたサムライの制止を振り切ってロンの隣に並ぶ。
 「待て、所長。彼らは僕を助けにきたんだ。万一彼らが救出に来なければ僕の手当ては遅れて死に瀕していた、最悪死亡していた。彼らが規則を破ったのは僕を救出する為、ならばとうぜん僕にも罰則が適用されるべきじゃないか!?」
 「実に美しい友情だ。我が身を挺して互いを庇いあうとは……感動した」
 言葉とは裏腹にさめきった口調で嘯き、所長が音のない拍手を送る。
 「いいから引っ込んでろよ鍵屋崎、お前は関係ねーよ!」
 ロンが唾を飛ばして怒鳴る。
 「関係ないとはなんだ。そもそも今回の出来事は僕の原因だ、関係ないことがあるか愚か者。安田がジープを走らせヨンイルがバスを盗みレイジと君がそれに便乗したのは拉致された僕を救出する為だ、ならば最も罪が重く罰が厳しいのは行動方針を決定づけた僕だ。どうだ、納得したか」
 「納得しねーよ!」
 「天才の言う事を聞け」
 「理不尽だ!」
 「理不尽なのは君だ」
 どこまでも強情なロンに苛立つ。
 僕の言う事は間違ってない。絶対に間違ってない。
 安田、ヨンイル、レイジ、ロン。
 彼らが極端な行動に出たのは全て僕の責任だ。
 彼らを極端な行動に走らせた原因は他の誰でもなく「僕」なのだ。
 間接的だろうが直接的だろうが僕が規則違反に関係しているなら責任をとるのが当たり前だ、僕とて一端の責任を担うのが当たり前だ。彼ら四人に罪を負わせられない、彼らだけに責を課させたくない。
 ロンの肘を掴んで強引に引き下がらせ、入れ替わりに前に出る。
 眼鏡のブリッジにふれて冷静さを保ち、屹然と所長と対峙する。

 所長と目が合う。
 視線が絡まる。
 爬虫類に似て陰険な双眸が細まる。

 所長の目を真っ直ぐに見つめ、一言一句に真実の重きをおいて説得する。
 「彼らはただの馬鹿だ。天才の言動に影響された凡人どもだ。行動の引き金となった僕こそこの場でいちばん責められるべき人間だ」
 「直の言い分も一理ある」 
 いつのまにか隣にサムライがいた。
 火傷が癒えてない体を僕の身代わりに鞭打たれ、焼けるような激痛に苛まれながらも、僕の隣に立つ。
 「……お前が罰をうけるなら、俺も付き合う」
 サムライの申し出に息を呑む。 
 「正気かサムライ、まだ怪我も癒えてないのにっ……」
 「この程度の怪我などかゆくもない。折檻には慣れている。共に死線をくぐった仲間と痛みを分け合うのは武士の誉れだ」
 動揺する僕を優しく眺め、後悔の翳りがどこにもない清冽な笑顔を見せる。
 研ぎ澄ました刀の如く強靭な意志に支えられた姿勢。
 「彼らはこう言っているが、君らも同意見かね」
 茶番に飽き飽きした所長が安田たちに意見を求める。
 安田とヨンイルとレイジ、三人が顔を見合す。
 言葉はない。
 目配せだけですべてを了解した空気が漂い、安田が最初に口を開く。
 「……所長。鍵屋崎は少し頭がおかしいのです」
 衝撃。
 「なっ!?」
 愕然。
 待て安田は今なんて言った事もあろうに僕の頭がおかしいとそう言ったのかこの天才を侮辱したのかIQ180の頭脳に対する挑戦か挑発かどういう意味だ凡人の分際で?
 何か言葉を発しようとしたが、あまりに意外な人物からの人格攻撃に衝撃が先立って反論が紡げない。 
 「彼はとても自己主張が強く、常に自分が中心じゃないと気が済まない性格なのです。だから『今回の事件の原因は自分だ』などと甚だ不条理かつ理不尽な事を言い張って注意を引こうとしているただの自己顕示欲旺盛な問題児です。彼の主張は全くの妄想です。妄言です。この際無視してください」
 妄想?
 この僕が妄想に駆られて証言を捏造したなどと侮辱も甚だしい、もう許せない。
 拳を振り上げ安田に抗議しようとして、
 「直ちゃんはむかしっから妄想激しい子ぉさかいなあ。相手すんのも疲れるわ」
 ……ヨンイルまでも敵に回った。
 「所長はん、直ちゃんの言うた事ぜーんぶ大嘘や。気にせんといて。あ、ロンロンとサムライも無実やから。今回の件にはまーったく関係あらへんから。俺がバスジャックしたのはホンマ、安田はんが盗んだジープで走り出したのはホンマ、レイジがそれに飛び乗ったんはホンマ。せやけどここまで、はいストップ!悪いのは俺たち三人や。規則破りを責めるんなら完全に黒てハッキリしとる俺たち三人にしときィ。せやないと他の囚人からも所長は不公平やて反感買うで?」
 ヨンイルと目が合う。僕にむかって片目を瞑ってみせる。
 何も心配することはないといった明るい表情に不安がいや増す。 
 ヨンイルは道化を装って僕を安心させようとしている。あくまで自分を含めた三人で罰を請け負おうとしている。僕とサムライとロンに危害が及ばないよう必死に機転を利かせて口裏を合わせる。

 『Only King knows the truth.』
 流暢な英語の発音に全員がそちらを向く。

 ヨンイルのパスを受け、「任せとけ」とばかりに不敵に笑み、レイジが後を続ける。
 「ロンとキーストアとサムライは白、俺とヨンイルと安田は黒。規則違反者はここにいる三人だけだ。お仕置きすんのは俺たち三人だけにしといたほうが身の為だぜ?」
 僕たちに手を出したら承知しないと言外に脅迫し、安田とヨンイルと共に睨みを利かせる。
 「……レ、んぐぅっ!?」
 「黙っていろ」
 違う、そうじゃないと暴露しようとしたロンの口をサムライが塞ぐ。レイジが我が意を得たりと頷く。
 サムライの腕の中で顔を真っ赤にして暴れるロン、ロンを押さえ込むサムライもまた苦渋の色を濃くして押し黙る。
 今ここで「違う」と否定するのは簡単だ。
 彼らと一緒に罰をうけるのも。
 しかし当の本人たちがそれを望んでいない、当の本人たちが協力して僕らを嫌疑から外そうとしているのに「違う」と叫ぶのは彼らの配慮を踏みにじることになる、彼らの思いを踏みにじることになる。
 「……………っ、」

 僕は卑怯だ。
 卑劣な人間だ。
 彼らが優しいことがわかっていて、その優しさに甘えようとしている。
 それこそが彼らのいちばんの望みだからと、真実より尊いものだと悟ったふりで、彼らを見捨てようとしている。 

 「ふむ。なるほど。規則違反者はここにいる三人のみか。本人たちが言うならそうなのだろう。安田、ヨンイル、レイジ。君たち三人の連帯責任で罰をうける覚悟があるというなら、私は至って構わないがね」
 所長が喜悦を滴らせて振り返り、退屈げに鞭を弄ぶサーシャを手招く。
 嫌な予感。
 所長に招かれたサーシャが足を進める。片手に垂れ下がった鞭があやしく揺れる。黒革の眼帯で覆われた顔の半分の表情はよく見えないが、もう半分は邪悪な愉悦に歪んでいる。
 顔に垂れた銀髪の奥で薄氷の目が輝く。
 サーシャが隣に立つのを待ち、所長はもったいぶって口を開く。
 「助手の初仕事だ。三人の調理法を考えろ」
 所長がサーシャの肩に手を置く。
 薄氷の目が恍惚と濡れる。
 嗜虐の悦びに蕩けた表情で安田を見、ついでヨンイルを見、いやらしく唇を舐め上げる。晩餐に預かる蛇の如く唇に舌を這わして湿らせたのち、三番目の人物に視線を移す。
 薄茶の目と薄氷の目がぶつかる。
 サーシャはじっとレイジを見る。視姦する。その睫毛の一本一本が自分の物だというような執拗さでもってレイジの顔を注視、その造作を目に焼き付けて物欲しげに反芻し、形良く尖った顎から引き締まった首筋へと至る輪郭を愛撫する。
 サーシャの肩を抱く手に力を込め、声音を低めて所長がけしかける。

 「身の程知らずな家畜に身の程を知らすには生半可な折檻では足りんようだ。……となれば君の腕の見せ所だ。是非とも南の隠者に仕込まれた躾を施して身の程を叩き込んでやってくれ。遠慮はいらん。容赦もいらん。道具の使用も許可する。鞭でもナイフでも蝋燭でも何でも自由に使っていい。レイジには聞きたい事がある。安田には使い道がある。ヨンイルはどうでもいいが、死体の始末が面倒だからなるべくなら半殺しか生殺しにとどめてほしい」

 サーシャが凶暴に犬歯を剥く。
 「望むところだ」
 所長の手を跳ね除けておもむろに歩き出し、レイジの至近で立ち止まる。
 無造作に手を伸ばして顎を掴み、強引に顔を上げさせる。
 唇が触れ合う距離に顔を突き出し、官能の吐息にまじえて宣言。
 「隠者仕込みの手管で快楽の虜にしてくれる。三人とも皇帝の奴隷にしてやろうぞ」
 皇帝は愛を囁くようにそう言った。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050418002753 | 編集

 鍵屋崎はあきれ顔だ。
 「少しは落ち着きを取り戻せ。平常心の喪失は判断力の低下を招く。躁病的に歩き回ったところで問題は解決しない」
 壁に凭れて腕を組む。
 冷ややかに取り澄ました表情で俺を見る。
 いつもどおり落ち着き払った態度と偉そうな物言いが今日に限ってやけに癇に障るのは、俺自身がひどく苛立ってるからだ。
 冷淡な無表情に僅かばかり侮蔑の色を加え、眼鏡越しの目を細める。
 檻の中の実験動物でも観察するように醒めきった瞳に不興が浮かぶ。
 自称天才のごもっともなご意見を無視したのがいけなかったらしいが知ったこっちゃない。
 そんなことわざわざ鍵屋崎に指摘されなてもくわかってる。
 房の端から端まで行き来した所で新しい発見など何もない。
 当たり前だ、かれこれ二年近くも暮らした房だ。
 配管剥き出しの天井も壁の染みも床の疵も見慣れたを通り越して見飽きてる。
 房の広さはたかが知れてる。
 ボロっちいベッドに面積の半分を占領された狭苦しい房は壁から壁まで僅かな距離しかなく、五歩もいかずに行き止まりに突き当たる始末だ。
 房の隅々まで探検し尽くして発見したのは塵と埃とネズミの糞のみ。
 からからに干からびたゴキブリの死骸がベッド下に転がっていたが、鍵屋崎にはあえて教えなかった。
 俺はそこまで悪趣味じゃない。
 もっともレイジなら「ベッドの下にいいもんあるぜ」と吹き込んで、筋書き通りの行動を鍵屋崎にとらせたあとで爆笑するだろうが。
 鍵屋崎の助言も上の空に聞き流し、ただひたすらに房をうろつき回る。機械的に惰性的に足を踏み出し、壁に額をぶつける寸前に180度方向転換し、またしても反対側の壁めざしてずんずん突き進む。壁と接触寸前にくるりと身を翻す。
 一歩、二歩、三歩、四歩、五歩。
 端から端まで正確に五歩で縦断する。
 何分何十分こうしてるのか自分でもわからない。
 強制労働直帰後から房に引きこもって、歩幅で面積をはかろうとでもいうふうに休まず歩き回る俺を少し離れた場所で見守っているのは、呼んでも招いてもないのに何故かいるサムライと鍵屋崎だ。
 倦怠期の夫婦みたいに憮然と口を利かず、それでもお互い離れ難く寄り添ってる様子から深い信頼と強い絆が伝わってくる。
 サムライと鍵屋崎は離れて俺を見守ってる。
 いや、見守っているんじゃない。「見張っている」のだ。
 焦燥極まった俺が極端な行動にでないようすぐそばで監視の目を光らせているのだ。
 閉所恐怖症の人間がどうにもならない閉塞感と息苦しさに駆られてそうするように、俺もまた無力さ故に何も出来ない現状に歯がゆさを覚え、一秒たりとも立ち止まれない強迫観念に襲われて房内を歩き回る。

 立ち止まった瞬間にレイジの不在が決定する。
 立ち止まった瞬間にレイジの不在と向き合わなきゃいけなくなる。

 一度疑問を覚えて立ち止まってしまったらそこからもう一歩も動けない予感と不安を抱く。
 こんなのはただの逃げだ、ごまかしだ。
 立ち止まった瞬間に圧し掛かってくる静寂と孤独に耐え切れず、レイジがいない現実に立ち返るのが嫌で逃げ続けているだけだ。
 歩くことそれ自体が目的と化す。
 歩き回る事が逃避の一手段となる。
 俺はただひたすら歩き回る。
 壁にぶち当たる前にくるりと身を翻し、一定の歩幅と歩調で来た道を引き返す。
 レイジが連れて行かれて丸一日が経つ。
 レイジは戻ってこない。
 安田とヨンイルと三人一緒に連れて行かれてから今もって消息不明なままだ。
 俺はまたレイジの足を引っ張っちまった、アイツに迷惑かけちまった。相棒失格だ。レイジはまたしても俺を守り庇って罪を被った。ヨンイルや安田と示し合わせて俺と鍵屋崎とサムライは無関係だと言い張って、せめて俺たちだけでも変態所長の毒牙から逃れさせようとした。

 馬鹿だ、アイツ。
 かっこつけやがって。

 『大丈夫だよ、すぐ帰ってくるから。んな世界の終わりみてーなカオすんなって』
 別れ際の笑顔がよみがえる。能天気な声が聞こえる。
 俺はサムライの制止を振り解いてレイジに駆け寄ろうとしたが、サムライの拘束は思ったよりも強く、どんだけ暴れても俺を掴んだ手はびくともしなかった。
 サムライに押さえ込まれた俺の眼前、所長に引き立てられて去っていく三人の背中を成す術なく見送る。行くなと呼び止めたかった。声の限りに叫びたかった。
 行くなレイジ行くな俺をおいて行くな俺をひとりぼっちにすんな、カッコつけやがってちきしょう、またカッコつけやがって!
 やり場のない怒りを込めて激しくかぶりを振り、サムライの手に封じられた口からくぐもった呻きを漏らす。
 悔しかった。
 情けなかった。
 歯がゆかった。
 どうして俺はレイジを追えないんだ、サムライひとり振り解けないんだ、こんなに弱くて小さいんだ?俺がサムライと揉み合ってるあいだにレイジはどんどん遠ざかっていっちまう。
 俺は叫んだ。
 聞こえないのを承知で叫んだ。
 戻って来い、レイジ。行くな、と。
 願いが通じた。
 おもむろにレイジが振り返り、驚いたような困ったような曖昧な表情で俺を仰ぐ。
 一抹の未練が隻眼を過ぎるも、すぐに消え去る。
 目が合ったのはほんの一瞬だった。
 俺は必死に懇願した、目で必死に訴えた。
 今からでもいい、本当の事を言ってほしかった。
 みっともなくカッコ悪く取り乱して「あそこにいるロンだって俺と一緒にジープに乗ったんだ、アイツも同罪だ」と暴露してほしかった。
 そっちのほうがずっと気持ちが楽になる、自分の意志に反してダチを見殺しにする罪悪感が晴れる。罰するなら俺も一緒にしてくれ、除け者にしないでくれ。
 俺の気なんかいざ知らずレイジは茶化すように言う。
 『俺がいないあいだ浮気すんなよ。いい子で留守番してろ。約束守ったらご褒美やるよ』
 なん、だよそれ。
 レイジの隣には軍服姿のサーシャがいる。
 立ち止まったレイジを訝しむように眉をひそめ、「早く歩け」と顎をしゃくる。サーシャに促されて「へーへー」とふざけた返事で歩を再開するレイジを理性をかなぐり捨て追いかけたい衝動を抑える。
 俺の視線を意識して緩やかに振り返り、サーシャが勝ち誇ったように含み笑い、レイジの肩に手を添える。
 白く優美な指がレイジの肩をいやらしく這う……
 目の前が真っ赤になる。
 サーシャが考えてる事なんかお見通しだ、頭ん中で何してるかそのツラ見りゃ一目瞭然だ、レイジを足蹴にして服を引き裂いて嬲りものにしてさんざん楽しむつもりだと喜悦に歪んだツラがそう言ってる、暗い愉悦に酔った双眸がまざまざと物語っている。
 欲望の虜と化したサーシャに引き立てられて所長室へと向かうレイジ、ヨンイル、安田。
 かける言葉もなく立ち尽くす鍵屋崎とサムライ。
 これから所長室で何が行われるか、どんな激しい折檻とむごい仕打が三人を待ちうけてるかもわからないのに鍵屋崎はぎゅっと唇を噛んで俯くばかりだ。
 俺は何も出来なかった。むざむざレイジを連れていかせちまった。視聴覚ホールには俺と鍵屋崎とサムライの三人が取り残された。
 あれから一日経ってもレイジは帰ってこない。
 安田とヨンイルもだ。
 俺は三人を心配する余りろくに眠れず強制労働中もあくびばかりしていた。「弛んでる」と看守に叱責されて警棒を一発食らった。
 肩を押さえてうずくまったところを班の連中に笑われた。
 チクった犯人はすぐわかった。
 俺に反感をもってる台湾人のガキ。
 今期の班替えで一緒になって以来、暇さえありゃ嫌がらせをしてくる傷害致死二件の前科持ちだ。娑婆では台湾系の弱小チームに所属してたらしく、俺が昔身を寄せたチームの噂を聞き及んで、「伝説の月天心は半々の裏切りで全滅したんだとよ」とでっち上げて広めるのに余念がない。

 月天心。
 かつて俺がいたチームの名前。

 洒落た名前だと感心するヤツも少なくないが、実態を知りゃあ漏れなく震え上がる。
 チームの構成メンバーは十代前半から後半の札付きの悪童どもで、その全員が都下最大規模の池袋スラム出身者だった。
 似たり寄ったりの屑な両親から生まれ、似たり寄ったりの不幸で貧乏な家庭で物心ついて、人生のしょっぱなからケチの付き通しのガキどもが酒乱の親父に頭を割られて淫売の母親を刺して、親に捨てられるか親を捨てるか大別してこの二通りの選択を迫られたあげく、そのどっちかを選んで路頭に追ん出されたか自分から追ん出てきて、行くあてもなくさまよってるところを同じ境遇のガキどもの集まりに勧誘されて、その集まりがどんどん力を付けて巨大化してく過程で「月天心」と名前が出来た。

 最初は行き場をなくしたガキどもの寄り合い所帯だった。

 池袋にくさるほどいる路上生活孤児の自衛組織というか自警組織というか、まあそんなところ。組織の性質ががらりと変わったのは初代リーダーが殺されて二代目が就任した頃で、名も無き寄り合い所帯は以降「月天心」と命名され、池袋を縄張りとする武闘派チームとして急速に人員を増やして勢力を伸ばしていった。
 俺が出入りしたのもその頃だ。
 激しい抗争を繰り広げて数多くの死傷者を出し、かつて池袋最強にして最凶と恐れられた月天心は、下っ端の生き残りが噂に尾ひれを付けてばらまいたせいで今や犯罪者予備軍のワルどもが憧れを抱く伝説的存在と化してるらしい。 
 今期班替えで一緒になった勘違い野郎は、大方娑婆の噂を鵜呑みにしたんだろう。
 「『月天心』が潰れたのは中国人の血を引く裏切り者がいたからだ」「ヤツが敵を手引きしてチームを壊滅に導いたんだ」「仲間を巻き添えにするのを承知で手榴弾のピンを抜いて投げたクソッタレだ」「その半々が『月天心』を潰した黒幕だ」
 ……うんざりだ。
 東京プリズンでそんな噂が流布してるのは知ってる。
 東京プリズンで流布してるってことは当然娑婆でも流布してるって事だ。元を正せばこの噂を持ち込んだのも俺が来た後に入所した新入りどもで、薄汚い半々の癖に当時抗争に参加した中で唯一生き残った俺を良く思わない連中がすべての責任と罪を俺におっかぶせる魂胆で傍迷惑なデマを流してるんだろうなと見当つく。デマを鵜呑みにして東京プリズンに来たヤツが憎い俺を殺してくれりゃ一石二鳥ってワケだ。
 そりゃ確かに手榴弾のピンを抜いて投げて八人を肉片に変えたのは事実だが、寄ってたかって俺に手榴弾を持たせたのは当時の仲間で、「台湾人の仲間にしてほしけりゃ根性見せろよ」と煽ったのはアイツらなわけで、月天心が自滅した原因まで俺に求められちゃたまったもんじゃねえ。
 月天心が壊滅したのは自業自得だ。
 大体リーダーからしてろくなヤツじゃなかった。
 四六時中酒をかっ喰らっちゃ恋人に乱暴する最低の屑だった。
 土台あんな最低男に率いられたチームが長続きするわきゃない。
 どのみち月天心はもって二年か三年が限界の短命のチームだった。当時のトップは完璧イカれてた。仲間だろうが恋人だろうが一旦キレたらお構いなく半殺しにしていた。

 あてもなく房内をうろつきまわり、過去を回想する。

 東京プリズンで出会う前の日々。
 梅花の優しさだけが唯一の救いで癒しだった日々。
 月天心のアジトは路地裏の廃工場だった。
 廃工場には仲間がたむろっていた。
 埃っぽい薄暗がりの奥で何かが割れ砕ける音が聞こえてくる。
 女の悲鳴が上がる。
 哄笑が弾ける。
 酒に酔ったアイツが考案した悪趣味な遊び……
 梅花がまたその犠牲になってる。
 周囲の仲間は頼りにならねえ。どいつもこいつもトップに負けず劣らず性根が腐ったヤツばかりだ。廃工場の暗がりから聞こえてくる下卑た嘲笑と梅花を冷やかす声が悪い予感を裏付ける。
 はやく行かなきゃ。
 奥に向かって大股に歩く。
 途中で小走りに、最後らへんは全速力で走っていた。
 どうか間に合ってくれと念じながら梅花のもとに急いだ。
 次第に暗闇に目が慣れて視界が明るむ。
 工場の奥、壁を背にした立ち竦んでいるのは……可哀想に、すっかり怯えきった様子の梅花。
 ぎざぎざに割れた酒瓶を片手に梅花に歩み寄るのは、黒いコートを羽織った無表情な男。
 暗闇の中でぎらりと輝く目……金と銀の妖眼。
 非人間的な無表情をさらに際立たせる金属の双眸に梅花の顔を映し、脅しとは思えぬ動作で片手を振り上げ、涙ながらに縋りつく恋人を殴り殺そうと酒瓶を掲げる……
 
 ああ、間に合わねえ。
 
 「ロン!」
 厳しい叱責で正気に戻る。
 放心状態で振り向く。のろのろと壁際に向き直る。
 鍵屋崎がとことん呆れた顔で俺を仰ぐ。
 「三百五十歩目だ」
 「え?」
 「君が今踏み出した一歩でちょうど三百五十歩目という意味だ。房の端から端までの距離が五歩だとしてその五の倍数で三百五十歩、君は一体何を考えて記念すべき三百五十歩目を踏み出したのか是非とも聞きたい」
 いきなり言われてたじろぐ。サムライも困惑顔。
 「……どうせ声かけるならきりよく四百歩目にしろよ」
 口を尖らせて渋々言い返す。
 鍵屋崎は俺の反論を無視して眼鏡の位置を直す。
 「四百歩目まで忍耐がもつ自信がない。よって四捨五入を選導入した」
 その口ぶりから相当苛立ってる事が伝わってきた。
 注意してよく見れば偉ぶって腕組みしたままトントンと肘を叩いてる。リズムをとるように忙しく動く指に本人は気付いてるのかいないのか、眼鏡越しの目を鋭くした鍵屋崎が吐き捨てるように言う。
 「時間がもったいないから率直に結論を述べる。無意味な行為はやめろ。以上」
 見てるこちらまで不快になるとでも言いたげな口調に反発が湧く。
 見てんのはそっちの勝手だろ、見たくなきゃとっとと出てけよ。
 反感を込めて鍵屋崎を睨み付ける。
 鍵屋崎は不敵に俺の視線を跳ね返す。
 この野郎、触角掴んで吊るしたゴキブリの死骸を鼻先に突き出してやろうか?鍵屋崎が顔面蒼白で腰抜かすさまを思い浮かべてちょっとだけ溜飲を下げる。俺の妄想などいざ知らず、壁に寄りかかった鍵屋崎が実験動物のデータでも読み上げるように淡々と言う。
 「閉所恐怖症のモルモット特有の強迫的な行動の反復。焦燥の兆候、暴走の前兆。ロン、君がどんなに焦ったところでレイジは帰ってこない。自身を責めたところで始まらない。大人しく房に待機して帰還を待て」
 平板な口調からはさっぱり内面が読み取れない。
 本気で言ってるのか嘘をついてるのかも判然としない。
 鍵屋崎の言い分はもっともだと頭の片隅で理性が囁く。
 俺がどんなに焦れたところでレイジが帰ってくるわきゃないのだと諦念にも似た脱力感に襲われる。
 一方で鍵屋崎の言葉を鵜呑みにする事に抵抗を感じ、自分には何も出来ないと諦めて房に引きこもってるしかない現状に猛烈な反発とやり場のない怒りを覚える。
 本当にそれでいいのかよ?
 本当にそれで後悔しないのかよ、俺は。
 レイジが今頃どんな目に遭わされてるかわからねえってのに、ヨンイルや安田がどんな目に遭わされるかわかんねえって状況で房に引っ込んでぐるぐる歩き回ってるだけで本当にいいのかよ。
 鍵屋崎はアイツらが心配じゃないのか?
 アイツらが心配で俺の房にきたんじゃないのか?
 同じ境遇の俺と不安を分かち合いたくて何も言わず壁際に突っ立ってんだろうと鍵屋崎を見返し、精一杯挑発する。
 「……お前は心配じゃねーのかよ」
 思わずそう口走っていた。
 尖った険を含んだ非難の響きに俺自身ぎょっとする。
 俺が四百歩目を達成するまで余裕で待てそうな風情で立ち尽くしてたサムライも、物騒な気配に反応して壁から背中を起こす。
 険悪な雰囲気。
 「なんでそんな冷静でいられるんだよ。レイジは俺たちを庇って所長に連れてかれたんだぜ。レイジだけじゃねえ、ヨンイルと安田だって……アイツらが全部罪を被ってくれたおかげで俺たちは何のお咎めもうけずに済んだのに」
 どうしてそんな冷静でいられるんだよ、お前は。ちょっと冷たすぎやしねえか。
 鍵屋崎だけじゃねえ、サムライもだ。
 お前ら二人してなんでそんな冷静でいられるんだよ。
 大事な仲間が連れてかれたってのにどうしてそんんなに冷静でいられるんだ、冷静に帰りを待てるんだ?変態サド所長と変態サド皇帝に仲間が嬲り者にされてるのは間違いないのに、どうしてそんな憎たらしい程落ち着いてられるんだよ。
 「………っ」
 胸が痛む。
 レイジがいなくて不安だ。
 帰ってこなくて不安だ。
 シャツの胸を掴んで項垂れた俺に咄嗟に歩み寄ろうとした鍵屋崎をサムライが肩を掴んで止める。
 鍵屋崎がサムライの顔色を窺う。
 サムライが静かに首を振る。
 たったそれだけで互いの気持ちが通じ合い、でしゃばりな鍵屋崎が大人しく引き下がる。
 見せつけんじゃねえよ畜生。
 少しは人の気持ちも考えろ。
 鍵屋崎の隣にはサムライがいる。まだ火傷の癒えてないサムライは長袖の下に包帯を巻いて、時折捲れる袖口から純白の端切れが覗くのが痛々しい。
 サムライは身を焼く炎も恐れず鍵屋崎を助けにいった。
 それなのに俺は。
 俺は。
 「………お前らはいいよな。二人一緒にいさえすりゃそれで満足だもんな。他のヤツがどうなろうが知ったこっちゃねーよな」
 むざむざレイジを見殺しにしちまった。
 サムライの腕を自力で振り解く事ができず、レイジが連れてかれるのを黙って見送るしかなかった。
 サムライとは大違いだ。
 鍵屋崎とは大違いだ。
 二人への憧れと嫉妬とあまりに無力な俺自身への嫌気がごっちゃになって、床に視線を落としたまま淡々と続ける。
 「なあサムライ、お前は鍵屋崎さえ無事ならそれでいいんだろ。文句ねーだろ。だから今だってそうやって落ち着いてられるんだよな、レイジやヨンイルや安田が死にかけようがどうでもいいってでかでかツラに書いて突っ立ってられるんだよな?今頃レイジが鞭打たれてヨンイルが裸に剥かれて安田が絡みを強要されてても鍵屋崎の貞操さえ守りぬけりゃそれでいいって思ってんだろ実際。邪魔なヨンイルが消えてくれりゃせいせいするって思ってるんだろ」
 「ロン!」
 鍵屋崎が鋭く叫ぶ。
 それ以上サムライを侮辱したら許さないといった決然とした響き。
 俺は唇を噛む。
 こんなのただの八つ当たりだ。
 みっともない、見苦しい、最高にかっこ悪い。
 サムライを責めて何になる?
 何にもならないと俺自身いちばんよくわかってるのにねちねちサムライを詰るのをやめられない。
 心の底からどす黒い悪意が溢れ出す。
 目の粗い鑢で削がれたように神経がささくれだつ。
 俺だってあの時サムライが止めなけりゃ鍵屋崎が出すぎた真似をしなけりゃレイジに駆け寄ってた、一緒に罰をうけていた。コイツらが邪魔したせいで俺とレイジは離れ離れになった、またレイジをひとりぼっちにさせちまった。 

 全部こいつらのせいで。
 こいつらさえいなけりゃ、

 「なあ、俺の言ってること間違ってるか?天才のご意見聞かせてくれよ」
 喧嘩上等な物腰で鍵屋崎に噛み付く。
 鍵屋崎の顔が強張る。
 「サムライは全身に火傷を負ってまで炎の中にお前を取り戻しに行ったのにレイジたちのピンチには何で指一本動かさなかったんだよ?お前さえ無事ならあとはどうでもいいからだろ、どうなろうが構わねえんだろ?結局お前らは互いが無事ならそれでいいんだもんな、俺の事もレイジの事も仲間だなんてこれっぽっちも思ってないんだよな、ヨンイルや安田なんざ最初から眼中に入ってないんだもんな!まったく薄情なヤツらだぜ、どうりで東京プリズン来るまでダチがいなかったワケだ、お前らみてえに薄情な連中とダチになりたい物好きなんざ娑婆にいるわきゃねーよ!!」
 一旦堰を切った言葉は止まらない。
 床を蹴りつけ腕を振りかぶり天井を仰いで癇癪を爆発させる俺をよそに鍵屋崎とサムライは沈痛に押し黙る。理不尽な糾弾が真実だと肯定するように。
 なんだよ。
 俺だけ悪者かよ畜生、被害者ぶりやがって。
 激情に任せて壁を殴る。
 分厚いコンクリ壁をぶん殴ったせいで手がじんと痺れて甲に擦り傷ができた。
 手の甲の痛みに目に涙が滲む。
 鍵屋崎とサムライに責任転嫁して当り散らすしかない自分があんまりみじめで情けなくて悔しくて、俺は絶叫する。
 「なんで所長を止めなかったんだよ、レイジを助けてくれなかったんだよ、ダチのために動いてくれなかったんだよ!」
 お互いのためなら命も投げ捨てるくせに、レイジやヨンイルや安田には指一本動かす価値もねえってか?
 「お前がっ、お前らがあの時止めたりしなきゃ俺はずっとレイジのそばについててやれたのに今だってアイツのそばにいてやれたのに、なんだってお前らは余計な事すんだよ!?どうせお互いしか目に入ってねえならお互いの事だけ考えてりゃいいだろ、俺を巻き込むなよ畜生、俺はただレイジと一緒にいたいんだよ!」
 レイジがどんな目に遭わされてるか想像するだけではらわた煮えくり返る。
 サーシャに犯されるレイジ……いやだ。
 俺のレイジにさわるな、俺のレイジを抱くな、俺のレイジにさわるな。

 脳裏を過ぎる最悪の想像。
 軍服を着崩したサーシャに抱かれて淫らに喘ぐレイジの姿……

 「どこに行くんだロン!?」
 鍵屋崎の声を背に走り出す。
 鉄扉を開け放って廊下に飛び出そうとして後ろ襟を掴んで引き戻される。あらん限りの憎悪を剥き出しに振り返る。
 俺の剣幕にぎょっとした鍵屋崎が、それでも後ろ襟を掴む手を緩めず叱責を飛ばす。
 「冷静になれ!所長室は囚人立ち入り禁止だ、君が行ったところで追い返されるのがおちだ!!」
 「だから放っとけってのか、房に引っ込んで見殺しにしろってのかよ!?」
 「必ず帰ってくると約束したレイジを信じるんだ」
 鍵屋崎の顔が悲痛に歪む。
 痛みを堪えるように俯く鍵屋崎を真っ直ぐ見つめ返し、毒々しく唇をねじる。
 『膿包』
 「な、んだと?」
 鍵屋崎がうろたえる。
 俺は一歩も引かずに鍵屋崎を見返す。
 鍵屋崎の背後にはサムライがいる。
 鍵屋崎に手を出した瞬間、鬼の形相に変じたサムライがしゃしゃりでてくるのは明白だ。
 頼もしい用心棒を一瞥、今度ははっきりと嘲笑を浮かべる。
 鍵屋崎の喉仏がぎこちなく上下し、生唾が喉をすべりおちる。
 「お偉い天才なら台湾語の悪態くらい勿論知ってるよな。まさかわかんないのか?じゃあ説明してやるよ」
 体ごと鍵屋崎に向き直る。無造作に手を伸ばして胸ぐらを掴む。
 胸ぐら締め上げられた鍵屋崎の顔が苦痛に歪むのをひどく残忍な気分で堪能する。嗜虐の疼きを堪えて鍵屋崎が呻くのを眺め、嘲りを含んだ口調で畳み掛ける。
 「膿包。もとは出来物の意味。そこから転じて『役立たず』をさす悪態になった。聞こえたか鍵屋崎?役立たずはひっこんでろって言ったんだよ」
 苦悶する鍵屋崎の鼻先に顔を突き出し、精一杯凄味を利かせて啖呵を切る。
 眼鏡のレンズに俺が映る。
 鍵屋崎を平然と「役立たず」呼ばわりし、恐ろしく冷たい表情で追い討ちをかける。
 「仲間を助ける気がねえなら房に引っ込んでサムライと乳繰り合ってろ」
 胸ぐら締め上げる握力を強める。
 息の通り道を妨げられて苦しみもがく鍵屋崎に痺れを切らしたサムライが顔色変えて歩み出る。
 鍵屋崎を邪険に突き放す。
 後方によろめく鍵屋崎をサムライが素早く支え起こす。
 鼻梁にずれた眼鏡の向こう、朦朧とした半眼で俺を仰ぎ鍵屋崎が反駁する。
 「この、IQ180の天才が役立たずだと?」
 鍵屋崎が軽く咳き込む。サムライが優しくその背をさする。
 互いに労わりあう姿が嗜虐心を刺激し、腹の奥底で悪意がうねり蠢く。
 怖い顔のサムライと喉を押さえて咳き込む鍵屋崎を等分に見比べ、最大限の不快感を与えようと口角をねじりあげる。
 「ヤるならレイジのベッドでな。俺のベッド汚されちゃ後始末が面倒だ」
 殺気が膨らむ。サムライの顔に怒気が迸る。
 今にも斬りかからんばかりの剣幕でいきり立つサムライをよそに廊下を走り出す。
 鍵屋崎が何かを叫ぶが聞こえないふりをする。
 どうせ下らない事だ、耳を貸す価値もないと一方的に切り捨てる。
 脳裏を過ぎる鍵屋崎の顔。
 面と向かって「役立たず」と罵られ、驚愕した顔。
 「はっ、ははっ。ばっかみてえ」
 一散に走りながら哄笑する。
 めざすは所長室。
 所長室に通じる廊下は特別の許可を得た囚人と看守以外立ち入り禁止で常に二人組の看守が見張ってるが、一旦走り出したらもう止まらない。
 所長室に殴りこんでレイジを取り戻すまで絶対引き下がらないと覚悟を決めて更に速度を上げて廊下をすっとばす。
 鍵屋崎とサムライは房に引っ込んで乳繰り合ってりゃいい。
 アイツらにはもう何も期待しねえと自分に言い聞かせて仮初の平静さを保ち、癇癪もちのガキみたいに二人に当り散らした自己嫌悪をごまかす。

 役立たずはどっちだよ。
 相棒のピンチに出遅れた役立たずはどっちだよ。
 鍵屋崎とサムライを口汚く罵って、結局は無力な自分と向き合うのがイヤで、核心をすりかえて他人を攻撃しただけじゃないか。
 情けない俺。見苦しい俺。最低だ、俺。
 鍵屋崎もサムライも俺が心配で房に来てくれたのに……

 「レイジ」
 サムライは鍵屋崎を救いに炎にとびこんだ。なら俺だって見張りの包囲網を突破して所長室にとびこめるはずだ。サムライにできたことが俺にできないはずがない、俺がレイジを好きな気持ちがサムライが鍵屋崎を好きな気持ちに負けるはずないとがむしゃらに自分を奮い立たせて足を繰り出す。
 俺だって自分一人の力でレイジを助けだせる、サムライや鍵屋崎に頼らなくても相棒を助けられる。
 あんな役立たずどもの力を借りなくてもレイジを助け出せる。
 池袋のチームに身を寄せていた頃、悪趣味な遊びの的にされた梅花を助け出したように……
 所長室へと続く廊下をひた走る。
 左右の壁に並んだ鉄扉が視界に入り、すぐまた後方に流れ去る。
 次第に所長室が近付いてくる。
 この廊下を抜ければ所長室へと至る通路だ。
 所長室への直通路は指紋照合でしか開かない重金属の扉に阻まれているが、腕の一本二本へし折られる覚悟で看守にかけあって通してもら………
 「!?っあぐ、」
 衝撃が来た。
 何が起こったか瞬時にわからなかった。
 がくんと体が傾いで視界が反転、一瞬の滞空のあと床に投げ出される。
 転倒。
 床を滑った勢いで肘と顔を擦りむく。
 ひりつく痛みを堪えて体を起こそうとして、脇から伸びた手に掴まれて暗闇に引きずりこまれる。
 なんだ?
 わけがわからないまま激しく暴れて抵抗するも身をよじるごとに手が一本二本と増えて暗闇に引きずり込もうとする力が増す。相手はひとりじゃない。最低でも三人以上いると確信する。
 鉄扉の奥に潜んだ連中が尻上がりの台湾語で叫び交わし、暴力的な物音と殺気立った喧騒が伝わってくる。
 台湾語?
 相手は俺と同じ台湾人?
 誰だ?
 その時漸く気付いた、ハデに転倒したのは房から突き出でた足にひっかけられたからだと。鉄扉の隙間から不意に突き出た足が前だけ見て突っ走る俺の足元をすくいやがったのだ。
 「はなせよ、急いでるんだよ、おまえらの悪ふざけに付き合ってる暇ねーんだよ!大事な相棒がひどい目に遭わされてるって時にお前らと遊んでやるほどこっちは心が広くね……」
 言葉が途切れる。手で口を塞がれた。
 暗闇に潜んだ連中は本気だ、本気で俺を引きずり込もうとしてる。
 口を塞がれたのは悲鳴が漏れるとまずいから、助けを呼ぶ声が外に聞こえるとまずいからだ。
 用意周到。
 心臓が不吉に高鳴る。全身に冷や汗が滲む。
 眼前で荒々しく鉄扉が閉じ、廊下の光を遮断する。
 獣じみて荒い息遣いがすぐ耳元で弾ける。
 耳の裏側がじっとり湿る。
 これからどんな目に遭わされるか想像しただけで気が狂いそうだ。あと少しでレイジに会えるってのに、こんな所で顔も知らない連中にとっ捕まって嬲り殺されたりでもしたら無念で成仏できねえ。
 「急いでどこ行く気だよ、半々。こっから先は所長のプライベート空間だぜ」
 舐めくさった嘲弄にはっと顔を上げる。
 聞き覚えある声だ。
 暗闇に目が慣れるのを待ってあたりを見回せば周囲には四人の囚人がいて、それぞれ俺に圧し掛かって抵抗を封じ込んでいた。いずれも闇に沈んでるせいで目鼻立ちはおぼろげにしか判別できない。
 ただでさえ狭苦しい房に俺を含めて五人が詰め込まれてるせいか、裸電球を消した暗闇じゃ格子窓から射し込む弱々しい明かりだけが唯一の光源なせいか、不快な湿気と熱気と閉塞感がじわじわ毛穴を塞いでくる。
 襲撃犯の正体を突き止めたい一心で暗闇に目を凝らす。
 「………孝賢」
 ごくりと唾を飲む。
 今期の班替えで一緒になった、ことあるごとに俺を目の敵にしてるガキがそこにいた。
 「久しぶりだな、ロン。といっても三時間ぶりか?ついさっき別れたばっかで顔見忘れちまったなんて言うなよな、いくら中国人が物覚え悪いからって限度があるだろうが」
 脂っこいニキビ面に下劣な笑みを湛えた孝賢の揶揄に仲間が追従する。くそ、面倒くさいヤツに捕まっちまった。日頃の態度からいつかこんなことになるんじゃないかと警戒していたが、よりにもよって今日行動に出るとはツイてねえ。 
 「まさか。ちゃんと覚えてるよ。ニキビを潰して膿をとばすのが趣味の孝賢だろ?お前のその趣味のせいで班の連中が迷惑してるって知ってたか?お前のそのばっちィ手でさわられると肌がかぶれるんだとさ、気の毒に」
 床に転がって卑屈な笑い声を立てる。
 潮が引くように周囲の笑い声が止み、空気が帯電したように殺気が膨らむ。ニキビ痕も生々しい孝賢が険悪な表情で俺の胸ぐらを掴み、むりやり顔を上げさせる。
 「お前に会わせたい人がいるんだ」
 ヤツじゃなくて人。敬意を払った呼称に違和感が根ざす。
 「会わせたい人?」
 反射的にレイジを思い浮かべる。
 かぶりを振って追い散らす。
 そりゃ俺が会いたいヤツだろと自分につっこむ。
 孝賢が俺に会わせたいヤツなんてどうせろくなヤツじゃねえとうんざり予想してため息を吐く。孝賢が俺の胸ぐらを掴んだまま背後の連中に顎をしゃくり何かを指示、両隣の囚人がすばやく道を空ける。死刑執行人のお出ましってか?くそったれ。
 「俺に会わせたいヤツって、誰だよそりゃ。初恋の女でも連れてきてくれるのか」
 内心の怯えを吹っ飛ばすように軽口を叩く。
 虚勢を張る俺を見下ろして孝賢がさも愉快げにほくそえむ。
 俺の耳朶に口を近付け、生温かい吐息に交えて囁く。
 『弥朋友』
 俺の、ダチ?
 真っ先にレイジが浮かぶ。
 続いて鍵屋崎とサムライ、ヨンイルが脳裏を過ぎる。
 まさか。
 さっき別れたばっかの鍵屋崎とサムライがここにいるわきゃないし、今もって所長室に拘束中のレイジとヨンイルが現れる可能性は限りなく低い。じゃあ誰だ?誰だよ俺のダチって。
 情けない話、俺にはアイツら以外にダチなんていない。
 娑婆にいた頃は中国人の血が混ざったガキだってだけで除け者にされて、池袋のチームにいた頃だって……

 まさか。

 動悸が限りなく速まる。
 全身の血が逆流する戦慄を味わう。 
 頭上に落下した本棚。一歩間違えりゃ自重で押し潰されていた。本が一杯に詰まった本棚を投げ落とせる人物に心当たりは……
 ひとり、いる。
 スチール缶を素手で握りつぶす桁外れの握力の持ち主。
 栓を開ける前の缶ビールを素手でへこませることもアイツは出来た。
 銀の右目と金の左目。
 小作りで端正な顔だちに非人間的な冷酷さを付与する金属質のオッドアイ。
 廃工場では悪趣味な遊びに興じ『お願い道了やめてロンにひどいことしないで』梅花を的に酒瓶ぶん投げて『助けて』俺の鳩尾に缶ビールをめりこませて『梅花は俺の物だ』低く宣言『お前も俺の物だ』シャツの裾を掴んで肌を暴いてー……
  
 恐怖に身を竦めた俺の眼前に、一人の男が現れる。
 記憶の中から現れた金銀の目、人間として致命的な無表情。
 顔筋の基本的な動かし方を知らないといったふうな表情の無さ。
 思考回路が完璧壊れちまってるような。
 銀のメッシュを入れた短髪の下、線の鋭さが際立つ端正な容貌に一片の感慨も浮かべず、機械仕掛けの殺人人形が怠惰に口を開く。

 『好久不見了。我人人地獄来』
 
 二度と会いたくない男だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050417222649 | 編集

 耳に馴染んだ台湾語がこれ程禍々しく聞こえたのは初めてだ。
 『久しぶりだな。地獄から来たぞ』
 生身の人間にはありえないメタリックな光沢を放つ双眸に魅入られる。
 銀の右目と金の左目。
 フリークスじみた印象を決定付ける違和感の源のオッドアイ。
 人間に極めて近く精巧に造られた、けれども人間とは決定的に違う、人間に必要不可欠な何かが致命的に欠落している。
 眼前の男が俺と同じ生きて喋って呼吸して飲み食いする人間だとはどうしても信じられない。低体温の瞳から放たれる視線にはどんな感情も乗せられていない。
 まるで機械。人形。
 金銀の瞳に映る俺の顔が強張る。
 体の芯が冷たく凍り付く。
 脊髄を貫く恐怖の芯ができる。
 体の芯が冷えきるのに反比例して心臓が熱く脈動し、冷や汗を噴いた表面とに温度差ができる。
 動悸が限りなく速まり血の一滴までも蒸発しそうに心臓が高鳴る。
 なんでコイツがここに?
 目に映る光景が急速に色褪せてフィルムのネガのように反転する。
 二度と会うはずもない男だ。二度と会いたくない男だ。
 過去の存在だと割り切って忘れ去ろうと努めていた男だ。
 それがなんで今頃になって俺が東京プリズンに馴染んだ今頃になって目の前に現れるんだのこのこやってくるんだ、嘘だこんな事あってたまるかこんな事あってたまるか現実に侵入した悪夢を追い払いたい追い散らしたいこれが悪夢ならどうか今すぐ覚めてくれ消え去ってくれ!!
 願いも虚しく床にへたりこんだ俺の眼前に相変わらず男は突っ立っている。
 記憶の中そのままの金と銀の目に見詰められて過去の光景がよみがえる。
 音や匂いや手触りまでもまざまざ逆流して過去と現実がまるごとすりかわって廃工場の薄暗がりに引き戻される。
 折れた注射針や空の注射器が累々と散乱する廃工場の惨状、空気が澱んだ薄暗がり、奥の方から聞こえてくる硝子の割れ砕ける音と何かを殴り付ける鈍い音、散発する哄笑、喧しく飛び交う野次と下品な罵声、甲高い悲鳴に混じる悲痛な嗚咽……
 忌まわしい光景が怒涛の勢いでフラッシュバックする。
 手で掴めそうな至近距離に梅花の泣き顔『助けて』助けを請う声『ロンにひどいことしないで』命乞いをする声『お願いだから』必死な懇願『悪いのは全部私なの責めるなら私だけにしてロンは関係ないのだからっ』身を挺して俺を庇う梅花の髪を鷲掴み力任せに振り回す男。同情や温情とは一切無縁に機械的な単調さでもって行使する容赦ない暴力。慈悲の欠片もない冷酷な目。暗闇を貫いて銀と金に煌く双瞳……

 ぶざまに尻餅付いたまま、口を閉じるのも忘れて男を仰ぐ。

 男はじっと俺を見る。凝視している。
 ひどく苦労して生唾を飲み下す。
 喉に唾がひっかかる違和感をねじ伏せる。
 目を逸らしたい誘惑に抗う。
 精一杯虚勢を振り絞って真っ直ぐ目を見返す。
 不敵に口元を引き結んだ決意の表情で視線の圧力を跳ね返そうとするも俺はもう恐怖を抑える限界で屈服したい欲求に駆られていた。
 男が登場した瞬間に空気が変わった。
 場の支配者が誰かは一目瞭然だった。
 男には異様な存在感があった。
 ただそこに居るだけで等身大の磁石の如く場の注目を集めてしまう究極のカリスマ性を照射する男を取り巻く空気はひどく冷えきっている。興味本位に指をふれれば皮膚が剥がれなくなっちまいそうだ。
 冷徹、酷薄、非情。
 喜怒哀楽の全てを排した不動さでもって暗闇に佇む男の名は。
 『道了……、』
 喉からひゅうと息が抜けた。
 男の表情は変わらない。
 即ち鉄板のような無表情。
 真綿で締めるようにじわじわ暗闇が迫ってくる。
 急に酸素が薄くなったように息苦しくなる。
 胸を圧迫される苦しみに顔を歪め、出来るだけ道了から距離をとろうと床に尻を付いたまま無意識にあとじさる。
 俺の考えを読んだように道了が一歩を踏み出す。
 たった一動作がびくりと身を脅かす。
 恐怖の源泉から懇々と込み上げるどす黒い感情が今にも破裂しそうに膨らんで疑心暗鬼に溺れかける。
 荒く不規則に呼吸しながら懸命に距離をとる。
 尻で床を擦ってあとじさる俺のさまを取り巻きが嘲笑する。
 腰抜け、臆病者。
 台湾語の野次が飛び交う。
 構ってられない、俺は命が惜しい。
 拡散しかけた必死に理性をかき集めて平常心を保とうとするも失敗、動転のあまり肘を振った拍子にベッドにぶつかり激痛が走る。
 くそっ、取り乱すんじゃねえ。
 ベッドの脚に肘を激突させた俺を指さし嘲笑する囚人どもを反抗的に睨み付ける。擦りむいた肘がじんじん疼く。
 俺を除いてただ一人この場で笑わなかった男は、相変わらず無表情に無感動に、いっそ退屈げな様子で歩幅を詰めてくる。
 俺は逃げる。無抵抗で逃げる。
 命が欲しいから自分が可愛いからとにかくがむしゃらに逃げる。
 眼前の男が発散するのはとてつもなく危険な雰囲気、暴力の行使に際し一片の慈悲も躊躇もなくそれを実践してのけると無言の内に語る威圧だ。
 これは、人殺しを屁とも思わない人間の特徴だ。
 サーシャのような快楽殺人者でもなく所長のようなサディストでもない。ある意味もっとタチが悪い、それよりもっとイカれた人間の証拠だ。

 コイツは人を殺すことを何とも思わない。
 喜怒哀楽がない。

 正常な人間は喜怒哀楽の感情を採択して表情を決定するが、道了の場合は究極の二択……快と不快のみだ。0と1で思考を紡ぐ機械のように道了は快と不快の感情回路の切り替えのみで行動方針を決定する。
 暴力は快。
 どちらかといえば好きな部類だが、それ以上でも以下でもない。
 暴力は怠惰な娯楽に過ぎず、人生の一瞬を潤す退屈凌ぎ以上の意味や価値はないと断ずるが如く道了の歩みは平静だ。

 道了は快と不快の二択で物事を割り切る人間だ。
 自分が不快に感じた物は容赦なく排除する、破壊する、殲滅する。
 自分が快と感じたものだけ生かす。
 俺は道了がどんな人間か知ってる。
 どんなにヤバイ人間か文字通り体に叩き込まれている。

 道了の本性を知れば今この時馬鹿笑いしてる取り巻き連中だって呑気に構えてられない、道了はコイツらが思ってるより遥かにヤバイ奴だ、コイツらの貧困な想像を凌駕する破壊的狂気の持ち主だ。

 畜生、なんでこんな所で会っちまうんだよ。

 不運を呪う。油断を悔やむ。鉄扉から突き出た足を飛び越せなかった俺自身を罵倒する。
 レイジを助けに所長室に殴りこむつもりが道のり半ばにして最悪の人間につかまっちまった。まさか道了が東京プリズンに来てたなんて……全然知らなかった。
 今の今まで本人を目の前にするまで気付かなかった自分のめでたさに頭の片隅の醒めた部分で呆れ返る。
 待て、おかしい。
 なんで道了が東京プリズンにいたことに今の今まで気付かなかったんだと自然な疑問が思考を遮る。
 だっておかしいじゃないか。
 道了は池袋最強と恐れられた月天心を率いた伝説の男だ。
 道了が東京プリズンに入所すりゃ当然騒ぎになるに決まってる、速攻噂が出回るに決まってる。
 道了が入所したのがここ一ヶ月の出来事だとしても、今に至るまで俺が知らずにいたのはいくらなんでも無理がある。

 『どういう、ことだよ』
 みっともなく掠れた声を搾り出す。
 まわりに台湾人しかいないのにわざわざ日本語を使う必要がないと台湾語に切り替える。
 ベッドを背にへたりこみ、膝の震えを止めようと手で掴み、コイツらにびびってると思われたくないと剣呑な眼光でぐるりを睥睨する。
 『なんでお前がここにいるんだ、道了。いつ東京プリズンに来たんだ。いちばん最近新入りが来たのは一ヶ月前だ。お前が一ヶ月前に来たんだとしても、なんで肝心の俺がそれを知らなかったのかどうしても納得できねえ』
 肩に硬い物が当たる。
 激痛が爆ぜる。
 肩を押さえて前屈みになる。考賢に肩を殴られたのだ。
 『コイツ、道了さんを呼び捨てにするなんざ何様だ?裏切り者の半々のくせに』 
 考賢が憎憎しげに唾棄する。
 肩を小突かれた痛みに奥歯を噛んで苦鳴を殺す。
 事情を知らない奴には俺の痛がりようが大袈裟に映ったかもしれないがこっちは笑い事じゃない。
 考賢のクソ馬鹿は事もあろうに今日の強制労働で殴られた場所を小突いてきやがったのだ。
 警棒で殴られた肩には特大の青痣ができて腕を上げ下げするたび疼くってのに、今また考賢に殴られたせいで激痛が爆ぜて見苦しく悶絶する羽目になった。肩を庇って倒れこんだ俺の頭上に汚い靴裏が降ってくる。
 調子に乗った考賢が俺の頭を土足で踏みにじり、自分の手柄を誇るように得々と種明かしをする。
 『お前が知らないのは当たり前だ。台湾人仲間からつま弾きにされてレイジにべったりひっついてるお前ンとこに道了さんの情報が入ってくるわきゃねーだろが。第一お前は裏切り者だ。月天心を裏切って中国人どもの側に寝返りやがった最低最悪の屑野郎だ。おい、わかってんのか半々。月天心が潰れたのは全部お前のせいなんだろ。娑婆じゃその噂で持ちきりだったぜ。昔池袋をシメてた月天心が潰れたのは薄汚い裏切り者が中に紛れ込んでたからだって、お情けで仲間に入れてやった半々が仲間を巻き添えにして手榴弾爆発させたせいだって』
 『で、たらめ言ってんじゃねえっ!』
 カッとする。
 激しい怒りに駆られて起き上がった途端に顎を蹴られて仰け反る。
 危うく舌を噛みかける。
 背中からベッドにぶつかった俺の前髪を掴んでむりやり顔を上げさせた考賢が、脂ぎったニキビ面を鼻先に突き出しせせら笑う。
 『何がでたらめだよ。全部本当の事だろ。台湾人の誰も裏切り者の話なんか聞かねーよ』
 裏切り者と決め付けられた怒りと屈辱に震える。
 違う、誤解だ、とんでもねえデマだ。
 俺は仲間を裏切っちゃない。
 敵側に寝返るつもりなんかこれっぽっちもなかった。
 俺が敵側に寝返ったはずないのは東京プリズンでの待遇や凱の態度で明白なのに考賢とその仲間たちは娑婆の噂を頑なに信じ込んで俺を裏切り者と糾弾する、月天心が壊滅したのは半々の裏切り者が紛れ込んでいたからだとデマを鵜呑みにして一斉に声荒げて責め立てる。
 畜生、勝手な事言いやがって。
 俺は裏切り者なんかじゃない。
 チームでも役に立ちたいと必死だった。
 何とか戦果を上げて仲間として認めてもらおうと信頼を勝ち得ようと抗争とあらばいつだって最前線に立ってきた。
 その挙げ句がこれかよ、このザマかよ、こんな結末のためにボロボロになって戦ったのかよ俺は?
 裏切り者の半々と唾飛ばして罵られる為だけに月天心にいたのかよ!!
 悔しい。死ぬほど悔しい。
 俺は裏切り者じゃない。
 月天心を潰したのは俺じゃない、仲間を裏切ってなんかないと声を大にして叫びたくてもその暇さえ与えられない。
 俺がくそったれの人殺しなのは動かし難い事実で真実で否定できないが事実無根の裏切り者呼ばわりだきゃごめんだ、自分がやってないこと身に覚えない事で叩かれるのはまっぴらだ。
 俺が実際にしたことで詰られるならまだ筋が通ってると納得できる。だけどこれは違う、俺が半分中国人だってただそれだけの理由で疑われたり決め付けられたりするのはいい加減うんざりなんだよ!!
 『道了さんが来た事をお前だけ知らなかったのは、東棟の台湾人が横繋がりで内緒にしてたからさ』
 床に転がった俺の鳩尾につま先をめりこませて考賢が嘲笑う。
 皮肉な表情。
 『月天心をぶっ潰した張本人が道了さんの入所を知ったら何しでかすかわかんねえって警戒してたのさ。言うまでもなく東棟の台湾人全員道了さんの味方だ。裏切り者の半々と月天心のリーダー、どっちに付くかって言われればそりゃ勿論後者に決まってんだろ』
 『大したVIP待遇だな』
 合点が行った。
 考賢に負けじと皮肉にほくそ笑む。
 俺がこの一ヶ月間道了の収監を知らなかったのは、東棟の台湾人どもが全員組んで道了の存在を秘密にしていたからだ。
 道了入所の噂が俺の耳に届かないように仕組んでいたからだ。
 もともと台湾人は同朋意識が強く結束が固い。
 秘密主義排他主義で通す台湾人の共同体に一旦囲い込まれちまえばムショの中での安全は保障されるってわけだ。
 特に道了は娑婆で有名な男だ。
 池袋最強のチームを率いて新宿を縄張りにする中国人と幾度も抗争を繰り広げた伝説的人物だ。もし道了の入所が大っぴらになれば凱を頭に据えた中国人グループに命を狙われるのは火を見るより明らか。
 道了を崇拝する台湾人のガキどもはそれを避けるために、その他大勢の新入りと同じく道了を扱って群集に紛れ込ませたんだろう。

 俺には内緒で。
 俺には何も知らせず。
 またここでも除け者にされたってわけか。

 『はっ、はははははっ!笑っちまうぜ、ほんと。実際笑うっきゃねえよなこの状況。俺が、この俺が月天心をぶっ潰した張本人だって?馬鹿も休み休み言えよ。お情けで仲間入りした半々のとるにたらねえ裏切り程度で潰れちまう屑チームだったのかよ月天心は。そりゃあ俺のせいじゃない、お前らがきらきらおめめで理想化してる月天心自体がいつぶっ潰れてもおかしかねえボロボロの状態だっただけだ』 
 ああ、おかしい。ちゃんちゃらおかしいぜ。
 腹の底から懇々と哄笑が湧いてくる。
 背骨もへし折れんばかりに仰け反って笑い出した俺に周囲の連中が気色ばむ。
 知ったこっちゃねえ。
 最上級に愉快な気分、卑屈を通り越して爽快な気分。
 娑婆で月天心が伝説化してるのは知っていた、東京プリズンに新しく来た台湾人のガキどもが熱っぽく目を輝かせて「月天心」の噂をするところを何度も見てきたがその度笑いを堪えるのに苦労したのを思い出す。
 実際の月天心はヤツらの想像とはかけ離れたチームだった。
 平気で女を殴る最低男がてっぺんにふんぞり返った最低のチームだった。
 どのみち長続きするわきゃなかったのだ、月天心は。
 『聞いたかよ道了?コイツらとんだ勘違いしてるぜ。月天心はそんないいもんじゃねえ。お前が一番よくわかってるだろ、假面』
 当時の通り名で道了を呼び、笑いすぎて涙の薄膜が張った目で顔色を窺う。
 假面。ジアーミエン。
 台湾語で仮面をさす言葉。
 眉一筋動かない無表情で人を殴り殺す道了にぴったりの通り名だと妙に感心する一方、そろそろ笑い止まないと窒息して死んじまうんじゃないかと不安になるも、哄笑の発作に襲われた俺は腹を抱えてのたうちまわるのを自分の意志でやめられない。
 『この野郎、道了さんに舐めた口利きやがって!』
 『さんざん世話になった道了さんを笑い倒すたあ中国人は恩知らずって本当だな!』
 道了に心酔するガキどもが舐め腐った態度に激発、こぞって殴りかかる。
 『ロン』
 液体窒素を耳に流し込まれた気がした。
 その一言で、たった一言で場の空気が変容した。
 一斉に殴りかかろうとした連中が急停止、神妙な様子でちらちら道了を窺う。
 一声で取り巻きを下がらせて歩み出た道了が、もったいぶった動作で片手を掲げてみせる。
 殴られる。
 咄嗟にそう錯覚して頭を庇う。
 頭上で腕を交差させて衝撃に備える俺の予想に反し、いつまでたっても拳は降ってこない。
 おそるおそる薄目を開く。
 正面に道了がいた。
 頭上に掲げた手をすっと下ろし、仄めかすように含み笑う。
 『相変わらず反射神経がいい』
 剃刀じみて鋭利な微笑が閃く。機械人形の笑顔……ぞっとしない。
 警戒心を捨てきれぬまま上目遣いに反応を探る。
 道了は何がしたい、何が言いたい?
 道了が俺をほめるなんてどういう風の吹き回し……
 『……あ』
 喉が引き攣る。間抜けな声が漏れる。
 漸く気付いた、道了の動作が意味する所に。

 道了の手は傷だらけだった。

 手のひらには新旧無数の傷跡があった。
 中でも目立つのは手のひらの柔肉を何か鋭利な破片が抉った痕で、出来て日が浅いその疵には薄く瘡蓋が貼っている。
 一瞥顔を顰めたくなる痛ましい傷痕に重ねて記憶がよみがえる。
 頭上に落下する本棚。濛々と立つ埃。抜けた棚から雪崩出る膨大な量の本。陥没した床。
 飴細工の如くひしゃげた手摺―……

 『お、まえ、が』

 悪い冗談みたいに歪曲した手摺、本棚が乗り越えた痕跡。
 誰かが本棚を担いで手摺から投げ落とした。
 俺を下敷きにして殺すつもりで投げ落とした。
 誰が?
 本が一杯に詰まった本棚を運ぶには尋常じゃない体力と腕力がいる、人間離れした怪力の持ち主でない限りひとりで本棚を運べるはずない。
 いや。
 いるじゃないか、ここに。
 『おまえ、が、本棚を、おとしたのか?』
 たどたどしく問いかける。
 嘘であってほしいと祈りながら、しかし心の片隅で既に答えを予期して。 
 『中国系黄色人種の少年だ』
 端的に事実だけを告げる冷静な声が耳の奥に響く。
 『着ていた服がまだ新しかった点から推理するにおそらくここ一ヶ月以内の新入りだ。外見的特徴は銀の右目と金の左目、銀のメッシュが入った黒髪。推定年齢は17歳、身長179cm』
 そうだ、鍵屋崎も言っていたじゃないか。
 あの時不審人物を目撃したと。
 手摺向こうの男の外見特徴は脳天からつま先まで道了に該当する。
 犯人に心当たりないかと聞かれて咄嗟に否定した。
 東京プリズンに道了がいるわけないと思い込んで、否、そう思い込みたいあまりに嘘を吐いた。
 だけど現実に道了は目の前にいる。
 いつでも俺をくびり殺せる距離で不気味な沈黙を守って突っ立っているじゃないか。
 スチール缶を原形とどめぬまで圧縮するのも可能な怪力。
 赤子の手をひねるより簡単に缶ビールをへこましてのけるコイツなら、ひとりで本棚を落とすくらいわけない。
 道了は俺を殺そうとした。
 本気で殺そうとした。
 かつて仲間だった俺を、虫けらのように―

 『そんなに俺が憎いのかよ?!』
 心の堰が決壊して激情が迸る。
 我を忘れて道了に掴みかかり唾飛ばして罵倒する。
 なんでだ?なんで道了に殺されなきゃならないどうしてそこまで俺を憎む、殺したいほど憎まれる理由なんかない心当たりなんかない月天心が潰れたのは俺のせいじゃない俺はただ仲間に入れて欲しかっただけだ仲間が欲しかっただけだ月天心に不利益な事なんか何もしてねえってのに!!
 胸ぐら掴まれても道了は平然としている。
 つまらなそうに醒め切った瞳が反感を煽る。
 どうしてだ、どうして殺そうとした、娑婆でいたぶるだけじゃまだ足りず東京プリズンでも嬲り者にする気か悲鳴を上げさせて楽しむ気か今度は梅花の身代わりに俺を―

 梅花。
 梅花はどうしたんだ?  

 『道了、お前なんでここにいるんだ。梅花はどうしたんだよ』
 瞬時に怒りが冷める。
 自分が殺されかけた衝撃よりも道了が何故ここにいるのかの疑問が先行し冷静さを取り戻す。梅花。俺の初恋の女。内気で心優しい娼婦……道了の恋人。
 酒乱の道了を見放せずいつも一緒にいた儚い笑みが似合う女。
 決して美人とはいえない地味な顔に恋人に殴られ蹴られた青痣が絶えなかった。
 俺が幸せにできなかった、幸せにしたかった女。
 梅花の笑顔を思い出して胸が痛む。
 最後に見た梅花は担架に寝かされた道了に取り縋っていた。
 手錠をかけられた俺には見向きもせず献身的に恋人に寄り添っていた。
 『どうしてお前がここにいるんだ。梅花はどこにいるんだ』
 梅花は一人じゃ生きられない女だ。
 体も心も男に依存しなきゃ生きられないか弱い女だ。
 俺の詰問に道了は答えず涼しげに罵倒を受け流している。
 梅花など知らない、そんな女知らないといった全く無関心な態度に触発されて残り僅かな理性が完膚なく砕け散る。 
 『てめぇ、梅花ひとりおいてけぼりにしてなに刑務所なんか入ってんだよ!?』
 猛烈な勢いで突き上げる怒りに任せて腕を振り抜く。
 肉と骨がぶつかる衝撃に手首に痺れる。
 道了の頬げたに渾身の鉄拳を叩き込めば、まわりで見守っていた連中が『被打了!』『該死的!』とにわかに殺気立つ。
 『なにやらかして東京プリズンぶちこまれたかは知らねえよ、てめェがどんな悪さしでかしてぶちこまれたかなんざどうだっていんだよ、梅花はどうしたんだよ、てめェの恋人がどうなったか聞いてんだよ三秒以内に答えろよ大壊蛋!!梅花はお前の女だろ、他の誰でもなくお前が守ってやんなきゃいけねえ大事な女放り出して刑務所で本棚持ち上げる大道芸披露して小銭貰ってる場合かよ屑が!!』
 殴られた衝撃でよろめく道了の胸ぐらを掴み、大きく腕を振りぬいて二発目を叩き込もうとした所を取り巻き連中によってたかって封じられる。
 次々と背中に圧し掛かられて四肢を縫いとめられても一向に怒りはおさまらず、腹の底でうねり狂う憤怒のマグマが全身の血管を巡り巡って心臓を脈打たせるのを感じ、今ここで喉が裂けても悔いはないと怒鳴り散らす。
 『梅花はお前のこと本当に好きだったんだよ、お前のような呑んだくれのクズなんざ路上で野垂れ死ぬのが似合いだって何べん言い聞かせても道了にゃ自分がいなきゃ駄目だって笑って受け流して、死ぬほど殴られ蹴られて全身に青痣作ったってお前の事一言も悪く言わねーで甲斐甲斐しく尽くしてたのに、この世で最高の女放り出してこの世の地獄に転がりこんでくるなんざお前はどんだけ……』
 梅花。
 梅花。
 どこにいるんだ梅花。
 ひとりぼっちで泣いているのか、いつ帰ってくるかわからない道了を待って泣いているのか。
 畜生、なんでこんな男に梅花をくれちまったんだ。
 なんでこんな男に惚れた女をむざむざ渡しちまったんだ。 
 遠からずひとりぼっちにされるとわかってたら絶対梅花を諦めたりしなかったのに………
 『梅花をどうしたかだと』
 袋叩きにあって突っ伏した俺の耳に、凍て付いた声音がねじ込まれる。
 嬉々として俺を殴り倒してた連中がぴたりと止まる。
 虚空に振り上げた拳がそのまま静止する。
 裸電球を消した暗闇に目を凝らし道了を捉える。
 殴られても大したこたえてない不死身さで膝を伸ばし、唇の血を拭いもせず、口を開く。
 『惚れた女の末路が気になるか』
 末路。
 不吉な響きに心臓が跳ねる。
 房に静寂が降り積もる。
 大人数に押さえ込まれて床に這わされた姿勢で、限界ぎりぎりまで首を反らせ、道了の表情のささいな変化を読み取ろうと努力するもさっぱり報われない。
 末路。
 一体全体梅花の身に何が起こったってんだ?
 瞼の裏に咲く梅花の笑顔が不吉な翳りを帯びて圧し掛かる。
 衣擦れの音がやけに耳に障る。
 俺自身の息遣いと俺を押さえ込んだ連中の息遣いの他に聞こえるのは窓越しの蝿の羽音と蛍光灯が消耗する音だけだ。 
 道了が優雅に片膝折る。 
 まわりの連中が息を呑む。
 場が緊迫する。
 床にうつ伏せる俺の鼻先、片膝付いて身を乗り出した道了が無感動に囁く。
 『梅花は可哀想な女だ』
 可哀想な女。
 『どういう意味だ?』
 苦しい体勢から精一杯身を捩って道了を見返す。

 『梅花はずっと俺に壊されたいと思っていた。梅花は真性マゾの雌犬だった。猛然と暴れ狂う俺を見て股間を濡らす淫売だった』

 道了の口調はひどく淡々としていた。
 事実の断片だけを並べ立てる平板な口調に反発し、どうにかしてそのツラを殴ろうと身動ぎするも、背中に圧し掛かった連中に手首を締められて新たな苦痛を与えられるだけだった。

 『俺は梅花の願いを叶えてやった。俺に滅茶苦茶壊されたいという願いを。手足の骨をへし折られ砕かれて全身のあらゆる関節を曲げられたいという願いを。アスファルトの路面で鼻の先端から磨り潰されて唇を剥がされて顔をただの肉塊にされたいという願いを。股間節が脱臼するまで酒瓶突っ込まれてケツの穴にも同じ事をして欲しいという願いを』

 喉仏を汗がすべりおちる。
 瞼の裏側に浮かび上がる梅花の面影が急速に薄れていく。輪郭があやふやになって目鼻立ちがおぼろげに沈んでいく。
 水面に小石を投じたように動揺の波紋が広がっていく。
 渦巻く狂気にあてられたガキどもが凝然と言葉をなくす。
 道了がゆっくりと近付いてくる。
 道了の手が頭にふれる。
 ひどく優しい手つきが逆に不安を煽る。
 首を振って払いのけようにも四人がかりで圧し掛かられた状態では上手くいかず、苦汁を飲んでされるがままになるしかない。
 抑揚なく台湾語が流れる中、ひんやり骨ばった手が髪の間を通っていく。

 『可哀想な梅花。どうしようもない変態の雌犬の梅花。俺は願いを叶えてやった。梅花の鼻を削いで目を抉って唇を噛み切って丁寧に顔をならしてやった。まず最初に両手の指を十本木琴を叩くようにへし折ってやった。愛撫するように』

 骨ばった手が頭をなでる。
 愛撫するように。

 『梅花は暴力に酔っていた。自分が壊されていく過程にさえ恍惚としていた。梅花がどんなに殴られ蹴られて頭を割られ顔を潰されても俺のそばを離れなかったのは愛情を感じていたからじゃない。梅花の中にあったのは欲望だけだ。徹底的に自分を壊してほしいという狂った欲望だけだ。梅花は心も体も俺に捧げ尽くして……』

 道了の手が欲情の火照りを帯びる。
 梅花への仕打ちを反芻しているのか、頭を包む手に微妙に力が加わり、動きがさらに緩慢になる。
 頭蓋骨を砕く事など造作もないというふうに。
 金銀の目が不気味に輝く。
 のっぺりした顔に感情の断片が浮かぶ。
 自分に身も心も捧げ尽くした女に対する嘲弄。
 『道了。お前、梅花をどうしたんだ。梅花は……』
 その先を続けられず口を噤む。
 極限の焦燥に苛まれ全身の毛穴から汗が噴出す。
 先を聞くのが怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い。
 今すぐここから逃げ出したい扉を開けて廊下を突っ走って鍵屋崎たちが待つ房に逃げ戻りたい頼むもう帰してくれ解放してくれ悪夢なら覚めてくれ助けてくれレイジ助けて……
 きつく閉じた瞼の裏側で梅花が微笑む。
 優しく俺を呼ぶ。
 懐かしい笑顔が瞼の裏側に再び浮上した時、とうとう堪え切れず半狂乱で叫びだす。

 『梅花は違う淫売なんかじゃないお袋と同じ淫売なんかじゃないお前にいっつも泣かされていたお前に殴られて悦んでなんかいなかった嘘つくなデマ言うな梅花はちっとも喜んでなかった、お前に腕の骨折られた時は涙と鼻水で顔べちゃべちゃにして泣いてた、アレは喜んでない痛がってた苦しんでた梅花はいつだっていつだってお前にいじめられて可哀想にすすり泣いてたじゃねえかよっ!!梅花になにしやがったんだどんな酷いことしたんだ言ってみろ道了言った瞬間にぶち殺してやる、お前の歯ァ一本残らず引っこ抜いて口ン中に穴だらけにしてやるお前の目ん玉抉り出して中で小便して脳味噌びしょびしょにふやかしてやる、お前が梅花に与えた以上の最高の苦しみを与えてたっぷり時間をかけて嬲り殺してやるからさあ言ってみろ、言えるもんなら言ってみろよおぉおおおおおおおおおぉおおおおお!!!!』

 『……っ、コイツ、いきなり暴れだしやがって……!?』 
 『お前らなにぼうっとしてんだよ、ちゃんと押さえとけよ、半々ごときにびびってんじゃねーよっ』
 まわりの連中がうろたえる。
 俺に向ける視線が怯えを含む。
 腹の底から声振り絞り絶叫する鼓膜も割れんばかりに空気をびりびり叩いて絶叫する、道了の返答次第では今すぐ殺しにかかる梅花が味わったのと同じ生き地獄をいやそれ以上の生き地獄を見せてたっぷり後悔させながら殺してやる、俺の惚れた女苦しめた分きっちり償わせて地獄を堂々巡りさせてやる!! 
 言葉が続かない。
 喉から迸るのは言葉の体を成さない獣の咆哮だ。
 体の中で怒りが暴走して心臓が肋骨を叩いて全身の血が沸騰して梅花梅花生きてるのか梅花知りたいけど知りたくない本当の事なんていつだって俺の予想以上に最低最悪で救いが無くて現実なんてクソ食らえででも梅花心配で幸せになってほしくて
  
 『ロン』

 憎悪にひび割れた咆哮を遮って届いたのは、ひどく穏和な声。
 体重かけて圧し掛かる連中を薙ぎ飛ばそうと暴れ狂っていた俺は、至極ゆっくりと正面に目を向ける。
 一抹の未練なく俺の髪から指を抜いた道了が、くるりと踵を返して反対側のベッドに歩み寄り、低姿勢で屈みこむ。
 道了の奇行を訝しんで目を細める。
 まわりの連中も怪訝な面持ちを隠せず動向を見守る。    
 一同の注視をうけて反対側のベッドの下を覗き込んだ道了が、無造作にベッド下に手を突っ込み、何かを手繰り寄せる動作をする。
 ベッド下の暗がりで何かが蠢く。
 道了の手元に注目して初めて気付く。
 反対側のベッドの下、ベッドの底面と床との僅かな隙間に押し込められていた黒い物体が、いつまでも耳に残る湿った音をたて引きずり出されていく。 
 黒い塊の正体を見極めようと身を乗り出す。
 『あ、ひぎあ……』
 『ぐ……ひっでえ匂い……』
 まわりの連中が慌てて鼻と口を覆う。
 黒い塊が引きずり出されると同時に強烈な悪臭が匂い立つ。
 腐った血と肉と臓物の匂い。
 真新しい死骸の匂い。
 『ロン。梅花はこうなったんだ』
 道了は「それ」を手掴みで引きずり出した。
 缶ビールの栓を開けるような気楽さで平然と、至って無造作にベッド下の暗がりに手を突っ込んで、それを……
 腐りかけの生き物の死骸を引きずり出した。
 背中で手首を締め上げられた俺は他の連中みたく口を覆うことも目鼻を覆って悪臭に耐えることもできず、道了が鼻先に引きずってきた黒い塊をまんじりともせず見据えるはめになった。
 どさりと音がする。
 何かの死骸が鈍い音をたて俺の鼻先に落下、得体の知れない汁が頬に跳ねる。
 悪臭が一層強まる。
 目を背ける事も出来ず鼻先に放り出された死骸を凝視する。垂れた耳、尖った鼻、裂けた口……黒く引き締まった体は所々血に濡れて体毛はぐっしょり湿っている。

 まざまざと記憶が蘇る。
 今の所長が赴任した時、コイツは一緒にいた。
 お前らより俺のほうが偉いんだぞと言わんばかりに所長に寄り添っていた。
 我を忘れてチョコにむしゃぶりついた。レイジの十字架に牙を突き立て噛み傷だらけにしたあげく小便ひっかけて台無しにした。所長にけしかけられて俺と鍵屋崎をさんざん追いまわしてカマを掘ろうとした。安田を散歩のお供に東京プリズン中を我が物顔で闊歩していた。

 ああ、知っている。
 知ってるよ、お前の事。

 『ハル………』
 眼前の床に物言わぬ死骸と化したハルが横たわっている。
 全身の体毛を血に濡らした凄惨な姿で。
 死―――――――

 次の瞬間。
 『これだ。しっかり目を見開いて焼き付けろ』
 耳朶に生温かい吐息がかかある。
 不規則な息の合間に目だけ動かして隣を見る。
 気配すら感じさせず隣に移動した道了が、耳朶に唇をふれさせ、囁く。
 『お前もこうなれ』
 道了が頭を掴み、顔面からハルの死骸に叩き付けた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050416040203 | 編集

 『最後の晩餐だ』
 耳の裏側で道了が無感動に囁く。
 レイジに慣らされた耳朶を他人の吐息がくすぐる。
 俺は抗った。
 必死に腕力に抗った。
 ハルの死骸に顔面突っ伏した体勢から死に物狂いに身を捩って道了の手を払いのけようとしたが無駄だった。
 焦燥が恐怖をかきたてる。
 生柔らかい屍肉の感触と鼻腔の奥を突き刺す凄まじい悪臭に吐き気を催す。
 赤黒い細切れ肉と化したハルの死骸は血だか腐汁だかわからないべちゃべちゃした粘液でどす黒く濡れていた。
 その何だかわからない、おそらくは臓物から滲み出た腐汁だか血だかが跳ねて俺の顔までべちゃべちゃに汚していく。
 死骸に顔突っ伏して息苦しさを覚える。
 死骸が発する悪臭が、嗅覚を破壊する見えない凶器となって房内に充満する。
 喉の奥で吐き気が膨らむ。
 胃袋が痙攣する。
 喉の奥に胃液が逆流して口腔が酸っぱ苦くなる。
 こんな猟奇的なお遊びに付き合ってやる程俺は物好きじゃない暇じゃない手を放せ道了おふざけはやめろと怒鳴りたくても俺自身ショックを受けてるせいか呂律が回らない。舌が縮んで喉につかえて一言も発せられない。後ろ髪を何本か毟られる勢いで頭を手掴みにされてぐりぐり機械的に入念に顔を捻じ込まれる。
 生柔らかい腐肉がぐちゃりと変形して顔を包む。
 血に濡れた臓物の温度を感じる。
 引き裂かれ叩き潰されたハルの死骸は動物好きじゃなくても目を覆わんばかりに無残な有り様で、決してハルを好いてるとは言えなかった俺自身も同情と憤怒の入り混じった激情の炎に炙られて視界が真っ赤に燃え上がる。
 苦しい体勢から身を捩り目の端でまわりを窺う。
 取り巻きのガキどもは慄然と立ち竦むばかりで使い物になりゃしない。
 戦々恐々と道了を遠巻きにするガキどもは生理的嫌悪だか不快感だかで一杯一杯で、その場に膝つき滝のように嘔吐したい衝動を道了の手前必死に堪えている。
 『な、に、するんだよ!手ェ放せ道了………!』
 喉から声振り絞り訴える。
 生きの良い獲物に感嘆するかのように金銀の目が妖しく光る。
 頭を引っつかむ握力が増す。
 道了はまるでパン生地でも捏ねるような単調さでもって、何度も何度も繰り返し手軽く俺の顔面を死骸に叩き付ける。
 ぐちゃり。
 ぐちゃ。
 ぐちゃっ。
 濡れた音が連続。血だか腐汁だかそれ以外の物だか判別できない気色悪い液体が顔中に飛ぶ。
 元はハルの体に流れていたものが一滴残らず毛穴から流れ出している。
 道了は俺の抵抗など意に介さず、眉を動かす程の煩わしさも示さずに、完璧な無表情でもって後頭部におく手に力を込める。
 閂で締めるように頭蓋骨が軋む。
 コイツ、馬鹿力にも程がある。
 道了がどれだけ桁外れの怪力の持ち主か知ってはいたが傍で見ているのと自分で体験するのじゃワケが違う。悔しいが俺じゃ道了の手を跳ね除けることもできない、道了にされるがまま頭を押し込まれ死骸に頬ずりする屈辱を舐めるっきゃないのだ。
 そして道了は、驚くべき事を口にした。
 何気なく、あっさりと。
 『食えよ』 
 抑揚ない命令には底冷えする威圧が含まれていた。
 食え?
 耳を疑った。
 目の前の死骸と唐突な言葉とが結びつかなかった。
 食え。何を?
 目に疑問を浮かべて道了を仰ぐ。
 物問いたげな眼差しで仰がれた道了が無造作に顎をしゃくる。
 道了に促されるまま向き直った俺の目の前に横たわっているのは元ハルだった犬の死骸。所長の隣でお澄まししてた頃の面影は完全に薄れてなくなっている。
 食え。食え?
 まさか、これを。
 『ふ、ざけんな……食えっかよこんな物、こんな犬の死骸!!』
 正気じゃねえ。完璧狂ってやがる。
 まともな神経の持ち主なら誰だってコレ見りゃ吐く、腹を下す。
 引き裂かれ叩き潰された無残極まる犬の死骸に食欲刺激されるわきゃねえ。
 赤黒い肉塊の所々に黒い毛が覗いてる。
 僅かに窺えるハルの名残り。
 胃袋が痙攣する。
 苦い胃液が食道を這い上り、悲鳴とも苦鳴とも付かないくぐもった呻きが喉の奥で泡立つ。
 『どうしてだ』
 心底不思議そうに訊ね、ぎくしゃくと首を傾げる。
 機械人形が人間の真似をしてるような違和感。
 後ろ髪を掴む手が緩む。
 漸く息ができるようになる。
 肉塊から顔を上げ、死臭の混ざった空気を胸一杯に吸い込む。
 得体の知れない気色悪い粘液が顔が濡れている。
 背後で手首を締め上げられた俺は顔を拭う自由すら奪われていたため、シャツの胸元に顔を擦り付けて不器用に汚れを拭きとるしかなかった。
 猫が顔を洗うような動作で顔を拭く俺の耳に、再び声が響く。
 『中国人の主食は犬だ。お前は薄汚い裏切り者の中国人だ。犬は最高の晩餐だろう。違うか』
 淡々とした口調で道了は言った。
 言葉をなくした俺の鼻先に道了が顔を突き出す。
 至近距離で道了と向き合う羽目になった俺は、凄まじい磁力を放つ金銀の目に呪縛され、自分の意志で指一本動かせなくなる。
 無防備な近さで道了の目を覗き込むうちに過去の記憶がフラッシュバックし、恐怖を起源とする戦慄が襲う。
 道了。
 池袋最強と唄われた月天心を率いた最凶にして最恐の男。
 新宿を縄張りとする中国人チームと流血厭わぬ抗争を繰り広げて敵にも身内にも多数の死傷者を出した。
 敵対する者には決して容赦しない。
 裏切り者には容赦なく制裁を加える。
 一片の慈悲も憐憫も持たない、機械の如く冷酷無比な男。
 道了は裏切り者を決して許さない。
 暇面には一切温情が期待できない。
 体裁なげうった命乞いも泣き落しも通用しない。
 それこそまさに月天心で、否、道了を知る者たちのあいだで公然とまかり通っていた常識以前の実情だった。
 『口を開け』
 道了が淡々と命じる。
 全てに興味なさそうな無表情のままに。
 無関心な瞳に俺を映し、俺が命令に従わないと見るや即座に口をこじ開けにかかる。
 俺は激しく顔を打ち振り精一杯抵抗したが道了の腕力には到底叶わない。
 二階から本棚を投げ落とす怪力の持ち主に抗えるわけがない。
 万力めいた指が顎を掴み、締め付けを強めて無理矢理こじ開ける。
 顎の骨が軋む激痛に堪らず口を開ければ強引に指が潜り込んでくる。
 道了の指が無遠慮に口腔をまさぐる。
 口腔を乱暴にまさぐられる不快さに吐き気が膨れ上がる。
 吐き気を堪えて渋面を作る俺を見下ろし、「假面」の由来となった無表情で畳み掛ける。
 『犬を食え。お前は中国人だ。中国人なら中国人らしく細切れにされた犬肉を食え。お前のために丁寧に挽き肉にしてやった犬を』
 その一言に衝撃を受ける。
 『お、れのために、ハルを殺したってのか!?』
 まさか。そんな。
 わざわざ俺に食わせる為にハルを殺したってのか、こいつは……この男は。この狂人は。
 驚愕に顔強張らせた俺からついと視線を逸らし、床に横たわる死骸へと相変わらず無感動な目を向ける。
 金と銀の目が冷たく光る。
 一層冷ややかさを増した表情で死骸を見下ろし、道了が呟く。
 『考賢に聞いた。ロン。お前は以前、この犬に襲われたことがあるそうだな』
 鋭利な殺気を感じさせる横顔にまわりのガキどもがあとじさる。
 鼻と口を手で覆っているヤツもいる。
 死骸が放つ耐え難い悪臭に思いっきり顔を顰め、さわらぬ暇面に祟りなしとばかりに道了から距離をとっている。
 絶望的に飲み込みの悪いガキどもも漸くわかり始めたんだろう、道了が普通じゃないって当たり前の事実を。
 ベッドの下から至って無造作に、手掴みで犬の死骸を取り出した瞬間に。
 俺の後頭部を引っ掴んで、パン生地でも捏ねるように挽き肉と化した死骸に叩き付けた瞬間に。
 畏怖と嫌悪の入り交ざった表情で固唾を呑むガキどもをよそに、中心の道了の言動は一層狂気を帯びて異常さを際立たせていく。
 ガキどもに敬遠されても屁とでも思ってない態度で開き直り、道了が耳元で囁く。
 『お前は俺の物だ』   
 『!あっ……』
 吐息がうなじを湿らす。不意打ちに産毛が逆立つ。
 いつかと同じ台詞が脳の奥を刺激して、とうに忘れ去ったはずの記憶を引っ張り出す。
 薄暗い廃工場。
 折れた注射針とからっぽの注射器と酒瓶が空き缶が散乱する惨状。
 荒廃したアジトに沸く殺気立った喧騒といつまでも耳に残る悲痛な女の悲鳴……
 くそっ、思い出すなくそっ、出てくるな!
 固く固く目を瞑り脳裏を蝕み始めた忌まわしい光景を払拭せんと努める。
 耳の奥で響く甲高い女の悲鳴、酒瓶の割れ砕けるけたたましい音、下品な野次と罵倒と哄笑が入り交ざる熱狂の渦。
 暴力の愉悦に酔ったガキどもがやんやと喝采をあげる中、壁際の梅花めがけ風切る唸りを上げて投擲される酒瓶―……
 眼球も潰れろと瞼を食い縛る。
 発狂したように激しくかぶりを振り、うなじにかかる吐息から逃れようとする。芋虫みたいに遅遅と這いずって少しでも道了から離れようと逃れようと見苦しく滑稽な醜態を演じる。
 『あぐっ、』
 背骨がへし折れそうな衝撃に肺から空気を搾り出す。
 道了が俺の背中に片膝付く。
 体重かけて膝を抉りこまれて内臓が圧迫される。苦しい。
 床にへたばった俺の背中に腹這いに密着した道了が、耳朶に口付けるように囁く。
 『俺の物に手をだすものはたとえ犬だろうが許さない。この犬だけじゃない。俺がいないあいだにお前に触れたやつ、俺が見てないところでお前を奪おうとしたやつは一人残らず殲滅する』
 死刑宣告よりももっと恐ろしい静けさで道了が下したのは、言葉だけなら嫉妬ともとれる独占むき出しの制裁予告。
 道了が毟り取るように俺の前髪を掴み、むりやり顔を上げさせる。
 毛髪を引き剥ぐ激痛に頭皮が燃えるように疼く。目の前に道了の顔が来る。
 唇が触れ合いそうな至近距離で対面した道了は、整った口元にごく薄く微笑を過ぎらせる。
 『お前は死ぬまでずっと俺の物だ。俺を裏切った事をじっくり後悔させながら嬲り殺してやる。梅花のように』 
 かすかな、本当にかすかな笑み。
 『なん、で、そんなに、俺を憎むんだ?』
 死が間近に迫った恐怖すら圧して根本的な疑問が膨れ上がる。
 道了がここまで俺を憎む理由が本当にわからない。
 何度も言うが、俺は月天心を裏切ったわけじゃない。
 仕方がなかったのだ、あれは。
 俺だってこんな卑怯な言葉を使うのはイヤだ、誰だって「仕方が無い」なんて理由で殺されちゃかなわない、死んだヤツらが納得できるわけがない。
 だから出来るだけ「仕方が無い」という言葉は避けてきたけど、実際口に出さなかっただけで心の奥底では俺自身「仕方が無い」って自分に言い訳してた。
 無自覚に無意識に「仕方ない」って言い訳に縋ってたんだ。
 不良品の手榴弾を掴まされたのも仲間にいいとこ見せようって分不相応にはりきって抗争に参加したのも「仕方がなかった」。
 あの時の俺にはああするしかなかった。
 ああでもしなけりゃ俺は一生仲間に認められず半々呼ばわりされなきゃならなかった。
 俺がわけもわからずぶん投げた手榴弾が仲間を巻き添えに爆発したのは事実だ。
 だけどあれは裏切りじゃない、断じて裏切り行為じゃない。
 事故だったんだ。
 仕方が無かったんだ。
 あの時手渡された手榴弾に欠陥があったなんてどうしてわかる、わかるわけがない。
 俺はレイジみたいな戦争のプロじゃないただ触っただけで手榴弾の仕組みが分かるほど武器に精通してるわけでもない、ちょっとばかし喧嘩が強いだけのずぶの素人だ。
 栓を抜いてから爆発に至るまでの時差が予想と違ってたからと責めらる謂れはない。
 地面に落下したものの何の反応も示さない手榴弾を不審がり、ガキどもがうようよ群がっていったのは俺のせいじゃない。
 俺のせいじゃない俺のせいじゃない俺は悪くない道了に逆恨みされる筋合いはないと念仏のように繰り返し自己暗示をかける。
 こめかみを脂汗が伝う。
 きつく食い縛った瞼の裏側で赤い光輪が点滅する。
 ああ、気が狂いそうだ。
 すぐそばには物言わぬハルの亡骸が横たわっている。
 俺も遠からずこうなる運命だと悟り、ひどく苦労して生唾を呑み下す。
 『道了。お前、勘違いしてるよ』
 落ち着け、冷静になれ。
 理性を取り戻せと自分に言い聞かせて深呼吸、冷静に聞こえるようにと願いつつ言葉を吐き出す。
 敢えて道了の方は見ない。
 道了と面と向かったら最後、脆い堤防が決壊して感情に流されるのはわかりきっている。
 道了の目を見る自信がない。
 金銀の目に射抜かれて本音を隠し通す自信がない。
 非人間的に冷たい金属の目。
 お前なんかいつでも壊せるぞと語る目。
 『娑婆の連中になに吹き込まれたか知んねーけど、お前、あの時あそこにいたろ?抗争の現場にいたろ。あそこで何が起きたか一部始終を見てたなら俺が裏切り者じゃねえってわかるはずだ、なのになんで逆恨みするんだ、俺に復讐しに東京プリズンに来るんだよ!?ああそうだよ確かに俺は手榴弾を投げたさ、自分が助かりたい一心で栓引き抜いた手榴弾を思いっきり投げたさ!だけど手榴弾はすぐに爆発しなかった、地面に落ちてしばらくは何も起こらなかった。不発弾と勘違いした連中が盾代わりの廃車の影からうようよ群れ出て、それで…………』
 言葉に詰まる。
 心臓が壊れそうに高鳴る。
 先を続ける勇気がどうしても湧かない。
 閉じた目の裏側に鮮明に蘇る光景……激戦の痕生々しい廃車場の地べたにぽつんと転がる手榴弾。肩透かしを食らった連中が敵味方問わず好奇心に負けてしゃしゃり出てきて、手榴弾のまわりに群がって、脅かされた腹いせに悪態吐いて蹴り転がして……
 爆発。
 千切れた四肢、飛散する肉片、生臭い血の雨。
 阿鼻叫喚の地獄絵図。
 顔にへばりついた肉片の湿りけを今でもまだ鮮烈に覚えている。
 最前まで笑い合っていた仲間が、手榴弾の行方を眺めていた敵が、高熱の爆風に吹っ飛ばされてあたり一面の血の海に臓物と肉片をぶち撒けた。
 あっというまの出来事。
 止めに入る暇なんてこれっぽっちもなかった。
 『お、前だって知ってるだろ。あの時あの場にいたならわかってるだろ!?あの手榴弾は抗争の前の日に仲間から手渡されたヤツで細工する暇なんかこれっぽっちもなかった、あれは事故だったんだ、俺だってあんな結果になるってわかってたら手榴弾投げたりしなかった!最初は脅しのつもりだった、逃げ道開く為の脅しで手榴弾を投げたんだよ、今更虫が良すぎるかもしれねーけど最初は誰も殺すつもりなんかなかったんだ、まわりの連中びびらせて突破口開くつもりでたまたま手の中にあった手榴弾を投げたんだ!!』
 あの時はぐるりを敵に囲まれていた。
 俺は一台の廃車の陰に追い詰められていた。
 状況は極めて不利、仲間の応援は見込めない。
 俺の事を普段から半々と馬鹿にしてお荷物扱いしてる連中に何が期待できる?期待するだけ無駄だ。
 だから俺はひとりで何とかするしかないと思い込んで、頼れる物といやびっしょり汗かいた手の中の手榴弾だけで、神経が焼き切れて寿命が三年縮む逡巡と葛藤の末に辿り着いた結論は……

 『本当は誰も、誰も殺したくなんてなかった』

 けど、仕方ないじゃんか。
 自分が生き延びるためには仕方ないじゃんか。
 誰にともなく必死な声音で言い訳する。
 あの場ではああするよりしかたなかった。
 まわりの誰も助けてくれない状況下で生き延びるには自分の頭を使うしかなかった。
 俺に与えられた武器は手榴弾一個。
 選択肢なんて上等な物がない状況下では必然これを使うしかない。
 死にたくない。
 死にたくない。
 死にたくないよ、母さん、梅花……
 発狂寸前の恐怖に苛まれて廃車の陰にしゃがみこむ。
 逃げ回ってる間ずっと握り締めていた手榴弾には体温が移っていた。
 緊張と恐怖ですっかり強張ってしまった指に舌打ち、むりやりこじ開けて手榴弾を見下ろし、深呼吸で覚悟を決める。
 決断。
 役に立たない指の代わりに栓を咥えて引き抜き、大きく腕を振り被って廃車の向こうへぶん投げる。
 鼓膜も破れんばかりの爆音を予期し、瞬時に耳を覆ってしゃがみこむ。
 廃車の陰に呼吸を止めて身を潜める。
 体感時間では永遠にも等しい数秒が過ぎ去る。
 爆風にひっくり返された車の下敷きになることすら予想していつでも逃げ出せるよう腰を浮かせていたが、薄ら寒い静寂に違和感を感じ、おそるおそる振り返る。
 廃車の陰から顔を出した俺の視線の先、地面に落っこちた手榴弾を無邪気につま先でつつくガキども。
 なんだ、不発かよ。驚き損だぜ。シケてんな。
 口々にそう喚きながら腹立ち紛れに手榴弾を蹴り転がす。
 図体でかいガキが石蹴りにでも興じてるような平和な光景…… 
 次の瞬間には血なまぐさい地獄絵図に塗り替えられる光景。
 『俺は裏切り者なんかじゃねえ、仲間を見殺しに生き延びた卑怯者と勝手に呼びたきゃ呼べばいい、だけど裏切り者呼ばわりだきゃごめんだ、月天心がぶっ潰れた原因まで俺に求められちゃたまんねーよ!!月天心が壊滅したのはトップが狂っていたからだ、お前が月天心をシメてる限り月天心の最悪の潰れ方すんのはわかりきってた事だ、お前はただ自分のやりたい放題のせいでチームが潰れたの認めたくねえだけ………っうぐ!?』 
 額に衝撃が炸裂。    
 道了に頭突きを見舞われたのだと気付いて一瞬意識が遠のきかける。 俺の前髪を引っ掴み、むりやり露出させた額に額を激突させた道了は、どこかご満悦な様子で金銀の目を光らせている。
 邪悪に輝く金銀の目に魅入られる。
 額が焼けるように疼く。
 頭蓋骨の中で割れ鐘が鳴り響く。
 ガキどもは完全に引いている。
 すっかりびびりまくった取り巻き連中の視線を一身に集め、俺の前髪を掴み、片腕一本で吊るした道了が言う。
 『俺が言ってるのはそんな下らない事じゃない』
 下らない、こと?
 どういうことだと目だけ動かし道了に問う。
 月天心が壊滅したのが下らない事ってわけか?
 まさか。
 月天心は道了にとって命と同じかその次に大事な存在じゃなかったのか、重要な意味をもつんじゃなかったのか?
 じゃあ道了は何を問題にしているんだ、俺を憎む理由は何だ?
 胸の内で疑問が沸騰、理不尽な仕打ちのわけが知りたくて縋るように道了を仰ぐ。
 死臭が充満する房に重苦しい沈黙が流れる。
 闇の中で鋭利な光が閃く。
 硬質なオッドアイがひどくゆっくりと瞬き、鋭い眼光が真っ直ぐ目の奥を突き刺す。 
 道了の顔が、目が、間近に迫る。
 唇が触れ合う距離に呼吸を感じる。鼓動が跳ね上がる。
 恐怖で体が硬直、生唾を飲み下すはずみにぐびりと喉が鳴る。
 ひどく冷たく無機質な瞳から放たれる視線が、何の感情も温度も伴わず顔の造作をなぞっていく…… 
 金銀の目に吸い込まれる。
 呼吸すら忘れて道了の目を見つめ返す。
 重苦しい暗闇の中、ひんやり骨ばった手が俺の首を支え、上向きに固定し、そして……

 突然だった。
 噛み付くようなキスだった。

 『ん、かはっ、うんぐぅっ……!』
 道了が突然俺の唇を奪った。
 唇ごと噛み千切るような乱暴なキスに気が動転し、無意識に拳を振り上げて道了の肩を滅茶苦茶に殴り付けるも本人は動じず、俺を押し倒して上にのしかかるや唇をこじ開けて舌を入れてくる。
 熱く生柔らかい異物が口の中で蠢く。
 頬の内側の粘膜をこそぎ落とすように舌で擦って歯のぬめりをとるように舌が這う。
 歯の隙間から吐息を漏らして道了を押しのけようとするも、ぴったり体が密着した状態では四肢を伸ばせず、道了にされるがまま床でもがくしかない。
 貪欲に舌を吸う。
 口腔で舌が暴れ回る。
 あんまり強く舌を吸われて痛みを感じる。
 道了は今俺に何をしてる俺にキスしてるなんでコイツたった一ヶ月で環境に染まっちまったのかその手の趣味に目覚めて俺に欲情してるのか、俺を犯そうとでもいうのか、取り巻き連中が見てる前で。
 冗談じゃねえ。
 『道了おまっ、ふざけ……東京プリズンに来てたった一ヶ月で男に突っ込む趣味に目覚めちまったのか!?』 
 ハルの死骸の隣で犯されるなんざごめんだ。
 死臭漂う薄暗い房でかつての仲間に犯されるなんざ最悪だ。
 何とかして道了を引き剥がそうと恥も外聞もかなぐり捨て死に物狂いで抵抗する、ちぎれんばかりに首を振り拳で殴り付け上から振り落とそうと躍起になって暴れ狂う。
 道了はどかない。
 相変わらず俺にのしかかったまま、何度肩を殴られても苦鳴ひとつ零さず奥深く口腔をまさぐり舌を絡めるキスを続ける。
 道了が舌を放した隙に声を大にして叫んでもまわりのガキどもが止めに入る気配はなく、俺の喚き声を聞いた看守が駆け付ける気配もない。
 苦しい。息ができない。舌を貪り吸われてろくに呼吸できず、生理的な涙で視界がぼやける。
 道了のキスは至極一方的で暴力的だ。
 相手を気持ちよくさせようなんてこれっぽっちも思っちゃない、相手の口の中を暴いて完全に自分の物にしたい衝動全開で舌突っ込んでめちゃくちゃに掻き回してるだけだ。
 レイジとは大違いだ。
 俺を最高に気持ちよくさせようと技巧を凝らした舌遣いで優しく慎重に、徐徐に大胆に口腔をまさぐるあいつとは大違い……
 『かはっ………』 
 酸欠で気を失う寸前に唇が離れる。
 透明な唾液の糸引く唇を手の甲で拭い、激しく咳き込む俺を見下ろす。
 『梅花の味がしたか』
 梅花の顔が脳裏に浮かぶ。
 梅花の唇の味と感触を思い出す。
 おそるおそる梅花の肩にふれて押し倒した時の胸の高鳴りおそるおそる梅花の唇に触れた時の柔らかな感触と安っぽい口紅の味、泣き明かして真っ赤に充血した目が俺を見上げて……
 過去何度も反芻した梅花の唇の味と感触が急激に薄れていき、道了のそれにすりかわる。
 思い出を汚された。
 破壊された。
 梅花の唇の味と感触、たったひとつ俺が持っていた優しい女の思い出がそっくり全部道了に貪り吸われちまった。
 道了はそうやって俺から梅花を取り返した。
 唇に感触を上塗りして、未練がましく温めていた梅花の接吻の余韻を完全に閉め出しちまいやがった。
 『お前の唇は腐った肉の味だ』
 道了が妙に優しく囁き、放心状態の俺に乗っかる。
 道了が俺の上着の裾を掴んで捲り上げる。素肌に外気が染みる。
 上着を胸まで捲り上げて貧相な体を暴いた道了が、ざらついた手で肌をなでる。
 『今日からお前が梅花の身代わりになれ』
 冷たい手が体をなでる。腹をまさぐり腰をすべり背中に回る。
 レイジの愛撫とは違う、ただの道具を扱うようにぞんざいな手つき。
 俺の真横にはハルがいる。
 口の端からだらりと舌を垂れて絶命した犬が横たわっている。
 吠え声がうるさいと挽き肉にされたハルが虚ろにこちらを見返している。
 せめて目を閉ざしてやりたいが、ぎりぎりで手が届かない。
 『俺を梅花の身代わりにするのか。身代わりでお前に抱かれろってのか』
 搾り出した言葉がやけに白々しく響く。
 全てを諦めきってしまったように乾いた声。
 道了に逆らえばどうなるかは体に叩き込まれている。
 いや、それよりわかりやすい証拠がすぐそばにあるじゃないか。
 道了は俺を憎んでいる、恨んでいる。何故だ?わからない。わからない……
 道了の手が薄い胸板をさする。
 手が乳首を掠めてびくりと体が震える。
 駄目だ、しっかりしろ、俺。
 このままヤられてたまるか言うなりになってたまるか、さあ今すぐ道了の手を払いのけて逃げ出すんだ廊下を突っ走るんだ道了から一歩でも遠くへさあ行け!!!
 自分を奮い立たせようと心の中で叫ぶも体が棒みたいに突っ張って動かない。
 脳天から股間まで鉄串で貫かれたよう。
 『ひあ、あぅぐ……』
 冷たい手が胸板で緩慢に円を描き、喉が仰け反る。
 指の間に乳首を挟んで揉みしごきながら、もう一方の手を俺の股間に潜らせ、ズボンの上から先端を握り締める。
 『梅花を死んだのはお前のせいだ。お前が俺から逃げ出したからだ』
 ほんの一瞬、道了の顔に感情めいたものが浮かぶ。
 失望。幻滅。自分を裏切って逃げ出した者への冷ややかな逆上。
 『お前は俺を裏切った』
 噛み含めるように断言し、ズボンの上を柔らかく揉む。 
 『お前はあの時死ぬべきだった。最後の抗争で生き残るべきじゃなかった。月天心に殉じて死ぬべきだった。そうすればお前は台湾人になれた。自分の身を犠牲に月天心を勝利に導いた功労者として誰もに尊敬される存在になれた。皆がお前を認めてくれた。お前こそ台湾人の中の台湾人だと褒め称えてくれた』
 驚くほど繊細な手つきで股間を揉みほぐされ、不覚にも前が反応してしまう。
 致死量の毒を含んだ言葉が鼓膜に滴り落ちる。
 俺が月天心の仲間になるには死ぬしかなかった。
 そうでもしない限り永遠に仲間と認められなかったとさも当然のことのように言い聞かせながら、股間をさぐる手をズボンの中へとくぐらせる。
 『娑婆にお前の居場所はない。お前を迎えてくれる人間など何処にもいない。俺がそうした。お前の居場所を残らず潰した。居場所を失くしたお前が俺に戻ってくるしかないように一つ残らず逃げ道を絶って回った』
 下着の中に潜り込んだ手が性器をじかに掴む。
 いつでも握りつぶせるぞと脅すようにペニスをいじり、薄っすらほくそ笑む道了に向き直る。
 『俺の、居場所を、潰した?』
 俺の居場所。月天心、梅花、そして……
 お袋。
 『道了てめえっ、お袋になにかしたのか!?』
 不安の裏返しに語気を荒げて詰問する。
 お袋への危害を匂わせて不気味に沈黙した道了が、ちらりと興味なさげに俺を一瞥し、俯く。
 
 『犯した』
 え?

 道了の指がペニスに絡む。巻き付く。絞る。心と体を掌握する。
 俺を呪縛する。
 
 道了が口を開く。取り巻きのガキどもが続く行為を予期して息を呑み、房に緊張が走る。 
 道了が品性を損なわない程度に口を開け、先端を含む。
 脊髄をぞくりと快感が貫く。
 俺は動かない。
 道了が与える快楽より発する言葉を待ち侘びて、でも聞きたくなくて、耐え切る自信がなくて、それでもお袋の身に起きた事が知りたい葛藤の狭間で揺れ動いて……

 道了は言った。
 至極あっさりと言いきった。

 『犯して殺した』
 俺の物を抵抗なく口に含みながら、お袋を殺したと断言した。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050415233849 | 編集

 『なんっ、のつもりだよ道了……!』
 情けなく語尾が萎む。
 目を通して網膜に捻じ込まれる光景のおぞましさに吐き気を催す。
 薄暗がりの房に所在なく突っ立ってるガキども五人。
 観衆が固唾を呑んで見守る中、嫌悪と畏怖と欲情とが入り交ざった視線を一身に浴びて俺の股間に顔を伏せ、唾液を捏ねる音も淫猥にペニスを含む男。男の性器を含む行為に何ら抵抗も躊躇いも感じさせず、俺の膝を手掴みで開かせ股間に顔を突っ込み、こまめに顎を傾げてペニスにしゃぶりつく。
 『………ひぐっ、』
 夢だ。悪い夢だ。そうに違いない。
 俺はまた悪夢にうなされてるんだこの前みたいにこの前と同じ繰り返しで、きっそそうに違いない。
 喉の奥で悲鳴が煮詰まる。
 道了から少しでも距離をとろうと無意識にあとじさる。
 背中が何か固い物に当たる。
 咄嗟に振り返り、壁際のベッドに追い詰められたことに気付く。
 さんざん殴られ蹴られいたぶられた全身の関節が軋む。
 道了からは逃げ切れないと直感、手足の先に絶望の温度を感じる。
 悪い夢だ。悪い冗談だ。
 俺の身に何が起きてる?気持ちが悪い。もう沢山だ。いい加減頭がおかしくなりそうだ。
 眼前に道了がいる。
 手掴みで俺の膝をこじ開け股間に顔近づける。口を開ける。含む。機械的に。
 道了の口腔に含まれ舌でねぶられるうちに徐徐に硬さを増し張り詰めていくペニスを根元から切り落としたい衝動に駆られる。
 嗚咽とも苦鳴とも付かないくぐもった呻きがひしゃげた喉から零れる。
 気持ちが悪い。最低最悪のみじめな気分。情けない話腰が抜けて立てない。俺は力なく壁際にへたり込んだまま道了にフェラを施されている。
 道了はフェラが上手い。
 男の癖にどうしてフェラが上手いのか衝撃に麻痺した頭の片隅で疑問を抱く。
 誰に教わったんだ?梅花?まさか。
 髪を鷲掴みにされた梅花が道了に傅いて奉仕する絵なら容易に思い浮かべる事ができるが逆は絶対無理だ。待て、違う、冷静になれ。道了がどこでフェラチオ覚えたかなんてそんなこたどうでもいいだろ関係ないだろ。今すべきことは一刻も早くここから逃げ出すこと助けを呼ぶこと道了を上からどかすことだ。だけど体が言う事聞かない。金縛りにあったように体が硬直して四肢は棒みたく突っ張って自分の意志じゃ指一本動かせない。
 頭が真っ白になる。脳内を虚無に帰す恐怖がぶり返す。
 道了の言動は理解不能だ。
 道了の言動は明らかに常軌を逸してる。
 思考回路は完璧いかれてる。どうしようもなく修正不可能にいかれてる。
 何故そうまで執拗に俺を憎むのかその理由が皆目わからない不条理に当惑が深まる。
 鉄板めいた無表情の裏に秘めた異常な執念がますます恐怖を煽り立てる。
 こんな理不尽ってあるか畜生と腹の中で毒づくも状況は一向に好転しない。
 消え去れ悪夢、消滅しろ道了。
 きつく瞼を食い縛り狂気を伴う恐怖を吹き散らそうと一心に念じる。
 次に目を開けたら道了が跡形もなく消え去ってるといいと儚い希望に縋りながらおっかなびっくり薄目を開ける。
 強く閉じ続けた瞼が幻覚を見せるのか視界に赤い光輪がちらつく。
 赤い光輪が滲んで闇に溶けるのを待ち、早鐘の如く脈打ち沸騰した血を送り出す心臓をどやしつけ、股間を見下ろす。
 毛先を銀に染めた黒い頭が股間で蠢いている。ぴちゃぴちゃ唾液を捏ねる音が響く。
 夢じゃない。現実だ。漸くそれを思い知る……痛感する。自覚した途端に感覚が活性化する。体の麻痺が解けた下半身にどろりとした熱を感じる。不快と快の境界線が溶け出して曖昧に交じり合う。気持ちいいのか悪いのか頭が朦朧として自分でもよくわからない。全身の痛みが徐徐に薄れて下半身に熱が集まっていくのを感じる。
 やばい。
 俺、興奮してる。体が勝手に反応してる。
 分身が浅ましく昂ぶってやがる。 
 レイジ以外の男にさわられて感じる体が憎い。
 レイジ以外の男にむりやり感じさせられて拒否できない自身の境遇に無力感と屈辱感が込み上げる。
 瞼の裏にレイジの顔がちらつく。いつでも能天気に笑ってる王様。俺の最初で最後の男。
 レイジ体を許した決断に後悔はないがこのままろくに抵抗せず道了にヤられちまったら一生後悔するに決まってる。
 道了にヤられるのだけはやだ、絶対やだ。
 梅花みたいにお袋みたいにこいつに犯されて殺されるのだけは嫌だ、梅花やお袋と同じ運命を辿りたくない、こうなりゃ死ぬ気で抵抗してやる、半々の意地を見せてやる!
 『おまえら、ぼさっと突っ立ってないでコイツ引っぺがせよ!なに引いてんだよ、しっかりしろよ、お前らが娑婆にいた頃からずっと憧れてた道了が薄汚い半々の股間に顔突っ込んでペニスしゃぶってるとこなんて見てて楽しいのかよ、台湾人のプライドはどこに売り払ったんだよ、ええっ!?目ん玉かっぽじってよく見ろ、これがお前らが憧れてた月天心トップの本性だよ!俺の股ぐらに顔突っ込んで夢中でペニスしゃぶってるこいつが池袋で伝説化した最凶の男だよ、なあがっかりだろ、現実知ってがっかりしたろ!?お前らが憧れてる道了はお前らが思ってるような男じゃなくて失望したろ、ならコイツどうにかしろよ、俺の腹の上でさかってるこのド変態をぶち殺してくれよ!』
 恥も外聞もかなぐり捨て必死の形相でガキどもに助けを請う。
 薄暗い房内に立ち尽くすガキどもの顔からは完全に血の気が引いてる。
 こいつらに道了の抑止力となる期待をかけた俺がバカだったと自分の浅はかさを呪う。
 フェラを見せ付けられて完全に腰が引けたガキどもを役立たずと腹の中で罵る。
 助けは望めない。自分一人の力で何とかするっきゃない。
 覚悟を決めた俺は狂ったように暴れだす、ちぎれんばかりに激しく首を振り手足を振り回し拳で力一杯道了を殴打する。
 喉も裂けよと甲高い奇声を発する。怒りに任せて拳を振り上げ振り下ろしひとときたりともじっとせずさかんに身をよじる。
 ペニスを含まれた状態で体を動かすのは危険だと頭じゃわかっていても抵抗をやめない、万力めいた顎の力でペニスを噛み千切られるかもしれなと薄っすら予期しながらも激情に翻弄されて判断力を失っている。
 今俺のペニスをしゃぶってるのは梅花とお袋を殺した男、憎んでも憎み足りない殺しても殺したりない惚れた女と母親の仇だ。
 道了の言ったことが真実か妄言かどうかなんてわからない確かめる術がない、だけど道了の言葉は動揺を招くのに十分で劇的な効果をもたらして俺は世界の地盤ががらがら崩れていく音を聞いた。
 お袋が死んだ。殺された。犯されて殺された。道了はさっきそう言った、たしかにそう言った。無慈悲に冷たい金属の瞳で俺を見据え、目の奥まで抉りこむように透徹した視線を顔の中心に固定し、合成音声めいた抑揚のなさでそう言った。

 お袋が死んだ。
 殺された。
 こいつに。
 こんなやつに。
 俺とこいつが関わったばっかりに。
 俺のせいで。
 俺が原因で?

 『なん、で?』
 純粋な疑問が脳裏を塗り潰す。弛緩した口から無意識の問いを発する。
 フェラチオを続けながら道了が面倒くさそうに顔を上げて俺に一瞥よこす。
 俺は震えていた。馬鹿みたいに震えていた。さっきからずっと震えがとまらなかった。
 ずっと昔、まだお袋に縋っていたガキの頃、着のみ着のまま薄汚れたジャンパー姿でアパートを叩き出されて路地裏の寒空の下震えていた頃を思い出す。
 折檻の痛みを体が覚えている。
 恐ろしい剣幕で怒鳴り散らすお袋の形相を鮮明に覚えている。
 今でもまだ悪夢でうなされる。
 平手と一緒に叩き付けられた呪詛、口汚い罵声、ヒステリックに振り上げ振り下ろされる平手と邪険に浴びせられる蹴り。
 この疫病神。
 あんたさえ生まれなきゃもっといい暮らししてたのに、今頃は稼ぎのいい台湾人か金持ちの日本人と所帯を持っていたのに、あんたを産んだばっかりにあんたの父親のろくでなしに惚れたばっかりに私はわたしは……。
 俺のためにいかに苦労してるか涙ながらに切々と語る。
 俺のせいでいかに人生をめちゃくちゃにされたか半狂乱で訴える。
 命からがらスニーカーをつっかけてアパートを逃げ出したこともあればお袋に襟首掴まれてポイと投げ捨てられたこともある。
 最低の母親。最悪の記憶。俺がいようがいまいがとっかえひっかえ男を連れ込んで愉しんだ女。
 とうに吹っ切ったと思っていた。
 忘れ去ったと油断していた。
 お袋はいまや俺の人生に何の影響も及ぼさない、俺は完全にお袋から解放された、お袋の束縛を逃れて呪縛を断ち切ったと思い込んでいたのだ。めでたいことに。
 なのに何で今頃になって、俺の前に現れるんだ。
 こんな最悪の形で現実を突きつけられなきゃいけないんだ。
 お袋なんかどうなってもいい。どうなったって知るもんか。
 痴情のもつれで情夫に刺し殺されるのが売女に似合いの最期だ。
 ざまあみろ。
 自業自得だ。
 俺に優しくしなかったらそうなったんだ。
 あんたがもうちょっと母親の自覚を持って息子に接してればこんな結末にならずに済んだのに全く皮肉なもんだ。
 どうした?笑えよ。
 売女にふさわしい最期だって、自業自得だって嗤ってみせろよ。
 あんな女さっぱり未練はない。
 殺したいほど憎みこそすれ愛してるわけがない。
 どんなに一途に慕ってもさっぱり愛情を返してくれなかった女に期待するのはやめたんだ。
 ひょっとしたら俺の帰りを待っててくれるんじゃないかとか俺の居場所を残しといてくれてるんじゃないかとか母親らしい慈愛の笑顔で「おかえり」と迎えてくれるんじゃないかとかありえない空想で自分を慰めるのはやめたんだ縋るのはやめたんだ。お袋とはすっぱり縁を切った。俺は勘当同然でたたき出された身の上で帰る場所がなくてお袋が待ってるはずないと頭ではわかってるのに……
 『なんでお袋が死ななきゃならなかったんだよ。何も悪くねえのに』
 怒りのあまり声が震える。喉の奥で嗚咽が泡立つ。
 涙腺が熱い。瞼に涙がしみる。
 記憶の中のお袋は今も若く綺麗なままだ。
 俺とよく似た面立ちに蔑みの表情を浮かべ、高飛車に腕を組み、自分が腹を痛めた息子を見下している。
 堰を切ったように溢れ出た涙が頬を滴る。顎先で合流した涙が道了の額を点々と濡らす。
 口の中が塩辛い。
 鼻腔の奥に逆流した涙に噎せ返りそうになりながら、最初は弱く、次第に激しく首を振る。
 『お袋がなにしたよ。なにもしてないだろ。お前の気に障ることはなにもしてねーだろ』
 瞼の裏にくっきりとお袋の面影が浮かぶ。
 端正な造作の切れ長の目、肉の薄い繊細な鼻梁、薄く整った口元と華奢なおとがい。
 俺によく似た、けれども俺より遥かに薄情な面差し。お袋らしいことなんか何ひとつしてくれなかった女。
 けれど、名前をくれた。
 かけがえのないものをくれた。
 お袋がくれた名前を「かっこいい」と褒めてくれたのはレイジだ。
 名前を褒められて誇らしかったのも事実だ。
 客に煙草の火を押し付けられていつまでも泣き止まない俺をぎこちなく撫でてくれた。俺が泣き止むまで辛抱強く麻雀牌を並べて倒す遊びに付き合ってくれた。たったひとつだけ優しい思い出をくれた。たった一回だけ母親になってくれた。
 お袋。お袋。母さん。
 なんであんたが死ななきゃならなかったんだ?
 こんなくだらない理由で、逆恨みに等しいくだらない理由で、単なるとばっちりで。
 『確かにひどい女だった。最低の母親だったよ。だけどお袋はお袋なんだ、死ぬほど苦しい思いで蛙みたいなカッコで力んで俺を股ぐらから産み落とした女なんだよ、この世でたった一人かけがえのない大事な女なんだよ、どんなに酷くされたって殴られ蹴られて放り出されたって嫌いぬけない、今だって本当は忘れられない振り向いて欲しい大好きな女なんだよ!!俺はずっとお袋を守りたくて、お袋を守れるくらい強くなりたくて……月天心にいた頃だってそうだ、お袋忘れたことなんか一度もなかった、いつだってお袋のところに帰りたかった、階段にガタがきたあのアパートに帰りたかった。お袋に会いたくてしょうがなかった。いつだって寂しくて寂しくてしょうがなかった』
 激情に乗って本音が溢れ出す。
 胸が熱い。痛い。
 頭ん中はぐちゃぐちゃだ。
 お袋がもうこの世にいないなんて信じられない。
 いや、信じてたまるか。でも……何が本当で嘘なのかわからない。妄想と現実の区別が付かない。
 でも。
 道了なら眉ひとつ動かさずにお袋と梅花を殺してのけるだろう確信がある。
 梅花の顔をアスファルトで磨り潰し目鼻を血膿に変え手足をへし折り股ぐらにビール瓶をつっこんで骨盤破壊してもなお道了は無表情だ。
 お袋を裸に剥いて横っ面を張り飛ばし爪あと残すほど乱暴に乳房を掴んでもなお無表情だったに違いない。
 道了なら梅花とお袋を殺しても不思議じゃない。
 道了が言うなら十分ありえることだ。
 『お袋と梅花を返せ』
 獣じみた唸り声を発する。
 憎悪に満ち満ちた呪詛を搾り出した俺をちらりとも見ず道了は口を動かし続ける。技巧を凝らした舌遣いに意志を裏切り下半身が反応する。唾液を捏ねる音がやけに淫靡に響く。
 熱い。道了の口の中は熱く潤んでいて、発情した軟体動物めいた動きで舌が蠢くたびにあらたな快感の波が押し寄せる。
 腰が上擦りそうになるのを必死に堪え、間違っても喘ぎ声など上げないよう生唾を呑み言葉を紡ぐ。
 『返せよ。道了。俺の惚れた女と俺を産んだ女を返せ』
 梅花が死んだなんて嘘だ。
 お袋が死んだなんて嘘だ。
 俺が守れなかったなんて嘘だ。
 嘘だ嘘だ嘘だそんなことあってたまるか、俺が知らないあいだに俺が知らない所で道了に犯され殺されただなんて救いのない結末あってたまるかよ。
 道了は答えない。
 俺の股間に顔を突っ込んだまま貪欲にペニスをしゃぶってる。 
 『っは……』
 膝と腰が砕けそうになる。
 腰から下が快感に蕩ける。
 男にしゃぶられてペニスが勃起する。
 レイジ以外の男にやられて感じるなんて信じたくない、俺がそんな淫乱だなんて信じたくない。
 両腕を突っ張って必死に道了をどかそうと試みるも無駄だ。
 押しても引いても道了はびくともせず、屍肉を貪る獣めいた殺気を放って俺の分身をねぶっている。
 『ん、あ、はぅ………』
 思考力が低下する。腕から力がぬけていく。
 体が熱っぽい。口腔の粘膜に包まれ潤されたペニスがびくりと震える。
 体を支える芯がふやけて前屈みになる。自然道了の頭を抱く格好になる。
 嫌だ。イきたくない。
 道了にいかされるなんて最高の屈辱だ。
 梅花とお袋を殺したかもしれないヤツにむりやりイかされるなんて……。
 イきたくないと理性が抗う。
 体が貪欲に快楽を受け入れる。
 梅花とお袋の面影がかわるがわる瞼裏に去来する。
 梅花はじっと哀しげにこっちを見てる。
 お袋は蔑むように見下してる。
 道了にヤられる一方で無力感に苛まれるしかない俺を哀れんでいる。
 憐憫の眼差しに反発が湧く。
 ぐっと腕に力を込め、道了を頭ごと引き寄せる。
 道了の顔をしっかり手挟み、真っ直ぐ目を覗き込む。
 『お前にいかされるくらいなら食いちぎられたほうがマシだ』
 涙と鼻水と涎と血でべとべとになった顔をほんの一瞬虚勢の笑みを浮かべてみせる。
 長くはもたないのは承知の上だ。
 俺に顔を挟まれた道了はそれでも眉ひとつ動かさず、竿を捧げ持つ手を緩慢に動かし、口一杯に頬張ったペニスを繊細この上なく舌で愛撫する。
 『あっ、うあ、ひあ………』
 イきたくないイきたくないイきたくねえ。
 心が逆らう。体が迎合する。射精の欲求が理性に反発する。
 わけもわからず、ただ縋るものがほしい一心で道了の頭を懐深く抱き込む。堪え切れず声が漏れる。射精の瞬間が訪れる。
 『あああああああああああっ……』
 脊髄を貫くような快感が脳天に抜ける。脳裏が真っ白に爆ぜる。射精の瞬間閃光が炸裂した瞼の裏側を過ぎったのは梅花でもお袋でもなくレイジの顔だった。
 レイジは笑っていた。
 いつもと変わらず笑っていた。
 頭の後ろで手を組み、心痛の翳りなどどこにもない陽気な笑顔で。
 『レイジ……』
 舌が、唇が、勝手に名前を紡ぐ。
 ここにいない相棒を呼ぶ。
 射精の瞬間に思い出したのは梅花でもお袋でもなくレイジで心はもはや完全にレイジに占められていた。
 道了の口の中に精を放ったショックよりもレイジを裏切った罪悪感のほうが大きかった。
 背中を支える芯が溶けたようにしどけなく足を崩して座り込む。
 涙は枯れ果てた。
 頬を濡らす涙のあとが外気に晒され乾いていくのを感じた。
 だらしなく開いた口の端から一筋涎を垂らし、下腹に散った白濁を拭いもせず足をおっぴろげた俺の耳に、非情な呟きがふれる。
 『レイジ』
 のろのろと気だるい動作で声のほうに顔を向ける。
 俺の腹から顔を上げた道了が瞬きしない目でじっとこっちを見てる。
 道了がそっけなく顎を拭う。
 手の甲で白濁を拭き取る。
 金の右目と銀の左目が煌煌と光を放ち闇を貫通する。
 道了が怠惰に口を開く。
 『それが、俺からお前を奪った男の名か』
 感情が凍った、しかし底冷えするような殺意を感じさせる声。
 ぎょっと道了を仰ぐ。
 道了は不気味に押し黙る。
 『違う。レイジはただの相棒だ。俺を横取りしてなんか、ない』
 何言ってんだ、俺。
 横取りなんて言ったら道了の物だと自分で認めたみてえじゃんか。
 だけどそれしか言葉が思いつかない。
 レイジを敵と認識した道了がとる行動がありありと予測できたから殺意の矛先を逸らすために心にもない嘘をつくしかない。
 道了は梅花を殺した。
 お袋を殺した。
 この上レイジまで殺されるのはごめんだ。
 レイジまで奪われたら生きてけない。
 道了如きにレイジが負けるはずない殺られるはずない。
 でもそれでもレイジの身を危険にさらす不安は飽食を知らない化け物みたいに膨れ上がる一方で本気の道了がレイジを殺しにかかるところを連想すれば全身が鳥肌だった。
 殺意の矛先をレイジから逸らそうと唾飛ばし反駁する。
 
 『レイジはただのダチだ。俺と同房の囚人ってそれだけだ。お前が相手するようなヤツじゃない実力じゃお前にとても及ばないお前が本気になる価値もないやつだ、だからレイジは放っとけよ、放っといてくれよ、あいつに手えだすのはお願いだからそれだけはやめてくれよなあ頼むこの通りだ、昔の仲間のよしみで言う事聞いてくれよ!?』

 我を忘れて道了に縋り付く。
 道了の肩を掴んで押しとどめた手が震える。
 肌を触れ合った箇所から道了の体温と鼓動が感じられる。
 こいつは人形じゃない。ちゃんと生きて呼吸して飲み食いする人間だ。なら言葉が通じるはず、血を吐くように説得すれば願いを聞いてくれるはずだと一縷の希望に縋って道了の方へ身を投げ出す。
 『!?ふっ、くぅっ……』
 道了の手が、指が、俺の後ろに回りこみ肛門の窄まりを探り当てる。ひんやり骨ばった手で尻の柔肉を揉みしだき割り開き、他者の侵入を拒むように固く綴じた穴に指を突き立てる。
 前戯も何もなく乾いた指を捻じ込まれ矢のように激痛が走る。
 嫌々と首をふり力なく身を捩る。
 あまりに弱々しくて抵抗にならない。
 へたに動くと中で指が擦れて更なる痛みを生み出す。
 『仲間?』
 淡々と道了が言う。
 生まれて初めてその言葉を聞いたみたいに、語彙がまっさらな赤子みたいに。
 『俺には仲間などいない。いた試しがない』
 淡々と、ただありのままの事実だけを述べる口調に反発が募る。
 『一緒に死線をくぐりぬけた月天心のやつらも仲間じゃないってのかよ!?』
 『そうだ』
 道了はあっさりと首肯した。
 俺のケツにねじ込んだ指をぐりっと捻る。
 襞が巻き込まれて摩擦熱が生じる。
 上げかけた悲鳴を飲み下し、崩れた体を道了に凭せてどうにか支える。
 熱い。気持ちが悪い。苦しい。
 体の中で指が動いてる。
 閉じた穴をむりやりこじ開けて掻き分けて奥の奥まで暴こうとしている。額に脂汗が滲む。奥歯を噛んで苦鳴を殺す。力加減を忘れて道了に抱き付く。
 指が一本から二本へ、二本から三本へと増える。
 俺には見えない場所で三本の指がぐちゃぐちゃ音たて蠢きはじめる。
 『俺の形を覚えろ』
 道了の命令。
 ケツの穴に捻じ込まれた指が乱暴に引き抜かれ、隙間ができる。
 次に何が起こるか理解できた。
 逃げなきゃやばいと思った。
 道了の肩越しに唯一の出入り口の鉄扉を振り仰ぐ。
 格子窓越しに射し込む廊下の明かりがぼんやりと床を照らす。
 逃げろ。
 萎えた足腰を気力をかき集め奮い立たせ、壁を伝って。
 俺の考えを読んだようにまわりのガキどもに目配せする道了。
 房の薄暗がりにぼうっと突っ立ってたガキどもが瞬時におのおのの役割を思い出し、鉄扉を塞ぐ形で展開する。
 逃げ道はない。
 万一道了を突き飛ばして逃げることができても数人がかりで鉄扉を塞がれちゃ逃げ出せるわけもない。
 このまま道了に犯されちまうのか。
 梅花とお袋を殺した男に犯されちまうのか。
 大声で助けを呼ぼうとした。
 大声出せば看守か囚人か誰かが気付いてくれると期待した。
 深呼吸し、肺活量が保つ限り絶叫を振り絞ろうとしたそばから片手で隙なく口を封じられる。道了の手。目だけ動かして道了を見る。道了は相変わらずの無表情で金と銀の瞳だけが凶暴に凶悪にぎらついていた。
 『お前の母親がどんなふうによがり狂ったか知りたいか』 
 呟きながら片手でズボンを引き摺り下ろす。
 下着も一緒に。
 『お前の母親はとんでもない淫売だった。相手が息子と同じ年頃のガキでもおかまいなしに腰振ってさかっていた。大股開きで俺を咥えこんで「もっと、もっとひどくして」とねだっていた。俺はその通りにしてやった。毟る勢いで前髪を掴んで、窒息させるつもりで唇を貪って、爪あとが残る強さで乳房を揉みしだいた』
 やめろと叫びたかった。両手で耳を塞ぎたかった。
 お袋の痴態なんて知りたくない聞きたくないお袋がどんなふうに喘いだかよがったか男の下でどんなに淫らになったかなんて聞きたいわけない。
 道了はやめない。
 ズボンと下着を脱ぎ下半身を露出し、皮が剥けたペニスを赤錆びた凶器のように屹立させ、俺の尻へとあてがう。
 『喘ぐ顔がとくにお前にそっくりだった』
 必死に抵抗する。余力を振り絞り抵抗する。
 脳裏を過ぎるお袋の顔梅花の顔レイジの顔、道了に組み敷かれてよがり狂うお袋と血まみれの梅花とレイジの能天気な笑顔が一緒くたに溶け合って消えていく。
 泣き潰れた喉から獣の絶叫が迸る。
 道了は素手の膂力でやすやすと俺を組み敷く。
 シャツが捲れた背中に硬質な床の温度を感じる。
 ざらついたコンクリートの感触にも増して俺を不快にさせるのは体の表面を撫でる指の冷ややかさだ。
 道了の先端が尻にあたる。
 固く張り詰めて存在を主張するペニスが指でほぐされた肛門に侵入……

 「暴動だ!!!!!!」

 その一声で電池が切れたように道了の動きが止まる。
 俺の体内に先端を侵入させたまま、それきり興味が尽きたように格子窓の向こうを仰ぐ道了。鉄扉まわりのガキどももぎょっとする。
 「なんだ、何が起こった?」
 「中国人どもの暴動だ。東棟の中国人どもが所長室に襲撃かけたそうだ」
 「東棟の中国人どもって……凱の一派か?」
 「凱がなんで所長室に殴りこむんだよ?レイジ取り戻しにいったのか」
 「俺に聞かれても知るかよ」
 ヒステリックな怒声と罵声が炸裂、鉄扉一枚挟んだ廊下を殺気立った足音が駆け抜けていく。野太い激を飛ばす看守と囚人どもが入り乱れて阿鼻叫喚の大乱闘を演じる。
 房内のガキどもは戸惑いを隠せない。
 この場でただ一人道了だけが変わらぬ冷静さを保っている。
 「道了さん、どうします?表が大変なことになってますよ」
 考賢が縋るような眼差しで道了を見る。
 道了は俺にのしかかったまま動かない。
 密度を増す沈黙に押し潰されそうで息苦しさを覚える。
 抑揚の激しい中国語が喧しく表を飛び交う。
 格子窓にちらつく人影の中に見知った顔をさがす。
 いた。
 そして俺は、いちかばちかの賭けにでる。
 『救命、凱!!!!!!!!!!』
 爆発の勢いで扉が蹴破られたのは次の瞬間。
 扉の手前にいたガキが二人まとめて吹っ飛ぶ。
 蝶番がいかれた扉の向こう、蛍光灯の光に冴え冴え照らされた廊下に仁王立つのは2メートル近い威容の巨体を誇る男。
 蛍光灯の光を背にシャツもはち切れんばかりの筋骨隆々たる体躯を堂々踏み構えた男が、目を物騒に光らせて房内を睥睨する。
 道了に組み敷かれた俺をつまならそうに見下ろし、不快げに口元を歪める。
 「呼んだか?半々」
 凱だった。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050414131326 | 編集

 ロンに役立たずと言われた。
 「IQ180の天才にむかって暴言を吐くとは身の程知らずにもほどがあるぞ、あの凡人め。いや、この際だからはっきり言わせてもらう。あの低脳め、少しは身の程を弁えろ。低脳に生まれついたら生まれついたで謙虚に天才を敬い崇めるべきだ。そうは思わないか、サムライ」
 面と向かって罵倒された僕はといえば、その言葉を実証するようにロンが留守した房のベッドに座り込んでいる。
 罵倒されるのは初めてじゃない。
 それこそ東京プリズンに入所してから品性下劣な悪態の語彙は増える一方で、発育不良のモヤシだの頭でっかちの理屈屋めがねだのと唾のかかる距離で何度となく暴言を吐かれてきたが、ロンの啖呵はさすがにこたえた。
 僕の胸倉を乱暴に掴み、片手の膂力で首を絞め、至近に顔を突き出す。
 『膿包』
 ロンが語気荒く吐き捨てた言葉は本来中国語の出来物の意味、転じて役立たずをさす悪態となった。
 役立たず。この僕が役立たずだと?
 喘ぐように口を開き反駁しようとした。
 天才のプライドに懸けても断固否定せねばならなかった。
 だがしかしロンは反論の余地を与えず身を翻し駆け去った。
 役立たずの僕を置き去りに。
 颯爽と駆け去る後ろ姿が瞼裏に鮮烈に焼きついている。
 僕はロンを止められなかった。制止できなかった。ロン待てはやまるなとむなしく呼びかけるだけで彼を追おうともしなかった。
 僕の動きを鈍くしたのはロンに対する一抹の後ろめたさ、細心と優柔不断をはきちがえているのではないかという己への疑問、到底ロンのようには思い切れない己に対する歯痒さだった。
 ロンは一度も振り返らなかった。
 身を翻した瞬間に僕らの存在など念頭から消し去ったかのようにその行動は潔かった。
 迷いと葛藤を吹っ切り、決然と走り出したロンの背中を回想する。
 レイジとロンの絆の深さを痛感し、優柔不断な自分を恥じる。
 僕だってレイジが心配だ。
 所長に連行されてから一日経っても帰ってこないレイジと安田とヨンイルの処遇を考えれば際限なく不安が膨れ上がる。
 彼らがどうでもいいわけじゃない。
 そんなわけがない。
 僕が見かけだけでも冷静さを保っていられるのは隣にサムライがいるからで、もしサムライまでも連れていかれていたらロンと同じく挙動不審に陥り、レミングの葬列に加わるモルモットよろしく房内を徘徊する醜態を晒していた。
 だが、僕まで取り乱してどうなるというんだ?
 更にロンを不安にさせるだけで状況は悪化すれども改善されない。
 ならばいっそロンの抑止力にならねばと房の隅で監視していたのだが、どうやらそれが裏目にでたようだ。
 ロンは僕に反発した。
 冷静沈着な態度が気に食わないと唾飛ばし当たり散らした。お前はレイジが心配じゃないのか薄情者と指を突きつけ罵った。友人の甲斐がないと非難を浴びせた。安田やヨンイルが今頃どんな目に遭わされてるのかもわからないのに、どんな屈辱的な罰を受けているかもわからないのにどうして取り澄ましていられるのだと糾弾した。
 まったくもって不条理だ。
 単刀直入直情径行のロンには想像力が欠如している。
 拳を構えて激昂するロンに僕が見た目どおり落ち着いてるはずがないだろうと怒鳴り散らしたかった。無表情は生まれつきだ。感情が顔に出ない性質は生まれついての特質ゆえ今更変えられない。鈍感なロンに人の心の機微を察しろと言うのは酷かもしれないが、レイジたちの処遇を憂慮するあまりひりつくような焦燥に苛まれていたのは僕だって同じだ。僕だけじゃない、サムライだって同じだ。
 何もロン一人が苛立っていたわけじゃない。
 感情が表にでにくい僕とサムライも、レイジ達の帰りをただ待つしかない現状に業を煮やしていた。
 「ロンには想像力が欠如している。確かに僕は無表情だ。顔に感情が出にくい人間だとよく言われる。だが昨日はろくに眠れなかった。レイジ達に下される裁きとレイジ達が受ける罰、胸の悪くなるような想像が次々湧いてきてとてもじゃないが眠れなかった。従って目の下には不眠の隈がある。眉間の皺だっていつもより深い。下がり気味の口角に不快感が発露している。腕組みは威圧に見せかけた自己防衛で動揺をなだめるためだ。注意深く観察すれば僕がどんなに焦っているか一目瞭然だろうに言うにこと欠いて『役立たず』とは過労死した馬車馬に鞭打つ暴言じゃないか」
 まだ腹立ちがおさまらない。僕自身激しすぎる怒りを持て余し困惑している。反抗期の子供を持った親の心境だ。
 「ぼんやり突っ立ってないで何とか言え、サムライ。僕が役立たず呼ばわりされたということは君も同類と見なされ侮辱されたに等しいんだぞ。腹は立たないのか」
 やつあたりの自覚はあるが一旦堰を切った激情は止まらない。沸々と込み上げる怒りのままに言葉を叩き付けるもサムライは無言、瞑想に耽るように瞠目し外部の雑音を遮断している。
 サムライはどこでもいつでもひとりになれる。
 ひとりになれる術を身に付けている。
 明鏡止水の境地を体現するサムライがおもむろに口を開く。
 「……ロンの気持ちもわかる」
 「サムライ!」
 ロンに共感したサムライに声を荒げて腰を浮かせるも、続く言葉に毒気をぬかれる。
 「俺とてさらわれたのがお前なら、とても冷静ではいられなかった」
 「………っ、」
 舌打ちしてベッドに腰を下ろす。顔の赤さを悟られないよう俯く。
 苛立ち紛れに前髪をかきあげる。

 僕は薄情なのか?
 ロンの言う通り冷たい人間なのか?

 サムライに危険が及べば我が身を顧みず行動を起こす、しかしサムライ以外の人間ならば保身を最優先に無関心に見過ごす。  
 サムライは特別な存在だ。
 それは動かし難い事実で現実で真実だ。
 生まれて初めて出来たかけがえのない友人、僕の生きる意味で目的、僕の希望そのものだ。サムライがいなくなればもはや生きていけない。依存と呼びたければ呼ぶがいい。だがこれは共依存だ。僕にとってのサムライがかけがえのない人間なのと同様に同等にサムライにとっての僕もまたかけがえのない人間だと経験則で自負する。
 「………僕だって、とても冷静でいられそうにない」
 自然とふてくされた口調になるのをおさえきれない。
 サムライの前だと妙に子供っぽくなってしまう自覚はあるが指摘がないのを幸い直さない。
 内心の動揺をごまかそうと落ち着きなくブリッジに触れ、眼鏡の位置を直す。
 眼鏡に触れると同時に同じ癖をもつ男を思い出し、胸が痛む。
 レイジ。安田。ヨンイル。今頃どうしているだろう。
 
 今すぐロンを追いたい。
 所長室に殴りこみたい。
 レイジ達を救出したい。 

 「現実には不可能だ」
 膝の上で五指を組み替え、沈痛に独りごちる。
 深く俯いたせいで鼻梁に眼鏡がずれる。首をうなだれた僕の傍らにサムライが立つ。
 所長室への直通路は厳重な隔壁の向こうだ。
 囚人の房とは指紋照合でしか開かない重金属の扉で隔離されている。
 扉の形を借りた隔壁を突破して看守の妨害をくぐりぬけない限り所長室に辿り着けないのは目に見えている。突発的に駆け出したロンもまた所長室に辿り着くのは絶望的に不可能だ。僕の予想が正しければ隔壁の前で看守に捕獲されて独居房送りになる。運よく独居房送りは免れても足腰立たぬまで暴行されるのがおちだ。
 「不毛なことはしたくない。所長もまさかレイジ達を殺したりはしないはず。ならば彼らが帰ってくるまでヤケを起こさず慎重に対処すべきだ。違うか?」
 瞼の裏にロンが浮かぶ。面と向かって「役立たず」と言い切り、一度も振り返らず廊下を駆け去る後ろ姿が。
 迷いない背中に憧憬の念を抱く。
 ロンはどこまでも真っ直ぐだ。
 レイジを助けたい一心で後先顧みず走り出す自由さが羨ましい。
 理性に反して感情を優先する愚かさに憧れる。
 理性で感情を制御する僕はロンのようには走り出せなかった。
 僕も本当はああしたかった。
 ロンのように愚かに潔くなりたかった。
 「自分を責めるな、直」
 自責に苦しむ僕の傍ら、憮然と腕を組んだサムライが薄目を開ける。
 「お前のしたことは間違ってない。お前は冷たい人間ではないと誰より身近にいる俺が断言する」 
 「ロンと意見が異なるな」
 口元に自嘲の笑みが浮かぶ。あるいは虚勢。
 眼鏡を押し上げるふりで表情を遮る僕をサムライは黙って見詰めている。平明に凪いだ眼差しが居心地悪くなる。
 サムライに隠し事は無駄だ。嘘は通じない。虚勢は無力だ。
 僕の強がりを見抜いた上で努めて気付かないふりをするのが彼なりの優しさだ。
 房に沈黙が落ちる。
 閉塞感に息が詰まる。
 時間は刻々と過ぎてゆく。ロンは帰ってこない。
 今頃捕まっているのかもしれない、看守に暴行を受けているのかもしれないと悪い想像ばかりが膨らむ。
 膝の上で組んだ手が不快に汗ばむ。
 絶叫して立ち上がりたい衝動を必死に抑えこむ。鉄扉を蹴破り廊下にとびだし全速力でロンを追いたい衝動が自制の限界に抵触する。
 忙しく指を組み替え、伏し目がちに足元のコンクリ床を見下ろす。
 「3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971」
 五千桁まで暗記した円周率を口の中でいつ途切れるともなく反芻する。高度な演算能力でもって機械的に円周率を出力する僕の傍ら、無意味な数字の羅列に負けじとサムライが詠じる。
 「仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空……」
 般若心経だ。
 サムライは目を閉じ般若心経を唱えて精神の安定を図る。
 耳心地良い読経の声が床を這うように流れる。
 円周率と読経が低く混じり合い不可思議な波長が生じる。
 互いの顔は見ず、僕はベッドに腰掛けサムライは立ったまま、ひたすら円周率と般若心経を唱え続ける。
 他人にはさぞかし奇異な光景に映るだろう。滑稽を通り越して不気味だ。
 ベッドに腰掛け円周率を呟く少年とその隣で背筋を伸ばして突っ立ったまま般若心経を暗唱する男を目撃すれば、誰だって今見たものを見なかったことにしてそそくさ退散したくなる。
 発狂しそうな鈍さで時が過ぎる。
 「1300192787 6611195909……」
 円周率がそろそろ千桁に達しようかという頃、表で異変が起きる。
 「妙だ」
 表がやけに騒がしい。
 読経を打ち切ったサムライが眼光鋭く格子窓の向こうを見る。
 つられて鉄扉に向き直り、格子窓の向こうを喚声を上げて駆けていく人影を視認する。
 膝の上で五指を組み、生唾を嚥下してサムライの横顔を凝視する。
 ばっさり切った短髪に縁取られた横顔は、肉が削げて輪郭が鋭くなり以前より更に精悍さを増していた。
 切れ長の一重瞼の奥、鋭利なまでに真剣な光を帯びた鷹の目を油断なく細める。
 しっかり背筋が伸びた立ち姿は一分も隙が無い。
 脂じみた総髪が与える見苦しく不潔な印象は拭い去られ、潔く髪を刈り込んだ現在のサムライは居住まいに清冽な凛々しさを漂わせている。
 「俺から離れるな、直」
 威圧的に命じられ、不覚にもサムライに見惚れていた僕は忘我の境地から立ち返る。
 一方的な命令に反発を覚え、ベッドから腰を浮かす。
 だがサムライは僕に反論の余地を与えず、喧騒に沸く廊下に顎をしゃくる。
 「様子がおかしい。剣呑な匂いがする」
 剣呑な匂い。
 抽象的な言い回しが得体の知れない不安を煽る。
 おもむろにベッドから腰を上げ、慎重な足取りで鉄扉に歩み寄る。
 手前で立ち止まり、格子窓に顔を近付ける。
 抑揚の激しい中国語が喧しく飛び交う中、血気さかんに廊下を疾走するのは東棟の囚人たち。
 蛍光灯を破壊し壁を殴打し鉄扉に激突し、跳んだり跳ねたりと狂態を演じる囚人たちにさっと視線を走らせ、その多くが食堂で凱まわりに侍る傘下の中国人だと判断する。
 脳天から甲高い奇声を発して転げまわるもの、野太い咆哮を上げて壁に体当たりして蛍光灯を揺らし大量の埃を降らすもの、そのいずれもが異常な興奮状態において一種の祭りにも似た高揚感を味わっている。
 「連中は覚せい剤常用者か?刑務所における麻薬汚染は深刻だな」 
 嘆かわしげにかぶりを振った僕を押しのけるように前に出て、廊下の惨状を見渡したサムライが顔を苦渋に歪めて断言する。
 「暴動だ」 
 暴動。その言葉に衝撃を受ける。
 「暴動だと?待て、何が原因でそんな……」
 鉄パイプで蛍光灯を破壊し周囲に鋭い破片を撒き散らす。
 床一面に蛍光灯の破片が散乱し危険地帯と化す。
 両壁の鉄扉が蹴破られ開け放たれ、表の騒ぎに触発された囚人たちが手に手に得物を携え廊下の集団に合流する。
 「凱か」
 暴動の中心にいるのは凱だ。東棟最大勢力を誇る中国系派閥の首領だ。暴動の主犯格はいずれも凱傘下の中国人であり、誰あろう凱こそがこの暴動を指揮した張本人だと状況証拠が物語る。
 動機は皆目不明だが暴動の主犯格が凱ということは……
 「!まずい、」
 ロンの身に危険が迫っている。
 「待て、直。今外へでるのは危ない」
 鉄扉を開け放ち、騒動の渦中にとびだそうとした僕の肘をサムライが掴んで引き止める。  
 「暴動の主犯格は凱だ、ロンを敵視する東棟最大の中国系派閥のボスだ!見ろ、彼らはさっきロンが走っていったのと同じ方向に走っていくじゃないか。このままでは遅かれ早かれロンとの遭遇は避けられずロンが集団リンチの犠牲になるのは目に見えている、早く、早くロンに危機を知らせて連れ戻さなければ!!」
 ロンはレイジのようには強くない、ヨンイルのように強くない、安田のような臨機応変さを持ち合わせてない。
 中国人の暴動に巻き込まれて良くて重傷か最悪死亡か……どちらにせよ酷い目に遭うのは確実だ。
 サムライと縺れ合うようにして鉄扉に激突する。
 鉄扉が外側へと開き、勢い余って廊下に倒れこむ。
 「ぎゃっ!」
 悲鳴がした。当然僕じゃない。僕がこんな間抜けな悲鳴あげるわけない。
 反射的に腕の下を見る。
 僕に押し倒された格好で床に寝そべっていたのは、毛先の跳ね回った赤髪とぱっちりした目が印象的な童顔の少年……リョウだ。
 強打した尻をさすりつつリョウが愚痴をこぼす。
 「ちょっとちょっとメガネくん、人目があるにもかかわらず廊下で押し倒すなんて随分過激なマネしてくれるじゃん。そんなに欲求不満なわけ?」
 「扉の前にいるのが悪い」
 リョウの相手をしてる暇はない。
 したたかに尻を打った恨めしげに睨み付けるのを無視、スニーカーの靴底で蛍光灯の破片を踏み砕き、ロンが消えた方角へ走り出そうとしたところまたしてもサムライに妨げられる。
 「放せサムライ、ロンが心配じゃないのか!?」
 「素手で暴動の渦中にとびこむなど正気かお前はっ、命の次に大事な眼鏡が割れても知らんぞ!!」
 気色ばんだ一喝で冷静さを取り戻す。しばしサムライと睨み合う。サムライは一歩も譲らぬ気迫を込めて仁王立つ。先に視線を逸らしたのは僕だ。
 サムライの手をよそよそしく振りほどき、強く掴まれて痺れた腕をさする。リョウと接触したはずみに鼻梁にずれた眼鏡に気付き、傾いだ弦に手をふれる。
 険悪な雰囲気に包まれた僕とサムライを等分に見比べ、後ろ手組んだリョウが無邪気に言ってのける。
 「痴話喧嘩?」
 「「黙れ」」
 サムライと声が重なった。不覚だ。
 ばつの悪い僕に擦り寄り、ご機嫌伺いの猫なで声でリョウが囁く。
 「東棟で今なにが起きてるか教えてあげよっか」
 はっと顔を上げる。サムライが剣呑に双眸を眇める。
 愉快この上ないといった顔で笑いを噛み殺し、リョウが右足を軸に軽快に一回転する。
 「凱が所長室に奇襲を仕掛けたんだ」
 予想外の返答に驚愕する。サムライも軽く目を見張る。
 蛍光灯が割れて囚人が入り乱れた廊下の真ん中、上着の裾を翻してヘソをちらつかせながら、唄うようにのどかな口ぶりで暴動発生の経緯を語る。
 「レイジにお熱な凱がついにぷっつんきれちゃったのさ。視聴覚ホールの一件は覚えてるっしょ?メガネくんもサムライもあの時あそこにいたもんね。昨日所長室連れてかれて以来一日経っても音沙汰なし、今頃はお仕置きという名の性調教を所長じきじきに受けてるはずだって東棟はその噂でもちきりさ」
 愛嬌たっぷりに道化た仕草と語られる内容の落差に違和感を覚える。
 「凱はあれで妙に律儀なところあるからね。自分が唯一ライバル視してる東棟最強の男がこれ以上所長の好きにされるのは我慢ならないって激怒したのさ。こうなったら意地でもレイジを取り返してやるって真っ赤な顔で息巻いてたよ。おお怖」
 全然怖がってないどころか大いに面白がってる様子でリョウが首を竦める。現状を愉しんでるのは明白。骨の髄まで愉快犯だ。
 「凱も所長室に向かったのか」
 ますますもってまずい。目的地が同じなら道中凱とロンがぶつかるのは避けられない。
 眼鏡とロンを秤にかける。
 ロンへと秤が傾く。
 「……行くぞ、サムライ」  
 眼鏡越しにサムライを見つめる。
 サムライが首肯するのを確かめてきっぱり踵を返す。
 サムライがすかさず隣に並ぶ。先ほど怒鳴ったのは激情に任せてひとり走り出そうとした短慮を咎めたからで、こうして二人で歩くなら問題はないとばかりに泰然とした物腰で。
 互いに肩が触れ合う距離に並ぶ。
 蛍光灯の破片を踏み砕いて廊下を突き進む。
 サムライはいつ敵が現れても対処できるよう利き手に馴染んだ木刀を腰だめに構えている。廊下に溢れ出した囚人がサムライの気迫に呑まれて潮が引くように道を空ける。
 サムライの出陣が瞬く間に空気を塗り替える。
 サムライが足を運ぶごとに喧騒が引いて静寂が上塗りされる。
 「なかよしさんだこと」
 リョウの冷やかしを背中に受けて足早に歩く。焦燥に駆られた僕の裾を控えめに引いてサムライが囁く。
 「ロンは大丈夫だ。あれはお前が思っているよりも強い男だ」
 耳元に吐息がかかり、むず痒く微妙な感覚が芽生える。
 耳朶は毛細血管が集まる性感帯だ。
 敏感な耳朶に吐息がふれ、仄かに上気した頬を隠して俯く。
 「そうあってほしいものだな。本当に」
 僕を役立たず呼ばわりしたのだから。

 廊下を先に進むごとに状況は悪化した。
 所長室に近付くほどに暴動は激しさを増して廊下は荒廃していた。
 天井の蛍光灯は軒並み割られて全体が薄暗く、床一面に夥しく破片が散乱し、砂利でも踏むようにざらついた感覚が靴裏に伝わってきた。
 途中何度も危険な目に遭った。
 蛍光灯の破片が頭上に降り注ぎ、殺到する囚人に跳ね飛ばされ、暗闇で顔のよく見えない相手に小突かれた。
 大事に至らなかったのは常にそばにサムライがいたからだ。
 彼が身を挺して僕を庇ってくれたからだ。
 蛍光灯の破片が降り注げば咄嗟に僕の上に覆い被さり、背後に囚人が殺到すれば僕の腕を引いて廊下の端へと退避させ、暗闇で奇襲を受ければ果敢に立ち回り犯人を撃退した。 
 「ロンはどこにいるんだ?」
 蛍光灯が軒並み割れ砕けた暗闇の中、興奮状態の囚人が獣じみた咆哮を上げ蝶番が壊れた鉄扉の内へと雪崩れ込み、数人がかりでベッドを担ぎ出して破壊する。
 蝶番が壊れた扉を素手で引き剥がして房へと乱入し、ベッドの下や壁の穴に手を突っ込み、白い粉末入りの袋や皺だらけの紙幣や煙草を詰められるだけ懐に詰める居直り強盗がいる。
 「停電時は強盗および強姦が多発するという統計学的データを思い出す」
 皮肉げに口元を歪めた僕に片時も離れず寄り添い、サムライが周囲に油断なく目を配る。
 「見ろ」 
 サムライに促されてそちらを見る。眉間に皺寄せて暗闇に目を凝らすうちに蝶番が壊れた鉄扉のひとつが浮上する。
 鉄扉の向こうには地獄に通じる入り口のような矩形の空洞がある。
 その鉄扉に面して仁王立つ人物に、見覚えがある。
 「凱」
 忘れもしない。見間違えるはずがない。
 2メートル近い筋骨隆々たる巨躯のその人物こそ、東棟最大勢力たる中国人の長・凱だった。
 ロンはどこだ?
 凱がロンの居場所を知ってると理屈ではなく直感し、我を忘れて駆け出そうとした僕をサムライが片手で制す。
 サムライの横顔は固く強張っている。眇めた双眸に警戒の色が覗く。
 尋常ならざる殺気がたゆたう中、出口を塞ぐように鉄扉の前に立ちはだかった凱が、三白眼を白く光らせて挑発する。
 「いい加減出て来いよ、腰抜けの台湾人。いつまでこうやって睨めっこしてるつもりだ」
 野太い濁声が鼓膜を叩く。
 凱の宣戦布告に刺激され暗闇が不穏にどよめく。
 凶悪な面構えに不敵な笑みをためたまま、いつ相手が攻めてきても返り討ちできるように筋肉を撓めて敵の出方を窺う凱の視線の先、矩形の闇の中で影が蠢く。
 『不要客気』
 衣擦れの音もなく足音もたてず、ひとりの少年が暗闇から歩み出る。
 暗闇に慣れた目が捉えたのは人形じみて小造りで端正な容貌、瞼の奥で冷ややかな光を放つ金属の目。
 ひどくゆっくりと瞬きし、凱と対峙した少年には致命的に表情が欠落していた。
 肉の薄い瞼の奥では金と銀の瞳が剣呑に輝いていた。
 「あれだ。あの少年だ」
 思わずサムライの袖を掴み、凱と対峙する少年の方へ促す。
 「図書室でロンの上に本棚を落としたのはあの少年だ、忘れもしない銀の右目と金の左目……ロンを殺そうとしたのは彼だ!!」
 ロンは、ロンはどこにいる?
 つい先日ロンを殺そうとした少年と常日頃からロンを敵視する男がふたり立ち会った状況下で、ロンの姿を捜し求めて廊下を見回した僕は、今しもオッドアイの少年が進み出た扉の内から漏れくる呻き声に気付く。
 矩形の闇の中で人影が蠢く。
 何かが床を這いずる音がする。
 「ロンっ!!!!」
 柄の悪い少年に挟まれて引きずり出されたのは、足腰立たぬまでに暴行を受けてボロ雑巾と化したロンだった。 
 僕の呼びかけにも反応を示さず首をうなだれたまま、両腕を吊るされて床に膝を折っている。
 意識の有無もさだかでないロンを一瞥、不興げに鼻を鳴らした凱が重心を腰に移す。
 「身元は割れてんだぜ。観念して腹ぁ括れよ、假面」
 假面と呼ばれた少年は眉一筋動かさず、人形じみて無機質な白皙の面に僅かに倦怠の色を浮かべ、金属の光沢の目に凱を映す。
 「お前はロンの何だ」
 「そこの半々は俺の獲物だ。おい假面、お前誰の許可を得て半々をいたぶってんだよ?半分中国人の血が流れてるとはいえむかし同じチームに所属した同朋を数人がかりでなぶりものにするたぁ、假面の名も地におちる外道な所業たぁ思わねーか」
 腕を掴まれたロンへと時折目をやりながら、義憤の迸りで顔筋を痙攣させ、恩着せがましく畳み掛ける。 
 「レイジを取り返しにいくついでだ。助けてやるから有難く思えよ、半々」
 「レイジに借りを作るのも悪くねえ」と冗談とも本気とも付かぬ口吻で嘯き、オッドアイの少年の正面で腰の重心を安定させ、裂帛の気合で腕の筋肉を膨張させる。甲高い音をたて布が爆ぜ、分厚い筋肉で鎧われた上腕二頭筋が露出する。
 撓めた全身から殺気を放散する凱とは対照的に、假面と呼ばれた少年は無防備に立ち尽くす。
 「そうか。お前もこいつが欲しいのか」
 ひとりごちるように首肯し、無感動な目でロンを捉える。
 「渡さない」
 柄の悪い少年二人に取り押さえられたロンから正面の凱へと視線を転じ、抑揚なく宣言する。
 「ロンが欲しければ力づくで奪え」  
 假面の表情が歪む。
 否、笑ったのだ。
 それがあまりに禍々しく不吉を象徴していたために、顔が奇妙に歪んだようにしか見えない仄暗い笑みだった。
 
 凱の咆哮が爆ぜたのは、次の瞬間だった。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050413202241 | 編集

 暴動に乗り遅れたら後悔する。
 「ビバリーはやくはやくってば、急がないと見せ場が終わっちゃうよ!」
 「せかさないでくださいっスリョウさんてば、うわ危ない引っ張らないでちょっ、ちょっとは人の迷惑考えてくださいよ!廊下は走らないお約束っス!」
 ビバリーの抗議を追い風に軽快に床を蹴る。
 闇の帳が下りた周囲に喧騒が渦巻く。
 暴力の熱狂に身を投じた囚人たちが無軌道に鉄パイプを振り回し蛍光灯を砕き鉄扉を陥没させ蝶番を破壊し猛々しく咆哮を上げている。
 一面に蛍光灯の破片が散乱した床に顔面鼻血まみれで白目を剥いた囚人が死屍累々と横たわっている。
 流血の惨事。
 所長室へと通じる廊下は目も覆いたくなる惨状を極めていた。
 一歩歩くごとに周囲では耳をつんざく悲鳴が上がり嗚咽が煮立ち獣じみた咆哮が炸裂し甲高い破砕音をたて蛍光灯が木っ端微塵に砕け散る。
 鋭い破片が流星のように闇に糸引き降り注ぐ中、野太い怒号を発して乱闘してるのは暴動の混乱に乗じてストレス発散の暴行を働く問題児軍団だ。
 呼吸のリズムで太い腕が振り上げ振り下ろされるたび、肉と骨がぶつかる鈍い音に低く高く苦痛と哀願の悲鳴が混じる。
 刑務所の常識。
 暴動とは即ち囚人にストレス発散の口実を与えるまたとない機会。
 日頃規則で雁字搦めにされ起きて飯食ってクソして寝る時間まで徹底的に管理制限されて、ストレスではち切れそうになってる情緒不安定な囚人たちは、この機を待ってましたとばかりに生き生き好戦的に顔を輝かせてがむしゃらに拳を振るっている。
 蛍光灯でも壁でも扉でも頭蓋骨でも鼻骨でも、自分の拳で砕けるものなら全部平等に砕いてしまうという猛り狂った剣幕の連中が大挙して廊下になだれでて、肩がぶつかった目があったガンとばしてとにかく存在自体が気に入らねえ言葉を交わす時間さえ勿体ねえと、たまたま近くにいたヤツの顔面に情け容赦なく拳を抉りこむ。
 拳の応酬が挨拶代わりの漫画の中みたいな混沌の戦場だ。
 一方僕はといえば、暴力の熱狂に爛々と目を輝かせ戦意を滾らせ野蛮な殴り合いを繰り広げる連中をよそに、ビバリーの手を引いて戦場を駆け抜けていた。頭を低めて蛍光灯の破片をかわし首を竦めて拳をよけてひょいと胸を反らして蹴りを逸らす。
 すばしっこさじゃロンにだって負けないんだ、僕は。
 次々放たれる蹴りと拳を素早く動いてかわし、ある時は仁王立ちした股下を四つん這いでかいくぐりある時は床に倒れた囚人の背中を踏み付けて、僕たちが一路めざすのは最大の見せ場が用意されている所長室目前だ。
 「リョウさんどこ行くんスか?房でじっとしてましょうよ、そっちのが安全っスよ!」
 片手で頭を庇ったビバリーが泣きそうな声で叫ぶ。
 嗚咽交じりの抗議に知らんぷりで手を握り返す。
 僕らは運命共同体だ。
 死ぬときは一緒だ。
 ビバリーには地獄の底まで付き合ってもらう。

 暴動の発端は蛍光灯が割れ砕ける音だった。
 ごくかすかな、本当にささやかな音だった。
 パリンとかバリンとかそんな感じの、拍子抜けするほどあっけない音。あの時はまさかこれが幕開けの合図とは予想だにしなかった。
 実際僕は狂乱の気配が燻り伝わってくるまでベッドでごろごろしてたし、隣のベッドのビバリーといえば看守に修理させたパソコンに頬ずりしていた。
 僕がこの前頭上から叩き落したパソコンはバチッと派手に火花が散ってこりゃもうどうにも無理無理、白い煙を噴いてアーメンご臨終ですってな感じに見えたが、瀕死の状態で泣く泣く看守に手渡されたロザンナは後日完全な姿で戻ってきた。
 爆死した恋人の完全復活にビバリーはもちろん狂喜した。
 何の比喩でもなく跳び上がって抱きついて、無事を確かめるように性急な手つきでそこらじゅうを触りまくり、べたべた指紋を残してキッスの嵐を降らせた。

 「ああああああああ会いたかっすマイガールマイハニーロザンナ!血染め赤毛の悪魔に地獄に落とされキズモノにされたというのにどうしたことですそのメタリックに輝くナイスバディは、世のハッカーどもを悩殺する抜群のプロモーションになって戻ってきちゃってこりゃあもう新しいウィルスバスターをインストールして徹底的にロザンナの貞操を守るっきゃありませんね!うっひょー、腕が鳴るっス!!」
 ざっとこんな感じ。かっこ原文まま。

 大喜びするビバリーを横目に僕はテディベアを抱いてむくれていた。
 ぶっちゃけ面白くない。
 やっと邪魔者がいなくなってビバリーを独占できるとほくそ笑んだのに、ロザンナは傷ひとつ見当たらない艶ピカボディになってご帰還あそばされた。
 ビバリーは蕩けそうにベタ甘な笑みでロザンナ抱っこしてスリスリしてる。
 傍目には挙動不審通り越して手遅れな変態だ。
 ビバリーのロザンナに対する溺愛ぶりときたら尋常じゃない、というかどこをとっても完全に狂ってる。たかが機械に異常に欲情する変態性欲者の烙印押されてもやむなし。
 再会の歓喜に感動の涙を滂沱と流し、恥も外聞も節操もなくロザンナの完璧ボディにむしゃぶりつくビバリーを不満たらたらジト目で睨み付け、僕はベッドの真ん中に所在なく座り込んでいた。
 なんだよなんだよロザンナ帰って来た途端に僕は用済みってわけ?
 放置プレイ?
 ぐれちゃうぞ。
 テディベアに顎を埋めてむくれてみせる。
 ぷぅと頬を膨らませた僕なんかアウトオブ眼中でビバリーははしゃいでる。
 幸福の絶頂。ロザンナとの蜜月。
 二人の……もとい、一人と一個で完結した世界。
 面白くない。全然面白くない。
 今や僕のただ一人の味方となったテディベアを抱擁し顔を摺り寄せる。
 肌に優しいパイル地が毛穴をくすぐる。
 小さい頃はよくこうしてテディベアを抱っこしていた。
 ママが彼氏と出かけた夜や客引きに立ってる夜はアパートの部屋の隅でテディベアに語りかけて寂しさを紛らわせていた。
 いつからそうしなくなったのかと記憶を手繰れば東京プリズン入所初日、房の扉を開けた途端にビバリーに両手を広げて歓迎された時の強烈な第一印象が細部まで鮮明に蘇る。
 いつしか僕がテディベアを抱かなくなったのは動いてしゃべるビバリーが同房になったからで、うるさいくらいハイテンションで時々うざったいけど、実は友達思いの最高にイイ奴なビバリーがテディベアにはない体温を感じさせる距離でずっと付いててくれたからだ。
 だけどそのビバリーはパソコンに夢中で僕を見向きもしない。
 僕は昔に逆戻り、テディベアに顔摺り寄せて縋るように一途にいたいけにママの匂いを嗅ごうとしてる。
 けれども諦め悪く小鼻を蠢かした所でテディベアからはママの匂いがしない。テディベアのふさふさ毛並みに染み付いていた甘い香水の匂いはどこかへ行ってしまって、ツンと鼻腔の奥を突くのは仄かに黴臭い匂いだ。
 それでも僕は名もなきテディベアを手放さず、ビバリーに対するあてつけの如くベッドの真ん中で退屈な一人遊びに興じている。
 気まぐれにテディベアの手足を掴んで上げ下げし乱暴に振り回し、愛玩に飽きたらポイッと無造作に放ってみる。
 「おおロザンナ、その白く滑らかな肌は心地よい冷たさでもって僕の愛撫に応え青白く光る世界の窓は神々しく未知へと誘いそのキーは僕の打鍵に応じて素晴らしき音色を奏でる……ロザンナこそ僕の理想、夢、神からのあらゆる賜り物を詰めたパンドラの箱そのもの!!」 
 ビバリーが大仰に両手を広げ面映い美辞麗句を連ね、たかがパソコンを絶賛する。ロザンナのどこがビバリーをそこまで狂わすのか理解できないししたくないししたらおしまいだ。
 ベッドに座り込んだまま、不貞腐れた上目遣いでビバリーの表情を窺う。
 ビバリーは全く気付かない。
 僕が房にいるってことも完全に忘れてる。
 恋は盲目。はいはいその通り。
 僅か三メートル隣のベッドに孤独感と疎外感に苛まれてテディベアを虐待する可哀想な少年がいると脳内メモリーから削除したビバリーを目の当たりにし、燻るような苛立ちを感じる。
 嫉妬?
 まさかと鼻で笑い飛ばそうとして失敗する。
 正気か僕?相手は無機物だぞ。
 パソコン相手に嫉妬するようになったら人間おしまいだと自嘲する反面、ロザンナを溺愛するビバリーの姿がむらむらと独占欲を煽るのを否定できない。
 テディベアをぎゅっと抱きしめ、ビバリーから視線を引き剥がしそっぽを向く。
 パソコンに飽きず接吻するビバリーを見てたらこっちの頭までおかしくなりそうな危機感に駆られたのと、ロザンナへの嫉妬を抑止できない自分がむかついて。
 外が妙にざわついてるのに気付いたのはその時だ。
 「なに?」 
 ベッドに片膝付いて上体を起こした僕が呆然と目を見張る視線の先、 鉄扉に嵌まった鉄格子の向こうを大挙して駆けていくのは…凱。
 残虐兄弟。
 東棟を牛耳る主立った中国人たち。
 凱を先頭にした一団は怒涛の足音で廊下を震動させ、通行人を薙ぎ倒す暴風の如き大迫力で駆け抜けていった。
 鉄格子越しに目に焼き付いたのは凱の憤怒の形相、殺気にぎらついた凶暴な面構えは血に飢え狂った猛獣の如く、近く訪れる惨劇の興奮に浮ついていた。続く残虐兄弟は相変わらず仲良く小突き合っていた。
 凱に遅れをとるまいと阿吽の呼吸で追いすがる残虐兄弟の背後には派閥の主力メンバーがずらりと続き、頭の昂ぶりに応じてうねり狂う長蛇を彷彿とさせた。
 何かとんでもないことが起こったぞと直感した。
 次の瞬間、僕は素早く行動を起こした。
 「な、なにごとっスか?地震?」
 ロザンナを懐に庇って目を白黒させるビバリーはまだ状況が飲み込めてない。
 緊急事態でもロザンナ優先とはビバリーらしいやと苦笑い、ぴょんとベッドを飛び下りて隣のベッドにすっとんでいく。
 ビバリーは逆境に弱い。臆面なくお約束のボケを披露したビバリーをロザンナから引っぺがし、耳元で囁く。
 「寝言言ってんじゃないよ。暴動だよ」
 暴動の一言がもたらした効果は絶大だった。
 ビバリーの顔は劇的に青ざめて生唾を嚥下した喉が濁った音をたてた。
 「ロ、ロザンナは渡さねっス!」
 「ビバリー以外のだれがロザンナなんか欲しがるのさ。ロザンナの心配より自分の心配しなよ、相変わらずズレてるんだから」
 ひしとロザンナにしがみつくビバリーの後ろ襟を掴んでずるずる引きずっていく。
 ビバリーは往生際悪く抵抗したけど後ろ襟を掴まれちゃ叶わない。
 表の騒ぎは加速度的に大きくなる。
 廊下を走り抜ける人数も増していく。数多くの人影が鉄格子の向こうを駆けて行き、そのうち一人が手にした鉄パイプが勢い良く振り回されて蛍光灯にぶち当たり尖った破片を撒き散らし、停電の薄闇に包まれた周囲一帯を危険な戦場に変貌させる。
 狂騒の序曲。
 こんな大イベント見逃す手はない。
 幸いまだ看守は勘付いてない。特等席をとるには十分間に合う。
 表の騒ぎに触発されて僕の心臓も早鐘を打ち出す。
 体内の血の巡りが早くなる。
 東棟で何かとんでもないことが起きている。あるいは東京プリズンをひっくり返すかもしれない異常事態が現在進行形で起きつつある。
 情報通の傍観者を自負する僕が今後の展開を見届けなくてどうするんだ?
 ビバリーの首ねっこふん掴まえて扉を蹴り開ける。
 持ち前の猫をも殺す好奇心が疼きだし、クスリをキメた時にも似た万感の高揚を覚える。
 ビバリーの悲鳴には耳を貸さず腰に重心を移し深呼吸、緊張と興奮の面持ちでスタートラインに立つ。
 バン、ピストルの口真似をする。
 重心を低めた前傾姿勢で飛び出す、片手にビバリーをぶらさげて。
 あっちこっちへ振り回されて目を回したビバリーが愉快な悲鳴を上げる。時々くぐもった呻きを漏らすのは首を圧迫され気道を封じられたから。首を絞められる苦痛に哀れっぽく喘ぐビバリーを無視、床を蹴る速度を上げて暴動の渦中を突っ切りがてら、ランナーズハイにグッドトリップが手伝った最高の爽快感に酔う。羽が生えたみたいに体が軽い。今なら空も飛べそう。さっきキメたヤクが効いてきたみたい。
 甲高い哄笑を上げて突っ走るさなか、図ったとしか思えないタイミングで至近距離の扉が開いた。
 「アウチッ」 
 脳裏に星屑が散った。
 分厚い鉄板が額にぶちあたった衝撃で寝転んだ僕と同じく相手も呻いている。焼き鏝で烙印されたように疼く額を咄嗟に庇い、無様に尻餅付いて覆い被さった相手を見上げる。
 気障ったらしい眼鏡がよく似合う見慣れた顔がそこにあった。
 鍵屋崎。親殺し。
 まあ呼び方はどうでもいい……とするとここは鍵屋崎の房か。
 鍵屋崎の背後に視線を流せば、雇い主を立てる苦労性の用心棒の如くサムライが付き従っていた。相変わらず仲良しで羨ましいこと。
 ん?そういえばビバリーは?
 からっぽの手を開閉し、のろくさとあたりを見回す。
 鉄扉に激突寸前に後ろ襟がすっぽ抜けたらしく、5メートル後方に置き去られたビバリーが乱闘に巻き込まれてひぃひぃまごついてるのを目撃、確認する。
 ビバリーのグズ、のろまとひとしきり胸中で毒づき、鍵屋崎に向き直ると同時に接客スマイルを拵える。
 不感症の天才相手に営業するつもりはないが、長年の売春経験で鍛えられた顔筋の反射で咄嗟に笑顔を作ってしまった。
 鍵屋崎は動揺してる。
 そりゃそうだろう、扉を開けたら僕がいたんだから盗み聞きを疑ってかかるのが当然だ。
 眉間の皺に如実に不信感が表れている。
 眼鏡越しの双眸を胡乱に細め、疑心暗鬼に苛まれてこちらを眺める鍵屋崎に笑顔を向け、尻の埃をはたく。
 「ちょっとちょっとメガネくん、人目があるにもかかわらず廊下で押し倒すなんて随分過激なマネしてくれるじゃん。そんなに欲求不満なわけ?」
 「扉の前にいるのが悪い」
 鍵屋崎がむすっと言う。相変わらず感じが悪い。もうちょっと愛想よくすりゃモテモテなのに惜しいね。
 謝罪を要求しようか逡巡した隙に鍵屋崎は踵を返し走り出そうとする。待て待て、人を押し倒しといてごめんの一言もなしとは酷いんじゃないのと喉元まで出かけた僕の横を迅速に走りぬけ、サムライがすかさず鍵屋崎の腕を掴み引き戻す。 
 「放せサムライ、ロンが心配じゃないのか!?」
 鍵屋崎が珍しく声を荒げてサムライを非難する。サムライが負けじと叱責を返す。
 「素手で暴動の渦中にとびこむなど正気かお前はっ、命の次に大事な眼鏡が割れても知らんぞ!!」
 険悪な雰囲気で睨み合う二人を見上げ、尻を叩いて立ち上がりしな軽薄な道化を演じて茶化す。 
 「痴話喧嘩?」
 「「黙れ」」
 痴話喧嘩中でも呼吸はぴったりだなと他人事気分で感心する。
 ささくれだった沈黙で我を張り合う大人げない二人の姿が悪戯心を刺激する。
 「東棟で今なにが起きてるか教えてあげよっか」
 周囲の喧騒を貫いて、決して大きくない僕の声は二人のもとに真っ直ぐ届いた。
 サムライと鍵屋崎が同時に顔を上げる。驚愕に目を見張る鍵屋崎の隣、サムライが心胆寒からしめる鷹の眼光を放つ。
 サムライの眼光に射竦められて一瞬肝を冷やしたけど、深呼吸でペースを取り戻し、後ろ手を組む。
 「凱が所長室に奇襲を仕掛けたんだ」
 鍵屋崎が衝撃を受ける。目に見えて表情を強張らせた鍵屋崎の隣、サムライは微動もせず立ち竦んでいる。
 二人の反応に舌なめずりしながら、ここまで駆けて来る道中に仕入れた噂話と推理を混ぜ合わせて饒舌に捲くし立てる。
 「レイジにお熱な凱がついにぷっつんきれちゃったのさ。視聴覚ホールの一件は覚えてるっしょ?メガネくんもサムライもあの時あそこにいたもんね。昨日所長室連れてかれて以来一日経っても音沙汰なし、今頃はお仕置きという名の性調教を所長じきじきに受けてるはずだって東棟はその噂でもちきりさ。凱はあれで妙に律儀なところあるからね。自分が唯一ライバル視してる東棟最強の男がこれ以上所長の好きにされるのは我慢ならないって激怒したのさ。こうなったら意地でもレイジを取り返してやるって真っ赤な顔で息巻いてたよ。おお怖」
 「凱も所長室に向かったのか」
 真剣な声音でで訪ねる鍵屋崎にこくり頷き返す。
 そのまま暫く思案顔で俯いていた鍵屋崎が、静かに決断を下す。
 「……行くぞ、サムライ」  
 当然のようにサムライを従えて歩き出した鍵屋崎の背中を見送り、揶揄とも羨望とも付かぬ独り言を漏らす。
 「なかよしさんだこと」
 鍵屋崎は振り向きもしなかった。
 すかした奴。
 威迫の眼光で雑踏を掃き清めたサムライと肩を並べ、鍵屋崎が心なし速めの歩調で廊下の先へと歩いていく。
 鍵屋崎の背中を見詰め、ささやかな疑問を抱く。
 なんで鍵屋崎が凱のところにいくんだ?
 ロンが心配だどうとか言ってたけど今回の暴動にはロンが関係してるのか?
 「……ま、この目で確かめてみないことにはね」
 すっかり小さくなった鍵屋崎の背からビバリーへと視線を転じれば、当の本人は両手で頭を抱え込んで廊下の片隅でぶるぶる震えてやがった。
 既に半ベソのビバリーにため息を零し、つかつかと正面から歩み寄る。
 「行くよ、ビバリー」
 「んな殺生な!僕は行きたくないってさっきから何度も何度も言ってるじゃないっスか、いい加減ロザンナのところに帰してくださいよ、暴動に巻き込まれて大怪我して傷口に蛆が湧いたらリョウさん一匹残らずとってくれるんスか、傷口に湧いた蛆さんと仲良くする気なんて毛頭ないくせに僕を巻き込むのやめてくださいよ!」
 「じゃあ僕一人で行けって?」
 ビバリーの良心に付け込み、可愛らしく小首を傾げてみせる。
 正確に斜め四十五度に小首を傾げ、庇護欲をそそる潤んだ上目遣いで懇願する僕を前に、ビバリーがぐっと押し黙る。
 否定も肯定もせず黙り込むしかないビバリーを嗜虐的に眺め、コイツが僕をひとりぼっちで放り出すはずないと確信し、クスリのせいだけじゃない幸福感を噛み締める。
 「一緒に行こう、ビバリー」
 ビバリーの鼻先に手を突き出す。
 「………~~~まったくリョウさんあんたって人は、僕がそばにいないと地獄見物もできない史上最強の困ったちゃんっスね!!」
 この手を払いのけるも叩き落とすも自由だというのに、やけくその咆哮を上げたビバリーは痛みを与える強さで僕の手をしっかり掴んだ。
 よっしゃ、ロザンナに勝った。

 そして今。
 僕とビバリーは予想外の光景を前に戦慄に襲われている。
 蛍光灯の破片が散乱する危険地帯と化した廊下の真ん中、頭から腕から流血した生傷だらけの囚人たちが固唾を呑んで見守る中、互いに微動せず沈黙を守っているのは……
 片や僕らの見慣れた男、東棟最大の中国系派閥のボス、凱。
 筋骨隆々たる体に内から迸る力を漲らせ、厚い鉄板を重ねたような大胸筋を誇らしくてからせ、闘争心を剥き出して正面に佇む男を威圧している。
 凱と対峙するのは黒い短髪に銀のメッシュをいれたスタイリッシュな風体の少年で、こちらは名前も知らない新入りだった。
 だけど存在感じゃ決して凱に引けを取らない、どころかある意味凌駕している。
 ただそこに無防備に佇んでいるだけで場の空気を掌握する不可思議な何かが少年には備わっていた。
 「芯が抜けたようにただぼうっと突っ立ってるだけか、台湾人」
 膠着した睨み合いに痺れを切らした凱がふてぶてしく唇を捻って嘲弄する。
 少年は挑発にも乗らず、切れ長の瞼の奥の目に倦怠の色を過ぎらせただけだ。  
 均衡が崩れたのはその瞬間だ。
 人間らしい心の機微を一片たりとも感じさせぬ冷徹な一瞥が、ただでさえ沈黙の忍耐を強いられて荒ぶっていた凱を逆なでしたらしい。
 猛獣の咆哮が爆ぜる。
 腹の奥底から咆哮を搾り出した凱が、誇張した筋肉に鎧われた巨腕を振り上げ、正面から少年に突撃する。
 少年の顔が血霧と化して爆ぜる瞬間を幻視、その場にいた殆どの囚人が反射的に目を閉じて顔を背ける。
 僕は背けなかった。
 人垣の狭間に無理矢理割り込んで前へ前へと歩み出つつ、激情に任せて振り上げられた拳の行方に目を凝らしていた。
 少年は瞬き一つせず、物憂い倦怠の表情で自らに迫り来る拳を眺めていた。
 凱の拳が当たればただじゃすまない。
 鼻骨が陥没して顎が砕けて高い金かけて整形したって元に戻らなくなる。 
 金の右目と銀の左目を持つ少年は風圧を感じる距離に拳が来るまで一切動かず、拳の風圧で毛先がそよいでも平然として、凱が完全に間合いに踏み込むまでこちらが不安になるほど無防備に身を晒していた。
 少年が動いたのは、巨大な拳が顔面を穿つ寸前だった。
 空気に乗じて軽やかに踵が浮く。
 あらかじめ重心を分散させていたものか、滑らかな動作で跳ね上がったつま先が垂直に凱の首へ……
 人体の急所の喉仏の上へと吸い込まれる。
 機械のように正確無比で冷徹非情な攻撃は確実に人命を奪うもの、喧嘩の技というよりは失敗を許されない状況下で確実にとどめをさす高度な殺人技術だ。
 僕は見た。
 凱の目が驚愕と恐怖に極限まで剥かれる瞬間を。
 凱の喉仏の上へと的確に抉りこまれたつま先が銀色に光り、鋭い尖端が皮膚を突き破り血管を傷付け大量の血をしぶかせる瞬間を。
 
 スニーカーの爪先に鋭利な金属片を仕込み、神業の蹴りを致命傷の一撃に昇華させた少年は、薄い瞼の奥の金銀の目を冷徹に光らせて凱の苦悶を眺めていた。
 
 言葉も忘れて呆然と立ち竦む僕の隣、出血した喉を庇って悶え苦しむ凱をその目に映したビバリーが既にして回避不可能な決定事項を呟く。
 「凱さんが、死んだっス」 
 金属の目をもつ少年の正体は未来から送り込まれた殺人機械だ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050412045228 | 編集

 血まみれの喉を押さえもがき苦しむ凱のまわりから人が掃ける。
 天井が壁が鼓膜がびりびりと震える。
 異質な空気を肌に感じて緊張の面持ちを並べた観衆の中、最前列にいた僕はあまりの衝撃に言葉を喪失し、足元から虚無の渦中に吸い込まれるような脱力感に襲われていた。
 勝負は一瞬で決した。
 凱と少年の実力差は圧倒的だった。
 凱が放った拳は児戯に等しく完全に軌道を読まれていた。
 壁をも穿つ破壊力を秘めた拳が鼻先を削る至近距離に迫り来ても少年は顔色ひとつ変えず、能面めいた無表情のまま、金属の目の表面に凱を映していた。
 「凱が、死んだ?」
 生唾を嚥下し、喉を潤す。
 己が目にしたものが信じられず呆然と呟いた僕を起点にどよめきが広がる。
 「凱さんが?」
 「嘘だろおい、東棟の中国人をしめる俺たちのボスがこんなにあっさりあっけなく殺られちまうなんてよ」
 「だって見ろよあの血の量、喉からどばどば血ぃ流して……ああなったらおしまいだろ?助からねえだろ」
 「頚動脈切れたんじゃねえか」
 「嘘だろ凱さんが」
 「殺しても死なない不死身の凱さんが」
 「娘命の親ばかが」
 「俺たちのトップが!」
 癇症な怒声と罵声が混じりあい、喉から流血した凱のもとへ何人かが反射的に走り出そうとする。
 見物の輪から腰を低め飛び出しかけた連中を制したのは、ひどくゆっくりと凱の首元から鮮血の糸引くつま先を引いたオッドアイの少年だ。オッドアイの少年は無言だった。
 淡白な無表情に何の感慨も感傷も浮かべず、鮮血に濡れたつま先を静かに床に下ろし、負傷した凱へと走り寄ろうとした忠義心の厚い仲間を怠惰に一瞥する。
 その一瞥で、凱へ駆け寄ろうとした連中は感電したように硬直する。
 他者の侵入を妨げる不可視の壁が出現したような錯覚すら抱く底冷えする威圧感が、人ならざる金銀の瞳に凝結していた。
 実力のみならず存在感も圧倒的だった。
 凱など比較にならなかった。
 少年の存在そのものが異質で異端で異常だった。 
 東京プリズンに入所してたかだか一ヶ月の顔も売れてない新入りに、東棟最大の中国系派閥の頭として三百人を顎で使う凱が屈服した。
 無残に敗北した。
 スニーカーに仕込んだ金属片を鋭利に閃かせ、極限まで撓めた膝のバネを解き放ち、確実に命脈を絶つ喉仏の上の急を痛打した少年が、血塗りの靴跡を床に刻印してゆっくりと歩き出す。
 「邪魔だ。どけ。俺の前で醜い断末魔を晒すな」
 強靭なバネの通った膝を極限まで撓めて解き放ち、2メートル近い巨躯を誇る凱が自分の顔面に拳を打ち込もうと前傾姿勢をとったまさにその決定的瞬間に華麗に攻めに転じ、垂直につま先を蹴り上げて喉仏の上を直撃する。
 少年が放った蹴りが凱の喉に吸い込まれる瞬間を目撃した人間は必ずしも多くはなく、実際あれは動体視力の限界に迫る超常の速さを備えていた。
 機械のように正確無比で非情冷徹な動きには一切の温情と容赦がなく、不慣れな手つきで喉を押さえて血止めを図る凱を映す目はどこまでも冷え冷えとしていた。
 底冷えする瞳。
 「ぐつ、に、凶器、仕込むなんざ、ひぎょう、だぜ……!」 
 凱の喉でごぼごぼと血泡が煮立つ。
 辛うじて頚動脈切断は免れたらしいが、喉仏の上の血管が切れて大量の血が噴き出している。
 放っておけば命にも関わる重傷だというのに凱は喉を庇いながらもどっしり踏み構えている。
 凄まじい執念。己の血に塗れた凄惨な形相にあらん限りの憎悪を剥き出し、闘志はいまだ衰えんと眼前に歩み寄った少年を射殺さんばかりに睨み付ける凱の気迫に呼応し、観衆が声援を飛ばす。
 「立て、立つんだ凱!」
 「東棟中国人のトップがちょっと喉から血ぃ垂らしたくらいで死ぬもんか!」
 「腰抜け台湾人に中国人の底力を見せてやれ!」
 「俺ら兄弟地獄の底まで凱さんに付いていく覚悟っス。な、弟よ」
 「勿論さ、あんちゃん」
 喧々囂々と声援と罵声が飛び交う中、威勢の良い観衆に鼻白むでもなく、ただただ無表情に凱を見下ろしていた少年が虚無的に呟く。
 「耳障りだ」
 恐ろしく冷たい目。
 情緒が欠落した機械をおもわせる無機質で無感動な目が、薄刃の剃刀めいて剣呑な光を帯びる。
 「駄目だ、これ以上続けては駄目だ」
 息苦しいのは廊下に充満し始めた殺気のせいだろうか。帯電したように緊張を孕む空気を肌に感じ、思わずサムライの腕に縋り付く。
 サムライが僕を見る。
 サムライの視線を真っ直ぐ受け止めて首を振る。
 周りの連中が暴力の熱狂に浮かれて聞き分けないのなら、凱と対峙する少年を除いて唯一冷静沈着な態度を崩さない、僕が誰より信頼できる男に窮状を訴えるしかないではないか。
 サムライの腕を掴み、必死に首を振る。
 「凱は喉を損傷して大量失血している。このまま戦いが長引けば命に関わる。こんな馬鹿げた立ち会い早くやめさせなければ……」
 「同感だ」
 思慮深く首肯したサムライが凱へと向き直り、推し量るように双眸を眇める。
 「だが、凱が譲るか?」
 譲るはずが、ない。
 絶望的な確信が脳裏に染みる。
 凱の性格を把握している。
 自分の勝利を信じる仲間の前で醜態を晒した凱がこのままおめおめと引き下がるとは思えない。
 切り裂かれた喉を押さえ、しとどに脂汗に塗れた顔に苦渋の色を濃くした凱から、台湾人二人がかりに取り押さえられてぐったりしているロンへと注意を向ける。どうやらロンは失神してるらしく、喉から血を噴いてよろめいた凱が濁った絶叫を上げても反応しない。 
 今のうちにロンを奪還するのは可能か?
 頭を高速で回転させる。
 凱が少年の注意を引き付けているうちに僕とサムライが見張り役を倒してロンを救出するのは可能だろうか?
 ……否、難しいと言わざるを得ない。
 いかにサムライが剣の腕が達者で動きが速くともこの距離から見張り役に近付けば勘付かれてしまう。ロンを人質にとられた僕らは動きを制限されている。
 サムライの木刀が届くよりも敵がロンに危害を加えるのが先の状況下で迂闊な行動はとれないと自重し、無力感を噛み締める。
 「だからといって、目の前で死のうとしている人間を放っておけるはずがない」
 サムライの眉間に苦悩の皺が刻まれ、憂いに沈んだ双眸に愛しさが過ぎる。
 凱には東京プリズン入所当初からさんざん酷い目に遭わされてきた。
 イエローワークの砂漠では集団で襲われた。廊下ですれ違う度尻を揉まれた。食堂ではわざと肘をぶつけられトレイをひっくり返された。だが、それが何だ?それが凱を見捨てる口実になるのか。目の前で死のうとしている人間を放置して殺人行為の片棒を担ぐのは天才のプライドが許さない。
 ロンだって自分のせいで凱が死んだとなれば責任を感じる。
 ロンは優しいから、凱の死の原因は自分だと責めるはずだ。
 「―くそっ、応急処置の技術があるのはこの場で僕だけか?役立たずどもめ!」
 けしかけるだけで応急処置ひとつしようとしない無責任な野次馬に怒り再燃毒づき、とりあえず止血せねばと凱に足を向け、凄味を含んだ唸り声を聞く。
 「……上等だぜ」
 硬直した僕の視線の先、片手で喉を庇った凱がゆらりと上体を起こし、たまたま手近にいた残虐兄弟に短く命じる。
 「脱げ」
 「へっ?」
 唐突な命令に残虐兄弟が脳天から間抜けな声を発し顔を見合す。
 凱を鼓舞していた野次馬も困惑する。
 とうとう頭がおかしくなったのかと疑問を呈した野次馬をよそに、うろたえきった残虐兄弟へ詰め寄った凱が無造作に手を伸ばし服を掴む。
 「ちょ、いきなり何言いだすんスか凱さん。こんな満員御礼衆人環視の中で素っ裸になるだなんて破廉恥なマネできませんよ、いくら俺らが巷で恐れられた強姦魔の兄弟だからって女犯す時脱ぐのは下だけで上まで脱いで全裸になったことなんてねーから人前で白いお肌をさらすの恥ずかしい、きゃーーーーーーーーーーーっ!!」
 「あ、あんちゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!」
 レイプされた女性のような甲高い悲鳴を上げた兄のユエに続いて弟マオが絶叫する。
 布の裂ける乾いた音とともに兄の上着が縦に二つに引き裂かれて生白い素肌が暴かれる。
 栄養不良な貧弱な肢体を衆目に晒された兄は、処女を散らされた乙女のように涙ぐび、胸で手を交差させ乳首を隠している。
 ユエを裸に剥いた凱の奇行に野次馬が戦慄する。
 「ひ、ひどいや凱さん……あんちゃんが穢されちまった!!」
 ひしと抱き合い涙に暮れる残虐兄弟に蹴りをくれて床を舐めさせ、体ごと少年に向き直る。
 ユエからひったくった上着を更に細く裂いて即席の止血帯とし、性急かつ不器用な手つきで首に巻き付ける。
 首に巻かれた包帯が瞬く間に血に染まる。
 「来いよ卑怯者。スクラップにしてやるぜ」
 声帯が傷付いているのか、不規則に荒い呼吸の狭間から吐かれた声はひどく聞き取りづらく掠れていた。苦痛の色濃い面持ちに虚勢で塗り固めた挑戦的な笑みを湛え、じわじわと血が滲み始めた首の包帯を無意識にさすり、憎悪にギラついた目で少年を視殺する。
 「俺は凱だ。東棟三百人の上に立つ最強の中国人だ。ちっとばかし喉を切り裂かれたくらいで参ったするような腰抜けにされたんじゃ心外だな。首に穴が開いたくらいなんだってんだ、大したことじゃねえ。ぎゃあぎゃあ騒ぐ程のもんでもねえ。娑婆じゃ腹にナイフを刺されたこともコンクリの角で目を潰されたこともケツの穴に爆竹突っ込まれたこともあるんだ、喉から血ぃ流れた位で台湾人に降参すると思ったら大間違いだぜ」
 闘争心剥き出しの凶悪な顔がふと和み、遠い思い出を反芻するかのごとく双眸が優しくなる。
 伏し目がちに口元を緩めた凱の表情がいつかの五十嵐によく似ていて、彼もまた人の子の親であることを思い出す。
 「可愛い娘に『パパ嫌い』って泣かれるのに比べたら、このくらい屁でもねーよ」
 凱は父親の顔をしていた。
 真摯な愛情が滲んだ眼差しには会えない娘への万感の想いが込められていた。東棟三百人の上に立つ凶悪無比で極悪非道な男が、娘について語る時だけは哀しくなるほど不器用に思い詰めた素顔を覗かせた。
 かつての五十嵐の笑顔と凱のそれが重なる。
 僕が五十嵐に垣間見た理想の父親の片鱗が凱の中にもまた宿っているのを発見し、つまらない感傷を掻き立てられる。
 「さあ来いよ。まさか血ぃ見てびびっちまったんじゃあるめーな。まだまだまだまだ暴れたりねーんだ、最後まで付き合ってくれよ」
 乱暴に首を振って感傷を払拭した凱が、黄ばんだ歯を剥いて獰猛にせせら笑う。首に巻いた包帯の広範囲に血が滲む。こめかみを脂汗が伝う。
 普通の人間なら立っているだけでやっとの極限状態にありながら、殺気が炸裂する三白眼を青白く光らせ、戦いを続行しようとする凱に心底呆れる。 
 「顔の皮だけでなく首の皮も厚いのか、彼は」
 喉の皮が厚かったおかげでどうにか致命傷は免れたがそれでも楽観できない重傷には違いない。
 凱の喉が鍛えられていなかったらと考えると冷や汗が流れる。
 最前列で見守る僕のサムライの視線の先、不動で対峙する凱と少年の間で弦のように空気が張り詰める。
 無反応な少年に焦れたか、腰だめに拳を握り込んだ凱が、指の峰を剣山のように尖らせて飄々と嘯く。
 「ロンは返してもらうぜ」
 「………」
 少年が緩慢に顔を上げる。
 無機質な金属の目がまともに凱を捉える。
 「ロンはな、俺のただ一人のライバルの相棒なんだよ。レイジに借り作るためならロン一匹余裕で取り戻してポイとくれてやるさ」
 ふてぶてしく唇を捻じ曲げた凱が冗談とも本気とも付かぬ嘲弄の台詞を吐く。
 「渡さない」
 到底人間の喉から出たとは思えない抑揚のない声で、少年が宣言する。
 「ロンは俺の物だ」
 少年が凱を見る。視線と視線がぶつかり合う。
 凍傷を負いそうに空気が冷え込む。
 いつでも打って出る用意は万全と腰に重心を移して両拳を掲げる凱の正面にて、瞼の奥の目をかすかに漣立て、少年が繰り返す。
 平板な音声の底に妄執に狂った怪物の胎動を感じさせて。
 「永遠に、俺の物だ」
 少年が消えた。
 「!?」
 違う、『走り出した』のだ。
 床を蹴り疾駆する少年がめざすは凱のもとだ。
 少年は床を這うような低姿勢で間合いに突入するや否や、凱が構えた拳が動くより速くつま先を高々跳ね上げる。力学を無視する勢いと高さで跳躍上昇したつま先から突出した金属片が鈍い閃光を放つも、凱は間一髪後これを避けて後退する。
 バネ仕掛けの人形が踊っているような動きだ。
 細身の体に爆発的な力を内包する少年は、その力を完璧に制御し、蹴りの軌道から拳を抉り込む角度まで正確無比に計算し、人体の急所に致死のダメージを与える痛打を与え続ける。もし凱が並外れて筋骨隆々の巨漢でもなければ内臓破裂で失血死は避けられない威力の攻撃が動体視力が追いつかぬ速度でもって続けざまに繰り出される。
 「勘違いすんな、台湾人」 
 劣勢に回った凱が、ひゅうひゅうと間延びした喘鳴を漏らしながら不敵な笑みを拵える。
 「ロンもレイジも俺の物だ。ロンは俺の家来でレイジは宿敵だ。お前の出る幕なんざねーんだよ、最初から」
 僕は二人の戦いに圧倒されていた。劣勢に回りながらも不敵な笑みを湛える凱の意志の強さと意地の粘り強さに感嘆した。
 オッドアイは踊る。
 糸で繰られたマリオネットの如く四肢を操作して凱の急所に一撃を見舞い、凱はといえば致命傷は避けながらも放つ拳と蹴りが道了に当たらぬ歯痒さに業を煮やしている。
 「くっそおおおおおおおおおおおおおおっ、子分が見てる前で負けられっかよ!!」
 怒号が爆発する。
 激昂した凱が憤然と床を蹴り跳躍、巨躯に見合わぬ瞬発力でもって少年に肉薄する。
 頭蓋骨と頭蓋骨が激突する。 
 正面から頭突きを食らわせた凱の額が割れて血の飛沫が舞う、少年の額もまたかち割れて鼻梁に添って一筋血が伝い落ちる。 
 額から顎先へ造作に添って血を滴らせた少年が、痛覚の麻痺した能面の表情で呟く。
 「糞が」 
 死刑宣告は短かった。
 少年と額を突き合わせ密着した凱の巨体がぐらりと傾ぎよろめく。
 僕の位置からでは何が起きたのかわからなかった。
 咄嗟に駆け寄ろうとした僕をサムライが片手で制し、眉間に苦渋をたゆたわせて無念げに瞼を閉ざす。
 「遅い。勝負は決した」

 ―「凱さんっ!!」―

 叫んだのは残虐兄弟の兄か、弟か。
 悲痛な叫びに応じ、余力を振り絞って踏み止まる凱。
 轟々たる声援を受けて怒り荒ぶる仁王の如く屹立したその姿は、僕の記憶に長く残ることになる。

 長く。
 長く。
 
 不規則な痙攣を繰り返し、口からごぼりと血泡を吐く。
 鉤で吊られたが如く限界まで仰け反らせた喉に血染めの包帯が禍々しく映える。
 『福倒、娘娘』
 停電の暗闇に包まれた天井を仁王立ちで仰いだ凱が最後に呟いたのは、祈りの言葉。最愛の娘への遺言。
 福倒とは中国語で幸せを願う吉祥の言葉。
 「幸せが至るように」と願いを込めた言葉。
 
 最後に凱は微笑んだ。
 霞みゆく目で娘の幻を見ているのか、東棟の中国人を率いる凶悪犯から一人の父親へと戻り、優しい微笑を浮かべ。
 
 立ったまま、死んだ。

 「凱さんが、死んだ」
 呟いたのは僕ではない。
 残虐兄弟の弟の方……マオという名の少年だ。
 兄と瓜二つの平凡な面持ちを驚愕に引き攣らせ、口元を神経質に痙攣させ、寄りかかるものを欲する無意識な動作で半裸の兄に縋り付く。兄もまた凱の壮絶なる最期に衝撃を受けていた。
 残虐兄弟だけではない。
 廊下に集った凱傘下の中国人全員が絶句していた。
 凱は死んだ。たかだが一ヶ月前に入所したばかりの正体不明の少年に赤子のように弄ばれて殺されてしまった。
 僕からさほど遠くない場所で凱の最期を目の当たりにした中国人の少年が、絶望に侵食された目を見開いて滂沱の涙を流す。
 「凱さんが死んだ」
 「マジかよ。嘘だろ。こんなのってありかよ」
 「凱さんが死ぬわけねえよあの最強無敵の凱さんが死ぬわきゃねえよだって凱さんは東棟でいちばん強くて俺たちの憧れで、ああ、凱さんが死ぬわけねえだろこんちくしょう不吉なこと言うなよだって凱さん死んだら俺たちゃどうなんだよお先真っ暗じゃねえかよ!!」
 「今まで凱さんがいたから東棟で好き勝手できたのに凱さんいなくなったらおしまいだ食堂でふんぞり返ることも強制労働サボることもできなくなる、みんな凱さんがいたから凱さんのおかげで看守もびびって俺たちの言う事聞いてたのによ!!」
 凱の死の衝撃も冷め遣らぬ中、各所で小競り合いが勃発し怪我人が出る。
 半狂乱の中国人が甲高い声で泣き叫び滅茶苦茶に頭を掻き毟り不潔なフケを撒き散らす、そのフケを被った囚人が激怒して胸ぐら掴み殴り倒し、歯が欠けた口が血まみれになりそれでもまだ少年は慟哭し動揺と混乱が際限なく伝染する。 
 サムライは身を挺して僕を庇った。
 力強い腕に僕を抱きしめ、凱の亡骸を視界から隠してくれた。
 凱が死んだ。
 「くそっ、くそっ、くそっ!凱さんについてりゃ東京プリズンでの生活は安泰だと思ってたのにとんだ計算違いだぜっ!」
 誤算を呪う囚人が八つ当たりの激しさで拳を振るい友の顔面を破壊する。
 「凱になんか付いてくんじゃなかったぜちきしょう、よりにもよって台湾人にやられて最期に娘の名前呼ぶなんざ無様な死に方しやがって、中国四千年の恥だっつの!!青竜刀で脳天から股間まで真っ二つにしてやりてえよ!!」
 娘の名を呼んで果てた凱を口汚く罵り、猛烈に怒り狂った囚人が青竜刀に見立てた鉄パイプで壁を殴る。
 「死ね、死ね、恥さらしは死ね!凱に付いてた俺が馬鹿だったぜ、凱なんざレイジにもサムライにも及ばない永遠の三番手どまりじゃねえか。凱相手なら俺だって本気出せば勝てたのに何でこんな奴に媚びへつらってたんだがマジで腹立つぜ!!」
 死人に鞭打つ暴言を吐いた囚人が蛍光灯の破片を蹴散らし狂気の哄笑を上げる。
 凱の死を契機に錯乱した中国人が敵味方入り乱れ、潰し合いに近い殴り合いを繰り広げる阿鼻叫喚の戦場を見回し、僕とサムライはただただ寄り添い合っていた。
 サムライの腕に抱かれて確かに守られてると実感しながら、僕は凱の死に際して何も行動を起こそうとしなかった自分の愚かさを呪っていた。
 咄嗟に凱を救いに駆け出せなかった。
 二人の壮絶な戦いに圧倒され、足が竦んで動かなかった。
 「すまん、直」
 僕の心中を察したように肩を抱く手に力を込め、サムライが耳元で囁く。
 熱い吐息が耳朶にかかり、心臓がひとつ、強く鼓動を打つ。
 「凱を助けられなかった」
 「……君が謝ることはない」
 サムライが謝罪するのは筋違いだ。何故ならサムライは僕を守る事を最優先したのだから。常に僕に付き従い僕を守ることこそ静流の死を乗り越えて己に課した存在意義なのだから。
 サムライの腕の中で悄然とうなだれる。
 凱の最期が目に焼きついて離れない。
 娘の幸福を祈る父親の顔が瞼裏にちらついて消えてくれない。

 いやな奴だった。
 下品で最低の男だった。
 僕もロンも何度酷い目に遭わされたか知れない。
 なのに。 
 どうしてこんなにも、胸が痛むんだ?

 激化する暴動から自らを盾に僕を守るサムライの腕の中で、東京プリズンの歴史を塗り替える革命の一声を聞く。
 『別着急』
 鎮静を促す一声は、非常識な騒ぎのただなかにあって不思議と朗々と響いた。
 顔を腫らし切れた唇に血をこびりつかせ上着もズボンも引きちぎられた悲惨な風体で乱闘に身を投じていた囚人らが、一斉に声の飛んだ方に向き直る。一人の少年が立っていた。短い黒髪に銀のメッシュを入れたスタイリッシュな少年が、金と銀の目を冷厳に光らせて場を威圧する。
 凱を殺した少年だ。
 「これは、死んだ」
 仁王立ちの凱に顎をしゃくり、少年が断言する。
 「お前たちはどうする。頭と一緒に心中するか。それが中国人の絆というなら止めはしない。暇面は嗤わない」
 「假面……!?」
 少年が告げたのは「仮面」をさす台湾語だが、さりげなく発した一言が中国人らに与えた影響は計り知れなかった。
 「假面」の名乗りを聞いた中国人らにどよめきが走り、取っ組み合いを中断した囚人たちが異形と相対した恐怖に青ざめる。
 「假面てあの、池袋最強の台湾系チーム月天心を率いた伝説の……」
 「素手の拳で敵を何人も殴り殺して血の海に沈めた最強の男だ」
 「假面のような無表情で機械のように淡々と人を殴り殺して、ミンチにして、それで……」
 怯惰に打ち震える中国人らの視線を集め、「假面」と称した少年が抑揚なく述べる。
 「俺は假面。かつて池袋を制した月天心を率いた男。お前たちの頭を潰した男。頭を潰された蛇は死んだも同然。だがしかし秩序なき混乱は俺の望むものではない。俺はただ俺の物を取り返しにきただけだ。俺の邪魔さえしなければお前たちに危害は加えないと天帝に誓おう」
 一呼吸おき、冷たく冴えた金銀の目を順繰りに中国人の顔に据え、「暇面」が鷹揚に言う。
 「味方になるも敵になるも、お前たちの自由だ」
 選択を委ねられた中国人らが互いに不安げな面持ちを見合す。
 ここにいる誰もが「暇面」の存在感に呑まれていた。
 傲岸不遜のカリスマ性と言い換えてもいい不思議な魅力が彼には備わっていた。
 涼しげな切れ長の瞼の奥、どの部位よりも魅力的に謎めく金銀の目が、敵になるか味方になるか未知数の大衆の動向を観察している。
 「假面」の背後には凱が仁王立ちしている。
 誰一人として即答できない。容易に決断を下せない。
 中国人の誇りを擲って台湾人の配下になるなどごめんだと啖呵を切ることもできない。
 廊下に居合わせた全員が凱の死に際を見ているのだ。
 凱の二の舞になると思えば慎重になるのは当然だ。
 廊下の中央にて凱の亡骸を従えた「假面」が、相変わらず無表情のままに、声だけはどこか愉快げな抑揚で誘う。
 「俺は俺の物を取り返しにきただけだ。しかし来てみればここが気に入った。俺はここを貰う。東京プリズンを俺の物にする。かつて池袋は俺の街だった。今はこの監獄が領地だ。領民になるのがいやならそれでもいい。誇りに殉じておちぶれるなら本望だろう」

 「ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ王様の居ぬ間に勝手なこと抜かしてんじゃねえよ、オートマタ。人形は人形らしく運命の操り糸に絡まって宙で溺れてろよ」
  
 少年の演説を遮ったのは、不敵な声。
 場の主導権を一瞬で奪還するカリスマ性に満ちた男が、暴君の怒りを恐れて退いた囚人たちを従順な僕の如く侍らせ、野生の獣じみて気品と風格を併せ持つ優雅な物腰で歩いてくる。
 きびきびした歩みに合わせて干し藁の髪が後方に流れる。
 大股で颯爽と歩く姿に誰もが見惚れる。
 停電の闇に紛れてはいても際立つ容貌は非常識に美しく、完璧な造作の双眸では猫科の肉食獣と酷似した瞳が獰猛な輝きを放つ。
 無防備にリラックスしきったポーズでポケットに手を突っ込み、吹けば飛ぶように軽薄な笑顔の男を見上げ、僕は呟く。
 「王の帰還だ」

 大衆を革命に導く自動人形の前に、遂に王が降臨した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050411174005 | 編集

 極東の監獄を統べる王が重畳なりと帰途につく。
 王は歩く。
 リズム良く闊達な足取りで、大胆不敵と自由奔放を掛け合わせた百獣の王の如き風格と貫禄の物腰で、音痴な鼻歌を口ずさんで廊下を歩く。
 過不足なく引き締まった長身と均整取れた足を律動的に繰り出す。
 床一面に散乱した蛍光灯の破片を軽快に踏み砕く。
 牙と爪を隠して油断を誘う豹を彷彿とさせる怠惰なまでに優雅な身ごなしだが、足と連動して縒り合わせた筋肉がうねる腰つきには一分の隙もない。
 日の光に映える藁色の髪は停電の廊下で暗い色彩に沈んでいる。
 常夏の陽光が似合う健康的な褐色肌もまた暗闇に愛撫され、彫り深く端正な面立ちに濃密な陰影を刻む。
 王の帰還に立ち会った囚人が絶句する。
 緊迫した静寂の中、固唾を呑んで王と反逆者の邂逅を待つ観衆の顔には一様に緊張の色が濃い。
 東京プリズンに王が凱旋した。
 東棟に帰還した。
 王が空位にした昨日の昼から今夜にかけてのごく短期間に東棟の情勢は激変した。レイジの地位を脅かす人物が現れた。その人物はレイジ・サムライに継ぐ東棟三番手の実力者であり、東棟三百人の中国人の頂点に立つ最大派閥のボスを実にあっけなく殺してしまった。
 断末魔で仁王立つ凱が目に焼きついて離れない。
 傷付き破れた喉から血と嗄れ声を絞り、最期の最後に娘の幸福を祈った父親の真実が胸に重く圧し掛かる。
 助けられなかった。
 肝心な時に恐怖に支配され体が動かなかった。
 凱は僕の眼前で死んだ。確かに凱は下品で下劣で卑劣で最低な男だ、唾棄すべき男だ。しかしこんな死に方はあんまりだ、あまりにも不条理で受け入れ難い。引き裂かれるように胸が痛む。
 後悔とも感傷とも付かぬ胸の疼きに苛まれて呆然と立ち竦むしかない僕に無言で寄り添うのはより苦渋の色を濃くしたサムライで、凱の死にショックを受けた僕が倒れないようさりげなく背後に回って体を支えるその優しさが酷く哀しい。
 肩に触れた手からぬくもりを感じる。
 サムライの手のぬくもりを感じ、胸の疼きを堪えてレイジを目で追う。
 戦場と化した廊下に突如現れたレイジは、直前まで所長に拘束されていたとは思えないほど闊達な足取りでオッドアイの少年と距離を詰める。
 金と銀の瞳の少年は沈黙の裡に王の到来を待つ。
 反逆者の汚名のもとに断罪が下されるまさにその時も面に動揺を出さないだろう完璧な無表情が一層不気味さを引き立てる。
 「レイジ、体は大丈夫なのか!?今の今まで所長室に拘禁されていてそれで普通に動けるのか、体に異常はないかっ」
 「心配してくれてんの?嬉しいね」
 気丈な横顔が胸をかき乱す。
 横顔に不敵な笑みをちらつかせるレイジに声を荒げる。
 「冗談を言ってる場合じゃない、真剣に聞いてるんだ!」
 カッとして怒鳴り返した僕を逆なでするように笑い声が弾ける。
 「見ての通りどこにも異常ねえよ。心配ご無用さ。ゲリラ育ちを舐めるなよ、こちとら一日や二日の調教でへこたれるようなヤワな訓練積んじゃねーんだ」
 流し目で僕を一瞥したレイジが意味ありげにほくそ笑む。
 虚勢はどこにもない。
 心身ともに健康というのは嘘ではないらしいとひとまず安堵するも、疑惑が完全に払拭されたわけではない。
 第一タイミングが良すぎる。何故今になってレイジが解放されたのか考えれば考えるほど疑問が深まる。暴動発生の報は当然所長のもとにも届いてるはず、数十人に及ぶ暴徒が破壊の限りを尽くす無法地帯にレイジを放つのは戦況をさらに悪化させる危険な行為と言わざるえない。
 それに、安田とヨンイルは?
 昨日レイジと共に強制連行された安田とヨンイルの姿がないことに不安を覚え、不吉に高鳴る鼓動を抑えて叫ぶ。
 「レイジ、ヨンイルと安田はどうした。一緒に解放されたんじゃないのか、まさかまだ所長室に……」
 「ここにおるで」
 あっけらかんとした返事にはっと向き直る。
 後方の人ごみがどよめき、両岸に分かれて道ができる。
 廊下を席巻した人ごみの後方からもったいぶって姿を現したのは、額にゴーグルをかけた快活な笑顔の少年。口端から覗く尖った八重歯がやんちゃな印象を与える少年は、驚愕の面持ちでサムライと並び立つ僕を発見し、ちぎれんばかりに手を振りたくる。
 少年が手を振る度袖口が捲れて、日焼けした肌に映える龍の刺青が露わになる。
 どぎつく照り映える暗緑の鱗を袖の下にちらつかせ、両手を振りたくる過剰な親愛表現で再会を喜ぶのは、西棟のトップとして東京プリズンの一角に君臨するヨンイルだ。
 「やっほー直ちゃん、元気しとるか。俺はこのとおりピンピンしとるで。今からジョジョの奇妙な冒険一気読みできそうなくらい」
 「ヨンイル、君は……」
 言いたいことは山ほどあるが、いざ面と向かうと言葉がでてこない。
 ヨンイルの元気な姿を確認するなり背骨がふやけるような脱力感に襲われる。腰砕けに座り込みかけた僕の肘を掴んで立たせたサムライが呆れた風なため息を吐く。安堵と脱力が入り交ざった複雑な心境でどんよりヨンイルを見上げ素早く全身を観察する。服から突き出た部位に外傷がないのを確認し、自然と和みかけた顔を引き締める。
 「用が済んだら西棟に帰れ、君の顔など見たくもない」
 「!?んな殺生な直ちゃん、一日ぶりの再会やってのにつれないこと言いなやっ」
 痛烈に叱責されたヨンイルがこの世の終わりのような顔で抗議する。少しだけ良心が痛むも、さんざん心配させられた怒りのほうが上回っている。
 ヨンイルが近付いてくる。
 安堵と怒りが綯い交ぜとなり、泣きたいような笑いたいような衝動が沸騰する。
 眼鏡のブリッジを押さえておもてを伏せたのは表情の変化を悟られない為だ。  
 「とっとと西に帰れてそりゃあんまり冷たいんとちゃうんか一昼夜の生き地獄を味わった心友にもちっと温かい言葉かけてくれはってもバチあたらへんでホンマ!?そりゃ俺は今からでもジョジョ一気読みしてスタンドごっこできそうなくらい元気びんびんやけど、俺がいいひんかったあいだ直ちゃんが図書室でひとりぼっちで膝抱えて『魔少年ビューティー』読んどるとこ想像したらあんまり犯罪的な匂いがしたさかい、所長にお叱りうけとる最中も直ちゃんが魔少年ビューティー化せえへんかはらはらひやひや……」
 「現実と漫画を混同するのは悪い癖だ。相変わらず妄想癖が治ってない」
 縋り付くヨンイルを引き剥がし、できるかぎり素っ気無くあしらう。僕の腕に凭れる格好で目を細めたヨンイルが一転相好を崩す。
 「んなこと言うて直ちゃん、俺のこと心配しとったんやろ」
 「なっ」
 「図星か」
 してやられた。
 ゴーグルの下の目が意地悪く笑う。僕をからかうのがそんなに楽しいのか道化めと罵倒したい衝動を抑制する。ヨンイルは何がそんなに嬉しいのかニヤニヤと笑み崩れて「そうか、せやったんか、愛されとるなあ俺。ええ友達もって幸せもんや」と一人納得している。
 ゴーグルに手をかけて位置を正しがてら、達観の光を宿した双眸を細めて道化が独りごちる。
 「直ちゃんは優しいさかい、所長室に連れ去られた俺らんこと心配してろくに眠れへんかったんやろ」
 「根拠のない妄想だ」
 「目ぇ赤いで」
 ……ばれていたのか。
 自身の不覚を呪い失態を悔やむ。不眠で赤く腫れた目を恥じて俯けば、ブリッジを押さえて顔を伏せた僕の前、ヨンイルが喉の奥で笑いを泡立てる。くすぐったそうな、その癖どこか嬉しそうな幸福感が放出する笑顔に怒る気力も失せる。
 弛緩した雰囲気を変えようとやや強引に話題を転じる。
 「本当に怪我はないのか、大丈夫なのか、医務室に行く必要は?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせる僕をヨンイルは飄々とあしらう。耳の穴を気楽にほじりつつかぶりを振り、その必要はないとやんわり拒絶する。
 「直ちゃん忘れたんか?医者は静流に刺されて重傷で今いぃひんやろ。ヘリで病院に運ばれて噂じゃ全治三ヶ月やて。ご自慢の記憶力はどないしたん?」
 ヨンイルが八重歯を光らせ悪戯っぽく笑う。
 現在東京プリズンに医者は不在だ。
 静流に刺された医師は全治三ヶ月の重傷で病院に移送された。
 幸い一命は取りとめたが老齢ゆえに治癒が遅く、医者としての復帰はむずかしいと囁かれている。
 蛇足だが、医者と同日に刺された新人看守は軽傷だった。
 今はもう職務に復帰しており、僕も何度か姿を見かけたことがある。
 囚人に小突かれて泣き笑いする彼を見たときは、世の中には運が強い人間もいるものだと素直に感心した。
 医師が不在中の医務室に待機しているのは最低限の医療知識と技術がある看守数名で、絆創膏を貼れば済む掠り傷ならまだしも大怪我をして運ばれた囚人には対処できないのが現状だ。
 仮にヨンイルが服に隠れて見えない部位に怪我をしていても包帯を巻く程度の処置しかできないが、何もしないよりはマシだと体調を問えば、人を食った反応を返される。
 「舐められたもんやな、西の道化も」
 八重歯が挑発的に光る不敵な笑顔にぞくりとする。
 不穏な気配を孕んだ笑顔で廊下の惨状を見回したヨンイルが鋭い眼光で射抜く先には仁王立ちの凱がいる。眼光鋭く凱を一瞥したヨンイルの顔がにわかに真剣みを帯びて引き締まる。
 口元をきつく引き結び、親指の腹で凱をさす。
 「俺の心配よか木偶の坊の心配や」 
 「は?」
 「アイツまだ生きとるで」
 そんな、まさか。
 衝撃を受けて振り返る。
 廊下の真ん中で仁王立ちする凱は天井を仰いで微動だにしない。
 周囲の反応と凱自身の様態に先入観を与えられて即死と判断したが、そういえば僕は至近距離で観察してすらないし脈もとってないのだ。凱が死んでいると断定するには根拠不十分だ。
 「眼鏡は伊達か天才少年。腕の見せ所やで」
 ヨンイルにけしかけられ、サムライと競うように走り出す。
 ヨンイルの発言が事実なら希望はある、迅速に的確に応急処置をすれば助かる見込みがある。
 たとえそれがどんなに成功率の低い賭けでも挑戦してみる価値はある。
 蛍光灯の破片が散らばった床を蹴り、両岸に退いた野次馬には一瞥もくれず疾走する。鞭打たれたように走り出した僕の隣にサムライが並ぶ。人ごみの合間を縫って凱に接近した僕は首筋を濡らして床へと滴った血の量に絶句する。
 慄然と立ち竦んだ僕より先に我に返ったのはサムライで、凱の足元に跪くや木刀を傍らに置いて手首の脈をとる。
 緊迫した数瞬。
 呼吸すら忘れてサムライの手元に見入る。
 「……直」
 サムライが神妙に僕を呼ぶ。虚空で目が合う。
 真剣極まる面持ちの中、孤高の鷹を彷彿とさせる切れ長の双眸に真摯な光を宿し、サムライが呟く。
 「かすかだが脈がある。諦めるのは早い」
 絶望感が払拭された。
 サムライの一言が引き金となり呪縛が解ける。
 怯惰に竦む足を叱咤して凱の間合いに踏み込み、瞳孔が開いてるかどうか至近で確認する。
 喉の傷口に耳をあて呼吸音を聞く。
 ひゅうひゅうとか細く弱々しい呼吸音が傷口から漏れてくる。
 まだ辛うじて息がある。
 凱は立ったまま失神していた。
 「………っ、紛らわしい言葉を吐いて気を失うんじゃない!!」
 本当に紛らわしい男だ。安堵の前に怒りを感じる。
 周囲に流されて診断ミスをした自身を恥ずかしく思うが、悔やむのは後回しだ。
 凱が一命を取り留めたとなれば処置が先決だ、今すぐ医務室に運んで喉を縫えば助かるかもしれないと淡い希望を抱く。
 手が血で汚れるのも厭わず喉付近に指をあてがい血管の脈動を確認、出血こそ多いが生命線の頚動脈は切断されてないと知り光明がさす。
 「サムライ、ここを掴んでいろ」
 「ここか」
 「そうだ、血を止めるんだ。聞こえるか凱、聞こえているなら返事をしろと言いたいが声帯が傷付いてるなら無理だからただ僕の言葉を聞くだけでいい。凱、こんな所で死んだら一生娘に恨まれるぞ。貴様が死んでからもずっと父を慕う娘からの手紙が届き続けるんだ。貴様はいいのか?娘が下手くそな字で綴った手紙が看守の手慰みで紙飛行機に折られるのを許せるか、君に似て可愛くないが君には可愛い娘がひとりぼっちになってもいいのか、貴様それでも父親か無責任な!!」
 既に大量の血を吸った布を喉に巻きつけ止血を施しながら懸命に凱を叱咤する。血脂にぬめった手で何重にも布を巻いて喉を外気から守る。
 落ち着け、鍵屋崎直。落ち着くんだ。
 どうにか冷静さを保ち処置にあたろうとするが、一刻を争う切迫した事態に指が震えて血染めの布が滑る。
 「っ!」
 凱の喉に布を巻き付けて止血を施した僕の手を、横合いから誰かが掴む。
 サムライではない。いつのまにか隣に来たヨンイルが僕の手を掴み、安心させるように頷く。
 「上出来や。後は俺に任せぇ」
 ヨンイルがさりげなく僕の肩を叩く。
 ご苦労はん、とでもいうふうに。
 ひどくあっさりと僕の手を放したヨンイルが立ち上がり、自らの肩に凱の腕をかけておぶさるも、2メートル近い巨体を背負うのは荷が重く足元がよろける。
 それでも道化の底力というべきか、細身の体には似つかわしくない膂力を奮起して凱をおぶさったヨンイルが、僕に向けた優しい目とは一転苛烈な眼差しで周囲を威迫する。
 「何ぼさっと突っ立っとんのじゃおどれらっ、頭の命がかかっとるっちゅー重大事にぎゃあぎゃあ泣き喚いて逃げ惑うド阿呆しか東棟にはおらへんのかい!?呆れたもんやな全く。西の連中の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいわ」
 唾を飛ばして怒号するヨンイルの体から轟々と瘴気が放たれる。
 誰もがヨンイルの剣幕に尻込みしていた。
 僕には服の下でうねり狂う龍の幻影すら見えた。ヨンイルの体に巣食った龍が胎動し、開いた毛穴から殺気が噴出する様すら幻視できるようだった。
 血染めの布を首に巻いた凱は不規則な呼吸をし、全体重をヨンイルに預けて覆い被さっている。
 廊下の真ん中に仁王立ちしたヨンイルが天井を仰いで大きく深呼吸する。
 そして……

 龍が開眼する。

 ゆっくり持ち上がった瞼の奥で双眸が火を噴く。
 青白い残光を曳いた双眸で薙ぎ払うようにあたりを睥睨し、大上段に啖呵を切る。
 「今までさんざ美味い汁吸うときながら用済みになったらはいサイナラてそりゃあんまり殺生ちゃうんか?そんな不義は俺が認めん、西の道化が許さへんで。コイツはお前らにええとこ見せよォ思て無茶しはったんや、せめてその気持ち汲んだらな報われんやろが。薄情な子ォもった親が可哀想やわ」
 一言一句が重く堅実な説得が大気中に浸透していく。
 野次馬ひとりひとりを見詰め、ヨンイルが真顔で言う。
 「子分の気概を示してみィや」
 凱を背負ったヨンイルのもとへ一人、また一人と囚人が吸い寄せられていく。最前までパニックに陥って乱闘を演じていた囚人たちが幾分冷静さを取り戻し、ヨンイルの背中からずり落ちかけた凱を支え起こす。
 「凱さん」
 「大丈夫っスか凱さん」
 「しっかりしてください凱さん」
 放心状態から覚醒した囚人たちが我も我もと凱に群がり始める。
 ヨンイルの背中から凱の巨体が取り除かれる。
 漸く自分たちの成すべき事を悟った囚人たちが手分けして凱を支え医務室へと連れて行く。
 凱の巨体に押し潰されかけながら、それでも必死に廊下を歩いて医務室へと向かう一群を見送り、ヨンイルが満足げに頷く。
 「道化の影響力は偉大だな」
 「見直したか?」
 してやったりと笑うヨンイルには憮然とした表情を返しておく。
 不安を押し殺すように手を握り締める。
 凱は必ず助かるはずだと自分に言い聞かせて平静を保つ。
 あのふてぶてしく図々しい男が簡単に死ぬわけがない、東京プリズンからいなくなるわけがない。
 小さく息を吐き、ヨンイルに向き直る。 
 「所長のお咎めは済んだのか?」
 「一時中断。それどころやのうなったんっちゅーんが正しいかな」
 停電の暗闇に包まれた廊下にて、一昼夜ぶりに僕と対峙したヨンイルが不穏に声を低める。
 「所長室に暴動がおきたて知らせが入ったんやけど、主犯はアイツか」
 ヨンイルがぞんざいに顎をしゃくった方角には一人の少年がいる。金と銀の目をもつ不気味な少年の背後ではロンが拘束されている。
 オッドアイの少年とロンとを見比べてヨンイルが舌打ちする。
 「やばい」
 「ああ」
 何がやばいのか聞くまでもない。
 オッドアイの少年とロンとを行き来した視線をレイジに固定する。
 蛍光灯の破片を踏み砕く音も軽やかに、停電の暗闇をものともせず、優雅な足運びで直進するレイジが不意に立ち止まる。
 場が硬直する。
 空気の密度が膨張する。
 急激に酸素が薄くなったような圧迫感に襲われたのは、極限まで膨れ上がった殺気と殺気が激突した為だ。
 「レイジの奴、完璧キレとる」
 ヨンイルが恐ろしげに呟く。
 「何があったんや、直ちゃん。なんでロンロンがつかまっとるんや。ロズウェルごっこでもしとるんか」
 「僕も詳しくはわからない。説明すると長くなる。ロンは所長室に拘禁されたレイジを助けようと僕の制止を振り切り飛び出し、そして」
 何が起こったんだ?僕にもわからない。気付けば暴動が始まっていた。僕とサムライは期せずして暴動の渦中に巻き込まれた。
 ロンの身に何が起きたかなんて僕にもわからない。
 僕にわかるのはただひとつ、レイジと対峙する少年がとてつもない危険人物であるということのみ。
 廊下の一同がレイジと少年を交互に見比べる。凝視する。生唾を嚥下する音がやけに大きく響く。 
 不死身の自動人形を思わせて平板な表情の少年が、酷薄な色の瞳にレイジを映す。
 レイジは悠然と非友好的な視線を受け流す。
 完璧な角度に尖った顎を傾げ、上から見下すような傲慢さで身の程知らずの無礼者を迎えうつ。
 頬に纏わるおくれ毛を手は使わず軽くかぶりを振って払い、褐色肌と白い歯の対比も艶めかしい蠱惑の笑みを湛える。
 『Who are you?』
 王が誰何する。
 『我叫假面』
 拝謁者が慇懃に応じる。 
 万人を虜にする美形の微笑みにも鉄壁の無表情を崩さず、膝を折って恭順せず、ただただ口調だけは慇懃に名を名乗る。
 「―んなこたあどうでもいいや」
 自分から名を聞いておいて実にあっさりとレイジが言い、無関心に醒め切った目に一片の揶揄を含ませて「假面」を見る。
 「お前、ロンに何をした」
 口元だけで笑うレイジに、「假面」は嘲りを滲ませた口調で言い放つ。
 「酷い事だ」 
 假面の顔に初めて表情が生まれる。剃刀めいた冷笑。
 がっくりと首を項垂れたロンへと手を伸ばし、その前髪を無造作に掴む。
 不快げに顔を顰めたレイジを無視し、ロンの前髪を掴んでゆっくりと顔を上げる。
 あたりにどよめきが広がる。僕とサムライもまた言葉を失う。
 大衆の目に晒されたロンの顔は酷く汚れていた。顔の表面には擦ったようにべったりと赤黒い血が付着していた。
 どこか怪我をしているのかと不安に駆られて全身に視線を走らすも、肌を蝕む掠り傷と痣の他に出血を伴う外傷は見当たらない。
 ロンが血を流してない事に安堵し、次の瞬間我に返る。
 なら、あの血は?ロンの顔を汚す血の出所は?
 胸が不吉に高鳴る。
 ロンの背後、開放された鉄扉の内には闇が凝っている。
 僕と同じ疑問を抱いたサムライとヨンイルが自然と身を乗り出し闇へと目を凝らす。僕らの視線に気付いた暇面が手近の少年に顎をしゃくる。暇面の仲間と思しき少年が即座に意を汲んで房内へと消える。房内で物音がする。固い床を何か、湿り気を含んだ肉塊が這いずるような耳障りな異音……  
 「ひっ!」
 最初に声を発したのは残虐兄弟の弟……マオだ。
 喉の奥で悲鳴を発し、顔面蒼白で自分にしがみ付く弟の異常に兄のユエが狼狽する。
 「どうした弟よ、強姦魔の風上にもおけないような可愛い悲鳴を上げて……」
 「あああああああああ、あああああん、あん、あんちゃ、あれ、あれぇっ……!」
 恐怖に戦慄く弟に怪訝な顔をしたユエが房内を覗き込む。
 マオはまだ顔を上げない。裂かれた上着を羽織った兄にひしと抱きついたまま、顔面蒼白でうわ言を繰り返す。
 「嘘だろ、なんで……ちょっと前まであんなに元気だったじゃんか、イエローワークの砂漠をきゃんきゃん駆け回ってたじゃんか、囚人のケツ追っかけてはカマ掘ろうって涎たらして狙ってたのにあんな、あんな変わり果てた姿になっちまってよう……ミンチ、ミンチだよありゃあ、肉団子の具材だよあんちゃん!」
 「落ち着け弟よ、肉団子は好きだろう。夕食で出たら半分こだ」
 「いらねーよあんちゃん、肉団子なんか食いたかねえよ、俺の心に一生消えないトラウマが刻まれちまったよ!」
 「じゃあお前の分まであんちゃんが独り占めだ。これにて一件落着大団円兄弟円満だ」
 ユエがよしよしと弟の頭をなでる。
 「なんやねん、この匂い。肉が腐っとるよな……」
 「君の房の匂いよりマシだ」
 「失礼な、キムチは韓国の宝やで」
 小鼻をうごめかしたヨンイルが八重歯を剥いて反論するのを聞き流し、房内へと視線を投じる。 
 闇の中で何かが蠢く。次第に音が近付いてくる。湿り気を含んだ肉の塊が床を這いずってくる不快な音……
 闇に釣り込まれるように足を踏み出した僕を制したのは、サムライの一喝。
 「見るな、直っ!」
 熱い手のひらが目に被さり視界を塞ぐ。逞しい腕が僕を引き戻す。
 サムライに抱擁された僕の鼻腔に悪臭が忍び込む。
 サムライの胸に顔を埋めた僕ですら吐き気を催す程の悪臭をまともに嗅いだ周囲の連中がどよめき何人かが悲鳴を上げる。
 鼻腔の粘膜を刺激する強烈な異臭があたり一帯に蔓延し、それに比例してどよめきが大きくなる。
 「何が起きてるんだ、何が出てきたんだ!?」
 「獣の死骸だ」  
 「獣?」
 脳裏で閃光が爆ぜる。瞬時に疑問が氷解する。
 サムライの胸を突き放し、即座に顔を上げる。周囲の連中が悪臭に押されて後退する。強烈な悪臭と酸鼻な光景に耐えかねた囚人が床にくずおれて嘔吐する。床に胃の内容物をぶち撒けた囚人のそばを通り、吐寫物の飛沫がスニーカーに跳ねるがままに房から引きずり出された亡骸に歩み寄る。
 房内から引きずり出された肉塊はわずかに生前の面影を留めていた。
 黒い体毛が所々に覗く赤黒い肉塊の頭頂部にはイヌ科の特徴の耳が生えている。
 高級な首輪を嵌めた肉塊を見下ろすうちに猛烈な吐き気が込み上げてくるも、奥歯を噛み締めて耐える。

 なんてことだ。
 殺されていたのか、ハルは。

 「貴様っ、所長の飼い犬を殺したのか!!」
 混乱した頭を手で支え、よろめくように後退する。  
 心臓の動悸が激しくなる。ハルの死骸を前に思考力が低下し冷静な判断ができなくなる。ハルが死んだ。殺された。目の前の少年に殺された。
 撲殺、殴殺、挽き肉。
 猛烈な吐き気と戦いつつ、今にも萎えそうな気力を必死にかき集め振り絞り、假面に最大級の嫌悪感を示す。
 体の奥底から沸々と怒りが湧いてくる。
 体の奥底から沸き上がる怒りが激情のうねりと化し、圧倒的に不条理な力でもって木っ端の如く理性を押し流す。
 「ロンの顔に跳ねていたのはハルの血か、貴様ロンに何をした、そうやってロンの前髪を掴んでハルの死骸に押し付けたのか、嫌がるロンを無理矢理ハルの死骸を向き合わせ口をこじ開けそろそろ蛆の沸き始めた犬の腐肉を食わせようとしたのか。何故そんな真似をする、ロンが貴様に何をした、貴様がロンを憎む理由がこの僕の優秀なる頭脳をもってしても皆目わからず気味が悪い、一体貴様はロンの何なんだ、答えろ假面!!」
 一息に捲くし立てる僕をよそに假面を自称する少年はレイジと対峙したままこちらを見もしない。 
 動転する僕の背後に足音が近付いてくる。
 左右の腕をそれぞれ違う人物に掴まれた。
 右腕を掴んだのはサムライ、左腕を掴んだのはヨンイル。
 抵抗を跳ね付ける真剣な横顔でしっかり僕を支える二人を見比べるうちに興奮が沈静化する。
 静寂の帳が落ちる。
 足元に横たわるハルの死骸とあたり一帯に立ち込める悪臭にも無表情で通す少年と互角に、不敵な笑顔でレイジが吐き捨てる。
 「引っ込んでろよ、キーストア。邪魔だ」
 薄茶の目に憎悪の波動が迸る。
 「假面か。英語じゃデスマスクか。ちょうどいいや」   
 何がちょうどいいのかとは誰も聞かなかった。否、聞けなかった。
 廊下の真ん中に悠然と佇むレイジが、唄うような抑揚で挑発する。
 「お前がロンに何したかなんて一目瞭然だ。お前がその口で言ったとおりとてもとても酷い事をしたんだろ。俺なんかが及びも付かない最悪に酷いことをしてくれちゃったんだろ?なあ、ミスターデスマスク」
 レイジは真っ直ぐに暇面を見据えたまま、ひどくゆっくりと優雅な動作で腕を掲げ、顔の半面を隠すように手を置く。
 レイジの手が眼帯にかかる。
 眼帯の端が捲れ、瞼を縫いとめた傷痕が露出する。
 場の空気が弦のように張り詰める。廊下に居合わせた囚人を一人の例外もなく戦慄が襲う。
 「ロンの顔汚した代償は高く付くぜ」
 極大の威圧感が押し寄せる。
 この場には不似合いに極上に甘い笑顔のレイジが、褐色の指先を顔に添え、ひどくゆっくりと眼帯を剥がしていく―……

 宙高く眼帯が舞い上がる。 
 
 眼帯が虚空に舞った一刹那、僕の網膜に鮮烈な残像を投じて対象に肉薄したレイジが左足を軸に鋭角の蹴りを放つ。
 口笛でも吹くように唇を尖らせ、蹴りの風圧で前髪を泳がせ、処刑を宣告。
 『Hello and good-bye, death mask』
 今再び暴君が降臨した。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050410013237 | 編集

 「!んな阿呆なっ」
 ヨンイルが目をひん剥き仰天する。
 左足に重心を移した体勢から思い切り右足を跳ね上げ無防備な側頭部を狙ったはずが、粉骨の蹴りが炸裂する寸前に假面が後方に倒れたのだ。
 背筋が床に接するほど仰け反った顎先を柔軟に軌道変化した蹴りが削って血をしぶかせるも深手には至らない。
 自らの顎先を苛烈な蹴りが掠め去るさまを見ても、假面の顔筋はその異名通り動かない。
 煙たい倦怠の表情と絶対零度に冷め切った瞳は一切情動を感じさせず背筋が薄ら寒くなる。
 假面は瞬きもしない。
 人ならざる金銀の目に酷薄な光を宿したまま冷静沈着に敵の動きを読んで次なる攻撃を予測し臨機応変に攻防の構えをとる。できる。假面は強い。名乗りを上げた時の囚人の反応から薄々勘付いていたが、実際目の当たりにすると鬼気迫る強さだ。
 破片の地雷原と化した廊下でレイジと対戦する假面とは、かつて都下最大スラム池袋を縄張りに猛威を振るった戦闘狂であり、台湾人中国人の別なく畏怖された危険人物らしい。
 「なるほど、伝説にもなるわけだ」 
 洞察力と観察力なら僕の右に出る者はないと自負する。
 眼鏡の奥の目を推し量るように細め、両者の戦力差を分析する。
 無敵無敗のブラックワーク覇者として東京プリズンに君臨するレイジの強さは東西南北全棟にあまねく知れ渡っている。
 レイジは名実ともに東京プリズン現役の「王」だ。
 他者と比較にすらならない、そもそも比較しようという発想が馬鹿らしい圧倒的強さでもって数多の挑戦者を児戯に等しく蹴散らしてきたレイジと互角に戦える相手など西南北のトップを除いて他に浮かばない。これまで数限りなくレイジの戦闘を目撃した僕が断言するがレイジがレイジであり続ける限り王位は末永く安泰だ。戦わずして格の違いを自覚させる極上の美貌と実力を兼ね備えたレイジは、これまでもこれからも東京プリズン唯一無二の王として君臨し続ける……
 はずだった。
 彼さえ現れなければ。
 「……嘘だ」
 自分が目にしているものが信じられない。周囲の囚人も同じ心境らしく、愕然と立ち竦むよりほかない。
 あのレイジが、東京プリズン最強の男が、東棟を仕切る無敗の王が、入所してたかだか一ヶ月の新入り相手にいまだ一撃も打ち込めず先手をとれずにいる。ありえない。レイジと互角に戦える相手が西南北のトップ以外にいるわけがない。だがしかし現実にそのありえないことが目の前で起きている。身の程知らずの挑戦者と見なされた假面は足腰の強靭なバネを生かした奇妙に機械的かつ一分の隙もない正確無比な動きで息継ぐ間もなく繰り出される攻撃をすべてかわす。
 殺戮人形。
 脳裏に閃いたその言葉を激しくかぶりを振って追い払う。
 まさか。ナンセンスだ。
 だがしかし、假面の戦いぶりを評するのにこれほど相応しい形容もない。
 假面には予備動作が殆どない。
 体勢が泳いだ時差に付け入ろうにも遅滞がないのでは話にならない。
 戦場への投入を前提に、死体の量産を目的に製造された軍用兵器のように淡々と。
 假面が噴射の推進力で足を跳ね上げる。
 「っ!」
 瞼裏に凱の断末魔が蘇る。
 喉の血管を切断された凱の姿が脳裏を過ぎり、今また同じ運命がレイジに訪れようとしていると悟る。
 「足元に気をつけろ、假面は靴に凶器を仕込んでいる!」
 焦慮に駆られて叫ぶ僕をよそに假面と対峙したレイジが唇の端を捲り薄く嗤う。
 普段見慣れた不誠実で軽薄な笑顔ではない、底冷えするような笑顔。
 来るなら来いよ。
 僕にはレイジがそう言っているように見えた。
 レイジが嘯く。
 『Childish』
 子供騙しだ、と。
 假面の顔に不快げな揺らぎが生じる。
 垂直に跳ね上げた爪先から鋭利な刃が突き出る。
 先ほど凱の喉を切断した凶器。
 いまだ凱の血に濡れたそれが今度はレイジの喉を狙う。
 薄茶の毛髪が宙に散る。
 数本の毛髪を犠牲に難を逃れたレイジが首元の金鎖に手をやり一気に引きちぎる。
 假面のように派手なかわし方ではない。
 レイジはほんのわずか喉を仰け反らせて蹴りをいなした。
 あと1ミリ目測がずれていれば鼻が削り取られていたというのに、ふてぶてしくニヤつく顔には微塵の焦りもない。
 「床と仲良しにならなくても必要最小限の動きでかわせるなら越したこたあねえ。派手さが取り得のパフォーマンスは駄賃稼ぎのガキの見栄だ」
 必要最小限の動きで必殺の一撃を回避したレイジは、金に艶めく玉を宙にばら撒いて十字架を逆手に握りこむ。
 宙にばら撒かれた玉が滲んだような黄金の軌跡を描いて床を乱打する。
 滝のように不規則に床に流れ落ちた玉が甲高く澄んだ旋律を奏でる。
 黄金の玉が潮騒の旋律で床の表面を転がっていくのをよそに、掌中に十字架を握り込んだレイジが前髪のかかる隻眼に狂気の光を過ぎらす。
 假面の喉に狙い定めて十字架を繰り出す。
 確実に喉仏を潰し頚動脈を断つ刺突の構え。
 真っ直ぐ腕を突き出すレイジの手の先、鈍い光沢の十字架の突端が標的の喉に穿ち込まれる。
 喉仏を破壊する意志を込めた凶悪な一撃はしかし、假面の失笑に妨げられる。  
 「この程度か」
 喉仏を潰そうと一直線に突き込まれた十字架を素手で掴む。
 「!!」
 動揺が伝染する。
 衝撃的な光景に呼吸が途絶する。
 廊下に馳せ参じた囚人たちが息を詰めて見守る中、喉を破る直前で十字架を掴んだ假面が腕を突っ張る。
 力を込めた手に強靭な腱が浮かぶ。
 鉄枷で締め上げるような怪力が指に伝わって凄まじい膂力を発揮する。
 僕には假面がしようとしていることが漠然と予想できた。
 できたが、まさかと思う気持ちの方が強かった。
 果たしてそんなことが可能なのか半信半疑だ。
 レイジも僕と同じ結論に達したらしく、その顔に初めて焦りが生じる。
 傷だらけの十字架を取り返そうと反射的に手を伸ばすレイジ、その手が宙を泳ぎ目標に達する寸前に肺を絞り尽くすような重量の呼気を吐き、持てる握力を最大限発揮する。
 假面の手の中で十字架がへし曲がる。
 「―――――――-――――――――っ!?」
 もはや声にならない声で叫び、間に合わないと知るやいなや攻勢に切り替えたレイジが勢い良く床を蹴る。
 上着の裾を猛然とはためかせ、腰に捻りを利かせて申し分なく長い足を一閃すれば假面がもんどり打って吹っ飛ぶ。
 躍動感に溢れた一連の活劇に野次馬が熱狂し、罵声と怒声と歓声が入り乱れて喧騒の坩堝を成す。
 良くて脳震盪、悪くて即死の威力の蹴りだ。いかに假面といえどもしばらくは立ち上がれないだろうと楽観して安堵の息を吐く。
 「まずいで、こりゃ」
 隣でヨンイルが舌打ち。
 何がまずいんだ?不審げに向き直った僕に珍しく神妙な顔を取り繕い、ヨンイルが周囲を憚り声を低める。
 「暴君が起きてもた」 
 背筋を冷や汗が伝う。
 罵声と怒声が混沌と入り乱れる中、悄然と項垂れたレイジの手には十字架が載っている。
 傷だらけのみすぼらしい十字架。
 假面に握り潰された十字架。
 醜くひしゃげた十字架を見下ろすレイジの表情は前髪に隠れて読み取れないが、口元からは先ほどまでの余裕の笑みが完全に消え去った。
 「マリア」
 前髪に表情を隠したまま、俯き加減にレイジが呟く。
 ひしゃげた十字架を固く固く握り込んだ手を力なく脇に垂れ、体ごと假面に向き直る。
 レイジが薄っすらと微笑する。
 狂気の上澄みの微笑。
 「お前、そんなに俺を怒らせたいのか。俺を暴君にさせたいのかよ」
 不吉にさざめく空気から精神が狂気に侵食されつつあるのが窺える。
 「……最悪だ」
 それでなくても暴動が発生し囚人が恐慌を来たし廊下は惨状を呈しているのだ。レイジが理性を放棄して体と精神を暴君に明け渡せば最後、東棟はおろか東京プリズン全体を巻き込む破壊がもたらされるのは避け難い。
 何よりレイジの暴君化を僕は望んでない。
 レイジが身も心もぼろぼろになるとわかっていながらこのまま放っておけない。
 「『暴君は一昨日きさらせ』か?」
 ハッとして顔を上げる。
 ヨンイルがしたり顔で頷く。
 「同感や。俺かて事態の泥沼化は避けたい。東京プリズンの平和のために、明日も鼻くそほじりながら漫画読む平和のために道化ヨンイル一役買うで」
 そうだ、僕には西の道化がついている。
 「サムライ!」
 胸に希望を抱いてサムライを振り仰ぐ。
 サムライが腕組みを解いて首肯する。
 緊迫した一声で自分に何を求められているかを察し、腰の死角で木刀を構える。
 西の道化が味方につけばロンの奪還も不可能じゃない。
 慎重を期す僕とサムライでは距離的に踏み切れなかったが、最低三人いれば一人が陽動に回って注意を引きつけたすきにロンを救出できる。
 白熱する死闘に沸き立つ観衆に紛れ、喧々囂々飛び交う野次と怒号の中で頭を低め、見張りとの距離を目測で割り出す。
 いける。今ならいける。
 ロンを取り押さえた見張り二人は、眼前で行なわれる迫力の死闘に魅了され、軽い催眠にかかったような放心状態で立ち竦んでいる。
 呆けたように戦闘を見詰める台湾人の動向を油断なく探る。 
 胸の鼓動が高鳴る。脈拍が速まる。
 アドレナリンが過剰分泌されて全身の血が沸騰する。
 サムライとヨンイルに目で合図を送る。
 作戦を話し合う時間はない。
 そもそもこの騒音の中では会話が成立しない。
 だがしかしヨンイルとサムライは、緊張に青ざめた僕の顔色から思考を読み取るや互いに張り合うように顎を引き、神妙に頷いてみせる。
 卑怯者にはなりたくない。
 ロンを、仲間を見捨てたくない。
 凱の時のように見殺しにしたくない。
 くだらない自己嫌悪に悩むのはもうごめんだ、ならば行動あるのみだ。大丈夫、僕にはIQ180の優秀なる頭脳という最大の味方の他にもサムライとヨンイルという次善の保険がある。
 勝算はある。
 深呼吸で冷静さを吸い込み、ひたとヨンイルを見詰める。
 「頼りにしてるぞ、道化」
 輝かんばかりの笑顔でヨンイルが応じる。
 「よっしゃ!」
 西の道化ヨンイルが先陣切って走り出す。
 額のゴーグルを押し下げて戦闘体勢に入り、ヨンイルが跳ぶ。
 「!?なっ、」
 高い高い跳躍。
 天井付近から滑降した勢いに任せて壁を蹴り、その反動で浮力を得て身軽に跳梁する。
 「通行止めなら上が空いとる!」
 廊下を塞き止めた群集を一望し、はだけた上着から覗く龍の刺青も猛々しく躍動させ、上空に舞ったヨンイルが快哉を叫ぶ。
 「まるで撞球だ。自分の体を使って撞球するなどむちゃくちゃだ」
 無茶苦茶だが、難易度の高い曲芸を苦もなくこなす道化の体術は素晴らしい。
 壁に付いた手と靴裏を支点に玉突きのように変則的・偶発的に方向転換、巧みな体重操作を用いて自由自在に空中で軌道変化し、完全な死角の頭上を急襲する。
 「オレは上、きさまは下やっっ!!」  
 「下!?待て、お前どこからっ……」
 ゴーグルに顔半分を隠していてもわかる勝ち誇った笑み。
 上着の裾が翻るままに腹筋の龍をうねらせ、落下の勢いに任せて猛然と右足が旋回する。
 轟と唸りを上げた足が見張りの顎に炸裂する。
 「大丈夫か孝賢!?くそっ、わけわかんねえこと言いやがってこのゴーグル野郎台湾人舐めたらただじゃ」
 「貧弱!貧弱ゥ!」
 もう一人の見張りが即座にヨンイルに掴みかかろうとして胸ぐらに手がかかる前に飛び蹴りで沈没する。
 今だ。
 ヨンイル突然の暴挙に騒然とする群集の中心を突っ切り、両腕の拘束が外れてくたりくずおれたロンに駆け寄る。
 ロンの肩を掴んで助け起こし、この際手段を選んでいられないと決断を下す。
 「ロン、いい加減目を覚ませ。君のレイジが大変なことになってるぞ、相棒を暴君に乗っ取られてもいいのかこのド低能!!」
 鼓膜が割れんばかりの大声で怒鳴り、乱暴に肩を揺する。
 僕に揺さぶられるがまま首の据わらない赤ん坊さながら上下に顔を打ち振っていたロンが、ひどく緩慢に目を開く。 
 焦点の合わない目で茫洋と僕を仰ぐロンに不安がいや増すも、口元を厳しく引き締めて内心を出さないよう努力する。
 「大丈夫か、頭を打ったのか、クモ膜下出血の可能性は……」
 「―レイジがどうしたって?」 
 肩に痛みを感じる。
 ロンが僕の肩を掴んで立ち上がる。
 僕が止めようとした時には既に遅く、ロンは覚束ない足取りで歩き出していた。足を引きずるようにして歩くロンがめざす先にはレイジがいる、假面がいる。レイジと假面は今も激闘を繰り広げている。
 殺戮人形と暴君が相争う戦場に武器ひとつ持たず乗り込むのは蛮勇の類の無謀だ。
 全身に痛々しい掠り傷を負ったロンは、それでもしっかりと前を見据えたまま、不屈の闘志で次なる一歩を踏み出す。 
 「レイジのヤツ、さんざんひとのこと心配させやがって…挙げ句に目え覚めたらなんだこりゃ、こりゃなんの冗談だ?なんでレイジが道了とやってんだ?ふざけんなよお前ら、人が寝てるあいだに勝手に話進めやがって……レイジ、俺がどんだけお前のこと心配したか考えてみろよ。これ以上心配させんなよ。これ以上相棒甲斐なくさせるなよ」
 痛みに疼く体をひきずるように一歩ずつ着実に前進する。右へ左へ不均衡に傾ぐボロ布と化した体から峻烈な気炎が立ち上る。
 上着の裾がしどけなく捲れ痣と生傷だらけの貧相な太股が半ばまで覗くのも構わず、交互の靴裏で蛍光灯の破片を微塵に踏み砕く。
 激情に潤んだ目に悲哀の光がさす。
 「帰って来いよ、王様」
 傷の痛みに顔を顰めながら罵倒はすれども弱音は零さず、沸々と対決の気迫を漲らせて戦場に突入する。
 「ロン、わざわざ巻き添えになりにいく気か!?」
 蛍光灯の破片を踏み砕く音も重々しく戦場に突入したロンの背中を追おうとして肩を掴まれる。
 「行かせてやれ」
 サムライが僕の目を見て深く頷く。
 「ロンに任せておけ。レイジを止められるのはロンだけだ」
 「せやで直ちゃん。おいたしたダーリンにいちばん利くんは世話女房ラムちゃんのビリビリや」
 ヨンイルとサムライが僕を挟んで並んでロンを送り出す。
 居直りか達観か微妙な路線の道化の言動に危うく激発しかけるも、僕の行動を見越したサムライにすかさず引き戻される。
 ロンはひたすら歩き続ける。
 脂汗に塗れた苦悶の形相で假面とレイジの間に転がり出る。
 「俺を見ろ、レイジ。さんざん心配かけた相棒にただいまはどうしたよ、薄情者め。おかえりなさいが言えねーだろ」 
 肩で息をしながらひどく苦労して笑みを拵えるさまが痛々しい。
 ロンの悲痛な笑みに目を留めた刹那、凪の水面に波紋が生じるようにレイジの微笑が崩れ去る。
 「……ロン」
 視線が絡み合う。レイジが戸惑いがちに名を呼べば、それに応じるようにロンがしっかりと頷き、レイジを迎え入れるように両手を広げる。
 闇に光を見出した安堵からロンに歩み寄ろうとしたレイジの目が、その背後に忍び寄る不吉な影を捉えて極限まで見開かれる。
 『Fuck it!!』
 敵意を剥きだしたレイジに狼狽したロンに振り向く暇を与えず、蛍光灯の破片を踏み砕いて至近に迫ったオッドアイの少年が、腋の下から腕を差し入れて背後からロンを抱き竦める。
 ロンの顔に恐怖が去来する。
 極限まで剥いた目に戦慄を映し、自分の意志では指一本動かせず硬直したロンの肩に顎を凭せた假面が、体前に回した手を上着の裾に潜らせ、ロンの太股を性急にまさぐりはじめる。
 レイジに見せ付けるように。
 挑発するように。
 ロンは自分の物だと宣言するように。
 「やめ、道了っ……犬の腐肉食わせただけじゃ飽き足らずまだ続ける気かよ、假面!!」
 半狂乱で身を捩り、上着の裾をはだけて下半身をまさぐる手から逃れようとしたロンの腰が砕け、意志に反して甘い声が上がる。
 衆人環視の中でロンの体を蹂躙しながら、欲情とはかけ離れた冷たい表情を保ち続け、假面が断言する。
 「ロンは俺の物だ」
 腰から太股へと這わせた手を股間に潜らせ、貪るような愛撫でロンを煽り立て、「假面」の異名に相応しい端正な無表情で囁く。
 「お前の眼前でロンを犯して、それを証明する」
 
 「どうしたレイジ、調教はまだ終わってないぞ。
 このような下賎の輩とかかずりあっている暇があるなら、皇帝の高貴にして繊細な足の指が霜焼けにならぬよう口に含んで転がしておけ」
 
 尊大な声とともに飛来した鞭が顔を掠め、頬肉が爆ぜる。
 背後から飛来した鞭に頬を削り取られた假面がぐったりしたロンを抱いて振り向けば、ナチスの軍服に身を包んだ白皙の美青年が、薄氷の目に冷ややかな侮蔑を込めて一同を睥睨していた。
 場違いな軍服の存在感で群集を下がらせたその青年は機敏な腕の一振りで巧みに鞭を跳ねさせ、ひどくつまならそうに鼻を鳴らしてみせる。
 「レイジの相手は私だ。レイジの好敵手たりえるのは現在過去未来永劫私ひとりだ。どこの誰とも知らぬ愚民の出る幕はない」
 ふと足元に視線を落とす。
 蛍光灯の破片が散乱した床に黒革の眼帯を見つけ、中腰の姿勢で拾い上げる。
 自らも故あり片目を封印した青年は、今しも拾い上げた眼帯を指先で弄びながら、陰湿な光に濡れた薄氷の瞳にうっとりとレイジを映す。
 「調教再開だ」
 サーシャは傲然と宣言した。  

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050409061822 | 編集

 サーシャはアホだ。
 「だってそうっしょ?道了とレイジがロンを巡ってばちばち火花散らしてる時にしゃしゃり出てくるなんて空気読めないレベルじゃない、生存本能の故障だよ」
 「お説ごもっともっスけどリョウさん手を緩めてください、首、首が絞まる!」
 ビバリーの胸ぐら掴んで手加減なしで揺さぶる。
 がくがく揺さぶられたビバリーが泡食って抗議の声を上げるのを無視、廊下中央を凝視する。
 地雷原の如く剣呑な破片が撒かれた廊下の中央、近いとも遠いとも言えない微妙な距離にて対峙する三人に目を移す。
 眼帯の封印を解いたレイジは助走を経て暴君に覚醒し、大事な十字架を破壊し大事な相棒を人質にとった宿敵を誅さんと、強靭なバネを仕込んだ四肢を柔軟に撓める。
 怒りに燃える眼差しを平然と受け流すのは、左右色違いの目をもつ能面じみた無表情の男。
 男の腕の中で滅茶苦茶に暴れているのは、何故か下半身裸という恥ずかしいカッコのロンだ。
 だぼついた上着が太股を覆っているが、激しく身を捩るたび裾が捲れて肌の露出面積が広がる様は扇情的な痴態に映る。
 激しく首を振り手足を振り回し腕を引っ掻き甲高い奇声を発し、どうにか屈強な腕から脱け出そうと健気に足掻きまくっているが、子猫の奮闘も虚しいかな道了は腕の中の人質に一瞥もくれずその存在ごと忘れ去ったように動じない。
 想像を絶する腕力。
 いかにロンが小柄で華奢とはいえなりふり構わず全力で暴れているのだ。千切れんばかりに首を振り唾を飛ばし鼓膜が破れそうな大声で怒鳴り散らし、旺盛な反抗心を示してもがきまくっているのだ。勢い良く腕を振り上げ振り下ろし同じ要領で足を蹴り上げ蹴り下ろし、肩といわず顎といわず腕といわず拳が当たるを幸いしたたかに殴り付け、後ろ足で器用に脛を蹴り上げて少しでも拘束を緩めようと決死の覚悟で抵抗しているにもかかわらず、道了はロンを抱き竦めたまま停止した機械の如くびくともしない。
 ロンの顔が充血する。
 ずっと喚き通し暴れ通しでさすがに息が上がってきたらしいが、それでも体力と気力の続く限りはと伸びた爪で容赦なく腕を引っ掻き肉を抉り、行儀悪く跳ね上げた後ろ足で死角を狙い急所の脛を痛打して脱出の隙を作ろうとする。
 酸欠の苦しみにロンの顔が紅潮し生理的な涙が目に膜を張る。
 どれだけ頑張っても道了にたちうちできない悔しさが焦燥を煽り、ロンの顔が悲痛に歪む。
 「放せよ道了、いい加減にしろよ畜生、目の前にレイジがいるのにどうして届かないんだよっ……」
 悲壮な形相でロンに罵倒されても道了の目は相変わらずレイジを見据えたまま動かない。
 僕の位置と距離からでもロンの首を押さえた腕に力が篭もるのが筋肉の隆起でわかった。
 気管を圧迫されたロンが濁った苦鳴を漏らし、酸素を欲するように仰け反り身悶える。ロンの苦悶に感応して無意識に一歩を踏み出したレイジが肌に痛い程に先鋭化した殺気を帯びる。
 惨劇の予感。
 前戯はおしまい、本番はこれからだ。
 そしてもう一人、険悪にレイジと睨み合う道了の背後にて不機嫌そうなオーラを発しているのは……
 「私を無視するな」
 サーシャ。超絶技巧のナイフ使いにして北棟トップの座に君臨する皇帝、レイジのライバルを自認する誇大妄想狂の薬物中毒者。
 何故ここにサーシャがいるのかと呆気にとられたギャラリーは顔に特大の疑問符を浮かべている。
 サーシャの登場は全く突然で予想外の事態だった。
 正しく「乱入」と呼ぶに相応しい脈絡なさで道了とレイジの対決に割り込んだサーシャは、手に馴染んだナイフにはやや劣るものの同じ飛び道具の相性の良さを発揮して的確な鞭捌きを披露した。
 風切る唸りを上げて飛来した鞭が邪悪な意志もつ蛇の如く毒牙を剥いた瞬間は、いかに鍛え抜いた動体視力をもってしても捉え切れなかった。
 サーシャに鞭。できすぎだ。
 それより何より群衆の目を釘づけにしたのは場違いを通り越して滑稽な冗談としか映らないサーシャの服装だ。
 軍服。なんで軍服?
 周縁のギャラリーは揃いも揃って顔に特大の疑問符を浮かべ遠巻きにサーシャの挙動を窺ってる。ぶっちゃけサーシャの正気を疑ってる。僕もビバリーも例外じゃなく、ナチスの軍服に身を包んで誇らしげに胸をそらすサーシャに好奇の眼差しを注いでる。 
 呆気にとられたような間抜けヅラを並べるギャラリーの最前列中央、軍服姿にそこはかとない威厳を漂わせるサーシャを眺め、おそるおそる囁く。
 「ヤクのやり過ぎでとうとうイカレちゃったわけ、サーシャ。何あのカッコ?冗談きついって。しかもナチス。古式ゆかしい悪役の代名詞のナチスだよ」
 ただでさえ丸い目を驚愕にひん剥いたビバリーに同意を仰ぐ。
 「皇帝で軍人て意味不明っスよ、ホロコーストとコルホーズは似てるけど違うっスよ」
 「なんか主旨ずれてない?」
 さりげに博識をひけらかすビバリーに鼻白んで頬を膨らます。
 気を取り直してまじまじとサーシャを見る。 
 肩に流れる清涼な銀髪が美しく冷酷な顔に後光を添える。薄氷の眼差しはどこまでも冷え冷えと驕慢さと厳格さを兼ね備える。
 世界大戦時の恐怖の象徴たるナチスの軍服が恐ろしく似合っている。似合いすぎて怖い位だ。ちょっと洒落にならないな、こりゃ。
 以前のサーシャは薬物依存の後遺症でお肌が荒れて頬はげっそり削げてお世辞にも美形とは言えない陰惨な容貌で、皇帝よか死神と呼んだほうが余程しっくりくる不吉なイメージが拭い去れなかったのに、ちょっと見ないあいだに肌は瑞々しい艶と張りを取り戻し尖りきった頬骨を脂肪が包み水分が蒸発しきってぱさつく白髪が銀雪の光沢に冴えて、骸骨とだぶる死相がすっかり払拭されていた。
 切れの長い眦に酷薄な冷光を宿し、威圧するようにあたりを睥睨してサーシャが厳かに宣言する。
 「調教再開だ」
 ああ、やっぱりイカレてる。
 「よかった、中身はサーシャのまんまだ」
 安堵の息を吐いた僕の独り言を聞きとがめてビバリーが「しっ」と唇に指を当てる。
おっと、まずい。
 皇帝サマに聞かれたら粛清されちゃう。不敬罪に問われてギロチンにかけられちゃたまらない。
 ビバリーに促され口を塞ぎ上目遣いにサーシャの様子を窺う。
 腕の延長の如く絶妙な鞭捌きで道了を牽制したサーシャはしかし、道了を通り越したその先に関心を奪われている。
 ロンを抱きすくめた道了の向こう、割れた蛍光灯の下に立ち尽くすレイジはサーシャの存在に気付いているのかいないのか、否、あんなド派手な登場で堂々口上を述べたからには当然気付いているだろうが、サーシャの方は見向きもせずただひたすらに道了を睨み付けている。
 廊下が微妙な空気に包まれる。
 「……聞こえているか、レイジ。調教再開だ」    
 サーシャがあっぱれな自制心を絞って再度宣言する。
 暴君の返答はあまりにあっさりとあっけなかった。
 「それがどうしたよ」
 サーシャの顔が紅潮する。
 軋る程に歯を食い縛るサーシャだが、ここでもまたロシアの凍土に比する心の広さを示し、自己陶酔の絶頂で大仰に腕を広げてみせる。
 「レイジ、勝手な真似をするな。まだ調教は終わっていない。お前は一時解放されたに過ぎないのだ、身の程をわきまえろ。お前が解き放たれたのは効率的に暴動を制圧するため、監獄の王の一声で愚かな群集を檻に返すためだ。役目が終わればすぐにでも所長室に連れ帰り調教を続行するてはずになっているのだ。偉大なる皇帝が寵愛するサバーカともあろうものが下賎な愚民を相手に許可なく私闘をするな。お前の体に触れていいのは私だけだ、お前は終生皇帝に組み敷かれてよがり狂う宿命なのだ」
 口上に熱がこもり言動の端々に激情が迸る。
 薄氷の目が爛々と狂気に濡れて輝きを増す。
 口角を吊り上げるようにして残忍に笑うサーシャは、言いながら興が乗ってきたのか颯爽と腕を振りかぶり音高く鞭を撓らせる。
 床で跳ねた鞭が翻り天井を舐め、風を裂く音にギャラリーがびくりと身を竦める。
 「さあ、所長がお待ちかねだ。私にはお前を連れ帰る義務がある。命令無視は即独居房入りだが、手足を縛られて糞尿まみれの床に転がされるのが気に召したなら今ここで皇帝自ら縛り上げてやる。手負いの猛獣すら叩き伏せる鞭捌きにとくと酔え」
 嗜虐的な笑みを浮かべたサーシャが恐怖を煽るように両手で鞭をしごく。
 レイジは鞭が撓る音にも無頓着に瞬きも惜しむ集中力で道了を凝視する。道了もまた左右色違いの目でレイジを見返す。
 殺意が衝突する。殺気が膨張する。
 レイジと道了、どちらが先に攻撃に出てもおかしくない。
 「さっちゃんはアホの子やなあ」
 あきれ返った声に振り向けば、ついさっき空中でとんぼを切って見張り二人を倒してのけたヨンイルが首を振ってる。
 「キレたレイジに何言うても通じへんて。今のレイジはロンロン人質にとられて頭に血ィのぼっとるさかい、いかに目の前の敵を倒してロンロン取り返すしか考えてへんのに、自分の方向いてほしいあまりにああしてビシべシ鞭打ち鳴らして『ワイの美技に酔え』て必死のアピールを……片思いは切ないなあ、報われへんなあ」
 やけに実感のこもった溜め息をつくヨンイルにサムライが渋面を作り、鍵屋崎が大真面目に異議を挟む。
 「片思いと言うが、この場合は三角関係と表現するのが適切じゃないか。否、四角関係か?」
 「~~天然の天才と愉快な仲間たちめ!」
 ……お説ごもっともだけど、緊張感に欠ける発言に思わず脱力しビバリーに寄りかかる。
 ぐんにゃり凭れ掛かった僕をビバリーが「しっかりしてくださいっスリョウさん!」と慌てて支えると同時に、大音声が廊下を駆け抜ける。
 「私を愚弄するなああああああああああああああっ!!!!」 
 攻撃を仕掛けたのはレイジでも道了でもなく、可哀想な子扱いされていたサーシャだった。
 前歯の間からシュッと呼気を吐いたサーシャが、こちらに背中を向けた道了へと鞭を飛ばす。
 延々無視され続ける屈辱に業を煮やしたサーシャは巧妙に鞭を操り道了の後頭部を狙う。
 鞭の利点はわざわざ危険を犯して距離を詰めずとも遠方から攻撃できるところだ。
 手首の返しや捻りを用いた最小限の動きで自由に遠隔操作できるのが鞭の最大の強みとサーシャは心得ている。
 サーシャの顔が勝利の喜悦に蕩け、捲れた唇の端から純白の犬歯が覗く。
 「レイジの主人はこの私だ、下賎な愚民が皇帝の犬に跨るなど反逆罪ではなまぬるい大逆罪に値する!!」
 歓呼を上げたサーシャの表情が、次の瞬間愕然と強張る。 
 道了が消えた。忽然と。
 「な……、」
 サーシャが放った鞭は道了の残像を貫通して虚空を穿つも、その時既に本人は横脇に退いていた。
 鞭を避けた。
 信じられない。
 「あいつ後頭部に目がついてんのかよ!?」
 実際後頭部に目が付いているような反応速度だった。
 視野が三百六十度あるとしか思えない。
 道了は振り返ることなく横跳びに逃れて鞭を回避、耳朶を掠めるようにして行き過ぎた鞭がサーシャの手元に返るのを待たず体ごと反転、一直線に走り出す。
 サーシャにむかって。 
 「あくまで皇帝に楯突くか不敬な反逆の徒め、ならばいいだろう、皇帝自ら憎悪を込めて処刑を成そうではないか、祖国ロシアの誇りとロマノフの血統に賭けてお前を誅すると宣言しようではないか!!」
 サーシャが狂気の哄笑を上げて鞭を引く。
 空を裂いて舞い戻った鞭が再び道了を急襲する。
 怒り狂った蛇のように乱脈な動きで床といわず壁といわず天井といわず縦横無尽に鞭がのた打ち回り鋭い威嚇音をたてるも道了の快進撃は止まらない。
 右に左に前に後ろにめまぐるしく顔を傾げ首を倒し息継ぐ間もなく飛来する鞭を紙一重で回避、かわしきれなかった鞭が肩を痛打しても蝿がとまった程度の刺激しかない徹底した無痛ぶりで猛然と走り続ける。
 人質を道連れに。
 「「ロンっ!!」」
 叫んだのはレイジか鍵屋崎か、両方か。
 道了はロンと心中するつもりだ。
 それが証拠にロンを抱く腕を緩めず更に速度を上げてサーシャに向かっていく。
 道了の腕に首を巻かれたロンが息苦しさにもがきつつ遥か後方へ腕を伸ばす。ロンが空中に伸ばした手を掴もうとレイジが血相替えて走り出す、もはや王様のプライドも余裕もなげうってロンを取り戻そうと底力を爆発させる。 
 「レイジ!!」
 道了の腕の中でロンが叫び、自ら光明を手繰りよせんと脱臼せんばかりに腕を伸ばす。
 一縷の希望にありついたロンが切実にレイジを呼ぶ、真っ直ぐに呼ぶ。 
 道了の表情がほんのわずか動く。
 「……―耳障りだ」
 眉間に不機嫌な皺が寄る。左右色違いの目が透徹した光を放つ。ロンが鞭打たれたように顔を跳ね上げる。道了がロンの耳朶に顔を寄せる。ロンの目がますます大きく見開かれる。ロンの耳朶に唇を接した道了が吐息に交えて決別を告げるー
 『漫走』
 気をつけろ。
 警告は短かった。
 次の瞬間ロンは飛んでいた。
 道了はロンを「投げた」。
 物みたいに、荷物みたいに。ロンの首にかけた腕をぐっと撓めて、腰に捻りを利かせて遠心力を加えて薙ぎ飛ばしたのだ。
 「!?な、」
 サーシャは逃げ切れなかった、避け切れなかった。
 背中から吹っ飛んできたロンと激突してもんどり打って転がった。
 錐揉み状に跳ねたサーシャが緩衝材になったおかげでロンのダメージは最小限で済んだが、ロンの自重を受け止めたサーシャは軽い脳震盪を起こして即座に起き上がれず、床に手を付いて上体を起こそうとしてがくりと肩を落とす。
 「いで、いででで……サーシャ、大丈夫かよ」
 「汚い手でさわるな無礼者め、汚らわしい雑種の血が服に付く!」
 他人の心配をしてる場合じゃないってのにサーシャと折り重なって倒れたロンはそんなことを言っている。
 重症のお人よしだ。
 末期状態、手の打ちようなし。
 心配げに顔を曇らせたロンが咄嗟にサーシャを助け起こそうとするも、底抜けにプライドの高い皇帝はこれを拒んで自力で起き上がろうとして失敗する。破片が砕ける音が不吉に響く。腕を突っ張って自重を支えるサーシャの顎先から脂汗が滴る。床に付いた手のひらからじわじわ血が滲み出す。
 「!そうか、ロンの下敷きになった時に破片が食い込んだんだ」
 よく見ればサーシャの背中一面朱に染まっている。軍服の背中に微小な破片が突き刺さり血が垂れている。道了はこれを計算してロンをぶん投げるという乱暴な手段に出たのだ。
 破片だらけの床に手を付いて虚勢を張るサーシャの胸ぐらを掴み、ロンが怒号する。
 「言ってる場合かよクソ皇帝、軍服着てるくせに皇帝名乗るな極北の勘違い野郎!相手はあの道了なんだ、池袋じゃ路上最強と恐れられた伝説の男だ、いくらロシアが誇る殺し屋だって道了相手じゃ分が悪い、道了は何でもありの喧嘩のプロだ、何の躊躇いも抵抗もなく人の骨をへし折れるイカレた殺戮人形だ!」
 皇帝の権威を吹っ飛ばす剣幕でロンに叱咤されてサーシャの顔が屈辱に歪む。きつく噛み締めた唇から血の気が引いて硝子の破片を被った銀髪がざわりとざわめく。
 縺れ合って床に伏せた二人のもとに道了が近付いてくる、
 サーシャはまだ立ち上がれない。それ程ダメージが深刻なのだ。破片だらけの床に叩き付けられた衝撃で内蔵を痛めたのか、威嚇の唸りを発してしきりと身悶えている。
 「かはっ……」
 肋骨にひびでも入ったのだろうか?
 脂汗にしとどに塗れた顔に苦悶の相が浮かぶ。
 道了はすぐそこまで迫っている。ロンが台湾語で叫ぶ。
 『逃走!!』
 逃げろ。
 「駄目だ、遅い、間に合わない!」
 力づくでサーシャを引っ立て逃げ出そうとしたロンのすぐ背後に道了が迫り、頚動脈を極めようと手をさしのべるー……
 「ロンさんーーーーーーーーーん!!?」
 ビバリーがひしと僕に抱きつき絶叫する。
 凱の断末魔にロンの断末魔が重なり視界が鮮血に染め替えられる。
 僕にはロンの首がへし折られる幻が見えた、皮一枚で繋がったロンの首がだらりぶら下がる幻覚がくっきり鮮明に脳裏を過ぎった。
 ロン。
 救いがたいお人よしでどうしようもなくうざいヤツだったけど、いなくなるような寂しいようなそうでもないような……
 「ジョジョに代わっておしおきや!!」
 ふへ?
 ビバリーと抱き合ったまま反射的に上を見る。
 弾かれたように顔を上げた僕の視界を蛍光灯を背に残像が過ぎる。
 伸びきったゴムが慣性で戻るような身ごなしで自らを高みに打ち上げたヨンイルが、上着の裾をはためかせ体軸を捻る。
 「俺のスタンドを見さらせっ!」
 ヨンイルが足を一閃、裂帛の気合が迸る。
 ゴーグルに隠れた双眸が闘志に燃え立つ。
 ロンとサーシャの窮地に呼ばれずとびでた任侠心厚い道化は、道了めがけて落下中の不安定な体勢から旋回で加速させた蹴りを放ち数呼吸を稼ぐ。
 「今やサムライ、レイジ!」
 「御意」
 肩を蹴られ重心が傾いだ一瞬の隙に付け入り、いつのまにか間合いに踏み込んだサムライが心頭滅却して木刀を振りぬく。
 「本来この使い方は本意ではない。武士の信念と剣の道に背くが、火急の時故に仕方ない」
 猛禽の如く鋭い呼気と共に、扇を広げるように水際立った素振りで疾風を巻いて足元を一掃する。
 床すれすれを薙いだ木刀の風圧が粉塵を舞い上げて、的確な蹴りで前傾した道了の動きを止める。
 その間隙を縫って反撃に転じたのは非力な天才と怒れる暴君だ。
 息の合った連携プレイで道了の足止めに先んじたヨンイルとサムライに感謝を述べるのは後回しに、獲物に狙い定めた豹のごとく空気抵抗を最小限に抑えて頭を伏せた体勢で疾駆し、胸元の十字架を掴んでレイジが祈る。
 「『彼は虐げと暴虐とから彼らの命を贖いだし、彼らの血は彼の目に尊ばれましょう』……間に合え神様!」
 隻眼に痛切な光がともる。ただひたすらに相棒の無事を祈り、無駄を削り落とされた俊敏な身ごなしで道了の背を射止めるー
 十字架に縋る手に力が篭もる。
 切なる祈りに応じたのは、非力な天才だ。
 「地獄におちろ、レイジ!!」
 何?
 ビバリーと顔を見合す。ビバリーの顔に疑問符が浮かぶ。
 サムライの肩を掴んで身を乗り出した鍵屋崎が、眼鏡の奥の目に鋭い光を過ぎらす。 
 突如鍵屋崎に罵倒されたレイジがぽかんとする。
 ほんの一刹那、鍵屋崎と目が合う。
 両者の思惑を秘めた視線が交錯する。
 「天国に通じる抜け道は地獄だ、そうすれば希望に至る!」
 レイジの希望とはロンをさす。ロンに至る最短の抜け道ってことは―……

 脳裏で直感が閃く。
 地獄はどこにある?「下」にある。 

 「!なるほど、そういうことかよっ」
 レイジが加速の勢いのままに会心の笑みを上らせ床に手を付く。
 しなやかな長身が瞬時に折り畳まれて前転、仁王立ちする道了の股下をすり抜ける。
 僕は見た、道了の顔が強張る瞬間を。
 驚愕の相で固まる道了の足元で上体を立てたレイジが、体のあちこちに突き刺さった破片を抜きもせず歓喜の笑みを湛える。
 「来いよロン、王様の胸の中へ!」
 「行くか馬鹿、てめえなんざ地獄におちろ!!」
 言葉とは裏腹にロンはレイジの腕に倒れ込んでいた。
 返り血に塗れた顔が安堵に溶け崩れて更に幼くなる。
 ヨンイルが口笛を吹きサムライが顎を引き鍵屋崎が自分の助力あってこそと偉そうに頷く。
 道了に気付かれるのを避けて暗喩を使ったのは天才の咄嗟のひらめきだ。聖書に親しんだレイジはすぐさま地獄と下とを関連付けて正解に至ったわけだ。
 「さんざん心配かけやがって……」
 「ごめん。悪かったよ」
 いつになく素直にレイジが謝罪し、ロンを抱きしめて頬ずりする。
 互いの体温を貪りあうような抱擁。
 「ごめんですむかよ。所長に連れてかれてどんだけ心配したと思ってんだ。自分を粗末にすんなってあんだけ言ったのに、俺を庇って罪を被られてもこっちはありがた迷惑でしかないってのに、お前は本当に……本当に、最強のマゾ野郎だ!!そんなに鞭でしばかれて犬に掘られて所長の慰み者にされるのが好きならとっとと所長のところに行っちまえ二度と帰ってくんなよ、猛豹注意の表札付きの檻でぐでーと伸びてろよ、んで内蔵ぬかれて剥製にされちまえよ!!サーシャと遊ぶのが楽しくて俺のことなんざ忘れてた癖に畜生相棒甲斐のねえ相棒だぜ、お前なんか、お前なんかっ!!」
 「大好きだろ」
 「悪いかよ!?」
 売り言葉に買い言葉で逆上し、真っ赤に充血した目でレイジを睨む。レイジの胸ぐら掴んで引き寄せたロンの顔から拭い去るように表情が消失、鼻先にぶら下がる十字架を震える手でおそるおそる包む。
 壊れ物を扱うように不器用に思いやり深い手つきで十字架に触れ、ロンが俯く。
 「……はは。曲がっちまった、マリアの十字架。こりゃもう駄目だな、手の施しようねーよ。犬に小便かけられて傷だらけにされても未練たらしく持ち歩いてたけど、そろそろ俺も神様離れ……もとい、母親離れすべきかなって。ほら、マザコンは嫌われんだろ?母親と恋人どっちが大事って迫られてどっちもなんて口が裂けても言えねーし……」
 軽い口調でまぜっかえすレイジだが、苦みが勝った笑顔は痛々しいかぎりでありありと虚勢が窺える。
 廊下に重苦しい沈黙が落ちる。
 ヨンイルもサムライも鍵屋崎も息を詰めて二人を見守っている。
 冷えた十字架に体温を通わそうと手に包み、ロンが唐突に呟く。
 「直るよ」
 願望ではなく、確信を込めて。
 「……どうやって」
 「直すよ。気合で。信じろよ。俺が直るって言ったら直るし直すって言ったら絶対直すんだよ」
 手に鎖を絡めて十字架を額に当て、たどたどしく一生懸命に続ける。
 「ほら、こんなに綺麗に輝いてるじゃんか。ちょっと先っぽが曲がったくらいでこの世の終わりみてえなシケたツラすんなよ。つまりさ、チンポと同じだよ。ちょっと皮被ってようが先っぽ曲がってようが穴に入りゃそれでいいって…このたとえはあんまりか。えーとちょっと待て、うまいたとえが思いつかねー……とにかくさ」
 あたふたと取り乱しつつも真っ直ぐにレイジを見詰め、清涼な音零す鎖をすくい上げて首に掛け直してやる。
 ロンが不敵に微笑む。
 「十字架捻じ曲がったくらいでお前がマリアを想う気持ちが死ぬかってんだ。心を捻じ曲げるのは黄金ひねるよかむずかしいぜ」
 十字架を胸に垂らしたレイジがことんとロンに凭れ掛かる。ロンが自分より遥かに体格のいいレイジを不器用に抱きしめ返し、足りない腕を背中に回してさすってやる。
 互いに凭れ掛かったレイジとロンに息も絶え絶えな呪詛が絡み付く。
 「私を無視するな……」
 「あ、サーシャ。元気?」
 床に這い蹲ったサーシャが未練たらたらにレイジに手を伸ばすも、あっけらかんと向き直ったレイジの言葉にその顔が凍る。
 「下賎な雑種の分際で主を無視して乳繰り合うとは言語道断だ、即刻離れろ。身の程を知れ野良め、お前が懐に潜り込んでいるその男は皇帝の寵愛を一身に受けるサバーカだぞ、陵虐の鞭に怯える飼い犬だぞ、ロマノフ王家専属の宮廷男娼だぞ。毛並みのみすぼらしい混血の雑種の野良が我がサバーカと抱擁するなど万死に値する」 
 「犬じゃねーし別に怯えてねーしそもそも宮廷男娼て……ツッコミどころ満載でどっから突っ込んだらいいかわかんねーよ」
 あきれ返ったレイジの眼差しを受け、体に突き刺さった硝子の棘を払ったサーシャが、再び鞭を手にとり闘志を燃やす。
 硝子片を踏み砕いて仁王立ちするサーシャと道了に挟まれて、さりげなくロンを庇ったレイジが寛大に微笑む。
 暴君ではない、王様の笑顔。
 「来いよ。皇帝も人形も二人同時に遊んでやる。ロンさえいりゃあ俺は無敵だ」
 服の裾から太股をちらつかせるロンを人目にふれさせないよう背に庇いつつ、サーシャと道了とを油断なく警戒するレイジのもとに、悠々たる足取りで道化とサムライがやってくる。
 「手伝うで、レイジ。さすがに一人で二人はしんどいやろ」
 頭の後ろで手を組んだヨンイルが朗らかに笑う。
 「同上、助太刀いたす」  
 サムライがいつでも振り抜けるように腰だめに木刀を構え、猛禽の眼光を帯びた双眸であたりを睥睨する。
 背中合わせに共闘の構えをとる三人を挟み、緊迫の重圧を感じる中でサーシャと道了が牽制の視線を交わす。  
 「勝負の行方がわかんなくなってきたぞ?」
 舌なめずりする僕の隣、ひとり違う方向を見ていたビバリーがあっと叫ぶ。
 「リョウさんあれ、あれ……」
 廊下にどよめきが広がる。野次馬が道を空ける。レイジ登場時と同じ現象だが、もっと規模がでかい。
 嫌な予感。
 「諸君、静粛に。この有り様は何だね?家畜の反乱には徹底した厳罰で臨むのが私の信条だが、覚悟はできているかね」
 爬虫類めいて陰湿な細面で憂わしげに廊下の惨状を見渡し、人ごみを退けて現れた所長がかぶりを振る。
 「所長だ」
 「所長だ」
 「後ろに安田もいるぞ。今日は特に顔色悪いな。今にもぶっ倒れちまいそうじゃんか」
 「俺たちをつかまえにきたのかよ」
 「まさかここにいる全員独居房送りかよ?」
 「いやだぜそんなの、逃げるが勝ちだ!」
 動揺が伝染し恐慌に陥った囚人が先を競って逃げ出し、廊下は再び混乱を極める。
 殺気立った喧騒に沸き返る廊下を一通り見渡し、東京プリズンの最高権力者は苦々しく唾棄する。
 「わざわざ私が赴くまでもないとレイジを向かわせたのは失敗だったか。東京プリズンの囚人トップとして実力を知られる君ならば、その類まれなるカリスマ性でたちどころに暴動を制圧せしめると楽観していたが……」
 辟易したように眼鏡の奥の目を細めた所長が凍り付く。
 廊下の片隅、房の手前に横たわる黒い塊に蝿がたかりはじめている。
 不衛生な床に横たわる肉塊に目を留めた所長の表情が疑問から驚愕へと移り変わり、その正体を見極めるに従い顎間接が外れる程に口が開かれる。 
 喉の奥が覗けるほどに開かれた口から、狂ったように踊る舌が覗く。
 「は、ば、は、は、ははははははははばばばばははははばばばはは」
 ところどころ赤黒く潰れた肉を露出した黒い塊にはよく見れば耳があり尻尾があり、何より確かな証拠に高価な首輪を嵌めていた。
 所長の愛犬の首輪を―――

 狭心症の発作のように体全体を不自然に痙攣させ、
 自制を失った舌を涎の糸引き突っ張ってぜいぜいと間延びした喘鳴を漏らし、
 極限まで剥いた目に絶望を塗りこめた毛細血管を浮かせ、
 最愛の伴侶を最悪の形で失った孤独な中年男は世界を呪う絶叫を放つ。
 「はるうううううううううううううううううううううううううううううううううゥううううううううう!!」
 
 予測不能の惨劇に、所長の精神は崩壊した。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050408200325 | 編集

 「はるうううううううううううううううううううううううううううううううううゥううううううううう!!」
 血を吐くような絶叫が喉を迸る。
 失意の所長が膝から崩れ落ちる。
 「ハルよ!!ハルよ!!青天の霹靂よ!!」
 愛犬を失ったショックで心神喪失状態に陥った所長が両手を天に翳して身悶えし、虚ろな眼差しを足元に落とす。
 ハルは何も言わない。もう吠えない。
 震える手を伸ばして肉塊をひっくり返す。濡れた音をたて裏返った肉塊に生前のハルの面影をさがす。しとどに血を吸った黒い毛皮をいとおしむように撫でさすりかき抱く。
 いかに所長といえど一目でこの肉塊をハルと見分けるのは困難だ。
 根拠は首輪だ。
 肉塊のくびれに巻かれた首輪は、生前ハルがしていたものと同じだった。
 所長が顔に爪を立てる。
 爪の圧力でプツリと皮が弾け大粒の血が盛り上がる。 
 呆然と見開いた目に毛細血管と絶望を映し、体を激しく戦慄かせ、突如愛犬に訪れた悲劇を嘆く。
 「ああああああああ、何故、何故こんなことに?可哀想なハルよ、お前が一体何をした。私の良き伴侶として極東砂漠のはてに赴き夜毎孤独を癒してくれた心優しいお前が何故死なねばならない、無残な屍を晒さねばならない?私は許さない、お前をミンチにした犯人を決して許さずに報復を誓うと約束する、私から人生の伴侶を奪った犯人に情け容赦ない制裁を下すと断言する!!」
 所長が血涙を絞る。眼鏡の奥の双眸から哀悼の涙が滴り頬を濡らす。
 「ハルよ、私の授乳で育ったハルよ、私の乳首を吸って大きくなった愛おしい子!私のミルクを飲んで大きくなった愛おしい子!賢く利口で決して主人以外の人間に尾を振らない誇り高いお前には可愛い弟の名をとって『ハル』と名付けた、人のハルの代わりに犬のハルが常に傍らにあったらばこそ私は砂漠に飛ばされてからも希望を失わずにこれたのにそれなのに!!」
 所長が激しく首を振り嗚咽交じりに掠れた声で絶叫する。
 所長が首を振るたび髪が乱れて残像が泳ぐ。人間の尊厳をかなぐり捨てハルの亡骸に縋り付く所長の姿は狂気に侵されて半径5メートル以内に近付く者は誰もいない。
 「ハルは私のすべてだった。伴侶であり友であり愛人であり愛犬だった」
 口角に泡を噴いて所長が叫び、ハルの亡骸をひしと抱いたまま血走った目であたりを睥睨する。
 「ハルを殺した犯人に告ぐ。即刻前に出ろ!所長命令だ!」
 名乗り出る者はいない。このタイミングで名乗り出たら命がないとわかっているのだ。
 「誰だ、ハルを殺したのは誰だ、お前らの中にいるのだろう犯人はなら即刻私の前に突き出せ罰を受けさせろ拷問の末に死刑にしてくれる!!知能の低い家畜の分際で賢く可愛いハルを血祭りに上げた代償は高くつくぞ、お前らの命より高くつくぞ、犯人が名乗りでぬなら今ここにいる全員を死ぬまで四肢を縛り独居房に放り込んで糞尿塗れの刑に処す!!」
 一方的な決定に囚人がどよめき不安げに顔を見合すも名乗りでる者はいない。場に動揺が広がる。僕とサムライは互いに寄り添って事態の推移を見守っている。そばにはヨンイルもいる。ゴーグル奥の目を丸くして「あちゃー、フユキご乱心や」とうそぶく道化には緊張の色がない。
 そうこうしているあいだにどよめきは大きくなり、業を煮やした所長が手当たり次第に囚人に掴みかかる。
 「お前が、お前が殺したのか、それともお前か!?」
 手近な囚人から胸ぐら掴み引き寄せ罵倒する。
 熾烈な追及に疑われた囚人が戦々恐々首を振れば、怒り任せに突き飛ばし蹴倒し床に這い蹲らせていく。
 「乱心」。
 確かにその通りだ、ヨンイルの言ったことは皮肉にも的を射ている。一片残らず理性が蒸発したとしか思えない乱心ぶりを露呈し、遠巻きに事態を窺っていた野次馬の渦中に飛び込んで、片っ端から囚人を捕まえ腕の一振りで薙ぎ捨てていく。
 廊下は大混乱に陥る。
 「冗談じゃねえ、自分がやってもねえことで疑われちゃたまんねーよ!」
 「逃げるが勝ちだ!」
 「ペニスを犬に捧げた獣姦野郎の戯言に付き合ってらんねーよ!」
 巻き添えを恐れた群集が堰を切ったように逃げ出し無秩序に入り乱れる。
 「直!」
 サムライが咄嗟に僕を抱き寄せ統制を欠いて逃げ惑う群集から庇う。僕を庇うようにのしかかるサムライの重みとぬくもりと息遣いを感じる。サムライの肩に誰かが激突し肘が衝突する。衝撃と激痛に顔を顰めるサムライの懐で身を竦ませ、せめて眼鏡が外れないよう片手で押さえる。
 ロンとレイジ、そしてヨンイルは?
 「ロン、レイジ、ヨンイル、無事か!?」
 「おう、ぴんぴんしてるよ!」
 逃げ惑う群集に押し流されぬよう抗いながらあたりを見回せば、壁際に避難したレイジがちょうど僕がサムライにされているようにロンを抱きしめていた。レイジの懐に守られたロンは寒がりの猫のように縮こまっている。必死な形相で何かを叫んでいるが生憎この騒ぎでは聞こえない。レイジとロンの無事を確認、安堵の息を吐くも束の間でヨンイルの姿を求めて視線を巡らす。
 「ヨンイルっ……」
 いた。
 ヨンイルはなんと天井と壁のはざまに張り付いていた。
 「貴様、手足に吸盤があるのか!?」
 「スパイダーマンや」
 天井と壁が交わる三角の隙間を背に、両手両足を突っ張って自重を支えたヨンイルが空中に浮かんでいる。
 呆れ返った僕の耳に、喧騒の中で激しく言い争う声が届く。
 「お気を確かに、所長!」
 安田の声。
 無軌道に暴走する囚人の流れに逆らうようにサムライの腕の中で伸び上がり前方を見る。
 いた。安田が身を挺して所長を止めている。
 一分の隙なくオールバックに纏めた髪を跡形なく振り乱し、背広を揉みくちゃにして所長にしがみつく。
 安田の拘束を解こうと手足を振り回し、怒気を孕んで膨らんだ顔を真っ赤に充血させた所長に本能的な恐怖を感じる。
 「囚人の模範となるべき所長がこのような醜態を露呈してどうします、トップの威厳にかかわります、どうか自重を……」
 「副所長の分際で私に命令する気か、無能な犬めっ!」
 鈍い音がした。
 所長が闇雲に振り回した拳が安田の顔に当たったのだ。
 その瞬間、僕はサムライの腕を払って駆け出していた。
 「直っ!?」
 怒りで視界が真っ赤に燃える。安田がよろめく。手で覆われた下から鼻血が垂れる。
 安田が殴られた。
 あまりにも理不尽だ。
 安田はただ所長の暴走を止めようとしただけだ、安田が殴られる理由などどこにもない!怒りに駆られて床を蹴る僕の視線の先、ハンカチをだす間も惜しんで手の甲で鼻血を拭いた安田がきっと顔を上げ、眼鏡越しの双眸に強固な決意と高潔な意志を宿し、敢然と所長に立ち向かっていく。
 「所長、貴方は東京少年刑務所のトップだ。東京少年刑務所の秩序を司るのが貴方の職務だ。それが本人自ら秩序を壊すなど本末転倒だ、冷静になるのは貴方のほうだ!ハルを殺した犯人は日を改めて捜せばいい、この場で暴れても更なる混乱を招くだけだと何故わからない!?」
 普段の冷静沈着な物腰をかなぐり捨て安田が感情的に叫ぶ。 
 しつこく追いすがる安田を振り払おうと所長が怒号する。
 「私は君の助言を受け入れレイジおよびヨンイルを解放した、その結果がこれだ、このザマだ!レイジ程の実力者ならば王の一声で暴動をおさめられると、看守を出動させるよりそちらのほうがより効率的だと君が強硬に主張したからやむなく尋問を中断してレイジを行かせたのだ、その結果がこれだ、ハルは返事がないただの屍になってしまった!!」
 憑かれたように捲くし立てた所長がふいに硬直、焦点の合わない表情で虚空を仰ぐ。
 「……犯人がわかったぞ」
 胸騒ぎ。
 安田に腕を掴まれたまま、逃げ惑う群集の渦中に立ち竦んだ所長が緩やかに顔を巡らす。眼鏡の向こうの双眸が狂気に濡れる。
 陰険に濡れ光る双眸が壁際のロンとレイジを捉える。
 表情が苦渋に歪み、皺の裂け目から激烈な憤怒が迸る。
 内側で殺意が沸騰し、噛み締めた歯の間から濁った呪詛が漏れる。
 「Rageよ、これが貴様の復讐か」
 まずい。
 その一言で所長がレイジを犯人と決め付けたと直感、間に合えと一心に念じて速度を上げる。
 錯乱した所長が何をしでかすか全く予想がつかず、靴底で床を蹴るのに合わせて恐怖が加速する。
 精神の安定を欠いた所長が抑揚なく繰り返す。
 「私の調教を逆恨みしてハルに嬲り殺したのは君かレイジ、貴様がハルを殺したのか」
 安田を振り払い大股に歩き出した所長に「やめろ」と呼びかけるも立ち止まる気配はない。もんどり打って床に転がった安田が所長の足に縋り付く。しかし所長は止まらない。
 壁際にへたり込むロンとレイジのもとへと威圧的に靴音響かせて歩み寄り、手前で立ち止まる。
 「俺じゃねーよ。俺が来た時にはもうミンチになってたんだって」
 「レイジが言う事は本当だ。だって俺この目で見たんだ、ハルを殺した犯人はたお……」
 レイジが釈明する。ロンもまたレイジを庇う。
 互いを庇い合うレイジとロンを冷ややかに見下した所長がおもむろに手を伸ばし、ロンの首を絞める。ロンが痙攣する。レイジが目を見開く。所長が手に力を込める。
 ロンの首に手をかけ徐徐に締め上げつつ、どす黒い狂気に隈取られた陰惨な形相をその鼻先に突き出す。
 「ハルの仇だ。愛するものを奪われた仕返しに、お前の愛するものを奪う」
 酸欠に苦しみもがくロンの首を締め上げる所長を体当たりで組み伏せようと僕と安田とレイジが同時に動くー

 一陣の風が吹く。
 
 『打死』
 機械じみて平板な声……殺戮人形の宣告。

 ロンの首を絞める所長の背後に均整取れた影が着地。
 所長の首の横へ、首の骨をへし折る威力と勢いで水平に叩き込まれた足の甲。
 肉眼では捉え切れぬ速さで叩き込まれた蹴りの威力は凄まじく、ロンから手を放してよろめいた所長の顔面に拳が入りしぐしゃり肉と骨が砕ける音とともに鼻が陥没する。所長が膨大な量の鼻血を撒き散らし白目を剥いて失神、手足を不規則に痙攣させながら脳に打撃を与える危険な角度で倒れこむ。
 「くっ……」
 安田も続けて気を失う。
 「安田、大丈夫か安田!?」
 安田の脈をとり呼吸を確かめる。大丈夫、ちゃんと息がある。精神的ショックならび疲労が限界に達して気を失ったものらしい。
 「直っ」
 名を呼びながらサムライが駆けてくる。安田の傍らにへたり込んだ僕は、サムライに答えようと振り向き……
 「あとは僕に任せといて」
 え?
 正面を向く。いつ現れたものか、清潔な白衣を纏った見知らぬ男が目の前にいる。
 まず目を引くのは鳶色の髪。天然か染めているのかはわからない。
 くたりと芯のない髪を真ん中で分けて耳の後ろに流した軽薄な髪形は若作りな印象を抱かせるが実際は安田とそう変わらない年齢だろう。
 突如現れた白衣の男は、半眼で誰何の眼差しを注ぐ僕をやんわり無視し、安田の脇に片膝付いて慣れた手つきで脈をとる。
 予断を許さぬ真剣な顔にこちらも気を呑まれる。
 「貴様何者だ?」
 眠りを妨げぬよう細心の注意を払って安田を抱き上げる。
 両腕に安田を抱いた男が誠実な物腰で僕に対応する。
 「後で説明する。彼は僕が責任もって処置する。もうすぐ看守が駆けつけてくる、だからその前に……」
 男の言葉を遮ったのは、ロンの呆然とした呟き。
 「道了……」
 壁に背中を寄せたロンがひどく苦労して生唾を嚥下する。
 恐怖に囚われたロンの眼前に仁王立つのは……
 假面。
 假面の足元には意識を失った所長が横たわる。所長の横には赤黒い肉塊と化したハルがいる。
 抱き合うようにして倒れ伏せた一人と一匹を邪魔だといわんばかりに蹴りどかす男へと、満場の視線が集中する。
 「道了が、所長を殺した?」
 中の一人が囁く。
 「所長を一撃でのしちまいやがった」
 「信じらんねえ、強すぎる」
 「道了は俺たちを助けてくれたんだ、とち狂った所長に雁首そろえて独居房にぶちこまれかけた俺らを助けてくれたんだ」
 「台湾人中国人の区別もねえ、道了こそ俺たちの恩人、砂漠の地獄に光明をもたらす救世主だ!!」
 中国人台湾人、人種の区別なくこの場に居合わせた囚人が口々に道了を称賛し畏怖と憧憬を込めて仰ぎ見る。熱っぽく潤んだ眼差しで仰ぎ見られた道了はといえば、自らの暴威にひれ伏す大衆を一顧だにせず、理解者など最初から求めぬ孤高の威厳を保つ。
 圧倒的なカリスマ性とそれに伴う実力、暴力の快楽に溺れた人間を惹きつけてやまぬ危険な魅力。
 絶大なる負のカリスマ、道了。
 僕を支え起こしたサムライの腕を掴み、道了を見るよう促す。
 「……見ろ、サムライ。さっきまで道了を罵っていた連中が手のひらを返すように……」
 産毛が逆立つ感覚。空気が帯電したように不穏にさざめく。今まさに何かが起きようとしている、起ころうとしている。
 道了は所長を倒した。
 その事実は歓喜と熱狂をもって迎えられ、指導者を欠いた暴徒が入り乱れる阿鼻叫喚の惨状を狂気の饗宴へと塗り替えていく。
 「あんちゃん、あいつ……ひょっとしたら凱さんよか強いかも」
 「お前もそう思うか、弟よ」
 残虐兄弟が小声で囁き交わす。
 「なあ、凱さんやめてアイツに寝返ったほうがいいんじゃねーか?」
 「売国奴め、中国人の誇りを捨てるてのか」
 「はっ、バカ言えよ。ここは弱肉強食の掟がまかりとおる東京プリズンだぜ?強さがすべての刑務所で他に望むことがあるってのか?」
 別の囚人が喧々囂々言い争う。
 廊下に熱狂が渦巻く。道了に魅了された大衆が凱を廃して次代のトップを迎えようと色めきだつ。
 賛否両論激しく議論が交わされる廊下の片隅にて、壁に背中を預けてへたり込んだロンが身を乗り出し吠える。
 「まて、よ。なんだよ、それ。お前ら凱の子分だろ、大怪我した凱を見捨てて道了につくってのか、あんまりだろ畜生ども!?凱は、凱はお前らにいいとこ見せようって体張って戦って道了にぶちのめされたってのにお前らは親分見捨てて憎い台湾人につくのかよ、んだよそれ、国の誇りはどこにやったよ!?今までさんざん俺のこと血の汚れた半々て馬鹿にしたくせに、今更……」
 怒りに紅潮したロンの顔が悔しげに歪む。
 「道了が東棟の新しいボスだなんて絶対認めねえ、梅花とお袋殺した外道が凱に代わるボスになるなんざぜってえ認めねえ、お前に比べりゃ下品で下劣で挨拶代わりにケツ揉む凱のがずっとマシだ、どうしようもねえ親馬鹿で娘の写真皺くちゃになるまで持ち歩いて暇さえありゃ見返して幸せ祈る凱のがよっぽど人間らしくて好きだよ俺は!!」
 目尻に朱を刷いたロンが我を忘れて食って掛かるさまに道了は悠然と目を細める。
 「……反逆者め」
 毒気が滲んだ笑顔でレイジが吐き捨てる。
 道了は無言。
 王の御世と凱の地位を脅かす反逆者と罵られても淡白な表情を変えず、優雅に体ごと振り返り、醒め切った目で熱狂に沸く観衆を眺める。
 妖しい光を帯びた金と銀の双眸であたりを睥睨し、道了はうっそりと口を開く。
 「俺は假面。ロンを取り戻しに此処へきた」
 よく通る声が朗々と響き渡る。騒然と賑わう廊下が道了の一声で静寂に包まれる。
 静寂に浸るように肉の薄い瞼を閉ざし、己の内なる暗闇に回帰する。
 蛍光灯の破片が散乱する廊下の中央にて、冷徹な光を放つ双眸を薄っすらと開き、在るがままに在る「假面」が真理を説く。
 「味方になるも敵になるもお前たちの自由だ。俺は敵には容赦しない。だがしかし秩序なき混沌は本意ではない。お前たちが従うならば危害は加えない。俺は犬を殺した。所長を殺した。敵対するものにはこれからも容赦なく鉄槌を下していく、何故ならそれが俺の信条だからだ。何故なら俺はこれまでそうやって生きてきたからだ。お前らが反乱を起こすならば全力をもって殲滅する、そして俺は………」
 ふいに語尾が途切れ、闇をも貫く金と銀の残光を曳いた目がレイジを射止める。
 あたりに冷気が充満する。
 背骨に氷柱をさしこまれたような戦慄が襲う。
 僕とサムライが互いに凭れ掛かり、壁に張り付いたヨンイルが身軽に着地し、安田を抱き上げた白衣の男が不安げに顔を曇らす。 
 ロンを庇うように前に出たレイジを見下し、道了は言う。
 「いずれ、王を殺す」
 予言じみた宣戦布告に応えたのは、地鳴りめいた怒号と歓声。
 廊下を揺るがすような盛大な歓呼は、凱に代わる新たなトップとして道了を迎え入れた証。
 東京プリズンでは強さがすべて。強いものこそが正しい。強さこそ絶対。無力は罪。無力は絶対悪。
 そして僕は思いだす、収監当初から今日に至るまでの様々な出来事を。
 リュウホウが首を吊ったのは彼が弱いから、僕が売春班に送り込まれたのは僕自身が弱いから、タジマや凱に僕とロンが執拗に付け狙われたのは僕らが弱いから、どうしようもなく弱いからー……
 「しっかりしろ、直!」
 サムライの声が、遠い。
 「これからは假面の時代だ、假面についていきさえすりゃ安泰だ、これからは凱さんの代わりに假面が守ってくれんだからよ!」
 「台湾人だろうが中国人だろうが構うもんか、いちばん強いやつが天下を仕切るのが道理ってもんだ」
 「どうする、あんちゃん」
 「決まってんだろ、弟よ。寝返るのさ。沈みかけた船にいつまでも乗り込んでんのは馬鹿らしい。俺たち兄弟ふたり一緒ならトップが代わろうが今までどおりやっていけるさ。俺がいてお前がいて女を刻む彫刻刀がありゃ他に何もいらねえ、俺たち残虐兄弟一心同体運命共同体さ」
 周囲の喧騒が遠のく。
 眩暈に襲われてくずおれた僕をサムライが助け起こす。 
 サムライの腕に凭れて上体を起こした僕は、ロンを挟んで対峙する道了とレイジを捉える。
 轟々と殺気を孕んだ喧騒が渦巻く中、右目の傷痕を前髪に隠したレイジが薄っすらと微笑む。
 暴君と王とが兼ねあって血の匂いがかおる残忍な笑顔。
 『……You are Genocide doll.』 
 
 革命の夜明けだ。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050407161401 | 編集

 君臨すれども統治せず。
 思えばレイジの治世を表現するのにこれほど相応しい言葉もない。
 良くいえば自由人悪くいえば自分勝手、自分が興味ある事(おもにロン)以外はどうでもいいレイジは東棟の連中をこれまで結構好き勝手に遊ばせていた。
 だからまあレイジのテキトーさとだらけた雰囲気が性に合う連中にはそこそこ人気があったんだけど当然人望はかけらもなくて、それでも辛うじて均衡が保たれていたのはやっぱりレイジが有象無象を百馬身引き離して圧倒的に強かったからだ。
 レイジをライバル視してことあるごとにロンにちょっかいかけてた凱だって表立って反抗できなかったのがその証拠。だれもがレイジを恐れていた、びびっていた。いつもへらへら笑ってる尻軽レイジを気に食わないヤツも飯粒とばしてガハガハ馬鹿笑いする凱を気に食わないヤツも大勢いたけど本心を秘めて追従していたのは和平の均衡が崩れて抗争が勃発するのをおそれていたからだ。
 ひとたび抗争が起きれば血が流れる。
 暴君化したレイジを止められるのものは誰もいない、レイジの相棒を自認するロンだっていざ暴君が覚醒したら抑止力になるかわかんないのだ。
 均衡を崩したのは道了だった。
 道了は実にあっさりと地雷を踏んだ。
 ロンという地雷を。
 道了。
 道了について僕が知ってることは少ない。
 東京プリズン一の情報屋にして事情通を自称する僕でさえ通り一辺のことっきゃ知らないのだ。
 道了にはそれだけ謎が多い。
 あの馬鹿げた怪力の秘密も徹底した無感情と無表情の内に隠された生い立ちも僕は知らない、そもそも東京プリズンに来た理由もはっきり判らない。
 本人は「ロンを取り返しにきた」とか言ってるけどまがりなりにもここは刑務所、更正不可能の烙印を押された犯罪者が送り込まれる砂漠の最果ての牢獄。
 東京プリズンに入る最低条件。
 五人以上殺したもの、十人以上に下半身不随などの半永久的な傷害を負わせたもの、十五人以上をレイプしたもの。
 道了もこのうちどれかに当てはまるはずだ。
 傷害か暴行か強姦か殺人かその全部?
 道了ならどれもありえると思う反面どれもありえないように思え今いち確信がもてない。
 道了の収監理由は台湾人以外には完全に伏せられて看守を篭絡して聞き出そうにも時間がかかる。
 道了に関してだけ看守は何故か異常に口が固く食いつきが悪いのだ。
 現時点で僕が道了について知ってること。
 かつて都下最大スラム池袋を縄張りにした最凶チーム「月天心」の首魁。
 冷酷無比で残虐非道、能面じみた無表情で容赦なく敵を撲殺するさまから台湾語で仮面を意味する「假面」の異名で呼ばれた。
 新宿を根城にする中国系チームとの抗争に敗れて組織が壊滅してからはどこで何をしてたか不明で、女に匿ってもらってたとか地下に潜っていたとか海外に渡っていたとか真偽の定かじゃない怪しげな噂が流布してる。
 生い立ちは謎に包まれている。
 月天心初期メンバーには幼馴染も数人含まれていたらしいがその幼馴染は抗争の犠牲となり全員死亡してる。肉親の有無はわからない。いてもおそらく意味がない。
 血の通わぬ殺戮人形と化した道了が親子の情に翻弄されるとはどうしても思えない。
 道了は真実孤高のカリスマなのだ。
 道了が東京プリズンに来た目的、それはハッキリしてる。ロンを取り戻しに来たと大観衆の前で本人が明言してる。
 道了は何故だがロンに執着してる、異常に執着してる。
 憎き中国人との混血でありながら同じチームに属し、月天心壊滅のきっかけとなった先の抗争の生き残りたるロンに歪んだ独占欲を抱いてる。
 ロンにしてみりゃいい迷惑、ロンにとって道了の存在は過去から蘇った悪夢以外のなにものでもないのだから。
 「つまり道了は超熱烈ストーカーってわけね。ここまではおわかり、ビバリーくん」
 頭の後ろで手を組んで隣を歩くビバリーにふっかける。
 ビバリーが首を傾げる。
 素直な反応ににんまり微笑んで補足する。
 「人は見かけによらないもの、クールな無表情決め込んでる道了だって内側には熱く激しい心を隠し持ってるのさ。レイジに嫉妬の炎めらめらでロン独占宣言しちゃうくらいだもんね。妬けるねーアツイアツイ」
 顔の前でひらひら手を振り扇ぐまねをしてみせる。ビバリーがしかつめらしく腕を組んで唸る。
 「すなわちロンさんはモテモテ?」
 「イエス・サー」
 ポケットに手を突っ込んで軽く頷く。
 ビバリーが鼻面に皺を寄せて不快感を表明する。 

 殺戮人形と暴君の邂逅から一週間が過ぎた。

 殺戮人形が下した宣言……逆らう者には鉄槌を下し従う者は守ってやるぞという宣言は影響力絶大で、その場で道了に寝返るものが続出した。
 その後も道了に寝返るものは後を絶たず、凱が入院中のたった一週間で東棟の勢力図はすっかり様変わりしてしまった。
 内分けは道了につくもの六割、凱派三割、レイジ一割。僕とビバリーはどっちつかずの中立派。
 将来を視野に入れるなら即断は禁物、誰につくのがいちばん得かじっくり見定めてから決めるつもり。まあもともと僕もビバリーもグループに属さず好き勝手に動いてたから今のままあっちへふらふらこっちへふらふらも悪くない。
 「所詮こうもりだしね、僕」
 「?何か言いましたかリョウさん」
 「何でもない。あっ」
 不思議な顔のビバリーをよそに立ち止まる。
 僕らは今中央棟にいる。
 目的地は医務室。一週間前にやってきた噂のカウンセラーのお顔を拝見にちょっくらお出かけしたんだけど、その途中でばったりいけない現場に出くわした。 
 「見なよ、あれ」
 前方に顎をしゃくる。ビバリーが身を乗り出す。
 廊下の前方にガタイのいい囚人がたむろって輪を作っている。
 林立する足の間に紺地の制服がちらつく。
 囲まれているのは看守だ。看守が囚人を囲むのならよく見るが逆は珍しいと好奇心をくすぐられ、ビバリーの制止を振り切って足早に近付く。
 「お小遣い頂戴。なあいいだろ、はじめちゃん」
 「アンパン買ってこいよ、はじめちゃん」
 「今日のパンツ何色?」
 「脇腹の疵見せてくれよ。恥ずかしい?なら俺が剥いでやっから大人しくしてな」
 屈強な腕で奥襟掴まれてぶら下げられた看守がぐすぐす泣きべそかいてる。女々しく首をふりふり、「お、お金なんかもってないです安月給なんですパンツの色は自分で言いますカナリアイエローですだからズボン下げないでくださいお願いします本当に、廊下のど真ん中で露出狂は願い下げです!」と鼻声で哀願する看守をしげしげ観察する。
 あどけなさを残した顔だちは青年より少年に近く物腰に初々しさが漂う。眉を八の字に下げたいかにも気弱そうな泣き顔が嗜虐心をくすぐる。腰に引っさげた警棒はやけにぴかぴかして陳腐なオモチャにしか見えない。職業的権威を付与する看守服がかえって身の丈合わぬ滑稽さを際立たせる。
 感想、典型的いじめてくん。
 囚人にちゃん付けされて小突かれまくる看守という逆転の図に興味津々、輪の背後で爪先立つ僕の袖をビバリーが引っ張る。
 「リョウさん、やめましょうよ」
 「見るだけ見るだけ」
 「いじめ見て見ぬふりかっこ悪っス」
 「見ぬふりなんかしてないよ、ガン見だよ」
 一際大柄な囚人が毛むくじゃらの腕を伸ばし看守の裾を掴む。
 人通り絶えぬ廊下のど真ん中で身包み剥がれるという無体な仕打ちに必死の抵抗を試みるも多勢に無勢の腕力に屈するはじめちゃん、咄嗟に逃げようとして転倒したところを数人がかりで押さえ付けられ絶体絶命の窮地に陥る。
 はじめちゃんは号泣だ。涙と鼻水を滂沱と垂れ流し恥も外聞もなく泣きじゃくり許しを乞う。
 「僕の裸なんか見ても面白くないよ、僕はただの看守だよ、見ても面白くない薄っぺらい体の看守だよ!」
 死に物狂いにばたつき往生際悪く泣き言を並べ立てる看守に馬乗り、一際ガタイが良く凶暴な面構えの囚人が黄ばんだ歯を剥いてせせら笑う。
 「看守を逆レイプできるチャンスなんざ滅多にねーんだ。とろとろ廊下歩いてたのが運の尽きだと思って諦めろ」
 「ちゃんとまわしてくれよ」
 「わかってるよ、そうあせんなって。俺たちみんなで輪姦してやろうぜ」
 ……いくらなんでも廊下のど真ん中でレイプなんてさかりすぎ。興ざめ。人だかりも増え始めたことだし潮時かな。
 そして僕はあっさり踵を返し―
 「!」
 見た。
 踵を返そうとしたその瞬間、看守の裾がはだけて生白く貧弱な腹部が人目に晒される。
 周囲の野次馬がどよめく。看守の顔が紅潮する。素肌を暴かれ仰向けに転がされた看守の腰に手を滑らし、囚人が口笛を吹く。
 「東棟のシズルに刺された看守ってのはお前だろ、はじめちゃん。安田の命令で医務室前にぼさっと突っ立ってたところをぐさっとやられたんだよな。ったく、情けねえなあ!普段さんざん威張りくさってんだから警棒でぶちのめす位してみろってんだ、それとも腰抜け新人看守のはじめちゃんはシズルにびびりまくって小便たらして腰のモンのことすっかり忘れてたってのか、情けねえなオイ、ホントにキンタマついてんのかよ!?」
 「ふっ………」
 看守の顔が泣きそうに歪む。
 ただでさえ頼りない童顔がふにゃりとふやける。
 制服をはだけられ素肌を晒し仰向けに転がされた若い看守は、自分に跨った囚人に口汚く罵倒され乱暴に揉みしだかれ苦痛と恥辱の極みで涙ぐむ。被虐心を刺激するイイ表情が本人の意図せぬ倒錯した媚態を醸す。
 「シズルに刺された時のこと教えてくれよ、はじめちゃん」
 息遣いを欲情に荒くした囚人の手指が、腹部の傷痕をゆっくり辿る。
 「硬くて太いもんで腹を抉られる感じってどんなんだ?気持ちよかったか?熱かったか?もっとぐりぐりして欲しかったか?もっと奥深くに突っ込んでぐりぐり抉って欲しかったんじゃねえのかよ、白状しちまえこのド淫乱。お前ら看守なんざ全員インポペニスの代わりに警棒ふりまわして喜んでるド変態揃いだ、お前はその中でも特に俺らにいじめてもらいたがってるマゾの変態野郎だ、お望みどおりケツん中に太くて硬いもん突っ込んでやるよ」
 卑語に興奮した囚人が舌なめずりし、抵抗を許さぬ腕力で看守の膝を押し開く。甲高い悲鳴を上げ狂ったように抵抗する看守の姿にリュウホウがだぶる。
 リュウホウ。
 いつもおどおどいじいじ人の顔色を窺ってばかりのうざいやつだった。
 「こいつ、リュウホウに似てる」
 似てるなんてもんじゃない、そっくりだ。
 東京プリズンは弱肉強食の掟がまかりとおる。
 弱者は常に虐げられる運命だ。
 リュウホウは弱いから死んだ、それだけだ。
 僕が手を下さなくても余計なこと吹き込まなくてもリンチで嬲り殺されるか精神を病んで首を吊っていた、僕は悪魔的好奇心でほんのちょっとだけリュウホウの死期を繰り上げただけだ。だから僕が気に病む必要はどこもない、リュウホウはどのみち死んだんだから僕が良心を痛める必要なんて……
 「リョウさん?」
 ビバリーが心配げに僕を覗き込む。
 リュウホウと看守が重なる。喉に苦いものが込み上げる。
 今さら罪悪感に駆られるなんて僕らしくもないと口角吊り上げ自嘲しようとして奇妙に顔が歪む。
 どうしちゃったんだろ、僕。こんな事で動揺するなんて。
 目の前の光景に脳裏が真っ赤に焼けて冷静さを失いそうになる。
 リンチやレイプは年中行事で日常茶飯事、見て見ぬふりするのが賢い選択だと頭ではわかってる。
 けれども僕はそこを動けない、根が生えたように動けない。
 荒れ狂う激情を抑えようと拳を握りこむ。
 狂騒の内に繰り広げられる行為から、あられもない痴態から、片時たりとも目を離せない。
 床に寝転んだ看守がズボンと下着だけは死守せんとけなげにも腕に力を込め引き上げる。
 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながらも意地でも股は開くもんかと抗う看守の痴態をニヤケ面で眺めつつ、発情した連中が腕づく力づくで下着を引っぺがしにかかる。
 下卑た野次と口笛が飛び交う中、威厳溢れる闊達な足取りで何者かが近付いてくるー
 「強姦は感心しませんね」
 喧騒が止む。
 静粛な雰囲気が場を包む。
 看守に跨った囚人とその周りでおこぼれに預かろうとした囚人が振り返る。僕とビバリーもまた声の方に顔を向ける。
 黒い肌の男がいた。
 今時流行らない七三分けに髪を撫で付けて嘘臭い眼鏡をしている。黒い鞄でも持たせれば立派にセールスマンで通用する容姿だ。無個性な囚人服に身を包んでいながらもその体躯が極限まで引き絞られていることが全体の安定感から窺える。
 南の隠者、ホセだ。
 「ひっ、ひっ、ひっ……」
 ラマーズ法に似た息遣いで看守の上からとびのいた囚人が、少しでもホセから距離をとろうと尻を使ってあとじさる。
 「強姦には愛がない。和姦には愛がある。ラブ&ピースこそ我輩の信条で世界平和の秘訣です。強姦の現場を見過ごしては愛妻家の美学に反する。おわかりですか?おわかりですね」
 「ホセだ」
 「南の隠者だ」
 「拳でトンネル開けるバーサーカーだ」
 「冗談じゃねえ、関わり合いになりたくねえ、俺ァ逃げるぞ!」
 身の危険を感じた野次馬が我先にと逃げ出す。
 埃を蹴立てて廊下を走り去る野次馬に出遅れた強姦の主犯格は凍り付いた顔でホセを仰いでいる。
 「これは……」
 廊下にへたり込んだ看守と不気味に迫り来るホセとを見比べて、生唾を嚥下する。
 「な、何か勘違いしてるんじゃねーか?こりゃ合意の上だ、お互い納得尽くの行為だ。強姦なんざとんでもねえ、コイツにゃよくしてやって……」
 廊下が震動する。
 ぱらぱらと白い粉塵を落として壁から拳を引き抜き、ホセが世にも恐ろしい笑みを満面に湛える。
 「口に拳が入るか試してみましょうか」
 限りなく優しい笑みだが、眼鏡の奥の目は決して笑ってない。
 這うように逃げ出す囚人の背中を見送り、上着の裾で丁寧にこぶしを拭ったホセが改めて看守に向き直る。
 ホセに見下ろされた看守の顔が羞恥に染まり、慌しく身繕いをして肌を隠す。
 「た、助けてくれてありがとう……君が来てくれたおかげで本当に助かった、なんてお礼をいったらいいかわからない、この恩は一生忘れない!お歳暮で生ハムおくるよ」
 何とか看守の威厳を保とうと胸を張り礼を述べる。
 何度も頭を下げて大袈裟な位だが、どんだけ育ちがいいのかわからねど世間擦れしてないはじめちゃんは感激に目を潤ませて涙の乾いた頬をあざやかに紅潮させる。
 「どういたしまして。パンツが見えていますよ」
 「あっ」
 床につきそうなほど深々頭を下げた看守が、ホセの指摘にズボンを引き上げ金具をがちゃつかせベルトを締める。
 脱力。ほのぼのなまぬるい空気が漂う中、ホセに見つかる前にそそくさ立ち去ろうとして……
 「どこへ行くんですか、リョウくん」
 バレてら。
 観念して振り返る。
 ホセが含みありげな笑顔でこっちを見てる。
 威圧感を増して無言の脅迫をしてくるホセにびびりまくる。
 『どうしようビバリー、ホセ絶対怒ってるよもしくは何か企んでるよ!見たあの邪悪な笑顔ありゃもう魔王の領域だよ怖いよおしっこちびっちゃいそ!』 『ホセさんの笑顔がどす黒く見えるのはリョウさんのおめめが汚れてるからっすよ、早いとこ水道水で目ン玉洗ってきてくださいっス!』
 ホセがゆっくりと近付いてくる。
 一歩距離が縮まるごとに寿命が一年縮まる。
 どうしよう、逃げる、逃げ出す?
 だめだこの距離からじゃ間に合わない追いつかれちゃう!
 パニックになった僕の横でビバリーがおろおろ無意味に手を振り回す。くそ、野次馬に便乗して逃げ遅れた僕の馬鹿!自分の間抜けに舌打ちしても始まらない、ホセはもうすぐそこまで迫ってる……
 「お久しぶりですね。お元気ですか、リョウくん」
 表面上はあくまで穏やかににこやかに、黒い隠者が口を開く。
 「お元気だよ?」
 可愛らしく小首を傾げてみせる。
 「覚せい剤のやりすぎでお花畑の住人になったと聞いたのですが、すっかり回復したようで何よりです」
 眼鏡の奥の目が計り知れない思惑を孕んで細まる。
 口元に薄っすら笑みを刷いたまま、眼光鋭く僕を射竦めるホセに冷や汗をかく。何を企んでるんだコイツ?潤んだ目でビバリーに助けを求めるも、ビバリーときたら僕とは全く関係ありませんてな見事なすっとぼけっぷりでそっぽを向いて口笛吹いてる。
 この演技達者め。
 逃げるのを諦めた僕は観念して両手を挙げる。
 降参のポーズ。
 自分がいちばん可愛く見えると計算し尽くしたきっかり斜め四十五度の角度に小首を傾げ、媚びた上目遣いでホセを見上げる。
 「んで、用は?どっか行く途中じゃないの、ホセ」
 「医務室に野暮用でね」
 「医務室……ああ、サーシャのお見舞い?」
 嘲弄を含んだ揶揄にホセは答えない、反応しない。
 謎めく笑みを深めて眼鏡のブリッジを押し上げただけ。
 一週間前、蛍光灯が落下した床に転倒した際に背中に破片が刺さったサーシャは通いで治療を受けていたのだ。
 おじいちゃん医者が入院中につき大した治療は行なえないが、ピンセットで破片を摘み出して消毒し包帯を巻く位はできる。
 臨時の医者も来た事だしね。
 「優しいじゃん、ホセ。ワイフ一筋じゃなかったの?サーシャに浮気?趣味を疑うね」 
 ふざけた口調でまぜっかえせば、ホセが少しだけ不機嫌げに眉根を寄せる。
 「ご冗談を。我輩は天地神明アフロディーテに誓ってワイフ一筋ですとも。医務室に野暮用とは……所長のご加減伺いです。一週間前に災難に遭われて以来すっかり塞ぎ込んでしまって連日カウンセラーのお世話になってるそうですから。貢いだサーシャ君がさっぱり役立たなかった言い訳もとい謝罪もせねばなりませんし」
 「道了に鼻へし折られてハルをミンチにされて確かに災難だ。自業自得だけどね」
 心の中で舌を出す。いい気味、ざまあみろ。
 ハルを亡くした所長の醜態を思い出し溜飲を下げた僕の正面、ホセが俯きがちにひとりごちる。
 「……まあ、どうでもいいか。クレオパトラに比するワイフの鼻がへし折れたら我輩嘆きのあまり大地を砕きますが、所長の鼻が折れたところで計画に支障はない」
 「なに?」
 どうでもいい?どうでもいいって所長が?
 笑いを引っ込めた僕の前、ホセが慎重にあたりを見回し人けがないのを確認する。
 黒い隠者の登場によりあたり一帯からは潮がひくように人が失せている。ホセが前傾し顔を突き出す。同じ視線の高さに顔がくる。
 「…………!ひっ」
 僕の顔の横に手を付き、ホセが体を寄せてくる。
 逃げられない。完全に囲われた。手のひらに緊張の汗が滲み、唾を嚥下した喉がぐびりと鳴る。ホセの後ろじゃ口笛をやめたビバリーがおろおろはらはら見守ってる。こンの役立たずと声を大にしてビバリーを罵りたい衝動を自制心を総動員して抑え、膀胱が破裂しそうな感覚に激しく貧乏揺すりをしつつ、あらんかぎりの勇気を振り絞っておそるおそる眼前のホセを見る。
 口元に笑みを刷き、可聴域ぎりぎりに声を絞ってホセが耳元で囁く。
 「『例の件』、よもや忘れたとは言わせませんよ」
 え?
 何を言われてるかわからなかった。
 ぽかんとしてホセを見詰める。ホセは醒めた顔で僕を見下ろしている。ホセの顔を見詰めるうちに急速に記憶がよみがえり『調べて欲しいことがあります』ああそうだ思い出した『では、地下に潜ってください』 今から向かおうとしてる医務室でホセは依頼したんだった『聞こえませんでしたか。地獄の最下層を探索してきてくださいと言ったのです』僕の情報収集力を見込んで東京プリズンの地下に潜ってこいと東京プリズンの秘密を探って来いとにっこり笑顔で脅迫したんだっけ…
 忘れていた。
 すっかり忘れていた。
 「思い出しましたか?」
 ホセが優しく微笑むも目は全然笑ってない。ある意味レイジより怖い。牛乳瓶底眼鏡の奥、糸のように細い目が僕を推し量るようにすぅと眇められる。脅迫というにはあまりに優しく穏やかな、だからこそいっそう怖さが引き立つ声と表情で問いかけられ、僕はこくこく頷くしかない。
 「……ごめん、ホセ。許して。怒んないで?」
 「怒ってなどいませんよ」
 嘘だ。ホセは嘘をついてる。その証拠に目が笑ってない。
 穏健な笑顔からどす黒いものが滲み出る。
 長袖の内で腕の筋肉が膨張し筋が立つのが目に見えるよう。
 必死に頭を回転させこの場を切り抜ける言い訳を考える。
 ホセの後ろでビバリーが泣きそうになってる。
 『僕には何もできないけど命だけは見逃してもらえるよう5メートル以上離れて祈ってるっス、リョウさん!』と追い討ちだか声援だか微妙な心情を口パクで伝えてくるビバリーをジト目で睨む。
 うん、とりあえず邪魔だから消えて?
 「だってだって、大変だったんだもん!」
 ひしと両手を組んでお願い許してポーズを作る。
 「ホセ知ってる?ちょっと前にレッドワークの炉におっこちって死んだサムライのいとこのシズル、あいつほんとひどいヤツだったんだよ。僕が覚せい剤のやり過ぎで頭がぱーになったのも全部あいつのせい、あいつに嵌められたせいなんだ。あの時はシズルおっかないおっかないよーってそればっかでとてもじゃないけど依頼に構ってるひまなかったんだ、地下に潜る使命はキレイさっぱり……むぐっ」
 分厚い手が口を塞ぐ。
 全責任をシズルになすりつけようと詭弁を駆使する僕の弁明を遮り、駆け引き上手なセールスマンめいて如才なく微笑する。
 「いえね、我輩心配していたのですよ。責任感の強いリョウ君に限ってまさかそんな南の隠者自らの依頼を失念するような失態を犯すはずないと信じておりましたが、数ヶ月も何の音沙汰もなく成果の報告がないまま過ぎるうちに疑念が膨らみまして、今日こうしてお会いできたのを幸いに、もしうっかり依頼を忘れていたのなら頭蓋骨の中身がちらばらない程度に手荒なショック療法を試みんとしましたが……」
 顔の真横で壁が砕ける。 
 ホセの手を中心に放射線状の亀裂が壁に生じ粉塵が舞う。
 分厚いコンクリ壁が手の形に陥没していく様に下半身に震えが走り、ほんの少しだけおしっこをちびる。
 五指に力を込めて壁にめりこませ、硬直した笑顔でホセが問う。
 「我輩の依頼、改めて引き受けてくれますね?」
 気が遠くなるのを感じながらビバリーを仰げば、僕の頭の中身を拾い集める準備はいつでもできてるとばかりに真剣に頷き返してくれた。
 断れるわけがなかった。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050406004219 | 編集

 控えめに扉をノックする。
 固唾を呑んで応答を待つ。
 混雑した廊下に立ち竦む僕に通行人が邪険に舌打ち、わざと肩や肘をぶつけてくる。
 「ぼうっと突っ立ってんなよ暇人」
 「牛にひかれるぞ」
 「モー辛抱たまんねえってな」
 甚だ不可解で不条理な罵声を浴びせ通りすがりざまに肘打ちをくれる低脳どもを無表情にやり過ごし、殺風景なドアを見詰めること無為な数秒が過ぎる。
 「入っていいよ」
 反応があった。少しは緊張が解れるかと思ったが、聡明に落ち着き払ったその声がもたらしたのはまた別種の緊張感だった。
 若干警戒しつつ、指紋が付着したノブを握ってドアを開けようとして思いとどまる。
 不潔だ。
 眼鏡越しの目を細め、眉間に皺を刻む。
 手垢に塗れたノブを微動せず見下ろし眉間の皺で不快感を表明、ノブに触れようとした指をさっと引く。
 危ないところだった。こんな不潔なものに触れて菌に感染したら堪ったものじゃない。
 上着の裾で丁寧にノブを拭い、綺麗に指紋を拭き取る。
 銀の光沢を取り戻したノブを見下ろし首肯する。
 これでよし。完璧だ。改めてノブに手を置く。握る。
 寸刻の躊躇、逡巡。
 振り切るようにノブを掴み、回す。
 滑らかに扉が開く。
 眩しいほど白い空間が眼前に広がる。
 天井も壁も床も白一色で統一された空間に等間隔にベッドが配置され衝立で区切られている。
 入り口に立ち室内を見渡す。
 これといって変わったところはない。
 異状なしと確認後、それでも警戒は怠らず慎重に中へと進む。
 左右の壁際に並んだベッドはすべて埋まってる。
 ベッドの上でうんうん唸っているのは手足に包帯を巻いた重傷患者だが、呻く元気があるならまだマシなほうで、中には点滴の管を繋がれてぐったり臥せってる病人もいる。
 毎度見慣れた医務室の光景だ。
 ひとたび急患が運び込まれれば医師と看護師不足が恒常化した野戦病院じみた様相を呈するも、現状は落ち着いているようだ。
 「やあ。こんばんわ」
 呑気な挨拶に向き直る。
 キャスター付きの椅子に腰掛けた若い男に視線を定める。
 染み一つない清潔な白衣を纏った軽薄な風貌の優男だ。
 何分の一か西洋の血が流れているらしく目の色素が薄く光彩が茶色い。柔らかな癖がついた鳶色の髪を額の真ん中で分けて耳の後ろに流した髪形が年甲斐もなく似合う。見ようにようってはとうの立った学生にも見えるが、成熟した物腰と言動は最低でも三十歳をこえていると窺わせる。
 キャスター付きの椅子に腰掛けてカルテに何やら書き込んでいた男が、友好的な笑顔で僕に声をかける。
 「貴様の話は聞いた。老医師の代理として新たに赴任した医者だな」
 彼の事は既に噂になっている。
 この一週間というもの医務室には彼見たさの野次馬が大勢詰め掛けていたのだ。
 僕が訪れたのは一週間を経て騒ぎが下火になった頃だ。
 野次馬の妨害に遭ってはたまらないとわざわざ人がいない時間帯、彼とゆっくり話せる時間帯を選んで訪ねてきたのだ。
 「安田の調子はどうだ」
 開口一番、もっとも気になっていたことを切り出す。
 安田の様態はずっと気にかかっていた。
 この一週間、一度も安田と会っていない。
 実際それどころじゃなかったのだ。
 一週間前の道了対レイジの戦闘からこちら、東棟はおろか東京プリズン全体を異様な興奮が包み、誰も彼もが東棟のトップを巡る争いに非常な関心をもち、どの勢力に属すればいちばん得をするかを念頭に駆け引きを演じてきた。
 凱は倒れた。
 レイジは引き分けだった。
 道了の絶対的強さは暴威となりて東棟を席巻した。
 凱はともかく、あのレイジすら道了に勝てなかった。
 僕は先のペア戦でレイジの強さを痛感したが、幼少の頃より過酷な戦闘訓練を積み上げて非常識な強さを獲得したレイジすら道了に地を舐めさせることはできなかった。
 東京プリズン最強の囚人、無敵無敗のブラックワーク覇者の呼び声高いレイジと互角に渡り合えただけでも道了の実力は脅威に値する。
 仮にレイジが拘禁疲れのハンデを背負っていたとしても道了の戦闘力がずばぬけているのは否定し難い事実だ。
 この一週間というもの、サムライは特に身辺に敏感になっていた。
 それもすべて僕を守るためだ。
 これまで凱が台頭していた東棟に革命をもたらした道了は、本来憎み合う立場の中国人すらその圧倒的な強さとカリスマ性で魅了し、凱傘下の囚人の殆どを味方につけてしまった。
 凱の腹心と名高い残虐兄弟すらあっさりと道了に乗り換えた。いまや道了はレイジに匹敵する東棟の有名人、路上から成り上がった鉄面皮のカリスマとして一部の囚人たちに熱烈に崇拝されている。
 はやばやと道了に乗り換えた囚人と凱派の囚人が睨み合う日々が続き、あちらこちらで小競り合いが勃発し、一週間で多くの血が流れた。
 暴力の悪循環。
 いかに暴力が娯楽化した東京プリズンとはいえ戒厳令が出た戦時下ではなし、廊下を歩くたび乱闘がおきて死傷者がでるこの状態は異常だ。
 騒ぎが一段落した今日、漸くこうして医務室を訪ねることができた。
 誓って安田の事を忘れていたわけじゃない。
 最低一週間待たなければ医務室に辿り着くことができないほど東棟の状勢は緊張してるのだ。

 道中同伴しようと言い出したサムライは、渡り廊下の前で睨みを利かせている。
 医務室まで一緒についてこなかったのは僕がかたくなに断ったからだ。
 『何故俺がいてはいけない?』
 仏頂面で腕を組むサムライに指を突きつけ、僕ははっきりと言ってやる。
 『いいか?僕はこれから個人的な話し合いにいくんだ。新任医師には個人的に聞きたいことがいくつかある。第三者がいると話に集中できない』
 『第三者とは誰だ』
 まったく心当たりがないといった様子でサムライが眉根を寄せる。
 なんて察しの悪い男だと内心呆れつつ、丁寧に説明してやる。
 『君だ。貴様だ。僕の眼前に突っ立ってる赤の他人だ。いや、待て、何も言うな。君が言いたいことはわかっている。確かに君は僕の友人だ、常に僕の身を心配しどこへ行く時もついてまわる過干渉気味の鬱陶しい男だ。しかしそろそろ空気を読め。謙譲は武士の美徳だ』
 『単刀直入にいえ』
 何か言いたげなサムライを手を翳しおしとどめれば、本人が不機嫌もあらわに促し、僕は深呼吸で意を決する。
 ならば望みどおり一刀両断してやろうじゃないか。
 低脳にもわかるよう話を噛み砕くのに徒労感が募り、眼鏡のブリッジを押し上げるふりで顔を伏せる。
 『三角関係はごめんだ。面倒くさい』
 やや乱暴に、きっぱりと話を纏める。
 前出の発言に他意はない。サムライが何故かやたらと安田を意識し敵視してるのには気付いていた。
 サムライがいると纏まる話も纏まらなくなると危惧し、予防線を張る。
 拒絶されたサムライはショックを受け押し黙るも、このままではいけないと焦って口を開く。
 反駁を紡ごうとしたサムライに先んじて、付け入る暇を与えず続ける。
 『君が僕を心配してることはわかる。痛い程わかる。だが迷惑だ。これ以上はプライバシーの侵害だ』
 『横文字はわからん』
 『たまには僕の意志を尊重しろ。君はここで帰りを待て。君は話し合いの邪魔だ、君が視界に入ると話を円滑に進められない、僕は君から目がはなせない。この場は自重しろ』
 高圧的に申し渡せば、僕の強硬な態度に何か言いたげに押し黙ったサムライが熟慮の末に諦念のため息を吐く。 
 『……わかった。ここで待っている』
 遂にサムライが折れた。
 渋々首肯したサムライを渡り廊下の入り口に残し、僕は単身医務室に向かった。角を曲がるまで背中にずっとサムライの視線を感じていた。サムライが僕を心配してるのは十分わかる、痛いほどわかる……が、迷惑だ。
 たまには自分の信念ではなく僕の意志を尊重しろ。
  
 「安田くんの様態を聞きに来たのかい」
 「!」
 深い知性を感じさせる穏和な声が回想を遮る。
 反射的に顔を上げる。名も知らぬ若い医師が微笑してこちらを眺めている。どことなく食えない笑み。三十路そこそこの若さの癖に人の深層心理を知り尽くしたとでもいいたげな透明な眼差しに反発を覚える。
 「座りなよ。今ちょうど診療待ちの患者もいないし」
 砕けた口調で促され手前の椅子に座ろうかどうか迷うも、立ったまま話を続けるのも何だと思いなおして素直に座る。
 天井の蛍光灯が無菌に漂白された光を投じる中、椅子に腰掛けて医師と向かい合う。
 「できればコーヒーでもご馳走したいんだけど、生憎コーヒーメーカーを持ち込んでなくてさ。君はブラック派?それとも砂糖をいれる?」
 「味覚の詮索はよせ。僕の嗜好はどうでもいい。聞きたいのは安田の様態だ」
 何故こいつはこんなにもリラックスしてるんだ、ここをどこだと思っているんだ?次々と疑問が浮かび、憤懣やるかたなく医師を睨み付ける。目の前の医師は年齢にそぐわぬ落ち着きようで椅子に深く身を沈めている。悪名高い砂漠の監獄にとばされてきたのだから余程の変わり者だろうと邪推していたが、どうやらその通りのようだ。
 不審感に凝り固まった気持ちをほぐそうとでもいうように、努めて物柔らかに医師が語りかけてくる。
 「君と安田くんはどういう関係?」
 「ただの副所長と囚人だ。それ以上でも以下でもない」
 「ただの囚人が副所長の様態をたずねにわざわざここへ?強制労働終了後の疲れた体をひきずって?へえ」
 医師がさも意外げに目を見張る。
 道化を演じて不安を取り除こうという人心掌握術の常套だが、馬鹿にされているようで腹が立つ。
 いや、実際馬鹿にしているのかもしれない。
 ……不条理だ。なぜIQ180の天才たる僕が鳶色の若作りに馬鹿にされねばならない?理解に苦しむ。身の程を知れ凡人が。
 屈辱を堪えて俯く僕の耳に、優しく凪いだ声が届く。
 「思った通り優しい子だ。手紙を読んで想像していた通りだ」
 「?」
 何?
 怪訝な表情で向かいの医師を見る。機を得たりと医師が相好を崩す。
 本当に嬉しそうな顔……患者の回復を喜ぶ医者よりむしろ子供の成長を喜ぶ父親に近い。
 医師が前のめりに身を乗り出し僕に顔を近付ける。
 「安心して。安田くんは無事だ。今はもう心身ともに健康をとりもどし職務に復帰した。一週間前のアレは極度のストレスと疲労からくる症状で、きちんと睡眠と栄養をとって療養すれば問題はない。……やれやれ。自己管理をおろそかにする癖は治ってないね、彼も」
 医師が苦笑する。安心感とぬくもりを与える笑み。昔を懐かしむようにその目が遠くなる。
 「安田と以前にも面識が?」
 「大学の同期で古い友人さ。あっちはそうは思ってないけどね」
 椅子を軋ませ上体を起こし、医師が髪をかく。
 整髪料の匂いがかすかに鼻腔を衝く。
 「本当に大丈夫なのか、体に異常はないか?彼は事件が起こる直前まで、その……」
 曖昧に言葉を濁す。医師が疑問の目を向ける。
 もどかしく唇を噛む。
 新任の医師がどこまで東京プリズンの内情を把握してるか量りがたい。所長の横暴と非道な行為の数々を暴露していいものか、かえって混乱するだけではないか?
 まさか事件の直前まで所長に拘禁されていたとは言えず黙秘すれば、医師が自信ありげに保証する。
 「これからは大丈夫だ」
 医師の目を見詰める。
 少し引いて顔を見る。
 真摯な眼差し、真剣な顔。
 何も知らず適当なことを言ってるようには見えない誠実な態度。
 薄く茶色がかった瞳に決意の光を宿し、身を乗り出しがちにかき口説く。
 「これからは僕がいる。大丈夫だ。自己管理のできない安田くんに代わって僕が体調を管理する。決して無理はさせない。信じてほしい」 
 「初対面の人間を簡単に信じられるわけがない」
 「確かに初対面だ。しかし僕は君のことをよく知ってる」
 「?さっきから何を言ってるんだ。IQ180の天才にして円周率五千桁の驚異的な記憶力を誇る僕は一度会った人間の顔を絶対に忘れない、にもかかわらず貴様の顔が記憶にないということは正真正銘赤の他人の鳶色の若作り……」
 「鍵屋崎 スグルくん」
 久しぶりに本名を呼ばれた。僕自身すら忘れかけていた名前を。
 背筋に電流が走る。
 言葉を喪失し医師の目を見返す。
 人の心の奥底まで覗き込む深い目。
 すべてを受け入れる眼差し。
 鳶色の医師が白衣の懐をまさぐりはじめる。
 耳障りな衣擦れの音に紙の鳴る音が重なる。
 白衣の懐から何か白い物が覗く。手元に注目する。
 手紙だ。手紙の束だ。
 神経質な右上がりの筆跡に目が釘づけになる。
 まさかそんな、何故彼がこれをもっている?
 僕が宛てた手紙をもっている?
 脳裏で疑問符が膨らむ。
 輪郭を結ぶ予感に心臓の鼓動が高鳴る。
 瞬きを忘れる。眼球が乾く。
 それでも医師の掌中の手紙から目をそらせない……放せない。
 半ば椅子から腰を浮かしかけた不自然な姿勢で硬直した僕を見上げ、医師は言った。
 「実際に会うのは初めてだね。僕の名前は斉藤……本名は斉藤文貴。ここにくるまえは仙台十文字大学病院の小児精神科病棟にいた精神科医さ。君の妹の鍵屋崎恵さんを担当していた」

 恵。
 僕の妹。
 久しぶりに名前を聞いた。

 『おにいちゃん』
 舌たらずな呼び声が耳によみがえる。
 瞼の裏をあどけない笑みが占める。
 みつあみを揺らして振り返る少女……はにかむような微笑み。
 瞼裏に浮かぶ最愛の妹の面影が激情を呼び起こす。別離の歳月を経て薄まるどころかくっきりと輪郭を際立たせ鮮明さを増す恵の姿が、その笑顔が失われて久しい今だからこそ救い難い悲哀を帯びて胸に迫る。
 恵を忘れたことはただの一度もない。
 恵は僕のすべてだ。大事な家族、生きる拠り所、希望の象徴だ。僕の希望そのものだ。僕の生きる意味そのものだ。僕は恵がいたからこれまで生きてこれたしこれからも生きていける、恵は今も今でも僕の生きる意義そのものだ。
 斉藤の声が遠く聞こえる。
 「君とは何通も手紙のやりとりをして互いの近況を報告しあった。僕は恵さんの経過を詳細に書き送り、君もまた監獄の日常と恵さんを想う胸の内を手紙に綴った。ずっと君に会いたかった。新聞の写真ではなく実際にこうして会って目を見て話したかった。本当の君が知りたかった」
 勝手に口が動く。声が遅れて聞こえる。
 現実感が希薄になる。
 前後の見境を喪失し、自分がいる場所がどこかもわからなくなる。
 混乱の渦中の耳に懐かしい呼び声が響く。
 『おにいちゃん』 
 『おにいちゃん』
 『人殺し』
 『お父さんとお母さんを返して』
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 心の奥底に抑圧し封印した感情と記憶が堰を切って逆流する。
 激情の濁流が理性を押し流す。
 「君に会えて良かった。君に会うために僕はここにやってきた。その甲斐はあった、十分に」
 斉藤が微笑む。目尻が垂れて柔和な印象になる。
 本心から喜ばしげに僕との出会いを言祝ぐ斉藤、無造作に手を伸ばしその胸ぐらを掴む。
 「本当に斉藤か?あの斉藤か?僕に手紙を送り付けた恵の担当医師の斉藤か?」
 白衣に縋り付いて疑い深く念を押せば、斉藤が冗談めかして首を傾げる。
 「そうだとも、僕が斉藤本人さ。筆跡鑑定でもしてみるかい」
 「斉藤は女性じゃないのか!?」
 甲高く声が尖る。正面から非難を浴びた斉藤が痛そうに耳を押さえる。
 「手紙で性別を明かした覚えはない。要らぬ誤解を与えてしまったなら謝るよ」
 殊勝らしく頭を下げた斉藤になお掴みかかり我を忘れて吠える。
 瞬時に理性が蒸発する。衝動に歯止めが利かない。
 今目の前にいるのは斉藤、あの斉藤なのだ。
 最愛の妹恵の近況を知る唯一の人物恵の近況を知る手がかり証人恵の恵の……

 恵。
 恵がどうしているか知りたい。

 「恵はどうしている、元気でいるのか、病気はしてないか?それにそうだ、みつあみはひとりで結えているのか?みつあみを結ぶのはあれで結構難しいんだ、恵はいつもみつあみが上手く結えず泣いていた、今の恵にそばでみつあみを編んでくれる人物はいるのか?いや待てみつあみのことより恵だ、恵は今どうしている、事件の後遺症は……PTSDは完治したのか?貴様担当医師のくせに何故ここにいる職務と恵を放棄してこんな僻地にやってきた、恵をひとり残して砂漠のど真ん中のリンチとレイプと性病が横行する劣悪な監獄に自ら望んで来たとそう言ったのか、恵の治療を放棄してこんな最悪の地獄の監獄に!?」
 突然の事態に動転し惑乱する。
 手加減を忘れ白衣に掴みかかり容赦なく罵詈雑言を浴びせるも、恵の元担当医師を名乗る斉藤は掴み所なく飄々と僕の追及をかわして笑っている。
 「心配しなくても恵ちゃんは着実に改善にむかってる。精神状態もだいぶ落ち着いてきた。この頃では看護婦とも打ち解けておしゃべりするようになってきたし……ああそうだ、恵ちゃんの髪は看護婦の安西さんが結ってくれてるよ。安西さんには六歳になる娘さんがいてね、毎朝娘さんの髪を編んでいるからみつあみはお手の物で恵ちゃんも大層喜んで……」
 「人の話はどうでもいいが天才の話は聞け斉藤、恵は無事なのか、僕の大事な妹に手を出してはないだろうな!?万が一恵に劣情を抱いて不埒なまねをしたらいかに担当医師といえど容赦せず天才の尊厳にかけて社会的に抹殺してやる、あらゆる手段を使って戸籍を抹消してやる、恵の視界はもとより人類の生存を許さない大気圏外に永久追放してやる!!」     
 「本当に恵ちゃんが好きなんだ」
 「当たり前だ、恵はぼくのすべてだ!」
 漸く恵の近況を知る人物に巡り会えた、手がかりを掴めた。
 知らず手に力がこもり縋るように白衣を締め上げる。
 斉藤がふいに真顔になる。
 顔の表層に漂っていた軽薄な笑みがかき消え、推し量るように細めた双眸に思慮深い光が宿る。
 「よく聞いて直くん」
 周囲のカーテンが連鎖的に開け放たれ、激しく言い争う声を聞いた患者たちが好奇心旺盛に身を乗り出す。  
 「なんだなんだ、痴話げんかか」
 「東棟の親殺しが安田を巡って鳶色の若作りと三角関係で直談判?」
 「おもしれえ、寝てばっかですることなくて退屈してたんだ」
 「消毒液で目潰しか注射器刺すか包帯で絞め殺すか……どんな離れ技がとびだすか見ものだぜ」
 医務室がにわかにざわつきはじめる。
 ベッドに膝立ちになった患者が見守る中、斉藤と対峙した僕は期待と相半ばする不安に胸高鳴らせていた。
 恵。
 僕の恵。最愛の妹。
 恵の近況を知るただひとりの人物が僕の前にいる。
 目の前にいる。
 渇望が身を苛む。
 恵がどうしているか知りたい、元気でいるか知りたい、健やかであるか知りたい。酷い目に遭ってないか寂しい思いをしてないか悪夢にうなされてはないか知りたいという願望が膨れ上がり葛藤の域に達し焦燥に塗れ自分の意志で制御できなくなる。
 「恵はどうしているんだ」

 恵。
 『おにいちゃんがいたせいで愛してもらえなかった』  
 恵。
 『お兄ちゃんがお父さんとお母さんを独占していたから私は愛情をもらえなかった』
 違うんだ恵、そうじゃない、誤解だ。
 激しくかぶりを振り心の中で反駁し否定する、僕は鍵屋崎の夫妻と血の繋がりのない養子にすぎず恵は実子で、だがしかし僕が鍵屋崎夫妻に関心を持たれていたのが恵には不当な差別に映りそして

 そしてあの日

 耳の奥でざあざあと水が流れる。
 激しい雨の音。
 幻の雨音が鮮明に記憶を呼び起こす。
 雨音が記憶を洗い出す。
 恵がいる。窓辺に佇んでいる。
 床一面の血だまりに中年の男女がふたり倒れている。
 机の引き出しの中身がぶちまけられてあたり一面に散らかっている。僕はそこにいた、書斎にいた、事件現場となった書斎にいた。恵のすぐそばにいた。
 雨滴が伝う窓に自失した横顔を映し、恵が呟く。
 『おにいちゃんが殺したんだ』
 違う恵、そうじゃない。
 『おにいちゃんがお母さんとお父さんを殺したんだ。恵からふたりを奪ったんだ』
 違う違うと心の中で虚しく叫び何度も何度でも否定する、
 しかし恵には届かないもとより聞き届けない恵は頑なに自閉して決して僕を受け入れずそして
 恵が緩やかに振り返る。頬に散った返り血があどけない顔を禍々しく際立たす。窓ガラスを幾筋も雨が伝う。
 血の海に佇んだ恵が虚ろに僕を見据える。
 ふっくらした唇が残酷な言葉を紡ぐ。
 『あんたが死ねばいいのに』 

 「貴様はここにいるべきじゃない恵のそばにいるべきだ恵を保護すべき人間だ、患者を守るのが医師の義務で使命だそうだろう異論はあるかないだろうならば戻れ、今すぐ砂漠を引き返し飛行機に乗り仙台に帰れ大至急だ、交通費はあとで全額所長に請求すればいい問題はない、恵の担当医師なら最後までちゃんと責任を果たし役目をまっとうしろ、可哀想な恵を見捨てるなんてそんな真似僕が許さな……」
 「鍵屋崎 直」
 大人の手が肩を掴む。痛みを感じる。
 斉藤が僕の肩を掴み、中腰の姿勢で視線の高さを合わせる。
 手のひらから熱い体温が伝わる。 
 「落ち着いて直くん。僕は君に話したいことが沢山ある。恵ちゃんのことも勿論だが、それよりも知りたいのは……君が隠してる真実だ」
 心臓が跳ね上がる。息が止まる。
 驚愕に目を剥き斉藤を見る。

 斉藤医師はさっきとは別人のように厳しい表情で僕を見詰めている。
 射抜くような目。視線。
 患部を容赦なく抉り出す冷徹な輝きと真実の鋭さを帯びた、ブラックジャックのメスのようなー……

 「本来精神科医たる僕は自ら希望をだして砂漠のど真ん中の不便きわまる場所に赴いたのは恵ちゃんの治療のために、何より君の未来のために事件の真相が知りたかったからだ。君の名前は鍵屋崎直。遺伝子工学の世界的権威鍵屋崎夫妻の長男として生まれ英才教育を施された天才児、IQ180の優れた頭脳の持ち主。五歳下の妹を溺愛する兄。そして十五年ものあいだ自分を養育した両親を殺害した罪で服役中の犯罪者」
 「その通り、僕はIQ180の天才で恵を溺愛する兄で汚らしい親殺し……」
 「プラシーボ効果だ」
 「は?」
 唐突に何を言い出す?
 怪訝な顔で続きを促す。
 斉藤が僕の手を掴み指をこじ開け優しく白衣から引き剥がす。
 斉藤の顔に複雑な感情が過ぎる。
 哀れむような憂うような、沈痛な色。
 「プラシーボ効果を知ってるかい」
 いきなり話題を振られて鼻白むも、質問に沈黙を返すのは天才のプライドが許さないと気を取り直し淀みなく答える。
 眼鏡のブリッジを押し上げ、反抗的な視線を突き刺す。
 「プラシーボの語源はラテン語の「I shallplease」、「私は喜ばせる」に由来している。そこから転じ患者を喜ばせることを目的とした薬理作用のない薬のことを指すようになった。医学の世界では通常乳糖や澱粉、生理食塩水が使われる。従ってプラシーボ効果はこのような薬理作用のないものによりもたらされる症状や効果のことを言う。たとえば痛みによく効くとさしだされた乳糖を飲んで痛みがなくなることがある。この場合プラシーボにあたるのが乳糖であり、プラシーボ効果が起こる原因には暗示効果、条件付け、自然治癒力などが挙げられ……」
 「記憶の改竄とプラシーボ効果は似ている。自己暗示の重複により実際にはなかったことをあったと思い込むんだ、心的外傷の回復の為に」
 語尾が不自然に途切れる。重苦しい沈黙が被さる。
 自身の心臓の鼓動ばかりが激しく響き渡る。 
 斉藤医師が僕の肩を手で包む。男にしては細い指が、華奢な造りにふさわしくない力強さで僕の肩を抱く。

 現実の鼓動に幻聴の雨音が重なる。
 記憶の洪水が理性を押し流す。
 記憶が現実を侵食し明と暗が反転する。
 視軸が歪曲し、眩暈に酔う。

 「プラシーボ効果は悪い意味にも用いらる。一般にはあまり知られてないがプラシーボ効果には良いこと悪いことの両面がある。嘘を本当と思いこむことにより回復する場合もあれば悪化する場合もある。君たちの場合は後者だ。そして僕は精神科医だ。患者に暗示をかけ、また暗示を解くのが仕事だ」
 斉藤が率直に目を覗き込んでくる。
 奥底まで見透かすような眼差しに心が不穏にざわめき、思い出したくもない記憶が封印を破ろうと脳の奥で胎動する。
 違うあんなことはなかったんだ『おにいちゃん』現実じゃない『おにいちゃん』現実であるものか『おにいちゃん』絶対に認めない『おにいちゃん』認めたら僕自身が崩壊する僕と恵の関係が崩壊する恵の自我が崩壊してしまう、それだけは何としても防がなければ、僕がもてるすべてを犠牲しても恵を守らねば……
 斉藤がぐっと肩を握る。
 決意の固さを表明するように、決して諦めないと宣言するように僕の肩を握りしめ、斉藤は言った。
 「君の暗示を解きにきたよ」
 僕と斉藤の互いのもてるすべてを賭けた戦いが始まった。
 守るべきものととものために。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050405030002 | 編集

 蛍光灯が不規則に点滅する。
 延々と続く灰色の壁が距離感を狂わせる。
 神経症的に瞬く蛍光灯が頼りなく足元を照らす中、威風堂々と闊歩するのは場違いないでたちの青年だ。
 マニア垂涎のナチスの軍服を隙なく着こなし軍帽を被った姿は、あらゆる意味で近寄り難い。
 底の厚い革靴が床を叩く。
 尖った靴音が反響する。
 軍服の青年は厳しい表情を崩さず、ただ前だけを見据え歩いていた。
 優雅に足を繰り出す。
 肩に流した銀髪が不穏にさざめき、風を孕んで揺れる。
 薄氷の目の奥でちりちりと激情が燻る。
 異様に鋭い眼光とは裏腹に、頬骨の鋭さが目立つ痩せぎすの容貌は非人間的なまでに表情を欠き、色素の薄い瞳と髪と肌が相俟って氷から切り出されたように冷ややかな印象を与える。
 「酷寒」。その一言が青年の印象を決定付けていた。
 氷点下の空気を纏った青年は、粛然と廊下を歩く。
 顔半分は黒革の眼帯で覆われている。
 怜悧な顔の中、処女雪に落ちた一点の染みのようにそこだけ異彩を放つ黒革の眼帯が異様な凄味を付与する。
 己の歩みを妨げるものはこの世にないと信じて疑わぬ青年の背後、壁に穿たれた鉄扉が開け放たれ、物見高い野次馬が次々顔を覗かせる。廊下に溢れ出した囚人たちは好奇心を剥き出し歩み去る軍服の背に視線を投じる。
 「サーシャだ」
 「北の皇帝がなんだってこんなとこに?帰る家間違えたのか」
 「まさか。北のトップともあろうものが何の目的もなく東にくるもんか」
 「三十八度線を越えるにゃそれ相応の理由があるってな」
 「レイジにお礼参りか?こないだこてんぱんにやられたもんな」
 「待てよ、こてんぱんにしたのは暇面だろ?レイジを恨むのは筋違いだろが」
 「お前バカか。ナチスの軍服お仕着せされて浮かれ歩いてる誇大妄想狂のヤク中に理屈が通じるもんかよ。北の皇帝が東の王様にご執心だってのは前からの噂だ、今回じきじきに東棟に足をお運びになられたのは我らが王にご用事あそばされるからだろ」
 興奮の気配を孕んだ囁き声が飛び交う。
 通路に氾濫した囚人たちが落ち着きない眼で青年の行方を追う。
 格子窓の内から注がれる好奇の眼差しを意に介さず、はるばる国境を越えて敵地のただ中に踏み込んだ青年は一路目的地をめざす。
 「お前ら何びびってんだ?所長のペットに成り下がった廃帝相手によ」
 下卑た挑発に青年がぴくりと反応する。
 今しも鉄扉を開けて廊下に姿を現した到底未成年とは思えぬ面構えの囚人が、口笛でも吹きかねない調子で揶揄する。
 青年が立ち止まる。空気が豹変する。青年の纏う空気が一気に氷点下までさがるも、哀れ鈍感で無神経な囚人はまわりの変化を察することなく、彼の関心を引いた優越感に浸りながら続ける。
 「あの悪趣味な軍服も所長のお仕着せなんだろ。誇り高きロシア皇帝ともあろうものが情けねえ、すっかり肝っ玉ぬかれちまったな。所長のボディガードとして特別扱いされてるうちに権力者に媚び売るドМな快楽に目覚めちまったってか?こないだはレイジもまじえてさぞかしお楽しみだったんだろうなあ」
 だらしない姿勢で壁に寄りかかり、口元を嘲弄に歪めて罵詈雑言を浴びせる。
 青年は廊下の中央に静止したまま、ざわめく聴衆に毅然と背を向けていた。
 廊下に居合わせた誰もが彼の動向に注目し、一挙手一投足に緊張する。それもそのはず、彼は本来この場にいないはずの人間なのだ。彼がここにいるという事実が何を示すのか図りかねた聴衆が不安げに顔を見合わせる。
 壁に寄りかかった囚人が下劣な笑みを湛える。
 醜悪な顔に嗜虐の笑みを滴らせ舌なめずりし、囚人がここぞと身を乗り出す。
 「今日は何か、遠路はるばる国境こえてレイジに会いに来たのかよ。こないだの復讐か?お礼参りか?一週間前レイジにこてんぱんにされた恨みを晴らしにはるばる鞭携えてやってきたのかよ。執念深さに恐れ入るぜ」
 やめろと制止する友人をぞんざいに振り払い、青年に接近する。
 青年は微動だにせず佇立している。
 周囲の気温が急低下する。
 皮膚に霜が下りたような錯覚を抱く程に空気が冷え込む。
 場違いな闖入者に対する不審感を募らせ出来るかぎり距離をとる野次馬とは一線を画し、本来なら自分ごとき一介の囚人が口を利けるはずもない雲の上の相手へと図々しくなれなれしく忍び寄った囚人は、顔の皮膚を醜く引き攣らせ、不快を催させる卑屈な笑みを浮かべる。
 「ああ、悪ィ、間違えたぜ。お前がこてんぱんにされたのはレイジじゃないんだっけ」
 顔筋が神経症的に痙攣する。
 沈黙を守る青年のすぐ背後に迫った囚人は、うなじのきめ細かさを愛でるように目を細め、なれなれしくその肩を抱く。
 謝罪というにはあまりに誠意がこもってない不実な態度に、しかし青年は眉をひそめるでもなく冷厳たる無表情を保つ。
 口先だけで謝罪した囚人は青年が無反応なのをいい事にますます調子に乗り、はち切れんばかりに隆起した下半身を擦り付けてくる。
 青年の腰に股間が密着する。固い屹立を内腿に擦り付けるように怪しい動作を繰り返し、至近距離でその顔を覗き込む。 
 色の透けた睫毛に沈んだ薄氷の目が、世にも美しく冷酷な色を帯びる。
 青年の顔に初めて感情らしきものが表れる。
 無表情の仮面が割れて極大の嫌悪感が表出し、冷え冷えと澄んだ薄氷の目に驕れる怒りが発露する。
 「汚い手で触れるな、下郎めが」
 肩を這う手を汚物のように払い落とすが早いか、目にも止まらぬ早業で腰の得物を抜き取り、毒蛇の如く鋭い呼気とともに一閃する。
 瞬時に跳ね上がった手首の残像が視界を過ぎった時、囚人は悲鳴を上げて突っ伏していた。  
 鞭打たれた手が裂けてしとどに血が流れる。
 手を伝った血が床に滴る。
 戦々恐々床に跪いた囚人は、恐怖と激痛に青褪めた顔で上を仰ぐ。
 鞭を手にした青年が傲然とこちらを見下ろしている。
 気障ったらしく肩の埃を払い落とし、ツンと取り澄ました表情でこちらを見下ろしている。
 とるにたらない虫けらでも見下すように無関心に醒め切った瞳。
 「誰が誰に敗北したと言った?汚らわしいその口で。卑しいその舌で」
 「ひ、ひ、ひィ……!!」 
 嗚咽の尾を引く情けない悲鳴が上がる。
 恐怖のあまり過呼吸に陥った囚人の前に立ちはだかった青年が、白けた顔のままに無造作に半歩繰り出すのに応じ、尻餅付いた囚人が狂乱しあとじさる。
 しかし青年は容赦ない。
 暴威に気圧されて後退を余儀なくされた格下の囚人に対し、断罪するように言い放つ。
 「今一度言え。誰が誰に敗北したと?誇り高きロシア皇帝が何ゆえ敗北し屈辱を舐めたかしかと説明してもらではないか」
 「ちがっ、あれはちが、嘘、そう嘘だよ!お前の気を引こうとして適当言っただけだよ、誓ってばかにしたわけじゃねえ、所長のペットに成り下がった元皇帝をおちょくってどさくさ紛れにケツ揉もうなんざ考えてねーよ、全部お前の誤解っ……」
 風切る音が弁明を遮る。
 再び鞭を振り上げる。囚人が反射的に頭を抱え込む。狙い澄まして振り上げられたとおぼしき鞭はしかし、囚人の股をかすめ勢い良く床で跳ねた。
 威嚇。牽制。脅し。
 身の程の違いを弁えさせるための。身分の差を体に叩き込む為の。
 「私は敗北などしてはいない」
 ひび割れた声が迸る。
 沸々と込み上げる激情に支配された青年が鞭をとる。
 柄が軋む程に握り締めた鞭をおもむろに振り上げ、いずれも身の程知らずな囚人に触れるか触れないかの神業的な距離に掠らせ、畏敬の念を煽り立てる。
 「私はサーシャ。凍土に包まれし北の帝国を治める誇り高きロシア皇帝にして、いずれ王を廃して極東の監獄に君臨する選ばれし者。その私が高貴なる私がなにゆえ卑しい雑種風情に敗北を喫さねばならぬ、黄色い肌の異国人に惨敗して疵をおわねばならぬ、プライドを砕かれねばならぬ?私の好敵手は東の王ただひとり、それ以外は本気を出すに及ばぬ雑魚ばかりだ!!」
 唾とばし捲くし立てるうちに興奮してきたのか、白い頬があざやかに紅潮する。
 怒りに駆られたサーシャが縦横無尽に鞭を振るい混乱を招く。
 壁に床に天井に跳ね返った鞭が無軌道に虚空を走り、聴衆を巻き添えにする。 
 「とくわかったかこの下郎め、私は決して敗北者ではない、そのようなものではない!私は今でも誇り高きロシア皇帝たる矜持を失わず北棟に君臨し、レイジは皇帝に寵愛される犬として私に組み敷かれ夜毎よがり狂い……」
 「妄想の中でだろ」
 眼光炯炯、鬼気迫る形相で鞭を振るうサーシャの狂気に水をさしたのは場違いにのんびりした声。
 突如割って入った声の主は、サーシャの遥か前方にいた。
 今にも寿命が尽きそうな感覚で瞬く蛍光灯の下、平坦な通路の真ん中に一人の青年が立っている。
 「一応断っとくけど全然よがり狂ってねえから、俺。全部お前の妄想だよ」
 「会いたかったぞ、東の王」
 何事もなかったようにあっさりと鞭を腰にさし、足元にへたりこんだ囚人を無視し、軍靴の音も高らかに王のもとへと歩み寄る。
 「今日は何だ。デートのお誘い?それとも所長の呼び出し?パシリが板についてきたじゃんか。飼い主の言う事よく聞くけなげな犬だね」
 十メートル五メートルと距離が縮まる。点滅する蛍光灯の下、サーシャと向き合った青年が冗談めかして肩を竦める。
 サーシャは動じない。
 青年の戯言を鼻で笑い飛ばし、靴の踵を揃えて立ち止まる。
 薄氷の目から敵意を乗せた視線が放たれる。
 硝子の目が悪戯な笑みを含む。
 探り合うような視線を交わし、しばし沈黙する。
 「私は犬ではない。犬は貴様だ。思いあがるな」
 「へーへー。んで用件は?」
 「ここでは話せない」
 サーシャが優雅に踵を返す。ついてこいの意思表示。
 確認もとらずに来た道を戻る背中に一瞥くれレイジはため息を吐くも、その顔にはまんざらでもない笑みが宿っている。
 北と東のトップが遭遇した状況下でありながら何とも緊迫感に欠ける会話に毒気をぬかれ、囚人たちはただ北の皇帝と東の王を見送るしかない。
 「サーシャってば過激ィ。衆人環視の中で王様デートを誘うなんざ見上げた行動力だ。遠路はるばる国境越えて東棟までやってきたんだ、キスとハグで盛大に歓迎してやる」
 皮肉な笑みがよく似合う野生と甘さを黄金率で配分した顔。
 豹のようにセクシーな体つき。
 光加減で金に透ける明るい茶髪はまだ結ぶのは苦しいが、襟足に届くほどに伸びている。
 しかし何より目立つのは右目の無残な傷痕だ。
 眼帯の封印を解いて外気に晒した傷痕は酷く痛々しく、残る左目が硝子じみて綺麗な色合いをしているだけに一層悲惨さが際立つ。
 彼の名はレイジ。
 サーシャがこの度危険を犯して東棟を訪れた目的であり、サーシャが永遠の好敵手と自認する男だ。
 何度痛い目に遭っても懲りない様子で軽口を叩くレイジに、サーシャは不快感を隠しもせず渋面を作る。 
 「相変わらずよく動く舌だ。残る左目ごと切り裂いてしまいたい。戯言はいい、お前はただ私に従っていればいい」
 「サーシャ」
 「なんだ」
 「膀胱へいき?」
 その一言に場が凍結する。
 サーシャが硬直、しばし間をおいて機械仕掛けのぎこちなさで振り返る。
 「なんだと?」
 怒りを孕んだ銀髪がざわりと膨らむ。
 千匹の白蛇が蠢くが如く髪を逆立たせ、凄まじい剣幕で体ごと向き直ったサーシャを平然と受け流し、沸々と込み上げる笑いを懸命に噛み殺し、あえて真面目くさった顔と態度で進路方向を指さす。
 「そっちトイレだぜ」
 「…………」
 率先して歩いていたサーシャが唐突に立ち止まる。
 廊下の真ん中に立ち竦んだまま前進も後退もできず追い詰められたサーシャをあっけなく通り越し、レイジが先頭に立つ。
 「話し合いにゃちょうどいい場所がある。案内するよ。夕日が綺麗なデートスポットだ」 
 「弱味を握ったつもりか?頭にのるな。私は誓って方向音痴ではない、ただそう、王が治める東の地に来るのはこれが初めてなせいで地理がわからなかったのだ。それが証拠に私は一路お前の房をめざしていた、お前が無防備に垂れ流す動物的フェロモンを辿って道を急いでいたのだ。皇帝自ら腰を上げ迎えに来てやった事に感謝しろ、サバーカめ」
 「あーはいはい、そういうことにしといてやるよ面倒くさいから」
 恩着せがましく弁明するサーシャを適当にあしらいつつ、勝手知ったる道を歩いて階段の踊り場に立つ。

 壁に穿たれた吹き抜けの窓を身軽に跨ぎ越すレイジにサーシャも続く。

 展望台には人けがなかった。
 黄昏の空に残照が眩しい。

 コンクリ造りの展望台の向こうには延々と砂漠が広がっている。 
 視界の遥か彼方に地平線が横たわる雄大な光景に感銘を受けた様子もなく、真意の読めない沈黙を守り続けるサーシャをちらりと見やり、レイジが口火を切る。
 「で?話ってのは」
 砂塵まじりの風が髪を嬲る。
 サーシャは取り合わず眼前に拓けた眺望にしばし見入っていたが、軍服の懐をまさぐって何かを取り出す。
 不意にサーシャの手が撓る。
 反射的に翳した手に眼帯が飛び込む。
 無造作に投げ渡された眼帯を怪訝な表情でためつすがめつするレイジに視線を戻し、サーシャがそっけなく付け足す。
 「お前の眼帯だ」
 「わざわざ忘れ物届けにきたのか、一週間もたってから。ホント妙な所で律儀だね」
 呆れ半分に感心され、サーシャがさも心外げに顔を顰める。
 「忘れたのかレイジよ、その眼帯は渡り廊下の死闘の折にお前に奪われたものだ。それが手元にあると苦い敗北の味がよみがえり夜毎私を苦しめるのだ。サバーカの傷痕を覆った眼帯など目にするのも汚らわしく厭わしい、即刻引き取ってもらおう」
 「サンキュ。これないと落ち着かなくてさ」
 凝った装飾の眼帯をいじり、レイジは不敵に笑む。
 有り難く眼帯を受け取り、器用に顔にかけ右目を覆い隠す。
 褐色の肌に馴染む黒い眼帯が、右目を損なってもなお褪せることない不敵な笑みと野蛮さを増した美貌を際立たせる。
 黒い眼帯が褐色の肌にしっくり馴染むさまを見届け、あるべきものがあるべき場所におさまった満足感にサーシャが相好を崩す。
 「よく似合うぞ、サバーカ」
 「俺たちお揃いだな」
 折から強い風が吹き、上着の裾をはためかせる。 
 展望台に立った二人のまわりで風が渦を巻き空へと還る。
 「……何故敗けた、東の王ともあろうものが」
 唐突にサーシャが呟く。
 独り言に似た響きの声に、レイジは疑問の目を向ける。
 「とぼけるな。一週間前の事だ。暴動の混乱に合わせお前は檻から解き放たれそして敗けた、あの場に居合わせた私がこの目で見届けた。わからない。理解しがたい。お前ほどの男がなぜ名もない囚人に遅れをとった?調教疲れが敗因か?まさか、そんなはずはない。確かにあの日お前とヨンイルと安田の三人は所長室に呼ばれ長時間拘束された、しかし実際は……」
 含みを持たせて言葉を切り、探るようにレイジを見る。
 陰険な目でねめつけられたレイジはといえば、風が髪をなぶるままに茜色に暮れる空を眺めている。
 「所長室で行なわれたのは尋問だ。『ただの』尋問だ。性的な責め苦が必要とあらばそれを実行するのに躊躇はないが、とにかくあの日行なわれたのはお前たち三人に対する尋問のみだった。所長はヨンイルの漏らした情報にひどく執着していた。お前とヨンイルと安田の三人は規則に反した罪状で所長室に呼び出された。が、処罰される直前に不測の事態が起きた。それは……」
 「ヨンイルの拾い物」
 レイジがあっさりと返し、サーシャは一瞬鼻白むも気を取り直して続ける。
 「そうだ。所長はヨンイルの拾い物に大いに興味を示し一昼夜を尋問に費やした。なのに何故敗けたのだレイジ、機械仕掛けの木偶人形を倒せず殺せず失笑を買うはめになったのだ?お前が敗北するなどありえない絶対にそんなことは断じて認めない、お前は東京プリズンで唯一私に比肩しうる実力の持ち主だ。私はこう見えてお前の実力を高く評価している、お前以外に私の好敵手たりえるものはいないと思っている」
 口調に尋常ならざる熱が篭もる。徐徐に開かれる薄氷の目が狂気に濡れる。
 皇帝は怒っていた。
 おのれが唯一無二の好敵手と認める男が入所して一ヶ月足らずの名もなき囚人と均衡した立ち回りを演じ、結果としてその実力を不当に侮られてしまったのだ。
 平静でいられるはずが、ない。
 「なぜ手を抜いた、レイジ」
 レイジの胸ぐらを掴み無理矢理こちらを向かせ詰問する。
 レイジはばつ悪げに黙り込んだままサーシャの問いにも答えない。
 その態度がますます火に油を注ぐ。
 レイジの胸ぐらを手荒く揺さぶり至近距離に顔を寄せる。
 額がぶつかり痛みが爆ぜる。
 皇帝が怒号する。
 やり場のない怒りが突き上げるに任せ、振り絞るように叫ぶ。
 「お前はいつからそれ程腑抜けになったのだ、勝負を始める前から諦める腑抜けの負け犬に成り下がったのだ?あの猫がすべての原因か、あの猫がお前を誑かし戦意を失わせたのか?なるほど子猫と戯れるには鋭い牙も爪も邪魔だ、ならば抜いてしまえ折ってしまえ子猫を傷つけぬ為にと自ら身を守る武器を捨てたのか!?今のお前は東の王を名乗るにふさわしくないただの腰抜けの腑抜けだ、誇り高き皇帝の好敵手たりえぬ牙のない豹だ、今のお前は私に鞭打たれ哀しく吠えるサバーカが似合いだ!!」
 上着を掴む手が小刻みに震える。
 「……あんなお前など、見たくはなかった」
 銀髪に遮られた隻眼に悲痛な光が過ぎる。
 苦渋に顔を歪め、俯く。俯いた拍子に垂れた前髪が表情を隠す。
 展望台に静謐が降り積もる。
 口汚い罵倒を浴びてなお平然と開き直っていたレイジが、自嘲とも侮蔑ともつかぬ苦い笑みを吐く。
 「ナチスの軍服着て浮かれ歩く所長のペットに言われたかねーな」
 「お前は変わった」
 「悪いか」
 「弱くなった」
 「悪いかよ?」
 壊れた人形じみた動きで顔を上げたサーシャを出迎えたのは、返り血のような朱に染まる鮮烈な笑顔。
 「実力を出さなかったのは、猫に嫌われるのをおそれたからか。暴君に体を譲り渡して勝つよりも、猫の寵愛を失うのをおそれ嘆いたのか」
 「サーシャ。お前、俺を何だと思ってる?」
 レイジが矛先をそらすように肩を竦める。
 砂漠の彼方に沈みゆく夕日に目を細め、厳かに宣言する。
 「俺は戦闘のプロだ」
 ただありのままの事実を述べただけといったそっけない口調に伴うのは、過酷な訓練が裏付ける絶大な自信。
 眩い残照が目に染みてサーシャもまた顔を顰める。
 展望台の突端に立ったレイジは、端正な横顔を夕日に晒してひどく淡々と核心を抉る。
 「道了は喧嘩のプロだ。路上と戦場じゃ勝手が違う。銃弾飛び交う戦場と酒瓶の欠片が散らばった路上じゃ必然戦い方も違ってくる。道了は強い。王様も認める強さだ。俺もそれなりに本気出して殺りあったけどとうとう勝てなかったのがその証拠だ」
 風に舞い上がる髪を押さえ、レイジが悪戯っぽくサーシャを見て、試すように訊く。
 「サーシャ、お前に聞くぜ。ナイフと鞭とどっちが性に合ってる?」
 「全知全能の皇帝はナイフも鞭も比類なく使いこなす。無礼な問いは不敬罪に問うぞ」
 「たとえだよ、たとえ。素直に白状しろよ」
 呆れ顔のレイジに促され、サーシャは不承不承腰の得物に手を添える。その胸の内を複雑な表情が雄弁に物語る。
 展望台の突端に並んで立つ二人を微妙な沈黙が包むのも束の間、観念したようにサーシャがかぶりを振る。
 「ナイフに決まっている」
 どこか苦々しく吐き捨てたサーシャの横顔を愉快げに見やり、喉の奥で笑いを泡立てたレイジが不意に笑顔を消し真顔になる。
 風に吹き乱れる前髪の下、薄茶の隻眼が危険な光を孕んで細まる。
 「いいか?路上の流儀と戦場の流儀は違うんだ。俺はなるほど人殺しのプロだが、道了は人体破壊のプロだ。道了は顔色ひとつ変えず眉もひそめることなく、哀れな犠牲者の手足の関節をひとつずつ外して悲鳴を聞くことができる人種だ。イカレてるんだよ、ここが。どうしようもなく」
 レイジが自分のこめかみをつつく。サーシャは黙ってレイジの言葉に耳を傾けていた。
 こめかみを突いた指を下ろし、レイジは意味深に含み笑う。
 「たとえばサーシャ、お前は鞭も器用に使いこなすけどご自慢のナイフがなけりゃ本領発揮とはいかない。それとおんなじだ。俺の特技は一撃で標的を仕留めること、即座に致命傷を与えること、苦しむ暇もなく迅速で短絡な死を与えること。道了は違う。アイツは人間を壊すことそれ自体を唯一至上の目的に設定してる。敵をできるだけ長く苦しめて悲鳴を絞り上げるのに執心するタイプの狂人だ」
 らしくもなくどこかなげやりな調子で言い捨てるレイジに反発し、サーシャは即座に言い返す。
 「だからどうした。狂気の度合いではお前も負けてない」
 虚を衝かれたレイジが目を丸くする。サーシャはこの上なく不機嫌な顰め面のまま、それでも頑として主張を譲らずにレイジをねめつける。
 空気が帯電したように緊迫する。
 暮れなずむ空の下に向き合った北の皇帝と東の王は、揃いの眼帯で傷痕を隠し、残照を吸い込んで色合いを深めた隻眼で互いを探り見る。
 「庇ってくれんの?どうしちゃったんだ、お前。俺のことサバーカ呼ばわりして偉そうにふんぞり返る皇帝サマはどこ行った」
 さも意外げに嘯くレイジの隣に立ち尽くし、サーシャは感情を排した声音で語る。
 「レイジ、お前は私の好敵手だ。気高く誇り高いロシア皇帝が極東の監獄で唯一認めた男だ。お前が敗北を喫すれば皇帝の権威まで貶められる、名もなき囚人に引けを取った王がかつて私を下した男とあっては北の誇りに傷が付くのだ」
 「ところでサーシャ、怪我は大丈夫か。廊下ですっ転んで破片が刺さったって聞いたぜ」
 その一言が引き金を引いた。
 「―!!っ、」
 はぐらかすような切り返しに激怒したサーシャがレイジに掴みかかる。
 レイジは笑顔でその言葉を発した、事もあろうに対等な好敵手を自認するサーシャにむかって「大丈夫か」とそう聞いた、プライドをずたずたにする無神経な言葉を投げかけた。屈辱だった。北の大国ロシアを統治する皇帝ともあろうものが汚い褐色肌の雑種に怪我の具合を心配されるなどあってはならないことだ絶対に。レイジがなにげなく発した言葉を最大級の侮辱と受け取ったサーシャは、頬をあざやかに紅潮させ、類稀なる美しさのアイスブルーを激情にさざなみだててレイジの胸ぐらを締め上げる。
 「……お前に心配されるほど私はおちぶれてない。東の王ごときに気遣われるほど私の体は脆くはない」
 「馬鹿言え、そうそう麻薬中毒が治るかっての。ヤクのやり過ぎで骨の髄までボロボロの癖によ」
 「薬とは手を切った。私は正気だ」
 「ロシア皇帝とか自称してる段階で手遅れの誇大妄想狂だろ」
 反省の色などかけらもなく飄々と言い放つレイジに逆上し、手の甲に静脈が浮くほどの怪力をもって胸倉を締め上げる。
 空が暮れる。夕日が沈む。
 砂漠に吹く風がこまかな砂を展望台に撒き散らす。
 サーシャが半歩踏み出し、されるがまま無抵抗のレイジに体を密着させる。
 レイジは余裕の表れか単に無気力なのか、どちらとも判断しかねる醒めた様子でサーシャを見詰めている。
 ぶつけた感情をも反射する透明な硝子の目に危うく取り込まれそうになる。
 その落ち着き払った態度がまた神経を逆なでし、目つきの険が増す。
 しっとり汗ばむ首筋が嗜虐心を疼かせる。しなやかに引き締まった首筋から鎖骨に至る芸術的な流れが目を奪う。
 乱れたおくれ毛が頬に纏わる様が妙に扇情的で、艶めく媚態に劣情を催したサーシャは生唾を嚥下する。
 「忘れるなレイジ、お前は私のサバーカだ」
 褐色の首筋に指を這わせながら熱に浮かされたように呟く。 
 首元には華奢な金鎖が覗いている。一週間前道了に握り潰された十字架をレイジはまだ大事にかけている。未練たらしい男だと心の中で嗤いながら、しかし今でも最愛の兄から贈られたナイフを手放せないおのれを省みて、口の端に浮かんだ笑みが悔恨の滲んだ苦渋に塗り潰される。
 間近でレイジを睨み付ける。
 風が止む。
 変化に乏しい砂漠を見晴るかす夕凪の展望台にて、怒れる皇帝が傲然と宣言を下す。
 「飼い主の許可なく他人に敗けるのは許さない、絶対に。戦うなら、勝て」
 噛み付くようにレイジの唇を奪う。避ける暇も拒む猶予も与えず、貪るように深く深く口付ける。唇をこじ開け隙間に舌を突き入れ大胆に口腔をさぐる。飲み干しきれない唾液が口の端に透明な筋を作り滴りおちる。
 レイジはポケットに手を入れたまま、拒むでもなく落ち着き払い欲望の赴くままに貪り尽くす接吻を享受していたが、サーシャが酸素を欲して体を離すと同時にわざとらしく咳き込み、手の甲で顎を拭いながらおどけてみせる。 
 「応援サンキュって返しとくべき?けどさ、お前がそんなに俺のこと心配してくれてるなんてびっくりだぜ。意外と愛されてるんだな俺。やっぱあれか、こないだのあれは愛の鞭ってやつか?俺のこと愛しすぎるあまりつい苛めたくなっちゃうんだよな、Sっ子さっちゃんは。難儀な性分だぜ本当」
 「卑しい雑種の分際で偉そうに私を語るな。薄汚いサバーカめが私の何を知ってるというのだ」
 憎むべき相手に自身を語られる不快さにサーシャが吐き捨てれば、すべてを見透かしたような得心顔のレイジが首元の鎖を手繰り寄せ、変形した十字架を服の内から抜き取る。
 眩く夕日を照り返し、神々しい真紅に燃える十字架をサーシャの目の位置に掲げ、共犯者めいて微笑む。
 「ホセから聞いたぜ、お前のマリアの事」
 レイジの言葉が意味するところを悟り、サーシャが衝撃を受ける。
 驚愕するサーシャの額に軽く十字架を触れさせ、続ける。
 「祝福を分けてやる。いつか会えるといいな」
 「な、な、なっ………」
 「知ってるぜ。お前が所長の傀儡に成り下がったのはホセの陰謀だろ。でもそれだけじゃない、大方所長のそばにいりゃ何かと融通利かせてもらって故郷の兄貴の消息とか知ることができるって一縷の希望を繋いだんだろ。全部ホセに吹き込まれたんだよな?ったく……自分は表舞台に出ずに裏でいと引いて美味しいとこどりなんて隠者らしいやり口だぜ」
 ひとり合点したレイジが展望台にサーシャを残り用は済んだと踵を返す。
 優雅に身を翻し、猫科の肉食獣を彷彿とさせる軽快な大股で展望台を去るレイジをもはや呼び止める気力もなく、愕然と佇むサーシャを濃淡に富む夕闇が包んでいく。
 漸く呪縛が解けた時、既にレイジは遠ざかっていた。
 
 『いつか会えるといいな』
 その言葉が与えた衝撃は計り知れず、動揺を禁じ得ない。

 それでもサーシャは縺れる足を叱咤しレイジに追いすがる。
 天敵に弱味を掴まれた焦燥を滲ませ、真実の残酷さに打ちのめされ、完全に理性を失い取り乱し。
 「貴様なぜその事を知ってる、ホセか、あの下郎が口を割ったのか!?私のマリアとは救い主とはあの男のことか、私の異母兄にして理解者にして忠実な臣下たるあの………っ」
 常の尊大さをかなぐり捨て、故郷に残した最愛の人へと繋がるか細い糸を手繰りよせんと必死に叫んだサーシャにそっけなく別れを告げる。
 「帰らなきゃ。ロンが待ってるんだ」
 いつものふざけた態度からは考えられぬひどく真剣な声音だった。
 「答えろレイジ、ギロチンにかけるぞ!!何故お前がお前ごときがあの男の存在を知っている、私が所長に侍る目的まで見透かしたような口を利く!?前言を撤回しろ、私は兄の消息が知りたくて所長の傍らに侍っているわけではない、誇り高き皇帝がそのような惨めな真似をするものか、あの男など生きてようが死んでようがどうでもいい、清く正しく美しく、虫も殺さぬ聖者の仮面の下で妾腹の私を蔑んでいた唾棄すべき偽善者など凍結地獄におとされ永遠に呪われるがいい!!!」
 息継ぐ間もなく心情を吐露するサーシャに強風が吹き付け、残照の輪を冠した銀髪が盛大に舞い上がる。
 未練がましく己を呼び止めるサーシャには一切関心を示さず、一度も振り返らず展望台を横切り、窓枠に片足かけたレイジが衣擦れに紛れそうな小声で独白する。
 「帰らなきゃ。ロンのところに」
 無意識に胸元の十字架を掴んで心を鎮静させ、祈るように目を瞑る。
 褐色の五指に鎖を絡める。
 薄っすらと汗ばむ手で十字架を揉みしだき、閉じた瞼の裏に大事な人間の面影を抱き、レイジは言った。
 「ロンが壊れねーうちに」
 その顔には紛れもなく焦燥が滲んでいた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050404162916 | 編集

 寒い雨の日だった。
 吐く息が白く曇る。濡れ髪から滴る雫がうざったい。
 びしょ濡れの髪をかきあげ、猫のようにかぶりを振って水滴を払う。
 湿り気を帯びた体をいつもより重たく感じる。
 たっぷり水気を含んだ薄手のジャンパーが青褪めた肌にへばりついて皮膚の色を透かす。
 このままじゃ風邪をひいちまう。
 どこかで乾かさなきゃと至極真っ当な事を考えるも肝心のあてがない。さっぱりない。
 俺は途方に暮れてプレハブの庇から滴る雫を眺めていた。
 みすぼらしくペンキの剥げた庇から滴る雫が、アスファルトの路面に波紋を投じる。
 側溝には轟々と唸りをあげて濁流が氾濫していた。
 季節は梅雨。
 毎日のように降る雨がスラムの輪郭を滲ませる。
 排気ガスやら産廃の煙やらの有害物質をこれでもかと含んだ雨は心なし薄汚れて見え、当然ながら人体に悪影響を及ぼす。
 頭のまともな人間は雨の日に出歩かないし、よしんば出歩くにしても雨よけの傘とコートは必需品で、できるだけすばやく用事を済まして屋根の下に引っ込むのがスラムの常識だ。
 スラムに降る雨は住民の命にかかわる。
 おまけにこの雨ときたら排気ガスやら産廃の煙やらを攪拌し蒸留した有害物質のフルコースの上に腐食性の酸性雨ときてる。
 酸性雨といっても肌にふれたそばからじゅっと肉を溶かす硫酸並みに危険なものではなく、直接肌に触れても多少ひりひりする程度の弱酸性のものだが、それでも長時間浴び続けるのはよろしくない。一時間も浴びつづければ軽度の火傷に似た様相を呈し皮膚が炎症を起こす。
 半日となると目もあてられない。硫酸並という表現が大袈裟じゃなくなる。自慢の肌が焼け爛れるのが嫌なら雨の日は出歩かないのが無難だ。
 2030年頃から急激に増え始めた雨アレルギー発症者は、直接雨にふれただけでも全身に発疹がひろがり、猛烈な痒みと痛みに悩まされた挙げ句肌がひどくかぶれてしまうのだそうだ。酷い場合はショック症状で死に至るともいうからおちおち外も出歩けやしない。

 分厚い雲を一面に敷き詰めた空から透明な糸引き雨が滴る。
 無数の雨糸で天と地が繋がる。
 雨がプレハブの庇を叩く小気味良い旋律に聞くともなく耳を傾け、いつやむともしれない雨を無為に眺め続ける。
 見ているだけで気が滅入る陰鬱な空。
 誰かの心のように濁りきった空。
 俺の心のように。

 庇を叩く雨音が次第に間隔を狭め激しくなる。
 庇を乱打する雨音がうるさくて顔を顰める。
 寒い。体が芯から凍える。
 さっきから震えが止まらない。ずっとぬれた服のままでいるのはまずいとわかっていてもここで脱ぐのは抵抗あるし着替えもない。
 八方塞りの現状に何度目か数えるのも飽いた溜め息を吐く。
 昼だというのに雲に覆われた空は薄暗く、あたりに人けはない。
 安普請のアパートが乱雑に建ち並ぶスラムの片隅、不況の煽りを食って閉鎖された工場街。
 その一角の無個性な倉庫の前。
 俺は今そこにいる。
 シャッターを下ろした倉庫の正面に所在なく座り込んでいる。
 雨の勢いは一向に衰えない。
 ざあざあと音がする。
 天から降り注ぐ雨が巨大な廃墟と化したスラム全体を包み込んで、黒一色の濃淡で描いた墨絵のようにすべてを模糊とぼやかしていく。
 薄ぼやけた紗幕が視界を閉ざす。
 水煙が立ちそうに紗がかった視界の中、幾重にも波紋が生じる路面の水溜りに空き缶が浮かんでる。
 雨に打たれるがまま錆びていく空き缶に何かを投影する。
 たとえば俺自身とか。
 近い将来惨めに野たれ死ぬしかないガキの末路とか。
 寒い。黙ってるだけで手がかじかむ。指の震えがとまらない。尻を接した地べたから冷気が這い上り尾てい骨を冷やしていく。
 ぎゅっと指を握り込むも、殆ど握力が失せている事に狼狽する。
 寒さと飢えと疲労と今日の寝床すらない心細さが容赦なく気力と体力を奪い去る。
 諦めてこぶしをほどき、間接が白く強張った指を見下ろす。

 水が絞れるジャンパーじゃさっぱり暖まりゃしないが、ないよりゃマシだ。
 ジャンパーを脱いだ下は薄汚れた半袖シャツ一枚と半ズボンだけだ。
 ジャンパーを羽織っていたほうがまだしも気休めになる。

 『ちょうどいい洗濯になったぜ。垢がとれてよかったよ』
 誰にともなく呟く。虚しい独り言。当然返事はない。
 あたりに響き渡る雨音が静寂を際立たせる。
 雨の散弾に穿たれた空き缶が右へ左へ揺れ動く。
 路地の峡谷の底から狭苦しい空を見上げる。

 都下最大スラム、池袋。
 土地の狭さに反比例し人口が膨れ上がったここでは貧困層のアパートは何階層も寄せ集まり、更なる高みをめざして上へ上へと発展していく。
 日陰の雑草と同じだ。
 日陰の雑草は長く長く茎を伸ばし少しでも太陽に近付こうと悪あがきをする。
 地べたに這いつくばって生きるっきゃない貧乏人も同じだ。明るい方へ明るい方へと競って背伸びした結果がこれだ、肩寄せ合って窮屈そうに地上に犇くアパートの群れだ。慢性的人口過密状態のスラムには高さと引き換えに安全性を放棄した今にも倒れそうなビル群が密集し、互いに寄りかかる事で辛うじて均衡を保ち、それらが合体した巨大な影が地上をすっぽり覆い尽くしてる。貧乏人には日照権なんざ当然ない。

 俺が育った街。
 何の愛着もわかない。
 嫌な思い出しかない。

 生まれてから十二年と少し、お袋と暮らしたオンボロアパートは猥雑な町並みに埋もれてここからじゃ見えない。
 その事に安堵すると同時に残念がる矛盾を抱えた自分を不思議に思う。
 俺のお袋は母親としてはおよそ最低な部類だった。
 育児の義務を放棄し家事はさぼりガキが小さかろうが空腹だろうがお構いなしに男を引き込み、そのくせ躾だけは厳しく鬱憤晴らしの折檻を伴った。
 十二年におよぶお袋との暮らしを回想し、目を閉じて自分の本心をさぐる。
 一抹の未練もない、はずだ。
 そりゃそうだ、未練なんかあるわけねえ。
 あの売女が酒の飲みすぎで肝臓癌になろうが腹上死しようが痴情のもつれで刺されようがどうでもいい。自業自得因果応報。もう関係ないんだと自分に言い聞かせて平静を保とうとするも、いまだ断ち切れない何かが胸の奥底でうねり、鉄筋階段が軋むボロアパートへと記憶を引き戻す。
 親子の情愛とか未練とか名付けるのは死ぬほど癪だが、けれどもそう名付けるしかない俺とお袋を繋ぐ目に見えない何か。
 あるいは一方的な執着。
 
 勢いに任せて廊下に転がり出る。
 般若の形相のお袋が、蛍光灯の薄黄色い光を背に立ちはだかる。
 お袋は下着姿だった。鴉の濡れ羽色の髪が乱れて肩に流れていた。
 三十路を過ぎても形が崩れず張りを失わない乳房が安っぽいブラを押し上げ存在を主張していた。化粧が剥げた顔には生活の荒れを忍ばせる年相応の小皺にくわえ計算高さと驕慢さとが折り合った婀娜っぽい表情が浮かび、お袋がいかに性悪な女かを雄弁に物語っていた。

 どぎつい口紅を塗った唇を憎憎しげに歪め、ねじり、甲高い声で怒鳴る。
 俺への呪詛。お決まりの罵詈雑言。

 もう帰ってくるなごくつぶし厄介者疫病神、あんたがいなくなりゃせいせいする、ガキに遠慮することなく仕事に精を出せる、もう二度とそのむかつくツラを見せるな、あんたの親父と同じようにどこへなりとも消えて二度と目の前に現れるな、再見、いや、二度と会いたくない相手に「再見」なんて別れの文句はおかしい、ああくそこんな時台湾語は不便だわ、ちょうどいい言葉が見当たらないなんて!!

 口汚く毒づくお袋の醜く歪んだ顔を思い出し、俺もまた顔を歪める。
 今の俺はきっと、別れ際のお袋によく似た醜い顔をしてる。
 皮膚の下で脈打つ憎悪を滾らせた、どうにも抑えがたい憤怒の形相。

 『再見なんざこっちから願い下げだ。男に跨って腰ふるのが仕事の売女の分際で偉そうな口きくな。男のモンしゃぶってイかせて突っ込ませてまたイかせて、その繰り返しで稼いだ金で十二年も養われてたのかと思うとぞっとする。寄せて上げて乳こしらえてる年増がいばんなよ。全部こっちの台詞だ。
 あんたとおさらばできてせいせいする。ヒモと乳繰り合ってるとこ見せ付けられンのはうんざりだ。あんたがしゃぶってるとこ見るたび吐き気がした。喉の奥までずっぽりアレ咥え込んだ間抜け顔、あんた一度も鏡に映したことないだろ?相当笑えるぜ』

 お袋を口汚く罵り怒りをなだめようとするも、瞼裏に懐かしい面影が過ぎるのに合わせて舌鋒が鈍り、若干の後ろめたさを覚える。
 なんで?俺が後ろめたく思う必要なんかない、これっぽっちもない。
 激しくかぶりを振ってお袋の面影を追い払おうと努める。たっぷり水気を含んだジャンパーが毛穴を塞ぐのが何とも鬱陶しく息苦しい。
 胸が、痛い。
 とうに捨て去ったはずのくだらない感傷が胸を締め付ける。
 今頃お袋はどうしてる?俺がいてもいなくてもいつもどおり男を引っ張り込んでよろしくやってるのだろうか、かわらず元気でいるのだろうか。
 『再見なんざ言うもんか』
 俺はそれしか別れの挨拶を知らない。
 再会を期した別れの挨拶しか俺の国にはない。
 俺はあの時お袋を罵倒し背を向けた。別れの言葉は言わなかった。お袋もまた「再見」は言わなかった。鉄筋階段を踏み鳴らしけたたましく駆け下りる俺の背中に投げ掛けられたのは、「二度と帰ってくるな中国人の落としだね、あんたの行き先は刑務所か地獄かどっちかよ」という勝ち誇った声だった。

 わざわざ振り返らなくてもどんな顔をしてるか容易に目に浮かぶ。
 紅潮した目尻をきっと吊り上げ、ただでさえきつい顔立ちに尖った険を浮かべ、高飛車に腕を組み
 『あんたの行き先は刑務所か地獄かどっちかよ』
 俺の運命を予言する、声。

 廊下のど真ん中、淡く滲んだ蛍光灯のあかりで剥き出しの肩を照り光らせ仁王立つお袋を思い出す。
 別れ際に見たお袋の姿。
 決して俺を許さないときつく口元を引き結び、爛々と白目を光らせた般若の顔には、峻烈な拒絶の意志が漲っていた。

 『…………冷』 
 寒い。体の芯まで冷気が染みこんでくる。
 今の俺には行く所がない。帰る所がない。どこにも居場所がない。
 お袋のアパートをとびだしてから数ヶ月は路上で暮らした。
 けれども路上にも縄張りがあった。
 俺はどこでも目の敵にされた。
 どいつもこいつもが躍起になって俺を追っ払おうとした。
 温風を吐き出す排気口近くの寝床を死守するために、新鮮な生ゴミが供される食堂の裏口に俺を近寄らせないために、ガキどもは始終警戒を怠らず徒党を組んで俺に石を投げた。
 すばしっこいのだけが取り得の俺はそれでもしばらくは上手く立ち回っていた。
 ガキどもの目を盗み隙をつきゴミ袋かっさばいて残飯をかすめとり、使用済みコンドームと折れた注射針が散乱する幅二メートルの小路でも反吐の真横でも文句をたれずに寝た。公園の便所で寝たこともある。
人目なんか気にしてられない。最低限雨風しのげて凍え死にさえしなけりゃどこでもよかった。
 寝心地の良さなどどうでもいい。
 一夜限りの安全と安心が保証されればそれでいい。
 けれど野宿にも限界がある。他のガキどもに目の敵にされたんじゃ尚更だ。過酷な路上暮らしは容赦なく俺の気力と体力を削り取っていった。  

 そして梅雨が訪れた。
 俺は相変わらず居場所がなかった。
 一箇所に長く留まるは危険なために、三日ごとに街を徘徊して寝床をかえねばならなかった。
 三日以上同じ場所にいると、路地を縄張りとする路上生活孤児どもに否応なく叩き出されるはめになるからだ。
 俺は転々と寝床をかえた。
 けどそろそろ限界だった。
 体力はとうに底を尽きていた。足は棒のように突っ張って一歩進むにも己を駆り立てねばならなかった。追い討ちをかけるようにこの雨だ。泣きっ面にはち。悪い事はとことん重なるものだ。
 もう立ち上がる気力もなかった。
 物凄い勢いで降りしきる雨がアスファルトを濡らしていく。アスファルトで固めた平坦な街路に水溜りが出来て、やがてその水溜りは大河となり渦巻き白濁した飛沫を上げて轟々と排水溝へ注ぐ。
 何もかもが色褪せくすんでいた。
 毎日のように降り続く雨が街の活力と色彩を奪っていた。
 鼻がむずがゆい。
 『へっぐじ!』
 盛大にくしゃみをする。鼻水が垂れる。
 上着の胸にたれおちた鼻水をずずっと啜り上げ、鼻を擦る。
 悪寒がする。
 ぞくぞくする。
 体の表面は鳥肌立つほど冷えているのに奥が妙に熱っぽい。
 『感冒了?』
 風邪ひいたか?
 背筋沿いに込み上げる不安と寒さをごまかそうと二の腕を擦る。
 背筋を悪寒が駆ける。鼻がむずむずする。啜り上げたそばから性懲りなく鼻水が垂れてきてどうにも情けない。
 無造作にジャンパーの裾をたくし上げ、勢い良く鼻を噛む。
 鼻水を拭いたジャンパーの裾はかぴかぴ安っぽくてかっている。
 『畜生、腹減った。中からあったまりてえ。給我一杯粥』
 鼻をぐずつかせながら愚痴る。
 医者にかかる金も保険証もねえ路上生活者にゃただの風邪も命取りなる。肺炎にかかるのだきゃごめんだ。
 シャッターに背中をもたせる。
 少しでも体温が失われるのを防ごうと身を丸め膝を抱え込む。
 裸の膝に顔を埋める。
 雨の音が一層大きくなる。
 最低に惨めな気分。最悪の気分。
 間断なく身を苛む寒さとひもじさに耐えかねてかじかむ手で肩を抱く。水滴が顔に跳ねる。路面で跳ねた水飛沫が手といわず顔といず霧を吹いたように濡らしていく。
 どす黒く濡れたアスファルトの路面には荒廃を物語るように大小の亀裂が生じている。
 雨を避けて紛れ込んだ工場街はモノトーンの静寂に支配されていた。
 ここなら人目を気にせず雨宿りができると苦渋の選択をして倉庫の軒先を借りているのだが、こんなに静かだとかえって薄気味悪い。
 全体に漂う裏寂れた雰囲気が何とも気を滅入らせる。
 見渡す限り続く廃墟。両扉を閉ざした工場から機械の駆動音も聞こえず、無個性な倉庫群にはシャッターが下ろされて野良猫一匹たりともいれるものかと拒絶の意志を表している。

 工場の中に入れりゃちょっとはマシなのに、畜生。

 舌打ちし、シャッターの隙間がないかと視線を走らせる。
 俺はちびだがらシャッターの隙間に潜り込むことだってできる。
 屋根の下にいりゃ水飛沫がとぶこともないしこれ以上体が冷える事もないし、第一だれにも脅かされずぐっすり眠ることができる。
 お袋のアパートを飛び出してから屋根の下で寝た数わずか五回、抹香臭い廟の軒先と公園のトイレと廃墟のビルと地下鉄のホームとスクラップ置き場の廃車の中。
 あとは全部野宿。
 ああ、屋根の下が恋しい。固い床が恋しい。
 体を平らにすることができるなら寝返りの度あちこち痣ができる固い床だって文句は言わない。
 上手く工場内に忍び込みゃ今夜の寝床は……
 『!?誰だっ、』
 声が尖る。反射的に腰を浮かせ、シャッターに縋って立ち上がる。
 悄然と水煙が立ち上る視界の中、水飛沫を弾かせて何者かがこちらに歩いてくる。
 いつのまに現れたのか全然気付かなかった。
 迂闊だった。俺としたことが、物思いに沈んでいて敵の接近に気付くのが遅れたらしい。
 いや、まだ敵と決め付けるのは早い。
 神経を尖らせて何者かの接近を待つ。
 この距離からじゃ雨に邪魔されて顔も視認できない。
 背格好から察するに俺より二つ三つ年上らしいが、均整とれた長身の癖にどことなく歩き方がぎこちない。機械仕掛けの人形のようにぎくしゃくした歩みに違和感を覚え、煙る紗幕の向こうに目を凝らす。

 動悸が速まる。
 耳の中で鼓動が膨らむ。
 高鳴る鼓動にざぁざぁと雨音が被さる。
 全身を巡る血流かそれとも雨の音か、小豆を磨ぐようにざぁざぁいう音が体の内と外どちらのものか境界が溶け出してじきに区別がつかなくなる。 

 『…………っ』
 なけなしの気力を奮い立たそうときつく唇を噛む。
 自重を支えられず、今にも膝が萎えて崩れ落ちてしまいそうだ。
 ひどく苦労して唾を飲み下す。唾が喉にひっかかる。緊張で顔が強張る。体の脇でこぶしを構える。いつどの距離から殴りかかってきてもいいように覚悟を決める。
 
 そして、そいつは俺の前に現れた。
 
 『…………金、銀?』 
 チン、イン。
 突如目の前に現れた男は、人ならざる魔性の証の金の右目と銀の左目を持っていた。
 強靭な眼光。
 その眼光の冷徹さに気圧されて無意識にあとじさる。
 ガシャン、背中に衝撃。間抜けにもシャッターに激突したらしい。
 能面じみて無表情な顔の中、静謐な金属の瞳がじっとこちらを窺っている。観察している。俺とそうかわらない年齢だってのにただらぬ威圧感を発している。
 ところどころ銀のメッシュを入れた短髪が濡れそぼって額に貼り付いてる。細く刈り込んだ眉と涼しげな切れ長の双眸、肉の薄い繊細な鼻梁と酷薄そうな薄い唇、神経過敏気味に尖った顎。端正と評していい顔だちだが、如何せん表情が欠落してるために初対面の人間にとんでもない違和感と不気味さを与える。
 男はびしょ濡れだった。
 踝まで届く黒革のレザーコートは一目でわかる高価な物で、爬虫類の皮膜のようにのっぺり照り輝いて水を弾いていた。
 だれとも馴染むつもりはないといわんばかりに。 
 眼底まで射抜くような冷徹な眼差しに気圧されつつも、弱味を見せたら負けただと己を叱咤し虚勢を張り、対抗心に燃えて顎を引く。
 そぼふる雨の中に微動せず立ち尽くす男を不可視のオーラが取り巻く。

 近寄り難い雰囲気。威圧感。孤高。

 男は醒めた瞳で俺を眺めていた。
 ひどく退屈げな様子だった。
 たとえばそう、俺がさっきまで何の目的も意味もなく空き缶を眺めていたみたいに、雨の散弾が空き缶を貫通するその瞬間をさほど熱心でもなく単なる退屈しのぎで眺めていたみたいに。
 重苦しい沈黙。激しい雨音が残響を帯びて静寂を満たしていく。
 唇を湿らし、何を言おうか迷う。
 俺は少なからず動揺していた。突然目の前に現れた正体不明のオッドアイ男にとてつもない不審感を募らせていた。
 なんだコイツ?正気か。人間か。人間なら何か言えよ。なんで一言も発さず黙りこくってやがんだよ、不気味なヤツだぜ。ほら、オハヨウゴザイマシタとでも言ってみろ。初顔合わせの挨拶は人間関係の基本だろ。  
 どしゃ降りも意に介さず目の前に立ち続ける男が人間の皮を被った機械のような錯覚に囚われ、耐え切れず声を上げる。
 『お前、頭がおかしいのか』
 単刀直入に疑問をぶつける。男がほんのかすか怪訝な顔をする。
 初めて反応が返ってきた事に内心安堵し、どうやら人間らしいと判断を下す。
 人間なら話が通じるはずだ、理屈が兼ね合うはずだ。
 いつまでも立っているのがアホらしくなり、シャッターに背中をもたせてそのまま力なくずりおちる。
 元通りへたりこみ、呆れ顔でオッドアイの男を仰ぐ。
 『こんな雨の中をほっつき歩く命知らずの物好きがいるたァ驚きだ。ヤクの打ち過ぎで頭のネジがとんでじゃねーの?いくら上等なコートを羽織ってたってどしゃ降りの中を歩くのはおすすめしねーな、自慢のコートに穴が開くのはお前だって願い下げだろうが。つかさ、せめて傘ぐらいさしとけよ。その年でハゲちまうのはイヤだろお洒落さん。酸性雨で髪の毛溶かされて残り一生丸坊主で過ごすなんざ、せっかくカラコン嵌めてめかしこんでても台無しだっつの。瞳の色隠してハゲ隠さず。ま、あんたがハゲようがどうなろうが知ったこっちゃねーし関係ねーけど……』
 くしゃみをする。
 二回目。今度は続けざまに三回目、四回目、五回目がくる。
 『くそ、うざってえ。どうにかなんねーかな、これ。むずがゆいっちゃありゃしねえ』
 手の甲で赤くなるまで鼻をこする。
 レザーコートの男は銀の左目だけを器用に眇める。
 見ず知らずの他人にくしゃみと独り言を見られたばつの悪さに、レザーコートの男に怒りの矛先を転じる。
 『ぼうっと突っ立ってんなよ。見世物じゃねーよ。いや、この際見世物でいいから金か食い物恵んでくれよ』
 催促して手のひらを突き出す。
 男は無言、無表情。俺にものを恵む気は毛頭ないと見える。
 薄情なヤツだと邪険に舌打ち、腹を立てそっぽを向く。
 再び沈黙。
 さりげなさを装いちらちら男を盗み見る。
 どうにも居心地が悪い。
 男は雨の中に突っ立っている。
 濁った空を背景に水が氾濫する路上に立ち尽くす姿は不吉の象徴に見え、無視できない存在感でもって否応なく俺を惹き付ける。
 男は動かない。雨がどれだけ激しくなろうともそこを動かず、全身濡れるがままに立ち尽くす姿は異様な迫力を伴う。
 頭をかきむしり、何度目かわからない舌打ちをくりだす。 
 『入れよ』
 男が俺を見る。
 眼底まで射抜くような透徹した眼差しに心臓が凍る。
 『そのまま雨ん中に突っ立ってたら風邪ひいちまう。隣に来いよ。雨があたんねーだけちょっとはマシだろ。それとも何か、お前は肺炎で死ぬのを望む自殺志願者か?どうでもいいが俺の前で雨に打たれるのはやめろ、気になってしょうがねえ。だいいち目障りだ。やるならどっか他のとこに行ってくれ。ここから消えるつもりがないならまともな人間らしく雨を避けるふりくらいはしてくれ。頭のイカレた人間とツラ突き合わせてだんまり決め込んでると気分が暗くなる』
 尻をずらして端に寄る。肩に雨がかかるが気にしない。
 しかしせっかく場所を空けてやったのに、それでも男は動こうとしない。ただ少しだけ奇妙な顔をしてこちらに一瞥くれただけだ。
 なんだそのひとの親切を足蹴にする態度は。いい度胸じゃねーか。
 『まさかお前、本当に機械だって言うんじゃねーだろうな。寒さも痛みも感じねえってぬかすんじゃねーだろな』
 冗談だった。
 さっきから人を無視しつづけるむかつく男を皮肉ったつもりだった。
 ところが。
 『感じない』
 初めて聞いた男の声はひどく平板だった。
 一滴の感情も篭もらぬ乾いた声。
 抑揚なく呟いた男は、その瞬間も表情を崩さなかった。
 端正な顔の中、唇だけがかすかに動く。
 腹話術みたいだなと妙に感心する。
 短い音節を発した唇が再び閉ざされ、冷え冷えとした眼差しが俺の顔におりてくる。
 我知らず言葉を返していた。 
 『そりゃよかったな』
 その瞬間の男の顔をどう形容すればいいか……金銀の双眸が一瞬だけ見開かれ、躊躇いの波紋が生じる。俺の言ったことが本気で解せないといった当惑の様子、不可解な表情。
 男が小首を傾げる。
 その様が妙に子供っぽくて、笑いを堪えるのに苦労する。
 耳を聾する雨音が俺たちを外界から隔絶する。
 人形じみて端正なオッドアイの男と対峙した俺は、不敵な笑みを添えて得意の憎まれ口を叩く。
 『寒さや痛みを感じないってことはお前は人間じゃない、機械だ。お前の気管は鉄パイプ製だ。内蔵はさぞかしメタリックな銀色に輝いてることだろうさ。ネジとゼンマイとポンプがお前の腹ん中に入ってるもんでガソリンがお前の原動力さ。よかったじゃねーか、風邪ひく心配なくて。肺炎にかかる心配なくて。けどさ、いくら機械だからっていつまでも雨ん中に突っ立ってたら間接錆び付いちまうぜ。お前だって道のど真ん中で故障すんのはイヤだろ?いいからこっち来いよ、お人形さん。俺の隣で行儀よくお座りしとけ』
 軽く男を手招く。
 男は胡乱げに目を細めたまま一歩たりとも動こうとしない。
 とことん強情だ。意志のない人形の癖に頑固なヤツだ。
 諦めて手を下ろす。そんなに雨の中のいるのが好きなら放っとけ、好きにさせとけという投げやりな気分で説得をやめる。
 人の話も聞かず雨に濡れる男をほとほと呆れて眺めやり、ぽつりと本音を吐露する。
 『可哀想に』
 男が緩慢な動作で首をおこし顔を上げる。
 たいして大きな呟きじゃなかったのに雨音にかき消されず耳に届いたらしい。正面を向いた男は相変わらずの無表情で、左右色違いの金属の瞳が人を寄せ付けない孤高の光を放っている。

 前髪から鼻の先端から尖った顎先から雫が滴る。
 全身びしょ濡れの悲惨な風体がそう見せたのだろうか。
 同じ無表情であるにもかかわらず、その時その瞬間の男が途方に暮れた子供のように見え、自然に言葉を紡いでいた。 

 『寒さや痛みやすきっ腹を感じないのは羨ましいけど、きっとそれ以外のもんも感じてねーだろ。可哀想だよ、お前』
 生まれてから一度も笑ったことのないような無表情が、ほんの少しだけ動く。
 能面じみた顔を過ぎるのは、驚きとも怒りとも付かぬ激情のさざなみ。
 俺は会ったばかりで名前も知らない男に同情と共感を覚え始めていた。

 こいつは可哀想だ。
 ずぶ濡れのびしょ濡れで全身からぽたぽた雫をたらして、けどそんな事関係なく雨の中に立ち続けて、その事にも何ら目的と意味はなく、「風邪をひくぞ」と声をかけてくれるヤツなんか俺の他にひとりもいなくて。
 自分が可哀想だってことに気付かないのは可哀想だ。
 俺よりずっと可哀想だ。

 こいつも俺と同じどこにも居場所がない人間だと直感した。
 どこにも居場所がないからこうして雨の中に佇むしかないのだと思った。
 『……意味が不明だ』
 不意に男が呟く。初めて聞いた言葉を単調に繰り返し、理解できないといった風情で首を捻る。
 レザーコートの裾から滝のように水が滴る。
 渦巻く濁流に翻弄され足元に空き缶が流れてくる。
 男がおもむろに足を振り上げる。
 レザーコートの端が捲れ、自重をかけて振り下ろされた足がぐしゃりと空き缶を潰す。 
 無残にへこんだ空き缶を見下ろす事もなく、底冷えする殺意を宿した目でこちらを睨み据える男を真っ直ぐ見返す。
 不思議と恐怖はなかった。俺もこいつも根っこは同じだ。
 ささいな言葉に逆上して殺気をぶつけてくること自体感情が死んでない証拠だ。
 『気にすんな。お前きっと誰からも「可哀想」なんて言われたことねーだろ。だから言ってやったまでさ。強いやつが弱くないなんて誰が決めたよ。見たところお前はそこそこいい身なりしてるし強そうだけど、そんなの関係なくちゃんと笑えなかったり泣けなかったりするのは可哀想だ』
 一息に言い、足元に顎をしゃくる。
 俺に促されて足元を見下ろした男が無残にひしゃげた空き缶に眉をひそめる。
 薄っぺらく潰れた空き缶を指先でそっと摘み上げ、これ見よがしに息を吹きかける。
 『すげーぺらぺら。痩せて見えるけど体重重いんだな、お前。サイボーグらしく銃火器搭載してんのか?何トンだよ』
 『…………』  
 『笑えよ』
 男を笑わせようという目論みは見事失敗したようだ。
 薄っぺらく伸ばされた空き缶を腕の側溝に放り捨てる。途端に空き缶は濁流に呑まれて見えなくなる。
 男は俺の言葉を咀嚼反芻するように長いこと沈黙を守っていた。伏目がちに顔に複雑な感情が去来し、心なし悲哀を帯びて見える。
 前髪から鼻から顎先からレザーコートから雫をたらして物思いに耽っていた男が、唐突に顔を上げる。
 男が口を開く。
 『名前は』
 『ロン』 
 あっさりと名乗る。
 ひとに名前を聞く前に自分が名乗れと反発しないでもなかったが、嫌味の通じない相手に噛み付くのも馬鹿らしい。
 『台湾人か』
 『どう見えるんだよ』
 口の端に自嘲の笑みを刻む。喉の奥で卑屈な笑いを泡立てる。
 俺の名前を聞いたヤツは次に必ず台湾人かどうかを聞く、そうやって信頼できる相手がどうかを試す。生憎正直に話して信頼された試しはない、一度もない。当たり前だ。憎い中国人の血が半分流れるガキをだれが仲間と認めるもんか、仲間として迎え入れるもんか。
 深呼吸で腹立ちをしずめ、挑むように男を見据える。
 冷静沈着ぶって取り澄ました無表情が、俺に火を付ける。
 『お袋は台湾人で父親は中国人、すなわち半々。憎い仇同士がつがって生まれた薄汚い混血だ。どうだ、この答えはお気に召したかよ?どいつもこいつも台湾人かどうかしつこく聞きやがって畜生、行方知れずの親父が中国人だから何だってんだ、台湾語しゃべって台湾料理食って台湾系スラムで育った俺が台湾人以外の何かになれるなんら教えてくれよなあ、ここ以外に俺が生きてく場所ありゃ喜んでそっちに乗り換えてやるよ。けれども覚えとけよ。俺の半分が中国人だろうがそこらの野良犬だろうが俺が俺であることにゃかわりねーし俺のプライドはお前らに唾吐かれるほど安くもなけりゃ堕ちてもねーんだよ!!』
 今までの人生が走馬灯のように脳裏を飛び去る。
 近所のガキどもには後ろ指さされお袋には叩かれ足蹴にされ客には殴られた。
 俺は俺の半分に流れる血のせいでどこへ行っても邪魔者だった。
 アパートを追い出されてからも苦難の連続で俺はどこにも居場所がなくてどこにも帰れなくてもうこんな日々には本当うんざりで、

 『一緒にくるか』
 うんざりで。
 『え?』
 耳を疑う。次に目を疑う。
 オッドアイの男が俺の前に手をさしだす。

 『…………』
 ごくりと生唾を呑み、男の顔と手とを見比べる。
 真意の読めない無表情からは何の感情も汲み取れず、さしだされた手が冗談なのか本気なのかすらわからない。
 前髪から雫を滴らせた男が、その端正なおもての中でひときわ印象的な双眸を至極ゆっくりと瞬かせる。
 潮が引くように雑音が消える。
 心臓の鼓動が爆発しそうに高鳴る。
 この手をとるべきか否か逡巡する。
 さまざまな考えがめまぐるしく脳裏を駆け巡る。

 信用していいのか?
 信用できるのか?
 名前も知らない初対面の男についていっていいのか?

 食い入るように手のひらを見詰める。
 雨にぬれた手のひらには暴力の痕跡が刻まれていた。
 中指の第二間接が白っぽく見えるのは疵が浮いてるからで、親指の付け根の肉は深く抉り取られていて、その他にも至る所に醜悪な傷痕がちらばっていた。
 
 どうする?

 わからない。どうするのがいちばんいいかわからない。
 誰も教えてくれるやつがいないなら自分で決めるしかない。
 そしてとうとう決断を下す。
 俺は疲れていた。疲れ切っていた。
 数ヶ月に渡る過酷な路上生活で心身ともに疲労困憊して、雨にぬれた体は芯まで冷え切って、とにかく誰かに縋りたくて縋りたくてしょうがなかった。
 雨にぬれない寝床が欲しい。
 腹一杯食いたい。
 それさえ叶えてくれるなら、目の前の男が誰だろうが構うもんか。

 深呼吸で決断を下し、男の方へと慎重に手を伸ばす。

 最初に指がふれる。
 ためらう。
 ふれた指先から伝わる体温の低さに怖気づく。

 逡巡しつつ男の顔色を窺う。
 男は動じない。
 俺がどうするか見極めようと金と銀の瞳を冷徹に光らせている。  
 金と銀の光沢の目に俺が映る。
 中腰の姿勢で硬直し、男に手を伸ばした間抜けな格好のまま後に引けずにいる情けないガキが。 
 『ーっ、』
 男の目から視線を引き剥がし、今度はしっかりとその手を握る。
 冷たく骨ばった手が痛みを感じるほど強く握り返してくる。
 とんでもない力だ。思わず上げかけた悲鳴をぐっと堪える。
 どうにか踏み止まった俺の正面、能面じみた無表情を保った男が静かに宣言する。
 『俺は假面。お前を月天心に歓迎する』
 月天心。
 その名に計り知れない衝撃を受ける。
 月天心といえば池袋では知らぬ者ない押しも押されぬ武闘派の愚連隊。
 その頂点に君臨する路上のカリスマこそ、「假面」の異称で恐れられる卓越した戦闘力の持ち主……  

 確か、名前は。

 『たおりゃん?』
 たどたどしく名前を呼ぶ。
 恐怖だか緊張だかでみっともなく声が震える。
 まさか目の前のこいつが、さっきまで普通にしゃべってたこいつがあの有名な道了だなんて予想だにしない展開に頭が追いつかず混乱し眩暈を覚える。
 道了の手を握ったまま動転する俺は、いつのまにか雨音が遠のき、急速に空が晴れ始めたのにも気付かなかった。
 最後の一滴が路面で弾ける。
 どす黒くぬれたアスファルトの上で、全身びしょ濡れの俺と道了は互いの手を取り合い対峙する。
 灰色の雲間から眩い陽光が射し、燦燦と地上を照らす。
 雲間から射した一条の陽光が道了の顔を横切る。   
 光の見せた錯覚だろうか。
 能面じみた表情がその一瞬だけ和らぎ、双眸が凪ぐ。
 その一瞬かすかに笑みに似たものを浮かべ、道了はどこか切実な声音で言った。 
 『我想了解弥、更多一点』
 俺のことをもっと知りたいと、そう言った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050403220609 | 編集

 『梅花を殺した』
 嘘だ。
 『お前の母親を殺した』
 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
 両手でぴっちり耳を塞ぎ声から逃れようとするも、指の隙間から潜り込むその声はどこまでもどこまでも執拗に追ってくる。
 呪縛。束縛。洗脳。
 足掻けば足掻くほど深みに嵌まる。
 鼓膜に浸透し脳髄に響く声。
 声の水圧が次第に膨張し俺を内側から溺れさせていく。
 蘇るのは道了の声、どこまでも俺に付き纏い苦しめるあいつの声。
 そんなに俺が憎いのかよ?
 心の裂け目から憤怒が迸る。
 何とか言えよ道了、俺が憎けりゃ俺にあたれよ、俺を傷つけりゃいいだろう。なんだって関係ない梅花やお袋を巻き込むんだ俺の大事な人間を巻き込むんだ大事なものを奪うんだ、それがお前の復讐なのか、俺の大事なものを一切合財根こそぎ奪い取って滅茶苦茶に踏み躙って打ち砕けばお前は満足なのかよ?
 判らない。俺は道了が怖い。道了の思考回路は理解不能だ。完全にショートした機械人形だ。
 目を閉じれば鮮明に蘇る。感情の起伏に乏しいのっぺりした無表情をさらす道了、その能面じみて端正な顔に強烈な違和感を付与する金属質のオッドアイ。どこまでも冷たく無機質な金の右目と銀の左目が眼底まで射抜くような先鋭化した視線を放つ。
 ところこどろ銀のメッシュを入れた髪、涼しげな切れ長の双眸、繊細な鼻梁と酷薄そうな薄い唇と品良く尖った顎。
 道了は別れた時のまま道了だった。道了は俺の前に悪夢の具現化した五体満足の姿で現れた。
 目を疑った。次に頭を疑った。
 脳が現実を拒否った。現実を受け入れたくなかった。
 衝撃に麻痺した心の一部で俺は俺の正気を疑った。道了が東京プリズンに現れるわけがないと高を括って、眼前の現実がたちの悪いジョークか妄想だと決め付けて今確かにそこにいる道了の存在を全否定した。
 道了。
 道了が何故ここにいる、東京プリズンにいる?
 馬鹿げてる。道了と実際会うのは一年と数ヶ月ぶりだ。いちばん最後に会ったのは一年と数ヶ月前、俺が東京プリズンに収監されるきっかけとなった事件現場、抗争の爪痕生々しい廃車置き場だ。
 記憶を遡る。当時を回想する。
 たった一年前のことだというのにもう十年も前のことのように感じられる娑婆での最後の記憶を。
 
 廃車置場は地雷原の如く惨憺たる有り様を呈していた。
 爆発の余波で吹っ飛ばされた車が腹を見せて横たわる下から無残に煤けた腕が伸びていた。炭化した死体の腕。
 阿鼻叫喚を通り越して死屍累々の地獄絵図。
 あたり一面に血と肉片がブチ撒けられ俺と同じ年頃のガキどもが累々と転がっていた。絶命してないやつも絶命したやつも五体満足でいるのは少数派で、殆どのヤツは腕をもがれたり足がちぎれたり体の一部か大部分を損傷する重傷を負っていた。
 この地獄を作り出したのは、俺だ。
 俺が地獄を招いたのだ。
 こんな事になるとは思わなかった。何かの間違いで片付けたかった。
 だってそうだろ俺はこんなつもりじゃなかったこんな酷い事するつもりは全然なかった、俺はただまわりを敵に囲まれて味方はひとりもいなくて追い詰められて仕方なく他に選択肢がなく手榴弾のピンを抜いたんだ、それしか助かる道がないと頭から信じ込んでピンを抜いた手榴弾をおもいっきり投擲したんだ。
 力任せにぶん投げた手榴弾は抜けるような青空に爽快な弧を描いた。
 俺は馬鹿みたいに口をぼけっと開けて青空高く放物線を描く手榴弾に見入った。
 閃光が爆ぜる。
 続く耳を破らんばかりの轟音。
 天地がひっくりかえったような衝撃に足元をすくわれひっくりかえる。
 煙が晴れた後に立ち現れたのは、鉄パイプやスタンガンを手に手にひっさげたガキどもが殺気立って走り回る戦場の光景から一転、血生臭い地獄と化した廃車場。
 閃光が収束し揺れが止んだ時、俺以外に立ってるやつは誰もいなかった。
 五体満足で生き残ったやつは俺を除いて一人もいなかった、ただの一人も。
 皮肉にも「月天心」でお荷物扱いされてた俺が、かすり傷の他は大した怪我もなく生き残ったというわけだ。
 最後に見た道了を思い出す。
 急報を受け到着した救急車の後部ハッチが開き、担架が運び込まれる。 
 パトカーのランプの赤がくるくる旋回する。ランプの赤が俺の膝や肘や顔を照らす。
 事件現場には大挙して警察が到着し立ち入り禁止のテープを張り巡らせて野次馬の侵入を防いだ。
 俺は立ち入り禁止のテープの内側に突っ立って口を閉じるのも忘れぼうっと惨状を眺めていた。
 現場保存を命じる刑事の怒鳴り声も鑑識が焚くフラッシュも野次馬の喋り声も、別世界の出来事のように遠く距離を隔てて感じられた。
 道了。
 道了はどこにいる。
 空白の心に一点の疑問が生まれる。
 道了。月天心のトップ。俺を月天心に引き込んだ張本人。
 仲間の一員として迎えるとかなんとか口ではうまいことを言っておきながら、一度たりとも対等に遇したりなんかしなかった約束破りの男。道了はどこにいる?俺の記憶が確かなら道了も今回の抗争に参加したはず、前線に立って怪力乱心の強さでもって並居る敵を蹴散らしていたはず。その道了が見当たらない。
 さっきまで近くにいた、視界にいた。
 廃車場の頂点に仁王立ち、鉄パイプなんかめじゃない威力の拳から血を滴らせ眼下を睥睨していた。
 道了がいない。
 まさか、死―
 爆発に巻き込まれて死んだ?激しく首を振り最悪の想像を打ち消す。
 不死身の機械人形が簡単にくたばるわきゃないと自分に言い聞かせなけなしの気力を振り絞りあたりを見回す。
 道了はどこだ?廃車の下敷きになったガキ、廃車に凭れて嗚咽を零すガキ、失った右腕を早く見つけて縫い合わせてくれと刑事の膝に縋り付くガキ……
 いた。
 心臓が強く鼓動を打つ。
 今しも立ち入り禁止のテープを潜り抜け救急車のハッチへ担ぎ込まれようとしていた担架、その上に横たわっている。
 一目見て戦慄が襲う。
 道了のこめかみに鋭い破片が刺さり、こめかみが脈打つのに合わせ大量の血が滴っている。
 道了は目を閉じていた。安らかな、と表現してもいい寝顔だった。この距離からじゃ呼吸しているかどうかも不確かだが、瞼を下ろした寝顔があまりに静かで、能面じみた無表情は損なわれてないだけに顔半分を染めた血のおぞましさが一層異常さと不吉さを駆り立てて、その時道了は即死か即死に近い状態に違いないと確信した。
 死んだというよりは壊れたといったほうがしっくり来る、唐突な結末。
 道了は壊れた。
 油が切れた何かの要因で内燃機関が錆びて間接が軋んで、そうしてある時突然にその生命活動を停止させてしまったのだ。
 無機的な静けさを漂わせた寝顔は、孤高とでも言うべき厳かな神聖さをも兼ね備えていた。 
 あっけない幕切れ。池袋にその名を轟かせた殺戮人形の最期。
 壊れた人形はスクラップにされる運命。
 『道了、』
 渇いた喉で、震える声で、切れた唇で名を呼ぶ。
 特別な意味をもつ名を、池袋において畏怖と崇拝を集めた男の名を、いつだって月天心の中心にいたカリスマの名を。
 「月天心」。
 天の真ん中にかかった月を意味する単語。
 その名のとおり道了はいつだってチームの中心にいた。
 無慈悲な青い光を投げかけ天心に座する月のように、池袋に数多いる行き場をなくしたガキどもの中心にどっかり腰を据えていたのだ。 
 全身の血液が沸騰し逆流する。
 名伏しがたい衝動に駆られふらつきながら道了に歩み寄る、立ち入り禁止のテープを破って担架を覗き込もうとしてー
 『道了、お願いだから目を開けて!』
 ハッと我に返った。
 担架に寝かされた道了にひしと縋り付くのは、梅花。青痣だらけの顔に滂沱と涙を流し必死な声音で道了に呼びかけている。
 道了は恋人の必死の呼びかけにも一切反応を示さず沈黙を守っている。騒ぎを聞いて仕事場から着のみ着のままで駆け付けたらしい梅花は、体温が逃げないようにと道了の手を擦り、沈痛に顔を伏せる。
 『救命、救命……快点救命!お願い道了を助けて道了がいなくなったら私どうしたらいいのかわからない、私には道了しかいないのにこの人がいなくなったら私どうしたらいいの、嫌、道了がいなくなるなんて嫌、私はずっとこの人のそばでこの人を支えていくと決めたの、道了には私がいなきゃ駄目だから、だから……殴られても蹴られても鼻の骨を折られても髪を抜かれても大勢の前で犯されても構わない。ねえ道了、私の声が聞こえてる?あなの恋人の梅花、あなたの幼馴染の梅花よ。お願いだから私をひとりにしないで、捨てないで、何でもするからだから……』
 剥き出しの肩が嗚咽に合わせ弱々しく震える。声を殺してしゃくりあげる梅花の背中に言葉を失い立ち尽くす。
 さらりと流れた黒髪が青痣の映える横顔を物憂く隠す。
 梅花。俺の初恋の女。
 どんなに殴られ蹴られ嬲られても決して恋人のそばを離れようとしなかった心優しく一途な女は、死に際した道了の手を握り締め、祈る。
 どこまでも純粋な涙が血と煤に塗れた顔を洗い清める。

 『………我愛弥。我愛弥、我愛弥、我愛弥』

 愛してる。
 愛してる。
 愛してるわ。
 
 俺がとうとう一度ももらえなかった言葉を、道了のために、道了のためだけに惜しみなく繰り返す。
 何度も何度も、壊れたように。
 
 最後に見た道了は、梅花に手をとられ安らかに眠っていた。
 第三者が入り込む余地がないほどに情が通じ合った恋人同士がそこにいた。梅花は片時も離れず道了の傍らに寄り添い、殴られ蹴られて痣の絶えない顔に翳りある笑みを浮かべ、それでも世界でただ一人自分だけが道了を理解し許せる存在だという気丈な自負で矜持を支えていた。

 その梅花を殺したと道了は言った。
 至極あっさりと言ってのけやがった。

 梅花。
 梅花。
 梅花。

 『ロン、また怪我してるじゃない。駄目よ、自分を粗末にしちゃ。もっと自分を大事にして。あなたが怪我して帰ってきたら私は哀しい』
 『ロンは優しいね。いい子だね。こんな私を好きになってくれて凄く嬉しい。けどねロン、私にはそんなもったいない言葉を貰う資格ないの。
 ロンはすごく優しくてかっこいいから将来好きになってくれる女の人がたくさんいる、だから今の言葉はあなたを好きになってくれる子たちのためにとっておいて。……だってほら、私、汚いでしょ?化粧を落としたら痣だらけで、とてもひとに見せられたもんじゃないの。目にも頬にも鼻の横にも顎にもそこらじゅうに痣があるの。青いの黄色いの茶色いの黒いの……ほら、日が経つにつれていろんな色に変わっていく。これ全部道了がやったの。あの人に殴られたの。でもね、いいの。ほんと言うとね、痛いけど嬉しいの。
 道了が私を殴るってことは、少なくともその間だけは私を必要としてくれてるってことでしょう。
 変かな。おかしいかな。
 道了に殴られている時だけ必要とされてるって実感できるなんて。 
 道了のためにできることがあって嬉しいだなんて。
 ……ロン、がっかりした?
 初めて好きになった女がこんなマゾの変態の雌犬だなんて自慢にならないよね。ごめんね。お願いだから泣かないで。ロンが泣くことなんて何もないんだから、私は好きで道了のそばにいるんだから、私を守れなくて悔しくてロンが泣くことなんかないんだよ。
 ……謝謝、ロン。大好きよ。幸せになってね』
 
 お前が殺されたのに、幸せになんかなれるわけない。
 何の見返りも期待せず俺の幸せを祈ってくれたお前が殺されたのに、幸せになれるわけがねえ。
 幸せになれるともなりたいとも思わねえ。 

 俺は馬鹿だ。
 どうしようもなく馬鹿だ。
 俺が東京プリズンでレイジや鍵屋崎やサムライと馬鹿騒ぎしてるあいだ道了は娑婆で好き放題して変わらず梅花を嬲り者にしてたってのに、俺は東京プリズンでの日々が楽しくて、初めて出来た仲間に囲まれた毎日が凄く楽しくて娑婆の事なんかもう殆ど思い出さなくなってて、しぶとく生き残った道了によって梅花が今頃どんな目に遭わされてるかなんて思ってもみやしなかった。

 あんなに好きだったのに。
 大好きだったのに。
 
 俺は道了が許せない。
 梅花を殺したという道了の言葉が仮に真実だとして、梅花とお袋を殺した道了を絶対に許せない。
 俺は梅花が好きだった、大好きだった。命にかけて守りたいと思った生まれて初めての女だった。体を張って守り通そうとしたただ一人の女だった。
 梅花がもうこの世にいないなんて信じられない。
 信じたくない。

 だから確かめにいく。
 道了の言葉の真偽を、今から確かめにいく。


 分厚い鉄扉の向こうに慌しい人の気配がする。
 もうすぐ夕飯が始まる。
 強制労働を終えて帰還した囚人たちがそれぞれの房に足繁く出入りしてる。
 廊下に靴音が入り乱れる。話し声が聞こえる。
 野太い声で笑う囚人、下卑た冗談をとばす囚人、屈託なくふざけあう囚人……もろもろの雑音が渾然一体となり混沌の中で活況を呈する。
 俺を置き去りにして当たり前に繰り返される東京プリズンの日常、平和と呼んでも差し支えない日々。
 分厚い鉄扉を閉め切った暗闇の中、コンクリ壁に背中を密着させじっと息を潜める。
 この一週間というもの殆ど飯が喉を通らず水しか飲んでないせいか、胃が軽くて心許なかった。食べてもすぐ吐いてしまうのだ。
 便器に突っ伏してげえげえやり始める俺の背中を献身的にさすりながら、レイジは「大丈夫か?」を連発した。
 王様らしくもないうろたえた声からは、レイジ自身俺にどう接したらいいか困惑しきってる様子が窺えた。
 
 レイジが帰ってくる前に決断しなきゃ。
 これ以上迷惑をかけないためにも。
 心配をかけないためにも。

 「………優しすぎるんだよ、あいつ。らしくもなく気を遣いやがって、気色わりィったらありゃしねえ。いつもどおりそこらほっつき歩いて尻軽にナンパしてりゃいいのに、殆ど一日中俺につきっきりで背中さすったり添い寝したり頭なでたり抱きしめたり……赤ん坊じゃあるまいし飯くらいひとりで食えるっつの。何が『あーンして、あーン』だ。『さあロン観念してお口を開けて俺が大事に隠してた缶詰のパイナップルを召し上がれ、病人にはこれがいちばんだ、むかしむかしパイナップルは風邪ン時しか食えねえ贅沢品でこれさえ食や元気百倍ロンパンマ』って何続けようとしたんだよ、変な所で切りやがって気になるじゃねーか!」
 レイジの過保護はうざったいが、今の俺には抵抗する気力もない。
 なんというか、レイジが優しすぎて調子が狂っちまう。
 このままじゃ駄目だ、このままじゃ俺たち二人とも駄目になっちまう。互いに遠慮して本心に踏み込むのを恐れて堂々巡りするだけで埒が明かねえ。 
 無意識に腹をさする。胃が縮こまって干からびてく切ない感覚。俺の胃袋は次第に飯を受け付けなくなってる。この一週間ろくなもんを食べてないが不思議な事に腹が減ったという実感が湧かないのだ。
 自分の体が自分の体じゃないみたいな非現実感に支配され思考が上滑りする。
 口にして辛うじて吐かずにすむのはレイジが勧める缶詰のみ。レイジがベッド下の秘密の隠し場所にごっそり貯蔵してる缶詰は種類豊富で、実際缶詰の山を見た俺は一体どうやってこんだけ集めたんだよと呆れた。レイジは甲斐甲斐しく俺を世話した。それこそ手取り足取りの過保護っぷりで、顎が弛緩して涎を垂らしっぱなしの口の中に爪楊枝をさしたパイナップルや桃やみかんをせっせと運んでくれた。シロップ漬けのパイナップルや桃やみかんは喉越し滑らかで大して噛まずにつるっと飲み込むことができた。
 有難い事だった。
 この一週間殆ど抜け殻同然で過ごしていた俺は、もの咀嚼するという食事の基本中の基本、生命維持活動の基礎をすっかりド忘れしていた。ものを噛むのが面倒くさくてしょうがなかった。歯を噛み合わせ顎を動かし咀嚼し飲み下す。日頃意識せず当たり前にこなしていた行為が当たり前にできなくなってしまったというのに、その事を自分で訝しむ理性すら蒸発し、俺は生きてるか死んでるかもわからない半病人の状態で強制労働以外の時間を房に横たわって過ごした。

 時間の感覚がなくなった。
 自分が今いる場所がどこかもわからなくなった。

 俺は逃げていた。
 耐え切れない現実から残酷な真実の重さから裸足で逃げていた、逃げ続けていた。
 道了が引き連れた現実を正視したら到底正気を保ってられなかった。
 俺は意気地なしの腰抜けの臆病者だ。
 腹括って現実と向き合う勇気が湧かずに一週間も無駄にしちまったとんでもない阿呆だ。
 今日突然それに気付いた。きっかけは夢だ。娑婆で最後に道了を見た時の夢、梅花と生き別れた時の生々しい手触りの夢。夢の中の俺は徒手空拳立ち尽くしていた。俺は事件現場にいた、最前線にいた。あちこちから黒煙が立ち上る戦場と化した廃車場のど真ん中、悲鳴と苦鳴と断末魔とが交錯する騒然とした現場で呆然と立ち尽くしていた。
 視線の先には梅花がいた。担架で運ばれる道了に献身的に寄り添っていた。梅花に駆け寄ろうとして、梅花と道了のあいだの張り詰めた空気に言葉を失った。
 梅花と道了の間には他者の介入を阻む何かがあった。
 何か。
 多分、絆とか呼ぶもの。
 それがどんなに歪んでねじくれたものであっても、道了と梅花は強い絆で結ばれていた。
 『………我愛弥。我愛弥、我愛弥、我愛弥』
 愛してる、愛してる、愛してる。血と一緒に刻々と漏れ出す命を繋ぎ止めようとただその言葉だけを繰り返し、道了の手をさすりつづける。
 あれは実際にあった事、俺が体験した現実だ。たかだか一年と数ヶ月前の事に過ぎない現実だ。過去とも呼べない歳月の浅い出来事だ。
 梅花の「我愛弥」がまだ耳に残ってる。嗚咽まじりの哀切な声音が耳に響いている。

 逃げてる場合じゃねえ。
 とっととベッドから腰を上げて自分の足で目で真相を確かめにいけ。
 梅花が生きてるか死んでるかお袋が生きてるか死んでるか道了に問いただせ、お前が梅花とお袋を殺したのかと怒りを込めて食ってかかれ。
 へこたれてる暇はねえ。
 飯が喉を通らねえとか眠れねえとか何もやる気がおきねえとかレイジや鍵屋崎やサムライや俺を心配してよくしてくれるやつらの存在すら鬱陶しいとか同情されるのがいやだとか言ってる場合じゃねえ。喪失感脱力感無力感虚無感倦怠感を乗り越えて打ち克って俺は俺の心を取り戻さなきゃいけない。暗闇の隅っこで膝を抱えて一日中無為に無気力に過ごすのはもうおしまいだ、もう一度道了に会ってちゃんと話さなきゃなんねえ、あいつの本心と目的を確かめなきゃなんねえ。 
 梅花。お袋。
 待ってろよ、必ず取り戻してやる。

 「……嘘だ、信じねえ。この目で確かめるまで絶対信じねえ。お袋がんな簡単にくたばるもんか、おっ死ぬもんか、俺を産んだ女がそんな簡単にくたばるもんかよ。伊達に俺が赤ん坊の頃から体を売って稼いでないんだ、客に乱暴されようが無茶な抱かれ方しようがお袋はいつだってピンピンしてた、スラムのドブ水に浸かりながらしぶとくしたたかに生き抜いてきたんだ。お袋にいちばん似あう死に方は腹上死だ。俺のお袋は道了に撲殺されるほどヤワじゃねえ、道了に犯られて殺される程おちぶれてもねえ。誰より気位が高い娼婦が自分のガキと同じ年頃の男に犯り殺されるなんざありえねえ。お袋にかかりゃ道了だって骨抜きにされちまうよ」
 大きく深呼吸し息継ぎもせず言い放つ。
 痛いほど膝を掴み挫けそうな自分を叱咤する。爪が膝に食い込む痛みが俺を現実に繋ぎ止める。
 おっかない、美しいお袋。
 お袋がもうこの世にいないなんて到底信じられない、信じたくない、信じてたまるもんか。
 俺は生きてここを出てお袋に会いに行くんだ、お袋に面と向かって言いたい台詞を山ほど腹の底にたくわえてるんだ。
 このままで済ますもんか。
 ぐっと奥歯を噛みしめる。胸の内を激情が蝕む。閉じた瞼の裏側を女の面影が過ぎる。梅花。お袋。初めて好きになった女と初めて憎んだ女の面影が交互に巡る。二人が道了に殺された?嘘だ。証拠はどこにもない、道了がそう言ってるだけだ。俺をびびらせようとでたらめ吹いた可能性もある。
 道了と直接会って確かめる必要がある。
 東京プリズンを訪れた真意を、本当の目的を、梅花とお袋を殺したのかどうかを。 
 固いコンクリ壁に背中を預け、動悸が静まるのを数をかぞえて待つ。
 一、二、三……五十、六十……百。たっぷり百数えてから慎重に目を開ける。
 「梅花が死ぬわけねえ」
 房の片隅に梅花の亡霊が佇んでこっちを見てるような錯覚に囚われる。
 激しく首を振り妄想を追い払う。
 体の脇でこぶしを握り締め、不規則に荒い呼吸を整える。
 鉄扉の向こうから潮騒のように雑音が打ち寄せてくる。夕闇に包まれた房に外界と隔絶された静けさが満ちる。
 「俺が好きになった女が死ぬわけねえ、俺の知らない所で殺されたりするわけがねえ」
 確かめにいかなきゃ。
 何度も深呼吸し固く目を閉じ恐怖を克服し、勇気を奮い起こし立ち上がる。ふっと眩暈に襲われた。
 バランスが崩れてそのまま倒れこみそうになる体を壁に手を付きどうにか支え、ふらつきながら床に降り立つ。
 踵の潰れたスニーカーに足を潜り込ませる。
 ベッドパイプを伝って房を横切り鉄扉に近付く。
 正直道了に会うのは怖い。
 一週間前道了にされた事を体はまだ生々しく覚えている。
 道了の口が抵抗なく俺のペニスを含み舌を絡め転がし射精に導く。
 腰から下が蕩けるような強烈な快感に理性が蒸発し、気付けば嗚咽じみた喘ぎ声を漏らしていた。

 道了は何であんな事をした?

 ハルの死骸に顔面押し付けられた時の事を反芻し、口内に酸っぱい唾が湧く。
 腐肉が放つ臭気が鼻腔の奥に充満する。
 吐き気を催す臭気から逃れようと固く目を閉じ息を吸い、足をひきずるようにして鉄扉をめざす。
 「道了に会わなきゃ。これ以上逃げ続けるのはごめんだ、怯え続ける毎日はごめんだ、いい加減白黒はっきりつけなきゃ……俺だって元月天心の人間だ、道了がいたチームの人間だ。畜生怖いもんかよ、馬鹿にすんなよ、怖くなんかねーよ。道了だって突き詰めればちょっと力が強くて瞬き少ねえだけのただの人間だ、不死身のロボットじゃあるまいし話が通じるはずだ。俺は腰抜けじゃねえぞ、一方的に犯られっぱなしで引き下がるようなタマじゃねえ。娑婆とは違うんだ。俺は強くなったんだ。東京プリズンに来てあいつと出会って変わった……」
 おもむろにドアが開き、一条の西日が射し込む。
 「-っ!」
 反射的に手を翳し目を閉じる。暗闇に慣れた目に残照の光線は眩しすぎる。
 俺がノブに手をかけようとしたちょうどその時、図ったようなタイミングで扉を開けたのは……
 西日に輪郭を淡く溶かしたレイジだった。
 「お。歩けるようになったのか、ロン。今日は自分で食堂に行けるか?だったらこっちも手間省けてラクなんだけど」
 レイジが後ろ手に扉を閉める。  
 分厚い鉄扉が西日を遮る。
 鉄扉に背中を凭せ掛けたレイジが俺を励まそうと気遣いの笑みを浮かべる。
 その笑顔が胸に刺さる。
 レイジに優しくされればされるほど辛くなる。
 レイジの横を突っ切りノブを掴もうとして、その肘を後ろから引かれる。
 無視されたレイジが静かに問う。
 「どこ行くんだよ」
 ひどく落ち着いた声音に不吉なものを感じる。
 「俺の勝手だろ。放っとけよ」
 首の後ろに視線を感じる。産毛がちりちり燻る。
 苛立ちが募る。焦燥が身を焼く。
 こんな所でぐずぐずしてる暇はない。
 放せよレイジ放してくれよ俺のことなんかもう放っとけよそばにいても不幸になるだけだ、お願いだから俺のことなんかもう放っといてくれよ。
 レイジが優しければ優しいほど辛くなる、耐え難くなる。
 優しくされる価値も資格もない俺自身が堪らなくなる。
 俺と一緒にいた人間はみな不幸になる。
 事実梅花は俺に優しくしたことが原因で道了に目を付けられて見せしめで嬲られたのだ。
 一週間前だってそうだ、東棟の王様としてブラックワークの頂点に君臨するレイジが道了に歯が立たなかったのは俺がいたからだ、人質にとられた俺の身を案じるあまり実力を発揮できず結果人望を失っちまった、「東棟の王様なんていってもあの程度かよ」と舐められちまったのだ。
 雰囲気を吹き飛ばすようにレイジが底抜けに明るく笑う。
 「散歩か?よせよせ、お前も知ってると思うけど今は物騒だぜ。散歩にゃむかねー日和だよ。お前のなじみのお人形さんがはしゃぎまくってくれたおかげで東棟は勢力が割れまくってんの。夜道じゃなくても気をつけるに越したこたねー。夕飯の時以外は出歩かないのがお利口さんだ」
 レイジが身を屈めベッドの下をごそごそ漁りはじめる。ベッドの下に頭を突っ込んだレイジが缶詰を手に振り向く。
 「ロン、缶詰食うか?夕飯の前にちょっとつまみ食いしてもバチあたんねーだろ。とっておきのがあるんだよ。このコンビーフ塩味がちょうどいいあんばいで、こっちのキャビアは黒くてぴかぴかしててぷちんて弾ける食感がたまんなくて、アンチョビーの缶詰は本場スペイン産の本格派……」
 「道了のところに行く」
 饒舌なレイジをぴしゃりと遮り、端的に行き先を告げる。
 ゴトンと音がした。レイジの手から転げ落ちた缶詰が床で回って踝にあたる。 
 レイジは缶詰抱えて片膝立った姿勢のまま、何とも言えず奇妙な顔をする。
 「……頭がおかしいのか、お前」
 本気で俺の正気を疑ってる様子だ。
 無理もない、一週間前あんなことがあったばかりだってのにぬけぬけと道了のところに行くなんて言い出す相棒にほとほと呆れてるんだろう。
 俺はノブに手をかけ静かに決意を固める。