ヒメゴト
(2001/05/31) 「刺青を彫る時痛かったか」
「ほえ?」
呆けた顔を上げヨンイルがこちらを見る。
「霊長類の長たる自覚があるならホモサピエンスの言語で話せ、喃語で応じるなど言語中枢が退化しすぎだ」
「いきなり何言い出すねん直ちゃん。本の読みすぎでどうかしてもうたか」
「漫画の読みすぎで常に言動がおかしい君に言われたくない」
ヨンイルがこめかみでくるくると人さし指を回す。
心外な発言に気分を害す。
図書室の二階奥、移動式書架を張り巡らせた隠し通路、通称ヨンイルの城が僕の現在地だ。
天井にまで達する書架が明かりを遮光するせいであたりは薄暗い。
堆積した埃の匂いが鼻腔を突く。
僕はこの匂いが嫌いじゃない、どこか懐かしい感じがするのだ。
本に囲まれていると心が落ち着く。
喧騒から隔絶された束の間の平穏、静寂に包まれた束の間の安息。
十重二十重と張り巡らされた本棚が防壁の役目を成し、下品でうるさい連中が群がる煩わしい現実から束の間僕を隔ててくれる。
視線の先、僅か三メートルしか離れていない場所に僕がプライベートな素顔を覗かせる数少ない人間の一人がいる。
西の道化の異名をもつ西棟のトップ、ヨンイル。
額に不釣合いに大きいゴーグルをかけ、針のように立たせた短髪の囚人。
人懐こさと精悍さとが綯い交ぜになった好感の持てる顔だち、吊り目がちの目、腕白な八重歯が似合う大きな口。
伸びやかな手足に似合いの溌剌とした仕草が、とぐろ巻く龍脈の如く全身に循環する無限のバイタリティーと活発なエネルギーを示唆する。
過去二千人を大量殺戮した凶悪犯にはとても見えない快活な少年だ。
図書室の埃っぽい暗がりより太陽の下の方がよほど似合う健全な見た目を裏切り、その実体は漫画をこよなく愛するオタクである。
「ぜんっぜんわからへん、なんでいきなりんなこと言い出すんや。俺にもわかるよう説明してや、直ちゃんみたいに頭ようないさかい」
ヨンイルが困惑する。
なるほど、唐突だったかもしれない。
往々にして天才の発想の飛躍に凡人はついていけないものだ。
ヨンイルにもわかりやすいよう話のレベルを下げてやらなければ。
まったく、凡人の相手は面倒くさい。
諦念の溜め息交じりに説明を開始する。
「ワンフーが刺青を入れようか悩んでるんだそうだ」
「王虎が?」
ヨンイルがぱちぱち目をしばたたく。
王虎の名を出したのがそんなに意外かと鼻白む。
「直ちゃん、王虎に悩み事相談されるくらい親しかったんか」
「親しくはない。妙な誤解をするな、心外だ。王虎が一方的に僕を友人と思い込んでしつこく付き纏ってくるだけで大いに迷惑している。大体彼とは売春班で一時期同僚だった接点しかないのに、図書室で顔を合わすたび話しかけてこられて読書の邪魔だ」
眼鏡の弦に触れ、苦りきった口調で吐き捨てる。
王虎は西棟の囚人だ。
僕とはごく短い間ブラックワーク売春班で一緒だった。
売春班で慰み者にされ苦汁を飲んだ同士、王虎はやたらと僕に懐いてくるが正直こちらは迷惑している。
勝手に友人と勘違いされうるさく話しかけられ読書の邪魔だ。
出来心で安田の銃を盗んだ君をまだ許してないぞと何度言っても一向にこたえた様子なく、「同じ釜の飯を食った同士、いや、同じカマ掘られた同士つれねーこと言わずに仲良くやろうぜカギャーザキ」となれなれしく肩を叩いてくる。
同じ地獄を乗り越えた戦友だとでも思っているのだ、僕を。
勝手に親近感を抱かないでほしい、こちらはくだらない連帯感など微塵も持ち合わせてないのに。
売春班が廃止された今、王虎とは全く関係ない。
たまに図書室で顔を合わせるだけの囚人に友人と勘違いされ、夕飯の献立の愚痴に始まり図書室が再三のリクエストにも応じず猥褻な雑誌を仕入れない事の不満、はては恋人の自慢話まで付き合わされ大迷惑だ。
いかに僕が無視しようともうるさく付き纏い
「そんでさカギャーザキ、凛々てば手紙で早く俺に会いたいって言って聞かねーの。まったく可愛いよな駄々こねちゃってさ。ほらこれがその手紙、鼻くっつけてみろよ、いーい匂いがすんだろ」
と手紙をひらひらさせられたら注意力散漫にもなる。
恋人自慢ならよそでやれ、ちょうどそこに良い本棚があるから匂いを嗅がせてやったらどうだと勧めても効果なし。
不愉快な本音を隠しもせず露骨に渋面を作り、淡々と経緯を話す。
「王虎とは図書室でよく会う。何度追い払ってもしつこく纏わり付いてくるから仕方なくいやいや不承不承相手をしてやってるのだが、今日突然刺青を彫ろうか迷ってると相談された」
「なんでやねん」
「既に顔が傷物なのだから、いっそ刺青を彫ったほうが男が上がると考えたらしい。いかにも低脳らしい短絡な発想だ」
「凛々か」
「凛々だ」
眼鏡のブリッジを押し上げ嘆かわしく首を振る。
凛々とは王虎の恋人だ。
王虎いわく「むしゃぶりつきたくなるような上玉」らしい。
「王虎が刺青を彫る目的といったらひとつしかない、恋人だ。恋人の歓心を買うためだ。王虎は以前売春班で慰み者にされるのを苦に顔面から鏡に飛び込み傷を負った、それは知ってるな」
「知っとるも何も毎日見とるもん、花山薫みたいなあいつの顔傷」
「当時は後先考えず勢いに任せてやったらしいが、今になって娑婆に出た時のことを考え滅入っているそうだ。男前が台無しになった自分に恋人が幻滅しないか案じ、振られたらどうしようと悶々思い悩んだ挙句、それならいっそ刺青でワルな魅力をアピールしようと……」
「刺青しょって生まれ変わった俺に惚れ直せ!か。アホらし」
ヨンイルが処置なしと首を振る。
僕も同感だ。
しかし本人にとっては深刻な悩みらしく「こんなツラじゃお婿にいけね〜よ〜凛々に振られちまうよ〜刺青彫って出直すしかね〜よ〜」と今にも死にそうな顔で世にも情けない声を上げていた。
ヨンイルは斜め上方に視線を泳がせ暫く思案したのちあっけらかんと提案する。
「彫ればええやん。別に止めんで、好きにせえ。彫るも彫らんも個人の自由や、俺がどうこう言うこっちゃない」
「痛みに耐える自信がないんだそうだ」
「はあ?」
「刺青を彫る痛みに耐えられるか不安なんだそうだ」
「ちょ、ちょい待ち。王虎て確か自分から鏡に突っ込んだんやよな?」
「そうだ」
「顔面からダイブして」
「そうだ」
「顔じゅうに破片刺そうて血まみれに……」
「そうだ」
「なんで顔面から鏡に突っ込むクソ度胸ある奴が今さらびくつくんや」
正論だ。
「それとこれとは別だそうだ。王虎いわく当時は頭がイカれる一歩手前で鏡に突っ込むなんてとち狂った真似をしたが、気付いた時には顔中に包帯巻かれていて、鏡に突っ込んだ瞬間の事は殆ど覚えてない。従って痛みの実感もない」
「なんちゅー都合よい話……」
ヨンイルが脱力。
気を取り直し核心に入る。
「そこでだヨンイル、物は試しに君に聞いてみた。君は西棟のトップで王虎に慕われている、彫るにしろ彫らないにしろ君の一声で王虎は即決し僕の邪魔をしなくなる。僕個人の意見としては王虎が刺青を彫ろうが炎症を起こし高熱に苦しもうが傷口から感染症にかかり生きながら腐り爛れようがどうでもいいが……」
本当にどうでもいい。
彫るなら勝手に彫ればいい、人に意見を求めるな。
だがしかし、王虎には一応恩を感じている。
僕がペア戦のリングに立った時、応援してくれた数少ない囚人の中に王虎がいた。
王虎の声援に後押しされロンはリングに上り見事勝利した。
右手がむずがる病気が出て安田の銃を盗んだり時に傍迷惑なチャレンジ精神を発揮するトラブルメイカーだが、王虎はあれでよく気が回り、憎めない性格をしている。
『考えてみりゃ、お袋の子宮にずっとひきこもってたら凛々とも出会えなかったんだよな!』
ペア戦序盤、売春班撤廃を快く思わぬ連中によって僕はボイラー室に監禁された。
ロンを身代わりの人質にボイラー室から脱出した時、売春班の面々を率い救出に駆け付けたのは彼だ。
あの時王虎が協力を申し出てくれねばロンの奪還は不可能でその後のペア戦の行方にも影響した。王虎は我が身の危険も顧みず売春班で同じ地獄を見たロン救出に力を貸してくれた。
ルーツァイと王虎が持てる限りのリーダーシップを発揮してくれたからこそ売春班の面々の気勢が上がり最高潮のテンションを維持できたのだ。
ロン救出を成し遂げた王虎の誇らしげな顔を鮮明に覚えている。
ロン奪還成功の影には優男と侮られた王虎の活躍がある。
借りは返さねばならない。
それが僕の信条だ。
そして僕はいつかの借りを返すため、気乗りせぬ伝言役を引き受けたのだ。
ヨンイルはページを開いた漫画を膝に預け顎を掻く。
「そらまあ、痛いで」
「具体的にどの位だ」
「たとえるなら邪眼の手術くらい」
「わかるように言え」
「幽白読んでないんかい」
ヨンイルが驚愕に目をひん剥く。……屈辱だ。
ヨンイルは脳裏で言葉を選び纏めてから、出来る限り僕にわかりやすく噛み砕いて説明する。
「邪眼っちゅうのはな、飛影が魔界整体師時雨に受けた特殊な手術で手に入れたもんでこれがきっかけで飛影はもともとA級妖怪やったんが最下級までおちたんや。飛影はどうしても邪眼が必要やった。その理由っちゅうんが泣かせる話で生き別れの双子の妹雪菜と母親の形見の氷泪石を探すためで、クールでとっつきにくいイメージが先行する飛影に人間味を付与する重要なエピソードに」
「飛影の生い立ちをわかりやすく噛み砕いてどうする、僕が知りたいのは痛みの程度だ」
漫画のこととなるとヨンイルは見境がなくなる。
視線に重圧をかけ促せば観念したヨンイルが頭の後ろで手を組む。
頭の後ろで手を組み書架に凭れかかったヨンイルがどこか遠くを見るように目を細める。
「邪眼の手術はな、傷口をナイフでぐりぐりする何十倍もの痛みを伴うんや」
絶句。
視線が思わず袖口に吸い寄せられる。
頭の後ろで無造作に手を組むヨンイル、その袖口がはらりと捲れ刺青の一部が外気に晒される。
露出した手首に巻き付く蛇腹、日焼けした肌と同化する銀と翠を塗した鱗。
末端の片鱗から全身に及ぶ龍の刺青を幻視する。
ヨンイルの四肢を抱く巨大な龍が蛇腹をくねらせ気炎を上げる。
普段服に隠れた部位をくまなく覆う龍の刺青、ヨンイルの四肢に取り憑いた異形の魔性が邪悪な瘴気を発し宿主を守る。
ヨンイルの身の内で鋭い呼気吐き蠢動する龍、一枚一枚細密に彫られた鱗が発散する瘴気にあてられ酩酊する。
「………知らなかった、それほどまでとは」
声も知らず神妙になる。
ヨンイルはわずか十歳にして全身に刺青を彫った。
その身を苛んだ筆舌尽くしがたい激痛を想像し戦慄が走る。
ナイフで傷口を抉る数十倍の痛み……
いっそ舌を噛んで死んだほうがマシな痛み。
僕とて耐える自信がない。
質問を悔やみ俯く僕に、ヨンイルがきょとんとする。
「え、信じた?」
……………………………道化め。
「嘘か。虚偽か。捏造か。この僕を、IQ180の天才たるこの鍵屋崎直を騙したのか?」
「いや、まさか信じるとは思わへんで……傷口をナイフでぐりぐりやろ?普通死ぬて」
「じゃあ死ね」
「んな殺生な」
同情して損した。一瞬でも真に受けた自分を恥じる。
「ごめんごめん、ホンマ反省しとる。せやから機嫌直してや、な?この通り」
手を合わせ詫びるも半笑いで誠意が足りない。
僕の顔を上目遣いに窺いまだ怒りが解けてないと知るや、ヨンイルはばつ悪げに頬を掻く。
「むつかしいんや、あの痛みは。口ではよう説明できん。実際体験してみぃひんとわからんたぐいの痛みやし……ま、根性なしはやめといたほうが無難やな。特に麻酔なしはきっついで〜、彫りたてはじくじく疼くしうっかり寝返りも打てへんもん」
「麻酔は使わなかったのか?考えられない、全身に彫ったんだろう」
驚く。
僅か十歳の子供の全身に刺青を彫るというだけで倫理に反するのに麻酔なしで施術を敢行するとは鬼畜の所業だ。
改めて服の上から各部位を観察する。
首筋、肩、腕、腰、足。
そのすべてを舐め尽くす龍の刺青。
麻酔なしの施術が伴う危険を想像、通過儀礼の建前で十歳の子供に対し行われた倫理に背く行為に拒絶の感情を催す。
「使わんかったで。麻酔は邪道、痛みに耐えられん根性なしはKIAに入る資格がないってこと」
試練の克服は龍に神格を与える。
昼夜問わず全身を責め苛む耐え難い痛みと熱を克服し、初めて絵姿の龍が神性を帯びる。
刺青を彫る行為自体が、痛苦を捧げ物に絵姿の龍に生命を注入する儀式として等価の意味をもつ。
ヨンイルの物言いは飄々と軽い。
しかしその言葉の裏に選択の余地なくKIAの一員となるべく宿命付けられた過酷な人生が見え隠れする。
ヨンイルは十一歳で二千人を殺した。
ヨンイルが殺した二千人の中に五十嵐の娘がいた。
五十嵐。
囚人に慕われていた東京プリズンの看守。
韓国併合二十周年の祝賀パレードで発生したテロで一人娘を亡くして以来、五十嵐は仕事に対する意欲と人生に対する情熱を失い、生ける屍と化し自暴自棄に日々を消費してきた。
酒に溺れ言動は荒み勤務態度はみるみる悪化、はては同僚との間に暴力事件を起こし東京プリズンに左遷された。
ヨンイルとの出会いは偶然だった。
左遷先の刑務所で殺しても殺したりず憎んでも憎み足りぬ娘の仇と出会ってしまった五十嵐は、これに運命を感じ天啓を得た。五十嵐はヨンイルに激しい殺意を抱き、先に行われたペア戦では射殺する一歩手前まで行ったのだ。
実行犯は別にいる。
勿論五十嵐もそれはわかっている。
パレードの最中に大統領の車を狙い爆弾を投擲した実行犯は別にいると、逃げ惑う群衆の中に更に爆弾を投げ込み祝祭を惨劇に変えた張本人は別にいると理性ではわかっている。
だがしかし感情は納得しない、不条理にも娘を奪われた父親の心は納得しない。
ヨンイルが製造した爆弾で二千人が死んだのは動かしがたい事実、五十嵐の娘が死んだ原因はヨンイルにあるのだ。
ヨンイルの身の内に巣食う人食い龍を幻視する。
服を透視せんばかりの熱心さで四肢を見詰め続ける僕に気付き、ヨンイルが無邪気に八重歯を見せ笑う。
「刺青を彫ったとき、俺は十歳やった」
感慨深げに肘をさする。
ゴーグルの下の目が感傷を含む追憶の光にぬれ、大人びて苦みばしり、達観した表情が浮かぶ。
「最初に持ちかけたんは組織の人間。正式な仲間になりたいなら刺青入れてみたらどやって、うち訪ねた折におれ捕まえてこっそり耳打ちした。俺は二つ返事で承諾した。その頃はじっちゃんも年で、組織の人間がしつこくうち訪ねて爆弾作うてくれ頼んでも色よい返事せえようになってた。遅かれ早かれ年を理由に引退考えてはったんや、じっちゃんは。組織にはもう十分尽くした、借りは返した、ワイは疲れたんやて酒飲みながらくだ巻いとったの覚えとる。実際じっちゃんはようやった。
俺とじっちゃんは市井に混じりながらもKIAの監視下で窮屈な暮らししとった。
最低限の生活費とかはKIAが面倒見てくれはったけど、じっちゃんは『人殺しの手伝いして貰うた銭で飯食うてお天道様に顔向けできん』が口癖やった。参っとんやろな、体も心も。KIAに俺を人質にとられたも同然の環境で花火作りの本業疎かにして爆弾作り続けて、おどれが作った爆弾でぎょうさん人が死んで……隠居したら花火だけ作って暮らすて言うとったもん。どうせ咲かせるなら血の花より火の花のが千倍もええ、て」
ヨンイルの祖父の言葉の裏に秘められた悲哀、娘と孫を人質にとられKIAに人生を捧げ続けた男の姿が浮き彫りになる。
書架に凭れ闇に沈んだ天井を仰ぐ。
祖父の面影を追憶しているのか、虚空に向けた顔が和む。
「組織はじっちゃんの代わりを務める人間を探しとった。後継者として目を付けられたのがこの俺、ガキの頃からじっちゃんの仕事場に忍び込んでは見よう見まねで火薬をいじとった俺や。俺はじっちゃんが隠しとった設計図を盗み見て、爆弾の作り方を頭と手先に叩き込んだ。配線繋ぐのとかややこしいて難儀したけどそのうちゲームみたいで楽しくなってもうてな、どっぷりハマりこんでもた。仲間入りせんかて組織からお呼びがかかった時は単純に嬉しかった、これで俺もかっこいい刺青貰える!て。子供心に憧れとったんや、じっちゃんの刺青に。俺もあんなんが欲しいてずっと思うとった」
「渡りに船だったわけか」
「ま、やり口は誘拐に近いけどな。簀巻きで担がれたんや、どっこいせて」
「よく検問にひっかからなかったな」
「うそ」
「そう思ったとも」
憮然とする僕をよそに、ヨンイルはしれっと先を続ける。
「組織の連中は示し合わせて俺をかっさらった、じっちゃんに内緒で。じっちゃんが知ったら反対するて読んどったんやろな、言葉巧みに俺を連れ出してアジトにつれてった。俺もアホやからのこのこついてって、その日のうちにあれよあれよとんとん拍子で下絵描くとこまで行ったんや。もちろん刺青が一日二日で出来上がるわけない、全身に彫るなら一週間、いや、ことによるとそれ以上はかかる。俺はアジトに泊まりこんでほぼぶっ続けで刺青彫られる事になった。早いとこ仕上げてまわなじっちゃんに知られておじゃんになるて連中も焦っとったのかもな」
そっとゴーグルに触れる。
「そっからが地獄や。俺は板張りの土間みたいなとこに連れてかれた、そこに何日間も閉じ込められた。見張りが立っとって一歩も外に出してくれへんかった。じきに彫り師がやってきて俺を丸裸に剥いた。そこに腹這いに寝ろ命令されて、図体のでかい男ふたりがかりで押さえ込まれた。あたりはよう見えんかった。薄暗かった。ランプの明かりだけが頼りやった。こんな暗い中でちゃんと手元見えるんかいてはらはらした。雰囲気出す為にわざと暗うしとったんでもないやろけど、俺には十分効果的やった。異様な雰囲気に呑まれて最初の針が打ち込まれる前にびびって腰抜けてもた、情けない話」
淡々たる語り口の迫力に引き込まれる。
顔の横におかれたランプだけが唯一の光源の暗い部屋
饐えた体臭が立ち込める垢染みた板張りの土間。
出入り口には屈強な見張りが立ち睨みを利かせている。
出入り口は塞がれた。
逃走路は絶たれた。
準備は整った。
動悸が速まる。
喉が渇く。
全身にじっとり汗が滲む。
男二人がかりで肩を掴まれ土間に這わされる。
乱暴に服を剥かれ全裸にされる、尊厳も何もかも剥奪され家畜の皮を剥ぐように板張りの床にねじ伏せられるー……
当時の状況が鮮明に目に浮かぶ。
当時十歳のヨンイルを襲った戦慄が背骨を貫く。
「彫り師は大分年いっとったけど腕は確かやった。刺青を彫る時な、昔ながらのやり方で針使うねん。手彫りや。刺青彫る機械もあるんやけど、KIAの刺青は手彫りに限るてきまっとるんや。俺もその仁義に乗っ取ってこうして……」
ヨンイルが左手に針を持ち右手で打ち込むしぐさをする。
鋭利な針先が手首の返しで肌を穿つ痛みを想像、思わず顔を顰める。
「痛そうだな」
「そら痛いわ。最初は鋭く、二度目は鈍く疼くんが終わりなくずっと続くんや。チクッ、ズクズク、ズクン。
気ィおかしくなりそうやった。体中ひりひりしてろくに寝返りも打てへんし、飲まず食わずで何時間何日間も押さえ込まれて針でほじくられてしまいには頭がぼうっとして、自分がどこにいるかもわからんようになってしもた」
十歳のヨンイルがかつて味わった痛みを想像しようと目を閉じ、闇に自我を没する。
骨格が完全に出来上がってない華奢な体を押さえ込む手と手、裸の背中を舐めるように見る眼。
針先が肩甲骨の窪みをなぞり、触診と指圧の兼ね合いで痛覚の集中するツボを探る。
いつだったか、残虐兄弟に刺青を彫る真似事をされた。
裸の背に当てられた彫刻刀の感触が蘇り、肩甲骨に食い込む刃の冷たさに怖気をふるう。
彫刻刀に犯される感覚と針で圧される抵抗感がどう違うか実際体験してないから指摘はできないが、どちらにせよ固く冷たく剣呑に尖ったものがとちりちりと産毛を逆撫で恐怖を煽る緩慢さで溝を作り入ってくるのは同じ。
ヨンイルが体験した痛みと恐怖に共感する。
最も僕のそれはヨンイルに比べたら子供だまし、ヨンイルが昼夜問わず苛まれた生き地獄に等しい壮絶な苦痛とは比較にならない。
ヨンイルは数多くの修羅場をくぐりぬけてきた。
改めてヨンイルの半生の過酷さを痛感、複雑な感慨にひたる。
両親を殺し東京プリズンに入らなければヨンイルとも出会わず、サムライとも出会わなかった。
レイジやロンはもちろん王虎やルーツァイ、育った環境のまるで異なる彼らと出会い言葉を交わす間柄になることは一生なかったと断言できる。
東京プリズンに来なければヨンイルの存在も知らず、また漫画の素晴らしさを知らずに終わった。
「君も役に立っているじゃないか」
「は?」
「こちらの話だ、気にするな」
とりあえず、漫画の素晴らしさを教えてくれた点についてだけは感謝する。
怪訝な顔でこちらを見詰め続けるヨンイルに向き直り、五十嵐の件があってからずっと疑問だった事を本人に直接尋ねる。
「ヨンイル、ひとつ聞きたいことがある」
「なんやねん急に、改もうて」
ヨンイルが器用に片眉を上げる。
居住まいを正してヨンイルと対峙、挑むような眼差しで見据える。
「刺青を消したいか」
一瞬の沈黙。
虚を衝かれたらしくヨンイルの顔が空白になる。
間抜けな顔で絶句するヨンイルの方へ身を乗り出し語気を強める。
「五十嵐をあれほど憎しみに駆り立てたのは君の身の内に巣食う龍だ。君の体に刻まれた印が五十嵐を狂気に駆り立てた。五十嵐は常に君を意識していた、服をも透かす執念で刺青に凝視を注いだ。ペア戦リング上で君を全裸にさせ群集の眼前に刺青を晒した行為こそ、五十嵐の憎しみの深さを物語っているじゃないか。龍が放つ瘴気が五十嵐を狂わせたと、そうは思わないか」
馬鹿馬鹿しいとわかっている。
わかっているが、心の片隅でそう思いたがっている自分を否定できない。
僕に手紙を届けてくれた五十嵐が、ボイラー室に閉じ込められた際も扉越しに励ましてくれた五十嵐が、囚人全員の信頼を裏切ってまでもあの時あの場で凶行に及んだ理由が、人知の及ばぬ超常の力に憑かれたからならいいと願っている。
五十嵐は魔性に魅入られヨンイルに銃を向けた。
五十嵐のとった許されざる行動を、犯した裏切りを、魔性に魅入られた故の不可抗力として免罪したい自分を否定できない。
僕は、五十嵐に腹を立てているのかもしれない。
ペア戦リング上では偉そうな事を言い五十嵐を説得したが、僕自身五十嵐の行為を裏切りと感じ、騙されていたと怒り、いかに復讐の理由が正当だろうと五十嵐を弁護できない葛藤に苛まれている。
偽善は必要悪だ。
だから僕はあの時あの場で吐いた偽善を恥じたりはしない、テロの巻き添えという極めて不条理な形で最愛の娘を奪われた五十嵐にむかい偉そうに吐いた言葉を取り消しはしない。
しかしだからこそ、いまだに思う。
心のどこかでありえない可能性に縋っている。
あの時五十嵐がとった行動が、囚人全員に憎まれ蔑まれ東京プリズンで勝ち得た信頼人望すべてを擲ちヨンイル一人を殺そうとした行動が五十嵐自身の意志と決断によるものではなく、人間を残酷に弄ぶ大いなる不可視の力のせいならいいと、抗い難いものに抗い力及ばず呑みこまれてしまった結果ならいいと、五十嵐への怒りを浄化する装置として龍を利用しようとしている。
運命など信じないこの僕が、責任回避装置として運命を利用しようとしている。
なんたる欺瞞。
反吐が出る。
「刺青を消して、過去と決別したいとは思わないか」
ヨンイルにとって、刺青は罪の烙印だ。
ヨンイルだって、本当は消したいと望んでいるんじゃないか。
龍の呪縛から、過去の因縁から解放されたいと願ってるんじゃないか?
ヨンイルは俯き無言。
書架に凭れ袖越しに上腕をさすっている。
荒ぶる龍を鎮めようと無意識な仕草で腕をさすりながら、ふいに呟く。
「直ちゃん」
真剣な声で名を呼ばれ鼓動が跳ねる。
ヨンイルが緩慢に顔を上げる。
軽く一回瞬き、透徹した意志で研がれた双眸がひたと僕を見据える。
ヨンイルが一気に袖を捲る。
「こいつは俺の一部や」
一気に肘まで捲り上げられた袖の下から露出したのは銀を燻したような光沢が美しい暗緑の鱗。
ヨンイルの左腕に長大な蛇腹をくねらせ絡み付く文字通り龍の片鱗。
隠し通路の暗がりでぼうと燐光を放つ技巧の粋を極めた刺青。
健康的に日焼けした腕を銀を燻して固めたような鱗が覆うさまはいっそ官能的でさえあり、言動そのままに剽悍な少年といった感じのヨンイルの侠気を引き立たせ、片袖を捲り上げ片膝立てた粋なポーズと相俟って啖呵を切る博徒の如き凄味を与える。
「今までしてきたことこいつに全部おっかぶせて切り捨てたりはようせん。俺がやったことはそないに軽くない、トカゲのしっぽや蛇の抜け殻みたいにポイて捨てられん。こいつは十歳ん時から俺と一緒にでかくなった、俺が与えた二千人分の血肉を喰ろうてここまででかくなったんや。こいつはな、俺自身や。消したりなんかせん。じっちゃんがそうしたように一生死ぬまでこいつをしょってく」
袖をおろし腕を隠す。
「殺した命を贖えんならせめてこの身に刻み付けて生きる。俺がやったこと忘れんように毎日刺青を見て暮らす、刺青がここにあるて意識する。言葉のまんま一心同体、こいつとは切っても切れへん腐れ縁さかい」
ヨンイルの表情は柔らかかった。
人食い龍の殺生の業すら受け止め、新たな道を切り開く気概と活力に充ちた爽快な笑い。
諦念ではなく達観。
逃げずに立ち向かうことで逆境を克服し前向きな姿勢を貫徹する、一人の少年のしなやかで鮮烈な生き様。
ヨンイルは僕が思った以上に、強い。
業深い人食い龍と死ぬまで共存する覚悟を固めている。
二千人を喰らって血肉とした龍の胎動を常に身の内に感じ己を戒める。
二千人の命と人生を奪った罪は一生かかっても償えない。
ならば二千人分の血肉を喰らい成長した龍の存在を常に身の内に意識し、甘んじて咎を負い呪縛を受ける。
身の内の龍に全ての罪を被せ否定するのではない、龍も己の一部と認め共存の道を選ぶ。
ヨンイルは、強い。
決して逃げたりしない。
刺青を彫る痛みからも、過去の罪からも。
五十嵐からも。
「僕とは大違いだ」
真実から、恵から逃げ続けている僕とは大違いだ。
どこまでも真っ直ぐなヨンイルの目を正視できず、俯く。
胸が痛む。
逃げてばかりいる自分の卑劣さを痛感、喉元に苦汁が込み上げる。
僕は、弱い。
身体も精神も脆弱だ。
ヨンイルやサムライのように強くなりたいと願いながらそうなれずにいる自分の惰弱さに吐き気を催す。
サムライは慌てなくてよいもよいという、ありのままの僕でいいという。
だが僕はこれ以上迷惑をかけたくない、彼に守られてばかりの非力な自分が嫌で嫌で仕方ない。
今日も僕は逃げてきた。
本を借りに図書室に行くというのは口実で、本音を言えばサムライから逃げたかったのだ。
今でも十分すぎるほど強いのに僕を守るためさらに強くなろうとするサムライの姿が、さらに力を欲し剣の道を究めんとがむしゃらに稽古に励む背筋の伸びた姿勢が僕を追い詰める。
孤高の背中が遠い。
サムライもヨンイルもあまりに真っ直ぐで、
迷いがなくて。
どうしたら二人のように強くなれる?
ああまで苛烈に純粋に強さを求められる?
「おーい直ちゃん?どないしたん、むつかしい顔して。眉間が川の字になっとるで」
ヨンイルの声ではっと我に返る。いつのまにか至近距離ににじり寄ったヨンイルが目の前でひらひら手を振っていた。心配顔で僕の反応を確かめるヨンイルを意を決しまっすぐ見詰める。
ヨンイルが怪訝な顔をする。
額のゴーグルが目に入る。
ゴーグルの表面には弾痕が穿たれている。五十嵐の銃弾を受けた名残り。
祖父の形見のゴーグルが貫通を防ぐ盾となり一命をとりとめたが、一歩間違えれば即死だった。
僕ならどうだ?
ヨンイルと同じ立場で、同じ行動がとれるか?
仮に銃を握っていたのが恵で、前に立っていたのが僕なら。
殺したいほど憎まれていたのが僕なら。
あの時ヨンイルが見せたような安らかな達観の表情で、恵の憎しみも哀しみもすべて受け止め浄化する事ができただろうか。
妹に殺したいほど憎まれている事実を許容し、なおかつ死を受け入れられるだろうか。
互いに許しあうのは不可能でも、自分に銃を向けた相手を許せるだろうか。
『もう、ええ』
殺していいのだと、促してやれただろうか。
『ヨンイル、悪い。やっぱり駄目だ。お前のこと殺さずに済みそうにない』
最後に五十嵐は謝った。
絶望の翳りを帯びた寂しげな笑みを浮かべ、情けなく震え掠れた声で、自分がこれから殺そうとしている相手に謝った。憎んでも憎みたりず殺しても殺したりないはずの相手に、屈折した愛情と勘違いするほど優しい眼差しと表情で詫びたのだ。
あの時の五十嵐の顔が、ヨンイルの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
これからも一生消えない確信に近い予感がする。
あの時二人の心は確かに通じ合った。
ヨンイルは五十嵐を許し、五十嵐も引き金を引く一秒の千分の一に満たない刹那だけは、きっとヨンイルを許せたのだ。
ヨンイルを許したからこそ引き金を引いた。
ヨンイルを許してしまった自分が悔しくて、娘に申し訳なくて、自責が憎しみを補った反動で。
「ヨンイル」
ヨンイルの強さと潔さに純粋な憧れを抱く。
唐突に、刺青を間近でじっくり見たい衝動が疼く。
彼の強さしなやかさの源たる刺青が、服の下でひっそり息づく龍が、羨望とも憧憬ともつかぬ悩ましい衝動をかきたてやまない。
呼ばれたヨンイルが顔を上げる。
目が合う。
沈黙が落ちる。
書架に挟まれた隠し通路に秘密めかした空気が漂う。
正面切ってヨンイルを見据え、口を開く。
「服を脱げ」
「……………………………………は?え、ちょ、なんやねん急に」
ヨンイルが狼狽する。
余程僕の言葉が意外だったのか、床に尻餅付いたままの姿勢であとじさり書架にぶつかる。
背中から書架に激突したヨンイルへ慎重に詰め寄り口早に付け足す。
「性的な意味じゃない。誤解しないでくれ、よりにもよって同性にそれも君に欲情するほど僕はおちぶれてないし趣味が悪くない。じろじろと変な目で見るな、僕はただ君の身体に純粋な興味があって」
「俺の体に!?」
「胸を覆うな、気色悪い。語弊があったな、僕が見たいのは君の身体じゃなくてその刺青だ。君の裸自体には一切何の興味もないから安心したまえ、刺青の付加価値があるからこそ君の裸に鑑賞物としての価値が生じるというものだ」
「なんやねん直ちゃんやーらしーわー、いきなり刺青に興味津々て……ギャラリーフェイクじゃあるまいし、俺の身体の龍が芸術的やからて皮剥いでホルマリンに漬けて永久保存したりせんやろな?」
「触らない。見るだけだ」
断言する。
「ペア戦リング上で三万人の大群衆の前に全裸を晒しておきながら何をいまさら恥ずかしがる、羞恥の基準がおかしいぞ。断っておくが脱衣の強要に下心などありはしない、劣情などもってのほかだ。僕は言わずと知れた潔癖症で君に触る気は毛頭ない。君の話を聞いて改めてじっくりと刺青を見たくなっただけだ、上着の裾や袖口から無防備にちらちら覗くのは何度も見たが細部を観察したことはないからな、形而上の興味が湧いた。ペア戦直後は五十嵐の乱入でそれどころじゃなかったし……」
「なんで直ちゃんに裸見せなあかんねん、こんな暗がりにふたりっきりで」
「誤解を招く発言はよせ。見たいのは裸じゃない、刺青だ。それとも何か、君はあれだけ僕を友人だの手塚仲間だのと言っておきながら、IQ180の天才がプライドを捻じ曲げて頼んでも刺青を見せるのを拒むような狭量な人間なのか?見損なったぞヨンイル、普段あれだけ無防備にちらちら見せている癖にいざ僕が頼めば出し惜しみするのか。暗がりで肌を見せるのを拒むとは恥じらいを至上の美徳とする処女か、謙譲の美徳の概念は日本人特有のもので韓国人にも応用されるとは初耳だ。君は処女か?それともギャラリーが少なくて物足りない露出狂か。三人以上集まらねば刺青を見せる気がないと言うんだな、わかった、なら早速王虎を……」
「待ち待ち待ち待ちぃ!」
ヨンイルが顔前に両手を翳し腰を浮かせかけた僕を制す。
互いの出方を窺う微妙な沈黙が流れる。
先に折れたのはヨンイルだ。
僕の決意が固いと知るやがくりと肩を落とし大げさに息を吐く。
「………しゃあない。図書室の恥はかき捨てや」
ヨンイルが胡坐をかく。
胡坐にした膝をぽんと叩き、顔を厳しく引き締め僕に向き直る。
「出血大サービスやで。たとえるならちぃちゃいナミが裏切り者呼ばわりされるの承知でアーロンとこ行く位の覚悟や」
「意味不明なたとえはいいから早く脱げ」
「ちょ、ワンピースも読んでへんのかい!?」
「手塚治虫と浦澤直樹だけで十分だ。それ以外は読むに値しない低俗図書だ」
「読まず嫌いはいかんがな、勝手に決め付けんのも!ワンピース読まんなんて人生の五分の一損しとるで、手始めに一巻貸したるさかいにほら、ちなみに俺のおすすめはサンジとギンのエピソードでギンの男泣きがこれまた胸を打つ……」
「さっさと脱げ、時間の無駄だ」
苛立ちを堪え催促する。
顎をしゃくり促せば、議論の余地なしと諦めたヨンイルが溜め息交じりに首を振る。
深呼吸で意を決したヨンイルが準備体操の要領で両腕を回し、肩の凝りをほぐして天井を仰ぐ。
覚悟を決め上着の裾に手をかける。
「道化の心意気とくと見さらせ!」
威風あたりを払う宣言が響く。
衣擦れの音が耳朶にふれる。
僕の目の前、書架を背に立ち上がったヨンイルが手早く服を脱いでいく。
袖から腕を抜き、首から襟を抜く。
上着の裾が肌蹴て捲れ、無駄なく引き締まった腹部と胸板が露になる。
固唾を呑みその光景を凝視する。
ヨンイルが服を脱いでいく過程を、ヨンイルの服の下から覗いた刺青が次第にその全貌を現していく過程を熱心に見守る。
服の下にもう一枚服があるかのような、肌の上にもう一枚肌があるかのような奇妙な錯覚を受ける。
錯覚はじき違和感に変じ、波紋が広がるような感動が体の奥底から生じる。
「上だけでええんか」
「ああ」
ヨンイルが念のため確認、上の空で頷く。
一抹の未練なく脱いだ上着をぱさりと床に投げ捨て、羞恥心ごとかなぐり捨てたかのように大胆不敵に腕を組む。
「俺の龍や。目ん玉かっぽじって拝んどけ」
外気に晒した腰に、腹に、胸に、肩に、首筋に。
四肢に絡み付くようにして刻まれた龍の刺青。
ヨンイルの体の正面、右腰から左脇腹へと抜けるように蛇腹を波打たせ背中に回りまた一周し、二周三周とヨンイルを中心に螺旋を描く長大な龍。
それ自体生き物の如く躍動感溢れる見事な刺青で、菱を連ねた鱗一枚一枚に至るまで気の遠くなるような細緻な装飾が施されている。妄執じみた怨念こもる鱗一枚一枚が毒々しく艶めき、紆余曲折と撓り波打つ蛇腹が溜め息が漏れるほど雄渾な筆致で表現される。
銀を燻して固めたような鱗一枚一枚が妖美なる魔性の輝きを放ち、四肢を縛める蛇腹が呼吸に合わせ蠢動する光景が妙に淫靡で、知らず知らずのうちに手を伸ばす。
ヨンイルが身籠る龍の胎動を感じる。
手を触れる前から翳したてのひらに龍の息吹が伝わってくる。
「生きているみたいだ」
これが、龍。
二千人の血肉を喰らい大きくなった、ヨンイルの分身。
ヨンイルの腹部に触ろうとして思いとどまる。
何を考えてるんだ、僕は。
動揺する。
五指を握りこむ。
触らないと言ったそばからつい手を伸ばしてしまった。
他人との接触に恐怖に近い嫌悪感をもつ僕自ら手を伸ばし触れようとした、その事実に愕然とする。
催眠術にかかったような酩酊感が理性を奪う。
刺青を見ているうちに恐怖心が麻痺し、その美しさに恍惚となり、深淵のふちに立ったものが渦中に身を投じたくなるような誘惑に抗いきれずおそるおそる手を伸ばしていた。
龍のあぎとを覗き込み呑まれるならばそれもいいと
こんな美しい龍にとって食われるなら本望だと
理性の麻痺した頭の片隅で声がする。
指先が触れる間際に我に返って手を引けば、頭上から声が降り注ぐ。
「さわってみぃ」
鞭打つような厳しい声に硬直する。
宙に浮かせた手首を誰かが掴む。
ヨンイルだ。
おもむろに僕の手首を掴み、自分の方へと強引に引き寄せる。
「!なっ………」
腕力では到底かなわない。
咄嗟に身をよじり振り解こうとするもヨンイルの握力は強く、手首にぎりっと五指が食い込む。
「見るだけでいいと言ったろう、触るのは望んでない。即刻手を放せ、痣ができたらサムライが誤解する」
「サムライは忘れろ」
耳朶に熱い吐息がかかる。
いつのまにかヨンイルが至近距離に来ていた。
僕の手首を掴みむりやり引き寄せたヨンイルが、怖いほどに真剣な顔で覗き込んでくる。
人懐こい道化ではない、
僕の知らない男の顔。
普段奥底に秘めている、静かなる闘志を剥き出しにした顔。
「熱いやろ」
掴まれた手から火傷しそうな熱が伝わる。
ヨンイルに詰め寄られあとじされば背中に衝撃、書架にぶつかる。
行き止まり。
書架に寄りかかった僕に上半身裸のヨンイルがのしかかる。
凄まじい威圧を放ち、龍が迫り来る。
禍々しく毒々しい瘴気を発し、胸郭と腹筋の上下に合わせてうねる。
正面にヨンイルが立つ。
書架に寄りかかった僕の顔の横に指を広げた片手を突き、もう片方の手で僕の手首を掴み、裸の胸へと導く。
荒い息遣いと早鐘の鼓動が体内にこだまする。
書架に寄りかかり腰を落とした体勢の僕は、暗がりに沈んだヨンイルの顔を見詰め、苦労して生唾を飲み込む。
ヨンイルが別人に見える。
体内の龍がヨンイルの人格を乗っ取ったかのような本能的な恐怖に、全身の毛穴が開いて冷たい汗が噴き出す。
逃げる事も振り解く事もさらには声を上げる事もできず硬直する僕の手をとり、自分の胸、心臓の上に置く。
そして言う。
「ちゃんと聞こえるやろ、心臓の音」
掌から力強い鼓動が伝わる。
生命の溶けた血を送り出す心臓の働きを感じる。
「生きとる証拠や」
「当たり前だ、心拍が停止してたら今頃砂漠の穴の中だ」
プライドを振り絞り、何とか憎まれ口を叩く。
ヨンイルが愉快げに声たて笑う。
元のヨンイルに戻り安堵したのも束の間、次の瞬間にはまた見知らぬ顔になる。
普段の人懐こさがなりをひそめ、輪郭鋭く精悍さが増した顔でヨンイルが低く囁く。
「五十嵐に生かされた証拠」
ヨンイルが僕の手を握り締める。
自分の心臓ごと包み込むように。
「ちゃんと動いとるやろ。生きとるやろ。
五十嵐な、俺を殺さんかってん。
せやから生きてんねん、俺」
声に切実なものが篭もる。
僕の手を持ったままヨンイルが項垂れる。
僕の肩口に額を預ける姿勢をとり、問わず語りに告白する。
「あの時は殺されてもええって思った。それがいちばん筋通っとる気がした。五十嵐に憎まれて殺されてもしゃあない思った。けどな、直ちゃんが」
「僕がどうした」
「ダチやて言うてくれはって、途端に死ぬのが惜しゅうなった。そういえば俺、まだまだ直ちゃんにすすめたい漫画あったんやて思い出してもうた。直ちゃんと喋りたいこと沢山あったんやて気付いた。ブラックジャックがいっつもマントの理由とか、封神演義の女キャラなら妲己ちゃん派か胡喜媚派か呂邑姜派か、そんな当たり前の事さえ聞いてへんかったなーて、弾丸が額ぶち割る最後の最後の瞬間に心残りできてもた」
「呂邑姜には好感が持てる」
「原作やろそれ、俺が言うてんのは漫画。ほら、やっぱり存在自体知らへんかった!よかった死なんといて、直ちゃんに漫画版封神演義読ませる前に死んだら太乙真人に宝貝搭載で復活させてもらうとこやった!」
僕の肩からがばと顔を上げたヨンイルが唾飛ばし喚くのに顔を背ける。
僕の肩に顔を埋めたヨンイル、針のような短髪が頬を擦りむず痒い。
埃が沈殿する薄暗い通路にて、書架を背にした僕に寄りかかり、悪運の強さにほとほと呆れたように苦笑する。
「きっとそれが原因や、死なんかったの」
「何?」
衣擦れの音と荒い呼吸に神妙な囁きが紛れる。
額にかけたゴーグルが肩に当たる。
空気の変化で龍が鎮まっていくのを感じる。
ヨンイルの体を食い破り外に出んと瘴気を噴いていた龍が、僕の腕の中で宥められ次第に大人しくなり、やがて完全にこちらに身を委ねる。
弛緩した体を凭せ掛けたヨンイルを慣れない素振りで何とか支える。
僕が彼を抱いているのか
彼が僕を抱いてるのか。
互いに互いが寄りかかっているせいでどちらとも付かない。
僕の肩にコトリと額を預け項垂れたヨンイルが、薄っすらと口元に笑みを刷く。
「弾丸が当たる直前にぎゅって目ぇ閉じて念じたんや、死にとうないて。せやから当たらんかった。じっちゃんのゴーグルが身代わりになってくれた」
ゴーグルの弾痕を感謝のしぐさでなでる。
小さく息を吐き顔を上げ、真っ直ぐに僕を見る。
「おおきに、直」
禍根を払拭した顔で男臭く笑う。
心臓が強く鼓動を打つ。
てのひらがじんと火照りを帯びる。
裸の胸に置いたてのひらから強い鼓動が伝わる。
生きている証拠。
生かされた証拠。
ヨンイルが今確かにここにいる証。
ヨンイルが生きていて、よかった。
「万分の一の偶然で助かった人間に礼を言われる筋合いはない」
裸の胸をそっけなく突き放し、床の上着を拾って投げ渡す。
掌にはまだ熱が残っている。
掌を介し体内に響き渡った鼓動を覚えている。
瞼を閉じる。
瞼の裏の闇にくっきりと龍が浮上する。
ヨンイルの体に巻き付く巨大な龍、二千人の血肉を喰らい成長した魔性の異形を見る。
ヨンイルの身に刻まれた刺青は一生消えない。
それでいいとヨンイルは言う、ヨンイルは笑う。
身の内に巣食うのが忌まわしい人喰い龍だとしても、ヨンイルならばきっと飼い馴らす事ができるだろうと楽観させる笑顔で、二千人を殺した事実が消えないなら死ぬまで背負っていくと請け負い、贖えぬ罪の重さに耐え続ける覚悟をする。
ヨンイルは、強い。
その強さが愛おしく、眩しい。
刺青を彫る事により新しい自分に生まれ変わると夢想する王虎の気持ちが、少しだけわかる気がする。
王虎はきっと、ヨンイルに憧れているのだ。
刺青を手に入れ、少しでも道化に近付きたいのだ。
「王虎やけどな、やっぱやめたほうがええで」
手早く上着を身に付け、襟からすっぽり顔を出したヨンイルが結論する。
「刺青は一生もん、簡単に付けたり消したりできん。親から貰うた体粗末にしたらバチ当たる、俺かてバレた時はじっちゃんに殴られたもん。王虎かて惚れた女に泣かれるのはややろ?顔に少しくらい傷が付いたからてどないした、そんなもん気にすんな。だいいちあんな優男に刺青なんか似合わへんて、刺青ちゅーのはもっとこう強面のヤクザ顔のな、たとえばそう、よくロンロンにつっかかっとる東棟の俺は凱アンガキ大将とかぴったし……」
「恋人の姿を彫りたいんだそうだ」
「はあ?」
「刑務所の中でも一緒にいられるように、せめても存在を身近に感じたいらしい。背中に恋人がいると思えば自慰にも張りが出るそうだ」
「阿呆か、俺が凛々やったら興ざめもええとこや!それはよ言うてや直ちゃん、王虎が馬鹿な真似する前に止めへんと!!三次元の女を二次元化するなんてえらいこっちゃ、漫画のアニメ化はありやけど生身の漫画化はあかんあかん、逆輸入は認めへんで!」
ヨンイルが一陣の疾風と化し通路を駆け抜けていく。
上着の裾が颯爽と翻り引き締まった背中と刺青が覗く。
二千人分の業と巨大な龍を背負いながらも足取り軽く、光の方へ跳ぶように駆けていくヨンイルを見送る。
書架が割れて開かれた出入り口、逆光を背負って振り向いたヨンイルが高らかに叫ぶ。
「はよ来いや直ちゃん、王虎が手遅れになる前に止めに行くで!凛々ラブとか背中に入れくさった日にゃ西棟の敷居跨がせんからなあの色ボケカスッ、シャワー室の笑いもんなりたいんか!そないに背中が寂しいなら油性マジックで肉って書いたる、肉って!いやむしろ額!?背中に肉って背脂やがな!!」
「図書室では私語厳禁だ」
出入り口に立ち僕を待つヨンイルのもとへ歩き出しがてら、ぬくもりを帯びた手を開閉し、ぎゅっと握りこむ。
裸の胸に触れても、不思議と嫌ではなかった。
それどころか、刺青から活力を分け与えられた心地がした。
蛇腹が横切る胸に手を置いた事で僕の中にも龍の生命力が流れ込み、ヨンイルをさらに身近に感じた。
「はよ来んかーい」と飛び跳ね手招きする道化のもとへ向かいながら先刻の情景を反芻、口の端に浮かぶ苦笑を禁じ得ない。
『おおきに、直』
あの笑顔にはかなわない。
天才を降参させるとは、大した道化だ。
「ほえ?」
呆けた顔を上げヨンイルがこちらを見る。
「霊長類の長たる自覚があるならホモサピエンスの言語で話せ、喃語で応じるなど言語中枢が退化しすぎだ」
「いきなり何言い出すねん直ちゃん。本の読みすぎでどうかしてもうたか」
「漫画の読みすぎで常に言動がおかしい君に言われたくない」
ヨンイルがこめかみでくるくると人さし指を回す。
心外な発言に気分を害す。
図書室の二階奥、移動式書架を張り巡らせた隠し通路、通称ヨンイルの城が僕の現在地だ。
天井にまで達する書架が明かりを遮光するせいであたりは薄暗い。
堆積した埃の匂いが鼻腔を突く。
僕はこの匂いが嫌いじゃない、どこか懐かしい感じがするのだ。
本に囲まれていると心が落ち着く。
喧騒から隔絶された束の間の平穏、静寂に包まれた束の間の安息。
十重二十重と張り巡らされた本棚が防壁の役目を成し、下品でうるさい連中が群がる煩わしい現実から束の間僕を隔ててくれる。
視線の先、僅か三メートルしか離れていない場所に僕がプライベートな素顔を覗かせる数少ない人間の一人がいる。
西の道化の異名をもつ西棟のトップ、ヨンイル。
額に不釣合いに大きいゴーグルをかけ、針のように立たせた短髪の囚人。
人懐こさと精悍さとが綯い交ぜになった好感の持てる顔だち、吊り目がちの目、腕白な八重歯が似合う大きな口。
伸びやかな手足に似合いの溌剌とした仕草が、とぐろ巻く龍脈の如く全身に循環する無限のバイタリティーと活発なエネルギーを示唆する。
過去二千人を大量殺戮した凶悪犯にはとても見えない快活な少年だ。
図書室の埃っぽい暗がりより太陽の下の方がよほど似合う健全な見た目を裏切り、その実体は漫画をこよなく愛するオタクである。
「ぜんっぜんわからへん、なんでいきなりんなこと言い出すんや。俺にもわかるよう説明してや、直ちゃんみたいに頭ようないさかい」
ヨンイルが困惑する。
なるほど、唐突だったかもしれない。
往々にして天才の発想の飛躍に凡人はついていけないものだ。
ヨンイルにもわかりやすいよう話のレベルを下げてやらなければ。
まったく、凡人の相手は面倒くさい。
諦念の溜め息交じりに説明を開始する。
「ワンフーが刺青を入れようか悩んでるんだそうだ」
「王虎が?」
ヨンイルがぱちぱち目をしばたたく。
王虎の名を出したのがそんなに意外かと鼻白む。
「直ちゃん、王虎に悩み事相談されるくらい親しかったんか」
「親しくはない。妙な誤解をするな、心外だ。王虎が一方的に僕を友人と思い込んでしつこく付き纏ってくるだけで大いに迷惑している。大体彼とは売春班で一時期同僚だった接点しかないのに、図書室で顔を合わすたび話しかけてこられて読書の邪魔だ」
眼鏡の弦に触れ、苦りきった口調で吐き捨てる。
王虎は西棟の囚人だ。
僕とはごく短い間ブラックワーク売春班で一緒だった。
売春班で慰み者にされ苦汁を飲んだ同士、王虎はやたらと僕に懐いてくるが正直こちらは迷惑している。
勝手に友人と勘違いされうるさく話しかけられ読書の邪魔だ。
出来心で安田の銃を盗んだ君をまだ許してないぞと何度言っても一向にこたえた様子なく、「同じ釜の飯を食った同士、いや、同じカマ掘られた同士つれねーこと言わずに仲良くやろうぜカギャーザキ」となれなれしく肩を叩いてくる。
同じ地獄を乗り越えた戦友だとでも思っているのだ、僕を。
勝手に親近感を抱かないでほしい、こちらはくだらない連帯感など微塵も持ち合わせてないのに。
売春班が廃止された今、王虎とは全く関係ない。
たまに図書室で顔を合わせるだけの囚人に友人と勘違いされ、夕飯の献立の愚痴に始まり図書室が再三のリクエストにも応じず猥褻な雑誌を仕入れない事の不満、はては恋人の自慢話まで付き合わされ大迷惑だ。
いかに僕が無視しようともうるさく付き纏い
「そんでさカギャーザキ、凛々てば手紙で早く俺に会いたいって言って聞かねーの。まったく可愛いよな駄々こねちゃってさ。ほらこれがその手紙、鼻くっつけてみろよ、いーい匂いがすんだろ」
と手紙をひらひらさせられたら注意力散漫にもなる。
恋人自慢ならよそでやれ、ちょうどそこに良い本棚があるから匂いを嗅がせてやったらどうだと勧めても効果なし。
不愉快な本音を隠しもせず露骨に渋面を作り、淡々と経緯を話す。
「王虎とは図書室でよく会う。何度追い払ってもしつこく纏わり付いてくるから仕方なくいやいや不承不承相手をしてやってるのだが、今日突然刺青を彫ろうか迷ってると相談された」
「なんでやねん」
「既に顔が傷物なのだから、いっそ刺青を彫ったほうが男が上がると考えたらしい。いかにも低脳らしい短絡な発想だ」
「凛々か」
「凛々だ」
眼鏡のブリッジを押し上げ嘆かわしく首を振る。
凛々とは王虎の恋人だ。
王虎いわく「むしゃぶりつきたくなるような上玉」らしい。
「王虎が刺青を彫る目的といったらひとつしかない、恋人だ。恋人の歓心を買うためだ。王虎は以前売春班で慰み者にされるのを苦に顔面から鏡に飛び込み傷を負った、それは知ってるな」
「知っとるも何も毎日見とるもん、花山薫みたいなあいつの顔傷」
「当時は後先考えず勢いに任せてやったらしいが、今になって娑婆に出た時のことを考え滅入っているそうだ。男前が台無しになった自分に恋人が幻滅しないか案じ、振られたらどうしようと悶々思い悩んだ挙句、それならいっそ刺青でワルな魅力をアピールしようと……」
「刺青しょって生まれ変わった俺に惚れ直せ!か。アホらし」
ヨンイルが処置なしと首を振る。
僕も同感だ。
しかし本人にとっては深刻な悩みらしく「こんなツラじゃお婿にいけね〜よ〜凛々に振られちまうよ〜刺青彫って出直すしかね〜よ〜」と今にも死にそうな顔で世にも情けない声を上げていた。
ヨンイルは斜め上方に視線を泳がせ暫く思案したのちあっけらかんと提案する。
「彫ればええやん。別に止めんで、好きにせえ。彫るも彫らんも個人の自由や、俺がどうこう言うこっちゃない」
「痛みに耐える自信がないんだそうだ」
「はあ?」
「刺青を彫る痛みに耐えられるか不安なんだそうだ」
「ちょ、ちょい待ち。王虎て確か自分から鏡に突っ込んだんやよな?」
「そうだ」
「顔面からダイブして」
「そうだ」
「顔じゅうに破片刺そうて血まみれに……」
「そうだ」
「なんで顔面から鏡に突っ込むクソ度胸ある奴が今さらびくつくんや」
正論だ。
「それとこれとは別だそうだ。王虎いわく当時は頭がイカれる一歩手前で鏡に突っ込むなんてとち狂った真似をしたが、気付いた時には顔中に包帯巻かれていて、鏡に突っ込んだ瞬間の事は殆ど覚えてない。従って痛みの実感もない」
「なんちゅー都合よい話……」
ヨンイルが脱力。
気を取り直し核心に入る。
「そこでだヨンイル、物は試しに君に聞いてみた。君は西棟のトップで王虎に慕われている、彫るにしろ彫らないにしろ君の一声で王虎は即決し僕の邪魔をしなくなる。僕個人の意見としては王虎が刺青を彫ろうが炎症を起こし高熱に苦しもうが傷口から感染症にかかり生きながら腐り爛れようがどうでもいいが……」
本当にどうでもいい。
彫るなら勝手に彫ればいい、人に意見を求めるな。
だがしかし、王虎には一応恩を感じている。
僕がペア戦のリングに立った時、応援してくれた数少ない囚人の中に王虎がいた。
王虎の声援に後押しされロンはリングに上り見事勝利した。
右手がむずがる病気が出て安田の銃を盗んだり時に傍迷惑なチャレンジ精神を発揮するトラブルメイカーだが、王虎はあれでよく気が回り、憎めない性格をしている。
『考えてみりゃ、お袋の子宮にずっとひきこもってたら凛々とも出会えなかったんだよな!』
ペア戦序盤、売春班撤廃を快く思わぬ連中によって僕はボイラー室に監禁された。
ロンを身代わりの人質にボイラー室から脱出した時、売春班の面々を率い救出に駆け付けたのは彼だ。
あの時王虎が協力を申し出てくれねばロンの奪還は不可能でその後のペア戦の行方にも影響した。王虎は我が身の危険も顧みず売春班で同じ地獄を見たロン救出に力を貸してくれた。
ルーツァイと王虎が持てる限りのリーダーシップを発揮してくれたからこそ売春班の面々の気勢が上がり最高潮のテンションを維持できたのだ。
ロン救出を成し遂げた王虎の誇らしげな顔を鮮明に覚えている。
ロン奪還成功の影には優男と侮られた王虎の活躍がある。
借りは返さねばならない。
それが僕の信条だ。
そして僕はいつかの借りを返すため、気乗りせぬ伝言役を引き受けたのだ。
ヨンイルはページを開いた漫画を膝に預け顎を掻く。
「そらまあ、痛いで」
「具体的にどの位だ」
「たとえるなら邪眼の手術くらい」
「わかるように言え」
「幽白読んでないんかい」
ヨンイルが驚愕に目をひん剥く。……屈辱だ。
ヨンイルは脳裏で言葉を選び纏めてから、出来る限り僕にわかりやすく噛み砕いて説明する。
「邪眼っちゅうのはな、飛影が魔界整体師時雨に受けた特殊な手術で手に入れたもんでこれがきっかけで飛影はもともとA級妖怪やったんが最下級までおちたんや。飛影はどうしても邪眼が必要やった。その理由っちゅうんが泣かせる話で生き別れの双子の妹雪菜と母親の形見の氷泪石を探すためで、クールでとっつきにくいイメージが先行する飛影に人間味を付与する重要なエピソードに」
「飛影の生い立ちをわかりやすく噛み砕いてどうする、僕が知りたいのは痛みの程度だ」
漫画のこととなるとヨンイルは見境がなくなる。
視線に重圧をかけ促せば観念したヨンイルが頭の後ろで手を組む。
頭の後ろで手を組み書架に凭れかかったヨンイルがどこか遠くを見るように目を細める。
「邪眼の手術はな、傷口をナイフでぐりぐりする何十倍もの痛みを伴うんや」
絶句。
視線が思わず袖口に吸い寄せられる。
頭の後ろで無造作に手を組むヨンイル、その袖口がはらりと捲れ刺青の一部が外気に晒される。
露出した手首に巻き付く蛇腹、日焼けした肌と同化する銀と翠を塗した鱗。
末端の片鱗から全身に及ぶ龍の刺青を幻視する。
ヨンイルの四肢を抱く巨大な龍が蛇腹をくねらせ気炎を上げる。
普段服に隠れた部位をくまなく覆う龍の刺青、ヨンイルの四肢に取り憑いた異形の魔性が邪悪な瘴気を発し宿主を守る。
ヨンイルの身の内で鋭い呼気吐き蠢動する龍、一枚一枚細密に彫られた鱗が発散する瘴気にあてられ酩酊する。
「………知らなかった、それほどまでとは」
声も知らず神妙になる。
ヨンイルはわずか十歳にして全身に刺青を彫った。
その身を苛んだ筆舌尽くしがたい激痛を想像し戦慄が走る。
ナイフで傷口を抉る数十倍の痛み……
いっそ舌を噛んで死んだほうがマシな痛み。
僕とて耐える自信がない。
質問を悔やみ俯く僕に、ヨンイルがきょとんとする。
「え、信じた?」
……………………………道化め。
「嘘か。虚偽か。捏造か。この僕を、IQ180の天才たるこの鍵屋崎直を騙したのか?」
「いや、まさか信じるとは思わへんで……傷口をナイフでぐりぐりやろ?普通死ぬて」
「じゃあ死ね」
「んな殺生な」
同情して損した。一瞬でも真に受けた自分を恥じる。
「ごめんごめん、ホンマ反省しとる。せやから機嫌直してや、な?この通り」
手を合わせ詫びるも半笑いで誠意が足りない。
僕の顔を上目遣いに窺いまだ怒りが解けてないと知るや、ヨンイルはばつ悪げに頬を掻く。
「むつかしいんや、あの痛みは。口ではよう説明できん。実際体験してみぃひんとわからんたぐいの痛みやし……ま、根性なしはやめといたほうが無難やな。特に麻酔なしはきっついで〜、彫りたてはじくじく疼くしうっかり寝返りも打てへんもん」
「麻酔は使わなかったのか?考えられない、全身に彫ったんだろう」
驚く。
僅か十歳の子供の全身に刺青を彫るというだけで倫理に反するのに麻酔なしで施術を敢行するとは鬼畜の所業だ。
改めて服の上から各部位を観察する。
首筋、肩、腕、腰、足。
そのすべてを舐め尽くす龍の刺青。
麻酔なしの施術が伴う危険を想像、通過儀礼の建前で十歳の子供に対し行われた倫理に背く行為に拒絶の感情を催す。
「使わんかったで。麻酔は邪道、痛みに耐えられん根性なしはKIAに入る資格がないってこと」
試練の克服は龍に神格を与える。
昼夜問わず全身を責め苛む耐え難い痛みと熱を克服し、初めて絵姿の龍が神性を帯びる。
刺青を彫る行為自体が、痛苦を捧げ物に絵姿の龍に生命を注入する儀式として等価の意味をもつ。
ヨンイルの物言いは飄々と軽い。
しかしその言葉の裏に選択の余地なくKIAの一員となるべく宿命付けられた過酷な人生が見え隠れする。
ヨンイルは十一歳で二千人を殺した。
ヨンイルが殺した二千人の中に五十嵐の娘がいた。
五十嵐。
囚人に慕われていた東京プリズンの看守。
韓国併合二十周年の祝賀パレードで発生したテロで一人娘を亡くして以来、五十嵐は仕事に対する意欲と人生に対する情熱を失い、生ける屍と化し自暴自棄に日々を消費してきた。
酒に溺れ言動は荒み勤務態度はみるみる悪化、はては同僚との間に暴力事件を起こし東京プリズンに左遷された。
ヨンイルとの出会いは偶然だった。
左遷先の刑務所で殺しても殺したりず憎んでも憎み足りぬ娘の仇と出会ってしまった五十嵐は、これに運命を感じ天啓を得た。五十嵐はヨンイルに激しい殺意を抱き、先に行われたペア戦では射殺する一歩手前まで行ったのだ。
実行犯は別にいる。
勿論五十嵐もそれはわかっている。
パレードの最中に大統領の車を狙い爆弾を投擲した実行犯は別にいると、逃げ惑う群衆の中に更に爆弾を投げ込み祝祭を惨劇に変えた張本人は別にいると理性ではわかっている。
だがしかし感情は納得しない、不条理にも娘を奪われた父親の心は納得しない。
ヨンイルが製造した爆弾で二千人が死んだのは動かしがたい事実、五十嵐の娘が死んだ原因はヨンイルにあるのだ。
ヨンイルの身の内に巣食う人食い龍を幻視する。
服を透視せんばかりの熱心さで四肢を見詰め続ける僕に気付き、ヨンイルが無邪気に八重歯を見せ笑う。
「刺青を彫ったとき、俺は十歳やった」
感慨深げに肘をさする。
ゴーグルの下の目が感傷を含む追憶の光にぬれ、大人びて苦みばしり、達観した表情が浮かぶ。
「最初に持ちかけたんは組織の人間。正式な仲間になりたいなら刺青入れてみたらどやって、うち訪ねた折におれ捕まえてこっそり耳打ちした。俺は二つ返事で承諾した。その頃はじっちゃんも年で、組織の人間がしつこくうち訪ねて爆弾作うてくれ頼んでも色よい返事せえようになってた。遅かれ早かれ年を理由に引退考えてはったんや、じっちゃんは。組織にはもう十分尽くした、借りは返した、ワイは疲れたんやて酒飲みながらくだ巻いとったの覚えとる。実際じっちゃんはようやった。
俺とじっちゃんは市井に混じりながらもKIAの監視下で窮屈な暮らししとった。
最低限の生活費とかはKIAが面倒見てくれはったけど、じっちゃんは『人殺しの手伝いして貰うた銭で飯食うてお天道様に顔向けできん』が口癖やった。参っとんやろな、体も心も。KIAに俺を人質にとられたも同然の環境で花火作りの本業疎かにして爆弾作り続けて、おどれが作った爆弾でぎょうさん人が死んで……隠居したら花火だけ作って暮らすて言うとったもん。どうせ咲かせるなら血の花より火の花のが千倍もええ、て」
ヨンイルの祖父の言葉の裏に秘められた悲哀、娘と孫を人質にとられKIAに人生を捧げ続けた男の姿が浮き彫りになる。
書架に凭れ闇に沈んだ天井を仰ぐ。
祖父の面影を追憶しているのか、虚空に向けた顔が和む。
「組織はじっちゃんの代わりを務める人間を探しとった。後継者として目を付けられたのがこの俺、ガキの頃からじっちゃんの仕事場に忍び込んでは見よう見まねで火薬をいじとった俺や。俺はじっちゃんが隠しとった設計図を盗み見て、爆弾の作り方を頭と手先に叩き込んだ。配線繋ぐのとかややこしいて難儀したけどそのうちゲームみたいで楽しくなってもうてな、どっぷりハマりこんでもた。仲間入りせんかて組織からお呼びがかかった時は単純に嬉しかった、これで俺もかっこいい刺青貰える!て。子供心に憧れとったんや、じっちゃんの刺青に。俺もあんなんが欲しいてずっと思うとった」
「渡りに船だったわけか」
「ま、やり口は誘拐に近いけどな。簀巻きで担がれたんや、どっこいせて」
「よく検問にひっかからなかったな」
「うそ」
「そう思ったとも」
憮然とする僕をよそに、ヨンイルはしれっと先を続ける。
「組織の連中は示し合わせて俺をかっさらった、じっちゃんに内緒で。じっちゃんが知ったら反対するて読んどったんやろな、言葉巧みに俺を連れ出してアジトにつれてった。俺もアホやからのこのこついてって、その日のうちにあれよあれよとんとん拍子で下絵描くとこまで行ったんや。もちろん刺青が一日二日で出来上がるわけない、全身に彫るなら一週間、いや、ことによるとそれ以上はかかる。俺はアジトに泊まりこんでほぼぶっ続けで刺青彫られる事になった。早いとこ仕上げてまわなじっちゃんに知られておじゃんになるて連中も焦っとったのかもな」
そっとゴーグルに触れる。
「そっからが地獄や。俺は板張りの土間みたいなとこに連れてかれた、そこに何日間も閉じ込められた。見張りが立っとって一歩も外に出してくれへんかった。じきに彫り師がやってきて俺を丸裸に剥いた。そこに腹這いに寝ろ命令されて、図体のでかい男ふたりがかりで押さえ込まれた。あたりはよう見えんかった。薄暗かった。ランプの明かりだけが頼りやった。こんな暗い中でちゃんと手元見えるんかいてはらはらした。雰囲気出す為にわざと暗うしとったんでもないやろけど、俺には十分効果的やった。異様な雰囲気に呑まれて最初の針が打ち込まれる前にびびって腰抜けてもた、情けない話」
淡々たる語り口の迫力に引き込まれる。
顔の横におかれたランプだけが唯一の光源の暗い部屋
饐えた体臭が立ち込める垢染みた板張りの土間。
出入り口には屈強な見張りが立ち睨みを利かせている。
出入り口は塞がれた。
逃走路は絶たれた。
準備は整った。
動悸が速まる。
喉が渇く。
全身にじっとり汗が滲む。
男二人がかりで肩を掴まれ土間に這わされる。
乱暴に服を剥かれ全裸にされる、尊厳も何もかも剥奪され家畜の皮を剥ぐように板張りの床にねじ伏せられるー……
当時の状況が鮮明に目に浮かぶ。
当時十歳のヨンイルを襲った戦慄が背骨を貫く。
「彫り師は大分年いっとったけど腕は確かやった。刺青を彫る時な、昔ながらのやり方で針使うねん。手彫りや。刺青彫る機械もあるんやけど、KIAの刺青は手彫りに限るてきまっとるんや。俺もその仁義に乗っ取ってこうして……」
ヨンイルが左手に針を持ち右手で打ち込むしぐさをする。
鋭利な針先が手首の返しで肌を穿つ痛みを想像、思わず顔を顰める。
「痛そうだな」
「そら痛いわ。最初は鋭く、二度目は鈍く疼くんが終わりなくずっと続くんや。チクッ、ズクズク、ズクン。
気ィおかしくなりそうやった。体中ひりひりしてろくに寝返りも打てへんし、飲まず食わずで何時間何日間も押さえ込まれて針でほじくられてしまいには頭がぼうっとして、自分がどこにいるかもわからんようになってしもた」
十歳のヨンイルがかつて味わった痛みを想像しようと目を閉じ、闇に自我を没する。
骨格が完全に出来上がってない華奢な体を押さえ込む手と手、裸の背中を舐めるように見る眼。
針先が肩甲骨の窪みをなぞり、触診と指圧の兼ね合いで痛覚の集中するツボを探る。
いつだったか、残虐兄弟に刺青を彫る真似事をされた。
裸の背に当てられた彫刻刀の感触が蘇り、肩甲骨に食い込む刃の冷たさに怖気をふるう。
彫刻刀に犯される感覚と針で圧される抵抗感がどう違うか実際体験してないから指摘はできないが、どちらにせよ固く冷たく剣呑に尖ったものがとちりちりと産毛を逆撫で恐怖を煽る緩慢さで溝を作り入ってくるのは同じ。
ヨンイルが体験した痛みと恐怖に共感する。
最も僕のそれはヨンイルに比べたら子供だまし、ヨンイルが昼夜問わず苛まれた生き地獄に等しい壮絶な苦痛とは比較にならない。
ヨンイルは数多くの修羅場をくぐりぬけてきた。
改めてヨンイルの半生の過酷さを痛感、複雑な感慨にひたる。
両親を殺し東京プリズンに入らなければヨンイルとも出会わず、サムライとも出会わなかった。
レイジやロンはもちろん王虎やルーツァイ、育った環境のまるで異なる彼らと出会い言葉を交わす間柄になることは一生なかったと断言できる。
東京プリズンに来なければヨンイルの存在も知らず、また漫画の素晴らしさを知らずに終わった。
「君も役に立っているじゃないか」
「は?」
「こちらの話だ、気にするな」
とりあえず、漫画の素晴らしさを教えてくれた点についてだけは感謝する。
怪訝な顔でこちらを見詰め続けるヨンイルに向き直り、五十嵐の件があってからずっと疑問だった事を本人に直接尋ねる。
「ヨンイル、ひとつ聞きたいことがある」
「なんやねん急に、改もうて」
ヨンイルが器用に片眉を上げる。
居住まいを正してヨンイルと対峙、挑むような眼差しで見据える。
「刺青を消したいか」
一瞬の沈黙。
虚を衝かれたらしくヨンイルの顔が空白になる。
間抜けな顔で絶句するヨンイルの方へ身を乗り出し語気を強める。
「五十嵐をあれほど憎しみに駆り立てたのは君の身の内に巣食う龍だ。君の体に刻まれた印が五十嵐を狂気に駆り立てた。五十嵐は常に君を意識していた、服をも透かす執念で刺青に凝視を注いだ。ペア戦リング上で君を全裸にさせ群集の眼前に刺青を晒した行為こそ、五十嵐の憎しみの深さを物語っているじゃないか。龍が放つ瘴気が五十嵐を狂わせたと、そうは思わないか」
馬鹿馬鹿しいとわかっている。
わかっているが、心の片隅でそう思いたがっている自分を否定できない。
僕に手紙を届けてくれた五十嵐が、ボイラー室に閉じ込められた際も扉越しに励ましてくれた五十嵐が、囚人全員の信頼を裏切ってまでもあの時あの場で凶行に及んだ理由が、人知の及ばぬ超常の力に憑かれたからならいいと願っている。
五十嵐は魔性に魅入られヨンイルに銃を向けた。
五十嵐のとった許されざる行動を、犯した裏切りを、魔性に魅入られた故の不可抗力として免罪したい自分を否定できない。
僕は、五十嵐に腹を立てているのかもしれない。
ペア戦リング上では偉そうな事を言い五十嵐を説得したが、僕自身五十嵐の行為を裏切りと感じ、騙されていたと怒り、いかに復讐の理由が正当だろうと五十嵐を弁護できない葛藤に苛まれている。
偽善は必要悪だ。
だから僕はあの時あの場で吐いた偽善を恥じたりはしない、テロの巻き添えという極めて不条理な形で最愛の娘を奪われた五十嵐にむかい偉そうに吐いた言葉を取り消しはしない。
しかしだからこそ、いまだに思う。
心のどこかでありえない可能性に縋っている。
あの時五十嵐がとった行動が、囚人全員に憎まれ蔑まれ東京プリズンで勝ち得た信頼人望すべてを擲ちヨンイル一人を殺そうとした行動が五十嵐自身の意志と決断によるものではなく、人間を残酷に弄ぶ大いなる不可視の力のせいならいいと、抗い難いものに抗い力及ばず呑みこまれてしまった結果ならいいと、五十嵐への怒りを浄化する装置として龍を利用しようとしている。
運命など信じないこの僕が、責任回避装置として運命を利用しようとしている。
なんたる欺瞞。
反吐が出る。
「刺青を消して、過去と決別したいとは思わないか」
ヨンイルにとって、刺青は罪の烙印だ。
ヨンイルだって、本当は消したいと望んでいるんじゃないか。
龍の呪縛から、過去の因縁から解放されたいと願ってるんじゃないか?
ヨンイルは俯き無言。
書架に凭れ袖越しに上腕をさすっている。
荒ぶる龍を鎮めようと無意識な仕草で腕をさすりながら、ふいに呟く。
「直ちゃん」
真剣な声で名を呼ばれ鼓動が跳ねる。
ヨンイルが緩慢に顔を上げる。
軽く一回瞬き、透徹した意志で研がれた双眸がひたと僕を見据える。
ヨンイルが一気に袖を捲る。
「こいつは俺の一部や」
一気に肘まで捲り上げられた袖の下から露出したのは銀を燻したような光沢が美しい暗緑の鱗。
ヨンイルの左腕に長大な蛇腹をくねらせ絡み付く文字通り龍の片鱗。
隠し通路の暗がりでぼうと燐光を放つ技巧の粋を極めた刺青。
健康的に日焼けした腕を銀を燻して固めたような鱗が覆うさまはいっそ官能的でさえあり、言動そのままに剽悍な少年といった感じのヨンイルの侠気を引き立たせ、片袖を捲り上げ片膝立てた粋なポーズと相俟って啖呵を切る博徒の如き凄味を与える。
「今までしてきたことこいつに全部おっかぶせて切り捨てたりはようせん。俺がやったことはそないに軽くない、トカゲのしっぽや蛇の抜け殻みたいにポイて捨てられん。こいつは十歳ん時から俺と一緒にでかくなった、俺が与えた二千人分の血肉を喰ろうてここまででかくなったんや。こいつはな、俺自身や。消したりなんかせん。じっちゃんがそうしたように一生死ぬまでこいつをしょってく」
袖をおろし腕を隠す。
「殺した命を贖えんならせめてこの身に刻み付けて生きる。俺がやったこと忘れんように毎日刺青を見て暮らす、刺青がここにあるて意識する。言葉のまんま一心同体、こいつとは切っても切れへん腐れ縁さかい」
ヨンイルの表情は柔らかかった。
人食い龍の殺生の業すら受け止め、新たな道を切り開く気概と活力に充ちた爽快な笑い。
諦念ではなく達観。
逃げずに立ち向かうことで逆境を克服し前向きな姿勢を貫徹する、一人の少年のしなやかで鮮烈な生き様。
ヨンイルは僕が思った以上に、強い。
業深い人食い龍と死ぬまで共存する覚悟を固めている。
二千人を喰らって血肉とした龍の胎動を常に身の内に感じ己を戒める。
二千人の命と人生を奪った罪は一生かかっても償えない。
ならば二千人分の血肉を喰らい成長した龍の存在を常に身の内に意識し、甘んじて咎を負い呪縛を受ける。
身の内の龍に全ての罪を被せ否定するのではない、龍も己の一部と認め共存の道を選ぶ。
ヨンイルは、強い。
決して逃げたりしない。
刺青を彫る痛みからも、過去の罪からも。
五十嵐からも。
「僕とは大違いだ」
真実から、恵から逃げ続けている僕とは大違いだ。
どこまでも真っ直ぐなヨンイルの目を正視できず、俯く。
胸が痛む。
逃げてばかりいる自分の卑劣さを痛感、喉元に苦汁が込み上げる。
僕は、弱い。
身体も精神も脆弱だ。
ヨンイルやサムライのように強くなりたいと願いながらそうなれずにいる自分の惰弱さに吐き気を催す。
サムライは慌てなくてよいもよいという、ありのままの僕でいいという。
だが僕はこれ以上迷惑をかけたくない、彼に守られてばかりの非力な自分が嫌で嫌で仕方ない。
今日も僕は逃げてきた。
本を借りに図書室に行くというのは口実で、本音を言えばサムライから逃げたかったのだ。
今でも十分すぎるほど強いのに僕を守るためさらに強くなろうとするサムライの姿が、さらに力を欲し剣の道を究めんとがむしゃらに稽古に励む背筋の伸びた姿勢が僕を追い詰める。
孤高の背中が遠い。
サムライもヨンイルもあまりに真っ直ぐで、
迷いがなくて。
どうしたら二人のように強くなれる?
ああまで苛烈に純粋に強さを求められる?
「おーい直ちゃん?どないしたん、むつかしい顔して。眉間が川の字になっとるで」
ヨンイルの声ではっと我に返る。いつのまにか至近距離ににじり寄ったヨンイルが目の前でひらひら手を振っていた。心配顔で僕の反応を確かめるヨンイルを意を決しまっすぐ見詰める。
ヨンイルが怪訝な顔をする。
額のゴーグルが目に入る。
ゴーグルの表面には弾痕が穿たれている。五十嵐の銃弾を受けた名残り。
祖父の形見のゴーグルが貫通を防ぐ盾となり一命をとりとめたが、一歩間違えれば即死だった。
僕ならどうだ?
ヨンイルと同じ立場で、同じ行動がとれるか?
仮に銃を握っていたのが恵で、前に立っていたのが僕なら。
殺したいほど憎まれていたのが僕なら。
あの時ヨンイルが見せたような安らかな達観の表情で、恵の憎しみも哀しみもすべて受け止め浄化する事ができただろうか。
妹に殺したいほど憎まれている事実を許容し、なおかつ死を受け入れられるだろうか。
互いに許しあうのは不可能でも、自分に銃を向けた相手を許せるだろうか。
『もう、ええ』
殺していいのだと、促してやれただろうか。
『ヨンイル、悪い。やっぱり駄目だ。お前のこと殺さずに済みそうにない』
最後に五十嵐は謝った。
絶望の翳りを帯びた寂しげな笑みを浮かべ、情けなく震え掠れた声で、自分がこれから殺そうとしている相手に謝った。憎んでも憎みたりず殺しても殺したりないはずの相手に、屈折した愛情と勘違いするほど優しい眼差しと表情で詫びたのだ。
あの時の五十嵐の顔が、ヨンイルの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
これからも一生消えない確信に近い予感がする。
あの時二人の心は確かに通じ合った。
ヨンイルは五十嵐を許し、五十嵐も引き金を引く一秒の千分の一に満たない刹那だけは、きっとヨンイルを許せたのだ。
ヨンイルを許したからこそ引き金を引いた。
ヨンイルを許してしまった自分が悔しくて、娘に申し訳なくて、自責が憎しみを補った反動で。
「ヨンイル」
ヨンイルの強さと潔さに純粋な憧れを抱く。
唐突に、刺青を間近でじっくり見たい衝動が疼く。
彼の強さしなやかさの源たる刺青が、服の下でひっそり息づく龍が、羨望とも憧憬ともつかぬ悩ましい衝動をかきたてやまない。
呼ばれたヨンイルが顔を上げる。
目が合う。
沈黙が落ちる。
書架に挟まれた隠し通路に秘密めかした空気が漂う。
正面切ってヨンイルを見据え、口を開く。
「服を脱げ」
「……………………………………は?え、ちょ、なんやねん急に」
ヨンイルが狼狽する。
余程僕の言葉が意外だったのか、床に尻餅付いたままの姿勢であとじさり書架にぶつかる。
背中から書架に激突したヨンイルへ慎重に詰め寄り口早に付け足す。
「性的な意味じゃない。誤解しないでくれ、よりにもよって同性にそれも君に欲情するほど僕はおちぶれてないし趣味が悪くない。じろじろと変な目で見るな、僕はただ君の身体に純粋な興味があって」
「俺の体に!?」
「胸を覆うな、気色悪い。語弊があったな、僕が見たいのは君の身体じゃなくてその刺青だ。君の裸自体には一切何の興味もないから安心したまえ、刺青の付加価値があるからこそ君の裸に鑑賞物としての価値が生じるというものだ」
「なんやねん直ちゃんやーらしーわー、いきなり刺青に興味津々て……ギャラリーフェイクじゃあるまいし、俺の身体の龍が芸術的やからて皮剥いでホルマリンに漬けて永久保存したりせんやろな?」
「触らない。見るだけだ」
断言する。
「ペア戦リング上で三万人の大群衆の前に全裸を晒しておきながら何をいまさら恥ずかしがる、羞恥の基準がおかしいぞ。断っておくが脱衣の強要に下心などありはしない、劣情などもってのほかだ。僕は言わずと知れた潔癖症で君に触る気は毛頭ない。君の話を聞いて改めてじっくりと刺青を見たくなっただけだ、上着の裾や袖口から無防備にちらちら覗くのは何度も見たが細部を観察したことはないからな、形而上の興味が湧いた。ペア戦直後は五十嵐の乱入でそれどころじゃなかったし……」
「なんで直ちゃんに裸見せなあかんねん、こんな暗がりにふたりっきりで」
「誤解を招く発言はよせ。見たいのは裸じゃない、刺青だ。それとも何か、君はあれだけ僕を友人だの手塚仲間だのと言っておきながら、IQ180の天才がプライドを捻じ曲げて頼んでも刺青を見せるのを拒むような狭量な人間なのか?見損なったぞヨンイル、普段あれだけ無防備にちらちら見せている癖にいざ僕が頼めば出し惜しみするのか。暗がりで肌を見せるのを拒むとは恥じらいを至上の美徳とする処女か、謙譲の美徳の概念は日本人特有のもので韓国人にも応用されるとは初耳だ。君は処女か?それともギャラリーが少なくて物足りない露出狂か。三人以上集まらねば刺青を見せる気がないと言うんだな、わかった、なら早速王虎を……」
「待ち待ち待ち待ちぃ!」
ヨンイルが顔前に両手を翳し腰を浮かせかけた僕を制す。
互いの出方を窺う微妙な沈黙が流れる。
先に折れたのはヨンイルだ。
僕の決意が固いと知るやがくりと肩を落とし大げさに息を吐く。
「………しゃあない。図書室の恥はかき捨てや」
ヨンイルが胡坐をかく。
胡坐にした膝をぽんと叩き、顔を厳しく引き締め僕に向き直る。
「出血大サービスやで。たとえるならちぃちゃいナミが裏切り者呼ばわりされるの承知でアーロンとこ行く位の覚悟や」
「意味不明なたとえはいいから早く脱げ」
「ちょ、ワンピースも読んでへんのかい!?」
「手塚治虫と浦澤直樹だけで十分だ。それ以外は読むに値しない低俗図書だ」
「読まず嫌いはいかんがな、勝手に決め付けんのも!ワンピース読まんなんて人生の五分の一損しとるで、手始めに一巻貸したるさかいにほら、ちなみに俺のおすすめはサンジとギンのエピソードでギンの男泣きがこれまた胸を打つ……」
「さっさと脱げ、時間の無駄だ」
苛立ちを堪え催促する。
顎をしゃくり促せば、議論の余地なしと諦めたヨンイルが溜め息交じりに首を振る。
深呼吸で意を決したヨンイルが準備体操の要領で両腕を回し、肩の凝りをほぐして天井を仰ぐ。
覚悟を決め上着の裾に手をかける。
「道化の心意気とくと見さらせ!」
威風あたりを払う宣言が響く。
衣擦れの音が耳朶にふれる。
僕の目の前、書架を背に立ち上がったヨンイルが手早く服を脱いでいく。
袖から腕を抜き、首から襟を抜く。
上着の裾が肌蹴て捲れ、無駄なく引き締まった腹部と胸板が露になる。
固唾を呑みその光景を凝視する。
ヨンイルが服を脱いでいく過程を、ヨンイルの服の下から覗いた刺青が次第にその全貌を現していく過程を熱心に見守る。
服の下にもう一枚服があるかのような、肌の上にもう一枚肌があるかのような奇妙な錯覚を受ける。
錯覚はじき違和感に変じ、波紋が広がるような感動が体の奥底から生じる。
「上だけでええんか」
「ああ」
ヨンイルが念のため確認、上の空で頷く。
一抹の未練なく脱いだ上着をぱさりと床に投げ捨て、羞恥心ごとかなぐり捨てたかのように大胆不敵に腕を組む。
「俺の龍や。目ん玉かっぽじって拝んどけ」
外気に晒した腰に、腹に、胸に、肩に、首筋に。
四肢に絡み付くようにして刻まれた龍の刺青。
ヨンイルの体の正面、右腰から左脇腹へと抜けるように蛇腹を波打たせ背中に回りまた一周し、二周三周とヨンイルを中心に螺旋を描く長大な龍。
それ自体生き物の如く躍動感溢れる見事な刺青で、菱を連ねた鱗一枚一枚に至るまで気の遠くなるような細緻な装飾が施されている。妄執じみた怨念こもる鱗一枚一枚が毒々しく艶めき、紆余曲折と撓り波打つ蛇腹が溜め息が漏れるほど雄渾な筆致で表現される。
銀を燻して固めたような鱗一枚一枚が妖美なる魔性の輝きを放ち、四肢を縛める蛇腹が呼吸に合わせ蠢動する光景が妙に淫靡で、知らず知らずのうちに手を伸ばす。
ヨンイルが身籠る龍の胎動を感じる。
手を触れる前から翳したてのひらに龍の息吹が伝わってくる。
「生きているみたいだ」
これが、龍。
二千人の血肉を喰らい大きくなった、ヨンイルの分身。
ヨンイルの腹部に触ろうとして思いとどまる。
何を考えてるんだ、僕は。
動揺する。
五指を握りこむ。
触らないと言ったそばからつい手を伸ばしてしまった。
他人との接触に恐怖に近い嫌悪感をもつ僕自ら手を伸ばし触れようとした、その事実に愕然とする。
催眠術にかかったような酩酊感が理性を奪う。
刺青を見ているうちに恐怖心が麻痺し、その美しさに恍惚となり、深淵のふちに立ったものが渦中に身を投じたくなるような誘惑に抗いきれずおそるおそる手を伸ばしていた。
龍のあぎとを覗き込み呑まれるならばそれもいいと
こんな美しい龍にとって食われるなら本望だと
理性の麻痺した頭の片隅で声がする。
指先が触れる間際に我に返って手を引けば、頭上から声が降り注ぐ。
「さわってみぃ」
鞭打つような厳しい声に硬直する。
宙に浮かせた手首を誰かが掴む。
ヨンイルだ。
おもむろに僕の手首を掴み、自分の方へと強引に引き寄せる。
「!なっ………」
腕力では到底かなわない。
咄嗟に身をよじり振り解こうとするもヨンイルの握力は強く、手首にぎりっと五指が食い込む。
「見るだけでいいと言ったろう、触るのは望んでない。即刻手を放せ、痣ができたらサムライが誤解する」
「サムライは忘れろ」
耳朶に熱い吐息がかかる。
いつのまにかヨンイルが至近距離に来ていた。
僕の手首を掴みむりやり引き寄せたヨンイルが、怖いほどに真剣な顔で覗き込んでくる。
人懐こい道化ではない、
僕の知らない男の顔。
普段奥底に秘めている、静かなる闘志を剥き出しにした顔。
「熱いやろ」
掴まれた手から火傷しそうな熱が伝わる。
ヨンイルに詰め寄られあとじされば背中に衝撃、書架にぶつかる。
行き止まり。
書架に寄りかかった僕に上半身裸のヨンイルがのしかかる。
凄まじい威圧を放ち、龍が迫り来る。
禍々しく毒々しい瘴気を発し、胸郭と腹筋の上下に合わせてうねる。
正面にヨンイルが立つ。
書架に寄りかかった僕の顔の横に指を広げた片手を突き、もう片方の手で僕の手首を掴み、裸の胸へと導く。
荒い息遣いと早鐘の鼓動が体内にこだまする。
書架に寄りかかり腰を落とした体勢の僕は、暗がりに沈んだヨンイルの顔を見詰め、苦労して生唾を飲み込む。
ヨンイルが別人に見える。
体内の龍がヨンイルの人格を乗っ取ったかのような本能的な恐怖に、全身の毛穴が開いて冷たい汗が噴き出す。
逃げる事も振り解く事もさらには声を上げる事もできず硬直する僕の手をとり、自分の胸、心臓の上に置く。
そして言う。
「ちゃんと聞こえるやろ、心臓の音」
掌から力強い鼓動が伝わる。
生命の溶けた血を送り出す心臓の働きを感じる。
「生きとる証拠や」
「当たり前だ、心拍が停止してたら今頃砂漠の穴の中だ」
プライドを振り絞り、何とか憎まれ口を叩く。
ヨンイルが愉快げに声たて笑う。
元のヨンイルに戻り安堵したのも束の間、次の瞬間にはまた見知らぬ顔になる。
普段の人懐こさがなりをひそめ、輪郭鋭く精悍さが増した顔でヨンイルが低く囁く。
「五十嵐に生かされた証拠」
ヨンイルが僕の手を握り締める。
自分の心臓ごと包み込むように。
「ちゃんと動いとるやろ。生きとるやろ。
五十嵐な、俺を殺さんかってん。
せやから生きてんねん、俺」
声に切実なものが篭もる。
僕の手を持ったままヨンイルが項垂れる。
僕の肩口に額を預ける姿勢をとり、問わず語りに告白する。
「あの時は殺されてもええって思った。それがいちばん筋通っとる気がした。五十嵐に憎まれて殺されてもしゃあない思った。けどな、直ちゃんが」
「僕がどうした」
「ダチやて言うてくれはって、途端に死ぬのが惜しゅうなった。そういえば俺、まだまだ直ちゃんにすすめたい漫画あったんやて思い出してもうた。直ちゃんと喋りたいこと沢山あったんやて気付いた。ブラックジャックがいっつもマントの理由とか、封神演義の女キャラなら妲己ちゃん派か胡喜媚派か呂邑姜派か、そんな当たり前の事さえ聞いてへんかったなーて、弾丸が額ぶち割る最後の最後の瞬間に心残りできてもた」
「呂邑姜には好感が持てる」
「原作やろそれ、俺が言うてんのは漫画。ほら、やっぱり存在自体知らへんかった!よかった死なんといて、直ちゃんに漫画版封神演義読ませる前に死んだら太乙真人に宝貝搭載で復活させてもらうとこやった!」
僕の肩からがばと顔を上げたヨンイルが唾飛ばし喚くのに顔を背ける。
僕の肩に顔を埋めたヨンイル、針のような短髪が頬を擦りむず痒い。
埃が沈殿する薄暗い通路にて、書架を背にした僕に寄りかかり、悪運の強さにほとほと呆れたように苦笑する。
「きっとそれが原因や、死なんかったの」
「何?」
衣擦れの音と荒い呼吸に神妙な囁きが紛れる。
額にかけたゴーグルが肩に当たる。
空気の変化で龍が鎮まっていくのを感じる。
ヨンイルの体を食い破り外に出んと瘴気を噴いていた龍が、僕の腕の中で宥められ次第に大人しくなり、やがて完全にこちらに身を委ねる。
弛緩した体を凭せ掛けたヨンイルを慣れない素振りで何とか支える。
僕が彼を抱いているのか
彼が僕を抱いてるのか。
互いに互いが寄りかかっているせいでどちらとも付かない。
僕の肩にコトリと額を預け項垂れたヨンイルが、薄っすらと口元に笑みを刷く。
「弾丸が当たる直前にぎゅって目ぇ閉じて念じたんや、死にとうないて。せやから当たらんかった。じっちゃんのゴーグルが身代わりになってくれた」
ゴーグルの弾痕を感謝のしぐさでなでる。
小さく息を吐き顔を上げ、真っ直ぐに僕を見る。
「おおきに、直」
禍根を払拭した顔で男臭く笑う。
心臓が強く鼓動を打つ。
てのひらがじんと火照りを帯びる。
裸の胸に置いたてのひらから強い鼓動が伝わる。
生きている証拠。
生かされた証拠。
ヨンイルが今確かにここにいる証。
ヨンイルが生きていて、よかった。
「万分の一の偶然で助かった人間に礼を言われる筋合いはない」
裸の胸をそっけなく突き放し、床の上着を拾って投げ渡す。
掌にはまだ熱が残っている。
掌を介し体内に響き渡った鼓動を覚えている。
瞼を閉じる。
瞼の裏の闇にくっきりと龍が浮上する。
ヨンイルの体に巻き付く巨大な龍、二千人の血肉を喰らい成長した魔性の異形を見る。
ヨンイルの身に刻まれた刺青は一生消えない。
それでいいとヨンイルは言う、ヨンイルは笑う。
身の内に巣食うのが忌まわしい人喰い龍だとしても、ヨンイルならばきっと飼い馴らす事ができるだろうと楽観させる笑顔で、二千人を殺した事実が消えないなら死ぬまで背負っていくと請け負い、贖えぬ罪の重さに耐え続ける覚悟をする。
ヨンイルは、強い。
その強さが愛おしく、眩しい。
刺青を彫る事により新しい自分に生まれ変わると夢想する王虎の気持ちが、少しだけわかる気がする。
王虎はきっと、ヨンイルに憧れているのだ。
刺青を手に入れ、少しでも道化に近付きたいのだ。
「王虎やけどな、やっぱやめたほうがええで」
手早く上着を身に付け、襟からすっぽり顔を出したヨンイルが結論する。
「刺青は一生もん、簡単に付けたり消したりできん。親から貰うた体粗末にしたらバチ当たる、俺かてバレた時はじっちゃんに殴られたもん。王虎かて惚れた女に泣かれるのはややろ?顔に少しくらい傷が付いたからてどないした、そんなもん気にすんな。だいいちあんな優男に刺青なんか似合わへんて、刺青ちゅーのはもっとこう強面のヤクザ顔のな、たとえばそう、よくロンロンにつっかかっとる東棟の俺は凱アンガキ大将とかぴったし……」
「恋人の姿を彫りたいんだそうだ」
「はあ?」
「刑務所の中でも一緒にいられるように、せめても存在を身近に感じたいらしい。背中に恋人がいると思えば自慰にも張りが出るそうだ」
「阿呆か、俺が凛々やったら興ざめもええとこや!それはよ言うてや直ちゃん、王虎が馬鹿な真似する前に止めへんと!!三次元の女を二次元化するなんてえらいこっちゃ、漫画のアニメ化はありやけど生身の漫画化はあかんあかん、逆輸入は認めへんで!」
ヨンイルが一陣の疾風と化し通路を駆け抜けていく。
上着の裾が颯爽と翻り引き締まった背中と刺青が覗く。
二千人分の業と巨大な龍を背負いながらも足取り軽く、光の方へ跳ぶように駆けていくヨンイルを見送る。
書架が割れて開かれた出入り口、逆光を背負って振り向いたヨンイルが高らかに叫ぶ。
「はよ来いや直ちゃん、王虎が手遅れになる前に止めに行くで!凛々ラブとか背中に入れくさった日にゃ西棟の敷居跨がせんからなあの色ボケカスッ、シャワー室の笑いもんなりたいんか!そないに背中が寂しいなら油性マジックで肉って書いたる、肉って!いやむしろ額!?背中に肉って背脂やがな!!」
「図書室では私語厳禁だ」
出入り口に立ち僕を待つヨンイルのもとへ歩き出しがてら、ぬくもりを帯びた手を開閉し、ぎゅっと握りこむ。
裸の胸に触れても、不思議と嫌ではなかった。
それどころか、刺青から活力を分け与えられた心地がした。
蛇腹が横切る胸に手を置いた事で僕の中にも龍の生命力が流れ込み、ヨンイルをさらに身近に感じた。
「はよ来んかーい」と飛び跳ね手招きする道化のもとへ向かいながら先刻の情景を反芻、口の端に浮かぶ苦笑を禁じ得ない。
『おおきに、直』
あの笑顔にはかなわない。
天才を降参させるとは、大した道化だ。
メイドアタックシンドローム〜あるいは道化の白昼夢〜
(2001/05/30) 「起きろヨンイル。いつまで寝てる気だ」
偉そうな命令口調に懐かしさを覚える。
「ん………?」
頭の芯に沈滞した眠気に抗いゆっくりと瞼を開ける。
視界が霞む。
真上におぼろな人影を捉える。
顔のあたり、ちょうど両目の位置で二つの輪っかがもやもやと鉛筆で書きなぐったような線を結ぶ。
眼鏡。
楕円形の眼鏡が似合う聡明な顔だちの少年がこちらを覗きこんでいる。
「一体どないなっとんねん……」
気を抜けば塞がりかける瞼を叱咤し、気力を振り絞り持ち上げる。
なんだかひどく気だるい。
寝起き特有の倦怠感がつきまとう。
のろくさと起き上がり、かぶりを振り、眠気の残滓を追い払う。
横に手をつき体を支える。
数回瞬きをするうちに、現実味の薄い光景が浮かび上がってくる。
「ここはどこ?私はだれ?」
記憶喪失のお約束の台詞が我知らず口から漏れる。
奇妙に現実感が欠落している。
体が生身の感覚を取り戻すまで若干の時差を要する。
頭が重い。
どうやら大量の水を飲んだらしく、肺がふやけて膨らんでいる。
「げほ、がほがほっ!!」
起きしな水が逆流し、体を二つに折って激しく咳き込む。
体中の穴という穴から水が逆流し、勢いよく排出される。
大量の水を吸ってたぷんたぷんと波打つ胃袋が不規則な痙攣をおこし、一本の管と化した喉が水を汲み上げて体外へとぶちまける。
鼻の穴から耳の穴からついには目からも、全身の穴からいちどきに水があふれだすのは非常にシュールな光景だが、生死の境をさまよう本人には笑い事ではない。
涙と洟汁と水とが体内で攪拌され、胃袋ごと吐き戻す勢いで激しく咽せる。
「自力で息を吹き返したのなら要救助者への適切な処置、人工呼吸の必要はないな。まったく、どれだけ人間離れした肺活量をしてるんだ、君は。解剖の興味がわく」
目の前に瀕死の人間がいるというのに声の主はひどく落ち着き払っている。
ヨンイルの悶絶ぶりを殺処分が決定した実験動物でも見るように冷徹な眼で見下ろし、言う。
「ヨンイル、君はひどく水を飲んでいる。はやめに気絶したから致死量には達してないが、しかし危険なところだった。いいか?水難者の愚かなところは、水中でパニックになり、むやみに暴れて体力をうしない、余分な水を飲む点だ。水死とはヒトの口腔内から吸引された液体が気管へ侵入し、肺に水がたまるなどして気道がふさがれることにより引き起こされる窒息死の一種だ」
声の主は淡々と続ける。
医学書の記述でも読み上げるように平板な口調で、ヨンイルがいかに死に近付いていたか、どのような過程を辿り復活したか語り聞かせる。
「人間は溺れると無意識に息を吸おうとする。それが結果としてパニックを招く。何とか空気を吸おうと必死にもがくため、動悸を早めてしまい、もっと空気を必要とさせる。動くために必要な酸素がどんどん消費されるため、頭に回る酸素を少なくさせてしまい、さらに正常な判断ができなくなってしまう。そして、徐々に無意識に近い状態になっていく。君は早い段階で気絶したから助かったんだ。強運に感謝しろ。否、悪運と言うべきか」
やたらまわりくどく難解な長広舌に涙が出そうな郷愁が切々とこみあげる。
徐徐に頭がはっきりしてくる。
思考力が回復し、あたりを見回す余裕ができる。
この声、この口調、聞き覚えがある。
自分がよく知る人物と似ている。いや、そっくりや。
ヨンイルの戸惑いをよそに声の主は至極淡々とつまならそうに溺死に至る過程を説明する。
言ってる内容は難しくてさっぱりわからないがお構いなしだ。
自己中を通り越し、いっそ潔い。
自分の知的レベルについてこれないお前が悪いというばかりの開き直りさえ感じさせる。
右耳から左耳へ子守唄のように通り抜ける言葉は理解不能だが、この声には覚えがある。
後頭部にあたる柔らかな感触に気付く。
「ん?俺のぼんのくぼに誂えたようにぴったりフィットするこのえもいえぬ丸みと感触………すべすべの肌は……」
ああ極楽極楽。
後頭部に腿が当たる。
だれかが膝枕をしてくれている。
生まれて初めて体験する膝枕の寝心地はヨンイルを至福のまどろみへと誘う。
声の主の顔は茫洋としたまま、にやけて腿に頬ずりする。
「せやけどなんや、随分ほっそい足やな〜。頭預けたら折れそうやんけ。モヤシやんか。もうちょい肉つけたほうがええで」
「失礼だな、天才に向かって」
天才を自称する知り合いはひとりしかいない。
「!!?直ちゃ、」
がばりと起き上がり名を呼ぶ。
この場にいるはずのない人物の声に完全に平静を失う。
凄まじい勢いで跳ね起きたヨンイルは、そばに横座りする人物を見て、がくんと顎を落とす。
「筋肉も贅肉もつきにくい体質なんだ。しょうがないだろう」
直がいた。
会いたくて会いたくてたまらなかった直が、目の前にいる。
メイド服を着て。
「………直ちゃんそのかっこは………」
目を疑う。
次に正気を疑う。
手の甲で執拗に目を擦り、むぎゅりと頬をつねる。
直は当たり前のようにメイド服を着ている。
頭には純白のフリルも可憐なホワイトプリム、俗にいうメイドさんキャップもつける徹底ぶり。
濃紺の長袖は手首までぴっちり覆い、清楚な仕上がりを意識して露出はあくまで控えめ。
反面、スカート丈はあざといほど切り詰めてある。
上半身のストイックさと対照的な絶対領域のチラリズム。ニーソックスから控えめに覗く大腿の上部は眩しいほど白くきめ細かく、貞淑な濃紺の生地に清冽に映える。
総合評価はだれの狙いやねんと胸ぐら掴んで問い質したいほど劣情そそるできあがり。
華奢な膝が丸見えのスカートに思わず視線が吸い寄せられる。
スカートからのびた素足は肉付きが乏しく、ああ、ここにさっきまで頭をのせてたんやなあ、よう折れんかったなあと感心してしまう。
いや、ちがうちがう。
「なんでメイドさんやねん!!!!」
そう、問題にすべきはそこだ。
炸裂した突っ込みにメイド直は品よく眉をひそめる。
「駄目か?」
眼鏡の奥の知的な双眸が細まり、ヨンイルはたじろぐ。
「いや、だめちゃうけど!!似合うとるけど!!なんでメイド服、なんで女装、なんでコスプレ!?あかんがな、直ちゃんのキャラちゃうやろ、なんで俺がいきなり目え覚ましたら直ちゃんがメイドさんで膝枕やねん、妄想爆発で都合よすぎやし出血大サービスが致死量やろ!?」
「落ち着けヨンイル、発言が支離滅裂だ」
「落ち着いてられるかいこれが!!さっきまで直ちゃんの膝にごろんて頭のっけて、直ちゃんの肌が二次元の女の子みたくすべすべ〜で……」
そうだ、最前まで自分はそうと知らず直の膝に頭をのせていたのだ。
実感は自覚を伴い、最前まで意識せずにいた膝枕の感触を生々しく甦らせる。
細い足だった。
脂肪の厚みが殆ど感じられず、折れそうで不安だった。
だが、膝小僧の形は非常に良く、ニーソックスで覆われた華奢な脚線はガラス細工の儚ささえ漂わせていた。
太股ではなく、細腿。
むちむち感の足りない腿だったが、密着させた頬に伝わるきめ細かな餅肌の吸いつきは大変心地よかった。
直は美肌だ。
付け加えるなら、美肌美人メイドだ。
そうだ俺直ちゃんの生足生膝に頭のっけとったんやあまつさえすりすり頬ずりして、もうめちゃくちゃ気持ちようて極楽気分で昇天しそうで、尖った膝が首にあたってちょい痛かったけどそれがまた悦の乙で、ニーソックスがぴっちり密着した細くて綺麗な足が、二次元の女の子的なすべすべの肌が……
おおきに、手塚神様。
オタク万歳。
「ぶっ!!!!」
たまらず鼻血をふく。
「どうしたヨンイル。長時間水に晒されて鼻腔の粘膜が弱っていたのか」
膝枕の感触を生々しく反芻し、下半身がむらむらし、直の素肌との密着がもたらす恍惚感に眩暈さえ襲い、ヨンイルは鼻を覆って倒れ伏す。
ぴくぴくと瀕死の痙攣が襲い、ひくつく尻がずりあがる。
「た、たまらん……直ちゃんのメイド服、たまらんっ……」
白と紺のコントラストが目に鮮やかなメイド服を直が着ると、これがまたよく似合う。
もともと華奢な体格な上、顔立ちも整っているため女装に違和感がない。
凍り付いたような無表情もこれはこれであり。
さらには眼鏡がポイント高し。
無表情クール眼鏡メイドという属性はごく一部のマニアから熱狂的な支持を得る。
清純なメイド服と人を虫けらのように見下す目つきのギャップがマニア垂涎の倒錯的な色香を醸し、昼は従順夜は淫乱という主客転倒の妄想をむらむらかきたてる。
なんちゅーか、調教しがいがありそう。
むしろされたい?
「直ちゃん、ご主人様がかちーんとフォークおっことしたら五メートル先に蹴っぽりそうやな」
「僕なら椅子を引いて這いつくばって食わせるが」
「毒を食わせて皿もかい」
想像の上をいくドS認定。
押さえた手の間からぼたぼた鼻血を垂らすヨンイルを、直は眼鏡越しに冷ややかに眺めていたが、ついと顎をそらす。
「僕だけじゃないだろう」
「え?」
直の顎につられ、視線を流す。
衝撃と驚愕が手に手をつないでやってくる。
「うわー、メイド服って初めて着たけどすーすーすんなあ。風が入ってきて変な感じ」
スカートの端をつまみひらつかせる褐色のメイドがいた。
身につけているのは直と同じデザインのメイド服。
しかしこのメイドはアバズレが入ってるらしく襟元を大胆にはだけ、下着が見えそうで見えない危険な角度にスカートを持ち上げてけらけら笑う。
中身が違うだけでこうも違うのか。
着こなしに一切の乱れなく手本じみた厳格さを示す直に反し、このメイドときたらとんでもなく奔放かつ淫乱。フェロモン流出量が半端なく、存在自体が風紀違反に抵触する。
挑発と誘惑の媚態ちらつく褐色メイドがご機嫌に鼻歌を口ずさむ。
「………聞きたくないけど、一応聞く。レイジ、お前それ、下も女物じゃねーよな」
スカートの端を持ち上げ、軽快にステップを踏む褐色メイドのそばには癖の強い黒髪をホワイトプリムでむりやり押し込んだメイドがいて、はしゃぐ相棒をジト目で眺めている。
褐色メイドはレイジで黒髪メイドはロンだった。
「どうだ?似合うか?」
まんざらでもなさげにレイジが笑う。
どんな事態でもあっけらかんと楽しむ事ができるのは才能だろう。
「気持ち悪ィ」
転じてロンは不機嫌この上ないふくれ面。
だが、これがまた憎いくらい似合う。
つんつんした黒髪にホワイトプリムをつけ、もとから気が強そうな顔だちに今ははっきりと怒りを浮かべている。
直をクール眼鏡無表情系に分類するとしたら、ロンは猫目ツンデレ系。これに貧乳が加われば無敵だ。小さい肩を怒らせ、スカートを履いてるにも関わらず行儀悪い大股で立ち塞がる姿は実に微笑ましい。
レイジも同感のようで、メイドロンを見て満悦の笑みを浮かべる。
「ロンは何着ても可愛いな。俺の下で半脱ぎで喘いでるときが一番だけど」
「好きでこんなかっこしてるわけじゃねえ、だれかさんのせいだよ」
「俺かい!?」
殺意滾りたつ目でロンに睨まれ、ヨンイルは思わず自分をさす。
なんやなんやこの展開は。
話が妙な方向にいっとる。
立て続けの衝撃に、ヨンイルは混乱する。
目の前では直が腕を組み、レイジが踊り、ロンが仏頂面をしている。
メイド服は一応各人のサイズに合わせて作られてるようだが、同年代平均に比して華奢で小柄な直やロンはともかく、長身でしなやかに筋肉が付いたレイジが着ると似合う似合わない以前に違和感ばりばりだ。
「無表情クールメイドとして需要がある直ちゃんと、猫系の強気な顔立ちがロリツンデレ略してロリツン萌えの心をくすぐってやまんロンロンはともかく、レイジはしんどいやろ?こない肩幅あるメイドおったら怖いで」
オタク的価値観に照らし合わせ忌憚ない意見を呈す。
酷評をさらりと受け流し、スカートを履いて二王立つレイジが後ろを指さす。
「いや、俺なんかまだまだだよ。あいつに比べりゃな」
核弾頭級の嫌な予感。
「東京プリズンの王ともあろう方がご謙遜を。レイジ君のメイド姿、なかなか似合っておりますよ。夜毎下克上し、主人を喰い殺す雌豹の野蛮さが立ち姿から滲み出ています。難を申しますなら、下着はちゃんと女性物を身に付けて完璧に徹するべきですね。ガーターベルトにダガーナイフがつけば言うことない」
深みあるバリトンが重々しく響き、レイジの後ろから異形の物体が歩み出る。
「武士ともあろうものがこのような下女の装束に身を包むのは不本意だが、直だけに恥をかかせるわけにはいかん」
苦渋に満ちた声音で独白し、異形の物体がもうひとつ。
「あ、あ、あ、あ…………あぼばばばあばばぼあばおあぼあげぼあ!!?」
ホセ。
サムライ。
鍛え抜かれた屈強な体躯をメイド服に包む、異形の漢がふたり。
「ちょ、ホセ、サムライ、おどれら、な、冥土のメイドが視覚の暴力ッ!?ホセおどれメイドさんキャップが死ぬほど似合わんちゅーか、そない胸筋ではち切れそうなメイドさんはご主人様のトラウマ製造機で仮面つけたらメイドガイやし、サムライその被り方棺桶の中の人やん!!」
意味不明な奇声を発するヨンイルの前にずかずかと進み出たホセは、豊かな胸筋を強調し、長袖に包まれた腕は隆々と盛り上がり、スカートから突き出た足は丸太のようで、威風あたりを払う立ち姿も男神の如く雄雄しく屹立し、ボディビルダー顔負けの筋肉美を誇示する。
メイドさんなのに。
そんなもの誇示してどないするん?節子。
サムライに至ってはホワイトプリムを逆向きに被っている。
レイジでも相当むりがあったが、レイジよりなお長身のサムライがやると、めちゃくちゃきつい。
なにかの罰ゲームを甘んじて受けているかのような、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ぶ悲壮な高潔感さえ漂う。
しかしヨンイルは気付いてしまった。
本来木刀を備える腰に手をやりサムライが渋面を作るのを。
「……軽すぎて落ち着かんな」
はたき、装備。
もののふ、一点の死角なし。
メイドという神聖かつ崇高なる偶像美への信仰を完膚なく蹂躙する光景に、ヨンイルは憤激する。
「メイドさんへの冒涜や!!」
「奇態な事を言うな。自分の姿をよく見てみろ」
「そうですよ、ヨンイルくん。胸に手を当てて、自分のあり方を見下ろしてみなさい」
二人の指摘に嫌な予感をおぼえつつおそるおそる自分の姿を見下ろす。
脳天を衝撃が貫く。
硬直。
「な、な、なんじゃこりゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!?」
絶叫。
「何って、メイドじゃないか」
「似合ってるぜヨンイル」
「狙ってるよな、あのスカート丈」
「ニーソックスもな」
「なかなか可愛らしいですよ、ヨンイル君」
「素敵ですヨンイルさん、惚れ直しました!!」
「「D・О・U・K・E!!D・О・U・K・E!!M・A・I・D・О・U・K・E!!」」
直とレイジとロンとホセとサムライが寸評し、地鳴りの如き大合唱が湧き上がる。
どこからか湧き出た西棟の囚人たちが、メイドに変身したヨンイルを取り囲み、熱烈な大声援を送る。
「ちゃうちゃうこれは悪い夢や現実ちゃう直ちゃんは全然オッケーやしロンロンもセーフやけどレイジに加えてホセとサムライてどんな人選やねん、むりありすぎやん!!しっかりせい俺の頭、覚醒せい正気!!」
頬を叩いて喝を入れるヨンイルとは対照的に、女装姿が自然なものから不自然なもの、さらには化け物までもが一同に会し、和気藹々と雑談に興じる。
「ロンーやっぱお前最高だよ、スカートからちょこんと突き出た膝小僧がむしゃぶりつきたくなるくれえ可愛いって!元気っ子はやっぱミニスカだよな!!」
「男にミニスカ着せて喜ぶ心理わかんねーよ。お前の発言だいぶ終わってるぞ」
ロンのメイド姿に興奮したらしいレイジが両手を広げて抱き付き、猫可愛がりの喩えを体現して頬ずりするのを、ロンがうざったげに退ける。
ひしとへばりつくレイジを両手を突っ張って遠ざけるロンの横では、精悍なサムライが頬を染めている。
「その、な、直………武士ともあろうものがこのような惰弱かつ軟弱な事は言いたくないが、俺とてこう言わぬわけにはいくまい」
含羞の素振りで目線をさまよわせ、ひどくもったいつけて咳払いするサムライだが、そのメイド姿ときたらヨンイルの貧困な語彙では到底表現できぬ異形の域に達している。
ホワイトプリムことメイドさんキャップは相変わらず逆三角に垂れ下がったまま、猛禽じみて峻厳な眼光を湛える切れ長の双眸が、脳天からつま先まで直の姿を認め、優しく細まる。
「とてもよく、似合っている」
「君は第一線の服装倒錯者にしか見えないな」
直はずばりと切り捨てる。
「なんやねんこのカオス空間。何角形の宇宙やねん」
頓珍漢なやりとりを繰り広げるレイジとロン、直とサムライの蚊帳の外におかれ、ヨンイルは深刻な頭痛を訴える。
「なあ、一発やっていい?」
レイジが耳を疑う発言を。
「メイド服でさかってんじゃねーよ節操なし」
ロンはうんざり顔。
「いや、性生活にも変化は必要だろ?それにロン、ほんと可愛いって!すっげ興奮する!囚人服を見慣れてるだけにたまに違うかっこすると新鮮ってゆーかさ、なんかもうぎんぎらぎんに辛抱たまんねーって感じ。ちょっと『おかえりなさいませ、ご主人様』って言ってみて、スマイルそえて。斜め四十五度に小首傾げるのも忘れずに」
「盆でぶん殴ってもよろしいですかご主人様?」
「たーーーーーーーーーーーーーーまーーーーーーーーーんーーーーーーーーーーーーーーーねーーーーーーーーーーっ!!」
暴言さえご愛嬌なロンメイドに劣情を刺激されたレイジが宙に1メートルほど跳躍、蛙のように四肢を広げて襲いかかる。
「出たあ、不二子ロックオンルパン・ザ・サードジャンピング!?」
条件反射で実況をいれてしまう哀しきオタクのさがを呪う。
「げ」
頭上に跳躍した褐色生命体Rに、ロンの顔が強張る。
激突。
騒音が生じ、濛々と埃が立つ。
「うわ、やめろ、こっちくんな重っ………てめレイジいい加減にっ、ちょ、どこさわってんだよスカートめくんなっ!?」
「『おやめくださいご主人様』ってうるうる涙目でお願いしてくんなきゃはなさねーよ!」
「とっととどかねーと股間に蹴りいれて玉潰すぞクソ野郎っ!!」
レイジの下敷きになったロンがぎゃあぎゃあ喚き必死で抗うも体格差は大人と子供に等しく圧倒的、レイジの顔面を掴んで尖った唇を引き離そうとあがけばあがくほどにスカートがずりあがり太股が露出する。
「やれやれ、猫科のじゃれあいは微笑ましいですねえ」
ホセがほくそえむ。
「助太刀するぞ」
サムライがはたきを構える。
「夢や、これは悪い夢や……直ちゃんがメイド服でレイジがメイド服でロンがメイド服でホセとサムライが未知の生命体で俺が巻き添えくうなんて、こんな無茶苦茶に破綻した展開夢でしかありえん!!助けてや直ちゃん!!」
ばっと飛び起き、どさくさ紛れに両手を広げ直に飛び付こうとしたメイドヨンイルだが突如巻き起こった爆風に吹っ飛ばされる。
「いててててて………」
「こんぐらっちゅれいしょん!!呼ばれて飛び出てずばばばんっと魔法少女ビバ☆ビバ☆ビバリー惨状に参上っス!!」
パンツ丸出しで転倒したヨンイルの視線の先、ショッキングピンクのフリフリ衣装を纏ったビバリーが華麗なターンを決める。
「悪のメイド軍団首領ドン・ホセ、東京プリズンの平和を乱すお前を愛と正義と勇気の魔法少女ビバ☆ビバ☆ビバリーがお仕置きしちゃうっス!」
カオス。
しかしヨンイルは、メイドに強制転化させられ爆風に巻き込まれ吹っ飛ばされてもなお、魔法少女を微に入り細を穿ち観察するのを忘れない。
目に痛い、というか視覚の暴力なショッキングピンクの衣装はありていにいえば古臭く、全盛期の魔女っ子アニメを忍ばせるフリル特盛りのデザイン。そこはかとなく昭和の香りが漂う。
ちりちり天然パーマには間違った少女趣味全開のリボンが飾られている。
「素敵に無敵なキワモノイロモノ路線驀進中やな……」
ヨンイルもすでに可哀想なものを見る目だ。
異形のメイド軍団を代表し、ラスボス級の暗黒オーラ大放出で敢然と立ちはだかったホセが、人類絶滅を企むどす黒い笑みに顔中歪ませて名乗りをあげる。
「ふはははははっ出たなビバ・ビバ・ビバリー!!東京プリズンに平和を取り戻したくば宇宙提督ドン・ホセ率いるファティマ四天王を倒してみろ!!」
「設定変わっとるがな!?」
もうどこに突っ込んだらいいかわからない。
「しかもホセ、高笑い似合いすぎ!!あの高笑いは一朝一夕でものになるもんやない、デスラー総統級の悪逆非道さが滲み出しとる!!」
オタクのヨンイルをして唸らせる完璧な役作り。
いや、案外素かもしれないが、その考えは色んな意味で怖すぎるので却下。
魔女っ子ビバビバビバリーが身を低め助走を開始する。
「東京プリズン征服を企む悪の首領ドン・ホセめっ、刑務所の平和はビバ・ビバ・ビバリーが守るっスよ!!」
黄色い声で叫びつつステッキを振れば地雷原を駆け抜けるが如き小爆発が炸裂、敵を薙ぎ払う。
「ヨンイルさーん!」
「成仏せえよワンフー」
爆風に舞うワンフーに手を振る。
スカートを翻しビバ・ビバ・ビバリーが跳躍、膝を抱えて宙で三回転し、ホセの頭上を急襲する。
「くらえっ!必殺技、デモーショナルフリーズッ!」
吹き替え済みらしく、可愛らしい女の子声で技名を叫ぶ。
「なんのこれしきっ!」
仁王立ちのホセが闘気をまとい、全身に力を込めれば、布の裂ける甲高い音が連続し、メイド服のボタンがすべて弾け飛ぶ。
「なっ!?」
ビバリーが目を見張る。
放物線を描いて飛んだボタンが咄嗟に交差させた腕にあたり、あらぬ方向へ散逸する。
「ふんぬぅっ!」
アドレナリン過剰分泌、ドーパミン大量製造で胸筋が膨張し、腕と大腿の筋肉が隆起し、メイド服の切れ端をひっかけた逞しい上半身を曝け出す。
衝天の勢いで電撃のオーラを噴き上げるホセに、軽快に着地したビバリーが歯軋りする。
「これがドン・ホセの真実の姿……!」
「我輩、否、仮の一人称はよしましょう」
牛乳瓶底眼鏡を取り払い、暴かれたのは猛き戦士の顔。
地に叩き付けた眼鏡を踏み潰し、趣味特技大量殺戮と喧伝する禍々しき闘気を放ち、上半身裸のホセが歩み出る。
その笑みはすでに人類絶滅を実現し、銀河系征服の野望渦巻くそれへと変貌している。
「何を隠そう私の真の姿はスーパーサイヤホセ……宇宙最強最悪の戦闘民族の末裔です」
「騙された、眼鏡はスカウターか!」
「待て、おどれ今踏み潰したやん!?」
あまりにご都合主義な展開と不条理な設定に抗議するヨンイルを無視し、ドンホセ改めスーパーサイヤホセとビバ・ビバ・ビバリーの対決は勝手に盛り上がっていく。
「魔法少女ビバビバ・リーだかストップひばりくんだか知りませんが、私の拳で永遠に生命活動をストップさせてあげますよ」
昂ぶりも甚だしく拳を鳴らし、ホセが足を踏み出し、びりっとニーソックスが裂ける。
ホセの前進にあわせ、魔法少女ビバビバ・リーもといビバリーもまた、勇を鼓して前へ出る。
「わざと読点を違えるとはみみっちいいやがらせを……みくびってもらっちゃ困りますよ、僕がステッキをひとふりすれば世界は等しくフリーズっすから。ウィルスなめないでくださいよ」
不敵な笑みを浮かべた魔法少女が剣呑にステッキをぶん回し始める。
眼光が激突する。
粉塵が晴れ、決戦の時が迫る。
「いくっスよー……フーリガン・フリーズ!!」
技名も高らかに薙ぎ払うステッキの先端に虹色の光球が生じる。
虚空で無数に分裂した光球が吹雪を呼びドン・ホセになだれかかる。
ドン・ホセがうっすら目を開き、残像を引いてすぅと腕を掲げ、深呼吸する。
開眼と同時に分厚い筋肉で鎧われた胸板に七つの痣が生じ星宿の閃光を放ち、反った指先に北斗の奥義が宿る。
ぎん、と血走った眼球がせり出す。
「ほぁたたたたたたたたたたたたたっ!!!」
宙に翳した両腕が複雑怪奇な千手の軌跡を描き音速で交差、殺到した光球をひとつ漏らさず指突で撃破。
「スーパーサイヤ七星拳、て混ざりすぎやろーーーー!?」
爆音と爆風絶えぬ熾烈な争いが続く中、ヨンイルは脂汗の濁流にまみれて苦悩する。
「こんな見苦しい対決放送コードぎりぎりどころか完全アウトやんけ……!」
人として止めなければいけないが、止めたくない。
仲裁に入ったら最後、激しくぶつかりあう闘志のはざまで圧死確実。
無力感に苛まれ地にひれ伏すヨンイルの胸ぐらを、誰かがぐいと掴む。
「さあヨンイル、宇宙危機のカオスを収拾するために僕とキスするんだ」
「はあ!?」
目と鼻の先に直の大真面目な顔がある。
眼鏡の奥の目は真剣そのもので、冗談を言ってる気配は少しもない。
「物語の王道だ。主人公がヒロインと唇を接触させれば破綻した物語が回復する、後はエンディングに一直線だ。以下略、僕とキスしろ」
「なんちゅー乱暴な説明!?」
「するのか、しないのか、どちらだ」
ずいと顔を突き出し、ヨンイルを押し倒す。
眼鏡の奥の双眸が真剣な光を帯びる。
胸が高鳴る。
唇が、すぐそこにある。
清楚可憐なメイド服の直が、自分の胸ぐらを掴み、漢になるのかならないのかと問う。
至近距離で向き合う直の顔をまじまじと見て、整った目鼻立ちに魅了され、毒を吐く唇の形良さに理性を奪われ、忘我の境地に至る。
湿った吐息が唇をくすぐる。
眼鏡のレンズが吐息で曇る。
艶かしくぬれた唇に生唾を嚥下し、触れ合う膝に熱を感じ、覚悟を決める。
「これも世界を救うため………!」
一世一代の決断をくだしたヨンイルに顔つきつけ、直がふと表情を緩める。
「それでこそ、僕が見込んだ道化だ」
眼鏡の奥の目が和み、口元が綻び、笑みが浮かぶ。
自分の判断は間違ってなかったと、確信をもてる者だけが浮かべることができる笑み。
その笑みが、目を奪う。
心臓を止める。
もうどうなってもええかも、俺。
幸せの絶頂に羽ばたいたヨンイルの方へと、徐徐に徐徐に、じらすような緩慢さでもって直の顔が近付いてくる。
理知的に整った顔に眼鏡がよく似合う。
長い睫毛が儚く揺れ、眼鏡の向こうの目が一抹の恥じらいを宿して伏せられる。
「さあキスを」
レイジがけしかける。
「ぶちゅっとやっちまえ」
ロンが背中を押す。
「やっておしまいなさい」
ホセがダメ押しする。
「ならん、断じてならん」
サムライだけが駄々をこねるも、他の三人によってたかって押さえ込まれ悲憤の雄叫びを上げる。
「我慢しろよキスのひとつやふたつ、世界を救うためなんだからよ」
「あとで消毒すりゃいいだろが」
「どういう理屈だ、世界を救うのと接吻と何の関係がある、直の唇を穢すくらいなら俺の唇を奪えばよかろう!?」
「ヨンイル君にも選ぶ権利があります」
もはやヨンイルの耳に外野の騒ぎは聞こえず、近付きつつある唇だけに意識を集中する。
心臓の動悸が際限なく高鳴り、頬が紅潮していくのがわかる。
「ヨンイル………」
直が名を呼ぶ。
「直ちゃん………」
ヨンイルも名を呼ぶ。
互いに見つめあう。
顔が接近し、唇が近付き、吐息が絡む。
眼鏡越しの目を潤ませ、頬を上気させた直はひどくいじらしく、主人にご奉仕を命じられたメイドさながら背徳感が漂う。
メイド IN 冥土最高。
望外の幸福に見舞われたヨンイルは、スクール水着派からメイド党へとあっさり宗旨替えを表明する。
「待ちや直ちゃん」
唇が接触寸前、待ったをかける。
直が怪訝な顔をする。
「なんだ」
「メイドさんならこういう時、言うべきことがあるやろ」
日頃天才を自称する直が悩む姿を見るのは、存外気分が良い。
意地悪な気持ちでにやけるヨンイルの視線をどうとったか、直が咳払いする。
「ヒントは?」
「天才でもわからんか?」
ヨンイルは意地悪いにやつきを深める。
「しゃあないな、特別やで。ヒント。某変身ヒロインものアニメの名台詞。語尾はにゃん。ほんでメイドときたら?」
ようやく思い当たったようだ。
その瞬間直の顔に浮かんだ激烈な殺意は、ヨンイルの下半身を萎えさせるのに十分だった。
凄まじい葛藤と恥辱に顔を歪ませ、目尻に朱を刷き、肩と拳を小刻みに震わす直の姿は嗜虐心を刺激する。
ひとつ深呼吸し、肩を落とし、吐き出す。
目と鼻の先に直の顔がくる。
眼鏡の奥の目尻を屈辱に赤らめたまま、極限の葛藤に顔を歪ませ、そして。
「ご奉仕、す、するにゃん」
三秒後。
「生殺しで夢オチかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
体中の穴という穴から水を吐き出し、哀れ道化は絶叫する。
メイド服は男の浪漫。
そんな夢を見ていた……ような気がするが、真偽はさだかではない。
偉そうな命令口調に懐かしさを覚える。
「ん………?」
頭の芯に沈滞した眠気に抗いゆっくりと瞼を開ける。
視界が霞む。
真上におぼろな人影を捉える。
顔のあたり、ちょうど両目の位置で二つの輪っかがもやもやと鉛筆で書きなぐったような線を結ぶ。
眼鏡。
楕円形の眼鏡が似合う聡明な顔だちの少年がこちらを覗きこんでいる。
「一体どないなっとんねん……」
気を抜けば塞がりかける瞼を叱咤し、気力を振り絞り持ち上げる。
なんだかひどく気だるい。
寝起き特有の倦怠感がつきまとう。
のろくさと起き上がり、かぶりを振り、眠気の残滓を追い払う。
横に手をつき体を支える。
数回瞬きをするうちに、現実味の薄い光景が浮かび上がってくる。
「ここはどこ?私はだれ?」
記憶喪失のお約束の台詞が我知らず口から漏れる。
奇妙に現実感が欠落している。
体が生身の感覚を取り戻すまで若干の時差を要する。
頭が重い。
どうやら大量の水を飲んだらしく、肺がふやけて膨らんでいる。
「げほ、がほがほっ!!」
起きしな水が逆流し、体を二つに折って激しく咳き込む。
体中の穴という穴から水が逆流し、勢いよく排出される。
大量の水を吸ってたぷんたぷんと波打つ胃袋が不規則な痙攣をおこし、一本の管と化した喉が水を汲み上げて体外へとぶちまける。
鼻の穴から耳の穴からついには目からも、全身の穴からいちどきに水があふれだすのは非常にシュールな光景だが、生死の境をさまよう本人には笑い事ではない。
涙と洟汁と水とが体内で攪拌され、胃袋ごと吐き戻す勢いで激しく咽せる。
「自力で息を吹き返したのなら要救助者への適切な処置、人工呼吸の必要はないな。まったく、どれだけ人間離れした肺活量をしてるんだ、君は。解剖の興味がわく」
目の前に瀕死の人間がいるというのに声の主はひどく落ち着き払っている。
ヨンイルの悶絶ぶりを殺処分が決定した実験動物でも見るように冷徹な眼で見下ろし、言う。
「ヨンイル、君はひどく水を飲んでいる。はやめに気絶したから致死量には達してないが、しかし危険なところだった。いいか?水難者の愚かなところは、水中でパニックになり、むやみに暴れて体力をうしない、余分な水を飲む点だ。水死とはヒトの口腔内から吸引された液体が気管へ侵入し、肺に水がたまるなどして気道がふさがれることにより引き起こされる窒息死の一種だ」
声の主は淡々と続ける。
医学書の記述でも読み上げるように平板な口調で、ヨンイルがいかに死に近付いていたか、どのような過程を辿り復活したか語り聞かせる。
「人間は溺れると無意識に息を吸おうとする。それが結果としてパニックを招く。何とか空気を吸おうと必死にもがくため、動悸を早めてしまい、もっと空気を必要とさせる。動くために必要な酸素がどんどん消費されるため、頭に回る酸素を少なくさせてしまい、さらに正常な判断ができなくなってしまう。そして、徐々に無意識に近い状態になっていく。君は早い段階で気絶したから助かったんだ。強運に感謝しろ。否、悪運と言うべきか」
やたらまわりくどく難解な長広舌に涙が出そうな郷愁が切々とこみあげる。
徐徐に頭がはっきりしてくる。
思考力が回復し、あたりを見回す余裕ができる。
この声、この口調、聞き覚えがある。
自分がよく知る人物と似ている。いや、そっくりや。
ヨンイルの戸惑いをよそに声の主は至極淡々とつまならそうに溺死に至る過程を説明する。
言ってる内容は難しくてさっぱりわからないがお構いなしだ。
自己中を通り越し、いっそ潔い。
自分の知的レベルについてこれないお前が悪いというばかりの開き直りさえ感じさせる。
右耳から左耳へ子守唄のように通り抜ける言葉は理解不能だが、この声には覚えがある。
後頭部にあたる柔らかな感触に気付く。
「ん?俺のぼんのくぼに誂えたようにぴったりフィットするこのえもいえぬ丸みと感触………すべすべの肌は……」
ああ極楽極楽。
後頭部に腿が当たる。
だれかが膝枕をしてくれている。
生まれて初めて体験する膝枕の寝心地はヨンイルを至福のまどろみへと誘う。
声の主の顔は茫洋としたまま、にやけて腿に頬ずりする。
「せやけどなんや、随分ほっそい足やな〜。頭預けたら折れそうやんけ。モヤシやんか。もうちょい肉つけたほうがええで」
「失礼だな、天才に向かって」
天才を自称する知り合いはひとりしかいない。
「!!?直ちゃ、」
がばりと起き上がり名を呼ぶ。
この場にいるはずのない人物の声に完全に平静を失う。
凄まじい勢いで跳ね起きたヨンイルは、そばに横座りする人物を見て、がくんと顎を落とす。
「筋肉も贅肉もつきにくい体質なんだ。しょうがないだろう」
直がいた。
会いたくて会いたくてたまらなかった直が、目の前にいる。
メイド服を着て。
「………直ちゃんそのかっこは………」
目を疑う。
次に正気を疑う。
手の甲で執拗に目を擦り、むぎゅりと頬をつねる。
直は当たり前のようにメイド服を着ている。
頭には純白のフリルも可憐なホワイトプリム、俗にいうメイドさんキャップもつける徹底ぶり。
濃紺の長袖は手首までぴっちり覆い、清楚な仕上がりを意識して露出はあくまで控えめ。
反面、スカート丈はあざといほど切り詰めてある。
上半身のストイックさと対照的な絶対領域のチラリズム。ニーソックスから控えめに覗く大腿の上部は眩しいほど白くきめ細かく、貞淑な濃紺の生地に清冽に映える。
総合評価はだれの狙いやねんと胸ぐら掴んで問い質したいほど劣情そそるできあがり。
華奢な膝が丸見えのスカートに思わず視線が吸い寄せられる。
スカートからのびた素足は肉付きが乏しく、ああ、ここにさっきまで頭をのせてたんやなあ、よう折れんかったなあと感心してしまう。
いや、ちがうちがう。
「なんでメイドさんやねん!!!!」
そう、問題にすべきはそこだ。
炸裂した突っ込みにメイド直は品よく眉をひそめる。
「駄目か?」
眼鏡の奥の知的な双眸が細まり、ヨンイルはたじろぐ。
「いや、だめちゃうけど!!似合うとるけど!!なんでメイド服、なんで女装、なんでコスプレ!?あかんがな、直ちゃんのキャラちゃうやろ、なんで俺がいきなり目え覚ましたら直ちゃんがメイドさんで膝枕やねん、妄想爆発で都合よすぎやし出血大サービスが致死量やろ!?」
「落ち着けヨンイル、発言が支離滅裂だ」
「落ち着いてられるかいこれが!!さっきまで直ちゃんの膝にごろんて頭のっけて、直ちゃんの肌が二次元の女の子みたくすべすべ〜で……」
そうだ、最前まで自分はそうと知らず直の膝に頭をのせていたのだ。
実感は自覚を伴い、最前まで意識せずにいた膝枕の感触を生々しく甦らせる。
細い足だった。
脂肪の厚みが殆ど感じられず、折れそうで不安だった。
だが、膝小僧の形は非常に良く、ニーソックスで覆われた華奢な脚線はガラス細工の儚ささえ漂わせていた。
太股ではなく、細腿。
むちむち感の足りない腿だったが、密着させた頬に伝わるきめ細かな餅肌の吸いつきは大変心地よかった。
直は美肌だ。
付け加えるなら、美肌美人メイドだ。
そうだ俺直ちゃんの生足生膝に頭のっけとったんやあまつさえすりすり頬ずりして、もうめちゃくちゃ気持ちようて極楽気分で昇天しそうで、尖った膝が首にあたってちょい痛かったけどそれがまた悦の乙で、ニーソックスがぴっちり密着した細くて綺麗な足が、二次元の女の子的なすべすべの肌が……
おおきに、手塚神様。
オタク万歳。
「ぶっ!!!!」
たまらず鼻血をふく。
「どうしたヨンイル。長時間水に晒されて鼻腔の粘膜が弱っていたのか」
膝枕の感触を生々しく反芻し、下半身がむらむらし、直の素肌との密着がもたらす恍惚感に眩暈さえ襲い、ヨンイルは鼻を覆って倒れ伏す。
ぴくぴくと瀕死の痙攣が襲い、ひくつく尻がずりあがる。
「た、たまらん……直ちゃんのメイド服、たまらんっ……」
白と紺のコントラストが目に鮮やかなメイド服を直が着ると、これがまたよく似合う。
もともと華奢な体格な上、顔立ちも整っているため女装に違和感がない。
凍り付いたような無表情もこれはこれであり。
さらには眼鏡がポイント高し。
無表情クール眼鏡メイドという属性はごく一部のマニアから熱狂的な支持を得る。
清純なメイド服と人を虫けらのように見下す目つきのギャップがマニア垂涎の倒錯的な色香を醸し、昼は従順夜は淫乱という主客転倒の妄想をむらむらかきたてる。
なんちゅーか、調教しがいがありそう。
むしろされたい?
「直ちゃん、ご主人様がかちーんとフォークおっことしたら五メートル先に蹴っぽりそうやな」
「僕なら椅子を引いて這いつくばって食わせるが」
「毒を食わせて皿もかい」
想像の上をいくドS認定。
押さえた手の間からぼたぼた鼻血を垂らすヨンイルを、直は眼鏡越しに冷ややかに眺めていたが、ついと顎をそらす。
「僕だけじゃないだろう」
「え?」
直の顎につられ、視線を流す。
衝撃と驚愕が手に手をつないでやってくる。
「うわー、メイド服って初めて着たけどすーすーすんなあ。風が入ってきて変な感じ」
スカートの端をつまみひらつかせる褐色のメイドがいた。
身につけているのは直と同じデザインのメイド服。
しかしこのメイドはアバズレが入ってるらしく襟元を大胆にはだけ、下着が見えそうで見えない危険な角度にスカートを持ち上げてけらけら笑う。
中身が違うだけでこうも違うのか。
着こなしに一切の乱れなく手本じみた厳格さを示す直に反し、このメイドときたらとんでもなく奔放かつ淫乱。フェロモン流出量が半端なく、存在自体が風紀違反に抵触する。
挑発と誘惑の媚態ちらつく褐色メイドがご機嫌に鼻歌を口ずさむ。
「………聞きたくないけど、一応聞く。レイジ、お前それ、下も女物じゃねーよな」
スカートの端を持ち上げ、軽快にステップを踏む褐色メイドのそばには癖の強い黒髪をホワイトプリムでむりやり押し込んだメイドがいて、はしゃぐ相棒をジト目で眺めている。
褐色メイドはレイジで黒髪メイドはロンだった。
「どうだ?似合うか?」
まんざらでもなさげにレイジが笑う。
どんな事態でもあっけらかんと楽しむ事ができるのは才能だろう。
「気持ち悪ィ」
転じてロンは不機嫌この上ないふくれ面。
だが、これがまた憎いくらい似合う。
つんつんした黒髪にホワイトプリムをつけ、もとから気が強そうな顔だちに今ははっきりと怒りを浮かべている。
直をクール眼鏡無表情系に分類するとしたら、ロンは猫目ツンデレ系。これに貧乳が加われば無敵だ。小さい肩を怒らせ、スカートを履いてるにも関わらず行儀悪い大股で立ち塞がる姿は実に微笑ましい。
レイジも同感のようで、メイドロンを見て満悦の笑みを浮かべる。
「ロンは何着ても可愛いな。俺の下で半脱ぎで喘いでるときが一番だけど」
「好きでこんなかっこしてるわけじゃねえ、だれかさんのせいだよ」
「俺かい!?」
殺意滾りたつ目でロンに睨まれ、ヨンイルは思わず自分をさす。
なんやなんやこの展開は。
話が妙な方向にいっとる。
立て続けの衝撃に、ヨンイルは混乱する。
目の前では直が腕を組み、レイジが踊り、ロンが仏頂面をしている。
メイド服は一応各人のサイズに合わせて作られてるようだが、同年代平均に比して華奢で小柄な直やロンはともかく、長身でしなやかに筋肉が付いたレイジが着ると似合う似合わない以前に違和感ばりばりだ。
「無表情クールメイドとして需要がある直ちゃんと、猫系の強気な顔立ちがロリツンデレ略してロリツン萌えの心をくすぐってやまんロンロンはともかく、レイジはしんどいやろ?こない肩幅あるメイドおったら怖いで」
オタク的価値観に照らし合わせ忌憚ない意見を呈す。
酷評をさらりと受け流し、スカートを履いて二王立つレイジが後ろを指さす。
「いや、俺なんかまだまだだよ。あいつに比べりゃな」
核弾頭級の嫌な予感。
「東京プリズンの王ともあろう方がご謙遜を。レイジ君のメイド姿、なかなか似合っておりますよ。夜毎下克上し、主人を喰い殺す雌豹の野蛮さが立ち姿から滲み出ています。難を申しますなら、下着はちゃんと女性物を身に付けて完璧に徹するべきですね。ガーターベルトにダガーナイフがつけば言うことない」
深みあるバリトンが重々しく響き、レイジの後ろから異形の物体が歩み出る。
「武士ともあろうものがこのような下女の装束に身を包むのは不本意だが、直だけに恥をかかせるわけにはいかん」
苦渋に満ちた声音で独白し、異形の物体がもうひとつ。
「あ、あ、あ、あ…………あぼばばばあばばぼあばおあぼあげぼあ!!?」
ホセ。
サムライ。
鍛え抜かれた屈強な体躯をメイド服に包む、異形の漢がふたり。
「ちょ、ホセ、サムライ、おどれら、な、冥土のメイドが視覚の暴力ッ!?ホセおどれメイドさんキャップが死ぬほど似合わんちゅーか、そない胸筋ではち切れそうなメイドさんはご主人様のトラウマ製造機で仮面つけたらメイドガイやし、サムライその被り方棺桶の中の人やん!!」
意味不明な奇声を発するヨンイルの前にずかずかと進み出たホセは、豊かな胸筋を強調し、長袖に包まれた腕は隆々と盛り上がり、スカートから突き出た足は丸太のようで、威風あたりを払う立ち姿も男神の如く雄雄しく屹立し、ボディビルダー顔負けの筋肉美を誇示する。
メイドさんなのに。
そんなもの誇示してどないするん?節子。
サムライに至ってはホワイトプリムを逆向きに被っている。
レイジでも相当むりがあったが、レイジよりなお長身のサムライがやると、めちゃくちゃきつい。
なにかの罰ゲームを甘んじて受けているかのような、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ぶ悲壮な高潔感さえ漂う。
しかしヨンイルは気付いてしまった。
本来木刀を備える腰に手をやりサムライが渋面を作るのを。
「……軽すぎて落ち着かんな」
はたき、装備。
もののふ、一点の死角なし。
メイドという神聖かつ崇高なる偶像美への信仰を完膚なく蹂躙する光景に、ヨンイルは憤激する。
「メイドさんへの冒涜や!!」
「奇態な事を言うな。自分の姿をよく見てみろ」
「そうですよ、ヨンイルくん。胸に手を当てて、自分のあり方を見下ろしてみなさい」
二人の指摘に嫌な予感をおぼえつつおそるおそる自分の姿を見下ろす。
脳天を衝撃が貫く。
硬直。
「な、な、なんじゃこりゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!?」
絶叫。
「何って、メイドじゃないか」
「似合ってるぜヨンイル」
「狙ってるよな、あのスカート丈」
「ニーソックスもな」
「なかなか可愛らしいですよ、ヨンイル君」
「素敵ですヨンイルさん、惚れ直しました!!」
「「D・О・U・K・E!!D・О・U・K・E!!M・A・I・D・О・U・K・E!!」」
直とレイジとロンとホセとサムライが寸評し、地鳴りの如き大合唱が湧き上がる。
どこからか湧き出た西棟の囚人たちが、メイドに変身したヨンイルを取り囲み、熱烈な大声援を送る。
「ちゃうちゃうこれは悪い夢や現実ちゃう直ちゃんは全然オッケーやしロンロンもセーフやけどレイジに加えてホセとサムライてどんな人選やねん、むりありすぎやん!!しっかりせい俺の頭、覚醒せい正気!!」
頬を叩いて喝を入れるヨンイルとは対照的に、女装姿が自然なものから不自然なもの、さらには化け物までもが一同に会し、和気藹々と雑談に興じる。
「ロンーやっぱお前最高だよ、スカートからちょこんと突き出た膝小僧がむしゃぶりつきたくなるくれえ可愛いって!元気っ子はやっぱミニスカだよな!!」
「男にミニスカ着せて喜ぶ心理わかんねーよ。お前の発言だいぶ終わってるぞ」
ロンのメイド姿に興奮したらしいレイジが両手を広げて抱き付き、猫可愛がりの喩えを体現して頬ずりするのを、ロンがうざったげに退ける。
ひしとへばりつくレイジを両手を突っ張って遠ざけるロンの横では、精悍なサムライが頬を染めている。
「その、な、直………武士ともあろうものがこのような惰弱かつ軟弱な事は言いたくないが、俺とてこう言わぬわけにはいくまい」
含羞の素振りで目線をさまよわせ、ひどくもったいつけて咳払いするサムライだが、そのメイド姿ときたらヨンイルの貧困な語彙では到底表現できぬ異形の域に達している。
ホワイトプリムことメイドさんキャップは相変わらず逆三角に垂れ下がったまま、猛禽じみて峻厳な眼光を湛える切れ長の双眸が、脳天からつま先まで直の姿を認め、優しく細まる。
「とてもよく、似合っている」
「君は第一線の服装倒錯者にしか見えないな」
直はずばりと切り捨てる。
「なんやねんこのカオス空間。何角形の宇宙やねん」
頓珍漢なやりとりを繰り広げるレイジとロン、直とサムライの蚊帳の外におかれ、ヨンイルは深刻な頭痛を訴える。
「なあ、一発やっていい?」
レイジが耳を疑う発言を。
「メイド服でさかってんじゃねーよ節操なし」
ロンはうんざり顔。
「いや、性生活にも変化は必要だろ?それにロン、ほんと可愛いって!すっげ興奮する!囚人服を見慣れてるだけにたまに違うかっこすると新鮮ってゆーかさ、なんかもうぎんぎらぎんに辛抱たまんねーって感じ。ちょっと『おかえりなさいませ、ご主人様』って言ってみて、スマイルそえて。斜め四十五度に小首傾げるのも忘れずに」
「盆でぶん殴ってもよろしいですかご主人様?」
「たーーーーーーーーーーーーーーまーーーーーーーーーんーーーーーーーーーーーーーーーねーーーーーーーーーーっ!!」
暴言さえご愛嬌なロンメイドに劣情を刺激されたレイジが宙に1メートルほど跳躍、蛙のように四肢を広げて襲いかかる。
「出たあ、不二子ロックオンルパン・ザ・サードジャンピング!?」
条件反射で実況をいれてしまう哀しきオタクのさがを呪う。
「げ」
頭上に跳躍した褐色生命体Rに、ロンの顔が強張る。
激突。
騒音が生じ、濛々と埃が立つ。
「うわ、やめろ、こっちくんな重っ………てめレイジいい加減にっ、ちょ、どこさわってんだよスカートめくんなっ!?」
「『おやめくださいご主人様』ってうるうる涙目でお願いしてくんなきゃはなさねーよ!」
「とっととどかねーと股間に蹴りいれて玉潰すぞクソ野郎っ!!」
レイジの下敷きになったロンがぎゃあぎゃあ喚き必死で抗うも体格差は大人と子供に等しく圧倒的、レイジの顔面を掴んで尖った唇を引き離そうとあがけばあがくほどにスカートがずりあがり太股が露出する。
「やれやれ、猫科のじゃれあいは微笑ましいですねえ」
ホセがほくそえむ。
「助太刀するぞ」
サムライがはたきを構える。
「夢や、これは悪い夢や……直ちゃんがメイド服でレイジがメイド服でロンがメイド服でホセとサムライが未知の生命体で俺が巻き添えくうなんて、こんな無茶苦茶に破綻した展開夢でしかありえん!!助けてや直ちゃん!!」
ばっと飛び起き、どさくさ紛れに両手を広げ直に飛び付こうとしたメイドヨンイルだが突如巻き起こった爆風に吹っ飛ばされる。
「いててててて………」
「こんぐらっちゅれいしょん!!呼ばれて飛び出てずばばばんっと魔法少女ビバ☆ビバ☆ビバリー惨状に参上っス!!」
パンツ丸出しで転倒したヨンイルの視線の先、ショッキングピンクのフリフリ衣装を纏ったビバリーが華麗なターンを決める。
「悪のメイド軍団首領ドン・ホセ、東京プリズンの平和を乱すお前を愛と正義と勇気の魔法少女ビバ☆ビバ☆ビバリーがお仕置きしちゃうっス!」
カオス。
しかしヨンイルは、メイドに強制転化させられ爆風に巻き込まれ吹っ飛ばされてもなお、魔法少女を微に入り細を穿ち観察するのを忘れない。
目に痛い、というか視覚の暴力なショッキングピンクの衣装はありていにいえば古臭く、全盛期の魔女っ子アニメを忍ばせるフリル特盛りのデザイン。そこはかとなく昭和の香りが漂う。
ちりちり天然パーマには間違った少女趣味全開のリボンが飾られている。
「素敵に無敵なキワモノイロモノ路線驀進中やな……」
ヨンイルもすでに可哀想なものを見る目だ。
異形のメイド軍団を代表し、ラスボス級の暗黒オーラ大放出で敢然と立ちはだかったホセが、人類絶滅を企むどす黒い笑みに顔中歪ませて名乗りをあげる。
「ふはははははっ出たなビバ・ビバ・ビバリー!!東京プリズンに平和を取り戻したくば宇宙提督ドン・ホセ率いるファティマ四天王を倒してみろ!!」
「設定変わっとるがな!?」
もうどこに突っ込んだらいいかわからない。
「しかもホセ、高笑い似合いすぎ!!あの高笑いは一朝一夕でものになるもんやない、デスラー総統級の悪逆非道さが滲み出しとる!!」
オタクのヨンイルをして唸らせる完璧な役作り。
いや、案外素かもしれないが、その考えは色んな意味で怖すぎるので却下。
魔女っ子ビバビバビバリーが身を低め助走を開始する。
「東京プリズン征服を企む悪の首領ドン・ホセめっ、刑務所の平和はビバ・ビバ・ビバリーが守るっスよ!!」
黄色い声で叫びつつステッキを振れば地雷原を駆け抜けるが如き小爆発が炸裂、敵を薙ぎ払う。
「ヨンイルさーん!」
「成仏せえよワンフー」
爆風に舞うワンフーに手を振る。
スカートを翻しビバ・ビバ・ビバリーが跳躍、膝を抱えて宙で三回転し、ホセの頭上を急襲する。
「くらえっ!必殺技、デモーショナルフリーズッ!」
吹き替え済みらしく、可愛らしい女の子声で技名を叫ぶ。
「なんのこれしきっ!」
仁王立ちのホセが闘気をまとい、全身に力を込めれば、布の裂ける甲高い音が連続し、メイド服のボタンがすべて弾け飛ぶ。
「なっ!?」
ビバリーが目を見張る。
放物線を描いて飛んだボタンが咄嗟に交差させた腕にあたり、あらぬ方向へ散逸する。
「ふんぬぅっ!」
アドレナリン過剰分泌、ドーパミン大量製造で胸筋が膨張し、腕と大腿の筋肉が隆起し、メイド服の切れ端をひっかけた逞しい上半身を曝け出す。
衝天の勢いで電撃のオーラを噴き上げるホセに、軽快に着地したビバリーが歯軋りする。
「これがドン・ホセの真実の姿……!」
「我輩、否、仮の一人称はよしましょう」
牛乳瓶底眼鏡を取り払い、暴かれたのは猛き戦士の顔。
地に叩き付けた眼鏡を踏み潰し、趣味特技大量殺戮と喧伝する禍々しき闘気を放ち、上半身裸のホセが歩み出る。
その笑みはすでに人類絶滅を実現し、銀河系征服の野望渦巻くそれへと変貌している。
「何を隠そう私の真の姿はスーパーサイヤホセ……宇宙最強最悪の戦闘民族の末裔です」
「騙された、眼鏡はスカウターか!」
「待て、おどれ今踏み潰したやん!?」
あまりにご都合主義な展開と不条理な設定に抗議するヨンイルを無視し、ドンホセ改めスーパーサイヤホセとビバ・ビバ・ビバリーの対決は勝手に盛り上がっていく。
「魔法少女ビバビバ・リーだかストップひばりくんだか知りませんが、私の拳で永遠に生命活動をストップさせてあげますよ」
昂ぶりも甚だしく拳を鳴らし、ホセが足を踏み出し、びりっとニーソックスが裂ける。
ホセの前進にあわせ、魔法少女ビバビバ・リーもといビバリーもまた、勇を鼓して前へ出る。
「わざと読点を違えるとはみみっちいいやがらせを……みくびってもらっちゃ困りますよ、僕がステッキをひとふりすれば世界は等しくフリーズっすから。ウィルスなめないでくださいよ」
不敵な笑みを浮かべた魔法少女が剣呑にステッキをぶん回し始める。
眼光が激突する。
粉塵が晴れ、決戦の時が迫る。
「いくっスよー……フーリガン・フリーズ!!」
技名も高らかに薙ぎ払うステッキの先端に虹色の光球が生じる。
虚空で無数に分裂した光球が吹雪を呼びドン・ホセになだれかかる。
ドン・ホセがうっすら目を開き、残像を引いてすぅと腕を掲げ、深呼吸する。
開眼と同時に分厚い筋肉で鎧われた胸板に七つの痣が生じ星宿の閃光を放ち、反った指先に北斗の奥義が宿る。
ぎん、と血走った眼球がせり出す。
「ほぁたたたたたたたたたたたたたっ!!!」
宙に翳した両腕が複雑怪奇な千手の軌跡を描き音速で交差、殺到した光球をひとつ漏らさず指突で撃破。
「スーパーサイヤ七星拳、て混ざりすぎやろーーーー!?」
爆音と爆風絶えぬ熾烈な争いが続く中、ヨンイルは脂汗の濁流にまみれて苦悩する。
「こんな見苦しい対決放送コードぎりぎりどころか完全アウトやんけ……!」
人として止めなければいけないが、止めたくない。
仲裁に入ったら最後、激しくぶつかりあう闘志のはざまで圧死確実。
無力感に苛まれ地にひれ伏すヨンイルの胸ぐらを、誰かがぐいと掴む。
「さあヨンイル、宇宙危機のカオスを収拾するために僕とキスするんだ」
「はあ!?」
目と鼻の先に直の大真面目な顔がある。
眼鏡の奥の目は真剣そのもので、冗談を言ってる気配は少しもない。
「物語の王道だ。主人公がヒロインと唇を接触させれば破綻した物語が回復する、後はエンディングに一直線だ。以下略、僕とキスしろ」
「なんちゅー乱暴な説明!?」
「するのか、しないのか、どちらだ」
ずいと顔を突き出し、ヨンイルを押し倒す。
眼鏡の奥の双眸が真剣な光を帯びる。
胸が高鳴る。
唇が、すぐそこにある。
清楚可憐なメイド服の直が、自分の胸ぐらを掴み、漢になるのかならないのかと問う。
至近距離で向き合う直の顔をまじまじと見て、整った目鼻立ちに魅了され、毒を吐く唇の形良さに理性を奪われ、忘我の境地に至る。
湿った吐息が唇をくすぐる。
眼鏡のレンズが吐息で曇る。
艶かしくぬれた唇に生唾を嚥下し、触れ合う膝に熱を感じ、覚悟を決める。
「これも世界を救うため………!」
一世一代の決断をくだしたヨンイルに顔つきつけ、直がふと表情を緩める。
「それでこそ、僕が見込んだ道化だ」
眼鏡の奥の目が和み、口元が綻び、笑みが浮かぶ。
自分の判断は間違ってなかったと、確信をもてる者だけが浮かべることができる笑み。
その笑みが、目を奪う。
心臓を止める。
もうどうなってもええかも、俺。
幸せの絶頂に羽ばたいたヨンイルの方へと、徐徐に徐徐に、じらすような緩慢さでもって直の顔が近付いてくる。
理知的に整った顔に眼鏡がよく似合う。
長い睫毛が儚く揺れ、眼鏡の向こうの目が一抹の恥じらいを宿して伏せられる。
「さあキスを」
レイジがけしかける。
「ぶちゅっとやっちまえ」
ロンが背中を押す。
「やっておしまいなさい」
ホセがダメ押しする。
「ならん、断じてならん」
サムライだけが駄々をこねるも、他の三人によってたかって押さえ込まれ悲憤の雄叫びを上げる。
「我慢しろよキスのひとつやふたつ、世界を救うためなんだからよ」
「あとで消毒すりゃいいだろが」
「どういう理屈だ、世界を救うのと接吻と何の関係がある、直の唇を穢すくらいなら俺の唇を奪えばよかろう!?」
「ヨンイル君にも選ぶ権利があります」
もはやヨンイルの耳に外野の騒ぎは聞こえず、近付きつつある唇だけに意識を集中する。
心臓の動悸が際限なく高鳴り、頬が紅潮していくのがわかる。
「ヨンイル………」
直が名を呼ぶ。
「直ちゃん………」
ヨンイルも名を呼ぶ。
互いに見つめあう。
顔が接近し、唇が近付き、吐息が絡む。
眼鏡越しの目を潤ませ、頬を上気させた直はひどくいじらしく、主人にご奉仕を命じられたメイドさながら背徳感が漂う。
メイド IN 冥土最高。
望外の幸福に見舞われたヨンイルは、スクール水着派からメイド党へとあっさり宗旨替えを表明する。
「待ちや直ちゃん」
唇が接触寸前、待ったをかける。
直が怪訝な顔をする。
「なんだ」
「メイドさんならこういう時、言うべきことがあるやろ」
日頃天才を自称する直が悩む姿を見るのは、存外気分が良い。
意地悪な気持ちでにやけるヨンイルの視線をどうとったか、直が咳払いする。
「ヒントは?」
「天才でもわからんか?」
ヨンイルは意地悪いにやつきを深める。
「しゃあないな、特別やで。ヒント。某変身ヒロインものアニメの名台詞。語尾はにゃん。ほんでメイドときたら?」
ようやく思い当たったようだ。
その瞬間直の顔に浮かんだ激烈な殺意は、ヨンイルの下半身を萎えさせるのに十分だった。
凄まじい葛藤と恥辱に顔を歪ませ、目尻に朱を刷き、肩と拳を小刻みに震わす直の姿は嗜虐心を刺激する。
ひとつ深呼吸し、肩を落とし、吐き出す。
目と鼻の先に直の顔がくる。
眼鏡の奥の目尻を屈辱に赤らめたまま、極限の葛藤に顔を歪ませ、そして。
「ご奉仕、す、するにゃん」
三秒後。
「生殺しで夢オチかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
体中の穴という穴から水を吐き出し、哀れ道化は絶叫する。
メイド服は男の浪漫。
そんな夢を見ていた……ような気がするが、真偽はさだかではない。
play the devil with
(2001/05/29) アスファルトを打った通りに毒々しい色彩が溢れる。
華やかな嬌声、狂騒的な雰囲気、下半身で物を考える夜行性動物の行進と饗宴。
界隈にはろくな店がない。市の営業許可をとっている店は六割あればいいところだ。
合法非合法問わずいかがわしい店が集う通り。
善良な市民はまず近寄らず近寄ろうという気さえ起こさない。
火遊びは命がけで行うものではない。
通りにはもちろん正式な名称がある。
しかしだれもそれを呼ばず公然と俗称がまかり通る。
通称欲望通り。マフィアが仕切る歓楽街の中でも治安がよろしくないと評判の一帯を貫く煩雑な通りは夜八時を過ぎたあたりから賑わいが活発化する。
人種の坩堝。
さまざまな髪の色目の色肌の色が人種の見本市の様相を呈し渾然と行き交い混沌の熱気を孕む。
通りにはちらほらとティーンエイジャーの姿を見受ける。
群集に紛れ闊歩する少年少女たち。
誘惑に弱い子供らは刹那的な快楽を求め享楽の宴に堕し、あるものは単身あるものは徒党を組みほっつき歩く。
麻薬中毒の兆候で不健康に黄ばみかさつく肌、落ち窪んだ眼窩。
腰穿きにしたジーンズの中で骨張った体を泳がせる少年らが路地裏でシンナーを吸う。
拒食症じみた体つきの少女がサプリメントの錠剤をがっつく。
マーブルオレンジ、クリムゾンレッド、ディープブルー、ミントグリーン。
原色のネオンでうるさくデコレイトした看板が張り出す陳列通りには露出過剰な少女たちがずらり居並ぶ。
肌の露出面積の多さ、猥褻すれすれの際どさを若さの特権と取り違えた愚か者たち。
極端に切り詰めたスカートから素足をむきだし、封建的な世間ではごく一部とされる、しかし場所柄めずらしくもない特殊な性的嗜好の持ち主に強烈に訴求。
魅惑の絶対領域、極端な露出で媚態を演出。
私を見て私を見てとセックスアピール、自己顕示欲むきだしのサイン、過激で過剰な自己表現。
無関心な素振りを装いつつも上目遣いの目に媚びと期待を含み、通りを行き交う男達をじゃれるように誘う。
彼女たちは女衒となり自身を売る。
あるものはカイロの奴隷のように道端で膝を抱えあるものは友達としゃべりながら競り落とされるのを待つ。
年功序列は夜の世界でも健在。肩で風切るハイティーンの少女たち、子供に毛が生えたようなローティーンの少女たちがたがいの縄張りに不干渉に共存する。
それぞれ自己主張の強いファッションを身に纏い、相殺で無個性に没し、みずからの価値そのものを投げ出すように路地のそこかしこに座り込む少年達の顔は一様に倦んで生気が感じられない。目は薬のばかりせいでなく濁っている。
股を広げしゃがみこんだ少女、擦り切れたジーンズを棒くいのように投げ出す少年、いずれも十代半ば。
宵の口の通りに掃いて捨てるほどいるそんな子供達の中から、彼が目をつけたのは風変わりな少年。
目的もなく、怠惰に、自堕落に。
ガムを噛み、煙草を吸い、酒を回し飲み、雑誌を読み、カードを配り賭けに興じ、コイントスで一喜一憂し、輪を作り稼ぎの成果を見せ合う。
壁に寄りかかるようにして座り込む交渉待ちの売春婦と夫の中で、その少年は異彩を放っていた。
少年は道端に座り込んでいた。
誘蛾灯のように軽薄にネオンが点滅するクラブの裏口。
ざらつく外壁によりかかり、しどけなく片足を抱き寄せ、もう一方を無気力に投げ出している。
蛍光色のネオンに照らされきらめく癖のない黒髪。
疫病のようにネオンの斑点が蝕む肌は病的に白く不健全な感じを強調する。
俯きがちのため表情はわからない。
少年が緩く顔を上げる。
猫科のまどろみに似てアンニュイな動作。
しかしその優雅さはいささかも損なわれない。
推定年齢十代前半、どう見積もっても十二か三。十四にさえ手が届かない貧相な痩せっぽち。歓楽街には場違いの一言で片付けられそうな人種。ところが少年は夜の街にしっくり溶け込んでいる。そればかりか、ぬるく肌にまつわる退廃的な空気にどっぷり馴染んでいる。
なにをするでもなく、時間を飼い馴らすふうに切れ長の目をじっと虚空に据える。
退屈げに見えた。
暇を持て余すふりをして手くずねひいて面白いことを待ち構えてるようにも。
何かが起きると予感し、あくびを噛み殺し油断を誘っているようにも。
ブレーキを踏む。
タイヤがアスファルトを噛む。
メーターが停止、アイドリング状態に入る。
路肩に車を止め、ハンドルに腕をかける。
車窓越しの観察、監視。恒例の下見。
経験を積み観察眼を鍛えた男は、プロのシビアな目で毛先から爪先まで少年を値踏みする。
安っぽい看板の下、地下へと通じる矩形の入り口がぽっかりあく。
少年はその横にいる。
配管がジグザグに交差する老朽化した壁に背中を預け、眠たげに通りを眺めている。
容姿は及第点。
男は車を降りる。
ドアを閉め路上に降り立つ。
アスファルトにへばりついた煙草の吸殻とガムを蹴散らし、目的地へ向かう。
闊達な足取り。意気揚々と鼻歌。
相手に軽く見られてはならない。
だからこそ余裕の演出、貫禄の捻出。スカウトの必須事項。
男の容姿は歓楽街に自然となじむ。
洒落たダークスーツ、胸元に垂らした華奢な金鎖、両手の指輪。ブルネットの髪は後ろに纏めて流している。年齢はわかりにくい。おそらく三十代半ば。堅気には見えないがさりとて悪党とも断定できない微妙な路線。心証はどっちつかずの灰色。
テールランプの尾を曳航し車が流れる路上をあざやかにかいくぐり、たった数秒で対岸に辿り着く。
正面に立つ。
視界が翳ったことに気付き、気だるく顔を上げる。
まじりけない黒髪の前髪の下、切れの鋭い双眸が胡乱に細まり、猜疑と警戒の中間色が過ぎる。
間近で見た少年は、遠目に眺めるよりはるかに上等な容姿をしていた。
漆黒の髪と同色の目、対照的な肌の白さが艶かしい。身に付けているのは安物。よれたТシャツとそっけないジーパン、典型的な家出少年スタイル。補導されないのが不思議なほど。
新月の夜に似た瞳の黒さに惹きつけられるように目が合う。
猜疑心の強さが伝わる凝視。
しばらく無言で男を見詰めていたが、ふいに興味を失い、無関心にそっぽをむく。
猫科の気紛れ。移り気な様子。
背広の胸をさぐり煙草をとりだす。ライターで点火。煙草の穂先に橙色がともる。
美味そうに一服、肺を紫煙で満たす。
副流煙に顔を顰めた少年をちらり意味深に一瞥、煙草の箱を叩く。
白い歯で健全さをアピール。親しみやすい笑顔。子供と侮らず対等に扱ってやる度量を誇示。
「吸うか」
迷惑そうに眉をしかめる少年にむかい、箱の尻をリズミカルに叩いて煙草を一本射出。
礼を述べるでもなく受け取る。
指の間に煙草を挟み、男のライターを借りて火をつけ、口にくわえる。
おそろしく慣れた手つき。斜に構えた態度に似合いの俗っぽさ。煙草なんて吸い飽きたといったふうなおざなりな応じ方。
手首が下降線を描いて革靴を焼く。
じゅっと音がする。革がこげる独特の臭気が鼻腔をつく。
目を見開く。意表をつかれる。かまわずワックスの光沢を放つ革靴に煙草をおしつける。
表情ひとつかえず、男の革靴の先端に執拗に煙草をすりつけ入念に穂先を潰す。
「俺の高級な舌に安物はあわねーんだ」
一口吸っただけで、男の革靴を灰皿がわりにして飄々とうそぶく。
罪悪感のかけらもない。
面食らう男の足元へ、火の消えた煙草を弾いて放り捨てる。
痛々しいほど華奢な体躯が洗いざらしのТシャツの中で泳ぐ。無防備に晒した鎖骨が欲望を煽る。
いいね。久しぶりに骨のありそうなえものだ。
闘争心が昂ぶる。嗜虐心が疼く。
さりげなくあたりを見回す。
路肩には少年と同じかそれより少し上の子供達が座り込んでいる。
売春目的の子供たち。
彼らは路上で体を売る。スリリングな小遣い稼ぎ程度の認識から家庭の事情により本当に逼迫してるものまでさまざまだが、やることはいずれも同じ。金を払って体を売る。一夜の快楽を提供する。唇で、体で、性器で、尻で、体のどこもかしこも擦り切れさせて、穴という穴から精液をあふれさせ。
おそらくこの少年も同様。
全身から放たれるスレた雰囲気がウブなガキではないと物語る。
「何ドル?」
単刀直入に聞く。
「フェラ3ドルオーラル5ドルスカトロ10ドル」
歌のごとく売り文句をそらんじる。
おもしろいガキ。愉快になる。興味を持つ。口元にあらたな煙草を運び、くわえる。
路肩に座り込んだ少年がきつい目つきで問いかけてくる。
買うのか?買わないのか?どうなんだ。
挑発的な三白眼、世を拗ねた顔つき。おもわず張り飛ばしたくなるくらい素敵なつら。
飛びかけた自制心を引き締め、意識して落ち着いた声を作る。
「タブーはないのか」
「ジョン・ドウにはなりたかねーな」
肩をすくめる動作つきで軽く答える。
初めて笑みがひらめく。子供にはふさわしくない皮肉な笑み。人生の酸いも甘いも噛み分けたといったふうな。
達観と諦観とが相半ばするその笑みは、あるかなしかの自嘲と自虐さえ含み、男の胸をひりつかせる。
少年の顔を一瞬かすめたその笑みはすぐまた消え去り、男を値踏みする色を含む。
ジョン・ドウとは身元不明遺体の通称。
場所柄このあたりでは多く見かける。顔を潰され海に浮かぶのもめずらしくない。
マフィアの諍いが激しさを増す一方の都市の副産物。
極論すれば、少年は命さえあればそれでいいと言っている。
死体として放り出されなければ何をしてもいいと暗に請け負っているのだ。
肝が据わっているのか、自暴自棄か。
男は後者ととる。十二か三かそこらのガキが命を張る修羅場をくぐり抜けたとは思えない。詳細な背景事情は知らないし興味もないが、こんな時間帯に家にも帰らず通りに座り込んでいるという事は、つまりそういうことなのだろう。
虐待。ネグレクト。家族との不和。大方そんなところ。
帰る家も待つ人もない子供たちが最終的に辿り着く場所といったらここしかない。
腐った水が低い方へ低い方へと流れよどみにたまるように、行き場をなくした子供たちはここへ吸い寄せられる。
家出少年の吹き溜まり、ペドフィリア御用達の売春通り。誘拐が多発し、常によからぬ噂がつきまとう区画。
使い捨てコンドームがふやけた吸殻やガムにまじり鳩の糞のように路上にへばりつくソドムのどん詰まり。
家庭ではよき夫よき父であるお堅い会社員が少年を漁り少女を買う、ガイドブックには決して取り上げられない、しかしその筋では有名なホットスポット。少年愛好者の猟場で男が三日とあけず通う職場。
じろじろと不躾に少年を観察する。
毛筋に視線を通し、顔の造作ひとつひとつを砂金すくいの執拗さと慎重さでもって秤にのせ、いくらになるか胸算用する。
こいつは上玉だ。
口笛を吹きたくなる。今夜はツイてる。主のご加護に感謝。
通りを挟んで車窓越しに眺めていたのではいまいち確信が持てなかったが、至近距離にたちとくと眺めてみれば、こんな場末ではめったにお目にかかれない容姿の持ち主。
ネオンに映える漆黒の髪、研ぎナイフの目。
肌は倒錯的に白く、その手の趣味の者垂涎の美質が備わっている。
辛抱たまらずむしゃぶりつきたくなるような細腰、声変わり前の喉仏はほとんど目立たない。
ちりちりと欲望が燻る。
欲望の対象の少年は、神経過敏な目つきですくいあげるように正面を見る。
「車に轢かれてえか?用がないなら失せろ」
「車はあそこにとめてある」
なんだ、やっぱりそれが目的かよ。
手の甲で追い払うしぐさをしてみせた少年が鼻白む。ぞんざいな口ぶりに育ちの悪さが出る。
踵を返した男に従い億劫げに立ち上がる。
背は男の肩あたりまでしかない。小柄だ。
雑踏を避けて通りを渡るまでの数秒間、沈黙の埋め合わせにどうでもいい会話をする。
「いつもここにいるのか」
「それがどうした」
「見かけない顔だ」
「気分転換。たまにゃ河岸もかえたくなるさ。あんただってそうだろ?女ばっか抱いてちゃ飽きるから、ここに来たんだろ」
違うかとほくそえむ。
口達者なガキだと内心舌を巻く。
毒婦のようにふてぶてしくふしだらな笑みを、ネオンとテールランプの洪水が照らす。
しまりのない格好で車のドアに凭れ、酔っ払ったように言う。
「小便くさい最低の市場。鼻がひん曲がりそうだ。シンナーと酒と精液とがごっちゃになってやがる。歓楽街なんざどこ行ったってかわらねえ、裏通りに転がってるもんはおんなじだ。娼婦と浮浪者とヤク中と死体。けれどな、一応縄張りがあるんだよ。おもしれー事に。誰がどこにいるかって大抵顔ぶれは決まってる。口じゃあ過激な事ほざいても変化が嫌いなんだよ、連中は。意外と右翼で保守派なんだ。けどそれじゃつまんねえ、スリルがねえ」
「だから河岸をかえたのか」
「どこで遊ぼうが俺の勝手。十年先にゃ全部俺の領土になるんだからよ。ハンプティ・ダンプティの間抜けな王さまも領地の下見の帰りに問答かけられたんだ、塀にのっかったたまごがいきなりしゃべりだすなんてサプライズ信じられっか?首もねーのにネクタイ巻きやがってよ、そりゃ襟巻きだっての!」
「シンナーでもやってんのか?」
「ばぁーか。しらふだよ」
とてもそうは思えない言動の錯乱ぶり。自分の言葉に受けたようにけたたましく笑う。
狂っているのか?……それはそれで都合が良い。後始末がやりやすくなる。
運転席のドアを開け乗り込みがてら、正気の程度を問う謎かけを試みる。
「じゃあ問題。割れたら戻らないハンプティ・ダンプティの正体は?」
後部ドアを開け放ち、怯えるでもなく堂々と滑り込み、シートで跳ねて遊ぶ。
「もちろん知ってる。初歩の初歩、常識中の常識。熱くて固いのぶちこむ前に安全装置をはずすくれえ当たり前のこった」
クッションの利いた座り心地のよい背凭れによりかかり、バックミラーを見る。
ミラーを調整し後ろがまともに映る角度にすれば、水平にした人さし指でこめかみをつつき、明朗に答える。
『Egg head』
割れたら元に戻らず、どろどろの中身を垂れ流す。
流れるネオンに横顔を染め挑発的に笑う少年の答えを吟味し、ミラーにちらつく劣情そそる鎖骨に生唾を飲み、舌なめずりをする。
おもったとおり、いい具合に壊れてやがる。
華やかな嬌声、狂騒的な雰囲気、下半身で物を考える夜行性動物の行進と饗宴。
界隈にはろくな店がない。市の営業許可をとっている店は六割あればいいところだ。
合法非合法問わずいかがわしい店が集う通り。
善良な市民はまず近寄らず近寄ろうという気さえ起こさない。
火遊びは命がけで行うものではない。
通りにはもちろん正式な名称がある。
しかしだれもそれを呼ばず公然と俗称がまかり通る。
通称欲望通り。マフィアが仕切る歓楽街の中でも治安がよろしくないと評判の一帯を貫く煩雑な通りは夜八時を過ぎたあたりから賑わいが活発化する。
人種の坩堝。
さまざまな髪の色目の色肌の色が人種の見本市の様相を呈し渾然と行き交い混沌の熱気を孕む。
通りにはちらほらとティーンエイジャーの姿を見受ける。
群集に紛れ闊歩する少年少女たち。
誘惑に弱い子供らは刹那的な快楽を求め享楽の宴に堕し、あるものは単身あるものは徒党を組みほっつき歩く。
麻薬中毒の兆候で不健康に黄ばみかさつく肌、落ち窪んだ眼窩。
腰穿きにしたジーンズの中で骨張った体を泳がせる少年らが路地裏でシンナーを吸う。
拒食症じみた体つきの少女がサプリメントの錠剤をがっつく。
マーブルオレンジ、クリムゾンレッド、ディープブルー、ミントグリーン。
原色のネオンでうるさくデコレイトした看板が張り出す陳列通りには露出過剰な少女たちがずらり居並ぶ。
肌の露出面積の多さ、猥褻すれすれの際どさを若さの特権と取り違えた愚か者たち。
極端に切り詰めたスカートから素足をむきだし、封建的な世間ではごく一部とされる、しかし場所柄めずらしくもない特殊な性的嗜好の持ち主に強烈に訴求。
魅惑の絶対領域、極端な露出で媚態を演出。
私を見て私を見てとセックスアピール、自己顕示欲むきだしのサイン、過激で過剰な自己表現。
無関心な素振りを装いつつも上目遣いの目に媚びと期待を含み、通りを行き交う男達をじゃれるように誘う。
彼女たちは女衒となり自身を売る。
あるものはカイロの奴隷のように道端で膝を抱えあるものは友達としゃべりながら競り落とされるのを待つ。
年功序列は夜の世界でも健在。肩で風切るハイティーンの少女たち、子供に毛が生えたようなローティーンの少女たちがたがいの縄張りに不干渉に共存する。
それぞれ自己主張の強いファッションを身に纏い、相殺で無個性に没し、みずからの価値そのものを投げ出すように路地のそこかしこに座り込む少年達の顔は一様に倦んで生気が感じられない。目は薬のばかりせいでなく濁っている。
股を広げしゃがみこんだ少女、擦り切れたジーンズを棒くいのように投げ出す少年、いずれも十代半ば。
宵の口の通りに掃いて捨てるほどいるそんな子供達の中から、彼が目をつけたのは風変わりな少年。
目的もなく、怠惰に、自堕落に。
ガムを噛み、煙草を吸い、酒を回し飲み、雑誌を読み、カードを配り賭けに興じ、コイントスで一喜一憂し、輪を作り稼ぎの成果を見せ合う。
壁に寄りかかるようにして座り込む交渉待ちの売春婦と夫の中で、その少年は異彩を放っていた。
少年は道端に座り込んでいた。
誘蛾灯のように軽薄にネオンが点滅するクラブの裏口。
ざらつく外壁によりかかり、しどけなく片足を抱き寄せ、もう一方を無気力に投げ出している。
蛍光色のネオンに照らされきらめく癖のない黒髪。
疫病のようにネオンの斑点が蝕む肌は病的に白く不健全な感じを強調する。
俯きがちのため表情はわからない。
少年が緩く顔を上げる。
猫科のまどろみに似てアンニュイな動作。
しかしその優雅さはいささかも損なわれない。
推定年齢十代前半、どう見積もっても十二か三。十四にさえ手が届かない貧相な痩せっぽち。歓楽街には場違いの一言で片付けられそうな人種。ところが少年は夜の街にしっくり溶け込んでいる。そればかりか、ぬるく肌にまつわる退廃的な空気にどっぷり馴染んでいる。
なにをするでもなく、時間を飼い馴らすふうに切れ長の目をじっと虚空に据える。
退屈げに見えた。
暇を持て余すふりをして手くずねひいて面白いことを待ち構えてるようにも。
何かが起きると予感し、あくびを噛み殺し油断を誘っているようにも。
ブレーキを踏む。
タイヤがアスファルトを噛む。
メーターが停止、アイドリング状態に入る。
路肩に車を止め、ハンドルに腕をかける。
車窓越しの観察、監視。恒例の下見。
経験を積み観察眼を鍛えた男は、プロのシビアな目で毛先から爪先まで少年を値踏みする。
安っぽい看板の下、地下へと通じる矩形の入り口がぽっかりあく。
少年はその横にいる。
配管がジグザグに交差する老朽化した壁に背中を預け、眠たげに通りを眺めている。
容姿は及第点。
男は車を降りる。
ドアを閉め路上に降り立つ。
アスファルトにへばりついた煙草の吸殻とガムを蹴散らし、目的地へ向かう。
闊達な足取り。意気揚々と鼻歌。
相手に軽く見られてはならない。
だからこそ余裕の演出、貫禄の捻出。スカウトの必須事項。
男の容姿は歓楽街に自然となじむ。
洒落たダークスーツ、胸元に垂らした華奢な金鎖、両手の指輪。ブルネットの髪は後ろに纏めて流している。年齢はわかりにくい。おそらく三十代半ば。堅気には見えないがさりとて悪党とも断定できない微妙な路線。心証はどっちつかずの灰色。
テールランプの尾を曳航し車が流れる路上をあざやかにかいくぐり、たった数秒で対岸に辿り着く。
正面に立つ。
視界が翳ったことに気付き、気だるく顔を上げる。
まじりけない黒髪の前髪の下、切れの鋭い双眸が胡乱に細まり、猜疑と警戒の中間色が過ぎる。
間近で見た少年は、遠目に眺めるよりはるかに上等な容姿をしていた。
漆黒の髪と同色の目、対照的な肌の白さが艶かしい。身に付けているのは安物。よれたТシャツとそっけないジーパン、典型的な家出少年スタイル。補導されないのが不思議なほど。
新月の夜に似た瞳の黒さに惹きつけられるように目が合う。
猜疑心の強さが伝わる凝視。
しばらく無言で男を見詰めていたが、ふいに興味を失い、無関心にそっぽをむく。
猫科の気紛れ。移り気な様子。
背広の胸をさぐり煙草をとりだす。ライターで点火。煙草の穂先に橙色がともる。
美味そうに一服、肺を紫煙で満たす。
副流煙に顔を顰めた少年をちらり意味深に一瞥、煙草の箱を叩く。
白い歯で健全さをアピール。親しみやすい笑顔。子供と侮らず対等に扱ってやる度量を誇示。
「吸うか」
迷惑そうに眉をしかめる少年にむかい、箱の尻をリズミカルに叩いて煙草を一本射出。
礼を述べるでもなく受け取る。
指の間に煙草を挟み、男のライターを借りて火をつけ、口にくわえる。
おそろしく慣れた手つき。斜に構えた態度に似合いの俗っぽさ。煙草なんて吸い飽きたといったふうなおざなりな応じ方。
手首が下降線を描いて革靴を焼く。
じゅっと音がする。革がこげる独特の臭気が鼻腔をつく。
目を見開く。意表をつかれる。かまわずワックスの光沢を放つ革靴に煙草をおしつける。
表情ひとつかえず、男の革靴の先端に執拗に煙草をすりつけ入念に穂先を潰す。
「俺の高級な舌に安物はあわねーんだ」
一口吸っただけで、男の革靴を灰皿がわりにして飄々とうそぶく。
罪悪感のかけらもない。
面食らう男の足元へ、火の消えた煙草を弾いて放り捨てる。
痛々しいほど華奢な体躯が洗いざらしのТシャツの中で泳ぐ。無防備に晒した鎖骨が欲望を煽る。
いいね。久しぶりに骨のありそうなえものだ。
闘争心が昂ぶる。嗜虐心が疼く。
さりげなくあたりを見回す。
路肩には少年と同じかそれより少し上の子供達が座り込んでいる。
売春目的の子供たち。
彼らは路上で体を売る。スリリングな小遣い稼ぎ程度の認識から家庭の事情により本当に逼迫してるものまでさまざまだが、やることはいずれも同じ。金を払って体を売る。一夜の快楽を提供する。唇で、体で、性器で、尻で、体のどこもかしこも擦り切れさせて、穴という穴から精液をあふれさせ。
おそらくこの少年も同様。
全身から放たれるスレた雰囲気がウブなガキではないと物語る。
「何ドル?」
単刀直入に聞く。
「フェラ3ドルオーラル5ドルスカトロ10ドル」
歌のごとく売り文句をそらんじる。
おもしろいガキ。愉快になる。興味を持つ。口元にあらたな煙草を運び、くわえる。
路肩に座り込んだ少年がきつい目つきで問いかけてくる。
買うのか?買わないのか?どうなんだ。
挑発的な三白眼、世を拗ねた顔つき。おもわず張り飛ばしたくなるくらい素敵なつら。
飛びかけた自制心を引き締め、意識して落ち着いた声を作る。
「タブーはないのか」
「ジョン・ドウにはなりたかねーな」
肩をすくめる動作つきで軽く答える。
初めて笑みがひらめく。子供にはふさわしくない皮肉な笑み。人生の酸いも甘いも噛み分けたといったふうな。
達観と諦観とが相半ばするその笑みは、あるかなしかの自嘲と自虐さえ含み、男の胸をひりつかせる。
少年の顔を一瞬かすめたその笑みはすぐまた消え去り、男を値踏みする色を含む。
ジョン・ドウとは身元不明遺体の通称。
場所柄このあたりでは多く見かける。顔を潰され海に浮かぶのもめずらしくない。
マフィアの諍いが激しさを増す一方の都市の副産物。
極論すれば、少年は命さえあればそれでいいと言っている。
死体として放り出されなければ何をしてもいいと暗に請け負っているのだ。
肝が据わっているのか、自暴自棄か。
男は後者ととる。十二か三かそこらのガキが命を張る修羅場をくぐり抜けたとは思えない。詳細な背景事情は知らないし興味もないが、こんな時間帯に家にも帰らず通りに座り込んでいるという事は、つまりそういうことなのだろう。
虐待。ネグレクト。家族との不和。大方そんなところ。
帰る家も待つ人もない子供たちが最終的に辿り着く場所といったらここしかない。
腐った水が低い方へ低い方へと流れよどみにたまるように、行き場をなくした子供たちはここへ吸い寄せられる。
家出少年の吹き溜まり、ペドフィリア御用達の売春通り。誘拐が多発し、常によからぬ噂がつきまとう区画。
使い捨てコンドームがふやけた吸殻やガムにまじり鳩の糞のように路上にへばりつくソドムのどん詰まり。
家庭ではよき夫よき父であるお堅い会社員が少年を漁り少女を買う、ガイドブックには決して取り上げられない、しかしその筋では有名なホットスポット。少年愛好者の猟場で男が三日とあけず通う職場。
じろじろと不躾に少年を観察する。
毛筋に視線を通し、顔の造作ひとつひとつを砂金すくいの執拗さと慎重さでもって秤にのせ、いくらになるか胸算用する。
こいつは上玉だ。
口笛を吹きたくなる。今夜はツイてる。主のご加護に感謝。
通りを挟んで車窓越しに眺めていたのではいまいち確信が持てなかったが、至近距離にたちとくと眺めてみれば、こんな場末ではめったにお目にかかれない容姿の持ち主。
ネオンに映える漆黒の髪、研ぎナイフの目。
肌は倒錯的に白く、その手の趣味の者垂涎の美質が備わっている。
辛抱たまらずむしゃぶりつきたくなるような細腰、声変わり前の喉仏はほとんど目立たない。
ちりちりと欲望が燻る。
欲望の対象の少年は、神経過敏な目つきですくいあげるように正面を見る。
「車に轢かれてえか?用がないなら失せろ」
「車はあそこにとめてある」
なんだ、やっぱりそれが目的かよ。
手の甲で追い払うしぐさをしてみせた少年が鼻白む。ぞんざいな口ぶりに育ちの悪さが出る。
踵を返した男に従い億劫げに立ち上がる。
背は男の肩あたりまでしかない。小柄だ。
雑踏を避けて通りを渡るまでの数秒間、沈黙の埋め合わせにどうでもいい会話をする。
「いつもここにいるのか」
「それがどうした」
「見かけない顔だ」
「気分転換。たまにゃ河岸もかえたくなるさ。あんただってそうだろ?女ばっか抱いてちゃ飽きるから、ここに来たんだろ」
違うかとほくそえむ。
口達者なガキだと内心舌を巻く。
毒婦のようにふてぶてしくふしだらな笑みを、ネオンとテールランプの洪水が照らす。
しまりのない格好で車のドアに凭れ、酔っ払ったように言う。
「小便くさい最低の市場。鼻がひん曲がりそうだ。シンナーと酒と精液とがごっちゃになってやがる。歓楽街なんざどこ行ったってかわらねえ、裏通りに転がってるもんはおんなじだ。娼婦と浮浪者とヤク中と死体。けれどな、一応縄張りがあるんだよ。おもしれー事に。誰がどこにいるかって大抵顔ぶれは決まってる。口じゃあ過激な事ほざいても変化が嫌いなんだよ、連中は。意外と右翼で保守派なんだ。けどそれじゃつまんねえ、スリルがねえ」
「だから河岸をかえたのか」
「どこで遊ぼうが俺の勝手。十年先にゃ全部俺の領土になるんだからよ。ハンプティ・ダンプティの間抜けな王さまも領地の下見の帰りに問答かけられたんだ、塀にのっかったたまごがいきなりしゃべりだすなんてサプライズ信じられっか?首もねーのにネクタイ巻きやがってよ、そりゃ襟巻きだっての!」
「シンナーでもやってんのか?」
「ばぁーか。しらふだよ」
とてもそうは思えない言動の錯乱ぶり。自分の言葉に受けたようにけたたましく笑う。
狂っているのか?……それはそれで都合が良い。後始末がやりやすくなる。
運転席のドアを開け乗り込みがてら、正気の程度を問う謎かけを試みる。
「じゃあ問題。割れたら戻らないハンプティ・ダンプティの正体は?」
後部ドアを開け放ち、怯えるでもなく堂々と滑り込み、シートで跳ねて遊ぶ。
「もちろん知ってる。初歩の初歩、常識中の常識。熱くて固いのぶちこむ前に安全装置をはずすくれえ当たり前のこった」
クッションの利いた座り心地のよい背凭れによりかかり、バックミラーを見る。
ミラーを調整し後ろがまともに映る角度にすれば、水平にした人さし指でこめかみをつつき、明朗に答える。
『Egg head』
割れたら元に戻らず、どろどろの中身を垂れ流す。
流れるネオンに横顔を染め挑発的に笑う少年の答えを吟味し、ミラーにちらつく劣情そそる鎖骨に生唾を飲み、舌なめずりをする。
おもったとおり、いい具合に壊れてやがる。
play the devil with 2
(2001/05/28) アクセルを踏む。
排気音とともに車が滑り出す。
巧みにハンドルをさばく。
原色のネオンが車窓を隈どる。
浮浪者に酔っ払いに街娼にポン引きにヤク中、不健康な顔に落ち窪んだ目をした連中がネオンに溶け込み流れ去る。
ゴミの散らかった道路をタイヤが擦り削る。
バックミラーにさりげなく目をやり後部座席をチェックする。
さっき拾った少年は大人しくシートに腰掛け無音で唇を動かしている。
注意しなければそうとわからないほどかすかな動き。
落ち着き払った態度からは先ほどの猜疑心が綺麗さっぱり消え去ってる。
クッションの利いたシートに凭れ、頬杖をつき、自分にしか聞こえない音楽に耳を傾けるかのように鼻歌を口ずさむ。
歌詞はよく聞き取れない。流行歌だろうか。
切れ切れの鼻歌に合わせ、メトロノームのようにつま先を振る。
「なに唄ってるんだ?」
「あてたらご褒美やるよ」
ミラーを見る。目が合う。
悪戯を閃いた猫のように意地悪く笑う。
Тシャツから突き出た細い手足と首筋がひりつく欲情を誘う。
冗談ともつかぬ言葉に思案のふりをし、適当な答えを舌にのせる。
「ロックか?」
「時代遅れだな。いまどきロックなんざ流行んねーよ」
耳をつつく。
つま先を揺らす。
自分にしか聞こえぬ音楽に身を委ねリズムをとり少年は言う。
「へヴィ・メタルの語源を知ってるか」
「さあな」
ハンドルをひねる。
正答ははなから期待してなかったらしく、男の無知を嘲笑うように肩をすぼめ、足を投げ出しシートにひっくりかえる。
「へヴィ・メタルってのはもともと麻薬中毒者の究極状態をさす造語なんだそうだ。生みの親はウィリアム・テルごっこで妻を射殺した変態小説家。いかしてんだろ?」
「ウィリアム・バロウズか。そっちなら知ってる」
「博学だな。こんな場末をながしてるわりにゃ」
「場末を流して男娼あさりしてるわりにゃ、だろ」
皮肉っぽく訂正し、ハンドルを切る。
ミラーが写し取る少年は鼻歌を口ずさみ躁的なリズムに合わせ体を揺すりご機嫌な様子。
だいぶ躁鬱の気が激しそうだ。薬でもやってるのかもしれない。まあどうでもいい、些細な問題だ。
肝心な場面で使い物になりさえすりゃ後はどうでもいい。
思考を切り替えハンドルの操作を続ける。
「ガキのわりに物知りだな」
「自分の好きな事くらいちゃんと知っときたいだろ?独占欲が強いんだよ、俺は。とてつもなく。好きな物の名前の由来はもちろんどんな歴史を辿ってきたか一部始終知っとかなきゃ気がすまねえ。始まりから終わりまで、終わりから始まりまで、な」
「素人がいっぱしの評論家気取りか」
「惚れた女の体にいくつほくろがあるか、セックスのたんびに数え上げなきゃ気がすまねえ偏執狂はざらにいる」
「知ったふうな口きくなよ。ろくに女抱いた経験もねえくせに」
「抱かれたことならくさるほど」
自分の言葉にうけたのか、肩ひくつかせ抑えた笑い声をたてる。
笑い上戸なのか、薬でハイになってるのか、どちらともつかぬ微妙な反応。
会話は噛み合わず空回る。だが、これも一興。変に緊張され警戒されるより適度にだらけていたほうが事を運びやすい。
すくいあげるような目つきでミラーを一瞥、後部席の様子を探る。
いまだ逃げ出す気配はない。
他愛ない会話で緊張をほぐし、警戒心を和らげておくのが事を円滑に進める常套手段だが、これがなかなか難しい。
家族構成や生い立ちについて触れてはなるまい。無神経な一言がきっかけで相手が心を閉ざし、会話を拒否する可能性もままある。
核心にはふれず、慎重に迂回する会話を重ねるのはこまやかな神経を使う。
多感なティーンエイジャーの扱いはむずかしい。
あの時間あの場所にたむろっているようなガキはなおさらだ。
帰る家も行き場もなく、歓楽街の場末の通りで体を売るしかないガキどもは、これまでさんざん大人に搾取され虐待されてきた経験が傷となり猜疑心の塊と化している。
大人に対する不信感は拭い難く根深く、こちらが失言を犯せば決して許しはしまい。
家はどこだ、親はどうした、門限はないのか、学校には行ってるのか。
上記の質問は言うまでもなくタブー。
ものによっては年齢を聞かれるのさえ嫌がる、拒絶反応を示す。
稼ぎは何に当てる?売春してることを親や友達は知ってるのか、今まで何人の変態に体を売った、どんなプレイをした?
あそこで子供を買う客の中には寝掘り葉掘りそれらを詮索しておのれを昂ぶらせる変態も少なからずいる。
言葉と暴力を用いて子供をいたぶるのが涎が出るほど好きな手合い、嗜好の矯正が手遅れな真性の変態どもだ。
趣味よりはビジネスに重きを置く彼にとって、相手に不信感なり警戒心なりを持たれるのはマイナスに作用すれどプラスに働かない。
だからこそ相手の反応をこまめに探り逐一動向をうかがいつつ、踏み込んではいけない一線を慎重に見極める。
会話は必要最低限にとどめ、音楽の趣味やら何やら無害な話題に終始し、生い立ちを含む売春に至る背景については一切触れない。
同業者の中にはこの時点で……目を付けた子供が車に乗り込み目的地に向かう途中で保身を優先し突っ込んだ質問をするものもいるが、そいつらは彼に言わせれば三流だ。
今の段階で聞かないでいいことは聞かないでおく。
その方が後腐れなく仕事に専念できる。
そのうち嫌でも聞き出すはめになるのだから、本腰入れて仕事にとりかかる前のささやかな息抜きに、ドライブを楽しんでも罰は当たるまい。
たとえばスカウトしたガキが虐待する親から逃げ出し、路上で体を売って食うや食わずの日銭を稼いでるとして、それを知って何になる。
警察に通報する?児童相談所に知らせる?まさか。
警察や施設が保護しようが売春に味をしめたガキは勝手に逃げ出してくるし、第一、彼の仕事は逃げ出した子供を狩り、指定の場所へ付け届けることだ。
光の当たる方ではなく、腐敗した闇のわだかまる裏側へ。
場末の裏通りより暗く深いよどみへ、二度と這い上がれないどん底へと。
良心はとっくに廃れてる。
年端もゆかぬ子供が空腹のあまり道端にうずくまるさまを見ても心はなんら痛まず、裸足の甲に吸殻を投げ捨てる。
同情のふりは面倒くさい。
愛想笑いで機嫌をとり、歓心を繋ぎとめる努力などとうに放擲した。
どうせ目的地に着くまでの時間稼ぎ、車にさえ乗り込んでしまえばいい人を演じる必要もない。
話のわかる大人、物分りよい男。
車を運転しがてら傷だらけ痣だらけのガキの親身に相談にのり味方を演じ、おめでたい誤解を植え付ける。
その手間と得られる利益とを秤にかけたら断然前者の方が勝る。
どうせやることは一緒。
必要以上にべたべた慣れ親しむことはない。
勘違いされ、懐かれても困る。
ちょっと甘い顔みせりゃはしゃいで付け上がる馬鹿なガキ。
優しさに飢えたガキほど一度心を許せばべたべたとしつこく懐いてきて、鬱陶しいことこの上ない。
その点こいつはらくだ。身の程ってもんをわきまえてる。
自分が売り物で、俺が買い手で、突き詰めりゃそれだけの関係だとドライに割り切って勘違いが入りこむ余地が見当たらない。
ミラーの角度をこまめに調整し後ろのガラスに視線を反射、尾行の有無を確認。
警察が偽装したとおぼしき不審な車両は見当たらない。
毎回恒例のチェック、怠りなく済ます儀式。これをしないと落ち着かない。
頭ではまず大丈夫とわかっていても油断は命取りだと自戒し、精神安定の一環として、前方とハンドル後方との三視点をもはや無意識の範疇で警戒する。
習慣として刷り込まれた動作。
経験則から導かれた条件反射。
先刻のやりとりを反芻する。
道端に座り込んだ似たり寄ったりの少年少女たちの中からこいつを選んだのは、容姿は言うに及ばず、ひとりぽつんと離れたところにいたからだ。
おそらくは新参者。
どこからか流れてきた新入りが次の日にはいなくなったところで治安の悪い界隈では怪しまれない。
街娼の入れ替わりは激しく何人かは警察に検挙され、何人かは手入れの前に移動し、どうかすれば週ごとに顔ぶれが変わる。
昨日今日現れた新入りが明日には消えていようが気付くものさえいないだろうが念には念を入れ、仲間の輪に加わらず孤立し、記憶に残りにくい者に標的を定め、注意を引かぬよう歩幅を測って行動した。
雑踏に溶け込み、群衆に紛れ、喧騒にかき消されそうな声で交渉し、また逆の順路をたどり自然な足取りで対岸の車へ戻った。
あそこには彼と同じ目的を持ち、同じく小声で交渉している男が何人もいた。
それらの男達に紛れてしまえば、ダークスーツをいかにも遊び人風に着こなす彼など特に目立ちはしない。
後で警察が聴取しても、あの時あの場にいた連中の何割に証言能力が認められるか。
酒と薬でへべれけになった呂律の怪しい目撃者から詳細な情報が得られるわけもない。
そこまで計算尽くで狙いをつけた。
あえて孤立した子供を狙い、交渉は短時間で済ませ、脈がありそうならさっさと車へ導き、駄目ならとっとと切り上げる。諦め悪く食い下がるのは愚の骨頂のみならず致命傷になりかねない。
ファッションとて特別浮き上がるような奇抜なものではない。派手好きな人間がそろう歓楽街ではむしろ目立たぬ服装といえよう。
髪型も服装も身に付けるアクセサリーさえも最大公約数に紛れて個性が薄まるようにと逆算し選んだものだ。
髪型をかえ背広を脱げば、あの時あそこにいたガキと別の場所ですれちがっても見分けがつかない自信がある。
神経質な手つきでミラーをいじくる運転席の男へと、唐突に声がかかる。
「地獄のバックパイカーって知ってるか」
ミラーを支える手が凍る。
シャツの下で心臓がひとつ跳ねる。
「低予算のB級映画か?頭の悪い金髪女が悪いヒッチハイカーに乗せられて、美味しく頂かれちまうありふれた話か」
赤信号に伴いブレーキを踏み、制動をかける。
動揺が表に出ぬようハンドルに片腕を預け、殊更ゆっくりとミラーの傾きを直し、平常心の回復に努める。
角度を調整したミラーに少年がちらつく。
「最近この辺で流行ってる噂だよ。都市伝説って奴」
「ブギーマンか」
被害妄想の脅威が去り、失笑を漏らす。
唐突な前振りに正体を勘付かれたかと焦るも杞憂だったようだ。
ちょうどネオンが途切れた位置で車が停止し、少年の顔が不気味に翳る。
平静を装い笑みさえ浮かべる余裕を取り戻した男へと、表情の読めない少年が声量を絞って囁きかける。
「最近この辺でティーンエイジャーの失踪が相次いでるらしい。被害者はどれも家出少年か施設からの脱走者で、路上で商売してた。で、そいつらが消えた時、決まって似たような車が目撃されてる」
噂に尾ひれがついている。
もしくは都市伝説にそれらしいリアリティを付与するため一部が捏造誇張されている。
事実は少々食い違う。
彼がスカウトに使った車はどれも組織から回されたレンタカーで外装もまるっきり違い、個別特定されるような代物じゃない。
「ジェフリー・ダーマーの模倣犯がこの街にいるってのはぞっとしないな」
「消えたガキどもはどうしてるんだろうな」
「目撃証言はないのか」
「連れてかれたきりだ」
どうして今、このタイミングで話を持ち出す?
勘付かれたのか?
まさか。
出会い頭からハンドルを握る今この瞬間まで自分の言動を詳細に回想するも失態を犯した覚えはなく、困惑と混乱が同時に襲い発汗を促す。
ハンドルを握る手が緊張に汗ばむ。
上目遣いにミラーを見れば、疑心暗鬼に苛まれた険悪な色が狭い眉間に漂い始める。
詮索を慎み、疑惑を招くような言動は極力控えてきたはずなのに、なぜ。
豊富なスカウト経験からくる自負と自信が根底から揺らぐ。
……いや、気にしすぎだ。ただの世間話じゃねえか。
同乗する少年はただ近頃噂になり始めた街娼の連続失踪事件をネタに話しているだけで、即疑われてると決め付けるのは短絡的だ。
動揺を気取られないよう深呼吸し、世知辛くニヒルな笑みを保つ。
悲惨で不幸な事件を腐るほど見聞きして、もはやそれらに無関心になったという乾燥した笑み。
募る疑念を振り払い、少年が告げたニュースに関心を示すふりをする。
「初耳だな。新聞にも出てなかった」
「当たり前だ。どっかの資産家の令嬢令息ならいざ知らず、消えたのは捜索願いも出されてねえ身寄りのねえガキどもだ。しかも被害者は全員俺と同じ商売、仮に目撃者がいても天敵の警察にチクるかよ。奴らにとっちゃ消えた仲間の安否よかアガリが死活問題さ」
「表沙汰になりにくい要因がそろってたわけか」
「けれども何十回と続きゃ噂がたつ。同業のガキがだんまり決めこもうがサツの地獄耳に届く。市警もやっとこさ動き始めたが成果はとんと芳しくねえ」
両手を広げて謎をかける少年のペースに巻き込まれ、次第に不安が晴れていく。
「犯人はどんなやつだとおもう」
「推理ごっこか」
たまたま道端で拾った少年が自分の事を疑っているなんて、発想が飛躍しすぎだ。
歓楽街で多発するティーンエイジャー失踪事件とたまたま偶然出会った自分を関連付けて考えるなんて、たとえそれが正しくてもばかげている。
単なる世間話、暇潰しの会話。
突然消えた同業者の噂を走る密室で持ち出したのにも他意はなく、今宵の客を誘拐犯になぞらえ、スリルを楽しむ悪趣味な冗談だと結論付ける。
なら、付き合ってやろうじゃないか。
「そうだな。……道端で拾った娼婦に手錠かけて責め殺すようなサディストだろうな、そいつは。歓楽街の人ごみに紛れ込んで、老いも若きも街娼がずらりと居並ぶホットスポットに出没しちゃあ好みのタイプをお持ち帰りしてるんだろうさ。まず間違いなく地元の人間だろうな。地理に精通してる。どこに行きゃ獲物が狩れるか知り尽くしてる」
「単独犯?」
「ジェフリー・ダーマーだって単独犯だろ?」
「さて、どうかな。一人でやったにしちゃ期間が短すぎる、手際がよすぎる、痕跡を残さなすぎる。組織だった匂いがしねえか?」
何を言い出すんだ、このガキ。
一度は払拭した疑念が再び頭をもたげ始める。
横目でミラーを見るも、少年は顔色ひとつ変えず、意地悪い笑みを含んだ目で見返してくる。
「……スケールのでけえ妄想だな。人身売買組織が絡んでるとでも?」
「消えたガキどもはどうなったんだろうな」
「海外に売り飛ばされたんじゃねーか」
「良心的だな」
無難な線を口にすれば、お気に召さずに鼻白む。
「臓器抜かれて豚のエサにされたとか」
肩をすくめ、悪びれたふうもなく片手をひらつかせる。
「身代金ふんだくるあてもなく攫ったガキの使い道なんざ限られてる。だろ?」
底光りする目を細め、挑発的に嗤う。
「余裕かましてるけど俺がその誘拐犯だって可能性はねーのかよ。行き先は港でタンカーが待ち受けていて、アラブの石油王に売り飛ばされたりな」
冗談の延長の軽い口調でカマをかける。
「ブギーマンてがらか?ジェフリー・ダーマーにも見えねえな。どっちかってーと俳優に似てるよ、あんた。好みのタイプだ」
「人を見る目はたしかだとでも言いたげだな。連れてかれた先で腹裂かれて内臓抜かれても吠え面かくなよ」
真実と嘘を半々に混ぜた発言。
虫歯を舌でつついてみるような出来心から発した脅迫を鼻先で一蹴し、口を開く。
「女の頭に林檎のせて撃ちぬきたくなる気分ってのは、どんなもんだろうな」
一周してへヴィ・メタルの発案者の小説家の話に戻る。
話題が移った事実に安堵しつつも顔には出さずアクセルを踏み、車を再スタートさせる。
「スリルを楽しんでんだろ。少しずれたら妻の額にゃ穴が開いて自分は殺人者だ、ぎりぎりのところで楽しんでるんだよ」
「生きた的はよく拒否らなかったな」
「愛してたんだろ、旦那を。文字どおり命がけで信頼してたわけだ。うるわしき夫婦愛」
「変態の小説家をか?生きるか死ぬか綱渡りの安い命、タイトロープ・ロウ・ライフをワイフと楽しんでやがったか」
「それかむりやりか。命令されて、怖くて逆らえなかったんだろ。長期のDV被害者にありきたりな屈従心理さ」
「あたり」
まるで見てきたように自信と確信をもって首肯。
「可哀想な女房は旦那が怖くて逆らえなかったんだよ。間違っても旦那の腕前を信頼してたとか美談じゃねえ、たんにびびってただけ。相手は狂人だ。人の頭にりんごのっけって撃ち抜こうなんざ狂人の発想。だろ?クレイジーな奴にゃ説得も無駄。気が済むまで付き合うっきゃねえ、命がけのゲームにな。ま、本人は狙い付けながら勃起してたんだろうさ。ちょっと手が滑って額を撃ち抜いちまった時も『しくじった』くらいの感想しか持たなかったろうな。いや……」
額の真ん中を人さし指でつき、翳った顔で意味深にほくそえむ。
「最初からそれが狙い。ゲームの延長の事故だと申し開きすりゃ殺人罪から過失致死に格下げしてもらえるって閃いたんじゃねーか、物書きの浅知恵で」
「わざと殺したってのか?まさか。いくらとち狂ってたってそりゃねえよ、パスタゆでてくれる人間がいなくなるじゃねえか」
「また作って連れてくりゃいいだろ。そしてまた同じことの繰り返し、ネバーエンディング・ウィリアム・テル・ミー・オイレン・シュピーゲル。女を射殺すのが趣味の真性の変態でとんでもねえ快楽殺人者だったんだよ、四六時中ヤクをきめてたその作家は」
「オイレン・シュピーゲル?」
「無学め。悪ふざけやろうって意味だよ」
ついさっき博学と褒めた口でこきおろし、口笛を吹く。
大胆かつ斬新すぎるアレンジを加えたアップテンポの曲は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩ティル・オイレンシュピーゲルに範をとっているのだが、クラッシックに疎い男はいまいちぴんとこない。
ほとんど原形をとどめぬまでにアレンジされていては無理もないが。
もとの楽曲と不協和音すれすれに音程の飛びまくる奔放奇抜な口笛では、それこそ旧態然としたクラッシックとパンキッシュなロックほどの違いがある。
要領を得ぬ顔のまま、慣れた手つきでハンドルを切る。
鞭をあてられ狂奔する馬のようにヒステリックな口笛が吹き殴り、おもちゃ箱をひっくりかえしたようなでたらめさ加減で音符をとっちらかす。
悪ふざけやろうか。
声には出さず心の中だけで反芻し、うっそりほくそえむ。
ノリのいい口笛に合わせ人さし指でハンドルを叩き、リズムをとる。
ハンドルを叩く音に合わせ口笛もますます興がのり跳ね回る。
決して上手いとは言えないが、文句なく愉快で陽気で、聞いてるこっちまで楽しくなるような曲。
木偶の義足に挿げ替えてもなお踊りやまずダンスを続けたくなるような。
即興のセッションに車内の空気も浮き立ち、指揮棒に見立てた指で音符を統べる弧を描き、少年もはしゃぐ。
「ゲームだよ、ゲーム。クレイジー&レイジーなテイル・オイレンシュピーゲル」
額の真ん中をとんとんとつつく。
「りんごはお飾りのポカ。額のど真ん中は百点、左右の目が五十点。配当高いスプリットタン・ダーツ、てっぺんから爪先まで捨てるとこがねえ。ヤク中小説家の知られざるお愉しみ」
「そういやヘミングウェイも猟銃で自分の頭ふっ飛ばしたな」
「銃殺が流行りなのか?タイプライターよか引き金の方が軽いのかね」
他愛ない会話、どうでもいい話題。目的地に着くまでの暇潰しには最適。
時折ミラーを見やり様子を窺うも変化はなく、退屈を持て余した少年は、慰みに鼻歌を口ずさんでいる。
だらしなく頬杖付き、気のない視線を車窓の向こうへ放る様が目を奪う。
原色のネオンとテールランプの洪水とがその横顔をけばけばしく彩り、細い首筋をもキャンディーカラーの斑に染める。
内で昂ぶり始めた興奮を意識しつつハンドルをひねり減速、モーテルに付随するこじんまりした駐車場に乗り入れる。
「着いたぞ」
駐車場に降り立つ男に続き、少年もまた億劫げに腰を上げ、ドアから外へと出る。
不景気な外観のモーテル。ランクは中の下か、下の上か。
蛍光オレンジの看板が下世話さを強調するモーテルの方へと歩き出す男を追い、少年もまた歩き出す。
「しけてんな」
「がっかりしたか?」
冗談めかして問えば、少年もまた不敵に笑み返す。
「どうせやることは一緒だろ。ダストボックスの上でも車ん中でもおっぱじめたってよかったのに」
「時間所構わずときたか。さかりの付いたガキは始末におえねえ」
「さかりの付いた大人にそっくり返すぜ」
歩調を速め隣に並び、男のズボンの股間を軽やかにこなれた手つきでひとなでする。
さっと、一瞬。
たまらなく淫らな布越しの愛撫が官能の波紋をおこし、背筋に電流を走らせる。
「硬くなってんな」
挑発的な上目遣い。舌なめずりしそうな顔。勝ち誇ったように得意げな口ぶり。
あっさりと局部から手をどけ、男を通り越し先に行く。
蛍光オレンジのネオンで飾り付けた看板が照らす中、芝居がかって振り返る半身が失楽と堕落の影をまとう。
悪徳と退廃の象徴のネオンに身をさらし、冴えた黒髪と双眸を人工色に染め、少年は不遜かつ不敵に笑う。
「早漏は嫌いだぜ。ズボン脱ぐ前に弾けんなよ?」
三桁の男を手玉にとった年増の娼婦さながら淫猥な微笑が、暗い欲望を刺激する。
手足に纏わるとっぷりなまぬるい空気を掻き分け泳ぎ、ネオンに照り映える享楽的で刹那的なその姿は、はっとする鮮烈さでもって目に焼き付く。
「………上等だよ」
挑発にのってやろうじゃないか。
大人を甘く見たことを、存分に後悔させてやる。
胸の内に決意を折り畳み歩みを再開した男は、首の後ろがちりちりと灼け付くような熱感に苛まれていた。
排気音とともに車が滑り出す。
巧みにハンドルをさばく。
原色のネオンが車窓を隈どる。
浮浪者に酔っ払いに街娼にポン引きにヤク中、不健康な顔に落ち窪んだ目をした連中がネオンに溶け込み流れ去る。
ゴミの散らかった道路をタイヤが擦り削る。
バックミラーにさりげなく目をやり後部座席をチェックする。
さっき拾った少年は大人しくシートに腰掛け無音で唇を動かしている。
注意しなければそうとわからないほどかすかな動き。
落ち着き払った態度からは先ほどの猜疑心が綺麗さっぱり消え去ってる。
クッションの利いたシートに凭れ、頬杖をつき、自分にしか聞こえない音楽に耳を傾けるかのように鼻歌を口ずさむ。
歌詞はよく聞き取れない。流行歌だろうか。
切れ切れの鼻歌に合わせ、メトロノームのようにつま先を振る。
「なに唄ってるんだ?」
「あてたらご褒美やるよ」
ミラーを見る。目が合う。
悪戯を閃いた猫のように意地悪く笑う。
Тシャツから突き出た細い手足と首筋がひりつく欲情を誘う。
冗談ともつかぬ言葉に思案のふりをし、適当な答えを舌にのせる。
「ロックか?」
「時代遅れだな。いまどきロックなんざ流行んねーよ」
耳をつつく。
つま先を揺らす。
自分にしか聞こえぬ音楽に身を委ねリズムをとり少年は言う。
「へヴィ・メタルの語源を知ってるか」
「さあな」
ハンドルをひねる。
正答ははなから期待してなかったらしく、男の無知を嘲笑うように肩をすぼめ、足を投げ出しシートにひっくりかえる。
「へヴィ・メタルってのはもともと麻薬中毒者の究極状態をさす造語なんだそうだ。生みの親はウィリアム・テルごっこで妻を射殺した変態小説家。いかしてんだろ?」
「ウィリアム・バロウズか。そっちなら知ってる」
「博学だな。こんな場末をながしてるわりにゃ」
「場末を流して男娼あさりしてるわりにゃ、だろ」
皮肉っぽく訂正し、ハンドルを切る。
ミラーが写し取る少年は鼻歌を口ずさみ躁的なリズムに合わせ体を揺すりご機嫌な様子。
だいぶ躁鬱の気が激しそうだ。薬でもやってるのかもしれない。まあどうでもいい、些細な問題だ。
肝心な場面で使い物になりさえすりゃ後はどうでもいい。
思考を切り替えハンドルの操作を続ける。
「ガキのわりに物知りだな」
「自分の好きな事くらいちゃんと知っときたいだろ?独占欲が強いんだよ、俺は。とてつもなく。好きな物の名前の由来はもちろんどんな歴史を辿ってきたか一部始終知っとかなきゃ気がすまねえ。始まりから終わりまで、終わりから始まりまで、な」
「素人がいっぱしの評論家気取りか」
「惚れた女の体にいくつほくろがあるか、セックスのたんびに数え上げなきゃ気がすまねえ偏執狂はざらにいる」
「知ったふうな口きくなよ。ろくに女抱いた経験もねえくせに」
「抱かれたことならくさるほど」
自分の言葉にうけたのか、肩ひくつかせ抑えた笑い声をたてる。
笑い上戸なのか、薬でハイになってるのか、どちらともつかぬ微妙な反応。
会話は噛み合わず空回る。だが、これも一興。変に緊張され警戒されるより適度にだらけていたほうが事を運びやすい。
すくいあげるような目つきでミラーを一瞥、後部席の様子を探る。
いまだ逃げ出す気配はない。
他愛ない会話で緊張をほぐし、警戒心を和らげておくのが事を円滑に進める常套手段だが、これがなかなか難しい。
家族構成や生い立ちについて触れてはなるまい。無神経な一言がきっかけで相手が心を閉ざし、会話を拒否する可能性もままある。
核心にはふれず、慎重に迂回する会話を重ねるのはこまやかな神経を使う。
多感なティーンエイジャーの扱いはむずかしい。
あの時間あの場所にたむろっているようなガキはなおさらだ。
帰る家も行き場もなく、歓楽街の場末の通りで体を売るしかないガキどもは、これまでさんざん大人に搾取され虐待されてきた経験が傷となり猜疑心の塊と化している。
大人に対する不信感は拭い難く根深く、こちらが失言を犯せば決して許しはしまい。
家はどこだ、親はどうした、門限はないのか、学校には行ってるのか。
上記の質問は言うまでもなくタブー。
ものによっては年齢を聞かれるのさえ嫌がる、拒絶反応を示す。
稼ぎは何に当てる?売春してることを親や友達は知ってるのか、今まで何人の変態に体を売った、どんなプレイをした?
あそこで子供を買う客の中には寝掘り葉掘りそれらを詮索しておのれを昂ぶらせる変態も少なからずいる。
言葉と暴力を用いて子供をいたぶるのが涎が出るほど好きな手合い、嗜好の矯正が手遅れな真性の変態どもだ。
趣味よりはビジネスに重きを置く彼にとって、相手に不信感なり警戒心なりを持たれるのはマイナスに作用すれどプラスに働かない。
だからこそ相手の反応をこまめに探り逐一動向をうかがいつつ、踏み込んではいけない一線を慎重に見極める。
会話は必要最低限にとどめ、音楽の趣味やら何やら無害な話題に終始し、生い立ちを含む売春に至る背景については一切触れない。
同業者の中にはこの時点で……目を付けた子供が車に乗り込み目的地に向かう途中で保身を優先し突っ込んだ質問をするものもいるが、そいつらは彼に言わせれば三流だ。
今の段階で聞かないでいいことは聞かないでおく。
その方が後腐れなく仕事に専念できる。
そのうち嫌でも聞き出すはめになるのだから、本腰入れて仕事にとりかかる前のささやかな息抜きに、ドライブを楽しんでも罰は当たるまい。
たとえばスカウトしたガキが虐待する親から逃げ出し、路上で体を売って食うや食わずの日銭を稼いでるとして、それを知って何になる。
警察に通報する?児童相談所に知らせる?まさか。
警察や施設が保護しようが売春に味をしめたガキは勝手に逃げ出してくるし、第一、彼の仕事は逃げ出した子供を狩り、指定の場所へ付け届けることだ。
光の当たる方ではなく、腐敗した闇のわだかまる裏側へ。
場末の裏通りより暗く深いよどみへ、二度と這い上がれないどん底へと。
良心はとっくに廃れてる。
年端もゆかぬ子供が空腹のあまり道端にうずくまるさまを見ても心はなんら痛まず、裸足の甲に吸殻を投げ捨てる。
同情のふりは面倒くさい。
愛想笑いで機嫌をとり、歓心を繋ぎとめる努力などとうに放擲した。
どうせ目的地に着くまでの時間稼ぎ、車にさえ乗り込んでしまえばいい人を演じる必要もない。
話のわかる大人、物分りよい男。
車を運転しがてら傷だらけ痣だらけのガキの親身に相談にのり味方を演じ、おめでたい誤解を植え付ける。
その手間と得られる利益とを秤にかけたら断然前者の方が勝る。
どうせやることは一緒。
必要以上にべたべた慣れ親しむことはない。
勘違いされ、懐かれても困る。
ちょっと甘い顔みせりゃはしゃいで付け上がる馬鹿なガキ。
優しさに飢えたガキほど一度心を許せばべたべたとしつこく懐いてきて、鬱陶しいことこの上ない。
その点こいつはらくだ。身の程ってもんをわきまえてる。
自分が売り物で、俺が買い手で、突き詰めりゃそれだけの関係だとドライに割り切って勘違いが入りこむ余地が見当たらない。
ミラーの角度をこまめに調整し後ろのガラスに視線を反射、尾行の有無を確認。
警察が偽装したとおぼしき不審な車両は見当たらない。
毎回恒例のチェック、怠りなく済ます儀式。これをしないと落ち着かない。
頭ではまず大丈夫とわかっていても油断は命取りだと自戒し、精神安定の一環として、前方とハンドル後方との三視点をもはや無意識の範疇で警戒する。
習慣として刷り込まれた動作。
経験則から導かれた条件反射。
先刻のやりとりを反芻する。
道端に座り込んだ似たり寄ったりの少年少女たちの中からこいつを選んだのは、容姿は言うに及ばず、ひとりぽつんと離れたところにいたからだ。
おそらくは新参者。
どこからか流れてきた新入りが次の日にはいなくなったところで治安の悪い界隈では怪しまれない。
街娼の入れ替わりは激しく何人かは警察に検挙され、何人かは手入れの前に移動し、どうかすれば週ごとに顔ぶれが変わる。
昨日今日現れた新入りが明日には消えていようが気付くものさえいないだろうが念には念を入れ、仲間の輪に加わらず孤立し、記憶に残りにくい者に標的を定め、注意を引かぬよう歩幅を測って行動した。
雑踏に溶け込み、群衆に紛れ、喧騒にかき消されそうな声で交渉し、また逆の順路をたどり自然な足取りで対岸の車へ戻った。
あそこには彼と同じ目的を持ち、同じく小声で交渉している男が何人もいた。
それらの男達に紛れてしまえば、ダークスーツをいかにも遊び人風に着こなす彼など特に目立ちはしない。
後で警察が聴取しても、あの時あの場にいた連中の何割に証言能力が認められるか。
酒と薬でへべれけになった呂律の怪しい目撃者から詳細な情報が得られるわけもない。
そこまで計算尽くで狙いをつけた。
あえて孤立した子供を狙い、交渉は短時間で済ませ、脈がありそうならさっさと車へ導き、駄目ならとっとと切り上げる。諦め悪く食い下がるのは愚の骨頂のみならず致命傷になりかねない。
ファッションとて特別浮き上がるような奇抜なものではない。派手好きな人間がそろう歓楽街ではむしろ目立たぬ服装といえよう。
髪型も服装も身に付けるアクセサリーさえも最大公約数に紛れて個性が薄まるようにと逆算し選んだものだ。
髪型をかえ背広を脱げば、あの時あそこにいたガキと別の場所ですれちがっても見分けがつかない自信がある。
神経質な手つきでミラーをいじくる運転席の男へと、唐突に声がかかる。
「地獄のバックパイカーって知ってるか」
ミラーを支える手が凍る。
シャツの下で心臓がひとつ跳ねる。
「低予算のB級映画か?頭の悪い金髪女が悪いヒッチハイカーに乗せられて、美味しく頂かれちまうありふれた話か」
赤信号に伴いブレーキを踏み、制動をかける。
動揺が表に出ぬようハンドルに片腕を預け、殊更ゆっくりとミラーの傾きを直し、平常心の回復に努める。
角度を調整したミラーに少年がちらつく。
「最近この辺で流行ってる噂だよ。都市伝説って奴」
「ブギーマンか」
被害妄想の脅威が去り、失笑を漏らす。
唐突な前振りに正体を勘付かれたかと焦るも杞憂だったようだ。
ちょうどネオンが途切れた位置で車が停止し、少年の顔が不気味に翳る。
平静を装い笑みさえ浮かべる余裕を取り戻した男へと、表情の読めない少年が声量を絞って囁きかける。
「最近この辺でティーンエイジャーの失踪が相次いでるらしい。被害者はどれも家出少年か施設からの脱走者で、路上で商売してた。で、そいつらが消えた時、決まって似たような車が目撃されてる」
噂に尾ひれがついている。
もしくは都市伝説にそれらしいリアリティを付与するため一部が捏造誇張されている。
事実は少々食い違う。
彼がスカウトに使った車はどれも組織から回されたレンタカーで外装もまるっきり違い、個別特定されるような代物じゃない。
「ジェフリー・ダーマーの模倣犯がこの街にいるってのはぞっとしないな」
「消えたガキどもはどうしてるんだろうな」
「目撃証言はないのか」
「連れてかれたきりだ」
どうして今、このタイミングで話を持ち出す?
勘付かれたのか?
まさか。
出会い頭からハンドルを握る今この瞬間まで自分の言動を詳細に回想するも失態を犯した覚えはなく、困惑と混乱が同時に襲い発汗を促す。
ハンドルを握る手が緊張に汗ばむ。
上目遣いにミラーを見れば、疑心暗鬼に苛まれた険悪な色が狭い眉間に漂い始める。
詮索を慎み、疑惑を招くような言動は極力控えてきたはずなのに、なぜ。
豊富なスカウト経験からくる自負と自信が根底から揺らぐ。
……いや、気にしすぎだ。ただの世間話じゃねえか。
同乗する少年はただ近頃噂になり始めた街娼の連続失踪事件をネタに話しているだけで、即疑われてると決め付けるのは短絡的だ。
動揺を気取られないよう深呼吸し、世知辛くニヒルな笑みを保つ。
悲惨で不幸な事件を腐るほど見聞きして、もはやそれらに無関心になったという乾燥した笑み。
募る疑念を振り払い、少年が告げたニュースに関心を示すふりをする。
「初耳だな。新聞にも出てなかった」
「当たり前だ。どっかの資産家の令嬢令息ならいざ知らず、消えたのは捜索願いも出されてねえ身寄りのねえガキどもだ。しかも被害者は全員俺と同じ商売、仮に目撃者がいても天敵の警察にチクるかよ。奴らにとっちゃ消えた仲間の安否よかアガリが死活問題さ」
「表沙汰になりにくい要因がそろってたわけか」
「けれども何十回と続きゃ噂がたつ。同業のガキがだんまり決めこもうがサツの地獄耳に届く。市警もやっとこさ動き始めたが成果はとんと芳しくねえ」
両手を広げて謎をかける少年のペースに巻き込まれ、次第に不安が晴れていく。
「犯人はどんなやつだとおもう」
「推理ごっこか」
たまたま道端で拾った少年が自分の事を疑っているなんて、発想が飛躍しすぎだ。
歓楽街で多発するティーンエイジャー失踪事件とたまたま偶然出会った自分を関連付けて考えるなんて、たとえそれが正しくてもばかげている。
単なる世間話、暇潰しの会話。
突然消えた同業者の噂を走る密室で持ち出したのにも他意はなく、今宵の客を誘拐犯になぞらえ、スリルを楽しむ悪趣味な冗談だと結論付ける。
なら、付き合ってやろうじゃないか。
「そうだな。……道端で拾った娼婦に手錠かけて責め殺すようなサディストだろうな、そいつは。歓楽街の人ごみに紛れ込んで、老いも若きも街娼がずらりと居並ぶホットスポットに出没しちゃあ好みのタイプをお持ち帰りしてるんだろうさ。まず間違いなく地元の人間だろうな。地理に精通してる。どこに行きゃ獲物が狩れるか知り尽くしてる」
「単独犯?」
「ジェフリー・ダーマーだって単独犯だろ?」
「さて、どうかな。一人でやったにしちゃ期間が短すぎる、手際がよすぎる、痕跡を残さなすぎる。組織だった匂いがしねえか?」
何を言い出すんだ、このガキ。
一度は払拭した疑念が再び頭をもたげ始める。
横目でミラーを見るも、少年は顔色ひとつ変えず、意地悪い笑みを含んだ目で見返してくる。
「……スケールのでけえ妄想だな。人身売買組織が絡んでるとでも?」
「消えたガキどもはどうなったんだろうな」
「海外に売り飛ばされたんじゃねーか」
「良心的だな」
無難な線を口にすれば、お気に召さずに鼻白む。
「臓器抜かれて豚のエサにされたとか」
肩をすくめ、悪びれたふうもなく片手をひらつかせる。
「身代金ふんだくるあてもなく攫ったガキの使い道なんざ限られてる。だろ?」
底光りする目を細め、挑発的に嗤う。
「余裕かましてるけど俺がその誘拐犯だって可能性はねーのかよ。行き先は港でタンカーが待ち受けていて、アラブの石油王に売り飛ばされたりな」
冗談の延長の軽い口調でカマをかける。
「ブギーマンてがらか?ジェフリー・ダーマーにも見えねえな。どっちかってーと俳優に似てるよ、あんた。好みのタイプだ」
「人を見る目はたしかだとでも言いたげだな。連れてかれた先で腹裂かれて内臓抜かれても吠え面かくなよ」
真実と嘘を半々に混ぜた発言。
虫歯を舌でつついてみるような出来心から発した脅迫を鼻先で一蹴し、口を開く。
「女の頭に林檎のせて撃ちぬきたくなる気分ってのは、どんなもんだろうな」
一周してへヴィ・メタルの発案者の小説家の話に戻る。
話題が移った事実に安堵しつつも顔には出さずアクセルを踏み、車を再スタートさせる。
「スリルを楽しんでんだろ。少しずれたら妻の額にゃ穴が開いて自分は殺人者だ、ぎりぎりのところで楽しんでるんだよ」
「生きた的はよく拒否らなかったな」
「愛してたんだろ、旦那を。文字どおり命がけで信頼してたわけだ。うるわしき夫婦愛」
「変態の小説家をか?生きるか死ぬか綱渡りの安い命、タイトロープ・ロウ・ライフをワイフと楽しんでやがったか」
「それかむりやりか。命令されて、怖くて逆らえなかったんだろ。長期のDV被害者にありきたりな屈従心理さ」
「あたり」
まるで見てきたように自信と確信をもって首肯。
「可哀想な女房は旦那が怖くて逆らえなかったんだよ。間違っても旦那の腕前を信頼してたとか美談じゃねえ、たんにびびってただけ。相手は狂人だ。人の頭にりんごのっけって撃ち抜こうなんざ狂人の発想。だろ?クレイジーな奴にゃ説得も無駄。気が済むまで付き合うっきゃねえ、命がけのゲームにな。ま、本人は狙い付けながら勃起してたんだろうさ。ちょっと手が滑って額を撃ち抜いちまった時も『しくじった』くらいの感想しか持たなかったろうな。いや……」
額の真ん中を人さし指でつき、翳った顔で意味深にほくそえむ。
「最初からそれが狙い。ゲームの延長の事故だと申し開きすりゃ殺人罪から過失致死に格下げしてもらえるって閃いたんじゃねーか、物書きの浅知恵で」
「わざと殺したってのか?まさか。いくらとち狂ってたってそりゃねえよ、パスタゆでてくれる人間がいなくなるじゃねえか」
「また作って連れてくりゃいいだろ。そしてまた同じことの繰り返し、ネバーエンディング・ウィリアム・テル・ミー・オイレン・シュピーゲル。女を射殺すのが趣味の真性の変態でとんでもねえ快楽殺人者だったんだよ、四六時中ヤクをきめてたその作家は」
「オイレン・シュピーゲル?」
「無学め。悪ふざけやろうって意味だよ」
ついさっき博学と褒めた口でこきおろし、口笛を吹く。
大胆かつ斬新すぎるアレンジを加えたアップテンポの曲は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩ティル・オイレンシュピーゲルに範をとっているのだが、クラッシックに疎い男はいまいちぴんとこない。
ほとんど原形をとどめぬまでにアレンジされていては無理もないが。
もとの楽曲と不協和音すれすれに音程の飛びまくる奔放奇抜な口笛では、それこそ旧態然としたクラッシックとパンキッシュなロックほどの違いがある。
要領を得ぬ顔のまま、慣れた手つきでハンドルを切る。
鞭をあてられ狂奔する馬のようにヒステリックな口笛が吹き殴り、おもちゃ箱をひっくりかえしたようなでたらめさ加減で音符をとっちらかす。
悪ふざけやろうか。
声には出さず心の中だけで反芻し、うっそりほくそえむ。
ノリのいい口笛に合わせ人さし指でハンドルを叩き、リズムをとる。
ハンドルを叩く音に合わせ口笛もますます興がのり跳ね回る。
決して上手いとは言えないが、文句なく愉快で陽気で、聞いてるこっちまで楽しくなるような曲。
木偶の義足に挿げ替えてもなお踊りやまずダンスを続けたくなるような。
即興のセッションに車内の空気も浮き立ち、指揮棒に見立てた指で音符を統べる弧を描き、少年もはしゃぐ。
「ゲームだよ、ゲーム。クレイジー&レイジーなテイル・オイレンシュピーゲル」
額の真ん中をとんとんとつつく。
「りんごはお飾りのポカ。額のど真ん中は百点、左右の目が五十点。配当高いスプリットタン・ダーツ、てっぺんから爪先まで捨てるとこがねえ。ヤク中小説家の知られざるお愉しみ」
「そういやヘミングウェイも猟銃で自分の頭ふっ飛ばしたな」
「銃殺が流行りなのか?タイプライターよか引き金の方が軽いのかね」
他愛ない会話、どうでもいい話題。目的地に着くまでの暇潰しには最適。
時折ミラーを見やり様子を窺うも変化はなく、退屈を持て余した少年は、慰みに鼻歌を口ずさんでいる。
だらしなく頬杖付き、気のない視線を車窓の向こうへ放る様が目を奪う。
原色のネオンとテールランプの洪水とがその横顔をけばけばしく彩り、細い首筋をもキャンディーカラーの斑に染める。
内で昂ぶり始めた興奮を意識しつつハンドルをひねり減速、モーテルに付随するこじんまりした駐車場に乗り入れる。
「着いたぞ」
駐車場に降り立つ男に続き、少年もまた億劫げに腰を上げ、ドアから外へと出る。
不景気な外観のモーテル。ランクは中の下か、下の上か。
蛍光オレンジの看板が下世話さを強調するモーテルの方へと歩き出す男を追い、少年もまた歩き出す。
「しけてんな」
「がっかりしたか?」
冗談めかして問えば、少年もまた不敵に笑み返す。
「どうせやることは一緒だろ。ダストボックスの上でも車ん中でもおっぱじめたってよかったのに」
「時間所構わずときたか。さかりの付いたガキは始末におえねえ」
「さかりの付いた大人にそっくり返すぜ」
歩調を速め隣に並び、男のズボンの股間を軽やかにこなれた手つきでひとなでする。
さっと、一瞬。
たまらなく淫らな布越しの愛撫が官能の波紋をおこし、背筋に電流を走らせる。
「硬くなってんな」
挑発的な上目遣い。舌なめずりしそうな顔。勝ち誇ったように得意げな口ぶり。
あっさりと局部から手をどけ、男を通り越し先に行く。
蛍光オレンジのネオンで飾り付けた看板が照らす中、芝居がかって振り返る半身が失楽と堕落の影をまとう。
悪徳と退廃の象徴のネオンに身をさらし、冴えた黒髪と双眸を人工色に染め、少年は不遜かつ不敵に笑う。
「早漏は嫌いだぜ。ズボン脱ぐ前に弾けんなよ?」
三桁の男を手玉にとった年増の娼婦さながら淫猥な微笑が、暗い欲望を刺激する。
手足に纏わるとっぷりなまぬるい空気を掻き分け泳ぎ、ネオンに照り映える享楽的で刹那的なその姿は、はっとする鮮烈さでもって目に焼き付く。
「………上等だよ」
挑発にのってやろうじゃないか。
大人を甘く見たことを、存分に後悔させてやる。
胸の内に決意を折り畳み歩みを再開した男は、首の後ろがちりちりと灼け付くような熱感に苛まれていた。
play the devil with3
(2001/05/27) 入り口に掲げた看板が不規則に点滅する。
電池切れかけのネオンが瞬く中、ドアを開けて入る。
他に客は見当たらない。
閑古鳥が巣を作り長いのか、細長いロビーには埃がたまり、壁に貼られたポスターは何年も放置されみすぼらしく色褪せている。
カウンターの向こうからブツ切りで流れてくるテレビの音声が不景気な静けさを際立てる。
カウンターにはLサイズのピザがのっかっている。
十六等分されたひと切れ掴み、濃厚なチーズの糸引くそれをくっちゃくっちゃと八拍子のリズムで下品に咀嚼する。
贅肉でだぶついた顎を揺り動かし、大胆に口の中の咀嚼物を見せ、べとつく指先を服で拭い、ようやく腰を上げる。
指先の汚れをシャツになすりつけ、肥満特有の鈍重な動作でカウンターに歩み寄り、眠たげな声を出す。
「今日は男か」
「ああ」
テレビのノイズがネオンの電磁音と混じり微弱な低周波を発する。
「黒髪か。珍しいな」
「ブロンドのはねっかえりは食傷気味だ。この前の子猫にゃひどく引っかかれたからな。まだ残ってるだろ、痕が」
ふざけて頬を指さす。
男の右頬に薄く残る白茶けた引っかき傷を一瞥、管理人が鼻を鳴らす。
「シーツ取り替えんの誰だと思ってる」
「チップ弾むよ」
「値上げしろ」
「上にかけあえよ。所詮下っ端だからな、俺は」
背後の少年に聞かれぬよう声を絞り、おどけて肩をすくめ非難の矛先を逸らす。
お決まりの会話、ジョブに似た応酬。
カウンターを挟んだ二人が世間話を交わす間、ロビーの少年は退屈げにあたりを見て回る。
「しけたモーテル。壁にペンキぶちまけたほうがいいんじゃねえか、景気付けに」
聞こえよがしに大声を張り上げる少年を見やり、管理人が渋面を作る。
「…………どこで拾ってきたんだよ」
「歓楽街の西側の場末。例のホットスポット。とは言っても適当に流して変えてるけどな。さすがに二回も三回も続けて同じ所漁ったんじゃ目に付くだろ?その点ちゃんと考えてるさ」
「因果な商売だな」
「お互い様だ。折りこみ済みで部屋貸してる奴に言われたかないね。機材は?」
「あんたのお仲間が用意してるよ。今晩は貸し切りだ、邪魔は入んねーよ」
「首尾は上々だな」
探るように目を見交わす。
裏切りに待ち受ける制裁を匂わせ、視線の重圧で口封じの念を押す。
小心な管理人が俯くのに時間はかからず、ぼそぼそと聞き取りにくい声で呟く。
「面倒はなしだからな。この前みたいのはごめんだ」
「警察に何か言われたのか?」
「いや……その点はあんたんとこの連中が上手くやってくれたよ。他に客もいなかったし、何とかごまかせたんだが。ああもトラブルが続いたんじゃ心臓が保たねーよ」
「誤算だった。いきがよすぎたんだよ、予想を上回って。お転婆ざかりを大人しくさせてとくにゃ荒っぽい手口も試さなきゃな」
「道中、見られなかったろうな」
「気を付けてるよ。身なりからして家出少年ってところか?市外か市内か判断むずかしーところだが、前者だったらまず手はのびねえ」
「市内だったら?」
「びびるなよ。ファイブリィだけで年間何千人の未成年者が家出してる?そん中で捜索届けが出されるのは七割、見付かるのは四割。肝心の警察からしてまともに捜す気ねーしな。公権力の腐敗に万歳だ。恋人と駆け落ちしたか自分探しの旅に出たかヒッチハイカーの毒牙にかかったかしらねえが、いちいち相手してたらきりがねえよ」
「けど……」
なおも不安げに言い募る男を遮り、鑑定眼を自負してほくそえむ。
「心配すんな。ちゃんと捜し手がねえようなのを選んできたんだ。歓楽街の場末も場末、最低ランクの街娼とヤク中の吹き溜まりで呆っと目的もなく座り込んでるヤツにまともな家族なんざいるわけねえ、親がいようがいまいが一緒だ。ちょっとでもマシな親なら、てめえのガキがあそこまで堕ちる前に警察に泣きつくなり福祉センターに泣きつくなり手をうつさ。今の今まで放ったらかしだったのは、誰もそうまでして救いたいって関心をもたなかった証拠だろ?」
残酷すぎる指摘に自身も一応人の子の親である管理人はたじろぎ、息を呑む。
管理人の顔に納得と不満とが半ばする複雑な色が浮かぶのを見てとり、論争に勝った男は悦にいる。
「おおかた施設からの脱走者だろうさ。職員も手が足らなくて、勝手に消えてくれる分には幸いとでも思って放置してんだろ。よくある話だよ」
背広の内側に手を忍ばせ、煙草に火をつける。
穂先に橙色の光点がともり、一筋紫煙がたちのぼる。
「仮に捜索願いが出されてるれっきとした家出人だとしても、道々十分気を付けたんだからばれやしねえよ。ヤク中と酔っ払いのガキが目撃者じゃ大した情報も得られねえだろうし、隠れ家嗅ぎ当てられないようこっちも色々気を遣ってんだ。ましてやこれから届け
電池切れかけのネオンが瞬く中、ドアを開けて入る。
他に客は見当たらない。
閑古鳥が巣を作り長いのか、細長いロビーには埃がたまり、壁に貼られたポスターは何年も放置されみすぼらしく色褪せている。
カウンターの向こうからブツ切りで流れてくるテレビの音声が不景気な静けさを際立てる。
カウンターにはLサイズのピザがのっかっている。
十六等分されたひと切れ掴み、濃厚なチーズの糸引くそれをくっちゃくっちゃと八拍子のリズムで下品に咀嚼する。
贅肉でだぶついた顎を揺り動かし、大胆に口の中の咀嚼物を見せ、べとつく指先を服で拭い、ようやく腰を上げる。
指先の汚れをシャツになすりつけ、肥満特有の鈍重な動作でカウンターに歩み寄り、眠たげな声を出す。
「今日は男か」
「ああ」
テレビのノイズがネオンの電磁音と混じり微弱な低周波を発する。
「黒髪か。珍しいな」
「ブロンドのはねっかえりは食傷気味だ。この前の子猫にゃひどく引っかかれたからな。まだ残ってるだろ、痕が」
ふざけて頬を指さす。
男の右頬に薄く残る白茶けた引っかき傷を一瞥、管理人が鼻を鳴らす。
「シーツ取り替えんの誰だと思ってる」
「チップ弾むよ」
「値上げしろ」
「上にかけあえよ。所詮下っ端だからな、俺は」
背後の少年に聞かれぬよう声を絞り、おどけて肩をすくめ非難の矛先を逸らす。
お決まりの会話、ジョブに似た応酬。
カウンターを挟んだ二人が世間話を交わす間、ロビーの少年は退屈げにあたりを見て回る。
「しけたモーテル。壁にペンキぶちまけたほうがいいんじゃねえか、景気付けに」
聞こえよがしに大声を張り上げる少年を見やり、管理人が渋面を作る。
「…………どこで拾ってきたんだよ」
「歓楽街の西側の場末。例のホットスポット。とは言っても適当に流して変えてるけどな。さすがに二回も三回も続けて同じ所漁ったんじゃ目に付くだろ?その点ちゃんと考えてるさ」
「因果な商売だな」
「お互い様だ。折りこみ済みで部屋貸してる奴に言われたかないね。機材は?」
「あんたのお仲間が用意してるよ。今晩は貸し切りだ、邪魔は入んねーよ」
「首尾は上々だな」
探るように目を見交わす。
裏切りに待ち受ける制裁を匂わせ、視線の重圧で口封じの念を押す。
小心な管理人が俯くのに時間はかからず、ぼそぼそと聞き取りにくい声で呟く。
「面倒はなしだからな。この前みたいのはごめんだ」
「警察に何か言われたのか?」
「いや……その点はあんたんとこの連中が上手くやってくれたよ。他に客もいなかったし、何とかごまかせたんだが。ああもトラブルが続いたんじゃ心臓が保たねーよ」
「誤算だった。いきがよすぎたんだよ、予想を上回って。お転婆ざかりを大人しくさせてとくにゃ荒っぽい手口も試さなきゃな」
「道中、見られなかったろうな」
「気を付けてるよ。身なりからして家出少年ってところか?市外か市内か判断むずかしーところだが、前者だったらまず手はのびねえ」
「市内だったら?」
「びびるなよ。ファイブリィだけで年間何千人の未成年者が家出してる?そん中で捜索届けが出されるのは七割、見付かるのは四割。肝心の警察からしてまともに捜す気ねーしな。公権力の腐敗に万歳だ。恋人と駆け落ちしたか自分探しの旅に出たかヒッチハイカーの毒牙にかかったかしらねえが、いちいち相手してたらきりがねえよ」
「けど……」
なおも不安げに言い募る男を遮り、鑑定眼を自負してほくそえむ。
「心配すんな。ちゃんと捜し手がねえようなのを選んできたんだ。歓楽街の場末も場末、最低ランクの街娼とヤク中の吹き溜まりで呆っと目的もなく座り込んでるヤツにまともな家族なんざいるわけねえ、親がいようがいまいが一緒だ。ちょっとでもマシな親なら、てめえのガキがあそこまで堕ちる前に警察に泣きつくなり福祉センターに泣きつくなり手をうつさ。今の今まで放ったらかしだったのは、誰もそうまでして救いたいって関心をもたなかった証拠だろ?」
残酷すぎる指摘に自身も一応人の子の親である管理人はたじろぎ、息を呑む。
管理人の顔に納得と不満とが半ばする複雑な色が浮かぶのを見てとり、論争に勝った男は悦にいる。
「おおかた施設からの脱走者だろうさ。職員も手が足らなくて、勝手に消えてくれる分には幸いとでも思って放置してんだろ。よくある話だよ」
背広の内側に手を忍ばせ、煙草に火をつける。
穂先に橙色の光点がともり、一筋紫煙がたちのぼる。
「仮に捜索願いが出されてるれっきとした家出人だとしても、道々十分気を付けたんだからばれやしねえよ。ヤク中と酔っ払いのガキが目撃者じゃ大した情報も得られねえだろうし、隠れ家嗅ぎ当てられないようこっちも色々気を遣ってんだ。ましてやこれから届け