ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 「今日はお前のためにいいもん持ってきてやったぜ」
 タジマの股間に顔を埋め、赤黒く勃起したペニスに舌を絡めつつ、目を上げる。
 タジマのペニスは唾液にまみれていた。
 何度見ても慣れることのない醜悪な性器。
 僕のそれとは比較にならないグロテスクな性器。腐食した金属をおもわせる赤黒い肉棒は存在を主張するが如くそそり立ち、口の中で膨れ上がる。
 タジマに髪を掴まれ、吐き気を堪えて喉の奥深くまでペニスを咥えこむ。
 片手で根元を支え、角度と握力を調整する。タジマを射精させてこの行為を終えるためには、根元に添えた手を緩急つけて動かし、口に咥えた先端を舌でねぶるという共同作業を行わなければならない。
 タジマを早く射精させて奉仕を終えるためには、手と口の連携が重要だ。
 売春班の仕事場。通気口から僕とおなじく、無理矢理男に犯される同僚たちの苦悶のうめきや嗚咽や身を引き裂かれる絶叫が響いてくる。
 そのすべてがもはや日常と化してしまった。売春班に配属されて何日が経過したのか記憶が混濁して判然としないが、タジマが僕を買いにきた回数なら正確に覚えている。今日でたしか三回。
 タジマは性欲が有り余っていた。タジマの目は精力的にぎらついていた。
 売春班の今期メンバーは一通り味見してきたと鼻高々に豪語していたが、あれはおそらく真実だろう。タジマは歩く変態性欲の塊だ。人間の似姿をした化け物だ。
 僕がこれまでタジマにどんな目に遭わされてきたのか……思い出したくもない。説明したくもない。最初タジマに犯された時は下肢を引き裂かれる激痛に身も世もなく泣き叫んだ。
 隣の部屋にロンがいることも忘れて喉も破けんばかりに絶叫した。想像を絶する激痛だった、たとえるなら麻酔なしで切開手術を施されるようなものだ。
 排泄しか用を足したことがない肛門の筋肉を無理矢理押し広げられ、直腸にペニスを挿入された。硬く勃起したペニスが肛門の縁を抉ったせいでシーツに血が滴った。あの時の傷はまだ完全には癒えてない。
 当たり前だ、信じ難いことにあれからまだ数日しか経過してないのだ。人体の自然治癒力が追いつくはずがない。
 現在僕は、口を利く自由がない。口一杯にペニスを咥えこんでいるのだ、喉が圧迫された状況では声を発することもできない。タジマの言葉に疑問を挟もうとすれば、喉の奥からくぐもったうめきが漏れるばかりだ。
 ベッドに膝をつき、タジマの股間へと顔を埋め、犬が水を舐めるようにただひたすら夢中でペニスを舐める。ペニスの粘膜と舌の粘膜とが捏ねあうたびに淫猥な水音が響き渡る。タジマのペニスは塩辛かった。汗の塩分の味だ。
 奉仕を始めてもうすぐ五分が経過する。
 早く射精してほしい一心で舌を使っていたが、タジマはなかなか絶頂に達しようとはせず、僕の苛立ちと疲労は募る一方だ。僕の髪を掴む握力も増し、快感に息を荒げ始めているのだが、ペニスの体積は膨張しこそすれ少しでも快感を持続させようと絶頂を先延ばしにしてなかなか射精には至らない。
 不器用な舌遣いで屹立したペニスに唾液をなすりつけ、舌の先端で太くなった亀頭の部分をつつき、歯を立てないよう用心して三分の一までを口腔に含む。歯を立てたらどんな目に遭うか、ささやかな反抗心から試してみて理解した。
 これ以上体に痣が増えるのはこりごりだ。
 サムライの目を誤魔化しきれなくなる。
 下顎が攣りそうだ。口腔に溜まった唾液が口の端を滴り、シーツに染みを作った。吐きたい。胃袋が引き攣り、ペニスを咥えて何度目かの嘔吐の衝動に襲われる。
 今日食べた物を全部吐いてしまいたい。
 最も、売春班に配属されてからというもの食事もろくに喉を通らない日々で吐くものといっても胃液しかないのだが、今口の中に入っているペニスごと全部吐き出してしまいたいという狂おしい欲求に駆られる。
 こんな姿とてもサムライには見せられない、と朦朧と霞みがかった頭で漠然と考える。今の僕を見たら、サムライはきっと僕を軽蔑する。
 殺風景なコンクリ壁に四囲を塞がれた売春班の仕事場で、粗末なパイプベッドの上で、ベルトを緩めてズボンの前を寛げたタジマの股間に首をうなだれて顔を埋め、必死にペニスを舐めている。口腔で分泌された大量の唾液を、舌の表裏を使い、たっぷりとペニスになすりつける。
 最初の頃は「ただ咥えてるだけで気持ちよくなるとでも思ってんのか」とどやされたが、今ではだいぶコツが呑みこめてきた。醜悪な性器に対する嫌悪感は薄れるどころか行為を重ねるごとに募るばかりだが、目を閉じさえすればぎりぎりまで我慢できると学習した。
 タジマのペニスが喉につかえる。そろそろ絶頂が近いらしく、僕の後頭部を押えこんだタジマが快感に息を荒げ、腰を浮かしている。
 「!痛っ、」
 「どうした、続けろよ。奉仕をちゃんと終えなきゃ折角のご褒美もやれねえぞ」
 そう思うならこの汚い手を離せ、と叫びたかった。僕の後頭部を片手で掴んだタジマが、じかに僕の顔を揺さぶり、ペニスの出し入れを速める。
 タジマのご褒美など欲しくない。興味もない。どうせくだらないものだろう。心の底ではタジマに反感を覚えつつ、表向きは従順に奉仕を続ける。後頭部の髪の毛を掴まれ、前後に乱暴に揺さぶられ、顎の間接が外れそうになった。何本か髪の毛が毟れたらしく、頭皮がひりひり疼いた。 
 口の中でペニスが膨れ上がる。喉を圧迫する異物感……呼吸も満足にできず、口腔に溢れた唾を飲み下すこともできず、単純に苦しかった。口腔に満ちた唾液を弛緩した口の端から垂れ流すにまかせ、びくびくと脈打ち始めた肉棒に舌を絡める。
 口の中でペニスが破裂した。
 「がはっ、げほごほっ」
 射精の瞬間。精液の苦い味が口腔に広がり、唾液と交じり合い、薄められた白濁の残滓が粘つく糸をひいて顎から滴り落ちる。全部呑みこまなければまたタジマに罰せられるとわかっていたから無理にでも飲み下そうとした。
 手の甲で顎を拭い、吐きたいのを我慢して、口腔に蟠る精液を嚥下する。
 胃袋が痙攣した。
 こんな不味くて汚い物呑みたくなかった、今の僕は水一杯さえ受けつけられない体なのだ。
 涙目ではげしく咳き込みつつ、喉を庇い、シーツに突っ伏す。漸く終わったという解放感と安堵感、しかしまだ終わりではないという不安感。そうだ、これはまだほんの序の口だ。タジマがこれだけで満足するはずがない、僕のもとを訪ねたからには最後までやるに決まっている。
 これまでもそうだったのだから今度も絶対そうだという確信に近い予感を抱き、疲労と絶望に濁った目でタジマを仰ぐ。
 眼鏡越しの視界は朦朧と歪んでいた。タジマの顔も歪んでいた。ひょっとしたら、化け物の本性を映しているのかもしれない。
 実際は心身ともに衰弱しきった僕の幻覚だろう。
 「五分ちょっとってところか。最初のときは十分近くかかったこと考えりゃ大進歩だぜ。俺以外にも何人も男のモン咥えこんで、フェラの仕方がわかってきたんだろう?さすが天才、学習能力にかけちゃ他の追随許さねえってか」
 タジマはひどく上機嫌だった。こちらが不安になるほどに。
 いつもよりやけに饒舌にまくしたてるタジマをぼんやり見上げ、虚勢を張る。
 「……あたりまえだ、僕を誰だと思っている?IQ180の天才こと鍵屋崎直だぞ。たとえどんなにくだらないことでも、将来的には何の役にも立ちそうにない技能でも、僕の優秀なる頭脳はたちまち吸収……」
 「よし。じゃあ約束どおりフェラチオがよくできた褒美をやるよ」
 最後まで話を聞け。まったくこれだから、人の話を聞かない低脳は手に負えない。得々とした演説を遮られた僕は、タジマの無粋さに辟易し、憮然と黙りこむ。不機嫌を隠しもせず黙りこんだ僕をよそに、タジマが腰を捻り、ズボンの尻ポケットを探る。
 耳障りな衣擦れの音。
 タジマが僕に褒美をくれる?まさか本気じゃないだろう。どうせまたろくでもないことを企んでるに決まっている。だが、今更何が起きてももう驚かない。最悪なことは既に起こってしまった。
 これ以上悪いことはさすがに起こらないだろうという達観を伴う安堵が、僕の精神に一種の小康状態をもたらしていた。
 ベッドに上体を起こした僕は、咳がおさまるのを待ち、毒舌を吐く。
 「一体どういう心境の変化だ。まさかとは思うがこれまでの悪行の数々を反省して、改心でもしたのか?それで、僕に褒美をくれるのか。まさかな。貴様は反省とも後悔とも無縁の人間だ、社会の倫理規範から逸脱した性的異常者の欠陥人間だ。僕の予想だと、貴様が看守にならなかった場合は80%の高確率で性犯罪者になってたはずだ。僕と貴様の立場は逆だったかもしれない。その点を十分に考慮し……」
 喉がひきつり、言葉が不自然に途切れる。
 語尾が宙に浮いたのは、タジマがおもむろに取り出した物を目にしてしまったからだ。
 制服のズボンに突っ込まれていたそれは、奇妙な物体だった。男性器を模した黒いゴム製の物体で、柄にスイッチらしき物がついている。どうやらあれを押しこんで動かすらしい。
 『動かす』?
 続く言葉を喪失し、驚愕に目を見開き、タジマの手の中の物体を詳細に観察する。
 確かに男性器を模しているが、通常のそれとは明らかに異なり、随分グロテスクな形状をしている。
 大きく誇張された亀頭といい、十分過ぎるほどの太さを兼ねた見た目といい、いかにも人工物めいた奇妙な光沢のあるゴム製の表面といい、通常のそれより明らかに大袈裟に作られている。
 「これ、は、なんだ」
 喉が干上がった。緊張で手のひらが汗ばんだ。
 わざわざ訊くまでもなく、タジマが持参した物の用途は知っていた。知っていたが、信じたくなかった。認めたくなかった。
 シーツを蹴り、無意識にあとじさりながら問えば、下劣な笑みを満面に湛えてタジマが口を開く。
 「カマトトぶんなよ親殺し。黴菌から隔離された温室育ちの坊やはバイブも見たことねえってか」 
 膝這いに僕へとにじり寄りながら、タジマは嬉嬉として畳みかける。
 「俺様秘蔵のSM七つ道具のひとつだよ。売春班のガキどもにも何回か使ってみたがお前で試すのは今日が初めてだな。お前もそろそろ普通のセックスじゃ物足りなくなってきた頃だと思ってな……どうだ、ちょっとさわってみろよ。高価かったんぜ、これ」
 「さわるな!!」 
 拒絶しようとした、振り払おうとした。だが間に合わなかった。タジマが僕の手を掴み、自分の方へと引き寄せ、強引に五指を開かせてバイブレーターを握らせる。
 タジマにこじ開けられた五指でバイブレーターを包めば、のっぺりしたゴムの質感に肌が粟立った。盲目の人間が手探りで物の輪郭を辿るように、どれほどきつく目を瞑っても、暗闇で尖鋭化した指先の感覚からバイブの形状が伝わってしまう。
 タジマがわざわざ持参したバイブには、通常の性器にはない疣に似た突起があった。女性相手の場合は膣を刺激するため、男性に使用する場合は前立腺を刺激するためのおぞましい付属物……
 しかし、このバイブレーターが後者を想定して作られた保証はない。
 「ほら、手のひらにぴったり吸いつくだろう?」
 僕の手を掴み、無理矢理バイブを握らせ、タジマが説明する。
 「この突起、わかるな。撫でてみりゃわかるだろ、疣みたいな突起がぐるりと一周してんのが。こいつを今からお前のケツに入れる。どうした、そんな青白い顔して。バイブ初体験で柄にもなく怯えてんのかよ。大丈夫だ、まあ最初はケツが切れてちょっと痛えかもしれねえが慣れちまえば普通の何倍も良くなる。スイッチいれりゃあ勝手に中で動いてくれるんだ、俺が何もしなくてもお前の中をぐちゃぐちゃにかきまわしてくれるんだ。まったく便利な玩具だ、こちとら何もせずに見てるだけでお前のケツをこなして使いやすくしてくれるんだからよ」
 「馬鹿を言え、そんな物が入るわけがない。第一肛門は排泄を目的とした身体器官で本来それ以外の用途はない、そんな物を無理矢理入れたら出血してしまう、内臓が傷付いてしまう!」
 「うるせえガキだな、すぐ馴染むって言ってんだろうが。大丈夫だよ、指で慣らしてから入れてやるから。このままぶちこんでも俺は一向にかまわねえが、お前のケツが切れて石榴みたいになっちゃあ次から萎えるからな」
 タジマは本気だ。僕がどれだけ説得したところで退く気はないらしい。
 逃げよう。
 恐怖が頂点に達し、脳裏で閃光が弾けた。
 早く逃げなければ僕はこれから想像を絶する酷い目に遭う、最悪の上をいく最悪なことが起きてしまう!逃げようそれしかない死ぬ気で逃げるしかない早くベッドを飛び下りて鉄扉へ急げ早く早く……
 走れ。
 「!っ、」
 思考時間は一秒にも満たず、行動は迅速だった。ベッドから飛び下りた僕はスニーカーを履く暇も惜しみ裸足で床を蹴り一直線に鉄扉を目指す。
 逃げなければ、一刻も早く少しでも遠くタジマから逃げなければ!嫌だもう、恵、恵に会わせてくれ。サムライのもとに帰してくれ。発狂せんばかりの恐怖。半狂乱に駆りたてられた僕は、虚空にむなしく腕をのばし、目前に迫ったノブを掴もうとし……
 「逃げるなよ」
 後ろ襟を掴まれ、タジマに引き戻される。タジマの腕力は凄まじく、片腕一本で僕をベッドまでひきずってゆくのは造作もないことだった。
 背中に衝撃。
 タジマにおもいきり突き飛ばされ、背中からベッドに倒れこんだ衝撃で肺が圧迫され、空気の塊が喉につかえた。
 腹を抱えてはげしく咳き込む僕の耳の裏側で、鎖と鎖が擦れ合う金属音。
 膝に体重をかけ、スプリングを撓ませたタジマが、いつのまにか僕の背後に回りこんでいた。
 「客をほうったらかして性懲りなく逃走はかるたあ身のほど知らずの売春夫だなおい。前言撤回だ、天才だかなんだか知らねえがお前に学習能力なんてもんは欠片もねえ。まだ自分がおかれた立場がわかってねえみたいだな親殺し。なら教えてやるよ、たっぷりと」
 不潔に黄ばんだ歯を剥いてせせら笑うタジマ。
 口臭くさい吐息に顔をしかめた僕の片手首に、タジマが手錠をかける。
 手錠。東京プリズンでは日常茶飯事の乱闘騒ぎを起こした囚人を拘束するために看守が常に携帯してる道具。
 主任看守のタジマが手錠を持ち歩いてること自体は別段不思議じゃないが、乱闘騒ぎの主犯でもない僕が手錠をかけられるのはおかしい。
 「即刻手錠を外せ、こんな物は必要ない!僕はもう檻の中だ、この上手錠なんか必要ない、この上どこにも逃げられないのに今更こんな物無意味だ!!」
 「そうでもねえぜ。少なくとも、お前を大人しくさせる役には立つ」
 声を荒げ、必死の形相でタジマに抗議するも本人は耳を貸さない。僕の手首には銀の光沢の手錠が嵌まっている、自力で外そうと身を捩っても決して手首から抜けない金属の拘束具が。
 何故こんな物をはめなければいけない、こんな屈辱的な仕打ちを受けなければいけない?僕はたしかに犯罪者だ、両親を殺したそれは事実だ。
 だからって刑務所に来てまでこんな扱い……
 「!くっ、」  
 おもいきり手錠を引かれ、みじめにベッドに突っ伏す。鎖と鎖が擦れ合う耳障りな金属音に顔を上げれば、楕円の輪が連なる鎖を鼻歌まじりにパイプに通すタジマがいた。
 パイプに通された鎖が再び隙間を通りぬけ、手錠の片方が、僕のもう一方の手首を咥える。
 ガチリ、といやな音が響いた。手錠の輪が噛み合う音。
 「いい恰好だな、親殺し」
 完全に抵抗を封じられた。絶望に視界が翳る。どれほど手首を揺さぶっても皮膚に金属の輪が食いこむだけで、手錠はびくともしない。どれほど暴れたところで鎖はちぎれそうにない。
 タジマはにやにやと優越感をこめて笑いながら、しきりと身をよじり、無駄な抵抗を続ける僕を眺めていた。 
 「離せ、頼む外してくれ手錠なんか必要ない拘束の必要などない!僕を家畜のように繋いでおく意味などない、そうだろう、僕はどんな性行為だって無抵抗に徹して従順に受け容れる覚悟はできている今更抵抗を封じる必要などどこにもない!だから外してくれ、自由にしてくれ、手首を開放して両手を使えるようにしてくれ、こんな屈辱的な恰好で犯されるのはいやだ、いやだ、恵……」
 語尾が萎えた。嗚咽を噛み砕くように下顎に力をこめ、シーツに顔を埋める。恵。恵に会いたい。もう嫌だこんな毎日うんざりだ、身も心も生きながらに切り刻まれる地獄の毎日だ。
 早く解放されたい、らくになりたい。
 もう限界だと心が軋んで悲鳴をあげる。精神崩壊の前兆。
 僕はもう限界だ、これ以上耐えられそうにない。これ以上悪いことが起きる前にだれか……
 ぎしり、とベッドが軋む。タジマが僕の腰に跨り、背中に覆い被さる。
 ズボンが剥がされ、臀部が外気にふれる。恥辱に唇を噛み、全身の震えを押えこもうと努力する。やがて訪れる最後の瞬間まで、僕の理性が蒸発するその瞬間まで、せめて虚勢を保っていたい。
 タジマなど怯えるにも値しない下等な人間だ、こんな俗悪で下劣で愚鈍な人間にこの僕が怯えているなど絶対に認めない。 
 僕は天才なんだ。鍵屋崎直なんだ。鍵屋崎恵の兄なんだ。恐怖に負けて、みっともなく取り乱したりなどするものか。自身が悪くもないのに助かりたい一心で許しを乞うたりするものか。
 僕は最後の瞬間が訪れるまで恵の兄でいたい、恵に誇れる兄でありたい。
 サムライに誇れる友人でありたい。 
 悲鳴などあげるものか、怖くない、タジマなど怖くない……
 「お待ちかねの指が入るぜ」
 「う、あああっ!?」
 肛門に圧迫感。芋虫めいた指が襞をかきわけ、窄まり始めた狭間の奥へと無遠慮に押し入っていく。気持ちが悪い。本来物がでてゆくはずの場所に異物が侵入してくるという吐き気を禁じえないおぞましい感覚。
 唾液で湿されてはいても、挿入の瞬間は痛かった。直腸に突き立てられた指が閉塞した内部をまさぐり、丹念に揉みほぐし、幾重もの襞をかきわけて奥へ奥へと進んでゆく。
 容赦なく内臓を穿つ灼熱感。
 醜悪に節くれだった指が、僕の体内を蹂躙する。
 胃袋が反転しそうに気持ちが悪い。排泄器官に指を突っ込まれた違和感が急激に膨れ上がり、重いしこりとなって胃を圧迫しているのだ。
 「っ、うん」
 指が二本に増えた。タジマの哄笑が大きくなる。
 腰から下に鈍い痛みを感じる。指を挿入された瞬間の激痛とはまた違う、溶けた内臓が溶岩流と化して体内でうねっているかのような感覚。
 気持ち悪いが、それだけじゃない。タジマの指遣いは巧みだった。肛門の入り口付近で円を描くようにねっとりと襞を捏ねたかと思えば、奥へ奥へとじれったく緩慢な動きで這い進み、律動的な指さばきで前立腺を刺激する。
 全身にびっしょりと汗をかく。濡れた前髪が額にはりついて視界を塞ぐ。腰から下が熱い。タジマの指さばきが速さと激しさを増せば、僕の意に反して腰が跳ねあがり呼吸が浅くなる。
 僕は不感症のはずだ。だからこんな行為には何も感じないはずだ、快感も苦痛も感じないはずだ。だからこれは何かの間違いなんだ間違いのはずなんだ、こんなこと現実にあるはずがないんだ。
 まかり間違っても、僕が感じているなんて。
 タジマなんかに、感じさせられしまうなんて。
 「あぐ、ああっ」
 指が三本に増えた。
 「すげえ、物欲しげにぐいぐい締めつけてきやがる。そんなに俺のモンが欲しいのかよ。そうだよなあ、さっきはガキが飴玉しゃぶるみたいに夢中でくわえてたもんな。今日までさんざ男のモン咥えてきたが俺のペニスがいちばん美味かったって正直に白状しろよ」
 「はっ……ば、かを言う、な……うっ、あ!」
 タジマが戯れに尻を叩く。三本の指が腸内で蠢く。両手を戒められてるため、シーツを掻き毟り、身を苛む熱に耐えることもできない。体が熱い。体内が熱く火照り、肛門が収縮し、タジマの指を締めつけているのがわかる。
 淫蕩な熱から逃れたくて身をよじるたび、手錠とパイプとが触れ合いうるさい音を奏でた。
 額に浮いた脂汗が目尻にすべりこみ、視界が朦朧とぼやける。そういえば僕は、眼鏡をかけたままだ。
 急にタジマが訪ねてきて、眼鏡を外す暇がなかったのだ。今度からはちゃんとはず……
 「あ、あ、あ!」
 巧みな愛撫で思考が散らされる。限界だった。僕は勃起していた。タジマの指で感じるなんて信じたくなかった、タジマに犯されて勃起するなんて認めたくなかった。でも現実に、僕は反応していた。不感症なのに、不感症のくせに、前立腺を執拗に刺激されれば反応してしまう生理現象が恨めしい。
 僕の耳の裏側に口を近付けたタジマが、くぐもった笑いをまじえ、低く囁く。
 「手錠で家畜みたいに繋がれて、ケツに指三本突っ込まれてやらしい喘ぎ声あげて、お前ってやつはどこまで淫乱なんだよ。隣にゃロンもいるのに、腹空かせて塞ぎこんでるダチのことも忘れてひとりで気持ちよくなりやがって……ああ悪い、気付かなかったぜ、お前はロンに声聞かせたいんだな、ひとりで退屈してるロンのために今晩のオカズを提供してやろうって親切心で喘ぎ声はりあげてんだな。じゃあ俺も協力してやるよ」
 唐突に指が引きぬかれる。
 拡張された直腸に隙間が生まれ、射精を寸前で塞き止められる。息を切らしつつ、肩越しに振り向く。
 タジマがいた。僕の肛門にバイブレーターの先端を添えて、黄ばんだ歯を剥いたタジマが。
 「やめてくれ」
 みっともなく声が震えた。肛門に添えられたバイブレーターの先端は太く硬く、こんな物を無理矢理挿入されたらどうなるか想像しただけでも恐怖で全身が強張る。僕の肛門からの出血でシーツが赤く染まるところなど見たくない。手錠の鎖が許すかぎり腕を折り曲げ、肘をついて腰を上げ、情けない声をだす。
 「手錠を外せとは言わない、このままでいい、このまま犯してくれてかまわない。コンドームも装着しなくてかまわない、気が済むまで僕を犯せばいい射精すればいい!でもそれだけは、」
 怖い怖いあんな物入るわけがない肛門は排泄器官で物を入れる場所じゃない出血するに決まってるあんな物いやだ怖い逃げたい助けてくれ……

 父さん。母さん。ごめんなさい。助けて。
 
 「壁突きぬけてロンに喘ぎ声が届くよう、おもいっきりよがりまくれよ」 
 下肢を激痛が襲った。

 「うあっ………」
 肛門にバイブを捻じ込まれる。
 片手で僕の腰を支え目の位置にまで裸の尻を掲げさせたタジマが舌なめずり、弛緩した笑顔でバイブの先端に圧力をかけ、肛門に挿入する。
 芋虫めいた指で入念に揉みほぐされ、襞一枚一枚に唾液を練りこまれた腸壁が熱く脈打ち、バイブの先端を受け容れる。
 呼吸が満足にできず、生理的な涙が目に膜を張る。喉が詰まる。息が詰まる。肛門に挿入されたバイブを体内の臓器が拒絶したものか、胃袋が締めつけられ、嘔吐の衝動を覚える。
体内に侵入した異物を体が拒絶している、体内に侵入した異物を排出しようと全身の筋肉が緊張する。快感なんて少しもない、あるのは激痛だけ、下肢を引き裂かれるような激痛だけだ。
 排泄器官に性交の用途があるのは知識として知っていた。男性同士が性交に及ぶ場合は肛門にペニスを挿入すると勿論知っていた。常識だ。しかし、まさか僕が実際に体験することになるとは思わなかった。外にいた頃は想像だにしなかった。
売春班に配属されてから毎日毎日男に犯され、通常排泄にしか用を足さない肛門にペニスを受け容れるのにも慣れた。
 だが、玩具を入れられるのはこれがはじめてだ。
 「ひぎっ……」
 奥歯を食い縛り苦鳴を殺そうとしたが、無駄だった。
 臀部の筋肉が強張り、肛門に侵入した異物を外に排出しようとするが、タジマはその程度では諦めない。手首に抵抗を覚えようが僕が苦鳴を漏らそうが一切を無視して、奥へ奥へとバイブを押しこむ。
 「かはっ……」
 いくらタジマの指でならされていたとはいっても、平均的成人男性のそれを遥かに上回る大きさのバイブを容易に呑みこめるわけがない。胃袋がひきつり、吐き気が食道をせりあがる。体の中で異物が蠢く。
 男性器を精巧に模したゴム製の巨大なペニスが直腸内を蹂躙する。苦しい、死ぬほど苦しい。涙の膜が張った視界が朦朧と歪み、熱に溺れそうになる。
 五指を折り曲げてシーツを掻き毟れば、まだしも耐えることができたのだろう淫蕩な熱が体じゅうを責め苛む。
 弾力ある筋肉の抵抗をものともせず、圧力を加えたバイブが奥へ奥へと侵入してゆく。襞を掻き分けて腸壁を摩擦し、内臓を抉るように奥へと捻じ込まれてゆく。
 咳き込みたい。吐きたい。
 しかし、今咳き込めばさらなる激痛を味わうことになる。動きは最小限に、これ以上激痛を味あわずに済むように、汗でびっしょり濡れたシーツに顔を埋める。 
 「力を抜けよ、全部入んねえだろうが」
 「!ひっ、」
 喉が鳴り、情けない悲鳴が漏れる。タジマが平手で僕の尻を叩き、乱暴に腰を掴んで引き起こしたのだ。尻を跳ね上げた反動で肛門にさしこまれたままのバイブが腸壁に擦れ、内臓を抉る激痛にのたうちまわる。
 これ以上腰を動かされてはたまらない、それこそ肛門が切れて出血してしまう。冗談じゃない、肛門が傷付いたら次から排泄に支障をきたすではないか。いやそれだけじゃない、タジマの次にもまだ大勢の客が控えている。
 タジマが性欲処理の目的を果たして満足して帰った後でも、僕の生き地獄は終わらない。
 明日も明後日も延々と半年後の部署替えまで続くのだ。 
 酷くされたら、次に客をとる時に困る。
 「ふっ、く……ぅ」
 瞼が涙で濡れる。鼻腔の奥に塩辛い味が広がる。
 鼻から抜けるように漏れた声は、甘えるような嗚咽。違う、こんな情けない声僕の声じゃない。全否定だ。僕は現実にこんな声で泣いたりしない、嗚咽を漏らしたりしない。
 忘れたのか鍵屋崎直。お前は天才だ、天才なんだ。
 遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎夫妻の長男にして有望な後継者、かつては将来を嘱望された選ばれた存在。選良。エリート。プライドを持て、最後まで。嗚咽など漏らすんじゃない。
 心を麻痺させろ、思考を鈍化させろ。
 何も見るな感じるな、現実から全力で逃避しろ。僕は苦しくない、痛くない、こんなこと大したことじゃない。東京プリズンに来た時からいつかはこうなると覚悟があった、諦観していた。
 東京プリズンはリンチやレイプが横行する最悪の場所だ。
 ここではどんな最悪なことが起こったところでおかしくない。それが日常なのだから。
 僕の腰を抱え上げ、充血した肛門を視姦しつつ、手首に捻りを加えて容赦なくバイブを押しこむタジマ。
 喉元まで膨れ上がる異物感、圧迫感。
 前立腺を刺激する突起の付いた先端が、緩急つけて腸壁を擦り、未知の性感帯を発掘する。
 「はっ……」
 体が変だ。意識が朦朧として痛みが薄れてきたせいかもしれない。
 肛門の入り口を強引に押し広げて侵入した異物が蠢くたび、腰が痺れるような、疼くような、鈍い快感が押し寄せる。
 苦悶のうめきか快楽の喘ぎか、自分の口から漏れる声がどちらか既にわからない。
 疲労と倦怠とが思考力を奪い去る。
 こんな姿サムライにはとても見せられない、とぼんやりと考える。彼に軽蔑されるのはいやだ。生まれて初めてできた友人をこんな最悪の形で失うのはいやだ。
 恵を失った僕にはもう彼しかいないのに……
 「あ、ああっ」 
 「声が濡れてきたじゃねえかよ」
 うなじを舐められて理性が散らされる。僕の背中に肥満した腹を密着させたタジマが、手首を捻り、バイブを根元まで埋め込む。
 喉が仰け反り、獣じみたうめきが迸る。
 前髪から滴った汗がシーツに点々と染みを作る。
 信じられないことに、バイブは殆ど全部僕の中に入ってしまっていた。
 「俺に犯られるまえにも何人も男にヤられて緩んでたんだな。物欲しげにひくついて男誘って、淫乱な穴だぜ。バイブ一本じゃ物足りねえってか?」
 「ふっ………痛う」
 きつい。苦しい。バイブの先端が奥まで届いてるのがわかる、奥まで達しているのが伝わってくる。満足したなら早く抜いて欲しい、僕を解放してほしい。太股を伝い、膝裏をぬらす生温かい液体。血の滴り。バイブを強引に挿入されたせいで肛門の縁が切れて出血していた。排泄の際には当分痛みを感じることになるだろう。少しでも動けば、体内に挿入されたバイブが新たな刺激を生み出すことになる。
 頼む抜いてくれ、これ以上は無理だ、限界だ。
 体も心も壊れてしまう。
 「……っ、く……抜け……」
 手錠の鎖を鳴らし、表情を読まれるのを避けて顔を伏せ、よわよわしく呟く。 
 「ああん?なにを抜いてほしいんだ、主語が欠けてちゃわかんねえだろうが」
 耳の横に手をあて、わざとらしく大声で聞き返すタジマに殺意が湧く。タジマはどうしても僕に淫語を言わせたいらしい。その手には乗るかと唇を噛み、鼻梁にずり落ちた眼鏡越しに、反抗的な目つきでタジマを睨みつける。
 「……とぼけ、るんじゃないこの低能。貴様が僕の肛門に挿入した……その……、」
 「なんだよ。ちゃんと最後まで言わなきゃわかんねえだろ」
 タジマはにやにやと笑っている。僕の葛藤を見透かすゲスの笑顔。口を開きかけ、目を伏せて躊躇する。タジマの言葉に従うのは癪だ。プライドを挫いてまで、へりくだってまで、タジマの要求を飲む意味などあるのか?
 恥辱で頬が熱くなる。羞恥心を煽られ、全身を巡る血が煮え滾り、肌が火照りだす。タジマはどうしても僕に卑猥な言葉を言わせたいらしい。頬肉の弛緩した醜悪な笑顔は脂でぎとつき、狂気を孕んだ双眸は精力的にぎらついていた。
 タジマは性欲を持て余していた。嗜虐と変態性欲の塊。
 裸に剥いた僕の尻を撫でさすり、肛門に挿入したバイブを奥を突くように動かし、耳の裏側に吐息を吹きかける。
 「さあ言ってみろよ、今お前のケツに突っ込まれてるのはなんだよ。お前の中をぐちゃぐちゃにかきまわしてよがらせてるコレの名前は?当然知ってるよな、さっき教えてやったばかりだもんな。ちゃんと言わなきゃ永遠に入ったまんまだぜ。ケツにこれぶちこんだままサムライの房に帰りてえのかよ」
 嘲笑。陰険な目つきでほくそ笑むタジマに怒りが沸騰する。
 タジマは恍惚としていた。熱に浮かされたようにうっとりとした口調で僕を嬲りつつ、バイブを乱暴に抜き差しする。
 内臓を抉り穿つ異物感。
 先端に突起の付いたグロテスクな形状の異物が僕の体内で縦横無尽に暴れ回り、奥深く達して前立腺を刺激する。
 「あ、うぐあっ……ひっ、」
 手錠の鳴る音が耳障りだ。手首がちぎれんばかりに鎖を引っ張り暴れても、ベッドパイプに繋がれた手錠はびくともしない。抵抗の代償として手首が傷付いただけだ。皮膚が裂けて薄らと血が滲んだ手首を見下ろす余裕もなく、奥歯を食い縛り必死に声を噛み殺す。直腸内で蠢く異物の先端が律動的に前立腺を刺激するたび、どろりとした熱塊が腰を溶かし、激しすぎる快感を生む。
 限界だ、もう声をおさえられない。
 「………………だ」
 「ああん?」
 耳の横に手をあてたタジマがバイブを抜き差しする手を緩めず聞き返す。タジマの指で入念に揉み解され、幾重もの襞に唾液を練りこまれ、体積と質量を兼ねた異物を受け容れる準備を整えていた直腸内は、最も狭い場所を通過する際の抵抗を抜きにすればあっけなくバイブを呑みこんでしまった。
 僕はタジマが憎い。殺意さえ抱いている。
 両親を殺害した時とは比べ物にならない明確で激烈な殺意。両親を殺害した時はただただ夢中だった、恵を守りたい一心だった。しかし今は違う、僕はただ純粋にタジマが憎い。殺したいほどに憎い。この手でタジマの息の根を止められるなら他の何を売り払っても惜しくはなかった、他の何を犠牲にしても惜しくはなかった。
 憎い。殺してやる。絶対に殺してやる。
 心の中でくりかえし呪詛を吐く。自己暗示をかけるように。しかし現実には、僕はタジマに掴みかかることさえできやしない。頭に血が上り、憎悪で視界が赤く染まる。肛門に挿入されたバイブが卑猥に蠢いて激しい快感を伝えてくる。心はタジマを拒絶しているのに、勝手に反応してしまう体が恨めしい。
 「……僕の肛門に入ってるバイブを、抜いてくれ」
 漸くそれだけ言った。消え入りそうな呟きだった。敗北感。肩を上下させ、不規則に呼吸をしながら、僕はもう何も見たくなくて固く目を閉じる。
 「バイブだけじゃわかんねえなあ、もっと具体的に説明してもらわねえと。こちとらお前のような天才と違ってただの凡人で頭が悪いから具体的に説明してもらわねえとさっぱりだ」
 優越感をこめたタジマの哄笑。バイブを抜き差しする手は止まらず、よりいっそう速さと激しさを増して僕を容赦なく責め立てる。
 先端の突起が前立腺を執拗に刺激するせいで、前が反応し始めている。早く抜いてもらわなければ射精してしまう、限界を迎えてしまう。
 溺れるものが藁にも縋るように必死に、自暴自棄に喚き散らす。 
 「バイブレーターだ、貴様が持ってきた悪趣味な性玩具だ、今僕の肛門に挿入されてるグロテスクな形状のペニスの模造品だ!さあどうだこれで満足だろう、貴様のような低脳にもわかるよう具体的に説明してやった!頼む早く抜いてくれ、もう……」
 絶叫。
 哀願を続けることはできなかった。振動。タジマが柄のスイッチを押しこみ、バイブを自動的に動かす。強すぎる快感。男に犯されるのは慣れた、排泄器官を性交に使うのも慣れた。でも、玩具を使われるのは初めてだ。こんな感覚は初めてだ。僕の体内を容赦なく蹂躙し、充血した直腸内をかきまぜるように卑猥に蠢くバイブ。
 機械に犯されているというおぞましい感覚。圧倒的な快感。
 「あああっああっひっ、い!?」
 一瞬で理性が蒸発する。
 タジマの手で抜き差しされるだけでも凶悪な突起が腸壁を摩擦して前立腺を刺激して倒錯的な快感を生み出すというのに、それに激しい振動が加わったのではたまらない。ゴム製の巨大なペニスはもはや完全に根元まで埋まっている。
 肛門の筋肉が収縮し、もっともっととねだるように物欲しげにバイブを締めつけているのがわかる。
 機械に後ろを犯されるという背徳的な感覚。排泄しか用を足してなかった器官にバイブを挿入され、圧倒的な快感に苛まれてるという矛盾。
 手錠を鳴らし、嗚咽を堪えるように肩を痙攣させる僕を満足げに見下ろしてタジマが嘯く。
 「本当に抜いてほしいのかよ?お前だって悦んでるくせに。ケツにバイブ突っ込まれてひいひいよがってるくせに。ケツにバイブ突っ込まれてぐちゃぐちゃにかきまわされて、もう我慢できねえって前勃たせて、透明な雫を滴らせてるくせによ」
 「!やめ、」
 タジマの手が前に回り、僕の股間をまさぐる。拒絶しようがなかった。
 タジマの手でまさぐられたペニスは確かに勃起し、先端に透明な雫を滲ませていた。
 僕は不感症だったはずだ。
 東京プリズンに来る前は自慰行為もしたことがなかった。だから射精の快感も知らなかった、鍵屋崎優の研究助手だった女性と興味本位に性交を試した時を除いて僕は射精したことすらなかった。
 東京プリズンに来てすべてが変わってしまった。
 僕は不感症ではなくなってしまった。
 そんなこと、少しも望んでいなかったのに。体が敏感になることなんて、少しも望んでいなかったのに。
 「あ、うぐ………っう」
 「いかせてやろうか」
 僕のペニスを手荒く扱きながら勝ち誇ったようにタジマが笑う。剥き出しの快感。前と後ろから同時に押し寄せる熱湯の奔流が腰で衝突し、下肢から脳天を貫く。ここで素直に頷けばラクになれるのだろうか、という考えが脳裏を過ぎる。
 手錠をかけられて両手の自由を奪われた僕は、タジマの手で扱かれないかぎり射精することができず生殺しの責め苦を味わうことになる。
 タジマに従えばらくになれるのだろうか。
 ……嫌だ。
 「……即刻その汚い手を放せ、低能。だれの許可を得て僕に触れている?」
 声がかすれた。タジマの顔が強張る。この期に及んで僕が反抗するなど思ってもなかったのだろう。
 ざまあみろ。
 そうか。ざまあみろとはこういう時に使う悪態なのか。
 なるほど勉強になった。 
 「何故僕が貴様に哀願しなければならない、貴様に懇願しなければならない?貴様のように愚劣で醜悪な人間に頭を下げて許しを乞わねばならない?おかしいだろうどう考えても、僕が貴様に頭を下げる理由などない、この地上には存在し得ない!理解したか、理解したなら即刻僕の視界から消え失せろ品性下劣な俗物が!!」
 腹の底から咆哮をあげる。僕に罵声を浴びせられたタジマは呆然としている。次の瞬間、タジマの顔が怒りで充血する。野卑な笑顔から一変憤怒の形相に様変わりしたタジマが、僕の尻に手をあて屈みこみ、バイブのスイッチを「強」に―……
 「そうか。そうかよ」
 タジマが満面に笑みを湛える。これから起こることを予期し、優越感に酔い痴れた笑顔。
 「じゃあ、俺に死に物狂いで懇願したくなるまでお望みどおり放置してやる」
 『放置』?
 電子音が大きくなる。
 「あ、あああっあっあああああああっ!!!?」
 凄まじい振動。先ほどまでとは比べ物にならない激しさでバイブが体内で暴れ回る。内臓を突き破り喉まで達しそうな勢い。そんな僕を眺めながら、タジマがポケットから何かを取り出し、素早く前に持ってくる。
 タジマの手が握っていたのは、紐。何の変哲もないただの紐。 
 「……なに、をする、気だ」
 恐怖で顔が強張り、喉がひきつる。僕にはタジマの考えがわかってしまった。わかってしまったのだ。
 「『お仕置き』だよ」
 「痛っ!?」
 タジマの手が器用に動き、僕の性器を紐で縛りつける。根元に栓をされたペニスは限界まではりつめ、赤黒く充血している。苦痛。激痛。快感を駆逐するほどの。後ろにはバイブが挿入されたまま、間断なく振動を伝えてくる。
 しかし、紐で戒められ射精を禁じられては達することができない。
 せめて手が自由になれば紐をほどくことができるのに、栓を抜くことができるのに!
 ベッドの上でのたうちまわる僕に含み笑いを残し、タジマが唐突に腰を上げる。
 凄まじくいやな予感がした。「放置」。その言葉が意味する恐ろしい罰。
 「ど、こへ……」
 「俺に扱かれるのはプライドが許さねえんだろ?ならひとりで楽しめよ。イケるもんならイッてみろってんだ」
 「!?まて、」
 鉄扉が閉じる。タジマの哄笑が廊下を遠ざかる。完全に放置された。こんな姿で、こんな状況で?タジマが帰ってくるまで何分何時間待てばいい?後ろにはバイブを挿入されて射精を塞き止められて手錠に繋がれて、こんな生殺しの状態であと何時間耐えたらタジマは戻ってくる?
 「あ、うっ……く」
 紐が食いこんで痛い。射精したくて気が狂いそうだ。
 どれだけ圧倒的な快感を与えられても出口がなければそれは地獄だ、終わりのない拷問だ。助けて。だれか助けてくれ、僕の体内から異物を抜いて前を戒める紐をほどいてくれ! 
 これ以上続けば頭がどうかしてしまう、発狂してしまう!だれに助けを求めれば聞き入れられる、この地獄から救い出してくれる、僕の呼ぶ声に答えてくれる?
 父さん母さん、恵、サムライ!だれかだれでもいいから助けてくれ助け出してくれ!
 いっそ気を失ってしまいたい。早くこの生き地獄から解放されたい。
 しかし、膨張した先端に紐が食い込み容赦なく締めつけてくるせいで、気を失うことすらできやしない。紐で束縛された先端に血が集まり、脈打ち、狂おしく疼く。自分の手で擦ることもできやしない。
 後ろに挿入されたバイブの振動は激しく、腰全体に痺れが広がり、陸揚げされた魚のように下肢が痙攣し始める。不規則に痙攣する腰を持ち上げ、膝と肘を折り曲げた四つん這いの姿勢でひたすら快感に耐える。出口を塞がれて逃げ場を失った熱が小爆発を起こして全身に散り咲いてゆく。
 全身が熱い。生きながら溶鉱炉で溶かされているかのようだ。骨も内臓もどろどろに融けていくかのようだ。体の奥底でうねる熱塊。最強に設定されたバイブの振動が前立腺に伝わり、紐で縛られた先端が熱をもって疼きだす。
 「ふっ………く、」 
 額に脂汗が滲む。意識が朦朧として視界が歪む。
 肘が挫けそうだ。膝が挫けそうだ。四つん這いの姿勢で体を支えるのもそろそろ限界だ。極限まで張りつめた先端に紐が食い込んで、痛い。紐で束縛されたペニスの表面に夥しい毛細血管が浮かんでいる。
 射精を塞き止められ、絶頂に達することもできず、肛門に突きたてられたバイブから激しすぎる快感だけを強制的に送りこまれる拷問。
 射精を妨げられる苦しみは想像を絶した。もう何も考えられない、思考が纏まらない。誰でもいい、早くほどいてくれ。射精させてくれ。プライドをかなぐり捨て、死に物狂いで懇願する。自分でさわれないなら他人にさわってもらうしかない、だが今ここには僕しかいない、だれにも頼ることはおろか縋ることもできない。
 「とうさ……かあさ……」
 結局僕は、自分が殺した鍵屋崎夫妻に縋るしかないのか?最終的には、それしかないのか?鍵屋崎優も由佳利ももうこの世にはいないのに。この手で殺してしまったのに。
 今更懺悔しても遅い。後悔しても遅い。手遅れだ。僕を救ってくれる人間など誰もいない。
 サムライには迷惑をかけられない。彼とは対等な友人でいたい。弱みを見せたくない、知られたくない。
 「っ……あ、あ!」
 助けてくれ。このままでは熱に溺れ死んでしまう。射精できなくて気が狂ってしまう。この地獄から抜け出すためなら手段は選ばない、タジマの命令に何でも従う、もう決して反抗したりなどしない。だから頼む戻ってきてくれ紐をほどいてバイブを抜いて僕を助けてくれ、もう決して歯向かったりしないから!
 タジマが出ていってから何分が経過したろう。
 ベッドパイプと手錠が擦れ合う音とバイブのモーター音だけが、僕の耳に届く。助けてくれ。許してくれ。解放してくれ。前がはりつめて痛い。ぎりぎりと紐が食いこんで痛い。限界値を超えた快感は苦痛でしかない。このまま放置されたら本当に死んでしまう、煮殺されてしまう。
 軋り音をあげ、鉄扉が開く。
 衣擦れの音、足音。コンクリ床を叩く硬質な靴音。だれかが房に入って来た。誰?決まっている、一人しかいない。タジマだ。漸くタジマが戻ってきたのだ。ベッドが弾む。僕からは見えない位置にタジマが腰掛けたのだ。
 とめどなく涙が溢れた。
 「……射精させてくれ……」
 タジマが戻ってきた安心感より何より、紐を解いてもらいたい一心で、率直な願望を口にする。
 「それが人に物を頼む態度かよ。まだ五分しか経ってねえってのに口ほどにもねえ根性なしだな」
 腕時計をちらりと一瞥したタジマがせせら笑う。タジマはまだ五分しか経過してないと言うが、僕には五時間が経過したように思えた。体感時間では半日にも等しい錯覚に襲われた。タジマは実に五分もの間、僕をベッドパイプに手錠で繋いで放置したのだ。最強に設定したバイブを肛門に挿入し、先端を紐できつく縛った状態で。
 家畜同然の、家畜以下の扱いだ。
 タジマにとって僕は、性欲処理の道具でしかないのだ。
 「射精、させてください」 
 「『お願いします、イカせてください』だ。物欲しげにケツ振ってねだってみろや。淫乱な穴に太いバイブ突っ込んで汗みずくでよがりまくってたんだ。お前だってまんざらじゃねえんだろ?」
 言いたくない。絶対に言いたくない。
 「!!あっああああっあ、」
 ごりっ、と音がした。バイブが腸壁を削り取る音。タジマがバイブの柄を掴み、手首に捻りを加え、襞を巻きこむように半回転させたのだ。前立腺に振動が伝わり、紐で束縛された先端に血が溜まる。
 はやくはやく抜いてほしい解いてほしい射精させてほしいそれ以外のことは考えられない!
 「……お、ねがいします……い、かせてくだ、さ……い」
 嗚咽が堪えられない。敗北感。屈辱感。とうとう口にしてしまった。自分が助かりたいあまりに、らくになりたいばかりに、プライドを放棄してしまった。勃起した先端に紐が食い込んで夥しい毛細血管が脈打って、射精したくて気が狂いそうだった。
 「よし」
 タジマが溜飲をさげる。僕の前に手を回し、素早く紐を緩める。紐がほどけるまでの時間がひどくじれったかった。僕のペニスを戒めていた紐が外れ、根元に巻かれていた部分が緩み、ベッドに落ちる。
 脳裏で閃光が爆ぜた。
 「あっああああっ、あ!?」
 射精の瞬間。ペニスの先端から迸った精液が勢い良く虚空に弧を描く。今まで射精を塞き止められていた分、ペニスの先端から放出された精液は大量だった。射精は一回では済まず、二回三回と連続した。下肢が痙攣した。自分の意志ではどうにもならなかった。先端の孔から迸り出てシーツを汚した白濁した液体、股間を粘つかせて下腹部にまで飛び散った精液の残滓。
 剥き出しの太股に付着した糸引く粘液の感触がひどく気持ち悪かった。
 「沢山でたな。よっぽど溜まってたんだな」
 僕の太股に付着した精液を指になすりつけ、指の腹で捏ねながらタジマが揶揄する。ひどくみじめだった。死んだほうがマシだった。体内ではまだバイブが獰猛に唸っていた。射精したばかりだというのに、直腸の最奥に達したバイブの先端が前立腺を刺激するせいで、ペニスがまた勃ちあがりかけている。
 「!っぐ、ん」
 タジマが乱暴にバイブを引きぬく。それまで僕の直腸内を蹂躙していたバイブが腸壁を擦り、体外へと出る。肛門の入り口が収縮し、臀部の筋肉が緊張する、排泄にも似た感覚。浅く肩を上下させ、息を切らし、肩越しに振り向く。シーツの上で卑猥に蠢くバイブ。あんな巨大な物が僕の体内に入っていたなんて信じられない。
 バイブが抜けた後の穴が窄まるには時間がかかる。バイブで拡張された僕の肛門をたっぷりと視姦しつつ、タジマが言う。
 「がばがばに緩んでやがる。淫乱な孔だな。俺に放っとかれて寂しかったのか?物欲しげにひくついて、ぐちゃぐちゃに潤んで、俺様のモン受け容れる準備万端じゃねえか」
 「な……」
 タジマの言葉に耳を疑う。まさか、まだやる気なのか?これで終わりじゃないのか?タジマはまだ飽き足らず、僕の地獄はこれから先も永遠に終わらないというのか?
 「どうしたんだよ、この世の終わり見てえな悲惨なツラして。悦べよもっと。お待ちかねのもんが漸く入ってくるんだぜ、涙流してよがり狂えよ、俺の腹の下に敷かれてな!!」
 嫌だ。  
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だもう嫌だこんなの嫌だどうして僕がこんな目に!!もう嫌だ、男に犯されるの嫌だ、タジマに犯されるのは嫌だ、こんな毎日にはうんざりだ、こんな毎日が続けば本当に体が壊れてしまう!!
 死んでしまう。
 確実な死。
 「せめて手錠を外してくれ、両手が使えないのはいやだ、自由になりたい!」
 心からの叫び。僕は半分気が狂っていた。誰に縋ればいい、誰に頼ればいい?僕はあまりに非力で無力で、自力で手錠を外すこともできやしない。タジマから逃れることもできやしない。
 
 天才なもんか。
 僕はなんて無力な、売春夫なんだ。
 鍵屋崎直は、ただの売春夫じゃないか。
 
 「手錠を外したら、お前、手で口を塞ぐだろ?そしたら折角の喘ぎ声が聞こえねえじゃねえか」
 その通りだ。他人に喘ぎ声を聞かれるのはプライドが許さない。第一、ロンにも届いてしまうかもしれないじゃないか。僕の腰を掴んだタジマが、怒張したペニスを肛門に添え、絶望的な宣告を下す。

 「手錠を外したところでお前が自由になる日なんか一生くるもんか。
  お前は死ぬまで一生東京プリズンの売春夫で、俺の腹の下で喘ぎ続ける運命なんだから」
  
 今ここで手錠を外したところで、僕が自由になる日は永遠に来ない。
 僕は永遠にタジマに犯され続ける運命なのだ。 
 身も心も束縛されて。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010628004047 | 編集

 顎が外れそうだ。
 「っ……ふ」
 最大限に口を開けて怒張したペニスを咥え込み、舌で先端をねぶる。
 もう何分奉仕を続けてるのかわからない。
 呼吸ができない。苦しい。喉が詰まる。酸素を欲して喘ぐ。
 はやく達してほしいとそればかりを念じ、ペニスの根元に手を添えて角度を調整しつつ舌を使う。
 顎を左右に傾げ、蛇口の栓を捻る要領で緩急つけてペニスの根元を擦る。
 コツさえ呑みこめればフェラチオは簡単だった。ペニスの根元に手を添えてゆっくりと口に導き、三分の一ほど咥える。あとは機械的な動作のくりかえし。舌で唾液を塗布するように先端をねぶり、つつく。三回に一回は喉の奥深く達するまで呑みこみ、口腔の粘膜に全体を包み込んで愛撫する。射精するまでひたすら冗長にこのくりかえしが続く。
 性行為にも順番がある。
 最初はフェラチオから。まずはペニスを勃起させ使い物に足る状態に仕上げないことには肛門を性交の用途とする本番に臨めない。フェラチオに時間がかかればかかるほど客の苛立ちは募り、僕ら売春夫が割を食うことになる。
 だからこちらも必死だ。
 第一段階としてフェラチオで客を満足させないことには次のステップに進めず、へたすれば逆上した客に暴力を振るわれる。
 「ふっ……ん」
 満足に息が吸えず窒息しそうだ。口の中でペニスの体積が膨張し、喉を圧迫する。徐徐に限界が近付いている。
 客の手で後頭部を押えこまれ、裸の股間に顔を埋めながら冷静に考える。口の端から唾液を垂れ流し、ベッドに腹這いになってペニスを舐める時間はもうすぐ終わる。
 今は耐えればいい。
 耐えることには慣れた。この数日間で僕には耐性ができた。
 今では吐き気を堪えて生臭いペニスを咥えることもできるし、肛門にペニスを受け容れても指で十分に慣らされてからなら激痛にのたうちまわらずに済む。最初はただ苦しくて、吐き気を堪えるだけで精一杯だったが、今では目を閉じて現実逃避することもできる。
 たとえばペニスの味。かつてある小説家が生魚の味と評した、淡白かつ青臭い風味。先端の孔から迸り出る精液の苦味。口腔に溜まった唾液が粘りけある精液とまじりあい、どろりと喉を滑り落ちてゆく感覚。
 そんなどうでもいいことを考えながら舌を動かす間に口に含んだペニスの大きさが増し、絶頂が近付く。 
 「!!ぐっ、」
 射精の瞬間。
 ペニスが脈打ち、先端の孔から迸り出た精液がどろりと口腔に満ちる。呑みこみきれない分が口の端から零れたのを手の甲で拭い、軽く咳き込む。
 漸く終わった。いや、まだこれで終わりではない。
 本番はこれから始まるのだ。
 顎を拭いつつ荒い息を零す僕の視線の先、下半身裸でベッドに腰掛けているのは看守の制服を着た男。
 タジマではない。僕が売春班に配属されてからというもの頻繁に訪ねてくる常連客。名前は知らない。興味もない。売春班では最低限の礼儀として客と名乗りあう習慣もない為、ベッドに腰掛ける男のことは無名の看守と呼ぶしかない。
 誰がこれから自分を犯す人間の名前を知りたいものか。憎悪の対象を命名したいものか。
 涙目で噎せ返る僕に向き直り、看守が笑う。
 「吐き出さずに全部飲めよ。口一杯にザーメンくれてやったんだ、一滴だって零したら承知しねえぞ」
 命令通り、口腔に蟠る精液を顔をしかめて飲み干す。まずかった。口の中をからにして、漸く言葉を発することができるようになった僕は、顎から手をどけて顔を上げる。
 「言われたとおり嚥下したぞ。
 次は何を所望だ、僕はどんな体位をとればいい?」
 自棄気味に吐き捨て、余裕ありげな笑顔の看守を睨みつける。
 東京プリズンの看守はあるいは囚人以上の社会不適合者揃いだ。筆頭格はタジマだが、それ以外の看守とてごく一部の例外を除いてはお世辞にも誉められたものではない。
 見た目は至って平凡なこの看守も、とても口には出せない変態的な性向の持ち主だった。
 「ついてこい」
 看守が顎をしゃくり、先に立って歩き出す。看守の行動を不審がりつつも、後を追って歩き出す。一歩足を運ぶごとに腰の鈍痛が再発して顔をしかめることになった。足を引きずるようにして壁際に到達した僕は、隣で立ち止まった看守を仰ぐ。
 「よし」
 看守が満足げに首肯する。看守の視線につられて顔を上げ、眉をひそめる。視線の先にはシャワーが吊られていた。
 「理解不能だな。こんなところに僕を連れてきてどうする、性行為ならベッドで……」
 「手を出せ」
 ベッド以外での性行為は体に負担がかかる。たとえば床。硬いコンクリ床に仰臥するのは背中が筋肉痛になり一度で懲りた。たとえば洗面台。洗面台に上体を凭せた体勢で後ろから貫かれるのは辛かった。
 渋る僕を遮り、看守が命じる。
 仕方がない。諦念のため息をつき、両手を揃えてさしだす。売春夫に選択肢はなく、拒否権もない。客の言う通りにするしか生き延びる道がないのなら従うほかない。
 両手首をそろえて差し出し、首をうなだれてその時を待つ。
 手首を縛られるのは慣れた。もうさほど抵抗も感じなかった。
 僕と対峙する看守には、人には言えない秘密の性癖がある。即ち緊縛。拘束。売春夫の手首をロープで縛り、自由を奪ってから犯すことで性的に興奮する倒錯した嗜好の持ち主……つまりは変質者だ。唾棄すべきタジマの同類だ。
 無駄だとわかっていながらも、気だるげに口を開く。
 「ひとつ忠告しておくが、ロープはできるだけ緩くしてほしい。手首にあとが残ると後々面倒なんだ。同房の男が目敏くて……痛っ!」
 手首にかけられたロープがきつく食いこみ、骨を締め上げる激痛を与えてくる。僕の懇願を最後まで聞かず、ポケットから出したロープで器用に手首を縛り、腕を一本に纏める。
 これだから低能は困る。人の話を最後まで聞くという最低限の躾もなってないのだから。
 憮然と黙りこんだ僕をよそに、看守はすこぶる上機嫌だった。僕の手首を縛った余りのロープを手に持ち、鼻歌まじりに視線をさまよわせる。
 「やっぱりあそこだな。あそこが一番だ」
 『あそこ』?
 嫌な予感がした。ロープの余りを捧げ持った看守の視線を追えば、壁の上方、フックにかけられたシャワーに行き当たる。看守がおもむろに腕をのばし、フックからシャワーを取り上げる。そして、僕の手首と繋がった余分のロープを爪先立ってフックにひっかける。
 何をする気だ、なんて馬鹿な質問はしなかった。今更すぎた。
 『吊られる』。
 「!やめ、」
 抗議の声を発するより早く、僕の足裏が浮いた。手首に巻かれたロープの余りがフックにひっかけられ、僕は両腕を揃えて頭上に掲げて吊られる恰好になった。吊られた手首に全体重がかかり、ロープが容赦なく食いこんで鬱血する。
 一体これは何の真似だ?僕の身に何が起きている?
 こんなこと今だかつてなかった。目の前の男は、僕を縛って犯しさえすればそれで満足なのだと高を括っていた。僕の手首をロープで縛り、ベッドにうつ伏せに寝かすのがこの男が好む体位だったはずだ。
 それにそうだ、僕は服を着たままだ。フェラチオの段階では服を脱ぐ必要がなかったから、今もまだ囚人服を身に付けたままだ。
 まさかこの体勢で、シャワーフックから吊られたこの体勢で行為を強制されるのか?服を着たまま?
 「何を考えてるんだ貴様は、頭がどうかしてるのか!?」
 落ち着け鍵屋崎直、冷静になれ。冷静に。
 容赦なく手首を締め付けるロープの痛みに顔をしかめつつ、極力声を抑えて反論する。
 「即刻ロープをほどけ、こんな無理な体勢で性行為に及べるわけがない。
 常識で考えてわからないのか?縛りたいなら縛ればいい、僕の手首をロープで縛って自由を奪えばいい。だが、こんな体勢で性行為に臨めるわけがない。
 立ったまま挿入されるのは一度で懲りた、あんな思いをするのはもうごめんだ!!」
 できるだけ冷静であろうと努めたのに、語尾は悲鳴に近くなった。
 僕の最初の客。洗面台に僕を寄りかからせて背後から犯したイエローワークの同僚。洗面台の鏡に映った相手の顔と自分の顔が脳裏にまざまざとよみがえり、全身が総毛立つような生理的嫌悪を覚える。
 体を動かせばそれだけ手首にロープが食い込み、血が滞る。頭ではわかっているが、本能的に身を捩る動作をやめられない。
 何とか自力でロープをほどこうと激しく身をよじる僕の正面、いやらしくにやつきながら看守が言う。
 「暴れれば暴れるだけロープが手首に食いこんできつくなるぜ。諦めろよ、もう。一回やってみたかったんだよな、こうやって吊るして犯すの。なあ、なんで俺がおまえを贔屓にしてるか理由がわかるか?」 
 「タジマの推薦か?」
 「それもある」
 皮肉のつもりが的を射ていたらしく複雑な気分になる。タジマに推薦されても嬉しくないどころか迷惑だ、非常に。しばらく考え、妥当な結論を下す。
 「僕が最も腕力がなく御しやすいからだ。貴様のような腰抜けは大抵獲物の逆襲を恐れているからな、ロープで手首を縛らなければ僕らを犯すこともできないのがその証拠だ」
 「近いが、違うな」
 おどけたように肩を竦めた看守が、僕の方へと身を乗り出し、シャワーを顔に近付ける。
 「正解は……お前がいちばん軽いからだよ、体重が」
 たしかに僕は痩せているほうだ。イエローワークの強制労働で太れなかったのもあるが、売春班に配属されてからさらに体重が激減した。
 だが、それがどうして……
 待てよ。そういうことか。
 「そういうことだったのか」
 喉の奥から卑屈な笑いが漏れる。そうか、そういうことだったのか。実に単純明解な理由だ。体重が軽ければ、それだけ僕を吊ることが容易になる。
 つまりこの看守は、前もって僕に目をつけ、この事態を想定して売春班に通い続けてきたのだ。
 僕を指名した動機は「犯す」ことよりも「吊る」ことが主体だったのだ。
 なるほど、逆転の発想か。
 「真性の変態だな。売春班通いが常習化したタジマの同類にろくな人間はいない、真に唾棄すべき下劣さだ。そうまでして僕を吊りたかったのか、吊りながら犯したかったのか?」
 笑い声は嗚咽に似ていた。笑いの発作は止まらなかった。
 タジマの同僚はタジマの同類だった、ただ単純にそれだけの話だ。全体重がかかった手首の痛みも、つま先が触れるか触れないかの床までの距離もあるひとつの事実を暗示していた。

 逃げられない。

 看守が栓を捻り、僕の顔面にシャワーの湯を浴びせたのはその直後だった。
 「かはっ、」
 目と鼻と口と耳と、孔という孔にシャワーの湯が入りこんでおもいきり噎せ返る。シャワーの湯には味がなかった。いや、かすかに鉄錆びた風味があった。壁に埋め込まれた配管の内部が錆びていたせいだろう。
 喉の奥に凝っていた精液の後味がシャワーの湯で洗い流されたのはよかったが、濡れ髪が額にはりつき、湯気で曇る視界を遮るのには辟易した。
 それだけではない。僕は服を着たままだった。囚人服の上下を着たままシャワーを浴びせ掛けられたのだ。
 たちまち服が濡れて素肌が透け始め、半透明のシャツに胸の突起が浮く。
 「乳首の形が浮いてるな。色まではっきりわかる」
 「!っあ、」
 シャワーを持ったのとは逆の手で乳首をつねられ、声をあげる。
 水に濡れたシャツとズボンがぴったり体に密着し、透けた生地越しに色素の沈殿した痣を浮きあがらせていた。
 指の腹で執拗に乳首を捏ねながら、シャワーを腋の下に押しあて、体の線に沿って緩慢に滑らせる。
 「んっ………は」
 変な感じだ。性感帯を探るようにシャワーが腋の下に潜りこみ、乳首に交互に押しあてられ、薄い胸板で円を描く。間接的で性的な愛撫。足元から立ちのぼるシャワーの湯気が生温かく顔を撫で、上せた頭が朦朧とする。
 「乳首が勃ってるぜ。シャワーかけられて感じてんのかよ」
 顎をしゃくられて目を落とせば、指とシャワーとを交互に用いた執拗な責めで乳首が勃ちはじめていた。
 「さわ、るな。シャワーを止めろ、気道に水が入る……溺死させる気か?」
 咳をまじえながら反駁する。体が熱かった。はやく解放してほしかった。さもなくば溺れ死んでしまう。
 薄れ始めた意識の中、指で捏ねられて硬くしこりはじめた乳首から顔を背ける。
 「溺死。drowning.体外より気道を通じて侵入した液体により、気道内腔が閉塞されて起こる死。溺水による窒息。死の機序。溺水の吸引。吐血・喀血の気道内吸引による窒息は溺死と言わない。溺水。浅い水でも溺死可能な……死体所見は……」
 「なにぶつぶつ言ってんだよ、うるせえよ」
 「!!ひ、あ」
 股間にシャワーを押し当てられる。ズボンの股間にじわじわと染みが広がる、反射的に体が仰け反る。
 股間が濡れて気持ちが悪い。勢いを強めたシャワーの湯が股間にかかるたびに性器が刺激され、徐徐に勃ちあがりはじめた先端に血が集まる。
 「どけろ、ほどけ、シャワーをどけろ!!」
 熱い。体が熱い。熱くて熱くて気が狂いそうだ。
 シャツを押し上げる乳首を指の腹で揉みしだき、もう片方の手にシャワーを持ち、先端部をズボンの股間に押しつける。
 股間を揉みこむように猥褻な動きでシャワーの先端部を押しつけてくる手。
 フックに吊られた両腕を揺さぶり、シャワーから逃れようと身をよじる僕の耳朶に揶揄がふれる。
 「これが欲しいんだろ?もっと気持ちよくなりたいんだろ?じゃあ、やるよ」
 勢い良く湯が迸りでるシャワーの先端部が、無造作に下着の内側に突っ込まれる。
 「あ、ああああっああっあ!?」
 下着の内側に挿入されたシャワーが性器を直接刺激して、次の瞬間、僕は射精していた。
 「なんだよ、下着にシャワー突っ込まれただけでイッちまったのか?あっけねえ」
 ズボンの股間に滲みだした白濁の残滓を見下ろし、看守が歯を見せて笑う。勝利の笑み。気が済んだのなら一刻も早くシャワーを抜いてほしかった。
 下着の内側では、性器に密着したシャワーが今もまだ湯をかけ続けているのだ。
 「……さあ、気が済んだのなら早く抜いてくれ。馬鹿げたお遊びは終わりにしてくれ。念のために言っておくが、貴様はシャワーの用途を間違えてるぞ。 シャワーフックは本来人を吊るすための道具じゃないし、シャワーは悪趣味な性玩具じゃない。大胆かつ独創的な発想にはある種敬意を覚えなくもないが、そもそもシャワーフックにひと一人分の体重を支える耐性などない。想定外の負荷がかかれば壊れてしまうぞ。
 十中八九フックが壊れると仮定して看守の安月給で修理費を払えるのか?」
 「……吊るされてもへらねえ口だな」
 「毒舌が取り柄だからな」
 最後の力を振り絞り、虚勢の笑みを浮かべる。
 立場を弁えない軽口が気に障ったのか、ふんと鼻を鳴らした看守が僕の股間からシャワーを引き抜き、足元の床に放る。シャワーのホースがうねり、床にぶつかった先端部が蛇のように鎌首をもたげて周囲に水滴を撒き散らす。
 「その恰好で俺のモン突っ込まれてもお高くとまってられるかな」
 看守が僕のズボンを下げおろし、両足を抱え上げ、強引に左右に割る。尻の柔肉を押し広げて肛門に添えられたのは、赤黒く怒張した男根。 
 「シャワーでケツの穴ほぐしてもらいたいか?」
 僕の腰を抱え上げた看守を睨みつけ、プライドが砕け散る最後の瞬間までせめて虚勢を保とうと挑発的な笑みを吐く。
 「シャワーの用途を間違えるな。低能め」
 それが、僕の答えだ。

 「そうだ、忘れてた」
 僕の腰を抱え上げ看守が突然言う。
 忘れていた?何を?不審げに眉をひそめた僕の正面、企み顔でほくそ笑んだ看守が名残惜しげに僕の腰をおろす。足元の床に広がる水溜り。
 コンクリ床に放置されたシャワーの先端から迸った水が裸足の足裏を浸し、螺旋に渦巻いて隅に穿たれた排水口へと吸いこまれてゆく。
 サウナのような湿気と熱気、乳白色の湯気が濛々とたちこめる中、コンクリ床を叩く水音だけがやけに鮮明に響く。
 何事か気付いて行為を中断した看守が、口角に卑しい笑みを溜めて僕の上着の裾へと手を伸ばす。たっぷりと水を含み、腹部にへばりついた上着の裾に手をかけ、ゆっくりとめくりあげる。
 へそが覗き、下腹が覗き、胸板が覗く。
 緩慢な動作で僕の上着の裾をめくりあげながら何度も唇を舐める。
 看守は疑いようもなく僕の体に欲情していた。目は爛々と輝いていた。
 むきだしの股間は固く勃起していた。赤黒く剥けた醜悪な性器だった。
 吐き気がする。
 醜悪な性器を視界から追い出そうと無理矢理顔を背けた僕の目に留まったのは、裸の胸の突起。看守の手により胸まで捲られた上着の下から露出した胸板では、乳首が固くしこっていた。
 シャワーと手とを交互に用いた執拗な責めで不本意にも反応してしまった胸の突起が、どうしようもなく羞恥心の熾火をかきたてる。
 体の突端は敏感だ。快感に貪欲で忠実だ。
 僕の意志に反して乳首は痛いほどに尖りきり、空気に触れた瞬間には微電流が走るような刺激があった。
 「……っふ、……」
 「いやらしい体だな。男のくせにびんびんに乳首勃てて……恥ずかしくねえのかよ」
 両腕を一本に纏められてフックに吊られた僕には、体前で腕を交差させ看守の視線から身を守ることもできない。
 一糸纏わぬ裸身を欲情した視線に晒した僕は、一刻も早く彼が飽きてこの時間が終わってくれるよう顔を背けて祈るしかない。
 目の前の男は明らかに僕の裸体に性的興奮をおぼえていた。
 理解できない。こんな貧相な体のどこに性的興奮を覚えるというんだ?不健康に生白い肌も筋肉の発達してない未成熟な胸板も華奢な細腰も棒のように貧弱な太股も僕には劣等感の塊でしかないのに。
 東京プリズンに来て半年が経過し、男が男が犯す日常にもすっかり馴染んだつもりでいたが、それが自分の身に起きるとなると根本的な生理的嫌悪を拭えない。同性に向けられる好色の視線など不快でしかない。だが、それなら何故僕の体は反応してる?唾液で湿した指の腹で執拗に捏ねられ、湯を注がれた乳首が勃っているのは?体が敏感に反応してしまうのは何故だ?
 「!っあ、」
 刺激。
 びくんと体が仰け反り、背骨が撓る。看守がにやにやと笑いながら、尖りきった乳首を指で弾いたのだ。
 「タジマの言うとおり感度がいいな」 
 タジマの名前を聞くと気分が悪くなる。
 「……タジマから何を聞いたのか知らないが、それはでたらめだ。でまかせだ。捏造だ。虚妄だ」
 僕は感じてなどいない。僕は不感症なのだから、感じるわけがない。セックスなど不快でしかない。乾燥した手で体の表裏をまさぐられるのは不快でしかない。気持ちよくなどない少しも。僕が感じているなどありえない。心まで売春夫に堕ちるようなことは絶対にあってはならない。
 これは何かの間違いだ。
 「本当か?」
 「本当だ」
 不毛な問答。水滴の滴る前髪越しに、顎を引き、まっすぐに看守を睨みつける。挑むような眼差し。
 眼鏡をしてないせいで間近にあるはずの看守の顔が曖昧にぼやけていた。頭がのぼせて意識が朦朧としてるせいかもしれない。濛々と視界に被さる湯気のせいかもしれない。腕の感覚がなくなってきた。ロープで縛られて頭上に掲げられた腕から血液が下りてくるのがわかった。
 あとどれ位、何分何十分何時間この姿勢でいればいいのだろう。何分何十分何時間僕にこの姿勢をとらせれば看守は満足するのだろう。早く縄をほどいてほしかった。フックからおろしてほしかった。手首だけで全体重を支えるのは辛かった。裸足のつま先が触れるか触れないかの床までの距離がもどかしかった。 
 宙吊り。
 「命令だ。はやく、一刻も早くロープをほどいて僕を下におろせ」 
 これ以上は体がもたない。手首が鬱血して感覚が麻痺してきた。フックを軋ませて腕を揺さぶり、身をよじるように看守を振り仰ぐ。
 だが、看守は僕の必死さを嘲笑うように薄笑いを浮かべるのみ。ささやかな抵抗とフックを軋ませて体を揺さぶる僕の頭の先からつま先までを舐めるように視姦する。
 肌が過敏になっている。腕が自由ならば局部を隠すこともできるのにと歯噛みしつつ、紅潮した顔を俯ける。
 なんて無様な姿なんだ。無様でみっともない姿なんだ、鍵屋崎直。お前は本当に天才か?かつては鍵屋崎優の後継者として将来を嘱望された、日本の未来を背負って立つと期待された鍵屋崎直なのか?
 その僕が何故こんな姿でいる、こんな屈辱的な姿勢をとらされている!?
 「命令だ」
 こんな現実、認めたくない。
 これは何かの間違いだ。
 これまで起きたこともこれから起きることも何かの間違いだ。
 そうとしか考えられない、そうでなければいけない。 
 「ロープをほどけ。フックからおろせ。シャワーを止めてくれ。僕を、」
 言葉に詰まる。胸裏でせめぎあう葛藤。僕をどうしろというんだ?唇を噛んで顔を伏せれば貧弱な下半身が目にとびこんでくる。
 擦り傷と痣とが目立つ痛々しい太股。
 下着の中にシャワーを突っ込まれただけで白濁した精液を放ち、萎縮した性器。内腿と下腹には先端の孔から迸った精液の残滓が付着してる。
 蛭が這ったあとのように粘ついた感触が気持ち悪い。体に付着した精液の残滓を洗い流したくて、行為の痕跡を消したくて発狂しそうだった。
 苦渋に顔を歪め、吐き捨てるように要求する。
 「……僕を、ベッドに連れていってくれ」
 フックに吊られて立ったまま犯されるよりベッドでうつぶせに寝かされて犯されるほうがずっとマシだ。そのほうが体に負担がかからない。ひどくみじめな気分だった。自分が最低の人間になった気分。屈辱感と敗北感に打ちひしがれて悄然と首をうなだれた僕をよそに、看守が腕組みをほどく。
 ロープをほどいてくれるのか?おろしてくれるのか?
 一縷の希望に縋るように顔を上げる。体に湯気がまとわりつく。おもむろにその場に屈みこんだ看守が僕の股間へと顔を埋め……
 「ひ、ぐ!?」
 ペニスを口に含む。
 目を疑う卑猥な行為。信じられない。現在僕の身に何が起きている?売春班に配属されてから口で奉仕するのには慣れた、しかし自分がされるのは初めてだ。ひきつけを起こしたように背中を仰け反らせて足を暴れさせても無駄だった。踝でむなしく虚空を蹴り暴れたところで僕の股間に顔を埋めた看守は意地悪い笑みを深めるだけだ。
 看守の舌遣いは巧みだった。口腔に包み込んだペニスに熱い舌が絡むたび、腰が蕩けるような感覚に襲われる。未知の感覚、未知の快感。熱い。体が熱い。腰から下がどろどろに溶けてしまいそうだ気が狂いそうだ頭がどうかしてしまいそうだ助けてくれ助けてくれ……
 「やめ、てくれ!そこは尿を排泄する器官だぞよくそんな場所に口をつけられるな汚いとは思わないのか理解できない、理解できない!!」
 「なに言ってんだ、お前だって俺たちのモンぴちゃぴちゃ音たてて舐めてきたろう。お前はフェラうまいってタジマが誉めてたぜ」
 僕の中で何かが爆ぜた。
 今まで蓄積されていた物が一挙に膨れ上がり、弾けた。
 気付けば僕は叫んでいた。フックに吊られた腕を揺さぶりはげしく身をよじり、手負いの獣のように死に物狂いで暴れていた。懸命に叫んでいた。
 「そんなことで誉められても嬉しくない、それに僕はあんな行為上達したくなどなかった仕方なかったんだ最初の頃は吐き気を堪えるのに必死でわけがわからなくて喉が詰まって苦しくて、今だって満足に呼吸できずに喉がつかえて吐き気と戦うのに必死なんだ!本当はあんなもの咥えたくない、あんな汚い物口に含みたくない、あんな汚い物を含んだ口でサムライと会話したくない!!そんなことをしたら彼まで、」
 彼まで汚してしまうじゃないか。僕の汚れが伝染ってしまうじゃないか。
 僕はサムライを汚したくない。生まれて初めてできた友人だ。大切な存在だ。だからもう彼とは口を利いては駄目だ、これ以上彼に心配かけさせては駄目だ。瞼がじんわりと熱を帯びる。涙腺が焼ききれそうだ。サムライは僕がこんなことをされてるなど夢にも思わないだろう。両腕を縛られフックに吊られてペニスを口に含まれているなんて夢にも思いはしないだろう。それでいいんだ。今僕の身に起きてることを彼に知られるくらいなら死んだほうがマシだ。こんな屈辱的な……
 「!ひっ、」
 舌が淫猥に蠢く。ペニスの先端に血が集まる。さっき射精したばかりだというのに看守の口の中のペニスが再び勃ちあがりかけている。両腕が自由になるなら性器を切り落としたかった。僕がまだ理性を保っていられるうちに、プライドを手放さないでいられるうちに。
 「あっ、あっ、ひ……」
 唾液を捏ねる音が淫猥に響く。粘着質に糸引く唾液がペニスに絡みつく。
 腰が溶けそうだ。こんな感覚今まで味わったことがない。
 これが快感なのか?僕は今快感を感じているのか?
 「やめ………、もう……」
 やめてくれと叫びたかった。心の底から。犯したければ犯せばいい。だからもう解放してくれ、体を拘束するなら心を解放してくれ。プライドを蹂躙しないでくれ。 
 声が抑えきれない。甘く濡れた喘ぎ声。湿った嗚咽。これが本当に僕の声だろうか?情けない。サムライが聞いたらどう思うだろう。体を揺するたびにフックが耳障りな軋り音をたてた。
 自分の体が自分の体じゃないみたいに意志を裏切って反応していた。自制が利かなかった。
 淫蕩な熱に溺れて堕ちてゆく。
 どこまでもどこまでも堕ちてゆく。
 僕の股間に顔を埋めて巧みに舌を動かしながら床に片手をのばし、放水したシャワーを拾い上げる看守。何をする気だ?朦朧と霞んだ目を看守の手元に凝らして動向を探る。頭は弛緩していた。熱に浮かされたようにぼんやりとして正常に思考が働かなかった。圧倒的な快感に理性が押し流され、思考力を根こそぎ奪い去られた頭ではまともに物が考えられなかった。目に映る光景が脳裏に浸透するまで時間がかかったのはそのせいだ。
 看守が片手でシャワーを引き寄せ、放水した先端部をもたげ、僕の股間へと近づける。
 看守が僕の睾丸をまさぐり、裏返し、そして……
 「!!!!ああああっあっ、あああっ」
 睾丸の裏側にシャワーを押し当てる。腰を駆け抜けて直接脳髄へと響くような強烈な刺激。快感。もう声を噛み殺すこともできなかった。意志の力で下肢の痙攣を止めることもなかった。下肢の痙攣は生理現象だった。卑猥な動きで睾丸を揉みこみシャワーで刺激する傍ら、口に含んだペニスに舌を絡める。同時進行する愛撫。たまらなかった。理性など瞬時に蒸発してしまった。全身が淫蕩に火照っていた。
 もっと刺激が欲しかった。はやく達してしまいたかった。射精したかった。
 これ以上焦らされたら気が変になる、本格的におかしくなってしまう。こんな快感がずっと続くのは拷問だ、生殺しの責め苦以外の何物でもない。シャワーの湯をかけながら睾丸を揉みほぐし、僕のペニスに舌を絡めつつ、上目遣いに表情を探る看守。僕は今どんな顔をしてるだろう?想像したくもない、自分が感じている顔など。男に無理矢理感じさせられている顔など。
 「あっ、ああっ、ふっ、ひっ……」
 「あんまりよすぎてもう喘ぐしかねえってか」
 ペニスから口をはなした看守が勝ち誇ったように言う。達する直前に口腔から抜かれたペニスが外気に晒され、ひやりとする。口を塞ぎたい。声を殺したい。駄目なら舌を抜いてしまいたい。次第に浅く速くなる呼吸とともに肩を上下させ、薄い胸板を喘がせる。射精したくて気が狂いそうだ。ペニスはもう限界まではりつめて透明な雫を滲ませている。
 看守が立ちあがり、水に濡れそぼった僕の上着を一気にまくりあげて首から抜き、両腕に絡める。手首をロープで束縛された上に水を吸って重たくなった上着が腕に纏わりつく。二重の拘束感。 
 体を覆う物はなにもなかった。硬くしこった乳首も薄い胸板も痣だらけの腹部も勃起した股間も貧弱な太股もすべてを曝け出していた。シャワーの水音がどこか遠くで聞こえる。現実には僕の足元に放置されているのに。
 「らくにしてやるよ」
 看守が僕の腰を抱え上げ、ペニスの先端を肛門に添える。挿入の瞬間には痛みを感じた。
 「!ひぐっ」
 内臓を抉る灼熱感。一塊の海綿のように膨張した体積が体内へと押し入ってくる感覚。何度体験しても慣れない感覚。垂直に屹立したペニスが臀部の筋肉を押し分けて肛門を穿ち、充血した直腸内をかきまわす。
 立ったまま挿入すると結合が深くなり、先端が奥へと届く。
 「……痛っ……、」
 涙で視界が曇る。立ったまま行為に及ぶのはこれが二度目だ。腰を抱えられ揺さぶられ、玩具のように体を弄ばれて、それでも僕は勃起していた。認めたくなかったがそれが事実だ。看守が下から叩きつけるようにペニスを挿入するたび律動的に腰が弾み、呼吸が浅く荒くなる。
 「あっ、あっ、あっ、ああっ……」
 発情期の雌犬みたいな喘ぎ声が口から漏れた。どうすることもできなかった。看守のペニスはもはや完全に根元まで埋まっていた。きつかった。腸壁を突き破ったペニスが喉元まで達しそうな圧迫感。
 「お前だってずっとこうしてほしかったんだろ。本当は縛られて吊るされて犯されるのが好きなんだろう。タジマがそう言ってたぜ」
 「タ、ジマの言うことは嘘だ。彼は虚言症、だから……ひっあ!」
 言葉が続かない。看守が僕の尻を持ち上げ、落とす。その度ペニスに貫かれる。焼けた鉄串で貫かれるようなものだった。だが、僕のペニスは一向に力を失わなかった。急角度にそそりたったまま透明な雫を滲ませて脈打っていた。
 はやくはやく終わってくれはやくはやく終わってくれこれは悪い夢だ現実じゃない現実であるものか…
 「奥まで届いてるのがわかるだろ。お前の中ぐちゃぐちゃだぜ」
 僕の耳元で看守が卑猥に囁き、自分の言葉に興奮したかのようにペニスの硬さ太さが増し……
 凄まじい快感が下肢から脳天を貫いた。
 「あああっああああああああっああああっ!!!」
 ペニスが爆ぜた。
 直腸内に生温かい粘液が広がり、肛門から溢れ、内腿に沿い滴り落ちる。
 自分を犯す男と同時に射精してしまったという事実に打ちのめされ、力尽きて首をうなだれる。僕が放った白濁の残滓は下腹にまで飛散していた。ただ、みじめだった。射精すると同時に体から熱が去り、手首に感覚が戻ってきた。痛かった。僕の位置からでは見えないが、ロープが食いこんだ手首は青黒く鬱血して痣になっていることだろう。
 手首の痣は当分消えない。
 僕の体に沈殿した汚れは、一生消えない。
 どれだけシャワーで洗い流しても永遠に。
 「俺の太くて硬いもんでごりごり抉られた気分はどうだよ」
 僕の肛門からペニスを引きぬいた看守が得意げに反り返る。頭上に両腕を吊られた僕は抜け殻めいた放心状態で看守を見返す。目には膜が張っていた。シャワーはまだ止まずに僕の足元に水をかけ続けている。
 「…………だ」
 「ああ?」
 手首が軋む。全身の間接が軋む。明日は筋肉痛になるだろう、とどうでもいいことを漠然と考える。手首の痣をサムライに見咎められなければいいが。僕はもう汚れてしまったが、彼には汚れてほしくない。  
 どうせ一回で満足するはずはない。
 それこそ、フックが過負荷に壊れるまで行為はくりかえされるだろう。
 僕の地獄は終わらずに拷問は継続される。
 胸郭に息を吸いこみ、気だるくかぶりを振って水滴を撒き散らし、顔を上げる。
 ズボンを引き上げて股間をしまいもせず、腕を吊られた僕を満足げに眺める看守をまっすぐに見返し、はっきりと言う。
 「最悪だ。それ以外の回答を期待してたというなら自信過剰ぶりが笑えるな」
 看守の表情が強張る。
 これでいいんだ。後悔はない。どうせ僕はもう、どれだけ足掻いても這いあがれない底のそこまで堕ちてしまったのだから。さらに泥濘にはまるくらいのことがなんだ、少しも怖くはない。これからどんなことが起ころうが僕はこれから先も僕であり続ける、突き詰めればそれだけのことだ。
 自分が汚されることなど、他人を汚すことに比べれば少しも怖くない。
 自然と笑みが浮かんだ。どんな種類の笑みかは自分でも判断つきかねた。諦観の笑みか、はたまた嘲りか。濡れ髪から水滴を滴らせつつ微笑んだ僕の正面、看守の双眸が怒気を孕み、床に落ちたシャワーをひったくる。
 何をされるのか薄々予期していた。覚悟もできていた。今更驚きはしなかった。
 僕は最後の瞬間まで目を閉じなかった。顔を背けたりもしなかった。しっかりと目を見開いて看守を睨みつけたまま、顔面にシャワーを浴びせられて咽ることになっても後悔はなかった。
 どれだけシャワーをかけても洗い流せない汚れが僕の体に沈殿してる。
 ならばとことんまで堕ちてやるまでだと自暴自棄に開き直り。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010627022324 | 編集

 「お楽しみのはじまりだ」
 キャスター付きの椅子に後ろ向きに腰掛け、背凭れに二重顎を乗せる。
 ここは医務室。
 一点の染み汚れもない清潔な白い天井、かすかに鼻腔をつく消毒液の刺激臭、等間隔に配置されたベッドは衝立で仕切られて隣の様子が見えないよう配慮されている。
 医務室では現在身体検査が実施されていた。
 東京プリズン半年に一度の恒例行事、新たに売春班就労となった囚人が性病に感染してないかを調べる検査。
 壁際に整然と並んだ囚人が死刑宣告でも受けたかのように沈痛に黙りこんでるせいで、衣擦れの音ばかりが耳にさわる静けさだった。
 重苦しい雰囲気。下腹部で手を組んだ囚人が、医者に名を呼ばれるつど壁際を離れ、足を引きずるように歩き出す。 衝立で遮られていてもはっきりとその光景が思い浮かぶ。
 首に縄をかけられ処刑場に引き立てられるかのように沈痛な面差しで、次から次へと壁際をはなれる囚人たち。
 医者に隈なく体を探られ、栄養失調で肋骨の浮いた胸板に聴診器を押しあてられ、健康状態をカルテに記入される。 体に異常がなければ晴れて合格、明日から売春夫として働けるお墨付きをもらえる。

 そんな物、この場の誰も欲しくはないのに。

 淡々と進行する身体検査をよそに、衝立の内側では一人の少年と一人の看守が対峙していた。
 キャスター付きの椅子に後ろ向きに腰掛け、皮張りの背凭れに二重顎をのせているのはタジマ。東京プリズン最低最悪の看守と名高い男。そして、タジマの視線の先に立ち尽くしているのは十代前半の少年。
 無造作に跳ねた癖の強い黒髪、人慣れない野良猫をおもわせる反抗的な目つき。顔だちは小造りに整っていたが、かっきりと弧を描く眉や横一文字に引き結ばれた口元が生来の気の強さを表している。
 少年はタジマを凝視していた。睨みつけていた。路地の行き止まりに追い詰められた傷だらけの野良猫が、全身の毛を逆立てて巨大な敵を威嚇してるようだった。
 「どうした?やれよ。それとも警棒突っ込まれるほうがお好みか」
 タジマが分厚い唇をねじる。
 少年の目に葛藤が過ぎる。視線を逸らせば負けを認めることになるとでもいわんばかりにまっすぐタジマを睨みつけつつ、下唇を噛みしめ、ズボンに手をかける。
 「クソ野郎」
 ズボンにかけた手をためらいがちに引っ込め、また伸ばす。それを二度ばかりくりかえし、深く息を吸う。
 なかなか決心がつかない。恐怖をごまかすようにタジマに悪態を吐き、手のひらを見下ろす。指が震えていた。
 情けない。タジマの前で服を脱ぐくらいどうってことない、ついさっきだっておなじことをした、タジマの前で裸になった。今度もおなじことをやればいいんだと自分に言い聞かせ、五指を閉じて震えをおさえこむ。
 決心し、震えを止めた手でズボンを膝まで引きずりおろす。下着も一緒に。
 膝に絡んだズボンが目に入り、恥辱で体が火照りだす。一糸纏わぬ下半身から目を逸らし、横を向く。手で股間を覆いたいが、どうせそんなことをしても警棒でどかされるに決まってる。壁に背中を付けて立ち竦んだ少年の頬はあざやかに紅潮し、目には激情が発露していた。
 さっきもタジマの前で裸になった。タジマに命令されて全裸になった。だから今度もどうってことない。羞恥心など捨ててしまえ。
 「貧相だなあ」
 皮張りの背凭れに顎を乗せたタジマが、下卑た笑みを満面に広げて唇を舐める。視線は重点的に少年の股間を舐めていた。
 タジマに揶揄された少年がきっと前を向き、射殺さんばかりの目つきでタジマを睨みつける。体の脇にたらしたこぶしが震えていた。噛み締めた唇からは血の気が引いていた。上気した頬は恥辱のせいではなく、今はタジマへの怒りが勝っていた。
 「怒るなよ、事実を言ったまでだろ。
 まあ、俺がお前の年頃にはとっくに皮も剥けて立派なイチモツに化けてたけどよ」
 「てめえの下半身事情なんて聞いてねえよ短小包茎」
 聞こえよがしに悪態を吐く。せめてもの反抗。憮然とした顔で毒づいた少年に目を細め、床を蹴り、椅子を移動させるタジマ。加速して床を滑った椅子が少年の前で停止し、タジマが腰の警棒を抜く。
 「そんな恰好になっても口だきゃあ達者だなあ、ロン。
 けど、下半身丸だしでいきがっても全然説得力ねえぜ」 
 腰から抜いた警棒で少年の顎を持ち上げ、喉の奥で卑屈な笑いを泡立てる。少年の目に殺意の火花が炸裂する。タジマは陰険に目を細め、一糸纏わぬ少年の下半身を観察する。
 骨格が完成してない小柄で華奢な体躯、間接の尖りが目立つ手足。肌は日焼けしていた。今期の部署替えで売春班に抜擢される前は、イエローワークの砂漠にて毎日穴掘りをしていたのだ。普段ズボンに隠されている場所と、ズボンの裾から突き出た足首とではっきり肌の色が変わっていた。
そして、少年の体には無数の痣があった。新旧大小さまざまの痣。警棒や素手による殴打の痕。できたばかりの痣は赤く発色して皮膚の表面に薄く血を滲ませていた。
 他にも色素が沈殿した青黒い痣や黄褐色のものなど体の至るところに醜い斑模様があった。
 その殆どが目の前の男によってつけられたと言っても過言ではない。
 椅子から身を乗り出し、音たてて生唾を嚥下し、少年の脇腹に触れる。
 「………っ、」
 ねっとり脇腹を揉みこむタジマの手から逃れようと少年が身を捩る。
 だが、させない。
 椅子から投げ出した足を壁につき、中に少年を閉じ込める。タジマの両足に挟まれた少年に逃げ場はない。屈辱に歪む少年の顔を心ゆくまで堪能しつつ、顎をしゃくる。
 「さあ、やれよ。最初から最後まで見ててやる」
 「……頼んでねえよ、そんなこと」
 減らず口のなおらない奴だ。
 少年の顎から警棒をどけたタジマが、手首を下におろし、警棒の先端でへその横を突く。
 「!!かはっ、げほごほっ」
 それ程力をこめたわけではないが、そのひと突きで少年は腹を抱えて膝を折った。
 無理もない。少年のへその横には真新しい痣があった。
 警棒の硬い先端で痣を圧迫され、内臓が抉れるような激痛に耐えかねてその場に膝を折ったとしても責められない。
 自分の身を守るように片腕で腹を庇い、額におびただしい脂汗を浮かべ、半分落ちかけた瞼の奥からタジマを睨みつける。壁に背中を預けてずり落ち、激痛に目を潤ませてはげしく咳き込む少年を見下ろし、優越感たっぷりにタジマが指示する。
 「どうした?はやくやれよ。どうせ毎日房でやってんだろ、レイジがいない隙にズボン下ろしてせっせとペニスしごいてんだろ。ここじゃそれくらいしか楽しみねえもんなあ!
 てめえがオナニーに生き甲斐見出したところで誰も責めたりしねえから安心しろよ。それとも何か、手のひらの豆はイエローワークの砂漠でシャベルを上げ下げしたせいじゃなくてオナニーのやりすぎか?手の皮が擦りむけるほどペニスしごいて汁飛ばして、それだけが唯一の楽しみなんだよなお前ら囚人は」
 片腕で腹を庇い、片手を床につき、苦しげに咳き込む少年の目に憎悪が燃え盛る。極大の憎しみを剥き出した凄まじい目つき。
 腹に回した片腕を慎重に外し、壁に背中を立て掛けて上体を起こした少年が、丹田に怒りを溜めこむかのように深々と息を吸いこむ。 
 「一人前に恥ずかしがってるのかよ。手榴弾でガキを細切れにした人殺しのクズの分際でよ」
 「……関係ねえだろ」
 「オナニーのやり方知らねえんなら心優しい俺様がいちから教えてやるよ」
 椅子が軋み、タジマが腰を浮かせる。壁に背中を凭せ掛け、しっとり汗ばんだ額に前髪をはりつかせた少年の手首を掴み、強引に股間へと持ってゆく。
 「まず根元に手を添えて、もう片方の手で先端を持ち上げる」
 「さわんなゲス野郎、小便くせえガキじゃあるまいしオナニーのやり方くらい知ってるよ!!」 
 タジマに手首をとられた少年が悲愴な顔で暴れる。だが、最前警棒で突かれた腹が痛んで体に力が入らない。タジマの手を外そうと躍起になって暴れても結局どうにもならなかった。
 「びびって縮みあがってるじゃんか。こんなんじゃ使い物にならねえな」
 背凭れから首を垂れて少年の股間を覗きこんだタジマがにやにやと笑う。
 万力めいた握力で手首を締め上げられ、萎縮したペニスの根元へと手を導かれた少年の顔が今にも泣きそうに歪む。
 「手え動かして擦れよ。いつもやってることだろ?擦って扱いて勃ち上がらせるんだよ、さあ!」
 「……でき、ねえよ」
 前髪に表情を隠した少年がかすれた声で反駁する。声の切実な調子は懇願に近かった。 
 「できるわけねえよそんなこと、人が見てるのに。衝立の向こうには大勢いるのに。万一声が漏れたらどうすんだよ、バレたらどうすんだよ金輪際表歩けねえよ!
 ふざけんな、人に命令されて自慰なんかできるか、そんな恥ずかしい真似死んでもお断り……っ、ひ!?」
 喉が潰れたような悲鳴が迸る。
 少年の股の間に手を突っ込み、ペニスを握り締め、強弱つけて扱く。
 「特別サービスだ。手伝ってやるよ」
 「痛っ……っあ、」
 はげしくかぶりを振って少年がもがく。だが、タジマの手は止まらない。ペニスの根元から先端へと荒荒しく扱き上げ強制的に快楽を注ぎ込む。瘧の発作のように断続的に肩を沈め、胸郭を喘がせる少年の顔を覗きこみながら巧みに握力を調整する。
 手の中のペニスが少し大きくなり、先端に血液が集まりだす。
 「敏感だな。少し擦っただけでもう勃ってきたじゃねえか。淫売の血が流れるガキは違うな」
 『淫売の血』。
 少年の表情が豹変する。
 「!?でっ、」  
 タジマが大袈裟に顔をしかめて飛び退く。
 正気に戻った少年が、タジマが腰掛けた椅子の脚をおもいきり蹴ったのだ。芯を蹴られた椅子が傾ぎ、キャスターが床を滑り、5メートル後退する。椅子を蹴飛ばしてタジマをどかした少年は、白昼に亡霊でも目撃したかのように目を剥いていた。
 『不曾相信』
 少年が無意識に呟く。台湾語の「信じられない」。
 壁と背中が衝突し、鈍い音が鳴る。できるだけタジマから遠ざかろうと壁沿いに移動しながら、恐慌をきたして喚き散らす。
 「なんでお前がお袋のこと知ってんだよ、俺のお袋のことまで知ってんだよ!?調べたのか?なんで?どうしてそこまでするんだ、俺なんかお前にとっちゃただの気晴らしの対象で暇潰しの道具で、わざわざ時間使って俺のお袋が淫売だとか調べ上げるほどのぼせてるわけじゃねえだろ!?」
 「親不孝者だな。てめえを股から産み落としたお袋が淫売だって認めるのかよ、反論ひとつせずに」
 床を蹴って椅子を滑らしたタジマが少年の行く手を阻むように急接近、衝立を背に微笑む。壁際に追い詰められた少年は、それ以上何も言えずに口を開閉する。
 足が竦んで一歩も動けない。
 何故?何故タジマはそんなことまで知りぬいてる?わけがわからない。どうしてそうまで執拗に自分に付き纏う、一体自分が何をした、タジマの気に障るような何を……
 筋が通らない。理屈が通じない。
 タジマは怪物だ。得体の知れない怪物。 
 「もっとも反論できねえよな、お前のお袋が男狂いの淫売だってのは事実なんだから。お前のお袋のことならよーっく知ってるぜ。なあに簡単だ、ちょっくらお前の囚人番号と名前で検索してファイルに保管されてる資料を読んだんだよ」
 椅子から腰を上げたタジマが大股に少年に歩み寄り、膝に腕をかけて腰を屈める。
 「龍、池袋台湾系スラム出身の13歳。貧しい母子家庭で生まれ育つ。
 母親は娼婦。お前がガキの頃から男をとっかえひっかえ引きずりこんで近所迷惑な喘ぎ声張り上げてお楽しみだったそうじゃねえか。年がら年じゅうさかりのついた雌犬をお袋にもつとガキは苦労するよな、はは。おっと、それだけじゃねえ。お前のお袋ってのはとんでもないヒステリー女で、男にフラれるたんびに酒に溺れてガキ折檻したんだよな」
 熱に浮かされたように饒舌にまくしたて、大股開きでしゃがみこみ、脂でぎとついた顔を少年の方へ突き出す。
 額と額を突き合わせ、タジマの口からとんだ大量の唾で顔をぬらしつつ、少年は凝然と目を見開いていた。

 脳裏に甦るのは何年も前の記憶。
 池袋のアパートで母親と暮らしていた頃の幸福とは縁遠い記憶の数々。
 目を爛々と輝かせた般若の形相で手を振り上げて。

 「お袋にぶたれて興奮したか」
 やめろ。
 「お袋に顔踏まれて興奮したか」
 やめてくれ。
 「お袋の濡れ場覗いて自分で慰めてたんじゃ、」

 ―『難纏的人!!』―

 しつこいんだよ、と声を限りに叫んでいた。
 両手で耳を塞ぎ、さかんに首を振り、床を蹴るようにあとじさる。
 思い出したくない。それ以上聞きたくない。
 どんなに固く目を瞑り耳を塞いでも、寝台で絡み合う男女の裸体がまざまざと瞼の裏側に浮上して、はしたない喘ぎ声が耳の奥に甦る。完全にパニックに陥った少年を見下ろして満面に笑みを湛えたタジマが、唐突に話題を変える。
 「お袋の消息知りたくねえか」
 「!」
 耳から手をどかし、ぱっと顔を上げる。思いがけぬ問いに虚を衝かれた空白の表情。
 縋るように一途な眼差しでタジマを振り仰いだ少年が、全身の震えをおさえこむように深呼吸し、口を開く。
 「……どういうことだよ。お前、お袋のこと知ってんのかよ。
 俺が警察に逮捕された時だってお袋呼んでも来なかったのに、新しい男とどっか出かけててアパート留守にしててそれで肝心な時につかまんなかったのに、薄情者のお袋が今どこでどうしてるか知ってるってのかよ!?」
 「ああ、知ってるぜ。事後調査で追加された資料にお前が逮捕された後の母親の消息がばっちり載ってた。
 どうだロン、お袋が今どこでどうしてるか知りてえだろ?女手ひとつでお前を育ててくれたたったひとりの家族だもんな。親不孝な息子がいなくなってから元気にしてるかどうか知りたいだろ」
 少年の顎に手をかけ、無理矢理顔を起こさせる。タジマにねちねちといたぶられた少年が口元に自嘲の笑みを吐く。
 「……はっ。馬鹿なこと言うなよ、俺があの女に未練残してるとでも言うのかよ?
 あんな女どこでどうしてようが関係ねえよ、11でアパート飛び出してから一回も会ってねえんだ、親子の縁なんかとっくに切れちまったよ。俺の資料盗み読みしたんならわかるだろ?俺のお袋はとんでもない淫売のアル中で、一筋縄じゃいかないヒステリー持ちで、お袋が男とうまくいかなるたびにこちとらひどい目にあわされてきたんだ。あんな売女の話聞きたくねえよ、耳が腐る。今ごろは酒の飲みすぎで早死にしたか男の腹の下で窒息死したかのどっちかだろ」
 「鋭いじゃねえか」
 「え?」
 露悪的な笑顔で実の母親を「売女」と呼んだ少年が一転、あどけない顔に疑問符を浮かべてタジマを見る。
 疑問の色を底に沈めた眼差しで仰がれたタジマは、少年の耳元に顔を近付け、ねっとりと囁く。
 悪魔の誘惑。
 「お前のお袋な、死んだぜ」
 「……は、はは」
 一呼吸反応が遅れた。笑い声は絶望的に乾いていた。
 不自然なひきつり笑いを浮かべ、焦慮に急きたてられるような早口で言う。
 「その手にのるか。タチの悪ィ冗談。お袋が殺して死ぬタマか、今もぴんぴんしてるに決まってる。俺をびびらそうってんならもうちょっとマシな嘘つけよ、そんな……」
 限界だった。
 我を忘れてタジマの肩に縋りつき揺さぶりながら、悲痛な素顔を覗かせた少年が必死に食ってかかる。
 愚直に思い詰めた眼差しをタジマに向け、前言を撤回するよう要求する。 
 「嘘だろ、嘘だよなお袋が死んだなんて!
 畜生くだらねえ嘘つくなよ、言っていいことと悪いことがあんだろ世の中にはさ、なんであの女が死ぬんだよ!?俺がガキの頃だって一日何十本も缶ビール空けてけろりとしてたのに、多いときは一日五人客とっても俺をひっぱたく元気だけはあったのに、しぶとくてしたたかなお袋がなんで死ななきゃいけないんだよ!?」
 頭がぐちゃぐちゃだった。
 心臓の鼓動が跳ねあがり、動悸が不規則に乱れ、全身の血液が潮騒の音をたてて逆流する。

 嘘だ、嘘に決まってる。
 タジマはまた俺を騙そうとしてる、一杯食わせようとしてる。
 お袋が死んだなんて根も葉もない嘘だ。でたらめだ。

 そう否定したいが、否定するだけの根拠がない。
 かつて母親と暮らしたアパートを飛び出てからもう随分と長い歳月が流れた。
 少年が逮捕された時も当然母親に連絡が行ったはずだが薄情にもあの女は訪ねてこなかった、自分が腹を痛めて産んだ息子を弁護することもせず昼っぱらから男と乳操りあっていた。
 見捨てられた。
 今の今までそう思いこんでいたが、もしタジマの言う通りなら事情が違ってくる。
 母親には息子を庇いに行きたくても行けない事情があったんじゃないか、たとえばそう、病気にかかって動けない体だったとか……
 それよりも、少年が逮捕された時点で既に死んでいたとしたら?
 娼婦は長生きできない職業だ。
 職業柄性病に感染する率が高く、痴情のもつれから刃傷沙汰に巻きこまれて殺されることもままある。少なくとも少年が生まれ育ったスラムでは、娼婦に男を寝取られた女が逆上して刃物を持ち出すことがよくあった。

 お袋も、それに巻きこまれて?
 ありえる。あの女は性悪だからいつか刺されると思ってたんだ。

 「落ち着けよ、ロン。さっきのは嘘だ」
 少年の肩になれなれしく手をおき、タジマはあっさりと種を明かす。
 だが、続く言葉は少年の安堵を打ち消してあまりあるものだった。
 「けど、お前のお袋が死にかけてるのはマジだぜ。遊び人の客から悪い病気を伝染されてな」
 全身から血の気が引く。
 膝が萎え、崩れるようにその場に座りこんだ少年が、残る気力をかき集めて機械的に口を開く。
 「……お袋は今、どうしてるんだ。ちゃんと医者にかかってるのか?薬もらってるのか?酒はやめたのか?
 それにそうだ、病気になったんならもう客はとってねえはずだよな?
 性病やみの体で男に抱かれるような無茶、いくらなんでもしてねえよな!?」
 生き別れた母親がどうしてるのか知りたい。
 具合がよいのか悪いのか、それだけでも。
 タジマはその気持ちを逆手にとった。 
 「お袋が今どうしてるか知りてえなら……わかるだろ?」 
 絶望に濁りはじめた目の奥を覗きこみ、タジマが横柄に顎をしゃくる。 
 「取り引きしようや、ロン。お前が自分の手で扱いて擦ってイくことできりゃあ、言うこと聞いたご褒美にお袋の消息教えてやるよ」

 少年の目が大きく見開かれる。
 異形の怪物を間近に見た目。

 「…………っ、」  
 逃げ場はない。背後は壁だ。行く手はタジマに塞がれている。
 膝に絡んだズボンを見下ろした少年は、壁に背中を預けるように力なくずり落ちるや、タジマの視線に促されるように緩慢な動きで股間に手を潜りこませる。
 自らの股間へおずおずと手を潜りこませ、生唾を飲み込み、怯えと恥じらいとが入り混じった上目遣いでタジマの表情を窺う。
 タジマは笑っていた。笑い続けていた。
 キャスター付きの椅子を後ろ向きに跨いで座り、皮張りの背凭れに贅肉のついた顎をのせ、笑顔で決断を迫るかのように無言の圧力をかけていた。
 やるしかない。言うことを聞くしかない。交換条件を呑むしかない。
 命令に従わなければさらに悪いことが起きるに決まっている。
 かすかに震える手をゆっくりとペニスの根元に添え、もう片方の手で萎えた竿を持ち上げる。ペニスは萎縮していた。これをこれから、この男の前で勃ち上げねばならないのだ。自分の手で扱いて擦って、勃起した状態に仕上げねばならないのだ。したくないそんなこと。死ぬほど恥ずかしい。
 『お袋が今どうしてるか知りてえなら……わかるだろ?』
 死ぬほど恥ずかしい。
 息を吸うたび気管が焼ける。体じゅうが火照っていた。やるしかない。そう自分に言い聞かせ、逡巡を振りきり、股間に潜らせた手をゆっくりと動かす。むず痒い感覚。手のひらでぎこちなくペニスを包み、上下に摩擦する。
 タジマが勝利した瞬間。少年が敗北した瞬間。
 背中を丸め、前屈みになり、慣れない手つきで機械的にペニスを擦り上げる少年の表情は前髪に隠れてタジマの位置からでは見えない。
 それが不満なのか、キャスターを滑らせて椅子ごと少年に接近したタジマが腰の警棒を抜く。
 「サービスがなってねえな。ちゃんと顔を上げて、いやらしく感じてるとこ見せろよ」
 少年の下顎を警棒で押し上げ、無理矢理顔を起こす。
 少年の顔は高熱に浮かされてるかのように火照り、タジマを見据える目にはうっすらと涙の膜が張っていた。
 ひどく嗜虐心を疼かせる表情だ。
 次第に息が浅くなり始め、手の動きが速さを増し、比例して頬に赤味がさす。
 気を抜けば漏れそうになる声を噛み殺し、徐徐に勃ち上がり始めたペニスを視界に入れないよう強情に顔を背け、根元から先端にかけて機械的に扱く。
 快感を堪えてるのは明白だった。快楽に抗うよう意固地に目を閉じ、間違っても声など漏らさぬよう唇を噛み、何かに取り憑かれたように手だけを動かしていた。
 下顎から警棒をどけたタジマが、興奮に乾いた唇を舐め、裸の下半身を視姦する。
 少年の手の中で急角度にそそりたち、扱かれるごとに大きさを増して自己主張する部分。成長期の少年らしくまっすぐ伸びた健康的な手足には擦り傷と痣とが目立つ。
 「見る、なよ」
 タジマの気配を感じてうっすらと目を開けた少年が、一瞬手を緩め、あえぐように反駁する。
 敵愾心を剥き出した目つき。タジマの命令で自慰を強制されてはいても、強気な性格は変わらないらしい。 
 「手えぬくなよ。いつまでたっても終わんねーぞ」
 警棒で小突かれて催促され、少年の手が再び動き出す。最初はのろのろと、次第に速さを増し、根元から先端にかけて鑢をかけるように手荒く扱き上げる。
 「……っ、ふう」
 嗚咽に似たうめき。もしくは喘ぎ。涙で濡れた瞼を閉じ、目尻に朱を刷き、快感と苦痛とが綯い交ぜとなった恍惚の表情を伏せる。呼吸が浅く弾み、肩が断続的に痙攣し、絶頂が近いことを知らせる。
 体は正直だ。タジマに見られているにもかかわらず手で刺激を与えてやれば敏感に反応してしまう。いっそ切り落としてしまいたい。殺したいほど憎い男に自慰を強制されて死ぬほど恥ずかしい思いを味わっているのにどうして……
 「ちゃんと持ち上げろよ、よく見えるように」
 非情な命令。警棒で膝をこじ開けられ、タジマの位置からでも先端をもたげはじめたペニスがよく見えるよう開脚姿勢をとらされ、視界が真っ赤に煮える。
 「小せえなりしててもやっぱ男だな、お前も。しつこく擦って扱きゃあ一人前に勃ちあがってきたじゃねえか。俺にいやらしい言葉で嬲られて見られて興奮して、お袋譲りの淫売の血が目覚めちまったってか。教えろやロン、今なに考えてる?どんないやらしい妄想膨らませながらムスコ扱いてんだよ?ガキの頃に見たお袋の濡れ場か、初恋の女の顔か、それとも……」
 タジマが邪悪に笑う。
 「レイジか?」
 「こ、んな時に、あいつの名前だすな、よ。レイジは関係ね……っ、」
 姿勢を変え、ぎしりと椅子を軋ませたタジマがおどけるように肩を竦める。
 「関係なくはねえだろ。いい加減白状しちまえよ、毎晩俺さしおいてレイジとお楽しみなんだろうが。毎晩その可愛いチンコをレイジにしゃぶってもらってんだろ?王様はなんでだかお前のこと猫可愛がりしてるから、小便くせえチンコ咥えるくらいのサービスは平気でやってくれるだろ?それともお前が咥えるほうか、レイジの股間に顔埋めてミルク舐める子猫みてえにぺちゃぺちゃ一生懸命しゃぶってやってんのかよ?
 ははっ、なんだよおい、レイジの名前聞いて興奮したってか?!体は正直だよなあロン、てめえの股間見下ろしてみろや、さっきよかもっと勃ち上がって今にも射精しちまいそうじゃんか!どうしたんだよ、レイジに突っ込まれて滅茶苦茶によがってるてめえの姿でも想像したってか、レイジの下で……」
 『寄生蟲』
 「は?」
 椅子に反りかえり哄笑をあげていたタジマが、目を点にして少年に向き直る。
 呼吸が次第に浅く速くなり、排尿感にも似たじれったくむずがゆい感覚が根元から這い上ってくる。
 手は休めずに顔を上げ、挑戦的な眼差しをタジマに叩きつける。
 手強い笑顔。
 「……こないだ鍵屋崎が教えてくれたんだ、よ。なあタジマ、サナダ虫って知ってるか?寄生虫の一種で、人間の腸内に寄生して、宿主の栄養を根こそぎ吸収しちまうんだとさ。それ聞いた時、俺が真っ先に考えことがわかるか?東京プリズンの寄生虫のことだよ。東京プリズンに寄生してうまい汁吸ってるドス汚ねえコエ虫のことだよ」
 「……何が言いてえんだ?」
 「わからないのか?」
 タジマの目が据わる。少年の顔筋がひきつり、泣き笑いに似た表情に変化する。
 だが、タジマを射竦める眼差しはどこまでも苛烈だった。
 「お前は醜く肥え太った東京プリズンの寄生虫だって言ってんだよ、変態看守のタジマさんよ」 
 タジマが乱暴に椅子を蹴倒して立ち上がったのはその瞬間だった。タジマに蹴倒された椅子が派手な音をたてて床に激突、驚いた少年がつい手を止めてびくりと硬直する。 
 「手えとめんなって言ってんだろ!?」
 おもわず椅子へと注意が向いた少年へと大股に歩み寄ったタジマが無造作に片足を振り上げ、そして……
 絶叫。
 「あっ、い、ひっ、ああああああっああっあああっあ!!!?」
 想像を絶する激痛に背骨も折れんばかりに仰け反った少年の喉を悲鳴が食い破る。苦悶に身をよじる少年の股間をペニスを掌握する両手ごと容赦なく踏みにじり泥をなすりつけ、爛々と目をぎらつかせるタジマ。
 「そうかいそうかい、一人じゃイケねえんなら手伝ってやるよ!最初からこうして欲しかったんなら素直にそう言えよ手間かけさせやがって愚図が、ほら、お望みどおり手伝ってやるよ!一目見りゃ手え抜いてるってわかんだよ、俺のこと馬鹿にしてんのかお前は!?」
 「痛っ、ひっ……やめ、どけ……足っ、」
 尿道に焼けた鉄串を刺しこまれたような激痛に、かってに体が跳ねる。剥き出しの股間を靴裏で踏み躙られたのではたまらない。痛い痛い痛い、それしか考えられない。視界が真っ赤に染まる。タジマの靴に踏み躙られ、少年の手ごと床に押し付けられたペニスがみるみる充血して体積が膨張する。
 そっけなく鼻を鳴らして少年の股間から足をどけたタジマが、今度は軽く手首を蹴り上げる。
 「さっさとイっちまえよ」
 「!ひっ」
 それが刺激となり、少年は射精した。
 射精してもしばらくは立ち上がれなかった。両手で股間を押さえ、血が滲むほどに唇を噛み、激痛の波が去るまでひたすら耐える。呼吸の仕方も忘れてしまったように嗄れた喘鳴を漏らし、精液で粘ついた股間からおそるおそる手をどかしてみる。タジマに踏み躙られたペニスはまだ疼いて血尿でも漏らしそうだった。
 失神しなかったのが不思議だった。
 「泣くほどよかったってか?」
 タジマの嘲笑が耳に突き刺さる。
 『………想殺』  
 殺したい。心の底からそう思った。本気でこいつの息の音を止めたかった。先端の孔から迸り出た精液の飛沫は床にもとんでいた。ズボンを穿くのも忘れ、虚脱状態で床に座りこんだ少年に笑みを大きくしたタジマが、ズボンの尻ポケットからティッシュをとりだし、ばらまく。
 「ちゃんと後始末しとけよ。最後まで見てるからな」
 少年の頭上でティッシュをばらまき、タジマは哄笑する。医務室の天井と壁に殷殷と反響する哄笑が外に聞こえないわけはないが、他の看守がとんでくる気配もなければ異変を察した囚人が興味本位にカーテンをめくることもない。皆、タジマと関わり合いになるのを忌避しているのだ。
 なんでこんな目に遭うんだろう。
 どうして。
 人を殺したからってのが、俺がこいつにいたぶられる理由になるのか?
 こいつが俺をいたぶる免罪符にでもなるのかよ。
 「………約束は?」
 床に落ちたティッシュをまとめて掴んだ少年が、今はじめてそのことを思い出したとばかりに顔を上げる。
 一縷の希望に縋りつくように必死な形相でタジマを振り仰ぎ、声を荒げる。
 「お前言ったよな、お前の言うとおりにしたらお袋の居所教えてくれるって!お袋が今どうしてるか教えてくれるって言ったよな、俺の資料読んだんだろ勝手に、お袋が今どこでどうしてるのか全部知ってんだろ!?性病かかってるってマジなのかよ、どんくらい悪化してんだよ、娼婦が客とらずにどう生活してるってんだよ!」
 「知らねえよ」
 タジマの返答はあっけなかった。罪悪感など一片もないのは明らかだった。
 「………は?」
 「知ったこっちゃねえよ、お前のお袋の居所なんて。今どうしてるか?さあな。お前が言ったとおり酒の飲みすぎで早死にしたか男の腹の下で窒息死でもしてるんじゃねえか」 
 愕然とする。
 頭が混乱していた。タジマは資料を読んだはずだ。だから自分の経歴を詳細に知っていた、東京プリズンに来るまでどんなに最低の暮らしをしていたか知っていた。
 そして、これまでの経歴を言い当てられて気が動転した少年に付けこむように「母親の消息を知りたいなら言われた通り自慰をしろ」と取り引きを申し出たのだ。事後調査で追加された資料に現在の母親の消息が記されていたから、言われた通りにすれば教えてやると……
 あれは。
 「嘘だったのか」
 事後調査も追加資料も嘘だったのか。でまかせだったのか。自分に言うことを聞かせるために捏造した根も葉もない作り話だったのか。本当は母親の消息なんて知らないくせにいかにも知ってるようなふりで自分を騙して自慰をさせたのか。生き別れた母親が性病にかかってるというのも嘘で……
 ―「嘘だったのか!!?」―  
 怒りが制御できなかった。タジマの言うことを鵜呑みにした自分が馬鹿だった。わかっている、それは十分すぎるほどにわかっている。
 だがそれでもひょっとしたらと一縷の希望に縋ってしまった、期待を抱いてしまった。いくらタジマでもそこまで性根は腐ってないだろうと、言うことを聞けば約束を守ってくれるだろうと、自分に都合いいほうに思いこんでいた。
 母親の話を出されたら、とても冷静な判断なんかできやしなかった。
 ましてや、母親が病気にかかって死にかけてるなんて言われたら。
 「ふざけんなよ、ふざけんな……どこまで俺のことおちょくりゃ気が済むんだよ、お袋のこと知ってるふりで俺に言うこと聞かせて楽しかったかよ、俺が自分で扱くとこ見て興奮したのかよこの変態!!
 お前おかしい、マジで狂ってる、どうしてそんなことができるんだよ!?わかんねえよ畜生、だれにだってひとつやふたつ忘れられないことあるだろが、それ持ち出されたら度を失ってわけわかんなくなっちまうことがあるだろ、俺にはお袋がそうなんだよ!!」
 だから自慰までしたのに。
 死ぬほど恥ずかしい思いまでして、知ろうとしたのに。
 片手でティッシュを握り潰し、歯軋りの音をたてて自分を睨みつける少年におどけた動作で肩を竦めてみせ、タジマがおもむろに制服の裾をたくしあげる。
 シャツの下から露出した胸板には、黒く変色した毛の生えた乳首があった。
 少年の視線を意識しつつ、得意げに毛の生えた乳首を披露したタジマが言う。
 「うるせえよマザコン。そんなにママのおっぱいが恋しけりゃ子猫の哺乳瓶がわりに俺の乳首でも貸してやろうか?」
 脳裏で閃光が爆ぜた。
 殺してやる殺してやる細切れにしてやるばらばらにしてやる絶対に今この瞬間に!!
 「ああああああああああっあああああっタジマあああああああああっ!!!!」
 殺意の衝動に駆り立てられ、奇声を発してタジマの胸ぐらに掴みかかる。
 タジマめがけて腕を振り上げ顔面に鉄拳を食らわそうとした少年の鳩尾に蹴りが炸裂、小柄な体が軽々と吹っ飛んでベッドに激突。騒音。
 タジマの攻撃は正確だった、少年のへその横にある真新しい痣を狙って容赦なく蹴りを入れたのだ。胃袋がひしゃげる衝撃。腹に片腕を巻き、ベッドの脚にすがるように上体を起こした少年は涙と涎と鼻水を滂沱と垂れ流して激しく咳き込んでいた。体を二つに折って苦悶にのたうちまわる少年に一瞥をくれたタジマが、床にちらばったティッシュを無造作に蹴りどかす。
 「後始末が残ってるぞ、ロン。いい子で聞き分けて最後まで楽しませてくれや」
 「っ……が、はっ」
 咳のしすぎで腹筋が痛む。両手で腹を庇い、床に上体を突っ伏して激痛に耐える少年の顔を革靴で踏み、タジマが嘲弄する。
 「どうせ東京プリズンにいる限りこの俺様から逃げられやしないんだ。
 観念して楽しもうぜ、地獄を!!」
 視界が歪む。革靴をねじ込まれた頬が痛い。まだズボンも引き上げてない、下着もはいてない。苦しい。悔しい。
 朦朧とする意識の中、脳裏に思い浮かべたのは懐かしい顔。若く美しい母親の顔はすぐにかき消え、続いて浮上したのは同房の相棒の顔。あいつならきっとこんな思いはしない。あいつは滅茶苦茶強いからタジマだって迂闊に手だしできない。くそ、俺だってあいつみたいに強ければ……

 『タジマを殺すことができたのに』

 「………っ、」
 涙で視界がぼやける。塩辛い涙が鼻腔の奥をぬらす。蹴られた鳩尾が痛い。踏み躙られた股間が痛い。どこもかしこも痛い。俺の体で痛くない場所なんかどこにもない。
 タジマに顔を踏まれた体勢からのろのろと腕をのばし、目と鼻の先にちらばったティッシュをまとめて掴む。鼻を噛むためじゃない。タジマの命令通り後始末をするためだ。
 そうでもしなければ、少年にはここで生き延びる術がない。
 東京プリズンという地獄で。
 タジマがいる地獄で。 
 「いい子だな、ロン」
 漸く溜飲をさげたか、少年の顔から靴をどけたタジマがその傍らに屈みこんで髪の毛をかきまわす。打ちのめされ打ちひしがれた放心状態のままにのろのろと体を動かし、ティッシュで床を拭く少年の頭を撫でながらタジマは満足げに言う。
 「今度はケツのほうで楽しませてやるよ。鍵屋崎とお前とどっちのケツのが締まりがいいか試してやる。ははっ、レイジの奴あ俺に先越されて残念がるだろうなあ!」
 「レイジには絶対に今日のこと言うな」
 瘴気が噴き上がるような呪詛を吐くが、タジマは一向にとりあわない。操り人形めいて機械的に、惰性めいた動きで床を拭く少年の頭を片手でぐいと押さえこむ。
 「明日から毎日売春班に訪ねていってお袋にも負けねえ淫売に仕立て上げてやるからな」 
 タジマを殺そう。
 いつかいつの日にか必ず確実に殺そう。
 こいつを殺さなければ俺たちのほうが殺される。俺たちのほうが先に殺される。
 俺たちの心が先に殺される。
 体の芯に殺意を固めた少年の思惑はいざ知らず、タジマはいつまでも少年の頭を撫でていた。
 あと一日の我慢だ。
 明日になれば誰にも遠慮せず何回でも何十回でも何百回でもこいつを犯すことができると際限なく妄想を膨らませながら。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010626023848 | 編集

 死んだほうがマシだ。

 「………」
 売春班の仕事場。ベッドに無気力に横たわり、下腹部を見下ろす。
 上着の裾がめくれて痩せた下腹部が覗いているのはあまりみっともいい光景ではないが、今の僕には少し手を伸ばして上着の裾を直すのさえ重労働に感じられる。
 外気に晒された下腹部が痣だらけとあらば尚更だ。僕の全身に散らばった新旧大小の痣、警棒や素手による殴打の痕。できたばかりの薄く血が滲んだ痣から色素が沈殿して青黒く変色したもの、はては黄褐色に濁った痣まで無数の斑模様が四肢を蝕んでいる。
 ほとんど痛みは感じなかった。脳の一部が麻痺して正常に機能していないかのように、ほとんどすべての感覚が鈍くなっていた。意識は霞んでいた。寝返りを打つのさえだるかった。
 このところ僕は現実と夢の区別がつかずにいる。悪夢と現実の境目がわからず、いつもまどろみの夢心地を漂っているのだ。体が疲れてるせいもある。肉体的にも精神的にも僕はどん底の状態だった。
 ここ数日間で僕の身にはあらゆる最悪なことが起きた。
 だからもうこれ以上最悪なことは起こらないはずだと信じたかったが、そう断定する根拠はどこにもない。僕はただ、希望的観測に縋っているだけだ。僕の身にはもうこれ以上最悪なことは起こらない、起こるはずがないと自己暗示をかけてたとえそれが一時の錯覚に過ぎなくても安息を得たかったのだ。満足いく睡眠を摂りたかったのだ。
 ここ数日僕はろくに寝てない。
 洗面台の鏡に顔を映せば目の下に憔悴の隈が浮いていた。自分でもはっきり分かるほど顔が痩せて面変わりしていた。不信に凝り固まった顔。疑心暗鬼の塊。それが鏡に映った自分に抱いた印象だった。
 顔つきはひどく荒んでいた。眼鏡越しの双眸は暗く沈んでいた。
 鏡の中の自分がこちら側に投じていたのは、諦観の眼差し。
 焦点の合わない虚ろな眼差し。
 早朝、まだ就寝中のサムライの目を盗んでこっそり鏡に顔を映してみてあ然とした。睡眠不足なせいで顔色が悪かった。ここ数日食事もろくに喉を通らないせいで酷くやつれていた。
 それより何より僕の注意を引いたのは、目だ。
 鏡の中の僕が現実の僕へと投じる眼差しは、僕に誰かを思い起こさせた。
 リュウホウ。
 虚ろに病み果てた眼差しは、自殺する直前のリュウホウにそっくりだ。
 死に至る病を患った廃人の目だ。
 リュウホウのことは今でもはっきりと覚えている。同じジープの荷台に乗せられて東京プリズンに護送されてきたスラム育ちの放火犯。常に他人の顔色を窺うおどおどした目つき、囚人服が痛々しく感じられる青白く貧弱な手足。
 卑屈で内向的な性格のリュウホウは東京プリズンに来た初日から恰好のいじめの標的になった。リュウホウの不幸はそれだけに留まらなかった。
 僕とリュウホウの命運を分けたのは視聴覚ホールで新入りの配属先一覧が公開された日。東京プリズンの恒例行事、新入りの部署公開にもリュウホウは姿を見せず、薄暗い房で膝を抱え、塞ぎこんでいた。
 何故ならリュウホウにはわざわざ視聴覚ホールに行く理由がなかったのだから。
 リュウホウが配属されたのはブラックワーク三班。
 過酷をもって知られる東京プリズンの部署の中でも最下層に位置する、別名死体処理班。
 東京プリズンでは毎日死者がでる。リンチの犠牲になった者や危険を伴う強制労働中の事故で死亡した者など死因の内分けはさまざまだが、毎日死者がでるからには当然死体を片付ける人間が必要となってくる。
 リュウホウが抜擢されたのは東京プリズンの死体処理係。最悪の汚れ仕事。
 神経のか細いリュウホウが、そんな仕事に耐えられるわけなかったのだ。僕はリュウホウを見殺しにした。あの時僕はまだブラックワークの全容を知らず、何もせずにリュウホウを見殺しにしてしまった。
 リュウホウは房で首を吊って死んだ。
 「……僕が殺したようなものだな」
 実際に口にしてみる。そうだ、リュウホウは僕が殺したようなものだ。僕がもう少し早く気付いていれば、もう少し早く止めていればリュウホウの自死という最悪の事態は防げたはずだ。
 リュウホウは僕を頼っていたのに、僕に救いを求めていたのに。

 『ありがとう』
 何もしてやれなかった。
 『ありがとう』
 礼など言うな。感謝などするな。

 僕はリュウホウ一人さえ助けられなかった、恵ひとりさえ守り抜けなかった無力な人間だ。もう天才を名乗る資格もない。額に手の甲をのせ、ゆっくりと瞼を下ろす。僕は死後の世界など信じない。魂の存在など認めない。リュウホウは死んだ。もういない。僕が殺してしまった。僕が存在を抹消してしまった。
 リュウホウはこの世から永遠に消滅してしまった。
 死んだほうがマシだ、という言葉が嫌いだ。
 この世に死んだほうがマシなことなどそんなにない。自己憐憫に浸り、自己陶酔に溺れ、「死んだほうがマシだ」と自暴自棄の芝居をして計算高く同情を引こうとする人間を心の底から軽蔑する。だが、それならば僕の現状をなんと説明する?来る日も来る日も男に犯されて肛門に裂傷ができて、一歩足を踏み出す毎に下肢を引き裂かれるような激痛が走るこの体をなんと説明すればいい?
 『死んほうがマシだ』以外の説明が思いつかない。
 硬質な靴音が廊下を近付いてくる。規則的な靴音……看守の靴音。すぐにわかった。囚人が日常履きにしてるスニーカーは半年に一度しか替えが支給されない為に底が磨り減り、たとえ廊下を走ったとてこんな風な靴音は響かない。薄っぺらいゴム底が床を叩く音は、こんな威圧的には響かない。
 これは革靴に特有の靴音だ。よって、東京プリズンで革靴を履いてるのは看守かまたは看守以上の地位に就く人間だと予想がつく。
 靴音の接近に伴い、靄が晴れ、意識が鮮明になる。靴音は一直線に僕の房を目指していた、まるで最初からここが目的地であるかのように。来訪者。客。もうすぐ僕のもとに客が来る。
 今度の客は看守だ。

 「タジマじゃなければいい」

 淡い期待をこめ、呟く。僕が売春班に配属されてからタジマは頻繁に僕を買いに来た。タジマは歩く変態性欲の塊だ。ただ存在するだけで猥褻物陳列罪に抵触する男だ。売春班の今期メンバーを一通り味見してから、最もいたぶり甲斐があり、調教し甲斐のある獲物として僕に目をつけたらしくほぼ連日通ってくる。
 今の僕にはタジマの相手をする気力も体力も残ってない。前回タジマが訪ねて来た時は口にするのも汚らわしい、思い出すのもおぞましい目に遭わされた。
 前回の出来事を反芻すれば、二の腕が鳥肌立ち、嫌な汗が毛穴から噴き出す。
 肛門にグロテスクな形状の異物を挿入された。疣状の突起があるゴム製のペニス……巨大なバイブレーター。排泄器官にあんな物を突っ込まれたのは初めてだった。肛門の筋肉を押し分け、奥へ奥へと捻じ込まれたバイブの先端が前立腺を刺激するたび、僕の意志を裏切るように前が敏感に反応し、タジマの失笑を買った。屈辱だった。僕はタジマを殺したほど憎んでいるにもかかわらず、そのタジマの手で射精させられてしまったのだ。
 だるい体を起こし、ベッドパイプに背中を預け、身構えるように鉄扉を凝視。

 靴音が止む。ノブが回る。

 耳障りな軋り音をあげながら鉄扉が開き、紺の制服を着こんだ男が悠然と足を踏み入れる。
 悪い予感は的中する。招かれざる客はタジマだった。
 辟易した。タジマの顔を見ただけで生理的嫌悪から来る吐き気を覚える。鉄扉が閉じる音が大気を震わせ、狭い房に反響する。殷殷と残響に満ちた房を大股に突っ切り、ベッドの足元に立ちはだかるタジマ。腰に手をつき、尊大に反り返った姿勢で僕を見下す顔には露骨な優越感が浮かんでいた。
 タジマは僕を見下すことで優越感に酔い痴れ、僕を犯すことで征服欲を満たしている。
 「また貴様か。暇な男だな」
 おもわず嫌味が口をついでてた。腕力では到底かなわない僕に残された唯一の反撃の手段、それは毒舌だ。ベッドパイプに背中を凭せ掛けた僕は、口角をつりあげ、虚勢の笑みを浮かべる。
 「仮にも主任看守の立場にある人間が、責務を放棄して売春班通いなど見下げ果てた行為というしかない。イエローワークの強制労働監視には行かなくていいのか?僕やロンがイエローワークにいた頃は頻繁に砂漠を見まわってたくせに、僕らの売春班配属とともに異動したとでもいうのか?まさかとは思うが、僕たちを追いかけてきたわけでもあるまい」
 開口一番痛烈な皮肉を浴びせられたというのに、タジマはにやにや笑いを崩さず平然としている。これ見よがしに腰の警棒に手をかけているのは習慣的な動作か、それとも計算尽くの威圧か。
 「そのまさかなら、どうする?」
 試すような口調。からかうような口調。
 「お前とロンのケツ追っかけて中央棟地下に異動したのがマジならどうだってんだよ、え、言ってみろよ親殺しが。そんなに熱烈に愛されて嬉しいってか、感謝感激で涙の雨もといザーメンの雫でも降らしそうってか」
 「つくづく下品な男だな」
 嫌悪に眉をひそめる。
 「……とにかく、主任看守ともなれば大抵の横暴は許されるとわかった。イエローワークの監視は後輩に任せて、自分は昼間から売春班通いだなんて素晴らしくいい身分じゃないか。看守は貴様の天職だな」
 無意識に下腹部に腕を回し、自分で自分を抱くようにして身を守る。ベッドの足元に腰掛けたタジマが僕の方へと身を乗り出し、匂いを嗅ぐようにして小鼻をひくつかせる。
 「今日は何人の男に抱かれた?」
 恥辱で体が火照り、こめかみの血管が膨張する。
 「関係ないだろう。貴様に説明する義務はない、勝手に想像したらいいじゃないか。貴様の前に僕が何人の男に抱かれようがどんな屈辱的な体位をとらされようが関係ない。それとも貴様は、僕の直腸内に他人の精液が残留してるのが不満なのか?僕が今身を横たえるシーツに他人の体臭が染み付いてるのが不満なのか?他人が精を放った肛門にペニスを挿入するのは……っ!?」
 びくりと体を縮め、肩を強張らせる。条件反射の自衛行動。
 ベッドに座ったまま尻を移動させ、僕へと距離を詰めたタジマがなれなれしく肩に触れたのだ。
 「口じゃあ威勢がいいくせに、ちょっと触れただけでこれだ。そんなにびびんなよ、親殺し」
 肩に置かれた指が卑猥に蠢きながら二の腕へと滑り落ちる。
 僕の体を這うタジマの指。体じゅう芋虫が這いまわってるかのような不快感。フラッシュバック。僕の服を剥ぎ、裸にして組み伏せ、手錠をかけるタジマ。泣いて許しを乞うても決して許してはくれなかった。
 裸の背中に肥満した腹を密着させ、僕の尻を高々と引き上げ、双丘の狭間にバイブの先端を押し当てる。肛門の筋肉を押し分けて捻じ込まれるバイブの硬い先端、内臓を抉られる激痛。
 二の腕に浮かんだ鳥肌がやがて全身へと広がり、体が勝手に震え出す。
 僕はタジマが怖い。タジマに怯えている。タジマにさわられるのは耐えられない、不快感で胃が縮み酸っぱい唾液がこみあげる。
 「……怯えてなどいない。僕が貴様に怯える理由などこの地上に存在し得ない。思いあがるなよ愚劣な低能、僕はIQ180の天才・鍵屋崎直だぞ。貴様のような凡人とシナプスの成長速度を比べられては困る。僕の情報処理能力をもってすれば四桁×四桁の暗算だって0.1秒内で」
 「戯言はいいんだよ」
 タジマの手首が撓る。避けようとした時には遅かった。両腕を顔前で交差させ防御することもできなかった。
 甲高く乾いた音が鳴り、頬に平手打ちが炸裂する。激しい痛み。
 相変わらず僕の反射神経は鈍い。タジマが手を上げると事前に予測できても咄嗟に受け身がとれなかったのが証拠だ。
 殴られた頬を庇い、鼻梁にずり落ちた眼鏡越しにタジマを睨みつける。敵愾心剥き出しの反抗的な目つきが気に入らないのか、タジマが小馬鹿にするように鼻を鳴らす。
 「いいか親殺し、今いち自分がおかれた立場がわかってねえみたいだから優しい俺様がいちから説明してやるぜ。俺は天才の講釈を聞きにきたんじゃねえ、売春夫を犯しにきたんだ。売春夫……つまりお前だよ、鍵屋崎直。この淫乱」
 「淫乱?心外な侮辱だ。僕のどこが、っあ!?」
 語尾が悲鳴になった。突然、タジマに襲いかかられたのだ。僕の肩に手を置き、ベッドに押し倒すタジマ。力づくで組み伏せられた僕は手足を振り乱して精一杯の抵抗をするが、タジマには勝てそうにない。ベッドに背中が衝突し、圧迫された肺から空気の塊が押し出され、喉につかえる。
 はげしく咳き込みつつ、下腹部に腕を回して身を縮めこめようとした僕の上着の裾にひやりと外気が忍び込む。涙でぼやけた視界に捉えたのは、僕の上着の裾を掴み、大胆にめくりあげるタジマ。
 上着の下から露出した下腹部には、新旧大小無数の痣が散らばっていた。
 できたばかりの痣、色素が沈殿した青黒い痣、ヘその下あたりの黄褐色の痣……
痣だらけの醜い体。汚い体。正視に耐えない体。
 「昨晩もずいぶん可愛がられたみてえじゃねえか。お前を抱いた同僚が言ってたぜ、手首縛ってシャワーフックから吊り下げてやったって。どれ、見せてみろ」
 「やめろ、放せ!」
 抗議の声がむなしく響く。僕の抵抗など歯牙にもかけず、手首を掴み、万力めいた握力で締め上げる。
 手首の骨が軋む激痛を堪えきれず、視界が赤く点滅し、口から苦鳴が迸る。
 タジマにとらえられ、袖口がはだけた手首には鮮明な線状痕があった。
 昨晩手首に食い込んだロープの痕跡。
 やめろ、思い出したくない、思い出させるな。昨晩のことなど忘れてしまい、無かったことにしてしまいたい。昨晩僕は常連の客に手首を縛られてシャワーフックに吊られて腰を抱えられ立ったまま挿入された、両腕を一本に纏められシャワーフックに吊られてるせいで手首に体重がかかって辛かった。行為の激しさに失神したら顔面にシャワーを浴びせられ、目や鼻や口、体中の孔という孔にシャワーの湯が入りこんではげしく咳き込む羽目になった。
 「いい色になってきたじゃねえか」
 手首の青痣を眺め、タジマが満足げに嘯く。舌なめずりしそうな笑顔。
 この変態、と心の中で毒づく。
 僕は自棄になっていた。どうせタジマにかなわないのだ。僕の唯一の武器は毒舌と頭の回転の早さだが、タジマに口答えすれば即座に警棒を振り下ろされる。
 僕はマゾヒストじゃない。不感症だが、痛覚が麻痺してるわけでもない。殴られれば痛い。鳩尾を蹴られれば腹を抱えて座りこむ。できれば痛い思いは味わいたくない、苦しい思いはしたくない。なら話は簡単だ、タジマに逆らいさえしなければいい。タジマに何を言われても黙って耐えていればいい。
 「……見るだけで満足なのか?」
 口元に皮肉な笑みが浮かぶ。僕は笑っていた。他者の目には顔筋の痙攣が見せる錯覚に映ったかもしれないが、確かに笑っていた。
 「僕を抱きにきたんだろう。心ゆくまで犯しにきたんだろう。ならさっさと目的を果たしたらどうだ。僕の肛門で性欲を処理したらどうだ。それとも貴様は、くだらない世間話でもして売春夫の関心を引きたいのか?前戯で僕を満足させる自信がないから不毛な会話で時間を潰しているのか?」
 嫌なことはできるだけはやく済ませてしまおう。それが売春班に配属されてからの数日間で僕が得た教訓だった。僕に挑発されたタジマが、ポケットから何かを抜き取る。あれは……
 写真。
 「お前にいいもん持ってきてやったぜ」
 僕の眼前に一枚の写真をつきつけ、タジマがほくそえむ。
 「懐かしいだろ?東京プリズンに来てからついぞご無沙汰だった可愛い可愛い妹の写真だ」
 「!!」
 息を呑み、目を疑った。
 確かに、タジマが僕の眉間に翳している写真に映っているのは最愛の妹……恵。僕の心の支え。自分の身を犠牲にしてまでも守ろうとした僕の存在意義そのもの。おさげを肩にたらし、俯きがちに写真に映った恵は、虐待された小動物を思わせる怯えた目をしていた。
 恵だ。恵がいる。手を伸ばせば届く距離に。
 頭は混乱していた。衝撃冷めやらぬ僕は、震える指先を虚空に伸ばし、すぐそこにいる恵の顔に触れようとする。恵。会いたかった。東京プリズンに来てからずっと、離れ離れになってからずっと、恵に会いたくて会いたくてたまらなかった。再び恵に会えるならどんな代償を払っても惜しくはなかった、他の何を犠牲にしても惜しくはなかった。
 恵。僕のすべて。大事な妹。
 『おにいちゃん』
 幻聴だ。そうに決まってる。だがその時、記憶の深淵から甦ってきたのはまごうことなき恵の声だった。 僕を呼ぶ恵の声。甘えるような、舌ったらずの呼び声。タジマの手から恵を取り戻さねば。何故タジマが恵の写真を持ってるのか、にやにや笑いながら僕に見せつけているのか、そんなことはどうでもいい。
 僕の恵に触れるな、僕の恵を汚すな。タジマが汚い手で恵に触れてることが我慢ならず、僕はタジマの手から写真を奪い取ろうと身を乗り出し……
 「感動の再会だな」
 目の前から写真が消失する。僕の手が恵に届く直前、手にした写真を引っ込めたタジマが不敵に笑う。僕の動揺を楽しんでいるのは明白。
 「どこでどうやって写真を手に入れた?」
 極力声を抑えて詰問する。そうやって自制しなければ、タジマに殴りかかってしまいそうだったから。
 「簡単だよ。お前が東京プリズンに来た時に一緒に送られてきた資料に挟まってた。お前の名前で検索すりゃすぐに見つかったぜ。ファイルの整頓状態はいいんだよ、この刑務所」
 「僕の資料を閲覧したのか!?」
 誰に断りを得てそんな勝手なことを。囚人の資料は厳重に保管されてるはずなのに……プライバシー侵害もいいところだ。だが、タジマはそっけなく鼻を鳴らして僕の抗議を一蹴する。
 「なにか勘違いしてねえか親殺し。俺様は看守でお前は囚人、看守のやることにただの囚人が意見申し立てる気か?いいか、看守のやることは絶対なんだよ。俺だけじゃねえ、当直で暇を持て余した看守ならパソコン使って囚人の個人データ覗き見るくらいのことは普通にやってる。
 ま、安田がこっちに来てから監視の目が厳しくなってパソコンからデータ引き出すのはちょい難しくなったが、安田の若造だって年がら年じゅう俺たち見張ってるわきゃいかねえ。なにせあっちはお偉いさん、無能で事なかれ主義の所長に代わって山ほど仕事をこなす忙しいご身分だ。安田が席空けた隙にお前の資料を失敬するくらいわけねえよ」
 「極めて杜撰な管理体制だな」
 苦渋に顔を歪めて吐き捨てる。
 僕の視線はずっとタジマの手中に注がれていた。
 タジマが許可なく資料を閲覧し、添付されていた写真を持ち出したことがばれたら当然処分されるだろう。しかし、安田に直接会わないことには不正を密告することもできない。
 今の僕には安田と会う手段がない。イエローワークにいた頃は三日に一度の頻度で安田が視察に来ており、強制労働中の僕に声をかけることもままあったが、売春班に配置換えされてはそれも不可能だ。
 現在の僕と安田が顔を合わせる可能性は皆無。
 顔の前で写真をひらひらさせながら、ヤニ臭い歯を剥いてタジマが言う。
 「どうした、取り返してみろよ。両親殺してまで独り占めしたかった可愛い妹の写真だろ。お前がやばいくらい妹溺愛してんのは有名だもんな。外じゃ仲の良い兄妹だったんだろ?妹のおにいちゃんにべったりだったって言うじゃねえか。親に叱られたり学校でいじめられるたびにおにいちゃんとこ飛んでてって泣きついたんだろ?」
 唇を噛み、タジマの嘲笑に耐える。
 タジマの口から恵の名前がでるたび憤怒で視界が赤くなった。もう一秒だってタジマの手が恵に触れてるのが我慢ならなかった。タジマの手から写真を取り返そうと躍起になった僕は、虚空へと腕をのばして上下左右へ逃げる写真を追いかけるが、僕の行動を読んだタジマが腹の底から哄笑をあげつつ写真を移動させるせいで指先を触れることさできない。

 待て、行かないでくれ恵。

 「恵を返せ、汚い手で恵に触れるな!僕を犯したければ犯せばいい、それが貴様の目的だろう!?僕は所詮性欲処理の道具に過ぎない、抱きたいなら抱けばいい犯せばいい肛門が裂けてもかまうものかそれが売春夫の義務だというなら逆らわない、どんな変態的な行為だって甘んじて受けいれる!だから恵まで汚すんじゃない、恵は僕の唯一の……」

 唯一の希望。
 唯一の支え。

 上下左右へと逃げるタジマの手に翻弄されつつ、息を切らして叫ぶ。僕の目には写真の中で俯く恵しか見えていなかった。何故わざわざ恵の写真を持ってきた、何故わざわざ恵の写真を見せつける?どこにその必要性がある?
 いやな予感がする。胸騒ぎがする。
 「返してほしいんだったら俺の言うこと聞けよ」
 もう少しで手が届く寸前、僕の目の前から写真を取り上げたタジマが唇の端をめくる。僕に拒否権はない。実際、写真を取り返すためなら何でもする気持ちになっていた。たとえ写真でも、数ヶ月ぶりに見る恵の顔に違いはない。もし僕の手に恵の写真が戻ってくるならこれほど嬉しいことはない。恵の写真が僕の手に戻ってくれば、既に枯渇した生きる気力も、明日への希望も湧いてくるはずだ。
 「何をすればいいんだ?」
 「自慰だ」
 タジマの返答はあっけなかった。
 「………自慰?」
 耳を疑った。自慰。自分で自分を慰める。その言葉が何を指すかわからなかったわけじゃない。だが、信じられなかった。信じたくなかった。頭が混乱してる。全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。
 「オナニーでもひとりエッチでも呼び方はこの際なんでもかまわねえ。要はてめえでてめえをしごけってそんだけだ。簡単だろ?それとも何か、不感症の天才は思春期に入ってもオナニーしたことねえからやり方がわかんねえってか?オナニー覚える前にさんざ男に犯されて開発されちまうなんざ順番が逆だな」
 「……無意味だ、何故そんなことをしなければならない。貴様の前で僕が自慰行為することに何の意味がある、何の意味もないだろう?貴様は僕を犯しにきた、僕を使って性欲を処理にきた!僕が貴様の前で自慰をしたところで貴様が快感をおぼえるわけがない、肉体が刺激を受けるわけがない!」
 「視覚的な刺激なら受けるぜ。お前みてえなお利口な坊やが俺に命じられて嫌々ペニスを扱いて擦るんだ、そりゃもうこれ以上ない楽しい見世物で笑いが止まらねえだろうさ!」
 「何がおかしい。僕の自慰のどこに笑える要素があるというんだ。大体自慰など人前でする行為じゃない、少しはプライバシーを尊重……」
 「ロンはやったぜ」
 なに?
 何を言ってるんだタジマは。今何を言ったんだ。ロンがタジマの前で自慰を披露した?いつどこで……
 そうか。腑に落ちた。
 売春班就労前、医務室で身体検査が行われた日からロンの様子がおかしかった。レイジさえ寄せ付けずに房に塞ぎこんで翌日顔をあわせた時は真っ赤に泣き腫らした目をしていた。一晩ベッドの上で膝を抱えて泣いていたらしく、目の下には睡眠不足の隈が浮いて顔がむくれていた。
 あれは。ロンの態度が急変したのは、この男が原因か。
 薄々予期していた、感づいていた。あの日、売春班就労前の囚人が医務室に集められ身体検査が行われたあの日を境にロンは見る影なく荒んでしまった。あの日何が起きたか僕はずっと考え続けていたが、タジマに腕を引っ張られて衝立の影へと引きこまれたロンの身に何が起きたかあらゆる最悪な可能性を考慮しても結局は想像の域を出なかった。
 だが、たった今明らかになった。ロンはあの時、タジマに自慰を強制されたのだ。それしか考えられない。殺したいほど憎んでいる男に脅されて、殺したいほど憎んでいる男の前でズボンをおろして、射精するまでの一部始終をタジマに見られながら気の遠くなるような時間をかけてペニスを扱いたのだ。
 ロンを変えたのはタジマだった。
 なんて卑劣な。なんて陰湿な。
 「ロンはお利口さんだったぜ。自分でやるかケツに警棒突っ込まれるか選べって脅したら一も二もなくズボン脱いで、股間に手え持ってきやがった。聞きたいか、オナニーの最中のロンの様子。よし、親切な俺さまが微に入り細を穿ち説明してやる」
 「言うな、聞きたくない!!」
 反射的に耳を塞ぎ、シーツを蹴るようにタジマからあとじさる。
 ロンは今も隣に似ている。分厚いコンクリ壁を隔てた隣の房で、飢えと孤独に苛まれつつ膝を抱えているのだ。そうまでしてロンが怯えるのはタジマがいるからだ、ロンが変わってしまったのは全部タジマのせいなんだ。
 「ロンときたら、おどおど俺の顔色窺いながら股間に手をもぐりこませて根元に手え添えて扱きやがった!本音じゃ最初から俺に見ててほしかったんだよ、期待してたんだよ、あいつだってまんざらじゃなかったんだよ。俺に見られながら感じてたのがその証拠だよ。チンコだってちゃんと勃ってたしな、はは、体は正直だよなあ!!」
 視界が真っ赤に爆ぜた。
 僕はロンの身に何が起きたか知らずにいた、タジマに腕を掴まれたロンが衝立の影に連れていかれたときもただ傍観していた指一本動かさずに卑怯者だリュウホウのときとおなじロンを見殺しに僕は卑怯者だ!!
 「ロンが自暴自棄になったのは全部貴様のせいだ、貴様が原因だ、聞こえているか但馬看守貴様こそ東京プリズンの諸悪の根源だ駆逐すべき病原菌だ!!貴様に呼吸する権利などない二酸化炭素を撒き散らす権利などないそんな権利認めない僕は認めない、僕の全存在を賭けて全否定する!!」
 「だからなんだってんだよお!!」
 大気に共振する咆哮。
 タジマに殴りかかった僕の視界が反転、目に天井が映る。タジマに突き飛ばされた衝撃で眼鏡が鼻梁にずれた。ベッドパイプに背中を立て掛けて上体を起こした僕の腰に跨ったタジマが、免罪符のごとく鼻先に写真をつきつける。
 恵の写真。僕にとって最大の弱みとなる、最愛の妹。
 僕の顔の前で写真をひらひらさせながら、征服者の愉悦に酔い痴れたタジマが二者択一を迫る。
 「さあ、どうする?お前はどっち選ぶんだよ。自慰か警棒か好きなほう選べよ。極太バイブだって全部呑みこむことができたんだ、警棒だってらくらく入っちまうだろうさ。お前が今ここで俺の命令通り自慰するってんなら写真はくれ
てやるよ。なあ、写真が欲しいだろ鍵屋崎?半年ぶりに再会する妹だもんな」
 僕の腰を跨いで座ったタジマが写真を片手に持ち、もう片方の手で制服の胸ポケットをまさぐる。制服の胸ポケットからタジマが取り出したのは市販品のライター。

 ライター。火。まさか。

 タジマが薄ら笑いを浮かべつつライターを点火、酸素を燃やす音をたてオレンジ色の炎が揺らめく。僕の表情を横目で探りつつ、ライターの先端を徐徐に写真の角へと近付ける。
 「覚えてるだろ、鍵屋崎。前もおんなじことがあったよなあ。お前が廊下に落とした手紙を俺がゴミと間違えて燃やしちまったことが」
 「嘘、をつくな。あれは故意だろう!?」
 タジマは故意に僕の手紙を燃やした。僕が恵に宛てた手紙を燃やした。その時現場に居合わせなかった僕は実際に光景を目撃したわけじゃないが、多分タジマは今と同じように心の底から愉快げな笑みを浮かべて、僕が何回も何回も寝る間を惜しんで書き直した手紙に火をつけたんだろう。
 ライターの炎で炙られた写真の端がちりちりとめくれだす。
 恵が燃える。
 「あの時とおんなじ目に遭いたいのかよ。写真を燃やされてもかまわねえのかよ。俺さまの言うことさえ聞きゃあ写真はくれてやるって譲歩してやってんのに人の親切台無しにして……頭でっかちの天才は痛い目見なきゃわかんねえか」
 「やめろ」

 炎が揺らめく。
 恵が燃える。ちりちりと。

 「今ならまだ間に合うぜ、ライターどけてほしけりゃズボンと下着脱いでそこに座れよ、ベッドの上で足広げてとっととオナニー始めろよ!やり方知らねえなら教えてやるから、」
 「わかった命令に従う、言われた通りに自慰をする!!
 だから恵を燃やすな、顔に火傷させるな、女の子なんだぞ!!」

 恵は僕の最後の希望だ。
 他の何を犠牲にしても無傷で取り返さねば。タジマの手から奪い返さねば。
 その為にどれほど大きな代償を支払うことになってもかまわない。

 だから。

 「………っ、」
 ライターの火が消え、タジマが上からどく。
 べッドに肘をついて上体を起こした僕は、ベッドパイプに背中を立て掛けてタジマを睨みつける。
 今は恵を取り返すのが先決だ。写真を無傷で取り返すのが最優先事項だ。プライドなど捨てろ。自我を殺せ。僕は恵の兄だ。僕は一度恵の心を殺した。今また恵は、僕の目の前で焼き殺されようとしている。
 恵を二度殺させてなるものか。
 唇を噛み、顔を伏せ、ズボンに手をかける。
 自慰をするくらい大したことはない。昨日も一昨日ももっと屈辱的な行為を強制されたじゃないか。自慰くらいなんだ。殴られるより遥かにマシだ、シャワーフックに吊られるより遥かにマシだ。
 タジマに自慰を見られるからといってそれがどうした、プライド以外は痛くも痒くもない。
 恵を救うのに役立たないプライドなどいつでも捨てる用意がある。
 ズボンと一緒に下着をおろし、青白く貧弱な下半身を露出する。棒のような太股から顔を背けた僕のほうへと膝這いににじりよったタジマが、しつこく唇を舐め、掌中のライターを弄びつつ命じる。
 「根元に手を添えて先端を持ち上げろ。よく見えるように、な」
 妹のためにプライドを捨てる僕を、サムライは軽蔑しないだろうか。
 タジマの指示通り根元に手を添えてペニスを立ちあがらせた僕には、ただそれだけが気がかりだった。

 自慰の仕方を知らないわけではない。

 知識としてひと通り知ってはいるが、実践したことがないだけだ。
 前述した通り僕は不感症だ。少なくとも東京プリズンに来て売春班に配属されて、毎日毎日男に犯され、全身の皮膚を性感帯に造り替えられるまでは。
 僕にはわかる、屈辱にまみれて毎日毎日痛感している。日毎体の先端が敏感になっていくのを、抵抗と拒絶の意志に反して体が貪欲に快楽に慣らされていくのを。自分は不感症だと十五年間そう思って生きてきた、事実僕は東京プリズンに来るまで不感症だった、それは誓って真実動かしがたい事実だ。
 それが何故こんなことになってしまったのか、こんなみじめなことになってしまったのか。執拗に自問自答しても自己嫌悪の底無し沼に沈みこむばかりで埒が明かない。こうしてくだらないことを考えて現実逃避してるのは、ベッドに胡座をかいていやらしくにたつくタジマの顔を直視したくないからだ。
 わかっている、もうごまかすのはよせ。手元に集中しろ、こんな馬鹿げたこと一刻もはやく終わらせてしまえ。
 努めてタジマの視線を意識せず、萎えたペニスを扱き上げる。
 緩慢な摩擦。
 「………………んっ、……」
 怯え震えた指でペニスを擦る。変、な感じだ。摩擦の速度が増すに従い、排尿感に似たむず痒い感覚が強まる。人の体の中で性器は特に敏感だ。人体で最も過敏にできてると言ってもいい。だから性器を手で刺激すれば快不快のあわいの微妙な感覚に襲われるのはごく自然なことであって何も恥ずかしがることはないのだ、と言い訳がましく自分を納得させる。人体の摂理、ごく自然な生理現象。タジマが見ている。パイプベッドに胡座をかき、崩れた姿勢で頬杖つき、心底愉快げな笑みを湛えている。下卑た顔だ。僕はこんな品性下劣な人間を見たことがない、近親勾配のけだものにも劣る下劣さだ。
 「ふっ…………、く、ぅ」
 手の動きにつれ、徐々に尿道を這い上がってくるむず痒い感覚。じれったい。タジマが見ている。頬に血が上る。屈辱に唇を噛み、タジマの視線を避けて下を向けば痣だらけの体が目に入る。下肢には鳥肌が浮いていた。股間では徐徐に性器が反応を示し始めている。僕の体から独立した生き物のように緩慢に起き上がり、先端をもたげ、赤く充血し始めたペニス。
 「あ、う」
 「気持ちいいか」
 「よく、ない」
 よくない。いいわけがない。ただ、気持ち悪いだけだ。高熱をだしたように体じゅうが火照っているのは自慰の一部始終をタジマに見られているからだ。タジマは舌なめずりせんばかりの笑顔で僕の股間を覗きこんでいた。皮膚を透視して内臓までも暴きだすような視線だった。
 タジマの視線から逃れたい。僕を見るなと叫びたい、発狂したように抗議したい。だが、できない。タジマに反抗すればどうなるか痛いほど叩きこまれた体がそれを許さない。何故だ、どうして僕の手は止まらない?何故世界で一番憎い男の前で、明確な殺意さえ抱く男の前で自慰をしている?貧弱な下半身を露出してペニスを摩擦して犬みたいに息を荒げている?
 「見られて興奮してんのか。やらしい奴だな」
 「他人に自慰を見られて興奮する倒錯趣味などない、僕に自慰を強制して股間を硬くしてる異常者の神経を疑うな」
 「お前もロンとおなじだ」
 嘲るようにタジマの喉が鳴る。何がそんなに可笑しいのか、ベッドに胡座をかいたタジマが愉快で愉快でたまらないといった喜悦の笑い声をあげる。ひきつり笑いの発作に襲われたタジマが不規則に肩を痙攣させ、頬の贅肉を上下に揺らし、肥満した顎を震わす。
 「口じゃ精一杯強がってたが俺に口答えしてるあいだも扱く手はとまらなかった、自慰覚えたての猿みてえに手の皮擦りむける勢いで夢中で擦ってたぜ。素直になれよ鍵屋崎、お前だって本当は気持ちいいんだろ、びんびんに感じてんだろ。ほら、もう勃ってきたじゃねえか。手の中見下ろしてみろ、先端に血が集まって真っ赤に充血してるじゃねえか。あともうちょっと擦ったら爆ぜちまいそうだ。手加減すんなよ、承知しねえからな。俺に言われた通りするんだ、ちゃんと手を動かすんだよ」
 ねちねちと揶揄され、羞恥心に火がつく。
 タジマの目を潰したい。
 いつだったか僕はイエローワークの砂漠で襲われかけたとき、自分の上に跨った囚人の目を尖った針金で刺した。
 今僕の手の中に針金があればタジマの目を潰すことができるのに、と悔恨に歯噛みする。売春班就労前の身体検査で僕の体は隈なく改められて、凶器となる可能性のある危険物は没収された。仕事場に持ち込めるのは本だけだ、ポケットに針金を隠して持ち込むのは不可能だ。
 スニーカーの裏側に針金を仕込んだ前科がある僕はとくに入念に体を改められる。
 反撃の手段は完全に失われた、逆襲の機会はすべて取り上げられた。
 タジマの目を潰せないならと、せめてタジマの薄笑いが視界に入らぬよう意固地に顔を伏せる。その間も手の動きは休めない。タジマに言われた通り従順に左手を根元に添えて右手で性器を扱き上げる。
 未熟なペニス。
 僕は女性経験に乏しい。異性と肉体関係を持ったことは、鍵屋崎優の研究助手に誘惑された三回を除いて皆無。異性とのセックスも二度と思い出したくない不愉快な体験ではあったが同性に強姦されるより遥かにマシだ。
 少なくともあれは性交渉と呼べた、セックスを介して繋がることで意思の疎通をはかったのだからそう呼んでも差し支えなかろう。僕が売春班で体験したのは性暴力だ、ただ一方的に奪われ犯され汚されるだけの略奪行為だ。合意で及ぶセックスと、僕が拒絶しようが抵抗しようが意思を無視して行われる強姦とはまるで意味合いが違う。
 「くっ、あ」
 唇を噛んで抑えようとしてもどうしても声が漏れてしまう。
 変な声だ。これではまるで手淫の快感を覚えてるみたいじゃないか、愛撫に身を任せて喘いでいるみたいじゃないか。全身の毛穴が開いて粘ついた汗を噴く。しっとり汗ばんだ額に前髪が貼り付く。痣だらけの太股がびくびくと引き攣る。つま先でシーツを巻きこみ、蹴る。
 「感じてるんだろう」
 「違う」
 勝ち誇ったようにタジマが笑い、胡座を崩して身を乗り出す。ベッドに手をつき、膝這いににじり寄り、吐息のかかる距離で僕の顔を覗きこむ。臓腑が腐りつつあるかのような強烈な口臭が顔を撫でる。タジマから逃れようと必死に顔を背ける。しかしどこまで逃げてもタジマはしつこく追ってくる、瀕死の獲物を追い詰める貪欲さで僕を追いかけて自らも迂回する。
 「感じてるんだろう、白状しちまえよ。今のお前すっごくいやらしい顔してるぜ。目え潤ませて顔赤らめて息を荒げて、男のくせに乳首勃たせて……俺に見られて興奮してんだろ?言葉で嬲られて感じてるんだろ?はっ、マゾが!お前ら囚人は全員マゾだ、俺にいじめられて本当は悦んでるくせに、先っぽから汁滴らせてズボンの股間濡らしてるくせによ!」
 「よろ、こんでなどない。否定する、僕は興奮してなどない、自由意志でこんなことをするわけがない!貴様に自慰を強制されたから自我を殺して手を動かしてるまでだ、勘違いするんじゃない、僕はこんなことに興味がない、こんな……」
 「じゃあこれはなんだよ」
 「!あっ、」
 タジマの手が太股を這い股間に潜りこむ。肌が粟立つ感覚、他人に触られる戦慄。毛虫が這うように僕の内腿を這った指が、僕の手の上からペニスに巻き付く。
 「嘘つくなよ、勃ってんじゃねえかよ。気持ちよくねえならなんで勃ってんだよ、おかしいだろ」
 「人体の生理反応だ、生理的な現象だ!手で性器を摩擦すれば反応するのが摂理だ、僕の意志は関係ない、手淫による刺激で性器が過敏になっただけ……っあ!?」
 ペニスを掌握したタジマの手がゆっくり動きだす。最初は弱く、徐々に握力を強め、僕の手淫とは比べ物にならぬ激しさと速さで性器を扱き上げてやすりがけする。痛い。ペニスの皮が剥ける激痛に生理的な涙が滲み、嗚咽めいた苦鳴が喉から漏れる。タジマの手をどかそうとにも非力な僕には不可能。僕はタジマにされるがまま、自分の意志とは全く関係なく自慰を指導されている。手のひらに包んだペニスの硬さ大きさが増し、鼓動に合わせて熱く脈打つのが感じられる。
 「はっ、はっ、う……」
 達する前にタジマの手を払いのけたい。
 涙で曇った視界にぼんやり映るのは、下劣さ全開のタジマの笑顔。タジマは明らかにこの状況を楽しんでいた、自慰を強制される僕の姿に欲情していた。看守服のズボンの布地を勃起したペニスが押し上げているのがその証拠だ。タジマの呼吸が次第に浅く速くなる。興奮に乾いた唇をしきりと舐め、音たてて生唾を飲み込み、僕のペニスをやすりがけする。
 視姦。羞恥。これ以上は耐えられないと一握り残った理性が悲鳴をあげる。死に物狂いでシーツを蹴っても体重をかけて覆い被さったタジマをどかすことはできない。
 底から這い上がろうと足掻いても足掻いても深みに嵌まるだけ。
 嫌だ、自慰などしたくない。こんな物触りたくない、ペニスなど排泄器官じゃないか、こんな不潔な物自らすすんで触りたくなどなかった決して。恵の写真を取り返すため仕方なくだ。
 究極の二者択一を迫られた僕は冷静な判断ができなくて、正常な思考が麻痺して、支えとなるプライドを擲っても写真を取り返そうとタジマの交換条件を呑んだ。恵は僕の家族、大事な妹だ。自分の身に代えても守りたい存在だ。たとえ写真でもタジマの汚い手が恵に触れるなど我慢ならない、恵が汚されるのが我慢ならない。僕はいいんだ、恵の兄だから恵の分の汚れまで引きうける覚悟はできてる。痛みも苦しみもすべて兄の務めとして僕が抱え込めばいい、一身に背負えばいい。だから恵は何も心配せず全部僕に任せてしまえばいいのだ。
 恵が幸福になってくれれば、僕が不幸になってもかまわない。僕の不幸など些細な問題だ。
 「鍵屋崎」
 太い指で僕のペニスを扱きながらタジマが質問する。顔を上げる。猜疑心に満ちた上目遣いでタジマの表情を探る。僕はタジマの目に意地悪い企みを見た。次の瞬間、予感は的中した。
 「夢精はいくつのときだ」
 夢精。勿論知っている、知らないはずがない。だが何故、よりによって今そんな質問を?わからない。頭が混乱して一瞬手が止まる。動揺を隠せず硬直した僕を覗きこみ、タジマが畳みかける。
 「その年ならもう体験してんだろ。夢で悶々として朝起きたらパジャマの股間がべっとり濡れてんだ、それが夢精だよ。夜寝ながらイッちまうんだよ」
 「黙れ低脳。短絡的説明は不要だ、当然知識にある……が、答える義務がない。何故僕が夢精した年齢を教えねばならない?まさか僕が夢精した年齢まで調書に書き込んで管理するつもりか、それは見上げたものだ、素晴らしく仕事熱心じゃないか但馬看守!東京プリズンの管理体制は杜撰だとこれまでさんざん罵倒してきたが、僕が夢精した年齢まで仕事熱心に聴取する貴様の前では見識を改めねばな」
 眼鏡越しの双眸に氷塊を沈め、精一杯皮肉を言う。
 本当はわかっている、タジマの意図は正確に把握してる。タジマは何も僕が夢精した年齢を調べて上に報告しようとしてるわけじゃない。
 これはタジマの個人的な楽しみ、悪趣味な遊びの一環。
 いやがる僕の口から夢精の年齢を吐かせ、さらに羞恥心を煽りたて、完膚なきまでにプライドを蹂躙する魂胆なのだ。
 声が震えてるのは恐怖のせいじゃない、怒りのせいだ。
 僕はタジマに憤っていた、ロンに自慰を強制して今また僕に自慰を強制してにやにや笑いながらそれを眺めて、挙句に本来口外すべき事柄ではない夢精した年齢まで暴こうとするタジマの卑劣さに反吐が出た。
 深く息を吸い、毅然と顔を上げる。タジマに怯えることはない、と開き直る。こんな男怯えるにも値しない俗物だ。そう自分に言い聞かせ、タジマを睨み据えて宣言。
 「貴様は看守の権威を嵩に囚人をいたぶるしか能がない人間だ。実際、売春班の売春夫しか相手にしてくれる人間がいないから連日僕のもとにやってくるんだろう?貴様が横暴に振る舞えるのは警棒を腰に差してるときだけ、看守服に身を包んでいる時だけだ。今僕に質問したのと同じ内容を副所長にできるか?できないだろう、絶対に。貴様は安田に怯えているからな」
 「怯えてる?」
 タジマの顔が微妙にひきつる。
 心外だといわんばかりに大袈裟に仰け反ったタジマを一瞥、嘲笑する。
 「語弊があるか?ならば訂正しよう、貴様は安田を恐れている。いつ悪事が露見して免職になってもおかしくない立場の貴様は、安田副所長の動向に逐一気を配り、売春班に通うにも細心の注意を払わねばならない」
 「黙れ」
 「これを安田に怯えているといわず何という、恐れてるといわず何という?いい加減認めてしまえ、貴様は決して安田に勝てない。安田は優秀な人間だ、真に社会に必要とされる有能な人間だ。ひるがえり貴様はこれといって取り柄のない無能な人間、看守職に就けなければ性倒錯の異常者として社会から排斥されていた人間だ。どうだ、反論できるならしてみろ、できないだろう?」
 「黙れつってんだよ親殺しの分際で」
 「いいザマだな但馬看守、自分より十歳以上年下の副所長に怯えて彼の姿が見当たらない場所でしか横暴に振る舞えないとは小心者だな貴様は!
 安田と対面した時の貴様ときたら傑作だ、人の顔色を窺う卑屈な上目遣いといい媚びへつらいの丸腰といい機嫌取りの揉み手といい滑稽極まる!普段囚人相手に威張り散らしてるのと百八十度真逆じゃないか、ああそうか、貴様が僕を目の敵にする理由がわかったぞ!僕と安田が似ているからだな。東京プリズンで眼鏡をかけてる人間は数少ない、眼鏡という共通項があれば必然雰囲気も似てくる、だから貴様は安田相手に蓄積したストレスを僕で発散……」
 「黙れっつてんだよこのクソガキがあっっ!!」
 狂える咆哮をあげタジマが猛然とつっかかってくる。胸ぐらを掴まれ突き倒され眼鏡がずり落ちる。ベッドパイプに背中が衝突、衝撃、振動。僕の腰に馬乗りになったタジマが腰から警棒を抜き取る。
 「!やめっ、なにを」
 悲鳴が上擦る。抗議の声を発して胴からタジマを振り落とそうと身をよじるが、圧倒的な体重差は如何ともし難い。
 僕の胴に跨ったタジマが、腰から抜いた警棒を股間に突っ込み、僕の手をどけて睾丸の裏側へと潜らせる。睾丸を潰そうと圧力をかける硬い警棒の感触にひっ、と声が裏返る。シーツをつま先で蹴り、肘で這いずるようにあとじさる。タジマが僕の上からおりない。警棒で僕の睾丸を裏返し、陰湿に目を細めて検分し、また強引に足を割って開かせる。
 屈辱的な開脚のポーズ。男の手で股を開かれるという悪夢めいた光景。
 「はなせ、さわるな、僕の上から降りろ!こんな体勢じゃ自慰を再開できないじゃないか、僕は命令通りに………あっ、うぐ!?」
 喉が鳴る。尻の柔肉を割り、肛門を圧迫する硬い先端。警棒の先端。
 やめろ、何をする気だ?
 まさかその警棒を無理矢理僕の肛門に挿入する気か?無理だ、そんな物入るわけがない、肛門の縁が切れて出血するに決まっている!
 恐怖で身が竦む。
 僕の位置からでは肛門に添えられた警棒が見えないが、タジマの視線に無防備に股間をさらした開脚姿勢だけでも十分恥ずかしかった。強制的に足を開かれ、解剖される蛙に似た無様でみじめな体勢をとらされ、全身の血が逆流する恥辱を味わう。
 「何歳で夢精したんだよ。吐けよ」
 「断る!」
 僕の肛門に警棒をあてたタジマが耳元で囁く。タジマの吐息で耳朶が湿る。肛門のまわりで警棒が円を描く。時々圧力をくわえ、肛門に挿入する構えを見せるが、やがてはなれていく。臀部の筋肉が緊張する。いやだ、排泄器官に異物を挿入されるのは嫌だ、こりごりだ。あんな太くて硬い物を無理矢理突っ込まれたりしたら肛門が裂けて大量出血……シーツが鮮血に染まる惨状をありありと思い描き、溺れた魚のように口を開け閉めする。
 血。あの時、トイレで襲われて便器に顔を突っ込んだリュウホウの下肢を伝っていた一筋の血。処女を失った証。
 僕はリュウホウの窮地に間に合わなかった、リュウホウが強姦される前に助けに入ることができなかった。だから今僕が助けを求めるのは卑怯だ、助けを求めるのは間違ってる、自業自得………
 「!あっ、ああああっぐああ!?」
 体が跳ねる。警棒の先端が肛門にめりこむ。筋肉の抵抗を物ともせず無理矢理押しこまれる巨大な質量。前回強制挿入されたバイブより一回りも大きい、太い……硬い。痛い。激痛。おもわず涙がでるほどの。
 「言っちまえよ、夢精した年齢くらい隠すこたねえだろ。体の隅々まで知り尽くした俺とお前の仲に今更隠しごとはなしだ、夢精した年齢唄えばもっとお前を気持ちよくしてやるよ、妹の写真も返してやるよ」
 「き、さまの言葉など信用できるか。僕は絶対に……ひっ、ぎい」
 肛門の縁が裂け、生温かい液体が太股の裏側を伝い落ちる。痛い、なんてものではない。肛門を無理矢理こじ開け押し広げ、直腸へと侵入する異物は本来囚人を殴打するための警棒なのだ。裸のつま先でシーツを蹴り、顔を左右に押し振って拒絶の意志を訴えても、タジマの手は止まらない。
 僕が夢精した年齢を自白するまでやめないつもりだ。
 「はっ、はっ、はっ………ふ、く」
 下肢から体が真っ二つに引き裂かれるようだ。直腸に警棒の先端が入っただけで下腹の内臓が圧迫され、息ができなくて苦しかった。麻酔もなしで解剖されてる気分だ。太股にはびっしり鳥肌が浮いていた。青褪めた肌には大量の汗が滲んでいた。ああ、この苦痛から逃れるためならなんでもする、だからどうかやめてくれ、警棒を抜いてくれ!
 「…………12歳のときだ」
 そうだ、僕が夢精したのは12歳のある朝。
 あの時のことははっきりと覚えている。
 ベッドの異状も、自身の体の変化も。
 「もういいだろう、言ったぞ、貴様が知りたいことは全部言ったぞ!?僕が夢精したのは12歳のときだ、だから何だと言うんだ、上に報告するならすればいい!朝起きたら股間が濡れていた、夜中に射精していた!夢の内容は覚えてないがひどく寝苦しい夜でうなされた記憶がある、自身の体の変化について僕は特別驚かなかった、予備知識を学んでいたから驚くにも値しなかった!ただ濡れた股間が気持ち悪かった、ズボンの染みがみっともなかった。こんなみっともない姿家族に見せるわけにいかないから、鍵屋崎夫妻に知られる前に早急に処理しなければとそればかり考えて」
 何故こんな男に夢精した年齢を明かさねばならない、本来口外すべきではない個人的な事柄を教えねばならない?僕以外の誰も、鍵屋崎優と由佳利だって僕が夢精した正確な期日を知りはしないのに、肛門に警棒を挿入すると脅されて恐怖のあまり秘密をしゃべってしまった。
 自己嫌悪。自責。
 タジマが嘲るように鼻を鳴らし、警棒を引く。
 安堵も束の間、僕の膝を掴んで押し広げる。
 「夢の内容覚えてないってマジかよ、本当はやらしい夢見てたんじゃねえか。たとえばそう、可愛い可愛い妹の夢だ。妹とヤる夢だ。妹を脱がして真っ裸にして、ひらたい腹に頬ズリして恥毛の生えてねえ股間を舐めて、初潮もきてねえあそこにアレぶちこむ夢でも見てたんじゃねえか」
 「恵を侮辱するな!!!」
 「キレたってこた図星か?今更隠すこたねえ、言っちまえ親殺し。妹を独り占めしたくて両親ぐさっと殺っちまったって吐けよ、そしたらラクになるぜ。はっ、どっちが社会不適合者の変態だか胸に手えあてて考えてみろ!当時十歳かそこらの妹に欲情して夢の中で犯しまくったお前のがよっぽど、」
 「僕は恵に欲情してなどない、性的欲求を感じてなどない!恵は僕の妹だ妹に欲情するわけがない恵にはずっと清潔なままで綺麗なままでいてほしいのに……くそ、口を塞げ、それ以上言うな!たとえ妄想の中でも恵を汚すのは許さない!」
 僕を侮辱するのはいい、耐えられる。だが恵を侮辱する言動は許せない。タジマの妄想の中で恵が裸に剥かれていると考えると憤怒で視界が赤くなる。
 一刻も早くタジマの手から恵を取り返したい、恵を救いだしたい。
 宙を掻き毟るように手をのばし、写真奪還をはかる僕を嘲笑い、タジマが重ねて命じる。
 「自慰を続けろ。妹が見てるぞ、ほら」
 タジマが僕の眉間に写真を翳す。恵がじっと僕を見つめている。軽蔑の眼差し。侮蔑の眼差し。恵、何故そんな目をする?そんな目で僕を見る?頼む僕の話を聞いてくれ、弁解させてくれ!
 「…………っ、」
 恵は何も言わない。写真の中からただじっと僕を見つめている。
 無言の凝視。虐待された小動物をおもわせる卑屈な上目遣い、嫌悪、僕を敬遠する眼差し……恵がこちらを見ている。恵に見られている。
 タジマに言われるがまま自慰を再開した僕の無様な姿を眺めている。
 「妹が見てる前でおちんちん扱いて気持ちよくなって恥ずかしくないの、おにいちゃん」
 甲高い女の子の声真似で揶揄し、タジマが写真を振る。
 僕は答えない。答えられない。手元に意識を集中しようと目を瞑っても無駄だ、瞼の裏側にはこちらを冷ややかに見つめる恵の顔が焼き付いてどれだけ激しくかぶりを振っても散らせない。
 「白状しなよ、おにいちゃん。オナニーするの、これがはじめてじゃないでしょう。おうちにいた頃もひとりでこっそりやってたくせに。恵のこと考えながらひとりでやってたんでしょう、だからそんなに敏感なんでしょう、ねえ。ほら、もう先っぽに雫が滲んでるじゃない。恵にいじめられて興奮してきたの?恵にいじめられるのが好きなの、おにいちゃんは?」
 恵の顔に声が重なる。
 現実のタジマの声が記憶の中の恵の声へと変化、僕を周到に追い詰めていく。違う、恵はこんなことを言わない、言うはずがないと心の中で反論する。僕の罪悪感が生み出した恵の幻覚が現実にはありもしないことを喋っているだけだと懸命に暗示をかけ、両手でペニスを擦る。
 「……はっ、あっ、あっ……」
 「今だってそう、自分でやりながら恵のこと思い出してるんでしょう。恵の裸妄想してヌいてるんでしょ。酷いお兄ちゃん、恵まだ生理もきてないのにお兄ちゃんにヤられちゃった。大人になる前に女になっちゃった。ねえ、想像の中で何回犯したの?恵のおなかに頬ズリしてあそこをぴちゃぴちゃ舐めて」
 耳を塞ぎたい。だが、両手は使えない。手の動きが速まり、排尿感が強まる。射精したい。瞼の裏側に恵の顔がちらつく。やめろ恵、そんな目で僕を見るな。心と体が引き裂かれる。加速がついた手は僕の意志を裏切り勝手に動き、近く訪れる絶頂を速めようと夢中で前後する。
 耳朶に吐息がかかる。タジマの吐息。タジマの舌が僕の耳朶に絡み、耳の穴へと潜りこむ。唾液を捏ねる淫猥な音。耳朶を甘噛みされるたび、鋭い性感が芽生えて体がびくんと跳ねる。
 「恵とヤりたい?」
 「頼むやめてくれ嫌だ、恵の名前をだすな、恵の真似をするな、忘れさせてくれ!!」
 今この瞬間だけは恵のことを忘れたい、恵に関する記憶を抹消したい。恵の姿をした何者かが僕を糾弾する。僕は近親相姦の変態だと、妹を独占したいがために両親を刺殺した最低の人間だと苛烈に責め立てる。
 どちらが真実だ、タジマが言うことが真実なのか?僕は恵に性欲を感じてそれで恵を独占したくて両親を殺したのか、それが僕さえ気付いてない事件の真相だというなら皮肉な結果だ。両親を殺したことで恵の心は永遠に僕から離れてしまったというのに。
 絶頂が近い。手の中でペニスの体積が膨張する。
 タジマが僕の耳朶を咥える。耳の裏側に潜りこんだ舌が卑猥に蠢いて性感帯を刺激する。
 「本当は恵とヤりたいんでしょうおにいちゃん。いいよヤらしてあげる、そんなに恵のことが好きなら一回でも二回でも十回でも好きなだけヤらしてあげる。恵の中で射精しなよ、ヒニンしなくていいよ、恵まだ生理きてないから赤ちゃんできる心配は……」
 理性が爆ぜ、頭が真っ白になる。
 「あっ、あああああああっあああっあ……!?」
 ペニスの先端からは白濁した精液が迸り、裸の下腹部に飛び散る。射精の瞬間。手の中でびくびくペニスが脈打ち、白濁の残滓を絞る。凄まじい快感。顎先から滴った汗がシーツに染みを作るさまを眺め、力尽きたように首をうなだれた僕の耳の奥に、恵の声が甦る。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 僕を断罪する恵の声。確かに僕は死んだほうがマシな人間かもしれない。射精の瞬間に考えていたのが妹のことだなんて、口が裂けても言えない。瞼の裏側にちらついていた恵の幻は達すると同時に急速に薄れていった。
 ベッドに蹲り、肩で息をしながら股間を見下ろす。
 ペニスは既に力を失い萎縮していた。
 言われた通り自慰を終えた。これでタジマも満足するはず、文句をつけられないはずだ。
 「写真を返せ」
 ズボンを穿くのも忘れ、タジマのほうへと片手を突き出す。タジマはにやにやと笑っている。自堕落に弛緩した笑顔に不安が募る。まさか、約束を反故にする気か?僕は交換条件を呑んで言われた通り自慰をしたのに。
 「返せばいいんだろう。ほらよ」
 猜疑心に満ちた目つきでタジマを睨む僕の頭上に写真が降ってくる。慌てて手をのばし、写真をすくいとる。よかった、無事恵を取り戻した。もう大丈夫だ恵、安心……
 「……………な、」
 恵の顔に白濁が散っている。精液の残滓がこびりついている。恵の写真を手にしたまま愕然とする僕を一瞥、飄々とタジマがうそぶく。
 「誤解すんなよ、俺が汚したんじゃねえぜ。お前が射精した時、こっちまで汁がとんだんだよ。はは、目え閉じてて気付かなかったってのか?お前がイくとこ妹によく見せてやろうって股間に近づけてやったんだ、そしたら至近距離でザーメンかぶっちまって……よーくその写真見てみろ、可愛いお口でフェラしたみたいじゃんか。どうせならその写真をズリネタにもう一回」
 防波堤が決壊した。
 声にならぬ叫び声をあげ、我を忘れてタジマに殴りかかる。恵が汚れた、汚されてしまった。恵にだけは綺麗でいてほしかったのに、綺麗なままでいてほしかったのに!
 「僕は、僕は貴様に言われた通り自慰をした命令に従った、命令に従えば恵を返してくれると約束したからそれを信じてどんな屈辱的な行為も耐えた、それなのに!!」
 「おいおい、責任転嫁するなよ。妹を汚したのは俺じゃねえ、お前だろうが」
 胸ぐらを掴んだ僕の手を万力めいた怪力で締め上げ外し、タジマが嘲弄する。ベッドに落ちた写真に一瞥くれ、僕の手首を掴んで押し倒す。タジマが上にのしかかる。
 「僕が、僕が恵を汚したというのか!?」
 反論しようとした。僕は恵を汚してなどないと、恵に対して疚しい気持ちなど抱いてないと。だができなかった、現に僕は恵を汚してしまった、タジマに吹き込まれた妄想の中で恵を裸にして……射精の瞬間も恵のことを考えていた最低の兄だ、僕はもう恵の兄を名乗る資格がない!
 「妹のこと考えながらヤッてたくせに今さらいい子ぶるなよ。いいぜ、その写真はくれてやる、それオカズにして好きなだけ自慰しろよ。犬みたいに喘いで妹の顔にザーメンぶっかけてやれよ」
 恵を汚した僕など死んだほうがマシだ。あんなに守りたかった妹なのに、あんなに愛しかった妹なのに。
 今の僕には房で首を吊ったリュウホウの気持ちがわかる。これ以上生きててもいいことなど何もない、惨めと辛さが増すだけだと死を招く絶望に至った人間の行動がよくわかる。
 どうして先に逝った、リュウホウ。
 僕だけ残して先に逝った。

 僕を置いていった?

 「お前ひとり気持ちよくなるのはずるいよなあ」
 僕の腰に跨ったタジマがズボンの前を寛げ、赤黒く勃起した醜悪な性器を露出する。タジマが僕の自慰を見ただけで満足するとはとても思えない、あれは前戯、僕の服従心を試す悪趣味な芸に過ぎになかったのだから。暴れても無駄だ、すべて受け容れてしまえ。どうせタジマからは逃げられない、この地獄に終わりはない。振り上げたこぶしの行き場を失い、ぐったりと四肢を投げだし、天井を仰ぐ。
 耳障りな衣擦れの音。僕の体をまさぐる乾いた手、荒い息遣い、太股に押し付けられる勃起した性器の感触……すべてがどうでもよかった。心は麻痺していた。僕はただ体を苛む熱だけを感じていた。
 「うっ……」
 性急な愛撫で熱を煽られ、涙をためた目で枕元を見れば、恵の写真が落ちていた。
 恵がじっとこちらを見ている。
 タジマに犯される僕を見ている。瞬きしない目で、何か言いたげな顔で。
 嫌だ。恵に見られながら犯されるのは嫌だ。せめて写真を裏返そうと手を伸ばすが、あともう少しのところで指先が届かず歯痒くなる。虚しくシーツを掻きむしる僕の腹の上、鼻息を荒げたタジマが目敏くそれを察し、枕元の写真へと精一杯伸ばした僕の腕を押さえ付ける。
 「妹に見られながら自慰したんだ、今度は妹に見られながら強姦された感想教えてくれよ」
 恵が僕を見ている。黒目がちに潤んだ目にひたと僕を映している。目を閉じてくれと頼みたくても写真の恵は瞬きひとつせず、指一本動かさず、哀しげな顔でこちらを見つめ続けているのだ。
 僕は写真を伏せることさえできない。恵の凝視からもタジマの愛撫からも逃れられない。額に片腕をのせ、目を覆う。見るな、見ないでくれ。こんな惨めな僕を見ないでくれ、哀れまないでくれ、蔑まないでくれ!こんな僕だけどまだ恵の兄でいさせてほしいんだ、プライドを持たせてほしいんだ、鍵屋崎恵を庇護する兄として自信とプライドをもって生きていきたいんだ!
 いっそ気が狂ってしまえばどれだけ救われたか知れない。僕はリュウホウが妬ましかった、羨ましかった。何故僕を置いていったリュウホウ、僕を残してひとり逝った?ダイスケもそうだ、あの日僕と一緒にジープの荷台に乗せられ東京プリズンに着いた同期の囚人は皆死んでしまい皮肉にも僕一人が生き残った。
 現実に生きていても地獄なら、死んでも変わらないじゃないか。
 「泣いているのか」
 泣いている?タジマの指摘で初めて気付く。涙腺が緩み、目尻から零れた熱い液体がこめかみを滴る。馬鹿な。タジマが嘲り笑う前で涙液が分泌されたことに動揺、後から後からこみあげる涙を嚥下しようときつく目を閉じる。もう何も見たくない。
 恵の写真もリュウホウの幻覚も……今も房で眠れぬ夜を過ごし、僕を待ち続けるサムライの顔も。
 思考を全放棄。一度快楽に身を委ねれば嫌なこと全部忘れられる、救いない現実を忘れられる。僕はタジマに酷く抱かれることを欲していた、体も心も完膚なきまでに嬲られて痛覚が麻痺することを望んでいた。
 「犯したいなら犯せばいい。力づくで暴いて犯してすべて自分の物にする優越に酔えばいい」
 皮肉げな笑みを形作り、タジマを挑発。
 「さあ、安田を抱く代わりに僕を抱け」
 「…………っ、言わせておけば調子のりやがって!」
 憤怒の形相に変じたタジマが僕の腰を抱え上げ、尻を高く掲げ、怒張した男根を肛門の窄まりにあてがう。

 そうだ、これでいい。これこそ僕の望んだことだ。

 目の位置を片腕で覆い隠し、口元に薄く笑みを浮かべる。
 今の僕には死神に手招きされたリュウホウの気持ちがよくわかると自嘲しつつ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010625003828 | 編集

 入所半年が経過してだいぶ髪が伸びた。
 「……」
 それに気付いたのは洗顔時。
 東京プリズンの囚人は夜九時就寝朝五時起床を義務付けられた規則正しく健康的な生活を送っている。というのは建前で実際には看守の目を盗んで夜更かしする囚人も多く、睡眠時間が不規則になる。
 半日を過酷な強制労働に費やした後に帰着しても、夕食を終えた囚人にはごく短い自由時間しか認可されてないため、就寝時刻が過ぎてからこっそり起き出して、深更から明け方まで隠れて自分の趣味に没頭する囚人も少なくない。

 趣味、と一口に言ってもさまざまだ。

 乾いた精液でページが糊付けされた猥褻な雑誌をめくり自慰に耽るもの、コネを使って入手した酒をたずさえて房を抜け出し、通路の奥の行き止まりや既に封鎖された階段の踊り場などの死角に集い派手に騒ぐもの。
 その他にも和気藹々と賭け麻雀に興じるものなど、東京プリズンの夜は事実上無法地帯と化している。
 看守に発覚しなければ東京プリズンでは何をしてもいいことになっている、リンチやレイプに代表される数々の犯罪行為も黙認される。
 深更、囚人が少々羽目をはずして騒いだところで看守に勘付かれさえしなければ何も問題ないのだ。
 いや、本来囚人を管理し監督すべき看守自身が賄賂で買収されて口裏を通じた前例も多々ある。
 だが僕には、毛頭その気がない。
 消灯時間を過ぎれば毛布にくるまって大人しく寝ている。
 長い夜にも未練はなかった。
 東京プリズンに来てからというもの睡眠時間は短縮された。
 眠れば高い確率で悪夢にうなされるとわかって意識が睡魔に抵抗してるのかもしれない。
 しかし、目を閉じていればそのうち必ず眠りは訪れる。
 睡魔に降参する瞬間が訪れる。僕はただベッドに仰臥して瞼が鉛のように重たくなるのを待てばいい、指一本動かさずに天井を仰いでいればいいのだ。

 隣のベッドからはかすかな、本当にかすかな寝息が聞こえてくる。

 サムライの寝息。サムライは睡眠中も殆ど寝返りを打たず、衣擦れの音もたてず、姿勢よく仰臥している。あまりに静かなので時々心停止してるのではないかと心配になるが、その都度耳をそばだて、規則正しい寝息を確認して安堵の息を吐く。
 サムライは寝てても姿勢がよい。胸まで引き上げた毛布の上に片手をおき、もう片方の手を脇に伸ばして、顔はきちんと正面の虚空を向いている。
 僕はサムライがよく眠っているのを確かめてから、漸く安心して目を閉じる。
 サムライが隣にいれば何も心配ないと自己暗示をかけて。
 ……話が逸れた。軌道修正する。
 最近僕はとみに物思いに耽りがちで思考が脱線しがちだ、脈絡なく話がとぶのはレイジの悪影響かもしれない。何の話をしていたのか……そうだ、髪だ。

 東京プリズン入所半年が経過した現在、ある朝顔を洗おうと鏡と向き合った僕は、自分の髪が伸びていることに気づいた。当たり前だ。半年も放置しておけば爪も髪も伸び放題だ。半年前と比べて僕の身長は五cm以上伸びた。髪も例外ではない。いつ頃からか前髪は両目にかかり視界を遮るようになり、後ろ髪がうなじを覆うほどになった。これではもとから悪い視力がさらに低下してしまう。
 野暮ったい前髪を手で払い、蛇口を締める。小気味良い音が鳴る。ひとまず顔を洗い終えた僕は、正面の壁に嵌めこまれた鏡を覗きこむ。手垢で曇った鏡には蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。鏡に映った僕の顔にまで亀裂の触手が伸びていた。一日二食の質素なせいで顔は不健康に痩せていた。
 眼鏡越しの双眸に諦観が淀んだ憔悴の面差し。
 「相変わらず顔色が悪い」
 まじまじと自分の顔を観察し、感想をもらす。
 神経質に顎の尖った面立ちは取り付きにくい印象を抱かせる。濡れ髪を指で梳き、わずかに顔をしかめる。いい加減髪を切りたい。前髪が目に入って邪魔だし、第一不潔だ。
 誤解しないでくれ、僕は一日も欠かさず石鹸で髪を洗っている。
 僕は潔癖症だ。
 鍵屋崎の実家にいた頃はノブの指紋にも我慢できなかった。他人の指紋が付いたノブになど触れたら菌に感染しそうだ、という先入観を拭いされなかった。
 東京プリズンに来てだいぶマシにはなったが、それでも譲れない一線はある。ここに鋏があれば自分で髪を切れるのにと舌打ち、洗面台に手をかけて房を見まわす。
 殺風景な房だ。
 配管剥き出しの天井には死斑に似た不気味な染みが浮き出し、四面を塞いだコンクリ壁が強迫的な閉塞感を与えてくる。左右の壁に沿うように設置されたパイプベッドの片方はもぬけの殻、もう片方にはサムライが寝ている。
 憂慮のため息をつき、再び鏡に向き直る。
 前髪を指で梳いて整えつつ、思案顔で俯く。
 そういえば、他の囚人はどうしてるのだろう。サムライは無精で髪を伸ばしてるらしいが、僕より前に入所したロンは短髪だ。レイジは襟足で髪を結わえてるが、長くここにいるならもっと伸びてるはずだろうに。まさか、東京プリズンに床屋が?……荒唐無稽な想像だがありえない話ではない。おおかた、手先の器用な看守や囚人が副業で床屋を手がけて金をとっているのかもしれない。
 「爪垢のたまった不潔な手に髪をさらせるなど冗談じゃない」
 看守の手が僕の髪に触れるさまを想像し、苦々しく吐き捨てる。
 髪にかぎらず、僕の体のどの個所も他人に触れられるのは我慢ならない。
 生理的嫌悪の限界だ。不快感で吐き気を覚える。
 思い出すのは売春班の記憶。僕をベッドに寝かして脱がし、体の表裏を貪欲にまさぐる乾いた手……
 おぞましい感触を想起し、二の腕が鳥肌立つ。
 やはり駄目だ、他人に触れられるのは耐えられない。僕の接触嫌悪症はまだ完全には治ってない。しかし、ならばどうする?誰かから鋏を借りる?誰が鋏を持ってるというんだ、借りるあてはあるのか。レイジなら鋏を持っているだろうか……

 「直?」
 「!っ、」

 俯き加減に物思いに沈んでいたため、背後に接近した人の気配に気付かなかった。
 反射的に振り返ればサムライがいた。いつのまに起き出したのか全然気付かなかった。
 「君はアメンボか?足音もなく移動するんじゃない。哺乳類なら肺呼吸しろ、呼吸音を聞かせろ」
 「洗面台を使いたいのだが」
 驚かされた反感からサムライを睨むが効果はない。
 まったく、水面をわたるアメンボでさえもう少し存在感があるだろうに。サムライがそっけなく顎をしゃくり、僕をどかし、洗面台の前に立つ。
 蛇口を捻り、頭を垂れ、両手に水を受けて顔を洗う。
 洗顔は毎日の習慣だ。起床してまず最初にすることだ。だからサムライが顔を洗うのは何も不自然じゃない、不自然じゃないが、洗面台の前にいた僕に「おはよう」の一言くらいあってしかるべしじゃないか?起床の挨拶は最低限の礼儀だろうに、武士のくせに無神経な男だと憤慨する。
 一日のはじまりから不愉快な気分を味わった。顔を洗うサムライに背中を向けた僕は、大股にベッドに取って返す。
 「待て」
 唐突に呼びとめられる。
 「断っておくが、僕が起床してから十一分二十秒が経過してる。「おはよう」は起床後十分以内限定だ。第一僕は今とても君と挨拶を交わす気分じゃない。洗面台の前で深刻に悩んでいたら無愛想に顎をしゃくられ「どけ」と意思表示され、朝の爽やかな気分を台無しにされたんだ」
 振り返りもせず抗議する。僕は怒っていた。なんてデリカシーに欠ける男だ、信じられない。僕が起きていたのに気付いたなら一声かけてくれてもいいじゃないか。おかげでこちらはサムライの接近にも気付かず、洗面台の前で間抜けに立ち尽くし、神経質に前髪を梳いてるところを目撃されてしまった。
 一生の汚点、失態だ。サムライの前で無防備な姿をさらすなど。
 だがサムライは、僕の不機嫌な理由を知ってか知らずか、いつも通りの口ぶりで言う。
 「直。少し髪が伸びたんじゃないか」
 「え」
 表情が固まる。
 何故わかったんだ?サムライに指摘され、不覚にも動揺する。手拭いで顔を拭き、体ごとこちらに向き直ったサムライが平然と続ける。
 「俺が近付くまで熱心に鏡を見ていたから何事かと思ったが、しきりと前髪を梳いていたからよもやと思い言ってみたまでだ」
 サムライは洞察力が鋭い。僕の何気ないしぐさから現在の悩みをたちどころに見ぬいてしまった。今また無意識に前髪に触れようとした手を慌てて引っ込め、背中に隠す。僕としたことが今日は朝から失態続きだ。失態の連続だ。こんな些細な悩み事まで看破されてどうするんだ、天才のくせに。
 こうなってしまった以上仕方ない。
 「……まったく、勘だけは鋭いな。君の洞察力には敬意を表する。だがその程度の単純な推理で優越感をもたれてはこまる。僕が頭にふれていたから髪の長さを気にしていると短絡的に決め付けて今回はたまたまそれが的中していたからいいようなもの、脳腫瘍ができて偏頭痛を堪えてる可能性も……なんだ?」
 サムライが大股に近付いてくる。
 サムライは僕より二十センチ以上身長が高いため、歩行に威圧感がある。物静かな物腰と端正な佇まいが融和した歩き方は帯刀した武士のごとく言い知れぬ迫力を感じさせた。 
 「怒ったのか?逆上したのか?自慢の木刀で斬るつもりか」
 サムライは答えず、次第に近付いてくる。
 「僕は悪くないぞ、悪いのは君だろう。大体君は亭主関白なんだ、言いたいことがあればそう言えばいいのに無言の眼光でひとを威圧して……同房の人間がすでに起きてることに気付いたのならまず言うことがあるだろう、挨拶をするのが最低限の礼儀だろう。円滑な人間関係を築く為に挨拶は不可欠な要素だと教わらなかったのか。日本語の『おはよう』を知らないなら特別に外国語を許可しよう。ドイツ語でグーテン・モルゲン 、スロバキア語でドブレー・ラーノ、ヘブライ語でボケルトフ、スワヒリ語でフジャムボ……」
 精一杯虚勢を装い淡々と解説しつつも、眼光鋭く僕を射抜くサムライを前に動揺を隠せない。まさか、あの程度のことで本気で怒ったのか?僕はサムライの人格を過大評価していたのか、サムライはあの程度のことで腹をたてるような狭量な男だったのかと自問する僕の眼前でサムライがぴたりと止まる。
 姿勢正しく僕の正面に佇んだサムライが、緊張する僕をよそに、思いがけぬ行動にでる。

 「木刀では斬れぬが、鋏なら切れる」

 は?
 手を払う暇もなかった。
 僕の前髪を一房すくいとったサムライが、少しだけ言いよどみ、やがて決心する。
 「自分で後ろ髪を切るのは難しいだろう。よければ、俺が切るが」
 僕の予想を裏切る展開だった。あっけにとられた僕の顔を覗きこみ、サムライが言う。
 「任せてくれないか」
  
 「痛くするなよ」
 迷った末サムライに散髪を任せることにした。
 サムライの言う通り後ろ髪を自分で切るのは難しい。洗面台の鏡に映していちいち確認しながら切っていたら、集中力が散漫になり手元が危なくなる。
 それ位ならいっそ、手先が器用で信用できる人間に任せたほうがましだ。僕はサムライの申し出を承諾した。サムライなりに僕に気を遣って言ってくれたのだろうし、友人の配慮を無にするのも忍びない。
 だが、正直、少しどころではなく心配だ。
 僕の背後に片膝ついたサムライは片手に鋏を持っていた。
 この房に鋏があったなんて、サムライが持ち出してきて初めて知った。
 床に四つん這いになってベッドの下を探っていたサムライの手に鋏を発見したときは驚いた。
 「心得た」
 サムライが神妙に頷き、細心の注意を払い、僕の後ろ髪に触れる。
 うなじが外気にふれるひやりとした感覚に身が竦む。
 大丈夫だ、サムライになら安心して任せられると自己暗示をかけて目を閉じる。サムライの手は不快じゃない。気持ち悪くない。僕はサムライの体温が心地よいことを知っている。
 だから大丈夫、まかりまちがっても手元が狂って鋏が頚動脈を傷付けるようなことは……
 「あ」
 「あ!?」
 『あ』とはなんだ、一体何をした?
 サムライがもらした一言に過敏に肩が跳ねる。
 「聞き捨てならないな、『あ』とはなんだ、貴様僕の頭髪に一体なにをした?僕の首がこれ以上回らないのをいいことに前衛的な表現をするつもりか?」
 「……心外だな、今のはただ」
 「ただ何だ、言ってみろ」
 サムライが曖昧に言い淀み面を伏せる。
 沈痛に俯くサムライを視線で促せば、ベッドの上に正座したサムライがためらいがちに指をのばして僕のうなじに触れる。
 長く骨張った指が、うなじの産毛をくすぐる不思議な感覚。
 「歯型だ」 
 直感した。
 サムライが後ろめたげに目を伏せた理由もわかった。僕のうなじにはまだ歯型が残っていたのだ、犬歯の窪みが穿たれていたのだ。このまえレイジに噛まれた時の名残り。
 首の後ろを鏡に映したことがないから気付かなかった、盲点だった。
 普段は後ろ髪に隠れて外気にふれることもないうなじを繊細な指遣いが撫でる。
 「このあいだレイジに噛まれたあとだな」
 「ああ、その通りだ。まったくレイジときたら、いくら興奮してたからとはいえやたら滅多らひとを噛むものじゃない。発情した雄猫には雌猫の首の後ろを噛む習性があるが、僕は雌猫じゃないのだから噛まれて大人しくなるわけもない」
 「痛いか」
 「痛くはない」
 「そうか」
 サムライが安堵の息を吐き、独白。
 「よかった」
 本当に僕を心配してることが伝わってくる真摯な声音だった。
 おもわず振り向いた僕の目に映ったのは、同じ房で暮らしていても滅多に見ることができないサムライの笑顔。安堵に頬を緩めて口元をほころばせ、切れ長の双眸を柔和に細め、サムライはよく見なければわからないほどうっすら微笑していた。 
 「……雑談はいいから早く作業を進めてくれ。早く散髪に着手しないと時間がなくなるぞ、僕はともかくとして君にはブルーワークの強制労働がある。あともう少しすれば起床ベルが鳴って朝食が開始される」
 「わかっている」
 サムライが憮然と呟き、背筋を伸ばす。
 金属の刃が擦れ合う音がすぐ耳元でした。
 ベッドに腰掛けた僕は、膝の上に手をおき、正面の壁に視線を投じる。サムライが後ろ髪を一房手にとり鋏の刃を噛ませる。背後の様子は見えなくとも音と気配でわかる。
 シャキン、シャキンと涼しげな音が連続し、白いシーツの上に髪の毛が散る。僕の髪の毛だ。
 サムライの手に、指に、身を委ねる。
 不思議に心地よい時間だった。
 近隣の囚人はまだ寝ているらしく、あたりは静かだった。起床ベルが鳴るまであと十分少々時間がある。天井の中央には裸電球が点っている。 
 ……気まずい。
 自分で「雑談はいいから」と前置きしたものの、サムライが黙々と鋏を使えばそれはそれで落ち着かなくなるのだから妙なものだ。
 なにも疚しいことをしてるわけではないのにひどく後ろめたいのは何故だろう、自分の精神状態が不可解だ。首の後ろの歯型をサムライに見られた。
 レイジに噛まれた痕。もうとっくに完治したと思っていたのに……
 「刃物の扱いに慣れてるだけあって手先が器用だな。落ちぶれても武士ということか」
 沈黙に耐えかね、努めてさりげなくどうでもいいことを言う。
 サムライが後ろ髪を切ってる最中は肩越しに振り向くことができないため、正面を向いたまま。サムライが今どんな表情を浮かべているのか確認する術もなく、不安が募る。
 鋏の音がやむ。手の動きが止まる。
 首の後ろにそっと無骨な指が添えられる。
 「!っ、」
 変な声が漏れた。
 歯型の窪みをなぞるように円を描く指の動きに、うなじの産毛が逆立つ感覚を覚える。不意打ちだった。どうも僕は首の後ろが弱いらしい。
 ひんやり硬質な鋏の刃が触れた部分に、今はサムライの指が乗せられている。中指と人さし指。
 「痩せたうなじだな」
 サムライが耳元で囁く。
 そんなこと今更言われなくてもわかっている。東京プリズンに来てから僕の体重は激減してうなじの肉がすっかり削げ落ちてしまった。
 「ちゃんと食べてるのか?最近ますます痩せたんじゃないか」
 「失敬だな。売春班にいた頃より食べているし嘔吐もしなくなった、前より体調はいいくらいだ」
 サムライの指を意識しながら言い訳がましく反論する。喉を撫でられた猫のような、とでも表現したくなるような心地よいくすぐったさがサムライの指から広がってゆく。
 「付け加えるが僕が前より痩せて見えるならそれはきっと身長が伸びたせいだ。身長が伸びたのに体重が減ったから以前より痩せて見えるだけで実際はそう変わらない。早い話が脳の記憶齟齬が引き起こす目の錯覚だな。さあ続けろ、手が止まっているぞ」
 「身長か……そういえば、はじめて会った時より伸びたな」
 「売春班就労時の身体検査で165.2cmと測定された」
 口調が少し得意げになる。
 これで少しはサムライに追いつけたという満足感に酔っていた僕に水をさしたのは、サムライの余計な一言。
 「……背が伸びたのは結構だが、偏食は感心せん。骨が脆くなるぞ。ただでさえ細いのに何かの拍子に躓いて骨折したらどうする?骨を鍛えたければ魚の小骨をよく噛み砕いて食べ」
 「黙れ低脳、偉そうに僕に意見するつもりか?魚の小骨にカルシウムが多く含まれてることくらい当然知っている、いやそれ以外にも魚には多様な栄養分が含まれている。日本の一般家庭で多く食されてるアジを例に挙げよう。アジにはたんぱく質、脂肪、ビタミン、カルシウムなどすべての栄養素がバランスよく含まれて子供の成長に好影響をおよぼしなおかつEPAやDHAが豊富、血液中の悪玉コレステロールを除去して血栓を防ぐとともに脳を活発化させる働きが」

 しまった、僕としたことがついむきになったしまった。

 動揺をごまかし、眼鏡のブリッジに触れる。
 それもこれもサムライのせいだ、全部サムライが悪い。彼の無神経な言動を侮辱ととって激しく反論した僕は、声を荒げたことが恥ずかしくなり、ややわざとらしく咳払いし所帯じみた会話を打ちきる。
 魚の成分解析などどうでもいい、冷静になれ鍵屋崎直。
 サムライは親切で言ったのだ。甚だお節介な一言には変わりないが、僕も天才ならもう少し寛容にならなければ。  
 再び沈黙が落ちた。
 金属の刃が擦れ合う甲高い音だけが軽快に響く中、僕はいつしか目を閉じてサムライに身を任せていた。
 サムライの手並みはあざやかだった。
 極力無駄を省いた正確な動きで巧みに鋏を操り、うなじにかかる後ろ髪を切り落としてゆく。

 注意深くサムライの表情を窺う。

 サムライはひどく真剣な面持ちで僕のうなじを見詰め、片手に僕の後ろ髪を一房ずつ乗せては一抹の未練なく断ち落としていく。
 手に構えているのが真剣なら様になったろうが、鋏では少々間抜けな感を拭えない。
 眉間に呻吟の縦皺を刻み、口元を一文字に引き結び、職人気質の熱の入れようで鋏を操る姿は普段との落差を踏まえれば滑稽でもある。 
 「なにを笑っている?」
 「いや、笑ってないぞ。鋏を扱う手際に見惚れていただけだ」
 まんざらお世辞でもない。
 鋏をあやつる手慣れた様子から察するに、過去に僕以外の人間の髪を切ってやった経験でもあるのだろうか。そこまで漠然と考えてある事実に思い至り、胸が締め付けられる。
 サムライが手ずから髪を切ってやる人間など、ひとりしかいない。

 苗だ。

 「………」

 サムライは過去に苗の髪を切ったことがある。畳の匂いが爽やかにたちこめる和室で、行儀良く正座した苗の背後に回りこみ、苗の髪を手にとり、丁寧に櫛を通してからその合間に鋏を滑らしたことが。
 苗もこの音を聞いたのだろうか。
 すぐ耳元で聞こえる金属の刃が重なり合う音、シャキンシャキンと鳴る甲高い音。
 苗の髪を撫でるサムライを想像する。
 僕は帯刀貢を知らない。
 僕が知っているのは現在のサムライだけ、かつて帯刀貢と呼ばれた頃のサムライとは面識がない。苗は帯刀貢の恋人だった。剣しか生き甲斐のなかった帯刀貢が唯一心の底から愛した女性だった。
 苗もまた帯刀貢を愛していた、女の命と呼べる髪を無防備にさわらせるほどに。
 複雑な感情が胸を責め苛む。
 今ここにこうしているべきは僕ではない、本来サムライの指は苗のためにある、苗の髪に触れるためにあるのだという根本的な違和感が暗澹と胸を塞いでゆく。

 「サムライ」
 どうしても聞かずにはいられなかった。 
 「なんだ」
 髪を切る手はとめずにサムライが問い返す。生唾を嚥下し、覚悟を決める。
 「以前にもこうして、苗の髪を切ってやったことがあるのか?」

 鋏の音がやんだ。
 瞬間、無神経な質問を後悔する。
 口にすべきではなかった。苗は帯刀貢との仲を当主に無理矢理引き裂かれて首を吊って死んだ。苗の死は今もサムライの心に暗い影を落としている。わかっていたのに言ってしまった、好奇心を優先してしまった。
 サムライの過去を知りたいという欲求を抑圧できなかった、苗の素顔に迫りたいという願望をおさえこめなかった。
 一呼吸おいて散髪を再開し、サムライが答える。
 「……ああ、そうだ。以前、俺がまだ外にいた頃、苗の髪をこうして切ってやったことがある。苗は綺麗な黒髪をしていた。烏の濡れ羽色という比喩がふさわしい艶やかな髪を腰までまっすぐ伸ばしていたが、ある日、庭の掃き掃除をしているときに蜘蛛の巣に突っ込んでしまってな」
 サムライが柔らかく苦笑し、優しい声音で過去を回想する。
 「苗は慌てて蜘蛛の巣を払ったのだが、後ろ髪に絡みついた糸がどうしてもとれずに、ついには俺を頼ったのだ。手数をかけてすまないが、鋏で蜘蛛の巣を断ち落としてくれと」
 苗との優しい記憶を語るサムライの声はこの上なく柔らかく、哀切な郷愁に満ちている。心の琴線をかき鳴らす声だった。
 散髪の妨げにならないよう用心して身をよじり、サムライが今どんな表情を浮かべてるか探ってみる。背後に正座したサムライは、相変わらず僕のうなじへと目を落とし、長短の乱れなく正確無比に後ろ髪を切り揃えていた。

 サムライの指が時折首のうしろに触れ、ぬくもりが伝わってくる。
 だれかと触れ合うことがこんなに心地いいなんて、僕は知らなかった。

 売春班で僕は口には出せない性行為を強制されて快楽に慣らされたが、誰と体験したどんな性行為にも増して、今この瞬間、ただサムライに触れられてるだけで充実感を覚えていた。 
 「女の髪を切るのははじめてだから手間取ったが、なんとか無事蜘蛛の巣を断ち落とすことができて、苗に感謝された。昔の話だ」
 瞼の裏に在りし日の苗とサムライ……否、帯刀貢の姿が浮かぶ。
 今より若く少年らしく凛々しい面持ちのサムライが、戸惑いがちに苗の髪へと手を伸ばす。堅苦しく正座したサムライの前には苗がいる。雛人形のように行儀よく正座した後ろ姿。  
 『苗は綺麗な黒髪をしていた』
 ああそうか。サムライはまだ、苗の髪の手触りを覚えているんだ。
 だから僕の髪を切りながら、髪の手触りを亡き恋人のそれに重ね、甘美な追憶に浸っているんだ。
 昔の話じゃないだろう、と心の中で反駁する。サムライの中では今も苗の面影が生きている。こうして僕の髪を切りながら、僕に触れながら、心の中では苗を想っている。想い続けている。
 僕は苗の代用品だ。
 そうだ、薄々感づいていた、僕が苗の代用品に過ぎないことくらい当然わかっていた理解していた自覚があった。苗は僕を守る行為を通して苗の幻影を見ている。
 サムライが苗の面影を僕に重ねるかぎり僕らはいつまでたっても対等になれない、僕は苗の身代わりにしかなれない。
 首の後ろにふれるサムライの指が心地よいのに、体はサムライの指を求めているのに、胸が痛むのは何故だ?このやりきれない行き場のない想いをどうすればいい、どこにぶつければいい?
 さまざまな葛藤を飲み下し、心ここにあらずのサムライからよそよそしく目を逸らし、正面を向く。
 「知っているかサムライ、異性に髪をふれさせる行為は女性にとって特別な意味をもつんだそうだ。人体の中でも頭皮はとくに敏感にできている。髪は女の命という古い諺からもわかるとおり、女性が自らすすんで髪をふれさせるということは意中の男性に心をふれさせる行為でもあるんだそうだ」
 「くどいな。言いたいことがあるならはっきりと、」
 「苗は、君のことを愛していたんだな。命を預けてもいいほどに」
 サムライが面映げに押し黙る。
 それからしばらくして完全に鋏の音がやみ、それまで首の後ろに添えられていた指がすっと離れてゆく。

 やめないでくれ、もう少しこのままで。

 何故そんなことを思ったのか不可解だが、一瞬、ほんの一瞬だけ、サムライの指を追いかけようとしたのは事実だ。
 ずっとサムライと繋がっていたかった、ずっとサムライのぬくもりを感じていたかった。 

 サムライのぬくもりを独占していたかった。
 サムライの指を僕の物にしたいと思ってしまった。

 「どうだ?」
 傍らに鋏を置いたサムライが静かに聞いてくる。おそるおそる首の後ろをさぐってみる。うなじを覆い隠すまで伸びていた後ろ髪が短く切られて首がさっぱりしていた。 
 首の後ろに手をおいたまま、ベッドに腰掛けた姿勢から半身を捻り、皮肉げな笑みを浮かべてサムライを仰ぐ。
 「よろこべサムライ。僕の髪に触れる資格をくれてやる」
 前髪は鏡を見ながら自分で切れる。サムライの手から鋏を譲り受けた僕は、シーツの上に散乱した髪の毛を一瞥、手で乱暴に払い落とす。サムライも無言で手伝う。
 髪の毛を床へと払い落とす最中にサムライと肘がぶつかった僕は、はじかれたように顔を上げる。
 サムライが優しい眼差しでこちらを見つめていた。
 「石鹸の匂いがしたぞ」
 すぐには何のことを言われてるかわからなかった。やがて理解した、サムライは僕の髪の匂いを嗅いだのだ。僕の後ろ髪をすくいとり、うなじに顔を近付け、肌から匂い立つ石鹸の香りを嗅いだのだ。 
 「いけないか?仕方ないだろう、石鹸しかないんだから。僕とて本意ではないが水洗いでは汚れが落ちないし」
 「いや」
 サムライが短く否定し、まっすぐに僕を見つめる。
 「いい匂いだった」
 「……馬鹿な、石鹸の匂いにいいも悪いもあるものか。合成保存料や酸化防止剤が使用されてるというのに、もし本気でそう感じたんだとしたら嗅覚がおかしいと断定せざるをえないな」
 いや、何も僕が動揺することはないのだ。サムライがいい匂いと評したのはあくまで石鹸の芳香であって僕の体臭ではない、従って動揺する必要などないのだ。心の中で言い訳しつつシーツを整えていた僕の脳裏をふと一抹の疑問がよぎる。
 はげしくかぶりを振り、脳裏に兆した疑問を打ち消す。

 まさか、こんなことサムライに聞けるわけがない。
 苗の肌はどんな香りがしたかなんて。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010617033101 | 編集

 街はずれにある廃墟の教会。
 礼拝者が絶えて久しいその場所に、神をも恐れず乗り込む男がいる。

 「おーい、いるか。いるなら返事しやがれ」

 冒涜的な胴間声を張り上げ、躊躇なく教会内に踏み込む。
内と外を隔てる扉には無数の弾痕が穿たれている。蜂の巣と化した扉が倒れた先、正面玄関から真っ直ぐ伸びた廊下のはてには祭壇があり、背後の壁にはキリスト受難像が掲げられている。
 中央の廊下で左右に仕切られた信徒席に視線を飛ばす。
 等間隔に並んだ長椅子は薄っすらと埃を被っている。
 目当ての人物は最前列の信徒席にいた。
 男が入ってきたのには当然気付いているはずだが、こちらに背中を向けたまま振り向きもしない。
 高所に設けられた窓から色硝子を透かして極彩色の光が降り注ぐ。
 まどろんでいるのか物思いに耽っているのか、懺悔の姿勢で頭を垂れた人影の胸の内は定かでない。
 玄妙な色彩を織り成す光の滝に打たれて祈りを捧げているのは、背格好からして十代前半の少年だ。
 大仰にため息を吐き、大胆な足取りで少年のもとへ向かう。朽ちた床板が耳障りに軋む。
 長椅子を迂回して少年の前で立ち止まり、おどけた仕草で肩を竦める。
 「優しいダディがシャイな息子を迎えにきてやったぞ。お礼のキスをくれ」
 「顔に痰吐きたい」
 「せめて唾にしとけ」
 微妙に食い違うやりとり、噛み合わない会話。
 滑り出しの悪い駆け引きに苦笑、許可も仰がず少年の隣に座る。
 少年は顔を上げない。
 背凭れに腕を回して寛いだ男は、ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光に照らし出された内部の様子に目を細める。
 投石で割られた窓、埃だらけの床、虫食いだらけの長椅子。
 荒廃しきった内部にはそれでも不思議と厳粛な雰囲気が漂っている。
 信仰を持たない人間をも敬虔な気持ちにさせる清浄な空気に包まれ、聖書もろくに読んだことない男は居心地悪げに身じろぐ。
 神の恩寵を賜る神聖な空間に二人きり、濃密な沈黙を分かち合う。
 不思議な取り合わせだった。
 付かず離れず微妙な距離に腰掛けた男と少年は兄弟にも親子にも見えない。
 かたやくたびれた野戦服に身を包み、肩から斜掛けにした革ベルトに軍用ナイフを吊った壮年の白人男性。
 短く刈った金髪と日に焼けた肌、頬骨の尖った精悍な風貌は戦場に慣れ親しんだ勇敢な兵士のそれだ。大型の肉食獣めいた貫禄を備えた骨太で屈強な体躯が男性的な頼もしさを感じさせる。
 かたや少年は現地人と白人との混血児らしく、光の加減で金髪にも見える明るい茶髪を襟足で干している。
 襟刳りの弛んだТシャツから無防備に鎖骨が覗く。伸び盛りの手足を持て余し気味に長椅子に腰掛けて、喉仏の尖り始めた喉に時折手をやり、胸にぶら下げた十字架の鎖をなでている。 
 不機嫌に黙りこくった少年の隣、ステンドグラスから射し込む光の美しさに見惚れ、呑気にあくびをする。
 沈黙は苦ではない。
 もとよりこの少年とは親密と言っていい間柄だ。
 ヘミングウェイもビリー・ホリディもマイケル・ジョーダンも全部自分が教えたのだ。義理の息子に愛着とも愛情とも付かぬ感情を抱いた男は、先ほどから黙りこくったままの少年をちらちら盗み見る。

 そして気付く。

 明るい藁色の毛髪が一房毟り取られ、頭皮に血が滲んでいる。
 それだけじゃない。前髪のかかる右瞼が青黒く腫れ、切れた唇に乾いた血がこびりついている。もともと顔だちが整っているだけになおさら美形を損ねる痣と血が悲惨だった。
 一瞬言葉を失い、努めてさりげないふうに続ける。

 「……男前が上がったな」
 「へたなフォローいらねえよ」

 男の気遣いを鼻で笑い飛ばし、頭に手をやる。
 毛髪が抜けたあとをさすり、冗談めかして言う。

 「はげちまったらどうしよう、カッコ悪ィ。女にモテなくなる」

 無理矢理笑おうとして、切れた唇が痛んだらしく顔を顰める。
 苦痛に顔を顰める少年の隣、眠たげな瞼の奥の目に真摯な光を湛え、せわしげに指を組みかえる。
 義理とはいえ息子に遠慮するなど柄にもないと自嘲的な気分になりつつもいざ口を開くにはためらいがある。 景気づけにポケットから瓶を取り出し、ウィスキーを呷る。琥珀の液体が喉を焼く。
 手の甲で顎を拭い、覚悟を決める。

 「……マリアがやったのか?それ」
 「そうだよ」

 間髪入れず答えが返って来た。横顔に目が吸い寄せられる。
 悲哀もなく憎悪もない、ひどく醒め切った顔。

 「マリアしかいねーだろ、実際。他の奴だったら倍返しで復讐してる、髪の毛引き抜かれる前に喉かっさばいてるっての」

 そうだ。聞く前からわかりきっていた。
 憎しみの名を授けられた少年が他人に危害を加えられて黙っているはずもない、即座に反撃に転じるはず。少年が何をされても無抵抗に徹する人間はこの世にただ一人、奇しくも聖母と同じ名を持つ自分を産んだ女だけ。
 長椅子に身を沈めた男は質問の愚かさを悔い入り、片手で額を覆って天井を仰ぐ。
 ステンドグラスから極彩色の光が射し込み、暗がりを照らす。

 淡く色付く光の中を埃の微粒子が舞う。
 神秘的で幻想的な光景を眺め、とりなすように少年が付け足す。

 「いつもの癇癪だよ。慣れてるから平気。あんたが来てからおさまってたんだけど、今日は久しぶりに『荒れた』。てかマイケル、ここ来る前にマリアんとこ寄ったか?マリア大丈夫だった?あれ以上そばにいたら殺されそうだったから取るもの取りあえず逃げてきたけど」
 「今は落ち着いてる。ぐっすり眠るまでそばにいた」
 「そっか」

 安心したように嘆息、無邪気に微笑む。 

 「よかった」

 長椅子の上で膝を抱える姿はいつもより幼く頼りない。
 不意に愛しさが込み上げて、長椅子の上に縮こまった少年の頭に手を伸ばす。 
 瞬間、少年の手首が撓る。
 パシンと乾いた音が響き、したたかに打たれた手に痛みが走る。

 「マリアのそばにいろよ。恋人だろ」

 男の手を邪険に叩き落とし、吐き捨てる。
 少年が不機嫌な理由は察しが付いた。
 男の手を払った瞬間、少年の目で爆ぜた激情を名付けるならば……「嫉妬」。
 思春期のとっかかりにさしかかった少年は若く美しい母親の恋人に嫉妬が高じた反感を抱いてるらしく、男を突き刺す目には拒絶の棘がある。なるほど、気持ちもわからないではない。男の目から見てもマリアと少年は似合いの恋人同士のように互いを労わりあっていて、自分こそ入る余地がない邪魔者ではと錯覚に襲われることもしばしばだ。
 贖罪のイエスに助けを仰ぐ。 
 勿論答えはない。イエスは何も助言をくれない。この世の悲惨を一身に背負ったかの如く物憂げな面持ちで眼下を睥睨するのみ。 

 しんきくせえったらありゃしねえ。
 心の中で愚痴り、男が食い下がる。

 「お前の方が心配だ。一応親父なんだぜ、俺」
 「義理だろ、義理。ステップファザー。血も繋がってねえくせに親父ヅラすんな、うざいんだよ中年」
 少年の目に苛立ちが燻る。中年呼ばわりされて傷心の男は喉仰け反らせヤケ酒を呷る。
 「マザコンめ。普段いきがっててもまだまだガキだな、お袋に怒鳴られて飛び出したきり帰るタイミングわからず膝抱えてるなんざケツが青い証拠だ。四の五の抜かさず一緒に帰るぞ、レイジ。まさか教会で一晩明かす気じゃねえだろな?風邪ひくぞ」
 「帰りたくねえ」
 「マリアが心配する」
 「嘘つけ」
 「嘘じゃねえよ、お前にひでーことしたから謝りたいって泣いてたぜ」
 男が苦笑する。少年は膝を抱えて黙りこくり、胸元の十字架をまさぐる。
 伏し目がちの目を感傷が過ぎる。
 神経質な手つきで十字架を弄くり回し、正面のキリスト受難像を仰ぐ。
 肋骨が浮いた貧相な肢体に粗末な腰布を巻いただけのイエス・キリストは、ただあるがままに少年の言葉を受け入れる。

 「俺がいたらマリアが哀しむ」
 虚を衝かれた男の方は見ず、独白じみた口調で続ける。

 「マリアがそばにいてほしいのはあんただ。俺じゃない」

 そんな事はないと否定しようとしたが、少年が纏う危うい雰囲気が許さない。
 長椅子に座った少年は無心に十字架を弄繰り回している。口元は薄っすら笑っている。
 何の意味も感情も伴わない虚無的な微笑、恐ろしく酷薄な表情。
 孤高の静寂を身に纏い、十字架に五指を絡め、そっけなく促す。

 「帰れよマイケル。マリアのそばにいてやれよ」
 「嫌だ」

 即答する。
 こちらに向き直った少年を真っ直ぐ見据え、凄みの利いた声で畳み掛ける。

 「こんな暗くて寂しい所にガキ一人おいとけねーよ。お前が泣いて叫んで駄々こねようがぜってー連れ帰ってやっから覚悟しろ。お前が信じようが信じまいが頭ごなしに嘘だと決め付けようがマリアだって帰りを待ってんだよ、心配してんだよ。眠りに落ちる間際までお前の名前呼んでたんだよ。それにレイジ、忘れたのか?今日が何の日か」
 「あんたが初めてマリア抱いた日?」
 茶化すように笑った少年の鼻先に人さし指を突きつけ、断言。

 「十二月二十四日、お前が産まれた日だ」

 五指を十字架がすりぬける。虚空に垂れた十字架が黄金の軌跡を描く。
 男に指摘されて初めてその事実に思い至ったとでもいうふうに一瞬驚きを覗かせるも、すぐに元通り食えない笑みを浮かべる。
 「………そっか。なるほど、思い出した。だからマリアあんなに荒れてたんだ。なんだ、タネが分かっちまえば何てことないな」
 「お前何歳になったんだ」
 「十二ぐらい」
 「そっか。でかくなったな」
 どうでもよさそうな少年に寄り添い、今度こそ頭に手をおき、血が滲んだ頭皮を避けて優しく撫でる。
 「今日はめでたい日だな」
 手負いの獣めいて身を縮めた少年の髪を撫で、感慨深げに呟く。
 「めでたくねえ」
 鬱陶しそうに首を振って男の手から逃れ、正面に掲げられたキリスト受難像を仰ぐ。
 石膏で出来たキリスト像に目をやり、少年がごくさりげなく言う。
 「なあマイケル、マリアが偽名だって知ってる?」
 「はあ?!」
 初耳だ。
 男の仰天ぶりが余程面白かったのか、壊れたハーモニカめいて外れた音程で少年が笑い出す。
 静寂が満ちた教会内に狂った笑い声が響き渡る。
 長椅子に仰け反ってひとしきり哄笑をあげた少年は、埃の積もった床に無造作に足を放り出し、怠惰な豹のように伸びをする。
 「知らなかったのかよ、恋人のくせに。ピロートークで教えてもらわなかったのか……まあいいや。マリアは偽名なんだ。本当の名前じゃない。組織に入ってから名乗り始めた名前なんだ。由来知りたい?」
 少年が悪戯っぽく目配せする。
 底抜けに明るい声とは裏腹に顔は奇妙に歪んでいる。
 睫毛に沈んだ双眸に狂気の片鱗をちらつかせ、自嘲か自虐か苦味の勝った笑みを浮かべ、虚空に両腕を差し伸べてイエスをかき抱くふりをする。
 しかし十字架に杭打たれたキリストは少年の招きに応じず、抱擁を乞う腕は空に捧げられたまま、窓の色硝子を透かした光に染め上げられる。

 「『処女懐胎』だからさ』
 色硝子の模様を投影した腕を虚空に差し伸べ、皮肉に口角を吊り上げる。

 「マリアは処女だったんだ。処女で妊娠したんだ。故郷の村を焼かれて攫われてあんたのお仲間の兵士にぶっ通しで輪姦されて父親のわからないガキを身ごもった。凄いよな、処女でも妊娠するんだな、生理が来てれば。人体の神秘ってやつ。全然めでたくねえ一種の奇跡。何日も何日も憎い男たちに犯されて汚い精液注がれてガキ孕まされて本当災難だよな、処女だったのに」

 「レイジ、やめろ」
 それ以上聞いていられず、語気激しく言葉を遮る。
 少年はやめない。何かに憑かれたように夢見心地の目をして饒舌に続ける。
 「俺には父親なんかいない。マリアは処女懐胎だ。同じマリアの名を持つ女の腹から産まれたキリストは神の種、じゃあ俺は何の種?神様の種じゃねえよな、まさか。俺の誕生日が十二月二十四日なんて最高の冗談だ。イエス様と一緒でちっともめでたくねーよ。聖なる夜に産まれるのが聖なる存在とは限らない、俺がいい例だ。教えてくれよマイケル、俺の父親はどこにいるんだ。一体俺はどこの誰の種なんだ。そいつはまだこの国でのうのう生きてやがるのか、アラウンド・ザ・ワールドで略奪と強姦を繰り返して不幸な女と不幸なガキを数限りなくこさえてやがるのか?」

 言葉が怒りを孕んで殷殷と響き渡る。
 空気が帯電したように殺気を帯びる。

 緊迫した空気の中、長椅子から勢い良く立ち上がり、物怖じせぬ足取りでキリスト受難象に歩み寄る。
 全裸に粗末な腰布を巻いただけの痩せさらばえた肉体から神々しい威光を発するイエスの足元に至り、少年が首を傾げる。
 「あんたが俺の父親?」
 答えを待つ愚は犯さず、Тシャツの裾を跳ね上げる。
 瞬時に銃把を抜き取り、イエスの額に銃口を照準する。
 両手で銃を支えて重心を固定、頬の削げ落ちた禁欲的な面差しに慈父の寛容さを示し、父性愛の内に苦悩を包み込むイエスの額に狙い定めて引き金を引く。
 乾いた銃声が天井の空洞に反響し、廃墟の仄暗がりに一筋硝煙がたなびく。
 イエス像の眉間に穴が開き、石膏の剥片が舞い落ちる。
 「悪ィ、人違いだった」
 悪びれずに笑う少年の背後に歩み寄り、銃を構えた腕を掴み、そのまま抱き寄せる。
 四肢がだらりと垂れ下がる。
 抵抗なく自分の腕に身を任せた少年の背中に密着、汗ばんだТシャツの感触と人肌の体温を感じる。少年の五指をほどき、慎重に銃を取り上げる。
 少年の体前に腕を回し、銃の重みを確かめるように手のひらを開閉する。

 「……お前の親父はここだ。すぐ後ろだ」
 「あんたは違う。俺の親父じゃない。マリアの恋人で赤の他人だ」
 「親父だよ」
 「違う」

 がっしりした造りの手から銃を奪い返し、冥府へと誘う暗い銃口を覗く。
 虚ろに銃口を覗き込み、男よりもむしろ自分に言い聞かせる。

 「マイケルが俺の親父だったら殺さなきゃいけなくなるだろ。あんたは酒飲みでぐうたらでどうしようもないやつだけど、ガキの遊びを知らない俺にバスケットボール教えてくれた。聖書を口ずさむのはバチ当たりだからやめろってストレンジ・フルーツ教えてくれた。俺、あんたには結構感謝してるんだ。俺と遊んでくれて。マリアを愛してくれて。だから」

 俯き加減に言葉を連ねる少年の頭にぽんと手をおく。

 「殺すか殺されるか二つに一つっきゃねーのかよ、お前は。大丈夫だよ俺は、殺しても死なねーから。生憎そんなにヤワじゃねえ、戦場で鍛えてんだ。息子に寝首掻かれるようなヘマするかっての。いいかレイジ」
 少年の肩を掴み、体ごとこちらを向かせる。

 眉間から白煙立ち上るキリスト受難象を背に、前髪の奥に表情を隠した少年と同じ目線で対峙する。
 自分たち以外に誰もいない廃墟の教会にて、窓から射し込む光の中で向き合い、大きく微笑む。

 『Happy birthday.
  Thanks for being born.
  I want to be your father. Is that OK with you?』

 誕生日おめでとう。
 お前が生まれてきてくれて嬉しい。
 ついでに親父になりたいんだけど、いいか。

 真心こめた祝福の言葉が静寂に染み入る。
 らしくもない緊張の面持ちで義理の息子の様子を見守る。
 先ほどと同じく笑い飛ばされるかはたまた手酷く拒絶されるか、最悪銃で撃たれるのを覚悟して顔を強張らせたマイケルだが、数呼吸おいて返って来た反応はそのどれとも違う……

 爆笑だった。

 「なっ………なんで笑うんだよここで、一世一代の決断シーンが台無しだろ!?」
 背中を仰け反らせ腹を抱えて爆笑する少年に赤面して食って掛かるも効果はない。 

 「だって、だってマイケル大真面目に『父親になりたい』だなんていきなり言い出すもんだから横隔膜がショック受けたらしくて……マイケル、ホームドラマの見すぎだって。今の台詞ちょっとカッコ良すぎくさすぎ雰囲気に酔いすぎ!前々からひょっとしたらって思ってたけどマイケルって実はロマンチストだよな、今だって俺が感動して『アイ・ラブ・ダディ』だか『マイ・ディア・ダディ』だか腕に飛び込んでくるの内心期待してたろ!?あっはっはっはっははははは、んなわけねーっつの!!なんでこんな裏寂れた教会で母親の彼氏と抱き合わなきゃいけねーんだよ、普通に考えてしょっぱすぎだろそれ!あーもう超ウケる、笑い死ぬ!」

 長椅子に尻を投げ出し手足をばたつかせ盛大に笑い転げて気がすんだか、目尻の涙を拭って跳ね起きた少年の顔には晴れやかな笑みが広がっている。
 一世一代の告白を大掛かりな冗談にされた男は、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染め、少年の隣に憤然と腰掛ける。
 「………ちくしょー。恥ずかしい。顔から火がでる。やっぱ言うんじゃなかった。何が最悪って教会はやめとくべきだった」
 「ほんと教会はどうかと思うぜ。男女が永遠の愛誓い合う場所で擬似親子の誓い立ててどうするよ」
 深呼吸で笑い納め、共犯者を見る目で男を一瞥。 
 「……腹の底から笑った誕生日なんて生まれて初めてだ」
 「そりゃ良かったな」
 男が当たり前のように手をさしだす。男に手を借りて立ち上がり、少年は尻込みする。

 「……マリア怒ってっかな」 
 「心配してるよ」

 男に背中を叩かれ励まされ、意を決した足取りで歩き出す。
 二人並べば一杯になる通路を隣り合って歩きながら、野戦服のポケットを探り、三分の二ほど減ったウィスキーの瓶を取り出す。透明な瓶の中で琥珀の液体が怪しく揺れる。
 不審げな少年に見せ付けるようにウィスキーを呷り、豪快に顎を拭う。
 さも美味そうに喉を鳴らして酒を飲み、悪びれもせず瓶を掲げてみせる。

 「誕生祝いに一杯やるか」
 「息が酒くせえとマリアにキスさせてもらえないぜ。ほどほどにしとけよ、親父」

 憎まれ口を叩きつつ、まんざらでもなさそうに瓶をひったくる。
 傍の長椅子に凭れ、瓶に直接口を付けて一気に飲み干す。
 少年の口から零れた琥珀の酒が顎と喉仏を伝い、艶めかしい筋が濡れ光る。
 「あああああああああああああっあ、お前なー全部呑むなよ!安酒は残り三分の一をちびちび飲んでいくのが醍醐味なのに……って」
 慌てて空っぽになった瓶を奪い取り、目を瞬く。
 手の甲で顎を拭い、男を通り越して足早に歩き出す少年。
 空き瓶を抱いた男が興奮の面持ちで振り向く。

 「お前今『親父』って言ったか?言ったな!」
 「空耳だよ。アルコールが脳に回ったんだろ。中耳炎に気をつけろ」

 健やかな光満ちた教会の外、少年が膝に手を付き激しく咳き込む。
 恨めしげに自分を睨み付ける少年の方へ喜び勇んで駆け寄る男の背後、薄暗い教会内部にステンドグラスを透かして斜めに光が射し込む。
 祈りを昇天させる清浄な光。
 眉間を撃ち抜かれたキリスト受難像は光の加減で微笑んでいるようにも見える。
 キリスト像の視線の先では、金髪の男と茶髪の少年が小突き合っている。
 「無理して一気飲みすっから咽るんだよ、ウィスキーはまだ早えってのに……」
 「お前が呑めって言ったんだろ」
 「全部呑めって誰が言ったよ、一口にしとけよ!こら、最後まで聞け!安酒だってタダじゃねーんだぞ」
 「これをきっかけにアルコール断てよ、ウィスキー味のキスでマリアが悪酔いしたらどうするんだ」

 音痴な鼻歌が風に吹き流される。
 口喧嘩をしつつ遠ざかっていく父子を見送るキリストの表情は、常になく穏やかだった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010616023155 | 編集

 隣のベッドで冷え性の豹が冬眠中。
 「そのまま寝てろよ。ぜってー起きるなよ。起きたら絶交だかんな」
 毛布に包まり爆睡してる背中に念波をとばす。
 レイジは夜中こっそり起き出した俺にも気付かず規則的な寝息を立てている。
 呑気な王様。
 隣近所から聞こえる鼾や歯軋りや壁を蹴り付ける音に我関せずな背中が憎らしくなる。
 今なららくらく寝首を掻けそうだ。

 しかし騙されちゃいけない。

 それが仮の姿だってのが俺にはちゃんと実感としてわかってる。就寝中に危険に晒されたレイジがどんな反応を示すかなんてわざわざ試してみるほど俺もチャレンジ精神溢れる馬鹿じゃない、悪ふざけで命を捨てる気は毛頭ない。
 相手は豹だ。けだものだ。
 実践しなくてもわかる。俺がふざけてとびかかった途端にレイジは首ねっこを掴まえる。
 またはベッドの下に仕込んだナイフを抜き放ち、銀光一閃頚動脈を切断する。
 最前まで正体なく眠りこけてたとしても指一本触れた瞬間に本能が覚醒するのが野生の獣の習性だ。
 口元に人さし指を押し当て、ゆっくりと慎重に片足を床に下ろす。ひやりと冷気が這い上る。
 裸足のつま先が痺れる。凍て付く床を裸足で踏み、すぐまた引っ込める。昼夜の寒暖差が激しい砂漠では夜ともなれば氷点下まで冷え込み、全方位見渡す限りを砂漠に囲まれた東京プリズンは巨大な冷凍庫となる。
 今足を下ろしたコンクリ床も、足裏の皮膚が糊付けされたみたいな接着力がある。

 「さみぃ……」
 二の腕を抱いて身震い、白い吐息を吐く。

 素早く足を引っ込め、ベッド下に蹴りこんだスニーカーをつまみ出す。
 薄汚れたスニーカーをつっかけ、軽快に踵を叩く。未練たらしく毛布をどかし、不承不承ベッドから立ち上がる。漸くベッドが体温でぬくもりはじめた頃だってのに、寄りによってこんな冷え込む夜に出歩かなきゃいけねえなんてついてねえ。心の中で舌打ち、たった今抜け出したばかりのベッドを見下ろす。
 囚人に与えられる毛布は殆ど防寒に役立たないが、無いよりは断然マシだ。
 しきりに二の腕をさすり足踏み、ちょっと迷った末に決心する。
 ぼうっと突っ立ってるだけで鼻水が氷柱になっちまいそうな極寒の夜に囚人服だけでほっつき歩くのは自殺行為、それこそ迷宮廊下で遭難しかねない。俺は毛布を背中に羽織る。マントみたいに毛布を被ったら肌を突き刺す寒気が少しはマシになった。難点は俺がちびなせいで毛布に着られる格好になっちまうところ。
 毛布の端をずるずる引きずりながら歩くのはみっともねえ、第一こんな格好で徘徊したらひどく目立つ。
 看守に見つかる危険を犯して毛布を被るか、凍死の覚悟で毛布を手放すか、究極の二択。

 ええいくそ、背に腹は変えられねえ。

 毛布の端を体前で掻き合わせ、抜き足差し足慎重に歩き出す。
 ベッド横を通り過ぎる間際、声を潜めて言い含める。
 「いい子でおねんねしてろよ、王様」  
 くれぐれも起きてくるなよ、面倒だから。
 心の中で付け足し、浮き立つスリルと後ろめたい気持ちとを半々に暗がりを横断。
 裸電球は点けない。どんなささいなきっかけでレイジが飛び起きるとも限らない。
 できるだけ物音を立てないよう気を配り、つま先で床を探り、体重を靴裏に分散させて一歩ずつ前進する。
 隣近所の連中は寝てるらしく歯軋りや鼾や寝言が聞こえてくる。娑婆の女の名前を呼ぶヤツ、悪夢にうなされるヤツ、「だから刑事さん無実だって、ブラジャー五百枚なんてとんでもねえでっち上げだ、四百九十八枚しか盗んでねえのに」と必死に弁解するヤツ……寝言にも様々な種類があるなと感心する。
 まあ他人事には違いないが、俺もこんなでかい声で寝言ほざいてんのかと自らに思い馳せて憂鬱になる。
 「壁が分厚い癖に寝言がだだ漏れなのは物理的におかしい」と鍵屋崎なら小難しい理屈を捏ねそうだが何てことはない、東京プリズンの囚人は地声が無駄にでかいのだ。
 口喧嘩はでかい声出したもん勝ち、語彙の少なさは声のでかさで補うという見栄っ張りな刷り込み。
 くだらないことを考えながら一歩一歩暗がりを進む。
 もう少し、あと三歩で鉄扉に到達する。
 安堵に肩の力を抜く俺の背後、何者かが動く気配。
 「!?―っ、」
 振り返る余裕は与えられなかった。
 まずい、やばい。鉄扉にとびつくかベッドに戻るか逡巡する暇もなく、左肘をぐいと引かれて後方に倒れこむ。毛布がばさりと宙を舞い視界が反転、体がベッドに投げ出される。
 背中からベッドに倒れこんだ俺にすかさず人影がのしかかる。
 「何すんだよっ!?」
 たまらず抗議の声を上げる。眼前にレイジがいる。
 ベッドに俺を押し倒したレイジはしょぼついた目をしてる。寝癖だらけの髪の下、半眼に下ろした瞼の奥に虚ろな目がある。ぼんやりした半覚醒の表情。

 レイジの顔が間近に来る。
 心臓が跳ね上がる。

 裸電球を消した暗闇でも端麗な顔の造作はわかる。
 鼻筋の通った彫り深い顔だちは野性味と気品を等分に感じさせる。
 真顔になりゃさぞかし凄みある美形なんだろうなと予感させる完璧な顔だちだが、今はどことなく焦点をぼかして間抜けている。清涼な音を奏でて首筋を流れ落ち鎖骨の窪みで緩くうねる金鎖の先、黄金に煌めく十字架の先端が眉間に触れる。
 眉間を突く十字架を払いのけたくてもレイジに組み敷かれてるせいで手が届かない。
 「いい加減おりろよレイジ、邪魔すんなよ、これから行くとこあるんだよっ!」
 眉間に垂れる十字架が邪魔だ。
 俺の腰に跨ったレイジが緩慢に目をしばたたき、ふにゃりとしまりなく笑み崩れる。

 「……内緒でベッド抜け出すなんてつれねーじゃんか、アンジェラ。シャワーなら俺も一緒に行くよ」  
 「はあ?」

 アンジェラって誰だ。人違いだ。てかそもそも性別が違うだろ、目ん玉かっぽじってよく見ろよ。

 言いたことは山ほどある、山ほどありすぎて何から言ったらいいかわかんねえ。
 つっこみ所満載の寝言に呆気に取られた俺の眼前、薄ぼんやりした表情で饒舌に話を進める。
 「グッモーニンのフェラなんていいからいいから一緒にシャワー浴びようぜ、泡風呂で体流しっこしようぜ」
 「誰がフェラなんかするかっ!」
 俺のつっこみにはお構いなしに首筋に貪るようなキスをするレイジ、不実な唇が首筋をなぞる官能に産毛が燻る。
 固く目を閉じ突然の愛撫に抗うも敵の方が経験値の分うわて、閉ざした瞼に頬に唇に次々とキスが落ちる。
 金鎖が擦れ合う涼やかな音に衣擦れの音が混じり合い、暗がりで肌をまさぐる淫靡さを引き立てる。

 やばい、レイジのヤツ完全に寝ぼけてる。

 このまま昔の女と間違えてヤられちまったら大変だ、それこそ男のプライドに関わる。全力で貞操を死守する俺の気も知らずにレイジは娑婆の女の夢でも見てるのか、幸せそうなにやけ面で睦言を囁く。
 「一人寝は寂しいからヤだ。アンジェラが一緒じゃなきゃ寒くて寝れねーよ。知ってんだろ?冷え性なんだ俺。生まれも育ちもフィリピンだから寒いの慣れてねーの、堪え性ねーの。意地悪すんなよ。一緒にいてよ」
 「図体でけー男がねーのねーの甘えてんじゃねえ気色悪ィ!」 
 激しくかぶりを振り絶叫するも、愛撫の手は俺の抗議で火が付いたみたくますます図々しく調子に乗る。
 吐息が耳朶に絡む。
 唇がやんわり耳朶を食む。
 「!んっ……」
 湿った吐息が漏れる。口腔に含まれた耳朶が蕩ける。
 やめろと叫ぼうとしたそばから上着の裾をはだけて手が潜り込む。レイジは体温が高く、素肌に密着した手はほんのり温かい。しっとり汗ばんだ手のひらが痩せた腹をまさぐり薄い胸板を這い回る。
 欲望の昂ぶりに伴い愛撫が激しさ濃厚さを増す。
 赤裸な衣擦れの音と性急に弾む息遣いが羞恥心を煽り立てる。
 「レイジいい加減目え覚ませ!俺の胸揉んだんならわかったろ、胸ねーだろ、昔の女と勘違いしてんじゃねえっつの!」
 抵抗虚しく愛撫は続く。畜生、レイジの寝起きの悪さは本物だ。
 こんだけ言ってもまだわかんねーのかと罵詈雑言をぶつけ手足をばたつかせる。
 上着の裾に侵入した手が胸のあたりを執拗に這い回る。手ごたえのなさを不審がりレイジが首を傾げる。
 そりゃ乳房の膨らみを求めてたんなら手ごたえないだろう。
 しかし異様に立ち直りが早いのだけが取り得のレイジは大して残念がるふうもなく、巧みな愛撫に翻弄されて快感に頬染める俺に深刻ぶって囁く。
 「大丈夫。愛に裏打ちされたテクさえありゃ貧乳も乗り越えられる」
 「志は立派だけど何か壮絶に間違ってるよお前!」
 大丈夫なもんか、適当言いやがってとレイジを呪う。
 手足を振り回し首を振り必死にレイジをどけようと試みる。往生際悪く暴れる俺に馬乗りになり王者の風格で優位を誇示し、恍惚と目を細めたレイジが愛撫の最終段階に入る。
 腰を這うように体の輪郭をなぞった手がズボンの内側に滑り込み、内腿のあたりを探る。
 興奮に汗ばむ手で性感帯の発達した内腿を愛撫され、続きを乞うように甘い吐息が漏れる。

 「っあ、ふ………」

 何だ今の声。感じてるのか俺。
 馬鹿な。レイジといちゃついてる暇はない、こいつが寝てる間にパッと行ってパッと帰ってくる予定はすでに狂っちまった。
 こめかみで沸々怒りが沸騰、淡い快感を圧して反感が込み上げる。
 「邪魔すんなレイジ、俺には今夜中に行くとこあるんだよ、どうしても行かなきゃいけねーんだよ!」
 頼むわかってくれと潤んだ目で懇願する。
 内腿をさぐる手が止まり、レイジの顔に怪訝な色が浮かぶ。
 だがそれも一瞬のこと、再び手が蠢き出した時には一切の雑念を排除して愛撫に集中すると決めたらしい。
 内腿をさする手が卑猥さを増し、五本の指が股間に被さる。

 「世界一愛してるぜ、アンジェラ。どこにも行かないでくれ」 
 キレた。
 「アンジェラじゃねえ!!!!!!」

 衝動に任せて膝を蹴り上げる。俺に騎乗したレイジの鳩尾に膝頭が吸い込まれる。
 衝撃。今まさに下着に手をかけ引き摺り下ろそうとしてたレイジはひとたまりもなく吹っ飛びもんどり打って床を転がる。「うあっ、」。間抜けな悲鳴に騒音が連鎖、完全に油断してたせいでろくに受身も取れず床に転落したレイジが無様にひっくり返る。
 皮肉にも鳩尾への蹴り一発で完全に目が覚めたらしく、腹を庇って咳き込みがてら弾かれたように暗闇を透かし見る。何が起きたのか本人もわかってないらしく、床に尻餅付いた自分をおっかない顔で見下す俺という図に大いに困惑してる。知るか。勝手に困惑してろ。親切に説明する義務はない、そこまで面倒見切れねえ。

 「寒がりの豹は一生冬眠してろ」
 スプリングを撓ませ、憤然と腰を上げる。

 大股に暗がりを突っ切る俺の背後、腹を庇って立ち上がったレイジがさも大袈裟に顔を顰める。
 「痛って~~~いいの入ったぜ……何すんだよロン、口から胃袋出ちまうかと思ったろ!?人肌のスキンシップ求める相棒にひでー仕打ちだ。そりゃちょっとばかしスキンシップ過剰で過激だったかなって反省しないでもねーけど思いっ切り蹴り入れるこたねーだろ、もうちょっと下にずれてたら金玉潰れてたぜ!」
 「わざと外してやったんだよ。感謝しろ」
 恩着せがましく言い放ち、大股に距離を稼いで鉄扉の前に立つ。
 最前の愛撫で乱れた上着を整え、何度か深呼吸して怒りを鎮める。
 頭が沸騰する。心臓が激しく鼓動を打つ。
 レイジに口付けられた場所がまだ温かい。念入りな愛撫の余韻で体中が火照っている。
 淫蕩な微熱を帯びた体を持て余し、ノブを握る。

 「待てよ、どこ行くんだ」
 「関係ねーだろ。放っとけよ」

 声に非難の響きが混じる。無視。
 振り向かずにノブを握った俺の背後に靴音が接近、手が肩を掴む。
 強引に俺を振り向かせたレイジは不機嫌な顔つきをしてる。愛撫を中断された不満か情事を遂げられなかったか無念かそれとも純粋に俺を心配してるのか、そのいずれとも付かぬ表情。
 邪険に肩を揺すり褐色の手を振り落とそうとしたが、レイジの握力は強くその程度で引き下がらない。
 辟易した表情で肩から手を引き剥がしにかかるもレイジは譲らない、芝居かかった素振りで眉をひそめる。
 「放っとけねえよ、こんな寒い夜にほっつき歩いたら凍っちまうぜ。怖い夢見て眠れねーなら一緒に毛布入ってやっからベッドに戻れ」
 「アンジェラはいいのか」
 「はあ?」
 精一杯皮肉に指摘すれば、脳天から素っ頓狂な声を発してレイジが目を瞬く。
 あり得ない。すっかり寝言を忘れてる。
 レイジの手をひどく苦労して肩から引っぺがし、疑心暗鬼に凝り固まった三白眼で凄む。

 「寝言で呼んでた女の名前。俺と間違えて無い胸揉んでた。幸せそうにふにゃけたツラして娑婆の女の夢でも見てたんだろ、色男が。いいよなお前は娑婆で帰り待っててくれる女がいて、夢ん中じゃ酒池肉林ハーレムの王様気取りで目の色髪の色肌の色よりどりみどりの世界中の美人侍らしてるんだろ。羨ましいよ実際、一人二人俺の夢に分けてくれよ。で、今夜はどんな夢見てたんだ。アンジェラの抱き心地はどうだった?あー待て言わなくていい当ててやるよ、最高か極上かどっちかだろくそったれ」
 「最高か極上かどっちかっつったら最高だけど」

 ぼんやり記憶を反芻したらしいレイジが紛い物の女の抱き心地に相好を崩す。
 胸の内で火が燻る。しまりないにやけ面をぶん殴りたい衝動を体の脇で拳を握り込んで必死に自制する。
 娑婆の女に間違えられた屈辱と羞恥とそれ以外の何かが混沌と溶け合って胸から喉元にかけてを塞ぐ。
 むかむかする。気分が悪い。
 重苦しい沈黙が続く。レイジが困り顔で頭を掻く。
 雑に寝癖を直して俺を窺い、親指の腹でベッドをさす。

 「風邪ひくから戻ろうぜ」
 「お前だけ戻れよ。俺は行く」
 「どこへだよ、こんな夜更けに」
 「…………」

 だんまりを決め込む俺と対峙、レイジの目つきが険悪になる。

 「逢引か」
 「ちげーよ」
 即座に否定する。レイジは俺の顔に浮かんだどんな些細な表情も見逃さないと睨みを利かせている。
 高圧的な態度にまたも反感を覚える。
 体の脇で拳を握り込み、尊大に顎を引く。
 暗闇に包まれた房の片隅にベッドが二台、ぽつねんと佇んでいる。
 物理的重量さえ感じさせる息苦しい沈黙。
 対峙する時間が長引くにつれ冷ややかでよそよそしい空気が房を覆っていく。
 先に痺れを切らしたのは俺だった。
 「~~~わかったよ、言やあいいんだろ。展望台だよ!」
 「展望台?」
 レイジが腕組みをほどき、意外げに目を見張る。
 重苦しい沈黙に耐えかねて行き先を白状した俺は、暴君の威圧に屈した悔しさに唇を噛みしめる。
 こんなはずじゃなかった。苦い後悔が胸に込み上げる。レイジが寝てる間にパッと行って帰ってくるはずだったのになんだって俺は要領が悪いんだろうと落ち込む。
 展望台に行く前から徒労感を感じて深々うなだれる俺をよそにレイジが身を乗り出す。
 「展望台で何すんだ。天体観測?趣味と言ったら喧嘩と麻雀お手玉に尽きるお前らしからぬ酔狂なご趣味だな」
 レイジが何気なく言った一言がひどく心をかき乱す。
 顔に動揺が出たらしく、皮肉な笑みを引っ込めたレイジが「どうした?」と心配げに聞いてくる。
 なんだかんだ言って俺には甘いレイジが不安げに見守る中、後ろめたさを引きずり口を開く。
 「麻雀牌を捜しに行くんだ」
 諦念のため息を吐き、ズボンの尻ポケットに手を突っ込んで裏返す。
 何も無い。すっからかん。
 漸く俺の意図に思い至ったレイジが「ああ」と嘆声を発する。同情だか安堵だかわからねえ間延びした相槌。
 レイジに弱みを見せた不愉快さに俯き、口はばったく付け加える。
 「……来ても面白くねーよ。夢で女抱いてたほうが百倍マシだ」
 鉄扉を背に所在なく突っ立った俺を見詰め、レイジは暫く考えるふりをしてみせた。
 こめかみに人さし指をあて視線を斜め上方に泳がし、強情な顔つきで押し黙る俺と妄想の世界で股おっぴろげる女とに均等な引力で心惹かれてるらしき思案顔をしてたが、やがてにっこりと砕顔する。
 女の抱き心地には無難に最高と返したのに、今この瞬間の俺に向けるのは最高を通り越して極上の笑顔。
 「心優しい俺がロンをひとりぼっちにするわきゃねーだろ」
 その瞬間直感した。
 レイジの答えは最初から決まっていたのだと。


 「ぶあっくしゅ!」
 鼻のむずがゆさに負けて盛大にくしゃみする。ついでに鼻水が垂れる。
 情けない。改まって言うことでもないが、今の俺は最高に格好悪い。
 極寒の展望台で右往左往すること三十分、身を噛むような寒さに感覚が麻痺してくる。
 頭に被った毛布一枚きりじゃ気休めにもならない。展望台には俺とあと一名除いて人けはない。
 当たり前だ。就寝時刻をとっくに過ぎた夜更けに展望台をうろついてるのはよっぽど頭のおかしいヤツか気合入った自殺志願者だけだ。生憎俺はどちらでもない、幸いにして頭はまともだし死に急いでるわけでもない。 

 「ぶあっくしゅん!」

 今度は俺じゃない。
 くしゃみは離れた場所から聞こえた。
 反射的に振り返れば、ちょうど対角線上にあたる隅に背中を向けて屈みこむレイジがいた。
 レイジも俺と全く同じ格好をしてる、頭からすっぽり毛布を被って寒風を凌いでる。
 「真似すんなよ」
 険しい声で抗議すれば、毛布の端を掻き合せてこっちを向いたレイジがさも心外そうに眉を跳ね上げる。
 「真似じゃねーよ、最後の『ん』に注目しろよ」
 「殆ど同じだろ。負けず嫌いなガキかよお前」
 「わかってねーなあロンは。個性は模倣から発生するんだぜ」
 「鍵屋崎みてーなこと言うなよ」
 鍵屋崎の名前を出したら対角線上のレイジが露骨に顔を顰め、一方的に議論を打ち切る。
 変なヤツ。舐めるように地面を見る作業に戻ったレイジに呆れ、俺もまた手探りで展望台の暗闇を掴み取る。
 それからさらに十分ばかり経った頃、忍耐力の限界に達したレイジが唐突に立ち上がる。
 「……ちくしょ――見つかんねえ、本当にここに落としたのかよ!?」
 夜空を仰いで咆哮、地団駄踏んで暴れるレイジに肩を竦める。
 「間違いねえ。ベッドん中でずっと考えてたけど心当たりはここっきゃねえ。今日の夕方だ」
 さかんに手を擦り合わせ、吐息の暖気で霜を溶かす。レイジが鋭く俺を睨み詳細な説明を促す。

 仕方なく、思い出したくもない不愉快な記憶を掘り起こす。
 事件は夕方に起きた。 

 「強制労働が終わった気晴らしに展望台に出て、たまたまそこにいた奴らと喧嘩になった。こちとら別にあいつらの邪魔する気はねえ、イエローワークの肉体労働でくたくたに疲れ切った体を風に当てようって展望台に出ただけだ。けどさ、あいつらは俺がただそこにいるってだけで気に入らなかったんだよ。俺はただ砂漠に夕日が沈む雄大な光景見たかっただけなのに」
 「雄大な光景か。これからだってそれこそ飽きる程見れると思うけどな」
 「うるせえ。たまにゃセンチメンタルな気分になったっていいだろ。今日はちょっと……色々なこと思い出したんだよ」
 似合わないことを言った自覚はある。
 むすっと口を引き結んだ俺の背後、レイジが遠慮なく爆笑する。……腹が立つ。
 展望台の地面に手を這わせがてら、遥かな暗黒を湛えた頭上を仰ぐ。
 周りに明かりがない砂漠じゃ星がよく見える。
 俺がいたスラムとは比べ物にならない明度で空一杯にばらまかれた星が光ってる。
 清冽に澄み切った空気の中、大小の星々を散りばめた夜空が神秘的な藍色に明るむ。束の間呆けて満天の星空に見惚れる。魂ごとかっさらわれた忘我の境地で夜の深淵を覗き込む。

 夜が暗いなんて誰が決めた?こんなに明るいのに。

 頭上に覆い被さる夜闇は雲母のようにきらきら輝いてる。
 綺羅のような輝きを発する鉱物質の黒は純粋に美しく、底知れぬ闇の恐怖よりは自然の畏怖に打たれる。

 「……そっからはいつもと同じ。厄介ごとに巻き込まれる前に展望台を出ようとして、すかさずそいつらに絡まれた。わざと肩ぶつけられてカッとして、ちょっと揉めた。その場は何とかおさまったけど、今日寝る時になってポケットに牌が入ってないのに気付いたんだよ」
 奇妙な浮遊感に包まれ夜空に吸い込まれる錯覚に襲われ、慌てて地面に視線を戻す。
 果てしなく雄大な夜空から卑近な地面に戻った途端、不愉快な記憶が鮮明に蘇る。
 展望台で絡んできたのは群れなきゃ何もできねえ凱の子分どもで、俺のこと「男と見りゃ誰だって節操なく腰振る淫売の股から産まれた淫売中の淫売」「中国人の面汚し」「恥さらし」と下品に唾飛ばして盛大に罵ってくれた。思い出すだにむかっ腹が立つ。連中ときたら俺が堪えてるの知ってて喧嘩売ってくるんだからタチ悪い。
 その場が何とか丸くおさまったのは、連中よりちょっとばかし俺が大人だったからだ。
 俺は自制心が吹っ飛ぶ前にと足早に展望台を後にした。後ろから盛大な笑い声が追ってきた。

 知らん振りをした。
 はらわた煮えくり返っていたが、後ろを振り向く愚は犯さなかった。
 その挙句がコレだ。
 俺は凍死の危険を犯して展望台に出て、あの時落っことした麻雀牌を捜してる。

 「畜生、やっぱ殴っときゃよかった」
 今さら後悔しても遅い。反省は次に生かそう……最も、次があればだが。
 最悪レイジと凍死心中する可能性もあるのだ。一晩中展望台にいたらまず間違いなく凍死する、あと一時間以内に牌を見つけなきゃ雪山の遭難者よろしく猛烈な睡魔が襲って来る。
 頑張れ、眠ったら死ぬぞ俺。
 毛布に包まり必死の捜索を続ける俺の耳に、物騒な声が届く。
 「………ロン、そいつら殺してくるから名前教えろ」
 レイジが緩やかに振り向く。
 口元は笑っていたが目は笑ってない、顔の上と下の温度差が激しい不均衡な表情。
 背筋を悪寒が駆け抜ける。
 「いや、殴るだけでいいから。殺さなくていいから。あと俺が殴らなきゃ意味ねーから」
 「遠慮すんなって」
 「遠慮じゃねーよ、引いてんだよ」
 レイジなら今言った事を速攻実行しかねない。
 いくら俺が短気でも肩ぶつけられた恨みで相手の死を祈ったりしない……レイジはどうだか知らないが。いや、レイジが本気の怒りを覗かせるのは俺絡みでだけか。レイジはきっと肩ぶつけられてもへらへら笑ってる、そんな気がする。ただ、一緒に歩いてる俺がわざと肩ぶつけられたらそいつの鼻骨をへし折って鳩尾の蹴りで内臓破裂させるくらいはやる。
 レイジはそういう極端なやつだ。
 「………見つかんねーな」
 捜索開始から何分、何十分経ったのかわからない。
 手足の先がかじかんで動かない。寒いを通り越して痛い。針で刺すような鋭い痛みを体の先端、空気に触れる部位に感じる。毛布の外に露出した手や足や耳朶が真っ赤になってる。

 ああ、房に帰りてえ。毛布に包まってぐっすり眠りてえ。
 明日も強制労働があるってのに何だってこんなに粘ってるんだ、俺。

 麻雀牌一個の為にここまでやる意味と価値あんのか、と自問する。どのみち寝不足確定、目の下に隈作ってバスに乗り込む羽目になる俺は昼下がりまでぐっすり惰眠をむさぼってられる優雅なご身分の王様を羨む。
 「レイジ、そっちはどうだ。見つかったか」
 たった今レイジの存在を思い出したとばかり声をかける。
 返事はない。
 異様な静けさを不審に思い振り向けば、突然視界を覆われる。 
 「だっ!?」
 ばさりと音がする。
 突然視界を奪った物の正体は、レイジが羽織っていた毛布。
 「レイジてめ悪ふざけはいい加減にしろ、邪魔するだけならとっとと帰れよ!」
 ただでさえ暗闇で牌が見つからなくて苛立ってたのに、レイジの悪ふざけが原因で忍耐力が切れた。
 毛布を手荒く跳ね除けた俺の腋の下にするり腕が滑り込む。
 俺の行動を完全に予測した上で毛布で視界を覆って肉薄、背後から抱きつくレイジに声を張り上げる。
 「ひっつくな、これじゃ動けねーだろ!人肌恋しいならベッドに戻って夢ん中の美女とヤってろよ、手頃な俺で間に合わせんな!」
 「あーあったけえ。ロンって体温高いよな。うなじもいい匂いする」
 聞いちゃいない。
 人を湯たんぽ代わりにするなと罵声が喉元まで出かけるも、レイジに操られる形で強引に座らされる。
 レイジの膝の間に座り込んだ俺は、何か言い返そうとしてぎょっとする。

 手がつめたい。

 「レイジ、お前大丈夫かよ」
 レイジの懐に抱き込まれて振り返れば、王様が虚勢の笑みを浮かべる。
 「え?何が?超元気。どれくらい元気かってーと夢ん中で三回ヤッた後にお前と三回ヤれそうなくらい」
 「震えてる。手もすげえつめたいし……寒いんなら無理せず帰れよ。フィリピン育ちに砂漠の夜はこたえるだろ」
 そうだ、レイジは極度の冷え性だった。
 義理で俺に付き合って展望台に出るのがどれだけこたえるか、最初に気付くべきだったのだ。
 だけど俺は今の今までレイジの無理に気付かず相棒の優しさに甘えて、手分けして展望台を探し回っていた。

 レイジは出来るだけ軽薄な口調で続ける。
 俺を心配させないように。

 「大丈夫大丈夫、生まれも育ちもフィリピンだから人よりちょっとばかし冷え性なだけ。ちょっとばかし唇が青ざめて体が勝手に震えて手足の感覚がなくなって、あれ、よく見りゃ前髪も凍ってる?霜が下りてる?ってそんだけ。命に別状ねーから安心しろ」
 「かなり別状あるよ」
 冷静につっこむ言葉も弱々しい。
 逡巡の末、大人しくレイジに抱かれてやることにする。レイジが後ろから抱きついてきたのはくだらない悪ふざけじゃない、マジで寒いから、人肌の体温を恋い慕ってるからだ。

 レイジの膝の間で居心地悪く身じろぎ、空を見上げる。
 気の遠くなるような星空が広がってる。

 「ロン、あれ見ろ」
 不意にレイジが指差し方角をつられて見上げる。
 天蓋の中心で一際強く輝く星がある。
 「何だかわかるか?」
 「馬鹿にすんな。北極星だろ」
 いくら無知無教養でも北極星くらい知ってる。
 天蓋の中心の孤高の星を見詰め、呟く。
 「……お袋に閉め出されて逃げ込んだスラムの路地裏で、いつも同じ位置にあったからよく覚えてる」
 苦い独白が引き金となり、昔の記憶が蘇る。

 お袋に客が来た時、ボロいアパートから閉め出されて逃げ込んだ路地裏。
 猥雑に建て込んだ路地の切れ間から覗く夜空。
 ネオンの光に圧されて仄かに明るむ空、いつも同じ位置に在った星。

 懐かしい。

 路地裏で膝を抱えて夜空を仰いだ頃の記憶が鮮明、それに伴う感情が一挙に押し寄せる。
 空腹。寂しい。心細い。寒い。悔しい
 お袋に追い出され路地裏でいじけてた頃のちっぽけな自分を妙に懐かしく思い出す。
 「お袋どうしてるかな」
 無意識に呟き、口にしてからハッとする。
 まずい、聞かれたか?強張った顔で頭上を仰ぐ。
 「どうしてて欲しいんだよ?」
 からかうように聞かれ、言葉に詰まる。
 「梅毒にでもかかってのたれ死んでりゃいい」
 心に浮かんだのとは反対の事をぞんざいに吐き捨てる。

 展望台の突端に座り込み、闇に沈んだ地平線を凝視する。

 この砂漠を遥か越えた先の先に俺が生まれ育ったスラムがある。お袋がいる。
 お袋は今どうしてるだろう。まだ起きてるだろうか、俺と同じ星を見てるだろうか。娼婦を続けて体を壊してなきゃいいな、と漠然と思う。
 お袋だけじゃなく、メイファの無事も祈る。
 娼婦は長生きできない職業の筆頭だ。
 容色が衰えりゃ客足が遠のく、健康を損なっても同じ。
 男に縋って生きてくしかないお袋とメイファが娼婦以外の道で食えるとは思えないが祈る分には自由だと一人納得、静かに目を閉じる。

 『希望祝福弥身骨豊健康精神愉快』
 いつまでも元気で。

 「くしっ」
 頬にあたる風が冷たい。
 シケたくしゃみした俺をレイジが身を丸め包み込む。
 俺が羽織ってた毛布と自分の毛布を二枚重ねして掛けて、懐にすっぽり抱え込む。
 鼻の下を指でこすり、レイジを見上げる。
 『I pray so that my family is happy』
 風に吹き散らされる微かな呟き。じっと見詰める俺に気付かず、レイジは静かに目を閉じ唇を動かし何かを一心に祈っていた。流暢な英語、敬虔な表情。風に吹かれて睫毛が震える一刹那、満ち足りた微笑みが浮かぶ。 
 「何て言ったんだ?」
 自慢じゃないが英語はさっぱりわからない。第一レイジの英語は早すぎて聞き取りづらい。
 不信感丸出しに聞き返す俺を見下ろし、レイジは口元に指を立てる。
 「内緒」
 「………星に願いをって柄かよ」
 「お互いさまだろ」
 軽薄に笑うレイジの膝の間で押し黙る。
 何がそんなに楽しいのかおかしいのか、俺にぴったり密着したレイジはガキみたいにはしゃいでる。
 時折吹き荒ぶ風から自ら盾になり俺を守り首を竦める。 
 不意にレイジが話題を変える。
 「手っ取り早くあったまるには体温高い女を抱くに限る」
 「最低」
 「聞けよ。さっき夢に出てきたアンジェラなんか平熱三十七度、ナイジェリア出身のとびきりべっぴんな黒人で今晩みたいに冷え込む夜はよく思い出すんだよ。あー、アンジェラ今頃どうしてるかな。手紙くれなくなって随分経つけど他に男できたかな」
 「知るか」
 「それにな、ここだけの話アンジェラ滅茶苦茶フェラ上手いんだぜ。フェラしてる時のカオが特に最高でさ、色っぽく目が潤んで頬が欲張りに膨らんでちょっと間抜けですっげ可愛いの。またアンジェラの口ん中がカカオの原液に浸かってるような最高の温度で」
 「黙れ。黙らないと殴る」
 何が哀しくて一方的に女自慢を聞かされなきゃいけない……自慢できるほど経験ないことを恥じてるわけじゃねえぞ、別に。
 拳を顎先に突きつけて脅せば、意外にもあっさりレイジが口を噤む。
 よろしい。両手を挙げて降参のポーズ、おどけて肩を竦めたレイジの顎先から拳を引っ込める。

 暫く沈黙が流れる。

 俺はされるがままレイジに抱かれながら内心妙なことになったぞと焦っていた。
 牌を捜しに展望台に出てきたはずが、レイジに抱擁されて星空眺めてると最初の目的を忘れそうになる。
 調子が狂うな畜生と舌打ち、何度かレイジの腕をどかそうと試みるもその都度レイジの腑抜けヅラが目に入り気勢が殺がれる。
 今のレイジときたら油断しまくり、猫の子を懐に入れた豹みたくご満悦で殴る気も起きやしない。

 何となく鼻白み、透明な大気の中で瞬く大小無数の星々を見上げる。

 「スヨン杏奈シェリファメアリー麗羅ソーニャテレサが娑婆で元気に幸せにやって出所の暁には一発ヤらせてくれますよーに」
 「おい、なんだその奇っ怪な呪文は」
 国籍ばらばらの女の名前を連ねた長ったらしい呪文に反応、レイジの頬をつねる。
 「ひっよするにゃひょ、しゃばのこいひひょのしあわひぇねがっひぇなにがわひゅい?」
 「人語をしゃべれ」
 無茶な注文だ、手加減なく頬をつねられてるんだから。頬肉をねじって離した俺の頭上、赤く腫れた顔をさすりさすり反駁する。
 「嫉妬すんなよ。娑婆の恋人の幸せ願って何が悪い?」
 「愛人の間違いだろ。恋人がそう何十人もいてたまるか」
 「そうだな。恋人は一人で十分だ」
 思わせぶりな台詞に嫌な予感が過ぎる。
 意味深に微笑んだレイジが尋常ならざる熱意を込めて地平線を睥睨、何かを探す。
 レイジにつられてあっちへこっちへ顔を振り向け地平線を睥睨するも、天蓋の中心で煌煌と輝く北極星の他には玉石混交の星が敷き詰められてるだけで目新しい変化は………

 「あ」
 「あ?」
 レイジが吐いた息が大気中で白く溶ける。同時に吐いた息がレイジの息と溶け合う。

 星明りを映した隻眼が夢中で見詰める方向を仰げば、雄大な弧を描いて夜空に橋を架ける流れ星を発見。
 白銀の尾を引き夜空を滑りゆく流れ星、その輝きに圧倒される。瑣末な星屑を掃き清め、一際明るい光を発して滑空する流れ星が地平線に消滅するまで、レイジは身動ぎ一つせず目を閉じていた。
 俺を抱きしめる手に力が篭もる。
 体に回した手から体温が伝わる。背中に鼓動を感じる。
 俺が吐いた息とレイジが吐いた息が一つに溶け合っていく。

 『There wants to be me with you for a long time』 

 真摯な祈りが心地よく耳朶をくすぐる。
 それ以外は何も要らないとばかりに固い響きと不吉な感じもあった。
 どことなく胸が騒ぎ、レイジの腕の中で身をよじる。
 「祈れよ、ロン。流れ星に願うと叶うんだぜ」
 子供じみた迷信を本気で信じてるかのような口ぶりでレイジが促し、鼻で笑い飛ばすタイミングを逃して渋々目を瞑る。

 寒い。鋭く研ぎ澄まされた冷気で頬が切れる。

 レイジの腕の中、誰かに守られてるという心地よい安心と心強い実感を抱く。
 何を祈ろう。たくさんありすぎて一つに絞れない。同じ空の下にいるメイファが健康であるように、幸せであるように。心の片隅に沈めて時たま浮上する程度の存在でいいから俺の事を覚えてるように。早くここを出れるように。半々だと馬鹿にされずにすむように……
 叶えたい願望がたくさんありすぎて、流れ星が消え去るまでの短い間に集約できない。
 考えろ、考えるんだ。
 どれか一つに絞るんだ。流れ星が夜空を翔る数秒間に。
 
 決めた。

 『我想活弥』
 不意に柔らかく熱い感触が唇に触れた。 
 驚き、目を見開く。
 眼前にレイジがいた。顔を逆さにして覗き込む顔にはしてやったりの笑み。
 ……一本取られた。この野郎油断も隙もねえ。
 流れ星に祈るだ何だのは口実で本音はキスしたかっただけか?
 手の甲で唇を拭い、赤面してレイジを睨む。
 「何て言ったんだ?」
 「探し物が見つかるように」
 笑いを噛み殺した表情のレイジの膝の間からおもむろに立ち上がる、油断しまくってたレイジが「わっ!?」と仰天、悲鳴を上げてすっ転ぶ。
 無様にひっくり返った衝撃でしたたかに腰を打ちつけたらしく、毛布を跳ね除けたレイジが涙目で呻く。
 「いって~~~。急に立ち上がんなよ、もう少しであご頭突かれるとこだった……って、あれ?腰の下に違和感……」
 痛打した腰をさすりさすり、慎重に起き上がったレイジの指に摘まれた物をひったくる。
 「伐到!すげえ、願ったそばから効果あった!?お前の寝言もたまにゃ当たるじゃんかレイジ、見直したぜ!」
 たまたまレイジがすっ転んだ場所に牌があった偶然に運命的なものを感じる。

 服に擦り付けて牌を拭い、光沢を取り戻したそれを高く頭上に翳す。
 星明りを反射して神々しく光り輝く牌を頭上に巡らす俺の傍ら、レイジが不満げに口を尖らす。

 「ちょっと待て、牌見つけたのは俺だろ。礼の一つもなしってのはあんまりじゃんか。こちとら寒いの我慢してアンジェラとさよならして牌捜しに付き合ってやったってのに、」 
 皆まで言わせず向き直り、牌をポケットに突っ込む。
 レイジが「何だよ」と尻込みする。
 憤然とレイジに歩み寄り、上着の胸ぐらを掴んで引き寄せる。危なっかしくステップ踏み、不器用に長身を折り曲げたレイジの頬に唇を付ける。
 長時間夜風に嬲られて頬はひどく冷えていた。
 満天の星空の下、俺たちの他には誰もいない展望台の真ん中でキスをする。
 次第に動悸が激しくなり、頬に血が上ってくる。
 顔に上った血が頭に到達する前に唇を放し、荒っぽくこぶしで拭う。
 きょとんとしたレイジにそっぽを向き、夜風に紛れて消え入りそうな声音で付け足す。

 「……………………礼だよ。これでいいだろ。寒い中付き合ってくれてありがと。謝謝」

 「~~~~~~~~~~~~~~っ!!!」
 勢い良く毛布を吹っ飛ばし、飛び掛ってきたのは次の瞬間。
 軽快に地を蹴り跳躍、その衝撃で風を孕み舞い上がった毛布が星空を覆い隠すのも構わず喜びに湧いて俺に抱きつく。
 突進の衝撃で足が縺れた俺に構わず熱烈に抱擁、髪を乱暴にかきまぜ頬すりよせ所構わずキスを降らせながらレイジが絶叫する。
 「ちくしょーーーー今のは反則だぜ可愛すぎっ、牌捜し手伝ってくれた御礼に頬にちゅっなんてお前ちょっと犯罪的に可愛すぎだ、よし決めた、これから速攻房に帰って続きやろうぜ続き、アンジェラには悪いけどお引取り願って二人で愛を深めようぜ!」 
 「気色悪いから抱きつくな頬あてんな、今のは儀礼だ、真心なんかこれっぽっちも篭もってねえ単なる礼儀だから気にすんな!ああ畜生魔が差したキスなんかするんじゃなかった、こりゃ風邪だ、風邪の症状の一種だ!早いとこ房に帰って寝よ……」
 「今日は寝かせねーよ」
 「寝かせろよ馬鹿!」
 ぐんにゃり背中に覆い被さるレイジを引きずり歩き出す。
 顔から火が出る思いで展望台を突っ切る最中、レイジが囁く。
 「願い事叶って良かったな」
 「………ちげーよ」
 「ん?」
 妙な顔するレイジに知らん振り、熱冷ましに夜風を浴びて天心の北極星を仰ぐ。

 本当は、違う。
 流れ星に願ったのは別のことだ。
 コイツ調子に乗らせるのが嫌だから教えてやんねーけど。
 『我想活弥』
 お前とずっと一緒にいられますようにって祈ったんだよと、心の中で復唱した。  

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010615210510 | 編集

 シャワー室で襲われた。
 「それはまことか」
 「未遂だ」
 勢い込んで訊ねたサムライにあっさり返す。
 場所は僕らの居住房。
 赤錆びた配管が幾何学的に組み合わされた天井、灰色のコンクリ壁が四囲を塞ぐ狭苦しい空間。
 異様に低い天井が圧迫感を与え、四囲に迫り出した分厚い壁が閉塞感を与える空間の隅には二台、ペンキ剥げかけの粗末なパイプベッドが配置されている。
 コンクリ剥き出しの壁が寒々しい印象を与える無味乾燥な内観に、中古ベッド以外の調度品は見当たらない。廊下に面した頑丈な鉄扉が唯一外界とを繋ぐ出入り口だが、上部に穿たれた矩形の窓には規則的に鉄格子が嵌められて腕一本出すのも難しい。

 最初に断っておくが、東京プリズンの囚人にプライバシーなどないに等しい。

 囚人は常に監視されている。
 同じ囚人に、看守に。房と廊下とを隔てる鉄扉には前述の通り格子窓が設けられており、こうしてベッドに腰掛けて話している今も通行人の視線を無視できない。

 極端な話、排泄時も丸見えなのだ。

 正面奥の壁に据え付けられた洗面台の隣には便器があり、囚人は格子窓に背を向ける形で便器に跨り用を足すが、そうなると裸の下半身を無防備に晒す最大級の屈辱を味わうことになる。
 全く、排泄行為を毎度人目に晒さなければいけないなんて羞恥の極みだ。冗談じゃない。人間の尊厳など欠片もない。東京プリズンでは囚人の人権が認められない。看守にとって囚人は自分たちより遥かに劣る存在、知能の低い動物なのだ。とんでもない誤解だ。不愉快だ。僕は看守と比べて決して知能が劣ってなどないどころか東京プリズンの全看守と囚人を含めても最高の知能の持ち主だというのに、やはりその他大勢の囚人と同じく排泄時の視姦に耐えなければいけない。

 何も排泄時に限ったことではないが。

 ため息を吐き、眼鏡のブリッジに触れる。 
 「……一昨日のことだ。二日に一度のシャワーを浴びにシャワー室に行った。シャワー室は混んでいた。僕は順番待ちの列に並んでシャワーを浴びた。言うまでもなく僕は潔癖症、体の隅々まで漏れなく石鹸で洗わなければ気が済まない性質だ。首の後ろから耳の裏、腋の下から足の裏まで時間をかけて入念に洗った。そこまではいい」
 一段落おき、向かいのベッドに座るサムライの反応を探る。
 サムライはやけに真剣な面持ちで僕の話に聞き入っている。
 この無愛想で無口な男は、しかし意外と気が利く。
 僕が尿意を催した時は言われなくても房を出て行き、廊下を行き交う囚人が格子窓から覗けないよう鉄扉の前に立ち塞がってくれる。僕はサムライのさりげない気遣いに感謝している。
 サムライは決して恩着せがましく言わず、常に僕の要望を先回りして汲み取ってくれるのだ。

 無粋で無骨な見た目に反し、サムライは優しい男だ。

 今もサムライは対岸のベッドに腰掛け、前のめりの姿勢で僕の話に耳を傾けている。
 ……何もそんなに夢中にならなくてもいい、と内心戸惑う。
 僕は冒頭「シャワー室で襲われた」と言っただけ、その一言に何故これ程引き込まれたのだろうと逆に疑問を抱く。 

 とにかく、話を続ける。

 「体を洗ってる最中ずっと視線を感じた。やけに熱っぽくいやらしい視線だ。僕が腕を掲げて腋の下を洗ってるときも嫌な視線を感じた、一挙手一投足に執拗に付き纏った。違和感を感じて振り向けば、全裸の囚人が五・六人僕を見つめていた」
 一昨日のことを思い出し、生理的嫌悪で鳥肌立つ。
 濛々と湯気立ち込める蒸し暑いシャワー室、視界を覆う靄の向こうで蠢く人影……温水に濡れたタイル貼りの床、水溜りを蹴散らして姿を現したのは全裸の囚人が五・六人。
 彼らはずっと僕がシャワーを浴びてるところを見ていたらしく、わざわざ視線を下げて確認するまでもなく下半身が勃起しているのがわかった。
 本能的な危機感を感じた。
 それでなくてもシャワー中は全裸で無防備、集団で襲われたらひとたまりもない。
 汚れを落とすのに夢中になって接近に気付かなかったのは迂闊だった。
 「まったく僕としたことが……悔やんでも悔やみきれない」
 「それで大丈夫だったのか?怪我はしなかったか、無事だったか?」
 目に焦燥の色を覗かせサムライが畳み掛け、僕は苦く吐き捨てる。
 「もし無事でなければ今頃こうしてここにはいない。僕はコックを捻り、シャワーの水量と温度を最高値にした。顔面から熱湯を浴びて火傷した襲撃者はたまらず悲鳴をあげ、中の何人かが激怒して襲い掛かった」
 サムライの目が鋭さを増し、先を促す。僕は手首をさする。
 「僕の手から無理矢理シャワーを奪い取り、羽交い絞めにして殴りかかってきた」
 万力めいた握力で締め上げられた手首の痛みが蘇り、顔を顰める。
 タイルの水を跳ね散らかして一斉に雪崩れ込んでくる全裸の囚人、シャワーをひったくられた僕の体をいやらしい目つきで舐め回して……思い出したくない。
 しかし体が覚えている、あの時の恐怖と屈辱を。
 大きく息を吐いて冷静さを取り戻し、平板な声音で付け加える。
 「間一髪、騒ぎを聞き付けた看守が助けに入って事なきをえた。しかし危なかった。看守が助けに来たのは偶然だ。看守だってずっとシャワー室の前で見張ってるわけじゃない、付け加えるなら仕事熱心な看守ばかりとも限らない。シャワー室の中から不審な物音や悲鳴が聞こえても我関さずと放置を決め込む看守も少なからずいる。僕が助かったのは本当に運が良かった」
 鳥肌立った二の腕をさすり、感慨深く呟く。
 あの時絶妙のタイミングで看守が助けに入らなければ間違いなく輪姦されていた。
 最悪嬲り殺されていた。
 東京プリズンではシャワーを浴びるのも命がけだとあの一件で痛感した。

 「良かったな、サムライ。もし僕が一昨日の時点で嬲り殺されてふやけた死体となって発見されたら、同房者の君が検死に立ち会わねばならなかった。シャワー室に長時間放置され水を吸って膨張した醜悪な死体、さぞかしショッキングな光景だろうな。知ってるか?入浴中の死亡事故は意外に多いらしいぞ。
 プライベート空間での出来事だから実態はなかなかわからないが、入浴事故の最大の誘因は急激な温度変化によるヒートショックだと考えられる。
 身体が冷えたまま熱いお湯に入ると手足に電気が流れたような刺激がくる、これは体深部に集中して脳や臓器を温めていた血液が体表面の抹消血管に一挙に移動してくるために起こる危険なサインだ。ただでさえ体調変化が起きやすいシャワー中に重度の精神的ショックを受けたらどうなるか、考えるだに愉快だ」

 ちっとも愉快だとは思ってない口調で吐き捨て、喉の奥で卑屈に笑う。サムライはしばし無言で思案していたが、真っ直ぐに僕を見て表情を和ませる。
 「………お前が無事でよかった」 
 「この先も無事でいられる保障はないがな」
 憂鬱に嘆息する。
 東京プリズンの規則ではシャワーは二日に一回、僕は一昨日シャワーを浴びたから今日もまたシャワー室に行かねばならない。これからシャワー室に行かねばならないと思うと気が重い。
 イエローワークの強制労働で砂に塗れた汚れを落とせるのは有難いが、また一昨日の事件が繰り返されないとも限らない。僕も十分気をつけるつもりだが、集団でかかって来られたらどうしようもない。
 「今日は行水をよしたらどうだ」
 「本気で言ってるのか?」
 気軽に言ってのけるサムライに反発を覚える。
 ベッドから腰を上げ大股にサムライに接近、不満を訴えて腕を組む。
 「僕はどこかの君と違って綺麗好きなんだ。一日以上シャワーを浴びずにいるのは自制の限界だ、不潔で耐えられない。刑務所生活が長く不衛生な環境に馴染んですでに何の疑問も感じない君には理解できないかもしれないが、二日以上シャワーを浴びず体を洗わずにいるなど僕には耐え難い拷問だ。たとえ襲撃の危険を犯してでも絶対にシャワーを浴びにいく、潔癖症のプライドにかけてシャワーを浴びて帰ってくるぞ」
 決意も新たに宣言する僕を、呆れ顔でサムライが見上げる。
 サムライに背を向け鉄扉に向かう。
 ノブに手をかけ開こうとして、背中に声がかかる。
 「……用心棒を忘れるな」
 「え」
 虚を衝かれて振り向く。ベッドから腰を上げたサムライが、木刀を片手にひっさげ仏頂面で歩いてくる。
 困惑する。
 「……無理せずともいい。子供じゃないんだ、シャワーくらい一人で浴びれる。君がついてくる必要はない」
 虚勢を張って拒否する僕の隣、サムライがぐいと顎を引き鉄扉を睨み付ける。
 沸々と怒りを滾らせた横顔に気圧される。
 「ここで待っている間にお前の身に万一のことがあったら悔やんでも悔やみきれん。強引についていくぞ」
 サムライの意志は強く決意は固い。こうなったら最後僕がいくら拒んでも断っても有言実行でついてくるだろう。まったく、心配性の友人をもつと苦労する。しかし、ほんの少しばかり安堵したのも事実。サムライが一緒なら安全だ。全面的に信頼する友人がそばにいてくれるなら襲撃者の気配に怯えずに体を洗える。
 ノブに手をかけた僕は、内心の安堵を知られてはなるまいと不敵な笑みを作る。
 「物好きめ。そんなに僕の裸が見たいのか」
 「……その手の冗談は好かん」
 サムライが憮然と言う。心なしか、その頬が赤く染まっていた。
 
 シャワー室には珍しく人けがなかった。
 「混雑を避けて中途半端な時間に来たのが良かったな。計算どおりだ」
 二日に一度のシャワー日とあれば、強制労働を終えた囚人がその足で直行するのは目に見えている。
 その為囚人が殺到する時間帯を避けてシャワー室に訪れた。夕食を終えたこの時間帯はシャワー室に来る囚人もまばらだ。ちなみにシャワーの時間帯はとくに決まっておらず、二日に一度の規則さえ守れば好きな時に使っていいことになっている。
 タイル貼りのシャワー室に踏み込む。
 入ってすぐにロッカーがあり、囚人はここで服を脱ぐことになっている。ロッカーの扉を空ければ、四角く薄暗い空間にプラスチックの脱衣籠が納まってる。
 早速服を脱ごうとして、背後の気配に気付く。
 「………………サムライ、言っていいか」
 「何だ」
 「その、そこにいられると脱ぎにくい」
 振り返る。木刀をひっさげたサムライが黙然と佇んでいる。
 僕の指摘に困惑したサムライが、気遣わしげに問いかける。
 「………俺は邪魔か?」 
 「邪魔とは言ってない。不愉快なだけだ」
 他に言葉が見つからない。まさか背後霊のように突っ立ったまま僕が服を脱ぐところを眺める気か?
 非難を込めて睨み付ければ、サムライが気まずげに咳払いしてくるりと後ろを向く。
 それでいい。
 納得してロッカーに向き直り、最初に眼鏡を外す。
 眼鏡の弦を丁寧に折り畳み、次に上着の裾に手をかける。
 赤裸な衣擦れの音が耳にふれる。背中合わせにサムライがいる、存在を意識する。
 何故だかひどく落ち着かない。上着の裾に手をかけ、薄汚れた囚人服を首から抜く。自らの貧弱な肢体を見下ろし、劣等感を噛み締める。痣と擦り傷だらけの体、栄養状態が悪く痩せて青白い体。まだ骨格が出来上がってない華奢な体。今日もイエローワークの労働現場で看守に殴られて同僚に転ばされた、おかげで全身至る所に青あざと擦り傷が生じている。
 
 みっともない。恥ずかしい。
 こんな体サムライに見せたくない……見られたくない。

 眼鏡をしてないせで視界がぼんやりする。何気なく脇腹に手をやる。さする。
 なんて薄く頼りない体だろう。
 東京プリズンに来てもうすぐ十ヶ月、イエローワークの強制労働で鍛えられたと思っていたのに収監当初と変わった所といえば多少日に焼けたくらいだ。
 振り向き、目を凝らしてサムライを観察する。
 サムライは僕に背を向けて押し黙っている。その内面は計り知れない。
 気難しく腕を組んだサムライの背中を見詰める。厚ぼったい囚人服を着ていても広く逞しい肩幅とぴんと伸びた背中、筋金の筋肉で鎧われた裸が透けて見えるようだ。
 唐突に、数ヶ月前の夜のことを思い出す。
 タジマに襲われた夜、サムライに抱擁されて一晩を過ごした時のことを。
 僕を抱きしめる力強い腕、厚い胸板の感触、全身に感じた筋肉の硬さ……

 『お前を守る。直』

 ……………………………………………何を考えているんだ僕は。
 激しくかぶりを振り、下世話な想像を打ち消す。
 自意識過剰も大概にしろと自分を戒めてズボンと下着を脱ぎ、きちんと畳んで脱衣籠に入れ、ロッカーの扉を閉める。今の僕は全裸だ。即ちサムライが振り向けば、僕の裸を目撃することになる。
 「振り向くなよ。振り向いたら絶交だ」
 「お前の裸など見んから安心しろ」
 サムライの声が不機嫌になる。
 不注意で裸足で慎重に濡れタイルを歩き、スイングドアで仕切られたシャワーブースの一つに入る。ほっと肩の力を抜く。振り返る。サムライは相変わらずこちらに背を向けていた。立ち位置だけスイングドアの前に移動していた。
 「そんなに近くにいると水がかかるぞ」
 「少しくらい濡れても構わん。お前の貞操が守れるなら安いものだ」
 「……一応断っておくが、僕はもう非処女だぞ」
 サムライが失言を悔やむように首を項垂れる。
 「すまん」
 「謝罪はいいからシャワー中絶対振り向くな。裸を人に見られるのは嫌だ」
 壁に固定されたフックにシャワーが掛かっている。頭上に手を伸ばし、シャワーを外す。
 注意深く金属のコックを捻り水量と温度を調節、シャワーの先端部から迸り出た湯が足元を濡らす。
 考えてみればおかしなものだ。売春班では客に裸を見せる以上のことも日常的にしていたのに、サムライに裸を見せるのは激しく抵抗がある。
 待て、僕はこれまでサムライに裸を見せたことがあるはずだ。
 今更恥ずかしがることはないし緊張することもない、はずだ。いや、それとこれとは別だ。別?本当にそうか?頭が混乱する。動悸が激しくなる。緊張で手が震える。

 しっかりしろ、鍵屋崎直。ただシャワーを浴びるだけだ。手早く済ませれば五分で終わる。
 サムライのことは気にするな、忘れろ。

 固く目を閉じて自己暗示をかける。
 体にシャワーをかける。湯を体にかける。温かい。
 心地よい温水が体の緊張をほぐしていく。白い湯気が四肢に纏わり付く。
 全身の砂汚れを丁寧に洗い流し、素肌の毛穴から分泌された汗や垢などの老廃物を擦り落とす。右手でシャワーを持ち、左手で体をまさぐる。首の後ろ、うなじにシャワーをかける。
 温かい湯が肌にしみる。官能的な刺激。
 唇から長く息を漏らす。

 「湯加減はどうだ」
 「最適だ」

 サムライの問いにそっけなく答え、内腿に手を滑らす。濡れたコンクリ壁に背中を預け、少し足を開き、内腿にシャワーをかけて汚れを洗い流す。内腿から足先へと幾筋も水が流れる。
 内腿を洗う手を止め、股間を覗きこむ。
 「どうした?」
 はっと顔を上げる。相変わらず背中を向けたまま、僕の手が止まったのを雰囲気で察したらしくサムライが声をかける。
 「………なんでもない」
 さりげなく嘘をつく。シャワーを片手に預け、水滴が伝う下肢を見下ろす。
 貧弱な体。未成熟な体。かつて僕に触れた売春班の客たちが何に興奮していたのか理解に苦しむ、本当に。
 思い出すのは僕の股間に顔を埋めて唾液を捏ねる音も卑猥にペニスをしゃぶる客、僕の膝を掴んで押し広げて醜悪な肉塊を挿入する客、甲高く音響かせて僕の尻を打擲し狂った哄笑をあげるタジマ……

 汚い。

 「!――っ、」
 汚い汚い汚い。
 胸の奥で嫌悪感が膨らむ。かつて僕に触れた売春班の客たちの顔と声が一斉に押し寄せてくる。
 気持ち悪い。まだ体に感触が残ってる。早く、早く消さなければサムライに知られてしまう。
 きつく目を閉じ頭からシャワーを被り乱暴に髪をかきまぜる。乱暴に肩をこすり胸板をこすり腹をこすり下肢をこする、赤く擦りむけるぐらい力を込めて摩擦する。
 痛い。僕が擦った場所が薄赤く痛々しく変色する。湯で上気した肌のあちこちが指圧でへこむ。床の排水口に渦巻きながら吸い込まれていく大量の湯、ごぼり濁った不快音をたて排水口に呑み込まれる湯、排水口の奥から聞こえてくる濁った笑い声……

 「直?」
 不審げな声を無視、必死に体を洗い続ける。僕に触れた手の感触を忘れたい、綺麗さっぱり消し去りたい。

 胸郭が浅く上下する。呼吸に合わせて腹筋が収縮する。
 『いい加減素直になれよ親殺し。上の口と違って下の口は正直だ、悦んでぎゅうぎゅう締め付けてきやがる。指三本でも足りねえってひくついてるぜ。入れてほしけりゃ泣いて頼めよ。それともこのまま指だけでイかしてほしいか』
 やめろ。
 『細い足。女みてえ。言われた通り股開けよ、がくがく腰振れよ。中で出したもんはあとで掻き出してやるよ、シャワー使ってな。それともまた吊ってほしいか、ぎちぎちに縛ってほしいか?そうか、縛られるのが好きだったんだな。気付かなくて悪かったよ。お望みどおり縛ってやるよ……』
 やめろ、やめてくれ。
 『壁に手えついて尻突き出せ、雌犬みたいに。尻高く上げなきゃ掻き出せねーだろ。……なんだよ、指だけで興奮してんのか。とんでもない淫乱だな、お前は。ザーメン掻き出してやってるだけだで節操なく感じやがって、前がびんびんに勃ってるじゃんか。シャワーで感じてんのか?シャワーごと突っ込んでほしいか?どうしてほしいかちゃんと言わなきゃわかんねーだろうが!』

 「っあ…………、」
 喉の奥で吐き気が膨らむ。気分が悪くなる。
 売春班にいた頃の忌まわしい記憶がまざまざと蘇る。壁に背中を付き、二の腕を抱いてしゃがみこむ。手から取り落としたシャワーが床にぶつかり、跳ね、あたり一面に湯を撒き散らす。
 床で跳ねたシャワーの先端部から放出された湯が股間を刺激、たまらず喉が仰け反る。
 「あっ、あああああああっ……」
 むずがゆい刺激にペニスが反応、水滴滴る喉から喘ぎ声が迸る。
 「直!!」
 熱い、体が熱い。全身が狂おしく疼いている。壁に背中を預けてへたりこんだ僕の肩を誰かが掴み、激しく揺さぶって正気を戻す。サムライがいた。心配げに僕の顔を覗き込んでいる。入ってくるなと罵ろうとして体が弛緩、サムライの腕の中に勝手に倒れこむ。
 「サムライ………体が、あつい……」
 サムライの服の袖を握り締め、弱々しく訴える。
 「めがね、めがね……くそ、眼鏡はどこだ!?眼鏡は顔の一部、従って僕の一部!自慢じゃないが僕の視力は0.03、眼鏡がなければ何も見えない、今自分がどんな状態にあるか今君がどんな状態になるかなにもわからないのに、いつにも増して無力になるのに!」
 無意識に虚空に手を伸ばして眼鏡をさがす。ない、見つからない。眼鏡が見つからず恐慌を来たす僕をサムライが強く抱きしめる。シャワーの音が聞こえる。サムライが僕の体にしっかり腕を回す。
 サムライを振りほどこうと躍起になる、自制をなくして暴れて絶叫する。
 「放せサムライ、僕に触るな!何故勝手に入ってきた、シャワー中は絶対振り向くなと念を押したのに貴様それでも武士のつもりか!?眼鏡、眼鏡はどこだ?眼鏡がなければ視界が歪んで何も見えない、恵の次に大事な僕の眼鏡はどこへ行ってしまった!?」
 「落ち着け直、眼鏡はさっき外しただろう!どのみち視界は湯気で曇って何も見えないぞ!」
 「あ…………」

 馬鹿な。
 何故そんな単純なことに気付かなかったんだろう?

 「そう、だったな。僕としたことが迂闊だった、眼鏡はロッカーの中に……」
 膝を支える力が抜ける。サムライの腕に縋ったまま床に膝を付く。シャワーの音がやけにうるさく響き渡る中、サムライが僕の腕を掴んで抱き起こす。されるがままサムライに抱き起こされた僕は、その瞬間全裸であることを思い出す。
 顔が羞恥に火照る。
 慌ててサムライを突き飛ばそうとしたが僕を抱く腕の力は強く逃れられない。
 激しく揉み合う足元でシャワーがのたくり、僕にのしかかったサムライの服が濡れそぼる。厚ぼったい囚人服が水に透けて肌に貼り付き、逞しい胸板が目にふれる。
 「サムライ大丈夫だ、僕は正気だ。さっきのはその、湯当たりだ。シャワー中は一時的な血圧上昇や心拍数の増加が起きやすく脳や心臓の血管が弱くなっていると障害が出る、しかし入浴時間を経るにしたがって血流は徐々に安定してくるから心配なっ……」

 その時。
 唐突に電気が消え、視界が暗闇に包まれた。
  
 「!?」
 暗転した視界に動揺、サムライの腕の中で硬直。抵抗が止んだ隙に背中を壁に押し付けられる。
 急展開に頭が追いつかない。暗闇の中、シャワーの音だけがやけに大きく響き渡る。裸の胸にサムライの鼓動を感じる。僕の体とサムライの体が密着、二本の腕で抱擁されて窮屈さを覚える。
 僕とサムライを隔てるのは水で濡れそぼった囚人服一枚だけだ。殆ど裸で抱き合ってるのと変わらない状況に心拍数が跳ね上がる。
 「………いい加減放せ。苦しい」
 か細い声で訴えるも腕の力は緩まない。
 耳朶がカッと熱くなる。
 僕は全裸だ。股間を隠す物がなにもない。裸の股間がサムライの腰と触れ合う度に電気に似た刺激が脊髄を駆け抜ける。それだけじゃない。水滴に濡れた肌がサムライのそれと擦れ合って後ろめたい興奮を生み出すのだ。変な感じだ。体の先端が過敏になる。サムライがもう少し膝をずらせば身じろぎすればペニスが本格的に勃起してしまう。そんなことになったらおしまいだ、二度とサムライの顔が見れない、舌を噛んで死んだほうがマシだ。
 脳裏に混沌と思考が渦巻く。サムライの腕の中で浅い呼吸をくりかえす僕の耳朶に、熱い吐息がかかる。
 「お前は汚くない」
 シャワーの音を圧し、真剣な声が響く。
 「………………洗い立てだからな」
 「違う」 
 サムライが言下に否定、肩に手をおいて腕へと滑らせる。
 湯気立つ暗闇の中、サムライが体に触れる。
 「!んっ………」
 シャワーで火照った体を骨ばった手がなぞっていく。 
 「こうして俺が触れているのが証拠だ。お前は汚くなどない。お前は清潔だ」 
 壁に背中を凭せ掛け、何とかサムライの愛撫に耐える。唇を噛み締めて声を殺す。サムライはただ僕の腕をなでているだけ、愛撫と呼びがたい緩慢さでさりげなくなでているだけ。
 それなのに僕は、勝手に興奮してる。性的な刺激を感じている。どうかしている。サムライは「僕が汚くない」と気休めを言う、だがそれは嘘だ、こうして感じているのが証拠だ。
 売春班で何人何十人もの男に抱かれた僕はただサムライに触られただけで興奮している、もっともっと触れてほしいと欲望してる。

 僕は汚い。

 「気休め、を言うな。売春班で僕が何をされたか知らないくせに、どんなに乱れたか知らないくせに」
 暗闇に目が慣れたサムライは、僕の顔が卑屈に歪んでるのに気付くはず。露悪的な笑みに気付くはず。
 サムライの腕の中で肩を揺すり、続ける。
 「僕は汚い、それは事実だ。いくら洗っても落ちない汚れが体に染み付いてる。僕の肛門にはまだ客の精液が蟠ってる。君は知らないだろうサムライ、男同士が性行為に及んだあと肛門に精液を残しておくと下痢になる、だから僕は行為が終わったあとシャワーを使って自分で『掻き出す』んだ。壁に手を付いて足を開いてシャワーを肛門に注いで……悪趣味な客の前でそれをやらされたことがある、もっと尻を上げろだの股を開けだの肛門をかきまぜろだの注文されて掻き出すんだ、死ぬほど恥ずかしかった!!」
 発作的にサムライの胸を殴る、殴る、殴る。
 売春班の記憶が蘇り瞼がじんと熱くなる。いくらシャワーを浴びても体に染み付いた汚れは落ちない、そのことは僕がいちばんよく知ってる。気休めなどいらない、ほしくない。僕が何人何十人もの男に抱かれたのは事実だ、こんな汚い体サムライに見せたくない見られたくない!!
 「そうだサムライ、どうせなら君が掻き出すか?僕の肛門に指を突っ込んで精液を掻き出すか?僕は『淫乱』だから後ろに指を突っ込まれただけで勃起する、自分でも具合のいい体だとあきれー……」

 「伏せろ、直!」
 サムライが鋭く叫び、僕を庇って押し倒す。

 何が起こったか一瞬わからなかった。床に倒れた僕の前をふわりと風が過ぎる。シャワー室の扉が開き靴音が殺到、罵声と怒声が響き渡る。何だ、何が起きている!?暗闇に目を凝らす。シャワー室に入り乱れ逃げ惑う人影……濡れた床に足をとられひっくり返る者がいる、滑り出しの勢いを殺せず壁に激突する者がいる。
 暗闇の中にサムライをさがす。
 いた。
 シャワー室に乱入した集団と木刀一本で立ち回っている。
 「なんだよ聞いてねえぞ、サムライがいるなんて!?」
 「畜生、計算外だ!せっかくブレーカー落としたってのにこれじゃ意味ねえよ、撤収だ!」
 「一昨日のリベンジに親殺しが来るの今か今かと待ち構えてたってのに……」
 周囲に動揺が伝染する。暗闇の下りたシャワー室にて、恐慌に駆られて逃げ惑う囚人たちを容赦なく木刀が仕留めていく。肉を打つ鈍い音、悲鳴、絶叫。サムライは暗闇の中でも危なげなく刀をふるう。猛禽の眼光であたりを睥睨、俊敏な体捌きで獲物に肉薄、逃げる暇も命乞いする暇も与えずに額に肩に脛に人体の急所に一撃を打ち込む。
 「お、覚えてろよ!」
 「この借りは必ず返すかんなっ」
 月並みな捨て台詞を残し、襲撃者が撤退する。
 ある者は割れた額を覆い足を引きずり腕を庇い、這う這うの体で逃げ出す襲撃者を捨て置き、サムライが大股に戻ってくる。
 パッと視界が明るくなる。異変に気付いた看守がブレーカーを上げたらしい。
 床にへたりこんだ僕の正面に、びしょ濡れのサムライが立つ。
 前髪から手足の先から、ぽたぽた水滴を滴らせたサムライがこの上なく不機嫌な顔で僕を見下ろしている。
 全身濡れそぼったサムライを仰ぎ、皮肉を言う。

 「……折角だから一緒にシャワーを浴びるか?」
 「断る」

 サムライの不満顔があまりに面白く、込み上げる笑いを堪えて口元をひくつかせた僕の頭上にばさりと何かが落ちてくる。
 手に取り確かめれば、タオルだった。
 「早く拭け。風邪をひく」
 サムライにそっけなく言われ、のろのろと立ち上がり体を拭く。
 ぎこちなく機械的な動作でタオルで手足を拭う僕の耳に、頑固な呟きがふれる。
 「……………お前は汚れてない。いくら卑下しようと自嘲しようと、俺の中では綺麗で高潔な直のままだ」
 体を拭く手を止めて振り返る。不機嫌そうに腕組みして背を向けるサムライ、その耳朶が赤くなっている。
 「……お前は石鹸の匂いがする。お前にふさわしい清潔な匂いだ。俺はお前も、お前の匂いも、好ましく思う」
 「理解不能だ。体臭を褒められた際はどんな反応をすべきか判断に困る」
 素肌の水滴をタオルの布地に染み込ませる。スイングドアを開けて外に出る。
 サムライの横を足早に通り過ぎロッカーに向かいがてら、呟く。

 「君に抱かれるのは別に嫌じゃない」

 「!」
 サムライが夢から醒めたように顔を上げる。
 ロッカーの扉を開け、眼鏡をかけ直す。
 かちりと視界が切り替わる。
 シャワーで上気した体に囚人服を纏う。肋骨の浮いた貧弱な胸、痩せた腹筋を上着で隠す。体が熱いのはシャワーを浴びたばかりだからだ。頭が朦朧として自分が何を言ってるのかよくわかないのもそのせいだ。
 体はまだ、サムライの抱擁を覚えている。
 僕を抱きすくめる力強い腕の感触、厚い胸板の鼓動を覚えている。
 素早く服を身に付けてロッカーの扉を閉じる。
 サムライの方は見ず、努めて平静に補足する。 
 「せめて二日に一度はちゃんと体を洗え、髪を洗え。頭の先からつま先まで垢を洗い流してくれ。不潔な人間に触れるのは耐え難い。抱かれるなどもっての他だ。汚物と添い寝する趣味はない。だから」
 サムライに向き直り、不敵に笑う。 
 サムライの腕の中で感じたぬくもり、確かに守られているという実感。
 微熱を持て余す体を囚人服に覆い隠し、緩やかに腕を組む。
 「君から石鹸の匂いがするようになったら、不健全な意味で抱かれてやってもいいぞ」
 盛大な咳払いが返ってきた。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010614183140 | 編集

 「たとえばだ」
 硬質な靴音が響く。

 実質所長の居室でもあるプライベート空間は机も書棚も飴色に艶光りする高級な木材で統一されている。
 飴色に艶出しした調度品が配置された部屋の中、四つん這いで長椅子に臥せっているのは一人の青年だ。
 犬のように頭を垂れる屈辱的な体位をとり、自ら足を開いて引き締まった尻を突き出している。 
 革張りの長椅子の周囲を歩き回っているのは、折り目正しく背広を身に付けた中年男だ。

 華奢な縁なし眼鏡の奥では爬虫類じみて瞬きの少ない陰険な双眸が冷光を放つ。
 肉の薄い繊細な鼻梁と癇性に痙攣する唇が神経質な細面を強調する。
 冷たく光る眼鏡の奥、いやらしく細めた双眸には嗜虐的な性質が窺える。

 威圧的に靴音を響かせて長椅子のまわりを徘徊する男の視線は、これでもかというほど無遠慮に青年の肢体に注がれている。
 天鵞絨の長椅子に這いつくばった青年は、ズボンと下着を脱いで尻を露出している。

 「っあ……くは……」

 口からかすかな呻き声が漏れる。
 吐息に紛れて消えそうにかすかな、本当にかすかな呻き声。
 快感よりもむしろ苦痛が勝った憔悴の呻きに伴い、感に堪えかねたように睫毛が震え、背筋がうねり、伏せた双眸が漣立つ。

 こめかみを一筋汗が伝う。
 程よく鍛えられた褐色の背中が弓なりに反り、十字架を模した火傷が外気に晒される。
 裸の背中に刻印された十字架に冷たい指先が触れる。
 十字架に沿い、蟲を思わせる淫猥な動きで指が這う。
 青年の肌はしっとり湿っていた。
 紫外線の副産物ではない、褐色人種の血を濃く受け継いだが故の情熱的な肌の色だ。
 指に吸いつくように滑らかな肌の感触を楽しみつつ、愉悦に酔った独り語りを続ける。

 「奴隷を作る一番簡単な方法は苦痛と快楽を交互に与えることだ。俗に言う飴と鞭だ。サディストとマゾヒストの関係に還元してもよかろう。快楽を与える一番簡単な方法はなにか?喉の渇いた人間は水を渇望する、飢えた人間はパンを所望する、淫乱な人間は性的な快楽を欲する……ならば答えは明白」
 「御託はいいから、はっ……さっさとぬけよ………っ」
 肘掛けに頭を凭せ、長椅子に体を突っ伏した青年が苦しげに振り向く。
 明るい藁色の髪をしどけなく乱し、左目を眼帯で覆い、残る右目を細めている。
 これでもかと欲情を煽り立てる被虐の表情に生唾を嚥下、靴音も高らかに優位を誇示して長椅子に歩み寄る。
 勝利の靴音を響かせて背凭れに接近、上体を折り曲げて覗き込む。

 「準備はいいかね、レイジ」

 長椅子に這いつくばった囚人…レイジは、縺れた前髪のかかる隻眼に憤怒の火を点す。

 「上等、だよ。一日、ずっと、クソひりだす場所に勝手に震えて動く悪趣味な玩具を突っ込まれて体ん中がどろどろに溶けてるよ。ぐずぐずに溶け崩れた内臓がマグマみたいに腹の奥底で泡立ってるよ。体じゅう熱くて熱くて、今にも気が狂いそうでたまんねえ……」

 息も絶え絶えにかすれた声を搾り出す少年を好ましく見下ろし、所長はほくそ笑む。
 優越感に満ちた微笑。

 「その割には憎まれ口を叩く元気があるようだが」
 「あん、たの顔見たら、自然、にでてくるんだよ……ぅく、」
 語尾が潰れる。
 体の最奥に突っ込まれたローターの振動が強まったらしい。
 どうにか苦鳴を漏らさぬよう下唇を噛み締め、体の最奥を揺すりたてる振動に耐える。
 下半身裸で快楽に身悶えるレイジを見下ろし、眼鏡のサディストは満足げな表情を上らせる。

 調教成果は上々だ。

 いかにレイジといえど一日以上体内にローターを突っ込まれたまま放置されてはたまらない。
 自白剤を使う手もあったが薬物に免疫をもつ人間が相手では大した収穫は望めない。
 そして所長は一計を案じた。
 
 所長は回想する。
 昨日のことを。

  ++

 
 「ところでレイジ、君は異性・同性ともに経験豊富だと聞く。さぞかしアブノーマルなセックスに通じてるんだろうね」
 「エリート気取りの所長サマがイチ囚人の下半身事情に興味おありなわけ?あんたも欲求不満か」

 椅子に深々身を沈め、優雅に足を組んだ所長の視線の先ではレイジが椅子に縛り付けられている。
 上着は着ていない。上半身は裸だ。裸の上半身の至る所に鞭打たれた傷跡ができて鮮血が滲んでいる。
 鞭で打たれて皮膚が破けた痛々しい傷跡、その一つ一つを視線でなぞりながら所長は続ける。

 「邪推するな、これは尋問の一環だ。家畜を飼い慣らすにはまずその全てを知らねばならないからな。家畜が好む体位、家畜が好むセックス、家畜が好む躾けをな」

 レイジが不敵に笑う。
 さんざん鞭打たれた直後だというのに怯えたふうもなく、傷だらけの上半身を晒して縄に巻かれてもなお悠然と構えている。

 どれだけ虐げられても王者の風格を失わず、野生の豹めいた獰猛さを失わない若者に嗜虐心が疼く。
 所長はおもむろに席を立つ。
 死角で机の引き出しを開け、コードレスのローターを取り出し、掌に握りこむ。

 「あんたの躾を好むヤツなんていんのか、生粋のマゾとマゾ犬以外に」 

 喉の奥で嘲り笑うレイジに大股に接近、正面で対峙する。
 卑屈な笑い声を立て、上目で挑発するレイジの頬に平手打ちを見舞う。
 横っ面を張り飛ばされた勢いで椅子ごとレイジが倒れ、横ざまに床に激突する。
 椅子と床が衝突する鈍い音が響く。
 椅子に縛り付けられてるせいで受身もとれず、体を強打したレイジが脳震盪を起こす。
 殴られた際に切れたらしく唇に血が滲む。

 怒りに駆られた所長は手加減せずレイジの前髪を鷲掴み、強引に顔を起こさせる。 

 「家畜の分際でハルを侮辱するな。また鞭をくらいたいか」
 「顔殴んなよ。血の味がするキスじゃロンが嫌がる」
 噛み合わない会話に鼻を鳴らし、あっさりと前髪を解放する。
 椅子に縛り付けられたレイジは自力で起き上がることもできず無防備に床に倒れたままだ。

 所長は不穏な無表情でレイジを見下ろす。
 冷徹な光を宿した双眸でレイジを威圧するも、本人は動じることなく所長の視線を跳ね返す。
 血の滲んだ唇を舐め、痛そうに顔を顰める。
 薄赤い唾を吐き捨てるレイジを醒め切った目で眺め、所長が訊ねる。

 「質問の続きだ。君はアブノーマルなセックスに耽溺してるのか」
 「報告書に書いてあんだろ?俺の生い立ち知りたきゃそれ読めよ。キーストアは最低三回本を読み返すそうだぜ。俺にご執心ならあんたも見習えよ」

 自ら答える気はないと匂わせ、ぞんざいに顎をしゃくる。
 所長は皮肉に笑い、磨き抜かれた革靴のつま先でレイジの顎を持ち上げる。

 「何故この私が家畜風情を見習わねばならない?不可解なことを言って質問をはぐらかそうとしても無駄だ、そんな初歩的なごまかしに騙されるものか。いいかね?私は君自身の口から聞きたいのだよ、詳細な証言を得たいのだよ。聞き分けない駄々をこねて手間をかけさせないでくれないか」

 革靴で顎を持ち上げられたレイジが苦痛に顔を歪める、その表情すら色っぽい。
 酸素を欲するように口を開き、潤んだ双眸を開く。 
 形良い喉を仰け反らせ、熱く息を吐くレイジに畳み掛ける。

 「もう一度聞く。君はアブノーマルなセックスに通じているのか?」
 「そう、だよ。殺しとセックスのプロだからな」

 革靴で顎を上向けられ、天衝く喉仏を晒した苦しい体勢を強いられ、こめかみを一筋汗が伝う。
 上半身の鞭傷が椅子の背凭れと縄に擦れて痛いのか、火の疼きを堪えるように目を瞑り、物狂おしく身動ぐ。
 伏目がちに自虐の笑みを浮かべ、思い出したくもない過去の出来事を訥々と吐露する。

 「あんただって報告書に目を通しただろ。標的に近付くためなら何だってやった、体で相手をたらしこんでグサリかズドンだ。ガキの頃からそれが仕事だった。組織の言い付け。標的は主に軍人・武器商人・政府の要人エトセトラ……ぶっちゃけまともな性癖の持ち主はごくわずか、何の嫌がらせか俺に回されてくる標的は変態ばっかでさんざ苦労したよ。ま、あんまりド変態だったり頭がイカれてたりイっちまってたり他のヤツが手こずる標的が回されてきたんだろうけど……当然ノーマルなセックスじゃ済まない場合も多々あり、ボディピアスだろうがスカトロだろうが何でもござれのアブノーマル仕様だ」

 一呼吸おき、茶化した口調で言い放つ。

 「誤解なきよう言っとくけど俺自身はマゾでもサドでもないぜ?SもМもごめんだね。縛られんのも鞭打たれんのもあんま好きじゃない、というか嫌いだ。大嫌いだ。つまり今あんたがしてることは俺の大嫌いなことなわけ、到底我慢できねえくらい大嫌いなことなわけよ。Did you understand it?」
 反吐が出そうな表情で己の境遇を呪うレイジの顎から靴をどけ、眼鏡のブリッジを人さし指で支える。

 「道具はどうだ」
 「は?」

 所長が興味深く質問し、椅子ごと倒れたままのレイジがあっけにとられる。
 レイジの傍らに片膝付き、言葉を継ぐ。

 「セックスの際に道具を使われたことはあるか。俗に言う大人の玩具、普通のセックスでは飽き足らぬ貪欲な連中のために開発された悪趣味な性玩具だ。SM経験豊富な君ならば当然大方の道具は体験してるだろう。使用後の感想はどうだ?気持ちよかったか。肛門にローターを挿入され前立腺をしつこく刺激され射精に至ったことも一度や二度ではあるまい。それともバイブがいいか?アナルパールはどうだ。君の肛門は子供の頃から数多の男を受け入れて敏感になっている、後ろに異物を挿入される違和感すらたやすく快感に変換してしまう。隠しても無駄だ、レイジ。君は淫らな男だ。快楽に忠実で貪欲な男だ。痛みには強く快楽には弱い、それがケダモノの本性だ」

 優しく頭を撫でる。
 明るい藁色の髪が指の間を滑っていく。
 藁色の髪を梳き、ぱさついた毛髪の感触を楽しみつつ顔を近付ける。

 「玩具は好きか?」
 「好きなわけあっか」

 露骨に嫌悪感を表したレイジに思惑通りと溜飲を下げ、背広のポケットに手を滑り込ませる。

 「ローターの刺激では達せないと?謙遜するな、家畜の分際で。君はローターが好きなはずだ。SMでは玩具の使用が欠かせない。ローターもバイブもアナルパールも君の肛門は節操なく咥え込んできたはず、ぎっちりと奥まで咥え込んで締め付けて物欲しく快感を貪ったはずだ。君は淫らな男だからな、擬似ペニスでも何でも後ろの孔に咥え込みさえすれば容易にイくことができるのだろう。グロテスクな玩具に肛門を犯されて性的興奮を感じるのだろう、本当は」

 ポケットの内側で無機物の卵をいじくりまわし、プラスチック特有のなめらかな表面を手に馴染ませ、ねちっこく言葉で嬲る。

 「初めて玩具を使われたのは何歳の頃だ」
 「答える義務あんのかよ、くそったれ」

 レイジが反抗する。
 紐が弛んで外れかけた眼帯の下から無残な傷跡が覗く。
 左の瞼を縫い綴じた傷跡を一瞥、所長が不意に立ち上がる。

 「看守はいるか」
 「なんでしょう」

 即座に扉が開き、廊下で待機していた看守が二人顔を見せる。
 恭しく返事をした看守を交互に見比べ、そっけなく指示をだす。

 「ロンを呼べ」  
 「―っ、」

 レイジの顔色が豹変する。
 焦燥に焼かれるレイジを視界の端に入れ、平静を装って更なる命令を下す。

 「急遽ロンに聞きたいことができた。困ったことに彼があくまで反抗する気らしく、どうあっても同房の囚人に頼らずをえない状況になった。即刻ロンを連れて来い。強制労働から呼び戻して手錠をかけてここに連行するのだ。聞き分けなく抵抗するようなら看守の権限で痛めつけて構わない、瀕死の重傷を負ったところで代わりはいくらでも……」
 「ロンの代わりなんかいるかよ、勝手なことくっちゃべってんじゃねーよっ」

 床に寝転んだレイジが唾を飛ばして食ってかかるのを無視、手を振って看守を追い立てる。

 「なにをぐずぐずしているんだ、さっさと行きたまえ。減棒するぞ」
 「待てよおい、王様の話聞けよロバの耳!」
 「ロンはイエローワーク所属だ。今の時間帯は砂漠で肉体労働にあたっている。現場の看守には所長命令と告げればいい。東京プリズンにおける所長の命令は絶対だ、誰も逆らうことは許されない。抵抗するようなら手足をへし折り拘束しろ、この際連行手段は問わない。さあ今すぐロンをここに連れて来い、往生際悪く喚き散らすレイジの眼前に引き立てて鞭打ってやろうではないか、諦め悪く喚き散らす王様の醜態を目に焼き付けさせて思う存分嬲ってやろうではないか哀れなロンを!!」
 「あんたにとっちゃその他大勢の囚人の一人でも俺にとっちゃたった一人の大事なロンなんだよ、鞭打ったりしたらただじゃおかねーぞ、ロンを泣かしていいのは世界に一人俺だけなんだよ、俺に断りなくロンに手を上げたら………っ」

 顎で這いずるレイジを虫けらを見る目で視殺、限りなく無表情に近い顔で片足を上げる。

 衝撃。

 「!!っあぐ……ぅくあ、」

 革靴が股間にめりこむ。
 レイジの股間を靴で踏み付けた所長はそのまま股間に靴をねじこみ、あまりの激痛にレイジの体が不規則に跳ねるさまを大いに楽しむ。

 靴裏に体重をかけ念入りに踏みにじる。
 靴裏の荷重でペニスが押し潰される。

 レイジの足を開かれてそれぞれ椅子の脚に縛り付けられている、咄嗟に足を閉じて急所を庇おうにもできない体勢だ。所長は絶妙の力加減で股間を踏みにじる。ズボンが泥で汚れるのも構わず靴裏に当たるペニスの感触と肉の弾力を愉しみ、しとどに脂汗に塗れた苦悶の形相に恍惚とする。

 「痛いか」
 「死ぬほど痛えよ畜生、二度と勃たなくなったらどうすんだよ、世界中の愛人が泣くだろっ……っあ、あひっ!?」
 「間抜けな悲鳴だ。東棟の王とは思えぬ無様な姿だ」
 看守でさえ目を背ける残忍さと執着の深さでズボンの股間を踏み躙り、漸く足をどける。

 レイジは肩で息をしていた。
 脊髄を駆け上る激痛に頭が痺れて朦朧としているのか、頼りなく脱力した様子で身を横たえている。

 「君の友人が見たらさぞかし幻滅するだろうな」
 急所を踏み躙られた激痛に声もないレイジの傍らに屈み込む。
 「初めて後ろの孔に玩具を咥えたのは?」
 「九歳、だ」
 息を不規則に荒げつつ、憔悴しきった面持ちで口を開く。
 「どんな道具を使ったか、相手は誰か、どんな状況でどんな部屋で性行為に及んだのか包み隠さず詳細に述べろ」
 重ねて説明を求められ、唾を飲む。

 答えを拒むように口を閉ざしたレイジに摺り寄り、傷だらけの肢体を舐めるように見る。
 鞭打たれた傷跡が無数に刻まれた肌には扇情的に血が滲んでいる。

 「恥部を曝け出せ」

 鎖骨に顔を埋め、傷口に舌を浸す。
 傷口に唾液が染みるのか、レイジが僅かに顔を顰める。
 所長は構わず舌を使う。
 鎖骨、肩、胸、脇腹、腰、背中。
 上半身至る所に傷を作ったレイジ。
 その傷跡一つ一つを丹念に辿り、唾液のぬめりで膜を張り、舌で犯していく。

 「………いいのかよ?看守が見てるぜ」
 「質問に答えたまえ。ロンを呼び出したいか」

 入り口に棒立ちになった看守をよそに舌での愛撫を続ける。
 なまぬるい舌の感触が不快なのか傷口に唾液が染みるのか、熱に浮かされたように朦朧とした顔がその瞬間だけひくつく。
 覚悟を決めて話しだす。

 「……相手は変態の軍人。ガキが好きな変態、生粋のぺドフィリア。二人目か三人目の標的。人のよさげなツラしたベビーフェイスの白人。懐に潜り込むのは簡単だった。相手はしょっちゅう街角でガキを物色してた。それなりに見目いいフィリピン人のガキ……好みのガキ。俺はただアイツの目につくところうろついて誘われるの待ってりゃ良かった」

 懐かしそうに目を細める。

 「会って三回目までは普通のセックスだった。相手もそれなりに優しくしてくれた……豹変したのは三回目だ。三回目でいきなり本性剥き出しにしたんだ。俺は油断してた。油断して背中を見せた、無防備に……あっというまに押さえ込まれて膝開かれてケツにローションぬりたくられた。冷たくて気持ち悪かった。何するんだって聞いたらいいことだって言われた。答えになってねーよな、それ」
 「何を使われた?ローターか、バイブか」
 「アナルパール。直径2センチ位の玉が連なってる……あー、今思い出しても気持ち悪ィ!気持ち悪くて吐きそうだ。ケツの穴をめりめりってこじ開けてパールが入ってくるんだよ。吸って吐いて、吸って吐いて……息を止めて。腹筋の力を抜かなきゃ入らなくて、一つパールが入るたびに膝裏の力が抜けてくたりとくず折れて……体の奥で異物が蠢いて、すっげえ変な感じ。体の奥でゴリゴリするんだよ。結局何個入ったんだっけ……ああ、十三個だ。最高記録十三個。頑張ったな俺、すごいな俺。あっぱれだ。初めてにしちゃ上出来だ。すっげえ苦しかったけどな……相手はそりゃ大喜び、ぱちぱち手え叩いて褒めてくれたよ。「十三個入れたご褒美にくれてやるから中に入れたまんま帰れ、次また会う時まで外すな」って無茶言って……だってその間クソどうすんだよ」
 「気持ちよかったか?」
 「Shit」

 レイジが舌を打つ。
 
 「気持ち良くなんか全然ね……気持ち悪くて……体ん中が変に熱くて、早く栓を抜いて欲しくて……そればっか……」

 激しい熱と痛みに苛まれて過去と現実の区別がつかなくなってるらしく、朦朧と目の焦点が彷徨う。
 憔悴しきったレイジを冷ややかに見下ろし、所長が縄を解く。
 ぱさりと縄が床に落ち、意識の薄れ始めたレイジが所長の腕の中に倒れこむ。
 レイジを抱いたまま看守に顎をしゃくる。
 即座に意図を汲んだ看守が足早にやってくる。

 「嘘をつくなレイジ、君は快感を感じていたはずだ。肛門に異物を挿入されて、腸の中でコリコリと回転するパールに前立腺を刺激され、未熟なペニスから悦びの汁を垂らしていたはずだ。家畜を躾ける最も簡単な方法は強制的に快楽を注ぎ込むことだ、体の中から熱で狂わせて支配してしまえばもはや意志を掌握したも同然だ」

 看守が二人レイジの傍らに屈みこみ、上司の命令を待つ。

 「ズボンを脱がせ。下着もだ」
 「!?なっ……、」 

 看守がレイジの肩を押さえ込み、無理矢理床に這わす。
 体調が万全な時ならいざ知らず、鞭打たれた全身がずきずき熱をもって、縄から解き放たれたばかりで四肢が強張った今の状態では看守の腕力を跳ね返せるわけがない。
 言われるがまま一人がレイジをうつ伏せに押さえ込み、もう一人が背中に回りズボンを脱がしにかかる。

 「むさ苦しい野郎どもにタダでストリップ披露する趣味ねーんだけど」 
 「ストリップではない。これは責めだ」 

 所長が微笑む。反比例してレイジの焦燥が濃くなる。
 危機の迫ったレイジが暴れるもその力はよわよわしく看守の拘束を解くには至らない。
 背後に回った看守が下着ごとズボンを下げおろす。
 皺くちゃのズボンが踝に絡む。レイジは殆ど全裸に近い状態だ。
 上半身は上着を取り去られ今また下半身も裸に剥かれ、申し訳程度に踝に絡んだズボンと下着がかえっていやらしさを引き立てる。

 「足を開け」
 所長が命令する。
 「ふざけんな」
 凄まじい怒気を放つ笑顔でレイジが言い切る。

 「こいつ、所長に逆らう気か!」
 「構うこたねえ、やっちまえ!」

 看守の一人がレイジをしたたかに殴りつけ、肉厚の手で頭全体を包み込むように押さえ込む。
 もう一人が乱暴に足を押し開く。

 「っあ………」
 声が、漏れる。ぞくりとする声。
 興奮に乾いた唇をさかんに舐め、満を持してポケットから手をとりだし、もったいぶって所長が歩き出す。

 眼鏡の奥の双眸が炯炯と輝きを増す。
 レイジの背後に片膝を付き、手の中のチューブから透明な液体を搾り出し、手のひらで丁寧に伸ばす。
 粘り気のある透明な液体がくちゃくちゃと卑猥な音をたて指で糸引く。

 「聞き覚えある音だろう」
 レイジは顔を上げない。上げられない。
 看守に押さえ込まれて上体を突っ伏したまま、怒りなのか恐れなのかわからぬ感情でわなないている。
 罠にかかった豹めいて背中を震わすレイジを眺め、手のひらでローションをこねくり回すー…

 「は、はははははははははははっ。そっか、そういうわけかよ、なるほどこいつは傑作だ!」 

 突然レイジが笑い出す。
 乾いた笑い声をあげるレイジに看守が薄気味悪そうに眉をひそめる。

 「犬以外に興味ねえ獣姦変態所長かと思いきや好色な目つきで囚人を品定めしてたってわけか。どうやら俺はあんたの眼鏡に叶ったみてーだな、全然有難くねーけどさ!アレの在り処を吐かすなんざ口実に過ぎないんだろ実際、本音は俺とヤりたくてヤりたくてたまらなかったんだろ、朝礼ん時に一目ぼれしてどうにかして俺を手懐けたくていろいろやってみたんだろ?!はははははははっはははっ」

 狂った哄笑が渦巻く。
 錯乱したかと思われる笑い声で場を圧倒し、首を捻って振り向く。
 殺意にぎらつく目。

 「突っ込んでみろよ。食いちぎってやる」

 尖った犬歯を剥き、挑発。
 獰猛極まる笑みを刻んだレイジを嘲笑し、大臀筋の浮かんだ尻肉を乱暴に掴む。

 「そんなに私のペニスが欲しいのか?生憎だが私のペニスはハルに捧げてるんだ、雑種の囚人に挿入する趣味はない。悪い菌が伝染らないとも限らないだろう」

 尻の中心に窄まった穴がある。
 肛門に指を触れる。

 「……ぁくぅ……」

 ローションでぬめる指が肛門のまわりで円を描く。
 やんわりと肛門をほぐし、指の出し入れをくりかえす。
 肛門の縁をほじくるように爪でひっかき、たっぷりローションを塗布した人さし指を中へと押し進める。 
 久々の挿入に痛みを感じるのか、背筋がびくりと引き攣る。

 「ほう、これは珍しい。経験豊富な君でもそんな処女みたいな声を出すのか」
 「クソ、ひりだす場所に指突っ込まれりゃ、誰だってこうなる、よ……ぁ」 

 看守が生唾を呑み、肛門を視姦する。
 所長は肛門の奥深くへと指を進める。入り口をひっかいて刺激を与え、腸壁を指で擦って内から熱を生み出し、羞恥心を煽る為にわざとくちゃくちゃと濡れた音を響かせる。

 「はっ……はあ、あ、あっ………」
 「長年使い込んだだけあって後ろは敏感だな。二本では足りないとぐいぐい締め付けてくる」

 人さし指と中指を巧みに使って直腸の襞を掻き分けつつ、固唾を呑んだ看守に目配せする。
 所長に促され、看守が動きだす。

 「!?ぁう、」

 先ほど踏み躙られたペニスを看守の手が掴み、上下にしごきだす。
 リズミカルに竿をしごき、親指の腹で先端をいじくり、分泌された滴を刷り込む。
 レイジは唇を噛む、噛み締める。
 せめて声だけは出さないよう唇を噛み締めて前から後ろから自分を責め立てる快感に抗う。

 「すげ、もうでっかくなった。さっすが王様、こっちもキングサイズってか」
 「下の毛も髪と同じ色なんだな。ぐしょ濡れでへばりついてっけど」

 三本に増えた指が肛門をかきまぜる。
 ほぐれた女陰めいて淫靡な柔襞が指に絡み付く。
 本来吐き出す場所に異物が一杯に入ってる、万力で締め上げるようにぎりぎり内臓を圧迫しているというどうしようもない違和感が次第に薄れて別の物に取って代わる。
 藁色の髪がぐっしょり汗に濡れて額に纏わり付き、しどけなく耳朶を縁取る。

 「っは、は、はあっ、あふ、くぁ…………」

 呼吸が荒く浅くなる。
 前と後ろから押し寄せる快感の奔流が腰の中央でぶつかり合い全身に熱が散り咲いていく。

 「そろそろ頃合か」

 粘着の糸を引いておもむろに指が抜かれる。
 内臓を掻き出すように引き抜かれた指に物足りなさを覚え、淫蕩に濁った目で振り向く。
 所長は謎めいた笑みをたたえたまま、ゆっくりと五指を開く。
 手のひらに乗っていたのは、プラスチック製のローター。
 レイジがぎょっと目を見開く。嫌悪と疲労が入り混じった顔。

 「年がら年じゅうさかりのついた豹には少々きつい栓が必要とみえる。安心したまえ。体の奥深く、前立腺のごく近くに押し込んでやる。どうした?今さら怯えることはない。君はわずか九歳でアナルパールを受け入れたんだ、今さらローターの一つや二つ咥え込んだところで日常生活に支障をきたすはずがない。排泄は我慢したまえ。排尿なら問題ないが便は物理的に無理だ。強弱はランダムに設定する。明日私のもとに来たら取り除いてやる」
 「嘘、だろ」

 嘘であってほしいと祈るような表情で呆然と呟く。
 邪悪な笑みを深め、所長が首を振る。
 看守に顎をしゃくり足を限界まで広げさせ、物欲しげにひくつく肛門にローターを近づける。

 「!うあ………」 

 機械の卵がつぷと肛門に沈む。
 指とはまた違う異物が体内に沈み込む感覚に、レイジが大きく仰け反る。
 背中を撓らせたレイジに構わずローターを押し進め、体の奥深く抉りこむ。
 硬く冷たいローターが腸を通っていく感覚に息を殺しただひたすら耐える、耐え続ける……

 「はっ、はあっ、はあ、はあぁあ、ああっ………」

 顎先を汗が伝う。
 全身がびっしょり濡れる。
 呼吸に合わせて腹筋がうねる。
 手が強張る程に十字架を握り締め、ローターを体の奥深く沈められる圧迫感に耐えたレイジの背中に被さり、耳の裏側で所長が囁く。

 「憎まれ口を叩く元気もないか。苦痛には強くとも快楽には弱いと実証されたな」
 皮肉な囁きが遠のきかけた意識を引き戻す。
 蒸発しかけた理性をかき集め、呂律の回らない舌を叱咤し、力なく反駁する。
 「―ん、なの、どうってことねえよ。鞭打ちの傷口に塩すりこまれる拷問に比べりゃ全然マシだ。ロンにお預け食らうほうがよっぽど拷問だ。あんたの言ったとおりだよ、人間相手じゃ勃たねえ獣姦マニアのブラザーファッカー。ケツにローター突っ込まれたくらいで弱音吐くもんか、このまま這いずってでもロンがいる房に戻ってやるよ、平気なツラしてロンに挨拶してやるよ」
 「腰が上擦っている」
 隻眼に憤怒の炎がともった、瞬間ー……
  
 「―――――っひぁ、ああああっあああああああっあああああああ!?」
 凄まじい振動が来る。
 体の最奥でローターが暴れ、前立腺に直接刺激を送る。
   
 体の最奥、自分自身では指が届かない場所に仕込まれたローターが激しく振動し、背骨がへし折れんばかりにレイジが仰け反る。
 前がびくびくと痙攣、看守の手に大量の白濁を吐き出す。
 それでもまだローターは止まらない、絶頂に達したばかりでペニスは萎れたままでもローターは変わらず体の中で振動を続け前立腺を刺激する。

 藁色の髪を振り乱し、口を開け、声にならない声で絶叫する。
 びりびりと空気が震える。
 口の端から涎が垂れ、宙でちぎれる。 

 「ははっ、すげえ、たくさんでた!今夜は同僚に自慢できるぜ、東棟の王様もとい東京プリズンの王様を手こきでイかせてやったってな。無敵無敗連戦連勝のブラックワーク覇者でも体の中から襲われちゃかなわねえってか、ローターには降参ってか!?」

 片方の看守がレイジの前髪を掴み、顔を上げさせる。

 「王様もざまあねーな、ローターケツに突っ込まれたぐらいで可愛い喘ぎ声あげちまってこれじゃ売春班のガキどもと大差ねーじゃんかよ。いっそ売春班に転属したらどうだ?お前ならあっというまに稼ぎ頭になれるぜ、レイジ。全身汗みどろで髪がぐちゃぐちゃに乱れて口は半開き涎はだだ漏れ、男の物を欲しがるように浅ましく腰振ってねだって、そんなエロいカッコ見せ付けられちゃ目に毒だぜ」 

 片方の看守がレイジの頬を平手で叩く。
 ローターの音が徐徐に小さくなる。

 「あ、あふ、はぁ……喘ぎ声、なんか……ひさしぶりに、あげちまったぜ……ぅあく……音痴、だよな俺……喘ぎ声、も。人様にはとても、聞かせられないぜ。女全般とロンは例外、だけど」

 自分自身に呆れたように笑うレイジの目は、激しすぎる快感に体の中から責め立てられて再び濁ってきている。

 汗で湿った藁色の髪に手をやり、所長がうっとりと微笑む。

 「そんな事はない。君が音痴なのは否定しないが喘ぎ声はなかなか艶っぽいとも」

 耳朶にかかる髪を梳き、頬の汗を拭ってやる。
 床に突っ伏したレイジが目だけ動かしてこちらを見る。
 ずれた眼帯から瞼を斜めに塞ぐ傷跡が露出する。
 弛緩した表情、朦朧とした瞳。
 憎まれ口を叩く気力もないレイジに指をさしのべ、左目の傷跡をなぞる。

 「放し飼いにしておくのが惜しいほどに」

 所長は邪悪に笑った。
 とどまるところを知らない独占欲を剥き出した笑顔だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010613134201 | 編集

 目に映る世界は味けない灰色だ。
 無味乾燥な無彩色の世界。
 白黒灰色の明度だけをもつ色みのない世界。
 気付いた時には俺を取り巻く世界から色彩が失われ単調なモノトーンに支配されていた。

 灰色の世界。
 晴れることない曇天。

 俺は無機質な灰色の世界に永遠に閉じ込められたまま、そもそも「色」とは何なのか、白と黒と灰色以外が世界を構成する色素のすべてじゃないか、それ以外の色がこの世界に存在するのかと根本的な疑問を抱き続けた。
 俺の見ている景色と他人の見ている景色が明確に異なることに気付いたのはいつの頃か。
 他人の目に映る世界はどうやら彩り豊かで鮮明らしく、俺の目に映る世界は陰鬱にくすんでいる。
 だが彩りとは何だ?
 鮮明とは何だ?
 「くすむ」とは一体どういった状態をさす?
 「空が晴れる」とはどういう状態をさす?
 空はいつ見ても灰色じゃないのか?
 「晴れる」「曇る」とはどのような現象だ?
 わからない。想像できない。最初から知らないものは空想しようがない。
 言葉は知っている。わからないのは意味だ。
 白、黒、灰色。
 俺の世界には最初からこの色しかなかった。
 昔から何を見ても灰色に見えた。空も地面もビルも瓦礫も人も花も灰色だった。
 それが当たり前だと思っていた。

 俺の頭は壊れている。
 欠陥品の自覚がある。
 原因もわかっている。

 俺には美醜の判断基準がわからない。
 梅花は路傍の花が「綺麗」と言う。
 膝をそろえて屈みこみ、路傍に咲いた花に顔を寄せうっとりする。
 俺はそうは思わない。
 花は花だ。それ以上でも以下でもない。植物の生殖器官を好んで誉めそやしたりしない。
 綺麗とは何だ?どういう心理だ?
 俺の目に映る花は何の変哲もない灰色だ。
 廃工場の壁と同じ空と同じ木と同じ地面と同じ血と同じ色だ。
 梅花はなぜ路傍の雑草を見て幸せそうに笑える?こんなにも嬉しそうにできる?

 梅花。
 俺の女。
 俺の性玩具。

 どうしようもない真性マゾの雌犬の淫売。
 体を売って稼いだ金を頼まれもしないのに俺に貢ぎ、俺に必要とされているとめでたい勘違いをし、自己満足と自己憐憫にひたる物好きな女。
 梅花はその名のとおり花を好んだ。路傍に咲く名もなき雑草も値がつく花も同様に愛していた。
 花を愛でることに喜びを見出し匂いを嗅ぐことで満たされ、俺の寝ぐらにもたびたび花を持ち込んだ。
 何故そんな事をするのか聞けば、決まってこう答えが返ってくる。
 「人が住む場所にしちゃあんまり殺風景だもの。少しは彩りを添えたいわ」
 今日もそうだった。
 梅花はひどく上機嫌な様子で奇怪な形状の花を束ね、花瓶の代わりになるものを探し部屋中に視線を走らせる。床にビールの空き瓶が転がっていた。部屋の底にはアルコールの匂いが沈殿している。
 ビール瓶を拾い上げ、その口に花を挿す。 
 「どう?綺麗でしょう」
 娼婦の気を引くために花を贈る酔狂な客は意外と多い。
 梅花もまた贔屓の客から一度ならず花を貰っているのだろう。
 梅花が客から貰った花は三回に一回の割合で俺の部屋に飾られることになった。
 貰いすぎても枯らしてしまうから困るのよ、と梅花は申し訳なさそうに目を伏せた。
 梅花はこれといって褒めるところもけなすところもない平凡な顔だちの女だが、加虐の欲望をかきたてる含羞の表情は悪くない。
 ベッドに横たわりゆるゆると視線を移動させる。
 鉄骨の梁が幾何学的に交差した天井から打ち放しのコンクリ壁へと視線を下げる。
 寝返りを打つたび大儀そうに軋む中古ベッドの脇に喇叭に似た奇妙な花がビール瓶に飾られている。
 俺はもう随分と前からここで暮らしている。
 月天心がアジトにする廃工場一階奥の小部屋。
 鉄骨の梁が交差する無骨な天井とコンクリートの壁と床。
 油分の粒子と埃が堆積した大気。
 よそよそしく無機質な空間。
 現在俺が使用しているパイプベッドはあとから持ち込んだものだ。
 それ以外に調度品といえるのはもとから工場の備品だったスチール机だけ。
 無味乾燥を通り越して殺伐とした生活空間が落ち着かないのか、俺の世話を焼くのが生き甲斐の梅花は少しでも部屋の居心地を良くしようと何かと口実をつけては花を持ってくる。
 だがすぐに枯れる。俺が世話をしないからだ。
 ビールの空き瓶にささったまま萎れた花を見つけるたび、梅花は物言わず哀しむ。
 今度もまた枯らすだろうと半ば予期しているのに、もしかしたら今度こそはと淡い期待を抱き、梅花はこりずに花を持ってやってくる。
 部屋に花を飾るのが慣習になれば、すべてに対し無感動な俺にも花を愛でる心が生まれるに違いないと希望を捨てず。

 馬鹿な女だ。

 「…………」
 ぎしりとベッドが軋む。
 裸の胸板に目を落とす。
 至る所に新旧大小の傷痕が走る継ぎ接ぎだらけの体。
 美醜に疎い俺でも綺麗だとは思わない。脇腹の縫い目は抗争の際にナイフで刺されたあとだ。刺したのは中国人のガキ。臆病者ほどすぐナイフを使いたがる。
 怯えた負け犬のように追い詰められた目で俺を見る中国人のガキを思い出す。
 震える手に構えたナイフから血が滴る。
 血は赤いと人は言う。俺にはそれがわからない、「赤」がどういう色か想像できない。
 わかるのは味と感触と温度、口に含めば鉄錆びた味が広がり手をひたせば粘り気があり温度はぬるい。
 四年ほど前の話だ。
 月天心の前身たるグループに入ったばかりの頃、同じく武闘派を気取った中国人のガキどもと縄張りを巡り対立し、互いに容赦ない抗争を繰り広げた。
 ガキの戦争にルールはない。
 戦闘には手製の火炎瓶や鉄パイプや金属バッドや違法な改造を施し出力を上げたスタンガン、殺傷能力に特化したナイフや銃までもが用いられた。
 いつ終わるともしれない泥沼の抗争。
 俺はその最前線にいた。最前線の兵士だった。
 硝子と薬莢と犬の糞がぶち蒔かれた路上の戦場で幾度となく死線をくぐりぬけ目についた敵を片っ端から屠り去った。
 ナイフも銃も必要ない。
 五体は武器庫。
 拳は凶器。
 人を殺すには素手で十分だ。
 俺は壊れている。
 俺の体は物理的な制限に束縛されない。
 中身をいじって出力を上げたスタンガンと同じだ。
 そのぶん壊れるのも早い。
 出力を上げすぎたスタンガンが青白い火花を散らし暴発するように俺もそう遠くない将来許容量をはるかに超えて酷使した回線が焼き切れジャンクと化す。
 乾いた胸の底をさらい、刻々と迫り来る死に対し何らかの感情を汲もうとする。
 瞼を閉じる。暗闇に還る。闇が自我を内包する。
 何も感じなかった。自分の死に対し特に何とも思わなかった。
 恐怖も絶望も忌避も拒絶も「死」の概念にまつわるあらゆる正負の感情が俺の中には最初から備わっていなかった。

 致命的な欠落、膨大な空虚。

 俺の心は壊死しているのだろうか。
 そもそも心などあるのだろうか。
 あるならば何故痛まないのだろうか。
 何故?
 理由は簡単だ。

 『お前が人形だからだ』   
 頭蓋の裏でうるさく蠕動する蝿の羽音。

 耳に手をあてる。音はかわらず聞こえ続ける。
 耳の中で鳴っているのだから当たり前だ。
 俺の頭蓋骨の中には蝿がいる。いつもいつまでも雑音が聞こえ続ける。
 次第に大きさを増す羽音に耳を澄ます。羽音の向こうで蝿の王が囁く。
 『覚えているか、頭蓋が開かれた時のことを。脳味噌に直接ふれたひやりとした外気の感触薄いゴム手袋をはめた手の感触ぶよりと脳味噌がへこむ感触を。お前は人か?違う、人じゃあない。人と同じように物を見れず感じられない生き物を人とは呼ばない。お前は人形だ、壊れかけのな。廃棄寸前のジャンクだ』
 この声がいつから始まったのか記憶にない。
 気付いた時には既に頭の中に蝿がいた。
 蝿の唸りが次第に大きくなる。雑音が頭蓋の空洞に満ちる。
 「どうしたの道了?」
 隣に目をやれば梅花がいた。ベッドに身を横たえたまま瞬きも忘れ虚空の一点を凝視する俺を不安げに見詰めている。
 梅花の声で現実に呼び戻されるまで蝿の王と対話していた。
 こいつの実体が何なのか俺にもよくわからない。
 客観的に判断すれば幻聴の類だろうが、俺にとっては紛れもない現実だ。
 頭蓋の中で唸る蝿の羽音はともすると現実より余程クリアでリアルな輪郭を与えてくれる。
 俺の頭の中に蝿がいることを他人は知らない。梅花もだ。幻聴とも妄想ともしれない謎の音の事を他人に話したことは一度もない。
 理解?共感?
 無意味だ。
 俺が見ているものはどこまでいっても俺だけのものだ。他人と共有できるわけがない。
 「頭が痛いの?また二日酔い?タオル冷やしきましょうか」
 ベッドに腰掛けた梅花が尻をずらし、不安げな面持ちで俺を覗き込む。

 睫毛がふれる距離に顔がくる。
 長いというより濃い睫毛。
 情感豊かに潤んだ目。
 鼻は高くも低くもない。
 顔だちは特別整ってもいない。
 醜女でも美人でもないその中間、とりたててけなすところもなければ褒めるところもない十人並みの顔だち。肌の露出が多い扇情的なキャミソールから突き出た腕は華奢で、至る所に大小の痣が咲いている。

 痣。

 無傷の肌は白く見える。
 痣の部位は仄かに灰色がかっている。
 時間が経過しもっとも色が濃くなった痣は黒に近付く。
 上体を折ってこちらに顔を近付ける梅花の目を見返す。
 伏し目がちの寂しげな顔のあちらこちらに痣がある。
 右の瞼が腫れぼったいのは三日前に俺が殴ったからだ。
 何度か折った鼻は体を売って稼いだ金で整形手術をし元に戻した。
 梅花が楚々とした仕草で小首を傾げる。
 真っ直ぐの黒髪がさらりと肩を流れる。
 薄地のキャミソールから覗く肌のあちこちにも大小の痣が散らばっている。
 大きいものは痣、小さいものはキスマーク。色が識別できない俺にもその程度の区別はつく。
 俺が、やった。
 梅花の体を無残に蝕む痣の大半は俺がつけた。
 湿った吐息が顔にかかる。
 梅花が俺にのしかかる。
 下着を付けてない乳房がキャミソール越しに腕に触れる。
 乳首が固くしこっているのが服の上からでもはっきりわかる。
 おそらく股もぬれているだろうどうしようもない淫売だ。俺がそう仕込んだのだ。
 梅花が何を求めているのか漠然と理解できた。
 下腹のあたりでちりちりと火が燻る。
 感情の大半を喪失した俺の中でかすかに生き残っているもの、だれかを虐げ犯し嬲ることでしか癒されない飢餓にも似た欲望。

 蝿の羽音が急激に膨らむ。
 頭が割れそうなほど大きくなる。

 『お前は人形だ。それもただの人形じゃない、極めつけに危険な殺戮人形だ。暇面、それがお前の記号だ。お前は哀れな人殺しの人形だよ』 
 錐で貫かれるような痛みがこめかみに走る。
 いつもの発作だ。
 なるほど、俺は頭がおかしいに違いない。
 ひとには聞こえない音が聞こえる、ひとには聞こえない声が聞こえる。
 蝿の羽音が大きくなるにつれ疼痛も激化する。
 先鋭した錐がこめかみを穿孔しぐるぐる錐揉み状に回転しつつ脳味噌を攪拌する。
 発狂せんばかりの激痛。
 悪化する一方の偏頭痛がもたらすのはやり場のない苛立ち、だれかを痛めつけ憂さをはらしたいという欲求。
 かつえた衝動に駆り立てられ、無造作に手を伸ばし乳房を鷲掴む。
 「!……っ、」
 乳房を乱暴に揉みしだかれる痛みに顔を歪めるも抵抗はしない。
 唇を噛んで理不尽な仕打ちに耐える梅花、期待と欲情に焦がれて恍惚とぬれる眼差し。
 キャミソールの上からもぎとるように乳房を揉む。
 痩せた体のわりに豊満な乳房が握り潰され変形する。
 上体を起こし体を入れ替える。有無を言わせず梅花をベッドに押し倒す。
 梅花はこうなることを予期していたのか逆らうことなく官能と諦念のはざまで目を瞑り、ベッドにしどけなく身を横たえる。
 二人分の体重に錆びたベッドが軋む。
 スプリングが甲高い軋み音を上げる。
 マットの上で梅花が跳ねる。
 スカートがあられもなくはだけて痣だらけの太股が剥き出しとなる。
 熱っぽい吐息が顔を湿らす。梅花が乞うように俺を見る。
 ベッドに仰向けになった梅花にのしかかりキャミソールの裾に手を潜らす。
 体の輪郭に沿い手を這わせる。
 「あっ」
 梅花がつま先でシーツを蹴る。丸めたつま先がシーツを巻き取る。
 力を込め乳房を捏ねる。
 乳房が五指の圧力にくぼむ。
 両の先端の乳首は愛撫を待ちかねて尖りきっている。
 梅花が恥じらいもがくたびキャミソールがめくれ乳房が露出する。
 華奢な鎖骨と豊満な乳房を外気に晒し、嫌々と首を振りながらも上り詰めていく梅花をひややかに見下ろす。
 「淫売め」  
 「………たお、りゃん」
 無感動に吐き捨てれば梅花が傷付いた顔をする。
 涙の膜が張った目に俺が映る。
 痛みを伴う乱暴な愛撫に徐徐に余裕を失い羞恥をかなぐり捨て乱れつつある梅花とは対照的に俺は能面じみた無表情を晒していた。
 仮面のような顔。造りものめいて無機質で感情の起伏に乏しい内面の虚無が表出した顔。
 「俺に触られて感じているのか?さわられただけで股をぬらしているのか?」
 「お願い、そんな意地悪言わないで……」
 「乳首が尖っている。敏感だな」
 平板な声で揶揄すれば、恥辱をかきたてられた梅花が今にも泣きそうに顔を歪める。

 繊細な睫毛が震える。
 涙の張った目が不安定に揺らめく。
 気丈に引き結んだ口元が戦慄く。
 嗜虐の欲望を刺激する姿態に煽られ乳房に爪を立てる。

 「痛………!」
 梅花が仰け反り悲鳴をあげる。
 熱い煮汁を秘めた脂肪の塊が手の中で潰れる。崩れる。
 シーツを蹴って苦悶に身をよじる梅花。
 うっすらと額に浮いた脂汗、眦に盛り上がる大粒の涙と酸素を欲して喘ぐ唇。
 乱れた黒髪がしどけなく頬に貼り付き被虐の官能とでもいうべき趣を添える。
 首元まで波打ち捲れ上がったキャミソールの下、残酷に暴かれた乳房と腹と腰のくびれが欲望を刺激する。
 めちゃくちゃに壊したい。
 人形のように手足を折り曲げもぎとり首をちぎり腹を裂き内蔵を暴きたい。
 梅花の血ならばきっと俺にも赤く見えるのではないだろうか。
 美しい色の代表格とされる「赤」がどんな色か俺は知らない、想像すらできない。
 俺の世界は黒と白と灰色の三つで構成されている。
 だが梅花の血ならばきっと俺の世界を鮮烈に革新してくれる、黒と白と灰色以外の色を見せてくれるはずだ。
 苦痛と快感のはざまで引き裂かれた梅花にのしかかり、尖りきった乳首を口に含む。
 「ひあっ、あ!」
 勃起した乳首を舌で転がす。しゃぶる。甘噛みで刺激する。
 喉を仰け反らせ首を打ち振り、押し寄せる快感の波に流されまいとシーツにしがみつく梅花の耳元で囁く。
 「昨日は何人の男と寝たんだ」
 行為の途中でむりやり現実に呼び戻され、朦朧と余熱にまどろむ目に透明な涙を湛えた梅花がこちらを見る。

 媚びと怯えと諦めとが複雑に織り交ざった顔。
 俺にはとても真似できない弱さ脆さを抽出した表情。

 裸の胸が浅く上下し呼吸が荒くなる。
 くっきりと爪痕が残る胸の間を一筋汗が伝う。
 俺に四肢を組み敷かれ無抵抗でされるがままになっていた梅花が弱々しく訊ねる。
 「どうしてそんなこと聞くの……」
 位置を調整するたびベッドが耳障りに軋む。
 梅花が息をするたび胸が浅く上下し形良く上を向いた乳房が震える。
 馬鹿な女だ。
 そっと梅花の髪をかきあげる。
 耳の後ろを通し梳り、手のひらで頬を包む。
 「お前は淫売だ。どうしようもなく救い難い真性マゾのメス犬だ。俺に殴られ蹴られ噛まれて物欲しげに尻を突き上げ腰を振るのがお前の本性だ。男に殴られ蹴られて股をぬらすお前が俺一人で満足できるとは思えない。だから娼婦をやっているんだろう?趣味と実益を兼ねた素晴らしい職業だ、お前にぴったりだ」
 「やめて道了そんなこと言わないで、私はただあなたのために……」
 「詭弁だ」
 必死の弁明を鼻先で笑い飛ばす。
 梅花の頬に片手を添え、残る手で愛撫を再開する。
 「昨日はどんな客にあたった?SM好きの変態か?俺が殴ってない場所にまで痣があるぞ。手首に縛られたあとがある。縄か?」
 「見ないで」
 「縛られて興奮したのか?手足を縄で縛られベッドに繋がれ大股開きに陰部をさらし客の玩具になるのがお前の仕事だ。道具は使われたか?尻の穴まで可愛がってもらったか?目の前で小便しろと命令されたら言う通りにするのか?昨日の客はいくらで買った?」
 淡々と質問を浴びせれば梅花の顔が極限まで歪み、もうこれ以上は聞きたくないを耳を塞ごうとする。
 それを許さず手首を掴み顔の横に固定する。
 手首が軋む激痛に苦鳴を零す梅花。
 昨日縛られた縄の痕が残る手首を容赦なく絞り上げる。
 左右に首を振り許しを乞うさまが嗜虐心を煽る。
 体の奥底から猛烈な破壊の衝動が突き上げる。
 もう少し力を込めればたやすく腕がへし折れる、梅花を壊すことができる。
 蝿の羽音が大きくなる。
 百万匹の蝿が頭の中で飛び回っているみたいな殆ど凶器と化した音の塊に平衡感覚が消滅する。
 こめかみを錐で貫かれるような頭痛に苛まれながら、皺の寄ったシーツの海で溺れる梅花を見下ろす。 
 見返す目に怯えが閃く。
 次に何をされるか想像を逞しくしもたらされる痛みに備えて身を竦ませ戦々恐々とする。
 「俺が怖いか、梅花」
 抑揚なく聞く。
 梅花がハッとする。
 顔に本心を出した失態を卑屈な笑みで上塗りし、不自然な早口で弁解する。
 「そんなわけないじゃない。あなたは私の恋人よ道了、恋人を怖がるわけないじゃない」
 「本当か」
 「嘘じゃないわ、本当よ。お願い信じて道了、あなたのことが好きなの、愛してるの。私にはあなたが必要なの。だからあなたも私を信じて?ね?あなたのこと絶対裏切ったりしないから、道了のためなら私何でもできる、どれだけ汚れても平気。お金がほしいなら私があげる。今よりもっと頑張ってお客をとって沢山お金を稼ぐわ。服でも靴でもアクセサリーでも何でもあげる、それであなたが喜ぶなら……そうだ、このまえあなたに似あう指輪を見かけたの。斬新な装飾のシルバーの指輪。ちょっとくすんだ銀色でとても綺麗なの。道了男の人なのに綺麗な指をしてるからきっと似あうわ、左手の指に嵌めてよ、銀の左目とお揃いでとても素敵だわ。私頑張ってお金を貯めるからそしたら指輪を買ってあげる服でも靴でもあなたの欲しい物をあげる、だからねえお願い捨てないで、あなたに捨てられたら生きてけないわ」
 饒舌に捲くし立てるあいだ梅花の目はうっとりと夢見心地に焦点をぼやかし、口元には喜悦の笑みが浮かんでいた。 

 あなたのことは怖くない、だって愛してるもの、恋人だもの、大好きだもの。
 連綿と続く自己暗示。狂信にも似て盲目的で一方的な愛情。

 至福の笑みで口元を弛緩させた梅花に不条理な怒りが込み上げる。
 梅花の目に映る俺はいつもどおりの俺なのに、目に入り視神経を介し脳に伝わるあいだに自分に都合よい虚像を作り上げ、それこそを唯無二の真実と信奉する女に絶大な怒りを覚える。

 俺が梅花を殴るのは梅花を愛してるから、暴力で束縛し永遠に手元においておきたいと望んでいるから。
 それが梅花にとっての真実だ。
 真実はひとつじゃない。
 真実がひとつというのは人の頭の数だけ世界があると知らない人間の戯言だ。
 愚かな人間は自分の信じたいことだけを信じる。
 人の頭はそういうふうにできている。
 愚かな女。愚かな梅花。

 今この瞬間も俺に愛されていると錯覚し、無邪気に無抵抗に荒々しい愛撫に身を委ね喘ぎ声をあげる。
 梅花が俺の首の後ろに腕を回す。
 首の後ろで腕が交差し五指がゆるく結ばれる。
 「大好きよ、道了」
 梅花が俺を抱き寄せる。柔らかな腕の感触と肌の弾力に包まれる。
 「うるさい」
 ああ、本当にうるさい女だ。
 煩わしい女だ。
 こんな馬鹿な女は死んでしまえばいい、いっそ壊してしまいたい。
 腕をへし折り足をへし折り間接を増やし首をへし折り顔を反対側にねじり肩を外し頭蓋骨を床に打ちつけ叩き割ってしまいたい。 

 わかったふりをするな。
 知ったふりをするな。

 俺が見るものが見れないくせに『灰色の世界』俺に聞こえるものが聞こえないくせに『蝿の音』何ひとつ俺と分かち合えないくせに『梅花の奥深く鼓動に合わせ脈打つ肉の楔を打ち込む』粘膜のうねり』『濡れた粘膜が勃起したペニスを包む快感』『繋がりあった場所がドロドロに溶けていくような感覚』本当の俺など知らないくせに俺さえ知らない俺自身を自分だけが知っているといわんばかり独占の優越にひたり微笑む女など死ねばいい、自分の信じたいものだけしか信じず目の前の俺を欺き否定し続ける女など死ねばいい。

 怖いのに怖くないと嘘をつき卑屈な上目遣いで媚を売る。
 怯えているのに怯えてないと言い訳し震える手で抱擁する。
 愛してもないのに愛しているといい理不尽な暴力を甘んじて受ける。

 梅花が愛しているのは現実の俺ではなく俺の虚像だ。
 キレやすく平気で暴力を振るい酒を飲んでは暴れる危険な男、しかし本当は自分を愛し必要としている哀れな男、母親に甘えるように胸に縋り付いてくる男、必ず最後には自分に戻ってくる男。
 梅花にとって道了とはそういう男だ。
 「道了、痛い……」
 「痛いのが好きなんだろう」
 恥じらう梅花を言葉で嬲り、キャミソールを脱がす。
 服を取り去った上半身が明かりの下に晒される。
 たおやかな首筋と痛々しいほど華奢な鎖骨と若々しく張った乳房となだらかな腹部、成熟しきった曲線を描く体を冷ややかに眺める。
 全身至る所に新旧無数の痣が散らばる。
 殴打痕と歯型と切り傷と擦り傷、もはや日常の一部となった暴力の痕跡が不浄な澱のごとく何層も肌に沈殿している。
 乳首を口に含む。前歯で噛む。唾液を絡ませ捏ねくりまわす。
 先端を舌で刺激しつつ、もう一方の乳房を緩急つけて揉む。
 「痕はつけないで」
 「命令するな。命令するのは俺だ」
 乱暴に乳房を鷲掴む。爪が食い込み血が滲む。
 苦痛に顔を顰める梅花、涙の薄膜がかかった目が嗜虐心を刺激する。
 体の最奥で暗い欲望が燃え盛る。
 口答えした梅花に罰として痛みを与える。
 スカートの捲れた足のあいだに膝をねじこむ。
 性急にスカートをたくしあげる。逆三角の布に覆われた股間はさんざん愛撫に焦らされ仄かに湿っている。
 抵抗を許さず下着を引き剥がし、しっとりと濡れた恥丘をなでる。
 そのままろくにならしもせず、指を突っ込む。
 「あぅくっ……」
 梅花の中に指を突き立てる。穿たれる痛みに顔を顰め身じろぐ梅花の表情を観察しつつ指を増やす。
 指を呑み込んだ膣の内膜が収縮する。
 「思ったとおりだ。俺に嬲られてさかっている」
 陰核の包皮を剥く。
 もっとも敏感な部分を指で刺激され梅花がこらえきれず声を漏らす。
 毛細血管が集中した陰核をつまみ絞り転がす繰り返しに合わせ、膣口に突っ込んだ指で内部をかきまぜる。
 ぐちゃぐちゃと卑猥な音が鳴る。
 蜜で潤んだ粘膜が何重にも絡み付いてくる。
 残虐な衝動が湧き上がる。
 もっと梅花の顔を歪ませたい悲鳴をあげさせたい蹂躙したい苦しめたいといった狂おしい願望。
 見開いた目に大粒の涙をため苦悶する梅花、その髪をかきあげ耳朶に囁く。
 「ぐちゃぐちゃに濡れている。梅花、お前もわかるだろうこの匂いが。汗と愛液を濃縮した匂いが。何本指が入っているかわかるか?一本二本三本……四本目はどうだ?」
 感情を交えず淡々と聞く。梅花が戦慄する。
 激しく首を振り拒否の意を表明しようとしたが、震える唇が制止の言葉を発するのを待たず指を四本に増やす。
 「ひあっ、痛っ、やめ……!!」
 梅花が狂ったように暴れる。
 突っ張ったつま先で皺だらけのシーツを掻き毟り、むりやりねじこまれた四本の指がもたらす快感と苦痛に極限まで目を剥く。
 四本はさすがにきつい。
 断続的に膣が収縮し痛いほど締め付けてくる。
 俺の指ごと食いちぎろうと貪欲に締め上げてくる性器をひややかに見下ろし、指の第一間接から第二間接、ついにはその根元まで強引にねじこむ。
 「拳ごと入りそうだな。試してみるか」
 「やめ、て……」
 「どうしてほしい」
 四本の指を根元まで咥え込んだもまだ足りないと物欲しげに襞がひくつく。
 髪を振り乱し弱々しく首を振る梅花、頬に涙を滴らせ息を喘がせ快楽よりはむしろ苦痛の色濃く縋りついてくる。
 「どうしてほしいか言え」
 梅花は顔を大きく仰け反らせたまま、ぐちゃぐちゃと卑猥な水音たて膣を攪拌される快感にすっかり翻弄され犬のように弛緩した口の端から透明な唾液をたらす。
 潤滑油を捏ねて激しく指の出し入れを繰り返す。
 梅花は娼婦だ。これまで数え切れない数の男を咥え込んできた陰唇は不浄に黒ずみ、肉厚の陰裂は分泌された体液に赤黒くぬれ光り熟れた食虫花に見える。
 下唇を噛み恥辱に耐える梅花に宣告する。
 「手首を入れるぞ」
 「嫌!」
 梅花が狂ったように暴れだす。
 頑是ない幼女のように首を打ち振り髪振り見出し、俺の手から逃れようと躍起になる。
 半狂乱で暴れる梅花をたちどころに押さえつける。
 俺の腕の中で梅花が必死に身を捩る。
 四肢を組み敷かれ完全に抵抗を封じられながらも梅花はあがくのをやめず、ありありと絶望が焼き付いた目で俺を凝視する。
 シーツを掻き毟り蹴飛ばし必死に俺から逃れようとする梅花の髪を掴んで引き戻す。
 頭皮から剥がれんばかりの勢いで髪を一房吊るし上げ、強く揺さぶる。
 「何故嫌がる。お前は淫売だ。穴を埋めるに足る太くて硬いものなら何でもいいはずだ。これまでも数え切れないほど客をとってきた、数え切れないほど男に抱かれてきた。醜く黒ずんだ性器を満たして潤してさえくれるなら俺じゃなくてもいいんだろう?棒でも玩具でも拳でもビール瓶でもお構いなしの節操なしの売女め。尻の穴と前の穴にビール瓶を突っ込まれたいか?太く硬く冷たいビール瓶でごりごりと奥を抉ってほしいか?お前は既にビール瓶並の太さじゃないと満足できない体だ、そういうふうに仕込まれているんだ、お前の体はビール瓶で感じるように出来ているんだ」
 「違う、違うわ、そんなの……お願いやめて道了足の関節が外れちゃう、お客がとれなくなる!」
 悲鳴に近い高音域の声が仰け反る喉から迸る。
 潤んだ眼差しで許しを請う梅花をすげなく拒絶し、手首にぐっと力を込める。
 「足が開かないなら口で奉仕すればいい。お前はそっちも得意だろう」
 膣道で四本の指を折り曲げる。喘ぎ声が一音階高くなる。
 さらにもう一本指を増やし固く拳を握り、股間節が外れて一生歩けなくなっても構わないと手首ごと捻じ込む…
 「……道了のを、いれて」
 衣擦れにかき消えそうな囁きが耳朶にふれる。
 哀切な嗚咽の混じった懇願。
 手首に力を加えた拍子に軽く絶頂に達してしまったらしい梅花が、白痴じみた焦点を失った無防備に俺を仰ぐ。
 口の端から一筋垂れた涎が顎先を滴る。
 熱っぽく潤んだ目に情欲の光が灯る。
 梅花が腰を浮かし濡れそぼった部分を俺に擦り付けてくる。
 俺の股間に手を伸ばし、手探りでベルトを緩めペニスをとりだす。
 火照った手がペニスを包み緩急つけてしごきだす。
 巧みに送り込まれる刺激にペニスが反応し徐徐に硬さを増していく。
 下半身の昂ぶりに応じ、腹の奥底で溶岩が沸騰する。
 男の性感帯を知り尽くした手が緩急つけてペニスをしごく。
 先端に軽く爪を立て先走りの汁を鈴口に刷り込み裏筋を撫で上げ陰嚢をほぐし陰茎をやすりがける。
 繊細かつ淫靡な手つきで俺の分身を慰めながら、している行為とは対極の透き通った微笑を浮かべ、狂おしいばかりに一途にねだる。
 「道了のがほしい。道了のじゃなきゃ嫌よ。私、道了と一緒にイきたい」
 屹立したペニスに手を添え、自分の股間へと導く梅花。
 梅花は笑っている。微笑んでいる。
 涙の跡も痛々しい痣だらけの顔に健気な笑みを拵え、慈愛に満ちた包容力でもって俺の分身を迎え入れようとする。 
 脳裏で閃光が爆ぜる。
 蝿の羽音が膨らむ。割れそうに頭が痛む。耳鳴りがする。
 聖母のように微笑む梅花『殺してしまえ』俺を理解したふりをする『壊してしまえ』俺を食らおうとする『身の程知らずめ』ペニスの先端が膣の入り口に達する『俺を理解するな愛するな絡めとろうとするな』そのまま体重をかけて奥深くまで一気に楔を打ち込む『壊してしまえ』容赦なく腰を使う『快感で狂わせてしまえ苦痛で狂わせてしまえ子宮が破れるほど突いて突いて突きまくれ』杭を穿つ『さあ壊せ』梅花が背骨もへし折れんばかりに仰け反り首を反らし甲高い喘ぎ声をあげるあげ続ける、涙の薄膜が張った目の奥へ焦点が遠のき理性が一片残らず蒸発し本能剥きだしの獣となりさかった雌犬のごとく腰を振りたくる。
 「あっ、ひあ、ああっああっひあひ、ああああっ、たお、りゃ、すごい、奥までとどいてる、全部入ってる、血管がどくどく脈打ってるのもわかる……すごい大きい、駄目こんなの壊れちゃうおかしくなっちゃう、たおりゃ、たおりゃん、ねえ駄目私本当にもうだめこんなの無理、あ、はぁっ……」
 涎と涙と汗とが一緒くたになり梅花の顔をしとどにぬらす。
 幼児退行したかのようにたどたどしく訴えつつ、俺の首に腕を回し無我夢中で唇に吸い付く。
 唇をこじ開け舌が入る。舌を絡めて唾液を飲み干す。
 吸盤をもつ軟体動物のように舌が蠢き口腔をさぐり歯を辿りその裏側を這い回る。
 抉りこむように腰を使い絶頂へ追い立てる。
 梅花が顔をくしゃくしゃに歪め大きく股を開き俺の腰を挟む。
 脳裏で再び閃光が爆ぜ、膨張する蝿の羽音のむこうから古い記憶が忍び寄る。
 下腹がひりつく。
 梅花と繋がった部分ではなく、むかし刺された脇腹の傷が疼く。
 震える手でナイフを握り俺に立ち向かう中国人のガキ、恐怖に引き攣った滑稽な顔、奇声を発して疾駆し一直線に懐にとびこんでくる。

 あの時の感覚と感触を鮮明に反芻する。

 腹に刺さったナイフ、飛び散る灰色の血、仰天したガキ。
 刃を抜こうとあとじさったガキの腕をつかまえ引き戻しへし折る。
 乾いた音。二箇所ほど間接が増える。間接の増えた腕をだらり垂れ下げ失禁で股間をぬらし、俺の腹に刺さったままのナイフを捨てて逃げ出したガキの頭を後ろから掴む。頭蓋骨が軋み歪む。万力で締める要領で指に力を込める。固い殻の内側の流動体の脳味噌がぐしゃりと奇妙な音たてひしゃげ白濁した脳漿と灰色の血があたり一面に飛散、斑の模様を作る。

 白い脳漿と灰色の血。
 俺の色。俺の世界。

 古傷が疼き粘膜のうねりに合わせペニスが痙攣し、同時に絶頂を迎える。
 「ひああああああああああっああああああああ……!」 
 抱擁する腕が強まる。
 梅花の下肢がびくびくと痙攣し、やがてその震えは全身に広がる。
 硬直、のち弛緩。
 首にかけた腕がずりおちる。
 重心を失った体がベッドに崩れ軽く弾む。
 朦朧と行為の余韻にひたる梅花からペニスを抜き、先端から滴る精液を梅花のスカートで拭く。
 白濁の染みがついたスカートを虚脱した梅花の上に投げ捨てる。
 快感はない。やはり何も感じない。内部にはただ茫漠たる虚無だけが広がっている。
 急激に喉の渇きを感じ、床に転がった空き瓶のひとつを手にとり、顔の上で逆さにする。
 瓶底に蟠っていたビールの残滓が一滴喉に滑り込む。
 「梅花」
 梅花に背を向けベッドに腰掛ける。殺風景なコンクリ壁に視線を投じ、聞く。
 「あの花は何色だ?」
 情事にふける間もずっと頭の片隅にあった疑問、梅花を貫くあいだもずっと視界の端ににちらついていた花の色。
 気だるい衣擦れの音。快楽の余韻をひきずりながら上体を起こした梅花が、羽織るものをさがして手をのばし、キャミソールで乳房を覆うさまを連想する。
 訝しげな沈黙。
 何故そんな当たり前のことを聞くのといった一拍の躊躇の末、梅花がおそるおそる口を開く。
 「……赤よ。綺麗でしょう?カラーっていうの。昨日のお客がくれたの。普通カラーっていうと白なんだけど、白いカラーは前に贈ったから今度は珍しい赤にしてみたんだって。自慢げに話してたわ。花言葉は『夢のように美しい』だって、笑っちゃう」
 俺の沈黙をいぶかしみ得体の知れぬ不安に苛まれた梅花が、ややわざとらしいほどに明るい口調で雰囲気を和らげようとする。
 だがその声は届かない。
 耳には入っても内部まで浸透しない。
 俺は滅多に夢を見ない。見たとしても灰色だ。夢までもが灰色だ。
 普通のカラーと赤いカラーの違いもわからない。
 梅花の言う「赤」がどんな色か想像もつかない。
 赤。血の、赤。 俺がこれまで何度となく見てきたはずの色、見ようとして見られなかった幻の色。
 「……ねえ、どうしたの?怒ったの?お客から花を貰ったりしたから」
 背後でそれとわかるほど梅花が狼狽する。衣擦れの音が耳朶をくすぐり甘やかな香水の匂いが鼻腔の奥に絡む。
 膝這いに近付いた梅花が俺の背中にしどけなく凭れかかる。
 俺の胸の前でゆるく指を組み、肩甲骨のあいだに頬をあてる。
 密着した背中から仄かな体温が伝わる。
 俺の背に頬ずりしながら梅花が夢見心地に囁く。
 「気に障ったのなら謝るわ、ごめんなさい。道了がいやならもう二度とお客から花を貰ったりしない。道了以外の男の人から物を貰ったりしないわ。だから機嫌をなおして……」
 蝿の羽音が梅花の弁解をかき消す。
 頭蓋骨が割れそうに痛む。
 こめかみを錐で刺し貫かれる疼痛が脳髄をきりきり締め上げ、空き瓶をもつ手に力が篭もる。
 瓶に亀裂が生じる。
 自分語りに夢中の梅花は気付かない。
 なめらかな手で裸の肩甲骨をさすり、呪詛にも似て情念を濃縮した言葉を紡ぐ。
 「だいすきよ道了。ずっと一緒にいてね。私を捨てないでね。ずっとそばにいさせてね。私にはあなたしかいないんだからー……」 
 衝動の暴発。
 鋭く呼気を吐き腕を振りかぶる。向かいの壁めがけ空き瓶を投擲する。
 轟音。
 壁面で砕け散った瓶の欠片が一瞬宙で静止し、鋭い切っ先を閃かせながら床一面にぶちまかれる。
 背中にあたる体が強張る。俺の顎下で組んだ手がぎりっと結合する。
 驚愕と恐怖に硬直する梅花を無視、手際よくベルトのバックルを噛み合わせ腰を上げる。
 「たお、りゃん?」
 わけもわからぬまま追いすがろうとする梅花の手を邪険に振り払う。
 そのまま後は見ず一直線に出口に向かう。
 呆然とベッドに突っ伏した梅花があわてて靴を履こうとする気配を察し、鋭く牽制する。
 「ついてくるな」
 床に脱ぎ捨てた服に袖を通す。その上から黒革のコートを羽織る。外では雨が降っている。
 アスファルトの地面を雨粒が叩く旋律が壁越しにかすかに聞こえる。
 俺は梅花ひとりをベッドに残し、牢獄にも似て味気ない灰色の部屋を出た。




 分厚い雲が層を成した空から大量の雨が降る。
 絶え間なく降り続く雨がアスファルトを叩く。
 朧に水飛沫が上がる中をひとり歩く。革靴が水溜りを弾く音がすぐさま豪雨にかき消される。
 不景気にシャッターが下りた廃工場が並ぶ寂れた景観。
 スラムの端の倉庫街に人けはなく、あたりには雨の音がこだまする。
 


 雨の中をひとり歩きながら考えた、俺の目に映る世界が灰色のそのわけを。
 理由は簡単だ。原因は明白だ。
 無意識に頭に手をやる。先ほどから続く偏頭痛は少し和らぎはしたものの決して治ることはない。
 豪雨の中に出れば外界の音がかき消してくれるかもと期待したが、頭蓋裏では依然百万匹の蝿の大群が好き勝手に飛び回っている。
 頭の内側に直接響く音には抗い難い。
 『白黒灰色モノトーン機械が見る世界はモノトーンで色がない、壊れた頭と壊れた目と壊れた世界がお前の世界、お前は永遠にそこから抜け出せない、永遠に灰色の牢獄に囚われ続ける宿命だ。機械の寿命が尽きるまで』
 「うるさい」
 『空は何色だ?』
 「灰色だ」
 『本当にそうか?』
 「そうだ」
 『他の人間にもそう見えると思うか』
 「興味がない」
 『正常な世界に行きたくないか』
 「今更」
 『本物になりたくないか』
 「本物?」
 『本物の人間だ』
 蝿の声に思わず失笑する。
 今更むりだ、不可能だ。
 俺はもうどうしようもなく壊れきってしまった。いまさら引き返せない。
 鋸で頭蓋を開けて蝿の親玉を摘出しないかぎり俺の世界に色は戻らない。
 無意味に無目的にひたすら雨の中を歩く。複雑に入り組んだ道を歩き続けるうちに前方に人影を認める。
 雨の紗帳の向こう、倉庫の軒先に意固地に膝を抱え蹲っていたのは薄汚いガキだ。
 ガキの前にさしかかる。何となく歩みを止める。
 びしょ濡れの前髪の隙間から覗いた目が、思わぬ強さの光を放っていたからかもしれない。
 金と銀の硝子で偽装した俺の瞳とは異なる、どこまでも真っ直ぐな光。
 無機質な灰色で塗り潰された俺の世界において、その目だけが生き生きと清冽に輝いていた。
 水溜りを弾きガキに接近する。接近に気付いたガキがはっとして腰を浮かせる。
 「だれだっ!?」 
 精一杯虚勢を振り絞った誰何の声。
 シャッターに寄りかかるようにして立ち上がったガキが驚きに息を呑む。
 雨に煙る視界にガキを捉える。
 擦り切れ薄汚れたジャンパーを羽織った12、3の子供。癖の強い髪、反抗的な光を宿す三白眼、癇の強そうな口元。
 毛を逆立てた野良猫といった風情で迫り来る敵を威嚇したガキが、正面から俺と対峙してハッと息を呑む。
 「……金、銀?」 
 囁くような声。問いかけではなく独り言。
 チンイン。おそらくは俺の目の事。
 魅入られたようにこちらを見返すガキがあまりに間抜けな面をしていたものだから、俺もまたじっとその顔を見詰め返す。
 重苦しい沈黙が雨音に被さる。
 長引く沈黙に痺れを切らしたガキが、半眼に据わった目で不審げに口を開く。
 「お前、頭がおかしいのか。こんな雨の中をほっつき歩く命知らずの物好きがいるたァ驚きだ。ヤクの打ち過ぎで頭のネジがとんでじゃねーの?いくら上等なコートを羽織ってたってどしゃ降りの中を歩くのはおすすめしねーな、自慢のコートに穴が開くのはお前だって願い下げだろうが。つかさ、せめて傘ぐらいさしとけよ。その年でハゲちまうのはイヤだろお洒落さん。酸性雨で髪の毛溶かされて残り一生丸坊主で過ごすなんざ、せっかくカラコン嵌めてめかしこんでても台無しだっつの。瞳の色隠してハゲ隠さず。ま、あんたがハゲようがどうなろうが知ったこっちゃねーし関係ねーけど……」
 くしゃみをする。
 一回、二回、三回、四回、五回。
 手の甲で赤くなるまで鼻を擦ったガキが黙って見ている俺に気付き、喧嘩上等の物腰で手を突き出す。
 「ぼうっと突っ立ってんなよ。見世物じゃねーよ。いや、この際見世物でいいから金か食い物恵んでくれよ」
 決してしたてには出ない態度。梅花の卑屈さとは対照的にあっけらかんとした開き直り。
 くるくるとめまぐるしく変わる表情が面白く、殆ど息継ぎもしない饒舌な語り口が小気味よく、少しだけ興味を持ってガキを観察する。
 いつしか雨の中に立っていることも忘れていた。
 コートの肩をしとどに叩く雨も気にならなかった。
 警戒の物腰で誰何したかと思えば次の瞬間には目を見張り、俺の頭がおかしいことを一目で看破し率直にそれを口にする。
 一回三回と続けてくしゃみをし、それを見られたばつの悪さから大胆に啖呵を切る。
 どの表情も生き生きと弾んでいた。
 豪雨に降られてびしょ濡れのみじめなすがたで座り込んでいたというのに、活力に満ち溢れた目の光は失われていなかった。
 面白いガキだ。
 何かを面白いと思ったのは久しぶりだ。
 体を打ちすえる雨の礫の冷たさも忘れ立ち尽くす俺と相対し、ガキが不承不承その場に座り込む。
 不承不承尻をずらし横へ移動し、自分の隣を叩く。
 「入れよ」
 言葉の意図が理解できなかった。
 自分の隣を叩いて促すガキを胡乱げに見返す。
 俺と目が合ったガキが言い訳がましい早口で捲くし立てる。
 「そのまま雨ん中に突っ立ってたら風邪ひいちまう。隣に来いよ。雨があたんねーだけちょっとはマシだろ。それとも何か、お前は肺炎で死ぬのを望む自殺志願者か?どうでもいいが俺の前で雨に打たれるのはやめろ、気になってしょうがねえ。だいいち目障りだ。やるならどっか他のとこに行ってくれ。ここから消えるつもりがないならまともな人間らしく雨を避けるふりくらいはしてくれ。頭のイカレた人間とツラ突き合わせてだんまり決め込んでると気分が暗くなる。まさかお前、本当に機械だって言うんじゃねーだろうな。寒さも痛みも感じねえってぬかすんじゃねーだろな」
 疑念と反感とが綯い交ぜとなった眼差しを受け止め言葉を咀嚼し、茫漠たる虚無の中に答えを探る。
 そして、答えを出す。
 「感じない」
 体にあたる雨の冷たさも取り巻く外気の寒さも痛みも、半透明の膜を隔てたように鈍く遠くしか感じられない。
 梅花を貫いたときと同じだ。体の一部がどれだけ熱く固くなってもその熱は中心に届かず、外界からもたらされる刺激はたとえそれが痛みだろうが快楽だろうがぼんやりした輪郭しか掴めない。
 核の掴めない痛みはぬるい幻痛でしかない。
 俺が見るもの触れるもの感じるものはすべて幻なのだ。
 「そりゃよかったな」
 予期せぬ返しに顔を上げる。
 倉庫の軒下に蹲ったガキが、不敵な笑みを浮かべみせる。
 「寒さや痛みを感じないってことはお前は人間じゃない、機械だ。お前の気管は鉄パイプ製だ。内蔵はさぞかしメタリックな銀色に輝いてることだろうさ。ネジとゼンマイとポンプがお前の腹ん中に入ってるもんでガソリンがお前の原動力さ。よかったじゃねーか、風邪ひく心配なくて。肺炎にかかる心配なくて。けどさ、いくら機械だからっていつまでも雨ん中に突っ立ってたら間接錆び付いちまうぜ。お前だって道のど真ん中で故障すんのはイヤだろ?いいからこっち来いよ、お人形さん。俺の隣で行儀よくお座りしとけ」
 しげしげとガキの顔を眺める。ふてぶてしい笑みに反し目は気遣いの色を湛えている。よくこんな器用な表情ができるものだなと感心する。
 媚びと怯えと諦めが入り混じった梅花の笑みとは違い、俺の機嫌などどうでもいいから自分の隣にこいと強要するしたたかな笑顔だ。
 だが、雨の中に突っ立っている事が別に苦じゃない俺はわざわざガキの隣に座る必要性を見出せない。
 そのまま動かずにいる俺を呆れたように見上げ、ガキが呟く。
 「可哀想に」 

 可哀想。
 俺が?

 ガキは続ける。
 俺が可哀想なその理由とやらを、実にあっさりと明かす。
 
 「寒さや痛みやすきっ腹を感じないのは羨ましいけど、きっとそれ以外のもんも感じてねーだろ。可哀想だよ、お前」
 
 完全な静止を保っていた虚無の水面がさざなみだつ。
 ガキの指摘により俺は俺が可哀想な理由を知った。
 初対面のガキの指摘により初めて寒さ痛さを感じない俺という存在の違和を、世界の錯誤を、虚無に潜在する哀しみを知った。

 ガキは続ける。

 自分を可哀想とおもえない人間は可哀想だ。
 他人を可哀想とおもえない人間は可哀想だ。
 笑えない人間は可哀想だ、泣けない人間は可哀想だ、つまりお前は可哀想な人間だ。
 
 「人間」と言った。
 自分も他人も可哀想と思えなくとも笑えなくても泣けなくても、俺のことを人形と見なしはしなかった。
 人間と見なした上で俺に怯えて本音を伏せることなく「可哀想」と言いきった。

 脳裏で梅花の怯えた顔が蘇る。  
 俺に怯えながらも怯えてないといい、怖がっていながら怖くないといい、従順な恋人を演じて関心を繋ぎ止める女の顔が。
 
 感覚を鈍化する薄膜が取り払われ、外界の雨音がクリアに鼓膜を叩く。
 現実感が急速に回復する。
 頭痛が止む。
 灰色の線が上から下へと残像を曳き天と地を繋ぐ中、不思議そうに俺を仰ぐガキの顔だけが輪郭の鮮明さを増し光に包まれる。

 ああ、そうか。
 晴れるとはこういうことか。
 こういうことだったのか。

 「名前は」
 相変わらず景色は灰色のまま、しかしガキのまわりだけが柔和な光に包まれてモノトーンの薄っぺらい白から更に明度を上げた清冽な白へと昇華していくのを目の当たりにし、ながらく存在を忘れていた心が高揚する。
 ガキは言った。
 消耗激しい諦念の表情を浮かべ、反感込めた目で怖じることなく俺を睨み、たった二文字の名前を言った。
 「ロンだ」
  
 いい名前だ。 

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010612132005 | 編集

 「兄さん」

 ベラルーシ駅のプラットフォームにて、白い息を吐きながら列車を待っていたアルセニーは顔を上げる。
 傍らには年代物の革のトランクがある。
 耳宛ての付いた毛皮の帽子を被り、裾長のコートを羽織り、膝下までを覆う厚底のブーツを履いた全く隙のない出で立ちは防寒に余念がない。
 全身黒尽くめの装束に映える白磁の肌、毛皮の帽子から零れ出るのは綺麗な銀髪。
 極上の絹糸と見まがう手触りと光沢の髪が霜柱のように額を縁取る。
 煌びやかな銀髪にも増して鮮烈な印象を残すアイスブルーの双瞳。
 氷結した湖水をおもわせる冷たい青は、よく見れば片方だけ色が薄い。
 白く透ける繊細な睫毛に飾られた双眸は、どこまでも深く静かで理知的な光を宿している。
 寒色の双眸が与える酷薄な印象とは程遠く、柔和な中にも聡明さを感じさせる品良い面立ちは相当な美形の部類に入る。
 コートの下にはロシアの軍服を着ている。
 しなやかな物腰に貴族的な気品と生来の優雅さを併せ持つ青年将校が、呼びかけに応じて振り向く。

 「サーシャ!」
 歓喜に弾んだ声で叫び、歓迎の微笑を拵える。

 両手を広げて迎え入れんばかりに体ごと向き直った正面、息を切らせて走ってきたのは十二、三歳の少年。
 閑散としたプラットフォームに性急な靴音を響かせて、疾走の向かい風に銀髪を振り乱し、白い顔に血を上らせている。
 慌ててプラットフォームを走ってきた固い面持ちが和らぐ。
 安堵に溶け崩れた表情で足を緩め、止まる。
 「間に合った……」
 吐息と一緒に呟き、膝に手を付いて不規則に乱れた呼吸を整える。

 石造りの重厚な壁、陰鬱な彫刻で覆われた駅舎には荘厳な雰囲気が満ちている。
 ロシアの駅には13の線路および方面別に9つのターミナル駅があり、列車の行先の地名が駅名になっていることが多い。
 ここベラルーシ駅もまたそうだ。
 対岸の駅には豪華列車が停まっている。
 長期休暇を楽しむ富裕層は一等車に宿泊し、二等車には財布にそこそこ余裕のある中産階級が乗車し、三等車には貧民が乗り込む。そしてこの三等車こそが最も混雑する。
 乗り換えを待つ旅行者がプラットフォームを物珍しげに見回し、会社員は新聞を読み、有閑マダムが談笑に興じる。裕福な身なりの貴婦人の後ろ、長椅子の横のゴミ箱を漁っているのは小汚い身なりの浮浪者だ。
 著しい貧富の差こそ経済崩壊後のロシアの実情である。
 
 見目麗しい青年将校とあどけない少年が対峙する。
 アルセニーは愛情深い眼差しを腹違いの弟に注ぐ。
 「久しぶりだね。見送りにきてくれたのかい」 
 親愛を込めた眼差しからは純粋に再会を喜ぶ心が伝わってくる。 
 「おや、しばらく見ないうちにまた背が伸びたね。抜かされるのもすぐかな」
 「からかわないでください」
 冗談めかして指摘され、少年……サーシャは頬を赤らめる。
 弟の素直な反応が嬉しく、アルセニーは笑い声をたてる。
 サーシャは体の脇で手を握り込み、物言いたげな面持ちで黙りこくっていた。
 酷く思い詰めた様子でうなだれたサーシャが心配になり、アルセニーが笑いやめる。
 久方ぶりの対面だというのに奇妙によそよそしい態度をとる弟への疑念がもたげ、アルセニーは決まり悪げに呟く。
 「怒ってるのかい」
 「せっかくサーカスに寄ったのに、どうして私に声をかけず行ってしまったんですか」
 やはりそれか。サーシャが不機嫌な理由に思い至り、アルセニーは苦笑する。
 「ナイフ投げの練習を邪魔しちゃ悪いと思ってね。集中力が途切れると嫌がるだろう、サーシャは」
 「兄さんなら構わない。それに兄さん、いつまでも子供扱いしないでください。私はもう初めて会った頃の子供じゃない、俗物の団長に鞭打たれ泣いていた小汚い孤児ではない。今の私には恐れる物などなにもない。ナイフの腕は上達した。今なら的をはずすこともない」
 一呼吸おき、兄を責める。
 「サーカスの隅で膝を抱え貴方を待ち侘びていた頃と一緒にしないでくれ。今なら貴方を追いかけることができる」
 兄においてけぼりにされたことに拗ねているのか、不快感もあらわに主張するサーシャにそっと手を伸ばす。

 『Извините.』  
 イズヴィニーチェ。

 真心こめた謝罪にもサーシャは頑なな態度を崩さず、子供じみた不満を顔に出す。
 アルセニーはこの上なく愛しげに目を細めて年の離れた弟を見守る。
 自分と同じ銀髪、兄弟揃いのアイスブルーの瞳。
 アルセニーは手袋のままサーシャに触れようとして、革をへだてたままでは人肌のぬくもりを与えられない事に気付き、黒い光沢の手袋を口元へともっていく。
 手袋の指先を噛み、一気に脱ぐ。
 噛んで引き抜いた手袋をもう片方の手に掴み、改めてサーシャに向き直る。
 触れる許可を得ようとサーシャの表情を窺い、頭に手を伸ばす。
 癖のない銀髪がさらりと流れる。下を向いたサーシャの頭を優しく撫で、アルセニーは言う。
 「寂しい思いをさせて悪かった。長い別れになるから、言葉を交わすとかえって情を残してしまうんじゃないかと危惧してね……顔だけ見て行こうとしたんだ」
 「どこに」
 「軍の仕事でベラルーシへ。今回は長くかかりそうだ。三ヶ月は帰ってこれない」
 三ヶ月、とおうむ返しに呟く。
 震える唇で言葉を紡ぎ、サーシャが物憂く俯く。
 兄との別離に寂しさを感じてるらしく、表情が固く強張る。
 睫毛の奥に沈んだアイスブルーの瞳が漣立ち、不安げにアルセニーを見上げる。
 「兄さん」
 「なんだいサーシャ」
 自分の胸までしかないサーシャの視線の高さに腰を屈め、アルセニーは首を傾げる。
 サーシャは暫く唇を噛んで沈黙していたが、やがて勇気を振り絞り口を開く。 

 「軍での出世に、その目は影響ありませんか」
 祈るような縋るような口調で問いかける。

 アルセニーは驚き、無意識に自分の片目に手をやる。
 アルセニーの目は片方視力が弱い。色が薄く見えるのはそのせいだ。
 先天性の弱視ではなく、不慮の事故による後天性の障害だ。
 そしてその事故にはサーシャ自身が深く関わっているのだ。

 サーシャの腕が未熟だった頃、あやまちでアルセニーの目を傷つけた。

 失明の危機こそ免れたものの以来アルセニーの片目は極端に視力が下がり、アイスブルーの瞳の色素も薄弱になってしまった。
 サーシャは未だにそれを気に病んでいるのだ。
 アルセニーが片目に障害を負ったのは自分のせいだと己を責め立てているのだ。
 己の腕が未熟なばかりに最愛の兄を傷付けた、とりかえしのつかないことをしてしまった。
 だからこそサーシャは一言たりとも弱音を吐かずナイフ投げに励んだ。
 二度と的を見誤ったりしないようにとたゆまず特訓に臨み、飛び道具を自在に操る才を磨き上げた。

 サーシャには暗殺者の才能があった。
 不幸にも。

 それまで愛人の子をかえりみなかった父がサーシャの才能に興味を示し、暗殺者として飼い始めた。
 アルセニーはそれを知っていた。知っていたからこそ何とかしたかった。
 何度も父を説得した、非難した、貴方は最低の人間だと罵倒してサーシャを解き放つよう懇願した。

 しかし無駄だった。

 父はアルセニーの言葉に耳を貸さず、こう言ってのけた。
 兄弟ともに受け継いだアイスブルーの目を酷薄に光らせ。
 『あれが私に忠誠を誓っているのは、他ならぬお前のためなんだぞ』

 愛人が産んだ子を「あれ」と呼び、父は続けた。

 『暗殺者として私に仕える限りお前のそばにいられる、お前との絆を保てる。だからあれは私の命令通りに人を殺しを続ける、私の邪魔となる人間を排除し続けるのだ。くだらん理想に燃えて軍に入ったお前が未だに連れ戻されずにすんでいるのは誰のおかげだと思っている?若く愚かで世間知らずのアルセニー・ニコラエヴィッチ・アベリツェフよ』
 ブランデーとジャムを溶かした小皿の甘味を匙ですくいとり、瀟洒なティーカップにおとす。
 紅茶の水面が漣立ち、フルーティーな芳香が立ち上る。
 ロシアンティーの芳しい香りを楽しみつつ、父は言った。
 『お前の栄達と引き換えに我がサバーカとなったアレクサンドル・ニコラエヴィッチ・アベリツェフの忠心に感謝しろ』
 アルセニーの心は打ち砕かれた。
 虐げられて育った腹違いの弟に対し真摯な愛情を注いでいたアルセニーは、真実の残酷な重さに耐え切れず父のもとを逃げ出した。
 
 サーシャが父に逆らえないのは、私を人質にとられているから。
 
 「私の腕が未熟なばかりに兄さんは怪我をおった。悔やんでも悔やみきれない。私は公女アナスタシアを母にもつ正統なるロマノフの末裔、いずれ皇帝として即位する偉大なる血筋の末なのに、ナイフ一つすら満足にあつかえず兄さんの目を傷つけてしまった」
 「皇帝陛下、ご自身を責めることはございません。あれはただの事故です。偶然の事故です。誰のせいでもありません」
 饒舌なサーシャの足元に拝謁を願う臣下さながら片膝付き、恭しく頭を垂れる。 
 プラットフォームを足早に行き交う客たちが、こぞってアルセニーとサーシャに注目する。
 忙しく行き来する乗客に好奇の眼差しを注がれてもアルセニーは少しも動じず、己をロシア皇帝と称する弟に忠誠を捧げ続ける。
 「偉大なるロシア皇帝の血を分けた親愛なる兄よ、その目が光を映さなくなったのは私の責任だ。皇帝のあやまちだ。どうか許してくれ、兄よ、愛する兄よ!わざとではなかったのだ、決して。貴方にいいところを見せたくて褒めてもらいたくて幼く愚かな私はナイフを振るった、手に余る重さのナイフはむなしく宙を切り貴方の目を切り裂いた、貴方の目は血に染まった!ああ、私と同じ類稀なる美しさのアイスブルーの目が……軍での出世にも影響するというのに……」
 「いいえ、皇帝陛下」
 乗客の訝しげな眼差しを一身に集めつつ、アルセニーは静かに首を振り、頭を抱えて悲嘆に暮れるサーシャの手をとる。
 「この目は忠誠の証に貴方に捧げた物。母なるロシアの地を治める皇帝ともあろうお方がみだりに泣き叫ぶものではありません。どうか貴方をおいて祖国を発たざるをえない臣下の貢物をお受け取りください」   
 体の脇に手を垂れ下げたサーシャが陶酔の面持ちでアルセニーを見る。
 恍惚と濡れた目にアルセニーの微笑みが映る。
 硬質な靴音が響く堅牢な石造りのプラットフォームにて、硝子張りの天井から射した光が兄弟の上に降り注ぐ。
 神聖な宗教画にも似て光に祝福され、放心の体で立ち竦む弟の足元に跪き、手の甲に接吻する。
 主従の誓いを立てるように。
 「どうかお元気で、皇帝陛下。生涯の忠誠を捧げた一家臣として御身の兄たる光栄に浴した者として、陛下の幸せを祈っております」
 鋭く汽笛が鳴る。
 甲高い汽笛が凍えた大気を震わす中、重量で他を圧する列車が線路に滑り込んでくる。
 重厚な外観の列車を見上げ、コートの埃を優雅に一払い、アルセニーが立ち上がる。
 ブーツの踵と石床が触れ合い、澄んだ音を奏でる。傍らのトランクを持ち上げ、白い息吐く老若男女の乗客に混じり、乗降口の段差に足をかけるー……
 「!!兄さんっ、」
 サーシャの目に理性の光が戻る。
 正気に戻ったサーシャの眼前で列車は既に動き出していた。巨大な車輪が溝をなぞる重たく鈍い音が木霊する。鈍重に動き出した列車の中、乗降口に佇んだアルセニーへとサーシャが手を伸ばす。
 列車の速度が上がり、プラットフォームを駆けるサーシャがみるみる後方へ遠のいていく。
 サーシャは我を忘れて列車を追いかける。 
 愛する兄と引き離されてたまるかとでもいうふうに、必死に。
 足を繰り出す度に息がちぎれとぶ。
 白い息を弾ませ縺れた足を叱咤し、轟然と疾駆する列車に追いすがり、サーシャが絶叫する。

 『Прощайте!』
 プラシャーイチェ。
 当分会えない相手への別れの言葉。

 プラットフォームの突端に佇むサーシャが視界の彼方に消える。
 窓硝子に己の顔を映し、弟と同じアイスブルーの瞳を覗き込み、アルセニーは口を開く。
 「愛しているよ、サーシャ」  
 手袋を脱いだ手を硝子に添え、窓に映った己に弟の面影を重ねるように身を凭せる。
 「……私の陛下」
 列車の振動に心地よく揺られながら、アルセニーは目を閉じた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010611161121 | 編集

 仙台空港のロビーは採光に適したアーチが連なる開放的な造りとなっている。
 ほどよく冷房の利いた快適なロビーでは飛行機待ちの客がおもいおもいに寛いでいる。
 
 斉藤は中央のソファーに座り飛行機を待っていた。
 傍らには私物を纏めたトランクスがある。 
 仙台を旅立つ決意を固め今日のこの日を迎えた斉藤だが、胸中は複雑だ。 
 旅路の不安をごまかそうと斉藤は足繁く人が行き交うロビーに建つモニュメントに目をやる。

 ロビー中央のソファーの程近く、全長八メートルにも達する巨大な彫刻が聳えている。
 銀の光沢の螺旋を模した不可思議な彫刻で、見るものに何とも不安定な印象を与えるひどく前衛的な芸術作品である。

 高みに上り詰めることなく瓦解した螺旋階段。
 不均衡と不安定と不合理の集大成。

 斉藤の目にはそう映る。
 あたりさわりない感想だなとおのれの発想の凡庸さに苦笑する。
 「ロールシャッハテストだな、まるで」
 見るものにより万華鏡のごとく印象をかえる絵。
 本来ただのインクの染みにすぎない絵が見方によってさまざまな意匠に変化する。
 ロールシャッハテストの起源は北欧の子供の遊びに遡る。
 幼い子供たちが紙にインクを垂らし二つに折る。
 開いた紙には左右対称にインクの染みができる。
 そのインクの染みが何に見えるか口々に言い合う。
 偶然生まれたにすぎないインクの染みは、だがしかし見るものの感性により蝶や踊り子や鷲鼻の魔女の横顔へと自在に姿形を変える。
 心理学におけるロールシャッハテストとは左右対称のインクのシミから被験者が膨らませた想像をもとに人格を分析する検査法である。
 曖昧な刺激に対しては被検者の無意識が投映されるという仮定に基づくこの検査は、しかし検査する側の精神的側面が投影される危惧をも孕む。
 被験者は出題者の意図が掴めず当惑し心理的ストレスを抱え込むことになる。
 突如支意味不明な絵を見せられ「これは何?」と聞かれる。
 問いには必ず対応する答えがあると刷り込まれた被験者は、懸命に知恵を絞り何とか出題者の意図に沿った答えを導きだそうとするも、ロールシャッハテストの場合そもそもこの答えが存在しないのだから被験者の努力はあえなく無に帰す。
 ロールシャッハテストに明確な答えは存在しない。
 正解はない。
 答えは患者の数だけあり、そのどれもが真実であるといえる。
 ロールシャッハテストとは本来何でもないインクの染みに自己を投影させ像を結ばせる不条理を孕んでいるのだ。
 精神科医らしい思考遊びに飽いて、ひっそり自嘲の笑みを漏らす。
 「……彼なら何と言うだろうな」
 銀の光沢を放つ螺旋のモニュメントを見上げる。
 空港の喧騒がにわかに遠のき歳月を越え懐かしい顔と声が蘇る。

 セルフレームの眼鏡をかけた理知的な顔。
 十数年の歳月を経ても輪郭は薄れることなくますますもって鮮明さを増す。

 瞼の裏に浮かび上がったのは、十数年前に別れたきりの友人の面影。
 怜悧な知性を帯びた切れ長の双眸が眼鏡の奥から涼しげにこちらを眺めている。
 侮蔑を隠しもしない傲慢な表情。
 端正な顔にはしかし、冷え冷えと人を拒絶する酷薄さがたゆたっている。
 優れた頭脳に誇りを持ち、それ故自分は特別な存在だと信じて疑わず平然と他者を軽んじる言動をとり、豊富な語彙を駆使した容赦ない毒舌でもって周囲に敵を作り続けた青年。

 斉藤が生涯ただひとり親友と呼べる男。

 「君にはこれが何に見える?」
 瞼の裏の面影に問いかけ、暇つぶしに夢想する。
 彼はこの馬鹿げた芸術を見て何と言うだろう、何と感想を述べるだろう?
 斉藤が大学の四年間共に学んだ青年は、たとえば数学など明確な答えが存在する学問とは実に相性がいいが、漠然とした問いに漠然とした答えを返す一種謎かけじみた挑戦にはからきし弱かった。
 彼には柔軟性が欠けていた。
 何もかもを理屈で片付けようとした。
 科学で説明できない事柄にも理詰めで講釈を付け加えようとするものだから、斉藤は呆れを通り越し笑うしかなかった。

 『決まっている。DNAの二重螺旋だ』
 やっぱり。そう言うと思った。
 実に彼らしい回答だ。
 よくも悪くも予想を裏切ることがない。

 脳内の友人が出した結論に斉藤はいたく満足し口元を緩める。
 けれどもこの螺旋は未完成だ。遺伝子が欠損している。DNAの一部が欠け落ちている。
 しかもこの螺旋は自然発生したものではなく人工の紛い物、人が手を加え作り上げた螺旋の複製だ。
 バベルの塔の逸話を思い出す。巨大な螺旋を描いて天をめざしたバベルの塔は大いなる意志の働きで粉々に打ち砕かれた。神は完璧な物を好まない。未完全な人間が完全な人間を作り出す錯誤を許さない。

 そして悲劇が起きる。

 
 腕時計を一瞥する。
 搭乗までまだ時間がある。
 カウンターには搭乗予定の客が列を作っている。
 甲高い幼児の泣き声が聞こえる。
 反射的にそちらを振り向く。
 母親に抱かれた幼児が唐突に泣き出したのだ。
 起きた途端にむずがりはじめた幼児を妻の手から譲り受けた父親が、慣れない手つきでもって子供をあやす。
 上下に揺すられた幼児がうとうととまどろみはじめる。
 眠たげに目をしばたたく幼児をかわるがわる覗き込み、両親が微笑む。

 仲睦まじい家族の情景。
 斉藤が既に失ってしまったもの。

 「………」
 斉藤には二人子供がいる。
 ひとり目が女の子、ふたり目が男の子。
 ふたりとも離婚した妻に引き取られた。
 一ヶ月に一回の面会は法律で許されているが、妻に親権をとられた斉藤はそれ以外子供と触れ合う術をもたず、父親の義務として慰謝料を払い続けることでしか血を分けた子供たちと繋がれない。

 東京に発てば子供たちとも当分会えなくなる。
 事によると数年は連絡をとれないかもしれない。

 何せこれから斉藤が行こうとしているのは文明的な暮らしを営むにはあまりに厳しい砂漠の最果て、砂嵐が吹き荒れ携帯の電波すら届かず外部との通信手段はごく限られた砂漠の監獄なのだ。
 子供がまだ小さかった頃、飛行機に乗り旅行に出かけたことを思い出す。
 無邪気にまとわりついてきた娘と息子の笑顔を思い出す。
 あの頃はまだ妻との関係も修正不可能なほどこじれてはなくて、斉藤は良き夫良き父親として子供たちの前で振る舞っていた。
 子供たちも斉藤に懐いていた。
 仕事が忙しくたまにしか家に帰れない父親でも、子供たちにとって優しいお父さんにはかわりない。

 斉藤は子供たちを愛していた。
 妻のことも愛していた。
 良き夫良き父としてできるかぎり家族に尽くしたいと思い、彼らの幸せに貢献したいと思い、たまの休日は家族サービスに費やした。
 だが遂に妻の理解はえられなかった。

 子供たちが寝静まった深夜、夫婦で話し合いを持った。
 子供を連れて出ていくという妻の決意は固く、斉藤がいかに翻意を求めても聞き入れられなかった。
 妻の心は完全に斉藤から離れていた。もともと自立心旺盛で自己主張の激しい性格の妻は、時には我を忘れ激情に駆り立てられ、文字通り寝た子を起こす金切り声で喚きたてた。
 こうなったのはすべて斉藤のせいだと、家庭を顧みず仕事にかまけて自分たちを蔑ろにした斉藤が元凶だと、声を抑えるのを忘れて語気激しく詰った。
 反論できなかった。
 いかに家庭を大事にしていたつもりでも、妻が不満を抱いていることにとうとう手遅れになる最終局面まで気付かず何ら対応策を講じなかったのは事実だ。
 子供たちが父不在の寂しさを感じていることを薄々勘付きながらも仕事を優先した自分に非があると詰られれば返す言葉もない。
 訪れるべくして訪れた結末だった。
 もとより結婚生活が順調とは言い難かった。
 円満な夫婦生活は長続きせず、理想に描いた家庭生活も長続きしなかった。
 性格の不一致。
 斉藤は話し合いのごく初期から妻との意思疎通を諦めていた。
 妻は何かにつけ神経質な激情家で子供たちの教育にも熱心に携わっていたが、肝心の夫が仕事を優先することで過大なストレスを溜め込んでいた。

 『君たちを愛してるんだ』 

 最後の話し合いの場。
 斉藤の訴えに、妻は冷笑を浮かべた。

 『あなたの愛してるは愛着を感じてるって意味でしょ。愛情を感じてるわけじゃない』

 はからずも妻の指摘は的を射ていた。
 妻の言葉で初めて自分の本心に気付かされた。
 斉藤はこれまで自分にできる最大限のやりかたで家族を愛してきた。
 子供たちの前では常に優しく穏やかな父親として振る舞い、妻の前では寛大な夫として振る舞い続けてきた。
 だが実際はどうだ?
 自分は本当に妻子を愛していたと言えるのか、家庭を尊重していたといえるのか?

 たしかに愛着は感じている。
 妻子と離れ難く思っている。
 十年近く同じ屋根の下で暮らしてきたのだから情が湧いて当たり前だ。

 子供たちに至っては赤ん坊が這い這いを始め二本足で立ち歩き始めひらがなを覚え漢字を学習し、着々と成長していく姿を見守り続けてきたのだから感慨もひとしおだ。
 斉藤は妻子を愛しく思っている。
 その気持ちに嘘はない。
 しかしそれがたんなる愛着なのか愛情なのか自分でも判断できない。
 妻を愛してる。失いたくない。
 本当に?
 自分はただひとりになりたくないだけじゃないか?
 からっぽの家に戻るのがいやなだけじゃないか?
 子供たちを愛している。
 本当に?
 なら子供たちの誕生日を即答できるか?
 即答できる。
 ならば去年の誕生日にあげたもの、一昨年の誕生日にあげたものは?
 ……即答できない。
 愕然とする。ほんの一年前のことが記憶にない。
 妻の苛烈な追及に斉藤は黙り込むより他ない。
 家族を愛している。
 本当に?
 何度も自問し自答した。
 本当だ。本当だとも。掛け値なしに本当だとも。
 本当に?
 執拗な問いに心を見失う。

 息子の誕生日に何を贈ったのかも答えられない男が父親を名乗れるのか?
 娘の誕生日に何を贈ったのか覚えてすらない男が偉そうに父親面できるとでも?

 愛着と愛情は違う。
 自分は果たして家族を愛していたと言えるのか?
 はたして家族に抱いていたのが愛情か愛着か、居心地よい家庭を作り上げ理想の父と夫を演じる欺瞞に酔っていただけじゃないか、自分は確かに妻と子を愛していたと、彼ら彼女らに抱いていたのが長年共に暮らし馴染んだ人間への愛着ではなくなにものにも代え難い愛情だと断言できるのか?

 わからない。
 わからなくなった。

 いくら自己分析を重ねれど、いや、分析を重ねれば重ねるほどにはたして妻と子を本当に愛しているのか、束の間寂しさと虚しさを埋め合わせてくれる人生の付属物として愛着を感じていただけなのかわからなくなった。
 妻の糾弾は来る日も来る日も激しさを増し続いた。
 既に判を押した離婚届をつきつけられた時も斉藤は拒まなかった。

 何故こうなってしまったのか?
 愚問だ。
 すべてはもう終わってしまった。斉藤はもはや永久に妻子を失ってしまった。
 否、自分から捨てたのだ。

 疲労と諦念の末に話し合いを打ち切った時に、差し出された離婚届に判を押した時に、みっともなくあがくのをやめ未練などさらさらないふりをし妻が見守る前で離婚届に必要事項を記入し終えペンを置いた時に、斉藤の心の中では既に結論が出ていた。

 これで終わりにしよう、と。

 斉藤が静かにペンを置くのを見届け、一呼吸おいて妻が話し始める。

 『あなたはいい人だった。いい夫でいい父親だった。子供たちは今でもあなたが大好きだし、私だって……あなたが夫でさえなければ、そう、たとえばたまに会う男友達だったら今でも好きでいられと思う。でも、無理。もう駄目。私だって頑張ったわ。あなたの妻にふさわしい女になれるよう懸命に努力したわよ。あなたがいつかこっちを見てくれるんじゃないかって、ひとりの女として私を愛してくれるんじゃないかって期待して……ねえ、わかってよ。私はただ好きな人と幸せになりたかっただけなの。好きな人と結婚して子供を産んで育ててたまに喧嘩して仲直りして、子供たちが成人し独立して孫ができて、私たちはしわしわのおばあちゃんとおじいちゃんになっていく。そういうごく平凡な幸せが欲しかったのよ』

 ヒステリックな調子が鳴りをひそめた口調には苦い諦念と寂寥が滲んでいた。
 濡れた目に悲哀の光が宿る。
 妻が両手で顔を覆い泣き崩れる。
 机上に突っ伏して嗚咽を漏らす妻を痛ましげに見下ろし、斉藤は口を開く。

 『幸せにできなくてごめん』
 『幸せになる気なんかなかったくせに』

 嗚咽の隙間から憎悪に軋んだ声を搾り出す。

 妻が手をどけ泣き濡れた顔をあげる。
 真っ赤に腫れた目が挑むように斉藤を見据える。
 何もかもを見透かすような目。
 斉藤の本音を鋭く抉り出すどこまでも率直な眼差し。

 『私がいつあなたに幸せにしてくれって言った?いつだれがそんな大それたこと頼んだの?思い上がるのもいい加減にして。私はあなたと一緒に幸せになりたかったの。あなたに幸せにしてもらいたかったんじゃない、あなたと幸せになりたかったの。同じ事?違う、全然違うわよ!馬鹿じゃないのあなた、ちゃんと聞いてるの、ねえ、聞いてるの?
 あなたはそういつもそう、あなたは奉仕する側で私はされる側、あなたは妻と子を幸せに「してあげる」ために頑張ってる。自分の幸せなんかどうでもいい、私たちさえ幸せにできればそれでいいってあくまで自分抜きで考えてる、それってつまり私たちと幸せになる気がさらさらないってことじゃない、私たちと一緒じゃ幸せになれないって決め付けて偽善を働いてるだけじゃない!
 幸せにできなくてごめん?幸せにしてあげられなくてごめん?馬鹿にしないで。してあげるとかしなきゃならないとか恩着せがましい言い方はやめて。私たちはそこまで図々しくない、あなたひとりによりかかってあなたの幸せを犠牲にして幸福になろうとするほど厚かましくも薄情でもない!』

 化粧とともに涙に流され虚勢が剥げ落ち、痛々しいほど憔悴した素顔が覗く。
 妻の化粧してない顔を見るのは五年ぶりだと今更ながらに気付き、愕然とする。
 妻が斉藤の前で化粧を落とさなくなったのはいつ頃だろう。
 夫が寝入るまで決して化粧をおとさず、美しく驕慢な仮面で孤独な心を鎧い続けた妻の境遇に思いを馳せ、斉藤はやりきれなくなる。
 滂沱の涙で化粧が溶け崩れた妻の顔を直視するのは、自分が犯し続けた罪と向き合う心痛を斉藤に強いた。

 『私は幸せになりたかったの。あなたと、子供たちと一緒に』
 『あなたに幸せにしてもらうのは苦痛だわ。幸せになる気がない人とは幸せになれないもの』

 化粧は無残に溶け崩れ、瞼は腫れ、目は真っ赤に充血している。
 怒りに任せてかきむしった髪はぐちゃぐちゃに乱れて波打っている。
 お世辞にも美しいとは言えない。
 もともと目鼻立ちの整った冷たい感じの美人だったが、腫れぼったい目を神経症的にしばたたき、涙の跡も生々しい頬を手の甲で擦り、口紅のはみ出た唇を引き結んださまは、さんざん泣き明かして疲れきった子供のようだ。
 斉藤は知らず知らずのうちに妻子に恩を売っていた。
 「皆で幸せになりたい」と望む妻の気持ちを、「妻子を幸せにする」という義務を己に課すことで裏切り続けていたのだ。
 仕事にかまけて妻子を蔑ろにした斉藤への不満は勿論あるが、妻に離婚を決意させたのは何より斉藤自身に対する幻滅だった。
 結婚し二児をもうけ精神科医としての評価も高く出世を約束された斉藤は夫としても父としても申し分のない男だったが、幸せになろうとする意欲が致命的に欠けていた。
 今の自分が幸せかどうかなど考えたこともなく、否、もとより自分の幸せなどどうでもいいと言わんばかりにただただ妻子の幸せを願い続けてきた斉藤は、しかし家族の一員たる自分にも平等に幸せになる権利が与えられているのだと、妻子を幸せにしたければ傍観者ではなく当事者として積極的に関わらなければいけないのだと、数年ぶりに妻の素顔を見るまでとうとう気付けなかった。

 「この子パパが行っちゃうってわかってるのかしら」
 「まだ無理だろう、こんなにちっちゃいんだから」
 
 憂鬱な物思いを断ち切ったのは、若い父親と母親の会話。
 斉藤はそちらに目をやる。
 単身赴任に旅立つ夫と見送りに若い妻が、腕に抱いた赤ん坊によしよしとあやしている。
 妻子を愛情溢れる笑みで包み込む男の姿に若かりし頃の自分が重なる。
 父親に手を差し伸べきゃっきゃっと無邪気に笑う幼児に、幼い頃の娘と息子が重なる。

 上の娘は夜泣きがひどかったが、斉藤が抱くとぴたりと泣き止んですやすや眠り始めた。
 下の息子は手のかからない子供だった。
 あまりにも寝相がいいものだから顔の前に手を翳しちゃんと息をしているか確かめたことを思い出す。
 二人のぬくもりを思い出す。
 腕にすっぽりおさまる赤ん坊の重みと乳くさい肌の香り、人懐こい微笑み。
 初めて娘を抱いた時の喜び、初めて息子にミルクを飲ませた時の狼狽。
 腕の中からまじまじと斉藤を見詰める生後一ヶ月の娘、無心に哺乳瓶にしゃぶりつく生後三ヶ月の息子。
 あまりに柔らかく頼りなくふにゃりとした感触。
 抱くものに安らぎを与える赤ん坊の体温。

 「……明帆、港」
 我知らず娘と息子の名を呟く。
 明帆。
 晴れた海を往く船の帆のようにいつも前向きでいてほしいと斉藤が名付けた。
 港。
 分け隔てなく人を迎え入れ送り出す心優しい子になってほしいと妻が名付けた。
 妻とふたり一生懸命名前を考えた、幸多き人生を歩んでほしいと願いを込めて。
 しずかに目を閉じ子供たちの顔を思い浮かべる。
 「いってきます」
 瞼裏の子供たちに別れを告げる。
 背広の懐をさぐり一通の手紙をとりだす。
 宛名には右上がりの神経質な筆跡で「鍵屋崎 恵様」と記入されている。
 何度も何度も読み返した、一字一句漏らさず暗記するほどに。
 丁寧な手つきで封筒を傾ける。
 几帳面に折り畳まれた便箋が掌にすべりだす。
 便箋を開いて目を通す。便箋の升目をびっしり埋め尽くしていたのは離れ離れとなった妹を労わる不器用な言葉。
 どこまでも献身的に妹を気遣い妹に謝罪し、どうか幸せになってくれと願う兄の姿が行間から鮮明に立ち上ってくる。

 丁寧に便箋を折り畳み、封筒を裏返す。
 差出人の氏名は「鍵屋崎 直」となっている。
 「自分を犠牲にしても妹の幸せを望むか。まったく、不器用なところはだれかさんにそっくりだ」

 鍵屋崎直。
 遺伝子工学の世界的権威たる鍵屋崎夫妻を殺害した罪で東京少年刑務所に送致された十五歳の少年。

 彼に関する情報を仕入れるのに斉藤は余念がない。
 旅行鞄の中には彼が事件を起こしてから集めた記事のファイルが入っている。
 最初に手紙が届いた時は運命を感じた。
 まさか彼のほうから接触をもってくるとは思わなかった。
 直からの手紙を手にした斉藤は平静を装うのに苦労した。

 鍵屋崎直。
 斉藤にとって特別な意味をもつ名前。
 十五年前、斉藤がまだ学生の頃携わったある実験によって作り出された天才児。
 選りすぐりの精子と卵子を結合させ遺伝子を手直しし、末は国を動かすブレインとして要職に就く人材を生産する実験。
 直はその試作品第一号として生まれた。
 鍵屋崎直の養育は遺伝子工学の世界的権威であり指揮者として実験に携わっていた鍵屋崎夫妻に託された。

 卵子提供者は不明。
 しかし精子提供者ははっきりしている。
 鍵屋崎直と安田順は親子関係にある。

 「……皮肉なめぐり合わせだね」
 手紙が届いてすぐ返事を書いた。
 直の妹・恵は精神錯乱を起こしとても返事を書ける状態ではなくやむをえず斉藤が代筆した。
 当時の自分が手紙に書き並べた文句を思い出し、失笑する。
 「僕は偽善者だ。よくもまああれだけ賢しげなことを並べ立てられたもんだと自分にあきれるやら感心するやら……ともかく、なかなか堂に入ったとぼけっぷりだったろう?十五年前の実験に関わっていたこと最初から最後までおくびにもださず、君が罪を償って出てくるのを待っているなんて歯の浮くようなキレイ事で欺き通したんだから」

 もっとも手紙の内容がまったくの嘘というわけではない。
 鍵屋崎直に対しては初対面の人間であるかのように自己紹介した。
 それも嘘ではない。
 十五歳の直は斉藤を知らない。
 斉藤にしても鍵屋崎由佳利の子宮内で順調に成長を続ける着床八ヶ月目の胎児のエコー写真を見たのが最後であり、十五歳の鍵屋崎直と直接面識はない。

 膝に封筒を放り出し、ソファーの背凭れによりかかる。

 目を閉じる。
 瞼の裏の闇に十数年前の友人の顔が浮かぶ。
 眼鏡の似合う理知的な面差しの青年に眼鏡の似あう理知的な面差しの少年が重なる。
 「………安田くん、君は一体どんな思いで……」
 安田もまた自分と同じ過ちを犯してるんじゃないだろうか。
 子供を幸せにしたいと思い詰めるあまり、自分の幸せを犠牲にしてるんじゃないだろうか。
 ……十分ありえることだ。
 斉藤は安田をよく知っている。安田という人間の本質を正確に見抜いている。
 「………無理してるんじゃないかって心配だよ。ほどほどに手抜きできない人間だから、君は」

 妻と子を幸せにしたかった。
 だがしかし、斉藤の心はいつも違うところにあった。 

 十数年前別れたきりの友人のことを忘れたことは一日たりともなかった。
 十五年前、もし斉藤が勇気を出し声を上げていれば何かが違っていたかもしれないのだ。
 斉藤は別れてからもずっと安田のことを考えていた、友人として彼に何ができたかをずっと考えていた。

 友人以上の存在になりたいと欲を出してから歯車が狂い始めた。

 もしあの時自制することができれば、安田への欲望を抑ることができれば、斉藤は今でも安田と連絡をとりあい対等な友人として付き合い続けていたかもしれない。

 直の手紙を読んで心が揺れた。
 直と安田が一緒にいると知り、すぐにでも現地にとびたい衝動が膨れ上がった。

 安田が東京少年刑務所の所長に就任したことはかつての恩師から聞かされた。
 鍵屋崎直は両親を殺害し東京少年刑務所に送られた。
 二人が顔を合わせてる可能性は高い。
 生物学上の息子にあたる少年を前にはたして所長としての威厳を保ち続けるのが可能なのか?
 「まさか。僕に無理なことが君にできるはずない」
 知らずほくそえみ、足元の旅行鞄に視線を投げる。
 東京少年刑務所の医師が不慮の事故に遭い入院し、代理の医者を募集している。
 東京少年刑務所で医者を募っていると知り、完全に迷いが吹っ切れた。
 
 安田に会いたい。
 彼を支えたい。
 
 十数年前の安田はおそろしく危うく不安定なものを内に抱え込んでいた。
 外面は冷淡な無表情を装っていても、脆く鋭敏な神経がストレスの過負荷で限界まで張り詰めているのが斉藤にはよくわかった。

 安田は今も罪悪感に苦しみ続けている。
 十五年前の実験に当事者として関わった安田は本人を前に贖罪の念に悩まされているにちがいない。

 斉藤は安田を知っている。
 彼がいかに誠実で潔癖で不器用な人間か痛感している。
 安田一人に重荷を背負わせたくはない、相談相手になりたい、そばで支えてやりたい。

 自分もまた十五年前の実験に関わった共犯者だ。
 安田ひとりが罪の意識に苦しむのは間違っている。

 思えば鍵屋崎恵が斉藤の勤める精神科に入院したのも出来すぎた偶然だった。
 鍵屋崎恵がわざわざ遠く離れた仙台の病院に入ることになったのは、斉藤が勤める児童精神科が優秀な医師と看護婦を揃え国内で高く評価されていたからで、それ以外に理由はない。

 入院当初の鍵屋崎恵の様子を思い出し、斉藤は複雑な面持ちで思案に暮れる。

 入院当初の恵は手のつけられないほど荒れていた。
 看護婦が近寄れば奇声を発し狂ったように暴れる、医師が診察しようとすればひきつけを起こしたように全身を硬直させる。
 わずか十歳にして兄が両親を殺害する現場を目撃した恵は、過酷な現実を否認し周囲の大人を遠ざけることであまりに脆い心を守ろうとしていた。
 心を開いてくれるまでには時間がかかった。
 斉藤は根気強くカウンセリングを施し相手に不快感を抱かせない細心の配慮と洞察でもって恵との交流を深めていった。
 恵は次第に落ち着きを取り戻していった。
 今は病状も安定している。
 初期に頻発したヒステリーの発作も沈静し、画用紙にクレヨンでお絵かきしたり積み木を並べたり玩具のピアノを弾いたりと大人しく遊んでいることが多くなった。

 恵の変化を斉藤は嬉しく思う。
 患者が快方にむかっているのに喜ばない医者はいない。
 しかし。

 「………よくなってるのは外観だけじゃないか?」
 口にしたそばから疑問は確信にかわる。
 恵はたしかによくなっている。経過は良好だ。数ヶ月前とは比較にならないほど病状は安定し今はもう突然狂ったように泣き出し点滴を叩き割ることもない、食事を吐き戻し苦しむことも夢遊病に浮かされて深夜の院内を徘徊することもほぼなくなった。

 カウンセリングの成果を褒め称えるものもいた。
 斉藤の手柄だと絶賛する同僚も。

 しかし斉藤はそうは思えない。
 確かに表面上は落ち着いている。
 だが内面では何も解決されてない、快方にむかってない。
 恵はただ手がかからなくなっただけで、よくよく観察すればその目は相変わらず暗く沈み内に塞ぎ込んでいる。
 現在の恵には躁鬱病の傾向が見られる。
 躁状態の時は看護婦に甘え人懐こい笑顔を見せ無邪気な笑い声をあげるも、ひとたび鬱に陥れば一言も口を利かず暗い部屋で玩具のピアノを弾いている。

 カルテの記述を脳裏で反芻する。

 以前の恵はピアノが大好きでよく弾いていた。
 鍵屋崎優と由佳利は恵の演奏に全くと言っていいほど興味を示さなかったが、兄の鍵屋崎直は常に恵の傍らに座り、真剣にピアノを演奏する恵を微笑ましげに見守っていたという。
 恵は特にショパンの「子犬のワルツ」が好きで一日一回は必ず演奏していた。
 直もまた恵の演奏を好み、拙くも一生懸命さが伝わってくる「子犬のワルツ」に陶然と聞き入っていたという。

 家政婦の証言をもとに作成したカルテの記述をなぞり、斉藤は考えをまとめる。

 「鍵屋崎直と恵は仲のいい兄妹だった。鍵屋崎直は良き兄として妹を守り支え、恵もまた冷淡な両親に代わる絶対的庇護者として一途に無邪気に直を慕っていた。鍵屋崎直は盲目的に妹を溺愛し、幼い恵は自分に唯一優しくしてくれる兄に依存しきっていた。二人は互いに離れられない関係だった」
 鍵屋崎直が妹の目の前で両親を刺殺するまでは。
 「おかしい」
 斉藤は断言する。
 鍵屋崎直は妹のことを何より大事にしていた、妹を傷つける人間を絶対に許さなかった。
 それがたとえ自分自身であってもだ。
 ここで矛盾が発生する。
 はたして妹の事をだれより何より大切に思っていた鍵屋崎直が他ならぬ妹の目の前で両親を殺すだろうか?
 発作的な犯行といえど直の性格ならば妹の姿が視界に入った途端我に返りそうなものだ。
 恵の目の前で両親を殺したりなどしたら最愛の妹の人生に決して拭えぬ影をおとすことになると本人がいちばんよくわかっていたはず、鍵屋崎優と由佳利に対しては愛情も尊敬も感じず殺人行為に何ら抵抗を覚えなくとも「恵の目の前で」「恵の両親を殺す」という最大の禁忌を直ほど聡明な少年が犯すとはどうしても考えにくい。
 目の前で両親を殺したりなどしたらその後の恵の人生に及ぼす影響は計り知れない。
 のみならず恵の心は永遠に直から離れてしまう。

 直は頭の良い少年だ。
 IQ180の頭脳に裏付けされた計画的犯行なら恵はおろか目撃者がいない場所で一切証拠を残さず両親を葬り去るのも可能なはず、自分に疑いがかからぬよう完全犯罪を仕立て上げ警察の目をそらすことも直にしてみれば決して不可能じゃなかった。
 善悪の判断をぬきに恵の将来を考えるならそうするのが一番だったのだ。
 もし鍵屋崎夫妻が事故死したとなれば……事故死ではなくとも、身内に疑いのかからぬ形で死亡すれば……鍵屋崎直が逮捕され法の裁きを受けることもなく恵と引き離されることもなかった。

 あまりに犯行が杜撰で突発的だ。
 この犯行の杜撰さは、鍵屋崎直の本質に矛盾する。
 鍵屋崎恵のことを第一に考える鍵屋崎直の本質に矛盾するのだ。

 「何故わざわざ妹の前で両親を殺した?鍵屋崎直は恵を世界でいちばん大事に思っていた、世界でいちばん愛していた。たとえばそう、鍵屋崎夫妻が恵にひどいことをしたと仮定しよう。子供の人格を侮辱する失言を吐き、ことによると手を上げたと仮定しよう。鍵屋崎直はそれを目撃した。両親がひどく恵を叱責する現場を目撃した。許せない。当然だ。鍵屋崎直は妹の事を誰より何より大事に思っている、最愛の妹を傷付ける者は親でも許せない。わかる、僕にもそれはわかる。わからないのは何故よりにもよって恵ちゃんの前で犯行に及んだかだ。わざわざ恵ちゃんを傷付けるやり方で両親を殺したかだ。君らしくない。手紙からでも妹を案じる気持ちは痛いほど伝わってきた、君は本当に恵ちゃんが好きなんだ、恵ちゃんに幸せになってほしいと切実に願ってるんだ。その君がなぜ、あんなやり方で……」

 鍵屋崎直は本当に犯人なのか?
 真犯人は別にいるんじゃないか?

 脳裏を一抹の疑問が過ぎる。
 かぶりを振って雑念を散らす。

 初めて直の手紙を読んだ衝撃は大きかった。
 斉藤はそれまで「鍵屋崎直」という少年を新聞や雑誌の記事でしか知らなかった。
 遺伝子工学の世界的権威鍵屋崎夫妻の長男にして研究助手、IQ180の天才児、末は政府の要職に就くと期待された選良の人材……
 新聞や雑誌には似たような文句ばかりが並び「鍵屋崎直」がどれほど特別な存在か高らかに謳い上げていたが、鍵屋崎直が何を考え何を思っていたか、等身大の十五歳の少年として普段から何を考え行動し何を守りたいと切に願っていたかは、妹にあてて本音を吐露したあの手紙にしか記されていなかった。

 あの手紙には真実が記されていた。
 雑誌や新聞はスキャンダラスな事実を報じるだけで、鍵屋崎直の内面の真実には踏み込もうともしなかった。

 鍵屋崎直は無実だ。
 手紙を読んで漠然と抱いた印象は、直からの手紙を受け取り恵と接するにしたがい次第に強くなっていった。

 犯人は別にいる。
 直は真犯人を庇っている。
 これからそれを確かめにいく。 
 この目と耳で真相を確かめに、東京プリズンに行く。

 真実の重みに苦しむ親子二人の力になりたい、彼らを支えたい。
 彼らは本当によく似ている。右上がりの神経質な筆跡までそっくりだ。
 内に苦悩を抱え自分を責め続けるところまでも同じなら、愛する人間のために自分を犠牲にし尽くそうとするところまでもが。

 「……十数年前の二の舞にはさせない」
 十数年前、ある事件をきっかけに安田は斉藤から離れていった。

 斉藤は追わなかった。
 こちらから連絡とることも会いにいくこともできたのに敢えてそうせず放置したのだ。
 安田との関係が自然消滅するならそれもいいと諦観し、押しも押されぬエリートとして順調に出世を続ける安田の噂を耳にするたびひそかに彼の幸せを願っていた。

 背広の懐に手紙を戻し、胸ポケットから財布を抜く。
 財布を開く。
 プラスチックのカード入れに写真が一枚挟んである。
 今や仙台有数の名所と化した帯刀家の純日本庭園に出かけた際に家族で撮ったものだ。
 立派な枝ぶりの松を背景にばっちり化粧して上品に微笑む妻、ませた澄まし顔の姉の服をやんちゃ盛りの息子が引っ張っている。写真の中の斉藤は娘の肩に手をかけ笑っている。この頃既に夫婦仲は冷えきっていたが、子供たちにはそれを知らせず仲の良い両親を演じる配慮と余裕はあった。

 今となっては胸に痛みを覚える家族写真を一瞥、複雑な表情で黙り込む。
 意を決し写真を抜く。引き抜かれた写真の下からもう一枚写真が出てくる。

 今度は古い写真だ。
 十数年前に撮った写真には、今より更に若く軽薄な学生時代の斉藤と眼鏡の似合う理知的な風貌の青年が写っている。

 「元気でいるかな、君は」
 この十数年間、家族にも知らせずこの写真を持ち続けていた。
 十数年前に一枚だけ撮った写真を肌身離さず保管していた。
 『あなたには別に好きな人がいるのよ、私たちよりもっと好きな人が』
 妻の罵倒が蘇る。
 色褪せた写真が胸に迫る。
 今胸に込み上げてくる感情が愛情か哀惜か、斉藤にも区別がつかない。
 女性と結婚し子供を作り成長を見守り患者と接し、忙しい日々を送る心の片隅では損得の利害ぬきで安田の幸せを願い続けてきた。 

 彼のことが忘れられなかった。
 どうしても。

 「漸く会えるんだ、君に」

 飛行機の搭乗案内が流れる。
 斉藤は素早く反応し腰を上げる。もうすぐ飛行機が出る。いよいよ仙台ともお別れだ。
 旅行鞄を持って立ち上がり、螺旋のモニュメントを振り仰ぐ。
 窓からの光を受け燦然と輝く銀の螺旋。DNAの複製。
 完璧なものを作り上げようとして不完全なものを作り上げてしまう笑えない皮肉。
 斉藤の人生を暗示するかのように中空で唐突に途切れたモニュメント。
 周囲の雑音に流される事なく巨大なモニュメントを振り仰ぐ斉藤に、先ほどパスポートの写真写りを嘆いていた女子大生二人がちらちら視線を送る。
 視線に気付いた斉藤が顔を向けると、女子大生は互いをつつきあい嬌声をあげ、はにかむような笑みを覗かせる。
 斉藤もつられて微笑む。
 ふたりは顔を赤らめて慌てて駆け去る。
 互いにじゃれあいながら駆け去る二人の背中を見送り、斉藤もまたしずかに歩き出す。
 妻と別れを済ました単身赴任の夫が幼児に手を振る。
 幼児がきゃっきゃっと笑いながら手を振り返し、妻が目に涙を浮かべる。
 様々な人生の一瞬が交錯する喧騒の渦中を突っ切り、斉藤は戦場へ赴く。

 背広の内側に手紙を隠し、旅行鞄を抱え、挑むように前を向き。
 友人が待つ砂漠の彼方の戦場へ赴く。

 「ひとりで戦わせたりしない。今からそばに行くよ」

 いいだろ、順?
 君一人に重荷を負わせたくない。君一人を苦しめたくない。
 君に対するこの感情の名がわからなくても、今の僕が君を求めているのは事実なんだから。
 否、今だけじゃない。
 僕はこの十数年間というもの心の奥底で君を求め続けていた、妻子を愛するのと同じ比重で君を愛していたんだ。

 学生時代の呼び方で友人を呼び、斉藤は一度も振り返らず搭乗口へ向かった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010610233523 | 編集

 湿り気を含む暗灰色の空の下、退廃の兆しを塗り込めた陰鬱な町並みを一台の馬車が疾駆する。
 富貴な家柄を象徴する典雅なトロイカに乗り込み今まさに目的地さして飛ばしているのは、窓から吹き込む風に流るる清涼な銀髪の青年だ。
 臙脂の光沢も艶々と美しい革張りの座席に身を沈め、蔦の彫り物をあしらった窓辺に肘を付き、全体の色素が薄い青年は物憂げに景色を眺める。

 長く優雅な睫毛の奥に沈むよく研磨された薄氷の瞳は絶世の透明度。
 繊細な鼻梁と薄い口元、華奢に尖った顎。
 憂愁を含んだ美貌に神秘的な彩りを添えるのは軽く額にかかった癖のない銀髪。
 奇跡を具現し後光さす錯覚さえ帯びる白銀の髪と玲瓏たる薄氷の瞳の取り合わせは線の細い中性的な美貌によく似合っている。

 天使の輪を冠した銀髪を開け放した窓から吹き込む風に嬲らせ、青年は気取りなく御者に声をかける。
 「急いでください。もうすぐ雪が降りそうだ」
 「雪が降る前には目的地につきまさあ」
 酒気を帯びた赤ら顔に下卑た笑みを滴らせ、御者はこれ見よがしに鞭を振り上げる。
 青年は品よく顔を顰め不快感を表明する。
 「鞭は使わないでください。馬が可哀想だ」
 「そしたらとても雪が降る前に着きませんぜ」
 「良いです、多少遅れるくらいなら。それより鞭打たれる馬を見るほうが胸が痛みます」
 本音を言えば一分一秒でもはやく目的地に到着し弟を抱きしめたいところだが、時間を縮めるために鞭打たれる馬を憐れみやんわりと御者を諌める。
 慨して穏やかな調子で注意された御者はといえば、不承不承鞭をしまい手綱をとる。
 自分の後方に座っている年若い青年が由緒正しい貴族の血を継ぐ御曹司でありロシアンマフィアの大幹部の息子であると思い出し素直に従うことにしたらしい。
 銀髪の青年は馬に負担がかからぬよう加減して手綱を引く御者に安堵し、馬車の振動に心地よく揺られ車窓に目を転じる。
 視界の端に白銀の光が閃く。
 「!……あれは」
 視界の端を掠め去った小さな人影が意中の人物と直感し、咄嗟に頬杖を崩し窓辺から身を乗り出す。
 寒風すさぶ中に顔を突き出し後方をのぞむも、石畳を蹴る蹄の音も軽快に風と同化し残像を曳く馬車は刻々と意中の人物を引き離してしまう。
 距離がひらくにつれ銀輪を冠した人影は点となり風景に埋没しついには視認が困難となる。
 青年は思わず腰を浮かし身を乗り出し御者の肩を掴む。
 「止めてください!」
 「な、なんですか突然!?目的地はまだ先ですよ」
 「いいから急いで!」
 自制を失くした青年の剣幕に御者は面食らうも、肩に加わる握力と眼前に迫った真剣な眼光に圧倒され言われるがまま手綱を引き制動をかける。
 惰性で五メートルほど進んでから軋み音をあげ車輪が石畳を噛む。
 何が何だかわからず目を白黒させる御者を捨て置き、青年は脇においた毛皮の耳あて付き帽子を素早くひったくり、馬車の扉を開け放ちタラップを駆け下りる。
 「どこへいくんですアルセニー様、サーカスがテントを張ってるモスクワ広場にはまだまだ距離がありますぜ!こっから下りて歩いてったら凍死しちまいます!」
 尖った靴音をたて石畳に降り立つ。
 正気に返った御者が大仰に両手を広げ叫ぶ。
 アルセニーは御者に背を向け早々と歩き出しながら短く答える。
 「暫く待っていてほしい。……知り合いがそこを通ったんだ」
 いつものアルセニーらしからぬ有無を言わせぬ口ぶりと強引さに彼をよく知る御者は釈然とせぬまま黙り込むしかない。
 御者台に腰を落ち着けたまま手綱を持て余し次第に遠ざかる主人を見送り、理由も知らされず取り残された御者は途方に暮れる。 
 「……なんてこったい。あの礼儀正しく心優しいアルセニー様が、淫売に身を窶した初恋の女にでも行き違ったよな取り乱しぶりじゃねえか」
 御者の独白も知らずアルセニーは石畳を蹴り歩き続ける。

 最前車窓から見た光景が脳裏に焼きついて離れない。
 彼は確かにここにいた、この通りを所在なくさまよっていた。
 この世に二人とない兄弟の証の銀髪を見間違えるはずがない。

 漫然と町並みを眺めていたアルセニーの視界の端を予期せず掠め去った銀の光は、これから会いに行こうとしていた弟の髪の色とまるで同じものだ。

 霜のおりた石畳を靴裏で叩き、言い尽くせぬ焦燥に駆られ弟を捜し回る。

 アルセニーが馬車をおりた通りには間口の狭い商店が軒を連ねていた。
 庶民向けの雑貨や食糧などを商うこじんまりとした店が建ち並ぶ猥雑な通り。
 割れた街灯に凭れて死んだように熟睡する酔漢と彼を取り締まる口髭の警官、雪が降り出す前にと店頭に並べた野菜をしまい始める恰幅の良い女将、子供の手を引き買い物に訪れた若い母親……

 目の前に広がるのは何の変哲もない下町の風景。
 忙しげに行き来する通行人の間を見渡し、銀の髪の少年を捜し求めるアルセニーに奇異な視線が注がれる。

 アルセニーの風体は下町に似つかわしくない。
 その事は本人も十分すぎるほど理解している。

 毛皮の外套は踝まで達する裾長で、中に着込んだスーツも金がかかっている。
 アルセニー自身は服装にこだわりはないが、外を出歩く際は貴族らしい身なりをせよと母に厳命されているため仕方なくこうした値の張る特注品に身を包んでいる。
 貴族出の母はおそろしくプライドが高く、自分の血を継いだ息子にも貴族として恥ずかしくない教育を授けようとアルセニーが幼少の頃より多大な金を注ぎ込み尽力してきた。

 『外出する際は必ず外套を身に付けて。その外套も絶対に毛皮ではなければ駄目』

 アルセニーは母の言いつけを忠実に守り、外出時は毛皮の外套を欠かさなかった。
 しかし一目で貴族の子弟と知れる富裕な身なりは彼が雑踏に紛れることを容易に許さない。
 年の離れた弟を捜し走り回るアルセニーの姿はその外観との落差ゆえ一際異彩を放っていた。
 誰もが下町に突如として現れた場違いな青年に胡乱な注視を注ぐ。
 中には貴族の子弟がこんな所に何の用だと露骨な反感を抱くものもいる。
 老若男女さまざまな通行人が不躾な眼差しを注ぐ中、外套の裾を翻しあたりを走り回っていたアルセニーは遂に目的の人物を見つける。

 「サーシャ!」
 歓喜の叫びが迸る。
 外套の裾を颯爽と翻し我を忘れ弟に駆け寄る。

 石畳を蹴る靴音も高らかに弾ませ、憂いに翳った顔を一転輝かせた兄の登場に胸に紙袋を抱えた少年は驚愕する。
 商店が割拠する通りの一角に呆然と佇んでいたのはアルセニーと同じ銀髪と薄氷の瞳の年端もゆかぬ少年だった。
 霜焼けに赤く爛れた足で石畳を踏んだ少年は、息せき切ってこちらにやってくる兄の姿に驚きを隠せず呟く。
 「兄さん、どうしてここに……」
 「馬車に乗っていたら偶然君を見かけてね、いてもたってもいられず駆けてきたんだ」
 瞬きも忘れ困惑するサーシャの脳天から爪先までさっと視線で一刷けし、アルセニーは悲痛に顔を歪める。

 この寒い中サーシャは靴も履かずコートすら着せてもらえずにいた。
 教会の慈善箱に投げ込まれる類のボロ屑を継ぎ接ぎした赤貧甚だしい服を申し訳に羽織っているだけで、いまだに肺炎にかからずにいるのが不思議なほどだ。
 生まれつき上品な顔だちをしているだけに不憫な境遇を忍ばせる身なりの悲惨さが一層際立つ。
 木枯らし吹き荒ぶ街頭に素足で立ち尽くすサーシャの寒々しく痛々しい姿に同情を禁じ得ぬも、義憤に駆られる胸中はおくびにも出さず穏やかに問う。

 「こんなところで何をしてるんだい」

 中腰の姿勢でサーシャと視線を合わせる。
 視線の高さを合わせ優しく訊ねる兄を前にサーシャは恥ずかしげに目を伏せる。
 胸に押し付けた紙袋が葉擦れに似て乾いた音をたてる。
 同時に紙袋の中で硝子がぶつかる硬質な音が弾けアルセニーは中身が酒瓶だと直感する。

 「その、団長に言われて……お酒を買いにきました……いつも呑んでるウォッカが切れてしまって……お酒がないと機嫌が悪いから……」

 言い訳がましくぼそぼそと喋り下を向く。
 自分も団長の共犯だといわんばかりの殊勝な態度がますますアルセニーの同情心をかきたてる。

 団長の機嫌が悪いのはサーシャの風体でおのずとわかる。
 サーシャは乞食同然のみすぼらしいなりをしていたが、垢染みた上着から突き出た貧弱な腕には至る所に大小の痣ができていた。ズボンから伸びた同じく青黒い痣とみみず腫れがちらばり憂さ晴らしの折檻の激しさを物語る。
 先刻からサーシャが面を伏せているのに気付いたアルセニーはもしやと思い気遣わしげにその顔を覗き込む。

 「サーシャ、顔をあげてごらん」
 「できません」
 震え掠れた声で返答する。

 相変わらずかたくなに俯いたまま、サーシャは兄を正面から見返す勇気がないとばかりに申し訳なさそうに身を竦めている。
 弟の躊躇いを見抜いたアルセニーはサーシャの肩に手を置き、一言一句に真実の重きを置いて噛み含める。
 「大丈夫だから」
 老若男女が行き交う往来の中央で対峙するサーシャとアルセニーに好奇の眼差しが注がれる。
 不躾な注視から弟を守るように体で隠し、サーシャの置いた手に力を込め傍らの路地へと導く。
 サーシャは大人しく兄に従う。
 人目を避けてサーシャを路地裏に連れ込んだアルセニーは、用心深くあたりを見回してから改めて弟の説得にとりかかる。
 「顔を上げてごらん。サーシャの可愛い顔を見せてほしい」
 「……幻滅しませんか」
 「しないとも」
 アルセニーは力強く首肯する。
 煉瓦の壁に力なく寄りかかったサーシャがおずおずと顔を上げる。
 額にかかる銀髪がさらりと揺れ、透明度の高い薄青の瞳がおずおずと探るようにアルセニーを見詰める。

 ただし、左目だけ。
 サーシャの右目は倍ほどに腫れ上がった瞼によって圧迫されていた。

 怯えた上目遣いにも増してサーシャがおかれた現状を代弁するのは、顔面の痣。
 唇の端は切れて血が滲み頬には青黒い痣が生じ額には擦り傷がある。
 拳で殴られたとおぼしき右目は醜悪に腫れ上がりさながら化け物の面相を呈していた。
 変わり果てた弟の顔にアルセニーは息を呑む。
 サーシャは兄の沈黙を悪いほうに受け取り顔を上げたことを悔いるように即座に下を向く。
 下を向くと同時に霜焼けに赤く爛れた素足が目に入る。
 しみたれた雪が溶け残る路地にて大量の酒瓶の入った紙袋を胸に抱え持ったサーシャは、他にする事もないから仕方なく自分の親指の先を見詰め続ける。

 「………誰が陛下に手を上げたのです?」
 風に乗じ流れる不吉な声。

 戦慄に打たれて顔を上げたサーシャの視界を占めたのは、先刻までの優しく励ます笑みをかき消した無表情のアルセニー。
 「あの俗物の団長があなたの体に傷をつけたのですか?陛下の美しい顔に疵をつけたのですか?」
 「兄さん………」
 サーシャは絶句する。
 間近に迫り来るアルセニーの顔が孕む静かな憎悪、薄氷の目に閃く殺意の光がサーシャを怯えさせる。
 サーシャは紙袋を抱えあとじさる。
 アルセニーの目に燃え輝く憤怒の光に気圧され後退するサーシャの腕の中で圧迫された酒瓶がガチャガチャと騒音を奏でる。
 表の雑踏と隔絶された閑散とした路地に追い詰められたサーシャにアルセニーが靴音高く迫り来る。
 「おいたわしい陛下……」
 アルセニーの声は心地よく響く。
 サーシャの胸の中で恐怖心が氷解していく。

 アルセニーはサーシャに危害を加えない、絶対に。
 敬愛を込めサーシャを「陛下」と呼ぶアルセニーが、忠実な従者が手を上げるわけがないではないか。
 アルセニーはいつも敬意と博愛をもって接してくれる。
 だからこそサーシャは時折訪れるアルセニーにのみ心を開き全幅の信頼を寄せているのだ。

 裸足の足裏に石畳の冷たさが染みる。

 煉瓦の壁に寄りかかり不規則に乱れた呼吸を整えたサーシャは、傲慢な物言いとは裏腹に一途に縋るような目と声で切々と訴えかける。
 「アルセニー……こんな醜い顔の僕でも、皇帝を名乗る資格があるだろうか。この顔を拝した民は失望しないだろうか、僕を皇帝として認めてくれるだろうか」
 舌を動かすたび切れた唇に鋭い痛みが走る。
 口の中に広がる鉄錆びた血の味と一緒に胸に蟠る不安を吐き出す。
 不安げに顔を曇らすすサーシャの足元に外套の裾が汚れるのも臆さず跪拝したアルセニーは、恭しくその手をとり甲に接吻する。
 「何をおっしゃいます。あなたはその志からして立派な皇帝です。皇帝となるべく生まれついたものです」
 「だけど僕は……僕は……こんなみすぼらしい格好で、団長の命令で酒を買いに走らされて、ここに来る途中僕を見たひとがみんな顔を顰めて……酒場の丁稚だと勘違いして冷やかす人もいたんだ、わざと足をひっかけて転ばそうとした人もいたんだ、もし万が一転んで酒瓶を割ったりしたらあとでひどく団長にお仕置きされるのに裸に剥かれて鞭で打たれるのにねえアルセニーどうして僕は高貴な血を引く皇帝なのに皆は僕を敬わないのアルセニーみたいに優しくしてくれないの、僕のお母さんは皇女アナスタシアなのにどうして母さんはサーカスで僕を生み落としてすぐ死んでしまったの、ねえ、ねえ、教えてよアルセニー……」

 紙袋を抱える手が震える。
 やがて震えは全身に広がる。

 寒さかそれとも身の内で湧き起こる衝動か、痙攣の発作の如く全身を激しく慄かせながら血を吐くように絶叫する。
 高貴な生まれの自分が何故こんな理不尽な仕打ちをうけるのか理解できないと怨念の篭もった呪詛を。

 「答えよアルセニー!!
 沈痛に俯く従者に怒りが爆発する。

 サーシャは憤激しアルセニーに殴りかかる。
 腕から落下した紙袋が石畳に激突し酒瓶が砕ける。
 無残に割れ砕けた酒瓶はもはや一顧だにせず俊敏に地を蹴りアルセニーに飛び掛ったサーシャは、自分の足元に跪くアルセニーを押し倒し地に転がし猛然たる勢いで外套を毟りとりにかかる。
 非道な追い剥ぎのように荒々しく容赦なく、醜く腫れた右目を前髪に隠し残る左目を狂気に血走らせ、憎悪を剥き出した形相で外套に爪を立てる。
 石畳に倒れたアルセニーは自分に馬乗りになり外套を毟りとりにかかるサーシャを力づくで押しのけようとはせず、ただただ哀しげに激情に翻弄され滅裂な奇声を発する弟の狂乱を見守る。
 
 薄氷の瞳をぎらぎら光らせあでやかに頬を紅潮させた憤怒の形相は、何故だかひどく切なく美しくアルセニーの目に映る。

 「何故お前はたかが従者の分際でロシアで一番偉い私より良い格好をしている、温かそうな服を着ている!?僕は今お前がしているようなそんな毛皮の耳あての付いた帽子など貰ったことがないお前が羽織っている毛皮のコートなど客が着ているのを見たことしかない、ああお前が憎い憎いぞアルセニーなぜ従者のお前ばかりこんな贅沢を許されるぬくぬくと幸福に甘んじることを許される、僕と僕の母さんは一着だってこんなっ……」

 外套の胸ぐらを掴み揺さぶり、それでもアルセニーに手を上げる決心がつかず嗚咽を漏らし泣き崩れる。

 力なく肩を落とししゃくりあげるサーシャの頬を透明な涙が滴る。 
 残る左目から迸り出た涙が、綺羅の結晶のように儚く光りながらアルセニーの顔におちる。 

 表通りの喧騒の届かぬ路地裏に悲痛な嗚咽が響く。
 地を這うように低く低く流れる嗚咽が静寂を漣立てる中、衣擦れの音もささやかに上体を起こしたアルセニーが真摯に言う。 
 「泣かないでください、陛下」
 「………従者の分際で生意気だ」
 「ええ、生意気でした。謝罪します。どうかお許しを」
 体の芯が溶け崩れたように石畳にしゃがみこんだサーシャに恭しく手を差し伸べる。
 サーシャは怯えた上目遣いでアルセニーの表情を窺うも、救いの手を払いのけるには彼自身あまりに幼く、またあまりに傷付き疲れ果ててもいた。
 遠慮がちに手を伸ばす。
 アルセニーは包容力溢れる微笑を湛えサーシャの手をとる。 
 アルセニーの手を借りて起き上がったサーシャの足裏をひたひたと酒が濡らしていく。
 「酒瓶が割れてしまいましたね」
 足元から立ち上る強烈なアルコール臭にアルセニーは顔を顰める。
 アルセニーと手に手を重ねたサーシャは路地裏の惨状を見やりなげやりに吐き捨てる。
 「お前のせいだ。責任をとれ」
 「もとより新しく買いなおすつもりでした」
 「それだけか」
 決して平常心を乱さぬアルセニーの態度がサーシャの内面を波立たせる。
 押し倒され地に転ばされる屈辱を舐めてもなお冷静に落ち着き払ったアルセニーに対し残酷な衝動が湧き上がる。
 長年サーカスで団長に虐げられてきたサーシャは自分より立場の弱い人間に権力と暴力をふるう愉悦を本能的に悟り、絶対服従を誓う忠実な従者に対し己がもつ力を行使する誘惑に打ち克つことができなかった。 

 身の内で復讐の炎が燃え上がる。
 仄暗い歓喜に全身の血が逆流するのを感じながらサーシャは嬉々として足元を指さす。
 「命令だ。一滴残さず酒を舐めとれ」 

 石畳は一面酒が染みてどす黒く染まっていた。
 揮発するアルコール臭に耐えかね顔を背けたアルセニーはサーシャが下した命令にハッとする。
 アルセニーの表情の変化を堪能しつつ嗜虐的に口角を吊り上げさらに畳み掛ける。
 「どうした?お前が零したのだから掃除するのは当たり前だろう。さあ、その卑しい舌を存分に使い一滴残さず酒をなめとってみせろ。サバーカのように這い蹲り地に染みた酒を飲み干すのがお前には似合いだ。何をぐずぐずしている、僕に許しを得たいとはただの方便か?従者の分際で皇帝をたばかる気か?そんな不届き者はギロチンにかけ処刑しー……」
 得々とした前口上を遮りアルセニーがおもむろに片膝つく。
 先刻サーシャに跪拝とした時とまるで同じ格好で恭しく膝を折り、言われた通り舌を出し石畳に広がる酒溜まりを舐めようとして、自分が着ている外套を汚してはなるまいと判断しそれを脱ぎにかかる。   

 「脱ぐな」
 鋭く叱責する。

 外套から袖を抜こうとしてアルセニーが停止する。
 傍らに慄然と立ち竦んだサーシャが銀髪の奥の目に恐怖の色さえ浮かべアルセニーに凝視を注いでいる。
 何を恐れているのか……おそらく「四つん這いになり零した酒を舐めろ」という理不尽な要求に従い冷え冷えと凍て付いた石畳に跪いたアルセニーに圧倒されているのだろう。

 年の離れた弟に膝を折ることも辞さず、プライドを擲ってまでも使命をまっとうせんとする高潔な意志に。
 貶められても辱められてもなお失われず不滅の輝きを放つ人間の尊厳に。

 アルセニーの常軌を逸した行動に激しく動揺しつつも高すぎるプライドゆえ命令を撤回できず、体の脇で震えるこぶしを握り締め傲然と断言する。
 「だれが衣を脱げといった?サバーカを真似るなら毛皮を纏ったまま四つん這いになるのが正しい」 
 「………陛下の御心のままに」
 アルセニーはまるで逆らうことなく丁寧に会釈する。
 取り澄ましたその顔から真意は窺い知れない。
 信仰の試練にでも挑むような毅然たる表情で首肯するや一抹の未練と躊躇なく身を伏せ今度こそ完全に四つん這いになる。
 「…………」
 サーシャは息を呑む。
 幼いサーシャが固唾を呑んで見詰める中アルセニーはまさしく犬のように頭を垂れ舌を出し石畳に零れた酒を舐めとりはじめる。
 ぴちゃぴちゃと水が跳ねる音がなおさら行為の淫靡さを引き立てる。
 石畳に顔を埋めたアルセニーは器用に舌を使いじかに酒をなめとっていく。
 年の離れた弟の足元に這い蹲る行為にも何ら抵抗を見せず、石畳の溝を通った琥珀色の酒までも舌先を滑らし啜ってみせる。

 天の御使いの如く聖なる銀冠を頂いた青年が地に接吻し、酒でべとついた美しい顔を妖艶に喘がせ、溝に沿って流れる琥珀の液体に蠢く舌を這わせ吸い上げる。
 扇情的かつ倒錯的な光景にサーシャは眩暈を覚える。
 体の奥底で嗜虐心が燻り、まだ皮も剥けてない先端が熱をもって疼き始めたのを感じる。 

 団長に組み敷かれ尻を犯される時とは違う、自分が命令者となり相手を服従させ弄ぶあまりに毒性の強い快感にサーシャは陶然と酔い痴れる。
 「もっと上手く舌を使え。もっと下品に音をたてて啜ってみせろ。下賎な身のお前に美味なる酒をご馳走してやるのだから感謝をもって飲み干すがいい。皇帝の偉大さを言祝ぎ石畳に接吻しろ、美酒に酔って僕を褒め称えろ。それがお前に与えられた役目だ」
 「有り難き幸せ……我が身に余る光栄です……」
 酒の飛沫をはねちらかし奇妙に体を揺らしながら歩み寄り、地に広がった外套の裾めがけ容赦なく足を振り下ろす。
 扇状に広がった外套の裾を容赦なく踏みにじり酒びたしにする。
 外套にはもはや洗っても落ちぬまでに強烈なアルコール臭が染み渡り、ふさふさと豊かだった毛皮はしとどに濡れそぼり毛羽立ち始めている。
 変わり果てた外套を羽織り行為を継続するアルセニーに言い知れぬ優越感を覚え、淫蕩な熱に浮かされたサーシャは前髪の奥の目を爛々と狂的に輝かせる。

 裸足の指をぴちゃりと酒にひたす。
 琥珀色の液体をすくいあげるように足指に絡ませる。

 「悦べアルセニー、お前には過ぎた慈悲をくれてやる」
 いつだったか、これと同じことを団長にされた。
 あの時サーシャは屈辱のあまり涙を流した。
 団長の臭い足指をしゃぶりながら出自を偽り妄想に逃げても結局はサーカスで飼い殺しにされる己の運命を呪った。 

 アルセニーはどうだ?
 サーシャが受けたのと同じ辱めをうけてなお無私の忠誠を誓えるか、高慢な誇りを擲ち誠心誠意無私無欲に皇帝に尽くせるか?

 サーシャはアルセニーを嬲る行為に強烈な快感を覚え始めていた。
 地べたに這い蹲ったアルセニーの正面に回りこみ、命令に忠実に石畳に顔を伏せ不作法に音たて酒を啜るその鼻先に足指をつきつける。
 「僕の足に接吻しろ」
 霜焼けに酒が染みてじんじん痛み始めるもサーシャは努めて平静を装い虚勢を張り、重々しく威厳を帯びた口ぶりで言い渡す。
 もとより下戸なのか少量を啜っただけで早くも酒に酔い始めたアルセニーが、しどけなく縺れ絡まり雫を結ぶ前髪越しに熱っぽく潤んだ目でサーシャを見上げる。

 甘美に蕩けた表情が嗜虐心に火をつける。

 サーシャは名伏しがたい衝動に駆られるがままたっぷりと酒にひたした足指をアルセニーの唇に押し当てむりやり捻じ込みにかかる。
 「!んっ、ぐぅ………」
 「嬉しいだろ?僕の足に接吻できて嬉しいだろう?悦べアルセニーただの民草は皇帝の体に触れることもできないそれができるのは皇帝のそばに侍るのを許された特別な人間のみだ、さあ大人しく口をあけて僕の足をしゃぶるんだ酒の味がするこの指を一本ずつ丁寧にしゃぶってお前の陛下を満足させるんだ、アルセニーお前はサバーカだ僕の犬だなんでも言うことを聞く僕だけの犬だお前を永遠に手放してなるものか!!」
 僕のそばにいてくれるのは、お前だけだ。
 本当に伝えたい気持ちは胸の中で呟くにとどめ、琥珀色の酒に妖しく濡れ光る唇を上下に押し開きつま先をねじこむ。
 淫靡な光沢を放つ唇をむりやりこじ開け、熱く潤んだ口腔の粘膜を足先でかきまぜる。
 「っは、陛下……あぅぐ……んく……」
 「苦しそうだなアルセニー。許してほしいか」
 「どうかお許しを……愚かな家臣に慈悲をください……もう二度とあなたを哀しませるような真似はしないと誓います……」
 「何に誓うんだ?」
 足先で唾液を捏ねつつ意地悪く問うサーシャに、苦痛の皺を眉間に寄せたアルセニーが性急な息遣いのあいまに絶え絶えに呟く。
 「最愛の陛下に誓います」
 「よし」
 唾液の糸引き口腔から足指を抜く。
 漸く許しを得たアルセニーは不規則に肩を上下させ荒い息を吐く。
 毛皮の外套も服も髪も顔も全体が酒を吸ってしとどに濡れそぼっている。
 しどけなく縺れた濡れ髪を額に貼り付かせ、虚ろに呆けた顔をさらすアルセニーに再び劣情を催しサーシャは生唾を飲み込む。
 「約束だ。二度と僕を哀しませるな」
 「はい」
 「約束を破ったらギロチンで首をはねてやる」
 「陛下を哀しませるような真似は決してしません。約束します」
 唐突に冷たいものが頬に触れる。 
 つられて空を仰いだサーシャは、空から舞い降る大量の白い塊に一転子供じみた声を上げる。
 「雪だ」
 天使の和毛にも似た軽やかさで舞い降る雪を手のひらで受けるサーシャだが、子供らしい歓喜の表情が憂鬱に閉ざされるのに時間はかからない。
 サーカスがテントを張る広場までここからかなり距離がある。
 雪が降り寒さが増す中をみすぼらしい薄着と裸足で駆け抜けるのは気が重い。おまけに酒瓶もおとしてしまった。このまま帰ったらまた団長にどやされ鞭を食らうのは必至だ。
 悄然と項垂れたサーシャを不意に毛皮のぬくもりが包み込む。
 驚き顔を上げるサーシャの目に映ったのは、身を挺して自分を雪から庇う兄の姿だ。
 「兄さん……」
 噎せ返るようなアルコール臭が鼻腔を突く。
 アルセニーの胸に顔を埋めたサーシャは自分の身に起きた出来事が信じられないとばかり目を見張る。
 アルセニーはサーシャを抱擁する。愛しい弟の頭や肩に冷たい雪が積もらぬよう長身を利して覆い被さる。
 「兄さん……どうしてこんな……さっきのこと怒ってないの……」
 戸惑いを隠せぬたどたどしい問いにアルセニーは無言で帽子を脱ぐ。
 外気に晒され冷え切ったサーシャの耳をふさふさした毛皮が覆い隠す。
 ちくちくする毛皮の感触に増してサーシャを戸惑わせたのは、そうするのがさも当たり前といった具合に自分が被っていた帽子を脱ぎ、手ずから弟の頭部を包み込んでやったアルセニーの心中だ。
 薄氷の目を動揺に揺らし不思議そうにこちらを窺う弟にむかい、アルセニーは眩いばかりに慈愛に満ちて微笑む。
 「サーシャにあげるよ」
 穢れを払う後光の如く神聖な銀髪を冠し、一点の曇りなく磨きぬいた綺麗な薄氷の瞳に柔和な光を宿し、アルセニーはサーシャの頭に手を添え長時間外気に晒され冷え切った頬をたらすと顎先まで達する毛皮の耳あてで包んでやる。
 母親のような甲斐甲斐しい手つきでもって痺れ凍えた頬を慰撫すれば蒼白の頬に徐徐に血の色が戻り始める。
 毛皮の帽子に手をやりふさふさと滑らかな感触を楽しみながらサーシャは疑り深く問いかける。
 「いいの……?」
 「最初から君にあげるつもりで持ってきたんだ。新しい靴や服を持ってきても受け取ってもらえないならせめて帽子をって……余計なお世話かな」
 サーシャがアルセニーの施しを拒んだのは自分を皇帝と思いこむプライドの高さ故ともうひとつ、折角アルセニーに靴や服を貰っても団長に取り上げられてしまうからだ。

 けれども帽子なら上手く隠しておけば見つからないかもしれない。
 サーカスのテントをくぐる前に脱いで上着の中にでも突っ込んでおけば怪しまれる心配もない。

 「まさか兄さん、僕が兄さんからの贈り物を受け取らないわけを知ってたの?」

 アルセニーは答えに代えて優しく微笑む。
 その笑みがおのずとすべてを物語る。
 羞恥の感情が沸騰し、毛皮に包まれた耳と頬の血色が良くなっていくのが体温の変化でわかる。

 「行こうサーシャ、馬車で送ってあげるよ。途中で酒屋にも寄らないとね」
 サーシャの命令で地に這い石畳に零れた酒を啜ったアルセニーは、仕立ての良い外套を酒浸しにされた事など一切気にせず、己を辱めた当の本人に寛容に微笑みかける。
 柔和な光を湛えた薄氷の目に今にも泣きそうなサーシャの顔が映り込む。
 「……受け取れません」
 頬の横に垂れた耳あてを両手でぎゅっと握り、今にも消え入りそうに小さな声でサーシャは呟く。
 アルセニーの優しさが身に染みて深々顔を伏せる。
 自分が酷い仕打ちをしたあとでも変わらず優しくしてくれる兄に対し罪悪感と思慕とが複雑に入り混じった感情が込み上げる。
 頬の横に垂れた耳あてをぐっと絞り、毛皮の帽子を顔の半ばまで下げおろし表情を隠す。
 「僕は今さっき貴方に酷い事をしました。あなたをサバーカのように四つん這いにさせ石畳に零れた酒を舐めさせました、あなたの外套を足でめちゃくちゃに踏みにじり酒浸しにしました、あなたにこの霜焼けに爛れた汚い足をしゃぶらせました。……なのに貴方はこんな……僕には優しくしてもらう資格なんかないのに……」
 語尾は嗚咽に紛れて聞き取れなかった。
 帽子を目深に被りしゃくりあげる弟の肩に手を添え、アルセニーは清冽に澄んだ目でサーシャを見詰める。
 限りない慈愛と尊敬の念に満ち満ちた穏やかな眼差しを惜しみなくサーシャの上に注ぎ、アルセニーは言う。
 「どうぞお受け取りください陛下。家臣の真心込めた贈り物です。陛下はただ陛下であるというだけで優しくされるに足る資格があります……陛下に尽くすのは私の至上の喜びです。陛下の幸福こそが私の幸福なのですから」

 清浄な白が石畳を染めていく。
 この世の汚濁をあまねく覆い隠し浄化する純白の雪が兄弟を祝福するが如く降り積もる。

 雪の積もり始めた石畳に裸足で立ち尽くすサーシャを見かね、アルセニーはおもむろに毛皮の外套を脱ぐ。
 突然の行為に面食らったサーシャに外套を羽織らせ、世話を焼くのに慣れた手つきでしっかりと襟を掻き合わせる。
 「どうぞお堪えください、陛下。すみやかに馬車までお運び致します。陛下の足が冷たく凍て付いた石畳を踏むのは見るに耐え難いです」
 仄白い息を吐きながら雪の結晶で飾られた外套にサーシャを包み込み、両腕に軽々と抱き上げる。
 帽子を目深に下ろしたサーシャは黙って兄の腕に身を委ねていたが、暖をもとめるように酒臭い毛皮に包まれた体をアルセニーにすりよせ、寒さにかじかむ指で服の胸に縋り付く。
 「………おとしたら承知しないぞ」
 精一杯虚勢を張り、皇帝の威厳を回復せんと努める押し殺した声。
 変声期前の子供の命令はともすれば微笑みを誘うものだが、アルセニーは馬鹿にする素振りなどかけらも見せず、至極誠実にこれに応じる。
 「心得ております」
 首肯とともに力強く請け負い、壊れ物を扱う丁重さで毛皮で包んだサーシャを抱え路地を出る。
 帽子の耳あてを落ち着きなく引っ張り、サーシャは不服げに口を尖らす。
 「……この帽子はちくちくして嫌いだ」
 空から舞い降る雪が石畳を覆っていく。
 悠然たる足取りで馬車へと向かうアルセニーの胸の中で大いなる安らぎを感じ目を閉じる。
 規則正しい靴音を子守唄にまどろみつつサーシャはそっと呟いた。
 「………だが、とても暖かい」
 
 あるいはそれは、アルセニー自身のぬくもりかもしれない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010609003756 | 編集

腰がだるい。
首がだるい。
間接が軋む。軋んで疼く。体がばらばらになりそうだ。
いっそばらばらになってしまえばいい、俺なんか粉々になってしまえばいい。
頭が重い。脳裏に乳白色の靄がかかって現実感が希薄になる。
微妙な角度に持ち上げっぱなしの首がひどく凝る。
根元から先っぽまで張り詰めた舌が痺れて感覚がなくなる。
寝違えた時のようにしこりを感じる首の角度を調整しいちばんいい所に持ってくる。
顎が痛い。弛緩した口から零れた唾液と精液の混合物が顎を伝い薄い胸板に滴り落ちる。

何してるんだ、おれ。

脳裏に泡沫のように結んで弾ける疑問。
思考力と判断力が低下し頭が上手く回らない。
寝るかヤるかしかない怠惰な日々に溺れるうちに時間の感覚が曖昧になり道了の房に引っ込んでから何日経つか今ではよくわからない。
三日?五日?一週間?それとも……
体感時間では一ヶ月に等しい。否、一年にも匹敵する。惰性で行う呼吸すら拷問。
体内時計が壊れて時間の感覚が狂いだす。
朝起きて顔を洗い廊下に整列し点呼を取り食堂に行き飯を食う、バスに乗り砂漠で吐き出され炎天下で汗水流し穴掘りにいそしむ。
東京プリズンに来てからこっち延々続いた単調な毎日の習慣は闖入者の手で完膚なく破壊されちまった。

道了。
朦朧とした頭に唐突にその名が閃く。
名前は漠然とイメージを伴い、脳裏に浮かんだその顔が次第に鮮明さを増していく。

道了。
元月天心のリーダー。
行く場のない俺を月天心に招きいれた男。
俺の人生を狂わせた男。
今また東京プリズンに俺を捕まえに来た男。

道了は俺を憎んでいる。
殺しても足りないほど憎んでいる。 
戦慄の認識が遅効性の猛毒のようにじわじわ浸透してくる。

道了は俺を憎んでいる。
だから俺を捕まえにきた。だから俺に酷い事をする。
筋は通ってる。

……通ってるか?まさか、冗談じゃねえ。
お袋と梅花を殺した不条理に筋が通るもんか。

とっくに麻痺したはずの心のどこかでもう一人の俺が反駁する、お袋と梅花を嬲り殺したことだけはどんなに言葉で飾っても正当化できないと俺の中の真っ当な部分が意固地に訴える。
俺の中にはまだ一握りの理性が居残っている。
コイツは存外しぶとくて、道了がどれだけ俺を貫き揺さぶろうが押し流される事なく瀬戸際で踏ん張っている。

裸電球の消えた房を背徳的な暗がりが包む。
鉄扉の向こうには俺の脱走を防ぐため道了の息がかかった囚人が見張りに立っている。
俺と道了が昼っぱらから何をしてるかそいつには当然わかってる、音も声もちゃんと聞こえてる。
分厚いコンクリ壁とご立派な鉄扉も何の役にも立たない、鉄扉の上部には格子窓が穿たれて情事が筒抜けだ。
性急な衣擦れの音も道了が分泌したものを啜る音もはしたない嬌声も俺の腹と道了の腹がぶつかる乾いた音も全部丸聞こえだ。

けれども俺は何も感じない、もう何も感じない。
羞恥心なんか残らず磨り減っちまった。
そんなもん後生大事に温めてて何になる?かえって辛くなるだけ、立場がまずくなるだけだ。
今の俺は六歳のガキだ。
六歳のガキは羞恥心なんて上等なもん持ちゃしない。
俺は完璧に六歳児を演じきり道了を騙しぬく必要があった、その為ならなんだって惜しまずかなぐり捨てた。
外で聞き耳立ててる奴は気にするな、格子窓から盗み見してる奴は気にするなと懸命に自分に言い聞かせ快楽を最優先し行為に耽るふりをした。

時々執拗な視線を感じることがあった。
俺のうなじに注がれる熱い視線、物狂おしい火照りを孕んだ視線がちりちりと産毛を燻らせ肌焦がしうなじ沿いに滑り落ちていくのを感じる。
角度を変え纏わり付く粘着質な視線。
視線に晒された肌が毒虫の這ったあとのようにひりつく。
格子窓の外から注がれる視線は一向に逸れず俺が道了の下になろうが上になろうが執拗に追いかけて一番見られたくないと思ってる場所を容赦なく暴き立てる。
体位を変えるついでにちらりと見やれば、格子窓の外の見張りが生唾呑んで俺と道了の交わりを凝視していた。
その手が股間に伸びていることは肩の不自然な上下運動でありあり想像できる。

「んっ……」

目の端で格子窓に食いつくニキビ面を写し取ったのも束の間、喉の奥で異物感が膨らむ。
口一杯に頬張ったペニスが一回り膨張する。

絶頂が近い。

俺は口の中で大きさを増したペニスに夢中で舌を這わせる。
苦しくて苦しくて涙が出そうだ。
道了の股間に顔を突っ込んでペニスにむしゃぶりつく俺の姿がどれほどみっともないかそんなことはちゃんとわかってる、今の俺がどんなに恥ずかしいかっこをしてるかも。
股間に顔を突っ込んだ俺の膝を道了が乱暴に押し開く。
ベッドに仰向けた道了に逆さまに被さる形で俺はフェラに励んでいる。
俺は道了の目の前にケツの穴を晒し、発情期の雌犬じみた格好で道了の腹の上に這い蹲り、口ん中でますます固くなるペニスを舌をくねらせ舐めまわしてるところだ。
喉突くペニスに吐き気が込み上げる。
ぎゅっと目を閉じ吐き気を堪えペニスをしゃぶる。
道了がじっと俺のケツの穴を見ている。
ケツの穴に寄った皺一本一本を観察する眼差しに肌が粟立ち背筋に嫌悪感が這いのぼる。

「!ひぅぐあっ、」

熱く柔らかいものがケツの穴に潜り込む。
熱い襞が淫猥に蠢きながらケツのまわりの皺を伸ばしにかかり、舌の先っぽがケツの穴に潜り込む。

「続けろ」

道了が冷徹に命じる。
俺の位置からは声だけが聞こえる、それだけが救いだ。
恥辱に耐えて奉仕を再開する。
俺の顎が動くのに合わせ道了の舌が複雑に蠢く。
熱く柔らかい舌が抜き差しされるたび背筋にぞくりと快感が走り体の力が抜ける。

「はあっ、あっ、熱………ベロ、ケツに入れないで……」

掠れた息遣いの狭間からやっとのこと哀願の声を搾り出す。 
舌ったらずの懇願……反吐が出る。
自分が出した甘ったるい声に胸糞悪くなった俺をよそにとことん性悪な道了は俺の願いを蹴りねちねちとケツの穴を舌でほじくる。
道了の指で一杯に押し広げられたケツの穴に卑猥に蠢きながら舌がもぐりこみ内壁を擦る。
そのもどかしい刺激が快感となり俺の肌を過敏にする。
くちゃくちゃといやらしい音がする。
道了が俺のケツを舐める。
クソひりだすところを平気で舐める神経を疑う。
腹の中で罵声を吐いたところで、「じゃあ顔じゅう涎だらけにして野郎のペニスしゃぶってるお前は何なんだ?」と自分の現在に立ち返り打ちのめされる。
唾液にぬれた舌がくちゃくちゃと粘着質な音響かせケツの穴をほじくる。
熱くぬれた襞がケツの穴の内側に伸び縮みして潜り込み内壁をこそぎおとす。
指やペニスとは違うねちっこい質感が執拗に苛む。

「ひあっ、やめ、ふあっ………」

本気なのか演技なのかふやけた頭じゃ判断付かない。
腰がくたりと萎れ汗でぬめる腹が道了と密着する。
二人分の体液が交じり合いくちゃくちゃと糸引き音をたてる。
とうとう堪えきれず片手にペニスを持ったまま深々項垂れる。
ケツの穴を責められながらフェラチオを続けるのは難儀だ。
片手に持ったペニスがどくんどくんと脈打つ。
赤黒く皮が剥けたそれは贔屓目にも立派な形をしててらてらと濡れ光っている。
道了の舌が律動的に出し入れされる。
俺の一番いい箇所をもどかしく刺激する舌遣いに浅ましく腰が跳ねるのを制御できない。
熱く長い舌が俺の一番敏感な場所を擦って奥に達するたび、腰椎から背中にかけて痺れるような快感が駆け抜ける。
背骨に直接電極を繋がれたような刺激がびくんびくんと不規則に脳天まで突き抜けて今すぐイっちまいそうだ。

俺にはお袋譲りの淫売の血が流れている。
俺の体は誰でもお構いなしに受け入れるように出来ている。
道了の舌で感じちまうのが証拠だ、道了にしごかれてイっちまったのが証拠だ、レイジ以外の奴でもいいと証明されたも同然だ。

レイジ。
その名が胸を抉る。

レイジ。
俺の相棒。
大事な奴。
俺が唯一抱かせた男、俺が唯一抱かれた男……

そうなるはずだった。そうしたかった。
けれども俺は今ここにいる、レイジと離れてここにいる。
レイジを手酷く裏切り辛い思いをさせてケツの穴ほじられて気持ちよすぎて喘いでいる。

ケツの穴に忍び込んだ舌が波打つ。
ペニスとは違う柔軟な舌がケツの穴をべちゃべちゃぬらす。
俺の中で舌が蠢くたび俺はレイジを思い出し罪悪感に苛まれ一方で滅茶苦茶気持ちよくて何度も意識が飛びかけて、窄めた舌が熱く潤んだ粘膜をぐちゃぐちゃにかき混ぜるたび腰が跳ね上がるのをおさえきれない。

「ひあ、あっ、あっあ……熱、腹ン中ぐちゃぐちゃする……後ろが変だっ……舌が中をくすぐって…前にどんどん波が来て……前が、なんだか固くなって……もっとぐちゃぐちゃやってぇ……」

これは芝居なのか?
演技なのか?

朦朧とした頭で漠然と考える。

俺は今なにをしている?
お袋と梅花を殺した男にケツの穴舐められて腰振ってやがる、悦びの涙を流してよがり狂ってやがる。

くそったれ。本当にくそったれ。
俺なんか死んだほうがマシだ。
この世で一番殺したい男に犯されて悦んで腰振ってるクズはどこの誰だ、てめえのお袋と初恋の女を嬲り殺した外道に犯られて売女みたいな声上げてやがんのはどこの誰だ?
そりゃ決まってるこの俺だこの龍だド淫売の息子だ!

どす黒い哄笑の波動が腹の底で渦を巻く。
憎しみと怒りを吸ってブラックホールの如く膨れ上がった狂気の哄笑が喉元にまで押し上げてきて危うく窒息しそうになる。

窒息……そうだ窒息だ。

俺の口ん中は道了のペニスでいっぱいでこの上栓をされたら息が詰まって死んじまう、内からも外からも栓されて死んじまう、息の逃げ道がなくなってひゅうひゅう笛みたいな音たてながら死んじまう。
壊れて音が出ない笛のようにひゅうひゅう、ひゅうひゅう……

頭がぼんやりする。 
体がぐんにゃりする。
血管中に溶けた鉛を流し込まれたような倦怠感と虚脱感がつきまとう。

勝手に腰が跳ねる。
勝手に跳ねて自分から悦んで指を迎え入れる。

俺のケツはきつく窄まりぎっちり指を咥え込み放そうとしない、道了に仕込まれた倒錯的な快楽は強烈な毒をもって俺の体中にまわり今や完全に俺の理性を剥ぎ取っちまった。俺から理性を剥ぎ取るのは売女を裸にするよか簡単だった。

道了は何度も俺を抱いた。
何度も、何度も……思い出せないほどに。思い出したくないほどに。
レイジにしか許したことねえ体を『愛してるぜロン』男に抱かれるなんざ冗談じゃねえと意地にかけて拒み続けた体を『耳たぶの裏っかわ敏感だな』レイジ以外の誰にもやらないと誓った体を『ずっと俺だけのロンでいろよ』……

「んっ……はあ……たおりゃあ……」

震える舌でフェラチオを再開。
喉の奥で異物感と罪悪感が膨らむ。
猛烈な吐き気がこみ上げる。
肉棒の表裏に丁寧に舌を這わせ唾液を刷り込む。

俺は今道了の上に乗っかってフェラチオをしてる。
道了の上にさかさまにのっかって股間に顔をうずめて俺の股間はちょうど道了の顔の真上に来てあいつの位置からは俺のケツの穴の奥まった皺一本一本にいたるまで丸見えで、今の俺を天井から見下ろしたら大層笑えるだろうなと自嘲する。

くちゃくちゃと卑猥な音が沸き立つ。
熱い舌が穴をいじくる。

道了は近いうちに俺がへばるのを予期しながら意地悪くも舌で邪魔する、一方俺はむきになって道了のもんに絡めた舌を動かすが体力がもう限界で顎を持ち上げるのが困難で遂にがくんとうなだれる。

「どうしたロン。始末が済んでないぞ」

わかってる、出すまでは終わらないのだ。
道了が出したもんを綺麗に始末するまでは。道了が出したもんを綺麗に舐めとるのが飼い猫の役目だ。

「も、無理………ケツ、が……熱くて、変になっちゃう……たおりゃあ、お願いだから、いじわるしないで……」

ケツをいじくられながらフェラ続けるなんて無理だ、気が狂っちまう。
涙声で懇願する。ねだるようにケツを振る。
吐き気がする。
俺なんか死んじまえ、こんな淫売は呪われろ。
こんなくそったれの淫売生かしておく価値がねえすぐ殺せ今殺せそうするべきだ絶対に、誰でもいい俺を殺してくれこの首掻き切ってくれ二度とみじめな声あげねえようにはしたねえ喘ぎ声もらさねえように舌切り取って喉潰してくれ頼むから頼むから…… 

一生のお願いだ、殺してくれ。

視界が朧に霞む。
鼻腔と喉に酸味を感じる。
生温かくぬれた感触が頬を伝って初めて泣いてることに気付く。

殺してくれ、殺してくれ。

脳裏で呪詛が氾濫する。
お袋の顔梅花の顔今はもういない懐かしい女たちの顔が瞼裏を巡り、なおいっそう鮮やかに藁色の髪と硝子の目をもつ男が太陽みたいな笑顔が冷たく暗い心の奥にまで射し込んでくる。

瞼の裏にレイジの笑顔が咲き乱れる。
鮮烈に、清冽に。
光輪のように眩しく、
今にも消えそうに儚く、
紙一重の強さと脆さを併せ持った笑顔。
 
思い出したくなんかねえのに、
忘れちまいたいのに、
勝手に浮かび上がってくる。

道了に抱かれながらレイジを思い出すのは最大の裏切りだ道了の舌遣い指遣いをレイジと比べるのは最大の裏切りだ、何度そうやって自分を戒めても駄目だった、無駄だった。
俺の体は勝手に道了とレイジを比べてどっちがいいか判断しようとする、ペニスをしゃぶるのはどっちが上手いか乳首を転がすのはどっちが上手いかどっちがより俺のいい所を知ってるかを秤にかけて炙り出そうとする。
お袋譲りの淫売の血が憎い。

「どうしてほしいんだ、ロン」

道了が冷静に促す。
俺の位置からじゃ見えないが声の調子からすると腸煮えくり返るほどに取り澄ました面してやがるんだろう。 
平板な問いが恥辱を煽る。
答えに詰まり、代わりに行動で示す。
交尾をねだる雌犬のように尻を掲げ手を回し自分からすすんで肛門を押し広げる。
くちゃり、と音がする。
ねちっこい感触とともに肛門が広がり外気が忍び込む。

「道了の、頂戴………」

八割の期待と二割の媚態を含んだ声を出す。 
今の格好をレイジが見たらどう言うだろうという自虐的な考えが脳裏を掠めるもすぐに追い払う。
道了はしばらく無言で俺が晒した肛門を見詰めていたが、スプリングが軋む音と同時に上体を起こすのがわかる。

「!?ひっ、」

視界が反転する。
道了がおもむろに俺を裏返し体勢を入れ替えて今度は自分が上になる。
瞬時に上下逆転した道了の顔が目の前に来る。

「淫売が。香華そっくりだな」

道了の片頬が皮肉げに歪む。おそらく笑ったのだろう。
お袋の名前を出され心が凍る。
道了に犯され殺されたお袋、その光景が悪夢の如く脳裏で膨らむ。
服を引き裂かれ下着を剥ぎ取られ裸に剥かれろくに慣らしもせず無理やり突っ込まれ痛くてよがってだんだんよくなって……

同じだ、今の俺とおんなじだ。
道了の言うとおり今の俺は死ぬ間際のお袋そっくりだ、ならじきに俺も死ぬんだろう、お袋のあとを追うんだろう。

「お前はケツの穴を嬲られるのが好きなんだ。そうだろう」
嗜虐の愉悦に酔った声で追い討ちをかける道了に俺はなにもわからずただご褒美にありつきたい一心で狂ったように頷いてみせる。
「好き、すげえ好き……道了の舌熱くてどろどろしてすっげえ気持ちいい。もっと、もっとほしい。もっと気持ちよくなりたい。道了の欲しい」
「股を開け」

言われた通りにする。
来たるべき衝撃に備えシーツを握り締め大きく股を開く。
道了が俺にのしかかる。
道了のもんはもう限界だ。
俺がフェラチオを中断したせいで精の捌け口がなくてびんびんに張り詰めてる。
あれがこれから中に入ってくるところを想像しぐっと喉が詰まる。
挿入に伴う衝撃と激痛は何度も体験したことがあるだけにありありと反芻でき、けれど行為を重ねたところでちっとも薄まることがなく本能的な恐怖を煽り立てる。

「…………っ…………!」

奥歯を食いしばる。
きつく目を閉じる。
固くそそりたった肉棒が俺の尻を貫き内臓を焼き奥に達するところを想像する。

串刺しにされた俺はシーツの海で芋虫の如くのたうって泣き叫び道了に許しを請う、これまで何度も嫌というほど繰り返してきたように許してくれ抜いてくれやめてくれと盛大に駄々こねるのだ。
道了の息遣いをすぐそばに感じる。
金と銀の目が酷薄な輝きを増し、俺の顔が恐怖と苦痛に歪むのを至近距離で堪能しているのが視線の粘度でわかる。
肛門に熱く脈打つペニスの先端があてがわれる。
準備万端俺にのしかかった道了が冷ややかに囁く。

「喘げ」

稲妻のような激痛が下肢をふたつに引き裂く。

「ひぎい、あ、痛あぁあああああああああああああっああ!?」

道了が体重をかけ一気に押し入ってくる。一切の容赦も加減もない動き。俺は一瞬演技も何もかも忘れ純粋に激痛に我を忘れ絶叫し無意識に道了の背に腕を回ししがみ付く、道了の背にぎりぎりと爪をめり込ませ皮膚を抉りなまぬるい血が流れ出すのを感じる、その温度で漸く一握りの理性を取り戻し罪悪感が蘇る。

レイジ。レイジ。レイジ。

粉々にされそうな激痛に抗いレイジの名を呼び顔を思い浮かべる、レイジが俺の中に初めて入ってきた時のことを生々しく回想する。
あの時も痛かったけど今度はもっと痛い体も心もあんまり痛くて痛くて壊れちまいそうだ、あの時も体は痛かったけど心は平気だった、心は満ち足りていた、幸福で息もできないくらいだった。ペア100人抜きを達成してぼろぼろに傷付き疲れ果てたレイジをこんなちっぽけな俺が癒してやれる事にすごく救われて相棒として誇りを持てた、誇らしかった。
レイジは俺の体を気遣いながら少しだけ遠慮がちにでも時たま気持ちよさに我を忘れて中に押し入ってきた、俺は快楽と激痛に押し流されて滅茶苦茶に暴れまわって背中の火傷に爪を立てたけれどあいつはすげえ痛いのを堪えてずっと抱きしめてくれた、一瞬たりとも俺を放さないでいてくれた、安心させてくれた。

レイジ、
レイジ、
レイジ、
ごめん。

許さないでくれ。
お前に許されたら、お前のところに帰れない。
お前に許されたら、俺は俺が許せない。
頼むからこんな俺を許さないでくれ。
俺が許せない俺を許さないでくれ。
お前に許されたら、どうしていいかわからない。
俺なんか消えてなくなったほうがマシだ。
お前を裏切って傷付けて死にたい思いさせた人間の屑なんか跡形残らず消えちまったほうがマシだ。
お袋のように、
梅花のように。

「あっ、あっ、ひあ……痛あ、あふ、熱っ……たおりゃ、固い、固いよ……ごりごり擦ってるよ……変、だよ………」

熱に浮かされた声が、まるで俺の声じゃないように聞こえる。
赤の他人が喋るってるように現実感が乏しい。

ペニスが根元まで俺の中に埋まる。

固い肉棒がどくどく脈打つたびその熱がこっちに伝わってきて繋がった部位がどろどろに溶けて境目がわからなくなる。
俺はガキみたいに舌足らずな呂律で意味のない譫言を口走る、高熱に浮かされたみたいに見境なく景色がぼやけて目に映るものすべて輪郭が曖昧でただ口だけが勝手に動く。

この数日間ずっと芝居をしてきた。
ずっと、ずっと。寝ても覚めてもずっと。

道了をだますため俺は完全に六つかそこらのガキに戻ったふりをし舌足らずでたどたどしい喋り方を心がけ、こうしてる今もその刷り込みは健在でどこまでも復讐心に忠実に義務感にのっとり演技を続行している。
我ながらあっぱれだ。
あっぱれだよ畜生。
俺にハッタリの才能を授けてくれた顔も知らねえ親父に感謝と呪詛を。
顔さえ知ってりゃ唾吐いてやるのに。

「はっ、たおりゃ、はっ……」

抱かれてるのに、なんで俺は独りなんだ?
なんでレイジがいないんだ?
ちっともぬくもりを感じないんだ?

道了の肌から伝わってくる熱と鼓動は俺が欲してるぬくもりじゃない、欲情に火照る肌も野蛮に高鳴る鼓動もただ肌の表面に感じるだけで俺の奥深く一番欲しいところに届きゃしない、心の表面に漣ひとつ起こしゃしない。

肌を重ねるほどに幻滅が深まり虚無に染まるなら自殺と同じ。

肉棒が深く深く穿たれる。
絶叫を上げる代わりに深く深く道了の背中に爪を抉りこませる。
これはレイジの背中じゃない、と頭の片隅で誰かが囁く。
あいつの背中とは筋肉の付き方が違う、広さが違う、抱き心地が違う。

褐色の背中が恋しい。
あいつの背中じゃなきゃ意味がねえ。 

「んっ、道了、たおりゃ、や、あっ、ひあっ、あっ、ひあぁあああああああああああっ!?」

道了の動きが突然激しさを増す。
激しく突き上げる動きに翻弄され悲鳴を上げる。
更に固さと体積を増したペニスが容赦なく内臓を押し上げ奥深くを穿ち、ごりごり内側を削られる痛みがいつしか強烈な快感にとってかわり俺は左右に首を打ち振り上下に腰を打ち振り狂乱を呈する。
ずくんずくんペニスが脈打つたびその鈍く重たい動きで腰全体が漣立ち腰椎から脳天にかけて一本の矢の如く快感の電撃が貫く。

「気に入ったか、ロン」

揶揄を交えた嘲弄が耳朶をくすぐる。
うっすらと目を開ける。
汗と涙で霞んだ視界の向こうにぼんやり像を結ぶ道了の顔……冷ややかな笑み。

「お前はもう俺の物だ。俺の隣にしか居場所がない。レイジを裏切り俺に付いてきたお前が今更別の場所に行けると思うな、許されると思うな。お前はこの先一生俺のものだ。喘いで乱れてただ俺を楽しませるためだけに生かされる運命の抱き人形だ。壊れたら捨てるがそれまでは……」

金と銀の目に複雑な感情が映る。
その一瞬、道了が苦悩の表情を見せたのは気のせいだろうか。
葛藤に苦しむ人間のような哀切な表情を覗かせたのは、目の錯覚だろうか。
ケツに突っ込まれたペニスが膨らむ。

もう限界だ。

どろりと濁った熱に溺れて思考が拡散し頭が真っ白になる、溺れては浮上し溺れては浮上しを繰り返すうちに遂に浮上できなくなりドロドロ煮立ったマグマの中に首までどっぷり沈んでもがき苦しむはめになる。
酸素を欲し限界まで口を開けても串刺しにされ息ができず、腹の底で塞き止められたマグマの奔流が激しく波打ち喉元まで波濤が寄せる。
道了が深く腰を打ち込むたび限界まで膨れ上がったペニスが前立腺を刺激し怒涛の如く快感が流れ込み、恥も外聞もかなぐり捨て赤ん坊のように泣き喚く俺の前髪を掴んでむりやり顔を上げさせた道了が傲然と言い放つ。

「せいぜい可愛がってやる。半々め」

それを最後に意識が爆ぜた。
道了も同時だった。
俺の体内に白濁をぶちまけてから道了がペニスを抜く。
俺は絶頂の余韻に浸りすぐには回復できず死んだように寝転がっていた。
ケツの穴から溢れた白濁が太股を伝いシーツを汚す。
道了はベッドに弛緩した四肢を投げ出した俺をよそに手早くズボンを身に付けると、もう俺には一抹の興味もないといった無関心ぶりでさっとベッドを離れ扉に向かう。
ガチャリと鉄扉が開き廊下の光がさしこむ。

「-っ……」

あまりのまばゆさに目が眩む。
房の暗さに慣れた目に廊下の蛍光灯は強烈すぎる。
「看守に金を渡してくる。俺が戻るまで見張っていろ」
逆光に塗り潰された道了の背中に目を凝らす。
道了が扉を開けて誰かと話している。
誰か?
決まってる、ひとりしかいない。俺と道了がヤってるとこ見ながらヌいてた見張りだ。
名前は孝賢、以前から俺を目の敵にしてたヤな奴だ。

「は、はい!ばっちり見張ってますからどうか安心して行ってきてください道了さん、万一逃げようとしたら腕の一本二本折ってこらしめてやります!」

慌てて引き抜いた手をズボンに擦り付けた孝賢が媚び諂いの笑みで請け負えば、道了の拳が無言で上がる。

「へ?」

間抜け面に影がおちる。
顔面に拳が炸裂、孝賢がそのまま後方に吹っ飛び壁に激突する。

「勝手なことをするな。ロンは俺の物だ。ロンに傷を付けたら殺す」

壁と天井に振動が走り蛍光灯が明滅する。
壁に激突した衝撃で激しく咳き込む孝賢、顔面を覆った手の間から大量の鼻血が零れる。

「格子越しに濡れ場を見るだけで過ぎた役得だろう」 

悲惨な面相で壁際に座り込む孝賢にあっさり背中を向け、硬質な靴音を響かせ廊下を去っていく。
俺はベッドに寝転がったまま身じろぎせず靴音が遠ざかり完全に聞こえなくなるのを待っていた。
靴音が消滅し道了が完全に立ち去ったのを確認す後、ベッドに手を付きのろのろと上体を起こす。
体が重い。だるい。全身の間接が軋んで疼く。
手を付いたシーツに精液と汗と血の染みが点々と散っている。
自分が全裸なことに気付き床を手探り、ズボンだけ拾い上げ履く。
ズボンに足を通す時に痛みを感じ顔をしかめる。
何とか下半身だけを覆い裸足で床に立ち、なかば壁に凭れ掛かるように足を引きずり、格子窓から射し込むわずかな光を頼りに鉄扉に近付く。
痛い。
尻がずきずきする。
足を繰り出すごとに下肢が引き裂かれる。
鉄扉までの僅かな距離が百メートルにも感じられる。
一歩ごとに処女喪失の激痛を味わっているようだ。
傷口から滴り降りた血が内腿を伝うのがぬれた感触で察せられる。
光を手繰り寄せるように一歩ずつ慎重に進む。
格子窓から射し込む幻のような光を頼りに、激痛が走る下肢を意志の力で駆り立て一歩ずつ着実に鉄扉に迫っていく。

「なあ」

鉄扉の手前で立ち止まり、声をかける。
俺の声に反応し、漸く起き上がった孝賢が不機嫌の絶頂といった唸り声をたてる。

「なんだよ半々。何か用か」

威嚇の意を込めた半眼で第一声を放つ孝賢に、害意などさらさらないといった具合にせいぜいあどけなく微笑みかけてやる。

「こっち来てよ。お願いがあるんだ」

不審な色を浮かべながらも孝賢がこっちにやってくる。
孝賢がぎりぎりまで近付くのを待ってから深呼吸し口を開く。  

「欲しい物があるんだ」
「欲しい物お?なんだそりゃ」

孝賢が手を伸ばせば届く距離にくる。
格子窓に顔を寄せた孝賢を遠慮がちな上目遣いで見上げ、たどたどしくお願いする。

「ロープ。できるだけ丈夫なやつ。手に入る?」
「んなもん何に使うんだよ」

俺の「お願い」がよっぽど予想外だったらしく孝賢が素っ頓狂な声を上げる。
格子窓に顔をくっつけ素早く周囲を窺う。
幸い廊下には孝賢以外だれもいない。チャンスだ。
緊張に汗ばむ手で窓の鉄格子を握りこみ、吐息のかかる至近距離に顔を近付け、じっと孝賢の目を覗き込む。

「わかんないけど道了が欲しいんだって。今度おれと遊ぶのに使うらしいよ」

「道了」の名の効果は絶大だった。
俺の言葉から勝手に想像を膨らませた孝賢が「ははっ、假面も物好きだぜ」と鼻血の跡も生々しい顔を歪めて嗤い、格子窓に手を突っ込んで俺の髪をぐしゃぐしゃかきまわす。
その目を底知れぬ優越感と一抹の憐れみが過ぎったのを見逃さない。
減らず口ばかり叩く生意気な半々に腹を立てていた孝賢は、すっかり子供返りして道了の玩具として遇される俺を痛快に思っているのだろう。
その反面何もわからず道了に犯され泣き叫ぶ俺に侮蔑に似た憐れみと嗜虐欲をそそる痛々しさを感じ、下心をこめた妙になれなれしい手つきで髪をいじくる。

「わかったよ、持ってきてやる。楽しみにしてろよ」

最前で必死こいてペニスをしごいてたイカ臭い汚い手が髪をぐしゃぐしゃにし次いで頬をべたべたさわり、その手を振り払いたい衝動をぐっと堪え、道了がいないのをいいことにますます悪乗りにした孝賢が俺の口の指に手をひっかけゴムみたいに引き伸ばす。

「すっかりお利口な玩具に成り下がっちまったな。レイジが泣いてるぜ、半々」

孝賢に頬を引っ張られながらなんて答えるべきかを考えていた。
血の染みが付いたズボンを外気に晒しながらなんて答えたら上手くこの場を切り抜けられるか、なんて答えたら怪しまれずにすむかをぼんやり考えていた。

そして、口を開く。

鉄格子の冷たさが手のひらに伝わり、やがてその無機質な冷たさが俺の体の芯まで凍て付かせるのを願いながら。
せめてを言い終えるまで、舌の根は凍らないでほしいと祈りながら。
ふざけて俺の頬を引っ張る孝賢をひたと見詰め、せいぜいたどたどしく言ってやる。

「だへ?そひぇ」
誰、それ? 

俺はもしかしたら、壊れ始めてるのかもしれない。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010608230733 | 編集

 「いざ参らん」
 あたり一面に乳白色の濃い霧が漂う。
 まだ日もささぬ朝ぼらけの中、コンクリで固めた展望台の上に人影が佇む。 
 凛と背筋を伸ばしたその姿勢は竹を連想させる。
 垂れ込めた霧がゆっくりとうごめき白い帳が捲れる。

 男は垢染みた囚人服を纏っていた。

 日本人の典型たる扁平な顔だち。
 切れの長い一重瞼の奥、研磨した眼光が冴える。

 痩せて引き締まった頬。
 頑固な気性を映じ一文字に引き結ぶ口元。
 赤く爛れた火傷の痕が残る首筋。
 ざっくり切った短髪がよく似合う精悍な顔だちは美形と評せぬまでも端正な造作をしている。

 鞭のように引き締まった痩身の男は、しっとりぬれた霧の中に悠然と身を置き五感を鋭敏に研ぎ澄ませ周囲の気をさぐる。

 あたりに人気はない。
 日の出までまだ間がある。

 いまだ夜も明けきらぬ藍色の闇の中、地から湧き立つ如くあたりに充満する霧に身をひたし、展望台の中央に孤高に佇む男は油断なく四囲に視線を馳せる。
 敵を幻視した顔が気迫に満ちて引き締まる。
 極限まで引き絞った弦の如く四肢の先々まで殺気が漲る。
 細めた双眸に闘志がくすぶる。
 一文字に引き結んだ口元が信念を表する。
 舞いに似た動作で優雅に木刀を構える。
 男の手の中にあるそれはなるほどただの木刀、何の変哲もない量産品の木刀に違いない。
 実用一点張りの何の装飾もない無銘の刀だが、しかしひとたび彼が握ると手垢の染みたその木刀はどんな名刀にもまさる風格を帯び歴戦の兵の殺気を吹かせ、しなやかに反った刃は一分の隙なく完成された美を誇る。
 極限まで贅を削ぎ落とし本質を究めた一振りの刀はその持ち主とよく似ている。

 鋭利にして無骨、しなやかかつ強靭。
 質実剛健の形容こそふさわしく粋を極めた無銘の名刀。

 「粋」とは技巧や装飾を突き詰めた末に結晶する究極の様式とされる。
 「粋」こそ日本人の美学なら、男が微動だにせず手中に構えたこの一振りの刀こそ真にその境地を体現するものだ。

 木刀をひたり上段に構え、半眼に下ろした瞼の奥から鋭利な瞳を覗かせ虚空の一点を凝視する。
 緩慢に瞼を下ろし完全に目を閉じる。
 漆黒の闇が視界を覆う。
 瞑想で心を研ぎ澄ます。
 眉間の裏の一点に意識を集中する。
 瞼を下ろし微動だにせず虚空に顔を据えた男が静かに目を開ける。
 肉の薄い瞼がゆっくりと開き、強靭な意志に砥がれ透徹した瞳が正体なく漂う霧を貫く。
 あたりを包む濃厚な霧を透徹した視線で射抜き、衣擦れの音もたてぬ静かな所作で木刀を上段に構えるや斜に影が落ちる顔に峻厳な決意を浮かべる。

 「斬る」
 漣も立てず水面を歩く足捌きで横に走り、上段に掲げた木刀を拝み打ちに一閃する。
 目にもとまらぬ迅速さ、肉眼では捉え切れぬ尋常ならざる早業。常人は残像を追うだけで精一杯だろう。
 右肩から入り左脇腹へと抜ける軌跡を描き木刀を打ち下ろした男は表情ひとつ変えず呟く。

 「一人」

 重たげな瞼の奥で目が光る。
 立て続けに斬撃を放つ。
 鋭く呼気吐き四肢を撓め地を蹴り跳躍、最小限の動きでもって懐に分け入り袖に風を孕ませ刺突をくりだす。

 「二人」

 慈悲などかけらもない冷ややかな目は辛酸を舐め尽くし克服した男のそれ。
 どこまでも忠実に家訓を守り己の中に起こる衝動・欲望を意志の力で抑え続けることによって体得した鉄の平常心には慈悲が割り込む隙もない。
 二人目の臓腑を抉ると間髪入れず三人目の背後に回りこみ斬殺する。

 「三人」

 自分を包囲する敵が見えているかのようにいささかも遅滞ない動きで右回りに奔走し、敵の反撃から半歩退き身をかわし頭を低め剣風を逃し飛燕の如き鋭さで死角をとる。
 前、後、左、右。
 東西南北どの角度と方位から打ち込まれても即座に対処できるよう目と気を配る。
 「五、六、七、八、九、十……」
 展望台狭しと駆け回るあいだも男は息ひとつ乱さず至って平然としている。
 風切る飛燕の如く峻烈な身ごなしで頭を低め前傾し猛然と疾駆、敵の盲点をつき翻弄し木刀を振り抜く。
 油の乗った刃の滑らかさで懐に分け入り肉を斬り骨を断ち血しぶきを撒く。

 修羅場と化した展望台に屍血山河を築く。
 増えゆく屍にも何ら心動かさず無情に敵を刻む。
 十一、十二、十三、十四……いつ途切れるともなく続く。
 また一人また一人と躊躇なく斬り捨てるたびに男の動きは切れを増し翻る木刀は威風あたりを払い展望台に殺気がすさぶ。

 敵をひとり屠り捨てるたびに人の心をなくし鬼神に近付く。
 鴉の濡れ羽色と形容するにふさわしい艶のある黒髪が不吉にさざめく。

 「十九」

 木刀の切っ先に殺気を凝縮する。
 展望台の縁に沿って半周、想像の中で敵を引き付け虎視眈々と間合いをはかる。
 敵が間合いに入る。
 自分の勢力が及ぶ範囲に無防備に歩み入った敵が勝利の快哉を上げ同胞の仇に一矢報いらんとする。
 上段に翳した剣をいざ振り下しらさんとする見えざる敵に肉薄し、ぎりぎりまで引き付けてから腰だめの木刀を抜き放つ。

 「二十。とどめだ」

 脂じみた前髪の奥から苛烈な眼光が噴き出す。
 猛禽の如く鋭い双眸に剣呑な光を溜め呼気とともに刀を一閃袈裟懸けに斬り捨てる。
 風圧で前髪が捲れ素顔があらわとなる。
 腫れぼったい一重瞼、筋の通った鼻梁、厳しさのあまり酷薄な気配を漂わせる口元と禁欲的に痩せた頬。
 修験僧と武士を掛け合わせたような風貌の男は、最後の敵を一刀のもとに斬り捨てた自賛に酔うでもなく苦々しげに吐き捨てる。
 「……まだぬるい」
 老けた顔が自虐に歪む。
 己の掌を見下ろし呟き、颯爽と踵を返す。
 幾筋もたなびく朝靄を纏わり付かせ大股に展望台を突っ切る。
 「まったく俺は不甲斐ない。齢十八になるまで修練を重ねいまだ極意の端緒も掴めぬとは」
 剣の道が一日でならずとは彼自身痛感している。
 たった十八年で剣の極意に到達しようなどと身の程知らずな奢りかもしれないがそれでもひりつくような焦燥を感じずにはいられない。東京プリズンに来る前も来てからも剣の鍛錬を欠かしたことは一度もない。ただそれだけが己を高め極意に至る道と信じひたすらに稽古を続けてきた。

 父は物心つかぬ息子に真剣を握らせ人を模した米俵を斬らせてきた。
 何度切れ味が鈍いと叱責され井戸端で冷や水をかけられたかわからない。

 父の期待にこらえられぬ不甲斐ない己。
 周囲の誹謗中傷により生まれ持った天才を発揮できず、卑屈に育ったいとこ。
 矯められ歪められた生い立ち。

 才なきものが賞賛され才あるものが貶められる理不尽。
 本家と分家、生まれた家の格により剣の評価までも左右される屈辱。

 「……俺は凡才だ。とても静流の境地には辿り着けん」

 『相変わらずだね』
 玲瓏と澄んだ声が流れる。
 鈴を鳴らすような可憐な含み笑いは記憶の中のそれと寸分違わない。

 男は展望台に背を向け歩みを止める。
 今まさに展望台を出ようとして際にて振り返る。
 展望台の真ん中に陽炎が立つ。

 季節はずれの彼岸花のように毒々しい紅蓮の影。
 やがてその影は人の似姿をとり、此岸と彼岸を橋渡しする霧の中から裳裾を引いて現れ出でる。

 「………静流」
 呆然と呟く。
 息をのみ立ち尽くす視線の先、しめやかにたゆたう霧を裂いて現れ出でたのは数ヶ月前に死んだ帯刀静流だった。
 隴たけた花魁のしどけなさで紅襦袢を着崩し、色香匂い立つ華奢な鎖骨と胸肌を大胆に零す。
 「冥府魔道より迷いでたか」
 『地獄の責め苦も僕にはぬるくてね』
 亡霊が嫣然と微笑む。
 この顔で看守を誘惑し悪辣な策略を巡らしたのだと思えば、血の繋がったいとこが空恐ろしくもある。
 「達者でいるか」
 『もちろん。姉さんも元気だよ。本当は一緒に連れてきたかったんだけど君と会うのは地獄でと決めてるらしい。むりやりひきずってきたら折角の楽しみをふいにしてしまうものね』
 「お前も相変わらずだ。地獄でもその性格は矯正されないらしいな」
 『僕は僕さ。静かに流るる如くいつまでもあるがままにある、それが僕さ』
 「今は幸せか」
 静流は微笑んだまま答えない。
 だが少しだけ顔つきが変わる。
 生前は狂気に憑かれ時折陰湿な光を覗かせた双眸が、数ヶ月を経た今は恍惚と至福の色を湛えている。
 清濁併せ呑む深い目に魅入られ、絶句するサムライに淡々と問いかける。 

 『君はどうなの。幸せなの』
 「ああ」
 『彼とはうまくやってるかい』
 「そこそこな」
 『もう二度と手を放しちゃだめだよ。僕も君もそれでさんざん後悔したんだから』
 「心得ている」
 実直に頷く。

 堅苦しい物言いに返されたのは鈴振る笑い。

 『天才の境地に辿り着くには人の心を捨て修羅にならなければならない。愛する人を哀しませるのを承知で修羅となる覚悟が君にあるかい?それができぬなら上を見ないことさ。上など見たらきりがないよ。君は人の身でありながら修羅に近い場所に立っているけどあと三歩踏み出したらもう後戻りできなくなる。帯刀家の人間は皆そうさ、剣に魅入られた狂気の血が流れているんだ。人倫をはずれ修羅となることによってのみ剣を極められるなら喜んで修羅ともなろう、救いなき地獄を生きよう。修羅に身を堕とす覚悟がないならこの上高みをめざすのをやめて現状にあまんじるのもよしさ』
 「随分と悟ったではないか」
 『もう死んでるからね。なんだって言いたい放題ってわけさ。亡霊の戯言に腹を立てるほど度量が狭くないだろう貢くんは』
 紅など塗らずとも十分に艶やかな唇が楽しげな抑揚で囁く。
 静流の印象は一瞬ごとに万華鏡の如く変化する。
 ある時は妖艶で淫蕩なる毒婦の笑みを湛え、ある時は名を体現する清冽な笑みを浮かべ磨き抜いた水鏡の如く相対したものの心を反射する。 
 人を魅せる表情の作り方に熟練した静流は、今この時もサムライを手玉にとり可笑しげにほくそ笑む。
 静流はしばし童女のようにくすくすと笑っていたが、すっと笑いおさめるや、一抹の憐憫と嘲笑を込めサムライを見る。
 『今の君は上をめざすよりも隣を見るべきだ。じゃないとまた手遅れになってしまうよ』
 しっとり艶めく声は耳朶を刷毛でくすぐる官能を呼び起こす。

 サムライは常に一定の距離を保ち静流と対峙する。
 静流もまたある一定の距離より先には近寄ろうとしない。 
 指を触れれば途端に消える幻だと心の片隅で自覚しつつ、それでも久方ぶりに交わす遠慮ない言葉に素朴な喜びと懐かしさを感じる。
 「手遅れとはなんだ」
 言葉尻を掴まえたサムライが語気を強めて問えば、唇につと人さし指を滑らせ静流があっけらかんと嘯く。
 『また大切なものをなくしてしまう』
 「直は俺が守る」
 『どうして?』
 「……直を愛しているのだ。心の底から」
 『口先だけなら何とでも言える』 
 反感を煽る含み笑い。
 下唇のふくらみに指を添え妖艶に微笑む静流、炎の写し身のように艶やかな襦袢の裾から足が覗く。
 真紅の襦袢に映える生白い肌の淫らがサムライの目に焼きつく。
 冥府より彷徨い出た悪霊にしてはあまりに優雅にして可憐な容姿の少年が衣擦れの音もなく身を翻す。
 『お手並み拝見といこうか。彼を守りきれるかどうか姉さんと一緒に地獄で見物してるよ』
 交互に素足を繰り低く霧が流れる床を踏む。
 幾筋もたなびきつつ幾重にも展望台を取り巻く霧の帳の向こうに背が没する。
 『姉さんが呼んでる。行かなくちゃ。君も用が済んだなら早く行ったほうがいい、愛しい彼をこれ以上苦しませないように』
 真紅の背が徐徐に薄れていく。
 暗示的な静流の言葉で直の身に異変が起きていることを悟りサムライは顔を上げる。
 にわかに鋭さを増した顔つきで遠ざかる背を射止めるも既に静流の心中は姉の呼び声が占めているらしく、歩みは淀みない。
 垂直に切り立った展望台の際へと向かいがてら上機嫌に鼻歌を奏でる静流に最後に何か言おうとサムライは口を開く。

 走馬灯の如く巡る記憶、胸に湧く哀切な痛みを伴う万感の想い。
 幼き頃桜の木の下で隠れ鬼をした時、目端の利く薫流に真っ先に探し当てられ鬼になったサムライは木の表面に顔を伏せ百を数えた。
 木に顔を埋める前にちらりと見た光景。
 ちりぢりに逃げ去る苗と薫流と静流。
 何度も心配げにこちらを振り返り後ろ髪を引かれる想いで逃げていく苗、高らかな笑い声を上げ紅緒の下駄の歯音も軽快に駆け去る薫流。別々の方向に逃げ去る姉たちの背を見比べ幼く愛らしい顔を今にも泣きそうに曇らせた静流が、慌てふためくあまり着物の裾を踏んづけ転びそうになりながら交互の肘振りも必死に一生懸命逃げていく。

 今また静流は去ろうとしている。
 自分の手が届かぬ追憶の彼方へと。
 みな自分を残して去ってしまう。
 苗も、薫流も、最後には静流も。

 幼い頃の幸福な思い出がひとり残される哀愁を引き立てる。
 一歩、また一歩と静流が遠ざかるにつれ平常心の水面が波立ち名伏しがたい衝動に駆られ一歩を踏み出す。
 身の内の奥深くより湧き出る激情に翻弄され、幼い頃興じた隠れ鬼の光景を幻視し、つりこまれるように静流のあとを追う。
 桜の花びらが螺旋を描く中、赤い着物を翻し駆けていく小さな静流の面影を紅襦袢の背に見、矢も盾もたまらず後を追いかけようとして金縛りにあったように硬直する。
 サムライは顎が沈むほど奥歯を食い縛り自重する、静流を追って展望台の際へと走り寄らんと焼け付くような焦燥に苛まれる己を必死に抑え体の脇でこぶしを握り込み深呼吸で未練を断ち切る。
 足が床に根ざしたように直立不動の姿勢を保ち、襦袢の袖を風雅に揺らし立ち去る静流を離れて見送り、葛藤の末に声を絞る。

 「苗には会ったか」 

 一寸先は霧。
 一歩を踏み出せば真っ逆さまに転落する。
 展望台の突端に沈黙を保ち佇む静流、その目が何を見ているのかサムライには想像もできない。
 ひょっとしたらサムライと同じく、四人がまだ無邪気で無知で幸せだった日々を追憶しているのかもしれない。 

 分家と本家の確執などいざ知らず隠れ鬼に興じた楽しい日々を。
 愛する姉とともに笑い興じていられた頃を。 

 『心優しい苗さんが僕を許して蜘蛛の糸をたらしてくれればね』

 黒髪をさらりと揺らし小首を傾げ振り返る。
 最後に見た静流は笑っていた。
 ほのかに寂しげで儚く美しい笑み。
 綺麗で透明な笑み。

 『けれどもお断りさ。慈悲深き蜘蛛の糸などこちらから断ち切ってやる。蓮の花咲き乱れる極楽浄土に昇るよりも三千世界の鴉が鳴く地獄を姉さんと旅したほうが余程いい』
 「お前らしいな」
 サムライは苦笑する。
 舞うように優雅な挙措で何もない虚空に一歩を踏み出し、大気に溶け込むよう輪郭をぼやかせ消失する。
 静流が消えてもなおしばらく襦袢の真紅が瞼の裏に焼きつく。
 鮮烈な残像を残し霧に没したいとこの残滓がまだあたりに漂っているようだ。
 「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝をしてみたい か……」
 生前静流が好んだ都都逸を何の気なしに口ずさめば、今頃房で寝ているだろう友人の顔が脳裏に像を結ぶ。
 眠りの浅い直を起こさぬよう細心の注意を払い房を出たつもりだが、去り際の謎めいた言葉に漠然たる不安を覚え、にわかに落ち着きをなくし大股に歩みを再開する。
 窓枠に足かけ展望台を出る間際振り返る。
 展望台の突端より先、最前静流が跡形も残さず消え失せた霧深い虚空にむかって呟く。 
 「さらばだ静流。俺もじきにゆく」
 返事はない。サムライの声は無人の展望台にたゆたう霧に溶けて消える。

 窓枠を乗り越え廊下に出、来た道順を逆に辿り足早に房に帰り着く。
 無粋な軋み音をあげぬよう慎重にノブを捻り鉄扉を開ける。
 直の眠りを妨害することだけは何としても避けたい。
 彼一流の慎重さとこまやかな配慮でもって物音は最小限にとどめ後ろ手に扉を閉じる。
 裸電球の消えた房は薄暗く、仄かに朝の気配が混じり始めている。
 木刀を片付けるよりまず先に直の寝顔を見たい欲求を抑えきれず足音を忍ばせベッドへ向かう。
 壁際に左右対称に並んだベッドの片方に直が寝ている。
 枕元にめがねを畳んで置き、枕にきちんと頭を乗せ、毛布に覆われた寝相も良く安らかな呼気を吐いている。
 「帰参した」
 ベッドに腰掛け、傍らに木刀を置く。
 寝ている人間に報告することはないと頭ではわかっていても告げないと落ち着かない故に仕方ない。

 サムライはひどく柔和な目で直の寝顔を見詰める。

 普段は知的な印象があるが、鋭さを強調する眼鏡をはずし無防備に熟睡している今は実にあどけなく見える。 普段との落差がいっそう寝顔を柔らかく見せ庇護欲に訴えかけるのやもしれない。
 伏せた瞼の形を視線で辿り睫毛の長さに見惚れる。
 ほんの少しだけ開いた口元から規則正しい寝息が零れる。
 寝返りの拍子にさらりと額におちかかった黒髪からふわりと石鹸の匂いが立ち上る。
 直の匂いだ。
 「……良い匂いだ」
 清潔な匂いが鼻腔の奥をくすぐる。
 匂いが記憶を呼び覚まし直がシャワーで襲われた事件を想起する。
 あの時直はシャワーに打たれながら泣いていた。
 否、泣いてはいなかったが異常を悟りシャワー室にとびこんだサムライには最初そう見えた。
 サムライが錯覚を引き起こすのも無理がなかった、直は個室の壁に凭れ頭からシャワーをかぶり病的に虚ろな目をしていた。サムライは狂乱する直を必死に押さえ付けた、全裸で暴れ回り奇声を発する直をわけもわからぬまま両の腕に抱きすくめ華奢な体が壊れそうなほど強く強く力を込めた。

 あの時と同じ匂いが鼻腔をみたし胸郭に染み入る。
 湯浴みで火照った肌としとどに濡れそぼり雫をたらす髪から立ち上る石鹸の匂い、この腕にしっかり抱いた直の感触、痩せた首に浮かぶ喉仏と痩せた体に浮かび上がる肋骨と痩せた腰に絡まる湯気ー……

 「………何を考えているんだ俺は」
 愕然とする。
 直のベッドに腰掛けたまま妄想に耽っていたサムライは正気に戻るや否や激しい羞恥と自責に苛まれ頭を抱え込む。
 俺は何を考えているんだ、直に対し疚しい欲望を抱くなどもってのほかだ。
 そう自分を戒めてみても妄想はとまらない、腕の中で頼りなく震える薄い体と密着した胸板からじかに響く早鐘の鼓動が理性を乱し湯気に巻かれた下半身がありありと脳裏に浮かび上がる。

 細い体だった。
 痩せた体だった。
 苗のように柔らかはなく円熟した丸みを帯びてもいなかった。しかしサムライはゆるやかに雫が伝う薄い胸板と痩せた腹筋と貧弱な太股からどうしてか目を離せず、成長途上の直線的な体にどうしようもなく欲情している事実に動揺した。

 直に疚しい気持ちなど抱いてない。
 そう断言しきれないのが情けない。

 「俺はサムライだ。色欲に呆けて修行をおろそかにするのは武士の面汚しだ、まだまだ修行が足りん。散れ煩悩、清く潔くありたい俺を邪魔するな。俺は直に対し不埒な妄想など誓って抱いてはないし直の肌の白さに目を奪われてなどないし眼鏡をはずす仕草ひとつとっても胸高鳴らせるようなうぶではない、俺は直の友人としてただ隣にありたいだけだ、直を傷付けるすべてものからその身を守りたいだけだ。まだわからぬかこの色惚けめ、直に破廉恥な行いなどせんと何度言えばわかる?観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空、度一切苦厄……ええい邪念よ散り去れ塵と化せ、諸行無常の理を何と知る!」
 煩悩を追い払おうと合掌しひたすら般若心経を唱え始める。
 静流のせせら嗤いと苗のため息が聞こえた気がしたがきっと幻聴だ。
 早口に般若心境を呟くサムライの姿をもし格子窓から覗いたものがあれば、発狂し奇行に走ったと誤解し全速力で逃げ出すことだろうが、幸いにして起床ベルが鳴る半刻前のこの時間帯は東京プリズンが最も静かな頃だ。
 夜を徹し趣味にあてた囚人らが床に就き最も深い眠りに落ち込むのがちょうどこの頃で、廊下は深閑と静まり返っている。
 「不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法……」
 ぶつぶつと念仏を唱えるも一度立ち現れた妄想は容易に消えず悶々とサムライを苛む。
 菩薩のように清く安らかな直の寝顔に対し、このような不埒な妄想を抱く己が許し難い。
 サムライはますますむきになり殆どひと繋がりに聞こえる早口で般若心経を唱え心頭滅却し邪念の調伏にかかる。  

 直が寝返りを打ったのはその時だ。

 「!」
 念仏が途切れる。
 もしや起こしてしまったかと腰を浮かし緊張する。
 固唾を呑んで寝顔を見守るうちこちらに体を向けた直が眉間に皺を寄せ、何事か不明瞭にくぐもった寝言を口の中で呟く。
 まさか、先刻の独り言が聞かれていた?
 サムライはさっと青褪める。羞恥と混乱とですっかり冷静さをなくし、体ごとこちらを向いた直の唇に耳を近付ける。

 「……カラマーゾフ三兄弟の人格と相関性における考察だが僕はアリョーシャが善・イワンが真・ドミートリイが清であるという従来の概念に異を唱える。アリョーシャは本心から神を信奉する性善説の体現者としてだれからも無条件に好かれる特殊な位置付けを与えられている、それ故無神論を唱える兄イワンとの対比がいっそうあざやかに読者に印象付けられるわけだがはたしてアリョーシャを単純な聖人君子と見ていいものだろうか?実際作中でアリョーシャは何度か重大なミスを犯し事態を悪化させる引き金となっている、小切手を渡そうとして拒まれたスネギリョフ大尉との会話がいい例だ。他にもカーチャの醜態を包み隠さずドミートリイに暴露し淑女に恥をかかせるなど、とてもじゃないが配慮に富むとはいえない無神経な行為だ。僕はこの点を指摘しアリョーシャは聖人君子ではなく多分に未熟な部分をもった幼稚な子供であり、子供故の無垢さ無邪気さこそ凶器になる暗喩だと結論する……」

 「寝言で講釈をたれるな。くどい」
 一連の行動とまったく関係ない寝言と知るや一気に脱力、はらはらさせられた腹いせに恨みがましく毒づく。
 サムライの悪態に無言の抗議を示したのか、直が眉間の皺をいっそう深め肩を揺らす。その拍子に毛布がすべり落ち肩が外気に晒される。
 「世話のかかる奴だ」
 溜め息まじりに毛布を持ち上げ掛け直そうとして、サムライは硬直する。
 ベッドに横たわる直のこめかみを一筋の涙が伝う。
 透明な筋をひいて垂直に滑り落ちた一滴の涙が、シーツに一点の染みを投じる。
 「…………恵…………」
 唇がかすかに開き、妹の名を呼ぶ。
 ひとりで背負うにはあまりに重い罪悪感に押し潰されそうになりながらも悪夢に抵抗するように肩を不規則に動かし、さっきよりもさらに小さく消え入りそうな声で直が呟く。
 ともすれば衣擦れと吐息に紛れて消えそうな、かすかな声。

 『許してくれ』。 

 その声ははっきりとサムライの耳に届いた。
 否、心臓に直接響いた。
 直は眠りながら妹に謝罪する。
 夢の中でもなお安息とは無縁に自分が犯した罪の重さに苦しみ許しを乞うている。
 毛布は今や完全に体から分離し直の上半身が外気に晒される。
 苦しげに哀しげに、起きている時には見せた事のない生々しい葛藤を面に浮かべもがき苦しむ直に慎重に近寄り寝顔を覗き込む。

 片手に掴んだ毛布の存在も忘れ、至近距離でまじまじとその顔を見詰める。
 虚勢が剥がれ落ちた顔はとても弱々しく、傷付き病み果てた色がありありと浮かんでいる。
 強気な直が眠りの時だけ曝け出す素顔と本音に胸を痛め、サムライは耳朶で囁く。

 「大丈夫だ」
 せめて束の間の眠りのあいだだけでも心の安息を与えたいと、過去の罪を忘れ良い夢を見ていてほしいと、人を許せるほど高潔ではない己に忸怩たるものを感じながらサムライは呟く。
 起きれば嫌でも現実と向き合わねばならなくなるのだから、今この時だけ、起床ベルが鳴るほんのひとときで構わないから直に良い夢を見せてやってほしい。その夢に自分が現れずとも構わない。

 他愛のない夢でいいのだ。
 妹の隣に座りピアノの演奏に耳傾ける夢や本の続きを読む夢でもいい、最前文句を言った長たらしい講釈だって今度はとことん付き合ってやる。

 直が束の間でも自分の罪を忘れ罪悪感から解放されるならそれでいい、その上望むことは何もない。

 起こすことになりはしないかと内心ためらいつつ、不器用に労わる手つきで頭をなでる。
 素朴な手つきでもって頭を撫でてやれば、すぅっと悪夢が癒されらしく直の表情が安堵に溶ける。
 サムライの手にすべてを託しきった寝顔に、先刻の静流の言葉が重なる。

 『今の君は上をめざすよりも隣を見るべきだ。じゃないとまた手遅れになってしまうよ』
 『また大切なものをなくしてしまう』

 「-させん」
 静かに決意を表明する。
 悪戯めかした声が、言葉が、耳の奥で殷殷と木霊する。
 静流の言葉はどこまでも冷徹に真理をついていた。
 悪戯めかした中にも一抹の危惧を孕んだ声が苗の時と同じ過ちを犯すなとサムライを律する。

 直を守る為、前にも増して剣の修行に励んだ。
 直と一緒にいる時間を削ってまでも稽古に没頭し、どこまでも高みをめざし剣の腕を上げるのに執念を注いだ。
 直を傷付けるもの侮辱するものがあればたちどころに力を行使できるように、直には指一本触れさせぬとただそればかりを一心に念じひたすら木刀を振り続けた。
 まだ足らん、まだ足らん。
 これではまだ不足だ、不十分だ。
 直を守りきるにはもっと強くならねば、身も心も鍛え上げ剣の極意に到達せねばとてもではないが直を守りきれん。

 直。
 俺の直。
 永遠に俺だけのものにしてしまいたい。

 「髪一筋でも傷付けるものか」 
 髪のはざまに指を通しさらさらと繊細な感触を楽しみながら梳る。
 「涙一滴たりとも流させるものか」
 こめかみに残る涙の痕に口を近づける。
 涙の筋をそっと唇で辿る。
 目尻からこめかみへ唇を這わせれば仄かに塩辛い味が舌先に広がる。
 体の奥底でくすぶる衝動をおさえきれない。
 体の芯が熱く火照る。
 直の寝顔がサムライを悩ます。
 ゆるやかに瞼を閉ざし口を薄く開けたその顔、睫毛の先に涙が宿るその寝顔に途方もない愛しさと切なさが込み上げる。
 直本来が隠し持つ傷付きやすい純粋さが結晶する寝顔に胸かき乱され、器用に舌先を踊らせこめかみの涙を啜る。
 「お前の肌にこれ以上疵を作るのは俺が許さん」
 「ん………」
 唇の感触に敏感に身動ぎする。
 こめかみに触れる熱く柔らかな舌が直の内面にも変化をもたらしたものらしい。
 気だるくシーツを蹴り首仰け反らせる直、喉を反らした拍子に弛んだ襟刳りから痛々しいほど華奢な鎖骨と生白い肌が暴かれる。
 
 直。
 俺のものにしてしまいたい。
 今この瞬間に脳天からつま先まで完全に。
 完膚なく唇で烙印を施し俺の物にしてしまいたい。
 
 異常な独占欲に駆られ生唾を呑み様子を見守る。
 体の奥底で情欲の炎がめらめら燃える。いつも必死に己を律してきた、売春班のトラウマをいまだ克服できず悪夢に苦しみ続ける直に対し触れるのをためらってきた。
 しかし少しでも気を緩めれば駄目だ、自分は容易に一線をこえてしまう。
 直を裏切り傷付け怯えさせ怖がらせることになっても一度堰を切った衝動は止まらず理性を押し流し、自分は直の抵抗をものともせず力づくで押し倒し荒々しくその体を貪るだろう。

 直の傷を抉ることになっても、
 信頼を粉々に打ち砕いても。
 直と出会ってからこれまでの歳月に積み重ねた思い出のすべてが無に帰しても。

 だからこそサムライは自分を戒める。
 直に触れたい欲求を自制し肌を暴きたい願望を封印しおもいきり抱きしめたい衝動を抑圧する。
 直に欲望を抱くことは最大の禁忌だ。
 頭ではわかっている、理性ではわかっている。
 しかし時々どうしようもなく流されそうになる、一線をこえてしまいそうになる。

 直を傷付けるのは嫌だ。
 直を失うのが怖い。
 直を抱く事によってもう後戻りできなくなることが怖い、今だ売春班で男の慰み者にされた傷が癒えぬうちにそんなことをすれば直の心は永遠に閉ざされその目は永遠に自分を映さなくなる。

 俺は臆病だ。
 俺は小心だ。
 直を傷付けるのはいやだと口先では言いつつ、本当は己が傷付くのがいちばん怖い。
 直を抱く事によってもう二度と直に抱いてもらえなくなることが何より怖いのだ。
 欲望のままに肉体を貪るのではなくただ背中に腕を回し抱擁する行為が、直と密着し互いの心臓の音に安らぎを感じる瞬間が尊いのだ。

 「愛している」
 愛しげに髪をなで耳元で囁く。
 上着から覗く鎖骨と白い肌がサムライを誘惑し劣情をかきたてる。
 ただちに目をそらせと頭の片隅にしぶとく居残る理性が命じるもサムライは直の鎖骨から目をそらせず、理性と本能の葛藤に引き裂かれそうになりながら直の首元に顔を埋める。

 直の匂いがする。
 扇情的に上気した肌から薫る石鹸の香りが理性を弾き飛ばす。
 熱く脈打つ唇を鎖骨に這わせ、ゆっくりと辿っていく。
 鎖骨の上を滑るように唇を緩慢に移動させ、塩辛い汗を啜る。

 「………………あぅ………」
 しっとり汗ばんだ肌を唇で慰撫されるじれったさに直が小さく呻く。
 目は覚めてないにしても熱は感じるらしく、波打つシーツに横たえた体を右へ左へもどかしげに傾がせる。直が動く度前髪が額を流れ表情が暴かれる。
 何かに耐えるように固く閉じた目、恍惚とした快感に翻弄され蕩ける表情、弱々しく開いた唇から吐き出される熱い息とごくかすかな喘ぎ声……

 直が愛しい。
 直を抱きたい。
 その気持ちと直を守りたい気持ちが反発する。

 サムライは直の上にのしかかり行為を継続する。
 あとを残さぬよう慎重に、肌の上をごく軽く滑るように唇を這わせながら窄めた舌先で愛撫する。
 じれったい熱ともどかしい快感とに苛まれ、びっしょり汗を吸ってどす黒く染まったシーツの上で悩ましく喘ぎながら直が固く目を閉じる。
 苦痛と紙一重の快感の色が面を過ぎり、酸素を欲し貪欲に喘ぐ唇から悲鳴に近い声が迸る。
 「っは……あっ………んくっ………サムライっ……!」
 「!」
 縋るように名を呼ばれ咄嗟に唇をはなす。
 弛んだ襟刳りから唾液の筋が淫靡に濡れ光る鎖骨を露出し、今だ目覚めず横たわる直が悲痛に顔を歪める。
 重苦しい沈黙がおちる。サムライは行為をやめ慄然と立ち竦む。
 咄嗟に直が口走った言葉、その名に戦慄に打たれる。
 「行かないでくれ………………」
 妹を呼んだときと同じかそれ以上の切実な響きが胸を刺し貫く。
 直は言った。眠っていて意識がないにもかかわらず縋るようにサムライの名を口にし「行かないでくれ」と懇願した。プライドを擲ち感情のままに「行かないでくれ」と本音を吐露した。
 たった今まで意識のない自分の体を弄んでいた男に、鎖骨に口づけし唾液を刷り込み肌を愛撫していた男に「行かないでくれ」と本音を叫び必死に縋り付いたのだ。
 「……どこにも行くものか。決して離れるものか」
 直に許可なく接吻した罪の意識を圧し、無意識な懇願に全身全霊で報いらんとする決意を静かに燃やす。
 枕元に無造作に投げ出された直の手をとる。
 「この先何があろうと俺はお前を守り続ける。お前の隣に在り続けると誓う。約束だ」 
 直が素直に頷く。意識がないにもかかわらず組んだ手を通してサムライの気持ちが伝わったらしい。
 直の手をぎゅっと握る。
 床に跪きその手を額にあてがう。
 祈りを捧げるのに似て神聖な仕草で額突けば、殷殷と余韻を帯びてどこから澄んだ歌声が響いてくる。
 
 三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝がしてみたい

 どこからともなく響く歌声は、ひょっとしたら冥府より湧き出でる静流の歌声かもしれない。
 鴉が不吉に鳴き喚く地獄を薫流と手を携えさまよう静流を思い浮かべ、今ふたりはたしかに幸せなのだと確信し、別れ際の清冽な笑顔を思い返す。

 この世に一片たりとも未練も悔いもない清清しい笑み。
 愛する人と共にいて自分は今幸せだと語るその顔。
 
 紅襦袢をしどけなく羽織った幻が瞼裏からかき消える。
 歌声の余韻が大気中にただよう閑寂に身をひたし、明け始めた夜の中でサムライは項垂れる。

 鴉の濡れ羽色の闇が藍色へと変わり清浄に明るみ始めるほんの一刹那、深々伏せた額に直の手を押しあて呟く。  
 「三千世界の鴉を殺しお前の眠りが守れるならば本望だ」
 
 三千世界と引き換えてもお前の眠りを守りたい。
 俺はその為に、その為だけに血道を上げ剣を磨く。
 武士の名誉を得るためではなく、お前の友として隣に在り続けるその為に剣を磨くのだ。 

 貢くんは損な気性だね、と静流が嗤い。
 貢さんは不器用な人ね、と苗が笑った。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010607041000 | 編集

 第一印象は最悪だった。
 「僕らはこれから同じプロジェトに携わる仲間だ。握手が嫌いなのはわかったけど、最低限の礼儀を守る柔軟性も持ち合わせないなんて正直見損なったよ」
 新たに助手として加わることになったと教授に紹介された男は、安田の非礼を指摘しそう言った。
 斉藤と名乗るその男には初回から好感のもちようがなかった。
 さらさらと癖のない鳶色の髪、俳優のように甘い顔だち。
 白衣を着たホストといった感じの軽薄な外見にもまして癇に障る弁舌と笑み、協調性を兼ねた社交的物腰。
 白人の血が混ざる色素の薄い虹彩を魅力的と評する異性が多いことは想像に難くない。
 斉藤は全身から砕けた雰囲気を醸していた。
 周囲に敬遠されることなく自然と人の輪に溶け込む技能を身に付けていた。  
 斉藤は白衣の着こなしが上手かった。
 着崩しひとつとっても個性を上手く表現していた。
 否、周囲と反発しない程度に個性を飼い馴らすのが上手かったというべきか。
 個性などただの飾りだ、安田はそう思っている。
 しかし今なお思春期から抜け出せず自己同一性の不安に苛まれる若者たちにとって個性の探究は悩みの大半を占め、ひいては人間としての優劣をも決める重大な問題らしい。
 馬鹿らしい。
 個性のない人間は人格のない人間と同義、そんな人間は存在しないと安田は思っている。
 わざわざ探さなくとも最初からそこに在るのに本人が気付かないだけ、分不相応な高望みをして遠くばかり見すぎなのだ。
 一番近くにあるものさえ見落としておきながら個性がないなどと笑わせる、とんだ茶番だ。
 斉藤はその点利口だった。
 個性を手懐けるのにかけては右に出るものがない。
 斉藤は個性の概念を上手く利用し、斉藤文貴という人間の魅力を最大限引き出すにはどうすればいいか冷静な計算に基づき実践した。
 つまりは自分で自分を演出したのだ。
 俳優顔負けの自作自演社交術だ。
 斉藤はその時々により巧みに自分を演じ分けた。
 異性に好かれる自分、同性に好かれる自分、教授に好かれる自分……
 他にも数限りない自分を時と状況に応じ巧みに使い分け好感触を得た。
 安田は面識を持ってごく早い段階でそれに気付き、一種の興味をもって距離をおいて斉藤を観察していた。
 以前こんな事があった。
 共同プロジェクトが始動する二週間前、研究員の顔合わせが終わり実験に移行するための前準備が着々と進められていた頃。
 今回のプロジェクトに抜擢された院生と学生の混成チームは、最高責任者たる勅使河原教授と鍵屋崎教授夫妻の指導のもと綿密なディスカッションを重ね不安要素の排除に余念がなかった。
 助手として抜擢された十五名のうち現役の学生は安田と斉藤の二名のみ、他は皆院生で構成されていた。
 政府より派遣された各分野の権威もまじえ活発な議論が交わされた。
 喋れば喉が渇く。
 コーヒーを淹れるのは年功序列に従い最年少の学生どちらかの役目になる。
 安田はこれを拒否したが斉藤は快く了承し、会議中にコーヒーを配って回った。
 やがてその義務は習慣化し、会議が終わった後も斉藤がコーヒーを淹れて配る係となった。
 「あら。斉藤君、袖に染みがついてるわよ」
 デスクに向かい資料を整理していた院生が目敏く指摘する。
 院生のデスクの隅にコーヒーを置き、斉藤は苦笑する。
 「ああ、これですか?コーヒー注ぐ時に跳ねちゃって」
 「ちょっと大丈夫?火傷しなかったか見せてごらんなさい」
 「大したことありません、大丈夫ですよ」
 斉藤が感じ良く微笑む。院生は気を遣う。
 「あなたにばかり雑用押し付けちゃってごめんなさいね。次からは私がやるわ」
 「気にしないでください。コーヒー淹れるの好きなんですよ、僕。それに先輩、その手じゃやりにくいでしょう?」
 斉藤が顎をしゃくる。
 院生が手元を見下ろす。
 院生の手は綺麗に手入れさせ爪には上品なピンクのマニキュアが塗られていた。
 長く伸ばした爪を一瞥、微妙な女心への配慮にひどく感じ入ったらしく院生が頬を染める。
 「ありがとう」
 「そう思ってくれるなら僕の淹れたコーヒー飲んで幸せそうな顔してください。美味しいの一言が何より励みになりますので、特に先輩みたいな美人のお世辞は大歓迎です」
 「上手ね」 
 折り返しの染み一つでよくもここまで話が弾むものだと安田は感心した。
 斉藤はすべてにおいて如才なく立ち回った。
 人間関係における摩擦や衝突とは無縁、それどころか斉藤がいるいないでチームの雰囲気が全然違う。
 斉藤はチーム内でムードメイカー的役割を果たしぎすぎすしがちな空間の潤滑剤となった。
 安田が他のメンバーと衝突するたび仲裁に入るのも斉藤だった。
 安田はその性格から度々周囲と問題を起こし孤立を深めていたが、どういうわけか斉藤だけは邪険にされても一向にめげず、嫌味をさらりと受け流す柔軟な精神あるいは史上稀なる鈍感さでもって付き纏っていた。
 先の袖の染みの一件にしても計算の内ではと安田は疑っているが、本人を問い詰めたら「さあどうかな」とはぐらかされてしまった。
 余談だが研究チーム一の才媛と名高いその女性は後日斉藤と付き合い始めたらしい。

 安田は斉藤を忌み嫌っていた。
 必要がなければ口も利きたくないと思っていたが、どうやらその必要ができてしまったようだ。

 安田は靴音も高く東大のキャンパスを歩いていた。
 小脇には一揃いの資料を抱えている。
 至急斉藤に届けてくれと勅使河原教授に頼まれたものだ。
 安田は断ろうとした。
 何故自分がよりにもよって斉藤にと抗議の声を上げ拒否しようとしたが、安田の反論を予め見越していた勅使河原教授が研究室の椅子に腰掛け「最近年のせいか足が痛くてねえ」とわざとらしく膝をさすり始めた為に言葉を呑まざるをえなかった。
 所用で勅使河原教授の研究室に寄ったことを後悔した、全くタイミングの悪い時に訪問したものだ。
 もしこれが他の教授なら仮病で床に倒れこもうがそのままにして去ったが、勅使河原教授には蔑ろにできない恩があった。 
 「……彼が援助してくれなければ、義務教育すら満足に終えられなかったかもしれないからな」
 小脇に抱えた資料がやけに重く感じる。
 足を繰り出すのに合わせ小脇に挟んだ資料が音をたてる。

 勅使河原教授は安田の後見人である。
 この事実を知るものは少ない。
 安田は勅使河原教授から長年に渡り経済的な援助と庇護を受けていた。
 安田が東大に進んだのは勅使河原教授がいたからだ。 

 「本当に東大でいいのかね?君ならオックスフォードでもハーバードでも世界最高水準を狙えるというのに、わざわざ日本国内に留まるとは……私に遠慮してるなら気にせんでいい、後進の育成のためなら喜んで経費をだす。これでもまだ余裕があるからね」

 教授はそう言ったが安田の心は既に決まっていた。
 高校まで面倒を見てもらった上に、後見人の好意に甘えられなかった。
 海外の大学に進むのは金がかかる。
 渡航費、学費、むこうでの生活費……
 それら莫大な費用を捻出する余裕は安田の家庭事情を考えれば当然ない。

 「僕は教授を尊敬しています。同じ大学に入れるなら光栄です」

 事実だった。
 勅使河原教授は円熟した人格の持ち主であり、日本が世界に誇る生理学の権威でもある。
 今では鍵屋崎優と由香利夫妻に並ぶ医学会の重鎮として君臨している。
 鍵屋崎夫妻がマスコミへの露出が多く世界的に知られた有名人なのに対し、偏屈なマスコミ嫌いで極力取材を避けてきた勅使河原教授の知名度はやや劣るが、その博愛に満ちた人格と医学に対する真摯な姿勢は高い評価を受けている。
 安田と教授の付き合いは長い。
 かれこれ十年以上になる。
 教授は危うく孤児になりかけた安田を救ってくれた恩人だ。
 彼の頼みは無碍にできない。

 「最近は老齢を理由に弱みに付け込まれてる気はするがな」
 腹立ち紛れに口調も尖るというものだ。
 断固たる足取りでキャンパスを突っ切りながら教授との出会いを回想する。
 安田に選択肢はなかった。
 親類は皆孤児となった安田の引き取りを拒否した。
 勅使河原教授には安田を養育するに十分な経済的余裕があり、このまま勉強を続けて上を目指したいならば教授の好意に縋るより他なかった。
 以来安田は教授の経済的援助のもと学問に励み、最難関の東大を現役でパスし今に至る。
 「たとえ慈善者を装った偽善者でも、実際に助かっているのだから文句は言えない」
 教授には感謝している。
 今の自分があるのは教授のおかげだ。
 自分が教授お気に入りの優秀なモルモットに過ぎない自覚はあるが、それが何だ?
 好機は利用するまでだ、それができないものはここにいない。
 「世界は丸いから泳げないものはどん底に沈む。けだし名言だ」
 皮肉な笑みを口の端に刻む。
 苦い感傷を断ち切り、意識して靴音を高め棟を繋ぐ渡り廊下を歩く。
 キャンパスの芝生では講義を終えるかサボるかした学生が思い思いに寛いでいる。
 まったく気楽なものだと皮肉まじりに彼らの身分を羨む。
 そこかしこに設えられたベンチに女学生の団体やカップルが腰掛け楽しげに談笑している。
 こうしていると東大生といえども普通の学生と変わりない、講義よりも友人や恋人ととの付き合いを重視しレポートよりもお喋りを優先するのが正しい生態だ。
 談笑する友人を持たぬ安田には一切関係ない日常が穏やかな陽射しのもと当たり前に繰り広げられている。
 医学部棟はこの辺りだ。
 周囲には白衣を纏った学生や院生が多く見受けられ大気中に仄かな消毒液の匂いが混じりだす。
 安田はここでは異分子だ。
 通りすがりに好奇の眼差しを向けてくる学生を無視し、一定の歩幅でもって颯爽とキャンパスを歩く。
 ベンチに腰掛けて談笑していた白衣を着た一団の前をサッと素通りする際、聞こえよがしの陰口が背中を叩く。
 「あれ法学部三年の安田じゃないか?なんでこんな所に、医学部にダチがいるなんて初耳だぜ」
 「大方教授に用事だろ。趣味で医学部の講義にも顔出してる変人だからな」
 「我が大学始まって以来の秀才に失礼よ」
 「馬鹿だな、ホントに頭が良けりゃとっくにハーバードからお呼びがかかってるさ。こんなとこで燻ってんのこそ秀才どまりの証拠だろ」
 「そんなに教授に媚売るのが楽しいのかね?秀才の考える事は理解できねーな」
 背後で笑いが弾ける。
 甲高い女の声と下品な男の声が耳朶を打ち、うるさくて顔を顰める。
 挑発を交えた悪態を意に介さずその場を去ろうとした安田の態度が不興を買ったらしく、ベンチの背凭れに腕かけふんぞり返った学生が不敵に口元をひん曲げる。
 「教授陣に贔屓されて調子乗ってんだよ。アイツが出したレポートならパスタの美味しい茹で方だろーが猫の爪研ぎの周期だろーがA越えのS評価なんだぜ、おれたち真面目にコツコツやってる学生の立場ねーよ」
 「真面目にコツコツやってる学生はこんなとこでサボってないって」
 「るせー。とにかくむかつくんだよ、すかしやがって。教授陣にケツ売って採点甘くしてもらってるくせによ」
 「何、そうなの?」
 黄色い嬌声が上がる。
 色めきだつ女性陣とは裏腹に男性陣は大げさに顔を顰め中には吐くまねをする者もいる。
 安田は立ち止まる。
 「ほんとのほんと、じゃなきゃS評価なんてつくわきゃねーだろ。知ってたか?S評価のSはSEXのSなんだとさ」
 「いや、スキンなしでオッケーのSじゃねーか?」
 爆笑が巻き起こる。
 安田は彼らに背中を向け無言。
 ベンチを取り巻いた一団は安田の様子をちらちら窺い陰口を叩く興奮と浮かされ、リーダー格と思しき一人に群がり先を促す。
 ベンチに足を組みふんぞり返った男は右手に預けた缶コーヒーで喉を湿してから、教授陣から注目される他学部生を嫉妬剥き出しで貶める。
 自分以外の者が注目されるなど許しがたいといった幼稚な傲慢さ、他人を蹴落とすのを無上の喜びとする品性の卑しさがその目つきと口ぶりからありあり透けている。
 エリート教育の弊害が生み出した俗物。
 胸裏に軽蔑が湧く。
 謂われない誹謗中傷を受けたところで怒りはさっぱり感じない、本来怒りとは同格の相手にしか持てない高次の感情なのだ。格下の相手に抱くのは蔑みだけだ。
 眼鏡越しの双眸に冷ややかな蔑みを宿し歩を再開しようとした安田を制したのは、とことん不躾な声。

 「知ってるか?あいつの親、犯罪者なんだぜ」

 犯罪者。
 その一言に心臓が凍る。

 「えー何それー」
 「マジかよ、何やらかしたんだ。殺人?強盗?」
 「こわーい」
 どよめき。
 嫌悪と好奇の感情が渦巻く中、悲鳴とも歓声ともつかぬ語彙の貧困な嬌声が飛び交う。
 仲間内の注目の的となった男はじらすように足を組み換え右手のコーヒーを口に運ぶ。
 仲間の視線が集中するのを待って一口含み嚥下、意味深な目を安田の背中に向け次いでいよいよ核心に迫る。
 「ちょっと前に騒ぎになったろ、汚職に関わってた政治家の秘書が妻ともども撃たれて殺された事件。あれの生き残りなんだ」

 生き残り。
 言葉の弾丸が胸を穿つ。

 「十年くらい前よね。テレビや新聞にも大きく出て結構騒がれたよね、秘書夫婦も汚職に関わって賄賂を受け取っていたとか……犯人まだ見付かってないんだっけ?暴力団関係者が重要参考人として警察に連れてかれたけど証拠不十分で釈放だって聞いたわ」
 「拳銃でバンバンだ、そりゃ某政治家先生に頼まれた暴力団の仕業だろうさ。まあ俺たち国民が一生懸命働いて稼いだ税金吸い上げて贅沢に遊んでたんだ、殺されても自業自得………」
 甲高い靴音が再開、固唾を呑む学生達のもとへ安田が接近する。
 気まずい沈黙。
 安田と目が合うのを避け次々と顔を伏せる学生達の中、唯一ベンチにふんぞり返った男だけが虚勢を張って吼える。
 「なんだよその顔は、事実を言ったまでだろーが。それとも何か?僕のパパとママは無実だとでも言いてのーか?死人の弁護なんて辛気くせー真似やめとけよ、泣こうが喚こうが国民の心証は黒なんだからよ。とっとと勅使河んとこ帰って慰めてもらいな。勅使河原がお前を贔屓してるのは評判だからな、お前が泣いていじめられたって訴えりゃ俺たちお尻ぺんぺんしにすっとんでくるだろーさ。はははっ、見物だぜ!どうしたほら笑えよ、おかしいだろ、え?」
 目一杯腕と足を広げベンチを独占した男が、威圧的に顎をしゃくり据えた目で重圧をかける。
 半ば脅された仲間が力なく追従するも気まずく語尾が萎む。
 尊大にふんぞり返った男の正面に安田が立つ。
 重苦しい沈黙が押し被さり空気が緊迫する。
 人の流れが止まる。空気の変化を感じ取った通行人が歩調を落としベンチに視線を飛ばす。
 時の停滞を破ったのは、思いがけぬ安田の独白。
 「放射線医学科か」
 男がつられて自分の胸元を見やる。
 正面に立った安田が無言の視線を向けているのは、白衣の胸元に掲げられた学部と学科を示す名札。
 「それがなんだよ」
 動揺を抑え、せいぜい凄味を利かせた声と眼光で腰を浮かせ威圧する男。
 「X線写真の原理を説明せよ」
 「は?」
 男が固まる。
 ベンチから浅く腰を浮かせたままいきなりの質問に虚を衝かれ目を丸くする男と対峙、平板に説明する。
 「X線写真とはエックス線を目的の物質に照射、透過したエックス線を典型的にはフィルムに焼き付けることによって可視化し内部の様子を知る非破壊画像検査の一種で医療分野で活用されている」
 「ば、馬鹿にすんな。知ってるよそんなこた、基礎中の基礎じゃねーか……」
 「CTの正式名称と開発者開発年を述べよ」
 「な…………」
 男が動揺も露に口パクの醜態を呈する。
 周囲から意地悪いくすくす笑いが漏れる。
 矢継ぎ早の質問に脳の回転が追い付かないのかそれとも単純な知識不足か、中腰の姿勢で硬直した男が大量の汗を流し仲間に助けを求めるも全員が視線を逸らす事によって無知を露呈する。
 「くそったれ、裏切りやがって!!」
 薄情な仲間にあらん限りの憎悪を込め口汚い呪詛を吐く男、興奮のあまり振りかぶった腕から勢い良くコーヒーの残りが飛び出し白衣にかかる。なお悲劇的な事にはそのコーヒーはホットであり、熱い飛沫が顔に跳ねた途端先刻の虚勢もどこへやら情けない悲鳴を発し跳び上がる。
 かかったのはたった一滴なのに顔を覆って大げさに悶絶する男、苦悶の呻きを発して転げ回るぶざまな姿を野次馬が容赦なく笑い倒す。
 医学部のキャンパスに漣の如く笑いが伝染する。
 失笑と嘲笑が入り混じった侮蔑的な渦が波紋を描いて広がりゆく。
 安田はいっそ退屈げな様子でそれどころじゃない男に答えを提示する。
 「正式名称はComputed Tomography、日本語訳はコンピュータ断層撮影。開発者はThorn EMI中央研究所の英国人技師ゴッドフリー・ハウンズフィールドで1967年に考案し1972年に発表された、医学検査用の改良が成されたものを発表したのはマサチューセッツ州タフス大学のアラン・コーマックで1979年のノーベル医学生理学賞を受賞している」
 予め脳に記憶された文面を読み上げるかの如き機械的正確さと円滑さでもって完璧な解答を示した安田に周囲から感嘆の声が上がる。
 先刻まで男に同調し陰口を叩いていた連中が逃げるようにその場を立ち去る。
 後に残された男は周囲の失笑と蔑視に晒され恥辱に震えていたが、ふいに怒りを爆発させ安田の胸ぐらに掴みかかる。
 「ふざけやがって、よりにもよって現役の医学部生に説教たれる気かこの野郎!?」
 「下品な口は慎め。知らないみたいだから教えてやったまでだ」
 「お前のせいで白衣にコーヒーかかったろうが、どう弁償してくれるんだ!?白衣だけじゃねえ顔も火傷したじゃねーか、傷害罪で訴えてもいいんだぞ!!」
 「法学部の学生を訴えるのか?面白い冗談だ、ならば侮辱罪と名誉毀損罪を適用し訴え返すまでだ」
 安田が皮肉に口の端を吊り上げる。
 鋭利な眼光が迫力を付与する表情に気圧され、手を緩める。
 握力が緩んだ隙に男の手からシャツの布地を抜き、眼前の男の存在を無視しひどく神経質な手つきで皺を伸ばし埃を払ってから傲然と顔を上げる。
 「僕と勅使河原教授の間に利益供与を前提にした肉体関係が存在するかのような不適切な言動は多くの学生が目撃している、のみならずこの僕が一言一句漏らさず記憶している。法廷に立つならそれ相応の覚悟をしておけ」
 怒りのあまり声も出ない男にあっさり背を向け、それきり関心を喪失し歩き出す。
 男に掴まれたシャツの胸元が気になるのか、あたかも病原菌に感染したかの如く不快げに顔を顰めてはしきりと皺を伸ばし付いてもいない埃をはたく。
 「最も、貴様がこの上公衆の面前で恥を晒す事に倒錯的な快感を覚える真性のマゾヒストであればの話だ」
 「勅使河原教授のお気に入りが調子乗ってんじゃねえ、研究室の机で上になり下になり励んでる癖によ!」
 もはや振り向く価値さえ認めず、速すぎず遅すぎぬ平常心の歩幅でもってその場を離れながら安田は思う。
 斉藤は嫌な男だが、コーヒーの染みひとつで騒ぎたてる低脳よりはるかにマシだ。

 安田は医学部棟のキャンパスを歩いていた。
 掲示板で確認した所、斉藤が受講予定の三限目は教授の都合で休講になっていた。
 タイミングが悪い。
 舌打ちを堪え、階段教室に姿のない斉藤を探しキャンパスをあてどなく歩き回る。
 医学部の講義を受けた事はあるがキャンパスの隅から隅まで知り抜いてるとはとても言えず廊下から廊下へ、芝生から遊歩道へと屋内外をうろつきまわってみたが目的の男は見つからない。
 「どこへ消えたあの低脳、無駄な時間をとらせるな」
 苛立ち紛れに悪態を吐く。
 斉藤など放って引き返そうかと思うも小脇に抱えた資料の重みに決心が鈍る。
 安田は徒労を感じながら広大なキャンパス内を歩き回り、諦めて一度引き返そうとしたその時。
 「……………」
 いた。
 斉藤は医学部研究棟の陰にいた。
 人気のない薄暗い場所だ。
 綺麗な芝生が敷かれているわけでもなく居心地のよいベンチがあるわけでもない場所はしかし、男女の密会の場にふさわしいプライベートな雰囲気を醸していた。
 苦労させられた溜め息交じり近寄りかけ、僅か十メートルを残す地点で思いとどまる。
 ひとりではなかった。
 女性が一緒だった。
 顔の距離が近く親密な空気を醸している。
 「……発情期か」
 異性と暗がりに潜む目的などひとつしかない。
 斉藤は研究棟の壁に女性を押し付け、その顔の横に片手を付き前屈みになって何かを話していた。
 斉藤と話す女性の顔は判らない。
 盗み見は良俗に反する。他人の情事を窃視するなど最低の行為だ。
 安田は即座に回れ右で引き返そうとするも小脇の資料が咎めるように音たて逡巡する。
 そして、良心の防衛のため発想の転換を図る。
 「ここは大学の構内だ、神聖な学び舎だ、公的な場所だ。公的な場所で私的な行為に及ぶのは個人の自由だが、それにより公的な用事が妨げられるのは矛盾する。僕は勅使河原教授に頼まれ資料を届けにきた、これは公的な用事の範囲内だ。斉藤が人目を避け口粘膜接触またはそれ以外の部位の粘膜接触に及ぼうが個人の自由で彼の勝手だが、僕という第三者が今ここに存在する事により公然猥褻罪または猥褻物陳列罪が成立する。罪に問われるべきは斉藤であって僕ではない、よって遠慮する必要はない」
 不条理にみちた発想の強制転換、またはこじつけ。
 そもそも斉藤に資料を届けに来て不快な目に遭ったのに本人を前に引き返すなど馬鹿げている。
 安田は努めて平静を装い、研究棟の影に隠れた斉藤の方へ歩を向ける。
 斉藤は楽しげに談笑している。
 女の笑い声が漏れる。
 斉藤が何か冗談を言う。
 笑い声が高くなる。
 耳障りだと顔を顰める。
 芝生を踏みしめ斉藤のもとへ赴く安田の視線の先、女が壁から背を起こし、顔の角度が変わる。
 「……………」
 意外な念に打たれ立ち止まる。

 『斉藤君、袖に染みがついてるわよ』
 『ちょっと大丈夫?火傷しなかったか見せてごらんなさい』

 違う。
 彼女ではない。
 てっきり密会相手は斉藤と交際を始めたと噂の院生だと思っていたが、違う。まるで別人だ。
 知的な美人の院生とは対照的に童顔で可愛らしい学生だ。
 院生と共通点はない。
 化粧の仕方もまるで違う、服の趣味も違う。
 髪型も院生はウェーブがかった茶髪を肩で跳ねさせ活動的な雰囲気を演出してるのに、今斉藤と話している学生は一回も染めたことない清楚な黒髪を背中のなかほどまで伸ばしている。
 シフォン素材のチュニック風ワンピースが妖精じみて軽やかで可憐な雰囲気を付与し、零れる笑顔は無邪気というより無防備、対等な愛情よりも庇護欲をそそる。
 「染色体XXなら何でもいいのか、無差別恋愛主義者め」
 笑い声が風に乗じ流れる。
 親しげな雰囲気だ。
 安田がいることにも気付かず斉藤がなれなれしく少女の肩に手をおく。
 清純な見た目に反する、または似合いの飼い馴らされた従順さでもって少女はそれを受け入れる。
 「いじわる」
 「なんで?」
 「わかってるくせに」
 黒目がちに潤んだ目に熱っぽい期待をこめ斉藤を仰ぐ。
 上目遣いに探られた斉藤はといえば少女の言動が意味する所を察しているのか否か、相変わらず涼しげな顔。
 「本当はわかってるんでしょう、私の欲しいもの。付き合ってみて初めてわかったけど斉藤君てほんと性格悪い、そうやって焦らして楽しんでるんだから」
 「僕がこんな性格だって知ってたら付き合わなかった?」
 「そうよ」
 「嘘だね」
 「嘘じゃないもん。こんな意地悪で酷い人だってわかってたら好きになったりしなかったわ。すっかり騙されちゃったのよ、斉藤くんのうわべに。だって斉藤くん男女分け隔てなく親切なんだもん、だけど私には特に優しくしてくれたように見えて勘違いしちゃって……ね、覚えてる?」
 斉藤がじゃれるように肩の上で指を遊ばせ、少女が透明な声で笑う。
 斉藤を一途に見据える目は恋の微熱に潤んでいる。
 「斉藤君だけよ、コーヒー持ってくるときに角砂糖を三個添えてくれた人。私がコーヒーに砂糖を三個入れるってよく気付いたね、自分から言い出さない限りだれも気付かないのに。びっくりしちゃった、なんでこの人わかるんだろうって。心を読まれてるみたいで落ち着かなかった」
 「気を付けてればそれくらいわかるよ」
 「私のことずっと見てた?じっと?」
 「もちろん」
 「なんで?」
 「教えてよ」
 「知りたい?」
 「知りたい」
 「顔が面白いから」
 「もう!」
 「ほら、そのふくれ面」
 ふざけて斉藤の肩をぶつ。
 軽やかな笑いが弾ける。
 笑われた少女がむきになり今度は少々強めに肩をひっぱたく、その華奢な手首を掴む。
 チュニック風ワンピースの袖口がはらりと捲れ、傷や染みが一点もない、子供のようにふっくらと愛らしい手が外気に晒される。
 「指が綺麗だから」 
 「冗談ばかり」
 「本当。可愛い指。爪の形が縦長の楕円じゃなくて横に広がってるとこがチャーミング」 
 「やだ、見ないで。子供っぽくて恥ずかしい……」
 少女が俯く。
 しおらしく俯いた少女の手首を取り、いとおしむように肌に指を這わせる。
 間接と長さのバランスが絶妙な男の手が手首をつぅっと遡り、少女がびくんと震える。
 秘密めかした指遣いが官能の糸を紡ぐ。
 少女は既に抵抗の意志をなくし蕩けた表情と潤んだ目でもって身を委ねる。
 羞恥に頬を染め俯く少女の反応を上目遣いに楽しみながら、柔らかく掌を包み、さするようにして中指を折らせる。 
 「可愛い爪。特に左手の中指が半月みたいで」
 「……子供の頃から噛み癖があったの。ずっとコンプレックスだった。ギザギザで恥ずかしい……」
 「このギザギザが可愛いのに」
 片手で少女の横顔を覆う髪をかきあげる。
 手の甲でかき上げた髪を耳の裏に通し、外気に晒された耳朶に直接口を付け囁く。
 「綺麗なアイボリーホワイト。君の色だね」
 形良い耳朶を吐息が湿らす。
 「あっ…………」
 芽生え始めた性感が声に混じる。
 少女の耳元で呟く間も手は止めず何度もくりかえしゆったりした動きで華奢な手を慰撫、細くしなやかな五指を鍵盤に見たて戯れに折らせていく。
 生まれた時から絹の手袋に包まれ守られてきたような処女の手をじっくりと時間をかけ開かせていく。
 斉藤の愛撫により初めて手も性感帯の一部と知った少女が、処女のおののきに声を上擦らせる。
 「………くすぐったい………あっ、………ん………文貴のいじわる………」
 喉が仰け反る。
 最初はくすぐったさとはにかみが勝っていた声に、今は紛れもなく性感がこもっている。
 壁に背中を密着させ身悶える少女の手首をしっとり愛撫しながら、斉藤は愉悦にみちて囁く。

 「どうしてほしい?」

 頬がみるみる紅潮する。
 つぶらな瞳に涙の上澄みがかかり始める。
 斉藤はじらしの手管を用い完全なる優位に立って少女を翻弄する。
 手首の横の突起を指の腹で転がし、その上のくびれにそっと指を回し、手の輪郭に沿って指を滑らすのに飽きればじゃれるように掌をくすぐり、指の又のあいだに自身のそれを潜らせる。
 唇が指に触れる。
 指の根元から先端にかけ唇がごく軽く触れていく。
 ゆるやかに開かれた掌の先端、生白い指の腹に唇を押し当て含む。
 上下の唇でやさしく指を食む。
 口腔に含まれた指がフライパンで熱したバターのように蕩ける。 
 フェミニストなピアニストの指操り。
 指だけで高められる性感と欲情に、少女はとうとう屈した。

 「………キス、して………」

 斉藤が少女の手を取り、そのまま降参のポーズをとらせるように顔の横に固定する。
 少女の髪がさらりと流れる。
 ワンピースが密やかな衣擦れの音をたてる。
 少女が僅かに顔を上げ唇を薄く開く。
 男の唇を受け入れ舌を食むのは初めてといったぎこちない媚態は、処女の征服と調教を無上の喜びとする男にとってはたまらなく刺激的に映る。
 安田の目にはむしろ親に餌をねだる雛鳥に見える。
 斉藤が顔を寄せる。
 顔と顔が接近、吐息が絡む距離にくる。
 唇から3センチ離れた空間で止まる。

 「怖い?」

 こくんと頷く。顔と肩が震える。
 斉藤は瞬き一回の逡巡ののち、もう片方の手を少女の顎先に添え上向きに固定する。

 「目を閉じて」

 促され大人しく目を閉じる。
 相手を信頼しきった服従の動作。
 下向きに柔らかな弧を描く瞼を視線で辿り、仄かに上気した顔を細部に至るまで眺め、上下の唇のバランスを鑑定する。
 唇の膨らみを愛でるように視線でなぞり、顎にかけた指をくいと押し、一呼吸おいて行動に出る。

 顔が重なる。
 唇が触れ合う。 
 吐息が溶け合う。
 服が擦れ合う。
 手が絡み合う。

 随分手慣れたキスだと感想を持った。
 実際はそんなに冷静ではいられなかった。
 他人のキスを覗いている事に急に居心地の悪さを感じた。

 じろじろ見るべきではないと頭ではわかっていながらどうしても観察してしまう、冷静であれと命じる理性に感情が逆流する。
 安田はその場に立ち竦み研究棟の影で唇を重ねる二人に凝視を注ぐ。
 鉄のような理性がぐらつく。
 あるいは鉄だと思っていたのは間違いで磁石だったのか不純物に覆われた理性がやがて見えなくなる。
 当の本人達は相変わらず傍観者に気付かず行為に溺れる。
 キスは長く続く。
 斉藤は女の手に手を絡め顔の横に掲げさせのしかかるようにして唇を奪う。
 女は少し身動ぎし形だけの拒絶を示すも、じきに抵抗が緩み完全に止み、最初はおずおずと控えめに、次第に積極的に斉藤に応じ出す。
 控えめに開いた唇の隙間から艶かしく舌が覗く。
 波打つ。
 吸う。
 つつく。
 結ぶ。
 絡まる。
 互いを求め貪る姿は次第に大胆さを増し、紳士的な遠慮をかなぐり捨てた斉藤が少女の手を強く握りー……

 目が合う。

 「……………っ、」

 喉が詰まる。
 予期せぬ事態に狼狽する。

 斉藤が唐突に目を開けこちらを見る。
 されどキスを中断する気配はさらさらなく安田の凝視にも何ら抵抗を抱かず続行する。

 無垢な少女が官能の吐息に溺れる。
 その吐息さえ飲み干す勢いで斉藤が舌を絡める。
 唾液を捏ねる音がここまで伝わってくる気がする。
 少女が強く強く斉藤の手を握り返し指の関節が白く強張る。

 汚い。
 唐突にその観念が脳裏で爆ぜる。
 耐え難い生理的嫌悪が爆発する。

 「…………………うぐ、」

 猛烈な吐き気が襲う。
 反射的に口元を覆う。

 斉藤の視線の先には斉藤が居る、見知らぬ少女の唇を奪い磔にし舌と唾液を絡めている。
 汚い、気持ち悪い。
 数十種類の有害物質を含む口紅を塗り今日何を食べ不特定多数とキスしたかもわからない相手とよくあんな不衛生な行為ができるものだ、神経を疑う。

 こんな情けない所、斉藤に見られてなるものか。
 背中に視線を感じながら縺れる足で引き返そうとする。
 気分は加速度的に悪くなる。
 喉の奥で吐き気が膨らむ。
 脳裏に鮮烈な映像の断片が爆ぜる。

 少女に触れる安田の手
 手首を遡り指の又をなぶり劣情を煽る指遣い
 顎にかけた指
 触れ合う唇ー……

 強く目を閉じそれらの情景を打ち消そうするも、不慮の事態が立て続けに見舞う。
 「!?」
 膝が砕ける。
 下半身が崩れる。
 急激な体調の悪化に地に跪く。
 小脇に抱えた資料が周囲にばら撒かれる。
 目と鼻の先に落ちた資料の一枚を拾おうと腕を伸ばしかけがくんと屑折れる。
 視界が急速に翳りゆく。
 まずい、貧血の兆候だ。何度も体験してるから予知できる。
 急速に明度を絞られた視界と力が抜けていく体に抗い周囲に散らばった資料をかき集めようとするも、血管中に鉛を溶かしこまれたように腕が重くて持ち上がらない。
 斉藤の前でこんな無様な姿は見せられないというのに、
 プライドがずたずたに切り裂かれる。
 重心を失った体が地面に衝突、風圧で紙が舞う。
 自力で医務室に行くのはもはや不可能だ。
 くそ、医学部の構内で倒れるなどこの上なく屈辱的だ。
 背後で斉藤が見ている、視線を感じる、それが何より屈辱だ。
 安田は少しでも斉藤の視線から逃れようと不規則に荒い息を吐きながら地面を這う。
 シャツの袖とズボンが砂利で汚れのも構わず、同情の眼差しに晒される位なら蒸発したほうがましと虚勢を張りー……

 限界だ。
 腕が砕ける。上体がずしゃりと突っ伏す。視界の明度が急激に落ちていく。
 思考が空転する。血の回らない頭で必死に考える。
 斉藤の指遣いから目が放せなかったその理由を、
 密会を邪魔して一方的に資料を押し付ける事もできたのに、あえてそうしなかった理由を。
 遠のく意識の彼方から足音が近付いてくる。
 誰かがこちらに駆けてくる。
 気圧の高い鼓膜に声が響く。
 斉藤の、声。
 「来るな」
 思いがけずはっきりと声が出た。
 それを最後に安田の意識は途切れた。
 眠りに落ちる安田が感じたのは、自分を抱き上げる確かな腕のぬくもりだった。



 香ばしい芳香が鼻腔をくすぐる。
 朦朧とした意識が次第に輪郭を結び一点に集中する。
 間接がだるい。
 鈍重な動作で肘を付き上体を起こす。
 密やかな衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 徐徐に軸が定まり睡魔が拭われ視界が明るくなる。
 安田が今いるのは、磨き込んだ木目の床がブラインドを下ろした窓から射し込む瑪瑙のような陽射しの縞に映える空間。
 壁も床も天井も白一点張りの医務室ではない。
 傍らには雑然と書類に埋もれた檜の机があり、壁に沿って配置された古めかしい本棚には値の張る専門書から過去十年に遡る医学誌のバックナンバーに至るまでがぎっしり詰まっている。
 壁の二面は蔵書の詰まった本棚で塞がっていたがブラインドを下ろした窓辺にはくたびれた長椅子があり、安田はそこに寝かされていた。

 室内に立ち込める香ばしい芳香が鼻腔を刺激する。
 匂いの源を辿り視線を巡らせる。
 ベッドの傍らに誰かが座っている。
 男だ。年は自分とそう変わらない。
 折り畳み式パイプ椅子をベッドの傍らに引き出し手元に束ねた資料を読んでいる。

 一瞬誰だかわからなかった。
 安田が戸惑ったのも無理はない、男は眼鏡をかけていたのだ。

 洗練されたメタルフレームの眼鏡が似合う甘く端正な顔だちに脳の奥で違和感が疼く。
 男は安田が目覚めた事にも気付かず手元の資料に集中していた。
 時折資料を操り新たな文面に素早く目を通す。
 眼鏡越しの目に活発な知性の働きを示す怜悧な光が点る。
 不思議と声をかけるのを躊躇わせる横顔だった。
 こちらに向けた横顔は醒めている。
 人の視線を意識しない素顔が別人のような錯覚を抱かせる。
 笑ってはいない。
 知的な印象を加味するメタルフレームの眼鏡の奥、レンズ越しに覗く目は深沈と醒め切っている。
 資料の内容に心奪われているらしき表情は現実と乖離し、脳裏で組み立てた理論を吟味する学者のそれ。

 ブラインドの隙間から射した光がさらさらと癖のない鳶色の髪を梳る。
 射し込む光を受け、色素の薄い虹彩が猫のようにきらめく。
 外向きではない、内向きの顔。
 周囲に対し笑みを装う必要のないプライベートな顔、義務と演技から解放されリラックスしきった表情に居心地悪くなる。

 男は熱心に資料を読んでいる。
 緩やかに足を組み、膝に揃えた資料を繰りながらそこに記された内容を読んでいく。
 醒めた横顔に思わず引き込まれる。
 額にかかるさらさらの髪、高い鼻梁と薄い口元。
 自然光よりもむしろ抑えた照明に映える俳優のように彫り深い顔立ち。
 ブラウンのシャツとスラックスの砕けた着こなしが様になっている。
 ブラインドで漉された透明な陽射しを浴び、紙くる指先も写実的な静物画の如く控えめに資料に没頭する。

 「………斉藤………?」
 男が顔を上げる。
 別段取り乱したふうもない自然な動作だが、完全に向き直った時には既に周囲に対する演技として身に付けた柔和な笑みが浮かんでいた。
 「そろそろ起きる頃だと思ってたよ」
 「何故お前がここにいる。それ以前にここはどこだ」
 「知り合いの教授の研究室を借りてる。一番近かったからね、仮眠用の長椅子があってよかったよ。医務室に運ぼうかとも思ったけど少し距離があったからさ……」
 涼しげな顔の斉藤の説明に記憶が蘇る。
 安田は片手で額を押さえ項垂れる。
 そうだ、自分はキャンパスで倒れたんだ。
 勅使河原教授に頼まれ斉藤に資料を渡しに医学部棟まで行ったはいいが肝心の斉藤は不在、さんざん探し回って見付けた本人は二股をかけた相手と乳繰り合っていた。
 先刻の光景が鮮明に爆ぜる。

 医学部研究棟の裏で甲高い笑いが弾ける。
 チュニック風ワンピースが軽やかに翻る。
 斉藤が優しい仕草で髪をかき上げ頬を暴く。
 少女が喉の奥で笑う。
 期待。興奮。
 五指が絡む。
 一対の蛇のように淫靡に艶かしく絡み合う。
 間接と長さのバランスが絶妙な男の手が傷ひとつない少女の手を這いのぼり指の又のあいだをくすぐり、じらしにじらして性感を高めてくー……

 「………資料は?」 
 強く目を瞑り回想を断ち切る。脳裏に付き纏う不快な情景を振り払おうと話題をかえる。
 「これだろ?確かに受け取ったよ」
 斉藤が手元の資料をばさりと振る。
 安田が地面にばら撒いた資料は砂利を払われ集められていた。
 安田は何か言おうと口を開きかけるも、斉藤の笑みを見るにつけ自分でも説明できぬ苛立ちが込み上げ不機嫌に口を噤む。
 今更ながら斉藤の前で失態を演じたのが恥ずかしい。
 斉藤の前で貧血を起こし倒れるなどあってはならぬ事態だ、プライドの危機だ。
 しかも斉藤は安田がキスの現場を盗み見ていたのを知っている、知っていながら知らないふりをしたのだ。
 大胆な挑発。
 少女と唇を重ねながらこちらを見た斉藤を思い出し、燃え上がるような恥辱が身を苛む。
 「用は済んだ。僕は帰る」
 「まだ無理だ。もうしばらく休んでいきなよ、どうせ急ぎの用はないんだろう」
 「これでも忙しい身だ、不特定多数の異性と交際する暇のある君と違ってな」
 毛布を払いのけ長椅子を降りようとしてすかさず眩暈に襲われる。
 ふいにバランスを崩し突っ伏しかけた安田の肩を力強い手が支える。
 荒く不規則な息を吐きながら視線を上げる。
 斉藤がいた。
 安田の肩を手で支え、これまで見たことない真剣な顔で言い聞かせる。
 「駄目だ。もう十分、いや、五分でもいいから横になっていたほうがいい。医学生の忠告には従ったほうがいい」
 「医者ならともかく無知の代名詞の学生のアドバイスに価値など認めない」
 苦しげな呼吸の狭間から言い返せば、仕方ないとでも言いたげに斉藤が苦笑しやんわりと安田を押し戻す。
 斉藤の手により長椅子に凭せ掛けられた安田は片手で額を覆ったまま眩暈がおさまるのを辛抱強く待つ。
 青ざめた顔色で体調の回復を待つ安田の傍らで椅子が軋み、斉藤が唐突に立ち上がる。
 「僕が邪魔なら消えるからゆっくり休んで」
 斉藤なりの気遣い。
 束ねた資料を手に持ちあっさりと安田に背を向ける。
 人の気配に敏感な安田がぐっすり休めるようにとの配慮だ。
 辞去を表明した斉藤の背を安田はじっと見送る。
 小脇に資料を抱え素早く立ち去ろうとする斉藤、その背に声をかける。
 「………君が去る理由はない」
 搾り出した声は不自然に掠れていた。
 斉藤が立ち止まる。ノブに手を伸ばしかけ怪訝な様子でこちらを振り返る。
 安田は表情を消し努めてそっけなく続ける。
 「僕が目覚めるまでずっとそばで見張っていたんだろう、今更気取って出て行くことはない。こちらとしてもどうせ寝顔を見られているし」
 斉藤は目覚めるまでずっと自分のそばにいた。
 他に用事もあるだろうに付き添ってくれた。 
 別に安田が頼んだ事ではないし他人にじろじろ寝顔を見られるのは不愉快であるし斉藤が消えてくれるのは非常に喜ばしいが、ふと気付けば安田の中の何かが斉藤を呼び止めていた。
 寝起きに垣間見た素顔が妙に気にかかったせいかもしれない。
 斉藤でもこんな顔をするのか、という素朴な驚きの念と発見の喜びがあった。
 安田が起きた事に気付くまでの僅か数秒間、手元の資料に没頭していた斉藤。
 周囲に対する飾りを一切排した素顔に共感を覚えたのもまた否定できない。
 シビアな顔だった。
 凄まじい集中力を発揮し資料に没頭する横顔が何故だか網膜に焼き付いて離れず、安田は自分でも理由を突き止められぬまま、初対面から忌み嫌っていたはずの男を呼び止めていた。
 靴音が再開する。
 斉藤が引き返してくる。
 パイプ椅子が軋む。
 斉藤が再び腰掛ける。
 所在なさを感じる気まずい沈黙。
 斉藤を無視することに決めたものの人の気配に落ち着かず妙に目と頭が冴え長椅子に身を横たえる気にもならず、毛布の上の五指を神経質に組みかえる。
 毛布の上で指を捻っていた安田は、先刻から気になっていた事を指摘する。
 「………眼鏡」
 「これ?」
 眼鏡の弦にふれ洒落た仕草で取り外す。
 眼鏡をとった斉藤が冗談めかして微笑む。
 「いつもはかけないけど細かい字を読む時はね。変かな」
 弦を折り畳んだ眼鏡をシャツの胸ポケットに挟みながらの問いに安田は即答する。
 「似合わない」
 「酷いな」
 「胡散臭さに拍車がかかっていた。あまりにも似合わないから伊達眼鏡かと思った」
 「よく言われる。だから人前でかけるのはやなんだ。……コンタクトにしようかな」
 斉藤が彼には珍しく拗ねた口ぶりで呟く。
 そういえば拗ねた斉藤を見るのも初めてだ。
 傍観者の視線を意識した上で異性の唇を奪ったり声かけるのも憚られる集中力で資料に没頭したり、斉藤にはまだまだ知られざる一面が隠されているようだ。
 顔の前に香りが匂い立つ。
 匂いのもとを辿り斉藤の肩越しに視線を飛ばした安田は、机の角にのせられたマグカップに気付く。
 安田の視線を追って振り向いた斉藤が悪戯っぽく微笑む。
 「飲む?」
 「何を触れたかわからない他人の手が淹れるコーヒーを飲むくらいなら水道水を飲んだほうがマシだ、少なくとも水道水は消毒されてる」
 しかし安田が拒否した時には既に斉藤は背を向け、上機嫌な足取りでシンクタンクに歩み寄っていた。
 「きちんと手は洗うよ」
 苦虫を噛み潰した面持ちで不満げに押し黙る安田を軽やかに宥めシンクタンクに寄った斉藤が伏せられたカップをとる。
 一連の動作はひどく手慣れていた。
 コーヒーメーカーをセットする。
 ドリッパにフィルタをセットし粉を入れ適量の湯を注ぐ。
 三十秒程度蒸らしてから抽出を開始、ドリッパの湯が完全に切れる前に外し微粉末の雑味を漉す。
 安田は他になにをするでもなく手持ち無沙汰な様子で斉藤の行動を監視する。
 コポコポと音がする。
 じきに香ばしいいい匂いが漂い始める。
 異国情緒を感じさせるコーヒーの芳香に、我知らず呟く。
 「サウダージか」
 「え?」
 カップを持った斉藤が振り向く。
 安田は以前本で読んだ薀蓄を垂れ、もてなされる居心地悪さを埋め合わせる。
 「サウダージの語源を知ってるか?」
 斉藤が首を振る。安田は一呼吸おき話し始める。
 「元はポルトガル語で懐かしさ・郷愁・もう戻る事の出来ない無邪気な日々を意味する。いずれもブラジルの文化的風土を表すとしてよく使われる単語で他言語でこれに相当する用語は存在しないといわれている。これにはブラジルの文化的土壌が多分に関係している。……サウダージとはもともとコーヒー農園の労働力として連れてこられた奴隷たちが海の向こうの故郷を懐かしむ言葉なんだそうだ」
 「……哀しい言葉だね」
 「哀しいが、綺麗な言葉だ」
 斉藤相手に何を語ってるんだ、自分は?
 図らずも本音を漏らした事に対する羞恥と自責の念に苛まれ押し黙る安田のもとへ湯気だつコーヒーが運ばれてくる。
 どこか郷愁を誘うその香りが周囲に対し張り巡らせた安田の防壁を脆くする。
 「熱いから気をつけて」
 斉藤がコーヒーをさしだす。安田は戸惑う。
 手を出さず拒否する事もできたが、今この時ばかりは斉藤の微笑みに逆らえないものを感じる。
 斉藤は穏やかに笑っていた。
 安田が断ればきっともったいないからと自分で飲むのだろう。
 そこには厚かましさも恩着せがましさも存在しない。
 斉藤はわざわざ手間をかけコーヒーを淹れてくれた。
 ドリッパにフィルタをセットし粉を入れ適量の湯を注ぎ三十秒じっと待つ。その手順のいずれも雑に省略せず、資料に目を通すのに劣らぬ真剣で誠実な姿勢でもって安田ひとりの為にコーヒーを淹れてくれたのだ。 
 「……………」
 不承不承カップを受け取る。
 斉藤がはにかむように笑う、そんな顔はやけにあどけない。
 カップから伝わるぬくもりが掌を温める。
 仄白い湯気が細くたなびきながら立ち上る。
 眼鏡のレンズが曇るのを避け十分距離をおいてカップを覗き込む。
 淹れたてのコーヒーは深い闇を湛えている。
 湯気に溶けて立ち上る芳醇な香りを鼻腔に吸い込む。
 良質な粉を使い、丁寧な手順で漉したとわかる馥郁たる芳香が心身をほぐしていく。
 体が糸のようにほどけていく心地がする。 
 「はい」
 魅入られたようにブラックの表面を見詰めていた安田の膝に、スティックシュガーが一本のせられる。
 顔を上げる。
 ちゃっかりと自分も二杯目を注いだ斉藤が湯気のむこうで如才ない笑みを浮かべている。
 気の利く男を演じる斉藤とは目を合わせず安田は呟く。
 「……僕は関心の対象外らしいな」
 斉藤が怪訝な顔をする。
 膝の上に転がるスティックシュガーを冷めた目で見下ろし、侮蔑を隠しもせず吐き捨てる。
 「好意を持った女性の砂糖の数まで覚えているのに、僕が必ずブラックで飲むのを知らなかったとはな。研究チームでは雑用にこき使われ暇さえあればコーヒーを淹れてるくせに同僚の嗜好すら把握してないとは見損なった」
 「知ってたさ」
 なんだそんなことかと肩を竦める。
 さらりと嫌味を受け流され反感が募る。
 辛辣な嫌味でやりこめたつもりが全然こたえた様子なく、パイプ椅子から身を乗り出した斉藤がスティックシュガーを摘み上げ軽く振る。
 「砂糖は貧血の特効薬」
 「気を回しすぎだ。僕の貧血は糖分が欠乏してるせいじゃない、癖なんだ」
 「貧血が癖?難儀な体質だね」
 パイプ椅子の背凭れに背中を預け斉藤が笑う。
 顔の横に掲げたスティックシュガーを振り、重ねて促す。
 「疲労には甘いものが利く。試してみたら?あたたまるよ」
 「口説きのテクニックを使うにしても相手を選べ、僕はブラックしか飲まない主義だ。コーヒーに砂糖を入れるなど味覚破壊の第一歩だ」
 頑として拒否する安田に大仰なため息を吐き、諦めて封を破く。
 封を破いたシュガーを自分のコーヒーにさらさらと流しこみ底に沈殿した砂糖を小匙でかきぜる。
 匙とカップがぶつかり音をたてる。
 小匙の雫を切って机の端におき砂糖が十分溶けるのを待って口を付ける。
 コーヒーを一口含み味わってから感想を述べる。
 「………砂糖は淹れないほうが美味しいかも」
 「なにをしたいんだ君は?」
 安田は呆れる。
 斉藤は注意して見ないとわからない程かすかな渋面を作りコーヒーをちびちび嚥下する。
 あるいは猫舌なのかもしれない。
 斉藤も本来ブラックを好んでいるらしく、好意で添えたのに安田が使わず余ったスティックシュガーを入れた為コーヒーが微妙な味に変化したらしい。
 本当に馬鹿な男だと胸中で呟き斉藤の手で渡されたコーヒーを所在なげに見詰める。
 他人の淹れたコーヒーに口を付けるのは気が進まないが、斉藤に借りを作るのはもっと癪だ。
 つまらないプライドが頭をもたげ、逡巡しつつカップに手を伸ばす。
 柄を摘み口元に運ぶ。
 湯気とともに芳醇な香りが立ち上る。
 目を閉じ香りに酔う、束の間の安息に浸る。
 鼻腔に抜ける湯気と芳香がささくれた神経を慰撫する。
 意を決し口を付ける。
 カフェインを摂取する。
 喉仏がコクリと上下、熱く苦く染み入る液体が喉をすべりおちていく。
 満足げな吐息をつく。
 知らず表情が緩む。
 右手にカップを預け、コーヒー本来の苦味を含蓄深く噛み締める。
 「どうだい」
 「悪くはない」
 斉藤が淹れたコーヒーは素朴な味がした。
 これより美味いコーヒーや高価な豆を使ったコーヒーは世界にいくらもある、しかしこれは斉藤にしか淹れられないコーヒーだと安田は思う。
 市販品の豆とサイフォンを用い、それでもこのコーヒーからは確かに斉藤の味がした。
 個性の味がした。
 熱いコーヒーが五臓六腑に染み入り緊張をほぐしていくのを感じながら至福の吐息をつけば、斉藤が優越の笑みを隠し切れず指摘する。
 「初めてだね」
 「?」
 「僕のコーヒーを飲んでくれたの。いつもは自分で淹れるくせにさ」
 「当たり前だ。自分が口を付けるものに他人の手が触れるなど考えただけでおぞましい」
 「-とすると、僕は他人じゃなくなったって考えていいのかな」
 「コーヒー一杯で深読みしすぎだ。ひとりよがりな解釈は慎め」
 「この一杯は単なる一杯だけど僕と君にとっては偉大なる一杯です」
 斉藤がカップをさしあげ乾杯のまねをする。もちろん安田は応じず無視。
 カップを引っ込めた斉藤が急に口調を改める。
 「それにしてもいきなり倒れてびっくりしたよ。最近無理しすぎなんじゃないか」
 「僕を心配する暇があるなら自分の単位を心配しておけ。プロジェクトにかまけて出席を疎かにして泣きを見るのは自分だぞ」
 「ちゃんとレポート提出してるから大丈夫。それより君さ、君の話さ。ちゃんと三食食べてるの?まさかコーヒーだけで生きてるわけじゃないよね」
 「最低限の栄養さえ摂ってれば死ぬ事はない」
 「サプリメント頼みは感心しないね。ひとり暮らしなんだっけ。料理作ってくれる彼女とか……いないか」
 「なんだその哀れみの目は。誤解を招くのが不愉快だから前もって言っておくが異性との交際にはなんら興味がない。恋愛にうつつをぬかすひまがあるなら論文を書くなり講義に出るなり知識向上に励み、さらには教授に見込まれたIQ130の頭脳でもってプロジェクトの推進力となり科学の進歩に貢献すべきだ。与えられた能力は最大限活用する、それが僕の持論だ」
 「考えられないな」
 斉藤がおどけたように首を竦める。
 首をすくめた拍子に前髪が流れ鳶色の虹彩に翳りがさす。
 音をたてずコーヒーを啜る斉藤、伏し目がちの物憂い表情に胸騒ぎをおぼえ刺々しく言い返す。 
 「………君も所詮、彼らと同じ俗物か」

 医学部棟で遭遇した不快な出来事を回想する。
 無糖コーヒーよりもっと苦い感情が胸裏に煮詰まる。
 たとえ一瞬でも斉藤の共感を得られると思ったのが愚かだった、他人に期待するのが間違っていた。
 錯覚に翻弄された己を呪う。
 貧血で頭が朦朧としていたせいでつい虚勢を忘れ無防備にも本音を晒してしまったのだ。
 コーヒーの苦味が毒舌を鈍らせたのだ。
 一口付けただけのコーヒーは既にぬるまっている。
 手の震えが伝わり波紋を描くブラックの表面を覗き込み、そこに映し込まれる自分の顔を見詰め、口ぶりと表情は不自然なまでに淡々と続ける。

 「僕はただ自分のすべきことをするまでだ。他人にどう思われようが構うものか。勅使河原教授が必要というならプロジェクトに手を貸す、乞われれば論文を書く。僕にはそれができる、できるならすべきだ、これが僕なりの処世術だ。……教授には世話になったからな」
 「教授が後見人って本当かい」

 誰から聞いた、とは言わなかった。
 教授が安田の後見人を兼ねる事実を知っている人間は少ないが皆無ではない、教授陣の殆どは既知の事柄だ。
 この手の噂が出回るのは早い。
 特に安田は学内における有名人だ。
 勅使河原教授と安田の関係を勘繰るものは前述の学生に限らず多くいる。

 「僕のプライベートに関心があるのか」
 「もちろん。君の事はひとつでも多く知りたい」

 次第に斉藤が鬱陶しくなり始めた。
 目の前の笑顔が信用できない。
 気さくな態度に不信が募る。

 安田は数多くの裏切りを体験してきた。
 数え切れない多くの裏切り、数え切れない多くの陰口。
 今の自分が形成されたのは人への不信からだとわかっている。
 両親の死後、親戚はてのひらを翻し安田を見放した。
 友人のふりをして近寄ってきただれもが安田の陰口を叩いた。
 あいつはおかしい、俺たちとは違う、あいつとは付き合えない、あいつには心がない。
 いつしか他人が信用できなくなり、自分に向けられる好意を疑ってかからざるをえなくなった。

 虚勢を張って生きるのに慣れた頃、斉藤に出会った。
 自然と人の輪に溶け込む技能を身に付けた、偽りの笑顔の男に。

 「僕の事を知りたいなどと笑わせる。僕は君如きに理解できるほど安い人間じゃない」
 「でも共感はできる。そうだろ?」  
 語気激しく吐き捨てた安田をいなすように斉藤が微笑む。
 その笑みが癇に障り、不敵に唇を捻る。
 「先刻キスしていた女性は誰だ?」
 「彼女」
 「研究チームの院生と付き合い始めたんじゃなかったか」
 「彼女が沢山いちゃいけないかな」
 弱みに付け込んだつもりがあっさり返され言葉をなくす。
 一呼吸おき平常心を回復、心なし早口で攻勢に出る。
 「当人たちは知っているのか、二股かけられてると」
 「正確には四股」
 コーヒーを口に運びながら片手の指を四本立てる。
 安田は今度こそ絶句する。
 斉藤は悪びれたふうなくいけしゃあしゃあと言ってのける。
 「もちろん当人たちは知らない、僕が付き合ってるのは自分だけだと思い込んでる。僕もそこはまあ上手くやってる。くだらないスリルを楽しんで他の子の存在を匂わせたりしないし、その子と会ってる時はその子の事だけ考えるようにしている。さっきの子は医学部の同期、付き合いだしたのは二週間前。キスから先のガードが固くってさ……今日初めて舌入れさせてもらったんだ」
 「最低だ」
 「ありがとう、僕もそう思う」
 罵倒されたというのにむしろ嬉しげに相好を崩す。
 「ひとりで満足できたらいいんだけどね。自分でも最低だと思うよ、好意寄せてくれる女の子騙してさ。僕が不誠実だからか皆長続きしないんだ。わかるんだね、そういうの。あっちこっちに手を出して美味しいとこだけもってって、正直僕は人を好きになれないんじゃないかと思う。今付き合ってる女の子はそれぞれ魅力的だけど、結局友人以上恋人未満の好きどまりなんじゃないかなって。ただ駆け引きを楽しんでるだけ、傍観者を気取っていたいだけで自分が参加するのは面倒くさいって心のどこかで思ってるのかもしれない。だからいつまでたっても恋愛を他人事のようにしか感じられない」

 斉藤は束縛を嫌う。
 斉藤は肝心な部分で醒めている。
 心と体を伴って恋愛に溺れるのではなく、体だけ沈めて心はどこか高所からそれを眺め冷静に分析している。斉藤は不特定多数の異性と付き合うことにより、どうして自分の心がこんなにも冷め切っているのかその理由を解き明かそうとしている。
 戦慄に近い悪寒が駆け抜ける。
 眼前の男に対し嫌悪とも恐怖ともつかぬ畏怖を覚える。
 斉藤の心は冷え切っている。
 彼にとっての恋愛とは心理学の実験、他者との交際は人間性の観察に過ぎない。
 こんな状況でさえなければ魅力的な鳶色の虹彩が、冷徹に冴えきった光を放つ。
 斉藤の上辺に騙され気付かなかったその恐るべき本性に戦慄し言葉を失うも、目が合った時からずっと疑問だった事が心を占め詰問する。

 「どうして僕が見てるのに気付いてもキスを続けた」
 「人が見てるからってキスをやめたら相手に失礼じゃないか」
 「露出癖の上に露悪癖があるのか」 
 安田は語気激しく唾棄するも、その時には既に椅子から身を乗り出した斉藤が間近に迫っていた。

 衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 安田の手に長さと間接のバランスが絶妙な手が被さる。
 他人の指の感触に生理的嫌悪が込み上げる。
 咄嗟に振り払おうとするも、カップを包んだ安田の手を更に包み込むようにして手を重ねる。
 他人との接触がもたらず不快感が膨張、猛烈な吐き気が襲う。
 包まれた手に人肌の体温を感じ、指遣いを過剰に意識してしまう。
 斉藤はごく慎重な手つきでもって安田の手をなで、ため息が出るほど繊細で官能的な指遣いでもって性感帯を探ってくる。
 カップが揺れる。
 今動けばコーヒーがこぼれてしまう、と動転した頭で考える。
 その考えが安田の動きを奪う。
 安田は長椅子に上体を起こしたまま硬直しカップを預けた手元に凝視を注ぐ。

 ブラックの表面に強張った顔が映り込む。
 手の震えがカップに伝わる。
 コーヒーの表面が漣立ち、歪み、呑まれる。 

 思い詰めた顔で水面を見詰める男が一瞬でかき消え、五指に沿ってゆるやかに上下する手の動きがやましさを増す。
 ゆるりと手が動く。独立して動く五指が根元から指先へ這う。
 安田は動けない。
 思考が硬直する。
 頭が白紙になる。
 混乱のあまり動悸が激しくなる。
 シャツの下で脈打つ鼓動が斉藤に聞こえないか危ぶむ。
 こんなに近くでは聞こえるかもしれないと不安が増大する。
 斉藤は近くにいる。
 手はひたりと重なっている。
 ひとつになった手から一定のリズムで鼓動が伝わる。
 振りほどけと理性が命じるも体が麻痺して動かない、手が触れた瞬間から体が強張り言う事を聞かない。
 他人に触られるのは何年ぶりだ?
 わからない。
 勅使河原教授とも極力接触を避けてきたというのに、斉藤はいともたやすく安田の隙を衝き間合いに入り、抵抗を感じさせぬごく自然な動作でもって手を握ってきたのだ。
 まるで安田がそうされたがっていたみたいに、押し付けがましさなど微塵もない自然な動作でもって。
 そうされたがっていたと安田に錯覚させる、慰撫する指遣いとぬくもりが染みこむ優しさでもって。
 体温が上昇する。
 跳ね上がる鼓動に乗じ血の巡りが早くなる。
 耳朶が急速に熱をもつ。

 「放せ」

 漸くそれだけ言う、みっともなく掠れた声で。決壊寸前の激情を抑え込むように。
 安田の手を握り、もう片方の手を安田の肩におき、斉藤がゆっくりと前傾する。
 ブラインドの隙間から射し込む細い陽射しが床に線を引く。
 肩と手に斉藤を感じる、肌の熱を感じる。
 安田の肩に手をかけ寄りかかる斉藤、ブラインドの隙間から射した光が鳶色の髪に粒子を振りまく。
 影に沈んだ顔の一部が陽射しに暴かれる。
 猫のような鳶色の虹彩が妖しい光を放つ。 
 手に体重をかけ安田を押し戻す。背凭れが背中に当たりクッションが弾む。
 ブラインドが光を遮断し薄暗がりに沈む研究室にて、安田の肩に手をおきのしかかった斉藤が皮肉に口端を吊り上げる。
 安田の存在を気付いていながら無視し、安田の視線を意識しながら、見せ付けるようわざと体をずらし少女の唇を奪う斉藤。
 あの時とおなじ挑発の光を細めた双眸に宿し、あの時とおなじ反感を煽る含み笑いで。
 耳朶に唇を近付け、湿った吐息と一緒に囁く。

 「君の反応が面白かったから」
 金縛りが解けた。

 安田は弾かれたように行動を起こす。
 肩におかれた手を振り払い自分にのしかかる男を乱暴に突き飛ばす。
 両腕を前に突き出し思い切り突き飛ばせば斉藤がたちまち離れ、支えを失ったカップが床に落下して中身をぶち撒ける。
 長椅子に床に袖口にコーヒーの飛沫がかかり染みを作る。
 あたり一面に飛び散ったコーヒーを見下ろし、鳶色の髪をけだるげにかきあげながら斉藤が嘆く。
 「後始末が大変だ。参ったな、教授にどう言い訳しよう」
 「汚い手で触るな」
 「せっかく淹れたのに一口しか飲んでないじゃないか」
 「貴様が淹れたものなど金輪際口にするか、異物を混入されてはたまらない」
 「人聞き悪いなあ、愛しか混ぜてないのに」
 「劇毒だ」
 斉藤が呑気に笑う。こっちはそれどころじゃない。
 耐え難い生理的嫌悪に襲われ肘掛けに突っ伏す安田を一転気遣わしげに見やり、中腰の姿勢で空のカップを拾い上げる。
 斉藤はしばらくカップをぶら下げそこに突っ立ていたが、溜め息を吐いてシンクタンクに引き返し雑巾をとってくる。
 「悪ふざけがすぎた。ごめん、謝るよ。君の接触嫌悪症を矯正しようとしたんだ、ショック療法で」
 雑巾で床を拭く。
 瞬く間にコーヒーの染みが拭われ綺麗な床面が現れる。
 斉藤が床にしゃがみ手早く後始末をする間、安田は寝乱れたシャツの胸を押さえ必死に呼吸を整えていたが、蒼白の顔に大量の脂汗をかいた様子は激しい消耗を物語る。
 シーツと袖口にも飛沫が散って染みができていたがそれさえ気付かず押し殺した声で呟く。
 「さっさと視界から消えろ。これ以上僕に関わるな」
 「せめて袖口だけでも拭かせてくれないかな。早く拭かないと染みになる」
 「君に触られるのは絶対いやだ。それを渡せ、自分でやる」
 「触らないよ」
 斉藤が立ち上がる。安田は警戒する。
 胸を押さえ突っ伏したまま、鼻梁にずれた眼鏡の奥から尖りきった視で牽制する。
 斉藤が床に片膝付く。シャツの胸元を掴んだ拳、シャツの袖口に一点染みができている。
 「手にかからなくてよかった。火傷したら大変だ」
 「ここに医学部生がいるじゃないか。それとも火傷の手当てもできないおちこぼれなのか」
 「触ってもいいなら喜んで」
 「自分の首に包帯を巻いて縊死ししてしまえ」 
 急速に汗が引いて呼吸がらくになる。
 安堵の息を吐き上体を起こす。
 背格子に寄りかかり無造作に腕を投げ出した安田の顔をシャッと陽射しが照らす、斉藤が紐を引きブラインドを上げたのだ。
 昼下がりの穏やかな日差しが研究室に射し込む。
 窓のそばには楠の大樹が茂り涼しげな緑陰を投げかけている。
 「………友達になりたいんだ」
 声の方に顔を向ける。
 雑巾の角を袖口に押しあて水気を吸わせ、先刻とは一転神妙な口ぶりで斉藤が呟く。
 その口調にはどこか切実なものが秘められていた。 
 安田の袖口から雑巾を放し、伏せた双眸に思い詰めた光を宿し、真剣みを帯びた表情で願い出る。
 「考えといてくれないかな」
 「断る」
 「早すぎ。せめて一日はおいてよ」
 「愚問は考慮したくない」
 「本気なんだけどね」
 「友達に嫌がらせをするのが君の趣味か。随分屈折した性格だな」
 斉藤は何も言わずシンクに引き返し蛇口を捻る。
 答えの代わりに勢い良く水が迸る。
 手際よく雑巾とカップを洗い干してから、再びコーヒーメーカーに歩み寄り沸かし始める。
 安田は無言でそれを見詰める。
 斉藤は安田に背を向けコーヒーが沸くのを待っている。
 とり散らかった思考を整理するかのように、自分の心を解剖するかのように、計りがたい沈黙を守ってコーヒーメーカーの緻密な仕組みを眺めている。
 砂時計のような形にくびれた漏斗の底部に漉された雫が溜まっていく。
 一滴、一滴。
 砂時計の砂が一粒ずつ零れ落ちるにも似た緩慢さでもって、コーヒー本来の苦味を濃縮した一滴一滴が瓶を満たしていく。
 コポコポと音たて沸騰し始めたコーヒーメーカーの取っ手を掴み瓶を外し、喫茶店の主のような優雅さでカップに黒い液体を注ぐ。
 「コーヒーを淹れるのと女性を宥めるのは似ている」
 注ぎ口から綺麗な弧を描いたコーヒーがゆるやかに波打ちカップを満たしていく。
 白い湯気がふわりと立ち上る。
 手慣れた動作でコーヒーを注ぎ終えた斉藤がカップを手に戻ってくる。
 安田の顎先をふわりと湯気がなでる。
 「吹き零れないようにちゃんと面倒を見てなきゃならない」
 「いつか刺されるぞ」
 「性格が屈折した同士相性いいと思わないかい?」
 斉藤が首をかしげ冗談めかして笑う。安田の為わざわざ淹れ直してきたコーヒーから丁寧に炒った豆の香りがほろ苦くただよう。
 差し出されたコーヒーを、しかし今度は受け取らなかった。
 コーヒーを拒否する安田に気分を害した様子もなく、湯気たてるカップを机の端におく。
 「もう行くよ。三人目の彼女と約束があるんだ」
 本気とも冗談とも付かぬ台詞を言い置き、資料を小脇に抱え室内を横断する。

 窓から射し込む光が斉藤の背中で踊る。
 眩さに目を細める。
 長い足を繰り出すのにあわせ鳶色の髪がさらりと揺れる。
 均整取れた四肢の動きに見とれる。
 白衣を着ていなくても彼には人を惹き付ける魅力がある。
 男女問わず誰もが斉藤を好きになるのが頷ける。
 わからないのは自分に構う理由だ。

 「待て」
 ノブを握りかけた斉藤を呼び止める。
 今しもドアを押し廊下に出ようとした斉藤がそのままの姿勢で振り返る。
 去り際になり斉藤に重大な事を聞き忘れていたと自覚した安田は、長椅子から身を乗り出し、鼻梁にずれた眼鏡を神経質に支えながら、微妙に強張った顔で口を開く。
 「だれが僕を運んできた?」
 「僕」
 「どうやって運んできた?」
 「お姫様だっこ」
 「貴様を抹殺して僕も死ぬ」
 「目撃者は消さなくていいの?ざっと数えた限り102名いるけど」
 頭を抱え込む安田に軽やかな笑い声を残し、今度こそ本当に研究室を出て行く。パタンとドアが閉まる。軽快な靴音が遠ざかっていく。
 研究室の長椅子にひとり残された安田は、しばらく頭を抱え込み凄まじい恥辱と絶望の念に耐えていたが、斉藤の笑いの余韻が完全に消滅した頃に深呼吸で冷静さを吸い込み顔を上げる。
 「僕ともあろうものが迂闊だった。即死を覚悟で飛び降りるべきだった」
 意識がないなら土台無理な話だ。
 つくづく斉藤に抱かれ呑気に寝ていた自分が恨めしい。
 机の端に残されたコーヒーが視界に入る。
 閉まったドアと完全に気配の絶えた室内を見比べ、一巡した視線が最後にそのカップに戻ってくる。

 斉藤が淹れたコーヒーなど飲むものか。
 冷めるまで放置してやる。

 一度はそう決め込みコーヒーに背中を向けるも、先刻口に含んだコーヒーの芳香と苦味がよみがえり心が迷う。
 急激な喉の渇きを覚える。
 無性にコーヒーが呑みたくなる。
 無人の室内を見回す。閉ざされたドアとコーヒーとを見比べる。
 急に意地を張っているのが馬鹿らしくなる。
 斉藤はもういないのだ。意地を張っても無意味だ。 
 「冷めたコーヒーなどまずくて呑めたものではないからな」
 自分に自分で言い訳し、貧血が後引く怠惰な動作で長椅子に起き直る。
 ベッドに腰掛けたまま机の端に手を伸ばしコーヒーの柄に指をかける。
 慎重にカップを持ち上げる。
 湯気が優しく顔をなでる。
 郷愁を誘う香りが鼻腔に抜ける。
 ゆっくりとカップを回し芳香を楽しみ、いざ口を付けようとして添えられたものが目に留まる。

 スティックシュガー。
 『砂糖は貧血の特効薬』

 「…………どうしてもぼくを糖尿病にしたいらしいな」
 気が利きすぎるのも困りものだ。
 思わず苦笑が零れる。
 苦笑してから、冷笑でも蔑笑でもない笑みを浮かべたのは何年ぶりだろうと変化に戸惑う。
 少し考え、ためらいがちな手つきでスティックシュガーをとる。
 取り上げてからまた少し考え封を破く。
 スティックを斜めにし、黒い光沢の表面にさらさらと砂糖の結晶を振り落とす。
 小匙で底に沈殿した砂糖をかきまぜる。砂糖がコーヒーに溶けていく。
 窓から降り注ぐ穏やかな陽射しが背中を温める。
 磨き込まれた木目の床を陽射しが掃く。
 こんな穏やかな時間は久しぶりだ。
 「論文や研究に追われゆっくりコーヒーを飲む時間もなかったからな」
 カップの質感とぬくもりを手に確かめる。
 十分に香りを嗅いでコーヒーに口を付ける。
 「!!?っ、」  
 違和感。
 何とも形容しがたい複雑怪奇なハーモニーが口の中に広がり反射的にカップを口から遠ざける。砂糖を入れて甘くしたはずのコーヒーが口に流れ込んだ瞬間、予想に反する味が口の中を席巻し激しく噎せ返る。
 一口呑んだだけのコーヒーを机の端に突っ返し涙目で咳き込む安田、斉藤の裏切りをその舌でもって痛感し悔しげに唸る。

 「元素記号NaCl、塩化ナトリウムじゃないかこれは……!」
 つまり塩。

 コーヒーに添えられていた為うっかり砂糖と勘違いしてしまった。
 先刻の一件があったからなおさらだ。
 手の込んだトリックを用い自分をひっかけた斉藤に憤激が込み上げるも、IQ130の優秀なる頭脳をもつ自分が初歩的な入れ替えトリックにまんまとひっかかった事実は覆らず、悪戯の成功を確かめず逃げおおせた斉藤に対する腹立ちにもまして砂糖と塩を間違えた現状の滑稽さがツボに入り、苦しげな咳はやがて弾ける笑いへと変わる。

 去り際の斉藤が瞼裏に蘇る。
 ノブに手をかけ振り向いた顔は、確かに笑っていた。
 これから安田の身に降りかかる出来事を予期し、
 自分が仕掛けた悪戯が成功すると確信し。

 『………砂糖は淹れないほうが美味しいかもね』
 だから塩にしたわけか。
 なるほど、筋は通っている。
 「ーははっ、本当にいい性格をしている!」
 声を出して笑ったのは何年ぶりだろうと安田は思った。
 
 塩味のコーヒーも悪くはない。 
 机の端におかれたコーヒーからほんのり湯気が上がっていた。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010606044456 | 編集

 図書室のヌシは話がわかる男だ。
 「僕は少々誤解していたようだ」
 眼鏡のブリッジを押し上げ慎重に位置を直す。
 「ヤブから棒に何言い出すんや直ちゃん、びっくらしたで」
 ヨンイルが面食らう。
 「僕は君の事を無神経で配慮にたらず常に落ち着きがなくうるさい男だと軽蔑していたが、手塚治虫について議論を重ねるうちになかなかどうして話のわかる男だと実感し評価を改めた。こと漫画に関してのみ君に読書量で劣る事実はこの際潔く認めよう、そして反省しよう。手塚治虫愛好者として僕はまだまだ未熟だった」
 図書館の蔵書は豊富だ。
 読書が数少ない娯楽のひとつである囚人にとって好きなだけ本が読めるここは天国である。
 しかし嘆かわしいかな純文学や哲学書が並ぶ棚で僕以外の人影を見かけることはない、殆ど皆無と言っていい。
 大半の囚人たちは一階を素通りし二階に直行する。
 二階には古今東西の漫画を集めたスペースがあり、東京プリズンの囚人が図書室を訪れる目的の六割が閲覧机を占領して仲間とだべることなら残り四割の目的は漫画を読み耽ることなのだ。
 正直に言うと僕は漫画を軽蔑していた、小説より劣る活字媒体として軽視していた。
 僕の偏見を改めたのは一冊の本との出会い。
 僕の価値観を百八十度方針転換させた本のタイトルは……
 「まーたブラックジャック読んどるんかい?ほんま好きやなあ直ちゃん」
 ひょいと僕の手元を覗き込んだヨンイルがけらけら笑う。
 屈託ない笑い声に気分を害する。
 「悪いか。良い本は何度読んでも飽きず読むたび新たな発見があるものだ、再読は読書家の基本だ」
 好きな本をくりかえし読んで何が悪い。
 不満を表明しそっぽを向く僕をヨンイルは両手を上げ下げし宥めにかかる。
 「なんも悪いなんて言うてへんやんか、よっぽど好きなんやなあて感心しただけや。そんなに好いてくれはって勧めた甲斐があったっちゅーもんや」 
 ヨンイルが人さし指で鼻の下をかき照れくさそうに笑う。

 今日も今日とて僕は強制労働を終えたその足で図書室に直行した。

 サムライはこの頃残業続きで帰りが遅い。
 どうせ房に帰ってもひとりきりでやることがない。
 二階に至る階段を上ればそこかしこに囚人が寝転がっている、比喩でも何でもなくその通りごろごろと床に寝転がっているのだ。誰しも本を読むのに最適な姿勢というものがある。リラックスして床に横たわるもの、腕枕をし本を見下ろすもの、本を頭上に掲げ怠惰にページをめくるもの、だらしなく本棚に寄りかかるもの……
 十人十色の読書姿勢を見るともなく観察しつつ奥をめざせば大抵そこに彼はいる。

 図書室のヌシの異称は伊達ではない。
 ヨンイルは必ず僕より先に図書室二階奥、古今東西の漫画を集めた壮観なる一角に陣取って傍らに山のように漫画を積み上げては物凄い勢いで読破していく。
 脇目もふらずという表現がこの上なく正確に当てはまる集中力の傾け具合。
 書架の脇に胡坐をかいてどっしり腰を据えたヨンイルのむかいで、僕もまた書架に凭れ本を読んでいた。
 僕が今読んでいるのは漫画の素晴らしさを教えてくれた手塚治虫の代表作、ブラックジャック。

 「量より質を尊ぶからな、僕は。くだらない本を一冊でも多く読むより面白い本を何度も繰り返し読んだ方がずっと為になるし得るものも多い。質より量を選んで知識を水かさするのは頭の良さを褒められたい凡人のすることだ、天才は真摯に本と向き合いその本質を追究すべきだ」
 「直ちゃんは量も質もともなっとるやんか」
 「君は質より量だな」 
 ヨンイルは意味がわからないとばかり当惑顔。
 低能にまわりくどい嫌味は通じないと反省、本から顔を上げ単刀直入に切り出す。
 「君が漫画に賭ける情熱には敬意を表するが、たまには小説も読んだらどうだ」 
 「俺には漫画だけでじゅーぶん。字ばっかの本読むと眠とぅなるもん」 
 「実に嘆かわしい発言だ。眩暈を覚える」
 「俺は漫画オタクであって活字中毒やあらへんしー」
 ヨンイルが憎たらしく口を尖らし反駁する。けらけらと笑い転げるヨンイルに苛立つ。
 ヨンイルの言い分も一理ある、それは認めよう。漫画の素晴らしさを認めるのは僕とて異存はないが字だけの本を読むと眠気をもよおすとは何て言い草だ、本への冒涜に等しい発言だ。それでよく図書室のヌシが名乗れるものだと目の前の男に対し猛烈な反発が湧く。
 「図書室のヌシを自認するなら漫画も小説も差別なく愛するべきだと思うが」
 「自認してへんし。暇な一日図書室にいりびたっとるから勝手にそう呼ばれるようになっただけで俺から名乗ったことは一度もあらへんし」
 「言い訳は聞きたくない、貴様図書室のヌシの分際で小説を差別する気か?漫画の素晴らしさを讃える一方で小説の素晴らしさは否認すると?活字ばかりで眠たくなるとは小説への冒涜に等しい嘆かわしい発言だ」
 「直ちゃんかて最初の頃は漫画のこと馬鹿にしとったやんけ、読んだら頭が悪ぅなるとか言うて」
 「漫画は右脳で読めるからな。知っているかヨンイル」
 漫画を伏せトンと自分のこめかみをつつく。ヨンイルがぱちくりと目を丸くする。
 「右脳は物事を直感的に捉えるものだ。感覚、直感、イメージなどを司りこの右脳にこそ人間の潜在的能力を引き出す鍵があると言われている。モーツァルト、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとした多くの芸術家、また相対性理論で有名なアインシュタインも右脳の能力がずば抜けていたといわれている。他方左脳はものごとを論理的に捉える脳で論理、分析、計算などに長けている。絵を捉え吹き出しを追うだけで理解できる漫画は右脳のみで読めるが小説はそうはいかない、文章を頭の中で組み立てよく反芻し理解するのには左脳の働きが不可欠なのだ。つまり読書とは本来右脳と左脳をバランス良く活性化させるのに最適の知的行為であって、右脳しか使わず本を読んだら必然左脳が退化し挙げ句には二の段のかけ算もできなくなる。ところでヨンイル、2×9」
 「キン肉マン」
 脱力。真面目に答える気がない相手に講釈を垂れて馬鹿を見た。
 鼻梁にずれた眼鏡をなおしながら溜め息をつく。
 「言いたくはないがヨンイル、君は漫画ばかり読んでいるせいで知能が極端に低下してしまったようだ」
 刹那、道化の双眸が鋭利な光を孕む。
 「聞き捨てならへんな、直ちゃん。俺はともかく漫画を侮辱したら許さへんで」
 ヨンイルがゆっくりと書架から背を起こす。体に巣食う龍が目覚めおどろおどろしい瘴気を吐き出す。
 雰囲気が豹変したヨンイルに内心戸惑いつつも持論を変える気は毛頭なく、取り澄まして僕は続ける。
 「事実を言ったまでだ。漫画の素晴らしさは僕も認めよう、ただし一部だけ。手塚治虫の著作は確かに素晴らしいが他の漫画もそうとは限らない、君はこよなく漫画を愛しこの世の漫画すべてを読みきるまで死ねないと豪語するがはたしてそれだけの価値が漫画にあるのだろうか?」
 「ある」
 疑問を呈す僕にヨンイルは自信満々即答する。
 「ならば証明してみろ」
 大人げないとは自覚しつつも僕もむきになっていた。
 頑として持論を譲らず主張を曲げないヨンイルを屈服させたい一心で挑戦的に言えば、めらめらと闘志を燃え立たせたヨンイルがおもむろに跳ね起きる。
 「直ちゃんはあくまで漫画が格下やて言い張るつもりなんやな、漫画を文学て認めへんつもりなんやな?」
 今更後にはひけない。両の目に闘志を燃やし鼻息荒く迫るヨンイルの剣幕に気圧されながらも努めて冷静に僕は頷く。
 「ああ、漫画など所詮小説の一段下の存在にすぎない。一部の例外のみが文学または芸術作品と認めていい領域に達してるんであって、その他多くの俗でくだらない漫画は世界に名だたる文学作品に並ぶ価値なく読み捨てられる宿命だ」
 腕を組み高飛車に言い切れば、僕の間近額が接する至近距離に迫ったヨンイルが怒りも露わに叫ぶ。
 「よーし、よう言うた。そこまで言うなら俺の漫画に対する愛を今ここで証明したる」
 証明?どうやって?
 僕の胸に人さし指をつきつけ憤然と宣言したヨンイルがきょろきょろとあたりを見回し何かを捜し求める。
 「よっ、キーストア。お前も漫画借りにきたのかよ」
 ヨンイルの奇行に戸惑う僕の肩になれなれしく手がかかる。
 しなやかな褐色の手を辿り振り向けば見慣れた美形にぶつかる。
 日の光を吸った藁色の髪、右目を覆い隠す黒革の眼帯、残る左目は硝子を思わせる薄茶の色合い。しなやかな若豹めいて強靭さと優雅さを併せ持つ姿態の青年が、僕の肩に手を置き微笑んでいる……否、より正確に言うならにやにやと笑っている。

 東の王様、レイジ。
 軟派で軽薄な外見とは裏腹に、これでも東京プリズンの一角を占める東棟のトップである。

 「サムライは一緒じゃねーのか?珍しいな、喧嘩か」
 レイジの横からちょこんと顔を覗かせるのは癖の強い黒髪と利かん気の強い三白眼が印象的な、人慣れない野良猫の風情を漂わせる生意気な少年……ロン。レイジの相棒兼抑止力としてある意味有名なロンはきょろきょろ気忙しくあたりを見回しサムライがいないことを不審がっている。
 「彼は残業で不在だ。今日は僕ひとりでここに来た」
 「へー」
 「へー」
 「……なんだその返事は。僕が一人でいたら悪いか」
 レイジが謎めいたにやにや笑いを深めロンが感心したように頷く。両者の反応を見比べムッとする。
 これではまるで僕が一人で図書室に来たら悪いみたいじゃないか、否、だれも悪いとは言ってないが少なくとも僕一人で図書室にいるなんて珍しいと言わんばかりの反応だ。僕とサムライが常に二人一緒に行動しているような誤解はやめてほしい、僕にもサムライにもおのおの事情があるのだからいつも一緒にいるわけにはいかないじゃないか。
 「『僕にもサムライにもおのおの事情があるのだからいつも一緒にいるわけにはいかないじゃないか』ってツラしてるな」
 「心を読むな」
 顔に不満が出ていたらしくまんまとレイジに見抜かれる。
 「そういう君たちは図書室に何の用だ?書架の影で不純同性交友に及び風紀を乱すのは慎め」
 「図書室に本読みにくる他になにすんだよ?」
 いかにも当たり前といった口ぶりでレイジが言い返し、ロンが小脇に抱えた漫画をひょいと掲げてみせる。
 素早くタイトルを読む。手塚治虫「火の鳥 未来編」。 
 「最近ハマってんだ。俺が図書室行くっていったらこいつも暇だからってついてきてさ、借りるもん借りてとっととおさらばしようってここ通ったらお前とヨンイルが話しこんでるの見かけて声かけたんだよ」
 ロンが簡潔に説明する。
 二人が都合よく通りかかった事情は一応納得したが、レイジのにやにや笑いがやけに癇にさわる。
 と、だらしなく笑み崩れたレイジがこれ見よがしにロンの肩に手を回し抱き寄せる。
 「要するに図書室デートだ。独り身のキーストアは羨ましくてたまんねーだろ、お生憎様。せいぜいつれないサムライを恨むんだな」
 「ひっつくな暑苦しい」
 べたべたとなれなれしいレイジの脇腹にロンが肘鉄を食らわせる。
 肘鉄を食らっても何故だか幸せそうなレイジに理由なき怒りを覚える僕の隣、ヨンイルがぱっと顔を輝かせる。
 「ちょうどええとこにきた!レイジとロンロン証人になってもらえんか?」
 「証人?なんの」
 ロンが怪訝そうに訊ねる。「なになに?」と興味を示しレイジが身を乗り出す。二人を等分に見比べヨンイルは力強く言う。
 「俺と直ちゃんのどっちがより漫画を愛しとるかこれから勝負するから二人に審判役してほしいんや」
 「ちょっと待て、主旨が変わってるぞ。いつのまに僕と君の勝負になったんだ、君と漫画への愛の深さを比べるなんて一言も……」
 「おもしろそうじゃんか。いいぜ、乗った!」
 僕の意見も聞かず大乗り気のレイジが首肯し、ロンもまた他人の気など知らず単純に頷く。
 「ヨンイルと鍵屋崎の勝負か。どう転がるか楽しみだな」
 ………妙な雲行きになった。

 あたりがざわざわと騒がしい。
 「なんだこの人だかりは」
 あたりを見回し唖然とする。書架と書架の間の横幅5メートルもない通路に大勢の囚人が詰め掛けている。東、西、南、北……たまたま図書室に居合わせた全棟の囚人らが噂を聞き付け二階にやってきたものらしいが、それにしたってあまりにも。
 「西の道化と東の天才の大勝負を見逃す手はねーぞってレイジが宣伝して回ったんだよ」
 ロンがこそこそと僕を招きよせ耳打ちする。
 ちらりと流れたロンの視線を追って向き直れば、ポケットに指をひっかけリラックスした姿勢で書架に凭れたレイジが愉快げにこちらを眺めている。
 お祭り好きな王様は突如持ち上がったこのイベントに大乗り気で自ら客寄せを買って出たらしい。
 「不愉快だ。見世物じゃないぞ」
 「気持ちはわかるけどんなむきになるなよ、レイジの思う壺だぜ」
 ロンが肩を竦める。
 殺意を込めた目でレイジを睨めばひらひらと手を振って返される。
 あくまで気楽に見物人に徹するつもりのようだ。
 「勝負のお題はこれや、じゃーん!」
 景気のよい擬音付きでヨンイルが掲げたのは一冊の漫画本……ブラックジャック。
 詰め掛けた見物客が「おぉ~」と感嘆の声を発する。
 つくづくのりのいい連中だ。
 ひょっとしたら西棟のさくらが混ざってるのかもしれない疑惑が浮上する。
 ヨンイルに限って西の応援団を野次馬の中に紛れ込ませるような姑息な手は使わないと思うが油断ではきない、図書室のヌシは漫画のこととなると手段を選ばずいかなる非情なこともやってのける男だ。
 すぅっと上を向き深呼吸したヨンイルが改めて一同を見渡し朗々と声を張り上げる。
 「勝負は簡単、俺と直ちゃんがブラックジャックへの愛を語るただそれだけ。ブラックジャックのどこがどんなふうに面白いか素晴らしいか頭の限界に挑戦し語彙を総動員し一片の悔いも残らんように語り尽くすんや。文字数制限はせやなー800字にしとこか。ええか、これは漫画オタクの漫画オタクによる漫画オタクのための勝負や。どっちがよりブラックジャックを愛し知り尽くしてるかを800字の中にぎょうさん詰め込むんや、言うなればこれは俺と直ちゃんどっちがブラックジャックの後継者かを決める仁義なき争いや!」
 「-……面白い。天才に挑戦状を叩き付けるとは随分自信過剰ないか」
 この僕にむかってどちらがよりブラックジャックを愛してるかだと?
 馬鹿も休み休み言え。
 ヨンイルの挑発にプライドを刺激され不敵に微笑む。
 「手加減せえへんで直ちゃん。全力でいてもうたる」
 ヨンイルもまた犬歯を剥き不敵に笑う。
 先攻は僕。真打ちは後から登場とでもいうのか、ヨンイルは余裕を匂わせ腕を組み高みの見物を決め込んでいる。僕に先攻を譲ったのさえ余裕と自信の表れとさえ見えるその態度に沸々と怒りが滾る。
 ……落ち着け鍵屋崎直、冷静に。
 ブラックジャックは僕に漫画の素晴らしさを教えてくれた記念すべき一冊、手塚治虫という偉大な存在と出会わせてくれたきっかけだ。この勝負負けるわけにはいかない、決して。
 野次馬が見守る中、靴音高く通路の真ん中に歩み出る。
 眼鏡のブリッジに触れ心を落ち着け、口を開く。

 「生命とは何だ、医学とは何だ、進化とは何だ?ブラックジャックには人間の本質の根源をどこまでも真摯に突き詰める問いが溢れている、僕はその深遠な哲学と高尚な姿勢にひどく感銘を受けた。主人公のブラックジャックは患者に法外な治療費を要求する闇医者だがその実ひどく高潔な人格の持ち主でヒューマニズムに溢れている。ブラックジャックにとって札束は実はあまり意味と価値がない、ブラックジャックが患者に大金を払わせるのは金額に相応の覚悟を要求しているからであって彼を強欲だと非難するのは誤読も甚だしい、その信念は秀作と名高い一編『おばあちゃん』に端的に表れている。ブラックジャックにとって法外な治療費はあくまで患者とその家族の覚悟を試す口実でしかない。しかしブラックジャックはまた非情な一面も併せ持つ。『報復』ではBJが日本医師連盟に呼び出されきちんと医師免許を取得し正規の料金をとるよう諭されるもこれを拒否し投獄される、そこへイタリアの億万長者が『自分の子供を助けられるのはあなたしかいない』と訪ねてくるが医師連盟会長は頑として承知しない。そして億万長者の子供は手を尽くした甲斐なく死ぬ。後日連盟会長の息子が狙撃され危篤に陥る、犯人は実はイタリア・マフィアのゴッドファーザーだった億万長者のさしむけた殺し屋だった。会長は医師免許を手土産にブラックジャックに面会、息子を助けてくれるよう涙ながらに懇願する。しかしブラックジャックは彼の目の前で医師免許をびりびりに引き裂いてしまうのだった」

 そこまで一息に言い、理解が浸透するまでたっぷり一拍おいてあたりを見回す。

 「このようにブラックジャックは単純な勧善懲悪の正義の味方とは描かれず、善と悪の矛盾をあわせもつダークヒーローとして描かれている。その巧みな人物造形こそが彼のキャラに深みを与え時折覗くヒューマニズムを際立たせているのだ。『ブラックジャック』こそは人間の本質に鋭く切り込み光をあてた永劫に語り継がれるべき名作だ」

 熱弁に終止符を打つ。
 あたりに静寂がたゆたう。
 書架と書架のあいだの通路に群れ集まった囚人らがぽかんとした顔でこちらを見つめている。

 「「お………ぉ~!!」」
 一拍おいてどよめき。

 「すげえ、なにがなんだかわかんねーけどとりあえず凄さは伝わってきた!」
 「漫画にンな深い意味が込められてたなんて考えもしなかったよ、俺なんかピノコ可愛い~萌え~ほっぺつつきて~ってそればっかだったのにさすが天才は目の付け所が違うな!」
 「いつも分厚い本持ち歩いてるだけあって屁理屈語らせたら世界一だぜ、よっ、親殺し!」
 ……嬉しくない賞賛だ。
 ぱちぱちとやる気のない拍手に目を向ける。
 だらけきった姿勢で書架に寄りかかったレイジが手を叩いている。
 「お見事。なかなか熱の入った演説だったぜ」
 昼寝中の豹のように弛緩した雰囲気を漂わせるレイジの横、とことん単純なロンが感心しきって頷く。
 「つまりブラックジャックは『いい話』ってことだな」 
 ………簡潔にまとめすぎだ。
 「にしてもお前ずいぶんむずかしいこと考えながら漫画読んでるんだなー。疲れねー?」
 呆れ半分感心半分といった口ぶりでロンが聞いてくる。
 辟易した表情のロンにさも冷ややかな一瞥をくれこめかみをつつく。
 「僕は君たち低脳と違って漫画を読んでるあいだに左脳を眠らせておくようなもったいない真似をしないからな。IQ180の頭脳が活動停止状態で惰眠を貪るなどとそれこそ才能の無駄遣いというものだ、右脳と左脳は常に活性化させシナプスを促進させる必要があるのだ」
 ロンの顔に特大の疑問符が浮かぶ。僕の言葉の八割は理解してないだろうとその顔で結論する。
 ロンは知恵熱に苛まれるほど頭を働かせ僕の発言を理解しようと努めるも、どれだけ頑張っても湯気立つばかりで永遠に答えに辿り着けそうにない。もとより頭の出来が違うのだからしかたない。
 「直ちゃんは理屈っぽぅてあかんなあ。漫画は頭で読むんやなく肌と心で感じるもんやで」
 僕と入れ替わりに満を持してヨンイルが登場する。
 廊下の真ん中に悠々たる足取りで現れたヨンイルに野次馬が盛大な歓呼の声を上げる。大した人気ぶりだ。胸に手をあて心の在り処を示し、通路の真ん中に立ったヨンイルは一言一句に力を込め滔滔と語り始める。
 「御託は二の次や。大事なんはここや、ここ。ええか?漫画を読むのに理屈はいらん、ただ感じたまま思ったままを語ればええ。漫画読んでてよくあるやろ、『あ、危ないっ!』てシーンでぞくぞく鳥肌だったり主人公が必殺技放つとこで『よっしゃ!』って拳にぎってもうたり要はアレやアレ、キャラとの一体感こそ漫画読みの醍醐味なんや!相手が二次元かて関係あらへん、薄っぺらい紙きれに書かれたぺらぺらの人間に感動するなんてアホちゃうかて言う奴にはお前こそアホやてゴムゴムの飛び蹴り食らわしたるわ、漫画こそ人類のもっとも偉大な発明で最高の娯楽で体に血やなくてインクの流れとるオタクの主食なんや!!」
 「『ドーン』て効果音つきそうだな」
 ヨンイルの大袈裟ぶりに少し引き気味にロンが呟く。
 大仰な口ぶりで言い切ったヨンイルはますます興が乗ってきたらしく饒舌に前口上を続ける。
 ぐるりを囲んだ野次馬ひとりひとりに向かい手を広げ上げ下げし唾飛ばし、人が夢中になっているものを語るときの習性で目をきらきら輝かせ喜怒哀楽の表情も豊かに訴えかける。
 「漫画がオカズ?とんでもない!俺にとって漫画は主食や、毎日三食食うても飽きがきィへん米や、漫画とキムチさえあれば生きてけるんがこの俺図書室のヌシことヨンイルや!俺は心ン底からいや魂の底の底から漫画を愛してる漫画に人生賭けてるて言うてもええ、一生童貞でいるか漫画を死ぬまで読まずにいるかどっちか選べてつきつけられたら迷うことなく前者を選ぶ、漫画と縁切るくらいやったら一生童貞のまま死んだほうがマシや、棺桶にはせめてもの手向けとしてラブコメ四天王『めぞん一刻』『ストップひばりくん!』『てんで性悪キューピッド』『BOYS BE……』いれてもらうんや、まあ一人いらんもんついたヒロインまじっとるけど可愛いから許すこれ正義!!聞いたかワンフー、これ俺の遺言や。この先もし俺の身に万一のことあったら棺桶にいれる漫画リスト作っとくからこれ見て一緒にいれるんやで、一冊でももらしたら化けて出るさかいな」
 野次馬の輪の最前列に見覚えある囚人がいる。かつて僕と同じ売春班に配属していた西の囚人にしてヨンイルに心酔するワンフーだ。いかにも女好きのする優男だが、恋人の幻覚を抱きしめようと鏡に突っ込んだ傷痕が顔面に残っているのが痛々しい。
 自分の口上に興奮したヨンイルにわしわし肩を揺さぶられ、元売春夫は怒りに頬を上気させる。
 「ヨンイルさんそんな不吉なこと言わないでください、ヨンイルさんが死んじゃうなんて俺いやっすよ、絶対認めませんから!」
 「アホ、もののたとえや。俺は世界中の漫画という漫画読み尽くすまで死なへんてさっき言うたろ、耳クソかっぽじって聞いとけや。ちょい耳貸してみ……思ったとおり3センチくらいたまっとるで。マメに掃除しとかんとつんぼになるでー」
 「耳掃除は凛々の膝の上でって決めてるんスよ俺は、自分でやるのはずぼっと奥深く刺さりすぎて痛くて怖いし耳から耳血なんて出たら鼻から牛乳よか洒落になんねーし、なにしろ凛々の膝枕の感触薄れちゃいそうでやなんスよ!」
 あれやこれやと理由を並べ立ててみたが最後のが本音だ。
 ヒステリックな金切り声で涙目で喚き散らすワンフー、隙あらばその耳を掴もうと指をわきわきさせながらヨンイルが口を尖らす。
 「わっからんなー。生身の女がそんなええもんかい?漫画の女のが可愛くてけながでずっとええやんか、現実の女と違ってへんなところに毛え生えんし」
 「偏見だ。君は今『漫画の女性』と一括りにしたが脱毛の必要がない年代は二次性徴前に限定される」
 「こまかいことは気にすんな、漫画の女の子はみんなつるっつるのすべっすべや」
 ヨンイルが自信満々断言する。……どこからその自信が湧いていくるのか甚だ不思議だ。
 漫画を読めなくなるより一生童貞でいるほうを選ぶと豪語したヨンイルの男気にどよめきが巻き起こる。
 ……おかしい、何故僕が屈辱をなめねばならない?
 この僕が、IQ180の天才でありブラックジャックに対する思い入れなら誰にも負けないと自負するこの僕がヨンイルの熱弁に押され劣勢に回り不利な状況に負い目を感じねばならないのは不条理だ。
 身振り手振りに情熱迸らせ、カッと見開いた目に龍の息吹の如く爛々と闘志を燃え立たせ、西の道化もとい図書室のヌシは長い長い前置きを終えいよいよ本題に入る。
 「ブラックジャック言うたら漫画の神様手塚治虫の晩年の最高傑作、手塚漫画の真髄がこれでもかと込められた不朽の名作、太陽系に燦然と輝く金字塔や!ブラックジャックは通りいっぺんの正義の味方とちゃう孤高のダークヒーローで黒いマントを颯爽と翻しトランクひとつ抱え世界を渡り歩くハードボイルドな生き様に痺れる憧れる、せやけど何より注目したいのは!!」
 ヨンイルがズイと単行本を掲げババババと残像を曳く速さでページをめくる。
 皆ヨンイルの語り口の迫力に完全に引き込まれ固唾を呑み状況を見守る。書架に寄りかかり呑気に決め込んでいたレイジでさえ身を乗り出しロンは緊張の面持ちで生唾を呑む。僕もまた真剣極まりない勝負師の面持ちで単行本のページをめくるヨンイルを凝視する。
 目にもとまらぬ早業でページをすっとばしたヨンイルがとうとう目的のコマを見つけ快哉を上げる。
 「これや!!!!!」
 ヨンイルがページの半ばを持ち堂々と単行本を掲げる。
 ページの真ん中を挟みよく見せるようぐるりにめぐらしたヨンイルが、一際力を込めて「これだけははずせない」と信じる部分を強調する。
 「ブラックジャックは男のロマンの求道者、中身18歳自奥ちゃんにして幼な妻な幼女とのらびゅらびゅ同棲生活ちゅ~ロリに目がない漫画読みの夢を実現させたうらやましーっ男なんや!」

 ………通路に冷ややかな風が吹きぬけた。

 ヨンイルが指定したページには仲睦まじくじゃれあうピノコとブラックジャックの姿が描かれていた。ブラックジャックに『あ~んちて』と舌ったらずにねだるピノコと、ピノコの願いを聞いてしぶしぶ口を開けるブラックジャックという非常に微笑ましい図だ。……しかし、親子ほど年の離れた男女の何の変哲もない朝の風景がヨンイルにはまったく違ったものに見えるらしい。
 「ヨンイル、お前ほんとーーーーーーーに変態だな」
 「失礼な、せめてロリオタて言うてくれ」
 レイジの突っ込みにヨンイルは即座に反論し漫画のページをばんばん叩く。
 「崖の上の家で幼女と二人暮らしなんてある意味ロリオタの夢で理想をそのまま体現してるんがブラックジャックや。そもそもなんでピノコの擬体が幼女型やったんかそこから突っ込みたい、中身が18やったらそれに合わせて18の体用意すべきなのにブラックジャックがもってきたのは何故か三頭身おなかぷっくりの幼女型!まあ本人は『年相応の体が手に入らなかった』とかなんとかそれらしい理屈つけとるけど俺に言わせればそんなんごまかしや、ブラックジャックはほんとーーーはロリコンやったんや!甲斐甲斐しく自分の身のまわりの世話してくれる可愛いお嫁ちゃんが欲しゅうてわざわざ五歳児の擬体を用意したんや、しかもあんな丈の短いスカートまで揃えて破廉恥な!」
 もう我慢できない。
 ヨンイルの暴走に理性が弾け飛ぶ。
 「それ以上ブラックジャックを侮辱すると許さないぞ!貴様は彼のことを何もわかっていない、彼が医学に傾ける情熱や真摯な人間愛や信念やそういった事を全部すっとばしてピノコとのじゃれあいのみに重点を置くとは何事だ、しかも君の言い分ではブラックジャックがまるで幼女愛好者の変態に聞こえるじゃないか、今すぐに前言撤回と訂正を求める!」
 「わかってへんのは直ちゃんのほうや、ロリコンなんはブラックジャックやのぉて手塚治虫や」
 頑として持論を譲らぬヨンイルに忍耐力が切れそうになる。
 僕の抗議を鼻であしらい、ヨンイルは我こそ手塚治虫の最大の理解者という自賛に酔って賢しげに腕を組む。
 「ピノコは手塚治虫が生み出した最萌キャラや。『あっちょんぶりけ』っちゅー変な口癖もブサ可愛い潰れ顔も頭のリボンもひっくるめてあんなにロリ心くすぐるキャラが他におるかおらんやろ、けなげにちぇんちぇーを慕ってぱたぱた短い足であとついてまわる姿のいじらしいことちゅーたらもう犯罪や!しかも当時としては最先端の人造美幼女ヒロインちゅー斬新すぎる設定、早い話手塚治虫はロリとアンドロイドを組み合わせるっちゅー掟破りの発想でもって全く新しいヒロインを創造したんや」
 「嘆かわしいな、あんな素晴らしい作品をやましい目でしか見れないなんて」
 「欲望に忠実と言うてくれ。我が一生に一片の悔いなし」
 「ピノコを汚れた欲望の犠牲にするな」
 「ピノコの可愛さは万人が認めるところ。ロリは世界をすくうっちゅーんが俺の主張や。あ、これ救うと巣食うをひっかけとるんやで」
 悪びれたふうなく言ってのけるヨンイルにやり場のない苛立ちが募る。
 度し難い馬鹿だこの男は、下劣な妄想でブラックジャックを貶めるなどとてもじゃないが許しておけない。
 ヨンイルはブラックジャックの深遠な哲学も高尚な信念も何も何もわかってない、ただただピノコの可愛さに目が眩みピノコを讃えているだけだ。こんな不純な読み方しかできない男にブラックジャックは任せておけない、即刻彼の手から単行本を引き取らせてもらおう。
 決意も新たにヨンイルにむかって一歩を踏み出す僕を、地鳴りめいたどよめきが襲う。 
 「さすがヨンイルさんは言うことが違うぜ!」
 「オタクの気持ちをわかってらっしゃる!」
 何?
 耳を疑う。幻聴かといぶかしみ振り返る。
 通路に押し寄せた野次馬たちが高々と拳を突き上げ鳴り止むことないヨンイルコールをしている。信じがたいことに野次馬の大半は本気でヨンイルに共感しているらしく、最前の演説に感銘を受け滂沱の涙を流すものさえいる。

 まさか。馬鹿げている。

 「俺たちオタクの気持ちを何から何までわかってくれるのはあんただけだよヨンイルさん!」
 「ロリオタの何が悪いんだ、ロリオタにだって人権があるんだよ、ささやかな楽しみを踏み躙らないでくれよ!なあ聞いてくれよ、俺が強制労働でぐったり疲れた体をベッドに横たえて唯一の楽しみの漫画を読み耽ってるとこ見て同房のやつなんて言ったとおもう?『いい年して漫画なんか読んでんじゃねーよオタク、きめーんだよ』あげくに『童貞が伝染るから半径1メートル以内に近寄んな』とか言い出しやがってあの野郎……畜生いい年して漫画にハマるののどこが悪いんだ、なるほど俺は犯罪者だよ覗きと痴漢の常習犯で逮捕されたクズだよ、娑婆じゃあ生身の女のケツを揉んで揉んで揉みまくってそれでとうとう砂漠くんだりまで送られてきたどうしようもねえクズだよ!けどな、ここに来て俺は変わったんだ。漫画と出会って変わったんだ。もっと早く漫画と出会ってたら俺も道ふみはずさなくてすんだんだよ、だって漫画に出てくる女の子は皆現実の女よかエロくて可愛くて最高なんだ、二次元の女の子はこんなブサイクな童貞の俺でも拒まず受け入れてくれる見た目も中身も綺麗な子ばっかなんだ……畜生もっとはやく二次元の仲間入りしてりゃよかった、さくらちゃんは俺の天使だ!」
 「漫画に萌えて何が悪い、幼女に萌えて何が悪い!」
 「俺たちはあんたの味方だヨンイルさん!」
 「一生ついてきますヨンイルさん!」
 「二次元に魂売り渡したあんたの男気に惚れたぜ!」
 「あんたになら抱かれてもいい!」
 「「ヨンイル!」」「「ヨンイル!」「「ヨンイル!」」……

 熱狂した野次馬が両腕を突き上げヨンイルを褒め称える。
 ヨンイルはまんざらでもなさげに興奮一色で塗り潰されたあたりを見回していた。
 納得できないのは僕だ。
 「ヨンイル、貴様……何名さくらを仕込ませた?」
 「自分が不利やからて人聞き悪いこと言わんといてや。俺の魂の叫びがオタクの心を打ったんや」
 仮にヨンイルの言い分が事実だとして……事実だとは認めたくないが……東京プリズンの連中は、否、少なくともここにいる連中はそんなやましい目で漫画を見ているのか?絶望的な眩暈を覚え片手で頭を支える。現実の女に余程手酷く振られたかどうかしたのだろうか、傷心のあまり二次元に走ったオタクどもから絶大な支持を受けるヨンイルにもはや勝てそうもない。さっぱりしない。というかそもそもこれは何の勝負だったんだ、最初はヨンイルが漫画に対する愛を証明すると言って成り行き上僕も巻き込まれ勝負をすることになって……
 そこでふと大事なことに気付く。
 「君が証明したのは幼女に対する愛であって漫画に対する愛じゃない」
 「つまらんこと言いっこなし。で、審判はどっちに軍配上げる?」
 既に勝利の愉悦に酔ったヨンイルが意味深にレイジに目配せする。
 「キーストアの言い分も悪かねーけどちょーっと理屈っぽいんだよな。妄想爆裂のヨンイルの話のが聞いてて面白かった、少なくとも暇つぶしにはなったし……やっぱエロって大事だな、うん」 
 ひとり納得するレイジを殺意を込め睨みつける。
 こんないい加減な男に審判を頼むなどもってのほかだ、ヨンイルは人を見る目がない。
 退屈そうに欠伸するレイジの隣、僕とヨンイルとを交互に見比べロンがまごつく。
 僕とヨンイルの顔があまりに真剣で気圧されたか、こめかみにつぅっと冷や汗を伝わせる。 
 「あーえ~と……つまりどっちがよりブラックジャックが好きかってことだよな?わかってるって、ちゃんと聞いてたって。んなおっかない顔で睨むなよ……えーと、鍵屋崎の演説は相変わらず小難しくて何が何だかよくわかんなかったけどとりあえずブラックジャックがすごいやつなんだなーってのは十分すぎるほど伝わってきた。ブラックジャックはただのケチじゃなくてすっごいドケチで、でもケチはケチだけど世界を股にかけるドケチだってそういうことだろ?患者から大金ふんだくって世界中旅して回ってるって言や聞こえ悪いけど、それだって世界中に助けを待ってる患者がいるからで、だからえーと……ブラックジャックはいいやつ、なのか……?」
 ロンが混乱する。
 必死に考えを纏めようと焦りに焦るもどんどんこんがらがり何が何だかわからなくなる。
 「あー、むずかしーことはよくわかんねーけど……とりあえずこれだけは言える」
 一旦考えを脇において顔を上げ、凛々しく顔を引き締めたロンがヨンイルを真っ直ぐ見据える。
 「ヨンイル、お前キモい」
 「ロン、君の感性がまともで安心した」
 一方ヨンイルはこのフォローしようもなく率直な発言にショックを受けたらしく、大きく仰け反った拍子に額のゴーグルがずりおちて目の位置をすっぽり覆い隠す。
 「なんで!?どないして!?こないだメルモ貸したった恩忘れたんかロンロン!!」
 「それとこれとは別だしメルモ貸してやったとか大声で言うんじゃねえ。大体ピノコって中身はともかく見た目はちっちゃい女の子だろうが、そんなちびっこ相手に萌え~とか叫んでるのさすがに引くよ、傍から見てるとカンペキあぶねーやつだよ。紙の上の女相手にさかるのは別にかまわねーし男ならだれでもそんなもんだってのは否定しねーよ、俺だって前に五十嵐にもらったエロ本オカズにヌいたし……けどピノコはやべーだろピノコは、犯罪だろ」
 「せやかておれ犯罪者やし」
 「当たり前だろ、犯罪者じゃなきゃそもそもここにいねーって。そういう意味じゃなくって、何ていうかさ……お前がブラックジャック読んでピノコのパンツが見えそうで見えねー絶妙のコマを俯瞰とあおりあらゆる角度から眺めて前屈みになってる絵ヅラが犯罪だってんだよ」
 「ロンロンはメルモでヌかんかったん?」
 「ヌくわけねーだろ!」
 無神経な指摘にロンが激怒する。
 頭から湯気たて食ってかかるロンを「まあまあ」と羽交い絞めにしレイジがにっこり微笑む。
 「ロンが溜まったら俺がヌいてやるから。口でも手でもお好ぶふっ!?」
 ロンの拳が顎に炸裂しレイジが奇声を発し仰け反る。  
 「だれがてめえの手ェ借りるか自分でヌくよ俺の下の心配まですんなばか!」
 「つれねーこと言うなって。せっかく俺がいるんだから頼ればいいじゃねーか、便所もシャワーも一緒の同房の相棒に遠慮はいらねーよ」 
 「遠慮じゃねーっつの!ヌくとかヤるとかお前の頭ン中はそれっきゃねーのかよ万年発情期のエロ豹め、お前が万事その調子で俺のケツおっかけてるからこちとら気が休まる暇がねーんだよ!」
 豹と猫がじゃれあいをはじめる。こぶしを振り回し毛を逆立てふーっと威嚇するロンをのらりくらりと笑顔でかわすレイジ、見慣れた痴話げんかからヨンイルに視線を転じる。
 「レイジはヨンイルに一票、ロンは僕に一票。さて、どうする?」
 「このままおめおめ引き下がったら図書室のヌシの名とじっちゃんのゴーグルが泣くで」
 ゴーグルをぐいと掴み引き上げ、苛烈な光漲る双眸を外気に晒す。
 ヨンイルはあくまで決着をつける気だ。
 そちらがその気なら望むところだ、とことん付き合ってやる。
 ヨンイルがざっと視線を巡らし手近な囚人に白羽の矢を立てる。ヨンイルと目が合った囚人は嫌な予感を襲われ即座に回れ右し逃げようとするも、道化に首ねっこを掴まれずるずる引き戻され哀れな生贄よろしく床に放り出される。
 どさりと尻餅つき、哀れっぽい顔で僕らを見上げるのは……
 ワンフー。
 床にへたりこむワンフーを居丈高に見下ろし、図書室のヌシの威厳たっぷりにヨンイルが宣告する。
 「ワンフー、俺と直ちゃんのどっちがよりブラックジャックを愛してるかお前が決めぃ」
 「な………!?」
 顎が外れんばかりにワンフーが驚愕。無理もない、突如自分にお鉢が回ってきたのだから。しかもたまたま最前列にいただけで。
 どちらか勝者か決めろとにじり寄られたワンフーがだらだら冷や汗を流し僕とヨンイルを見比べる。
 「そんな、なんで俺が……無理っスよ、二人のうちどっちかに決めるなんてできませんて!ヨンイルさんは西のトップで俺の憧れの人だし鍵屋崎は売春班の恩人だし二人のうちどっちか選べなんてあんまりっスよ、ひどいっスよ!」
 「勝負に情けは無用や。お前が感じたままを言えばええ」
 寛大に促すがその目は少しも笑っていない。僕にはヨンイルの背後にとぐろを巻く龍の幻が見えた。
 「ヨンイルに同感だ。遠慮は要らない、ワンフー。僕とヨンイルどっちの意見により感銘を受けたかありのままを述べればいいのだ、それですべて片が付く。ブラックジャックがいかに深遠な哲学を秘めた傑作かを主人公の人物像を掘り下げることで克明に描写した僕と、ぽっこりと腹が出た奇形の三頭身幼女に『萌え~』だの『ロリ~』だのと頭の悪い単語を連発しひたすら下品で下劣な妄想を捲くし立てたこの男と、どちらがよりブラックジャックを深く正しく理解してるかありのままを述べればいいんだ」
 できるだけ冷静に、ワンフーのような低脳にもわかりやすく噛み砕いて諭してやる。
 気炎を吐く龍にも似て闘志みなぎる眼差しでヨンイルが僕を刺す。
 「漫画に対する愛の深さで俺に勝てる思うてんのか?直ちゃん」
 ヨンイルの顔が間近に来る。避ける暇もなく顔の横で音が炸裂する。
 横の書架を平手で叩き、前屈みの姿勢をとって僕の顔を覗き込み、吐息がかかる距離で囁く。
 「甘い。直ちゃんははてしなく長い漫画坂を上り始めたばかりなんやで」
 「また漫画の引用か?たまには自分の台詞でしゃべってみたらどうだ、借り物の個性はみっともないぞ」
 それで脅してるつもりか?笑わせる。
 余裕をもって腕を組みヨンイルを見返す。
 取り澄ました表情で道化を仰げば、僕の不敵な態度が上等だといわんばかりにほくそえむ。
 ヨンイルとの間で火花が爆ぜる。
 天才のプライドにかけてこの勝負敗けるわけにはいかない、絶対に。
 ワンフーは僕とヨンイルを交互に見比べ重荷を一身に背負った深刻な面持ちで逡巡している。
 通路を取り囲む野次馬が息を呑む。ロンとじゃれつきながらレイジがこちらを窺う。
 追い詰められたワンフーににじり寄り、決断を迫る。
 「さあどちらだ?」
 「どっちの勝ちや?」
 「う……ぅ……うう……」
 自分の一言で勝敗が決する、勝負の行方が決まる。
 だらだらと汗を流し苦悩するワンフーの顔が極限の葛藤に引き歪み、喘ぐように唇が開きまた閉じ、意を決し引き結ばれる。
 ワンフーが胸郭を上下させ深呼吸し、天井へ抜ける声で絶叫する。
 「り、凛々の勝ち!!!」
 「「は?」」
 呆気にとられた僕とヨンイルの前でワンフーは脱兎の如く身を翻し逃走をはかる。調子っ外れの声で恋人の名を叫んだワンフーに我に返ったヨンイルがすかさず手を伸ばすも遅く、ワンフーは手足をばたつかせ野次馬に体当たりし通路の先へ転がりだす。
 「ちょい待て、言い逃げは許さへんで!凛々てそりゃお前の女の名前やんか、この場にいないやつの一人勝ちって一体どういうこっちゃ、俺と直ちゃんの仁義なき闘いに泥ぬるようなまねしくさって許さへんでワンフー、西に帰ったら月に代わってお仕置きや!」
 這うようにして逃げるワンフーを追いヨンイルが素早く走り出す。
 床を蹴り勢いをつけ駆け出すヨンイルの背中を呆然と見送る僕のもとへ、レイジがにやにやしながら寄ってくる。
 「一勝一敗一棄権で引き分けだな」
 ドンマイとでもいうふうにポンと僕の肩を叩く。
 階段の手前でワンフーに追いついてとびかかるヨンイルを見つめ、ロンが溜め息をつく。
 「……思ったんだけどさ。勝ちとか負けとかカンケーなしにお前の毒舌聞きたかっただけじゃねーの、あいつ」
 「わかるわかる、キーストアの毒舌聞いてると癖になるもんな。常習性があるってゆーかさ」
 「食らえ、童貞卍固めー!」とはしゃぎつつワンフーを絞め落としにかかるヨンイルを小手をかざし見やり、ついでレイジは僕を見る。
 例の食えない笑みを浮かべ。
 「モテモテじゃんキーストア」 
 「は?」
 脳天から間抜けな声を発する僕に苦笑を漏らし、レイジはなにもかも見透かすような口ぶりで言う。
 「あいつのこともっと構ってやれよ、お前と遊びたくてしかたねーんだから」
 少し離れた場所からヨンイルを眺める目には、柔和な色があった。
 レイジの含みありげな台詞を追究しようと口を開きかけ、また閉じる。視線の先ではヨンイルとワンフーが縺れ合いごろごろ床を転がっている。
 ヨンイルが陽気に笑う。額にかけたゴーグルが蛍光灯の光を弾き眩く輝き、大きな口から覗く八重歯が快活な顔に愛嬌を足す。
 
 ヨンイル。
 西の道化。
 僕の、友人。

 「………まったく、僕の友人はどうしてこう手がかかるやつばかりなんだ」 
 レイジのにやにや笑いとロンの同情の眼差しに送られ大股にヨンイルに歩み寄る。
 靴音高く通路を歩きヨンイルに接近、ぐるぐる目を回したワンフーの腹に飛びのった道化の後ろ襟を掴んで引き剥がす。
 「図書室では騒ぐな。常識だ。ヌシのくせに僕に説教させるんじゃない」 
 ヨンイルが僕を振り向きニッと笑う。
 「もっと叱ってや、直ちゃん。たーんと叱ったって」
 「頭でも打ったのか?」
 「なんやろなーけったいやなーて自分でもあきれとるんやけど」
 そこで一呼吸おき、ヨンイルはでれりと笑み崩れる。
 面白い漫画を読んでる時と同じ、一点の曇りない笑顔。
 「直ちゃんとくだらんことしゃべくれるんがなんや嬉しゅうてしゃあないんや」
 そう言って大事そうにゴーグルをなでる。
 ゴーグルの表面には五十嵐に撃たれた際の弾痕が穿たれて、ヨンイルが奇跡的に死の淵から生還しここにこうしている事実に改めて思い至る。
 「また直ちゃんの毒舌聞けてホンマよかったわー生きてた甲斐あったなーて、あんじょうしあわせ噛み締めてたとこ」
 暗さや悲観とは無縁のせいせいした口ぶりで言い、少しだけ照れくさそうに尖った犬歯をちらつかせる。
 真っ直ぐな目と物言いに続く言葉を失うも、額のゴーグルに穿たれた弾痕とその下の弾けんばかりの笑顔を見比べ、ヨンイルが今ここにこうしている事実に安堵とも喜びともつかぬ感情がひたひたと込み上げてくる。
 
 ひょっとしたらあの時永遠にヨンイルを失っていたかもしれない。
 今頃彼はここにこうしていなかったかもしれない。
 ヨンイルは万に一つの確率で生き残ったのかもしれないのだ。
 
 こうして当たり前に流れる日常が、
 こうしてくだらないことをしゃべる日々が。
 
 僕はきっと、そんなに嫌いではない。

 「毒舌くらいいつでも聞かせてやる。君が生きている限り何度でも飽きるほど罵倒を浴びせてやるから覚悟しろ」
 努めて無表情を装いそっけなく吐き捨てれば、僕の後ろ襟を掴まれ引きずられたヨンイルがだらしなく顔を弛緩させ笑み崩れる。
 この上なく幸せそうでほのかにくすぐったそうな笑みは、これがかつて二千人を殺した爆弾魔かと目を疑うもので。
 否。
 「おおきに、直ちゃん」 
 ヨンイルは僕の友人だ。
 かつてヨンイルが二千人もの大量殺戮を犯したのが記憶から拭い去り難い事実だとしても、彼が僕の友人であることは変わりなくて。
 僕はきっと何度同じ状況に陥っても、同じ行動をとるだろう。
 ヨンイルを助けにリングに走り出し無謀を承知で五十嵐の銃を奪いにかかるだろう。
 偽善と呼びたければ呼ぶがいい。
 僕はただそうしたいからそうしたのだ。
 この弾むような笑顔が打ち砕かれるのが嫌で、彼と馬鹿話ができなくなるのが物足りず、何度でも何度でも彼を助けにむかうだろう。
 僕はまだまだヨンイルと話したいことが山ほどある。
 新しく読んだ漫画の感想も再読して初めて気付いた発見も、そのすべてをヨンイルに話し意見を仰ぎ議論を交わしたい。

 僕が世界中の漫画を読み終わるまで彼に死なれては困る。  
 僕が読破した漫画の量が彼を上回るまで、勝ち逃げは許さない。

 大人しく手足を投げ出し引きずられるがままになるヨンイルにむかい、僕は言う。
 「決着は次の機会に持ち越しだ」
 「負けず嫌いやな」
 「僕のほうがブラックジャックが好きだ」
 「俺かて負けへんもん」
 むきになって食いつくヨンイルに口角を吊り上げ不敵な笑みを形作る。
 「君は本当に漫画が好きだな」
 そっけなく揶揄を投げれば、それまで無抵抗に床を引きずられるがままになっていたヨンイルが唐突に肩を跳ね上げる。

 「好きやねん」

 声につられ下を向く。
 僕に後ろ襟を掴まれ床を引きずられていたヨンイルがくるりとこちらを向き、ひどく真剣な顔で僕を凝視する。
 真摯な光が揺れる双眸に思わず引きずり込まれそうになる。
 どこか切迫したものを湛えた表情は固く張り詰め、一縷に僕を見上げる眼差しは何かを訴えかけるようで。
 「好きやねん、ホンマに。………………漫画が」
 「二度くり返さなくてもいい」
 わざわざくり返す意味がわからない。
 困惑した僕の表情をなおしげしげと探り、期待した反応が得られないと知るやがっくり肩を落とし、胸の奥に溜めていた息を深々吐き出す。
 「………俺のアホたれ」
 「何か言ったかヨンイル?」
 「なんでもあらへん」
 
 前言撤回。
 ヨンイルはよくわからない男だ。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010605031358 | 編集

 意識が朦朧とする。
 浅い呼吸に合わせ肩が浮沈する。
 顔のすぐ横、産毛を焦がす距離で煌々とランプが輝く。
 顔の横の明かりを頼りに視線を上げる。
 そして漸く気付く、自身をめぐる異様な雰囲気と異常な状況に。
 板張りの土間に這わされた体に屈強な男が三人むしゃぶりついている。
 ヨンイルの背に被さった男はこの中で最年長らしく、弛んだ腕の皮膚に老人斑が浮いている。
 ランプの明かりを透かした腕の皮膚に筋張った静脈が浮かび上がる。

 せや、気ぃ失っとる場合ちゃう。
 まだ終わっとらんのや。

 己に言い聞かせ尽きかけた気力を振り絞る。
 何秒、いや、何時間失神していたのかさだかではないが作業はあまりはかどってないらしい。
 意識が途切れる前はたしか肩甲骨のところを彫っていた。
 今漸く下書きに墨を入れ終えたところらしく、右の肩甲骨に若干違和感を覚える。
 肩甲骨に鉛弾を仕込まれたようなかすかな違和感と余韻を帯びて鈍く重く沈殿する疼き。
 針の痛みを表現するのは難しい。
 一針目は蜂のようにちくりとし、二針目からはずきずきと疼いて後を引く。
 この数日間彫りかけの刺青が疼き夜も眠れず生殺しの責め苦を味わった。
 右の肩甲骨はひとまず完成を見たらしく、満足げな吐息が耳裏を湿らす。
 次は左側。
 精魂込めて研いだ針を角度を調整し左の肩甲骨に添える。
 鋭利に研いだ針を肌にあてがわれた時のひやりとした戦慄、針先がゆっくりと肌を穿ちゆく痛みに備え息を止める。
 予期していた刺激が来る。
 一打ち目は鋭く爆ぜ、二打ち目からは鈍く疼く。
 「っあ、は………」
 喉が仰け反る。
 苦鳴がくぐもる。
 節くれだった手が容赦なく腰を押さえ付ける。
 「動くな。死ぬぞ」
 耳裏で囁かれる脅し。
 背中に宛がわれた針は最初肌にふれるとひやりとしたが、じきに人肌に馴染んで熱をおびてくる。
 異物の侵入に肌が粟立つ。
 毛穴から分泌された汗でぬめる肌に火花のような点睛の痛みが爆ぜる。
 舌を噛まないようしっかり口を閉ざす。
 ひとおもいに気を失ってしまったほうがらくだった。
 しかし朦朧と意識が掠れゆくたび彫刻刀の切っ先が肌に潜り込み鋭い痛みを与え現実に引き戻された。
 まどろみと覚醒のはざまで悶え苦しむヨンイルの背にのしかかった職人は己の職務と彫り師の信念に忠実に若く張りのある見事な肌を刻んでいく。
 弛みひとつなくぴんと張った肌に、キンと音が鳴るほど研ぎ澄まされた針先が抵抗なくもぐる。
 手筋は確かだが施術の痛みまで消せはしない。
 麻酔を使えばそれは可能だ。
 施術中に麻酔を乞う人間は多いが、その時点で組織にふさわしくない根性なしと失笑を買うはめになる。
 辛い痛みに耐え抜いて初めて組織の一員と認められる。
 組織への貢献度に比例し彫る部位と大きさが変わる刺青は、身を切り刻む苦痛に耐え抜いてこそ初めて意味と神性をもつ。
 刺青を彫る行為は、度胸試しの儀式。
 痛みに耐えて消えない刻印を背負うことで帰属組織への忠誠と服従、己が手が血で汚れるのも厭わず売国奴を誅し祖国を取り返す覚悟を示す。

 名誉の勲章か不名誉の烙印か、
 あるいは一涯消えぬ罪人への刑罰か。
 
 「若くて張りのあるいい肌。さぞかし刺青が映えるだろうな」
 皮膚に墨が定着するのを待つあいだ、しっとり汗ばんだ手がいとおしむように背中を撫でる。
 爺ちゃんの手やない、と思う。爺ちゃんの手はもっとしわしわのかさかさでおおきゅうてあったかいんや。
 爺ちゃんはこんな触り方せん。
 節くれだった手がしつこく背中をなでる。
 てのひらで肌の吸いつきを確かめ肩甲骨のあいだをまさぐり背筋に沿って何往復も上下し、まだ成長しきらぬ腰回りを骨の突起を確かめるように入念に揉みしだく。
 ごつごつ骨張った手がうなじにかかるたび一気に生皮剥がれる恐怖が襲う。
 焦らされるのは堪忍と脂汗がしとどに流れ込む目を瞑る。
 ためる。
 吸う。
 吐く。
 一呼吸ごとに小気味よく打ち込まれる針が拍動に似たリズムを生む。
 針で刻まれた皮膚が熾火に炙られているようにちりちりする。
 皮膚が燻る。
 切り刻まれた肌がひりつく。
 意識が朦朧とする。
 助けを求め無意識に伸ばした手で床を掻く。
 床を掻く軋り音に、熟練の技術が冴える針の打ち込みが重なる。
 まどろみをたゆたう意識が針が打ち込まれる一刹那だけ火花の如く鮮烈に冴え、曖昧に沈殿していた痛覚が極限まで尖りきる。
 「っあ………!」
 たまらず声が漏れる。
 掌に爪が食い込む。

 シャッキ。
 シャッキ。
 シャッキ。
 彫り物に独特の肌が削り取られていく音がする。 
 手彫り。
 柄の先で針を束ね、手を動かして肌に墨を入れる。
 シャッキ。
 羽彫り 
 針を皮膚に刺した後、針先を跳ね上げることで穿孔が広がり色素が多く入る。
 シャッキ。
 突き彫り。
 手彫りの一手法、呼んで字の如し一点集中で狙いを突く。 

 熟練のテクニックを駆使し、彫り師は意のままにヨンイルの肌を刻んでいく。
 脳天から爪先までびっしょり汗に濡れそぼつヨンイルが喉仰け反らせのたうつのを四肢を押さえ込んだ男たちは、自らも痛みに感応したか顔を顰め、同情の目で眺める。一人がヨンイルの肩を押さえもう一人はヨンイルの足を床に広げる。
 大人二人がかりで押さえ込まれては抵抗しようがない、逃げるなどもってのほか。
 瞼の裏に祖父の顔がちらつく。
 刺青を欲しがったのはヨンイル自身だ。
 正式な洗礼を受け、組織に入るのを望んだのは自分自身だ。
 祖父は娘を人質にとられ渋々組織に入り爆弾作りに加担させられた。
 人の喜ぶ顔が見たくて花火師を志した男が人を殺す道具作りに関与する人生の皮肉を知るにはヨンイルはあまりに幼すぎ、祖父が隠し秘めた苦悩と悲哀にも気付けなかった。
 ヨンイルは祖父を慕い憧れいつしか祖父のような立派な職人になりたいと志し、祖父の目を盗んで組織と通じ爆弾を作るようになった。
 ヨンイルは乞われるがまま爆弾を作った。
 物心つく頃から火薬を扱う祖父を見てきたのだ、始まりから終わりまで手順はすべて刷り込まれていた。
 ヨンイルは子供らしい好奇心から祖父を真似、手遊びの一環として火薬を仕込み配線をいじくり爆弾を作り、その数がひとつふたつと増えるにつれ自信がつきもういっぱしの職人になったつもりでいた。

 人殺しの手伝いをしてる意識はなかった。
 意識がないから抵抗もなかった。
 組織はヨンイルが作った爆弾を喜び貰い受けた。

 ちょうど気力体力とも枯渇した祖父が老齢を理由に引退をほのめかしていた頃で、優秀な職人を失くすのを惜しんだ組織は、職人を引き止められないならいっそ後継者を育成しようと幼い頃より火薬いじりの才能を萌芽させたヨンイルに目を付けたのだ。
 ヨンイルは組織の要請に従い、体が弱り床に就く事が多くなった祖父の代わりに破壊活動に使われる爆弾を作った。
 自分が手がけた爆弾が実際に使われる現場を見ればまた感想は違ったのかも知れないが、日々市民を巻き添えに過激さを増し多大な被害をもたらすと報道されるKIAのテロ活動も、ヨンイルには日常を隔てた遠い世界の出来事としか思えなかった。
 ヨンイルは祖父に似て手先が器用だった。
 幼い頃からこっそり仕事場に忍び込んだヨンイルは興味津々目を輝かせ祖父の道具をいじくりまわし、悪戯の現場を祖父に踏み押さえられては大喝を食らい脳天に拳骨を頂戴したが、酒が入って上機嫌になった祖父はよく小さいヨンイルを膝にのせ、手先の器用さを生かして作ってやった他愛もない玩具で孫と戯れた。
 祖父がKIAの爆弾作りを請け負っているのは知っていた。
 そういう時の祖父は大抵不機嫌で仕事場にこもりきり、ヨンイルが戸の隙間からこっそり覗くたびうなだれた背中をさらして手先を動かしていた。

 「はあっ、はあっ、あ、はあ………」 
 苦しい。辛い。逃げたい。

 でも逃げない。
 逃げてたまるかい。

 俺はこれから、じっちゃんの人生を背負うんや。
 じっちゃんが昔俺をおぶってくれはったように、じっちゃんの代わりに業を背負うんや。
 ええ加減、じっちゃんをラクにしたらんと。
 爺孝行は孫の務めやさかい。
 
 祖父はこれまでヨンイルの代わりに、娘の忘れ形見を育て上げるため意に染まず組織に従い続けたのだ。
 本当は人を喜ばせる花火だけを作っていたかったのに爆弾を作らねば生きていけないから、組織の監視下におかれ孫を人質にとられたも同然の祖父は信念をねじ曲げて組織の命令を受け入れざる得なかった。

 これからは俺が、じっちゃんの代わりにおぶったる。
 じっちゃんに苦労かけへん。
 じっちゃんはもう、爆弾なんか作らんでええんや。
 好きな花火だけ作って暮らしたらええんや。
 ヨンイルは祖父を組織に強要された爆弾作りの義務から解放する為、他ならぬ己を龍を身に入れて宥める器として差し出したのだ。
 ヨンイルは常に生贄を求め荒ぶり災厄を撒き散らす龍を鎮めるための人身御供だ。
 
 熱に冒された頭がふらつく。
 とりとめない思考が泡沫のように結んでは弾け曖昧に拡散する。
 自重を支える力さえ失い今にも倒れそうな有様のヨンイルを見下ろし、彫り師は冷静に嘯く。
 「辛いか。そりゃ辛いだろうな。刺青も炎症の一種にゃちがいねえ。しかもお前の場合は全身、体力が保たなきゃぽっくり逝っちまうかもしれん」
 熱と苦痛で朦朧とするヨンイルの背中に針をあてがい、下書きに沿って溝を彫り緻密な飾りを施しながら職人が囁く。
 無骨な男の手により一枚一枚鱗が模写されていく。
 肌を覆った鱗の縁に針が入れられ一枚一枚に命が注入される。
 流麗な手つきでもって巧妙に針を操り鱗を浮き彫りにする。
 ぬめりうねる蛇腹が次第に鮮明さを増し現れいづる。
 職人が昂ぶりに息を呑む。
 「こりゃあ絶品じゃ……百年に一度の逸品じゃ……」
 欲情に掠れた息遣いと淫蕩な熱に浮かされたうわ言を聞く。
 朦朧とする意識の中、板張りの土間に火照った頬を預けたヨンイルは渇いた口を動かす。
 「水………くれ……」
 息も絶え絶えに掠れた声を絞り出す。
 喉がからからだ。
 飲まず喰わずで刺青を彫り続けた為軽い脱水症状を呈している。
 虚ろな目が呆と床を彷徨う。
 肩が浅く浮沈する。
 飢えと乾きと熱と痛みとに苛まれ疲労が極限に達し、もういつ意識が途切れてもおかしくない状態だ。
 実際先刻から何度もまどろみと覚醒を繰り返し彼岸と此岸のはざまを行き来してる。
 ぎりぎりまで引き絞られ張り詰めた糸がその緊張に耐え切れず弾けるように、心身ともそろそろ限界に達しようとしている。
 消耗しきった体を無造作に投げ出し、脂汗に塗れた憔悴の面差しで床を見つめ、誰にともなく乞う。
 「………喉渇いた……ひりひりすんねん……頼むから、水………後生やから……」
 「そんなに飲みたいか」
 耳朶に吐息がかかる。彫り師が顎をしゃくり拘束係の一人に命じる。
 拘束係がその場を離れ、コップ一杯の水を汲んで持ってくる。
 水。
 ごくりと喉が鳴る。
 熱に潤んだ物欲しげな瞳でなみなみと水が注がれたコップを追う。
 ヨンイルの目の前でコップがさらわれる、あっけなく。
 「!なん………っ」
 獣の唸りじみた抗議の声を腹の底から発するも相手は取り合わない。
 ヨンイルの目と鼻の先で悠々コップに手をかけ至って無造作な造作で口に運ぶ。
 美味そうに喉を鳴らしたちまち干す。
 大きく仰け反った喉の仏がランプの光を反射しぎらぎら剣呑に尖る。
 ヨンイルは必死にもがく、暴れる。
 無力を承知で四肢よじり手を伸ばし既に空になったコップを取り返しにかかる。
 手負いの獣じみてがむしゃらに暴れるヨンイルに、見せつけるように空のコップをもてあそびながら彫り師は言い放つ。
 「お前にはやらん。上物の肌がふやけたらどうする。水でたぷたぷの肌なんぞ彫る気うせる、肌の締まりがよくなるよう水断ちしとけ」
 彫り師が喉の奥でくぐもった笑いをたてる。
 「クソ爺………殺したるっ………」
 たった一杯の水すら与えられぬ恨みがヨンイルを駆り立てる。
 疲労に塞がりかけた双眸が滾り立つ憎しみにぎらつく。
 極限の憎しみに引き歪んだ壮絶な顔。
 殺意を剥き出しに呪詛を吐くヨンイルの後ろ髪を乱暴に掴み、がくんと首を反らせる。
 「痛ッあぅぐっ、」
 後ろ髪を引っ張られる痛みに堪らず苦鳴を発する。
 ぎらつく憎しみに塗り潰された顔が今度は苦痛に歪む。
 頭皮ごと毟り剥がされる恐怖に喘ぐヨンイルに舌なめずりし、獲物の抵抗に愉悦を感じる凄味を帯びた声でもって囁く。
 「乾いてるか」
 体に触れる手がいやらしさを増す。
 体に触れる手の気持ち悪さにヨンイルは呻く。
 彫り師の手には逆らえない、体を開いて委ねるしかない。
 逆らっても痛みが増すだけ、傷が増えるだけだ。頭ではわかっていても体が自然と拒んでしまう。
 肌を這い回る手の感触に吐き気をもよおす。
 「舌を出せ」
 彫り師がヨンイルの頭上でコップを逆さにする。
 コップの内側をじれるような緩慢さで水滴が伝い、ふちから落ちる。
 物欲しげに舌を出す。
 息切れした犬のように限界まで舌を伸ばしたった一滴の雫をねだる。
 コップのふちから零れた透明な雫は音もなく虚空を滑り、狙い定めたようにヨンイルの舌に落下、乾いた舌にじわりと染み入る。
 こくりと喉を鳴らし、呷る。
 妙に艶かしい喉仏の動きが劣情を煽る。
 「甘露だろ」
 苦しげに仰け反る喉を汗が伝う。
 たった一滴の水で喉の渇きが癒せるはずもない。
 一瞬にして舌に溶けて消えた雫を惜しむように艶かしく舌を波打たせ反芻、ぬれた音も淫猥に口腔を捏ね回す。
 物欲しげな舌使いの淫らさに倒錯的な興奮が高まる。
 「もっと欲しい……水、くれ……体ん中もそともからからで火が付いてまいそうや……」
 息遣いも苦しげに、倦怠に濁り始めた目と弛緩した表情のヨンイルがよわよわしく彫り師に縋る。
 しかし彫り師は一縷の望みをかけ自分に縋り付くヨンイルの後ろ髪を掴み再び伏せさせるや、右手に構えた針を脊椎の下辺にあてがう。
 脊椎の下から三番目、ちょうど龍のあぎとにあたる部分。
 裂けた口腔から剥き出される獰猛な牙の先端に針を添え、指先に圧力をかける。
 昂ぶりを抑えきれず舌を舐める。集中力が最高潮に達し神経が冴えに冴え渡り、ちりちりと燻る指先に針を預け、左手で支える。
 ランプの明かりを受け、彫り深い陰影に隈取られた彫り師の顔が邪悪に歪む。
 「それなら火を起こしたる」
 背中に鋭い痛みが走る。
 消し炭にむりやり熾き火を掻きおこすような感覚。
 干からびた体のどこを絞ってももうないものをむりやり搾り出すような、切ない疼き。
 「!?いあっ………、」
 体が勝手に跳ねる。
 傍らに侍った男二人が家畜の皮を剥ぐようにヨンイルを押え付ける。
 「動くな。死ぬぞ」
 「針が変なところに刺さっちまってもいいのかよ」
 拘束係が口々に檄をとばし四肢を掴む。
 裸の背中に汗でぬかるんだ腹が密着する。
 背中に密着する腹の弛みと掠れた息遣いを感じながら拳を握り込み間断なく身を苛む痛みを耐え忍ぶ。
 顎が強張り開かなくなるほど奥歯を噛み縛り苦鳴をすり潰す。
 故意に人体の急所、痛覚神経が集中する箇所に針を打ち込んだのではないかと錯覚するほどの激烈な痛みが爆ぜて視界が真っ赤に燃える。
 喉焼く絶叫を唇で塞ぎ、瞼の内から滲みだす塩辛い水が顔をぬらすがままに緩慢な拷問を耐え忍ぶヨンイルの耳朶に失笑がふれる。
 「強情な飢鬼。大の男も泣き喚く痛みに弱音ひとつ吐きやがらねえ」
 嗜虐の愉悦を含んだ揶揄が蜘蛛の糸のようにねっとりと耳朶に絡みつく。
 「刺青が彫りあがりゃお前も晴れてKIAの一員、死ぬまで消えん烙印を身に刻まれて恥を晒して生きてく。お前の頑固さに敬意を表して最高の刺青を彫ってやる、お前が飼うにふさわしい龍を鱗の一枚一枚に至るまで精魂込めて彫り込んでやる。彫り師生命に賭けて」
 職人気質に節くれだった手が汗で濡れそぼつ髪の間を通り地肌をさぐる。
 優越感を込めた手つきでもって頭をまさぐり、前髪を掴んで強引に顔を上げさせる。
 不自然な角度で顔を上げられ毛根を引き毟られる激痛にたまらず顔をしかめるヨンイルを覗き込み、嗜虐の愉悦に酔った職人が陰険に含み笑う。
 「龍は人食いの化け物。お前の血肉を食らってどんどんでかくなる。龍と共食いして果てるのが組織に魂売った人間の宿命と肝に銘じろ」
 熱い吐息が顔にかかる。
 穴梟のように険深く炯炯たる眼光がヨンイルを射貫く。
 ランプの光を受け複雑な陰影に隈取られた悪鬼の形相に法悦を湛え、若く張りのある肌に自分の手に成る刺青を彫る甘美な恍惚に酔いしれ、ヨンイルの髪を掴んでぶらさげた職人が脇に控える男たちに顎をしゃくる。
 「猿轡噛ませとけ。舌噛みきられたら後始末が面倒だ」  
 ヨンイルはすでに抗う気力をなくし、職人の手に頭を預けぐったりしている。
 職人が乱暴に前髪を突き放しヨンイルが床に突っ伏す。
 その唇を布がふたつに割る。
 口に噛まされた布に唾液が染みる。
 しとどに唾液を吸った布が口の中をべったり塞ぎ息苦しい。
 最後の気力を振り絞りその必要はないとかぶりを振るも、唇を上下にこじ分けた布は余程きっちり結ばれているらしく一向にはずれも緩みもしない。
 「叫びたいだけ叫べ。だれも助けにこないからな」
 額に衝撃が爆ぜる。
 後頭部を掴んだ手がヨンイルの額を板張りの床で痛打する。
 力づくで床に這わされたヨンイルに再びのしかかり、滑らかに日焼けした肌に針を添え、まだ完全に姿を現さず潜在する龍を具象化するために肌に触れるか触れないかの妙技でつっと針先を滑らせる。
 冷たい針先が皮膚を滑っていく。
 首筋から肩甲骨のはざま、背筋にそって腰へと滑りおりた針がゆっくりと肌に沈んでいく。
 乾いた布の味が口の中に広がる。
 口の内側を塞ぐ布が呼吸を阻み、不自由な拘束感がいやます。
 「ふぐ、ふぅっく……」
 布の内側が吐息に湿り苦鳴が濁る。
 ぷつりと皮膚が弾け針先で血の玉が盛り上がる。
 「こんな話知ってるか」
 脂汗に塗れた憔悴の面差しを伏せるヨンイルに構わず、血塗れた針先を極細の絵筆のように捌き、背中に赤い筋をひていく。
 「日本の偉い作家が書いた話。ある男が夢の中で鑿で木を彫ってる男に逢った。なにをしてるのかと尋ねたら仏を彫っていると答えた。仏は人の手が苦心惨憺して彫り上げるもんじゃなくもともと木の中に隠れてるんだと、自分の仕事はもとから木の中にいる仏を見つけ出すことだと彫り師は言った」
 針が肌をなぞる。
 一枚一枚細密に描かれた鱗の縁に墨を入れ着色、浮世絵の如き艶やかさで蛇腹くねらせ荒ぶる龍を炙り出していく。
 手を独立させ動かしながら、一世一代の大仕事に臨む昂ぶりも露に面を引き締め、峻厳に研いだ眼光でもって続ける。
 「俺の仕事も同じ。どんなに立派な刺青を彫り上げたところで、そりゃあそいつ自身の魂を写し取ったものでしかない。俺にできること言うたらもとからお前の中におる化け物に形を与える手伝いをするだけ、お前の底に潜んどるもんを針でつついて炙り出すだけ」 
 自嘲めいた口調で苦く吐き捨て、針先に全神経を集中する。
 ヨンイルは夢うつつで彫り師の独り語りを聞く。そうか、俺の背中に今から彫られようとしてる龍は最初から俺ん中におったんやと、俺の体の奥底におったんやとその言葉を噛み砕いて受け止める。ほんなら何も怖くない。どんだけ痛くて苦しゅうても耐えられんことはない。龍と俺は同じもんやさかい、おそろしい龍ともあんじょう折り合い付けてやっていける。
 龍は俺の守り神や。
 朦朧とする意識の中でつれつれとそんなことを考えるヨンイルの耳朶に吐息が纏わる。
 「喰われるのが嫌なら、飼い慣らせ」
 黄ばんだ歯を剥きせせら笑う彫り師を首を捻り仰ぎ、ヨンイルは不敵な笑みを返す。 
 「言われんでも承知の上じゃ」
 体の奥底の龍が外に出たいと気炎吐き暴れているような、静かなる闘志を剥き出した笑顔に一瞬気圧される。
 気圧された事を恥じるように汗でぬめる手に針を握りなおし深呼吸、己の全存在を賭し、己が生涯かけ精通した彫り物の極意すべてを類稀なるこの背中に注ぎ込むため神経を研ぎ澄ませる。
 肌の張り、筋肉の撓り、肩甲骨の均整と一分の歪みなく正しい背骨の位置。
 これまで老若男女問わず数多くの人間に刺青を彫ってきた玄人さえ唸らせる、見事な背中。
 これからさらに鍛え抜いて筋肉が付けば、彫り師の腕を引き立てる選りすぐりの素材を求めてやまぬ朋輩の垂涎の的となるやもしれない。
 ヨンイルがやがて成長した時の完成図を視野に入れ、その時こそ真に龍の刺青が映えるように、絶頂期にふさわしい精悍の気が漲るようにと一針一針に妄執じみた精魂込め、そろそろ衰えを感じ始めた自らの有終の美を飾る仕事とし、彫り師は言う。

 「惚れ惚れする心意気。お前の龍になら、俺の命もくれてやる」 
 
 ヨンイルは笑った。
 笑いながら、心のうちで憎まれ口を叩く。
 あんたの肉なんて、まずくてよぅ喰われへん。
 剽悍な八重歯が似合う、決して屈さぬ笑顔だった。

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少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010604045545 | 編集

 屋敷の最も奥まった一角、日の射さぬ暗がりにひっそりと佇む陰鬱な座敷牢。
 無念に朽ち果てたものの妄執が立ち込め魑魅魍魎の巣窟と化したが如く瘴気が篭もる牢に、今一人の少年が居る。
 漆喰を塗りこめた粗末な壁にしどけなく凭れ、片膝を立てた少年はため息が出るほど美しかった。
 せかるる清流のように流れる鴉の濡れ羽色の髪、凛々しい柳眉、涼やかな切れ長の目。
 色は抜けるように白い。
 ほっそりと優美な体躯は取り澄ました白鷺を思わせる。
 歌舞伎の女形と見まがう妖しい色香匂い立つ少年は、目にかかる黒髪の隙間から茫洋とした視線を放ち、漆喰の剥げ落ちたみすぼらしい向かいの壁を見るともなく眺める。
 僅かに目を伏せる。
 前髪がさらりと揺れ、長い睫毛に縁取られた双眸が物憂く翳る。
 畳の目を数え退屈を飼い馴らす少年の耳にかすかな物音が響く。
 音の正体は寸刻おかず判明した、人の体重で板張りの床が軋む音だ。
 だれかが近付いてくる。
 屋敷はどこも古く、梁も床も傷んでいる。
 体重を乗せるたび甲高く奇怪な軋み音を上げる床をおそれ、厠に立つときも姉に付いていてきてもらった幼少の時分を思い出し、少年はうっすら笑む。
 姉と片時も離れずにいた幸福な幼少期を回顧し、束の間郷愁にひたる少年のもとへ、床踏む足音は次第に近付いてくる。
 板が鳴る。
 軋む。
 座敷牢に通じる回廊の奥に忽然と人影が現れる。
 日本家屋は昼でもなお薄暗い。
 屋敷の最奥、特別な用でもない限り人が訪れぬ秘密の回廊は何百年と変わらぬ時代の闇に支配されている。
 天井を支える太い梁にも漆黒の廊下の隅にも近年手を加えた形跡はなく埃が積もっている。
 闇の帳がおちた廊下の奥に忽然と現れた人影は、たおやかな姿態をしていた。
 優美に韻を踏む足取りに合わせ、肩で切り揃えた黒髪がさらりと揺れる。
 人影は女だ。
 しかも、若い。少女と言ったほうがいい年代だ。
 紫の地に杜若を染め抜いた豪奢な着物を纏っている。
 躾のよさが窺える凛とした物腰は、物心つく頃より着物を着慣れた者のそれだ。
 使用人すら忌避する陰鬱な座敷牢に、少女は物怖じせず迫り来る。
 座敷牢の前で立ち止まり、優雅な動作で朱塗り格子に手を添える。
 眉の上と肩で切り揃えた艶やかな黒髪も相俟って、香り高い桐の箱に納められた日本人形のような印象を強める。
 かっきりと弧を描く柳眉は女にしてはやや気が強すぎるきらいがあるも、しっとり艶めく切れ長の目といい紅を含んだふくよかな唇といい、文句の付けようがない美人だ。
 格子に手を添えた少女は暫く黙って少年を見下ろす。
 物言いたげに自分を見下ろす少女を緩慢な動作で仰ぎ、少年は悪戯めかして笑う。
 「やあ薫流姉さん。ちょうど退屈してたんだ、相手になってよ」
 「馬鹿」
 腹立たしげな口吻で少女が言うも、顔に浮かんだ笑みまでは隠せない。
 薫流と呼ばれた少女は、洗練された挙措で格子の前に正座する。
 えもいわれぬ気品が立ち振る舞いに滲む。
 滑らかに端座した少女の袂からふわりと甘い香が立ち上る。 
 少女の袂より匂い立つ馥郁たる芳香は一瞬あたりに霧散し、格子を隔て気だるく座した少年のもとにも漂う。

 良い匂いだ。
 白粉にも似ているが、それよりもっと自然で甘い匂い。
 閉じた瞼の裏を桜の花弁が舞うような、爛漫と浮き立つ春の匂い。

 鼻腔をくすぐる快い香りにひたる少年をよそに、少女は格子に手を付き、その目は笑みを含んで壁に凭れる弟を見守る。
 「お母様も酔狂よね。座敷牢の存在なんて皆忘れていたのに今頃になって思い出すんだもの。私も小さい頃はよく閉じ込められたけど」
 「姉さんはおてんばだっから母さんも手を焼いたのさ」
 「あなたはお利口だから滅多に使われなかったわね。憎たらしいったらないわ」
 「座敷牢に入れられる度さしいれを持ってきたあげたのに酷い言い草」
 名前どおり甘い香りを纏った姉が、昔を懐かしみ座敷牢を見渡す。 
 なにも変わっていない。
 床机の位置はおろか、蜘蛛の巣の張った場所すら変わってない。
 悪戯をとがめられ、母の怒りが解けるまで入れられた時そのままに時が淀んでいるかのよう。
 暫く懐かしげに座敷牢を見渡していた薫流が、年頃の少女特有の気まぐれで静流に向き直る。
 「お母様かんかんよ。また門下生と揉め事をおこしたそうね」
 「絡んできたから相手をしたまでさ」
 説教くさい口吻で咎められるも、悪びれた素振りもなくしゃあしゃあと言い放つ。
 静流の堂々たる開き直り、反省の色などかけらもなう様子に呆れを通り越しいっそ感心したふうに目を丸くする薫流。
 静流は三つ上の姉の滑稽な仕草を好ましく見守る。
 おどけた顔すら媚態に転じる姉は、いつだって静流より一枚も二枚も上手だ。
 着物の裾を揃えた膝の下にきちんとたくし込み座した薫流は、無邪気な笑みと口ぶりを装い核心を突く。
 「それで、今度は何が原因?」
 茶目っ気を覗かせ小首を傾げる。
 静流はとぼける。
 「別に。話す事のほどじゃない、ただのつまらない喧嘩さ」
 そっけないあしらいにもめげず、薫流はさらに畳み掛ける。
 「あら、つまらないなら隠す事ないじゃないの。言ってしまいなさいよ、すっきりするわよ。つまらないことなら一緒に笑ってやりましょうよ」
 「強引な姉さんだね」
 静流はうんざりと首を振る。
 弟の正しい指摘がさも心外そうに薫流は抗議する。 
 「またそうやってのらりくらりとごまかす。ねえ静流、前から思っていたのだけれどあなた私を馬鹿にしてない?姉さんは馬鹿で単純だから手玉にとりやすいってお腹の中で笑ってるんじゃなくて?もしそうなら心外だわ、いかに帯刀家が男尊女卑の家柄とはいえ私の弟がそんな頭でっかちだったなんてがっかりよ」
 「馬鹿になんかしてないさ。姉さんの事は尊敬してるよ、とても」
 「怪しいわね。なら私のどこを尊敬してるか言ってごらんなさい」
 「桜の枝なんて小さい事はせず桜の木ごと切り倒してなおかつそれを僕のせいにするところ」
 「失礼ね、桜の木を切ったのは誰だと聞かれたら『私です、綺麗だからおうちの庭に欲しくて』って包み隠さず言うわよ。欲しい物を欲しいと言うのは何も恥じゃないもの。……待って、私としたことが迂闊だったわ。切ったら咲かなくなってしまうわね。手間と人手はかかるけど植え替えたほうがいいかしら」
 揃えた膝に手をおき何やらぶつぶつと思案し始めた姉を呆れ顔で眺め、壁から身をおこした静流は溜め息を吐く。
 「姉さん、こんな諺知ってる?」
 「なあに」
 「男は度胸、女は愛嬌」
 「それがどうかしたの」
 枝を手折るくらいならいっそ木ごと切り倒してしまおう……大和撫子な見た目を裏切る豪快な発想だ。
 快活がすぎて男勝りな姉の気性は十分知り抜いているが、女にしておくのが惜しいその度胸に改めて敬服する半面、姉の十分の一でも度胸があったらと皮肉まじりの自嘲の念を抱かずにおれない。
 跡取りたる自分より、姉の方が余程当主の器だ。
 大和撫子のたおやかな見た目と裏腹に、女だてらに武芸に秀で大胆華麗な決断力をあわせもつ姉が長男だったら、理想の跡継ぎを得られた母はどれほど喜んだことだろう。

 自分では駄目だ。
 自分では、母を喜ばせる事ができない。
 母の期待に報えない。

 諦念に近い失望の念に支配され、憂鬱を払うため静流は緩く首を振る。
 畳を擦って格子ににじり寄り、含みありげな上目遣いで薫流の顔色を窺う。
 「眺めるだけで満足せずどうしても自分の物にしようとするのが姉さんらしいね」
 座敷牢に軟禁されるまで道場で稽古をしていたため静流は今も道着姿のままだ。
 純白の道衣に映える黒い角帯、折り目正しい袴。
 顔立ちが中性的なため眦凛々しい男装の剣士にも見えるが、端正に袴を着こなすさまはやはり帯刀の血を感じさせる。
 格子を隔て向き合った弟の姿を毅然と顎引きじっくり眺めやり、薫流は心の中で呟く。

 立派になったわね。
 少し前まではびいびい泣きながら私のあとを追いかけていたのに。

 木刀構える姿も絵になる眉目秀麗な剣士へと成長した弟が、旧家のしきたりを守り女装させられていた頃を思い出し、感慨に浸る。
 過ぎ去りし歳月に想いを馳せ、格子越しの少年に幼い頃の可憐であどけない面影を重ね、つっと指を伸ばす。

 「眺めるだけで満足なんてできないわ」
 泣き虫で弱虫、いつも私の背中に隠れてばかりいたあの子がいつのまにか大きくなって。
 分家の跡取りとして恥じぬよう厳しい修行に耐えている。 
 当主の器にふさわしい貫禄を体得するため生まれ持った才を磨き技量を研鑽し、それでも報われぬ屈辱に耐えている。

 静流が愛しい。
 この子が愛しい。

 振袖が床に垂れ落ちる。
 白い手首が格子にかかる。
 格子の隙間からさしいれた指がそっと頬に触れる。

 私は我がままで欲張りだ。
 見ているだけで満足なんかできやしない。
 見ているうちに必ず欲しくなってしまう。
 それが無理とわかっていても、
 叶わぬとわかっていても。

 視線が絡み合う。
 真っ直ぐに目を見詰める。
 互いに生き写しの姉弟が格子を隔て向き合う姿は、合わせ鏡の如き酩酊を誘う。
 清冽に澄み切った水鏡の目をもつ弟をひたと見詰める。
 水鏡に映り込む虚像に魂を吸い出されるかのような微酔の心地で、弟の頬に指を添え、衣擦れに紛れそうな小声で呟く。
 「………見ているうちに、どうしても欲しくなってしまうの」
 か細い吐息に乗った囁きが耳朶に絡む。
 姉の指はひやりと冷たい。
 心が優しい人ほど手は冷たいという。
 なら姉は本当は優しいのだ。
 小さい頃はいじめられてばかりいたが、それでも姉を追うのをやめなかったのは、この広い屋敷でただひとり薫流だけが静流を庇ってくれたからだ。     
 母は跡取りの静流を厳しく躾けた。
 使用人もまた親しみとは無縁の冷え冷えした慇懃さでもって静流に接した。
 門下生は陰口を叩いた。
 分家当主として師範の座を約束された静流にまつわる嫉妬と羨望が、門下生の口から口へと悪意に満ち満ちた噂を流布させた。
 生まれ持った姿形のよさすら批判と中傷の対象になった。
 言っても詮無き事であり、矜持の潔癖さ故に姉にはひた隠しにしてきたが、静流はもうずっと前から同じ道場で学ぶ門下生に陰湿ないやがらせを受け続けてきた。
 姉に話すつもりは毛頭ない。
 話したところで仕方がない、何より知られるのは恥ずかしくみじめだった。
 「………………姉さんは欲張りだね、なんでも自分の物にしたがるんだから。子供の頃から全然変わってない」

 頬に添えられた指を片手で包み込む。
 姉の手に頬を預け安らかに目を閉じる。
 こうしている時だけは素直になれる、包み隠さず本音を吐露できる。
 子供に戻ったような顔で自分の手に縋る弟に頬を緩めるも、次の瞬間、その顔が強張る。

 「何、これ」
 姉の手をとり頬に引き寄せた静流の袖が捲れ、手首が外気に晒される。
 はだけた袖口から露出した手首に何気なく目をやり、薫流は険しく眉をひそめる。

 静流の顔に動揺が走る。

 努めて平静を保ち、あくまでさりげなくを装い隠そうとする静流を遮り、格子のはざまに腕を突っ込みむりやりその手を引き寄せる。
 力づくで振り解こうかとも思ったが美しい手を傷付けるのを危惧し、諦めて身を任せる。
 なげやりな内心を隠しもせぬ無造作な態度でもって、姉にとられるがまま手をさしのべる。
 倦怠に醒めた目と厭世的な無表情の取り合わせの弟にむかい、薫流は声を潜めて問う。
 「………縛られた痕ね」
 手首にくっきりと残る痛々しい痣。
 細い紐状の物で、手首を括られたあと。
 重苦しい沈黙がおちる。
 薫流は恐ろしく真剣な顔で手首の痣を見詰め、有無を言わさず命じる。 
 「そちらの手も出して」
 義憤に駆られた毅然たる口吻に逆らえるものなどいない。
 静流は観念し大人しく従う。言われたとおりにもう片方の手もさしだす。
 格子のはざまに手を入れもう片方の手を引き寄せるや、ぐいと袖口を上げ、外気に晒した手首を入念に検分する。
 「どういうこと?」
 薫流の声は凄味すら帯び、落ち着き払っていた。
 先走りがちな感情を抑制しているのがよくわかる透徹した無表情。  
 両の手首を見比べながらの姉の詰問に伏し目で逡巡するも、白状するまで許さないといった静かな気迫に気圧され、渋々口を開く。
 「………ちょっとした悪ふざけさ」
 両の手首にくっきりできた痣を見下ろす。
 薫流は僅かに正座を崩し身を乗りす。
 熱心な凝視を注がれ、格子に凭れた静流はばつ悪げに視線を伏せる。
 薫流の視線を避けるように顔を背け、無意識に手首をさすり、乾いた声色で淡々と話し始める。
 「道場で囲まれて大人数で押し倒された。皆嗤っていたよ、僕を床に押さえ込んで。次期分家当主サマがいいザマだってね」
 ほんの数刻前の記憶が脳裏を過ぎる。

 稽古中、道場で門下生に囲まれた。
 師範代を務める母は急な来客があり席を外していた。
 師範代がいなくなった隙を狙い門下生は集団で静流を取り囲み、そして……

 『才能もないくせに家柄だけで師範の座を約束されて、まったく羨ましいご身分だぜ』
 『こんななよなよした女男に俺達が劣るってのか?馬鹿にしやがって』
 『お前みたいな女々しい男が剣を持つなんざ笑わせるぜ』
 『武に秀でた本家の跡取りならともかく、女が腐ったような分家の跡取りが贔屓されて門下生筆頭に居座り続けるなんざ反吐が出るぜ。わかったらとっととやめちまえよ、こっから出てけよ』
 『お前と一緒にいると女が腐った匂いがうつっちまう』
 『道場の格も下がるってもんさ』
 『いいか、勘違いすんなよ。師範がお前をここで学ばせてんのは出来損ないの息子を哀れむ親心だ。本家の貢と比べたら前なんてお話になんねーおちこぼれの出来損ない、振り回す剣は覇気のなさにゃあこっちまで気が抜ける!わかったか、お前がいると迷惑なんだよ。才能もねーくせに血筋だけで贔屓されてるお前にここにいる連中みんなむかむかしてるんだ』

 次々と浴びせ掛けられる罵声と嘲笑、露骨な中傷。
 静流は表情ひとつ変えず黙ってそれを聞く。
 女形陰間と陰口を叩かれるのは今に始まった事じゃない、それこそ日常茶飯事だ。

 門下生の多くは女が腐ったようなやつと静流を忌み嫌う。
 本家の跡取りの貢と比べ実力が劣り、当主の器に不相応と嘲る。

 師範代と当主を兼ねる母がいる前では皆一応の敬意を静流に払ったが、ひとたび母がいなくなれば門下生の多くは稽古を放り出し、または稽古を続けるふりで巧妙かつ陰湿極まる嫌がらせを開始した。
 打ち込みの練習の際、わざと脛や肩を打たれるのは日常茶飯事。
 試合の際、反則とされているはずの足払いをかけられ転ばされる。
 それらはまだいいほうでひどいのともなるとすれ違いざま唾をかけられる、背中を突き飛ばされる、後ろ髪を引かれる。
 一度など道着に墨をかけられた。
 純白の道着に染みた墨は洗っても洗ってもなかなかおちず、結局仕立て直す事になった。 

 『剣士としての自覚が足りません。本家の貢さんを見習いなさい』

 母には事実を伏せた。
 道着の汚れも不自然な箇所の怪我もすべては己の不注意と未熟のせいとした。
 告げ口は武士の恥だ。
 相手に合わせて自分まで堕ちることはない。
 しかしそれだけではない。
 静流自身心の片隅で彼らの言い分は最もだと思っていたのだ。
 本家の跡取りの貢と比べ自分はなんて駄目なんだろうと卑下し、母の期待に応えられぬ自分を責めた。
 才能のない自分が周囲に疎まれるのは当然、ならばこの理不尽な仕打ちも甘んじて忍ばねばと沈黙を守る静流に連中はますます調子に乗り、嫌がらせはさらに悪質なものへと変化した。

 静流は目を閉じ続ける。
 「僕に覆い被さった一人が懐から紐を出し手首を縛り上げた。抵抗したけど無意味だった、なんたって多勢に無勢だ。木刀を取り上げられたらどうしようもない。この通り僕は痩せてるからね。手首なんてほら、姉さんより細いんじゃないかな?」
 「話を逸らさないで」
 「わかったよ。………縛り上げて身動きを奪ってから、彼らは僕を壁際にひきずっていってね。正面に回った一人が………」
 「何?」
 薫流が鋭く切り込む。
 静流はためらう。
 矜持をねじ伏せられた恥辱に体が熱くなる。
 衣擦れの音が耳朶をくすぐる。
 甘やかな芳香が鼻腔を突く。
 格子に縋り寄った薫流が隙間から手をさしのべ、静流の髪を一筋摘み、袖をたくし上げた甲斐甲斐しい手つきで耳の裏に通す。
 「大丈夫よ、お母様には言わないから」
 「……いいの、姉さん。喧嘩の原因を探るのが目的で差し向けられたんじゃないの」
 疑い深く念を押す静流に薫流は嫣然と微笑み返す。 
 爛漫と咲く牡丹のような凄艶な微笑。
 「喧嘩の原因?そんなの決まってるわ、馬鹿な門下生が庭の桜を切ろうとしたの。静流はそれを止めに入ったのよね。枝一本なら見逃してあげたけれど木ごと持ってこうなんて欲張るんだもの。さすがに見逃せないわよねぇ?」 
 悪戯っぽい笑みを含んだ目と唇で、唄うような抑揚で言う。
 屈託なく微笑む姉に一瞬あっけにとられるも、次の瞬間込み上げる笑いが弾け、反り返るようにして笑い出す。
 行儀悪く足を投げ出し手を付き、鈴を転がすように朗らかな声で笑い転げる静流につられ、薫流もまた口元に手を添え笑う。
 「ははっはははははははっ、本歌取りとは恐れ入ったね姉さん!姉さんにかかっちゃさすがの母さんもかたなしだ!」
 「名案でしょう。お母様は庭の桜を毎年楽しみにしてる、静流が体を張って花泥棒を制したのだとわかればお咎めなしで釈放よ」
 「それで押し通すの?」
 疑念を隠せぬ静流に薫流はしれっと言う。
 「嘘も方便」
 まったく、姉さんは一枚も二枚も上手だ。
 薫流は不思議な女性だ。
 ときに臈長けた遊女のようにもあどけない童女のようにも見える。
 極彩色の万華鏡のように千変万化、掴み所ない媚態で人を夢中にさせる。
 静流もまた子供の頃より薫流の奔放さに翻弄されてきたひとりだった。
 揃えた膝に手をおき取り澄ます薫流にまたひとしきり笑い転げ、目尻に滲んだ涙を人さし指で拭い、深呼吸で顔を上げる。
 「薫流姉さん」
 声色を改めて名を呼ぶ。
 笑みの余韻を唇に留めた薫流が視線を上げる。
 格子越しに薫流と視線を絡め、囁くように言う。
 「もっと近くへ来て」
 薫流が膝を進める。
 睫毛が縺れる距離に顔が迫る。
 優美に揺れる黒髪の中心には白磁じみて精巧な顔がある。
 市松人形じみて秀麗な目鼻立ちと紅をひとさし足したような唇の対照が艶かしい。
 薫流が動くたび甘く華やかな香りが匂い立つ。 
 あたりに広がるえもいえぬ芳香に薫陶し、静流の目が恍惚と潤む。
 二人を隔てるものは無粋な格子だけ、その格子から発情した白蛇の如く艶かしくくねり出た手が薫流の膝にのる。
 闇の帳が包む座敷牢の内と外でふたりは対座する。

 絹のように流れる黒髪
 物憂い影をおとす睫毛
 妖艶に艶めく双眸。
 甘い曲線を描く唇と品良く尖った顎に至るまで瓜二つだ。
 睫毛がもつれ吐息が絡む距離にて見つめあえば、弟の唇が男にしてはやけに赤く、淫らに色づいてることに気付く。

 「…………これ………」
 魔性めいた赤さに惑わされ思わず手を伸ばす。
 下唇の官能的なふくらみに指でふれ、すくう。
 指の腹を返してみれば、血よりもまだ赤い朱が一点なすられていた。
 「口紅」
 仄光る弦月の形に唇を引き静流が笑う。
 手練手管に通じた遊女の媚態をも隠し持つ、したたかな笑み。

 『女形は化粧して踊ってろ』
 『もとから女みてえな面してんだ、さぞかし口紅が映えるだろうさ。どれ、塗ってやるよ。遠慮すんなって』
 『とびっきりの別嬪に仕上げてやるよ』

 押し倒された道場の床の冷ややかな固さ、
 束縛された手首窮屈さ、
 よってたかって押さえ付ける手の容赦のなさ。

 道場の床に組み敷かれ必死で抵抗したが多勢に無勢、門下生の多くは静流より体格がよく、掃き溜めに鶴の如き彼を膂力に利して組み敷くのは造作もなかった。
 抵抗すればするほど宴に興を添えた。
 手首を紐で縛られたまま激しく身悶える静流の姿はとても痛々しく劣情をそそり、抵抗の痕跡を留めてしどけなく肌蹴た道着から覗く華奢な鎖骨と白い肌からは淫靡な色香が匂いたち、恥辱と憤怒、苦痛と焦燥とが入り混じり上気し歪んだ顔は、しっとり汗ばむおくれ毛に縁取られて、性別を超越した切ないほどの美を湛えていた。
 既に青年といっていい屈強な少年らに、少女とみまがう少年がよってたかって組み敷かれ嬲られる嗜虐的な光景に、門下生は興奮する。
 面突き合わせ生唾を飲み、下世話な興味を剥き出しにこちらを覗き込む門下生らの顔にはぎらぎらと欲望が滾っている。
 床に押さえ込まれた静流に門下生の一人がのしかかり、前髪を掴んでむりやり仰向かせ顔ごと固定する。
 ひやりと硬い異物が敏感な唇にあたり、本能的な拒絶を示す。
 それは筆。
 激しくかぶりを振ったせいで毛先が潰れ筆の芯が当たったのだ。
 床に組み敷かれた静流の目に映る光景は悪夢じみていた。
 紐で手首を結ばれた自分を組み敷きのしかかる何人もの男、中の一人が笑いながら静流の唇の端に筆を押し当てる。
 筆が唇に被さり、乱雑に紅をなする。
 一心不乱に暴れたせいで門下生の手元が狂い、筆が唇を割り舌をなする。

 『咥えてみろよ』

 衆人環視の中、先端に毛を備えた固く細い異物により唇が割られ犯される。
 酸素を欲して薄く開けた唇に当てられた筆が、意地悪くじらすような緩慢さでふくらみを這っていく。 
 門下生に視姦された状況で唇に紅を塗られるのは耐え難い屈辱だった。
 手首を縛り上げられた無様な体勢で紅を塗られる間中、全身が燃えるような恥辱に苛まれていた。
 意地悪い嘲笑がさらに恥辱を煽り立て、門下生がふざけて口の中へ筆を突っ込むたびえずきに襲われた。

 嗜虐的なねちっこさで唇をなぶる筆使いを思い出し、静流は顔を顰める。
 「本当参ったよ。あんな下手くそには二度と塗らせたくないね」 
 稚拙な筆使いが唇を嬲るたび、くすぐったさとともに恥辱の裏返しの性感が芽生え、唇を中心に漣の如く広がった。
 唇を中心に漣立つ淡い官能。
 露骨な視線に晒され辱めを受ける事で身の内を疼かせる倒錯した快感に動揺する。
 体は怒りと恥辱で火照っているのに、紐が食い込む手首は痛いのに、唇にこそばゆく触れる筆先が静流の意志と裏腹に未知の感覚を開発する。
 自分の体に意志を裏切られる絶望は、門下生に辱めを受ける事実にも増して静流の矜持を砕く。
 顎を掴まれ力づくで押し上げられる痛みと乱暴な筆が敏感な唇を擦る不快さに身じろぐ静流を、野卑な笑みを剥き出し見下ろす門下生たち。
 
 べたべたと紅を塗りたくられた顔を覗きこみ、今日までともに学んだ門下生たちがせせら笑う。
 
 『どうだ、別嬪に仕上がったろ』
 『普段のお高くとまった面よかこっちのがよっぽどいいぜ』
 『咥えさせてみるか?』
 『待てよ、男だぜ』
 『関係ねーよ、実際そこらの女よかよっぽど上玉じゃねーか』
 『催してんじゃねえよ、無節操め』

 そこまでならまだ許せた。
 侮辱されたのが自分だけなら。
 自分は本家の跡取りと比べ劣っているのだから仕方ないと
 理不尽な仕打ちも甘んじて呑もうと。
 しかし。

 『薫流にのぼせてるからって手っ取り早く弟で間に合わせんじゃねーよ』

 耳を疑う。
 目を見開く。

 醜いあばた面の少年が静流の首から上だけを舐めるように見、舌なめずりせんばかりに笑み崩れる。
 おぞましく、醜悪な笑み。
 おそらく頭の中では目の前の静流に重ね、薫流を陵辱しているに違いない。
 最愛の姉を組み敷き着物を剥ぎ取り股を開かせ、気丈な姉が自害したくなるような痴態の数々を悶々と妄想しているに違いない。
 痘痕から飛び出た膿汁がかからんばかりの距離に接した少年が、興奮に浅ましく息を荒げ、静流の顔に粘着な凝視を注ぐ。

 額にかかる鴉の濡れ羽色の黒髪
 きっかりと弧を描く柳眉
 長い睫毛の下の潤んだ双眸
 憂いの翳りを含んだ繊細な鼻梁
 ふっくらと甘美な唇。 

 そのすべてをねちっこい視線で犯される嫌悪と恥辱、それをも上回る姉を侮辱した男に対する絶大な怒り。
 姉と瓜二つの顔に生まれたことを、これほど呪った事はない。
 自分が不甲斐ないばかりに、最愛の姉までもが辱めらてしまった。

 こんな男に。
 こんな下郎に。

 『こうしてみると本当よく似てんな』
 あばた面の少年が静流の顎に手をかけ、淫らに色づく唇を指でさすり、興奮に乾いた上唇をいやらしく舐める。
 『せいぜい薫流の口だと思って楽しむことにするさ』
 刹那、理性が爆ぜた。

 時が沈滞した屋敷の最奥、埃っぽい暗がりに向かい合うふたりを沈黙が包む。
 「だから、返り討ちにしたのね」
 薫流がぽつりと呟く。
 静流は答えない。
 薫流に問い詰められ白状してしまった自責に苛まれ、眉間に焦慮の皺を刻み、悩ましげに唇を噛む。
 「死に物狂いで暴れた甲斐あって紐が緩んだ。紐がほどけた途端、そばに転がっていた木刀を掴んで跳ね起きた」
 「手加減を忘れるほど熱くなっていたのね」
 「殺さなかっただけ褒めてもらいたいね」
 「二人は骨が折れていたわ。三人は捻挫ですって。派手にやったわね」
 「当然の報いさ」
 口角を吊り上げ、せいぜい酷薄な笑みで言い放つ。
 朱塗り格子を挟んだ弟を、薫流は寂しげな翳りを秘めた笑みで見守る。
 気遣わしげな色を湛えた目は、鋭利で繊細な硝子のように張り詰めた弟を案じるそれ。  
 朽ちた畳に座し、格子に寄りかかるように身を凭せ、茫洋とたゆたう目で掌を見下ろす。
 先ほどまで木刀を握り締めていたその手には、今もまだ腕を砕いた時の衝撃がのこっているよう。 
 骨が砕けた手ごたえを反芻するよう掌を開閉しつつ、遠い目をして尋ねる。
 「姉さん」
 「なあに」
 じっと掌を見詰める。
 固い格子に背中を預け闇に沈んだ天井を仰ぐ。
 黒ずんだ梁が交差する天井は異様に低い。
 こんなところに閉じ込めらていたらまともな人間だっておかしくなってしまうだろう。
 皮肉な感想を抱き狭い牢を見渡す。
 漆喰の剥げ落ちたみすぼらしい壁に三方を囲まれた六畳間。
 むかって右側には埃が積もった床机が置かれ、左側には万年床が敷かれていた形跡がある。
 忌まわしい事に、この牢は使われた形跡がある。
 今はもう寝床も取り払われ朽ちた畳と床机が残るだけだが、左側の畳が布団の形に窪んでいるのが一層不気味さを醸す。
 静流は母に命じられ座敷牢に入った。
 門下生に対し手加減なしで木刀をふるい、大怪我させた事を咎められ、悶着の原因を白状するまで出さないと言い渡された。
 静流は口答えせず言い付けに従った。
 当主の器たれと静流に強く願う母に経緯を話すくらいなら、一生座敷牢にこもっていたほうがマシだった。

 手首を縛られ組み敷かれたなどと
 紅をさした自分に催した連中に襲われたなど、言えるわけがない。

 格子にもたれ掌を見下ろし、自分とは比較にならないほど剣の腕がたち、人格も優れた本家の跡取りを思い描く。
 「僕はいつ、貢くんに追いつけるんだろう」

 彼ならきっと、こんなみじめな思いはしない。
 こんなみじめな思いとは無縁だ。
 本家の跡取りとして重んじられる彼と、分家の跡取りとして軽んじられる自分と、どうしてこうなにもかもがちがうのだろう。
 彼はすべてにおいて優れ、自分はすべてにおいて劣っている。

 だれもかれもがそう言う。
 二人を比べそう言う。
 本家の跡取りは立派で分家の跡取りは未熟だと、どんなにか努力したところで決して埋まらぬ実力の差を容赦なくつきつける。

 子供の頃は頻繁に行き来し、屋敷の庭で隠れ鬼に興じた従兄の顔を回想する。
 目を閉じれば思い出す。
 瞼裏の闇に浮かび上がる。
 姉に意地悪され泣かされてばかりいた静流を慰めてくれた少年、下駄の鼻緒が切れた時はひょいとおぶさってくれた。
 貢君はあの頃から人間ができていた。
 面倒くさい顔ひとつせず、足手まといの僕のお守りをしてくれた。
 あれから十年の歳月が経ち、二人がおかれた環境は大きく変わってしまった。
 否、それぞれに分別が付き立場の違いを自覚しただけかもしれない。
 幼い頃は何もわからなかった。
 大人の事情など関係なく無邪気に呑気に遊び呆けていられた。
 分家と本家の確執など知らず、伯父と母のいがみ合いとも無縁に、桜の花弁が舞う庭で駆け回っていられた頃が懐かしい。
 
 『いつでも遊びにきてくださいね、静流さん。待ってますから』 
 『父上の事は気にするな。いつ来てくれても構わない。……苗も喜ぶ』

 最後に会ったのはいつだったか。
 別れを惜しむように庭に立った苗の言葉に、苗に寄り添った貢が付け足す。
 似合いの二人だった。
 猛禽のよう鋭い双眸が近寄りがたい印象を抱かせる貢が、傍らの苗を見るときだけは驚くほど優しい顔になった。
 おそらく無意識だろうが、苗に寄り添い見守る貢の顔には、あるかなしかのはにかむような笑みさえ浮かんでいたのだ。
 双眸の険しさと表情の厳しさから大人びて敬遠されがちな貢が、苗といる時だけ年相応に見えたのはきっとそのせいだ。

 『俺も喜ぶ』

 苗を守るように傍らに立ち、見送りに出た貢は一言添えた。
 本心からの言葉だった。
 貢は決して嘘を吐かず世辞を言わない、その高潔で誠実な人となりこそ当主の器にふさわしいと称賛される由縁だ。
 静流は曖昧な笑みを浮かべ、別れを惜しみ再訪を願う二人に背を向けた。
 身を翻した瞬間笑みがかき消えた。
 睦まじく寄り添うふたりの様子に嫉妬とも羨望ともつかぬ屈折した想いに駆られ、逃げるように本家を去った。

 貢君はすべてを持っている。
 足りないものなどなにもない。
 けれども彼は上を目指すのをやめない。
 さらなる高みを目指しがむしゃらに剣をふるい、ますますもって実力と評価を高めていく。
 僕が欲しい物をすべて持っているくせに、
 満ち足りているくせに。
 なぜ与えられたものだけで満足しない?
 なぜ勝ち得たものだけでよしとしない?   
 
 君には苗さんもいるのに、
 身分の差を除けば何の障害もなく愛し合える人がいるのに。
 
 貢の隣で控えめに微笑む盲目の少女を追想、己の境遇と引き比べた理不尽に顔が歪む。 

 この手にはなにもない。 
 欲しい物はすべて貢くんが持っていってしまった。
 名誉も称賛もなにもかもただ彼の為にだけ用意されていたのだ、最初から。
 彼が本家に生まれ自分が分家に生まれたそもそもの始まりから。
 
 力なく握り込んだ手を下ろし、苦渋の色が滲んだ双眸を儚く伏せる。 
 色落ちして生木を晒した格子に凭れ、鈍い軋み音を聞きながら、呟く。

 「いつになったら貢くんを追い越せるんだろう」

 追いつきたい一心で剣を振るった。
 追い越したい一心でしのぎを削った。
 しかし血を吐くような努力も一向に報われず、気付けば彼は遥かな高みに上り詰め、静流は無力を噛み締め置き去りにされた。

 強くなりたい。
 もっと、強く。
 こんな目に遭わないくらい強くなりたい、己の身も心も守れるくらい、大事な人を守れるくらい。

 手首に残る薄赤い痣を見詰め、胸を苛む鬱屈を抑えた声で吐露する静流の方へすっと手がさしのべられる。
 拒む暇もなく頬を包まれる。
 顔を手挟み正面を向かされた静流は、驚き惑ういとまもなく姉の目に吸い込まれる。
 綺麗な目だ。
 「じっとして」
 赤い唇が囁く。
 静流は大人しく言う事を聞く。
 言われたとおり微動せず姉の手に身を委ねる。
 薫流は慣れた動作で袖をたくし上げるや、片手を静流の顎に添え正面に固定し、袖を抜いたもう片方の手の指でもって唇に触れる。

 滑稽なほど真面目な顔で口元に薬指を運び、吸う。 
 唇の隙間からちろりと覗く舌がひどく艶かしく目を奪う。
 軽く啄ばみ、腹を唾で湿した薬指を今度は静流の顔へ近づける。
 虚空をすべり近づく薬指に鼓動が妖しく高鳴る。

 正面に迫る黒々と濡れた目と赤い唇の蠱惑に惑わされる。
 酷く、喉が渇く。

 顔にかかる震える吐息に睫毛が慄く。
 体から急激に力が抜けていく。
 静流は何ら抵抗なく薫流の手に身を委ねる。
 顎にかかる手のぬくもりがひどく愛おしい。
 姉の顔をまともに見つめるのを避けて僅かに伏し目がちにした静流の唇にそっと薬指が触れる。

 唇の端に接した薬指は、捺印を押すように暫くそこに留まる。
 やがてまた動き出し、下唇のふくらみをゆるやかに辿り始める。

 唇に触れる指先にぬめりを感じる。
 薫流はひどく真剣な様子で静流の唇に自身の唾を刷り込んでいく。

 下唇の丸みを辿る指が慄くような官能を紡ぐ。
 よってたかって組み敷かれ紅を施された時とは比較にならない細心さで唾を塗布され、先刻とは比較にならない優しく妖しい官能が織り成される。
 蜻蛉の羽の軽やかさで唇をくすぐる指遣いに陶然とする。
 繊細かつ丁寧な指遣いでふちに沿い唇をなで、形状を確かめる。
 姉の手にされるがまま人形のように従順な静流にむかい、無邪気な声色を作る。

 「覚えてる、静流?子供の頃よくこうして遊んだでしょう。オシロイバナの種を潰してお互いの唇に塗りっこしたわね」
 「覚えてるよ、化粧の真似事」
 「綺麗にしてあげてるのにあなたったらちっともじっとしてないで、やりにくかったわ」
 拗ねる薫流につられ静流も朗らかに声たて笑う。
 「男が化粧されて嬉しいはずじゃないか。しかも姉さんときたら癇性持ちで少し身動ぎしただけで烈火のごとく怒り出すし、こっちはびくびくしてたよ。正座を崩すなだの裾を乱すだの口うるさくて、将来はさぞかしやかましい小姑になるだろうなって幼心に思ったものさ」
 「まあ」
 薫流は柳眉を逆立て憤慨する。
 軽口を叩き合うあいだも指は止まらず滑らかに、琴を爪弾くような華麗さでもって静流の唇を下から上へと辿る。
 「もっと怖いのは僕がやる番。少しでもはみ出すとこっぴどく抓られる」
 「可哀想だから腕にしてあげたのに、そんな事言うなら顔にすればよかった」
 格子を隔てた薫流は唇を尖らせ怒ったふりをするも、目はおかしげに笑っている。
 格子のあちらとこちらに親密な空気が交流する。
 昔そうしたように甲斐甲斐しく静流の唇を拭いてやりながら、長い睫毛に覆われた目に一抹の感傷を過ぎらせ薫流は言う。
 「懐かしいわね」
 「うん」
 「ほんの数年前の事がもう二十年も昔の事みたい」
 「姉さんが化けたからじゃないか」
 「失礼ね、人を魑魅魍魎みたいに」
 「見違えるように綺麗になったって意味」
 「あなたも変わったわ」
 「稚児が陰間になった?」
 紅さし指の異名をもつほっそりと優美な薬指が上下の唇をしっとり拭う。
 漸く紅を拭い終え指をのけた時、薫流の顔には毅然とした表情が浮かんでいた。

 眦を決し互いと向き合う。

 凛冽と冴える眼差しがひたむきに静流を捉える。
 一直線に切り揃えた前髪の下、しんと冴え渡る冬の闇。
 真っ直ぐ対さねば何も見えぬ真理を体現するが如く居住まいをただし、等身大の鏡の如く静流の目を見据える。
 一呼吸の吟味の後、満足げに唇が綻ぶ。

 「いいえ。よい剣士になったわ」 

 掛け値なしの称賛。
 心からの本音。

 貢と比較され蔑まれ嘲られ貶められ、道場で孤立していた静流が、ずっと欲しかった言葉。
 見開かれた目が当惑に揺らぎ、薫流の言葉がしみこむにつれ悲哀に歪む。
 姉のそれと比べても見劣りせぬ長い睫毛を伏せ、双眸を哀切な光にぬらし、苦渋に満ちて呟く。
 「…………姉さんだけだよ、褒めてくれるのは」
 認めてくれるのは。
 言外の暗喩を悟り、一転薫流の顔が厳しくなる。
 当主の母そっくりに態度を厳格に改め、鞭打つように叱咤する。
 「見損なわないで」
 姉の叱責に応じ静流が気だるく顔を上げる。
 苦悩と葛藤の色濃く屈折した翳りを帯びた静流と対座、帯刀の姓に恥じぬ気品漂わせ揃えた膝に手をおく。
 凛と背筋を伸ばし顎を引く。
 幼い頃から芸事の師匠につき会得した惚れ惚れするような姿勢のよさ。
 本家の莞爾は芸事を軟弱と嫌い姉と一緒に舞を嗜む静流を女々しいと唾棄するが、見目のよさと立ち居振る舞いの美しさが完璧に調和した薫流を前にすれば、いかに狭量な伯父とて考えを改めずにはおれない。
 一切の虚飾を剥ぐ潔い眼差しが、静流の眼底をまっすぐ貫く。
 「私が世辞を言うような人間に見えますか、静流」
 厳粛に口調を改め、問う。
 静流は魅入られたように姉を見返す。
 薫流は瞬きもせず静流を見据え淡々と語り始める。

 「帯刀の剣の真髄は静かな水の如く流れる剣、変幻自在に形をかえ成長を続けるなにものにも縛られぬ剣。静流、貴方の剣筋はまさにそれです。帯刀の当主が何代もかけ造り上げた剣筋こそ、あなたが呼吸の自然さで振るう剣。
 古来より名は体を現すと言われ、ものを表す名には言霊がやどると信じられてきました。
 貴方の名はしずる、静かに流れると書いて静流。帯刀の精神がやどる尊い名です。卑下するのはよしなさい。姉が自信をもって断言します、貴方の剣にこそご先祖様の魂が篭もっていると、貴方こそ帯刀の剣を後世に伝える当主の器にふさわしいと」

 一呼吸おき痣も痛々しい手首を一瞥、慈愛に満ちた笑みを広げる。

 「下郎に惑わされてはいけません。彼らは清き流れを濁す雑魚です。雑魚の戯言など流しておしまいなさい。貴方の素晴らしさは私が一番よくわかっています。周囲の人間が何を言おうとも気にかけるには値しません。上から見下すことしか知らぬ下種に何がわかりますか、下から仰ぐことしかしらぬ輩に丈を把握できるとでも?ばかばかしい。いい、静流」

 挑戦的に目を光らせ、限りない愛情と自負をこめ弟の名を呼ぶ姉は、気高くも美しかった。 

 「真っ直ぐに見なければ何も見えないのよ。あなたを真っ直ぐに見れない人々は、実はあなたを怖がっているのです。自分が怖れている事に気付きたくなくて、一度真っ直ぐ見てしまえば存在の大きさに圧倒されてると本能でわかっていて、だからこそ上段から見下そうとするのです。決して追い越されない場所から見下ろそうとするのです。それはただの逃げです。怯惰です。正面に立つのをおそれ踏み台に上る連中など放っておきなさい」

 高貴な黒髪に縁取られた白い顔が、あどけない童女のそれへと変わる。

 『目が節穴なのよ。上から見下ろしてばかりいる連中に貴方の剣が見えるものですか』
 愛らしい顔でませた口を利く、在りし日の薫流を思い出す。 
 『真っ直ぐに見なきゃなにも見えないのよ。見えていても見えないのよ』  
 『あなたは本当はすごいんだから自信をもちなさい。本家の跡取りなんて目じゃないわ。私にはわかる、水が見える。あなたはすごい才能を持って生まれたの。あなたの振るう剣は水のように自在に形を変える、何物にも縛られず自由に奔放にひるがえり他を圧倒する』
 泣いてばかりいる弟に熱心にかき口説き、最後に必ずこういう。
 しゃがみこんだ静流の肩に手をかけ視線の高さを合わせ、きっぱりと。
 命にかけてそう誓えると、力をこめ。
 『あなたは私の誇り、自慢の弟よ』

 「……姉さんは変わらない。昔からそうだ。いつだって強引に、僕を立ち直らせる」
 降参の溜め息を零す静流の顔は、不思議と晴れやかだった。 
 格子を挟んでの根競べに勝ったのを潮に薫流が立ち上がり、さりげなく話題を転じる。
 「座敷牢の由来を知ってる?」
 怪訝な表情で首を傾げる静流を含みありげに見返し、格子に片手を添え身を乗り出す。
 上品に袖を摘み静流をさし招き再び顔を寄せるや、歪みを含有した複雑な笑みをちらつかせる。
 「帯刀家は昔から外と交わるのを拒み近親婚を繰り返してきたの。そのせいで濃く血が淀み、心身に病を抱えた者が時折生まれるようになってね。精神の畸形故に表に出せないと判断された人達がここに入れられていたの。実際に使われていたのは昭和初期までだって言うけど、どうかしらね」
 何故いきなりこんな事を言い出したのだ?
 訝る静流に寂寥の笑みを向け、愛しげに朽ちた格子をなでる。
 「私も入ろうかしら」
 気丈な姉が垣間見せた一瞬の表情に不吉なものを感じ、漠たる不安に苛まれる。
 茫洋たる横顔が、心ここにあらずといった眼差しが。
 この座敷牢に入りたがっているように見えたのは、錯覚だろうか。
 外界との接触を格子に阻まれ隔絶されても、弟の傍らに在りたがっているように見えたのは都合よい解釈だろうか。
 真偽の判別がつかぬ静流は曖昧に笑うしかない。
 「ふたりが入るには狭すぎるよ」
 「冗談よ」
 頓着なくあっさり言い、格子から手を放しさばさばと促す。
 「そろそろ出る気になった?お母様に申し開きに行くなら付き合うわよ」
 「もう暫くここにいるよ。小一時間もたてば母さんの怒りも冷めるだろうし」 
 「そう」
 薫流は反対せず、静流の受け答えを予期していたかの如き淡白さで頷き振袖の筒をさぐる。
 取り出されたのは古風な鍵。
 年月の荒びを感じさせる重厚な鍵を静流のすぐ目の前、容易に手の届く床におく。
 「ここにおいとくわね。出たくなったら勝手に出なさい。貴方の気まぐれに付き合ってあげるほど暇じゃないのよ」
 唄うような抑揚の薫流の声を心地よく聞きながら、まどろみをたゆたい目を瞑る。
 急に眠気が押し寄せてきた。姉と話して心がほぐれたせいかもしれない。
 姉への純粋な感謝を別れの言葉にかえ、静流は告げる。
 「顔を見せてくれて嬉しかったよ」
 閉じた瞼の向こうに気配をさぐる。
 じきに板張りの床が鳴る音が聞こえると予想し、その時を待つ静流の鼻腔を、甘く華やかな香りがふわりとくすぐる。 
 頬を擦る薄片の柔らかさをいぶかしみ薄目を開ける。
 怪訝な表情で薄目を開けた静流は、片側の頬に接する桜の小枝を認める。
 格子の隙間からさしのべられた八分咲きの桜の小枝を辿れば、薫流の笑顔に行き当たる。
 してやったりと得意満面、稚気閃く媚態を目に宿し嫣然と微笑む。
 「さしいれ」
 「……やけに甘い匂いがすると思ったら」
 「袖に隠して持ってきたの」
 「枝を手折ったら可哀想だよ」
 「人の腕を折る方がよっぽど可哀想よ。相手が同情に値する場合はね」
 静流に小枝を渡し、「それに」と付け加える。 
 「これは私がやったんじゃないわ、道場の門下生がやったのよ。花泥棒を止めたのは静流、あなたよ」
 まったく、姉さんにはかなわない。 
 弟の正当性を実証するために、わざわざ桜の枝を折るとは抜かりがない。
 姉の方が一枚も二枚も上手と改めて確認、感嘆の念を禁じえぬ静流に今度こそ背を向ける。
 着物の裾をはしたなく翻さぬよう風雅に去っていく薫流を見送り、あたりにただよう甘い香りを胸一杯吸い込む。
 託された桜の小枝からはらりと花弁が舞う。
 点々と畳にはりつき、格子をすりぬけ板張りの床にも接吻する可憐な花弁に目をやり、呟く。

 「………薫流」

 ほっそりした指が唇に触れた慄きを反芻、姉の残り香をもとめ小枝に結ぶ花弁を唇で愛撫する。
 
 『帯刀家は昔から外と交わるのを拒み近親婚を繰り返してきたの。
 そのせいで濃く血が淀み、心身に病を抱えた者が時折生まれるようになってね。精神の畸形故に表に出せないと判断された人達がここに入れられていたの。実際に使われていたのは昭和初期までだって言うけど、どうかしらね』
 何故突然、あんな事を言い出したのだろう。
 『私も入ろうかしら』
 あんな哀しい目をしたのだろう。

 答えはすぐ近くにある。
 近すぎて見えない場所に。
 しかし静流は目を閉ざす、目を閉ざし見ないふりをする。
 他ならぬ姉の幸せのために、禁忌に踏み込むのを避け、懇々と湧き上がる想いを封じ込める道を選ぶ。

 薄暗く侘しい牢に一人きり、愛する人の残り香が咲き初めた桜の香に溶けたゆたう片隅に蹲る静流の脳裏に、詠み人知らずの歌が浮かぶ。

 「心ざし 深く染めてし 折りければ 消えあへぬ雪の 花と見ゆらむ……か」
 捧げる想いが深いからこそ、消えきらぬ雪が花と見えるのだろうか。
  
 自分は桜ではなく、唇を凍らせる雪に接吻しているのかもしれない。 
 唇に染みた雪はやがて心をも凍らせ、人間らしいぬくもりを奪い去ってしまうかもしれない。
 それでもいい。
 それでも構わない。
 桜よりなお芳しいあの人の指の味を覚えていられるなら、修羅に堕ちても悔いはない。
 
 座敷牢に咲く一輪の桜に得難き想い人の面影を重ね、静流は目を閉じた。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010603172019 | 編集

 青みがかった蛍光灯の光が冴え冴えと床を漂白する。
 廊下に沈滞した均一の静けさはおそろしく不安定なものを孕み、薄氷の上を歩いているような錯覚を抱かせる。
 自重がかかる靴裏に軋轢を感じ、氷の下でさざめく水の質量を感じとる。
 かすかな軋み音をたて均衡が傾く。
 慣れた足取りで廊下を歩きながら神経を張り巡らせ、ドアの内側の気配を探る。
 交互に繰り出す革靴が床を叩き、硬質な靴音が響く。
 目指すは一番奥。
 ドアの向こうで息を殺す患者の姿を想像し胸を痛めながら、歩調は緩めずに一番奥をめざす。
 目的地に到着。
 無個性な白いドアをノックする。
 「どなたですか」
 「僕。斉藤だよ」
 「どうぞ」
 来訪者が判明し、看護婦の声から緊張が消える。 
 短いやりとりを済ませノブを捻る。入室。
 部屋の中は薄暗く、目が慣れるのに数秒を要する。
 電気は消してある。
 患者がそう望むからだ。
 時刻はまだ昼だがカーテンが閉めきられた病室は天然の光がさしこむことなく、ひんやりと闇がただよう。
 廊下とは室温までちがうようだ。
 余計な物音をたて刺激せぬよう慎重にドアを閉ざし、室内を見渡す。
 奥に一台ベッドがあり、床一面にクレヨンで抽象的な図案が描き殴られた画用紙が散らばっている。
 玩具箱をひっくりかえしたようなという形容がそっくり当てはまる散らかり放題の部屋。
 壁際に控える看護婦に寄り添い、中央の暗がりに目を凝らす。
 この部屋唯一の住人は中央にいた。
 こちらに背を向けて床に直接蹲っている。
 ほつれたおさげを肩に垂らし童心に憑かれたように一心不乱にクレヨンを動かし続けているのは年齢十歳、ワンピースを模した簡素な入院着を羽織った女の子だ。
 脇目もふらずと言った表現がこの上なく的確な集中力を発揮し、意識の全てを手元に傾注し、画用紙に何かを描き付けている。
 斉藤は壁を背にして佇み、女の子をじっと観察する。
 その一挙手一投足に至るまで医師として冷静に分析する。
 看護婦もまた困惑顔で患者の奇行を見守る。
 女の子は二人の入室に気付いているのかいないのか、監視者の存在には一切注意を払わずかたくなに自分の殻に閉じこもっている。
 手の動きに合わせ緩慢に上下する背中は外界の物音一切を遮断している。
 室内中央に蹲る女の子に焦点をしぼる。
 脳天から爪先まで「平凡」と銘打った型に嵌めて出来上がるのが彼女だ。
 そのすべてが標準にして中庸、体重にしろ身長にしろ同年代の平均を逸脱するものではない。
 横顔に注がれる視線を拒否し、部屋の隅に待機する看護婦をも無視し、少女はただひたすら塗りに熱中する。
 床に転がるレヨンが掠れた線を引く。  
 ワンピースの裾をしどけなく広げて座り込んだ少女は、自分にしか理解できぬものを見る孤高の集中力をもって画用紙と向き合い、塗りの上に塗りを重ね画用紙の隅から隅まで満遍なく黒一色で塗り潰す。

 前髪のはざまから覗く透徹した瞳。
 瞬きも忘れ、画用紙の余白を食い入るように見詰め続ける。

 終始俯きがちの顔の横にきつく編みこんだおさげが垂れ、腕の動きに合わせて揺れる。
 顔の横に垂れたおさげ越しにふっくらした頬の線が垣間見える。
 
 描き手の意図は不明だ。
 傍目にはただ無作為に塗り潰しているだけに見える。
 既にそうして大量の画用紙が黒一色で塗り潰され消費されている。
 隅から隅まで黒々と塗り潰された画用紙が部屋中に散乱する光景はある種壮観で、息苦しいほどの異常性を感じさせる。
 クレヨンを握り締めた女の子から隣に視線を転じる。
 看護婦に目配せし、先に立って廊下に連れ出す。

 バタンとドアが閉じる。

 看護婦が吐息をつく。
 気詰まりな雰囲気から脱した安堵がその顔に広がる。  
 ドアの横の壁にもたれ、さりげなく聞く。
 「恵ちゃんの様子はどうだい」
 「クレヨンと画用紙を与えて以来ずっとあの調子です。ベッドに入るまでろくに食事もとらずお絵かきに熱中してます」  
 それを聞くためにわざわざ連れ出したのか、と言った口調で看護婦が述べる。
 ちらりと後ろめたげにドアを一瞥、曖昧に口ごもる。
 『でも、どうせわからないのに』。
 口に出さずとも内心は顔に出る。
 彼女を非難する気はない。
 確かに、それは一面の事実ではある。
 仮に室内で話したところで患者は見向きもしないだろう。
 語られているのが他ならぬ自分の事であってもなんら関心を抱かず作業を続行するだろう。
 だが、斉藤はわざわざ合図を送り看護婦を廊下へ呼び出した。
 間違っても患者の目に触れず耳に入らぬようにと、そうする必要もないのに、自分の良心を納得させる為だけに外へ出たのだ。
 看護婦の説明を聞き、斉藤は軽く頷く。
 「他は相変わらずかな」
 「ここ数日はずっとあんな感じです。前にも増して殻に閉じこもるようになって、担当看護婦とも口を利かず、ずっとお絵かきばかりで……食も細ってきて、なんだか心配です。一昨日の体重測定では2キロも減っていたし。絵画療法って本当に効果あるんですか、先生」
 看護婦が不安げに疑念をさしはさむ。
 斉藤を見上げる目に憂慮の色が浮かぶ。
 「恵ちゃんの気持ちもわかります。あんな辛い事件を体験したんだからすぐに立ち直れなくて当たり前だわ、たった十歳の女の子なんだもの。でも、このままじゃ本当にだめになっちゃう。恵ちゃんはいつになったら個室から出られるんでしょうか。ここにきてもう何ヶ月も経つのにずっとあの調子で……他の子とは全然話さないし、鬱の気はどんどん酷くなるし。正直もうどうしたらいいかわかりません。恵ちゃん、なんにも話してくれないんだもの。信頼されてないのは力不足だから仕方ないって言い聞かせてきたけれど、なんだかもう、毎日毎日辛いんです。恵ちゃんと一緒にいるのが辛いんです。何も出来ない自分が歯痒くて…私、何のためにここにいるのか……」
 激しい勢いで自責の言葉が迸る。
 医師の前で激情を吐露した醜態を恥じるように看護婦が俯く。
 斉藤は壁に同化して聞き役に徹する。
 看護婦の力不足を責めるでも詰るでもなく、経験から滲み出る包容力でもって沈静を促す。
 溜め込んだ鬱屈を吐き出して心なしすっきりした看護婦が、平常心を取り戻して顔を上げるのを待ち、穏やかに言う。
 「クレヨンと画用紙は恵ちゃんがここに来て初めてねだったものだ」 
 ドアの向こうに視線を向ける。
 つられて看護婦もそちらを見やる。
 室内で相変わらずお絵かきを続ける患者の姿を想像し、噛んで含めるように言い聞かせる。
 「今まで我慢ばかりしてきた恵ちゃんの初めてのわがままだ。気が済むまでやらせてあげよう」
 「でも、あんな気持ちの悪い絵………何枚も何枚も憑かれたように飽きもせず画用紙を真っ黒に塗り潰すなんて、やっぱり心的外傷が原因じゃないかしら」
 「こんな話がある」
 ためらう看護婦を横目に壁に凭れ、一見関係ない話を始める。
 「とある女性が幼稚園の頃、アヒルの絵を描いた。彼女は羽毛の質感を表現するために白の上に薄く水色を重ね陰影をつけた。知ってるかい?水色と白はとても相性がいいんだよ。彼女は直感でそれを知っていた。淡い水色が白を引き立て、ハッとした印象を引き出すことを知っていたんだ。舞台上で純白に映える衣装には水色が溶かし込まれてるのが常識、真っ白な衣装はどうしても照明で黄ばんでしまうからね。アヒルはなかなかの自信作に仕上がった。彼女はどきどきしながらその絵を先生に見せに行った。さて、先生はなんていったとおもう?」
 「褒めたんですか」
 「その逆」
 斉藤は肩を竦める。
 「なんで水色で塗るのかと怒って描き直しを命じたんだ。先生の中ではアヒルは白と決まってて、水色のアヒルなんて寸詰まりのキリン並に許しがたい生物だったんだ。彼女は酷くショックを受け、以来絵を描くのをすっぱりやめてしまった。あんなにお絵かきが好きだったのに、先入観から来る余計な一言が創造力の芽を摘んでしまったんだ」
 具体例を挙げて奇行に意味づけを施し、重ねて説得を試みる。
 「恵ちゃんの好きにさせよう。手出し口出し一切無用、何ら制限を加えず今一番描きたいものを自由に描かせるんだ。途中で取り上げたりしちゃいけない、お絵かきは彼女のはけ口なんだ」
 少年の面影を残す屈託ない笑顔を振り向け、頭髪を一房摘んでみせる。
 「なに描いたっていいじゃないか。好きにすればいい。僕だって子供の頃は自分の髪とおなじ茶色ばかり使ってたよ」
 物言いたげな看護婦を目線で制し、気軽に肩を叩く。
 「休憩いってきなよ。後は僕がみてるから」
 「ありがとうございます」
 感謝の吐息をつき看護婦が立ち去る。
 靴音が消える頃に漸く病室にとって返す。
 ノブを捻り再入室、後ろ手にドアを閉ざす。
 薄暗い病室の中央、寸分変わらぬ位置に少女はいた。
 肩から垂れたおさげが腕の動きに合わせ揺れる。
 少女は無心に色を塗り続ける。
 その集中力たるや尋常ではない。
 使うのは黒一色。
 十二色のクレヨンのうち、酷使のほどを示すように黒いクレヨンだけが異様にすりへっている。クレヨンの箱は虫歯だらけだ。行方不明のクレヨンのうち何本かは画用紙に埋もれ、もう何本かはベッドの下に紛れ込んでいる。
 床には色とりどりの筋がひかれている。
 縦横無尽に交錯する足元の線状痕に目をおとし、斉藤はしばし考える。

 極力手出しはしないと決めたけど。
 踏み付けて転ばぬよう、最低限片付けておこう。
 
 中腰の姿勢で赤いクレヨンを拾う。
 次は1メートル先のオレンジのクレヨン。
 クレヨンの落下地点はてんでばらばらで斉藤はあちこち歩き回るはめになる。病室は決して広くはないが、一面に画用紙が散らばってるせいでひどく歩きにくい。
 無秩序に転がったクレヨンをひとつずつ拾い集め箱にもどしていく。
 白衣の裾が汚れるのも厭わず床に跪いて画用紙の山をかき分けまさぐり、ベッドの下に手を突っ込んで回収したクレヨンを所定の位置に詰め戻していくうちに不揃いな長さがユニークな個性と映る。
 「みんなちがってみんないい、か」
 有名な詩の一節をふと口ずさむ。
 視線を感じて向き直る。
 女の子が動きを止めこちらを見詰めている。
 「どうしたの?」 
 「………金子みすず」
 クレヨンを握り締め、消え入りそうな声を発する。
 女の子が詩の作者を知っていた事実に驚き、感心する。
 「よく知ってるね」
 「学校で習ったから」
 「へえ。僕が子供の頃も載ってたけど、まだ載ってるんだね。教科書の内容って案外変わらないもんなんだ」
 「うん」
 斉藤とは決して目を合わせず、ぼそぼそ喋る。
 医師の独り言に反応してしまった事に自分自身戸惑っているかのようだ。
 少女が自分から口を利くのは珍しい。殆ど絶無と言っていい。
 斉藤自身予想外の成り行きを嬉しく思い、クレヨンをてきぱき片付けながら続ける。
 「恵ちゃんの教科書に載ってたのは『わたしと小鳥とすずと』かな。あれが一番有名だから」
 少女はそれには答えず、無地の画用紙をじっと見詰める。
 食い入るような真剣さでもって白紙を見詰め、小さく首を振る。
 「恵のいちばんはちがう」
 頑なな口調で否定し、画用紙に視線を固定する。
 クレヨンを箱に戻しかけた手が止まる。
 片膝付いて振り向いた斉藤の視線の先で、少女はひたと静止する。
 ワンピースの裾を広げてしどけなく座り込んだ少女が、無垢なる透明さを湛えた表情で薄く唇を開く。

 肩から垂れたおさげが誘うように揺れる。
 伏せた睫毛が物憂げな影を作る。

 薄暗い部屋の中央に座した少女は、片手に預けたクレヨンを動かしながら鈴振るように澄んだ声で囀り始める。

 「かいこはまゆに
 はいります、
 きゅうくつそうな
 あのまゆに。

 けれどかいこは
 うれしかろ、
 ちょうちょになって
 とべるのよ。

 人はおはかへ
 はいります、
 暗いさみしい
 あのはかへ。

 そしていい子は
 はねがはえ、
 天使になって
 とべるのよ」

 綺麗なソプラノが波状に広がり大気に浸透し、斉藤は感嘆する。
 すらすらと詩を諳んじる暗記力にも驚いたが、それよりもその饒舌さに虚を衝かれる。  
 「………すごいね。それ全部覚えたの?」
 途端、羞恥に頬を染める。
 叱責を恐れるかのようにおどおどと目を伏せ、入院着の裾を摘んで引っ張る。
 「好きだったから。忘れないように。本をなくしちゃっても頭の中に入ってるものは盗めないって、……言ってたの。頭の中は世界一安全な隠し場所だから、誰にも盗まれたくないならそこにしまっておけば安心だって」
 誰が言ったのか聞かなくても分かる。
 「恵は頭がよくないから、全部覚えるのにたくさんたくさん時間がかかっちゃったけど」
 誇るべき事を恥じる少女の卑屈さに胸を痛め、斉藤は優しく言う。
 「綺麗な詩だね」
 「うん」
 「少しさみしいけど」
 口数少ない受け答えの末、ふたたび沈黙が訪れる。
 頭の中のものは盗めないと教えた誰かを思い出しているのか、ほんの一瞬、瞬きすれば消えてしまう儚い一刹那、少女の顔が綻ぶ。
 「恵もね、いい子にしてたら羽がはえて飛べるかなって思ったの」
 語るあいだも手は止まらず画用紙を黒く塗り続ける。  
 また一枚、黒く塗り潰された画用紙が放り出される。
 少女は淡々と作業をこなす。
 新たな画用紙と向かい合い、大分すりへった黒いクレヨンを構え直し、自動筆記を思わせる機械的円滑さで大胆に線を引き余白を埋めていく。
 黒く黒くもっと黒く。
 抑圧を解き放ち、負の衝動を叩き付けるように。
 心の闇を投影し。
 紙面を見詰める少女の目は自分の内側を覗きこむかのように空虚だ。
 「でも先生、いい子になれなかった子はどうなるのかな。ずっとお墓の中なのかな。暗くてさみしいお墓の中にいなきゃいけないのかな。自分の力で繭が破れなかったら、さなぎのまんま死ななきゃいけないのかな。綺麗な羽も貰えなくて、空も飛べなくて、暗くてさみしい繭の中で凍えて死ななきゃいけないなんて、それってすっごく哀しいよね。がんばった甲斐、ないよね」
 足元を埋める画用紙を視線で走査する。
 やたらめったらクレヨンを塗りたくられた画用紙が無数に床を覆う。
 暗くさみしい繭の闇が放射線状に広がり蛹の少女を包み込む。
 あるいは心象風景だろうか。
 孤独に荒んだ絶望の闇こそ彼女の真実なのだろうか。
 創作は繭作りに似ている。
 自閉の繭の中に孤立した少女は、黒の上に執拗に黒を重ね、蚕が幾重にも糸吐くようにまじりけない闇を生み出していく。
 羽化を夢見る蛹のまま繭に閉じこもった少女に向かい、何か声をかけねばと腰を上げる。
 「踏んじゃだめ」
 一歩踏み出すと同時に鋭く制す。
 斉藤はたじろぐ。
 少女は画用紙から顔も上げず接近の気配を敏感に察し、歩み寄りを拒んで全身を緊張させる。
 不安に震える声で精一杯懇願する少女に気圧され、斉藤はその場に立ち尽くす。
 「なに描いてるの?」
 足元に目を落とす。
 仔細に調べれば、床一面の画用紙は黒と白二色に塗り分けられていることが判明する。
 黒く塗り潰された画用紙の中に何枚か罫線を引かれた画用紙が混じる。
 定規で引いたような几帳面な罫線は紙面をきっちり等分し、とびとびに黒を冠した短冊形に区切る。
 少女は無言を貫く。
 斉藤は大して気落ちせず、床に手を這わせ平然と画用紙を束ねる。
 無視にもつれない態度にも慣れている。学生時代の友人のおかげで耐性がついたのだ。
 質問に応じぬ少女の傍らに屈みこみ、あたりに散乱した画用紙を手早くかき集める。
 床で叩いて端を揃える。
 手中の画用紙に一枚一枚目を通す。
 積み重ねた画用紙はかなりの厚さになる。
 そのどれもが白と黒二色にくっきり塗り分けられている。
 黒、白、黒、白、黒、白……何かを彷彿とさせる単調な繰り返し。
 ぱさりと画用紙をめくる。
 脳裏で何かが閃く。
 既視感を刺激する黒と白の規則的な配列。
 黒、白、黒、白、黒、白……
 蓋が開けっ放しのクレヨンの箱に目をやる。
 「そうか、ひょっとして」
 脳裏に解答が閃く。
 その場に這い蹲り、白黒白の順に画用紙を並べていく。
 それは床一面を使ったパズルだった。
 全体像を復元する為の断片は手元に揃っている。
 斉藤は直感に従い、脳内の完成図に添って黒と白の断片を並べ替えていく。
 ヒントはクレヨンの箱。
 箱の中のクレヨンの上から見下ろすと何かに似ている。
 画用紙を等分する縦線には、ちゃんと意味があったのだ。
 「恵ちゃん。僕の娘もね、これが大好きなんだよ」

 娘の発表会に出席した日を思い出す。
 あれはもう数年前だ。
 誇らしげな娘を真ん中に挟んで家族写真を撮った。
 初めての発表会で緊張していた娘に、斉藤は掌に人と書いて飲む込むといいと教えた。
 明帆はくりかえし「入」と書いて飲み込み、斉藤は笑いを噛み殺すのに苦労した。

 そんな日々もあったと懐かしく思い返し、喪失の痛みを覚える。

 「娘の明帆はとんでもない怠け者でね、何かと口実をつけては練習をさぼってばかりいた。習い始めたきっかけは何だったか忘れたけど、多分そう、妻がやっていたからかな。明帆は六歳から始めたんだ。昔はよく練習に付き合わされたっけ。明帆がさぼらないようそばにはりついて見張るのが僕の役目、要はお目付け役だったわけ。僕は明帆が機嫌を損ねないように一曲終わるごとに拍手して、大げさなくらい褒めちぎって、それがあんまりわざとらしいって奥さんと息子にもあきれられてさ。でもね、明帆本人はまんざらでもない顔してたよ」

 最後の一片を空白に嵌めこみパズルを完成させる。
 斉藤の前にその全貌を現したのは、原寸大のピアノ。
 黒鍵三十六、白鍵五十二。
 実際のピアノを正確に写して八十八鍵の鍵盤が整然と並ぶ。
 画用紙一枚に収まりきるようなものではない。
 数十枚もの画用紙を費やし土台の部分まで本格的に作り上げた代物で、短冊を敷き詰めたような等間隔の罫線が鍵盤を表す。
 平面に再生したピアノを見下ろす。
 今しも厚みを備え立ち上がってきそうな存在感。
 思わず指を触れて音を確かめたくなる誘惑を禁じえぬ。
 無意味な落書きではなかった。
 恵は何日間もかけ記憶の断片を繋ぎ合わせ、病室の床にピアノを描き出したのだ。
 画用紙をむらなく塗り潰す作業に気の遠くなるような時間を費やし、黒白の縞を鍵盤に見たて、兄との思い出が沢山詰まったピアノを復元しようとしていたのだ。
 計八十八鍵の鍵盤を見下ろし、ピアノの上の天使は満ち足りた微笑を浮かべる。
 翼をもたぬのが不思議な清浄な笑み。
 繭の中で浄化された無垢なる透明さ。
 「できた」
 よく見れば手元もワンピースもクレヨンで汚れているが気にせず、祝福を授けるように優雅な動作で鍵盤の上に手を翳し、ワンピースの胸郭を上下させる。
 ゆっくりと深呼吸する。
 人さし指をぴんと伸ばし、慎重に鍵盤におく。
 先端から重しをのせるようにして、人さし指の根元までそっと鍵盤に寝かせる。
 音は出ない。
 しかし、幻聴が聞こえる。
 幻の一音が奔放な弧を描いて高く伸びる。
 人さし指を鍵盤にのせたまま聞こえぬ音を聞くかのように瞼を伏せ、一呼吸おいて両手を所定の位置に添える。
 両手を鍵盤におく。
 鍵盤の上で手首が撓り、テンポよく舞い踊る十指が白鍵と黒鍵を架け渡し、聞こえぬ音を紡ぐ。
 あまりに楽しげな恵の様子に斉藤は思わず口を挟む。
 「何を弾いてるんだい」
 「仔犬のワルツ」
 恵は上機嫌に答える。
 前屈みに鍵盤を覗き込み、仄かな笑みさえ含んで全身で生き生きと「音」を表現する恵のありように斉藤は目を細める。
 自分の耳には届かずとも彼女の耳には届いてるに違いない幻の演奏を夢想し、
 願わくばそれを聞きたいと欲し。
 娘の傍らで聞いたあらゆる曲を反芻し、記憶の中の横顔に今の恵の顔を重ね、ノスタルジックな多幸感に浸る。
 紙上の鍵盤と戯れる恵をかつて彼女の兄がそうしていたように片時も離れずそばで見守り、悪戯っぽく聞く。
 「それが君の一番?」
 「ううん」
 恵はきっぱりと首を振る。
 その間も手は止まらず鍵盤の上を飛び回る。
 ドアの開け閉めが起こす微風で吹き飛ぶ脆い鍵盤の上、まどろみ羽化した蝶のようにひらひらと手指を舞わせる。
 肩から垂れたおさげが軽快に揺れる。
 伏し目がちの瞳はどこまでも黒く澄み切り、ここではないどこかを映しこむ。
 薄暗い病室のど真ん中にぺたんと尻餅を付いた少女は、鍵盤を叩くごとに透明な笑みを深め、狂気の傾斜に比例して演奏にのめりこむ。
 あどけない唇を綻ばせ、至福の笑みを刻み、恵は呟く。
 「おにいちゃんのいちばん」

 鍵屋崎恵は今も音の出ないピアノを弾いている。
 誰かの一番になりたいが為に。
 兄の一番であり続けたいが為に。
 清浄な繭の中で。

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010602155411 | 編集

 俺は不器用だ。

 「くっそーまた失敗!」

 強制労働終了後、就寝時刻までまだちょっと間がある中途半端な時間帯。
 強制労働から解放された囚人たちはおもいおもいに羽を伸ばしてる。
 内分けは図書室にだべりにいくもの廊下に居座って麻雀をおっぱじめるものと様々で一日のうち東京プリズンがもっとも活気づく時間帯といっても過言じゃない。
 売春班があった頃はこの時間帯にいそいそ売春夫を買いにいく連中が沢山いたが紆余曲折あって売春班がぶっ潰された今じゃ独り寂しくしこしこやるっきゃない。

 ざまーみやがれ。

 紆余曲折のあたりを詳しく説明すると時間がかかる、これがまた込み入った話なのだ。
 ちなみに俺も当事者としてかかわってる。
 何はともあれ売春班が廃止されたのはめでたいし単純に嬉しい。
 俺と一緒に性搾取の苦役に就かされた囚人どもも晴れて自由の身、大手振って廊下を歩ける。
 再び戻ってきた平穏な日常がしみじみ身に染みる。
 気を抜くと涙のおまけに鼻水がたれそうだ。俺の涙腺もずいぶんと脆くなったもんだ。

 廊下はがやがやと騒がしい。
 土足でベッドにのっかったまま鉄扉をちらりと見やる。

 格子窓の向こうをせわしく行き交い出たり入ったりする囚人たち、酒盛り開いて調子っぱずれの歌を聞くにたえねえダミ声でがなりたてたりと牌をじゃらじゃら鳴らして麻雀に打ち興じたりと喧騒に湧き立つ隣近所を尻目に狭苦しく殺風景な房に閉じこもった俺は、ベッドの上にふてくされて胡坐をかき、一筋縄じゃいかねえやつの相手にしていた。

 房にいるといろんな音が聞こえてくる。

 規則でがんじがらめにされた東京プリズンにあって夕食後に予定された自由時間だけが愉しみで生きてる連中がどれだけ多いかわかっちゃいるが、飢えた豚のように夕飯かっこんでエネルギー補充した囚人たちの狂騒はちょっとばかし常軌を逸してる。
 こうして俺がベッドの上で難しい顔で唸ってる間もひっきりなしに騒音が轟き渡り、壁を何枚か隔てた房で乱闘が勃発したらしく、物が割れる音や肉と肉がぶつかる鈍い音が喧騒の波にのって届く。 
 もとより暴れたい盛りのガキばっか一箇所に集まってるのだ、不要な暴動を避けるためにもガス抜きは必要だ。

 まあ俺には関係ない話だ、半々の嫌われ者を酒盛りに誘う馬鹿も麻雀に混ぜてくれる物好きも東京プリズンにゃいやしない。
 東京プリズンにぶち込まれた奴らは揃いも揃って世間様から後ろ指さされる犯罪者だが、お天道様を拝めない連中のあいだにも確固たる序列が存在して、たとえば鍵屋崎のような親殺しが最下等なら俺は最底辺だ。
 理由は簡単、半々だからだ。
 お袋と呼ぶのも反吐がでる俺を股ぐらからひりだした売女は生粋の台湾人で、親父と呼ぶのも胸糞悪ぃ博打狂いの種付け主は生粋の中国人。
 その間におぎゃあと産まれた俺は両方の血を等しく継ぐ半々。
 雑種は「生粋の何々」を名乗れない。

 生粋の苦労人?生粋のお人よし?
 殺すぞ。んな称号有難くも何ともねえどころか激しく迷惑、よって返上。

 んなわけで俺は他の囚人どもが浮かれ騒いでいる間、狭苦しい房の狭苦しいベッドの上にむっつり胡坐をかいていた。

 「でけー独り言。靴罵るの流行ってんの?」

 意地の悪い忍び笑いにむっとして顔を上げる。
 俺のベッドと左右対称のベッドの上、おんなじように胡坐を組んでこっちを眺めてやがるのは同房の相棒兼東棟の王様、レイジ。
 干し藁に似た乾いた髪に隠されちゃいるが左目が潰れているのは先刻承知、けれども野性味溢れる黒革の眼帯が無残な傷痕を隠してるせいで罪の意識がだいぶ減る。
 正直今も夢に見る、サーシャと刺し違えた戦慄の瞬間を、担架で運ばれてく情景を。
 夢に見てうなされる、レイジの目が抉れて大量の血が飛び散る瞬間を。レイジはペア戦に出て片目を失った。売春班撤廃を条件にペア戦100人抜きという無茶な目標をぶったてて、勝利の栄光と引き換えに色硝子みたいに綺麗な左目を奪い去られたのだ。
 レイジの眼帯を見るたびずきんと胸が痛む。
 「聞き耳立ててんじゃねーよ、駄豹は寝てろ。それか図書室行って本でも読んで来い」
 胸の痛みを見抜かれるのが嫌で虚勢を張る。
 駄豹呼ばわりされた王様はおどけて首を竦める。
 「なんだよつれねーなー。そんなに俺と一緒の空気吸うのいやか」
 さも深刻そうな口調で嘆いてみるも目が笑ってて説得力がない。
 三白眼を物騒に光らせレイジの面を睨む。
 片目になっても相変わらず惚れ惚れするような男前だ。
 レイジの場合片目を失ったことが外見上決してマイナスに働いてないどころか、海賊が好むような野趣あふれる黒革の眼帯が褐色の肌と見事にマッチして色気に磨きがかかっている。
 つくづく美形は得。

 「お前のツラ見てっと胸糞悪ぃ」
 「本気?」
 「安心しろ、半分冗談だ」
 「もう半分は正気ってことじゃねーか、フォローになってねーよ」

 レイジが万歳の姿勢でひっくり返る。オーバーリアクションにうんざり。
 レイジがひっくり返った拍子にスプリングが不機嫌げに軋む。
 申し分なく長い足を放り出してベッドにごろんと寝転がったレイジが、まるきり他人事のような口調で飄々と言ってのける。

 「よく飽きねえなあ」

 俺の手元を指さし感心する。
 現在、俺は靴紐と格闘していた。
 靴紐といやあの靴紐だ。靴を結ぶ紐のことだ。
 靴紐がほどけてるのに気付いたのは強制労働中。
 今日の昼間、ぎんぎんぎらがらとヤケクソ気味に太陽が照り付ける炎天下の砂漠で穴掘りしてた時、砂地にシャベルを突き立てようとしてふとくたびれたスニーカーが目に入った。
 底が抜けるまで酷使したボロボロのスニーカーだ。
 薄っぺらいゴム底はケロイドの皮膚みてえにべろりと剥がれかけリズム良く足を繰り出すと酸欠の口みたくぱくぱくする。東京プリズンでは半年に一回備品が支給される。今履いてるスニーカーは支給されてから四ヶ月目だが、毎日砂に埋もれてるせいで爪先までどっぷり砂塵がこびりついてる。

 靴紐を結ぶくらい大して時間はかからない、ほんの三秒でできる。

 俺はシャベルを砂に突き立て看守にバレないうちにさっと靴紐を結ぼうとした……が、予想に反し難敵。たかが靴紐と舐め腐っていたが、こいつがなかなかどうして言う事を聞いちゃくれないのだ。
 ちらちらと背後を窺いながら焦る指先で靴紐を結びなおそうと試みる。
 看守がよそ見してるうちにさっさと結んじまおう、さっさと……指がつるっと滑る。紐がすりぬける。ちょうちょ結びができない、どうしても歪んでしまう、出来たと溜飲をさげたそばからだらりとしなだれる。

 断っとくが、俺は超のつく負けず嫌いだ。
 しかも一銭の得にもならないことほどむきになる損な体質ときてる。

 いつしか看守の存在をド忘れし躍起になってちょうちょ結びに取り組んでいた、周囲のガキどもにじろじろ見られ「邪魔だ」と小突かれようが知ったことかと腹を括った。
 何度も結んでは解き結んでは解きを繰り返したせいで紐はよれよれ、とうとう俺の努力は実を結ぶことなく時間切れと相成った。地べたにぺたんとしゃがみこみ爪先と睨めっこしてる俺の肩口を看守がしこたま殴ったのだ。

 そんなわけで、靴紐との対決は延長戦に縺れ込んだ。
 しかめつらしく靴紐をしごく俺をベッドに寝転がってしげしげ眺め、あくびを噛み殺してレイジが嘯く。
 「靴紐しごくより自分のもんしごいたほうがよっぽど有意義に時間使えると思うけど」
 「下ネタはうんざりだ。お前ときたら口を開けば下ネタ下ネタだ、檻ん中でストレスたまってんのはわかるけどちっとは節制しやがれ。万年発情期の豹と添い寝するこっちの身にもなってみろ、体がいくつあってもたりねーよ。せいぜい三ヶ月に一回周期にしとけ」
 ベッドに横になったレイジが体ごと完全にこっちに向き直る。

 「不器用も才能のうちだな」

 だらしなく頬杖ついたレイジを三白眼で睨み返す。

 「しかたねーだろ、こういうちまちました作業苦手なんだよ。野性の勘を頼りに生きてるからな」
 「ずるずる靴紐引きずりながら歩いてると危ないぜ。それとも何、偶然を装って俺の胸に飛び込んでくるための口実作り?」
 「お前の胸に倒れこむぐらいなら顔面から壁に突っ込むか床とキスしたほうがマシ」
 「凱の尻で人肌にぬくもった床でもか?」
 「凱の屁は死ぬほど臭えって評判だ。あいつが座ってた場所に倒れたりしたら顔が青黒く膨らんであっというまに昇天だ。一種のショック死だな」
 「遠慮せず俺の胸を借りろよ。お前の為に二十四時間三百六十五日空けてるのに滅多に使ってくれなくてここが冷え切っちまった、コールドハートコールドボディってな」

 レイジがきざったらしい仕草で胸に手をおき嘆いてみせる。
 喪に服すような辛気くさい表情を装っちゃいるが口角が不謹慎に上がってる。

 「男の固い胸板にひっついて何が楽しい?女のやわらけえ胸に頬ずりするのとわけが違うだろ、お前の胸なんか筋肉でゴツゴツしてて寝心地悪いに決まってる。胸が寂しいなら枕でものせとけ、いいおもしになるぜ。それでなくてもお前が今押さえてるとこにあるのは吹けば飛ぶような薄っぺらなもんだからな」
 「最上の死に方は腹上死、時点は女の胸で窒息死」

 レイジがしれっと見解を述べる。おおむね同感。
 レイジが肘をつき身を乗り出し、いけしゃあしゃあとこう言ってのける。

 「お前が一緒に寝てくれるといいカイロになるんだけどな。寒がりなんだ、俺。砂漠の夜は冷え込むし人肌恋しくなっても無理ねーだろ?」
 「夢魔の夜這いをいい子で寝て待つか夢ん中でマハラジャの王様になれ。ベッドに二人寝は定員オーバーだ、仕事疲れでぐっすり寝込んでるところを蹴落とされて脳天かち割るのはごめんだね」
 「なんならベッドくっつけてもいいぜ」
 「お前が床で寝るって言うんならな」

 邪険に顎をしゃくり床を示せばレイジが不遜に鼻を鳴らす。
 レイジが風邪をひこうがどうしようが知った事か、俺の安眠と貞操のほうが大事だ……後者はもうくれてやったが。
 ペア戦終了後しばらくした夜に房を訪ねてきたレイジを思い出す。
 どこか思い詰めたような暗い目、格子窓の向こうの切迫した顔。
 プラスチックの牌が一定の間隔をおき鉄扉に跳ね返る固く澄んだ音が静寂を掘り下げていく。
 肌を包む大気がぴんと張り詰める。
 震える手でノブを捻り、僅かに扉を押す。錆びた軋み音を上げながら重厚な鉄扉が開き、壁に凭れうずくまっていたレイジが顔を上げ、そしてー……

 なに考えてんだ、俺。

 脳裏でもやもやと像を結びかけた情景を激しくかぶりをふって追い払う。
 心なし頬が熱い。頬にさした赤みがバレないようぶっきらぼうにそっぽを向く。
 ついさっきまでいつもどおり軽口叩き合ってたのに、脳裏に浮かび上がったあの夜の出来が嵐の水面の如く平常心を波立たせ動悸が激しくなり血の回った耳朶がカッと熱くなる。
 正面のレイジを意識するあまり内心の動揺をごまかそうと指が意味なく動き、指の隙間を滑った靴紐を摘みなおすのにひどく手間取っちまう。
 さんざん苦労した末に摘み上げた紐の先端で輪っかを作り、反対側のしっぽを輪の中に通して引き絞る。
 ぎゅっぎゅっと手に伝わる抵抗が小気味よい。
 レイジに見られてるようで落ち着かない。
 媚薬の粉をふりかけたような笑みを湛え、夜行性の動物のように愉快げに目を光らせ、俺の動揺も羞恥もそれらをごまかすためのみっともない試行錯誤も全部お見通しの上で遊んでやがる気がする。
 いや、正確には遊ばれてるのか、俺が。

 「くそっ、また失敗だ!」

 品のよろしくない悪態が口をつく。
 靴紐を輪に通すところまでは上手くいく。問題はそこからだ、どうしてもそこで行き詰っちまう。
 たかがちょう結び、難しく考えることはないと沸騰した頭の隅で理性が囁くも期待された効果はない。
 どうしてこの靴紐は言う事を聞かないんだ?
 腹立ち紛れに靴紐を叩き付け、降参の姿勢でベッドにひっくりかえる。
 腹を見せる負け犬のようにといえばちょっと卑屈すぎだが、それに近い挫折感に苛まれてもいた。

 「どうしてこうやることなすこと上手くいかねーんだよ?普段さっぱりツイてねーんだから靴紐くらい言う事聞いてくれたっていいじゃねーか、靴紐の分際で俺のこと馬鹿にしやがって!そんなに俺に履かれるのがいやならどこへなりとも行っちまえ、世を儚んで焼却炉になんなり飛び込むかしろ!」

 ヤキが回ったと自分でも思う。
 自暴自棄でベッドにひっくりかえると配管と配線剥きだしの天井が目にとびこんでくる。
 額に腕をのせ目を閉じれば潮騒に似た雑音が眠気を誘う緩慢さで鼓膜に満ちてくる。
 何枚か壁を挟んだ向こうで口汚い罵り合いにまじり物が落下し割れ砕ける物騒な音が連続する。
 ガキの頃から耳に馴染んだ洗牌の音、ぶつかりかきまぜられ選り分けられていくプラスチック牌の奏でる猥雑な音色。娑婆への郷愁をかきたてるその音を耳の端で聞きながらベッドに横たわってると、レイジがだしぬけに提案する。

 「手本をみせてやる」

 隣のベッドで立ち上がる気配。
 ごろんと寝転んだまま視線だけ動かす。
 優雅な尊大さでベッドから腰を上げたレイジが、しなやかな大股の足取りでこっちにやってくる。
 裸電球の光を透過し砂金をまぶしたように輝く干し藁の髪の奥、唯一残った右目に悪戯っぽい表情がやどる。 俺が女だったらたまらなくセクシーとでも評すかもしれないレイジ独特の表情、危険な色香匂い立つ悪魔的な笑み。
 獲物を狩りに来る豹のように申し分なく長い足を繰り出し、ご機嫌な証拠に鼻歌を口ずさみながらやってきたレイジは、ベッドの傍らにぴたりと立ち止まり俺を見下ろす。
 レイジの頭で裸電球が隠され視界が翳る。唐突に薄暗くなった視界にレイジを捉え、そっけなく言い放つ。

 「お前の手は借りねー」

 俺にも意地がある。
 靴紐を結べないのは癪だがレイジの手を借りるのはもっと癪だ。
 これ以上こいつに借りを作りたくない、利子が嵩んで破産しちまう。
 不機嫌も露に肘を付き上体を起こしかけた俺を片手で制し、余裕の笑みでレイジが頷く。

 「勘違いすんなよ、見せてやるだけだ。お前の命より大事な靴紐にゃ指一本出さねーよ」
 「靴紐より命が大事だ。俺の命安く見積もりすぎだ」
 「お前はそこに座って眺めてりゃいい。正しいやり方知らなきゃうまくいくもんもいかねーだろ?」 

 ……レイジの言い分も一理ある。
 釈然とせぬものを残しながらも渋々頷く。

 「わかったよ。やれ」

 教えてもらう人間の態度じゃねえ。
 ふてくされた顔つきで促す俺の正面、尻ポケットに手を突っ込んでごそごそ漁っていたレイジが取り出したのは一枚のハンカチ。
 面食らった俺の前で気取った手つきでハンカチを振り、ショウの開幕を宣言。 
 「よーく見てろ。瞬きすんなよ」
 「眼球が蒸発しちまうよ」
 「何も仕掛けはありません」と証明する奇術師のように手を翻しハンカチの裏表を見せる。
 僅かな緊張と興奮を覚え身を乗り出した俺の鼻先で褐色の手がしなやかに翻り、蝶のように優雅に鉢のように俊敏にハンカチを持った手が交差する。
 魔法のように縒り合わされ輪を通り、反対側の尻尾を引くと同時にキュッと輪が締まり結び目を作る。

 「ほいよっと」

 絶句。
 口を閉じるのも忘れ呆然とハンカチに見入る。
 あれだけ俺が手こずった蝶結びを鼻歌まじりに成し遂げたレイジは、熟達したあざやかな手つきでもってハンカチをほどいて再び広げてみせる。 
 「………どうやったんだ?」
 瞬きを我慢し一部始終を見届けたにもかかわらずさっぱりわからない、手の動きがあんまり速すぎて動体視力がおっつかないのだ。
 肉眼が捉えたのは褐色の残像と自ら捩れていったハンカチだけ。
 呆気にとられた俺を心の底から愉快で愉快でたまらないといった感じで眺めやり、まんざらでもない様子でレイジが自慢する。

 「ブラのホック外させたら俺の右に出るものはいない。蝶のように華麗に、蜂のように鋭く」
 「たらしの特技だろ、いばるな馬鹿」

 手癖が悪い、もとい手先が器用なことは前から知っていたが、俺がさんざん手こずった上にヤケ気味に放り出したものをこうもあっさりと文句の付け所なく完成させはいどうぞとさしだされると心中複雑。
 レイジへの対抗心が芽生えむらむらと闘志が燃え上がる。

 「自分の靴紐で実践するかと思ったんだけど、わざわざハンカチ使って特技をご披露する意味あったのか?」
 「こっちのがサマになるだろ。出来そうか?」

 できないとは口が裂けても言えねえ。
 意地と綱引きする葛藤を飲み下し、不機嫌の絶頂とでもいうべき唸り声を発する。

 「……はやすぎて見えなかった。もう一回やってくれ」

 レイジは快くリクエストに応じた。気前のよい王様。
 前と同じ手順でハンカチを両手に持ち俺の眼前に突き出す、裏表をひっくりかえし何の仕掛けもないと念を押す。
 ここから先が肝心だ。
 懐で拳を握り込み、瞬きを我慢し、手元に熱烈な凝視を注ぐ。
 褐色の手がなめらかに翻りハンカチが自然と捩れ縒り合わさっていく。
 ブラのホックをはずすような官能的な手つき。
 この手で愛撫されたら気持ちいいだろうなとふと思い、次の瞬間頭を抱え込んで死にたくなる。
 相手が女でも無機物でも手つきは基本変わらない。
 こじ開けるのではなく緩める、それが極意。
 力で我を通すのではなく巧みな愛撫でもって相手をその気にさせ体と心を開かせる。

 肌の表面をすべり敏感な箇所で弧を描く精妙な指遣い、技巧を凝らした前戯、圧倒的な経験値と自負に支えられた迷いない指の運び。

 あの指が俺にふれた。
 俺の首筋に、うなじに、胸板に、下腹に、内腿に……人に言えない場所にふれた。

 「…………っ」
 顔が紅潮する。
 無意識に体を抱く。
 布の表面をすべる指が愛撫の残像と余熱を呼び出し肌が疼く。
 体の芯で熾火が燻る。
 間接と長さのバランスが絶妙な褐色の指が艶かしく動きハンカチの表面を這う、あの指が俺の髪を弄び俺の乳首をいじくり俺のペニスをー………

 『That‘s finish!』 

 弾かれたように顔を上げる。
 いつのまにかハンカチに結び目ができてる。

 「……………レイジお前もっとゆっくりやれよ動体視力の限界に挑戦する気かよ、そんなにギネスにのりてーのかこの欲張り!!」
 「なんで怒るんだよ、反抗期かよ!?」

 完璧逆ギレ。
 突如ベッドから立ち上がり不自然に赤い顔で食って掛かってる俺にレイジが困惑。
 最前までレイジの愛撫を反芻し悶々としてた後ろめたさと恥ずかしさとが入り交じり、せっかく提示された手本をろくに見てなかった事に若干引け目を感じながらも、ハンカチをなぞる指遣いをほんのちょっとだけ羨んでいたとは口が裂けても言えない。

 「OK、落ち着けロン。確かに俺も悪かった、ついいつもの癖でぱぱっとやっちまった。ブラを外すときは何より速さが肝心だ、女が心変わりする前にブラ外して乳さらしてベッドに押し倒すのが色男の流儀だからな。女ってな気まぐれな生き物だ、のろのろやってたら興ざめしちまう。いいか、セックスん時に必要なのは誠意と書いてコンドームと機を見るに敏なテクニック。コンドームにしてもそうだ、ぐずぐずやってたら一気に醒めちまうだろ?俺くらいのプロになると0.5秒でしかも片手で嵌めるれっけど『コンドーム嵌めるのが世界で一番速い男』の項目でギネスに載っても嬉しくねーし、だいいちそれだと世界一の早漏みたいでいやじゃん?な?」
 「『な』?とか同意もとめんな!悪かったな世界一の早漏でよ、どうせ俺はコンドーム嵌めるまもなくイっちまったよ、最低の中出し男だよ!でも一応『あ、やばいなこりゃ』って反射的に引っこ抜いたから三分の二は外に零れたんだよ、梅花も安全日だって言ってたし………」 

 なに言い訳してんだ俺、情けねえ。
 激情任せに捲くし立てた俺の肩をぽんと叩き、レイジが囁く。

 「いいもん見せてやる」 

 俺の肩を掴んで引き剥がし、手にもったハンカチをおもむろにこっちに放る。
 反射的に手を突き出し宙を舞うハンカチをとる。
 俺にハンカチを投げ渡したレイジは、両手首を揃えて突き出し顎をしゃくる。 

 「結べ」
 「はあ?」
 「いいから」
 「SМ趣味に目覚めたのか?」
 「縛られんのには慣れてる」

 重ねて促されためらう。
 ハンカチを手に所在なげに立ち尽くすも、不条理な怒りに駆られてレイジにつっかかった手前その申し出を蹴るのも良心が咎め、両手首にハンカチを巻く。
 どの位の強さで結べいいか逡巡し上目遣いに確認とれば、「ご自由に」とでもいうふうにすかしたツラで