ロールシャッハテストB

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月別_2005年04月
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三十五話

(2005/04/30)
 ヨンイルが暴走した。
 虚実入り混じった情報が錯綜して東棟は天地ひっくり返ったような大騒ぎだ。独房脱走犯にして看守殺害犯の静流に鍵屋崎が拉致られて行方不明になってからはや半日、そろそろ人質の体調が心配な頃だ。
 早く鍵屋崎を見つけなけりゃさすがにやばい事になると誰もが最悪の可能性を考慮に入れてあせりにあせっている、その筆頭が西の道化・ヨンイルだ。
 通称手塚トモダチ、鍵屋崎と親しい仲にある西の道化は子分どもを率いて駆けずり回っていたがさっぱり成果が上がらずブチギレたらしい。
 現場は騒然としていた。
 野次馬と看守とが忙しく出入りして殺気立った雰囲気に包まれた地下停留場を見回すもヨンイルの姿はない、ヨンイルが乗っ取ったバスも見当たらない。
 「どこ消えたんだよ、ヨンイルは!?」
 「あ、ヨンイル一の子分発見」
 レイジの声と視線につられてそっちを見れば、顔に傷のあるガキが人ごみの中をあっちへこっちへうろついていた。
 心細げな様子でよちよち歩きしてるガキを叱咤する。
 「ワンフー!」
 ワンフーがびくりとする。
 地獄に仏、地下停留場に元同僚。
 ワンフーが大手を広げて俺たちを歓迎する。
 「ああ、半々!良かった会えて……聞いてくれよ、ヨンイルさんがとんでもねえことしでかしたんだ、よりにもよってバスジャックなんて……上にバレたら独居房送りどころじゃすまねえってのに」
 「イチから説明しろ」
 ざわつく停留場のど真ん中、人ごみの濁流を塞き止めてワンフーと対峙する。
 深呼吸を二度繰り返し、ワンフーが語りだす。 
 「俺たちヨンイルさんの命令で朝からずっと鍵屋崎捜してたんだけど全然見つかんなくて、隅から隅までさがしても出てくるのは塵やゴミや使用済みコンドームも抜け殻ばっかで、いい加減へとへとになってたんだ。ヨンイルさんも相当参ってた。ヨンイルさん鍵屋崎のことすごく心配してて、直ちゃんの身に万一のことがあったら手塚神になんて謝ったらええかわからんて責任感じて、ろくすっぽ休みもせず捜し続けてたんだけど……急に叫んだんだ」
 「なんて?」
 「『わかった、あそこや!』」
 「エウレカ」 
 「えうれか?」
 いつのまにか隣に来ていたレイジが首肯する。
 「気にすんな、続けろ」 
 レイジが顎をしゃくり、ワンフーが再び語りだす。
 「ヨンイルさんは鍵屋崎の居所わかったんだ。だからあんなに慌てて……俺たちが止める間もなく地下停留場に下りて、ちょうど帰ってきたバスのまん前に飛び出して急ブレーキかけさせて、無理矢理バスん中に突っ込んでったんだ。そんでそのまま恐ろしい形相でハンドル回して……砂漠に出ちまって……」
 「やることなすこと極端すぎんだよ、あいつ」
 鍵屋崎心配な気持ちもわかるけど子分の気持ちも考えやがれってんだ。
 俺はワンフーに同情した。
 ワンフーだけじゃない、地下停留場に取り残された西棟の連中はヨンイルの行方に気を揉んであっちへこっちへうろついたり所在なく突っ立ったりおのおの不安を丸出しにしてる。中には相棒の胸を借りて泣き崩れる奴や放心の体で虚空を見詰める奴、「あんた何ぼっと突っ立ってるんだ、西のトップが消えたんだ、バスが転覆して砂に埋もれてたらどうするんだよ、今すぐ捜しにいけよ!」と怖いもの知らずにも看守に食い下がる奴がいる。
 「どうするレイジ?」
 向こう見ずな勢いで地下停留場に来ちまったもののヨンイルを追うには車を出さなきゃいけない。徒歩で砂漠に出るのは自殺行為だ。
 ヨンイルに追いつくには俺たちもバスを乗っ取るかジープを乗っ取るかしないと不可能だ。焦燥に駆られてレイジを仰げば、王様は人の気も知らずに虚空を見詰めている。
 「レイジっ!」
 苛立ちに声を荒げる俺をよそに、レイジが人さし指を立てる。
 「しっ。聞こえねーか?」
 え?
 レイジに促されてあたりを見回す。
 地下停留場の喧騒に耳を澄ます。
 目を閉じて意識を集中、聴覚を研ぎ澄ます。
 興奮のさざめきと野太い怒声がごたまぜになった雑音の坩堝、地下停留場の喧騒に混じる重低音……
 コンクリ床を伝ってくるかすかな振動、蜂の大群の羽音に似た不吉な唸り、可聴域ぎりぎりを這うエンジンの音……
 空気がうねる。
 ざっと鳥肌が立つ。
 嫌な予感。
 「まさか」
 「伏せろ!!」
 レイジが一喝した途端、エンジンの轟音と凄まじい風が殺到する。
 顔面をぶった塵が目を潰す。
 風圧に逆らって瞼をこじ開ける。
 驚愕。
 「ひっ!」
 「地獄の暴走バスだ、逃げろ、轢き殺されるぞ!」
 ひきつけ起こしたように硬直する囚人、まわりの連中を突き飛ばし我先に逃げ出す囚人……阿鼻叫喚の地獄絵図。
 一陣の突風とともに地下停留場に殴り込んだバスはでかい胴体を右へ左へ不安定に揺さぶり、横腹を標識に掠らせてぎゃりぎゃり耳障りな軋り音と金属質の火花を生じさせ、囚人を幾人か薙ぎ倒し跳ね飛ばし、阿鼻叫喚の地獄絵図の中を無軌道に盲進する。
 蜘蛛の子を散らすように逃げまくる囚人どもに殺人バスが襲いかかる。
 タイヤがコンクリを擦る音も耳障りにタイヤのゴムが摩擦熱で焼ける異臭が鼻腔を突き逃げ遅れた俺の方へ真っ直ぐー……
 「ロン!」
 視界が反転、体が跳ね飛ぶ。
 バスに轢かれたわけじゃない、レイジに横ざまに抱きかかえられ二人折り重なってコンクリ床に転がったのだ。コンクリ床に衝突した衝撃で視界がブレて脳震盪を起こすも一瞬のこと、レイジが俺の下になって庇ってくれたおかげでかすり傷だけですんだ。 
 「ヨンイル運転できねーじゃんかよ。死人がでるぞ」 
 このままじゃ味方も敵も手当たり構わず轢き殺しちまいかねない。
 コンクリ床をぎゃりぎゃり削り俺めがけて突っ込んできたバスにぞっとする。バスの巨体に突撃食らったら良くて瀕死、悪くて即死だ。恐慌を来たした野次馬が大挙して出口に殺到する。西棟の連中は無謀にも体当たりでバスを止めようと走り出すも、いざバスと正面衝突となればケツまくってトンズラこく始末だ。
 「ヨンイルさん、おれおれ、俺っスよ!西棟のスリ師でヨンイルさんの腹心のワンフーっス、わかんないんですか!?」
 ワンフーが哀れっぽく名乗りを上げるもバスの速度は落ちず暴走は止まらない。当たり前だ、エンジン全開で暴走するバスの運転手に外から何を叫んだところで聞こえるはずない。
 こめかみを冷や汗が伝う。
 「ヨンイル、何の漫画参考にしたんだよ……」  
 ヨンイルを止めるには直接バスん中に乗り込むしかない。
 素人運転は事故のもとだ。今すぐヨンイルをハンドルからひっぺがさないと大惨事を引き起こしかねない。鍵屋崎を助けるどころじゃない、ヨンイルごとバスが大破炎上したら洒落にならねえ。地下停留場が火の海だ。
 「レイジ、お前運動神経イイだろ。ちょっくらバスの窓蹴破ってヨンイル正気に戻してこいよ」
 「簡単に言うなっつの。俺でもできることとできないことが……」
 レイジが不意に言葉を切る。レイジの視線を追う。エゴ剥き出しに地下停留場を逃げ惑う囚人と看守、その人ごみを巧みに縫って颯爽と一台のジープが現れる。凸凹の激しい悪路も砂漠の道なき道をも走破できる頑丈なジープが、ゴムタイヤの灼ける匂いも香ばしく猛然と地下を突っ切ってくる。
 「HEY、タクシー!」
 「ヒッチハイクかよ!?」
 レイジが親指を突き出す。
 そんなんで都合よく止まるかよと突っ込んだ眼前にジープが急停止。
 「安田!?」
 ジープを運転してたのは副所長の安田だった。
 いつもきっちり纏めてるオールバックが乱れ、一房二房としどけなく額に落ちかかっている。銀縁メガネの奥の双眸は怜悧な鋭さを増し、切迫した面差しには憔悴の色が濃い。着崩れたシャツに無造作にネクタイを締めた安田がレイジと俺を交互に一瞥、事務的に指示する。
 「轢かれたくないなら逃げたほうが無難だ。私はヨンイルを追う」
 凄味を感じさせる表情に眼鏡の輝きが底知れぬ迫力を与える。
 威圧的な言動に気圧される俺をよそにレイジは飄々と笑ってる。
 飄々と笑いながらジープの後部ドアに手をつき、コンクリ床を蹴り、身軽に宙に舞う。
 一呼吸後には後部座席に収まったレイジが、ぼけっと突っ立ってる俺にむかって片目を瞑ってみせる。
 「ヨンイル追うんだろ?だったらちょうどいいや、目的はおんなじだ。俺たちも乗せてくれよ」
 「許可も得ず勝手な真似をするな。副所長の車に囚人が乗り込むなど本来は規則違反、厳罰に処されても仕方ないぞ」
 「かてーこと言うなって。あんた鍵屋崎の居場所も知らねーだろ」
 「……君は知ってるというのか」
 含みをもたせた台詞に安田が眉をひそめ、ハンドルを握ったまま振り向く。頭の後ろで手を組んだレイジがほくそ笑む。
 「ヨンイル追うなんざただの口実だ。あんた本当は鍵屋崎をさがしにいくんだろ?だったら俺を連れてって損はない、俺なら鍵屋崎の居場所がばっちりわかる。あんたにヒントをくれてやれる」
 安田の目に一瞬不審の色が浮かぶも、すぐに消える。
 鍵屋崎の身が危険に晒された状況下で迷ってるヒマはないと判断したらしい。細かいことはぬきに王様の言い分をひとまず信用した副所長がハンドルを握りなおす。
 「君はどうする?」
 安田が俺を仰ぐ。
 答えは決まってる。
 後部ドアに手をつき、勢い良く床を蹴り、宙空にて猫のように身を捻る。
 「半々……じゃないロン、俺もつれてってくれ!ヨンイルさんが心配なんだ」
 言い間違えを訂正、人ごみに揉みくちゃにされたワンフーが這う這うのていでやってくる。ドアをこじ開けて乗せろとせがむワンフーにためらうも、心を鬼にして迷いを振り切る。
 「悪い、定員オーバーだ!」
 安田がアクセルを踏み込む。
 ジープが急発進、ワンフーがもんどりうって吹っ飛ぶ。
 慣性の法則で体に負荷がかかり鋭利な風が頬を掠める。
 副所長の運転する車で砂漠に出たとバレたら独居房送りを覚悟しなきゃならないが、鍵屋崎とヨンイルが死ぬかもしれない一大事にいちいちそんな事構ってられっか。
 風圧で舞い上がる前髪を押さえ、運転席の安田に呼びかける。
 「あんたはいいのかよ副所長、勝手にジープ出したことがバレれば変態所長に怒られねーか?!」  
 風に吹き散らされないように自然と声がでかくなる。
 「鍵屋崎の命が危険に晒されてる時にそんな瑣末なことに拘っていられない。囚人の安全を守るのが副所長の使命だ。所長には後で報告する……しかるべき処罰は受ける」
 安田の横顔に決意の一念が過ぎる。
 手際よくハンドルを操りジープを駆りながら、バックミラー越しにレイジの表情を窺う。
 「……憂慮すべきはむしろ私ではなく君だ。私のジープに同乗して強制労働時間外に砂漠に出たことが発覚すれば君とてただではすまない。君は所長に目をつけられている。規則を破ったことがバレればどんな過酷な罰を受けるかもわからない」
 脅迫、というにはあまりに抑制の利いた口ぶりで安田が指摘する。
 間抜けなことに安田の指摘で初めてその可能性に思い至り、全身の血が逆流する。
 俺の隣でレイジは飄々と口笛を吹く。
 相変わらず音痴な口笛が風にちぎれる。
 頭の後ろで手を組み、ご機嫌な様子で前を向いたレイジに食ってかかる。
 「レイジ、お前いいのかよ」
 「いいんだよ」
 風に流れる茶髪を片手で押さえ、あくびを噛み殺すように付け足す。
 乾いた風に髪を嬲らせ、王様は不敵な笑みを刻む。 
 「なまぬるい責めに飽き飽きしてた頃だ。たまには刺激が欲しくなる」
 「強がり言ってんじゃねーよ。またケツにローター突っ込まれて腰砕けで帰ってきたら俺……」
 「襲う?」
 「『笑蚤』」
 台湾語で悪態を吐き、そっぽを向く。
 地下停留場をさんざんひっかきまわした末に外へ逃亡したバスを追跡、夕映えの砂漠へとジープが飛び出す。
 西空が紅蓮に燃える。
 跳ねっ返りで癖が強い髪を前方から吹いた風がかきまぜる。
 不規則に揺れるジープの中。
 固い背凭れに体を預け、エンジンの嘶きと車体の振動を感じ、呟く。
 「お前に手を出したら、今度こそ所長を殺す」
 安田がこっちのやりとりを聞いてるのはわかったが、いったん堰を切った言葉は止まらない。自分を抱きしめるように体に腕を回し、シートに足をあげる。体に膝を引き付け、こじんまりと折り畳む。
 噴き上げる激情を抑えようとぎゅっと自分を抱きしめ、目を瞑る。
 「……鍵屋崎は俺の仲間だ。不幸せになんかなってほしくない。サムライだってそうだ。東京プリズンでやっと出来た大事なダチ、大切な仲間だ。鍵屋崎にもサムライにも幸せになってほしい。だけどお前は」
 最初から幸せになるのを諦めてるような。
 不幸せでもいいやって笑ってるから。
 だから不安なんだ。
 不安でどうしようもないんだ。
 「お前は俺が幸せにしなきゃいけないんだ。俺が幸せにしてやんなきゃ、幸せになれないんだ」
 鍵屋崎にもサムライにも幸せになってほしい。
 だけどレイジは、俺がいなきゃ幸せになれない。
 俺はレイジを幸せにしてやりたい。おもいっきり幸せにしてやりたい。二度と所長の餌食にさせたくない、レイジの体と心を所長に弄ばせたくない。レイジは俺の物だ。レイジをどうにかしていいのは俺だけだ。他の誰にもレイジをさわらせたくない、抱かせたくない、渡したくねえ。所長の下で淫らに喘ぐレイジを思うと嫉妬で胸が煮えくりかえる、性的いじめだか性的な拷問だかでさんざん嬲られて快感に狂わされるレイジを思うと所長に対する殺意を抑えきれない。
 レイジが好きだ。
 どうしようもなく。
 所長が憎い。
 殺したいほどに。 
 重苦しい沈黙にエンジンの唸りが被さる。
 安田は無言でハンドルを握ってる。
 俺は不規則な振動に身を委ね、レイジを好きに弄ぶ所長への嫉妬と殺意に苛まれた醜い顔を見られたくなくて、膝に顔を埋める。唇をきつく噛み締める。肩に手がかかる。レイジが俺の肩に手をかけ身を乗り出す気配を察する。
 「ロン……」
 「俺、最低だ」
 心配げな声。
 俺は顔を上げられない。
 レイジが所長にどんな目に遭わされるか想像するだけで胸がむかつくのに口ばっか達者で実際は何もできない自分が悔しくて情けなくて顔が引き歪む。膝に顔を伏せたまま身動ぎしない俺の頬に、そっと褐色の指先が触れるー……
 指が肉を挟み、引っ張る。思い切り。
 「ひでででででっでででで!!?」 
 涙目で呻いた俺からパッと手を放し、底が抜けたように笑い転げるレイジ。後部座席にそっくり返り手足をばたつかせ、まんまイタズラに成功した悪ガキのはしゃぎっぷりにあっけにとられる。
 「ざまーみろ、俺の顎に肘鉄食らわせたお返しだ。あ、これキスもイケるかなって期待してたのに雰囲気ぶち壊しで腹立ててたんだよ。これでおあいこだな」
 「てめ、ひとが真面目な話してるときに……!」
 「シケたツラすんなよ。笑っとけ。お前が落ち込むと調子が狂うんだよ。王様の命令」
 赤く腫れた頬をさすり、恨みがましくレイジを睨む。安田がわざとらしく咳払いをする。そこで初めて第三者の存在を思い出し、ひどく気まずい思いを味わう。
 熱っぽい頬に手をあて、俯く。
 レイジに一本とられた腹立たしさと安田に痴話喧嘩を聞かれた恥ずかしさも相俟って不機嫌になった俺は、頬から手をはずし、ぶっきらぼうに呟く。
 「……約束しろよ、レイジ。ちゃんと俺のところに帰ってくるって」
 「ああ」
 「いなくなるなよ」
 「わかってるよ」
 「所長にナニされても感じるなよ」
 「わあ、ロン過激ィ」
 「茶化すな。本気で言ってるんだ。ちゃんと俺の目を見て約束しろ」
 レイジのニヤけ面をしっかり手挟んで強引にこっちを向かせる。
 レイジと真っ直ぐ目を合わせる。
 草一本もない不毛の砂漠が背景に飛び去る。
 濛々と砂埃を蹴立てて疾駆するジープの中、舌を噛みそうな振動に難渋しつつ口を開く。
 「俺以外の男を抱いて感じるな。俺以外の男に抱かれて感じるな。いいな」
 向かい風が髪を蹂躙する。
 西空に夕日が沈み、砂漠が朱に染まる。
 網膜に射しこむ残照に目を細める。
 砂漠の砂を照り返し、大気を染色する太陽の乱反射にレイジもまた片目を細める。
 「……約束するよ。ロン以外の男に抱いても抱かれても感じない。俺のいちばんはロンだ」
 優しく俺の手をとり、恭しく頭を垂れて手の甲に口づける。
 レイジの唇が触れた場所がじんわり熱をおびる。唇から伝わる火照りが心地よい。
 レイジに取られた手はそのままに、残照を映して色合いを深めた瞳を覗き込む……
 「漸く追いついたぞ!」
 安田が歓声をあげる。
 安田の声にハッとして前方を見る。
 扉から身を乗り出した俺の後ろ襟掴んで引っ込めたレイジが、俺の背中に乗っかり前傾姿勢をとる。
 ジープは僅か五メートルを隔ててバスと併走していた。
 安田が額に汗してアクセルを踏み込み、エンジンを噴かす。
 濛々と砂埃を蹴立ててジープが加速、バスの前部へと追いすがる。
 運転席の窓辺にジープが寄り添い、髪を振り乱して安田が叫ぶ。
 「ヨンイル、聞こえるかヨンイル!即刻ブレーキを踏んでバスを止めろ!このまま走行すればいずれ砂にタイヤを取られて転覆する、横転事故は避けられないぞ!」
 血相替えて投降を勧告するも速度の衰えは微塵もなくバスは走り続ける。四輪のタイヤが膨大な量の砂を蹴散らして深々と溝を作る。滝のように飛沫を撒き散らす砂の瀑布が視界を覆う。
 口にも目にも服の中にも砂が入り込んでじゃりじゃりする。
 さかんに唾を吐いて目をしばたたいて上着をはたいて砂利を追い出し、紗がかった瀑布の向こうに叫ぶ。
 「ヨンイル、聞こえてるかヨンイル!お前いい加減正気に戻れよ、鍵屋崎の居場所ほんとにわかってんのかよ、滅茶苦茶に走り回ってるだけじゃんかよ!?鍵屋崎は溶鉱炉だ、溶鉱炉にいるんだ、レッドワークの溶鉱炉につかまってるんだ!鍵屋崎を拉致った犯人もそこにいる、サムライもそこにいる!静流は鍵屋崎を人質にしてサムライと対決する気なんだ、今度こそサムライと決着つけるつもりなんだよ!」
 「それは本当か!?」
 「よそ見すんなばかっ、前見ろ!」
 鍵屋崎の名前を出した途端顔色を変えて振り向いた安田をどやしつけ、首を捻って前に向き直らせる。ああくそ、つい口が滑って副所長に馬鹿って言っちまった俺の馬鹿!
 再三の呼びかけも虚しくバスは一向に速度を落とさず停止の気配を見せない。ヨンイルは何してんだよと苛立ちが募り怒りが爆発、運転席の窓を殴り付けようと拳を振り上げる…… 
 「どわあっ!?」
 運転席の窓を殴打する前に激しい横揺れが襲い、あっけなくひっくり返る。後部座席に倒れて目を回した俺は、夢うつつに激しく言い争う声を聞く。
 乗り物酔いの吐き気を堪えて体を起こし、衝撃的な光景を目撃する。
 運転席に身を乗り出したレイジが安田とハンドルを奪い合ってる。 
 「なにをするレイジ、危険だ、やめろ!」
 「ちんたらやってんなよ副所長。貧弱な坊やに運転任せといたらいつまでたっても追いつけねーよ、いい子でハンドル渡せって!」
 安全運転を心がける安田の非難を鼻先で笑い飛ばし、王様が不敵な笑みで断言。
 いっそ気を失っちまいたかった。
 天下の副所長を貧弱な坊や呼ばわりし肘で押しのけ、華麗な身ごなしで運転席に飛び移るや否や景気よくハンドルを半転させる。ハンドルがきっかり180度回転、それにつれてジープが半立ちになり遠心力でシートの端へと転がる。
 反対側の扉に背中が衝突、肺が圧縮される。
 視界が激震、脳味噌が攪拌される。
 「レイジお前運転できんのかよっ!?」
 語尾が悲鳴に近くなる。ハンドル争奪戦兼ジープの所有権争いに勝利したレイジが叫び返す。
 「運と勘任せ!」
 「お前に任せるんじゃなかったよ!!」
 ジープが転覆、上を向いたタイヤが空転する光景が脳裏を過ぎる。
 安田はどうにかハンドルを奪還しようと悪戦苦闘するも、伸ばした手を邪険に振り払われ、努力が報われずに眼鏡が鼻先にずり落ちる。
 「ハンドルを返したまえレイジ、君の運転は目に余る無謀だ、交通法を無視した暴挙だ!遅かれ早かれジープが転覆して無理心中は免れないぞ!」
 安田の声が風に吹き散らされて切れ切れになる。
 「口閉じとけ、舌噛むぞっ」
 レイジの叱責にぎゅっと歯を噛み合わせ、予期した衝撃に備える。
 ジープが跳躍、凄まじい衝撃が来る。
 宙に踊りあがったジープから振り落とされないよう必死にシートにしがみつく。起伏にさしかかったジープが宙に踊りあがった刹那、俺の視線の高さにバスの運転席の窓が映り、真剣な面持ちでハンドルを握るヨンイルが目にとびこんでくる。
 「ヨンイルっ!!」
 ヨンイルがこっちを向く。その目が驚愕に見開かれる。
 たった今俺たちに気付いたといわんばかりに仰天した表情。
 「―っ、」
 大量の砂を巻き上げてジープが着地、反動で尻が浮上する。
 空を噛んだタイヤが地面で跳ね、ジープが平行に戻る。
 「何が運と勘任せだ、安田道連れに無理心中する気かよ!?」
 「女乗りこなすのが得意でもジープ乗りこなすのが得意たあ限らねーだろ!?」
 「俺一人満足に乗りこなせねーくせにでけー口叩くんじゃねえよ!」
 「乗りこなしてるっつの、アクセルブレーキ自由自在でご覧あれだ!俺の腹の下でさんざ腰のドリフト利かせてる癖に嘘つくなよっ」
 阿呆だ。阿呆すぎる。
 乱暴な運転に命の危険を感じる。
 レイジもこれ以上自分がハンドルを握ってるのはまずいと思ったらしく、乗り物酔いでへたばった安田にハンドルを譲り渡す。安田のネクタイをひっ掴み、扉に片足かけた自分と入れ替わりに運転席に座らせる。
 「後は頼んだぜ安田さん。ちょっくらヨンイルに説教してくるから」
 まさか。
 レイジが安田の懐をまさぐり、背広の内側から銃をとりだす。
 安田が抗議するより早く扉に利き足かけて銃を構える。
 左手で銃底を支え、右手で銃を握って弾道を固定する。
 不安定な足場を絶妙なバランス感覚で維持、風に前髪を遊ばせて呼吸を整える。
 風を孕んだ前髪の奥、物騒な光をためた隻眼を細める。
 危うい均衡の上に重心を保ち、狙い定めて引き金を引く。
 乾いた銃声が連続で轟く。
 躊躇なく六発、窓ガラスに弾丸をぶちこむ。
 射撃の反動に腕をまっすぐ束ねて耐え、仄白く硝煙たなびく銃口をおろす。
 「猛スピードで走ってる車から弾丸撃ちこむなんざ無茶だ……」
 呆れた俺をよそに、レイジが満足げな表情を浮かべる。
 「無茶を可能にするのが王様だ」
 窓ガラスが真っ白に爆ぜ、弾痕を中心に放射線状の亀裂が生じる。
 運転席の窓ガラスに六つ弾痕が穿たれる。
 ひびが入った窓ガラスに決意の表情を映し、深呼吸する。
 いつものおちゃらけた笑みから一転真剣な眼光で窓ガラスを射抜き、走行中のジープから宙に身を躍らす。。
 眼前で腕を交差させ頭を守り、猫科の跳躍を思わせる身を丸めた姿勢で窓ガラスに飛び込む。
 レイジが激突した窓ガラスが砕け散り、宙に破片が舞う。
 「レイジ――――――!?」
 王様、無茶しすぎだ。
【少年プリズン】
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三十六話

(2005/04/29)
 「……………馬鹿な」
 呆然と呟く。衝撃で頭が真っ白になる。
 自分の意志では指一本動かせない全身硬直の状態でひたすら炉を覗き込む。
 たった今サムライを呑み込んで巨大な泡を生み出した炉は、今再び何事もなかったように泥流の表面を保ち間欠的な噴火をくりかえす。
 高温で煮立つ炉から大小の泡が噴出、膨大な量の火の粉が濛々と舞い上がる。
 サムライが死んだ。
 死亡した。
 僕の眼前で真っ逆さまに炉に落ちた、肉と骨を溶かして跡形もなくすマグマの吹き溜まりへと真っ逆さまに落ちて瞬時に蒸発してしまった。
 細胞の一片たりとも残さず、完全に消滅してしまった。
 大気中に散じたサムライの残滓をかき集めようと手を伸ばしかけ、漸く手を吊られてるのを思い出す。
 遥か足元で泡が破裂、炉が沸騰する。
 サムライの姿はない。
 どこにもない。
 完全に僕の視界から消えてしまった。
 「…………あ、」
 「死んだね」
 手摺に手をかけて炉を見下ろし、あっけなく静流が嘯く。
 どこか拍子抜けしたような静流に目を向ける。
 壊れた手摺の向こうには虚空が広がっている。
 サムライが背中を凭せた瞬間、謀ったように体重を預けた手摺が傾ぎ、無防備な向きに倒れたのだ。
 偶然ではない。偶然の筈はない。
 故意だ。作為だ。
 人為的な罠だ、姑息な工作だ、卑劣な小細工だ。
 静流の態度がすべてを物語っている。
 紅を塗らずとも赤い唇を綻ばせ、妖艶に微笑む。
 背徳の色香匂い立つ魔性の微笑み。
 サムライが没した炉で勢い良く火が爆ぜる。
 更に火勢を増して激しく燃え盛る炉を眺め、細めた双眸に踊り狂う火影を映し、感慨深げに独りごちる。
 「漸く終わった。復讐が」
 片手を手摺に添えたまま、空いた手を見下ろす。
 己の手を見下ろし微動だにせぬ静流のまわりを火の粉が取り囲む。
 紅襦袢の裾がたなびくように華美に火の粉が舞う中、先刻まで鉄パイプを握っていた手のひらを見詰め、軽く指を握りこむ。
 「僕のこの手で帯刀の因縁を断ち切ったんだ。長年僕たちを苦しめ続けた帯刀の呪縛を断ち切ったんだ、すべてを終わりにしたんだ。これでもう僕らを苦しめるものはなくなった、諸悪の根源たる帯刀貢は炎に消えた、僕らを帯刀家に縛り付けていたものはなくなったんだよ……姉さん」
 決して掴めぬ物を掴もうとするように指を折り曲げる。
 形なきものを掴もうと五指を握りこむ静流、深々と頭を垂れたその姿は姉と従兄の死を悼んでいるかに見える。
 手摺に縋って面を伏せた静流の頭上にて、宙吊りにされた僕は放心状態から脱することが出来ず、虚ろな目で炉を見詰め続ける。

 「サムライが死ぬわけがない」

 僕を残して死ぬはずがない。
 ずっと僕を守ると約束したんだ。
 今度こそ僕を抱くと約束したんだ。
 武士が約束を破る筈がない。
 誰より高潔で誇り高い侍が、信念を捨てる筈がない。

 『しばし、抱かせてくれ』
 僕はまだ侍のぬくもりを覚えている、侍の心臓の鼓動を覚えている。
 「必ず生き残って、僕を抱くんじゃなかったのか」
 侍。
 『必ず助ける。必ずこの手にお前を抱く』
 サムライ。
 『愛しているんだ、お前を。狂おしいほどに』
 僕のサムライ。

 「君が死んだら、僕は狂うしかない。君がいない世界で狂わずにはいられない。君のいない孤独に耐えられず狂わずにはいられない」
 狂気に似た衝動が噴き上がる。
 胸が痛い。
 痛くて痛くて張り裂けそうだ。
 サムライどうした何故戻ってこない炉から這い上がってこない、この程度で終わりか、終わりなのか?
 君はその程度の男だったのか、口ほどにもない。
 僕を抱いて必ず守ると誓ったあれは嘘か、必ずまた僕のもとに戻ってくるという約束は嘘か、貴様の存在すべてが嘘で塗り固めた虚構だったとでも?
 ……信じない。認めない。
 そんなことは絶対に認めない、こんな現実は絶対に許容しない、鍵屋崎直の全てを賭けてこんな現実否定してやる、サムライが存在しない世界を否定してやる。
 サムライ。
 生まれて初めてできた僕の友達、かけがえのない存在、僕を救い上げてくれた男。君がいればこそどんな過酷な障害も乗り越えられた、来る日も来る日も性欲を剥き出した男に犯される売春班の生き地獄もレイジとロンの関係に亀裂が入った時も、みっともなく見苦しく最後まで足掻いて足掻いて足掻ききることができた。
 プライドをかなぐり捨てて大切なものを守り抜くことで、僕が僕たる最後の一線を死守することができたのだ。  
 それを教えてくれたのはサムライだ。
 みっともなく見苦しく格好悪く、足掻いて足掻いて足掻ききって希望を掴むことを教えてくれたのはサムライだ。
 最後まで諦めるなと背中を押してくれたのはサムライだ。
 辛くて苦しくて挫けそうな僕を叱咤してくれたのはサムライだ。
 僕が東京プリズンで生き抜けたのは彼が、サムライがいたからだ。
 隣に常にサムライがいたからだ。 

 「………はっ!」
 ………そうだ。
 僕ともあろう者が忘れるところだった。
 希望を。

 「勘違いもはなはだしいぞ、静流。これしきのことであの往生際の悪い男が死ぬものか。サムライが男が炉に落ちたくらいで蒸発するような根性なしであるものか、僕が友人と認めた男が簡単に死ぬものか、たとえ炉で煮られ炎で焼かれても彼は不滅だ、僕が愛するかぎり帯刀貢は不滅だ!!」

 僕は全身全霊をかけてサムライを愛する。
 サムライは全身全霊をかけて僕に尽くす。
 僕らが全身全霊で互いを思い合うかぎり僕たちは死なない、僕らは互いを生かし合う。

 「サムライっ!!」
 脂汗が目に流れ込み視界がぼやける。
 鉛の如く重たい瞼を意志の力でこじ開け、重圧に抗う。
 僕は声振り絞り叫ぶ、必死に叫ぶ。
 もはやなりふり構ってなどいられない、恥も外聞もかなぐり捨て全身全霊でサムライに想いをぶつけずにはいられない。
 たとえ傷口が開いて腸が零れようとも激しい痛みと熱で意識が爆ぜ飛ぼうとも泡沫と化したサムライを声の続く限り呼ばずにいられない。
 「貴様この程度で終わるのか、この程度の男なのか、事もあろうに僕を抱くと宣言しておいて戦闘開始から十分ももたず死亡するような
口先だけの男なのか!?もしそうなら貴様には幻滅だ。貴様はこの僕が認めた男IQ180の天才鍵屋崎直が認めた誇り高き侍だ、貴様になら抱かれてもいいと僕に思わせた唯一の男だ、僕の唯一の男だ!!忘れたのかサムライ僕を抱いた時の感触を、僕の息遣いと鼓動を、僕が君に託した熱を!!」

 サムライ。
 サムライ。
 生きててくれ、サムライ。
 僕を残して逝かないでくれ、僕をひとりにしないでくれ、約束を守ってくれ。
 また「直」と呼んでくれ。笑ってくれ。
 そして今度こそ僕を抱いてくれ、僕と繋がってくれ。

 「泣いても喚いても無駄だよ。帯刀貢は哀れ炉の泡と化したんだから」
 手摺に背中を凭せた静流が卑屈に笑うも無視、手首が捻れる激痛に脂汗をかき顔を顰め、叫ぶ。
 「抱いてくれ!!」
 もう一度顔が見たい、手に触れたい、声が聞きたい。
 「頼むサムライ、抱いてくれ。僕を思い切り強く抱きしめてくれ。君に抱かれずに終わるのはいやだ、抱かれずに死ぬのはいやだ、僕は君と………!」

 一緒に生きたいんだ。
 生きていきたいんだ。

 「………一緒に逝きたいなら、お望みどおり後を追わせてあげる」
 手摺から背中を起こした静流が緩やかな動作で鉄パイプを拾い上げ、僕の足元に寄ってくる。
 凶悪に尖った鉄パイプの切っ先が体に近付き、恐怖で喉が鳴る。
 鉄パイプの先がつと滑り、傷が開いた脇腹を掠める。 
 静流の目が嗜虐の光を孕む。
 「業火心中だ。さようなら、直君。短い間だけどそれなりに楽しかったよ」
 「………っ!」
 鉄パイプの切っ先が脇腹を貫く光景を幻視、目を見開く。
 必死に身をよじり静流から逃れようともロープで宙吊りにされていたのではどうしようもない、どうすることもできない。
 中空で暴れる僕に歩み寄り、いっそ無造作に鉄パイプを振り上げる。
 「あの紅襦袢、よく似合ってたよ。あれは姉さんの形見なんだ。あの紅襦袢を羽織れば僕も姉さんになれる気がした、僕の中に姉さんを感じることができた。姉さんの残り香に包まれて幸福な思い出に浸ることができた……」
 「ただ、の服装倒錯では、なかったんだな。つまらない感傷だ」
 さかんに宙を蹴り浮上を試みつつ、口角を吊り上げて不敵な笑みを作る。ただの虚勢だ。
 「あの世で貢くんによろしく」
 清澄に微笑んだまま静流が動く。
 風切る唸りを上げて襲来した鉄パイプが僕の脇腹を抉りー……
 突如として火の粉が舞い上がる。
 視界を覆った火の粉に軌道を狂わされた鉄パイプが手摺に激突、火花を散らす。
 「!?な、」
 静流が驚愕の相で叫び、手摺の外に向き直る。
 
 「まだ死なん」
 声が、した。
 彼の声。

 一段下の足場から届いた声に血相替えて手摺から身を乗り出す静流、僕は宙吊りにされたまま火の粉ふぶく眼下を見る。
 サムライが、いた。
 燃えていた。
 炎上していた。
 後光を背負ったように背中一面が炎上、背中に吹き流れた総髪にも火が燃え移っていた。
 「直を抱くまでは、死なん」
 「サムライ、背中が……」
 思わず息を呑んだ僕を見上げ、サムライが首肯する。
 背中が焼ける激痛に苛まれて意識を保つのも難しいはずなのに、玉の脂汗が噴き出た苦悶の形相で、強靭な意志と堅固な信念を支えに両足で立ち続ける。
 「しぶといね、まだ生きていたのか。てっきり炉に落ちたと思っていたのに」
 静流が舌を打ち、壊れた手摺を一瞥する。
 「……ああ、そうか。さっきはパッと火の粉が舞い上がってわからなかったんだ。あれは手摺が炉に没した泡と音で、火の粉をめくらましにした君は落下の直前に一段下の通路に逃げ込んだわけだ。ははっ、すっかり騙されちゃった!僕もまだまだ未熟者だ、姉さんに怒られちゃうよ。油断は禁物だね」
 火が燃える。
 サムライの背中で火が燃える。
 肉の焦げる匂いが鼻腔を突き、吐き気を催す。
 「今すぐ火を消し止めろ背中が焼けてしまう火傷してしまう、何をぼうっとしてるんだ、頭皮に火が燃え移ったらどうしようもないぞ!他の部位ならまだ皮膚移植でどうにかなるが頭皮の火傷は治りにくく細胞が死んだら髪も生えない、早く火を消すんだ消せ消すんだ、灰になる前に!!」
 次の瞬間、静流が跳ぶ。
 囚人服の上着が風を孕んで膨らみ、裸の背中が垣間見える。
 衣擦れの音も高らかに袖がはためく。
 勢い良く手摺を蹴って宙に身を躍らせるや、鉄パイプを片手に一段下の通路に転がり込む。 
 「今度こそ殺してやる。業火で灼いてやる。帯刀家に終焉をもたらすのは、この僕だ」
 「……俺が今味わってるのは、直の痛みだ」
 サムライが瞼を閉じる。
 苦痛の色濃い面持ちに夥しい脂汗が浮かび、火炙りの激痛に奥歯を食い縛り、肉の焦げる臭気があたりに立ち込める。
 僕にはわかった。
 サムライは自らすすんで炎の責め苦に耐えているのだ。
 僕が味わった痛みを共有しようと、僕が味わった痛みに報いろうと。
 「お前の甘言に騙されて直を手酷く傷つけた。直を裏切ってしまった」
 「いいんだサムライ、僕はいいんだ、こうして生きてるだけで十分だ!これからも君と生きていけるだけで十分なんだ!」
 「直が味わった痛みの何分の一、直が味わった絶望の何分の一でも俺は報いねばならん」
 サムライが深く呼吸し、切腹の構えで体前に鉄パイプを突き出す。
 サムライのまわりに火の粉が吹き荒ぶ。  
 サムライが鋭く呼気を吐き、鋭利な切れ味を誇る鉄棒を一閃する。
 
 僕が成す術なく見守る前で。
 火の粉混じりの風になびく総髪が根元からざくり断ち切られ、宙に舞う。
 鉄パイプの切っ先で断ち落とされた総髪が風に吹きさらわれ、何百本何千本もの毛髪の嵐となり、火の粉に炙られて消滅する。
 
 火の粉の爆ぜる音だけが聞こえる静寂の中。
 炉上にて対峙した修羅の片割れ、今しも自身の髪を切り落とした短髪の剣士が、ひどくゆっくりと目を開ける。
 「いざ参ろうぞ」
 サムライが上着を脱ぐ。    
 殆ど消し炭と化した上着が、炎の坩堝に落下する。 
 「俺は直と生きる。己と直の為に、直と共に地獄を生きる」
 ひどくゆっくりと瞼が開き、清冽な眼光を宿した双眸が現れる。  
 一人の侍がいる。
 過去と決別し、自ら呪縛を解き放ち。 
 炎の中で生まれ変わった侍がいる。
 「俺が振るう刀は己と直の為、直と共にある。帯刀の家名にもはや未練はない。俺は……」
 「僕は」
 背中に酷い火傷を負った侍を見下ろし、口を開く。
 呼吸を合わせ、心を一つにする。
 手が届かなくても指さえ触れ合えずとも、心を寄り添わせることが可能なら。  
 伝えたい想いがある。
 伝えたい言葉がある。
 ただ一言、

 「俺は、直の侍だ」
 「僕は、侍の直だ」
 
 呼吸が合わさり、声が重なる。
 火の粉がちりちりと燻る中、数奇な因縁に導かれた帯刀の末裔が再び対峙する。
 決着の刻。
 死闘のはじまり。
 
 「………僕は?」
 どこか気抜けした様子で鉄パイプを手に預け、静流が哀しげに微笑む。
 先ほどまでの妖艶な毒気を含んだ笑顔とは一変、透き通る微笑。  
 「僕は誰のもの?帯刀家のもの?違う。僕もだれかのものになりたかった。いや違う、僕はだれかのものになんてなりたくなかった。僕は姉さんのものになりたかったんだ、姉さんに独占されたかったんだ」
 舞をおもわせる静けさで足を運び、静流が続ける。
 「なのに結局は、僕も姉さんも帯刀家の物にすぎなかった。帯刀家の者じゃない……ただの『物』だ。帯刀家の血を絶やさぬためだけに生かされた道具だ。僕は薫流姉さんを独占したかった。永遠に僕だけの物にしたかった」
 「薫流を殺して願いは叶ったか」
 静流が疲れたふうに首を振る。
 「………僕の手には何も残らない。血の汚れしか残らない。姉さんは最期の最後まで帯刀家の物だった、帯刀家の物として生を終えた。なればこそ僕も帯刀家の物として生を捨てよう、帯刀家を滅ぼした男への復讐にすべてを捧げようと思ったのに……」
 静流がゆるやかに顔を上げ、真っ直ぐに侍を見る。
 火の粉を映して薄紅に染まる水鏡の目。
 「帯刀家の者になれぬなら、せめて帯刀家の物として死ぬ。姉さんがそうしたように」 
 静流が正眼に鉄パイプを構える。

 これまでとは比べ物にならない殺気を感じる。水の流れに似てあたりにたゆたう殺気……
 あまりに静か故に不吉なそれ。
 
 小揺るぎもせず鉄パイプを構え、伏せた双眸に光を深沈させ、美しき修羅が名乗りを上げる。
 「帯刀分家が嫡男、静流が参ります」
 今ここに帯刀の血脈が生み出した、一人の天才が出現する。
【少年プリズン】
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三十七話

(2005/04/28)
 「帯刀分家が嫡男、静流が参ります」
 剣を正眼に構えて堂々と名乗りをあげる。
 切っ先は微動もせず、真っ直ぐにサムライをさしている。
 静流の眼差しは揺るがず、ひたりと目に虚空を映している。
 水に棲む魔性の目。
 あらん限りの憎しみを込めてサムライを殺すと宣言しておきながら、その目は一切の邪悪と無縁に澄み切っている。
 まるで水鏡。
 明鏡止水の目。
 名は体を現す。
 己の名を体現するが如く清冽な気を纏い、瞼を下ろし瞑想し気息を整える。
 瞠目。
 宙吊りにされた僕が成す術なく見守る前で静流は完全に世界と同化する、呼吸に合わせて体内で練り上げた闘気が四肢に満ちていく。
 しかし静流自身は緊張とは無縁に穏やかな顔をしている。
 限界まで張り詰めて切れるのを待つ糸のような緊張感も殺気も微塵もなく、生死を決するこの期に及んで異様にリラックスしている。

 この世のしがらみから解き放たれた安らかな表情。
 悟りを開いた恍惚の表情。

 剣を正眼に悠然と踏み構えたその姿には、才の突出した者特有の余裕と威厳が漂っている。
 束の間命が危険に晒された恐怖も忘れ、立ち居振る舞いの美しさに見惚れる。
 日舞の玄人ならではの嫋やかな体捌きは艶めかしく、漣立てず水面を歩く足運びで見るものを幻惑する。
 再び目を開けた時、静流の表情は一転していた。
 口元に仄かに浮かんだ笑みは一瞬の内に消え、瞼の奥から覗いた双眸に怜悧な眼光が宿る。
 直感した。
 今この瞬間、静流こそが本当の天才だと確信した。
 そして唐突に理解した、僕自身が静流を嫌っていた理由を。
 勿論サムライに近付く静流を警戒してたのもある、僕の知らないサムライを知る彼に嫉妬を覚えていたのもあるがそれ以前に、遡れば夕焼けに染まった展望台で初めて出会った時からずっと静流に対する生理的嫌悪を感じていた。
 その理由が漸くわかった。
 彼と僕は同じ生き物だ。
 同じ天才なのだ。
 彼に対して抱いた感情は近親憎悪か同族嫌悪か……否、自己嫌悪の裏返しだ。僕は初対面時にわかっていたのだ、爽やかな笑顔の裏の真実の核を掴んでいたのだ。
 天才は天才を知る。
 そして、嫌悪する。
 僕はこれまでサムライこそが人間国宝の才を受け継ぐ天才だと思っていたが事実は違っていた、実際は異なっていた。
 本家の跡取りとして厳しく育てられたサムライには皮肉にも当主を継ぐ才能が備わっていなかった。真実才能に恵まれていたのは分家の嫡男の静流であり、それを知った莞爾は実の息子に辛く当たった。

 皮肉な行き違いが生んだ悲劇。

 弔いの火の粉が舞いとぶ炉傍で、上着の裾を颯爽とはためかせ静流が疾駆する。
 囚人服の裾が風を孕んで音高くはばたき、パッと舞い上がった火の粉が視界を赤く熱し、前髪を燻す。  
 風圧に舞い上がる前髪にも構わず、細腕の鉄パイプを振り上げる。
 火の粉に焦がされて皮膚に火傷を作りながら間合いに攻め入り、袈裟懸けに斬る。
 流麗に流れる剣は肉を斬り骨を断つ威力でもって致命傷を与える。
 「サムライっ!」
 肉が爆ぜて鮮血を撒き散らす幻覚を見た。
 袈裟懸けに斬られたサムライがよろめき、炉に没する幻覚を見た。
 僕の不安が見せた幻を裏切り、サムライは間一髪斬撃を避けて後方に飛び退いていた。安堵する暇もなく次が来る。

 まさに、水。

 ある時は瀑布を上げる滝のように残像を脳天から断ち割り、ある時は岩をせかるる水のように緩急変化に富む曲線を描く。
 直線と曲線が見事に融和し、身の毛もよだつ冴えを見せる。
 静流が生き生きと舞う。
 美しく優雅にしたたかに、殺戮の高揚に身を委ねる。
 殺戮の衝動に身を委ねる。
 静流はもはや人斬りの本性を隠そうともせず、面に血化粧を施された美しき修羅と化し、静かに流れる水の如き剣筋でサムライを追い詰めていく。
 劣勢に追い込まれたサムライが眉間に縦皺を刻み、切れ長の双眸に憔悴の光を揺らす。
 「僕が天才だって?」
 静流が皮肉に笑う。絶望に蝕まれた微笑み。 
 自嘲的な笑みを浮かべながらも追い詰める剣筋は手を抜かず、冷静に言葉を吐く。

 「嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。そんな世迷言は那由他でも阿僧祇でも否定してやる、僕の生が続く限り否定し続けてやる。君が凡人で僕が天才、君が努力の人で僕が天才?認めない、絶対に認めない。本家の長男は生まれながらに何もかもを持っていた、生まれつき優れていた、完全無欠の人間だと周囲にそう聞かされて己を卑下して育ってきたんだよ僕は。さすがは本家の跡取りだ、分家とは出来が違う、立派な跡取りがいて帯刀家も安泰だ、それに比べて分家の跡取りは女々しくて情けない、女みたいななりをして覇気に欠ける、本家の跡取りの爪垢でも煎じて飲ませたらどうだ、いっそ女に生まれてくればよかったものを……
 皆が僕にそう言った、爪剥がれるまで刀を振るい必死に君に追いつこうとする僕をあざ笑った。僕は帯刀家に相応しくない人間だと本家の引き立て役にすぎないのだから分をわきまえろと、誰も彼もがお節介な説教を垂れた。くどくどしく」

 静流の目に狂気の光が揺らめき、剣捌きがさらに速くなる。
 饒舌に唄いながらも振るう剣筋は衰えを知らず切れを増すばかりで文字通り太刀打できない。
 興に乗った静流がいっそぞんざいに鉄棒を叩き付ける。
 鉄と鉄が激突する甲高い音が響き、火花が散る。
 上段からの打ち込みを立てた鉄棒でサムライが受け止める。
 鉄棒と鉄棒がぶつかる。
 技と技が相殺し、力が拮抗する。
 「僕が天才などであるものか。僕が天才なら稽古で一度も君に勝てなかった説明がつかない」
 静かな怒りを孕んだ顔と声で静流が唸り、関節が白く強張った手にさらに力を込める。
 華奢な体躯と折れそうな細腕からは想像もできぬ力でもって鉄パイプを押し込む宿敵と対峙、サムライが抗弁する。
 「お前自身が実力に枷をかけていたのだ。俺に引け目を感じて実力を出しきれなかったのだ」
 「僕が思い込み激しいみたいに聞こえるけど」
 さも心外そうに眉をひそめる静流を見下ろし、僕は呟く。
 「それは違う」
 サムライと睨み合ったまま耳だけこちらに傾ける静流に、腕と脇腹の痛みを堪えて説明してやる。
 「ただ激しいんじゃない、『異常』に激しいんだ」
 息をするたび脇腹が痛む。全身が疲れている。
 吊られた腕が麻痺し、澱のような虚脱感が脳天からつま先へと下りていく。大量の汗で濡れそぼった上着が素肌に貼り付いて気持ち悪い。眼鏡をとられたせいで視界がぼやける。
 それでも意識を保ち続ける為に口を開く、今にも萎えそうな気力を叱咤して今にも蒸発しそうな理性をかき集めて舌を動かす。

 侍の生き様を見届けるために。

 「静流、君は思い込みが激しく暗示にかかりやすい体質の人間だ。それに加えて人格未形成の幼児期から常にサムライと比較され続けてきた。俗に言うマーフィーの法則、パブロフの犬だ。
 もともと心理学ではなく量子力学の三原則から発展した用語だがこの際まあいい、説明を続ける。静流、稽古に際して君の実力が制限されて一度たりともサムライに勝てなかったのは君自身のせいだ。君自身がサムライに劣ると思い込んでいたから皮肉にもその通りになってしまっただけのことだ。本当はサムライより遥かに優れていたにもかかわらず勝てなかったのは他ならぬ君自身が己の才能を疑っていたせいだ、自分の才能を信じきれなかったせいだ」

 誰よりも自分の才能を信じ続けなければならない自分自身がそれを裏切ったのでは全く意味がない。
 生まれつき人より多くを与えられていたとしても自分自身がそれを知らなければ、もとより何も持ってないのも同じ事。
 持たざる者は持てる者を羨み、そのすべてを欲する。
 どこまでも浅ましく貪欲に自滅の道を突き進む。
 
 自分を卑下するのは自己の才能に対する冒涜だ。
 自分を卑下するのは自己に対する最大の侮辱だ。
 何故それに気付かない、気付こうとしない。 
 静流、君ほどの人物が。
 貴様ほどの天才が。
 
 息を継ぎ、叫ぶ。

 「たとえまわりの人間が何を言ったとしても君だけは自分の才能を信じ続けねばならなかった、自分の才能を疑ってはいけなかった、誇りを持ち続けねばならなかった!君が道を踏み誤ったのは他の誰のせいでもない、勿論サムライのせいでも君に復讐を命じた母親とそれを容認した姉のせいでもない、いちばんの原因は帯刀静流貴様自身だ!!
 君には十分選択の余地があった、ここに来る前に何度も何度も引き返すチャンスがあった、最悪の結末を回避する手段があった!!
 姉を愛していたらなら二人で遠くに逃げればいい、だれも君たちが姉弟と知らぬ場所でやりなおせばいい、近親相姦がなんだそんなものどこが禁忌だというんだ、遺伝子の近さで障害児が生まれるのがまずいのか、血の繋がった姉弟で性行為に及ぶのがまずいというのか?!
 前者がまずいのは異常のある子をわが子と思えない場合だけだ。
 全くの他人同士でも障害のある子は生まれるんだ、姉弟間でも何ら異常のない子が生まれる事もあるんだ、将来的に生まれる子供の話など命をだしにした卑劣な言い訳に過ぎない、統計的にも遺伝的にも不確定要素が多すぎて否定材料にならない!
 後者の場合は問題にならない、愛し合ってるなら性行為に及べばいい、愛し合ってる者同士が体を重ねて何が悪い、愛する人間と体も心も深く繋がりたいのは有史以前の当たり前じゃないか!?」

 体の中で出口をさがして激情が渦巻く、脇腹の痛みすら圧してとめどなく湧き上がる感情に翻弄される。
 苗はサムライが弟だと知って首を吊った。
 もしそれが本当に自殺の理由なら苗を恨まずにいられない、血の繋がった姉弟だからとたったそれだけで幸せになるのを諦めたとしたらその潔さを憎まずにいられない。
 何故サムライを独りにした、苗。
 サムライは貴女を愛していたのに、貴女だけが辛い日々の拠り所だったのに、何故最後まで生きて彼のそばにいてやらなかったんだ?

 何故彼を、こんな所に来させてしまったんだ。

 僕は苗を恨む。
 その潔さと誇り高さを憎む。
 どんなに非難されても苦しんでもそれでもサムライと共に生きて欲しかった、サムライと添い遂げてほしかったと呪わずにはいられない。
 何故そんなに簡単に幸せを諦める? 
 潔く誇り高く往生際良く、美しい自己犠牲精神でもって愛する人の手を放せるんだ?  
 僕なら絶対に放さない。
 どんなに見苦しく往生際悪く利己的でも大事な人の手を放したりするものか、サムライの手を放したりなどするものか、サムライをひとりになどさせるものか。
 僕は彼と幸せになるんだ。
 彼と一緒に幸せになるんだ。
 東京プリズンで生き延びて、いつかは生きてここを出るんだ。
 死人にも静流にもサムライは渡さない。
 天才のプライドと威信に賭けて、僕らの生きるこちら側にサムライを引きとめ続けてやろうじゃないか。

 「そんなに薫流が好きながら家のしがらみを断って二人で逃げればよかった、母親と姉に言われるがまま刀で刺し殺したのは君自身だ、即座に刀を捨てて薫流を抱きしめることもできたのにそうしなかったのは君だ、君自身だ!!自分の愚かさ罪深さを他人になすりつけるな、逆恨みをするな、妄想に逃げるな!
 僕は貴様を軽蔑する、帯刀静流。
 なるほど貴様は天才だが一片の尊敬にも値しない男だ、自分の才能を信じ続けられなかった弱さがもたらした悲劇を今なお受け入れるのを拒絶し逃げ続ける惰弱で最低な男だ。僕は貴様を唾棄する、今なおサムライを苦しめ続ける貴様を憎む!!」
 「才能を信じ続ける才能がなかったんだよ、僕は」
 静流が唇をねじまげて嘲弄する。
 儚い諦念の滲んだ微笑。
 「誰も彼もが君のように自信を持てるわけじゃない。あんまりうるさいと縄を切るよ?」
 「直に手を触れるな!」
 静流の言葉にサムライが激昂、両腕に静脈の筋を立てて一気に鉄パイプを押し返す。
 力の均衡が崩れ、静流が素早く飛びのく。
 白鷺の羽ばたきに似た身ごなしで華麗に跳躍、再び鉄棒を構える。
 「……寡黙を尊ぶ帯刀家の人間の癖に口数多すぎだね、僕は。これからは慎むよ」
 恥じらうようにはにかみ、風鳴りに似て鋭く呼気を吐く。
 「!―くっ、」 
 静流の振り被った鉄棒が容赦なくサムライの脛を打ちのめす。
 脛を強打された激痛に苦悶の形相を浮かべるも何とかその場に踏み止まり防御の構えをとるも遅く、鉄棒を水平に伸ばした静流が小走りに間合いに突入する。
 水際立った身のこなしでサムライの間合いに駆け入り、懐に潜り込む。
 静かに流れる水の如く。
 気配も感じさせずにサムライの懐に潜り、灼熱の鉄棒で刺突をくりだすー……
 「サムライが敗けるものかっ!!」
 ささくれだった縄が手首を締めて痛みを与える、その痛みを堪えて檄を飛ばす。
 僕の声に反応したサムライが辛くも兇刃を防ぎきる。 
 「天才が認めた凡人が自身すら認めない天才に敗けるものか!!」 
 「僕だって姉さんに認められていた!」
 「その姉を殺したのは誰だ!?」
 静流が悲痛な顔をする。
 唯一の理解者を自分の手で殺した事実の重さに打ちのめされ、一瞬の隙ができる。
 いまだ。

 「ォおおおおおおおおおおおおおおおォおおおおおおおおおおおおォおおおおおおおっっ!!!!」
 
 裂帛の気合を込め、火の粉で真っ赤に灼けた鉄棒を蒸気噴き上げる手に握り、全身全霊で挑みかかるサムライ。
 実体なき水のように様々に形を変える静流の剣筋とは違う、全てを打ち砕き破壊する迫力の剣筋が大気を貫く。 
 悲劇の連鎖も血の呪縛も。
 見えざるものすら断ち切り炎で浄化させる、烈火の剣。
 この期に及んで無防備にも正面から突っ込んでくるとは予測できず、静流がうっすらと笑う。
 勝ち誇って微笑む静流の眼前、サムライが攻撃に移る。
 鉄パイプの表面にふれた火の粉がじゅっと音たて、瞬時に蒸発する。
 静流は余裕で剣を構え、サムライを迎え討つ準備を整える。
 僕は気付いていた、静流の鉄パイプが傷だらけなことに。
 少しの衝撃で折れそうなことに。
 ひょっとしたら静流自身気付いていたのかもしれない、ぼろぼろに傷んだ手中の鉄パイプで斬撃をふせぎきれるかわからないと。
 それでも静流は剣を引いて体勢を立て直すことなく、体前に鉄パイプを翳してサムライを受けて立つ。
 サムライが渾身の力で鉄パイプを振り下ろす。
 ぼろぼろに傷付き、全身至る所に酷い火傷を被ったサムライが放った必殺の一撃が難なく受け止められる……

 否。
 受け止めきれなかった。

 「!!!」
 宙高く鉄パイプが舞う。
 火の粉が盛大に舞い飛ぶ中、宙に放擲された鉄パイプが僕の鼻先を掠める。
 いつか見た光景が鮮烈に蘇る。
 展望台の突端に佇む少年、夕焼けに染まるコンクリート。
 残照に映える黒髪の少年が緩やかに振り向き、そしてー……

 『久しぶりだね。貢くん』
 玲瓏と澄んだ声が聞こえた。
 幻聴だった。

 現実の静流は眼下にいる。
 眼下の通路にてサムライと対峙している。
 今しも静流の手をはねとばされた鉄パイプが滑るように炉に落下、増殖する泡の中へと呑みこまれていく……

 終わった。
 静流の、敗けだ。

 「……参ったね。今ので腕がへし折れちゃった」
 傷んだ鉄パイプは衝撃に耐え切れなかった。
 腕もまたしかりだ。
 鉄パイプを遡った衝撃に右手の骨が砕けたらしく、無意識に右腕を庇い、そのまま後方へとよろめく。
 サムライは茫然自失の体で立ち尽くしていた。不規則に乱れた呼吸といい額をしとどに濡らした脂汗といい、二本足で立っているのが奇跡に近い疲労困憊の相を呈している。
 だが、ざんばらに乱れた前髪の奥の目は死んでいなかった。
 炉の炎にも負けず旺盛に輝いていた。
 静流は虚ろな無表情をさらしていた。
 利き手は折れ、得物を失い、もはや完全に勝機はなくなった。
 足が縺れ、体がよろめく。
 吸い寄せられるように手摺に身を凭せる。
 背中に体重を預け、手摺を押す。
 「待て静流、その手摺はさっき君が鉄パイプをぶつけた……!!」
 手摺が後ろ向きに傾ぎ、静流が背中から虚空に放り出されたのは次の瞬間。
 ほぼ同時に、僕自身にも異変が起きる。
 「!?っ、」
 さんざん暴れたせいか火の粉に焼き切れたか、僕の手首を縛った縄が緩み、自重でちぎれる。
 耳朶で風が唸る。
 落下の風圧で前髪が捲れる。
 虚空に放り出された僕の眼前、サムライが必死に手を伸ばす……
 「直っ!!!」
 呼びかけに応じ、無我夢中でサムライの手を掴む。
 通路に腹這いになったサムライは手摺が壊れた向こう側へと胸まで乗り出し、その右手で僕の全体重を支えている。
 そして、左手には―……
 静流が、いた。
 虚ろな無表情のまま、サムライに腕を掴まれ宙にぶらさがっている。
 右手に僕を、左手に静流をぶら下げたサムライの顔に大粒の汗が噴き出し、両腕が見る間に青黒く鬱血していく。 
 下方から噴き上がる火の粉が頬を舐める。
 足元では轟々と炎が渦巻いている。
 さっき沈んだ鉄パイプは跡形もなく溶かされて泡に帰してしまった。
  
 サムライは僕ら二人を両手にぶら下げたまま、激しい焦燥に苛まれた葛藤の表情で唇を噛んでいる。

 僕か静流か。
 救えるのはどちらか一人だ。
【少年プリズン】
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三十八話

(2005/04/27)
 「レイジっ!」
 風圧に抗い目をこじ開ける。
 腕で頭を庇い窓に突っ込んでいったレイジに手を伸ばすもとどかない、懸命に伸ばした手は空を掴むばかりでレイジの後ろ襟をつかまえられない。レイジが前のように髪長いままなら後ろ髪ひっ掴むこともできたのにそれもままならない。
 褐色のうなじを閃かせて車の縁から跳躍、猫科の俊敏さで宙に身を躍らせたレイジが慣れた身ごなしで窓ガラスをぶち破り車内へ消える。
 窓ガラスがハデに割れる。
 盛大な音が鳴る。
 窓ガラスに放射線状の亀裂が生じる。
 真っ白に爆ぜた窓ガラス、粉微塵の破片が鋭利にきらめき頭上に降り注ぐ。
 ジープが跳ねる。
 おもわず舌を噛みそうになる。
 レイジと入れ替わりにハンドルを握った安田は舌を噛まないよう口元を一文字に引き結び、厳しい面構えで前だけを見てる。
 とにかく事故らないようにまかり間違ってもジープが転覆しないように最大限の注意を払ってハンドルを操りじゃじゃ馬を馴らしている。
 タイヤが砂利を噛み、砂の瀑布を巻き上げる。
 タイヤに抉られた轍が延々とあとに続いている。
 蛇行する轍を作り疾駆するジープの上、転落するぎりぎりまで身を乗り出した俺は固唾を呑み、完膚なく硝子が破砕された窓の中を覗き込む。
 「まったく王様め、無茶しやがって!ロバの耳かよアイツ!?」
 ちょっとは人の説教まじめに聞けってんだ、懲りろってんだ。
 レイジは無事なのか?
 猛スピードで走行中のジープん中じゃ様子がわからない、砂の瀑布に遮られてバスの運転席の様子が窺えない。
 露骨に舌を打ち、砂でじゃりじゃりする口を手の甲で擦って運転席に向き直る。
 「止めろよ安田、レイジはあの中だ、俺もあとを追う!」
 「無茶を言うんじゃない!時速100キロのジープからバスへ飛び移るのは異常な身体能力に恵まれたレイジだからできたことだ、君が実践したら無難に死ぬ!刑務所の秩序と安全をつかさどる副所長として危険なまねを許すわけにはいかない!」
 「あんま堅苦しいこと言ってんとハゲんぞ安田、盗んだジープで走り出したくせにこまけーこと気にしてる場合かよ!?」
 「盗んだのではない、借りたのだ。副所長の権限は逸脱してない」
 焦燥の面持ちでハンドルをさばき、安田がきっぱり言い返す。
 自己弁護はお手の物だ。
 俺は安田の肩に手を添え立ち上がり、背後から首を絞めんばかりの勢いで食ってかかる。
 「レイジが、俺の相棒があの中にいるんだよ!暴走バスん中でヨンイルと殴り合ってんだよ、万一レイジがやりすぎちまった時のために俺がいなきゃまずいだろうが!あんたは知んねーかもしれねーけどレイジを止められんのは俺だけだ、この世でたった一人俺だけだ。今すぐジープを止めて俺を行かせねーと後悔するぞ、この先バスが砂漠に突っ込んでガソリンにエンジンが引火して爆発すんの確実だ」
 安田がちらりと俺を見る。
 銀縁眼鏡の奥の双眸が細まり、嘆きの表情が浮かぶ。
 俺は一歩も意見を譲らない頑固な顔つきで安田を睨みかえす。
 目の下に隈を作り頬がやつれた憔悴の面差しには疲労の色が濃いものの、おそろしく切れ者の印象を与える双眸の鋭さは失われてない。
 眼鏡の奥でしずかに瞼を下ろし安田が自問する。
 俺は運転をトチらないかひやひやして安田の手元に目をやっていた。だが安田はふしぎと運転をミスしなかった、眼鏡の内の目を閉じていてもどこでハンドルを切ってアクセルを踏みブレーキをかければいいかが条件反射として体に染み付いてるらしく円滑な動作でジープを御している。安田が手元をおろそかにしないか心配しつつ、身を乗り出しがちに後部シートに正座して答えを待つ。
 憂慮に眉をひそめ、安田がそっけなく首を振る。
 「ダメだ、副所長として勝手なまねを許すわけにいかない。私の手のとどかぬところで危険に身をさらすのは直ひとりで十分だ。せめて視野に入るところでは囚人の安全を守りたい」
 キレた。
 こめかみの血管がまとめて二三本ぶち切れる音がした。
 俺は衝動的に立ち上がり運転席に身をのりだすや、狼狽する安田からハンドルをひったくる。
 肩から当たって安田を押しのけ強引にハンドルを掴む、足元に視線を落としてブレーキ板をさがす。
 あった、あれだ。
 ブレーキ板に乗っかった安田の足をぞんざいに蹴りどかし、隙間に薄汚れたスニーカーを割り込ます。
 「なにをするロンやめないか、大人しく後部シートに座っていろ、交通法違反で逮捕するぞ!」
 「もう逮捕されてんだよ、前科が積み上がったらロン!て叫んでやるさ!」
 狭苦しい空間に体ごと乗り込み見よう見まねでハンドルを操作する。安田の手の上から右へ左へと勘と気の向くままハンドルを回せば、起伏に乗り上げたジープが盛大にバウンドする。
 俺からハンドルを奪い返そうと必死な安田と激しく言い争いながらも意地でもハンドルは渡さず、ブレーキ板に足をのせる。
 「今助けにいくからな、レイジっ」
 全体重をかけてブレーキを踏み込む。
 もちろん俺は無免許だ、車の運転なんざ出来るわきゃない。
 なにも威張れることじゃないがここまできたらもう開き直るっきゃない、腹を括って突っ走るっきゃない。
 正面の虚空を睨み、奥歯を食い縛り衝撃に耐える。
 「危ないっ!」
 隣で安田が叫び、大声に驚いて咄嗟にハンドルを切る。
 ブレーキを踏み込むと同時に手が滑りハンドルが勝手に回り、砂の飛沫を上げて蛇行したジープがバスの進路方向に踊りだす。
 ハンドルを握る手がじっとり汗ばみ、緊張で異様に喉が乾く。

 よりにもよってバスの目と鼻の先。
 正面衝突は避けられない。

 押しても引いてもうんとも言わず、癇癪起こしてけっぽってもプスンと不機嫌なエンジン音を立てるばかりで完全にヘソを曲げちまった。
 エンジンが故障したのだ。酷使が祟ったエンジンが濛々と蒸気を噴き上げる中、砂でざらつく口を大きく開けて息を吸い込む。
 『停!!』
 停まれ。 
 関節が白く強張る程にハンドルを握り締め、顔を真っ直ぐ上げてガンをとばす。猛然と迫り来るバスの運転席にヨンイルが座ってる。
 その後ろにレイジの姿もちらりと見えた。
 「ロン!」
 耳の裏で安田の声がする。
 放心の体でハンドルを握りながら横に目をやると、焦燥にひりつく面持ちで安田が怒鳴り、俺の肩に手をかけ激しく揺すってる。
 そうだぼんやりしてる暇はない今すぐ逃げなきゃでもジープはどうする故障して動かないのにエンストこのままほうっぽっていやでもバスと衝突はさけられないどうするどうする俺、どのみちこのままじゃバスの自重に押し潰されて安田ともどもー……
 瞼の裏をいつか見た光景が過ぎり、鼻腔の奥に鉄錆びた悪臭が広がる。

 廃車の下敷きになって絶命したチームの連中、手榴弾の爆発で手足がちぎれてぶよぶよと奇怪な肉塊と化したガキども、大破したスクラップ置き場の光景ー……
 おぞましい惨劇の現場。

 「っ………!」
 記憶の中の光景がすぐにも現実になる予感に戦慄し、体が硬直する。今度は俺がバスの下敷きになって潰れる、ひしゃげたジープの下敷きになってみじめな亡骸をさらすばんだ。
 俺の中で何かが切れた。
 狂ったようにハンドルを殴り付けアクセルを踏み込む、甲高い奇声を発して躍起になる。
 だめだ、間に合わない。
 バスはすぐそこまできてる。
 エンジン音が大きくなる、強大な重圧を感じる、バスの巨体が視界を圧して影に呑み込まれる。 
 俺の頭上にバスの巨体が被さってくる……
 「ロンっ!!!!」
 叱責に鞭打ちたれ、体が宙に投げ出される。
 天地が反転、視界を茜空が占める。
 何が起こったのか一瞬わからなかった。
 俺を小脇に抱いた安田が間一髪、衝突寸前のジープから脱出したのだと気付いたのは地面に不時着してからだ。
 ネクタイと背広を翻し砂の上に転がる安田、その小脇に抱かれた俺も落下の勢いを殺せず砂の上を転がる。
 それでも安田は俺を放さなかった。
 俺の体をしっかり抱き抱えたまま砂に叩き付けられ全身を打撲し全身砂まみれで転がり、眼鏡にひびを入れて落下の衝撃に耐え切った。
 安田と衝撃を分担したおかげで、俺自身は擦り傷だけですんだ。
 「ぶっ!」
 突然目の前が暗くなり呼吸が苦しくなり口の中にじゃりじゃり砂が流れ込む。安田が俺の上にかぶさってるのがわかる、背中にぴたり体を密着させ俺を庇うように伏せってるのがわかる。
 でも重い。
 砂に埋もれてこ息ができやしねえ。
 砂から顔を引き抜き、唾と一緒に砂を吐き出す。
 そして、目を見張る。
 目の前でバスとジープが転覆していた。
 「レイジいいいいいいいいいィいいいいいいいいいいいいい!?」
 砂に突っ伏した姿勢から跳ね起き、一散に走り出す。
 砂に足を取られて往生しつつ焦燥に駆られてバスに近寄り、中腰の姿勢でフロント硝子を覗き込む。
 くそっ、一面に砂がへばりついて何も見えやしねえ。
 フロント硝子の砂を拭おうと手を掲げ、こんな悠長なことしてる場合じゃねえと自分の馬鹿さ加減を呪い、はやる気持ちを抑えて横手に回りこむ。
 砂を蹴散らして迂回し、ひどく苦労してバスを攀じのぼる。
 ガラスが爆ぜ飛んだ窓が視界に現れる。
 ついさっきレイジが突っ込んでった窓だ。
 ここからなら出入り可能だと判断、ガラスの破片でギザギザになった窓枠を靴底でならし、窓枠を掴んで中に飛び込む。
 だらりと体がぶら下がる。
 窓枠を掴んだままあたりを見回し、硝子の破片が散乱した惨状に冷や汗をかく。
 バスの中は本来の窓が天井になり平行な床が斜面になり、側壁から座席が生えていた。とっかかりをさがして視線を泳がせるうち床に固定された座席がちょうどいい足場になると発見、息を止めて慎重につま先をおく。
 タイミングをはかり、窓枠からパッと手を放す。
 垂直に落下する途中、手近の背凭れにとびつく。
 「生きてるか、レイジ、ヨンイル?」
 「うぅん…………」
 緊張感だいなしの寝ぼけ声。 
 はっとして視線を落とす。
 窓の片側、すなわち足元の方で呻き声がした。
 窓を背に股開きでひっくり返ってるガキがいた。
 ヨンイル。
 「生きてたのかお前、しぶてーなっ」
 軽く背凭れを蹴った反動で床の斜面を滑り、ヨンイルの所に行く。
 たった今まで事故の衝撃で失神してたらしいヨンイルが薄っすらと瞼を上げ、焦点のおぼつかない目で俺を見る。
 当たり前というか何というか、ヨンイルは擦り傷だらけで結構悲惨な有様だが命があるだけまだしも悪運が強いほうだ。
 無意識にゴーグルをさぐりつつ、朦朧と起き上がったヨンイルの額には硝子の破片が刺さってる。
 「知っとるかロンロン、邪眼の手術てごっつ痛いんやで。傷口をナイフでぐりぐりするのの何十倍も痛いんやて。せやからこん位どってことあらへん」
 「頭打ったのか?気の毒に」
 額からだらだら血を流し寝言をほざくヨンイルを無視、あたりを見回す。
 いた。
 「レイジ!」
 ヨンイルから少し放れた場所にレイジが倒れていた。
 ぐったり倒れ伏せたレイジに這い寄り、意識を失った体を抱き起こす。体じゅうをまさぐり怪我がないか確かめ、ほっと安堵の息を吐く……
 緊張の糸がゆるみ、途端に涙腺が熱くなる。
 「ばかやろう、心配させんなよ。さっきいったばっかじゃねーかよ、心配かけんなって、無茶すんなって。なにが王様に不可能はないだよ、王様だって人間なんだ、走ってる車からバスに飛び移るようなスタントやらかして無事ですむかよ……お前といたら命がいくつあってもたんねーよ」
 ぐったり弛緩したレイジの体に腕を回し、縋るように抱きしめる。
 じんわり熱をおびた瞼をきつく瞑り、規則正しく鼓動する胸に顔を埋め、干し藁に似た匂いを吸い込む。
 「猫には九つ命があるって言うぜ」
 パッと放れようとしたが、遅い。額に熱く柔らかい感触がふれる……忘れようとしても忘れられない唇の感触。意識を失ったふりで俺に寄りかかっていたレイジがしてやったりと笑ってる。悪ガキがそのまま大きくなったような憎めない笑顔に怒りが萎み、いったん振り上げた拳を引っ込める。   
 レイジが無事でよかった。
 ついでにヨンイルも。
 「ロン、二人は無事か?」
 頭上から声が降ってくる。
 いつのまにかバスに攀じのぼった安田が、心配げに窓から覗きこんでる。
 「無事無事。このとおりぴんぴんしてるよ。ドライバーズ・ハイなコイツを運転席から引っぺがすのに少し手こずったけど……ヨンイル、お前今度は何の漫画に影響されたんだ?」
 「ホットロードと特攻の拓……あかん、こんなことしとる場合ちゃう、はやく炉に行かな俺の直ちゃんがさらわれて吊るされてドボンで勇午の二の舞に……ミミズ風呂の恐怖ふたたび……」
 頭を打ったショックで現実と漫画の区別がつかなくなったヨンイルが、破片の刺さった額から血を垂れ流しつつ出口へと這いずっていく。
 ……いや、頭を打ってなくても同じか。
 這う這うの体で座席をよじのぼり、割れた窓から脱出を試みるヨンイルを安田がすかさず救助する。
 俺とレイジもあとに続く。
 どこまでしぶといんだか悪運が強いんだか、擦り傷以外は大した怪我もないレイジは俺の先を越して自力で脱出をはたしちまった。
 助けに来た俺のメンツも考えろっての。
 最後に俺がバスから脱出する。
 安田に右腕をレイジの左腕を引っ張り上げられ、拉致連行される宇宙人さながら二人の間に吊るされた姿勢のまま空を見上げれば、無駄なカーチェイスに時間をとられたせいでとっぷりと日が暮れていた。
 「鍵屋崎を助けに行かなきゃ」
 同意するように安田が深く頷く。
 「ヨンイル、言いたいこと聞きたいことは山ほどあるがとりあえずは後回しだ。現在は鍵屋崎の救出が最優先事項だ。君は、否、君たちは鍵屋崎の居場所を知ってるんだな?鍵屋崎が拉致された場所に心当たりがあるのだな?それは確かか」
 ヨンイル、レイジ、俺を順繰りに見詰めて縋るような面持ちで詰問する。
 内心エリート副所長にこんな人間くさい顔ができることに驚いた。
 眉間に刻まれた皺から割れた眼鏡の奥で真摯な光を宿す目から緊張に強張った顔から、消息不明の鍵屋崎を心配する気持ちが痛い程伝わってきた。
 「あったりまえや。俺がやみくもにバス乗っ取って突っ走ってたように見えたんか?」
 さも心外そうに反論するヨンイルに鼻白む。
 「そうとしか見えなかったけど」
 「しゃあいないやんか、バス運転すんのはじめてやもん!ハンドルがちィとも言うこと聞いてくれへんで肝冷やしたわホンマ。金田一かコナン張りの名推理で直ちゃんの居場所がわかってバスぶんどったはいいものの、ブレーキとアクセル間違えて踏んでまうしハンドルは逆に切ってまうしでミスターノーブレーキ迷走状態やったんや。レイジが来てくれな死んどった」
 「感謝しろよ道化」
 「せやけど何も蹴りいれることはないやろ首のうしろに。人体の急所やで」
 愛嬌たっぷりに八重歯を光らせて、ヨンイルがにっこり笑う。 
 「大丈夫、運がよけりゃ死なねーから」
 反省した素振りもなくレイジがにっこり笑う。
 こめかみに青筋立てたヨンイルが腰を浮かすと同時にレイジも立ち上がり、腕を交差させ互いの胸ぐらを掴む。
 ガキだこいつら。
 鍵屋崎の命がかかってる一大事にやってる場合かよと怒鳴りたいのを堪え、重たい腰を上げて仲裁に入る……
 「鍵屋崎の命がかかってる重大事につまらない喧嘩をしてる場合か、君たちは鍵屋崎の友達じゃないのか!?」
 俺が言おうとした台詞をそっくりそのまま奪い、安田が激発する。
 本気で怒った安田をはじめて見た俺たちは全員揃ってぽかんと口を開ける。レイジとヨンイルは互いに胸ぐら掴んだままあっけにとられ、俺はといえば体の脇に手を垂れ下げたまま間抜けヅラをさらすしかない。
 安田は言い逃れ許さじと毅然たる態度で、辛抱強く俺たちの答えを待っている。
 オールバックは風に吹き乱れて前髪が下り、眼鏡のレンズにはひびが入り、背広のシャツもズボンも全身砂まみれの悲惨な風体はよってたかってレイプでもされたみたいだ。
 だけども不思議な威厳があった。
 どんなに汚れてくたびれていても内から滲みでる高潔さがあった、眼鏡の奥から注がれる眼差しはどこまでも真剣で静かな威圧感があった。
 俺は深呼吸した。
 友達かと問われれば、答えは決まっている。
 「ダチだよ」
 「ダチだ」
 「ダチや」
 暮れなずむ空の下、綺麗に声が揃った。 
 そろそろ残照の最後の一滴が溶け落ちようという頃合で、濃密な暗闇がまわりに立ち込めている。
 俺、レイジ、ヨンイル。
 鍵屋崎のダチだと競うように答えた俺たちひとりひとりに向き直り、その表情を満足げに見詰め、安田が口を開く。
 「なら、やることはひとつだ」
 安田が颯爽と立ち上がる。折から吹いた風が勢い良く砂塵を巻き上げ、安田のネクタイをたなびかせる。
 風に捲れる前髪を片手で押さえ、眼鏡の奥の双眸を細め、はるか砂漠の向こうの巨大な塊に視線をはせる。
 「鍵屋崎を取り戻しにいく」  
 安田を隣に立ち、同じ方向に目を向ける。
 砂丘をこえたはるか向こうに存在する建造物は不気味な威容を醸している。要所要所で直角に折れて連結する鋼鉄のパイプに梯子やら重量感のあるタンクやらが複雑に組み合わさり、直線と曲線が融和した幾何学的な外観は何かの施設か工場をおもわせる。
 「あれか」
 思わず声を上げた俺の隣、伸びた前髪を風に嬲らせ、眼帯で覆われてない右目に愉快げな光を湛えてレイジがうそぶく。
 「焼却炉さ」
 あそこに鍵屋崎がとらわれている。
 サムライと静流がいる。
 「待っててや直ちゃん……今すぐ助けにいくさかいもうすこしの辛抱やで」
 ヨンイルが決意を秘めて拳を握り込み、激しい風から目を守るようにゴーグルをずり下ろす。
 「直を助けるのは、この私だ」
 隙なくゴーグルを装着したヨンイルが先頭きって大股に歩き出し、表情を改めた安田が律動的な歩調で後に続く。
 対抗心を発揮してるんだか何だかヨンイルと張り合って歩を速める安田を見送り、不安を隠せずにレイジの横顔を探る。
 「鍵屋崎とサムライ、ちゃんと帰ってくるよな。俺たち間に合うよな」    
 レイジは答えない。ただ黙って遠くを見詰めている。近くにいるレイジを遠く感じるのはこういう時だ、何も話さずどこかを見ているときだ。
 沈黙に不安が増し、肌寒い風から身を庇うようにレイジに寄り添う。
 視線の先に二対の足跡が続く。 
 無限に連なる砂丘をこえた場所にある巨大な焼却炉へとヨンイルと安田は向かっている。
 取り残された俺たちは互いに寄り添い遠くを眺め、残照の最後の一滴が落ちる束の間、しずかに目を閉じて鍵屋崎の無事を祈るー…… 

 また俺たちが笑い合える日がくるように。
 食堂で馬鹿騒ぎできる日がくるように。
 
 「帰ってくるよ」
 レイジが俺の手をぎゅっと握る。
 俺も手を握り返す。
 しっとり汗ばんだ温かい手に包まれ、覚悟を決める。
 「んじゃ、火遊びが過ぎたダチを迎えにいくか」
 レイジが明るい笑顔で向き直り、俺は自然と苦笑いした。
 「手の焼けるダチをもつと苦労するぜ、本当に」
【少年プリズン】
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三十九話

(2005/04/26)
 サムライの手を握り締める。
 強く強く握り締める。
 僕には彼しかいないと切実な想いを込めて。
 一度断たれた絆を結びなおすように。

 「………くっ………」
 熱い。
 全身から汗が噴き出しシャツがぐっしょりと濡れそぼる。
 体力はそろそろ限界だ。
 脇腹の痛みは激化するばかりで、か細く呼吸するだけで精一杯だ。
 体に力が入らない、力が出ない。
 分散しかけた意識をかき集めて今にも消え入りそうな理性を保つのにひどく消耗する。
 脂汗が目に流れ込み視界がぼやける。頭が朦朧とする。
 意識の余力を振り絞り重たい瞼をこじ開け、鈍重な動作で首をもたげ、極限の疲労と激痛にかすむ目にサムライを映す。
 サムライは恐ろしい形相をしていた。
 顎の筋肉が盛り上がっているのは凄まじい力で奥歯を食い縛って荷重に耐えているからだ。
 サムライは僕と静流を両手にぶら下げたまま大量の脂汗を垂らして腕をもがれる激痛に耐えている。
 どちらか一人を選べばらくになる。
 どちらか一人を見捨てればもう一人を助けることができる。
 しかしできない。
 片方を見殺しに他方を助ける残酷な選択を迫られたサムライは僕らを両手に掴んだままどちらを見捨てる決心もつかず、ひたむきに思い詰めた目に絶望を映している。
 「サムライ……」
 震える唇でよわよわしく名を呼ぶ。
 サムライは僕の全体重を預かっている。
 否、僕だけじゃない。
 正確には僕と静流、二人分の体重をひとりで支えているのだ。
 自分の意志で瞼をこじ開けるのさえ困難な僕の隣では静流が宙に吊られている。前髪で表情を隠し顔を伏せている為その内心までは窺えないが、縋り付く意志も這い上がる意地もなくただサムライに掴まれるさまからは生への執着が感じられなかった。
 生命の危機に瀕しても恐怖を覚えることもなく、業火に焼かれる末期に無念を感じるでもなく、俗世に一抹の未練もなく。 
 ありのままを運命と受け入れて、ありのままを宿命と受け止めて死んでいこうとしている。
 「俺の手を放すなよ、直」
 サムライが力を込めて僕の手を握り締める。
 僕の手を放すくらないら死んだほうがマシだと言葉に代えて。
 サムライに叱咤され、無意識にその手を握り返す。
 汗でぬめった手が滑りそうになるたび力強く掴んでくれる、僕は一人じゃないと勇気づけるように逞しく骨ばった手が掴んでくれる。
 悲痛な訴えが聞こえているのかいないのか、静流は首をうなだれたまま顔を上げようともしない。

 助けられるのはどちらか一人だ。
 僕と静流、どちらか一人だ。

 サムライの体力もあまりもたない。
 僕ら二人を支え続けることでサムライが体力を消耗しきってるのは明白。サムライの腕が徐徐に垂れて、宙吊りにされた僕らがずりおちてるのがその証拠。いくら僕らが華奢で体重が軽いとはいえ二人合わせて100キロはある。100キロの錘を吊り下げたままひたすら耐え続けるのは拷問だ。 
 ぽたり、顔に水滴がおちる。
 右の瞼を濡らした水滴が鼻梁沿いに顔を伝い、口の端に流れ込む。
 塩辛い。
 顔に落ちた水滴の正体は汗だった。サムライは全身にびっしょり汗をかいていた。眉間には苦痛の皺が刻まれて双眸には葛藤の光が揺れて、口角が下がった唇は激しくわなないている。
 「くそっ……」
 自力で這い上がれと四肢に指令をだす、これ以上サムライを苦しめるなと自分に命令する。
 だができない。
 僕の四肢はだらりと垂れたまま指一本すら自分の意志で動かない状態で弛緩しきっている。
 サムライの腕を掴んで這い上がりたくとも体が動かないのではしかたがない、どんなに足掻きたくともその力すら残されてないのでは抗いようがないではないか。
 動け動け動け。
 焦燥に焼かれて一心に念じる、死の恐怖が狂気の衝動を呼び覚まし不意に絶叫したくなる。
 いっそ発狂してしまいたい。
 生殺しの状態が続くのは耐えられない、激痛と疲労に苛まれて朦朧とする頭では思考が纏まらず『死にたくない』死への恐怖『生きたい』生への渇望『生きていたい』意志『生きていたい』かすかな希望『サムライと一緒に』生きたい生きたい生きたい……
 感情の洪水が理性を押し流す。
 死ぬのはイヤだ、こんなところでこんなふうに死ぬのはいやだ、恵に会えずサムライと抱き合えず焼け死ぬのはいやだ。
 世界中の本を読み尽くすまで死ねない、生きてここを出るまで死ねない、生きてここを出て恵を迎えに行くまで絶対死ねない。

 「死んでたまるか、畜生」

 下品な悪態を吐き、なけなしの力を振り絞りしがみつく。
 生き汚いと自嘲する心の余裕はない、ぶざまな天才だと卑屈に笑う余裕もない。
 僕はただただ必死だった、生き延びたくて生き残りたくてサムライと一緒に……
 「何故手を放さない?」 
 声が、聞こえた。
 場違いに落ち着き払った声音。
 静流がゆっくりと顔を上げ、水のように澄んだ目でサムライを見る。
 取り澄ました表情に達観の笑みさえ浮かべるゆとりを見せ、抑揚なく疑問を紡ぐ。
 「勝負は決した。僕は敗けた。敗者は潔く死あるのみ、それが帯刀家の掟だ。手を放しなよ、帯刀貢。みじめな負け犬に哀れみをかけるなんて自己満足以外のなにものでもない。それとも……僕が憎くないのかい、貢くんは」
 「憎い」
 沸騰する感情を押し殺しサムライが断言、静流が軽やかな笑い声を立てる。
 「いい答えだ。ずっとそれを聞きたかった。僕が憎いならためらうことはない、早く手を放して炎の坩堝に叩き込めばいい。僕は苗さんを殺した。門下生に慰み者にされて放心の体の苗さんに真実を教えて首を吊らせた、のみならずそこにいる直くんを犯して殺そうとした。姉さんの匂いがする紅襦袢を羽織らせて、生白い肌に手と舌を這わせて、慰み者のあかしの艶めく痣を付けて……」
 「やめろ静流」
 僕の制止を無視し、興に乗った饒舌で続ける。

 「僕に先を越されて悔しいかい?悔しいだろう。本家を引き立てる分家の跡取りと見下してきた僕に先を越されてさぞかしはらわた煮えくり返っているだろうね。嗚呼おかしい、ざまあみろ、君がぐずぐずしてるのが悪いんだよ、肉親の情に振り回されて何度裏切られても肝心な所で僕を見捨てないお優しい貢!!図書室の出来事は傑作だった、最高の茶番劇だったよ。君ときたら僕の演技に簡単に騙されて大事な親友を詰りに詰ってくれちゃって、全部僕が書いた台本どおりに事が運んで腹ん中じゃ笑いが止まらなかったよ!嘘泣きのふりでおかし泣きしてたのに目が節穴の君はとうとう真実に気付かなかったね。身内の情けでまわりを敵に回して僕を庇い続けた結果がこれだこのざまだ、思い知ったか腐れ魔羅!!!」

 静流が仰け反るようにして笑い出す。
 宙に吊られた体が不規則に痙攣し僕の顔にも唾のしぶきがかかる。
 体が言うことを聞くなら静流を殴り飛ばすか蹴り飛ばすかしたかった、暴力を使ってでもサムライへの侮辱を取り消させたかった。 
 静流は狂ったように笑い続ける。
 双眸に絶望と悲哀を去来させ、それでも声高らかに空虚な哄笑を上げ続ける。口汚くサムライを罵り人格を貶めて煽ろうとし、だがしかしサムライが押し黙ったまま表情を変えずにいるのを訝しみ、次第に笑い声が萎んでいく。

 「さあ殺せ殺すんだ殺してくれ僕にとどめをさしてくれ、己の手で僕を地獄に送り恨みをはらせ復讐をはたせ、僕が君にしたように苗と直の仇をとれ、僕と同じ所まで堕ちてこい!!僕も君も所詮は帯刀の人間、血の呪縛から逃げきれず修羅となるべく宿命付けられた武家の末裔なんだ。ならばそれらしく生きて逝こうじゃないか、僕らの中の人斬りの血が命じるままに息絶えるまで殺し合いを続けようじゃないか!!」

 目を爛々と輝かせた邪悪な表情に魅せられる。
 ある時は澄んだ水のように清らかな笑みを浮かべある時は濁った水のような呪詛を吐き出し、清濁併せ呑むさまざまな表情を見せる静流は、相対した人の心を映す水鏡に似ている。相手が憎悪をむければ憎悪を返す、相手が善意をむければ善意で応じる。

 相手次第で汚くも清くもなれる水鏡の本性は、ある意味どこまでも純粋で。
 けなげで。
 生まれてこのかた水鏡の目が映してきたものを思う。
 分家と本家を比べて静流を嘲笑する者たち、周囲から向けられる悪意、誰からも共感されない孤独、自分が欲しかったものを労せず手に入れたかに見える従兄への嫉妬………辛い日々の中の唯一の安らぎだった姉の笑顔。
 水鏡が歪んだのは誰のせいだ。
 何が水鏡を歪ませたんだ。
 静流の目がこんなにも澄んでいるのは、生まれてこのかたずっと汚いものを見てきたが故の自浄作用を備えたからなのか。 

 どこまでも深く澄み底が見えない目を細め、妖艶に紅い唇を蠢かせ、囁く。
 「僕を生かせば彼を殺す」
 吐息と衣擦れに紛れて消えそうなかすかな声は、しかし僕の耳にもサムライの耳にもしっかり届いた。
 艶めく流し目で僕をとらえ、大胆不敵にサムライを挑発する。
 「僕が東京プリズンに来たのは君を殺すため、君を殺して母さんと姉さんの仇をとるためだ。僕は君に幸せになってほしくない、姉さんのいない世界で君に幸せになってほしくないんだ。君は姉さんの伴侶となるべく生まれてきたんだ、他の人と添い遂げるなんて認めない」
 「何度同じ事を言わせれば気が済むんだ、薫流が本当に好きだったのは……っ」 
 サムライの喉が鳴る。
 先を続けていいものか一瞬のためらいが双眸を過ぎる。
 悲嘆に打ちひしがれたサムライを見上げ、虚ろな無表情で反駁する。
 「薫流姉さんが本当に好きだったのは、帯刀貢だ」
 感情を封じた抑揚ない声。
 「違う。薫流が本当に好きだったのは俺ではない………お前だ」
 サムライが首を振る。
 どうしてもこれだけは伝えねばならないと名伏しがたい衝動に駆られ。
 「薫流はずっと俺と苗の仲を羨んでいた。本家を訪れる度どこか物欲しげに俺と苗を見詰めていた。ある日薫流に言われた。道場での稽古を終えて屋敷にもどる途中、紫陽花の茂みのそばで呼び止められたのだ」
 汗でぬめる手を握りなおし、僕と静流を支え、息も絶え絶えに続ける。
 「薫流はこう言ったんだ」

 『貴方たちがうらやましい』
 『稽古を見させてもらったわ。貴方と苗はいつも一緒ね。無心に剣を振るう貴方のそばで苗は幸せそうに微笑んでいたわ』
 『お互いの事が本当に好きなのね』
 『私も苗みたいになれたらいいのに。ああしていつまでも彼のそばに居られたらいいのに』
 『好きだという気持ちを偽りも隠しもせず、ああしてそばに居ることになんら疚しさを感じず、ずっと彼といられたらいいのに』
 『…………しずる。私のしずる』
 『本当は貴方たちみたいになりたかった。貴方たちみたいに愛し合いたかった』

 ごめんなさい、しずる。

 嗚咽を堪えるように筋張った喉が鳴り、自責の念に耐えて瞠目する。
 「……薫流は俺たちの関係そのものを妬んでいた。姉弟だといざ知らず無邪気に無知に惚れあっていた俺たちに激しく嫉妬していた。静流、お前は視線の意味を取り違えていたんだ。同じ嫉妬でもあれは恋敵への嫉妬ではない、己と同じ立場でありながら何らやましさを感じず互いを慕い合う俺たちを妬んでいただけだ」
 視線と視線が絡み合う。
 宙に吊り下げられた静流の目が、ひたりと虚空を映す。
 「薫流はお前の事を愛していた。お前が薫流を愛していたように」

 愛していた。
 本来嬉しいはずのその言葉が、こんなにも残酷に響くのはどうしてだ?
 こんなにも哀しく救いがたく響くのは?

 「……僕には姉さんだけだった。姉さんだけが僕を褒めてくれたんだ。上から見下すでも下から仰ぐでもなく、同じ目線で真っ直ぐに僕を見てくれたんだ。水鏡に映したように面差しの似た僕を、真っ直ぐに」
 瞬きも忘れた目に水がたまる。
 虚ろな無表情のままに、一筋の涙が頬を伝う。

 「『しずるはすごいわね』『本家の貢にもひけをとらないんだから自信をもちなさい』って……。好きだったんだ。どうしようもなく好きだったんだ。姉さんだけど、血の繋がった僕の姉さんだけど、一度好きだと想ったら止まらなかったんだ。後戻りできなかったんだ。莞爾さんが姉さんと本家跡取りの縁談を進めてるって聞いて目の前が真っ暗になった、君は最初から何でも持ってるくせにこの上姉さんまで奪うのかと次には怒りで真っ赤になった。姉さんの幸せのために尽くしたなんて嘘だ、綺麗事だ、僕はただ君の大事なものを奪いたかったんだ、君を不幸にして僕と同じ絶望を味あわせたかったんだ!!だから苗さんを慰み者にした、苗さんを追い詰めて首を吊らせた、小さい頃から優しくしてくれた苗さんを……」

 「静流」
 なめらかな頬をあとからあとから涙が伝い、顎先から垂直に滴る。
 憑かれたように口走り泣きじゃくり、しかし瞬きさえしない無表情のままに心情を吐露する。
 「姉さんごめんなさい、ごめんなさい、姉さんが誇れる弟じゃなくてごめんなさい。分家の跡取りにふさわしくなくてごめんなさい母さん、何も期待に応えられなくて申し訳ありません、どうか許してください、お願いですからこの通りですから帯刀家に生まれた事を許してください、僕がひとを好きになる事を許してください、見逃してください。あとでどんな罰でもうけるから地獄におちても構わないから、せめて姉さんを好きでい続けることだけは許してください。姉さんだけは僕からとらないでください、取り上げないでください」
 「違う、そうじゃない、薫流の心はお前の物だったんだ最初から!」
 サムライが激しく首を振り、砕けそうな力を込めて静流の手を握る。
 「殺したくなかった、刀を捨てて抱きしめたかった。あんな物本当は欲しくなかったのにいらなかったのにどうして捨てられなかったんだ、刀なんて硬くて冷たいばかりでずっと握っていると心まで冷えてしまう、姉さんのほうが余程いい、姉さんのぬくもりのほうがよっぽど……姉さんは僕が苗さんにしたことを知っていたんだ、勘付いていたんだ。だから僕の代わりに罰を受けた、もし僕が苗さんにしたことを知ったら母さんは自害を命じる、だから姉さんは黙ったまま……僕を庇って!!!」

 愛していた。
 愛していた。
 世界中のだれより愛していた。
 もういないひとを。
 だれより近くにいたひとを。 
 愛していたのに殺してしまった。
 愛する人に命じられるがまま、胸の奥深くに刀を突き刺してしまった。
 愛する人を殺すより、愛する人に嫌われるほうが怖くて。

 「僕があやまるのは姉さんだけだ。苗さんにも直くんにも君にも謝罪しない。君に詫びるくらいなら舌を噛み切ったほうがマシだ」
 見開いた目からとめどなく涙を零しつつ、緩慢な動作でサムライの手首に縋り付く。
 「懺悔するくらいなら、散華を選ぶ」
 爪を立てる。
 「!!―っ、」
 「やめろ静流!!」
 静流の爪が容赦なく手首の肉を抉り痛みを与える。
 それでもサムライは手を放さない。
 額に脂汗を滲ませ眉を顰め、すさまじい忍耐力でもって静流の手を握り続ける。僕は我を忘れ静流に食って掛かる、サムライの手首を抉る静流を引き剥がそうと底を尽きかけた体力を振り絞り手をのばすー……
 「サムライを奪わないでくれ!!!」
 炉が炎を噴き上げる。
 華やかに舞い飛ぶ火の粉越しに驚愕の形相の静流を見る。
 長い夢から醒めたような自失の顔つき。
 「ねえさ」
 え?
 静流の唇が儚く動き、かすれた声を紡いだ次の瞬間。
 一際激しい炎が炉から立ち上り、宙吊りにされた僕らを呑みこもうとする。
 
 死ぬ。
 
 死を確信して固く目を閉じた僕は誰かの絶叫を聞く、瞼の向こうで誰かが僕を呼んでいる。
 力強い腕が背中に回されて体を引き上げる、背中が何か固い物にぶつかる。誰かが身を挺して僕に覆い被さる、炉から噴き上がる炎と視界を朱に染める火の粉から身を盾にして僕を庇っている。僕もまた僕に覆い被さる人物を夢中で抱擁する、広い背中に腕を回し強く強く抱きしめる、互いを庇い合うように。
 彼を守りたいと気持ちを込めて。
 閉じた瞼の裏側を過ぎるたくさんの断片。
 僕がまだ外にいた頃の記憶に東京プリズンに来てからの記憶も含まれている。

 『おにいちゃん』
 恵の無邪気な笑顔。 
 『また本かよ鍵屋崎、お前ほんっとネクラだな』
 ロンのあきれ顔。 
 『お前もたまにゃ本読めよ。日本語の勉強になるぜ』
 レイジが茶々を入れる。
 『ロンロンには漫画のがむいとるでー』
 ヨンイルの笑い声。
 『ところで鍵屋崎、ブラックジャックの素晴らしさについて語り合いたいのだが……』 
 入院中のベッドの傍ら、折り畳み式の椅子に腰掛けた安田が眼鏡のブリッジを押し上げる。
 『直』 
 猛禽めいた眼光を宿す切れ長の双眸を僕を見る間だけは優しく和ませ。
 サムライが口を開く。
 『好きだ』
 「僕も好きだ。大好きだ」

 大事な仲間がいる。
 大事な人がいる。
 東京プリズンでの過酷な日々を支えてくれた大事な仲間の為にも僕は生き残らねばならない、侍と一緒に生還せねばならない。
 生き残りたい。 
 どこまでもどこまでも、希望が尽きぬ限り。
 記憶の中の光景が紅蓮に染まる。
 いつか見た展望台の光景に記憶の洪水が収束する。
 紅蓮に染まる展望台の突端にこちらに背を向けて佇む人影、砂漠に沈む太陽をまばゆげに眺める少年……
 今にも残照に溶けて消えそうに儚い笑顔。
 
 目を見開く。
 世界が紅蓮に染まっていた。
 世界に炎が吹き荒れていた。

 紅蓮の嵐が過ぎ去ったとき、静流はどこにもいなかった。 
 「…………しずるは?」
 サムライの肩越しにあたりを見回すも、静流の姿は跡形もなく消失している。
 手摺の一部が壊れた通路のどこにも彼の痕跡はなく、下方の炉が泡立つばかり。
 「……………っ…………」
 あまりに強く抱きしめられて痛みを感じる。
 サムライは僕を抱きしめたまま、火の勢いが衰えて風が止んでも放そうとしない。
 「俺が殺した」
 サムライが吐いた言葉に硬直、探るように表情を覗き込む。
 サムライは僕の肩口に額を預けたまま微動だにせず、茫然自失の体でいる。
 「俺が殺したんだ」
 感情の伴わぬ口調で繰り返し、脱力したように僕の肩に凭れ掛かる。救い難く虚ろな目には何の感情も浮かんでおらず、死のような虚無だけを眼窩に溜めている。    
 「炎から僕を庇うために、自分から手を放したんだな」
 そうするしかなかった。
 そうしなければ二人とも、否、三人とも焼き殺されていた。
 サムライは僕を助ける為に咄嗟に静流を放し、両腕でもって僕を引っ張り上げたのだ。
 静流の辿る運命を予期していながらも僕を助けるにはそれしかなく、炎がおさまるまでのあいだしっかりと僕を抱きしめてくれた。
 全身至る所に酷いやけどを作り、皮膚を爛れさせ、服をぼろぼろにして。
 自分の身を犠牲にしてまでも、約束どおり僕を守り抜いてくれた。
 「俺が殺した。静流を、あいつを………炎で溶かされて跡形もなくなると知っていながら、火炙りの地獄に悶え苦しむとわかっていながら自分の命ほしさに見殺しにしたんだ」 
 「……先の発言には重大な欠陥がある」
 サムライの手首には肉を抉った爪あとが残り、痛々しく血が滲んでいた。
 サムライの手首を慎重にとり、顔の前に持ってくる。
 「『殺した』んじゃない、『助けた』んだ」
 サムライの手を頬にあてる。
 「一度しか言わないからよく聞けよ」
 頬を包む手のぬくもりに安らかに身を委ね、僕は言った。 
 哀しみを癒すことも絶望を救うこともできなくとも、言葉に何もできないと決まったわけではないと一縷の希望を捨てず。 
 掛け値なしの本心を、哀しくなる位不器用で優しい男に告げる。

 「君は人殺しだが人を生かすこともできるんだ。
  現に今、こうして僕は生かされている」

 サムライが前にも増して力強く僕を抱きしめる。
 嗚咽が聞こえてきたのは、それからしばらくたってからだった。
【少年プリズン】
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四十話

(2005/04/25)
 堕ちていく。
 どこまでもどこまでも。
 
 人として生まれ修羅として死に逝く生涯に一片たりとも悔いはない。
 終焉の風が吹く。
 静流は笑った。
 呆れて乾いた笑いだった。
 最期に目に焼き付けた光景が嫌いに嫌いぬいた従兄だなんて皮肉な幕切れもあったものだと自嘲し、上方へ遠ざかるサムライを物憂く仰ぐ。
 体が垂直に落ちていく。
 眼下では凄まじい勢いで炎が暴れている。
 耐え難い熱に苦悶してもいいものを、真っ直ぐ炉におちる己を遥か高見から見下ろしてるような奇妙な感覚に支配され、仇に挑んで自滅に至った哀しみも怒りも悔いもこの期に及んで如何なる情動も湧きあがらない。
 頬にあたる熱風や皮膚を焦がす火の粉や髪を捲り上着の裾をはためかせる風圧さえも他人事めいた錯覚をもたらすのみ。
 やがて訪れる死を予期し、身を苛む熱と皮膚が焼け爛れる痛みを甘んじて受け入れようとしたが、どうやらその一瞬は果てしなく引き延ばされているようだ。
 断罪を引き延ばし、懺悔をしいるように。
 なんという皮肉。
 時間はひどく緩慢に流れた。
 まわりの光景が静止していた。
 音は聞こえる。耳の奥で轟々と唸りを上げる炎の音、続けざまに火の粉が爆ぜる癇性な音。かすかに焦げ臭い匂いもする。
 そこで初めて自分の体が焼けていることに気付く、髪の毛と皮膚が焼け爛れてみるみる醜悪なさまに変貌していく。
 肉の焼ける甘く香ばしい匂いと髪の毛が焦げ付く匂いが混じりあって鼻腔を刺激する。
 安らかに目を閉じる。
 瞼裏の暗闇を過ぎる最期の光景は、憔悴しきった様子でこちらを見て、一途に懇願する直。
 『サムライを奪わないでくれ』
 帯刀貢を道連れにしようとした。復讐が叶わぬなら心中するつもりだった。
 静流は身の破滅を覚悟で貢に挑み、自分の命を引き換えに彼を地獄に連れて行くつもりだった。
 直の叫びさえなければ容赦なく貢の手首に爪を立て肉を抉り一緒に連れていくつもりだった。
 直は命乞いをした。
 自分の命ではなく、貢の命乞いをした。
 思い詰めた光を宿した目には、どこまでも一途な懇願の色があった。
 手首を縛られ宙吊りにされ脇腹から再出血し、口を利くどころか瞼を押し上げるのにも脂汗を振り絞らねばならない状況下で、それでも挫けずに毅然と正面を向き、はっきりとそう言った。
 他人に譲れぬものを内に秘めた、厳しく引き締まった表情に魅入られる。
 直は物怖じせず真っ直ぐ目を覗き込んできた。眼鏡をとられて視界がぼやけているはずなのにその目はしっかりと焦点を結び、矜持と意志を併せ持つ苛烈な眼差しを抉り込んできた。
 目が離せなかった。束の間瞬きも忘れてその表情に魅入られた。
 誰かに似ていた。
 今はもういない愛する人の面影が、直の顔に去来する。
 「ねえさん」
 自然と唇が動いていた。
 最初は声を発した事にも気付かず、驚愕に打たれた様子の直を前に、はじめて唇が音を発したのに思い至った。ああ、どうりで似ているはずだと腑に落ちた。この顔は、この眼差しは、死地に臨んだ薫流と酷似しているんだ。静流の手に刀を掴ませ、一息に自らの胸を刺し貫いた薫流と瓜二つなんだ。
 あまりに真っ直ぐな眼差しに圧倒される。
 なんて強く激しい目だ。
 どうしても譲れないものを持った人間だけが放てる眼差しだ。
 火傷しそうな眼差しだった。
 直の顔に薫流の面影が重なり、血に彩られた記憶が鮮烈に蘇る。
 薫流が静流の手を握り自らの方へ引き寄せる。
 華奢な手に引かれて不覚にも体が傾ぎ、刀がさしたる抵抗もなく肉に沈む。
 綺麗に微笑んだまま口端から一筋血を垂らす薫流に我を忘れ手を差し伸べ、亡骸に縋り付くー……
 静流はつと指を伸ばし、固く強張った直の頬へとふれようとした。
 脂汗が冷たくなり、疲労に青ざめた頬へとつりこまれるように指を伸ばし、安堵の笑みを上らす。
 
 そこにいたんだ、姉さん。
 さがしたよ。

 再び紅蓮の嵐が吹く。
 手首の枷が外れたのは、その瞬間だった。  
 一瞬の停滞、空間の静止。
 手首を解き放たれた静流が呆然と仰ぐ前、苦渋の面持ちでこちらを見つめているのは……
 帯刀貢。
 今にも崩れそうな表情を必死に堪え、忍耐深く口元を引き結び、全ての責を負って非情な決断を下す。
 貢は一回も瞬きをせず、また目を逸らそうともしなかった。
 虚ろな無表情をさらした静流をひたと見据えたまま、愚直としか言えない哀しい潔さでもって自分の手で送り出した最期を余さず目に焼き付ける。
 瞬きすら惜しむように豁然と目を見開き、乾いた眼球に炎を映し、静流が炎に焼かれて灰になるまで完全に見届けようとしている。
 これでいい。
 静流は僅かに首肯した。
 自然と笑みが上ってきた。
 皆が皆生きて幸せに、そんな綺麗事はくそくらえだ。
 現実は常に非情な判断と苦渋の決断を迫り、尊い犠牲のもとに満身創痍で活路を開く事を要求する。皆が皆生きて幸せになる事など現実にはあり得ない。
 静流は今も貢を憎んでいるが、それはあくまで帯刀家を滅ぼした男への復讐心であって今この瞬間自分を見捨てた事についてはむしろ感心している。
 心優しい従兄がどんな想いで自分を見殺しにしたかと考えるだけで、命と引き換えに一矢報いた痛快さで笑いがとまらなくなる。
 遥か頭上で貢が何かを叫ぶ。
 炉へと吸い込まれる静流に全身全霊で追いすがり、みっともなく見苦しく取り乱す。眼窩からせりだした目に絶望が浮かび、反った喉が引き攣り、口が限界まで開かれ、声なき慟哭が大気をびりびりと震わす。

 貢の腕の中に直がいた。
 静流を見殺しに直を引き上げてしっかりと腕に抱きしめ、身を挺して火の粉から庇う。

 羨ましいと想った。
 いまさらながら、羨ましいと。

 『そんなに薫流が好きながら家のしがらみを断って二人で逃げればよかった、母親と姉に言われるがまま刀で刺し殺したのは君自身だ、即座に刀を捨てて薫流を抱きしめることもできたのにそうしなかったのは君だ、君自身だ!!』

 全くその通りだ。
 僕には刀を捨てて姉さんを抱きしめる道もあったのに、姉さんをとるか刀をとるか迷ったばかりに本当に大事な物を見失ってしまった。
 即座に刀を捨てて姉さんを抱きしめていれば、今とは違った結末に辿り着けたものを。 
 風を切って落下しながらゆるやかに瞼を閉ざし、誰にともなく囁く。
 「帯刀家を滅ぼしたのは、僕だ」
 わかっていたんだ、本当は。
 苗さんの死の原因を作った僕こそ帯刀家を滅ぼした張本人だとわかっていながら、事実を認めてしまえば姉さんの死を無駄にする気がして、最期まで沈黙を貫き自分の命と引き換えに僕を生かそうとした姉さんの気持ちを無にする気がして現実から目を逸らし続けた。
 僕は狂っていたわけじゃない、狂ったふりをしていただけだ。
 いっそ狂ってしまえばどんなにラクかと渇望しながらも最後の一線で理性を保ち続け、復讐の正当性をごまかし、自分を偽り続けてきたのだ。
 静流は目を閉じたまま風に身を任せ、重力に従って垂直に落下する。
 風圧に髪がなびく。上着の裾がはためく。
 風切る唸りが耳朶をかすめる中、ませた子供の声がする。
 
 『男の子が泣くんじゃないの、みっともない』
 瞼の裏に懐かしい光景がよみがえる。
 懐かしい姉の声。
 師範に厳しく鍛えられて打ち身を作った幼い静流が庭の隅で泣きじゃくっていると、最後にはいつも薫流が迎えにきてくれた。
 「仕方ないわね」という顔をしてやってきた薫流が言うことはいつも決まっていた。
 男の子がべそべそするんじゃない。あなたは分家の跡取りなんだから自信をもちなさい、胸を張って前を向きなさい。立派な当主をめざして稽古にはげみなさい……お説教は聞き飽きた。姉の叱責は容赦なく、静流の泣き声はますます甲高くなるばかりだった。
 『しようのない子ね』
 大人びたため息を一つ、きちんと膝を揃えてしゃがみこんだ薫流がしかめつらしく静流を覗き込む。 
 『ぼく、は、貢くんに、かなわないんだ。ぼくがみつぐくんみたいにつよくないから、剣の腕がいつまでたっても上達しないから、だから母さんはいつもおっかない顔をしてるんだ。僕を見るたびに首を振るんだ。ぼく、母さんをがっかりさせてばかりいる……』
 嗚咽は止まない。
 涙と鼻水を滂沱と垂れ流し、あどけない顔をくしゃくしゃに歪める弟の顔を熱心に覗き込み、暫し考え深げに黙りこくった薫流がそっと頭をなでる。
 『何を言いだすかと思えばしずるのおばかさん。本家のみつぐにあなたが劣るなんて誰が言ったの?』
 真から不思議そうな声の調子に虚を衝かれて顔を上げる。
 驚きに涙も引っ込んだ。
 静流はただただ呆然と姉を見上げ、幼い頭で必死に考えを巡らす。
 『……みんな』
 『みんなってだれよ。仕返しできないから具体的に言いなさい』
 『おとな。母さんとか、おじさんとか、道場の人たちとか……』
 『目が節穴なのよ。上から見下ろしてばかりいる連中に貴方の剣が見えるものですか』
 憤懣やるかたなく言い切り、きっと静流に向き直る。
 薫流の頬はあざやかに紅潮し、弟の名誉を守ろうと拙い言葉を尽くす顔は生き生きと輝いていた。
 『真っ直ぐに見なきゃなにも見えないのよ。見えていても見えないのよ』  
 偏見と先入観を排し、水のように清く澄んだ心で見れば必ずわかるはずなのに。
 邪念と雑念にまみれた大人の目に、愛する弟の何がわかるのだといたく憤慨して。
 『ねえしずる、あなた水が見える?』
 『みず?』
 突然何を言い出すのだとぽかんとした弟に悪戯っぽく微笑みかけ、優しく頬をなで、指の腹に涙をすくいとる。
 指の腹に舐めとった涙を見下ろし、淡々と続ける。
 『水は色も匂いもない、透き通って目に見えない。あなたの剣も同じよ。しずる、あなたの剣は水なの。水そのものなの。ある時はしずかに流れる水の如く、ある時は岩をも砕く激流の如く。力の入れ具合によってさまざまに形を変え、悠久に変化を続け、世代を経て生き続ける太刀筋……それこそ帯刀流の極意、門外不出の剣』
 薫流の指から涙が滴り落ち、地面に染みる。
 土を黒く染めた一滴の涙を見つめ、自信ありげに断言する。
 『しずる、あなたは本当はすごいんだから自信をもちなさい。本家の跡取りなんて目じゃないわ。私にはわかる、水が見える。あなたはすごい才能を持って生まれたの。あなたの振るう剣は水のように自在に形を変える、何物にも縛られず自由に奔放にひるがえり他を圧倒する』
 『でも稽古では一度も貢くんに勝てない……』
 『あんなのただ激しいだけが取り得の力押しの剣じゃない、ちっとも綺麗じゃないわ』
 薫流が心外そうに鼻を鳴らす。審美眼に恵まれた姉にとっては、見ためが綺麗かそうじゃないかは重大な問題らしい。
 小さな手で静流の顔を手挟み、自分の方へ向かせる。 
 静流の目を真っ直ぐ見つめ、噛み砕くように言い含める。
 『驕りなさい、しずる。才ある者にはそれが許される。私はあなたがどれだけ素晴らしいか知ってる、私の弟がどんなにか物凄い人間かちゃんとわかっている』
 頬を包んだ手からぬくもりが伝わる。
 戸惑う弟の視線をまともに受け止め、薫流はにっこり微笑む。
 『あなたは私の誇り、自慢の弟よ』

 自分自身でさえ誇れない僕を、姉さんは誇ってくれた。
 誇りだと言ってくれた。
 ぼくは「物凄い人間」だから、完璧に復讐を成し遂げねばならない。 
 姉さんの期待を裏切っちゃいけない。
 姉さんを幻滅させたくないという一瞬の躊躇が刀を捨てる事を遅らせ、気付いた時には姉さんに導かれるがまま、姉さんの胸に深々刀を突き刺し息の根をとめていた。
 
 『静流さんと薫流さんは仲がよくて羨ましいわ』
 澄んだ笑い声が響く。
 『小さい頃からずっと一緒だったもの』
 『よく四人で遊んだわね。裏庭の桜の木のまわりでかけっこしたり』
 『静流さんはいつも薫流さんのあとを追いかけていたわ。おいていかれるのがいやで、一生懸命』
 瞼の裏に苗が浮かぶ。
 苗は嬉しそうに笑っている。
 何がそんなに嬉しいのか理解できない。
 僕を迎えに来たのか、嘲笑いにきたのか?……否。苗はただ笑っている。遠い目で昔を懐かしんで微笑んでいる。苗は綺麗な心の持ち主だった。姉さんも苗さんが大好きだった。母さんと莞爾さんの仲が険悪になって本家と分家の行き来が絶えてからも、目が見えない苗さんの事をずっと心配して、時々ひとりで様子を見に行っていた。 

 だからなおさら耐えられなかった。
 僕が苗さんを嵌めたと知り、衝撃を受けた。
 『本当に薫流さんが好きだったのね』 
 そうだよ。
 姉さんのためなら何でもできると思った。
 貴女を殺しても悔いはなかった。
 貴女の幸せを奪って、姉さんの分にあてようとした。
 身勝手な人間だね、僕は。
 自業自得だ。

 『ええ。自業自得です』
 きっと幻聴だ。
 死んだ人間の声がすぐ耳元で聞こえるはずがない。 
 久しぶりに聴いた苗の声はひどく耳心地良く穏やかで、できるならずっと聞いていたかった。
 瞼裏を走馬灯のように過ぎる幾つもの光景……微笑み合う苗と貢、紫陽花が咲く庭に佇む薫流、傘の陰に見え隠れする撫で肩。
 さらに遡る。幸福だった幼い日々、苗と貢を交えて四人で遊んだ頃を思い出す。  
 苗。
 着物の裾を踏んづけて転んだとき真っ先に助け起こしてくれた。
 「大丈夫ですか」と親身に声をかけてくれた。
 折り紙の鶴をくれた。
 そうだ、鶴の折り方は苗さんに教わったんだ。苗さんは目が見えないけど手先がすごく器用で、僕が姉さんにいじめられて泣く度に手のひらにそっと鶴をのせてくれた。

 姉さんを愛していた。
 苗さんが好きだった。
 貢くんも好きだった。
 しあわせだった。
 『自業自得です』
 幸せだった。

 あの鶴は、いつ失くしてしまったんだ?

 「ねえさん、僕は」
 自業自得だ。
 ああ、熱い。
 瞼の奥も紅に染まる。
 静流はもがく。
 みっともなく見苦しく空をかきむしってもがく、体を焼き尽くす業火に抗おうと頭上高く手を差し伸べて何かをむしりとるしぐさをする。
 熱い。
 熱い熱い熱い。体が燃える。
 皮膚が焼け爛れて溶けてあぶくが立ち髪の毛が燃え盛り頭皮が捲れて縮む。
 業火に呑まれてもがき苦しむ耳の奥、玲瓏と幻聴が響く。 

 『  をあいしてるわ 』 
 短い遺言を思い出す。

 自らの胸に刀を突き立て口端から一筋血を垂らし倒れ伏せた薫流、鮮血に染まる畳、赤い血赤い炎赤いめくるめく埋め尽くす一面の……
 『 をあいしてるわ』 
 肝心な部分だけが聞こえないその声が炎の唸りにかき消される。
 静流は声なき声で絶叫する、断末魔の苦しみに身も世もなくのたうちまわり炎に焼かれて修羅となるー……
 姉さん。
 姉さん姉さん薫流ねえさん熱いよイヤだ助けて体が燃えていく炎が纏わり付く嫌な匂い皮膚が溶けて爛れて『自業自得』苗の笑い声『お前を殺す』貢の声『君の責任だ』直の声、熱い耐え難い視界が紅一色に染まる燃える瞼が火を噴く眼球が溶け流れるもう何も見えない暗闇でも熱は感じるこれは地獄ここは地獄ー……
 炎が喉を焼く。
 叫ぶ。
 断末魔を、

 「しずるを愛してるわ」

 はっきりと声が聞こえた。
 炎に焼かれて炉に落下する静流を、突如だれかが抱きしめる。
 静流は目を開ける。瞼は焼け爛れて白濁した目は極端に視界が狭まっていたが、突如虚空に現れた女が自分の方に手を差し伸べ、体を寄り添わせるのがわかった。
 美しい女だった。
 眉の上で真っ直ぐ切り揃えた前髪、気の強そうな柳眉、聡明な切れ長の眦。
 猛威をふるう炎に負けず紅く艶やかな着物を羽織り、神々しい後光を背負った少女が、艶めく微笑みを静流に送る。
 
 嗚呼。
 漸く。

 目尻にうっすらと涙が浮かぶ。
 無意識に手を伸ばし、炎の中で体を重ねる。
 お互いを貪り求めあい、渾身の力を腕に込めて抱き合う。
 「遅いよ、ねえさん」
 姉の背中にきつく腕を回し二度と離さないと誓い、幼子のように胸に顔を埋める。
 子供返りした静流を仕方なさそうに、その実この上なく愛しげに見守り、耳元で囁く。
 「待たせてごめんなさい。漸く追いつけたわ。貴方がおちるの早いのだもの、着物の裾がはだけてはしたないったら……」
 水鏡に映したように面差しの似通った姉が腕の中で微笑み、体が焼け爛れる痛みすら忘れ、満ち足りた幸福を感じる。
 至福の一瞬を少しでも引き延ばそうとかき抱き、真摯に詫びる。 
 「ごめんなさい、姉さん。分家の汚名をすすぐことができなくて……また貢くんに負けちゃったよ。こないだ展望台でやったときは勝ったんだけど、まだまだ修行不足みたいだ。母さんに稽古つけてもらわないとね」
 「見ていたわ、地獄から。炎の中から。もう少しで勝てそうだったのに惜しかったわね。さすが本家の跡取りだけはあるってことかしら。貴方もずいぶん腕を上げたじゃない、しずる。姉として誇らしいわ」
 静流の抱擁に応じて薫流もまた腕の力を強める。
 「敗北を誇りなさい。あなたは十分よくやった。分家の跡取りの使命を立派にはたしてくれた」
 「寂しかったよ」
 「わたしもよ」
 姉のぬくもりに包まれて堰を切ったように激情を吐露、砕けそうな力を込めて炎が形作った幻影をかき抱く。
 腕が焼け爛れるのも構わず。
 「来る日も来る日も血を吐くような想いだった、こんな辛い日々はやく終わらせたいとそればかりだった、はやく姉さんに会いたい迎えにきてほしいと気も狂わんばかりに願ってやまなかった。会いたかった姉さん、大好きだよ、姉弟だって構うものか、互いの肉を貪る畜生道に堕ちるのも望む所だ!!もっと早くこうすればよかった、もっと早く刀を捨ててこうして抱きしめていればよかった、こうして―…………」
 燃え盛る炎の中、腕が灰となる瞬間まで薫流を抱き続ける覚悟を決める。
 静流の腕の中で面を上げ、薫流が品よく咎め立てる。
 「苗にあやまらないの?」
 「悪いと思ってないのにあやまるのは不実だよ」
 「素直じゃない子ね」
 薫流が苦笑する。

 着物の裾が炎と化してたなびく。 
 炎と一体化した薫流はとても綺麗で。
 「愛してるわ、しずる」
 手と手を組み合わす。
 「愛してるよ、かおる」
 指と指を絡めあう。
 「地獄に行きましょう」
 うつくしいひとが誘う。
 「姉さんとならどこへでも」
 喜んで首肯する。
 どちらからともなく見詰め合う。口づけをかわす。炎の接吻を受ける。薫流と重なったまま体が塵に帰りゆく。
 散り散りの灰へと分解されながら遥か上を仰げば、炎の狭間から垣間見える通路にうつ伏せ、貢が直を庇っていた。
 互いの体にしっかりと腕を回し庇い合うふたり。
 固く結ばれた絆。
 
 先に逝くよ。

 別れを告げるのを待つかの如く沈黙を守り、罪業の浄化を司る炎と化して静流の身を焼き滅ぼし、灰燼にかえて。
 ふたりは漸く結ばれた。
【少年プリズン】
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四十一話

(2005/04/24)
 胸騒ぎがやまない。
 「……………っ」
 胸が痛い。
 上着の胸を掴み、落ち着かない気分で前方に迫った焼却炉を見上げる。
 はるばる砂漠を越えて歩き続ける事五分か十分、距離が縮まるに比例して焼却炉がどんどん大きさと不気味さを増して視界を圧迫する。
 近くで見る焼却炉はなおさら奇怪な施設だった。
 大小無数のパイプをはじめ俺にはさっぱり仕組みがわからない機械装置が寄り合わさった外観は工場に似ている。
 ……にしても馬鹿げた大きさだ。
 「どっかで見たことあるなあて思うたら」
 ヨンイルが驚嘆を禁じえない様子で小手をかざす。
 「宇宙戦艦ヤマト?」
 「古すぎるぞ」
 「せやかて似てるやん」
 安田の指摘に興ざめしたヨンイルが不満げに唇を尖らす。
 俺は口を開けっ放しに呆然と焼却炉を眺め