ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 「愛してる」
 睦言は祈りに似ていた。
 俺はレイジの肩越しに天井を見詰めていた。
 不潔なシミだらけの低い天井。
 錆びた配管が剥き出しとなった殺風景な天井。
 レイジが動く度耳障りにベッドが軋み、揺れる。
 頭上で一本に縛り上げられた腕が絶望的な拘束感を伝えてくる。
 死に物狂いで身をよじり拘束を解こうとしても無駄、SM嫌いを自認するくせにレイジの縛り方はひどく巧妙で縄抜けは不可能だった。 
 手首から肘にかけ上着で腕を束ねられた俺は、せめてもレイジに蹴りを入れようと往生際悪く足をばたつかせつつ、焦燥を感じて憎まれ口を叩く。
 「縛り方もゲリラで教えてもらったのかよ」
 「そうだ」
 レイジは言葉少なに答える。
 剥き身の感情に触れたような気がして慄く。
 干し藁に似て乾いた茶髪が目の位置に被さり表情を隠す。
 サーシャとの戦いで消えない疵を穿たれた左目は黒革の眼帯で封印されてる。
 残る右目だけが相変わらず感情を透過して澄んでいる。
 レイジは残る右目だけで一途に俺を凝視する
 。ひどく思い詰めた眼差しだった。
 見てるこっちが息苦しくなるくらい切迫した表情だった。
 レイジの中で暴君と王様と二つの心がぶつかりあってるのがわかった。優位は一瞬ごとに入れ替わりある時は暴君が表面化しある時は王様が支配権を得た。どちらがレイジの本性かなんて今更愚問だ、どちらもが偽らざるレイジの本性なのだ。
 レイジ。憎しみ。烙印そのもののような名前。
 焼き鏝を付されるよりもはっきりと魂に刻印された真実。
 レイジは俺に愛してると言いながら俺の上着をたくし上げ、へその横に接吻する。
 「ゲリラじゃ色んなことを教わった。手っ取り早い拷問の仕方とかな」
 拷問。物騒な単語に生唾を呑む。
 昔語りをするレイジの声はひどく穏やかだが、嵐の前の静けさに似た不吉な予兆を孕みかすかに漣立っていた。俺の怯えすら手にとり楽しんでいるのか、暴君が薄っすら笑む。傲慢な色気を含んだ微笑に魅了される。
 褐色の手が体を這う。衣擦れの音がする。
 上着の裾に滑り込んだ手が妖しく蠢く。
 「愛してるぜ、ロン」
 レイジは俺をあやすように愛してるを繰り返し、ついばむようにキスをする。俺の腹に顔を埋め上唇と下唇の間に腹の薄皮を挟み舌先をひたす。
 腕を縛られベッドに転がされた俺は、肉食獣に味見されてるような錯覚に陥り反駁する。
 「お前の愛してるは殺したいに聞こえる」
 「殺したいほど愛してる」
 間髪入れず言い返す。一瞬の躊躇もなかった。
 今目の前にいるのは明らかに暴君だった。
 どこがどう違うかは上手く言えない、でも明らかに雰囲気が違っている。俺が知るレイジとは別人だった。狂気の虜と化したレイジが奇妙な節回しで「愛してる」を繰り返すあいだ、俺は必死に頭を働かせ窮地を切り抜ける打開策を練る。
 「強姦ごっこかよ?どういう風の吹き回しだよ、一体。こんなふうに腕を縛られちゃ前の事抱けないだろうが」
 「たまにはいいだろ、こういうのも」
 「SMは嫌いなんだよ」
 「すぐ好きになる」
 「なるわけねーっつの」
 苛立ちを堪えて反論する。
 俺は縛るのも縛られるのも好きじゃない、というか大嫌いだ。
 こんなふうに縛られてむりやり男に犯されるのなんざごめんだ。
 レイジは俺の嫌がる事は決して強要しない寛大な王様だった、はずだ。
 俺を抱く時は決してこんなふうにはしなかった。
 互いに寄り添って互いの鼓動と体温を感じ強く強く抱擁するのを望んだ。レイジに抱きしめられると安心感を覚えた。何もかもすべてが満ち足りていくような幸福感に酔えた。
 俺は、レイジに抱かれるのが好きだった。
 抱くといっても変な意味じゃない、言葉通りただ抱きしめられるだけで俺には十分だったのだ。
 お袋に抱きしめられた記憶はない。
 梅花に抱擁された記憶はある。
 けれどもレイジの抱擁はそれとも違う、俺がこれまで体験したどの抱擁とも違う。
 梅花はきかん気の強い駄々っ子をあやすように俺を抱きしめた。俺の背中にそっと腕を回し、いつも何かに怒っていた俺の肩甲骨のあたりをトントンと叩いてくれた。
 レイジの抱擁は似ているけど、違う。
 梅花のように優しいだけじゃなく略奪の激しさをも伴っていた。
 時にすべてを奪いつくそうとでもいうふうにレイジは荒々しく俺を抱いた。それで俺が壊れても構わない、粉々に砕けちまっても構わないという破壊願望にも似た狂気と愛情がいつだってレイジの中でせめぎあっていた。
 憎しみの名のもとに狂気と愛情が葛藤していた。
 今のレイジはただ、痛々しかった。
 「………っ、」
 今まさに俺を縛り上げ犯そうというレイジへの怒りより、無神経にもレイジを追い詰めていた事に今の今まで気付けずにいた俺自身への怒りが勝った。
 胸が、痛い。
 暴君を呼び覚ましたのは、俺だ。
 他ならぬ俺自身だ。
 俺が腑抜けていたこの一週間というものレイジは素晴らしい忍耐力を発揮して付きっきりで励ましてくれた。
 房の端っこで膝を抱え込んだ俺をずっと見守ってくれた。
 自分だって辛いのに、辛くないはずねえのに、そんなのおくびにも出さず俺のことだけをいちばんに考え尽くしてくれた。
 ぼやけた視界に十字架が映る。
 レイジの首から垂れた歪んだ十字架。道了によって握り潰された、マリアからの贈り物。
 歪んだ十字架。
 今の俺たちを象徴する、疵だらけの十字架。
 「……それ、直んのか」 
 無意識に疑問を口に出していた。
 これから自分がどうなるのかよりも十字架が元通り直るかどうかのが気がかりだった。
 レイジは虚を衝かれ自分の胸元を見る。
 裸の胸に垂れた十字架には無数の傷が穿たれてその先端には怨嗟が練りこまれていた。
 重苦しい沈黙がおちる。
 房の空気が一段と薄くなったように呼吸が苦しくなる。
 ベッドに仰向けた姿勢のまま動きを止めたレイジを見上げる。
 レイジは俺の腰に手を滑らせ、もう片方の手を下着に潜らせペニスをいじくっていたが、今は完全に動きを止めて裸の胸の十字架を見下ろしていた。
 物憂げな睫毛の奥、肉食獣の如くぎらつく隻眼に悲哀に似た何かが過ぎる。
 「いいんだよ、直んなくて」
 「は?」
 なに、言ってんだ。
 予想外の返しに面食らう。
 目に戸惑いを浮かべて正面を仰ぐ。
 レイジは妙に醒めた顔で十字架を見詰めていた。
 胸が不穏にざわめく。強烈な違和感を感じる。
 違う、と頭の片隅で反駁する。
 直んなくていい?
 それ、本心かよ。本音かよ。
 虚勢か本心か推し量り難い口調で独白し、レイジは力なく笑う。
 「もういいんだよ、これは。どうせ安物だし、ハルの慰みものにされて疵だらけだったし……いまさらどう足掻いたって直すの無理だろ。一回溶かして固めなおすとかしねーかぎり元には戻んねーだろ。無理だよもう、手遅れなんだよ。だからさ、すっぱり諦めた」
 「諦めた、って……」
 嘘だ、そんな簡単に諦められるはずがない。
 俺がレイジの立場でも諦めきれるはずがない。
 けれどもレイジは笑ってる。
 真意の読めない笑みを浮かべ、胸の十字架に手をかける。
 既に疵だらけとなった十字架に手を這わせ、黄金の表面にひとつ接吻し、金鎖を手繰ってそれを外す。
 いつでも肌身離さずぶら下げていた十字架が、枕元におかれる。
 「いもしない神様に縋るのはやめたんだよ。どんだけ縋ったところでこいつはマリアの代わりになっちゃくれないし、後生大事に持ち歩いた所で罪業が浄められるわけもねえ。苦しい時の神頼みはもう飽きたんだよ。願っても願っても叶わねーなら最初から願わなきゃいーんだよ。許しを乞い願った所でえられないなら、ないものねだりの天国を夢見るよか地獄で生きたほうがマシだって」
 「……やめろよレイジ」
 耳を塞ぎたい衝動に駆られる。
 レイジの言葉が胸に刺さる。
 俺の顔の横には用済みの烙印を押された十字架が置かれている。
 疵だらけの歪んだ十字架。
 レイジ自ら十字架を手放すということがどういうことか、どれだけ哀しいことか、鈍感な俺でもそれくらいはっきりわかる。
 「マリアから、お袋からの贈り物なんだろ?大事な十字架なんだろ。お前がガキの頃お袋がくれたんだろ、お前が苦しくて哀しくてしょうがねえときに見かねたお袋が首にかけてくれた物なんだろ、お前とお袋を繋ぐ目に見える絆なんだろ?ならもういいとか言うなよ、潔いふりで諦めるなよ、どんなに疵だらけになったって歪んだってその十字架はお前の……」
 「どうでもいい」 
 「嘘つけよ、どうでもよくねーよ、俺はどうでもよくねーよ!!」
 レイジの顔に諦念を通り越し疲労が滲む。
 枕元の十字架が光る。

 なんでそんな哀しいこと言うんだよ、レイジ。
 どうでもいいとか言うなよ。
 お袋から貰った大事な物じゃなかったのかよ。
 俺が今でもお袋から貰った牌を捨てられず持ち歩いてるように、お前だってそれ大事にしてたじゃねーかよ。

 喉元に込み上げた言葉が泡と消え嗚咽が零れる。
 愛撫を中断したレイジが興ざめした顔で俺を見る。
 「嗚咽より喘ぎ声聞かせろよ」
 素っ気ない命令だった。
 素っ気ないからこそ尚更恐怖を煽った。
 俺はシーツを蹴り必死にあとじさる少しでもレイジから距離をとろうと足掻く。頭上で縛られた腕が窮屈で体を右へ左へ傾けレイジから逃れようとし、レイジはしかし余裕の笑みさえ浮かべにじり寄り軽々と俺を押さえ込む。
 「苦しい時の神頼みなんてくだらねえ。マリア?クソ食らえだ」
 「どうしちまったんだよ、一体……」
 驚愕に目を見開く。
 背筋に戦慄が走る。
 レイジが母親を悪く言うのを初めて聞いた。
 俺が知るレイジは決して母親を悪く言わなかった、米兵に犯され身篭った子を時に激しく虐待することもあったマリアに対しいつだって一途な愛情を傾けていた。

 それとも。
 暴君は、マリアを憎んでいるのか?
 この世に自分を産み落とした運命を呪っているのか?

 「マリアが俺に何してくれた、神様が何してくれた。マリアがくれたのは安っぽい十字架だけ、道端で売ってる玩具とぼろぼろに読み古した聖書だけ。俺はもう嫌なんだよ、報われないのは飽き飽きなんだよ、尽くした分の見返りがほしいんだよ」
 「本気で言ってんのか?」
 荒い呼吸の狭間から漸くそれだけ問う。
 「俺はイエス・キリストじゃねえ。逆立ちしたって聖人にゃなれねえ」
 レイジが凶暴に腕を払う。
 反射的に目を閉じる。
 風切る唸りを上げて飛来した手が頬を張り飛ばすのを予期する。
 カツン、と音がした。
 弾かれたように目を見開く。
 顔の横の十字架が消失し、レイジの手に撥ね退けられ床に落下。
 甲高く澄んだ音をたて床で跳ねる十字架には目もくれず、レイジは呟く。
 「だからユダには容赦しない」
 「裏切ったりしねえ」
 「でも逃げる」
 レイジの態度はこっちが不安になるほど落ち着き払っていた。
 俺の語尾に被せて断言し、狂気に濡れた隻眼を嬲るように細める。
 「お前、俺から逃げるだろ。俺を置き去りにして道了の所に行くんだろ。そしてもう二度と帰ってこない。違うか」
 「んなわけねーだろ。道了とは話に行くだけだ、お袋と梅花にしたこと聞き出したらちゃんと帰ってく……っあ!」
 痛みに体が跳ねる。
 レイジが肩肉を噛みくっきり歯型をつける。
 「帰ってくる?どうやって」
 レイジが口端を吊り上げ嘲弄する。
 「なあロン、お前ってそんなに強かったっけ」
 レイジが純粋な疑問を発する。
 俺は痛みを堪え唇を噛むしかない。
 強くなんかない。強いわけが、ない。
 今だってこうして腕を縛られて身動きできず自力じゃ逃げられずレイジに好き放題されている、嬲り者にされている。俺は弱い。安易に絶望するほど弱い。レイジはおろか道了とも比べ物にならないほど弱くて弱くて自分がほとほと情けなくなる。
 怯惰に塗れた俺の内心を見透かしレイジは唄うように続ける。
 「そうじゃないよな。強くないよな。弱いよな。俺が守ってやんなきゃ、いつもそばについててやんなきゃあっというまに死んじまうほど弱っちくてどうしようもないヤツだよな」
 唄うような抑揚で残酷な真実を述べられ衝撃を受ける。
 言葉を返せない。
 レイジが言う事はすべて本当の事だ。
 俺は弱い、どうしようもなく弱い、自覚してるよりずっとずっと弱い。俺がこれまで東京プリズンで生き残れたのは図太い神経と悪運とレイジのおかげで、レイジが体を張って守ってくれなきゃちびで生意気で喧嘩っ早い俺なんかあっというまにおっ死んでた。

 レイジにはいくら感謝したって足りない。
 レイジは命の恩人だ。
 でも、

 「!いっあ、」 
 抗議だか悲鳴だかわからない声が漏れる。
 熱い手が胸板をまさぐる。レイジが前屈みに愛撫を再開する。
 ズボンの内側に潜り込んだ手がペニスを掴みゆるゆると擦りだす。
 「このまえだってそうだ。俺がちょっと目を離した隙にお前は勝手なことをして危ない目にあった、わざわざ自分から危険にとびこんでいった。なあロン教えてくれよ、お前ってそんなにスリルに飢えてんのか?それとも自分が強いとでも勘違いしてんのか?猫は九つ命をもってるっていうけど、お前の命もそれ位あるってのか」
 熱く火照る手を俺の右胸に重ね置く。
 手のひらに鼓動を感じながらレイジが邪悪にほくそえむ。
 「でお前の胸を開いて命が何個あるか見てやろうか」
 「やめっ、ろ……」
 声に哀願の調子が混ざる。
 情けない。鼻の奥がツンとする。塩辛い涙の味に咽る。
 俺はまたレイジに怯えてる、子供だましの脅しにたやすく屈しそうになっている。
 本当に脅しか?
 脳裏を素朴な疑問が過ぎる。
 本当に脅しで済むのかという疑問がやがて戦慄にとってかわる。
 本気だったらどうする?
 俺は、暴君に抗えるか?
 「なんで余計な事ばかりするんだよ。俺をいらつかせるんだよ」
 静かな声音で付け足すその間も手は止まらず愛撫を続ける。
 胸板を這っていた右手が首筋に添えられ肩に被さり、下着の中に潜り込んだ左手が次第に堅く熱を持ち始めたぺニスを按摩する。
 俺の性感帯をくまなく知り尽くし弄ぶ卑劣なまでに巧みな愛撫に理性が散る。やめろと叫びたかった。
 けれど口を開いても喘ぎ声が漏れるばかりで言葉にならなくて、俺は狂おしく身を捩りレイジの意のままに弄ばれるしかない。
 「命はひとつだしお前はひとりしかいないんだ。なのにお前は無茶ばっかする、俺が目を離した隙にとびだして全身ボロボロの傷だらけになって何度も何度もひとつしかない命を落としかける。なあロン教えてくれよ、道了とはどんなことして遊んだんだ。今俺がしてるみたいにペニスをいじくられて腰上擦らせて甘ったるい鳴き声あげたのか、ペニスを擦って気持ちよくしてくれるなら俺じゃなくてもいいのか、お前の未熟なペニスを頬張ってくちゅくちゅ捏ねて最高に気持ちよくしてくれるなら道了でも構わないってのかよ」
 「ば、か言うなよ……俺から道了を誘ったってのか!?」
 「同じだろ」
 レイジが言下に一蹴する。容赦ない断罪の響きが胸を抉る。
 「お前はわざわざ自分から道了に犯られにいったんだ。道了と愉快なしもべたちにめちゃくちゃに嬲ってほしくて、俺に抱いてもらえない体の火照りを持て余して、この際道了でも誰でも快感を与えて満たして欲しくて、さあ襲ってくださいとばかりに無防備なナリでほっつき歩いてたんだろ」

 違う。
 違うんだレイジ。

 俺があの時廊下を歩いてたのはお前に会いたい一心で姿の見えないお前を迎えに行こうとして所長室に行ったきり帰ってこないお前を心配して、元気な顔を一目見たくて笑いかけてほしくてお前に会いたくて堪らなくていてもたってもいられなくて、ひとりで行動するのは危険だって十分わかってたけど喧嘩別れした手前鍵屋崎は頼れなくて、だから

 「……東京プリズンにいるなんて知らなかった。あいつには二度と会いたくなかった」
 今更何を言っても言い訳にしかならない。
 俺は漸くそれだけ言う。
 レイジの誤解を解きたくて気が狂いそうで、泣いて喚いて暴れて俺にはお前だけだと訴えたくて、でもそこまで惨めな自分を曝け出すのは意地が許さなくて、もうどうしていいかわからなくて、ただこれだけはわかってほしいという心の底からの本音を伝える。
 「偶然だったんだ。道了が東京プリズンにいるなんて、俺を追ってきたなんて知らなかったんだよ」

 道了。
 能面じみて端正な顔だちに異形の印象を付与するオッドアイ。
 閉じた瞼の裏に道了の面影を想起する。
 金銀の双眸が放つ眼差しは冷厳な威圧を伴い体に刷り込まれた恐怖が中から俺を呪縛する。
 道了は悪夢が具現化したように突如俺の前に現れた。
 人語を操る精密機械のように何の感情も伴わぬ平板な声で俺を追ってきたと、俺が目的で東京プリズンにやってきたと言った。
 そんなこと知らなかった、知らなかった、知りたくなかった。

 「お前を裏切ったわけじゃない、本当だ、信じてくれレイジ、俺は自分から道了に抱かれにいったわけじゃ……ひぃっあ、ぐあ!!」
 「偶然?必然?知るか。お前が道了に嬲られ弄ばれ殺されかけたのは真実だろ。俺がいない間に俺の知らない所で俺の目の届かない闇であっけなく殺されそうになったのは紛れもない事実だろ。なのに何で懲りないんだ、自分を犯して殺そうとした人間にまた会いに行こうとするんだよ?一度目はたまたま命を拾った。二度目も見逃してもらえるとは限らない。一度目は僥倖だ。二度目は……」
 愛撫の手にそこはかとない悪意が籠もる。
 勃起したペニスを緩急付けて擦っていた五指が根元から先へと締め付けを増して、射精を塞き止められる生殺しの苦しみに喉が仰け反り悲鳴が迸る。
 握り潰されるんじゃないかと思った。
 伸びた前髪のかかる目は細く笑っていた。
 快楽と苦痛に溺れ喘ぐしかない俺をひややかに見下ろし、レイジが囁く。
 「俺がいないあいだに、俺の知らないところでお前が死ぬなんて耐えられない」
 ペニスの先端に軽く爪を立てる、その刺激が快感の電流となり脊髄から脳天へと駆け抜ける。
 「!!いっあ…………」
 意志で体を御せない。理性が爆ぜて頭が真っ白になる。
 レイジが俺の下着から手を引き抜く。
 荒い息を吐きながらその手を見下ろす。
 五指に絡んだ白濁をこれ見よがしに糸引き捏ね繰り回し、衣擦れの音たて体の位置をずらす。
 俺が吐き出した精液にぬれた手を見下ろし、白けた顔で呟く。
 「汚ねえ」
 レイジの台詞とは思えない。思いたくない。
 レイジはこれまで一度だって俺が出したもんを嫌がったり汚いもののように扱ったりしなかった、俺自身汚いと嫌悪するような物さえ決して口に出してそんなふうには言わなかった、俺の汗も涙も血も精液も舌で舐め口に含み飲み下し自分の一部とすることする事に何ら抵抗を見せなかった。 
 なのに、今のレイジは。
 「舐めろ」
 は?
 耳を疑う。思わず半笑いになる。
 ベッドパイプに肩を凭せた体勢で虚ろにレイジを見る。
 白濁に塗れた褐色の手が、眼前にくる。
 喉が妙な音をたてる。顔が妙な具合に引き攣り、笑みが強張る。
 驚愕を通り越した衝撃に心が麻痺する。
 レイジは俺の鼻先に手を突きつけ舐めろと強要する、自分が出した物を掃除しろと命じる。
 冗談を言ってる感じじゃない。
 間違いなく本気だ。
 命令に従わなければ無理矢理でも口をこじ開け喉深くに手を突っ込んでやるとその目が言っていた。
 「自分が出したもんくらい自分で始末しろよ。赤ん坊じゃあるまいし、いつまで構ってやりゃいいんだよ。さあ、俺の指に一本ずつ丁寧に舌絡めてぴちゃぴちゃザーメン啜って御奉仕しろよ」
 首を横に振る。舌が縮んで声を発せない代わりに全力で首を振る。
 自分のザーメン啜るなんて想像しただけで気持ちが悪くなる。
 酸っぱい胃液が込み上げてくる。
 吐き気に襲われて黙り込んだ俺に覆い被さり、レイジが淡々と追い討ちをかける。
 「道了にはしてやったんだろ」
 「して、ねえよ……」 
 「俺がいつもしてることだ。自分がする側になって嫌がるのはなしだぜ」
 「お前のなら呑んでやるよ。お前が出したザーメンなら……本当はヤだけど、それでお前が喜ぶんなら我慢して呑んでやるよ!けどこんなふうに強要されて無理矢理しゃぶらされるのは嫌だ、これじゃタジマや道了と変わんねえよ、お前も道了と一緒だよ!!」
 道了の名を出したのはまずかった。
 図らずも暴君を揺り起こしちまった。
 空気の変化を感じはっと口を噤む。沈黙の重圧。
 闇に沈む天井がにわかに遠ざかり、暴君の威圧が膨らむ。
 突然、目の前に手が伸びてくる。
 「痛っ……」
 前髪を掴まれむりやり顔を起こさせられる。
 片手で俺の前髪を掴み、白濁に塗れたもう一方の手を顔面に突き付け、厳かに命じる。
 「舐めろ」
 脅しというにはあまりには静かな口調。
 断ったら最後命はないと思わせる非情な眼光。
 痺れるような恐怖を感じる。
 レイジの影が何倍にも何十倍にも膨らんで房中を覆って俺自身をも包み込むような膨大な威圧に、反抗の意志が挫ける。
 力尽きうなだれた俺の耳朶を、凪のように静かな声がなでる。
 「道了のところに行かせりゃお前は戻ってこない。ならいっそ、こうして縛り付けてずっとずっと俺のもとにとどめおくしかない。なあ、そうするしかねーだろ。お前ちっとも俺の言う事聞かねーもんな。どんなに行くなって頼んだところで振り切って駆け出しちまうもんな」
 スプリングが耳障りに軋み、腹の上で影が動く。
 「俺を暗闇からひっぱりだしたお前が、俺を暗闇に置き去りにする」
 前髪を掴む手が緩む。顔に吐息がかかる。 
 「行くなよ、ロン」
 ぽつりと呟きが零れる。切実な祈りに似た、縋るような声。
 「どこにも行くな。ずっと俺のそばにいろ。手を伸ばせば届く距離にいてくれ。マリアの事はもういい、諦める。どうせ死ぬまでこっから出れないんだ。生きてマリアに会う事ができないなら忘れたほうがラクになる。お前もそうしろ。娑婆の事は忘れろ。惚れた女の事もお袋の事もみんなみんな忘れちまえ。今生きてるお前が生き続けることのがずっと大事だ。お前を地獄にひきずりこむ未練は断てよ」
 自由を制限された苦しい体勢でぎこちなく首を動かし、床の上の十字架を見る。

 歪んだ十字架。
 傷付き、ねじれ、打ち捨てられた。
 暴君の良心のように。

 「マリアも十字架もいらない。お前がいれば十分だ。お前が生きて隣にいりゃそれだけで俺も生きていける」

 その声がまるで、泣いてるように聞こえて。
 笑いながら泣いてるように思えて。

 俺は、初めて会った時の道了を思い出す。
  
 ごくりと唾を飲む。
 「……………」
 おずおずと舌を出し、褐色の指に這わす。
 五指に絡んだ白濁を丁寧に舐めとる。
 青臭いような苦いような妙な味が口の中に広がるも、吐き気を堪えて奉仕を続ける。
 
 あんなに大事にしてた十字架よりも俺が大事だと言った、
 俺を失いたくないと言ったレイジに何かできることはないかと必死に考え、今の俺にできる最善を尽くす。

 レイジは俺を選んだ。
 俺とマリアを秤にかけ、俺を選んだ。
 そして、十字架を捨てた。
 俺は、レイジの決断に応えなきゃならない。

  
 指の股に舌を潜らす。
 舌で不器用に白濁を舐めとる。
 「………まじぃ」
 苦味に顔を顰めた俺の前髪から手を放し、その手で頬を抱き、レイジが真っ直ぐに目を見詰めてくる。
 おもむろに顔が近付く。
 唇が被さる。
 唇の火照りと吐息の熱が伝染する。
 熱く柔らかな唇の感触にも増して口腔をまさぐる舌の野蛮さに翻弄される。
 唾液の糸引き唇が離れる。
 「ホントだ、にげぇ」
 レイジが笑いながら呟く。
 それから不意に笑顔を消し真顔となり、残る隻眼に真実の光を映す。
 『I need you.I don‘t let you die alone.Even if I antagonized the world, I love you.』
 英語だから意味はわからないが、言葉に込めた気持ちは痛いくらい伝わってきた。 

 神様と世界を敵に回しても、レイジは俺を愛し守ろうとする。
 暴君でも王様でも、レイジであることに変わりはない。

 降参したように目を閉じて言葉を返す。
 「……お前、馬鹿だ。本当に馬鹿だよ。王様のくせに余裕なさすぎ」
 「命がけで惚れたやつにフラれそうって大ピンチに余裕吹かせてられっか」
 「腕はほどけよ」
 「ほどいたら逃げるだろ」
 「じゃなくて」  
 思わず舌打ちがでる。レイジが怪訝な顔をする。
 恥辱で頬が熱くなるのを感じながらもうなるようになれと開き直り、ぶっきらぼうにそっぽを向く。
 「……このままじゃ、お前を抱けないだろ」 
 言ってしまってから顔じゅうどころか全身が発火する。
 レイジを思いっきり抱きしめて安心したい、安心させてやりたい。
 肌を重ね体温を感じ吐息を絡め鼓動を溶け合わせ、レイジとひとつになりたい。
 しゅるしゅると上着の擦れる音がし、腕が解放される。
 自由になった腕を前に持ってきて手のひらを開閉し具合を確かめる。 指は十本全部ちゃんと動く。
 「抱いてくれるんだろ」
 深呼吸して覚悟を決め、悪戯っぽく微笑むレイジに向かって腕を伸ばす。
 広い背中に腕を伸ばし、きつく抱きしめぬくもりを貪る。レイジもまた俺の背中に腕を伸ばし交差させぎゅっと抱きしめる。 
 コイツ、でっかい子供みてーだ。 
 内心呆れながら身動ぎし背中に回した腕を緩め、レイジからそっと身を放す。 
 そして……
 「「でっっ!!?」」
 鈍い音とともに衝撃が爆ぜる。
 衝撃はすぐに熱を持った激痛に変じる。
 心の準備をしていても痛いものは痛いと噛み締め、赤く腫れた額を庇う。
 突然頭突きを食らわされたレイジが盛大な物音をたてベッドから転落、濛々と埃を舞い上げて床に倒れこむ。
 床に突っ伏したレイジめがけ、俺は容赦なく唾飛ばし罵倒を浴びせる。
 「馬鹿だなお前は本当馬鹿だな、そんなに強姦ごっこが好きならサーシャとやってろ、俺は縛るのも縛られるのも嫌いだって何回言やわかるんだこの色鬼!!いきなり人の腕縛り上げて上着捲って下着に手ェ突っ込んで変なとこいじくりやがって、挙げ句に俺の出したもん舐めさせやがってふざけんないい加減にしろ、ああもう最低だあんな不味くて青苦いもん飲ませよがって反吐がでるぜ畜生、いやそれより許せねーのはっ!!」
 威勢よくベッドから飛び下りつかつか突き進む。床の十字架を拾い上げ呆気にとられたレイジの前に突き出す。
 「お袋がくれたもん粗末にすんな!!マリアがくれた大事な十字架だろ、お袋の想いが篭もったお守りだろ?ちょっと歪んで傷付いた位であっさり捨てようとすんじゃねえ、このくらい唾つけときゃ直るっつの」
 十字架を乱暴にひったくり、ぺっぺっと手に唾吐き疵だらけの表面に刷り込む。
 レイジはぽかんと口を開け俺の奇行を見詰めている。
 「ほらよ。ちゃんと持っとけ。捨てたら怒るからな」
 語気強く念を押しレイジの手の中に十字架を投げ返す。
 レイジの腑抜け面を見てるうちに急速に怒りが萎えて脱力感を覚える。
 腰に手をあてレイジに向き直り、わざとらしくため息を吐く。
 「……心配ならついてこいよ。世界を敵に回す覚悟でな」   
 いや、この言い方は違う。
 口を噤みちょっと考え、羞恥に苛まれながらも挑むようにレイジを見据える。
 「………いや、違う。お前の言う通りおれは弱い。どうしようもなく弱い。認めるのは悔しいけど今の俺じゃとても道了にかなわない。俺だってハルの二の舞はごめんだ。だから」
 だから。
 何度目かの深呼吸で鈍る舌を叱咤し、最大限の勇気を振り絞って嘘偽らざる本音を口にする。
 「俺にはお前が必要なんだ。レイジ」
 褐色の手の中で息を吹き返したように十字架が輝きを放つ。
 レイジが腰を上げ俺のほうにやってくる。
 大股で軽快に歩く様子からは完全復活した自信が窺える。
 「最高の殺し文句。弱味握られちまったな」
 レイジがはにかむような笑みを見せ俺の胸に拳を当てる。
 照れ隠しの悪ふざけに、俺もまた同じジェスチャーを返しておく。
 「離れらんねーのはお互い様だろ」
 レイジが肩を竦め金鎖を首に潜らせ十字架をかけ直す。
 その位置がちょっとずれていたのが妙に気になり、十字架を触って調整してやる。
 胸の真ん中にぴったり十字架がくるよう位置を正し、満足の息を吐く。 
 不意に肩に手をおかれ抱き寄せられる。
 「道了には渡さない。暴君に体を明け渡してでも守ってやる」
 褐色の手が肩に強く食い込む。
 俺を失いまいと決意する力強さに抱かれ、静かに目を閉じる。
 位置を直したばかりの十字架がまた傾き、鎖の擦れる涼やかな音が耳朶を打った。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050331142829 | 編集

 「何を話していた?」
 「ジークムント・フロイト著『夢判断』の考察。低脳に話しても理解できないから説明は省く」
 鋭く探りを入れてくるサムライの目は見ず、本のページをめくりながら嘘をつく。
 観察される居心地の悪さに眼鏡のブリッジを押さえ表情を隠し、読書に没頭するふりをする。
 サムライは至近距離でじっと僕の横顔を窺っている。
 不躾な凝視。
 僕は何事もなかったように平静を装いページを繰る。
 場所は医務室前の廊下、時刻は強制労働終了後の自由時間。
 東西南北四つの棟の囚人が交差するこの場所は、談話室もとい図書室と医務室への通り道ということもあり賑わっている。
 忙しく行き交う通行人の大半は医務室か図書室のどちらかへ吸い込まれる。
 図書室を訪ねる目的が必ずしも読書と限らないのが東京プリズンの囚人の嘆かわしいところだ。
 三階まで吹き抜けの広壮な空間に大人数で囲める幅広のテーブルが担ぎ込まれ、目隠しの役割を成す巨大な書架で埋め尽くされた図書室は気の合う友人同士が馬鹿話に興じるのに最適の環境が整っている。また本棚の影に隠れて売春を行なう不埒な輩も少なからず存在し、東京プリズンの秩序を著しく害している。
 今僕の手の中にある本も図書室で借りてきたものだ。  
 目は口ほどに物を言う。
 物言いたげな視線を無視し、淡々とページを繰る。
 澄まし顔で読書を続ける僕をサムライが訝しげに探り見る。
 僕が隠し事をしてないか怪しんでるふうだ。
 胡乱な眼差しで僕を見詰めるサムライ、その視線を表紙を立て遮る。
 サムライが諦めて嘆息する。
 「相変わらず強情だな」
 「『汝自身を知れ』だ」
 「?」
 サムライの顔に疑問符が浮かぶ。
 眉をひそめたサムライに本を閉じ向き直り、噛み砕いて説明してやる。
 「君にはいささか難解すぎたか。よろしい、意訳してやる。『人のことをとやかく言う前に己を省みろ』、以上だ」
 「俺が強情だと?」
 「今もって自覚がないとは驚きだ」
 むきになるサムライに追い討ちをかける。
 神経を逆撫でする皮肉な笑みを浮かべ腕を組む。
 「つまらない嫉妬はやめろ。僕と斉藤が医務室で何やらよからぬ行為に及んだと妄想を逞しくているなら下衆の勘繰りというものだ。僕はただ斉藤と個人的な話があっただけだ。そう、オーストリアが誇る偉大な精神科医にして心理学の始祖ジークムント・フロイトの有名な著書、『夢判断』の解釈をめぐる高尚な学術談義に熱中していたのだ」
 「じーくむんと・ふろいと?」
 鸚鵡返しに発音するも、サムライはますます首を傾げ当惑を深める。サムライの中ではいまだに鎖国が続いてるらしいと再確認、余計な詮索を招くのを忌避し一方的に話を打ち切る。
 「斉藤はあれでなかなかどうして優秀な精神科医らしい。カウンセリングの腕も一流だ。『夢判断』の解釈についても非常に有益な議論を交わすことができ知識欲が大いに満たされた。それとも何か?君が斉藤の代わりに議論に付き合ってくれるとでも?」
 無理だ。無理に決まっている。
 嘲りが顔に出たのか、負けじと僕を見返したサムライがせめてもの威厳を保とうと顎を引く。
 「……俺の愛読書は宮本武蔵著『五輪之書』だ」
 「だから?武士道の発祥過程について二千字以内で述べろと?」
 斉藤に対抗心を燃やしているのはわかるが、どうも方向性がずれている。
 どうやらサムライは僕が斉藤に興味を持ったことを不快に思ってるらしい。本当に独占欲の強い男だ。僕が斉藤に関心を示したのをきっかけで日頃の冷静沈着さが崩れたものか、ただでさえ近寄り難い目つきは更に険しさを増し、不機嫌も露わな眉間の皺と一文字に引き結んだ口元がその気もないのにまわりを威圧する。
 全身から剣呑なオーラを発するサムライを見詰め、口を開く。
 「……僕を疑っているのか?」
 声を落として訊ねる。
 苛立ちを口調に滲ませて刺々しく問えば、サムライがぷいと顔を背け、ぶっきらぼうに呟く。
 「……斉藤は信用できない」
 「根拠は?」
 「笑顔が胡散臭い」
 胸を反らし自信をもって断言するサムライに脱力する。
 眼鏡の弦に触れ気を取り直し、冷静に反論を試みる。
 「斉藤が胡散臭いことは主観的事実として僕も認めるが、人を容姿で判断するのはいただけない。君はもう少し公明正大な男と評価していたのだがな」
 「斉藤と話したあと、医務室から出てきたお前の様子は明らかに平生と違った」
 サムライが言葉を切る。僕は口を噤む。
 互いの真意を推し量る沈黙がおちる。
 「何があった?直」
 「………何も」
 「斉藤に何を言われた」
 「ジークムント・フロイトは優れた精神科医で後世に偉大な功績を残したが、夢の中の現象をすべてセックスと結び付ける発想は短絡的かつ偏っている。夢に表出する凸凹のうち凸はすべて男性器を、凹はすべて女性器を象徴するというのはいさかか乱暴すぎる見解だ。フロイト自身のトラウマに基づく偏見という解釈に同感……」
 「とぼけるな」
 サムライが一歩詰め寄り、気迫を込めて顔を覗き込んでくる。
 虚勢を張りサムライを見返そうとして、意志が挫け力なく俯く。
 サムライはどこまでも一途に真実を追求するつもりでいる。
 愚直と言い換えてもいい強情さにさすがに辟易するも、サムライがこうして僕を問い詰めるのは僕の身に起きた出来事を憂えているからだと一方で痛感し、切なく温かい感情が胸に込み上げる。

 だがしかし、真実を話すわけにはいかない。
 僕には恵の名誉の為にも守り抜かねばいけない秘密がある。 

 愛する妹の面影を瞼の裏に想起する。
 恵。僕の妹。
 血の繋がらない義理の妹、鍵屋崎夫妻のあいだに生まれた実の娘。
 鍵屋崎の家で家族と呼べるのは恵だけだった。
 鍵屋崎の家にいた頃も今も恵の存在は僕にとってかけがえのないものだった、心の支えだった。
 実の両親にも見捨てられた恵を愛し守ることだけが僕の存在意義であり存在価値だった。僕に天才以外の付加価値があるとするならそれは恵の兄であるという一点に尽きる。
 いたいけな笑顔が瞼裏に甦る。
 『おにいちゃん』 
 僕を兄と呼び無邪気に慕う可愛い妹。
 僕は恵を守るためにここにきた、東京プリズンにきた、自ら望んで東京プリズンにやってきた。
 選択に悔いはない。
 恵は僕のすべてだった。
 恵さえ幸せになってくれるならそれでよかった。
 他に望むことはなにもなかった。
 『何を隠してるんだい』
 先ほどの斉藤の声が耳に響く。
 緊張をほぐしリラックスさせる穏和な声音はしかし、真実を探求する冷徹さでもって僕の心を抉る。
 退室間際の斉藤の様子を回想する。
 斉藤は寛大なポーズで椅子に腰掛け僕を見送った。
 話したいことがあればいつでもきていいよとさりげなく告げ、虹彩の茶色い目に限りない包容力を湛え、じっとこちらを見る。
 いつその唇が動き核心にふれるか、逃げるように身を翻してからも僕は怯え続けていた。
 『誰を庇ってるんだい』
 詰問というにはあまりに優しく、尋問というにはあまりに礼儀正しく、あくまで節度を保ち引き際を心得て、それでも斉藤は僕のいちばん触れられたくない部分に踏み込んできた。

 ダレヲ カバッテルンダイ?

 何もかも見通すような眼差しが追いかけてくるようで、扉を閉じ廊下に出てからも手が汗ばむほどに緊張していた。
 木刀片手に佇むサムライを見た時、腰が砕けるような安堵を感じた。
 「直」 
 サムライが僕の名を呼ぶ。
 戸惑い揺れる僕を現実に引き戻し繋ぎ止めるように、静かに、強く。
 ひたとサムライを見上げる。 
 もとから頬骨の高く精悍な顔だちのサムライはこざっぱりした短髪がよく似合う。さながら清爽な武士といった風情だ。
 サムライの顔から視線を外し、長袖に包まれた肩から肘、手首に至る体の輪郭を辿る。
 僕は知っている、長袖の下の至る所に醜く焼け爛れた傷痕が残っている事を。
 サムライは僕を助けるために炎の中に飛び込み火傷を負った。
 その時の必死な形相を思い出し、不意になにもかもサムライに打ち明けてしまいたい衝動に駆られる。
 サムライがすっと目を伏せる。
 「……俺では力になれぬか」
 「当たり前だ。僕の高尚なる苦悩が君ごとき凡人に理解されてたまるか。『若きウェルテルの悩み』でも読んで出直してこい」
 自責の色を双眸に浮かべるサムライに毒舌を返し、僕もまた顔を背ける。自分のプライドの高さがこの時ほど憎くなったことはない。
 サムライはきっと、僕の力になれない自分を責めるだろう。
 僕に頼りにされない自分の不甲斐なさを呪うだろう。
 わかっている、わかっているんだ。
 僕が好きになった男はそういう男だ、サムライは愚直なまでに誠実で心優しい男だ。

 だからこそ、苦しめたくない。
 僕が担うべき重荷を負わせたくない。

 すまない、サムライ。
 だが、これは僕の問題だ。
 目を閉じ心の中で謝罪する。
 再び目を開き、挑むようにサムライを見据える。
 今の僕にはこれしか言えない。
 「僕としたことが、宮本武蔵は未読だ。今度『五輪之書』を借りてくるから、宮本流武士道に対する君の見解を聞きたい」
 サムライが一瞬目を見張り、僕の気持ちを汲んだものか、「仕方ない」とでも言いたげに苦笑する。
 「心して待つ」
 サムライの優しさが胸に染み入り、秘密をもつことに対し抱き続けていた罪悪感がほの少しだけ薄まる。
 サムライに釣り込まれるように頬を緩めた僕だが、その瞬間ー……
 凄まじい轟音が響く。
 「!?何事だっ」
 サムライが素早く反応し木刀を構える。
 音源は医務室だ。
 最前とは人が変わったように鋭い目で扉を凝視し、僕を庇うように立ち位置を移動したサムライの眼前で、突如扉が開け放たれる。
 「凱だ、凱が暴れてる!」
 「だれか早く看守を呼んこい、死人がでねえうちにっ……」
 「おい、腕もって押さえろ!ひとりが無理ならふたり、ふたりが無理ならさんにん……畜生なんて馬鹿力だ、五人がかりでもたちうちできねーぞ、本当にくたばりぞこないの怪我人かコイツ!?」
 体のそこかしこに包帯を巻いた囚人たちがこけつまろびつ溢れ出し、注射器やら消毒液の瓶やら衝立やらパイプ椅子やらが畳み掛けるように投げ出される。
 骨折で入院中の囚人がギプスを嵌めた足をひきずり這い出し、点滴に寄りかかるようにして敷居を跨いだ囚人がその場にしゃがみこみ吐血する。
 何十人もの収容患者が我も我もと助けを求めて大挙したせいで、たまたま居合わせた通行人も巻き込み、廊下は大混乱に陥る。
 サムライの決断は早かった。
 もはやこの騒ぎに収拾つけられるのは自分しか居ないと判断し木刀をひったくり、殺気立った人ごみに逆流するように室内に駆け込む。
 「直、離れるな!」
 「君から離れたら圧死する!」
 ひしと背中にしがみつき叫び返す。
 殺到する人ごみに押し流されまいと必死に踏ん張りつつ、僕自身に何があろうとも本だけは無傷で守りぬくと胸に抱きこむ。
 点滴と注射器と瓶と椅子が飛び交う中、割れた注射器や漏れた消毒液やら歪曲した椅子やらが散乱する惨状を呈した室内を一陣の疾風の如く突っ切り、サムライが怒鳴る。
 「何があった!?」
 「凱が、凱さんがいきなり暴れだしたんだよ!」
 頭を抱えて床に這いつくばった囚人が半泣きで叫ぶ。
 「凱が?」
 一週間前、道了によって喉を切り裂かれ声帯を損傷した凱は今だ入院中のはず。   
 一週間も寝たきりだった凱が目覚めるなり手負いの猛獣のように暴れだしたと聞き、まだそんな体力が残っていたのかと単純に驚く。
 「何とかしてくれよサムライ、俺たちじゃ歯がたたねーんだよ、凱さんときたら目ェ覚ますなり狂ったように暴れだしてわけわかんねーこと喚き散らして……」
 道了に下克上されてからも凱の傍らにあり甲斐甲斐しく世話を続けたのだろう囚人の要請に、サムライは義理堅く頷く。
 「累が及ばぬよう隠れていろ。凱は俺が止める」
 「謝謝、恩に着るぜ!」
 サムライが顔を引き締め、硝子の破片を重々しく踏み砕いて凱のベッドがあると思しく方向へ突き進んでいく。
 あたりを見回し斉藤をさがす。
 室内に姿が見当たらないが、患者を放って逃げたのではないだろうな。
 「斉藤、この緊急時に職務放棄とは貴様それでも医者か!?」
 「肉体労働は苦手なのさ」
 予期せぬ方向から声がした。
 その場にしゃがみこみベッドの下の暗がりを覗けばちゃっかり斉藤が隠れていた。あまりに情けない有り様に叱責するより先に呆れ、続けかけた言葉を飲み下す。まじまじと斉藤の顔を見れば、一応は凱を取り押さえようとしたらしく、力及ばず反撃されたあかしの擦り傷があった。

 「ぐるあああああああああああぁああああああああァっ、あッ、あッ!!!」
 濁りに濁った咆哮が大気を震わせる。
 人間の声帯から発せられたとは信じがたい、とてもじゃないが言葉の体を成さない、醜くひび割れた太い咆哮。

 「今のが、凱の?」
 むりやり唾を嚥下し、漸くそれだけ訊く。
 僕が覚えている凱の声もお世辞にも美声とは言い難かったが、今のは獣の吠え声にしか聞こえない。
 輪郭の割れた醜い声、耳に入って不快感をかきたてる不協和音の集合体、声というよりは剥き出しの音のかたまり。
 あれが凱の声だって?
 悪い冗談だと思いたかったが、斉藤の顔は至って真剣だ。
 「ひょっとして、凱は……」
 その先の予想を続けるのがためらわれる。口にしたそばから現実になりそうな予感が舌を鈍らせる。
 沈痛に押し黙った僕の前で、ベッドの下から這い出した斉藤が立ち上がり、気取った手つきで白衣の埃をはたきおとす。
 「……発声訓練を続ければ、ある程度は言葉を取り戻すことはできる。だが声の本質は変わらない。彼はこのまま一生……」
 「凱は声を失ってしまったのか、もはや永遠に娘の名を呼べないと!?」 
 「残念だけど」
 そんな。
 そんなことが。
 僕と斉藤が話しているあいだも獣じみた咆哮はやまず椅子やら点滴やらが投げ飛ばされてくる。床に落下した椅子ががしゃんとけたたましい音たて滑り、瓶が割れ砕けて液体が一面にぶちまけられ包帯姿の囚人が逃げ惑う。 
 僕は凱が嫌いだった。
 下品で下劣で乱暴で、暇さえあれば僕やロンを追い掛け回す凱を心底嫌っていた。
 一命を取り留めたならいいじゃないか。
 声を失ったくらいで済んでよかったじゃないか。
 凱を嫌うもう一人の僕が頭の片隅で囁くも、もう一人の僕は凱のベッドがある方向を呆然と見詰めたまま硬直している。
 食堂の椅子にふんぞりかえり飯粒をとばし下品な笑い声をたてる凱、あたりはばからぬ大声で猥褻な冗談をとばす凱、自分の娘は世界一可愛いと誇らしげに自慢する凱……
 それらの声が一斉に共鳴し甦る。
 「おでは、おではっ、まげてない……だおだにまげでないっ……」
 狂おしい咆哮に哀切な嗚咽が混じる。
 凱が泣いている。
 あの凱が泣いている。
 人前で涙など見せたことのない凱が、東棟三百人の頂点たる腕自慢の凱が、道了に敗北した悔しさのあまり衝立の向こうでシーツを掴み泣き伏せる。
 衝立に遮られて姿は見えないが、衝立に映る影が、ベッドに突っ伏して身も世もなく泣き叫ぶ情けなくも痛々しく滑稽な姿を想像させる。
 「ぢぐじょう、ぢぐじょう……ごんなごえじゃ、むずめのなまえだっでよべねえ。むずめにだってこわがられぢまう。ぐぞ、のどがおがじい、棒ぎれでもづっかがってるみでえだ……みっどもでえ、みっどもでえよお……」
 手当たり次第点滴を突き倒し椅子をぶん投げ瓶を落とし戸棚を叩き割り、すっかり体力を消耗しきった凱が喉絞るように啜り泣く。
 「麻酔銃のほうが効くかもね」
 斉藤が肩を竦め、ポケットから注射器をとりだす。凱に鎮静剤を打つつもりらしい。衝立の向こう、凱の枕元に佇む影はサムライだろう。
 苦虫を噛み潰したような仏頂面で立ち尽くすサムライを思い、そちらに足を踏み出し……
 ふと視線を感じて振り向く。
 開け放たれたドアの向こうにひとりの少年がいた。
 その少年は僕と目が合うなり露骨に「やばい」という顔をし、ぱっと踵を返して逃げ去っていく。
 「!待て、」
 僕ともあろうものが、あれこれ考えるより先に体が動いていた。
 見覚えのある顔だった。
 見覚えのある少年だった。
 暴れ狂う凱に恐れをなして入室をためらっていたのか、野次馬に紛れて偵察にきたのか真意は判らねど、彼があの場に居合わせたのがただの偶然であるはずない。
 「直!」
 サムライの声が追いかけてきたが振り向かずに走る。
 足を交互に繰り出し床を蹴り速度を増し標的を追い詰める。
 すぐに息が乱れて汗が噴き出し眩暈を覚えるも、おいていかれてなるものかと意地で食い下がる。
 対象と距離が縮まる。
 十メートル、五メートル、三メートル……もうすぐそこだ。
 どうやら僕でも追いつけるくらいに動きが鈍いらしく、1メートル先を駆ける少年は激しく肩を上下させ疲労困憊の相を呈している。
 走りながら背中に手を伸ばす。肩に手をかけ強引に振り向かせる。
 少年がぎょっとする。
 これといって特徴のない平凡な顔に視線を突き刺し、記憶の襞をまさぐる。
 彼の名前はそう、確かー……
 「逃げるな、マオ!!」
 少年が怯えたように目を見開く。今だ。
 肩にかけた手を引き、すぐ横の路地にマオを押し込む。
 僕につかまった時点で諦めたのか、マオはこちらが拍子抜けするほどあっけなく命令に従った。
 肩を浅く上下させ不規則に乱れた息を整え、マオに続いて路地に分け入る。
 路地の出口を塞ぐように立った僕の前、薄汚れた壁に背中を凭せるようにしてずりおちたマオが、膝の間に頭を突っ込み苦しげに呼吸する。
 「何を企んでいるか説明してもらおうか」
 僕の前にいるのは残虐兄弟の片割れ、マオだ。
 今を去ること一週間前、凱の敗北をきっかけに兄弟揃って道了へと乗り換えたマオが何故医務室の前に?
 一見したところ服から露出した部位に外傷はなく治療を受けにきたとも思えない。僕にバレた際の挙動不審な様子からして凱の容態を見にきたとするのが妥当だ。
 「道了に言われてとどめでもさしにきたのか。強姦未遂か?」
 「……凱さんのケツ狙ったりなんかしねーよ。抜け駆けは絶対禁止、強姦する時は二人一緒にってのが残虐兄弟の掟だ」
 荒い息の狭間からマオが零す。
 そういえば兄の姿が見当たらないなと今頃気付く。
 かつて一度ならず襲われた事があるにも関わらず、人通りのない路地にマオを連れ込んだ僕も大概無防備で不注意と責められてしかるべしだが、マオとユエがふたり揃って残虐兄弟を名乗らない限りは脅威を感じないのが皮肉な現状だ。
 深呼吸しマオと向き合い、ひややかに吐き捨てる。
 「よくもあそこに顔を出せたものだな、卑劣な裏切り者の分際で」
 マオが膝を抱えたままびくりとする。 
 萎縮しきったマオへの軽蔑を隠さず、淡々と言葉を重ねる。 
 「君たち兄弟は凱を裏切り道了に寝返った。今からたった一週間前のことだ。今まで凱の庇護のもと好き放題していたくせに、凱の敗北を目の当たりにした途端立場が悪くなるのを恐れて道了に乗り換えた。喉を裂かれ大量の血を流し苦しみもがく凱を無慈悲に切り捨て、自分たちの利益と保身を最優先し、レイジにもまさる尻の軽さでほいほい道了についていったんだ」
 「あ……、」
 「凱は用済みだ。役立たずだ。仲間を失い声も失い希望と闘志すら失った死に損ないだ。そんな凱に今更何の用だ?嗤いにきたのか。かつて自分をこき使った男の末路をいい気味だと嗤いにきたのか、上の命令でとどめをさしにきたのか、さあどうなんだ」
 マオが弱々しく首を振り、縋るように僕を仰ぐ。
 潤んだ目で何かを必死に伝えようとするも、つれなくあしらう。
 「道了に報告しろ。凱は声を失い絶望し暴れ狂っていると見たままを報告し道了を満足させろ。凱はもはや人語を話せぬ獣に退化した。よかったじゃないか、全部君の望みどおりー………」
 「ちがわい!!」
 その声にハッとする。
 子供のように背中を丸め膝を抱き、マオがたどたどしく弁解する。
 「あン時はあんちゃんと離れたくない一心で、あんちゃんがああ言うから俺もついその気になってノリと勢いで言っちまっただけで、凱さんを裏切る気なんか本当はこれっぽっちもなかったんだよ。ほんとうだよ。嘘じゃねーよ。凱さんとは娑婆の頃からの知り合いで、俺たち兄弟とはケツの青い頃からの知り合いで、凱さんにはマジで数え切れないくらい世話になってんだから。警察にヤサばれそうになった時は匿ってくれたし、一緒に食い逃げしたし強姦したし強盗したし、ガキん頃から貧しくて旧正月の祭りでもろくなもん買えなかった俺ら兄弟のために駄賃くれて、『これで好きなもん買ってこい』って笑って言ってくれたのも凱さんなんだよ!」
 膝に顔を突っ伏し、我慢の糸が切れたようにマオが泣き始める。
 頼りなく肩を震わせくぐもった嗚咽を零し、マオが言い募る。
 「凱さんはずっと俺たちの兄貴で親父代わりだったんだ。娑婆でもここに来てからもずっとそうだったんだ。兄ちゃんはどうか知らねーけど、俺は、俺は……」
 漸く僕は気付いた。
 マオが医務室を訪れたのは偵察が目的ではなく、純粋に凱を心配していたからだと。
 喉裂かれて入院中の凱が気がかりで、自ら危険を犯してまで様子を見にきたのだと。
 マオは自分の身を守るよう膝を抱え泣いている。
 残虐兄弟の悪名にはふさわしくない鼻水と涙にしとどに塗れた泣き顔をさらし、選択を誤ったことで激しい後悔の念に苛まれ、ひどく遠回りしながら、袂を分かった凱への偽りない気持ちを吐露する。
 「凱さんが好きなんだよ………」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050330062712 | 編集

 「凱に性欲を感じるのか?」
 膝を抱えたマオがぶるぶると首を振る。
 きっぱりした拒絶反応から「好き」といえども恋愛感情ではなく父性への憧れと分析、この状況をどうしたものかと思案する。
 僕は内心辟易していた。
 マオを放置してサムライのもとへ帰る選択肢もあったが、踵を返そうとするたびマオのしゃくりあげる声が追ってきてなかなか決心がつかない。
 僕が知るマオは兄の言う事なら何でも素直に聞き二つ返事で凱に従う下っ端の中の下っ端ともでいうべき存在だった。
 ところがマオは一週間前、兄とともに凱を裏切った。道了に喉を切り裂かれた凱を目の当たりにしてこれ以上凱に与するのは不利益と判断、兄ともども新興勢力に寝返ったのだ。
 マオは卑劣な裏切り者だ。
 凱に世話になった恩を足蹴にし道了に寝返った卑怯者だ。
 彼らが今更どうなろうが知ったこっちゃない。
 大体僕には関係ない。
 しかし。
 何となく立ち去り難く逡巡する僕をよそに、マオが訥々と語り始める。
 涙に濡れた頬を外気に晒し、潤んだ目をしばたたき、頭の鈍さを証明する舌ったらずな口調で。
 「あんちゃんとは物心ついた頃からずっと一緒だった。親は知らない。親父もお袋も気付いた時にはいなかった」
 「捨てられたんだろうな、記憶にないならば」
 そっけなく相槌を打つ。マオの生い立ちは今時珍しくもない話だ。悲劇に分類する程悲惨でもないありふれた生い立ち。
 僕の乗りの悪さにも挫けずマオは話を続ける。
 「いちばん最初の記憶は俺の手を引っ張ってずんずん歩いてるあんちゃんの背中。あんちゃんは強い力を込めて俺の手を握ってた。この手を放したら離れ離れになって二度と会えないんだぞって感じに力を込めて、もうちょっとゆっくり歩いてよって頼んでも振り向きもしないで、むきになったようにずんずん突き進んでいた。俺はべそをかいてた。何が哀しかったんだか覚えてない。きっとくだらない理由。野良犬に吠え掛かられたとか露店からくすねた飴玉をおっことしたとか、今思い返せばくだらない理由だよ」
 マオがおもむろに手を掲げ、その手に在りし日の兄の面影を重ねるように複雑な目でじっと見詰める。
 「あんちゃんはいつもいつだって俺を庇ってくれた、守ってくれた、助けてくれた。背だってあんまし変わらないのに、いつだって泣き虫で臆病な俺のこと背中に庇って、おっかない大人や凶暴な野良犬や喧嘩の強いガキに立ち向かってくれた。あんちゃんは俺の英雄だった」
 手を拳に握り込み恍惚とした表情でマオが呟く。うっとりまどろむ目から兄への心酔ぶりが如実に伝わってくる。
 残虐兄弟の幼い頃を想像する。
 自分たち以外には頼れるものも庇護してくれるものもなく、互いに支え合ってスラムの路地裏で生き抜いてきた逞しい兄弟。マオにとって兄のユエはこの世で唯一の味方だった。血の繋がった肉親以上の強い絆が二人を介在した。
 マオは兄を尊敬している。兄に憧れている。だからこそユエの決定に逆らえなかった。兄が凱を裏切るといえば拒否できず従うしかなかった。
 「俺とあんちゃんはいつも一緒だった。あんちゃんと離れ離れになるなんて考えられなかった」
 「だから凱を裏切ったのか?兄と離れるのがいやなばかりに凱を裏切って道了側についたというのか。責任の所在をユエに押し付け自分の行為を正当化するつもりか、嘆かわしい。すべては兄への依存心が強く自身の意見を主張できない君の気の弱さが招いた事態だろう」
 マオに同情するつもりは毛頭ない。
 僕に懺悔したところでマオがしたことは取り返しがつかない。
 凱を裏切った事実は厳然としてそこにある。残虐兄弟とその他大勢の配下に裏切られ声をも失った凱は現在失意のどん底にある。
 手負いの猛獣の如く苦しみもがく凱を見て罪悪感に苛まれたものか、僕を相手にお角違いな懺悔を始めたマオを冷たく突き放す。
 「マオ、君は卑劣な裏切り者だ。凱の隣に君の居場所はない。わかったら消えろ」
 「俺、俺……」
 ここまで言ってもまだマオはためらっている。医務室の方をちらちら未練がましく見やり、助けを請うように僕を仰ぐ。
 捨て犬のような目で見られても困る。 
 眼鏡のブリッジを押し上げ、うんざりした色を隠しもせずため息を吐く。
 「道了と凱と二股をかけるのか、君は。危険だぞ。道了と凱両方と通じてることが発覚すれば君の立場は非常に悪くなる。大事な兄にも累が及ぶぞ」
 兄の名を口に出せばマオの顔がさっと青褪める。わかりやすい反応だ。兄に逆らえずその場の勢いで道了に寝返ったものの今だ凱への未練を捨てきれず煮え切らない態度をとり続けるマオに苛立ちが募り、核心を突く。
 「君はどうしたい?道了を敵に回すのを覚悟で凱のもとに戻りたいのか、凱を切り捨て兄とともに道了の庇護を受けたいのか」
 「凱さんを捨てるなんてできっこねえよ!」
 マオが悲痛に叫ぶ。固く握り締めた拳で膝を叩き、怒りに充血した顔で虚空を睨む。
 「……凱さんは俺ら兄弟の恩人なんだ。凱さんには娑婆でもここでも世話になりっぱなしだった。今でも覚えてる、凱さんと初めて会った時のこと。俺とあんちゃんはいつものように屋台の饅頭をかっぱらって麺棒ふりかざした親父に追われてた。俺とあんちゃんはいっつも腹ぺこだった。あんちゃんは俺にかっこ悪いとこ見せないよう我慢してたけど、俺が指くわえて物欲しげに屋台の饅頭見てると『よぅし、あんちゃんにまかせとけ。あったかい饅頭をたらふく食わせてやるからな』ってにっこり笑って……あんちゃんはすばしっこくて追っ手を巻くのは得意だった。だからあん時もあんちゃんひとりなら余裕で逃げられたはずなんだ。……そう、俺さえいなけりゃ」
 マオの頬が自嘲的にひくつく。
 「あんちゃんに比べたら俺は何やらせてもトロくさくて、逃げ足だって遅くて、足手まといで………けれどもあんちゃんは絶対俺を見捨てなかった。俺が『もういいよあんちゃん、あんちゃんひとりで逃げてよ』って泣いて頼んでも繋いだ手を放さなかった。あんちゃんはほかほかの饅頭を俺と半分こするつもりだった」
 常に空腹だった幼少時代を回想しマオが切なげに顔を歪める。
 僕もまたその光景を思い浮かべる。
 飲食物を売る屋台が所狭しと犇く猥雑な市場を二人して駆け抜ける幼い兄弟。
 先頭の兄が弟を叱咤しながら繋いだ手に力を込める。
 兄の手の中で饅頭がふやけて潰れて中身が出る。
 逃げるのに夢中になるあまり自分の手で饅頭を握り潰したことに気付きもせず、幼い兄弟はひたすら息切らし逃げ続ける。 
 火照り汗ばむ互いの手に縋りながら。
 「案の定、俺のせいであんちゃんまでとっつかまった」
 追い詰められた兄弟に屋台の主人が迫りくる。
 空腹が限界に達し、もはや逃げ切るる体力すら底を尽いた幼い兄弟は互いに寄りかかって辛うじて立ってる状態で、暴力慣れした大人に対抗できようはずもない。
 追い詰められたユエとマオ、恐怖に引き攣った顔、目を過ぎる懇願の色、口から吐き出される熱い息。
 体の脇にだらり力なく垂れ下げた指の隙間から饅頭の中身が零れ、足元に煮汁が飛び散る。 
 「俺をおいて逃げればあんちゃんだけは助かった、だけどあんちゃんはそうしなかった、トロくて足手まといの俺を最後まで庇ってくれた」
 痛みを堪えるように目を瞑り、力及ばず苦汁を舐めた日々を回想する。
 「あんちゃんは俺の代わりにボコボコにされた。麺棒でイヤってほどぶっ叩かれて割れた頭から血ィ流した。顔がぶよぶよに腫れてお化けみたいになった。口に麺棒つっこまれてかき回されて歯を二・三本へし折られた。俺はもうやめてくれって、何でも言う事きくからあんちゃんいじめんのやめとくれって親父にしがみついた。もとはといえば俺が物欲しげに見てたのが悪いんだ、あんちゃんは腹ぺこの俺を放っとくのがしのびなくて饅頭かっぱらうなんて無茶したんだ、あんちゃんはいつだって俺のこといちばんに考えてくれる最高のあんちゃんなんだ。泣きながら叫んだよ、喉嗄れるまで叫んだよ。お願いだからあんちゃんを助けてくれって…」
 突然マオの顔が輝く。
 地獄で救いを見出したように満面に喜色を湛え、興奮のあまり唾飛ばし捲くし立てる。 
 「誰も助けにくるもんかって諦めてたんだ。今までだって誰も助けにこなかったから今度もそうだろうって。俺の味方はあんちゃんだけ、あんちゃんの味方は俺だけ。世の中そんなもんだろうって高括って拗ねてたんだよ。けど、違ったんだ。違ったんだよ!」
 当時の心境をありありと想起したか、感涙に咽ぶ寸前でぐっと涙を押しとどめ、顔全体で溢れんばかりの笑みを作ってマオが言う。
 「『よわいもんいじめはやめな。饅頭がしょっぱくなるぜ』……麺棒でさんざぶっ叩かれて気を失う寸前のあんちゃんと俺はその声にびっくりした。いつのまにか親父の後ろにでっけえ影が立ってた。てっきり親父の仲間が現れたのかと思って俺とあんちゃんは絶望した。ところがその影は親父が振り向いた瞬間、親父の手から血で汚れた麺棒をむしりとった!!」
 手の中で乾いた音たて麺棒がへし折れる。
 ささくれた断面を晒し真っ二つに折れ砕けた麺棒を投げ捨て、凄まじい威圧感を放ち進み出た影の正体は…… 
 「『ガキのしたことじゃねえか。同じ中国人のよしみで許してやれよ。孔子の教えを忘れたのか?』……低くてよく通る声だった。親父はすっかりぶるっちまった。腰抜かしてへたりこんでる俺らの事なんかそれきり忘れてケツまくって逃げ出した親父に、その人は『忘れもんだぜ』って声かけた。余裕たっぷりに。親父は振り向いた、その口ん中に前歯をへし折って拳が嵌まりこんだ。口からだらだら血ィ流してひィひィ喘ぐ親父を傲然と見下して、その人はこう言ったんだ」
 一呼吸おき、窮地を救った男の声を真似てマオが言い切る。

 「『よく噛めよ。俺の拳の味はどうだ。お前が作る饅頭よか固くて歯ごたえあるだろうが』」
 低く野太い声が閑散とした路地裏に響き渡る。
 颯爽と現れユエとマオの窮地を救った男は、地面にぶち撒けられた蒸篭と饅頭をひとつひとつ拾い上げ、丁寧に泥を払ったそれを服の裾で拭い、空腹と怪我で一歩も動けない状態のユエとマオに与えたのだという。兄弟が気兼ねして手を出さないでいると、『早いもんがちだ』と悪戯っぽい笑みを浮かべ、両手の饅頭を一口でたいらげてみせた。一度にふたつ口の中に饅頭を詰め込んだ男が、案の定喉を詰まらせて激しく咳き込むさまを見て、顔をくしゃくしゃにして苦悶するその様があんまり滑稽で可笑しくて、ユエとマオは折檻された体の痛みも忘れて吹き出してしまった。
 胸を叩いて饅頭を飲み下した男は、改めて地面から饅頭を拾い上げると、ユエとマオそっくりな兄弟を見比べてその饅頭を真ん中からちぎる。
 『ほら、半分こだ』
 ひどく不器用な分け方だった。
 断面から滲み出した煮汁が男の手を汚していた。
 熱い煮汁で手が火傷するのも構わず男は太い笑みを浮かべ続けた。怯えきったユエとマオを安心させるよう微笑みかけさあ食えと促した。
 マオとユエはおそるおそる手を伸ばし、半分ずつ饅頭を受け取った。

 饅頭の味を反芻するよう視線を上方に向け、哀しい目をしてマオがひとりごちる。
 「それが凱さんとの出会いだった」
 あん時の饅頭の味は忘れねえよと小声で付け加え、回想に終止符を打つ。
 気まずい沈黙が落ちる。
 胸の内を切々と語り終えたマオは、力尽き首をうなだれたままびくともしない。不器用な優しさ滲み出る凱との思い出に浸っているのか、周りじゅう敵ばかりだった幼少時代の辛苦を噛み締めているのか、顔を伏せて完全に表情を隠したさまからは測りがたい。
 傷心のマオにかける言葉を失い、僕もまた居心地悪い沈黙を共有する。
 「……あの凱にそんな一面があったとは驚きだ」
 重たい沈黙に痺れを切らし、無難な感想を述べる。
 最もそれは正直な感想でもあった。僕が知る凱は下品で下劣な乱暴者で、ロンや僕をしつこく付け回してはこりずにいやがらせを仕掛けてくる迷惑な男でしかなかった。僕から見た凱とマオから見た凱には大きな隔たりがあるらしいと痛感、ほんの少しだけ認識を改める。
 「あんちゃんは俺の英雄だ」
 マオが力強く断言し、葛藤に口元を引き結ぶ。
 「凱さんも俺の英雄だ。なあ親殺し、これって変か?英雄がふたりいちゃおかしいか。凱さんもあんちゃんも俺の大事な英雄で、俺、どっちも裏切りたくないんだ。凱さんもあんちゃんも大好きなんだ。どっちかひとりだけなんて選べねーよ」
 「僕に相談されても困る」
 「どうしたらいいか教えてくれよ、天才なんだろ」
 「助言を乞われるほど親しい間柄ではないし言うまでもなく君とは敵対関係だ」
 何を勘違いしてるんだこの低脳は。
 以前図書室で僕にした事を忘れたのか?
 怒り再燃した僕が口を開くのを待たず、マオが世にも情けない声を出す。
 「こんなことあんちゃんにだって相談できねーし道了にバレたら絶対やべーし、けど凱さんのこと放っとけねーし……どうしたらいいかわかんねーよ」
 最前から愚痴愚痴と泣き言を言うばかりのマオに忍耐力が切れかける。
 以前僕やロンに強姦を働こうとしたことを謝罪もせず愚痴愚痴耳の腐りそうな弱音を吐き続け同じどころを堂々巡りするばかりで何ら有益な解決策を見出せず現状を嘆くばかり。凱も兄も裏切れない両方とも好きだ大事だ一緒にいたいとどっちつかずの中途半端な心情を吐露し慰めを期待して

 限界だ。

 「うぬぼれるなよ低脳め」 
 無駄話に付き合わされ貴重な時間を浪費した怒りが、僕の声を凶器のように尖らせる。
 「え?」
 マオが驚いてこちらを見る。白痴じみた間抜け面にますます苛立ちが募る。
 「今の話を聞いてよくわかった、貴様がいかに唾棄すべき卑怯者でプライドの欠片もない付和雷同の腰抜けで他者に依存せずには生きてけない臆病者かがな。凱も兄もどちらも裏切りたくない?それが貴様の本心か。それは既に前提からして間違ってる、貴様は既に凱を裏切っているのだから済んだ事を未然形で語るのは文法上おかしい。君の要領を得ない話を聞いた限り凱は貴様たち兄弟の兄代わりであり親代わりであり命の恩人でもあった、凱は貴様たち残虐兄弟におおいに目をかけ可愛がり自分の右腕左腕として立派に育て上げた。忘れたのかマオ、あの時の事を。一週間前のあの光景を、貴様たち配下を失望させたくない一念で道了に敢然と立ち向かっていった凱を!!」
 一週間前の光景が鮮やかに脳裏に立ち上がる。
 凱は全身に傷を負い疲労困憊してなお闘志を燃え立たせ、味方の応援を糧に道了に立ち向かっていった。 
 あの時素直に敗北を認めて引き下がれば喉を切り裂かれ声を失わずにすんだのにそうしなかったのは、凱自身のプライドがそれを許さなかったからだ。凱自身の誇りが敗北を否定したからだ。仮に自分が敗北したら自分を英雄と信じて疑わぬマオはじめとする配下がいかに落胆するか幻滅するか失望するか、東棟三百人の頂点に立つ誇り高き男は何よりそれを憂えていた。
 一途に自分を慕ってついてくる東棟三百人の希望を奪い路頭に迷わせる事は、彼らの親父代わりを自負する凱には絶対できなかった。

 子分の前でかっこわるいすがたを見せられるか。
 最後の最後まで戦って戦って戦い抜いてこそ、子供に誇れる親父になるんじゃねえか。

 凱の背中に五十嵐が重なる。
 どこまでも不器用で愚直で頑固な父親の背中が二重写しになる。
 凱は信念を貫き最後まで勝利を諦めず死力を尽くし戦った。
 三百人の子供の前でみじめな負け犬姿を晒してたまるものかと、喉切り裂かれて血の海に沈むその瞬間まで余力を振り絞り立ち向かい続けたのだ。
 僕は凱が嫌いだ。
 しかし、あの強情さはある意味尊敬に値する。

 「何を悩む必要がある?貴様は最前『凱が好きだ』と言った。ならば何故逃げ出すこの臆病者、凱は今味方も声も失い失意のどん底で手負いの猛獣の如く苦しみもがいているというのに貴様は今ここで何をしている、親しくもない僕相手に凱との出会いを回想し感傷にひたる暇があるなら即凱のもとへ行け、失意の凱を支えてやれ!!マオ、僕は君とユエが個体識別できない。僕の脳細胞が死滅し記憶力が欠如してるからじゃない。僕がマオとユエを区別できない理由は君が何から何まで兄とうりふたつだからだ、貴様の思想も行動も何から何まで兄を型通り真似ているだけでどこにも意志というものが存在しないからだ!
 マオ、貴様はユエのクローンか?
 否、クローンにだって自我と人格と思想が生まれる。ならば貴様はクローンに劣る人間だ、単性生殖でユエから分裂した人間、そうだ貴様は扁形動物門ウズムシ綱ウズムシ目ウズムシ亜目プラナリアだ!!貴様は今も兄の背中に隠れ兄を模倣し兄の庇護に甘える劣化コピーに過ぎない、意志をもたず主張をもたず保身と引き換えに個性を殺し続ける複製に名前など必要ない、プラナリアもどきで十分だ!!」

 勘違いするな。僕は凱が嫌いだ、大嫌いだ。

 だからこれは凱のために怒ってるんじゃない、いつまでも兄に依存し現実から逃げ続けるマオに怒っているのだ。
 凱が好きならそれでいいじゃないか、誰に遠慮する必要があるんだ。不条理で理解に苦しむ。凱のそばにいたいならそうすればいいじゃないか。その選択で不利益を被ったところで永遠にユエの顔色を窺い自分の意志を曲げ続けるより遥かに健全だ。
 「『あの時の饅頭の味は忘れられない』?凱はな、喉を傷付けられたせいでもう一生饅頭が食えない体になってしまったんだぞ」
 突き上げる怒りに任せマオの胸ぐらを掴む。
 僕の言葉にマオの顔色が変わる。
 「そんなっ、凱さんが二度と饅頭を食えない体になっちまっただなんて!」
 「凱から声と饅頭を奪った罪は重い。どう責任をとる気だ?」
 絶望に苛まれたマオが仰け反るようにして呻く。
 マオの胸ぐらを掴み、背中から壁に叩き付ける。
 マオが壁に激突し、鈍い音が鳴る。
 衝撃に咳き込むマオの顔に怯えが走ったのを見逃さず、挑発の笑みを形作る。
 「どうしたその顔は。まさか僕ごときに怯えているのか。まったく情けない男だな、悪名高い残虐兄弟の片割れともあろうものが僕の細腕に締め上げられて泡を噴くとは無様で滑稽で笑いが止まらない。ユエなしでは何もできず死ぬまでユエに寄生し養分を搾取し続ける、なるほどこれは寄生虫の一生だ。標本にして飾りたいほどご立派な一生だ。貴様の目の前にいるのは誰だ?貴様ら残虐兄弟に何度も襲われ剥かれ刻まれかけた非力で無力なただの獲物だ、非力で無力なただの天才だ。どうした、震えているぞ。僕が怖いのか。僕に襲われるとでも?」
 マオの顔に憤怒の朱が散る。
 「言わせておけば調子のりやがって、くそったれ親殺しの分際で!!」 
 全身に怒気を漲らせたマオが激しく身を捩り反撃に転じる。
 胸ぐらを掴んだ僕の手が激しく打ち払われた次の瞬間、鳩尾に衝撃が食い込む。蹴られたと知覚するより早く均衡を失い体が屑折れる。
 一瞬にして立場が逆転した。
 床に突っ伏した拍子に眼鏡がずり落ちて視界が曇る。
 顔に手をやり眼鏡の位置を直そうとして、その隙を与えずマオに胸ぐら掴まれ強引に立たされる。
 「あんちゃんがいなくたって俺ひとりで犯ってやるさ、ああ犯ってやるさ、あんちゃんの命令がなくたって剥いて突っ込んで出すだけじゃねーかンなの簡単だよ俺にだってできるよできる……」
 爛々と目を血走らせたマオが自分に言い聞かせるようにブツブツ呟き僕の体に手を這わせる。
 不快な感触に顔を顰める。
 衣擦れの音も粗雑に、体の輪郭に沿って上下する手がズボンにかかり一気に引き摺り下ろそうとする。
 壁際に追い詰められた僕は、不思議と冷静にマオを眺めていた。
 これからマオに犯されるという恐怖はなく、安易に煽られて兄への対抗心を燃やすマオを憐れみ蔑む気持ちのほうがよほど強かった。 
 「あんちゃんなんかいなくたって俺は立派に女を犯せるしお前を犯せる、残虐兄弟は二人セットの強姦魔で弟はただのオマケなんてそんなこたァねえ、俺だって犯やろうとおもえば……」
 マオの顔が卑屈に歪み、泣き笑いに似た複雑な表情が過ぎる。
 崩壊寸前の笑みを危うい均衡で保ちながら、性急に僕のズボンを脱がしにかかる。
 外気にふれた太股が粟立つ。
 ズボンと下着を脱がされてもまだ僕は落ち着いていた。対照的にマオは追い詰められていた。
 焦燥と不安に駆り立てられ、みっともなく震える手で僕の膝を割り、挿入の準備を整える……
 「ひぅぐっ、」
 喉の奥で嗚咽が泡立つ。
 今しも僕に挿入しようとしたマオが、腰砕けにその場にしゃがみこむ。
 太股からはたりと手がおちる。
 トランクスを膝まで下ろした格好で床に座り込んだマオが、頬に滂沱と涙を伝わせて首を振る。
 「なんで?なんで肝心な時に勃たねェんだよお……」
 マオの足の間、外気に晒された性器はすっかり萎縮していた。僕の挑発に応じてトランクスまで脱いだのに結局挿入に至らなかったのが悔しいのか、マオは両手で股間を覆ってさめざめと泣き崩れる。
 ひとつため息を吐き、ズボンと下着を拾う。
 ズボンと下着を元通り身に付けた僕は、下半身を露出したまま茫然自失の体で座り込むマオを冷ややかに見る。
 「性的不能の強姦魔か。実に貴重な症例だ」
 これ以上マオに関わって時間を潰すのは馬鹿らしいと結論、哀れっぽくしゃくりあげるマオをその場に置き去りにして廊下に出る。
 否、廊下に出ようとして愕然と立ち止まる。
 「……………っ」
 廊下の向こうから配下を引き連れ歩いてくる人物を見て、心臓が跳ねる。
 コンクリ剥き出しの殺風景な廊下を、その一行は不吉な気配を撒き散らし行進してくる。
 先頭を歩くのはオッドアイの男。
 銀の右目と金の左目。人ならざる金属の瞳を冷徹に輝かせた少年が、刻む靴音も高らかにこちらに近付いてくる。
 まずい。
 脳裏に警報が鳴り響く。
 危機を察して身を隠すより発見されるほうが早かった。
 「お前、親殺し!?」
 オッドアイの少年の右隣にいたのはマオと全く同じ顔をしたユエだ。こちらを見てあんぐり大口開けるさまマオに負けず劣らず間抜けっぽい。僕の姿を捉えた瞬間、オッドアイを先頭とする少年たちのあいだに殺気めいて刺々しい気配が張り詰める。
 「……何しにきたんだ?」
 緊張を押し隠し、声を潜めて聞く。
 「残虐兄弟の片割れをさがしにきた。兄が騒ぐから仕方なく」
 オッドアイの少年こと道了がユエを顎で示す。ユエはといえば、至る所の路地を覗き込んでは「マオーどこだーあんちゃんが迎えにきたぞー」と声を張り上げている。路地の入り口で道了と対峙した僕は、その油断ならぬ眼光に気圧されて無意識にあとじさる。
 「あんぢゃん……」 
 路地の奥から声が漏れる。
 脱皮しかけの蛇の如くズボンを膝に絡ませたマオがずるずる廊下に這い出す。
 僕の足元をすりぬけ赤ん坊のように廊下に這い出したマオを見るなり、不安に翳ったユエの顔がぱっと輝く。 
 「さがしたぞ弟よ!あんちゃんをあまり心配させるな、迷子になったかと心配して捜しまわったじゃないか」 
 ユエは感極まり弟を抱擁するも、マオは兄の腕の中で腑抜けた表情を晒し抜け殻と化している。
 いまだ放心状態でズボンを上げる気力もない弟をいぶかしみ、すぐそばの僕が犯人ではないかと邪推し、ユエが怒りを露わにする。
 「てめェ親殺し、俺の可愛い弟になにしやがった!?なんでマオがズボンと下着脱いでるんだから納得いくよう説明してもらおうじゃんか。巷に悪名高い残虐兄弟の弟を逆レイプなんざふざけた真似しやがって、可愛い可愛い弟をキズモノにされた借りは百兆倍にして返してやるっ」
 「被害者は僕だ」
 甚大な徒労を感じながら弁解する。
 大体僕はマオに欲情するほど悪趣味じゃない、自己の価値観に当てはめ他者を推し量るのはよしてくれ。 
 そう弁解を続けようとして、道了の様子がおかしいのに気付く。
 無感動に醒めた目で僕らのやりとりを眺める道了。
 至極つまならそうに、蟻の交尾でも眺めるように、瞬きひとつせぬ不感症の無表情でもって。
 能面じみた無表情を保つ顔の中、酷薄に薄い唇がかすかに動き、平板な声を紡ぐ。
 「くだらない」
 死刑宣告にも似て容赦ない断罪の響き。
 道了が声を発した事によりその場の空気が一変する。
 道了の後に続く少年たちは恐怖に身を強張らせ、ひしとマオを抱擁し感動の再会にひたるユエもまた漂白したように表情を失う。
 全員の視線が道了に集中する。
 「茶番だ」
 廊下の真ん中に立った道了が、再び機械的に歩き出す。
 寒々しい廊下に硬質な靴音が響く。
 蛍光灯が不規則に点滅する中、真ん中を歩くのが生まれ持った権利とばかりに一定の調子で足を繰り出しながら、口角の下がり具合から目尻の吊り具合まで左右対称の顔に何とも形容しがたい表情を湛えてみせる。
 金と銀の目が殺伐と光り、唇がかすかに捲れる。
 「命令だ。俺を楽しませろ」
 内在する歪みそのものが表出する笑み。   
 道了がおもむろに上着の裾をめくり、何かをとりだす。何だ?
 手元に目を凝らす。道了が至って無造作に腕を一閃、ユエとマオの近くの床に「それ」を投げる。
 甲高く澄んだ音を奏で、「それ」が床で跳ねる。
 改めて「それ」に目をやり、背中を冷や汗が伝う。
 それは一振りのナイフだった。
 マオとユエ、どちらからも等分の距離に在る刃渡り20センチほどのナイフ。
 ぎらつく光を放つナイフを見詰め、マオとユエが同時に息を呑む。
 「……何の真似っすか、道了さん。そいつで親殺しを刺せと?彫刻刀の代わりに銘を刻めって?」
 弟を庇うように抱いたユエが虚勢を張り軽口を叩くも、道了の表情は微動しない。
 ユエとマオのすぐ近くにいる僕もまた、床に転がるナイフから目が放せなかった。
 随分と使い込まれたナイフだ。
 銀の鋭利さと金の硬質さを併せ持ち、芯から冷たく鍛え上げた道了自身によく似た凶器。
 あるいは狂気の具現。
 至近距離に放り出されたナイフがいつ翻り僕を標的にするかわからず警戒するも、不気味な沈黙を守る道了と残虐兄弟を見比べ違和感が疼く。
 抱き合い蹲る残虐兄弟に顔を向け、道了が命令を発する。
 「刺せ」
 やはり。
 予想していたとはいえ衝撃は強い。
 道了は残虐兄弟に命じ僕を刺すつもりだ。
 理由はない。否、あってもなくても同じだ。
 道了にとってこれはただの遊戯、生死を賭した遊戯なのだから。
 感情の凍結した声で命令を下した道了はしかし僕を振り向きもせず、催眠術をかけるように残虐兄弟を凝視する。
 変だ。
 何かが変だ。
 僕が今まさに感じているのと同じ疑問を抱いたらしく、マオとユエが不安げに顔を見合わせ戦々恐々道了を仰ぐ。
 二人の視線を受け、道了の人さし指がスッと虚空を滑る。
 銃口を定めるように人さし指をマオに定め、言葉を継ぎ足す。

 「お前が」
 人さし指がスイと動き、マオを庇うように抱きしめるユエへと移る。
 「お前を」
 驚愕するユエとマオ、その顔が恐怖に青褪めるのを待たず淡々と告げる。
 「刺せ」
 
 マオにユエを刺し殺せと、道了はいともあっけなく命じた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050329212732 | 編集

 「だれや」
 本棚の裏から誰何の声が飛ぶ。隠者は落ち着き払って名乗る。
 「我輩です。ホセです」
 「証拠は?」
 「証拠といわれましても。声で判断していただくしか」
 「信用できん」
 困惑するホセに声の主は無茶な要求をつきつける。
 「ホンマのホンマにホセやったらジョジョの奇妙な冒険の歴代主人公順番に言うてみい」
 山に川と答える安直さとは対極の合言葉。
 あまりにマニアックな注文にも、眼鏡の弦に手をやったホセは淀みなく答える。
 「第一部ジョナサン・ジョースター、第二部ジョセフ・ジョースター、第三部空条承太郎、第四部東方仗助、第五部ジョルノ・ジョバァーナ、第六部空条徐倫。すべての因縁の発端となる外伝ともとれる第七部の主人公は下半身不随の元騎手・ジョニィ・ジョースターですね」
 「正解」
 感嘆の口笛。
 口笛を合図に鈍重な動きで書架が滑り始める。
 よく見れば足元の床にはレールが敷かれていて、巨大な書架が錆びた軋み音を上げながらそのレール上を滑っていく。
 濛々と埃を舞い上げ洞窟の入り口が暴かれる。
 人ひとり通れるだけの幅の入り口の奥は闇に沈んで見通しが利かない。
 怪物の口腔にも似た闇が蟠る通路へと、ホセは怖じたふうもなく一歩を踏み出す。
 背後で再び入り口が閉じ始める。
 光が消失する。闇に呑まれる。物珍しげにあたりを見回し、ホセは感想を述べる。
 「なかなか快適な隠れ家ですね」
 「お褒め頂き光栄やな」
 横幅3メートルもない通路。左右には切り立った崖の如く垂直に書架が聳える。閉所恐怖症もしくは暗所恐怖症なら耐え難い環境だ。幸いホセにはどちらの傾向もなく、この世でおそれるものはただひとつときている。
 「カルメンの抱擁で窒息するならともかく、本棚で圧死はご遠慮したいですね」
 一際濃く闇が凝ったそこは、前後左右を完全に書架に閉じられた行き止まりだった。
 行き止まりの書架に背中を凭せ、片膝立て蹲っていたのは、額にゴーグルをかけた少年。
 針のようにツンツンに立たせた髪、どうにも憎めぬ稚気が閃く吊り目がちの目、精悍な顔立ち。
 通路の奥にうずくまっていた少年が、ホセを仰いで人懐こく笑う。
 「待っとったで、隠者」
 「お待たせしましたね、道化」
 笑うと尖った犬歯が覗き、やんちゃな悪ガキめいた印象が強くなる。
 初見でこの少年の本性を見抜くのは難しい。
 くしゃっと顔を崩して笑うさまは人を疑うことを知らず無防備だが、それこそこの少年が数多持つ一面に過ぎない。
 道化は仮面を代え巧みに配役を演じ分ける。今この瞬間も少年が本心から笑っているか疑問が残る。
 ……否、勘ぐりすぎか。
 ホセは我知らず苦笑する。
 自分はともかくヨンイルに策略は似合わない。
 ヨンイルの掴み所なさは計算尽くの演技ではなく気まぐれに拠るものだと結論、行儀悪く片膝立て本を読み耽るヨンイルに訊ねる。
 「何を読んでらっしゃるので?」
 「内緒」
 ホセの質問を機に本を閉じ、尻をはたいて立ち上がる。
 書庫の奥にて隠者と道化が対峙する。
 ヨンイルは本棚を背にし、ホセはその正面を塞ぐ。
 ホセが放つ威圧感にもヨンイルは動じず、同じく食えない笑みを返す。
 「ここなら他に人目もないし安全安心や。聞きたいことずばっと聞けるやろ」
 「参りましたね。なんでもお見通しですか」
 ホセがわざとらしく頭を掻く。
 「ヨンイル君に内密の話があると言われた時は不審におもいましたが、あの時点ですでに我輩の考えを見抜いていたのですね。いやはや炯眼です。龍の眼力は伊達じゃない」
 「先手必勝。敵に塩を送るって諺にもあるやろ」
 立てた片膝に腕を乗せ、おもむろに身を乗り出す。
 静かな気迫を込めた目でホセを睨み、単刀直入に切り出す。
 「まだるっこしい腹の探り合いは性にあわん。ホセ、お前の目的は何や?お前が兵隊使って俺の身辺さぐっとるのはとっくに気付いとった。西の連中やって阿呆やない。西に紛れ込んだ南のスパイにはちぃとばかしきっつい灸を据えさせてもろたで」
 ヨンイルの笑顔が常ならぬ獰猛さを帯びる。
 細めた目の奥に闘志が燻る。
 道化の服の下には龍が棲み付いている。
 宿主の怒りに呼応し気炎を吐く龍を幻視し、やんわりとホセが宥める。
 「そんなにぴりぴりしないで。獲って食いやしませんよ」   
 「逆に獲って食いたい気分や」
 「龍に消化されるのはぞっとしませんね」
 「お前の肉は筋張っとってまずそうやな。指輪は吐き出したるさかい安心せえ」
 ホセの左手の指輪に一瞥なげ、ヨンイルが不敵に笑む。
 二人の間に殺気が交流する。
 ヨンイルがホセを警戒するのは当然だ。
 この一週間というもの、ホセは人知れず西棟に刺客を送り続けていた。
 道化の身辺を探らせ道化の所持する「ある物」の情報を集めるため刺客を放った目論見はしかし勘の鋭いヨンイルに見破られ、道化じきじきの申し出で本日の会談が行なわれることになったのだ。
 迂遠な腹の探りあいは性に合わない。直接対決で腹の内を晒しあったほうが互いにすっきりする。
 ヨンイルの考えは大体そんなところだ。ホセはこの提案を快諾し、護衛も連れず単身呼び出しに応じた。
 ヨンイルは事前に伝えた通りの場所で待っていた。
 図書室の二階奥、襖を立てるように移動式書架を巡らした通路の行き止まりにひっそり潜伏していた。
 招きに応じて指定の場所に堂々赴いたホセは、何ら疚しいところはないといったふうに落ち着き払っている。
 視線がぶつかる。火花が散る。不可視の龍がうねるが如く龍がさざめく。殺気が膨張し衝突し相殺する。
 仮面じみた笑みを貼り付けたホセの正面、片膝立て座り込むヨンイルが一層笑みを広げる。
 最前までの人懐こさを吹き消した、脅迫の笑顔。
 「あんま舐めた真似しくさっとるとヤキ入れるで、ホセ」
 口元は笑っているが目は真剣極まりない。
 口調こそやんわりと言ったが、声の底に潜む怒りの気配は偽りようがない。
 釘をさされたホセはといえば、反省の色もなく嘆かわしげに首を振ってみせる。
 「とんでもない。西と事を構えるつもりは毛頭ありません。現在の平和を乱すのは我輩とて心苦しい」
 「じゃあなんで俺のまわりをさぐっとるんや?」
 さも心外とばかり大袈裟に首を振るホセを睨み付け、ヨンイルが静かに問う。もっとも、聞くまでもなく心当たりはある。ヨンイルのまわりを南のスパイが嗅ぎまわりだしたのは一週間前、ヨンイルとレイジが所長室に呼び出され東棟で暴動が起こったあの日以降だ。
 一週間前自分の身に起きた出来事を回想し、ヨンイルは露骨に顔を顰める。
 「ホセ、お前いったい何を企んどる?」
 「企んでるとは人聞きの悪い、誠実が服を着て歩いてる我輩にむかって」
 「お前の目当ては俺の拾い物やろ」
 ホセの軽口を遮りヨンイルが断言する。ホセが口を噤む。沈黙は肯定の証。確信を強めたヨンイルは勢いを得て続ける。
 「一週間前、俺はバスジャックの件で所長に呼び出しを食った。安田のジープに乗り込んだレイジも一緒に。あん時は正直びびったで、ホンマ。犬を掘り掘られる変態と名高い所長に呼び出されたんや、どないなあくどい仕打ちが待ってるか思うて心底びびりまくったわ。せやけど事態は俺の予想に反した方向に転がってった」
 淡々と語りながら本のページをめくる。ホセは黙っている。一言一句逃すものかと真剣な顔つきと非常な集中力でもってヨンイルの語りを静聴している。ヨンイルは本のページをめくりながら一週間前の出来事を回想する。
 視聴覚ホールでの集会後、レイジとともに所長に呼び出された。
 所長は規則を破ったレイジとヨンイルに厳罰を下すと高らかに宣言し、自らそれを実践しようとした。 
 ヨンイルは思い出す、収監時の顔見せ以降はじめて足を踏み入れた所長室の様子を。
 至る所に愛犬ハルの写真が飾られた落ち着かない内装。
 対面式に配置された豪奢なソファーと艶光りする本棚、鏡のような光沢を放つ床。
 部屋のいちばん奥には書類に埋もれた重厚な机があり、革張りの椅子に所長が腰掛けていた。
 いやみたらしく足を組んだ所長が、爬虫類じみて陰湿な目で自分とレイジとを執拗に見比べる。
 そして、おもむろに口を開く。
 「『脱げ』て命じられたときは貞操の危機を感じたで」
 あの時は確かに肝を冷やした。
 開口一番所長は「服を脱げ」と命令した。レイジと並び立ったヨンイルは命令に抵抗を感じ大いにうろたえた。
 「服を脱ぐのは別にええ。全裸をさらすのも別にええ、慣れとるしな。せやけどその先はお断り。何が哀しゅうて犬に掘り掘られるのが趣味の変態中年にべたべたさわられなあかんねん、気色わるうてかなわんわ。レイジは慣れとるらしくてしれっとしてたけど俺はあかんわ、もう全身にさぶいぼでたわ。もっかいどころかなんべんでも言うけど三次元はお断りなんや、二次元にしか勃たへんのがオタクのプライドなんや。ピノコやラムちゃんやキューティハニーやうさぎちゃんにべたべたされるのは大歓迎やしハーレム万歳最高やけどむりくり二次元に当てはめるとしたら碇ゲンドウとかそのへんの所長にヤらしいことされるなんてぜったい耐えられへん、全裸の綾波が押し寄せてくるなら喜んで溶かされるけどゲンドウはあかんありえへん、そない人類補完計画ぜったい認めん!!」
 上着越しに鳥肌立った二の腕を抱き、ちぎれんばかりに首を振る。
 「人類補完計画はいいですから現在進行中の話を補完させてください」
 ヨンイルは二の腕をさすりながら話を続ける。
 「俺がどうしたかて?そりゃ脱いだで嫌々渋々仕方なく、ごっつ嫌やったけど仕方ないやんか、俺が逆らったせいでやっぱ直ちゃん連れてくるとかになったら悔やんでも悔やみきれんし、んならさっさと済ませてきっぱり忘れてもうたほうがなんぼかマシやろ。な?」
 「君の覚悟には頭が下がります」
 ホセが実際に頭を下げる。
 大きく深呼吸し冷静さを吸い込み、湧き上がる嫌悪を必死に抑えながらヨンイルは捲くし立てる。
 「俺は一気に服を脱いだ。ええいもうどうにでもなりさらせて気分やった。全裸になるぐらいどうってことないっちゅーねん、五十嵐にはもっとすごいことされとるしな。五万人に視姦された体やしな。せやけど不測の事態が起きた。俺がズボンに手をかけパンツと一緒に引き摺り下ろした時、尻ポケットに突っ込んどったもんがおっこちたんや。ポロッて」
 一呼吸おき、真剣な顔でホセと向き合う。
 「それ見て所長の目の色が変わった」
 「『それ』はどこで手に入れたんですか?」
 「バスを盗んで砂漠に出た時、より詳しゅう言うならバスがひっくりかえって運転席から投げ出された時。実を言うとな、俺が事故ったんはレイジに弾撃ち込まれたのだけが理由やないんやで」
 ヨンイルが自分の目を指さし唾飛ばし訴える。
 「バスの前方におっこちとった何かがピカッと光ったんや。お天道様の光に反射したんや。弾丸が撃ち込まれる一秒二秒前やったかな……ほんのちょっとの差やったけど。反射の光がうわ眩しって手が滑って、続けざまに弾丸ぶちこまれて、気付いたら視界がぐるんて回っとった。凄まじい衝撃がきた。あ、こら死ぬかもて思た。意識が途切れた。次に目え覚めた時、フロントガラスは粉々に砕けとった。バスはものの見事に正面の砂漠に突っ込んどった。で、俺の顔の横にちょうどいいあんばいに『例のもん』が転がっとったわけや」
 「出来すぎた話ですね」
 「偶然はおそろしな」
 ヨンイルの語尾を受け取り、眼鏡のブリッジを中指で支えたホセが明晰に推論を組み立てる。
 「君はそれを持ち帰った。誰にも告げずこっそり自分の物にしてしまった。しかしそれを見た所長はおおいにうろたえた。君が何も知らず持ち帰った物は所長の探し物の手がかりとなる、野望の布石かつ推測の確証となる。ヨンイル君、君がバスで走り抜けたところはイエローワークの管轄区域外に該当する。遠征手段のない囚人はもとより看守すら立ち入ることない禁足の辺境です」
 「残り時間はぜんぶ俺の尋問に費やされた。なんでお前がこれをもってるどこで拾った近くに人影はなかったかどうなんだ答えろ……物凄い剣幕やった。俺の肩を掴んで力任せに揺さぶって興奮のあまり殴る蹴る、看守に言うてバケツ一杯に水もってこさせて頭からぶっかける、革靴で踏み付ける、鞭でしばく……おかげで一週間たってもまだ傷が疼く」
 服の上から腕をさすり痛そうに顔を顰める。
 直がヨンイルは無傷だと誤解したのは、どぎつい色の刺青が擦り傷を塗り込めていたからだ。
 ヨンイル自身もまた直を心配させるのいやさに虚勢を張り、怪我を気取られないよう飄々と振る舞っていた。
 「怪我を押してまでお友達のピンチに駆け付けるとは感心感心」
 「直ちゃんが危険な目に遭うとるのに放っておけん。……サムライばっかええかっこさせるのも癪やし」
 嘲りを滲ませたホセの揶揄に噛み付くように抗弁し、不満げに唇を尖らせる。
 直が危機にあると知った途端、体が勝手に動いていた。
 足が勝手に走り出していた。
 全身を苛む傷の痛みにも増して焦燥に駆り立てられた。
 何故かは自分でもわからない。わからないことにしておく。
 やや強引に物思いを打ち切り、ゴーグルに触れ気を取り直す。
 「話は結局うやむやになってもた。ハルの死骸が見つかってからちゅーもの所長は完璧廃人化、一週間ぶっとおしでカウンセラーの世話になりっぱでとてもやないけど尋問どころやない。そんかしホセ、お前の息のかかった連中が動きだしよった。俺のまわりをこそこそ嗅ぎ回って隙あらば『拾い物』横取りしようとしとる。あたりやろ?」
 挑発的な問いには応えず、ホセは感心した口ぶりで呟く。
 「……よくもまあ所長から『例の物』を取り返せましたね」 
 「暴動発生の報せが入ってごたごたしとったんや。可愛いハルの身に万一のことがあったんやないかて所長は泡噴いて取り乱すし看守どもは所長取り押さえるのにいっぱいいっぱいやし、どさくさまぎれに取り返したったんや。ま、さんざんいたぶられて頭にきとったさかいちょっとした仕返しや」
 頭の後ろで手を組んだヨンイルがあっけらかんと笑い飛ばす。
 閉塞した通路に場違いに陽気な笑いが弾ける。
 笑いの余韻が消滅するのを待ちホセが慎重に足を踏み出し、ヨンイルとの距離を詰める。
 一歩距離が縮むごとに威圧感が増大する。
 牛乳瓶底眼鏡の分厚いレンズを不気味に光らせ、真意を読ませぬ無表情を装い、自分より遥かに体格に恵まれた男が接近してくる。
 一歩一歩確実に距離を詰めてくるホセを迎え撃ち、ヨンイルが口を開く。
 「いい加減吐きさらせ。お前も狙っとるんやろ、『あれ』を」
 「本日我輩をここに呼んだのは、『例の物』を渡してくださるからだと思っていましたが」
 「『例の物』がなにか知っとるんか?」
 ホセの表情が微妙に強張る。
 靴音が止む。静寂の帳が落ちる。
 ヨンイルは心底不思議そうな顔をする。
 「わからんなあ。お前も所長も何でそないあれを欲しがるんや?あれを手に入れてどないする気や」
 「ヨンイル君、君が持ってるそれはことによると地下迷宮の鍵となる貴重なアイテムかもしれないのですよ。君が持っていても何の役に立たないが我輩が持てばおおいに役立つ、ならばそれは我輩が手にするべきだ。大人しくこちらに渡してくれれば以後君のまわりを嗅ぎまわらないと誓います」
 穏やかだか有無を言わせぬ口調でホセが強要する。
 一旦停止した歩みが再開され、1メートルと離れてない場所までホセが来る。
 「断ったら?」
 「なに?」
 「渡さん言うたらどないする?」
 ヨンイルが犬歯を剥く。ホセはにこやかに切り返す。
 「ご冗談を。大人になりましょうヨンイルくん。例の物さえ渡してくれれば君にも西棟にも手出しはしません。これは取り引きです」
 「なあホセ、ジャイアンて知っとるか。ドラえもんて漫画にでてくる音痴なガキ大将なんやけど、そいつが実にええこと言うんや。日本漫画史上に残る名台詞ってやつや。一回しか言わんから耳の穴かっぽじてよぉ聞けよ」
 胸が接する距離に居るホセを見上げ、すぅと肺に息をためる。
 体格では遥かに劣るホセを相手に微塵もたじろがず一歩も引かず、身の内に龍を飼う少年は朗々と宣言する。
 「『俺の物は俺の物、お前の物は俺の物』」
 衝撃が、来た。
 胸ぐらを掴まれた体が一瞬浮き、次の瞬間には凄まじい衝撃が背中に突き上げ拡散する。
 胸ぐら掴まれ背中から書架に叩き付けられたヨンイルは内蔵を攪拌する衝撃に激しく咳き込む。
 ヨンイルの胸ぐらをねじ切るように締め上げるホセはもはや上辺だけの笑みなど浮かべていない。完全な無表情だ。
 「……我輩の親切がおわかりになりませんかヨンイル君。非常に残念です。西のトップともあろうものがつまらない我を張り南との関係を悪化させるとは、道化を慕う囚人たちがさぞかし嘆くでしょうね」
 「自分が納得できんことに首振るほど物分りようないんや。頑固はじっちゃん譲りでな」
 窒息の苦しみに喘ぎながらヨンイルが反論する。
 腕の筋肉が怒りに隆起し、胸ぐら締める手に力が篭もる。
 ホセは素手で人を殺すことができる。
 道化の命は隠者に握られたも同然だ。
 息の通り道を塞がれる苦痛に顔を歪め酸素を欲し四肢をばたつかせるヨンイル、無駄な抵抗を嘲笑うよう吊り上げたその体に隅々まで視線を走らせる。必死に暴れたせいであられもなく裾が捲れ引き締まった腹筋と臍が覗き、全身に巻き付く龍の刺青の一部が外気に晒される。
 「っ、く、は……あっ」
 ヨンイルの顔が充血の赤を通り越し青褪めてくる。
 ホセのこぶしに爪を立てこじ開けようとあがくも指に力が入らず皮膚を浅く抉るにとどまる。
 背を弓なりに仰け反らせたヨンイルにのしかかり、熱い吐息で顔面をなぶる。
 「君が今ここにいることは誰も知らない。したがって誰も助けにこない、目撃者はいない。喉を絞められては声も出せず助けも呼べない」
 ヨンイルが激しく首振りホセの拳に縋り付く。激しく暴れたせいで襟刳りが肩から外れ鎖骨が露出する。
 健康的に日焼けした肌に絡み付く龍がいやに艶めかしい。
 ヨンイルが身を捩るごとに龍もまた呼応し蛇腹を波打たせる。
 薄っすらと涙の膜が張った双眸、酸素を欲して喘ぐ唇、ひくつく喉仏。
 苦しみもがくヨンイルを冷徹に観察しつつ、抑揚を欠いた脅迫を紡ぐ。
 「死にたいですか、ヨンイル君。我輩ならこんな所で死ぬのはごめんですね。死ぬならワイフの胸の中か膝の上に限ります」
 「は、なさんかいホセ……洒落にならんでこんなんっ……はっ、あふ、あっ、あ」
 額に夥しい脂汗が滲む。
 見開いた眦から涙が溢れる。
 乱れた襟刳りと裾から日焼けした肌が覗き、瀕死の龍がのたうつ。
 よく見れば服をはだけたそこかしこに治りきらない傷痕がある。
 一週間前、所長と所長に命令された看守により施された体罰のあと。
 片手でヨンイルの首を締め上げ、もう一方の手を瘡蓋の張った傷痕に這わせ、軽く爪を立てる。
 「!痛っ、」
 ヨンイルが小さく呻く。
 爪先で圧力を加えればぷちんと弾ける感触と音がし、瘡蓋が剥がれて血の玉が盛り上がる。
 瘡蓋を剥がし傷口を抉れば新しい血が流れる。
 しなやかに引き締まった腹筋を一筋血が伝うさまが劣情を刺激する。
 傷口から溢れた血を手にとり指で伸ばす。
 腹筋に血の道筋が引かれる。
 こうすると龍の鱗が剥がれて血を滴らせているようだ。 
 せめてもの抵抗に勢い良く足を蹴り上げるも、脛を強打されてもびくともしないホセを前に、足の振り幅が次第に狭まっていく。
 「まわりを見回してご覧なさい。君は実に愚かだ。愚かとしか言いようがない。自らを戦闘に不利な状況に追い込んだ愚を呪いなさい。自ら能力を封じる空間に逃げ込んだ無知を恥じなさい。周囲を書架に塞がれた狭苦しい通路では得意の体術が生かせず反撃の術もない、よって我輩に思うがまま嬲り殺される運命です。さあ、どうします?」
 何度となく蹴り上げた足が虚しく空を蹴る。抵抗が急速に弱まっていく。
 ホセは冷静そのものの無表情でヨンイルの苦悶を眺める。
 首に回した指にじわりと力を込める。
 指が沈み気道を圧迫する。
 ヨンイルの体が陸揚げされた魚のように不規則に痙攣、弓なりに背が仰け反る。
 背後は書架、正面にはホセ。逃げ場はない。背中は本棚に密着し胸はホセと密着している。
 ホセはヨンイルの蹴りを足を割るように膝をめりこますことで封じる。
 ホセの膝が内腿を擦り股間にあたる。ヨンイルが仰け反るたび体が上下し膝に震えが伝わる。
 「あっ、ふ、ひぐぃぎ……っ」
 書架とホセとに挟み撃ちにされ逃げ場のないヨンイルは、どうにかホセの手をこじ開けようと無心に引っ掻いていたが、その抵抗が無駄だと知るや湿った目でホセを仰ぎ何かを伝えようとする。
 ヨンイルが何を伝えようとしているのか気になり、少しだけ握力を緩め口元に耳を近づける。
 ひどく掠れて聞き取りづらい声が荒い息の狭間から吐き出される。
 「ワイフの浮気相手もこうやって殺したんか?」
 ヨンイルは確かにそう言った。
 脂汗の浮いた顔に闘志を剥き出した凄絶な笑みを浮かべ、ホセを挑発した。
 ホセの手から力が抜ける。その一瞬を見計らいヨンイルの手が上に伸びる。
 「!!?っ、」
 頭上に大量の本が雪崩落ちる。
 本の雪崩に直撃されたホセが堪らず床に伏せる。
 濛々と立つ埃が視界を白く閉ざす。
 大量の本に埋もれたホセが漸く這い出した時、ヨンイルは書架に背中を預けずり落ちていた。首まわりには赤黒く内出血のあとが残っている。
 首を押さえ体を折り苦しげに咳き込みながら、ヨンイルが笑う。
 「はっ、はっ、は………ははっ、落本注意や」
 力なくへたりこんだヨンイルが上を指さす。
 つられて頭上を仰いだホセは、ちょうどヨンイルの真上にあたる書架の段に、斜めに傾いだ本が並んでいたのに気付く。
 隣に寄りかかることで危うい均衡を維持していた大量の本が、ヨンイルが半ばの一冊を抜いた事により脆くも崩落したのだ。
 「ドミノ倒しや。俺が何も仕掛けんとお前と二人きりになるて思うたか?」
 首まわりの痛々しい痣をさすりながらの言葉に、さすがのホセも降参したと肩を竦めるしかない。
 「そないに欲しいんか、アレが」
 レンズに付着した埃を拭いながらあっさりとホセが頷く。
 「ええ、欲しいですとも」
 「なあ、ずっと聞きたかったんやけど」
 漸く咳がおさまった。
 まだ痛む喉をさすりながら、痺れた舌を叱咤して疑問を紡ぐ。
 「お前の野望ってなんや?お前、東京プリズンで一体何をしようとしとるんや」
 レンズを綺麗に拭い眼鏡をかける。
 改めてヨンイルに向き直り、優雅に腕を掲げて左手薬指の指輪に唇を落とす。
 軽く触れるだけの接吻。
 表面の疵さえ愛しむように繊細に唇を這わせ、呟く。
 「革命ですよ」
 ヨンイルが眉根を寄せる。
 怪訝な表情で更に突っ込もうとしたヨンイルが言葉を発するのを待たず、ホセは優雅に身を翻す。
 そのまま数歩歩き、一身に脚光を浴びた舞台俳優の如く芝居がかった素振りで腕を広げてみせる。
 最愛の妻の幻影を抱くように腕を広げたホセは、唖然と座り込んだヨンイルに背中を見せ、大きく頷く。
 「よろしい、了解しました。君がその気なら我輩も容赦しません。これからも西にスパイを送り二十四時間監視し続けるからそのつもりで。君が寝ぼけて毛布をはだける時も全裸となりシャワーを浴びる時も漫画を読みながら自慰にふけるときも我輩が常にそばにいることをお忘れなく。自慢じゃありませんが我輩ストーキングは得意です。必ずや『鍵』の在り処を突き止めカルメンに捧ぐ革命を成し遂げましょう」
 腹の底から声を発し、朗々と謳い上げる。
 それきり二度と振り向かず、大股にその場を歩み去る。
 闇に溶けて姿が見えなくなった頃、漸く正気に戻ったヨンイルが書架に手をつき立ち上がる。
 「ちょい待てホセ、どうやって本棚どかすねん。俺がハンドル回さな入り口開かん……」
 盛大な破砕音。
 本棚が陥没する音、板が裂ける音、大量の本が床に落下する音。
 信じられないことにホセは素手で本棚に穴を穿ったらしく、裂けた板の隙間から幾条も光が射し込んでくる。
 光射す面積は大胆に板を剥がす音とともに急激に広がっていき、大して時間もかけず人ひとり悠に通れる穴が出現する。
 光の中にホセが立ち、こちらを振り返る。
 「失礼。出口がないので作らせていただきましたよ」
 「失礼すぎや先に言えや俺の隠れ家が隠れ家やのうなったやんけ、釘とトンカチ持たせてバカボンのパパスタイルで修繕させるで阿呆っ!!」
 半泣きで抗議するヨンイルに一礼し、ささくれた木片が飛び出す穴を跨ぎこす。
 ヨンイルはしばらく恨みがましい半眼でホセを見送っていたが、ホセの背中が完全に視界から消えると同時に長く息を吐き、床一面を埋め尽くす本を見下ろす。
 床を埋め尽くす大量の本に紛れ、辞書ほどの厚さのある本を拾い上げる。
 丁寧に埃を払いページをめくる。
 その本こそホセが現れた時よりヨンイルが持っていた本、前屈みに凝視していた本である。
 「拾い物を渡さへん理由?そんなん決まっとるやんか」  
 背後の書架に寄りかかりページをめくる。
 ホセに締め上げられた首はまだひりひり痛む。ホセの指跡は赤黒く内出血し、さっきより一層鮮明さを増している。首の痣をさらしたまま西棟へ帰れば自分の身を案じる連中に何があったのかと質問攻めにされるのはわかりきっている。
 腹筋もひりひりする。
 瘡蓋を剥がされた箇所が刻印のように熱く疼き、顔を顰める。
 「漫画でよくあるやろ?一回やってみたかったんや、これ」
 ページをめくる手がとまる。
 手元の本に目を落とし、ヨンイルがしてやったりとほくそえむ。
 その本はしかし他ならぬヨンイル自身の手によりごっそりページを刳り貫かれており、矩形に刳り貫かれたそのスペースにはプラスチックの機械が嵌まり込んでいた。
 用途はわからない。
 見た目は携帯に似ているがそれにしては嵩張るしボタンが少ない。
 「しっかしなんやろな、これ。見れば見るほどけったいななりしとる。AとBと十字と……乾電池で動くんならやっぱ機械やろな。どないして動かすんやろ。何かボタン押すんか?どれ押すんや?どっかにスイッチあるんか?スイッチ押したら画面に何や映るんか?オンオフて書いてある横のがスイッチか。ポチっとな」
 べたべたと指紋を付けながら逆さにし裏返しあちこち触れてみるも、肝心の電池が切れているらしく画面は点かず音もしない。
 手荒く上下に振ってみる。反応なし。どうやら完全に壊れているらしい。砂漠に落ちていたことを考えるに内部に砂が入って壊れたのかもしれない。
 機械の故障を直す知識は残念ながらヨンイルにはない。
 あるとすれば……
 「ビバビバビバリーか」
 凄腕ハッカーとして知られる東棟の黒人少年を脳裏に思い浮かべ、ヨンイルは近いうちに彼に会いに行く決心を固めた。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050328075520 | 編集

 「刺せ」
 暴君の傲岸さと死刑執行人の非情さを併せ持つ宣告が下される。
 道了は動かない。微動だにしない。
 廊下の中央に無防備に立ち尽くす様は一見隙だらけだが、その実隙などどこにもない。
 暴力を行使するまでもない。
 廊下の中央に悠然と佇む道了の姿は見るものを威圧する。
 道了はその暴威によって指一本動かすことなく他を制圧せしめる。
 庇護を求めて傘下に入る者をわざわざ追い払ったりしないが、それは道了が寛大だからではなく自分を取り巻くすべてに対し無慈悲で無関心だからだ。
 来る者拒まず去る者殺す。
 道了は退屈している。
 臣下に傅かれる日々に倦み果て血みどろの余興を望んでいる。
 道了は本気で残虐兄弟に殺し合いをさせるつもりだ。馬鹿げてる。狂ってる。マオにユエを刺せだと?血の繋がった兄弟に殺し合いをさせるだと?悪趣味極まる。吐き気がする。発想が飛躍しすぎてついていけない。
 道了は他者への共感能力を著しく欠いている。だからこんな無意味で不条理な命令をくだせるのだ、無慈悲で理不尽な仕打ちができるのだ。人格障害だ。精神の病理だ。……落ち着け、鍵屋崎直。精神分析は後回しだ。今はそれより先にやるべきことがあるはずだ。冷静になれ、冷静に。
 強く手を握り込み、挫けそうな気力を叱咤して口を開く。
 「道了、君の脳には重大な欠陥がある」
 道了を挑発し注意を引こうという意図は正しく報われた。
 道了がゆっくりと視線を動かす。僕の上で視線が止まる。よし。緊張で汗ばむ手のひらを隠し、毅然と顎を引く。努めて平静を装い道了の視線を受け止める。跳ね返す。できるかぎり無表情を装い内面を塗り隠すも、内面の空白を余すところなく曝け出す道了のそれにはかなわない。
 道了は表情を消して僕を見る。
 金と銀の瞳が酷薄に光る。
 眼光の重圧に抗い、道了の人格的欠陥を指摘する。
 「君には他者への共感能力が欠如してる。社会不適合者の烙印をおされてしかるべし反社会性人格の持ち主だ。しっかりと目を開け。ユエとマオは君の仲間だ。今を遡ること一週間前、凱を裏切り君へと寝返った恥知らずの裏切り者だ。マオにユエを殺させて何の得がある?いかに君にカリスマ的求心力があるとはいえ、いまだ地盤が固まらず内外に火種の多い新興勢力にとって凱の腹心を務めた残虐兄弟は貴重な戦力のはずだ。違うか?」
 道了はじっと僕の言葉に耳を傾けている。
 何を考えているのか窺い知れない不気味な沈黙。
 なぜ僕がユエとマオの助命を嘆願してるのか自分の行為に疑問を感じないこともないが、僕が制止せねばユエとマオが殺し合いを始めるのは不可避であり、武器を与えられたマオがユエを殺すという最悪の結末に至りかねない。道了が引き連れた囚人たちは不測の事態に思考が追いつかず固まっている。
 そもそも道了の独裁で成り立つグループだ。
 トップに面と向かって意見できる胆力の持ち主がいるはずない。
 道了の暴走を止められるのは僕だけだ。
 過去の件でユエとマオには反感を持っているが、二人が殺し合うところなど見たくない。
 最悪の事態を回避するため、最大限の努力を尽くす。
 それが天才の矜持だ。 
 「考え直せ、道了。貴重な戦力を自ら放棄するのはあまりに馬鹿げてる」
 マオが縋るような目でこちらを仰ぐ。ユエは困惑顔。なぜ僕が庇ってくれるのかと不審がってるらしい。
 床に転がったナイフから距離を保ち、その向こうの道了をひたと見据える。
 道了の表情がふいに歪む。
 「戦力じゃない。余力だ」
 あまりに不自然な顔筋の痙攣。顔筋の基本的操作を知らないといった欠陥品の微笑。
 「ナイフを手にとれ」
 畳み掛けるように命じる。マオが弱々しく首を振る。
 「できない」
 喘ぐように口を開き反駁する。
 マオは完全に恐慌をきたしていた。道了の命令に従わねば自分が殺される。道了の命令を聞けば兄を殺さねばならなくなる。二律違反の矛盾に苛まれ葛藤に苦しみ自分では結局決断できず、哀願するように僕と道了を振り仰ぐ。
 涙で潤んだ目に悲哀が宿る。
 死ぬのは嫌だ。殺すのも嫌だ。
 マオの首振りが加速し呼吸が荒くなり大量の汗が分泌される。
 「できない。あんちゃんを刺すなんてできない、だって俺のあんちゃんなんだ、ちっちゃい頃から俺の事守ってくれた大好きなあんちゃんなんだ。あんちゃんがいなくなったら生きてけない、ひとりぼっちで生きてけるはずがない」
 「刺せ」
 恐怖に震える声で必死に抗弁するマオを遮り、道了がとりつくしまもなく命じる。
 マオが慄く。
 苦渋の汗が滲んだ顔に焦燥を色濃く浮かべ、助けを求めて右へ左へ視線をさまよわせる。
 挙動不審な弟の隣ではユエが混乱の極みにあった。
 道了に抗議しようにも恐怖心が邪魔し、弟を宥めようにも何が引き金になるかわからず、棒を呑んだように硬直している。
 苦悩に引き裂かれたマオが惰性で首を振りながら懇願する。 
 「道了さんお願いだ、他のヤツにしてくれよ。そうだ、親殺し、親殺しにしてくれ。こいつなら殺せる、さくっと殺せる、問題なく殺せる。あんたの言う通り殺してやる。剥いて突っ込んで削って見てるあんたも楽しめるようにしてやるよ。な、親殺しで手を打ってくれよ。俺にあんちゃん殺させるなんてそれだけはやめてくれよ」
 嗚咽交じりの悲痛な声音。
 同情を引こうという打算もなく、ただただ兄と自分の身を守らんと哀訴を続ける。
 赤ん坊のようにたどたどしく床を這ったマオが道了の膝に縋り付く。
 恥も外聞もかなぐり捨て命乞いの醜態を晒し、ズボンの膝を皺くちゃに掻き毟り、聞き分けのない子供のように延々首を振り続ける。
 「あんたは知らないだろうけどコイツ前売春班にいたんだ、いい声で啼く売れっ子だったんだ。今ここでこいつを犯してやるよ、ナイフで刺して腸ひきずりだして手え縛って犯りまくってやるよ。道了さんあんたもきっと夢中になる最高の退屈凌ぎになる、あんちゃんの死体見るよか親殺しを皆で犯りまくったほうがずっとスカッとする。親殺しはあんたが大嫌いなロンのダチだ、親殺しが嬲り殺されたと死りゃロンがショックを受ける。な、いいだろ、名案だろ?生意気な半々に目に物見せてやろうぜ。そっちのほうが絶対いいって。てめえの親をぐさりと殺っちまうような鬼畜にゃ似合いの末路だ、だから……」
 口調が次第に早くなる。
 汗と涙に塗れて崩壊寸前の顔面に泣き笑いに似て卑屈な表情が貼り付く。
 ユエの身代わりに売り渡されても不思議と怒りは湧かなかった。
 握り潰した紙屑のように顔をぐしゃぐしゃにしたマオがただひたすら滑稽で哀れだった。
 貧困な語彙を駆使し拙い詭弁を弄し周囲の失笑を買ってもまだ諦めず、千切れんばかりに首を振り続けるマオ。
 容赦なく浴びせられる嘲笑と野次すら耳に入らぬのか、マオはひしと道了にしがみついて離れようとしない。
 道了は徹底した無反応。
 妥協を許さぬ目が威圧的にマオを見下ろす。
 瞬間、僕は見た。
 マオの顔が不自然に固まり目の奥に自我が遠のく。
 「!いけないっ、」
 思わず叫ぶ。
 手を伸ばし止めようとするも遅く、床を這ったマオがナイフをひったくる。
 「刺せ。殺せ」
 震える膝を叱咤し立ち上がったマオは、汗でぬめる手にナイフの柄を握り込み、爛々とぎらつく目で道了と兄と僕を順々に見比べる。逡巡。躊躇。膠着。精神的極限状態、究極の二者択一を迫られ絶体絶命の窮地に立たされたマオを淡々と容赦なく道了は追い詰める。
 「突け。抉れ。穿て。回せ。暴け」
 脳裏に呪詛が渦巻く。視界に血色の靄がかかり理性が剥離する。
 鋭利な刃の如く冷徹な命令が心を麻痺させる。
 「血迷うなマオ、ナイフを放せ!」
 漸く金縛りが解けたユエがバネ仕掛けのように跳ね起きる。ユエが膝を撓め床を蹴り跳躍、マオにとびかかる。力づくでナイフを奪おうと意図したらしい。ナイフを巡り激しく揉み合う兄弟。罵声と悲鳴が飛び交い逃げ惑う靴音が入り乱れ蛍光灯が揺れ動く。
 ユエもマオも必死だった。互いに必死にナイフを奪い合っていた。
 「貫け。断て。殺せ」
 ナイフを奪い合う兄弟のまわりを巡り道了が囁く。
 声に洗脳される。脳髄が痺れる。三半規管が酩酊する。
 突け、抉れ、穿て、回せ、暴け、貫け、断て、殺せ。
 無意味な単語の羅列が脳裏を無限に巡り円環を成す。
 言葉に意味が生まれる。言葉に呪力が付与される。
 マオとユエが激しく揉み合う。弟の手をこじ開けナイフを取り上げようとしたユエの顔面が引っ掻かれざくりと赤い線が走る。
 ぱっと血が飛び散る。
 弟の変貌に戸惑いながらも体を張って暴走を止めようと果敢にユエが挑む。
 「マオ、やめろ、正気に戻れ!わかったからナイフを放せ、なっ、話はあとで聞いてやるから……この世にふたりきりの兄弟だろ、今までだって二人で支え合ってきたじゃねーか、畜生なんでこんな事に……おいっ、見てねーで止めろよ誰か!」
 猛烈な勢いで攻め入る弟に苦戦し、劣勢のユエが助けを求める。
 が、誰も動かない。ユエの叫びに応えるものは一人もない。
 ユエを助けるのは道了への裏切りと同義だ。
 だから誰も手を出さない。道了の怒りにふれるのを恐れ残虐兄弟が殺し合うのを傍観するのみ。所詮は人形の王に率いられた木偶の軍隊、最初からユエとマオを仲間とは思ってないのだ。
 「あんちゃんの馬鹿!!」
 ナイフが風切る唸りを上げ宙を切る。
 蛍光灯の光を反射し刃がぎらつく。鍛えた銀の光が目を射る。
 残虐兄弟が体を捌きすれ違い駆け抜ける。
 天井が震動し蛍光灯が揺れ動く。
 明かりが消え暗闇に包まれ、唐突にまた点く。
 ブツ切りのフィルムのようにめまぐるしく光と闇が交錯する中、ナイフを上段に構えたマオが猛然と疾駆する。
 あわやというところで横に飛びのきナイフをかわすユエだが、体勢を立て直す間もなく次がくる。
 「俺のせいじゃない、俺が悪いんじゃない、全部あんちゃんが悪いんだ!あんちゃんの言う事聞いてりゃ間違いないって言ってたのにくそ、どうしてこうなるんだよ!俺は全部あんちゃんの言う通りにしたのに、あんちゃんが凱さん裏切るって言い出した時もほんとはやだったんだ、俺はずっと凱さんと一緒にいたかったんだ!凱さんは命の恩人で親父代わりで俺たち兄弟に饅頭分けてくれたのに、あんちゃんはあっさり凱さん切り捨てて、よりにもよってクソ台湾人なんかに乗り換えやがって……」
 ナイフが弧を描く。銀の残像が閃く。刃が掠めて服が裂ける。劣等感の塊と化したマオは今まで抑圧してきた鬱憤をここぞとばかりぶちまける。サーシャのように技巧を凝らした戦闘スタイルではなく洗練さのかけらもないが、それを補って余りある荒々しさに気圧される。
 打算も計算もなく突き上げる怒りに任せ、無軌道にナイフを振るうマオに鬼気迫るものを感じる。
 一閃二閃、一条二条と銀の軌跡が連鎖する。
 残像を薙ぎ払い鋭く呼気を吐き肉薄し猛攻で詰める。
 爛々と血走った目に憎悪が燃える。
 いつでも兄に庇われ守られ比較されることで己を卑下し続けてきたマオが、今初めて自分の意志を貫き通そうと行動に出る。
 抑圧に抑圧を重ね極限まで嵩んだ憤懣を爆発させ、血沸き肉踊る狂乱の渦に身を委ね、一直線に腕を突き出す。
 「俺はっ、あんちゃんのおまけじゃねえっ!!!」
 マオがマオとして産声を上げる。ユエが打たれたように目を見開く。
 愕然と立ち竦んだユエの胸めがけマオがナイフを突き立てるー…… 
 「やめろっっ!!」
 反射的に体が動く。ナイフを手に構え突撃するマオ、怒りに充血した顔に驚愕が走る。僕の叫びで理性が回復、自分が何をしようとしているか悟ったらしいが、遅い。間に合わない。ナイフが加速する。大気を突き破り迫り来るナイフの前に無防備に身を晒したユエ、その顔が悲痛に強張るー…
 やむをえない。
 苦渋の決断。急制動をかけ、間接が外れる限界ぎりぎりまで腕を伸ばす。
 ナイフと標的の中間、ちょうど心臓の位置に本を翳す。
 衝撃。
 渾身の力を込めた一突きが本を半ばまで貫通する。
 腕に震動が伝わる。
 マオとユエが目を剥く。
 「……本への冒涜だ」
 苦々しく吐き捨て、本に突き立つナイフを抜く。
 ナイフを光に翳しためつすがめつする。
 細身だが芯の通ったナイフ。マオの体温が伝染った柄は仄かに火照っていた。蛍光灯を反射して煌くナイフを道了の足元に投げ捨てる。
 甲高い音たてナイフが床を滑り、道了のつま先で止まる。 
 ナイフに刺し貫かれた本にはざっくりと傷口が穿たれていた。
 本の傷口に手を置き、さする。
 「……僕は今非常に怒っている。何故かわかるか?この低脳ども」
 理由は簡単だ。
 この僕が、鍵屋崎直が、ナイフの前に本を晒した。
 早急に去勢の処置を施すべき下品で下劣で粗暴な強姦魔の命を救うため人類の叡智の結晶たる本を盾に晒し傷を負わせた。ナイフは深々刺さっていて引き抜いても痕は癒えず表紙から半ばのページまでを貫通し変わり果てた姿に……
 許せない。
 裂けた本を抱え直し、眼鏡の位置を正す。
 呆気にとられて立ち尽くす一同を睥睨し、沸々と込み上げる怒りを抑え静かに口を開く。
 「器物損壊?いや、生ぬるい。これは傷害事件だ。出血がなくとも魂が傷つけば傷害罪が成立する。本には著者の思想と魂が宿る。本は人類の知的財産だ。活版印刷の祖グーテンベルクに謝れ。貴様らよくもこの僕にこの天才にこの鍵屋崎直にこんな真似をさせてくれたな。本を粗末に扱うなどもとより本意ではなかった、本は読むものであって殴るものでも投げるものでも食べるものでもない。読書とは知識人にのみ許された崇高な行為だ、本との対話を通し精神世界を豊かにするのだ、本とは人類が生み出した中でもっとも偉大な発明だ。わかったか、わかっているのか、わかっているんだろうな本の素晴らしさを?」
 今更ながら判断ミスを悔やむ。ユエなど放っておけばよかった。選択を誤り大事な本を傷付けてしまった。天才の不覚だ。一刻も早くこの場を去りたい。本を本とも思わぬ低脳どもには付き合いきれない。
 眼鏡のブリッジに触れ、腰が抜けたマオに一瞥くれる。
 「最後にひとつだけ言わせてもらう」
 マオの目に怯えた光が宿る。
 尻餅付いたままあとじさるマオを視線で追尾する。
 「軽蔑する。以上だ」
 マオが口を開き、また閉ざす。虚脱したマオに背を向ける。
 くだらない騒動に巻き込まれて時間を無駄にした。
 早く帰ろう、サムライが待っている。 
 「待て」
 背後から呼び止められる。心臓が跳ねる。立ち止まる。
 慎重に振り向く。道了がいた。いつのまにか背後に回っていた。
 本を抱く手に力が篭もる。冷や汗が背中を伝う。
 マオとユエが最前演じた乱闘をとるにたらない前座と片付け、廊下の薄暗がりに立った道了が声を投げる。
 「お前はロンの何だ」
 何と答えるべきか迷う。そもそも質問の意図が掴めない。道了はロンに拘泥している。無関心無表情が基本の道了がロンに関わる事だけには唯一生身の感情を覗かせる。決して逃がさないと腕を掴み僕に詰め寄るさまには嫉妬と好奇心が入り混じった異常な執着が窺える。
 不用意な受け答えで道了を刺激するのはまずい。
 今ここにサムライはいない。自分の身は自分で守らねば。
 探るように道了を見返す。道了はまったく動じず視線を受ける。
 僕はロンの何だ?
 道了と対峙し自問する。自分の内側に答えを探る。ロンの顔が思い浮かぶ。喜怒哀楽が激しく表情豊かな少年。活発な笑顔。子供っぽく膨れた顔。唇を尖らし拗ねた顔。レイジと一緒にいる彼は幸せそうだった。レイジにじゃれつかれて迷惑千万といったふりをしていてもどこか嬉しそうだった。
 レイジはロンの相棒だ。二人はいつでも一緒にいる。互いに支え合っている。
 ならば僕は?
 僕はロンの何でありたいと思っている?
 「友人だ」
 驚くほど抵抗なくその言葉を口にできた。
 道了を刺激するのは賢くない、それはわかっている。
 しかし何が正解かわからぬ現状では、心情を素直に吐露するのはそれ程悪くない選択と言える。
 そうか、僕はロンの友人でありたいのか。彼の友達でいたいのか。
 ………改めて口に出すと何となくその、恥ずかしい。
 羞恥に染まる頬を隠し、眼鏡に手をやり俯けば、周囲の嘲笑が突き刺さる。
 「半々のダチだと?そりゃ何の冗談だ親殺し、笑えるぜ」
 「裏切り者の血が混じった嫌われ者の半々とてめえの親をぐさりと殺っちまった屑が刑務所で仲良しごっこかよ。反吐がでるぜ」
 「嫌われ者同士お似合いだ。お前とロンだけじゃねえ、レイジとサムライも含めて全員浮いてるぜ。刑務所送りの屑の中でも選り抜きの屑揃いで友達ごっこはさぞかし楽しいだろうなあ」
 「二人一緒に売春班送りになった仲だもんな」
 「互いに喘ぎ声聞かせあった仲だもんなあ。そりゃ友情深まるはずだぜ」
 道了の取り巻きが失笑を漏らす。くだらない。構う価値もない。うんざりと踵を返しかけた僕の背に不穏な気配が忍び寄る。
 振り返るより早く手が伸びた。後ろから肘を掴まれる。振り払う暇もなく壁に叩きつけられる。
 背中に衝撃が散る。嘲笑が止む。僕を蔑み笑っていた連中の顔がもれなく固まる。
 「ロンの友人?」
 吐息にレンズが曇る。ぼやけた視界に道了が映る。僕の肘を掴みむりやり引き戻したのは道了だった。のみならず僕の腕を掴んで固定し、たやすく壁に押さえ込む。必死に拘束を解こうとしたが無駄だった。長袖に包まれた腕は細く、しかし鉄条を束ねたような筋肉が縒り合わされていた。
 「離せ」
 漸くそれだけ言う。掴まれた肘から道了の体温が伝わる。弱味を見せるのはプライドが許さない。腕を掴まれたぐらいでうろたえてなるものかと自分を叱咤、レンズ越しに反抗的な眼差しを叩き付ける。ますます握力が強まる。肘が軋む音が聞こえる。骨が砕けそうな力に思わず顔を顰める。
 「ロンに友などいない。必要ない」
 道了が僕の鼻先に顔を寄せる。能面じみて端正な顔だちが間近に迫る。
 「君が決める事じゃない」
 「俺が決める事だ」
 肘が軋む。苦痛に顔を歪める。道了は委細ためらわず暴力を行使する。このままでは肘が粉砕される。壁際に追い詰められて身動きとれぬ僕に道了がのしかかる。内心の怯えを悟らせてなるものかと上を向き、唇が触れるか触れないかの距離で囁く。
 「逆に問う。貴様はロンの何だ」
 不吉な沈黙に冷や汗が出る。道了は無言で僕を見詰めていた。
 倦怠の色をたゆたわせた無表情にちらりと感情の揺らぎが覗く。
 「支配者だ」
 道了が距離を詰める。体が密着する。鼓動と息遣いを生々しく感じる。
 「ロンが欲しい。手に入れたい。俺の物にしたい。涙も笑顔も全部俺の物だ」
 「何故そうもロンに拘る?」
 すべてに対し淡白な無表情に変化が訪れる。
 ロンの名に感情を揺り起こされ、道了がまた一歩人間に近付く。
 「ロンは雨の中ひとり佇む俺に手を差し伸べ『可哀想』と声をかけた。梅花は違う。梅花は俺に尽くすことに被虐の喜びを見出す真性マゾの雌犬だ。梅花は決して俺が『可哀想』とは言わなかった、本心では怯えているくせに怖がっているくせに自分の心を殺し醜い笑みを上塗り『愛してる』と囁き続けた。そうやって俺を欺き続けた。可哀想な女だ。世界で一番俺を愛してると言いながら一度たりとも本音を明かさず偽り続けた。ロンは違う。ロンは嘘を吐かない。本音しか言わない。ロンは俺に真実をくれた」
 道了が淡々と述懐する。愛情をもっていると錯覚しそうな語り口に混乱する。
 道了に肘を掴まれたまま窮屈に身動ぎする。拘束を外そうと躍起になる。駄目だ、はずれない、道了の握力は常軌を逸してる。間接が軋む。苦鳴が零れる。喉が仰け反る。道了はひどく醒めた目で苦悶する僕を眺める。
 眼窩に硝子を嵌め込んだ人形の瞳。人ならざる色に輝く魔性の目。
 硝子のフィルターに不純物を濾過された眼差しはどこまでも透徹している。
 「ロンには本当の俺がわかる。俺すら知らない真実を心臓の奥から掴み取ってくれる」  
 「貴様はロンに依存している、ロンに甘えている。ロンに甘えていいのはレイジだけだ、ロンに甘えるのは王様の特権だ。貴様が付き纏ってもロンは困惑するだけだ、追いかけられて迷惑するだけだ。いい加減ロンの事は諦めろ」
 「なら王に成り代わる」 
 耳を疑う。道了は実にあっさりとそう言ってのけた。レイジを誅し東棟の王に成り代わると宣言した。
 反逆の狼煙が上がる。
 下克上を予告した道了がゆるやかに腕を翳す。
 「手始めにお前だ。反逆の生贄だ。お前の死はロンを追い詰める。それこそ俺の望みだ。それこそ俺に背いた罰だ」
 顔に影が射す。首から血を噴き倒れる凱が脳裏に浮かぶ。極限の苦痛に喘ぐ断末魔の形相が瞼裏に像を結ぶ。
 道了は僕を殺す。僕の死体をロンのもとに送り付ける。
 逃げなければ殺される。胸が高鳴り全身の血が燃え汗が噴き出す。恐怖が暴走し喉が渇く。いつ道了の手が首にかかるか気が気じゃない。凱の二の舞になるのはごめんだ。凱と同じ末路を辿るのはお断りだ。どうする鍵屋崎直、どうするー……
 そして、気付く。
 僕にのしかかる道了の背後に何者かが接近する。手にはナイフがある。
 蛍光灯の光を反射し剣呑に輝くナイフを振り上げ、道了の背に歩み寄るのは。
 「………っ、」
 無謀だ。あまりに無謀すぎる。
 声には出さなかったが、感情が面に出たらしい。道了の背後に歩み寄ったマオが力任せにナイフを振り下ろす。ナイフの光が目を射る。眩む。疾風が頬を嬲る。
 すべては一瞬の内に起きた。
 銀光を曳いたナイフは標的に到達することなく甲高い音たて床を穿ち、自重に振り回され前のめりに崩れたマオの鳩尾に衝撃が炸裂、振り返りざま道了が蹴りを入れたのだと気付いた時には既にマオは宙高く跳ね飛んでいた。
 「マオおおおおおおおおおおおおおっ!?」
 ユエの絶叫。
 マオは壁に激突し背中を預けてずりおちる。
 身を丸め腹を庇い激しく咳き込むマオ、衝撃が内蔵を攪拌し甚大なダメージを与え何度もえずき胃液をぶち撒けびくびく痙攣する。眼球が反転し白目を剥き、壁際に倒れるマオのもとへ道了がゆっくりと赴く。
 たった今マオから奪ったナイフを手にし。
 「邪魔だ」
 氷点下の殺気を纏った道了が無造作に足を振り上げマオを蹴る。
 鳩尾を抉る蹴りに体が跳ねる。続いて肩口を蹴る。足跡が刻印される。それでもまだ飽き足らず後頭部を蹴る。自制を失った体が右へ左へ傾ぐ。蹴る、蹴る、蹴る。至って無造作に最大限の苦痛を与える急所に的確な一撃を食い込ませ朦朧としたマオから悲鳴を搾り取る。
 「余興をはきちがえるな」
 汚い足裏で鼻血と吐寫物に塗れた顔面を踏み躙り蹴り転がす。マオの体が裏返り背を向ける。しかし道了は容赦せず意識を失ったマオを蹴り続ける。空き缶でも踏み潰すかのようにマオが壊れていく過程を冷ややかに観察する。
 血が飛ぶ。僕のもとにも血が飛ぶ。
 「救命!」
 ユエが我を忘れ泣き叫ぶ。床を這うように道了の行く手に回りこみ弟を両手で抱き起こす。ユエの腕の中でマオのぐったりしてる。
 意識を失った弟に代わってユエは道了に懇願する、額を床に擦りつけどうにでもしてくれと身を投げ出し許しを請う。 
 「ああ鼻がひん曲がって顔面血だらけで酷い何だってこんな目に、道了さん頼むもう許してくれこれで気が済んだろ十分だろ、あんたに手を上げたのは気の迷いでマオだって本気じゃなかったんだ、そうだマオはあんたを助けようとしたんだ、親殺しがあんたのキンタマ潰そうとしてたの察してとどめ刺して……」  
 失神した弟を抱きしめ、吐寫物と血で汚れた顔を優しく拭ってやりながら、ユエは繰り返し道了に謝罪する。
 声が次第に掠れて小さくなっていく。ともすればくぐもった嗚咽にかき消されそうな声。
 ぐったりしたマオを腕に抱き、その肩口に顔を埋め、瘧にかかったようにユエが震える。 
 「マオを、弟を殺さないでくれ。たったひとりの家族なんだ、弟なんだ、路上でもここでもずっと二人でやってきたんだ。頼むからマオ、あんちゃんを置いていかないでくれ。いやなんだよ、置き去りにされるのは。家族に置いてかれるのはいやなんだよ。俺たち残虐兄弟ずっと二人でやってきたじゃねーか、女を犯すときも男を殴るときも凱さんにおべっか並べ立てる時も呼吸ぴったりで、お前がいたから俺は……」
 マオを庇うユエに子供時代の二人が重なる。
 悪名高い強姦魔たるユエとマオが、互いの他に頼るものない寄る辺ない子供に戻る。
 みじめにしゃくりあげながらユエがあたりを見回す。
 子供時代のふたりを助けた男が今また現れないかと期待を込めて。
 「対不起、凱さん……対不起、マオ……」
 頼りなげに虚空を仰ぐユエの前にナイフを放り、道了がうっそりと口を開く。
 「慈悲だ。お前が死ねば弟は助かる」
 僕は壁際に蹲り、凝然とその光景に見入っていた。
 ユエが死ねばマオは見逃してやると道了は言った。
 マオを助ける代償にユエに自殺を強要した。
 突き付けられた交換条件の重さにユエが絶句する。
 「弟にとどめをさすか」
 それもいいと道了が付け足す。廊下の空気が急激に冷え込む。先刻まで口汚く罵声をとばしていた囚人も、道了の出した条件の非道さに息を呑み、緊張の面持ちで事の成り行きを見守っている。ユエが音たてて唾を呑み、おそるおそるナイフに手を伸ばす。操り人形じみてぎこちない動作。小刻みに震える指が柄に触れる。ゆっくりと慎重に自分の方へ引き寄せる。呼吸が次第に荒くなる。大量の汗がしとどに顔を濡らす。
 「俺はあんちゃんだ。巷で恐れられた残虐兄弟のユエだ。弟を守るのが兄貴の役目だ」
 自己暗示をかけるように口の中で呟くも、目の焦点が合ってない。
 「ごめんな、マオ。馬鹿なあんちゃんを許してくれ。お前に頼られるのが嬉しくて、泣きつかれるたび強くなったような気がして……勘違いしてたんだ。お前は俺がいなきゃ何もできないしょうもないヤツだって、お前は俺がついてなきゃ駄目だって思いあがってたんだ。ははっ、笑えるぜ。本当は逆だったんだ。覚えてるかマオ?ガキの頃の話。親に捨てられて行くあてもなくさまよってた時、俺たちずっと手を繋いでたよな。あれさ、本当は俺が引っ張ってたんじゃないんだ。お前が背中を支えてたんだよ。お前が俺の手を握って支えてくれたから途中でへたりこまずに歩き通すことができたんだ」
 五指の震えを押さえこみ、しっかりと柄を握る。
 「謝謝、マオ。謝謝、凱さん。合わす顔ねーけど、再見」
 刃の切っ先が顎に食い込む。皮膚が裂けて血の玉が浮かぶ。
 「俺はユエだ。三十五人の女の柔肌刻んできた最凶の強姦魔だ。てめェの喉笛掻っ切って派手に死ぬのも悪くねェ最期だ」
 残虐兄弟の名に相応しい凄味を含んだ笑みで啖呵を切り、刃を首筋に添わせる。
 最後に目が合う。硬直した僕と視線を絡め、ユエは晴れがましく笑った。
 「あばよ親殺し。地獄で会ったら鬼の金棒突っ込んでやる」
 残虐兄弟の名に相応しくない、子供っぽく人懐こい笑顔だった。  

 ユエの遺言だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050327002238 | 編集

 長大な軌道で飛来した棒が手首を直撃。
 「!っ、」
 接触の衝撃で宙高くナイフが弾かれる。
 眩い閃光を放ち宙を舞うナイフをユエが呆然と見詰める。
 間一髪、ユエが頚動脈を切断する寸前に宙を舞ったナイフが半秒ほど滞空し落下する。涼やかな音をたてナイフが床を滑る。ユエの手からナイフを叩き落した棒がカラカラと床で弾む。
 木刀。
 振り向く前から誰がそこにいるのかわかった。
 蛍光灯の消えた薄暗がりに埋没し、その人物は静かにこちらを窺っていた。
 鞭のように引き締まった体躯。
 切れの長い一重瞼の奥で白目が剣呑に光る。
 気息を正すことによって足裏の自重を分散させ、己の体を完璧に制御し、水面を渡るような歩みで男がこちらにやってくる。
 姿を現す前から正体がわかっていた。
 この場で僕だけが正体を知っていた。
 蛍光灯が放電する。
 闇と光が交錯する幽明の中に男の顔が浮かぶ。
 走馬灯の如く入れ替わる闇と光の狭間から現れ出でたのは、内なる獰猛さを秘めた痩身の男。
 「サムライ!」
 蛍光灯が点き、男の素顔が暴かれる。
 同時に僕は叫び、サムライのもとへと駆け寄っていた。
 廊下の奥から姿を現したサムライは、駆け寄る僕を見るなり厳しい表情を緩め安堵の笑みを浮かべるも、すぐさま表情を引き締め油断ない眼光であたりを睥睨する。
 廊下に集った囚人たちはサムライの登場に仰天する。
 道了は鉄面皮の冷徹さでもって余興を邪魔した闖入者と対峙する。
 サムライは他者の視線を意識せぬ悠揚たる所作で先ほど投擲した木刀を拾い上げる。
 木刀が持ち主の手に返る。
 屹然と反った刃が蛍光灯の光を弾く。
 極力贅を削ぎ落とした潔いまでに飾りけのない刃はサムライ自身を彷彿とさせる。
 臨機応変のしなやかさと質実剛健の強靭さを兼ね備える芯が通った木刀は、信念の芯に支えられたサムライの写し身ともとれた。
 「見参」
 奉納の演舞に似た大仰さで腕を一薙ぎ、あざやかに腰に帯刀する。
 状況を弁えぬ風雅な所作に一連の所作にさすがの僕も自制心が切れる。
 「遅参だ、馬鹿者!」
 「面目ない」
 サムライが律儀に頭を下げる。
 礼儀正しく対応されると叱責を続けるのが馬鹿らしくなる。
 不承不承口を閉じ恨みがましくサムライを見上げる。
 またしても危ういところを救われた。
 サムライが来なければユエは自身の頚動脈を切断し即死していた。
 間一髪失血死を免れたユエは、自分の身に起きた出来事がいまだ把握できず茫然自失の体で蹲るばかり。
 首筋の皮が薄く裂けただけで命に別状はないと遠目に確認、安堵の吐息を交えて愚痴を零す。
 「……役に立たない用心棒だな」
 「……勝手にいなくなるお前が悪い」
 「僕は悪くない、僕の不在に気付かない君が悪い」
 「凱を宥めるので手一杯だったのだ」
 「僕より凱が大事だと?」
 「お前が大事だ」
 大真面目に即答するサムライに気恥ずかしさを覚えブリッジにふれる。一方サムライはといえば、恥も外聞も衒いもない堂々たる態度で顎を引き、僕の手足に擦り傷がないかすみずみまで目を光らせ身体検査中だ。
 あまりに熱心な様子に呆れを通り越し脱力する。
 「そうか。大事な僕が無傷ですんでよかったな」
 サムライに言いたいことは山ほどあるが今はそんな場合ではない。先に処理せねばならない案件がある。
 僕の顔がにわかに強張ったのに気付き、サムライもまた眼光を鋭くし、廊下の惨状を顧みる。 
 「何があった?直」
 「惨劇だ」
 サムライの出現に反感をむき出した少年らが非友好的視線を向けてくる。敵愾心の塊と化した囚人らが悪意の波動を叩き付けてくるのをさらりと無視、サムライが道了を見る。道了はまったく動じずにサムライに視線を受け止めた。跳ね返すでも受け流すでもなく、ただありのままに受け止めた。眼窩に嵌め込まれた硝子の目はサムライの視線を透過し内部に何の影響も及ぼさぬ無害なものへと帰してしまった。
 道了は廊下の中央に悠然と佇んだまま、自分を取り囲む事象をありのままに受け止め把握する。
 道了の指示があり次第ただちに僕とサムライに襲い掛かる準備を整えた少年らも、無造作に手足を投げ出し失神したマオも、壁に背中を預けてしゃがみこんだまま腰が抜けて即座に立ち上がれないユエも、互いの体温を拠り所に寄り添う僕とサムライもその足元まで範囲を広げた血も、ぎこちなく首を巡らしそのすべてを等分に目視する。
 道了の目の奥を0と1の電子信号が駆け巡る幻を見る。
 能面じみて表情を消した顔に先ほど僕に見せた人間らしさの名残りはない。
 「何をしにきた?」
 凍えた鉄のような声で道了が問う。質問はサムライに向けられていた。
 利き手に木刀を預け、道了が不審な行動をとればすぐにでも斬りかかると牽制しつつサムライが口を開く。
 「決まっている。直を迎えにきたのだ」
 「用が済んだら帰れ。お前に用はない」
 「そうもいかないんだな、これが」
 緊迫した雰囲気をぶち壊しにする能天気な声がかかる。
 一同一斉にそちらを向く。先ほどサムライが現れた方角、電池切れの蛍光灯が神経症的に点滅する廊下の暗がりから一人の男が歩み出る。
 いつからそこにいたのだろうか。
 否、最初からずっといたのかもしれない。
 いつ消えてもおかしくない蛍光灯が微細な火花を生じる。 
 点いては消え点いては消えを節操なく繰り返す蛍光灯の下、束の間暴かれた男が微笑む。
 「お前に用がなくてもこっちに用があるんだよ。なあ、ロン」
 生まれつき褐色の肌。
 干し藁の髪。
 茶と金を練り込んだような不思議な色合いの目。
 不敵で不遜な笑みがよく似合う野生的な美貌。
 猫科の肉食獣めいた強靭なバネで肢体を操り、世界を敵に回すのも覚悟の上と大股に歩いてくるのは我らが東棟の王。
 「レイジ、ロン!?」
 何故ふたりがここに?
 レイジの隣にはロンがいた。
 これから戦場にでも赴くような悲壮な顔。強情さの塊といった風情。
 レイジの肩のあたりまでしかない小さい体にレイジに匹敵する気迫が漲っていた。胸中で際限なく膨らむ恐怖と不安を押し殺し、動揺を面に出さないよう努め、迷いを吹っ切るように一心不乱に突き進む。
 ロンの様子がおかしいのは一目でわかった。 
 「ロン、待て、道了に近付くな!彼が一週間前何をしたか忘れたのか?君を監禁し暴行を働いた男だぞ、今度も未遂ですむ保証はないんだぞ!君には他にも聞きたいことがある、この一週間どうしていた、食堂にも顔を見せず房に閉じこもり僕が訪ねても追い返し……聞いてるのかロン!?」
 「道了に聞きたいことがあるんだ」
 素っ気ない返答。
 感情の昂ぶりを懸命に抑えこみ平静を保つ声。
 ロンは歩く。
 前だけ見て歩く。
 道了だけを見て真っ直ぐ突き進む。 
 止めなければ。止めなければ。
 一週間前ロンは道了につかまり酷い目に遭わされた。ロン自身の口から詳細は聞けずじまいで想像するより他ないがその後の経過を見れば余程酷い目に遭ったのは確実、なのに何故わざわざ道了に会いに来る、危険を犯す?
 そうまでして道了に会わねばならない目的とは何だ、動機とは何だ?
 脳裏で疑問が膨らむ。心臓が早鐘を打つ。
 一直線に道了に向かうロンを遮ろうと飛び出しかけ、サムライに引き戻される。
 「何故止めるサムライ、このままではロンが殺されてしまう、一週間前と同じかそれよりもっと悪い事が起きる!」
 「レイジがついてる」
 肩を掴む手に力が篭もる。
 肩を包むぬくもりに動悸が鎮静する。
 ロンの隣を歩くレイジにちらりと目をやる。
 レイジはロンから付かず離れずの距離を保ち軽薄な笑みで本心を塗り隠す。
 時折胸元に手をやり十字架をまさぐる。
 官能を紡ぐ指使いで十字架を愛撫するレイジから道了に視線を戻す。
 道了は廊下の中央に立ち尽くしたまま微動だにせず、いかなる感情も覗かせず二人の接近を待っていた。
 歩調が速まる。距離が縮まる。小走りになる。
 ロンの顔が悲痛に歪む。
 レイジの笑みが獰猛さを孕む。
 十字架を握る手に力が篭もるのが遠目にもわかる。
 ロンが走り出す。
 無我夢中で走り出す。
 風を切り走りながら大きく息を吸い込む。

 「本当の事を聞かせろ、道了っっっっ!!!」

 祈りにも似て切実な叫びが木霊する。
 無謀にも一直線に道了に立ち向かう。
 思い詰めた光を目に宿し、挫けそうな気力を奮い立たせ、薄っぺらい靴裏で軽快に床を叩く。ひりつく緊張が伝染する必死な形相に汗を浮かべ、血が滲むほど唇を噛み締め、距離が縮むごとに肘振りの幅を大きくする。
 道了は廊下の中央に無防備に身を晒し、急接近するロンを待ち受けていた。
 道了の背後でおもむろに人影が動く。
 僕は見た、その瞬間を。
 焦る手でナイフを手にとり、柄に指を回し、しっかりと握り込む。
 笑う膝を叱咤し立ち上がる。
 ゆるやかに顔を上げる。
 虚ろな目に激情が燃える。
 床に倒れ伏したマオ、だらりと垂れた手足と皺だらけの服と鼻血に塗れて目鼻だちすら定かでない顔を見下ろし余裕を失った呼吸を繰り返す。
 「マオと凱さんの仇だ」
 狂おしくぎらつく目が道了の背中を捉える。
 道了は気付かない、振り向かない。
 自分めがけひた走るロンへと視線を注いだまま、背後でナイフを振り翳すユエの存在など完全に忘れ去りいないものとして扱っている。
 殺るなら今だ、道了が隙を見せた今がチャンスだ。
 ナイフを手に道了に忍び寄る。
 両手で柄を支える。
 鋭利な切っ先がきらめく。
 「死ねっ、台湾の犬!!!!」
 血を吐くような絶叫が鼓膜を叩く。
 刺突の構えで凶器を突き出すユエ。ナイフは正確に肺の位置に擬されており貫通すれば失血死は免れない。
 しかし実際はそうならなかった。
 残像を残し道了の踵が跳ね上がる。
 後ろ向きに跳ね上がった踵は狙い図ったようにユエの手首を痛打し、最前木刀の直撃を食らい手首を痛めていたユエがたまらずナイフを取り零す。
 床で跳ねたナイフが涼やかな旋律を奏でる。
 焦燥に駆られたユエがみじめに床に這い蹲りナイフを拾おうとする、手探りで床を這ったユエの目先にナイフが落ちる、ユエの顔が安堵に溶け崩れー……
 「探し物はこれか」
 絶望に、叩き割られた。
 肉眼では捉えられぬ迅速さで体ごとユエに向き直る道了。ユエがナイフに手を伸ばすのを冷静に観察し、指先が柄にふれる寸前に鞭の如く手を撓らせ奪還する。恐るべき反射神経、ユエとは比較にならぬ反応速度。目に飛び込んだ情報を網膜で捉え神経を介し脳に伝達するのではない、脳で直接解析してるとしか思えぬ脊髄反射の早業。
 ユエの鼻先でナイフを奪い取った道了がそっけなく言い捨てる。
 「紛らわしい」
 太く毛細血管の浮いた眼球が極限まで迫り出す。
 悲鳴をあげようと顎が外れんばかりに大口を開けるも道了は容赦なく腕を一閃する。
 血しぶきがとぶ。
 無表情に振り下ろしたナイフがざくりとユエの顔を切り裂く。
 皮膚を裂き肉を抉る傷から朱が迸り能面に血化粧を施す。
 「同じ顔はふたついらない」
 鳩尾に強烈な蹴りを食らいユエがはねとぶ。
 背中から床に叩き付けられたユエが肺を圧迫され激しく咳き込む。
 床でもがき苦しむユエの前髪を掴み力づくで起こす。
 「あぅ、ぐぅ……」
 ユエは酷い有り様だった。
 眦から顎先にかけて右頬が柘榴のように爆ぜていた。
 苦痛に喘ぐユエに一片の慈悲も垂れず、力任せに腕を振る。前髪を掴んだまま床に激突した衝撃で毛髪が束で毟れ頭皮が出血する。背骨もへし折れんばかりに仰け反るユエの正面に回りこみ、顔に跳ねた返り血を拭いもせず口を開く。
 「ジャンクにしてやる」
 人形の王の私刑宣告。
 「ひ、ひ、ひぃっ……」
 髪も顔も服も返り血にぬれていたが道了は表情ひとつ変えなかった。
 鮮血に染まる顔の中、金と銀の目に内なる狂気が噴出する。
 ユエは傷口を押さえ壁に沿ってあとじさる。
 少しでも道了から距離をとろうと壁沿いに遅々と移動する。
 何度も立ち上がろうと試みては膝が屈する。
 何度も起き上がろうと試みては肘が砕ける。
 何度目かの挑戦も失敗に終わり、上体を支え起こそうとした努力が泡と消え、ユエがぐしゃりとその場に突っ伏す。
 突っ伏した場所はちょうどマオの上だった。
 マオに縋り付きひどく苦労しながら漸く上体を起こしたユエが、意識を失った弟に呼びかける。
 「マオ、起きろ、逃げるぞ、早く……」
 乱暴に肩を揺さぶる。頬を叩く。
 マオは無反応無抵抗に兄に揺さぶられている。
 出血は止まらない。
 双眸に涙の膜が張る。
 喉が引き攣る。
 下顎を食い縛り嗚咽を殺す。
 絶体絶命の窮地に追い込まれ前後見境ない狂乱に陥り、手加減なしで弟を揺さぶる。
 「呑気に寝てる場合じゃねえよ、一大事だよ。お前の言う通りだったよマオ、俺に凱さんの代わりがつとまるわきゃなかった、あんなすごい人の真似できるわきゃなかったんだ。そうだよ畜生俺だって凱さんが好きだったんだ、凱さんみたいになりたかった、出会った時からずっと凱さんに憧れていた!凱さんは俺の英雄だった、命の恩人だった。凱さんが分けてくれた饅頭の味は一度だって忘れたことねえ。凱さんは数え切れないほど世話になった。食い逃げのコツを教えてくれた、喧嘩を仕込んでくれた、でかくてごっつい手でわしゃわしゃ頭なでてくれた。ブサイクな娘の写真を見せて『可愛いだろ』って自慢して、けど俺たちだけにゃ嫁にやらねえって、可愛い娘を強姦魔なんかに渡すもんかって決まって最後に付け加えて」
 嗚咽がくぐもる。卑屈に喉が鳴る。
 マオの肩に食い込む指の関節が白く強張る。
 依然目を覚まさない弟の胸に顔を埋め、戦慄く口元に自嘲の笑みを吐き出す。
 「冗談、あんなブッサイクなのこっちからお断りだよ。……けどさ、凱さんと家族になれるならそれもいいかなって思った。強姦魔から足洗っていいかなって、この俺が思えたんだよ。なあ、笑えるだろ?巷に名高い残虐兄弟の片割れがだぜ」
 切迫した横顔。切迫した声音。嘘をついてるようにはとても思えない。
 「ユエ、もしかして君は……」
 一抹の疑念が過ぎる。
 ユエはマオと同じ事を言った、弟と酷似した顔で凱を「英雄」と呼んだ。
 英雄。中国語のヒーロー。「俺の」英雄。
 ユエは凱を裏切り道了についた。今の今まで僕もそう思っていた、事実を誤認していた。ユエは瀕死の凱を見限り道了に寝返った恥知らずの裏切り者だと、保身と利益を優先し凱に忘恩で報いた卑劣な人間だと今の今までそう解釈していた。
 だがしかし。
 僕の視線の先、マオの上に屈みこんだユエが無力な拳で膝を殴る。
 「対不起、凱さん。さんざん世話になったのに何も返せなくて、俺、俺……」
 対不起。謝罪の言葉。世話になった恩人へ何も返せず逝くことへの。
 頬を伝い顎先で合流した涙がマオの寝顔で弾ける。
 マオに覆い被さる背中に悔恨が滲む。
 「君は、凱の仇を討とうとしたのか」
 凱の仇をとるため、道了に寝返ったふりをしたのか。
 弟にすら本音を隠し道了に媚を売り周囲を欺き続けたのはすべて凱の仇を討つため、凱の無念を晴らすためだった。
 道了はユエの真意を見抜いていた。ユエが凱を裏切った真の動機、真の目的を見抜いていた。だからこそマオにユエを刺すよう命じ文字通りの「裏切り者」に制裁をくだしたのだ。
 「凱さんは英雄だった。俺もあんなふうになりたかった」
 凱との出会いを回想しているのだろう半透明の目でユエが呟く。
 「マオ、お前がいればいつかあんなふうになれるんじゃねえかって思いあがってた。お前があんちゃんあんちゃんて頼ってくるたび俺だって凱さんになれるって、他の連中が凱さん凱さん言うのと同じ位お前がしつこくあんちゃんあんちゃん呼ぶもんだからうっかり勘違いしちまったんだ」
 道了が静穏な威厳を帯びてユエに近付く。
 ナイフの切っ先から血が滴り落ちる。
 道了の歩幅に合わせ点々と床に血痕が散る。
 処刑の刻が迫る。
 最期の最後の瞬間まで身を挺し弟を守ろうとユエが覆い被さる。
 靴音が止む。
 ユエの正面に道了が立ち、血塗れたナイフを翳す。
 「お前の英雄は死んだ。俺が殺した」
 道了が高々とナイフを振り翳す。蛍光灯の光を反射しナイフが剣呑に輝く。
 ナイフの光に目が眩んだ僕の耳に、あまりにそっけない最後通牒が届く。
 「お前も死ね」
 一片の慈悲も一抹の憐憫も挟まぬ死刑宣告。
 生き物の命は等しく無価値と断ずる醒め切った瞳。
 腕が弧を描く。ナイフが振り下ろされる。
 風切る唸りを上げ来襲したナイフが血染めの頬を手で包んだユエの首に

 『救命、凱大哥!!』
 「ゴア嗚呼嗚呼嗚呼ああああああああっあああああああっ!!」 

 潰れた喉が発する復活の雄叫びが呼びかけに応じた。

 頚動脈が切断される寸前。
 銀の軌跡を曳いたナイフが宙高く舞い、道了の体が圧倒的物量に吹っ飛ばされる。
 ユエにとどめを刺そうとナイフを振りかぶった道了に水平方向から筋骨隆々の巨体が激突、凄まじい轟音、衝撃が炸裂。
 壁が床が天井が鳴動する。
 濛々と埃が立つ。
 直下型地震に襲われたように蛍光灯が放電し衝撃に耐え切れず劣化したワイナーが途切れ蛍光灯が落下、破砕の轟音とともにあたり一面に大小無数の破片が飛散する。
 レイジが口笛を吹く。
 道了に駆け寄る途中で急制動をかけたロンが呆気にとられる。
 僕の隣でサムライが瞑目し、薄っすらと笑む。 
 
 道了を張り飛ばした反動で自分もまた床に転がった男が、解けかけの包帯を首にひっかけ、火花散る蛍光灯を重々しく踏み砕く。
 蛍光灯が木っ端微塵に割れ砕け青白い雷火が爆ぜる。
 あたかも男が吐き出す気炎が引火し起爆したかのような光景。 
 包帯の尾が颯爽となびく。
 蛍光灯の破片を微塵に踏み砕く音が暴威の到来を告げる。
 靴裏が破片を噛むざらついた感覚が一週間寝たきりだった身にはやけに新鮮なのか、一歩一歩重畳に踏みしめ屹立した巌の如き巨体を運ぶ。
 信じ難いといった驚愕の面相で自分を見上げるユエに鋸を曳く濁声で男は言った。
 『呼んだか、舎弟』
 凱の完全復活だ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050326082304 | 編集

 凱の乱入におったまげる。
 だってそうだろ?
 一週間前の惨劇はここにいる全員の脳裏に鮮やかに焼き付いてる。
 道了に挑戦した凱が夢破れ喉裂かれ担架にのせられ退場したのは記憶に新しい。
 漸く意識が回復したかと思えば手当たり次第に物ぶん投げて保健室をめちゃくちゃに破壊しまくりケダモノの咆哮を上げ、ド迫力で暴走してきた男に計り知れない畏怖を覚える。
 こいつ人間じゃねえ。
 ゴジラとゴリラのあいのこだ。  
 驚異的回復力と体力に絶句するしかない俺らをよそに、たった今道了を吹っ飛ばした凱本人はといえば、首に巻いた包帯を颯爽となびかせてユエと対峙する。壁際に座り込んだユエは目にした光景が信じられぬまませわしく目を瞬いていたが、脳細胞に現実が染み渡るにつれ眼前の巨漢が凱だとはっきり認識し縋り付くように叫ぶ。
 「凱さん……本当に凱さんなんスか?死んでなかったんスか!」
 語尾が嗚咽で濁る。
 ユエと対した凱は、分厚い唇を捻じ曲げふてぶてしい笑みを拵える。
 『地獄から追ん出されてきたんだよ』
 酷い声だ。聞くに堪えない醜くひび割れた声。もともと美声とは言い難い野太い濁声だったが、喉を裂かれ声帯を損傷した今の凱が発する肉声は、硝子で爪を研ぐような生理的嫌悪を掻き立てる音波を発する。
 喉に詰まった石ころががらがら擦れ合ってるみたいな不協和音。
 ずれた包帯から首元の傷痕が覗く。
 稲妻の形状をしたその傷痕は縫合してまもないもので一声発するだけでも多大な苦痛が伴うのが顰めた顔から見てとれる。
 「凱さん、凱さん、あのっ……俺、俺は……」
 首の傷痕に目を吸い寄せられたユエが泡食って言い募る。
 凱は何も言わない。場が緊迫する。凱が放つ闘気が空気を熱する。
 ユエが沈痛に俯く。
 凱の威圧に挫けて悄然とうなだれるも、ありったけの気力を振り絞りその場に踏み止まる。
 「……言い訳はしません。俺が凱さんを裏切ったのは事実だから」
 ユエの顔が苦渋に歪む。
 叱責と暴力を覚悟の上で面を伏せ、深呼吸する。
 「けど、これだけはわかってほしい。マオは俺に巻き込まれただけなんだ、俺にむりやり付き合わされただけであんたを裏切るつもりなんかこれっぽっちもなかったんだ。俺は今ここで殺されたって文句は言えねえ。けどマオだけは見逃してやってくれ、これまでどおりあんたのそばにいさせてやってくれ。マオは……立派な男だから、きっとあんたの役に立ってくれる」
 ユエは何度も深呼吸し消え入りそうな語尾を繋ぎ遺言を託す。

 敵を騙すにはまず味方から。

 凱の仇をとるためマオを連れ道了に寝返ったふりをしたユエだが、道了のほうが一枚も二枚も上手だった。
 道了はユエの目的を見抜いた上でマオにユエを殺させるという制裁を選んだ。血の繋がった兄弟同士で殺し合いを演じさせるのも道了にとっちゃ乙な余興にすぎない。種を明かせばユエは最初から最後まで道了のてのひらで踊らされていたのだ。馬鹿なユエ。道了を舐めてかかったからこんな目に遭うんだ。けれども今の俺はユエを嗤う気になれねえ。たとえ相手が腐れ外道の女の敵強姦魔だって凱への一途な忠誠心から危険を承知で道了の懐に潜りこみ復讐を遂げようとしたのは事実で、復讐が失敗し一転窮地に追い詰められたユエがせめてマオだけは救おうと身を賭してとった行動を責められはしない。
 ユエはユエなりに凱に忠義を尽くそうとしたのだ。
 結局仇は討てずじまいで弟まで危険な目に遭わせちまったけど、ユエがそうまでして凱の仇を討とうとしたのは事実で、どんな腐った人間にもひとかけらの人間らしさはあって、ユエの場合それは己が身にかえても凱の名誉を守るというひたむきな信念に起因してるのだ。
 腐れ外道の女の敵強姦魔でも凱への忠誠心は正真正銘まじりけない本物だと認めざるえない。凱と残虐兄弟のあいだには俺には計り知れない絆があった。同志。同胞。互いをそう呼べる関係。凱はユエとマオの親父代わり兄貴代わりで空腹のガキに饅頭を分け与えた度量の大きい恩人で二人を叱咤し鍛え上げた師だった。

 ユエとマオのふたりにとって頼れる兄貴だった。
 大哥だった。

 「凱さん……対不起……」 
 マオを抱く腕に力がこもる。
 「俺、何もできなかった。凱さんの仇をとろうってひとりで気張って空回ってこのざまだ。俺は凱さんを離れちゃ何もできねえ情けない男だって自分で証明しちまったんだ。けっ、ざまあねえ!巷で恐れられた残虐兄弟の兄貴が聞いて呆れるぜ。俺は凱さんの後ろ盾がなきゃ台湾のクソ犬一匹ぶっ殺せねえ腰抜けだったんだ。腰も膝もチンコも立たねえふにゃけたタマなしだったんだよ。それが調子乗ってこのざまだ、また凱さんに恥かかせちまった。みじめな生き恥さらすよかひと思いに去勢されたほうがマシだ。兄貴失格の上に子分失格の烙印捺されてどの面下げて凱さんの前に出りゃいいかわかんねーよ!」
 熱い涙を滂沱と滴らせ己の股間に拳を叩き込む。
 股間から脳天を貫く筆舌尽くしがたい激痛。
 己の股間を殴るという奇行に走ったユエが食い縛った奥歯の間からくぐもった苦鳴を漏らし海老反りになる。極限まで剥いた眼球に毛細血管が浮かび、股間を両手で押さえ棒のように横倒しになり、半開きの口から白濁した泡を噴いて半死の醜態を露呈する。
 「ひぐっ、ひっ……痛てえ……」
 自業自得の苦しみに悶絶するユエに周囲の連中が白けた目を注ぐ。
 だがユエはおさまらない。
 弟を虐待する道了の暴挙を許したことで絶大な無力感と屈辱感と敗北感に打ちひしがれ、この程度の痛み苦しみではまだ足りない、弟が味わった壮絶なる苦痛は穴埋めできないと弱々しく震える拳で股間を殴る。 見てるこっちまで股間を覆いたくなる光景。
 ユエは塩辛い涙を噛み締め自分が犯した女の数だけ強姦魔の商売道具に罰を与え続ける。そうすることによって己に報いを与えるように、引っ込みのつかなくなった拳で何度も股間を殴り付けては筆舌尽くしがたい激痛に身悶える。
 「まだだ、まだまだだ。俺に犯られた女の痛みはこんなもんじゃねえ、マオと凱さんの痛み苦しみはこんなもんじゃねえ、まだ足りないまだ駄目だ………!」
 ユエがズボンに手をかけ下着ごと一気に引きずりおろす。
 萎えた性器と貧相な腿とを露出し壁を背にして立ち、開き直って啖呵を切る。
 「さあ、ばっさり殺ってくれ!今日でコイツともお別れだ!勃たねえ強姦魔なんざただのクズだ、コイツをばっさり処分してくれ!俺はもうコイツをぶらさげてる資格がねえ、道了を倒せずマオを守れず凱さんに尽くせなかった俺が一人前の男を名乗れるわけがねえ。俺にはタマなしのクズがお似合いだ。さあ、凱さん……」
 諦念の面持ちで目を閉じる。
 鳥肌だった太股と萎縮しきった性器を見比べ、凱は気難しく黙り込む。
 ユエは息を荒くしその時を待つ。
 今にも腰が抜けて座り込んじまいそうなのを壁に寄りかかることで辛うじて堪え、なけなしの気力で体を支える。
 「……ユエ。歯あ食い縛れ」
 一糸纏わぬ下半身を公開するユエに、凱が低く命令する。 
 ユエが顎を引く。
 言われた通り奥歯を食い縛り来たるべき痛みに備える。
 玉を蹴り潰される痛みを予期し瞑目するユエに凱が肉薄する。
 体の脇で拳を固める。
 服が裂けるほどに上腕二頭筋が隆起し拳に力が篭もる。
 玉潰れ竿引っこ抜かれる激痛に怯え顔面蒼白となり、しかし凱から逃げることはせずズボンを掴む手に間接が強張るほど力を込め、間延びした喘鳴をもらし続けるユエに近付きしな呼気低く腕を振りかぶる。
 「!!っ、」
 特大の砲弾の如き鉄拳が顔面に炸裂。
 頬げたを全力で殴り飛ばされユエが五メートル錐揉み状に吹っ飛ぶ。
 背中から床に転倒したユエは殴られた衝撃で脳震盪を起こしすぐには起き上がれず床でもがく。
 凱はユエを殴り飛ばした格好のまま、床に無防備に寝転がったマオと同じく顔面鼻血まみれのユエを見比べる。
 凱のパンチ力は凄まじく、もろに顔面に受けたユエは歯を三本ほど失うはめになった。歯の欠けた口を開けっ放しにしたユエが呆然と仰ぎ見る前で凱は不気味な静けさを保っていたが、血糊の付着した手の甲を壁面にあてがい、ぐっと手首を捻る。
 誰もが凱の行動に呆気にとられる。
 真剣極まりない面持ちで壁面と向き合った凱は、べっとりと血濡れたこぶしを右へ左へ上へ下と勢い良く滑らし攻撃的な筆跡で漢字を書いていく。
 豪快な動作で腕を薙ぎ払い、文を結ぶ。

 『没事兄』
 気にするな。

 お世辞にも上手いとは言えない字で壁面一杯に殴り書きされたのは、あまりに率直すぎるユエへの伝言。
 不器用で不恰好で武骨で、でも心だけは十分に篭もった、何とも凱らしい字。
 「凱さん……俺を、許してくれるんすか」
 床を這いずって凱に縋ったユエがぱくぱくと血まみれの口を開閉する。凱は何も言わない。頷きもしない。相変わらずの仏頂面で壁と睨めっこしてる。顔半分を腫らしたユエが凱の足首に縋り付く。凱はそちらを一瞥もせず、肩を怒らせて壁と対峙する。
 「こんな俺でもまだ、そばにおいてくれるんスか……?凱さんのこと裏切って台湾人のところなんかに走ったのに、『気にするな』って言ってくれるんすか」
 語尾が嗚咽に溶ける。
 それ以上言葉が続かず泣き伏せるも、凱の足首を掴む手だけはそのままにもう決して放すものかと力を込める。
 ユエの顔がぐしゃぐしゃに歪む。
 顔の部品が中央に寄り集まった滑稽な顔。
 鼻の穴から血を垂れ流し懸命に凱にかじりつき、濁りに濁った声で切々と訴える。
 「俺、まだ凱さんの弟分でいていいんスか?凱さんの舎弟の残虐兄弟て名乗っていいんスか?」
 答える代わりに凱は行動に出る。
 ユエとマオの体が同時に浮かび上がる。
 両肩にユエとマオを担ぎ上げ、男臭く優しい笑みを浮かべる。
 『好的可以』
 ОKだ。
 了解を得た途端、緊張が解けたユエはすぅっと眠りに落ちる。
 残虐兄弟を担いだ凱は、肩にかかる二人分の体重を受け止めてなお堂々としてる。
 「凱……お前なんでここに?斉藤に止められたんじゃ」
 残虐兄弟を背負い、勇猛果敢に仁王立つ凱に問う。
 凱が振り向きざま何かを殴り倒す真似をする。
 その行動ですべてを悟る。
 「殴り倒してきたのかよ……」
 「鎮静剤を注射しようとした斉藤に暴行を働いて脱走するとは重傷人とは思えぬ体力だな」
 鍵屋崎が呆れる。凱は誇らしげに胸を張る。
 ……いや、褒めてるんじゃねえし。
 「……なるほど、予めマオの盗み見に気付いていたか。不自由な体を押してここへ駆け付けたのはマオとユエを救うためか。義理堅さでは君といい勝負だな、サムライ。遅れてくるところもそっくりだ」
 鍵屋崎が含みありげに笑んで傍らのサムライを見る。
 サムライは腕を組んだまま無言で流す。
 ここに来る途中の出来事を思い出す。

 道了の房を訪ねたら不在だった。
 道了の行く先なんてとんと心当たりがなかった。
 肩透かしを食った俺とレイジは、しかし道了の捜索を諦め切れず手がかりを求め医務室に足を向けた。医務室には凱が入院してる。凱のまわりにはいまだ凱に付き従う仲間がいる。そいつらなら道了の居所に関して何か知ってるんじゃないかと思った。
 根拠はない、ただの勘だ。
 中国人は執念深い。
 受けた屈辱は倍返しで晴らさねば気が済まない人種だ。
 頭と仰いでいた凱が仇敵の台湾人に、しかも入所して一ヶ月そこらの新入りにあっさり負かされたのだ。血気盛んな手合いが復讐を企てぬとも限らない。凱の仲間を頼るのは癪だが背に腹はかえられない。
 凱の仲間なら道了の居所を掴んでるんじゃないかと予感し医務室に寄った俺を出迎えたのは、意外な人物……サムライだった。

 何故サムライがここに?
 鍵屋崎はどうした?

 いつも一緒にいる鍵屋崎がいないことに不審を抱き質問しようとした矢先、レイジが突然走り出す。
 おいてけぼりを食らった俺を無視し、サムライが二番手に続く。
 『どうしたんだよレイジ、いきなり走り出して……』
 わけもわからぬまま漠然たる不安に突き動かされ駆け出した俺に、レイジは自分の耳を指さし早口で説明する。
 『あっちだ。あっちから声がした。俺の地獄耳がキーストアの声を拾ったんだ。キーストアだけじゃねえ、他にも人がいる。ワン・ツー・スリー……』
 口の中で推定人数を数えながら軽快な足取りで駆けるレイジ、その横顔が剃刀の鋭さを帯びる。
 『……ビンゴ。喜べロン、もうすぐおめあての人物に会えるぜ』
 言葉とは裏腹に剣呑な口調。
 サムライが無言で速度を上げる。
 レイジに追いつき追い越し先頭に立つ。
 鍵屋崎が危機に直面してると知り、道了という名の人の形をした脅威が鍵屋崎と相対してると知り、矢も盾もたまらず一陣の疾風と化し駆け抜ける。真剣な横顔と気合迸る眼光から鍵屋崎を心配してる様子が伝わってくる。

 俺たちはレイジの地獄耳を頼りにここへ辿り着いた。
 惨劇の現場に殴り込んだ。

 鍵屋崎は無事だった。けれども無事じゃないやつらもいた。
 凱の元子分、残虐兄弟のユエとマオ。
 何が起こったのかすぐには理解できなかった。
 なんだって凱を裏切り道了に与したはずの残虐兄弟が血まみれで倒れてるんだ?仲間割れ?……いや、残虐兄弟に限ってまさかそんな。兄弟喧嘩に刃物を持ち出すなんざ論外だ。的外れもいいところだ。残虐兄弟は女を犯すことが三度の飯より好きだと豪語してはばからない腐れ外道だが、真実互いを思いやってるのは俺の目から見ても明白だった。

 なんでこんなことになったんだ。

 俺の疑問はユエがとった行動が解決した。
 道了の注意が逸れた隙にユエはナイフを手に取り走った、道了の注意が俺に向いてる隙に弟と凱の仇をとろうと無防備な背中を狙った。
 道了の背中めがけナイフを振り下ろすユエの目に憎しみが爆ぜる。

 その目を見て腑に落ちた。

 これは道了がやった。
 道了がマオを蹴飛ばし殴りさんざんに嬲り者にし、助かりたいならナイフを取れと兄弟をけしかけたのだ。いかにも道了のやりそうなことだ、いかにも道了の好みそうな反吐の出る結末だ。悪趣味だ。悪趣味すぎる。人の心を弄ぶことにかけちゃ道了は天才的だ。相手がされたらいちばん嫌な事をさぐりだし弱味を暴き出し金と銀の邪眼で催眠をかけ、どこまでも冷徹に周到に相手を追い詰めていく。

 類稀なる精神操作術。
 道了は残虐兄弟に殺し合いをさせた。
 残虐兄弟が互いにいがみあい殺し合うよう仕向けたのだ。

 その行為に単なる暇潰し以上の意味はなく、仮に残虐兄弟が共倒れしようが片方生き残ろうが、悪趣味な遊戯がどのような結末を迎えたところで人形の退屈は癒されない。
 精巧な人形は人形遊びを好む。
 道了にとっての他人は人形にすぎない。
 ちょっと乱暴に扱えば間接が壊れ手足が逆方向に向く人形だ。代えはいくらでもある。壊れたら取り替えればいい、今度はなるべく長もちする新品を手に入れればいい。だから道了は他人に愛着を抱かない、いずれ飽きて壊してしまう人形に愛着を持ったところで意味がない。
 人形遊びに興じる人形、それが道了の本質だ。

 ユエとマオだけじゃない。
 梅花とお袋も。

 道了にとって梅花は人形にすぎなかった。
 あるじの命に絶対服従の奴隷人形。
 道了は粗暴なガキが人形を扱うように梅花を気まぐれに遇し虐げた。

 嬲り者。
 ストレス発散の道具。

 梅花が壊れたところで別に構わない。
 道了にゃきっと梅花の体に赤い血が流れてるのが見えなくて、梅花をどんだけ傷付け悲鳴を上げさせたところで生身の人間をいたぶってる実感が湧かず、どんどん行為がエスカレートしていったのだ。
 梅花。
 可哀想な女。
 俺に唯一優しくしてくれた女。
 初恋の女。初体験の女。
 俺は梅花が殴られるたびたまらない気持ちになった。
 切れた唇に赤い血を滲ませた梅花を直視するに耐えかね何度も何度も叫んだ、どうしてあんな男がいいんだと、どうして俺をえらんでくれないんだと、俺ならお前を殴ったり蹴ったりしない髪むしったり鼻を折ったり無理やり犯したりしない、絶対幸せにしてやると突き上げる怒りに任せて叫んだ。

 無駄だった。
 全部無駄だった。

 梅花はただ微笑んだ。
 寂しげに微笑んで『謝謝』と言い『対不起』と付け加えた。
 ありがとう、ごめんね。
 謝謝と対不起はいつも背中合わせで俺が望んだ言葉は一度たりとも貰えなかった。ありがとうなんて言うな、救われる気なんかこれっぽっちもねえくせに。俺の手をとる気なんざさらさらねえくせに。ごめんなさいなんて言うな、何もできない俺に。惚れた女を力づくで救い出す度胸もねえ俺に。
  
 梅花。
 お前今、どうしてるんだ。

 「……梅花とお袋の話を聞かせろ」
 体の脇でこぶしを握り込み衝撃に備える。
 鈍りがちな足を引きずり壁際の道了のもとへ赴く。
 糸が縺れ絡まった操り人形のごとく壁際に座り込んだ道了の瞼がぴくりと痙攣し、金と銀の眼球がぐるりと回る。
 こきりと首を右に傾げる。お次は左。
 間接に不備はないか確かめるように奇妙にぎこちなく機械的な動作で首を左右に傾げ、躯体の性能を確かめるように緩慢に立ち上がる。
 膝が伸び下半身が固定され腰が立ち上半身が起き上がる。
 人形が再び駆動しはじめる。
 沈黙の重圧。
 眼鏡越しの双眸を胡乱げに細める鍵屋崎、木刀に手をかけ牽制するサムライ、ごく薄く口元に笑みを刷くレイジ。
 残虐兄弟を両肩に担いだ凱が、巌の如き巨体にはち切れんばかりの闘志を漲らせる。 
 残虐兄弟に対する非道な仕打ちをまざまざ見せ付けられた道了側の囚人どもが、隠し切れぬ怯えを目に宿しあとじさる。
 「ひっ……」
 氷点下の殺気にぶるった囚人には目もくれず、正面きって道了と対峙する。
 道了は埃まみれの風体を気にする様子もなく、相変わらずの無表情を保つ。

 無機質で無感動な人形の瞳。
 俺の言葉が奥底に届く事は決してないと絶望させる瞳。

 「道了、あの時言ったことは本当か」
 それでも諦めず食い下がる。
 一週間前の真相を確かめるため、虚実入り混じった言動から一粒の真実をすくうため、緊張に汗ばむこぶしを固く固く握り締め、かつて俺を迎え入れた人形の王に挑む。

 梅花。お袋。
 頼む、生きててくれ。

 優しく微笑む梅花とつんけんしたお袋を思い返し、衝動的に一歩を詰める。 
 「ふたりを殺したって、本当なのか」
 頼む、嘘だと言ってくれ。
 心が悲鳴を上げる。
 胸がぎりぎりと締め上げられる。
 答えを聞きたい気持ちと聞きたくない気持ちが激しくせめぎあい磁力が同等の葛藤を生む。
 脳裏を巡るさまざまな思い出。
 お袋。
 優しくしてくれたことなんか滅多になかった。
 憎い男の血を継ぐガキを憂さ晴らしに虐待し、客がくるたび屋外にほっぽりだすとんでもない尻軽女だった。けれどもとうとう嫌いになりきれなかった。今もそうだ。今でも俺は母親離れできない甘ったれたガキのまま、いつかいつの日かお袋が振り向いてくれることを心の底で期待してる。
 梅花。
 いつも優しくしてくれた。
 青痣だらけの顔で寂しげに笑ってた。
 火照った柔肌としっとりぬれた睫毛と潤んだ目、熱い唇の感触。俺を呼ぶ声。取り立てて美人でも醜女でもなかった。特筆すべきところなどどこもない十人並みの容貌だった。けれども俺の目にはどんな女より魅力的に映った、どんな美人よりも生傷と痣を絶やさずそれでも笑ってる梅花が綺麗に見えた。
 今でもそうだ。
 梅花はこれまで俺が出会った中でいちばんの美人だ。
 見た目なんか問題じゃない、梅花ほど心が綺麗な女は世の中にそうそういない。

 二人がいないなんてうそだ。
 俺が愛した女がふたりとももうこの世にいないなんて嘘だ。

 「嘘だろ?なあ、嘘だよな?」
 二歩、三歩と間合いを詰める。
 道了は動かない。
 微動だにせず俺を待つあいだもその表情は微塵も揺るがず沈黙を守り続ける。
 四歩、五歩。
 目の前に道了がいる。手を伸ばせば届く距離に。
 道了の肘を掴む。
 手加減などはなからしない。
 無抵抗の道了の肘を容赦なく揺さぶり、叫ぶ。

 「いくらお前だってそんな無茶なことしないよな、俺を哀しませるためだけにお袋と梅花を血祭りにあげたりしないよな、二人を殺したりしないよな?何とか言えよ道了、どうなんだよ。だってあんまりじゃねえかそんなのって、お袋はたしかにいい母親じゃなかったけど意味なく殺されるほど悪い女でもなかった、だって俺をなぐさめてくれたんだ、頭をなでてくれたんだよ!梅花だってそうだ、いっつも俺をなぐさめてくれた、嫌われ者の半々で月天心にも居場所がなくてチームの連中に小突き回されてぼろぼろになった俺に『大丈夫?』って声かけてくれたんだ、怪我の心配してくれたんだ!畜生いい女じゃねえかよ、あんないい女世界のどこ探したっていやしねえよ。心があったかくて、すっげえあったかくて、俺は今でもあいつが……」
 あいつが。

 『ロン』 

 好きだ。大好きだ。畜生悪いかよ、一度振られた女を好きでい続けて悪いかよ、片思いし続けて悪いかよ。
 今の俺にはレイジがいる、レイジっていう最高の相棒がいる。
 だけど梅花は別格だ。
 俺が生まれて初めて好きになった女なんだ、お袋以外に初めて守りたいと思った女なんだ。
 今でも特別な女なんだ。

 『………我愛弥。我愛弥、我愛弥、我愛弥』
 『殴られたら痛いよ。蹴られるのはやだよ。そんなことされたら怖くて怖くて、ああ、こんな人には絶対近寄れないもう今度こそおしまいだって心から思う。でも、駄目なの。もし私がいなくなったらこの人どうなるんだろうって考えると別れられなくなるの。そんな顔しないで。わかってるよ、バカだって』
 『私はひとりぼっちが怖い。だからどんなにひどくされてもあの人のそばから離れられない。逃げ場はないけどそれでいい。逃げ道用意して人を好きになるなんて卑怯だよ』
 
 梅花は自分から逃げ道を断って道了に殉じた。
 梅花。
 お前、それで本当に幸せだったのかよ?

 「教えろよ道了、梅花とお袋に何したんだよ!?」

 感情が爆発する。
 爪が食い込む感触が指と手に伝わる。
 
 『愛してる。愛してる。愛してる』

 掴んだ肘を一筋血が伝う。
 体の奥底で衝動が膨れ上がる。
 道了は肘に爪が食い込む痛みに顔を顰めるでもなく、情動の凍えた目で俺の観察を続ける。
 
 『私をひとりにしないで』
 『いかないで』
 『捨てないで』 

 梅花の声がお袋の声と溶け混じり肘を掴む力が増し骨が軋み、傷口から血が流れる。

 赤イ、
 赤イ血。

 道了の腕を伝う赤い血が指を染め手をぬらし、一片残らず理性が蒸発し、壊れても構うものかと力任せに揺する。

 梅花。
 お袋。

 ああ、どうか。

 「俺を生んだ女と俺が惚れた女に何しやがったんだてめえふたりに手え出したら承知しねえぞ、お袋と梅花は幸せになんなきゃ駄目なんだよ今まで苦労したぶん目一杯これでもかってほど幸せになんなきゃだめなんだよ、俺がそう言ってんだからそうならなきゃ嘘なんだよ、梅花とお袋が幸せになれねえ世界なんてもうどうしようもなく何かが壊れて間違ってるんだよ、可哀想な女が一生死ぬまで可哀想でい続けなきゃなんねえ世界なんて絶対間違ってる、だってそうだろそうだよな、愛して愛されないのも願って報われないのも祈って救われないのもお断りだ、もしお前が愛さず与えず救わずお袋と梅花を殺したってんなら俺はお前をっ!!!」
 
 どうか無事でー……
  
 「香華の内腿にはほくろがあった」

 手が止まる。
 耳を疑う。

 香華。
 お袋の本名。
 何故道了が知っている?
 何故ゴミのように呼び捨てに?

 道了は続ける。
 淡々と続ける。
 「内腿にほくろがひとつ、右耳の裏にほくろがひとつ。恥骨に近いあたりに古い火傷のあとがあった。煙草か……線香で焼かれたあとだ。香華がいちばん感じる部位はうなじだ。うなじを甘噛みするといい声で鳴いた。年増の割に感度のいい女だ」
 道了は過去形で語る。
 その口調がほんのわずか嘲りを含み、金と銀の瞳が不可知の輝きを放つ。
 能面じみて冷徹な無表情に揺らぎが生じ、あまりに淡すぎて何を核とするか読み取れぬ感情が双眸に閃く。

 道了が発した言葉がぐるぐると脳裏を回る。

 お袋の内腿のほくろ『ひとつ』右耳の裏にも『ほくろが』そうだった、思い出した、お袋には確かに道了が言ったとおりの部位にほくろがあった、下腹部の火傷も覚えてる。ずっと昔まだ俺が指しゃぶりしてたガキの頃夏の暑い日お袋が下着姿で涼んで『火傷が』下着がめくれ『線香の』 
 『いちばん感じる部位はうなじだ』なぜそんなことを『甘噛みするといい声で鳴く』客しか知らない『年増の割に感度がいい』実際抱いた客しかー……

 抱いた?
 お袋を?
 
 抱いて、

 「それからどうした?」
 どうしたんだよ。
 答えは薄っすらと予期していた。
 しかし聞かずにはいられなかった。
 聞きたくない聞きたくない聞いたらおかしくなってしまう今度こそ狂ってしまう、俺はもうこれ以上最悪のことを知りたくない、これ以上絶望したくない!
 だけど聞かずにはいられない、お袋をどうしたか直接本人に問い詰めずにいられない。
 ひょっとしたら俺の予想は外れてるんじゃないか、最悪の事態は回避されたんじゃないか、これは全部道了のでまかせでほくろと痣と火傷の位置もあてずっぽうのまぐれあたりで全部俺を脅かすためのでたらめで……

 動転した俺の眼前、懐に手をさしいれた道了が指先に何かを摘む。
 「首の骨を折って殺した」

 嘘だ。

 心が現実を否定する。脳が現実を拒否する。 
 道了が懐からゆっくりと優雅な所作で手を抜き、俺の眼前に白くて四角い物をつきつける。
 見覚えのある牌。字の掠れ具合も思い出そのままだ。
 懐かしさと切なさ、それらを蚕食し膨れ上がるどす黒い不安。
 この牌は見覚えある。
 いつだったかあれはそうガキの頃、根性曲がりの客に煙草で焼かれた俺が泣き喚いてるとベッドから抜け出たお袋がこれを拾い上げ
 手入れを欠かさぬ綺麗な指先で摘み上げ

 『せっかくかっこいい名前もらったんだからそれにふさわしい男になりなさい。龍』

 思い出の中の笑顔が急速に薄れていく。

 「こんなふうに」
 道了が指先に力を込める。
 指に挟み込んだ牌に圧力がかかりプラスチックにひびが入る不吉な音、思い出の牌が俺の目の前で軋み歪みそして

 文字通り、粉砕された。
 俺の心と一緒に、跡形もなく。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050325193232 | 編集

 ロンが愕然と立ち竦む。
 いつも生気に満ち溢れ活発に輝いていた目が、幼い顔の中でも一際生き生きと感情を映し溌剌と輝いていたその目が急速に濁っていく。
 あまりに急激で唐突な変化。
 それだけ道了がもたらした衝撃は甚大だった。
 道了の言動はロンに凄まじい打撃を与えた。
 ロンは無我夢中で道了に詰め寄った。
 その目は必死だった。母と初恋の人の生死を知るためなら手段を問わないと見てるこちらが息苦しくなるほど思い詰めた目と必死な形相でロンはなりふりかまわず食い下がった。
 ロンにとってそれだけ二人は大事だったのだ、何者にも代え難い大事な存在だったのだ。
 僕にも同じ存在がいるからわかる。
 恵。最愛の妹。
 かつて世界と引き換えても守りたいと志した心の拠り所、僕自身の存在意義と存在価値が起因する存在。
 サムライというかけがえのない友を得た今でも恵の存在は以前と同じく心の中心を占めている。
 恵の代わりなどいない、代用品などない。
 僕は以前自分は苗の代用品ではないかと苦悩したがそれは大きな間違いだったと経験から学んだ。
 これまで地球上に誕生した人間の中で一人として同じ人間はいない、これは奇跡としか言いようがない天文学的確率の遺伝子の采配だ。遺伝子の可能性は無限だ。神秘の螺旋を描く遺伝子の組み合わせは無数に存在する。この星に生を受けた人の中でただのひとつとして同じ個体はない。容姿・思想・考え方感じ方ごくささやかな癖に至るまで近似値の人間はあれど完璧に同一の個体というのは今もって在り得ない。

 だれにもだれかの代わりなど務まらない。
 務まるわけが、ない。

 僕にとっての恵がそうだ。
 他の人間に恵の代わりが務まるわけなどないし僕自身恵の偽者がほしいとは思わない。妹の代用品をもとめるなど恵に対する侮辱だ。同様のことがサムライにも言える。こんな仮定をするのは僕とて本意ではないが仮にサムライが死んだとして、僕はサムライの代わりに僕を庇護し包容する人間を求めたりはしない。
 サムライはサムライだ、他の誰にもなれないしなりようがない。
 人は生涯自分以外の人間にはなれない、自分の人生から逃げることはできないのだ。
 サムライは僕にとって生まれて初めてできた友達であり人を信頼することを教えてくれた恩人でありそして……僕の胸を熱くすることができる唯一の男だ。
 この感情を何と呼ぶかは知らない。
 薄々気付いているが今は保留しておく。
 サムライを失いたくない、離れたくない、ずっとそばにいてほしい。だが仮にサムライがいなくなったとして彼の代用品としての他人を求めたりはしない。
 他人を求める時はだれの代わりでもなく個人を渇望する。
 ロンにとってもまた母親と梅花はかけがえのない存在だった。
 ロンがいかに二人を大切に思っていたかは想像に難くない。ロンはそういう人間だ。自分の身を顧みずひたむきに他人に尽くし続ける人間だ。自分の無力を呪い非力を嘆きそれでも前に進もうとする人間だ。僕はロンの強さに憧れる。ロンみたいにありたく思う。
 ロンがレイジや母親や想い人に対し貫くどこまでも一途な姿勢は、時に逆境を克服する強さと成り得る。

 僕はロンに人の可能性を見る。
 だが、今のロンは。

 「……………そ、だ」
 道了の指先からぱらぱらと粉末が零れる。
 道了の握力は想像を絶している。プラスチックの牌を指先に少し力を込めるだけでたやすく砕いていしまった。
 ロンは力なくへたり込む。
 二本の足で自重を支える気力も尽きたらしい。
 膝が砕けるように崩れ落ちたロンは、虚ろに濁った目で床を走査する。
 奇妙に緩慢な動作が不安を煽る。
 惰性じみて愚鈍な動きで体前に両手をさしだし床をさぐる。
 蛍光灯が放電する音、明滅する視界、肌寒い空気。
 外界のあらゆる刺激に反応を示さぬ閉じた無表情。
 生き生きと憎まれ口を叩く普段のロンとは別人としか思えぬ変貌ぶりに僕もサムライも言葉をなくす。
 砂金でも掬うように床一面にちらばったプラスチックの粉末を両手でかき集める。
 すくい上げたそばから微小な粉末は指の隙間をさらさら滑り落ちる。
 しかしロンはやめない。
 惰性じみた動作で粉末をかき集めては牌を復元しようと試みるも指の隙間を滑り落ち大気中に吹き渡る。
 「あ、あ、ああ」
 言語中枢が退化した赤ん坊のように意味なく呻き、からっぽの両手を呆然と見下ろす。
 どれだけあがいたところで何も掴む事ができないという現実を痛感し、ロンが悲嘆に暮れる。
 道了は黙ってロンの狂乱を眺めている。
 観察してるといっても過言ではない冷ややかな眼差しと凍て付く無表情でもって、床に這いつくばり一生懸命粉末をかき集めるロンの醜態を見下している。 
 ロンの頭上に捧げた指をゆっくりと擦り合わせる。
 牌を潰したせいで指が汚れたことを厭うが如く。
 「牌が、俺の牌が。母さんがくれた牌が」
 ロンがうわ言を呟く。
 道了が無造作に片足を振り上げる。
 ロンの鼻先を掠め振り下ろされた足が靴が一掴みの粉末を踏み付け蹴散らす。
 ロンがせっかく苦労してかき集めた粉末は道了に蹴飛ばされ散り散りになり埃と塵にに紛れて判別つかなくなる。
 粉末から粉塵へと変じた牌の残骸へと手を伸ばすロンの眼前に道了が立ち塞がる。
 「母さん、どこ行ったんだ」
 「もういない。俺が殺した」
 「どけよ、母さんが行っちまう」
 ロンがむりやり道了をどかそうとする。
 道了の足にかじりつき押し倒そうと渾身の力を込める。
 道了はびくともしない。
 不動で直立する道了に懸命に取りすがりながらロンは連綿と独り言を呟く、細腕に精一杯の力を込め道了をどかし一心不乱に母の幻影を追おうとする。
 「あの牌はお袋がくれたんだよ母さんが俺にくれた最初で最後のおもちゃでお守りなんだ、薄汚え牌だけど欠けてるけど俺にとっちゃかけがえのないお守りなんだ、家を出る時もってこうかどうか迷ってでも勢いのまま追ん出てきたから引っ込みつかなくて結局とりに戻れなくてずっと後悔してて、それで、それで」
 置き去りにされた子供のように駄々こね喚き散らし、母親の服の裾を掴んで引き戻そうと限界ぎりぎりまで手を伸ばす。  
 涙はでない。既に枯れ果てた。
 眼球は乾いている。
 乾いた涙の跡が頬に残る。
 ロンは叫ぶ、何かに憑かれたように。
 空虚な目。乾いた叫び。
 現実を拒否し過去の幻影を追い求め決して届かぬ手を伸ばし続ける。
 あまりに痛々しいロンの様子に凱が顔を歪める。
 道了の側の囚人たちも悲哀に満ち満ちた叫びに娑婆に置いてきた者たちの記憶が喚起されるのか、痛みを堪えるように神妙な面持ちで俯く。
 僕とて平静を保てなかった。
 耳を塞ぎ目を覆いたかった。
 普段の快活なロンを知る者にはあまりに辛く残酷な光景だ。ロンは床に突っ伏したまま道了をどかしその向こうに飛ばされた粉末を拾い集めようと果敢に手を伸ばす。

 埃まみれの顔と服をかえりみる余裕もなく腹這い脱臼せんばかりに腕伸ばし床掻き毟る姿は、ただただ必死で。
 みっともないほどに必死で。

 「おいてかないでくれよ」
 やめろ、もうやめろ、やめるんだ。
 それ以上自分をみじめにするなプライドを捨てるな縋るな足掻くな未練を引きずるな、君のお守りはもうないんだ道了の手によって目の前で跡形もなく壊されてしまったじゃないか現実を認めろ諦めろ受け入れろ正気に戻れ帰って来い!!
 微塵も生気が感じられない目、感情が磨耗した顔。
 ここにいるロンはロンじゃないロンの姿かたちをした魂のない人形だロンの容れ物だ。馬鹿の一つ覚えのように呂律の回らぬ舌でたどたどしく単語を反復し足腰立たずにぶざまに床を這い母を呼び乞い求める。
 母に置き去りにされるのを恐れる幼児のようにぐしゃぐしゃに顔を歪めけれども目だけは相変わらず無表情で何の光も映さずここではないどこかを幻視している。
 『我叫龍』
 握り込んだ手が震える。震えは腕から体全体へと広がっていく。
 ロンは連呼する、全身を震わせ天井を仰ぎ連呼する。

 母がくれた名前を。
 今となっては唯一の母の形見を。

 『我叫龍、我叫龍、我叫龍、我叫龍!!』
 コンクリートの通路に余韻を帯びて反響する悲痛な叫び。

 恐慌をきたしたロンが床に寝転がった姿勢で四肢を暴れさせ壁に激突しこめかみから血を流す。こめかみから滴る血を拭いもせずロンは狂ったように叫び続ける、四肢をばたつかせ喉仰け反らせ極限まで迫り出した目に毛細血管を浮かべ僕にすら聞き取れない早口で台湾語を口走る。拳で床を殴る。何度も何度もしつこく殴る。コンクリ床を強打するたび手の甲が擦りむけ血がしぶく。しかしやめず底知れず突き上げる激情に翻弄されるがまま床や壁をめちゃくちゃに殴る蹴るし感情を爆発させる。
 耳朶をくすぐる衣擦れの音。
 「……あんまりだ。見るに堪えん」
 サムライが険しい顔つきで一歩を踏み出す。利き手は木刀にかかっている。
 「斬る」
 鋭利な双眸に殺意が過ぎる。
 鍛え上げた痩身に殺気を充電させ、道了を倒すため行動を起こす。
 僕はサムライを止める言葉をもたず自身の無力を痛感しつつロンの狂態を眺めるしかない。
 ロンは泣かない。本当に絶望した人間は涙など流さない。
 泣くという行為は自虐的な快感を伴うものであり、ひとが涙を流すのは自分を哀れんでいるからだという説がある。
 今のロンには泣く余裕すらない、自分を哀れむ心の余裕すらないのだ。あるのはただ絶望。底知れず深い絶望。深い深い絶望に囚われたロンは奈落から這い上がる術を知らず醜悪にただのたうちまわるだけ、おいてかないでくれと母の幻影に哀願し孤独に叫ぶしかない。
 絶望と悲嘆と焦燥と失意と思慕とが綯い交ぜとなった混沌たる激情がロンの中で荒れ狂う。
 在りし日の若く美しい母の面影に縋り付くように無意識に虚空に腕を伸ばし手招く。
 「母さん」
 『おにいちゃん』 
 搾り出すような呻きに可愛らしい声が重なる。
 ロンの姿に恵が二重写しになる。床にうずくまり両手に粉末を掴むロンがあの日の恵と重なる。
 「恵」
 思わず足を踏み出す。
 恵は僕の声に反応せず顔も上げず虚ろな目で床を見詰めている。
 「恵、僕はここだ」 
 二歩目を踏み出す。
 恵は顔を上げない。僕の存在など完全に眼中になく意識の範疇外だ。
 床に座り込んだ恵の姿に胸が痛む。
 迎えに行かなければ。慰めにいかなければ。
 「君が刺したいのは僕だろう。僕を刺せば幸せになれるというなら刺せばいい。恵の幸せの犠牲になれるなら本望だ」
 本心から言う。
 恵。最愛の妹。
 僕に感情を教えてくれた、僕の生に意味をもたせてくれた。
 再びナイフを向けられたからとて抵抗するつもりは毛頭ない。
 恵の幸せの代償は僕の命、この鍵屋崎直の人生だ。
 悪くはない、恵の幸福と釣り合うほど命が重いと証明できるのなら。
 三歩目四歩目を踏み出す。前を行くサムライの背中が迫る。サムライは木刀に手をかけたまま全身に怒気たゆたわせ周囲を威圧する。
 鋭さを増す横顔と剣呑極まる眼光は彼の心中を代弁する。
 切れ長の双眸に燐光が爆ぜる。
 「俺の友を弄んだ罪は重い。地獄で贖え」
 人の心を弄び貶める卑劣な行為こそ高潔な侍が最も嫌うものだ。
 眼前でロンが侮辱され玩弄され絶望の底に突き落とされたというのに道了を生かして帰してなるものかと譲れぬ気迫を込めて足を運ぶ。
 床一面に散らばった牌の残骸、もはや原形を留めぬプラスチックの粉末を踏まぬよう細心の注意を払いゆっくりと道了のもとへ赴く。
 ついさっき牌を破壊した道了はといえば、サムライの接近にも余裕をなくさず泰然自若と構えている。
 対するサムライは凛と背筋を伸ばし恐ろしく姿勢よく歩く。
 薄汚れた囚人服に身を包んでいても自ずと滲み出る風格と貫禄は偽りようがない。

 恵の幻影に誘われ足が勝手に動く。
 自然と前に出る足に促され体を運ぶ。
 恵の幻覚は一向にその場を去らず僕を待ち続ける。
 恵。僕の妹。
 しどけなく広がったワンピースの裾、体前に付いた華奢な手、二次性徴の兆しが見られない平らな胸。細首の上にのったあどけない顔。小動物のように庇護欲をくすぐる黒目がちのつぶらな瞳、丸い鼻、押し潰されそうな自責に耐えるが如く引き結んだ唇。
 恵を守ってやれるのは僕だけだ。早く、はやく行かなければ……… 

 着実に近付きつつある僕とサムライを無視し、道了が片膝つく。
 片膝折って屈みこんだ道了がロンの顔を両手で包む。
 「哀しいか」 
 手挟んだ顔にむけ、何の感情も交えず告げる。
 ロンは無反応。
 道了に促されるがまま無抵抗に顔を上げる。
 その目は完全に焦点を失っている。
 弛緩しきった唇から一筋涎が垂れる。
 もはや首を振る気力もない、自力で瞬きする気力もない。
 眼窩から放たれる視線は虚空をさまようばかりで目の前の道了もその向こうの僕たちも誰一人として映さない。
 廃人化したロンに道了は再度問う。
 「哀しいとはどんな気持ちだ」
 静かな問いかけは沈黙でもって報いられる。
 ロンは道了の手に顔を預け、壊れた人形の如く手足を無造作に放り出し虚脱しきっている。 
 「俺とともにこい、ロン。母親の最期と梅花の話を聞かせてやる」
 道了がロンの顔を掴み引き寄せる。
 ロンは促されるがまま前傾し道了の胸に寄りかかる。
 道了の胸に上体を凭せた自覚もないのか、道了の腕の中で目を開けたままロンは少しも反応を示さない。
 溌剌と生気に溢れた以前のロンはどこかへ消えてしまった。
 ロンは自分から身を任せるでも力づくで抱かれるでもなく、ただ全身の力が抜け自重を支えることができず、棒きれが倒れるようにたまたま近くにいた人間に寄りかかっているだけでそこにロン自身の意志はひとかけらも感じられない。
 自分が寄りかかる人間を道了と認識すらしてないだろう。

 蛍光灯が点滅し明度がおちる。

 静謐が支配する薄暗い廊下の中央にて、道了の腕の中でじっと息を潜めていたロンが、漸く意味のある言葉を発する。
 「……あんた、かあさんのところにきたの」
 妙にたどたどしい口調に違和感が疼く。
 快活で歯切れよいロンの口調とは似ても似つかぬ舌足らずで子供っぽい発音に伴い、その表情からもまた最後の一片の虚勢が剥がれ落ちていく。
 ロンの様子がおかしい。
 ロンの言動に違和感を覚え立ち尽くす僕の視線の先、道了の腕に縋ってのろのろと上体を起こしたロンが不安げに道了の顔色を窺う。
 「かあさんのお客さん?またおれを追い出すの?お客さんがくるたびにかあさんはおれをおんもにほっぽりだすんだ、どんなに暑くても寒くてもかまやしないんだ、おれよりお客さんのほうが大事なんだ。あんたもそうなの?おれがじゃまだからおんもに追っ払うの?」
 何を、言ってるんだ?
 脈絡ない言動にとてつもない不安が募る。
 卑屈な上目遣い、暴力に怯え萎縮した態度、幼児的な言動。
 サムライが感電したように立ち止まる。
 ロンの言動に目と耳を疑い、信じ難いといった驚愕の面持ちで立ち竦む。
 僕もまた足を止める。
 ロンの表情があまりに恵に似ていて、常に大人の顔色を窺い叱責に怯え身を竦める記憶の中の恵と酷似していて、実年齢十歳で精神的にはさらに幼く脆い恵が示したのと全く同じ人見知りな反応をあのロンが示した事が衝撃で、僕はこれが現実なのか幻覚なのかわからなくなり混乱する。
 ロンは道了に取りすがり叫ぶ、追い出さないでくれと懇願する。
 「仕事中はぜったいドアを開けてくれないんだ、用が終わるまでおんもで遊んでろって言うんだ。泣いても叩いてもだめなんだ。手が痛くなるまでドア叩いていれてって頼んでも開けてくれなくて中からへんな声がするんだよ、おれ母さんがいじめられてるんじゃないかって心配でますますつよくドアを叩くんだ、けどやっぱり鍵が開かなくてどうしていいかわからなくて……ねえ、あんたもかあさんを買いにきたの?あんたもおれを追い出すの?やだよ、おれ部屋のすみっこでじっとしてるから外へ追い出したりしないでよ、かあさんと一緒にいたいんだ。おれさ、麻雀できるんだ。結構つよいんだよ。お客さんのひまつぶしの相手になれるよ。前に来てたおじちゃんに教えてもらったんだ。母さんに先客がいて待ちぼうけ食らったおじちゃんにむりやり麻雀しこまれたんだ。結構見所あるなってほめられたんだよ。すごい?かあさんは鼻で笑ったけど、このままめきめき腕が上がれば賭け事のプロになるのもユメじゃないって……」
 「………っ………」
 サムライが痛ましげに歯噛みする。
 心因性のショックで幼児退行したロンを見るに忍びなく顔を伏せる。廊下に散らばった連中もまた息を呑む。
 蛍光灯がさかんに明滅する。
 薄闇に包まれた廊下の中央にて、ロンの顔を抱いた道了が囁く。
 「俺とともにこい」
 「かあさんは?」 
 「香華も一緒だ。俺とくれば香華に会える。俺は決してお前を追い出したりしない。俺の言う事だけ聞いてればいい」
 「おれと遊んでくれる?」
 芯から冷えるほど凍て付く床に膝を崩し座り込み、道了の手に顔を預けたロンが、淡い期待を込めて聞く。
 どこまでも無垢に澄んだ瞳、どこまでも無邪気な問いかけ。
 母親に邪険にされ部屋の片隅で膝を抱えていた子供の頃にもどってしまったロンは、唯一自分に優しくしてくれる大人に対し心を許し、遠慮がちに、かすかに不安げに聞く。
 「麻雀で遊んでくれる?おれ、つよいよ」
 道了が首肯する。
 ロンの顔が安堵に弛緩し控えめな笑みが上る。
 床一面に撒かれた牌の残骸の粉末がロンの膝を擦れ合いざりっと耳障りな音をたてる。
 ざらつく粉末をものともせず膝を動かし今度は自らすすんで道了の腕にとびこむ。
 道了はロンの背中に腕を回し抱擁する。
 「………お前は俺の物だ、ロン。死ぬまでずっとそばにおいてやる」
 能面じみた無表情は小揺るぎもせず、しかし平板な声の底にかすかに勝ち誇った響きが宿る。
 ロンの腰に手を回し立ち上がった道了は、ロンが大人しく抱かれているのをいいことに上着の裾をはだけ巧みに手を滑り込ませる。
 「今度はお前が梅花になれ。梅花の身代わりとして俺に抱かれろ。俺もできるだけ壊さぬようお前を扱う。お前は貴重な人形だ。無味乾燥な灰黒の世界に色を与えてくれるかもしれない貴重な人形だ。お前は壊さずできるだけ長くそばにおく、そして観察する。一生かけてお前の身も心も壊してやる」
 金銀の双眸に狂気が閃く。
 衆人環視の中、無抵抗なロンの服をはだけ腹筋と胸板をさらし性急に獰猛に素肌をまさぐる。
 痩せた腹と胸に沿い手を這わせ器用に指蠢かし性感帯を開発する。へそのまわりで円を描いた手を上昇させ胸板をさする。胸板を愛撫される心地よさに徐徐に息を乱し始めたロンの乳首を予告なく摘む。
 「!ふあっ……」
 乳首を絞る痛みと快感にロンが切ない声を上げ身を反らせる。
 「母親と同じで乳首は敏感だな」
 器用な指が乳首を執拗に捏ねくりまわす。
 摘み抓り捻り揉む。
 乳首を押し潰される痛みにロンが嫌々と首を振る。
 目に薄っすらと涙を浮かべ苦痛に顔を顰め喘ぐさまは幼い顔に似合わず扇情的でさえある。
 道了は想うさまロンを蹂躙し陵辱する。
 ロンの上着を胸元でたくし上げ衆目に裸身をさらし乳首を揉みしだく。衣擦れの音が淫靡に際立つ。
 ロンの首筋を唇で辿る。
 首筋を愛撫するくすぐったくもむず痒い感覚にロンが身悶えるも無視し、顎を掴んで強引に自分の方を向かせる。
 「長かった。漸く手に入れた」
 「うあ、あう、ひぐぅっ……」
 嗚咽とも喘ぎとも判別つかぬ呻きを漏らし道了の手から逃れようとロンが首を振る。しかし道了は許さない。万力めいた怪力でロンの顎を固定するや、強引にその口をこじ開けて舌を挿入する。
 「もう放さない。お前は俺の物だ。その苦悶の表情瞬き苦悶の声衣擦れの音ひとつに至るまで俺のものだ。梅花よりも頑丈な玩具。梅花よりも俺を理解する玩具。俺はずっとお前がほしかった、あの雨の日お前と偶然出会ってからというものずっとずっとお前の身と心を手に入れたかった。お前はどれだけ殴られ蹴られ暴力をうけても決して屈服せず強い目で俺を睨んできた、決定的な実力差がありながらも真っ向から俺に挑んできた。小気味よかった」
 道了の舌がロンの口腔を蹂躙する。
 歯列の裏をさぐり舌を吸い粘膜を熱く蕩かせる。
 唾液を捏ねる音が淫猥に響く。
 酸素を欲し仰け反る喉をいやらしく唾液の筋が伝う。
 道了は貪欲にロンの口腔を貪り舌を絡め取る。
 ロンが弱々しい拳で胸を叩きもうやめてくれとせがんでも容赦せず喉深く達するほど舌をもぐらせロンの本性を暴こうと尋常ならざる執念を燃やす。
 「だが、お前の歪む顔もまた格別だ。これほど人間らしく醜悪な表情は見たことがない」
 「ふぐぅ……あふ、あっ……」
 道了の腕の中でロンの背骨が撓る。
 被せた唇から唾液が滴る。
 絡んだ舌が情欲に燃える。
 道了とロンの濃厚な交わりを見せ付けられ至近のサムライの顔が憤怒に燃える。
 「……虫唾が走る」  
 獰猛に犬歯を軋らせたサムライが手を一閃、電光石火の速度で木刀を抜く。鞭のように手首が撓りその先がかき消え木刀が上段に振り被られる。

 転瞬。

 サムライが木刀を上段に翳すのと入れ違いに猛然と投擲された十字架が、銀の閃光を曳き道了の鼻先を掠め壁に激突し甲高く澄んだ音が爆ぜる。
 もう少し身を乗り出していれば鼻が削ぎ落とされていた。
 先端を向け飛来した十字架は壁に激突し宙高く弾かれる。
 蛍光灯を反射し眩い銀光を撒き散らし軌道を下降する十字架をその場に居合わせた全員が反射的に仰ぐ。
 宙高く舞い上がった十字架を金銀の瞳に映す道了、その腕の中でしきりと身悶えていたロンもまた驚きを禁じ得ず十字架の残像を辿る。
 宙に舞った十字架を褐色の手が掴む。
 五指に金鎖を絡ませ十字架を掌握した青年は、絶世の美形と評すべき端正な顔に獰猛な闘志を剥き出し、唄うような抑揚で宣言する。

 『Let's dance,killingdool.On my hand』
  暴君の覚醒。

 先ほどとはがらりと雰囲気が豹変している。
 その顔つきまでもが邪悪に変貌する。
 口元に薄く刷いた笑みは虚飾に過ぎず、伸びた前髪の奥で爛々と輝く目は手当たり次第に敵を屠る猛獣のそれだ。
 暴威の降臨。
 十字架を取り戻したレイジが素早く動く。
 強靭な脚で床を蹴り反動で高々跳躍、棒立ちとなった囚人らの頭上を飛び越え一気に道了に肉薄する。
 『Be broken』
 蛍光灯を背に躍り上がったレイジが上着の裾をはためかせしなやかに引き締まった腹筋を披露する。
 呆気にとられた囚人らの頭上を踊り越えたレイジが申し分なく長い足を中空で旋回させる。止めに入る暇も避ける暇もなかった。
 咄嗟にロンを引き離した道了の視界に風切る唸りを上げて迫り来る必殺の蹴り。捻りを加え反動で振り被られた足は凄まじい打撃の威力を伴い道了の頭部に炸裂、脳を直接揺すられた道了が手を泳がせ倒れる。
 暴君が軽快に着地する。
 上着の裾が風を孕んで膨らみ弧を描く。
 暴君は口元に薄っすらと微笑を塗り、無造作に道了の胸ぐらを掴み引き上げ背中から壁に叩き付ける。
 轟音、震動。
 壁に衝撃が走り天井に突き抜け蛍光灯が横揺れ埃が降り積む。
 『Do you have a pain in it?』
 狂気に駆り立てられた暴君が残酷に問うも、蹴りで脳を揺さぶられ背中から叩き付けられた衝撃で内臓を痛め血反吐を吐いた道了は朦朧と視線をさまよわすだけ。
 道了の胸ぐらを掴み引き寄せる。
 道了が続けて吐血する。
 レイジの顔と服の胸元に血をぶちまけた道了は、憔悴の色濃い顔にしかし一片の感情も浮かべず沈黙を守り続ける。
 本当に痛みを感じてるのか疑問をもたざるえない鉄面皮。
 どす黒く染まった服の胸元を興味なく一瞥、藁色の髪の隙間から凄絶な眼光を放ち、狂える暴君が十字架を手にもつ。
 憎悪に支配された暴君はどこまでも残酷に非情に冷徹に、ロンが味わった痛みを道了にその身をもって贖わせようと行動を開始する。
 『Hello, Christ』
 凄味を帯びた笑みが顔全体に広がる。
 恐怖を煽るように緩慢な動作で高々と腕を翳す。
 その手は十字架を握っている。
 十字架の潰れたほうを先端に鈍い光沢を放っている。
 何をする気だ?
 疑問符を顔に浮かべた囚人が暴君の迫力に気圧され遠巻きに眺める中、頭上高く十字架を翳した暴君が呼気低く聖句を唱える。
 異常な静けさに包まれた面持ち。漣立つ感情すべてを内含し沈静した声音で祈りを捧げる。
 その顔はとても穏やかで
 『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』
 とても優しげで
 こんな種類の表情、人が浮かべてはいけない。
 こんな美しくおぞましく邪悪で神聖であらゆる矛盾を内包しなお神々しい表情、人が浮かべてはいけない。
 暴君は敬虔に祈りを捧げる。
 舌の根乾くまで聖書を暗唱する。
 壁によりかかり息を荒げる道了の頭上に潰れたほうを先端に十字架を掲げ。
 『イエスを十字架につけてから彼らはくじをひきイエスの着物を分けそこに座ってイエスの見張りをした。偽りの証人は罰を免れない、まやかしを吹聴する者は滅びる。よこしまな証人はさばきを嘲り悪者の口は災いを飲み込む。さばきは嘲る者のために準備され鞭打ちは愚かな者の背のために準備されている。災いのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。ゆえなく傷を受けるものは誰か。血走った目をしているものは誰か』
 指の関節が軋み、今にも折れ砕けそうな力が十字架に篭もる。
 暴君は笑っていた。微笑していた。道了は無表情だった。
 次の瞬間自分の身に起きる出来事がわかっているのかいないのか、金と銀の冷ややかな眼差しで暴君を仰ぎ審判の刻を待つ。
 暴君が十字架を高く翳す。
 蛍光灯の光を弾いて神々しく輝く十字架、捻れ潰れたその先端が道了の手のひらを狙う。
 『私は殴られたが痛くなかった。私は叩かれたが知らなかった。いつ私はさめるだろうか。もっと呑みたいものだ』
 暴君が微笑む。
 「……―お前はどうだ?」
 暴君が有無を言わさず道了の腕を掴み顔の横に固定し五指を強引にこじ開け間接限界まで広げさせる。
 壁に縫い止められた道了の右の中指めがけ鋭利な疾風とともに十字架が振り下ろされる。
 肉が潰れる鈍い音。
 僕はその瞬間を目撃した。
 捻れ潰れ錐揉み状の螺旋を描いた十字架の先端が、まるで栓抜きのように剣呑なその先端が狙い違わず中指の爪を殴打する。
 毛細血管と痛覚神経が集中する中指の先端を殴打されたのだ、常人なら想像を絶する激痛に失神してもおかしくない。
 爪が割れ肉がひしゃげ赤い血が噴き出す。
 だがそれで終わりではない、まだまだ序の口だ。
 暴君は嬉々と笑み目を覆う拷問を継続する。
 中指に十字架をあてがいぐりぐりと力任せにねじり、割れた爪と皮膚のあいだに十字架を挟み、徐徐に力を加えていく。
 爪と皮膚がめきめきと嫌な音たて剥離する。
 暴君はごくゆっくりと調整しながら中指の爪を剥がしていく。
 できるだけ苦痛を長引かせようと爪と皮膚のあいだにめりこませた十字架の先をあまり深入りさせず、慎重に慎重に肉へと沈み込ませる。
 あっけなく爪が剥がれる。
 剥がされた爪が血の尾をひき床で跳ねる。
 壁に力なくよりかかり体の脇に腕を垂らす道了、その右手の中指は血まみれで酷い有り様だ。
 力を失った指からぽたぽたと血が滴る。
 「美味そう。赤くて綺麗な葡萄酒だ」
 爪を剥がれて赤黒い肉が露出した指を見下ろし暴君が笑う。
 道了の右手を優しく掴み、顔の前に持ってくる。 
 「お前の血を飲ませてくれよ」
 顔の前にもってきた道了の手にゆっくりと唇を這わせる。
 手の甲に上品に接吻し、小指の先から順に含んで口腔で転がす。
 中指から垂れた血が暴君の顔に血化粧を施す。
 暴君は恍惚と濡れた目で丁寧に指を舐め奉仕を施す。
 発情した軟体動物のように淫猥に赤い舌を道了の指に絡め、熱く潤んだ口腔に一本ずつ呑み込み鉄分を搾り取る。
 透明な唾液の糸引き名残惜しげに親指を抜く。
 最後に残るのは中指。
 最前爪を剥がれ今だ痛々しく血を流し続ける中指を抵抗なく口に運ぶ。
 中指から滴る血が仰け反る喉を斑に染め抜く。
 暴君が他の指にも増して執拗に中指をねぶる。
 唾液を捏ねる音をくちゃくちゃとたて、赤黒い肉が露出した指先を波打つ舌でねぶり緩急つけて吸い上げる。
 唾液と溶け混ざり薄赤く中和された血が暴君の顎伝いに落ちる。
 漸く満足したらしく、唾液に濡れそぼった指が引き抜かれる。
 「パンは肉、葡萄酒は血」
 葡萄酒の血に酔った暴君が再び十字架を握る手に力を込め翳す。
 「贖罪の磔刑だ。懺悔するなら今だ」
 「……懺悔することなど何もない」
 荒い息の狭間から掠れた声を搾り出す道了の正面、血塗れた十字架を振り翳し暴君が哄笑する。
 「余っ程杭打たれるのが好きなんだな。それならいいさ。ロンとロンのお袋とロンが惚れた女の分まで存分に苦しんで地獄におちろ。四肢に杭打たれもがき苦しみゆっくりと血を失いながら死んでいけ。生きながら干からびるのがお前に似合いの最期だ」
 断罪の手を振り下ろす。
 肉が潰れる音とともにあたりに血が飛び散る。
 錐揉み状に螺旋を描いた十字架の先端がキリストに見立て壁に磔にされた道了の掌の中心を容赦なく刺し貫く。
 「…………っ、」
 右掌を縫いとめられ、道了の顔がごくわずかに歪む。
 道了の右掌を貫いた十字架を掴んだまま暴君はその残虐性を存分に発揮し、肉に沈んだ十字架を右へ左へ捻る。
 肉を抉る激痛に体が突っ張り眼球がぴくぴく痙攣を始める。
 「いい格好だな」
 キスの角度で顔を近付け暴君が囁く。
 唇が触れそうで触れない紙一重の距離で嘲弄し、優雅にまた離れていく。
 「痛いか?道了。だけどまだ足りない、この程度の葡萄酒じゃ杯も満たせねえ。お前はもっともっと血を流し苦しみ続ける必要がある。なあ、今どんな感じ?熱くて痛くてたまらない?太い物で肉をむりやりこじ開けられ貫かれて今にも白目剥いて逝っちまいそうだろ。その気持ちわかるぜ、俺も体験したことあるからな。でもまだ絶頂じゃないよな。生ぬるい前戯で達されちゃこっちも困るんだよな。ロンの母親を犯した時はどんな感じだった?梅花を犯した時は?熱く猛ったモンを女の股ぐらにむりやり突っ込んで揺さぶってだらだら血を流させたんだろうが。お前はその股ぐらに口つけて葡萄酒を啜ったわけだ、たらふくご馳走になったわけだ。今度はお前が身を捧げる番だ。ロンのお袋と梅花って女が味わったのよりずっと強烈な快楽をくれてやる、葡萄酒を浴びる快楽の中で狂い死にさせてやる」
 すっと十字架を手放す。
 しかし十字架自体は道了の手を貫き壁に穿たれているため抜け落ちない。壁に磔にされた道了の上に暴君が覆い被さり衣擦れの音も性急に身を貪り始める。
 首筋に顔を埋める。
 口端から鋭く尖った犬歯の輝きが零れるのを目撃した次の刹那、暴君の牙は道了の首筋にずぶりと沈んでいた。
 暴君は肉を食らい血を啜る。
 無抵抗の体をまさぐり慣れた動作で上着の裾をはだけ素肌を外気に晒す。
 褐色の手が肌に吸い付く。
 壁際に追い込まれ右手を串刺しにされた道了の体を暴君は本能の赴くまま貪り食らう。
 銃創・刺し傷・火傷、あらゆる種類の怪我のあとが刻まれた腹をなでさすり胸板を唇で辿り乳首を指の腹で転がす。
 褐色の手が股間に伸びる。
 道了のズボンの中へと潜り込み巧みに引き摺り下ろす。
 下着がずれ、裸の下肢と性器が露出する。 
 「足開けよ」
 暴君が低く命じる。
 道了が従わないと見るや右掌を穿った十字架をぐりっと回し、道了が身を仰け反らせた隙にむりやり膝を割り腰を抱え上げる。
 「お前の仲間に見せてやれよ、不感症のお人形のよくできたペニスをさ」
 道了に体を密着させ、萎えた性器を掌握しよく見えるよう上向かせ、暴君がせせら笑う。
 蛍光灯がしきりと点滅する薄暗い通路の片隅、むりやり道了の足を広げさせた暴君が肛門の窄まりを指で探り当てる。
 「レイジ、やめろ」
 仲間が見ている前で、ロンが見ている前で、道了を犯す気か?
 犯してから殺す気か?
 駄目だ、そんなことさせてはいけない。レイジに殺人を犯させてはいけない絶対に。止めなければ、暴君の暴走を阻止せねば、レイジを呼び戻さねば。気付けば僕は駆け出していた、棒立ちになった囚人らの間を全速力で走り抜け暴君の背中にむかって叫ぶ。
 「やめるんだ、何をしている!ロンが見てる前で道了を犯すのか、それが君の復讐か?そんな事をしたところで意味がない、どうしてわからない!」
 「引っ込んでろキーストア。お前も犯られたいか」
 振り向きもせず暴君が拒絶する。
 警告に迷いが生じるも己を叱咤し暴君の肩を掴む。
 風圧が顔を叩く。
 「直っ!!」
 サムライの叫びが耳朶を掠める。
 自分の身に何が起きたかわからない。
 体を横ざまに叩く衝撃。
 レイジが体ごと振り向きざま腕を薙ぎ払ったのだ。
 転倒の拍子に眼鏡がはずれ床を転がる。
 視界が歪む。
 強打した肘と腰がひりつく。
 床を這いずり手探りで眼鏡を拾い何とか体勢を立て直す。眼鏡をかけ直し顔を上げた僕の目に衝撃の光景がとびこんでくる。サムライが僕を庇いレイジと対峙、レイジの凶行を身を挺し阻止せんと覆い被さる。
 否。
 今サムライと対峙してるのはレイジではない……暴君だ。
 「!!っ、血迷ったか!」
 申し分なく長い足が宙を旋回し顔面を急襲する。
 間一髪、顔前に立てた腕で防御し直撃を防ぐも腕に炸裂した衝撃は強烈で踏み止まるだけで精一杯のサムライに暴君は猛攻を仕掛ける。
 「やめろ、サムライがわからないのか!」 
 木刀を立て暴君の攻撃をいなしかわすもサムライは分が悪い。
 狂気に駆られた暴君は仲間が相手といえど一切容赦せず、死角から苛烈な蹴りを見舞い跳躍し間合いをとり追撃に備える。
 「体が熱いぜ。葡萄酒に酔ったかな」
 「いい加減目を覚ませ、ロンの目の前で人を殺すつもりか!」
 サムライが激昂する。
 しかし暴君は聞く耳もたず、大仰に両手を広げてみせる。
 返り血に濡れた顔に恍惚と笑みが浮かぶ。
 「こいつはここで死んだほうが幸せなんだ。誰にとって幸せかって?そりゃ勿論ロンのためさ、さらに言うなら俺とロンのためさ。アーメンハレルヤオーマイゴッ!さあ遠慮なく俺を祝福しろ、ロンの行く手に立ち塞がる邪魔者を根こそぎ薙ぎ払うのが俺が俺に課した使命で宿命だ、邪魔する奴は憎しみの名のもとに皆殺しー……」

 『不要這様!』 

 激しく揉み合うサムライとレイジの間に突如割り込んできたのは、ロン。
 今しもサムライめがけ蹴りをくれようとしたレイジが半笑いで停止、驚き目を見開く。サムライもまたロンの乱入に当惑し木刀をおさめる。僕は床に蹲ったまま、レイジとサムライの間に転がり込んだロンの行方を追う。
 「ロン………」
 レイジが名を呼ぶ。ロンがそちらを見る。
 震える膝を叱咤し、危なっかしい足取りでレイジの方へ歩いていく。
 レイジはすぐさまロンの体を支えようと両手を伸ばし待ち構えるも思惑を裏切られる。
 すっと、まるでレイジがそこにいないかのように横をすり抜ける。
 「……ロン?」
 ロンに無視された形のレイジは虚空に手をさしのべたまま、自分の身に起きた出来事が信じられないといった様子で立ち尽くしていたが、ロンの行き先を見極めようと緩慢に振り返る。
 ロンは血の筋を辿り歩いていた。
 レイジの顔と服から滴った返り血……道了の爪を剥ぎ手を貫いた際の大量の出血。
 床の血痕を辿り、左右の肩を不安定に傾がせながら歩くロンの目は、壁際に吊るし上げられた道了だけを狂的に見詰めている。
 雛が孵化して最初に見たものを親だと思い込み慕い歩くように。
 幼児退行して最初に自分に優しくしてくれた男のもとへ、今の自分に出せる精一杯の速度で急ぐ。
 「……だいじょうぶか」
 漸く辿り着き、道了の傍らにへたり込む。 
 道了がゆっくりと顔を上げる。
 十字架で貫かれた手からは今もまだ夥しい血が流れ続ける。
 懇々と溢れた血が腕を伝い服を染め床に血溜まりを作る。
 ロンは心配げに道了を覗き込む。
 「俺と遊んでくれるんだよな。追い出したりしないって約束したよな。けど、こんな手じゃ麻雀できないよな」
 サムライが僕の腰に腕を回し支え起こす。
 一人残されたレイジはたどたどしく道了に語りかけるロンを呆然と見詰める。
 ロンが自分を無視したということ、否、それ以前に自分の存在を認識せず素通りしたということがにわかに信じられず、乱れた前髪の隙間から空虚な眼差しを注ぐ。
 「かわいそうに」
 道了の顔に手を添え視線を合わせる。
 朦朧と濁った金銀の瞳がロンの顔で焦点を結ぶ。
 ロンは悲痛な面差しで道了を見返し腕を伝う血を綺麗に舐めとる。
 手首から肘へ肘から二の腕へと舌を這わせ唾液の筋を付けながら膝立ちの姿勢となり、道了の掌に深々刺さった十字架に手をかける。
 「…………ぐっ、あ」 
 額に大粒の脂汗が滲む。
 眉間に苦痛の皺を刻んだ道了を膝立ちの姿勢から仰ぎ、慎重に十字架を抜く。壁から取れた十字架が肉を逆に抉りながら傷口から引き抜かれる。栓を抜かれたショックで新たな血が傷口から噴き出ししロンの顔にかかり数滴目に入る。
 「………はあ、はあ、はあっ………」
 道了がぐらりと揺れる。
 一度に多くの血を失ったショックで困憊の相を呈した道了がロンの方へ倒れこむ。
 ロンはすかさず腕を出し道了を抱きとめる。
 ごく自然に背に腕を回し、小さい体で精一杯道了を抱きしめる。

 『你是我的朋友。我想活刧在一起』
 あんたはともだちだ。いっしょにいたい。

 最前目に入り込んだ血がロンの頬を伝い、赤い涙跡を残す。
 ロンは今日を限りに道了の物となった。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050324145429 | 編集

 「その顔はどうした?」
 安田が不審げに眉をひそめる。
 「患者に殴り倒された」
 長椅子に腰掛けた斉藤が嘆かわしげに首を振り、いかにも痛そうに腫れた頬をさする。よく見れば白衣の至る所が埃と足跡と乱闘の形跡に塗れ薄汚れ、いつも綺麗に整えている髪もあちこち転げまわったようにぼさぼさだ。
 乱れた頭髪を丁寧に撫で付け、斉藤は一口コーヒーを含む。
 「安田くんが炒れたコーヒーが飲みたい」
 「お断りだ」
 斉藤の提案は隣に立つ人物により即座に却下された。
 1メートル空けた壁に凭れ、時折思い出したようにインスタントのコーヒーを含んでいるのは、十数年ぶりに再会した同窓の友だ。
 糊の利いた背広を一分の隙なく着こなし、若々しい黒髪を一筋の反乱を許さぬ潔癖さでオールバックに撫で付けた様は非の打ち所ないエリートといった厳正な雰囲気を漂わせるも、ふとした折に覗く表情が学生時代の面影と重なり懐かしさを隠せない。
 東京少年刑務所に医者として赴任以来、適当な口実を作ってはこうして安田を呼び出し近況を報告し合うのが斉藤の日課となりつつある。しかし安田の態度は概してそっけない。冷淡といえるほどだ。斉藤に対しては常に必要以外の事は告げず必要以上の接触をもたずどうでもいい事務報告だけをし、こんな茶番は時間の浪費だという本音を前面にだす苦りきった顔をし、不機嫌極まりない様子で眉を顰め紙コップのコーヒーを一口ずつ嚥下する。
 必要最低限の事務報告だけに留まる安田の口を何とか割らせようとあの手この手で画策するも、斉藤の意に反し残念ながらあまり効果はない。
 随分嫌われたものだなと心の中で苦笑する。
 看守用の更衣室、その更衣室と扉一枚隔てて繋がる休憩室には壁際に長椅子が配置され飲食物の自販機が設置されている。
 コーヒー・紅茶・炭酸飲料にミネラルウォーターなどその種類は充実している。各種インスタントラーメンにレトルトフードまでもが自動販売機で売られているのは自炊のできない独身看守が多いためだ。
 囚人の房がある棟とは指紋照合及び角膜照合でしか開かない電脳の防壁で区切られているため、職員用の施設がある区域に囚人がやってくることは皆無と言っていい。
 「……医者のロッカーは別にあるだろう。何故わざわざここを選ぶ」
 漸く安田が言葉を発する。
 安田から話しかけてくれたことを嬉しく思い、自然な笑みで斉藤は説明する。
 「今の時間は人がいない。君とじっくり話ができると前もって調べ済みさ。付け加えるなら、僕ごとき一介の医者が実質上東京プリズンのトップたる副所長殿の執務室にお呼ばれしてるところをだれかに見られたりしたらよからぬ噂が立つからね。暇人どもにわざわざスキャンダルのネタをくれてやることもない。僕なりに外聞を気にしてるんだよ」
 「東京少年刑務所の看守は一日三交代勤務だ。中にはタジマのように一日中精力的に動き回ってる者もいるがな」
 口にするのも不愉快とばかり顔を歪め安田が吐き捨てる。
 タジマ。名前だけは聞いたことがある。
 斉藤は記憶の襞をなぞる。
 現所長但馬冬樹の実弟にしてかつて東京少年刑務所の主任看守の身分にありながら囚人に対し数々の暴行傷害を働いたとんでもない男。賄賂にどっぷりつかりきり平然と囚人を贔屓し東京プリズンの治安と秩序を乱すのにおおいに貢献した男。不慮の事故に遭い休職中と聞くが、自分が来る前のことなので詳細は知らない。しかし安田の口ぶりでタジマに対し好感情を抱いてないことだけは確信した。安田の口調に混ざっていたのは明確な軽蔑と嫌悪、平素より取り澄ました無表情の安田がごくかすかに顔を歪めたということはそれ程までに品性卑しい男だった端的事実を示す。
 「いい身分だな、斉藤。冷暖房完備の医務室で暇な一日椅子に座っているだけで給料が得られるのだから」
 痛烈な嫌味にも斉藤は表情を変えずコーヒーを啜る。
 「カウンセラーも大変な仕事だよ。なんたってこことここを使う」
 右手にコーヒーを預け自らのこめかみと胸を順番に指さす。
 頭と心。
 斉藤が思うところを正確に理解した安田が眼鏡のブリッジに触れる。
 「……失言だった。貴様も苦労してるのだな、そう見えないだけで」
 こういうところは昔から変わらない、余計な一言を付け加える癖までも。
 「君こそ一日中仕事に追われてるみたいじゃないか。さすがに副所長の要職にある人間はやること沢山で忙しいみたいだね」
 「まあな」
 そっけなく応じる。
 伏目がちに俯く安田の顔には疲労の色が濃く蟠り、心なし以前よりも頬がこけて見える。ただでさえ痩せている安田がこれ以上細くなってしまわないか杞憂を感じながら斉藤は更にお節介を焼く。
 「悩み事ならいつでも相談にのるよ。こう見えてもプロだしね」
 「心の病専門の医者か」
 「信じてないねその顔は」
 「別に。ただ意外だっただけだ、お前が心療内科の道にいくとはな。学生時代は免疫学を志していたように記憶してるが」
 「『病は気から』って言うだろ?実は心理学にも興味があったのさ、専攻は免疫学だったけどね。切ったり縫ったりで体を治しても事故や事件のショックで傷付いた心が癒えなければ真に全快したとは言えない。心の病巣は僕が思っていたよりずっと複雑で難解だった。安易に薬に依存したところで解決しない、心の回復には根気強いカウンセリングと的確なアドバイスが必要だって気付いたんだ。ま、学生時代に一通り覚えた外科の技術が役立つこともある。といっても気休め程度の処置しかできないけどね、正しい捻挫の治療や骨の接ぎ方は教わってる。東京プリズンに採用されたのだって外科と心療内科両方の心得がある経歴を買われたからだしね。それとも君が推薦してくれたのかな」
 「うぬぼれるな」
 いかにも人好きのする茶目っけたっぷりの笑顔を見せた斉藤にひややかに釘をさす。
 冗談めかした物言いで人を煙に巻く斉藤に苛立ちながら、不機嫌な表情に一抹の憂慮を宿し、安田は重たい口を開く。
 「……物好きにも程がある。何故わざわざ自分から望んでこんな危険な場所にやってきた?」
 「安田くんに会いたくて」
 さらりと答える斉藤を無言で睨みつける。
 斉藤はてんで懲りた様子もなく笑っている。
 甘い顔だちに似合いの爽やかな笑顔が曲者だと安田はよく知っている。
 学生時代から斉藤はこの爽やかな笑顔と要領のよさで教授を丸め込み異性を口説き友人を増やしていったのだ。当時と変わらぬ涼しげな横顔を睨みつけ、安田は言い逃れできない証拠をつきつける。
 「提出書類を読んだ。ここに来る前は仙台の病院に勤めていたそうだな。若くして優秀な精神科医で人あたりも良く同僚・看護婦・患者に好かれ上司の受けもよかった。なのに何故申し分ない環境の職場を蹴ってこんな場所にやってきた?ただの物好きでは済まされない、まさしく気が狂ったとしか思えない所業だ。私とて無知ではない。ここが外の人間になんて呼ばれてるかぐらい知っている。暴力と略奪が横行する史上最低の監獄、リンチとレイプが横行するこの世の地獄、一度入ったら二度と出てこれない鉄の牢獄……通称東京プリズン。東京プリズンの看守はよそで問題を起こし左遷されたものばかり、おおよそ仕事に対する意欲が感じられず囚人を虐げ憂さを晴らす連中ばかりだ。代表が先ほど話したタジマだ」
 安田はひとつ溜め息をつき、胸ポケットから清潔なハンカチをとりだし眼鏡の曇りをとる。
 「前任者が入院した時ただちに臨時の医者を募った。だがしかし東京プリズンに赴任したいという奇特な医者はひとりもいなかった、ただのひとりもだ。私は早急に代理の医者をさがす手配をしたが、世間の医者は皆東京プリズンの悪評に恐れをなし血相かえて辞退した。しかしいつまでも医者不在でおいておくわけにはいかない。東京プリズンは毎日のように怪我人と病人がでる、彼らの様態をこれ以上悪化させぬためにも早急に医者が必要だった」
 「僕は適任だったわけだ」
 「……貴様は医者として一流だ」
 「お褒めに預かり光栄だね」
 「褒めてはない。ごく一部を認めたにすぎない」 
 安田は不愉快げに首を振る。斉藤を褒めているととられたのが余程屈辱らしく顰めた眉間に苦渋が滲む。
 「お前は外科の技術を持っている、怪我人の治療もできる。囚人の心と体双方のケアができる医者を私はながらく探していた」
 「感謝してるなら態度で表してほしいね」
 軽口を叩く斉藤に安田は目を細める。
 「頭を下げろと?」
 長椅子に座った斉藤がにこりと感じよく微笑む。学生時代から変わらぬ若作りに胸が詰まる。
 湯気だつ紙コップを両手に包み、長椅子に座った姿勢から首を捻り安田を仰ぎ、斉藤が不意に真顔になる。
 「安田くん手ずから美味しいコーヒーを淹れてほしい。今の君の味が知りたいんだ」 
 安田はこの申し出に虚をつかれる。
 何故そうまでして自分の淹れる珈琲にこだわるのか理解に苦しみ当惑顔で斉藤を見下ろす。
 「そんなに私のコーヒーが飲みたいのか?自分で言うのも何だが特別美味くもないぞ。ごく普通の味だ」
 「違う。安田くんのコーヒーがいちばん舌に合う、僕はディスカッション中に安田くんが淹れてくれるコーヒーが大好きだった」
 斉藤は安田を真っ直ぐ見詰めたまま決して目を逸らそうとしない。
 嘘偽りのない真摯な眼差しが胸の奥深くを抉り当時の記憶を鮮明に呼び覚ます。
 安田がとうに忘れ去ったはずの日々、捨て去ったはずの記憶が痛切な感傷を伴い蘇る。

 斉藤も自分も若かった。
 白衣を着ていた。
 二人は同じ教授を師と仰ぎ同じ実験に参加していた。
 最高学府と政府の共同のもと、秘密裏に行なわれたその実験とは……

 首を振り感傷を追い払う。
 強く目を瞑り回想を断ち切った安田は、自分に過去を思い出させた斉藤に対する逆恨みじみた怒りと苛立ちを禁じ得ず、今にも紙コップを握り潰さんばかりに力を込める。
 沈着な表情が固く強張り、眼鏡の奥の双眸が牽制の鋭さを帯びる。
 眼鏡の奥から針の眼光を突き刺す安田に対し、斉藤は悪びれず首を竦めてみせる。
 「……ごめん、禁句だったね。口が滑っちゃった」
 今いち誠意の感じられない謝罪に怒りがいや増す。
 二股を詰られた色男のように軽薄に詫びた斉藤は、先ほどまでの朗らかな笑顔とは一転、不実な翳りを含んだ大人の笑顔で続ける。
 「僕はただ君のコーヒーが飲みたかっただけなんだ。この十数年間、君の味を思い出さない日は一日もなかった。妻の淹れたコーヒーも悪くないけど、一度君の味を覚えた舌はなかなか満足しなくてね。どんな美味しいコーヒーを出されても君の味と比べてしまうんだ。君が淹れてくれたコーヒーは実にちょうどいい温度と苦味で、僕が徹夜続きのレポート地獄を乗り切れたのも君が息抜きにコーヒーをさしだしてくれたからなんだよ」
 「……自分の分のついでだ。他意はない。コーヒーが余ってしまってはもったいないからな。淹れてから一日たった珈琲など苦く煮詰められてとても呑めたものではない、ならばお前に毒味させたほうがマシだ」
 仏頂面の安田に声たてて笑い斉藤もまたコーヒーに口をつける。
 微妙な沈黙がおちる。
 「安田くん」
 斉藤が不意に名を呼ぶ。
 その声音がやけに真剣だったので、安田もまた物腰を改める。
 斉藤は体ごと安田に向き直るや、理性的で穏やかな口調はそのままに、仕事に対する真摯な姿勢が窺える厳しい顔つきで本題を切り出す。
 「何人か気になってる囚人がいるんだ」
 学生時代の面影を残す若作りが、年相応の経験と知識を有する成熟した大人のそれへと変貌する。
 容易に歳月を飛び越す斉藤の変化を目の当たりにした安田もまた今の立場を自覚し、監獄の秩序を守る重責を己に課した副所長の顔で問う。
 「心と体どちらだ?」
 「……両方だね」
 斉藤が慎重に私見を述べる。
 真剣な面持ちで沈思黙考しつつ紙コップを包む手を休みなく動かす。
 考え事の最中に指を動かすのは斉藤の癖だ。学生時代から変わってないところをまたひとつ発見し、安田は自分でも意外なことに満足感と嬉しさを覚える。
 あの日廊下で斉藤と遭遇した時は夢だと思った。
 一目で斉藤だとわかった。学生時代とまるで変わってなかった。否、よくよく注意してみれば変わっているところは多々あったが再会時の状況では殆どわからなかった。斉藤は学生時代のまま白衣を羽織り現代にやってきたような錯覚を安田にもたらした。
 あの時。
 囚人の暴動に巻き込まれ気絶した安田を抱き上げたのは斉藤だった。
 朦朧と薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞り瞼を上げた安田は、自分を抱えている男が斉藤だと認識した瞬間その手を振り払おうとした。

 斉藤。
 何故今頃になって現れた。
 私がすっかり変わってしまった今になって。

 十数年前とは何もかもが変わってしまった。
 二人の関係も立場も何もかもが。
 以前と変わらず友人でいられるわけがない。
 安田は十数年前の愚かで傲慢な自分を許してない。
 十数年がたった今でも安田は自責の念に苦しみ罪の意識に苛まれ夜毎悪夢にうなされ飛び起きる繰り返しだ。
 それすべて十数年前のあの実験に起因しているのだ。
 鍵屋崎直を生み出すことになったあの実験に。
 斉藤は当時の事情を知っている。
 当時の安田がいかに傲慢で愚かな人間だったか知っているのだ。
 十五年前、若く才能に溢れた安田は自らの能力を過信するあまり非合法な実験に参加し本来人が手を出してはいけない領域にまで踏み込んだ。
 人が人を作り神に成り代わるという最大の禁忌を犯してしまった。
 不完全な人の身でありながら完全な人間を作ろうとした代償は大きく、安田は今もって罪悪感に苦しみ続けている。

 鍵屋崎直に生まれながらに原罪を背負わせてしまった。
 「作られた人間」であるということ。
 「人工の天才」であるということ。

 試験管の中の受精卵を母胎に移植しやがてそれは胎児の形をなしこの世に生まれ出るも、その事実を知った直は自分がはたして人と呼べる存在なのか、誰ともしれない男女の精子と卵子を試験管の中で結合させ遺伝子を操作し設計図どおりに作り上げた「実験体」たる己の存在に、その自我の在り所に根源的な疑問を抱き続けることになった。
 安田の驕りが直に原罪を背負わせてしまったのだ。
 本来罪を担うべきは自分であるはずなのに。
 「まずは道了君だ」
 「道了?一ヶ月ほど前に東棟に配属された囚人か。ロンと同じ池袋スラム出身の台湾人だったな」
 「さすが副所長、囚人の身元把握は完璧だね」
 「茶化すな。道了がどうした」
 「その道了君だけど……」
 斉藤が言いにくそうに口を噤み、間をもたそうとコーヒーに口を付ける。つられて安田も一口含むも、珈琲はぬるくなっている。
 紙コップのふちに唇を付けたまま斉藤は何やら思案していたが、唐突に口を開く。
 「彼、脳に異常があるんじゃないかな」
 「何?」
 思わぬ指摘に安田は目を見張る。
 斉藤は三分の一ほど減ったコーヒーを持て余すように紙コップを揺らしながら推察を述べる。
 「ちゃんと診察したわけじゃないから断言できないけど、僕の見た限りどうも脳に障害があるとしか思えないんだ。日常の言動がおかしいのもそのせいだ。それに彼、多分色盲だ。目にカラーコンタクトを入れてるのもカムフラージュだ」
 「何故わかる?」
 安田が胡乱げに聞く。
 いかに医師として優秀といえど斉藤の専門は精神医学だ、全色盲かどうかなどわかるわけがない。しかも斉藤と道了は一週間前の暴動以降まったく面識がない。頭を打って朦朧としていた安田は当時の状況をよく思い出せないが、暴動の関係者とされた道了は三日の謹慎処分をうけ懲罰房に監禁された。道了と顔を合わすのはおろか直接言葉を交わすことさえ稀だった斉藤が、何故これほど自信を持って道了の異常を指摘できるのだ?
 懐疑的に横顔を探り見る安田に苦笑を返し、手にした紙コップをほんの少しだけ傾けコーヒーを一滴たらす事で斉藤は回答を示す。
 「血に対する情動の低さ」
 「血?」
 紙コップのふちからたれた雫が床で弾ける。
 床に染みを作った一滴のコーヒーを見下ろし、文献でも読み上げるように流暢な口調で斉藤は述べる。
 「『赤』は古来より人間にとって特別な色だ。脈々と人の体に流れる血の色、神聖な炎の色、始原の太陽の色。闘牛ショウで使われるのは真紅のマント。そう、赤は強烈な視覚刺激をもたらす危険な色ともいえる。試しに赤いものを連想してみなよ。近付きすぎると火傷する炎、警告の赤信号、救急車やパトカーのランプ、傷口から溢れ出す真っ赤な血……赤イコール危険は切っても切り離せない視覚的イメージとなり網膜に浸透する。そして人は赤を畏怖する。少量の血を見て卒倒するひとがいるくらいだからいかに視覚からくるイメージが重大か想像がつくだろ?日常生活を営む中で人がもっとも頼りきっているのはダントツ視覚だ。他の器官と比べ目から入る情報量は格段に多い。ひとは視覚に頼りきって生活してるといっても過言じゃない」
 「前置きが長い。免疫学の教授にレポートがくどいと言われなかったか?」
 「字数稼ぎの改行は見苦しいからやめろと言われた」
 一瞬ばつ悪げに黙りこむも、すぐに気を取り直し話を続ける。
 「話を戻す。一週間前暴動が起きた時、囚人の多くが怪我をしていた。喉を裂かれた囚人もいて床には大量の血痕がのこっていた。けれども道了君は血だまりを見ても表情ひとつかえず完全なる無反応だった。これは変だ。いかに出血に慣れた人間でもあれだけ大量の血を見れば何らかの反応を示す。僕は違和感を感じた。あれだけ大量の血を見ていながら何故あそこまで平静を保っていられるのかと疑問を感じた。そしてある推論に達した、この囚人はひょっとしたら色盲なんじゃないかって。それなら辻褄が合う。金と銀のカラーコンタクトは色盲を隠すカムフラージュだ。本格的なカラーコンタクトは虹彩の部分のみならず全体が着色されていて普通の人間は酔っちゃうけど、道了くんはあのカラーコンタクトを嵌めたまま平然と振る舞っている。色盲ならカラーコンタクトでも関係ない、彼の世界には最初から色がないのだから」
 一息に話し終え、コーヒーで唇に湿り気を与える。
 安田は黙って斉藤の横顔を見詰める。
 頬に貼ったガーゼも痛々しい斉藤が実直に提案する。
 「一度脳波を調べたい。僕なりに資料をあさってみたけれど、精神鑑定の結果がどうもひっかかってね……もし本当に脳に異常があるならちゃんとした検査と手術が必要、」
 「検討すると言いたいところだが」
 熱心に言いかけた斉藤を遮り、安田が眼鏡を外す。
 眉間をつまみ目頭を揉む。
 目の下には不眠と疲労の隈ができている。
 仕事に忙殺されここ数日間ろくに寝てないのだ、無理もない。
 片手に眼鏡を預け瞼を揉みほぐす安田を斉藤は黙って見守る。
 老けたなと単純に思う。
 最初は髪形のせいかと思ったが、今は人を寄せ付けぬしかめ面のせいだと思う。学生時代の安田は前髪を下ろしセルフレームの眼鏡をかけていた。いかにも知的で理論肌の青年といった風情で、自分を特別な存在と信じて疑わぬ孤高の空気と冷え冷えと人を拒絶する意志を発していた。
 壮年の安田に青年の頃の面影を探そうとし、斉藤は目を細める。
 斉藤の思惑など知らぬ安田は瞼を指で押さえ、疲労を散らすように緩くかぶりを振りつつ結論を述べる。
 「残念だが設備がない。提案は却下だ」 
 「どうにからならないのかい」
 「簡単に言ってくれる。予算は限られてるんだぞ」
 「ならもっと設備が整った刑務所に移すとか、一時的にでも病院に移すとか……」
 「馬鹿な」
 食い下がる斉藤を鼻で笑い眼鏡をかける。
 再び冷徹な副所長へと戻り、諦め悪い斉藤に追い討ちをかける。
 「東京少年刑務所に送られてくるのは更正不可能の烙印をおされ社会的に抹殺された凶悪犯ばかり、どこの刑務所も受け入れたがらない前科のあるものばかりだ。病院に入れる?それこそ冗談じゃない。東京少年刑務所に収監された囚人は何があろうが刑期を終えるまで決してここを出られない決まりだ、いかなる理由があろうとも囚人を外に出すなというのが法を司る上の方針だ。斉藤、貴様は東京少年刑務所を何だと思ってる?慈善でやっている厚生施設とはわけが違う、むしろ隔離施設と言うべきだ。多くの人間を騙し殺し犯し傷付けた危険因子を世間から隔離し隠蔽する場所、法治国家として国際社会を牽引する日本最大の暗部にして恥部。東京プリズンに入った時点で戸籍と人権は抹消される。東京プリズンを出るには刑期を終えるか死体になるかどちらかひとつしかない」
 面に苦渋が滲む。安田とて本心から言っているのではないのは、葛藤に引き結ばれた口元と眉間に寄った苦悩の皺からわかる。
 すべての責任を抱え込もうとする沈痛な面差しを見上げ、斉藤はぽつりと零す。
 「……随分辛い生き方をしてる」
 「私の生き方に口出しするな」
 同情を突っぱねる安田の腕を人肌のぬくもりが包む。
 背広の上から安田の腕にふれ、強い意志を込めて斉藤が言う。
 「口出しが駄目なら手出しさせてもらう」  
 譲れぬ決意を込めた眼差しがどこまでも率直に安田を射抜く。
 長椅子から腰を浮かしにじり寄った斉藤は安田の腕を掴んで引き戻し、眼鏡の内に隠された目の表情を正確に読み取る。  
 「安田くん、僕は今でも君の友達でありたいと思ってる。君の力になりたいと思っている。君に頼られる人間でありたいと思ってる」
 「思いあがるな」
 「思いあがるよ。なんたって僕は安田くんがコーヒーを淹れてくれた最初で最後の人間だ。君が淹れたコーヒーは格別だ」
 「コーヒーなどだれが淹れても同じだ。それほど好きなら妻に淹れてもらえばいいだろう……ああ、既に離婚したんだったな」
 やや乱暴な動作で腕を振り払われた斉藤ががくりとうなだれる。
 「離婚の原因は何だ」
 「傷口に塩をすり込むなんてサディストだね。書類を読んだなら書いてあったろ?仕事にかまけて家庭をかえりみなかったせいで妻子に愛想を尽かされたのさ」
 意気消沈した様子で力なく笑う。
 苦味の勝った自嘲の笑みを浮かべ、手持ち無沙汰に紙コップをさする斉藤を無関心に眺め、飲み干した紙コップをゴミ箱に放る。底に残滓が蟠った紙コップは弧を描いてゴミ箱に吸い込まれ乾いた音をたてる。
 口腔に残るカフェインの苦味を中和しようと背広の胸ポケットから一本煙草を摘む。
 「マルボロミディアム。銘柄も変わってない」
 斉藤が懐かしげに目を細める。
 学生時代からヘビースモーカーだった安田はばつ悪げな顔をする。
 斉藤を無視して煙草に火をつける。
 穂先に橙色の光点が生じる。
 満足げに紫煙を燻らす安田を斉藤も同じく満足げに見守る。
 安田は壁に凭れ虚空に視線を投じ煙草をふかす。
 カフェインの苦味とニコチンの苦味が溶け混ざり口の中に染み渡る。
 虚空に漂う紫煙を目で追いながら斉藤が呟く。
 「もう一人の囚人だけど……誰のことか薄々察しがついてるんじゃないか」 
 安田は答えを保留する。煙草を灰にする作業に没頭するかつての友人にちらりと一瞥くれ、斉藤は重々しくその名を口にする。
 「鍵屋崎 直」
 その名が安田に何らかの影響をもたらすと確信しているように。
 しかし予想に反し安田はまったく動揺を示さなかった。
 煙草を口にくわえたまま、真意の読めない無表情で思考に没頭している。
 壁に凭れ煙草を吸う安田の顔色を窺いながら、斉藤は精神科医として数多の患者と接して鍛えた観察眼と洞察力でもって安田の内部に探りを入れる。残り少ないコーヒーの紙コップを手の中で弄びながら、口元に謎めく笑みを浮かべ目には油断ならぬ光を宿して策を練る。
 成熟した男性と茶目っ気ある少年が同居する魅力的な笑みで斉藤は報告する。
 「ここに来る前、僕は仙台の児童心療内科に勤めていた。鍵屋崎直の妹、鍵屋崎恵がいた病棟だ。事件後叔母夫妻に引き取られた鍵屋崎恵はしかし深刻なPTSDを発症し、長期的カウンセリングを視野にいれ入院の措置をとることになった」
 「……鍵屋崎恵の様子はどうだ」
 紫煙たちのぼる煙草を指の間に預け、本人は相変わらず虚空を見詰めたまま、努めてさりげなく訊く。
 安田の注意を引いたことに満足感を覚えながら斉藤は証言する。
 「今は落ち着いてる。入院初期こそ精神的ショックが激しく会話もままならない状態だったけれど、根気良くカウンセリングを続けるうちに心身ともだいぶ回復してきた。一時的な失語症、夢遊病による深夜徘徊、現実逃避による幼児退行と夜尿症と突発性ヒステリー……最初は食べ物も受け付けずむりに食べてもすぐ吐いてしまい仕方なく点滴で栄養を注入していた。わずか十歳の少女が目の前で両親を殺されたんだ、自分を取り巻く過酷な現実を全否定したくなっても無理はない。しかも犯人は兄だ。鍵屋崎夫妻は人の親としてはあまりに冷淡で子供に対する愛情が不足していた。幼い恵ちゃんは直くんを唯一の庇護者として慕い依存し、直くんもまた義理の妹の恵ちゃんを異常なほど溺愛していた。なのに突然大好きな兄が両親を殺し引き離されたのだからたまらない」
 斉藤が顔を伏せる。
 「……最初はそう思っていたよ」
 「どういうことだ?」
 すかさず安田が聞く。壁から背を起こし身を乗り出した安田は見ず、手中の紙コップに視線を固定し、独白じみた口調で自分の考えを整理する。
 「何かがおかしいんだ、ひっかかるんだ。恵ちゃんのカウンセリングを続けるうちに僕はあるひとつの仮説に辿り着いた、その仮説を確かめるために自ら東京プリズンにやってきた。もしその仮説が事実だとすれば……」
 斉藤が意味深に言葉を切る。
 続く言葉に興味を示し安田が接近する。
 斉藤と腕が接する距離にまで近付いた安田は、眼鏡越しの双眸に精力と気迫を漲らせ先を促す。
 威厳溢れる副所長の眼光に急かされ、決断を下すが如く紙コップを逆さにし最後の一滴までも残滓を飲み下し、改めて安田に向き直る。
 視線が衝突する。
 互いの真意を推し量る沈黙。
 帯電したように緊張を孕んだ空気が休憩室に張り詰める。
 軽薄な笑みをかき消し、精神科医の領分として真実を追究する姿勢を貫き、斉藤は厳かに言う。
 「鍵屋崎直は冤罪の可能性がある」
 安田が息を呑む。
 斉藤は安田から目を離さず、じっとその表情を窺っている。観察。鋭利なメスを思わせる冷徹な眼差しに心が寒くなる。安田の指の間でジジジと煙草が燻る。零れた灰が袖口を焦がしても熱さを感じず、魂を抜かれたように呆然と斉藤を注視する。
 「……直が、だれかを庇ってるというのか」
 漸く言葉を発する。たったそれだけを言うのに大変な気力を消耗しているような掠れ声。
 空の紙コップを手首に捻りを利かせゴミ箱に放る。
 斉藤が投げた紙コップはゴミ箱の縁に弾かれコロコロと床を転がる。足元まで戻ってきた紙コップを情けない顔で拾い上げ、斉藤はため息を吐く。
 「気付いてなかったとは言わせない。君は僕よりずっと近くでずっと親身に鍵屋崎直に接していた。ならば自ずとわかるはずだ。彼がだれかを庇っていると、鍵屋崎夫妻殺害事件の犯人は別にいると。僕は真実を知りにここへ来た。鍵屋崎直と鍵屋崎恵は互いが互いを補完する関係だ。鍵屋崎直が無実なら、犯人は……」
 続けるのをためらうように言葉を切り、斉藤が首を振る。
 「……事件の真相がわかったところでどうなる」
 その声に顔を向ける。苦りきった顔をした安田が搾り出すように言葉を紡ぐ。一言一言に多大な苦痛が伴うように、その顔が辛辣に歪む。
 「直は既に東京プリズンに来てしまった。両親を殺したのは自分だと裁判で認め更正不可能の烙印をおされ戸籍と人権を剥奪されここへ来てしまった。私はどうしたらいい?無責任な言い分だとわかっている、しかしそれでも直には幸せになってもらいたかった、こんな所へ来てほしくなかった。だがもう遅い。直はここへ来てしまった、東京プリズンに来てしまった。冤罪が立証されたところで今更引き返せない、すべてが遅すぎる!」
 歪む顔を覆い隠し、長椅子に崩れ落ちる。
 息子の幸せを望むもその願いを打ち砕かれた一人の父親が、自身の無力を呪い後悔の念に打ちひしがれる。
 自分を気遣う斉藤のほうは見ず、安田が訥々と心中を吐露する。
 「……私は最低だ。最低の副所長だ。自分の職場をこんな所呼ばわりし、自分の息子には間違ってもこんな所にきてほしくなかったと嘆く最低の男だ。幻滅したか」
 「安心したよ」
 意外な返事に安田が顔を上げる。
 指の間に預けた煙草はそろそろ燃え尽きようとしている。
 完璧に整えたオールバックがしどけなく乱れ、聡明に秀でた額に一房二房とおちかかるのも構わず、無防備に放心した表情で斉藤を仰ぐ。
 殺風景な灰色に塗り込められた休憩室には場違いな白衣を身に纏った男は、憔悴した安田の腕を掴み、優しく撫でる。
 「僕を頼ってくれて」
 「……斉藤、私は」
 「うん?」
 「お前が嫌いだ」
 「知ってる」
 「なら放せ。なれなれしくさわるな。貴様にさわられてると思うとぞっとする」
 「放さない」
 斉藤が安田の手首を掴む。
 既視感。いつかこれと同じことがあった。
 今より若い斉藤の顔が鮮明に蘇り、階段教室の半ば、立ち去ろうと背中を向けた途端に手首を掴まれた事を思い出す。手首を引っ張られバランスを崩し段差から危うく転げ落ちそうになった安田を斉藤が抱きとめる。
 全面ガラス張りの窓から射し込む茜色の残照に癖なく流れる鳶色の髪が映える。
 茜色に染まる横顔に魅入られる。
 段差から足を滑らせた拍子に小脇に抱えたレポートの束が盛大に散らばる。
 宙に乱舞するレポートが茜色の夕日に染まる。
 鳩の群れの如き紙吹雪の中、動転した安田に斉藤がのしかかり……
 「今度は放さない」
 当時の目が今の目に重なる。   
 斉藤は当時と同じ目で安田を見る。当時と少しも変わらぬ率直さで安田と向き合い、袖口が焦げた安田の腕を強く引く。
 指の間から煙草が零れ落ちる。
 床に落下した煙草がじゅっと音をたて燃え尽きる。

 避ける暇もなく
 拒む力もなく

 斉藤は安田の唇を奪った。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050323122203 | 編集

 リョウが消息を絶って丸二日がたつ。
 「リョウさんてば~もぉ~どこ行っちゃったんスか」
 パイプベッドの上で胡坐をかいたビバリーは苛立たしげに頭を掻き毟る。
 隣のベッドはもぬけのからだ。
 リョウが行方をくらましはや二日目、ビバリーはリョウの身に何かが起きたと確信しリョウの安否を気遣い眠れぬ夜を過ごしていた。
 リョウの失踪に気付いたのは一昨日の朝。
 朝起きたらリョウがいなくなっていた。
 起床ベルに叩き起こされ毎朝の習慣で洗顔を終え小便をすまし尿をきってから、ふと朝一番のリョウの悲鳴が聞こえないことを不審に思い、寝ぼけ眼で隣のベッドを見ればからっぽだった。

 ビバリーの朝は大抵悲鳴ではじまる。
 悲鳴の主はリョウだ。

 起床ベルが鳴るより先に隣のベッドからの甲高い金切り声に叩き起こされ次いでリョウにがくがく胸ぐら揺さぶられるのがビバリーの日課だ。
 悲劇の元凶は寝癖だ。
 イギリス人の母親から燃えるような赤毛を継いだリョウは、一晩ぐっすり寝てぱっちり目を覚ますと鳥の巣のようにこんがらがった自分の髪に愕然とする。
 くるくると毛先の丸まった天然の巻き毛はそばかすの似合う茶目っ気たっぷりの童顔を飾るリョウの自慢だったが、髪の性質上寝癖がひどく、リョウは顔を洗いがてら鏡を覗き込んでは毎朝卒倒せんばかりに悲鳴を上げるはめになる。
 実際リョウの寝癖はビバリーの目から見ても噴き出すのを堪えるのが無理といった具合で、笑いをとろうとわざとそうしてるのかと一度ならず勘ぐったほどだ。
 ダイナマイトの爆発に巻き込まれちりちりに髪が縮れたコメディアンごとくリョウの赤毛は頭の上でてんで勝手な方向に跳ね回り、本人がいかにしつこくおさえつけてもなかなかおさまってはくれない。

 『ねえねえビバリーちょっとこれ見てよひどいっしょ、朝起きて鏡を見たらこんなんなってたの、あんまりな仕打ちだと思わない!?悲劇だよ悲劇!こんな頭で人前に出たら笑われちゃうどころかお客もつかないよ、体当たりのギャグだよ。こんな鳥の巣みたいな頭で出歩いて生き恥さらすのはまっぴらごめんだね、意地悪な囚人どもが人の気も知らず面白がって僕の頭に煙草の吸殻とかガムとか捨ててくにきまってるんだから!ちょっと、笑い事じゃないって!真剣に聞いてよ!前もおんなじことあったんだから、ぼくの寝癖にウケた囚人がガム吐いてへばりついてとれなくて髪が沢山引っこ抜けたんだよ!まあでも吸殻じゃなくてまだよかったよ、いくら燃えるような赤毛が自慢でもマジで炎上しちゃったら洒落にならないもんね』

 寝癖にショックを受けたリョウはビバリーの迷惑など少しも考えず朝っぱらからヒステリックに喚き散らし、看守から巻き上げた櫛で櫛を梳かす。
 安眠妨害されたビバリーは渋々起き出してリョウの寝癖直しを手伝ってやる。
 リョウはもう半泣きの有り様で、世界の終わりのように悲壮な顔で鏡と向き合い髪を梳かしている。
 「そんなに強くしたらハゲますよリョウさん」と親切心から忠告するビバリーをキッと睨み、髪が抜ける勢いでむりやり櫛を押し進める。毎朝大騒ぎで寝癖と格闘するリョウに同房のよしみで付き合わされ、寝不足のビバリーは内心うんざりしながらも世にも情けない顔の相棒を放っておけず、水道水で手をぬらしてそれなりに格好がつくようリョウの髪を整えてやる。
 『サンキュービバリー、愛してる!』  
 鳥の巣のごとき寝癖がおもにビバリーの努力で器用にほぐされていくと、リョウはその首ったまにかじりつき顔中至る所にキスをする。
 ビバリーが拒んでもお構いなしだ。
 毎朝繰り返されるドタバタ喜劇、東京プリズンに来てリョウと同じ房で寝起きするようになってからすっかりお馴染みとなった習慣。

 寝不足の目をしょぼつかせてリョウの髪をセットしてやったのはつい三日前のことだが、それが随分懐かしく思える。

 「リョウさん、今どこにいるんスか……?」
 返事を想定しない虚しい問いかけ。
 ビバリーが独り言を呟くのは朝から数えて三十二回目だ。
 そのどれもが今ここにいないリョウへの呼びかけ、相棒に一言も告げず書置きひとつ残さず房を出たリョウへの不満だった。
 一昨日まではまだ気楽に構えていられた。
 猫のように気まぐれなリョウさんのことだ、愛人の房にシケこんでいちゃついてるんだろうと思い込みたいして気にしてなかった。
 リョウには前科がある。
 これまでも度々ビバリーが寝込んだところを見計らい房をぬけだしては愛人の房にシケこみクスリとセックスに溺れていたのだ。リョウいわく「出張サービス」らしい。
 リョウの無断外泊は珍しいことじゃない。
 いちいち騒ぎ立てるほどのことじゃない。
 思春期の娘を持ったパパでもなし、一日二日房を空けたくらいで血相替えて行方を聞きまわるほどビバリーも心配性ではないのだ。
 リョウの無断外泊には慣れっこだ。
 今度もどうせすぐ帰ってくる。
 一日目はそう思っていた。しかし二日が経ち異変に気付いた。
 リョウの噂話が一向に上らないのだ。
 これまでも二・三日程度の外泊は度々あったが、ビバリーがリョウをわざわざ捜しまわることなく余裕をもって帰りを待っていられたのは、囚人間の噂話で必ずリョウの居場所が掴めたからだ。
 リョウは多数の客を抱える男娼だ。
 そのリョウが二・三日もの間特定の囚人もしくは看守と一緒にいるとなれば、ビバリーの耳に届く範囲で、たとえば大勢の囚人が集まり情報交換にいそしむ食堂で話題に上らないはずがない。東棟の王様レイジやサムライにはかなわなくともクスリの売人兼男娼兼情報屋としてひっぱりだこのリョウは東棟におけるちょっとした有名人なのだ。
 囚人は有名人の動向に敏感だ。
 リョウが特定の客とシケこんでるとあらば、翌朝の食堂では必ず揶揄と下卑た冗談を交えた床事情が赤裸々に語られるはず。買った本人が黙秘したところでリョウを迎え入れるところをばっちり目撃した通りがかりの囚人や喘ぎ声を盗み聞いた隣房の囚人などがおのれの見たもの聞いたものを誇張して仲間にしゃべりまくるのだから、リョウが今だれと一緒に何をしてるかビバリーの耳にも自然と入ってくるのだ。

 ところが。

 食事中だれもリョウの噂話をしない。
 リョウの失踪の件に関して何ら情報をもたず、否、そもそもリョウが失踪した件すら知らないかのように振る舞うものが大半だ。
 中にはビバリーに「昨日と今日とリョウ見てねーけどどうかしたのか?」と探りを入れてくるものもいる。大半はリョウめあての客だ。
 リョウから覚醒剤を買っていた客、リョウ自身を買っていた客。
 そのいずれもが口を揃えてリョウの行方を知らないという。
 おかしい。
 文字通りリョウは蒸発してしまった。どこへともなく忽然と姿を消してしまった。だれもリョウの姿を見ず行方を知らないとはつまりそういうことだ。リョウは一切の痕跡と手がかりを残さずビバリーの前から消えてしまい、東棟の囚人もまたリョウの行方に関しては何ら有益な情報を掴んでおらず目撃者もでてこない。

 リョウの身に何かが起きた?
 事件に巻き込まれた?

 「………リョウさん、あんた今無事なんスか」
 ……考えすぎかもしれない。
 普段は底抜けに明るく能天気に振る舞っているが、一度物思いの種を抱え込むと悪いほうへ悪いほうへと思考が傾斜していくのは自分の悪い癖だ。リョウは明日にでもひょっこり帰ってくるかもしれない、『やっほービバリー独り寝寂しかった?』とけろりとして戻ってくるかもしれない。
 語尾を妙に甘ったるく伸ばす独特の喋り方で、媚を含んだ上目遣いで、ビバリーが見慣れた底意地悪い笑みを満面に湛えて……そうだ、そうにきまってる。商売上手なリョウのことだ、おそらくは北か南か西に出張してるにちがいない。別棟にいるのなら東棟まで噂が伝わってくるのが遅れる可能性も十分ありえる。
 ……ですよね、リョウさん? 
 ため息に暮れて大の字に寝転がる。
 視線は嫌でもからっぽのベッドに行ってしまう。リョウは書置き一つ残さず房から消えた。ひとり残されたビバリーはこの二日間というものリョウの安否を気遣うあまりご飯の味もわからずろくに眠れず強制労働にも身が入らず看守のお叱りを受ける始末だ。
 「!アウチッ、」
 ごろりと寝転がった拍子に右肩が痛む。
 思わず右肩を庇い身を丸める。
 警棒で殴打された場所が熱をもち疼きだす。
 わざわざ服を捲らずとも体のあちこちに痣ができてるのがわかる。 
 寝不足でぼんやりした頭でリョウのことを考えていたビバリーは、普段なら絶対しないごく初歩的なミスを連発し、今日だけで三回も警棒を食らってしまった。右肩を庇い悶絶しながら涙で潤んだ目で隣のベットを睨み付ける。

 リョウが抜け出した時そのままに毛布の捲れたベッド。
 背格子にちょこんと寄りかかるつぶらな瞳のテディベア。

 小さい頃ママから貰ったテディベアと前にリョウが自慢していた。
 だいぶ薄汚れ毛羽立ち始めたテディベアが、広すぎるベッドにぽつねんと置き去りにされた光景は妙に物哀しく胸に迫る。
 枕元にお行儀よくお座りするテディベアにからっぽのベッドは広すぎる。 
 「クマさんが可哀想じゃないっスか……」
 どことなく寂しげな風情を漂わすテディベアを見かね、ビバリーは腰を上げる。
 肩の痛みに顔を顰めながら潰れたスニーカーに踵を滑り込ませ、隣のベッドに歩み寄る。
 リョウ不在のべッドに腰掛け枕元に手を伸ばす。
 背格子に寄りかかったテディベアを抱き上げて自分の膝に移し、あるじに捨てられてしゅんとしょげているようにも見えるその頭をよしよしとなでてやる。
 「君はホントいいっこすねえ、自分をおいてけぼりにした薄情なご主人を恨まずこうしてお行儀良く帰りを待ってるんスから……おなかを腑分けされてクスリと注射器を仕込まれるような目にまであったのに」
 テディベアは何も言わず愛くるしくつぶらな瞳にきょとんとビバリーを映している。
 テディベアの瞳に映る自分がらしくもなく暗い顔をしてることに気付き、ビバリーは虚勢の笑顔を浮かべる。
 「大丈夫、リョウさんは帰ってきますって。殺しても死なないタイプっスもん絶対。今頃どこをほっつき歩いてるんだか知りませんが僕の予想だとそう、今頃北のアホ皇帝さまと乳繰り合ってるんスよ。サーシャはイくのが早いから物足りないけどその分絶倫だって前に話してましたし、お口と素股とお尻の穴で二日間しっぽりサーシャのお世話をしてるんスよ。サーシャがバテたらすぐ帰ってきますって。だからそれまで僕とロザンナと一緒に帰りを待っ……」
 続く言葉を遮ったのは性急なノック。
 テディベアを抱いたビバリーがびくりと身を強張らせ鉄扉を凝視する。
 膝立ちの姿勢で起き上がったビバリーの腕からテディベアがすっぽぬけ床に転がる。
 ノックは勢いを増し途切れることなく続く。
 何者かが外側から鉄扉をノックしている、開けてくれとせがんでいる。
 脳裏に赤毛の童顔が浮かぶ。
 「リョウさん?」
 帰ってきた。
 ほら、思ったとおりだ。
 心配する必要なんか全然なかったんだ、実際こうしてひょっこり帰ってきたじゃないか!
 リョウの帰還を疑わず喜び勇んで馳せつけ確認もせずドアを開け放ち、目の前に突っ立っている人物に押し倒す勢いでとびつく。
 「おかえりなさいリョウさん!!ああもうさんざん心配かけてあんたってひとは本当にもうトラブルメイカーでトラブルミキサーなんスから、この二日間僕とロザンナとテディがどんな気持ちでいたと思ってるんスか、リョウさんの帰りを待ち侘びてろくに眠れずロザンナの愛撫にも指がにぶって身が入らず看守に警棒でぶたれてアウチで……ちょっと何ぼけっと突っ立ってるんスか、僕らをこんなに心配させたんだからこの場で土下座するなりロザンナに接吻するなり誠意を見せてくださいよ、あ、待って、キスなんかしたらロザンナの液晶が汚れる……」
 言いたいことは山ほどある。
 しかし今のビバリーはリョウが無事帰ってきてくれただけで胸が一杯で、リョウの体に腕を回しぎゅうと抱きしめて、そのおさまりの悪い赤毛をまさぐろうとして……
 「……れ?」
 赤くない。
 黒い。
 手触りも違う。
 リョウの髪はこんなにごわごわしてない。うっかり触ったら刺さりそうなほど固くない。
 針のようにツンツン立った短髪から手を引っ込め、ビバリーは不審げに首を傾げる。 
 感激の涙で潤む視界に来訪者を映す。
 「いや~、盛大に歓迎してもろて照れるな。ぶち破る勢いでドンドン叩いとったのに、俺の顔見るなり人類皆兄弟てハグするなんて結構懐でっかいやないかい。見直したで。ところでロザンナてだれ。二次元彼女?どの漫画にでてくるんや?」
 廊下に立っていたのは紛れもなく西の道化ヨンイル。
 尖った八重歯の覗く快活な笑顔がさっぱりした気性を物語る。
 額には鉄工所で使うような本格的なゴーグルをかけている。
 どうにも憎めないやんちゃ坊主の笑顔と対面したビバリーは、たった今感極まって抱き付いたのが西の道化と知るや否やすさまじい勢いで彼からとびのき二歩あとじさる。 
 「あんたっ……あんた、ヨンイルさん!?僕の房に何か用っスか!?ひょっとしてまた漫画の取り立てに……ちょ、待ってください、家捜しは結構ですけどするならリョウさんのベッドのまわりだけにしてくださいっス、僕のベッドの下見ても無修正エロ本なんてありませんからアダルトサイトからダウンロードした壁紙を印刷して手作りヌードポスターなんて貼ってませんから是非とも半径1メートル以外に近付かないでっ」
 手をばたつかせ慌てふためくビバリーをよそに、不敵に落ち着き払ったヨンイルは住人の許可も得ず勝手に房に乗り込む。
 パニックをきたしたビバリーがヨンイルを制止しようと動くも既に遅く、房の真ん中に立ったヨンイルはゴーグルを押し上げて物珍しげにあたりを見回す。
 「お前だけか?いつも一緒の赤毛の小僧はどした」
 一瞬言葉に詰まる。
 「……リョウさんは二日前から行方知れずっス」
 途端、ビバリーの脳裏に名案が閃く。
 西の道化ヨンイルならリョウの行方について何か知ってるんじゃないか?
 もしリョウが西棟にいるならヨンイルのもとに情報が入ってるはずだと熱烈な期待を込め、興奮に拳を固めて詰め寄る。
 「ヨンイルさん、リョウさんの居所知りません?東棟で話題に上らないってことは別棟に出張してる可能性が高くて、たとえば西棟でリョウさんを見かけたとか壁越しに甘ったるい喘ぎ声がもれてくるとか『ママーおっぱい吸わせて~』って寝言が聞こえてくるとか……」 
 「知らんがな」
 返事は実にあっさりしていた。
 滞納してる漫画がないか枕をひっくりかえし毛布をひっぺがしズボンの膝が汚れるのも構わず床に這いベッドの下を覗きこみ手探りし、図書室のヌシの習性で房のすみずみまで入念に改めおえたヨンイルは、落胆したビバリーに向き直るや単刀直入本題を切り出す。
 「用件は他でもない。お前に見せたいもんがあって来たんや」
 「見せたいもの?」
 興味を引かれ顔を上げたビバリーの前で懐をさぐり四角い機械をとりだす。
 「ほい」
 怪訝そうなビバリーに拾い物をつきつける。
 つきつけられたものをまじまじと眺めるうち、ビバリーの顔に徐徐に驚嘆が広がっていく。
 「ヨンイルさんっ、あんたこれをどこで!?」
 いきなり上げた大声にヨンイルが面食らう。
 目をまん丸くしたヨンイルの手から端末をひったくり、あちこちをべたべたさわり熱心にためつすがめつする。
 緊張に震える手でもって、しかし決して落とさぬよう細心の注意を払い機械に触れるビバリーを、完全においてけぼりを食らったヨンイルは得体の知れぬものでも見るようにまじまじ眺める。
 「ヨンイルさんあんたこの機械に変なことしてないっスよね水かけたり回線いじったり床に叩き付けたりしてませんよね、ああっ、でもまさかこんな所で伝説の初代にお目にかかれるとは僕はツイてますアンビリバボーマイゴッド、まさかまさかロザンナの一世紀前のご先祖にこうしてお会いできるだなんてハッカー冥利に尽きます!!」
 「だいじょうぶか?言うてることおかしいで。頭から湯気でとるし」
 ヨンイルの冷静な突っ込みもビバリーの暴走を阻止できない。
 あまつさえベッドに駆け戻りロザンナに手中の小型機械をつきつけ「ロザンナほらご覧、これが君たちゲイツチャイルドのご先祖さまっスよ。いや、ご先祖様てのは変っスね。開発した会社が違うしこっちは日本産だしそもそも用途が……」とわけわからないことをのべつまくなしにくっちゃべっている。
 ヨンイルはしばし困惑顔でビバリーの狂態を眺めていたが、こうしてぼんやり突っ立っていても埒が明かないと判断し、腕組みしたままひとつため息を吐く。
 「しゃあないな。いっちょヤキいれたるか」
 コキコキと首を鳴らし助走の体勢をとる。
 おもむろに床を蹴り走り出す。
 手の中の機械にすっかり夢中のビバリーが何事か早口でロザンナに話しかける。鋭く呼気を吐き床を蹴る。ヨンイルが、舞う。裸電球にぶつかるすれすれの上空で身を捻り、ロザンナの上に着地せんとする。

 『ОHーーーーーーーーNооООо!!!』
 ゴーグルが裸電球の光を反射する。

 ヨンイルの接近をベッドにおちた影で悟ったビバリーがこの世の終わりのような顔でロザンナに覆い被さる。
 身を挺しパソコンを庇うビバリーを一瞥、中空のヨンイルはにやりと笑う。

 着地の衝撃にベッドが跳ねる。

 ロザンナの液晶画面が蹴り割られる事態は紙一重で防がれた。
 ロザンナをひしと抱え込んだビバリーの鼻先すれすれに降り立ったヨンイルは、大きく股を開いた不良の座り方でその眼前に屈み込む。
 「質問に答えろ。『これ』はなんや?」 
 凄味の利いた目つき、抑えた気迫のこもる声。
 酸欠の金魚のようにぱくぱく喘ぎながらビバリーが反駁する。
 「ゲ、ゲームボーイっスよ……任天堂が1989年に発売した携帯型ゲーム機の……」
 思わいもよらぬ回答にヨンイルは仰け反る。
 「ゲーム機?これが!?スイッチ入れてももあかり点かんで」
 「電池切れっス」
 ぴこぴことゲームボーイのボタンを連打するヨンイルにほとほとあきれたといった顔でビバリーが指摘する。
 衝撃が去ると持ち前の好奇心がもたげてきたらしく、乾いた唇を舐めてビバリーが詮索を始める。
 「生産終了して八十年たつ超レア物っスよ、これ。ネットオークションに出せば軽く百万はこえます。傷がなければ三百万出してもいいってマニアもいるくらいっス。ゲームボーイってのは今の世界にあふれるあらゆるゲーム機のご先祖といっても過言じゃない特別な存在なんス、ゲームボーイがなきゃプレステもセガもドリキャスもこの世になかったといっても決して言いすぎじゃないんスから」
 「わかりやすく言えや」
 「悟空がいなきゃ悟飯も悟天も生まれなかったって事っス」
 「すごいやんか!!」 
 最強サイヤ人孫悟空にたとえられて初めて事の重大さとゲームボーイの凄さが飲み込めたらしく、有頂天でゲームボーイを掲げたヨンイルがふと真顔に戻る。
 「…………………………………だから?」
 「?」
 「いや、これがゲームボーイっちゅー名前てのはわかった。ゲーム機のご先祖っちゅーんもな。せやけどだからどうした?なんでコイツが普段だれも行かん砂漠のど真ん中におっこちてたんか、なんで所長とホセが目の色かえてコイツを欲しがるんか肝心のところがさっぱりわからん。機械に詳しいお前ならそのへんわかるんやないかて持ち込んでみたんやけど……」
 思わせ振りに言葉を切る。
 刹那、ビバリーの顔色が豹変する。
 「『砂漠の真ん中で拾った』?」
 今しがたの言葉を慎重に反芻する。
 次の瞬間ヨンイルの手から有無を言わさずゲームボーイをひったくり、背面のカードリッジを確認。
 「……ソフトが入ってる」
 ビバリーが猛然と行動を開始する。
 ヨンイルを無視してベッドの下に顔を突っ込み、埃まみれになりながら床を手探りし隅に転がっていた乾電池を摘む。
 残量は残りわずかだが、まだ使えるはず。
 「発売当時ゲームボーイは世界最小の携帯ゲーム機ともてはやされました。西暦2000年の時点で累積販売台数1億台を突破、今もって販売台数世界最多のゲーム機。電源には世界規格である乾電池を使っていて、かつ使用に際して本体以外の装置が不要で、どんな状況下でも稼働するため発展途上国の一般家庭にまで広く普及している希有なハードっス」
 ふっと息を吹きかけ乾電池の埃を払う。
 機械に関してのみ博覧強記を発揮するビバリーは、抜群の記憶力でゲームボーイの歴史とその性能を説明しつつ背面の蓋をはがして手際よく乾電池を詰めていく。
 「それだけじゃない。ゲームボーイは非公式なもののネットや書籍でハードの仕様がほぼ判明してて各種エミュレータ・開発ツール・同人ゲームが存在する。早い話ちょっと機械に詳しい人なら簡単に改造することができるんスよ。耐久性はずばぬけて優れていてショットガンで撃たれてもきちんと作動したって逸話があります。湾岸戦争の時に任天堂がアメリカ軍に暇つぶし用としてゲームボーイを提供し、その後空爆で倒壊した家屋から発見されたゲームボーイが外装がひどく焼けていたにもかかわらず問題なく動作していた実例があるくらいっス」
 「砂が入って壊れたんやなくて単純に電池切れってことか?」
 ビバリーの話を自分なりに解釈しふむふむとヨンイルが頷く。
 乾電池を詰め終えパチリと蓋を閉める。
 スイッチを入れる前にカードリッジからソフトを摘出する。
 真ん中あたりのラベルにゴシック体でタイトルが印字してある。

 『Tokyo underground map』。
 東京地下市街図。

 「…………まさか」
 ビバリーの横顔がにわかに鋭さを帯びる。
 別人のごとく神妙な顔で手の中のゲームボーイを見下ろし、頭を急回転させ思考を働かせるビバリーに図々しく這いより、ヨンイルが首を傾げる。
 「……所長とホセが目の色かえて欲しがるのも当たり前だ。ひょっとしたらこれは、東京プリズンを文字通り根底から覆す切り札になるかも……」
 口調まで別人のように変わったビバリーに痺れを切らし、その手からパッとゲームボーイを取り上げる。
 「!あっ、」 
 抗議の声を上げるビバリーにやんちゃな笑みを返し、ベッドに胡坐をかいたヨンイルはいさゲームボーイを構える。
 ゴーグルの下の双眸が細まる。
 口の端から剣呑に光る犬歯が覗く。
 稚気と精悍さとが入り混じった挑戦的な笑みを浮かべ、楽しいことに目がない西の道化が高らかに宣言する。
 「もったいつけんなや、いけず。ブツブツ言うとらんとスイッチ入れてみたらえーやん。お前の言うとることちぃともわからんけど、東京プリズンが根っこからひっくりかえるやなんて話聞いとるだけでワクワクしてきよったで」
 手ごたえあるまでカードリッジにソフトを押し込み、ヨンイルは軽快にスイッチを入れた。
 東京プリズンを転覆させる起因となるスイッチを。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050322033927 | 編集

 下水道でセイレーンと出会った。
 「歌はいいわねえ」
 人魚の地声は野太かった。

 僕は下水道にいた。
 消灯時刻を過ぎた深夜囚人が寝静まった頃合を見計らいビバリーにも内緒で下水道におりたのはホセの依頼をはたすためだ。
 いい加減本腰入れてとりかからないと後々どんな目にあわされるかわかったもんじゃない。
 「東京プリズンの地下を探る」という曖昧すぎる目的をもって梯子伝いに下水道におりた僕を待っていたのはホラー映画顔負けのこった演出の連続だった。
 病的に白い体毛と不気味に光る真っ赤な目が特徴のネズミさん達にはいきのいいご馳走と認識されお尻を齧られかけ、アルビノネズミの大群から逃げて飛び込んだ脇道はおそろしく複雑に入り組んでいて、壁が途切れてポイと見知らぬ場所に放り出された時点で完全に帰り道を見失っていた。

 現在地はまったく見当つかない。
 自分が今どのへんにいるかもわからない。

 東京プリズンの地下には蟻の巣の如き構造の下水道が枝葉を伸ばしている。僕が今いる場所は大きく本道から逸れているらしく壁にはひとつも照明がなく不均衡に傾斜した天井が荒廃した雰囲気を醸している。
 パッと見の印象は地下何層にもわたり発展した下水道の終点近く、ブルーワーク担当の囚人すら滅多に立ち入らない暗渠の迷路のただなかだ。僕が最初に地点を心臓の大動脈にたとえるならここは右手小指の毛細血管の先っぽあたりだ。

 完全に迷子になった。

 不安と絶望に押し潰されたかけた僕に一筋の光明をもたらしたのは、不意に響いてきた歌声だった。
 下水道には場違いな歌声。
 なぜ歌が?と疑問を抱くも、帰り道を閉ざされた僕には歌に導かれ先に進むより他に選択肢はなかった。
 黴臭く苔むした下水道に流れるのは僕が生まれるずっとずっと前に流行った歌、それこそ百年以上も前に一世を風靡した歌だ。
 タイトルは「テネシー・ワルツ」。
 音楽好きのビバリーがダウンロードするのを傍らで聞いてたからすぐピンときた。
 でもなんで下水道に歌が?
 いったいぜんたい誰が歌ってるの?
 一歩進むごとに素朴な疑問が得体の知れぬ不安にとってかわる。
 考えれば考えるほどおかしい、不自然だ。
 いや、不自然を通り越して異常な状況だ。
 さっき言ったとおりここはブルーワーク担当の囚人すら存在を知らないとうの昔に忘れ去られた水路で、今は一部の例外を除き東京プリズンの囚人全体が夢の中の時間帯で、僕はわざとその時間帯を選び抜け目なく下水道に下りたのだから当たり前だけど、常識的に考えてこんな時間のこんな場所に僕以外のだれかがいるはずはないのだ。しかも相手は歌を唄っている。わけがわからない。わざわざ歌を唄うために下水道におりたの?こんな暗くじめじめした場所で歌の練習をするために?まさか。

 思考の過程でぞっとする。
 もし、相手が人間じゃなかったら?
 魔性の歌声で船乗りを破滅させるセイレーンのイメージが脳裏で像を結ぶ。

 「……まさか。ワニならともかく下水道に人魚がでるなんてナンセンスっしょ」
 岩に腰掛け船乗りを手招く人魚のイメージをかぶりを振って打ち消す。
 青白い光満ちる月下の海ならともかく、独特の黴臭い匂いが充満する不浄な下水道でちゃぷちゃぷ水遊びに興じる人魚は本来のロマンチックなイメージとかけ離れている。
 わざと勢い良く水を蹴散らし水路の奥をめざす。
 歌声がますます大きくなる。
 歌声は時に太く時にか細く豊潤な旋律を編んでいく。
 天井から水滴が滴る。
 吐く息が白く曇る。
 上着越しにじわじわ寒さが染みこんでくる。
 膝まで水に浸かりながら半ば以上むきになって水路を進む。
 歯の根ががちがちと鳴る。
 上着越しに二の腕をさすり寒さをごまかす。
 歌声がますます大きくなる。
 声の主が至近距離に迫る。
 胸の高鳴りをおさえて正面の闇に目を凝らす。 
 「だれ?だれかいるの?」
 闇に慣れた目が人影を捉える。
 歌声がふっつり途絶え重苦しい沈黙がのしかかる。
 僕は油断なく正面を睨みつけ、相手がいつとびかかってきてもいいよう体の脇にこぶしを構え拳闘のポーズをとる。
 「あら?坊や、どこからわいてでたの」
 正面の闇に潜む人物は無防備ともいえる動作で僕の前に歩み出て、すっかり正体を晒す。
 僕は愕然とした思いで立ち竦む。
 目の前に現れ出でたのが実に異様な人物だったからだ。
 その人物は不恰好に出っ張った頭を綺麗に剃り上げていた。
 要するにスキンヘッド。
 ここまではまあいい、スキンヘッドの囚人は少なくない。
 特筆すべきはその強面ぶりだ。
 灼熱の炭火のように爛々と輝く目、一呼吸ごとに膨らむ鼻の穴、ふてぶてしくひん曲がる唇、くるみを殻ごと噛み砕ける顎はケツのように割れてひげの剃りあとも青々と濃い。がっしり骨太の体にふさわしい武骨な顔はよくいえば勇ましくありていにいえば醜い。凱と同路線のルックスだけど、こっちは更に鼻ピアスと唇ピアスのおまけつきで一目見たら忘れられない強烈なインパクトを与えてくれる。
 シャツが張り裂けそうに分厚い胸板、崖のように起伏にとんだ腹筋、髑髏の刺青があってもおかしくない上腕二頭筋の隆起。
 一応囚人服を着ていたけど、とてもじゃないが未成年とは思えぬ凄味と貫禄あふるるワイルドな面構え。軍人上がり、それも「チンポコ頭」と罵倒を浴びせる鬼教官に叩き上げられ不屈の闘志を獲得した海兵隊出の猛者だと言われたほうが余っ程しっくりくるストイックなマッチョぶり。腕立て腹筋は一日たりとも怠りません、サー。
 しかし何故か開口一番とびだしたのはおねえ言葉。
 「……え?え?え?」
 ちょっと待って、なんで下水道にオカマが?
 いや、まだオカマと決まったわけじゃない。
 タマのあるなしは見た目だけで判断できないしひょっとしたら手術前かもって何言ってんだ僕、混乱しすぎ。ぴかぴかに磨き上げたスキンヘッドとか炭のように好戦的に輝く目とか唾飛ばし捲くし立てるごとにぶらぶらする鼻ピアスと唇ピアスとか奇抜を通り越して奇怪な容貌、カタギ路線とは180度逆方向にまっしぐらに突き進むルックスにも増して、その口から機関銃の如く発せられるおねえ言葉に面食らう。
 妙に甘ったるく語尾を伸ばす喋り方に反し、野太い声は明らかに男のものだ。
 なよなよとめめしい仕草が似合わなすぎて気持ち悪いオカマが悩ましげに腰をくねらせすりよってくる。
 熱っぽい息が耳朶をぬらす。 
 「歌はいいわねえ」
 鳥肌立った。色んな意味で。
 「ひいいいいいいいいいいいいっ!?」
 貞操の危機を感じてあとじさった拍子に勢い良く足が滑る。
 水柱が立つ。
 両手をばたつかせ尻餅付いた僕は全身に水をひっかぶりずぶ濡れになる。
 頭から服から雫が滴る。
 脳裏で疑問符が膨らむ。
 なんで下水道にオカマが?……いや、オカマはこの際おいとこう。この男はいったい何者で何が目的でこんなところにいる、なんだってこんなところでご機嫌麗しく歌を唄ってたの?
 僕はすっかり動転していた。
 下水道の奥の奥、ブルーワークの囚人すら存在を知らない打ち捨てられた水路で百年も前の流行歌を口ずさんでいたのはスキンヘッドピアスのオカマだった。
 ある意味セイレーンより衝撃的だ。
 「あの、あの……君、人魚じゃないよね」
 水路に尻餅付いたまま、未知との接近遭遇が接近挿入にならないことを祈りつつ見てわかることを一応聞いてみる。
 「んまっ」
 オカマが頬に手をあてがう。その顔がみるみる赤くなる。
 感激に頬を染めたオカマがずんずん大股に詰め寄りむぎゅっと僕の手を握りしめ助け起こす。振り払う暇もなかった。そもそも握力が強すぎてほどけなかった。痛い痛い指が折れると涙目で哀訴する僕には構わず、というより感激のあまり僕の抗議なんかさっぱり耳に入ってないらしいオカマが歓喜に咽びながらくねくねと身をよじる。
 「私が人魚ですって?まあなんてステキな比喩ロマンチックなレトリックに富んだ表現なの、貞子感激!」
 「さだこ?」
 鸚鵡返しに問う僕をよそに、貞子と名乗るオカマはうるうる目を潤ませ僕の手を束ねてひしと揉みしだく。
 「そりゃそうよねこんなじめじめと薄暗く不潔な下水道で世にも美しい歌声が聞こえてきたら人魚と勘違いしても無理ないわ、あなたの気持ちはよーっくわかるわよ坊や!しかも歌を唄っていたのが世にも美しきこの私、性別を超越した美の体現者なるマドモワゼル貞子こと絶世のニューハーフときたらその歌声と美貌でもって船乗りを破滅させるセイレーンと見間違えたところで無理ないわ、あなたが気に病むことなんてちっともないわ、言ってみればこれは運命の悪戯で私の美を妬んだ女神アフロディーテの意地悪なのだから私が人魚じゃなく更には女じゃなくてもがっかりする必要なんかこれっぽっちもないわ!私に足が生えているからといって幻滅することはないのよ坊や、ともかくお股のあいだにぶらぶらしてる三本目の足については一日も早い切除を望むけど……」 
 僕に一言も挟ませない饒舌さで捲くし立て最後に切なげにため息をつく。
 激情に乗せ言い切ったオカマが下心満載で探りをいれてくる。 
 「ところであなた、ついてるの?」
 食われる。
 物欲しげに指をくわえるオカマから距離をとり、顔の前で両手をふりたくり必死に弁解する。
 「ついてる、ついてますっ!」
 「な~んだ。『済』かと思ったわ」
 なんだこの展開。なんだこの気のぬける会話。
 貞子と名乗るオカマの登場にすっかり調子が狂う。
 貞子……たぶん源氏名。
 だから何?
 本名だろうが源氏名だろうがこの際どうでもいい。
 深呼吸で冷静さを取り戻し慎重に立ち上がる。
 下水道で貞子と対峙する。
 自称貞子は興味津々といった感じの顔つきで頭のてっぺんから足の先までしげしげと僕を値踏みする……特に股間のあたりを重点的に。
 天井から滴り落ちた雫が水面に波紋を投じる。
 愉快げに僕を品定めする貞子に負けじと顎を引き、毅然と言い返す。
 「人魚じゃなけりゃ、なにさ」 
 僕の虚勢を見透かすように貞子が余裕の笑みを浮かべ、立てた小指をくるくる回してみせる。
 「ただのオカマよん」
 「そのオカマがなんでここにいるの?こんなじめじめと薄暗い下水道でひとり何してたわけ?」
 苛立ちに声が尖る。
 貞子はあっけらかんと開き直る。
 「ヒ・ミ・ツ」
 脱力。
 早くも会話に疲れてきた。
 はなから人種が違うと諦めて退散すべき?
 がっくりうなだれる僕を愉快げに見詰めながらしかつめらしく貞子が忠告する。
 「逆に質問。あんたこそ何してるの?あんたみたいに可愛い子がふらふらしてたら危ないわよ、ネズミの餌になるのが関の山だわ」
 「僕、ブルーワークなんだ。今日の昼間下水道にもぐった時に落とし物しちゃってさ、その時はぜんぜん気付かなかったんだけど消灯時刻が近付いてさあ寝ようとした時にハッと思い出して下水道にやってきたってわけ」
 すらすらと嘘が口をついてでる。
 こんな怪しさ大爆発の胡散臭いオカマに真実を話すほど僕は馬鹿でもドジでもないのだ。第一相手だって本当の目的を言わないのだから僕だけが責められるいわれはない。
 貞子は「ふ~ん」と頷きながら僕の話を聞いていた。
 完全に信用したわけではない証拠に顔にありありと不審の色が浮かんでいたが、お互い様だから気にしない。
 「変ね。わざわざ看守に見つかる危険を犯さなくても明日の仕事の時に拾えばいいじゃないの」
 「水路におっことしたんだ。流されちゃったら困るでしょ。気付き次第なるべく早くとりにこなきゃね」
 上目遣いに貞子の表情を窺う。僕の言葉に一応は納得したらしく、すっきりしない表情ながら貞子は軽く頷いてみせる。
 「しょうがないわねえ。こうして出会ったのもなにかの縁ってことで地上まで案内してあげるわ」
 やった。思いがけず救世主登場。
 「ほんと!?ラッキー」 
 指を弾いて快哉をあげる。
 案外いいオカマじゃんコイツと貞子を見直した。
 再び地上に帰れる嬉しさにこの瞬間僕の脳裏からは貞子の正体に関する疑惑もホセの依頼内容もきれいさっぱり消し飛んでしまった。
 地獄に仏下水道にオカマ、神様何様貞子様。
 ああ、これでゴキブリとネズミが這いずりまわるじめじめ薄暗い下水道とおさらばして毛布にくるまってぐっすり眠れる。相棒の下水道探検など露知らず今頃はロザンナを抱いて眠りこけてるだろうビバリーを想像しにわかに心が浮き立ち始める。
 寝相の悪いビバリーがベッドからずりおちかけたところを想像し、ニヤケた顔で貞子の肩を叩く。
 「サンキュー貞子さん、あんた結構いいオカマだね!」
 先に立って歩き始めた貞子がぴたりと立ち止まる。
 「ニューハーフって呼ばないとタマ潰すわよ」
 貞子は振り向きざま輝やかんばかりの笑顔で断言した。
 
 「………ねえ、本当にこっちでいいの」
 「二重の意味でツイてる私を信じなさい」
 また下ネタかよ。
 お下劣な駄洒落にうんざりしつつ、おいていかれてなるものかと貞子の背中を追う。
 貞子は勝手知ったる下水道とばかり迷いない足取りで脇道に逸れていく。
 妙なことになったぞと思いながら僕はその後を追いかける。
 貞子と出会った地点から既に1キロばかり離れている。
 戻っているのか進んでいるのかそれさえ判らない暗闇で頼れるのは貞子の背中だけだ。貞子は僕がついてきてるか確かめようともせずひとり勝手にずんずん進んでいく。僕は懸命に貞子に追いすがる。息を切らし小走りにある時は右折しある時は左折し複雑に交差した水路へ路から水路へ渡り歩く。
 貞子の導きにより水路に分け入るごとに風景が変化していく。
 天井と壁の間隔はますます閉塞し今や息苦しいほどだ。
 閉所恐怖症の人間ならたちどころに発狂してしまいそうな狭苦しい空間で足元にはちょろろと水が流れている。膝まで水に浸かっていたさっきと比べればだいぶマシだけど照明ひとつないせいで歩きにくいことこの上ない。
 「ねえ、貞子さんはどの棟の人なの?」 
 のしかかる沈黙に痺れを切らし、せめておしゃべりで気を紛らわせようと快活に口を開く。
 「北棟よん」
 「へえ、北か。サーシャ最近どう?所長の犬に成り下がって軍人気取りでのし歩いてるみたいだけど、肝心の所長がペットレス症候群でカウンセラーのお世話になってるんじゃ仕事もろくにないんじゃないの」
 「あら、あれはあれで結構忙しそうにしてるわよ。ペア戦でレイジに敗けてからは北棟での地位もどん底に落ちて随分辛酸を舐めたようだけど今じゃ完全復活、高笑いしながらびゅんびゅん鞭振り回してるもの。立ち直り早いわよねあの子。だってアホだから。今?今は何してるのかしらね。こないだ東の王様に会いに出かけに行ったのは聞いたけど……最近はおもに所長のペット代わりとしてご奉仕に励んでるみたいよ。主食はほねっこだってもっぱらの噂だもの」
 「マジ?死んだハルの代わりに掘らせてやってんの?」
 「全裸に剥かれて鎖付きで鞭打たれてちょっとしたハードSMの毎日よ。所長とハルは身も心も繋がった仲だって話だからハルの代わりを務めるってのはつまりそゆこと、フユキ専属の性奴隷になるってことよ。でも美味しいわよね、銀髪の性奴隷だなんて。私もほしいわ性奴隷。鞭打たれるのと鞭打つのなら断然後者よね。うちの皇帝サマはちょっと前まで東の王様にご執心で寝ても覚めてもつけまわしてたけど今はたくさんのファンにつけまわされる側で本人も参ってるんじゃないかしら?最近げっそりやつれてきたし……心配だわあ」
 もとから噂好きな性分らしく話しかければいきいきとサーシャの近況を教えてくれる。大袈裟な口ぶりでサーシャの体調を憂える貞子に三歩遅れ、世間話の延長でさりげなく質問する。
 「貞子さんは何やってぶちこまれたの?」
 「痴情のもつれでちょっとね」
 貞子が頬に手を添え遠くを見る。
 焦点の合わない目で虚空を凝視する貞子の横顔には、過去の過ちを悔いる沈痛な色よりも若気の至りを反省する殊勝な色が濃く刻まれていた。言うなれば「あの頃は若かったわね」と一種微笑ましさをひめた青春の回顧だ。……ふれないほうがいいかもとためらうも一度持ち出した話題を打ち切るのもわざとらしいかなと思い直し、何より好奇心に負けて突っ込んでみる。
 「痴情のもつれって……具体的には」
 「小娘の頃の話よ」
 「そもそも性別が違うじゃん」
 冷静な指摘を脇にしりぞけ自分に酔った貞子が滔滔と話し始める。
 「当時私にはぞっこん惚れ込んだひとがいた。それこそ身も心も捧げ果てた最初で最後のひと、永遠の愛を誓い合った仲よ。けれどね、その人は私を裏切ったの。私を裏切って他の女に走ったの。許せなかった。よりにもよって女なんかに、女なんかに、お尻じゃなくてお股に穴があいてる憎い雌なんかに……」
 宙に両手をさしのべ悲劇のヒロインぶって情感たっぷりに自分の半生を物語るも、恋人の裏切りの段階にさしかかり感情が沸騰したらしく声に地金が出てケツ顎がわななく。
 腰だめに構えた拳を屈辱に震わせ、全身から気炎を立ち上らせた貞子が声のトーンをおとす。
 「浮気者には死あるのみ。私は全世界の虐げられたニューハーフに代わり復讐の女神に頭をたれ剃刀を手にしたわ。いつもおひげを剃ってた剃刀、切れ味のよさは保証済み。ペアの歯ブラシをひとつコップにさすようにペアの剃刀をコップにさしお互いの顎を剃りあった幸福な日々が過ぎ去り幾星霜、屈辱を耐えに耐えしのびけなげに尽くし続けたけれどもう限界。私は剃刀を手に浮気現場に殴りこみ金輪際哀しみの種子を撒き散らさないようきゃつのクソ魔羅をばっさり……」
 「ストップごめんなさい僕が悪かったです乙女の純情を踏みにじるような無神経な質問してごめんなさいー!」
 貞子の手に握られた剃刀の幻影すら見えた。
 狂気迸る身振り手振りで当時の状況を微に入り細を穿ち再現し、手にした剃刀を振り下ろす動作までやってのけた貞子が、禿頭に汗を光らせこちらに向き直る。
 「冗談よ、ジョーダン」
 ……不自然なほど爽やかな笑顔だった。
 こいつはやばいと本能が騒ぎだす。
 貞子は迫真の名演技で彼氏の息子をばっさりやったことなど忘れかのようにご機嫌な様子で再び歩き出し、僕は正確に1メートルの距離を保ちびくびくと貞子の背中に続く。
 ……なんだか泣けてきた。
 無性にビバリーに会いたい。
 貞子みずから案内役を申し出た時はこれで漸く地上に帰れると感謝したけど、正体不明のオカマと二人ぼっちで下水道を歩く奇妙奇天烈な状況がもたらすストレスたるや絶大で、おまけに貞子ときたらしゃなりしゃなり腰振ってなよなよ内股で歩いてて、それがもうびっくりするほど似合ってないやら滑稽やらで、半径1メートル離れた僕はふきだすのをこらえるだけで物凄い労力を使っているのだ。
 ……何者なの?この人。
 北棟の囚人ってのは本当なの?
 何しに下水道におりてきたの?
 貞子の背中を見詰めるうちに不吉な胸騒ぎを覚える。
 考えれば考えるほどに貞子への疑惑が増す。
 貞子は下水道におりた用件を言わなかった。
 「………………」
 貞子の背中を追いながら推理を捏ねくりまわす。
 ホセは策士だ。
 ホセが僕だけじゃ頼りないと憂慮し他の人間にも依頼を持ちかけたとすれば貞子がここにいる理由が判明する。貞子もまたホセに依頼され僕と同時刻に下水道にもぐっていたのだ。
 そう考えれば僕と貞子がはちあわせしたのも不自然じゃない。
 僕と貞子はホセの依頼を遂行すべく少ない情報を手がかりに下水道をくまなく探索していたのだからブルーワークの囚人すら立ち入らない寂れた水路でばったり出くわすことだってありえる。つまり僕たちはホセの掌の上で踊らされていたのだ、片方が失敗しても片方が依頼を引き継げるよう保険をかけられていたのだ。
 そう考えれば辻褄が合う。
 貞子が北の人間というのもあやしい。
 ホセ自ら危険を伴う調査を命じたのなら信用ある南の人間の可能性が高い。
 貞子がホセの腹心?
 貞子もまた隠者の持ち駒のひとつだとしたら……
 「ね、貞子」
 緊張に乾く唇を舐め、意を決し立ち止まる。
 「君、ほんとに北の人間?ほんとは南の人なんじゃないの」
 前行く背中に直接疑問をぶつけてみる。
 水路の真ん中で貞子がおもむろに立ち止まる。僕は一歩詰め寄る。
 「君が下水道におりた理由を話さないのは隠者に口止めされてたからっしょ?君も僕と同じでホセに利用されてたんだ、アイツの手駒として動かされてたんだ。この際だからはっきり言っちゃうけど、僕は南の隠者ホセに『地下を調べろ』って言われて、こうしてこっそり下水道におりてきたんだよ」
 極秘の依頼内容をバラしちゃっていいのかなという危惧に一瞬舌が縺れるもかぶりを振って躊躇をかなぐり捨てる。
 勘違いだったらどうしようという心配はもちろんあるが、それ以上に僕の推理は正しいという根拠のない自信と確信に支えられている。

 人が立ち入るはずのない下水道の奥で「偶然」出会った謎のオカマ。
 もしこれがホセの手により仕組まれた「必然」の「偶然」だとしたら?

 貞子がホセの腹心と仮定して、ホセの命令で下水道を調べていて、迷子になった僕とかち合ったのだとしたら?
 腹の底からむらむらと怒りが湧いてくる。

 『期待してますよ、リョウくん』
 うそつき。

 僕の能力を見込んで依頼するとかぬかしたくせにちゃんと保険をかけていたんだ、僕一人が任されたわけじゃなかったんだ、腹の底では僕なんか信用できない依頼を成し遂げられるわけないってばかにしてたんじゃないかホセのやつ。黒縁眼鏡をかけたうさんくさい笑顔が脳裏に浮かぶ。ああ、唾吐きかけてやりたい。まったくホセは腹黒い、最初から僕のことなんてこれっぽっちも信用してなかったくせに利用価値なんか認めてなかったくせにさんざおだてあげて掌の上で踊らせてやがったんだ畜生!
 ホセの仕打ちにプライドがいたく傷付く。
 僕はそれなりに情報屋として自信をもっていたし自分の能力を信用してもいた。けれどホセはそうじゃなかった、僕に集められる情報なんかたかがしれてると高をくくり、「でもまあ一応保険をかけときますかね」ぐらいの軽い気持ちで下調べを頼んだのだ。

 僕ははなから期待されてなかった。
 ホセにとっては僕こそおまけで、ついてでで。
 もしもの時のための保険にすぎない存在で。
 もしもの時が来ない限り、お呼びじゃないわけで。

 「じゃあ何、僕が今までやってきたこと全部無駄だったわけ?梯子掴んで手が霜焼けになって寒い思いして下水道に下りて、ユアンの幽霊やネズミの鳴き声や自分の影に怯えながらあちこち行ったりきたりしてあげく迷子になって、そうやってひとりぼっちで心細い思いしてまで下水道の下調べしてたのにホセははなから僕のこと信用してなくて、べつに本命がいて、僕はホセの掌の上で踊らされてただけ……」
 腹立たしさのあまり語気を荒げて貞子につっかかる。貞子は何も言わず僕を見詰めていたがふいにその顔が真剣みをおびる。
 「しっ!」
 貞子とびかかるように僕の口を塞ぐ。
 「むがっ!」
 貞子が剣呑な目で周囲を警戒する。鼻と唇のピアスが揺れる。僕の口を塞いだ貞子がそのまま僕に覆い被さり力づくで脇道へ押し込む。
 横幅80センチ足らずの壁の間に押し込まれ、わけもわからずもがき苦しむ僕の鼻面を塞ぐ形で貞子が押し迫るのだからたまらない。
 ちびで痩せっぽちの僕だからこそ何とか入り込めた隙間に筋骨逞しい貞子が身を捻じ込むのは無茶がありすぎるし物理的に不可能だ。
 しかし貞子は気合と根性でその無茶をなしとげた。
 鼻息荒く顔を充血させ、ぎょろりと剥いた白目を血走らせ、憤死寸前の形相でわずかな隙間に我が身を捻じ込んだ貞子の様子に異常を悟る。
 「どうしたのさ一体、かくれんぼにしたって窮屈すぎる……」
 足音が聞こえた。
 ぴちゃりとぴちゃりと水溜りを弾き、こちらに近付いてくる何者かの足音。
 「…………っ!」
 足音?
 だれの?
 「なかなか頭のいい子じゃない、見直したわ。でもね、世の中にはあなたの知らないことがまだまだいっぱいあるのよ」
 横顔に苦しげな笑みを浮かべた貞子が僕にむかって顎をしゃくり水路を見るよう促す。
 懸命に爪先立ち、貞子の肩越しに水路をのぞき見る。
 湿り気をおびた壁と天井に足音がこだまする。
 足音の接近に伴い胸の高鳴りが激しくなる。
 僕は知らず知らずのうちに貞子の上着の裾を握り締め、足音の主に対する恐怖を押さえ込もうとなけなしの自制心を振り絞る。
 鋭利な視線で水路を走査しきたるべき時に備え、全身に殺気を漲らせた貞子が小声で囁く。
 「あなたがずばり見抜いたとおり私はホセ様の腹心、ひと呼んで南の黒薔薇のつぼみで妹募集中の貞子よ。そうね、さっきのあなたの推理だけど大筋は当たってるわ。ホセ様は私にも同じ命令をくだしたの。『東京プリズンの地下を探れ』ってアレね。でもね、聞いて驚きなさい。同じ命をうけた囚人は南棟だけで五人いるの。全員ホセ様仕込みの優秀な駒よ。ホセ様独自の人脈でことを持ちかけた他棟の囚人を含めたら何人手駒を抱えてるかわからないわ。ドン・ホセはあなたが思ってる以上に底知れない男よ」
 貞子の告白に衝撃をうける。
 ホセの手駒は僕と貞子だけじゃなく他に何人も……何十人もいる。
 ポマードで塗り固めたオールバック、分厚い黒縁眼鏡の奥の柔和な垂れ目、しまりのない顔。
 弱腰セールスマンめいた気さくな笑顔と交渉術で自分を舐めてかかった相手を策謀の術中に落とし込むのがホセの得意技だ。
 ホセは今も着実に手駒を増やし続けている。

 何の為に?
 どうしてそこまで?

 「私が地下に潜ったのはね、消息を絶った手駒をさがすためよ」
 「え?」
 苦々しい独白が意表を衝く。
 「下水道にもぐった手駒が続けて消息を絶った。下水道の下調べをしてるさなかに行方不明になったの。南が三人、西が一人、北が一人……あわせて五人。失踪者が各棟にばらけてるのと深夜こっそり房を抜け出したのとで今はまだ看守も気付いてないけど、このまま放っておけばいずれおおごとになる。そうなる前に下水道に消えた駒を見つけだせってのがホセ様のお達しよ」
 ぴくりとも身動きせず水路を凝視し、貞子が予言する。
 「………くる」
 足音の主が僕らの正面にさしかかり、緊張が頂点に達する。 
 飛沫をはねとばし水溜りに降り立ったのは、黒光りするゴム長靴。
 何の変哲もない長靴を辿り視線を上げる。
 安物の雨合羽にすっぽり身を包んだ小柄な影が、深々垂れたフードの内側から探るような視線を向けてくる。
 フードの奥からちらりと覗いた目はおびただしい皺に埋もれている。
 小さい。身長は僕と同じ位しかない。腰が曲がっている。老人だ。
 光沢のある長靴を履いたその老人は、削げたように細い喉を仰け反らせ、フードの奥から威厳たっぷりにあたりを見回してみせる。
 足音がやむ。
 人影が水路のど真ん中で立ち止まる。
 何の変哲もないゴム長靴でたじろがず水溜りを踏み据え、
 陰鬱な灰色の雨合羽を特別誂えの礼服のように高貴に翻し、
 フードに翳った口元から第一声を放つ。
 「人の頭の上に砦を打ち立てた不届き者どもの子孫めが、言いたいことがあるならこの場に姿を現したらどうじゃ」
 噛み砕くように柔和な口調、年相応にしわがれた声。
 おもむろに手をやりフードを脱ぎ払う。 
 フードから零れ出たのは見事な白髪と皺深い顔。
 豊潤な年輪を刻んだ顔は厳しさと優しさを同時に秘め、誰をも分け隔てなく迎え入れる包容力をも感じさせる。
 預言者の神秘と指導者の威厳を兼ね備えた白髪の老人は、どことなく愛嬌あるつぶらな目を楽しげに輝かせ付け加える。
 「上の人間どもに忘れ去られて久しき東京地下都市、またの名を九龍租界のばばがお相手いたそう」
 歯の欠け落ちた口元にしゃわしゃわと皺を寄せた稚気あふれる笑顔は、どこにでもいるごくありふれたおばあちゃんのそれだった。 


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050321064911 | 編集

 天と地を架ける雨が白い軌跡を描く。
 俺にとって雨は地を縫い止める直線の糸としか認識されない。
 ならばどれだけ雨にぬれようが一向に構わない。
 梅花が貢いだ服が水浸しになろうが惜しくはない。
 俺は雨にぬれながら倉庫街を目的もなく歩いていた。
 周囲には蕭然と廃墟が建ち並んでいた。
 不況の煽りを食らって閉鎖に追い込まれた工場が軒を連ねる荒廃した町並みはどこかの戦場の風景にも似ていた。
 戦争が起こり住民がひとり残らず逃げ出した街。
 とるものとりあえず命からがら身ひとつで逃げ出していった痕跡が至る所に穿たれている。
 ひび割れた路面にへばりついたガムと芯まで燃え尽きた煙草の吸殻、雨の散弾に撃たれて左右に傾ぐ空き缶。倉庫の大半はシャッターを下ろしその内側は死のような静寂が支配している。どこを見回してもゴミばかりだ。朽ちて寂れた虚しい廃墟にただひとり、俺は目的もなく漠然と歩いていた。
 そして出会った。
 『だれだっ!?』
 威勢のいい第一声。
 第一印象は猫。そう簡単に俺を手懐けられるとおもうなよと毛を逆立ていきがる野良猫だ。
 やんちゃな気性を反映するように癖の強い髪があちこちに跳ね回る。
 ぽたぽた雫を滴らせる前髪の下には荒みきった光を放つ目があった。
 癇の強そうに引き結ばれた口元は一度こうと決めたらてこでも譲らぬ意固地さを感じさせる。
 生意気な面だった。
 何日、否、何ヶ月洗濯してないのか想像もつかぬほどに薄汚れたジャンパーを羽織ったガキはよく見ればあちこち泥だらけ傷だらけの悲惨な有り様で、食うや食わずの路上生活を送っていることはおのずと察しがついた。
 全身ずぶ濡れで倉庫の軒先にしゃがみこんだガキは、近寄りつつある俺に敵意を示し、いつ俺がとびかかってもきてもいいよう腰を落として身構える。
 俺を見据えてびくともしないその強くひたむきな眼差しに惹かれた。逐一俺の顔色を窺い機嫌を損ねぬよう腐心する梅花のようにおどおど卑屈な色もなく、「月天心」の連中が俺に跪く際の狂熱を湛えた畏怖と崇拝の色もなく、その目はただ真っ直ぐに挑むように俺を見詰めていた。
 鮮鋭な意志がやどる眼差しに魅入られ、機械的に足を繰り出しガキに歩み寄る。
 距離が縮まるにつれガキの顔に驚きが広がる。
 シャッターに寄りかかったガキが放心の体で呟く。
 『……金、銀?』
 金、銀。
 瞳の色をさしているとすぐわかった。
 ガキは間抜け面をさらし俺の瞳に見惚れていた。面白い顔だった。
 考えていることがすぐ顔に出る体質らしくガキは束の間虚を衝かれたように立ち竦んでいたが、我に返るや否や棒立ちの醜態をさらしたことに腹を立て虚勢をはってみせる。
 ガキは寒くないのかと聞いた。
 俺は寒くないと答えた。
 ガキは怪訝な顔をした。
 俺は頭がおかしいと言った。
 ガキに指摘されるまでもなくそんなことは知っていたが、実際俺を前にして「頭がおかしい」と断言したやつははじめてだった。 

 ガキに興味を持った。
 久しく忘れていた好奇心が疼きだす。

 少し話をした。
 途切れ途切れに言葉を交わした。
 勢いを増す雨音に時折かき消されそうになりながら、しかしガキは正面に突っ立つ俺をひたと見据え、歯切れ良く冗談をとばし笑いさえした。
 年相応にガキっぽい笑顔だった。
 喜怒哀楽の激しさをあらわすようにどの表情もいきいきと躍動感に溢れていた。
 顔をくしゃっと崩した屈託ない笑みも胡乱げにこちらを窺う目つきも怒った顔も芝居っ気などかけらもないごく自然なものだった。
 顔の筋肉と感情を伝える神経とが断ち切れた俺には真似できない笑顔だ。
 素の自分をあけっぴろげにさらけだした人間臭い笑顔は、俺の欠落を埋める代用物となりえるものだった。
 突然ガキが欲しくなった。
 名も知らぬ初対面のガキに対し、梅花にもだれにも感じたことのない狂気じみた独占欲を抱き始めていることを自覚した。
 他人に執着を抱いたのはあの時が最初で最後だった。
 俺はそれまで他人を物としか見てなかった。
 俺の意のままに操れる人形くらいにしか思っていなかった。
 実際梅花も月天心の連中も自分に意志がないかの如く従順に振る舞い自らすすんで俺に服従していた。
 だからこそ俺は人形を壊すことをためらわなかった。
 人形は玩具だ。
 玩具はいずれ捨てられる宿命だ。
 必要価値のなくなった玩具はすみやかに廃棄処分にすべきだ。
 壊れた人形に用はない。飽きた玩具に用はない。
 これまでずっとそう思ってきたが、何故かこのガキに対してだけは玩具に抱くのよりはるかに強烈な関心を抱き始めていた。
 物に対する異常な執着か、人に対する異端な思慕か。
 どちらとも判断つきかねる激しい感情が胸裏で荒れ狂う。

 不意にこいつが欲しくなった。
 欲しくて欲しくてたまらなくなった。
 自分から何かを欲することなど滅多になかった俺が、何故か今目の前にいるこいつを、この薄汚れたガキを心底から欲しいと思った。

 シャッターに凭れたガキがはでにくしゃみをする。
 濡れ髪から雫が滴る。
 長いこと雨に打たれ体温を失ったらしく、すっかり顔が青褪めていた。
 ずぶ濡れのジャンバーを着込んだガキと対峙し、訊ねる。

 『名前は?』
 『ロンだ』
 いい名前だ。単純だが良い響きだ。
 ロン、それがガキの名前だった。
 俺はその名を脳髄に刻み込んだ。

 ガキの目が、同情を含んだ眼差しが。
 「可哀想に」というたった一言が思考回路に混乱を引き起こす。

 ロン、お前のことが知りたい。
 もっと知りたい。
 おまえのすべてを知りたい、俺の物にしたい、お前が欲しい。 
 「可哀想に」の意味を知りたい。
 お前ならきっと教えてくれるはず、「可哀想」とはどういうことかを教えてくれるはずだ。

 奇跡が起きた。
 退廃に倦んだ灰色の世界に突如一条の光が切り込んだ。
 あの時怯むことなく俺を貫いた眼差しが「可哀想に」と何の打算も下心もなく投げかけた飾らぬ本音が、思いがけぬ強さでもって俺の情動を揺り起こしたのだ。 

 お前が欲しい。
 手に入れたい。

 至って無造作にロンに手を差し伸べる。
 俺の顔と手を見比べロンが戸惑う。

 目の前に差し出された手が何を意味するかわからないといった困惑顔で、しかし邪険に払いのける度胸もなく、どことなく不安げにこちらを窺っている。
 『一緒にくるか』
 抑えた声で静かに問う。
 意表を衝く申し出にロンが目を見張る。
 閑散とした廃墟に雨音が響き渡る。
 殷殷とこだまする雨音の中、一呼吸の逡巡をおき決断をくだす。
 ロンがおそるおそる慎重に指を伸ばし、手の甲に届く寸前に怖じたように引っ込める。
 俺の手の冷たさに驚き、狼狽の色が面を掠める。
 それでも一瞬のちに再び勇を鼓し、今度はしっかりと、思いがけぬ強さでもって俺の手を握る。
 縋り付くように一途に、
 希うように必死に。
 ロンはもうためらうことなく、繋いだ手を介してぬくもりの半分を俺に明け渡した。
 繋いだ手から流れ込む体温が、体の奥底で疼く衝動をおだやかに宥める。
 『俺は假面。お前を月天心に歓迎する』
 俺は俺の一存で行き場を失ったガキを月天心に迎え入れた。
 行くあてなく廃墟をさまよっていたロンに居場所をくれてやった。

 俺はロンの救い主だ。
 あの時も、これからも。

 褪せた夢から目覚めれば褪せた現実が待っていた。
 「…………」
 緩慢に瞼を上げる。
 不潔な染みが浮きでた天井が視界を占める。
 無味乾燥なコンクリートで塗り固められた四角い部屋の片隅、ガタの来たパイプのベッドに右半身を下にして寝転がっていた俺は、ここがどこかを即座に思い出す。
 東京少年刑務所、通称東京プリズン。
 スラムのガキどもが恐れおののく砂漠の監獄。
 ここは俺にあてがわられた房だ。
 堅固なコンクリ壁に塞がれた殺風景な部屋の片隅には廃品同然のベッドが置かれ精液と小便が染み付いた汚い毛布が申し訳に掛かっていた。

 夢も灰色なら現実も灰色だ。
 夢と現実に境界線はないのだ。

 ベッドに横たわったまま惰性的に視線を巡らし異状の有無を確認する。
 異様に低い天井が頭を押さえ付けるような閉塞感を与える。
 天井には幾何学的に配管が走っている。
 腐食した配管の破れ目からは絶え間なく汚水が滴りコンクリートの床を穿っている。
 昔の夢を見たのはこのせいか。
 床の窪みにできた茶褐色の水溜りを無感動に一瞥する。
 おもむろにベッドから身を乗り出し水溜りを覗き込む。
 水溜りにぼやけた顔が映る。
 能面じみて無機質で無表情な顔。
 細く通った鼻梁と酷薄そうに薄い唇、神経質に尖った顎。
 切れの長い瞼の奥から硝子の加工品の瞳が覗く。

 俺の顔。
 「假面」の由来となった無慈悲な鉄面皮。

 水溜りの中の顔を瞬きもせず凝視する。
 水溜りの男が瞬きもせずこちらを見返す。
 配管から雫が滴り水面に波紋が生じる。
 男の顔が歪みかき消え、波紋が収束すると同時に再び現れ出でる。

 俺は何故そうするのかもわからぬまま水溜りの中の男を長いこと見つめていた。
 現実の俺と水溜りに映りこむ虚像、どちらが本当の俺なのか次第に曖昧になる。
 今確かにここにいる俺は、存在する俺は、しかし本当は誰なのだろう?

 「假面」。人はそう呼ぶ。
 「道了」。俺の名前だ。

 愚にもつかない自問だ。
 俺は道了であり假面だ、俺は假面であり道了なのだ。
 それでも時々わからなくなる。
 梅花は俺が「優しい人間だ」と言った。
 俺が自分を愛していると思いこんでいた。
 梅花が見ていたのは俺の虚像だ、そうあってほしいという願望の上に築き上げた偽の幻影にすぎないのだ。
 「月天心」の連中もそうだ。
 奴らは俺を崇拝していた。
 どこまでも従順に俺に付き従うことで服従の喜びを感じていた。
 奴らはカリスマを求めていた。
 絶対的な力を持ち自分たちを率いる王者をもとめていた。
 俺は求めに応じ奴らを率いる王として暴威をふるった。 

 王座に祭り上げられた人形は糸が切れるまで踊り続けるしかない。

 俺は何も感じなかった。
 何も、何も。
 すべてが何の刺激も与えず無味乾燥に流れ去った。
 俺に楯突くものの手足をへし折り見せしめにしビール瓶で殴打し鼻をけずり顎を砕いてもなお何も感じなかった。
 発作的に湧き上がる暴力の衝動すら俺を癒しはしなかった。
 「俺は假面だ」
 口に出して確かめる。
 水溜りに映った唇がかすかに動く。
 俺は假面だ。この顔は作り物だ。そんな気がしてならない。
 俺は表情の作り方がわからない。
 意識して笑みを浮かべることはできる、意図して表情を作ることはできる。だがそれだけだ。自分一人でいる時どんな表情をしてるのか俺にはわからない。鏡を見るより他に確かめる術もない。
 俺は出来損ないの人形だ。
 衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 「う……ん……」
 寝ぼけた声がもれる。
 隣で寝返りを打つ気配がする。
 水溜りから視線をそらしそちらに向き直る。
 俺に背中を向ける形で寝転がっていたロンがごろりと反転しこちらを向く。
 枕元に肘を付く。
 ベッドが軋む。
 ロンへと顔を近付ける。
 ロンはよく眠っていた。
 癖の強い髪が重力に逆らいぴんと跳ねる。
 ゆるく瞼を閉じた顔は無邪気な子供のそれだ。
 弛緩した口元から一筋涎が垂れて顎を伝う。
 良い夢でも見ているのだろうか何かを咀嚼するようにくぐもりがちな寝言を呟き、首を振った拍子に肩から毛布がずりおちる。
 「…………寒くないのか」
 外気に晒された肩が寒々しい。
 ロンは返事をせず胎児のように手足を縮めた寝相でぐっすり眠っている。
 もどかしげに毛布を振り落としたロンの肩を軽く揺する。
 ロンは起きない。夢の中で母親に甘えてでもいるのだろうか幼い寝顔に甘美な安息が溶け広がる。
 「…………」
 毛布の端を掴み持ち上げる。
 童心に返って空想の世界に遊ぶロンに毛布をかけなおす。
 「………夢を見ているのか」
 寝顔に問いかける。
 ロンは答えない。
 目覚めるのを拒否するかのように身動ぎし意味をなさない寝言を呟くのみ。
 ロンの額に手をあてる。
 気だるく髪をかきあげる。
 指の隙間をすべる髪の感触が心地よい。
 額に被さる前髪をかきあげ額を包む。
 人肌のぬくもりが掌に伝わる。
 生きている人間の温度が掌に染み渡る。
 人形じゃない。こいつはたしかに生きている。
 こいつを壊すのは簡単だ。
 ほんの少し力を込めればいいのだ。
 ロンを壊したい欲求とロンをそばにおきたい欲求とが危うい均衡を保ちせめぎあう。

 額から手をおろし柔らかな頬を包む。
 指先で顎をぬらす涎を拭う。

 「良い夢か」
 聞かなくてもわかる。
 毛布に包まり熟睡するロンを飽かず眺める。
 俺の知るロンとは違うあらゆる邪悪に耐性のない無防備な寝顔。
 ロンが無意識に口元に指をもっていく。
 物欲しげに唇が開き、ぬれた音をたて親指をしゃぶりはじめる。
 乳を欲する赤ん坊の無垢なる貪欲さでもっておのれの親指を吸いながら、紛れもない至福の笑みさえ薄っすらと口元に浮かべ、たどたどしく舌足らずに単語を発する。
 『媽媽』
 おかあさん。
 「………………」

 ロンは壊れてしまった。
 俺が壊したのだ。
 この俺が。

 ロンが壊れるよう仕組んだのはこの俺だ。
 ロンにむかって香華の話をし形見の牌を砕き最後の希望まですっかりとりあげたのだ。

 牌と一緒にロンの心も砕けた。

 今のロンは幼子も同然だ。
 保護者に捨てられるのをおそれ俺に懐く臆病な子供だ。
 ロンが幼児退行してもう三日が過ぎるがこの間ロンは眠ってばかりいる。
 現実逃避の一種の嗜眠症だ。
 俺は一日の大半を寝て過ごすロンに寄り添い飽かず寝顔を眺め続ける。
 不思議と充ち足りた時間だった。
 漸くロンが俺の物になった、俺だけのものになった。
 俺はロンを手に入れた、ロンの精神を徹底的に破壊し尽くし人格を剥奪し自分に従順な人形へと作り変えもはや完全に東京プリズンに来た目的を達したのだ。
 「ロン」
 耳朶に息を吹きかける。
 ロンがくすぐったそうに肩を揺らす。
 「どこへもいくな」
 ピアスの光る耳朶を指で挟む。
 瞼がぴくりと反応する。
 執拗に耳朶をいじられるくすぐったさに不快げに眉根を寄せ、ロンが薄っすらと目を開ける。
 朦朧とまどろむ目が俺を仰ぐ。 
 「…………………媽媽?」
 あどけなく反駁する。
 目覚めたばかりで記憶が混濁してるらしく俺と母親を混同している。 幼稚な仕草で寝ぼけ眼をこすり起き上がりしな体の線にそって毛布がすべる。
 母親の姿をさがし部屋中を見渡す顔に次第に不安の色が濃くなり、ひくひくと口角が痙攣して号泣の準備に入る。
 大粒の涙を目にためたロンにすかさず声をかける。
 「俺はここだ」
 「たおりゃ」
 即座にロンが振り向く。
 強張り始めた顔が俺の姿を認めた刹那安堵に溶け崩れる。
 一抹の未練なく毛布を蹴飛ばしたロンが宙に両手を差し伸べ俺に抱擁をせがむ。
 俺はロンを抱き寄せる。
 ロンがきつく抱きついてくる。
 合わせた肌から甘酸っぱい汗の匂いが立ち上る。
 「たおりゃ、ねてるあいだおれのことひとりぼっちにしなかった?」
 「ずっと一緒だった」
 疑り深げに俺の顔色を窺うロンに噛み砕くように言い聞かせ、背中に回した手をつと腰にすべらす。
 これから行なわれる行為を予期しロンの体がびくりと硬直する。
 俺の手を拒絶するように背筋を突っ張るも、俺の機嫌を損ねることをおそれ、含羞と哀願の入り混じる悲痛な表情を浮かべる。
 「寝ているあいだに大分汗をかいたな。服を脱いだほうがいい」
 「自分で脱げる、体もふけるよ。手伝ってくれなくていいよ」
 激しくかぶりを振り許しを請うロンを無視しズボンにたくしこんだ上着をひきずりす。
 「!ぃひっ、」
 背中にじかに触れる。
 俺にしがみついたまま感電したようにロンが仰け反る。
 華奢な腰から背筋にそって手を這わせる傍ら、首筋に顔を埋め、貪るようにキスをする。
 首筋を舐めれば塩辛く淡白な汗の味が広がる。
 「お前のいい場所はわかっている」
 窄めた舌で唾液の筋をひきながら衣擦れの音も性急に体をまさぐる。 恐怖に駆られてあとじさったロンが背中から壁に激突し鈍い音が鳴る。俺はロンの上にのしかかり肌を密着させさらに大胆に愛撫を始める。
 体を襲う熱に何も判らぬロンは恐慌に陥り切ない声を上げる。
 「あっ、あっ、あっ、あっ!」
 片手を細腰に回しもう片方の手で胸板をまさぐる。
 胸の突起を交互に摘んで捏ね繰り回してやれば、快感を堪えきれなくなったロンが先ほどとは別の意味で激しく首を振り始める。
 壁に背中を預け汗ばむ喉を仰け反らせ、痙攣の発作にでも襲われように断続的に身を打ち震わせ、縋るものを欲して伸ばした手で爪痕が付くほどシーツを掻き毟る。
 ロンが背中で壁を叩く。
 「やっぱりぬれてるじゃないか。体じゅうぐっしょり汗をかいている」
 羞恥を煽ろうと低く囁けば、今にも泣きそうにロンの顔がくしゃりと歪む。
 「こんなにぬらして恥ずかしくないのか?お前が出したものでシーツもぐっしょり湿っている。これじゃ俺が寝る場所がないじゃないか」
 「俺しらない……しらないもの……目が覚めたらこうなってたんだ、俺がしたんじゃないよ」
 必死に弁解するロンの乳首を指の腹で転がす。
 ロンが「ひあっ!」と仰け反る。
 「粗相をした罰だ」
 苦痛と相半ばする快感に苛まれ、首元まで捲れた上着の下から充血した突起をさらけだしたロンの顔に梅花が重なる。
 「罰」の脅しが与えた効果は絶大だった。
 殴られるのを予期して身を竦めたロンが咄嗟に掲げた腕の隙間から恐怖に駆られた視線を投げかける。

 あの時の梅花と同じ目。
 梅花の亡霊が取り憑いた目。
  
 腕を掲げたロンの前におもむろに立ちはだかり、下着と一緒にズボンを脱ぐ。
 壁際に追い込まれたロンが戦慄に打たれ驚愕に目を見張る。
 梅花と瓜二つの目、香華と生き写しの顔。
 自分の身にとてつもなく酷い事が起きると悟り絶望に打ちのめされ、抵抗する気力を一片残らずなくしただただ呆けたように俺を仰ぐ。
 「しゃぶれ」
 「………だ、って」
 命じられた行為の意味もわからぬまま、呆然と座り込んだロンがおずおずと口を開く。
 「おちんちんをしゃぶるの?だって、そんなことしたら汚いよ……」
 嫌悪を示すロンの前髪を掴み強引に顔を上げさせる。
 髪を引かれる痛みにこらえきれず悲鳴を発したロンの顎をすかさず固定し指でむりやりこじ開ける。
 「シーツをぬらした罰だ。お前が出したものと同じ量だけ飲み干せば許してやる」 
 「はうっぐン、ふっぐ、ひぅぐぅ……っ……ん……」
 口腔に指を突っ込まれる息苦しさにロンが弱々しく喘ぐも構わず粘膜をかきまぜる。
 奥まで指を突っ込み唾液をかきだす。
 たっぷりすくいとった唾液を頬の内側に塗りたくる。
 酸欠になる寸前に口腔から指をひきぬき、唾液が糸引く唇に怒張をあてがう。
 「俺が言ったことを忘れたのか?」
 苦しげに喘ぐロンに追い討ちをかける。
 「言う事を聞けば優しくしてやる。だが、言う事を聞かないなら……」

 『捨てる』。

 「や、だ……捨てないで……ひとりぼっちはやだよ……」
 長い長い葛藤と逡巡の末、意を決したロンが膝這いににじり寄る。
 小刻みに震える手を根元にあてがい怒張を支え、震える唇を先端に擦り付ける。
 俺に嫌われたくない一心でロンは何も判らぬまま淫らな奉仕を始める。
 行為の意味すら知らず、奉仕の意図すら知らず。
 俺の足元に跪き、危なっかしく震える手で俺の性器をしごき、焦燥に縺れる舌を竿に這わし熱く潤う口腔へ導く。
 「大きく口を開け。吐き気を堪えて奥まで咥え込め」
 「ふむぐっ……」
 俺の股間に顔を突っ込み、貪るようにペニスを咥え込む。
 唾液を捏ねる音も下品に余裕をかなぐり捨て四つん這いの姿勢で行為に熱中するロン、泥水を啜る子猫のように顔じゅう唾液で汚し目を潤ませ俺のペニスをべとべとにする。
 「歯を立てるな。手を休めるな。根元から先へ強く擦り上げろ。そうだ……舌を動かせ。手抜きをするな。強くしごけ。上手いじゃないか。手と口で同時にやるんだ。そうだ、そういうふうにするんだ。俺が仕込んだとおりにするんだ」
 醜い肉塊に喉を塞がれる苦しみに顔全体を歪め、絶え間なく込み上げる猛烈な吐き気を堪えながらもロンは奉仕を継続する。
 ペニスが体積を増す。
 既にして疲労困憊のロンは唇の端が裂けるほど大口を開け膨張したペニスを咥え込み激しく抜き差しする。
 『要吐……悪心……火辣辣地疼……』
 気持ち悪い、吐きそうだ、裂けた唇がひりひりすると病み衰えたロンが訴える。
 今にも力尽き屈しそうになりながら俺の股間にむしゃぶりつくロンの頭を抱え込む。
 「お前は俺の玩具だ。漸く手に入れたんだ。壊れたところで手放したりなどしない、ずっとずっとそばにおいてやる。ロン、俺を慕え。俺だけを見ろ。その目にずっと俺だけを映していろ。他の人間は見るな、感じるな、一生死ぬまで俺の玩具として隷属し続けると約束しろ」
 頭を抱え込んだ拍子に刺激が伝わり、ペニスに痙攣が走る。
 射精の瞬間。
 「げほがほがほっ、がはっ!!」
 飲み干しきれなかった白濁がゆるりと顎を伝いシーツに滴る。
 ベッドに両手足を付き激しく咳き込むロンを抱きしめ、耳元で囁く。
 「憐れむ価値のない俺に憐れみをかけた報いだ。俺に欲望の在り処を示したのはお前だ」
 ぐったり力を抜いたロンを押し倒す。
 ベッドが軋む。
 ロンが仰向けになる。
 熱病に浮かされたように喘ぐロンの上着とズボンを取り去り全裸にし、頼りなげに萎えた膝を力づくで押し開く。
 
 初めて出会った瞬間からお前に惹かれていた。
 お前を壊したくてたまらなかった。

 「持てる欲望のすべてを注ぎ込んでお前を壊してやる」 
 狂気に似た欲望に突き動かされ、俺はロンを陵辱した。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050320085240 | 編集

 尖った靴音が静寂を穿つ。
 闇に沈んだ廊下の奥から颯爽と歩いてくる一人の青年。
 肩で切り揃えた銀髪は月光を冠したように冴え冴えと輝き、歩調に合わせて揺れる前髪の下で薄氷の瞳が目が冷徹に光る。
 ナチスの軍服に身を包んだ青年は、前髪の奥に見え隠れする右目に黒革の眼帯で厳重な封印を施していた。
 ともすれば海賊じみて野蛮な印象さえもたらす黒革の眼帯は、白い肌を蝕む一点の不吉な染みの如く青年の容貌に退廃美の翳りを添える。
 靴音も殷殷と孤高のこだまを帯びてサーシャは夕闇迫る廊下を歩いていた。
 青年が東棟を訪れるのはこれでもう数度目だ。
 前回も今回もサーシャがはるばる東棟を訪れた目的はただひとつ、ある男に会うためだ。

 男の名はレイジ。
 英語で憎悪を意味する名前。
 極東の監獄に降り立った最強の王。その圧倒的な強さとカリスマ性でもってブラックワークの頂点に君臨し続ける男。

 英語の憎しみを意味する名をもつ男は、しかし彼のサーシャの知るかぎりいつでもへらへらと笑ってばかりいる軽薄なお調子者だった。
 全囚人が憧れるブラックワーク王者の地位にもさしたる関心と執着を示さず、「お前さえその気になりゃいつでも譲ってやるよ」と言わんばかりの余裕風を吹かしていた。

 わざわざ目を閉じずとも鮮明に思い起こせる。

 和豹めいて均整取れたしなやかな肢体、太陽の光に愛された活力溢れる褐色の肌、そして何より印象的な底抜けに明るい笑顔。
 生まれながらに授けられた「憎しみ」の名とは裏腹に東の王はどこまでも人懐こく、ある時は悪ふざけの度が過ぎるくらいになれなれしく、またある時はその凶暴な本性を覗かせ、相手が自分のことを好いていようが嫌っていようがお構いなしにおちょくり癖を発揮し、終始一貫して自己中心的な態度を守り抜いてきた。

 マイペース、能天気、気まぐれ、自由奔放、大胆不敵、威風堂々。

 レイジはいつでもマイペースに振る舞ってきた。
 気まぐれな猫科動物のように気分次第で行動しあらゆる相手にちょっかいを出し飽きたら優雅に尻尾を翻し歩み去った。
 まさしく豹。内に荒ぶる獰猛さを秘めたセクシーな体つきの若豹だ。威風あたりを払うしなやかな大股は、世界の誰ひとりとして自分の歩みを止められないと絶対的な自信をもち、もし歩みを阻むものあらば容赦なく鏖殺すると傲然と宣言するかのよう。
 レイジは誰をも魅了した。
 実力では誰一人としてレイジにかなわなかった。
 サーシャもまたそうだ、レイジの圧倒的強さの前に膝を屈し長年辛酸を舐めさせられた一人だった。
 レイジの存在そのものがサーシャの内なる憎悪を掻き立てた。
 黄色人種と白色人種の混血、品性卑しき雑種の分際でありながら偉大なるロシア皇帝たる自分を打ち負かした男に対し、サーシャは狂気の粋に達する妄執を抱き、レイジを倒す日を夢見て数々の卑劣な罠を巡らしてきたのだ。
 レイジを倒すという野望を達する事ができず、最後の望みをかけたペア戦では片目を抉られた上に地を舐めるという敗残の醜態を晒したサーシャを絶望的な怒りが翻弄する。レイジへの怒りと嫉妬の感情が身の内で狂おしく燃え盛る。
 「………ふざけるな。この私が、気高く誇り高い皇帝たる身が下賎なサバーカ一匹に心乱されるなどあってはならぬ事だ」
 胸を蝕む言い知れぬ感情から逃れたい一心でサーシャは遠い日の記憶を回想する。

 サーシャは皇帝だ。
 生まれながらにロシア皇帝となるべく宿命づけられていた。
 若くして胸を患い死んだ母は亡国の皇女と同じ名だった。 
 興行に湧くサーカスの天幕の陰で産み落とされたサーシャは、皇女アナスタシアの血を継ぐロマノフ王家最後の生き残りとして早くから自覚をもち、自分こそが正統な王位継承権をもつ末のロシア皇帝だと信じて疑わなかった。
 早くに母を亡くし私生児となったサーシャは幼い頃からサーカスで芸を仕込まれ、飲んだくれの団長に虐待を受け続けてきた。
 しかしそんな目に遭いながらも、サーシャはいつかいつの日にかきっと従者が自分を迎えに来ると子供ながらのひたむきさで信じ続けていた。
 爪剥がれるまでナイフ投げの訓練をし、夜は団長に夜伽を命じられる日々の中、いつの日にか従者が来て自分をサーカスから連れ出してくれるはずというのがサーシャの唯一の心の支えだった。

 まもなく従者は現れた。
 さらさら流れる銀色の髪と薄氷の瞳をもつ美しい青年だった。
 初めて会ったのにどこか懐かしい感じがした。
 距離をおき自分を見詰める優しい眼差しは無限の包容力と深沈たる知性の輝きを感じさせた。
 貴公子。まさしくそう形容するにふさわしい青年だった。
 一目で育ちが良いとしれる青年は、温かそうな毛皮のコートに身を包み、地面に積もり始めた粉雪をさくりと踏み付けてサーシャに歩み寄る。

 『君が、アレクサンドル?』
 本名を言い当てられてびっくりした。

 サーシャは十歳だった。
 場所は粉雪が降り染めるモスクワ広場。
 年に何度かのモスクワ興行の折には、幼いサーシャも貴重な働き手としてサーカステントの設営を手伝わされる。
 サーシャが属するサーカスは慢性的に人手不足だった。
 団長の人使いが荒くそれに増して金払いが悪いせいで芸人が居着かず逃げ出してしまうのだ。
 実際サーカスの一切を取り仕切る団長はお世辞にも尊敬できる人物ではなかった。
 しょっちゅう酒臭い息と罵倒を吐き散らす赤ら顔の飲んだくれで、芸人に稽古をつける時さえコニャックの瓶を手放さず、少しでも口答えすれば殴る蹴る鞭打つ食事を抜く頭から水をかけるなど容赦ない。 
 過酷な扱いにたまりかねた団員はひとりまたひとりと脱走した。
 サーシャだけが例外だった。
 サーシャには他に行くあてもなく身寄りもなかった、物心ついた頃からサーカスの天幕の内だけ唯一の居場所だったのだ。
 たとえ檻の中の猛獣の食べ残しの粗末な食事でも垢だらけのボロ衣と化したみすぼらしい衣服でも与えられるだけマシだった。
 不平を漏らせば即座に鞭が飛んでくる、頬げたを殴り飛ばされる、犬ころのように足蹴にされる。
 サーシャは耐えた。
 理不尽な叱責も身も心も踏み躙る折檻も指に豆だこを作る辛い訓練もひたすら耐えに耐え続けた。
 唾と一緒に浴びせ掛けられる罵倒も夜毎団長に尻を剥かれ犯される恥辱と激痛も今だけと思えばこそ耐え忍べたのだ。

 いつかきっと従者が迎えに来る。
 ロマノフの末裔たる自分が陥った境遇を風の噂で聞き及び、立派な三頭立ての馬車で駆け付けてくる。

 ほら、車輪の音が聞こえる。
 馬の尻を鞭打ち急き立て馬車が駆けてくる。

 トロイカが走る。
 ぱらつく粉雪を突っ切って猛々しく走る。
 弾丸の如く黒い残影を残し石畳を疾走し、馬の嘶きも高らかにモスクワ広場に姿を現す。

 サーシャは何度も荘厳にして華麗なその光景を夢想した。
 
 霜焼けで倦み爛れた小さな手で、寒さにかじかみ言う事を聞かない手で風に捲れ上がらぬよう天幕の端を杭打ちながら、今にもモスクワ広場の向こうに馬車が現れ従者が迎えに来るのではないかと罪のない空想に耽り、さんざんに痛め付けられた幼い心を慰めていた。

 夢がにわかに現実になった。

 石畳を削る車輪の轟音とともに粉雪まじりの風が吹きぬける。
 広場を席巻し天高く舞い上がった風を追い、サーシャはゆるやかに顔を上げる。
 吐く息が白く曇る。
 石畳には霜が下りていた。
 足元から凍て付くような冷気が間断なく襲う。
 粉雪ちらつく陰鬱な寒空の下、サーシャは穴の開いた長靴に靴下も履かされずにいた。乞食と見紛う粗末なボロ衣を纏ったサーシャは、寒さを通り越し既に感覚のなくなった手に金槌を預け、呆然とその場に突っ立ち、突如視界に雪崩れ込んできた馬車を凝視する。
 車輪の回転が止む。
 惰性で1メートルほど馬車が前進する。
 完全に停止するのを待ち馬車の扉が開き、防寒の行き届いた毛皮の長靴がタラップの最上段にかかる。
 サーシャは金槌を持ったまま、一幅の絵画のようなその光景に忘我の境地で見入った。
 純白の粉雪が舞う広場に王侯貴族が乗るような豪奢な馬車が止まり、中から一人の青年が下りてくる。
 ごく丁寧に梳った絹糸を思わせる繊細な銀髪、白磁めいた脆さと透明さを秘める肌。
 寒気に上気した頬だけが淫蕩なまでにあざやかに赤い。
 端正な造作の顔だった。
 貴族的な近寄り難さよりも分け隔てなく人に接する親愛の情を感じさせる柔和な笑みがおのずと性格を物語る。
 深い教養と穏和な知性を含んだ目がかすかな驚きをもってサーシャの顔に注がれる。
 灰色一色の広場を清浄に降り染める粉雪の中、サーシャと青年は神聖な静謐を保ち対峙する。
 優雅に長い睫毛が震え、憂愁の翳りすら含んだ美貌が痛ましげな色を帯びる。
 『君が、アレクサンドル?』
 青年の面を掠めたのは、言葉では語り尽くせぬ深い同情。
 なぜもっと早く迎えに来なかったという自責と痛恨の念が悲哀の表情のはざまに覗く。 
 『……なぜ僕の名前を?あなたは誰ですか?もしかして皇室の使い?』
 サーシャは驚いて青年を見上げる。
 名も知らぬ青年は何事か言おうとして口を開き、また閉じる。
 おそらく自分の出自を明かし名を述べようとしたのだろうが、どこまでも一途に無心に、疑いを知らぬ眼差しでもって自分を仰ぐサーシャを見るに耐えかね、苦悩に苛まれて瞼を閉じる。
 サーシャは青年がそんな哀しげな顔をする意味がわからなかった。
 なぜ自分と相対し苦悶の相を浮かべるのかわからず当惑した。

 手にした金槌が冷たかった。
 はやく放さねば指が張り付いてしまいそうだった。

 けれどもサーシャは全身が硬直し指一本すら自分の意志で動かせぬまま、ただただ動揺に瞳を揺らし、霊感に打たれて青年を仰ぐばかり。
 青年は何事か決意するようにひとつ息を吐き、ゆっくりと目を開く。
 長い睫毛が震えるさまに見惚れる。瞼が緩慢に上がり、薄氷の瞳が小揺るぎもせずサーシャの顔を映す。
 『お迎えに上がりました、陛下。遅参のご無礼心よりお詫び申し上げます』
 再び青年の口から紡がれたのは、流暢な挨拶。
 王侯貴族が陛下に謁見する際の格調高い台詞。
 続く光景はなおもーシャを驚かせた。
 青年が何ひとつ迷うでも動じるでも恥じるでもなく、自分の胸までの高さしかない薄汚い子供の前でたとえようもなく優雅に膝を屈し、深々と身を屈める。コートの裾が汚れるのも頓着せずサーシャの前に跪いた青年は、崇敬の念が滲むひどく丁寧な手つきでサーシャのつま先を持ち上げる。
 『ーっ!』 
 激烈な羞恥がサーシャの全身を火照らす。
 反射的に足の指先を引っ込めようとした。穴の空いた長靴から覗く霜焼けだらけの指が突然恥ずかしくなったのだ。
 慌てて足を引っ込めようとしたサーシャを青年は許さなかった。
 細く長い指でしっかりと、しかし決して痛みを与えぬよう細心の注意を払いサーシャの足首をつかまえるや、サーシャが拒む暇もなく長靴の穴から覗く足指に顔を寄せる。
 『重ね重ねご無礼致します』
 『やめっ、汚い、そんなとこに口を付けたら黴菌が伝染る……っ』
 殆ど恐慌に陥ってむなしく叫ぶサーシャを真摯に見据え、青年は静かに断言する。
 『遅参のお詫びです。貴方の苦境を知らず放置し続けた愚かな家臣に、せめても接吻を乞うことをお許し下さい』
 誠意溢れる言葉のひとつひとつが、触れたそばから溶ける淡雪のごとくサーシャの胸に染み込む。
 『失礼、申し遅れました。我が名はアルセニー、アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ。ロマノフ王家最後の生き残り、亡国の王女アナスタシアの落胤である正統なる王位継承者、次代の皇帝たるアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ陛下を僭越ながらお迎えにあがりました』
 『アナスタシア……それ、母さんの名前……母さんの名前を知ってるってことは、本当に?』
 おそるおそるといった風情で半信半疑のサーシャが聞き返すも、アルセニーは気分を害した様子もなくにこやかに付け加える。
 『ええ。貴方こそ次代のロシア皇帝、斜陽のロシアを担うべきロマノフの高貴なる裔です』
 覚めながら夢を見ているような茫洋とした表情のサーシャをよそに、アルセニーは何ら抵抗なく地面にひれ伏すや、穴の空いた長靴に恭しく手を添える。
 ロシアでは相手の足元にひれ伏しキスをするのが最上級の礼である。
 天使の和毛のように粉雪が舞う。
 広場の石畳が純白に染まっていく。
 みすぼらしい身なりの子供の足元にひれ伏したアルセニーは、彼こそが自分が一生かけて仕えるべき主と定め、霜焼けに爛れた足の親指に接吻する。

 時が止まる。
 接吻が続く。

 衣擦れの音すら聞こえぬ静寂の内に閉じ込められ、サーシャは瞬きすら忘れ自分の足に唇をつけた男を凝視する。
 アルセニーは愛しげにサーシャのつま先を唇でなぞる。 
 霜焼けに爛れ形が崩れた足の親指にごく軽く唇を這わせ、慰撫し、仕上げに唾液の上塗りを施す。
 銀色に透ける睫毛の長さに見惚れる。
 睫毛が落とす影がただでさえ物憂い顔だちに儚さを添える。
 アルセニーがおもむろに顔を上げ、射抜くように鋭い目でひたとサーシャを見据える。
 高潔な意志を感じさせる厳粛な態度は、自分が一生かけて仕えるべき主君にたっての願いを申し出る騎士のそれだ。
 そして、アルセニーは言った。
 サーシャの片足に優しく手を添えたまま、芯まで凍えそうな石畳に膝を折り、どこまでも真剣な眼差しと口調で誓いを述べる。
 サーシャと同じ薄氷の目が、儚く脆い薄氷の目が。
 この時ばかりはなにものにも代え難く強靭な意志と試練の色を帯び、透徹した眼差しを放つ。
 『陛下。……私に貴方を守らせてください』
 
 荒々しい靴音で回想を断ち切る。
 束の間の夢から醒めて黄昏に暮れる現実に帰還したサーシャは、柄にもない感傷に耽ったおのれを嗤うかのように卑屈に喉を鳴らす。
 細めた隻眼に一片の感傷が過ぎる。
 「……くだらん」
 憎憎しげに口元を歪める。
 狂的に歪んだ顔から毒々しい嗤笑が滴る。
 語気激しく唾棄したサーシャは、過去を吹っ切るよう足を速め目的地に急ぐ。
 「私を守るだと?……笑わせる。口ばかりではないか。現に今私の傍らにお前はいない、お前はいないのだ。立つ時も座る時も伏せる時も常に皇帝の傍らに在ると誓ったのはお前ではないか、その誓いを自分で破っておきながらまだ私に纏わり付くのか、まだ私を束縛し続けるというのか?」
 次第に声に熱がこもる。
 やり場のない苛立ちが沸々と込み上げる。
 懐かしく優しい兄の面影は瞼裏の闇に浮上する。
 サーシャは激しく首をふり兄の幻影を打ち消そうと努めるも、二人が初めて出会った過去の光景が思いもよらぬ鮮明さでもって再び瞼裏で像を結び、追憶の淵にサーシャを追いやる。

 『親愛なる陛下』
 「うるさい」
 『サーシャ』
 「その名で私を呼ぶな、なれなれしい。不敬罪に問うぞ」
 『サーシャ』
 「その名で呼ぶなと言っている」

 瞼の裏に優しい面影がちらつく。
 次第にはっきりと輪郭をなし迫ってくる。 
 さらさらと流れる銀髪、貴族的な品のある柔和な顔だち。
 ロシアの軍服に身を包んだ美しい青年が愛情深い眼差しをこちらに注いでいる。

 『サーシャ、しばらく見ないあいだにナイフ投げの腕が上達したじゃないか。よく頑張ったね。偉いよ、君は努力家だ』
 「あなたに褒めてもらいたかったからだ」
 本音がぽろりと口をついてでる。

 幻影の兄は手放しでサーシャを称賛する、生まれてこの方サーシャが一度も注がれたことないような愛情を惜しみなくサーシャに注いでくれる。だがそれはサーシャが期待したものではない、サーシャが渇望したものではない。
 違うのだ、そうではないのだ、自分が欲しかったものはそれではないのだ。
 サーシャは憑かれたように激しく首を振るも兄の幻影は去らず、記憶そのままの優しい声と笑みでもって親しげに語りかけてくる。

 『サーシャ、辛くないかい。不自由はないかい。辛いことがあったら遠慮なく僕を頼ってくれて構わないのだから。この前連絡先を書いたメモを渡したろう。団長に見つからないようちゃんと隠してるかい?……そうか、良かった。サーシャ、いつまでもこんな劣悪な環境に身をおくことはないんだ。君が自活をのぞむなら僕は援助を惜しまない。何なら二人で暮らしたって構わない。そうだ、それがいい、僕たちはこの世界でただふたりきりの兄弟なのだから二人助け合って暮らすのがいちばんいい』

 「あなたは何もわかってない」
 憎悪に声が軋る。
 兄の献身的な申し出を、しかしサーシャは嘲笑う。

 『僕は必ずサーシャを、貴方を、陛下を守り抜く。君が望むなら今すぐにだってサーカスから連れ出す決意と準備を整えている』

 「貴様に何ができる」
 必死に言いすがる兄をサーシャは冷淡にあしらいつづける。
 初対面のサーシャを「陛下」と呼んだ異母兄は、しかしそのうち主君に対する崇拝の念ではなく、年の離れた異母弟に対する敬愛の情を込めて彼をアレクサンドルの愛称「サーシャ」と呼ぶようになった。
 少年と青年のはざまの兄の一人称は時折「僕」になった。
 時折「僕」となる一人称は、互いを知らずにいた年月が隔てた弟との距離を縮めようという兄なりの努力だった。
 だからこそサーシャもまた、「弟」と「皇帝」のはざまで揺れ動いていたのだ。

 『私は陛下を愛しています』

 少年の面影を残した青年はやがて凛々しい将校へと変貌を遂げ、一人
称も「私」に定まった。
 「あなたはそうだ、いつもそうだ。あの時あなたさえ私を陛下と称さなければ私は戻る事ができたのだ、だがもう無理だ、もう戻れない、私はもう戻れないところまできてしまった。全部あなたのせいだ。あなたが陛下と呼んだ瞬間にすべてが決まってしまっていた、あなたが霜焼けに爛れた私の指に接吻したその瞬間から私の妄想は現実となってしまったのだ」

 アルセニーのことなど一刻も早く忘れたい。
 どうせもう会えないのだから、忘れてしまったほうがマシだ。

 アルセニーの面影が急激に薄れ消えていく。
 とある鉄扉の前で深呼吸し立ち止まる。 
 靴音が止む。静寂が浸透する。
 「……従者のお守りは不要だ。私はもう団長の鞭に怯えて泣く子供ではない。貴方がここにいなくても立派に皇帝として振る舞えると証明してみせようではないか」
 黄昏に暮れる廊下に佇んだサーシャが大きく息を吸い鉄扉と向かい合う。
 「下賎な雑種に命じる。即刻扉を開けて緋毛氈を敷け。皇帝のおみ足が汚れぬよう絨毯を敷いて出迎えろ。遠路はるばる国境を越え東に渡りサバーカの様子を見にきたのだ、偉大にして憐れみ深き皇帝みずから卑しむべき雑種のためにわざわざ足を運んでやったのだ、さあ開けろただちに開けろ皇帝の来訪を祝し凱歌をうたえ!!」
 房の中は不気味に静まり返っている。
 不審に思ったサーシャは腰の得物に手を伸ばす。
 腰から鞭を抜き取りがてらもう一方の手で慎重にノブを捻る。
 「……そういえば貴様は世にもまれな音痴だったな。ならば歓迎の歌は唄わずともいい。私の寛大さに恐れ入ったか」
 抵抗なくノブが回る。どうやら錠が下りてないらしい。
 不用心にも程があるとサーシャは顔を顰めるも、そのまま鉄扉を押して房内に侵入する。
 房内には闇が満ちていた。天井の裸電球すら消えていた。 
 空気が退廃的に澱んでいる。
 サーシャは目が慣れるのを待ち、方向を探りながら慎重に暗闇を進む。
 「返事をしろ、サバーカ」
 応答はない。しかし気配がある。
 返事がないのを訝りながらサーシャは気配を頼りにそちらの方向に進む。
 つま先に何かが当たる。
 固い感触を奇異に思いながら視線を下げる。
 足元の床にナイフが突き立っていた。
 「…………」
 床に刺さったナイフから視線を外しゆっくりと四囲を見渡す。
 暗闇によくよく目を凝らしてみれば壁や床の至る所に鋭利な傷痕が穿たれていた。ナイフで抉られたと思しき痕跡が、それこそ大小無数に房内の壁と床に散らばっているのだ。
 何やら異様なものを感じながら正面に視線を戻し、瞬間息を呑む。
 「……………いたのか」
 正面のベッドに気だるく人影が横たわっている。
 人影はサーシャの接近に気付いていながら一切反応を示そうとしない。寝返りすら打たず壁の方を向いて横たわっている。
 半身を横にして寝転んだ人影は、あろうことかこの暗闇で本を読んでいるらしく時折紙と紙が擦れ合う乾いた音がもれてくる。
 顔を見なくとも背格好でわかる。虚脱したようにベッドに寝転んでいるのは、この房の主のレイジである。
 「何故来たか問わぬのか」
 拍子抜けを食らった感が否めずサーシャが問う。レイジは振り向かない。壁と向き合ったまま緩慢に本のページをめくっている。
 先に沈黙に耐え切れなくなったのはサーシャだった。
 無視される屈辱に憤怒を滾らせたサーシャが手首を一閃、勢い良く鞭を撓らせ床を打つ。
 床にあたった鞭は乾いた音たて跳ね上がり、サーシャの足元でとぐろを巻く。 
 「随分と腑抜けたものだな東の王、互いに認める好敵手としてともに目を抉りあった以前の猛々しさはどこへいった?聞け、去勢済みのサバーカ!私が今日遠路はるばる訪れたのは貴様の体調を憂えてだとかブラックワークの試合すらサボり続ける貴様の身に起きた出来事が詳しく知りたかったからだとかそんなくだらない理由では毛頭ない、まったくもってくだらぬ!私が今日ここにきたのは偵察が目的だ、愛するサバーカを失い所長が廃人と化した今だからこそ怪しい動きがないかお前を監視しに……」
 息継ぎもせず傲然と言い放ったサーシャだが、レイジが依然無反応なことに激怒し、今度は背中めがけて鞭を振るう。
 「皇帝に謁見する際は足元にひれ伏すが礼儀と心得よ!!」
 サーシャの手より放たれた鞭は中空で毒蛇の如く鎌首をもたげレイジの背中を狙う。
 次の瞬間、思いがけぬことが起きた。
 「!?なっ、」
 サーシャが驚愕に呻く。
 無防備な背中めがけ鞭の一撃をくれようとしたサーシャの眼前で、レイジがおもむろに手首を返しやすやすと鞭をつかまえる。
 レイジは振り向きもしなかった。本から目をはなしさえしなかった。
 相変わらず壁を向いたまま、それまで本を押さえていた手だけを目にも止まらぬ早業で首の後ろに持っていき鞭を掴んだのだ。
 サーシャの体がぐらつく。
 レイジが後ろ手に鞭を引いたのだ、思い切り。
 素早く腕に鞭を巻きつけたレイジが体ごと向き直りざま渾身の力を込め鞭を引く。レイジが腕に込めた力に応じサーシャもまた鞭を巻き上げられ引き寄せられる。
 鞭を捨てる暇さえ与えぬ早業で強制的にサーシャを引き寄せたレイジは、サーシャが1メートルの範囲に近付くと同時にもう一方の手でその肩を鷲掴む。
 「!痛っ、」
 肩に爪が食い込み鋭い痛みが走る。
 激痛に顔を顰めたサーシャはレイジを振り解こうと必死にもがくが、レイジはますます強く肩を抉りサーシャに苦鳴を上げさせる。

 苦痛で朦朧と目が霞む。
 額に焦燥の汗が滲む。

 サーシャは混乱していた。
 話も聞かずいきなり襲い掛かるなどレイジらしくない、いつものレイジならもっと余裕があったはず、くだらないことを言ってサーシャをからかい怒らす余裕があったはずだ。今のレイジにはそれがない。一体何がどうなっている?レイジの変貌のわけをもとめ四囲に視線をめぐらしたサーシャは、レイジといつも一緒にいる囚人の姿がないことに気付き違和感を覚える。 
 「確かロンとか言ったか……貴様が飼っていた猫はどうした?」
 ふいに閃いた疑問がそのまま口から零れる。
 刹那、異変が生じる。
 サーシャの肩を掴んだレイジの顔に波紋が広がり、隻眼に剣呑な光が閃く。
 優位を得たサーシャの顔が喜悦に歪み、薄氷の隻眼がぎらぎら輝き始める。
 「どこにも姿が見えぬが……手がかかるから捨てたのか?なるほど、だから荒れているのか!稚児趣味の貴様はたいそう猫を可愛がっていたがその猫に遂に飽きがきて放逐したのだな、つまりは新しい遊び相手をさがしてるのだな。悪さばかりする猫を追い出したはいいが寂しさに耐え切れず構ってくれと私にしっぽを振、」
 サーシャが最後まで言い切るのを待たずレイジが思い切り腕を薙ぎ振る。
 「ぐっ!?」
 サーシャがバランスを崩しベッドに突っ伏す。
 レイジは機を逃さずその上にのしかかる。
 サーシャの脳裏をさまざまな想念が駆け巡る。
 つい先刻垣間見た懐かしい情景、在りし日の兄との交流、純白の粉雪が舞う広場にて恭しく跪くアルセニーの微笑み……
 アルセニーの微笑みが遠ざかる。
 サーシャは無我夢中で手を伸ばす、兄の幻影を引きずり戻そうと懸命に身を乗り出し宙をかきむしるも願いむなしくアルセニーは消えていく。虚空に消え失せたアルセニーへの未練をむりやり断ち切りふたたび現実に立ち戻ったサーシャは、両腕を締め上げる痛みで我に返る。
 自分にのしかかったレイジが、手にした鞭で器用に腕を縛り上げていく。
 一切の容赦なくサーシャの両腕を一本に束ねて縛り上げ、レイジが吐息まじりに首を振る。
 首を振った拍子に風を孕み前髪が捲れ上がり、滾り立つ狂気の坩堝と化した隻眼が外気に晒される。

 その目。
 その目を覗き込んだ瞬間、サーシャは悟る。我が身をもって体感する。
 目の前にいる男はレイジではない。
 同じ姿形こそしているが、魂はまるで別物だ。

 ベッドに片膝付いて傲然とサーシャを見下ろす男は顔こそレイジと酷似しているが、レイジが浮かべる軽薄な笑みが一片残らず消し飛んだ代わりに、暴力の快感と嗜虐の愉悦に酔い痴れる笑みが顔一杯に広がっている。

 顔全体に貼り付いた禍々しい狂笑。
 悪魔に魂を売り渡したなどとなまやさしいものではない。
 レイジが成り代わったのは、神だ。
 人の生死を司る全能の神だ。
 他者の生殺与奪の権を完全に握った存在を、ひとはそう呼ぶ。 

 「俺のところに来たってことは、俺に抱いてほしいってことだよな」

 「ば、かな……」
 暴君がサーシャを押し倒し上着を引きちぎり毟り取る。
 ずたずたの端切れと成り果てた上着が飛散する。 
 サーシャは混乱していた。
 今自分の身に起きていることが把握できず理解できず、自分の上半身を裸に剥いたレイジを蹴飛ばそうとするも腰で膝を挟みこまれ徒労に終わる。
 一体全体これは何の真似だ何の冗談だ、ロシアを総べるロマノフの末裔が偉大なるロシア皇帝が純血のロシア人たる高貴な身の私が、黄色く薄汚れた肌の混血のサバーカに力づくで押し倒され上着を毟り取られ……

 犯されようと、している?

 「ぶ、侮辱するなっっ!!!!汚らわしい雑種の分際で黄色い雌犬の股から産み落とされた卑しい雑種の分際で私の肌にふれるな指一本たりともふれるな!私は北の皇帝サーシャ、ブラックワーク二位の実力者にして所長の護衛たるナイフ投げの達人かつ鞭の使い手だ!サバーカめが身の程を知れお前は永遠に私の下で喘ぎ続ける運命なのだ、忘れたのかレイジあの日のことを、私を廊下で呼びとめ誘惑し自ら体を開いたあの夜のことを!私は覚えている今でも細部まではっきりと覚えている発情期の獣じみて艶っぽい喘ぎ声も物欲しげな腰のくねりもしやなかに仰け反る喉も眉間の皺も、私に貫かれながらお前がどれほど淫らによがり狂ったか今でもはっきり覚えている!!それだけじゃない、北にいたお前が私に倒錯した快楽を仕込まれサバーカの如く弛緩した口から涎をたらし自分から悦んで腰を振り……」

 頬に衝撃が爆ぜる。
 衝撃はすぐに痛みに変じる。
 レイジに頬をぶたれたと悟り、サーシャの体が恥辱で狂おしく火照りだす。
 口の中に鉄錆びた味が広がる。
 殴られた際に口の中が切れたらしい。
 至って無造作に退屈げに醒めた様子でサーシャの頬に平手を見舞ったレイジが床を手探りし何かを拾い上げる。
 ぶたれた頬がじんじん疼き始める。
 しかしサーシャは虚勢を張りせいぜい憎たらしく口角を吊り上げレイジを嘲笑する。両腕を縛られ完全に抵抗を封じられ無防備な上半身を晒しながらもなお皇帝の気高さと誇りを失わず饒舌に捲くし立てる。

 「……お前の痴態を語り尽くすまでやめぬぞ。レイジよ、倒錯した情事に耽った北の夜を思い出せ。お前も覚えているはずだ。お前はナイフで皮膚を薄く切り裂かれそれだけで軽く達した、ナイフの冷たい刃が首筋をなぞる感触にたまらず絶頂に達した。お前は三日三晩私の手から餌を食った、私が与える餌を本物のサバーカの如く脇目もふらず貪り食らったではないか。お前は私の足のあいだに跪き口で奉仕した、ナイフの鞘を尻の穴深く突っ込まれ粘膜をかきまぜられ快楽のあまり涙さえ浮かべ呻いた、目隠しをされ吊るされそしてー……」

 妄想と現実を混同し縷縷と述べ立てる。
 微に入り細を穿ち克明にレイジの痴態を描写するサーシャ、鬼気迫るその表情に怖じたふうもなくレイジ……否、暴君は行為に没頭する。口角から白濁した泡を飛ばし、いかにしてレイジが自分に組み敷かれ仰け反り喘いだか淫らな喘ぎ声を上げ物欲しげに腰振り許しを乞うたかを凄まじい剣幕で記述するサーシャをやすやすと組み敷き、レイジは白く滑らかな胸板に唇で情熱の烙印を施していく。

 「覚えているぞ、私は!私とともに過ごした数日間、貴様がクスリ欲しさに身悶えし私の膝に取りすがった事を!貴様はクスリが欲しいと私に泣いてねだった、白い粉を手に入れるためなら何だってすると悦んで私の物を咥え尻を貸し犬になるとそう言って私の足の指を一本ずつ舐めていった、貴様はプライドをかなぐり捨て這い蹲り目隠しされたままー……ひあ、あっく!?」
 強烈な刺激にサーシャが感に堪えず仰け反る。
 サーシャの乳首にじわりと血が滲む。
 たった今レイジが噛み付いたのだ。
 痛々しく血が滲む歯型もくっきりと鮮やかに、レイジはサーシャの胸板に顔を埋め乳首に軽く歯を立てる。
 唇で丁寧に食んだとは窄めた舌先でつつき口に含んで転がしながら、手は休まずサーシャの体をまさぐり性感帯を開発していく。
 「敏感な体。『誰』に調教されたんだ?」 
 生温かい吐息が耳朶に絡む。
 暴君が低く囁く。
 ぞくりとする色気を感じさせる凄味を含んだ声。
 「誰」の部分を強調した暴君がふいに笑みを浮かべる。
 「なあサーシャ、いいこと教えてやるよ」
 衣擦れの音が性急に耳朶をくすぐる。
 褐色の手がサーシャの頬を包む。
 サーシャの胴に馬乗りになったレイジが、きめ細かい肌を貪りながら唄うような抑揚で本音を吐露する。

 「お前の調教はあくびがでそうにぬるくて退屈だった。あんなの俺がうけてきた『訓練』に比べたら子供の遊びだよ。俺はお情けでお前に付き合ってやったんだ。お前があんまり馬鹿で面白かったのとあんまりけなげで可哀想になったのと半々の理由でな。愉快な暇つぶしだったよ、実際。目隠しされてても俺の耳はお前の息遣いひとつ逃さず拾い上げて脳裏に映像を描き出す。お前は目隠しした俺を壁の釘にひっかけて吊るしてさぞかしご満悦だったな、得意の絶頂で高笑いしてたな。吹き出すのを苦労したぜ、こっちは。俺?あんなの全部嘘さ、ただの演技だよ。感じてるふりなんてこっちにゃ朝飯前だ。お前がどれだけ愛撫が下手な早漏でも感じてるふりくらいできる」
 「嘘をつけ、お前は本当に感じていた、我を忘れてよがり狂っていたではないか!!」
 「自己暗示で理性を飛ばすことくらいできるさ。俺をだれだと思ってるんだ?」
 レイジの顔をした悪魔がにっこり微笑む。
 「俺はな、お前を哀れんでやってたんだ」
 「お前に憐れまれる筋合いなどない、何を根拠にそんなっ…………」
 
 『Я не могу жить без тебя,Ты нужна мне.』

 「………っ!」
 サーシャが最大級の衝撃を受ける。
 戦慄に打たれたサーシャに覆い被さり、抵抗が止んだ隙にズボンを引きずりおろす。体毛の薄い綺麗な足が現れ出でる。下着ごとズボンを足首まで引き摺り下ろし完全に下半身を剥いてしまったレイジは、サーシャの動揺を手玉にとり邪悪に笑む。
 「『あなたなしでは生きられない。私にはあなたが必要だ』……寝言でだれのこと呼んでたんだ?親愛なる陛下」
 闇に沈んだ房で不吉な気配が胎動する。壁際のベッドの上、両腕を縛り上げられたサーシャに獣の姿勢で四つん這いにのしかかったレイジは、愉快で愉快でたまらないといった邪悪な笑みを湛え苦痛に歪むサーシャの顔を鑑賞する。
 藁色の髪に隠れた隻眼が胡乱げに細まる。
 あたかもサーシャの本心を見抜くが如く。
 「……その名で私を呼ぶな……」
 「なあサーシャ、好きでもないくせに俺に付き纏うのやめろよ。本当に好きな奴はべつにいるんだろ?知ってるぜ。本当に愛してる奴は別にいるのに俺にご執心のふりでそいつのこと忘れ去ろうってのは卑怯だよな。そうだろ?お前は卑怯者だよ」
 耳を塞ぎたくても手を縛り上げられていては不可能だ。
 サーシャはレイジの執拗な責めに悶えながら激しく首を振り拒否の意を示す。
 レイジはサーシャが暴れれば暴れるほど悦に入り狂える笑みを深める。
 「私を誰だと思っている、恐れ多くもロシアの広大な大地をおさめる気高く慈悲深い皇帝サーシャ、貴様のような汚らわしい雑種が我が貴き身にふれるなどギロチンの露とされても仕方ない所業だぞ……っは、あ!?」
 尻に異物感を感じる。
 レイジがサーシャの背後に手を回し尻の窄まりを探っている。
 しなやかな褐色の指が好奇心の赴くまま窄まりを押し開き中へと侵入する。
 肛門の窄まりを無遠慮にほじくられる激痛にサーシャが全身を引き攣らせ激しく身悶える。
 夥しい皺の寄るシーツの上で右へ左へと絶え間なく体を傾げ、どうにか暴君の手から逃れようと死に物狂いでのたうちまわるも、暴君はサーシャの見苦しい醜態を笑いながらますますもって奥へと指を突き立てる。
 「ぐあっ、あぅひっ……!」
 「具合のいいケツだ。前にも使ってたな?」
 しなやかな中指で肛門の中で複雑に蠢く。
 粘膜をかきまぜるように執拗に円を描き中の状態を確かめる。
 固く縫い綴じられた肛門を中指で抉られる激痛にサーシャは恥も外聞もプライドもかなぐり捨て身も世もなく叫ぶ。
 ろくに馴らされもしないままむりやり指を突っ込まれ乾いた直腸を引っかかれる痛みは地獄の責め苦に等しく、サーシャは半狂乱の体で銀髪を振り乱し執念深く呪詛を吐く。
 「レイ、ジ……っ……こんなことをして、ただで、すむと、思うなっ……必ずや血祭りしてくれる……!」
 熱っぽく潤んだ目に激情が爆ぜる。
 大粒の涙を湛えたアイスブルーの目を見下ろし、暴君はひとりごちる。
 「ああ、指に匂いがついちまう。これはあんまりよくねーな、お前の糞で俺の指が汚れるのは胸糞悪いな」
 サーシャに跨った暴君がおもむろに手を掲げる。
 奇術師めいた手さばきで最前拾い上げたナイフを旋回させる。
 暴君は悪戯っぽい含み笑いをもらし、指の狭間のナイフをくるくると鮮やかに回す。
 残像を惹きナイフが旋回する。
 サーシャは何かに魅入られたようにレイジの手中のナイフを凝視する。
 次第にナイフが回転速度を上げていく。
 レイジは音痴な鼻歌を口ずさみながら手首を捻っては返し捻っては返しして自由自在にナイフを弄ぶ。 
 「サーシャ、お前とナイフって最高に相性がいいんだよな。ナイフはお前にとっちゃ半身にも等しいかけがえのない存在なんだよな」
 ねちっこい口調で繰り返し問い、おもむろに起き上がる。
 手首が停止する。
 ナイフの回転が止む。
 レイジは謎めいた微笑みを浮かべたままサーシャの足を大きく押し広げ尻が丸見えになる屈辱的な体位をとらせる。両腕を縛られたサーシャは拒否することもできず暴君に従うしかない。ベッドが耳障りに軋む。シーツの擦れる音に荒い息遣いが混じる。ベッドに上体を突っ伏し、犬のように尻を掲げたサーシャの背後に影が回りこむ。
 暴君が、いた。
 「……何を、する気だ」
 掠れた息の狭間から声を搾り出す。 
 最悪の事態を予期し青褪めたサーシャには答えず、ベッドに片膝付いた暴君は肛門から乱暴に指を引き抜く。
 「痛っあう!」
 意志に反してサーシャの体が跳ねる。
 指にほじくり返された肛門から血が滴りシーツを斑に染める。
 暴君は赤く血塗れた自分の指を何の感慨もない無表情で見下ろし、今だ血が滴り続けるサーシャの尻に視線を転じる。
 暴君がサーシャの尻を掴んで固定し、片一方の手首にぐっと力を込め、固い木の鞘に包んだままのナイフを容赦なく抉り込む。
 
 「ぎあっ、あ、あああああううがああああああああっ……!?」
 指とは比較にならない固さと冷たさの木の鞘がサーシャを貫く。

 「お前とナイフは一心同体なんだろ?お前自体がナイフの肉鞘なんだろ?そうだろサーシャお前はナイフが大好きなんだ食べちまいたいくらいどうしようもなくたまらなく愛しちゃってるんだろ?だったら手伝ってやる、お前の体ン中にナイフを全部埋め込んでやる。涙が出るほど嬉しいだろサーシャ、これこそお前の望みだったんだろ。お前に鞭なんて似合わねーよ、お前はやっぱナイフと一緒じゃなきゃきまんねーよ。だからさ、手伝ってやるよ。お前の大事なナイフを体ン中に突っ返してぐちゃぐちゃにかきまわしてやる、内蔵がどろどろになるまで何日間もお前ん中に突っ込で排泄を塞き止めてやる。そうさお前は糞袋になるんだ、人間大のでっかい糞袋にな。頭のてっぺんからつま先までぱんぱんに糞が詰まった肉の袋だよ」
 サーシャが限界まで目をひん剥く。
 極限まで剥いた目に涙が滲みまなじりから溢れ頬を伝う。
 「ひあ、あぐっ、あう、やめ、はやくぬけっ……尻が裂けるっ……」
 酸素がすべて水に代わったかのように一呼吸ごとに喘ぎながら、内腿を伝うぬるりと生温かい血の感触に忌まわしい過去の情景がよみがえり『飯が食いたかったら芸をしろ』鞭が撓る音。コニャックの瓶を飲みながら下劣に脂下がった団長が命じる。
 サーシャは幼い頭で必死に考える、団長が気に入るような芸をそれこそ必死に考える。サーシャは色々なことをした。団長に追い立てられ火の輪をくぐる猛獣の真似をし四つん這いで跳躍し、道化のふりをして滑稽にお手玉をし、顔の上で逆さにされたコニャックの瓶の最後の一滴を物欲しげに舌で受け、団長が言われた通りあらゆる芸をこなし歓心を買おうと躍起になった。なかでも団長が好んで仕込んだ「芸」は……
 鞭が飛ぶ。
 鋭い痛みが背中に走る。
 焼け付くようにひりひりする。
 地面を鞭で穿った団長がズボンの前を寛げ跪いたサーシャの頭をむりやりそこへ捻じ込む。強烈な息の匂い、アルコールに黄濁した目、にたりといやらしく笑う唇……忌まわしい記憶の断片が一挙に逆流し脳裏を席巻する。
 
 『正統なるロマノフの末裔だと、次期皇帝陛下だと?笑わせるな。お前はたかだかサーカスのブランコ乗りの女の股から生まれ落ちた薄汚えガキだ。いいか、お前の父親はハタチ前の若さだったアナスタシアを掻っ攫って陵辱したあげく飽きたらポイと捨てやがったとんでもねえ男だ、男に捨てられた腹ボテのアナスタシアは仕方なく親代わりの俺様を頼った、他に行く所も頼れる身内もなかったからな!いいか、お前は犬だ!チンケな犬に上等な名前なんぞいらねえ、お前なぞ「サーシャ」で十分だ、アレクサンドルかんぬんなんてご大層な名前お前にゃ似つかわしくねえよ。さあ、しゃぶれ。ろくに芸もできねえ天涯孤独のガキお情けで置いてやってるんだからご主人様に御奉仕すんのは当たり前だろうが。さあそこへ跪いて俺のチンポコをしゃぶるんだ、コニャックの匂いを嗅ぎつけて寄ってくるサバーカのようにな!』

 天幕の内側に下卑た高笑いが轟き渡る。
 過去が現実を蚕食する。
 内腿を伝う生ぬるい血の感触が忌まわしい記憶を呼び起こす。 

 「ナイフとひとつになれて嬉しいだろ。ようやく望みが叶ったな。……変に力むと鞘がすっぽ抜けて内臓がずたずたになる。中からたくさん血を流して死ぬはめになりたくなけりゃ大人しく俺を受け入れろ」
 ベッドが断続的に軋む。
 サーシャの尻をナイフで犯しながら熱い唇を素肌に這わしていく。
 白さ際立つサーシャの肌に爛熟の烙印を施すかたわら緩急つけて手首を捻ってサーシャの悲鳴を搾りとる。
 「この程度でギブか?幻滅させんなよ、皇帝。自分がするのはよくてもされるのは嫌なくちか?俺はお前と同じことをそっくりそのままなぞってるだけだ。偉大なる皇帝さまの言う通りあの時俺はナイフの柄でケツをかきまぜられて涙目で呻いていたよ、固くて太い柄でぐちゃぐちゃにケツん中かぜきまぜられるのが最高に気持ちよくて今にもイッちまいそうだったよ。お前もそうだろ?ナイフの鞘でごりごりケツん中抉られて本当は気持ちいい癖に、めちゃくちゃ痛いのがだんだん良くなってくるってちゃんとわかってるくせに」
 「レ、イジ、き、さまあっ………殺、す、ころ……っあぅひっ、」
 「声が変わってきた。いい兆候だ」
 木の鞘がぐるりと反転する。 
 「ナイフに犯されてよがってんのか?変態」
 暴君がひややかに揶揄を投げてサーシャのプライドをずたずたに引き裂く。
 サーシャの体温が移り始めた鞘が激しく抜き差しされその度に奥を突く。ナイフに犯される苦痛にも増してサーシャを責め苛む恥辱、よりにもよってレイジの手で、自分が唯一好敵手と認める男の手で尻に異物を挿入され快感を感じ始めている現実がサーシャを徹底的に打ちのめす。
 サーシャの顔から虚勢が剥離していく。
 傲慢な表情がかき消えた下から現れたのは、汗と涙に塗れぐちゃぐちゃに崩れた悲痛な顔だ。
 「やっぱり。抱くより抱かれるほうが似合ってるよ、お前は」
 抜き差しの手が速まる。肛門にたまった血がナイフの抜き差しに応じちゃぷちゃぷと水音をたてる。サーシャは快楽に息を荒げ始める。固くて太い鞘が肛門の奥深く捻じ込まれるたび奥底からねっとりした快感が湧き起こる。もっと早く、もっと激しく。ともすれば浮きそうになる腰を意志の力でねじ伏せ、快楽の荒波に逆らうサーシャを皮肉にせせら笑い、唄うような抑揚で暴君が述べる。
 「我が親愛なる皇帝陛下よ、遅参のご無礼お詫び申し上げます。このような不潔な牢獄にてあなたに逼塞の日々を遅らせたはお迎えにあがるのが遅れた家臣の罪、どうか咎ある我が身をお裁きください」
 陶然とした表情で言い終えたレイジに、両腕を縛られて完全に抵抗を封じられながらも、その一瞬だけ怒りが快楽を圧したサーシャが猛然と食ってかかる。
 「き、さま……貴様ごときが、何故知っている……貴様ごときが、あの人を真似るなっ……あの人と同じことを言うなっ、我が兄の名誉を汚すな!汚らわしいその口で兄の台詞をなぞるな汚らわしいその手で私にふれるな汚らわしい身で兄を騙るな、アルセニーは私の……」
 語尾が途切れる。
 股間にもぐりこんだ暴君の手がサーシャのペニスを弄り始めたのだ。
 「びんびんに勃ってやがる。ちょっとさわっただけで柘榴みたいにはじけちまいそうだ。鞘を突っ込まれただけでこんなになっちまうなんて真性マゾのサバーカはどっちだよ、サーシャ。これもホセの調教の成果か?苦痛に欲情するようホセに仕込まれたのか?……仕込んだのは別人か?おまえが前に世話になってたっていう酔いどれ団長の手柄か?」
 「あ、うあ、ああああひああっああ……!」 
 暴君がいささか乱暴にペニスを扱く。
 赤剥けたペニスが一回り体積を増す。膨張したペニスを満足げに眺めやり、先走りの汁が滲み始めたカリに軽く爪を立てる。
 暴君は笑っていた。固く太い木の鞘を後方の孔に穿たれたサーシャは、両腕を縛り上げられた体勢のままベッドに仰向けになり、腹に密着するほどそそりたったペニスをレイジの手にやすりがけされる快楽に身も世もなく呻いている。
 快楽と苦痛が混沌と溶け合う中、全身汗でぐしょ濡れとなったサーシャは懐かしい声を聞く。

 『お迎えに上がりました、陛下。遅参のご無礼心よりお詫び申し上げます』
 
 「アルセ、ニー……」
 焦点を失くした目を虚空に彷徨わせ、サーシャは兄の幻影を追い求める。 
 「知ってるんだぜ、お前が本当に好きなのが誰か。全部ホセから教えてもらったよ。ヤク抜きの調教の最中もひっきりなしにうわ言くっちゃべってたそうじゃねーか、リアルな悪夢の中で愛しい兄貴を呼んでたそうじゃねーか」
 もはや限界までそそりたったペニスからあっさり手を放し、優越感に酔った暴君が嘯く。
 暴君が後方の孔から鞘を引き抜く。
 肛門の栓が外れ、中に溜まっていた血がしとどにシーツを染める。
 「ひぎあっ……」
 鞘を抜かれる痛みと脱力感にサーシャが呻く。
 血染めのナイフを鞘ごと床に放り捨てるや否や、サーシャの膝をむりやり押し開き、拡張された孔に自身の怒張をあてがった暴君が宣言する。
 「鞘だけじゃ物足りないだろ?肉の熱さが恋しいよな?俺が欲しいよな、そう言えよサーシャ、ケツの孔がいやらしくひくついて俺を誘ってるって浅ましく上擦る腰が俺にねだってるってそそりたつペニスが俺の手を待ってるって、お前の体ぜんぶが俺を欲しがってるってそう言えよ」
 「ふざけ、るな……北の皇帝たる私が、東の王如きに頼みごとだと……?馬鹿も休み休み、言え……」
 息も絶え絶えに抗弁するサーシャを見下ろす隻眼が、爛々と狂気の輝きを増す。
 怒張したペニスががサーシャの肛門に捻じ込まれる。
 みちみちと肉が裂けて新たな血が滴る。
 サーシャが声にならぬ声で絶叫する。
 大気をびりびり震撼させるサーシャの絶叫にも眉ひとつひそめず、サーシャの内腿をゆるりと伝いシーツに散った血の朱に一瞥もくれず、暴君はただ肉欲に突き動かされるがままに快楽を貪り食らう。
 「好きな奴が別にいるくせに俺に焦がれ苦しむふりをするのはよせよ。『喜劇を自作自演するなんて賢い人のやりくちとは思えない』……お前の国の偉い作家の言葉だろ……っ、お前ン中すっげえ熱いな……食いちぎられそうだ……血がぬるぬる絡み付いて最高に気持ちいい。コニャックの瓶の中にひたってるみたいだ」
 暴君は欲望の赴くままサーシャを犯す。
 サーシャが絶叫しようが苦悶しようがお構いなしに荒々しく腰を突き入れ前後に揺り動かす。 
 身を苛む恥辱と激痛とそれらを圧して巻き起ころうとしてる快感の波に理性をもっていかれぬよう下唇をぎりっと噛み締め、せめても喘ぎ声をもらさぬよう自制するサーシャの脳裏を懐かしい面影が過ぎる。

 『僕は必ずサーシャを、貴方を、陛下を守り抜く。君が望むなら今すぐにだってサーカスから連れ出す決意と準備を整えている』
 「にいさ、あっ、にいさ……あっ、あああっひあぐ、ひあっ、兄さ、アルセに、あっ、あ、レイジっ、レイっッ……!!」

 遠のく面影を捕まえようと手を伸ばしかけ、腕を縛られていることを思い出す。
 「私、は、ロマノフ王家の血を引くっ、正統な、王位継承権をもつ、皇帝……斜陽のロシアを導くべき、新時代のツァーリ……にいさ、兄さん、あっ、あふっ、ひあぅぐぅ、あひ……兄さんが、私に、そう言った……そう言った、んだ……!」
 サーシャの心は祖国ロシアへと還り、アルセニーと出会った十歳の頃に返る。 

 すべてが枯れ果て陰鬱に沈み込んだモスクワ広場。
 霜焼けだらけの幼い手をとり、サーシャの足元に額ずいた兄の姿がよみがえる。
  
 『僕は必ずサーシャを、貴方を、陛下を守り抜く。君が望むなら今すぐにだってサーカスから連れ出す決意と準備を整えている』
 「嘘だ」
 『陛下を愛してます』
 「嘘だ!」
 『だれよりも』
 「兄さんはうそつきだ!!」

 あなたの愛は、私が望んだ形ではない。
 
 「覚悟しろよ、サーシャ。アルセニーの代わりに抱き潰してやる」
 レイジと同じ顔の暴君がサーシャの痴態を冷ややかな眼差しで眺めやり吐き捨てる。
 子供のように駄々をこねながら、しかし既にして快感の虜となりレイジと性器を密着させるように腰を上擦らせサーシャが絶叫する。
 繋がった部分が熱く溶け合う。 
 腰から下が蕩ける劇毒の快感に、それでもまだ頭の片隅にしぶとく居残っていた理性がちりぢりに蒸発する。
 「ああっ、あああああああっ、あっ、ひあっ、あふ、あああっああああああっあああああ……!」
 暴君が一際深く腰を突き入れると同時に、先端から根元にかけて摩り下ろすようにペニスをしごく。
 
 瞼の裏で閃光が爆ぜる。
 兄の面影が粉々に打ち砕かれる。

 先端の孔から白濁が弧を描く。
 精液をあらかた絞りつくしてもまだ体から独立したペニスの痙攣はやまず、後ろを穿たれままベッドに前のめりに突っ伏したサーシャの前髪を掴み、首をねじきる勢いで強引に振り向かせる。
 今や完全に房は闇に沈んでいる。
 天井、壁、床。
 至る所に暴虐と破壊の痕跡を留める荒廃した房内にあり、ベッドの上に片膝付いた暴君が一言一句区切って噛み含める。

 『You are my favorite dog.You are my good dog hearing that I say in anything. I love you.』

 おもむろに顔に手をやり眼帯を外し、振り被るようにして投げる。
 黒革の眼帯は天井を掠めて宙を舞う。
 暴かれた左目には無残な傷痕が穿たれている。
 サーシャの右目にあるのとうりふたつの傷痕。

 自ら封印の戒めを解いた暴君が、傷で塞がった左目を外気に晒し、残る右目に熱狂的な興奮を滾らせる。
 身の内から狂気の波動が迸る。
 サーシャの前髪を根こそぎ引き抜かんと鷲掴み、唇の触れ合う距離に顔を近付ける。
 サーシャが弱々しく薄目を開ける。細く目を開けたサーシャはふと違和感に駆られレイジの首筋に視線を這わす。
 そして、違和感の正体を悟る。
 暴君は十字架をしていなかった。
 いつも肌身離さず身に付けていた十字架を首から外してしまっていたのだ。

 今の自分に神の加護は不要といわんばかりに、
 神など無用といわんばかりに。
 
 サーシャの眼前に迫り来た暴君が、混沌そのものといった負の求心力を放つ微笑を浮かべる。
 あるいはすべてを貪欲に喰らい尽くす虚無そのもの。

 薄氷の眼差しと薄茶の眼差しがぶつかる。
 視線と視線が絡み合い、互いに魅入られたような静止の瞬間が訪れる。

 静謐が満ちる房の片隅にて。
 粘っこい白濁に塗れたサーシャを独占するが如く胸に抱え込み、神を見限った暴君が改めて名乗りを上げる。

 『I am not a king.
  I am a tyrant.
  I am a tyrant eaten up by hatred.』

 俺は王ではない。
 俺は暴君だ。
 俺こそ憎しみを喰らい尽くす暴君だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050319153353 | 編集

 ロンが消え三日がたった。
 三日前、道了から母を殺したと衝撃の告白を聞かされたロンは完全に精神の均衡を失った。
 つきつけられた現実の重さにロンの脆い心は耐え切れず崩壊し幼児へと退行した。
 現在の擦れて荒んだ、良い意味でも悪い意味でも図太くしたたかに逆境を乗り越える強さをもつロンしか知らない僕は、その変貌ぶりに驚愕に打たれた。
 床に膝を折り呆然としゃがみこんだロンは、無垢な童心を湛え澄み切った目の焦点を頼りなげに虚空に彷徨わせ、白痴めいて弛緩した表情に親の庇護に甘えるいたいけな色と不安を均等に浮かべ、半開きの唇からだらしなく涎を垂らしていた。
 虚脱しきった様子でしゃがみこんだまま立ち上がる気力もないロンを、あっさり抱き上げ連れ帰ったのは假面だ。
 ロン本人の意志など無視し、否、はなからそんなものはないかのように無碍に扱って道了は放心状態のロンを担ぐように支えて帰途を辿った。
 ロンは何ら抵抗しなかった。
 全身から力が抜けていた。
 道了に寄りかからなければ立ち上がれないような有り様だった。
 僕は咄嗟に口を開き遠ざかるロンの背に声をかけようとした、道了と共に廊下の奥へ消えようとしているロンを名伏しがたい焦燥と不安に駆り立てられ呼び止めようとした。
 それを思いとどまらせたのはロンの顔だ。
 ぐったりと無防備に道了に凭れかかったロンが、道了に腰を抱かれるがまま一歩また一歩と危なっかしい足取りで来た道を戻るロンが、とても幸せそうに笑っていたからだ。
 ロンらしくもない素直な微笑だった。
 道了と寄り添い体温を共有することで限りない安堵を感じ、道了に対する信頼を一歩ごとに確固たるものとし、放心した無表情にやがて薄っすらと笑みが広がっていく。
 無邪気な子供そのものの笑み。
 その笑みは現在十三歳の世間擦れした少年が浮かべてはいけない類のものだった。成長した容姿との乖離を感じさせる不安定な笑みが、口を開き今まさに声を上げようとした僕をためらわせたのだ。
 『ロンっ……、待て、行くな!』
 漸く我に返った僕が追いすがるのを鋭利な眼光で射止め、道了が余裕をもって顎をしゃくる。
 反応は迅速だった。道了が顎をしゃくると同時に廊下に散らばっていた囚人どもが抜群の連携を見せ布陣を敷く。
 囚人どもの連携により進路を阻まれた僕は、刻一刻と確実に遠ざかりつつあるロンの背に焦りを感じながら、傍らに立つレイジにむなしく叫ぶ。
 『レイジ、このままロンを行かせていいのか?ロンは今精神の均衡を崩している、母親殺害の真相を道了の口から利かされ一時的に幼児に退行してるんだ!今のロンは現実認識を失っている、何もわからない子供も同然だ、あの様子だとそうロンの精神年齢わずか六歳と推定される、今のロンを道了とふたりきりにするのはあまりに危険……』
 ふいに向き直り、レイジの横顔に絶句する。
 レイジは道了と共に遠ざかりつつあるロンの背に狂的な凝視を注いでいた。
 黒革の眼帯で隠された左目の隣、唯一無事に残った右目の瞳孔が愕然と開ききる。
 虚無。
 真空。
 何もない。
 完全なるゼロ。
 『レイジ、しっかりしろ!』 
 背後で怒声が爆ぜる。レイジの腑抜けぶりに業を煮やしたサムライが乱暴に肩を掴み正気を揺り起こさんとするも、レイジは体の脇にだらりと手を垂らし睦まじく寄り添うロンと道了を見詰めるばかり。徐徐に距離が開いていく。ロンと道了二人分の靴音が寒々しい廊下に殷々とこだまする。
 レイジはロンを追おうともせず、心をかなぐり捨てたような虚無的な表情でもってその背を見送る。
 レイジの唇が動き、不明瞭にくぐもった単語が発せられる。
 異常を察しレイジを注視する。レイジは凝然と正面を向いたまま、何かに憑かれたような異常な早さの英語でもって譫言を口走る。
 『……神は私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する神子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって私たちは願いすなわち罪の許しを得ています。御子はすべての見えない神のかたちであり造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら万物は御子にあって造られからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威もすべて御子によって造られたからです』
 狂気に憑かれた早口に悪寒が走る。
 英語がわからないサムライは不審顔だが僕はそれが暴発の兆候だとちゃんとわかっていた。ペア戦の時もそうだった。聖書の言葉は暴君解放時の呪文だ。あの時僕と対峙したレイジもまたこんな目でこんな顔でこんな声で世界すべてを喜んで敵に回していた。僕は咄嗟にレイジに縋り付く、レイジの腕を掴んでこちら側に引き戻そうとする。
 レイジは腕を掴まれたのにも気付かず饒舌に聖句を暗唱する。
 『神は光であって神のうちには暗いところが少しもない。これが私たちがキリストから聞いてあなたがたに伝える知らせです。もし私たちが神と交わっていながらしかも闇の中を歩んでいるなら私たちは憤りを言っているのであって真理を行なってはいません』
 切れかけの蛍光灯が点滅し道了とロンを闇に隠す。
 仲良く寄り添い闇の中を歩むロンと道了、もはや自分など見向きもせず闇のほうへ暗がりのほうへと二人して消えようとしているロンと道了の姿がレイジの奥底に秘められた暗い衝動を刺激し暴君の覚醒を促す。

 狂気と正気のはざまで心が揺れる。
 暴君の狂気が急激にレイジを蝕んでいく。

 こうしている今もレイジがまじりけない憎しみに染まっていく。
 掴んだ腕からはっきりと脈動が伝わってきた、堰を壊して感情が流入してきた。
 まずい、危険な兆候だ。
 再び暴君が覚醒したら最後僕とサムライを含めたこの場の誰も生きて帰ることはできない。生還は絶望的。これ以上レイジの手を血に染めたくない、レイジを狂気の淵に追いやりたくない。
 廊下が殺戮の現場と化すのを防ぐために僕はレイジの腕をとり……
 
 甲高く乾いた音が爆ぜる。

 『正気に戻れレイジ、腑抜けに成り下がったお前など見たくはない!』 
 激昂したサムライがしたたかにレイジをぶったのだ。
 平手で頬をぶたれたレイジは朦朧と視線を泳がせサムライを仰ぐ。
 ぶたれた頬が薄赤く腫れ始める。
 サムライは肩で息をしながら沈痛な面持ちでレイジと対峙する。
 レイジに対する心配が伝わってくる真摯な表情だった。
 炯炯と眼光鋭く厳しく顔を引き締め、しかし同情を禁じえぬ様子でじっと自分を見守るサムライをのろのろ仰ぎ、レイジは再びロンへと視線を投げ掛ける。

 『なんでそっちなんだよ?』
 憎しみも何もかも、感情そのものが消え失せた空虚な声。
 ただ純粋な疑問から発する問いかけ。
 裏切られた悲哀すら一滴たりとも漏らさず、どこまでも透明な表情でもってレイジが続ける。
 『なんでそっちにいくんだよ。約束したじゃねーかよ。ずっと一緒だって、何があっても俺のところに帰ってくるって……俺は』

 続く言葉を喪失し語尾が宙吊りになる。
 何を言おうとしたか忘れたかのようにレイジが力なくうなだれる。
 『守りきれなかったのか?お前の体に傷ひとつ付けないとかでかい口叩いたくせに、指一本触れさせないとか啖呵切ったくせに、牌より脆く砕けやすいお前の心すら守りきれなかったってのかよ』
 レイジの独白にサムライが顔を歪める。
 弱々しい様子を見るに忍びなく僕は俯く。
 『追いかけろ、レイジ。まだ間に合う』
 サムライが断固たる調子で促すも、レイジは床に根ざしたように立ち竦んだまま指一本動かせずにいる。
 『行くんだ、レイジ。お前にとってロンは大事な人間、他の何者にも代え難い存在なのだろう?ならば追え、追って連れ戻してこい。神頼みなどしている暇があるなら今こそ自分の足で走るべきだ』
 静かに抑えた声音にしかし尋常ならざる情熱を込めサムライが再度けしかける。レイジの表情が揺れる。暴君に乗っ取られかけた体がびくりと震え、その一瞬だけ元のレイジの表情を取り戻す。ほんの一瞬だけ覗いたレイジの素顔には純粋な恐怖の色がたゆたっていた。
 好意をもった人間に拒まれるのを何より恐れ怯える臆病な子供の顔。
 レイジの身の内で暴君と王とがせめぎあう。
 自制できないまでに膨れ上がった狂気の衝動が捌け口をもとめ暴れ狂う。
 サムライに叱咤されてもまだ決心がつかず、既に廊下奥の暗やみに没しかけたロンを振り仰ぎ、レイジが悲痛に叫ぶ。
 『待ってくれ!』
 捨てないでくれ。
 心の叫びが聞こえた気がした。
 その一瞬暴君に打ち克ったレイジが体の制御権を取り戻し遅ればせながらロンを追い走り出す。
 豹じみた瞬発力で床を蹴るレイジ、その前に道了の指示をうけた囚人どもが立ち塞がる。
 『俺に任せて先に行け、露払いもまた武士のつとめだ』
 サムライが腰から木刀を抜き放ち正眼に構える。隙など少しもない、ため息が出るほどに完璧な構え。
 レイジのがいざ行かんとする道を守ろうと多数の囚人を相手どり、凛々しく木刀を構えたサムライがさりげなく立ち位置を移動し僕を庇う。
 『決して離れるなよ、直。常に俺と肌が触れ合う距離にいろ。俺の後ろがお前の居場所だ』
 『思考が古い。亭主関白の典型だ。僕に三歩下がってついてこいと?』
 サムライの肩に手をおく。
 肩からぬくもりが伝わってくる。
 全身に抑制した殺気を漲らせたサムライに寄り添い立ち、彼の言葉に反感と同程度のくすぐったさを感じ、不敵にほくそ笑む。
 『前言訂正を求める。僕の居場所は君の「隣」だ』
 『空気も読まずに乳繰りあってんじゃねーよ、うぜえサムライと親殺しだな』
 『道了さんの命令だ……お前らをこっから先に通すわけにゃいかねえ、せいぜいいたぶって殺してやる』
 好戦的に鼻息を荒くした囚人どもが一斉にサムライにとびかかる。
 右から左から前から後ろから僕らを完全包囲した囚人たちがそれぞれ拳と得物を振り翳し脳天から抜ける奇声を発する。
 濁声の咆哮を上げる囚人らと相対したサムライは多勢にも無勢でも余裕を失わず冷静にこれに対処する。
 正眼に構えた木刀が流麗な残像を曳いて右上方にすべり、間近に迫った囚人の額をかち割り血をしぶかせる。
 絶叫して倒れた囚人を一顧だにせず、今度は左上方から鳩尾を狙って拳を抉りこんできた囚人を軽い体捌きでいなし均衡を崩したところにすかさず足払いをかける。足元を木刀で薙ぎ払われた囚人は前方につんのめり壁に激突、盛大に鼻血を噴いて沈没する。
 『雑魚どもめ。退屈しのぎにもならん』
 サムライが倦怠の色すら浮かべ吐き捨てる。
 サムライの強さに驚嘆を禁じえない。
 多勢に無勢でも引けをとるどころか互角以上に立ち回るサムライ、素早い体捌きで敵を翻弄し舞い踊るように木刀を振り翳し、あらゆる方向から己に挑みかかる囚人らを神速で斬り捨てていく。
 息をもつかせぬ攻防に目を奪われた僕の足首に激痛が走る。
 『っ!?』
 おもむろに引き倒される。
 視界ががくんと揺れ次の瞬間したたかに床に打ち付けられる。
 先ほどサムライに額を割られた囚人が床を這いずり執念深くも僕を道連れにしようとしたのだ。
 『直っ!』
 サムライが焦りもあらわに振り向く。
 僕自身背後の注意が疎かになっていたのが災いした、天才一生の不覚だ。額からだらだら血を垂れ流した囚人が僕に覆い被さる。
 肘を付き上体を起こす。
 床に転んだ痛みを堪え、意識的に不敵な笑みを拵える。
 『風通しがよくなったな。額の穴から直接酸素を吸えば少しは脳の回転がよくなるだろう』
 『くそったれ親殺しの分際で生意気だ、サムライの背中に隠れてるっきゃ脳がねえ癖にすかした目でこっちを見やがって……細首ねじきってやる!』
 挑発に逆上した囚人が衝動的に僕の首に手をかける。
 気道を塞がれる苦しみに弓なりに体が仰け反る。
 手の力が強まるにしたがい朦朧と目が霞み水面下から見上げた世界のように事物が歪曲される。囚人が下劣な笑みを満面に湛え何事か口汚い悪態を吐いている、僕の顔に大量の唾を浴びせ馬乗りになりぐいぐい首を締めつけー……
 
 『没事儿!!』
 意識が途切れる寸前、重量級の衝撃が囚人を襲い吹っ飛ばす。

 何者かに殴り飛ばされ錐揉みしながら宙を飛んだ囚人が声にならない絶叫を上げ壁に激突、額の血を壁になすりながら突っ伏し今度は完全に沈黙する。ひりひり痛む喉をさすり激しく咳き込み頭上を仰ぐ。
 涙が薄れた視界が捉える巨大な巌の如き影……
 凱。
 『ひよわなもやしっこがしゃしゃりでてくるんじゃねえよ、喧嘩のやりかたもろくに知らねえくせに』
 さも憎憎しげに毒づき、ぶっきらぼうに僕の鼻先に手を突き出す。
 『……どういう気まぐれだ?君が僕を助けるなんて』
 『成り行き上な……そっちの男にゃマオを助けてもらったからな。借りはきっちり返すぜ』
 僕がどうしようか迷っていると、凱は苛立たしげに舌打ちし乱暴に僕の手首を引っ掴み引っ張り起こす。
 察するにマオがナイフで自殺を図ろうとしサムライの機転の一投で救われたところを目撃し恩義を感じていたのだろう。
 存外義理堅い男だとなと新たな発見に苦笑したくなる。
 『親殺しはひっこんでな。荒事は俺の専門だ。青竜刀があろうがなかろうが俺様が最強で無敵なことに変わりねえって中国人の面汚しどもに叩き込んでやる』
 凱を裏切り道了へ走った囚人どもはひとり残らずかつての首領の強さを体感してるらしく歯の根も合わぬほどおののいている。
 既に逃げ腰のかつての子分どもをざっと見渡し、傲然と胸を張る。
 『覚悟はいいか野郎ども。凱大哥の復讐合戦のはじまりだ』
 潰れた喉が発する声はがらがらと濁っていたが、それだけにいっそう迫力があった。
 濁った咆哮を上げ自分に迫り来る囚人どものまっただなかに飛び込む凱、ゴツゴツした鉄拳があたるを幸い顔を砕き凄まじい速さで敵を屠っていく。
 凱の快進撃にあっけにとられた僕の背後に衣擦れの音が忍び寄る。
 『立てるか、直。怪我はないか』
 『そっちは終わったのか、サムライ』
 『あらかたな』
 木刀をおさめぐるりを見回す。
 サムライにつられ視線を巡らせば廊下の至る所に前後不覚に陥った囚人たちが倒れ伏していた。
 壁や床に血が飛び散った目も覆わんばかりの惨状にも増して不安を掻き立てるのは、レイジの行方だ。
 『レイジはどうした、ロンは連れ戻せたのか?』
 思わずサムライに取りすがる。
 良い返事を期待して一心に顔を覗き込めば、サムライが気まずげに視線をそらす。
 何故こちらを見ない?無性に不安と苛立ちを覚え、サムライの腕を強く揺さぶりかけ……
 『……遅かった』
 サムライが沈痛に呟く。嫌な予感が現実になる。
 サムライが顎をしゃくった方角に向き直った僕は、蛍光灯が切れた暗やみの中に立ち尽くすレイジを目撃する。 

 通路には既にロンと道了の姿がない。
 二人はレイジを置き去りに消えてしまった。

 間に合わなかった。
 間に合わなかったのだ。

 『………そんな』
 続く言葉をなくす。
 まだそこらにロンの残滓が漂っているのではないかと虚しい期待を抱き、のろのろとサムライのそばを離れレイジのもとへ向かう。
 レイジは僕を振り向きもせず、だらりと垂らした手に血染めの十字架を握っている。
 十字架の先からぽたぽたと鮮血が滴る。

 『……はは、ははっ。俺っていっつも、本当にいっつも、肝心な時にびびって遅れちまうんだよな。笑えるだろ?俺がだぜ。憎しみを名にもつこの俺がだぜ?だってさ、足が動かなかったんだ。竦んじまったんだ。アイツと一緒のロンが笑顔浮かべてるのに気付いて、その顔が本当に幸せそうで、隣にいるのが俺じゃなくても全然平気で……はは、なんだよこれ、なにがどうなってるんだよ?俺はどうしちまったんだよ、なんで足が竦んじまったんだよ、なんで今更暗やみなんか怖がるんだ道了とロンがいる暗やみにびびって足が竦むなんて言い訳だよそうだろ何で今頃になってもうとっくに克服したはずなのに、ああ畜生恨むぜ神様呪ってやる永遠に地上からあんたの面に唾吐きかけてやる、そんなに嫌いなのかよ俺が俺を俺はー……』

 廊下に血なまぐさい風が吹き抜ける。
 最後の一人の胸ぐらを掴み顔が腫れあがるまで拳を打ち込んでいた凱も、木刀を携えたサムライも、すぐ近くにいる僕さえも。
 レイジが放つその異様な雰囲気に圧倒される。
 『……過ぎたことを悔やむのは不毛だ。ひとまず東棟に帰ろう、房に帰ってロンを取り返す作戦を練ろう。道了と一緒ならロンもまた東棟に帰ったはず。道了は君に貫かれ手を怪我している、あの手でロンに暴行を働くとは考えにくい、とりあえずロンの身の安全は保証されたとみるべき……』
 
 鋭利な刃物の如き烈風が頬を掠め去る。
 頬の薄皮一枚切り裂いて僕を通り越した物体が、鈍い黄金の光を放ちながら壁に激突し宙高く跳ね返る。

 大きく腕振り被り投擲した風圧で前髪が捲れ上がり、爛々と狂気に輝く右目が外気に晒される。

 『I do not need God. I do not demand the help.I do not ask for the permission.
 Because because I am alone.』

 私に神は要らない。
 神に助けを求めない。
 神に許しを乞わない。
 何故なら私は永遠にひとりだから。

 母親から贈られた十字架を自ら壁に投げ付ける奇行に走ったレイジは、そのことを悔やみ慌てて取りに戻るでもなく、僕の足元に転がった十字架をそのまま捨て置いて大股に歩み去る。
 僕は愕然とその背を見送る。
 サムライも凱もまた驚愕に打たれ言葉を失う。
 レイジの背はあらゆるものを拒絶していた。
 否、あれはもはやレイジではない。
 レイジならば母から貰った十字架を壁に投げ付けたりなどしない。
 犬に噛まれしとどに涎にまみれ小便をかけられ更には所長に踏み躙られぼろぼろになった十字架さえ肌身離さず持ち歩いていたレイジが、愛しげに口づけさえしたレイジがあんな振る舞いに及ぶわけがない。

 あれは暴君だ。
 神に反逆する暴君だ。

 もはや完全に僕らの前にこの地上に降臨した暴君は、レイジの体を乗っ取りその魂までをも毒し、地獄の彼方へ連れ去ろうとしている。
 『ーっ!』 
 暴君の背を追って一歩踏み出すも、その瞬間感電したように痺れが走る。
 もはや近寄ることも許されない。
 凄まじい殺気と威風で障害物を薙ぎ払い、自分に触れるものには誰だろうが容赦しないと声なき主張をし、暴君が静かに暗やみに溶け込んでいく。
 その場に取り残された僕は中腰の姿勢となり、足元の十字架を拾い上げる。
 疵だらけの十字架に僕の顔が映りこむ。
 眼鏡の奥の目に悲痛な光を宿す、世にも情けない僕の顔。
 そんな自分を奮い立たせるように十字架を強く握り込み、根拠のない自信を振り絞り断言する。
 『………取り戻してやるとも』
 ロンも暴君も、ふたりとも。

 彼ら二人だけを暗闇に追放したりはしない。
 その時は僕も暗闇にとびこみ彼らの腕を掴みむりやりにでも連れ戻す。
 彼らが僕にそうしてくれたように、
 サムライが今もそうしてくれているように。

 掌の十字架に視線をおとす。
 隅々まで十字架を観察する。
 光沢の褪せた表面に指を這わせば、透徹した金属の冷たさが染みてくる。 
 決意を込め十字架を胸に抱く僕の隣にいつのまにかサムライが寄り添い、僕を挟むように凱もやってくる。
 凱がごろごろと喉を鳴らす。
 何を言ってるのか聞き取れはしなかったが、唇の動きではっきり読みとることはできた。
 
 勝ち逃げは許さねーぞ、レイジ。
 お前をぶっ倒して東のトップになるのが俺の夢だ。暴君だかなんだか知んねーがしゃしゃりでてくんじゃねーよ。
 こっちが全快し次第、首ねっこ引っ掴んで引きずり戻してやらわあ。

 『……気持ちは同じだ。レイジとロンをこのまま捨て置くは友の名折れだ。武士の誇りに賭けても二人を取り戻すと誓う』
 真剣な光を双眸に閃かせ、レイジが消えた方角をひたと睨み据えサムライが宣誓する。
 サムライの体温を感じる距離に立ち手の中の十字架に視線を注げばレイジとロンの笑顔が浮かび上がってくる。 
 食堂でくだらない冗談をとばし行儀悪く箸をふりかざし笑い転げるレイジを頬に飯粒をつけ注意するロンの姿がまざまざとよみがえり胸が痛む。
 ひとつ深呼吸し、胸に抱いた十字架にむかって呟く。
 『君が戻る日まで預かっておく』
 ゆっくりと慎重に、儀式めいて神聖な心持ちでもって顔の前に十字架を掲げる。
 神を信じぬ僕らしくなく敬虔な気持ちで十字架と向き合う。
 ゆっくりと十字架に顔を埋める。
 ひやりとした温度が唇に染みる。
 冷たい金属の味が唾に溶け徐徐に舌の上に広がっていく。
 数呼吸の永遠。
 十字架に接吻し、顔を上げる。
 強く強く折れ砕けそうに十字架を握り込み、傍らのサムライとかけがえのない何かを共有しようと仰ぎ見る。
 『これが僕の決意だ』
 『ならばこれが俺の決意だ』
 僕の言葉を受けたサムライが不意に顔を和ませ、十字架を掴んだ僕の手に手を重ねる。

 不思議と動揺はなかった。
 狼狽もしなかった。
 迷いはなく恐れもなかった。
 心のどこかで僕はずっとこの瞬間を待ち焦がれていたのかもしれない。

 僕の手に手を重ね置いたサムライが、ゆっくりと慎重に顔を傾げ僕へと顔を寄せてくる。
 サムライの呼気が睫毛を揺らす。
 生温かな呼気が顔にかかる。
 急激に心臓の鼓動が高鳴りゆく。全身の血がさざめき頬に血が上る。
 静かに目を瞑る。
 憎しみに凍て付く十字架に冷やされた唇に、柔らかく熱い唇が触れる。
 触れ合う唇にサムライの全存在を感じる。
 衣擦れの音抑えた息遣い高鳴る鼓動、それらすべてが触れた唇を介し僕と共有されるような不思議な感覚。

 唇が離れると同時に薄目を開けてみれば、サムライがこの上もなく優しく哀しい目でこちらを見詰めていた。
 失った幸せと引き換えに得た幸せもあるのだと、その当たり前に残酷な現実に打ちひしがれながらも二本の足で毅然と立ち続けようとする、どこまでも強くひたむきで嘘の吐けない男がそこにいた。

 たった今重ねたばかりの僕の唇に指を触れ、サムライは寛恕と微笑む。
 『……黄金の味がする』
 
 唇を触れ合わせる行為が決して不快なばかりじゃないと気付いたのはこの時だ。
 唇のぬくもりは三日間去らなかった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050318180116 | 編集

 「それで?」
 膝の上で手を組み続きを促す。
 社交的な笑顔と落ち着いた物腰は深い教養と知性を感じさせるも、鳶色の髪を真ん中で分けた軽薄な髪形と三十路にして学生の域を抜けきらない童顔がそこはかとない胡散臭さを醸す。
 聞き心地よく穏やかな声はおのずと患者の心開かせる親愛の情に溢れているも僕はまだ彼に対する警戒心を捨て去れず、こうして相対し椅子に座っている今も油断ならぬ懐疑の目ですみずみを探り見てしまう。
 斉藤はあくまで対等に患者に接する。
 それが職業上の欺瞞か否かは僕の観察眼をもってしても見抜けない。 深刻な悩みを抱え訪ね来る患者に対し、自分の持てる最大限の力で余さず応じるも、人の心を土足で踏み荒らす押しつけがましさは微塵もなくその語り口はとても柔和だ。
 患者はおろか看護婦からも好感を持たれる聞き上手な青年医というのが第一印象だ。
 目の前の「患者」がただの「訪問客」にすぎないといった気さくさな態度は、精神科医に偏見をもつ多くの囚人に意外性を与える好ましいものだ。
 親密さを感じさせる笑顔に騙されぬよう気を引き締める。
 斉藤は相手にそうと気付かせず会話の主導権を握る術に長けている。
 斉藤のペースに惑わされぬよう注意深く距離を保ち先制球を放つ。
 「貴方は精神科医だろう」
 当たり前の事を聞かれ斉藤が軽く頷く。肯定の証。
 我知らず吐息を漏らす。語り終えた安堵より徒労感の方が大きい僕は、ぐっつたりと肩の力を抜き椅子に凭れる。

 ロンが道了のもとへ去り三日が経った。

 ロンはこの三日間一度として強制労働にも食堂にも顔を出さず道了の房に軟禁されているらしかった。
 ロンが現在どうしているかもわからぬまま、遂に痺れを切らした僕は三日目にしてプライドを投げ捨て医務室のドアを叩いた。
 強制労働後の自由時間、いつもは図書室で借りる本を選んでいる頃合だ。
 サムライはブルーワークの残業で不在だ。
 数ヶ月前レッドワークに降格処分になったサムライだが、相も変らぬ精勤ぶりが報われこの程晴れて元の部署に戻されることになった。
 廃人同然の所長の代理として人事を取り仕切る安田の配慮だ。
 砂漠で働くイエローワークや溶鉱炉を稼動させるレッドワークの囚人はそれぞれの持ち場にバスで運ばれることになるが、ブルーワークの業務はおもに東京プリズン地下に発達した下水道の二層三層を管轄とするため、地下停留場のマンホールから直接梯子を伝いおりるだけで移動の手間が省けるので比較的時間外も拘束されることが多い。
 この三日間地下でなにやら異変が起きているらしく、ブルーワーク担当のサムライは残業を課されている。
 もとより寡黙なサムライは下水道の異変に関しても残業の内容に関しても口を噤んでいるが、今の僕はむりやり聞きだそうという気になれない。
 地下で起きていることよりもまず身近な問題を解決するのが先決だ。
 「経緯は今話したとおりだ。洞察力に富んだ医師なら先の説明から訪問の用件を容易に推察しそうなものだがな……買いかぶりすぎていたか。この天才が最初から最後まで一部始終すっかり噛み砕いて易しく話してやらねば今日の訪問の用件すら推察できないと言うなら僕はどうやら貴方の医師としての能力を過信していたようだ。話し合いを可能な限り手短にかつ円滑に進めるため僕はロンが幼児退行に至った経緯を細部にいたるまで詳細に述べたわけだが、理解力に乏しく愚鈍な貴方はこの上更に説明を求め僕の貴重な時間を浪費させるのか?」
 眼鏡越しに辛辣な眼差しを突き刺す。
 尊大に顎を引いた僕にも気分を害する様子なく斉藤はしばし思案げに沈黙していたが、やがて身を起こし椅子を傾がせ机の方に向き直る。
 机上には数枚のカルテが重ね置かれボールペンが転がっていた。カルテの右上端には錘代わりのマグカップが置かれ淹れたての湯気を立ち上らせている。
 コーヒーの香ばしい芳香が鼻腔をくすぐる。
 斉藤が思案顔で唇をなぞるあいだ手持ち無沙汰の僕は見るともなく机上の物を観察し位置を把握する。
 机上に並ぶ本はすべて斉藤が持ち込んだ物だ。精神医学の大家フロイトやユングの著書にまじり数冊の文庫本が立て掛けられている。
 中の一冊の背表紙に目を走らせ、意外性に打たれ呟く。
 「カラマーゾフの兄弟を読むのか」
 フロイトとユングに挟まれていたのは僕の愛読書のひとつ、ロシアの文豪ドストエフスキーの古典的名作「カラマーゾフの兄弟」だった。
 意図せず漏らした独白に斉藤は素早く反応し親しげな笑みを零す。
 「ああ。カラマーゾフの兄弟は心理学見地からいってもなかなか興味深い作品だからね」
 「エディプスコンプレックスの端的な症例というところか」
 「それはちょっと露骨すぎるかな。気難しがり屋で有名なフロイトがカラマーゾフの兄弟を絶賛したのは事実だけどね」
 斉藤が手を伸ばし文庫を抜き取り僕の前でぱらぱらめくってみせる。 余程読み込んでいると見えページの端はところどころ折れ表紙は傷んでいた。
 優秀な精神科医である斉藤がカラマーゾフの兄弟についてどのような感想を持ったのか、神は在か不在かの永遠の命題にどのような結論を出すか個人的にも気になるところで議論を交わしたいという知識欲が頭をもたげてきたが今はそれどころではないと自分を戒める。
 斉藤は僕の複雑な心境などかえりみずぱらぱらと手早くページをめくる。
 懐かしげに目を細め文面を読み取るさまに学生時代の面影が垣間見える。
 所在なく椅子に座り込んだ僕は、焦らされる苛立ちと時間を不毛に費やす焦りに苛まれながらも、斉藤が意識をこちらに戻すまで辛抱強く自制して待つ。
 結論を先延ばしにされる苛立ちと焦りに貧乏揺すりしたくなるのを懸命に自制する僕をちらり挑発的な上目遣いに見上げ、斉藤がおもむろに言う。
 「『僕は神の創った世界、神の世界を承認しない。どうしても甘んじて承認するわけにはいかないのだ』」
 「『何故ならそれは理不尽に痛めつけられた無垢な子供の涙が贖われないからだ』」
 「お見事」
 「馬鹿にするな。大審問官を含むイワンの反逆論はこの作品の思想的根幹を成す目玉だ、暗記せず天才を名乗れるか。……僕自身イワンの思想には大変感銘を受けたからな。既に二十回は読み返したと思う。まったく、あまりに膨大すぎる記憶力も考えものだな。おかげで今では特に好きな第五編プロとコントラは一字一句漏らさず諳んじられる……」
 違う、こんな事を言いにきたのではない。
 僕は斉藤と古典談義をするために強制労働後の疲れた体を押してわざわざ医務室を訪ねたわけじゃない、斉藤のペースに流されてどうする。
 咳払いし改めて斉藤と向き合う。
 僕の記憶力を手放しで称賛した斉藤はといえば、相変わらずマイペースにページをめくりつつ気に入った箇所を反芻している。
 徹頭徹尾マイペースな斉藤に怒りを通り越し疲労を覚える。
 「僕もイワンに同感だ」
 唐突に、言う。
 斉藤の発言に不意をつかれる。
 反射的に顔を上げればこちらを覗きこむ斉藤とまともに目が合う。
 本を閉じ膝に置いた斉藤がいわく表現しがたい目で僕を見る。
 表層にとどまらず核心にメスを入れ、膿んだ真実を暴き出さんとする苛烈で冷徹な眼。
 「理不尽に痛めつけられたものの涙は必ず贖われねばならない。それが医師としての僕の信条でね」
 たかだか囚人の一人にすぎない僕を相手に斉藤は本音を語る、小説の記述を引用し自らの信念を語る。
 斉藤の言葉にロンを思い出す。
 幼児退行したロンの無垢なる微笑みと庇護をもとめて道了に縋り付くさまを思い出し胸裏に苦汁が滲む。

 理不尽に痛め付けられ粉微塵に心を打ち砕かれたロンの涙が報われないで終わるなど断じて認めない。
 報われないで済まされるなど絶対に許さない。
 必ずロンを取り戻す。
 ロンをこの手に取り戻す。
 ロンのいるべき場所はレイジの隣であって、道了の膝元ではない。

 ロン奪還の決意も新たに膝の上の手を強く握り込む。
 道了に対する憤りが胸の内で燃え盛る。
 深呼吸で自分を落ち着かせ真っ直ぐに斉藤を見る。
 斉藤はひどく落ち着き払って僕の視線を迎え入れる。
 その目で直感した。
 僕自身の口から用件を切り出させるために斉藤はわざと焦らすような真似をしたのだ、僕の真意をさぐり本気を確かめ覚悟を問うためにあえてこのような回りくどい手法を用いたのだ。
 まったく、この上ない愚劣なやりかただ。
 緊張に乾いた唇を舐める。沈黙の重圧に挫けず顎を上げ前を見る。
 眼鏡越しにしっかり斉藤を見据える。
 膝の上で握り込んだ手がじっとり汗ばむ。
 目を閉じる。
 瞼裏の闇を過ぎる三日前の出来事、ロンが道了とともに闇に消えるのを見送り愕然と立ち尽くすレイジ、絶望に見開かれたその目、忍び寄る虚無に侵食されたその顔、暴君の目覚めー……

 自らを励まし指に力を込める。
 小さく息を吐き斉藤と向き合う。

 「ロンを取り返すために知恵を貸してほしい。……彼は僕の、大事な友人だ」
 口にしたそばから頬が上気する。
 前言撤回したくなるも既に遅い、一度口に出した言葉は取り返しがつかない。
 羞恥に苛まれ俯く僕を微笑ましげに見やる斉藤が鬱陶しい。
 なんだその目は、見世物じゃないぞ。
 そんなに赤くなる僕が珍しいのかと抗議したくなるのをぐっと堪える。
 僕が今日斉藤を訪ねたのは、ロン奪還に際し斉藤の知恵を借りるためだ。
 IQ180の比類なき天才たる僕が知能の劣る他人を頼るなどあるまじき事態だが、現在幼児退行を起こし極めて情緒不安定な状態にあるロンを無傷で取り返すためにはやはり専門家の意見を無視できない。
 最善を期すためにどうしても斉藤の助言を乞う必要があった、優秀な精神科医であり有能な心理学者であり私情に入れ込みすぎず客観的なアドバイスをしてくれる存在が必要だった。
 思い当たる人物は斉藤しかいなかった。
 精神科医として数多の患者と向き合い治療してきた斉藤ならきっと精神年齢六歳の幼児に退行したロンを元に戻すヒントを教えてくれるはずだ。

 「貴方は優秀な精神科医だ。日本でもっとも評価の高い児童精神科病棟に籍をおいていたのなら傷ついた子供の心がよくわかるはずだ。今のロンは子供同然だ、精神年齢六歳の幼児と同じだ。あんな彼は見たことがない、東京プリズン入所以来一度して彼のあんな無邪気な微笑みを無垢に透き通った目を見た事がなかった。あの時廊下にしゃがみこんだロンは母をもとめ顔を巡らし舌足らずに『媽媽』を呼んだ、いつも突っ張って憎まれ口を叩き殴られたら殴り返すロンはそこにいなかった、あんな素直なロンはロンじゃない、あれはあの目は赤ん坊と同じだ、まるきり知性が備わってない赤ん坊と同じだ、あれはー……」

 『媽媽』
 『おにいちゃん』

 「恵と同じだ」
 中国語で「母さん」を意味する呼び名に懐かしい声が重なる。
 語尾を引きずるような舌足らずな口調まで恵とまったく一緒だ。
 ロンの面影と恵の面影が脳裏でひとつに溶け合う。
 胸を刺し貫く鋭い痛み……今またロンをも失ってしまう恐怖が激しく僕を責め苛み倦厭の念を喚起する。
 無意識に額に手をやる。
 急速に体の力が抜けていく。
 脱力し椅子に沈み込んだ僕の口から熱っぽい譫言が迸る。
 「……恵もそうだった。あんなふうに無垢な目で僕を見た。僕は恵の傷付きやすい無垢さを守りたかった、けれども守りきれなかった。同じ過ちを繰り返すのは嫌だ、自分の無力を呪うのは嫌だ、僕が無力なばかりに恵はー……」
 ハッと口を噤む。
 椅子に腰掛けた斉藤が聡明な眼差しで包み込むように僕を見る。
 続きを促しもしない、告白を強要しない。
 配慮に富む成熟した大人の物腰が僕の中の暗い情動を揺り起こす。
 斉藤は包容力溢れる静謐な目で決して急かさず焦らさず僕の挙動を見守っている……観察している。
 あくまで自発的な告白を待つ理解者ぶった態度に猛烈な反発が湧く。 眼鏡のブリッジに触れ心を落ち着かせる。
 しっかりしろ、鍵屋崎直。この程度で動揺してどうする。
 長々と息を吐き身を引く。
 感情を抑制し、ブリッジから指をどけ再び正面に向き直る。
 「命令だ。僕の期待に応えろ」
 気迫を込めた視線を受けた斉藤が思わせぶりに推測を組み立てる。
 「実際に診てみないと何とも言えない。そのロン君て子が本当に幼児退行してるのかどうか君の話だけでは断定する根拠に欠ける。君が受けた印象ではなるほどロン君は子供返りしてるらしい、喋り方もたどたどしく表情も心許なげで普段の彼とは正反対だったと君は言う。しかし……」
 「しかし?」
 言葉尻を捉え反駁する。
 椅子を軋ませ天井を仰いだ斉藤が慎重に私見を述べる。
 「……いや、結論は保留しよう。とにかく実際に本人を連れてきてもらわないと断言できない。もし本当にロン君が幼児退行してるのだとしたらなるべく早く適切な治療を施さなければ手遅れになるかもしれない」
 「手遅れ?」
 嫌な予感が過ぎる。
 心臓の動悸が速まり不快な汗が滲み出す。
 素早く聞き返した僕に複雑な顔を向け、斉藤が続ける。
 「……現在ロン君は道了君とともにいる。事件から既に三日経った。ロン君に異常な独占欲を抱く彼が何もしないでいるとは思えない」
 「だが道了は手を怪我している、レイジに十字架で貫かれ深手を負っている。あんな手でロンに乱暴できるはず……」
 「道了はおそらく無痛症だ」
 絶句する。
 道了が痛みを感じないだと?
 何故斉藤がそんなことを知っている?
 ショックを受けた僕に同情したか、斉藤の顔が痛ましげな色を帯びる。
 「道了の痛覚は麻痺している。手を怪我していても関係ない、そんなことはささいなことだ。ロン君の体と心を一日も早く完全に征服することこそ重要だ、ロン君に決して消えない印をつけ永遠に自分の玩弄物とするのが東京プリズンに来た目的そのものだとしたらもはや一日一刻の猶予もない」
 慎重な物言いが不安を煽る。
 膝の上で拳を握り込む僕を気遣わしげに覗き込み、斉藤が質問する。
 「で、ロン君の相棒のレイジ君は何をしてるんだい?君の話によると二人はとても親しい間柄でいつも一緒にいたというから、今この瞬間だってとてもじっとしていられず一人で救出に向かったんじゃ……」

 レイジ。
 憎しみ。

 一瞬答えをためらう。
 三日前、ロンが消えた暗闇に自身もまた身を投じた暴君の姿が瞼の裏に像を結ぶ。
 あれから三日が経った。
 レイジは今や完全なる暴君と化した。 
 恐怖と暴虐により東棟を支配する憎しみの具現化した存在にー…… 
 「レイジは今、」

 扉を隔てた廊下の遠方で轟音と悲鳴が炸裂したのはその時だ。

 「!?」
 異変を察した斉藤が腰を浮かし僕も即座に立ち上がる。
 ベッドに伏せっていた患者たちが連鎖的にカーテンを引き「なんだなんだ?」と身を乗り出す。
 好奇心の塊と化した患者たちが興奮にさざめき注視を注ぐ扉の向こうから不吉な気配が殺到する。
 野太い怒声、ヒステリックな悲鳴、何かが盛大に割れ砕ける音、肉と肉がぶつかる鈍い音……大気を震わす絶叫。
 扉の向こうに広がる流血の地獄絵図を想像し、長い入院に飽き飽きした囚人たちが不謹慎に色めきだつ。

 「今のすっげえ声だったけど何があったんだろうな、な?」
 「ただごとじゃねーぜありゃきっと、タマでも食いちぎられたかケツの穴にビール瓶捻じ込まれたとしか思えねー声じゃねーか」
 「ふたつみっつ修羅場をくぐりぬけてんのが入所に際する最低条件のプリズンの囚人があんなすっげー声出すなんてよ、きっと余っ程のことがあったんだぜ。何があったか予想してみねーか?犯人当てクイズってやつさ」
 「凱に三万賭けるぜ。あの肉達磨ときたら喉切り裂かれて派手に血ィしぶかせてこりゃ絶対死んだざまーみろって思ったのによ、蓋ァ開けてみりゃあ頚動脈に皮一枚とどかずで命に別状なかったっていうじゃねーか!喉の皮が角質化してて一命をとりとめたとかそりゃもう人間じゃなくてステゴザウルスだろ、つまり凱は面の皮だけじゃなく喉の皮まで分厚かったわけだ!んで本人は一週間寝込んでやがったと思ったら三日前に突然跳ね起きて退院しちまいやがって、今もきっと自分を裏切って道了に走った中国人の面汚しどもを青竜刀で叩っ斬ってるに決まってら」

 なんで入院しているのか謎なほど元気の良い囚人たちが、ドアの向こう側で発生した事態をあれこれ予想し喧々囂々議論を戦わせる。
 カーテンを引っ掴んだ囚人たちが好奇心に駆り立てられベッドから転落しそうなほど身を乗り出すのを諌めもせず、かすかな驚きと興奮をもってドアを凝視する斉藤の脇を駆け抜ける。
 「直くん!?」
 ドアを開け放ち廊下にとびだし音源めざし全速力で疾走する。
 僕を駆り立てるのは膨大な不安と直感、あの悲鳴には僕が知る人物が関係しているに違いないという電撃的な直感だ。
 背後で斉藤が何か叫ぶのを無視し息を切らし全力疾走、角を曲がりしな制動をかける。
 現場に辿り着いたは何が起こっているか把握できぬまま集まり始めた野次馬を掻き分け先へ進む。
 「何が起きたんだ、さっきの悲鳴は何だ?詳しいことを知っている者はだれかいないのか、これだけ多くの囚人が群れたかっていながら証言能力をもつ目撃者が一人もいないとは何たるていたらくだ」
 「俺だって今来たばっかで知んねーよそんなこた!」
 「こっちのほうからすっげえ音と叫び声がしたから房から出てみりゃあちこちに蛍光灯の破片が散らばってて、血が飛び散って、それで……」
 房から湧き出た囚人たちが僕の剣幕に怖じてしどろもどろに言い訳する。
 まったく使えない連中だと舌打ちし行く手を塞ぐ囚人を邪険に押しのける。
 振り返りざま殴り飛ばされるのを覚悟で肩を押すも、ちょうど僕の前に突っ立った囚人は顔面蒼白の放心状態で前方を見据えたまま、ろくに抵抗もせず横へよろけ僕に場所を譲る。
 無抵抗の囚人に代わって最前列に躍り出た僕は、彼が目にした光景に直面し同じく唖然とする。

 床一面に無秩序に散乱する蛍光灯の破片。
 散らばっているのは粉微塵に割れ砕けた蛍光灯の破片だけではない。先が尖った危険物の破片に混じってあたり一面に散らばる安っぽいプラスチックの麻雀牌……極めつけはおびただしい血痕。
 破片と血痕と牌とを一緒くたにぶち撒けた惨状にさらに酸鼻な趣きを添えるのは、僕の3メートル前方に腹を下にして転がる囚人だ。

 「『ロン、我是勝利!』って叫んだよ」

 ハッと振り向く。
 僕の後ろに位置する囚人が仲間と小声で話している。
 どうやらその囚人は事件が起こったまさにその現場に居合わせ一部始終を目撃したらしく、血の気の失せた顔にさも恐ろしげな表情を浮かべ口早に説明する。
 「廊下で麻雀やってたんだよ。俺はそばで冷やかしながらそれ見てた。したらたまたま通りかかったレイジがいきなり……」

 背筋に戦慄が走る。

 レイジ。予感が的中した。
 僕が息を呑み見守る前で目撃者は大仰に両手を広げ、聴衆にむかい臨場感たっぷりに当時の状況を再現してみせる。
 「あそこで倒れてるやつはホンイーソー、その名のとおり混一色が十八番の東棟一の麻雀好き。いっつもああして房の外に座り込んで対戦相手募ってたんだけど、そこにたまたまレイジが通りかかって……俺はさ、飯まで特にやることねーしでぼうっと麻雀やってるの眺めてたんだ。仲間に加わろうにも元手がねーし、仮に元手があったところで混一色のイカサマにかかってケツの毛が毟られちまうのはたまんねーから今日のところは冷やかすだけにしとこうって……今日の混一色はどえらいつきまくってた、おっかないくらいに。得意の混一色を連発してトントン拍子に上がって本人絶好調、有頂天になって牌ひっくりかえしてさっきの台詞を叫んだ途端だよ、レイジが首ねっこ引っ掴んで壁めがけて投げ飛ばしたのは!あの蛍光灯はそん時落ちたんだよ、宙高く舞った混一色の手が蛍光灯にぶつかって!」
 ひょいと何かを摘み上げる仕草をし、それから思い切り腕を振り被りその何かを壁に叩きつける真似をする。
 周囲に息を呑む気配が伝播する。
 瞼の裏にありありとその光景が立ち現れる。
 たまたま通りかかったレイジが麻雀に興じる囚人が「ロン!」と叫ぶのを耳にし立ち止まり緩慢に振り向く、優雅に前髪が流れ眼帯が晒され剣呑な光を帯びた右目が覗く。
 近くおのれに訪れる運命も知らず勝利の嬉しさに「ロン!」と快哉をあげた混一色の首ねっこに手がかかる。

 ロンの名を叫んだばっかりに、
 ただそれだけで。

 その瞬間混一色の運命は決定した。
 レイジの接近に気付かず不用意に「ロン!」と叫び万歳したせいで暴君の逆鱗にふれた混一色は、おのれの首に手がかかったまさにその時も満面に歓喜を滴らせ勝利の愉悦に酔っていたのだろう。
 暴君は情け容赦なく勝利に浮かれる囚人を壁めがけ投げ飛ばした。鋭く呼気吐き腕振りかぶり残る左目にぎらぎらと狂気の光を湛え、襟刳り引きちぎれる勢いで哀れな犠牲者を壁に叩き付けたのだ。

 パン生地をこねるように、
 いともたやすく。

 「……レイジはどこだ?」
 話に夢中の囚人たちが一斉に振り返り奇異な眼差しを浴びせる。
 僕の姿を見た途端好奇の目が親殺しを蔑む冷たい目に変わるも今の僕はそれどころじゃない、今現在廊下に姿の見えないレイジがどこへ行ったのかたった一言「ロン!」と叫んだ囚人を壁に投げ付け額をかち割ったあとにどこへ消えたのか肝心の行方を知りたい一心で我を忘れ証言者の肩を掴む。
 「汚ねえ手で触んな親殺し。売春班上がりにべたべたさわられたら性病伝染るだろうが」
 「見ていたなら知ってるだろう、レイジがどこへ行ったか。さあ話せ今すぐ教えろぐずぐずるな、いかに頭の回転が鈍い凡人でも舌の回転は鈍くはないはずだ、さっきまでさも得意げに一部始終すっかり目撃した優越感に酔いながら事のあらましを話していたじゃないか、だがその話には肝心な部分が抜けている、結びの部分が抜け落ちている!被害者の現在などどうでもいい大事なのは今もって徘徊中の加害者の消息だ教えろレイジはどこへ消えた」
 「俺とふれあいたきゃコンドームもってこい。そしたらいくらでもひっついてやるからさ」
 下劣な笑みを剥き出した囚人が追いすがる僕を邪険に振り払う。
 乱暴に振り払われよろける僕を指さし周囲の囚人がけたたましく笑う。だが僕はそれどころではない、彼らはまだ知らないのだレイジの中の暴君の覚醒を、今さっき囚人を投げ飛ばし気絶させたのがレイジでなく暴君だということを。
 僕が声を荒げるのを待たず、次なる惨劇が起きる。

 「ひぎゃああああああっあああああああああああああああああああっあああああああ!?」

 喉破れんばかりに凄まじい絶叫が掠れた尾を引き大気に溶ける。
 全員一斉にその方向を仰ぐ。
 突然の悲鳴に固まる囚人たちよりほんの一秒だけ早く体の自由を得て僕は走り出す。
 にやつきながら取り囲む囚人らを肘で押しのけ輪の外に出れば、階段の下方へむかい血の足跡が続いていた。
 足跡を辿り階段を駆け下り踊り場の展望台へ躍り出る。
 床に刻印された靴跡は窓枠を跨ぎこし展望台の地面にも赤い血をなすっていた。
 レイジの足跡だ。
 考えるより先に体が動く。
 窓枠を乗り越えると同時に眩い残照が目を射り視界が炎上、あたり一面が紅蓮に染まる。
 溶鉱炉の上に吊るされ炎に炙られた悪夢が鮮明によみがえる。
 激しくかぶりを振り悪夢を払い、固く瞼を閉じ呼吸を整えてから意を決し目を開ける。

 刹那、予想外の光景にでくわす。

 「わる、悪かったよ……でもわかってくれよ仕方なかったんだこっちにだって事情があったんだよ、なああんたならわかってくれるだろ東棟の王様、あんただって道了がどんだけイカレてるか実際戦ってみてわかったろ!?あの時ゃああするしか他なかったんだ、道了の言うこと聞かなきゃマオの二の舞になるってわかってたからだから俺いやいや足止めに回ったんだよ道了さんが顎しゃくってそうしろって命令したから、レイジを寄せ付けんなって指示したから!お願いだから許してくれ命だけは助けてくれ見逃してくれ、あんたはわかってくれるだろ優しい王様だから道了と違って慈悲深くて仲間思いだから謝れば許してくれるよな、あんたと道了じゃ器が違うもんなあんたこそ東棟の真のトップ無敵の王様だよその王様がたかだか一介の囚人相手にマジギレするわきゃねーよな、こうやって地面に額すりつけて謝ってんだからさあ……!」

 哀願の声を振り絞り地面に這い蹲り懸命に許しを請うのは、三日前、道了が去り際レイジの足止めを命じた手下のひとり。
 胸の前でひしと手を組みプライドも恥も外聞も一切合財をかなぐり捨て、ただただ命欲しさに情けを乞う世にも情けない囚人の前に伸びる影は……

 暴君がいた。

 展望台の床にそれすら端正な影を曳き、真紅の夕日に映える横顔に掴み所ない笑みを浮かべ、音痴な歌を口ずさんでいる。
 十八番のストレンジフルーツ。
 暴君が軽く足踏みを始める。
 風に吹き流れる鼻歌にあわせ足拍子をとりはじめる。
 軽快にテンポ良く愉快げに足裏で地を叩きながら鼻歌を口ずさみ続ける暴君、どんな哀訴にも耳を貸さずおのれの膝に縋り付く囚人の顔が歪めば歪むほど楽しげにうっとりと目を細める。
 「頼むから殺さないでくれよ娑婆に待たせてる女がいるんだ生きてここを出るたまにゃ強いやつにひっつくのが一番なんだよ、俺本当はロンのこと可哀想って思ってたんだよずっと薄汚い混血の半々でもそれロンのせいじゃないもんな節操なしの親のせいだもんな、けどしかたねーだろ実際、青くせー正義感発揮してロン庇ってこっちが標的になんのも馬鹿らしいし……そう、プリズン流処世術ってやつだよ!ロンは要領が悪かったんだ、自分より弱い奴めっけたら助けるより庇うより先に蹴落とすのがここの常識なのにあいつときたらほとほとお人よしな甘ちゃんで、だからあいつは中国人からも台湾人からもストレス発散のいじめの標的にされるんだよ!」
 雄大な砂漠をはるか彼方に望む展望台の上で、追い詰められた囚人が非道な暴君に一片の慈悲を乞うかのように仰々しくひれ伏す。
 「三日前のことなら謝るよ、俺が悪かったよ。ほんと悪かったなって思ってたんだやっぱ東棟の王様はお前だよお前がいちばんトップにふさわしい人間だよレイジ、ほんと言うと前からそう思ってたんだけど仲間の手前なかなか言い出せなかったんだ!三日前のことはずっと反省してた、混一色と麻雀してるあいだもずっと胸痛めてたんだよ、おかげでツキが逃げちまって三連敗で賭け金ごっそり巻き上げられて……」
 媚びへつらいの醜い笑みを顔全体に貼り付けた囚人が饒舌に自己弁護をはかる。
 囚人の言葉で僕はすべてを察する。
 三日前自分の行く手を阻んだ囚人の顔をレイジはしっかりと細部まで覚えていた、自分に楯突いた愚か者の顔を決して忘れず心の内で憎悪を育んでいた。
 自分を妨げた囚人が廊下で麻雀に興じている姿を目撃し、暴君は怒りに任せその本領を発揮した。
 まずは麻雀仲間を再起不能にし恐怖を煽ってから展望台に追い詰め裁きを下す、それが暴君の計画だ。
 三日前自分の行く手を邪魔しロンと引き離した囚人が楽しげに麻雀に興じる姿を目撃し、暴君は怒り狂っている。
 「悪かったよ、謝るよ、このとおりだ。でもさ、俺なんてまだ可愛いもんじゃねーか。お前のまわりをうろちょろしてただけの蝿みてーなもんさ。ウーフェイは廊下のど真ん中にしゃしゃりでて中指おっ立てたじゃねーか、リャンパオはナイフ抜いてしゃにむに挑みかかったじゃねーか、イェンレンはお前の足に組み付いて8メートルも引きずられたじゃねーか!ほら、今挙げた奴らのが俺よりよっぽど罪が重いぜ。俺はただうろちょろしてただけだけどあいつらはお前を本気で……」
 「お前で最後なんだよ」
 「え?」
 暴君が低く凄味を帯びた声を発する。
 仲間を売り渡してでも生き延びようとした囚人が、半笑いに弛緩した顔で逆光に塗り潰された暴君を仰ぐ。
 展望台の真ん中に仁王立ちした暴君がうっそりと口を開く。
 「三日前、俺の行く手を阻んだ連中には罪の重い順から『代償』を払わせてきた。お前が最後だ」
 意味深な台詞を口にした暴君、だらけた仕草でポケットに突っ込んだその手が錆びた缶切り握っているのに気付いたのはその時だ。
 ベッド下に貯蔵する非常食の缶詰を食す時に用いる缶切りを何故か携えた暴君は、哀れな囚人の頭上にゆっくりと凶器を翳す。
 既にして多くの犠牲者の血を吸った缶切り。

 「報いを受けろ」
 缶切りが残照を反射し赤熱する。

 あの缶切りでどうする気だ?
 何をする気だ?

 脳裏に疑問が渦巻く。
 喉が異常に乾き心臓が壊れそうに高鳴り血が音たて逆流する。
 残照を浴びて燦然と輝く缶切り。
 「お前で最後だ」と暴君は言った。
 栓抜きは既に血ぬれている。
 あの缶切りは本来の用途とは別に拷問具として使われたのだ、レイジは身のまわりにあるありとあらゆるものを武器に転じ敵を葬り去るよう仕込まれている、本来は無害な物すらレイジの手にかかれば油断ならぬ殺傷能力をもつ凶器と化す。
 缶切りは凶悪な形状をしている。
 先がぎざぎざに尖っていて責め具として最適だ。
 鮫の歯のようにギザギザに尖った先端は実に効率よく人に苦痛を与え得るもので汎用性の高い拷問具としても優れー……
 暴君があの缶きりで何をしてきたか、これから何をするつもりなのか、察するにあまりある。 
 残照を跳ね返し赤く不吉な光を放つ缶切りから目が放せない。
 展望台の真ん中に佇んだ暴君は、足元に深々頭を垂れた囚人を無感動に醒めた目で見下ろす。
 「お前は人形の下僕だ。人形の王に媚びへつらい庇護をもとめ『俺』の居ぬ間に領土を練り歩いた反逆者の残党だ」
 「お前がいない間にって……何言ってんだよレイジ、お前あの時あそこにいたじゃねーか。俺らが行く手邪魔して通せんぼしたのはっきり見てたじゃねーか。だからそんなに怒ってるんだろ、俺らが間に立ってロン追っかけるの邪魔したから……」
 萎縮しきった様子で地にひれ伏す囚人を見下ろす目はどこまでも冷たく傲慢でレイジらしい稚気が一片残らず消し飛んでいる。
 口角が不自然に痙攣し卑屈な笑みが怪訝な表情へ変わる。
 訝しげな顔が徐徐に恐怖の色を帯びていき、レイジを仰ぐその瞳が信じられぬものでも見たかの如く凝結する。

 「あんた、だれ?」
 背筋に悪寒が走る。
 刹那、空気が凍り付く。
 一際輝きを増した夕日が視界を鮮烈な朱に染める。   

 恐慌に陥った囚人が声なき悲鳴をあげ姿勢を崩し、床に尻餅付いた不恰好な体勢のまま暴君から必死にあとじさる。
 肘とつま先で床を掻き毟り、少しでも遠くできるだけ早く自分から逃れようと文字通り足掻き苦しむ囚人を暴君は絶対的優位を誇示し悠然と追いつめる。

 獲物を捕食する豹のように、
 威風あたりを払うしなやかな大股の歩み。

 「なんだありゃ、地べたに這いつくばってるあいつは道了の腰巾着の台湾人で……確かケニーとか言ったっけ……」
 「右はレイジだろ?こんなところで何やってんだよ。ブラックワークの試合にも出ず三日間房に引きこもってたと思ったら今日になっていきなり……」
 「ロンほったらかして展望台デートたあ王様も隅におけねーな、相変わらずの色男っぷりだ」
 「待てよ、様子が変だぜ。地べたに這い蹲ってるほうなんか今にも小便ちびっちまいそうな有り様じゃんか」
 「レイジもなんかいつもと雰囲気違くねーか?なんつーかうまく言えねーけど、こう……別人みたいで……」
 「悪魔にでもとりつかれたってのか?」
 「十字架と聖水もってきてお祓いしてやれよ」
 「馬鹿言え、こちとら先祖代々由緒正しい道教の信奉者だっての。耶蘇に魂売り渡して一族に泥塗るのはごめんだぜ」
 「馬鹿はてめーだ馬鹿、プリズンぶちこまれた時点で一族末代飼い犬および来世の嫁にまで泥塗ってるっつの」
 背後がうるさくざわめく。
 騒ぎを聞き付けた野次馬が展望台に殺到する。
 野次と嘲笑と罵声を交えたどよめきが膨れ上がるも最前列に立ち竦んだ僕には雑音の集合体としか認識されない。
 慄然と立ち竦み、徐徐に距離が狭まりつつある二人に凝視を注ぐ。
 ささくれ乾いた風が咆哮を上げ吹き荒び、展望台が処刑場と化す。
 「ゆる、ゆるしてくれ……頼むよなあ勘弁してくれよいいじゃねーかこんなに謝ってんだからさ、頼むから命だけは見逃してくれよ見逃してくれたらなんでも言うこと聞くよもうあんたの気に障ることなにもしねーよ、ロン苛めたりしねーしちゃらけた尻軽だって陰口も叩かねーし食堂で席譲るし……ブラックワークの試合では毎回お前を応援するよ、毎回お前に賭けるって約束するよ!!命さえ助けてくれりゃあ何でもするからケツの穴舐めて糞拭いてやるからだからんな物騒なもんしまってくれよ……っ!!」
 発狂せんばかりの恐怖に駆り立てられ、恥も外聞もかなぐり捨て見苦しく泣き喚き命乞いをするケニー。
 既に足腰立たず尻で床を擦るようにあとじさるケニーの正面、ぴたりと歩みを止めた暴君が静かに問う。 
 「何でも?」
 次の瞬間。
 最高に面白い遊びを閃いたといわんばかりの笑みが顔じゅうに広がる。
 おぞましいの一言に尽きる微笑。
 絶世の美形だからこそ醜悪さが際立つ笑み。
 「何でも、何でもするっ……」
 一縷の希望に縋るように叫ぶケニーの眼前で、暴君が思いがけぬ行動をとる。
 「足を舐めろ」
 ケニーが固まる。
 レイジは薄っすらと笑っている。
 「手足をつき四つん這いになれ。尻を高く掲げろ。だらしなく舌をたれて一本ずつ指をしゃぶれ」
 「……………っ、」
 「やれよ」
 屈辱に撓むケニーの顎を足で突き上げる。
 葛藤の脂汗を額に浮かべ逡巡するケニーがどう出るか野次馬が固唾を呑んで見守る。  
 展望台に詰め掛けた群衆の前で四つん這いになりレイジの足を舐めるなど、プライドをドブに捨てるも同然の屈辱的行為だ。
 よしんばこの場を切り抜けたとしても、明日からケニーが「暴君の足の指をしゃぶって命を買った腰抜けのタマなし」の汚名を被り、かつての仲間を含む東棟の囚人から迫害される身となるのは避け得ぬ事態だ。

 「どうした?所詮口先だけか?それともやりかたがわからないのかよ。お前はよっぽどこの缶切りが恋しいらしいな。知ってるか?缶詰の蓋開けるにもちょっとしたコツがいれるんだぜ。力加減がむずかしいんだ。力を入れすぎるとぎこぎこ変な音がするし、かといって力を抜くとそこで詰まっちまうし、缶詰の蓋を剥くのは案外むずかしいもんなんだ。その点人間を壊すのは簡単だよ、そりゃもう笑っちまうくれえ簡単だ。お前が望むなら今すぐにその目玉を抉り出してやってもいいんだぜ、その爪剥いで肉を露出させてやっていいんだぜ。お前の仲間も今頃自分の房でのたうちまわってるだろうさ、缶切りの新しい使い道を発見してな」

 脅すように缶切りを振りながらケニーと視線を合わせる。
 哀願の眼差しを曲解し、暴君が砕顔する。
 「見本を見せてやる」 

 前触れなくこちらに向き直り、腕を掲げて合図する。
 背後の人垣が割れて不穏などよめきが巻き起こる。
 異変を察して振り向きかけた僕の横をさっと人影がすり抜ける。 
 すれ違いざま神々しい輝きの白銀の髪が泳ぎ、危うい光を孕む薄氷の瞳が覗く。
 「サーシャ?」
 予想だにせぬ人物の登場にたじろぐ。 
 呼び止める暇もなく展望台に乗り込んだサーシャは、僕に背を向け暴君と対峙する。
 サーシャと面と向かった暴君は余裕を失わず不遜に顎をしゃくる。
 「お前の弟犬だ。おしゃぶりのやりかた教えてやれ」
 何を、言っているんだ?
 眼前の光景に目を疑う。
 他ならぬレイジの口から発された台詞の意味を咀嚼するのに数十秒を要する。

 展望台に群れ集った囚人らも予測不能の展開に息を呑む。
 野次が途絶えた展望台を静寂の帳が包む。

 レイジが、否暴君が、サーシャに……足の指を舐めろと、命じた?
 あのプライドの高いサーシャに敵地の観衆が好奇の眼差しを注ぐ中ひれ伏し自分の足を舐めろと言ったのか?
 馬鹿な。
 こんな陰険なやり口レイジらしくない第一サーシャが従うはずがないサーシャは自分を偉大なるロシア皇帝と信じて疑わぬ誇大妄想狂で異常に高いプライドの持ち主であるからしてレイジの命令に従うはずー……
 今度こそ、だれもの予想を裏切る事態が生じた。
 東棟の群集が異常な関心を込め食い入るように見つめる中、レイジの前に恭しく、どこか覚束ない足取りで歩み出たサーシャが従順に跪く。
 「っ、は……あうく……」
 謹直に顔を伏せているためその表情は陰になり窺い知れぬが、地に片膝付いたサーシャの様子が変だ。
 息遣いは荒く苦しげで額に汗が滲み、肩は浅く上下し始めている。
 相変わらずナチスの軍服に身を包んでいるが悄然とうなだれた様子には一切の覇気が感じられず、普段との落差がかえって痛々しい。
 一体サーシャの身に何が起こっている?
 体調の悪いらしいサーシャと暴君とを見比べる。
 力尽き膝を屈したサーシャを暴君は傲然と見下す。
 普段と立場が逆転した構図に途方もない違和感が疼く。

 かつて監視塔で起きた出来事を回想する。
 あの時と配役を逆にし同じことが再現される。

 暴君が優雅に腰を屈め、片手をサーシャの後頭部に回し抱き寄せる。
 サーシャを自分の胸に抱き寄せ、暴君がうっとりと呟く。
 「いい子だサーシャ。俺の言ったこと、ちゃんとできるな。幻滅させるなよ。呆けた顔で座り込んでるこいつに見本を見せてやるんだ。お前もそろそろらくになりたいだろ?解放してほしいだろ?……聞き分けいい子は好きだぜ。お前は上等のロシア産サバーカだよ」
 愛撫するような手つきでもってサーシャの後頭部をなでさする。
 しっとり汗ばんだ髪の間に褐色の指が滑り込む。
 「っあ、ふくっ……ひあ、あうぐ、あっ……」
 レイジの指が触れただけで絶頂に達してしまったかのようにサーシャの肩が不規則に痙攣する。 
 地に両手をつき上体を支えるサーシャの顎先から大粒の汗が滴る。
 陶酔した面持ちでサーシャの髪をもてあそび捧げ持った一房に接吻を授け、嗜虐の愉悦に酔った暴君が命じる。
 「始めろ」
 サーシャが緩慢に顔を上げる。
 しどけなく縺れた前髪の奥、湖水の透明度を誇る薄氷の目が淫蕩な熱に濁り始める。

 言われるがままサーシャが身を屈め暴君の靴に接吻する。
 まず最初におずおずと唇をふれ泥を拭い、物欲しげに息を弾ませ唾液の糸引く舌を出し爪先を洗う。
 サーシャは四つん這いになる。
 軍服の肘と膝が汚れるのも構わず砂利が不快な音をたてるのも構わず四つん這いになり、顎の角度をこまめに調整し右へ左へ顔を傾がせ、フェラチオに似た技巧を駆使しレイジの靴にねっとりと舌を這わしていく。
 眼前の光景に数ヶ月前の記憶がまざまざ蘇る。
 数ヶ月前ロンを人質にとられたレイジが監視塔に呼び出された時サーシャはレイジに靴舐めを命じレイジはそれを実行し、恍惚としたサーシャの表情があの時のレイジの表情に重なり溶け合いひとつになる。
 あの時僕を襲った性的興奮が今また疼き始める。

 「ふあ、あふ、んぐぅ………」
 「美味いかサーシャ?遠慮せずもっと食べていいんだぜ、奥までずっぽり咥えこんじゃっていいんだぜ。俺の靴をよだれでぐしょ濡れにするのが好きだもんなお前は。何を隠そうロシアが誇る偉大なる皇帝の正体は靴に興奮する変態だ、さあサーシャ遠慮せずもっと奥まで咥え込めよお前のよだれでぬるぬるのコイツを口一杯頬張って溶かしてくれよ、お前は本当いい犬だなサーシャ、俺に組み敷かれ鳴いて俺になぶられて喘いで最高に可愛いサバーカだよお前は、アルセニーに捨てられたのが信じらんないくらいにさ」
 「あふ、ふっ……苦しい……レイジ……レイジ……アルセニー……もっと奥まで…………奥まで……頂戴……」
 「いいぜ、もっと食えよ。全部食っちまっていいんだぜ。どんな味がするか聞かせてくれよ」
 「……あふ……泥の、味……革の味……」
 「うまいか」
 「もっと欲しい……全部欲しい……奥まで捻じ込んでくれ……突き破ってくれ……みじめで浅ましい犬の飢えを満たしてくれ……」
 狂おしく髪振り乱し顔じゅうよだれでべとべとにしながら靴を貪り吸う。戦慄に打たれた観衆の視線など気にする素振りもなく、かつての威厳を跡形もなく粉砕された北の皇帝が東の王の靴をすみずみまで舐め尽くす。しとどに涎をおとし舌でのばし靴の裏も表も横もすっかり綺麗にしてしまう。
 「ひ、あ……あ……靴を、舐め……サーシャが……なんで……だってお前ら敵同士………殺し合いだってしたのに……?!」
 夢中で靴をむしゃぶるサーシャの狂態に傍らのケニーは生理的嫌悪と本能的恐怖を隠せず竦み上がる。
 「今のお前をアルセニーに見せてやりたいよ」
 アルセニーとは誰だ?  
 僕の疑問をよそにレイジは嬉々としてサーシャを言葉でなぶる。
 靴裏で顔面を摩り下ろし泥まみれの足跡を刻印しぐりぐりと踏みにじり、砂塵を運ぶ強風に前髪をはためかせ暴君が哄笑を上げる。

 「薄汚れた黄色い毛並みの雑種のサバーカ?上等だよサーシャ、どっちが生まれついてのサバーカかたっぷりその体に教えてやる、身の程の違いってやつを髄まで叩き込んでやる。北の皇帝の座はお前にふさわしくない、お前は俺の下であがき続けるのがお似合いのみじめなサバーカだよ、決して手に入らない兄貴への思慕に苦しみ焦がれて誇大妄想に逃げた腰抜けは腰立たなくなるまで遊んでやるよ。俺に裂かれた背中の疵が疼くだろ?疼いて疼いてしかたないだろ?
 ……ああ、最高にイイ顔だ。イイ声だ。
 この靴をアルセニーだと思って舐めろよ。愛しい愛しい兄さんの顔をすみずみまで舐めて綺麗にするつもりでべちゃべちゃにしてみろよ。ほら想像しただけで勃ってきた、わかってるんだよちゃんとアルセニーの名前出しだけでお前がびんびんに勃っちまうってことはさ、俺の靴舐めながらペニスから汁垂らしてケツの穴物欲しげにひくつかせて……お前は本当にいやらしいサバーカだよ!!」

 激した暴君が乱暴にサーシャを蹴倒す。
 靴裏で顎を蹴り上げられた衝撃にサーシャがよろめき力なく転がる。
 奉仕の余韻冷め遣らず息を喘がせ朦朧と目をさまよわせるサーシャに夕日を背負った暴君が忍び寄る。
 紅に染まる暴君を認めた途端、薄く涙の張った薄氷の目に欲望の光が灯る。
 「はっ……レイジ、レぃジぃ………欲しい……欲しいのだっ……早くあれをくれ、飢えを満たしてくれ、奉仕の褒美を……餌をくれっ……もう耐えられぬこんな責め苦には、体の中が熱くて蕩けてしまいそうだ、何もかもが溶け出してしまいそうだ……気が狂ってしまう……助けてくれレイジ、早くあれを……哀れで愚かなサバーカに慈悲をくれ……サバーカの卑しい尻の穴に火掻き棒をくべてくれ……」
 悩ましく腰をくねらせ暴君の膝に縋るサーシャに観衆は言葉をなくす。
 僕もまたあまりに変わり果てた皇帝の醜態に動揺を隠せない。
 威厳も誇りも粉微塵に打ち砕かれ彼を彼たらしめる傲慢さを根こそぎ奪い去られ、ナチスの軍服を砂利に塗れさせぐちゃぐちゃに銀髪を乱し、暴君のズボンを引っ掴んで訴える今のサーシャは北棟のトップとしてながらく治世を敷いた皇帝ではなく四つん這いで喘ぐ犬にすぎない。
 もはや完全に犬と成り果てたサーシャを満足げに眺めやり、余裕の笑みを浮かべた暴君がポケットからセロハンの袋を取り出す。
 「ご褒美だ」
 優しく慈悲深くさえ見える微笑の裏で底知れぬ悪意が蠢く。 
 暴君が袋を口に咥え噛み裂く。
 眩い残照が袋を透かす。
 中に入っていたのは白い結晶……おそらくは覚醒剤の粉。
 まさか、
 「!!やめろっ、」
 サーシャの顔の上で袋を逆さにする。
 破れた袋からぱらぱらと白い結晶が舞い落ちる。
 自身の顔へと降り注いだ白い粉末にサーシャは狂喜する、限界まで舌を伸ばし一粒漏らさず残さず粉末を舐め取るもそれだけではまだ足りず地べたに這い蹲り目を更にし零れた結晶を舐め尽くす。
 浅ましく貪欲に、砂利と混ざって区別がつかなくなった覚醒剤の結晶を必死に舐めとるサーシャに暴君が囁きかける。
 「……そろそろ限界だろ?イっていいぜ。俺が許してやるよ」
 耳朶の裏を吐息でくすぐり、寛恕と笑む。
 「………やめ、ろ……東の猿どもが勢ぞろいする前で痴態を晒すなど私の誇りが断じて許さん……」
 「飢えが癒えた途端強気になったか。けどなサーシャ、『もう限界だ』って顔に書いてあるぜ。一刻も早く戒めを解き放ってしごいてもらいてえってだらしなく口半開きにしてよだれ垂れ流したそのツラが言ってるぜ。さあ、こっちに来い。今らくにしてやる」
 「来る、な……やめろ……来ないでくれ……頼むから……」
 理性の最後の一片が蒸発し、サーシャの顔にまじりけない恐怖が凝結する。
 意味なく両手を掲げ暴君の接近を阻もうとするも、暴君はあらかじめこれを予期し大股に迂回しサーシャの腕を掴んでやすやすねじ伏せる。
 「あがっ!」
 上体が突っ伏す。
 暴君に腕を締められ組み伏せられたサーシャ、その顔が苦痛と恥辱に歪む。上体を沈め尻を突き上げたサーシャに覆い被さり暴君が抵抗をものともせずズボンを脱がしていく。
 「東棟のやつらがこっちを見てるぜ。北の皇帝サマが悩ましく喘いでズボンを脱がされるところを見てペニスをおっ勃ててる」
 「っは……ぁぐ……んんっ……」
 尻から下着ごとズボンを引き剥がしサーシャの下半身を露出させる。 後ろ手に戒められたサーシャは覚醒剤の効果で酩酊状態にあり四肢が弛緩したためろくに抵抗できず暴君にされるがまま屈辱を耐え忍ぶしかない。

 快感に翻弄され仰け反った拍子にぱさりとズボンが滑り落ちる。
 
 僕は見た。
 見てしまった。

 ズボンと下着を奪い去られたサーシャの股間、今にも張ち切れんばかりに赤黒く怒張したペニスの根元が縛られている。
 遠目では判別しにくいが、どうやらコックバンドの類らしい。
 売春班の経験があるから、わかる。
 僕も使われたことがある性玩具。
 
 「…………あ、うぐ………」
 胃袋が収縮し猛烈な吐き気が込み上げてくる。 
 無意識に口元を押さえあとじさる。
 サーシャの様子がおかしかったわけがやっとわかった。
 サーシャはずっと、展望台に来る前からずっとペニスが勃起したままの状態で栓を締められていたのだ。
 射精できない内圧的痛みに苛まれながら、いっそ発狂したほうがマシな快感に絶え間なく苦しみながら、サーシャは一刻も早く戒めから解き放されたい一心でレイジの命令に従い靴を舐めたのだ。
 歩くだけでも拷問に等しい苦痛が伴うのは想像に難くない、ましてや前屈みに四つん這いになりなどしたらますます戒めが強く食い込み血流が塞き止められるのだ。
 「飼い犬には鎖をつけなきゃな」
 悪びれたふうもなく暴君が笑いペニスの根元に手を添える。
 「いあっ、ああああああああううっ痛っひあああああああああ!?」
 SM用コックバンドでぎりぎり締め上げられたペニスの根元をゆるりと擦られ、達せない苦しみにサーシャが悶絶する。
 束縛の苦しみに憔悴し、剥き出しのペニスに脈打つ毛細血管も醜悪に、暴君に背後から抱かれたサーシャは一刻も早くこの苦しみから解放されたい拷問から解放されたいもうそれしか考えられない早く栓を抜いてほしい外してほしいペニスの根元に嵌まったこの奇怪な責め具を外してほしいとめちゃくちゃに身をよじり暴れ狂う。
 根元から先端にかけゆるゆるとペニスをしごく。 
 仰け反り悶えるサーシャの痴態が観衆の目に晒される。
 「イきたいときはなんて言うんだ?サーシャ」
 「はっ、あう、あが……」
 「呻いてばかりいちゃわからねーだろ。ずっとこのままにしてほしいのか」
 「……か、せろ………」
 褐色の手が赤黒いペニスを乱暴にしごく。
 コックバンドを嵌められたまま、もうこれ以上大きくならないほど怒張したペニスを摩り下ろされたサーシャが理性の蒸発した目から滂沱の涙を流し、しかしペニスの根元を縛られて強制的に勃起を継続させられているために気絶もできない周到な責め苦に生殺しの蛇の如くのたうちまわる。
 
 『Say once again.』 
 皆によく見えるようペニスを掌握し向きを変えこの上なく優しく促す。
 残照に映える藁色の髪の下、残された右目を酷薄に細め、自らの下でよがり狂うサーシャの痴態を冷ややかに嘲り。

 「イ、く……イかせて、くれ……頼む、このままでは死んでしまう……熱に煮殺され狂い死んでしまうっ……後生だからレイジ、助けてくれ……私の根元に嵌まった醜悪な性具を外してくれ、精を放たせてくれ、愚かな私に慈悲をたれてくれ……」
 下半身を不自然にがくがく揺らし、怒張したペニスに汗を滲ませ、もはや人よりも動物に近く欲望剥き出しの顔でサーシャが卑屈に懇願する。
 薄氷の目を淫蕩な熱に濁らせたサーシャの訴えに、暴君は勝ち誇った笑みを浮かべペニスの根元に指をやる。
 
 「ひあひっ、あああああああああっああああああああっあぁっあああああああっ……!!」

 戒めを解き放たれると同時に大量の白濁が弧を描く。
 先端の孔から粘ついた精液が迸り、足元に滴る。
 用済みのコックバンドが地で跳ねる。
 漸く射精したサーシャ、ながらく堰き止められていたぶんその快感は強烈でびくびくとペニスが痙攣する。
 腰砕けにしゃがみこんだサーシャの背後。
 白濁に塗れた指を口元に運び、舌ですくいとりながら暴君がちらと目を上げる。
 青苦い精液にぬれた指を口に含み、甘美で背徳的な快楽の余韻を味わい、邪悪に笑む。
 「東棟の連中の前で射精した気分はどうだよ、皇帝サマ」 

 底知れず邪悪に、
 そこはかとなく享楽的に。

 神なきソドムに生まれ落ちた悪魔のように。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050317043252 | 編集

 「何をしている」
 鞭のように叱責が飛ぶ。
 脳天から爪先まで非の打ち所ないエリート然とした風貌の男が颯爽とこちらにやってくる。
 男の姿を一目見るなりとてつもない安堵を覚える。
 一筋の反乱も許さず撫でつけた潔癖症じみたオールバック、聡明に秀でた額、知性を加味する銀縁眼鏡の奥の切れ長の双眸は怜悧な光を湛えている。
 皺など一筋も見当たらない端正に仕立てた背広を着こなし、艶めく革靴で床を叩きこちらに近付いてくるのは……
 「安田………」
 安堵の吐息とともに呟く。
 安田が一瞬こちらを見る。
 眼鏡の奥のぎらつく光にたじろぐ。
 呼びかけに反応し一瞥くれた安田だが、その顔は緊張を孕んで強張ったまま眼前の事態にいかに対処すべきか苦慮している。
 安田が戸惑うのも無理はない、現在展望台では僕含む東棟の囚人が予想だにせぬ異常事態が発生しているのだ。
 展望台の中央、灼熱の夕日に胸板を染めて力なく身悶えるサーシャを背後から拘束するレイジ……否、暴君。
 サーシャを後ろ手に締め上げ屈従を強いる前傾姿勢をとらせ、自分はサーシャの体前に手を回し股間をまさぐっている。
 コックバンドを抜かれ大量の精を搾り取られたサーシャのペニスは最前の屹立が見るかげなく萎んでいた。
 それでも暴君は精も根も尽き果てたサーシャを気まぐれに嬲るのをやめない、既に精を放ち果てたサーシャの股間をいやらしくまさぐり再び衆目の眼前でペニスをもたげさせようと意地悪い企みを巡らす。
 東京プリズンの実権を預かる副所長の介入にも微塵も悔い改める様子なく、不敵に暴挙を継続する暴君のもとに安田が傲然と歩み寄る。
 「安田、これは……」
 安田に追いすがり経緯を説明しようと口を開くも言葉が続かない。
 無力感に打たれて佇む僕を振り返り、すべてを悟った安田が思慮深く首肯する。
 「安心しろ鍵屋崎、即刻こんな馬鹿な真似はやめさせる。君は離れて見ていろ」
 安田は怒っていた。
 固く張り詰めた背中から抑制した怒りの波動が感じられた。
 冷徹な理性の働きで沸々と込み上げる憤怒を辛うじて抑えているがそれも限界に近く、夕日に映える横顔の鼻梁から顎に至る線が鋭利に研ぎ澄まされる。
 夕日を照り返し朱に染まる眼鏡の奥の切れ長の双眸は冷静沈着な知性の光を湛えた平素と一変し激情に漣立っている。  
 嵐を予告し波立つ水面の如く双眸にごくかすかな波紋を生じさせ、コンクリ床を叩く靴音も高らかに展望台の中央に歩み出る。
 風を孕んで背広の裾が捲れる。
 折から吹いた風が一筋二筋とオールバックを乱す。
 靴音が途絶える。
 唾を嚥下する音すら聞こえない茫漠たる静寂。
 背広の裾が風を孕んではためく音がやけに騒々しい。
 焼け爛れた夕日が朱に染める展望台にて、安田とレイジと対峙する。

 溶鉱炉のような夕焼けが空を朱一色に塗り替える。
 否、一色というのは語弊がある。
 僕はこんな不吉な夕焼けを形容する言葉を持たない。
 何種類もの赤と朱が練り合わされたこの世の終わりのような空。
 終末の風景に酷似した荒涼たる砂漠の上、太陽が全方位に照射する赤熱の光線が僕の視界をも激しく刹那的に燃え立たせる。
 月へと座を明け渡す間際、全力で生命を燃焼させる太陽の最後の一滴が大気を染め抜く。
 鮮烈な夕焼けがすべての事物の輪郭を浮き彫りにし、すべての事物の核心を残酷に暴き出す。
 展望台に群れ集う囚人たちの期待と不安が入り混じったどこか物欲しげでさえある顔も、地面に腰を抜かしてへたり込んだままもはや尻であとじさる気力もないケニーのみじめな姿も、不自然な前屈姿勢をとらされズボンを膝まで下ろした欲情を煽り立てる格好で晒し者にされているサーシャも、サーシャを後ろから抱きしめ勝ち誇った笑みをちらつかせる暴君も、挑むような眼差しを暴君に叩き付ける安田も展望台に居合わせた全員の表情が克明に暴き出される。 

 最初に言葉を発したのは安田だった。
 「何をしている」
 安田が静かに問う。
 今ここでは場違いでさえある沈着な声音。
 安田の問いを受けた暴君は不敵な笑みを浮かべ挑発する。
 「見ればわかるだろ?犬に芸をさせてるんだ。あんたも前はよく所長の命令でハルを散歩させてたじゃねーか、お互い躾のなってねー犬をもつと苦労するよな。無能なサバーカに芸を仕込むのは予想外に大変だ」
 さも共感するとでも言いたげに頷き、苦労を分かち合うように微笑を深める。
 上辺だけ親愛の笑みを装ったレイジの笑みにも心を許すことなく、尚一層警戒を強めて顎を引く。
 眼鏡の奥の目が氷針めいた光を孕み剣呑に細まる。
 油断のない目つきで暴君の挙動を窺いつつ警告する。
 「サーシャは犬ではない、人間だ。即刻彼を解放したまえ」
 「いやだと言ったら?」
 「レイジ、一体どうしてしまったんだ。こんな事いつもの君らしくない、どうかしてるとしか思えない。君は東棟のトップとして囚人をまとめていく立場だというのに、今の君は自ら規律を犯し規則を破り群集の眼前でサーシャを嬲り者にして悦に入っている。サーシャの下半身を剥いて股間を晒しペニスを持ち上げ『犬』と呼ぶ、副所長の私にも反抗的な態度をとり挑発的な口を利く。こんな無謀なまね君らしくもない、君は普段いかに軽薄に節操なく振る舞っていても倫理的に越えてはいけない一線は守ってきたじゃないか、だからこそ私は一目おいていたんだ、ブラックワーク覇者にして東棟の王たる君の実力に最大限の敬意を表し……」
 語尾が途切れる。
 安田の顔が苦渋に歪む。
 打ちひしがれた様子で沈痛に面を伏せる安田を暴君は薄ら笑いさえ浮かべこの上なく愉快げに眺める。
 焦燥に駆られて言い募った安田がおもむろに言葉を切り、真摯な眼差しを正面に向ける。
 「もう一度言う、ただちにサーシャを離せ。彼は君に弄ばれ疲弊している、身も心もずたずたの状態だ。これ以上彼を苦しめるのはよせ」
 「だとさ。お偉い副所長サマが御託を述べてるけどお前はどうしたいサーシャ、中途半端でやめて満足できるか?本番はこれからだってのに」
 凶暴に犬歯を剥き出し暴君が笑う。
 傲慢な自信とプライドが透けて見える野蛮な笑み。
 熱く湿った吐息まじりに耳朶で囁かれたサーシャがびくりとする。
 サーシャの顔が淫乱に蕩ける。
 物欲しげに口を半開きにし発情した犬のように息を吐くサーシャ、薄紅色の突起が尖りきって存在を主張する胸板を貪るようにまさぐりながら暴君が執拗に囁く。
 「手でしごかれてイっただけで足りるのか?たった一回精液ぶち撒けただけで足りるのか?違うだろ、そうじゃねえだろ。まだまだこの程度じゃ満足できないよな、お預け食らって切ないよな。コックバンドで栓されてたぶんペニスはびんびんにおっ勃って今にも張り裂けそうだったもんな。後ろの孔さわってもらえなくて物足りねーよな、俺のモノ突っ込んでぐちゃぐちゃにかき回してほしいよな?」
 「あうっ……あふっ……レイジ、やめ……東の群集が見ている前で、そんな汚らわしいところをさわるなっ……」
 ナチスの軍服をしどけなく着崩し、乱れた襟元から薄赤い痣が散り咲く胸板を大胆に曝け出したサーシャの姿態が倒錯的な官能を引き立てる。
 群集の目も副所長の目も気にせず暴君は行為を続ける。
 敏感な突起を執拗にいじくりまわし、固く勃ち始めた乳首を指先で摘んで痛みと快楽を同時に与える。
 快感にまで昇華できない痛みに間断なく苛まれ、乳首を指絞りされ身悶えるサーシャの尻にペニスを密着させる。
 「見られて興奮してるんだろ?この変態」
 滑らかな褐色の手が白い胸板に覆い被さる。
 器用な指先が意地悪く執拗に乳首を捏ねくりまわす。
 指の狭間から搾り出された乳首が赤く痛々しく充血する。
 サーシャの双丘に怒張したペニスを押し付けた暴君は、少しでも圧力を加えればすぐにでも挿入できる体勢のままサーシャの股間に手を潜らせ再び角度をもたげ始めたペニスをいじくりだす。
 「東棟の黄色い猿どもに見られながら俺に犯されるのがずっと前からのお前の夢だったんだろ?いいさ、叶えてやるよ。俺は心優しい暴君だから薄汚いサバーカの夢も差別せず叶えてやるよ、感謝しろよサーシャ。さあ、尻の穴を緩めろ。大勢が生唾呑んで見てる前で心ゆくまでお前を犯してやるよ、顎外れるまで跪かせてしゃぶらせてやる、括約筋ズタズタになって一生糞便垂れ流して暮らすようになるまで犯して犯して犯しまくってやる。どうした?もっとイイ声で鳴けよ、ご覧になってる副所長がびんびんに勃っちまうくらいにな」
 「見るな……頼むからこんな、みじめで卑しい私の醜態を見ないでくれっ……サバーカに成り果てた私が二度と喘ぎ声などあげられぬよう喉を潰してくれ、喉を裂いて血を抜いてくれ……どうか、慈悲を……」
 「やなこった」  
 与えられた回答は明快だった。
 片手でペニスをしごき上澄みの雫を滲ませ、もう片方の手で相変わらず胸板をなで乳首を摘む。
 尻に押し付けた怒張がますますもって固さを増していく。
 物狂おしく身をよじるサーシャの痴態を舌なめずりせんばかりに視姦しつついよいよ挿入の準備に入る。
 双丘の窄まりに怒張をあてがう。
 サーシャの喉が仰け反り声にならない悲鳴が迸る。
 衣擦れの音も淫らに暴君に背後から抱きしめられることにより辛うじて立ち続けるサーシャがしっとり汗ばんだ胸板を仰け反らせ涙の薄膜が張った目を限界まで見開く。
 挿入に伴う激痛が下肢を引き裂く。
 レイジに後ろから抱きしめられた姿勢のまま倒れることも許されず、勃起したペニスから汁を滴らせ剥き出しの尻にペニスを捻じ込まれる。
 犯される屈辱とそれを凌駕する激痛にサーシャが絶叫する。 
 「よせ!!」
 それまで奇跡的に保っていた理性をかなぐり捨て安田が行動を起こす。 
 犬の交尾を思わせる姿勢でサーシャの背に覆い被さった暴君は安田の制止も聞かずサーシャから離れようとしない。
 上澄みの雫をすくいとり指の腹で伸ばし丁寧にペニスに刷り込む、もう片方の手をサーシャの顎先に運び白い糸引く指を含ませ唾液を捏ねる水音も卑猥にかきまぜる。
 片手でサーシャのペニスをしごき勃ち上がらせもう一方の手で容赦なく口腔を蹂躙しながら暴君が宣言する。
 「お前は俺の犬だ。薄情な兄貴の分まで可愛がってやる」
 さんざん指の腹で揉みしだかれた乳首が白い胸板に二点の朱を添える。
 ともするとそれは恥辱の刻印にも見える。
 次第に熱を帯び始めた手が雄雄しく屹立した分身をしごき絶え間なく快感を注ぎ込む傍ら、怒張したペニスを双丘の狭間に押しあて力を込め穴をこじ開けていく。
 熱と体積を伴う肉塊の侵入にサーシャが悲痛な声あげ悶え狂う。  
 「あがっ…………」
 立ったまま行為を強制される苦しみたるや尋常ではなく、銀髪が縺れた額に大量の脂汗を滲ませサーシャが呻く。
 内臓を圧迫する異物の侵入に酸素を欲するように喉仰け反らせたサーシャのもとに安田が足早に赴き、サーシャの背にのしかかる暴君を力づくで引き剥がしにかかる。
 もはや完全に冷静さをかなぐり捨てた安田が激発する。
 「いい加減にしろ、東棟の囚人が見ているんだぞ!」
 憤激に駆られた安田が肌と肌をぴたり密着させた二人を苦労して引き剥がす、暴君とサーシャの間にむりやり身を捻じ込ませ疲労困憊のサーシャを背に庇い暴君の胸板を突き放す。
 交わりを妨げられた暴君が舌を打つ。
 既に三分の一ほどサーシャの中に沈んでいた肉塊がずるりと音たて引き抜かれる、それが引き金となり覚醒剤で過敏になったサーシャが二度目の絶頂を迎える。

 「ひあ、あああっああああああああっあああ……!」
 ペニスから迸り出た白濁がサーシャの下腹をみじめに汚す。

 地に膝を屈したサーシャが下半身を剥かれた格好のまま放心するさまを暴君が嗤う。
 「気持ちよかったか?サーシャ」
 もっとも憎む男の嘲笑がどん底のサーシャに追い討ちをかける。
 自分は皇帝であるという妄想と誇りだけを支えに生きてきた男が、そのすべてを根こそぎ奪い去られた絶望の底で己の吐き出した白濁に塗れて呆然と弛緩した表情を晒している。
 朦朧と虚空をさまよう空洞の目には既に光がなく、アイスブルーの瞳の輝きすら失せてしまっている。
 展望台のど真ん中でレイジの巧みな指使いと言葉責めと薬の効果によって乱され、東棟の群集が生唾を呑んで注視を注ぐ眼前でしどけなく軍服を着崩し氷の彫刻めいた胸板と突起を晒し、股間から滴り落ちる雫すら包み隠さず披露することになったサーシャは未来へ繋ぐ一縷の希望すら失い果て呆然と座り込むばかり。

 皇帝の時代は終わった。
 監視塔で、ペア戦の会場で。
 背筋を寒からしめるナイフ捌きでもってレイジすらも圧倒した皇帝はここにはいない。
 いるのはただレイジに手ずから餌代わりの薬を与えられ調教されサバーカと成り果てたみじめで哀れな男だ。
 群集の前でレイジに犯されるという最大の屈辱を味わったサーシャはもはや自力で立ち上がる気力も尽き果て、肩から滑り落ちた軍服に申し訳に腕を通したまま、ズボンの前をしまいもせず暮れ始めた空に虚ろな視線を投じている。

 「………っ、」
 正視に耐えない光景に顔を背ける。
 強者が弱者を食らうのが東京プリズンの掟だ。
 その事実が実感を伴いひしひしと染みてくる。
 しかしレイジは決して意味なく弱者を食らうような真似をしなかった、手当たり次第に獲物を狩って飢えをみたすような下品な真似はしなかった。レイジは常に満腹の豹だった。満腹だからこそ余裕をもてた、弱者に対する寛容さを失わず王位に君臨していられた。

 暴君は違う。

 今目の前にいるのは飽食を知らぬ豹だ、食っても食っても満たされぬ飢えを抱え常に獲物を欲する呪われた本性をもつけだものだ。
 無力な獲物を狩り立てるのこそ至上の悦びである暴君は東棟全体を猟場と化しこれからも獲物を狩り続ける、今日サーシャに行なったのと同じ事を他の人間にする可能性もある。

 このままではいけない。
 止めなければ。
 一日も一刻も一秒でも早くレイジを連れ戻さねば。

 暴君の覚醒がもたらした衝撃は絶大だ。
 不運にも好奇心から展望台に馳せ参じた連中は、目に焼き付いたサーシャの痴態に今だ興奮冷めやらず股間を固くしている者も多くいる。
 欲情に息を荒げ物欲しげに舌を出した囚人らに対し殺意に近い感情を抱く。僕の視線の先では身を挺し止めに入った安田が油断なく暴君を牽制する。
 暴君の縄張りを侵し怒りを買う危険も辞さず、半裸の状態で風に吹かれるサーシャを必死に庇う。
 安田が思いがけぬ行動をとる。
 衣擦れの音もかすかに背広を脱ぎサーシャの裸の背にそれをかける。
 サーシャの裸身を衆目の注視と冷たい外気から隠そうという配慮だ。
 背広を掛けられたサーシャは礼を述べるでもなく、かたくなに同情を拒み面を伏せる。
 粉々に粉砕されたプライドを地を這いかき集め、寒さと屈辱に小刻みに震える手で肩に掛かる背広を掴み、今ここにいない誰かのぬくもりを求めるようにぎゅっと引き寄せる。
 背広の襟を掻き合わせたサーシャから暴君に視線を転じ、
 「……囚人間の性行為に本来口を挟む立場ではない。男性しかいない環境では往々にしてそういうことが起こり得る。特に君たちは十代後半、もっとも性欲旺盛な年頃の少年たちだ。その年代の少年たちが一箇所に集められれば不可避的にそういう事態が起こり得ると私も熟知している。しかし事が合意の上で行なわれ性病予防の処置がきちんと施されているなら私とて口を出すわけにはいかない、互いの合意のもと密室で性行為に及ぶのは個人の自由で私とて黙認するしかない。残念ながら東京少年刑務所の規則には同性の性交渉を禁じる条項が設けられていないのだ」
 「そりゃ結構だ。これからも俺は好き放題犯って犯って犯りまくれるってことだよな」
 「……あれのどこが合意の上の性行為だと?」
 「セックスには色々やりかたがある。三十路超えて童貞の副所長にはわかんないのか?」
 安田の目が悲哀にぬれる。
 「こんな振る舞い君らしくもない」 
 「らしくなくて当たり前だ。一緒にされちゃたまんねーよ」
 折から吹いた風が安田のシャツの袖口をはためかせ暴君の髪をそよがせサーシャの銀髪を清流の如く梳る。
 残照に映える横顔に酷薄な笑みを浮かべ、楽観的な口ぶりで暴君が述べる。

 「で、あんたは俺をどうするんだ?東棟の連中が生唾呑んで見守る前でサーシャをむりやり剥いてイカせた罪で独居房にぶちこむってか、醜く肥え太ったゴキブリとネズミが這いずりまわる糞尿垂れ流しの独居房に一週間でも一ヶ月でも放り込んで反省をしいるってのか?いいぜ、やれよ。東京プリズンの秩序を司る副所長サマとしちゃ当然そうしなきゃいけねーよな、ハルを亡くした所長が廃人と化した今はあんただけが頼りだ、あんたがこれから東京プリズンを背負ってくんだ。ゲスな所長に成り代わった気分はどうだよ安田?最高か?さあ、今すぐ看守を呼んで後ろ手に手錠かけてくれよ。俺がこれ以上サーシャにおいたしねーように独居房に引っ立てるが吉だ。どうした?びびってんのか?良心的な副所長サマはネズミとゴキブリの巣窟に俺を放り込むのをためらってぐずぐずしてんのか?」

 饒舌に捲くし立てる間も暴君の目は狂気を孕み爛々と輝きを増す。
 嗜虐の愉悦にうっとり目を細めた暴君が恍惚の境地で挑発するあいだ、核心に揺さぶりかけられた安田は動揺を隠せず、眉間の皺を一層深め苦悩している。
 僕は安田の性格をよく知っている。
 安田がいかに公平で公正な人間であるか痛感している。
 安田は己に暴君を裁く権利があるか自問し結論を出せずにいる。
 レイジが東棟の群集の前でサーシャを嬲り者にしたのは彼自身目撃した周知の事実だが、ゴキブリとネズミが這いずる不衛生極まりない悪臭と汚物の掃き溜めに罰と称して囚人を放り込むような非人道的措置は可能な限り避けたいのが良心を重んじる安田の本音だ。
 もしこの場にいるのが真性サディストの所長なら即刻レイジに独居房送りを命じたことだろう、のみならず独断で罰を下しもしただろう。
 しかし安田は所長ほどには非情にも残忍にも徹しきれない。
 囚人に対し常に公正な態度をもって臨もうと自らを厳しく律してきた安田はレイジの処遇に思い悩んでいる。
 副所長の立場と一人の人間としての良心の間で揺れ動く安田をちらちら眺めやり、新たな遊びを閃いたとばかり暴君がほくそ笑む。
 「あんたがサーシャの身代わりになってくれるのか」
 強い風が吹く。
 砂利の礫が舞い上がる。
 僕が注意を促すより早く暴君は行動を起こしていた。
 地を蹴り跳躍し無防備に立ち尽くす安田に肉薄、驚愕に目を剥いた安田が反射的に振り上げた手をたちどころに押さえ込み押し倒す。
 安田が後ろ向きに倒れる。
 ケニーが展望台の隅に素早く退避する。
 群集がどよめく。

 「いいぞ暴君やっちまえ、副所長をひん剥いてサーシャの二の舞にしちまえ!」
 「安田の奴いっつもお高く澄ましてて気に入らなかったんだよ、すかした眼鏡なんかかけて俺たち見下して胸糞悪いったらありゃしねえ」
 「お高くとまった日本人のエリートにあんたのペニスぶち込んでやれよ」
 「サーシャの次は安田だ、二匹目のサバーカだ!」
 「さあ、思う存分俺たちを愉しませてくれよ!!」

 猛り狂った囚人らが爛々とぎらついた顔で唾と野次を飛ばす、これまでさんざんサーシャの痴態を見せつけられ既に限界まで高まっていた性的興奮が爆発したのだ。
 熱狂の渦と化した展望台にて平静を保っているのは僕と安田と暴君の三人のみ。サーシャは安田の背広を掻き合わせ震えている、ケニーは展望台の隅でひしと頭を抱え込み震えている。
 群集の支持を受けた暴君が安田に馬乗りになる。
 「何をするレイジ、離れろ、即刻離れないと私も手段を選ばず……」
 「今のあんたに何ができるってんだ?頼りの銃もお守りの看守もないくせに」
 冷ややかな嘲笑を浮かべた暴君の言葉に安田の顔が強張る。
 焦燥の汗をかくシャツの襟元に手をかけ一気に引きちぎる。
 裂かれたシャツから弾け飛んだボタンが僕の足元にまで転がってくる。スニーカーの爪先にあたって止まったボタンを一瞥、漸く僕は我に返る。
 「ーくっ!」
 安田の言葉ではないがよもや手段を選んでいられない。
 目の前では今まさに安田が犯されようとしている、サーシャの身代わりにされようとしている。他の群集は野次をとばすばかりで頼りにならない、僕が止めに入らねば安田はこのまま犯されてしまう。
 烈風を切り裂き走り出す。
 ぐんぐん迫りつつある視界の中、展望台に寝転がった安田に暴君が覆い被さる。
 引き裂かれたシャツから覗く不健康に白い肌、貧弱な腹筋。
 それらすべてが欲望を焚きつける。
 激しく首振り拒絶の意を示す安田を無視し、暴君は一番下までボタンを毟り取り一糸纏わぬ上半身を暴いてしまう。
 引き裂かれたシャツの間にいやらしくのたくりながら褐色の手が忍び込む。
 「ひとりも看守を連れてこないなんて無謀だな、副所長のご威光を過信しすぎだぜ。ひょっとして話し合いで解決できるとか思ってた?話し合いには邪魔だからあえて看守を連れてこなかった?
 ……ははっ、ウケるよあんた。最高に面白い冗談。
 いいか、よーくあたりを見渡してみろ。
 ここは処刑場だ、キリストが磔にされた髑髏の丘だ。ここに一歩足を踏み入れた時から正義は死に絶えたんだよ、あんたが拠って立つもの一切合財が等しく塵芥に帰して空の彼方に連れてかれたんだよ。わかるだろ?ここじゃ話し合いなんて時代遅れな解決法は通用しない、あんたはすぐさま俺を撃ち殺すか手錠をかけるべきだったんだ」
 「くっ……レイジ、やめ、ろ……あぅくっ……」
 ズボンの上から股間にふれる。
 軽く置かれただけで甘い痺れが走ったらしく安田が呻く。
 まんざらでもない反応に気を良くした暴君が陰険な笑みを滴らせベルトを引き抜きにかかる。
 手際よくベルトを緩めカチャカチャと金具が擦れる音も秘密めかしてズボンを脱がせば、地味な暗色のトランクスと青白く貧弱な下肢があらわとなる。
 非力な細腕をいかに突っ張ろうとも暴君を押しのけることもできず、とどまるところを知らぬ欲望の赴くままシャツを引き裂かれ胸板をまさぐられる屈辱に顔を上気させた安田のもとへ急ぎ駆けつける。
 「よせレイジ、それ以上やったら独居房どころではすまなくなるぞ!」
 「お前はあとで相手してやるよキーストア。なんなら安田と一緒がいいか」
 悪びれず嘯く暴君を殴りたい衝動が突き上げるも拳を握り込み自制する。
 今殴りかかっても返り討ちにされるだけだ、腕力では到底暴君にかなわないのが動かしがたい現実だ。
 安田と暴君の間に割り込み引き離そうと抗う僕にせっかくいいところなのに邪魔するなと一斉に罵倒が浴びせられる、興奮に猛り狂った囚人らが前列に踊りだし弾け飛んだボタンを拾い上げ力任せに投擲する。
 後頭部に肩に背中にボタンが跳ね返る。
 しかし今はそんなことに構っていられない、後頭部や肩や背中にボタンがあたる痛みに気を散らす暇はない。
 「今の君は正気じゃない絶対おかしい、サーシャだけでは飽き足らず副所長まで群集の前で犯しそれでどうしようというんだ、そんなことをしたところで癒されず飢え渇くだけだというのにそれすら理解できないのか!?」
 「邪魔だどけ親殺し、安田のケツが見えねーじゃんか!」
 「副所長のペニスが剥けてるかどうか教えてくれよ、親殺し。お前の位置ならばっちり見えるよな」  
 「なんならお前が口と手で剥いてやってもいいんだぜ。せっかく暴君の遊びの輪に加わったんだからそん位してやってもバチあたらねーだろ」
 背後で哄笑が炸裂する。
 群集の哄笑が殷殷と大気を震わし鼓膜を打つ。
 僕はそれらの野次を無視しがむしゃらに暴君の腰にしがみつく、地に倒れ伏したまま不規則な息を吐く安田がシャツの端切れを羽織り上体を起こすのを目の端で捉え急きたてる。
 「早く逃げろ安田、暴君の餌食になりたいのか!?」
 前髪を額に被せた安田が前戯の恍惚と疲労とが溶け合った放心の表情で呆然と僕を仰ぐ。
 犯されかけたショックも激しく胸郭を上下させる安田だが、僕の絶叫に応じて震える膝を叱咤し何とか立ち上がる。
 安田が立ち上がったのに安堵するも束の間、暴君と激しく揉み合ううちに固くいきり立った股間が接触する。
 「…………っ、」
 胃袋が痙攣し苦い胃液が逆流する。
 猛烈な吐き気に襲われた僕の間合いに踏み込み暴君がちろりと唇を舐める。
 「まだまだまだまだ足りねーんだよ。狂気が鎮まらないんだよ」
 狂気の衝動を持て余した暴君が標的をかえる……目の前のこの僕に。間合いから逃れようとあとじさるのを許さず手首を掴み、思い切り引く。
 骨をも軋む力にたまらず苦鳴を零す。
 手首に走る激痛にうろたえる僕にもお構いなくもう片方の手で僕の腰を抱いて自分のもとへ引き寄せる。
 「熱を冷ましてくれよ。ペア戦の時みたくさ」
 「!ふあっ……」

 背筋に沿って這い登る指の感触にぞくりと震えが来る。
 服越しに背筋をなぞられただけで性感帯に微電流が走る。
 僕の腰を抱き寄せた暴君が首筋に顔を埋め汗を啜る。
 唇の火照りがじわりと染みて肌が淫蕩な熱を持ち始める。
 快楽の奔流に理性を押し流す。
 売春班でさんざん快楽に馴らされた体があらゆる刺激に感じるよう仕込まれた体が、背筋をじれったく這いのぼる指遣いと首筋を辿る唇の火照りをあざとい快感に昇華する。

 「はふっ……レイジ、よせ……囚人が見ている前でこんな破廉恥な……公序良俗に反する行いは人格を疑われるぞ……」
 「服越しでもわかるくらい乳首こりこりにさせてるくせにいきがるなよ」
 「!いっあ、」
 暴君が服の上から乳首を転がす。
 指の腹で押し潰された乳首の痛みに喉が仰け反る。
 一体何をしているんだ僕は?
 安田を助けに入ったつもりが今度は自分が身代わりに犯されようとしている、東棟の群集がさかんに野次をとばし食い入るように見詰める中で痴態を晒している。
 こんなの嘘だ、こんなの絶対に間違っていると心が否定するも快楽に貪欲な体が愛撫を待ちかねて疼きだす。
 固く勃起した股間を僕の内腿に押し付け、かかるそばから爛れそうな熱い吐息に交えてねっとり囁く。
 「サムライに抱いてもらえなくて寂しいだろ?慰めてやるよ」
 傲慢な物言いにも増してその残酷な笑みが、睫毛の奥に沈んだ双眸を過ぎる猟奇的な悦楽の色が僕を打ちのめす。

 サムライ。
 サムライ。

 固く目を閉じサムライの顔を思い浮かべる、そうすることによって理性を保とうと努める、反応を自制する。
 滑らかな褐色の手が上着をはだけ背に忍び込む、その手が僕の腰をいやらしく撫でさする。
 死に物狂いに抵抗を試みる、暴君の腕の中から逃れようと狂おしく身悶え奇声を発する。しかし暴君は僕の抵抗など歯牙にもかけず獲物をいたぶる愉悦に酔いながら僕の内腿に手をかけー……
 「………」
 僕の意志など無視し、膝を押し開こうとした手が止まる。
 異状を察し抵抗を止める。
 反射的に顔を上げ暴君を仰ぐ。
 暴君は凝然と目を見開きただ一点を見詰めている、僕のズボンの横を食い入るように見詰めている。
 何が注意を引いたのかといぶかしみハッとする。

 十字架。
 激しく抵抗したせいでポケットにしまっていた十字架の先端がとびだしている。
 豁然と夕日を照り返し神々しく燃える十字架が、暴君を魅入る。 
 否、これは。

 「レイジ……」
 おそるおそる名を呼ぶ。
 その一瞬、瞬き一回にもみたぬほんの一刹那、十字架が放った光を浴びた暴君が奇妙に安らかな表情を浮かべレイジへと戻る。
 狂気が癒えたかの如く瞼を下ろしたその顔は束の間の安息にまどろむ幼子にも似ていた。
 十字架の残光に射抜かれたレイジがあとじさる。
 一縷の希望を託し十字架を握り締め、乾いた唇を湿して説得にのりだす。
 「レイジ、正気に戻れ。君が今すべきことはこんなことじゃない、暴君に魂を売り渡して狂気に走るなど馬鹿げている。君は今すぐロンを迎えに行かねばならない……」
 『手遅れになる前に』
 斉藤の言葉が蘇る。
 気迫を込めて立ち向かう僕をレイジは呆けたように見返す。
 時が静止する。
 砂塵を運ぶ風が上空で螺旋を描く。
 レイジが何か言おうと口を開きかける、風に捲れた前髪の下に唯一残る左目に波紋が生じる。
 僕はレイジをこちら側に連れ戻そうと手を伸ばす、レイジの腕を引いてこちら側に連れ戻そうと一歩を踏み出しー……
 「大丈夫ですか副所長!?」
 静寂を破ったのは、闖入者の悲鳴。
 靴音も慌しく展望台に転がり込んできた若い看守が激しく息を切らしあたりを見回す。
 廊下を全力疾走し既にして疲労困憊の体で汗を垂れ流した若い看守は、膝に手を付き呼吸を整えながら安田と向き合う。
 「鈴木看守、どうしてここが……」
 「わかりますよそりゃ!東棟中すごい騒ぎになってますよ、廊下や房のあちこちに囚人が大怪我して倒れていて、ここに来る途中にもいくつも血の跡が残っていて……看守もみんな副所長をさがしてます、この事態を収拾すべく副所長の指示を乞おうと探し回ってます。けれどどこにも姿が見当たらなくて、それでなくても所長はあんなんで頼りにならないし、だから僕先輩にどやされながらあちこち走り回って副所長さがしまくって……そしたらこっちの方が騒がしいから何かあったんじゃないかって駆け付けてみたら案の定……」
 そこで初めて安田の風体とそばでへたり込んだサーシャに気付いたらしく、若い看守は息を呑む。
 「何があったんですか、一体。彼はどうしてこんな……酷い……」
 引き裂かれたシャツから覗く肌の至る所に痣を生じさせた安田と、その傍らで背広を羽織りうずくまるサーシャとを見比べ、看守は愕然とする。
 安田は強姦未遂されたと一目瞭然、サーシャに至っては背広一枚ひっかけた寒々しい半裸のままなのだから彼が最悪の事態を予期したのも無理はない。
 実際その予想は当たっていた。
 「副所長、これは、これはどういうことです……一体ここで何があったんですか……彼は誰にレイプされたんですか?」
 「俺だよ」
 ふてぶてしく名乗りでたのは、暴君。
 既にレイジの面影は消え去り、先刻よりもさらに傲慢な物言いで若い看守を威圧する。
 若い看守がびくりとする。
 罪悪感などかけらもなく名乗りでた暴君に気圧された看守がみるみる目に大粒の涙をためるのに鼻白み、暴君はあっけなく踵を返す。
 「興ざめだ。帰って寝る」
 誰も止められなかった。この僕でさえ口をきけなかった。
 群集の人垣が自然と割れ暴君を通す。
 両岸に分かれた群集には一瞥もくれず颯爽と展望台を出ようとする暴君の行く手に白い影が立ち塞がる。
 「行かせない」
 暴君の行く手を塞ぐ形で立ちはだかったのは、斉藤。
 斉藤を認めた刹那、安田の顔が歪む。
 「………貴様の仕事は医務室で事足りるだろう」
 変わり果てた姿を見られた屈辱に唇を噛み、旧友にむかい辛辣に吐き捨てる。
 斉藤がちらりと安田を見る。
 脳天から爪先までさっと視線で一刷けし、ついで傍らのサーシャと十字架を抱いたまま微動だにせず停止する僕と手前の群集に順に目をやり展望台の全容を把握する。
 斉藤の顔から拭い去ったように笑みが消える。
 「君がやったのかい」
 ひどく穏やかな問いかけ。
 暴君は掴み所ない笑みで核心をはぐらかす。
 軽薄に肩を竦めた暴君に相対した斉藤は、迫り来る暴君から放たれる威圧感にも毅然と抗し再度問う。
 「安田君のシャツを破いたのは君かと聞いてるんだ」
 「知ってるか?安田の肌ときたら最高に白いんだぜ。肌触りときたら三十路の男と思えないほど弾力あった」
 一歩、また一歩と着実に距離が狭まる。
 肉食獣を思わせるしなやかな大股の歩みで近付きつつある暴君にも一切動じず、冷徹な眼差しでこれを迎えうつ。
 「逃げろ、斉藤。死にたいのか」
 看守に肩を借りた安田が苦しげに唸る。
 斉藤は動かない。
 周囲の囚人が固唾を呑んで注視する中、距離は着実に狭まっていく。
 夕焼けを背景にした暴君が、狩りに赴く豹の歩みで獲物の喉笛に食いつかんと牙を剥く。

 距離が縮まる。
 空気が緊迫する。
 太陽が燃え尽きる。
 影がひとつに重なる。

 「斉藤………っ!」
 安田が僕の見たことない顔で叫ぶ。
 冷静沈着なエリートの装いをかなぐり捨て、大人の余裕と落ち着きすらも跡形なく振り捨て、その瞬間安田は十数年の歳月を飛び越え斉藤の友人に回帰する。
 肩を抱いた看守を振り払いたまらず斉藤に駆け寄る安田、眼鏡の奥に切迫した光が過ぎり必死な形相がひりひりと身を灼く焦燥を伝えてくる。
 名伏しがたい衝動に襲われ友人へ駆け寄りかけた安田の視線の先、床に穿たれた影が交わり同化する。
 肩がふれそうでふれない微妙な距離ですれ違いしな影を溶け合わせた暴君が勝ち誇って微笑む。
 「先越されて悔しいか」 
 「君は腰抜けだ」
 不敵に応じる斉藤に暴君は怪訝に眉をひそめる。
 重苦しい沈黙が被さる中、斉藤がゆっくり口を開く。  
 「僕は順を迎えに来たけど君はその勇気も出ずにこんな所で燻っている」
 挑発というにはあまりに静かな口調で淡々と事実のみを指摘する。
 暴君がスッと無表情になる。
 虚無に食い荒らされた空白の表情を斉藤は静かに見詰める。
 暴君が体ごと向き直り、展望台の真ん中に今だ座りこんだままのサーシャに無情に顎をしゃくる。
 「来いよ、サーシャ」
 サーシャが鞭打たれたように竦み上がる。
 立ち上がった拍子にバランスを崩し転倒しそうになりながら、安田から借りた背広の裾をはためかせ追いすがるサーシャに暴君が釘をさす。
 「ちゃんと『それ』拾って来いよ。またあとで遊ぶんだから」
 暴君が冷ややかに一瞥くれた箇所に転がっているのは、サーシャの根元を戒めていたコックバンド。
 恥辱に苛まれ顔を上気させたサーシャに溜飲を下げる暴君、その変貌ぶりに胸が痛む。
 「くっ………」
 地に膝を屈し四つん這いになり、震える指先でコックバンドを握り込む。
 己自身の白濁に塗れたコックバンドを掌に固く握り込み、屈辱に肩打ち震わせる皇帝の醜態が僕の胸をかきむしる。
 「どうしてそこまでするんだ?ブラックワーク第二位の実力者、超絶的技巧のナイフ捌きを誇る北の皇帝ともあろうものが何故暴君如きの命令を呑み恥をさらす?君にとってレイジは憎んでも憎み足りない人間、唯一認める好敵手のはずじゃないか。そんな男に群集の眼前で強制的に射精させられてもなお尽くそうとする理由は何だ、答えろサーシャ!!」
 サーシャは僕の問いに応えず顔を上げようともしない。
 展望台に這い蹲ったサーシャの裸身を群集がじろじろ視姦する。
 薄汚いスニーカーの爪先で小突かれ尻を蹴飛ばされ、萎縮したペニスをわざと靴裏で揉みしだかれるような屈辱を舐めながらも呻き声一つなく耐え忍ぶサーシャに理性が蒸発する。
 「上出来だよサーシャ、これでこそ薬漬けにして仕込んでやった甲斐があるってもんさ。なかなか上等な芸じゃねーか」
 暴君が大仰に両手を広げサーシャを迎え入れる。
 飼い犬の芸を褒めるようにサーシャの銀髪に手を潜らせかき回し、固く強張った五指をこじ開けコックバンドを取り上げる。
 「はっ……あふっ……」
 「けどな、どうせなら咥えてもってきてほしかったぜ」
 弛緩した口から涎をたらすサーシャを至近距離で覗き込み、たった今取り上げたばかりのコックバンドを口に突っ込む。
 己の白濁に濡れそぼったコックバンドを唾液を捏ねる音も淫らにサーシャがしゃぶりはじめる。
 「口寂しいならこれでも咥えとけ。薬はあんまり多く舐めると毒だからな、しばらくはこれで我慢しとけ」
 口に含まされたコックバンドに夢中で舌を絡めるサーシャを満足げに見下ろし、暴君が一同に別れを告げる。
 「サーシャを連れていく気か」
 「こいつが望んだことだ。疑うならサーシャに聞いてみな、一も二もなく頷いて俺の爪先をしゃぶりはじめるだろうさ。いかにお偉い副所長サマとはいえ囚人のフリーセックスを咎める権利はねーよな?」
 安田の抗議を平然と受け流し、人の心をざわつかせる不吉な笑みはそのままに暴君がこちらを見る。

 その目。
 その顔。
 もはや十字架の威光も通じないと絶望させる笑み。

 『Good-bye my friend, See you again. 』
 さようなら我が友よ。
 また会う日まで。

 暴君の口を借りてレイジが喋った最後の言葉だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050316202153 | 編集

 「そんなことがあったのか」
 腕を組んだサムライが渋面を作る。
 噛み締めるように反駁したサムライをベッドに腰掛けた僕は無言で眺める。
 房に帰った僕を出迎えたのは強制労働を終えたサムライだった。
 僕は展望台の出来事を自分の身に起きたことは伏せて一部始終サムライに話した。
 話し終えると同時に一息つき、注意深くサムライの表情を窺う。
 床に胡坐を組んだサムライは厳しい面構えで黙り込む。
 声をかけるのすらためらう威圧感がその全身から放たれている。
 房の床の中央に胡坐をかいたサムライは日課の写経と読経に精を出すでもなく何事か一心に考えに耽っている。
 ベッドの下から硯と筆と文鎮と半紙の一式を取り出しもせず、瞑想に耽る武士の如く厳粛な沈黙を保つサムライから目をそらし、呟く。
 「暴君が安田にまで襲いかかるなど予測不能だった」
 重苦しい雰囲気が立ち込める。
 天井の中央に吊り下がった裸電球が不規則に点滅し視界の明度が変わる。
 胸中に湧き上がる不安を押し殺そうと努めるもうまくいかず、神経質に指を組み替え内心の動揺をなだめながら僕は続ける。
 「今のレイジはレイジじゃない。まさしく暴君、そう呼ぶしかない掟破りの存在だ。実際僕はこの目で見た、暴君の暴威と暴走を。今日一日で彼がなした暴挙は枚挙にいとまがない。三日前自分がロンに駆け寄るのを阻んだ道了の取り巻きに出会い頭に襲い掛かり拷問具の缶きりを用い語るも無残な暴行を加えた、それはもはや動かしがたい事実だ。廊下の至る所に血痕が穿たれ開け放たれた扉の向こうから苦しみもがく呻き声が漏れてきた。きわめつけは展望台でー……」
 ふいに言葉が途切れる。
 サムライが眼光鋭くこちらを一瞥する。
 サムライに不審を抱かせてはいけない、僕の身に起きたことを悟られてはいけない。
 固く目を閉じ展望台の出来事を回想する。

 瞼の裏を高速で過ぎ去る映像の断片。
 残照眩い黄昏の空を背景にサーシャを背後から抱きしめた暴君が残酷に手を動かしサーシャを容赦なく絶頂へと駆り立てる、しどけなく着崩れた軍服の狭間から白い胸板を曝け出したサーシャはもはや喘ぐしか能のないサバーカとなりはて弱々しく身悶えし暴君の愛撫に身を委ねる。 暴君は容赦なく嬉々としてサーシャを責め立てる。
 強く擦られ弱く握られ緩急つけてペニスを刺激されることによりクスリが回った全身を快楽の奔流に投じたサーシャは暴君の導きにより遂に大衆の眼前で精を放つ。
 皇帝の終焉、廃帝の末路。
 東棟の大衆が生唾飲んで見守る前で強制的に半裸に剥かれ射精するという醜態を晒したサーシャは、筆舌尽くしがたい屈辱に打ちひしがれ力なく膝を折った。

 僕は覚えている、あの時のサーシャの顔を。
 プライドの最後の一片までも剥ぎ取られた絶望の顔を。

 涙の枯れ果てた眼窩から虚ろな視線を漂わせるサーシャの変貌には僕自身動揺を禁じえなかった。暴君はどこまでも残虐にサーシャが唯一の拠り所としていたプライドを踏みにじった。
 黄色い猿どもと蔑む東の囚人の前で完膚なきまでに痛めつけられたサーシャは暴君の手招きに応じ従順に尻尾を振るサバーカと成り果てて彼の命令に従いコックバンドを咥えてとってくるまねまでした。

 暴君の欲望はそれだけでは留まらなかった。

 次に暴君が標的に定めたのは安田だった。
 相手が副所長といえどお構いなしに彼はその暴力性を遺憾なく発揮した。
 安田が看守を連れず展望台に赴いたのはあくまで冷静に当事者と話し合いをもつためだった。
 しかし暴君は安田の配慮を踏みにじった、話し合いを目的にひとり展望台に赴いた安田の甘さにつけこみ彼に襲いかかった。
 仰向けに寝転がった安田にのしかかりシャツを引き裂き貧弱な上半身を晒す、乱暴にボタンを毟られシャツを裂かれた安田は必死に抵抗するも腕力差は歴然、暴君はその膂力をもって安田をたやすく組み敷きシャツの内に秘められた肌を暴こうとした。

 そして。
 止めに入った僕まで無差別に毒牙にかけようとした。

 「………っ………」
 暴君の愛撫で感じてしまった自分が恥ずかしい。
 快楽を仕込まれた体に憎悪すら覚える。
 恥辱に唇を噛み上着越しに二の腕を抱く。
 安田はおろかこの僕にまで強姦未遂を働くとは今のレイジは正気じゃない、完全に狂気に侵され自制をなくしている。
 欲情の火照りを帯びた唇が首筋を辿り唾液の筋をなする。
 しなやかにのたうつ褐色の手が上着をはだけ中に侵入する。
 体にまだ暴君の唇と手の感触が残っていて不快極まりない。
 唇が触れた箇所を手荒く擦る。
 首筋が赤く染まる。
 擦った皮膚がひりひり痛み始める。
 一刻も早くシャワーを浴び不快な感触を洗い流したい衝動に駆られるもサムライに怪しまれるのが嫌で立ち上がるのをためらう。
 第一シャワーは二日に一回と規則で決められている、僕は昨日シャワーを浴びたばかりだから明日になるまで我慢しなければ……

 「直」
 ハッと顔を上げる。
 サムライとまともに目が合う。
 胡坐を正座にかえて体ごとこちらに向き直ったサムライが、真剣極まりない顔でひたと僕を見据える。
 緊張を孕んで強張る顔になみなみならぬ決意が表出する。
 切れ長の双眸に沈痛な光を宿しサムライが深々頭を垂れる。
 「不甲斐なくてすまん」
 格式張った所作で床に手を付き上体を完全に折り畳む。
 おもむろに床に額を擦りつけたサムライに面食らう。
 サムライはそれから数秒間その姿勢を保ち精一杯の誠意を示す。
 「お前の一大事にまた俺は間に合わなかった。己の不明を恥じるばかりだ」
 顔を伏せたままサムライが呟いた言葉に動悸が速まる。
 まさかサムライは僕の身に起きたことを知っているのか?
 危惧を抱きサムライを注視する。
 サムライは面目ないとかたくなに顔を伏せたまま、自責の念に揉まれた胸中を苦しげに吐露する。
 「一歩間違えばお前にも危害が及んでいた。責任感の強いお前なら俺がそばにいなくともレイジを止めようとしたことだろう。自ら用心棒を名乗っておきながらお前の窮地に立ちあえなかった己が不甲斐ない」
 そういうことか。
 思い過ごしと判明し安堵に胸撫で下ろす。
 サムライは僕がレイジに襲われたことを知らず、自分が知らないところで僕を危険な目に遭わせた不明を恥じているらしい。
 まったく、責任感が強いのはどちらだと呆れる。
 尊大に顎を引き高飛車に足を組み替え、謝罪に動じない取り澄ました態度でどこまでも真面目一途なサムライを揶揄する。
 「君が不甲斐ないのは知っているから今さら謝らなくてもいい」
 「これはけじめだ」
 不甲斐ないのは否定しないか。
 度を越して頑固なサムライに呆れ溜め息をつく。
 「二十四時間僕にはりついてるわけにもいくまい。排泄時も背後で目を光らせ監視されてるとなれば僕こそ落ち着かない」
 「用を足す時は後ろを向いている」
 「そういう問題じゃない」
 どこまでも信念を譲らないサムライとの議論に徒労を感じる。
 鼻梁にずれた眼鏡の位置をせわしく直し頑固一徹のサムライを宥めにかかる。
 「残業ならばしかたない。安田の配慮でせっかくブルーワークに戻れたというのにまたサボったりしたら今度こそ永久にレッドワークから脱け出せないぞ。レッドワークならまだいいが最悪ブラックワークの死体処理班に回されることになる」
 「安田には感謝している」
 「安田は公正な男だからな」
 公正な判断が仇になる場合も少なくないが。
 自嘲の笑みを口の端に含んだ僕をサムライがうろんげに見詰める。
 本心まで見透かされそうな透徹した視線に居心地悪くなる。
 間をもたせようと眼鏡の弦をしごき予防線を張る。
 「今日の残業は随分長引いたな。下水道で何かあったのか」
 本心を言えばサムライの残業の内容になど興味はないが、他に適当な話題が見つからなかったのだからしかたがない。
 世間話の延長で質問すれば、思いもよらぬ重々しさでサムライが呟く。
 「……現在下水道で行方不明者が続出しているのだ」
 「行方不明者?」
 配管が故障して水漏れの事故でも起きたのかと予想していた僕は、予想外の返答に少なからず驚く。
 下水道で行方不明者が出ているなど初耳だ。
 真偽不確かな疑念の眼差しでサムライを見れば、当の本人はいささかも動揺することなく泰然と落ち着き払って続ける。
 「東西南北全棟からここ最近何名かの囚人が消息を絶った。もとより東京プリズンではリンチによる死亡者や行方不明者が多いため看守もそれほど深刻には考えていなかったのだが、消えた囚人たちがいずれも下水道におりた痕跡が発見されたとあれば話は別だ」
 「全員下水道で消えたというのか?」
 「中の一人の私物が下水道で見つかった。失踪者が下水道におりるところを見た目撃者も出てきた。事態を重く見た看守はブルーワークの囚人に捜索隊を組ませ消えた囚人の行方を追い始めた。俺もまた失踪者をかりだすため時間外業務を請け負ったのだ」
 考えてみれば奇妙な話だ、下水道でばかり人が消えるというのは。
 サムライが苦りきった顔で嘆息する。
 「看守の中には消えた囚人どもが集団脱走を企てたのではないかと怪しむ向きもある、だからこそ躍起になって行方を追うのだが……どうにも解せぬ、いまだにひとりも見つからぬとは」 
 「待てサムライ、君は今東西南北全棟から失踪者がでていると言ったな。東棟からも誰か消えているのか」
 ごくささやかな好奇心に端を発し質問すれば、サムライが耳目を憚るように四囲に鋭く視線を馳せその名を口にする。    
 「リョウだ」
 驚き、困惑。
 僕の表情を目の端で捉えたサムライが顔を引き締める。
 たしかにここ数日間リョウの姿を見なかった。
 同じイエローワークでも僕は砂漠での過酷な肉体労働を担当しリョウは温室でのどかに水撒きをする待遇の差があり、そもそも行き先が違うのだから同じバスに乗り合わせなくても不思議はないとこれまでは気にも留めてなかったがまさかリョウが下水道で消息を絶った行方不明者の中に含まれているとは……
 不吉な胸騒ぎが芽生える。
 サムライの口から知人が消息を絶ったと告げられた衝撃は強く、僕は一瞬言葉を失う。

 一体東京プリズンで何が起きている?
 下水道で失踪者が続出する現状は何を意味する?

 頭を回転させ推論を組み立てようとこころみるも情報不足で仮定を導き出せずもどかしくなる。
 リョウの身を案じているわけではない。
 リョウにはこれまでさんざん酷い目に遭わされてきたのだから仮にリョウが消えたところで痛快に思いこそすれ心配などするはずない、だがしかし……
 「リョウが行方不明になってるなんて全然知らなかった」
 「消えて日が浅いからまだ噂が広まってないのだ。リョウはお前が来る前からの外泊の常習犯だからな」
 「ならば何故リョウが下水道で消えたとわかる、根拠はどこに?」
 僕の追究にサムライはしばし熟考し慎重に考えを述べる。
 「……同房のビバリーがそれらしきことを言っている。なんでもリョウが消える直前地下のことを探っていたらしい」
 「地下?」
 「東京プリズンの地下には地震で開発を中断された都市の廃墟があるらしい。失踪前のリョウは何故だかその事を執拗にさぐっていた、ビバリーの助けを借りて二十一世紀初頭に持ち上がったその……東京……なんと言ったか、東京あん、あん、安打……」
 「東京アンダーグラウンド計画?」
 慣れない横文字にどもりまくるのを見かねて指摘すれば、サムライが大仰に咳払いする。
 「それを熱心に調べていたそうだ。……真偽が定かでないにしても砂漠の地下に廃墟があるというのはかなり知れ渡った風聞で、以前にも噂を真に受けた囚人が抜け道をさがし下水道におりる例が後を絶たなかったらしい。老朽化した壁が崩れて生き埋めになったり増量した水に溺れるなど事故が多発してからは興味本位に下水道におりるものもめっきり減ったのだが」
 サムライが意味深に言葉を切る。
 思考に没頭するサムライの横顔から意を汲む。
 「リョウが下水道におりたということはもしかして…開発半ばで頓挫した東京アンダーグラウンド計画の遺物の通路と地下迷宮の如く複雑に枝分かれした下水道がどこかで繋がっている可能性があると?」
 にわかに知的好奇心がもたげてくる。
 東京アンダーグラウンド計画は僕も小耳に挟んだことがある。
 僕が生まれるはるか昔、二十一世紀初頭頃に持ち上がった新都市造成計画。
 政情不安に揺れる中国・台湾・韓国、紛争が勃発する東南アジアなど近隣諸地域から大量の難民が流れ込んだことにより東京の人口は爆発的に膨れ上がった。
 ただでさえ人口過密状態で居住面積がごく限られた東京に大挙して難民が流れ込んだため、国連の一員であり世界有数の資本主義国であり最低限の人道的配慮とやらを視野に入れた当時の政府は、東京の地下に都市を作り外国人を移住させる計画を立ち上げた。
 しかし、予測不能の事態が起きる。
 二十一世紀初頭に始動したその新都市計画は、同時期に相次いだ地震によりあえなく頓挫した。
 開発途中で投げ出された都市は作業員ともども土砂に埋もれ朽ち果てる運命を辿ることとなる。
 八十年以上が経過した今は都市伝説としてのみ存在を語り継がれるものの、日本人がまだこの国における多数派だった時期にそういう計画があったのは事実らしい。
 「そもそも東京プリズン地下に発達した下水道は新都市の要となるべく建設されたものだからな。本来は下水道ではなく地下を網羅し都心に繋がる道路だったという噂もあるくらいだ」
 「どうりで下水道にしては道幅が広いはずだ。下水道というよりトンネルに近い構造をしていたから妙に思っていたんだ」
 サムライの発言に共感をこめ頷く。
 以前リョウに誘われて下水道におりた時も違和感を感じたのだ。
 下水道にしては道幅が広く照明の位置も高く、どことなくトンネルに似た印象を抱いたのは間違いじゃなかったのだ。
 ……待て、そうなると下水道で多くの囚人が消息を絶った事実は看過できない重大な意味をもつ。
 東京プリズン地下の下水道が八十年前に開発半ばで遺棄された道路だとすれば、数ある通路のどれか一本が生き残り都心に通じている可能性も……

 脱出路。
 脳裏に閃光が爆ぜる。

 「リョウは脱獄に成功したのか?」
 喉が異常に渇く。
 この仮説が正しければ下水道に消えたきり姿の見えない囚人らのうち何名かは脱獄に成功したのかもしれない、都心に抜ける通路を見出し東京プリズンを永遠に去ったのかもしれない。
 馬鹿な。
 馬鹿げている。
 そんなわけがないと理性が否定する。
 第一下水道は長大で複雑に込み入っていて、旧通路から脱獄を企てた囚人を待ち受けるのは道に迷って飢え死ぬか凍え死ぬかどちらにしろ悲惨な末路だ。
 その他問題点は多々ある。
 徒歩で都心をめざすには最低三日分の食料がいる、そんな大量の食料をどこからどうやって調達する、仮に調達できたとしてもそんな大荷物を背負ってはたして体力が尽きる前に目的地に辿り着けるか?
 氷点下の気温に粗末な囚人服の上下で耐えられるか? 
 増水や崩落などの不測の事態不慮の事故にはどう対処する?
 様々な疑問が脳裏を駆け巡るも、リョウが脱獄したかもしれないという疑惑が次第に現実味を増していく。

 仮にリョウが脱獄に成功したのだとしたら、
 僕だって。
 僕にだって、できるのではないか?
 リョウ如き低能にできることが、IQ180の天才にできないはずがないじゃないか。

 「…………っ…………」
 指の関節が白く強張るほど手を握り込む。
 やり場のない感情が沸騰し胸が騒ぐ。
 リョウに出来た事が僕にできないはずがない。
 食料の確保、防寒対策、看守の監視をかいくぐり時間を稼ぐ方法。
 クリアすべき課題は多いがそれさえ克服すれば現実に八十年待たずにここを出ることが可能なのだ、今すぐにでも恵に会えるのだ、最愛の妹を抱きしめられるのだ。
 名伏しがたい衝動が僕を揺さぶる。
 これまで不可能だと諦めていたことが鮮明に現実味を帯び絶望に狭窄した視野が一気に拓け光明が照らす。
 今頃リョウはどこでどうしている?
 溺愛する母の胸に飛び込み感動の再会を果たしている頃か?
 脱獄を企てた全員が成功するとは限らない、失敗する率のほうが高いとわかりきっている。
 それでも何十分の一、何百分の一、何千分の一でも可能性があるなら賭けてみたい。 
 可能性を信じたい。
 恵に会いたい。
 僕にはIQ180の頭脳という最大の武器がある、心強い味方がいる。
 僕ならきっと下水道で迷わず脱出路を見出し都心に抜ける事ができる。
 恵との再会も夢じゃない。
 『おにいちゃん』
 恵がまたあの笑顔を向けてくれるとは限らない。
 生涯笑いかけてくれなくてもいい。
 僕はただ、恵に会いたい。 
 僕が生きているあいだに、
 もう一度。

 「直?」

 「!」
 体に電流を通された気がした。
 過敏に顔を上げる。
 床に座したサムライが心配げに僕を覗き込んでいる。
 唐突に黙り込んだ僕の態度に不審を抱いたものらしい。
 僕が貧血でも起こしたものと誤解したのか、ふらりと傾げばすぐ支えられるといわんばかりに片膝立て身を乗り出すサムライを見詰め返す。
 脇においた木刀を素早く引っ掴み、猛禽の如く鋭利な双眸に憂慮の色を湛えたサムライを呆然と見詰めるうちに、脱獄の可能性をあらゆる角度から検討していた脳裏に一抹の躊躇が兆す。

 サムライは?
 サムライはどうする?

 脱獄の企てを夢中で空想していた一瞬、完全にサムライの存在を失念していた。
 サムライだけじゃない。
 レイジも、ロンも。
 漫画の素晴らしさをともに語り合うヨンイル、ワンフーやルーツァイをはじめとした売春班の面々。
 東京プリズンで出会った仲間たち、これまで僕を支えてくれた彼らの事を念頭から忘却していたのだ。
 「………………」
 彼らの事を忘れていた衝撃と罪悪感にも増して僕を打ちすえたのは、単純にして冷徹な問い。
 サムライはどうする?
 自分ひとりでここを出るつもりか?
 サムライと別れて?
 仲間を捨てて?
 自分ひとり逃げ出すのか?
 何も告げずに彼らのもとを去るのか?
 
 「あ………」
 絶望に頭を抱え込む。
 虚しく開いた口から無意味な呻きが零れる。
 僕は、どうかしていた。
 自分ひとりでここから逃げ出せるわけがない。
 以前の僕ならいざ知らず今の僕はサムライを残していけない。
 レイジやロン、ヨンイルや売春班の面々を見捨てていけない。
 生涯かけて僕を守ると誓った男と共に戦ってきた仲間を捨ててのうのうと妹に会いにいけるはずがない。

 サムライと一緒なら?

 唐突に、本当に唐突に、あまりに都合よい考えが濃霧を払ってさしこんでくる。
 「どうした?気分が悪いのか」
 睫毛がふれる距離にサムライの顔が迫る。
 息を詰めサムライの顔を凝視する。
 サムライに脱獄の計画を明かし二人で逃げ出すならどうだ?
 レイジとロンにも話そう、ヨンイルにもついでに。
 残していくのが不安なら一緒に来ればいいんだ。
 サムライ、僕と一緒に逃げてくれ。
 震える口で願いを述べようとして思いとどまる。
 本当に成功するのか?
 僕は一時的な衝動に流され非現実的な望みを口走ろうとしてるんじゃないか。
 リョウが脱獄したかもしれないという空想に刺激され外への未練がぶりかえし僕自身が頭の中で捏ね回した妄想にサムライを巻き込み破滅させようとしてるのでは?
 脱獄が成功するとは限らない。
 僕か彼か、それとも全員が死ぬかもしれない。
 生と死の二択を迫る危険な考えを軽々しく口にできるわけがない。
 レイジとロンが大変なこの時期に「もしかしたら」を接尾語とするそんな楽観的な考えは口にするのさえ憚られる。
 僕は馬鹿だ。
 どうかしている。
 目の前に希望がちらついたとたん自制心を失って縋り付きたくなるなんて、冷静な判断力を欠いて結論を急ぐなんて、ここで得たすべてを捨てて恵のもとへ走るなどと短絡的に即断して。
 目の前の彼となら外でもなんとかやっていける気がして。
 恵に拒絶された僕の居場所はもうここしかないというのに、勘違いをして。
 「…………直?」
 サムライが思い遣り深く僕の頬を包み込む。
 頬を包む手から一途な労わりの念と人肌のぬくもりが伝わってくる。 僕はサムライの手に頬を預けたままその顔を細部までじっくりと観察する。
 肉の薄い一重瞼の奥に深沈と鎮座する黒い双瞳、すっきり筋が通った鼻梁と試練に挑むが如く引き結んだ口元。
 垢染みた上着から伸びた首筋には赤く爛れた火傷の跡が残っている。 
 溶鉱炉の上に吊るされた僕を守るため命を賭し戦った名残りの烙印。
 喉仏の形すら端正な首に見惚れる。
 知らず知らずのうちに引き込まれ身を乗り出す。
 唇が目前に迫る。

 三日前、サムライは僕にキスをした。
 唇の感触は三日間去らず、夜毎僕を苛んだ。

 売春班では吐くほど不快だった行為がサムライが相手だと嫌ではないどころか一種の快感さえ伴うと知ったのはごく最近だ。
 快感というと語弊がある。
 唇を介して僕の中に流れ込んできたのはサムライの脈動とぬくもり、だれかに守られているという実感、恍惚とした安堵……
 いずれも快感と呼ぶにはあまりに儚く微温的な感触だが、快か不快かと二択で問われれば間違いなく快で、唇が触れ合った瞬間にまず湧き上がったのは彼と一体化した喜びで。
 彼をより近くに感じられる喜びが僕の中に息衝いていたのを否定できない。
 ためらいがちに指を伸ばし頬にふれる。
 サムライが当惑する。
 物問いたげに震える唇に視線をやり、静かに問う。
 「なんで僕にキスしたんだ?」
 抵抗感なくその言葉が滑り出た。
 本当はずっと聞きたかったのだ、サムライの本心が気になっていたのだ。
 聞くなら今しかないとの狂おしい衝動に突き動かされ本人を前に直接問えば、サムライが動揺もあらわに顔を背ける。
 「お前にならいレイジとロンを取り返す誓いを立てたまでだ。しかし生粋の日本男児が十字架に接吻するなどはしたない、だからお前に…」
 「僕は十字架の代わりか?僕の唇は無機物のように冷たく味気ないという嫌味か?」
 「違う」
 断固として否定し、気迫の篭もる目で真っ直ぐ僕を見据える。
 「接吻したかったからしたまでだ。納得したか」
 「不条理だ。説明をもとむ」
 鋭く切り返せばサムライが心底困惑したといったふうに眉を顰める。
 弱りきった風情のサムライを突き放し返答を待つ。
 姿勢よく床に座したサムライは揃えた膝の上に拳をおき暫時躊躇するも、僕の追及から逃れられないと覚悟を決めるや深呼吸で胸郭を上下させ、居直りも甚だしくふてぶてしい鉄面皮で噛み砕くように断言する。
 「………お前が愛しいからだ」
 葛藤と煩悶の末に漸く決心し本音を吐露したサムライは、最前の発言に大いに恥じ入った様子で面を伏せる。
 ベッドに腰掛けた僕は、揃えた膝に手をつき今にも消え入りたそうに小さくなるサムライを眺めながら人さし指で唇をなぞる。
 サムライの唇の感触は三日経ってもまだ去らない。
 サムライの感触を反芻し、唇のふちをなぞりながら独白する。
 「僕が拒まなかったのも同じ理由だ」
 サムライが驚いたようにこちらを見る。
 惑う指を唇に添え物思いに沈む。
 三日前どうしてサムライはキスしたのか、どうして僕は拒まなかったのかずっと考えていた。
 唇の感触を反芻し妙に体が火照って眠れない夜に考えに考え続け漸く結論に達した。
 サムライが触れてから僕の唇は体で一番敏感な性感帯に成り代わり淫蕩な微熱を孕み、こうしてゆっくりと指をふれ下唇の膨らみを辿るとかすかにむず痒い官能のさざなみが立ち、自慰に似た後ろめたさとともに快楽とも安らぎともつかぬまどろみの心地よさにひたることができる。
 売春班では肌に唇がふれるだけで虫唾が走った。
 レイジに後ろから抱きしめられ首筋を貪られた時には嫌悪感が爆発した。
 サムライだけが例外だった。
 サムライの唇だけが、僕を気持ちよくしてくれる。
 どんな激しい愛撫や行為より、ただ触れ合うだけのキスが僕の体を熱くする。
 
 彼と離れたくない。
 ずっと一緒にいたい。

 彼をもっとそばに感じたい。
 もっとそばにいると安心させてほしい。

 馬鹿な。
 僕はいつからこんな反吐が出るほど甘い感傷を抱くようになった、サムライとは対等な友人でいたかったのにいつから不純物が混じるようになった、いつから彼に対し欲望を抱くようになった?
 売春班に助けにきて押し倒された時からか、ホセとの密会を終えた深夜の図書室でむりやり唇を奪われてからか、別れを決意し去ろうとした僕を踊り場で引きとめ抱擁した時か、溶鉱炉の上に吊るされた僕を我が身をかえりみず救出に来たときか、それとも、それともー……

 わからない。
 きっかけは数限りなくあった。
 その数限りない積み重ねがいつしかサムライを友人以上の存在として意識させるようになった。 

 僕は僕の中で目覚めた欲望から必死に目を逸らし続けた。
 不感症の僕がサムライに性的な感情を抱くはずはずはないと自己暗示をかけ衝動を律し、サムライに欲情するもう一人の自分を否定し続けたのだ。
 かつて売春班でおぞましい経験を重ねた僕は、サムライに欲情するもう一人の自分を決して認めるわけにはいかなかった。
 売春班での経験によって性行為が不快で不潔なものでしかないと体と心に刷り込まれた僕が、他ならぬ対等な友人として接してきた男に性的な衝動を抱き始めているなど、友人以上の存在として過剰に意識し始めているなどとは断じて認めるわけにはいかなかった。

 熱く湿った吐息が耳朶にかかる。
 『サムライに抱いてもらえなくて寂しいだろ?慰めてやるよ』
 暴君が背にのしかかり囁く。 

 まだ耳朶に残る暴君の囁きと感触を振り払いたい一心でベッドから身を乗り出し、挑むようにサムライと向き合う。
 「サムライ」
 この気持ちが友情かそれ以上か確かめたい。
 もう一度試してみたい。
 呼びかけに打たれたサムライが訝しげにこちらを見る。
 固く指を組み腹の奥底で暴れる衝動を抑えながら、今にも萎えそうな気力を精一杯奮い立たせて頼む。
 「もう一度キスしてくれ」
 声も顔もできる限り平静を装って切り出したのだがうまくいったかどうかは甚だ疑わしい。 
 固く組んだ手がじっとり汗ばむ。
 極度の緊張と興奮に心臓が蒸発しそうなほど高鳴る。
 今すぐ前言を取り消したい衝動と最後までこの目で見届けたい欲求とが同じ引力でせめぎあい激烈な葛藤と焦燥を生む。
 頬に血が上るのが体温の変化でわかる。
 異常な熱意と興味を込め一心にサムライを見詰め続ける、サムライがどう出るか脳内で予測し揺るがぬ凝視を注ぐ。
 サムライは僕の一途な視線を受け止め、逡巡の色を湛えた目を一回閉じ、次に開いた時にはもう意を決していた。
 「……本当にいいのか?」
 勘繰り深く念を押すサムライに苛立ち、声を荒げる。
 「くどい。僕がいいというんだからいいんだ、さっさとやれ。これは単なる臨床実験だ。僕は純粋な知的好奇心から君にキスしろと命令したんだ、君のキスによって僕の内面にいかなる変化がもたらされるかを実地に検証してデータを採りたいだけだ、低能の浅知恵で邪推しないでくれ。僕は君に対し何らやましい感情など抱かない、君にキスされて嬉しいだの気持ちよいだの思うはずがない、不感症の僕が性的に反応するなど何かの間違いだと証明してみせる」
 焦燥に駆り立てられた早口で弁明し、こちらを見詰めるサムライの妙に気負った顔つきに気付いて黙り込む。
 もどかしく下唇を噛む僕の頬に骨張った手を添え、伏せた双眸に真摯な色を映じサムライが囁く。
 「あまり強く噛むと唇が傷つく」
 「僕の唇が甘いなどと思われたくないからわざと鉄分を含ませるんだ」
 心臓が爆発しそうに高鳴る。全身の血が沸騰する。
 ごくかすかな衣擦れの音に紛れサムライの息遣いを感じる。
 再び唇が被さるその瞬間を期し心の準備をする。
 優しく頬に添えた指一本一本から血のぬくもりと若干の遠慮、歯痒い程の気遣いが伝わってくる。
 ……焦らさず早くしてほしい、これ以上保ちそうにない。
 これ以上焦らされたら自制心が振りきれてしまう。
 裸電球が消耗していく音さえ聞こえる静寂の中、淫靡な熱を伴った視線が顔の輪郭を辿り、僕の顔の部品をひとつずつ丹念に精査していく。
 サムライが動く。
 衣擦れの音が静寂をかきみだす。
 仰向けた僕の顔に裸電球の光熱を遮り影が覆い被さる。
 顔の前で空気が動き湿った吐息がかかり熱く柔らかい唇が僕のそれと重なりー……

 大音量のベルが轟き渡る。

 「!!?-っ、」
 咄嗟に目を開けた僕の正面で中腰の姿勢で硬直するサムライ。
 僕らふたりが気まずく見つめあう間も大音量のベルは鳴りやまず鉄扉を隔てた廊下で怒鳴り声が炸裂する。 
 「お楽しみの時間は終わりだ囚人ども、みんないい子でねんねする消灯時間に騒いでる奴は警棒でぶちのめして永遠におねんねさせてやる!」
 「床でマスかいてるやつもエロ本回覧してるガキどもも母ちゃん思い出してしくしく泣いてるタマなしも三秒以内にベッドに戻りな、さもねーと怖いお仕置きが待ってるぜ!」
 東棟を巡回中の看守が威勢よく濁声を張り上げては警棒を振り回し、手近な扉や壁を力一杯殴打する。
 消灯時間が来た。
 消灯ベルに急き立てられた囚人どもが自慰を中断しズボンを引き上げ猥褻な本をベッド下に放り込み慌しく走り回る気配がする。
 殺気立つ足音とけたたましい嬌声に看守の哄笑が相交じり静けさの前の狂騒が廊下に吹き荒れる。
 扉を隔てたこちら側だけが周囲の騒音と切り離された重苦しい沈黙に包まれる。
 「………明日も早い。お前も寝たほうがいい」
 サムライが迅速に背中を向ける。
 どこかせかせかとわざとらしい様子で自分のベッドに戻っていくサムライを見送り、ベッドに取り残された僕は吐き捨てる。   
 「逃げるのか、意気地なしめ」 
 「何とでも言え。俺はもう寝る」
 立ち去り際裸電球を消し反対側のベッドに身を横たえる。
 一方的に会話を打ち切ったサムライに憤慨するも、ベルで理性を叩き起こされた僕は既に寝る準備に入ったサムライを呼び戻すのも気が引け、安堵と物足りなさとが相半ばする複雑な気持ちで毛布に潜り込む。
 靴音高く看守が去り、最前までの喧騒が嘘のように物音が途絶える。
 壁の方を向いて横たわるサムライと同じく、僕も壁を向く。
 不甲斐ないサムライへの苛立ちと腹立ち、未遂に終わった物足りなさと安堵とが入り混じる矛盾を抱え無意識に唇の膨らみをなぞる。
 ごく軽く指でなぞっただけで曖昧なむず痒さが生じるほど過敏になった唇がさらなる刺激を欲し疼き始める。
 切なく疼き始めた唇をなぞり、やり場のない怒りと苛立ちを吐き出す。
 「……僕の許可なく唇を奪うくせに、僕が許可したら逆らうとは不条理だ」
 癒されぬまま放置されたせいで渇きを増し脈打つ唇を持て余し、背中合わせの男への苛立ちと友情を越えた何かに物狂おしく苛まれ、僕はぎゅっと目を閉じた。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050315010356 | 編集

 東京プリズンは歴史の節目を迎えた。
 その日の起床ベルはどこかいつもと違っていた。
 いつも同様の時刻に桁外れに大音量のベルが鳴り響き容赦なく鼓膜と大気を震わせるも、僕は毛布を跳ね除けベッドに上体を起こした直後から異状を察していた。
 いつもどおり鼓膜が破れんばかりにうるさく神経がささくれ立つベルには違いないが、今朝のそれは漠然と不吉な予兆を孕み刻々と迫り来る危険を告げている。
 警鐘。
 対岸の火事が此岸に燃え移ったように皮膚炙る焦燥感。
 空気に火薬の匂いが混ざっている気がする。
 勿論それは僕の錯覚だ、先入観に起因する嗅覚の異常だ。
 きな臭い危険の匂いが大気中に溶け広がり周囲に漂い出した錯覚におちいった原因が何か明確に指摘できないのがもどかしい。
 とにかく今日は何かが違う。
 昨日の続きの今日でもなく平凡な毎日の延長の今日ではない、運命の日なのだ。
 運命の日?
 何故そんな抽象的な発想が脳裏に閃いたのか僕自身困惑する。
 馬鹿な、僕は運命論者じゃない。運命など信じない。
 偶発的現象の連続に「運命」などというそれらしい名前をつけ責任を転じ自己決定の義務を怠るのは人間の尊厳を貶めるに等しい愚行だ。僕は運命という逃げ道を用意する人間を軽蔑する。運命という便利な言葉に逃避し全責任をなすりつけ諦観しすべてを許容する人間を激しく唾棄する。その時点で一切の義務と抵抗を放棄し、形のない目に見えないよって形而上学的に甚だ存在を疑問視される運命とやらに身を委ねきり、その実自分がこれ以上傷付きたくないただそれだけのための単なる逃避を「運命」などと美化する行為に極大の嫌悪を感じる。
 僕は断言する。
 運命など存在しない。
 運命は自己暗示と妄想の産物、信じたいものだけが信じる神と同じ種類の虚構だ。
 僕は神を信じない、故に運命も信じない。
 たとえ神への信仰や運命の許容に走ることによって甘美な恍惚感と諦観の安らぎを得られるとしてもそれを是としない。
 神に跪いてたまるか。
 運命に屈してたまるか。
 自然の摂理に逆らい生まれた人工の天才たる鍵屋崎直が、神や運命などという漠然としたものに屈するわけにはいかないのだ。
 僕の脳内には神や運命が存在する余地がない、従って僕の内部には神も運命も存在しない。脳味噌が隙間だらけの連中は神や運命の重しで頭が飛ばないよう押さえつけておくがいい、何故なら僕は天才だからその必要がないのだ。神も運命も隙間を好むものだ、空虚な洞を好んで忍び込みいつのまにか根を下ろし底深く巣食ってしまうものだ。そうなったらもう一生死ぬまで神や運命と付き合っていかねばならない、添い遂げねばならない。運命と心中するなど僕はごめんだ。神や運命などというまやかしに付け込まれぬため心に隙間を作らぬよう用心すべきだ。

 僕の心の隙間はサムライが埋めてくれる。  

今の僕にとっては彼はかけがえのない人物だ。
他のなにものにも代え難い人間だ。
言葉で言い尽くせないほど大切な人間というのは決して大袈裟な表現じゃない。彼の存在を隣に感じじかに彼に触れ存在を確かめることで大いなる安堵を覚える、彼に寄りかかることで誰かに支えられているという心強い実感がもてる、力強い抱擁や接吻をうければ時に愛情に溺れそうになる。生まれて初めて味わう庇護される安堵と心地よさからともすると脱け出したくないと思う自分がいる。ずっとこうしていたい、ずっと抱かれていたい、腕から流れ込む人肌のぬくもりと重ねた唇を介して伝わる熱にひたっていたい。触覚が他のすべての感覚を補い増大し触れ合った部位からサムライのすべてを貪欲に吸収し同化する。
 サムライの体液も呼気の熱さもすべて、一滴も一呼吸も漏らさず吸収し肌と粘膜は性感帯へ成り代わる。
 汚れた欲望か純粋な願望か判断の付かぬ疼きが体の奥底から込み上げてたまらずサムライに縋り付く。我に返ってから後悔する。僕は一体何をしている?だらしなくサムライに寄りかかり熱っぽく物欲しげな目で彼を仰ぎキスをねだっている?馬鹿な。理性はどこへやった、鍵屋崎直。サムライに欲情してるなどと断じて認めたくはない、認めたくはないが真実なのだから仕方ない。売春班の経験は今だ甚大なトラウマとして根強く残っている。数ヶ月が経過した今も生々しく鮮明な悪夢に苛まれる、売春班で強制的に客をとらされ慰み者にされた忌まわしい日々の記憶が寝ても覚めてもフラッシュバックし僕を苦しめるのだ。不快にがさついた手の感触も生温かい唇と蠢く舌の感触も口に含んだペニスの生肉の赤も青臭い苦味もすべてが厭わしい。僕にとって売春班を辛酸を舐めた日々は決して過去のものに成り得ない、いつまでたっても癒えない生々しい悪夢として今も厳然とそこに存在するのだ。コンドームもろくに装着せず挿入し乱暴に揺さぶり勝手に射精し満足する、僕の客はいずれも驚くべき自己本位な人間ばかりだった。身を引き裂く激痛と屈辱を伴う不潔で不快な性行為。僕は何度も何度も吐いた、夜中びっしょり寝汗をかいて悲鳴を上げて飛び起きた。僕はいまだ売春班の悪夢から逃れられず体は他人との接触を拒絶している。潔癖症だって完全に治ったわけじゃない。にも拘わらず僕はもうサムライへの欲望をごまかしきれない、サムライに欲情している事実を否定できないところまで追い詰められている。

 キスを、してくれればよかったのだ。

 あの時キスをしてくれればよかったのだ。
 ひとおもいに唇を奪ってくれればよかったのだ。
 サムライが行動に出たらこちらも対処することができた、この先の対策を立てることができたのに……結局体の火照りを癒せぬまま眠りについた。敏感な肌はシーツの感触すらまだるっこしい快感に昇華した。
 ろくに眠れぬまま朝を迎えた僕を待っていたのは、例の大音量のベルだった。
 「何事だ?」
 隣のベッドから衣擦れの音とともに気配が伝わる。
 まだ夜も明けきらぬ藍色の闇の中、隣のベッドに上体を起こした人影が緩慢に天井を仰ぐ。起きた直後だというのに切り替え早く眠気が消し飛んだ剣呑な双眸から鋭利な視線を放ち、ベッドに片膝立ったサムライは胡乱げにあたりを警戒する。
 研ぎ澄まされた第六感が即座に異常を感じ取ったものらしい。
 僕はサムライを無視し得体の知れぬ胸騒ぎに浮かされながら格子窓の向こうに凝視を注ぐ。
 等間隔に鉄格子を嵌めた矩形の窓のむこう、コンクリ打ち放しの殺伐とした廊下に囚人が群れている。
 わけもわからず興奮に浮かされ色めきだつ囚人らを看守が警棒を右から左へ振り誘導し整列させる。
 異常事態が起きている。
 恒例の点呼をとるにしては様子がおかしい、警棒を右から左へ大仰な動作で振りぬく看守の顔にも余裕が感じられず目つきが殺気走っている。東京プリズンで何か、僕の予想だにしない事態が今まさに起きつつある。
 先に動いたのはサムライだ。
 喧騒沸き立つ格子窓の向こうを鋭く一瞥するや否や木刀を引っ掴み猛然と飛び出す。
 たちどころに毛布を跳ね除けスニーカーをつっかけ一陣の疾風と化し房を突っ切る。
 鉄扉に至るまで二秒とかからない迅速な行動。
 咄嗟に木刀を掴んだのとは逆の手でノブを包むも、ふいに僕に背中を向け動きを止める。
 こちらに向けた背中に張り詰めた弦の如く緊張が漲る。
 上着越しに浮く肩甲骨が悲壮な決意を漂わせる。
 「案ずるな、直。お前には俺がいる」
 僕を落ち着かせようと胸中に渦巻く不安を押し殺し冷静沈着な声音を装う。僕はベッドに上体を起こした姿勢で硬直し手を伸ばせば届きそうな距離の背中を凝視する。
 サムライは意を決しノブを捻る。
 ノブがガチャリと音たて半転、軋み音を上げながら重厚な鉄扉が開く。
 分厚い鉄扉のむこうに視界が拓ける。
 雑音が膨らむ。鳥肌立つ戦慄。
 「僕も行く」
 サムライひとりで行かせてなるものか。
 毛布を跳ね除けスニーカーをはき廊下に歩み出たサムライを追う。
 廊下に転げだした僕を待ち受けていたのは、殺気立った喧騒。
 廊下全体が異様な雰囲気に呑み込まれている。
 活発な喋り声に下品な悪態が入り混じり至る所で喧嘩が始まり乱闘に発展するまでに看守が仲裁に入る。
 乱闘が勃発する寸前、尖った眼光ぶつけ激しく揉みあう囚人らのあいだに割って入った看守が哀れを誘う半泣きで喋り散らす。
 「おねがいだから喧嘩はやめてください皆さんおかんむりなのもわかりますがもっと冷静になって、ね、深呼吸深呼吸……」
 見覚えある顔。
 昨日展望台に安田を助けに駆け付けた若い看守だ。
 頼りない童顔を今にも泣きそうに崩し、無意味に手を上げ下げし激発寸前の囚人らを必死に宥めるも効果は薄く、当人らにはまったく相手にされてない。
 「引っ込んでろよはじめちゃん、俺らは朝早くからやかましいベルに叩き起こされて最高にむかついてるんだ。真ん中に入ると怪我するぜ。てめェの頭の中身が何色か知りたくなきゃ頭抱えて隅っこでぶるってろよ」
 「今日のベルは特に癇にさわるぜ、頭ン中金槌でガンガンやられてるようでさっきから頭痛がしっぱなしだ。おまけにいつまでたっても鳴り止まねーときた。おいおいこりゃどういうこったよはじめちゃん、お馬鹿な俺らにもとーぜん納得いく説明してくれるんだよなあ?」
 「ふざけたベルだぜ、どこで鳴ってやがんだちきしょう。スピーカー全部ぶっ壊して回ればちょっとは静かになるだろうさ。そうなりゃ話が早い、めェら鉄パイプもってこい一揆だ一揆!俺らの眠りを邪魔したあげく鼓膜をぶち破ろうとガンガンがなりたてるクソ憎たらしいスピーカーを木っ端微塵に分解してやらあ!」
 とても未成年とは思えない荒んだ顔つきの囚人らが制止に入った看守をよってたかって小突き回す。
 屈強な囚人らに玩具にされ頭や肩や尻を小突かれ既に半泣きの状態から号泣の準備に入りつつある看守だが、涙腺が決壊する寸前で凄まじい忍耐力を発揮し涙を押しとどめ、スピーカーを破壊して回ると徒党を組んで気勢を上げる連中に「お願いだからやめてください修理費いくらすると思ってるんですか、またお給料削減されちゃうじゃないですか!」と哀願する。
 「蒙古斑のとれねー坊やはママのおっぱい吸ってな!」
 うるさくつきまとう看守に業を煮やした一際屈強な囚人が思い切り腕を振りぬく。
 水平に薙ぎ払われた看守は勢いを殺せず床に転倒、ろくに受身もとれず無防備に床に這う姿が周囲の失笑を買う。
 肘でも強打して擦りむいたのか床に腹這いになった姿勢で痛そうに顔を顰める看守、野次馬ごった返す廊下のど真ん中で醜態を晒した彼に遠慮会釈ない揶揄と中傷とが浴びせられる。牛乳を吸った雑巾のように床にへばりついたままびくともしない看守に慎重に歩み寄る。
 打ち所が悪かったのか?
 ひょっとしたら脳震盪でも起こしたのかもしれない。
 「生きているなら返事をしろ」
 優しい言葉をかけるより先に生死を確認する。
 床に倒れ伏せた看守が「うぅ~ん」と寝ぼけた声を上げる。どうやら生きてはいるらしいと息を吐く。
 床に手を付き上体を起こした看守が小突かれぼろぼろになった風体で漫然と僕を見る。その間抜け面に何かがひっかかる。
 以前、昨日展望台で見かけるより以前に彼とこうして会った事があるような……既視感が記憶を刺激する。
 互いにまじまじと顔を凝視するうち数ヶ月前の記憶がありありと蘇る。
 売春班初日の夜、仕事を終えた僕が廊下で力尽き一歩も動けず蹲っている所に通りかかった看守が肩を貸してくれた。
 その看守はまだ学生でも通じそうな頼りない童顔に人のよさそうな表情を浮かべ甲斐甲斐しく歩行を補助してくれた。
 足腰の立たない僕が危なっかしくよろけるのを支え、気の遠くなるほど長い廊下を一緒に歩いてくれた。
 「君はあの時の……」
 絶句する。語尾が不自然に途切れる。
 どうして昨日気付かなかったのだと自分に呆れる。
 数ヶ月前と同じ顔同じ表情で彼はこちらを見詰めている。
 突然声をかけてきた僕に対する不審と不安の色を覗かせこちらの様子を窺うも、僕の顔を凝視するうちにやはり記憶が蘇ったらしくその顔に驚愕の波紋が広がる。
 「君はあの時の!」
 鸚鵡返しに言う。間抜けなやりとりに空気が弛緩する。
 僕は戸惑いを禁じ得ず妙な心地で名も知らぬ看守を見詰める。
 一言では表現できない複雑な心境だ。
 数ヶ月前たしかに彼には世話になった、彼がたまたま通りかかって肩を貸してくれなければ僕はあのまま廊下に行き倒れ朝まで放置され凍死するしかなかったのだ。
 下心の伴わぬ純粋な好意から僕を助けてくれた彼には感謝している……と、嘘でも言うべきだろうか。 
 だが僕にはプライドがある。
 売春班初日、足腰立たないほどに痛めつけられ廊下にへたりこんでいた事実はすみやかに抹消したい。
 目の前の看守は数ヶ月前、売春班の業務を終えた僕が廊下で行き倒れているところを目撃した証人だ。
 僕に同情し房まで送った張本人だ。
 彼と再び顔を合わせた事に喜びとも嫌悪ともつかぬ複雑な気持ちを抱くも、囚人に小突かれボロボロになった風体があまりにみじめで哀れを誘い、眼鏡のブリッジにふれ努めて冷静に言う。
 「いつまで廊下の中央に座り込んでいる。通行の邪魔だ」
 できるだけそっけなく吐き捨て、無造作に手を突き出す。
 看守が申し訳なさそうに会釈し、おそるおそる僕の手をとり重い腰を起こす。
 「ととっ」
 立ち上がる際にバランスを崩しかけ少しよろめく。
 看守を立ち上がらせてから素早く手を引っ込め神経質にズボンで拭う。他人に触れるのはまだ慣れない、他人と肌を接する行為に生理的嫌悪を感じる。突き放すように手を引っ込め改めて看守と向き合う。
 「借りは返したぞ」
 「へ?」
 ……どうやらこの看守は頭の血の巡りが悪いらしい。
 受け答えがいまひとつ要領を得ない。
 目を点にし当惑する看守、僕の言葉が何を意味するのかわからず首を傾げるさまに苛立ちが募る。
 「君、あの時の少年だよね。数ヶ月前廊下に座り込んでいた……よかった、ずっと心配してたんだよ。売春班がなくなってからも君がどうしてるかずっと気になって、でも僕はまだ入ったばっかで君の名前も房の番号も知らないし、東棟だけでも一万人近い囚人がいる中から再びさがしだすのは不可能だろうって最近じゃ諦めてたんだ!元気そうでよかった、本当に……」
 興奮し両手を広げ口早に捲くし立てる。
 僕との再会を単純に喜んでるらしく目が快活に輝き出し声が生き生きと弾む。本心から僕を心配していたというのは事実らしい。
 「そうか。僕は君ごときとるにたらない存在のことなど記憶の彼方に忘れ去っていた。たまたま偶然通りかかっただけの無個性で平凡な看守の偽善的行為など僕の内部ではまったくもって重要な位置を占めない、よって恩を着せたつもりになっているのなら思い上がるなと指摘する」
 「君の名前は?」
 「人の話を聞け」
 「僕の名前は鈴木はじめ、これでも一応看守なんだ。……見ればわかると思うけど」
 鈴木と名乗った看守は情けなさそうに苦笑し泥と足跡に塗れた制服を見下ろす。
 先刻の扱いからも容易に察せられるが、若く頼りない鈴木看守は囚人に舐められて格好の玩具となってるらしい。
 ロンといい彼といいお人よしは損をするのが東京プリズンの法則なのか?
 「逆に質問だ鈴木看守。この馬鹿げた騒ぎは何だ?僕の体内時計が正確なら起床ベルが鳴る時刻にはまだ十分ほど早いぞ」
 東京プリズンに来てから身に付いた規則正しい習慣、朝は五時に起床し顔を洗い食堂へ向かう日々の習慣は既に細胞ひとつひとつレベルにまで浸透している。
 僕が今朝のベルに違和感を覚えた原因もそこにある、つまりは外的要因で体内時計に誤差が生じたことによる不快感だ。
 囚人と看守が交わりがやがやと騒々しい廊下のただなか、僕の顔色をちらちら窺いつつ鈴木が喋る。
 「僕もよくわからないんだけど今日は朝一番で重大な発表があるらしくって……廊下に囚人を集めて合図があるまで大人しく並ばせておくようにって上から言われたんだ」
 「重大な発表?なんだそれは」
 鈴木がふるふると首を振る。末端の看守には発表の内容が伏せられているらしい。
 胸騒ぎがいよいよ本格化する。殺気立つ喧騒にも増して僕を不安にさせるのは、事件の前には必ずといっていいほど起こるこの胸騒ぎだ。理屈では説明できない嫌な予感がじわじわと染みてくる。予想外の時刻に鳴り響くベル、異常を悟り廊下に溢れ出す囚人、右から左へ警棒を振りぬき囚人を誘導する看守……
 空気が静電気を孕んでいるかのように肌を接する空間がちりちり燻る。
 負の因子を帯び帯電した空気の中、緊張に顔強張らせる囚人らを見渡し推理を練る。
 「前にも同じことがあった。忘れもしない但馬冬樹の所長就任演説の日、僕らは強制労働が始まる前に大音量のベルで叩き起こされた。明け方のベルは異変の前触れ、不吉な警鐘だ。但馬が来た時と同じ時間帯にベルが鳴ったということは……」
 その時だ。
 唐突にスピーカーの回線が入り、ブツ切れのノイズが混じる。 
 最前まであれだけ騒がしく各所で小突き合いが勃発し、罵声と怒声とがひっきりなしに飛び交っていた廊下がしんとする。
 水を打ったような静寂。首の後ろに氷の切っ先をつきつけられたような悪寒が走り、取っ組み合った囚人らが即座に動きを止める。
 不自然な姿勢で停止した囚人らが揃って斜め上方を仰ぎ見る。
 鞭打たれたような反応の速さ、食い入るような凝視。
 囚人らが一斉に顔をあげ固唾を呑んで凝視を注ぐ場所にはスピーカーが設置されている。音声はそこから漏れてくるのだ。

 ジ、ジ、ジ……耳障りなノイズが神経をやすりがける。
 死にかけの蝿の羽音に似て弱々しいノイズがやがて収束し、スピーカーの網目から神経質に尖りきった声が発される。

 『囚人諸君に告ぐ、囚人諸君に告ぐ。私は東京少年刑務所の所長にして最高権力者の但馬冬樹である。廊下にお集まりの諸君はさぞかし面食らっていることだろう。お察しのとおり起床ベルが鳴る時刻にはまだ若干早い、安眠妨害の無粋なベルに腹を立て看守に食って掛かるものもいるだろう』

 廊下の惨状を透視するかのような台詞が囚人の反感を煽る。 

 「わかってんならこんなふざけた時間にベル鳴らすんじゃねえ犬にさかるクソ所長が、愛犬失ったショックでとうとうイカレちまったのかよ!」
 「とっとと引退しろ!」
 「てめェなんざハルと一緒に骨壷に入ってりゃよかったんだ、そしたらあんた専用の廟でも作って祭ってやったのによ!」
 天井のスピーカーに向かいさかんに野次が飛ぶ。
 怒髪天を衝いた囚人らが怒りの矛先をスピーカーに転じ勢い任せに拳を突き上げ手当たり次第に物を投げ付ける。騒然とした廊下の中央、荒れ狂う囚人に揉みくちゃにされ目を回した鈴木がだらしなく僕によりかかる。
 「直!」
 振り返る。
 現状の偵察に赴いたサムライが取り急ぎ僕のもとへ帰ってくる。
 スピーカー越しの演説は続く。
 ただ淡々と、必要事項のみを述べる。
 『前おきはぬきだ。本日は諸君らに重大発表がある。諸君らの今後の生活に大きな影響を与える発表だ。東京少年刑務所の囚人ならば決して無関心ではいられない深刻な事態が発生したのだ。今日はその詳細を話すべく緊急に召集をかけた。一同至急中庭に来られたまえ』
 機械を介した声には疲労が澱んでいた。
 ハルを亡くしたショックは計り知れず、所長はいまだ立ち直れず医務室に通い詰めカウンセリングにかかっているという。
 だが僕は、その病み衰えた声の底から噴き出す毒々しい瘴気を感じた。 
 機械を介して金属的に響く所長の声は無気力に弱り果てているようでありながら、その実厭わしいほどの精力が地殻で沸騰するマグマの如く滾り立ち、常に理性の指針がブレているかのように音程が一定せず、沸々と迸る狂気が聞くものすべてを戦慄させた。
 暴動が一転鎮まる。
 廊下に詰め掛けた誰もが囚人看守問わずスピーカーから迸る狂気にあてられる。
 鼓膜を刺し貫く金属質の声は一方的に言いたいことだけ言って回線を断ち切った。
 閉じられた回線から再び音声が漏れ出ぬかと聴覚を研ぎ澄ますも、演説の余韻が大気に溶けて漂うだけで後には何も聞こえてこない。
 「………胡乱だな」
 所長の正気を訝しむふうにサムライが眉をひそめ腕を組む。
 沈黙したスピーカーを見詰める彼に寄り添い、詰問に近い口調で性急に疑問を述べ立てる。
 「重大発表とは何だ?所長は何を企んでいる?東京プリズンに持ち上がった一大事とは何だ、僕らはこれから……」
 「とりあえず中庭に行けばわかるんじゃないかな?」
 鈴木が小さく挙手し遠慮がちに口を挟む。
 声を発したことで今初めてその存在に気付いたとばかりサムライが当惑する。
 「彼のことは気にするな。広義では僕の知り合いと言えなくもないがどちらかといえば他人に近い」
 詳細は略し簡潔に紹介すれば釈然としない顔で、しかし一応は納得したというふうに頷いてみせる。武士に二言はない。好奇心に駆られ根掘り葉掘り詮索するのは武士にあるまじき軽佻浮薄と自重したらしい。
 周囲の囚人が看守の先導に従い従い不承不承移動を開始する。
 所長がもったいぶって告げた「重大発表」とやらに浅からぬ関心を示し中庭に向かいだす雑踏に紛れ、僕とサムライとついでに鈴木も中庭に出る。

 中庭には既に東西南北全棟の囚人が集結していた。
 見渡す限りコンクリ張りの中庭を全棟あわせ三万人もの囚人が占領するさまは壮観の一言に尽きる。
 肌の白いもの黄色いもの浅黒いもの、さまざまな人種と言語が入り交じり混沌の坩堝と化す中庭の正面にはいつかとおなじ演台とマイクが用意されている。
 朝早くから緊急集会を告げるベルで叩き起こされた囚人の中には腹立ちを隠せず不満を訴えるものもいたが、「重大発表」の内容になみなみならぬ関心を抱くものが全体の圧倒的多数を占める。
 囚人は好奇心旺盛な生き物だ。
 野次馬根性むき出しで我先にと中庭に詰めかけた囚人たちの間に割りこみ先へ進む。
 「はぐれるな」
 「子供扱いするな」
 「俺の手を握れ」
 先頭を歩くサムライが僕に手をさしのべる。
 その手をとろうとし、ためらう。
 昨日の出来事があざやかに蘇る。キスを迫る僕を拒むサムライ、至近距離で感じた息遣い、頬を包む手のぬくもり……
 「………君は僕の保護者か?不愉快だ」
 さっと手を退ける。
 サムライが妙な顔をするのを無視、努めて平静を装いも動揺が足に出て歩調が速まる。朝起きてサムライの顔を見たときから過剰に意識していることに気付き態度が硬化する。
 「お、おいてかないでくださいー!」行く手を阻む人ごみに邪魔されつつ必死に追いすがる鈴木を無視しサムライに並ぶ。
 サムライが戸惑いを隠せず僕の横顔に一瞥くれる。
 「何を怒ってる?」 
 「君の不甲斐なさだ」 
 「昨夜の事か」
 「それ以外に何がある」
 会話が途絶える。二人の間の空白を周囲の喧騒が埋める。
 「お前を大事にしたいと思うのが、そんなに悪い事か」
 己の足元を見詰めサムライが呟く。
 無味乾燥なコンクリートに己の心を投影しているのか、その顔はひどく厳しい。
 苦悩の色濃く俯く眉間が悲壮な陰影を刻む。
 サムライの横顔に目を奪われる。
 どこまでもひたむきな眼差しでサムライが言う。
 「愛しいからこそ大事にしたいと思う弱気を嗤うか」
 眼差しが揺れる。横顔が歪む。
 胸に悲哀を抉りこむ真摯な問いに僕は言葉を失う。
 周囲の喧騒が急激に遠のき潮騒の雑音と化し世界に僕と彼ふたりだけとなる。
 雑音から切り離された真空の世界で対峙し互いの目を見詰める。
 サムライの顔から、目から、唇から視線を放せない。
 彼が欲しいという欲求を抑えきれない。
 体の奥底から名伏しがたい衝動が突き上げ、口を開く。
 「君の発言は矛盾している。僕が好きなら何故キスしなかった、僕に恋愛感情なり性欲なりを抱いてるなら僕が許可した時点でキスすればよかったんだ。僕がいいと言ったんだからいいんだそれは、君がためらう必要なんかどこにもない、僕と君の間で合意が成立し了解がとれれば他人など関係ない。僕は他の誰でもなく君の気持ちが知りたいんだ、僕に対し抱いてる感情を知りたいんだ」

 なぜサムライは僕自身の許しを得てもキスしない?
 なぜそこまでかたくなに拒み続ける?

 無意識に詰め寄り挑むように目を見据える。
 逃げ場を塞ぐように正面に立ち疑問をぶつける。
 「僕が欲しくないのか?僕を欲しいとは思わないのか?」
 君が欲しいと思っているのは僕だけなのか?
 これはこの気持ちは僕の一方的なもので、サムライはそもそものはじめからして僕に欲情などしてないのか?
 黙然と佇んだサムライがゆっくり口を開く。
 どうすれば僕に気持ちが伝わるか傷つけずにすむか逡巡しつつ、ためらいがちに。 
 「俺はお前を、」
 「おやお二方ともお揃いで。今日は良い日和ですね」
 場違いに呑気な声が割って入る。 
 二人同時にそちらを振り向く。
 自然と二つに分かれた雑踏の中央を威風堂々たる大股でこちらにやってくるのはいかにも胡散臭い人物。
 きちんと七三に分けた光沢ある黒髪、聡明に秀でた額、目尻の垂れた柔和な双眸とに絶やさぬ微笑み。
 牛乳瓶底の伊達眼鏡が滑稽な印象を強調する浅黒い肌の男が、なれなれしく片手を挙げこちらに歩み寄る。
 南の隠者、ホセ。
 「何用だ?」
 サムライが木刀に手をかけ警戒する。
 油断なく双眸を光らせ牽制するもホセは全く意に介さず歩調を落とす気配もない。
 久しぶりに姿を見せた南の隠者は相変わらず上辺だけにこやかに真意の読めない笑みを湛えている。
 悠揚たる足取りでこちらに接近するや、不審な行動をとれば即座に切り捨てるといわんばかりに抑制した殺気を放つサムライの手前で立ち止まり、大袈裟に胸に手をあててみせる。
 「知らぬ間柄でもないというのに随分なご挨拶ですね。我輩傷付きました。これでも知り合いを見かけたら挨拶する最低限のデリカシーは備えているつもりですが」
 いたく傷心の素振りで嘆かわしげに首を振るさまが嘘くさい。
 「親しく挨拶を交わすほど友好的な関係だったか?」
 「ご冗談を。彼とはペア戦で一戦交えた仲です。同じリングに上がり正々堂々拳を交えたもの同士芽生える友情もあります」
 「うせろ下郎」
 今にも木刀を抜き放たんばかりに一歩を踏み出しサムライが吐き捨てる。
 とりつくしまもないあしらいにホセはおどけて首を竦めてみせるも、反省の色などかけらもなく嬉々として話を続ける。
 「今日は面白い見世物が拝めます。いやあ、お二人は運がよい。東京プリズンの歴史が劇的に変わる今日この日に直接その瞬間を目撃できるのですからツイてるとしかいいようがない。これはある意味ペア戦百人抜き達成以上の快挙、否、比べるのもおこがましいほどの歴史の転換点です。何せあちらはたかだか娯楽試合、こちらは国と国との思惑が水面下で衝突する政治的陰謀劇。前者が東京プリズン内部で行なわれる囚人しか知らぬイベントなら、こちらは世界規模で影響が波及するやもしれない歴史的事件です」
 饒舌に捲くし立てるホセの表情を観察し異変を悟る。
 今日のホセは様子がおかしい。
 いつもおかしいといえばそれまでだが今日は特に上機嫌で浮かれている、気分が高揚している。
 大袈裟な身振り手振りも朗々と張り上げる声も分厚いレンズの奥で精力旺盛に輝く目も、全身に力が漲り燃えているのがわかる。
 全棟三万人が馳せ参じた中庭の中央がまさしく世界の中心であるかのように恍惚と酔い痴れ、牛乳瓶底眼鏡の奥の目に熱狂に沸かせ、ホセは我こそ主役とばかり陶酔の面持ちで天に両手をさしのべ感嘆符を連呼する。
 「カルメンに会える日がまた一歩近付いた歓喜に我輩の胸ははち切れそうです。おお、うるわしのカルメン!これは愛するワイフに捧げる革命の序曲、ダンカイロが奏でる妙なる前奏曲です。我輩はもう何年もこの日を待ち侘びていました。東京プリズンが覆るこの日を、ダンカイロが表舞台に躍り出る記念すべき今日の良き日を……これでやっと、私の野望が現実となる……」
 最後は口の中だけで呟くにとどめ、すっと興奮を鎮めて僕とサムライをかわるがわる見る。
 最前の高揚とかけ離れ落ち着き払った物腰が底知れない不気味さを醸す。
 取り澄ました微笑みの奥、周到に練られた陰謀が満を持して動き出す。
 ホセの奥底で胎動していた陰謀が今はまだ非常に曖昧に、しかし現実に形をとり始める。
 背筋に悪寒が走る。
 あるいはそれは戦慄。
 完成形に近付いた陰謀をもはや隠しもせず匂わせながら、ホセは丁寧に会釈する。
 「ではこれにて失礼。余計なお世話ですが、この後何が起こっても決して取り乱さず事態を静観するのが賢明です。……取り乱して注意を引いたら最後銃殺されてもおかしくない。かの国の軍人は平気で人を射殺しますからね」
 「かの国?軍人?待てホセ、それはどういう……」
 謎めいたキーワードに好奇心を刺激されホセを追って雑踏に飛び込みかけた僕をサムライがおしとどめる。
 余裕を窺わせる悠長な動作で顔を上げ、僕とサムライとを意味深に見比べ眩く白い歯を零す。

 『Adios』
 アディオス。
 スペイン語の別れの言葉。

 流暢なスペイン語で別れを告げたホセが優雅に身を翻し去っていく。
 引き戻された僕の目の前でホセが雑踏に紛れあっさり消失する。
 あとにはただ無国籍の喧騒が空間を埋めるのみ。
 一体ホセは何を企んでいる、何を知っている?
 脳裏に疑問が増殖する。
 ダンカイロとはビゼー作オペラ「カルメン」に出てくる密輸商人の名前だがそれがホセの陰謀と何の関わりをもつ?
 去り際の爽やかな笑顔が瞼裏に蘇る。
 ホセは言った、スペイン語でアディオスと。
 「スペイン語でもっとも有名な別れの挨拶『Adios』だが、現地ではこれはあまり良い印象をもたれない。何故ならこれは『あなたとはもう会わない』という絶縁の意味にもとれるからだ。……ホセはわざとこの言葉を使ったのか?僕らと会うことはこの先二度とないと暗に含めて?」
 「考えすぎだ」
 そうは思えない。別れ際のホセはかすかな同情を含んだ目で僕を見た。まるで不吉な運命を予言する隠者の如く……
 ホセはこの先、東京プリズンで何が起きるか知っている?
 込み上げる不安に苛まれた僕は、サムライの呟きに素早く顔を上げる。 
 「見ろ」
 サムライが正面に顎をしゃくる。
 中庭の正面に設えられた演台に看守を伴い歩いてくるのは、三つ揃いの高級スーツを身に付けた中年男性。
 針金のような痩身と奇妙にぎくしゃくとした動きが病的な印象を与える男は、両脇の看守に支えられ演台の下に辿り着く。
 「所長だ」
 「しばらく見ないあいだに随分痩せたな。あれでは針金を通り越し爪楊枝だ」
 実際力を込めれば今にもへし折れてしまいそうな印象だ。
 三つ揃いの高級スーツで身を固めていても、げっそりこけた頬と病み衰えた顔から漂う死臭は隠し切れない。
 所長はしばらく見ないあいだに十歳は老け込んでいた。
 銀縁眼鏡の奥で嗜虐の光を湛え、舐めるように囚人ひとりひとりを見渡していた双眸は陰惨に荒み、やつれきった顔と丸めた背からはまったくもって覇気が感じられない。
 ふと所長が大事そうに胸に抱いてるものに目を留める。
 白くなめらかな陶器の壷……
 「骨壷だと?」
 馬鹿な、所長は本気で気が違ってるのか?
 改めて正気を疑う囚人一同の前に、所長は一段一段タラップを踏みしめ大儀そうに姿を現す。胸には後生大事に骨壷を抱えている。
 所長がいとおしげに骨壷の表面をなでる。
 生前のハルの毛並みを慈しむのとまったく同じ動作で壷を愛撫し、呟く。
 「ハル……骨となってもまだ、こんなにもお前を愛している……」
 眼鏡の奥の双眸が恍惚とぬれる。弛緩した口元から犬歯が覗く。
 うっとりと骨壷に頬ずりする所長の異常さに囚人がひく。
 骨壷を抱え壇上に立った所長が、中庭を見回し深呼吸する。
 「諸君、朝早くからご苦労。重大発表がある」
 第一声を放つ。
 「先日私の愛犬ハルが誘拐され非業の死を遂げた。犯人はこの中にいる。しかし、名は問わない。この場で自首をすすめたところで素直に聞き入れるとも思えない。ハルは聞き分けの良い犬だった。私の命令ならなんでも素直に聞き従ったが、君たち知能と忠誠心でハルに劣る発情した家畜どもに人語が通じるなどと甘い考えはもはや通用しない。君たちが人語を解するならば私がハルの失踪を告げた時点でリアクションがあったはずだ、犯人は酌量の余地があるうちに大人しく名乗りでてハルを返したはずだ。しかしそれをしなかった、ハルの無事を祈り帰りを待つ私の説得を聞き入れずとうとう哀れなハルを殴り殺してしまったのだ!」
 所長が涙声で叫び膝をつく。
 骨壷をひしと抱きかかえ泣き崩れる所長、哀れを誘う嗚咽が地を這うように低く流れる。
 発狂せんばかりに激しく身をよじり声にならぬ呪詛を吐く所長の醜態に、囚人はおろか看守までもが鼻白む。
 「朝っぱらから叩き起こされて中庭に集められたと思えばハルの追悼式典かよ?やってらんねー」
 「所長のことだから骨壷に添い寝してみじめったらしくハルを思い出してるんだろうさ」
 「本物の変態だな」
 「ハルの骨を粉にして呑んでこれで私と一心同体だとかやってそうだ」
 「斬新な健康法だな。効き目あンのか」
 「カルシウムは補給できそうじゃんか」
 口さがない囚人たちが演台に崩れ落ちる所長に失笑を浴びせる。
 顰蹙を買った所長はしばらく嗚咽まじりに腕の中の骨壷に何事か語りかけていたが、妄想のハルに受け答えするかのように首肯し、マイクのつまみを回しボリュームを最大に上げる。

  『静粛に!!!!!!!』
 
 「ーっ!?」
 容赦なく鼓膜を刺し貫く金属音にたまらず耳を覆う。
 所長の様子は尋常ではない。
 肩を浅く上下させ不規則に呼吸し、狂気にぎらぎらと光る目であたりを睥睨する。
 『私はハルの仇をとると決めた。必ずやこの中からハルを殺した犯人を見つけ出し処分する、ハルがうけたのと同じかいやその億兆倍の苦しみを味あわせ嬲り殺してやると心に決めた。ハルは私のすべてだった、我が最高の伴侶にして忠実な愛犬にして半身の親友だった。ハルは私を心から信頼しきり私もまた心からハルに愛情を注いだ、私とハルとは身も心もひとつに繋がった最高の伴侶だった。私とハルとは主従の関係を超越し種族の壁をも乗り越えた純愛を育んでいたのだ……貴様ら愚かな家畜どもには決してわかるまい、この高尚な愛が!身も心も捧げ尽くしたパートナーに先立たれる絶望が、むなしさが!!』
 失意のどん底を這い回り絶望の味を噛み締め、今や完全に狂気の虜と化した所長が大量の唾飛ばし叫ぶ。 
 『……どれだけあがいたところでハルは戻ってこない』
 声が突如消沈する。狂気が癒えて理性を取り戻したかに見える沈静ぶりで所長は淡々と言う。
 『私は心の底からハルを愛していた。しかしハルはもう戻ってこない、できることは限られている。私はハルが生きた証を残そう。ハルはここで死んだ。この砂漠の監獄で何者かに殴り殺され非業の死を遂げた。ここが終焉の地ならば、パートナーの私にはそれを永久に形に残し記憶にとどめよう』
 再度優しい手つきで骨壷をなで、尊大に顎引きあたりを威圧する。
 『砂漠にハルの墓を作る』
 は?
 「砂漠に犬の墓?……何言ってんだ、頭おかしいんじゃねーか」
 「人間サマだってポイポイ穴に放り込まれてるってのに、犬畜生ごときのためにわざわざ墓なんて作ってられっかよ」
 その発言は囚人の猛烈な反発を招きブーイングが爆発する。
 しかし周囲の反応の悪さなどまったくもって意に介さず、夢うつつの境地で所長は続ける。
 『ハルの墓は巨大でなければいけない。永遠に人々の記憶に残る偉大なものでなければならない。ハルの一生と悲劇の死を印象付けるため、墳墓を建てる』
 所長は言った。

 『東京プリズンに核発電所を建てる』
 ハルの墓碑を兼ねて砂漠の真ん中に核発電所を建てると、
 ハルの死を忘れぬために。

 次の瞬間、天地がひっくり返るような暴動が起きた。
 所長の一言がもたらした衝撃は絶大だった。ハルの墓を作ると聞いたときは小馬鹿にした薄笑いで受け流した囚人どもが、体に害を及ぼし発ガン率を高める核発電所が身近にできると知った途端目の色かえて轟々と非難を浴びせ始める。 
 「寝言は寝て言え!核発電所ってなんだよおい囚人の許可もとらず勝手に決めんじゃねーよ、万一事故があったら真っ先に放射能浴びんの誰だと思ってんだよ、放射能が漏れて被爆したらてめえ責任とってくれるのかよ!?」
 「チェルノブイリの二の舞だ……頭の毛が抜けて二目とつかぬ容姿になっちまったらどうすんだ、娑婆の恋人だって見分けがつかねーよ!」
 「大体発電所とハルの墓となんの関係があんだよ、全く別もんじゃねーかごっちゃにすんなよパラノイア!」
 発電所を建てるという決定に激怒した囚人らが抗議の声を発し波打つように演台に押し寄せる。
 極端に沸点が低い囚人どもが演台に駆け上り所長を殴り倒そうとして逆によってたかって看守に止められる、しかしそれでも看守の警棒で殴打されコンクリートを舐める囚人を飛び越え演台に向かう囚人が後を絶たず中庭は大混乱を極める。
 「「退陣!退陣!」」
 「「辞職!辞職!」」
 「俺たちをハルにも劣る家畜と罵り人権を踏み躙るイカレ所長に退陣を要求する!」
 「てめえも今骨壷に入ってる犬と一緒に死んでりゃよかったんだ、そしたら骨壷ン中で末永く一緒に暮らせたのによ!」
 「いっそ今ここでハルの後追い自殺しちまえ、そしたら俺らに迷惑かかることなく発電所の話も立ち消えになる!」
 「骨壷を抱いて翔べ、そして死ね!高さ三メートルの演台から気合で飛び降り自殺しろ!」
 罵声と野次とが叫喚の渦を成す中、僕は事態の推移についていけず呆然とするしかない。
 「東京プリズンに発電所を建てるだって?馬鹿な、とても常識を兼ね備えた正気の人間の発想とは思えない。所長は精神分裂病になってしまったのか?あの支離滅裂な言動はそうとしか思えない」
 「狂っている」
 独白する僕の隣でサムライが苦々しく呟く。
 狂っている。
 所長も看守も囚人もこの場に居合わせた人間全員が……否、東京プリズン全体が狂気に侵されつつあるのを肌で感じる。
 所長の一方的な決定に反発した囚人の大群が凄味ある怒声を発し一丸となって駆けて行く。
 力づくで所長を引きずり下ろし殴り殺そうとでもいうのか、その目はおそろしく血走り殺気立っている。所長の警護に配置された看守が壁を築き、凄まじい勢いでやってくる囚人らを片っ端から警棒で叩き伏せていく。
 看守と囚人の間で取っ組み合いが始まりやがてそれは大規模な暴動に発展し、東西南北あわせて三万人もの囚人が集結した中庭はもはや収拾つかない状況を呈する。
 「俺から離れるな」
 押し流されてきた囚人が僕にぶつかる。
 サムライが僕の手首を掴み自分の方に引き寄せしっかり抱きしめる。身を挺し僕を守るサムライ、力強い抱擁に安堵を覚えるも束の間、視界の端を過ぎる光景に息を呑む。
 「レイジ………」
 思わず名を呟く。
 僕に腕を回したままそちらに視線を流したサムライの顔が強張る。
 そこにいたのはレイジ……否、暴君。
 偶然にも僕の10メートル斜め後方に位置していた暴君は、荒れ狂う人ごみを涼しげに眺め、本人は全く冷静に、余裕を窺わせる笑みさえ浮かべ周囲の状況を把握する。
 いきりたつ人ごみが暴君が放つ威風に気圧されし彼を避けて通る。 
 暴君を中心に直径1メートルだけぽっかり空いた奇妙な空間が出現する。
 台風の中心は異様に静かだというが、暴君を中心としたほんの数平方メートル範囲だけが周りの騒動とは無縁に緊迫した静けさを保っている。
 暴君の足元に座り込む人影……ちらつく銀髪。
 サーシャ。
 暴君は今朝の集会に見せびらかすようにサーシャを連れてきた、戦利品を披露しに来たのだ。
 捕虜を伴い中庭に現れた暴君はしかし、所長の演説に取り乱すでも怒り狂うでもなく、相変わらずにやにやと浮ついた笑みを湛えている。
 褐色の手が銀髪にかかる。
 サーシャの耳元で暴君が何かを囁く。
 この距離では聞き取れないが、瞬間サーシャの形相が豹変する。
 固く強張った顔を恥辱に赤く染め、次の瞬間にはまた青くなり、暴君の足元に跪いたサーシャが身を引き裂く葛藤に苦しみ表情を歪める。
 「やれ」
 暴君がぞんざいに顎をしゃくる。
 主人の命令は絶対。
 暴君の足元に慇懃に跪いたサーシャは逡巡をかなぐり捨てるように固く固く目を閉じ、意を決し暴君のズボンを脱がしにかかる。
 目を疑う光景。
 屈辱に震える手で下着ごとズボンを下ろすや、しどけなく縺れた銀髪の奥の瞳に躊躇の色を浮かべ、慈悲を乞うように悲痛な顔で一途に暴君を仰ぎ見る。
 「レイジ……頼む、許してくれ……ここには北の人間もいる、北の皇帝として君臨した私の家臣がいる。房に帰ったらお前の言う通りにする、だから今この場は見逃してくれ……」
 「ご褒美はいいのか」
 暴君が酷薄に目を細めポケットから透明な袋をとりだす。
 褐色の指先に摘んだ袋には白い粉末が密閉されている。
 サーシャが喉から手が出るほど欲している覚醒剤の粉。
 その袋をサーシャの眉間に翳し勝ち誇った笑みを湛える。
 征服者の愉悦に酔い痴れた微笑は、かつてサーシャが浮かべたものとよく似ていたがその本質は明確に異なっている。
 レイジの笑みは上辺だけ。
 顔の皮膚を剥がせばそこには何もなく虚無が広がっている、そう思わせる空虚な笑み。
 しかしだからこそ、人を破滅させる悪魔にも似て美しい笑み。
 「俺に逆らう気か、サーシャ。お前はサバーカだ、クスリ欲しさに悦んでケツ振り俺のつまさきをしゃぶるサバーカになったんだろ。だったら絶対服従の証拠見せてみろ。昨日のパフォーマンスだけじゃまだ足りねーとさ、まわりの囚人どもは。大衆は貪欲だ。東の暴君の犬に成り下がったからにゃとことん芸を仕込んで皆にも見せてやると決めたんだ。どうしたサーシャ、目がイッちまってるぜ?そろそろ限界だろ、こいつが欲しいだろ?昨日の夜から一粒も与えてないんだから欲しくて欲しくてたまんねーよな、もうそれっきゃ考えらんねーよな。だったら……」
 熱に浮かされたように饒舌に捲くし立て、暴君が片手でサーシャの頭を押さえ込む。
 むりやり暴君の股間へ押さえ込まれ、赤黒く怒張したペニスを顔にこすりつけられたサーシャが屈辱に呻く。

 『Lets  play.』
 奉仕の時間だ。

 残酷な宣告に従いサーシャが弱々しくレイジのものに舌を這わす。
 着崩れた軍服のボタンは掛け違い隙間から淫らに白い肌が覗く。
 サーシャが身動きするたび銀髪がさらさら流れる。
 サーシャは地面に跪いた体勢から暴君の股間に顔を埋め、屹立したペニスの根元に手を添え緩急つけてしごきつつ、唾液を捏ねる音も淫猥に舌を絡め口に含んで吸引する。
 東西南北の囚人が一堂に会す中庭の中心でフェラチオを強要されるサーシャが正視に耐えず思わず駆け出そうとした僕をサムライが引き止める。
 「……もう限界だ。あまりの醜悪さに吐き気がする」
 「俺とて同感だ。しかし今注意を引くのはまずい、お前まで巻き添えになり独居房送りになるぞ」
 あたりを見回せば我を忘れ所長に挑みかかった数十名の囚人がよってたかって看守に引きずり倒され手錠をかけられ連行されていく。
 だれもがぴりぴり殺気立ったこの状況で目を引く行動をとれば警棒が飛んでくるか独居房送りになるのは明白。
 しかしサーシャを見殺しにするのは耐え難い、これ以上群集に埋もれ残酷な見世物を傍観し続けるのは我慢できない。
 サーシャが強いられている行為は僕が売春班で無理強いされた行為と全く同じ、唯々諾々と暴君の足元に跪きぬれた唇でペニスを咥えるサーシャの姿に皇帝の威厳と面影はなくその落差が痛ましい。
 しかしそれ以上に僕が我慢できないのはサーシャにフェラチオを強要しているのはレイジと同じ顔をした男だということ、僕の友人と全く同じ顔の別人だという現実だ。
 「ふあ、ふぐっ……レイジよ、はやくそれを……この哀れで見苦しいサバーカめに褒美をくれ……んく、ふっ……私は皇帝だ、誇り高きロシアを象徴する偉大なる皇帝だ……こんなぶざまな醜態を大衆の前に曝け出すくらいなら死んだほうがマシだ……」
 「舌遣いに興がのってきたじゃねーか」
 レイジがあからさまに嘲り力を込めサーシャの頭を押さえ込む。
 深々首をうなだれ面を伏せたサーシャが嗚咽とも苦鳴ともつかぬくぐもり声を漏らす。
 妖艶に赤い舌がくちゃりと唾液の糸引きペニスに絡む。
 サーシャは口では嫌がりつつも無心に奉仕に没頭する、口と手を使いペニスをしごきますます角度を急に勃ち上がらせ舌で唾液を塗りてらてらと輝かせる。
 ぐちゃぐちゃに乱れた銀髪が痩せこけた顔を縁取る。
 顔に纏わりつくおくれ毛を振り払う余力もなくレイジのペニスをしゃぶるサーシャの後ろにひとりの囚人が歩み寄る。
 背後から伸びた手がサーシャの脇に滑り込む。
 「なっ………!?」
 サーシャの顔に戦慄が走る。
 僕もまた、サーシャの背後に立つ人物に驚きを禁じえない。
 数ヶ月前、僕とロンが監視塔に捕らわれた時ロシア人ではないからとサーシャに酷く暴行を受けた混血の少年がいた。
 「ツァーウーラーツァーウーラ、皇帝陛下万歳祖国ロシア万歳サーシャ様万歳ツァーウーラ……」
 「無礼者めが、汚らしい雑種の分際でなれなれしく私の体にさわるな!私を誰だと思っている、ロマノフの血を受け継ぐ正統なる皇位継承者アレクサンドル・二コラエヴィッチ・アベリツェフ……ひあぐ!?」
 電気の鞭で打たれたようにサーシャが大きく仰け反る。
 脇から滑り込んだ手が上着の裾をたくしあげ無遠慮に素肌をまさぐる。
 大衆が生唾呑み見守る中、かつての皇帝の背後に回りこみ欲情に息を荒げ囚人が呟く。
 「あんたは偉大なる北の皇帝として恐怖をもって俺たちの上に君臨し続けた。ナイフの腕じゃだれもあんたに勝てなかった、みんながあんたに心酔しあんたの妄想に付き合って第二ロシア帝国建国を志した。けどな、今のあんたはどうだ?北の連中は皆がっかりしてる、幻滅だって陰口叩いてる。北じゃあんなに威張りくさって気に入らないことがあるたびナイフ投げまくってたあんたが自ら望んで東の犬に成り下がったと聞いたときゃ仰天したぜ。北の連中は皆あんたに騙されたんだ、てめェのこと皇帝だって嘯いて第二ロシア帝国の野望を熱に浮かされ語ったお前に人生狂わされたんだよ!!」
 北で人間扱いされなかった恨みを込め憎憎しげにサーシャを罵る。
 背後から毟り取るように上着を捲り大胆に肌を露出させ、野次馬に見せつけるようにいやらしく乳首を転がす。
 乳首をきつくつねられ苦痛と恥辱に喘ぐサーシャを冷ややかに見下ろし、レイジは顎をしゃくる。
 「国民に反逆される気分はどうだ?サーシャ」
 レイジが顎をしゃくった方角を一瞥、サーシャが打ちのめされる。少し離れた場所で事態を静観をしていたのはかつての北の仲間……サーシャを偉大なる皇帝と仰ぎ監視塔の事件にも加わった北の囚人たち。しかし今サーシャに注ぐ眼差しは侮蔑を孕んだ冷ややかなものだ。 
 一片の敬意も忠誠心もなく突き放すようにサーシャを眺め、北の囚人らが聞こえよがしに悪態をつく。
 「いいザマだな皇帝陛下。俺たちの前でびんびんに勃った乳首を披露する気分はどうだ?」
 「いつも威張りくさってやりたい放題やってたツケが回ってきたんだ、いい気味だ」
 「あんたの時代は終わったんだ、北に帰ってきてもあんたの居場所はねーよ。東の犬に成り下がった北の面汚しを温かく出迎えるほどこちとら腑抜けちゃいないんでね」
 「皇帝の時代は終わった。あんたはもうおしまいだよサーシャ、クスリ漬けの性奴隷は暴君の下で喘いでるのがお似合いだぜ」
 「まったく、これがどっちじゃサバーカわかりゃしねえ」
 毒々しい悪意に満ちた哄笑が爆ぜる。中庭で服を剥かれ一糸纏わぬ上半身と勃起した乳首を晒したのみならず、レイジにフェラチオを強要され口元を唾液でべとつかせた廃帝の末路に大いに幻滅し、北の囚人らが一斉に罵声を飛ばす。かつてサーシャを皇帝と呼び忠実な家臣として仕えた名残りは微塵もなく、サーシャは今や完全に帰る場所と仲間を失い孤独となった。
 「あんたにゃ随分世話になったな皇帝サマ。混血だ雑種だロシアの面汚しだとさんざん馬鹿にして足蹴にしてくれたっけな、俺はあんたにサバーカ扱いをうけ蹴り転がされながらいつか復讐してやるとそればかり夢見て北での辛い日々を耐え抜いたんだ。あんたのその取り澄ました顔をぐちゃぐちゃにしてやりたくて、北の連中の目の前であんたを引ん剥いて犯しまくるのだけを支えに生きてきたんだ」
 獣じみて荒い気遣いのはざまから興奮に掠れた声を吐き出し、混血の少年が裸の胸をまさぐる。サーシャの乳首をいじくりまわすのに飽きた少年は下腹へと手を進めズボンの中に潜りこませる。
 「やめ、ろ……卑しいサバーカの分際で皇帝に逆らうとは愚か者め、ナイフの餌食になりたいか!?」
 咄嗟に虚勢を張るも効果はなく、混血の少年は陰険にニヤつきながらサーシャの股間をまさぐりはじめる。
 「口がお留守になってるぜ」
 「んぐぅふ、」
 暴君がサーシャの前髪を掴み乱暴に顔を起こす。
 むりやり顔を上げさせられたサーシャが悲鳴の口を開いた口にすかさずペニスを突っ込む。
 前から後ろから二人がかりで責め立てられ、口腔を生臭い肉塊で満たされ満足に呼吸もできず窒息の苦しみに喘ぎつつ、うっすらと涙の膜が張った目に暴君の酷薄な笑みを映しけなげに奉仕を継続する。
 「俺のペニスもなめなめしてくれよサーシャ」
 「レイジが終わったら今までの恩返しに北の囚人全員をしゃぶってまわるんだよな」
 「顎外れるまでしゃぶらせてやっから一滴残らず飲み干せよ」
 「股間にシャブ塗って待ってっからさー」
 取り囲む囚人らが一斉に囃し立てる。
 暴君はサーシャの前髪を掴み喉突き破らんばかりに勢い良く腰を突き入れ、混血の囚人は背後から手を回しサーシャの股間をくちゃくちゃと揉む。前から後ろから責め立てられる快感に溺れ朦朧と虚空に視線を泳がすサーシャ、虚ろに呆けたその顔に我慢も限界に達する。

 これ以上見てられない。

 サムライを振りきり反射的に駆け出す僕の視線の先、サーシャの前髪を掴んだ暴君の顔が蕩け一度二度と痙攣する。
 寸前にペニスを引き抜き仰向いたサーシャの顔面に白濁をかける。サーシャの顔から白濁が滴る。髪も顔も服も白濁に塗れ変わり果てたサーシャの背にのしかかり混血の囚人がズボンを毟り取るーー……
 「やめろっ!!」
 暴君はただ笑いながらそれを見ている。
 壊れた人形の如く無気力に地面に転がったサーシャ、そのズボンを引き剥がそうと手をかける囚人を。
 行く手を塞ぐ囚人を押しのけ突き飛ばしわずかな隙間に身を割り込ませ少しでも前に出ようとあがく。

 暴君には僕の声が届かないのか?
 暴君の中で眠りについたレイジにも?

 ともすると絶望に打ちのめされ立ち止まりそうになる自分を叱咤し、一秒でも早くサーシャのもとへ向かおうと足をくりだし…
 空の彼方に出現した、針の先ほどの点に気付く。
 「何?」
 顔を上げた拍子に空の彼方に浮かぶ点が視界に入る。
 漸く夜が明け始め、東の空が最初は淡く次第に神々しくあたりを照らし始める。太陽が昇ると同時に光満ちる東の空に現れた点は次第に大きさを増し、接近に伴い徐徐に明確な形をとり始める。
 東の空の彼方から急激に近付いてくる謎の飛行物体に囚人らが驚きの声を上げる。
 「なんだありゃ」
 「こっちに近付いてくるぜ」
 「待て、変な音しねーか?」
 興奮に沸き立つ囚人らの鼓膜を蜂の羽音に似た低い振動が震わす。
 朝焼けの光満ちる神々しい空の彼方からこちらをさし飛んでくる異影は次第に巨大化し今やはっきりとその全貌を現す。 

 ヘリコプター。

 風切り旋回するプロペラを頂点に冠した流線形の機体はひどく洗練されている。僕らのちょうど頭上、中庭の全体を俯瞰する位置に滞空するヘリコプターの側面にはスライド式のドアが付き白・青・赤を三等分に配色した国旗が刷られていた。

 白、青、赤。
 白は高貴と率直の白ロシア人を、青は名誉と純潔性の小ロシア人を、赤は愛と勇気の大ロシア人を示すロシア連邦の国旗。

 スラブ三色と呼ばれるロシア連邦の国旗を機体の側面に掲げたヘリコプターは、よく見れば四人乗りに改良されたロシア軍正式採用「黒い鮫」ー……ブラックシャーク。蜂の羽音と錯覚したのは高速回転するプロペラの唸り。
 突如上空に出現したロシア軍籍のヘリコプターに囚人たちは取り乱す、わけもわからず空を指さし興奮の叫びをあげ色めきだつ。
 僕は空を見上げたまま慄然と立ち竦む。朝から続いていた胸騒ぎの正体がこれではっきりした。
 現実に海を越え飛来した一機のヘリコプターが、東京プリズンの秩序を根底から乱そうとしている。
 東京プリズンに新たな問題を持ち込もうとしている。
 「ホセはこの事をさしていたのか」
 隣にやってきたサムライと並び空を仰いでいるうちに、演台から下りた所長と看守とが足音も慌しく血相替えてこちらにやってくる。疑問符を浮かべた顔を一瞥、ヘリコプターの襲来は彼らにとっても不測の事態だったのだと直感する。
 息せき切って駆けて来た所長と看守一同の前でヘリコプターが着陸態勢に入る。
 機体が慎重に滑空し、僕らが固唾を呑んで見守る前で次第に高度を下げていく。プロペラの唸りが鼓膜を突き破らんばかりに高まる。
 プロペラが大気の層を突破する爆音が耳を聾し鼓膜を痺れさせる。
 砂利まじりの烈風が体を打ちすえ前列の囚人らがたまらず顔を覆う。
 「一体何事だこれは、聞いてない聞いてないぞ、私はハルの追悼式典を粛然と執り行うと同時に発電所を建てる発表をするために集会を開いたのに空から馬鹿げた機体が降ってくるなどと全く予想の範疇外の出来事だ!どうなってるんだこれは、一体何が起きているんだ安田くん!?」
 動揺もあらわにヒステリックに叫ぶ所長の隣、オールバックが風で乱されぬようさりげなく押さえ副所長が返答する。
 「私もわかりません。少なくとも政府から視察の連絡は受けていません、こんな常識はずれの時間帯にヘリコプターが飛んでくるなど前代未聞です」
 「黒い鮫」の名称に相応しく、近くで見ると畏怖を禁じ得ぬ威容を誇るヘリコプターが風圧であたりを払い、底部から音もなく車輪を出す。
 人も砂利も風圧で等しく薙ぎ払いヘリコプターが着陸する。
 濛々と砂埃を舞わせ人が掃けた中庭の中心に着陸した機体のドアが滑るように開き、東西南北あわせて三万人もの囚人と看守とが極度の緊張と興奮を保ち凝視を注ぐ中、あざやかなロシアンブルーの軍服に身を包んだ青年将校が姿を現す。
 靴音も高らかにエリート軍人らしく律動的な歩調で歩み出たのは、さらさらと流れる銀髪に薄氷の瞳の取り合わせが神秘的な美形だった。
 えもいわれぬ出自の高貴さを感じさせる目鼻立ちと洗練された物腰はだれかを思い起こさせる。

 初対面にもかかわらず強烈な既視感を覚える。
 だれかに似ている。

 下士官を伴いヘリから降り立った青年将校は、生まれながらに貴族の品を備えたしかし嫌味にならない仕草であたりを見回す。
 あたりに濛々と立ち込めた砂埃が幾条もたなびきつつ晴れていく。
 厳粛な静寂に支配された中庭に降り立った青年将校は、自分を取り囲む看守と囚人らを等分に見比べていたが、とある一点で視線が静止する。
 『………Александр』
 唇が震え、言葉を紡ぐ。
 アレクサンドル、と僕の耳には聞こえた。
 青年将校の視線を辿り振り向けばそこにはサーシャがいた。
 亡霊でも見たかのように極限まで目を見開いたその表情は、僕がこれまで見た中でもっとも悲痛な顔だった。
 戦慄、驚愕、動揺……
 混沌と入り交じる感情に翻弄され慄然と目を見開くサーシャ、腰砕けに地面に座り込んだその姿はあまりにもひどい。
 生まれたての太陽の光を受け燦然と輝く銀髪はぐちゃぐちゃに縺れて乱れ顔を縁取り、顔面には白濁が飛び散っている。胸まで捲れた軍服は皺くちゃでその下からは唇と手で揉みしだかれ赤い烙印を施された裸体が露出する。
 陵辱の痕跡も生々しく、軍服を淫らにはだけて呆然と座り込むサーシャのもとへ靴音も高らかに将校が歩み寄る。
 「いやだ……寄るな、来るな、近付くな……今更何をしにきたもう遅いすべて手遅れだ!こんな私を見るな、頼むから見ないでくれ、こんな惨めでぶざまな私を見ないでくれ……もはや私の威厳は失墜した私は王座を追われ犬に成り下がった。私はロマノフの血を継ぐ偉大なる皇帝などではない、サーカスの淫売が股から産み落とした薄汚い私生児にすぎなかったのだ!そうだ本当はわかっていたずっと昔からわかっていたのだ、私は最初からサバーカに身を堕とし男のものをしゃぶり尻を犯され飼い殺しにされる運命だったのだ!!」
 狂乱を来たしたサーシャが頭を抱え激しく首振り絶叫する、少しでも青年から距離をとろうとしてあとじさり服の裾を踏みつけ転倒する。
 恐怖がこびりついた必死な形相で無意味な奇声を発し自分を拒み続けるサーシャに青年は悠然と近付いていく。
 一歩、また一歩と距離が縮まる。
 硬質な靴音だけを響かせ、相変わらず薄笑いを浮かべたレイジの横をサッと通過しサーシャの正面で立ち止まる。
 「来るな、来るな、来ないでくれ……こんな私を見ないでくれ。あなたにだけはこんな姿を見られたくなかった、こんなぶざまなところを見られたくなかった。男の慰み者にされ顔と体は白濁に塗れペニスは浅ましく勃起し服はしどけなく着崩れたこんな私を見ないでくれ、どうかどうか……私は誇り高くも奢り高きロシア皇帝サーシャ、北の囚人どもにトップとして仰がれ傅かれる偉大なる指導者、だれもが私を敬い羨み従順なサバーカとして私に尽くす、そうだ私こそがロシアを支配しゆくゆくは世界を総べる選ばれし存在なのだ!」
 尻で地面を這いずり掠れた声でサーシャが喚き散らす。
 弛緩した口元から白濁した泡を飛ばし、狂気と絶望に蚕食された目は燃え尽きる寸前の蝋燭の如く異様な輝きを放つ。
 「私は選ばれし人間なのだ、ロシアで最も偉く賢い皇帝なのだ、誰もが私を褒め称え万歳と唱和する。ほら聞こえるだろうツァー・ウーラツァー・ウーラ、ツァー・ウーラ・ハラショー・サーシャ……」
 妄想に取り憑かれうわ言を口走るサーシャの前にごく自然な動作で跪き、将校が儚く微笑む。
 「漸くお会いできましたね」
 今にも泣き出しそうな微笑み。
 限りない愛情が滲む笑み。 
 そして青年は言った。
 ツァー・ウーラ・ツァー・ウーラと自分を褒め称える言葉を口走り栄光の追憶に身をひたすサーシャに優雅に手をさしのべて。

 「お迎えにあがりました、陛下」

 その時はじめて気付く。
 青年はサーシャにうりふたつといっていいほど容姿が似通っていた。
 兄弟で通じるほどに。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050314205448 | 編集

 物心ついた頃から拳は傷だらけだった。

 少年は誰に教えられるでもなく拳の使い方を知っていた。
 何をどうすれば己が潜在的に秘めた力を爆発的に覚醒させ、拳の威力を最大限に発揮することができるか熟知していた。
 腋を締める角度、隙のない腕の構え、重心の調節の仕方、磐石に踏み構えた下半身と上半身の均衡の維持。
 それらすべてが誰に学ぶこともなく予め身に備わっていた。
 物心つく前からずっと人の争いを見てきたせいかもしれない。
 身近で勃発する殴り合いを観察し喧嘩の仕方を学び拳の使い方に習熟していたからかもしれない。
 物心つく頃より弱肉強食の掟の中で育った少年が、生き残る術を拳に賭けるのは必然にして自然の習いだ。
 少年は力の使い道を心得ていた。
 拳が何かを打ち砕くためにあるという真理をよく知り実践に移し、自分が生まれ持った唯一最大の武器として苛烈に磨き上げ、指の関節は針金を捩り合わせたようにより強靭に、手の甲はそれ自体が篭手のように固く分厚くなるようにと皮膚擦りむけ血が出るまでタイヤを殴り拳を強化した。

 人を殴るたび拳には傷が増えていく。
 それが強さを獲得していくあかしに思え誇らしかった。

 少年は絶えず敵を見出し果敢に挑み続けた。
 
 闘争は本能。
 挑戦は克己。
 闘うことと生きることは同義だ。
 闘わざるもの食うべからずがスラムの掟だ。
 強者のみが生き残り大人になることを許されるスラムでは、何より勝ち残り成り上がることが重視される。
 少年が欲したのは絶対的な力、だれもを屈服させることができる純粋な力、敵対する者を薙ぎ払い道を拓く容赦ない暴力。
 少年はいつも拳ひとつで逆境を打破してきた。
 全身傷だらけになりながら半死半生の体で立ち上がり、返り血と自分の血とで赤く染まった拳でひたすら敵を倒し続けた。  

 灼熱の太陽が照り輝くスラムでは、残飯あさりの野良犬が日がな一日縄張り争いの喧嘩をしている。

 まわりから見ればくだらなくとも当人らにとっては命がけの戦いだ。
 縄張りを譲ることは即ち死を意味する。
 定食屋の軒先に残飯が捨てられている。
 腐りかけで酸っぱい異臭を放つ鶏肉や汁気を含んでべとつくチキンライスや豆をあえて甘辛く煮たトルティーヤが捨てられているとあらば、育ち盛りで腹をすかせたストリートチルドレンらは目の色変えて争奪戦を繰り広げる。相手の髪を引っ張り顔面を引っ掻くくらいなら可愛いものだが、ある程度の年齢に達した少年らはもっと巧妙で狡猾な手を使うようになる。腰からナイフを抜き放ち相手を脅し引き下がらせるなどは序の口で、メリケンサックを嵌めた拳を鼻が折れるまで相手の顔面に叩き込むものやギャングのお下がりの銃を発砲するものさえいる。
 腐りかけの残飯をめぐる争いははてしなく続く。
 薄汚れた野良犬どもは口からしとどに涎を垂らし、いかにして相手を追い払い餌を独り占めにするかに知力を注ぐ。
 空腹を抱え残飯に群がるストリートチルドレンは後を絶たない。
 ならば一人でも減らすのだ、駆逐するのだ。
 少しでも自分の取り分が増えるよう頭を使い知略を巡らし暴力を行使する、それこそ誰に教えられることもなく学んだスラムでの生き方だ。
 物心ついた頃から天涯孤独だった。
 少年だけが特殊な境遇におかれていたわけではない。
 まわりには親のない子がうようよしていた。物心つく前に親に捨てられ路上をさまようことになった子供たち、しかし彼らはまだ幸いなほうだ。ギャングが牛耳るスラムには粗悪な覚醒剤がはびこっている。犯罪の温床と揶揄されるスラムの崩壊家庭では、酒を買う金欲しさに年端もゆかぬ娘に売春を強制する親や、覚醒剤中毒となり子供を虐待し逮捕される親が後を絶たない。酒とクスリで廃人と化した親の分まで必死に働き金を稼ぎ、年少の弟妹を養うものも決して少なくない。

 灼熱の太陽が照り輝くメキシコシティで少年は生まれた。
 人口二千万人を擁するかつての大都市は、二十一世紀初頭に世界を襲った大恐慌の波により暴力と犯罪が横行する背徳のソドムと化した。
 高層ビルが輝かしく建ち並ぶ都心の片隅では、泥水を啜り残飯をあさり底辺を這い蹲って生きるものたちがいる。
 不景気の煽りをうけ大量の失業者が生まれ多くの家庭が崩壊した。 
 路上にはストリートチルドレンが溢れ、そのストリートチルドレンをギャングが飼い、犯罪の手先としてこき使う。
 路上にばらまかれた空薬莢拾いをし遊んだ子供たちは一定の年齢に達するとギャングに目を付けられ、男の子は銃の運び屋やクスリの密売人として、女の子は娼婦として身の処し方を仕込まれた。

 だが中には例外がいた。
 闘うことでしか生きられない、生まれながらの闘犬がいた。

 親兄弟の顔も知らず夢中で拳を振るい続けた少年は、ある時裏社会の人間にスカウトされた。
 自分たちの組織で働いてみないか、と。少年に声をかけたのは裏社会を牛耳る組織の幹部であり、週末に行う賭けボクシングで莫大な収益を上げていた男だ。
 少年は十二歳だった。
 十二歳になったばかりだった。
 来る日も来る日もスラムの片隅で人を殴りある時はやりすぎが祟り殴り殺し死体を量産していた。
 しかし少年は逮捕される事なく野放しだった。
 殴り殺した相手がケチなギャングの使い走りだったり住居不定のストリートチルドレンだったりした為に、腐敗しきった警察は本腰を入れて調べる気にならず、それ故少年を放置し続けたのだ。まさか警察も十二歳の少年が素手で人を殴り殺したとは思わなかったらしい。ギャングの使い走りもストリートチルドレンもヘマをやらかし仲間内のリンチで殺されたに違いないと思い込み、深入りして自分たちまで睨まれてはたまらないとろくに捜査をしなかったらしい。

 少年は拳の振るいどころを得た。
 思う存分力を出しきり拳を振るう口実を得た。

 弱冠十二歳で賭けボクシングのリングに立った少年は来る日も来る日も過酷な訓練を受け減量に挑み脂肪を燃やし、成長途上の体を研ぎ澄ました筋肉で鎧った。
 少年は向かうところ敵なしだった。
 類稀なる格闘センスと反射神経と筋金の筋肉で鎧われた逞しい肉体、壁をも砕く威力を秘めた拳が彼の武器だ。

 組織は彼の才能に目を付けた。
 スラムの片隅で無差別に拳を振るい己に仇なすものを倒し続けた少年に力を行使する場所を与え、存分に力を解放し頂点を極めることを課した。
 少年は闘犬として買われ一生組織で飼い殺される宿命だった。

 週末の夜に催される賭けボクシングの試合は、低賃金の労働者にとって最大の娯楽である。 
 地下のリングに上がるのは後ろ暗い過去をもつ前科者ばかり、その大半は傷害事件を起こし表舞台を追われたボクサー崩れ。
 彼らの大半は賭けボクシングの元締めの組織に多額の負債を背負わされ、借金を返済するために強制的にリングに上がらされていた。 
 賭けボクシングが普通のボクシングと違うのは敗者の生死を問わない点だ。
 賭けボクシングにテンカウントのルールは存在しない。
 敗者が再起不能になるか死亡するかしない限り試合は続行される。
 リングから逃げることは決して許されない。
 万一試合を放棄しロープをくぐり逃走をはかれば、組織に恥をかかせた代償を命をもって支払わねばならない。
 試合会場には背広の懐に銃を忍ばせた見張りが数人紛れ込んでいる。万一選手が不審な行動をとればすぐにでも始末できるようにとの措置だ。
 もともと裏社会が取り仕切る非合法な試合なのだからして、試合中に死者がでても表沙汰になることなく処理される。
 少年は優秀な闘犬だった。
 己を飼う組織に利益をもたらすため服従の鎖に繋がれ躍起になって拳を振るい続けた。
 飼い主の手に噛み付くことなく従順に、鞭打たれても痛みを感じない愚鈍な犬の如く、白熱のスポットライトがあたる檻の中で闘い続けた。
 時に行き過ぎて相手を殴り殺したとしても罪悪感はかけらもなかった。
 時に力の加減を忘れ既に倒れた相手にむかい拳を振るい続け、その顔が醜く変形し倍ほども腫れ上がっても後悔はなかった。
 少年は生まれながらの闘犬だった。
 「メスティーソ・スンダーロ!」
 「メスティーソ・スンダーロ!」
 「いけっ、やれっ、お前には今夜の飲み代全部注ぎ込んだ!お前が敗けたら俺は破産だ、なんでもいいから勝ってくれ!」
 「俺たちに天国を見せてくれ!」
 熱狂の坩堝と化した試合会場で観客が叫ぶ。
 メスティーソ・スンダーロはスペイン語で混血の戦士を意味する。
 十二歳で初めてリングに立った少年に与えられたリングネームでもあった。
 親の顔も名前も知らぬが、自分がインディオの血を濃く引いてることは肌の色で明白。荒々しい情熱を示す浅黒い肌と彫り深い顔だちは南米先住民たるインディオの特徴だ。十六世紀、スペインから来た侵略者が現地のインディオに略奪と暴行を働き、大規模な強姦をおこないインディオの女性たちに子を孕ませた。南米には今もインディオと白人の血を引く子孫が多くいる。
 少年もまたインディオの血を受け継ぐ一人だった。
 リングネームの「メスティーソ・スンダーロ」はそこからきた。
 メスティーソ・スンダーロの異名をもつ少年はデビュー当時から快進撃を続け連勝記録を塗り替え、六年が経った今では最年少王者の栄冠にもっとも近い場所にまで上り詰めた。
 死者が出ることさえ少なくない非道な試合を、最年少の少年が拳を頼みに勝ち上がる姿に観客は惜しみない喝采を送った。
 メスティーソ・スンダーロは十八歳のその日まで情けを知らぬ闘犬として生きた。
 賭けボクシングの元締めの組織のもとで鎖に繋がれ、己が唯一誇れる拳を生きる手段として見世物の闘犬に徹してきた。

 夢もなく希望もなく、メスティーソ・スンダーロはただひたすらに闘い続けた。
 闘争に理由や目的はない。
 闘争に理由や目的を求めるのは間違いだ、闘争それ自体が至上の目的なのだ。
 己の肉体を鍛え上げ拳を磨きたゆまず強さを希求する。
 メスティーソ・スンダーロはただ闘うためにのみ生まれ生かされる不敗の戦士だった。

 今日もまたメスティーソ・スンダーロは拳を振るう、不屈の闘志を燃やし猛り狂い凶暴な咆哮を上げる。
 自分の存在理由を拳で代弁し前に立つ挑戦者を容赦なく屈服させる。
 割れ砕けた顔面をしとどに血に染め撃沈した挑戦者を見下ろすその顔にもまた返り血が跳ねる。
 しかしメスティーソ・スンダーロは勝利の余韻に酔うことなく、強靭な胸板に汗を光らせ、疲労の色濃く荒い息を吐いている。
 「殺せ!」
 「殺せ!」
 「殴り殺せ!」
 「情け容赦なく殺っちまえ殺しちまえお上に虐げられてる俺たちの分まで目にもの見せてやってくれ、一体何のためにお前に大金払ってると思ってるんだ、それもこれも大暴れするお前を見てスッとしてーからさ!お前がそうやって血まみれで挑戦者をぐちゃぐちゃに殴り潰すとこ見るとこの一週間の嫌なこと全部忘れられる、女房の小言もガキの泣き声もツケを払えとうるさくせっつく飲み屋の親父の犬のクソ面もみんなみーんな綺麗さっぱり水に流せる!まったくお前はすごいやつだよ、夢も希望もねえどん底の街に舞いおりたインディオの勇者の血を継ぐ最強の戦士だよ!」
 「さあ殺しちまえひと思いに遠慮はいらねえ嬲り殺せ、頭蓋骨を砕いて顔すり潰してぎったんぎたんにしちまえ、生意気な挑戦者を細切れの肉片にしちまえ!人肉食いのインディオならできるだろそん位よ、俺たちはそれが暴走が楽しみで毎週ここに来てるんだ、お上の摘発もなんのその地下に足を運んでギャングが元締めの賭けボクシングなんぞに興じてるんだよ!」
 「殺せ!殺せ!殺せ!」
 「殺せ!殺せ!殺せ!」
 「殺せ!殺せ!殺せ!」
 「俺たちの分まで思う存分殴り殺せ!」
 「どうせ相手はプロ崩れのならず者、前科持ちの悪党さ。リングのど真ん中で脚光浴びながら死ねるんなら本望ってなもんさ」
 「殺せ!殺せ!俺たちが見ている前で、俺たちの分まで!」
 「金で買った分だけ夢を見せてくれ!」
 鞣革のように黒々と分厚い皮膚に覆われた肉体労働者が酒焼けした野太い声で喚きたてる。
 既にほろ酔い加減の赤ら顔で酒瓶を振り回すもの、景気良く札束をばらまくもの……口角泡をとばしリングに罵声を浴びせる野卑な労働者たちには一瞥もくれずメスティーソ・スンダーロはただ目の前の対戦者のみに意識の焦点を絞る。
 三重のロープで覆われたリングの床は汗と血と吐寫物とでぬかるんでいる。これまで何人何十人の挑戦者が血反吐を吐き苦しみもがき担架で運ばれていったか既に記憶にない。そのうち何人がリングに復帰したか……これは自信をもっていえる、ゼロだ。敗者復活戦などという恩情はこの世界には存在しない。敗北は即ち死を意味する。リングで惨めな負け犬姿を晒したら最後、組織に繋がれ闘犬として共食いを強制された男は私刑によって葬り去られる。

 もとより金で買われた身、担保に入れた命だ。
 コーラの王冠よりも軽くガム一枚よりも安い命がどれだけ使い捨てられようとも、安値で大量に仕入れた側が心を痛めることはない。
 商品価値のなくなった選手に用はない、客を呼べない曲芸犬をむざむざ生かしておく義理はない。
 客を幻滅させた代償は命をもって贖え。
 死にたくなければあがけ、闘え、死力を尽くしどん底から這い上がれ。
 
 少年は闘うことだけを考えリングに身を投じ、人を死に至らしめる凶器の拳を振るい続けた。 
 幼い頃から人を殴ってきた。
 何度も何度も、それこそ数え切れないくらいに。
 残飯をめぐる争いに端を発し因縁を付けられ殴り返し報復にやってきた年長の少年らに片っ端から地を舐めさせ憂さ晴らしに自分を殴ろうとした警官を返り討ちにし、それでもまだ飽き足らず腕の筋肉が焼き切れるまで拳が砕けるその時まではと行為を目的化し殴り続けた。
 少年の体には勇猛なるインディオの血が流れている。
 虐げられしインディオの血と残虐を好む侵略者の血は互いを屈服させんと常に身の内でせめぎあい熱き血潮を沸かし、父祖の代から継いだ因業が少年を闘争へと駆り立てる。
 物心ついた時から誰に教わらずとも拳の使い方を心得ていたのは侵略者に抗した父祖の勇敢さが魂に刻印されていたから、世代を越え脈々と受け継がれる戦士の血がいかに闘うべきかを示唆したからだ。
 今宵もまた投光機が照らす地下のリングで死闘が行なわれる。
 メスティーソ・スンダーロは裸の上半身を汗で照り光らせ軽快にフットワークを踏む。
 右、左、右、左、右、左。
 規則正しく重心を移し脳天から脊髄を貫く中心線の均衡を保つ。
 鉄条を縒り合わせたような筋肉がライトの光を弾き返し隈取りの効果を添えあたりを威圧する。
 古代の闘技場を模した階段状の客席は見渡す限り客で埋め尽くされている。
 客席に取り巻かれたすり鉢状の底にはリングが設置され、そのリングの上で選手が対峙する。
 遠近感の狂うすり鉢の底、天から降り注ぐ強烈なライトが白く焦がす視界の中、すでにして疲労困憊の男がじりじりとあとじさる。 
 メスティーソ・スンダーロは静かに相手を追い詰める。
 体の脇にだらりと無防備に両手を垂れ下げ、大股に一歩を踏み出す。
 裸の上半身は筋肉が隈なく発達し、崖の如く屹立する腹筋と堂々たる胸板が蛮勇尊ぶ男性性を誇示する。
 メスティーソ・スンダーロは闘争の権化と化し、屈強な肉体から気炎を立ち上らせ、百獣の王に似た剣呑な緩慢さで相手を追い詰めていく。
 「ひっ、ひっ、ひっ……」
 一歩、また一歩と距離が縮まる。
 過呼吸に陥ったかのように不規則に間延びした息を吐き、男はちぎれんばかりに首を振る。 
 青いグローブを胸の前で交差させ激しく首振る男をよそに、眼前にまで迫ったメスティーソ・スンダーロが促す。
 「構えをとりなさい。試合続行です」
 「く、来るな……お願いだからころ、殺さないでくれっ……」
 うなじにかかるほどに伸びた波打つ黒髪が体の動きに合わせ揺れ、長めの前髪の奥から瘴気噴く双眸が覗く。
 インディオの蛮勇を示す浅黒い肌に汗を滴らせ、スペイン人の情熱を示す黒髪を体の動きに合わせ揺らし、血と汗のぬかるみを踏み越えて混血の戦士がやってくる。
 「殺せ!殺せ!」  
 「殺せ!殺せ!」
 「勝ち残るのはどちらか一方生き残るのもどちらか一方それがここの流儀だ、勝者には浴びるほどテキーラ飲ましてやるが敗者はテキーラ浴びせて火ィ付けて人間トーチカの出来上がりだ、さあさ人間トーチカがぼぅぼぅ燃えるところを見せてくれ!!」
 「また今度も俺の勝ちだ俺の勝ちだ、家じゃかかあと十歳を頭に六人の子供が待ってるが知ったこっちゃねえ、稼いだ分だけ賭けて儲けて倍にすりゃ俺は酒で潤いかかあの股も潤ういいこと尽くしだ、だからお前にゃどうしても勝ってもらわにゃ困るんだよ!」
 テキーラをがぶ飲みし顔を上気させた労働者がリングに殺到しロープを掴んで揺すりだす。
 力任せにロープを揺さぶりがなり立てる観客にも増して挑戦者を畏怖させるのは、メスティーサ・スンダーロが全身から放つ闘気。
 体格ではこちらが勝っている。
 こちらのほうが一回りも年が上だ。
 傷害事件をおこしプロ資格を剥奪されるまでとはいえ正規のコーチに付き特訓し実際に試合を経験したこちらの技量が勝っているはずなのに、メスティーソ・スンダーロが一歩また一歩近付くごとに膨れ上がる威圧感は何だ?
 「右?左?」
 メスティーソ・スンダーロが無表情に問う。
 一瞬何の事か理解できなかった。
 利き腕を聞かれているのだと気付いたのはしばらくのちだ。
 「あ…………」
 背中でロープが撓む。
 遂に逃げ場を失った男は救いを求めあたりを見回すもリング周辺には興奮した客が詰めかけ出入り口は銃を持った見張りが固めている、不審な行動を見せれば背中から撃たれて終わりだ。
 冷や汗がこめかみを伝う。
 リングを下りた時点で敗北が決定し組織に消されるなら、いっそー……。
 挑戦者が両拳を前に掲げ防御の構えをとる。
 漸く試合再開の意志を見せた挑戦者と向かい合い、メスティーソ・スンダーロはひとりごちる。
 「お利口ですね」
 刹那、挑戦者は目を疑う。
 その一瞬、目の錯覚かと疑うほんの一刹那、メスティーソ・スンダーロの表情に変化が起きる。
 緩やかに波打つ前髪の奥で双眸が火を噴く。 
 「っぐぅ、ふ!?」
 獣性滾る笑みを剥き出し強靭な足で床を蹴る。
 助走をつけ肉薄するや鳩尾に拳を叩き込む。
 鉄球が激突したかと錯覚する衝撃に胃袋を攪拌され反吐をぶちまける挑戦者の正面、中腰の姿勢から伸び上がるように顎に一撃、垂直に突き上げる打力の作用でマウスピースがはずれ唾液の糸引き転々と床で跳ねる。
 メスティーソ・スンダーロの猛攻はとどまるところをしらない。
 アッパーカットで下顎を支える蹄鉄型の骨が割れた挑戦者があとじさるのにつけこみ、左拳に闘志を注ぎ込む。
 腕の筋肉が膨れ上がる。
 鉄条を縒り合わせたような腕に血管が浮き立ち、水平に伸ばした腕全体から不可視のオーラが昇華する。
 両の拳に殺意を込め、汗ばむ額に波打つ黒髪をはりつかせ、メスティーソ・スンダーロは酷薄に笑む。
 「私は両利きです」
 剃刀めいて鋭利な笑みを閃かせ白い歯を零し、次の瞬間両方の拳を唸りを上げ振りぬく。 
 咄嗟に挑戦者がガードする、体前に両腕を立て猛攻を防ごうとするも唸りを上げ襲来した拳が着弾の衝撃で骨をへし折る。
 「ぐあっあああああああああっつああああああああ!!!」
 馬鹿な、おかしい、グローブを嵌めているのに……どうして?
 激痛が理性を食い荒らし生理的な涙を滲ませる挑戦者、片腕は間接がひとつ増えぶらぶらと揺れている。
 グローブを嵌めても拳の威力はおさえきれず、渾身の一撃を腕で受け止めた結果粉砕骨折しもはや完全にボクサー生命を絶たれた挑戦者は、恐怖と混乱のさなか余裕をもって自分に歩み来る男を追い払おうと無事な方の腕をめちゃくちゃに振り回す。
 錯乱した挑戦者が歯茎をむき出しメスティーソ・スンダーロに襲いかかる。
 眼球が零れんばかりに血走った目をひん剥き、弛緩した口の端に唾液の泡をため、死に瀕した人間特有の狂態で反撃に転じる。
 息継ぐ間もなく猛然と拳を繰り出し弾幕を張る。
 決死の猛反撃を最小限の動きと最短の歩幅でもってかわしながら、メスティーソ・スンダーロは漠然と考えていた。
 
 物心ついた頃から拳は傷だらけだった。
 人を殴るたびに拳に傷が増えていく。
 それが強さを獲得していくあかしに思え誇らしかった。


 今でも?


 脳裏に一抹の疑問がさし、動きが鈍る。
 それが仇になった。
 「!?っぐ、」 
 骨と肉がぶつかる鈍い音が脳天まで突き抜ける。
 視界の右半分がぐにゃりと歪曲する。
 挑戦者が盲目的に振り回す拳が右頬を直撃したのだ。
 右頬を殴られ均衡を崩した隙に左脇腹に痛恨の一撃を食らう。
 これが助かる最後のチャンスと踏んだ挑戦者が自分の持てる力と技量を総動員しがむしゃらに形勢逆転を狙う。
 へし折れた片腕をかばうようにぎこちない動きで、しかしプロの資格は伊達ではないと思わせる正確無比な打撃を鳩尾に脇腹に覚えている限りの人体の急所に叩き込む。
 「生き残るのは俺だ勝ち上がるのは俺だ俺はチャンプになるんだ、そうしたらこんな薄暗い地下のリングともおさらばしてもう一回プロとしてやり直すんだ、再出発するんだ!組織がそう約束してくれた、俺が賭けボクシングのチャンプになったら借金全額ちゃらにしてくれるって言ったんだ、だからこの試合絶対負けるわけにはいかないんだ、俺の復帰を待ちわびてるファンや俺のこと心配してくれる女のためにも……」
 目をぎらぎら輝かせ狂気走ったうわ言を唾と一緒にまき散らす挑戦者に魅入られる。
 挑戦者の顔は既に腫瘍に目鼻をつけたような有り様だがいまだ闘志は衰えず必死に戦っている、勝利を諦めず無謀を承知で拳を振るい続けている。
 血膿に溶け崩れた醜悪な肉塊と化す挑戦者の顔を見つめ、ついでグローブに包まれた自分の手を見下ろす。

 自分がしたかったことは、はたしてこんなことか? 
 分厚いグローブ越しに人を殴るうちに生身の感触すら忘れ去ってしまった。
 手を包むグローブがもどかしい。
 素手でおもいきり殴りたい。
 これまでリングに沈めてきた対戦相手の血をしとどに吸ってどす黒くぬれ光るグローブを脱ぎ捨て、本物の拳でぶつかりあいたい。
 汗で不快に蒸れたグローブなど不要だ。
 自分にはこの拳がある。
 グローブ越しに人を殴って得られる快感は求めたものと程遠く欲求不満が募るばかり、グローブを嵌めた拳で人を殴っても力を持てあますばかりで歯痒い。
 自分ははたして進化を続けていると言えるのか、高みに上り詰めているといえるのか。
 グローブを嵌め人を殴ったところで拳は傷つかず強く成り得る実感も湧かないのに……

 「メスティーソ・スンダーロ!」
 「メスティーソ・スンダーロ!」
 「もたもたしてるんじゃねえ、俺の賭け金パアにする気か!?」
 「そんなプロ崩れに手間どるなんざお前らしくねえぜ混血の戦士、生まれながらの闘犬、拳をふるうっきゃ価値のねえ拳奴!俺の人生はお前にかかってるんだ、今夜の試合でお前が勝ってくれなきゃ俺は破産で一家全員路頭に迷うんだ、なあ頼むよメスティーソ・スンダーロご自慢の拳でそいつの頭蓋骨砕いて脳漿ぶちまけてくれ、そうすりゃ俺りゃあ女房子供の待つ家に大手振って凱旋できんのさ!」 
 「ここにいる全員お前に期待してる、お前の強さに心底ほれ込んでるんだよ!」
 「俺たちを裏切るなよメスティーソ・スンダーロ!」
 「賭けた分倍にして返してくれよ!」

 爆発的な歓声で我に返る。

 試合中物思いに耽っていたメスティーソ・スンダーロの右頬を高速の拳が掠め皮膚を削りとる。
 摩擦熱で皮膚が焼け焦げた頬を外気に晒し、首を目にもとまらぬ速さで左右に傾げ連続で打ち込まれる拳をかわす。
 脳内麻薬が過剰分泌される。
 血中のアドレナリン濃度が濃くなる。 
 父祖から受け継ぐインディオの血が戦いの興奮に沸き立ち、四肢の動きに合わせ引き絞った筋肉が躍動する。残像を引きあらゆる角度から打ち込まれる拳をかわし、かわしきれないものはあえて受けてたち、顔や肩や胸板に擦り剥けた傷をこさえ怒涛の勢いで奮迅する。
 挑戦者が悲鳴の形に口を開き声なき声で絶叫、笛と化した喉の震えに音が付与されるのを待たず全速力で左腕を振りぬく。
 腕が伸びる。
 腰の位置から捻りを加え放たれた鉄球の砲弾の如く大気の膜を貫通、空中で急激に加速し相手の顔に着弾する。
 肉が潰れる鈍い音とともに超重量級の衝撃が炸裂、威力を凝縮した拳の直撃をまともに受けぐしゃりと顔が陥没、挑戦者が吹っ飛ぶ。
 闘気を噴出し加速した拳は着弾と同時に頬骨と鼻骨を粉砕し、顔の右半面を完全に砕かれた挑戦者はその時点で意識をなくしリングに倒れこむ。

 メスティーソ・スンダーロの勝利。

 暫定チャンプの劇的勝利を目の当たりにし熱狂する周囲をよそに、たった今敵をリングに沈めたばかりのメスティーソ・スンダーロは早くも戦闘の余韻からさめて虚しさを禁じえずにいた。
 ひとつ試合を終えるごとに、一人敵を屠り去るごとに、茫漠たる虚無が魂を蝕んでいく。
 昔は拳に傷が増えるたび、またひとつ自分が強くなったと体感でき誇らしかった。
 今は虚しさばかりが先に立つ。
 返り血に塗れどす黒くぬれ光るグローブを見下ろしても、痛覚を根こそぎ奪い去られたように何も感じない。
 客の歓声もリングに横たわる敵も一身に注がれる強烈なライトも身の内に巣食う虚無を駆逐してはくれない、渇望を癒しはしない。
 
 自分が求めた強さとは勝利とは、はたしてこんなくだらないものだったのだろうか。

 少年は優秀な闘犬だった。
 時に行き過ぎて相手を殴り殺しても罪悪感はかけらもなく、また後悔もない。
 ただ、虚しい。
 自分の全力を受け止めてくれる相手がいないことが、拳に全身全霊を賭し己がもてるすべてを吐き出し殴り合える好敵手といまだ出会えぬことが、とても虚しい。

 白熱の奔流が視界を灼き尽くす。
 栄光なき勝利に醒めきり、リング中央に無防備に立ち尽くすメスティーソ・スンダーロは、その瞬間だれかに呼ばれた気がして振り返る。
 客席の最後列、出入り口付近の支柱に凭れて見慣れぬ若い女が立っている。

 カルメン。

 絶世の美女と評すべき黒い肌の女に、自然とその名を連想する。
 
 その唇、
 その官能。

 身の内を衝撃が貫く。
 周囲の喧噪が遠ざかり色褪せ最後列の女しか目に入らなくなる。
 完全に色と音が失せた世界にふたりきり、毒花そのもののスーツに身を包む黒い肌の女神が蠱惑的に微笑む。

 『広い世界を見たくはない?』

 実際には声を発してない。
 否、発したかもしれないが聞こえない。
 歓声に沸き返る会場で距離を隔て会話が成立するはずはない。
 しかし彼は彼女の唇の動きを読み、言葉に音が宿る前から正確に意味を理解した。

 『私はカルメン。ドン・ホセのファム・ファタール。あなたをこの檻から連れ出しにきたわ』

 耳朶を孔雀の羽でくすぐるような極彩色の官能を呼び起こす声。
 実際には聞こえるはずもないその声が、直接彼の中に響き漣を立てる。
 観覧席の中央に設けられた石の階段を絶世の美女が下りてくる。
 女豹のように優美に腰くねらせリングの脇に降り立つや、豊かな黒髪に縁取られた顔を微笑ませ、血と汗にまみれた彼に一抹の躊躇なく手をさしのべる。

 『行きましょうドン・ホセ。あなたは今日から私の伍長さんよ』

 メスティーソ・スンダーロと呼ばれた少年は、カルメンのみに忠誠を尽くすドン・ホセに生まれ変わった。 


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050313151308 | 編集

 月天心が消滅し残党狩りが始まった。
 
 「道了逃げて!」
 荒々しい足音が近付いてくる。
 激しく争う物音が近付いてくる。
 廃材が瓦解する耳障りな多重奏に掠れた悲鳴がまじわる。
 金属の棒がコンクリ壁を擦るとき特有の尖鋭的な高音が鼓膜をひっかく。

 何者かが複数で乗り込んできた。
 その何者かを目視するより先に結論を下す。
 敵だ。

 廃材を積み重ね封鎖した出入り口を突破しアジトを嗅ぎ出し潜入したのは、月天心残党狩りに固執する少年らだ。
 敗者をさらに追い詰め根絶やしにすることに嗜虐的な興奮を覚える連中が、月天心の残党を完全に駆逐し新たなる池袋のトップに成り代わろうと乗り込んできたのだ。
 月天心の元首領とて例外ではなく真っ先に残党狩りの槍玉に上げられた。
 道了の首には賞金が賭けられている。
 勿論正規の賞金ではない、池袋界隈をうろつく台湾・中国双方の不良どもが酔狂でかけたものだ。
 いまや道了は台湾系・中国系双方から追われる立場となった。
 かつて池袋一の武闘派チームの首領として名を馳せ、台湾系スラムで生まれ育った貧しい少年たちの憧れのカリスマとして祭り上げられた身が、月天心の消滅と同時に一転追われる立場となった。
 堕ちた英雄を待ち受けていたものは、敵と味方双方からの迫害。
 否、今の道了に味方はいない。
 かつての月天心のメンバーは殆どが狩られてしまった。
 警察に逮捕されたメンバーはまだしも幸運なほうで、残党狩りと称し月天心の元メンバーを迫害し凄惨なリンチを加えるのがこの界隈で流行っているのだ。

 離散したかつてのメンバーを呼び集め、月天心を再結成させる力は今の道了にはない。

 「………」
 上体を立てた拍子に腕に巻いた包帯がぱらりとほどける。
 浅いまどろみから醒めた道了はぎこちなく首を傾げ、壁に沿って視線を巡らす。
 無味乾燥な方形コンクリートの部屋、天井の一部には穴が穿たれそこから階上の様子が窺える。
 天井が崩落した部分から、床に埋蔵されていた赤と青と黒のコードと故障したネオン管が複雑に絡み合い垂れ下がる。
 青白い火花を散らし放電するネオン管が照明の代わりとなり、闇に沈んだ部屋の様子をぼんやり照らし出す。
 青白い薄明かりに浮かび上がる壁一面を埋め尽くす卑猥なスラング、迷信深い老人が聞いたら卒倒しかねない台湾語の呪詛。
 真っ赤なペンキで殴り書きされた猥褻な単語が埋め尽くす壁の隅に傾いだドアが取り付けられている。
 ドアの隙間から異臭をのせ生ぬるい風が入ってくる。
 生ゴミとドブの匂いがする湿った風だ。
 かすかに大気中に沈殿する消毒液の匂いが鼻腔を突く。
 よくよく暗闇に目を凝らしてみれば壁際によせた棚に茶褐色の硝子瓶が並び、マットレスの裂け目から綿とスプリングがとびだし使い物にならない状態のパイプベッドが二台埃を被っている。
 道了が寝ているのはそのうちの一台、右側のベッドだ。
 大分様相が変わっているが、この部屋には見覚えがある。
 漠然たる既視感を覚え部屋を見渡す。
 壁に面した机と向き合う形でおかれた丸椅子を見詰めるうちに、忘却の彼方から余韻を帯びて懐かしい声が響く。

 『残念ながら手の施しようがない』
 『ケチなヤブ医者が運営するチンケな診療所じゃどうしようもないよ』
 『頭を開き破片をぬきとるのは難しい手術だし金がかかる。何よりワシみたいなしがない闇医者にそんな大掛かりな手術できっこない。……まあ刺さってる部位が部位だけにどんな天才外科医だって手こずるだろうがね』
 『この子は頭に爆弾を抱えてる。どうせ長くは保たんさ』
 
 含蓄深く教え諭す人物の姿をもとめ向き直るも、埃をかぶった椅子にはもう長らく人が座った形跡がない。
 自分は以前たしかにここに来た。
 しかしいつだったか思い出せない。
 何年か前……おそらく子供の頃、道了がまだ月天心を結成する前だ。
 正確な日時は特定できない、月天心結成より以前の記憶はなぜだかひどく色褪せ奇妙に虚構めいてだれかにむりやり押し付けられたような違和感ばかりがつきまとう。 

 月天心結成より前の記憶は殆どない。
 気付いた時にはただひとり路上に立っていた。
 ある日突然虚空から生み出されたように、荒廃した町をあてもなくさまよいあるいていたのだ。

 わずかに残された月天心結成以前の記憶をひとつひとつ辿ってみる。
 故意に捏造されたような少しも愛着が湧かない記憶。
 不鮮明にぼやけた両親の顔、おそるおそる頭に触れる手、酒瓶が割れ砕ける音と怒鳴り声、遠く近く大地と大気を震わす爆撃の轟音……
 断片的な映像がカシャカシャと脳裏を過ぎる。
 人間なら当然両親がいたはずだ、物心つくまで自分を育て躾けた親がいるはずだ。
 しかしその顔すら覚えてない、思い出せない。

 『この子は頭に爆弾を抱えてる』
 『成長するにしたがい障害がでる』
 『あるいは感情が磨耗していくかもしれない』
 『視神経に欠片が刺さって、そのまわりに腫瘍ができて脳を圧迫してるんだよ』

 声が歪曲し鼓膜に跳ねる。

 一体だれが喋ってるんだ?
 うるさい、耳障りだ。

 片手で頭を支え起こしふらつく足取りで降り立つ。
 硝子の破片と廃材ととぐろを巻いたコードが埋め尽くす床の惨状にも顔色ひとつ変えず、右手で頭を支え左手を壁に添えゆっくり慎重に歩きだす。

 一歩踏み出すごとに嗚咽が高まる。
 うるさい、うるさい、うるさい……

 「いい加減出てこい道了、これ以上手間とらせんならこっちにも考えがあんぞ!」
 「きゃあっ」 
 服が裂ける甲高い音に続く性急な衣擦れの音、一音階高まった梅花の悲鳴が、この部屋に至る廊下の半ばで何が行なわれているかありあり想像させる。
 激しく揉み合う気配とともに伝わってくる囚われの身の恐怖と焦燥が梅花が今現在おかれた状況を何より切実に代弁する。
 「お前の女をマワして捨ててやる!」
 「お前のような死にぞこないが女を満足させられるわきゃねーよな道了、こないだの抗争で命が助かったのが奇跡なんだよ、とっととおっ死んでりゃよかったものをさあ……ッたくしぶてーったらありゃしねえ、お前が大人しくおっ死んでりゃ今頃池袋は俺らの天下だったのによ」
 「漸く居所を突き止めたぜ、まさかこんな地下に隠れ潜んでたあな……さすがに警察も気付くまいってか?アイツらこの辺の地理にゃてんで疎いからなあ、大昔の地下街のあとに池袋最凶最悪とうたわれたチームのボスが潜伏してるなんざ考えもしなかったんだろうさ」
 「穴ぐら生活のご感想をぜひ聞きたいね」
 「おい、あんま無駄口叩くな。十年前に毒ガス騒ぎが起きて住民全員立ち退かされたいわくつきの場所だぜ」
 「マジかよ?」
 「前にここに住んでた奴から聞いたんだ、間違いねえよ。……畜生、念のためにマスクしてくるんだったな。ほら、変な匂いすんだろ?」
 「お前の屁だろ」
 「そンならとっととやることやって上に帰らねーとな。長居は無用だ」
 「だとさ。聞いたかよバカ女、騒げば騒ぐぶんガス吸って寿命が縮むんだから大人しくその口閉じとけ。っと、喘ぎ声は別ね」
 「声あげなきゃつまんねーよ」
 「お、こいつ顔はぱっとしねーけど脱いだら案外イケてるぜ」
 廊下の向こうで哄笑が弾ける。
 頬を張る音が連続し啜り泣きが徐徐に弱まっていく。
 廊下に転がされ必死に抵抗する梅花の上に欲情に鼻息荒くした少年がのしかかり乱暴に乳房を鷲掴む映像が目に浮かぶ。
 梅花の悲鳴が聞こえる。
 半狂乱の体を見よじり己にのしかかる少年を振りほどきにかかるも往復で頬を張られ痛ましい嗚咽を漏らす、道了の脳裏でその映像がくっきりと結実する。

 道了は迅速に行動を開始する。

 靴の爪先が固い物にあたる。
 視線をおろせば鉄パイプにぶつかる。
 中腰の姿勢に屈み鉄パイプを手にとるや感触をたしかめるように五指を開閉、ついで壁の上方に設けられた通風孔を見る。
 等間隔に鉄格子の嵌まった通風孔に顔を近付ける。 
 埃っぽい暗闇が道了を出迎える。
 道了の決断は早い。
 頭上30センチの通風孔におもむろに手を伸ばすや鉄格子を掴み軽く力を込める。
 腕の筋肉に微電流が走る。
 掌中の鉄格子がギシリと音をたて錆が剥落、顔におちかかる。
 道了が無造作に捻っただけでもとより錆びていた鉄格子はあっけなくはずれ、人ひとりが辛うじて身を捻じ込める隙間ができる。
 「道了、逃げて、逃げて!」
 「うるせーんだよこのアマっ、売女は売女らしく男に組み敷かれて喘いでろ!」
 「服も下着もぜんぶ剥いじまえよ」
 「ははっ、こいつ見かけによらず陰毛濃いぜ。見ろよ、ねっとり指に絡みついてくらあ」
 「やだ、やめ、やっ……ひあっひうひあ、」
 下劣な嘲笑が嗚咽をかき消す。
 軽く床を蹴り直上に跳躍、強靭なバネを駆使し猫のような身ごなしで通風孔に滑り込む。
 音もたてず通風孔に滑り込み、腹這いで暗渠を進む。
 長年封鎖されていた通風孔の中は薄暗く埃が沈殿している。
 道了は鉄パイプを体の脇に引き付け、潜伏に慣れた傭兵の如く通風孔の中を這い進み、物音が聞こえる方角へ接近する。

 物音が次第に大きくなる。
 やがて乏しい明かりが鉄格子の隙間から射しこんでくる。

 等間隔に並んだ鉄格子が正面に現れる。
 鉄格子を嵌めた窓の向こうには細長い廊下が伸び、数人の少年たちが一人の女によってたかって群がっている。
 最初に目が捉えたのは、足。
 しどけなく捲れたスカートから伸びた足がしきりと床を床を掻き毟り、その足を一人の少年がむりやり押さえ付け舌を這わせていく。
 スカートが腿の付け根まで捲れ、肉付きの良い足が天井へと伸びる。
 ひどく扇情的な光景にもなんら反応を示さず、闇の中で銀と金の瞳を冷徹に光らせ、道了はじっと機を窺う。
 捲れたスカートから剥き出しとなった太股に黒い痣を見つける。

 あれは梅花だ。
 梅花の足だ。

 「やめっ、お願いやめ、変なところさわらないでお願いだから……道了お願い逃げて私のことはいいから逃げてちょうだい、あなたまだ怪我が全快してないんだから捕まったらおしまいよ他の仲間と同じようにリンチで殺されてしまうわ、お願い道了逃げてあなたまでいなくなっちゃったら私、わたし……」
 「ぎゃあぎゃあうるせえ女だな!」
 いつまでたっても抵抗衰えず道了の名を呼び続ける梅花に激怒し、今しも梅花にのしかかり下着を剥ぎ取ろうとしていた少年が拳を掲げる。
 勢い良く振り上げられた拳を前に、梅花の声色が激変する。
 「おなかは殴らないで!」     
 それまでの弱々しい嗚咽とは違う毅然とした叱責。
 断固譲れぬものを持った凛々しい声音。
 その一瞬、鉄格子の向こうの少年らが膠着する。
 「なん、だよいきなり……」
 慰み者として軽んじていた女に面と向かって叱責をうけ、主犯格の少年が気圧される。
 少年らがたじろぐ気配が空気を介し伝わってくると同時に、通風孔の中で息を潜めていた道了は行動に出る。
 体の脇に引き付けた鉄パイプを勢いをつけ鉄格子の隙間から放擲する。
 「うあっ!?」
 「なんだこりゃ!?」
 鉄格子の隙間から滑り出た鉄パイプはけたたましく床に落下、数秒間だけその場の全員の注意を引き付ける。
 道了にはその数秒で十分だった。
 床に落下した鉄パイプが動きを止めぬうちに鉄格子を拳で殴打、長い歳月を経て酸化した鉄格子は一撃で根元からへし折れ赤錆の剥片をまきちらし床を打つ。
 指輪で補強した拳で鉄格子を叩き折り、颯爽と通風孔から躍り出る。
 顔の前で腕を交差させ猫のように身を丸め中空で一回転、靴裏と床が接する音も涼やかに俊敏に着地。

 顔の前からゆっくりと腕を払う。
 ネオン菅の光に浮かび上がる精巧な人形じみた顔の中、金と銀の瞳が妖しい光を放つ。
 「こけおどしだ」
 あたりを威圧する眼光、あたりを払う威風。

 冷え冷えと殺気を吹かせて廊下に降り立つや、半裸に剥かれた梅花をつまらなそうに一瞥、依然梅花に跨ったままの少年へ視線を転じる。
 突如天から降ってきた道了に驚愕し、口を閉じ忘れた間抜け面の少年に静かに告げる。

 「目障りだ」
 しなやかに足を一閃、首を刈る。

 「っぶふっ!?」
 少年が、飛ぶ。比喩ではなく文字通り飛ぶ。
 道了が無造作に放った蹴りを首に食らった少年はその衝撃で壁に激突、まだ生きていたネオン菅もろともに凄まじい音たて崩れ落ちる。
 優雅に弧を描いた足を引き戻し、壁にめりこみ沈黙した少年にはもはや一瞥もくれず、道了は威厳を帯びて立つ。
 「道了……!」
 「俺の玩具を横取りするな」
 梅花の目に涙が溢れる。
 乳房を庇い座り込む梅花、そのまわりに真新しい包帯と脱脂綿が累々と転がっている。
 少し離れた場所に落ちた袋からはミネラルウォーターのボトルと上の市場で買ったとおぼしきパック入りの惣菜が覗く。
 周囲の惨状から察するに、替えの包帯と食糧を上にとりにいった際に残党狩りの不良どもに目をつけられたものらしい。
 梅花はひどい有り様だった。
 顔は何回も殴られ痛々しく腫れ上がり、切れた唇の端に血が滲んでいる。

 体の奥底で不快なものが蠢く。
 「梅花に手を上げていいのは俺だけだ」

 あるいはそれは、道了自身すら自覚しない怒り。
 独占欲。 

 「汚い手で人の女にさわるな」
 「うあああああああああああぁああああああああああああ!」
 次の瞬間、仲間を瞬殺され暴発した少年らが一斉に襲い掛かる。
 口々に唾飛ばし奇声を発し、あるものは懐からサバイバルナイフを抜き放ちあるものはスタンガンを構えあるものはブラスナックルを拳に嵌め、無防備に立ち尽くす道了めがけ怒涛を打つ。
 「やめて!!!」
 梅花が血相替えて叫ぶのを無視、かつて月天心の首領として君臨した男を誅しみずからが次代の王となるべく野望を抱いた少年らが殺意を滾らせ得物を振るう。
 道了は依然無防備に立ち尽くしたまま、体温の伴わぬ金と銀の瞳で少年たち一人一人の動向を読む。
 機械のように正確に敵の動きを捉え得物の軌道を予測し、最小限の動きをもってその軌道から脱することでなんなく危機から逃れる。
 「蝿が」
 瞬きせぬ目に倦怠の色を映し、嘲るように呟く。
 「いつまでも調子のってんじゃねえ負け犬が!!」
 もっとも体格の良い少年が道了の懐にとびこみブラスナックルを嵌めた拳を振り上げ罵倒を浴びせる。
 「お前はもう過去の人だ、地上に帰ったところでどこにもお前の居場所なんざねえんだよ!月天心は中国人との抗争に敗れて潰れた、生き残ったメンバーもちりぢりになってサツにびくびくしながら暮らしてる!今更お前が帰ってきたところでだあれも喜ばないんだよ、お前の時代はとうに終わっちまったんだよ!」
 「災難だったな道了。でも同情はしねえぜ、ざまーみろだ。厄介者の半々なんぞを物好きにも招き入れるからこんなことになるんだよ。上じゃその噂でもちきりだぜ、池袋最凶最悪の月天心のリーダーが半々のガキに裏切られてチームもろとも自滅したってな!」

 半々のガキ。
 ロン。
 癖の強い黒髪と三白眼をもつ少年が脳裏に浮かぶ。

 「よりにもよって中国人の血引くガキに爆弾もたせるなんざどうかしてるぜ、巷に名高い月天心のリーダーもヤキが回っちまったって街の連中が言ってるよ!聞いた話じゃ月天心の連中はお前含めてみんなそいつに辛く当たってそうじゃんか、だからだよだからさ、可哀想な半々はお前ら全員に仕返ししてやろうとわざと爆発のタイミングがずれた手榴弾を懐に入れ持ち込んだんだ、味方も敵もぜんぶ後腐れなく肉片にしちまうためにさ!」
 「お前はそんくらい恨まれてたんだよ道了、かつての仲間に本気で殺したいほど憎まれてたんだ、お情けで仲間にいれてやった半々に恨まれて今じゃこのザマだ、残党狩りの的にされて女と一緒に逃げ回る日々だ!」
 「ざまーみろ、お前は最初からスカしてて気に入らなかったんだよ!」
 「お前が消えたあとは俺たちが池袋シメてやっから壊れたお人形さんは大人しくねんねしな!」
 容赦ない嘲笑を浴びせる少年らに囲まれ、道了は呆然と自問する。

 ロンが俺を裏切った?
 
 「違う!!」
 道了を一瞬の放心から現実に引き戻したのは、悲痛な叫び。 
 声がした方を見る。腰砕けに座り込んだ梅花が引き裂かれた胸元を庇い、憤怒の形相で少年たちを睨む。
 激情に目を潤ませ頬を紅潮させた梅花は、その瞬間ハッとするほど美しかった。
 「でたらめ言わないで、ロンはそんなことしないわ、あんたたちがロンの何を知ってるっていうのよ!?何も知らないくせに勝手なこと言わないで、ロンはあんたたちが言うような最低の奴じゃないんだから、喧嘩っ早くて生キズが絶えなくて心配させてばっかりで、でもすっごくお人よしで、口が悪いけど優しくて、私が泣いてたら何も言わず肩にジャンパーかけてくれて……美人が台無しだって言ってくれたの、そんなに泣いたらお化けみたいに目が腫れて美人が台無しになっちまうって言ってくれたのよ私に、ロンが言ってくれるまでだれからも美人だなんて褒められなかったのに、涙と鼻水と鼻血でぐちゃぐちゃで、おまけに痣だらけのお化けみたいな私の顔をまっすぐに見て、美人だってそう言ってくれたのよ!!」
 梅花は叫ぶ。
 伝えきれなかった想いを込め、もう会うこともないロンに溢れんばかりの愛情と哀切を込め、声振り絞り叫ぶ。
 「あんないい子ほかにいないわ、あんな優しくてかっこいい子どこさがしたっていないわよ、ロンが月天心を潰したなんてでたらめもいいとこだわ!」
 必死にロンを弁護しながら痛みを堪えるように顔を歪め、荒い呼吸の狭間から掠れた声を搾り出す。
 「だって、だって、月天心を潰したのは……」
 見開かれた目に恐怖が凝結する。全身を戦慄かせた梅花の異常を悟り道了が眉根を寄せる。
 その隙をつき先頭の少年が風切る唸りを上げ鉄パイプを振りかぶる。
 猛然と振り抜いた鉄パイプが残像を曳き、道了の眉間に影を落とす。
 道了の頭蓋骨が陥没する光景を幻視し、梅花が口元を覆う。
 しかし実際にはそうはならなかった。
 「っあ!?」
 思い切り腕振り下ろした少年だが、鉄パイプはむなしく空を切り床を穿つ。
 自重に振り回された鉄パイプが床を削るのに愕然とした少年は、突如眼前から消失した道了をさがし血走った目を右に左へ移ろわせる。

 最前までたしかにいた、目の前にいた。
 しかし今はいない、消えてしまった。
 一体どこにー……

 「ここだ」
 耳の裏側に吐息がふれる。
 機械じみて平板な声音が死刑を宣告する。
 振り向きざま少年の額に拳が炸裂、額が割れて血が迸る。

 鉄パイプの自重に振り回され前のめりに姿勢を崩した少年とすれ違いざま体を入れ替え、死角をとった道了が拳を見舞う。
 額に走った激痛に少年は絶叫、目に流れ込んだ血のせいで視界が煙りぶざまによろめく敵に道了は追い討ちをかける。
 少年が狂乱しめちゃくちゃに振り回す鉄パイプの下をスッとくぐりぬけるや、がら空きの鳩尾に拳を叩き込む。
 「くっそおおおおおおお、舐めんじゃねええええ!」
 怒り心頭、残り二人がナイフとスタンガンを掲げ迫り来る。
 道了はこれを余裕で待ち構える。
 廊下のど真ん中に立ち、特に構えをとるでもない抑制した動きで敵の攻撃を受け流す。
 「月天心はとっくに潰れちまった、お前の味方はもうどこにもいねーんだよ!」
 「サツから逃げ隠れして地下に潜ったところで捕まるのは時間の問題だ、ならせめて俺たちの踏み台になれよ!」
 かたやスタンガンの出力を最大に上げかたや大ぶりのサバイバルナイフを突き出し急所を狙う。
 右から左から正面から交互にまたは同時に突き込まれるえげつない攻撃を道了はいささかたりとも動じず平然と受け流す。
 明かりはネオン菅のみという薄暗さに加え、廃材とゴミに覆われた通路は起伏にとんで動きにくく、初めて足を踏み入れた少年らは地の利にうとく苦戦せざるをえない。
 一方道了は廃材に蹴躓くことなく、間一髪というきわどいところでスッと重心を操作し凶器をかわし、動きを最小限に抑えているせいか依然その顔に疲労の色はない。
 道了が右に左にずれるのに合わせ、銀と金の瞳が玲瓏と残光を曳く。
 能面じみて端正な顔に淡白な表情をのせ、腕に絡み付く包帯をはためかせ、二人して自分に襲い掛かる少年らを翻弄する。
 道了が低い声で呟く。
 「蝿だ。まるで蝿だ。羽音がうるさく耳障りだ、ちらちら俺の目の前をとぶんじゃない」
 挑発に乗った少年が猛り狂った怒号とともにナイフを振り上げた刹那その懐にもぐりこむ。
 大仰な動作で腕を振り上げた少年は、ほんの一瞬の隙に信じられぬ瞬発力を発揮し道了が肉薄したことに愕然とするも時すでに遅し。
 道了の腕が伸び、無造作に肩を掴む。
 少年はいざナイフを振り下ろそうとしたがそれも間に合わない、道了が一瞬のうちに肉薄したため思考が硬直し判断が遅れる。

 そして道了は言った。
 恐怖と焦燥に歪む少年の顔を冷ややかに見つめ、酷薄に目を光らせ。
 假面の異名に違わぬ凍結した顔で。

 「はずれろ」

 ごぎん。

 「ひぎゃあああああああああああああああああああっ!!?」
 一瞬の早業。
 肩がはずれ腕の関節が不自然に伸びる。
 使い物にならなくなった腕からナイフが落下、床にあたり澄んだ音を奏でるのをすかさず蹴り飛ばし、問答無用で少年の胸ぐらを掴み腰に捻りを加える。
 流すように少年を背負い、そのまま一気に投げ飛ばす。
 轟音、振動。
 「消えろ。蝿め。目障りだ。うるさい」
 衝撃に廊下が揺れる。壁に振動が走りネオン菅が不規則に明滅する。
 「ひぅ、ひっ、ひっ、ひっ……おひぇのはにゃがあ……はにゃがめりこんしまっは……」
 歯の欠けた口と折れた鼻から大量の血を垂れ流す少年の横から次なる刺客がとびだす。
 「沈め人形!!」
 ネオンの光を弾きブラスナックルが輝く。
 まともに食らえれば鼻骨が粉砕される一撃を、道了はぎりぎりまで引き付けてからふいとかわす。
 円滑な動作で顎を斜角に傾げれば、今まさに頬げたに叩き込まれんとした拳は目測を誤りむなしく虚空を穿つ。
 体勢を立て直す暇も与えず冷ややかな囁きが耳朶を打つ。
 「足元をよく見ろ」
 視界の端を掠めたのは、硝子の瞳もつ人形の顔。
 次の瞬間、ブラスナックルを嵌めた少年はがくんと膝を折る。 
 「っお、っあがああああああああっあああああああああああ!!!」
 何が起こったのかわからず動転する。
 わかるのはただ太股を鋭く尖った鉄パイプが貫いているということ、鉄パイプの刺さった部位からじわじわと血が染み出しふくらはぎを伝うー……
 「足元を見ろ。注意がおろそかだ」
 道了が嘲りを含んだ目で少年を突き刺す。
 自分の身に何が起きたか察し戦慄に打たれる。
 大きく腕を振り被ったまさにその瞬間に道了の足が動き、鉄パイプを器用に跳ね上げ膝裏から貫通させたのだ。
 膝裏から太股に抜けた鉄パイプが赤黒い血に染まる。
 血にぬれそぼる足をひきずり逃走をはかるもその場に転倒、少年が凄まじい声あげめちゃくちゃに身悶えるたびブラスナックルが床を擦って筋を付ける。
 「ば、馬鹿な……こっちは四人もいるってのに、お前は大怪我してろくに動けねえはずなのに、こんな圧倒的なのって……」
 最後に残された少年が息を呑む。
 周囲には累々と仲間が倒れている。
 最初四人いた少年たちは今や最後の一人を残すのみとなった。
 震える手にスタンガンを握り、数の原理をものともせぬ圧倒的実力差におののく少年と対峙し、道了はうっそり問う。 
 「コンクリートの味を知りたいか」
 凍結した双眸に氷塊を沈めるように狂気が閃く。
 腕に巻いた包帯がぱらりとほどけ宙に垂れる。
 かつて假面の名で呼ばれ畏怖された男が、抵抗勢力の残党を根絶やしにせんと冷え冷えと靴音を響かせ迫り来る。
 「人間じゃねえ……完っ全にいかれてやがる……」
 追い詰められた少年の喉がぐびりと音をたてる。
 「知っている」
 道了は無表情に応じる。   
 「くそっ、くそっ、くそっ……あともうちょっとで池袋のトップに立てるってのにこんなとこで終わってたまっかよ、お前の首を持って帰りゃ俺は晴れて池袋のトップになれるんだ、あの假面を超える英雄として認められるんだよ!なあいいだろ道了代わってくれよお前はもうさんざん美味しい思いしたんだからそろそろ退いたっていいだろなあ、始まりがありゃ終わりもあるのが物事の道理ってもんさ、いくらお前が老いねえ衰えねえ永遠の人形だっていついつまでも月天心のトップ張り続けるなあ無茶なんだよ!!」
 「月天心は俺が作ったチームだ。横取りは許さない」
 「わかんねーお人形さんだなあ、月天心はもうねーんだよ、お前が拾った半々のせいで仲間もろともつぶれちまったんだよ!」
 いつはてるともない会話に業を煮やし、窮地に陥った少年が腕薙ぎ払う。
 掌中のスタンガンがばちりと爆ぜる。
 出力を最大に上げたスタンガンを体前に掲げ、しとどに脂汗に塗れた顔に醜い笑みを浮かべ、少年は言う。
 「感電死しな。電池仕掛けの人形にゃあふさわしい最期だろ」
 転瞬、疾駆。
 凶器のスタンガンで行く手を薙ぎ払い全力疾走する少年が目指すはよけもせず構えもせずただただ無防備に立ち尽くす道了。
 廃材を踏み砕き大股に走る少年、行く手を薙ぎ払わんと無軌道に振り回すスタンガンから火花が爆ぜー……
 「踊れ」
 能面じみた無表情を毫ほども崩さず、道了がえもいえず優雅な動作で腕を振り上げる。
 その手が壁のネオン菅を掴み躊躇なく叩き落とす。
 「!?ぎゃあ、」
 勢い良く床に落下したネオン菅が断線し放電現象が起こる。
 道了まであと3メートルの距離にまで迫った少年の足元に稲妻が走り、スタンガンが暴発。
 持ち主はひとたまりもない。
 「道了、火が!」
 スタンガンから散った火花が廃材に燃え移り、昏倒した少年たちの衣服までもが延焼する。
 道了は感情を映さぬ瞳で、死屍累々と倒れ伏す少年らとちりちりと火にくべられる自身の包帯を見比べる。 
 「なにしてるのよ道了逃げるのよ、はやくしないと煙が回っちゃうわ!」

 廊下は阿鼻叫喚の惨状を呈する。

 体を蝕む熱で目覚めた少年らが狂乱の体で炎をはたきおとしにかかるも既に遅く、髪にも服にも燃え移ってしまっている。
 「なんだよこれあちぃよあちぃよなんで俺が燃えてんだよ嘘だろ嘘!?」
 「畜生消えねえよ何だよこの火こっちくんじゃねえよ、あちぃよ、だれか、だれかぁ……」
 半死半生這いずる少年たちを生き物の如く炎が覆っていく。
 肉の焦げる悪臭と黒煙が充満する廊下に立ち尽くす道了のもとへ、破れた胸元を庇った梅花が必死の形相で駆けてくる。
 「走って!」
 もはや身なりを気にする余裕もなく髪振り乱し駆けてきた梅花が、いつになくしっかりした声で急きたてる。
 道了は虚ろな目で炎を見詰める。
 現実に廊下が炎に包まれつつあるというのに火の熱さも何も感じず、目の前で炎に呑まれていく少年らの哀願にも反応を示さず、廃材を糧に轟々と燃え上がり天井を舐めるまでに成長した炎をただじっと見詰めるばかり。
 「梅花」
 「何!?」
 語気鋭く聞き返す。
 道了の包帯に燃え移った火をはたきとおし、黒焦げの包帯を苛立たしげに振り捨て、道了を助けようと一心不乱にー……
 「………あれは何色だ?」
 梅花の顔が絶望に凍る。
 「色なんてどうだっていいじゃない!!」
 道了は相変わらず炎を見つめている。
 轟々と唸りを上げ火勢を増し天井を舐め尽くす炎と向き合い、
 炎に炙られながら微動だにせず、
 いつまでもいつまでもいつまでもー……

 見えざる赤に魅入られたように。
 
 「私、なの」
 か細く震える声。

 「…………………」
 何を言っているのか理解できず、胡乱げにそちらを向く。
 梅花が、いた。
 火の手の回り始めた廊下に立ち尽くし、煤けた手で皺が寄るほどスカートを握り締めかたくなに俯いている。
 「ロンのせいじゃないわ。私が原因なの」 
 「何のことだ」
 悄然とうなだれる梅花の足元に炎が忍び寄る。
 邪悪な舌をのばし梅花をとらえようとする炎を醒めた目で眺め、そっけなく促す。
 「何のことだ?」
 「月天心壊滅の原因」

 轟々と炎が唸りをあげる。
 廃材を糧に面積を広げ犠牲者を飲み込み、今や壁をこがし天井を舐めるほどに巨大化した炎に横顔を染め、梅花は搾り出すように続ける。

 「用意していた武器の中に不良品の手榴弾をまぜたの。月天心が中国人とぶつかるって聞いて、皆があちこちからかき集めた武器の中にこっそり例の手榴弾をまぜたの。誰の手に渡るかはわからなかった。見た目は他の手榴弾とどこも変わらないんだもの、わかるわけないじゃない。ロンは関係ないわ、ロンは本当に知らなかったの、ロンは何も悪くないの。全部私一人でやったことよ。
 ロンと道了だけは無事ですむと思ったの。
 確かに不良品の手榴弾だけど威力がどの程度か予測できなくて、素手で十分強い道了は手榴弾使わないし、ロンはロンで飛び道具は卑怯だから使いたくないって言ってたし……道了とロンだけは大した怪我もなく生き残ると思ったの、二人とも立場こそ違えど月天心内で孤立していたから爆発の時も他の面子とは違う場所にいると思ったのよ」

 廃材が瓦解する音が空疎に轟く。
 酸素を取り込み飽食を知らぬ怪物の如く膨らむ炎が、瓦解の余韻をもまた覆い尽くし一面を焦土と化す。

 「月天心の連中も中国人も、みんな死ねばいいのにって思った」
 梅花の顔が苦渋に歪む。
 痛みを堪えるように下唇を噛み、激しくかぶりを振る。
 「道了とロン以外死んじゃえばいいって思った、月天心なんかなくなっちゃえばいいのにって。月天心がなくなれば道了はいつも私と一緒にいてくれる、戦いで傷付かずにすむ。ずっと不安だった、いつか道了が死んじゃうんじゃないかって。中国人とか台湾人とかつまんないことでいがみあって馬鹿みたい、静かに暮らしたくてわざわざ日本まで逃げてきたのにどうしてそこでまた争うのよ、どっちの国が偉いとか強いとかどうだっていいじゃない、たんに暴れる口実が欲しいだけじゃないの。ずっと怖かった、びくびくしてた。明日にも道了がだれかに刺されて死んじゃうんじゃないかって一晩中眠れなかった。月天心なんか解散すればいい。そしたら道了は怪我しなくてすむ、つまんない抗争に巻き込まれて死なずにすむもの」
 
 『お前、可哀想だな』

 懐かしい声が鼓膜の裏に響く。 
 癖の強い黒髪と三白眼の少年の顔が脳裏で結像する。

 ロン。
 お情けで月天心に入れてやった半々。
 不良品の手榴弾を投げて相手チームともども月天心を壊滅させたガキ。
 
 違う。
 犯人はロンじゃない。

 犯人はー……

 そこまで考えた時、道了の足は勝手に動き出していた。
 廃材を踏み砕き大股に歩き、梅花が顔を上げるのを待たず鞭の如く腕を振りかぶる。 
 甲高く乾いた音が炸裂、手に痺れが走る。
 したたかに頬をぶたれた梅花が鋭い悲鳴を上げ、体を支える芯が溶け崩れたようにその場に崩れ落ちる。
 「お前がやったのか」
 しどけなく膝を崩し廃材の山に座り込んだ梅花に問う。
 生気の失せた人形のように頬を庇い、朦朧と視線をさまよわせる梅花にロンの面影が重なる。
 
 ロン。
 自分に怯えることなく声をかけた初めての存在。
 自分を可哀想と言った初めての存在。
 失ってみて初めて気付いた、特別な存在。

 「ロンに罪を着せたのか」
 「違う!!!!!」
 その一瞬、梅花の目に理性の光が点る。
 自分を冷ややかに見下ろす道了の視線を気丈に跳ね返し、涙で潤んだ目に一途な決意を映し、いつも道了にされるがままやりたい放題殴られ蹴られ痣だらけになっていた女が、これまで抑えに抑えてきた感情を一気に爆発させ、自分を束縛する不可視の糸をひきちぎり自由を得んと暴れだす。
 
 人形が、人間になる。

 「ロンは私に優しくしてくれた、イイ女だって言ってくれた、好きだって言ってくれた!月天心の連中は私をマゾの雌犬呼ばわりする最低な奴ばかりでもロンは違った泣いてる私を慰めてくれた!
 ロンに罪を着せるつもりなんか誓ってこれっぽっちもなかった、けど本当のこと言い出す勇気もなかった、警察に捕まるより道了と引き離されることのほうがずっとずっと怖かった!
 勝手なこと言ってるってわかってる、それでも道了とずっと一緒にいたかったの。好きだから、愛してるから、殴られても蹴られてもビール瓶ぶつけられても嫌いになれなくて自分でもマゾの雌犬だと思うでもどうしようもないの止まらないの好きなの好きなんだよ、私のこと守るって言ってくれたロンより道了が好きなんだよ、道了が私をさわるときの感じとか遠くを見てるときの横顔とか殆ど唇を動かさないお人形みたいな喋り方とか低い声とか好きで好きでたまらないんだよ、体の細胞全部で道了が好きなんだよ!!」
 
 白と黒と灰色で構成された単調な世界が焼け爛れていく。
 上映を終えたフィルムが自動的に巻き取られていくように、
 ポジとネガがめまぐるしく交錯する。
 黒と灰色のグラデーションによって立体的に表現される炎が梅花の顔を白と黒の明暗でかっきりと浮き彫りにする。
   
 綺麗だ。
 色がなくても十分に。

 轟々と耳鳴りがする。
 それが耳鳴りではなく炎の唸りだと気付くのに数秒がかかる。
 炎の舌が這う壁を背にし、泣き笑いに似た哀切な顔で梅花が呟く。 
 「ごめんなさい、ロン」
 そっと下腹部に手を回す。
 いとおしげな動作で丸みをおびた下腹部をさすり、薄っすらと微笑む。
 「ごめんなさい、道了。……あなたを縛りつけようとした罰ね、これは」
 梅花が深呼吸し、凛とした居住まいで道了を見る。
 数ヶ月前と比べ丸みをおびはじめた下腹部に優しく手を添え、腕から伝わる胎動を慈しみ、愛した男へ嘘偽りない心情を語る。 

 「私が好きなのは道了。
 假面じゃない。
 月天心があるかぎり道了は假面をやめられない。
 私が好きなのはとても寂しい目をした普通の人間、鉄のような無表情で人を殴り殺す人形じゃない。
 道了が好き。
 月天心にとられたくない。
 だから私はー……」

 これだけ一緒にいてどうして気付かなかったのだろう、梅花の腹が膨れていることに。
 梅花が妊娠していることに。
  
 梅花は月天心を潰そうとした。

 月天心さえなくなれば自分のもとに道了が戻ってくると信じ、
 月天心がなくなれば道了が死と隣り合わせの刹那的な生き方をしなくなると期待し、
 月天心がなくなれば、新しく生まれてくる命が月天心に代わり得るのではと期待し。
 
 すべてはただ、男に愛されたいがための行為。

 「………馬鹿な女だ」

 梅花はロンに罪を着せた。
 ロンに罪を着せ砂漠のはての刑務所に送り込んだ。
 何より道了が作り上げた月天心を潰した張本人は梅花だ。 
 こんな女、生きている価値がない。
 
 勢いを増し荒れ狂う炎が壁と天井と床を席巻する。
 貪欲に育つ炎に巻かれ、梅花の頭を掴む。
 少し指に力を込めればそれで終わりだ。
 頭蓋骨を砕かれ梅花は死ぬ。
 手をかけた姿勢で停止する道了の背後で炎が燃え盛る。
 
 殺せ。
 こんな女殺してしまえ。
 俺からロンを奪い月天心を奪った女に図々しく生き永らえる価値などない、頭を砕いて殺してしまえ。
 
 炎に巻かれた廃材が盛大に雪崩おち、大量の火の粉がすさぶ。
 冥府の底から湧き起こるような業火の唸りの他は静まり返った廊下にて、炎の照り返しを受け妖美な陰影に隈取られた梅花の顔を覗き込み、頭にかけた手にぐっと力を込める。  
 
 頭蓋骨の軋みが手に伝わる。
 仰け反る梅花にのしかかり、苦鳴を漏らす唇の付近に顔を寄せる。

 無慈悲な輝きを放つ銀と金の瞳に苦しみ歪む梅花の顔を映し、
 梅花の手の火傷に気付いても顔色ひとつ変えず、
 その火傷が我が身をかえりみず道了を助けようとしてできたものだと知っていながら指の力はいささかたりとも緩めず。

 『我不愛你』
 お前なんて愛してない、と。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050312034456 | 編集

 東京少年刑務所上空に飛来した機影はロシア軍籍のヘリコプターだった。

 「事情を聞かせてもらおう」
 ロシア軍籍のヘリから降り立った軍人三名は来客の応接間を兼ねる所長室に通された。
 艶々と光沢をまとう高級ソファーに腰掛けているのは、祖国を牽引する矜持輝くロシアンブルーの軍服に身を包んだ二十代後半の青年。
 霜柱のような銀髪に縁取られた美貌にもまして魅力を付与するのは一挙手一投足から漂うえもいわれぬ気品だ。
 
 優美に湾曲した柄を摘み、軽く縁を傾げ紅色に澄んだ美しい紅茶を喉に流し込む。
 形良い唇に白磁が接吻、仄白い湯気とともに立ち上る芳香を吸い込み心ゆくまで吟味する。
 舌の表裏で余韻を反芻するが如く安らい目を閉じる。
 茶の渋みが紅茶本来の持ち味を引き立てる。

 白磁の茶器を机上に戻し青年が顔を上げる。
 青年の向かいに座るのは副所長の安田、愛犬を失い情緒不安定となった所長の代理として東京少年刑務所を取り仕切る有能なエリート官吏だ。 
 安田の隣には中年の所長が座り神経質に爪噛み膝を揺すっている。
 正面きって来意を問われた青年は、微塵も取り乱すことなく誠意をもって応じる。
 「まずは突然の訪問の無礼をお詫びします。私はアルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ、ロシア軍部の人間で階級は大佐です」
 「その年で大佐とはエリートだな。出世と引き換えに賄賂を送ったかコネで取り入ったのかね」
 膝に骨壷をのせた所長が殆ど反射的に嫌味を言う。
 アルセニーは穏やかな微笑みで受け流す。
 アルセニーの両隣には屈強な軍人が控える。
 おそらくは護衛の任を仰せつかった部下だろう、所長が不審な行動をとれば力づくでねじ伏せるとばかりこちらを警戒している。
 安田は相手の表情を洞察し僅かな変化も逃さぬよう努めながら最大の疑問点をつく。
 「ロシアの軍人が東京少年刑務所に何の用だ。しかも事前連絡もなく唐突に……上はこの事を知ってるのか」
 懸念を示す安田にアルセニーは膝の上で五指を組み弁明をはかる。
 「領空侵犯の愚は犯しません、祖国の不利益になりますしね。政府には一応話を通したのですが不手際で情報下達が遅れたようです。どこの国の政府も内情が杜撰なのに変わりはない……つまるところごく初歩的なミス、連絡の行き違いです」
 話し方に説得力がある。
 安田は釈然としないながらもアルセニーの語り口に信憑性を感じ追及の手を緩める。
 アルセニーは再びカップを取り上げ音もたてず一口含む。
 品良く紅茶を啜るアルセニーに視線が集中する。
 こちらを焦らそうという巧妙かつ狡猾な意図か純粋に紅茶を味わっているのか推し量りがたい。
 高価な調度で纏められた室内に重苦しい沈黙が被さる。
 カチャリと音たて受け皿にカップを置く。
 改めて安田と向き合い、薄氷の瞳に真剣な色を映しアルセニーが口を開く。
 「率直に申し上げます」  
 威儀を正したアルセニーにつられ安田もまた緊張を意識し背筋を正す。
 部屋の空気が張り詰める。
 アルセニーは膝の上で五指を組みしばらくこちらを試すような視線を向けていたが、一呼吸おいて話し始める。
 「私がここを訪れた目的はひとつ、当刑務所に収監されているロシアの囚人の返還を求めるためです」
 「何を馬鹿な!!」
 間に挟んだ机に振動が走る。
 激昂した所長が思わず腰を浮かし両拳で机を殴打したのだ。
 拳での殴打による衝撃でけたたましい音たて紅茶がひっくり返り紅色の液体を盛大にぶちまける。
 机上をぬらし端から滴りおちた紅茶が絨毯を染め替えるさまを一瞥してなおアルセニーは表情をくずさず姿勢をくずさない。依然落ち着き払った態度でソファーに腰掛けたまま、紅茶の飛沫が軍服の胸元に飛んで染みを作っても顔色ひとつ変えず静観を決め込む。
 「大佐、お怪我はありませんか?」
 「ええ」
 両隣の部下が腰を上げるのを言葉少なく制し、興奮のあまりソファーから立ち上がり不規則に肩を上下させる所長に視線を転じる。

 「囚人の返還を求めるだと?何を馬鹿な、どの国の人間だろうと一度この刑務所に入ったら刑期を終えるまで二度と出られない決まりになっていると知らないのか貴様は!現在東京少年刑務所には日本で犯罪を犯した二十歳以下の少年らが収監されている、もちろんその中には日本に密入国した外国人の子孫も多数含まれる、しかし日本で犯罪を犯したからには日本の法律で裁かれ日本の刑務所に入るのが当たり前だ、それを今更『返せ』などと超法規的措置をのぞむのも大概にしろ!!」

 カッとひん剥いた双眸をぎらつく光にぬめらし、語気荒く大量の唾飛ばしアルセニーを糾弾する。
 今にもアルセニーの胸ぐら掴まんばかりの常軌を逸した剣幕でさらに捲くし立てんとする所長を安田が机上から引き剥がし元通り座らせる。
 憤激のあまり過呼吸の発作を起こしかけた所長を冷ややかに一瞥、東京少年刑務所の副所長は同じくらいの冷ややかさでもってロシアからの客人を促す。
 「具体的に話をうかがいたい」
 副所長とアルセニーの間で殺気が交流、相手の目から真意を読み取ろうとするかのように怜悧な眼光が交錯する。
 アルセニーは紅茶の染みができた胸元を部下がさしだすハンカチで拭いもせず、眼鏡の奥から尖った眼光を突き刺す安田に詳細を説く。

 清涼に銀髪が流れ、湖水の透明度の瞳にかかる。
 繊細な前髪のあいだに見え隠れする双眸に悲壮な決意をやどし、膝の上で組む指に僅かに力を込め、アルセニーは真摯に語りかける。

 「当刑務所にロシア系の囚人が少なからず収監されていることは政府の調べで以前から判明していました。しかし政府は日本と衝突するのを避け見て見ぬふりを決め込み、海を挟んだ異国の地に収監された少年らの存在を黙殺し続けてました。現在当刑務所に収監されているロシア系の囚人には祖国を捨て日本に密航した者やその子孫が含まれる。彼らの処遇は極めてデリケートな問題故に政府の方針が定まらず、長いあいだうやむやの状態のまま放置されていました。しかしこのほど政府の方針が定まり、ロシア国籍をもつ囚人らを祖国に送還し、ロシアの法律で裁き直すことになったのです」
 そこで一呼吸おき、苦渋の滲んだ顔と声で独白する。
 「当年刑務所にはいまだ成人に達さないロシアの少年たちが多くいる、彼らを見殺しにするのはあまりに酷だと上も考えを改めたのです。私は政府の決定を伝えるため国の代表としてこちらにやってきました。本来ならば政府高官が直接挨拶にうかがうべきですが、実際には今だ何もかもが仮決定の状態で……」
 「相手方の偵察もかねて軍人をさしむけたというわけか」
 安田が皮肉げに指摘し、アルセニーは曖昧に苦笑するよりほかない。
 流暢に語り終えたアルセニーの語尾に被さるように陰にこもる呪詛が流れてくる。
 「許さん、許さんぞ……」

 所長が骨壷をしっかり抱きしめ呟き始める。
 その目は血走り唇はわななきとても正気とは思えない。
 ハルの遺骨をおさめた壷をひしと抱きしめ、極度の興奮に駆り立てられアルセニーの方に身を乗り出すや猛然と抗議を申し立てる。
 
 「東京少年刑務所にいる囚人は皆私の物だ私の家畜だ私の許可なく連れ去るのは断じて許さん、ロシア人も中国人も韓国人もさらにはフィリピン人も知ったことではない!日本の法律を犯したら日本の法律で裁かれるのが道理だ、それをなぜ今頃しゃしゃりで奪還せんとする、従順な家畜に生まれ変わらせるべく再洗脳再教育を施している最中の囚人を取り返しすべてを台無しにしようとするのだ!?」 

 完全に恐慌をきたした所長を看守が取り押さえにかかるも既に遅く理性をかなぐり捨てた所長の暴走はとどまるところを知らず、机に勢い良く倒れこみ受け皿までも叩き落とし暴れ狂う。

 「ひとりたりとも返すものか渡すものか絶対に!!ロシアに帰れ軍人めがが、ここは貴様ら如きが来るところではない、ここは東京少年刑務所という名の私の王国だ、私の王国を侵犯するものには死あるのみだ!第一この刑務所にはハルを殺した犯人がいる、ハルを殺した真犯人を突き止めハルが味わったのと同じかそれ以上の苦痛を味あわせるまで一人たりとも囚人を釈放するわけにはいかない、たとえ国際問題に発展しロシアが日本に核ミサイルを撃ち込みそれがきっかけでハルマゲドンが起ころうともハルを殺した疑いのある身を放逐するなどもっての他!!!」
 第三次世界大戦も辞さずと怒り狂う所長を看守が二人がかりで取り押さえにかかる。
 ハルの亡霊が乗り移ったように見苦しくばたつく所長に同情し、アルセニーが呟く。
 「……仕方がない」
 苦い諦念が滲んだ口調でひとりごち、アルセニーは目を閉じる。
 「もとより簡単に賛同が得られるとは思いません。しかしこちらもやすやすと引き下がるわけにはいきません……東京少年刑務所の実態を調査し上に報告するためにも暫くの間滞在を許可願います」
 「こちらに拒否権はないのか」
 「何か困ることでも?」
 アルセニーが優雅に微笑む。
 拒否すれば国際問題に発展すると脅しをかける笑顔にさすがの安田も不承不承頷くよりほかない。
 看守の拘束を振り払い今にもとびかからんと獰猛に歯軋りする所長の面前、部下ふたりを伴いアルセニーが腰を上げる。
 話し合い終了の合図。
 「では失礼します」
 片手をさしだすアルセニーに安田は距離を置く。
 「ひとつ聞きたいのだが」 
 「なんでしょう」
 握手を求めるアルセニーに怪訝な目を向ける。
 「あなたはサーシャを知っているのか」
 サーシャ。
 その名を発した瞬間アルセニーの顔に翳りがさしたのを見逃さない。
 優雅に長い睫毛がためらいがちに震える。
 大気に溶けて消え入りそうに儚い横顔が心痛を代弁する。
 アルセニーの動揺を見抜いた安田はすぐさま畳み掛ける。
 「あなたがヘリコプターから降りて真っ先に歩み寄った囚人の名だ。初対面にしてはどうにも様子がおかしかった。サーシャはあなたを見た瞬間驚愕に目を見開き大いに取り乱し、一方あなたはとても他人とは思えぬ笑みを浮かべサーシャに手を差し伸べ『陛下』と……」
 アルセニーがゆるやかに顔を上げ、安田が息を呑む。
 深沈と静まったアイスブルーの瞳がこちらを見つめる。
 ほんの一瞬アルセニーの横顔を過ぎった哀切な影は跡形もなく消え去り、今や穏やかな笑みの下に完全に動揺を封じ込め平静を取り戻したアルセニーは、凪のような目で安田を見据え逆に質問する。
 「彼の本当の名をご存知ですか?」
 虚を衝かれ安田はたじろぐ。
 質問の意図が掴めず困惑する安田に対し、いつまでたってもとられぬまま宙にさしのべた手をゆっくりと垂れ下げ、アルセニーは小さく吐息をつく。
 過ぎ去りし日々を投影するが如く天井を仰ぎ、体の脇に下げた手を再び持ち上げ顔に翳す。 
 繊細な指が頬を這い眦にふれる。
 その時安田は初めて気付く。
 アルセニーの目の色が片方微妙に違うこと、片方の色素が若干濁っていること。
 よくよく注意せねば気付かないほどわずかな違いだが、片方が冴えた湖水の透明度を誇っているのに残る片方は一滴ミルクを垂らしたような濁りを見せている。
 神々しい光沢を放つ白銀の髪と玲瓏と澄んだ薄氷の瞳、ロシアンブルーの軍服に映える白磁の肌は安田のよく知る人物に酷似している。
 「……いや、知らない。データベースには『サーシャ』とだけ記載されていたが」
 「彼はロシアを出る時本当の名を捨てたんです。過去と決別するために」
 同じ白銀の髪と薄氷の瞳をもつ囚人に思い当たり、『まさか』と胸中で反駁する。
 アルセニーは濁った目を手で覆う。
 濁った目を恥じて隠すのではなく兄弟の絆として慈しみ、残る片目を郷愁に誘われ虚空に馳せる。
 「彼の本当の名はアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ……」
 前髪の奥から見え隠れする目が恍惚とぬれ光る。
 アルセニーはしばしその場に立ち尽くし感傷に耽っていたが、片目に添えた手を下ろすと同時に軽く握り込み宣言。
 「私の愛する弟です」
 再び外気に晒された目に氷結した炎の如く激情の迸りを覗かせ、アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフは言った。



 漸くここに来た。
 長かった。
 本当に長かった。

 
 硬質な靴音を響かせ軍人らしく規則正しい歩調で廊下を行く三人の先頭に立ち、アルセニーは述懐する。
 アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ。
 ロシア軍情報機関にて特殊任務に就く軍人。
 階級は大佐。
 二十九歳の若さにしてこの地位に上り詰めるために色々な手を使った。異例の出世にまつわる嫉妬まじりの陰口は後を経たず、しかしその一部は紛れもなく真実を穿つ。
 アルセニーは秘めたる目的を果たすため一刻も早く今の地位を得る必要があった。
 陰謀と打算が絡み合う軍部で若輩の身が成り上がるには綺麗事だけでは済まず、時としてプライドを踏み躙られる屈辱にも耐えねばならなかった。
 『その年で大佐とはエリートだな。出世と引き換えに賄賂を送ったか、コネで取り入ったのかね』
 先ほどここの所長だという男から投げ掛けられた揶揄を反芻する。
 アルセニーが二十代で大佐の地位にまで上り詰めることができた最大の理由は、無論本人の功績と資質が認められたからだ。

 アルセニーは優秀な軍人だった。
 しかし能力の高さだけで出世が見込めるほど軍は綺麗な世界ではない。
 一刻も早く今の地位を得る必要があったアルセニーは時として自尊心に唾する行いも辞さず卑劣な策を弄し競争相手を蹴落とし上官に取り入った。
 俗物の所長の言う通りだ。
 自分は決して聖人君子などではないとアルセニーは痛感している。
 今の自分を見てはたしてサーシャは幻滅するだろうか、理想の兄が俗物に成り下がったことを哀しみ憂い裏切られたと絶叫するだろうか。

 それでもアルセニーは後悔しない。

 「すっげえ、本物の軍人だ」
 「しかも極上の玉だ!」
 「ロシアの軍服ってはじめてみたけどすっげー派手派手だな~。よくあんなん着て出歩けるよな、正気を疑うぜ」

 所長室から出て内部視察に赴いたアルセニーらを好奇の眼差しと躁的なざわめきが取り巻く。
 東京プリズンには本物の軍人を目撃するのが初めてという囚人が少なくない。
 日本の自衛隊は第二次ベトナム戦争の関係で現地に赴き、日本に居残っているのは戦地にすら駆り出されず銃火器の横流しで小遣いを稼ぐ米軍のおちこぼればかりで、そんな彼らはをあくまで薄汚れた迷彩服をまとった「兵隊」であって「軍人」ではない。
 生まれて初めて本物の軍人を目の当たりにした囚人らは訓練慣れした一挙手一投足に露骨な注視を注ぐ。

 「何しにプリズンにきたんだろな?」
 「ロシアの重犯罪者を移送しにきたんじゃねーか」
 「馬鹿かお前。なんでわざわざ日本にくんだよ、ロシアにだって刑務所くらいあんだろーが」
 「ロシアにおいとけねーくらい凶暴な犯罪者なんだよきっと、あっちで200人くらい惨殺した大量殺戮犯かそれとも第二の社会主義革命を志した思想犯か……とにかくロシアにおいとくと何かとまずいから臭い物に蓋ではるばる海渡って捨てにきたんだよ」
 「で、その大量殺戮犯はどこにいんだよ?あん中に軍服着て紛れ込んでるとか言うなよな」

 さまざまな憶測が野次馬の間を乱れ飛ぶ。
 アルセニーはあくまで冷静沈着に周囲のざわめきも意に介さず通路を進む。
 周囲に群がるのは未成年とはいえ凶悪な犯罪者ばかり、中にはアルセニーに向かい口笛をふくもの中指を立てるもの股間をしごくまねをするものもいる。
 「おいマトリョーショカ、来日記念に一発ヤらせてくれよ!」
 「あんたご自慢の軍服にザーメンぶっかけ水玉模様にしてやる!」
 「連れの二人はあんたのコレか?ケツ貸してやってんのか?」
 アルセニーに向かい卑猥な野次がとび下卑た哄笑が爆ぜる。
 「大佐にむかって何たる口を利く!」
 腹に据えかねた部下のひとりが飛び出しかけるのを制し、アルセニーは軽く首を振る。 
 「子供相手に大人げない。ロシアの恥だ」
 暴言を吐かれても少しも怒りを表に出さず、反対に部下の先走りを戒める。
 品よく眉をひそめたアルセニーの注意に部下は恐縮、羞恥に頬を染めて俯く。
 自省する部下にちらりと苦笑を送るアルセニーにもう一人の部下、こちらはまだ若い少佐が遠慮がちに声をかける。
 「しかし大佐、先ほどはひやひやしました。ここの所長ですがどう見ても普通ではありません、頭がおかしいです。こちらはただロシア国籍の囚人を送還してほしいと言ってるだけなのに何故ああもむきになって拒むんでしょうね?」
 「彼には彼の理由があるんだろう」
 「交渉難航の原因は政府の不手際ですよ。事前に連絡が行ってればまだしも話し合いの余地があったのに、結果的にこちらがいきなり乗り込んできた形で……心証最悪です。上にはなんと報告します?」
 「しばらくのあいだ滞在し様子を見ると伝えてくれ。東京少年刑務所の実態を暴く良い機会だ、私も独自に調査を進めてみる。上には随時連絡を入れる」
 「こちらには何日ほど滞在する予定ですか」
 「具体的には決めてない。しかし調査の進展具合によっては一ヶ月以上……」
 部下と会話しながら歩んでいたアルセニーが鞭打たれたように硬直。
 野次馬のざわめきが凶兆を孕むどよめきへと変化、アルセニーらに注がれていた視線が反転し新しく現れた人物がこの場の注目をさらう。
 廊下の角から大胆不敵な大股で歩み出た人物の視線が行く手を薙ぎ払うや、刷毛でひとなでするように瞬時に空気が塗り変わる。
 嵐の脅威に根こそぎ打ち伏せる葦のごとく危険を感じあとじさる囚人たち、壁にへばりつくよう二手に分かれ道を空けた彼らが畏怖の眼差しで仰ぐ先に悠然と立つ一人の青年。

 干し藁の髪のはざまから覗く隻眼が硝子じみた脆さと危うさを感じさせる。
 精緻な装飾を施した黒革の眼帯が左目を覆う。
 精悍さと甘さとが黄金率で溶け合った野生的な容貌は絶世の美形と評すにふさわしく、艶めかしい褐色肌から発情期の豹のごとく過剰なフェロモンが匂い立つ。
 威風あたりを払う立ち姿は百万の愚民を従える暴君のそれ。
 精緻な装飾を凝らした眼帯が野生的な美貌に蛮勇好む雄雄しさを添える。 
 アルセニーらの行く手を遮りあまたの囚人を傅かせ、暴君の権威でまわりを威圧し、青年が第一声を放つ。

 『Очень рад Познакомиться.』
 お会いできて光栄だ。 

 青年の口から流暢にロシア語が紡がれる。
 甘く掠れた独特の響きをもつ美声が酩酊を誘う。
 突如眼前に現れた青年に対し中尉と少尉は警戒心もあらわにアルセニーを庇う。
 自分を守るよう立ち位置を移動し、相手が危害を加えようとすればすぐにでも軍服の懐から銃を抜き放てるよう身構える部下ふたりを視線で制し、改めて青年と対峙する。
 コンクリ打ち放しの殺風景な通路に異様な緊迫感がのしかかる。
 沈黙の重圧に固唾を呑む囚人らを無きに等しく扱い、青年は片頬笑む。
 「話には聞いてたけど実際見るのは初めてだ。なるほどサーシャに似てるな、色が白くて背の高い典型的ロシア美人ってか。コサックダンスはどうですかお嬢さん」
 「遠慮するよ」
 野卑に口笛をふく青年の申し出をアルセニーは丁重に辞退する。
 限界まで引き絞られた弦のようにあたりの空気が撓み張り詰める。
 距離にしておよそ十メートルと離れてないにも拘わらず足元に押し寄せてくるこの威圧感はどうしたことだ?
 アルセニーは努めて平静を装い褐色の青年を窺う。
 褐色の青年は無防備なまでにリラックスした体勢で立ち尽くしているが、藁色の髪の奥から垣間見える右目には蛇の舌のごとく残虐な光が踊り、口元にはうっすらと酷薄な笑みがたゆたう。
 僅か十メートルの距離が万里に値するような錯覚に眩暈が襲う。
 「先ほどサーシャと一緒にいたね」
 気色ばむ部下を諌めアルセニーが問う。
 青年は質問の矛先を逸らすように軽薄に肩を竦める。
 「彼とはどんな関係なんだい?よければ聞かせてもらおうか」
 「よろしくないから聞かさねーって言ったら?」
 青年が悪戯っぽく笑う。右目に嗜虐の色が浮かぶ。アルセニーをからかうのが楽しくて楽しくてしかたがないといった放埓さだ。
 アルセニーは小さく溜め息をつき足元に視線を落とす。
 乾いたガムがへばりつき吸殻が転々としゴミが散乱する汚い床が視界を占める。
 不衛生な惨状を呈す床に視線を投じ思考に没頭する。
 先刻の光景が脳裏に蘇り平常心をかき乱す。
 ヘリコプターを降り立ったアルセニーが直後に目撃した光景は思い出すのも忌まわしいものだ。
  
 『寄るな!』
 拒絶の言葉が叩きつけられる。
 
 凍り付いた表情のサーシャが愕然と目を見開き、大胆にはだけた軍服から痣だらけの肌を零し死に物狂いにあとじさる。
 『いやだ……寄るな、来るな、近付くな……今更何をしにきたもう遅いすべて手遅れだ!こんな私を見るな、頼むから見ないでくれ、こんな惨めでぶざまな私を見ないでくれ……もはや私の威厳は失墜した私は王座を追われ犬に成り下がった。私はロマノフの血を継ぐ偉大なる皇帝などではない、サーカスの淫売が股から産み落とした薄汚い私生児にすぎなかったのだ!そうだ本当はわかっていたずっと昔からわかっていたのだ、私は最初からサバーカに身を堕とし男のものをしゃぶり尻を犯され飼い殺しにされる運命だったのだ!!』
 ぐちゃぐちゃに縺れ絡まった銀髪を振り乱しめちゃくちゃに首を振り頭を抱え込むサーシャ、背骨もへし折れんばかりに仰け反ったその喉から絶叫が迸り余韻を引く。
 『「私は選ばれし人間なのだ、ロシアで最も偉く賢い皇帝なのだ、誰もが私を褒め称え万歳と唱和する。ほら聞こえるだろうツァー・ウーラツァー・ウーラ、ツァー・ウーラ・ハラショー・サーシャ……』
 ぎざぎざに割れた爪でコンクリートを掻き毟り絶望を煮詰めた呪詛を吐く。希望の枯れた目にしめやかに涙の膜が張り顔が溶け崩れる。

 ツァー・ウーラツァーウーラと自らを讃えるうわ言を連綿くりかえすサーシャを思い出しアルセニーは瞠目する。

 「……君はサーシャの恋人なのか?」
 胸の痛みを伴う回想を強引に断ち切り、青年に向き直る。
 「あっはははははははははははははっはははははははははははははははははははははははっ!!!」
 この問いがさも意外とばかり青年がけたたましく笑いだす。
 よく撓る弓のように背中が床に接するほど仰け反ったかとおもいきや次の瞬間には額が床にぶつかるほど前屈みになり甲高い笑い声を破裂させ派手に手を叩き徹底的にアルセニーの発想を茶化しのめす。
 精神の変調を疑いざるを得ない豹変ぶりに部下はおろか周囲の囚人たちまでも青褪め身を引く。
 狂気と正気のあいだで揺れる振り子のような振幅の激しい笑い声が喘鳴にまぎれ徐徐に収束していき、やがて終息。
 笑いの余韻で口端をひくつかせ、目尻に滲んだ涙を人差し指で拭い青年がこちらを窺う。
 「恋人?あんたの目は節穴か?まあ地上五十メートルから見下ろしたんじゃ現場の状況なんざろくにわかるわきゃねーし勘違いするのも無理ないけどさ、にしても恋人はねーだろ恋人は。第一発見時のサーシャの状況覚えてるか?服装は、顔は?どうだ、正直ひでーもんだったろ。いかにもレイプされましたってかんじで顔中に白濁ちってたろ。顔じゃけねえ、髪も服もあちこちべとべとで目はどんより濁って口は物欲しげな半開きでマジウケ……」
 「知ってるかい、ロシア軍正式採用のトカレフに安全装置が付いてないのは何故か」
 先刻のサーシャを微にいり細を穿ち克明に描写する青年を遮り、アルセニーが話題を変える。
 青年が怪訝な顔をする。
 周囲の囚人たちが一様に不安な面持ちで凝視を注ぐ。
 背後の部下が異常を察しうろたえる気配が伝わるも、アルセニーはあえて取り合わず青年のみを見詰め続ける。
 身の内から噴き上げる殺気がさらりと銀髪を揺らす。
 清涼な旋律奏で光撒き散らしながれる銀髪の奥、清冽なアイスブルーの目が狂気の上澄みを映し透徹した輝きを放つ。
 「トカレフの生みの親はソ連国営トゥーラ造兵廠の銃器設計者フョードル・バシーレヴィチ・トカレフ、ロシア軍に正式採用されたのは1930年。トカレフ最大の特徴は当時としては画期的な安全装置の省略にあった。安全装置を排した理由は第一に生産性を高めるため、第二に極寒の季節に部品凍結等で発射不能になるリスクを少しでも減らすためだ」
 「社会主義のお国柄を反映した銃か」
 青年が皮肉げに微笑む。
 その笑みさえ良心を手懐ける悪魔のように美しい。
 『Да』
 飲み込みの早い生徒を褒め軍服の懐にすっと手を入れる。
 「!?大佐っ、」
 部下が制止の声をあげる。
 周囲の囚人がどよめき波打つ。
 廊下の中央、十メートルの距離をおいて青年と対峙したアルセニーは軍服の懐から一挺の銃をとりだす。
 空気を弾き硬質に黒光りする細身の銃の照準をまよわず青年に合わせる。
 一連の動作はひどく手馴れていた。
 アルセニーが銃の扱いに慣れているのは一目瞭然。
 脅しというにはあまりに静かに、予めこの事態を想定していたが如く落ち着き払った物腰でアルセニーは言う。
 「故にトカレフは暴発させないよう扱えるものが持つのを前提としていた」
 「玄人向けの銃ってわけだ。安全装置がねーのは軍人の度胸試し?」
 銃口の延長線上の青年が茶化すのに答えず、腕を水平にのばした端正な姿勢で静止する。
 「危地に臨んでは己の命ではなく軍人の覚悟を優先し祖国に尽くせ。当時の軍人はそう胸に刻んでいた」
 「とっくの昔に生産終了したレア物だぜ。ひょっとしてレプリカ?」
 銃口を向けられても慌てる素振りもなく青年は飄々と軽口を叩く。
 万一銃弾が放れてもかわす自信があるといわんばかりに余裕を匂わす態度。
 銃口の奥に広がる無機質な闇を覗き込み、残る右目が冷え冷えと虚無を湛える。
 「トカレフの貫通力は高い。身をもって試してみるかい」
 霜柱が縁取る目の温度が一層冷え込む。
 青年は銃口とアルセニーとを見比べ謎めく笑みを浮かべる。
 固唾を呑んで動静を見守る囚人たち、アルセニーの背後の部下ふたりは上官の暴走を止めんと緊張の汗をかき引き金に指が沈むさまを凝視する。
 芝居か本気か判じかねる現状で上官に意見するのに抵抗を感じるのは事実、しかしぐずぐずしていたら弾丸が発射され手遅れになってしまう。
 ロシアの軍人が日本の刑務所で発砲したとなれば大問題になる。
 アルセニーに限りそんな軽はずみな行動をとるはずがない絶大なる信頼を抱き、部下ふたりは焦慮に苛まれながらも事態を静観する道を選ぶ。
 いつはてるともない膠着状態。
 空気が帯電したように殺気を帯びる。
 「…………失礼」
 先に折れたのはアルセニーだった。
 引き金にかけた指を緩めゆっくりと腕を下ろし、本気とも冗談ともつかぬ口調で形ばかり謝罪する。
 「銃口を向けた非礼を詫びる。君の下品な言動につい平常心を乱してしまった」
 アルセニーが銃を下ろすとともに空気が弛緩し囚人が安堵の息をつく。
 藁色の髪もつ青年は腰に手を添えアルセニーをじろじろ不躾に眺めていたが、ふいにその唇が不敵な弧を描く。
 「あんたの弟は淫売の露出狂だ。俺の下で腰振り悦ぶメスのサバーカだ」
 紛れもない挑発、悪意を込めた嘲弄。
 アルセニーの顔に再びさざなみが走る。
 今だ銃を握ったままの手が微弱な反応を示す。
 周囲にただよう険悪な雰囲気を意に介さず、驚異的な長さを誇る睫毛の奥の目を邪悪な悦びでぬらした青年が、おもむろに宙に腕をさしのべる。
 優雅に宙を薙ぐ腕に視線が吸い寄せられる。
 一身に注目を集めご満悦の青年が軽快に指を弾き、芝居がかった素振りであたりを見回してみせる。

 『OK, come here. It‘s  a play time!』
 陽気な声が薄暗い廊下に響き渡る。

 廊下に反響したその声が大気に溶けて消えるのを待たず、青年の背後から角を曲がりあらたな囚人が現れる。
 その姿を一目見るなりアルセニーは凍り付く。
 「サーシャ………」
 覚束ない足取りでやってきたのは、病み衰えた瘴気纏う不健全にやつれた囚人。
 先刻中庭で意にそまぬ奉仕を強いられ飲み干しきれない精液で顔と服をしとどに染めた青年が、精液が乾いて所々膠のように固まった銀髪を垂らし、理性が蒸発した虚ろな目から朦朧と視線をさまよわせ、覚醒剤の常習で頬の肉が削げ落ちた陰惨な死相を呈し、今にも倒れそうな足をひきずり己の主人のもとへ歩み寄る。

 サーシャ。
 サーシャ。

 心の中で狂おしく名を呼ぶ。
 喉元で泡沫と帰した叫びの代わりにアルセニーは銃をもたぬ方の手を虚空に伸ばしサーシャを導かんとするが、サーシャはアルセニーの招きに応じず主人の背後で止まる。
 大量の精液に汚れたまま服を替える事も許されず放置されたサーシャの顎を掴み正面に固定、優越感に酔い痴れ青年が……

 否。
 暴君が宣言する。

 「こいつはサーシャ。俺の言うことならなんでも聞く可愛いサバーカだ。俺が命じりゃ夢中でペニスをしゃぶり俺が跪けといえばそのとおりにし俺が尻を貸せといえば嬉し涙をながし感謝を捧げる偉大なるロシアが生んだ最高の犬だ。どうだ、いい毛並みだろ?極上の絹みてーにさらっさらの銀髪だ。見ろよこの目、冬空映した湖水みてーに綺麗な青だろ」
 嗜虐の愉悦を堪能し舌なめずり、茫洋と弛緩した表情をさらすサーシャの顎に手をかけ強引に自分の方に引き寄せる。
 「サーシャ、お前はああやって皆の前でいたぶられるのが好きなんだよな。物好きな連中にじろじろ視姦されながら一枚ずつ服脱いで裸んなってくのがいいんだよな、最っ高に興奮すんだよな。熱っぽい視線が肌に纏わりつくのがたまんなく刺激的で股間はびんびん勃ちっぱなし、乳首も痛いほど尖りきってコリコリ指の腹にあたってたぜ」
 『……Да、Да』
 万力じみた力で顎を締め上げられる苦痛にサーシャの顔が歪む。
 暴君はサーシャの頬に自分の頬を密着させその顔が歪む様を至近距離で堪能し溜飲を下げる。
 暴君の執拗な言葉責めにサーシャは呂律の回らぬ舌でロシア語の『はい』を繰り返す。
 幼児的に舌もたつかせロシア語で肯定の返事を意味する「ダー」を発音する様は正視にたえぬほど痛々しい半面とても滑稽で、それがなおさらグロテスクな落差を引き立てる。
 「お前はああやって大勢の前で嬲られるのが大好きな真性マゾの雌犬だ。なあそうだろサーシャ、お前はああやって寒空の下脱がされて俺の物口いっぱいに頬張るのが好きなんだよな、大勢の前で半裸に剥かれてケツをぐちゃぐちゃかきまぜられるのがイイんだよな、じゃないとイケないんだよなロシアが生んだ素晴らしき皇帝サマは!美味かったろ俺が出したもんは?遠慮せず一滴残さず飲み干してよかったんだぜ、粉薬ばっかじゃ喉が渇いてしかたねーだろ、地べたに這い蹲って俺が出したもん啜るのがサバーカにゃお似合いだよ」
 『Да、Да』
 粘着な唾液の糸引く舌を緩慢に操りサーシャが狂ったように頷く。
 アルセニーは固まる。
 暴君の腕の中でサーシャは淫らに頬染め喘ぎ始める、荒い息遣いの間から掠れた声が漏れその声が必死に哀願する。
 「レイジ……レイジ……餌をくれ……」
 レイジと呼ばれた少年の服を掴み今にも萎えて崩れ落ちそうな膝を辛うじて支えサーシャが懇願する。
 レイジは自分に縋り付くサーシャを冷ややかに見下ろし邪悪に嗤う。
 底知れず邪悪に邪悪に邪悪に、この世のあらゆる邪悪をかき集め具現したような見ているだけで吐き気をもよおす笑み。
 人間の最も醜悪な部分を剥き出し容赦なく突きつける笑み。
 「またか」
 焦らすように突き放すレイジの服を震える手で掻き毟りサーシャが首を振る、首振りは急激に速度を上げ呼吸は喘息じみて不自然に間延びし全身が痙攣の発作にかかったように不規則に震えだす。
 もはや膝で自重を支えることができず暴君の服を掴んだまま床にへたりこんだサーシャの眼球がみるみる迫り出し夥しく毛細血管が走り狂気の相を呈す。
 「お願いだから早く餌をくれ白い粉をくれ舌の上で蕩ける忘却の粉を嫌なことをすべて忘れさせてくれる粉をくれ!苦しい苦しいのだ、体の中も外もからからに乾ききり狂おしく苦しいのだこんな生き地獄もう耐えられぬ私をこの苦しみから救えるのはお前だけお前が与えてくれる粉だけ、頼むなんでも言う事を聞くここでしゃぶれというなら悦んで奉仕する淫らなサバーカの如く尻を振ってやる、だからあれをっ………」
 レイジが何も言わぬそばから震える手でズボンを脱がしにかかる。
 皇帝の威厳も人間の尊厳も跡形なく剥奪され、覚醒剤の代償の性的奉仕にいそしむサーシャの姿に衝撃が走る。
 指一本動かさず侮蔑的にレイジに構わず、主人を満足させられれば薬にありつけると思い込んだ愚かな犬はまだ完全にズボンを脱がしきらぬうちから口を窄め下着の上からペニスにしゃぶりつく。
 「いいのかサーシャ、兄貴が見てるぜ」
 ズボンに涎染みをつけるサーシャの後頭部に手をおきレイジが指摘する。
 一瞬サーシャの動きが止まる。
 レイジの足元に屈みこみ今まさにフェラチオを始めようとしたサーシャ、その背中が悲愴に強張る。
 床に手を付き項垂れるサーシャの前、ポケットから袋を取り出したレイジがそれを噛み裂き上に向けた掌に粉末を振りかける。
 「ああ、あぁ………!!」
 褐色の掌とあざやかな対をなし舞い落ちる白い結晶を認め、か細く震える歓喜の呻きを漏らす。
 恍惚の吐息に紛れ歓喜の声を上げるや最後の一滴が降り積むのを待たず自制心の箍が弾けとび、飢えた犬のように浅ましい体勢でレイジが差し伸べた掌に顔を埋める。
 「んっあ、ふっく……はふっ、あふっ……」
 交尾中の雌犬のように尻を突き出し、ぐちゃぐちゃと唾液を捏ねる音も淫らに褐色の掌をすみずみまで貪欲に舐め尽くす。
 褐色の指のあいだで唾液が糸引き繋がる。
 サーシャはレイジの指の股のあいだまで綺麗に舐め尽くしそれでもまだ物足りげ掌にしゃぶりつく。
 艶めかしく蠢く舌をてのひらにねっとり這わす。
 五本の指に沿って舌を這わせ唾液に薄められた粉末を啜る。
 顔中涎だらけにして這う皇帝の変貌ぶりに、一時の驚愕から冷めた囚人らが一斉に揶揄を浴びせ始める。
 「ありゃあまるで犬だな」
 「見ろよ、幸せそうに目ぇ細めてレイジの手啜ってやがる」
 「エロい舌遣いだなおい、フェラ売りにしても立派に稼げるんじゃねーか」
 「おいレイジ、飽きたらそいつ俺に回してくれよ!」
 「お手とちんちん仕込んで払い下げてくれたら最高だな」
 あるものは口の横に手をあて拡声しあるものは中指を立てる卑猥なポーズをとりまたあるものは顔じゅういやらしくべとつかせたサーシャを盗み見囁き合う。
 多幸的に潤んだ目をさまよわせるサーシャの後頭部に手を添え行為を中断し、同じ視線の高さに屈み込み、耳の裏側で囁く。
 「アルセニーに挨拶してこい」
 熱い吐息が耳朶を湿らす。
 手を舐めるのをぴたり止めたサーシャが一瞬何を言われてるかわからないといった空白の表情で不思議そうにレイジを仰ぐ。
 「アルセニー……?」
 濁り曇ったアイスブルーの目に理性の光がともる。
 レイジは無造作に顎をしゃくり遥か前方アルセニーがいる場所を示す。
 「久しぶりに会ったんだ。挨拶くらいしてこいよ」
 サーシャの顔が凄まじい葛藤を映し悲痛に歪む。
 しかしレイジは命令を撤回せず、従わなければ酷い折檻をすると無言の内に脅し、床に手をつきうなだれるサーシャに重圧をかける。

 おもむろにサーシャが立ち上がる。
 一瞬たりとも安定せぬ足取りで右へ左へ蛇行しつつ遅遅と接近するサーシャを、右手に拳銃を預けたままのアルセニーが呆然と見つめる。

 「会ったら話したいことが沢山あったんだ、サーシャ」
 アルセニーが心ここにあらずといった口ぶりで呟く。
 一瞬立ち止まるもすぐに歩行を再開、伸びた前髪に表情を隠し早くも上がり始めた息も苦しげに一歩また一歩着実にアルセニーとの距離を詰める。
 無防備に身を晒しサーシャに優しい眼差しを向けるアルセニー。
 慈愛に満ちた笑顔で包み込むように傷付き疲れ果てた弟を出迎え、奇妙に抑揚を欠いた口調で続ける。
 「聞きたいことも沢山ある。私と別れてからここに来るまでどうしていたのか、ここではどんなことをして過ごしたのか、その目はどうしたのか、今でも私が贈ったナイフを持っててくれてるのかー………」

 長い歳月を経て邂逅した兄弟のはざまに鋭利な銀光が閃く。
 二人の絆を断ち切るように。
 
 「……………………サーシャ」
 接近を拒むように爪先にナイフが突き立つ。
 鋭利な光を閃かせアルセニーの爪先すれすれのコンクリ床に突き立ったナイフには見覚えがある。
 サーシャの誕生日に贈ったナイフ。
 今やアルセニーから三メートルと離れてない近距離に迫ったサーシャが腰の後ろからナイフを引き抜き、肉眼では捉えぬれぬ早業で腕振りかぶり投擲したのだ。
 高度な技量を発揮し爪先を掠める形でナイフを突き立て動きを牽制、アルセニーの正面で立ち止まったサーシャが鈍重に顔を起こす。
 靴音の残響を虚空が吸い込む。
 精液が乾いて膠のように固まった銀髪が重たく揺れ、徐徐に顔が起き上がるにつれ黒革の眼帯と荒みきった左目が外気に晒される。
 至近距離でサーシャと対峙しアルセニーは絶句する。
 狂乱の痕跡をとどめおどろに波打つ銀髪が纏わる顔にアルセニーが知るサーシャの面影はない。
 頬骨の尖りが目立つ顔には病的な印象ばかりが際立ち、かさかさに罅割れた唇の隙間から今にも死に絶えそうにか細い吐息が漏れる。 
 身に纏うナチスの軍服には至る所染みがつき淫らな行為の痕跡を残し複雑に皺が寄り全身から精液を煮詰めた臭気が放散される。

 髪といわず顔といわず服といわずサーシャの全身に染み付く濃厚な精液の匂い。

 「会いたかったよ、サーシャ」
 汚物の塊と化た弟へアルセニーは躊躇わず手を差し伸べる。
 サーシャの髪を梳かそうと伸ばされたその指先は、しかしむなしく空を切る。

 陰惨な表情をたゆたわせ罅割れた唇を開くサーシャ、その目を間近で覗き込んだアルセニーはその奥にコキュートスの幻影を見る。
 神曲に由来する地獄の第九層、同心の四円に区切られ最も重い罪を犯した者が永遠に氷漬けにされる地獄の光景が陰火すさぶ洞の奥にはてなく広がる。

 その罪とは裏切り。
 コキュートスは裏切り者を苛む地獄である。
 
 裏切者は首まで氷に漬かり涙も凍る寒さに歯を鳴らすと言われる地獄をサーシャの左目に幻視し、アルセニーは苦い諦念を噛み締める。
 裏切り者を永遠に断罪するコキュートスの具現者が、ロシアからはるばる自分を迎えに来た兄に決別を告げる。 
 「軍の犬に用はない。ロシアに帰れ」
 
 ああ。
 コキュートスは、私にこそふさわしい地獄だ。 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050311235352 | 編集

 腕を束ね縛り上げる。
 手首を縛った縄をベッドパイプに繋ぐ。
 道了はぐっすり眠っていて起きる気配はない。
 夢見が悪いらしく眉間に皺が寄っている。
 裸電球のささやかな光を頼りに手先に神経を集中し作業を続ける。
 手元に意識を凝らしすぎたせいで焦点がぼやけ遠近感が狂う。
 額の汗が目に流れ込み視界が霞む。
 焦燥にひりつく指先で固く結び目を作る。
 長時間緊張に晒され神経がささくれだつ。
 シャツの下で鼓動が跳ねる。
 音をたてぬよう慎重に腰を浮かし道了の上を移動する。
 至近距離で寝顔を眺める。
 冷え冷えとした無機質さを湛えた白い顔、精巧な人形じみて研ぎ澄まされた造作。
 道了は眠っている時も滅多に表情を変えない。
 時折眉間に苦痛の皺を刻む以外は低体温の無表情を保っている。
 ゆるやかに瞼を閉ざしているため人を畏怖させる輝きを放つ金と銀の瞳は隠されている。
 月天心にいた頃から見慣れた平淡な無表情。
 殺戮人形の名を冠された月天心の首魁が身動ぎひとつせず横たわっている。
 胸の奥がざわつく。
 体の奥底で凶暴な衝動が膨れ上がる。
 道了の静かな寝顔を見詰めるうち理性の枷が弾け飛び道了に対するどす黒い感情が膨れ上がり全身の毛穴から吐き出されるのを感じる。
 道了を殺したい。
 無防備にベッドに横たわる道了に近付き無抵抗の内に首を絞めて自分が死んだという事も気付かぬうちに殺しちまいたい、いやだ駄目だそれじゃ駄目だ道了には苦しんで死んでもらわなきゃ死んだほうがマシだという苦しみをさんざん味あわせてからじゃなきゃ駄目だ。俺の大事なもの大事な女お袋と初恋の女娑婆への未練すべて跡形もなく奪い去った道了にとどめをさしたい、梅花とお袋が味わった痛み苦しみ哀しみ恐怖を思い知らせて生まれてきたことを後悔させてやる。
 爪先から鑢がけするように嬲り殺してやる。
 梅花とお袋を殺した男にこの手で復讐してやる。

 息をするごとに針でも飲み込むようだ。
 俺はこれまでこんなに人を憎んだ事がない。
 タジマに自慰を命じられた時や煙草の火を押し付けられた時も殺意は湧いた、タジマの事を殺したいと本気で思った、それは誓って真実だ。
 けれど道了に対する感情は違う、タジマに対する怒り憎しみを凌駕して余りあるほど黒く激しい感情が無尽蔵に湧いてきて呼吸するのも苦しい。
 タジマの時は嫌悪や恐怖が勝っていた、タジマが視界から消えてくれるならこれほど嬉しいことはないと毎日祈って祈り続けていた。
 道了に対する感情は純粋な憎悪、殺しても殺しても殺したりないという絶望と境を接する渇望が俺を狂わんばかりに駆り立てる。
 俺は俺が徐徐に俺じゃなくなっていくのを感じる、以前の俺が消えて違う俺が底で冷えて固まっていくのを感じる。
 俺はもう以前の俺に戻れない、後戻りできない。
 気付けば道了をどうやって殺そうかそればかりを考えていた、それ以外のことが考えられなくなっていた。

 道了を殺す。
 殺す。
 殺す。
 できるだけ苦しめてお袋と梅花を殺したことを後悔させて涙を絞って命乞いさせて殺してやる。
 その為なら手段を選ばない、どんな卑怯な手だって使ってやる。

 道了に対する憎しみのみが今の俺を生かす原動力だ。
 裸電球の光を背に受けた俺の下で影が不吉に蠢く。
 シーツに投影された影が奇怪に蠢くのを目の端で窺いながら道了に馬乗りになり手を翳す。
 平手で思いっきり道了を殴る。
 甲高く乾いた音が爆ぜ衝撃が炸裂、じんと手が痺れる。
 道了の瞼がぴくりと震える。
 俺はじんじん痺れる手を宙に翳したまま道了の瞼が持ち上がるのを微動せず見守る。
 道了は俺が固唾を呑む前でひどく緩慢に瞼を上げうっすら目を開ける。
 『早』
 台湾語で第一声を放つ。
 道了は胡乱げな細目でじっとこちらを見る。
 朦朧とした視線が俺の顔に定まり疑問の色が浮かぶ。
 「ロン……?」
 ぶたれた頬の痛みにも増して俺が上に乗っかってることが意外だったらしい。
 自分の身に何が起きたのかはっきりとは判らぬまま、反射的に俺の名を呼んだ道了にむかい不敵に微笑む。
 「ようやっとお目覚めか。待ちかねたぜ」
 空気を介して困惑が伝わってくる。
 数時間まで幼児退行していた俺が年相応の分別を備えた口調に戻っているのを訝る道了の胸ぐらを掴み強制的にこちらを向かせる。
 額がぶつかる勢いで顔つきつけ凄味の利いた声を吐く。
 「芝居だよ」
 俺は一世一代の大博打を打った。
 子供返りしたふりで道了に取り入り隙をつくという体当たりの賭けに出たのだ。
 目の前でお袋の形見の牌を握り潰されたショックで幼児退行を起こしたと見せかけて俺はその実ずっと機を窺っていた、道了が隙を見せるその時を虎視眈々と待ち構えていたのだ。
 同じ房で生活を共にするあいだ何度も我慢の限界に達し神経が焼ききれそうになった、焦燥で神経がささくれだってはやまった行動をとりそうになった。
 眠りにおちた道了を眺める時はいつ目覚めるかと身構え眉一筋の動きにすら敏感の反応し機を見送り、道了がベッドに腰掛け俺に無防備な背中を向けた時は首を締めたい誘惑に駆られ実際に指を伸ばしかけた。
 幾度も道了を殺そうと試みたが土壇場で実行できなかった、土壇場で腰が引けた。
 指を触れた瞬間道了がこっちを向くんじゃないか俺を攻撃するんじゃないかと恐怖心に因する危惧を捨て切れなかった。
 俺は自分を殺し心を殺し慎重にその時を待った、道了と共に暮らしながら子供返りの芝居で道了の世話を受けながら道了が完全に無防備な状態を曝け出すのを辛抱強く待ち続けた。
 そしてとうとうこの時が来た。
 「気付かなかったのか?馬鹿だなお前、あんなくっせえ芝居にころっと騙されちまいやがって」
 今の俺はさぞかし憎憎しい面をしてることだろう。
 醜く皺の寄った目元から吊りあがった唇から憎悪が迸るような笑み。
 道了が胡乱げに俺を見上げる。
 ベッドに無防備に仰臥した体勢で腕はパイプに繋がれ抵抗を封じられ冷え冷え冴え渡る金と銀の瞳に俺を映し込む。
 金と銀の瞳が鮮明に写し取る俺は、醜い顔をしていた。
 物言いたげな視線を受け、俺はいっそう笑みを広げる。
 虚を衝かれた間抜け顔が愉快で愉快でたまらなくて腹の底から笑いが湧いてくる。
 とうとう堪えきれず俺は道了の腹の上で勢い良く仰け反り笑い出す、 体の中で荒れ狂う激情が俺の声帯を震わし不安定な抑揚の笑いを発する、俺はとどまるところを知らず湧いてくる衝動に翻弄され前後に激しく体を揺すり喉が破裂したような甲高い声でいつはてるともなく笑い続ける。
 ああ可笑しい、可笑しくて可笑しくてたまらねえ。
 いつもスカして威張りくさってる道了が俺の三文芝居にころっと騙されちまったなんて俺の芝居を見抜けなかったなんて口ほどにもねえ、そうさ俺は体を張って一世一代の大博打を打ったのだ、道了は俺の嘘を見抜けずまんまと騙されちまった、俺が本当に気が狂ったと勘違いして甲斐甲斐しく世話を焼いた結果がこれだ、このザマだ!

 これが笑わずにいられるか。
 道了は道化だ。
 俺に騙されてたとも知らず踊り続けた滑稽な道化だ。

 「言ったろ?芝居だったんだよ全部。お前に目の前で牌壊されたショックで子供返りしたのも全部嘘、全部お前を油断させるための芝居だったんだよ。なんだよそのツラは、さすがの假面も驚いてるみてーだな、月天心時代から見下してた俺に揚げ足とられたのがショックかよなあ道了ぁ!?ざまーみろツケが回ってきたんだ俺のこといつも半々て馬鹿にしてたツケが、お前と一緒にいる間始終どきどきひやひやしっぱなしだったぜこっちは、いつ嘘がバレるか気が気じゃなくてろくすっぽ眠れなかった!お前のペニスしゃぶりながら頭ン中じゃお前を殺す方法考えてたよ、お前のペニスを口一杯頬張って喉に詰まらせてえづきながらどうやってお前を殺すかただそれだけを考えてたよ!!」

 道了は馬鹿だ。
 俺の陳腐な芝居を見抜けず本当に幼児退行したと思いこみ今度こそ俺を手に入れたと浮かれていた。俺はずっと芝居をしていたにすぎない、嘘をつきつづけていたにすぎないのに。数日前目の前でお袋の牌を破壊された時俺の心も砕け散った、けれども俺は床に這い蹲り必死にそれをかき集め継ぎ接ぎし元に戻した。
 道了はお袋を殺し俺とお袋を繋ぐ牌を跡形もなく打ち砕いた。 

 許せない。
 許すもんか。

 東京プリズンに来てからずっと地獄を見てきた。
 凱にタジマにサーシャにその他の連中に目の敵にされ暴力の餌食にされ辛酸を舐め続けた、凱には砂漠でケツひん剥かれ大勢に輪姦されそうになりタジマにはむりやり自慰を命じられ煙草の火で焼かれサーシャにはナイフで嬲られた。
 俺の体はどこもかしこも新旧の傷痕だらけでそのひとつひとつがいつどこで出来たかちゃんと覚えている、忘れようたって忘れられない痛みと屈辱の記憶が今もしっかりと骨身に刻まれている。
 毎日死ぬ気で東京プリズンを生き抜いてきた、東京プリズンに来てからこっち一瞬たりとも気は抜けない日々を送ってきた。
 そんな俺が、一年と半年ものあいだ歯を食い縛って地獄で生き抜いてきた俺が、目の前で牌を破壊されたぐらいで現実を捨てられるわけがない。
 俺は一年と半年も最低で最悪な現実と付き合ってきた、信じれば裏切られ縋れば振り払われる現実と何とか折り合いを付けしぶとく図太く生き残ってきたのだ。

 俺の心は瘡蓋でできている。
 今さら塩を刷り込もうにも固い殻で覆われてるから無駄だ。
 殻を割って孵化できなかった感情は、さらに煮詰まり濃縮される。

 「………いっそ壊れちまいたかったよ。その方がずっとラクだもんな」
 苦味の勝った自嘲の笑みが口元にたゆたう。
 叶うことなら逃げ出したかった。
 あまりに救いのない現実から、あまりに悲惨な事実から背を向けて逃げ出したかった。
 道了の手によってお袋が殺されたなんて認めたくなかった。
 けれども道了は証拠の牌を持っていた、俺とお袋が昔遊んだ牌を証拠品として東京プリズンに持ち込んだのだ。
 認めないわけにはいかない。
 お袋は道了の手によって殺された。
 俺に理由なき執着を抱く道了によって、単に俺の関心を買いたいからとそれだけの理由でゴミみたいにあっさり殺されちまった。

 お袋。
 お袋。
 ゴミみたいな、俺のお袋。
 ゴミみたいな、お袋の人生。

 「………お袋と梅花の仇をとるためなら手段は選ばねえ」
 犯罪者のガキを持っただけで世間から白眼視されてガキの元チーム仲間にわけわかんない理由で嬲り殺されて、お袋は一体何を思いながら死んでいったんだろう。
 最後の最期の瞬間まで死に物狂いの抵抗を続け俺への呪詛を吐いていたのか、涙を流して命乞いをしたのか。
 お袋がそんなふうにみじめに死ぬ理由なんてなかった、これっぽっちも。娑婆に出てお袋に会いたかった、お袋に会いに行きたかった。十一歳の時にアパートを飛び出てきてからずっと会ってなかったお袋のツラを拝んでずっと言えなかったことを一挙にぶちまけるつもりだった、腹に溜め込んだ十三年間の想いを全部吐き出してお袋に対する執着を綺麗さっぱり吹っ切りたかったのだ。

 けれどもお袋はもういない。
 殺されてしまった。
 こいつに、
 こいつに。

 「………芝居だったのか?」
 道了が淡々と聞く。
 その声はひどく落ち着いていた。
 打算も演技もなくこちらを直線で捉える金と銀の目は透徹した光を湛えている。
 冷徹に澄み渡った金と銀の目に本心までも見透かされるような錯覚を覚える。
 「仲間も騙したのか」
 静かな声が胸を衝く。
 一瞬言葉を失う。
 脳裏に仲間の顔が浮かぶ。
 道了と共に廊下を去る俺を必死に追ってきた鍵屋崎とサムライ、そしてー……
 闇に沈む廊下の真ん中に立ち尽くし、呆然と俺を見送るレイジ。
 「上手かったろ、俺の芝居。自称天才だってすぐには見抜けなかったんだもんな」
 わざと軽薄な口ぶりで茶化し表情の翳りを払拭する。
 「鍵屋崎は妙に勘が鋭いからいつ見抜かれるかひやひやしたぜ。背中を向けてからも油断できなかった。鍵屋崎が俺の一挙手一投足を隙なく観察してるのがわかったから俺も神経を張り詰めて狂ったふりをしたよ。どうだ、迫真の演技だったろ?正直俺も自分の頭がまともかどうか判断できなかった。あの時俺はただ夢中でまわりが見えてなくてお前を殺したい殺すためなら何でもするその一心で、咄嗟に閃いた計画がお前にばれちゃまずい、お前にバレたら全部無駄になるってそればっかりー……」
 お袋の仇をとりたい一心だった。
 俺は自分を殺し心を殺し、十年の時を遡ってお袋のあとを付いて回るガキに戻った。

 賭けだった。
 命がけの賭けだった。

 たどたどしく幼児的な喋り方や仕草まで真似できるか不安だったが、あの場は何とかごまかせたようだ。
 苦し紛れの狂乱の体が目くらましに役立った。
 それでなくても道了のパフォーマンスで冷静な判断力を欠いていた鍵屋崎はじめまわりの連中は、俺が本当に現実逃避の幼児退行を起こしたと思い込み動転のあまり近寄って確かめることすらしなかった。

 頭のイカレた人間をたくさん見てきた経験が、行き当たりばったりの演技に信憑性と迫真力を与えた。
 東京プリズンの過酷な環境に耐え切れず発狂したやつと腐るほど接してきた経験が糧になった。

 俺は鍵屋崎の先輩だ。
 鍵屋崎が来る数ヶ月前から東京プリズンのドブ臭い水に馴染んでいた。
 狂った人間を観察しその言動がどれだけ異常かを学び取った経験値なら鍵屋崎より上なのだ。
 鍵屋崎を出し抜く自信はあった。
 俺と鍵屋崎じゃ年季が違う。
 鍵屋崎も頑張っちゃいるがまだまだ甘い。
 人を見る目にかけちゃ苦労と経験の分ちょっとばかし俺のが上だ。
 いかに鍵屋崎の勘が鋭くても、狂った人間と身近に接してきた経験じゃ俺の方が遥かに勝ってる。
 
 「ハッタリは得意だ。親父譲りのばくち打ちだからな」
 道了に寄り添い遠ざかる俺を呆然と見送る鍵屋崎を思い出す。
 鍵屋崎の視線を横顔に感じた俺は、視線を宙にさまよわせ虚ろに弛緩した表情を装い目くらましの芝居を打った。
 鍵屋崎の勘と俺の経験とどっちが勝つか一世一代の賭けにでたのだ。
 結果は俺の勝ちだ。
 鍵屋崎はとうとう俺の嘘を見抜けずじまいだった。
 「……寝言も芝居のうちか?あの指しゃぶりも?」
 道了の目に氷塊が沈む。
 「お前さえ騙せるならなんだってした。喜んでしゃぶってやるさ、親指もペニスもな」
 道了の目の前で躊躇なく親指を咥える。
 ちゅうちゅうと音たて親指を吸ってみせれば初めて道了の顔に感嘆らしきものが浮かぶ。
 吸いすぎて赤いたこができた親指を見下ろし皮肉に笑う。
 俺が本当に幼児返りとしてると道了に思い込ませるためにも小細工は怠らなかった。
 道了と生活を共にし始めてから俺は殆ど眠っているふりをした。
 眠ってさえいれば余計な口を利かずにすむ、よって芝居がバレる心配は最小限ですむ。
 眠ったふりをしてるあいだも警戒は怠らなかった。
 道了の隣で身を丸め指をしゃぶりながら『媽媽』と呼んだ時ももちろん意識はあった。

 すべて道了を騙すための作戦だった。

 「お前のペニスをしゃぶりながら何度も物騒な考えが過ぎったよ、このまま噛みちぎっちまいたいってな」
 人さし指でとんとこめかみをつつく。
 道了に頭を押さえ込まれ奉仕を強制されてるあいだ何度も猛烈な吐き気に襲われた、口の中で異物が膨張するのが息苦しく生理的な涙が滲んだ。 
 フェラは初めてじゃない、これまでにもレイジにやったことがある。けれども苦しさは薄まらず増すばかり、呼吸の仕方も忘れて行為を終えたあとはひどく咳き込んじまった。
 しゃぶる相手が違うだけで何もかもが違った。
 レイジにフェラする時は俺はもう殆ど抵抗を感じなくなっていた、羞恥を感じて嫌がるふりこそすれすれレイジが悦ぶと知ってるから「しかたねーなあ」と最後には必ず降参した。

 何度舌を切り落としたいと思ったか、
 ペニスを噛みちぎりたいと思ったか。

 それでも俺は吐き出さなかった、道了のペニスを口に含んで必死に舌を絡め不器用に手でしごきながら沸騰する殺意に駆り立てられても実行に至らなかった。
 俺は自分を殺し心を殺し無我夢中一心不乱に奉仕した、道了が俺に覚えこませようとするすべてを貪欲に吸収し道了の言う事を何でも聞く生き人形として道了に命じられるがまま体を開いた。

 俺は最低だ。
 俺は淫売だ。
 俺は汚い。

 わかってるわかってるよ俺が汚いってことぐらい、お袋と梅花を殺した男に抱かれてよがり狂った俺はもう身も心もぐちゃぐちゃに汚れきってる。

 今の俺を見たらレイジは何と言う?
 きっと幻滅する、変わり果てた俺に絶望する。

 俺はレイジを裏切った。
 世界で一番俺が好きだと言ってくれるレイジよりもお袋と梅花の仇をとることを優先し道了のところへ行った。
 俺は道了に抱かれた。
 何度も、何度も、何度も……レイジにしか抱かせたことがねえ体だったのに、売春班では鍵屋崎が守ってくれたのに。
 俺は俺自身の判断で道了のもとに身を寄せた、道了に体を売った。
 だって仕方ないだろ、それしか思い浮かばなかったんだ。
 道了を油断させる方法、道了に近付く方法、道了を殺す方法……道了は子供返りした俺を独占欲を満たしたいがため手元におく、俺はずっと道了のそばにいる、道了が隙を晒したらそれに乗じとどめをさす。

 俺は道了を殺す。
 こいつだけは許せない。
 生かしておけない。

 道了は裸電球の光が眩しげにわずかに目を細め俺を透かし見ていたが、一呼吸おいて淡々と言葉を紡ぐ。
 「母親を殺した男に抱かれた気分はどうだ?半々」
 頭の奥で理性が爆ぜる。

 「あぁああああああっあああああああああああっあああああああああああああああああああっああああ!!!」
 怒りに震える奇声を発し我を忘れ道了に殴りかかる。

 道了の顔面めがけ拳を振る。
 一発、二発、三発……顔面に拳がめりこみ鈍い音が炸裂し衝撃が伝わる。右に左にめまぐるしく道了の顔が傾ぐ。
 止まらない。
 狂ったように道了の顔面に拳を叩き込む、道了が無抵抗なのをいいことに両拳を力任せに顔面に叩き込めば肉と骨がぶつかる鈍い音が耳朶を打つ。
 殴っても殴っても足りない、まだまだ足りない。
 暴力衝動に駆り立てられるがまま道了の顔にがむしゃらに拳を打ち込む、一発二発と数えていたのが徐徐にわからなくなり殴る行為そのものに取り憑かれたような酩酊状態で拳が擦りむけて出血しても痛みすら麻痺して感じず殴り続ける。
 全力を解放し一発殴るごとに脳裏で閃光が爆ぜ記憶の断片が過ぎる。 俺が心の奥底に封印していた記憶が懐かしい日々がお袋と梅花の面影が喧しく入り乱れる。お袋、俺に全然優しくしてくれなかった。梅花、俺に優しくしてくれた。お袋はとんでもない淫売だった、趣味と実益を兼ねて男に体を売っていた、俺はお袋の喘ぎ声を子守唄代わりに大きくなった。

 『ロン』

 お袋の声がする。
 遠く近くどこからか響く。
 懐かしい声……男を誘う媚を含んだ艶っぽい声、かつてうんざりするほど聞かされた声。

 この声が二度と聞けないなんて、嘘だ。
 二度と俺を呼んでくれないなんて嘘だ。

 かっこいい男になれとまだガキの俺に諭したお袋、俺の頭をぎこちない手つきで優しくなでたお袋、お袋、お袋……

 「お袋を返せっ!!!!!!」

 どうしてこんなやつに殺されちまったんだ、お袋。
 あんたを殺すのは俺だったのに、俺のはずだったのに。

 胸が苦しい、苦しくて苦しくて息が詰まる。
 俺はただがむしゃらに拳を振る、擦り剥けた手から血が飛び散り顔にかかっても無視し暴力の陶酔とも無縁に憤激に駆り立てられ真っ赤に灼けた視界に右に左に首を打ち振る道了を捉える。

 「お袋を返せよお袋が何したってんだなんも悪いことなんかしてねーよ、お袋は一生懸命俺を育ててくれたんだ、中国人の遊び人にひっかかってガキ堕ろせる時期が過ぎて仕方なく産んで十一になるまで精一杯育ててくれたんだ、そりゃ憂さ晴らしに殴る蹴るしたことだってあった、けど俺のことひっぱたいたその手でなでてくれたのもお袋だ、『いただきます』と『ごちそうさま』と箸の使い方教えてくれたのはお袋だ、今ならわかるよあれがお袋にできる精一杯だったんだって、お袋から貰ったものが今でも俺の中にちゃんと残ってるって!!」

 お袋のそばを離れなきゃよかった。
 出ていかなけりゃよかった。
 売り言葉に買い言葉の喧嘩別れが最後になるならもっと早くツラ出してりゃよかった、仲直りしてりゃよかった。
 俺がお袋を守るって誓ったのに、
 親父の分まで守るって誓ったのに。

 どうしてこんなことになっちまったんだ?
 
 「なんで殺したんだよ………」
 俺の、せいなのか。
 俺がいたから、お袋は殺されたのか。
 手が、痛い。
 喉が痛い。
 人を殴ることがこんなに痛いなんて思わなかった。
 けれどまだだ、まだ足りない。お袋と梅花が味わった痛みと絶望はこんなもんじゃない。胸が、苦しい。苦しくて苦しくて死んじまいそうだ。引っ込めた拳からぼたぼた血が滴り服を斑に染める。血のぬるさと粘つきが不快だ。
 「お袋を梅花を返せ。二人が死ぬ理由なんてどこにもなかった」
 血まみれの拳を拭きもせず体の脇に垂らし、搾り出すように呟く。
 身の内で激情が荒れ狂う。
 お袋の高飛車な顔と梅花の優しい微笑みが交互に浮かぶ。
 二人がもうこの世にいないなんて信じられない、信じたくない。
 否定できるものならそうしたい。
 けど無理だ。
 俺はあの牌を見ちまった。
 目の前で牌が砕け散るところを見ちまったんだ。
 牌が砕け散ると同時に一縷の希望も砕け散り、俺が後生大事に胸に温めていたお袋と梅花の面影もまた無残に叩き割られた。
 「俺が憎いなら俺を殺せよ。なんで俺の大事なものを奪うんだよ。お袋も梅花も一生懸命生きてきたんだ、今まで苦労した分幸せになれるはずだったんだよ」
 道了の胸ぐらを掴み顔を上げさせる。
 手に力が篭もる。
 泣き笑いに似たふうに顔が歪むのが筋肉の動きでわかる。
 「梅花の夢はな、娼婦から足を洗っていい母親になることだったんだ」

 『私ね、お母さんになりたいの。子供に媽媽って呼ばれたい』

 いつだったか、梅花が話してくれた。
 胸の奥に秘めていたささやかな夢、あまりに平凡で慎ましく娼婦が語るには分不相応だと引き目を感じ恥ずかしげに打ち明けてくれた。
 廃工場の壁に寄りかかるようにしゃがみこんだ梅花はまわりに人がいないのを確かめてからこっそり耳打ちした、俺なら決して鼻で笑ったりしないと信頼し打ち明けてからその通りの結果を得てはにかむような笑みを浮かべたのだ。

 梅花の笑みに目を奪われた。
 俺の知る限りあんなに優しく笑える女は梅花だけだ。
 逆境に打ち克つ強さもなく、運命に殉じる潔さもなく、それでも何とか腐りきった現状と折り合いをつけやっていこうとする前向きな笑顔。

 俺が好きになった女は、そういう笑い方ができる女だった。
 だれからも馬鹿にされても、だれも馬鹿にしない女だった。 

 「どうして幸せにしてやらなかったんだ、あんないい女を」
 原形を留めぬ道了の顔を睨む。
 「お前にはもったいない女だったよ」
 何発何十発と殴られた道了の顔は血に塗れて酷い有り様だ。
 唇は切れて血が滲み瞼が倍ほども腫れて右目を圧迫し頬は青黒く鬱血している。
 「………俺を、殺すのか」 
 「命乞いしてみろよ」 
 この数日間片時も離れず道了のそばにいた、道了が求めば応じ道了に抱かれてよがり狂う演技もした。

 レイジ、ごめん。
 本当に、ごめん。
 最低な奴だと罵ってくれ、淫売だと唾棄してくれ。
 俺はお前をひどく傷付けた、俺のことが好きだと言ってくれたお前を酷く傷付けちまった。
 でも、こうするしかなかった。
 こうするしかなかったんだ。
 俺はお前が好きで、けどお袋と梅花も大事で、お袋と梅花が殺されたって聞いて頭が真っ白になって……

 「命乞いしろよ道了。お袋や梅花がしたみたいにお願いだから殺さないで命だけは助けてくれって俺に縋り付いて泣いて頼んでみろよ。顔色ひとつ女を嬲り殺すお前でも自分がされる側になりゃ痛みがわかるだろ、梅花やお袋の哀願に耳傾けず拳を振るったお前も自分が殴られる立場になりゃちゃんと痛いだろ、痛いはずだよな。なあ言えよ、助けて下さいって言ってみろ。月天心にいた頃から薄汚い半々だってさんざん見下してくれたよな?じゃあ今のお前は何だ、薄汚い半々と見下してたガキにふん縛られて手も足も出ず殺されかけてるお前は何だよ、ただの木偶じゃねーか」

 道了が血まみれの顔で俺を見返す。
 道了の胸ぐらを力任せに揺さぶり怒声を浴びせる。
 無様に命乞いするさまが見たい、みっともなく泣き喚くさまが見たい。
 道了が命惜しさに醜態を曝け出してくれるならまだ救われる、自分可愛さに泣いて喚いてどうか命だけは助けてくれと縋り付いてくるなら梅花とお袋が味わった苦しみの億分の一でも贖えたような錯覚に酔えたのに、道了は自分の命が危機に瀕した今この時もひどく落ち着き払っている。

 己の命に価値を見出せない人形の如く、
 己の生に意義を見出せない人形の如く。

 「人形め」

 こいつを可哀想だなんて思った俺が馬鹿だった。
 どうかしてた。
 思えばこいつと会ったばっかりにこいつの手をとったばかりにお袋は殺された梅花も死んだ。全部全部俺がこいつを哀れんだから、哀れむ価値のない人形に情を移したからだ。
 返せよお袋を、返せよ梅花を。
 ぎりぎりと胸ぐら引き絞る。
 襟首を締め上げられる苦しみにも道了は表情を変えず真意の読めない沈黙を守る。

 「潰れた空き缶程度にしか思ってなかった俺にこれから殺される気分はどうだよ?」

 これから道了を殺す。
 チャンスは今しかない。
 今この瞬間にできないなら、きっと永遠にできない。

 今日この日の為に周到な準備を重ねた。
 道了の目をかいくぐり縄を調達し道了が熟睡している時を見計らい計画を実行に移した。まともにやったら道了に勝てない、力の差は歴然だ。俺は就寝中意識のない道了の腕を縛り抵抗を封じ込める事にした、道了が何されても逆らえないようにぎりぎり腕を縛りベッドパイプに結わえ付けた。俺は卑怯者だ。まともにやったら勝てないことがわかりきってるから事前に手を打った、道了を縛り上げ身動きを封じる道を選んだ。

 「嗤ってるんだろ、俺を。血まみれの假面の下で嗤ってやがるんだろ」

 俺の怯惰を、
 俺の卑劣さを。

 「まともにやったら勝てっこないってわかりきっていたからこんな回りくどい道を選んだって思ってるんだろ。そうだよ、その通りだよ。俺は弱い。お前と比べたらてんで弱い、まともにやったらかないこっねえ。月天心にいた頃からお前の強さをまざまざ見せ付けられてきた。わかってるんだよ、正攻法じゃ勝てないって。お袋と梅花の仇をとるどころか返り討ちに遭って後を追うって目に見えてるんだよ」

 胸ぐら掴む手が震える。
 声が激情に掠れる。
 憤激のあまり視界が真っ赤に灼ける。
 脳髄に焼け火箸を突っ込まれたようだ。
 道了に対する憎しみが体の内側で暴走し血を沸かす。

 「お前だけは許さない。どんな汚え手使っても殺してやるって決めたんだ」

 こいつを殺すためなら魂だって売り渡す。
 心だって殺す。

 「俺がやらなきゃ誰がやるんだ。誰がお袋と梅花の仇をとってやるんだよ」

 ゴミみたいに殺され忘れ去られた二人の女の無念を、俺の他に誰が肩代わりしてやるってんだ?

 「刑務所の中まで娑婆の未練を持ち込んだ俺が殺るっきゃねーだろが」

 娑婆の人間がだれも覚えてなくても、お袋と梅花がいたことすら忘れ去ってしまっても、俺は永遠に忘れない。
 二人は俺の支えだった。
 娑婆に出たいと思わせてくれる希望だった。
 娑婆に出たらお袋と梅花に会える。
 ひょっとしたら笑顔で迎えてくれるかもしれない、今度こそ俺が欲しかった言葉をくれるかもしれない。
 『おかえりなさい』
 お袋の口から聞きたかった。
 『心配したのよ』
 梅花の口から聞きたかった。
 叶わぬ夢だった。
 「お袋は俺がいちばん最初に好きになった女で、梅花は俺がいちばん最後に好きになった女だ」
 涙腺が焼ききれそうに熱くなる。

 「幸せになってほしかった」

 好きだった。大好きだった。
 お袋。梅花。
 俺なんかと関わりあったばかりに不幸になっちまった。
 俺を産んだせいで、俺に優しくしたせいで、最悪の貧乏くじを引き当てちまった。

 「ごめん……」

 ごめん、お袋。
 俺、全然いい息子じゃなかった。もっとあんたに優しくしてやりゃよかった。
 ごめん、梅花。
 お前を見殺しにした。  
 そして……

 「レイジ………」

 苦しくて苦しくて、消え入りそうに名を呼ぶ。
 俺は相棒失格だ。お前の相棒を名乗る資格すらない。俺は最低だ。お前を哀しませるとわかっていながら道了のもとへ走った、お前に背中を向け道了を選んだ。ごめん。何百何千何万謝っても足りない。
 道了に抱かれた。
 お前以外の男に抱かれた。
 体にまだ昨日の感触が残っている、その気になればまざまざと行為の余韻を反芻することができる。
 この体に道了が触れた、レイジ以外の男が触れた。
 道了は俺を組み敷き俺の膝を押し開き強引に押し入ってきた、体を裂かれる激痛に絶叫する俺に構わず道了はむりやり押し入ってきた、熱い肉塊が俺の中で密度を増し粘膜を圧迫し前立腺を律動的に弾いてぞくぞくする快感が止まらなかった。レイジ以外の男に抱かれてるのに何だってこんなに感じるのか最初は熱くて痛くてわけわからなくて泣き叫んででもだんだんよくなって自分じゃどうしようもなくて自分が手に負えなくて、俺は俺の中に流れるお袋譲りの淫売の血を自覚した。

 「俺、相棒失格だ。お前のこと守ってやるって決めたのに、またお前をひとりぼっちにしちまった」

 息をするごとに胸が焼ける。
 道了の胸ぐらに顔を埋める。体臭が鼻腔を突く。
 この数日間慣れ親しんだ匂い……道了の匂いだ。
 レイジに会いたい。
 けど、あわせる顔がねえ。
 今更どんなツラ下げて会いに行けばいいかわからねえ。
 今頃きっと、レイジは暗闇で泣いてる。

 「畜生、会いたいよ、会いてえよ……今すぐレイジんとことんできたいよとんでてって安心させてやりたいよ『ただいま』って言いてえよ、でも駄目なんだよお前を殺すまでは、お前を殺してお袋と梅花が味わった苦しみのツケ払わせるまであいつんとこに戻らねえって決めたんだよ、だってそうだろ、今ここで俺があっさり帰っちまったら誰がお袋と梅花のこと覚えててやるんだよ、報われず愛されずみじめにおっ死んじまった可哀想な女ふたりのことを覚えててやるんだよっ!!」 

 たまらなくレイジに会いたい。
 あの目が、
 笑顔が、
 干し藁の匂いが恋しい。
 硝子みたいに綺麗に透き通った目で微笑みかけて欲しい音痴は鼻歌を唄ってほしい間延びした声でロンと呼んで欲しい、レイジに会いたい会いてえよ畜生会いたくて会いたくて息が詰まって信じまいそうだよ今すぐ飛んで帰って暗闇に蹲って泣いてるあいつを力一杯抱きしめてやりたいよ。

 でも。

 固く瞼を閉じる。
 閉じた瞼の裏から涙が溢れる。
 目に喉に鼻に込み上げてくる塩辛い水に溺れそうだ、体の内側で涙の水位が上がって溺れ死んでしまいそうだ。
 脳裏に鮮烈な笑顔が咲く。
 太陽の光に透けて黄金に輝く髪、悪戯っぽい光を湛えた薄茶の目、敏捷な獣めいて旺盛な生命力を感じさせる褐色の肌。
 俺の大好きなレイジのすべてが瞼の裏にあざやかに蘇る。

 「俺は、」

 レイジが好きだ。
 大好きだ。
 今だって大好きだよ。
 道了と一緒にいても片時も忘れたことない道了に抱かれた時も思い出すのはお前のこと目を閉じ仰け反り反芻するのはお前の感触。
 お日様の匂いがするお前の髪がぱさりと額に覆い被さり左目の傷痕を優しく隠す。
 お前は右目だけ器用に細め微笑む。
 お前の手が俺に触れる。優しく、時に激しく荒々しく加減を知らず、孤独に溺れた手がとっかかりを求めるように爪を立てる。
 道了に愛撫されてる時も目を閉じて思い浮かべたのはお前だ俺が俺であることを忘れないために瞼の裏に強く思い描いたのはお前だ、なあレイジ信じてくれよお前が好きなんだよ捨てたんじゃないんだ本当だ信じてくれ
 
 「レイジが好きだ」

 レイジが好きだ。
 その気持ちに嘘偽りはない。
 俺は俺のすべてを賭けてレイジが好きだと断言する。
 レイジを愛してる。
 心の底から。

 「お袋が好きだ」

 お袋が好きだ。
 長い時間かかって漸く本当の気持ちと向き合うことができた。
 直視するのが嫌でずっと目を背け続けてきた本心を受け入れることができた。
 お袋。
 どんなに最低な女でも、あんたは俺のお袋だ。
 俺を産んでくれた女だ。
 俺とレイジを出会わせてくれた女だ。

 あんたには本当に感謝してる。
 謝謝。

 「梅花が好きだ」

 梅花が好きだ。
 俺の初恋の女、月天心で……いや、娑婆で唯一優しくしてくれた女。心の拠り所。
 お前が好きだった。大好きだった。
 お前が選んだのが俺じゃなくてもその気持ちは変わらない。
 お前の笑顔を覚えてる。
 俺にだけこっそり将来の夢を打ち明けてくれた時のはにかむような笑みをつい昨日の事のように鮮やかに思い出す。
 梅の蕾が綻ぶように楚々とした笑み。

 「どっちかひとつなんて選べるわけねーだろ、どっちも大切に決まってんだろ。俺が好きな奴みんな幸せになってもらいたいって思うのが贅沢なのかよ許されないわがままなのかよそんなに悪いことなのかよ、なあ教えろよ道了教えてくれよ、俺はただお袋と梅花に人並の幸せを手に入れてほしかったんだ、好きな男と一緒になってガキ産んで貧乏で喧嘩が絶えなくてもそこそこ幸せに暮らしてほしいってずっと願ってたよ、でも二人は知らないあいだに死んじまった、俺がレイジと出会って喧嘩して二人の事なんか滅多に思い出さなくなってる時にぽっくり死んじまった、人殺してムショにぶちこまれた俺が幸せだったとき盗みも殺しもしねえ二人が不幸のどん底だったなんておかしいだろ絶対!!!」
 
 喉から絶叫が迸る。
 ぬれそぼる瞼の裏で梅花とお袋の面影が溶けて消える。 
 
 俺自身が暗闇に堕ちることになっても、お袋と梅花の人生を奪ったツケを払わせたった。
 レイジを暗闇に突き返すことになっても、道了を暗闇に突き落としたかった。

 底のない闇に、
 お袋と梅花が呑まれた深淵へ。

 「………俺が憎いか?ロン」
 視界が霞む。
 熱いものが頬を滴る。
 道了が俺を見詰めている。
 何発何十発と殴られた顔は二目とつかぬほど腫れ上がり声は妙にくぐもって聞き取りにくい。頬から滴り落ちた涙が道了のちょうど右瞼にあたり血を薄め洗い流していく。
 「殺してやるよ、道了。お袋と梅花にしたように」
 涙で斑になった顔でこちらを仰ぐ道了に低く言い捨てる。
 腕を交差させ上着を掴む。
 塩水の染みた右目を細め、見苦しく腫れ上がった顔に怪訝な色をたゆたわせる道了の前で性急に上着を脱ぎ去る。
 一抹の躊躇なく微塵も抵抗なく、無造作に腕振りかぶり脱いだ上着を床に放り捨てる。
 道了に跨ったまま外気に晒した上半身を感慨なく見下ろす。
 イエローワークの強制労働で日焼けしているが体つきは細っこいまま鍵屋崎より幾分マシな程度、貧相な胸板と柔らかい腹筋は劣等感の源だ。
 頼りなく薄い体を外気に晒し、道了の腹の上を這いずるように移動する。
 裸の胸で鼓動が跳ねる。
 全身の血が逆流する。
 両腕を縛られた道了は手も足も出せず丸太のように寝転がって俺を見上げている。
 無力で無防備なその姿に腹の底から沸々とどす黒い衝動が湧いてくる。
 
 道了をめちゃくちゃにしたい。
 めちゃくちゃに壊したい。
 お袋と梅花にしたように最大の恐怖と屈辱と辛苦を味あわせて殺してやる。
 スカした假面をひっぺがし断末魔の醜態を曝け出し情けない素顔を暴いてやる。

 体の奥底で際限なく破壊願望が膨れ上がる。
 極限まで膨張した破壊願望はやがて破裂し荒れ狂う炎となって体の中から俺を翻弄し理性を焼き焦がしていく。 
 
 無防備に仰臥した道了に衣擦れの音もささやかに覆い被さり、その耳元で低く囁く。
 「………お前を犯してやる」
 梅花とお袋にしたみたいに、犯して殺してやる。

 冴え冴えと光る瞳に映りこむ俺は、憎悪の塊そのものだった。


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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050310010439 | 編集

 大丈夫、うまくやれる。
 犯るんだ。殺るんだ。梅花とお袋の仇をとるんだ。

 脳裏でぐるぐると言葉が回る。
 瞼の裏側で警告の赤信号のように鮮烈に赤い閃光が爆ぜ心臓の弁がうるさく開閉する。
 俺は道了を犯す。
 そう決めた、決めたんだ。
 ずっと前から計画していた事だ。今更びびるんじゃねえ、土壇場で待ったはなしだ。
 今更後戻りはできない。
 俺は今日この日の為に子供に戻ったふりをし道了の懐に潜り込んだ、道了の油断に付け込み復讐を成し遂げるため鍵屋崎を騙しサムライを欺きレイジを裏切り世界で一番憎い男にむざむざ抱かれたんだ。
 何度も、何度も。
 込み上げる吐き気と戦いながら。
 道了は俺を時に優しく時に激しく自分の意のままに扱った、欲望の赴くまま前髪を掴みしゃぶらせたこともあれば仰向けにした俺にのしかかり頬を包み気遣うようにゆっくり挿入したこともある。

 俺は道了の人形だ。
 道了に股を開き何でも言う事を聞く。

 俺はずっとずっと道了の言うなりだった、お袋と梅花を殺しレイジの十字架を捻りつぶした世界で一番憎い男に抱かれながら快感に翻弄され仰け反り喘いだ、殺したいほど憎くて憎くして仕方がない男に乳首を吸われ背中に手を回され髪をすくわれ激しく貫かれはしたない声で喘いだ、お袋そっくりの淫らな声でもうこれ以上は壊れちまう勘弁してくれと哀れっぽく懇願し背中に爪を立てた。

 男のくせに男に犯されて喘いだ。
 何度も、何度も。
 熱に溺れ押し流されそうになるたびにとっかかりを求めて背中に爪を立てた。
 ひっきりなしに押し寄せる快楽の波に翻弄され高みに押し上げられ理性が一片残らず剥落蒸発し、自分が自分じゃなくなる恍惚と紙一重の恐怖に怯えながら、自我を現実に繋ぎ止める拠り所として確かな感触を求めプライドも意地もかなぐり捨てがむしゃらに肉に縋った。
 絶頂に上り詰める過程で一片ずつ理性が蒸発し、シーツと擦れる感触や汗のぬめりもろもろのまだるっこしい刺激すら肌炙る燠火となり、俺は俺が俺じゃなくなる恐怖に苛まれ恐慌をきたしわけもわからず道了にしがみついた。

 道了の背中は傷だらけだ。
 俺がつけた傷。
 消したくても消せない行為の痕跡。
 レイジを裏切った証拠。

 うつ伏せになってるせいで背中の傷が見えないのがせめてもの救いだ。
 深呼吸で覚悟を決め、緊張と焦燥にひりつく指先をズボンにかける。
 そのまま一気に引きずり下ろし下半身をあらわにする。
 ひやりとした外気に下肢が粟立つ。強張った顔で俺自身のものを見下ろす。
 レイジや道了とは比べ物にならない貧相なペニス……股間にぶらさがったそれはぐんにゃりと芯がなくうなだれている。
 足の間でみっともなく萎れたペニスを見詰めるうちにやりきれなさが募る。
 情けない。なんだこれ、こんなんじゃ全然使い物になんねーじゃんか。
 腹立ち紛れにペニスを引っ張り出す。掌に包んで荒くしごく。
 掌に熱を感じる。
 摩擦に伴いペニスが徐徐に硬くなる。
 「はあっ、はあっ、ふっ………」
 指先に全神経を集中する。
 カリに軽く爪立て左手を根元に添え上下にしごく。
 俺がやってることは道了の位置から丸見えだ。俺は道了に跨った姿勢のまま膝立ちに上体を支え股間に両手を突っ込みペニをやすりがけする。きつく目を閉じる。瞼の裏の闇が視界を覆う。こんな状態じゃ使い物になりゃしねえ。考えろ、考えるんだ、何かいやらしいことを。一刻も早くペニスを使い物に足る状態に仕立て上げて突っ込まなきゃいけないんだぐずぐずやってる暇はねえ早く早く……焦燥にひりつく指先で徐徐に角度をもたげはじめたペニスを揉む。
 人前で自慰をするのはタジマ以来だ。
 瞼裏の闇にタジマが蘇る。
 ありあまる性欲を剥き出しぎらついた目、脂でぎとついた醜悪な顔、涎にぬめる唇がだらしなく弛緩し不潔に黄ばんだ歯が零れ怖気を振るう下劣な笑みが頬肉を引き延ばし顔一杯に広がる。
 タジマはにやにやと嗤いながら俺を見た、最高に楽しくて楽しくて仕方ないといった愉快この上ない笑顔で涙を呑んで自慰をする俺をねちねち視姦した。
 道了は無感動に俺を見つめる。
 冷徹とさえ言っていい体温の低い眼差しを揺るがず俺に注ぎ、血まみれの顔に何ら表情を浮かべず死んだようにベッドに寝転がってる。
 道了の醒めた視線を受けながら性急な手つきで自慰に耽る、早くペニスを勃起させようとそればかり考え手に意識を集中し上下に擦る。
 けれどもなかなか上手くいかない、焦りばかりが募って手が滑りペニスは少しだけ頭をもたげて停止する。
 「ひっ、ふっ……」
 腰を浮かせ位置をずらす。
 耳障りにスプリングが軋みベッドが弾む。
 顎先から滴る汗がシーツに染みを作る。
 早く、早く勃たせなきゃ。
 先走りの汁がペニスに滲む。
 先端の上澄みを親指の腹ですくいとり五指で伸ばし丹念に練りこむ。潤滑油代わりに指に塗布した上澄みを手の上下運動に合わせ粘着質に刷り込んでいく。次第にペニスが熱をもち硬くなる。
 ペニスが熱く脈打ち手と連動し敏感になるのがわかる。
 固く固く目を閉じる。きつくきつく歯を食い縛る。
 身の内で吹き荒れる激情に押し流されぬよう必死に抗う。
 道了を犯す。
 お袋や梅花の無念を晴らす。
 道了がお袋と梅花にした事をそのまんま返してやる二人の痛み苦しみを存分に思い知らせてやる決めたんだ決めたんだそう決めたんだ、もう誰も俺を止められない後戻りできない。
 考えろ、考えるんだ。
 何かいやらしいこと、興奮することを。
 こんなペニスじゃ道了を犯せねえ、こんなもん突っ込んでもちっとも痛くねえ。
 赤黒く屹立したレイジのペニスを思い出す。
 下腹に密着するほど雄雄しく反り返って自己主張するペニスと俺の手の中のもんを比べて無性に情けなくなる。
 同じ男でどうしてこうも違うんだよ畜生。
 くちゃくちゃと粘着の糸引く五指で股間をまさぐりねっとりとペニスを捏ね回す。
 「レイジ………っ」
 自分の手にレイジの手を重ねる。
 俺の手に被さる褐色の手を想像する。
 レイジの手が優しく俺の手を導きペニスを包み込む、どうやればいいか教えてくれる。
 瞼の裏に強くレイジを思い描く。
 日の光を透かし柔らかな黄金に輝く干し藁の髪、左目を覆う眼帯、硝子じみて色素が薄い右目に稚気を閃かせ微笑みかけるその顔……
 屈託ない笑顔。
 親から貰った憎しみの名前を蹴っ飛ばすような、太陽の下がよく似あう笑顔。
 レイジの手が俺を導く。
 俺はレイジの手に導かれるがままペニスをしごく。
 これは俺の手じゃない、レイジの手だ。貪るようにペニスを弄くりながら強く強く暗示をかける。レイジが俺に触れている。例の悪戯っぽい笑みをちらつかせにじり寄り俺のペニスに指絡めを弄んでやがる。
 鋭い性感が走る。
 「ふあっ、レイジ、レイジっ……!」
 口から声が迸る。
 次第に腰がせりあがってくる。
 『感度がいいな、ロン。こうされると感じるんだろ?お前』 
 耳の裏側に吐息交じりの囁きがふれる。
 熱い唇が耳朶を啄ばむ。
 俺を後ろから抱きしめ膝に座らせたレイジが前に手を回しペニスをいじくってる。
 意地悪な指先が焦らすようにペニスをなぞるたびぞくりと快感が走る。
 レイジが後ろにいる、すぐ後ろにいる。
 声が間近で聞こえる、衣擦れの音が聞こえる。
 欲情に掠れた息遣いも俺のペニスを弄くり捏ね回す手もうなじに感じる熱っぽい視線も全部全部レイジのものだ。
 振り返ればレイジがいる、されるがまま腰を浮かせ快感に頬染めた俺を余裕のツラで見下ろしてるに決まってる。

 なあそうだろレイジ、そこにいるんだろ?

 心の中で問いかける。
 何度も、何度も。
 レイジに呼びかけながら手を加速させる。
 これは俺の手じゃない、レイジの手だ。自分がしてるんじゃなくレイジにされてると思え。
 「ひぐぅ……」
 先端から根元にかけ強弱つけ摩り下ろす。
 痛みと熱とが溶け合い一際鋭い快感が芽生える。
 手の中でペニスが硬くなる。
 「レイジ、あっ、ひあ、そこ、れいじぃっ……」
 「あの男のことを考えながら自慰をしてるのか?」
 朦朧とした頭で道了の声を捉える。
 手の動きは止めず突っ伏した姿勢から上目遣いに正面を仰ぐ。
 道了がひどく冷たい目でこっちを見詰めている。
 侮蔑を含んだ冷ややかな眼差しに晒され俺の中で怒りが膨張、憑かれたようにペニスをしごきながら精一杯凄んでみせる。
 「そう、だよ。悪い、かよ」
 「俺の腹の上で違う男を呼ぶな」
 声が氷点下まで冷え込む。
 「俺の勝手だろ。間違って、も、お前の名前なんか、呼ばねーからな」
 獣じみた息遣いのはざまから虚勢を張って噛みつく。
 その間も指は独立して動き根元を塞き止め先端を執拗にいじくる。
 手が止まらない。
 自分の手にレイジの手を重ね背中にレイジの存在を重ね夢中で自慰に耽る。閉じた瞼の裏側に情事中のレイジを想起する。扇情的に汗ばむ褐色の肌横顔に纏わり付くおくれ毛いやらしく細めた右目と皮肉な笑みを浮かべた口元……
 『愛してるぜ、ロン。どうしてほしいか言ってみろ』
 「ひあっ!?」
 イき、そうだ。
 慌てて手を放す。
 射精寸前で塞き止めたペニスが透明な上澄みを滲ませ赤黒く照り光る。
 奥歯を食い縛り絞り射精を堪える。
 手の中で体積を増したペニスが熱く脈打つ。鼓動に合わせて脈打つペニスを慎重に握り締め、浅く肩を上下させ不規則に乱れた息を吐く。
 堪えろ。
 イッちゃ駄目だ、まだ。ここでイっちまったら意味がねえ。
 激しくかぶりを振りレイジの顔を追い払う。勃起したペニスを握り締め呼吸を整える俺を見上げ、切れた唇を不器用に動かし道了が言う。
 「梅花は俺に殴られながらするのが好きだった」
 耳を疑う。
 体が硬直する。
 道了が突如として抑揚なく語りだす。
 「梅花は俺に殴られて股ぐらから涎を垂れ流す淫売の雌犬だ。殴ると締まりがよくなった。俺のものを内腿に挟んでぐいぐい締め付けてきた。梅花はいい声で喘いだ。悲鳴のように甲高い喘ぎ声と断末魔のような絶頂の声……発情期の雌犬のようにはしたなく腰振りたくり物欲しげな顔で何度も俺を呼んだ、道了道了とくりかえし俺の名を呼びもう許してと歓喜の涙を流し淫らによがり狂った」
 「黙れ」
 道了は淡々と梅花の痴態を暴き立てる。
 俺の初恋の女が道了に組み敷かれどう喘いだかよがり狂ったか、行為の最中に何を叫び何を乞うたかを克明に描写する。
 道了の口から漏れた言葉が脳裏で結実し鮮明に映像が立ち現れる。全裸の道了の下でよがり狂う全裸の梅花、波打つシーツの上に寝転がり長い髪を打ち振りもう許してと叫びながら滂沱の涙を流す化粧が剥げた痛々しい顔まで脳裏にくっきり浮かび上がる。
 梅花はあちこち傷だらけだ。
 全身至る所に新旧大小無数の痣が散らばっている。
 痣の上に痣が重なりどす黒くどす青く色素が沈殿した斑の肌が汗でぬめり、道了が律動的に腰を突き入れ揺するたび梅花は弓なりに仰け反る。
 「梅花の死に際を教えてやる」 
 「やめろ」
 耳を塞ぐ。
 無意識に首を振る俺を無視し道了は機械的に平板な声音で語り続ける。
 「梅花は絶頂で『殺して』と言った。狂ったように腰振り俺を咥え込み『殺して』と哀願した。俺はそのとおりにしてやった。快楽の絶頂で命を断ってほしいとむしゃぶりついてきた淫売の願いを叶えてやった。俺は梅花の首に手を回し力を込めた。梅花は俺と目が合った刹那うっすら微笑んだ。眦から一筋涙が零れ頬を伝い唇が無音で動きー……」

 『道了』
 『愛してるわ』

 「やめろ」

 死に際の梅花の笑みが俺の中で再び蘇る。
 耳を塞いでも聞こえてくる幾重にも木霊し余韻をひく呪詛のような睦言のような声、『道了』『好きよ』『愛してる』『あなたになら殺されてもいい』……
 やめろ、そんなこと言うな、簡単に受け入れるな!
 梅花が発した声が聞こえる、亡霊が紡ぐ囁きが聞こえる。
 幻聴を閉め出そうと深々頭を抱え込む。
 瞼の裏で閃光が爆ぜる。
 梅花と道了の情事の光景が細部まで鮮明に忌まわしいほど