ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

関連記事 [スポンサー広告]
スポンサー広告 | コメント(-) | ------------ | 編集

 床に上体を突っ伏したロンが身を絞るように絶叫する。
 残忍に踏みにじられた手はそのままに腹の底で渦巻く激情を吐き出すように永遠に失ってしまった相棒の名を呼ぶ。
 絶叫の余韻が大気に溶け込むのを待たず狂気に蝕まれ振幅を激しくした破滅的な哄笑が被さる。
 壊れたハーモニカのように聞くものに不快感を抱かせ生理的嫌悪をかきたて神経をささくれだたせる音程の狂った笑い声が周囲のコンクリ壁と天井に跳ね返り陰々滅滅とこだまする。
 呼気を吸い込み膨れ上がったハーモニカを思わせる狂気の哄笑はいつはてるともなく廊下に降り積む静寂を侵食していく。
 暴君は笑う、狂ったように笑う。
 廊下の中央に傲然と仁王立ち、世界すべてが自分の領土だと宣言せんばかりにかいなを広げ無敵の全能感に酔うさまは、己の道を阻むものすべてを無差別に薙ぎ払う圧倒的暴威を感じさせる。
 それはまるで嵐の脅威にひれ臥す葦のように、藁色の髪をしどけなく振り乱し硝子の隻眼を恍惚と酔わせた暴君の周囲に見えざる颶風が吹きすさぶ。
 「感謝するぜ淫売、ありがとよ裏切り者!お前がこいつを裏切ったせいでこいつは死んだ俺の奥深く永劫の闇に逃げ込んじまった、王様とはもう永遠にお別れのおさらばだ!ああ、やっとだ。長かった、長かったぜ。俺はこの時を死ぬほど待ってたんだ、俺が晴れておもてに出る日を、こいつの体を乗っ取って新しい世界に産声を上げる日を!どうした、何でそんなシケた面してやがる?暴君の再誕を祝ってハッピーバスデーを唄ってくれよ!!」
 「嘘、だ」
 「嘘なもんか」
 色あせた唇のはざまから震える声を紡ぐロン、その前髪を掴みむりやり顔を上げさせる。
 優雅に片膝ついた暴君が口元に魅了の笑みを湛え真上からロンを覗き込む。
 床に這い蹲ったロンは薬と疲労のせいで腰が立たず、度重なるショック故に暴君の手を払いのける気力さえ失い、ただただ呆然と彼を見返すのみ。 驚愕と絶望に剥かれた目、固く強張り表情を閉じ込めた頬、半開きの唇。
 擦り傷だらけの顔にもまして悲痛さを引き立たせる茫洋たる視線。
 ロンの目は抗しがたい誘惑をもって干し藁の隙間に覗く冷え冷えと透徹した隻眼に惹き付けられている。
 千尋の闇よりもなお底知れぬ透明な虚無を呑んだ目。
 ロンの視線は頼りなく虚空をさまようも髪を掴まれている為顔を背けることができず、怖いもの見たさにも似た不可抗力の好奇心に負けて必ずや最後に暴君へと引き寄せられる。
 暴君が覆い被さり、ロンの顔が翳る。
 ロンと額を突き合わせた暴君が、哀れみ深くさえ見える陰影に隈取られた微笑をちらつかせる。
 「王様はもういない。俺が食っちまったよ」
 唇が割れて舌が覗く。
 赤く艶かしい舌が上唇を舐める。
 官能を誘う淫靡な動きで上唇を這った舌がひめやかに下唇へとおりていく。
 満腹の豹か悪食の悪魔を思わせる貪欲な舌なめずりをしてみせた暴君の言葉にロンが反射で首を振る。
 「うそ、だ」
 「何が嘘だよ」
 ロンと視線の高さを合わせ脅しつけるように声を低める。
 耳朶を羽毛が刷くような官能を呼び起こす艶めく囁きに生唾を嚥下、全身を硬直させ慄然と暴君を仰ぎ見たロンが惰性で首を振る。
 あまりに弱弱しく否定の意をもたず拒絶の主張もなさぬ首振り。
 呼気を荒くし蹲るロン、その肩は浅く上下し大量の脂汗が滲む顔はいかにも苦しげだ。
 身の内で湧き立つ衝動を抑制しようと片腕で体を抱いたロンが、びっしょり汗に濡れそぼつ黒髪のはざまから梃子でも動かぬ強情な眼差しを叩き付ける。
 「レイジがいなくなったなんてうそだ。絶対に信じねえ」
 黒髪のはざまの目に苛烈な反抗心が燃え立つ。
 絶望のどん底から歯を食い縛り這い上がったロンは、今またレイジを失うことだけを恐れるかのように暴君ににじり寄りその膝にしがみつく。
 暴君のズボンを掴み這いずるように上体を起こすや膝に爪を立て呼吸を整える。
 「戻ってこいよ、レイジ。せめて謝らせろよ。勝手にケツまくって逃げるなんてなしだぜ」
 返されたのは、ひどく醒めた眼差し。
 「わかんねーガキだな。王様はもういないんだよ」
 ロンは必死に語りかける、暴君の奥底で眠りについたレイジを呼び起こそうと掠れた声を絞る。
 暴君は煩わしげに顔を顰め漸くロンの手から足をどける。
 たっぷり三十秒をかけ解放されたロンの手は固い靴裏で踏みにじられたせいで泥に塗れ痛々しく腫れていた。
 皮膚が擦り切れ血が滲んだ手を床に付いたまま、正面から毒々しい嘲笑を浴びせかけられても諦めずロンは食い下がる。
 「レイジを出せよ。お前に用はねえ、引っ込んでろ」
 深呼吸で激情を抑え込んだロンが邪険に吐き捨てた刹那、まとう雰囲気と表情が一変する。
 口元の笑みが薄まり藁色の髪の隙間から覗く隻眼が酷薄に細まる。
 ロンの背後に立ち尽くす僕は、背筋を氷解が滑りおちてくような戦慄に打たれる。
 今すぐ暴君とロンを引き離さねば、二人を引き離せば。
 頭が命令を発し理性が急き立てるも神経が痺れ足が動かない、一歩も動かない。
 結果として僕は足が根ざしたように立ち竦み無力感に苛まれ暴君とロンの邂逅を傍観するしかない。
 本能的な恐怖が四肢を呪縛し脅威への接近を阻む。
 覚醒した怪物を前に己の卑小さと無力さを痛感した僕は、その時点でもう一歩も動けず、友人が危機に晒される所をむざむざ見届けるしかない。
 やめろ、ロンにさわるな、ロンを傷つけるな。
 心が叫ぶ。しかし舌が痺れて動かない、麻痺した口は音を紡ぐことができない。
 硬直した舌では警告を発する事もできず加速度的に無力感と焦燥感が募る。
 僕は祈る、ただ祈る。
 気も狂いそうな焦燥に苛まれながらロンの無事を祈り無傷であってくれと念じ、ロンと暴君の接触によって生まれかねない最悪の結果を遠ざけようとひたすら祈る。
 「『引っ込んでろ』だと?」
 暴君の声が不穏に低まる。
 廊下に闇が漂う。
 蛍光灯が忙しく点滅しやがてそのうちのひとつが消え廊下の隅に埃っぽい闇が蟠る。
 蜘蛛の巣を張るように闇が蟠る廊下の中央、ロンの前髪を掴み跪いた暴君が憤激を封じ込めた冷徹な表情で囁く。
 「お前もか?お前も俺を闇に突き落とすのか?俺が今までいた所にぶちこんでなかったことにするつもりかよ」
 「!?んっむ、」
 暴君がロンの唇を奪う。
 優しさなどかけらもない野蛮なキス……貪るような激しさで唇を塞ぎ吐息を飲み干す行為は、愛を確認する神聖な儀式には縁遠く互いの存在を賭けた共食いに似ている。
 猛獣が獲物を食らうようにやすやすとロンを組み敷きその唇を貪る暴君、床に押し倒されたロンは動転した頭で窒息の苦しみにもがき苦しみ、暴君の肩を拳でめちゃくちゃに打する。
 振り上げ振り下ろし振り上げ振り下ろし振り上げ振り下ろす
 酸欠の苦しみに充血した顔で何度となく自分にのしかかる男の肩を殴り付けるも、暴君は決してロンの上からどかず、僕の視線を十分意識した挑発的な動きでもって唾液を絡める音を響かせロンの唇を貪り尽くす。
 ロンは今や必死の形相で暴君の頭といわず肩といわず胸といわずやみくもに殴り付け、体重かけ組み伏せられ息もろくに吸えない状態をしいられ恐慌を来たし四肢を暴れさせる。
 「んっ、ぐ、ふぐ、う…………」
 粘ついた糸引き唇が離れる。 
 ぐったり弛緩したロンの上から漸く満足し身を起こし、暴君が悪戯っぽく囁く。
 「……あいつの味がするだろ」
 髪の向こうで弓なりに細めた目に嗜虐と嘲弄の色が覗く。
 骨まで蕩けたように弛緩した四肢を投げ出すロンを覗き込み、暴君が傲岸不遜に宣言する。
 「いい加減認めろよ。お前の王様は消えたんだ。あいつは俺が食っちまったんだ」
 暴君の手がロンに伸びる。
 酔ったように弛緩したロンはもはや暴君を突きのける体力も振り払う気力もなくされるがまま身を委ねるしかない、ただでさえ薬で力が入らない状態なのだ。それでも暴君に触れられるのは我慢できないとばかり這いずるようにあとじさるロンの腰を掴んで引き戻し、熱く湿った吐息を耳裏に吹きかける。
 「美味かったぜ。最高だった」
 「!あっ、や………」
 暗く甘やかな声が音楽的なリズムで流れる。
 敏感な耳裏を吐息の刷毛でくすぐられロンがびくりと震える。
 腰を掴む手から伝わってくる熱が下半身に溜まりゆく。
 褐色の手がしなやかにゆるやかに腰を滑る。
 床に肘を付き上体を起こしたロンががくんと屑折れる。
 意地悪な手が薬のせいで今にも弾けそうに昂ぶったロン自身をくすぐり遠まわしな刺激で官能を煽る。
 「れい、じ、を、返せよ………おまえ、なんか、呼んでね……はっ……おれは、レイジに、会いたいんだよ……ぁうくっ……」
 腰が萎える。声が萎む。
 褐色の手が紡ぎだすめくるめく官能に、這い蹲ったロンの背筋がぴんと張り詰める。
 褐色の手が脊椎を爪弾くのに応じ硬直と弛緩を繰り返す体を持て余し嗚咽に似た喘ぎを漏らすロンに覆い被さり、酔ったように囁く。
 「あいつのものは俺の物だ」
 性急な手つきでズボンを引き剥がしロンの下半身を裸にする。
 「あいつがもってたもんは最初から俺の物だ、俺の物だったんだよ。これまで全部あいつが独占してきたけどあいつが死んでやっと手に入れた、やっと自由になれた、解放されたんだ。ずっとずっとあいつを殺したかった、あの卑怯者を。俺に暗闇と憎しみ全部ひっかぶせてへらへら呑気に笑ってやがったあいつを塵に返したかった。そうだ、漸く王様が王座から下りたんだ。代わりに座るのはこの俺だ」
 熱に浮かされた暴君が連綿と呟きロンを扱う手が激しさを増す。
 「レイジ、の、中から、出てけ……レイジに、体を、返せよ………」
 素肌を隠そうとしきりと身をよじり儚い抵抗を示すも、暴君はロンの膝を割り開き、無残にも肛門を外気に晒す。
 床でのたうつロンに嗜虐的な笑みを浮かべ具合を確かめるように肛門に指を突っ込みかきまぜる。
 道了が出した精液と褐色の指とが絡み合い卑猥な水音をたてる。
 恥辱に染まるロンの顔を横目で探りつつ暴君は言う。
 「そんな奴最初からいなかったんだ」
 「な、に?」
 「レイジなんて奴最初からいなかったんだよ」

 暴君は何を言ってる?
 レイジが最初からいなかっただと?

 レイジの存在を全否定する台詞に耳を疑う。 
 理解できないといった顔でロンが固まる。
 衝撃を受けた僕らをよそに暴君は愛撫の手を止めず淡々と語る。
 ほつれた干し藁の隙間から自嘲の色がたゆたう目を光らせ、口の端を皮肉に吊り上げる。
 己の運命を嘲笑うかのように、
 一人二役の道化芝居には飽き飽きしたといった口ぶりで。
 「王様の本性は暴君だ。暴君こそ本当の俺だ。俺は憎しみを吸って大きくなった……授けられた名前通りに」
 「まさか」
 声を発したのはそれまで傍観者に徹していた僕だ。
 言葉の内容を理解するに従い衝撃が浸透思考が硬直、たった今耳から取り込んだ言葉を整理し理解し直す為に脳を急回転させる。

 レイジの本性は暴君。 
 暴君は最初から一人。
 母親に「憎しみ」と名付けられ虐げられ続けた暴君が逃避で生み出した擬似人格がレイジだとしたら……

 僕がこれまで知っていたレイジは、
 彼は。 

 『空いてるぜ。座れよ』
 初対面の時に見せた屈託ない笑顔も
 『ありがとう。俺も嫌いだよ』
 北棟で殺し合いを仕向けられた時に放った辛辣な台詞も
 『マリアってお袋の名前。寝てるあいだに夢見てたんだ、色んな夢を』
 ペア戦終盤、地下停留場に繋がる通路の壁に凭れ掛かり大人しく包帯を巻かれながら無邪気に昔を懐かしみ
 『嫌いなものは殺してしまう、それが人間のすることか?憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね』
 かすかに顎を上向け遠くを見てシェークスピアの台詞を諳んじ
 『THE END』
 思い出す。
 瞼の裏に鮮やかに浮かび上がる情景。
 サーチライトの光が照らす一面コンクリート張りの中庭、試合直後で満身創痍のレイジが腕を掲げゴールと距離をはかりボールを構える。
 跳躍。
 反動をつけ放たれたボールは長大な弧を描き宙を越え、サーチライトの光を傾ぐ表面に反射し、狙い定めた通りにネットに吸い込まれる。
 あの時の笑顔と歓声がよみがえる。
 『Thank you.Thank you for saving me.You are my friend who is more reliable than God』
 傷口が開くのも構わず僕を力一杯抱擁し豹がじゃれるように顔をすりつけてきたレイジを、神様より頼りになるダチだと僕の肩を叩いた手のぬくもりを思い出す。
 
 嘘だ。
 レイジが最初から存在しなかったなんて、嘘だ。

 「でたらめを言うな、暴君風情が」
 嘘だ、暴君は嘘をついている。
 レイジが最初からいなかったなんて嘘だ、レイジは暴君が作り出した擬似人格で実際には存在してなかったなど認めない。
 何故なら僕はこれまでずっとレイジと一緒だった。
 初対面でなれなれしく片手を挙げて席に呼び招いた彼を図書室で額をつきあわせて手紙を書いた彼を食堂でロンにちょっかいをかけ馬鹿騒ぎする彼を売春班撤廃を条件にペア戦100人抜きを宣言した彼をぼろぼろになりながら死闘に身を投じる彼を心もとなくバスケットボールを見詰める彼を覚えている、ずっとずっと覚えている。 

 レイジが消滅したなど嘘だ。

 『早く座んねーと席なくなっちまうぜ、キーストア』
 嘘だ
 『ったく頭が固いなー。たまには息抜きしろよ』
 嘘だ
 『お、またブラックジャック読んでんのか?すっかりお気に召したみてーだな。なんだよー隠すなよー別に恥ずかしいことじゃねーだろ?』
 嘘だ。

 あの図々しく馴れ馴れしくすべてにおいて適当で呑気で飄々として楽天家の代名詞の王様が消えたなんて嘘だ、尻軽で手癖の悪いレイジが跡形もなく消え去ったなど嘘だ、信じてたまるものか。僕がこれまで見てきた彼が暴君が作り出した擬似人格なんて信じない。
 レイジはレイジとして生きていた、レイジとして確固たる人格を備えていた。
 憎しみに駆られ狂気に身を委ね暴力の愉悦に酔う暴君ではない。
 食堂で馬鹿騒ぎしロンをからかい本を読み音痴な鼻歌を口ずさみ僕のことをキーストアとふざけたあだ名で呼ぶ彼は現実に生きていた、現実にロンの隣に僕の前にいた、かけがえのない仲間だった。

 「レイジを食べたら消化不良を起こすぞ、即刻吐き出すべきだ」
 呪縛が弾ける。衝動的に足が動く。
 名伏しがたい衝動に突き動かされ足を駆り立て暴君のもとへ急接近。
 傍観者の介入に気付いた暴君が愉快げに眉を跳ね上げる。
 構うものか。
 体の脇で震える拳を握り締め挑むように前を向き、一度はねじ伏せられたプライドを暴威を弾く盾に代え果敢に前進。
 腹の底で荒れ狂う激情にともすれば理性をさらわれそうになりながら瞼裏にかつてのレイジを想起し歩調を速める。
 「よる、な、かぎやざきっ……」
 まだ成熟してない雌犬が成犬にむりやり犯されるような姿勢でみじめに這い蹲ったロンが肩越しに振り返る。
 ロンに拒まれても動じず大股に突き進む。
 ロンはどうにかして僕を遠ざけようと口汚く罵声を浴びせる。
 僕が貸した上着の中で痛々しいほどに華奢な四肢が泳ぎ、裸に剥かれた下半身は薬の効果で性感を高められ薄っすら上気している。
  暴君は今また勃ち上がり雫を垂らし始めたロンのペニスを片手間にいじくっている。
 慣れた手つきで雫をすくいとり孔に塗りこめ繊細な指遣いで裏筋を愛撫すれば、焦らされるもどかしさにロンが腰を揺すり始める。
 更に強烈な刺激を追い求め自分の意志では抑制できぬ腰の動きに翻弄されるロンから暴君に視線を転じ、嗜虐の愉悦に酔ったその目をまっすぐ見詰め、決然と言い放つ。 
 「レイジが消えるはずがない。あのしぶとくしたたかで図々しい男がこんなあっさりとあっけなく簡単に消えるはずがない、そんな結末があってたまるか。見損なうなよ、暴君。あの男はロンが呼べばどこでもすぐ現れる。レイジはそういう男だ、だからこそ彼は万人が認める東の王を名乗れるんだ」
 距離が縮まる。
 暴君があと五メートルの所に迫る。
 歩調を落とさず一心に足を繰り出す。
 繰り出しながらレイジの軽薄な笑顔を強く思い描き戻ってこいと念じる、念じながら爪が食い込むほど手を握りこむ。
 「天才が見込んだ王を舐めるな」
 王様の帰還を信じる。
 レイジが帰るまで、僕がロンを守る。
 覚悟が葛藤に打ち克つ。
 決意を新たに暴君に立ち向かう。
 硬質な靴音を響かせ歩み寄る僕を暴君は無防備に身を晒し待ち受けていたが、その唇がふいに邪悪な弧を描く。  
 『I eat you』
 行動は迅速だった。
 豹の四肢に備わる鞭の如き敏捷性で跳躍した暴君が衣擦れの音すら立てぬ身ごなしで僕に肉薄、首筋に吐息を感じ振り返るより早く後ろ手に縛められる。
 抵抗する暇も与えらない早業。
 運動音痴な僕は反射神経が鈍く、過酷な戦闘訓練を積み極限まで身体能力を高めた暴君にかかればひとたまりもない。
 背中に衝撃、手首に痛み。
 次の瞬間には後ろ手に締め上げられ床に組み伏せられていた。
 僕の背中の中央に膝を抉りこませ体重をかける暴君、人体の急所を的確に突いた先制攻撃に息が詰まる。
 「がはっ………、」
 「そうか、寂しかったんだな。気付かなくて悪かったなキーストア、放置プレイ決め込まれちゃそりゃ退屈だよな」
 息の塊が肺につかえる。
 背後から肺を圧迫され上手く酸素を取り込めず視界が明滅する。
 さらりと髪が流れる。
 褐色の掌が後頭部に触れる。
 一筋髪をすくいとった暴君が静かに顔を伏せ毛先に唇を這わせる。
 神経も痛覚も通ってないはずの髪の先端にちりちりと燻るような熱を感じる。
 「ロンがされてるとこ見て羨ましくなったんだろ」
 「馬鹿、を言え……っあ、」
 「背中が火照ってる。俺の手が刻んだ烙印が疼いて疼いてしかたねーだろ」
 うなじに唇がふれる。
 熱く柔らかい唇がうなじを吸いさらにその下、日頃人に見せるころはおろか外気に晒すこともない秘められた部位を悪戯っぽく啄ばむ。 
 視界の端にロンの顔がちらつく。
 僕と同じ姿勢で床に突っ伏したまま自力では起き上がれず、床に肘を付いて辛うじて上体を浮かせたロンが、相棒の裏切り行為を目の当たりにし極限まで目を剥く。
 暴君はロンに見せつけるように僕を嬲る。
 さっきまでロンに触れていた手と唇が、まだロンのぬくもりを残す手と唇が僕の肌に痕つけ這い回る。
 冷たい床に半裸で放置されたロンは呼吸を荒くしてその光景を見詰めている。
 暴君が自分を無視し僕を犯す過程を瞬きもせずじっとー……
 孤独死寸前の捨て猫のように。
 「レイジ、やめろ……ロンの前で僕を犯す気か、貴様はそこまで腐っているのか?」
 声に力が入らない。
 へたに暴れると背中を圧迫した膝が肺にめりこみ苦痛がいや増す。
 中途半端に追い上げられたもっとも苦しい状態で行為を中断されくたりと突っ伏したロンを無関心に放置し、暴君は愛しげに見せつけるかのように僕の髪を一筋手にとり接吻を捧げる。
 「う、あっ………やめ……かぎやざき……」
 「ロンの声が聞こえないのかレイジ、君を呼ぶ声が聞こえないのか!?貴様は本当に腰抜けに成り下がったのか、すべてに背を向け永劫の闇に閉じこもってしまったのか、王の資格がない男に王座を明け渡し何もかもを譲り渡し本当にそれでいいのか!?」
 「聞こえねーよ」
 暴君が鼻で笑う。
 滑らかな褐色の手が肌を這い回る。
 ロンが愕然と見詰める前で暴君は僕を組み敷き貪り始める。
 僕はあがく、全力で抵抗する。
 しかし最大限の抵抗を示したところで暴君には太刀打ちできず、背中を押さえられているため寝返りを打つことすら許されない。
 「ハッピーバースデーを唄ってくれよ。お前の歌声が聞きてえ気分なんだ」
 麻薬に酔ったような甘い吐息が耳朶をくすぐる。
 褐色の手が体前に回りこみ貧弱な胸板を這う。
 鋭い性感が乳首を貫く。
 「ひあっ!」 
 乳首を抓り上げる痛みに甲高い苦鳴を発した僕に気分を出し、今度は乳首を指のあいだに挟み搾り出すようにしながら、暴君が嘲笑まじりに囁く。
 「見ろよ、ロンが羨ましそうにこっちを見てる。まぜてほしくてたまんねーって物欲しげな面してやがる。可哀想にな」
 顎をしゃくって促されのろのろとそちらを見る。
 僕から1メートル足らずと離れてない場所に突っ伏したロンが股間に両手を潜らせた不自然な体勢でわずかに腰を浮かせている。

 何をしているかわかった。
 わかってしまった。

 触れてもらえない体の火照りを持て余す一方、僕とレイジの生々しい行為を目と鼻の先で見せ付けられたロンが自慰を始めたのだ。
 「はっ、っあ、はっ、はっ、う、あぅ………」
 「ほら、俺に触れてもらえなくて寂しくてしまいにゃ自分でやり始めちまった。ははっ、傑作だな!股間に手え突っ込んで夢中でごしごしやってやがる、可愛いペニスをおっ立ってて一生懸命擦ってやがる!どうした、俺たちがヤってるとこ見て興奮したのかよ?遂に我慢できなくなっちまったのかよ?さっきまで威勢よく吼えてたくせに今じゃびくびく腰震わせて情けねえったらありゃしねーぜ。俺に見られるだけでイけるんだろ?ならイってみろよ、指一本触れずにこうしてここで見ててやっからさ!」
 手淫と薬の効果が相俟って快感が加速する。
 壮絶な恥辱に苛まれ身悶えながらも手は止まらず、欲望の奴隷と成り果てたロンは四つん這いの姿勢をとって自慰に耽る。
 コンクリートの床で擦れて膝が剥けて血が出ても動きは止まらず激しさを増し加速する一方、赤黒く勃起したペニスを躍動的に擦りながらロンが辛そうに声を絞る。
 「かぎや、ざき、みんな、こっち、たのむ、からっ……目、閉じろ……耳、ふさいで……俺の、こんなかっこ、見んな……こんな、恥ずかしい声、ちが、やっ、俺こんなんじゃ、あっ、淫売なんかじゃね、やあ、ひぅ、ぁああっ……!」
 涙にぬれた幼い顔に恥辱と快感がせめぎあう。
 そんなロンを突き放すように冷ややかに眺め、言葉通り指一本触れようとせず僕へと向き直り、暴君が恍惚と微笑む。
 「お前は拒まねーよな」
 くちゃくちゃと音がする。
 欲情に弾む息遣い……視界の端で上下する小柄な体躯、股間に潜り込んだ手のはざまから覗く赤い突起。
 快感に息を喘がせたロンが涙の膜が張った目に恥辱の裏返しの憎悪を剥きだしこちらを睨む。
 僕の頬に優しく手をかけさすり、硝子じみた透明度の隻眼に脅迫の色を閃かせる暴君から視線をはずさず、拘束が緩んだ隙をつきズボンの横に手を添わす。
 衣擦れの音をたてぬよう注意しポケットに手を滑り込ませ、心臓の高鳴りを意識し緊張に渇いた口を開く。
 「………祝福してほしいか」
 唐突な問いに怪訝な表情をするのを見逃さない。
 暴君の視線を避けポケットに手を潜り込ませるや、じっとり汗ばむ手で鎖を手繰り寄せ握り込み、内心の動揺を悟られぬよう開き直りに至る諦念を装い淡白な口ぶりで続ける。
 「腐ってもキリスト教徒だろう、君は。生まれて最初にすることは洗礼の儀式だ。違うか」
 かすかに挑発を滲ませ指摘すれば、漸く腑に落ちたといったばかり笑みを広げ暴君が嘯く。
 「……有難いね、これで少なくとも一人は俺の誕生を祝ってくれるやつができた。俺が念願叶って体をとっかえしためでたい記念日をな。いいぜ、祝ってくれよ。俺があいつを殺し王座をぶんどった今日の良き日を言祝いでくれよ」
 僕の頬を片手で包み、嗜虐の色に染まった隻眼を細め、天に唾して背徳に堕する微笑を刻む。
 利き手に固く十字架を握りこむ。
 冷たい金属の表面に掌の体温が伝わり熱をおびていく。

 僕は言う、まっすぐに暴君を見詰め。
 僕は言う、はっきりと。
 固く強張った顔の筋肉をぎこちなく操作し、極力自然に見えるほのかな微笑を添えて。
 『Happy Birthday Crazy king,Say Good-bye』

 暴君の顔が奇妙に歪むのを確認するより一刹那だけ早くポケットから腕を振りぬく。
 風切る唸りを上げ振り上げた十字架が鈍い音たて額に炸裂、暴君が反射的に額を覆った隙に連続で床を転がりできるだけ距離をとる。
 視界が反転し床と天井がめまぐるしく入れ替わる。
 視界の端にロンを捉えるや手を付き起き上がりそちらにむかって叫ぶ。
 「ロン!」
 「はっ、はっ、はっ、あっ、あ、あ………かぎや、ざき……?」
 もはや自身を支える力もなく僕が差し出した手に倒れこむロンをしっかり抱きとめる。
 僕に抱きとめられてもまだ手は無意識にペニスをしごいている。
 胸裏に激情が沸騰する。
 あまりに哀れでみじめな様子に胸が詰まる。
 ロンの手を股間から引き剥がし踝に絡んだ状態で丸まったズボンを素早く引き上げてから、自分の身に起きた出来事はおろか周囲の状況も把握できず朦朧とするロンを抱きしめる。
 「もういいんだ、そんなことをしなくて」 
 華奢な背中に手を回し、僕が守れなかった誰かの代わりに抱きしめる。
 胸元に熱く湿った吐息がかかる。全身の力が抜けるように凭れ掛かったロンが僕の胸元に顔を埋め、自分を呪うように首を振る。
 「おれ、レイジの前で……お前に見られながら、イっちまった……レイジが見てんのにっ……手が、とまんなくて……自分で勝手にしごいて……気持ちよすぎて、わけわかんなくて……レイジが見てるってだけで体がかっと熱くなって……レイジじゃねえのになんで、なんでだよ……」 
 「薬のせいだ。不可抗力だ。医務室に行く、そうすれば治る」
 腕の中で小刻みに震えるロンに声を低めて言い聞かせる。
 僕が宥めるのを聞いているのかいないのか、ロンがたどたどしく繰り返す。
 「おれが淫売だから……道了に犯られて感じて見られてるだけで全身熱くなって勝手に手が動き出すような淫売だから、レイジの奴、俺のこと嫌いになったんだ……俺が裏切って捨てたから、道了んとこに行ったから………レイジの奴、怒って出てこないんだ……」
 「そうだ、出てこないだけだ。消えたわけじゃない」
 安心させるように力をこめ肩を抱く。
 何より僕がそう信じたかった。
 レイジの笑顔が永遠に失われてしまったなんて耐えられない。
 腕の中で震えるロンを庇いながら足を引きずるように歩き出す。
 とにかく医務室に行かなければ、薬を抜かなければ……ロンの体調は最悪だ。ただでさえ道了に酷く扱われ憔悴しきっているところに薬を使われたせいで脈拍が激しく全身が熱っぽくいつ昏倒しても不思議じゃない。
 ロンに必要なのは安静だ。
 清潔なベッドと栄養の点滴だ。
 早くそれらが揃っているところに運ばなければ……
 しばらく会わない間に随分軽くなったが、それでも人一人を運ぶのは重労働だ。
 片腕でロンを支え肩で壁を擦るようにして歩く僕の背に声がかかる。
 「手痛い祝福だな」
 戦慄に駆られて振り向く。
 片手で額を覆った暴君がそこにいた。
 額の傷口から滴る血が鼻梁を伝うのを舌で舐め暴君が不敵に微笑む。
 「どこへ行くんだ?」
 「ロンを医務室に連れて行く」
 「忘れたのかキーストア、医務室に医者はいねーよ。お前はその理由をよーく知ってるはずだ」
 「清潔なベッドがあってロンを静かに寝かせられるだけここよりマシだ」
 「吼えるなよ、奴隷の分際で」
 ポケットに指をひっかけた暴君がしなやかな足取りで歩きだす。
 あたりを払う荘厳な静けさに満ちた歩みに圧倒されるも、手の中の十字架を握り込み反撃に備える。
 暴君はもう額を押さえてはいない。
 傷口をありのまま外気に晒し、たとえようもなく優雅な気品と獰猛な攻撃性とが同居する歩みで近付いてくる暴君を警戒し、汗でぬめる手に十字架を握り直す。
 レイジが捨て、僕が拾った十字架を。
 「また逃げるのか、ロン」
 名指しされたロンがびくりと震える。
 「また俺を捨てるのか」
 仮初の諦念を漂わせ、細めた隻眼を哀切な光にぬらし暴君が微笑む。
 だが、それは罠だ。
 ロンを誘い込みとらえる狡知な罠だ。
 「俺を産んだ売女のように俺を捨ててどっか行っちまうのか。二度じゃ飽き足らず三度も捨てるのか。一度目はペア戦の最中だ。自分から戦いの仕方を教えてくれって言いだしたくせにちょっと蹴られたくらいでびぃびぃ泣きべそかいて拒絶したのが一度目、道了と一緒に行っちまったのが二度目。三度目はどうだ?今度もまた同じ過ちをくりかえすのか?守るとか一緒にいてやるとかってのは口先だけで、また俺をひとりぼっちで暗闇のどん底に突き返すのかよ」
 一言一言が楔を打つように胸を抉る。
 単調な靴音とともに迫り来る暴君、その顔が一転して蛇の牙から滴る毒液のような邪悪な笑みを剥く。
 「結局自分が可愛いんだな」
 『不一様!!』 
 違う、と叫び腕の中から駆け出そうとするロンを必死に押し留める。
 拘束をふりほどこうとめちゃくちゃに暴れるロンを押さえ付けるだけで精一杯の僕はすぐそこまで近寄った暴君に対処できず無防備な背中を晒してしまう。
 「お前もあの女と同じだ。俺を捨てて恋人と行方をくらましたあの女と同じだよ。聖母が聞いて呆れるぜ、マリアはマリアでも娼婦上がりのマグダラの女のくせに」
 首筋に息遣いを感じる距離に暴君が迫る。
 視界の端を閃光が射る。
 ゆっくりと余裕をもった動作でみずからのポケットに手を滑り込ませる暴君、再び外に出たときその手にあったのは……
 大振りのサバイバルナイフ。
 あざやかな手捌きで鞘から抜き放たれたナイフが蛍光灯を反射し剣呑な光を放つ。
 背筋に悪寒が走る。
 喉の奥で恐怖の塊が膨らむ。
 ナイフを肩の上で固定し投擲の姿勢をとった暴君は、眼前の僕とロンを通り越しどこか遠くを見るような不安定な目を虚空に投じる。
 尊厳と威光を身にまとって立つ暴君は、蛍光灯の光に透ける金の睫毛を伏せ、俯けた顔に彫り深い陰影を刻む。
 『私の祈りが御前に届きますように。どうか私の叫びに耳を傾けてください。私の魂は悩みに満ち黄泉にふれています。私は穴にくだるものと数えられ力のないものとなっています。死人の中でも見放され墓の中に横たわる殺されたもののようになっています』
 形よい唇が懺悔にも呪詛にも似た言霊を紡ぐ。
 『あなたは私をもっとも深き穴においておられます。そこは暗い所、深い淵です』
 僕は見る、レイジの姿を。
 暴君の奥底、永劫の闇に包まれ眠るレイジの姿を。
 僕が見たレイジは幼子の姿をしていた。
 献身的に母を慕えど報われぬ幼子に戻り、自分を抱きしめるようにして膝を抱えている。
 『あなたは私の親友を私から遠ざけ忌み嫌うものとされました。私は閉じ込められて出ていくことができません』
 闇に抱かれ眠る幼子の心中を代弁し、祈りに終止符を打つ。
 『Amen』
 「違うレイジ違うっ、お前を嫌いになってなんかない、そんなことあるわけない!お前を嫌いになるより自分を嫌いになるほうが簡単だって離れてみてよくわかった、お前を忘れたほうが楽だってわかってたけどとうとう出来なかった!お前が好きだ、好きなんだ、好きなんだよ!!お前のこと考えるたび胸が苦しくて張り裂けそうで、離れてるあいだもずっとお前のことばっか考えてて、お前が笑ってくれりゃそれだけで耐えられるって、俺はお前が…!!」
 
 悲痛な語尾を遮りナイフが投擲された。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050228165737 | 編集

 頬の薄皮にやすりがけされたような熱を感じる。
 銀の直線を描いて空を裂いたナイフが頬を掠める。
 暴君が的をはずした?
 まさか、あり得ない。
 抜群の身体能力を誇る暴君が目測を誤りこの距離から的をはずすなどあり得ない。
 だが現実にナイフを標的を逸し僕の肩の上をあっさりと通過した。
 外したとしたらそれは故意だ。
 暴君が的を外した目的は何だ?
 振り返るまでのわずか一秒間に思考が炸裂、完全に振り返った時には自分の目で結果を確かめるまでもなく答えに辿り着いていた。
 暴君が的を外した理由はひとつしかない。
 自分の愚かしさを呪いながら体ごと振り返り、戦慄に息を呑む。
 「道了!」
 背後に立つ道了を発見する。
 僕につられて振り返ったロンもまた慄然と固まる。
 道了はロンの背後に忍び寄り今まさに手に片をかけようとした姿勢で停止していた。
 暴君が抜群の勘の冴えを見せ躊躇なく投擲したナイフの軌道を辿れば、鋭利な刃先は道了の顔の中心を抉っていたはずだが、道了は思いきりよく首を傾げこれを回避していた。
 「………ぬるい」
 傾げていた首がぎこちなく元に戻り正面を向く。
 錆びた軋みを感じさせる機械的動作で顔を正面に戻した道了は、並んで立ち竦む僕らを通り越し暴君に醒めた視線を注ぐ。
 能面じみて端正な目鼻立ちをなお強調する徹底した無表情の中、眼窩に嵌め込まれた金と銀の瞳が底冷えするような輝きを放つ。
 暴君は不敵な笑みを絶やさず宣戦布告ともとれるこの発言を受け流す。
 道了が肩の位置に掲げた腕、指の狭間に収まっていたのは……
 ナイフ。道了はさりげなく腕を下ろすや指に挟んだナイフにはもう一瞥もくれず無造作に床に放り捨てる。
 カチン。
 床で跳ねたナイフが硬質な音をたてる。 
 甲高く澄んだ音たて床に転がったナイフを無関心に一瞥、暴君が口笛を吹く。
 「やるね。自分めがけ飛んできたナイフを素手で捉えるなんざここがいい感じにぶっ壊れてなきゃできねー芸当だ。どうやら恐怖心が麻痺してるらしいな。そんかし動体視力はたいしたものだ。喜べ、ほめてやるよ」
 「耳が腐る」
 冗談めかしこめかみをつつく暴君に芯まで凍りそうに冷ややかな視線を叩きつけ、たった今命を狙われた危機感とも無縁に無感動に言う。
 空気が張り詰める。
 不均衡な沈黙が落ちる。
 蛍光灯が不規則に点滅し払い忘れた蜘蛛の巣のように視界の隅に闇が蟠る。
 「ロンを庇ったのか」
 自然と口が動いた。
 ロンが弾かれたように顔を上げ僕に向き直る。
 暴君を見る。
 僕と挟み廊下の中央で道了と対峙した暴君は相変わらず薄く笑みを浮かべている。
 冗談とも本気ともつかず人心を惑わす不埒で不吉な笑みだ。
 忙しく点滅する蛍光灯が彫り深い目鼻立ちに濃淡にとむ陰影を刻み込み、嬉々として背徳に堕する悪魔的な色香を添える。
 暴君は答えない。
 僕の質問など最初からなかったかのようにあっさりと聞き流し、僕とロンにはもう興味を失ったかのように好戦的な燻りを隻眼の底にちらつかせる。
 「………ロン」
 裸の上半身に鳥肌が立つ。
 決して寒さのせいばかりじゃない、素肌を外気に晒しているからだけじゃない。
 身の内で湧き立つ名伏しがたい衝動を抑え切れず四肢が震える。
 呆けたようにこちらを見つめるロンの視線を痛いほど横顔に意識しつつ口を開く。
 「レイジはまだ死んでない」
 一言一句に事実の重きをおいて言葉を発する。
 ロンが驚愕に目を見開く。
 縋るような祈るような痛切な色がその目に浮かんだ次の瞬間、ロンの表情が安堵に溶けて幼さを増す。
 しゃくりあげたいのを堪えぎゅっと唇を噛み締めるも涙で潤んだ強情な眼差しが心境を代弁する。
 嗚咽を噛み殺すロンの方は見ず暴君と向き合ったまま淡々と続ける。
 「レイジは暴君の中で生きている。生きているからこそ君を庇ったんだ。そう信じろ」

 まだ希望はある。
 レイジは完全に消滅したわけじゃない。
 レイジとロンが会える日はきっと来る。

 再会を信じ無意識に十字架を握り締める。
 僕の体温で金属の表面が人肌にぬくもっている。
 あの日レイジが捨て僕が拾った十字架自身が熱をもち脈打っているような錯覚が襲う。
 この十字架はレイジの一部だ。
 在りし日のレイジが肌身離さず持ち歩き折りにつけ接吻した大事なものだ。
 掌中の十字架にレイジの欠片が宿っているような迷信深い気持ちになり、自然と声も厳かに響く。

 「君とレイジは相棒だ。自分の意志で、または不可抗力で離れ離れになろうともそれは変わらない。互いが互いを必要としている限り君たちは相棒だ、君たちは相棒であることをやめられない。君はレイジと離れていた期間もずっとレイジのことを考えていた、狂気と戦いながら心の中で彼の名を呼んでいた。君は一度たりとも一瞬たりともレイジを忘れなかった、レイジを必要とする自分から逃れられなかった。ならそれは裏切りじゃない、たとえ離れ離れになろうが裏切りとは呼べない」

 暴君がロンを許さず断罪するなら、僕がロンを許す。
 僕にはロンの気持ちがわかる、わかってしまう。
 特別想像力豊かだからでも包容力に富んでいるからでもなく、ロンの選択を他人事とは思えない程に大事なだれかを持っているのだ。
 サムライとどちらを選ぶと聞かれて即答できず、結果としてどちらも選べず失うことになろうとも手放せないものがあるのだ。

 恵を選ばない僕は鍵屋崎直じゃない。
 サムライを選ばない僕は鍵屋崎直じゃない。

 そのどちらもが真実なら甘んじて卑怯者の謗りを受ける。
 恵を大事に思う気持ちがこれまでの僕を作り上げ鍵屋崎直という存在の土台をなすようにロンにとってもまたかけがえのないだれかが存在した、東京プリズンでレイジと出会う以前に心の支えとなっただれかがいた。
 
 なら僕は、ロンを許す。

 僕に人を許す権利があるかはわからない。
 きっとそんなものはない。
 何故なら僕は親殺しで人殺しの最下等の人間だからだ。
 けれども共感は自由でありたい、僕の言葉で多少なりともロンをすくいあげることができるなら……

 深呼吸し前より強く十字架を握りこむ。
 掌に十字架の重みを感じ、葛藤のすえ言葉を紡ぐ。

 「世界中の人間が裏切り者と糾弾しても僕は君の友達だ。一万人の低脳の誤解より一人の天才の理解を欲しろ」
 口にしたそばから気恥ずかしさが手伝い頬が熱くなる。
 赤みがさした頬を悟られぬよう眼鏡の位置を直すふりで手を翳す。
 ロンは呆けたように口を半開きにし傍らに立ち尽くしていたが、瞼を拳で乱暴に拭い、己を卑屈にする罪悪感を吹っ切るように毅然と顔を上げる。
 『………謝謝』
 再び顔を上げた時、その目には真っ直ぐな光がよみがえっていた。
 ようやく本当にロンが戻ってきた。
 「偽善者め。相変わらずきれいごとがお得意だな」 
 「偽善を貫けば善になる」
 口の端を皮肉に吊り上げ嘲弄する暴君に面と向かい宣言する。
 暴君は軽く肩を竦め道了に視線を転じる。
 「で?俺に一発KОされた木偶人形がいまさら何の用だよ」
 あからさまな揶揄にも微塵も表情をかえず、表情を完璧に押し隠す金と銀の双眸の輝きも冷徹に道了が呟く。
 「ロンは渡さない」 
 感情の揺るぎを感じさせぬ抑制された声。 
 「渡す?ははっ、変なこと言うんだなお前!そいつはもう関係ねーよ、煮るなり焼くなりお好きにどうぞだ。お人よしな王様はどうだか知らねーが裏切りものを迎え入れるほど俺の心は広くないんでね。捨て猫はどこへでも連れてけよ。そいつがどうなろうが一切関与しないし興味もない、犯されて突っ込まれてぐちゃぐちゃのどろどろになっても知るもんかっての。それこそ薄汚い裏切り者には似合いの末路だろーが」
 腕を組んで立った暴君が意味ありげな目配せを送ってくる。 
 「別にいいぜ。こっちも新しい奴隷ができたしな。薄汚い野良猫よかよっぽど毛並みと感度のいい血統書付きの奴隷だ、お前がそいつと愉しんでるあいだ俺は新しい奴隷を調教して愉しむことにするよ。前の奴隷は犯りすぎてぶっ壊れちまったからな……今度はクスリ控えめにするか。なあ、ヘロインとコカインどっちがいいか教えてくれよ」 
 唄うような抑揚で水を向けられるも、口を開こうとした僕を遮りロンが一歩を踏み出す。
 「ぶっ壊れたって……何の話だよ?」
 ロンは知らないのだ、ロンに突き放されたショックで覚醒した暴君がサーシャを嬲り者にした挙句に捨てたことを。
 理解不能といった顔で僕と暴君を見比べるロンに真実を明かすのをためらう。
 戸惑うロンと沈痛に押し黙る僕に愉快げに笑いかけ、暴君が饒舌にしゃべりだす。

 「サーシャだよ、今はなき北の皇帝サマだ。俺が不貞寝してるところにタイミング良くやってきたから暇潰しに躾けてやったんだ。傑作だぜ、あいつときたら!ケツにナイフの鞘突っ込まれてぐちゃぐちゃにかきまぜられておっ勃ちやがった、夢うつつでロシア語口走ってシーツ引っかいて兄貴の名前呼んでまるっきり子供返りしてやがったぜ!その様があんまり滑稽で笑えたからクスリを使ってやったんだ、もっとおもしれーもんが見られるんじゃないかって期待してな。予想的中結果オーライ、もとからヤク中のサーシャにゃ効果覿面。たっぷり漬け込んでやったんで今じゃ血管にコカインが流れてる始末、血がさらさらになって感謝してほしいくらいだぜ!」

 大仰に両手を広げ反り返るようにして笑い出す暴君、愚かな廃帝の末路も彼にとっては一流のジョークに過ぎないらしい。
 藁色の髪を奔放に振り乱し隻眼にうっすらと涙さえ浮かべ、相変わらずの笑い上戸ぶりで、否、レイジの時よりも異常性を深め狂気の色を濃くした哄笑を響かせる暴君にロンの顔が急速に青ざめていく。
 「サーシャがぶっ壊れた?なあ鍵屋崎、それ本当か!?」
 「詳しいことはあとで話す、先に医務室へ行こう」
 焦燥に駆られて僕の腕を揺さぶるロンを引き剥がし、半ば強引に医務室へ連れ去ろうとしてー……
 「行かせるか」
 耳裏に吐息がかかる。
 「!?っ、」
 間一髪、腰を屈めた僕の頭上を猛然と蹴りが通り抜けていく。
 異状を察し屈んだ判断が命を救った。
 しかし屈んだ拍子にバランスを崩しロンを巻き添えに壁に激突、そのままあっけなく転倒してしまう。
 咄嗟にロンを庇う。
 ロンを抱き込んだ姿勢でろくに受身もとれず床に叩き付けられ一瞬意識が飛ぶ。
 まずい。
 脳裏で鳴り響く警鐘が正気を叩き起こす。
 痛む体を叱咤し顔を上げた僕の前に、あたりを払う威圧をまとう影が立つ。
 道了。
 「ロンはおいていけ。ロンは俺の物だ」
 「お前の、もんなんかじゃ、ねえっ……俺は、俺のもんだっ……」
 「よく口を利く元気があるな。たっぷり塗りこんでやったのに」
 道了がかすかに笑みらしきものを浮かべる。
 皮肉に口の端を歪め片膝つき、すっとロンの顎に指を添える。
 「房に帰るぞ。ラクにしてやる」
 「お断りだ」 
 「辛いくせに強情を張るな。頬が赤いぞ。息が上がっている。目が物欲しげにぬれている。しまりのない口だ。そんなに俺の物をしゃぶりたいのか」
 「イカくせえ手でさわんな……」
 「お前が出したものの匂いだ」 
 顎に這った指がいやらしくのたうつ。
 指を遠ざけようと激しく首を振るも、蜘蛛が這うような緩慢さで顎に這った指はやがて頬へとのぼり、ロンの顔の上を這いずりだす。
 「レイジと会ってよくわかっただろう、お前の居場所がないことが。お前の居場所は俺の隣しかない。レイジはもうお前を必要としていない、お前などどうなってもいいと思っている。当たり前だ。お前はレイジを切り捨て俺とともに来た、何度も貫かれ喘ぎ声を上げ浅ましく尻を振り股を開いた。レイジに抱かれた回数より俺に抱かれた回数のほうが多い。俺の味を覚えこんだ体は俺なしでは一秒ともたない……」
 道了が身を乗り出す。
 ロンの顔の上を這いずりまわる指が卑猥だ。
 頬を吸い瞼のふちをなぞり一周して顎へと戻った指が、唇のふくらみを辿る。
 「一緒に来い、ロン。可愛がってやる」  
 答えは単純明快だった。
 「-っ……」
 指に犬歯が突き立つ。
 指を食い破られた道了が不思議なものでも見るように膨らみ始めた血の玉を見詰める。
 「思ったとおり、錆びた鉄の味がするぜ」 
 床に突っ伏したロンが擦り傷だらけの顔で不敵に笑う。
 道了の指を噛み千切った唇には一滴血が付着している。 
 道了は焦点の合わない表情で指の噛み傷を見詰めていたが、やがてその視線がロンの顔へとおり、唇がかすかに開く。
 「…………躾が足りないらしいな」
 ロンの顔が恐怖に強張る。
 道了が凍り付いた瞳で腕を振り上げる。
 固い拳が頭上高く振り上げられ振り下ろされー……
 「ロンっ!!」
 咄嗟にロンの頭を抱きこむ。
 ロンと二人して床に伏せた頭上で激突音が爆ぜる。
 ハッとして顔を上げる。 
 道了が突き出した拳が暴君の靴裏を押しとどめる。
 「……何の真似だ?」
 「邪魔だ。俺の通り道を塞ぐなよ」 
 殺意を秘めた視線が交錯、空気が硬化する。
 蛍光灯が不吉に点滅し暗がりが交互に去来する廊下の中央、再び放った蹴りを道了の拳で止められた暴君が獰猛に牙を剥く。
 拳で蹴りの威力を封殺され鋭く舌打ち、後方に跳躍し体勢を立て直す。
 道了もこれにならう。
 二人の間で空気が軋み、撓む。
 目の端で二人の動向を探りながら用心深く上体を起こし這いずるようにして壁際に避難する。
 僕に庇われたロンが何か言いたげに唇を動かすが声を発するまではいかず、轟く鼓動と震える吐息が伝わってくるのみ。
 「ロンに興味がないと言ったのは嘘か?」
 「勘違いすんなよキリング・ドール。にゃあにゃあうるさい捨て猫はどうでもいいが俺様の領土で好き勝手するやつは目障りなんだよ」
 道了の目が剣呑に据わる。
 狂気渦巻く笑みを浮かべた暴君が優雅に腕をさしだしかと思いきやおもむろに中指を突き上げる。   
 藁色の髪が風圧に舞い上がり、ぎらつく輝きを放つ隻眼が晒される。
 己に傅くもの侍るものすべてを薙ぎ倒す威風をまとって立つ暴君が、唯一己に屈服することない男に処刑宣告を下す。
 「裏切り者には断罪を、反逆者には制裁を。それが俺の流儀だ。さあ来いよファッキン・ドール」
 反応は迅速だった。
 挑発の効果は正しく報われた。
 床を蹴り加速した道了が指を折り込み拳を作り、跳躍。
 ブラスナックル代わりの指輪が鈍い光を放ち目を射る。
 あれで殴られたら骨など簡単に砕ける。
 道了が鋭く呼気を吐きストレートを繰り出す。
 虚空を貫通した拳が顔面を穿つよりも早く実体が消失、道了が放った拳は手応えなく残像の顔面を砕く。
 電光石火、床を這うような低姿勢で疾走した暴君が一瞬の早業でナイフを拾い上げ構える。
 大きく振りかぶり投擲。
 道了めがけ真っ直ぐ宙を貫いたナイフが甲高い音たて弾かれる。 
 ナイフを弾き返したのは道了が嵌めた指輪。
 ちょうど刃があたるよう角度を調節し指輪を傾がせたのだが、並大抵の動体視力ではできない芸当だ。
 暴君と假面の死闘を横目に慎重にロンを抱き起こす。
 「暴君が道了を足止めしている隙に逃げるぞ」
 「足止め?」
 僕の腕に縋って上体を持ち上げたロンが呆然とくりかえす。
 「暴君が、足止めしてくれてんのか?俺たちを逃がすために?」
 上擦る息のはざまから声を漏らす。
 僕の腕を掴み何とか立ち上がったロンが信じられないといった顔で振り返る。
 ロンの視線の先で熾烈な戦いを繰り広げる暴君と假面、どちらも僕らがここにいることさえ忘れたように目の前の敵に集中している。
 暴君が笑う。
 拳が頬を掠め燻る熱を感じ、風圧に舞い上がった髪の奥、硝子じみて色素の薄い瞳に高揚感を湧かす。
 道了はあくまで無表情に徹し的確な蹴りと拳を放つ。
 人体の急所を突いた一撃は命中すれば確実に骨をへし折り内臓にダメージを与えるものだが暴君は蹴りと拳の軌道を本能的に読みこれを素早く回避、迎撃に移る。
 「どうしたロン、早く行くぞ!道了が気付かないうちに……」
 「行けねえよ」
 「何?」
 きっぱりとロンが言う。
 耳を疑う。
 呆然とした僕に向き直り、ひどく真剣な表情でもう一度言う。
 「あいつを残して行けねーよ」
 僕の腕を振り払い、萎えた足を叱咤し、なかば壁に寄りかかるようにして一人で立つ。
 深呼吸で弾む鼓動と荒い息遣いを抑え込み、震える膝に手を付き挫けそうな上体を支える。
 汗で濡れそぼつ髪の間から強い決意をのせた眼差しが放たれる。
 ロンは言った。
 薬を使われたせいで著しく体力を消耗し、憔悴しきった顔は脂汗が冷えて酷い有様で、全身が不規則に波打ち、それでも僕の手をはねのけ一人で立ち、どうしても譲れないものを持った人間特有の強情さで。
 「ダチを二度も捨てらんねえ」 
 「…………っ、」
 言葉を失う。
 ロンの強情さに焦燥とも苛立ちともつかぬひりつきを覚える。
 僕の助けを拒みひとりで立ったロンは、服と擦れる感触さえじれったい刺激に昇華するもどかしい快感に苛まれながら、壁に手を付き方向転換する。
 一歩一歩、鉛のように重たい足を引きずり暴君のもとへ向かう。
 「鍵屋崎、お前は優しいからそうじゃねえって言ってくれたけど俺がしたことはやっぱ裏切りだよ」
 苦しい息のはざまから悲痛な声を絞り出す。
 不規則に肩が揺れ、沈む。
 一歩踏み出すごとに服と素肌が擦れ尖った乳首や敏感な内腿に鋭い性感が生じるのか、明らかな欲情の赤みが頬にさす。
 「レイジに許されなくても当然だ。いちばん必要としてる時に突き放したんだから憎まれて当たり前だ」
 足を引きずる音がひどく耳障りだ。
 ロンは向かう、暴君のもとへ。
 歯を食いしばり呻きを殺し、縋るように切実な色を目に宿し、レイジの体を乗っ取った暴君のもとへ。 
 「それでも俺はレイジの相棒だ。憎まれたって、許されなくたって、あいつが好きだ」
 暴君との距離が気の遠くなるような緩慢さで縮まりゆく。
 ロンの視線の先では暴君と假面がぶつかっている。
 互いに互いしか見えず、一撃で致命傷を与えんと凄まじい殺気を放射し戦闘の高揚に身を委ねている。 
 苦痛と快楽の波にともすれば理性をさらわれそうになりながら、下唇を噛む痛みで意識を繋ぎとめ、ロンはひたすら前へ出る。 
 「ここで暴君ごとあいつを見捨てたら、俺はもう相棒じゃいられなくなる。あいつを本当にひとりぼっちにしちまう。ふざけんな、ごめんだそんなの。こちとら一週間も会いたくてたまんねーの我慢したんだ、一週間も経ってようやっと会えたんだ、ようやく手をとれる距離にきたんだ。放してたまるもんか。あいつが駄々こねてひきこもろうが構うもんか、腕引っこ抜ける勢いで暗闇から引っ張り上げてやらあ」
 レイジが消滅したなど信じない。
 レイジが存在しないなど信じない。
 ロンの目が、全身がそう言っている。
 ロンはそう言っている。
 「ひとりぼっちが寂しいのは俺だっておんなじだ。ひとりぼっちでべそかいてたのが自分だけなんて勘違いすんじゃねーよ、ばか」
 ロンが暴君まで三メートルのところに迫る。
 手を伸ばす。
 虚空を掴む。
 もう少しで暴君に……レイジに触れることができる。
 ロンの顔が希望に輝く。
 唇が音もなくレイジの名を紡ぐ。
 先刻踏みにじられ赤く腫れた手が再び伸ばされる。
 何度振り払われ突きのけられようとも諦めないと決心し、擦り傷だらけの手を暴君へと、暴君の奥底のレイジへとさしのべるー……

 『你不在、我很寂寞。辻来吧』
 お前がいないと寂しい。こいよ。

 目覚めの胎動を聞いた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050227185252 | 編集

 目覚めの胎動を聞いた。

 壁に寄って立つロンが精一杯腕をさしのべる。
 虚空にさしのべた腕の先には暴君がいる。
 ロンの存在を念頭から忘却し戦闘の高揚に身を委ねていたが鞭打たれたように呼びかけに即応、唐突に変化が兆す。
 暴君が胸を押さえ、よろめく。
 戦闘が中断される。
 胸を押さえ荒い息を吐く暴君のもとへ血相かえて駆け寄るロンに僕もならう。
 シャツの胸を押さえ深々とうなだれる暴君、その横顔は憔悴の色が濃くダメージが甚大であることを物語る。
 肉体的な、というより精神的なダメージだろう。
 圧倒的な強さを誇り他を寄せつけぬ暴君に目立つ外傷はないが、自我の確立した別人格を封じ込め続ける事でひどく精神力を消耗しているはず。
 結果、暴君の精神力は今にも底を尽き少しでも油断すれば意識が途切れそうな状態だ。
 蒼白の顔色を見るまでもなく体調は最悪と言っていい。

 暴君の言葉は嘘だ。
 レイジは消滅したわけじゃない。

 暴君が極限まで精神力を削られているのは今だ完全にレイジを吸収してないから、意識の深層に閉じ込められた別人格が体の主導権を取り返さんと抵抗しているからだ。
 レイジは死んではない、眠っているだけだ。
 今も暴君の奥底で戦い続けているのだ。
 「だから言ったろう、消化不良を起こすと」
 暴君の奥底で抗い続けるレイジの存在を肌で感じる。
 暴君の表情は伸びた前髪に隠れて読めないが、胸を押さえ荒く不規則な呼吸を繰り返すさまに内因性の苦痛が滲む。
 「っは………く………!」
 激しく胸をかきむしる。
 肩が浅く浮沈する。
 暴君の苦しみようは尋常でなく伏せた顔はびっしょり脂汗にぬれている。
 苦鳴を堪えようと噛み締めた口元がだらしなく弛緩し獣じみた息遣いと呻きが絶えず漏れ、汗で濡れそぼった前髪が表情を隠す。
 「まだだ……まだ足りねえっ……」
 しどけなく乱れた前髪の隙間から苦しみ歪む表情が垣間見える。
 右目の傷痕を引き攣らせ手負いの猛獣じみて追い詰められた光を放つ左目であたりを睥睨、憎憎しげに口の端を吊り上げる。
 「引っ込んでろよ、王様……今更出てきたところでお前の居場所なんかどこにもねえってわかんねーのか?これからは俺の時代だよ」
 憎悪を剥きだすような邪悪な笑みに戦慄が走る。
 暴君の体が勢い良く跳ねる。あるいは痙攣の発作。
 弓なりに仰け反る暴君の体の内側でいかなる変化が起こっているのかは想像するしかないが、醜く引き歪んだ顔は悲痛さを増し、狂気の坩堝となりて異様な輝きを増す隻眼から毒々しい瘴気が噴き出す。
 「しぶてえやつだな、ほんと……さすが『俺』だ、簡単に喰われちゃくれねーってか」
 哄笑が狂笑にかわる。
 脂汗に塗れた蒼白の顔に禍々しいの一語に尽きる凄絶な笑みを刻み、拍動する胸を押さえ、混沌と狂気渦巻く瞳でロンを見やる。
 「そこをどけ」
 「どかねえ」
 視線が衝突する。
 ロンは暴君の行く手に敢然と立ち塞がり、大気すら薙ぎ払い真空の裂け目を出現させる威圧に晒されても一歩も退こうとしない。
 脂染みた黒髪のかかる真剣な瞳、暴君に手を踏みにじられ泣いていた時とは別人のようにふてぶてしくもしたたかな顔つき。
 ロンが一歩を踏み出す。
 暴君の表情がわずかに揺らぎ目の奥に動揺が走る。
 二歩目、三歩目……緩慢に距離が縮まる。
 ロンはもう逃げず、静かな決意を湛えた目でひたと暴君を見据える。
 僕の肩までしかない小さな体躯のどこにこんな度胸を秘めていたのか、一歩ずつ床を踏みしめ暴君に歩み寄るロンから道なきところに道を拓く威圧が放たれる。
 すりへった靴底が床を叩き、残響がこもる。
 「俺の前に立つなよ、汚れたユダの分際で」
 掠れた声で吐き捨てる。
 最前までの暴威がなりをひそめ、もっと物騒なものへと形を変え潜在する。
 警告を発する暴君をよそにロンの歩みは止まらず正面に来る。
 靴音がやむ。
 残響がたゆたう。
 一歩を隔て対峙するロンとレイジの間で空気が撓み張り詰める。
 質量的圧迫さえ感じさせる静寂が鼓膜に染みる。
 僕は傍観者に徹し、距離や歳月よりもっと深刻な見えざる隔たりのある二人の邂逅を凝視する。
 ロンの前に立った暴君が片頬笑む。
 「だんまりで通せんぼか」
 ロンは答えない。
 暴君の皮肉に応じず、ただじっと目を見つめる。
 隻眼の奥で悪意が芽吹く。
 口の端を歪め皮肉な笑みを浮かべ暴君が吐き捨てる。
 「また裏切るつもりか。俺を無視して王様に呼びかけるつもりかよ。いいぜ、呼びかけてみろよ。レイジレイジってしつこく名前を呼んでみな。もっともさっきから何度呼びかけたところで反応ねーってこたそろそろ暗闇に呑まれて消えちまったんじゃねーかな。まあ試すだけならたタダだ、神様に祈りゃあ利くかもしれないぜ。なんたって俺は生まれつきの悪魔だからな、アーメンて十字切って暗闇追っ払ってみな」
 場が緊迫する。
 ロンの沈黙をどうとったか、暴君は喉の奥で卑屈な笑いを泡立て自暴自棄に両手を広げてみせる。
 「さあ、俺に縋り付いて懇願しろ。どうかあいつを返してくださいって、あいつがいなきゃ生きてけねーって涙と鼻水ながして哀れっぽく訴えてみろよ。好きなんだろ?愛してるんだろ?じゃあ俺を殺せよ、俺を殺してあいつを取り戻せよ。あいつを取り返すには俺を殺すっきゃねーってお前もわかってんだろ?頭をガツンやりゃ案外復活するかもしれないぜ、肉体も一緒に死んじまったら傑作だけど」
 癇性な哄笑が爆ぜる。
 両手を広げたまま反り返るようにして笑い出す暴君、音程の狂った笑い声が壁に反響し歪曲する。
 大胆に両手を広げながらの挑発にもロンは表情を崩さず、あらゆる感情を内包する深い目で暴君を見詰め続ける。
 「なんだよその目は」
 唐突に笑いが途絶える。
 暴君の顔に不快感が表出、目つきが険を含み殺気がすさぶ。
 ロンはただ哀しげに痛みを堪えるように暴君を見つめている。
 その目はどこまでも真っ直ぐで、どこまでも一途に心情に即し、どこまでもロンらしい。
 「また犯されたいのか?いじられ足りないのかよ?どけよ淫売、ケツが寂しいならそこの男に慰めてもらえ……」 
 邪険に顎をしゃくり道了を指し示す暴君、ロンから視線が逸れた一瞬の隙にそれが起きる。
 拒む暇もなく、抗う意志すら封じるさりげなさでさしのべられた腕が有無を言わせず暴君を抱き寄せる。
 突然の抱擁、腕から伝わる人肌のぬくもりに暴君が狼狽する。
 思考に空白が生まれ完全に動きを止めた暴君の懐へ飛び込んだ広い背中に腕を回ししっかりと抱きしめる、自分の腕から伝わる熱が暴君の凍り付いた心を溶かしてくれるようにと。
 「わるかった」
 暴力すら恐れず制裁にも怯えず、暴君を抱きとめた腕に力がこもる。
 「ひとりぼっちは、さびしいよな」
 体格でははるかにロンが劣るのに、まるでレイジの方が抱かれているようだ。
 蛹から羽化する蝶のように睫毛が震える。
 右目に一滴たらしたように波紋が生じる。
 暗闇を彷徨う子供のように心許ない表情に一瞬レイジの面影がちらつく。
 精一杯腕を伸ばし暴君を包み込み、鼓動を打つ胸に顔をすりよせ、甘酸っぱい体臭と一緒に思いっきり息を吸い込む。
 「許してくれとは言わない、言えるわけない。だからもう許されなくていい、そばにいられるだけでいい。お前をひとりぼっちにしたくない。暗闇に残したくない。好きなだけ淫売って呼べよ、裏切り者って罵れ。それで気が済むなら上等だ。お前にしたことを考えればそれでもつりがくる」
 淡々と声が流れる。
 懺悔するように首をうなだれ、急激に込み上げてきた激情の捌け口を求めるように暴君のシャツの胸元を掴む。
 「お袋と梅花はいないけど、お前はいる。お前までなくしちまったら、俺にはなんにもない」
 孤独がひきあう。
 哀しみが共鳴する。
 暴君は束の間沈黙を守っていたが不意に指先が震え、ゆっくりと腕が上がる。
 「!ロンっ……」
 危害を加えるつもりだと直感、警告をとばす。
 警戒を促されたロンはしかし僕の声など最初から聞こえなかったように暴君の胸に身を委ね身動ぎせず、僕の視線の先で緩慢に上がった手はしばし置き場に迷うようにロンの肩すれすれのところで止まり、そしてー………  
 暴君の表情が引き裂かれる。
 憎しみと愛に引き裂かれたその表情こそ相反する葛藤に常に苛まれる暴君の本質そのもの。

 そして、固唾を呑んで見守る僕の前で。

 首をへし折ることも頭を砕くこともできた手がそっと後頭部におかれ、あちこち跳ね放題の黒髪をなでつけ始める。

 暴君が戸惑う。

 自身の手の動きが信じられないとばかり驚愕に目を見張り戦慄に打たれる間も手首から先が独立し、世話焼きな手つきでロンの髪をくしゃくしゃかきまわす。
 食堂でふざけるとき、図書室で本を奪い合うとき、房でじゃれあうとき。
 日常さまざまな場面で空気のように習慣となった手慣れた毛繕い。 
 いつもなら子供扱いするなとロンの反発を招くこと請け合いの、かつてレイジが好んだ行為。
 きかん気の強さを表すように無鉄砲に跳ねた寝癖を甲斐甲斐しくなでつけ髪の間に手を通し地肌をさぐり、掌全体に感じる熱を愛おしむように抱き寄せる。
 「…………………な………………」
 暴君が慄然と己の手を見つめる。
 ロンが衝撃に立ち竦む。

 レイジが戻ってくる。

 「標的発見、確保!!」

 足音の大群が雪崩れ込むと同時に先頭から発せられる野太い声が静寂をぶち破る。
 弾かれたように顔を上げ、廊下の奥を振り返る。
 今しも群れをなし猛然とこちらに殺到してくる看守の集団、怒涛を打つという表現が的確な騒々しい足音が事態の急変を告げる。
 凶悪な形相で迫り来る看守陣営に直面し、最優先事項として脳裏に閃いたのは……
 殺人未遂がばれた。
 おそらく書架の奥に隠した斉藤が見つかったのだ。
 頭部に負傷した斉藤を発見し、犯人と特定した僕を捕まえにきたのだ。
 斉藤が僕を伴い図書室に消えたのを目撃した看守がいるのだ、もしくは僕の強制労働免除許可をもらう際に面会した看守が勘付いたのか……
 終わりだ。
 全身から力が抜ける。
 服従と引き換えに暴君に手伝わせた隠蔽工作も全部無駄に終わってしまった。
 逃げるという選択肢もあったが、大人数の看守を相手に逃げおおせる自信がない。
 第一そんなことをしても無意味だ、斉藤が発見された時点で何もかも終わってしまったのだから。 
 絶望で目の前が暮れていく。
 壁に背中を預けそのままずりおちる。
 コンクリートのざらついた質感が背中を擦る。
 終わった、何もかも。
 諦念に達し瞼を閉じる。
 瞼の裏の暗闇に恵が浮上する。
 無邪気な微笑みが次第に薄れ、ついで猛禽の双眸をもつ男が鮮明に像を結ぶ。

 サムライ、すまない。
 僕もまた、君を裏切ってしまった。
 僕はもう、君とともにいられない。

 締め付けられるように胸が痛む。
 手足の先から冷えて感覚が麻痺していく。
 斉藤は安田にすべてを話す、彼が推理し辿り着いた事件の真相を包み隠さず述べるはず。
 恵を守りたい一心で暴挙に走った僕は、僕は……どうなる?
 刑務所の専属医師に明確な殺意をもち暴行を加えたのだ、傷害事件として扱われ独居房に放り込まれるかあるいは………  
 「どちらせによ、これで再審はなくなったな」
 自ら希望の芽を潰したことに対する後悔は微塵もない。
 自嘲の笑みに顔が歪むのがわかる。
 斉藤もまさか自分に危害を加えた犯人を庇うほどお人よしじゃないだろう。
 これで僕の弁護人を自認する斉藤が再審請求を試みる可能性は万に一つもなくなった、恵の身の安全は保障されたわけだ。
 斉藤さえ口を噤めば真相は永遠に闇の中、結果的には僕の思惑通り事が運び恵が非難の矢面に立たされ破滅に至る事態が防げる。

 恵を守りきった。
 たとえそのやり方がどんなに歪んでいて他者の賛同を得がたいものでも、恵を守りきったのは事実だ。

 絶望に折れた心に奇妙な満足感が湧いてくる。
 冷たい壁に背中を預け、ぐったりと天井を仰ぐ。
 もうすぐ看守が駆け付けてくる。
 独居房送りは初体験だが、感覚が一部麻痺しているせいかそれに対する恐怖はほとんど感じない。ただサムライに会えないのだけが心残りだ。
 最後にもう一度彼に会っておきたかった。
 緩慢に唇をなぞり、キスの感触を反芻する。
 あの時あれが最後になるなんて思いもしなかった。
 別れる前、通行人の目をはばかり素早く重ねた唇の感触がじんわり痺れるような熱を伴いよみがえりその熱は理性を蝕みあらゆる雑念を駆逐し渇望にも似た欲情が沸騰、今すぐサムライに会いたい彼に触れたい彼に想いを告げたいという狂おしい衝動が身内を席巻するー……

 「レイジを捕まえろ!」
 何?

 間近に迫った看守が恐ろしい形相で怒鳴り、後続の看守が手にした得物を振り上げ、一斉に暴君を取り押さえにかかる。

 僕じゃ、ない。
 捕縛対象は暴君?

 「おめーら油断するなよ、敵は東京プリズン最強と名高いブラックワーク覇者だ!くれぐれも情けなんかかけるんじゃねーぞ!」
 リーダー格の看守が激をとばし鼓膜がびりびり震える。
 警棒やスタンロッドを手に手に疾走する看守たちの顔はいずれも精力的にぎらつき、今にも零れ落ちんばかりに剥かれた目はぎらぎらぬめるような光を放っている。
 闘牛の大群の如く鼻息を荒くした看守の軍勢が、床を踏み鳴らす足音も猛々しく地響きをたて、いっそ無防備とも言えるだらけきった姿勢で立ち尽くす暴君を襲う。
 「調子乗りすぎて目えつけられたんだよ、お前は!安田副所長サマがこめかみぶちぎれる前に連れてこいとさ!」
 「ロシアの査察団の来てる時にはしゃいだのが仇になったな、独居房ん中で膝抱えて反省しやがれ!」
 「後ろ手に手錠されちゃ無理な相談だろうけどな!」
 「抵抗したら容赦しねえ、無抵抗でも容赦しねえ、いつもいつでもしれっとすましたお前をぶちのめす機会をみすみす逃してたまるもんかっての!」
 憤怒と興奮で満面朱に染めた看守の一人がフルスイングの要領で警棒を振りかぶる。
 風を巻き起こし飛来する警棒にも顔色ひとつかえず狙い済ましてロンを突き飛ばす。
 「!うあっ、」
 横ざまにひっくり返るロンを一顧だにせず戦意の昂ぶりで不穏にざわめく髪のはざまから苛烈な笑みを剥く。

 『Hit and away.』 

 ロンを隠れみのに足を一閃、烈風巻き起こす蹴りを放つ。
 申し分なく長い足をもつ暴君ともとより不恰好な短躯の看守では圧倒的にリーチが違い隙だらけの大振りで空を薙いだ警棒が鳩尾を穿つより早くその根元に凄まじい蹴りが炸裂、看守が手に持つ警棒がささくれた木片と化し砕け散る。
 ささくれた木片が降り注ぐ中、手中から警棒が消失した事実を理解できぬ看守の頭上をひらりと影が舞う。
 壁を蹴り反動をつけ足腰の鍛え抜かれたバネを駆使し、猫科の猛獣にも似たしなやかな身ごなしで驚くべき跳躍を見せた暴君と目が合う。
 闘志を孕んで膨らむ前髪の奥、硝子じみて色素の薄い瞳が酷薄に光る。
 薄い唇が嘲笑の形に歪み、絶世の美形とも評すべき整った顔に悪魔的な狡知がやどる。

 『Good luck.』
 暴君が今ひとたびの別れを告げる。

 「行くなっ、レイジ!」
 床に蹲ったロンが去りゆく背中に精一杯手を伸ばすも願いは叶わず、看守の頭上をあざやかに飛び越えた暴君はそれきり脇道に消える。
 「くそっ、舐めたまねしやがって!」
 「まだそう遠くにゃいってねえ、先回りして捕まえろ!」
 「減棒処分になりたくなきゃ腕の一本二本へし折る覚悟でふんづかまえてこい!国連絡みの査察団がうろついてる時に問題児にちょこまかされちゃ東京プリズンの名誉にかかわる、スキャンダルになる前に両手両足ふんじばって独居房に放り込め!」
 壁と壁の間のわずかな切り込み、人一人通るのがやっとの横幅1メートルもない小道を逃走路に使う発想は盲点だったらしく、目前に迫りながらも獲物を取り逃がした憤懣やるかたなく看守が地団太踏む。
 レイジ一人しか眼中にない看守たちは壁に凭れ座り込んだ僕とロンを無視し、先回りで逃走路を封じるために散開していく。
 「で、お前らなにやってんだこんなとこで。白昼堂々強制労働サボってお楽しみたあいい度胸だな。レイジも交えて4Pか?売春班上がりは相変わらずごさかんなこってうらやましいぜ、今度は俺もまぜてくれよ」
 陣頭指揮をとっていた看守が仲間に指示をだしてから漸く僕らに気付き服の乱れと床に零れた精液からおおよその事情を把握、反吐が出そうに下劣な笑みを湛える。
 ロンが上着の裾をぎゅっと握り下半身の染みを覆う。
 僕は努めて平静を装い、落ち着き払った素振りで服の埃をはたきおとす。
 「レイジとなに話してた?」
 「言いたくない」
 言いたくないからそう言ったまでだが、僕の態度を反抗的ととって看守の目が据わる。
 「吐けよ。ダチを庇うのは結構だが独居房まで付き合う義理ねーだろ」 
 「個人的な問題だ。デリカシーのない人間に知られたら売春班の囚人が性病感染するより早い速度で噂が出回るにきまってる」
 顎につきつけられた警棒をさめきった目で見下ろす。
 さらなる口答えに気分を害した看守が憤激、僕の胸ぐらを掴んで高々と警棒を振り上げる。 
 「消えろ」
 衝撃を予期し目を閉じるも、おそれていた痛みはいつまでたってもやってこない。
 慎重に薄目を開ける。凝然と硬直する看守の視線の先、最前まで暴君がいた場所に取って代わった道了が底冷えする声で命じる。
 「目障りだ。消えろ」
 「てめえ、囚人の分際でだれに口利いてやがる?」
 「いいのか、レイジを逃がしても。今ならまだ間に合う」
 逡巡、のち妥協。
 乱暴に僕の胸ぐらを突き放し、不満を隠そうともせずぺっと唾を吐く。
 所在なげに廊下に座り込むロンと僕、わざわざ身を躱し道を空けて促す道了とを順にねめつけ憤然たる大股で歩きだす。
 すれ違い際わざと道了に肩をぶつける。
 「木偶が」
 道了は白い横顔を晒し黙り込む。
 看守の悪態にも一切反応を示さず非人間的な無表情を保つさまに冷え冷えしたものを感じる。
 かっきりと虚空を見据え瞬きせぬ道了に鼻を鳴らし看守が去っていく。 
 看守の後姿が完全に消えるのを待ち、靴音が絶えた頃にやっとロンが口を開く。
 「………もうちょっと、手が長けりゃよかったのに」
 壁際に座り込んだロンに視線を向ける。
 抱き込んだ膝に伏せた顔に黒髪がかかり表情を遮る。
 ようやくひとつになりかけた心をむりやり引き剥がされた痛みを堪え、掠れた声を絞り出す。
 「俺の手短けえから、背中にまわそうとするとちょっと苦しいんだ。俺の手がもっと長けりゃつかまえられたのに、ずっと放さないでいられたのに」
 ぎゅっと手を握りこむ。
 掴めなかった何かをそこに見て拳を振り上げる。
 床を殴る。
 もう一度、もう一度、もう一度…やり場のない激情に駆られてくりかえし床を殴打、固いものを殴る鈍い音がこだまする。
 これ以上やったらロンの手が傷付いてしまう。
 指に絡みきらめく鎖がささやかな旋律を奏でる。
 壁から身を起こしロンの前に立つ。
 「ロン」
 膝から顔を起こす。
 くしゃくしゃに跳ねた黒髪の隙間から尖りきった目つきが覗く。
 十二回目に振り下ろされようとした拳が虚空で静止、あちこち皮膚が破け出血した拳に指を添えゆるやかにほどいていく。
 間接が強張った指が辛抱強い慰撫で開ききると同時に、小さな掌に十字架を載せる。 
 あの日レイジが捨て僕が拾った十字架。
 「今度は放すな」
 この十字架は僕より彼が持つほうがふさわしい。
 レイジの代わりに十字架を握らせ、呟く。
 ロンの指は僕の導きに従い抵抗なく閉じ、祈りを捧げるように項垂れたまま、手に掴んだ十字架を胸元に押しあてる。
 「もうはなさねーよ」
 道了の手により歪められた十字架を胸に押しあて、誓う。
 吐息で十字架の表面が曇り、ロンの指に沿って滑りおちた鎖がきらめく光を撒いて玲瓏な旋律を奏でる。
 「追いかけっこで俺に勝てると思ってんのか?上等だよ、命がけで見付けてやる」
 道了は黙ってロンを見詰めている。
 その顔はどこまでも平板に感情を封じ込めていたが、なぜかこの時は孤高よりも孤独に近く、冷たい雨に降られ錆びていくに任せる壊れた人形に見えた。


 翌日 斉藤の四肢切断死体が発見された。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050226003858 | 編集

 第一印象はイワンだった。
 
 「私の助手としてプロジェクトに参加することになった斉藤君だ。東大医学部の三年生で免疫学を専攻している」
 人生の大半を研究に捧げ最高学府で教鞭をとり続けた男が、熟成された教養を感じさせる深みある口上を述べる。
 一点の染み汚れない清潔な白衣は切れそうに糊が利き、几帳面な襟の折り返しには今回のプロジェクトに携わるもの全員に配布されたネームプレートが最高責任者の威光を代弁するかの如く誇らしげに輝いている。

 東大医学部生理学科名誉教授・勅使河原隆 ISP最高責任者。

 年は五十代後半。頭髪には白髪がまじり加齢で弛んだ頬と目元に皺が寄っているが、冷徹な頭脳の冴えを実証する深沈たる瞳の輝きはいささかも衰えてない。
 初老の教授が鷹揚な笑みで傍らを振り仰ぐ。
 斉藤の正面、教授の真横に微動だにせず立っていたのは同じく白衣を纏った青年。
 年の頃は二十歳前後、教授と並ぶと親子のようにも見える似通った雰囲気。
 が、教授が社交的な笑みを絶やさず物腰柔らかに話すのに比べ無言の内に人を圧する空気を発している。
 純粋な興味に駆られ冷静な目で青年を観察する。
 卸したての白衣は一点の染み汚れもない清潔なもの、サイズは合っているはずだが運動や労働と縁がない華奢な体躯が錯覚を及ぼすらしくどうにも着られている感が否めない。
 教授と並んでいるからそう見えるのか……東京大学名誉教授の職に君臨する医学会の重鎮と着こなしの洗練度を比べては酷というものだ、二十歳やそこらの若造が生理学の権威にかなうはずもない。

 礼を失しない程度に観察を続ける。

 真新しい白衣を纏った青年は、額におろした前髪の下からお世辞にも友好的とは言いがたい眼差しを向けてくる。
 怜悧な知性と冷徹な理性を映す切れ長の双眸、肉の薄い繊細な鼻梁、酷薄そうな薄い口元と神経質に尖った顎。視力が悪いらしく銀縁眼鏡をかけている。
 表情はないに等しく心中読めないにも関わらず、怒りや蔑みといった負の感情ばかりが剃刀の如く剣呑に光る目は眼鏡を隔てても一切緩和される事なく容赦なく研磨された硬度でもって相手に突き刺さる。
 笑うところが想像できなかった。
 感情を一切覗かせぬ無表情の青年に対峙、白衣の胸元を一瞥する。

 安田 順、それが彼の名前だった。

 「彼は法学部の安田君、今回のプロジェクトに私含む教授陣の推薦と政府の承認を得て特別に参加することになった。聞いて驚きたまえ、彼は入学以来ずっと首席を保持し続けている。一度も敗れた事がない前代未聞の新記録、東大設立以来の快挙と教授陣が色めきだつのも無理はない。君にとっては煩わしいかもしれないがね」
 最後の言葉は安田に向け冗談めかして苦笑する。
 親しみと皮肉を絶妙な配分で調合した微笑を浮かべる教授に、安田は生真面目に応じる。
 「僕はただ与えられた能力を発揮するだけです。周囲の雑音に惑わされ道を誤るような失態は犯しませんのでご安心を」
 東大を代表する教授陣の絶賛の声を「雑音」の一言でそっけなく片付け、冷ややかに取り澄まして前に向き直る。
 慇懃無礼の事例として載せたいような鼻もちならない態度。
 冗談を解する柔軟性がさらさらないといった事が今の一件で証明された。
 苦味の勝った微笑を浮かべた教授がとりなすように安田の肩に手をおき斉藤に目配せを送る。
 目配せの意を正しく読み取り、すかさず前に出る。
 一歩二歩と距離が縮まる。
 急接近する斉藤に対し不審と警戒の入り混じった嫌悪感を露骨に表明する安田、眼鏡越しの視線が冷たさと硬度を増す。
 硬質な靴音が透徹した反響をもって響く。
 白い床に靴の踵があたり軽快な音律を生む。
 とげとげしく張り詰めた空気をなんとか和らげようと、その優秀さを認められ助手として引き抜かれた学生二人を教授が熱っぽく激励する。
 「君らの働きには教授陣も期待している。君たち二人は当大学が誇る秀才だ、在籍中に発表した論文もとても二十歳前後の若者とは思えぬ完成度と各地で賞賛の声が上がっている。安田君は法学部に所属しているが他の学部の講義にも顔を出すほど勉強熱心で、趣味で書いた論文の優秀さが認められ今年に入ってからネイチャーとその姉妹誌に三回取り上げられた。ネイチャー、ネイチャーバイオテクノロジー、ネイチャーメデデシン……大御所サイエンスからも執筆依頼が来ている、世界中の学者が彼の動向に注目しているのだ」
 互いに今日が初対面の学生二人が不均衡な沈黙を守り対峙する。
 三歩空けて停止した斉藤と所定の位置から動かぬ安田の視線が衝突する。
 安田が胡乱な眼差しを向けてくる。
 安田の功績を我が事のように誇らしげに自己投影の優越感に酔いしれ饒舌に捲くし立てる教授の傍ら、行動の予測が成り立たない初対面の人間に適切な距離で向き合った二人の間にストイックな沈黙が交流する。
 教授が緊張の面持ちで黙り込む。
 安田の気難しさを知っているのか、二人を見比べる顔に憂慮がにじむ。
 斉藤は三歩離れた地点からじっくり安田と向き合う。
 額におろした髪は一度も染めた事がない生粋の黒、銀縁眼鏡の奥から覗く目には傲慢な驕りが透けている。周囲に対し無関心で冷淡、徹底して他者との交わりを避ける傾向にある孤高のエリート。
 「斉藤文貴です。教授の助手として今回の実験に参加が許可されました。足を引っ張らないよう頑張るのでよろしく」
 「そう願いたいものだな」
 嘲りも露に安田が吐き捨て、教授が「安田君」と注意を飛ばす。
 非友好的な安田の態度にもめげず、親密に歩み寄った斉藤がすかさず手をさしだす。
 握手を求める斉藤に返されたのは胡乱げな視線。安田は文明錬度が低い蛮族の風習でも目撃したかのようにゆっくりと一回瞬きし斉藤の顔を見、改めて掌を凝視。
 その顔には明らかな戸惑いと警戒が揺れている。
 斉藤はにこやかに畳み掛ける。
 「お噂はかねがね。お会いできて光栄です」
 さらに数秒がすぎる。
 安田はさしだされた手を無視し斉藤を見つめ、表情ひとつ変えず辛辣な台詞を放つ。
 「ある人間を判断するには言葉によるよりむしろ行動から判断したほうがいい。行動はよくないが言葉が素晴らしい人間が多くいるから」
 斉藤が面食らう。斉藤が眉をひそめる。
 怪訝な顔の二人を切れ長の目で素早く一瞥、眼鏡のブリッジに指を添え押し上げる。
 「ローマ帝国第4代皇帝クラウディウスの格言だ。彼の人を見る目は確かだったようだ、でなければ治世者も為政者どまりだ」
 いかにも格言の主を知っていて当然とばかりのそっけない口調で補足し、直した眼鏡の奥で倦厭の色も露に目を細める。

 「君の場合発言だけでなく行動も軽率だ、なれなれしくて実に不愉快だ。初対面の人間になれなれしくされるのは僕の最も嫌うところだ。行動は知性の鏡だ。君は初対面にもかかわらず弛緩した笑みを浮かべ押し付けがましく歩み寄った、挨拶の際は五歩の距離を空けるのが最低限の礼儀だというのにそれを無視した。実に無思慮な愚行だ。のみならずぬけぬけと握手などとデリカシーの欠如も甚だしい、相手が潔癖症の場合を考慮せず形式通りの振る舞いを押し通そうとするのは自分の頭で考える訓練を受けてこず他人に思想を依存する愚か者のすることだ。
 握手の概念は既に形骸化して久しく強迫観念に縛られた蛮習と化している。
 だいたい体の皮膚の一部を触れ合わせるなど気色悪い行為だれが積極的に望む?汗や垢などの老廃物が絶えず毛穴から分泌されているのに平気で手を握る神経を疑う、最前までなにを触っていたかわからない手を握るなんてぞっとする。君はここに来る前トイレの個室でマスターベーションに耽ったかもしれない、解剖実習で腑分けされた臓器にふれたかもしれない、不特定多数の指紋がべたべた残る手すりを何ら抵抗なく掴んだかもしれない。ありとあらゆる感染の可能性が考えられる現状で握手など冗談じゃない、セックスを公開するに等しい恥ずべき愚行と知れ」

 沸々と込み上げる激情を理性の働きで封じ込めた安田が一方的に言い切る。
 教授が呆気にとられる。理性が支配する完璧な無表情を保ち糾弾を終えた安田がブリッジに触れる。
 安田が弁舌を振るうあいだ傍観に回った斉藤は、しばし思案顔でおのれの手を見詰め口の中で呟く。
 「………初対面じゃないんだけどな」
 独白。
 その声はあまりに小さく安田にも聞こえない。
 気の毒にも険悪な二人に挟まれた形となった教授が狼狽する。
 「失礼じゃないか安田くん、これから一緒にやっていく仲間に……謝りたまえ」
 「謝意のない謝罪は不誠実です」
 安田の失言をフォローしようにも本人に反省する気が全くないため効果がない。
 悪びれた所がない安田の態度に教授も閉口する。
 初っ端からこれではと成り行きを案じる憂い顔の教授をよそに毒舌を浴びせ掛けられた斉藤はといえば、憤激に駆り立てられることも屈辱に頬を染めることもなく、どことなく楽しげに微笑んでいる。
 「ひとつ質問していいかい」
 「なんだ」
 「神様はいると思う?」
 斉藤の質問が余程意外だったらしく教授が驚く。
 安田も訝しげな顔をする。
 この場に全く関係ない、前後の脈絡なく唐突な感の否めない質問を放った斉藤は至って真剣だ。
 口調こそあっけらかんとしたものだが目にはどこまでも率直に物事の本質を捉えようとする探究の光がある。
 照明に漂白された通路を冷え冷えした沈黙が覆う。
 くだらないと一蹴されるかと思いきや予想に反し安田は検討しだす。
 考えるの時の癖だろうか、細く長い指で顎先を摘む。
 安田の癖をひとつ発見し自らが招いた状況を忘れ得意になる。
 質問の意図を読む打算と先鋭な知的好奇心が綯い交ぜとなった表情で思案すること三秒、安田が毅然と顔を上げる。
 「百歩譲って神の存在を認めても、神の創った世界は認められないな」
 絶大な自信と高潔な知性に支えられた断言。
 安田は挑むように斉藤を見据えはっきり言い切った。
 神への反逆ともとれる発言に、しかし斉藤はますますもって相好を崩す。
 人を見る目が間違ってなかったと確信した人間特有の満足の色が双眸の奥に閃き、瞬き一回で消える。
 青白い効果の照明が壁と床の白さを際立たせる。
 白衣の映える青年が不審げにこちらを窺う。
 彼に対する第一印象が間違ってないと確信に至り、陶然と吐息をつく。
 「やっぱりね」
 神の創った世界を認めないからこそ、世界に属する人間と親しめないのだ。
 彼はイワンだった。
 どこまでも、斉藤が思ったとおりに。



 自分は異性愛者だと思っていた。
 世界には様々な肌色の人種がいる。
 性的嗜好も同様で、世界人口の大半を占めるのが異性を恋愛と性欲の対象とするヘテロセクシャルであっても一定の割合を同性愛者が閉める。
 否、そもそも異性愛者が人口の大半を占めるという認識自体が先入観でない保証はどこにある?
 多数派が少数派を差別弾圧するのは世の習いだが、過去の研究では同性愛者の割合は五十人に一人と発表された。
 五十人に一人異分子が存在するというこのデータを単純に信用するなら、ただ通りすがっただけの人間の中にもかなりの割合で同性愛者が含まれることになる。
 階段教室でたまたま隣に座った人間、キャンパスですれ違った時おとしたレポートをわざわざ拾ってくれた青年、女性を口説く時は必ず斉藤を誘う友人。
 もし研究データが事実なら日常なにげなく接していた彼らの中に同性愛者が含まれる可能性は大いにあり得るが、斉藤が見た限り彼らの中に同性愛の性向をもったものは皆無で統計の信憑性は怪しまれる。
 五十人に一人の割合が事実に即しているのか誇張が含まれているのか判断し難いが、フロイトを祖とする心理学の功罪を知るものとしては懐疑的にならざる得ない。

 東大総合図書館は西欧の古城じみた伝統を感じさせる重厚な石壁の外観が威容を誇る知識の殿堂である。
 蔵書数109万冊の膨大な質量を誇示する館内は四階に渡り、各階を繋ぐ階段すべてに幅広の赤絨毯が敷かれている。
 外観が与えるイメージに忠実に即し随所の柱に美しい彫刻が見受けられ荘厳な雰囲気を醸す。関東大震災で一度崩壊し再建されたこの図書館は、窓が少ない前時代的な石造りなせいか昼でも薄暗く採光を意識してるとはお世辞にも言いがたい。

 しかしこの暗さと静寂を好む人種も少なからず生息する。
 斉藤もまた、俗世の喧騒と隔絶された図書館の静寂を快く思う人種だ。

 現在、斉藤は三階閲覧室にいる。
 張り出し窓に面した机の片隅にひとり腰掛け、窓から射し込む柔和な光に横顔を照らしレポート執筆の資料を引いているところだ。
 周囲に人けはない。
 斉藤を除き僅かに五・六人、それもかなりの距離を保ちそれぞれ書架の間の通路を散策し資料を探したり離れた机で本を読んだりしている。
 東大生とはいえ頻繁に図書館を訪れる者は少ない。
 そもそも図書館と賑わいは矛盾する。
 レポート執筆に必要な文献を狩りに来る学生もたまに見受けるが教授・助教授以下院生の姿のほうが遥かに目に付く。昨今の学生は身近に図書館があってもインターネットで資料収集を済ませてしまうのだ。少数派の学生は肩身の狭いを思いをしている。
 斉藤は知り合いと滅多に顔を合わせることないこの場所が気に入っていた。
 ただ当たり前のようにそこに在り、長い歴史による不動の地位を占める静寂に居心地よさを感じていた。
 ここでは静寂が最上位だ。
 人間が静寂に配慮し、静寂が空間に貢献する完璧な共存の図。数学のように美しい論理の帰結。互いを尊重し調和を築く理想的な空間。
 窓の手前には黒檀の長机が等間隔に配置され、シャンデリアを模した間接照明と窓から降り注ぐ柔らかな陽光とが縒り合い艶を消した表面を照らす。
 整然と片付いた机の片隅、斉藤の半径50センチ内だけが雑然と散らかっている。両横には分厚い本が何冊も積み上げられ今にも崩れそうに微妙な均衡を維持する。今この本が崩れたら窒息死は確実だな、とキーを叩く手は止めず自嘲する。

 大窓から射し込む昼下がりの陽光がドイツ人の祖父から受け継いだ鳶色の髪を梳る。
 甘く端正な顔だちもまた祖父の血の濃さを証明する。
 気のせいか肌の色素も日本人と比べ薄く白みがかっている。
 鳶色の髪と虹彩は生まれつきで何ら手を加えてない。
 どうやら祖父の血は父より孫の自分の上に顕著に表出したようだ。
 白人の血が混ざっていると明らかな外見的特徴に劣等感を抱いた経験は殆どなくその点
恵まれていると思う。
 「三代遡って日本人でなければ公的な国民と認めない」という法律が制定される以前に日本に帰化した祖父はその対象から除外され、子孫たる斉藤も差別や迫害を受けることなく安穏と暮らしてこれた。

 祖父の英断に感謝すると同時に、その幸運を手放しで喜べぬ負い目がある。

 「帰化のタイミングが一年遅れていたら、今頃ここにいなかった」
 運命の悪戯、偶然の皮肉。祖父の帰化があと一年遅れていたら斉藤もまた国家の庇護を受けられず国民として扱われなかった。
 スラムの子供の中には初等教育すら受けられず犯罪に手を染める者がいる、暴力と貧困の中最低限の保障すら受けられず身を滅ぼすものがいる。
 スラムの現状をどうしても他人事とは思えない、関係ないと割り切れない。
 自分も一歩間違えばあちら側にいた、あちら側の人間なのだ。
 自分が今ここにいるのはたまたま幸運だったから、どうしてもその思いが拭えない。

 その時はさして重要とも思えぬささいな選択が運命を分かつ。
 自分がこちら側にいて彼らがあちら側にいる、そんな不条理が果たして神の居る世界に許されるのだろうか?

 斉藤は生まれた時から何の疑問もなくこちら側で充足を享受し、空腹は知っていても飢えは知らず、大した努力も要さず生きてきた。
 彼らはどれほど努力した所で貧困のどん底から這い上がれず、みずからを日本人と自負する単なる人々の蔑視に晒され社会の最底辺で這いずり回る。
 差別、迫害、偏見。
 近年凄まじい勢いで外国人が流入し混血児が増加の一途を辿る中、純粋な日本人は彼らのおかれた悲惨な境遇を自分と無関係と考えるか日本の治安が悪化した原因は彼らにあると毛嫌いしており、外国人狩り、または彼ら称するところの雑種狩り……日本生まれの二世三世の混血児に集団暴行を加え死に至らしめる事件が近年多発している。
 上を見るよりも人を貶めて自分より弱い人間がいると思ったほうが簡単だ。
 そうやって常に他人を貶め自分の地位を底上げし卑小な優越感を持続させないと存在の不安に耐えられぬ惰弱な人々には、軽蔑を通り越し哀れみすら催す。
 一方、自分もまた彼らの同類であると顧みて加害者よりなお卑劣な傍観者の罪の意識に苦しむ悪循環だ。
 友人にも打ち明けられぬ鬱屈を抱え込み、懊悩の翳りが射す顔をゆるく振る。
 「………駄目だな、スランプなせいかどうしてもネガティブな方向に思考が流れてしまう」
 斉藤はひとり図書館に来たことを後悔し始めていた。
 わざわざ友人らの誘いを断りレポートを書き上げにきたが先刻から作業がはかどらず疲労ばかりが募る。
 レポートに行き詰ると思考がネガティブに傾くのが自分の悪い癖だ。 
 「よし」
 おもいきり伸びをし、関節をほぐして椅子から腰を上げる。
 長時間座っていたせいで尻が痛い。
 文書を保存してから電源を切りノートパソコンの蓋を閉じる。
 大窓から降り注ぐ日差しが柔らかに流れる鳶色の髪を透かす。
 机上に手をつき広壮な天井を仰ぐ。
 深呼吸、瞑想。
 おそらくは堆積した知性と歴史と埃の匂いだろう懐かしい匂いを鼻腔に吸い込む。
 「一時休憩」
 最前まで座っていた椅子はそのままに机の群れに背を向け、書架の間の通路を歩き出す。
 気分転換に散策を始めた斉藤は、興味深げな目で断崖の如く屹立した書架を見上げ、ひとつひとつ丁寧に本の背表紙を辿っていく。
 レポートに煮詰まると斉藤は決まってこれをする。
 整然と並んだ書架の間を目的もなく練り歩き、ちらりと背表紙に目をやっては食指をそそられた本を気まぐれに抜き取り、適当なページを開いてぱらぱらと飛ばし見ていく。
 傍目には退屈を持て余しているようだが本人は至って充実しており、本に触れるごとにささくれた心が慰撫されていくのがわかる。

 以前、君にとって読書はなにかと問われた事がある。
 斉藤は答えた。
 「読書は棘抜きです」

 質問者の顔も前後の状況も忘れたが、その答えだけは今でも鮮明に覚えている。
 上手い事を言ったものだと当時の自分に感心する。 
 読書は棘抜きだ。心に刺さった棘をひとつひとつ抜く行為だ。
 本を読むという行為は一種の治療を意味する。
 本に触れているだけで心が落ち着く。
 黴臭い匂いが好ましい、かさついた紙の感触が楽しい、ページの羽ばたきに心が安らぐ。
 胸の奥で萌芽した怒りが沈静化していく。
 やり場のない鬱屈が浄化される。
 ピンセットで指の薄皮に刺さった棘を抜くような慎重さでもって一冊ずつ背表紙に触れていく。
 人さし指を背表紙に滑らせ感触を楽しむ。
 陶然とした表情で端から背表紙を追い、口には出さずタイトルを読み、気まぐれに一冊を抜き取りはぱらぱらとページをめくる。
 友人たちには決して見せない素顔を、斜角に切り込んだ光が淡く照らす。
 合コンが開かれるたび女性陣の気を引くため引っ張っていかれる斉藤とは別人のように物憂げで静かな表情。
 やっかみ半分に斉藤を「口説き要員」と呼ぶ友人が見たらさぞかし戸惑うだろうが、己の全存在をもって本と対話する斉藤の脳裏に彼の居場所はない。
 本と自分だけが世界に存在する至福のひととき、書きかけのレポートも友人らも彼女も忘れ去って本にのめりこむ斉藤を昼下がりの陽射しが暖かく包む。

 「どうしてだめなんですか?」
 突然、物音がする。

 静寂を破った物音に即応、顔を上げる。
 音源は斉藤がいる場所から本棚を隔てた向かいだ。
 精一杯抑えてはいるが、声には強迫的ともいえる切実さが滲んでいた。
 女性の声だ。それもまだ若い。
 ともすれば激情に流され上擦る声を精一杯自制しようとしているが、その非難の響きまでは隠し切れない。
 ヒステリックに詰りたいのを場所柄を考え必死に堪えているかのような声色に好奇心が刺激され、手にした本を戻し足音をたてぬよう歩き出す。

 駄目?
 なにがだめなんだ、責められているのはだれだ?

 声の主は学生らしいが、敬語を使っていることから察するに相手は教授だろうか。
 レポートのだめだしを食らったお仲間かもしれない。
 さして深刻に考えず軽い気持ちで本棚を迂回する。
 採点の辛い教授につっかかる女子学生といった場面を想像し書架から顔を覗かせた斉藤は、視線の先の光景に虚を衝かれる。
 片方は女子学生だった。知的な美人だ。
 彼女を一目見るなり斉藤は「学生が教授に泣き落としにかかる図」を撤回した。
 彼女ならば泣き落としなど卑劣な技を使わずとも、言葉の駆け引きだけで相手を懐柔してしまうはず。生来の美貌を最大限引き立てる知性の輝き、受けた教育の高さを感じさせる凛とした姿勢。
 状況が緊迫してさえなければ、高い所にある本を取ってやる大義名分でお近付きになれたかもしれない。

 問題はその相手だ。

 小刻みに肩を震わす女性の正面、書架を背にして立っているのは眼鏡をかけた無表情な青年。
 敬語を使われてるから学年は上なのだろうが、恥辱に頬を染め俯く女性を見下ろす眼差しはどこまでも冷ややかだ。
 「先輩、こないだ言いましたよね。今付き合ってる人はいないって。なら少しくらい考えてくれてもいいじゃないですか」
 その言葉でおおよその事情を悟る、よくある男女の愁嘆場だ。
 品行方正が規則の図書館で口論を始めるとは非常識だが、よほど切羽詰った事情があるのだろうとタイプの異性には点が甘い斉藤は解釈する。
 女性は下腹部で手を組み俯いていたが毅然と顔を上げ、挑むような眼差しで男を直視する。
 「ずっと先輩が好きでした。一目ぼれでした。ちょうどここです、この棚です」
 何かを思い出すように感傷的な眼差しを虚空に投げる。
 斜め上方に視線を逸らした女性を男は黙って見詰める。
 眼鏡の奥の双眸にはいかなる感興も湧かず、徹底して表情を欠いた顔は端正でこそあるが整った造作が逆に近寄りがたさを与える。
 女がすっと息を吸い込む。
 「大学に入って三ヶ月目です。レポートの資料をさがしにここに来て、行ったりきたりさんざん探しても見付からなくて……締め切りの期限は短いし、どうしても資料が必要なのにどうしようって困ってたんです。今時紙媒体の資料に頼るなんて馬鹿みたいって友達には笑われたけど、私、紙の方が好きなんです。ちゃんと本の形になってるもののほうが安心できるんです。変ですか?変ですよね」
 問わず語りに続ける。
 質問に沈黙で報いられるのをおそれるあまり自分の問いに自分で答え、ますますもってみじめさを噛み締める。
 形良い唇をきゅっと結ぶ。
 「どうしても落とせない講義だからすごく困って。書架に凭れて途方にくれてる私に声をかけてくれたのが先輩でした。それまで自分のほかに人が居るのは気付いてました。私が行ったりきたりするのを見向きもせず本を読んでましたよね。その時はむっとしました。手伝ってくれなんて言えないけど、人が必死に歩き回ってる間中本から顔も上げないなんて……勝手な言い分だけど、他人に八つ当たりでもしないとやってられない心境だったんです。先輩はつかつかこっちにやってくるなり『タイトルはなんだ』と聞きました。前置き抜きです。びっくりしました。鸚鵡返しにタイトルを言ったら、先輩はつかつか奥の棚に歩いていって……私が探してた本をとって戻ってきました。今度こそ本当にびっくりしました、その棚は何度も探したのに……」
 斉藤は知らず女性の語りに引き込まれていた。
 興奮に浮かされた女性は普段の落ち着きをすっかりなくし、ところどころつかえながら、彼女なりの一生懸命さでもって当時の状況を鮮明に語り起こそうと努める。
 髪に隠れた頬が紅潮しているのが斉藤の位置からでもわかる。
 下腹部で手を組みうなだれるさまは叱責を受ける子供のよう。
 軽く息を吸い込みながら話し続ける女性を男は無言で眺める。
 「先輩は本を渡すとサッと行ってしまって、あれからずっと先輩の事が忘れられませんでした」
 下腹部で組んだ手がうっすら汗をかく。力を入れ握り締めてるせいで間接が白く強張る。
 「先輩の噂を聞きました、東大始まって以来の天才だって。在学中に書いた論文が高く評価されてるって。教授は皆先輩を褒めてます。知ってます?先輩、女限定で学生に人気あるんですよ。私の友達にもファンが多いです。告白して振られたって人が私の知っているだけで六人います。でも不思議だったんです、なんで先輩みたいに格好良くて頭の良い人がキャンパス歩く時独りきりなのかなって……先輩がだれかと一緒にキャンパス歩いてるの見た事ないです。あ、勅使河原教授と歩いてたところは何度か見たけど………」
 話が脱線している事に気付いたか、含羞に頬を染め口元を覆う。
 「……彼女がいないなら、私が彼女になりたいと思ったんです。お願いします、付き合ってください。先輩にふさわしい女性になりますから」
 「勘違いだ」
 「え?」
 女性が戸惑う。
 当惑顔の女性の対面、それまで腕を組み書架に凭れていた青年がゆったりと身を起こす。
 腕組みを解き、あらん限りの軽蔑をこめ吐き捨てる。
 「僕の予想は間違っていた。君は僕の予想を遥かに上回る鈍感な生き物だな、脳に血が通っているのか切り開いて見てみたい」
 突然の暴言を脳が処理できず固まる。
 ショックに目を見開いた表情がみるみる悲痛に青ざめていく。
 多少の皮肉は覚悟していたが、一大決心で告白した男に「脳を切り開きたい」と言われるなどよもや想像しなかったらしい。
 ショックに青ざめる女性に淡々と追い討ちをかける。
 「あの日の事は一刻も早く消し去りたい不快な体験として記憶に残っている。僕は静かに本を読んでいたのに背後で君がうろうろするものだから邪魔で堪らなかった、全くいい迷惑だ。読書中に視界の端をうろつかれるのは目障りだ、忙しく行き来する靴音もとてつもなく耳障りだった。僕は一秒でも早く君にどこかへ消えて欲しかった、目的を果たし蒸発してほしかった。だから聞いたんだ、本のタイトルを」

 そこで初めて青年の目に感情らしきものが過ぎる。

 「あきれた。茶番もいいところだ。本のタイトルを聞いてすぐ直感した、君が発見できなかったその理由を。つまるところ君は物事の表層しか見ぬ浅い観察眼の持ち主で物事を上辺だけで判断する愚かな人間、自分の足でさがし手でとり目で確認する過程をなまけて怠った報いを受けたんだ。いいか、あの時君が探していたのはヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの『純粋理性批判の再批判』 。しかしヘルダーの棚に問題の本は見当たらなかった。
 さて、哲学者に同じファーストネームが多いのは有名だ。
 フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービとフリードリヒ・シュレーゲル、カール・レオンハルト・ラインホルトとカール・アドルフ・エッシェンマイヤー とカール・クリスティアン・クラウゼ……数えあげればきりがない、当時の人名はレパートリーが少なかったようだな。
 君が探し求めていた『純粋理性批判の再批判』だが、実はヘルダーとおなじドイツ観念論の哲学者にヨハン・ゴットリープ・フィヒテがいる。ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーとヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、なんとミドルネームの半ばまで同じだ。しかも二人の著作は同じドイツ観念論の哲学書を集めた棚の極めて近しい場所に収められている。もうわかっただろう本が見つからなかったわけが、どこかの低脳がヨハン違いの場所に本を返したわけだ。その際棚が満杯だったので本の上に投げ置いたのが勢い余って落下してしまったらしい。ヘルダーとフィヒテを間違えるなど東大生とは思えぬ初歩的なミスだがおそらく裏金を使って不正入学したのだろう、少子化による定員割れの弊害だ。最高学府も地に堕ちたものだな」
 「でも私ちゃんとさがして、」
 「思い込みだ。事実君は前列の本をどかす面倒を避け確認を怠ったではないか。本の移動は女性には重労働という言い訳は聞かない。いかに物事の表層を浅くつつき仮初の成果に酔っているか自省しろ。それとも哀れっぽく書架に凭れて項垂れていえば他人が同情して助けてくれると思ったか、手間を惜しんで善意の他者に面倒を押し付ける気だったのか。そうやって他者に依存し成果だけ掠め取るのが君の流儀か」
 言いすぎだ。
 制止せんと斉藤が書棚から飛び出しかけるのと、女性が丁寧に頭を下げるのは同時。
 「…………失礼しました。貴重なお時間を邪魔してすいません、私の事はお気になさらずどうぞ続きを」
 肩を大きく上下させ呼吸を整え、恥辱と憤怒の入り混じった激情を無表情の虚勢で抑え込み、靴音高く未練を断ち切るように踵を返す。  
 拒絶の意志も露に男に背中を向け、矛盾する想いに引き裂かれた台詞を吐く。
 「もうこないので、安心してください」
 語尾が屈辱に震える。 
 返されたのはたった一言。
 「そうしてくれると助かる」
 鞭打たれたように女の肩がびくんと跳ね、背中が強張る。
 書架に凭れた男は醒めた目で女の行動を眺める。
 冷徹無慈悲な観察者の目。
 女性に暴言を吐いたところでしくしく痛むような惰弱な良心は持ち合わせてないらしい。
 肩を落とし巨大な書架の狭間に立ち尽くす女はとてもに小さく頼りなく見える。
 女はしばらく通路の真ん中に佇んでいたが、何ら感傷を伴わぬ冷ややかな視線に晒されるのにか細く張り詰めた神経が耐えかね小走りに駆け出す。
 靴音が性急に床を叩く。
 靴音が大きくなり、女がこちらに近付いてくる。
 「!」
 書架の陰に頭を引っ込めようとしたが、遅い。
 書架の陰に隠れた斉藤に飛び出してきた女が気付く。
 一瞬目が合う。
 肩の辺りまである髪が後方に吹き流れ横顔が暴かれる。
 目尻が仄赤く上気し瞳が潤んでいる。
 女が物凄い目で斉藤を睨む。
 手酷く傷付けられ自分の価値を信じられなくなった女に胸が痛む。
 しかも失恋のショック冷め遣らぬうちに書架の陰からこっそりこちらを覗いていた無神経な男によりにもよって泣き顔を見られてしまったのだ。
 彼女を支えるプライドが折れ砕け、耐え難い恥辱と憤怒がその美しい顔を染めてもしかたあるまい。
 涙の膜が張った目で睨まれ、柄にもなくうろたえる。
 斉藤が声をかけるより早く女はさらに歩調を速め走り去ってしまった。
 一瞬絡んだ視線がむりやり引き剥がされ顔を伏せた女が通路を後にする。

 靴音の残響が殷々と内耳に浸透する。

 巨大な書架が左右に聳え立つ峡谷にひとり取り残された斉藤は、己の失態を呪い舌打ちする。
 「………いやなもの見ちゃったな」
 盗み見を反省したところで遅い。
 去り際の泣き顔が網膜に焼き付く。
 斉藤は溜め息を吐き引き返そうとして一本挟んで物音の絶えた通路が気になり、良心が咎めながらも好奇心に負けて顔を出す。
 彼はまだあそこにいるのか?
 手ひどく振っておきながらぐずぐず居残って何をしてるんだ、追いかけなくていいのか?
 慰めの言葉ひとつくらいかけていいのに……あまりに冷淡な青年に反発を覚える。
 女性には常に優しく紳士的に接するのが信条の斉藤には最前の青年の言動は到底考えられないものだ。
 向こうの通路は窓の延長線上から逸れているため薄暗く、青年の顔がよく見えなかった。
 女が感情的に捲くし立てるあいだも尊大に腕組していたのは覚えているが、あと印象に残っているのは眼鏡くらいだ。
 顔の動きは殆どなく、表情は欠落していた。
 もしくは眼鏡が邪魔して表情が読めなかったのか……
 ふいに青年の顔を見たい欲求が高まり、気配を消して書架から顔を出す。

 男は、いた。
 最前と同じ場所にいた。女を見送った場所から一歩たりとも動いてない。
 唯一の違いといえば体の向きを変え本棚を正面にしていた点だ。
 斉藤は存在を悟られぬよう注意し、良識に反する胸の動悸と後ろめたい興奮を覚えながら青年の横顔に凝視を注ぐ。
 端正な顔だ。
 理知的な切れ長の目は涼しげで肉の薄い繊細な鼻梁はバランスが取れている。
 薄い唇と華奢に尖った顎が神経質な印象を与える。
 痩せ型。華奢と言っていい線の細い体躯。
 中肉中背の斉藤と並べばだいぶ弱弱しく見える。

 サナトリウムが似合いそうだな。

 硝子じみて硬質な横顔が明治時代の結核病患者の如き薄命な雰囲気を与える。
 彼はごく自然に静謐に溶け込んでいた。
 甲高い声で叫ぶ女が消え去り、漸く戻ってきた静寂に陶然と身を浸している。
 心身ともにリラックスしているのが先刻と一転弛緩した空気から伝わってくる。

 その横顔から目を逸らせない。
 端正な横顔が斉藤を惹き付けてやまない。

 何故かはわからない。
 顔だちは端正だが美形と評する程ではない、どちらかといえば地味な部類。
 身に付けているものは簡素なシャツとスラックスで洒落っ気は皆無、しかしアースカラーのシャツと黒に近いグレイのスラックスの取り合わせは色調抑えめの図書館に馴染んでいる。
 気取らない服装にセンスの良さを感じた。

 斉藤は興味を持って青年を眺める。

 青年は斉藤の存在に気付かず目の位置の棚に手をやり洗練された動作で一冊抜き取る。
 しなやかな指先がページを繰る。
 ページが擦れる音がごくささやかに耳朶をくすぐる。
 青年は本棚に向かいうなだれ手元の本に視線を落とす。
 視線が右から左へ素早く動き、凄まじい速さで読んでいく。
 直感記憶、瞬間把握の速読。
 斉藤は声には出さず感嘆する。
 青年は0.5秒もたたず新たなページを繰り、眼鏡越しの目に鋭敏な頭脳の働きを映す怜悧な光を溜め、貪欲なまでに活字を吸収していく。
 眼鏡越しの真剣な眼差しに圧倒される。
 青年は己の全存在をもって本と対話する。
 本もまた青年の求めに応じ快く体を開く。
 献身な愛撫により無機物と意志を疎通する官能的な光景。
 男にしておくのが惜しいほど細い指がさっとページをなぞるたび紙の表面が悦びに震えページが自ら捲れていく。
 男の愛撫はそっけなくも思いやりに満ちていた。
 無機物の紙に対を丁寧に扱い、長らく開かれた事ない本に埃が付着していれば袖口が汚れるのも厭わずそれを払ってやる。

 『そうしてくれると助かる』
 生身の人間にああも冷淡にふるまう男が、無機物の本にこうも優しくなれるなんて。

 様々な矛盾を内包する男に強く惹き付けられる。
 最前女を拒んだ時とは別人の如く本に触れる仕草は優しい。
 心なし視線も角が取れている。
 柔和な表情で本と向き合う青年を眺めるうちに斉藤の内面に思いも寄らぬ変化が起きる。
 同心円状の波紋を描き徐徐に広がりゆく動揺の漣、麻薬的な陶酔。
 自身の内面に生じた変化に戸惑うも、強烈な磁力を放つ横顔に魅入られ呆けたようにその場に立ち尽くす。

 太陽の位置が変わる。
 光線の角度が傾ぐ。
 突如通路に射しこんできた陽射しが床を掃き青年の横顔を清浄に照らす。
 薄暗い通路から青年の周囲だけ浮き上がり大気中に循環する埃が透ける。
 埃の円環が青年を取り巻く。
 昼下がりの陽射しを半身に浴びた青年はひどく満ち足りた顔をしてる。
 
 自分は異性愛者だ。
 この時この瞬間までそう思っていた。
 急に確信が持てなくなった。

 青年から目が離せない。
 はらりと捲れた袖口から覗く骨の尖りが目立つ手首と皮膚の生白さも、
 一番上まで釦を留めたアースカラーのシャツも、
 痛々しいほど華奢な首筋と鋭く尖った喉仏も、
 眼鏡越しに注がれる透徹した視線も。
 
 彼の存在そのものが心を占め、今この瞬間の映像が切り取られ脳に保存される。
 通路に射し込んだ光が照らす情景の神聖さに打たれる。
 戦慄に似た感動が背筋を走る。

 彼は自分と同じ側の人間だ。
 同じ静寂を好み同じ本を愛する人種だ。
 そうすることによって孤独を癒しあう同士だ。

 彼に共感する。
 共感は時経ず好感に変わる。
 彼に近付きたい、話しかけたい欲求が高まる。
 これまで女性に不自由したことはなかった、時に不実な台詞を用い異性を口説く行為に抵抗はなかった。
 異性に好意を持たれるのは悪い気がしない、交際は楽しい、セックスもそれなりに。
 斉藤は何事もソツなくこなしてきた、異性との交際も同性との交流も半ば条件反射の社交的な笑みと機知に富む弁舌でもってこなしてきた。

 だが、その誰とも一線を引いて付き合ってきた。

 斉藤は人の悩みを聞くのが上手い。
 相槌と助言の天才であり、異性も同性も何かあればすぐ斉藤に相談を持ちかける。
 しかし、斉藤自身が悩みを話した事は一回もない。
 先刻抱いたようなネガティブな思考を他人に漏らした事はただの一度としてなく、また漏らした所で理解も共感も得られないとの絶望に近い諦念が他人との間に見えざる一線を引かせていた。
 自分の人あたりよさは上辺だけだと斉藤は知っている。
 そんな自分に吐き気を覚える。
 心の底では誰も信頼してないのに、嫌われるのが嫌で、孤立するのが嫌で笑みを絶やさないようにしている。
 自分は卑怯者だ、異分子だ。
 本来ここにいてはいけない人間だ、こちら側にいるのがそもそも間違っているのだという違和感が終始付き纏って離れず集団に埋没しても居心地の悪さを拭えない。

 彼もまた、同じなんじゃないか。
 世界との違和感に苦しんでるんじゃないか?

 青年の手が止まる。
 斜角の陽射しが横顔と手元を淡く照らす。
 埃の粒子が緩慢に舞う中、巨大な書架に挟まれた空間に立ち竦む青年の唇が無音で動く。
 音のない唇の動きに魅了される。
 周囲から完全に音が消える。
 急速に現実感が褪せ、完結した世界に自分と彼とふたりしかいない錯覚に陥る。   

 僕と彼は孤立している。
 僕も彼もは孤独だ。
 彼は孤高だ。
 酷く儚く脆いものを内に秘めながらも、傲慢なまでのプライドの高さ故に孤高を守る。

 青年の中に理想の幻影を見る。
 青年はかつて斉藤がこう在りたいと思った理想を体現している。
 青年に憧憬を投影する。
 俯きがちの顔と伏し目がちの視線、高い鼻梁が彫り深い影をおとすさまを固唾を呑んで見守る。 

 均衡は突如破られた。

 青年がおもむろに本を閉じ棚に返し、断固たる足取りでこちらに歩いてくる。
 一抹の未練も躊躇もない足取りに覗きがバレたのかと緊張するも杞憂に終わる。
 青年は書架に手をかけ立ち尽くす斉藤に一瞥も注意を払わず、彼の背後をスッと素通りしてしまった。
 一瞬の邂逅、再びの別離。
 あまりにあっけない幕切れに斉藤は言葉を失い、呆けたように青年の背を見送るより他ない。
 甲高い靴音の残響が書架の峡谷にこだまする。
 青年は斉藤に気付きもせず、視界に入っていても意識野では取り合わず図書館を辞してしまった。  
 ひとり取り残された斉藤は束の間その場に立ち尽くし網膜に焼き付いた残像と気配の残滓を反芻、意を決し最前まで青年がいた書架の前に歩み出る。
 青年が見ていた書架を舐めるように見る。
 彼が見ていたものが知りたくて、関心を奪った対象を突き止めたい一心で視線の高さを合わせる。
 青年の目の位置にあたる棚に収められていた本を見て、我知らず呟く。
 「カラマーゾフの兄弟、か」
 本を返すときに一瞬題名が見えた。
 カラマーゾフの兄弟は前に一度読んだことがある。
 当時はまだ幼く内容を完璧に理解できたとは言いがたいが、それでも印象の残った箇所は多い。
 青年が指を添えていた位置を想起、あたりを付けページを開く。
 「ああ、そうか」
 青年が読んでいた箇所に目を通し、吐息まじりの嘆声を零す。 
 それは有名な「大審問官」の序文、「反逆」の箇所だった。
 登場人物の一人で主人公の兄でもある冷徹な知性人イワンが神の創った世界を認めない根拠を滔々と挙げ連ねる、作中もっとも斉藤が感銘を受けたくだりだ。
 イワンは百歩譲って神の存在を認めても神の創った世界は認められないと説く、何故ならこの世界はとてつもなく不条理だから、力持たざる子供が虐げられていても神はその涙を贖わないからだ。
 当時、斉藤はイワンに共感を覚えた。
 弱者が虐げられ子供が犠牲となる不条理な世界に対する怒りは、ずっと斉藤の中にある。一歩間違えば自分もまた虐げられる側だったという皮肉、にも拘らず今ここに居る幸運に対する罪の意識。斉藤はずっとイワンと同じ事を考えイワンと同じ不条理に怒っていた、なぜ世界がこんな風にできているのかわからず苦悩していた。何が加害者と被害者を分ける、何が弱者と強者を分ける、なぜ人間は殺しあう、憎まずにいられない?

 ずっと不思議だった。
 ずっとわかってくれる人を探していた。
 
 理解は幻想だ、ただ概念としてそこに存在する。
 理解は神だ。
 だれも実物を見たことないが、その概念は疑うべくもなく素晴らしいものと信じられている。
 人間が真に互いの本質を理解する事などありえない、なぜなら孤独は人間の本質だからだ。だがしかし共感は可能だ、理解は神のように空虚でも共感は身近にある。
 自分はイワンに共感した、自分が長年抱いていた世界との違和感を不条理な世界に対する怒りをイワンはこの上なく的確に代弁してくれたのだ。
 「彼もイワンだ」
 先刻までここにいた青年の手触りを反芻し、丁寧に表紙をなでる。
 この本に彼が触れたと思うと特別な感慨が湧き上がる。
 青年の指の動きを辿り、乾いた紙に指を滑らす。
 青年の手の残像を愛撫する。
 丁寧に心を込め、手の残像を上から包み込み、優しくさする。
 本から幻の体温が伝わる。
 青年の残像と実体が重なりひとつに溶け合っていく。

 イワンにはアリョーシャがいた。
 だから彼は救われた。

 「………君にはだれがいるんだ?」
 本をなでる手は止めず記憶の中の横顔に問う。
 青年は答えず本と向き合っている。
 自ら孤立を深め孤独に安息を見出すかのようなかたくなな拒絶。
 彼の事が知りたい、彼と話してみたい。
 これまで周囲の人間に感じた事ない渇望に似た執着に駆られ、青年の手がかりとして唯一残された本を強く握り締める。

 イワン。
 冷徹な知性に支えられた無神論者、神の創った世界の不条理を憎む男。
 人類を見放した神を強く憎みながらも、心の底では神の創った世界の可能性を信じたがっている男。
 そのイメージが先刻の青年と重なる。
 現実にイワンがいれば彼のような外見をしているのだろうな、と考え頬を緩める。

 『ずっと先輩が好きでした。一目ぼれでした』
 自分は異性愛者だと思っていた。
 しかしこの感情を、「一目惚れ」以外のなんと呼べばいい?

 「……………参ったな」
 苦味の滲んだ口調と裏腹に顔は笑っていた。
 理性の反発をよそに感情を許容する諦念の笑み。
 目を閉じれば瞼の裏の暗闇に彼が浮かぶ。
 名前も知らない、学年も学部も知らない。
 ただ図書館で行き合っただけ、一方的に顔を知っているだけの存在だ。
 再び会える見込みは低いが、斉藤は既にこの時どんな手を使っても彼を見付けだす決意を固めていた。
 通路に射し込んだ陽射しに照らされた青年の横顔には、神をも恐れぬ孤独が焼き付いていた。
 眼鏡越しに注がれる思い詰めた眼差しは、世界の不条理を憎みながらもただ一人の理解者を求め、最愛の弟にのみ抑圧された本音を吐露するイワンそのものだった。
 丁寧に埃を払い、「カラマーゾフの兄弟」を棚に返す。
 戻す時にそっと背表紙にふれる。
 いとおしむかのように。
 「友達になりたい」
 飾らぬ本音を零し手をおろしてから、ある可能性に思い至りうっそりと自嘲する。
 自分が抱いていた世界と馴染めない違和感の源は、ひょっとしたら別な所にあったんじゃないか。
 異性愛者だと思い込んでいた自分に潜在する同性愛傾向が、長年の違和感の正体だとしたら? 
 この時この瞬間それを自覚するも「まさか」と苦笑して首を振りその場を離れる。  
 
 初邂逅だった。


 「『カラマーゾフの兄弟』だね」
 斉藤が指摘すれば、安田の顔にほんの僅か感心したふうな色が去来する。
 「………思ったほど無知ではないらしいな」
 「愛読書だから。もう何度も読み返したよ」
 何度も読み返した。
 図書館で安田を見かけて以来、安田の顔を、声を、視線の動きや指遣いに至るまで細部を反芻し読みふけった。  
 あれから数ヶ月、斉藤は今こうしてここにいる。
 安田は学内では有名人だった。
 いわく東大始まって以来の天才、在学中に発表した論文は学会で絶賛され各界から注目を受けているという。噂ではIQ130を数え在籍する法学部のほかに医学部・文学部の講義を受けてるらしい。友人は皆無らしく、キャンパスで遠くから見かける彼はいつも一人だった。あの性格では無理もない。

 再会は偶然だった。
 二ヶ月前、安田が政府との共同プロジェクトに参加するとの噂が広がった。
 学生の身でありながら優秀な頭脳を評価され助手に抜擢されたらしい。
 自分には関係ないと思っていた。
 政府と共同で進められる国家の威信を賭けたプロジェクトに自分如き一介の学生が関われるはずがないとシビアに割り切り今まで通り講義を受けレポートに追われ息抜きに友人と遊ぶ日常を送っていた。
 懇意にしていた勅使河原教授からお呼びがかかったのはそんな時だ。
 安田を除く助手は皆院生から選ばれる事になっていたが、うち一人が急病となり枠に空きができた。君さえよければ助手として働いてみないかと教授自ら持ちかけてきたのだ。
 安田と比べれば劣るにしても斉藤も十分優秀な学生であり、研究助手として不足はないと判断したらしい。

 斉藤はプロジェクトの本拠地たる医学部教育研究棟の地下にて安田と正式な顔合わせを果たした。
 研究棟の地下は天井も壁も床も無菌の白で統一され眩いばかりの衛生さを誇っている。
 色調抑えめの図書館とはなにもかも違うが、安田から受ける印象はあの時と少しも変わらない。
 再会の喜びと緊張とが入り混じる複雑な感慨に駆られつつ、斉藤は微笑む。
 「僕もイワンに同感だ。世界の不条理を憎む気持ちはよくわかる、彼の怒りは正しいと思う」
 再び手をさしだす。
 安田が胡乱に見返す。
 教授が冷や冷やと二人を見比べる。
 斉藤は軽く息を吸い込み、まっすぐに安田を見る。
 「僕らはこれから同じプロジェトに携わる仲間だ。握手が嫌いなのはわかったけど、最低限の礼儀を守る柔軟性も持ち合わせないなんて正直見損なったよ。ルールを守るだけじゃ大人とはいえない、社交上のマナーもまた大人の必須条件だ。握手とは人間関係を円滑化するための初歩の初歩だ、これを怠ればその後ずっと禍根を残す事になる。君が個人的にぼくと親しくなりたくないというならそもれいい、けれどもこれは君一人の問題じゃ済まされない、チームワークの円滑化はプロジェクトの成否を左右する大前提だ。個人的な好悪の感情はひとまずおいといて、最初の最初くらい社交上のマナーを守るべきだと思うけど」
 教授が唖然とする。
 安田が目を見張る。
 斉藤はどこ吹く風と涼しげな顔で安田の視線を受け流し、挑発するようにさしだした手をひらひら動かす。
 重苦しい沈黙が落ちる。
 先に動いたのは安田だった。
 愉快げな含み笑いを浮かべた斉藤に毅然と歩み寄るや、白衣のポケットから几帳面に折り畳まれたハンカチをとりだし、それを片手にもつ。
 ハンカチを巻いた手が一瞬斉藤に触れ、そっけなく離れる。
 「満足か」
 最大限の譲歩、最大限の妥協。
 不快げに顔をしかめ、斉藤の手に触れたハンカチを汚物を始末するような動作でもって隅のゴミ箱に捨てる。
 「安田君!」
 ハンカチ越しでも菌が感染した疑惑を捨て切れず、掌を執拗に白衣の裾に擦り付け感触を拭う。
 白衣の裾でもって強迫的に手を拭う安田に教授が叱責を飛ばし、斉藤が口の端に微苦笑を上らす。
 「…………僕は本以下か」  
 「?」
 安田から教授に視線を転じ頭を下げる。
 「これで失礼します。この後研究の概要を説明したいからと鍵屋崎教授に呼ばれてるので」
 「あ、ああ……気を悪くせんでくれたまえよ斉藤君、彼は少し気難しい男なんだ。プロジェクトが本格始動すれば彼と共にさまざまな雑務をこなすことになるだろうが、どうか堪えてくれたまえ」
 丁寧に辞去を申し出た斉藤に教授が嘆かわしげに首を振る。
 政府との折衝役として気苦労の絶えぬ教授の激励に誠意を込めた頷きを返し、語気強く請け負う。
 「わかっています」
 「足手まといは可及的すみやかに消えてほしい。研究の邪魔だ」
 「!安田ッ、」
 背中に突き刺さる視線を感じながらすみやかにその場を去る。白い天井と壁に靴音が高く響き、残響が内耳を震わす。
 安田の視線を強く意識しながら慎重にその場を離れる。
 たった一瞬触れ合った手の感触、ハンカチを隔てもわかるしなやかな指の関節が忘れられない。

 漸く辿り着いた、ここに。
 漸く辿り着いた、彼に。

 白衣のポケットに入れた手を無意識に握り込む。
 安田が触れた本からぬくもりを奪うように、ハンカチ越しの感触を握り込むように。
 白衣の胸元では真新しいネームプレートが誇らしげに輝いている。
 安田の胸にもあったネームプレートには研究員ナンバーとともに氏名が記され、斉藤が参加する事になったプロジェクトの略号が刻まれている。
 
 ISP。
 正式名称は Intelligence Seed Project。
 「『知恵の実計画』か。なかなか洒落てるじゃないか」
 
 実験の詳細は知らない。
 それをこれから勅使河原教授と並ぶ最高責任者の鍵屋崎教授が説明してくれるという。ただしそこで明かされるのはあくまで概要のみで、具体的な研究内容は本格始動まで極秘裏に伏されるという。

 アダムとイヴは知恵の実を齧って楽園を追放された。
 自分がアダムとイヴをそそのかす蛇の役回りになったような気になり、だんだんと愉快な心持になる。

 神の創った世界を認めぬ自分にはふさわしい役回りかもしれないと自嘲、安田もまた自分と同じく神への反逆心からプロジェクトへの参加を決めたのではないかと邪推する。
 安田に対し一種の共犯じみた連帯感が芽生え、胸の内で湧き立つ興奮に浮かされ、斉藤は呟く。
 「神の庭から知恵の実を簒奪する計画なんて考えただけでわくわくする」

 なあ、そうだろイワン?
 僕らはいい共犯になれるはずだ。

 既にして友人に対する口ぶりで、イワンの面影をやどす男に呼びかける。
 悪魔に魂を売った笑みがその顔に広がる。
 あまりに若く愚かな斉藤は、安田と近付きになりたい動機から参加したプロジェクトが自分の一生を左右するなど想像だにしなかった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050225171303 | 編集

 斉藤は死んだ。
 「前代未聞の不祥事だ」
 深刻な面持ちで所長が悲嘆に暮れる。
 いつも清潔な身なりを心がけている所長らしくもなく油染みた髪はぺたりと頭皮に被さり、切り立った峰の如く険の深い眉間には懊悩の皺が刻まれている。
 狂気に蝕まれぎらつく光を放つ双眸の迫力にもまして精神の失調を物語るのは目尻と口端の神経症的痙攣、連動する顔筋の収縮。
 落ち窪んだ眼窩にはどす黒い隈ができ、全身に忌まわしい程の瘴気がみなぎっている。
 机の中心、手を伸ばせば届く距離に安置されているのは白磁の骨壷。
 ハルの骨壷に視線を定め、所長は苦りきった口調で呟く。
 「刑務所内で殺人事件が起こるなど許しがたい事態だ。それも殺されたのは医者で犯人は囚人ときた」
 「囚人とは決まってません」
 すかさず異議を唱えたのは執務机の前に不動の姿勢を保ち起立する副所長の安田。
 斉藤死亡の報を受けても一分の隙なく身なりを整えた安田は、眼鏡の奥に表情を隠して胡乱な視線を跳ね返す。
 折り目正しく着こなした三つ揃いのスーツとくすむ事ない光沢の革靴は非の打ち所ないエリートの証、髪はいつもどおり後ろに撫で付け聡明に秀でた額を強調する。
 「看守が犯人だというのか?馬鹿も休み休み言いたまえ」
 口にするのも汚らわしいと吐き捨てる。
 机上に提出された始末書を一瞥、辟易した表情で首を振る。
 気のない素振りで始末書を束ね安田に確認をとる。
 「下水道で発見されたバラバラ死体は斉藤医師で間違いないのだな」
 「………検屍解剖の結果待ちです。しかし体格と服装から見て彼で間違いないと……」
 「曖昧な言い方だな。何かあるのかね」
 所長が不審げに眉をひそめる。
 安田は表情を読まれるのを避け面を伏せ、努めて感情を消した声で述べる。
 「死体は四肢が切断されていました。のみならず損傷が激しく人間だと判別するのがやっとの状態、顔は完全に潰されていたそうです」
 「隠蔽工作か。馬鹿め、身元の特定を遅らせようと顔を潰すのは常套だが白衣を着せたままでは医者だと丸わかりではないか。待てよ、それ以外の理由もあるか。怨恨による殺人だとしたら死ぬ前に拷問を加えられた可能性もある、ここには嗜虐性と暴力性にとんだ囚人が大勢いるからな……死ぬ前にバラバラにされたか死んだ後にバラバラにされたかそれはわかっているのか?」
 「断言できませんが、死後の模様です」
 「遺体を実際に見てないのかね?」
 断定を避け、語尾を濁して告げる安田に苛立ちを隠せず所長が言う。
 「………すいません。前述通り遺体の損傷が激しく、散らばった部位をかき集める作業が予想外に難航していて……現在看守と一部囚人が下水道にて死体回収に向かっていますがもうしばらく時間がかかりそうです」
 「立ち会わなくて良いのかね?被害者は学生時代からの友人なんだろう」
 安田はブリッジを押し上げるふりで表情を遮る。
 「他に優先すべき仕事がありますから」
 神経質な手つきで眼鏡の位置を直す。
 一筋の反乱も許さず櫛を通し撫で付けたオールバックの下、聡明に秀でた額に苦悩の皺が寄る。
 安田は厳正なエリートの仮面で表情を鎧い、いついかなる時も崩さぬ冷静沈着な物腰で所長と対峙する。
 「冷たい男だな、君は。斉藤医師は友人なんだろう?凶行を防げなかったならせめても死体回収に立ち会うのが義理じゃないかね」
 「私が行ったところで斉藤は戻りませんから」
 所長の嫌味をそっけなく一蹴、極めて冷静な口調で反駁する。
 所長がふんと鼻を鳴らし背凭れにふんぞり返る。
 体重を預けた椅子が軋む。
 「事件経過を報告します」
 安田が威儀を正し申し述べる。
 所長の顔が引き締まる。
 安田は机上の書類を一瞥もせず頭の中で推敲し完全に記憶した文面を、音声機能搭載のコンピュータの如き正確さでもって淡々と読み上げる。  
 「事件発生は昨日と思われます。斉藤は東棟の囚人、鍵屋崎直と個人的な話を持ちたいと強制労働免除許可を申請しました。私は許可しました。斉藤はその後東棟に向かい鍵屋崎と対面、彼を伴い図書室に向かうところを看守と囚人数名が目撃しています。斉藤の消息はそこで途絶えます」
 「鍵屋崎が犯人だ、即刻捕まえろ」
 「いえ、彼に斉藤殺害は無理です。あらゆる状況証拠が彼の無実を示しています」
 「なぜだ?他の囚人は皆強制労働に出払っていてアリバイが成立しない、アリバイがないのは鍵屋崎だけだ。両親殺害の件に関し斉藤に嫌な事でも言われ思わずカッとなって殺したのだろう、そうに違いない」
 「鍵屋崎にはこの後事情聴取を行う予定です」
 「何を愚図愚図してるんだ、鍵屋崎が犯人に決まってる」
 「落ち着いてください。確かに鍵屋崎は斉藤と図書室に向かいましたが、話を終えてから別れたと証言しているそうです。鍵屋崎は図書室から去る斉藤を見送った後レイジ・ロン・道了と合流したそうです。図書室を出てからの斉藤の足取りは掴めませんが、最後に会ったのが鍵屋崎というだけで犯人と決め付けるのは時期尚早です。鍵屋崎と別れた直後斉藤の身に何かが起こった可能性も否定できない……調べたところ昨日東京プリズンに残っていた囚人は八十名、そのいずれもが看守に賄賂を送るなど巧妙な手口で強制労働をサボりうろついてました」
 「嘆かわしい事態だな。それで?」
 「内分けは東棟が二十五名、西棟が十八名、南棟が二十名、北棟が十七名です。斉藤失踪とほぼ同時刻に北棟で囚人一名が輪姦される事件が起こり看守が出動、私も現場に立ち会いました。中央棟の某廊下でレイジを看守が発見、みすみす逃亡を許したのも同時刻。昨日の昼の時点で東京プリズンには囚人八十名と看守五十名が残っていた、極論してしまえば彼ら全員に斉藤殺害のチャンスがあった。人間を解体するのは非常な重労働、共犯者がいなければまず不可能です。斉藤と別れた直後にロン達と合流した鍵屋崎はロンを医務室に連れていってからずっと付き添っていたと入院患者が証言しています。強制労働を終えたサムライが迎えに来てからはずっと一緒にいた、彼のアリバイは立証された」
 「だが完全に疑惑が晴れたわけではない」
 所長が意地悪く目を光らせ念を押す。安田は無表情を保つ。
 「鍵屋崎は生きている斉藤と接触した最後の人物、ならば十分に容疑者の圏内だ。君の説はなかなか面白いが、かといって鍵屋崎が犯行不可能と決め付けるのは偏見だ。説得力に欠ける」
 「彼は非力です。斉藤は下水道で発見されました。房と下水道はかなり離れている、成人男性を下水道に運ぶのは鍵屋崎には無理です」
 「協力者がいたとしたら?」
 「協力者?」
 「同房の囚人だ」
 「サムライですか?……まさか、彼が手を貸す理由がない」
 「彼は随分鍵屋崎に入れ込んでるからな。仮に鍵屋崎が発作的な衝動に駆られ斉藤を殺したとする、後始末に困った鍵屋崎はサムライに泣き付く。情にほだされた彼は喜んで鍵屋崎に手を貸す。刃物の扱いに慣れている彼なら死体を輪切りにするのもわけはない。それとも……」
 所長が野卑な笑みを刻む。
 眼鏡越しの目が陰湿な光に濡れ、捲れた上唇をちろりと舌先で舐める。
 嗜虐心の燻りが覗く表情に背筋が寒くなる。
 相対したものに生理的嫌悪を抱かせずにはおかない爬虫類的に陰険な表情。否、所長に比べればまだしも蛇やトカゲなどのほうが無害で可愛らしい。
 あらゆる手管を用い人をいたぶる行為に倒錯した快感を覚えるのは兄弟共通の性向らしく、そんな表情はタジマに酷似している。
 「体を委ねるのを条件に共犯者として引き込んだか。売春班上がりなら十分ありうることだ、鍵屋崎は頭が回るからな」
 安田の表情は動かない。激情荒れ狂う内心とは裏腹に鉄のような無表情を保つ。
 感情の制御に慣れた完璧なエリートがここにいる。
 あからさまな侮辱にも顔色ひとつ変えず平静を保ち軌道修正を図る。 
 「………鍵屋崎の件はまず保留しましょう。彼を庇うわけではないが、現状で結論を急ぐのは愚かです」
 「急がずにおれるものかッッ!!」
 所長が激怒する。
 憤激に駆り立てられ乱暴に椅子を蹴倒し立ち上がるや平手で思い切り机を叩く。
 バンと衝撃音が炸裂、脳天から発された怒号がびりびりと大気を震わせる。
 衝撃で机全体が振動し骨壷が揺れる。
 バランスを崩し大きく傾いだ骨壷が転落する間際サッと手を伸ばし後生大事に腕に抱く。
 「よーしよし、ハル、怖かったなあ。私としたことがてっきり頭に血が上ってしまった、驚かせてすまなかった、許してくれたまえよ……」
 腕に抱えた骨壷を甲斐甲斐しくなで、宥め、愛おしげに頬ずりする。
 一瞬の憤激は嘘のようにおさまる。
 上司の暴発に慣れた安田は淡々と言葉を続ける。
 「………鍵屋崎は図書室で別れたきり斉藤には会ってないと証言してます。その後斉藤の姿を見たものはだれもいない、という事は斉藤は何者かに下水道に呼び出され殺された可能性があります。現状では誰もが等しく怪しい灰色の嫌疑内です」
 「下水道に呼び出した……目的は何だね」
 骨壷に頬をすり寄せた所長が珍しく鋭い指摘をする。
 安田は一瞬たじろぐも、すぐに冷静さを繕い返答する。
 「わかりません。おそらく斉藤と個人的な話があったのでしょう。他のものに聞かれたくない話をする場合東京プリズン内で唯一監視カメラがない下水道は好都合です、これまでも多数の囚人が看守の目をかいくぐり下水道に出入りしていました」
 「何者かが斉藤と内密な話をするため下水道に呼び出したと?しかし君の説明だと矛盾が生じる、図書室で別れたあと誰も斉藤の姿を見てないのは不自然だ。話が済んだならその足で医務室に帰ればいいのに、死体となって発見されるまで斉藤医師はどこをうろついていたのだね」
 「わかりません。……彼が何を考えていたか、私はいまだにわからない」
 口調にかすかな自嘲が滲む。あるいは自虐。
 ブリッジに指を添え顔を伏せる。
 伏せた面が苦渋に歪む。
 閉じた瞼の裏に斉藤の面影が去来する。
 安田はとうとう斉藤が理解できなかった。

 『でも共感はできる。そうだろう』
 忘却の淵から内耳に響く斉藤の声。

 斉藤は言葉遊びが好きだった。
 言葉をこねくり回し韻を踏むのを楽しんでいた。
 理解と共感の違いは安田も漠然と理解しているが、斉藤の定義する「理解」と「共感」がはたして安田のそれと同じものか否か、議論する機会はとうとう巡ってこなかった。
 もう永遠に巡ってこないのだ。
 無意識に唇に触れる。先日斉藤に奪われた唇を人さし指でなぞる。
 自分に何故キスをしたのかとうとう聞けずじまいだった。
 十五年前と同じだ。
 斉藤は安田を翻弄するだけして突然いなくなってしまった、安田の心を好きなだけかき回して忽然と消えてしまった。

 十年五年後のキスは苦いコーヒーの味がした。
 十五年前のキスと同じ味。
 味覚への刺激が記憶を喚起する。
 十五年前、残照射し込む階段教室での出来事があざやかに蘇る。
 階段教室の途中で安田を捕まえ振り向かせた斉藤、肘を掴まれ半ば強引に振り向かされた安田が抗議の声を発する間もなく斉藤がのしかかり顔が被さり唇が重なっていた。
 レポートの束が舞う。
 大窓から射し込んだ残照が視界を真紅に染め上げる。
 燃え上がる階段教室の途中、上の段差から自分を見下ろした斉藤は、悲哀と葛藤が入り混じった複雑な顔をしていた。
 込み上げる衝動を必死に抑圧し、苦しいまでに思い詰めた目で自分を見詰めるその顔。

 あるいは斉藤は、十五年前に残されたままなのかもしれない。
 もしかしたら、自分も。
 十五年前のあの時あの瞬間に囚われたまま、無為な年月を重ねてきたのかもしれない。

 無意識に唇の膨らみをなぞる。
 さする。
 指の腹に吸いつく唇の湿り気を反芻する。

 あの時キスを介し斉藤が伝えたかった事、十五年前の真実、十五年間の想い。それらすべてを手遅れになった今になって解きほぐそうと物憂く指を這わせるー……
 「私の話を聞いてるのかね」
 ガタンと音がする。
 鞭打たれたように即応、すかさず前を向く。
 所長が険深い目で安田をねめつける。
 陰険な視線が蛇の舌の如く脳天から爪先まで執拗に舐め回す。
 「副所長、君の上司はだれだ」 
 「所長です」
 「フルネームで言え」
 「但馬冬樹所長です」
 「君の主人はだれだ」
 「……但馬冬樹所長です」
 「貴様は犬だ。命令には絶対服従だ。主人の前でよそ見など言語道断だ。主人の前で物思いに耽るなど許しがたい背信行為だ。いやらしく唇に触れて何を思い返していた、死んだ男の残り香でも反芻していたのか。君とあの男はそういう関係なのか、既にして肉体関係を持っていたのか」
 酩酊した足取りで所長が歩いてくる。
 安田と斉藤の関係を詮索しいかがわしい妄想を膨らませ、興奮に鼻息荒く顔をぎとつかせ、忌まわしい程の瘴気を発散し。
 安田は唇を噛む。
 「……斉藤はただの知人です。十五年間も会っていませんでした。過去の男です」
 「本当かどうかあやしい。本当は今でも付き合ってるんじゃないか」
 「私は同性愛者じゃありません、過去に同性と関係を持った事など……」
 「ないと言い切れるかね?」
 所長が挑発する。
 顔全体に広がる下卑た笑みが強烈に既視感に訴えかける。
 既視感を刺激してやまないその笑みはどこまでもタジマと酷似していた、異常なまでに。
 醜悪この上ない笑みを病み衰えた顔に浮かべた所長が嬉嬉として安田のもとへやってくる。 靴音は絨毯に吸い込まれ聞こえないが、そのぶん興奮に荒げた呼気が耳障りだ。
 「彼が死んで哀しいかね」
 安田の耳元で所長が囁く。
 「斉藤は君の友人だった。哀しくないはずがない。違うかね?ハルが死んだ時は生きながら身を引き裂かれる思いだった、あの時私の魂の半分もまた死んでしまった、ハルは私の半身だったのだ。ハルとは身も心も深く繋がっていた、私達は種族の壁をこえた高尚な愛で繋がれていたのだ。私はいまだにハルの夢を見る、ハルの声を聞く。私の手をよだれでべちゃべちゃにする愛しいハルを夢に見て滂沱の涙を流す、はっはっと息荒く股間にしゃぶりつくけなげなハルを思い出し勃起する。君もそうなんだろう?隠す事はない。さあ言ってしまえ、友人を亡くして寂しいと、慰めてくれる相手がいなくなって寂しいと」
 所長がなれなれしく肩に手をおく。
 スーツの肩に怖気だつ指の感触を感じる。
 絡み合う蛇の如くじゃれつく手が淫靡な暗喩を孕む。
 ねちっこく肩を揉むほぐす所長を努めて無視、深呼吸で冷静さを吸い込み抑揚を欠いた声を出す。
 「あんな男、死んでせいせいする」
 甲高く乾いた音が鳴る。
 頬に衝撃が炸裂、熱は一呼吸おき痺れるような痛みに変じる。
 所長に平手打ちされたのだと気付いた時には既にネクタイを掴まれ引き寄せられていた。 
 「嘘をつけ」
 口の端が異様に吊り上った邪悪な笑顔、細めた双眸に嗜虐の炎が燃え上がる。
 安田は頬の痛みもよそに鼻の先端が接する至近距離に迫った所長に揺るがぬ凝視を注ぐ。
 「痩せ我慢は悪い癖だ。君と斉藤は深い仲だった、ただならぬ関係だった。わかっているんだよちゃんと、調査済みだ。君と斉藤は大学の同期生だった、同じプロジェクトに参加していた。私に隠し事をすると為にならんぞ、斉藤とふたり何を企んでいた、鍵屋崎の脱獄計画でも練っていたのか?君はやけにあの囚人に肩入れしてるからな」
 「……誤解です、彼とはそんな関係では……」
 ネクタイを引く力が増す。
 首が絞まり息苦しくなる。
 苦痛に歪む安田の顔を堪能しつつ背後に回り後ろ手を締め上げる。
 机に突っ伏した安田の額がじっとり汗ばむ。
 安田の背中に腹を密着させ顔の前に手を持っていく。
 苦痛の呻きを漏らす安田の顔前に手を翳し、そっと眼鏡の弦を持ち上げる。
 耳から浮かせた弦の先端を口に含み舌を絡める。
 眼鏡の弦をしゃぶる奇行に走った所長を成すすべなく見守る安田、その耳孔に生温かい吐息が忍び込む。
 「君が殺したんじゃないかね」
 「何?」
 耳を疑う。
 「斉藤だよ。君が殺したんじゃないかと聞いてるんだ、副所長。そもそも彼が今頃になって東京プリズンに現れるのがおかしい、何か目的があったはずだ。彼がここに来たのが君と会うためだとしたら?君が忘れられずにここにやってきたのだとしたら?殺害動機は過去の清算だ。副所長の地位にある君の呼び出しを蹴るわけにはいかない、君はのこのここ下水道にやってきた斉藤を殺す、これにて完全犯罪成立だ!!斉藤を毛嫌いしていた君ならやりかねない、いやまったくおそろしい男だ、副所長の地位を守るため友人すら手にかけるとはとんでもない冷血漢……」

 理性が爆ぜる。
 全身の血が逆流する。
 弾かれたように上体を起こす。
 不意をつかれた所長が転倒、勢い余って絨毯に転がる。
 その際宙に泳いだ腕が机に激突、今度こそバランスを崩した骨壷が落下。
  一連の光景を目撃した所長が口を楕円にしたムンクの形相で絶叫する。

 「ハルーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 身を挺し宙の骨壷にとびつくも加速がついて机に激突、机上の書類が盛大に雪崩れる。
 書類の山に埋もれた所長を醒めた目で見据え、ネクタイの位置を一分の隙なく直し襟元の乱れを整え鼻梁にずれた眼鏡を押し上げる。
 「お戯れはほどほどに」
 「……国連の査察団が来ている時に事件が起こるのは、非常にまずい」
 打ち所が悪かったのか、骨壷を抱え書類の山から這い出た所長が放心状態で呟く。
 「今回の事件は隠蔽する。ロシアの軍人どもに知られたら私の進退問題に発展する、のみならず刑務所の存続にも関わる。調査は極秘裏に進めろ」
 「了解しました」
 「行きたまえ」
 所長が威儀を正し椅子に座り直す。
 安田は深く頭を下げるも、辞去の挨拶もそこそこに補足事項を思い出す。
 「もうひとつ、所長の判断を仰ぎたい事態が発生したのですが」
 「まだ何かあるのかね」 
 辟易した表情を隠しもせず所長が促す。
 安田は言う。
 「現在、レイジが行方不明です。昨日捕獲命令を出したのですがあと一歩のところでとり逃してしまいまして」
 「犯人はレイジだ」
 所長が断定する。
 顔色を豹変させた所長が語気荒げ罵倒を浴びせる。
 「全く君は無能な男だな安田、それを先に言え!斉藤を殺した犯人は現在行方知れずのレイジに決まっている、ゲリラにて特殊な訓練を積んだレイジはあらゆる拷問に通じ人間の解体も造作なくやってのける!そうだ、そうだ、何故こんな簡単な事に気付かなかったのだレイジならば理由はいらない動機もないただ楽しいからと殺人をやってのける犯人はレイジだそうとわかれば話は早い看守を総動員しレイジ捕縛に向かわせろッ!!!」
 椅子が倒れ床と激突、興奮した所長が机を連続で叩く。
 骨壷が弾む。
 眼鏡の奥の目を極限まで剥き出し大量の唾とばす所長に安田はもう一度頭を下げる。
 「………わかりました、すぐ手配します」
 「いいか、犯人はレイジだ。くれぐれも奴と軍人がはち合わせする前に捕獲しろ。この際生死は問わん、抵抗する場合は射殺も許可する」
 所長の声を背に受け踵を返す。
 絨毯を踏み扉へと向かう安田に机にふんぞり返った所長が追い討ちをかける。
 「友人の仇をとってやれ」
 机上で手を組んだ所長がどんな顔をしているか、わざわざ振り向かずともわかる。
 扉を閉じる。
 所長の視線から解放され安堵する。
 少しでも所長と距離をおきたいとの想いに駆られ足早に廊下を去る。
 きびきびした足取りで廊下を歩きながら眼鏡をはずす。
 背広の胸ポケットから几帳面に畳んだハンカチをとりだし、神経質に弦を拭う。
 唾液に濡れ光る弦をハンカチで包み執拗に拭ってから再び顔にかける。
 「……………っ…………」
 口の中がぬるりとする。
 ハンカチを唇に押し当て唾液を染みこませる。
 殴られた際に口の中が切れたらしく唾液で薄まった血がハンカチに付着する。
 感情の爆発に伴う不条理な暴力にも安田は慣れている。
 顔色一つ変えず、元通り折り畳んだハンカチを胸ポケットに戻す。
 眼鏡と口を洗いたいのを我慢し歩調を速める。
 通りすがりの看守の会釈に目礼を返し、靴音高く目的地に急ぐ。

 目指すは職員用の宿舎だ。
 職員用宿舎は囚人の房がある区画とはいくつもの障壁で隔てられている。
 障壁に埋め込まれた液晶画面に手を翳せば0.1秒で指紋と角膜が読み取られ扉が作動する仕組みになっている。
 切れ目ない障壁の中心に線が入り、両岸に分断され道を空ける。
 それを三回ほど繰り返し、至る所に設置された監視カメラにあらゆる角度からあらゆる部位を映され目的地に到着。
 「……………」
 安田の前に一枚の扉がある。
 何の変哲もない白い扉。
 衝撃耐性が強い鉄扉と違い極めてシンプルな構造だが、見るものが見れば最先端の警備システムを組み込んでいるのは明白。
 扉横の液晶画面の前に立てば自動的に指紋と角膜が読み取られ承認後に扉が開く仕組みになっている。
 「あれ、副所長じゃないですか。なにしてるんですかこんなところで」
 背後に近付く軽い足音に振り向く。
 「君は……鈴木看守」
 安田の背後、膝に手をついて息を整える若い看守。
 寒くもないのに震えてばかりいる仔犬を連想させる気弱そうな顔だちの看守は、駆けてきたのが大した距離でもないのに息を切らした挙句咳き込んでいる。
 漸く咳がおさまった鈴木看守がおどおどした上目遣いで安田を窺う。
 「そこ斉藤先生の部屋ですよね。ひょっとして現場検証……」
 「いや、部屋の片付けにきただけだ。持ち主が死んだからにはこのままにしておくわけにはいかない、遺族に引き渡す品を整理せねば」
 安田の口ぶりで初めて二人が知り合いだと思い出したらしい鈴木看守が同情する。
 「今回の事は本当ご愁傷様です。なんて言ったらいいかわからないけど、でも……げ、元気出してくださいね……」
 「何故私が落ち込む」
 「え?だって副所長と先生は大学の友達だって聞きましたよ」
 鈴木看守が目をしばたたく。
 安田は溜め息を吐く。 
 「確かに斉藤とは大学の動機だが、特に親しかったわけではない。余計な気遣いは無用だ、それより君の職務を果たせ」
 「は、はい、すいません……僕てっきり、ふたりは仲良しだと勘違いして……ごめんなさい……」
 語尾が萎む。鈴木看守がしおらしく項垂れる。
 今にも泣きそうに目を潤ませた鈴木看守に再度溜め息、安田は話題を変える。
 「君こそこんな所でなにをしている、下水道の検証は終わったのか」
 「た、たった今同僚と交代してきた所です。僕はほら、このとおり汚れちゃったから部屋に帰ってシャワーを浴びようかなって……」
 「どもらずしゃべれないのか君は」
 緊張すればするほど気合が空回り舌が縺れるらしきたどたどしい物言いに安田は呆れる。
 なるほど鈴木看守の全身からは下水の異臭がした。
 紺の看守服は泥で汚れて見る影もなく、下水に潜り死体をかき集めた苦労がしのばれる。
 「回収作業の方はどうだ。はかどっているか」
 「そ、それがその……まだ見付からない箇所がありまして……大体は見付かったんですがその……なにぶん損傷がひどくて……顔とかもうぐちゃぐちゃであんなんじゃ誰だかわからないし、手足の傷口なんかワニに齧られたみたいで……うぷ」
 鈴木看守が慌てて口を覆う。
 現場の惨状を鮮明に思い出し顔面蒼白の鈴木看守に安田は命じる。
 「わかった、もういい。部屋で休んでいろ」
 「だ、だだ大丈夫です!正直下水道では滑って転んで泥被って足手まといでしたが陸に上がればへっちゃらです!それに斉藤先生にはお世話になったし恩を返したいです、部屋の後片付けなら任せてください、副所長こそ他に大事な仕事が……」
 「私がやる」
 思いがけず鋭い声を発する。
 鈴木看守がびくりとする。
 「斉藤は大学の同期だ。これは私の務めだ。下がりたまえ」
 威圧的な表情と語気の強さに怯えたかのように鈴木看守があとじさる。
 そのまま五メートル摺り足で後退した鈴木看守が体の脇に手をつけ直立、定規で測ったように九十度の角度でお辞儀をする。
 「失礼しました!」
 辞去の挨拶だけはどもらず、しかし涙を堪えてるのが丸わかりの鼻声でぴしりと言い、素早く身を翻し廊下を駆けていく。
 いかにも鈍臭い様子で危なげに足縺れさせ廊下を駆けていく看守を見送り扉に向き直る。 
 扉横の液晶画面に右手を翳す。
 「…………副所長の安田だ。本人死亡の緊急時につき、声紋確認を要請する」  
 液晶画面に組み込まれたスピーカーが警備システムの中枢に声を送る。
 間をおかず扉が解除される。
 音もなく開いた扉から中に足を踏み入れる。
 明かりが消えた室内は薄暗く、調度の輪郭が闇に沈んでいる。
 壁のスイッチを押し電気を点ける。

 「…………ここが斉藤の部屋か」
 思わず独り言が出る。

 部屋は綺麗に片付いていた。
 スレートグレイを基調とした室内は調度こそ少ないが決して殺風景ではなく、システムラックやキャビネットが独り身の広さを持て余すことなく配され快適にリラックスできた。
 生活感の希薄さよりも趣味のよさを感じさせる内装だ。
 奥の机の周りだけが他と比べ雑然としている。
 仕事に使った形跡がある机上には数冊の本と資料とともにノートパソコンが置かれている。
 斉藤自身によく似た部屋だ。
 靴を脱ぐのも忘れ立ち尽くす安田の鼻腔を懐かしい匂いが掠める。

 ほろ苦いコーヒーの匂い。
 生前斉藤が好んだ匂い。
 初めてのキスの味。

 「………相変わらずコーヒー党か」
 匂いの出所はすぐ判明した。机上に放置された空のカップだ。
 斉藤はああ見えて意外とずぼらなところがある、大方すぐ帰ってくるつもりでカップを洗わず放置していたのだろう。
 靴を脱ぎ室内に上がる。
 改めて室内を見回す。
 本棚にはさすがに心理学関連の書籍が多い。
 他にもベストセラーから純文学に至るまで様々な書籍が取り出しやすいよう整頓され並べられている。
 ふと、キャビネットの上に立て掛けられた写真立てが目に留まる。
 斉藤の妻と子供だと一目でわかる。
 何気なく写真たてをとり凝視する。
 子供ふたりは妻に似ていた。
 上が男の子で下は女の子、僅かに茶色がかった頭髪は斉藤譲り。
 ピアノの発表会で撮った一枚らしく、舞台に据え置かれたグランドピアノを背景にお洒落をした女の子が花束を抱いて笑っている。
 女の子の隣にはサスペンダーでよそ行きの半ズボンを吊った男の子、その二人を間に挟んで右に斉藤、左に妻が居る。

 綺麗な女性だった。
 生来の美貌を最大限引き立てる知性の輝きが内面から発露し、成熟した女性の魅力に磨きをかける。
 脳の奥で既視感が疼く。

 『どうしてだめなんですか?』
 写真たてを手にうなだれ立ち尽くす安田の脳裏で、在りし日の声が殷々と響き渡る。
 過去からの声を呼び水に鮮明に記憶が蘇る。
 記憶の中の顔が写真の顔に重なる。
 『お願いします、付き合ってください。先輩にふさわしい女性になりますから』
 思い詰めた目、切実な懇願。

 「あの時の」
 驚きを隠せず呟く。
 そうだ、確かに彼女だ。
 もう十五年以上前、安田がまだ学生だった頃に振った女性だ。
 記憶が蘇る。
 罪悪感に胸が痛む。
 安田は当時自分を慕ってくれた女性を酷く傷付けた。
 当時の安田は才能を奢りまわりを見下していた、だからこそ平然とあんな台詞が吐けたのだ。
 小刻みに肩震わせ走り去る後ろ姿を思い出す。
 その後ろ姿を突き放すように冷ややかに見送る自分も。
 「彼女だったのか」
 結婚したのは風の噂で知っていたが、相手がまさか彼女とは。
 「皮肉だな」
 努力すれば名前を思い出せたかもしれないが、今はそうしたくなかった。
 写真たてを元の位置に戻す。
 幸福な家族の肖像に背を向け、机に歩み寄る。
 早速後片付けにとりかかる。

 斉藤は死んだ。
 もういない。
 いつまでも部屋をこのままにしておくわけにはいかない。
 遺族と連絡をとり早急に遺品を引き払わねば。

 遺品整理など本来副所長の仕事ではない、看守に任せておけばいい。
 しかし安田はこうせずにはいられなかった、とにかく何かしていなければ落ち着かなかった、休まず手を動かしてなければ今にも発狂してしまいそうだった。
 だからこうして斉藤の部屋に来た、副所長自ら斉藤の痕跡を消しに来たのだ。

 何をしてるんだ自分は?
 他にもすべきことはたくさんあるのに。

 斉藤が東京プリズンにいた事実を裏付ける痕跡を確実に消去せねば安心できない、そうだ、斉藤など最初からいなかったことにしてしまえ。
 斉藤はここへはこなかった、斉藤なんて人間は最初からいなかった。
 自分と彼の間には何もなかった、何もおきなかった、十五年前も今もー……

 『物好きにも程がある。何故わざわざ自分から望んでこんな危険な場所にやってきた?』
 『安田くんに会いたくて』
 「馬鹿な」
 『安心したよ、僕を頼ってくれて』
 「馬鹿だ、貴様は」
 『今度は放さない』

 あの時安田はそう言った、安田の手首を掴み安田の目をまっすぐ見つめ真剣な声で誓いをたてた。
 そして、約束を破った。

 「貴様の痕跡などすべて消してやる、東京プリズンに来た事実など無かったことにしてやる。お前と私の間には何もなかった、何も存在しなかった。貴様など友人ではない、出会った時からずっと貴様の存在が不快だった、貴様の姿が視界に入ると胸がむかついてしかたなかった。お前ときたら何事も要領よく立ち回る不純異性交遊の常習犯で暇さえあれば私をからかい振り回して、こちらは大迷惑だった。大学を出てお前と縁が切れてせいせいしたというのに、どうしてまた戻ってきた」

 ここに来なければ、死ぬ事はなかった。
 会いになどこなければよかったのに、
 忘れていればよかったのに。

 「私はとっくに忘れていた。十五年前貴様との間にあったなにもかも封印しとっくに忘れ去っていたのに、どうしてまた傷口を抉るようなまねをする?私の十五年間を無に帰すようなまねをする?答えろ、斉藤。私はお前など要らない。妻と子供と別れ家庭を捨ててまでここに来る必要などなかった、お前を本当に必要としている人間を振り払ってまでお前を望まぬ私のもとへ来る事などなかった」

 何故来た。
 何故死んだ。
 私ひとりを残して

 「私ひとりを残して死ぬような男は、友人ではない」
 独白を吸い込み静寂が深みを増す。
 書架から取り出した本を厚いものから順にダンボールに詰めていく。
 一人では荷が重い重労働だが、誰にも手伝わせる気はない。
 斉藤の私物を他の人間に触れさせたくない。
 安田は黙々と作業に没頭する。
 書架から取り出した本は結構な量でダンボール箱二箱分に及ぶ。
 上から二段目の棚の本を片付けている時、ふと思い出深いタイトルが目に入る。

 カラマーゾフの兄弟。
 安田の愛読書。

 「…………」
 懐かしさに惹かれ手を伸ばす。
 背表紙に指をひっかけ本をとりだす。
 書架の二段目一番端、あえて目立たぬ位置にしまいこまれていたその文庫本は何年もくりかえし読み込まれ傷みが激しかった。
 他の本が綺麗に保存されているからなおのこと十数年の歳月を経た傷みが目立った。 
 「……斉藤め、本は丁寧に扱えとあれほど言ったのに」
 書架と向き合いなにげなく本を開く。
 指に促され抵抗なく本が開き、開き癖の付いた中盤のページが外気に晒される。    
 
 本の中盤に色あせた写真が一枚、栞代わりに挟まっていた。
 眼鏡をかけた青年と、鳶色の髪の青年が肩を並べた写真。 

 「………………」
 学生時代の安田と斉藤の写真だった。
 写真の二人は肩を並べていた。
 二人とも今より若く白衣を着ていた。
 場所は東大のキャンパス、背後に初夏の日差しを斑に透かす楠の大樹が映り込んでいる。
 歳月が一気に巻き戻され、十五年前の自分と邂逅する。 
 「まだ持っていたのか、こんなものを」
 斉藤と写した写真はこれ一枚きりだ。
 斉藤はその貴重な一枚を本に挟んで大事に保管していた、自分以外の誰にも触れさせず。
 時を忘れ写真に見入る。
 写真の中の安田は昔も今と変わらず不機嫌そうな顔をしているが、眼鏡越しの視線は若干角がとれ、隣の斉藤に辟易した表情も嫌悪よりむしろ諦念じみた許容が勝っている。
 楠の大樹の陰で斉藤は今と変わらず微笑んでいる。
 今でこそ三十路の若作りだが、当時は実際に若く精気に満ち溢れていた。
 束の間追憶に浸る。
 斉藤ともに過ごした歳月の記憶が切実な実感と郷愁を伴い胸に迫る。
 第一印象は最悪だった。こんな男とは口も利きたくないと思った。
 しかし斉藤はつれなくされてもめげずに付き纏い、春が過ぎて夏が来る頃にはもう安田の隣にいるのが当たり前になっていた。

 いるのが当たり前になっていた。
 いなくなるなど、想像も付かなかった。

 「……………くだらない感傷だ」
 写真に向かい吐き捨てる。
 手がかすかに震えているのに気付き舌打ちを堪える。
 手の震えを恥じるように本を閉じようとして、なにげなく写真を裏返す。
 行為自体に意味はなかった。
 勝手に手が動いた。
 
 『2067/6 
 東大のキャンパスで親友と』       

 親友と、書いてあった。
 かつて安田が「止め跳ねがいい加減でいらいらする」と指摘した十五年前の斉藤の筆跡で、そう書いてあった。
 ただの友達ではなく、親友と。
 たったそれだけの、短い言葉。
 たったそれだけの、そっけない覚書。
 
 写真の裏面に記されていたのは飾らぬ本音だ。
 誰かに読まれる事を想定しないそっけなさでもって、褪せて読めなくなりかけた鉛筆の字でもって、白紙の裏面にはそう記されていた。

 親友。
 忘れえぬ人を定義する言葉。
 
 「親友なものか」
 哀しみではない、純粋な怒りで手が震える。
 これ以上見ていると握り潰したい衝動を抑えきれず、すみやかに本を閉じる。 
 斉藤はずっとこの写真を持っていた。
 家族にも誰にも内緒でひそかに本に挟み保管していたのだ、十五年もの間。
 安田は写真を撮った事すら覚えていなかった、今の今まで完全に忘れていた、実物を見るまで意識の外に追い出していた。

 斉藤は、こんな薄情な自分を親友だと思っていた。 
 親友と思ってくれていた。
 十五年間も。

 「貴様など、親友なものか。十五年前からそうだ、貴様は一方的に私に付き纏い不愉快にさせた、頼んでもいないのに貧血で倒れた私を運び介抱した、研究チームの面々と衝突するたび間に入り仲裁を買って出た、私が独りでいると実にどうでもいいくだらないことを話しかけてきた。貴様には何度も酷い目に遭わされた、一度などコーヒーに砂糖と騙され塩を入れられた、以来私は貴様の淹れたコーヒーだけは飲まないと決めた。そうだ、貴様にコーヒーを淹れるようになったのはただのついでだ、自分の分を淹れるついでにでがらしの残りを淹れてやったまでだ、あの時の意趣返しに………」

 どうしてここへ来た。
 どうして放っておいてくれなかった。
 どうして惑わせる。
 どうして苦しめる。

 なぜ、忘れさせてくれない?

 十五年前の記憶が洪水のように逆流し理性を翻弄する。
 『斉藤文貴です。教授の助手として今回の実験に参加が許可されました。足を引っ張らないよう頑張るのでよろしく』
 『僕らはこれから同じプロジェトに携わる仲間だ。握手が嫌いなのはわかったけど、最低限の礼儀を守る柔軟性も持ち合わせないなんて正直見損なったよ』

 初めて出会ったときの胡散臭い笑顔
 ハンカチ越しの握手の感触。

 『どうしてほしい?』

 貧血で倒れた安田を運んでくれた。
 長椅子に寝かせ介抱してくれた。
 起きるまでずっと付き添ってくれた。
 頼みもしないのに。 

 『そろそろ起きる頃だと思ってたよ』
 『もう十分、いや、五分でもいいから横になっていたほうがいい。医学生の忠告には従ったほうがいい』

 人に優しくされるのは久しぶりだった。
 利害抜きで優しくされるまで、自分が人に優しくするのを忘れていた事にも気付かなかった。
 人に優しくされた事がない人間は人に優しくできない。
 そんな当たり前の事実も忘れていた。
 他人に優しい言葉をかけられるまで、
 斉藤の思いやりにふれるまで。
 
 何故放っておいてくれなかった?
 何故私に優しくした?
 何故、優しくしたまま置き去りにする?
 
 「なんて身勝手な男だ。勘違いするな斉藤、私はお前の親友じゃない、親友になどなれるものか。そんな資格、私にはない。お前の為に涙を流すと思ったら大間違いだ。調子に乗るな。お前の為に流す涙など一滴たりとも持ち合わせない、くだらない感傷ごと切り捨ててやる」
  
 『2067/6 
 東大のキャンパスで親友と』 

 写真の裏面に走り書きされた文字が本を閉じてなお網膜に焼き付いて離れない。
 写真の中の二人は肩を並べていた。
 隣に斉藤が居る、それが当たり前だった。
 安田は斉藤の存在を当たり前に受け入れ、斉藤がいなくなる日がくるなど考えもしなかった。

 こんなにも唐突に
 こんなにも救いのない不条理な形で。

 下水道での死体回収作業に立ち会わなかったのは、変わり果てた斉藤を見てなお平静を保つ自信がなかったからだ。
 多くの看守が立ち働く間中、斉藤の四肢が転がる惨状で副所長の威厳を保つ自信がなかったからだ。
 下水道で発狂してしまう恐怖があった。
 多くの看守が見ている前で、あたり一面に人間の四肢と血と肉片が飛び散った惨状の中を這いずり回る醜態を呈す自分がありあり想像できたからだ。

 だから安田は逃げた。
 斉藤を襲った現実から逃れるためここへやってきた。
 面影を求め、体温を求め、残り香を求め。
 斉藤の残滓が一番強く残るここへ、この部屋へやってきた。
 遺品整理など建前だ。
 安田はただ逃げたかったのだ、斉藤のいない現実から。
 斉藤のぬくもりを確かめるため、斉藤が身近に存在した事実を確かめるため、無意識にその痕跡を求めてここにやってきたのが何よりの証拠だ。
 
 本を閉じた時、既に手の震えは止まっていた。
 閉じた本を元通り棚に戻し、確かめるように呟く。

 「本当に、いないんだな」
 斉藤の不在を痛感する。
 生前の痕跡を数える行為が不在を浮き彫りにする事になると、最初にわからなかった自分が愚かだった。
 机上に放置された空のカップの底にはコーヒーの残滓が凝っている。
 机上には数冊のファイルと資料が雑然と散らかり、あまり芳しくない仕事の進捗状況を物語る。
 部屋の至る所に生前の痕跡が残っているが持ち主の体温は跡形なく失せている。
 斉藤の私物をひとつずつ手に持ち重さを確認しダンボール箱にしまった安田の行為は、結局持ち主の不在を際立たせただけに終わった。 

 「………すべて裏目にでたわけか。愚かだな、君も僕も」

 一人称が昔に戻った事にも気付かず、すっと本棚から離れる。
 室内を横断し造り付けのシンクタンクに歩み寄る。
 清潔に磨き抜かれた台所には本格式コーヒーメーカーが設置されている。
 コーヒー好きの斉藤らしいなと心中苦笑し作業を開始。
 どこに何があるかわからず手間取り棚の扉を開け、漸くコーヒーの袋を見付ける。
 「もっとわかりやすい所に入れておけ」
 舌打ちが出る。
 改めてコーヒーメーカーをセットし湯を沸かす。
 じきに湯が沸騰する。
 口から湯気吹くケトルを取り上げ、漏斗に適量注ぐ。
 「ペーパードリップは日本で最も普及しているコーヒーの淹れ方だ。ドリッパにフィルタをセットし粉を入れ適量の湯を注ぐ、30秒程度蒸らした後に抽出を開始する。ドリッパの湯が完全に切れる前に外すと雑味の無いコーヒーとなる」
 漏斗に湯を注ぎながら呟く。
 「斉藤、お前が好きな飲み方だ」
 三十秒程度蒸らしてから抽出を開始する。
 フィルタで漉されたコーヒーが砂時計型に括れた漏斗の底部におちてくる。

 一滴、一滴。
 ふたりが重ねた歳月に匹敵する、気の遠くなるような時を刻み。

 抽出が終わる。
 手元に十分気を遣い、一滴も零さぬ慎重さでもってカップにコーヒーを注ぐ。
 コポコポと黒い液体がカップを満たしていく。
 ほろ苦い香りが湯気と一緒にあたりに立ち込める。
 コーヒーを注ぎ終え一息吐く。
 カップを手にシンクに背を向け歩き出す。
 学生時代、斉藤と二人きりの時そうしていたように気取らぬ足取りで室内を横切りノートパソコンが主役の机に歩み寄る。

 机に向かう椅子は無人だ。
 部屋の主は二度と帰ってこない。
 二度とパソコンのキーを叩くことなく、本棚から本を抜き出し眺めることもない。
 カラマーゾフの兄弟が再び開かれることはない。
 あの写真が再び眺められることはない。
 あの写真は朽ちて塵に帰るまで、永遠に本の中に封印される。
 椅子に座り机に向かう部屋の主を想起する。
 無人の椅子に斉藤の幻影を重ねる。

 学生時代、何度もこうして斉藤にコーヒーを淹れてやった。
 斉藤は毎回欠かさず礼を述べた。
 たった一杯のコーヒーに忘れず感謝を込めてありがとうを言った。
 習慣としておざなりにせず、必ずありがとうを言った。  
 それがどんなにか簡単そうでいて難しいことか人を使う立場になった安田にはよくわかる。 
 
 もう、ありがとうを聞けない。
 コーヒーの感想を聞くことが出来ない。
 自分が淹れたコーヒーが美味いか不味いか本人に聞くこともできないのだ。

 机の傍らで立ち止まりからっぽの椅子を無表情に見下ろす。
 胸は乾いていた。
 涙は出なかった、一滴も。
 斉藤の為に涙を流すのは卑怯だと思った。
 泣いて生き返るわけでもないのに自己憐憫の涙に溺れるのは生者の義務を怠ることだ。 
 斉藤の為に涙を流すべき人間は他にいる。
 キャビネットの上の写真立て、幸福な家族の肖像を振り返る。
 自分が涙など流すのは卑怯だ。
 斉藤の為の涙は、斉藤を一番想っている人間が流すべきだ。
 私などが、横取りしていいものではない。

 安田は泣かなかった。
 乾いた無表情のまま空いた片手で机をなで、静かにカップをおく。
 ブラックの表面から仄白くたなびきながら立ち上る湯気を見つめ、安田は言う。

 「君にコーヒーを淹れるのは、これが最後だ」

 乾いた声で注げ、机に背を向ける。  
 玄関で靴を履く。
 壁に手を伸ばし電気を消そうか躊躇い、思いとどまる。
 部屋から完全にぬくもりが失せてしまうのを恐れるように、
 心のどこかでまだ部屋の主が帰ってくるのを期待し、未練を断ち切れず。
 部屋の明かりはそのままにして液晶画面に手を翳し扉を解除する。
 安田はもう二度と振り向かない。
 再び扉が閉じる。
 硬質な靴音がたちまち通路を遠ざかっていく。
 あとにはただ煌々たる明かりに照らされ殺風景際立つ部屋と、あるじの帰りを待ち湯気たてるコーヒーだけが残された。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050224004801 | 編集

 夕食の席はバラバラ殺人の話題で持ちきりだった。
 「ほられてたのか?」
 「調べようにも肝心の死体があれじゃな」
 「下半身も見つかんねーのか」
 「両足は見つかったぜ。一晩下水に漬かってぷかぷか浮いてたのを発見したんだ、何を隠そうこの俺様が。下水管の破れ目を直そうって工具箱もって梯子下りる時によ、下水をぷかぷか流れてく棒っきれを発見したんだ。なんだありゃって目を凝らして梯子おっこちるほどおったまげたぜ、人間の足じゃねーか!」
 「犬神家だなまさに。スケキヨだ」
 「だれだよスケキヨって」
 「けどよ、いくらなんでもバラバラはやりすぎじゃねーか。勢い余って殺しちまったのはわかるけどわざわざばらすなんざとても正気の沙汰とは思えねーよ、手間がかかるし面倒くせー。大体何の道具使ったんだよ。肉屋でもなし骨と肉断ち切る重労働がナイフであっさりできるわきゃねーだろが、チェーンソーか鋸が必須だぜ」 
 「犯人はよっぽど慣れたやつだな」
 「慣れたってなんにだよ。解体にか?バラバラ殺人のプロか?おえ」
 「バラバラ殺人の前科もちがあやしいんじゃねーか」
 「看守どもが今調べてるってよ。調書あさってバラバラ殺人の前科もちをリストアップしてるんだそうだ。けっ、ご苦労なこったぜ。囚人虐待死の調査もそんくらい熱心にやれってんだ、自分に都合の悪い事は権力で握り潰す腐ったインペータイシツめ!殺されたのが看守や医者の時だけけはりきりやがって、胸糞わりぃぜ」
 「インペータイシツとインポテンツって似てるな」
 「プリズンの医者も災難続きだよな。前のジジィは囚人にぐさっで入院、新しく来た医者は一ヶ月もたたねえうちに下水道でバラバラ。医務室に呪いかかってんじゃねーか?風邪こじらせて肺炎併発して死んだ患者の呪いとかカマ掘られまくって痔になってのたうちまわった患者の祟りとか」
 「痔の祟りとバラバラと何の関係があんだよ?痔の祟りで痔になるならわかるけど痔の祟りで手足バラバラはナンセンスだ」
 「飯食ってるときにでけー声で痔の話すんじゃねーよ食欲うせんだろが馬鹿!!」
 「そもそもなんでバラバラなんだよ、わざわざバラバラにする理由わかんねーよ。あれか、食うのか。筋固そうだけど」
 「どっか別の場所で殺して持ち運ぶためじゃねーか。下水道なら人目につかねーし時間稼ぎになるって思ったんだよきっと、イカレポンチの浅知恵で」
 「単に死体切り刻むのが大好きな変態の仕業だろ。犯人は南棟のモンタナだな、ほら知ってんだろ、二年前に起きた東麻布の連続猟奇事件。あれの犯人だよ。スラムのガキがかっさらわれてバラバラにされた事件の犯人さ。モンタナは好きなバンドの影響で黒魔術に傾倒してよ、悪魔礼賛の儀式だっつって攫ったガキをバラした血で魔法陣グルグル描いて、しかもバラしたガキの手でマスかいてるとこを警察に踏み込まれたってんだから正真正銘の異常者だよ。病気が再発したんだよ、バラバラバラモン屍好症。ムショにぶち込まれてからも誰かをバラしたくて辛抱たまんなかった、そんな所にひ弱な医者がやってきたもんだからこりゃあいいカモだって病気が疼いちまった」
 「屍姦されてたのか?」
 「わかんねーって言ってんだろ馬鹿」
 「だれが馬鹿だやんのか馬鹿」
 「てめぇもバラして煮込んでやろうか、脳から味噌搾ってやる」 
 無責任な憶測と詮索が乱れ飛ぶ。
 東京プリズンの囚人は刺激に飢えている。
 時間通りに起床し朝食を済ませ強制労働に向かい帰還し夕食を済ませ就寝、常に看守に監視され息苦しく抑圧された日々を過ごす彼らは憂さ晴らしを求めてやまない。
 斉藤殺害のニュースは日々の倦怠を払拭する衝撃的事件として関心を独占、食堂に会した囚人たちは競うようにして事件の真相を推理し、疑わしい根拠をあれやこれや虚実入り混じり列挙し犯人特定に熱を上げる。
 その顔はどれも興奮にぎらつき殺気だってさえいる。
 面識ある者もない者も関係なく斉藤の人となりを語り、死体回収作業に携わったブルーワークの囚人は死体発見現場の酸鼻な惨状を身振り手振りを用い鮮明に描き出し、犯人は北棟のだれそれだ否西棟のだれそれだと喧々囂々躍起になって持論を主張する。
 「よっしゃ、決めた!看守どもより先に肘から先を見付けてやる!」
 「面白そうだな、俺も行くぜ」
 「看守ども出し抜いて斉藤の膝から上見つけてやる!」
 向こうのテーブルで歓声が上がる。
 床を這い押し寄せるどよめき、快哉。
 机に足かけ拳を突き上げ息巻く囚人に仲間が追従、我も我もと参加を表明する。
 方々のテーブルで気勢を上げる囚人たちをよそに平静を装い箸を運ぶ。
 煮物を口に入れ機械的に顎を動かし咀嚼する。
 味がしない。
 わからない。
 苦労して飲み込む。
 何を食べても味がしない。
 美味い不味いの区別がつかない。
 焼き魚に箸を入れ切り開く。
 身をほぐして切り分け口に運ぶ。噛む。条件反射で唾液が分泌される。
 噛む、ひたすら噛む。
 一回、二回、三回。十回、十五回、二十回……三十回まで数えて嚥下。
 この行為には何の意味もない。
 五感から急速に現実感が褪せていく。
 食堂の喧騒がとるにたらない雑音として意識の外に追いやられる。
 ともすると自分の居る場所さえわからなくなる。
 体がここにないかのような奇妙な浮遊感と錯綜した現実感、意識が器を抜け出しはるかな高みから食堂全体を俯瞰しているような錯覚。
 手が、動いてる感じがしない。
 僕の意志を置き去りに勝手に手が動く。
 惰性的な動作でもって煮物を摘み口に運ぶ。
 周囲のテーブルでは囚人らが色めきだち事件の謎を声高に論議している。

 犯人は誰だ?
 どうして殺された?
 何故バラバラにされた?

 事件にまつわる数々の謎、様々な疑問が彼らを駆り立ててやまない。
 斉藤は一躍有名人となった。食堂に集った皆が皆今回の事件を噂している、共犯のように示し合わせ情報交換にいそしんでいる。
 何も東棟だけに限った事じゃない、今頃どこの棟の食堂も事件の噂で持ちきりだと容易に想像つく。
 東京プリズンで医者が死んだ。
 ただ死んだのではなく何者かによって殺された、四肢をばらばらにされるという極めて残虐な方法でもって。
 誰が殺した?
 誰が、誰が、誰が……混沌と渦巻く猜疑心、それを上回る露骨な好奇心。
 刑務所内で発生した前代未聞の殺人事件も囚人たちにとっては目新しい娯楽でしかなく、突如降って湧いた醜聞に群がるハイエナと化し、あらゆる手管を用いて興味本位の真相究明に乗り出す。
 斉藤の死をまるで楽しんでるかのような無邪気な無責任さでもって雑談のネタにする囚人たち、その顔はどれも後ろめたさと無縁に輝いている。
 斉藤の死を軽々しく扱う連中に吐き気を伴う嫌悪を覚える。
 箸が鈍り、止まる。
 「………もういい」
 辟易した表情で箸を置く。
 「もういいのか。酷い顔色だぞ」
 正面からの声に鈍重に顔を上げる。
 サムライが、いた。
 正面で箸を取り、いつも通りすっきり背筋を伸ばし食事をしている。
 食事を中断したサムライがわずかに気遣わしげな目を向けてくる。
 その顔に親身な労わりを見てとり急にやりきれなくなる。
 「食欲がない。房に帰る」
 そっけない返事を返しトレイを持ち席を立つ。
 ガタンと椅子が鳴る音さえ神経に障る。
 机と机の間、油でぎとつく通路を歩いて行列に並びカウンターにトレイを返却、踵を返す。
 視界の軸が歪む。
 軽い眩暈に襲われ体が傾ぐ。
 支えを欲して泳いだ手が机の端を掴む。
 机の端に縋って呼吸を整え何とか体勢を立て直す。
 食堂で倒れるわけにはいかない、こんな不衛生な床に倒れるなど冗談じゃない。
 よろめいた拍子にずれた眼鏡の位置を直し不安定な足取りで歩行を再開、雑踏に紛れて廊下に出る。
 振り返りはしなかった。
 サムライと目が合うことに漠然たる恐怖を感じた。
 否、サムライだけじゃない。食堂の誰と目が合うのも怖かった。
 皆が皆こちらを見ている、僕を監視している、一挙手一投足に粘着な凝視を注ぐ。

 本当は彼らもわかっているのだ。
 斉藤を殺した犯人が誰か、ばらばらにして遺棄した犯人が誰か。

 「犯人は、この僕だ」
 口に出して事実を確認、毒気の滲んだ自嘲の笑みが浮かぶ。
 僕と斉藤が一緒にいるところを多くの囚人が目撃してる。
 強制労働に向かう囚人でごった返す廊下のど真ん中、雑踏の流れに逆らい塞き止めるように立ち話をする僕と斉藤を多くの人間が目撃している。
 五体満足の斉藤と最後に接触したのはこの僕だ。
 怪しまれてしかるべしはこの僕、鍵屋崎直だ。
 なのに何故だれも名指ししない、犯人と糾弾しない?
 犯人は僕だ、僕が斉藤を殺したのに何故誰も面と向かってそれを言わない?
 気付いていながら泳がし反応を楽しんでいるのか、事件の真相がバレやしないかとびくびくする僕を影で笑っているのか?

 斉藤を殺したのは、僕だ。

 「………」
 無言でてのひらを見下ろす。
 椅子の脚が頭部に食い込むおぞましい感触を反芻、握り潰す。
 斉藤の頭部を椅子で殴打した時の衝撃と直後の映像がまざまざと蘇る。
 頭部から大量の血を流し倒れ臥す斉藤、血に染まる白衣、ぐったり弛緩した体、そして……
 『助けてやろうか?』
 だらけきった姿態で手すりに凭れる青年。
 手すりに肘をおいたその青年は細めた双眸に愉悦の光を宿し、薄っすらと笑みを刷いてこちらを眺めている。
 絶対的優位を誇示するように全身に余裕を匂わせ、干し藁の髪の隙間からすべてを見通す透徹した視線を放ち。

 斉藤を殺したのは、僕だ。
 ばらばらにして遺棄したのは、レイジだ。
 僕らは名実ともに共犯になったわけだ。
 もう引き返せない。
 墜ちるところまで墜ちるまでだ。

 心臓に負荷がかかり動悸が速鳴る。
 全身の血が逆流する戦慄。
 レイジは意気揚々と死体の始末を請け負った。
 自分に任せておけば何も心配はないと、自分はプロだから万事ソツなくやってのけると宣言した。
 僕は、レイジを頼った。
 天才のプライドも虚勢もすべて擲ち暴君に膝を屈した。
 事件を隠蔽するため、僕が斉藤を殺した事実を隠蔽するため、ひいては鍵屋崎夫妻殺害事件の真実を永久に葬り去るために暴君の奴隷に成り下がったのだ。
 『忘れるなよキーストア。俺もお前も人殺しだ』
 忘れるものか。忘れられるものか。
 あの時刻まれた烙印は皮膚にめり込み今や完全に僕と同化した。
 書架に寄りかかった僕の上着を乱暴に剥ぎ、大胆に晒した背中に血の十字架を施しレイジはそう言った。
 忘れるものか。
 僕はあの日を境に暴君に絶対服従を誓う奴隷となった、暴君を共犯に引き込んだ見返りになにもかもを提供すると約束した。
 暴君がこの体がほしいというならくれてやる、すでに汚れきった体と引き換えに恵の尊厳と名誉が守れるなら僕などどうなってもいい。
 斉藤をばらばらにして遺棄したのはレイジだ、レイジ以外にいない。
 しかしあくまでレイジの罪状は死体遺棄に尽きる、殺人を犯したのはこの僕だ。

 斉藤を殺したのは、僕だ。

 明確な殺意を抱き椅子を振り上げ頭部を強打したのはこの僕、斉藤が死ぬきっかけを作ったのはこの僕だ。すぐ医務室に運べば助かったかもしれないのに見殺しにした、僕のせいで斉藤は死んだ。
 僕がこの手で斉藤を殺した。
 覚えているあの感触を、椅子の脚が頭部を殴打した時の突き上げる衝撃を、鈍い音たて床にもんどり打つ斉藤を、風圧に広がる白衣を。
 鮮烈なフラッシュバック。
 気分がますます悪化する。
 食堂の喧騒から一刻も早く遠ざかりたい一心で足を引きずるように廊下を歩く。
 閉じた瞼の裏側で映像が爆ぜる。
 床に倒れ臥す斉藤、血染めの白衣、青ざめた顔。
 『助けてやろうか?』
 良心を麻痺させる蠱惑的な声。
 甘く掠れた独特の響きは麻薬に似て抗い難い作用を及ぼす。
 酩酊感を惹起する甘い声に誘われるがまま暴君のあとに付いていき……

 書架に手を付く。
 乱暴に上着を毟られる。
 外気に晒された背中がひやりと粟立つ。
 うなじを吐息が湿らす。
 獣の交尾に似た体位で背に覆い被さったレイジが肩甲骨に人さし指を押し当てー……

 『You are a slave of the rage.
  You can‘t get away from my hand』

 これ以上は思い出したくない。
 思い出したら平静を保てなくなる。
 強く強く目を瞑り回想を遮断する。
 呼吸が荒い、動悸が荒い。
 レイジは、暴君は今どこにいる?
 東京プリズンのどこかに潜伏しているのは確実、だがその足取りは杳として知れない。ロンがいる医務室に訪れた形跡はない。
 看守は血眼で暴君を捜している。
 捕まれば詮議にかけられ独居房に監禁される、否、もしかしたらそれ以上の厳罰に処される。僕は、レイジに逃げ切ってほしいのか?まだ彼に望みをかけているのか、あれだけの暴挙を目の当たりにしても期待を捨てきれないのか。 

 『俺がとんできて守る』
 瞼の裏に静かな決意を湛えた顔が浮かぶ。
 「嘘を吐け、間に合わなかったじゃないか」
 昨日、別れ際のサムライの台詞がむなしく響く。

 もう手遅れだ、何もかも。

 だが心のどこかで安堵している、サムライがあの時あの場にいなくてよかったと感謝さえしている。
 サムライが図書室にいなくてよかった。
 斉藤を殺すところを見られずにすんでよかった。
 凶行の後に続く情景を、暴君の奴隷と成り果て十字の烙印を施される場面を見られずにすんでよかった。
 今日はサムライの顔を見れなかった。
 サムライの目を正視できず顔を伏せてばかりいた。
 僕の身に起きた一連の出来事は勿論伏せている、ロンと一緒にレイジに犯されかけたなどと明かせるはずもない。明かす気など毛頭ない。
 しかしサムライは持ち前の勘のよさで僅かな変化を嗅ぎ取ったらしく、何か物言いたげな気遣わしげな顔でちらちらとこちらを見やる。
 朝からずっとサムライの視線を感じていた。
 声をかけようかどうしようか逡巡する気配を察しながら気付かぬふりで無視を決め込んだ。
 声をかけるタイミングを図りあぐね、食事中さえ二言三言発しただけで口を噤んでしまい、己の不甲斐なさを恥じるように煩悶の皺を刻む。
 サムライが僕を心配しているのはわかる。わかるからこそいたたまれなかった。
 僕は逃げた。
 サムライが口を開くのを恐れ、内心の動揺を見抜かれるのに怯え、犯人が僕だと嗅ぎ当てられる前に食堂を出た。
 周囲は敵ばかりだ。
 すれ違う囚人皆にあいつが斉藤を殺したんだと陰口を叩かれてるような被害妄想に苛まれ心の休まる暇がない。
 常に見張られている緊張感が持続し神経がささくれだつ。
 誰もいない所に行きたい、人の視線を遮断できる所に行きたい。
 すぐ思いついたのは房だ。
 しかし房も安全とは言いがたい、鉄扉の上部は格子窓が穿たれ誰でも気軽に覗き込める。どこへ行けば逃げ切れる?
 焦燥に駆られ周囲を見回す。
 足は自然と房から遠のきあてどなく廊下をさまよう。 
 サムライと顔を合わせるのは気鬱だ。房には帰りたくない。
 だがどこへ?
 図書室は却下。あそこには絶対近寄りたくない、行けば思い出してしまう。いかに床の血痕が跡形なく拭われ椅子が元通りに直されていようとも至る所に記憶の残像が焼き付いている。
 行き場を失った。
 帰る場所はない。
 僕は独りだ。
 どこをどう歩いたのかも覚えてない、ただ衝動の赴くまま延々と続く廊下を歩いて歩いて歩いて歩き続け不毛な堂々巡りのはてにそこへ辿り着いた。

 シャワー室。

 「…………今日はシャワー日だったな」
 忘れていた。
 昨日まではあんなに心待ちにしていたのに。
 今日は二日に一度のシャワー日だ。
 強制労働終了後、夕飯前に汗と汚れを洗い流したい囚人が競って殺到するシャワー室も今は静まり返っている。
 本来まだ食事中、夕飯前にシャワーを浴びてさっぱりするものと夕食後充実してからシャワーを浴びるものとに囚人は二分されこの時間帯は不人気だ。
 扉の前で気配を窺うも誰もいないらしくシャワーの音も聞こえない。
 ノブを握り、慎重にドアを押す。
 シャワー室のドアは厚い合板で出来ており、開けた途端に湯気で眼鏡が曇る。
 注意深くあたりを見回し、誰もいないのを確認してからロッカーに接近する。
 眼鏡を外しきちんと弦を折り畳む。
 上着の裾に手をかけ一息に脱ぐ。
 肋骨の浮いた脆弱な上半身を外気に晒す。
 上着を畳んでからズボンに手をかけこれも脱ぎ、きちんと畳んで脱衣籠に入れる。
 裸眼はなんとなく落ち着かない。
 裸にも増して無防備で不安を煽る。
 慎重な足取りでタイルを踏み、衝立で仕切られたシャワーブースに入る。
 フックからシャワーをとる。
 右回しで温度を調節、コックを捻る。
 胸の位置に翳したシャワーから適温の湯が降り注ぐ。
 生き返るようだ。
 すべて洗い流してしまいたい。
 僕の体に触れたレイジの感触、僕を裸に剥いて背中に烙印を施した指の感触を捨て去ってしまいたい。
 サムライの感触だけ覚えていたい、それ以外の男が触れた記憶などすべてシャワーの湯と一緒に洗い流してしまえ。
 シャワーを握る手に力がこもる。
 強く目を閉じシャワーをかける。
 熱い湯が体の表面を愛撫し垢と汗と汚れとを表皮を剥くように洗い流していく。
 自分が汚れているとの強迫観念に駆られ性急に肌を擦る。
 擦った肌が赤く腫れる。
 全身を入念に洗う。
 足の指の間に溜まった砂をこそぎおとし、筋肉が未発達な細い太股に石鹸を泡立てた手を這わせ、幅の狭い腰から脇腹にかけて泡でぬめる手で円を描くようになで上げる。
 忘れろ、忘れてしまえ。
 『いい加減素直になれよ親殺し。上の口と違って下の口は正直だ、悦んでぎゅうぎゅう締め付けてきやがる。指三本でも足りねえってひくついてるぜ。入れてほしけりゃ泣いて頼めよ。それともこのまま指だけでイかしてほしいか』
 忘れろ。
 『細い足。女みてえ。言われた通り股開けよ、がくがく腰振れよ。中で出したもんはあとで掻き出してやるよ、シャワー使ってな。それともまた吊ってほしいか、ぎちぎちに縛ってほしいか?そうか、縛られるのが好きだったんだな。気付かなくて悪かったよ。お望みどおり縛ってやるよ……』
 忘れてしまえ。
 売春班の忌まわしい体験も、レイジのキスも、すべて。
 僕の体内に注がれた汚い精液と一緒に一滴残らず掻き出し洗い流してしまえ。
 汗でぬめる手のおぞましい感触も内臓を圧しむりやり押し入ってくる熱塊に体がふたつに引き裂かれる激痛も
 『理不尽に痛めつけられたものの涙は必ず贖われねばならない。それが医師としての僕の信条でね』
 何故ここにきた、斉藤。
 何故僕に構う。
 構いさえしなければ、死なずにすんだものを。
 価値もない僕の涙を、贖おうとしたばかりに。
 「馬鹿な男だ」
 本当に馬鹿な男だ。自ら死にに来たようなものだ。
 斉藤の死は無意味だ。
 彼の死は僕の内部に何ももたらさなかった。
 水滴が伝う喉がひくつく。
 喉の奥で笑いが泡立つ。
 排水溝が詰まったような、嗚咽にも似て卑屈にくぐもった笑い。
 痙攣の発作じみた不規則な笑いが長く尾を引く。
 狂気を発したように俯き笑いながら、屈折した思いを吐露する。
 「馬鹿な男だ。真実を求め真実に殺され満足か斉藤、誰も幸せにしない真実など暴き立てるからこうなるんだ、自分で死期を早めたも同然だ。同情などするか。後悔などしない。偽善者ぶって冤罪を立証しようとした結果がこれだ、このざまだ。恵を傷付ける人間は死んで当然だ。恵の担当医として接してきたくせに事件の真相を暴きたてこの上さらに恵を不幸にするなど最大の裏切りだ、貴様のような偽善者は死んで当然だ、恵を不幸にする人間などこの世から一人残らず駆除してやる。僕は恵を守る、そう決めたんだ。それだけが僕の存在意義だ。恵を守るためなら良心の呵責なく人を殺す、それで恵の幸せが保証されるなら………」
 恵。僕の妹。彼女を守るためなら何だってする。
 両親を殺したように、他人も殺す。
 できる、できるはずだ。
 僕は既に人殺しだ、二人殺した人間が三人目を殺せない道理はない。
 後悔は、ない。
 後悔なんてするもんか。
 手をきつく握りこむ。
 壁を打つ。
 一度、二度、三度。
 斉藤を殴った感触が消え去れと願い壁を殴る自罰行為に走る。
 鈍重な殴打音が鼓膜にこびりつく。
 シャワーの音がブースにこもり反響する。
 壁を殴打する音が次第に弱くなり腕からふいに力が抜ける。
 「………………っ………………」
 壁に手を付き体を支える。
 膝が萎える。
 壁に縋り付く事で辛うじて体を支える僕の耳に、水滴を弾き飛ばし駆け寄る足音が届く。
 「直?」
 驚きに打たれ顔を上げる。
 「………サムライ?」
 湯気に曇る衝立の向こうに人影が立つ。
 どうしてここに?
 喉まで出かけた問いを苦労して飲み下す。
 「………様子が変だから、その、気になって追ってきたのだ」 
 いつものサムライらしからぬためらいがちな声。
 どことなく言い訳がましい響きも帯びていた。
 次第に目が慣れて衝立の向こうに立つサムライの姿をはっきり捉える。
 サムライは裸足でズボンを膝まで捲り上げていた。
 尖った踝と古傷だらけの脛を露出した姿がやけに新鮮に映る。
 ぬれタイルを踏みしめ仁王立つサムライを空洞の如く虚ろな視線で見返し、問う。
 「つけてきたのか」
 「人聞き悪い事を言うな、呼び止めるきっかけが掴めなかったのだ」
 なにも威張ることではないことを威張り、サムライが渋面を作る。
 尾行に気付かないとは注意力散漫にも程があると失態を呪う。
 衝立を隔てて立ったサムライは一層気遣わしげな眼差しで僕を見つめ、口を開く。
 「今日のお前は朝からおかしい。ろくに口も利かず呼びかけても上の空、食事にも手を付けん。毒舌にも張りがない」
 細めた目に痛ましげな色が宿る。
 「………斉藤の死が原因か」
 「生理だ」
 「は?」
 無表情にサムライと対峙する。
 空白の顔から理解に苦しむといった渋面となり、五秒後に漸く憤懣やるかたないといった仏頂面に変じたサムライがきっぱり言い切る。
 「その手の冗談は好かん」
 「冗談とわかって何よりだ。君がいかに女性の体の仕組みに疎いとしても、男に生理が起きる驚異を真に受けるほど世間知らずでなくて安心した」
 苦虫を噛み潰すサムライをそっけなく突き放す。
 気まずい沈黙が訪れる。
 沈黙を破ったのはサムライだ。
 「………斉藤と何かあったのか」
 コックを締めて湯を止める。
 ホースを持って体ごと向き直る。
 サムライは少し逡巡してから意を決し核心をつく。
 「昨日斉藤が大事な話があると言ってお前を迎えに来た。その後何があったか俺は一切聞かされていない。生きている斉藤に最後に会ったのは直、多分お前だ。斉藤の身になにがおきたか、知ってるのではないか」
 「僕が斉藤の死に関わってると?」
 無表情に徹しサムライを見詰める。
 凝視にたじろいだサムライに一瞬葛藤の表情が覗く。 
 「斉藤となにがあった」
 「プライバシーの詮索は感心しない。僕と斉藤が持った個人的な話し合いまで君に明かす義務はない」
 「ごまかすな」
 語気を強め一歩を詰める。
 「昨日俺が帰ったときからずっとお前の様子はおかしかった。斉藤となにがあったか聞こうと思いながらも胸に秘めていたが、もう我慢できない。斉藤は死んだ。ばらばらに切り刻まれ殺された。なにがあったんだ、直。五体満足の斉藤と最後に会ったのはおそらくお前だ、生きている斉藤と最後に言葉を交わしたのも。変死の事情について知らないとは言わせん」
 低めた声に気迫が篭もる。
 据えた双眸が苛烈な光を放つ。
 底知れぬ凄味を含んだ顔つきに気圧され、思わずあとじさる。
 「答えてくれ、直。関係ないならないと言ってくれ。斉藤とは本当になんでもないと、ごく個人的な事柄を話しただけで終わったとそう請け負ってくれ。別れた後の斉藤の消息は一切知らんと、事実ならそう言ってくれ」
 縋るように切迫した調子で強要するサムライを虚ろに見返す。
 無言を守る僕に焦れてサムライが唇を噛む。
 「………斉藤失踪当時、居残っていた囚人に事情聴取を行うそうだ。食堂で小耳に挟んだ。居残っていた人間の中に犯人がいると上は疑っている。特に直、お前は危険な立場におかれてるんだ。お前は斉藤と話した最後の人間、斉藤の消息を知る唯一の手がかりだ。今日中にも召喚され尋問が行われるぞ。副所長が立ち会うなら最低限の安全は確保されるが、正直所長のもとにお前を行かせるなど反吐が出る」
 「なら行かせなければいい」
 サムライが息を呑む。
 言葉を失うサムライに一気に畳み掛ける。
 「どうした、できないのか。普段あれだけ僕を守るとか偉そうなことを言っておいて、いざ僕が連れて行かれるとなれば何も出来ず指をくわえて見ているだけか。見損なったな。そんなに僕と斉藤の間に起きた事が気になるならいっそ行かせなければよかった、間に割り込んで木刀で追い払えばよかった、昨日そうしなかったくせに今さら用心棒面をしても遅い、もう全部手遅れだ」
 世界中を敵に回し孤立したような気分で苛立ちをぶつける。
 サムライは殊勝らしく罵倒を受け止める。
 反論も否定もせず悄然と項垂れ、不当な攻撃と辛辣な毒舌を耐え忍ぶ。
 苦悩に歪むその顔が嗜虐心に火をつける。
 僕が図書室で尋問を受けていた時、僕が椅子を振り上げ斉藤を殴り倒した時、レイジに唇を噛み切られその血で背中に烙印を施された時一体どこでなにをしていた?
 僕を守ると誓ったくせに、何度も何度も何度も誓ったくせに僕が一番そばにいてほしい時にどこにいた?
 どこにもいなかった。
 「君はいつもそうだ、僕を守ると誓ったくせに肝心な時にいない。君に僕と斉藤の関係を詮索する権利などない、なぜなら君はあの時あの場にいなかった、僕を突き放してひとりでさっさと行ってしまったんだから。わかったら消えろ、君の顔など金輪際見たくもない。見ての通りシャワーの途中なんだ、人に全裸を見られながら平然とシャワーを浴びれるほど僕の神経は図太くない」
 再びコックを捻り湯を出す。
 シャワーから迸る湯を首筋にかける。
 サムライが歯痒げな顔をする。
 視界の端に進退窮まり立ち尽くすサムライを無視、首の後ろを片手で支え喉仰け反らせ露出を強調、シャワーを浴びる。
 水滴が体を伝う。
 熱い湯が肌に染み入り筋肉をほぐす。
 「見せる」ことを主眼においた洗練された身振りで片腕を上げる。
 脇の下から踵にかけて体の線に沿った流れができる。
 単調な水音が沈黙を埋める。
 視界の端のサムライをよそに努めて平静を装い、ゆっくり時間をかけ体の表裏を洗う。
 「本当の事を話してくれ」 
 シャワーの水音を遮り声がする。 
 胡乱にそちらを向く。
 湯気で曇った視界にぼんやりと人影が映り込む。
 いつのまにか衝立ににじり寄ったサムライが酷く思い詰めた顔で念を押す。
 「さもなくばお前を守りきれん」
 「力づくで聞き出してみたらどうだ。得意だろう」
 まだ僕を守るつもりでいるらしいサムライに反感をもつ。
 サムライが一歩踏み出す。
 衝立代わりのドアが押され軋み音をあげ、開く。
 半ばブースに身を乗り入れたサムライが、悲壮な覚悟に厳しく引き締まった面持ちで最後の説得を試みる。
 「じきに看守が迎えに来る。それまでに本当の事を話してくれ。お前がいやだというなら看守に引渡したりせん、だから……」
 「近寄るな」
 我知らず鋭く制す。
 サムライが立ち止まる。
 サムライに背を見せ壁と向き合い、淡々と言う。
 「ただで見せるほど僕の体は安くない、売春班ではそれなりに行列ができたんだからな。知っているかサムライ、僕の鎖骨は形がいいんだそうだ。腰幅の狭さがいやがうえにも痛ましさを引き立てるとサディスティックな看守が涎をたらしていた。男を誘う腰だそうだ。後背位で仰け反った時に出来る背中の窪みがいやらしいと評判で、その噂が出回ってから客がバックを好むようになった。正常位より負担が減るからこちらとしては歓迎だが……」
 自虐の笑みを浮かべるのと手首が掴まれるのは同時。
 「直っ!」
 耳を劈く叱声。
 憤激に駆り立てられたサムライが僕の手首を掴みむりやり振り向かせる。
 荒々しい力に蹂躙され体が強張る。
 手首に痛みを感じる。
 僕の手首を掴み顔の横に固定したサムライが前屈みの姿勢で顔を覗き込む。 
 「自分を貶めるような事を言うな。そんなお前は見たくない」
 真剣な目に圧倒される。
 僕以上に痛みを堪えているような苦しげな表情が視界を占める。
 サムライは、優しい。
 自分への侮辱は耐え忍んでも、僕への侮辱は許さない。
 鼓動を感じる距離に胸が接する。
 シャワーの水音が空虚に響く。
 狭いシャワーブースにふたりきり、サムライの力強い腕に掴まれた僕は、冷静に尋ねる。
 一切の感情が剥ぎ取られた氷点下の声で。
 「どんな僕なら気に入るんだ」
 「何?」
 怪訝な表情のサムライ、当惑に流され握力が緩んだ一瞬の隙にすかさずシャワーを向ける。
 顔面にシャワーの放射を受けたサムライがたまらずあとじさり足を滑らせる。
 ぬれタイルに尻餅ついたサムライを、湯を放出するシャワー片手に傲然と見下ろす。
 「守られてばかりの僕なら気に入るのか」
 力で劣るものは守られて当然と思う傲慢が屈辱を煽る。
 それが弱者のプライドを踏み躙り優位を誇示する行為とも知らず無邪気に無神経に「守る」を連発、僕を守るためなら喜んで犠牲になるどこまでも自己本位な男を激しく憎む。
 その当たり前を成し遂げられなかった彼に、罰を加える。
 名伏しがたい衝動に駆られるがままコックを捻り放出の勢いを強くしたシャワーを向ける。
 サムライを壁際に追い詰め容赦なくシャワーで攻撃、湯責めの屈辱を味あわせる。
 何が何だかわからぬままシャワーを照準されたサムライの全身を激しく迸る大量の湯がぬらしていく。
 「何の真似だ直、ふざけるのも大概に………」
 動転の抗議を一蹴、頭といわず肩といわず息をも継がせず集中攻撃。
 今やサムライの体で濡れてない箇所はどこもない。
 大量の湯を被った全身から濛々と白い湯気が上がる。
 額に貼り付いた濡れ髪から滝のように雫が流れ、大量の湯を吸った服はぐっしょり吸いついて肌を透かす。
 透けた服から浮かび上がる火傷の痕、筋肉の陰影を強調する濡れた服から垣間見える傷痕が妙に悩ましい。
 僕とはまるで違う男の体、しなやかに筋肉の発達した体が湯気の中でもがく様に魅せられる。
 「シャワーをどけろ、直!悪ふざけはいい加減にしろ、こんななりでは房に帰れん!」
 今だ勢い良く湯が迸り出るシャワーを放る。
 床で跳ねたシャワーが甲高い音をたてる。
 足元で跳ねたシャワーにサムライの注意が奪われた一瞬の隙に行動に出る。
 「なっ……!?」
 壁際に追い詰められ逃げ場をなくしたサムライの肩を掴んで押し倒す。
 不意を突かれ押し倒されたサムライの顔に衝撃が走る。
 自分の目に映るものが信じがたいといった驚愕の面持ち。
 「暴れるな、人が来る」
 サムライが足を動かすたび下半身に振動が伝わる。
 僕は全裸だ。
 絡み合って床に倒れたせいでちょうど裸の股間が膝に接している。
 じっとり湿った膝が股間を擦るたびじれったい性感が生じ、体の奥が疼く。
 「……何を考えてるんだ」
 ぬれタイルに押し倒されたサムライが呆然と呟く。
 シャワーの水音が沈黙を埋める。
 「本当はこうしたかったんだろう。わざわざシャワー室にきておきながら、何もしたくないわけがないじゃないか。劣情剥き出しの至近距離で僕の裸を視姦しておきながらいまさら聖人ぶるのか、君は。それとも何か、キスはいいのにそれ以外の体の接触は駄目だと?舐めるように僕の裸を見ておきながら自分だけは潔癖と言い張るつもりか」
 苛立ちが憎しみに変わる。
 僕を守ると誓いながら守れないこの男を、僕の唇を奪いさんざんに惑わせておきながら許可すれば拒む男を、僕は心の奥底でずっと憎んでいた。
 自分だけ潔癖を貫き通すその態度が僕の劣等感を刺激してやまないと何故気付かないのだ、この男は。
 どうしてこんなにも鈍感で残酷なのだ、彼は。
 必死に抑圧してきた不満が奔騰、身の内で激情が荒れ狂う。
 僕の事が心配なら何故あの時ついてこなかった、止めてくれなかった?
 君がいればもしかしたら凶行を思いとどまったかもしれない、斉藤を殺さずにすんだかもしれない、暴君と契約せずにすんだかもしれない。
 何故あの時一緒に来てくれなかった?
 なぜ僕をひとりにした?
 友達なら、どうして止めてくれなかった。
 『斉藤がいるだろう』
 別れ際の言葉が僕を責め苛む。 
 胸の内でどす黒い憎しみが滾り立つ。
 肩を掴む手に力を込める。
 肩に指が食い込む痛みに顔を顰めるサムライにのしかかり、もう片方の手で露骨に股間をまさぐる。
 「これでも欲情してないと言い張る気か」
 「やめ、ろ………自分のしてる事がわかってるのか?」
 「わかっているとも。騎乗位だ」
 ズボンの上から股間を揉みしだかれる恥辱にサムライが呻く。
 濡れ髪が額に貼り付いて別人のようだ。
 薄っすら上気した目尻が倒錯的な色香を醸す。
 快楽を堪えて呻くサムライの表情を舐めるように見、慎重に腰をずらす。
 「…………っ…………くっ…………」
 「服の上からでも感じるだろう」
 手が執拗さと残酷さを増す。
 緩急つけて竿をしごく。
 売春班で仕込まれたテクニックを駆使し技巧を凝らした手淫を行う。
 血が滲むほど唇を噛み呻きを殺すサムライ、極限の恥辱に歪むその顔に気分が高揚する。力づくで突きのけることもできるのにそうしないのは僕を気遣ってだ。
 こんな時まで手加減してくれるとは本当に優しい男だなと苦笑する。 
 その優しさが枷になる。
 「声を出していいぞ」
 手を伸ばしコックを捻る。
 床に放置されたシャワーから大量の湯が迸る。
 声をかき消すようにとの配慮に感謝どころか非難の眼差しを向けサムライが言う。
 「正気の沙汰ではない」
 「勃起しながら言うことか」
 勝ち誇った声で指摘する。
 てのひらで脈打つ熱の塊を感じる。
 満足感に浸りながら掌を上下させる。
 サムライが苦しげに首を振る。
 「………やめろ………これではまるで……」
 「売春夫か」
 挑発の媚態でそれに応じる。
 サムライの上着の裾に手をかけ、劣情を煽る緩慢な動作で捲り上げる。
 濡れた上着の下から研鑽した筋肉をまとう逞しい体が現れる。
 一切の脂肪を削ぎ落とした禁欲的な体を幾筋も流れを作り水滴が伝う。
 僕とはまるで違う、鍛え抜かれた男の体。
 僕のそれはとはまるで違う水を弾く硬い筋肉と荒削りな体の線。
 至る所に穿たれた新旧大小の傷痕をひとつひとつ指でなぞる。
 胸板の傷、脇腹の傷、腕の付け根の傷……
 様々な形状の傷痕を指先で辿り、その来歴を想像する。
 「僕を庇ってできたものだな」
 精悍な首筋に指を滑らす。
 僕を助けに溶鋼炉に現れたサムライ、燃え盛る火の粉を被った壮絶な姿を思い出す。
 首筋の火傷の上に口をつける。
 唇で愛撫するように火傷をなぞり、放す。
 かすかに塩辛いのは汗が溶けたせいだ。
 サムライの体に刻まれた無数の傷痕、そのひとつひとつに思い出がある。
 傷痕の半分は苗のためにできたもの、もう半分は僕のためにできたものだ。
 なら、半分はぼくのものだ。
 半分は僕の好きにしてもいい。
 「下半分で十分だ」
 含み笑う僕に、組み敷かれても威厳を失わぬサムライが毅然と命じる。
 「上から下りろ」
 「生殺しは辛いだろう」
 股間に手を置く。
 性器は先ほどより硬さを増している。 
 十分使い物に足る状態に仕上がった。
 売春班で強制的に学ばされたテクニックは衰えてなかったらしいと皮肉な思いになる。
 今にも張ち切れそうな布張りの股間をさすり耳朶で吐息に交えて囁く。
 「僕は売春班の売春夫だ。タジマさえ音を上げた淫売だ。友人なら性処理に付き合え」
 
 衝撃。

 一瞬宙に跳ねた体がタイルに叩き付けられる。   
 「げぼっ、がほっ………!」
 タイルに体を強打し咳き込む僕の背後で立ち上がる気配。
 サムライがいた。濡れそぼつ上着を手に愕然と僕を見下ろしている。
 見知らぬ他人を見るようなその目が、自分から仕掛けた行為に挫折した僕のプライドをずたずたにする。
 やめろ、そんな目で見るな。
 軽蔑の眼差しで見るな。
 自制心が弾け、やり場のない憤りに駆られて絶叫する。

 「君は友人じゃない、単なる性処理の道具だ!キスから先に進まない道具などいらない!」
  
 タイル張りのシャワー室に殷々と余韻が反響する。 
 タイル張りの床に手を付き項垂れる僕の横を通り、ホースを拾う。
 キュッキュッと小気味よくコックを捻る音がし、次の瞬間。
 「………!?っは、…………」
 勢い良く放射された冷水が頭を打つ。
 気管に入った水に咳き込む僕を見下ろし、サムライが冷淡に言い放つ。
 「頭を冷やせ」
 冷たい水が肌の火照りを急激に冷ましていく。
 湯とまじわった水が一緒に排水溝に流れ込む。
 サムライがホースを投げ捨て迅速に身を翻す。
 もはや一抹の躊躇も未練もない断固たる足取りでシャワー室を横切るサムライをよそに、僕は床に手を付いたまま、顔を上げる気力も尽きて項垂れる。
 タイルに広げた五指をシャワーから流れ出る水がすすぐ。
 冷水を浴びせられた体から急速に体温が失せていく。

 サムライは行ってしまった。 
 これこそ僕の望んだ事だ。
 彼とはもう一緒にいられない。一緒にいていいはずがない。
 斉藤を殺しレイジに身を売ったこの僕が、薄汚い人殺しの裏切り者が、ぬくぬくと彼のそばにいられるわけがないではないか。

 「は、ははっ。図星をつかれたから逆上したんじゃないか。本当は僕を抱きたいくせに、抱きたくて抱きたくてたまらないくせに傷付けるのがいやだと拒み続けた結果がこれだ、このざまだ!そうだ、君がいつまでたっても認めないから僕から誘いをかけてやったんだ。売春班仕込みのテクニックの感想はどうだサムライ、これが僕の得たものだ、東京プリズンで得たものだ!まだだ、まだまだ他にもあるぞ、たくさんある!売春班で仕込まれたのはこれだけじゃない、こんなのまだ序の口だ、正常位も後背位も座位も跪いてのフェラチオも喉の奥を突くイマラチオも君が知らない事を僕はまだまだ知ってる、無知な君にも教えてやろうとしたんだ親愛の証に、それのどこが悪い!?」

 喉から絶叫が迸る。
 サムライは、もういない。
 床に手を伸ばしシャワーを持ち、頭上に翳す。
 勢い良く放出される冷水に打たれ、深々項垂れる。

 「………………っ……………………」

 全部全部流れてしまえ。
 鍵屋崎優と由香利と斉藤の血の汚れも、体内に注がれた汚れた精液も、全部全部流れ出て排水溝に吸い込まれてしまえ。
 冷たい水がせめて体を浄めてくれるように祈り両手で上体を支える。
 髪の間を流れた水滴が鼻梁に沿い下り合流、顎先から滴る。
 貪欲に快楽をねだる体の火照りと疼きを慰めるため冷水に身を浸し、水滴を五指に握りこむ。
 握りこんだそばから指の隙間から抜け出る水滴を恨めしげにタイルに叩き付け、それでも癒されぬ火照りと疼き、浅ましい昂ぶりに苛まれ目を閉じる。

 どうして抱いてくれないんだ、サムライ。 
 こんなにも求めているのに。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050223233632 | 編集

 天井が白い。
 鼻腔を突いて涙腺に染みる消毒液の匂い。
 切れそうに糊が利いたシーツが頬を掠る。
 眠気が払われ視界が拭われるのを待ち上体を起こす。
 体がだるい。
 寝てるあいだに手足の腱が古いゴムみたいに伸びきっちまったようで起き上がるのも一苦労だ。
 何とか上体の立て直しに成功、締め切られたカーテンに手を伸ばす。
 「聞いたか?斉藤が死んだって」
 動きが止まる。
 「聞いた聞いた、下水道でバラで見つかったんだろ。どこもかしこもその噂で持ちきりだ」
 「マジかよ、つい昨日までぴんしゃんしてたのによ」
 「笑いながら俺に注射さしてったぜあの野郎」
 「誰がヤったかわかってんのか」
 「動機は何だよ。囚人が殺されるのは珍しい事じゃねーけど来て一ヶ月もたたねーうちに医者が殺されんのは前代未聞だ」
 「それがさっぱりわかんねーんだとよ、副所長を筆頭に看守どもが血相変えて調べてるところ」
 「プリズンの医者も災難続きだよな。ヤブジジィは通り魔に刺されて次は下水道でバラされて二度とも事件に巻き込まれて、これじゃあもう医者の来てねーんじゃねーか」
 「鬼門にあたるんだよ医務室は」
 「ちょっと待て、俺たちはどうなるんだよ。明日からだれが世話してくれんだ。看守か?奴らが何してくれるってんだ、期限切れの赤チンぶっかけて放置するのが奴らのやり方じゃねーか!冗談じゃねえ俺は今すぐ退院するぞもう一日だってこんな所にいられるか、このままじゃ殺されちまうよ!」
 「野戦病院の悪夢再びだ」
 「ハンバーガーフィールドだ」
 「キリングミーソフトリーだ」
 「ナイチンゲールの慰問が待ち遠しいなあ」
 「下の世話してほしーぜ、右手動かせなくて溜まりにたまってんだ」
 マジかよ、それ。
 ついこないだまでぴんぴんしてたのに。
 斉藤の身に降りかかった災いについてあっけらかんと話す囚人どもに猛烈な反発が湧く。さんざん世話になったくせに薄情なやつらめ、賄賂でベッドを買い占めて暇な一日寝転がってるだけの仮病の患者にとっちゃかかりつけの医者の死もひまつぶしのねたにすぎないってか?
 衝立の向こうで笑い声が弾ける。
 斉藤が死んだ。
 白熱する噂にあわせ胸の内が不穏にざわめく。
 どうして斉藤が?
 東京プリズンに来てまだ一ヶ月も経ってねえのに……鍵屋崎は?斉藤と親しくしていた鍵屋崎のショックを思い気分が更に沈む。きっとへこんでる、あいつ。無表情にへこんでる。毒舌の張りをなくした鍵屋崎が食堂の片隅そこだけ切り離されたような沈黙の内に細々と芋の煮っ転がしを摘むさまを想像、締め付けられるように胸が痛む。
 斉藤とまともに口を利いた事がない俺は、斉藤が死んだ衝撃よりも鍵屋崎の受けた傷の深さにやりきれなくなる。
 斉藤は鍵屋崎の妹の主治医だと小耳に挟んだ。
 鍵屋崎にとって斉藤は恩人にも近い存在で、信頼まではいかないにしろ信用にたる人物だったんだろうと漠然と認識していた俺は突然の事態に戸惑う。
 ……駄目だ、頭がまともに働かねえ。
 大体何でここにいるんだ、俺。ベッドに身を横たえあたりを見回す。
 ここは医務室だ。
 カーテン開けて確かめるまでもなく漂う消毒液の匂いと白い天井でわかる。
 何で医務室に?
 疑問の原点に立ち返り、頭で昨日の、いや、ここ一週間ばかりの出来事を回想する。
 『香華は死んだ』
 突如その声が蘇る。
 鉄槌の響きを帯びた容赦ない声が俺の胸を深く抉る。
 『俺が殺した』
 噛み砕くように繰り返す。金と銀の目が酷薄に光る。死神のように無表情な男が脳裏に大写しになる。
 道了。
 假面の異名をもつ元月天心の首領、俺を追って東京プリズンにやってきた男。
 堰を切ったように記憶が逆流、身の内を激情が席巻。
 道了の冷徹な眼光が冷徹な表情が冷徹な声音がいやおうなく事実を突きつけ選択を迫る、自分を選ぶかレイジを選ぶかふたつにひとつだと迫る。
 無意識に耳を塞ぎベッドに突っ伏す。
 一週間前から昨日に至る記憶が細部までくっきり鮮明に輪郭を結ぶ。道了。俺達は何回も何回も交わった。俺は道了に抱かれた。子供のふりをして道了のもとへいき歓心を買うため何度も抱かれてやった、しゃぶれと言われればしゃぶったし後ろ向きになれと言われればそうしたし膝に座れと言われ大人しく聞いた。
 俺は淫売だ。
 母親譲りのどす汚い淫血の血が体に流れている。
 物心ついた時から男に組み敷かれてよがり狂う売女を見て育った俺は、いつのまにかお袋と惚れた女を殺した男に股を開く男娼に成り下がっていた。
 媚薬を使われたらひとたまりもなかった。
 「…………くそったれ」
 痛みで罪悪感をごまかそうと二の腕を握り締める。
 強く強く、もっと強く。そうやって自分を罰する。
 完全に思い出した、何もかも。
 一生忘れていたいことまで。
 体が小刻みに震える。
 震えを押さえ込もうとますます強く自分を抱く。
 まだ体が覚えてる、恐怖を。
 昨日、俺は鍵屋崎によって医務室に運び込まれた。
 その時俺は自分の足で立って歩けない状態で、鍵屋崎に縋る事で何とか持ちこたえていた。廊下の途中、医務室に辿り着く前に何度も膝が砕けてそのまま座り込みそうになった。けれども鍵屋崎は見放さなかった、しかたないと毒づきながら俺を抱え引きずり医務室につれてきた。
 ベッドに放り込まれ、そのまますとんと意識を失った。
 あっけなかった。鍵屋崎の肩からすべりおちベッドに横たわると同時に意識がふっつり途切れた。暗転。覚えているのは糊の利いたシーツの感触、毛布をかけてくれた温かい手。多分、鍵屋崎だ。
 「おせっかい野郎め」
 ふと思い出し枕元をまさぐる。
 在った。
 俺の顔の横、すぐそばに置かれていた傷だらけの十字架。
 やけにくすんで見えるのは気のせいだろうか。
 心なし輝きの褪せた十字架の鎖を手繰り引き寄せる。
 指を動かすのも億劫だが、意志の力を振り絞りそれをやり遂げる。
 しゃらりと玲瓏な音がする。
 指の隙間から数珠が流れて清涼な旋律を奏でる。
 掌中から零れる黄金の光に束の間見とれる。
 鍵屋崎に渡された十字架……レイジの宝物。
 意識を失う直前まで握っていた証拠に手が変なふうに強張っている、多分俺が眠りにおちたのを確かめてから鍵屋崎が抜き取ってそばに置いてくれたんだ。
  「…………レイジ………」
 十字架を握り締める。
 指に力を込める。
 しっかり抱いた十字架を額に押し当て、頭を垂れる。
 十字架のしんとした冷たさが額に染み入りレイジがよくこうしていたなと思い出す。
 ある時は怒りを鎮めるためある時は哀しみを癒すためある時は喜びを噛み締め、レイジはよくこうして十字架を額に押し当てていた。
 レイジを真似て十字架を額に押し付ける。
 周囲の喧騒が急速に遠のく。
 縋るように十字架を抱く。
 カーテンに遮られ誰の目もないのをいい事に俺はまるでキリスト被れみたいに、レイジのぬくもりと残り香がまだ染み付いてるような、勿論そんなのは気のせいで都合良い妄想の産物に過ぎないとしても、今確かに掌中にその存在を感じられる十字架にレイジの面影を託して想いを馳せる。
 「どこにいるんだ、お前」

 手が届かなかった。
 また逃がしちまった。
 もう少しで届いたのに。

 別れ際の暴君が蘇る。
 暴君の奥底にレイジはいる、今もいると信じたい。
 いや、信じてる。信じなきゃ駄目だ。
 「レイジ、どこにいるんだよお前。俺が呼んでんだから答えろよ、すぐ答えるのが相棒の務めだろ」
 淡い期待を込めて用心深くあたりを窺う。
 カーテンの向こうに立つ人影はないか、どこからか音痴な鼻歌が流れてこないかと五感を研ぎ澄ませ気配を探るもことごとく裏切られる。
 レイジは居ない。
 俺の近くには、居ない。
 「……ひとりぼっちにしねーって約束したじゃんか」
 十字架を握る。指が食い込む。
 さんざん泣き枯らしたせいでもう涙は出てこない。
 荒涼とした風が心を吹き抜ける。
 ちょっとの衝撃で俺自身ばらばらに砕け散ってしまいそうな危惧を覚える。
 俺は、ひとりだ。
 隣にだれもいない。
 ベッドの傍らには折り畳みの椅子があるがそれもからっぽ、数時間前まで人がいた形跡はあるがおそらくそれは鍵屋崎でレイジじゃない、俺の寝顔を見守り付き添ってくれたのは鍵屋崎でレイジじゃない。レイジはまた俺の手の届かない所に行っちまった、十字架を残して。
 「薄情者め」
 沈黙を恐れ、掠れた言葉を搾り出す。
 「俺が呼んだらすぐ来いよ、何をおいても駆けつけてこいよ。小便の途中でもクソの途中でもほっぽりだして即来いよ、他のもんなんか全部放り出して俺のためだけに駆けてこい、それがお前の務めだろ。手なんか洗わなくていいよ、そのまんまでいいよ。汚くたって気にしねーよ。俺だって違わない、いや、俺のほうがもっともっと汚い。だって俺は道了に、」
 言葉を続けようとして息を飲む。勝手に舌が止まる。その先は聞きたくないと心が踏ん張って反抗する。
 十字架を強く強く握り締める。
 指が軋む。十字架がめりこみ跡を付けるほど強く強く額を圧する。
 十字架に悪夢を払う力がやどっているなら、今こそ奇跡を見せてほしい。
 今この瞬間だけでいいから、言葉を続ける勇気を与えてほしい。
 俺が俺の罪を自覚し、告白するための勇気を。
 ほんのちっぽけな勇気を。
 「俺は道了に」
 『何度呼んだところでレイジは来ない。お前の居場所はここしかない』
 「あいつに、抱かれて」
 『お前はレイジを捨てたんだ。俺がお前を選んだように、お前は俺を選んだんだ』
 「ぐちゃぐちゃにされて」
 お袋のように、梅花のように。
 あいつの玩具に成り果てて。
 お前以外の男に抱かれないって約束を破った。
 お前を裏切って、道了を選んだ。
 『いやらしい顔だな。香華そっくりだ』 
 「俺は、お袋と梅花の仇をとるために道了のところにいった。子供返りのふりでお前や鍵屋崎やサムライを騙して道了の懐にもぐりこんだ。最低だよ。言い訳はしねえ、俺がやったことは最低だ。大事な相棒とダチを裏切ってさんざん傷付けてお袋と惚れた女を殺した男にケツ掘られて腰振って、だからレイジ、俺の事面と向かって罵れよ。こんな淫売には愛想が尽きたぜって唾吐いてくれよ」

 そうしたら、俺も少しはマシな気分になれる。
 ほんの少し救われる。

 もう俺がレイジにとって薄汚い裏切り者でしかなくても、かまわない。
 俺はそれだけの事をしたんだ。
 あんなにひとりぼっちを怖がってたレイジをまたひとりぼっちにした、暗闇に置き去りにしてあっさり背中を向けた。
 レイジの声が聞こえないふりをした。
 あんなに必死に呼んでたのに、縋るように呼んでいたのに、俺は振り返りもしなかった。
 憎まれて当たり前だ。
 相棒失格だ、俺は。

 「でも、お前の口から聞きたい。俺の事嫌いならきらいって、面と向かって言ってくれ。いないふりしないでくれ、このまま消えないでくれ。なあレイジ、そんなのお前の柄じゃないだろ。何も言わず黙って消えてくなんて殊勝な柄かよお前が、俺が手紙読んでた時も狸寝入りで顔色窺ってたくせに暴君に体を明け渡してあっさり消えちまったなんて信じねーからな」

 ひとり語りは空しい。
 俺の声は虚無に吸い込まれる。
 今ここにはいない相手にむかってどれだけ懸命に呼びかけ縋ったところで返事が返らないのでは意味がない。
 寂しい。
 十字架をぎゅっと握る。
 レイジ、どこだ。早く出て来い。
 お前がいなくて正直こたえてる。
 胸の辺りが妙にすうすうして、息を吸うたび込み上げる絶望に溺れそうなんだ。
 ペア戦決勝前夜、入院中の俺をこっそり訪ねたレイジを思い出す。
 一大決心した顔、いつもへらへら笑ってるお気楽な王様とは別人みたいに強張った顔。
 あれは煉獄に挑もうとしてる人間の顔だ。
 十字架の鎖を手首にかける。

 「なあレイジ。お前がいる地獄は、どんなところだ」

 十字架の表面に俺が映る。
 酷く滅入った顔。
 地獄にまっさかさまに落ちようとしてる人間の顔だ。 

 「居心地いいか、そこ。寒くねーか?暗くねーか?腹も空いたろ、いい加減出てきたくねーか」

 たらたらたらたら未練ひきずってんじゃねえ、聞いてくれる相手もないのに寝惚けた戯言吐くんじゃねえ。
 胸が痛い。ひりひりする。
 この痛みは、俺がガキの頃味わった痛みと少し似てる。
 しばらく忘れていた懐かしい痛みだ。
 ようやく思い出した。
 レイジ、お前と離れ離れになって漸く思い出したよ。
 ひとりぼっちは、痛い。
 お前はずっと、この痛みに耐えてたんだな。俺がいなくなってからずっと。

 「いい加減出て来いよ。そんな暗い場所にこもってんなよ。房の裸電球でもないよりずっとマシだろ、一緒に帰ろうぜ、俺たちのうちへ。お前と出会った日からずっと暮らした場所へ、電池切れの裸電球がちかちかうるさく瞬いてガタのきたベッドが端っこに二台、ぼろぼろの毛布と枕がある房へ帰ろう。またベッドに腰掛けてくだらないことだべろう、鍵屋崎とサムライの痴話喧嘩とか凱が飯時に高笑いして椅子ごと倒れたとかヨンイルが図書室の二階から『新世界の神になる!』って飛び降りたとか、どうでもいいくだらねー話をおもいっきりしよう。一晩中でもとことん付き合ってやっからさ、だからさ、帰って来いよ。ひとりだと広すぎて落ち着かねーんだよあそこ。からっぽのベッドが目障りで」

 お前は何を考えてたんだ。
 俺がいない房で、裸電球を消した暗がりで、ベッドに腰掛けて何を考えてたんだ。
 昔の事を思い出してたのか。
 俺と会うずっと前のことを、何日間も飲まず食わずで暗闇に閉じ込められ聴覚を鍛える訓練をした時の事を、かさぶたを剥がすように思い返していたのか。 

 「そんな暗くて寒い場所お前にゃ似合わねーよ」

 レイジの代わりに十字架を抱き締める。
 ハルに小便ひっかけられ噛みつかれたせいであちこち傷だらけのみすぼらしい十字架、涙ぐましい補修の跡が窺えるそれをシャツの内側にしまう。
 裸の胸に触れる十字架を感じ気持ちが安らぐ。
 レイジの欠片が俺の中に入ったような、二番目の心臓ができたような不思議な感覚にひたる。シャツの上から十字架をまさぐり、俺は言う。  

 「すぐ迎えに行ってやっから、待ってろ」

 レイジがどこにいるかは知らない。手がかりもない。
 看守は総力を尽くし暴君の行方を追っている、是が非でもやつらより先に見つけ出さなければ。
 まったく手のかかる相棒だと苦笑する。
 年下に迎えにこさせるなんて世話が焼ける。
 でも仕方ない、俺が腰を上げなきゃレイジはいつまでたってもだんまりを決め込むはらだ。
 「そうはさせるかよ、畜生。暴君に頭下げさせてお前をひっぱりだすまで諦めるもんか」
 大丈夫、俺はまだなにもかもなくしちゃいない。
 まだ手遅れじゃない。
 お利口さんに諦めるのはやめだ、どこまでもあがいてあがいてあがききってやる。
 まだだ、まだ終わりじゃねえ。
 体がちょっとぐらいだるいからってどうした、凱との試合で全身至る所に打撲と骨折おって寝たきりだった時と比べりゃこんなの屁だ。
 まだイケる、まだやれる。まだ手遅れじゃない。
 俺の足が動いて歩ける限り俺の手が動いて伸ばせる限りなにも遅いことあるか、お前にむかって駆けていける足と伸ばせる手があってなにが手遅れなもんか。
 丈夫に産んでくれたお袋と俺をこれまで生かしてくれた悪運に感謝。
 勢い良く毛布をはねのけ上体を起こす。
 体中に生気がみなぎる。
 さっきまでの倦怠感が嘘のように吹っ飛んでぎらぎらと目が燃え輝きだしたのがわかる。
 身に付けた十字架から不思議な力が迸って体内を巡っているのかのようだ。
 そうだ、俺は十字架を身に付けることによって第二の心臓を移植したんだ。
 いける。やれる。とんでいける。
 「よっしゃ」
 顎を引き己を奮い立たせ、脱ぎ捨てたスニーカーに裸の踵を突っ込む。
 自己嫌悪に絞め殺されるのも自己憐憫に溺れ死ぬのも俺の趣味じゃねえ、ぐだぐだ考えてる暇があったら体を動かせ、短気で喧嘩っ早い俺に戻れ。
 頬を叩いて喝を入れる。
 スニーカーをつっかけて立った瞬間、ぐらつく。
 思わず舌打ちが出る、薬の効果はまだ完全に消えてないらしい。
 背格子に寄りかかり呼吸を整え、今度こそカーテンを開けようと手を伸ばし……
 「見舞いにくるなんてどういう風の吹き回しだい」
 冷ややかに取り澄ました声に戸惑う。
 声の出所は隣のベッドだ。
 俺は躊躇い、また腕を引っ込める。
 衝立の向こうにだれかがいる。
 衝立に目を凝らし椅子に座る人影を捉える。 
 「随分なご挨拶ですね。我輩はただ南棟の代表者として同じトップたるサーシャ君の健康を案じているだけです、お見舞いといっても手土産がなく恐縮なので埋め合わせに我輩とワイフの馴れ初めを聞かせて……」
 「サーシャはよく寝てる。起こさないでほしい」
 サーシャ。
 嫌ってほど聞き覚えのある名前に条件反射で顔を顰める。
 サーシャ、今さら説明するまでもないレイジを目の敵にしさんざんちょっかいかけてきた北棟のトップ。
 もう一人の声にも聞き覚えがある、語尾にビブラートを利かせた頼もしいバリトンは南棟の隠者ことホセの特徴だ。
 カーテンの隙間から隣の様子をのぞき見て、唖然とする。
 外人が、いた。
 いや、外人自体は別に珍しくも何ともない。
 日本が誇る無国籍刑務所たる東京プリズンには金髪赤毛青目緑目の外人がうようよしてる。けれど今俺の視線の先でパイプ椅子に腰掛けてる外人は違う、垢に塗れた囚人とははっきり一線を画してる。
 蛍光灯の光にさんざめく癖のない銀髪、洗練された居住まいが醸しだすえもいえぬ気品。
 ただ座ってるだけなのにそいつのまわりだけ空気が違う、周囲の喧騒から切り離されかちっと額縁におさめられた感じがする。
 目が覚めるようなあざやかなブルーの軍服を着た男が、膝の上で手を組み緩やかに振り返る。
 「用件は手短に」
 癖のない銀髪に縁取られた美貌はだれかに似ている。
 視線を追ってそちらを向けば案の定ホセがいた。
 椅子の近くに立ち、機嫌をうかがうような笑みを浮かべている。
 のっぺりした七三分けが強調する秀でた額、ラテンの血が色濃く出た彫り深い目鼻立ち。
 センスを度外視した野暮ったい眼鏡が胡散臭さを水増しする。
 腰の低いセールスマン風、今にも鞄を広げ試供品をすすめなかねない様子。
 営業成績を伸ばすためなら手段を厭わぬ非情さを眼鏡の奥の目に覗かせるも、表面上は謙譲の美徳に溢れた非の打ち所ない笑みを浮かべ、揉み手せんばかりに阿ってみせる。
 「ご存知ですか、今朝から東京プリズンを騒がせている事件を」
 「詳しくは知らないが概要は聞き及んでいる。昨日行方不明になった医者の死体が下水道で発見されたとか」
 「その通り。付け加えるなら、体をばらばらにされるという極めて残忍な方法でもって殺害されました」
 「犯人の特定は?」
 「容疑者はいます」
 そこで言葉を切り、間をもたすように眼鏡の弦に触れる。
 ホセが意味深にベッドを一瞥、つられてそちらを見る。
 サーシャがいた。
 ベッドに横たわって死んだように動かない。
 しばらく見ないうちに随分やつれた。
 頬が削げて眼窩は落ち窪みまるで骸骨の容貌。かさかさに乾きひび割れた唇からよわよわしい呼気が漏れる。とりあえず生きてはいるらしいが、少し前まで軍人気取りで鞭をふるってた皇帝のみすぼらしい変貌に狼狽する。
 笑みを含んだ目でサーシャの寝顔を射止め、ホセが呟く。
 「貴方の弟に取り返しのつかない仕打ちをした男と同一人物ですよ」
 背筋に悪寒が走る。
 軍人の顔色が変わる。
 憎しみと怒りとが綯い交ぜとなった激情がアイスブルーの目に噴き上げすぐまた冷静な仮面を被る。
 「犯人の名前を知りたいですか」
 「………知っているのか」
 「勿論。トップのもとにはさまざまな情報が集まりますから」
 「私にそれを話し君にもたらされる利益は?」
 「話が早くて助かります」
 ホセが我が意を得たりと両手を広げる。
 軍人はサーシャを庇うように背にした体勢でホセの接近を待つ。
 視線と視線が衝突、空気が緊迫。
 無言の威圧が膨らむ。
 周囲の囚人どもはそれぞれ話に夢中でこっちに注意を払ってない、それもそのはずカーテンが開け放たれているのは俺のベッドに面した側だけ、反対側はきっちり閉ざされている。
 軍人とホセが向き合う。
 軍人の手はサーシャの胸にかかったまま、ホセは眼鏡の弦をいじくりまわしている。
 沈黙を破ったのはホセだ。
 「我輩はね、地下にもぐる口実がほしいのですよ」
 「地下に?」
 軍人が鋭く反駁、一層警戒の色を濃くする。
 怪訝な表情の軍人を優位に立って眺めホセは続ける。
 「先日お話したとおり我輩の目的は地下にあります。白状いたしますと我輩は以前から地下にもぐる口実をさがしてました」
 「口実などなくともこの刑務所の囚人は勝手に下水道におりていると聞くが。所内で唯一監視カメラが設置されてない下水道は覚せい剤取引の温床であり、リンチの犯行現場でもある」
 「説明の手間が省けて何よりです。確かに夜下りて朝戻るくらいなら看守に気付かれずにすむ、また気付かれたとしても大目に見てもらえる。ですがね」
 眼鏡の奥の目はもはや笑っておらず、百戦錬磨のボクサーが相手の死角に切り込むような油断ない光を湛えている。
 「我輩は一朝一夕の麻薬取引が目的で下水におりるのでもなければ、自慢の拳を汚い血で汚すために下水にもぐるのでもない。我輩の目的地は下水道のさらに奥、一般の囚人は存在すら知らぬ禁断の領域です。当然一日や二日でやり遂げられる探査行ではない、よって下水道のさらに奥に足を踏み入れるならば綿密な準備が必要です。器材もそろえなければいけませんし」
 「器材とは」
 「わかってらっしゃるくせに」
 蜂の一刺しに似た鋭いジャブを繰り出しうっそりと含み笑う。 
 さっきから胸騒ぎがやまない。
 全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。
 二人が話してる内容はちっとも理解できない。
 理解できないが、とてつもなくいやな予感がする。
 目隠しして地雷原を突っ走っているようなびりびり肌を打つ重圧。
 眼鏡の弦を指で叩きながら、じらしたわりにはあっさりとホセが答えを述べる。
 「放射能検知器です」
 放射能検知器。
 脳裏に物騒な単語が閃き、危機を知らせる赤いランプが点滅する。
 「お持ちでないとは言わせません。私が言い出さなくてもいずれ口実をもうけ地下におりる予定だった、その予定を少しだけ繰り上げてさしあげただけです。我輩とてミイラとりがミイラになる事態は避けたいところ、身を守る為の最低限の措置は講じたい。貴方が協力してくださるならこちらとしても至極やりやすくなるのですが」
 「要点が掴めない」
 「なら簡潔に申しましょう」
 しつこく弦をいじくりまわしていた手が下り、薬指に嵌まる指輪が燦然たる輝きを放つ。   
 指輪が反射した光が目を射る眩しさに顔を顰める軍人、隙を晒した一瞬に付け入り核心に踏み込む。
 「我輩は現在、サーシャ君を虐待放置し医師を殺害遺棄した犯人を匿っています」
 軍人の顔に驚愕の波紋が広がる。
 カーテンの隙間から固唾を呑み成り行きを見守っていた俺まで予想外の展開と大胆な告白に叫び出しそうになった。たった今衝撃的な告白をやってのけたホセはといえば至って取り澄ました風情で飄々としてる。
 居丈高に腕を組み、軍人の顔色が警戒から驚愕へと一瞬にして塗り換わるさまを愉快げに見物する。
 やめろ、その先は言うな。
 思わずカーテンから飛び出し間に割って入りかける。
 ホセと軍人を引き剥がしたい衝動に駆られ焦慮に苛まれ心臓が爆発せんばかりに高鳴る。
 嫌な予感はどんどん強くなる。
 カーテンを握り締める。
 ホセの唇の動きに目を凝らす。
 「彼の名前は」

 言うな。
 心の声を裏切り、ホセは言った。

 「レイジ。東の王の異名を持つ東棟の現トップです」

 レイジが。
 レイジが、斉藤を殺した。
 斉藤を殺してばらばらにして下水に捨てて、サーシャをさんざ嬲り者にして壊した張本人?
 半ば予想していた。昨日廊下で遭遇した暴君が笑いながら言ったじゃないか、サーシャをぶっ壊したと。

 『サーシャだよ、今はなき北の皇帝サマだ。俺が不貞寝してるところにタイミング良くやってきたから暇潰しに躾けてやったんだ。傑作だぜ、あいつときたら!ケツにナイフの鞘突っ込まれてぐちゃぐちゃにかきまぜられておっ勃ちやがった、夢うつつでロシア語口走ってシーツ引っかいて兄貴の名前呼んでまるっきり子供返りしてやがったぜ!その様があんまり滑稽で笑えたからクスリを使ってやったんだ、もっとおもしれーもんが見られるんじゃないかって期待してな。予想的中結果オーライ、もとからヤク中のサーシャにゃ効果覿面。たっぷり漬け込んでやったんで今じゃ血管にコカインが流れてる始末、血がさらさらになって感謝してほしいくらいだぜ!』

 哄笑の余韻が内耳に響く。
 廊下のど真ん中で反り返るようにして笑う暴君、醜悪に歪んだその顔を思い出す。
 あの後だ。
 看守が大挙してなだれ込んできて、暴君は逃走を図り、抜け道を通って行方を眩ました。
 以降暴君の姿を見たものはない。俺達と別れた後逃亡中の暴君が偶然斉藤に出会い、口を封じたのだとしたら?
 「……んな、まさか……」
 カーテンを掴む手が自分の物じゃないみたいに震える。
 ないとは言い切れない。
 俺は暴君の恐ろしさを身をもって知った。
 俺と鍵屋崎を並べて犯そうとした暴君の狂気を、道了との殺し合いに身を投じ破壊の権化となった暴威を覚えてる。
 行く手を邪魔するものは等しく薙ぎ払うと宣言、言葉通りに断行する暴君ならたまたま出会ったえものを気まぐれに屠り去ったとしても不思議じゃない。
 暴君は既にサーシャを壊して捨てている、直接手を下すのに躊躇いはない。
 暴君が、やった?
 サーシャだけじゃ飽き足らず、斉藤も殺した?
 まさかレイジがそんな酷いことするはずないいくらなんでもそれはない嘘だって言ってくれ、だってレイジはまだ死んでない暴君の中にいるそんなことレイジが許すはずない止めるはずだ、百歩譲って出会いがしらの斉藤を殺したとしても死体をばらばらにして下水に撒き散らす意味がない!

 嘘だ。
 暴君が斉藤を殺したなんて、信じたくない。 

 頭が真っ白になる。
 裸の胸に触れる十字架が烙印の熱を帯びる。
 気付けば俺は服の胸元を強く強く握っていた、そこに十字架が在る事を確かめるため、確かめて現実に立ち向かうために。カーテンの隙間を通る視線の先では淡々と話し合いが続いてる。
 犯人を匿っていると暴露しながらも揺るがない優位を保つホセに、抑制を利かせた口調で軍人が問う。
 「なぜすぐ副所長に知らせない、犯人を庇ったものも同罪だ」
 「取引の材料にするためです」
 そつのない笑顔でホセが応じる。
 眼鏡のレンズを指で押し上げ微調整、愕然と立ち尽くす軍人をいやらしく眺める。
 「レイジ君が我輩の房にいることはいずればれます、早ければ今日中にも情報が流れるよう手筈を整えています。そうなる前に我輩はレイジ君を逃がします。どこへ?」
 靴裏で床を叩いて示し、一呼吸おいて堂々と宣言。
 「身を隠すにはもってこいの場所があるではないですか!東京プリズン地下、都心まで繋がると噂の下水道。ミノタウロスの迷宮の如く複雑怪奇に入り組み枝葉が分かれた下水道に逃げ込めばいかに執念深い看守とて簡単には追ってこれまい、追跡は難航すること必至。我輩はそうレイジ君を説得し彼を伴い地下に向かいます」
 「させるものか」
 「ええ、言うと思いました。なにせレイジ君はサーシャ君の仇、貴方の可愛い弟を薬漬けにして壊した張本人です」
 要塞の如く磐石の安定感を備えた物腰で軍人に歩み寄る。
 軍人の面前で立ち止まるやおもむろに耳朶に顔を寄せ、呟く。
 「その手で陛下の仇を討ちたくはないですか」
 軍人の顔が強張る。
 アイスブルーの目が氷点下まで冷え込む。
 一切の感情を消したその顔は、さながら悪魔に魂を売り渡したが如く無慈悲で苛烈。
 軍人の肩に触れるか触れないかの距離で耳朶に息を吹きかけ、甘美なバリトンで誘惑する。
 「貴方は愛する弟に取り返しの付かない損害を与えたレイジ君を拘束できる、我輩はロシア軍の協力が得られる。お互いの利益は見事に一致する。拘束したあとはどうぞご自由に、煮るなり焼くなり薬漬けで調教拷問するなりお任せします。我輩は一切関知しません。我輩はレイジ君を逃がすふりで下水道に連れていき貴方に引き渡す、貴方は我輩に手を貸し下水道の奥に埋もれた前世紀の遺産を掘り出す。悪い話ではないでしょう」
 「……副所長には話を通さないのか」
 「愚問ですね」
 ホセが憐憫を込めほくそ笑む。 
 「副所長指揮下の看守が先にレイジ君を拘束した場合、貴方はその手で復讐を遂げる機会を永遠になくす。残念ながら東京プリズンでは囚人が囚人をレイプしたからといって大した罪には問われません。レイジ君が依存性薬物を使い肉体的にも精神的にもサーシャ君をぼろぼろにしたからといって東京プリズンでは罪には問われない、レイジ君はあくまで斉藤医師殺害遺棄事件のみで裁かれ処罰される」
 「それがここの実態か」
 軍人の横顔を初めて笑みらしきものが掠める。
 笑みと呼ぶにはあまりに酷薄な表情。
 虚空に据えたアイスブルーの目に狂的な光を宿した軍人の肩に手をかけ寄りかかり、毒液のような囁きを注ぎ込む。
 「貴方ははるばる日本にまで生き別れの弟を迎えに来た。いやはや麗しい兄弟愛です、妾腹の弟を陛下と呼び慕い献身的に尽くす貴方の姿に我輩何度心を打たれ涙を流した事でしょうか。しかし遅かった、貴方の愛しい陛下はレイジ君の手に堕ち壊れてしまった。彼の体は薬でもうぼろぼろだ、誰が見たって長くない。口惜しくはないですか?長い歳月を経て漸く会えた弟の変わり果てた姿を目の当たりにして復讐心に駆られなかったとは言わせない、貴方はサーシャ君から幸福を奪い去った彼を殺したいほど憎んでいるはずだ、再び訪れると願い信じた日々に終止符を打った男に正義の鉄槌を下したいはずだ!!」
 ホセの手が強張る。
 肩を絞り上げられる痛みに軍人が顔を歪める。
 苦悩と苦痛のはざまで引き裂かれた軍人の表情を認めぱっと手を放し、落ち着き払った口ぶりで促す。
 「我輩は貴方が本懐を遂げるお手伝いをしたいだけです。さあ、どうなさいます」
 それでもまだ躊躇いを振り切れない軍人に大仰に嘆息、颯爽と身を翻したホセがおもむろに毛布を掴む。
 「!なにをするっ、」
 「御覧なさい」
 軍人の制止もむなしく腕を一閃、毛布を取り払う。
 取り払われた毛布の下から露出したのは点滴が刺さった剥き出しの腕。
 袖を肘まで捲り上げられたサーシャ、骨と皮ばかりとなった枯れ木のようなその腕を覆う無数の注射痕。
 「サーシャ君にこんな事をした人間を許せるとでも?」
 挑発的な口調でホセが問い、サーシャの寝顔に手を伸ばし一抹の躊躇なく眼帯を毟り取り無残な傷痕が穿たれた左目を晒す。
 「サーシャ君を片目にした男を許せるとでも?」
 昏睡状態のサーシャにのしかかり青ざめた頬に軽く触れる。
 削げた頬を包んだ手が首筋に沿って滑り、上着の裾を掴み、緩慢に捲り上げる。
 艶かしく捲れた上着の下から現れた痩せた腹筋と胸板、裸の上半身を埋め尽くす大小無数の痣と傷。 
 乳首にくっきりと歯型。 
 鞭打たれたみみず腫れ。
 斜めに交差する引っかき傷。
 「これでもまだ許せますか」
 白磁のようにきめ細かく滑らかだった肌を蝕み毒する様々な大きさと形状の痣、黄褐色のものから青黒いもの、鬱血でどす黒く染まったものまでサーシャの裸を斑に苛んでいる。
 サーシャはボロ屑同然になっていた。
 ボロ屑同然に扱われていたことがよくわかった。 
 暴君にとってサーシャは爪研ぎの布くらいの価値しかない。
 「選ぶのは貴方です」
 サーシャの上着を捲り上げホセが決断を迫る。
 サーシャはホセにされるがまま目を開けない。
 壊れた人形のようにホセの腕に身を委ねくったりと項垂れている。
 暴かれた肌を埋め尽くす大小無数の痣と傷、瘡蓋が張ったものもあれば今だ痛々しく血が滲んだものまで様々だ。
 サーシャを襤褸のように引き裂いたのは、暴君だ。
 乳首を噛み腹を引っかき鞭を奪って打擲し、それでもまだ飽き足らずとどまるところを知らずサーシャが泣いて許しを乞うても決して許さず髪を鷲掴み咥えさせ、体力が尽きて倒れれば薬を使いさせむりやり引き立て過酷な奉仕を強制しー……
 
 「陛下」
 その声が、俺を現実に引き戻す。
 ハッと顔を上げる。
 ベッドの傍らに立ち尽くし愕然とサーシャの裸身を見詰めていた軍人が、流麗な動作で片膝を付き、深々と頭を垂れる。
 「貴方が受けた屈辱は、臣下たる私めが晴らします」
 軍服の胸元に手が滑り込む。
 再び現れた手に握られていたのは、黒光りする銃。
 ホセの力強い腕に支えられ仰向けたサーシャの髪を愛しげに梳き、指に髪が絡んだ一瞬追憶の光に目をぬらすも、瞼を閉じて開いた時には既に感傷を払拭した冷徹な軍人に戻り、立ち上がりながら弾丸を装填する。
 カチリと音が鳴る。
 余韻を惜しむようにゆっくりと銃をおろし、サーシャのそれと生き写しの薄氷の瞳が透徹した覚悟をやどしてホセに向き直る。
 「取引を呑もう」 
 ロシアンルーレットの幕が開く。


にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050222042230 | 編集

 『ごめんなさい、道了。……あなたを縛りつけようとした罰ね、これは』
 女の声がする。
 どこかで聞いた声だ。
 あるかなしかの郷愁を刺激し俺の記憶に訴えかけるその声は、哀切な余韻を帯びて響く。
 女は謝罪する。繰り返し謝罪する。
 悲哀に濡れた目を伏せ、諦念の笑みを唇の端に溜め、悄然とうなだれて。
 その手はわずかに丸みを帯びた腹部を愛情深くさすっている。
 母性本能の塊のような女。
 顔はよくわからない。そこだけ靄がかかったように不透明だ。
 目鼻立ちすらはっきりしない女だが、虐げられるのに慣れた薄幸な雰囲気が全身から漂っている。
 肩にかかり背に流れる黒髪が楚々とした風情を醸す。
 地味で内気で控えめ、なんら目立つところのない平凡な女。
 しかしその声はしっとりと艶があり、まどろむような抑揚を紡ぐ。
 限りなく増殖する癌のような赤が網膜を蝕む。
 荒れ狂う炎が視界を席巻する。
 灼熱の炎が轟々と渦巻き横殴りに火の粉がすさぶ中、炎に巻かれた瓦礫が盛大な音をたて瓦解する。
 破滅を告げる崩壊の音が連鎖し、灼熱の炎に包囲され逃げ場をなくした女が寂しげに微笑む。

 『私が好きなのは道了。
 假面じゃない。
 月天心があるかぎり道了は假面をやめられない。
 私が好きなのはとても寂しい目をした普通の人間、鉄のような無表情で人を殴り殺す人形じゃない。
 道了が好き。
 月天心にとられたくない。
 だから私はー……』

 呪縛のような、声。
 永久に俺を束縛し独占しようとする声。
 見返りを求めず独り語りにふける間も腹をさする手はとめない。
 そこに新しい命が宿っている。
 産声を上げる事なく自分と心中する命を哀れむように、いとおしむように、万感の想いをこめた手つきで腹をさする。
 腹の中に俺の分身がいる。
 決して殴らず裏切らない、俺であって俺じゃない分身が女の腹を褥に成長を続けている。
 ようやく俺を手に入れた女はひどく満足げだ。
 腹のふくらみを庇う思いやり深い手つきに幸福が滲む。
 女の腹に俺がいる。
 念願叶って俺と同化した女は、自分の中に俺の存在を感じながら死ねるなら本望だとそう言っている。
 殴られ蹴られ髪を毟られてもどこまでも献身的に尽くし、直接俺の手にかかる事に一抹の救いを見出し、俺の手で子供もろとも命を絶たれるなら本望だと慈愛に満ち溢れ透き通る微笑を湛える。
 許容と諦念のはざまに儚く消えゆく聖母の微笑みが、泡沫の夢のような笑みが、轟々と唸りを上げ迫り来る炎をも圧して網膜に焼き付く。
 なぜ思い出せない?
 眼球に疼痛、ちりちりと視神経が燻る。
 顔にかかる靄が邪魔だ。
 女の顔を見定めようと目を凝らすも一向に靄は晴れない。
 執拗な凝視で靄を払おうとするも報われない。
 思い出そうとすると酷く目が痛む。
 視神経が焼き切れそうな痛みに思わず悲鳴を上げかける。
 俺の頭はどうなっている?
 何故こんな当たり前の事が思い出せない?
 今に始まったことじゃない、ずっと前からだ。
 家族の顔も名前もはっきりとは思い出せない。
 月天心を結成する前の日々は空白、思い出そうとすれば猛烈な頭痛に襲われた。思い出すのを脳が拒否しているのかと思うほど激烈な痛みは薬を飲んだところで癒えやしない。そして俺はいつしか自分のルーツを辿るのをやめた。 
 俺は俺だ。
 過去もなく未来もない、今ここに在る俺が俺だ。
 過去も未来も必要ない、俺に在るのは今だけだ。
 過去を探るのをやめ未来を求めるのをやめた時から、心は茫漠たる虚無に支配された。
 抗争に明け暮れ女を抱いても本当の意味では決して満ち足りることがなかった。
 すべてがむなしかった。
 なにもかもがくだらなかった。
 おもねる連中も媚びる女も歯向かう敵もなにもかもが等しく無意味で無価値だった。
 だれもなにももたらさなかった。
 無味乾燥に過ぎゆく日々は俺から感情を削り取っていった。
 倦怠と虚無に覆われた灰色の日々の中、俺は惰性で呼吸する人形だった。
 あいつに会うまでは。

 『…………金、銀?』 
 チン、イン。

 寒い雨の日の荒廃した倉庫街。雨水滴る軒先に蹲ったガキが驚愕の面持ちで呟く。
 癖のある黒髪、薄汚れた小造りの顔。
 人慣れぬ野良猫を思わせる三白眼が気の強そうな光を放つ。
 荒みきった目つきと裏腹に顔だちは痛々しいほどあどけない。
 俺が突如変貌し襲い掛かってくるとでもいうように油断なく腰を浮かせ、いつでも相手になってやるという気概を込め、しとどに濡れそぼった黒髪から雫をたらしている。
 こんな目で俺を見る人間は初めてだった。
 苛烈なまでに意志を叩きつけてくる眼差しがひりひりと心地よい。
 小柄な体格に似合わず態度のでかいガキに興味を持つ。
 怯えも媚びも恐れもせず虚勢を張り、得体の知れぬ俺を対等な人間と認め対峙するガキに長らく忘れていた好奇心が疼く。
 あの時、俺の世界に光が射した。
 卑屈に意志を曲げず畏怖にひれ伏さず真っ直ぐ切り込んできた眼差しが、倦怠に淀んだ俺の内部に僅かな変化をもたらした。
 ガキを中心に鮮烈に世界が色づく。
 ガキの輪郭だけがくっきりと切り取られ浮かび上がる。

 『可哀想に』

 ガキはそう言った。
 可哀想にと憐憫を垂れた。
 客観的に判断して自分の方がよっぽど可哀想な状態におかれているくせに、髪も顔も服も全身びしょ濡れで風邪をひきくしゃみを連発、膝を抱え震えている自分の方が余程みじめでみすぼらしく映るのにもかかわらず、事もあろうにこの俺を、月天心の首領として崇められるこの俺に憐憫の目をむけた。
 あんなガキ、初めてだった。
 だから俺は、こう聞かずにいられなかった。

 『名前は』

 ガキが口を開くも、続く言葉は急激に増した雨音にかき消される。 
 お前の名前は?
 雨音に耳を澄ます。
 ガキの口が無音で動く。
 しかしガキが発したはずの言葉は雨音にかき消され届かず、底が抜けたように勢いを増す雨に遮られ次第に姿がぼやけていく。
 散弾の如き雨がアスファルトを穿つ。
 空気に溶け込むように輪郭が薄れガキの姿が消えていく。
 フィルムが劣化するように世界が褪せていく。
 俺はただ立ち尽くしそれを眺める。
 お前も消えてしまうのか。
 俺の前からいなくなってしまうのか。
 俺を残して行ってしまうのか。
 名前も顔も忘れたあの女のように俺ひとりを色のない世界に残し、感情の欠片を俺に投げ与えたまま消えてしまうのか。
 行くな。
 雨煙に包まれ次第に不鮮明になりつつあるガキに水飛沫をとばし歩み寄る。
 水溜りを蹴散らし歩み寄った俺が手を伸ばすより早くガキの姿が完全に消失、あとにはただ静寂を際立てる雨音だけが響き渡る。
 まだお前の名前を聞いてない。
 行くな。
 もう遅い。消えてしまった。俺の声は届かない。
 伸ばした指が目標を失い、惑い、虚空を掴んで垂れ下がる。
 皆消えてしまった。
 いなくなってしまった。
 この手は結局何も掴めなかった。
 吹きすさぶ暴威をまとって人や物を破壊する拳も、肝心な時に役立たないのでは意味がない。

 世界から色が消える。
 世界から音が消える。
 そして俺は虚無の裂け目に閉じ込められる。

 頭が痛い。割れるように痛い。
 この痛みだけが本物だ、この痛みだけが俺を俺足らしめる現実だ。
 外部から来る刺激には疎くとも内部で発生する痛みは波紋となりて殷々と反響する。
 鼓膜の裏側でぶんぶんと蝿が唸る。
 蝿の羽ばたきは空気を攪拌し次第に大きくなる。
 ああ、五月蝿い。五月蝿い蝿め。
 鼓膜を震わす羽ばたきが間断なく俺を責め苛む。
 耳鳴りが酷い。
 頭蓋骨の裏に巣食う蝿の王は貪欲に肥大し神経に障る羽音で間断なく俺を苛む。

 発狂せんばかりの拷問。
 俺はもがく、もがいて苦しむ。
 頭の中に巣食う蝿から逃れるためもがいてもがいてもがいて
 『残念ながら手の施しようがない』
 もがいてもがいてもがいて
 『ケチなヤブ医者が運営するチンケな診療所じゃどうしようもないよ』
 もがいてもがいてもがいてもがいて
 『頭を開き破片をぬきとるのは難しい手術だし金がかかる。何よりワシみたいなしがない闇医者にそんな大掛かりな手術できっこない。……まあ刺さってる部位が部位だけにどんな天才外科医だって手こずるだろうがね』
 もがいて、溺れ。
 『この子は頭に爆弾を抱えてる。どうせ長くは保たんさ』
 泡と消える。

 声が、する。
 老若男女様々な声が猥雑に交錯する。
 しかしどれひとつとして特定できない、どれひとつとして声の主を思い出せない。
 記憶は日々劣化していく。
 俺の脳には重大な欠陥がある。
 俺の頭はとっくの昔に壊れていて医者も匙を投げその医者は誰だ思い出せないだが俺は壊れている壊れていると診断された、ならそれは覆し難い事実で俺はきっとどうしようもなく壊れているのだろう。
 頭に爆弾を抱えている。
 医者がそう言った。
 ならそれは真実だ。
 頭に埋め込まれた爆弾はいつ爆発するかわからず爆発したら周囲の人間を巻き添えに死に至らしめる。俺は俺と死ぬ人間を求め月天心を結成した。生きていても死んでいても変わりないような、否、死んだほうがマシな連中ばかりを集め月天心を作った。
 時が来れば月天心と心中するつもりだった。

 あいつを月天心に引き入れたのは、何故だ?

 脳裏に疑問が浮かぶ。
 ガキを月天心に招き入れる事で俺はなにを期待した?
 今となってはわからない。
 あのガキが月天心に入れば何か変わるのではないかと、虚無と倦怠に倦んだ俺の心が人間らしい痛みを思い出すのではないかと思ったのかもしれない。

 今となっては、遅い。
 今の俺は死に損ないですらない壊れ損ないの人形だ。
 けれども俺は、壊れ損ないの体をひきずってここにいる。
 いつガタがきてもおかしくない壊れ損ないの体をひきずってここにきた。
 あいつがいるここへ
 月天心の生き残りがいるここへ
 この東京プリズンに。

 「……………………」

 ああ、そうだ。
 俺が今いる場所は東京プリズン、砂漠のど真ん中の監獄。
 全く、俺の死に場所にはふさわしい。 
 闇の底からゆっくりと意識が浮上、気だるく目を開ける。
 まどろみから覚めた意識が最初に捉えたのは、配管剥き出しの殺風景な天井。
 裸電球の消えた暗闇にひとり、壁際のベッドに横たわった俺は慎重に上体を起こす。
 無意識に隣をまさぐる。
 昨日まで人がいた形跡が残っているが、そこに求めた体温が得られず戸惑う。
 「……………そうか。いないのか」
 汗を吸いしどけなく乱れた形跡をとどめるシーツに手を這わせ、呟く。
 昨日まで俺の隣で寝息を立てていたガキは、もういない。
 隣から消えてしまった。
 房は暗闇と静寂に沈んでいる。
 廊下にも人気はなく、物音ひとつしない。  
 昨日まで見張りに立たせていたガキもいない。

 『し、知らなかったんだよ嘘ついてるなんて!俺は悪くない、半々に騙されたんだ、あいつにロープを渡したのだって道了さんがほしがってるからだって言われてまさか芝居なんて……悪いのは俺じゃねえ全部あの半々だ、俺にあたるのは筋違いってもんですよ道了さん、あの半々ときたら道了に突っ込まれて死ぬほどよがりくるってたくせに裏切りやがって最低のくずだ、さんざんいい思いしやがったのに恩をあだで返しやがって……道了さんもいい加減目え覚めたでしょ、騙されたんですよあいつに、くそったれ半々に!』

 口車に乗せられロープを渡した見張りに俺は罰を与えた。
 他の連中が見ている前で思うさま暴行を加え、血反吐を吐いて悶絶するさまを冷ややかに眺めた。
 たしか考賢という名の囚人は泣き叫び喚き漏らすの見苦しい醜態を呈し折れた前歯の間から喘鳴をもらしながら何度もくりかえし俺に許しを請い、それでも解放されないと知るや自暴自棄に走り、狂気に侵された目を極限まで剥き、口の端から血泡を噴き罵倒を浴びせ始める。

 『陰であんたがなんて呼ばれてっか知ってるか?知らねえ?なら教えてやるよ、感謝しろよ假面!半々に骨抜きにされた台湾人の面汚し、壊れ損ないのキリングドール、タイペイワイフ!一日中房にひきこもってばこばこお楽しみでいいご身分だよなあうらやましいぜ、どうせなら俺らもまぜてくれよ、てめぇだけお楽しみってのはずるいぜ!俺らだってロンを犯したくて犯したくてたまんねーんだ、あのクソ生意気な半々を思うさま組み敷いてしゃぶらせるとこ考えただけでおっ勃ちまうよ!!』

 あらん限りの憎しみを込め俺を睨みながら卑語を口走る考賢の前髪を掴み、力任せに壁に強打。
 腕を遡る衝撃、鼻が顔にめりこむ鈍い音。
 続けざまに壁に叩き付けながら耳元で囁く。
 『覗き見は知っていた。見逃してやったんだ』
 ざらついた壁面に血をなする。
 鼻が歪み前歯が抜け落ち、醜悪に変形した鼻血まみれの顔の考賢の脂ぎった髪の間に手を通し、恐怖を煽るやさしさで地肌をまさぐる。
 戦慄に固まる考賢の耳朶に口を運び、宣言。
 『ツケを払え』
 考賢の絶叫は長く長く響いた。
 あれから考賢がどうなったかは知らない。興味もない。
 ようやく気が済んで放り出した時には手足がでたらめに痙攣していた。
 考賢など死のうが生きようがどうでもいい。
 俺はただ、本来なら俺が独占したはずのロンの痴態を横から掠め取った男にツケを払わせたまでだ。

 ロン。
 そうだ、ロンだ。
 あいつの名前はロンだ。

 「……………っ………」
 割れるように頭が痛む。
 反射的にこめかみを覆う。
 漸く思い出した、名前を。
 生意気な面した三白眼のガキが脳裏に浮かぶ。
 ロン。
 それが、名前。昨日まで俺の隣にいたガキの名前。
 皺だらけのシーツをさする手が止まる。
 手をどかし、あらためてからっぽの房を見回す。
 暗闇に沈んだ房に俺以外の人間はいない。

 『もうはなさねーよ』

 静かな決意に満ちた言葉が耳に蘇る。
 昨日の情景が網膜に像を結ぶ。
 レイジが去り看守が大挙して駆け抜けた廊下の片隅、壁に寄りかかるように座り込んだロンが、後生大事に十字架を抱きしめる。

 『追いかけっこで俺に勝てると思ってんのか?上等だよ、命がけで見付けてやる』

 十字架を胸に抱きしめ、誓う。
 前髪の隙間から覗く目は透徹した意志を湛えていた。
 苛烈なまでに意志を貫き通す真剣な顔が、俺が拳を振り上げるたび梅花を庇った面影と重なり目を奪う。

 昨日の時点でロンは房を出た。
 俺に背を向け廊下を歩いていった。   

 「………………ロン」

 そんなにその男がいいか。
 レイジと俺と、どう違う。

 「お前はレイジを選ぶのか。俺に抱かれて汚されても、それでも諦めきれないか。お前と友人を並べて犯そうとしたあの男を、笑顔で淫売と言い放ったあの男を、お前の手を無残に踏みにじり口汚く罵倒したあの男を、それでも求め続けるのか」

 蝿の羽音が大きくなる。
 蝿の王が俺に命じる。
 ロンを追いかけ取り戻せと、今度こそ完全に奪って自分の物にしてしまえと。  
 俺に残された時間は少ない。こうしている今も俺はどんどん壊れていく。全身の間接がぎしぎしに錆び付いて永久に停止するまでもうあまり時間は残されてない、時が来れば俺は完全に動作を停止する、壊れきってしまう。
 そうなる前にしなければいけないことがある。
 体がまだ動くうちに、俺がまだ俺でいられるうちに、あいつを俺の物にする。

 記憶は日々欠けていく。
 世界は日々褪せていく。
 俺がまだ俺でいられるうちに、ロンを俺の物にする。

 ベッドから腰を上げる。
 殺風景な房を突っ切り扉に向かう。
 扉を開け廊下に出る。
 蛍光灯が冷え冷えした光を投じる廊下に等身大の影が揺らめく。
 硬質な靴音を響かせながら廊下を歩き角を曲がり渡り廊下を経て中央棟へ、静寂に溶け込み目的地をめざす。

 『愛してるわ、道了』 

 ふくらみ始めた腹を抱え女が微笑む。
 纏わり付く呪詛のような声。

 『どんなに痛くされても構わない。殴られても蹴られても我慢する。だから道了、私を見て。私を捨てないで。あなたに捨てられたら生きていけない、寂しくて哀しくてきっと死んでしまう。道了、私の道了。本当は優しい人。あなたは気付いてないだけ、本当の自分に』

 「賢しげに俺を語るな」
 『気付いてないの?私を殴る時とても哀しい目をしてる。人を殴ることで自分も痛みを感じてる、その事に気付かないだけ。あなたは冷たくなんかない、無慈悲でもない。あなたは人形なんかじゃない、ちゃんとした人間よ。人形はそんな目をしないもの』
 「お前になにがわかる、自分が見たいものしか見ない愚かな女が」

 女の呪詛を断ち切ろうと歩調を速め靴音を高める。
 硬質な靴音が壁に反響、静寂が深まる。
 蛍光灯の青白い光が照らす廊下を影を曳き歩く俺に、女の声はどこまでも付き纏う。

 『捨てないで』
 『愛してるわ』
 『この子と一緒に』
 『あなたになら殺されても』
 『それであなたが救われるなら』

 五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
 鼓膜の裏側で羽音が膨らむ。
 蝿の王が蠕動する。
 五月蝿くて五月蝿くて死んでしまいそうだ。
 こんな状態には耐えられない。
 ここに来てから頭痛は日増しに酷くなり耳鳴りはやまず、俺は俺が刻一刻と壊れていくのを痛感する。
 どこへ行けば逃れ切れる、どこへ行けば断ち切れる?
 俺は自ら望んでここへきた、ロンに会う目的を果たすために。
 目的は既に達した、いつまでもここにいる理由はない。
 檻に閉じ込められた俺の頭に閉じ込められた蝿はどんどんどんどん成長する、二重に閉じ込められた蝿の王が早く出たいと訴える。

 蝿の王が俺に命令する。
 早くここを出ろと命令する。

 錆びて動かなくなる前にロンを連れてここを出ろと狂った羽音で急き立てる。
 こんな場所にロンをおいていくわけにはいかない。
 残していけばロンは俺の事など忘れてしまう、俺を忘れて身も心もレイジの物になってしまう。
 先に出会ったのは俺だ。後から会った男にロンを渡すものか。
 靴音を響かせ廊下を歩く。
 前方に扉が現れる。
 等間隔に連なる蛍光灯の光に照らされながら一定の歩幅で足をくりだし、停止。
 扉の前に立つ。ノブに手をかける。
 軋み音をたてぬよう慎重に扉を押す。
 当直の医者は不在、代わりに看守が一人机に突っ伏して鼾をかいていた。
 侵入者の気配に気付かず涎をたらし眠りこける看守の後ろを通過、寝静まった医務室を横断する。
 端から端までベッドが並んでいる。
 その殆どはカーテンを開け放したまま、大の字に熟睡する患者が丸見えだ。
 両側に並ぶベッドにひとつひとつ目を配り奥へと進む。
 闇に慣れた目が患者の寝顔を捉える。
 違う、これも違う。
 端からひとつずつ確認するもロンはいない。
 闇と同化する足運びで奥へと進む。
 そして、気付く。
 一番奥とその手前のベッドだけカーテンが締め切られている。
 本能的な違和感を察知、若干歩調を速め一直線にベッドに近付く。
 手前のベッドは違うと直感、素通りする。
 一番奥のベッドの前で立ち止まる。 
 意識を研ぎ澄まし内側の様子をさぐる。
 内側から何の反応もないのを確かめ、カーテンを掴んだ刹那。
 声がした。
 喜びに弾む、無邪気な声。
 「ひっかかったな、ばーか!!」
 俺が動く前にシャッとカーテンが捲られる。
 勢い良くカーテンを開き身を乗り出したのは紛れもなくロン、昨日別れた時そのままのロン。俺より一瞬早くカーテンを開き、いかにも慌てふためいた様子でスニーカーをつっかけ小走りに躍り出たロンは、満面に歓喜と驚きを湛え、興奮に駆られた早口で捲くし立てる。
 「同じ手を食うかよばか、舐めんのも大概にしやがれ!大人しく寝たふりしてたからまんまと油断しがやったな、まさか寝たふりとは思わねーだろ、ったくツメがあめーんだよお前は!どうせまた闇にまぎれてこっそり謝りにきたんだろ、わかってんだよお前の考えそうな事は、だてに相棒やってねーっての。勘違いすんなよ、いくら暴君に乗っ取られてたからって俺と鍵屋崎にやったこと許したわけじゃね……」
 その顔から急速に感情が剥げ落ちる。
 カーテンを掴んだ手から力がぬけ、ぱたりと体の脇におちる。
 「……たお、りゃん……」
 歓喜が失望に取って代わる。
 そして俺は理解する、寝惚けたロンが俺とレイジを間違えた事実を。
 レイジを待ち焦がれるあまりカーテンに映った影を本人と見誤り、藁にも縋る思いで飛び出したと、失意に打ちのめされた顔がありあり物語る。
 そうか。
 俺とレイジを間違えたのか。
 間違えたからこそ、あんなにも喜んだのか。
 あんなにも嬉しげに生き生きと、俺といた時はついぞ見せた事ない顔でカーテンを開け放ったのか。
 『我叫道了。你知道假面嗎?』
 わかるか、俺が。
 ロンの顔が強張る。恐怖、戦慄。
 慌てて俺から放れようするのを許さず肘を掴みベッドに押し倒す、ロンが抵抗するのを軽くいなしもう片方の手でカーテンを閉ざす。
 「なん、の用だよ道了……天下に名だたる月天心首領が夜這いたあおちぶれたもんだなお前も!!消えろよ、消えろ!さんざん抱かせてやったのにまだたりねーのかよ、とっとと俺の前から消えろ、さもねーと……」
 ロンが歯軋りする。憎しみにぎらつく目がまっすぐに俺を刺す。
 「……この場でお袋と梅花の仇をとってやる」
 「まだ諦めてないのか」
 「当たり前だ」  
 ロンにのしかかりたやすく押さえ込む。
 二人分の体重で耳障りにベッドが軋む。
 暗闇の中、組み敷かれたロンの目が凶暴にぎらつく。
 あらん限りの憎悪を剥き出す苛烈な眼差しが、忘却の海に沈みかけた記憶を一粒すくいあげる。
 まじりけない憎しみが奔騰する目に、いつだったか抱いた女の面影が重なる。
 ロンとうりふたつの女の名前は
 何度頬を張られても決して挫ける事なく、切れた唇に血を滲ませ、挑むようにこちらを睨みつけた女の名前は。
 「香華の目に似ている」
 「!……………っ、………」
 母親の名にロンの顔が悲痛に歪む。
 抵抗が緩んだ隙に付け入り声が漏れぬようにとその口を塞ぐ。
 途端に首振り激しく暴れ出すロン、俺の手を払いのけようと右に左に千切れんばかりに首振り狂ったようにシーツを蹴る姿を目の当たりに蝿の羽音が耐え難く膨らむ。
 頭が、痛い。
 割れるように響く。
 瞼の裏で蛍光色の環が点滅、ロンの抵抗が激しくなるにつれ頭痛と耳鳴りも酷くなり全身の毛穴から脂汗が噴き出す。

 殺セ。
 殺セ。
 殺シテシマエ。
 逆ラウヤツハ首ヲへシ折リ殺シテシマエ。

 蝿の王が命令する、ロンを殺せとけしかける。
 耳鳴りがますます酷くなる。
 高音域の金属音がキンと鼓膜を貫き脳髄を串刺し体内に波紋を広げ反響、血管中の血液が沸騰動悸が速まり頭蓋骨の裏側に巣食う蝿が暴れ狂い脳を攪拌。
 視界の軸が歪む。
 現実が歪曲する。
 俺の下で相変わらずロンは手足を振り乱し必死に抵抗を続け拒絶の意志を体現する。

 今ココデ殺セバ俺ノ物二ナル。
 ロンハモウ、レイジヲ見ナイ。

 「………っ……く…………」
 抗し難い誘惑に駆られロンの首に手をかける。
 細い首だ。弛んだ襟ぐりから露出した鎖骨は痛々しいほどに華奢だ。
 首をへし折るのは簡単だ、少し力を込めればいい。
 苦しむことなくすぐに死ねる、俺にしては慈悲深い殺し方だ。
 ロンが大きく目を見開く。
 恐怖が凝った目に俺が映る。
 ロンの目に映り込む俺は平板な無表情に徹し、眠たくなるような緩慢さでその首を締め上げている。 

 『私が好きなのは道了。
 假面じゃない。
 月天心があるかぎり道了は假面をやめられない。
 私が好きなのはとても寂しい目をした普通の人間、鉄のような無表情で人を殴り殺す人形じゃない。
 道了が好き。
 月天心にとられたくない。
 だから私はー……』

 思い出した。
 俺に首を絞められながら微笑んだ女の名前は、梅花。
 あの時梅花もこんな目をした、こんな目で俺を見た。
 首を締められる苦しみに喘ぎながら、逆に哀れむような目で俺を見上げた。

 「っあ……ぐ………ぅ……!!」
 極限の苦痛に歪むロンの顔に梅花の面影が溶け合い殺意が萎え、腕から急速に力が抜けていく。
 シーツを蹴って苦しみあがくロンの首からあっけなく手を放す。
 軌道を圧迫する苦しみから解放されたロンが激しく咳き込む。
 「げほっがほっ!」
 喉を押さえ激しく咳き込むロン、しめやかに涙が張った目が不安げに虚空をさまようのを捉えた瞬間、腹の底で衝動が爆ぜる。
 ぐったり横たわるロンを片腕で支え起こし、わけもわからず抱きしめる。
 出来るだけ優しくロンを抱擁する。
 力を入れすぎて壊さないように細心の注意を払い、俺に比べてあまりに小さなロンの体を抱く。  

 懐に熱を感じる。
 性急な鼓動を打つ心臓の熱がじかに伝わる。

 「はな、せよ……おふくろと、めいふぁをころした手で、さわん、な……お前に抱かれると、虫唾が走る……最初からずっと、そうだったよ……お前に突っ込まれて感じたのは嘘だ、あんなの全部芝居だ、お前をだまくらかすための演技だよ……お前に突っ込まれてもぜんぜん良くなかった、痛いだけだった……ろくにならしもせず突っ込まれて……ケツが裂けて……内臓でんぐりがえって………レイジのがよっぽど……」
 俺を引き剥がそうと懸命に身をよじり暴れながら、獣じみて荒い息のはざまから言葉を紡ぐ。
 汗に濡れそぼった前髪に表情を隠し、その名を口にする事で覚える痛みを堪え、吐き捨てる。
 「レイジのがよっぽど、優しかった」
 息も絶え絶えに俺を罵るロンを腕に抱き、頭に顔を埋める。
 耳の奥で蝿の羽音が鳴り響く。
 じきに終わりが来る。蝿の王が終焉を告げる。
 それまではロンとともにいたい。
 「ロン」
 突き放す力もなく項垂れるロンを抱擁、冷え切った内部に人肌の熱を取り込もうと目を閉じる。
 くしゃくしゃに乱れた髪が頬をくすぐる心地よさにひたり、
 とうの昔に捨て去った甘やかな安らぎにひたり、
 言う。
 「俺と一緒に逃げろ」 
 梅花の亡霊も蝿の王も俺達の邪魔をするものが誰もいない場所へ、誰も追ってこないほど遠くへ、お前を独占できる場所へ。
 東京プリズンを捨て。  

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050221050035 | 編集

 「上の人間どもに忘れ去られて久しき東京地下都市、またの名を九龍租界のばばがお相手いたそう」
 顔中皺くちゃにして歯抜けの笑顔を浮かべるお婆ちゃん。
 不浄な闇が支配する下水道のど真ん中、ちょろちょろと水が流れ一面をぬらす水路にて謎の人物と対峙。

 突如現れた得体の知れぬ老婆。
 漆黒の雨合羽をすっぽり被さった格好は絵本に出てくる邪悪な魔女みたい。
 大釜でぐつぐつ毒液煮込むのが似合いそう。
 暖炉にくべた大釜に蟇蛙やトカゲの目玉やネズミのしっぽ、ついで人骨をぽいぽい放り込むところが容易に目に浮かぶ。

 雨合羽に膝まで覆う長靴を一分の隙なく完全装備した老婆は、皺に埋もれ落ち窪んだ目に気安げな光を宿し、物珍しげに僕らを見つめる。
 しげしげと見詰められ居心地悪さを味わう。居丈高に顎を引き僕らをためつすがめつする目に悪戯っぽい稚気が閃く。
 底知れぬ目に射竦められ警戒心が頂点に達する。
 見た目はどこにでもいるおばあちゃんだけどこやつ侮れぬ。
 漠たる不安が胸に渦巻く。
 そもそも現状を顧みて異常さに戸惑う。
 ホセの依頼を受けビバリーにも内緒でこっそり下水道におりた僕は、ネズミに追い掛け回されスキンヘッドの人魚に誘惑される苦難の旅路の末に、謎の老婆と対面した。
 未知との遭遇。
 疲労困憊の体で下水道の奥に迷い込んだ僕を待ち受けていた出会いが吉と出るか凶とでるかわからない、けれども今それどころじゃない、冷静な思考力と公正な判断力を欠いた今の僕が考えることといったら一点に尽きる。
 「女の人に会うの何年ぶりだろ」
 事実驚愕を通り越し感動に近い心境だった。
 あんぐり口を開け目をまん丸くし立ち尽くす。
 今の僕はさぞかし間抜けヅラをしてることだろう。
 けど仕方ない、状況が状況だ。

 目の前に女がいる。
 賞味期限ぎりぎりだけど女に分類していいよね?
 生きて動いて喋る本物の女の人に会うのなんて何年ぶりだろう、わあすごい。

 現実感の希薄さが状況の滑稽さに拍車をかける。
 最初の驚きが去ってみると後に残るは無邪気な賛嘆、僕はただただ感心しじっくりと老婆を見返す。
 ぶっちゃけ房にダッチワイフを持ち込む囚人は少なくない。
 ひとり寝を嫌う連中は女の柔肌には遠く及ばぬ代用品としてビニールの人形を求める。
 この人形はすごく便利で看守の靴音が聞こえたら栓から空気を抜いて潰して隠してしまえばいい、一部の囚人はそうやって長い夜に慰めを見出す。
 目の前に女がいる。
 ためしに頬をつねってみればちゃんと痛い、てことはこれは現実だ。
 どんなに現実感が薄く虚構めいていても現実だ。
 現実を見ろ、僕。
 うん見てる、見てるって。
 混乱してるのかな、僕?
 そうかもしれない。
 自覚はないけどちょっとショックを受けて思考が混線してるのかも。
 大体なんでこんな所におばあちゃんがいるわけさ?
 老体に寒さは厳しいっしょ?
 しかもその格好は?
 疑問の洪水が殺到、濁流の如く理性を押し流す。

 えーと、とりあえず事実確認。
 ここは東京プリズン、砂漠のど真ん中にあるはずの刑務所。
 僕がネットサーフィンを介し仕入れた知識が正しければ東京アンダーグラウンド計画発端の地。でもそれは半世紀も前の話、地下に移民用の都市を造ろうって壮大な計画は突然の地震で潰え時の経過に従い忘れ去られた。
 東京プリズンの地下に人なんているわけないのだ、地下都市の名残りの通路は落盤で塞がれたんだから。
 当時工事中だった人間はすべて生き埋めにされたんだから地縛霊ならともかく生身の人間なんているわけ……

 地縛霊?
 不吉な閃きに背筋が凍る。
 急速に汗が冷え、目に映る光景がおどろおどろしさを増す。

 「そんなまさか、ナンセンスだよ。お化けなんているわけないじゃんねえビバリー」
 微妙な半笑いで声をかけるも返答はない。
 そうだ忘れてたビバリーはいないんだ、今頃房でぐっすり眠り込んでるんだ懐にロザンナ抱いて、薄情者め。
 書置きひとつ残さず出てきた自分は棚に上げ役立たずのビバリーを罵る。
 肝心な時にいないんだから、もう。
 今この場にビバリーがいたらどんだけ救われただろう、「そっすよリョウさん幽霊なんているわけないじゃねっスか、この科学万能の時代に!電脳の申し子ビバリー・ヒルズがお約束しまス!」って能天気に笑い飛ばしてくれてそれだけで気分が軽くなる。
 ところがどっこいビバリーはいない。
 オカマとババアに挟み撃ちされ進退窮まった僕が頼れる人はどこにもない。 
 幽霊だったらどうしよう。
 いやそんなまさか幽霊なんているわけないじゃんと否定するも笑みが強張るのを隠し切れない。
 鳥肌立つのは肌寒いせいばかりじゃない。
 含みありげな笑みを浮かべる老婆に気圧され一歩二歩へっぴり腰で後退、暴走寸前の恐怖を必死に操縦。

 「まっさかあ、悪い冗談やめてよ。そりゃ生身の人間だって考えるより成仏できずにさまよってる地縛霊だってほうがよっぽどしっくりけどさ、この状況じゃ。明かりもろくに点いてない下水道の暗がり、ぴちゃんぴちゃんて水が滴る音が不気味に反響して、目の前には怪しさ大爆発の黒ずくめのおばあちゃんがいて……いくらなんでもさーお約束的なアイテム揃い過ぎて逆に胡散臭いよね、舞台装置整い過ぎてるのが作意を感じさせるってゆーか……それにそうだほら、幽霊って足がないよね?足がないのに足音するわけないよね?おばあちゃん出てきたときたしかに足音したもん聞いたもんこの耳で、ぴちゃんぴちゃんて水溜り弾く足音が!ほらやっぱ僕の勘違いだ怖がって損した、幽霊なんているわけないもんねいまどき、ビバリーの言ってたとおり!」

 じわじわ忍び寄り触手を伸ばし僕を絡めとろうとする恐怖と不安を吹っ飛ばすように声を張る。
 せいぜい虚勢を張って踏ん張ってみるけど足が震えてかっこ悪い。
 ああ、バレませんように。
 下水道のど真ん中に踏ん張りおばあちゃんに人さし指をつきつけ、「お化けなんてないさ」と宣言。哀しいかなこの状況じゃ説得力不足。
 下水道の奥の奥、袋小路に迷い込みすぎて現在地がさっぱり判らない。
 本道に設置されていた照明もここには一切見当たらず不気味な闇に包まれている。
 あたりに漂う黴臭い匂いに心細さが募る。
 行きはよいよい帰りは怖いって言うけどそれは違う、行きが怖けりゃ帰りは倍怖い。
 僕はすっかりパニックに陥っていた。
 正確には陥る寸前ってところ。
 自分を冷静に分析する余裕があるだけマシだが、だからって大丈夫ってわけじゃない。
 マジな話もうちょっとでちびっちゃいそうなのだ。
 膀胱が尿意でぱんぱんに張り詰める。
 くそ、タマが重い。
 周囲の壁に殷々と反響しむなしく吸い込まれる声が静寂を際立たせる。 
 漆黒の衣装をまとい闇に溶け込んだ老婆は、相変わらず沈黙を守り、瞳だけを炯炯と輝かせている。

 僅かに赤いぬめりを帯びた、目。
 僕を襲ったネズミの大群、血が結晶したような真紅の目が闇の中煌々と輝く。
 漸く気付いた、このおばあちゃんネズミと同じ目をしてる。
 僕を骨まで齧ろうとしたネズミさんたちとおんなじ目をしてる。
 ネズミの総大将?人の皮を被ったネズミ?
 まさか、お化けよりもっとナンセンスだって。
 でもそのありえない発想を否定できない自分に愕然とする、下水道の異様な雰囲気に毒され僕もおかしくなりかけてる、恐怖の水位がじわじわ上がって発狂寸前まで追い込まれる。

 とって食われる。

 「………ひっ………」
 喉の奥で悲鳴が泡立つ。
 神経が痺れ、棒のように手足が突っ張っる。
 スニーカーの踵が水溜りに突っ込み盛大に飛沫がはぜる。
 足元に触手を伸ばす水すら恐怖の対象になる。
 漸くわかった、老婆の正体が。
 ネズミ人間だ。
 そういえばどことなくネズミに似ている、目の前のおばあちゃんはネズミが人間に化けた仮の姿なんだ。ビバリーがネットで視聴してた映画にそんなのあったもん。
 人間の姿でえものに近付き油断させ食べちゃうつもりなんだ。
 くそっ、むざむざ食べられてたまるかっての!
 ネズミの餌食になるなんて冗談じゃない、生きて地上に帰るってママに誓ったんだ、もう一度ママに会うまで諦めてたまるもんか!
 ああでも足が動かないよ、絶体絶命万事休すだよ。
 大ピンチ。
 足の震えが全身に広がる。
 呼吸がぜいぜいと荒くなる。
 喘息の発作でもおこしかけたように不規則に間延びした息をし、どうにか老婆から距離をおこうとあとじさるも、水溜りにスニーカーが突っ込む音さえ恐怖を高める効果音となる現状じゃままならない。

 どうする、僕。
 水路は狭くて逃げ場がない。
 なお悪いことに帰り道がわからない。

 身を翻したとたん老婆の手が伸びてとっ掴まえられそうで踵を返す踏ん切りがつかない。
 全身の毛穴から噴き出す冷や汗にまみれ慄然と立ち竦む僕の隣、さっきから沈黙を守っていた貞子が、顔に手をあてる。
 スキンヘッドが似合ういかつい顔が歪み、ムンクの如き楕円に口が開き、戦慄き、そしてー……… 
 極限まで目をひん剥く。

 「きゃあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ、女!!!!」

 見た目を裏切る超高音域、殺人的超音波がその口から迸る。
 恐怖の絶頂で貞子は絶叫した。
 恥らう乙女のごとく頬に手をあて、ミロのヴィーナスの姿態で腰をくねらせ、楕円の口から凄まじい絶叫を放った。
 悲鳴を上げる時も裏声を作るのを忘れないのはさすが、ニューハーフの面目躍如といったところ。
 なんて呑気に考えられるまでに思考力が回復したのは、至近距離で超音波に貫かれひりひり麻痺した鼓膜が、正常な機能を取り戻す頃。
 貞子の絶叫には度肝を抜かれた。
 ちびりかけたおしっこも思わず引っ込むというものだ。
 貞子の絶叫があんまりにもアレで恐怖も吹っ飛んだか、なんだか毒気をぬかれた僕は、一応突っ込んどく。
 「………ねえ、本人目の前にして失礼だよ」
 「あ、あら私としたがそうね、失念してたわ。どんな状況と場合でも相手に対する礼儀は大切よね。じゃ改めて」
 貞子が深呼吸する。
 鉄板を仕込んだように鍛え抜かれた胸板が上下し、喉仏が隆起。
 バキュームの吸引力であたりの空気すべてを吸い込んだせいで真空状態が出現、酸欠に喘ぐ僕をよそに絶叫し直す。

 「きゃあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ、化け物!!!」
 「もっと失礼だよ!?」

 突っ込み疲れしそう。
 生物学上は一応ぎりぎり女性に向かって失礼な言動連発の貞子を諌めれば、背後で飄げた笑いが弾ける。 
 殷々と壁に反響し、闊達な余韻を帯びる笑い声につられ振り向く。
 おばあちゃんがそっくり返って笑っていた。
 それ以上反り返ると腰を痛めるか入れ歯が飛び出すよとこっちが心配になるくらい大げさな笑い方。
 面食らう僕と頬に手をあてぶりっこする隣の貞子をよそに、おばあちゃんはひとしきり笑い転げる。
 「ひゃっひゃっひゃっ、化け物とは言ってくれるわい口の利き方を知らぬガキどもが!まあ化け物でも違いはないわの、長年闇に紛れ地下で暮らしておれば人よりも化け物に近付くが道理よ。なかなか見る目があるガキじゃて」
 「ちょっとおばあさんガキガキって失礼よ、麗しの乙女にむかって。私はね、貞子っていうの。貞淑な子と書いて貞子」
 「そっちのガキは?」
 貞子は無視ですか。
 突然水を向けられ戸惑う僕を愉快げに眺めやり、じれずに答えを待つ。
 「………リョウ」
 「日本人の名前じゃの」
 「パパが日本人だからね。よく知らないけど」
 あっさり開き直る。
 なんだか急にばかばかしくなった。
 貞子に会ってから調子狂わされてばっかでいい加減疲れていたしヤケになってもいた。
 もうどにでもなれ。
 とりあえずネズミ人間じゃないみたいだし。
 得体は知れないけど、足が生えてるなら人間と断じていい。
 貞子の悲鳴で図らずもいつものペースを取り戻し、腰に手をあて前傾。
 かわいこぶりっこ詰問のポーズ。
 「で、おばあちゃんは何者?なんでこんなところにいるの?一応ここ刑務所の下なんだけど」
 僕と貞子をたっぷり見比べ束の間思案に沈む。
 やがて口を開く。
 「ワシの台詞じゃよ。おぬしらこそなんでこんなところにおる」
 ぎくり。痛い所つかれた。 
 動揺もあらわに押し黙る僕をよそに、貞子が胸の前でひしと指を組む。
 「おお、神よ!救い主を遣わし給うたことを感謝します!」
 何?
 目配せで口裏を合わせるよう合図、感激に目を潤ませ口からでまかせを並べ立てる。
 「私とリョウちゃんはね、ブルーワークの囚人なの。あ、ブルーワークってのは下水道で色々お仕事する係の囚人の総称。配管の水漏れを修理したり網にかかったゴミをすくったりするのが主な仕事ね。私たちもごたぶんにもれずいつものように下水道で働いてたんだけど、哀しいことに私の美貌を妬む囚人たちの罠にかかって地上に帰還する前にマンホール閉じられちゃってね。しかたないからこうして出口をもとめ彷徨い歩いてるわけ」
 「美貌を妬まれのあたり苦しくない?」
 「美はいつだって罪作りよ」
 完璧演技に酔った貞子が哀しげに目を伏せる。手ごわいオカマだ。 
 貞子迫真の演技による苦しい言い訳をどうとったか、老婆はふやけた口をなむなむと動かし何かを咀嚼していたが、ふいに顔を上げる。
 「そりゃあ災難じゃったの」
 「え、信じちゃうの?」
 「私も若い頃は周囲のおなごに美貌を妬まれたものよ。気持ちはわかるぞい、辛かったの」
 痴呆が始まってるんですかおばあちゃん。認知障害ですか。
 親身な同情をこめた口ぶりで慰められ、偽の涙を湛えていた貞子がわっと泣き崩れる。
 正確には上体を前に倒し泣き崩れるふりをしながら、こっそり耳打ち。
 『案外いいひとね、このおばあちゃん』
 『あー………もうそれでいいよ』
 疲れた。
 なんかすごい疲れた。
 うんざりと相槌打つ僕の耳に、颯爽たる衣擦れの音が届く。
 音に反応し向き直れば、雨合羽の裾を翻し老婆が歩き出したところだ。
 「ついてこい。いつまでもこんな所におっては風邪をひく」
 有無を言わさぬ口調で厳命され、貞子と顔を見合す。
 『どうする?』
 『いきましょ。下水道で消えた駒の手がかりが掴めるかも』
 貞子の顔が引き締まる。
 不承不承僕も頷く。
 あんま気乗りしないけどしかたない、ひとりで帰れる自信もないし。
 真っ暗な下水道にひとりぼっちにされるより得体の知れぬオカマとおばあちゃんについてったほうがまだマシだ。
 保身を最優先に判断、貞子を伴い歩き出す。
 明かりがないにもかかわらず老婆の足取りには一切の迷いがない、複雑に入り組んだ道順もすべて頭に入ってるらしい。
 軽快に先行く老婆の背中を追いながら、固唾を呑んで尋ねる。
 「どこ行くの?」
 「ワシの家じゃよ」
 「どこにあんの」
 「この奥じゃ」

 老婆が顎をしゃくった水路の奥には黒暗暗たる闇が立ち込めている。
 だけ。
 猛烈な不安に苛まれ、さらに疑問点を追及する。

 「あのさ、さっきも聞いたけどおばあちゃん何でここにいたの?この上に刑務所があるの知ってるよね。東京プリズンて言うの。日本で悪いことしたやつの殆どが入れられる場所、ただし二十歳以下に限るけどね。怖いよ?物騒だよ?危険だよ?頭の上に不発弾のっけてるようなもんだよ?いつ爆発するかわかんなくてひやひやもんだよ?刑務所のまわりはぺんぺん草もはえない砂漠がずうっと広がってて、一番近い新宿スラムまでだってジープで半日かかる距離。天然の密室、陸の孤島。推理小説でよくあるっしょ?殺人事件の舞台にぴったりなアレ。おばあちゃんみたいな一般人が来れるような場所じゃないんだけど……」
 一般人かどうかはとりあえず留保。
 それを差し引いても、よぼよぼのおばあちゃんが散歩がてらの気軽さでぶらりと現れるにはそぐわない環境だ。
 僕の問いかけに老婆はひょっひょっと肩を揺らし答える。
 「ワシはの、ここに住んどるんじゃよ」
 住んでる?
 意外すぎる答えに絶句、愕然。
 改めてあたりを見回す。

 明かりひとつない闇、黴と苔に覆われた壁、水浸しの床。
 東京プリズン地下に広がる下水道の奥の奥、囚人はおろか看守さえ存在を知らないような旧来の通路。
 湿気でむしむしした隋道の息苦しさとうっかり頭をぶつけそうな天井の圧迫感は、房をも軽く上回る。

 「こんな所に住んでるだって?まっさかあ、姥捨てプールじゃあるまいし」
 信じられず笑う僕の視線の先、老婆がぴたりと止まる。
 後続の僕らも自然と停止。
 闇にも増して重苦しい沈黙が押し被さり、ひしひしと僕の失言を責める。  
 「あ、えと………ご、ごめんね?悪気はなかったんだよ?僕の笑顔に免じて許しておねがい」
 えくぼも可愛らしい母性本能直撃の笑みを湛えてみせるも、母性本能が枯渇したらしい老婆にはまったく効かない。
 必殺のお願いが通じず困りきった僕の肩にぽんと手が置かれる。
 見上げれば貞子がいた。
 僕と目を合わせるなり小さく首を振り、任せておけと首肯する。
 「おばあさん」
 猫なで声で呼びかける。
 老婆がどんよりと振り向く。
 ヘドロのように淀んだ目の不気味さに引く僕の隣、貞子は物分りいい笑みを浮かべる。  
 「わかるわよ、その気持ち。私も社会からサベツされ不遇をかこつ身ですもの。すべて生まれ持った美しさが原因とはいえ、周囲に妬まれ陥れられ気付けばこんな所に流れ着いてしまったわ。だからって誰も恨んだりしない、そんな事をしたら心が汚れてしまうもの。私は私の美を常に完璧にしておくために心をぴかぴかに磨きぬくの。今はもうほかの女に走った彼も憎くない。彼が恐れるのも当然、だってこんなにも美しすぎるんですもの」
 水溜りに映りこんだ自分を見下ろし、悩ましげに吐息をつく。
 「美しさは罪。私の美貌に引け目を感じてどこにでもいるつまらない女に走るのも当然よね、きっとプレッシャーに負けたのよ、私に釣り合う男でい続けるプレッシャーに。匕首を向けたとき、彼は言ったわ。私の愛は重荷だって、私に抱きしめられるたび寿命が縮んだって」
 「縮むだろうね。本気で抱きしめたら肋骨折れるっしょ、軽く二・三本」
 「結局彼は自分可愛さに私を捨てたの。長年尽くし続けたこの私を、ニューハーフクラブで働きながら貢ぎ続けたこの私を、壊れたお釜でも捨てに行くような気軽さでもってぽいって、ぽいって………!」
 「そりゃオカマだしね」
 貞子の顔が屈辱と怒りに歪む。
 蘇る憤怒に顔を紅潮させ、どこからか取り出したハンカチをぎりぎり噛み締める。
 「物にだって百年たったら魂がやどって付喪神になる、いわんやお釜は、よ!あンのたまなし野郎さんざん人を弄んで捨てやがって許さねえ、今度会ったらケツに拳突っ込んでじゃんけんポンて野球拳してやらあ」
 途中から地声ですよ貞子さん。
 ハンカチをぎりぎり噛みながら自分を振った男への恨みつらみをぶちまける貞子を老婆はじっと見詰めていたが、やがてその顔に変化がおきる。
 すなわち満面の笑み。
 「おぬしも辛酸を舐めたんじゃの」
 わかるぞいその気持ちといわんばかりに感慨深く頷く。
 目がちょっと潤んでるのは気のせい?……だと思いたい。
 貞子と老婆が真摯に見つめあう。
 坊主対老婆の図。
 傍から見ればこれほど奇妙な光景もない、というか蚊帳の外だね僕。
 足元をちょろちょろ水が流れる下水道にて、僕を挟んで向き合い、ふてぶてしくも清清しい同志の笑みを交わす。
 戦友と書いてともと呼ぶ、そんな感じのなまぬるーい空気がただよう。
 感傷にぬれ光る目で微笑ましく貞子を見守りながら、老婆がおもむろに口を開く。
 「ワシはまだまだ現役じゃ。壊れた釜と一緒くたにしないでほしいの」
 決裂。
 ぴしりと空気にひびが入る音が聞こえた。
 いや、冗談じゃなく。
 凍りつく貞子をその場に残し歩みを再開、老齢らしからぬ健脚ですたすた去っていく老婆を慌てて追う。  
 「上げておとすなんて高度なテクだねおばあちゃん、見直したよ」
 「だてに租界の長老を名乗ってないわ」
 小走りに駆けつつ心からの称賛を送れば、ひょっひょっひょっと老婆が笑う。
 その言葉で冒頭に立ち返り、まず真っ先に聞くべきだったことを思い出す。
 「ずっと気になってたんだけどその租界って何なの?九龍租界とか東京地下都市とか意味わかんないんだけど……」
 「じきにわかる」
 ためらいがちに切り出すもあっさり一蹴、しかたなく後についていく。
 「ひどいわひどいわ乙女の純情踏み躙って馬鹿にして、こんな因業ババアねずみに骨まで齧られちゃえばいいのよすかすかで美味しくないだろうけど!オカマオカマって馬鹿にして、私はれっきとしたニューハーフよ!?そりゃあまだとってないけど心は完全に女、ホセ様に忠誠と操を捧げる南のスパイ貞子とは何を隠そうこの私、去勢ライセンスをもつ隠者公認の女スパイとはこの……」
 貞子の滔々たる独り語りを聞き流しながらおばあちゃんについていくうち、漠然たる違和感を感じ取る。
 ぴすぴす小鼻を蠢かし匂いを嗅ぐ。
 そして気付く。
 黴と苔の異臭が立ち込めていた空気に、違う匂いが混じり始める。  
 煮炊きをする匂い。
 「ごはん?」
 ご飯の匂いに空腹を意識する。
 老婆が意味深にほくそえむ。
 次第に周囲の景色が変わり始める。
 黴と苔に覆われ朽ちた壁に人の手が加えられ、足元を這う水流は格段に少なくなり、殆ど歩行の妨げにならない程度に改善される。
 複雑怪奇に入り組んだ暗渠を長い長い時間をかけ歩き通し、ようやく老婆が立ち止まる。
 途中道が傾斜していたのに気付いた。
 注意しなければ気付かないほどゆるやかに、だが確実に、道は下へ下へと傾いでいた。
 今僕がいるあたりはきっと下水道の最深部、地上から何十メートル、ことによると何百、いや何キロ離れてるか想像できない。
 おもむろに停止した老婆の肩越しに正面を見やり、貞子ともども驚きに見張る。
 でんと壁が立ち塞がっていた。
 「ここまできて行き止まり!?無駄骨じゃん、ばっかみたい!」
 非難の声を発する僕を一顧だにせず、中腰に屈んだ老婆が作業を開始する。
 「疲れたーもう歩けないーもう貞子でいいからおんぶー」 
 「リョウちゃんてば甘えん坊さんね。私におぶわれたら最後巴投げでポジション変更レッツゴーよ?」
 挑発的に上唇を舐める貞子にびびる僕のやりとりを背中で聞き流し、雨合羽のポケットから何かを取り出す。
 興味を引かれしわしわの手元に注目。
 片膝付いた老婆の手中にあるものを見て「あっ」と声をあげかける。

 老婆の手に翳されたのは四角いカード。
 おそらくマイクロチップの類。

 剃刀の如くカードを一閃、スリットにさしこむ。
 よくよく注意しなければ気付かない位置に在ったスリットにカードを通すや否や壁が振動、真ん中に切れ目が走る。
 空気を攪拌する無機質な音に合わせ扉がふたつに割れていく。
 「ローターみたい。極力音が小さくできる最新型で最大3キロまで遠隔操作可能」 
 「リョウちゃんてば見かけによらず過激なこと言うのね」
 貞子がぎょっとする。
 「いちばん身近なたとえをあげたまでさ」
 初めて一本とった爽快感に溜飲を下げる僕の目の前で完全に扉が開ききり、カードを懐にしまった老婆が慣れた足取りで先に進む。
 先頭に立つ老婆を慌てて追いかける。
 「すごーい、アリババみたい!この先に油で煮殺された盗賊の死体があったりしないかな?」
 無邪気な歓声を上げる僕をよそに壁を仰ぎ見た貞子が唸る。
 「表面はコンクリートで偽装してたけど断面は機械。老朽化の具合から察するに五十年近く前のもの、角膜照合が浸透した今でも磁気カードが使われてるってことは………」
 興奮に喉が渇く。
 沸騰せんばかりに心臓が高鳴る。 
 すごいすごいすごい、東京プリズンの地下にこんな仕掛けがあったなんて全然知らなかった!ビバリーに教えてあげたら喜ぶだろうな。 
 ビバリーの驚く顔を思い描き笑みを零すも、ふいに不安がきざす。

 東京プリズン地下に人知れず存在する秘密の扉、
 その鍵を握る老婆。
 貞子は少なくとも半世紀は前のものだと扉を判断した。半世紀前といえば東京アンダーグラウンド計画始動の時期とちょうど一致する。

 まさかこのおばあちゃんが、東京アンダーグラウンド計画に関わってたりして?
 ホセはそれを見越して僕と貞子をさしむけた?
 隠者の手の内で踊らされる居心地の悪さに辟易する僕を、玲瓏たる声が現実に引き戻す。

 「光あれ」
 闇に光が射す。
 視界が急に明るくなる。

 「!っ」
 「きゃっ!?」
 暗闇に慣れた目には強すぎる刺激に腕を翳し顔を庇う。
 目が慣れるのを待ち腕を下げ、眼前に広がる光景に愕然。

 「歓迎光臨。九龍租界にようこそ」
 老いてなおおかしがたい威厳を帯びた声が朗々と響き渡る。 

 目の前にだだっ広い空間があった。
 ただ広いだけじゃなく人が住んでいた。それも多くの人が。
 竪穴式住居とでも言うのか、僕達が放り出されたそこは上から見下ろすと円筒形の空間だ。
 ぐるりの壁にはベランダが張り巡らされベランダからは縦横無尽にロープが張られおびただしい洗濯物が干されている。
 何階層に及ぶのか、何世帯が住んでるのか正確には把握できない。
 周囲の壁には継ぎ足しに継ぎ足しを重ね増殖した家屋が犇めき合い上下の階を梯子が繋いでいる。
 蜂の巣の断面のような構造のアパートにはひとつひとつ軒先が設けられ上階から降り注ぐゴミや配管の水漏れを防ぐ。
 カクカクと折れ曲がる梯子をよじのぼりそれぞれの家を行き来する住民たちの姿を捉える。
 なお驚くべきことに、頭上には回廊があった。
 「租界名物空中楼閣じゃよ」
 僕の視線を追って頭上を仰いだ老婆が得意げに言う。
 頭上で立体的に交差する大小の橋。
 何十本何百本という数の橋が幾何学的に交差し接続し、住民の行き来を助ける「道」の役割を担っている。
 五本の橋が接続する要衝にはちょっとした市が立ち沢山の人で賑わってる。
 屋台の軒に逆さ吊りにされた鶏と豚の燻製、蒸篭に特盛り湯気だつ饅頭、ハサミで掴み取りの惣菜。
 飴屋には子供が群がり大盛況、甲高く上がり調子の中国語が飛び交い英語がまじりマレーシアあたりの言葉にロシア語がごちゃまぜでああもうなにがなんだかわからない!

 「九龍租界とはよく言ったものね。なき九龍城の光景にそっくり」
 感嘆の吐息をつく貞子に老婆が何か言いかけたその時、

 『東太后!』

 高層アパートの出口からひとりの女の子が姿を現す。
 まだ若い。せいぜい17か8ってところ。
 これといって特徴のない目鼻立ち、ブスでも美人でもない十人並みの顔だち。
 地味に尽きる第一印象に何故かママの面影が重なる。

 僕を抱っこしていい子いい子してくれたママ
 殴られ騙されても決して男を恨まず、顔の怪我を心配する僕を「リョウちゃんはいい子ね」と抱きしめてくれた。
 
 顔は全然似てないけど雰囲気が似てる。
 女の子は間違っても転ばぬよう一歩一歩慎重な足取りでこっちにやってくる。
 ゆったりしたワンピースに包んだおなかを抱え、大儀そうに歩いてくる様子で察する。
 妊婦さん。
 「これ、無理をするんじゃないよ。出迎えはいいから横になっとれ」
 「まだ一週間も先です。どこも悪くないのに寝てばかりいちゃ悪いわ、ただでさえお世話になってるのに……」 
 「火傷が治ったばかりなのに何を言うかね。あかんぼってのはいつすぽんと股からでてくるかわかんないんだよ、経験者が言うんだから間違いないさね」
 女の子の背を押し追い返そうとする老婆、けれども女の子は僕と貞子に興味を示し遠慮がちに尋ねる。
 「この人たちは?」
 「上の刑務所の連中。迷子になってたから仕方なく連れて来てやったのさ、放っとけばワニの餌食か遭難の二択だからね」
 刹那、女の子の顔色が劇的に変わる。
 避ける暇もない早業だった。
 「上の、刑務所の人?あなたたち、東京プリズンにいるの?」
 女の子が僕の肩を掴む。
 華奢な手に力を込め縋りつき、思い詰めた眼差しを向ける。
 先刻までの気丈な笑みは拭い去られたように消え、力任せに僕を揺さぶり始める。
 「あの人の事教えて、あの子がどうしてるか教えて。あの人が元気でやってるかあの子が今どうしてるか教えてちょうだい、お願いだから……っ」
 「ちょ、まっ、揺さぶんないで酔うよ酔う、てかあんま刺激すると膀胱が…」
 視界が上下に揺れる。
 女の子の顔が至近距離に迫る。
 真っ赤に泣きぬれた目が視界一杯を占めた次の瞬間、ふわりといい匂いが鼻腔を包み、柔らかな腕が背中に回される。
 豊満な胸におもいっきり顔を押し付けられあわや窒息しかける。
 突然の抱擁に面食らうも、数ヶ月ぶりに接触した女の子の体の柔らかさに不覚にも勃起しかけ、やべ、妊婦相手に勃つなんて変態じゃん必死に身をよじり抜け出そうとするも無理、女の子はぎゅうぎゅうと僕を抱きしめ放そうとしない。
 あ、今蹴った!
 ママを守ろうとする赤ん坊に感心、じたばたもがいて3センチ距離をとる。
 大きく膨らんだおなかからできるだけ身を放し、別の意味で膨らんだ股間を庇うようにしてじたばたする僕の耳に、予想外の名前が飛びこむ。
 「道了の事、おしえて」 
 え?
 ここで聞くと思ってなかった名前に抵抗をやめる。
 抵抗が緩んだ僕をおもいっきり抱きしめ、昔ママがそうしたみたいにくしゃくしゃの赤毛に顔を埋め、女の子が言う。
 「ロンの事、教えて」
 今度こそ、本当に驚く。
 寂しげな顔に透徹した決意を映し、縋るように一途な眼差しで凝視を注ぐ女の子に向かい、やっとのことで返す。
 「道了とロンを知ってるの?!」
 愛しげにおなかに手を添え、まだ見ぬ子に捧げる子守唄のように優しく告げる。
 「道了はこの子のー………」

 深呼吸で目を閉じる。 
 その言葉を口にするのに怯えに似たためらいを覚え
 瞼を上げた双眸に冴えた意志をやどし
 現実に立ち向かうしなやかな物腰で
 誇りをもって宣言する。

 「父親よ」

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050220052122 | 編集

 『Oh my Jesus!』
 絶叫が迸る。
 無数の白い毛玉が視界を埋め尽くしたかと思いきや、脳天から爪先まで全身の穴という穴を塞ぐ勢いで窒息せんばかりに群がる。
 十字を切る暇も与えられず断末魔の尾を引きネズミの大群に埋もれたビバリー、脳裏を刹那の走馬灯が過ぎる。
 ベッドの上でハーシーのチョコを巡りリョウと争い蹴飛ばされ転げ落ち、ロザンナと愛を語らっている最中にリョウに「だ~れだっ」と目隠しされつるっと指がすべり全文消去で魂が抜け何故かロザンナを目の敵にするリョウから身を挺して守るスラップスティックな日々。
 赤毛にそばかす童顔の少年が小悪魔的な笑みを浮かべあっさりバイバイと手を振る。
 そんな冷たいっすよリョウさんそれが友達に対する仕打ちと抗議しようにも出来ない。
 飢えたネズミの大群は骨の髄までビバリーを貪り尽くそうとしている。
 あんぐり開けた口にまでネズミが潜り込む。
 好奇心旺盛なネズミはビバリーの口が未知なる洞窟だとでも思ったか果敢に頭を突っ込み、喉ちんこを敵と定め噛み千切ろうとしている。
 口に突っ込んだネズミが蠢き激しいえずきが襲う。
ネズミ地獄から這い上がろうと懸命に手足を振り乱し身をよじり暴れるも、ビバリーが示すいじましい抵抗をよそにネズミどもはその貪欲さを遺憾なく発揮し、コンクリ壁にさえ穴を開ける頑強な前歯でもって体の端々を齧り出す。
 「アウチッ!?」 
 ネズミが詰まってるため悲鳴が悲鳴にならずくぐもった異音になる。
 肩に腹に手に足に腿に全身至る所に鋭い前歯が突き立つ。
 囚人服の襟ぐりにネズミが忍び込み体の表裏を這い回る。
 食い破られた皮膚に痛みを感じる。
 腹をすかせたネズミの群れに飛んで下水に入る食糧と認識されたビバリーは攻撃性を剥き出した捕食者から逃れる術なく、身をくねらせ上着の内側に滑り込んだ敵を追い払う術とてもたない。
 格好の餌食。
 一匹なら恐れるに足りないネズミも数百数千の大群となれば脅威に値する。
 全身至る所に鋭利な痛みが爆ぜる。
 ネズミが体のあちこちを齧る。
 柔らかな皮膚が食い破られ血が滴る。
 ビバリーは必死に抵抗する。
 何がなんだかわけもわからず一心不乱に身をよじり首を振り、あとからあとから群がるネズミを追い払おうとずりずり這いずる。
 ああ、食われちゃうっス。
 骨の髄まで齧られちゃうっス。
 迫り来る死を痛感、恐怖などという生易しい言葉では表現できぬ底冷えする戦慄がビバリーを支配する。
 CIAを篭絡しペンタゴンを陥落し政府の重要機密を掌中に握る天才ハッカーとして鳴らしたビバリーもパソコンを持たねばただの人、ずばぬけて運動神経が良いわけでもないビバリーが数の利で圧倒するネズミの大群に太刀打ちできるわけもない。
 ビバリーは発狂せんばかりに暴れ転がり、もてる限りの体力を振り絞り、おのれに群がるネズミを一匹残らず振り落とそうとする。
 しかし服の端にしぶとくぶら下がるネズミを振り捨てようとすればするほどに体力が削ぎ落とされ息が切れ、酸欠の頭で思考が明滅する。
 由緒正しきゲイツチャイルドたる僕が、CIAを篭絡しペンタゴンを陥落しファーザーキングとブラザーマルコムの二大ウィルスを作って世界中にばらまいた天才ハッカーがこんなところで死ぬなんて……
 刑務所の底深く広がるじめじめと薄暗い暗渠にてネズミの餌食になるなんて最低の幕切れっス、あんまりっスこんなの!僕はただリョウさんが心配で捜しにきただけなのにその結果がこれなんて神も仏もねっス、恨むっスリョウさん、化けてでるっス!それにそう僕が死んだらロザンナはどうなるんス、人手に渡って中古の札付けて売られるロザンナなんて……!
 娑婆への未練もといロザンナへの未練が、萎えかけた生への執着を再びかきたてる。
 もてる全ての気力体力を注ぎこみ渾身の抵抗を試みる。
 ビバリーもしぶといがネズミはさらにしぶとく、獲物の抵抗など文字通り歯牙にもかけずビバリーの体のあちこちを競うようにして齧っていく。
 体の表裏をうぞうぞとネズミが行進する。
 皮膚の下にまでネズミが潜り込み蠢く錯覚に恐慌をきたしかける。
 どんな菌をもっているかもわからない不潔なネズミが体毛のさざめきもぞわぞわと不快にきィきィと高音域の鳴き声も耳障りに新鮮な肉を一口齧る。
 味見。
 前歯が食い込む痛みに顔が歪む。
 異様に発達した前歯は凶器に等しい鋭さと固さでビバリーを苛む。

 ああ、もう駄目っス。
 ギブっス。

 ビバリーはしっかりと目を閉じ、尽きかけた気力をかき集め振り絞り、最大限の肺活量でもってぺっとネズミを吐き出す。
 「へ、へ、へ………ヘルプミー!!!」
 「つんぼになるで。耳おさえとけや」
 え?
 疑問を呈する余地もなく眩い閃光が網膜を灼く。
 一瞬遅れて爆音、衝撃。
 体が水路に落下、勢い良く飛沫が舞う。
 最前までビバリーがいた場所には穴が穿たれ煙を上げていた。
 爆発に巻き込まれた仲間を見捨て生き残りのネズミが一斉に逃げ出す。
 顔を上げたビバリーが驚愕に目を剥く。
 ヨンイルが、いた。
 襲われる自分を呑気に傍観していた道化が口に筒状の物を咥え、右手にもう二・三本を束ねて持っている。
 濛々と煙が漂う中、口にした爆弾を左手に吐き出しヨンイルが不敵に笑う。
 「シケっとったせいかそこそこの威力やな。ま、結果オーライってとこか」
 「結果オーライじゃねっスよ一歩間違えば死んでましたよ!?」
 命の恩人への感謝よりヨンイルの暴挙への腹立ちが上回る。
 跳ね起きるなり猛然と抗議を始めたビバリーをよそにヨンイルは悠然とあたりを見回す。
 ヨンイルが投擲した爆弾により一時的に追い払うのに成功したといえどいまだふたりを付け狙う残党は多く油断できない。
 少数の仲間を犠牲に爆発を逃れたネズミ達は既にショックから回復、ヨンイルとビバリーを取り囲み始めている。
 煙幕に紛れ布陣を敷いたネズミの大群をざっと見回し現状を的確に把握、ビバリーに顎をしゃくる。
 「一気にいくで。ちゃんとついて来いや」
 飄々とした口ぶりで嘯く。
 ゴーグル越しの双眸に戦意が高揚、ちりちりと闘志が燻る。
 両手に爆弾を構え二王立ちするヨンイルの身に気迫がみなぎる。
 上着の下で蠢動する龍の幻影を見る。
 ゴーグル越しの眼差しに射抜かれ、ネズミ達があとじさる。
 数の利で圧倒するネズミすらも引き下がらせる迫力で一歩を踏み出し、タイミングを図る。
 いまだ。
 「爆ぜい!!!」
 ヨンイルが大きく腕振りかぶり爆弾を投擲する。
 放物線を描いて高く舞い上がった爆弾が閃光を放つ。 
 白熱の閃光がすべてを覆い隠す。
 閃光に包まれた下水道にて、もとより暗闇に生息し目が退化したネズミ達は、視覚を直撃する光の奔流に混乱をきたす。
 敵の混乱に乗じ走り出すヨンイルにビバリーもすかさず続く。
 ヨンイルと二人下水道を驀進する。
 出口のない闇が立ち込める暗渠を全力疾走するうちに心臓が踊り出す。
 突然の光に目が眩み恐慌に駆られ、鳴き声も殺気立ち無秩序に走り回るネズミ達の間を猛然と突っ切り一気に包囲網を突破、ヨンイルの背中を追い走りながらビバリーは声を張り上げる。
 「なんすか今の!?」
 「閃光弾や!威力抑えでその分光を強うした、ネズ公ども脅かすにはあれで十分や!なんたって数が違うからまともに相手しとったらきりないで、こういう時は逃げるが勝ち、トンズラが吉!」
 ヨンイルは予めこの事態を見越し閃光弾を隠し持ってきたのだ。道化侮りがたし。
 備えあれば憂いなしの言葉通り機転の冴えで突破口を開いたヨンイルにビバリーは恨みがましく呟く。
 「そんならもっと早く助けてくださいっス、そんなにネズミにたかられる僕を見物するの面白かったっスか、薄情者!」
 「いやーついつい出し惜しみしてもうて。ほら、数に限りがあるし。それになーあんなに沢山のネズミ見るの生まれて初めてさかい物珍しさが先に立ってつい反応遅れてもうたわ。いや、すまんことしたなホンマ。次からはなるべく早う助けたるさかい今回の事は水に流しィ」
 「……なるべくってのがひっかかりますけどまっいいっス、助けてもらったのは事実だし」
 不満たらたらのビバリーは走りながら体のあちこちを検分、夥しい歯型に眉をひそめる。
 全身至る所に歯型ができ痛々しく血が滲んでいる。
 囚人服は噛み千切られ既にボロボロだ。
 「なんでヨンイルさんは無傷で僕だけでボロボロに……」
 「そらお前の肉のが美味いからやろ」
 「食べた事ないのに勝手なこと言わないでくださいっス。あーもうこんなカッコじゃ風邪ひいちゃうっス、耐寒マラソンっスよ!」
 「ちらリズムは流行りやで」
 「男のちらリズムなんていらねっス!!」
 ぬけぬけと言い放つヨンイルに断固反対息を切らし走りながら振り返る。
 ネズミは追ってきてないらしいと確認、心底安堵。
 地獄の第一関門は突破したらしい……て、そんなもの突破したくねっスと自分に突っ込み。
 体力の消耗を示す荒い息遣いと水溜りを弾く靴音だけがあたりにこだまする。
 「今どのへんなんでしょうね?」
 見慣れぬ景色に漠とした不安を抱き疑問を述べるビバリーにゲームボーイの画面を一瞥、ヨンイルは首を傾げる。
 「ぜんっぜんわからん」
 勢い余ってつんのめる。
 「わからんってなんすかわからんって、さっき矢印でてたっしょ!?あの矢印どおりに進めば間違いは……」
 脱力のあまりつんのめったビバリーに向き直り、その鼻先に印籠の如くゲームボーイを突き出す。
 鼻先につきつけられたゲームボーイをまじまじ見つめる。
 電子的な光を放つ液晶画面には複雑に入り組んだ道順と方向を示す矢印が表示されている……はずだった。 
 「…………何すか、これ」
 我が目を疑いヨンイルの手からゲームボーイをひったくる。
 先ほど見た時は現在地と矢印が対応していた。
 が、今再び目にした画面では現在地と矢印がかけ離れている。
 「ネズミから逃げるのに夢中で正規の道順はずれてもうたみたいやなー。完璧迷子になってもた」
 あくまで呑気なヨンイルを絞め殺したい衝動を必死に抑え込む。
 冷静さを取り戻し改めて画面を見、現在地を調べる。
 ヨンイルとビバリーを示す光点は、画面の片隅の辺境で点滅していた。
 「元に戻るにはえーとこの道を引き返し右に曲がり左に曲がりそこからぐるっと迂回してまた直進、三つ目の角を左折し四つ目を右折しそれからそれから……」
 何階層にも及ぶ上級者向けダンジョンを彷彿とさせる複雑怪奇な道順に頭がこんがらがる。
 正規の道順を辿るなら即座に引き返さねば…… 
 引き返す?
 「ネズミーランドに再入場なんて冗談じゃねっス、こりごりっス、謹んで切符を返上しまス!」
 忌まわしいもののようにゲームボーイを遠のけ激しくかぶりを振る。
 激烈な拒絶反応を示すビバリーの手からゲームボーイを受け取り、ヨンイルはこめかみを掻く。
 その表情は相変わらず緊迫感に欠けるが、わずかに顰めた眉間に困惑がただよう。 
 「せやな、今から引き返すんは感心でけん。命からがら逃げ出したネズミの巣にわざわざ飛び込んでくようなもんや。閃光弾も残り少ないし今度もまた上手くいくとは限らん、さっきのアレでネズミも慣れとるやろし……二度目の目くらましが通用するかはわからん」
 「絶対嫌ッスよ引き返すの、どうしても引き返すんなら今度はヨンイルさんが先頭でお願いします、ヨンイルさんの屍を越えて強く生きます」
 「勝手に俺の屍を越えるなや」
 ビバリーの決意は固い。
 仮にヨンイルが引き返そうと提案したところで頑として首をたてに振らないだろう。
 先刻の体験は一生消えぬトラウマをビバリーの心に刻み込んだ。
 ビバリーはこの先一生ネズミに怯えて暮らさねばならないだろう。
 房を這い回る気配にいちいちびくつき、かすかな物音にも目が冴えて眠れず、体の先端から欠けていく悪夢に魘され、しばらくの間はまんじりともせず夜を明かす事になる。 
 「しゃあないなあ。こうなったら腹括るっきゃない」
 ヨンイルが決断しゲームボーイを懐にしまう。
 ゲームボーイの道案内を放棄したヨンイルに怪訝な顔のビバリーの前で、道化は軽快に身を翻す。
 「コイツがあてにならんなら勘を頼りに進むっきゃないやろ。行きはよいよい帰りは怖い、今から引き返してもネズミの餌になるんがオチ。めちゃくちゃに走り回ったせいで帰り道も皆目わからん、せならとにかく進むしかないやろ。歩いてれば体もあたたこうなるし凍死は防げる」
 柔軟な思考の転換。
 端末に縋るのはやめ自分の足で歩こうと提案するヨンイルに呆れを通り越し感心、ビバリーはため息を吐く。  
 だが、どこまでも前向きなヨンイルに現状救われているのも事実。 
 ヨンイルがいなければビバリーなどネズミの餌となって生涯を終えていたか、よくて下水道で行き倒れだ。
 心強い味方の同行に感謝、先頭に立って軽快に歩き出すヨンイルに従いビバリーも渋々歩き出す。
 「ある・こー、ある・こー、わたしはげーんき!」
 「あるくのだいすき~どんどんいこう~とくらっ!」
 景気づけに歌を唄い、沈みがちな気分を盛り上げる。
 圧迫感を与える低い天井から断続的に水滴が滴る。
 天井から落ちた雫が水溜りに波紋を投じ、コンクリートの路面を穿つ。
 周囲の景色は次第に陰惨さを増していく。
 おどろおどろしい雰囲気に呑まれ鼻歌が途切れる。
 「モンスターでも出そうな雰囲気っスねえ……」
 びくびくと首を竦め恐怖をごまかそうと半笑い、前行くヨンイルに声をかける。
 「スライムくらいはいるんとちゃうかー?」 
 「手乗りスライムならいいっスよ、ポケットにしまえる大きさだし可愛いし」
 「スライム舐めたらあかんで、集まったら巨大化するんややつら。ちょうどさっきのネズミみたいに」
 「言わないで言わないでネズミの事は言わないでっス!!」
 ひしと耳を塞ぎぶんぶん首を振る。
 先ほどネズミに襲われたトラウマは深刻らしく、ヨンイルの無神経なたとえにビバリーは顔面蒼白になる。
 ビバリーの過剰反応を「大げさなやっちゃな~」とけらけら笑い、深刻さのかけらもない面持ちで話題を転じる。
 「そういやビバリー、お前娑婆では名うてのハッカーやったんやろ」
 「は?はいっスいかにも、僕は娑婆で右に出るものなし世界一有名な天才ハッカービバリー・ヒルズっスけど」
 唐突な話題の推移におっかなびっくり手をおろし目をしばたたく。
 いまだ不安の色を隠せないビバリーをよそに軽い足取りで歩きながら、試すように訊く。
 「機械関係さっぱりな俺にはようわからんのやけど、自称天才ハッカーならちょちょいのちょいで脱獄できるんちゃうか?」
 八重歯を覗かせ不敵に笑う。ゴーグルを上げた双眸に挑発の光が過ぎる。
 ビバリーの顔から怯えた色が一掃、剣呑ともいえる真剣な表情にとってかわる。
 ヨンイルは片手で天井を指さし、朗々と声張り上げ続ける。
 「東京プリズンは見かけによらずハイテクの要塞や。そこらじゅうにパッと見わからんようにカメラが仕掛けられて囚人の生活を24時間監視しとる。囚人と看守の居住区域は角膜照合式の防壁で遮られとって通り抜けできん。せやけどな、お前ほどの腕前やったらシステム突破も朝飯前ちゃうか?」
 「物騒っスね~。西の道化ともあろうひとが脱獄教唆っスか?」
 「お前程のハッキングの腕の持ち主がなんでこんな所でくすぶっとるんかけったいに思っただけや」
 「その言葉そっくりヨンイルさんにお返ししまっス。ヨンイルさんの火薬いじりの腕前だって世界レベルっスよ?爆弾扱わせたら道化の右に出るものなしって皆口を揃えて絶賛してます。六年間も野郎と野郎がカマ掘り合う便所にどっぷり浸かって、娑婆の空気吸いたいと思わないんスか」
 挑戦的な言葉を投げ付けたビバリーに対し、ヨンイルは束の間思案してから砕顔する。
 「俺はええんや、今の生活に満足しとる。図書室の漫画全冊読みきるまでは脱獄なんてよう考えん。漫画とダチがおって他に望むもんなんかなんもあらへん、漫画に埋もれて死ぬんが俺の夢さかい」
 心底からの本音を語っている事は一目瞭然だ。
 ヨンイルはいささかも気取りなく、はにかむような笑みを浮かべてささやかな野望を打ち明けた。 
 照れくさげなヨンイルの流し目で盗み見、ビバリーは複雑な顔をする。   
 「………欲のない人っスねえ。ま、僕も同感っス。娑婆でやりたいことはやり遂げたんでこの先一生檻の中でも悔いないっス」
 「暇潰しに聞きたいな、お前が娑婆でやらかしたおいたの話」
 晴れ晴れとした顔で断言したビバリーに興味を抱き、頭の後ろで手を組んだヨンイルが水を向ける。
 弛緩した空気がただよう中、道化に対する警戒を完全に緩めたビバリーは、あたりをきょろきょろと見回してから一世一代の打ち明け話をするとでもいうふうにヨンイルににじり寄る。
 至近距離で互いの目を見つめあう。
 闇に沈んだビバリーの顔を何とも形容しがたい表情が掠める。
 見方によっては思わせぶりで邪悪な表情。
 「25ちゃんねるって知ってます?」
 「知らん」
 「もともとは一日五百万人が利用する日本最大の掲示板。漫画・アニメ・フィギュア・芸能などのサブカルチャーはもちろん時事問題も完璧に網羅し、匿名性が保証された事により書き込みが活発に行われ隆盛を極めた掲示板っス。ま、それは半世紀前の話。半世紀前はいかに賑わってるといえど日本国内の話に過ぎなかった。組織票でニューヨークタイムズ表紙に予想外の人物を押し上げたりすれど壮大な悪ふざけの域を出なかったっス」
 ビバリーは薄っすらと笑みを浮かべる。
 底抜けに明るいビバリーを見慣れているものは違和感を禁じえぬ、底知れず不気味な微笑。
 「もっとも同種の掲示板は世界中に存在する。日本だけが特別なわけじゃない。アメリカにも中国にも韓国にもスウェーデンにも匿名で言いたい放題の掲示板は存在するし、ネットの書き込みが世相に影響しちゃったりするわけっス。数は力なりの原理、顔のない民主主義。で、世界中に存在するこういう掲示板をひとつに繋いじゃおうって運動がおこった。日本最大なんてスモールスモール、日本の人口はたった一億とちょっと!けれども世界中の掲示板を繋げれば一日百億二百億人が利用する、ひとつの国家にも匹敵する巨大掲示板になる。そりゃ作ってみたいっスよね、国同士のしがらみとかいがみあいとか全部まとめてポイしても突貫工事の価値はあるっス、世界中の人間が利用する世界一の掲示板。しかも利点はそれだけじゃない、世界中の掲示板と繋がることによって情報伝達速度はさらに迅速にコミュニケーションは密になり、世界中の事件や事故や政治劇を当地のユーザーの書き込みでリアルタイムで知る事ができる」
 弁舌に熱がこもる。
 身振り手振りも激しく演説をぶち、一呼吸おいて続ける。
 「市場に出回るパソコンすべてに自動翻訳機能が搭載されたのがこの運動のきっかけでした。そして出来上がったのが世界の主要25カ国を結ぶチャンネル25……日本名25ちゃんねる、名実ともに世界最大の掲示板。思ったとおりこの掲示板は世界中の人間が集う情報の発信地となりました。一日のアクセス数百億、合法・非合法問わずありとあらゆる板が乱立し賑わいました。ハッカー板、テロリスト板、児童ポルノ板……」
 「犯罪やんかそれ」
 「もちろん犯罪ですよ。電脳無法地帯っスから」
 あきれ顔のヨンイルにしれっと返し、ビバリーは人さし指をふりふり唄うような節回しで説明を再開。
 「もちろんそういう板は地下に潜ってましたけどね、国家権力の監視にびびるような規模じゃなかったんスよ。早い話がね、国家です。人類史始まって以来の電脳国家が誕生したんです。いくらその国がやばいことしてるからってよその国がおいそれと手出しできないのと同じことっス、戦争に発展するのはイヤっすからねー」
 ますます饒舌に拍車がかかる。
 ビバリーの目は爛々と輝き出し顔中に溌剌と生気が漲り、身振り手振りにも覇気が迸る。 
 本領発揮とばかり凄まじいエネルギーを放つビバリーにやや気圧されながらもヨンイルは相槌を打つ。
 「ふーん。すごいな」
 「すごいっスよねー。But」
 華麗に反転、スキップを踏む。  
 「いくらツールが発展したところで人間の本性なんてそんなに変わりません。相変わらず悪口雑言と誹謗中傷が飛び交い潰し合いをする日常が繰り広げられて、ちょーっと退屈してたんス。そりゃ僕だってハッカー板は楽しく見てたし、ぬるま湯にぬくぬくひたってるみたいであの馴れ合いが時に心地よくもなる」
 ビバリーの声が厭世と達観の余韻を帯びて響き渡る。
 「便所の落書きってのはただしくねっス。あれはね、情報の下水道っス。堕胎された情報が吹き溜まるドブっス。世界中から排水が集まる、中には金貨や紙幣や死体や不発弾たまーにお宝も混じってる。そして」
 首元まで水平にした掌を掲げてみせる。
 「真偽をえりぬき虚実を見抜くろ過装置、不特定匿名多数の悪意を漉す自浄装置。そういったものを備えてない人は首までどっぷりヘドロに浸かる。口に汚物が流れ込むまで自分が溺れ死ぬのにも気付かない」
 天井から滴り落ちた雫が床を叩く。
 不浄な闇が包む下水道のど真ん中、ビバリーの存在感が何倍にも何十倍にも膨らんだ錯覚に囚われる。 
 下水の闇を背負ったビバリーは、しかしその生まれ持った黒い肌にもかかわらず決して溶け込む事なく、ぎらぎらと凶暴に白目を光らせる。 

 「僕はね、このまま溺れ死ぬのはいやだなーと思ったんス。
 自分でも気付かぬうちに口一杯に汚物を詰め込まれて死ぬなんてぞっとしない。匿名の馴れ合いは確かに楽しい、危険が及ばない範囲で言いたい放題は確かに楽しい。
 けどね、匿名ってのは所詮その他大勢の一人って事っス。
 Nameless people can‘t become a hero、Because the hero needs a name.名無しは英雄になれない、英雄には名前が必要だ」

 細めた目が愉悦の光を孕み、口元が不敵な弧を描く。
 人懐こい少年から一転、持てるスキルを駆使し電脳の城塞をたった一人で篭絡した最強のハッカーが真に恐るべきその本性を覗かせる。 

 「伝説ってのはね、ハンドルネームを賭けて勝負するたった一人の為に用意されてるんス」

 ぎらぎらと輝くその目は確かにこう言っている。
 数多の匿名は選ばれたたった一人の引き立て役に過ぎないと
 数多の無名はたった一人を有名にするための踏み台に過ぎないと
 自分こそが頂点の一人だと
 恐れげもなく豪語する。
 「匿名は無名に没し、牽引する時流は作れど伝説にはならぬってね」
 そしてビバリーは宣言する。 
 下水道全体に響き渡るかと思われる大声で、世界と対峙するように両手を広げ呼吸し、堂々たる名乗りを上げる。
 宣戦布告。
 「その他大勢の一人として一過性の現象に加担するより、この世にただ一人のビバリー・ヒルズとして伝説をぶち立てたかったんス。僕は」 

 ゆっくりと両手を下ろし、なんでもないことのようにあっさりと付け足す。
 「僕が25ちゃんねるを潰したのはそういうわけっス」
 「潰したんかい!?」
 「はい。ハイテクテロを仕掛けて」
 ヨンイルは仰天する。
 「まさかお前、たったそれだけの理由でその25なんたらをぶっ潰してもうたんかい……?」
 ヨンイルの問いにビバリーは不審なまなざしを向ける。 
 本当に不思議そうな顔。
 何故こんな単純な事がわからないのかといった一抹の疑問を眉間に過ぎらせ、ビバリーが口を開く。
 「え?だって」
 その目は純粋に輝き。
 「できるんだから、やるじゃねっスか」
 ビバリーは言った。なんら屈託なく言った。
 「できる」と「やる」は等価だと、できるならためしてみたくなるじゃないかと、当たり前すぎて誰もが忘れていた盲点の真理を突いた。
 目の前にボタンがあれば押す。
 たとえそれが人類を滅ぼす核ボタンでも誘惑には抗えないとビバリーの顔はそう言っている。
 ヨンイルは身を引いてビバリーを凝視する。
 もはやビバリーの笑顔を額面どおり受け取る事はできない。
 人畜無害な見た目を裏切り、危険な思想を秘めていると発覚した今では。
 大胆な決断力と行動力をあわせもち一国家を転覆させた電脳テロリストにして天才ハッカー、それがビバリー・ヒルズの正体だ。
 「………おっかないやっちゃなー」
 称賛とも驚嘆ともつかぬ台詞を受け、ビバリーは快心の笑みを湛える。
 「愉快犯ってのはね、この世でいちばん純粋な犯罪者なんス。僕に言わせりゃそれ以外の理由で犯罪に手え染めるなんてナンセンス、金銭欲も怨恨も痴情の縺れも犯罪の動機としちゃ二流の外道っス。本当の犯罪者ってのは単に自分がやりたいからやる、自分の楽しみのためだけにすすんで犯罪に手を染める。彼らにとっては犯罪こそ一番の娯楽、この世で一番スリリングな趣味。本当の犯罪者ってのはね、間違っても動機を正当化しちゃいけないんス。社会の倫理規範に照らし合わせて正当化できるような動機はそもそも二流だから。だいたい他人に罪をなすり付けてランナウェイなんて発想自体が卑屈っス、自分のケツ拭いた紙で他人の顔拭くなんて下品でいただけない」
 「んで、名声は確立できたんかい?」
 気のない素振りで聞くヨンイルにビバリーは意味深な笑みを含む。
 その手がすっと上がり、首にそって滑る。
 「僕の首には現在八十万ドルの賞金がかかってるんス。25ちゃんねるを潰した事で僕を恨んでる連中が娑婆にはわんさかいる、アルカイダ筆頭にテロリストや同業者もね。特に元ハッカー仲間の追跡は苛烈っス。25ちゃんねるを潰した実績により僕は世界一有名なハッカーになった、元ハッカー板の同業者は僕を殺して世界一の座を横取りせんと血眼で狙ってる。ハッキングの腕なら誰にも負けない自信がありますが体力は人並み、そんな僕が連中から逃げられるわけがない。まだしも檻の中のが安全っス」
 「東京プリズンに匿ってもらってるっちゅーわけか。なかなかどうして侮れへんな、お前」
 ヨンイルの口ぶりに紛れもない感嘆が滲む。
 道化に称賛されたビバリーは「いやーそれほどでもねっスよ」と照れ隠しに頭をかき、無造作に足を踏み出しー……
 靴裏に違和感。
 「……What?」
 異変を察し立ち止まる。半笑いのまま凝固し足元を見下ろす。
 不吉な予感に胸がざわつく。ぎこちない動作で下を向いたビバリーは自分が目にしたものが信じられず思考停止状態に陥る。
 「どないしたんやビバリー」
 ヨンイルが気軽に声をかける。
 ビバリーは恐怖ゆえ振り向く事もできず、支離滅裂な早口でなんとか状況説明を試みる。 
 「あのですねヨンイルさんあのですね聞いて驚かないでくださいよなんか今僕とんでもないもの踏ん付けちゃったみたいなんスが」 
 「スライムかー?」
 「感触はスライムに似てなくもならずさもあらんスライムとは似て非なるもの、音にするとべちゃっとかぴちゃっとかそんな感じで……ああでもスライム
の方がいいなそうだこれはきっとスライムスライムに違いねっス、僕が今ぺちゃっと踏ん付けたのは可哀想なスライムっス、だからきっとこの赤黒い塊は僕が思ってるようなスプラッタなもんじゃなく……」
 ビバリーの様子が尋常でないと悟りヨンイルは歩調を速める。
 下水道のど真ん中で片足踏み出し硬直するビバリーの脇からひょいと顔を覗かせ、眉をひそめる。
 「………肉?」
 ビバリーが踏ん付けていたのは、赤黒い肉の断片。
 顔を近づければわずかに腐臭がただよう。ビバリーの足元に屈みこんだヨンイルは油断なく周囲に視線を走らせ状況を把握、黒暗暗たる闇を湛えた前方へと意を決し目を馳せる。そして気付く、前方にも赤黒い肉片が点々とおちている。
 「ずっとむこうまで続いとるな」
 ひとりごち、ぐいとゴーグルを引き下げる。
 「ちょっ、ヨンイルさん待て待て僕をこのまま残してかないでくださいっス薄情者ーーーーーーー!!?後生だから僕が踏んでるスライム抜いてくださいっスーーー!!」
 ビバリーの絶叫がむなしく響き渡る。
 ヨンイルは迅速に行動を開始する。
 コンクリートの床にへばりついた肉片を赤外線で識別、物怖じせず先に進むヨンイルのはるか後方でビバリーがひっきりなしに悲鳴を上げる。
 「ヨンイルさーーーーん、お願いだからおいていかないでーーーーー!!」
 「いやー……お前はついてけえへんほうがええんちゃうかな」
 あたりに広がる血なまぐさい惨状に、ヨンイルの顔も険しさをます。
 十メートルほど進んだ地点には明らかに人体の一部と思しき肉塊が散乱している。
 むりやり喰いちぎられたらしき断面は無残に潰れているが、肘から先は辛うじて人間の腕の形状を留めている。
 ビバリーが見たら卒倒せんばかりに刺激の強い光景にも、ヨンイルは軽く眉をひそめるだけで取り乱したりはしない。
 しかしその顔はこの上なく真剣だ。
 「この端切れ……囚人服やな。ちゅーことは、ここらにごろごろしとる死骸はみんな囚人か?」
 大量の血を吸いどす黒く変色した端切れをすくいとり、力強く握りこむ。
 下水道の奥には噎せ返るような死臭が立ち込めていた。
 黒と縞の模様は明らかに囚人服、となればここら一帯に遺棄された死体はすべて囚人。
 「誰かが殺して捨てた?せやけど誰が……そもそもこいつら、なんでこないな……」
 血に汚れた端切れを握り締めるヨンイルの死角、水路の水面に波紋が生じる。

 墨汁を垂らしたような水面が不穏に波立ち始め、水路に潜む怪物が鈍重に頭をもたげる。

 縦長の瞳孔が闇に光る。
 裂けた口腔に生え揃った牙が不吉にぬめる。  
 その影は水路に身をひそめ気配を窺っていた。
 じきに水路から這い上がり、巨大な胴体をひきずり新たな獲物に接近を図る。
 固い鱗に覆われた体は水にぬめり、太く短い四肢を使って這いずるさまが威容を帯びる。
 短躯の恐竜じみたその生き物は、鈍重な巨体に似合わぬ周到な素早さで地を這い移動し、見事に生え揃った鋭利な歯の間から威嚇の呼気を吐き、その立派な牙と爪でもって新たな獲物を引き裂かんと虎視眈々狙っている。
 図らずも「彼」の射程圏内に入ってしまったヨンイルは、現場検証に夢中で迫り来る危機に気付かない。 
 現場検証にのめりこむあまり周囲の状況把握が疎かになったヨンイルのもとへ、「彼」は着々と近付いていく。

 地を這うようにゆっくりと
 確実に。
 長大な尻尾を波打たせ、巨大な胴体をひきずり、剣呑な牙の生え揃った口を目一杯開けるー……
   
 「!?っ、」
 ゴーグル内蔵の赤外線センサーが外敵の生体反応を察知すると同時に 
 鞭の如く撓る強靭な尻尾がしたたかにヨンイルを薙ぎ飛ばす。

 暗転
 急転。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050219122113 | 編集

 『頭を冷やせ』
 サムライは決して僕に触れようとしなかった。
 全裸の僕を前にしても狼狽するばかりで、僕が望んだものを与えようとはしなかった。
 僕が望んだのは熱だ。
 嫌な記憶を洗い流し殺人行為で汚れた手を消毒する熱、処方箋としての快楽だ。
 僕はサムライを押し倒した。
 売春班で性欲を持て余した囚人の慰み者にされ体も心もぼろぼろになり接触嫌悪症が悪化したこの僕が、他人に触れられただけで嘔吐を催すほどに接触を嫌悪し体温を憎悪する僕が、事もあろうに自分からサムライを押し倒した。
 サムライを押し倒し馬乗りになり上着の裾をからげ、売春班で仕込まれた手管を反芻し、男性器に対し巧みな愛撫を施した。
 手淫の効果は如実に表れた。
 サムライの下半身は僕の導きにより間をおかず堅くなった。
 細心の指遣いで竿を擦る。
 熱く脈打つ肉の塊を掌に感じる。
 やんわりと指を閉じ、緩急つけて摩擦する。
 愛撫に応じ反応を示す性器を醒めた目で観察、ひどく自虐的かつ自嘲的な気分に陥る。
 サムライを貶めることは、転じて自分を責めることに繋がる。
 潔癖な彼はこんな不潔な行為毛頭望んでいないのに、以前の僕ならこんな行為汚らわしいと唾棄するのに、今の僕は男性の股間を布越しに愛撫し昂ぶらせる事に何ら抵抗を感じず、堕落の倦怠を感じさせるいかがわしい手つきでもって、淡々とそれをやってのける。
 勃起させるのは簡単だ。
 ただ擦ってやればいい。
 知識と技巧が折り合えば成果を出すのは容易だ。
 慎重な手つきでもって意地悪く技巧を凝らし、五本の指を独立させ竿を弄び律動的に前立腺を刺激、射精を誘発する快感を送り込む。
 サムライも男だ。
 布越しに漣立つような手つきでもって股間をまさぐれば、性器は鋳型に嵌め込まれたように固さを増し、掌に抵抗を伝える。
 ズボンの布地を押し上げる生理現象には逆らえない。
 修験者の如く禁欲的な見た目をしていても、現実に節制していても、一皮剥けば一人の雄であることに変わりない。
 
 人は易きに流れる生き物だ。
 堅苦しい程に真面目なサムライが内に秘めた欲望を煽るのに、背徳的な悦びが伴わないといえば嘘になる。
 快楽を堪え呻くサムライ、淫蕩に上気したその顔が劣情を煽り立てる。
 たとえそれが一時の自己嫌悪から逃れるためであっても、交接の快楽に身を委ね理性を飛ばしたいという代償欲求の逃避願望に過ぎなくても、僕はあの時たしかに彼に欲情していた。

 濡れてはりついた上着の下から透ける肌に
 僕のそれとはまるで違う荒削りな直線で構成された男性的な体に
 馬乗りになった僕を濡れ髪の向こうから心許なく見上げる瞳に

 サムライを自分の物にしたいとあの時ほど強く願った事はない。
 その為なら売春夫に戻っても構わない。

 サムライを汚したい。
 身も心も汚し尽くし僕と同じ底辺にひきずりおろしたい。
 僕と対等の友人でありたいなら君がここにおりてこい、誇りを挫かれ辛酸を舐め地を這う僕のもとにまでおりてこい。

 高みから見下ろすな、同情するな、そんな目で見るな。
 鈍感な君は気付かない。
 その優しさが僕をみじめにすると、その労りが僕をうちのめすと、包み込むような眼差しが反発を招くと。

 僕は汚れている。
 どうしようもなく汚れている。
 僕は親殺しの人殺しだ、もう後戻りできない所まできてしまった。売春班にいた時はまだよかった、一抹の希望があった、君の手をとり這い上がる事ができた。だがもう遅い。あの時と今では事情が違う、僕を取り巻く環境自体が変わってしまった。
 斉藤がやってきた。
 鍵屋崎夫妻殺害事件の真相を調べ、真実を明るみに出そうとした。
 発覚したところで誰をも幸せにしない真実を暴いて恵の将来を僕のこれまでをすべてをめちゃくちゃにしようとする男を、僕は処理した。簡単だった。実に簡単だった。あっけないくらいだった。

 馬鹿め。
 低脳が天才を謀ろうとした当然の報いだ。
 貴様如き凡人がこの僕を、この鍵屋崎直を試そうとした結果がこれだ。
 僕は斉藤を殺した。その事実が自責の楔を心臓に打ち込み、重く心に沈殿する。
 後悔などするものか。
 まだ汚れてない妹の代わりに、僕が汚れるのは当たり前じゃないか。
 長年無自覚に恵を苦しめ続けたこの僕が、恵の存在意義を奪い続けた僕が責を負うのが当たり前じゃないか。
 鍵屋崎優と由香利にとどめを刺したのは僕だ。致命傷は与えたのはこの僕だ。

 恵は悪くない。
 悪いのは、僕だ。

 暴いたところで誰も幸せにならない真実をさも得意げに暴き立てようとした斉藤に殺意が湧いた。  
 功名心?好奇心?自己満足?
 そんな俗悪なもののために恵が犠牲になる理由はない。
 恵の主治医として信頼を勝ち得ておきながら、恵を裏切った。
 俗悪な好奇心を満たしたくて事件を追及したと開き直ればいいのに、僕のため恵のためと偽善者ぶって言い逃れをした。

 死んで当然だ。
 四肢を切断されゴミのようにばらまかれるなど、まったく似合いの死に様だ。

 斉藤を処分してくれた暴君には感謝すべきだ。
 報酬として、抱かせてやってもいい。もとより汚れた体だ。他人の精液に塗れ酷使した肛門はだらしなく弛緩したこの貧相に痩せた体が、栄養不良で肋骨が浮くほどに痩せた生白い体が報酬にあたるなら出し惜しみせず抱かせてやる。

 シャワー室の一件の後、悪寒が走る体をひきずり房に戻った。
 房に帰ればサムライは既にベッドに横たわっていた。
 こちらに背中を向け不機嫌な沈黙を守る彼にかける言葉もなく、就寝時刻が来るまで互いに無言で過ごした。
 消灯ベルが鳴り響いた時は救われた心地がした。
 就寝の号令がかかった時は心底安堵した。
 極度の緊張から解放された体には鉛のような疲労が蟠り、靴を脱ぎベッドに身を横たえるたったそれだけの動作がひどく億劫だった。
 「……………っ………は……」
 靴を脱ぎ丁寧に揃える。
 毛布を捲り体を滑り込ませようとした途端眩暈に襲われ視界が歪む。
 額を支え苦痛が癒えるのを待つ。さっきから悪寒がやまない。
 風邪をひいたのかもしれない。
 冷水を浴びせられたまま暫く全裸で放心していたせいだ。
 上着越しの腕が鳥肌立つのがわかる。
 体がやけに熱っぽく、だるい。
 微熱があるのかもしれない。
 明日の強制労働に障ったらどうしようと危惧しつつ、かといって休めるわけがないと萎えかけた気力を叱咤する。
 風邪など抗生物質を打てばすぐ治る。
 が、今から医務室を訪ねたところで適切な処置を受けられるとも限らない。
 就寝時刻を過ぎてうろついてるのがばれれば看守にこっぴどくどやされる。
 のみならず、医務室に行ったところで薬を貰える確証はない。
 しかも医務室にいるのはプラシーボ効果任せの治療を主とする胡散臭い精神科医で……

 そうだ。
 斉藤は、もういないんだ。

 瞼の裏に鳶色の髪の男が現れ、一瞬で消え去る。
 斉藤は、いない。
 僕がこの手で殺した。
 彼はもう、この世にいないんだ。
 バラバラ死体となって下水道に遺棄された男になにを期待してるんだ、僕は?

 サムライは僕の変調に気付かない。
 先刻の一件が原因か、目を合わせ沈黙に落ち込む気まずさ故にそっぽを向いている。
 不調を察した様子はないと確認、安堵の息を吐く。
 責任感の強い上に心配性のサムライは、僕の不調を知るや否や医務室に連れて行く。
 看守に見咎められる危険も顧みず、僕の様態を親身に慮り、肩を抱えて医務室に連れ込むに決まっている。
 もしくはそう、いつかのようにつきっきりで看病してくれるかもしれない。
 洗面台の蛇口で手ぬぐいを濡らし、絞り、僕の額に当てて冷ましてくれるかもしれない。
 一晩中傍らに付き添い僕の寝顔を覗き込みこまめに手ぬぐいを取り替えながら、シャワー室での行為を悔やみ、恥じ、呪い、彼一流の無骨さでもってたどたどしく詫びるはずだ。 

 『すまん、直』

 その声すら想像できた。
 眉間に寄った深い皺、悔恨の光をやどした目、一文字に引き結んだ口元までもが鮮明に思い描けた。
 だからこそ、知られたくない。
 今この状態で、彼の謝罪を聞くのは苦痛だ。これ以上みじめな境遇には耐え難い。
 裸電球が消える。
 視界が黒く塗り潰される。
 素早く毛布に包まりサムライに背を向ける。
 裸電球を消しに立ったサムライが暫くそこを動かず僕を凝視する気配を感じる。
 サムライが今どんな顔をしているか想像できる。
 憂鬱な顔に物言いたげな風情を漂わせ、手が届きそうで届かない僕の背中をむなしく見詰めているのが伝わってくる。
 口を開く。
 また、閉じる。 
 上着の下で心臓が汗をふく。
 目で見なくても気配でわかる。
 視覚を奪われた分鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が、衣擦れの音ひとつ息遣いひとつからサムライの一挙手一投足を正確無比に写し取る。
 僕は無関心を決め込む。
 毛布に包まりそっけない背中を向け何も気付いてないふりで沈黙を通す。
 衣擦れの音はおろか息ひとつたてぬ異様な慎重さでもって寝たふりを演じ、サムライの注意が逸れるのを祈るような心地でひたすら待つ。
 「………寝たのか」
 無視する。
 問いかけの余韻が消えるのを待ち、なお立ち去りがたく房の中心にて僕を見つめていたサムライが、諦念の吐息をついてベッドに引き返していく。
 纏わり付く未練を吹っ切るかのような大股の足取りにあるかなしかの虚勢を感じ取る。
 結局サムライはそれ以上何も言わず、僕の扱いにくさに辟易したかのようにベッドに潜り込む。
 衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 静けさが房に満ちる。
 息を殺し壁と向き合う。
 裸電球が消えた房は真っ暗だ。
 壁の向こうからは鼾と歯軋りと不明瞭な寝言が聞こえてくる。
 寝相の悪い囚人が壁を蹴り付ける。
 瞬きもせず殺風景な壁を見詰める。
 数分経て暗闇に慣れた目が、向かい合う壁のひび割れと不気味な染みを捉える。
 目と鼻の先に迫った壁の染みはやけにリアルで、その抽象的な模様は混沌たる悪夢を喚起する。
 眼鏡をはずしてもこんなものに限ってよく見える。
 見たくないものほどよく見えるのが人間の性質だとしたら、随分と救いのない話だ。
 「…………………くだらない」
 口元が皮肉に歪む。
 卑屈な笑みが顔に浮かぶ。
 こんな感傷的な感想、僕らしくもない。
 大人しく毛布に包まっているにも拘わらず悪寒はおさまるどころか酷くなるばかりだ。
 体調の悪化が気分を滅入らせていると分析、毛布の中で手足を縮める。
 が、所詮は無駄な抵抗だ。
 手足を縮めたところで暖をとれるはずもなく、気休め程度の慰めしか得られない。
 自分で自分を抱く。
 華奢な肩と骨張った腕、いかにも薄っぺらい感触が心許ない。
 寒い。
 底冷えするようだ。
 このまま凍え死んでしまいそうだ。
 芯が冷えていくのに反し表面は熱をもち、熱湯と冷水に交互に漬けられるような責め苦が身を苛む。 

 『頭を冷やせ』
 突き放す声が蘇る。
 突きのける手の感触が蘇る。

 全身濡れそぼち僕を見下ろすサムライの顔、冷ややかな侮蔑を湛えた射抜くような眼差しを思い出す。
 サムライは僕を、拒絶した。
 徹底的に拒絶した。
 一番欲しい時に一番欲しいものをくれなかった男に、この上なにを期待する? 
 自分だけ綺麗で在ろうとする卑怯者の分際で、対等な友人を自負する欺瞞に視界が赤く染まるような憤怒に駆られる。

 『自分がなにをしてるかわかってるのか?』
 僕の正気を疑う声、苛烈な叱責。

 わかっているとも。
 僕は狂ってなどない、完全に冷静だ。
 サムライにシャワーを浴びせ押し倒した時も完全に冷静だった、自分が何をしてるかちゃんとわかっていた。
 シャワーを向けた瞬間のサムライの眼を思い出す。
 愕然とした顔。
 常軌を逸した僕の行動に戸惑い、正気を呼び起こそうとする必死な声。
 自分が何をしてるかくらいわかっている。
 僕を誰だと思っている、IQ180の天才鍵屋崎直だ。
 そうだ認めよう、僕はサムライを犯そうとした。
 シャワー室で彼を襲い衣服を剥ぎ性器をまさぐり、発情した獣のように交接しようとした。
 それの何が悪い? 
 「抱いてくれ」と頼めばよかったのか?
 この僕が?
 IQ180の天才たるこの僕が、人に頭を下げた事などないこの僕が、「抱いてくれ」と自ら頭を下げて頼めばよかったのか?
 何故そんな事を頼まねばならない。
 受動態に徹するのは僕の流儀じゃない、主導権は僕が握ってしかるべしだ。
 あれ以外にどういうやりかたを選べばよかったのだ。
 僕は切迫していた。
 もうどうにもならないところまで追い詰められていた。
 ああする以外にどうすればよかった、泣いて縋って「抱いてくれ」と乞えばよかったのか、しがみ付いて想いを吐露しどうか抱いてくれと喚き散らせばよかったのか?
 僕のプライドがそんな無様な行為を許すとでも?

 卑屈に希うよりも、傲慢に命じた方がましだ。
 同情されるより、憎悪されたほうがずっとましだ。

 「……………………ふ………」

 体が熱い。
 頭が熱い。
 毛穴から大量の汗が噴き出てシーツをぐっしょりぬらす。
 沸騰する狂気を鎮める術をもたぬ僕は、皮膚の下で波立つ熱にただひたすら耐えるしかない。
 固く閉じた瞼の裏側を様々な人間の顔が過ぎる。
 恵、安田、斉藤、レイジ、ロン……サムライ。

 僕は、これからどうしたらいい?

 斉藤を殺したのは、僕だ。
 今日中に行う予定だった尋問は、上の都合で明日に持ち越された。
 詳細は知らないが安田の配慮が働いたためだろう。
 強制労働で疲労した僕に更なる負担をかけるのを避け、明日改めて尋問を行うと看守を通じ打信された。
 安田なりに僕の体調を気遣ってるらしい。
 確かに体調は思わしくない。
 ここ最近貧血の頻度も増している。
 健康体ならまだしも、心身ともに憔悴した現在の状態で尋問を受けるのは正直辛い。  
 しかし副所長の好意を単純に受け取っていいものか?
 死刑執行期限が明日に延びただけだと思えば、人道的配慮を装った生殺しの判断を呪いたくもなる。
 斉藤を殺した事実はじきにばれる。
 図書室を出た直後の消息が途絶えている点から、真っ先に疑われるのはこの僕だ。
 図書室を出たと裏付ける根拠が僕の証言に拠る現状は、極めて不利といっていい。

 安田は僕を疑っている。
 疑っているからこそ、尋問を延期したのかもしれない。
 他の囚人とひとまとめにせず、たっぷり時間をとって尋問するつもりだ。
 微に入り細を穿ち繰り返し証言させ、容赦なく矛盾点を追及し真相を暴きだすつもりだ。

 「あるいは僕を犯人と断定する証拠を揃えているか、だ」
 まったくご苦労な事だ。
 今も下水道に潜り右往左往している死体回収班を思い、口元に苦い笑みがちらつく。
 いかに綺麗に拭き清めたとはいえルミノール反応が出れば一発で殺害現場が特定される、その他にもまだ見落とした証拠が残っているかもしれない。
 安田は僕を疑っている。
 疑いながら泳がせている。
 どうせ逃げられないのだからと高をくくりプレッシャーをかけじわじわと追い詰めているのだ。明日中に自白を引き出せればしめたもの?見回りの看守を捕まえ「僕が犯人だ」と告白しろと?
 寛大なる副所長が与えてくれた猶予を、しかし僕は真っ向からはねつける。
 自白などするものか。
 そんなことしたらすべてがおしまいだ。
 斉藤を殺した事が発覚すれば当然理由を問われる、恵を危険に晒すいかなる言動も慎まねば。
 一番いいのはこのままばれないことだ、ばれずにこのまま……

 『副所長も君のことを心配している。漠然とだが、君が誰かを庇っていると勘付いている節がある。安田くんはああ見えて警察上層部にコネがあるエリート中のエリートだ、ある程度の確証さえ揃えば再捜査の圧力をかけるのも不可能じゃない』

 あんなことを言わなければ

 『僕はこう思う。加害者を擁護するわけじゃない、しかしその加害者に以前被害者が酷いことをしたしたらどうだろう?人間の尊厳を踏み躙るような非道な行いをしておきながら反省も謝罪もなく酷く傷付いた被害者が燃え上がる復讐心に駆られ加害者に転じたとしたら、はたして彼は……または彼女は加害者か被害者か?真に非難されるべきはどちらだ?』

 あんなことさえ言わなければ

 『加害者と被害者の線引きはどの辺り?』

 僕は、
 僕は。
 どちらだ?
 被害者なのか、加害者なのか?

 落ち着いた物腰で座した医者が瞼裏に浮かぶ。
 もう二度、彼の五体満足な姿を見る事はないのだ。 

 僕は人殺しだ。
 人殺しだ人殺しだ人殺しだ最低の人間だ鍵屋崎優と由香利を斉藤を殺した恵を守るためという建前で言い訳でその実自分の為に、自己満足のために彼らの命を摘み取り人生を奪い去ったエゴの権化だ。鍵屋崎夫妻はともかく斉藤に何の恨みがある個人的な恨みは何もない彼は僕によくしてくれた認めたくはないがそれは事実だどうしようもなく事実だ、恵の近況を手紙に書き知らせてくれた相談に乗ってくれた励ましてくれた、あの胡散臭い鳶色の若作りはあの離婚暦のある軽薄な男は精一杯の誠意でもって僕に接してくれた理解ある大人で、理解できない事柄を真摯にを理解しようと努める姿勢には敬意といかぬまでも好感が持てた。 

 なのに。

 『僕はね、人を殺すのと人の心を殺すのは同等の罪だと思う』

 やめろ。
 僕を、恵を、僕達を、理解しようとするな。
 理解など、しないでくれ。
 恵が味わった十年間の苦しみを僕が味わった十五年間の葛藤を簡単に理解しないでくれ理解者など気取らないでくれ。
 その言葉をもっと早くくれていたら、恵は狂わずにすんだ。

 「…………っ…………………」
 やり場のない憤りが身の内を席巻する。 
 後悔など、しない。するものか。
 だがそれなら皮膚を食い破り溢れださんとするこの感情はなんだ、沸々と込み上げ迸る悲哀と鬱屈に満ち満ちたこの感情は?
 きつく歯を食いしばり嗚咽とも苦鳴ともつかぬ声を殺す。
 体が小刻みに震えだす。
 衝動的な発作に駆られ、無造作に毛布を払う。
 全身に悪寒が走る。
 房は氷室のようだ。
 枕元に手を這わせ眼鏡を掴む。
 震える手で眼鏡をかけ、視界の軸を定める。
 スニーカーを履く。
 覚束ない足取りで房を横切る。
 一年以上暮らし目を瞑っていても歩ける狭苦しい房が、何故かこの時はよそよそしい空気に満ちていた。
 獣じみて荒い息を吐きながら、一歩、また一歩と足を引きずり隣のベッドに向かう。 
 たった5メートルが気の遠くなるような距離だった。
 実際に眩暈を感じた。
 今ここで膝を屈し倒れこんでしまえばどれだけらくかと心揺れる誘惑に抗い萎えた足を引きずり、漸くベッドの脇に辿り着く。
 
 耳を澄ます。
 規則正しい寝息が聞こえてくる。

 サムライは寝ていた。
 身動ぎひとつせず仰臥し、胸まで毛布で覆っていた。
 闇に浮かび上がるその顔は酷く厳かで、侵しがたい静謐を湛えている。 
 「君のせいだ」
 サムライの寝顔を憑かれたように凝視する。
 就寝中も恐ろしく姿勢のよい男だ。
 ごくかすかな寝息が聞き取れなければ死体と勘違いしたかもしれない。
 緩く瞼を閉ざした面持ちは眉間の皺がないせいか若干若返って見える。
 闇に埋没し、気配を消し、じっとサムライを見詰める。
 音もなく忍び寄る闇に紛れ、自我が侵食されるに任せ、銃口のように空虚な目で漠然と寝顔を見詰める。
 サムライは僕の注視にも気付かず無防備に眠り込んでいる。
 無理もない、ブルーワークの囚人は激務を極めているのだ。
 下水道で消息を絶った囚人の捜索に加え本日は死体回収作業も課されたのだ、顔色ひとつとっても疲労の嵩み具合は著しい。
 枕元に立ち、無言で寝顔を見詰める。
 顔の造作ひとつひとつを辿り、鋭く尖った喉仏と精悍な首筋に誘われ、指先を伸ばす。
 指先が喉仏に触れる。
 喉仏の頂点から下方へ、ゆるやかに指を滑らす。
 「なぜ僕を抱かなかった?機能不全でもあるまい」
 邪悪な揶揄が笑声に篭もる。
 爪の先を立てるようにして喉仏を縦断する。身の内で凶暴な衝動が疼く。
 ベッドの脇に片膝つき、唇が触れる至近距離で覗き込む。
 「僕を抱かなかった事を後悔させてやる」
 早鐘を打つのをやめた心臓が、規則正しい鼓動を再開する。
 目を閉じれば冷え冷えした虚無が広がる。
 意図して理性を消し去る必要さえなかった。
 冷徹に殺意を研ぎ澄まし、どこまでも平坦な心境を保ち指先に全神経を集中する。
 指先に他人の皮膚を、ぬめりつく汗を、血管の脈動を感じる。
 今度はもう少し強く喉仏を押してみる。
 呼吸を妨げられる苦しさにかすかに眉間に皺がよるも、それだけだ。
 起きる気配はない。
 次はもっと大胆になる。
 五指を広げ、喉仏の上あたりに添える。
 「素直に僕を抱けばよかったんだ。ずっとそうしたかったんだろう」
 解剖学的な正確さで気道の位置をさぐる。
 首の上で戯れに指を滑らせ反応を見るも、サムライは瞼を開けない。死んだように眠っている。
 本当に殺してしまおうか。
 「僕が気付かないとでも思っていたのか。気付いていたとも、以前から。僕にふれる君の手つきで、僕を見る君の目つきで」
 心はひどく冷静だった。
 透徹した理性が行動の一部始終を監視していた。
 僕が紡ぐ言葉は穏やかな抑揚をもち、これまでにないほど親しげにサムライに語りかけている。

 殺してしまえ。
 三人殺すも四人殺すも同じだ。
 この男を殺せば、解放される。
 つまらないしがらみから解放され、自由になる。

 狂気が付け入る隙もない自明の理だ。
 サムライがいるから僕は苦しむ羽目になる。
 彼にふさわしい友人でありたいばかりに苦しんでいる。
 この男が消えれば、悩む必要もなくなる。
 この男さえ消えれば

 「用済みのモルモットはどうなるか知ってるか」

 簡単だ。
 少し力を込めればそれで済む。
 熟睡してる今なら抵抗の恐れもない。
 殺してしまえ。殺してしまえ。
 秘密を守り真実を隠すために邪魔な者はすべて葬り去れ。
 僕ならできる。
 IQ180の天才たる僕なら、国家の威信を賭け生み出された人工の天才児たる僕なら、目的のために手段を選ばず邪魔者を処分できるはずだ。

 心を許したのが過ちだった。
 唇を許したのが過ちだった。
 友人など要らなかったのだ、最初から。
 誰かに依存しなければ生きていけない惰弱な人間に成り下がるのをあれほど唾棄していたはずが今ではこのザマだ。
 拒絶を前提にした関係がどれだけ空虚なものか
 汚物のように見下されて初めて知った。
 停滞した関係は何も生まない。
 閉塞感で窒息しそうだ。

 「殺処分だ」

 こんな想い知らなかった。
 知りたくなかった。
 手に入らないならいっそ、殺して独占してしまいたい。
 自分の内にこんな激しい感情が眠っていたなんて、知りたくなかった。

 極限に至る明晰さが意識を研ぎ澄ます。
 サムライに対する歪んだ願望を意識、ゆっくりと指に力を込める。
 視界に暗闇がのしかかる。
 四囲の壁が迫ってくるような錯覚が襲う。
 周囲から潮が引くように音が消える。
 蓋を被せたように雑音が消滅、特殊な磁場が作用したように異様な静寂が充満する。

 「性欲処理できないモルモットなど要らない。君など最初からただのモルモットだ、友人などと思い上がるな。そうだ、第一印象から最悪だった。出会った時から威圧的で無愛想で僕に対し一片の経緯すら払わない君を、あの時からずっと憎んでいた。僕は天才だ、君達低脳とは次元が違う生き物なんだ。君とこれまで付き合ってきた目的はデータの採取に尽きる、従って君の存在は僕の中でなんら重要な地位を占めてない」

 言葉静かに断言、右手に左手を添える。
 サムライの首を絞める。
 静かに慎重に、次第に力を込めて圧迫の度合いを強めていく。
 体重をかけ首を絞める。
 気道を圧迫される苦痛にサムライの顔が歪む。

 それがどうした?
 モルモットの苦しみなど知った事か、こんな男慈悲をかけるに値しない。
 残酷な衝動に駆られるがまま、嗜虐に酔う快感さえ覚えつつさらに力を込める。
 両手で固定した首を締め上げる。

 「っ………ぐぅ……」
 呼吸を妨げられる苦しみにサムライが仰け反り喘ぐ。
 だが手は止まらない。
 無意識に苦しみ喘ぐサムライを醒めた目で観察しつつ、解剖学的な正確さで押さえた気道を両手で締め上げる。 

 何も感じない。
 麻痺したように感じない。

 サムライと過ごした歳月を振り返り感傷に囚われる事なく、淡々と行為を継続する。
 理性と知性が手に手を取り合い、この男を処分せよと命じる。
 用済みのモルモットを処分せよと囁く。
 僕はそもそもの初めからこういう人間だった。
 こういうふうに作られた人間だった。
 感情に左右される事なく目的を遂げられるように情動値を控えめに、合理的思考を司る脳部位を活性化させた人工の天才だ。

 「……もう少しで忘れるところだった。僕ともあろうものが、迂闊だった」

 唇が歪む。
 表情筋を不自然に矯正、奇妙に歪んだ笑みの残像を炙り出す。

 「僕が鍵屋崎直であることを、忘れるところだった」

 僕は鍵屋崎直だ。
 IQ180の世界最高の頭脳をもつ人工の天才だ。
 友達など要らない。
 理解者など要らない。
 もっと早く目を覚ますべきだった。
 天才と凡人は相容れないと、気付くべきだったのだ。 
 
 僕は人殺しだ。
 三人殺すも四人殺すも同じだ。

 四人目は、君だ。
 君を殺して、僕は僕になる。
 本来の鍵屋崎直に戻る。
 
 「……っ……くは、ぁぐ………」

 『加害者と被害者の線引きはどの辺り?』
 加害者と被害者の境界線は曖昧だ。
 被害者は加害者にもなりえ、
 加害者は被害者に転じる。
 僕の手は加害者の手、僕の目は被害者の目だ。
 殺人行為を正当化するつもりは毛頭ない。
 僕は、不条理に満ちたエゴを剥き出して彼を殺す。
 一抹の躊躇なく、解剖学的知識にもとづく正確さで気道を塞ぎ喉に指が食い込むおぞましさにも耐えて息の音を止めてみせる。
 彼は被害者として処分される。
 それが望み得る限りの最良の結末だ。
 最良の裁量だ。

 酸素を欲し喘ぐサムライを冷ややかに見下ろす。
 半ばのしかかるようにして馬乗りになり、右手に左手を重ね力一杯締め上げる。
 酸欠の苦しみに口を開け、無意識ながらも首を振り抵抗を示し、薄っすらと目を開ける。 
 不安定に虚空をさまよっていた視線が中心に据えられ、僕の顔をまともに捉える。
 それでも手の力は緩めない。
 あと少し、もう少しだ。もう少しで僕は僕に戻る、鍵屋崎直に戻る。
 サムライのこめかみがひくつく。喉の血管がはち切れそうに膨張する。
 シーツを蹴り苦しみもがくサムライの口から、酷く掠れて聞き取りにくい声が漏れる。
 「な、お………」
 「誰だそれは」 
 額がぶつかる距離に顔を寄せる。
 愛撫するように手を滑らせ、栓をさらにきつくする。
 サムライと目が合う。
 サムライの目に映り込んだ僕は、一切の感情を排した無表情を晒していた。
 自暴自棄でも諦念でもない。
 冷ややかに醒め切った目と白けた表情の取り合わせは、初歩的な質問に退屈する傲慢な天才のそれ。

 「僕の名前は、すぐるだ」

 視界の端を影が過ぎる。
 シーツに投げ出されたサムライの腕が視界を過ぎり、唐突に僕の顔の横へ翳される。
 何をする気かと訝しみ動きを追う。
 僕に組み敷かれたサムライは脂汗に塗れた苦悶の形相で、苦痛の光が瞬く双眸を眇め、息も絶え絶えに僕の顔の横に手を翳す。 

 ぶつのか?
 突き飛ばすのか?
 シャワー室でしたように、むりやり力づくで引き剥がすのか?
 
 サムライがじっとこちらを見る。
 相変わらず首を絞められながら、しかし目は閉じず一心に僕を見つめ、苦しげな息の狭間から掠れた声を絞り出す。

 「冷えて、ないか」

 「………………え?」
 無骨に節くれだった手がひたりと頬を包み込む。
 一瞬、思考が停止する。
 サムライの行動に目を疑う。
 自分が今まさに死に瀕してる時に、サムライは無理をして手を伸ばし、僕の頬を包み込んだ。
 片手で僕の頬を包み込み、苦痛の光が瞬く双眸に真摯な気遣いを映じ、冷え切った頬を暖めようと余力を尽くし指を動かす。

 腕から力が抜ける。
 気道が解放されると同時になめらかに瞼がおち、頬に触れた手もまた力なく垂れる。
 
 頬から指も離れてもなお、僕は動けなかった。
 サムライにのしかかった体勢のまま鬱血のあとも生々しい首を見下ろし、放心する。

 その一言で
 たった一言で、

 僕は、君の直にもどってしまった。

 おそらく意識は覚醒してなかったはずだ。
 首の違和感に薄っすらと目を開け、たまたま捉えたのが僕で、頭で考えるより先に手が動いたのだろう。
 サムライはずっと後悔していた。
 シャワー室で僕を突き飛ばしたことを、冷水を浴びせ掛けたことを、そのまま立ち去った事を、夢の中でまで悔やみ続けていた。
 目が覚めて真っ先に、僕の心配をした。
 理屈も利害も抜きで氷点下の外気に晒され冷え切った僕の頬に手を添え、苦しげな息の隙間から、命乞いでも謝罪でもない一言を搾り出した。  
 
 「卑怯だ」
 卑怯だぞ、サムライ。
 もう少しで君を殺せたのに。
 君ともどもに破滅できたのに。

 体が砂になるような虚脱感に襲われ、惰性的な動作でサムライの上から下りる。
 再びの眠りを妨げぬよう細心の注意を払い、衣擦れの音ひとつたてぬ慎重さで床を踏みしめる。 

 首の痣を晒し仰臥するサムライと向き合い、荒れ狂う激情をなけなしの理性の力で抑制し、虚勢の笑みを浮かべる。
 闇に包まれた房の隅、時が経つのも忘れて立ち尽くし、どこまでも思い通りにならない男に精一杯の皮肉をぶつける。
 
 「あくまで僕ひとりを破滅させる気か。
 まったく、友人甲斐のない男だ」

 この時僕は、彼と心中しようとしたのかもしれない。
 彼を殺して道連れにしようとしたのかもしれない。

 その事に気付くのは、ずっと後だ。
 本当に取り返しがつかなくなってからだ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050218195604 | 編集

 腕の中で息を止める。
 「俺と一緒に逃げろ、ロン」
 道了は俺の胸に頭を凭せかけ微動だにしない。
 不思議と安らいだ表情でことりと額を預け、俺の胸の鼓動を聞いている。 

 抱擁の力が強まる。
 俺を抱く手に縋るような力が篭もる。
 切迫した呟きに動揺する。
 
 こんなよわよわしい道了は初めてだ。
 殺戮兵器の強さを示威する不死身の假面として池袋最凶の武闘派チーム月天心に君臨した男が、比類なく悪名高き月天心の首魁が、今は俺を抱きしめて動かない。

 今夜の道了はやけに表情豊かだ。
 麻痺した顔筋は相変わらずでも、半眼に瞼を落とした双眸を過ぎる悲哀の光が起伏に乏しい表情に影めいたものを添え、輪郭の彫りを深くする。
 顔の造作を浮き彫りにする影は奇妙にのっぺりとした無表情に人間味を付与し、掴み所ない印象の中から胸に迫る真実を抉り出す。

 助けを求めるような声だった。
 手を伸ばしてやらなきゃと思わせる声だった。

 暗闇に溶けてただよう匂いがここがどこか思い出させる。
 仕切りのカーテン越しに盛大な鼾と歯軋り、呂律の回らない寝言が聞こえる。
 ふたつ向こうの囚人が寝返りを打つのにあわせベッドが軋み、びくりとする。
 道了の腕の中で金縛りにあったように硬直し、あっちこっちへとっちらかった思考をまとめにかかる。

 『我輩は現在、サーシャ君を虐待放置し医師を殺害遺棄した犯人を匿っています』

 閉じた瞼の裏側に昼間の情景が鮮明に蘇る。
 隣のベッドの傍らで繰り広げられた会話の一部始終を細部に至るまで鮮明に思い出す。
 冬枯れの白樺を思わせる厳粛な佇まいの銀髪の軍人と対峙したホセが、嬲るような調子で誘惑を持ちかける。
 黒縁眼鏡の奥の柔和な双眸が弦月の如く細まり、邪悪な姦計を孕む。

 『レイジ君が我輩の房にいることはいずればれます、早ければ今日中にも情報が流れるよう手筈を整えています。そうなる前に我輩はレイジ君を逃がします。どこへ?』
 『身を隠すにはもってこいの場所があるではないですか!東京プリズン地下、都心まで繋がると噂の下水道。ミノタウロスの迷宮の如く複雑怪奇に入り組み枝葉が分かれた下水道に逃げ込めばいかに執念深い看守とて簡単には追ってこれまい、追跡は難航すること必至。我輩はそうレイジ君を説得し彼を伴い地下に向かいます』

 きざったらしく眼鏡の弦に指を添え、尊大に顎引き断言。

 『そこで彼を貴方に引き渡す』

 極力抑えたつもりらしいバリトンが絶望的な宣告をくだす。
 一瞬耳を疑う。
 けれど目を閉じても現実にホセと軍人はいて、耳をふさいだところで聞いた会話を忘れ去るのは無理だ。
 ホセは善人じゃない。
 ペア戦じゃさんざん世話になったが、だからといって信頼には足り得ない。
 ホセの言動には偽善を匂わせた欺瞞が含まれる。
 選び抜かれた言葉のひとつひとつ、意味深な目配せひとつひとつに罠が仕組まれている。
 ホセは駆け引きの天才だ。
 利用できるもんは何だって利用する非情さはリョウなんか足元にも及ばねえ。
 ホセは交渉の玄人だ。
 決して真意を悟らせず巧みな話術で相手を誘導し陥穽に落とし込む。
 日頃笑みを絶やさぬ隠者もまた目的のためなら手段を選ばねえ危険な男だって事実をひしひし痛感する。
 ホセの目的?
 知るか。ホセの考えてることなんざこれっぽっちもわかりゃしねえ、だけど今現実にレイジが追い込まれてるってのはわかる、めちゃくちゃやばい立場だってのはいやってほどわかる。

 ホセはレイジを売り渡す気だ。

 銀髪の軍人はどうやらサーシャの兄貴らしい。
 そういや横顔に面影がある。
 サーシャから尊大さをとって謙虚を足せば兄貴が出来上がる。
 なんでサーシャの兄貴がここにいるのか事情は不明だが、レイジがサーシャにした仕打ちが本当なら、たった一人の弟を廃人にされた兄貴が復讐にのりだしてもおかしくない。

 取引は今夜。
 ぐずぐずしてたらレイジの命はない。

 最悪の想像が急激に膨らみ、不安の影が胸を蝕む。
 逃げ道を教えると騙され下水道に連れて行かれるレイジ、先導しながらほくそ笑むホセ。
 すべて隠者の思惑通りに事が進む。
 青白く病的な光が朧に照らす闇の中、そこだけ仄白く霜が下りたような透徹した光を放ち軍人が立ち尽くす。
 撞球のキューを構える動作に似た洗練さで銃を持ち上げ、ひどく満足げに口角を吊り上げる。

 『貴方が受けた屈辱は、臣下たる私めが晴らします』

 狂気の上澄みの微笑が、とんでもなく不吉な予感に拍車をかける。
 手遅れになる前に、止めなきゃ。

 じたばたもがいて何とか道了から身をひっぺがす。
 腕の中で暴れる俺を癇癪もちの猫かなにかのように不思議そうに見下ろす道了をきっと見返す。
 生唾飲んで見詰め合う。
 闇の中に仄白く浮かび上がる顔はいっそ非人間的なまでに整い、肉薄で切れの長い酷薄な印象を強める。
 精巧な人形のように微動せず、瞬きすら忘れたかのように静止する道了をまっすぐ見据え、言う。
 「………わかった。いいぜ、一緒に行ってやる」
 道了がかすかに目を見張る。
 意外とばかりの反応に逆にこっちが戸惑い、うしろめたくなる。
 うしろめたい?
 お袋と梅花を殺したやつ相手に、うしろめたく思うことなんかありゃしねえ。
 道了が怪訝な顔で俺を覗き込む。
 唇がふれるほど間近に顔が来る。
 衣擦れの音が耳朶をくすぐり、やましさを煽る。
 徐徐に膨らみ始めた罪悪感を吹っ切るように早口で言い切る。
 「なに目えまんまるくしてんだよ。一緒に逃げてやるって言ってんだよ」
 「………ロン」
 懐疑の視線を拒んでそっぽを向く。
 ぐちゃぐちゃに乱れ込み入ったシーツの皺に目をやり、なげやりに吐き捨てる。
 「どうせ俺にはなにもない。レイジは俺に愛想尽かして消えた、お袋と梅花はもういねえ。なら、しかたねーだろ」
 大丈夫、一度はできたんだ。
 二度目だってちゃんとできる。
 覚悟さえありゃ絶対できる、上手くいく、成功する。
 上手くごまかせるようにと念じながら、荒みきった目つきで卑屈に笑う。

 「鍵屋崎もサムライも、こんな淫売とは付き合いたくねーとさ。ダチを裏切って天敵に抱かれるようなヤツは勝手にのたれ死ねって感じで……東棟には居場所はない。東京プリズンのどこにも居場所がない。お前のせいだ、道了。お前がきたせいで全部かわっちまった、くるっちまった。もう後には戻れねえ。俺はお前に抱かれた。何度も、何度も、何度も……自分の頭で物を考えられないふりして実際なにも考えられなくくらい、気持ち悪いを通り越して気持ちよくなるまで。いまさら房に帰れっかよ、何もなかったふりで食堂いけるかよ、鍵屋崎やサムライと顔あわせられっかよ。
鍵屋崎もサムライも俺を軽蔑してる、裏切り者の淫売たあ口も利きたくねえって口には出さなくても目がそう言ってる。レイジだって……、」

 レイジだって。
 語尾が途切れる。
 続きを吐き出すのに苦痛がともなう。
 シーツを掴んで俯く。伏せた顔に道了の視線を感じる。
 固く目を瞑る。
 身の内で吹きすさぶ激情を抑え込もうと、何度も何度も息をする。
 罪悪感を覚える必要なんて、ねえ。
 うしろめたさを覚える事なんてねえ。
 道了は取り返しの付かない事をした。
 お袋と梅花を殺した。
 俺の大事な人間を殺した。
 わけわかんねえ自己本位な理由で、スラムの片隅で必死に生きてた二人の女をゴミのように嬲り殺した。
 俺を酷く抱いた。
 汚いもんを舐めさせてケツの穴かっぽじってぶちこんで腰ぬけるまでがくがく揺さぶって、本当に死ぬかと思った。
 こんなやつ同情に値しない。
 道了がここに来るためにお袋と梅花を利用したのなら、今度は俺が利用する。
 自己本位な理由で利用して、ゴミのように捨ててやる。 
 極悪非道な假面が自業自得な末路を辿ったところで、痛快に笑い飛ばしこそすれ同情には値しねえ。

 腹を括れ。
 覚悟を決めろ。
 俺に足りないのは、どん底まで堕ちる覚悟だ。
 良心の痛みをうっちゃって、とことん最低になる覚悟。
 しみったれた考えをかなぐり捨て、とことん最悪になる覚悟。

 深呼吸で冷静さを吸い込み、下顎にへばりついた舌をひっぺがし、諦念を未練で割った辛気くさい声音を絞る。
 「……レイジだって、戻ってこない」
 口に出したそばから胸を抉るような痛みが走る。
 「なら、お前といくしかねーじゃねーか」
 その痛みに静かに蓋をし、気力が失せて抵抗の意志が萎えた素振りでしおらしく項垂れる。

 ここにいるのは辛い。
 レイジを思い出すのはひどく苦しい。
 俺にはもう、お前の隣しか居場所がない。

 気弱な嘘を塗り重ねて本心を隠す。
 胸の痛みに目を瞑り、そんなものはなからないふりをし、喉元まで込み上げる熱いなにかを抑え込む。

 俺には時間がない。
 ぐずぐずしてたらレイジの命がない。

 俺は今、危険な橋を渡ろうとしている。
 道了を利用して、医務室を抜け出そうとしている。
 隠者が俺やレイジをそうしたように、道了を便利な手駒として扱っている。
 これは、賭けだ。
 勝率の低い賭けに打って出る崖っぷちの気分で顎をしゃくる。

 「連れてけよ、どこへなりとも」
 おもむろに手を伸ばし、道了の腕を掴み、ゆする。
 無反応の腕をゆすりながら、駄々を捏ねるガキのように催促する。
 「こうなりゃとことん付き合ってやる。そうすりゃ満足なんだろ?それがお前の望みなんだろ?そうするために東京プリズンにきたんだろ?だったらそうしろよ、俺の手をとってむりやりにでもどこかへ連れ出せよ。誰も追ってこないところへ、お前の頭ン中で蝿が騒がないとこへ……」
 頭蓋骨を震わし脳を攪拌する不快なノイズに苦しめられ、道了が顔を顰める。
 貪欲なる蝿の王が脳みそを食い荒らす。 
 頭蓋骨の裏側で唸るような重低音を伴い羽ばたき始めた蝿を想像、その不気味さにぞっとする。
 苦悶の皺を眉間に刻んだ道了が右耳を塞ぎ、もう片方の手で俺の手首を掴み、ベッドから引きずりおろす。
 ノイズの波状攻撃に苦しみ抗う道了、夜目にもはっきりわかる青白い顔にふつふつ浮かんだ汗の量は尋常じゃない。 
 慌ててスニーカーをつっかける。
 俺がスニーカーを履くのを待たず道了が歩き出す。
 焦燥に駆られた大股で寝静まった室内を突っ切る。
 スニーカーの踵を踏み潰し、情けなく縺れる足取りで道了に付いていく。
 居眠りする看守の背後を堂々と突っ切り、一切躊躇せずノブを捻る。

 視界が漂白される。
 蛍光灯の明るさに一瞬目が眩む。

 闇に慣れた目が光に適応するのも待たず、いや、機械仕掛けの人形にはそんな事大した問題じゃないのか、廊下を直進する道了の足取りは迷いない。
 「どこへ行くんだ?」
 「下水道だ」
 にべもなく言い放ち、ついでのように続ける。
 「……旧下水道は都心に繋がっていると聞いた。上手くすればここを出られる。ただ歩き続ければいい」
 簡単に言うが、丸一昼夜歩き続けるのは非常な体力を要する。
 しかも道了はなんら前準備をしてない。
 防寒具も非常食も持たない手ぶらの状態で下水道を歩き通そうなんてただの馬鹿だ。
 落盤の瓦礫に通せんぼされた挙句、帰り道がわからずに凍死か餓死が関の山だ。

 行くならひとりで行け。
 勝手にのたれ死ね。
 俺はお前を利用する。
 お前がお袋を梅花を利用したように、お前を利用して目的を遂げる。
 お前は下水道までの案内役、媚薬が後を引いて一人じゃろくに歩けない俺の手を引っ張って歩いてくれる補助係だ。

 役目が終わったら即刻手を切ってやる。

 道了への憎悪を飼い殺し、身も焼かれんばかり焦慮に苛まれ、一心に念じる。

 間に合ってくれ。

 荒い息を吐き、祈る。
 ホセは時間を指定しなかった。
 最悪の可能性がにわかに現実味を帯びて迫ってくる。
 ホセはとっくに待ち合わせの場所に辿り着いてレイジを引き渡し、レイジはあの軍人に殺されているのかもしれない。

 畜生、そんな事あってたまるか。
 俺は必ずレイジを助ける。
 命はもとよりこれ以上レイジの体に傷を付けさせてたまるか。
 仲直りもしねえうちに死なせるもんか。
 諦めてたまるか。
 簡単に諦めきれるほどこの想いは安くない、レイジと泣いて笑って暮らした一年数ヶ月は軽くない。
 今からそれを証明にいく。
 俺とレイジの間にあるものを、目に見えない触れないけれども確かに存在するものをたぐりよせ、必ずあいつのもとへ辿り着く。

 道了の手に掴まり、へっぴり腰で床を這いずる。
 体がだるい。
 腰が立たない。
 シャツと擦れた皮膚がこそばゆい。
 血管を流れる血が砂になったように体が重く、足裏で自重を運ぶのに苦労する。
 停留場までの道のりをひどく長く感じ、ひりつくような焦燥に苛まれる。
 繋いだ手からたしかな熱が伝わってくる。
 俺の汗と道了の汗が交じり合って熱を発する。
 人形みたいに澄ましてるくせに手だけはちゃんとあたたかいんだ、コイツ。
 まだ媚薬の効果が切れてないのだろうか、ちょっと歩いただけで息が切れて発汗する。
 微熱を帯びたように体がけだるい。
 早く早くと急いて焦れて、けれども一向に停留場は近付かない。
 ぐるりと尾っぽを咥えた蛇の胴内を歩いてるようだ。
 わざと遠回りしてるんじゃねえかと訝るも道了がそんな事する理由がない。
 俺の企みに勘付いてるならともかく……
 いや、まさか。それはない。
 道了が知ってて知らないふりをしてる疑心暗鬼に苛まれ、ただでさえ遅れがちな足取りを鈍らせるのは得策じゃない。
 蛍光灯が冷え冷えと廊下を照らす。
 青白い光が目に痛い。
 靴裏がコンクリ床に吸い付き剥がれる気の抜けた音が耳障りだ。

 「梅花と会った」
 「え?」

 唐突な呟きに顔を上げる。
 驚いて道了の背を見る。
 先頭に立って黙々と歩きながら、道了は淡々と続ける。

 「房に来た。医務室へむかうあいだもずっとついてきた。ここに来てから毎晩だ。毎晩俺の夢に現れる。夢だけじゃない、現実にも現れる。目を閉じても開けても梅花がいる。ベッドの脇に立ってじっと俺を見下ろしている。例の寂しげな微笑を浮かべて、しつこくじっとこっちを見つめている」

 蛍光灯の無機質な光に照らされた道了からは、さっきの不安げな様子が払拭されていた。
 俺に凭れて弱音を漏らした男とは別人の如く、透徹した眼差で虚空を射抜く。
 
 「死んでもまだ勘違いしている。俺が本当は優しい男だと、俺が可哀想だと思い込んでいる。都合のいい思い違いだ。梅花は言った。假面の俺は俺じゃないと、自分が好きなのはただの道了だと、俺が俺でなくなってしまうのがいやで月天心を潰そうとしたと、今にも消え入りそうなか細い声でずっと俺の耳元でずっと囁き続けた」

 軽蔑もあらわに道了が吐き捨てる。
 「馬鹿な女だ」

 絡んだ指がほどける。
 繋いだ手が離れる。
 掌がすり抜け、威風あたりを払う大股の歩調に合わせて背中が遠のく。

 「梅花を悪く言うな」 

 喉が渇く。
 得体の知れない漣が胸に広がる。
 脳裏を過ぎる梅花の面影が、この世の不幸を一身に背負って殉じようとしているかのような懺悔の翳りを帯びる。

 「梅花はなんも悪くないだろ。梅花はただ、お前にそばにいてほしかっただけだ。お前をひきとめておきたかったんだ」

 道了は答えない。
 俺を廊下のど真ん中に残したままどんどん先にいく。
 忍耐力の限界、衝動が爆発。
 一散に走り出し、道了の前に回りこんで行く手を塞ぐ。
 道了が立ち止まる。
 正面から対峙、まともに目を合わせる。
 左右で色違いの目が憐憫の色を湛え、しげしげと俺を見る。

 憐憫?
 なんで、俺を哀れむんだ?

 煌々と輝く蛍光灯が闇を駆逐し事物の輪郭をはっきりと暴き出す廊下のど真ん中、俺と向き合った道了が低く命じる。
 「どけ」
 天心壊滅の原因が梅花だとしたら、梅花が果たした役割はなんだ?
 あんな大人しくて優しい女が、廃工場の片隅に蹲って俺の話し相手になってくれた女が、月天心崩壊の引き金を引くような大それた真似するもんか。
 梅花はただ、沢山の手榴弾の中にたった一個のはずれをまぜただけだ。
 栓を抜かれるまでは何の害もないはずれを混ぜただけだ。
 たまたまそれがくじ運のない俺の手に渡り、大惨事を招いただけだ。

 梅花。
 俺が惚れた女。初恋の女。
 最初の一回が最後の一回になった。
 初めて抱かせてもらった体はどこも柔らかく丸みを帯びて、甘酸っぱい汗の匂いと香水が混じった体臭が鼻を突いた。
 大好きだった。
 女らしく儚くて、守ってやらなきゃって気負いが決して苦にならなかった。
 俺を呼ぶ間延びした声が、微笑ましく俺を見る目が、優しく包帯を巻いてはだけた裾を慎ましく直す手が、華奢な膝小僧とすんなり伸びた足が大好きだった。

 梅花を汚すのは許さない。

 「いいか、勘違いするなよ。月天心を潰したのは、俺だ」

 廊下に殷々と声が反響する。
 たゆたう残響が鼓膜に染みる。
 しっかりと足を開いて立ち、逃げも隠れもせず道了と向き合う。

 俺は、俺がしたことから逃げない。
 手榴弾の栓を抜いて力任せに投擲した事で招いた流血の惨事は今でもくっきりと目に焼き付いて、阿鼻叫喚の地獄絵図と鉄錆びた血臭とぺちゃりと頬に跳ねた肉片の粘り気と口の中に広がる砂利の違和感と味とを五感がリアルに復元する。

 あれをやったのは、俺だ。
 俺以外の何者でもねえ。
 月天心を潰したのは、俺だ。
 梅花のせいになんかさせてたまるか。

 「月天心を潰したのは俺だ。納得するまで何度でも言ってやる。いいか、お前の大事な月天心をめちゃくちゃにしたのは目の前のこの俺、仲間内で除け者にされてた薄汚い半々のガキだ。普段除け者にされてる仕返しにしめたとばかり手榴弾の栓抜いて、味方もろともに吹っ飛ばした。そのせいでやむなし解散に追い込まれたんだろ?なら俺を憎めよ、梅花にあたるなよ!梅花は何も悪くねーだろが、ただお前を心配してただけだろーが、梅花は本当はお前と家族になりたくて……俺だって……」

 挑むように道了を見据える。
 お袋と梅花を殺した憎い男を視線で焼き滅ぼすのが可能ならと狂わんばかりに願いながら、譲れぬ眼差しを叩き付ける。

 「俺が惚れた女を馬鹿にすんな。お前が憎んでいいのは俺だけだ」

 道了がふいに歩みを再開する。
 殴られる?
 冷徹に一瞥され戦慄が走る。
 衝撃を予期し目を閉じる。

 次の瞬間。

 ふわりと軽い感触が癖っ毛を撫でる。
 繋ぎ合った手の熱が残ってるせいか、わずかに汗で湿った掌が、無造作に跳ねた髪をしっとり撫で付ける。
 どこかレイジの手つきに似ていた。
 自分でもままならぬ衝動を慰撫し、飼い馴らすような手つきだった。
 俺の頭に手を置いて見下ろし、道了は呟く。

 醒めた双眸に一抹の感傷を含んだ表情は乾いた悲哀を感じさせ、俺がこれまで見た中で一番人間くさい。
 「馬鹿なやつだな」
 
 硬質な靴音が再開、床の上を影が移動する。
 ちょっと目を離した隙に道了は俺の横をすり抜け、遥か向こうへ遠ざかっていた。
 肩透かしを食った俺は、啖呵が相手にされなかった気恥ずかしさをごまかすため、駆け足で追い付いて愚痴を零す。
 「………ばかにしてんのかよ」
 「先を急いでるだけだ。朝になればまた捜索が始まる、看守どもとはちあわせしたくない」
 「斉藤の死体捜しか」
 暗鬱に声が沈む。
 道了が探るようにこちらを見やる。
 推量の視線を避けて俯き、惰性で繰り出すスニーカーの爪先を見る。
 「…………マジでレイジがやったのかな」
 レイジが犯人とは思いたくない。
 だが、医務室の囚人どもはそう噂している。
 暇を持て余した医務室の住人どもだけじゃない、東京プリズン中がレイジが犯人だと決め付けている。
 暴君化したレイジの乱行は周知の事実、たまたま運悪く不機嫌の絶頂のレイジと行き合った斉藤が犠牲になったってのがもっぱらの見解だ。
 考え出すと際限なく気が重くなる。
 暴君ならやりかねないと思う反面、レイジがそんな事するはずねえと頑固に否定する自分がいる。

 別れ際の台詞が耳に響く。
 『Good luck.』
 暴君は晴れがましく笑っていた。

 追われる事を楽しんでいるかのように嬉嬉として、まるそれが最高の娯楽であるかのような快活さで、棒立ちの俺と鍵屋崎に別れを告げた。
 レイジが斉藤を殺したなんて信じたくねえ、嘘であってほしい。何かの間違いであってほしい。けど、俺は実際にこの目で見てる。ヤクでボロボロになったサーシャを、壁に手を付かされた裸の鍵屋崎を、媚薬の作用で苦しむ俺を冷ややかにせせらわらう暴君を。

 どっちを信じればいい?
 暴君か、レイジか?

 胸の奥で苦汁が煮える。
 信じたくて信じ切れなくて、胸が苦しい。
 無意識に耳朶を掴みしつこくピアスをいじくる。 
 もう片方の手で鎖をたぐりシャツの内側から十字架を取り出し、固く握り締める。
 こうしてると少しは不安が和らぐ。
 肌身離さず持ち歩くものから伝わる余熱が指先を通じて全身に広がり、安堵感に包み込まれる。

 余熱は幻痛と似ている。
 そこにあると思い込む事で、初めて存在を許される儚い残像。

 「もうすぐだ」
 道了が言葉短く告げ、心臓がごとりと音を立てる。
 階段を下りてひたすら進むうち、コンクリ床がゆるやかに傾斜し、なだらかな下り坂になり始めた。

 突然視界が拓ける。

 狭苦しい通路の終点、矩形に切り取られた出口から一歩踏み出せば、とほうもなくだだっ広い空間が広がっていた。
 深夜の地下停留場には人気がなく、静寂に包まれてる。
 壁に設置された青白い照明のせいか、とほうもない広さ故に払いきれぬ闇が沈殿しているせいか、深海の浸透圧が鼓膜を塞ぐ。
 「看守はいない……のか?」 
 念のため視線であたりを走査する。
 暗闇に目を凝らしても不審な影は確認できない。
 「さすがに冷え込むから死体捜しは一時中断ってわけか。こんな寒い日に下水道なんかにおりたら凍死しちまうよ、何時間も水に浸かりなんかしたら腰から下がキンカキンになって一生使い物にならなくなる」 
 それか、回収作業が打ち切られたかだ。
 伊達に長く入ってない俺には上の考えが漠然とわかる。
 上はもうこの件から手を引きたがってる。
 東京プリズンで殺人事件がおきた事実なんてはなからなかったことにして知らんぷり決め込むはらだ、知らぬ存ぜぬで通すつもりだ。
 斉藤の死は十中八九隠蔽される。
 不都合な事実は穴を掘って埋めるのがここのやりかただ。
 臭いものにゃ蓋をするに限る。
 部外者の死が醜聞の露見を招く可能性が否定できない現状では、早い段階で捜索を打ち切って、事後処理に専念したほうが無難だ。
 「今頃きっと書類を改ざんしてるんだ。斉藤が辞めた証拠を捏造して、世間サマに対して言い逃れするはらだ」
 憤懣やるかたない俺の独白には応じず、道了はだだっ広い停留場を突っ切る。
 長い足を怠惰に繰り出し、青白い光を受けた顔に倦み疲れた色を漂わせ、単調な靴音を響かせる。
 おもむろに屈みこみ、床に穿たれたマンホールの検分にあたる。
 安全な経路を事前に読み取るが如く、無機物の微細な振動を介して気配を読み、軽く首肯して行動に出る。
 躊躇なくマンホールを抱え込み、造作なくずらす。
 鉄蓋を除いた下からまん丸い空洞がぽっかりと口を開ける。
 下方から吹き付ける湿り気を帯びた風に顔を顰める。
 風に乗じ漂い出す混濁した異臭に気後れする。
 「行くぞ」
 言うが早く、敏捷な身ごなしで闇に滑り込む。 
 道了は後ろ向きになり巧みに梯子を下りていく。
 下から吹く風にも怖じる事なく、無尽蔵に湧き出る暗黒にも恐れをなさず、最小限の身ごなしで効率的に梯子を下りていく。

 意を決し後に続く。
 ぎゅっと手すりを掴む。
 手すりにかけた手を下に滑らし、スニーカーの爪先をたらし、さぐり、一段下に足をかける。
 鉄筋製の梯子は冷たく、びっしりと結露している。
 ふれたそばから掌がひっつき、皮膚が破けぬようひっぺがすのに細心の注意を払う。
 五段、十段、十五段……数を数えて集中力を高める。
 暗闇と高所の相乗の恐怖に煽られておかしくなりそうだ。

 必死に数を数え雑念を払う。
 手で手すりを掴み、靴裏で横棒を踏み、慎重に自重をずりおろす。
 繰り返すうちに次第に要領が掴めてきたが気は抜けない。
 油断した途端にまっさかさまだ。
 頭から滝壺に落っこちる恐怖と懸命に戦いつつ、何とか最後の一段を下りる。
 靴裏が踏みしめた地面の固さに心強さを得て、緊張の糸が切れる。
 長々と安堵の息を吐く俺の隣に立ち、退屈を持て余した道了が言う。

 「遅かったな」
 「……まっさかさまにおっこちてお前とごっつんこしたら困るだろうが。額の皿が砕けたらぱちんて嵌めこむの手伝ってくれっか?」
 先に立って歩き出した道了を追い、俺もまた歩き出す。
 下水道は停留場よりさらに暗く視界が利かない。
 壁の照明は殆どが割れて使い物にならない。
 おまけに足元は苔でぬめり最悪。
 闇を手探り、勘を頼りにおっかなびっくり進む俺をよそに、裏腹に道了の足取りは澱みない。
 最初から目的地がわかってるような断固たる足取りで歩き続ける道了を追っかけるうち、胸の内に疑問が湧き始める。

 「なあ、道了。さっきの続きだけど」

 語尾が途切れて宙に浮く。
 続けるかどうしようか迷い、時間稼ぎに視線を伏せる。

 前行く背中を制そうとして、何故だが舌が凍る。
 これ以上刺激するなと頭の片隅に踏みとどまった理性がうるさく警鐘を鳴らすも、とうとう誘惑に負け、口を開く。
 「月天心はやっぱり、俺のせいで潰れたんだよ」
 うしろめたさを隠し切れず俯く。探るような視線の先で道了が立ち止まる。 
 孤高の背中に凝視を注ぐ。
 青白い照明に浮かび上がる背中は、否定も肯定もせず無感動な沈黙を守り続ける。
 一歩詰め寄る。
 梅花の面影を追いかけ道了の背中ににじりより、切迫した声を出す。
 「月天心を潰したのは俺だろ?だったらもう十分じゃねーか」
 地下に殷々と声が反響する。
 切実な余韻を帯びたその声は自分の物と思えないほど震えていて、俺は俺が動揺している事実をいまさらながら思い知り、うちのめされる。
 「だからお前、ここに来たんだよな。月天心を潰した俺を殺すためにわざわざここに乗り込んできたんだよな。ほら、梅花もお袋も関係ねー。お前が憎いのはあくまで俺一人だ、そうだろなあ、答えろよ。ふたりを殺す大義名分なんてどっこにもなかったんだ。そうだよな、俺ひとりを殺せれば満足なんだよな?だったらなんでひと思いに殺っちまわないんだ、こんなまどろっこしいまねするんだ。俺を生かして連れまわすようなふざけたまねするんだよ」
 「ロン」
 静かに言葉を遮り、緩慢な動作で振り向く。
 道了と目が合う。
 道了の目には寂寞とした色が浮かんでいた。
 俺を見詰める左右色違いの目は、道了らしくもない哀切な情感を湛えていた。
 孤独な顔。
 「ロン………」
 舌の上で転がすように名を呼び、緩慢な動作で腕をさしのべる。
 俺を呼び招くような素振りに戸惑い、あとじさる。
 「俺がここに来たのは」
 道了が呟く。
 呟きながら俺に向かって歩を踏み出す。
 己の爪先で弾けた雫を一顧だにせず、感情の暴走に苦しみ引き裂かれた名伏しがたく奇妙な表情で、かすかに唇を動かす。
 「東京プリズンに来たのは、お前を」
 続きは聞けなかった。

 「君がサーシャを壊したのか」

 酷く冷えた声がした。
 酷薄に徹した声音が仮初のおだやかさで確認をとる。
 それに応じるは、不敵な笑みを添えた挑発。

 「サーシャ?ああ、俺が抱き潰したロシア製の愛玩人形か。剥いて剥いて剥き尽くしたマトリョーショカの事か」

 レイジの声だ。
 刹那、勝手に体が動く。
 俺は転ぶのも恐れず床を蹴り走り出す、声が響いてくる方向をめざし暗闇の中を突っ走る。 今ここにレイジがいる、レイジがいる、漸く会える!
 レイジの事で頭が一杯、胸が一杯になる。
 いつのまにか道了を追い越していたのにも気付かなかった。
 俺は走る、ひたすら走る。
 ぼろぼろにくたびれて今にも底が抜けそうなスニーカーでおもいっきり地面を蹴り付け、反動でぐんと体を前に押し出す。
 加速に次ぐ加速で限界を突破、沸騰せんばかりに高鳴る心臓に急きたてられ、声がわんわん壁に跳ね返って響いてきた脇道へ転がり込む。

 名を、呼ぶ。

 「レイジっ!!!!」

 脇道に踊りこんだ俺の目に、ホセと軍人が映る。
 下水道の真ん中、正面切って対峙したホセと軍人。
 ホセの隣に突っ立つ懐かしい背中に泣きたくなる。
 涙腺がふやける。
 鼻がつんとする。
 忘れもしない干し藁の髪、均整取れた背中と申し分なく長い足、ポケットに指を引っ掛けだらけきった姿勢……
 レイジが、いた。
 それだけで泣きたくなった。泣きたくなるほど安心した。
 もう暴君だって構うもんか。
 レイジの名を連呼しつつ水飛沫をはねとばし一散に駆け出す、水溜りに突っ込んでスニーカーがびしょぬれになって中までふやけても構わず心臓の限界に挑む勢いで疾走する。

 レイジがゆっくりと振り向く。
 俺を認めた顔に驚愕が走り、無言のまま口が開かれる。 

 「ロ、」

 俺は見た。
 レイジの肩越しに銃を構える軍人の姿を、
 無防備な背中を晒したレイジを狙い、今まさに引き金を引こうとしている姿を。

 凄まじい葛藤に引き歪んだその顔は
 憤怒にかき乱されたその顔は
 血をもって血に報いる復讐者の憤怒を剥き出し、純粋悪に染まる。

 銀髪の軍人が微笑む。
 アイスブルーの目に狂気と殺意が交錯、薄氷に亀裂が走り地獄の底の業火が燃え上がる。
 地獄の氷が溶ける。
 一度は冷えて固めた憎悪を、苛烈に身を灼く青白い炎にして解放する。
 狂気を孕んでざわめく銀髪の奥、不吉な輝きを増し闇を貫通するアイスブルーの瞳を細め、白皙の美貌を堕天の悦楽に染める。
 聖性に祝福された天使の化けの皮が剥がれて悪魔の本性が暴かれる。
 地獄の氷が溶けだし、氷漬けにした感情が堰を切って流れ出す。
 清冽な微笑みの内に限りない殺意を秘めた軍人が、引き金においた指をぎりぎり撓めて引き絞る。

 『Сам накликал на себя беду.』

 俺が思い描いた通りの気品に満ちた優雅さで引き金が引かれ、乾いた銃声が響き渡った。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050218030350 | 編集

 発砲の直前、猛然と疾駆。
 スニーカーの底が抜けても構うもんかとばかりに勢い良く地を蹴って反動をつけ、肩も脱臼せんばかりに宙をかいて腕を突き出す。
 前に前にもっと前に、どうか届いてくれ、俺のこの短い腕が届いてくれ!
 抱擁に足りない短い腕が、レイジをおもいっきり抱きしめるには丈が足りなくて苦しい腕がこの際引っこ抜けても構うもんかと歯を食いしばり間接のぎりぎりまで伸ばす。 
 風を突き破ってもがいてもがいてもがきぬく。
 顔に手に体にあたり、髪と裾を逆撫でする風圧に抗いきる。
 脱臼の痛みを堪え精一杯伸ばした腕に固く柔らかい物があたる。

 掌に抵抗を感じる。
 そのまま両の掌で突き倒し一緒くたに縺れてすっ転ぶ。

 視界が反転、全身をしたたかに打ち付けて瞼の裏で火花が散る。
 衝撃はすぐ痛みに変じちりちりと全身至る所で燻る。
 衝突の衝撃で折り重なって突っ伏した俺とレイジの耳を、撞球の要領で周囲の壁にあてずっぽに跳ね返った大音響が聾する。

 乾いた銃声が爆ぜる。
 きな臭い硝煙の匂いがしけった空気に溶けて鼻腔を衝く。
 視界が赤く染まる。
 頬にぴちゃりと水滴がとぶ。
 妙に粘り気があるなまぬるい水滴。
 下水の飛沫かと思ったがちがう。

 もんどりうって転がった俺の眼前に、人影が立つ。

 いつのまに躍り出たか、全然気付かなかった。
 レイジを助けることで頭が一杯だった俺は、驚異的な機敏さでもってすぐ横をすりぬけた影を知覚できなかった。
 鍛え上げた脚のバネを駆使し、磨き抜いた反射神経の本領を発揮し、研ぎ澄ました動体視力でもって今しがた銃口から発射された弾道を目視。
 機械さながら正確無比な速さでもって俺の横を駆け抜けた男は、弾道を正確に掌握し、全体の状況を素早く把握し、物理的な力をもってしても弾道の変更は不可能と知るや、その前に立ち塞がったのだ。

 道了。

 道了はみずから銃弾の前に立った。
 銃口から発射された弾丸を妨げられないと悟るや、躊躇なくその身を盾に代えて晒した。

 弾丸は真っ直ぐレイジを狙っていた。
 いや、レイジを庇って突っ伏した俺を狙っていた。 

 一度放たれた弾丸の軌道を変えるのはいかに物理法則を覆す假面の膂力をもってしても不可能の領域、そして道了は弾丸を防ぐ最短の手段に出た。
 最善ではないが、最短には違いない判断。
 俺とレイジが一命を取りとめたのはそのおかげだ、道了が働かせた冷静な判断が俺たちを救ったのだ。
 道了は完璧に弾道を把握し、距離から割り出した衝撃の度合いを完全に予測し、勝負に出た。
 きっとそうだ。そうに決まってる。
 道了は痛みを感じない、感じないからこそこんなぶっとんだ真似ができた。
 致命傷の威力を秘めた弾丸の前に大胆に身を晒し、瞬きひとつせぬ冷静さを最後まで保ってられるわけない。

 それでも道了が俺を助けた事実は変わりない。
 道了は俺を庇った。
 俺を庇って、肩の肉をごっそり持ってかれた。

 「………っ、は………」

 上着の肩にじわじわ血が滲み出す。その鮮やかさが目を奪う。
 レイジに照準を合わせた弾丸は、土壇場で道了が邪魔に入らなきゃレイジと縺れて転がった俺の頭をふっ飛ばしていた。
 ちょうどレイジを覆い被さる格好で上になっていた俺は心底ぞっとする。
 「たおりゃん……お前……なんで……」
 トカレフの威力は強力で、3メートルと離れてない至近距離からまともに鉛弾を喰らった道了は大量に出血してる。
 鉛弾は道了の左肩の奥深くめりこんで、上着の肩のあたりがしとどに血を吸って不吉に変色し始めている。どうやら貫通しなかったらしい。
 骨が、砕けてるかもしれない。
 やばい状態だ。出血の量が半端ねえ。顔色は最悪。憔悴と苦痛とが入り混じった顔は朦朧として、焦点を失った視線は茫洋と虚空をさまよい、片腕をぶらりと脇に垂れ下げ立ち尽くすだけでめちゃくちゃ体力を消耗してるのがわかる。
 手で押さえた肩から絶え間なく血が迸る。
 傷は、深い。血は一向に止まる気配がない。

 傷口をおおう指が血にぬれそぼち、点々と床に垂れる。
 道了の指を伝って床に滴り落ちた血は禍々しく赤く、下水道の澱んだ悪臭に鉄錆びた匂いがまじりあう。
 青白い蛍光灯の光を反射し、血溜まりがぬめる。
 粘ついた光沢をはなつ血だまりにあらたな雫が没し、波紋を広げる。
 弾丸の埋まった肩を押さえ、今にもぶっ倒れそうな疲労困憊の様子で立ち尽くす道了に、我知らず手を伸ばす。

 「お前、肩……」
 「いつまで抱きついてんだよ」
 
 邪険に薙ぎ払われる。
 「!?っ、」
 不意打ちだった。
 レイジが突然跳ね起き、俺はひとたまりもなく落下して床を転がる。
 かぶりを振って泥を払い、肘を付いて起き上がる。
 俺の視線の先でゆっくりとレイジが立ち上がる。
 俺に背中を向けたまま落ち着き払った仕草で膝を払い、屈めた膝をしなやかに伸ばす。
 悠揚たる気風に満ちた身振りは野生動物の品を備え、権勢を誇示する不敵な笑顔には怯惰の翳りなど一点もなく、泥に塗れた干し藁の髪を梳く手つきさえもたとえようなく優雅。
 緩慢かつ怠惰な手つきでさっと前髪を梳きながら、唇の端を野卑に捲り、獣性の滾る犬歯を剥く。
 「グラマー美女の騎乗位はダイナミックな乳揺れが拝めて大歓迎だけど、やせっぽちのちびに上から見下ろされんのは感じよくねーな。いったんのったんなら気分出して腰使えよ」
 前髪を梳く手の影になった表情の邪悪さにうちのめされる。

 レイジは、暴君のままだった。
 俺を見る目はどこまでも冷たい。

 容赦なく俺を振り落とした暴君は、そのまましばらく乱れた髪を捌くのに熱中していたが、ふとまわりの人間に気付いて手を放す。
 「これはこれは、予想外の飛び入り参加ですね」
 場違いにのどかな声に振り返る。
 それまでどこ引っ込んでいたのか、完全に存在感を消し傍観者に徹し全体の状況を把握していたホセが、満を持して暴君に歩み寄る。
 俺には唐突に闇から湧いて出たように見えた。
 黒縁眼鏡の奥、出会っただれもを油断させる柔和な垂れ目をますます細め、散歩でもするような足取りでこっちにやってくる。
 けれども見逃さない、糸のように細めた双眸が孕む針の眼光を。
 細めた目の奥から放たれる眼差しは剣呑に尖りきり、招かれざる闖入者を洗礼する。
 純粋な恐怖が襲う。
 獰悪な肉食獣と対峙したが如く、行く手を薙ぎ払う威圧が後退を迫る。
 ホセはゆっくりとこっちにやってくる。
 ゆっくりと、だが確実に。
 下水道の闇をも喰らう災厄の塊の存在感を発し、顔にはあるかなしかの偽善の笑みを浮かべ、万人を陥穽に落とし込む聖人君子の仮面を被ったままに暴君のもとへやってくる。

 「お久しぶりですね、ロン君。こんな所でお会いするとは夢にも思いませんでした。はるばるレイジ君を追ってきた?いやはや我輩感服つかまつりました、運命の悪戯によって引き裂かれても会わんとする熱い友情に涙を禁じえません。ですがロン君、君も無茶ですねえ。一歩間違えば自分が撃たれていましたよ?幸いと申していいものやら、君の代わりにもう一人のお友達が犠牲になってくれましたが……」
 「こんなやつダチじゃねえ」
 即座に否定する。
 ホセが意味深な笑みを深める。
 「おや、そうなんですか?ならばなぜこんな時間に下水道に?我輩てっきりふたり手に手を取り合って脱走を図ったのかと思いましたよ。仲良し同士でまんまと東京プリズンから逃げおおせるため、都心に繋がると噂の旧下水道を利用したのではないかとね。おや、その顔は図星ですか?参りましたね、適当言ってるだけなのに……まあまあ、そう怒らないで。ペア戦では師弟関係を結んだ仲ではないですか」
 反吐がでるほどむかつく顔でホセが笑い、眼鏡の弦をくいと持ち上げ角度を微調整。 
 瓶底眼鏡の奥の目は相変わらず笑ってない。
 笑ってるふりをしてても笑ってない。
 口元を弧の形に矯正、顔筋を完璧に制御し鉄壁の笑顔で武装したつもりでも、目の表情ばっかりは偽れない。
 目は口ほどにものを言うってのは本当だ。
 現にホセの目は表情を裏切り真実を物語っている、刻々と変わる動静を読んで状況を有利に運ぶために休まず画策している。
 「ペア戦じゃ世話んなったよ。あこぎなしごきにも感謝してる。お前が血も涙もねえ鬼コーチだったおかげで、凱に勝てた」
 油断なくホセの顔色をうかがう。
 そうしながらも胸の痛みをおさえきれない。
 俺が凱に勝てたのはホセのしごきのおかげだ、猛特訓の成果だ。
 俺はちゃんと覚えてる、今だってちゃんと覚えてる。
 俺をリングに送り出す直前、さんざん使い込んだグローブを手渡して健闘を祈ったホセを。
 手に嵌め込んだグローブの感触を、グローブの上から俺の手をにぎって叱咤激励したホセを覚えてる。
 ともすれば理性が感情に押し流されそうになる。
 俺はまだ、心のどこかでしつこくホセを信じたがってる。俺にグローブを渡して笑ったホセを、金網の向こうからじっと見守ってくれたホセを、ぴっぴっぴっと笛吹いて俺にグラウンド何十周もさせたホセを、心のどこかでまだ信じ続けているのだ。

 ホセがそんなに悪いやつのわけない。
 何かの間違いだ、きっと。
 レイジを売り渡そうとしたのだって、きっとワケがあるんだ。

 俺はお人よしだ。救いがたいお人よしだ。
 自分でもちゃんとわかってる、自分のことは自分が一番よくわかってる。
 だから今現にホセの裏切りの現場を目の当たりにしても、堰を切って押し寄せた猛特訓の日々の記憶にもみくちゃにされて、ひょっとしたら勘繰りすぎじゃねーか、笑顔の裏の裏を読みすぎて疑心暗鬼に陥ってるだけじゃねーかと心がぐらつく。

 くそっ、騙されるな。 
 これが隠者の手管だ。わかってるだろ、俺だって。
 一度はレイジを暗殺者に仕立て上げて所長のもとに送り込もうとした男だぞ、いい加減甘ったれた期待を捨てて現実を見ろ。

 目を閉じ心を決め、ひたとホセを直視。
 一言一句、噛み砕くように言う。

 「たしかにお前には世話になった。お前とはずっと、仲良くやってきたかった。けどな、レイジに手を出したとあっちゃ話は別だ」
 「盗み聞きは感心しませんね」 
 喉の奥でくぐもった笑いをたてる。
 くつくつと肩が揺れる。
 何がそんなにおかしいのかと激発しかけ、寸でで押しとどめる。
 「……レイジは返してもらう」
 「そう上手くいくでしょうか?まわりを見回して御覧なさい」
 大胆に腕を薙ぎ払いぐるりを示し、よそよそしい距離をおいてちらばった面々を順々に見やる。
 「ご覧の通り、今の時間帯は誰もいません。惨劇にはうってつけの刻限です。不思議に思いませんか、ロン君。いくら上の人間が部外者の殺害事件を隠蔽したいからといって、発見から丸一日たたぬうちに捜索を打ち切るのはいくらなんでも早すぎる。所詮死体だから構わない?なるほど、それも一理ありますが……」
 「私が人払いしたんだ」
 得々とした語りをさえぎり、凛と冷えた声が響き渡る。
 揃ってそっちを向く。

 軍人が、いた。
 最前レイジに銃口を向けた軍人は、誤って闖入者を撃った事実にも顔色ひとつかず、氷のような冷静沈着さを保つ。
 肩を押さえ立ち尽くす道了を一瞥、レイジに見劣りせぬ落ち着き払った動作で銃を懐にしまう。ただ、それだけ。
 弁解も謝罪もせず、即座に駆け寄って具合を尋ねたりせず。
 手当てをするでも医務室に運ぶでもなく、まるでここの囚人には血を分けた一人を除いて憐憫をたれる価値などないといった酷薄なまでの関心のなさで、精確さを期して補足する。

 「私は取引を呑んだ。私怨で銃を向けるなど軍人にあるまじき行為と判っている。だが、サーシャに取り返しの付かない損害をもたらした男をむざむざ放置するのは兄としての自負が許さない。帝国の臣たる矜持が皇帝の仇をとれと命じたんだ」
 「あんた頭おかしいのか?」
 兄弟揃っていかれてやがる。
 一見まともな兄貴まで帝国の臣だの皇帝の仇だの言い出すんだから始末におえねえ。
 それともロシア人ってな皆こうなのか?サーシャしか知り合いがいねえから判断に困る。
 「…………そうだな。私は多分くるっている。ずっとむかしから、あの日から。冬枯れのモスクワ広場で彼に会い、霜焼けだらけの手に接吻し、主従の誓いを立てたあの日から」

 軍人の目がどこか遠くを見るように泳ぐ。
 儚く焦点をぼかした目を虚空に向け、追憶に浸るように立ち尽くす軍人は、サーシャのそれとはまた違う狂気に包まれていた。

 「……下水道設備を見学したいと申し出て許可を得た。私達と揉めるなと厳命されてるらしく、看守の対応は素直なものだった。つまらぬ諍いが原因で国際問題に発展してはたまらないと保身に走る所長のもと、私達は事実上放任されている。殺人事件の噂は既に耳に入っている。事件現場への侵入は何をおいても阻止すべきだが、下水道への立ち入りを拒んだこと逆にいらぬ詮索を招きはしないか微妙な心理が働き、私一人ならばという条件でうやむやのうちに探索を許された。ただし範囲を限定して」 
 「我輩の助力あってこそです。昼間のうちに前もって根回ししておいたのです。本当は監視役の看守が二名ほどつきそう予定でしたが、賄賂を用立てて丁重にお頼みしたら、こころよく役目を譲ってくださいました」

 ホセがそつなく相槌をうつ。
 隠者と利害の一致を見る共犯関係を結んだ事に対し忸怩たるものを噛み締め、軍人の顔がほんのわずか歪む。

 「………いかれてるよ、お前。弟が狂人なら兄貴も狂人か?たしかにレイジはサーシャにひどいことしたけど、それだっておあいこだろ。そりゃクスリで骨までぼろぼろにしたのはやりすぎだとおもうけど、サーシャだってさんざんレイジをナイフで嬲ってサバーカ呼ばわりしてクスリに漬け込んで……」
 「だまりたまえ」

 俺の反論は一蹴される。
 下水道のど真ん中、青白い照明を浴びて生まれ持った肌の白さを内から発光せんばかりに際立たせた軍人が、長い睫毛を伏せる。

 「………サーシャは廃人と化した。おそらくは、一生あのままだ。手をにぎり呼びかけても反応しない、瞼も動かさない。別れた時は、あんなに痩せてなかった。今では骨が浮くほど手が枯れた。銀髪の輝きは褪せ、肌はがさがさに傷み、唇はひび割れて………食べ物を受け付けないから点滴で栄養を注入している。排泄物の始末は私が請け負った。私は毎晩サーシャを脱がせ、裸にし、新旧の傷痕がのこる体を隅々まで拭き清める。サーシャは従順に従う。一切逆らうことなくされるがままだ。私はサーシャの腕を持ち上げ、脇の下を拭う。体を裏返して適温の湯にひたしたタオルを膝裏におき、そうして丁寧に垢をこそぎおとす。昔の思い出を語りながら……」

 きつく目を閉じ、悔恨の滲んだ顔を振る。

 「………遅かった。遅すぎた。なにもかも手遅れだ。私の到来はサーシャの精神崩壊を繰り上げる役にしか立たなかった。また約束を守れなかった。またしてもサーシャを、陛下を裏切ってしまった。冬枯れの広場の誓いを守れなかった。ならばせめて」

 軍人が笑う。

 「陛下を害した男を処罰せねば、臣下として立つ瀬がない」
 「まーだ主従ごっこを続ける気か?好きだねあんたも」

 侮蔑を隠しもしない痛快な笑いが大気を震わす。
 一同そちらを向く。
 音痴な笑い声の主は暴君。
 頭の後ろで手を組んだだらけきったポーズのまま、躁的な笑い声を発している。 
 「陛下を守れなかった罪を償いたならしのごの言わずに自分が死ねよ。こめかみに銃つきつけてバン、だ。そしたららくになるぜ、近親相姦の誘惑から解放されて」
 「え?」
 どういうことだ?不審に思い、レイジと軍人を見比べる。
 レイジに嘲笑されてもいっかな冷静さをくずさず、博愛的と評していい寛大な態度でもって軍人が述べる。
 「それはできない」  
 「やっぱ自分の身が可愛いってか?」
 すげなく提案を却下されたレイジがさも楽しげに眉を跳ね上げる。
 一呼吸おいて返ってきたのは、おもわぬ返答。
 氷点下まで冷え込んだ下水道にて、白い息を吐きながら立ち尽くした軍人が断言。
 「私が死ねばサーシャを世話する人間がいなくなる」

 サーシャの兄貴は狂ってる。
 だが、サーシャをおもう心だけは本物だ。
 おそらくは軍人の地位を捨て、残りの人生をサーシャの世話に費やすつもりだろうと、達観した口ぶりから察せられた。 
 一抹の未練も躊躇もない、受難に献身をもって報いる潔さ。

 「陛下を守る臣はもう私しかいない。私はサーシャを連れて故国に帰り、残りの一生を彼に捧げる。彼の望むすべてを献上する」
 「なんにもわかってねーな、お前。教えてやれよホセ、クスリ抜きの拷問中にサーシャが口走ったうわごとを」
 暴君が笑いを噛み殺し顎をしゃくる。
 ホセは道化た笑顔で応じる。
 軍人が訝しげに眉をひそめ、レイジとホセを等分に見比べる。
 代表して前に出たホセが、相手の察しの悪さを哀れむように憫笑をちらつかせる。
 「貴方とサーシャ君の間にあったこと、すべて聞きましたよ。サーシャ君が一部始終を話してくれた。薬抜きの苦しみに耐えるには、人生における最も辛い記憶をむしかえし怒りを燃え立たせるのが一番効果的だったのです」
 「どうだか。自白剤使ったんじゃねーか?」
 「毒をもって毒を制すといいますし」
 眼鏡の弦を押し上げとぼける。悪びれた様子はまったくない。
 心臓を鷲掴みにされたが如く軍人の顔が強張る。
 表情の変化を読んでホセがさらに笑みを深める。
 「サーシャ君にとってあなたは兄にして恩人、臣下にして庇護者だった。サーシャ君はもともとサーカスで養われた孤児だった。早くに母を亡くしたサーシャ君は団長の暴虐に耐えながら、やんごとない血筋であるとの夢想に固執し不幸な境遇を慰めていた。公女の母をもちながら不遇に貶められた自分をいつの日か王家の使いが迎えに来ると信じ、絶対の庇護者たる理想の家臣を思い描いた」

 隠者の笑みは殆ど底なしの様相を呈し始める。
 悪意を具現した闇が蠢動する。
 闇そのもののホセが告解のしるしを授ける黒い神父の如く鷹揚に微笑む。 
 
 「粉雪まう冬枯れの広場で二人は出会った。馬車から降りたあなたを一目見るなりサーシャ君は魅了された。その洗練されし尽くした物腰に、美しい容姿に、上流階級のアクセントを有する流暢な言葉遣いに……アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフという一個人に魅了された」
 「やめろ」
 ホセはやめない。
 制止をふりきり、嬉嬉として続ける。
 「夢が現実になったサーシャ君は有頂天でした。そう、最初のうちは。けれども時の流れは残酷だ、彼はもう夢見る子供ではいられなくなった、現実と向き合わねばならなくなった。幼い皇帝として臣下に甘える月日は過ぎ、彼は一人の少年となった。男性の機能をもつ少年に」
 「やめろ」
 「皮肉にも彼は気付いてしまった。無二の臣下として甘え信頼していた男に対する感情の正体に、その核に!いみじくもその思いを自覚した途端、彼は子供ではいられなくなった。けれどもあなたはサーシャ君の想いに目を閉じ、忠実なる臣下として仕え続けた。サーシャ君なりに頑張ったのでしょう。貴方が欲する陛下であろうとして欲望を押さえ込み、罪のないごっこ遊びにふけり、見捨てられないようにとけなげな演技を続け……」
 「黙れ」
 声が軋む。
 軍人の顔が悲痛に歪む。
 無意識に懐をさぐりトカレフをとりだすや、ホセに照準を合わせる。
 「黙れと言っている」
 「貴方からしてみれば、サーシャ君は可愛い弟だった。それ以上でも以下でもない。その行き違いが悲劇を生んだ」
 場が緊迫する。
 肌をなでる空気が極限まで張り詰める。
 銃口を向けられてもなおホセは饒舌に捲くし立てる。
 言い残しがないようにと強迫観念に駆られ、眼鏡の奥の目を爛々と輝かせ、顔全体に弾けんばかりの狂喜を湛え、ますます興にのって核心に入る。
 忌まわしいほどに目を放せぬ強烈な毒気を発散し、完全に役になりきってホセがうそぶく。
 「貴方の昇進祝いの日だ。貴方はサーシャ君をアパートに招きふたりでささやかな祝杯をあげた。酔いが回る頃、体の異変に気付いた」
 「言うな」
 「体に力が入らない。手足はくったりと萎れたままだ。愚かな貴方は仕込まれた薬に気付かずワインを飲み干し、サーシャ君の手中に堕ちた」
 「君ごときが、それを語るな」
 「意識は醒めていた。貴方は自分の身におきてることがはっきりとわかったはず、自分を抱きかかえベッドに運ぶの誰かわかったはず、服を剥いて裸にしたのが誰かこの上なく明瞭にわかったはず。シーツに溺れた貴方にのしかかり、首筋に唇を這わせ、淫蕩に火照る烙印を施し」
 「辺境の囚人の分際で、千里眼の賢者を気取るな」
 「いとおしげに前髪を梳き、頬を包み、胸板でじゃれ、一転した強引さで押し入ってきたのはー……」
 「やめろ」
 朗々と声を張り上げる。
 饒舌な語りに陶酔し、禁を犯した罪人を糾弾する。
 「近親相姦の大罪を犯したのは!!」

 銃声が響いた。

 「レイジっ!?」 

 二発目は暴発に近い。
 ホセの語りを遮ろうと引き金に指をかけ示威行為に出た軍人の手に蹴りが炸裂、高々と銃が跳ね上がる。
 俺も軍人もすっかりホセの演説に引き込まれて、暴君の消失に気付くのが遅れた。 

 「!っ、」
 再び暴君が出現したのは、軍人の真ん前。
 奇襲に狼狽した軍人が応戦の構えをとるも暴君の対応が上回り、地に落下する前に銃を掴もうと前のめりに屈んだ隙に付け込み、両手でその髪を掴む。
 乱暴に髪を掴まれ、力づくであおむかされる。
 喉仏をさらしてあおむけた軍人の歪む顔を覗き込み、耳孔に吐息をねじ込み、蠱惑するかのように囁く。

 挑発の弧を描いた唇が異国の音を発する。
 流暢なロシア語。
 『Куй железо, пока горячо.』
 風圧に膨らんだ前髪の奥、狂気滾りたつ邪眼が暴かれ、人を畏怖せしめる眼光を放つ。

 髪を掴む手にぐっと力を込める。
 自分の身になにがおきるか予期した軍人の顔面に逃れる暇を与えず膝蹴りが炸裂。
 膝頭と顔面とが出会い、また離れる。
 ひしゃげた鼻の穴からどろりと血が垂れる。
 顔面に膝蹴りを食らって鼻血を噴いた軍人がよろめき、軍服が朱に染まる。
 暴君に髪を掴まれぶら下げられ、降参を証立てるように項垂れた軍人の目はまだ死んでない。
 冷静に反逆の機を窺っている。
 俺は見た、トカレフを奪われた軍人の手が動くのを。
 鎌首もたげた蛇のように俊敏に跳ね上がったその手が、暴君の上着の胸元をひったくるのを。
 「気を付けろ!」
 思わず叫んでいた。
 警戒を促された暴君が虚を衝かれこっちを見る。ばかやろう、こっち見てどうすんだよ!!
 逆転劇は一瞬だった。
 俺に注意を奪われた暴君の胸元に手をかけ布を巻き取り掴んだかとおもいきや、鮮やかに体を入れ替え敵の足を蹴り払い自重を泳がせ、腰に捻りを加え投げ飛ばす。
 背負い投げが見事に決まる。
 背中からしたたかに叩き付けられダメージを受ける暴君、内臓を攪拌する衝撃に激しく咳き込む敵をよそに、今度こそ地面におちたトカレフを拾い上げ……
 「チェックメイトです」
 不浄な闇から湧き出た隠者が、優位を誇示して絶望的宣告を下す。
 奇襲はフェイクだった。
 暴君は油断をさそうおとりにすぎなかった。
 下水道には至る所に死角が存在する。
 照明の大半は割れて視界が悪く、そこかしこに濃厚な闇がわだかまっている。
 割れた照明が作り出す闇を迷彩に迂回、下水道の地理を熟知しているからこそ出来る芸当で暴君と応戦中の背後に回りこんだホセが耳元で囁き、軍人が振り返りー……
 
 盛大に吐寫物を撒き散らす。

 「ぐがあっ、」
 振り返った軍人の鳩尾に、固い固い甲で鎧った拳が抉り込むように叩き込まれる。
 動体視力の極限に迫る豪速で振り抜かれた拳は砲弾の威力を備え 胃袋をしこたま叩き、深刻なダメージを与える。
 拳が胃袋を穿孔する。
 口の端から粘ついた唾液の糸引き、鼻血がこびりついた驚愕の相を壮絶な苦痛に歪め、軍人が戦慄く。
 「………ぁ……がっ……なぜ、わたしを………」
 「カルメンの為です」
 腹にめりこんだ拳をぐりっと捻る。
 胃袋をねじ切る痛みに眼球が反転、軍人が倒れ込んできたのを余裕で支える。
 鼻血と吐寫物で綺麗な顔を汚し、自分の腕の中に倒れこんで来た軍人を一瞥、満足げに微笑したホセがいとも易々とその体を両腕に抱え上げる。
 「良い眠りを。覚めた後には少々ハードな予定が控えてますので。では行きましょう、レイジ君」
 「待てよ、どこ行くんだよ!?待てよレイジ、行くなよ、ようやく会えたってのに……お前それでいいのかよ、ホセに手駒扱いされちゃ王様の名が廃るんじゃねーのかよ、王様のプライドはどこやっちまったんだよ!?」

 ホセが顎をしゃくり、レイジを伴い歩き出す。
 先行するホセに続こうとした暴君がふいに立ち止まる。
 振り返る。
 視線が衝突。
 耐寒を強いる氷室で暴君と対峙。
 暴君が、笑う。
 「こいつが欲しいなら追いかけてこいよ」
 内側の虜囚たるレイジを意識、自分の胸を親指でつく。
 俺に向けた顔は、追いかけっこにうつつをぬかすガキさながら無邪気なもんだ。
 いっそ晴れ晴れと俺を仰ぎ、白い息を吐いて誘う。
 
 「俺をつかまえてみろ」

 上等だ。
 うけてたとうじゃねーか、挑戦を。
 「首ねっこひっつかまえて引きずり戻してやんよ」 
 あっさりと身を翻し闇に歩を進める暴君、距離が開き始めた背中を追って駆け出しかけ…


 「…………行くな」 

 足が止まる。
 視界の端に道了が入る。
 暴君を追って駆け出そうとした俺を呼びとめ、喘鳴に紛れてかき消えそうなか細い言葉を紡ぐ。
 
 「…………もどってこい」

 レイジが行っちまう。
 暴君が行っちまう。
 迷ってるひまはない。
 行け、行くんだ。
 道了なんか放っとけ。こんなやつどこで野たれ死んだって知るか、関係ねえ。
 最後の最後に俺を庇って死ぬなんていい気味だ、ざまーみろ。
 お袋と梅花が味わった苦しみの十分の一でも噛み締めて地獄におちやがれ。

 ぐずぐず悩んでるあいだにもどんどん距離は引き離されて、暴君とホセは遠ざかっていく。
 下水道の奥の奥、照明の光が完全に絶えた空々漠漠たる暗闇の深部に消えようとしている。

 遠ざかる背中が胸を締め付ける。
 いつかとおなじ光景が決断を迫る。  
 
 覚悟を決める。
 心を決める。

 「再見は言わねえ」
 肩から失血し、命の危機に瀕しつつある道了に背中を向け、せいぜい冷たく聞こえるようにと願いながら吐き捨てる。
 「あばよ、道了」
 
 金輪際、間違ったりはしない。
 本当に大事なものを、見失ったりしない。 

 隠者の導きにより迷宮の闇に呑み込まれた暴君を追い、靴裏に全身全霊をこめ、蹴り付ける。
 反動で浮遊感に包まれた体が風を切って前に出るのを引き戻す力がある。
 「行かせない」
 ぎょっとする。
 肩から手をはずした道了が、俺の背中によりかかり腰を抱き寄せる。
 「お前は、俺のそばにいろ」
 癇癪が爆発する。
 視線の先では距離が空きとうとう暴君の姿が闇に覆われて見えなくなり、響いてくるのは靴音だけでやがてそれも小さくなり、ようやっと会えたのにまた見失っちまうのか、行っちまうのかと激情に割れた咆哮を上げる。
 「放せ、放せよっ……お前にかかずりあってるひまねーんだよこっちは、たった一人の相棒がいっちまうんだよ、胡散臭い隠者と連れ立って暗闇の奥に消えちまうんだよ!許せっかよそんなの、俺をさしおいてホセを選ぶなんてあの野郎許さねえ、襟首ひっかんで引っ張り戻してきっちりヤキいれてやる、誰がお前の本当の相棒か思い知らせてやるっっ!!」
 道了は怯まず抱擁は緩まず、俺を抱き抱えたまま強制的にひきずっていく。
 俺を拘束し持ち運ぶのに両手を使ってるせいで外気に晒された傷口から大量の血が滴り、その雫が俺の瞼の上にあたり、頬をぬらし、しまいには上着の中にまで滑り込んで臍の窪みにたまる。
 わけもわからず道了の足を蹴飛ばし拳を振り回す、相手が怪我人だって事も忘れてむちゃくちゃに暴れまくる。
 ぶん回した拳が顎を掠っても、脛をしたたかに蹴り上げられても文句ひとついわず、暴君が消えた方向とは見当違いの水路に俺を引きずり込み、膝まで達した水をかきわけ蹴散らし、瀕死の息でただひたすらに突き進んでいく。
 靴裏が水底と擦れてかたっぽのスニーカーが脱げる。
 さかしまに浮かんだスニーカーを取りに戻るのも許さず、片手で肩を支え、もう片方の手を膝裏にくぐらせて俺を横抱きに抱え、道了は一心不乱に突き進む。
 見上げた横顔には憔悴の色が刻まれ、目の下にはどす黒い隈が出来、噛み縛る歯の間から漏れる喘鳴はどんどん間隔を狭めていく。

 盛大に水を跳ね散らかし、膝まで濡れそぼって水路に分け入る道了の腕の中、俺はただ恐怖で頭が一杯でレイジはもう見えなくて不安で怖くて不安で、レイジの所に戻りたくて戻してほしくてでも戻ったところでレイジはいなくて、どうしていいかわかんないから上に下に右に左に斜めに横に無軌道に拳をぶん回し、道了の体の至る所を殴り付けて奇声を発する。

 「はなせよ、はなせってば!畜生なんだって言う事きかねーんだ、なんだって俺の好きにさせてくれないんだよ!?俺が好きなのはレイジだ、お前じゃない、お前にさわられんだけで虫唾が走る!さんざん抱かせてやったんだからもういいだろうが、もう許してくれよ、解放してくれよ、俺をレイジのところに行かせてくれよ!レイジ、俺の声が聞こえてるか?いい加減へそ曲げんのやめて戻ってこいよ、俺だってひとりぼっちは寂しいんだよ、こんな恥ずかしいこと言わせんじゃねーよ!ホセ、いるか?お前なに考えてんだ、サーシャの兄貴さらってなにしようってんだ、これ以上お前の陰謀とやらに東京プリズンを巻き込むんじゃねーよこの色黒メガネ!!」

 「俺がここにきたのは、お前を生かすためだ」

 耳朶に呟きがふれる。
 上を向いた拍子に道了と目が合う。
 肩から流れ出た血は服を染め、水面に垂れた雫は薄赤く溶け広がり、たとえ痛みはなくても脂汗を絞る消耗は本物で。
 道了の体は、刻々と蝕まれている。
 もう一度強く抱きしめ、血の飛沫が勇猛な隈取りを施した顔に透徹した意志を湛え、狭苦しい水路に篭もる声で宣言する。

 「俺の手で生かすためだ」

 尖った顎を伝った血が一滴、十字架におちた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050217045403 | 編集

 「鍵屋崎、少しいいか」
 振り向けば壮年の男がいた。
 仕立てのよいスーツに隙なく身を包んだ場違いな男だ。

 安田。
 東京少年刑務所副所長の地位にある若きエリート。

 「少しで済めばいいがな」
 皮肉を同意にかえて応じれば、安田があたりを見回し提案。
 「………ここでは何だから場所を変えよう」
 バス待ちの囚人が興味津々こちらを窺う。
 下卑た好奇心の餌食になりはてるのは願い下げだ。
 目配せで確認をとり、安田が踵を返す。
 ついてこいの意思表示に大人しく従う。
 ざく、ざく。
 靴裏が砂を噛む音と感触がひどく神経を苛立たせる。
 背中に視線を感じる。
 安田に伴われ歩き出した僕を取り残された囚人が熱心に見送る。
 飛び交う憶測、乱れ飛ぶ野次。
 無関心を決め込みしばらく歩けばざわめきも遠ざかり、風の音に紛れて消える。
 僕は殊勝らしく押し黙り安田の背中を見詰めていた。
 暗色のスーツで覆われた細身の背中は暴力の気配と無縁の非の打ち所ないエリートのものだ。
 こうして安田の背中を見つめるのは何度目だろうとふとどうでもいいことを考える。
 安田の背中を見るたび不思議な感慨が浮かぶ。
 理由はわからねど、安田の背中を見るたび自己撞着に似た親近感を覚える。
 僕の視線にも気付かず、否、気付いていてもあえて無視し突き進む安田の歩みには迷いがない。
 ざく、ざく。
 なだらかな斜面を登る安田のあとについていく。
 ざく、ざく。
 柔らかな砂地に二対の靴跡が穿たれる。
 靴跡の窪みを正確になぞり、砂丘の裾野から中腹へと、時に転びそうになりながら手足を使い這い登る。
 ざく、ざく。
 円滑に足を繰り出し、一定の歩幅で進む。
 一見場違いなエリートでも、崩れやすい足場をものともせず障害を克服する歩き方が豊富な経験を代弁する。

 安田は僕が来る前からここにいた。
 東京プリズンにいた。
 その当たり前の事実を痛感する。

 リンチとレイプが横行する砂漠の中心の刑務所にて、無能な所長に代わり実務をこなし、少しでも環境を向上させようと抗い続けてきたのだ。
 安田の歩き方はクーラーの利いた執務室で涼んでいた人間のそれではなく、汗水惜しまず砂を噛み、自分の足で障害を乗り越えてきたもののそれだ。
 数分を費やし砂丘の頂点に辿り着く。
 辿り着いた時には息が切れていた。安田は涼しい顔だ。
 見かけによらず体力があるのかもしれない。
 もしくはただの強がりか?
 囚人に弱みを見せたくないという矜持が虚勢を張らせているのだろうか。

 沈黙が落ちる。

 呼吸を整えてようやく顔を上げた時、安田はあらぬ方向を眺めていた。
 緩慢な動作で安田の視線を追う。
 安田の視線の先には寄せては返す波頭にも似て単調な起伏を経て連なる砂丘と蟻塚の如く無数に点在する穴、濁った泉があった。

 今さら驚くにも値しない荒涼たる砂漠の風景だ。

 草一本生えぬ不毛の砂漠を礫を巻き上げ吹き抜ける乾燥した風。
 彼方より吹いた風が髪をなぶり瑣末な砂利が顔に打ちつけ、眼球を守ろうと反射的に目を閉じる。

 「ここも変わった」 

 感慨深い独白に薄目を開ける。
 いつのまにか隣に立った安田が眼鏡越しの双眸を細め、茫漠たる広がりを見せる眼下の眺望を評する。

 「私が赴任した当初は本当に不毛の地だった。見渡す限り砂漠で水などどこにも湧いてなかった。脱水症状を呈し倒れる囚人が後を絶たず、医務室は常に満員の状態で衛生面もひどいものだった。私は何度も所長にかけあった。イエローワークの労働環境を改善したいと、無意味な穴掘りなど止めてもっと生産的な仕事に就かせるべきだと、そうしたほうが意欲も向上し死者が減ると、若者らしい情熱に駆られて上申した」

 安田の横顔に見入る。
 外気に晒された横顔には長年に及ぶ葛藤の名残りと燃焼の残滓が刻まれていた。
 感傷に流される事なく淡々と言葉を紡ぐも、乾いた声色が一層悲哀を際立たせる。

 「だが、上は承知しなかった。改善を求める申請は却下され、私はいつしか諦念と馴染んでいた」
 「中間管理職の悲哀をくどくどしく語り聞かせるのが僕を呼び出した目的か?」
 辛辣な皮肉に安田の表情が和む。
 折から吹いた風に乱れる前髪を片手で押さえ、無造作に顎をしゃくる。  
 「見たまえ」
 安田の視線を追う。
 下方、泥水を湛えたすり鉢状の泉が視界に入る。
 「あの泉ができて随分変わった。君とロンの功績だ」
 「飲料水としてはとても飲めたものではない。サルモネラ菌・ボツリヌス菌をはじめに十三種の菌の生息が予想される食中毒の泉だ」
 「よく見たまえ」
 安田が促す。
 眼鏡の位置を直し、泉の周辺に目を凝らす。
 「あ」
 安田の満足げな顔が視界の端を過ぎる。

 今初めて気付いたが、泉の周辺に僅かな変化が起きている。
 ほんのわずか、よくよく注意しなければ見逃してしまいそうな変化だ。
 泉の周辺、水を吸ってぬかるんだ地面にまばらに草が生えている。
 ひょろ長く黄ばんだ葉を伸ばし風に揺れる名もなき雑草は、見かけによらぬ強靭な生命力でもってしっかりと根を張っている。   
 強風が吹けば根こそぎ薙ぎ倒されそうな貧弱な雑草は、しぶとくしたたかに地にしがみつき、ふてぶてしく根をはびこらせ野放図に勢力範囲を広げつつある。
 ゆるやかに、だが確実に。
 砂漠の生態系が変貌を遂げつつある。

 「砂漠にも草が生える。ここは決して不毛の地ではない」

 オアシスを中心に草が芽吹き始めた砂漠を一望、安田は私見を述べる。
 あらゆる災厄を封じたパンドラの箱の底には希望があった。
 かつて僕とロンが掘りあてた泉は今や貴重な憩いの場となり、尽きぬ水で砂漠を潤し、周縁には緑が萌え始めている。
 かつて僕とロンが掌の豆を潰し血だらけにして掘りあてた泉は、気の遠くなるような時間をかけ、不毛の砂漠を肥沃な土地に変えようとしている。
 何十年何百年先かはわからないが、おそらくそれは実現する。
 踏み潰されてもへし折られても根さえ抜かれなければ懲りずに立ち上がる雑草は、いつか必ず砂漠を蘇らせる。

 「決して、終焉の地などではない」

 砂漠に根付いた強靭な生命に見とれる。
 泉のまわりだけ色が違うのはまばらに草が生えているからだ。
 茶に緑を足して混ぜ合わせた斑が自然の配列で点々と散らばり、所々みすぼらしく禿げた地面が覗いている。
 ここ数日イエローワークの業務も上の空だった。
 ただただ機械的惰性的に手足を動かし、現実と乖離した忘我の境地で仕事をこなしていたから気付かなかった。
 自分の足元すら見落としていたのだ、僕は。

 「鍵屋崎」

 安田が名を呼ぶ。
 ゆっくりと振り返る。
 安田と目があう。
 真っ直ぐに僕を見詰め、安田が口を開く。

 「先日、下水道で斉藤の死体が発見されたのは知っているな」 
 「ああ」

 軽く頷く。
 僕の表情を油断なくさぐりながら安田は続ける。

 「死体は四肢をばらばらにされ下水道に捨てられていた。第一発見者は早朝仕事に降りたブルーワークの囚人だ。ただちに回収班が結成されたが損傷が激しく、いまだに見付からない部位がある。だが体格と着衣から判断し、まずもって斉藤で間違いない。死体は白衣を羽織っていた。白衣のポケットからは斉藤の所持品が出た。周囲に散らばっていた毛髪は鳶色だ」
 「顔は損傷が激しく見分けがつかなかったと聞いているが……」

 安田が一呼吸おく。
 眼鏡のブリッジを押さえ表情を隠し、感情を削ぎ落とした声で補足する。

 「顔面はひどく損傷していて本人か否か特定できなかった。後日検死解剖を行う予定だが、体の大部分が未発見の状態ではそれもむずかしい」
 「嘘だな」

 曖昧に言いよどむ安田を面と向かって嘲り、欺瞞で上塗りした真実を看破する。
 怪訝な表情の安田を冷ややかに眺め、僕の推理を披露する。

 「それは単なる建前だ。本来早急に行われてしかるべし検死解剖が遅れている原因は、事件を公けにしたくない政府の意向が絡んでいるからだ。おそらく政府は事件を内々に処理したいと考えている。検死解剖を行い身元が特定されば騒ぎになる、東京プリズンに赴任した医者が一ヶ月も絶たずバラバラ死体となって発見されたとあっては世間の注目を招く。腐敗しきった隠蔽体質と保身を優先する秘密主義が絡み、責任のなすり合いが繰り広げられ、解剖がのばしのばしになっているのが現状と見たが…異存はあるか?」

 沈黙は肯定の証。
 確信を強め、皮肉げに続ける。

 「さらに妄想する。政府は今頃事件を隠蔽にかかっているのかもしれない、斉藤が東京プリズンにいた事実そのものを消そうと隠蔽工作を図っているのだ。もっとも斉藤が東京プリズンに来た事実自体は消しようがない、仙台の同僚にも話しているだろうしな。ならば『東京プリズンで殺された』事だけを消せばいいのだ、巧妙に。斉藤は確かに東京プリズンに来た、しかし一ヶ月と経たず退職または転職した。のちの消息は不明。もしくは斉藤のその後を適当に捏造し、同僚や別れた妻子を騙せばいい。国家権力を使えば人一人を合法的に消すなど造作もない。斉藤は優秀さを買われ海外の病院にスカウトされたかNGОに参加した事にでもすればいい……国境なき医師団で活動する斉藤など考えただけで笑えるが」

 刑務所で殺人事件がおきるなど前代未聞の不祥事だ。
 しかも被害者は外からやってきた医者。
 東京プリズンの劣悪な実態が暴かれ、世論の非難をこうむるのは政府だ。
 ならば事件そのものを隠蔽しようという動きがあってもおかしくない、もとより東京プリズンは現行の法が適用されない辺境の地だ。
 東京プリズンの看守はよそで問題をおこし左遷された者ばかり、いわばここは世捨て人の吹き溜まり。
 東京プリズンで働きたい人間など世間から見れば物好きか厭世観を強めて自棄に走ったかのどちらかだ。
 斉藤もまた東京プリズンに来た時点で世間に背を向けたに等しく、世間と交渉を絶った人間がその後行方知れずになろうが余程親しくない限り深入りして捜そうという奇特な人間はいない。
 その点斉藤なら安心だ。
 妻子と別れ仙台を離れわざわざ東京プリズンにやってきた斉藤には安田を除いて知己もなく、姿を消しても怪しまれぬ条件が揃っている。

 「このまま事件をうやむやにするのが政府の方針だ。東京プリズンにおける人死には珍しくない、それこそ日常茶飯事だ。看守による虐待死、囚人間のリンチ、強制労働中の事故死……数えあげればきりがない。上が案じるのは部外者の死が引き金となり東京プリズンの杜撰な実態が露見する事、ならば内々に処理してしまった方が余程いい」 
 思わせぶりに言葉を切り、皮肉な笑みを添えて断言。
 「東京プリズンで死んだ医者などいなかったんだ」
 「背後の百人の死を隠すためなら一人の死など容易に握り潰す、か」
 苦りきった様子でひとりごち、良心を引き裂かれた溜め息をつく。
 「………君の推理は正しい。上は斉藤の死を握り潰そうとしている」
 「僕の時と同じだ」
 自嘲的に口元を歪ませる。
 安田が怪訝な顔で向き直る。
 構わず続ける。
 鬱屈した心を持て余し、憤りよりもむしろ諦めが滲んだ口調で、僕がここに送られた経緯に今回の事件の顛末を重ね合わせる。

 「ここは秘密の墓場だ。世間に晒したくないもの、晒されると不都合なものを後腐れなく捨て去る場所だ。僕は鍵屋崎優と由香利を殺しここに捨てられた、世間には遺伝子工学の世界的権威たる学者夫妻を長男が殺害したとしか公表されなかった、その他の事実はすべてなかったことにされた。僕が政府の実験で生まれた事も、遺伝子を操作されている事も、鍵屋崎夫妻が単なる養育者にすぎなかった事も伏せられた。当たり前だ、いかに遺伝子工学の分野が発達したとはいえ政府主導で倫理規範に反する実験が行われたとあっては国際的非難を浴びるのは避けがたい。だから僕はここに送られた。鍵屋崎夫妻殺害事件を単なる尊属殺人にするために、間違っても政府の関与など疑わせない為にここに放り込まれたんだ」

 痛みを堪えるように厳粛な沈黙を守る安田に向き合い、挑むように目を見据える。  
 安田と対峙した僕は、現在のみじめな境遇に対する鬱屈を飼い馴らされた従順さの内に秘めて吐露する。

 「一度入ったら出られない。東京プリズンに捨て去られた秘密は、文字通り墓まで持ってくしかない」 

 空が急激に暮れていく。
 風が次第に冷たくなる。

 夕闇迫り始めた空の下、広大な砂漠を見下ろす砂丘の頂にて、数呼吸の沈黙を挟んだ末に安田が口を開く。
 「斉藤は君と別れた直後に消息を絶っている。それは間違いないな」
 「間違いない」
 「状況を詳しく」
 無感動に詳細を求められ、何を話し何を伏せるべきか脳裏で検討する。
 思考時間は一秒にみたなかった。
 安田と目を合さぬよう注意し、太陽が沈みゆく地平線に視線を固定し、動揺など微塵も覗かせぬ声色で話し始める。
 「一昨日の朝、食堂を終え廊下を歩いている僕に斉藤が声をかけ話したい事があると言った。強制労働免除許可はとってあると言った。僕は斉藤の案内で図書室に行き、数十分ほど面談をもった。斉藤とは図書室の前で別れたきりだ」
 「証明するものは」
 「図書室に行く道すがらすれ違った囚人と看守だ」
 眼鏡越しの目の温度が冷え込む。
 安田が冷ややかに僕を見やる。
 証言の信憑性をシビアに推し量る視線に居心地が悪くなる。
 洞察力と観察力に優れた安田は、既に勘付いているのかもしれない。
 勘付きながらも平静を装い、自白を引き出す重圧をかけているのだ。
 安田一流の尋問術に嵌まらないよう気を引き締め、やましいところはないと宣言するかのように昂然と顔を上げる。
 僕の不敵な態度に何を思ったか、安田が眼鏡の弦に触れる。 
 「行くまでの確認はとれている。問題は帰りだ。行きは何十人もが目撃していたが帰りを目撃した人間は君だけだ、鍵屋崎」
 「何が言いたいんだ?」
 尊大に腕を組み挑発。
 地平線に沈みゆく太陽が眩い残照を投げかける。
 足元に穿たれた影が奇妙に引き伸ばされ、実物の何倍もの背丈を備える。
 「斉藤が図書室を出たと証言するのは君だけだ、鍵屋崎」
 「僕を疑っているのか」
 極力平静を保ったつもりだが成功したかは甚だ疑わしい。
 シャツの下で心臓がじっとり汗をかく。
 情動を控えた無表情に徹し安田を見返す。
 神経を逆なでする不敵な笑みより余分な物を削ぎ落とした無表情の方が、より本心を読まれにくいと踏んだからだ。
 顔筋が痙攣し笑みが強張りでもしたらおしまいだ。
 ならば無表情で通した方がいい。
 「斉藤を最後に見たのは君だ。不審な点に気付かなかったか」
 「そう漠然と言われても困る。抽象的な質問には抽象的な答えしか返せない」
 「真面目に答えろ」
 「不審な点などこれといって気付かなかった。僕はただ図書室を出た斉藤を見送っただけだ」
 「斉藤はどちらへ行った?この後だれかと会うともらしてなかったか」
 「勘違いするな。僕はただ扉から出て行く斉藤を見送っただけでその後の行き先も消息も知らない、別段関心もなかったからな」
 「斉藤と何を話していた」
 「関係ないだろう」
 そっけなく突き放す。
 無意識にブリッジに指をもっていきそうになり動揺した時の癖を自覚、体の脇で手を握り込み自制する。
 「図書室で話した事柄が事件に関係するというなら話すが、プライバシーに関わる問題をなにもかもがうやむやな現状で話したくない。俗な好奇心の餌食に成り果てるなどぞっとする」
 「強制労働免除許可をとってまで個人面談を持った事からも、余程重要な件だったと推測するが……」
 「詮索はやめろ。憶測は慎め」
 図書室で話した事など思い出したくもない。  
 極力声を抑え制する僕を安田は無表情に見詰めていたが、何事かにふと思い至り、沈痛な色を湛え双眸を細める。
 「……妹か?」
 その哀れむような物言いが、僕のプライドを傷付ける。
 深呼吸し、傲然と顔を上げる。
 傷付けられたプライドを回復するため、卑屈に俯くのではなく傲然と顔を上げる道を選ぶ。

 虚勢だと笑うがいい、嘲るがいい、蔑むがいい。
 僕はこれで押し通す。
 恵を守るためならなんだってする。

 「………斉藤は恵の病状について詳しく語った、僕には知る権利と義務があるといった。仙台の病院で恵がどうしていたか、暗い部屋に閉じこもり折れるまでクレヨンで絵を描き殴り悪夢にうなされ悲鳴を発し飛び起き点滴を倒し徘徊し、いまだに僕がフラッシュバックに悩まされ頭皮を引き剥ぐ勢いで掻きむしる恵の今を教えてくれた」

 言いながら目を閉じる。
 嘘を吐いたわけじゃない、少なくともそれも真実に含まれる。 
 
 歪んだ鏡に映したように太陽が引き伸ばされる。
 賢者の石を練成する錬金術師の炉の如く、銅から淦へ、淦から朱へと濃淡に富む複雑な光線の紗を織り成し、最果ての空が燃える。
 光の乱反射が見せる現象だとわかっていても、鮮烈な朱を刷く斜陽の美しさに魅了される。
  
 「理不尽に痛めつけられたものの涙は必ず贖われねばならない、か………」
 「何?」

 安田の呟きを風が運び去る。
 風に吹きちぎられた呟きに当惑した僕に、安田が説明する。

 「斉藤の信条だ。学生時代からずっと変わらない」

 学生時代を思い返しているのか、虚空に向けた目が追憶の光を孕む。
 安田の上を十五年の歳月が流れ去る。
 口元にあるかなしかの笑みを浮かべ、眼鏡越しの双眸を和ませる。

 「斉藤は大学の同期だ。私に唯一友人と呼べる人間がいたとしたらそれは斉藤だ。最初は嫌っていた。軽薄な言動を軽蔑し、こんな男とは口も利きたくないと思った。不快が極まり生理的嫌悪に近い感情さえ抱いた。思えば第一印象から最悪だった、握手を拒んだだけで人格を全否定されたこちらの身になってみろ。まったくあの男はひとの神経を逆なでする天才だった。そのくせ要領がいいからムードメイカーとして重宝される。取り柄ときたらコーヒーを淹れるのが上手いことだけ、他人がいれる砂糖の数まで把握してると知ったときは呆れるを通り越し感心したものだ。世渡りの上手さとコーヒーの淹れ方にはなるほど相関性があるんだな」

 背広の内側をさぐり慣れた手さばきで煙草とライターをとりだす。
 喫煙を咎める気は不思議と起きなかった。
 僕が見ている前で煙草を咥え、掌で囲うようにして風から庇い点火。
 煙草は猛毒だ。
 長期にわたる喫煙は死期を早める。
 三千八百種に及ぶ化学物質、うち二百種は人体に悪影響を及ぼす有害物質を含む煙草をしかし安田はとても美味そうに吸う。
 見ているこちらがれ惚れするほどあざやかな手つきでもって指の股にのせ口から抜き取り、斜め上方に深々と有害物質を吐息。

 暮れなずむ空に紫煙が立ち上る。 
 僕にはそれが死者を悼む送り火に見える。
 燻りを持て余す安田自身のようにも。

 喫煙は緩慢な自殺だ。
 安田には潜在的な自殺願望があるのかもしれない。
 右手の指の間に煙草を預け、放心しているかのような風情で虚空を眺めやり、紫煙に交えて吐息をつく。

 「馬鹿な男だった。十五年経ってもまだ友情が続いていると思い込む神経の図太さには呆れるしかない」 
 「同感だ。斉藤は馬鹿だ。とるにたらない低脳がひとり死んだところで嘆くには値しない。贖う価値もないものを贖おうとして墓穴を掘ったんだ、自業自得だ」
 「優しい男だった」

 不意打ちのように呟く。
 右手に煙草を預けた安田が、僕の方は見ずに呟く。
 誰に語りかけているのかわからない。
 他愛ない独り言かもしれない。
 残照に照り映える顔を地平線のはるか向こうにむけ、寂寥とした声色で述懐する。

 「軽薄なふりをしていても心の底に優しさを秘めていた。それに気付くのに時間がかかった。斉藤はひどく屈折していた。成分の八割が意地悪で二割が思いやりだった。私が研究室にこもり徹夜で資料を読んでいた時はコーヒーを出してくれた。貧血をおこせば支えてくれた。椅子に座ったまま眠り込めば毛布をかけてくれた。カラマーゾフの兄弟が愛読書だった。イワンの思想に共感すると言った。だが本当は」
 俯く。
 続く言葉をためらい、答えを求めるように宙に視線を泳がせる。
 「この世界がそんなに酷い所のはずがないと、救済の価値のない涙など存在しないと、誰よりひたむきに信じたがっていた」

 安田にとって斉藤がどれだけ大事な人物だったか
 安田の中でどれだけ重要な位置を占めていたか

 漸くわかった。
 救いがたいほどに、わかった。

 安田は乾いていた。
 目も、声も。
 癒せぬ傷口の如く乾ききっていた。
 斉藤との過去を語る間も決して取り乱さず、至って抑揚なく平板な口調で、斉藤がどんな人間だったかを選び抜かれた言葉でもって端的に語る。
 一切の無駄を省いたそっけない語り口は、自分に麻酔を打ち、痛覚を麻痺させたもののそれ。

 「馬鹿な男だ」

 無感動に繰り返す。
 右手の指の間に挟まった煙草が穂先を灰にして焦げ付いていく。
 穂先に点った橙色の光点が、かすかな音をたてながら指の股にむかい遡っていく。
 しかし安田は動かない。
 醒め切った目で煙草の穂先を見下ろし、断罪するように唾棄する。   

 「馬鹿な男だ、私は」

 燃え尽きかけた煙草を捨てる。
 落下するが早いか靴裏で踏みにじり入念に砂をかける。

 「斉藤の死に際になにもできなかった。こんな無能で無力な男が副所長を名乗っていいものか、名乗る資格があるものか。私はなにをしていた?ただひとりの友人の死に際になにができたというんだ」

 自責の言葉を連ね、何度も繰り返し吸殻に砂をかけ踏み躙る。
 そうする事で自分の心を踏み躙るように、
 自分を罰するように。

 「友人ひとり助けられなかった。大勢の囚人を見殺しにしてきた。看守による虐待死も囚人間のリンチもすべて不問に伏し表沙汰にならないよう処理してきた、イエローワークの囚人が度々脱水症状を呈し息絶えようが看守に両手足を折られた囚人が一昼夜放置されようが君が売春班に送られ性的な奉仕を強要されようがずっと目を瞑ってきたのはこの私だ。私は卑怯者だ。副所長の地位を追われたくないばかりに多くの囚人を犠牲にしてきた、多くの囚人を殺してきた。自分の手も汚さず」

 五指を開き掌を見下ろす。

 「ずっと言い訳してきた。多数を救うため少数の犠牲はやむをえないと、私が副所長の地位にあり続ける事で現に救われている人間がいると、副所長の職を退けばさらに環境が悪化し死傷者が増えると自分に言い聞かせ、囚人を見殺しにする痛みに目を瞑り続けた。確かにそうだ、私が副所長でいるからこそ看守の暴走を防げる節がある。私が職を退けば看守の横暴はさらにひどくなる。それがどうした?それで囚人を見殺しにした事実が帳消しになるとでも?売春班の存続を許したのはこの私だ、イエローワークの過酷な実態を黙認し続けたのはこの私だ、看守に嬲り殺された何十何百人もの囚人を最初からいないように扱いデータの削除を命じたのはこの私だ」

 開いた手を握りこみ、掠れた声を絞り出す。

 「……誰も救えなかった」 

 残照を浴び項垂れる。
 疲れきって肩を落とした安田の姿は、実体を持った影に見える。
 逆光で塗り潰された表情は判じかねるが、その声ははっきり聞こえた。
 胸を抉る、声。

 「救えなかったのが罪じゃない。救おうとしなかったのが罪だ」

 限界だった。

 「あんな男が死んだからといってそこまで哀しむ必要はない」

 安田が緩やかにこちらを向く。
 砂を跳ね飛ばし詰め寄る。 
 正面から安田と対峙、激情を抑圧し押し殺した声を出す。

 「斉藤など死んで当然だ、生きるに値しない男だ。心理学者気取りで人の心を解剖し悦に入る最低の男だ彼は、人の過去をほじくりだしトラウマを刺激するのを楽しむサディスティックな変態だ、あんな男が死んだからといって深刻に気に病む必要は一切ない。斉藤を殺したのは彼の精神分析を受け逆上した囚人だ、斉藤はいつもあの調子で人を見下しトラウマを暴いては喜んでいた、それが裏目にでたんだ。バラバラにされても自業自得だ、人の心をバラバラにした男がバラバラにされても同情の余地はない。貴方ほどの人が何故彼の死を哀しむ、あんなとるにたらない俗物の死を嘆く?まるで普通の男みたいだ、そこらへんにいる惰弱な人間みたいだ。
 そんな弱弱しく掠れた声を出すな、そんな顔をするな、そんなふうに弱みを晒すな!
 僕が知る貴方はそんな人間じゃない、旧知の医者一人が死んだからといって自分の過ちをくどくど詫びるような女々しい男じゃない」

 斉藤を罵り、安田をなじる。
 やり切れない想いに苛まれ、身の内を席巻する激情に突き動かされ、相変わらず項垂れた安田にあらん限りの侮蔑をこめ罵倒を浴びせる。
 僕は安田を憎む。
 斉藤の死を嘆き悲しみ、ただの腑抜けに成り下がったこの男を心の底より憎悪する。
 「斉藤など死んで当然だ。誰だか知らないが殺してくれた者に感謝する」
 毒々しい嗤笑が顔から滴る。
 どす黒く邪悪な念が胸の内を蝕む。
 斉藤、斉藤、斉藤……誰も彼も斉藤斉藤とうるさい。
 そんなにあの男を殺した犯人を知りたいか?
 斉藤を殺したのは僕だと発作的に暴露したい衝動に駆られる。
 今ここで重荷を下ろしてしまいたい。
 僕が斉藤を殺した、この手で殴り殺した。
 安田はどんな顔をする、どんな反応を示す?
 嫌悪、動揺、侮蔑、悲嘆……
 そのどれも釈然としない。試してみるのも悪くないと好奇心がもたげる。
 ああそうだ、僕が殺した。
 この手で殴り殺した。

 どうだ、安田。
 これでもまだ僕を庇うか?
 友人を殺した囚人を庇えるのか?

 「斉藤が死んでせいせいした。もとから東京プリズンになど来るべきじゃなかったんだ、彼は。そうだ、彼は自殺にきたんだ。妻子と別れ自暴自棄になり、自殺願望を抱いて東京プリズンにやってきたんだ。自殺する勇気のない臆病者はいっそ誰かに殺してもらうことを望む、自分の手を汚すのはいやでも他人の手を汚すのには頓着しない想像力の欠落した男が死んだからといって貴方が気に病む必要は……」
 「鍵屋崎」
 饒舌に捲くし立てる僕を言葉静かに遮る。
 弾かれたように安田を見上げる。
 地平線に沈みゆく夕日が大気を紅蓮に染める。
 奇跡を練成する炉の如く何色とも形容できぬ魔術的な色彩を織り成し、神々しいばかりに燃え輝く空の下、安田が呟く。
 「君の父親がだれか、知りたくないか」 
 心臓が止まる。
 真剣な声音にも増して虚をつく問いかけに戸惑う。
 「………僕の父は鍵屋崎優だ」
 安田は何を言おうとしている?
 シャツの下で心臓が跳ねる。
 曖昧な胸騒ぎが広がる。
 安田が間合いを詰める。真に迫る率直な眼差しに動揺が広がる。
 眼鏡の奥の双眸に孤高の決意を湛え、安田が口を開く。
 「本当の父親についてだ」
 「……精子提供者を知ってるのか?」
 生唾を飲み、驚きをおさえて問い返す。
 何故安田が僕の父親について知り得る?
 刑務所の副所長如きが国家機密相当の情報を掴んでいるはずがない、そんな事は不可能だ。
 待て、何か忘れている。
 いつだったか、安田が重大な事を言いかけたような……

 脳裏を映像が過ぎる。
 売春班廃止後、荒廃した闇に包まれた地下廊下で偶然行き会った安田が語った話を思い出す。
 当時の状況が鮮明に蘇る。
 右手に煙草を預けた安田が闇と向き合い、過去に焦点を凝らした目で記憶をなぞる。

 『若い頃、大学生だった私が参加したある実験の話だ。その実験では優秀な男女の精子と卵子を必要としていた、私はある縁故からその実験に精子を提供することになった……』

 まさか、
 あの続きを語ろうというのか。

 地面がぐらりと揺れる。
 錯覚だ。
 実際に揺れたのは僕自身だ。
 どうして忘れていたのだ、こんな重大な事を。
 否、あまりにショックが強すぎて自ら記憶を封じ込めていたのだ。
 酷いショックを受けた人間には往々にしてそういう事が起こり得る。
 衝撃から心を守るため脳の自衛機構が働いたのだ。

 動転する僕をよそに、安田は本題に入る。
 煙草の力を借りて気を紛らわせようとはせず、真摯な面持ちで痛みを引き受け、秘められし過去を打ち明ける。
 「十五年前、私が東大生だった頃の話だ。私はある実験に参加した。政府と共同で行われた実験の略号はISP……正式名称はインテリジェンスシードプロジェクト。私は後見人をかねる恩師に声をかけられその実験に携わった」

 地平線が燃える。
 太陽に翳して透ける血管の色に
 生命を濃縮して溶かし込んだ血の色に
 僕と安田を繋ぐ忌むべき色に。

 「優秀な精子と卵子をかけあわせ、遺伝子調整を施した天才児を作るのが実験の目的だった。最高責任者は当時から遺伝子工学の権威として知られていた鍵屋崎教授夫妻と勅使河原教授。政府は有用な人材を欲していた。インテリジェンスシードプロジェクトとはすなわち神の庭から知恵の実を簒奪する企て。実験が成功し最低限のコストで人工天才児の生産が可能となり次第率先して彼らを登用し、日本をたてなおす計画だった」
 安田の声が低く流れる。 
 「私は実験の中枢にいた。精子提供者についても知っている」
 安田が真っ直ぐ僕を見る。
 逃げも隠れもせず、どんな苛烈な糾弾と弾劾をも受け止める覚悟でもって僕と向き合う。
 安田が核心に入ろうとするのを遮り、嘲りを含んだ口調で激しく唾棄する。
 「……『生産』か。まるきり物扱いだな」

 まるで、物だ。
 結局のところ僕は量産品の天才、その試作品第一号に過ぎなかったわけだ。
 それも早々に廃棄された欠陥品だ。
 安田はずっと黙っていた。
 十五年前の実験に参加した事を隠し通し、上辺は公正なエリートを装い、生ぬるい同情の目で僕を見守っていたのだ。
 見守るふりをして、自らが手がけたモルモットの生態を観察していたのだ。
 反吐が出る。
 入所当初から親身に接してくれた理由が判明した。
 十五年前の実験に関わった罪悪感から、嘘に嘘を上塗りし偽善を働いていたのだ。

 結局自分のためか。

 僕に優しくすれば罪悪感が中和される。
 安田はその為に、その為だけに僕によくしていたのだ。

 僕の体調を気にかけ僕と立ち話をしペア戦会場で身を挺し僕を守り、それもこれも全部十五年前の秘密を抱え込んだ苦しさを紛らわせるために、僕に対するうしろめたさから発した自己犠牲的な代償行為に過ぎないのに、僕はいつしか安田に心を許し親しく口を利く間柄にまでなっていた。

 欺瞞。
 偽善。

 僕を贔屓するのが安田の贖罪だった。
 醜悪な真実が露見し、濁りに濁った感情が猛烈な勢いで噴き上げる。 
 
 「直、君の父親は」
 「屑だ」
 安田の顔が強張る。

 地平線に夕日が没する。
 全方位に撒き散らされた光線が萎み、不吉な闇が冷え冷えとあたりを覆い始める。

 敵愾心を冷やして固めた態度でもって安田と向き合い、落ち着き払った声音を紡ぐ。

 「精子だけ提供して黙殺を決め込んだ男など屑以外の何者でもない。十五年前、僕のもととなる精子を提供した男はただそれだけの存在だ。決して父親などと偉そうに名乗れる存在ではない、その資格もなければ権利もない。誰だか知らない男は、顔も名前も知らない無責任なその男は、採取した精子を提供したあとは一切僕に関与せず、産まれた嬰児が鍵屋崎夫妻に引き渡される時もなんら異を唱えなかった。実験に参加していたのならあの二人がどんな人間かよくわかっていたはずだ、わかっていながら僕を引き渡した、血を分けた息子が人の親にふさわしくない人間に物のように引き渡されるのを黙って見ていたんだ」

 安田の顔色が変わりゆくのを捉える。
 饒舌に捲くし立てる僕に異論を挟む余地もなく押し黙る安田、瘡蓋をむりやり剥がされ傷口を抉られる痛みに悲愴に顔が歪む。
 痛みに耐える安田を冷ややかに観察、容赦なくその傷口に指を突っ込み、ささくれた骨の欠片をかきだしにかかる。

 「実に最低の人間だ。鍵屋崎夫妻よりまだ劣る。彼らは人格にこそ大いに問題あるが、衣食住に不自由しない環境を与えてくれた。遺伝上の父親はなにをした?箸の持ち方を教えてくれたか、ボタンのとめ方を教えてくれたか、ごく初歩的な足し算を教えてくれたか、掛け算を教えてくれたか、因数分解を教えてくれたか?転んだ時に助け起こしてくれたか、本を読むときは栞を挟むと教えてくれたか?なにかひとつでもいい、どうでもいいことを教えてくれたか?
 鍵屋崎優と由香利の方がまだマシだ、少なくとも彼らは知識を授けてくれた、最高の知識と教養を一杯に詰め込んでくれた。精子提供者は何をもって父親を名乗る、ただ精子を提供しただけの男が父親を称しいばる理由などない、勘違いも甚だしい。それとも僕が、この僕が、ただ精子を提供しただけの男を『父さん』と呼んで理想化するほど不幸な境遇だったと言うのか?生憎僕はそれほど不幸じゃない、恵がいたからな」

 「彼には君と接触できない理由があったんだ。実験の口外は禁止されていた、君との接触は情緒面に与える影響から固く禁じられていた」
 「精子提供者を父親と思った事は一度もない、顔も名前も知らない他人に親子の情を抱けるはずがない」
 「彼は君を大切に思っていた、」
 二人称に反発を抱き、卑屈な笑みを漏らす。
 「見殺しにしたのに?」
 眼鏡の奥の目が驚愕に見開かれる。
 表情を喪失し愕然と立ち尽くす安田に向かい、淡々と否定の言葉を重ねる。
 「父親、か。さぞかしくだらない人間だったんだろうな。精子を提供しておきながら産まれた子をモルモットと見なし他人の手に渡るのを承諾するような男がまともなはずがない、さぞかし倫理の狂った男だったんだろうな。鍵屋崎夫妻の同類というわけだ。そんな男が僕の父親だと思うとぞっとする、反吐が出るの定義を身を持って知れ。いや、鍵屋崎夫妻よりもっとずっとたちが悪い。おそらくその男は十五年間僕の事を忘れていたのだ、実験の記憶を抹消しようと自らに言い聞かせ半ば成功していたに違いない。おそらく精子提供者は実験の関与と引き換えに将来を約束され、順調に出世を続けていたはずだ。精子の売却と引き換えに出世するなど柵の中で飼い殺しにされる種馬の生き様じゃないか!!」

 感情が爆発する。
 よろめき距離をとり薙ぎ払い、こちらに歩み寄りかけた安田を拒む。

 「そんな男、僕の父親にはふさわしくない」

 死ねばいいのだ。
 そんな男、死んでしまえばいいのだ。
 罪悪感に苦しみ抜いて死ねばいい。

 「顔も見たくない」

 今さら名乗り出るな。迷惑だ。不快でしかない。
 込み上げる吐き気を堪え、どす黒い憎悪に隈取られた呪詛を搾り出す。

 「そんな男、天才の父親にはふさわしくない。父親とも呼びたくない。呼べば舌が腐る」

 重苦しい沈黙の末、麻痺した舌を叱咤してのろのろと安田が話し出す。

 「……その通りだ。彼は君が言うとおりの人間だ」

 礫まじりの風が容赦なく吹き付け髪を乱す。
 なびく前髪を片手で押さえ、おもてを伏せる。

 「彼は最低の人間だ。才能を驕り、平然と他者を見下して憚らなかった。選ばれた人間であると自負し、周囲の人間を嘲り蔑み、友達といえば一人しかいなかった。父親を名乗る資格がない父親だ。なにもかも君の言う通りだ、鍵屋崎。彼はくずだ。精子を提供した後は君の事を極力忘れるように努め、十五年かけて半ば成功した。自分が関わった実験を忘れ、良心の痛みも忘れ、君の存在すら忘れようとしていた」

 吹き散らされた前髪の間から、虚ろな眼差しを投げる。

 「だが、できなかった」

 額からそっと手をどける。
 風に蹂躙されたオールバックは跡形なく乱れ、癖のない前髪が風圧を孕んで額にかかる。

 ああ。
 どうして気付かなかったんだろう。

 前髪を下ろした安田は、僕と酷似していた。

 「それだけはできなかった、どうしても」

 安田はもう額を覆いもしない。 
 僕との酷似を隠しもせず素顔を曝け出し、冷たさを増す風に吹かれている。

 「どうしても君を忘れられなかった。ずっと、ずっと。十五年間ずっと忘れられなかった」
 「モルモットの行く末を懸念したのか」

 僕は平静だ。
 麻痺した心は何も感じない。
 悲哀も絶望も、安田が抱え込んだ十五年間の重みさえも、今の僕にはまるで無意味な事柄に感じられる。
 昨日房でサムライを首を絞めたとき、
 サムライを殺す一歩手前まで行った時、僕の一部は死んでしまったのだ。 
 怒りや哀しみを司る部位が麻痺し、上手く感情表現ができなくなってしまったのだ。

 もうどうでもいい。
 自暴自棄な気分に陥り、のろのろと眼鏡をかけ直す。

 「その男に伝えてくれ。貴様など父親ではないと」

 そこで言葉を切り、改めて安田と見つめ合う。

 「僕の前に現れるな。僕の父親はこの手で殺した鍵屋崎優ただ一人。ただ精子を提供しただけの男が鍵屋崎優より上であるかのような勘違いをするな。鍵屋崎優は救いようない俗物だが、精子を提供し養育を放棄した男よりよほど父親を称すにふさわしい」

 安田は一言も弁解せず唇を噛む。
 直した眼鏡越しに安田を凝視、終止符を打つ。

 「僕の父さんは鍵屋崎優ただ一人だ」

 空気に亀裂が生じる。
 その瞬間安田の顔に走ったのは、はかりしれず深い絶望。
 
 逆光の作用で安田の姿が翳る。

 反論を待たず踵を返し、大股に斜面をおりる。
 安田が追いかけてくるかと警戒したが杞憂だった。
 麓から頂上を仰げば、安田は孤独が人の形をとったように立ち尽くしたまま、その姿は刻々と忍び寄る夕闇に呑まれ始めていた。
 夕闇に溶け込み始めた安田をその場に残し、急ぎ足でバス停に戻る。
 足早に立ち去る僕に触手を伸ばし闇が迫り来る。
 夕日は完全に沈んだ。
 あとにはただ、闇があるばかり。
 足が棒のようだ。
 蓄積された疲労が一気にのしかかってくる。  
 
 『直、君の父親は』
 安田の切迫した顔を思い出す。
 何か言いかけ口を閉じ、逡巡する様子を思い返す。
 
 僕を助け出せない父親などいらない。
 恵を救えない父親などいらない。
 
 他人を頼ろうとした僕が愚かだった。
 安田もサムライも信用できない。
 恵を守れるのは世界にただひとり、僕だけだ。

 ステップに足をかけバスに乗り込む。
 吊り革に掴まり振動に耐える。
 車内に充満する饐えた体臭も猥雑な騒がしさも気にならなかった。

 安田は僕を疑っている。
 サムライも僕を疑っている。
 ふたりとも斉藤を殺したのは僕だと思っている。

 房には帰れない。
 帰れば必然サムライと顔を合わせる。
 サムライは僕の顔色から異変を察し、なにがあったかを執拗に問い詰める。  

 話せるわけがない。

 安田が精子提供者かもしれないと、
 僕の父親かもしれないと、
 そんな事、話せるわけがない。

 口に出して確認するのが怖い。
 音を付与した言葉が真実に迫るのが怖い。 

 まわりは敵ばかりだ。だれも信用できない。安田さえ信用できない。
 あんな重大な秘密を一年以上も隠し続けた男を信用できるわけがない。
 安田が一介の囚人でしかない僕に便宜を図り続けたのが公私混同の極みに過ぎないと判明した今、彼に縋るのはプライドが許さない。

 頭が混乱する。
 心が麻痺する。

 気分は悪い。最悪だ。二本足で立つだけで気力体力の限界だ。 
 思考が空転しまともにものを考えられない。
 昨夜の出来事と最前の告白の衝撃が、抗し難い荒々しさでもって僕の心を現実から引き剥がしてしまったのだ。  
 バスが止まったのにも気付かなかった。
 スロープをくぐったバスが地下停留場に停車、前方のドアから一斉に囚人が吐き出される。
 僕は最後まで車内に居残り、大挙して出口に殺到する囚人を見守っていた。
 最後の一人がステップを飛び降りて駆け去り、バスが回送の準備に入り始める頃、吊り革から手を引き剥がして前方へ進む。
 僕の顔を見た運転手が当惑する。
 「まだ残ってたのか。もうみんな降りちまったぜ、夕飯に間に合わねーんじゃねーか」
 「家畜の飼料は口に合わない」
 運転手が処置なしと首を振る。
 ステップを下り、コンクリ床を踏む。
 排気音とともにドアが閉まり、回送表示を出したバスが動き出す。
 ラッシュ時は混み合う地下停留場も今の時間帯は閑散としている。
 どうやら今下りたのが最終便らしい。
 囚人は殆ど棟に帰り、そろそろ食堂に向かい始める時刻。
 広大な地下停留場を見回し、足を引きずるようにして歩き始める。
 東棟には帰りたくない。サムライがいる房には帰りたくない。
 だが、そこ以外に行き場がない。
 一歩進むごとに忌避の念が募り、足が鈍る。
 サムライの顔を見るのが苦痛だ。
 五指を開き掌を見下ろす。 
 この手が昨日した事を思い出し、愕然とする。
 昨夜、熟睡中のサムライの首を絞めた。
 手にはまだ生々しい感触が残っている。
 解剖学的な正確さで気道を圧迫、苦痛に喘ぐサムライの青黒い顔が鮮明に蘇り、忌まわしい感触を打ち消そうと痛いほどに指を握りこむ。

 殺したくない。
 殺したくない。
 なのに何故、内から溢れ出る衝動を抑制できない?

 「ぶざまだな、鍵屋崎直。殺意を抑制できず、何が天才だ」
 このままではきっと、サムライを殺してしまう。
 彼が手に入らない苦しみに負け、殺してしまう。
  
 等間隔に照明が点る停留場を歩き、上の空で東棟へと向かっていた僕の視界が突如暗くなる。
 「!?なっ、」
 「しーっ」
 脇から伸びた手に目隠しされたと悟るより早く、強引な力でもって非常口の物陰に引きずり込まれる。
 目隠しがはずされる。
 壁に背中を預け呼吸を整える僕に被さっていたのは、胡散臭い笑みを湛えた黒い肌の囚人……ホセだ。
 牛乳瓶底眼鏡の奥の眼に稚気の光を閃かせたホセは、僕が見ている前で思わぬ行動をとる。
 壁に背中を預け警戒する僕の前に跪き、深々と頭を垂れる。
 フードを纏っていればさぞかし様になるだろう隠者の振り付けで片膝付き、瓶底眼鏡の奥の目に底知れず不気味な光を湛え、うっそりと口を開く。
 「突然のご無礼をばお許しください。暴君の命にて、南の隠者じきじきにお迎えに上がりました」
 「レイジの?」
 真意の読めない笑みを口元に湛えホセが首肯する。
 骨まで噛み砕く貪欲な獣の眼光に気圧されるも、僕は薄々この時を予期し、心の底では待ち望んでさえいた。
 十字の烙印を刻まれた背中が疼く。
 シャワーで跡形なく洗い流された十字架が、復活の熱を帯びて肌を焼く。
 敏感になった背中が上着と擦れ、淫蕩な熱を孕んだむず痒い感覚を伝えてくる。
 『忘れるなよキーストア、今日からお前は俺の奴隷だ』
 暴君が呼んでいる。
 僕をめちゃくちゃに嬲って壊すために、欲望の捌け口にするために、わざわざ隠者をさしむけて。
 そうだ。
 僕が欲しい熱は、彼が与えてくれる。
 壊れるほどにくるおしい熱を与え、何も考えられないほどに激しい快楽を注ぎ込んでくれる。
 サムライが求めに応じないなら
 「…………いいだろう」
 応じてくれる人間に身を委ねるまでだ。
 サムライを巻き込み破滅するくらいなら、僕一人で破滅したほうがましだ。
 暴君ならきっと、僕の望むものを与えてくれる。
 倒錯した快楽で、身も心も焼き滅ぼしてくれる。
 目を閉じて瞼裏の闇に自我を没し、完全なる冷静さを保って瞼を上げる。
 間近に迫ったホセが浮かべる謎めく笑みを睨み、不敵に宣言。

 「暴君のもとに案内しろ」

 今なら何でも言う事を聞いてやるぞ、暴君。
 彼に手をかける前に、どうか僕を殺してくれ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050217004947 | 編集

 視界はさすがに暗い。
 照明の大半は割れている。
 自然に割れるはずはないから誰かが割ったのだろう。
 抜歯のように破壊された照明が、閉塞した闇に荒廃を播種する。
 わずかに生き残った照明が放つ青白く病的な冷光はあまりに儚く、またそれぞれの間隔が離れているために無辺の闇の排斥には至らず、異端のカタコンベに通じる廃墟の回廊じみた景観を際立たせる。
 梯子を下りてから数十分ひたずら歩き続ける。 
 吐く息が白く溶ける。寒い。酷寒と言っていい。
 上着越しに二の腕を抱き擦って温めるもむなしい抵抗でしかない。
 傍らには常に水が流れている。通路に沿うようにして設けられた水路はいつはてるともなく続き、あるいは道の分岐に伴い二股に、または三叉に別れ、見通しが利かない闇の底へと轟々と流れ込んでいく。
 闇の隧道で先頭に立つのはホセ。
 ホセは僕に五歩先行し、心許ない照明を頼りに闇の中を闊達な足取りで進んでいく。
 予め目的地がわかっているような断固たる足取りは追尾者の不安を払拭し余りある自信に満ち溢れている。
 だが、僕はといえば内から懇々と湧き上がる猜疑心を抑え切れない。自然、ホセの背中に注ぐ眼差しは懐疑的なものとなる。 
 ホセは目的地に関し何も告げない。
 僕はあえて詮索せず、唯々諾々として従った。
 ホセは密命を負った使者にして秘密を孕む間者だった。
 だが、構わなかった。
 僕がどうなろうがもう構わなかった。
 もとから房に帰りたくないと鈍っていた足はホセの先導に従って即座に方向転換し、自暴自棄な開き直りを見せ、隠者があらかじめ目星を付けていたらしいマンホールへ直行した。
 隠者に続き暗渠に下った。
 掴んだ梯子はひやりと冷たく、皮膚が癒着するような恐怖があった。
 酷寒の大気に冷やされた梯子にはびっしりと露が付着し、足場の悪さに拍車をかけていた。
 一段一段、細心の注意を払い梯子を下りた。
 スニーカーの靴裏に横棒を噛ませ、肩越しに振り返り遥か下の地面を見、目測で距離を割り出しては一喜一憂、表面上は努めて平静を保ちながらも多大なる心理的圧迫を感じていた。
 過剰なストレスに晒されながらも梯子を下りきり、固い地面を踏んだ時は心底安堵した。
 とっくに下りて僕を待っていたホセは一言、「高所恐怖症ですか?」と笑った。
 余計なお世話だ。

 隠者の道案内で下水道を歩く。
 僕達以外に人影はなく、異常に静まり返っている。非日常の静けさだ。
 ブルーワークの囚人の姿も見当たらなかった。
 大半の囚人は帰棟したとはいえ、残業している囚人が一人もいないのに不審を抱く。

 「………やけに静かだな」
 数十分ぶりに口を開く。
 地下では声が反響する。
 そんなに大声を出したつもりはないのに、大気の震えが波紋となって鼓膜を打った。
 ホセは歩みを止めずのんびり応じる。
 「ブルーワークの囚人全員に帰棟命令が出ました。死体発見現場の惨状の血なまぐささが褪せないうちから人体収集に励んでいたのですが、どうやら上の意向が代わった模様です。一般の囚人は下水道から退去を命じられ、ここは一時的に封鎖されている状態です」
 「本格的に証拠隠滅に乗り出したか」
 皮肉げな口調でひとりごちてからふと矛盾に気付く。
 「待てよ、おかしいじゃないか。それなら何故君は、いや、僕達は平然とここを歩いている?マンホールも封鎖されてなかったし……」
 「開放されているのはあれひとつだけです。事前に細工しておいたのです。緊急用の出入り口は確保しておかねばね」
 抜け目なさにほとほと感心する。
 つまるところここは現在、完全な密室というわけだ。
 ブルーワークの囚人は早々に退却し、今は僕達しかいない。
 僕とホセと、長大な下水道のどこかに潜伏している暴君以外は。
 にわかに体を包む闇が重量と粘り気を増す。
 それ自体意志を持った生き物のようにしつこく肌に纏わり付く。
 払っても払っても払いきらぬ暗黒の触手を伸ばし足に絡み歩みを妨害、体中の穴という穴、口は勿論のこと自閉の不可能な鼻腔耳孔のたぐい、全身の毛穴ひとつひとつに至るまで流動する闇が忍び込んでくる。
 
 とっぷりと闇に溺れる。
 本能が咆哮する。
 原始的な恐怖が理性を蝕む。

 体が、重い。
 体に纏わり付く闇が重たい。
 何重にも手足に絡み付いて粘着する闇が呼吸によって取り込まれ、徐徐に体内にまで浸透してくる。 
 わざと靴音を立てる。
 カツン、カツン……
 尖った靴音が曇りかけた理性を呼び覚ます。
 闇の腑に呑み込まれる不安を解消するため、とにかく声さえ出していれば闇に埋没してないと確認できる、自分の輪郭が闇と融合し自我が消滅してないと確認できると一縷の希望に縋り、現時点における最大の懸念事項を述べる。
 「どこに向かってるんだ?」
 ずっと気がかりだった事を聞く。 
 質問に、しかし返されたのは嘲笑。
 「ついてくればおのずとわかります。我輩お楽しみは最後までとっておく人種ですので」
 のらくりくらりはぐらかすように言い、答えをぼかす。
 余計に不安が募り、猜疑心がかきたてられる。
 ホセはいまだ目的地を明かさない。
 ということは、まだ遠いのか?
 体感時間では長いが、複雑に交差し分岐し際限なく増殖する道が遠近感を狂わせるせいで、実はそんなに距離が稼げてないのかもしれない。
 同じ所をぐるぐる回っているだけ?
 迷宮にでも迷い込んだような錯覚が襲う。
 等間隔に並んだ照明、今にもおちてきそうに低い天井、傍らに沿う水路の単調な流れ。
 変化に乏しい光景が延々と続く。
 平坦な通路が延々と続く。
 頭がおかしくなりそうだ。
 一体僕はどこにいるんだ?
 現在地が全く把握できない。
 あるいはそれがホセの作戦か?迷子にさせる魂胆なのか?
 帰り道をわからなくさせるために、故意に迂遠なルートをとっているのだろうか。
 疑いだせばきりがない、相手は東京プリズン一の策士だ。
 油断せぬよう気を引き締め、緊張で乾いた唇を湿らし、再び口を開く。
 「ホセ」
 「なんでしょう」
 「君の目的はなんだ」
 単刀直入核心をつくも、動揺を引き出すには至らない。
 代わりに返ってきたのは、愉快げな笑い声。
 「なぜ笑う?」
 馬鹿にされてると直感、筆舌尽くしがたく不愉快になる。
 低めた声で追及すれば、振り向きもせず、しかし笑いを堪えているのは前のめりの肩の不規則な痙攣で一目瞭然のホセが言う。

 闇そのものが笑っているようだ。
 視界が利かないせいで、笑いが大気の震えとして伝わってくる。
 体を覆った皮膚が闇の震えに呼応する。
 音は振動だ。高低差のある波長だ。
 視覚を奪われた分敏感になった皮膚が、大気を媒介にした音の振動を体感する。
 不可視の手触りの音の愛撫。

 「これは失敬。なんと申しますか、IQ180の頭脳を誇る天才少年の割には率直な聞き方をするものだと感心した次第です」
 「能力が上の者が相手のレベルに合わせてやるのが円滑な人間関係の秘訣だ。普段なら低脳のレベルまで質問の難度を落としたりはしないが、僕としてもこのよくわからない事態に困惑している。いい加減目的地もわからず連れまわされるのはうんざりだ。それに」
 ホセの背に鋭い視線を向ける。
 「同行こそしたが、君の事は信用できない。謎が多すぎる。例の図書室での邂逅以来、僕は君を警戒している。災厄を呼ぶ者として」
 「災厄を呼ぶ者ですか。恐れ多いですね。我輩はただの隠者、闇に紛れて慎ましやかに生きるシャイな囚人ですよ。特徴といえばぺったり撫で付けた七三分けとださいと評判の瓶底眼鏡、左手薬指に嵌めた指輪だけ。なんら面白みのない平凡な男です。取り得といえばワイフに捧げる愛の深さくらいです」
 「平凡な男がこんな場所にいるか?」
 おもわず皮肉な笑みが漏れる。
 「さもありなん。我輩は平凡な範疇から外れるようです」
 ホセが同調する。
 ホセの顔にもきっと僕と同じ冷笑が浮かんでいることだろう……あるいは自嘲の笑みか。
 「髪も笑みもフェイクだ。敵を油断させるための陳腐な小細工にすぎない。何より許せないのはその眼鏡だ。眼鏡は第一に実用性が備わってこそ機能と形状の調和が至高の芸術性を生み出す画期的発明になり得るのに、目が悪くないのに眼鏡をかけるなどといった本末転倒な行為はそもそも眼鏡を愚弄している。単に眼鏡を利用しているにすぎない、日常生活に不可欠な補助具として敬意を払われるべき眼鏡に対する最大の侮辱だ」
 「眼鏡は人類が利用するために生み出したのでは?ならば我輩がこうしてかけるのも理に叶っているでしょうに」
 「却下。眼鏡を詐欺の手段に用いるなど外道の所業だ、真実それ以外のなにものでもない唾棄すべき行為だ。度の入ってない眼鏡など底の抜けたコップと同じだ。度の入ってない眼鏡をかけていかにもうさんくさいセールスマンを装って人を騙すなど、騙される人間は単純に馬鹿だとしても、眼鏡に対し申し訳ないとは思わないのか」
 弁舌に熱が入る。
 度の入ってない眼鏡などそもそも眼鏡の在り方に反する、目が悪くないのに眼鏡をかけるといったホセの倒錯は視力補助の道具ーそれも人類が叡智を結集し生み出せる限りの洗練の極みの道具ーとして広く出回った眼鏡に大いなる誤解を付与する。

 「君には眼鏡の発祥と歴史から教える必要があるな。眼鏡の深淵にふれて蒙をひらけ。歴史の真実を知って眼鏡に対する見方を改めろ、単なる補助具以上の必需品として敬意を払え。眼鏡の発明者や発明の年代ははっきりとしないが、1306年2月23日水曜日朝にサンタ・マリア・ノヴェーラのフィレンツェ教会において行われた説教の中で、修道士フラ・ジョルダーノ・ディ・リヴァルトが 「この20年以内の発明である」とふれているから少なくとも13世紀末のイタリアでは製作されていたことが分かる。当初の眼鏡はもっぱら老眼の矯正に用いられた。中世において眼鏡は知識と教養の象徴であり聖人の肖像には発明以前の人物であっても眼鏡が描き加えられ……」

 突然ホセが振り向く。
 興奮に浮かされ熱っぽく饒舌に捲くし立てていた僕と向き合い、不敵な笑みをこしらえる。

 「よろしい、眼鏡に対する君の愛は本物だと認めましょう。しかしワイフに対する我輩の愛も負けませんよ?」
 牙を剥いた野獣に類する凄まじい威圧感が放たれ、絶句。
 ……眼鏡の素晴らしさを憑かれたように語る僕に、どうやら対抗心を刺激されたらしい。
 深く深く息を吸い込んだホセが、夢見るように潤んだ瞳を眼鏡越しの虚空に馳せ、陶酔しきった素振りで胸に手をおく。
 次の瞬間、凱旋の銅鑼の音に似た大音声が爆発。
 「おお麗しのカルメン情熱の化身、世の男を破滅に導くファム・ファタール、凄艶なる美貌と妖艶なる媚態にて世の男を虜にする魔性の女!我が最愛のワイフに比べたら眼鏡の美など塵芥に等しい、ひとたびカルメンが微笑めば世界が官能に震え涕涙を流し宇宙は爆発、カルメンの瞳には千の星屑が散り瞬きその輝きときたら千カラットのダイヤをもしのぐ神秘の賜物!奇跡の衣を纏いて具現した偉大なる宇宙の意志そのもの、それがカルメン、それが我がとこしえのワイフ、生血滴る新鮮な心臓を供物に求める無慈悲な夜の女王!!」
 暴力的な大音量がびりびり空気を震わし破れんばかりに鼓膜を打つ。  
 咄嗟に耳を塞ぐ。
 ホセは感極まった様子で両手を組み、おそらくは恋人の面影に熱烈な祈りを捧げる。
 一点の曇りもない忠誠に裏打ちされた堂々たる宣言。
 恋人に死ねと命じられれば即座に死ぬ、火の中に飛び込めと命じられれば即座に火だるまになってみせると、悪魔に魂を売り渡しぎらぎらぎらつく目が雄弁に物語る。
 「何か文句がおありですか?おありなら聞きますが」
 宣言の余韻が消え入り静寂が戻る頃、うってかわって落ち着き払った声音でホセが促す。憑き物がおちたような変わりぶりで、その顔は慈愛ふかい笑みさえ浮かべている……
 が、油断はできない。
 ホセを刺激するのは控えるのが無難だと結論を下し、鼻梁にずりおちた眼鏡を直す。
 「なるほど、君の愛の深さもなかなかのものだな」
 空々しく同調してみせれば、ホセが深く深く首肯する。
 カルメンに対する愛情はもはや崇敬の域に達しているらしく、眼鏡越しの双眸は恍惚と潤み、顔全体がだらしなく笑み崩れる。
 「ワイフは我輩の命です。ワイフの為なら世界だって手に入れてみせます」
 あながち冗談に聞こえない口ぶりで断言、何事もなかったように歩を再開。ため息をつきそれに従う。
 歩きながら周囲を仔細に観察、壁の亀裂や照明の位置や音の響き方の違いなど僅かな変化を把握、道順を頭に叩き込む。
 道順?
 馬鹿な。愚かな発想に顔が歪む。
 道順を覚えてどうなるんだ、いまさら。役に立つのか、それが?
 いまさら地上に帰る気などないというのに、いつのまにか習性として帰り道をさぐっていた。
 一年と数ヶ月間の間に幾多もの危機に直面し修羅場をくぐりぬけ覚醒した本能が、自覚なきまま潜在していた生きたいという意志が、ここに来て無意識的に帰り道を模索し始めたのだ。

 未練があるのか、僕は。
 執着を捨てきれないのか。

 かぶりを振って記憶の残像を振り切る。
 歩いている間も離れなかったサムライの面影を意識から閉め出しにかかる。

 サムライは今頃どうしている?
 僕がいない房で、僕の帰りを待っているのか?
 帰りの遅い僕を心配し、落ち着きなく房内を歩き回っているのだろうか。腕を組みベッドに腰掛けて瞑想に耽っているのだろうか。図書室に捜しに行った?展望台を覗きに行った?否、そんなところに僕はいない。僕がいるのは遥か地下、彼の足元、サムライが思いもよらぬ場所だ。 

 「馬鹿な。期待してるのか、僕は」
 迎えに来てくれるかもしれないと思っているのか?
 僕の不在がサムライから平常心を奪い僕をさがしに地下停留場にやってこないかと、地下を移動する僕を追ってきはしないかと、浅ましい期待を抱いているのか?
 くだらない。
 何の為にここに来たんだ、僕は。
 サムライと顔を合わせたくないからだ。会えばまた、殺そうとするからだ。

 サムライとは一緒にいられない。
 いつか僕は、彼を殺してしまう。

 僕を抱いてくれない彼を憎み、呪い、殺意を抱き、手に入らないならいっそと殺してしまう。
 サムライの首に残る青黒い痣を思い出す。はっきりと僕の指形に浮いた鬱血の痣。
 サムライは何も、何も言わなかった。
 洗顔時に当然鏡に映ったはずなのに、これ以上なくはっきりとした殺人未遂の証拠があるのに、あえて見てみぬふりをした。
 僕を慮って見ないふりをした。
 何も尋ねなかった。
 詰問も追及もせず首の痣に関してはそれきり忘れた素振りで、淡々といつもどおりに行動した。何故だ?気付いてないはずがない。昨夜サムライは覚醒した。もう少し力を込めれば息絶えるその寸前に目を開けてしっかりと僕を認めたじゃないか、この殺人者の顔を、手を、認めたじゃないか。

 サムライははっきり見たはずだ。
 冷静沈着な無表情を、自分の首を力の限り締め付ける手を、闇を背にのしかかった僕を。

 何故何も言わない?
 何故問い詰めたい?
 俺を殺そうとしたのかと、声を荒げて罵倒しない?
 何故そうまで実直に、君を殺そうとした僕を許そうとする?

 房に帰る勇気はない。東棟には帰れない。
 僕の居場所はどこにもない。
 この広い東京プリズンのどこにも、ない。
 それは今や厳然たる事実だ。
 僕は僕の孤独をひしひし痛感する。
 救い難い孤独。救いを欲していない故に救われない孤独。

 サムライは僕を拒絶し、僕はサムライを拒絶する。
 互いに拒絶しあうしかない不毛な関係。
 そんなものは要らない。
 そんなものはこちらから捨ててやる、断ち切ってやる。

 共食いしてもますます飢えが深まるばかりだと気付いたのだ。
 僕は決して満たされない、サムライは決して癒されない。孤独を共食いする関係ほど不毛なものはない。サムライの優しさは僕を満たさず傷付けるばかり、僕の誘いはサムライを癒せず過去の傷を抉るばかり。

 サムライは優しいから僕を抱けない。
 その優しさは、残酷だ。僕にとっての生殺しの責め苦だ。 
 互いに得るものがなにもないのに一緒に居続けるのは不毛だ。
 需要と供給は成立せず、互いに消耗するだけだ。 
 ならばいっそ、僕のほうから彼を見限る。
 彼を見限り、暴君のもとへ行く。

 「ここです」
 思考を妨げたのはホセの呟き。
 「!」
 反射的に顔を上げる。
 ホセの肩越しに目の当たりにしたのは、何の変哲もない老朽化した壁。
 「ただの壁じゃないか」
 声に非難の響きが混じる。ホセが肩を竦める。
 ホセを押しのけて前に出、仔細に壁の検分を始める。
 ただの壁?いや、違う。闇に切れ目を入れる僅かな明かりを頼りに目を凝らす。
 青白い光が怪しく照らす壁に、おぼろげな線が浮かび上がる。
 「………ただの壁じゃない」
 直接壁に触れようとしてためらう。
 目の前に絶妙のタイミングでハンカチがさしだされる。
 「どうぞ。お貸しします」
 紳士的な物腰でホセが促す。
 隠者から物を借りるのは癪だ。
 不愉快に払いのけようとするも、問答無用で握らされ憮然とするしかない。
 仕方なくホセに持たされたハンカチで手を包み、壁のあちこちを叩いて反応を探る。
 何か変だ。
 違和感が脳の奥で膨らむ。
 叩いた手に返る反応が他の部分と明らかに趣を異にする。
 壁向こうの空洞の存在を感じとる。
 「教えろ隠者、この向こうには何がある」
 中腰の姿勢でホセを振り返る。ホセが一歩前に出、おもむろにー

 『Hola!』
 声を発する。
 メキシコ訛りのあるスペイン語に、間髪いれず壁の向こうから応答が返る。
 『Amigos』 

 オラ。
 アミーゴーズ。
 「ヘイ」「ようこそ我が友よ」の応酬の一瞬後、驚天動地の現象が発生。
 何かを蹴り付ける音とともに目の前の壁が石を削る音たて反転、矩形の空洞が生まれる。
 最前まで壁であった場所が壁でなくなり、今はぽっかりと口を開けている。暗渠だ。
 中から漏れ出す明かりが目を射り、反射的に瞼を閉ざす。
 慎重に薄目を開ける。壁の向こうには狭い部屋があった。
 今しも切り込みの入った壁を蹴り開けたのは、ランプの光を受けて横顔に不吉な陰影を刻んだ青年。
 闇の中で焦げ茶に見えた髪が、ランプの光を受けて黄金にきらめきわたる。
 干し藁の前髪の奥、黒革の眼帯で覆われた左目と硝子じみた透明度の右目が外気に晒される。
 ランプの光がちらつき愛でる肌は野生的な褐色、絶世の美形と評すべき顔にはあるかなしかの皮肉な笑みが浮かんでいる。
 レイジ。
 「この合言葉やめねー?ださいよ」
 暴君。 
 「すぐばれる日本語と英語を避けてひねってみたのですが、不評のようで残念です」
 ホセが中に入る。暴君はこれを通す。
 一瞬ためらうも、意を決し後へ続く。
 横を通過する際に視線を感じた。 
 横顔に注がれる焼け付くような視線の主は、暴君。
 欲望の火照りを孕んだ視線で僕の頬を嬲り、腹をすかせた豹のように上唇を舐める表情は、煌々たるランプの光を受けておそろしく艶っぽい。
 背後で鈍い音たて扉が閉じる。
 「……隠し部屋があったなんて知らなかった」
 淡い驚きとともに素朴な感想を述べる。
 「この下水道が造られた当時から存在していた部屋です。当時は資材置き場だったようですね。地上から搬入したセメントを蓄える倉庫だったんでしょう。証拠に、ほら」
 ホセが顎をしゃくったほうを見やる。
 部屋の片隅に半ば崩れかかったセメント袋が乱雑に積み上げられていた。
 周囲には石灰のたぐいが散乱している。
 そういえば空気がいがらっぽい。
 おもわず顔を顰め口を覆う。
 そんな僕には構わずどこか得意げな口調でホセが続ける。
 「地上の人間に知られていないだけで似たような部屋は無数に存在します。照明点検用に造られた部屋、水質調査用の部屋、単純な設計ミスで出来た掘削の副産物の部屋……なにしろ大工事でしたからね、用途に応じて使い分けていたわけです。眉唾ですが、なにせこの下水道はとほうもなく広い。どうかすると東京プリズンの敷地に倍する長大さです。最前線の作業員はあまりに遠くに行き過ぎたため地上に帰ることが出来ず、これらの小部屋に寝袋を持ち込み仮眠した逸話があるくらいです。本当かどうか知りませんがね」
 「詳しいな」
 「事情通ですから」
 わざとらしく眼鏡の弦を押し上げる。
 知識量を誇示する事で優越感を覚えているらしく、ホセの顔が弛む。
 物珍しさに駆られ注意深く周囲を見回す。
 下水道にはリョウに呼び出されて潜った事があったが、こんな部屋が存在するなどついぞ知らなかった。
 なるほど、ホセの説明は説得力がある。
 東京プリズン地下の下水道がどれほど無縫な広がりを見せているか、迷宮の如き複雑さを内包しているか、ここに来るまでの道のりで十分わかった。
 作業員の中に遭難者がでたという笑い話が笑い話にならないほど広いのだ。
 最前線の作業員がこれらの部屋で寝袋に包まり夜を明かしたとしてもむべなるかな、だ。
 住環境はお世辞にも良いとはいえないが、一日二日泊まるくらいなら何とか我慢できないことはない……最も僕はごめんだが。
 「当時の作業員は寝ているあいだにネズミに齧られたんじゃないか?」
 「小指を噛み千切られた作業員もいたそうです」
 「笑えないな」
 床に直接ランプが置かれている。
 この部屋唯一の光源だ。
 しかし、明るい。外と比べてもまだ明るい。部屋の全貌を暴くに十分な光量がある。
 ランプの光が部屋に行き渡る。コンクリートの天井と壁と床、隅に積み上げられたセメント袋、あたりに散らばった白い石灰……
 「………な、」
 そして、気付く。
 僕たち以外に人がいる。予期せぬ四番目の人物が。
 部屋の隅、もっともランプから遠い場所に蹲っていたせいで最初は気付かなかった。
 背格好からして成人男性。
 ぐったりと身を丸めるようにして縮こまった姿勢からは一切の覇気が感じられない。
 「……死んでいるのか?」
 「一応生きてはいますが、少々手荒い処置をしてしまったのでね」
 ホセがうっそり笑う。背筋がおぞけだつような微笑。
 部屋の隅、セメント袋を積んだ陰に蹲ったその人物はランプの光に艶やかに映える銀髪をしていた。着ている物は青い軍服だ。

 脳裏で数日前の衝撃が爆ぜる。
 突如轟音を響かせ空から下りきたヘリコプター、中庭に着陸したヘリから降りた軍人の先頭にいた人物……

 「サーシャの兄が、なんでこんなところにいるんだ?」
 「おや、ご存知でしたか」
 「当たり前だ、東京プリズン中に噂が広まってるぞ。ロシアから派遣された軍人の一人がサーシャの実兄だと知らない者はいない。そんなことはどうでもいい、何故彼がここにいるんだ?あんなふうにぐったりしてるんだ?ここに呼び出されたのは僕だけじゃないのか」
 「妬くなよキーストア」
 「妬いてない、疑ってるんだ!!」
 ヒステリックに声が割れる。なれなれしく肩に置かれた手を振り払う。
 いつのまにかとなりにレイジがいた。
 僕の動転憔悴ぶりをさも愉快げに目を細め見物し、いたぶるように暴君が囁く。
 「サービスだよ」
 「何?」
 「お楽しみの前にゲリラ仕込みの拷問ショーを見せてやろうと思ってさ。腐ってもダチだろ?俺たち」
 器用に片目を瞑る。元のレイジと酷似したしぐさに嫌悪を禁じえない。
 頭が混乱する。状況がさっぱり掴めず焦燥が募る。
 「何を企んでるんだ、ホセ。彼はロシアの軍人だ。ロシアの軍人を一囚人が拉致などしたら当然騒ぎになる、所長に知られたらどうなるか……君の目的は何だ?身代金でも要求する気か?身代金代わりにあの大仰なヘリコプターを乗っ取って脱獄するか?」
 「とんでもない。ノミの心臓の我輩にそんな大それたこととてもとても」
 ホセがさかしげに首を振る。
 緩慢に首を振りながら靴音高く隅に接近、昏睡状態の軍人の正面に片膝付く。 
 「そろそろ起きていただきましょうか」
 声音はあくまで優しく冷静、しかしぞっとするものを孕んでいる。闇の触手のようだ。
 固唾を呑みホセの行動を見詰める。隣ではレイジがにやついている。  
 ホセの呼びかけにも軍人は反応せず、顔を上げようともしない。依然眠りは深い。
 はからずも無視された形となったホセは、鉄化面じみた笑みを貼り付けて、無造作に片手を振り上げる。
 「起きなさい」
 甲高く乾いた音が爆ぜる。
 無防備な頬に平手打ちが炸裂、大きく顔が仰け反る。
 打擲された頬がみるみる赤く腫れる。
 がくんと上下に首を振った軍人が、半睡の靄がかかった目をそろそろと開ける。
 朦朧たるアイスブルーの瞳。
 霜の如き銀髪に彩られた眼差しは現実と夢の境を茫洋とさまよい、いまだ帰還する様子がない。
 数呼吸おいて返答が返る。
 「………ここは、どこだ」
 「下水道の奥の奥、ひっそり存在する秘密の部屋です。昨晩取引を行った地点からさらに深部へと移動した場所。たとえるならー……」
 人知預からぬ企みを秘めた隠者が怪しく微笑む。
 黒い肌をランプの光が照らし、彫り深い顔を奇怪な陰影が隈取る。
 「隠者の領土といったところでしょうか」
 「単純に拷問部屋って言えよ」
 「風情がないですね、レイジ君は」
 「秘密基地ってのはどうだ?雰囲気でんだろ」
 暴君の横槍にホセが溜め息をつくも、すぐに表情が変わる。
 すなわち、優位を確信した者特有の鷹揚な笑み。
 「……言いえて妙かもしれませんね。人目にふれさせたくない戦利品をしまっておくにはふさわしい部屋だ」
 「私を拉致してどうするつもりだ?身代金でも要求する気か」
 「直君と同じ事を言うんですね。あまり馬鹿にしないでもらいたいものです」
 頬を赤く染めた軍人の問いにホセは首を振り、哀れむような目で見る。
 「一個人と軍隊の取引が成立すると本気で思うほど馬鹿なんですか、貴方は。軍隊と取引する前提なら、我輩の背景にもまた組織が存在する。でなければ力の均衡が明らかに不釣合い、よって対等な取引は成立しません。そうですね、我輩は……世界中に散らばった『死の商人』の代表だと思っていただければ話が早い」
 軍人の顔色が豹変する。
 白磁の肌が一瞬で青ざめ、痛ましいほどの驚愕の相を呈する。
 戦慄に打たれ硬直した軍人が、初めて合点がいったとばかり呟く。
 「………そうか。だから『あれ』を狙っていたのか」
 「理解が早くて助かります。早速教えてもらいましょうか、あれのありかを。正確な位置はもちろんわかってるんでしょう?」
 軍人が沈黙。
 殉教者めいて禁欲的な面持ちで口を閉ざした軍人をじっと見据え、ホセが笑みを深める。
 「過去を暴露したことを怒っているのですか」
 反射的に目を見開く。アイスブルーの目に憎悪が漣立つ。
 美しい顔を醜悪に歪め、それでも沈黙を守り続ける軍人を冷え冷えと見下ろし、獲物を罠に追い込む周到さで畳み掛ける。
 「廃人化したサーシャ君に尽くすため、軍人としての出世の一切を諦めると言ったのも所詮は嘘ですか。やはり未練は断ち切れませんか、出世が恋しいですか、軍での栄達が望みですか、異母弟の人生と引き換えて己の将来を手放すのはいやですか」
 「……『死の商人』などに、あれを渡してなるものか。祖国に対する義務が、私にはある」
 「忠誠の義務?服従の義務?まさか献身の義務ですか、その中に殉死も入ってるんですか?」
 嬲るように声を高める。
 軍人は高潔な居住まいでホセを見返す。
 銀の紗のかかった眼差しはゆるぎなく、どこまでも気高い。
 崇高な意志をやどした眼差しでホセを射止め、玲瓏たる面差しに峻厳な色を浮かべ、よく響く声で宣言する。
 「私には誇りがある。死の商人にあれを渡すくらいなら、一切の秘密を守って死んだほうがましだ」 
 「サーシャ君ひとりをおいて?」
 「………」
 「またサーシャ君をひとりぼっちにするのですか?迎えにきておきながら突き放すのですか?数年前とおなじ過ちを繰り返すのですか?まったく酷い兄だ、貴方はとんだ偽善者だ!仮初の優しさで欲望を覆い隠し人を不幸にする天才だ、貴方はそうして数年前と同じ過ちをなし数年前と同じ悲劇に彼を放り込む!サーシャ君は想いが報われぬ苦しみにまけて薬に溺れたというのにあなたは真の原因から目を逸らしレイジ君にすべての罪を被せ殺そうとした最低の偽善者だ、なんと卑劣な男だ、こんな卑劣漢は軍人にふさわしくない!!」
 熾烈な糾弾に苦悩の翳りがさすも、軍人の意志は固い。
 祖国を売り渡すくらいなら機密と心中した方がましと沈黙、絶命の瞬間に備え目を閉じる。
 芝居がかった大声が次第にトーンダウンし、異様な静けさがあたりを包む。

 ランプが煌々と輝く。
 床に、壁に、光が踊る。陰が踊る。

 「……………仕方ありませんね」
 僕は身動きを忘れホセを見詰めていた。
 正確にはその背中を凝視していた。
 傍らの暴君は相変わらずにやにやしている。
 高揚がこちらにも伝わってくるような、沸々と滾り立つ笑み。
 ホセがズボンを探り何かを取り出す。
 なんだ?暗くてよく見えない。
 ランプの光を頼りに手元に目を凝らす。
 ホセが取り出したものがおぼろげに浮かび上がる。
 注射器。
 ホセが手に持ったのはシンプルな注射器、なんとも場違いな医療器具。
 一体それをどうするんだ?まさか……
 鼓動が高鳴る。
 喉が異常に渇く。
 嫌な汗がじっとり体をぬらし服を貼り付かせる。
 緊迫する空気の中、ホセが忌まわしいほどに慣れた手つきでもって注射器のポンプを押し込む。
 虚空に透明な弧を描いて迸ったのは、あらかじめ注入されていた液体。水銀めいた光沢の薬液。
 「ロシアでは真実の血清というんでしたっけ」
 既知の名称が不安を現実化する。
 ロシアでいう真実の血清とは自白剤をさす。
 自白剤の開発は第一次世界大戦の頃から始まり冷戦時代には多くの研究がなされた。
 共産主義が席巻した当時のロシアでもまた総力を尽くし自白剤の開発がなされるも、そのうち何種類かは大脳上皮を麻痺させる以上の作用を及ぼし、被験者を廃人にするほどの中毒性でおそれられた。

 ホセの笑みが凝固する。
 仮面に開いた穴のように虚ろな目、仮面の切り込みのような口。
 おぞましさを禁じ得ない空洞の笑み。

 「吐いてもらいますよ」
 「やめろ」
 かすれた声が迸る。
 僕の声だ。
 暴君が止める気配はない、僕以外に制止する人間はいない。
 暴君もホセも明らかにこの状況を楽しんでいる、止める気など毛頭ない。
 ホセは僕の言葉には一切耳を貸さず、軍人の腕をとり袖を捲り上げ、銀色に光る鋭利な針先を静脈に近づける。
 ランプの光を弾いた先端が銀朱に光る。
 「やめ、ろ………」
 軍人の唇がわななく。
 ホセは無慈悲に懇願を一蹴、ますますもって狂気の笑みを深め静脈に針をあてがう。
 青ざめた皮膚の上を銀の針が滑っていく。 
 わざと恐怖を煽るような緩慢さでもって破れぬ程度に皮膚をつつき、若い弾力を楽しむ。
 美しい顔が悲哀に歪む。
 アイスブルーの双眸に悲痛な光が走る。
 咄嗟に身をよじり抵抗する軍人だが、背後に回されたその手が手錠に拘束されていることに漸く気付き、さらに動転。
 壁に背中を付け、もはや瞬きもできぬほどに戦慄した軍人の腕をぐいと掴み、盛り上がった静脈を針先で愛撫する。
 低いバリトンが死刑よりもなお屈辱的な拷問の開始を告げる。
 清廉な殉教者に薄汚い売国奴への宗旨替えを迫る恐ろしい拷問。
 薬物を用いて人の尊厳を剥奪し動物にまで貶める悪魔の所業。
 「サーシャ君とお揃いにしてあげます」
 「やめろっ!!」
 咄嗟に走り出そうとしたが、間に合わない。
 僕の腕は背後から暴君に掴まれ引き戻され、暴君に拘束された僕の視線の先で針は皮膚と静脈を突き破りポンプがゆっくりと押し込まれ一滴残らず中身が注入される。
 仰向いた軍人の顔に苦痛が閃く。
 けれども苦痛の色はすぐに引き、続く変化が襲う。
 注射器が名残惜しげに離れると同時に電気ショックの被験者のように不規則に体が痙攣、眼球がぐるりと反転、瞼の下で上下左右でたらめに動き回る。
 痙攣は止まらない。
 静脈に打たれた自白剤はまたたくまに血流に乗じ血に溶け全身を巡り、理性に靄をかける。
 「ひあっ、あ、ぃあっ………」
 軍人の表情から理性が霧散、後に残るは茫漠たる虚無。
 弛緩した口の端から透明な糸引き涎がたれ重心を失った体は壁によりかかり何とか姿勢を維持、その間もでたらめな痙攣はやまず突っ張った手足がびくびくと跳ね続ける。陸揚げされた魚のように生きがよい。だがその痙攣も次第によわよわしくなり、やがて完全に静止。
 自律しない赤ん坊のように首を項垂れた軍人の至近距離、濡れ光る注射針を脅すようにつきつけホセが言う。
 「さあ、『あれ』の隠し場所を教えてください」
 「『あれ』……『あれ』は………」
 「ロシアが総力挙げて回収しようとしているあれです。長年奪回の手段を模索していたあれです。忌まわしい冷戦の遺産です。あなたがここに来た目的そのものです」
 「目的……………さ、しゃ…………さしゃ、もくて、き………」
 眼鏡越しの目に激情が炸裂、突如として凶暴性を剥き出したホセが引き毟らんばかりに前髪を掴む。
 「違うでしょう、そうじゃないでしょう。あなたが祖国より任されたやくめはちがうでしょう、サーシャ君より先にやるべきことがあるでしょう。公私の区別もつかないんですか、貴方は。とんだ落ちこぼれ軍人だ」
 掴んだ髪を乱暴にゆする。毛髪が束で抜ける。
 力づくで顔を上げさせられた軍人の顔に苦痛とそれ以外のものが去来、追憶の光にぬれた双眸が朦朧と虚空をさまよう。
 弛緩した口から涎と一緒に垂れ流されるのは、たどたどしい言葉。
 「さしゃ……むかえに、きた………やっと……帰れる………約束を、守りに……」
 「とんだ役立たずだ」
 ホセの口ぶりが苦味をます。
 見当違いも甚だしいといった渋面を作り、前にも増して激しく髪を揺さぶる。
 分厚いレンズの奥で双眸がぎらつきをます。
 口元の笑みはそのままに目は完全に笑いを捨て去って本性を剥きだしにし、野獣が咆哮を上げる如き荒々しさでもって軍人の銀髪を引き抜き蹂躙し、脳震盪を起こす勢いで上下に激しく揺さぶりつつ容赦ない詰問を浴びせる。 
 「貴方はサーシャ君をどう思ってるんですか?ただの弟としか思ってないならきっぱり突き放しておあげないさい、その方が彼のためだ。いいですか、アルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフ。サーシャ君はあなたの偽善と欺瞞の犠牲になったのです、あなたの自己満足の犠牲になったのです。まずはそれを自覚なさい、懺悔なさい、天地神明に誓って!サーシャ君の妄想が悪化したのは誰のせいですか、サーシャ君が薬に溺れたのは誰のせいですか?レイジ君ではありません、あなたです、あなたのせいです!まったくあなたときたら唾棄すべき偽善者だ、聖人君子の仮面を剥いでみればただの卑劣漢だ、サーシャ君はあなたに狂わされたも同然だ!!」
 「そのへんにしとけよホセ、はげちまうよ」
 暴君が呆れて口を挟む。
 僕は、眼前の光景に圧倒されていた。恐怖で体が硬直し、止めに入る事すらできなかった。
 軍人は意味をなさないうわ言を呟くばかりで、ホセが期待したまともな会話は成立しそうにない。
 千々に乱れた頭髪は既に銀雪の名残りを留めず、めちゃくちゃに踏み荒らされたあとの悲惨を呈し、所々頭皮に血が滲んでいる。
 朦朧としたアイスブルーの目は既に現実を見ていない。 
 床に撒かれた石灰の上にむりやり引き毟られた天使の羽毛の如く銀髪が舞い散る。
 煌々たるランプの光が、情け容赦ない蹂躙の痕跡を暴く。
 凄惨でありながら、凄絶に美しい光景に魅了される。
 軍人の前髪を掴み、ぐいと顔を仰向かせ、ランプの光を受けた白痴の表情を真上から覗き込んで隠者が囁く。
 「いい子だから教えてください、『あれ』のありかを。そうすれば愛しのサーシャ君のもとに帰してあげますよ。会いたいでしょう、サーシャ君に。数年ぶりに再会が叶った弟だ、半分しか血が繋がっていないからこそ愛情は二倍深い。『あれ』のありかをこっそり耳打ちしてくれれば五体満足で地上に送り届けてあげます、好きなだけサーシャ君で人形ごっこをするといい。だから今は……」
 『Можешь рассчитывать на меня …………Ты знаешь, я всегда рядом、Ты не одна.не волнуйся』
 
 モージェシ ラスチーティヴァチ ナ ミニャ。
 ティ ズナーィシ、ヤー フスィグダー りャーダム。
 ティ ニ アドゥナー。
 ニ ヴァルヌーィスィヤ

 私を頼っていい。
 私はいつもそばにいる。
 君はひとりじゃない。
 なにも心配いらない。

 軍人は繰り返しそう言っている。
 みずからが作り出した幻覚に向かいひたすらそう繰り返す。
 銀の紗のかかった薄氷の双眸に溶け滲むのは、紛れもない愛情。
 半分血を分けた弟に対する、限りない愛情。
 壊れてしまったからこそ純粋さを保ち続ける、心。
 壊れてしまったからこそ美しい虚ろな器と心の残骸。

 「……リョウ君から仕入れたのですが、安物でしたか」
 あっさりと髪を放す。
 支えを失った首が折れ、背骨がふやけたようにセメント袋の山に倒れこんで崩壊を招く。
 濛々と石灰の煙が上がる。
 視界を閉ざした白煙の向こう、玩具に飽きた子供の無関心さで軍人を解放した隠者が徒労感もあらわに吐息をつく。
 「仕方ないですね。君の番ですよ、レイジ君」
 「待ってました」
 セメント袋に倒れこんでぴくりとも動かない軍人のもとへ軽い足取りで暴君が歩いていく。もちろん僕を引きずったままだ。
 白煙を吸い込み咳き込む。
 セメント袋に倒れ込み服も顔も髪も純白に染めた軍人の姿は、まっさらな雪原で行き倒れたかのようにも見える。
 このまま雪に埋もれて消えてしまいそうだ。
 「生きてんのか?これ」
 いっそ無邪気な疑問を発し、動かぬ頭を爪先で小突く。
 今度は少し力を込めて小突く。蹴る。
 「う……く………」
 微弱な反応と目覚める気配があった。
 安堵した僕をよそに、暴君が浮かべた微笑はこちらの不安を煽る程に邪悪なものだ。
 「よかった。まだ使えんな」
 「役に立たない駒に興味はありません。好きにしてください」
 暴君のはしゃぎぶりに微笑ましげに目を細め、ついでのように付け足す。
 「地獄を見れば気が変わるかもしれませんし、ね」
 暴君と交代で壁際に下がり、無責任な傍観者と化す。
 暴君は嬉嬉として軍人の髪を引っ張り腰を踏み尻を蹴りと全身をいじくりまわしていたが、背後で硬直した僕の存在を漸く思い出したらしく振り向く、驚くべき命令を発する。
 「キーストア。お前、こいつを犯せ」
 耳を疑う。
 とどまるところをしらない狂気に打たれ、反射的に首を振り、全身を強張らせて拒否する。
 しかし暴君は動じない。この提案に大乗り気で、僕の腕を掴んでむりやり引き寄せるや思い切り肩を突く。
 「!っ、」
 バランスが崩れる。視界が揺らぐ。強い力で押され、受身をとる暇もなくセメント袋の上に倒れこむ。
 濛々と石灰の煙が立ち上る。涙腺に染み気管にもぐり口の中がざらつく。
 僕の下に軍人がいる。うつぶせに倒れこみびくともしない。
 軍人と折り重なった体を引き離そうとすれば、何者かによってぐいと頭を押さえ込まれる。
 わざわざ振り向かなくてもわかる。暴君だ。
 肘に圧力をかけ僕の頭を押さえ込み前傾させ、むりやり軍人の背に埋める格好をとらせる。
 「どうした?いやか?売春班じゃさんざん男どもの慰み者になってケツの穴に咥え込んだくせに、自分でヤるのは抵抗あるってか?遠慮すんなよ、どうせさんざっぱら上官に耕された後だ。軍じゃ男同士でヤるのが常識だもんな。この若さで大尉の地位に上り詰めるにゃそりゃ体を売って見返りをえたんだろうさ、どうりで肌が艶々してっと思ったぜ、たらふく男の精気を吸ってたんだからよ!」
 高笑いが炸裂する。暴君が仰け反るようにして笑い出す。
 ランプの光が濃淡にとむ陰影を投げ掛ける部屋に、おぞけだつ哄笑が殷々とこだまする。
 狂気走った哄笑を上げながらますますぐいぐいと力を強め、僕の頭を押さえ込む。
 「どうした、ヤれよ。サムライに相手にされなくてさんざんたまってるぶんコイツにぶちまけちまえ、きっとすっきりすんぜ。上官に耕やされていいかんじにこなれまくってる尻を楽しめるんだからラッキーだろ、ええ?ま、開拓されまくって痔で腫れふさがってるかもしんねーけど」
 「いやだ」
 「なんだって?」
 桁外れの膂力に抗い、軍人の背からどうにか顔を引き剥がす。
 頭に重石がのった苦しい体勢からぎこちなく首を回し、暴君を仰ぐ。
 「犯したいなら、僕を犯れ」
 暴君が虚を衝かれる。
 隅に控えたホセが愉快げにほくそ笑む。
 かっきりと暴君を見据える。
 シャツの下で高鳴る鼓動と全身を巡る血を意識、憤怒とも反発ともつかぬ激烈な感情の暴発に身を委ね、石灰に突っ込んで白く汚れレンズにまで粉が付着した滑稽な顔で必死に食い下がる。
 「こんな茶番に付き合う気はない。僕はレイジ、君が会いたがってると聞いてここに来たんだ。読書に使えば何十倍にも有意義に過ごせたはずの時間をわざわざ君の為にあてたんだ。ならそれ相応の見返りがほしい、それに見合った快楽がほしい。僕に快楽をくれ、レイジ。君しか与えられないものをくれ。僕の体は受身に調教されている、挿入で快楽をえるのは不可能でないにしろ時間がかかる。僕はもっと直接的な快楽が欲しい、めちゃくちゃに抱かれ貪られ搾取されてからっぽになりたい、何も考えられない位からっぽになりたい、君の玩弄物になりたい!」
 あっけにとられた暴君の腕を掴み、今度はこちらから引き寄せ縋り付く。
 腕を頼りに這うようにして暴君の下半身に顔を埋め、湿った吐息と一緒に囁く。

 プライドを擲ち、自尊心を踏み付け。
 サムライを忘れるために、永遠に忘れ去るために最短の方法を採る。
 めちゃくちゃに嬲られ壊されたいといった被虐の願望に駆り立てられ、欲望の昂ぶりを抑えきれず、暴君の腰に石灰に塗れた顔をすりつける。 
 快楽を貪る一匹の獣に堕して髪をぐちゃぐちゃに乱し、なりふり構わず暴君の腰にしがみつく。

 そして、言う、
 深奥から搾り出す。

 決定的な台詞を、
 決定的な裏切りの言葉を。

 サムライに求め報われなかった行為を、極限の飢えと乾きに苛まれた者の浅ましさで目の前の男にねだる。

 「抱いてくれ、レイジ」

 僕は、裏切り者だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050214050933 | 編集

 「抱いてくれ、レイジ」
 僕は、最低だ。
 最低の裏切り者だ。
 サムライと暴君を秤にかけ後者を選び、誇りと快楽を秤にかけ後者を選び、乞食のような真似までしている。
 売春班にいた時でさえ保っていた一握りのプライド、精神崩壊寸前の僕に自殺という短絡的な逃げ道を拒否させた異常に高いプライドさえも一片残らず売り渡し絶対的優位を誇示する暴君に屈従し、どうか抱いてくれと卑屈に頭を下げている。
 従順に頭を垂れて服従心を示す。
 暴君は無言。黙って僕を見下ろしている。
 王座に飽いた専制君主の傲慢。
 単なる退屈しのぎで臣民を嬲り殺す暴虐の王が、尊大に踏み構えて驕り昂ぶった眼差しを注ぐ。
 嬲るような視線が髪の一筋一筋に絡み付き、ちりちりと熱を煽り、髪が一筋残らず剥きだしの性感帯になったような欲望の火照りと嗜虐の疼きに体が熱くなる。
 瞼裏の闇に自我を没し冷静であろうと努めるも、粘着な視線の愛撫にまだ指もふれられないうちから浅ましい期待が高まる。
 視姦の時間が過ぎる。
 ランプの光が壁を照らす。
 光のあたる場所とあたらない場所がくっきりと明暗を分ける。
 冷え冷えした部屋に甲高い声が響く。
 「プライドの高い天才がどういう風の吹き回しだ?サムライにふられたのかよ」
 不思議な陰影に隈取られた顔で暴君が笑う。
 「勘違いするな、僕から絶交したんだ」
 即返す。それだけは誤解されたくないと語気を強め念を押し、努めて冷静を装い反論を紡ぐ。
 淡々と、淡々と。
 不自然なまでに感情が抜け落ちた声音で。
 「彼には失望した。悪戯に僕をじらすだけで一向に指をふれようともしない、自分の気持ちと向き合おうともしない。本当は僕を抱きたいくせに、僕に欲情している癖に、僕を傷付けたくないからと欺瞞と偽善にこりかたまって自分一人綺麗であろうとする。僕のそれはおろか自分の欲望すら認めず、物欲しげに僕の肌を見詰めながらしなくてもいい我慢をし、マゾヒスティックな悦びにひたる男にはいい加減愛想が尽きた。彼に期待した僕がおろかだった。所詮彼は僕の場所まで下りて来れない、僕と同じ地平にまで下りてくる気がない臆病者だったんだ」
 サムライの偽善が、僕を孤独にする。
 どうしようもなく孤独にし、救いがたいみじめさを味あわせる。
 僕に欲情しているくせに僕の肌を物欲しげに見詰めているくせに、抱擁の力はとても強く壊れそうなほどで今にも決壊せんばかりの熱情が荒れ狂っているのに、どうしても一線を越えようとせず彼岸からこちらを見詰め続けるのみ。
 埋まらぬ距離を感じるたび絶望する、どうあがいてもひとつになれない現実に打ちのめされる、ひとつになろうとしてあがいて拒まれては死にたいほどの絶望に沈み込む。

 ずぶずぶと、底なし沼のように。
 堕ちていく、どこまでも。

 感情のベクトルに負荷がかかり、報われない熱情はやがて殺意に変わる。
 
 「サムライなどどうなってもいい。こんな屈辱、知りたくなかった。知らないままでいたかった。自分がこんなみっともなく浅ましい人間だなんて知りたくもなかった、欲望の在り処など知りたくなかった。理性で完全に衝動を律したと自負し常に冷静沈着に物事に対処した僕がこんなふうな醜態を曝け出すなど自分に我慢ならない、IQ180の天才が他人に頭を垂れるなどあってはならない事だ、抱いてくれと頼むなど吐き気がする。けれどこれしかない、これしか思いつかない。安易な選択だと嗤え、みじめな男だと嗤え。それでもいい、この飢えと渇きが癒せるなら裏切り者にだって売春夫にだって人殺しになってやる」
 極限まで高じた飢えにも似た衝動が暴れ、内臓を蹴飛ばし、狂わんばかりの本音を口走る。
 再び沈黙。
 一呼吸おいて暴君が言う。
 「抱いてほしいならそれなりの誠意の示し方ってもんがあんだろ?」
 耳朶にまつわる揶揄に顔を上げる。
 暴君はにやついている。
 絶世の美形には似つかわしくない下卑た笑みが、しかし不思議と似合っている。
 綺麗に整った顔だちと浮かんだ表情の落差に魅了される。
 干し藁の髪のかかる隻眼を野蛮に輝かせ、薄い唇の端を野卑に捲り上げた表情は崩れた色気をも漂わせ、淫靡な雰囲気を演出するランプの光に妖しく浮かび上がる。
 下卑た笑みをちらつかせさも愉快げにこちらを眺める暴君。
 無理難題をふっかけ僕の反応をたのしむつもりであるのは明白。
 食堂でロンをからかうときや図書室でヨンイルとじゃれるときに本人すら自覚せぬ無防備さでふと覗かせる陽性な顔とは違う、あの子供っぽく明け透けな笑顔とはまるで違う。
 心を開いた人間に見せる親しげな笑みではない、敵とも味方ともつかぬ他人を冷ややかに突き放す笑み。
 レイジが完全に消滅してしまったと危惧を抱かせる酷薄な笑み。
 ロンには見せたくない顔だ。
 深呼吸で冷静さを吸い込み、出来るかぎり抑揚なく問う。
 「………どんな誠意が希望だ?リクエストに応えてやる」
 挑むように暴君を見据える。
 内面の動揺を悟られないように情動を封じた無表情に徹し、暴君の尊大さに匹敵する冷ややかな視線を叩き返す。
 シャツの下で心臓が暴れる。
 暴君の目を正視し戦慄に近い恐怖を覚えるも、毅然と顎を引き受けて立つ。
 逃げてなるものか、逸らしてなるものか。
 食うか食われるか緊迫した睨みあいが続く。
 視線の磁力に縛られて指先まで硬直する。
 威風あたりを払う眼光で僕を服従させようとする男に全身全霊で対抗、偽りでも誇り高く在れと自分に命じ暴威に虚勢で報いる。
 暴君がゆっくりと口を開き、勅命を放つ。
 「売春班仕込みのキスっての、一度試してみたかったんだよな」
 おもむろにしゃがみこみ視線の高さを調整、眼前に顔を突き出す。
 無造作に手が伸びる。
 殴打の恐怖に体が強張る。
 しかし予想を裏切りその手は脳天に着地、一房が指の隙間を滑る。
 「いい子だな、キーストア」
 耳朶にねっとりと声が絡む。
 体中が敏感になる。
 髪にまで神経が通ったように触れられた場所がじれったく熱を帯びる。
 暴君はしつこく髪をいじくる。
 髪の間に手を通し、さらさらと流れていく感触を楽しむ。
 指の隙間をなめした絹のように滑る直毛の感触がお気に召して一人遊びに没頭する子供の熱心さでいつまでも繰り返し、指の間に挟んだ一房に鼻の先端をすりつけ、動物的な仕草で匂いを嗅ぐ。
 「石鹸の匂いがする。さっすが綺麗好きは違うな」
 「回りくどい真似はやめろ。髪に興奮する趣味があるのか、君は。倒錯してるな」
 侮蔑も隠しもせず嘲笑すれば、ふいに毛根に激痛が走る。

 暴君が力を込め髪を引る。
 頭皮に抵抗を感じる。
 雑草を毟らんばかりに僕の髪を掌握、吐息が絡む距離に顔を接した暴君が哀れみ深く微笑む。

 「そういうふうに仕込まれたからな、俺は。お前だってそうだろ?」

 干し藁の隙間から覗く隻眼が狂的に飢えた輝きを宿す。
 
 「………生意気な目だな。仕込み直してやるよ」   
 髪を優しく愛撫しながらうってかわって残酷な笑みを浮かべる。
 髪の痛みを堪え、苦痛に歪む顔で上を仰ぐ。
 僕の髪をかたくなに手放さそうとせず、痛みを与える事によってしか快楽にありつけない倒錯をちらつかせ、一切の容赦同情と無縁の底冷えする声音で命じる。
 「手始めにキスしろ」
 「……わかった」
 拒否する気は起きなかった。当然だ。
 暴君の要求は予想に反し子供だましだった。

 静かに顔を寄せる。
 唇を重ねようとして一瞬ためらう。
 至近距離に接した顔に浮かんだ笑みに暗い怒りが鎌首をもたげる。 

 目を固く閉じ雑念を払拭、改めて接近。
 生温かい吐息が顔をなでる。
 他人の唇がすぐそこにあるのを実感、自然と鼓動が高まる。 
 吐息の湿り気がやけに生々しい。
 目を閉じたまま吐息の導きに従い唇をさがす。

 見つけた。

 唇に生温かく柔らかい感触があたる。
 僅かに唇を開け、それを食む。
 淡白な唾液の味がする。
 ちろりと中で動くものがある。
 誘うように艶かしく蠢くものがある。 
 受粉を誘う雌しべに似て淫靡な形の尖端が小刻みに出入りを繰り返す。 
 唇に意識を集中、触覚を研ぎ澄ます。
 唇で唇をかたどり、鋳型に嵌めこむ。 
 
 「………ふ…………」
 「売春班仕込みのキスってなその程度か?あんまがっくりさせんなよ」
 くぐもった笑い声が大気の振動え介し耳小骨を震わす。
 露骨な侮蔑に反発するも挑発にのってペースを崩すものかと自制、僕の物ではない唇に丁寧に唾液を刷り込んでいく。
 唇を尖らせ、窄める。
 啄ばむようにキスをする。
 最初から焦っては駄目だ。
 キスとフェラチオは似ている。
 激しければいいというものではない、順を追って煽っていくのだ。
 唇の割れ目から処女膜を破る繊細さで舌を忍び込ませる。
 熱い舌が、僕のそれをまたたくまに絡めとる。
 「んっ………」
 暴君の中は熱い。
 蕩けそうに熱く潤んでいる。
 潤滑な唾液がずるりと舌を迎え入れる。
 そろそろと舌を這わせ歯の窪みひとつひとつを辿る。
 一際敏感に出来ている頬の内側の粘膜を窄めた舌先でつつき舐め上げる。
 唾液を捏ねる音が淫猥に響く。
 暴君もまた僕の求めに応じ舌を動かし、一心不乱に互いを貪り始める。
 暴君の舌が僕の中で動いているのを感じる。
 無遠慮な舌が歯の裏側をさぐり上顎をなぞり下顎をたどり口腔を余さず暴き立てる。
 歯の裏側に潜り込んだ舌が発情した軟体動物めいて妖艶に蠢動し、未知の性感帯を開発する。

 暴君はキスが上手い。
 しかし前戯と呼ぶにはあまりに自己本位で野蛮すぎる。
 舌の剣で互いを制する捕食者と被捕食者の命がけの駆け引き。
 交わる、絡む、結ぶ、解く、溶ける。
 膨らむ、萎む、開く、閉じる、反る、翻る、誘う、招く、拒む、引く。
 秒刻みで主導権が交代し優位が逆転する。

 痛みを伴う荒々しさでもって侵入した舌は野蛮な情熱に駆られ口腔の隅々を暴き尽くし、絡んだ舌を介して唾液と精気を搾りとる。
 「……っんぅ、ぐ………」
 苦しい。
 呼吸ができない。
 酸欠で顔が上気する。
 酸素を欲して口を開けても暴君の舌が口腔を這ってるせいで必要な分を取り込めない。 
 思考が明滅する。
 酸素が行き渡らず視界の明度がおちる。
 閉じた瞼の裏を懐かしい面影が過ぎる。
 サムライの唇の感触を無意識に反芻、暴君のそれに重ねる。
 誠実なだけが取り得の不器用なキス、ぎこちない舌使い、前歯がぶつかりそうなほど駆り立てられたかと思いきや自制の箍が外れるのを恐れ自重する。
 サムライの唇を暴君のそれに重ね合わせる。
 体温が上昇する。
 脈拍が速く打つ。
 今僕にキスをしているのがサムライであればいいと夢想し、サムライの幻覚を相手に舌を使う。
 『直』
 凪いだ呼びかけが耳朶を包む。
 彫り深い刀傷が刻まれた手がしっかりと僕を抱擁する。 
 「ん………ふ、あぅ」
 口の端を一筋ぬれた感触が伝う。
 口腔で溶け混じり、大量に溢れかえった唾液が口の端を伝う。
 口の端を伝い落ちた唾液が顎に筋を描いて鎖骨の窪みにたまる。
 水飴のようにとろりとした唾液溜まりが、鎖骨に透明な膜を張ってランプの光を歪ませる。
 終了の合図は唐突だった。
 乱暴に前髪を掴み引き剥がされる。
 濃厚な唾液の糸引き舌が抜かれる。
 体を二つに折って激しく咳き込み、胸一杯空気を吸い込む。
 新鮮とは言いがたいが生命維持に必要な分の空気を大量に取り入れたことによって酸欠で朦朧とした頭が次第に明晰さを取り戻していく。

 「キスん時誰の事考えてた?」

 見透かされて心臓が凍る。
 瞬時にサムライの幻が霧散、頭の芯が冴えて現実に戻る。
 純粋な苦痛に潤んだ目で上を仰ぐ。
 暴君がいた。
 僕をも上回る激しさで舌を絡めていたくせに泰然自若として、少しも息を乱さずにいる。
 「俺はサムライの身代わりか?」
 「何も考えてない、酸欠でそんな余裕はない。行為にだけ集中していた」
 「嘘つけよ」
 肩をひくつかせくぐもった笑いを立てる。
 陰惨な翳りを含む笑い声は、かつてのレイジとは似ても似つかないものだ。
 「好きな男を忘れるためだなんて不純な動機じゃ抱いてやれーな。俺に失礼だろ、大体。あいつは来るもの拒まずでだれでも受け入れてたみたいだけど俺は違う、これでもえり好みは激しいほうなんでね。他の男の身代わりに抱いてやるほどこちとら慈悲深くねーよ、ピエロの役割はごめんだぜ」
 「言いがかりだ、サムライの事など少しも思い出さなかった」
 意地悪い笑いが癇に障る。
 恥辱に頬を染め反論すれば、暴君がのんびりと提案する。
 「そんなに穴が寂しいんなら棒でも突っ込んでろよ……いや、もっといいもんがあったな。ホセ!」
 「なんでしょう」
 「あれをくれ」
 部屋の隅でホセが肩を竦めるのが目に入る。
 「こいつからとったトカレフじゃねーぜ、ルーレットができるリボルバーだ。もちろん持ってるよな、護身用に。護身の銃を持たずにのこのこ取引に来るほどお馬鹿さんじゃねーよな」
 「我輩にはこれがありますから」
 ホセが掲げた拳を一笑に付し、催促するように片手を突き出す。
 「拳なんか近距離戦闘にしか使えねーよ。10メートル離れた所から撃たれたら一発でおしまいだ。目には目を、銃には銃を。隠者の抜け目なさは長い付き合いの俺が……正確にはあいつがよーっく知ってる。大事な取引の現場に銃も持たずにやってくるほど呑気な男じゃねーって戦場で鍛えた勘がびんびんいってんだよ」 
 「見抜かれていましたか」
 「リボルバーフェチで有名な南棟のガンスミスから仕入れたんだろ?」
 大仰にかぶりを振るや懐をさぐり何かをとりだし、小言を添えて投擲。
 「無駄づかいしないでくださいね」
 ホセの手から放たれたそれはランプの光を弾き返し、綺麗な放物線を描いて暴君の掌中に滑り込む。
 拳銃だった。
 思わず息を呑む僕をよそに暴君は慣れた手つきで銃をいじくりまわす。
 ランプの光を弾いて煌々と輝く漆黒の銃は、本物ならではの質感があり、極限まで無駄を削いだシャープな形状が殺傷能力の高さを暗示する。
 「せっかくだから新しい趣向を取り入れてみようぜ」
 暴君が無邪気に提案、ギャングエイジの子供のようにふざけて銃を構える。
 「キーストア、そこに跪け」 
 「床は汚い。ズボンが汚れるのはいやだ」
 こめかみに固く冷たい鉄が食い込む。
 銃口を辿って視線を上げれば、凄まじい威圧を内から発する笑顔に行き当たる。
 「やるんだよ」
 重ねて促され今度は大人しく従う。
 こめかみに固定された銃を意識しつつ、慎重に膝を付く。
 床に付いたズボンから骨まで凍る冷気が染みてくる。
 平常心を保とうにもこめかみの銃口に意識が行ってしまい、体内で鼓動が反響する。
 固く冷たい銃口が圧力をかけこめかみを抉る痛みに心臓が連動して軋む。
 身の内で恐怖が暴走する。
 こめかみに擬された銃口はゆるぎない。
 銃口を介して伝わってくるのは無慈悲な鋼鉄の固さのみ、躊躇や逡巡のたぐいは一切伝わってこない。
 恐怖が加速する。
 こめかみを貫通し脳漿を撒き散らす銃弾のイメージが閉じた瞼の裏側でクリアに像を結ぶ。
 掌がじっとり汗ばむ。
 「そんなに僕の脳細胞が灰色をしてるか確かめたいか?」
 「まだ減らず口を叩けるなんてたいしたもんだ」
 暴君が称賛の口笛を吹き、じらすように引き金に指をおく。
 「ロシアンルーレットだよ」
 「悪趣味だな」
 ひとつを残して弾丸を摘出、ポケットにしまう。
 スロットを扱い慣れたギャンブラーの手際で弾倉を弾く。
 黒い弧を描いて旋回する弾倉に見入る。
 運命の歯車が回る。
 軽快な回転に気まぐれな終止符をうつ。
 親指をひっかけて弾倉を固定した暴君がご機嫌にルールを解説する。
 「一回ずつ引き金引いてく。何番目に弾がくるかわかんねー、運が悪けりゃ一発目でズドン!だ。死と隣り合わせの状況で好きでもねー男とキスする勇気があるか?」
 「試してみればいい。確率変動については僕の方が詳しいんだ」
 掌に滲み出た汗をかくして挑発すれば、答えを予期していたが如く暴君がほくそえむ。 
 「んじゃキスの続きだ。今度はがっかりさせんなよ」 
 極めて軽く言い、顎をしゃくって再び跪かせる。
 暴発を招かぬ慎重な動作でもってゆっくりと膝を付く。
 正面に屈みこんだ暴君が禁じられた遊戯の開始を告げる。

 『Game start』
 銃口に圧力が加わる。

 きつく閉じた瞼の裏側で闇がざわめく。
 固い銃口が顎の上下運動に合わせこめかみを削り無限に増殖する癌細胞の如く閾下に恐怖を播種する。
 盲目の闇は恐怖の温床だ。
 思考を空白にし積極的に唇を貪る。
 唾液を捏ねる音も卑猥に、平常心を維持するのはもはや不可能でならばいっそ本能を剥き出して欲望に忠実に貪欲にありのままに、求めるのではなくむりやり奪い取る姿勢で唇を激しく吸う。
 「っあ、は、んっくぅ………」
 眼鏡のレンズが吐息で曇る。
 霞んだ視界の向こう、いまだ余裕を失わない笑顔で暴君が促す。
 暴君の手が動く。
 まどろっこしいほどの緩慢さで引き金が引かれる。
 ガキン。
 「はずれ」
 鈍い音が直接頭蓋骨に響く。
 一発目は空砲だった。
 微小な部品が幾何学的に噛み合い起動する仕組みを接した部位を介し理解する。
 体感時間では永遠に等しく引き延ばされた一瞬が強いた精神的重圧は絶大で、引き金が引かれると同時に一気に虚脱する。
 「あと五発」
 「五分の一の確率だな」
 キスの合間に皮肉の応酬を済ませる。
 暴君が不敵に笑い前にも増した激しさで舌を奪いに来る。
 いつのまにか後退していたらしく、背中に鈍い衝撃を感じて初めて壁に衝突したと悟る。
 無遠慮な舌が口をこじ開け口腔をまさぐるのを許し、こちらも大胆に口腔を暴き立てる。
 互いに互いを暴きあい、どこまで堕ちれるかを競う。
 視界の端でゆっくりと指が動く。
 再び引き金が引かれる。
 抗し難い負の磁力を放つ銃口に注意を奪われながら、それでも舌の動きに技巧を凝らし快楽を優先する。
 時限式の命よりも刹那の快楽が大事と盲目的に奉仕する。
 ガキン。
 引き金が弾かれる。重たい音響が耳小骨を噛む。
 全身の毛穴が開いて冷たい汗が噴き出す。恐怖。戦慄。
 引き金が引かれた一瞬に訪れた虚無の空白、それに続く混沌の闇。
 銃口はトンネルのように深い。
 覗き込めば千尋の闇と万里の距離がある。
 銃口のさいはては冥府に通じている。
 二回目。
 まだ死なない。どうやらよほど悪運が強いらしい。
 「しぶてーな」
 「天才を舐めるな」
 酸素を欲し浮上し、またすぐに潜水する。
 余計な事は考えるな。心を限りなく無に近付けろ。
 銃の存在を意識するな、上辺だけでも冷静沈着なポーズを保て。
 頭からあらゆる雑念を閉め出し恣意的な思考停止状態に入る。
 舌先に全神経を集中、唾液が溢れて滴るのも構わず暴君の舌を乞う。
 波打つ舌が歯の裏をくすぐり、官能の波紋が広がる。
 口腔の粘膜がひどく敏感になる。
 人体の中でもっともやわらかく傷付きやすい場所のひとつ、粘膜が剥き出しとなったそこに他人の舌という異物を受け入れてすっかり同化する。
 ガキン。
 三回目。
 次第に間隔が狭まりつつある。
 「はっ、すげ………飢えてんな、お前。涎で顔べとつかせて目えとろんとさせて、最ッ高にいやらしい」
 暴君の声が余裕をなくし始める。
 僕をおちょっくていた声が興奮に滾り、銃を持つのとは逆の手で上着の裾を捲る。 
 捲れた裾から手が忍び込む。
 汗でぬめった手が下腹をはいのぼり胸板をまさぐる。
 壁際に追い詰められた僕に逃れる術はなくまた逃れる意志もない。
 壁を背にずりあがり暴君の愛撫を助ける。
 シャツの内側で性急に這い回る手が不快感と快感を同時にもたらす。
 僕が求めていた熱はこれだ。
 求めていたものを漸く与えられた歓喜に体が震える。
 衣擦れの音が淫靡に耳朶をくすぐる。
 吐息が不規則に弾む。
 舌と手が同時に動き、まだ見ぬ高みへと僕を追い立てる。
 「っあ、ふ、ぅく………レイジ、君、は………」
 「なんだよ?」
 「ロン、は、いいのか」
 「興ざめさせんなよ」
 鼻白む気配が伝わるも愛撫の手は止まらず激しさをますばかり、僕にのしかかった暴君が意地悪く口角を吊り上げる。
 「あいつとは男の趣味が違うんだ。にゃーにゃー泣いてばっかでうるせえ野良なんかもう知るか、めんどくせえ。ただでヤらせてくれるサーシャやお前のほうがずっとマシだよ」
 胸の内を罪悪感が蚕食する。
 暴君の愛撫に応じ舌を絡めながらもサムライとロンの面影を振り切れず、二人に対する裏切りを自覚し、遣り切れない気持ちになる。
 罪悪感を吹っ切りたい一心でたまらず口走る。
 「本当に二重人格なのか?本当に君が主人格なのか?」
 「そうだよ。この体の本当の持ち主は俺だ、だから俺が今ここにいるのは正当な権利ってやつさ」
 暴君は落ち着き払って返す。
 必死に頭を働かせる。
 何か、なにかおかしい。
 頭の奥で違和感が鳴っている。
 警鐘は次第に大きくなる。
 言動のどこかに矛盾を感じる。
 暴君の顔半分は暴かれもう半分は沈んでいる。
 ランプの光の当たった側は煌々と照り輝き、もう半分は闇に紛れて静謐な印象を与える。
 二重性を象徴するかのように左右で明暗を分けたひとつの顔。
 ひとつの顔の右と左に聖俗異なる人格を有したかのような錯覚が襲う。
 本来同じ顔であるはずなのに、光が当たる部位と当たらない部位とでまるで別人に見える。
 違和感の正体をはっきりと見定められぬまま激しい愛撫に翻弄され声を上げる。
 「ひあっく……!」
 「しゃっくりかよ?色気ねーな」
 乳首を抓られ、電流が走ったように首が仰け反る。
 視界の端にホセが映る。
 部屋の隅に退避したホセは腕を組み面白そうにこちらを眺めている、高みの見物を決め込んでいる。 
 「君が、斉藤を殺したのか?」
 「下水に捨てたのは俺だよ。だれもいなくなった深夜に抜け道通って図書室に引き返して、こっそり下水に捨てたんだ。かなり重労働だったけどな、処理班が使ってる死体搬入用のゴルフバッグをぱくったから血痕も残さずにすんでラッキーて感じ」
 一瞬にして目が醒める。
 「四肢切断後に捨てたんじゃないのか?」
 「いちいちんなめんどくせーことするかっての、放っとけばどうせ死ぬやつ相手に」
 「じゃあ誰が死体を切り刻んだ」
 「ワニじゃねーか。昔は虫類マニアの囚人が房でこっそり飼ってたけど始末に困って便所に流したのが成長したって噂だぜ」
 「バカなことを言うな、下水はワニの生存に適さない。第一餌がない」
 「ミュータントタートルズみてーに突然変異したんじゃねーか。都心からやべー廃液も流れ込んでくるしな、ここ」
 「暴君」
 違和感が徐徐に明確な形を取り始める。
 暴君が顔を上げる。
 面と向かって名前を呼ばれるのはじめてといった新鮮な反応だ。
 「何故それを知っている?」
 「なに?」
 「何故下水道にワニが放たれた事や都心から廃液が流れ込んでくる事を知ってるんだ」
 暴君が困惑する。
 「俺がこいつだからに決まってんだろ。ずっとこいつん中に入って見聞きしてたんだよ、東京プリズンに出回る色んな噂を」
 「ずっと眠っていたのにか」
 「抑え込まれてただけで眠ってたわけじゃねー」
 「主人格より分裂した人格は表面化しない時も潜在し、主人格の行動の一部始終を記憶している。主人格より派生した人格はその点主人格より高位に属するといってもいい」
 「なにが言いたいんだよ」
 声に微妙な変化を感じとる。
 嬉嬉とした笑みを浮かべていた暴君の表情に不安の影が揺らめき、こちらを見返す隻眼に戸惑いが浮かぶ。
 ずっとひっかかっていた。
 暴君が自分こそ主人格だと、本物のレイジだと宣言したあの瞬間からずっと違和感を抱いていた。
 彼が主人格だと仮定するとどうしても矛盾が発生する。
 「君が主人格なら人格交代時の記憶は空白になっているはずだ。なのになぜ、すべてを知り得ている?」
 愛撫の手が止まる。
 「それこそが君が本物のレイジではない証拠、レイジが作り出した別人格である証だ。君は内側からずっとすべてを見てきた、レイジの目を通し行動を把握してきた。そもそもそれがありえないんだ。本来の人格に交代現象がおきたのならその間の記憶は欠落する。記憶の維持は不可能だ。別人格が表面化してる間本来の人格は眠りに就く、自分が多重人格だと知らないで」
 「だからなんだよ」
 「目覚めてるのはおかしいんだ。一番最初に生まれた基礎の人格は、後続の人格と交代する際に必ず眠る。元に戻れば記憶をうしなう」
 「だからなんだってんだ」
 「なぜなら多重人格とは負荷に耐えかねた精神がストレスを肩代わりさせるべく生み出した身代わりで、副人格が表面化してる間主人格は休眠するのが原則……」

 「俺は、身代わりなんかじゃねえっ!!」

 衝撃が脳を貫通、視界に閃光が爆ぜる。
 轟音が耳を聾する。
 死を自覚した。それ位の衝撃だった。
 しかし現実には死んでいなかった。
 鼓膜を破って耳小骨を破片に変えんばかりの轟音は、銃身で頭を殴打された衝撃だった。
 均衡を失った体が固く柔らかい物の上に倒れこみ濛々と煙が上がる。
 視界を覆う石灰の煙の向こうに影が立つ。
 体の脇に銃を下げた暴君が、途方にくれて立ち尽くしている。  
 頭が痛い。
 殴られた箇所がひりつく。
 血が出てるか確かめようにも体が痺れて動かない。
 セメント袋の破れ目から舞い上がった石灰が服を真っ白に汚す。
 髪も顔も服も靴も石灰に塗れ真っ白に染まったみっともない僕の前髪を掴み、強引に顔を上げさせる。
 「口を開け」
 命じられた通りに口を開ける。
 「舐めろ」 
 歯をへし折らんばかりの強引さで銃口を抉りこまれる。
 銃口がガチリと歯に当たり脳天に痺れが走る。
 顎が外れんばかりに口を開き、固く太い物を受け入れる。
 ぎこちなく舌を這わせれば鉄と石灰の味がした。
 「いいザマだな、キーストア。固くて太い物を舐めるのは得意だろ?売春班でさんざん咥えこんで来たもんな、上と下の口に」
 暴君が笑う。
 笑いながら手を捻り口の中にぐいぐいと銃を押し込む。
 喉の奥深く押し込まれて吐き気が襲うも舌を押さえられ吐き出せない。
 銃口が口腔を蹂躙する。
 固い鉄が歯に当たり舌を削り柔らかな粘膜をこそぎおとす。
 僕は何もわからぬまま必死に銃を舐める、口を窄めて咥え込み舌を蠢かせ固くて太い鉄の塊をペニスに見立て売春班で仕込まれた手管を実演する。
 「っあ、ふぐ、あぐ……」
 右手を銃に添え、左手で導く。
 暴君の手ごと銃を引き寄せ深々咥え込む。
 石灰を塗した髪が両目に垂れかかり視界を遮る。
 鉄の味が舌を突き刺す。
 ほろ苦い火薬の味が爆ぜる。
 火薬には興奮作用がある。
 僕の体が火照っているのはそのせいだ、舌の上で溶けた火薬が神経を昂ぶらせているのだ。
 両手に持った銃を夢中で舐める。
 飴玉を転がすように舌先を丸め、踊らせ、無機質な鉄の塊がバターのようにふやけるイメージを思い描く。
 溶けた鉄が舌先に広がるさまをイメージし、酸のように濃厚な唾液を絶えず分泌しては舌先で執拗に塗りつける。
 端から端まで余さず唾液でぬらしべとつかせ、淫らに舌を這わせ固い下腹を何度も擦る。
 銃身を伝った唾液に暴君の指までも濡れそぼつ。 
 「美味いか」
 ランプの光を受けた笑顔が邪悪な企みを孕む。
 引き込むように捧げ持った銃をねぶりながら途切れ途切れに答える。
 「苦い味がする……舌がひりひりして……頭が、朦朧と……全身の皮膚がぴりぴりして……変な、感じだ……」
 石灰と火薬を調合し唾液を足せば、それは媚薬となる。
 夢中で銃を舐める。
 口に入ってる物が巨大な男根だと自己暗示をかけ、被虐願望を充たす。
 固くて太くて黒いペニスの代用物を口一杯に含み出し入れを繰り返し両手でしごく。
 それこそ一心不乱といっていいなりふりかまわぬ必死さでどんな男のものより固く屹立した鉄の塊に上から下へと波打つ舌を這わせる、その固さが錆びた味が舌を刺す火薬の刺激が神経の昂ぶりを促進し発火したように体が熱くなり悪寒とも快感ともつかぬさざめきが血管を音速で駆け巡る。
 前触れなく銃を取り上げられる。
 粘ついた糸引き口腔から引き抜かれた銃を追い、虚空に手を泳がせ前傾する。
 「物欲しげな顔しやがって……随分お気に召したみてーじゃねーか、これが」
 「返してくれ」
 「返してやるよ」
 衝撃が来る。
 露骨な嘲りの言葉とともに足で蹴って僕の体を裏返す。
 セメント袋の上に這った僕の背に影が接近、暴君がズボンと下着を掴んでずりおろす。
 裸の尻にひやりと外気がふれる。
 下に撒かれた石灰のざらつきを剥き出しの腿に感じる。

 なにも考えたくない。
 もっともっと快楽が欲しい、なにも考えられなく位気持ちよくなりたい。
 死ぬほどの苦痛か死ぬほどの快楽か、すべて忘れさせてくれるならどちらでも構わない。

 セメント袋に身を預けて肩越しに振り返れば、たっぷりぬれた銃口で僕の尻を割った暴君が、ランプの光に照らされ悪魔のように笑っていた。
 生まれ持った褐色に映える白い歯を零し、演技と知っていても愛さずにはいられない無邪気な顔で。
 いつでも引けるように引き金に指を添え、鳥肌だった腿を銃口でなぞり、いやらしく濡れ光る唾液の筋をつける。

 「ロシアンルーレットの続きは『中』でやるか」

 この男は本当に狂っている。 

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050213051624 | 編集

 直が帰ってこない。
 「……………遅い」
 囚人が続々と帰棟し廊下は賑わい始める。
 活況を呈す廊下とは裏腹に、片隅の房には陰気な気配が立ち込めていた。
 格子窓から漏れ出す瘴気じみて陰鬱な雰囲気に行き交う囚人が一様に迂回路をとる。
 房の主は一人ベッドに腰掛けていた。
 もはや顔と同化した眉間の皺もいつもより深く、一文字に引き結んだ口元から立腹が伝わる。
 泣く子も黙る仏頂面の青年は一人ベッドに腰掛け、何をするでもなく虚空を睨む。
 正確にはその視線は対岸のベッドに投じられている。
 いまだあるじの帰らぬからっぽのベッドだ。
 ペンキが剥げ落ちて錆びた鉄格子を晒した中古のベッド。
 使い古しの毛布はきちんと畳まれ、枕は頂点に置かれている。
 神経質なまでに完璧な整頓ぶりが持ち主の几帳面な性格を物語る。
 青年は寡黙に腕を組み、あるじ不在のベッドに苛立った視線を注ぐ。
 見慣れた房の風景がどことなく物寂しいのは、いつもいる人間がいないからだ。
 この時間帯は対岸のベッドに腰掛けて大人しく本を読むか、洗面台に立って靴を洗っているはずの同居人の姿が今日はない。
 どこにもない。
 わずかに残る痕跡は枕元に残された読みかけの本と、使用の痕跡を一切残さぬ程に整頓の行き届いたベッドのみ。
 直のベッドはいつも失踪準備は万端といったふうによそよそしく整っている。
 極度の潔癖症にして病的な神経質、何事も完璧にこなさければ気がすまぬ直は毎日ベッドの手入れを怠らない。
 起床してすぐに毛布を畳み平手で細心の注意を払いシーツの皺を伸ばし仰臥の際に後頭部が来る場所に枕を置く。
 毎朝行われる朝の儀式は一年と半年を経て習慣となった。

 直が帰らない。
 ベッドは依然からのままだ。

 「どこをほっつき歩いておるのだ、あいつは」
 憤懣やるかたないといった様子で押し黙り、帰りを待つ時間は刻々と過ぎ、明鏡止水の心に一雫の波紋を投じる。 
 波紋は次第に大きくなり、不吉な予兆を孕んで水面がさざなみだつ。

 動揺している?この俺が?
 まさか。

 自問自答に自嘲する。
 心頭滅却すれば火もまた涼しが真実であるとサムライは誰よりもよく知っている。
 物心ついた頃より過酷な精神鍛錬を積み上げ忘我の境地を会得し、いつしか平常心を乱すことはなくなった。
 少なくとも自分ではそう思っていたのだ、ほんの一年と半年前までは。

 直が来てすべてが変わった。
 直との出会いがすべてを変えた。

 サムライは一人ベッドに座る。
 竹のようにすっきりと背筋を伸ばし、端然たる居住まいで座り続ける。 
 裸電球は点けない。
 日はとっくに沈み、房の中は薄暗い。
 対岸のベッドはおろか自分の手元さえも影に沈んでいる。
 それでもサムライは明かりをつけに立たず、排他的なまでに片付いたベッドを放心の体で見詰め続ける。
 「直」
 名を、呼ぶ。
 胸が痛む。
 ながらく忘れていた痛みだ。
 こんな痛みがまだ自分にあったとはと恥じる。
 苗が死んだ時に振り切ったはずの痛みが、再び甦ってこようとしている。
 惰弱なおのれを憎んで否定し超克したはずの感傷的な痛みが、今再び胸を内側から食い荒らして茫漠たる空洞を広げていく。

 固く目を閉じる。
 瞼裏の闇に自我を没し、深く深く潜水する。

 閉じた瞼の裏側に昨夜の情景が浮かぶ。
 湯気に覆われたシャワー室、水溜りを跳ね散らかし駆け付けたサムライの眼前に現れた直。自暴自棄に開き直った醜悪な笑み、一片残らずプライドをかなぐり捨て腕を伸ばしてきた時の戸惑いと怒り。
 シャワーにうっすらと上気した肌の淫らさから必死で目を放し誘惑を拒むも、直は積極的にサムライの上にのり、慣れた手つきで股間をまさぐるまねまでしてみせた。
 悩ましい媚態に煽られ、技巧を凝らした手管により使い物に足る状態に仕立て上げられた性器は、今にもはち切れんばかりに雫を滴らせていた。

 熟した男根にしっとりぬれた手がふれる。
 艶かしい手つきで男根をこすり、まさぐり、ふぐりを揉みほぐし。

 そうして直は、サムライの知らない顔で笑った。
 理性を飲み込むおぞましい顔で笑った。

 「…………いかん」
 湯気が晴れれば房にいた。
 かぶりを振って回想を断ち切る。
 現実に帰還したサムライは、自分が今座るベッドを見下ろし、昨夜の名残りを求めるようにシーツをなでる。
 「あれは夢だったのか」 
 夢ではない。
 夢ではない証拠にくっきりと痣が残っている。
 無意識に首に手をやり軽くさする。
 火傷の痕も痛々しい首筋に鬱血の痣ができている。
 今朝鏡で確かめた時は、まだ夢を見ている心地がした。
 現実と夢の境があやふやとなって、夢の中で与えられた痣を現実まで持ってきてしまったような錯覚が襲った。

 昨夜の眠りはやけに重苦しかった。
 胸に重しがのしかかっているようで呼吸ができず、もがけばもがくほどに沼の深みに嵌まりこむ悪夢にうなされた。
 息ができぬ苦しさに一瞬目を開ける。
 苦痛にぼやけた視界に捉えたのは、直。
 その時は夢と現実の区別がつかなかった。
 なぜ直が自分の上にのっかっているのか、前後関係が皆目把握できなかった。
 あるいは幻覚だろうか。
 直に欲情しながらも決して抱けぬ矛盾に苦しめられ、信念故に求めに応じられぬ葛藤に苛まれあんな夢を見たのかもしれない。

 その時はそう思った。

 直の手は首にかかっていた。
 こちらを見下ろす目はひどく冷たく、あらゆる感情が欠落していた。
 首に食い込む指が容赦なく気道を圧迫、呼吸を妨げる。
 これは夢だろうか。
 夢にしてはやけに生々しい。
 酸欠で朦朧とした頭でサムライは考える、つらつらと考えながらも手を払いのける気は一切おきなかった。
 自業自得だ。当然の報いだ。
 耳に呪詛の余韻が残っている。
 サムライは最初から抵抗せず直の手に身を委ねた。
 容赦なく喉を締め上げられ顔が充血する。
 直はそのさまをじっと観察している。
 冷ややかな眼差しでもってサムライが酸欠に陥りゆく過程を観察、首に回した手の力を強める。
 昔に戻ってしまったような無表情に胸が疼く。
 出会ったばかりの頃の直とまるで同じ顔だ。人を人とも思わず、あくまでモルモットとして接していた頃の傲慢な色が眼鏡越しの目に浮かんでいる。
 とても、痛々しかった。
 直は極限まで追い込まれていた。
 直を追い込んだのは俺だ、とサムライは自覚する。
 啓示に打たれたように自覚する。
 なぜ抱かない?本当は抱きたいくせに。
 甘い誘惑が無防備な耳孔に溶けた鉛のように流し込まれる。

 シャワー室で直を拒絶した。
 抱いてくれと懇願する直を、おもいきり突き飛ばした。
 シャワーに打たれ蹲る直をその場にひとり残し逃げるようにシャワー室を後にした。
 扉を後ろ手に閉めた途端、あのままでは風邪をひいてしまわないかと憂慮するも、意志の力で未練を断ち切って足早に立ち去った。
 否、断ち切れなかった。
 憤然たる大股で廊下を歩きながらずるずると未練を引きずり、今ならまだ遅くはない、今ならまだ引き返せると頭の片隅で囁く声を意固地にねじ伏せた。
 直に対し怒りを抱いてもいた。裏切られたと思ってもいた。
 自分を粗末にするなとあれだけ言ったのに聞いてなかったのかと、俺の言葉は届いてなかったのかと、自暴自棄な振る舞いに幻滅した。哀しかった。口惜しかった。
 様々な感情が混沌と湧き立ち、胸がざわめく。

 どうしてわかってくれないんだ、直。
 お前を傷付けたくないという俺の気持ちを。

 絶望的な怒りが胸を蚕食する。
 大胆に跨った全裸の直を思い出し、耐え難い恥辱に体が火照る。

 直は売春班でさんざん男の慰み者にされた。
 汚れた欲望の捌け口にされ、壊れる寸前までいったのだ。

 どうしてそんな直を抱ける?
 いまだに売春班のトラウマが癒えず、毎晩悪夢にうなされる直を抱くことができる?

 直自身は気付いてない。
 気付いていないのかもしれない。
 売春班の悪夢にうなされている間中自分が口走っていた言葉を、脂汗にぐっしょり濡れそぼち叫んだ言葉を。

 「………許してくれ……もう入らない……もうできない……やめてくれ、やめてくれ……股関節が脱臼する……下肢が裂ける……寝かせてくれ……頼む、眠らせてくれ……三十分、いや十分、五分でいい……目を、閉じさせてくれ……目を閉じるのを許してくれ……眠りたい、ただそれだけだ……起きたらまた続きをやる、だから今だけは……」

 直は夢の中でも眠れない。
 束の間の夢の中でさえ、安息をえることができない。
 眠りながら眠りを欲し、虚空に向かって掠れた声を紡ぎ、忌まわしい悪夢に溺れてシーツを掻き毟る。 

 売春班では睡眠さえろくに与えられなかった。
 何人何十人もの男を相手にし心身ともに疲れきっていても更なる奉仕を強制された。
 サムライは何度も目撃した。
 直がうなされるところを。 
 眠りたい眠りたい眠らせてくれと憑かれたように懇願し、夢の中でさえ眠る事を許されず体を酷使し心をすり減らし、きつく閉じた目の下に憔悴の隈を作っていた。

 眠りに飢える直を前に、どれだけおのれの無力を呪ったことか。 
 顔もわからない名前もわからない定できない、それでも直を犯した囚人全員を見つけ出し殺したい、ペア戦のリング上でタジマにしたように滅多打ちにしたい。
 何度木刀を手に駆け出しかけたか。
 深夜の廊下を駆け回り房の扉を片端から乱打し、寝惚け眼をこすってのろのろ出てきた囚人をひっぱりだしてお前が直を抱いたのかと詰問し、首肯すれば即座に殴り殺す。
 武士の信念も矜持もこの激烈な殺意を抑える事はできない。
 直を傷付けたもの全員に対する、直を守れなかった不甲斐ないおのれに対する、業火のような殺意。

 眠りながら眠りに飢え憔悴していく直。
 痛々しいほどに蒼ざめた顔に手をさしのべる。
 汗を拭うのに使った手ぬぐいは絞れるまでにぐっしょり濡れそぼった。
 サムライは直の手をとり、額に押し付けて願う。 

 「俺がついているから大丈夫だ。安心して、眠れ」

 耳元で優しく宥め、冷えきった手を擦って温める。
 何度も、何度も。
 額に押し当てた手に体温が移り、次第に温かくなってくる。
 直の上から悪夢が去るまでサムライは毎晩そうした。
 傍らに跪き手をとり、額に押し付けて安眠を念じた。
 サムライが暗示をかければ直の寝顔は不思議と安らかになり、苦しげな呻きもなりをひそめ、規則正しい呼吸が回復した。
 汗で濡れそぼった前髪が額にかかる寝顔は、虚勢がすべて剥がれ落ちてひどく幼かった。

 直が愛しい。
 この手を放したくない。
  
 直を守りたかった。
 直はサムライにとって何をおいても守り抜く対象だった。
 サムライが愛した女は死んだ。自ら首を吊り黄泉へと旅立った。
 苗を殺したのは、俺だ。
 俺の無知が苗をそこまで追い込んだんだ。
 苗を死に追い込んだ自分の無神経をどれほど呪った事だろう、憎んだ事だろう。
 苗はひとり苦しみに耐えて耐え抜いて耐え切れずに死んだ。

 俺が抱いたから、苗は死んだ。
 同じ過ちは犯したくない。

 「…………結局この手は、人殺しの役にしか立たんのか」
 深々と刀傷が穿たれた掌を見下ろし、口の端を歪め自嘲する。
 俺は人殺しだ。
 武士だなんだと美名で飾っても、突き詰めればただの人殺しだ。
 既に肉親をふたり殺している。
 目を閉じる。盲目の闇に愛憎半ばする肉親の面影が去来する。
 苗の優しく淑やかな微笑み、静流の艶かしい笑み。
 似て非なるふたつの微笑みは胡蝶の見た夢の如く、泡沫の如く消える。 

 「俺が抱いた人間は、皆死ぬ」

 俺を残して死ぬ。
 苗も静流もそうだった。
 サムライが肌を重ねた人間はいずれも非業の死を遂げた。
 苗は禁忌を犯した罪に苦しみ首を吊り、静流は夜叉の如く狂い果て業火に身を投じ。
 人を守る為に剣を磨いてきたつもりが、いつしか人殺しの剣を身に付けていた。
 人殺しの剣をとる手も知らぬまに瘴気に冒され、抱いた人間を死に誘った。

 こんな不浄な手で、直を抱けるか。
 こんな不吉な手で、直を抱けるか。

 愛した人間の命を奪ってきた手で、血と瘴気に毒された忌まわしい人殺しの手で、直を抱けるはずがない。
 俺が触れた人間は命をおとす。
 苗も静流も逝ってしまった。
 一族のほぼすべてが滅んだ今、帯刀家が何百年と背負ってきた人殺しの業は唯一の生き残りにして正統な後継者たる帯刀貢の上に収斂し、災厄の因果を編んであらたな犠牲者を生み出そうとしている。

 これ以上愛したものを失いたくない。
 不用意に抱いて、失いたくない。

 まんじりともせず掌を凝視する。
 直の柔肌とは異なるなめし革のように強靭な手。
 左掌には幼少のみぎりの刀傷がくっきりと残っている。
 納刀の際にできた傷痕だ。
 ごつごつと節くれだった手はお世辞にも綺麗とは言えず、至る所に新旧大小の傷痕が刻まれている。
 木刀の振りすぎでできた豆は固く、何回も皮が捲れて肉が露出した掌は角質化している。 
 「…………無骨な手だ」
 長年の修行の跡が刻まれた手を見詰めて慨嘆する。

 人をいつくしむより人を殺すのが似合う手だ。
 直を抱くにはふさわしくない。

 直はまだ帰らない。
 廊下の人波も引き始めている。
 そろそろ食堂への移動を開始する時刻だ。
 おかしい。
 胸のうちに蟠る不安が現実に孵化しようとしている。
 「……図書室に寄り道しているにしても帰りが遅すぎる」
 不安を言葉にすれば不吉な予感がさらにいやます。
 なぜ帰らない、直?
 ここにはいない同房者に問いかける。
 裸電球も点けぬ暗闇にひとり残されたサムライは、首筋の痣をなで、沈痛に面を伏せる。
 「…………そんなに俺と会うのがいやか」
 直が帰ってこない理由はおのずと察しがつく。
 昨夜の事を気に病んでいるのだ。
 プライドの高い直はサムライと顔を合わすのを避け、強制労働が終わっても房に直帰せず、どこかで時間を潰しているのだ。

 サムライは直の面目を潰した。
 シャワー室で仕掛けられた誘惑を一蹴、ひややかに突き放した。
 頭を冷やせと無慈悲に言い捨て、頭からシャワーの水を浴びせ掛けた。
 プライドを完膚なく蹂躙するに等しい所業だ。
 サムライとてわかっている、直が極限まで追い込まれとった行動だと熟知している。
 どうにもならない衝動を持て余し、優柔不断なサムライに対する不満を爆発させたのだとわかっている。

 わかっていてなお、目を瞑った。
 直を全裸で放置して逃げ出したのだ。 

 首の痣は、罰だ。
 昨夜目が覚めた時、直が上にのっているのを見ても驚かなかったのは心の片隅で漠然と成り行きを予知していたからだ。

 心はひどく落ち着いていた。
 静かだった。
 明晰な諦観が心を支配する。
 直に殺されるならそれもいいと
 俺を殺して直が満足するならそれもいいと、思った。 

 俺は直を抱けない。
 抱きたくても抱けない。
 直はそれで苦しんでいる。
 直をここまで追い詰めたのは、俺だ。
 ならば自業自得だ。絞め殺されるのは当然の報いだ。

 頭は朦朧としていた。
 系統だった思考を紡ぐのは不可能だが、漠然たる印象の断片が過ぎり、サムライはその時点で死を覚悟した。
 ただひとつ、直の頬がひどく蒼ざめているのだけが気がかりだった。
 闇の中に一際くっきりと浮かび上がる頬は冷たく強張り、一切の感情を封じ込めていた。 
 シャワー室に置き去りにした事を悔やむ。
 あれから何時間シャワーに打たれていたのか、外気に晒した頬はすっかり凍えている。
 体をベッドに横たえたまま、最後の力を振り絞って直へと腕をさしのべる。

 指先が頬にふれる。
 思ったとおり冷たい。
 指先から伝わる冷気が芯にまで浸透し、苦しい息の狭間から掠れた声を搾り出す。

 「………冷えてないか?」

 純粋に心配だった。
 それだけだった。
 打算も何もない、死に瀕しての本音。
 頬の冷たさに懸念を示せば直の顔が悲痛に歪み、急激に霞みゆく意識の彼方で首に巻かれた手がずるりと抜けるのがわかった。  
 死への恐怖や生への執着この世への未練、それらすべてをさしおいて咄嗟に出た言葉は、直の身を案じる腑抜けた言葉だった。
 目を閉じる間際に視界を占めたのは、絶望的な直の顔。

 「卑怯だ」

 ぽつんと闇に落ちた、力ない呟き。
 虚脱したようにベッドに座り込んだ直が、降参したように苦い笑みを浮かべる。

 「あくまで僕ひとりを破滅させる気か。まったく、友人甲斐のない男だ」

 首から手がはずれると同時に極限まで引き絞られた弦が弾けるように意識は途切れ、目覚めたら朝になっていた。 
 夢とも現実ともつかない奇妙な体験だが、首にくっきりと残る鬱血の痕が、あれは夢ではないとひりつく痛みを伴い訴えかける。
 今日は一言も直と言葉を交わしてない。
 互いに目が合うのを避けて房を出た。
 食事中も無言だった。 
 サムライの接し方は一線引いてよそよそしく、直の挙動は輪をかけて不審だった。
 直との間の距離が開いていくのがわかった。
 一年と半年かけて縮まった距離が、たった一日の間に取り返しが付かないほど開いてしまった。 
 直を捕まえ真偽を問いただそうにも、直はまるでサムライがそこにいないかのように扱い、現実が一切目に入ってないかのように虚ろな様子だった。 
 食事中も上の空で、箸の上げ下げにしろ惰性で動いてるような違和感がつきまとう。

 直、お前は。
 俺を、殺そうとしたのか?

 たった一言、その一言が重い。どうしても口にできない。
 口にしようとすれば心が挫け、疑心暗鬼に苛まれる。
 目に映る現実が不信の色に彩られ、これまで直と過ごした年月さえもが虚構じみて色褪せ、友と自負した直の事がわからなくなる。

 「………俺は優しくなどない。卑劣なだけだ」
 胸に凝る鬱屈を苦い吐息にのせ吐き出す。 
 俺は卑怯者だ。
 直の誘いに怯み背を向けた、どうしようもない臆病者だ。 
 濃厚な闇が忍び寄る。
 近隣の囚人は全員食堂に移動したらしく、廊下は物音ひとつなく静まり返っている。 
 隣り合った房の鉄扉が開け閉めされるのにも気付かなかった。
 物思いに耽っているまに時間は駆け足で飛び去ったらしい。
 直はいまだ帰らない。
 サムライは直を待ち続ける。
 廊下では煌々と蛍光灯が輝く。
 格子窓から射し込む光が剥き出しの床に線を刷く。 
 「………直」
 拳を額にあてがう。
 固く目を閉じ、藪蚊が沸くように立ち上る雑念を払拭にかかる。
 蚊柱が立つようにあとからあとから沸き立つ雑念を、額に強く拳を押し込んで封じ込む。
 懇々と込み上げる不安を押し殺そうと小声で般若心経を唱えるも効果はなく、神経が焼ききれんばかりの焦燥に悩まされる。
 明鏡止水の心が不穏にさざなみだつ。
 目を閉じれば昨日の残像が浮かぶ。
 シャワー室で目撃した直の裸身が、湯浴みで艶かしく上気した肌が鮮烈に思い浮かぶ。
 濡れそぼった髪が額にしどけなく纏わり、鼻梁に添って滑りおちた雫が顎先からしたたる。
 濡れ髪の隙間から覗いた切れ長の目がこちらをひたと見据える。
 『本当はこうしたかったんだろう。わざわざシャワー室にきておきながら、何もしたくないわけがないじゃないか』
 猫のように細めた目に媚態が宿る。
 「………………ちがう、俺は………」
 『劣情剥き出しの至近距離で僕の裸を視姦しておきながらいまさら聖人ぶるのか、君は。それとも何か、キスはいいのにそれ以外の体の接触は駄目だと?舐めるように僕の裸を見ておきながら自分だけは潔癖と言い張るつもりか』
 回想の中で直が嗤う。
 サムライの意気地のなさを嗤い下肢に這い上がってくる。
 勃つ。
 自身の体の変化に愕然とするサムライを、直は売春班仕込みの手管で翻弄する。
 『固くなってきたぞ』
 「……………………………っ」
 現実の体が、幻の愛撫に反応を示す。
 忘れようにも忘れられない、意志の力で断とうにも振り払えない記憶の残像が、サムライに取り憑いて彼の体を弄ぶ。 
 男根が急速にもたげ始める。
 意志の力でねじ伏せようにも禁欲に飢えた体は正直で、回想の直が淫らに嗤い、ズボンの上から慣れた手つきで股間をしごくたび男根が固くなる。
 固くしこった男根は、今やズボンの前をはち切れんばかりに突き上げている。 
 自制心を総動員し必死に抗っても、一度催した劣情は嵐のように身の内を席巻し、捌け口を求めて容赦なく下半身を責め立てる。

 男根が屹立する。
 ズボンの前がはっきりと隆起する。
 体が悩ましく火照りだす。
 額にふつふつと汗が滲む。
 閉じた瞼をも塩辛い汗がぬらす。
 脈拍が速くなる。
 心臓の鼓動が足並みを崩し、一瞬遅れたかと思えば速くなり、なにかがつかえたような乱拍子を刻む。

 「………………………直………」

 体が熱い。
 ズボンの前がきつい。
 手が無意識に伸びる。
 一瞬迷い、急いた手で下着ごとズボンを引きずりおろし下肢を露出。
 熱く脈打つ男根に外気がふれてひやりとする。
 赤黒い肉の色をした男根はしなやかな弾力を備え、腹に付かんばかりに雄雄しく反り返っている。
 苦痛の皺を眉間に刻み、懐から出した手ぬぐいを噛む。
 下顎に力を込めて噛み縛り、左手を根元に添え、右手で竿を握り、感覚を思い出すように軽くしごく。

 「………っう……」

 苦悶とも快楽ともつかぬ呻きが、噛み締めた歯の間からか細い吐息となって抜ける。
 少ししごいただけで電撃のような快感が脊椎を貫く。
 何をしてるんだ、俺は。
 朦朧と霞がかった頭で自問するも、手は止まるどころかさらに勢いを増し、直の手管を真似て緩慢に男根をしごきだす。
 直の手の動きを反芻、それをなぞるように分身を擦る。
 やすりがけるように根元から先端にかけ性急に摩擦、鈴口に滲んだ透明な汁を潤滑油にして掌にのばし、性感帯の隠れた裏筋を不器用になで上げる。

 噛んだ手ぬぐいが吐息と唾液で湿る。
 乾いた布の味が口腔に広がる。
 額にふつふつと汗が浮かぶ。
 顔には快楽よりむしろ苦痛の色が濃く、相反する葛藤に引き裂かれ沈鬱に歪む。

 『これでも欲情してないと言い張る気か』

 嘲笑が耳朶を突き刺す。
 きつく閉じた瞼の裏に直の笑みが蘇る。
 湯浴みで上気した肌は壮絶な色香を発し淫奔に男を誘い、濡れ髪のかかる切れ長の目は挑発の媚態を孕みサムライを傲然と見下ろす。
 しっとりぬれた手があやしく股間をまさぐる。
 淫猥な手つきに怖気をふるうも、同時に凄まじい快感が突き上げる。
 直の手を反芻し、直の息遣いを反芻し、自制を忘れて先走る手つきで男根をしごく。
 呼吸が荒く浅くなる。
 獣じみた息遣いのままに手の動きを速める。
 「………っぐ、ぅう……」
 思い出すのは直の顔、直の肌、直の声、直の匂い。
 眼鏡の似合う涼しげな顔も眼鏡を外した無防備な素顔も、きめ細かく滑らかな肌から匂い立つ清潔な石鹸の香りも、シャワー室で襲ってきたときの絶望的な顔までもが細部まで克明に輪郭を際立たせる。
 腕の中で小刻みに震える細い体を思い出す、華奢な肩と薄い胸板を思い出す、冴え冴えと白く脆弱な首筋を思い出す。

 欲望が燻る。
 直に、欲情する。
 心の底から直を欲する。
 苛烈な飢えにも似た欲望が容赦なくはらわたを締め上げる。
 しっとりぬれた直の声を、艶かしい唇の動きを連想する。

 『生殺しは辛いだろう』
 辛い。
 筆舌尽くしがたく、辛い。

 手は止まらない。
 即刻やめろと頭の片隅に一握り居残った理性が命令を発しても、飢えが苛んだ本能は逆走し、ますますもって刺激を強める。

 直の顔が、声が、匂いが、手触りが。
 指の隙間をすべる癖のない髪の感触が、上気した肌から立ち上る石鹸の香りが、腕の中で頼りなく震える体が。 
 すべてが愛しい。
 すべてが欲しい。
 抱きたい。抱きたくない。
 相反する気持ちが葛藤を生む。
 抱けば不幸になる。
 抱かなくても不幸にする。
 どちらを選んでも直は不幸になる。
 苗のように。
 静流のように。
 俺が抱いた人間は、皆死ぬ。

 瞼の裏に直の顔を想起し、一層強く剥き出しの男根を擦り上げる。
 ベッドがぎしぎしと鳴る。
 生臭い匂いが立ち込める暗闇に一人、ベッドに腰掛けたサムライは手拭いを噛み締め、若い精を持て余した自分を擦り切れんばかりに慰める。
 眉間の皺が深く深くなる。
 苦痛と快楽のはざまで無残に引き裂かれた顔は、嗜虐の欲望をそそるほどに蒸れた色気を醸す。
 喉仏をゆるやかに伝う汗さえ艶かしく煩悶し、禁欲的な忍苦の表情を一抹の恍惚にぬらし、根元から先端にかけ熱した掌で研磨する。
 「………はっ……………あ、ふ………直っ……………!!」
 脳裏で閃光が爆ぜる。
 押し寄せる高波に背中が反る。
 手の中の男根が不規則に痙攣し、先端の穴から白濁した精液が飛び散る。
 朦朧とした思考が明確に焦点を結ぶ。
 虚脱状態から醒めてみればそこは相変わらず薄暗い房で、向かいのベッドはそっけなく片付いている。  
 精を吐き出した男根はくたりと萎れ、手には粘ついた白濁が絡む。
 肩を上下させ呼吸を整える。
 白濁に汚れた手を虚ろな半眼で見下ろす。
 「……………………直」
 俺を、軽蔑してくれ。
 飢えに似た熱情が去れば、後に残るは倦怠感と罪悪感のみ。
 萎れた股間をそのままに悄然と項垂れる。
 手拭いで白濁を拭い、妄想の中で直を汚した慙愧と自責の念に打たれて深々頭を抱え込む。
 「俺は臆病者だ」
 声は暗闇に吸い込まれ消滅する。
 そのままどれくらいそうしていたかはっきりとはわからない。
 「南棟で暴動だ!囚人が武器もって暴れてるらしいぜ!!」
 暴動。
 反射的に立ち上がり、窓が穿たれた鉄扉を注視。
 慌しい足音が交錯、殺気だった看守たちが戦々恐々叫び交わす。   
 「マジかよそりゃ?どの程度の規模なんだ」
 「はっきりとはわかんねーけどかなりでかいらしいぜ。南棟はそれこそひっくり返るような騒ぎで、後先見ずに飛び込んだ看守が何人かやられたって噂だ。ただちに応援にこいとさ」
 「くそっ、ホセは何してんだ!?南のトップはあいつだろうが、ちゃんと手綱しめとけってんだ」
 「どうでもいいから早く、ぐずぐずしてたら全棟に飛び火するぜ!」
 看守らしき人影が怒髪天の勢いで警棒を振りかざし、格子窓の向こうを競って駆け抜けていく。
 看守の足音が絶えて暫くして、暗闇に凝然と立ち尽くしたサムライが言葉を発する。
 「……………暴動だと?」
 南棟で暴動が発生した。
 直はまだ帰らない。
 先刻から続く胸騒ぎが決定打をえる。
 一切の逡巡を吹っ切り、決断を下す。
 ズボンを引き上げベッドの下を探り木刀をとりだすや、焦燥がけしかけるがままに鉄扉を開け放ち、一陣の疾風と化して廊下を駆け抜ける。
 南棟の暴動と直の失踪に因果関係があるのか確信は持てぬが、直の身になにかがおきたのは事実だと直感する。
 直の帰りを待ち房で過ごした無為な時間が呪わしい。
 もっと早く行動すればよかったと判断の遅滞を悔やむ。
 「間に合ってくれ」 
 声にして念じ、飛燕の如き敏速で疾駆。
 自分の中に直と顔を合わせるのを忌避する気持ちがあったのを否定できない。
 昨夜の出来事を経た気まずさからあえて捜しにいかず、待っていればじきに帰ってくるだろうと高を括っていたのだ。
 「………俺は馬鹿だ。つまらぬ意地を張ってる場合ではないというのに」
 口惜しさにぎりぎりと歯噛みする。
 目指す場所もわからず、いてもたってもいられぬ衝動に駆り立てられて廊下を走り続けるサムライの眼前に、図抜けて巨大な影が立ち塞がる。
 「どけっ!!」
 さらに加速して声を荒げるも、相手が退く気配はない。 
 強行突破もやむなしと頭を低め前傾したサムライの耳朶を、そっくり同じ声が打つ。

 「レイジのところに案内しやがれ」
 「って凱さんが言ってる」 

 足首に抵抗を感じる。
 次の瞬間視界が反転、体が浮遊感に包まれる。
 均衡を失った体は前のめりに宙を滑り、あわや床と顔面接触と思いきや、素早く受身をとって床を転がる。
 振り返る。
 廊下にロープが張られていた。
 これに蹴つまずいたのだ。
 「油断大敵足元不注意っと」
 ロープの両端を持ってサムライを待ち構えていた囚人がのっそりと歩み出る。
 物陰から歩み出てサムライを挟み撃ちにした囚人にはいやというほど見覚えがある。
 残虐兄弟マオとユエ。
 勝ち誇ったような笑みを浮かべる二人の背後、剣呑な威圧感を発して歩み出た囚人は、分厚い筋肉で鎧われた体を怒気で倍ほどに膨らませ、暴虐の限りを尽くし街を踏み荒らす怪獣の如く、暴威を振りかざして咆哮を上げる。

 「ぎゃあああああああああああああああああああああああああす!!!」

 凱だった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050212175224 | 編集

 心地よい振動に揺られ夢心地でまどろむ。
 誰かが俺を抱いている。
 俺の背中に腕を回し膝裏に片腕をくぐらせ抱きかかえている。
 胸板に頭を凭せ掛ける。
 鉄くさい湿り気を帯びたシャツ越しに規則正しい鼓動が伝わる。
 波乗りのリズムで寄せては返すまどろみをたゆたい、胸板に頭を預ける。
 どくん、どくん。
 力強く轟く心臓の音がぬくい安心感を与える。
 耳から直接流れ込む鼓動は血流を介して一定の波長で体内に響き渡る。
 人体の七割は水でできてると鍵屋崎が言ってた。
 ならこれは俺の中の水がとぷんとぷん揺れてる音だ。
 鼓動に共鳴して内と外一緒に波打ってるからこんなに気持ちがいいんだ。
 寄せては返す波のような浮遊感に身を委ねる。
 指しゃぶりの赤ん坊にもどって羊水に浮かんでいるような安息に浸る。
 お袋の子宮の中で聞いた音に似ている。
 もちろん産まれる前のことなんか覚えちゃないが、お袋の腹にいた時に聞いていたのと同じ音が、細胞単位の本能に刷り込まれた郷愁を呼び覚ます。
 心臓が、鳴る。
 どくんどくんと鼓動を打つ。
 シャツ越しの胸板にぺったり頬をくっつける。
 体温を逃がさないように体を密着させる。
 汗臭い匂いが鼻腔をつく。
 鉄錆びた匂いがそれに混じる。
 小鼻をひくつかせ違和感を感じとる。
 何度も嗅いだことのある馴染みの匂いに誘われ薄目を開ける。
 視界がぼやける。
 ゆっくりと瞬きし、焦点をこらす。
 闇。延々と闇が続いている。
 どこだここ?
 空白の頭に疑問が浮かぶ。
 見慣れない景色に戸惑い、次いで漠たる不安を抱く。
 目を開けたら当然あると思ってた房の景色がない。
 配管剥き出しの天井と染みだらけの壁とゴキブリが這いずり回る不衛生な床とガタのきたベッド、あのお馴染みの光景がどこにもない。
 殺風景な房の景色が当然目に飛び込んでくると思ったら視界に映り込んだのは冷光灯の青白く不健全な光とひびの入った壁、陰惨に寂れ果てた暗渠の景観。
 ねっとりと濃厚な闇がそこかしこに蟠り、そこはかとなく不気味な気配を醸す。
 黄泉の旅路?んなまさか。鯨の胃の中だって言われたほうがまだしも説得力ある。眠気は晴れない。頭の芯にはまだ靄がかかっている。体がだるい。なんだかひどく現実感がない。俺が今ここにこうしていることにさっぱり現実感が伴わず、本当の俺は房のベッドで寝てるんじゃないか、これは夢なんじゃねーかという疑惑が晴れない。本当の俺は今も房にいてぐーすか眠ってるんじゃねーか、隣にはレイジがいるんじゃねーか?「相変わらず寝ぼすけだな。悪戯されても知らねーぞ」ってお気楽に笑いながら俺の鼻を摘んで起こそうとしてるんじゃないか?ほら、今にも音痴な鼻歌が聞こえてきそうな……
 ぱしゃ。
 鼻歌代わりに耳を打つ水音。
 だれかが水溜りを蹴散らす音。
 「!」
 顔を上げる。
 「道了……」
 道了が、いた。
 顔色は酷く蒼ざめていた。蒼白に近い。
 半眼に垂れた瞼は重く、薄く切れ込みを入れたような双眸は朧な光を放ち朦朧と澱んでいる。
 道了は歩いていた。
 惰性的な動作で足を繰り出し自分と俺と二人分の体重をなんとか運んでいたが、その足取りは今にも倒れそうに心許ない。
 水溜りに突っ込んでズボンの膝までびっしょりぬれても一切構わず、水溜りの存在自体意に介さず、もはや冷たさも寒さも感じないかのように無感動な様子で足をひきずっている。
 派手に水溜りに突っ込む。
 盛大な水柱が立つ。
 俺の頬にまで飛沫がかかる。
 道了は気にしない。
 ズボンと靴が見る影なく汚れても水溜りに踏み込むのをやめず、迂回して体力を削ぎ取られるくらいならと本能に駆り立てられ直進する。
 糸で繰られたマリオネットのぎこちなさ。
 とうに踊り疲れても四肢を縛す糸が倒れるのを許さない。
 歩みを止めさせるには足を切り落とすしかない。
 上着の肩に目をやる。
 見るも無残な銃創が穿たれた肩はどす黒い血で湿っている。
 左肩から左腕までぐっしょり濡れそぼり鉄分を含んで赤黒く変色し、背中を抱いた腕がぬるりとする。
 「あれからずっと、歩き通しだったのか?」
 驚きを隠せず、聞く。
 道了は答えない。
 口を開くのも億劫だというふうに気だるげな様子でこっちを一瞥もせず惰性的に足を繰り出す。
 横顔を見た限りじゃ俺の声が届いてるのかどうか判断付かない。
 疲労が極限に達し視覚聴覚のたぐいが麻痺しているのかと危惧するほど、道了の無反応は堂に入っていた。
 憔悴激しい横顔が何より雄弁に真実を物語る。
 道了は昨日からこっち俺を抱いて歩き通しだった。
 おそらくはひと時も休まず何かに憑かれたような執念深さで歩き続けていたのだ。
 目的地もなくひたすらに、肩から大量の血を流しながら。

 ここはどこだ?

 腕の中で跳ね起き弾かれたようにあたりを見回す。
 あたりは真っ暗だ。壁の照明は全滅。さっきまではひとつふたつ生き残ってた照明も今や完全に光の供給が途絶え廃墟の残骸と化している。
 払っても払っても払いきれない闇、どこからともなく無尽蔵に懇々と湧き出る闇に圧倒される。
 漸く晴れ始めた眠気の残滓の中から、輪郭の不鮮明な記憶を掴み取る。

 『はなせよ、はなせってば!畜生なんだって言う事きかねーんだ、なんだって俺の好きにさせてくれないんだよ!?俺が好きなのはレイジだ、お前じゃない、お前にさわられんだけで虫唾が走る!さんざん抱かせてやったんだからもういいだろうが、もう許してくれよ、解放してくれよ、俺をレイジのところに行かせてくれよ!レイジ、俺の声が聞こえてるか?いい加減へそ曲げんのやめて戻ってこいよ、俺だってひとりぼっちは寂しいんだよ、こんな恥ずかしいこと言わせんじゃねーよ!ホセ、いるか?お前なに考えてんだ、サーシャの兄貴さらってなにしようってんだ、これ以上お前の陰謀とやらに東京プリズンを巻き込むんじゃねーよこの色黒メガネ!!』

 下水道に殷々と反響する叫び声、
 伸ばした手の先で無情に遠ざかる背中。
 レイジと連れ立って歩き出した隠者に向かって俺を吠える、腹の底から声振り絞り憤激の咆哮を上げる。 
 けれどもレイジは振り向かず歩みを緩めることなく闇に溶け消え、後に残された俺は悔しくて悔しくて、込み上げる激情に翻弄されるがまま道了の腕の中でしゃにむに身をよじり暴れまくった。
 四肢をばたつかせひび割れた奇声を発しもがいてもがいてもがきまくって、道了の腕から飛びおりこけつまろびつレイジを追おうとしたが、道了は俺を抱きしめて放さず、レイジからむりやり引き剥がすようにして逆方向へと歩き出した。
 さんざ暴れ疲れた俺は極限まで張り詰めた糸が切れるように気を失って、目が覚めたら相変わらず道了の腕の中だった。

 悪夢。

 「汚い手でさわってんじゃねーよ」
 お袋と梅花を殺した手でさわんな。
 大人しく抱かれてるのがふいにたまらなくなる。
 激烈な拒絶反応を示し今度こそ飛び降りようとして異変を察する。
 視界が上下する。
 がくんと腕が落ちる。
 突如として道了の腕と膝が萎え、危うく俺をおっことしかけたのだ。
 「っぶ!?」
 派手に水溜りに突っ込む。
 飛沫をもろに顔に被る。
 なにすんだよと叫ぼうとして、悲愴な形相に息を呑む。
 道了の顔はほとんど妄執の域に達していた。
 顔は白く強張って、濡れそぼった前髪が垂れ落ちた半眼の双眸は焦点が合わずに朦朧とさまよい、全身から瘴気じみたオーラを発する。
 一歩ごとに容赦なく体力を削ぎ落とされ、歩幅が狭まっていく。
 「おい、道了………」
 道了は呼びかけに応じず、惰性が習性と化した夢遊病者めいて覇気の欠ける足取りで歩き続ける。
 道しるべ代わりの血痕を歩いたあとに点々と残しながら、行くあてもなく歩き続ける。
 一度立ち止まったらそれきり動けなくなる危惧に駆られ、回線がショートして動作に支障をきたしてもなお危うい均衡の上に地を踏みしめる。
 靴裏と床が擦れる耳障りな音が響き、道了が鈍重に足をひきずっているのがわかる。
 ぱしゃ、ぱしゃ。
 水溜りを弾き飛沫をしぶかせひたすら前へ前へと進む、もはや歩いてるとはいえずその姿は半死半生足をひきずっているように見える。
 二本足で立ってるのが奇跡に近い状態で前に進もうとすれば、必然無理が祟って衰弱の度合いが高まる。
 弾丸に抉られた肩だけでなく、許容量を超えた疲労を蓄積した内臓のダメージも深刻。
 生身の人間なら即ぶっ倒れてもおかしくない極限状態にしかし道了は驚くべき精神力でもって耐え続ける。
 何がお前にそこまでさせるんだ?
 「!?わっ、」 
 でかい振動が襲う。
 不可視の圧力でぶたれたように道了の体が傾ぎ、前のめりに倒れこむ。
 おっことされる。
 風が頬を切り急激に地面が近付く。
 衝撃を予期し固く目を閉じるも、俺の体はふわりと浮遊感に包まれ、当初の予想に反し至って穏便に着地。
 慎重に目を開ければ鉄錆びた血の匂いを発する腕が離れていくところだった。
 最後の力を振り絞り、できるだけ衝撃を与えないよう細心の注意を払って俺を下ろす。
 優しいと形容してもいいくらい静かで穏やかな手つきだった。
 名残惜しげに離れた手が虚空に垂れたかとおもいきや、次の瞬間。
 「……………っ、」
 肩で壁を擦るようにして道了が膝を屈する。
 「おい、大丈夫かよ!?」
 条件反射で叫ぶ。
 こんなやつ心配に値しねえ、どこで野たれ死のうが知ったことかともう一人の俺が反発するが、救い難いお人よしの上に度し難い馬鹿の二重苦なもう一人の俺が勝手に口を乗っ取って叫んでいた。
 あれこれ考えるより先に勢い良く立ち上がり、壁に寄りかかって膝を折った道了に駆け寄る。
 傍らに膝をつき顔を覗き込む。
 「ひでー顔色。汗でぐっしょりじゃねーか」
 額にふつふつと脂汗が滲む。ぐったり仰向けた顔はもとから白いのが輪をかけて蒼ざめて蝋人形と見まがうばかり。左腕がだらんと落ちている。最前まで俺を抱いて運んでいたその腕は役目を果たし終えたと言わんばかりに間接が伸び切って、今じゃ使い物にならない状態だ。
 こうしている今も傷口から滲み出た血がしとどにシャツに吸われている。
 一目見てわかる危険な状態。
 放っとけば命に関わる。
 「……………っ…………」

 だから?
 だからどうしろってんだ?
 梅花とお袋の仇を助けろってのか?
 冗談じゃねえ、なんだって梅花とお袋を殺したやつを助けなきゃいけねーんだ。 

 「……知ったことか。お前なんか勝手に失血死でもショック死でもしちまえ。いいきみだ、ざまーみろ。お袋と梅花にやったことのばちが当たったんだ、いい気味だよ本当に、せいぜい苦しみながら死にやがれ。なあ道了、手足の先からちょっとずつ冷たくなってく気分はどうだよ。自分の体から刻一刻と血が抜けてく感想聞かせてくれよ。一生に一度できるかできねーかの貴重な体験だ、今後の参考に教えてくれよ……」
 妙なふうに顔が歪むのがわかる。
 無理をしいて虚勢の笑みを浮かべたつもりが、どうやら上手くいかなかったようだ。
 顔筋が不自然に強張って、笑みというよりも痙攣の発作じみた卑屈な表情をさらす。
 「無視すんなよ。何とか言えよ」
 腹の底で沸々と激情が煮え滾る。
 汚れたスニーカーで膝を蹴る。
 反応なし。深々項垂れたまま気を失ったのか微動だにしない。
 まさか本当に死んじまったんじゃねーだろうな?
 再び爪先で小突いて反応を見る。……うんともすんとも言わねえ。
 壁に寄りかかった道了は銀のメッシュが入った前髪に表情を隠し、廃棄処分された人形の如く腱の伸びきった四肢を放り出している。
 「生きてんなら返事しろよ」
 静寂が鼓膜に染みる。
 俺の声はむなしく壁に跳ね返る。   
 暗闇に一人残されて今しも闇に輪郭が溶け込んで俺の存在が消えてなくなりそうで、強迫的な恐怖が暴走する。
 入り口も出口もない漆黒の闇の中、帰り道もさっぱりわからない下水道の片隅に取り残されるかと思うと恐怖が暴走し全身の産毛が逆立つ。
 俺を残していくな、俺を置き去りにするな。
 こんな暗くて冷たい場所にひとりぼっちでおいてくなおいてかないでくれ、お前が連れてきたんだからちゃんと責任とれ!
 喉元に罵声が殺到する。
 苛烈な叱責を浴びせようとして、舌がかじかんでいるのに気付く。

 しっかりしろ、俺。
 びびってる場合じゃねえ。 

 けれども足腰が震えて情けない話今にも漏らしちまいそうで、挫けかけた気力を叱咤し奮い立たせ発破をかける。
 「悪い冗談やめろよ。お前がこの程度の事で死ぬわきゃねーだろが、この程度でぽっくり死ぬような男が月天心の首領名乗れるわきゃねーだろが。聞こえてんだろ不死身の假面、お前の事だよ道了、今俺の目の前で呑気に居眠りしてる胸糞悪ィ面のお前だよ!悪趣味な遊びはよせよ、起きろっつたら起きるんだよ、こちとらお前のタヌキ芝居に付き合ってやるほど暇じゃねーんだよ!」
 手を伸ばし胸ぐらを掴み、力任せに揺する。
 手加減は一切しない。
 胸ぐら締め上げてがくがく揺さぶって怒号を浴びせても一向に目覚める気配はない。
 俺に揺さぶられがるまま、支えをなくした首を前後に激しく打ち振る。
 死に化粧が施された顔に不吉な予感が疼き、俺は道了がこんなあっけなく死んじまったなんてまさか嘘だろおい信じられねえ嘘だって言ってくれだれか、こんなふざけた幕切れ認められっか……

 「……………………ロ、ん」
 混乱した頭に、声が射し込む。

 「!?道了っ、」
 手を止める。
 胸ぐらを掴んだまま顔を上げる。
 蒼ざめた瞼がかすかに震え、薄く切れ込みが入る。
 ゆっくりと瞼が持ち上がり、苦痛に霞んだ金と銀の双眸が覗く。
 俺を認めた道了が開口一番言い放った言葉は……
 「うるさい、餓鬼だ」
 「………それでこそ假面だぜ。死に損なっても態度はでかいまんまだな」
 何とか息を吹き返したが、まだ楽観できない。 
 顔色は依然悪い。最悪と言っていい。
 瞼は半分以上持ち上がらず、血色の悪い唇から死期迫る喘鳴がもれる。
 不死身の假面として池袋中のガキに恐れられた男の姿はそこにない、いるのは無残にも腕がもげかけた人形だ。
 「痛いか?」
 「痛くは、ない……が、変な、感じだ……」
 「弾丸入ったままだもんな。放っとけば化膿しちまう」
 脂汗に濡れた髪が簾のように顔にかかる。
 道了の様態は刻一刻と悪化していく。
 このままだと峠を越せないかもしれない。
 それでなくても昨日からずっと歩き通しで体力免疫力ともに底を尽いているのだ。
 一秒ずつ命を零していく道了を前にむなしく手をつかね呟く。
 「なんとかしねーと……」
 けど、俺になにができる?
 医学の知識はさっぱりだ。
 包帯を巻くとか絆創膏を貼るとかそれくらいならできるがお世辞にも器用とは言えないし、切ったり縫ったりは大の苦手な部類。第一道具がない。メスも鋏もナイフもないのにちょちょいのちょいと切ったり開いたり三枚におろしたりできっか、仮に道具が揃ってたとしても人間の体をおろすなんざお断りだ。
 んなグロい真似できっか、想像しただけで気持ちが悪ィ。
 いくら俺の神経が図太くたってむりなもんはむりだ。
 この場に鍵屋崎がいたらと舌打ち、死に損ないを見殺しにするっきゃない現状にほぞを噛む。
 手にひやりと冷たい感触。
 「!」
 道了が俺の手を握る。
 氷みたいに冷たい手で俺の手を握り締め、その手を俺の方へと持ってくる。
 「ロン………」
 「なん、だよ」
 鬼気迫る形相に怖じる。
 抑えた剣幕に気圧され咄嗟に腰を引くも、道了の手が伸びて俺の細首を掌握するほうが早い。
 「っひ………!」
 首筋に冷気が染みる。
 死神の鎌を擬されたような心地がした。
 「弾丸を抜け」
 耳を疑う。
 道了の目はひどく真剣だった。
 嘘や冗談を言ってる気配はない。
 「抜くって………お前、正気かよ。麻酔もねーのに」
 「俺は痛みを感じない」
 「素手でやれってのか?傷口に突っ込んでぐりぐり抉れって?マゾかよ」
 「ナイフは持ってない。今あるもので何とかするしかない」
 押し問答が続く。
 俺は意固地に首を振る。
 嫌々と首を振って必死で拒絶の意を訴えるも道了はてんで取り合わず、諦念の域に達したように静謐に目を閉じる。
 「やれ。お前しかいない」
 「できねーよ……鍵屋崎と違って俺、医学知識なんてさっぱりだし。弾丸がどんくらい深く埋まってっかわかんねーし、もし俺が余計な事したせいでもっとやべーことになっちまったら……」
 「信用する」
 道了の口から出た言葉に唖然とする。
 愕然と立ち竦む俺の正面、焦熱の息を吐きながら道了がいう。 
 「どのみち放っておけば俺は死ぬ。ならお前に任せる。生かすも殺すもお前次第だ」
 毒性の強い誘惑が理性を奪う。
 シャツの下で心臓が沸騰せんばかりに高鳴り、道了の声が殷々と幾重にこも木霊を帯びて意識に浸透していく。

 お袋と梅花の仇をとるチャンスが与えられた、ほかならぬ道了のお墨付きだ。
 さあ、殺っちまえ。
 俺の手でとどめをさすんだ。

 憤怒が滾った目で正面を睨みすえる。
 道了は力尽き瞼を閉ざしたまま、近寄りがたい神聖さをも漂わせる達観の表情で言葉静かに促す。
 「香華と梅花の仇をとりたいんだろう」
 憎ったらしいほど落ち着き払った物言いに憎悪が爆ぜる。
 生への執着もこの世への未練もあらゆる葛藤を超克したところにある絶対的な平常心。
 死に瀕し見苦しい醜態を曝け出すこともなく、超然たる態度で俺を待つ。
 「……お医者さんごっこが趣味なんて知らなかったぜ」
 死と隣り合わせの顔に向かって毒づく。
 腹の底から沸々と込み上げる激情を深呼吸で殺し、出来る限り冷静さを保って接近を図る。
 上着の裾を掴み大胆に捲り上げる。
 大量の血を吸って赤黒く変色した袖を引き抜き、銃創が開いた肩を外気に晒す。
 「……………っ………」
 ひでえ。
 肩に穿たれた傷口を直視、顔が歪むのをおさえきれない。
 鉛弾がめりこんだ肩の肉は石榴みたいに爆ぜ、血管の脈動とともに断続的に血を噴く赤黒い断面を曝してる。
 薬品を完備した医務室ならともかく、黴菌細菌ゴキブリのたぐいがうようよしてる下水道で手当てしたら破傷風になっちまう。
 正直何も見なかったふりをしたくなった。
 何もなかったふりで上着を着させ袖を下ろし、綺麗さっぱり傷口を覆っちまいたかった。

 臆病だってわらうならわらえ。
 俺はブラックジャックじゃない。

 銃創に指突っ込んで弾丸とりだす度胸なんざ持ち合わせない、だいたいブラックジャックだってメスもハサミも糸もなしにんな無茶しねえ。
 患部に指突っ込んで治癒させんのはインチキ霊媒師のたぐいで間違っても医者の仕事じゃないし俺の役目じゃねえよくそったれ。
 顔を背けたくなる衝動を必死に堪え込み上げる吐き気と戦いながら傷口をつぶさに観察、深呼吸で意を決す。
 「……ちょっと痛いけど我慢しろよ」
 念のため耳元でささやく。
 道了は無言。
 生殺与奪の権を委ねきった潔い沈黙が癪に障り、憤然と腕を捲る。
 月天心にいた頃もここに来てからもさんざん酷い怪我を見てきた。見飽きるくらい見慣れてる。相当数俺自身が負ったし時には人に負わせた。
 東京プリズンに来てからこっちずっと医者の世話になりっぱなしだ。
 擦り傷や打撲は日常茶飯事、凱との試合じゃ肋骨だって折った。
 凱の太股に十字架を刺した瞬間の感触をまざまざ反芻、極大の生理的嫌悪と使命感といや立派だがその実たんなる負けず嫌いの意地が綱引きして瀬戸際で踏みとどまる。
 銃創に指突っ込むくらいなんだってんだ?
 ぜんぜん大したことねえ。
 もっと酷いもんいっぱい見てきたろ、俺は。
 目ん玉とくっつこうとする瞼を意志の力でかっぴろげ、ブラックジャックになりきって流血の惨状を直視。
 臆病心と躊躇をかなぐり捨て、右手の人さし指で軽く傷口のふちをなぞる。
 血の粘り気を指に感じる。
 正視に堪えざる生々しさと痛々しさに胃袋が収縮、酸っぱい胃液が喉元まで込み上げる。
 しっかりしろ、俺。
 事は一刻を争う。
 萎えかけた気力を奮い立たせて血の滴る銃創をすみずみまで検分、怪我の程度を把握。
 弾丸が埋まってる深さは大体五センチ程。
 止血もろくにせず数時間放りっぱなしの傷口はぱっくり開ききっていた。
 道了の無神経に乾杯。
 並の人間ならとっくに手遅れの状態、想像を絶する激痛に発狂してる頃。
 なお悪いことに弾丸は貫通せず肉の中に留まってる。
 肉にめりこんだ弾丸が血の流れを阻害し体内に毒を回す。 
 傷が化膿し始める前に手を打つ必要があると判断、目を閉じて心を落ち着かせ決断に至る。
 肉が爆ぜた傷口のまわりを円を描くように指で辿り、生唾飲んで覚悟を決める。
 「いくぜ」
 人さし指の先端に徐徐に圧力を加える。
 「!……………っぐ、あ、は」
 閉じた傷口を押し広げられる痛みに道了が呻く。
 傷口を穿った人さし指が肉の断面に触れる。
 意識を研ぎ澄まし指先に全神経を集中、細心の注意を払ってといいたいところだが残念ながらひとへの思いやりと繊細さが欠けた俺にはハッタリ利かせた荒療治しかできない。
 幸いというべきか否か荒療治には慣れてる。
 それだけが取り柄のクソ度胸を発揮し勘を頼りに指を突っ込む。
 医学知識もなにもあったもんじゃねえ、信用できるのは自分の勘だけ。
 色んなヤツの怪我を見て触って嗅いで学んだ経験則だ。
 俺自身の傷口を抉るような共感の痛みを堪え、頭の片隅にしぶとく居残る理性に縋る。
 異物の侵入を防ごうと急速に窄まる傷口をむりやり押し広げ、淡黄色の脂肪の層を突き破り、奥深く突っ込んだ人さし指を鉤の字に曲げる。
 傷口の中で指を動かし目的のものを探る。
 肩の筋肉が異物を排除しようと強張り抵抗するも、肉に埋めた人さし指を軽く曲げて血をかきまぜ骨とはちがう固形物をもとめる。
 気持ち悪ィ。
 柔らかい肉と固い筋とが指を包んで咀嚼するように収縮、血のぬるさと繊維が千切れる音だか感触だかに吐き気を覚える。
 指が骨にあたり、ささくれたしこりを感じる。
 銃撃の衝撃で肩の骨の一部が砕けたらしい。
 ともすると眩暈に襲われ座り込みそうになるのを根性で膝を支えねじ伏せる。
 「あぅ、ぐぅ、あっ」
 道了の顔が苦悶に歪む。
 扁桃腺が丸見えになるほど開いた口腔から棒きれのように突っ張った舌が覗く。
 「いっそ失神しちまえばらくになる」
 気を失ってくれたほうが俺としてもやりやすい。
 さすがの道了もここにきてとうとう余裕を失くす。
 傷口に直接指を突っ込まれほじくり返される痛みは想像を絶し脳神経を焼き切り許容量を大幅に超す刺激に飽和した痛覚が覚醒する。
 肉襞を押し広げ血を湧かす指先に、固く小さな塊が触れる。
 骨とは明らかにちがう金属の質感。
 「めっけ」
 最悪の気分を引き立てようと軽口を叩く。
 人さし指を曲げて取り込もうとしたが無理と判断、道了の顔色をうかがう。
 仕方ねえ。
 しっかりと歯を食いしばり胃袋を締め上げ逆流する吐き気を堪え、人さし指についで中指と親指の三本をむりやりねじ込み掻きだしにかかる。
 三本の指を呑み込んだ部位にみちみちと断裂が開く。
 道了の中は、熱い。
 熱くて熱くて蕩けちまいそうだ。
 熱く潤んだ生肉の温度が直接指に伝わって骨の隋まで溶かそうとする。
 額に滲んだ汗が目に滑り込み視界が歪む。
 噎せ返るような鉄臭に鼻腔が麻痺、汗と返り血と脂で顔中ぎらぎらぎらつく。
 毛穴に老廃物の膜が張って呼吸が窮屈になる。
 集中力が臨界点を突破、じりじりと脳が焦げていく音がする。
 そのうち耳から煙が出そうだ。さぞ愉快な見世物だろうさ。
 塩辛い汗が顔を伝う。
 上唇をぬらす汗を舌先でひと舐め、雑念を払拭し手術を継続。
 刺し込んだ指で患部を攪拌、指の腹でひしゃげた断面をなぞる。 
 ささくれた骨のしこりが指の侵入を邪魔する。
 三角筋が反射的に収縮、血と肉のぬかるみをかきわけ三本の指を奥へ進める。
 「ぐっあ、あ、は………」
 尋常ならざる量の汗が道了の顔を濡らし、鼻梁にそって流れ落ちる。
 「痛みを感じない」なんて口では強がってても傷口をぐりぐり抉られる痛みは強烈で、それこそ常人の何十分の一かに薄められていても痛みを感じてるのは確実で、それが証拠に道了の顔は極限の苦痛に歪んでいる。
 麻酔もなしに荒療治を受けてんだから当たり前だ。
 俺だってこんな事初めてだしこれが最初で最後にしたい、酸鼻の極みの銃創に手え突っ込んで弾丸さぐるなんざこれっきりお断りだ。
 道了の体が仰け反る。
 壁に背中があたり鈍い音が鳴る。
 声なき絶叫の形に開いた口腔から迸るのは、胃の腑を絞り上げるが如き壮絶な悲鳴。
 上下左右の肉が容赦なく指を圧迫する。
 呼吸に合わせ収縮する肉襞を三本の指でこじ開けて、遂にそれを掴む。
 慎重に慎重に、途中でおっことなさいよう細心の注意を払って抜く。
 粘着な血の糸引いて傷口から排出されたのは、先端のひしゃげた弾丸。
 虹色の脂膜に包まれてらてらと照り光ってる。
 「摘出成功」
 額の汗を拭いながら呟き、先端が潰れた弾丸を邪険に放る。
 床で一回跳ねた弾丸は放物線を描いて水路へ没し、再び静寂が舞い戻る。
 緊張の糸が切れどっと疲れる。
 凄まじい集中力を発揮し、指先に全神経を集中し弾丸の摘出を終えるも、まだ後始末が残っている。
 血と脂で濡れ光る手をズボンに擦り付け汚れをおとし、道了から引っぺがした上着を裂いて即席の止血帯を作る。
 「腕上げろ。そのままじっとしてろ。いいって言うまでおろすなよ」
 道了は大人しく従う。もう逆らう気力もないようだ。
 まるきり人形といった風情でお利口さんに左腕を持ち上げ、俺が包帯を巻き終えるのをじっと待つ。
 我ながらじれったいほどもたつく手つきで布の切れっぱしを二重三重巻き付ける。
 覆ったそばからじわじわと血が染み出す。
 布を染める血の赤さにぎょっとするも、努めて平静を装い最後までやり遂げる。
 包帯をきつく結び傷口を圧迫、処置を終える。
 「もういいぜ、おろしても。具合はどうだ」
 「………よくはない」
 「とりあえず生きてりゃ上々だ。命が助かっただけもうけもんと思え」
 皮肉な笑みを浮かべ突き放す。
 左肩に不恰好に包帯を巻いた道了は、ぐったり虚脱して壁に寄りかかる。
 傷口を穿り返す荒療治に耐え抜いた顔は精根尽き果てて衰弱の色濃く、相変わらず息は浅く荒く、大量の血を失った体は冷え切っている。
 壁に凭れ四肢を放り出した道了と向き合う。
 銀のメッシュを入れた髪が鼻梁に被さる。
 汗にぬれた髪の隙間から、瞼を持ち上げるだけでやっとといった眠たげな半眼がちらつく。
 純粋な疑問の色に染め抜かれた眼差しを俺の顔に凝らし、色のない唇を動かす。
 「………なぜ助けた?俺が憎くないのか」
 まっさらな子供のように物問いたげな視線、疲労の極地で放心した表情。 
 細めた双眸に不可思議な色を湛え尋ねる道了を、正面にうずくまり見返す。
 最前まで道了の中に突っ込んでた指に、なまぬるく柔らかい肉の温度と感触が残っている。鼻に近づければ血と脂の匂いが漂う。
 水溜りの横っちょの地べたに尻餅つき、霞がかった頭で答えを手繰る。

 どうして道了を助けたんだ?
 お袋と梅花を殺した男を、あんなに憎かった男を、殺したいほど憎んでいた男を?
 折角のチャンスを無駄にしたんだ?

 「まだ死なれちゃ困るんだよ」
 開いた膝に腕を乗せ、なげやりに吐き捨てる。
 続きを促す視線をまともに受けずそっぽを向く。
 摘出手術のため捲り上げた袖を下ろし手首まで覆い、呟く。
 「俺が殺すまで、お前に死なれちゃ困るんだよ」
 それしか理由はない。
 こいつを助けた理由なんて、それ以外にあるもんか。
 目の前でぴんぴんしてる道了にいまさらながらむかっ腹を立てる。
 自分でも理不尽だとわかっちゃいるが腹立ちはおさまらず、怪我人相手にほんの少し遠慮して不満をぶつける。
 「怪我で瀕死のお前を殺したって仇をとったなんて言えない。今ここでお前が死んだらとどめをさしたのはあのイカれた軍人で俺じゃない、許せっかそんなの、いきなりしゃしゃりでて人のえもの横取りしやがって!だから助けたんだよ、ちがう人間に殺されんのは癪だかんな」
 そこで言葉を切り、改めて道了を見据える。
 噴き上げる激情を辛うじて押さえ込み、憤怒に滾った眼差しを放ち、正面の道了めがけあらん限りの殺意を叩き付ける。
 「お前はおれが殺す。お袋と梅花の分まで二倍苦しめて殺してやる。俺に断りなく勝手に死ぬんじゃねーぞ」
 断固として言い切り、人さし指をつきつける。 
 立ち上がる気力はないから座ったまま啖呵を切って人さし指をつきつければ、虚を衝かれたような沈黙の後、深々俯いた道了が喉の奥でくぐもった声を発する。
 「………くっ…………」
 「く?」
 「ははははははははっ!」
 仰天。
 肩が不自然に上下したかと思いきや唐突に、全く唐突に道了が声をあげ笑い出す。 
 悄然と項垂れた次の瞬間笑いの発作が爆発、勢い良く仰向いて哄笑を響かせる。
 道了の笑い声を初めて聞いた。
 月天心にいた頃も終ぞ聞いたことがなかった。
 それを今、こんな所で聞くはめになるなんて。
 真っ暗闇に包まれた下水道のど真ん中にふたりぼっち、帰り道もわからない状況下で聞くはめになるなんてとあっけにとられる。
 「わっ、笑い事じゃねーぞ本気だからな俺は!なんだよなんで笑うんだよばかにしやがってこの馬鹿、何がそんなツボにはまったんだよ、なんもおかしーこと言ってねーだろが!?どっちかってーといい台詞だろ今のは、いや自分で言うこっちゃねーけどさ!?」
 しどろもどろに弁解する俺をよそに道了は箍が外れたように笑い続ける。
 勢い良く仰け反って天井を仰ぎ肩をひくつかせ、鋭く尖った喉仏を震わせ、假面の悪名とかけ離れた屈託ない笑い声を朗らかに響かせる。 
 下水道の壁と天井に殷々と哄笑が跳ね返り、ねっとりたゆたう闇をざわめかせる。
 お高くとまった人形ヅラもどこへやら、無邪気な笑いを弾かせる顔は普段との落差のせいかめちゃくちゃガキっぽい。
 気鬱を吹っ飛ばし静から動へと鮮やかに雰囲気を一新する痛快な笑顔。

 ああ。
 道了でも、こんな顔できるんだな。

 毒気をぬかれた俺の眼前、肩を上下させ笑っていた道了が急に顔を顰める。
 「!痛っ………」
 とうとう堪えきれず、俺も吹き出す。
 「笑いすぎなんだよ、ばーか。傷が開くだろーが」
 道了につられ久しぶりに声をあげて笑う。
 肩を庇い痛みを堪える道了を容赦なく笑いのめすうちに胸に凝る不安が晴れ渡り、気分が軽くなる。
 陰惨な闇がおおう下水道に二重奏の笑い声がこだまする。
 そういえば道了の前で声あげて笑うのは初めてだなとどうでもいいことに気付く。
 月天心にいた頃も東京プリズンに来てからも道了は俺にとって畏怖と忌避の対象で、廃工場のアジトに居合わせた時も房でふたりきりの時も常に緊張をしいられて、とても笑うどころじゃなかったのだ。
 道了は冗談言うようなキャラじゃねーし、俺だって假面相手に軽口叩くほど命知らずじゃねーし、こんなふうに無防備な素顔をさらして互いが親密だと勘違いしそうな距離で笑いあうなんて状況は今の今に至るまで皆無だったのだ。  
 久しぶりに声を出して笑う、遠慮会釈なく笑う。
 レイジと別れてからこっち芝居以外で笑うことがなかった顔筋がいい感じにほぐれ、俺本来の表情が戻ってくるのがわかる。
 「笑ってんじゃねーよ、なにがおかしーんだよ。とうとうここがいかれちまったのか、假面?今のお前の顔月天心のやつらが見たらどう思うだろうな、それこそ卒倒もんの衝撃だ。ほら言わんこっちゃない、あんま笑うと傷に障るぜ。笑い死になんてしまらねーオチ迎えたくなきゃほどほどにしとけっての」
 喉の奥で笑いを泡立て指摘すれば、肩を庇って前傾した道了がふいに真剣な声を出す。
 「ロン」
 「なんだよ」
 緩慢な動作で顔を上げる。
 苦痛の色が薄れ、安らかに凪いだ双眸がきっかりとこちらを見据える。
 「お前に話したいことがある」
 気迫に呑まれ笑いを止める。地べたに足を投げ出したまま固唾を呑んで見返す。  
 包帯を巻いた肩を庇い疲労困憊壁に寄りかかり、回復した呼吸の狭間から途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
 「梅花のことだ」
 斜め上の虚空に馳せた双眸が追憶の光に濡れる。
 「梅花の?」
 眉をひそめて聞く。
 道了は首肯もせず、見えないものを見るかのように底光りする目を闇に向ける。
 回想に没入し始めた道了の表情は次第に掴み所なく焦点が霧散し、諦念と許容が折り合った奇妙な表情が去来する。 
 今は亡き者へ黙祷を捧げるかのように瞠目し、
 盲目の闇に梅花の面影を投影し、 
 日々欠け落ちていく記憶の断片を繋ぎ合わせる作業に着手するかの如く、失われゆくものへの哀悼を込めた声音で語り始める。
 「俺と梅花の出会いだ」
 遺言だった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050211002027 | 編集

 「逃げたらとって喰うぞい」
 雨合羽を羽織った謎のおばあちゃんは背後にでんと踏み構えて退路を塞ぐ。
 「悪い魔女に生け捕りにされた可憐な処女二人ってかんじね」
 「君オトメじゃないし僕処女じゃないから」
 ぶりっこして耳打ちする貞子に釘をさす。 
 漆黒の雨合羽が魔女装束めいて似合いすぎる謎の老婆は僕らのやりとりを聞いてるのかいないのか泰然たる態度を崩さない。
 先頭の女の子ー確か梅花って名前だーが一段上に足をかけるたびに「大丈夫かい?」とはらはら気を揉んでる。
 そんな姿はまるっきり孫娘の体調を心配する世話好きばあちゃんだけど騙されちゃいけない、僕はまだ二人への警戒を解いてない。
 油断は禁物だ。
 なんたって僕が今いる場所はちょっと前まで存在すら明かされなかった未知未踏の領域、東京プリズン地下に広がる旧下水道奥の魔窟。
 魔窟。
 はからずもその表現は的を射てる。
 足裏に体重を乗せれば階段が不吉に軋む。
 よくよく注意して目を凝らせば壁も階段も傷んでいる。
 少なくとも築三十年は経過した老朽建築だ。
 壁に穿たれた換気用の窓から覗けば壮観の一語に尽きる混沌たる光景が広がってる。
 家々の窓から縦横無尽に張り巡らされたロープにひっかかった洗濯物が視界を埋め尽くし、上から下へ右から左へあるいは斜めに、幾何学的に交錯した梯子が住民の交流を助ける道の役割をなす。
 あえて似た光景を挙げるなら九龍城が近い。
 前世紀香港に存在したっていうスラムをそのまま移植してさらに無国籍にしたら街の景観が出来上がる。
 「なんなんだろーね、ここ……プリズンの下に街があるなんて初耳だよ?」 
 「私だって驚き桃の木ナッキーはつむじ風よう。こんなでっかい街があってなおかつ人が住んでるなら地上に雑音が聞こえてきてもよさそうなものなのに今の今まで全ッ然気付かなかったわ」
 しゃなりしゃなり腰をくねらせ練り歩きがてら貞子が頬に手をあて慨嘆。
 「同感。あんだけ人がいてよく気付かなかったもんさ。特にイエローワークの連中、あんだけ地面を穴ぼこだらけにしてんなら何か気付いてもよさそうなもんだけどよっぽど鈍感揃いなんだね。ロンはじめ」 
 イエローワークの顔ぶれを考えれば頷ける。
 ロンも凱もまさか自分の足元に一個の街があるなんて想像だにしないだろう。馬鹿だからね、あいつら。
 僕はといえば同じイエローワークでも特別待遇の温室組でかんかん照りの砂漠に出る事なんて滅多になかったし(だって自慢のすべすべお肌が焼けちゃうっしょ?)足元で起きてる異変にも気付きようなかったのだ。
 僕がビニールハウスで水播きしたり卑猥に曲がったキュウリやたわわに熟れたイチゴを収穫してる時も、足元で刻々と街が構築されてた事実を自覚、不思議な感慨を覚える。
 妙な気分に浸りながら急傾斜の階段を上る。
 「にしても長い階段だね、万里の長城並じゃん。ね~まだなのゴールは?」
 舌ったらずに甘えた口調で不満を訴える。
 「文句があるなら帰るがよろしい」
 すげなく一蹴され首を竦める。
 「んなこと言ったって無理だって、も手遅れってかんじ。大体帰り道なんかわかんないし、途中にはあの分厚い壁が立ち塞がってるし、いくら僕がインディ・ジョーンズ並の冒険家でも地上に生還するのは不可能だよ」
 「物分りのよい童じゃて」
 間延びした声で老婆が笑う……やな感じ。むかつく。人の不幸を嗤うなってママから教わんなかったの?
 呑気な老婆に反感を覚えながらも帰り道もわからぬ現状ではむかうのは不利と判断、不承不承つきしたがう。
 階段では声がこもって聞こえる。
 ここの住居は不思議な造りをしてる、みな壁の内部に埋め込まれているのだ。
 壁を掘り抜いた階段を黙々と上る。
 壁には落書きがあったり番地を示す札が貼られていたりと色彩にとんで賑やか。
 今何階だろ?……わかんない。
 途中ドアを見かけた。
 かなり古いタイプの合板のドアで横手にポストが埋め込まれてるけど需要あんのかなと疑問が過ぎる。ドアや壁の至る所にべたべたお札が貼られてる。
 なんのおまじないさ、これ?
 書いてある文字は意味不明、漢字を達筆に崩したような霊験あらたかっぽい札がおどろおどろしい瘴気を放って掲げられるさまはいっそ壮観。
 中の一枚に顔をくっつけしげしげと眺めやる。
 白地に抽象的な縁取りを施した朱文字が踊る短冊。
 「砕邪符じゃよ」
 「はじゃふ?」
 「簡単に言えば魔よけの札じゃ」
 おっかなびっくりお札をつつく。……反応なし。
 なーんだ、ちょっとどきどきして損した。
 「めっ。ばちあたりよ」
 貞子が怖い顔をする。
 「はあーい」とお利口さんに返事、指を引っ込める。
 にしても厳重な結界だ。
 こんだけ大量のお札が貼られてるならさぞかしご利益あるだろうなと呆れる。
 なんというか、がめつい。
 苦しい時の神頼みっていうけど欲張りすぎじゃないかなとひっかかる。
 第一気味が悪い。あちらこちら見渡す限りにお札が貼ってあるせいで魑魅魍魎が跋扈する魔窟めいて不吉な雰囲気に拍車がかかる。
 物珍しくあたりを見回しながら階段を上る。
 そろそろ息が切れてきた。
 もともと僕は体力がない。ちょっと走っただけで息切れする有様だ。
 覚せい剤のやりすぎ?……うるさい。
 とにもかくにも血の代わりにコカインが流れてる僕は、運動能力が殆ど絶望的で、終点に辿り着く前に階段の半ばでぶっ倒れそうな疲労困憊の相を呈する。
 「やーねーリョウちゃん、行き倒れたらおいてくわよ?」
 「貞子冷たい」
 「おんぶしたげよっか」
 「……やっぱ捨てといて」
 くわばらくわばら、どこに連れ込まれるかわかったもんじゃない。
 妊婦を水先案内人にした縦一列の行進は唐突に止まる。 
 「ここよ」
 三畳しかない踊り場に立ち、梅花ちゃんがおなかを庇って振り返る。
 飾り気けない笑顔に不覚にもどきっとする……長年の刑務所暮らしで異性に対する免疫力が思いがけず低下してたらしい。

 ああもう、しゃんとしろ。

 自分を叱咤し気を引き締めて顔を上げる。
 梅花ちゃんが立ってるのは一個のドアの前。
 他のドアと同じくやっぱりお札が貼られてる。
 達筆すぎて解読不能な漢字が連鎖する短冊を表札代わりに掲げたドアは、歳月を経てペンキが剥落しみすぼらしい地金を晒してる。
 ドアだけで中の様子が推察できる典型的な貧乏人の住まい。
 「……僕とママが暮らしてたアパートだってもうちょっとマシだよ」
 あちこち陥没して隙間風吹き抜けるドアに軽く引く。
 僕とママも決してお金持ちとはいえない生活だったけど、さすがにここまで酷くない。
 下には下がいるもんだなあと感心、処世訓を得る。
 梅花ちゃんは笑みを絶やさず僕と貞子を見比べ、ノブを握る。
 「どうぞ。遠慮せずに上がって」
 ノブを捻ると同時に抵抗なくドアが開く。
 「鍵かけてないの?物騒だね」
 「盗られるもんもなし警戒には及ばんよ。第一ワシの家に盗みに入る命知らずがおるもんかね」
 東太后を名乗る老婆がそれにふさわしい態度のでかさで僕と貞子を押しのけ前に歩み出る。
 脇に控えた梅花ちゃんを促し続いて自分も入室、框で長靴を脱ぐ。
 どうしよう?
 貞子と顔を見合わせる。
 入室の許可をもらってもいざ上がるとなると躊躇われるもんがある。
 「一番貞子いきまーす」
 「いくの!?」
 ……躊躇ってたのは僕だけだったらしい。
 遠慮会釈とは無縁の大胆さでもって貞子がちゃっかり入室、礼儀正しく靴を脱いで揃える。
 甲斐甲斐しく靴をそろえるさまを見ていい奥さんになりそうだなと普通に思うあたりだいぶ毒されてるね、僕。
 いつまでこうしてても埒が明かないと意を決しえいやっとドアをくぐりぬける。
 敷居を越えた途端、空気に溶けてただよう独特の匂いが鼻腔を突く。

 意外にも室内はこざっぱり片付いていた。
 間口が狭い部屋の中は薄暗く、うらぶれた薬局を連想する饐えた匂いがこもってる。
 四人入れば満員になっちゃう六畳半の狭い部屋に、整然と区切られた小箱やら分類札を貼られたガラス瓶やらが並んでる。
 匂いの正体はこれだと直感、好奇心が赴くまま靴を脱いで近寄ってみる。
 干からびた甘薯や乾燥した根っこのたぐいが犇く瓶のラベルに目を走らせる。
 胃風湯、胃苓湯、柴陥湯、柴胡加龍骨牡蠣湯………ちぇっ、むずかしくて読めないや。
 「漢方薬がそんなに珍しいかい、わっぱ」
 中腰の姿勢で振り向く。老婆がにこにこと笑ってる。
 ただでさえ皺くちゃの顔をさらに皺くちゃにした笑顔は愛矯たっぷりで好々婆なんて造語を付与したくなる。
 「どうりで変な匂いがすると思ったらこのせいか」
 「変な匂いとは失礼じゃね、由緒正しい効き目がある中国四千年の知恵にむかって」
 「東太后は租界の皆に頼りにされる漢方医よ。私も随分お世話になったわ。おかげでつわりもすっかりよくなったし」
 憤慨する老婆を梅花ちゃんがなだめる。
 よくできた娘さんだ。
 「ところでその東太后って本名?私とおなじ源氏名?」
 貞子が対抗心剥き出しで尋ねる。老婆はそれには答えず近場の円椅子に腰掛ける。
 立ちっぱなしも何なので僕と貞子もそれにならい椅子に座、ろうと思ったらないから仕方なく板張りの床に座る。
 梅花ちゃんが台所に立ちなにやら作業を始める。
 てきぱきと慣れた手つきで瓶の蓋を開け立ち働く梅花ちゃんを本物の孫みたく慈愛溢れる目で一瞥、老婆がこっちに向き直る。 
 「あだ名みたいなもんじゃ。本名はさて、長らく呼ばれることがないから忘れてもうたわい」
 声色に感傷の翳りは微塵もなくあっけらかんと開き直る。いっそ清清しいまでの吹っ切りよう。
 「聞きたい事は山ほどあるんだけどなにから聞いたらいいかしらね……」
 「隠し立てせん。なんでも聞いとくれ」
 「じゃあお言葉に甘えて」
 貞子が深呼吸し、機関銃の如く言葉を発する。
 「『九龍租界』ってなんなの?この街はなに?ここに住んでる人たちはいつどこから沸いてでたの、おばあさんあなたは一体何なの?」
 飛び交う疑問符、放たれる猜疑の眼差し。
 迫力満点身を乗り出した貞子の詰問にも老婆は一切動じず、優雅な動作で窓枠にのせた煙管をとるや長閑に燻らす。

 華奢な煙管からゆぅるり紫煙がたなびく。
 堂に入ったじらしぶりについ引き込まれる。
 話術の一環だとしたらかなり憎い演出。 
 椅子に腰掛けた老婆が窓の向こうに視線を馳せる。
 窓の向こうに広がるのは空中で交錯する無数のロープと洗濯物、市が立つ鉄橋。
 物売りの呼び込みや通行人の話し声に子供の歓声など猥雑な喧騒が流れてくる。

 活発に走り回る子供たちの姿に目を細め、骨の尖りがめだつ痩せさらばえた首を伸ばし、深々一服。
 ついで紡がれた声は、半世紀におよぶ歳月に怒りも哀しみもあらゆる感情が風化して砂塵の如く乾ききっていた。

 「棄民政策じゃよ」
 「え?」

 窓枠で煙管を叩き灰を落とす。
 相変わらず窓の向こうの喧騒に目をやったまま、滅びた王朝の后と同じ名をもつ老婆は淡々と語り始める。
 「おぬしらは半世紀前の新都市計画についてどれくらい知っとる?」
 「えーと……パソコンで調べたから大体は。たしか移民や難民で日本の国土がいっぱいになっちゃって、困った政府が都心の地下にゲットーを作ろうとしたんだよね?」
 「そういうことになっとるのかい」 
 口の端を皮肉に歪める。
 削げた喉を震わせ飄げた笑いをたてる老婆に鬼気迫るものを感じる。
 煙草を蓮っ葉に咥える仕草が妙に絵になる老婆が、婀娜っぽい笑みを覗かせる。
 往年の美貌を彷彿とさせる、枯れてはいても艶かしい笑み。
 「ぬしらに葬り去られた歴史の真実とやらを教えやるぞい。この国はなんでも臭いものに蓋主義じゃからの」
 若かりし頃の美貌を彷彿とさせる妖艶な笑みを浮かべ、不敵な弧を描く唇から煙管を遠のける。 
 「今から半世紀前の話じゃ。おぬしらが生まれてくるずっと前の昔話じゃよ。その頃からこの国は増え続ける移民と難民に悩まされておった。中国台湾韓国を筆頭に東南アジアに至るまで、治安の悪化を逃れた移民難民が大挙して日本に流れ込んできたのじゃ。新天地を求めてな。ところが日本の国土は狭く、とてもじゃないが逃れてきた外国人全員を受け入れる度量はない。そこで持ち上がったのが例の計画じゃよ」
 「東京アンダーグラウンド計画ね」
 「そうじゃ」
 貞子の相槌に我が意を得たりと首肯、煙管を一服。
 「地上はもう満杯だから地下にお引越し願おうって計画じゃ。要は住み分けじゃよ。純血の日本人は地上に、ネズミのように繁殖し続ける外国人は地下に押し込めて治安と景観をよくしようと思ったんかね。ワシが日本に来たのはその頃じゃ。
 ワシの父祖は何を隠そう今はなき本場九龍城の出でね、けれども九龍城が建て壊されてからはにっちもさっちもいかなくて、下町の物売りで糊口をしのいどったんじゃよ。あの頃はどこもそうだけど、香港の治安も悪くてねえ。北朝鮮さんにすわ武力介入かって気運が盛り上がって空気がぴりぴりして、脱北者の取締りはさらに厳しくなって、地元民のワシらにまで警察が四の五の言いだすようになったんじゃ。ワシが日本に来たのはね、旦那が死んだからじゃよ」
 「旦那さんが?」
 「そう。こいつがまた要領の悪い男でね、下町の屋台引きの分際で刑事と揉め事をおこしちまってね……この刑事ってのがとんだワルで、賄賂を渡さないなら縄張りから出てけって脅迫したんだよ。旦那は断った。そしたら両腕を折られてドブに放置され、丸一昼夜経って発見された頃にはもう冷たくなっとったよ」
 「ひどい……」
 貞子が眉をひそめる。
 東太后は諦念を滲ませ首を振る。
 「さて、困ったのはワシじゃ。稼ぎ頭を失って、育ち盛りの子供を三人抱えたワシは貧窮した。旦那の後を継いで屋台を引こうにも警察に目を付けられてるし、一番下は赤ん坊で目が放せないしねえ……悩んだ挙句、親戚を頼って日本に渡ることにした。けれどもいざ来てみればとてもじゃないがお前たちの面倒を見る余裕はないと言われる。困りきったところに降って湧いたのが、政府の募集じゃよ」
 「募集?」
 「『都心地下に外国人居住区新設予定。つきましては入植者第一団を募集します』」

 シャツの下で心臓が跳ねる。

 「第一団って……だって、データベースにはそんな事一言も」
 「そりゃそうじゃ。地震のどさまぎで消された歴史だからの」
 思わず抗うも泰然自若と受け流される。
 「その時点ではもう入植者の第一群が出発しとったんじゃよ。五十人から百人の小規模だけどね、道は貫通しとったし基礎の基礎の部分の工事は終わっとった。住み心地を聞くって建前で、年寄りと女子供ばかり優先的に集めた先遣隊が送り込まれたんじゃ。その中にワシもいた。子連れでちゃっかり紛れこんどった。これで漸く安住の地に着けると楽観して、お天道様が拝めなくても人並の生活が出来るならと……」

 椅子が軋む。
 東太后が姿勢を変えこちらに向き直る。
 皺に埋もれた眼窩の奥、強い光を宿した目が僕を射抜く。
 手練の女衒じみて玄人っぽく窄めた口から吹いた紫煙で輪っかを描き、ゆるゆるとかぶりを振りながら東太后は嘆じる。

 「ところがあの地震じゃ。あの地震で計画はパアになった」
 「おばあさん達はまさか……生き埋めにされて、残されたの?このドブくさい真っ暗闇に?『なかった』ことにされて?」
 追及には応じず悠揚と煙管を吹かし、語られる内容とは裏腹にのんびりした調子で言ってのける。
 「ワシらにとって幸いだったのはそれでも街の根幹の部分はできとった点じゃ。食糧と飲料水も何か月分かは支給されとったしの」
 「だってそんな……政府は助けようとしなかったの?地下に人がいるのはわかってたでしょうに」
 「生存を絶望視されたか、もしくは……」
 「もしくは?」
 「はなから見殺しにするつもりだったか。なにせあの地震じゃ日本人にも大量の死傷者がでたからの、地下に送り込んだ外国人の救出が後回しされてもしかたない。自国の一大事に勝手な理想を抱いて大挙した移民難民の尻拭いまで出来るもんかい。それでも何割かのしぶとい連中が生き残った。落盤で道が塞がれて地上への帰還は絶望的、ワシらは地中暮らしをよぎなくされた。先にも言ったが数か月分の食糧は蓄えられとったし、生きのびれんこともない。待っとればそのうち『上』が助けにくるかもしれんしの」    
 「こなかったのね」
 「こなかったからここにおる」

 東太后は挑戦的に瞳を輝かせる。
 不撓の精神力を感じさせる瞳の輝きに圧倒される。

 僕にはわかる。
 これは、修羅場を見てきた人間の目だ。

 「本格的に捨てられたと気付いたのは半年が過ぎた頃じゃ。一部の連中はパニくって暴動をおこしたが大半は落ち着き払っとったね。達観してた。もとより死にぞこないのジジババと外に出たっておまんま稼ぐ手立てのない女子供ばっかだからね、上でも下でも大して状況はかわらん。助けがこないなら仕方ない、開き直ってここで暮らすしかない。それからじゃよ、大変だったのは。食糧はじき尽きる。飲料水の確保も課題さね。ない頭を集めて捻って必死に考えたよ、生活の知恵ってやつを」
 「地下暮らしの知恵?」
 東太后が頷き、驚き続きの僕に悪戯っぽい流し目を送る。
 「幸いだったのは、ワシらが移住した時点で最低限の住環境は整えられとった点じゃね。汚水から飲み水を醸造する設備も自給自足の術もお粗末ながらあるにはあったんじゃ。先遣隊の中には二・三技術者もおったから、ちょちょっと改善を加えるだけで大分暮らし向きがらくになったよ。地下育ちのモヤシはひょろひょろと青白いけどね、一応ビニールハウスだってあるんじゃよ?」
 「ーてことは、五十年間も閉じ込められてたの?!」
 明かされた新事実に衝撃を受ける。
 まさかこんな下水道の深部で五十年間も人が暮らしてたなんて……
 ひとつの街を形成し、しぶとくしたたかに生き延びていたなんて。
 素っ頓狂な声を脳天から発し驚倒する僕を愉快げに眺めやる東太后に食い下がる。
 「でもでもさ、おばあさんたちが地下に引っ越したのは五十年前で東京プリズンが上に出来たのは半世紀前で……あれ、てことは殆ど同時期にできたの?まあそれはいいとして、東京プリズン地下の下水道とここは繋がってるわけで、そしたら何とかして助けをもとめる方法あったんじゃないの?」 
 興奮の面持ちで饒舌に捲くし立てる僕を押しとどめ、東太后が溜め息をつく。
 「問題はそこじゃよ」
 「お茶が入りましたよ」
 梅花ちゃんの飛び入りで話が中断。 
 湯気だつ茶碗を盆にのせて運んできた梅花ちゃんを「ご苦労じゃったね」とねぎらい、素早く自分の分を取り上げる。
 「あら綺麗な色。いただきます」
 貞子がいそいそ手を伸ばしお茶碗をもつ。
 「ウエッジウッドのダージリンがよかったな~」
 口では不満をこぼしつつも有り難くいただく。
 覗き込めばあ、ほんとに綺麗な色。
 黄色く澄んだ表面からえもいえぬ芳香がただよい鼻孔に抜ける。
 「「いただきまーす」」
 貞子と声を揃えて同時に口を付ける。
 「ぶっ!!」
 噴き出す。
 「げほがほっごほっ……な、なにこれ!?オキシドールの味がする!!」
 「ワシが手ずから調合した薬膳茶にむかって失礼な」  
 容赦なく舌を突き刺す珍妙奇天烈な味に動転。
 慌てて茶碗をのけて激しく咳き込む僕をよそに、貞子は至福の笑みさえ浮かべ怪奇な液体を啜っている。 
 「結構なお手前ねえ。梅花ちゃんあなたお茶淹れるの上手ね、いい奥さんになれるわよ。あ、もう予約済みかしら?」
 口に手を添えてほのめかすように笑う。
 マッチョなオカマがやるとなんとも違和感ばりばりな仕草だなこれ。
 ぽこんと出っ張ったおなかを意味深に眺めながらの貞子の余計なお世話に、けれども梅花ちゃんは哀しげに首を振る。
 「ううん。解約済み」
 大きなおなかをなでながら呟く。
 顔こそ笑みを浮かべていたが、表情は暗い。
 畳に正座した梅花ちゃんをじっと見詰める。 
 老婆の話にのめりこんでいてたった今まで存在を忘れてたけど、こうして面と向き合うと、老婆が五十年間も地下で生き延びられたことより梅花ちゃんが今ここにいる理由が気になってくる。
 梅花ちゃんは道了の元恋人でロンとも顔見知りらしい。
 ということは最初からここにいたわけじゃない、最近になってここにやってきたことになる。
 どうやって?
 ホワイホワット?
 梅花ちゃんが今ここにいる理由が猛烈に気になり始め、道了との別離から老婆との出会いに至る経緯を知りたい欲求が高まる。
 「あのさ、梅花ちゃん。さっき言ってたのどういうこと?」
 名前を呼ばれた梅花ちゃんが虚を衝かれ顔を上げる。
 おなかをなでるのに夢中で上の空だったらしい。
 「道了とロンに会いたいって……梅花ちゃんはむかし月天心にいたんだよね?道了の恋人だったんでしょ?おなかの子の父親が道了だってのはわかったけど、どうやってここにきたの?おばあさんの話を鵜呑みにするなら、ここに来るまでの道のりは落盤でふさがれてるはず……」
 「抜け道があったの」
 梅花ちゃんがこともなげに言う。
 華奢な膝を揃えちょこんと座した梅花ちゃんはおなかを抱え視線を虚空に投げる。
 何から話そうか順番を整理してるらしく目の焦点がぼやける。 
 おなかをなでる手は赤ん坊をあやすみたいに優しく、心ここにあらずといった顔つきで話し始める。
 「月天心解散後、私と道了を待っていたのは残党狩りとの追いかけっこ。月天心のメンバーは皆散り散りになって、怪我も治りきらないまま病院を脱走した道了にも賞金がかけられた。私達は逃げた。道了は頭に包帯を巻いたまま、私は妊娠が判明したばっかりで、頼れる人も行くあてもなかったけど生き延びたい一心でひたすら逃げ続けたわ。毎日大変だった。けれども幸せだった。こんな事言ったら変かもしれないけど、でもね、やっぱり幸せだったの。道了と一緒にいるだけで幸せを感じた。道了が生きているだけで私にとっては幸せだったの。ろくに体も洗えない毎日だったけど、道了がどこへも行かずそばにいてくれるだけで救われてた」

 語りかける間もおなかをさする手はとまらない。
 そこに宿る命のぬくもりを慈しみ母性愛に溢れた包容力を発する。
 顔は全然似てないしママのが美人だけど梅花ちゃんの雰囲気はどこかママと似通ってる。ふっとした表情やさりげない仕草がママを思い出させてどきりとする。
 薄幸な風情を漂わせながらも気丈な笑みを絶やさずでっかいおなかを抱える姿に憧憬が募る。

 会いたいよ、ママ。

 鼻の奥がつんとする。
 潤んだ目を悟られないように慌てて俯く。
 変なの。こんな涙もろいキャラじゃなかったのに、僕。
 ママと離れ離れの期間が長くてナーバスになってるのかもと自己分析、親しみと照れとが入り混じった複雑な気持ちで梅花ちゃんを上目遣いにうかがう。
 梅花ちゃんは僕の視線に気付かず、寂しげな翳りを含んだ顔で訥々と続ける。

 「私と道了は池袋中を転々と渡り歩いた。残党狩りの追跡は熾烈を極めた。捕まれば命はなかった。私達は必死に逃げたわ。けれどもどこへ行っても追っ手がうようよしてて……追い詰められた挙句、地下に潜ることにしたの」
 「地下?」
 「かつての地下街。私達が昔住んでた場所」
 梅花ちゃんの表情が心なし和み、あるかなしかの懐古の笑みが浮かぶ。
 細めた双眸が追憶の光にぬれる。
 笑うと寂しげな印象がいやます。
 肩にかかる黒髪をしなやかに手を翻しかきあげ、唐突に言う。
 「難民には二種類いる。知ってる?」
 目で僕と貞子に問う。
 僕は素直に首を振る。
 生憎と僕は戦争難民じゃない、ママンはイギリス系だけど戦争で国を追われたんじゃなく出稼ぎにきて居着いちゃった部類だ。
 梅花ちゃんは僕の無知を嘲るでも哀れむでもなく親切に教えてくれる。
 「台中戦争の難民は二種類。戦前日本に渡った人たちと戦後に渡ってきた人たち。初期に日本に渡ってきた人たちは、既に池袋や渋谷に固まってスラムを築いていた。困ったのは後から来た人たち。命からがら戦争から逃れてきても、めぼしい土地は全部先住者が陣取ってる。早いもの勝ちよ。初期の難民と後期の難民の間にはいさかいが持ち上がった。初期の難民は住む場所を奪われてなるものかと後者を追い出しにかかり、後から来た人たちも今さら国に帰るわけにはいかず、排斥されても迫害されてもしぶとく居座り続けた。その結果生まれたのが難民用の地下街。同胞に排斥され居場所をなくした難民達は、旧地下鉄のホームと商店街跡を利用してしたたかに暮らし始めた。その中に私もいたの。私と、私の家族が」

 家族の面影を回想するように瞳を閉じる。

 「私の一家は台中戦争末期に日本に渡ってきた。両親と妹と私。同胞から見放された私達は、地下街に移り住んで新しい生活を始めた。まわりにいるのは同じ境遇の貧乏人ばかり。故国を捨てて命からがら逃れてきた弱い人たちばかり。同じ難民の中でも差別があった。私達は差別される側。地上に家をもてるのは初期の難民、私達はモグラみたいに地中に隠れて暮らさなきゃならない。ただでさえ日本は狭くて住める土地が限られてる、彼らが私達を敵視するのもしかたないのよ」

 一呼吸おく。 

 「けれども不満はなかった。地下街では皆協力し合って暮らした。皆貧しくて、けれども穏やかで……自警団があった。食堂があった。床屋さんがあった。お医者さんがいた。上となにも変わらなかった。私はそこで子供時代を過ごしたの、八歳になるまでね」
 「八歳まで?」
 「十年前に毒ガス騒ぎがおこって住民に一斉退去が命じられたの。それからは……あんまり話したくないわ。暗くなっちゃうから。簡単に言うと一家離散。追い出されても行くあてはないし頼れる親戚もない、国に帰るお金もない。そんな状況で家族一緒に暮らしてくのは無理。両親は三年後に消えちゃった。私と妹を残して煙みたいに蒸発しちゃったの」
 さばさばと言い放つも、辛酸を舐めた笑顔は苦い。
 梅花ちゃんは訥々と控えめに身の上を語る。
 路上にごろごろ転がってる、いまどき珍しくもない悲惨な身の上を物語る。 
 「私はまだ小さい妹をやしなうため娼婦になった。それしか売るものがなかったの。たくさん働いた。たくさん男の人に抱かれた。中には怖い人もいたし酷いことをする人もいた。けれども妹とふたり、なんとか食べていけるだけのお金は稼げた。そんな生活が二年ばかり続いて……妹は死んだ。結核だった。変な咳をしてるのに気付いてたけど、ふたり食べてくだけでやっとで、お医者さんにかかるお金がなくて……アパートに帰ったら、もう手遅れの状態で」
 「よくある話だね」
 スラムではふとした不注意が命取りになる。
 結核は不治の病じゃない。
 きちんと医者に見せ、最低限の栄養を摂らせれば死ぬ事はなかった。
 でも、スラムの住民の中には医者にかかるお金を持たない人がいる。
 最低限の治療さえ受けられず、治るはずの病気でむざむざ死んでく人がいる。
 「私が殺したの」
 梅花ちゃんがぽつんと呟く。
 死んだ妹の事を思っているのか、自分達を捨てた両親の事を考えているのか、その顔は深い物思いに沈んでいる。
 「両親は消えた。妹は死んだ。ひとりぼっちになった。……死のうと思った。死ねなかった。そんな時よ、道了に再会したのは」
 「再会?」
 梅花ちゃんに笑顔が戻る。
 いまにも泣き崩れそうに弱々しい笑顔で、けれども存外にしっかりした口ぶりで断言。
 「幼馴染なの、私達。地下街にいた頃の」  
 「へえ、梅花ちゃんて幼馴染キャラなの。いかにもそんな感じ」
 茶をしばきながら貞子が目をぱちくり感心。
 僕はここに来て明かされた事実にあっけにとられる。
 「じゃあ梅花ちゃん、子供の頃から道了を知ってるの?道了の子供の頃ってなんだか想像できないしあんな子供がいたらマジ怖いんだけど」
 目の前のいかにも儚げな女の子が、あの道了と幼馴染だった事実にとまどう。
 懐疑的な眼差しで探りを入れれば、梅花ちゃんが落ち着き払って答える。
 「道了は私達と同じ時期に地下街に流れ着いたの。道了のお父さんはとても酒癖が悪くて、いつもお母さんや道了に当り散らしてた。道了はいつも頭に包帯を巻いていた。お父さんにやられたんだと思ってたけど、そうじゃなかった。台湾にいた頃に爆弾の破片で怪我したらしいの。お母さんに手を引かれ戦火から逃げる途中に背後で爆弾が爆発してね。私は道了のことをよく知ってた。地下街で暮らしてた頃、うちの隣に闇医者がいたの。道了はそこに通ってたから……」
 「道了にもママとパパがいたんだ」
 道了に親がいたという当たり前の事実に違和感を禁じ得ない。
 そもそも道了に子供時代があったということさえ信じがたい心地なのだ。
 「再会は十年ぶり。地下街を追い出されてから十年経ってたけど、すぐにあの子だってわかった。目つきが変わってなかったもの。孤立を恐れない強い目、孤高の目……私がずっと憧れていた目。それからずっと道了と一緒だった。なんだか危なっかしくて目が放せなかった。道了が月天心を結成した時も隣にいたわ。私達はずっと、ずっと一緒だった………」
 噛み締めるようにひとりごち、悲痛に顔を歪める。
 「……残党狩りから逃れる最中に思い付いた隠れ家が、そこ。毒ガス騒ぎで立ち退きを命じられた地下街。私たちは地下に潜伏した。道了はほとんど何も覚えてなかったけど、私は嬉しかった。瓦礫に染み付いた匂いが懐かしかった。壊れた棚が、割れた硝子が、からっぽの薬瓶がとても懐かしかった。道了と出会ったばかりの頃を思い出して……」 
 「でも見付かった?」
 梅花ちゃんがこくんと頷く。
 「遂に隠れ家を突き止めれた。道了は追っ手を巻くために火を放って……私は……私は……」
 おなかを抱いた手がかすかに震えてるのに気付く。
 痛みを堪えるように下唇を噛み、何度も何度も息を吸い、吐く。
 「道了と心中するつもりだった」
 物騒な言葉に耳を疑う。
 貞子の目つきが鋭さをます。
 東太后が溜め息をつく。
 梅花ちゃんは自分が発した言葉の重みに打ちのめされ、全身で懺悔するかの如く悄然と肩を落とす。
 「あれ……でもさ、今ここにこうしてるってことは結局失敗したんだよね?その、心中は」
 口にしていいもんか迷い、おずおず指摘。
 梅花ちゃんは直接答えず、清冽な目でひたと僕を見据える。
 「道了は私を殺そうとしたわ。実際殺す一歩手前までいったの。あのまま何もおきなかったらきっと死んでたでしょうね」
 「なにも?」
 「落盤。火事の熱で瓦礫が崩落して、もうひとつの通路が露出したの。地下街の下を通る暗渠が」
 「ははーん、読めてきたわ。その通路がここと繋がってたわけね」
 貞子が名探偵ぶってぴんと人さし指を立てる。梅花ちゃんは申し訳なさそうに苦笑する。
 「多分そう……だと思うけど、残念ながら詳しいことは覚えてないの」
 「え?」
 「落盤の余波で下の通路におっこちた時はほとんど気を失ってたから……何がおこったかわからなかったわ。体がふわっと軽くなって、ふっと吸い込まれるのがわかって、咄嗟におなかをかばって……覚えてるのは上の通路に立ってこっちを見下ろす道了。背後で轟々と炎が燃え狂って、道了の顔を赤く染めて……すごく、綺麗で」

 言葉を切る。
 目を閉じる。
 閉じた瞼の裏側に真紅の炎に照り映える道了の顔を思い浮かべ、当時の心情を吐露する。

 「遠ざかる靴音で道了が立ち去るのがわかった。ああ、行っちゃうんだなって。けれども体が動かなかった。なんだかとっても眠かった。道了がこれからどうするのか、どうなるのかわかんなくて……不安で……道了は強いからひとりでも生きていけるけど、私は……私は弱くて卑怯だから、自分の事しか考えられないから……道了の言うとおり、馬鹿な女だから……道了に依存して、負担になってるのはわかったけど、でもやっぱり離れたくなくて。離れられなくて。月天心なんかどうなってもいいから、ずっと一緒にいたくて……」
 「この娘はの、ずっと下水道を歩いとったんじゃよ。地下街の下の暗渠を、半世紀も前に廃止されて存在自体忘れ去られた下水道を歩いて歩いて歩き通して、ひたすらに目的地をめざしとったんじゃ。まったく、見かけによらず無茶な小娘じゃよ。行き倒れてるところをたまたま遠出した租界の人間が見付けたからよかったようなもんで……」
 「東京プリズンに行けばロンがいる。ロンがいるなら道了にも会えると思ったの、真実を知ったら絶対ロンに会いに行くってわかったから」

 東太后が椅子から腰を上げ気遣わしげに梅花ちゃんの背中に手を添える。
 癇癪もちの子供をなだめるように優しく背中を叩き、動揺甚だしい梅花ちゃんを落ち着かせる。 

 「出入り口は瓦礫でふさがって、どのみち地上への帰還は絶望的。なら下水道を歩くしかない。とにかく歩き続けてれば出口が見付かるかもって……意識が回復してから、呑まず食わずで何日間歩き続けたわからない。とにかく歩いた。足が棒になるまで歩いたわ。地下街の暗渠は古くて、あちこちボロボロで、人が出入りした形跡がなくて……現在使われてる下水道とはまったく別物なんだって気付いた。気付いた時には手遅れ。見渡す限り闇の中、帰り道もわからない。迷子になって、行き倒れて、それで……」

 当時の恐怖と飢餓感とが蘇ったか、梅花ちゃんが顔面蒼白で震え出す。
 腕を交差させ華奢な肩を抱きしめ、切迫した眼差しで訴えかける。

 「あなた、道了の知り合いなんでしょ?道了は今どうしてる、元気でやってる?ロンは、ロンはどう?私、わたし謝らなきゃ……ロンに酷いことしたの、裏切り者の濡れ衣を着せたの、ロンはなんにも悪くないのにロンひとりに罪を被せたの。謝りたい。どうしても。ロンに会って目を見て謝らなきゃこれから生きてけない、この子と一緒に生きてく資格がない。ロンにちゃんと謝らない限りこの子に誇れる母親になんてなれるわけない、それに道了、道了が今どうしてるか気がかりで……道了がロンに酷いことするなんて思いたくない、思いたくないけど……でも」

 東太后に支えられた梅花ちゃんが腕を伸ばし僕に縋り付く。 
 ひどく思い詰め潤んだ目が僕を覗き込み、懇願する。

 「道了が心配なの。こうしてる今も道了は刻一刻と私を忘れてく、刻一刻と記憶を取りこぼしてく。私の事やロンの事、この子の事だって……もう自分の両親の事だって覚えてないのよ、地下街にいた事も覚えてないのよ、じきに私とロンの事だって忘れちゃう、だって道了は……」

 続く言葉は、予想外のもの。
 「道了は、壊れてるから。頭の破片のせいで、長く生きられないから」

 道了が、長生きできない?
 衝撃に打たれ硬直する僕に必死な形相で縋りつき、か細く震える声を吐き出す。

 「お願い、ふたりに会わせて。この子を産む前に、母親になる前に、しなくちゃいけないことがあるの」
 熱い吐息が胸に染みる。
 肩から流れ落ちた黒髪からいい匂いが立ち上る。
 貞子は同情こめて僕を見守るも手は貸さず、東太后もまた沈痛な面差しで梅花ちゃんの背を見詰めるばかり。

 すべての判断は、僕に委ねられる。

 『我迷路了、我想去東京監獄………!』

 ここにいるのは迷子の女の子。 
 母親になる為の試練に全身全霊で立ち向かおうとしている、決して弱いだけじゃない女の子だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050210024628 | 編集

 「タジマの同類だな、君は。玩具に頼らなければ僕一人満足に悦ばせる自信がないのか?とんだ性的不能者だ」
 「なんだって?」
 下肢を剥かれセメント袋の上に芋虫のように腹這う僕に、暴君は気色ばむ。
 「僕の口に銃を突っ込んで少しでも気持ちよくなったか、不能め。あんな生ぬるい擬似フェラで僕が満足するとでも思ったか?まったくもって遺憾の至りだ、こちらは顎が疲れただけだ。暴君、これで君が性的不能者だという事実が立証された。君のペニスは僕を満たすに足るに及ばぬ卑小な代物で、勃起不全による劣等感を抱いた君は銃を用いた擬似フェラの強制により失われし男性性を補強しようとした。銃の威を借るペニスだな。以上、フロイト派の分析に異論はあるか」
 「俺が勃たないってか?」
 「現に銃に頼ってるのが何よりの証拠じゃないか」

 空気が張り詰める。
 皮膚が緊迫する。

 銃を手にした暴君が意味深に僕を見やる。
 黄金の輪を冠した髪の隙間から硝子の瞳がちらつく。
 狂気を沈め底光りする瞳は猫科の猛獣に似た獰猛さと同時に危うさを秘め、退廃の翳りをもって人を魅惑する。
 絶世の美形と評しても遜色ない顔立ちにランプの光が酷薄な陰影をつける。

 暴君は銃をもてあそびながら思案にふける。
 太股にそって滑っていく銃口に意識を凝らす。
 固く冷たい鋼鉄の塊が皿で防御されてない敏感な膝裏をくすぐる。
 萎えかけた気力を叱咤し、醜態をさらしてなるものかと抗う。

 「勃たないなら勃たないといえばいい。虚勢は見苦しい」

 閉じた体が拒絶反応を示す。
 肛門に擬された銃口の圧力に発狂しそうになる。
 売春班では数多くの男のペニスを受け入れてきた肛門も、今は固くとじて異物の侵入を拒んでいる。
 きつく窄まった穴をむりやりこじ開けられる痛みを予期し、あわや恐慌をきたしかける。
 心臓の動機が早鳴り血が逆流し呼吸がひどく荒くなる。
 一瞬の空白の後に訪れたのはじわじわと理性を侵食する恐怖、切実に身に迫る危機。
 掌がじっとり汗ばむ。
 抑制し難い激情が身の内で荒れ狂い際限なく不安が膨張、胸を内側から圧迫し呼吸を妨げる。
 僕は必死に抗う。
 プライドを賭け恐怖に抗い、最後まで虚勢を張って戦おうとする。
 間違っても醜態などさらさぬように、無駄な抵抗だと頭の片隅で達観しつつも、理屈をこねるのをやめたら僕を僕足らしめる最後の砦まで崩れてしまう危惧に憑かれ、肩越しに振り返る。

 毒々しい嗤笑が顔に浮かぶ。

 「普段偉そうな口を叩いてる癖に肝心な場面で役に立たないとは、君のペニスは持ち主よりさらに腰抜けだな」
 毒気の滲んだ調子で揶揄すれば、暴君の表情が豹変する。
 軽薄な笑みを浮かべた顔が一転空白となり、空洞じみた虚無をさらす。
 見るものの心を冷え冷えさせる完璧な無表情。
 あらゆる感情が窺えぬ空白の表情で僕を見返すや、ランプの光に映える顔に野卑な笑みを乗せる。
 「挑発してんのか?」
 今にも口笛を吹きかねぬ愉快げな声で暴君が問う。
 交互の手に銃把を渡しながら面白そうに目を細めじろじろ不躾に僕を眺める。

 うなじ、肩、背中、太股。

 慎みと対極にある無遠慮な眼差しが僕にさえ見えぬ体の秘所を、辟易すべき執拗さでもって微に入りほじくり返す。
 僕さえ知らずにいた僕が容赦なく暴かれる。
 欲情の火照りを孕んだ視線に晒され、快楽に慣らされたちりちりと肌が燻る。
 僕の体は羞恥にさえ興奮するよう躾けられている。
 売春班にいた頃、服で隠す事はおろか手を使う事も許されず、僕自身すら医学書の図解でしか知り得なかった体の秘密を残酷に暴き立てられ、飽きるまで視姦された。

 僕は汚れている。
 直接触れなくても、ねっとり濃厚に肌を滑る視線によって間接的な刺激を受けている。

 粘着に肌を這う視線がもどかしさと恥辱を煽る。
 視線を注がれた部位がひどく過敏になり、淫蕩な熱を孕んで疼きだす。
 飢えに似て強烈な衝動が暴れ出す予兆に慄く。
 砂塵の乾きにも似た苛烈な渇望が体を干上がらせていく。
 生殺しの責め苦に苛まれ、ゆるやかに汗が伝う喉が物欲しげに鳴る。
 交尾をねだる雌犬のように尻を突き出した僕にのしかかり、吐息に絡めて囁く。
 「俺が欲しいんだろ。なあ、そうだろ」
 褐色の指が耳朶をつまむ。
 後ろ髪を梳き、じゃれる。
 うなじをくすぐる指の火照りに悩ましさが募る。
 愛情と錯覚しそうなほど優しい声音も、折檻の恐ろしさを引き立てる罠でしかない。
 腰が蕩けそうな低音の囁きに曇りゆく理性を繋ぎとめ、今にも挫けそうな肘と膝を意志の力だけで支える僕を、暴君は嬉嬉として嬲る。
 口元に愉悦が滲む。
 細めた目に喜悦が宿る。
 ランプの光に浮かぶ顔は悪魔のように邪悪で美しく、破滅を知りながら魂を売り渡したくなる。
 「銃じゃなくて俺のもんを突っ込んで欲しいんだよな。お前は欲張りだからちゃちな銃なんかじゃ満足しなくて、どくどく脈打つ熱い肉棒突っ込んでめちゃくちゃにしてほしいんだろ。さすが売春班上がりは強欲だな、俺の責めがなまぬるいってか?そいじゃクエストに応えてやるよ」
 肛門のまわりで円を描いていた銃口がふいに退けられる。
 安堵するのは早い。
 次につきつけられたのは、前にも増して非情な要求。
 「ほしいならくれてやるよ」
 後ろ髪を掴まれ思い切り仰け反る。
 首が折れる限界まで仰け反った僕の顔を至近で覗き込み、暴君がぞんざいに顎をしゃくる。
 形よく整った唇が不敵な弧を描く。
 
 陵辱と暴虐の限りを尽くす専制君主の笑み。

 「プリーズ、リップサービス」 
 頭皮ごと引き剥がされる激痛に苦鳴をもらす。
 暴君の手に縋るようにして反転、足元にくずおれる。
 衣擦れの音が耳朶に触れる。
 片手に銃を預けた暴君がもう片方の手で器用にズボンを下ろしていく。
 僕は床に凝然と手足を付いたままそれを見詰める。
 驚愕に目を見張った僕の前で暴君はズボンに指を引っ掛け、誘うように淫らな腰の動きでずらし、トランクスごと下ろす。
 トランクスの下から露出したのは胴体と比して完璧な均整を誇る下肢。
 ランプの影がちらちら躍る野生的な褐色肌はエキゾチックな美しさと精悍さを感じさせる。  

 申し分なく長い足
 よく締まった脹脛
 ため息がでるほどに扇情的な腰つき
 股間の淫靡な翳り。
 頭髪と同色の毛がしなやかに反った性器を鬣のように飾る。

 暴君のペニスは美しい形をしていた。
 藁色の翳りの中から雄雄しい角度をもって突き立つそれは、奔放な性遍歴を物語るように成熟し、横溢する若さを誇示する。売春班では何十人もの男のペニスを見てきたが、そのどれにも比べて暴君のペニスは均整がとれている。
 あらゆる人種の女性を満足させるに十分な長さ太さを兼ね備えているだけでなく、上品な紅を刷り込んだ色といい形といい、申し分なく生ける彫刻の美を体現する。
 暴君のペニスは既に勃起の兆候を示していた。

 「見とれてんなよ。使うんだよ、手と口を」
 暴君が不遜に命じ、金縛りが解ける。
 眼前につきつけられたペニスにおそるおそる手を伸ばし、何度も意を決し触れようとしては引っ込める。
 「木偶じゃねえって思い知らせてやる」
 「!っは、」
 いきなり僕の頭を抱え込み、股間に押さえ込む。 
 後頭部に回った手が毟るように髪を掴み、いまだ決断に至らぬ僕の顔を力づくで俯かせる。
 髪を毟られる痛みに仰け反る。
 くぐもった苦鳴を漏らし必死で顔を引き剥がそうとする僕を愉快げに眺めやり、畳み掛ける。
 「どうした?舐めろよ。売春班仕込みの舌テクでせいぜい楽しませてくれよ。俺と銃を秤にかけて俺を選んだのはお前だろ?ならとっととやれよ、なにじらしてんだよ。ケツに銃突っ込まれて中でぶっぱなされてーか?お前の内臓が綺麗なピンク色してるかどうか撒き散らして見せてやろうか?床に散らばった内臓を犬食いさせてやろうか、なあ」
 「……慌て、なくても……いい……余裕がないぞ、君は。暴君らしく悠揚迫らぬ態度で待ち構えていたらどうだ」
 顔筋を凝りほぐし皮肉な笑みを投げる。
 「口だけは達者だな、相変わらず。それでこそ俺たちが見込んだキーストアだ」
 複数形の一人称が何を意味するかわからないほど僕の頭の回転は鈍くない。 
 僕の後ろ髪に指を絡めいじくりまわしながら暴君が促す。
 仁王立ちで踏み構える暴君の股間に近付く。
 褐色の翳りと赤黒いペニスを至近距離で見詰め、生唾を呑む。
 暴君はにやついている。
 僕の葛藤を見透かすような下卑た笑みを顔一杯に浮かべ、無言の内に威圧を込めて奉仕を強要する。

 指がしつこく髪に絡む。
 一房二房と絡めては指の隙間に通し、感触を楽しむ。

 「可愛げねえ毒吐いてばっかの口を開けろ。気持ちよくしてもらいてーんだろ?ならそれ相応の誠意をみせろ」
 凄まじい嫌悪が胃袋を締め上げる。
 眼前に迫るペニスの威容に本能的な恐怖を感じる。
 後ろ髪を掴む手が畏怖を与える。決して拘束を緩めず屈従を迫る手の残酷さに打ちひしがれ、よもやこれまでもかと諦念が心を満たし始める。

 口を開き、また閉じる。
 それを数回繰り返す。
 緊張に乾いた唇を舐め、時間を稼ぐ。
 呼吸が荒く浅くなる。
 耳裏が発火する。
 屈辱に耐えて握り込んだ手の内がじっとり汗ばむ。
 拒否は死を意味する。
 拒絶は自滅に繋がる。
 目を逸らすなどもってのほかだ。
 残された道は無条件降伏しかない。

 服従せよ。
 服従せよ。
 服従せよ。
 犬のように服従せよ。
 頭を垂れて奉仕せよ。

 頭の片隅に一握り居残った理性が警鐘を鳴らすも、衝撃に打ちのめされた心身は既に倦怠感に包まれていた。 

 服従すればらくになる。
 言う事を聞けば解放される。
 何から?
 苦悩から、葛藤から、未練から。僕をここに繋ぎとめるすべてから。
 何より彼から、彼から解放される。
 僕の生まれて初めての友人、それ以上にも以下にも決してなり得ぬ男への報われぬ執心から解き放たれ安息を得られる。

 なら、いいじゃないか。
 何を迷うことがある、いまさら。

 きつく目を閉じる。
 盲目の闇に感傷的な面影が錯綜する。
 ロンが人懐こく笑う、サムライが柔和な目でこちらを見守る、在りし日のレイジが無邪気に笑う。
 ヨンイルがいる。
 ワンフーがいる。
 ルーツアィがいる。
 リュウホウがいる。
 安田がいる。
 斉藤がいる。
 今生きている者たちとそうでない者が交錯する。
 僕がここで得たかけがえのない仲間が、東京プリズンで出会った数少ない友人達が、入れ替わり立ち代わり瞼の裏に去来して固有の表情を見せる。 

 それらすべてと引き換えても、
 それらすべてをこの手で無に帰しても。

 胸が、痛む。
 瞼裏の闇に浮上するロンの面影が罪悪感を喚起する。

 僕は、裏切り者だ。
 レイジはロンの相棒なのに、これからそのレイジと何をしようとしている?
 ロンの知らない場所で、ロンのいないところで、なにをしようとしている?

 ロンを裏切ることになるとわかっていながらそれを自覚した上で行為に及ぼうとしている、裏切りを前提に過ちを犯そうとしている。

 最低だ、僕は。
 ロンからレイジを横取りするような真似をして。
 レイジはロンの相棒で僕の友人なのに。

 「………………ふ…………」
 罪悪感を吹っ切れず心がぐらつく。
 自分がいかに卑劣な人間か痛感し、選択の重さに打ちのめされる。
 掌の柔らかい皮膚に爪が食い込み痛みを感じる。
 強く強く拳を握り込み、固く固く目を閉じてロンの面影を払拭にかかる。
 「まだぐだぐだくだんねーことで悩んでんのかよ。フェラか死か決めかねてんのかよ」
 消え去れ、雑念。
 ロンの面影を意識の範疇から閉め出す。
 固く固く目を閉じ闇に自我を没し、間延びした呼吸を繰り返して仮初の平静を回復する。 
 鉄壁の平常心で武装した無表情で、改めてペニスと向き合う。
 「くだらないことは忘れちまえよ。楽しい事だけ考えろよ」
 唄うような抑揚で暴君が言う。
 音に乗った言葉は喪神の呪文と化し酩酊を誘い、三半規管を狂わす。
 蠱惑的な姿態で暴君が笑い、両の手で頭を抱え込みゆっくりと僕を導く。
 麝香の体臭が理性を奪う。
 鼻腔に抜けて染み渡る体臭は強烈な媚薬のように作用し、指の末端まで痺れさせる。
 抜け殻と化し暴君の導きに従う。
 頭に靄がかかり思考が停止、暴君に促されるがまま首をうなだれて股間に顔を埋める。
 ランプの光が壁に影を投じる。
 傲然と仁王立ちした暴君の股間に顔をつけた僕の姿は、ひと繋がりの歪な影となり壁に映し出される。
 「楽しませてくれよ」

 後戻りできない。
 引き返せない。

 最後まで踏みとどまっていた何かが溶け消える。
 全身を巡る血の流れが鈍化する。
 溶けた鉛を流し込まれたように体がおもく、けだるい。
 耳孔に流し込まれた声は蠱惑の余韻を帯びて殷々と反響し、体の深奥を漣だてる。

 もういい。

 完全なる諦念が意識に降りる。
 絶望で視界が狭窄、瞼の裏を占めた面影が急速に遠のく。
 サムライの面影が忘却の彼方に遠ざかる。 

 「楽しませてやるさ」

 口から出た声は、底知れぬ凄味すら含んでいた。
 顔の筋肉が奇妙に歪み、毒気に満ち満ちた自嘲の笑みを刻むのがわかる。

 体が疼く。
 喉が渇く。

 顔が卑屈に歪み、笑みとは似て非なる露悪的な表情を形作る。
 顔の表面に虚ろな笑みを浮かべていても、心はそれ以上に空虚で、もはや痛みすら感じない。僕は僕であって僕でないものへと変容する。
 今まで東京プリズンで得たもの培ったもの、それらすべてを擲って人の形をした虚ろになる。

 あるのはただ輪郭のぼやけた熱だけ。
 粘着な視線に嬲られた箇所の疼きだけだ。

 緩慢な動作で顔を上げる。
 目が合う。
 ランプの光を受けた顔は、剥き出しの欲望にぎらついていた。 

 震えのおさまった手を伸ばし、ペニスに添える。
 左手で根元を持ち角度を調整、右手を竿に添える。
 手の中のペニスは固く柔らかい。
 固い芯を秘めていてもそれを覆う肉は頼りなくふやけている。
 手中で脈動するペニスの存在に意識を凝らす。さらに接近を図る。
 膝立ちの姿勢から前傾し手中のペニスをつぶさに観察、どの程度口を開ければこれが入るか計算する。

 上唇で先端にふれる。
 柔らかな唇が柔らかな先端と密着、重なり合った部位からじんわり熱が広がる。
 唇を僅かに開ける。
 上唇と下唇で先端をささやかに食む。
 口腔には入れず、入り口でじらす。
 上唇と下唇で軽く挟むようにして刺激すれば、先端にうっすら汁が滲む。
 一滴吸う。
 先端の孔から分泌された透明な上澄みは、ほのかに青臭く苦味があるも、精液よりも淡白で口当たりがいい。
 今度はやや大きめに口を開ける。
 右手と左手を軽く動かし竿を立て、様子を見ながら先端を含む。
 歯を立てぬよう注意しつつ、舌先で器用につついて反応を引き出すのにのめりこむ。
 蝶の管に似た緩急の付け方で舌先を出し入れし、淡く滲み始めた蜜を啜る。  

 「俺の味がすんだろ」
 暴君が満足げに笑う。
 後頭部にのしかかる握力が増す。
 集中力を散らすのだけが目的の意地悪い揶揄には応じず、両手に捧げ持ったペニスが固くなり始めたのを期にいよいよ迎え入れる。
 「んっ………ふぐ」
 固くなり始めたペニスが口腔を圧迫する。物理的な息苦しさに視界が霞む。
 技巧を凝らした舌使いと手管でもって分身をしごきたてれば、暴君の息が上がり始め、僕を押さえ込む手の力がさらに強くなる。
 無我夢中一心不乱にそれを行う。
 余計な事は何も考えず間違っても思い出さぬように、含んだペニスを手と舌でもって捏ねくりまわす。
 「上手いぜ」
 優越感に酔いしれた手つきで僕の頭をなでながら嘯く。
 こちらはそれどころじゃない。
 口の中で膨張したペニスが上下の顎を圧迫し、窒息の苦しみに危うくむせそうになる。
 喉元に込み上げる嘔吐感を堪えながら懸命に奉仕を続ける。
 何も、何も考えたくない。すべて忘れてしまいたい。
 やすりがけるように根元から先端にかけ強めにしごき、唾液を捏ねる音も卑猥に、潤滑な唾液で満たした口腔に含んだペニスを舐める。
 暴君の味が口の中に広がる、唾液に溶けて染みこんでいく。

 頭が朦朧とする。
 全身の皮膚がひりつく。
 何度も喉を上下させ暴君を飲み下す、青苦く独特の味の汁を啜りこむ。 

 「あ……ふく、ぅあ………」
 「やらしー顔。よだれでべとべとだ」
 僕の顔に指を持ってきて涎を拭う。
 悪戯っぽい笑いを泡立てる暴君をよそにフェラチオを継続、下品な水音を響かせてペニスをしゃぶる。
 僕自身の唾液で濡れそぼったペニスが淫猥に濡れ光る。
 口の端から濃厚な糸引き涎がたれる。

 含み、飲み干す。
 啜り、味わう。
 喉がこくんと上下する。

 フェラチオに没頭する視界の端にホセが映る。
 ランプの光を避けるようにして片隅に退避、腕を組みこちらを眺めている。
 その顔は闇に沈んで判別付かない。
 嘲っているのか蔑んでいるのか、はたまたそのどちらでもないのか、謎めいた沈黙からは窺い知れない。
 片隅に潜む隠者の存在をいやがおうにも意識しつつ、浅ましい姿を見られる恥辱がまたも倒錯した興奮をもたらす。

 「だんまりじゃつまんねーよ。おしゃべりしようぜ」

 僕の後ろ髪に指を絡めかきまぜながら暴君が提案する。 

 「聖書を全部そらんじてるお利口さんな奴隷に質問だ。今の気分にぴったりな一文を挙げよ」

 逆らったら何をされるかわからない。
 朦朧としながらも、暗記している全文から今の心情に最もふさわしい記述をさがす。

 見つけた。

 「………『多くの人が肉によって誇っているので、私も誇る事にします』」

 怒張したペニスにむしゃぶりつく傍ら、掠れ声を搾る。

 「『あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています。事実あなたがたは、だれに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか』」

 潜水と浮上を繰り返すあいまに視野は狭まり意識は霞んでいく。
 酸素を欲して喘ぐ。
 声を発しようとしたそばから暴君が腰を突き入れ、ペニスが喉の奥を突く。
 喉を塞がれる苦しみに生理的な涙が滲み、視界がぼやける。
 ペニスを含みながらも反発に駆られ、手で持って抜くと同時に、呂律の回らぬ舌を動かして続ける。

 「『言うのも恥ずかしい事ですが、言わなければなりません。私達は弱かったのです』」
 「そのとおりだよ。お前は弱かったんだ、キーストア。俺の誘惑をつっぱねられねーくらいな」

 暴君の顔が毒々しく歪む。おそらく笑ったのだろう。
 だがそれは笑みと形容するにはあまりに禍々しく邪悪な瘴気を発し、正視に堪えざるほど不吉な陰影に隈取られていた。
 貪欲に目を輝かせた暴君が、僕の頭を押さえ込んでもっと舌を使えと催促する。

 僕は従う。
 言われるがまま唾液を捏ねる音をたて、どこまでも下品に卑猥に、顔中涎でべとつかせ、口を窄め頬を膨らまし、乞食じみてペニスにしゃぶりつく。

 口の中で独立した生き物の如く肉塊が脈打つ。
 ランプの火影を映じた顔に凄惨な笑みを広げ、細めた双眸を恍惚の光にぬらし、錯乱甚だしい饒舌で口走る。

 「『暴虐な証人どもが立ち 私の知らないことを私に問う。彼らは善にかえて悪を報い、私のたましいは見捨てられる。しかし、私はー』……」

 次第に目の焦点がぼやけていく。
 放心した顔つきで立ち竦み、暴君は静かに言う。

 「『彼らの病の時、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは胸を行き来していた。私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ』」

 頭にのった手がふっと軽くなる。
 異変を察し、ペニスを含んだまま上目遣いにうかがう。
 暴君の目はここではないどこかを見ていた。
 虚空を通り越して自分の内側に回帰するような視線だった。   

 ランプの光に照らされた顔はひどく心許なく
 闇に取り残された子供のように孤独で。
 悲痛で。

 暴君は淡々と続ける。
 憎悪という憎悪を飲み干し尽くし、虚無という虚無を貪り尽くし、ついにはなにもかも失ってしまったように。
 静かながら救い難い悲哀を帯びた声で、抑圧され続けた間の苦しみを訴える。

 「『彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。私のまわりの、あざけり、ののしる者どもは、私に向かって歯軋りした』」

 生を享けたところでだれからも祝福されず
 存在を認められず。

 耐え難い孤独と救い難い猜疑の中、レイジの奥底に封印され続けたもうひとつの人格が、みずからの正当な権利を主張せんと沈黙を破る。
 「『わが主よ、いつまでながめておられるのですか。どうか私のたましいを彼らの略奪から、私のただひとつのものを若い獅子から、奪い返してください』」

 それは祈り。
 それは嘆願。

 生まれながらにして否定された人格が、神から免罪符を強奪し生きる資格を得ようとする。
 生きる許しを乞うている。

 冷たい石室の中、ランプの光を受け孤独に立ち竦む暴君を含んだまま見上げる。

 ああ、そうか。
 そうだったのか。
 こんな単純なことに何故気付かなかったのだろう。

 「暴君」
 名を呼ぶ。
 暴君がこちらを見る。
 気だるげにこちらを見下ろす視線を真っ向から受け、本人すら気付いてなかった事実を指摘する。
 「寂しかったんだな」
 顔に驚愕が浮かぶのを見逃さない。
 「寂しい?俺が?」
 「生まれた時から否定され続けて寂しかったんだろう。誰からも顧みられず、誰からも認められず。君を生んだ本人さえ君を認めようとはしなかった、受け入れようとはしなかった。それがどうしようもなく寂しかったんだろう」
 淡々と指摘すれば、汚泥が煮立つような笑い声があがる。
 暴君が笑い始める。
 肩を震わせ喉ひくつかせ、おかしくておかしくてたまらないといったふうに抑えた声で笑い出す。
 破滅的な暗さを孕んだ笑いが床を這うようにして流れる。
 僕はペニスに手を添えたまま身動きを忘れ暴君を見詰める。
 暴君は低く、低く笑い続ける。
 痙攣の発作に襲われたかのように肩と喉を断続的にひくつかせ、頬に纏わりつき口の端に紛れ込むおくれ毛をうざったげに払う。
 「んな当たり前のこといまさら聞くなっつの。そうさそのとおり、まったくご指摘の通りだよ。お利口さんな天才はなんでも見通しってわけか、恐れ入ったね。俺を産んだ女は俺の事を憎んでいた。聖母とおんなじ名をもつ男狂いのマリアめ、娼婦上がりのマクダラの女の分際で好き放題罵りやがって!呪われた子だ悪魔の血筋ださんざ言われたよ、ぶたれて蹴られて毟られて絞められて毎日毎日地獄だったよ!こっちだって好きでお前の股から生まれたんじゃねえ、叶う事ならお望みどおり地獄で生まれたかったさ。だけどしかたねーだろ、石もて追われるマクダラの女が産んだててなし子こそこの俺、どこの馬の骨とも知らねえ男にさんざ犯されて孕んだガキがいくら憎くても殺せなかったのがあの女の限界さ!そうやって生かしておきながらあの女よっぽど俺が気に入らなかったらしい」
 「違う」
 「なにが違うんだよ?」
 「君を産んだ母親じゃない、君を生んだ張本人の事だ」
 暴君の顔が強張る。
 構わず捲くし立てる。
 「君とレイジは陰陽の双子だった。君は生まれた時から負の感情を肩代わりしてきた、怒り苦しみ悲しみ痛みの感情をレイジの身代わりに引き受けてきた。しかしレイジは君を否定した、君の存在を決して肯定せず許容せず忌むべき片割れとして疎んじ続けた。だから」
 「黙れよ」
 前髪を強く引かれる。
 悲鳴の形に開いた口にむりやりペニスが押し込まれる。
 「あぅぐ、ひう……」
 「知ったふうな口を聞くなよ、裏切り者の分際で。ケツで感じる淫売の分際で、偉そうに俺とあいつを語るなよ」
 暴君が乱暴に腰を突き入れる。
 ペニスがめちゃくちゃに口内を攪拌する。
 前髪が何本か引き抜かれ唐辛子をすり込まれたように頭皮がひりつく。
 口から唾液が溢れる。
 首を伝い服をぬらす唾液を拭う暇も与えられず、口腔の粘膜をぐちゃぐちゃかき回し喉の奥に突っ込まれるペニスをひたすらねぶる。
 異物感が喉を塞ぐ。
 頬の内側の粘膜を乱暴に出し入れされるペニスがこそぎおとす。
 顎の間接が外れる限界まで精一杯口を開けペニスをしゃぶる、無我夢中で舌を窄め尖らせ肉棒に這わせる。
 「覚えてるか、キーストア」
 暴君が懐かしい呼び名で僕を呼ぶ。
 仮初の親愛を込めて。
 僕は顔中涎でべとつかせ、両手にペニスを捧げ持ち、ひたすらにそれをねぶる。
 飴玉を転がす要領で舌を丸め、ねっとり竿に這わせて唾液を伸ばし、刻々と趣向を変え新たな刺激を与え飽きさせないようにする。
 盲目的な奉仕。
 「二人でバスケした時の事」
 優しい声音が耳朶をくすぐる。朦朧と霞がかった頭にあの日の青空が浮かぶ。
 今目の前にいるのは暴君か、レイジか?
 わからない。区別がつかない。声は同じだ。顔は同じだ。
 暴君?
 レイジ?
 ……頭が混乱する。疲労と苦痛に目が霞む。
 ひょっとしたらレイジかもしれない。
 レイジが帰ってきたのかもしれない。
 そうだ、この声はレイジだ。漸くレイジが帰ってきたんだ。

 男は語る。

 僕とレイジしか知りえないはずの事実を、二人きりの秘密を。
 あの日分かち合った空の青さを、
 二人で寝転んだアスファルトの熱さを。

 「お前ときたら筋金入りの運動神経の鈍さで、ちょっとよそ見したら10メートルも引き離されてやんの。何度注意してもうっかり三歩以上歩いちまうし、つきっきりで教えてやってもさっぱり上達が見られねえ。正直こりゃあだめだと思ったよ。お手上げだった。まともに勝負になんねーし諦めたほうが無難だってアドバイスしても天才に不可能はねえの一点張りで、全身汗だくで髪も服もびしょぬれで、なのにむきになってボールを拾い上げるもんだからしまいにゃ俺も降参してさ、お前が納得するまで付き合ってやろうってハラ決めたんだ」

 声が記憶を喚起する。
 水音も淫猥にペニスを頬張る僕の脳裏に、はるか前を走るレイジの背中が浮かぶ。
 ボールを追いかけ疾走するレイジと僕の姿が、遠い日の残像が浮かぶ。

 「……ルール、は、完璧、に、は、あくして、いた…………」

 浮かんで、消える。

 「実技にゃとても合格点つけられなかったけどな。お前にしてはまあ頑張ったほうだと思うぜ、何十回失敗しても粘り強く挑戦し続ける根性はたいしたもんだ。教えてやったろ、ボールを扱うコツ。なんだったか言ってみろ」
 「肘を……90°に曲げて………」
 「こうだ」
 暴君が僕の腕をひったくりぐいと曲げる。ぴったり90°に。あの時僕にやったように。
 ペニスを捧げ持った手と肘の角度を、90°に固定する。
 「ボールは……額につけて……三角点を結ぶように……ふあ、」
 「覚えてるだろ。すっげーいい天気だったよな。毎日つきっきりで特訓してやったよな。練習が終わったあとはふたり大の字になってアルファルトに寝転んでこんがり焼いたよな。おかげでシャツの内と外と全然色が違うの、笑えるぜ。お前なんか特に生っちろいから変わり目が目立ってさあ……」
 日焼けのあとをさぐるようにうなじをなぞる。
 ぞくりとする。 
 「もうすっかりもとにもどっちまったな」
 「は…………」
 「覚えてるか?すっげー綺麗な空だった。抜けるような青空だった。バターみてえな太陽だった。グラウンドはでっかいフライパンで、俺たち二人その上にのっかってあっちこっちへ走り回ってたよな。もうちょっとでスクランブルエッグになりそうだった。お前の眼鏡湯気で曇ってやんの。すっげー間抜け面だった、今思い出しても笑えるよ」

 やめろ。
 やめろ。
 それ以上聞きたくない。
 思い出すな思い出させるなこんな時に思い出させるな、君のペニスをしゃぶっているときに無我夢中一心不乱にフェラチオをしてる時に今まさにロンとサムライを裏切っている時にそんな事を思い出させるんじゃない!!

 僕と君が友人だったと
 君の友人だったと、
 思い出させないで、くれ。 
 頼むから。

 「………いいダチ持って嬉しいよ、俺は。バスケはへたっくそだけど、フェラは上手いしケツもただで貸してくれる」
 暴君の言葉は、礫となって僕を打ちのめす。  
 抑圧した感情が逆流する。
 これまで懸命に殺そうとしていた感情がレイジへのロンへのサムライへの想いが沸騰し、僕は今レイジのものをしゃぶってる顔中涎でべとつかせレイジのものを頬張ってる、こんな関係になりたかったわけじゃない、かつて僕たちは同じ空の下でボールを追って息を弾ませ寝転んで沢山汗をかいて、今僕がかいてる汗は別の物で、僕が口と体から垂れ流す体液からは発情した雄の匂いがして、ちがう、ちがうー……
 もうレイジは戻ってこない、あの日は戻ってこない。
 同じボールを追いかけることも灼熱のアスファルトに寝転ぶこともない、地べたに足を崩し野次を飛ばすことも手取り肘取りバスケの作法を教授することもない、音痴な鼻歌を口ずさみもしない、僕の友達だったレイジは永遠に消えてなくなってしまった。

 レイジの顔をした男は語る。
 レイジを騙って、失われし思い出を物語る。

 「楽しかったな、あの時は。またやりてーな、バスケ」
 「もう、こりごりだ……右往左往駆けずり回って体力を浪費して……ばかばかしい……」
 「楽しんでたくせに。知ってるんだぜ、ずっと見てたから」

 大きな手がくしゃりと髪をかきまぜる。
 サムライの手とは違う感触、違う撫で方。
 上から押さえつけるような手つきでもって僕をなで、耳朶で囁く。

 「これからは俺が遊んでやるよ。いやってほどな」 

 ペニスが極限まで膨張する。
 射精の寸前、ペニスが引き抜かれる。
 勢い良く口から引き抜かれたペニスから弧を描いて白濁が放たれ視界を染める。

 「かはっ、がほっ……」 
 青臭い粘液が顔面にぶちまけられる。
 先端の孔から勢い良く迸り出た精液は、狙い違わず僕の顔面に命中し、眼鏡のレンズに至るまで斑に汚し尽くす。 
 レンズを覆う白濁を拭う気力もなく、フェラチオだけで体力を使いきり、床に手足を付いて暴君を見返す。
 「すっげー顔。自慢のメガネが台無し」
 指を伸ばしレンズにつと触れる。 
 レンズに付着した白濁を指で引き伸ばし擦り付け、意味深にほくそ笑む。
 「バスケより楽しい事教えてやるよ」
 ランプの光が酷薄な翳をつける顔で笑い、優雅に翻した手で僕の肩を掴み押し倒す。
 背中が固く柔らかいものに当たる。
 セメント袋を敷き詰めた上に押し倒されたのだと気付いた時には、既に暴君が体重をかけてのしかかっていた。 
 「望みのもんをくれてやる。売春班が天国に思える地獄に堕として苦痛と快楽をすりかえてやる」
 前髪の被さった奥から荒みきった光を放つ双眸が覗く。
 弛緩した体をセメント袋の上に投げ出した僕は、白濁に塗れた顔を暴君の肩越しの天井に向け、瞬きも忘れ放心する。
 ランプの光が波濤めいた陰影をつける天井にロンの面影が浮かぶ。
 人懐こく笑うロンの面影が薄れたのちに、サムライの顔が映し出される。
 こんなに近くなのに、手を伸ばしても届かない場所にふたりはいる。
 もはや完全に僕から遠ざかってしまった。

 サムライも、
 ロンも、
 レイジも。
 
 皆、消えた。
 僕の友達は、消えた。

 僕はひとりだ。
 長い長い歳月を経て、長い長い回り道をして、ひとりに還った。

 「『あなたは私から愛する者や友を遠ざけてしまわれました。私の知人たちは暗いところにいます』」
 唇が勝手に動き、思念の表層に浮かんだ言葉を吐き出す。
 薄く骨張った背中にセメント袋があたる。
 レイジであってレイジでない男が、愉快げに目を光らせてこちらを覗き込む。
 僕は言う。
 呟く。
 空虚な心と空虚な体、それでも煽られつつある熱を意識し、唇を動かす。

 「『あなたは私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。
  私は閉じ込められて、出て行くことができません。
  私の目は悩みによって衰えています。
  主よ。私は日ごとにあなたを呼び求めています』」

 眼鏡の内側にまで飛び散った精液が目に染みる。
 眼球に張った淡白の膜を瞬きでとりさり、怠惰に腕を翳す。

 目の前の男に身も心もすべて委ねきるように、
 魂までも明け渡すように。
 
 暴君に向かって両腕をさしのべ、暴君を通り越した虚空に視線を投じる。

 祈りが失墜する。
 魂が失楽する。
 身も心も堕落する。
 堕ちて、果てる。

 「『あなたに向かって私の両手を差し伸ばしています』」

 暴君の腕の中に失墜する。


にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050209023658 | 編集

 隆々たる筋骨で鎧われた巨漢が怒髪天の咆哮をあげる。
 「ぎゃあああああああああああっああああああああああっああああああす!」
 たまぎる叫びを上げる巨漢の脇に侍るのは一方の頬傷以外瓜二つの囚人、残虐兄弟の異名をもつ強姦魔ユエとマオ。
 怒り狂う巨漢を挟み左右対称に展開した兄弟と対峙するのは、眉間に焦燥の皺を刻んだ仏頂面の男。
 片手に一振り木刀を下げている。
 年経りて飴色の艶を帯びた刀は強靭に反り、一切の贅美を排し、実戦のみで鍛え上げた峻烈な潔さを漂わせている。
 「どけ。お前らにかかずりあってる暇はない、俺には用がある」
 眼光鋭利な切れ長の目で薙ぎ払うように行く手を端倪、親指で鍔を支え木刀を斜に傾げ、鍛え抜かれた身振りで秘められし実力の片鱗を示威する。
 場が緊迫する。
 視線が衝突し、火花が散る。
 鞭のように引き締まった痩身に怒気を宿すサムライと、体積が増したかのように闘気を開放する凱とが5メートルを隔て対峙。
 二人のもつ気は対照的だ。
 サムライの闘志は身の内を静かに流れ、木刀にのせて解き放たれるまさにその瞬間に備え、極限まで練り撓められる。
 凱が満腔より放つ闘志は周囲のものすべてを薙ぎ払うような莫大な圧力をもち、有象無象を容赦なくねじ伏せにかかる。
 虎視眈々たがいを牽制しあう。
 両者とも一歩も引かぬ面構えと気迫でもって間合いを狭めにかかる。 
 殺気の底流を塞き止めるように立ち、サムライは動じない。
 脂染みた前髪の隙間から炯炯たる眼光を放ち、一分の隙なく木刀を構える。
 「無益な殺生は本意ではない。大人しく退くなら五体満足で帰してやる」
 伸びた前髪の隙間から凄惨な眼光を覗かせたサムライは、刃の如く酷薄な表情のままに、行く手を阻む一党に退散を命じる。
 しかし一党はそこを動かず居直るばかり、サムライの忠告を聞き入れ戦線から退く気配はない。
 ユエとマオはサムライの静かなる怒りに気圧され、若干腰が引け気味で顔にも緊張が漂う。
 対して凱の物腰は至って堂々たるものだ。
 蛮勇な大股で踏み構える姿は猛々しい迫力に溢れ、臆病者ならひと睨みで気死せんばかりに滾りたつ目つきが比類なき豪胆さを表す。
 襟ぐりから突き出た猪首に無残な傷痕がある。
 今を去ること一ヶ月前、道了との対決時に負った傷。
 ぎざぎざの破線を描き喉を横断する傷は見るも痛々しいながら、もとより厳つい醜貌と奇妙に調和し互いを引き立てあい、敗残者の不名誉の烙印がひとかたならぬ凄味を付与する健闘の勲章ともとれる。
 冒頭の雄叫びから一転、凱は不機嫌に口を結び沈黙を保つ。
 嚇怒をやどし爛々と煮え滾る目つきと赤黒く上気した顔、ふてぶてしくひん曲げた唇が、小心者なら失禁せんばかりの形相を作る。
 凱は怒り狂っている。
 全身の毛穴から蒸気が噴き上がる幻覚が見えるほどに身の内で溶岩が滾り立ちはらわたが沸騰する。
 触らぬ凱に祟りなしが囚人の間での暗黙の了解にして共通の認識。
 囚人はみな凱の逆鱗にふれるのをおそれ無難に迂回する。
 しかし今、迂回する道もまた左右対称に展開した残虐兄弟によって閉ざされた現状を打破するには実力行使しかない。
 「退かぬなら退かすまでだ」
 こんな所で足止めされてる場合ではない、直のもとに急がなければ。
 胸の内を暗雲が蚕食する。
 直の身に刻々と危機が迫っている。
 理屈ではない、直感として悟る。
 サムライの勘はこと危地に及んで外れた試しがない。
 サムライが離れ離れになった直を案じる時、直の身には必ずよからぬ事が起きていた。

 直がいない。
 ただそれだけでどうしてこんなにも胸が騒ぐのか。

 無事でいてくれ、直。
 どうかこの通りだ。

 シャツの下で心臓が鼓動を打つ。
 祈るような心地で木刀をとる。
 こうしているあいだにも取り返しの付かない事態に陥ってるかもしれない。
 自分のいない場所で目の届かない場所で直が危険に晒されてるかもしれない。
 
 木刀に指が食い込み、みしりと鳴る。
 怖い。
 直を失うのが怖い。
 一刻も早く直のもとへ行きたい直の無事をこの目で確かめたい連れ戻したい。

 木刀を正眼に構える。
 左右に気を配り死角をなくす。
 木刀の切っ先を凱に擬し、磐石の安定感と臨機応変の瞬発力とが兼ねあう重心で踏み構える。

 「お前らの悪ふざけにかかわりあってるほど俺は暇ではない。レイジの居場所など知らん、勝手に捜せ」

 そっけなく指図すれば、凱を庇うようにして前に出た残虐兄弟が虚勢を張って野次をとばす。
 「随分つめてーじゃねーか、ダチのくせに」
 「ダチのくせに」
 ユエとマオがうりふたつの下卑た笑みを浮かべる。
 「レイジのこと心配じゃねーのかよ。のけもの四人でよく固まってたろ、食堂でも廊下でも図書室でもさ」
 「気心知れたダチのお前ならレイジの居場所についてなにか知ってるんじゃねーかと凱さんはお勘繰りだ」
 阿吽の呼吸でやりこめにかかるユエとマオを底光りする眸で睨み、苦渋の滲む顔つきで吐き捨てる。
 「くどい。あいつの居場所など知らん、わかればとっくに連れ戻している」
 「どうだかな」
 「お前は仲間思いだもんな。レイジの事庇ってんじゃねーか?」 
 「義に厚く仁に熱いサムライなら、追っ手のかかった仲間の為に心にもねえ嘘のひとつやふたつつくんじゃねーか」
 ユエとマオが満面に人の神経を逆撫でするいやらしい笑みを広げる。
 粘つく眼差しを注がれたサムライはといえば、弁を尽くし疑惑を払う暇を惜しむかのように眉をひそめ、質問を投げ返す。
 「……レイジに用があるのか?」
 『おおどもざあああ』
 地の底で轟き渡る溶岩の如き不気味な声が湧く。
 そちらに向き直る。
 これまで沈黙を守っていた凱が、隆々たる筋肉盛り上がる肩で残虐兄弟をおしのけるようにして歩を踏み出す。 
 分厚い筋肉に覆われた胸郭が上下し、喉元の傷が醜く引き攣る。
 『とっどとレイジの居場所吐いだほうが身のだめだぜ』
 不恰好に膨らんだ喉からざらつく声が放たれる。
 錆びた鋸を引くような濁声はその音量でもって大気をびりびり震わせる。
 喉を負傷した凱の言葉はひどく不明瞭で聞き取りづらい。
 その濁りが底知れぬ凄味を付与するのもまた事実。
 凱の恫喝を真っ向から受けてもサムライは動じず、訝しげに目を細める。
 怪訝な表情で見返すサムライを嚇怒に燃える目で睨みすえ、暴発寸前の怒りを押さえ込むように獰猛に唸る。

 『ごぢとら我慢の限界なんだよ。レイジのやづ、この俺ザマを無視して好き勝手しやがっで……俺は凱だ、東棟三位の実力者だ、中国人三百人の頂点に立つ男だ!これ以上蚊帳の外はごめんだ!俺との勝負が決着つかねーうぢにトンズラごくなんざ許ざねーぞ!東京プリズンに入ってからずっとあいつが目障りだった、俺の上にはレイジがいた、余裕の笑みでおちょくるあいつが目障りでしかだなかった……あいづの鼻っ柱くじいて東棟のトップになるのが俺の野望だ、ごのまま勝ち逃げされぢゃ困るんだよ!』

 凱はとめどなく猛り狂う。
 今の凱はレイジに裏切られた気持ちで一杯だ。
 好敵手にして永遠の目標たる男が消えたことで完全に狂乱に陥ってる。
 凱の狂態を醒めた目で観察、ペア戦決勝時での尋常ならざる取り乱しぶりを思い出す。
 片目を失い担架で運び出されたレイジに必死の形相で取り縋る凱、レイジの名を呼び衆人環視の中人工呼吸まで試みたのは、死亡による勝ち逃げを許したくない執念に尽きる。

 レイジの逃亡は、好敵手を自認する凱のプライドを容赦なく踏み躙った。
 凱は全身に怒気を漲らせサムライを睨む。

 『まだ決着はづいてねえ。俺が勝つまで勝負は続ける。レイジの首ねっごひっ掴まえてリングに引きずりだじでやる。正直に白状じろよ、サムライ。お前ならレイジの居場所知っでんだろ?知らないわぎゃねーよな、あんだけ仲良くじてるぐぜによ。気まぐれな王様だって親しいダチのひどりやふだりにゃ隠れ家打ち明げるはずだ』
 「生憎親しい友とは思われなかったらしい」
 挑発には乗らず淡々と返す。
 つれなくあしらわられ、凱が気色ばむ。
 「レイジの居場所など知らん、俺とて知りたいのが本音だ。そこをどけ、これ以上手間をとらせるな」
 「サムライのくせに生意気だ!」
 「東棟万年二位でレイジにかないっこねーくせに!」
 「だが、お前よりは強い」
 凱の両脇から罵声を浴びせる残虐兄弟を冷ややかに一瞥、誰の目にも明らかな真実をつきつければユエとマオが固まる。  
 「レイジの居場所を聞くために罠を仕掛けて待ち伏せしたのならあてがはずれて残念だな。今の俺には優先すべき用がある。かけがえのない友が俺を呼んでる。行かねば名が廃る」
 『相変わらずお熱いごっだな』
 サムライが急く目的を漠然と察したらしく凱が野卑に笑う。
 下卑た笑みを満面に滴らせた凱が横柄に顎をしゃくり、残虐兄弟を左右対称に配置させ道を塞ぐ。
 『あぐまでだんまり決め込むづもりなら力づくで吐がぜるまでだ』
 耳障りな濁音で述べる凱にサムライは歯噛みする。
 どうやら凱との衝突は避けられないらしいと諦念に達し、改めて木刀を構える。

 隙のない正眼の構え。
 油断ない目つきで動向をさぐり、慎重に間合いを詰める。
 凱もまた腰を低め拳闘の構えをとる。

 レイジの逃亡に一番腹を立てているのは凱だ、とサムライは理解する。
 東棟第三位の実力者として中国人の代表を名乗る凱は、執心するレイジにまるきり存在を忘れ去られ、筆舌尽くしがたい恥辱を被ったのだ。
 傷付けられたプライドを修復するため、失墜した名誉を挽回するため、凱はどうあってもレイジの居場所をつきとめ再戦を挑むつもりだ。
 そして、レイジの居場所を知りうる数少ない手がかりとしてサムライに目をつけた。

 タイミングが悪い。

 木刀に意識を集中、切っ先に戦意を傾注しようと努めるもなかなか雑念を払拭できない。
 集中力が散る。
 剣を握ればたちどころに鬼と化し修羅と化すサムライらしくもなく心が千々に乱れる。
 直、直。
 どうしている、直。
 お前の顔が見れない、声が聞こえない、触れられない。
 たったそれだけの事で俺はもう常の冷静さを保てられなくなる。
 今朝声をかけておくべきだったのだ。
 否、昨晩のうちに問いただすべきだったのだ。
 見てみぬふりをした俺にこそ非があり咎がある。
 俺の卑劣さが直を苦しめ追い詰めたのだとしたら、俺は……
 遠い昔に死んだ女の優しい面影が脳裏を過ぎる。
 力及ばず守りきれなかった女の面影が直のそれと重なり、心臓が強く鼓動を打つ。

 俺はまた、選択を間違えたのか?
 過ちを犯したのか?

 疑問は疑惑に変じ、あとからあとから湧いてきてはサムライを渦中に飲み込もうとする。
 サムライは剣を握る。
 正眼に構えた木刀の切っ先を小揺るぎもせず凱に擬し、武士にあるまじき気の迷いを抑圧せんとする。
 士気を鼓舞するサムライの正面、剥き出しの憎悪にぎらつく顔に人よりは獣に近い好戦的な笑みを湛える。
 『レイジは俺の獲物だ。他のやづに渡じでなるもんが。あいづを殺るのは俺だ。一番乗りでじどめでやるんだ。あどがらわいででだ假面なんぞに横取りざれてだまっかよ』
 空気が撓む。
 どちらが先に動くが予想できない。
 目を配り気を配り相手の隙をさぐる。
 相手が隙を晒した途端に付け込もうと水面下で鍔迫り合いが繰り広げられ、空気が帯電したように殺気を帯びる。

 木刀の切っ先を上げる。
 拳を強く握り込む。

 火花散る視線の鍔迫り合いの末、先に行動をおこしたのはー……
 
 衝撃が襲う。

 「「ひぶえっ!?」」
 残虐兄弟が声を揃え悲鳴を上げる。
 建物を突き上げるような衝撃が一同に降りかかり、彼らが今いる廊下全体を揺さぶる。
 床が壁が天井が揺れる。重力が増したように押さえ付けられ、かと思えば浮揚感に包まれて足裏が滑る。 
 「じ、地震!?おっかねーよあんちゃん、潰されちまうよ!」
 「大丈夫だ弟よ、あんちゃんが守ってやる!」
 『どうあ!?』
 突如として床から天井に至るまで走った衝撃の威力は絶大で、さしもの凱もバランスを崩しあわや転びかける。
 ひしと抱き合う残虐兄弟と足を縺れさせ慌てる凱をよそに、サムライはむしろ地震を好機と見なし、突破口を開く。
 「ふっ!」
 口から気合を発し、頭を屈めた低姿勢で一直線に疾走。
 凱めがけ一陣の疾風の如く疾駆、横薙ぎに払った木刀で地を這うようにして凱の足首に痛恨の一撃。 
 『!?!痛だあああああああああああっあああっああ!!!』
 足払いをかけられた凱は濛々と誇りを舞い上げ派手に転倒する。
 サムライは速度を緩めず凱を飛び越し疾走する。
 「ああっ、サムライがいっちまう!」
 「追え、追うんだ弟よ!あん畜生逃がすもんか俺らの凱さんにひでーことしやがって、捕まえてぎったんぎったんにしてやる!」
 「けどけど凱さんはどうする、倒れたまんま放っとく?」
 「凱さん大丈夫っすか凱さん、起きてください凱さんー!」
 背中に浴びせられる罵声を追い風にサムライは猛然と走る。
 ぺちぺちと何かを叩く音がする。
 残虐兄弟が凱の頬をひっぱたいて必死に起こそうとしてるらしい。
 サムライにうしろを顧みる余裕はない、事態は急を要するのだ。
 頭に血が上った凱をまともに相手したらきりがない。
 卑劣なだまし討ちに内心忸怩たるものを感じないでないが、直の身の安全と武士の矜持を秤にかければ、どちらが重いかは明白。
 「俺の手は、直を守るためにある」
 直を守れぬ手などいらぬ。
 飾りなら切り落としてしまえ。
 苦りきった口調でひとりごち、さらに速度を上げる。
 ふと前方に影を捉える。
 何やら殺気だった看守の集団がこちらにやってくる。

 木刀を握り締め警戒する。
 呼び止められれば万事休す。

 強行突破もやむなしと意を決し、飛燕の如き俊敏さで再び足払いをかける準備に入ったサムライだが、予想に反し前方から現れた看守の一群はサムライを見もせずすれちがう。
 「南棟に仕掛けられた爆弾が爆発したんだとさ、こっちまで揺れが伝わってきたんだからたいしたもんだぜ!」
 「完全にとちくるってるぜ南の野郎ども、あっちこっちに爆弾仕掛けやがって……東京プリズンを瓦礫に返すつもりかよ」
 「瓦礫のバリケードで通せんぼか?」
 「爆弾処理で看守が分散すればそんだけ連中にとっての脅威が減るし……」
 「くそったれが、どっから爆弾なんか仕入れたんだよ!西棟のヨンイルか、二千人殺した爆弾魔のあいつか?」
 「出所吐かせんのは首謀者ひとり残らずとっ捕まえて騒ぎをおさめてからだ。さっきパクった囚人が不穏な事もらしてただ、今度の暴動は南だけじゃねえ、東と西と北も関わってるって……東西南北全棟で同時多発的に暴動おこして俺らを混乱させる気だ!」
 「確実に死人がでるぜ」
 「こないだの暴動なんかメじゃねーよ」

 爆弾。
 そうか、今の揺れはそれが原因か。

 どうやら大変な事態が出来したらしい。
 前回の暴動でも前々回の暴動でも、棟内に爆弾が仕掛けられそれが本当に爆発するような事はありえなかった。
 東棟まで揺れが伝わってくる程の衝撃だ、南棟では既に死傷者がでてるかもしれない。

 東京プリズンで何が起きてる?

 脳裏に疑問が過ぎる。
 胸の内を不安が占める。

 秩序が根底から覆されようとしている予感に戦慄を禁じ得ない。
 これまでの暴動とは何かが根本的に違う。
 囚人とてまるきり馬鹿ではない、棟内に爆弾を仕掛けたら巻き添えになるとわかっている。
 にも関わらず爆発はおきた。
 これは何を意味する?
 すべての事実が黒幕の存在を示唆する。
 仮に今回の暴動が東西南北全棟に根を張り巡らせた黒幕の指示により行われたのだとしたら、命令系統が整った手駒はそれを実行する。
 死傷者がでようが建物の一部が崩落しようが、忠実に任務を遂行する。
 「まさか………」
 ペア戦終了後、深夜の図書室であいまみえた男の底知れぬ笑みがよみがえる。
 回想の中で黒き隠者が笑う。
 謎めいた台詞を口にし、これから起こる災いの数々を暗に匂わせ、東京プリズンの終末を告げる。
 「お前の仕業か?」
 南棟で発生した暴動はやがて東西北に広がる。
 爆弾が仕掛けられているのが南棟だけとは限らない、だからこそ看守がああも焦っているのだ。
 内通者がいるなら各棟に爆弾が仕掛けられている可能性が高い。
 「…………っ」
 直が爆発に巻き込まれ瓦礫の下敷きになったら?
 最悪の想像に顔が歪む。
 サムライは走る、ただ走る。
 不可視の手を伸ばし自分を掴み取ろうとする不安から逃れ、ただ直の無事だけを一心に念じ、逸る心で走り続ける。
 走りながら考える、直が行きそうな場所を。
 いまだに砂漠にいるとは考えにくい、夜になれば気温が低下し人が生き残れる環境ではなくなる。
 砂漠に居残る囚人がいないように看守が持ち場を回ってチェックする為、バスに乗り遅れた可能性は却下。
 バスに乗って帰ってきたと仮定する。
 帰棟した囚人はまずその足で房に向かい、体の汚れをおとすのが日課。
 しかし直は帰らなかった。
 よって今も砂漠の砂に塗れた格好のままだ。
 図書室に行けばいやがおうにも目立ち噂が立つはずだがそれもない。
 他に直が行きそうな場所を数えあげる。展望台、中庭……
 レイジの房は現在看守が見張っている。

 ヨンイルはどうだ?

 「…………まさか。道化のもとへ行くとは思えん」
 口にした言葉がたんなる気休めにすぎないと自分でも十分わかっている。
 直とヨンイルは仲が良い。
 サムライと顔を合わす気まずさから直がヨンイルを頼るのは十分ありえることだ。
 だが、とサムライは渋面で反駁する。
 だが、直とヨンイルが一緒に居るとは考えたくない。
 直が他の男のところにいると考えただけで嫉妬に狂いそうになる。
 西棟に乗り込むか否か逡巡する。
 直がヨンイルの房に匿われているとは考えたくないが、しかし……
 心が惑う。
 そうあってほしくない気持ちが強く疼く。
 直は前に一度ヨンイルのもとへ行った。
 静流を拒みきれぬ優柔不断なサムライに愛想を尽かし、ヨンイルを頼った。
 直とヨンイルが一晩ともに過ごした事を考えると、不甲斐ない己を呪い、やりきれなくなる。

 どこにいるんだ、直。

 心が錯綜する。
 直を求めて迷走する。

 狂おしい渇望に苛まれ、ひたすら駆ける。
 心の中で直を呼ぶ。何度も、何度も。返事を期待して。
 サムライは下へ下へと向かう。
 知らず知らずのうちに直の痕跡を辿り反芻し、直が強制労働に発ち、バスから降りて最初に踏んだ地をめざす。
 長時間走り続けてさすがに息が上がり始める。
 全身から汗がふきだし服をぬらす。
 産道のように狭苦しい通路を走り抜ければ、視界が一気に広がる。
 壁に穿たれた矩形の出入り口に立ち、広大な地下停留場を見渡す。
 地下停留場は無人だ。ブラックワークの娯楽試合が催される週末ならいざ知らず、平日のこの時間帯に出歩くものは皆無。
 見回りの看守も暴動を鎮圧に南棟にむかうものと他棟に警告にむかうものとに分かれたらしく、人気の絶えた地下停留場には静寂がたゆたっている。
 嵐の前の静けさ。
 激動の予兆を孕んだ水面下の静寂にも怖じることなく、名伏しがたい衝動に憑かれて中央へ走り出す。
 走りながら夢中で叫ぶ。

 「直、どこにいる!いるなら返事をしろ!」

 自分がどう見えるかなど構ってられない。
 恥も外聞も武士の見栄もかなぐり捨て乱心したかのように直の名を呼んで回る。
 焦燥と不安に駆り立てられ自制の箍がはずれ、コンクリ打ち放しの停留場を文字通り東奔西走し、服が砂利で汚れるのも厭わず這い蹲って何十台も並んだバスの下を覗き込み、等間隔に穿たれたマンホールに向かい片端から呼びかけ反応を待ち、血走った目で痕跡をさぐりもとめる。
 サムライの呼び声は高い天井と周囲の壁に跳ね返り韻韻と反響する。

 やはりいないのか?

 名を叫べども反応は一切なく、こだまを吸い込んで虚空の静寂が深まるばかり。 
 木刀を片手にあてどもなく走り回るサムライの姿は鬼気迫り、汗で濡れそぼつ髪がかかる顔には、ひりつくような苦痛の色が浮かぶ。
 「直…………」
 絶望に打ちひしがれそうな膝を気力のみで支える。 
 「俺の勘もあてにならないものだな」
 直を求めてここにきた。勘に従いここにきた。
 しかし実際は地下停留場を隅々まで捜しても直の姿は見当たらず痕跡ひとつ見つからない。
 地下停留場にいないなら、どこだ?
 図書室か、展望台か、誰かの房か、それとも……
 顎先を伝う汗を拭き、踵を返そうとした刹那。

 「…………?」

 足がマンホールを踏んでいる事に気付く。
 何かがサムライを引き止める。強い磁力でもって関心をひく。
 己が踏んだマンホールをじっくりためつすがめつする。

 「………足跡か」
 円盤に靴跡が刻まれている。
 それ自体は何の不思議もない現象だ。
 地下停留場には多くの囚人が行き来する。
 蓋にスニーカーの靴跡がついてても何らふしぎはないのだが、脳の奥で違和感が疼く。
 何かがおかしい。
 そっと指を添え、靴跡の溝をなぞる。
 人さし指で刷きとった砂を一瞥、神妙に呟く。
 「妙だ」
 腰を浮かせあたりを見回す。
 このマンホール周辺に靴跡が集中している。
 おのおのサイズが違うために一目で別人の靴跡だとわかる。
 地下停留場を行き来する囚人のものならこんなふうに特定のマンホールに集中しないはず。
 問題のマンホールは隅の目立たない場所にあり囚人が頻繁に行きかうとは考えにくいが、人通りの少なさと反比例し、本来ばらけているはずの靴跡が妙に密集している。
 しかもその集まり方が不自然だ。
 迂回の仕方や停止の位置に一定の規則を感じさせるのだ。
 あまりに密度が高く重点的に散らばった靴跡は入念な検証を暗示する。
 複数の人間がこのマンホールから出入りした形跡がある。

 ブルーワークの囚人?
 否、それはない。
 ならば靴跡に砂が残留しているのは変だ。

 下水道が持ち場の囚人は砂漠に出る必然がなく、よって砂は残留しない。
 確たる意図の上に重なり合った靴跡を検分し、決定的な証拠を入手。
 マンホール周辺に集中する靴跡の中に、スニーカーと明らかに形状の異なるものがひとつふたつ混じっている。
 東京プリズンの囚人は全員既製のスニーカーを支給される。
 例外はブラックワーク上位の特権階級に限られる。 

 たとえばレイジ。
 たとえばホセ。

 靴跡が意味するところを悟り、顔が緊張に強張る。
 「………レイジが連れ去ったのか」
 間違いない。
 目的地への最短距離となるこのマンホールを複数の人間がくぐったのだ。
 「いた!あそこ!」
 「でかしたな弟よ、即確保だ!」
 闖入者が静寂を破る。
 地下停留場に響き渡った声の正体は残虐兄弟ユエとマオ。
 遅れを取とかえさんと全速力でサムライを追ってきたらしくふたりとも息を切らしている。

 『レイジの行方をじる手がかりを逃がずがよおっっ!!』

 矩形の出入り口に巨大な影が姿を現す。
 照明の明かりに暴き出されたその顔はぎらぎらと嚇怒に燃え盛り、凶暴極まる闘志を剥きだしている。
 凱。
 「!ちっ、」
 思わず舌を打つ。
 サムライの行動は迅速だ。
 いまだ出入り口に立つ一党に背を向けるやいなや、マンホールを両手で抱えてずらす。
 「逃げた!」
 「ヨーイドンで追うんだ弟よ!」
 「どっちが先につかまえるか競争だ!」
 「ヨーイド、ンを言い終えねーうちにフライングはずりーぞ!」
 頭上で飛び交う声と殺気立つ足音をよそに、木刀を小脇に抱えたサムライは素早く梯子を伝い下りていく。
 黴臭く湿った風が下方より吹き付ける。
 最後の三段を残し飛び降り、水溜りを弾かせ見事に着地。
 はるか頭上を仰げば残虐兄弟が先を競い梯子を奪い合ってるところだ。
 サムライは走り出す。
 木刀を一閃、あざやかに露払いして陰惨な暗渠を駆け抜ける。
 ブルーワークの囚人が引けた下水道は至って静かなものだ。その静寂が今、凱たちの乱入により破られようとしている。
 背後で罵声が飛び交い足音が入り乱れる。 
 『下水道に隠れるなんで袋のネズミもおなじだっでわがんねーのが!』
 割れんばかりの恫喝が轟き、周囲の壁に跳ね返って鼓膜を打擲。
 「袋のネズミこと下水のサムライだねあんちゃん!」
 「ああまで必死こいて逃げるってこたあ大当たりだな、レイジの居場所知ってるに違いねえ。やましいところがなきゃ逃げたりしねーだろ普通。案外下水道に隠れひそんでるんじゃねーか、王様。灯台もと暮らしってやつさ」
 「死体をばらまいたところにゃいないと見せかけてずっと潜伏してたのか……さっすが王様、冴えてんな!」
 「ばかっ、凱さんの前で褒めんな!」
 はるか背後で悲鳴が尾を引く。
 凱に思い切り蹴飛ばされたらしいマオが水路に落下、水音が上がる。
 サムライは振り向かない。
 数少ない照明を頼りに靴跡を見分けようとして不可能と判断、歯噛みする。
 直がここにいる。おそらくレイジも一緒だ。
 足跡の重なり具合から推察するに、少なくとも他に二人の人間がいる。
 敵か味方かわからぬ人間が直とともにいる危険を思い、よく響く声を張り上げる。

 「直、どこにいる!俺の声が聞こえるなら返事をしろ、声を上げて居場所を知らせてくれ!よく聞け、上は今大変な事になっている。南棟で暴動がおきた、看守は事態の収拾にかかりきりだ。お前もまさか、それに関わっているのではないだろうな。危険な目にあわされてるのではないだろうな?」

 直の姿を求め果てなき暗渠をさまよう。
 複雑に入り組んだ道から道へと息を切らし走り回り、虚空に耳を澄まし闇を手探り、必死の形相で返事を乞う。

 「なんとか言え、直」
 顔が歪む。
 「答えろ、レイジ」
 喉が掠れ、声が萎む。

 照明が裏寂しく点滅する通路をひた走るうちにサムライは大きく本道を逸れ、ブルーワークの持ち場から離れた袋小路の奥へと迷い込んでいたが、本人はそれに気付きもしない。
 脇目もふらず足を棒にして駆け続けても収穫が得られず、心労は嵩む一方。

 無意識に直を求む。
 全身全霊で求む。

 直の匂いを声を手触りを感覚を全開放し手繰り寄せようとするも、どれだけ叫べど返事は返らず沈黙が深まるばかりで献身は報われない。

 汗にぬれた瞼を固く閉じる。
 脳裏に懐かしい顔を思い浮かべる。
 干し藁の髪と硝子の瞳をもつ青年の顔。

 「…………一緒にいるなら、直を守ってくれ」
 一縷の希望に縋り、呟く。 
 サムライは走る。
 千里にも体感されるうねった暗渠を走って走って走りぬけ、直の匂いと声と手触りを五感とそれに付随する六番目の感覚で反芻し、見えざる痕跡を掴み、勘が命じるがままに闇に包まれた道を進む。
 二十メートル背後で騒ぎが勃発する。
 「サムライめーっけ!」
 「よくやった弟よ、一時は見失っちまったかとあせったがめちゃくちゃ走りまくってるうちに出会えたぜ!」
 残虐兄弟が無邪気に快哉を叫び、これ以上引き離されてなるものかと腰の得物を引き抜く。
 「亀甲縛りにしてやる!!」
 ユエが鞭をふるう。  
 ユエが振りかざした鞭は蛇のように鎌首をもたげ、甲高い音たて床で跳ねる。
 飛距離及ばずサムライにこそ届かなかったが、第二撃第三撃と腕撓らせ手首を返し連続で繰り出す。
 風切る唸りをあげ飛来した鞭をサムライは後頭部に目が付いているような正確さで避ける。
 『やりがだがなまぬるいんだよ!』
 惜しくも標的を逸し歯噛みするユエから鞭をひったくり、先頭に飛び出た凱が大きく腕を振りかぶる。
 『ぎっだんぎっだんに締め上げでやるぁ!!』
 巻き舌の恫喝を放ち、狙い定めて鞭を放つ。
 凱が一閃した鞭は毒蛇の如く邪悪な威嚇音を発し、俊敏な弧を描いてサムライの肩を打擲。
 「!っ………」
 激痛に顔が歪み脂汗が滲む。
 鞭が掠めた上着が破り取られ素肌が外気にふれる。
 『肩チラ見せで挑発たあなかなか憎い演出してぐれるじゃんか、ええっ、サムライよおおお!?その服全部びりびりに引き裂いて素っ裸にされだくなきゃおとなじくレイジの居場所吐きやがれっでんだ!!』
 「こんな寒いとこで裸になったら風邪ひいちゃうね、あんちゃん!」
 「かちんこちんちんこで大惨事だ!」
 勝ち誇った哄笑が大気を打って暗渠に響き渡る。
 残虐兄弟が追従して笑う。
 熱をもって疼く肩を庇い、息継ぐまもなく放たれる追撃を紙一重で避け、水溜りを跳ねかしよろばい歩きながらサムライは絶叫する。 

 直の無事を祈り
 直の安否を気遣い
 一刻も早く直のもとに行きたいと願い。 

 疲労に霞む目を凝らし、脂汗が滴る顔に苦痛の色を浮かべ、しつこく纏わり付く闇をかき分け、その名を呼ぶ。

 「直、直……答えてくれ、直ッ!!」
 「ここだ、サムライ。ここにいる」
 
 声が、した。
 意外なほど近くで。
  
 すぐそばで。

 「…………直?」
 幻聴かと思った。 
 壁から声が聞こえような錯覚を受けたからだ。
 サムライは顔を上げ、闇に響いた声を頼りにふらつき歩を進める。 
 水溜りに突っ込み飛沫でズボンをぬらし、脂汗に塗れた壮絶な形相に一縷の希望に縋る切迫した色を湛え、さらに濃く深い闇の蟠る方へ赴く。
 「そこに、いるのか」
 直が呼んだ。
 呼びかけに応じてくれた。
 木刀を引きずり歩くサムライの胸の内を純粋な喜びが満たす。
 壁に向かって一歩ずつ辛抱強く歩きながら、熱に浮かされたように呟く。
 「待っていろ、今助けにいく。お前に言いたい事が山ほどある。話さなければいけないことが」
 うやむやのままに捨て置けない。
 抱きたくても抱けない自分の矛盾が直を苦しめ追い詰めたのだとしたら、もう逃げるわけにはいかない。
 直に真実を話す。
 何故抱けないのか、その理由を話す。 

 失うのが怖くて抱けないと
 自分は武士である前に一人の臆病な男だと

 これまで黙り通した恥を、告白する。

 「……ずっと見て見ぬふりをしてきた。お前の気持ちを知りながら知らないふりをしてきた」

 ばしゃんと水溜りに突っ込む。
 シャワー室で触れた肌の熱さを思い出す。
 首を絞める指を思い出す。

 「……俺は、卑怯者だ。ずっと己を偽ってきた。俺は、人を好きになるのが怖い。抱くのが怖い。俺が抱いた人間は皆死ぬ。苗も静流もそうだ。俺はきっと殺してしまう、好きになった人間を殺してしまう」

 俺は夢を見ているのだろうか。
 壁に向かって歩きながらサムライは自身に問う。
 しかし一度堰を切って溢れ出した言葉の奔流はやまず、心の奥底に秘め続けた情念が言霊に昇華する。

 意識が霞む。
 目が霞む。
 ばしゃり、ばしゃりと無造作な足取りで水溜りに分け入る。
 踏み割られた水面が波立ち、そこに映り込んだサムライの顔が歪む。
 脳裏に面影が錯綜する。
 優しく微笑む苗と妖しく笑う静流、同じ帯刀の血を分かつ二人の面影が去来する。

 二人の面影が闇に呑まれ消滅したあと、今は亡き二人よりもさらに生き生きと鮮明に現れたのは、直の顔。

 喪失をおそれるあまり臆病になっていた。
 どう接していいかわからなかった。
 禁忌の境目がわからず、直に触れるときはいつもうしろめたさを味わった。

 「お前を抱くには、俺の手はあまりに血に汚れている」

 こんな穢れた手で直を抱けるか。
 愛しいお前を抱けるか。
 自分は汚いと卑下しながら、その誇り高さ故に今も潔癖であり続けるお前を抱けるものか。
 壁にことりと額を預け縋り付く。
 「お前は綺麗だ」

 愛しい人の分身であるかのように壁に凭れかかり、痛切な心情を吐露する。  

 「売春班で何人何十人の慰み者にされても変わらず綺麗なままだ。俺にはそれがわかる。お前の心がその高潔さを失わない限り汚くなりようがない。お前は自分が汚いと卑下するが、俺はそうは思わない。よく聞け、直。お前は汚くなどない。汚れてなどいない。ただ、脆いだけだ。身も心もどうしようもなく脆いだけだ」

 雫滴る足で水溜りを蹴散らす。
 ひとつひとつ言葉を選び、たどたどしく語りかける。
 贖えぬものを贖おうとするかのように誠意をこめ、不屈の精神力で抑圧し続けた欲望の正体をさらけだす。

 「お前を汚すのが怖かった。お前を壊すのがおそろしかった。お前はあまりにも脆すぎて、どうやって抱けばいいかわからなかった。俺の手は人を抱くのに向いてない。人を斬るための手だ。ただその為だけに鍛え続けた手だ。節くれだって醜い。皮が厚くてみっともない。掌は傷だらけだ。この手がお前にふれるところを思えば、苦しくて息もできなくなる。俺はきっと、お前を壊す。いまだに売春班の悪夢に怯え続けるお前を壊してしまう。ひとたび押し倒せば加減がきかなくなる、俺はただの男にもどってしまう、汚い欲望を注いで押し付けて地獄にひきずりこんでしまう。俺の中に流れる業深き人殺しの血がお前を喰らう」

 苗のように。
 静流のように。
 肉だけでは飽き足らず魂までも貪り喰らう。

 言葉を切る。
 凍結した沈黙がのしかかる。
 壁に拳をあてがい額を預け、罪過の重荷を一身に背負い目を閉じる。 

 「俺は人殺しだ」
 「僕も人殺しだ」

 壁の向こうから打てば響くように声が応じる。

 「俺はお前を汚す。抱けばきっと殺してしまう」
 「そうならないよう守ればいい」

 開眼する。
 放心した顔つきで壁を凝視するサムライの耳に、その声は届く。
 君はその程度の男なのかと叱咤し、鼓舞する声。

 「どうした、僕を守りきる自信もないのか?一度抱いた人間を最後まで守りぬく自信もないのか?君はその程度の覚悟で僕を愛してると言ったのか、僕の相棒を名乗っていたのか?なんだ、僕の誘いを拒んだのはそんなつまらない理由か。そんなつまらない、他愛もない、くだらない理由か。自分が抱いた人間は必ず死ぬ。なんだそれは、非科学的にも程があるぞ。知ってるかサムライ、迷信とは二度重なった偶然の呼び名だ。僕に死なれたくないなら君が守ればいい、どうしてそんな当たり前のことがわからない、苗と静流が君の力及ばず死んだというなら今度こそ何ふりかまわず守り抜けばいい。後悔したことを後悔したくないなら君が君であるすべてを賭けてこの僕を、君とおなじ人殺しで殺しても死なない程しぶとい鍵屋崎直を守り抜けばいいんだ」

 壁向こうの直がどんな顔をしてるのかどんな状況におかれてるか不明だが、サムライは全身を耳にしてその声を受け止める。
 全身で直の存在を呼吸する。
 分厚い壁の向こうから篭もった声がする。
 壁に隔てられたせいで小さくくぐもり、しかし芯の通った声が、縋るように一途に訴えかける。

 「君と一緒に汚れたいんだ、サムライ」

 鈍い音が鳴る。
 誰かが内側から壁に凭れかかる。
 おそらく今サムライがそうしているように額を預け拳をあてがい、壁を挟んで対になる。 
 壁を隔てて重なり合う額と手から幻の熱と鼓動が流れ込み、輪郭を被せ直と一体化する。
 
 直が愛しい。 
 ああ、
 抱きたい。
 くるおしいほどに。

 「抱いて、いいのか」
 脳裏に浮かんだ苗と静流の面影を見送り、喉の奥から掠れた声を搾る。
 直を抱きたい。
 抱きたくて抱きたくて気が狂う。
 直が腕の中にいない現実が不安でたまらない、直に会いたくて抱きしめたくてたまらない。

 本当はずっとそうしたかった。
 直のぬくもりを腕の中に感じ、安心したかった。
 直は今確かに生きていると肌を合わせて確かめたかったのだ。
 ひとつになりたかった。

 壁に額をつけ項垂れたサムライの耳に、震える声が届く。
 「抱いてくれ」
 それは承認。あるいは嘆願。
 壁越しの懺悔にして求愛。

 サムライが手をついた位置に手を添え、額をつけた箇所に額をあて、しどけなく寄りかかる直の姿を透視する。
 少しでもサムライを近く感じようとするかのように、気配を捉えようとするかのように。
 サムライは壁を抱擁する。
 少しでも直のぬくもりを感じたくて無骨な壁に肌を重ねる。

 直が五指を開いた位置に五指を添え
 頬を預けた位置に頬を寄せ
 内なる感覚が集中する眉間を合わせ
 冷え切った体をひたりと密着させる。

 壁を挟んで心が通う。
 石戸を貫く想いが通う。

 「壊れても構わない」

 壁が擦れる重低音が轟き、サムライの眼前の壁がゆっくりと回転を始める。
 隙間から漏れ出したランプの光が目を射る。
 眩さに目を細めたサムライと背後に迫った凱一党の前で壁が半転、隠し部屋の全貌が暴かれる。  
 傾いだ壁の間から悠然と歩み出た男が、ランプの光にその素顔を晒し、歓迎の意を表し笑みを湛える。

 『Welcome to a party.Please enjoy it.』 

 暴君が片手に何かをぶらさげている。
 ランプの光が暴君が片手に吊り下げたものを暴く。

 「アぁあああああああああああああぁあああああああああああああぁあああッッ!!!」
 その正体は、髪を掴まれ強引に引きずり出された半裸の直。
 眼鏡にも鼻梁にも口の端にも白濁が付着し、陵辱の跡を示すように服は乱れて暴かれた肌に淫らな痣が生じ、頭髪を掴まれ引きずり出された直が、サムライにむかい何かを叫ぶ。
 だが、聞こえない。
 髪は精液に塗れ眼鏡のレンズまでも白濁に染まり、弛緩した口の端からだらしなく汁をたらす直の姿は理性を霧散させるに十分で、サムライはここが剣技を生かしきれぬ幅の狭い下水道だという事も忘れ、視界が真紅に染まる憤激に駆られ木刀を振りかざす。
 壁から漏れ出すランプの光に硝子じみた隻眼をさらし、暴君はうっそり笑む。
 「キーストアのケツ舐めてみるか。今なら俺の味がするだろうさ」
 舌なめずりせんばかりの表情だった。 


にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20050208043802 | 編集

 誰かが髪を掴んでいる。
 雑草を毟るように乱暴に鷲掴んで引きずっている。
 僕はされるがままそれに従う。
 抗議の声を上げようにも喉は枯れ、無遠慮な手を振りほどく気力体力は奪い去られた。
 瞼は鉛のように重い。
 脱力した瞼を叱咤し薄目を開ける。
 軸の歪曲した視界をランプの薄明が朧に満たす。
 足元が覚束ないのは地面が傾斜してるからだろうか?
 それとも僕自身が揺れているせいだろうか?
 体の芯がふやけて力が抜ける。
 猛烈な気だるさに襲われる。
 前髪が痛い。
 前髪を毟られる激痛に応じ僅かに視線を上げる。
 視界が曇っているのは眼鏡のレンズが汚れているからだと漸く気付く。
 眼鏡のレンズに白濁が粘着する。
 レンズだけじゃない、髪にも瞼にも鼻梁にも口元にも首筋にもべとつく白濁が絡む。
 緩慢に瞬きし、瞼を糊付けしたタンパク質のかたまりを引き剥がす。
 全身至る所に盛大に飛び散った大量の白濁を見下ろす。
 それらは既に温度が失せ冷たくなっている。
 関節に鈍痛が沈殿する。
 倦怠感が持続する。
 血管に溶かした鉛を流し込まれたように手足の動作が鈍くなる。
 疲労と衰弱の極み。僕の体で汚れてない箇所などどこにもない。毛先から爪先までどっぷり汚水に浸かっている。
 焼き鏝を押し付けられたように頭皮が疼く。
 水溜りに浸したズボンにじわじわと汚水が染みていく。
 均衡を失った体がぐらりと揺れるも、倒れこむ寸前に前髪を掴む手によって強制的に起こされる。
 「キーストアのケツ舐めてみるか。今なら俺の味がするだろうさ」
 レイジの顔をした男が朗々と声張り上げ挑発する。
 石室から漏れ出したランプの光が端正な横顔に映える。
 ランプの光によって酷薄な陰影をつけられた顔は壮絶に美しく、性別も人種も聖俗すらも超越し、 人心を掴んで放さぬ蠱惑のオーラを発する。
 映写機じみたランプの光が俳優じみて端正な男の顔を強調する。
 暴君と相対するようにして人影が突っ立っている。
 ランプの光が人影を暴く。
 「……サムライ……」
 震える唇からか細い声が漏れる。
 最前壁越しに会話を交わした男がそこにいた。
 凝然と立ち竦み、こちらを見据えている。
 ランプの光に暴かれた顔は戦慄に固まり、大きく見開かれた目に絶望が浮かぶ。
 孤独が人の形をとったようなその姿が胸を締め付ける。
 失意のどん底で立ち尽くすサムライへと手を伸ばしかけ、前髪を揺さぶられあえなく突っ伏す。
 喉の奥で悲鳴が凍る。前髪を蹂躙する痛みに奥歯を噛んで耐える。
 サムライは暴君に虐待される僕を驚愕の面差しで見詰める。
 僕のこの状態を見れば何があったか一目瞭然だ。

 見ないでくれ、サムライ。
 こんな僕を見ないでくれ。

 サムライの眼前にこんな姿を晒してる現実に対し耐えがたい恥辱を覚える。
 他の男の精液に塗れ服ははだけて素肌をさらした僕を見ないでくれ、そんな目で見ないでくれ、裏切り者を見るような目で見ないでくれ。
 脳裏で懇願が吹き荒れ喉が引き攣る。
 身の内を激情が席巻し体がかっと火照る。
 僕は、愚かだ。
 サムライへの未練を吹っ切ったつもりだったのに、壁の向こうから声が聞こえた途端に決意が無に帰し叫び返していた。
 僕の名を必死に呼んで回るサムライの姿が瞼裏に浮かび許しを乞う声の悲愴さを無視できず、固く凝り固まっていた彼への不信がゆるやかに解けていくのがわかった。
 固い床を蹴って遠ざかりまた近付く靴音が、水溜りを荒々しく蹴散らし方々の通路を走り抜ける靴音が、喉が枯れるほど僕を呼びもとめる声が、壁を隔てて届くあらゆる物音が焦燥に苛まれ狂わんばかりのサムライの心中を代弁した。
 壁に遮られ実際に会えないからこそ想いは募り、憧憬は渇望にまで高まった。
 壁を透視してサムライを見た。
 僕の痕跡をもとめ下水道を東奔西走するサムライを、恥も外聞も武士の意地もかなぐり捨て大声を上げ汗みずくで走り回る彼の姿を、はっきりと心に思い描いた。
 決別を誓ったはずの心が波立ち、胸が不穏にざわめき、全身の皮膚が壁向こうの声に応じて官能的にさざなみだった。
 壁越しに大気を震わせ余韻を帯びる声が刷毛のように肌を愛撫する。

 体がサムライを求めていた。
 鼓膜が、網膜が、鼻腔が。
 サムライの声を、姿を、匂いを、集めれば全体をなす断片を求めてやまなかった。

 壁を隔てすぐそこに迫った存在を知覚するやいなや、体と心が勝手に開かれてくのをどうすることもできない。

 サムライに一目会いたい。
 直接触れたい、直接訴えたい。

 忘れたのか鍵屋崎直、お前はもうサムライを断ち切ったはずだ、暴君に身を委ね快楽に淫し狂気に堕しサムライやロンを忘れ去ると決意したはずだ。
 だが気付けば叫んでいた、僕の名を呼び走り回る壁向こうのサムライに手を伸ばし溺れるものが藁をもすがる必死さで縋り付いた。
 サムライの声が楔となり心に穿たれ、激情に翻弄される心をしっかり押え付けた。
 彼の口から放たれる一言一句が狂気の瀬戸際にいた僕を現実に引きずり戻した、断崖から身を投じようとした僕を踏みとどめる命綱となった。

 答えずにはいられなかった。
 応じずにいられなかった。
 どこまでも誠実な謝罪に、どこまでも切実な訴えに、叫び返さずにはいられなかった。 

 苦しかった。
 辛かった。
 わかってほしかった。
 この思いをずっと分かち合いたかった。
 他の誰でもない他ならぬ彼と共有したかった。

 僕が感じている苦悩や焦燥や渇望や欲望が、彼への親しみ以上の激しい感情が、自分でも制御できず恐怖を感じるほどの炎のような激情が、たちまちのうちに僕を焼き尽くし鍵屋崎直を別のものに変えた。
 僕は僕でありながら僕でなくなった。
 サムライの対等な友人をめざしていた鍵屋崎直は、一人の傲慢な天才としてまわりを見下していた鍵屋崎直は、サムライを前にしてただの直になった。彼の直になった。プライドより欲望を優先し感情より理性を優先する僕はもうそれまでの僕ではない、サムライへの想いが僕を変えた、あらゆる虚勢を剥ぎ取って本能を丸裸にした。

 会いたかった。
 気がくるうほどに。

 目の前にサムライがいる。
 黙ってこちらを見詰めている。
 ひたひたと狂気が満ちる音がする。
 あれほど会いたかった男が目の前にいるというのに、しかし駆け寄ることは許されず、またその体力もない。
 そればかりか、サムライを前にして凄まじい羞恥と絶望と自己嫌悪に苛まれている。
 浅ましい姿を見ないでくれと心が裂けて悲鳴を上げる。
 暴君に陵辱されボロ布同然となった姿を見られる事に理性が消し飛ぶほどの自責と恥辱を覚える。
 絶えず心を踏み付けられているようだ。
 あれほど会いたかった男が目の前にいるというのにいざとなったらサムライの目を見る勇気がない、まともに顔を見る自信がない。
 自信?
 そんなもの根こそぎ挫けてしまった。
 今の僕に懺悔以外のなにができる。
 全身白濁にまみれ外通路に引きずり出された僕に、髪は乱れ眼鏡はずれ服ははだけ、大胆に暴かれた素肌に暴力の痕跡を散りばめた今の僕に、サムライの目をまっすぐ見詰める資格はない。

 僕の視線は彼を汚す。
 僕の視線は彼を冒す。
 サムライと向き合うのは苦痛だ。

 僕に向けるまなざしに軽蔑が混じっていたら憎悪や怒りよりなお悪い。
 彼の目を見詰め返しその奥に軽蔑や侮蔑を探り当てるのが怖い、裏切り者を見る目が怖い、僕の罪を思い知らせる目が怖い。
 顔を上げる決心がつかない。
 顔を上げたら後悔する。
 サムライと対峙するのが怖い、現実と直面するのが怖い、僕を取り巻く世界の全てに冷ややかな悪意を感じる。
 世界を敵に回したような壮絶な孤独感と絶望感が骨身に染み渡る。
 大気中に漂う悪意に伝染する。
 ランプの光が壁と床と天井に不気味な模様を描く。
 陰鬱な沈黙が場に君臨する。
 下水道をも領土と化した暴君は片手に僕を吊るし、恍惚と酔いしれた笑みを浮かべる。
 傷口に塩をすり込むような笑み。

 「アぁあああああああああああああぁあああああああああああああぁあああッッ!!!」

 下水道に轟き渡る怒号。
 水溜りを蹴散らし残像ひいて肉薄、迅雷の速度で木刀を振り下ろす。
 間近に迫った暴君の額を断ち割らんと振り下ろされた木刀はしかし手ごたえなく残像を股下まで両断、その時には既に身をかわし横に逃れた暴君が容赦なく嘲笑を浴びせる。
 「先を越されてキレたのかよ?わっかりやすい男」
 返す刀で一閃、体重の乗った刺突が頬を掠め髪をちぎる。
 頬をかすめ壁を穿つ木刀にも微動だにせず暴君は余裕の笑み、飄々と軽口を叩く。
 「お前がぐずぐずしてっから俺が先にヤッちまったんだ。我慢はソンだっていい教訓になったろ」 
 干し藁の髪が舞い上がり無残な傷痕と物騒な光をためた隻眼が覗く。
 サムライの顔に怒気が爆ぜる。
 怒りに紅潮したその顔は悲痛に歪み、噛み締めた奥歯が軋る。
 上から下へ断ち割る太刀筋は瀑布の如く、片足を踏み構え薙ぎ払う動作は鋭利な烈風を生じ、残像を切り捨てるやいなや素早く移動する本体を追尾し飛燕の如く刀を翻す。
 神懸った反応速度、常人離れした切れの反射神経。
 幅の狭い下水道では動きが制限されるも、その不利を補って余りある程サムライの技量は優れている。
 腕の振り幅から重心の移動の仕方まで完璧に統制がとれている。
 無駄な動きは一切ない。
 極限まで無駄を削ぎ落とし余計な動作を刈り込み心技体の三拍子が揃った最大限の効力を発揮する。
 払い抜け。
 走り込み、敵の胴をなぎつつ駆け抜ける。
 竜尾返し。
 敵に駆け寄って打ちおろし、そこからさらに変化して切り上げる連続技。
 小転。
 素早い入り身で敵の懐にもぐりこんで攻撃を加える。
 一気に間合いを詰め逆さに切り上げる。
 合わせ打ち、切り返し、巻き打ち、骨砕き。
 攻撃によって生み出した死角から何度も攻撃を加える。
 憤激に駆り立てられてながらも攻撃は正確無比、動体視力の極限に迫る電光石火の剣技が冴えに冴え渡る。
 剣圧に髪が舞い裾がなびく。
 木刀の切っ先が暴君を狙う。
 己の喉もとを狙い迫り来た切っ先をしかし暴君は壁に背中を預けしゃがみ回避、地を這うような足払いをかける。
 サムライは事前に読み後方に跳躍。
 暴君が横薙ぎに放った蹴りは水溜りの水面をしぶかせるだけに終わり、宙に跳ねた飛沫がランプの光を受け燦然ときらめく。
 「キーストアを抱けなくて残念だったなサムライ。あんなに熱上げてたのにな。俺を恨むのは筋違いだぜ、うらむんならお前を裏切って俺に走ったコイツを恨めよ」
 暴君が無造作に顎をしゃくり僕を示す。
 空気が氷点下まで冷え込む。
 「……どういうことだ?」
 暴君の追撃を警戒、木刀を水平に翳し牽制しサムライが低く尋ねる。
 片膝付いたサムライの怪訝な問いに、暴君は口の端を吊り上げ応じる。
 「キーストアは俺を選んだんだ。俺とお前を天秤にかけて俺を選んだんだよ。いつまでもぐずぐず煮えきらねえお前に愛想尽かして抱いてほしいってむしゃぶりついてきたんだ。それとも何か、俺が無理強いしたとでも勘違いしてんのか?そりゃちょっとキーストアに甘すぎんな。いいか?この売春班上がりの淫売はな、自分からめちゃくちゃにしてほしいって頼み込んできたんだ。押せども引けどもてんで応じねえお前にうんざりしてよ」
 「俺のセックスアピールも罪作りだぜ」と暴君が嗤う。 
 「お前に聞かせてやるよサムライ、コイツがどんなに淫乱か、どんなふうにして俺を誘惑したか」 
 「やめろ」
 僕の制止を無視、暴君は嬉嬉として話し始める。
 「コイツは俺の奴隷だ。何でも俺の言う事を聞く素敵な奴隷だ。お前を忘れるためならなんだってするって言った。銃を舐めろっていやそのとおりにした、喉の奥深くまで突っ込んで涎でぐちょぐちょにした、目はとろんとして口半開きですっげーエロかった。お次はいよいよ本番フェラだ。もう待ちきれねえって感じの物欲しげな目でこっちを見てたな。優しい俺は可哀想な奴隷の願いを叶えてやった、コイツが今ほしがってるもんをくれてやった。あの時の顔ときたら傑作だぜ、コイツときたら目の色かえて俺のペニスにむしゃぶりついて、窒息しちまうんじゃねーかってくらい口一杯頬張って、俺が前髪掴んでがくがく揺するたびに口ん中で舌がびくんとなって、喉がひくんて動いて、それがまた最ッ高に気持ちよくてさあ……」
 狂気に憑かれた饒舌さで僕の痴態を暴き立てる暴君に対し、あたりは水を打ったように静まり返る。
 暴君の声だけが暗闇に殷々と響き渡る。
 サムライは凝然と暴君の言葉に耳を傾けている。
 片手に下げた木刀の先が水溜りに浸かるのも気付かず、思い詰めた眼差しで闇を凝視する。
 「嘘だ」
 「だとよキーストア。よっぽど信頼されてるらしいな、お前。男を咥え込んで悦ぶ淫売の分際で」
 「直を侮辱するのはやめろ」
 「真実を明かしたまでだ」
 言葉の応酬に重圧がます。サムライがこちらに一瞥くれる。
 何故なにも反論しないと訝しんでいる。
 サムライの視線を避けうなだれる。
 水溜りに膝をつき、汚水に染まるズボンを見下ろす。
 僕は俯く。俯いて水溜りを覗き込む。水溜りに映り込んだ顔は酷く情けない。
 鼻梁にずれた眼鏡越しに虚ろな眼差しがこちらを見返す。
 シャツの胸元が荒く浅く上下する。
 喘息の発作でもおこしたように呼吸が苦しくなる。
 何か、何か言わなければ。
 気ばかり急いて頭が回らない、肝心の言葉が出てこない。
 喉元で悲鳴が絡む。何度も繰り返し唾を嚥下する。固く目を閉じ心を落ち着かせる。
 毛穴からじわじわと闇がしみこむ。
 気管に貯水した闇の水位がひたひた上がり溺れかける。
 「レイジの言う通りだ」
 みっともなく掠れた声を搾る。
 基本的な声の出し方を忘れたように、喉が不自然に引き攣る。
 ともすれば萎えそうな気力を叱咤し、声帯に本来の機能が回復するのを待ち、たどたどしく続ける。
 「何から何まで彼の言うとおりだ。僕は、自分からここに来た。ホセの案内で、ここに……暴君が潜伏している場所に来た。自分からすすんで彼に抱かれようとした。彼を、誘った。彼の命令に従い銃をしゃぶった、下品な音をたて唾液を捏ね無我夢中一心不乱にしゃぶった、男の物をしゃぶるように丁寧にすみずみまで喉の奥まで咥え込んであまりの苦しさにむせかえった。僕は自分から股間に手を伸ばした、彼がほしいと言った、気持ちよくなりたいと言った。僕をぐちゃぐちゃにしてほしかった。何も考えられなくなるくらい、わけがわからなくなるくらい、ぐちゃぐちゃに抱いてほしかった」
 サムライの顔から表情が消えていく。
 驚愕、絶望、怒り、哀しみ。
 そんな手垢のついた言葉では表現しきれない。
 サムライはじっとこちらを見詰める。
 瞬きさえ忘れた表情は固く強張り、見開かれた目は暗く虚ろで、最前まで満腔に漲っていた覇気が嘘のように失せている。
 絶望を上回る絶望が、失望を上回る失望が、あらゆる感情を麻痺させる。
 僕の口から漏れる言葉が信じがたいとばかり、否、信じたくないといった様子で愕然と立ち尽くす。
 「僕は、君を裏切った。他の男に体をふれさせないという約束を破った」
 沈黙が僕