ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

最近のトラックバック
ブロとも申請フォーム

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

関連記事 [スポンサー広告]
スポンサー広告 | コメント(-) | ------------ | 編集

 「刺青を彫る時痛かったか」
 「ほえ?」

 呆けた顔を上げヨンイルがこちらを見る。

 「霊長類の長たる自覚があるならホモサピエンスの言語で話せ、喃語で応じるなど言語中枢が退化しすぎだ」
 「いきなり何言い出すねん直ちゃん。本の読みすぎでどうかしてもうたか」
 「漫画の読みすぎで常に言動がおかしい君に言われたくない」

 ヨンイルがこめかみでくるくると人さし指を回す。
 心外な発言に気分を害す。
 図書室の二階奥、移動式書架を張り巡らせた隠し通路、通称ヨンイルの城が僕の現在地だ。
 天井にまで達する書架が明かりを遮光するせいであたりは薄暗い。
 堆積した埃の匂いが鼻腔を突く。
 僕はこの匂いが嫌いじゃない、どこか懐かしい感じがするのだ。
 本に囲まれていると心が落ち着く。
 喧騒から隔絶された束の間の平穏、静寂に包まれた束の間の安息。
 十重二十重と張り巡らされた本棚が防壁の役目を成し、下品でうるさい連中が群がる煩わしい現実から束の間僕を隔ててくれる。
 視線の先、僅か三メートルしか離れていない場所に僕がプライベートな素顔を覗かせる数少ない人間の一人がいる。

 西の道化の異名をもつ西棟のトップ、ヨンイル。
 額に不釣合いに大きいゴーグルをかけ、針のように立たせた短髪の囚人。
 人懐こさと精悍さとが綯い交ぜになった好感の持てる顔だち、吊り目がちの目、腕白な八重歯が似合う大きな口。
 伸びやかな手足に似合いの溌剌とした仕草が、とぐろ巻く龍脈の如く全身に循環する無限のバイタリティーと活発なエネルギーを示唆する。
 過去二千人を大量殺戮した凶悪犯にはとても見えない快活な少年だ。
 図書室の埃っぽい暗がりより太陽の下の方がよほど似合う健全な見た目を裏切り、その実体は漫画をこよなく愛するオタクである。

 「ぜんっぜんわからへん、なんでいきなりんなこと言い出すんや。俺にもわかるよう説明してや、直ちゃんみたいに頭ようないさかい」

 ヨンイルが困惑する。
 なるほど、唐突だったかもしれない。
 往々にして天才の発想の飛躍に凡人はついていけないものだ。
 ヨンイルにもわかりやすいよう話のレベルを下げてやらなければ。
 まったく、凡人の相手は面倒くさい。
 諦念の溜め息交じりに説明を開始する。

 「ワンフーが刺青を入れようか悩んでるんだそうだ」
 「王虎が?」

 ヨンイルがぱちぱち目をしばたたく。
 王虎の名を出したのがそんなに意外かと鼻白む。

 「直ちゃん、王虎に悩み事相談されるくらい親しかったんか」
 「親しくはない。妙な誤解をするな、心外だ。王虎が一方的に僕を友人と思い込んでしつこく付き纏ってくるだけで大いに迷惑している。大体彼とは売春班で一時期同僚だった接点しかないのに、図書室で顔を合わすたび話しかけてこられて読書の邪魔だ」

 眼鏡の弦に触れ、苦りきった口調で吐き捨てる。
 王虎は西棟の囚人だ。
 僕とはごく短い間ブラックワーク売春班で一緒だった。
 売春班で慰み者にされ苦汁を飲んだ同士、王虎はやたらと僕に懐いてくるが正直こちらは迷惑している。
 勝手に友人と勘違いされうるさく話しかけられ読書の邪魔だ。
 出来心で安田の銃を盗んだ君をまだ許してないぞと何度言っても一向にこたえた様子なく、「同じ釜の飯を食った同士、いや、同じカマ掘られた同士つれねーこと言わずに仲良くやろうぜカギャーザキ」となれなれしく肩を叩いてくる。

 同じ地獄を乗り越えた戦友だとでも思っているのだ、僕を。
 勝手に親近感を抱かないでほしい、こちらはくだらない連帯感など微塵も持ち合わせてないのに。

 売春班が廃止された今、王虎とは全く関係ない。
 たまに図書室で顔を合わせるだけの囚人に友人と勘違いされ、夕飯の献立の愚痴に始まり図書室が再三のリクエストにも応じず猥褻な雑誌を仕入れない事の不満、はては恋人の自慢話まで付き合わされ大迷惑だ。
 いかに僕が無視しようともうるさく付き纏い
 「そんでさカギャーザキ、凛々てば手紙で早く俺に会いたいって言って聞かねーの。まったく可愛いよな駄々こねちゃってさ。ほらこれがその手紙、鼻くっつけてみろよ、いーい匂いがすんだろ」
 と手紙をひらひらさせられたら注意力散漫にもなる。
 恋人自慢ならよそでやれ、ちょうどそこに良い本棚があるから匂いを嗅がせてやったらどうだと勧めても効果なし。

 不愉快な本音を隠しもせず露骨に渋面を作り、淡々と経緯を話す。

 「王虎とは図書室でよく会う。何度追い払ってもしつこく纏わり付いてくるから仕方なくいやいや不承不承相手をしてやってるのだが、今日突然刺青を彫ろうか迷ってると相談された」
 「なんでやねん」
 「既に顔が傷物なのだから、いっそ刺青を彫ったほうが男が上がると考えたらしい。いかにも低脳らしい短絡な発想だ」
 「凛々か」
 「凛々だ」

 眼鏡のブリッジを押し上げ嘆かわしく首を振る。
 凛々とは王虎の恋人だ。
 王虎いわく「むしゃぶりつきたくなるような上玉」らしい。

 「王虎が刺青を彫る目的といったらひとつしかない、恋人だ。恋人の歓心を買うためだ。王虎は以前売春班で慰み者にされるのを苦に顔面から鏡に飛び込み傷を負った、それは知ってるな」
 「知っとるも何も毎日見とるもん、花山薫みたいなあいつの顔傷」
 「当時は後先考えず勢いに任せてやったらしいが、今になって娑婆に出た時のことを考え滅入っているそうだ。男前が台無しになった自分に恋人が幻滅しないか案じ、振られたらどうしようと悶々思い悩んだ挙句、それならいっそ刺青でワルな魅力をアピールしようと……」
 「刺青しょって生まれ変わった俺に惚れ直せ!か。アホらし」 

 ヨンイルが処置なしと首を振る。
 僕も同感だ。
 しかし本人にとっては深刻な悩みらしく「こんなツラじゃお婿にいけね~よ~凛々に振られちまうよ~刺青彫って出直すしかね~よ~」と今にも死にそうな顔で世にも情けない声を上げていた。
 ヨンイルは斜め上方に視線を泳がせ暫く思案したのちあっけらかんと提案する。

 「彫ればええやん。別に止めんで、好きにせえ。彫るも彫らんも個人の自由や、俺がどうこう言うこっちゃない」
 「痛みに耐える自信がないんだそうだ」
 「はあ?」
 「刺青を彫る痛みに耐えられるか不安なんだそうだ」
 「ちょ、ちょい待ち。王虎て確か自分から鏡に突っ込んだんやよな?」
 「そうだ」
 「顔面からダイブして」
 「そうだ」
 「顔じゅうに破片刺そうて血まみれに……」
 「そうだ」
 「なんで顔面から鏡に突っ込むクソ度胸ある奴が今さらびくつくんや」

 正論だ。

 「それとこれとは別だそうだ。王虎いわく当時は頭がイカれる一歩手前で鏡に突っ込むなんてとち狂った真似をしたが、気付いた時には顔中に包帯巻かれていて、鏡に突っ込んだ瞬間の事は殆ど覚えてない。従って痛みの実感もない」
 「なんちゅー都合よい話……」

 ヨンイルが脱力。
 気を取り直し核心に入る。

 「そこでだヨンイル、物は試しに君に聞いてみた。君は西棟のトップで王虎に慕われている、彫るにしろ彫らないにしろ君の一声で王虎は即決し僕の邪魔をしなくなる。僕個人の意見としては王虎が刺青を彫ろうが炎症を起こし高熱に苦しもうが傷口から感染症にかかり生きながら腐り爛れようがどうでもいいが……」

 本当にどうでもいい。
 彫るなら勝手に彫ればいい、人に意見を求めるな。
 だがしかし、王虎には一応恩を感じている。
 僕がペア戦のリングに立った時、応援してくれた数少ない囚人の中に王虎がいた。
 王虎の声援に後押しされロンはリングに上り見事勝利した。
 右手がむずがる病気が出て安田の銃を盗んだり時に傍迷惑なチャレンジ精神を発揮するトラブルメイカーだが、王虎はあれでよく気が回り、憎めない性格をしている。

 『考えてみりゃ、お袋の子宮にずっとひきこもってたら凛々とも出会えなかったんだよな!』

 ペア戦序盤、売春班撤廃を快く思わぬ連中によって僕はボイラー室に監禁された。
 ロンを身代わりの人質にボイラー室から脱出した時、売春班の面々を率い救出に駆け付けたのは彼だ。
 あの時王虎が協力を申し出てくれねばロンの奪還は不可能でその後のペア戦の行方にも影響した。王虎は我が身の危険も顧みず売春班で同じ地獄を見たロン救出に力を貸してくれた。
 ルーツァイと王虎が持てる限りのリーダーシップを発揮してくれたからこそ売春班の面々の気勢が上がり最高潮のテンションを維持できたのだ。
 ロン救出を成し遂げた王虎の誇らしげな顔を鮮明に覚えている。
 ロン奪還成功の影には優男と侮られた王虎の活躍がある。

 借りは返さねばならない。
 それが僕の信条だ。

 そして僕はいつかの借りを返すため、気乗りせぬ伝言役を引き受けたのだ。
 ヨンイルはページを開いた漫画を膝に預け顎を掻く。

 「そらまあ、痛いで」
 「具体的にどの位だ」
 「たとえるなら邪眼の手術くらい」
 「わかるように言え」
 「幽白読んでないんかい」

 ヨンイルが驚愕に目をひん剥く。……屈辱だ。
 ヨンイルは脳裏で言葉を選び纏めてから、出来る限り僕にわかりやすく噛み砕いて説明する。

 「邪眼っちゅうのはな、飛影が魔界整体師時雨に受けた特殊な手術で手に入れたもんでこれがきっかけで飛影はもともとA級妖怪やったんが最下級までおちたんや。飛影はどうしても邪眼が必要やった。その理由っちゅうんが泣かせる話で生き別れの双子の妹雪菜と母親の形見の氷泪石を探すためで、クールでとっつきにくいイメージが先行する飛影に人間味を付与する重要なエピソードに」
 「飛影の生い立ちをわかりやすく噛み砕いてどうする、僕が知りたいのは痛みの程度だ」

 漫画のこととなるとヨンイルは見境がなくなる。
 視線に重圧をかけ促せば観念したヨンイルが頭の後ろで手を組む。
 頭の後ろで手を組み書架に凭れかかったヨンイルがどこか遠くを見るように目を細める。

 「邪眼の手術はな、傷口をナイフでぐりぐりする何十倍もの痛みを伴うんや」

 絶句。
 視線が思わず袖口に吸い寄せられる。
 頭の後ろで無造作に手を組むヨンイル、その袖口がはらりと捲れ刺青の一部が外気に晒される。
 露出した手首に巻き付く蛇腹、日焼けした肌と同化する銀と翠を塗した鱗。
 末端の片鱗から全身に及ぶ龍の刺青を幻視する。
 ヨンイルの四肢を抱く巨大な龍が蛇腹をくねらせ気炎を上げる。
 普段服に隠れた部位をくまなく覆う龍の刺青、ヨンイルの四肢に取り憑いた異形の魔性が邪悪な瘴気を発し宿主を守る。
 ヨンイルの身の内で鋭い呼気吐き蠢動する龍、一枚一枚細密に彫られた鱗が発散する瘴気にあてられ酩酊する。

 「………知らなかった、それほどまでとは」

 声も知らず神妙になる。
 ヨンイルはわずか十歳にして全身に刺青を彫った。
 その身を苛んだ筆舌尽くしがたい激痛を想像し戦慄が走る。
 ナイフで傷口を抉る数十倍の痛み……
 いっそ舌を噛んで死んだほうがマシな痛み。
 僕とて耐える自信がない。
 質問を悔やみ俯く僕に、ヨンイルがきょとんとする。

 「え、信じた?」

 ……………………………道化め。

 「嘘か。虚偽か。捏造か。この僕を、IQ180の天才たるこの鍵屋崎直を騙したのか?」
 「いや、まさか信じるとは思わへんで……傷口をナイフでぐりぐりやろ?普通死ぬて」
 「じゃあ死ね」
 「んな殺生な」

 同情して損した。一瞬でも真に受けた自分を恥じる。

 「ごめんごめん、ホンマ反省しとる。せやから機嫌直してや、な?この通り」
 手を合わせ詫びるも半笑いで誠意が足りない。
 僕の顔を上目遣いに窺いまだ怒りが解けてないと知るや、ヨンイルはばつ悪げに頬を掻く。
 「むつかしいんや、あの痛みは。口ではよう説明できん。実際体験してみぃひんとわからんたぐいの痛みやし……ま、根性なしはやめといたほうが無難やな。特に麻酔なしはきっついで~、彫りたてはじくじく疼くしうっかり寝返りも打てへんもん」
 「麻酔は使わなかったのか?考えられない、全身に彫ったんだろう」

 驚く。
 僅か十歳の子供の全身に刺青を彫るというだけで倫理に反するのに麻酔なしで施術を敢行するとは鬼畜の所業だ。
 改めて服の上から各部位を観察する。
 首筋、肩、腕、腰、足。
 そのすべてを舐め尽くす龍の刺青。
 麻酔なしの施術が伴う危険を想像、通過儀礼の建前で十歳の子供に対し行われた倫理に背く行為に拒絶の感情を催す。

 「使わんかったで。麻酔は邪道、痛みに耐えられん根性なしはKIAに入る資格がないってこと」

 試練の克服は龍に神格を与える。
 昼夜問わず全身を責め苛む耐え難い痛みと熱を克服し、初めて絵姿の龍が神性を帯びる。
 刺青を彫る行為自体が、痛苦を捧げ物に絵姿の龍に生命を注入する儀式として等価の意味をもつ。

 ヨンイルの物言いは飄々と軽い。
 しかしその言葉の裏に選択の余地なくKIAの一員となるべく宿命付けられた過酷な人生が見え隠れする。

 ヨンイルは十一歳で二千人を殺した。
 ヨンイルが殺した二千人の中に五十嵐の娘がいた。

 五十嵐。
 囚人に慕われていた東京プリズンの看守。

 韓国併合二十周年の祝賀パレードで発生したテロで一人娘を亡くして以来、五十嵐は仕事に対する意欲と人生に対する情熱を失い、生ける屍と化し自暴自棄に日々を消費してきた。
 酒に溺れ言動は荒み勤務態度はみるみる悪化、はては同僚との間に暴力事件を起こし東京プリズンに左遷された。
 ヨンイルとの出会いは偶然だった。
 左遷先の刑務所で殺しても殺したりず憎んでも憎み足りぬ娘の仇と出会ってしまった五十嵐は、これに運命を感じ天啓を得た。五十嵐はヨンイルに激しい殺意を抱き、先に行われたペア戦では射殺する一歩手前まで行ったのだ。

 実行犯は別にいる。
 勿論五十嵐もそれはわかっている。

 パレードの最中に大統領の車を狙い爆弾を投擲した実行犯は別にいると、逃げ惑う群衆の中に更に爆弾を投げ込み祝祭を惨劇に変えた張本人は別にいると理性ではわかっている。
 だがしかし感情は納得しない、不条理にも娘を奪われた父親の心は納得しない。
 ヨンイルが製造した爆弾で二千人が死んだのは動かしがたい事実、五十嵐の娘が死んだ原因はヨンイルにあるのだ。

 ヨンイルの身の内に巣食う人食い龍を幻視する。
 服を透視せんばかりの熱心さで四肢を見詰め続ける僕に気付き、ヨンイルが無邪気に八重歯を見せ笑う。

 「刺青を彫ったとき、俺は十歳やった」

 感慨深げに肘をさする。
 ゴーグルの下の目が感傷を含む追憶の光にぬれ、大人びて苦みばしり、達観した表情が浮かぶ。

 「最初に持ちかけたんは組織の人間。正式な仲間になりたいなら刺青入れてみたらどやって、うち訪ねた折におれ捕まえてこっそり耳打ちした。俺は二つ返事で承諾した。その頃はじっちゃんも年で、組織の人間がしつこくうち訪ねて爆弾作うてくれ頼んでも色よい返事せえようになってた。遅かれ早かれ年を理由に引退考えてはったんや、じっちゃんは。組織にはもう十分尽くした、借りは返した、ワイは疲れたんやて酒飲みながらくだ巻いとったの覚えとる。実際じっちゃんはようやった。
 俺とじっちゃんは市井に混じりながらもKIAの監視下で窮屈な暮らししとった。
 最低限の生活費とかはKIAが面倒見てくれはったけど、じっちゃんは『人殺しの手伝いして貰うた銭で飯食うてお天道様に顔向けできん』が口癖やった。参っとんやろな、体も心も。KIAに俺を人質にとられたも同然の環境で花火作りの本業疎かにして爆弾作り続けて、おどれが作った爆弾でぎょうさん人が死んで……隠居したら花火だけ作って暮らすて言うとったもん。どうせ咲かせるなら血の花より火の花のが千倍もええ、て」

 ヨンイルの祖父の言葉の裏に秘められた悲哀、娘と孫を人質にとられKIAに人生を捧げ続けた男の姿が浮き彫りになる。

 書架に凭れ闇に沈んだ天井を仰ぐ。
 祖父の面影を追憶しているのか、虚空に向けた顔が和む。

 「組織はじっちゃんの代わりを務める人間を探しとった。後継者として目を付けられたのがこの俺、ガキの頃からじっちゃんの仕事場に忍び込んでは見よう見まねで火薬をいじとった俺や。俺はじっちゃんが隠しとった設計図を盗み見て、爆弾の作り方を頭と手先に叩き込んだ。配線繋ぐのとかややこしいて難儀したけどそのうちゲームみたいで楽しくなってもうてな、どっぷりハマりこんでもた。仲間入りせんかて組織からお呼びがかかった時は単純に嬉しかった、これで俺もかっこいい刺青貰える!て。子供心に憧れとったんや、じっちゃんの刺青に。俺もあんなんが欲しいてずっと思うとった」 
 「渡りに船だったわけか」
 「ま、やり口は誘拐に近いけどな。簀巻きで担がれたんや、どっこいせて」
 「よく検問にひっかからなかったな」
 「うそ」
 「そう思ったとも」

 憮然とする僕をよそに、ヨンイルはしれっと先を続ける。

 「組織の連中は示し合わせて俺をかっさらった、じっちゃんに内緒で。じっちゃんが知ったら反対するて読んどったんやろな、言葉巧みに俺を連れ出してアジトにつれてった。俺もアホやからのこのこついてって、その日のうちにあれよあれよとんとん拍子で下絵描くとこまで行ったんや。もちろん刺青が一日二日で出来上がるわけない、全身に彫るなら一週間、いや、ことによるとそれ以上はかかる。俺はアジトに泊まりこんでほぼぶっ続けで刺青彫られる事になった。早いとこ仕上げてまわなじっちゃんに知られておじゃんになるて連中も焦っとったのかもな」

 そっとゴーグルに触れる。

 「そっからが地獄や。俺は板張りの土間みたいなとこに連れてかれた、そこに何日間も閉じ込められた。見張りが立っとって一歩も外に出してくれへんかった。じきに彫り師がやってきて俺を丸裸に剥いた。そこに腹這いに寝ろ命令されて、図体のでかい男ふたりがかりで押さえ込まれた。あたりはよう見えんかった。薄暗かった。ランプの明かりだけが頼りやった。こんな暗い中でちゃんと手元見えるんかいてはらはらした。雰囲気出す為にわざと暗うしとったんでもないやろけど、俺には十分効果的やった。異様な雰囲気に呑まれて最初の針が打ち込まれる前にびびって腰抜けてもた、情けない話」

 淡々たる語り口の迫力に引き込まれる。

 顔の横におかれたランプだけが唯一の光源の暗い部屋
 饐えた体臭が立ち込める垢染みた板張りの土間。
 出入り口には屈強な見張りが立ち睨みを利かせている。
 出入り口は塞がれた。
 逃走路は絶たれた。
 準備は整った。
 動悸が速まる。
 喉が渇く。
 全身にじっとり汗が滲む。
 男二人がかりで肩を掴まれ土間に這わされる。
 乱暴に服を剥かれ全裸にされる、尊厳も何もかも剥奪され家畜の皮を剥ぐように板張りの床にねじ伏せられるー……

 当時の状況が鮮明に目に浮かぶ。
 当時十歳のヨンイルを襲った戦慄が背骨を貫く。

 「彫り師は大分年いっとったけど腕は確かやった。刺青を彫る時な、昔ながらのやり方で針使うねん。手彫りや。刺青彫る機械もあるんやけど、KIAの刺青は手彫りに限るてきまっとるんや。俺もその仁義に乗っ取ってこうして……」

 ヨンイルが左手に針を持ち右手で打ち込むしぐさをする。
 鋭利な針先が手首の返しで肌を穿つ痛みを想像、思わず顔を顰める。

 「痛そうだな」
 「そら痛いわ。最初は鋭く、二度目は鈍く疼くんが終わりなくずっと続くんや。チクッ、ズクズク、ズクン。
気ィおかしくなりそうやった。体中ひりひりしてろくに寝返りも打てへんし、飲まず食わずで何時間何日間も押さえ込まれて針でほじくられてしまいには頭がぼうっとして、自分がどこにいるかもわからんようになってしもた」

 十歳のヨンイルがかつて味わった痛みを想像しようと目を閉じ、闇に自我を没する。
 骨格が完全に出来上がってない華奢な体を押さえ込む手と手、裸の背中を舐めるように見る眼。
 針先が肩甲骨の窪みをなぞり、触診と指圧の兼ね合いで痛覚の集中するツボを探る。

 いつだったか、残虐兄弟に刺青を彫る真似事をされた。
 裸の背に当てられた彫刻刀の感触が蘇り、肩甲骨に食い込む刃の冷たさに怖気をふるう。
 彫刻刀に犯される感覚と針で圧される抵抗感がどう違うか実際体験してないから指摘はできないが、どちらにせよ固く冷たく剣呑に尖ったものがとちりちりと産毛を逆撫で恐怖を煽る緩慢さで溝を作り入ってくるのは同じ。

 ヨンイルが体験した痛みと恐怖に共感する。
 最も僕のそれはヨンイルに比べたら子供だまし、ヨンイルが昼夜問わず苛まれた生き地獄に等しい壮絶な苦痛とは比較にならない。 

 ヨンイルは数多くの修羅場をくぐりぬけてきた。
 改めてヨンイルの半生の過酷さを痛感、複雑な感慨にひたる。
 両親を殺し東京プリズンに入らなければヨンイルとも出会わず、サムライとも出会わなかった。
 レイジやロンはもちろん王虎やルーツァイ、育った環境のまるで異なる彼らと出会い言葉を交わす間柄になることは一生なかったと断言できる。
 東京プリズンに来なければヨンイルの存在も知らず、また漫画の素晴らしさを知らずに終わった。

 「君も役に立っているじゃないか」
 「は?」
 「こちらの話だ、気にするな」

 とりあえず、漫画の素晴らしさを教えてくれた点についてだけは感謝する。
 怪訝な顔でこちらを見詰め続けるヨンイルに向き直り、五十嵐の件があってからずっと疑問だった事を本人に直接尋ねる。

 「ヨンイル、ひとつ聞きたいことがある」
 「なんやねん急に、改もうて」

 ヨンイルが器用に片眉を上げる。
 居住まいを正してヨンイルと対峙、挑むような眼差しで見据える。

 「刺青を消したいか」

 一瞬の沈黙。
 虚を衝かれたらしくヨンイルの顔が空白になる。
 間抜けな顔で絶句するヨンイルの方へ身を乗り出し語気を強める。

 「五十嵐をあれほど憎しみに駆り立てたのは君の身の内に巣食う龍だ。君の体に刻まれた印が五十嵐を狂気に駆り立てた。五十嵐は常に君を意識していた、服をも透かす執念で刺青に凝視を注いだ。ペア戦リング上で君を全裸にさせ群集の眼前に刺青を晒した行為こそ、五十嵐の憎しみの深さを物語っているじゃないか。龍が放つ瘴気が五十嵐を狂わせたと、そうは思わないか」

 馬鹿馬鹿しいとわかっている。
 わかっているが、心の片隅でそう思いたがっている自分を否定できない。

 僕に手紙を届けてくれた五十嵐が、ボイラー室に閉じ込められた際も扉越しに励ましてくれた五十嵐が、囚人全員の信頼を裏切ってまでもあの時あの場で凶行に及んだ理由が、人知の及ばぬ超常の力に憑かれたからならいいと願っている。
 五十嵐は魔性に魅入られヨンイルに銃を向けた。
 五十嵐のとった許されざる行動を、犯した裏切りを、魔性に魅入られた故の不可抗力として免罪したい自分を否定できない。
 僕は、五十嵐に腹を立てているのかもしれない。
 ペア戦リング上では偉そうな事を言い五十嵐を説得したが、僕自身五十嵐の行為を裏切りと感じ、騙されていたと怒り、いかに復讐の理由が正当だろうと五十嵐を弁護できない葛藤に苛まれている。 
 偽善は必要悪だ。
 だから僕はあの時あの場で吐いた偽善を恥じたりはしない、テロの巻き添えという極めて不条理な形で最愛の娘を奪われた五十嵐にむかい偉そうに吐いた言葉を取り消しはしない。

 しかしだからこそ、いまだに思う。
 心のどこかでありえない可能性に縋っている。

 あの時五十嵐がとった行動が、囚人全員に憎まれ蔑まれ東京プリズンで勝ち得た信頼人望すべてを擲ちヨンイル一人を殺そうとした行動が五十嵐自身の意志と決断によるものではなく、人間を残酷に弄ぶ大いなる不可視の力のせいならいいと、抗い難いものに抗い力及ばず呑みこまれてしまった結果ならいいと、五十嵐への怒りを浄化する装置として龍を利用しようとしている。

 運命など信じないこの僕が、責任回避装置として運命を利用しようとしている。
 なんたる欺瞞。 
 反吐が出る。

 「刺青を消して、過去と決別したいとは思わないか」

 ヨンイルにとって、刺青は罪の烙印だ。
 ヨンイルだって、本当は消したいと望んでいるんじゃないか。
 龍の呪縛から、過去の因縁から解放されたいと願ってるんじゃないか?

 ヨンイルは俯き無言。
 書架に凭れ袖越しに上腕をさすっている。
 荒ぶる龍を鎮めようと無意識な仕草で腕をさすりながら、ふいに呟く。

 「直ちゃん」

 真剣な声で名を呼ばれ鼓動が跳ねる。
 ヨンイルが緩慢に顔を上げる。
 軽く一回瞬き、透徹した意志で研がれた双眸がひたと僕を見据える。
 ヨンイルが一気に袖を捲る。

 「こいつは俺の一部や」

 一気に肘まで捲り上げられた袖の下から露出したのは銀を燻したような光沢が美しい暗緑の鱗。
 ヨンイルの左腕に長大な蛇腹をくねらせ絡み付く文字通り龍の片鱗。
 隠し通路の暗がりでぼうと燐光を放つ技巧の粋を極めた刺青。
 健康的に日焼けした腕を銀を燻して固めたような鱗が覆うさまはいっそ官能的でさえあり、言動そのままに剽悍な少年といった感じのヨンイルの侠気を引き立たせ、片袖を捲り上げ片膝立てた粋なポーズと相俟って啖呵を切る博徒の如き凄味を与える。

 「今までしてきたことこいつに全部おっかぶせて切り捨てたりはようせん。俺がやったことはそないに軽くない、トカゲのしっぽや蛇の抜け殻みたいにポイて捨てられん。こいつは十歳ん時から俺と一緒にでかくなった、俺が与えた二千人分の血肉を喰ろうてここまででかくなったんや。こいつはな、俺自身や。消したりなんかせん。じっちゃんがそうしたように一生死ぬまでこいつをしょってく」

 袖をおろし腕を隠す。

 「殺した命を贖えんならせめてこの身に刻み付けて生きる。俺がやったこと忘れんように毎日刺青を見て暮らす、刺青がここにあるて意識する。言葉のまんま一心同体、こいつとは切っても切れへん腐れ縁さかい」

 ヨンイルの表情は柔らかかった。
 人食い龍の殺生の業すら受け止め、新たな道を切り開く気概と活力に充ちた爽快な笑い。
 諦念ではなく達観。
 逃げずに立ち向かうことで逆境を克服し前向きな姿勢を貫徹する、一人の少年のしなやかで鮮烈な生き様。

 ヨンイルは僕が思った以上に、強い。
 業深い人食い龍と死ぬまで共存する覚悟を固めている。
 二千人を喰らって血肉とした龍の胎動を常に身の内に感じ己を戒める。

 二千人の命と人生を奪った罪は一生かかっても償えない。
 ならば二千人分の血肉を喰らい成長した龍の存在を常に身の内に意識し、甘んじて咎を負い呪縛を受ける。
 身の内の龍に全ての罪を被せ否定するのではない、龍も己の一部と認め共存の道を選ぶ。

 ヨンイルは、強い。
 決して逃げたりしない。
 刺青を彫る痛みからも、過去の罪からも。
 五十嵐からも。

 「僕とは大違いだ」

 真実から、恵から逃げ続けている僕とは大違いだ。 

 どこまでも真っ直ぐなヨンイルの目を正視できず、俯く。
 胸が痛む。
 逃げてばかりいる自分の卑劣さを痛感、喉元に苦汁が込み上げる。

 僕は、弱い。
 身体も精神も脆弱だ。
 ヨンイルやサムライのように強くなりたいと願いながらそうなれずにいる自分の惰弱さに吐き気を催す。
 サムライは慌てなくてよいもよいという、ありのままの僕でいいという。
 だが僕はこれ以上迷惑をかけたくない、彼に守られてばかりの非力な自分が嫌で嫌で仕方ない。
 今日も僕は逃げてきた。
 本を借りに図書室に行くというのは口実で、本音を言えばサムライから逃げたかったのだ。
 今でも十分すぎるほど強いのに僕を守るためさらに強くなろうとするサムライの姿が、さらに力を欲し剣の道を究めんとがむしゃらに稽古に励む背筋の伸びた姿勢が僕を追い詰める。
 孤高の背中が遠い。 

 サムライもヨンイルもあまりに真っ直ぐで、
 迷いがなくて。

 どうしたら二人のように強くなれる?
 ああまで苛烈に純粋に強さを求められる?

 「おーい直ちゃん?どないしたん、むつかしい顔して。眉間が川の字になっとるで」 
 ヨンイルの声ではっと我に返る。いつのまにか至近距離ににじり寄ったヨンイルが目の前でひらひら手を振っていた。心配顔で僕の反応を確かめるヨンイルを意を決しまっすぐ見詰める。
 ヨンイルが怪訝な顔をする。

 額のゴーグルが目に入る。
 ゴーグルの表面には弾痕が穿たれている。五十嵐の銃弾を受けた名残り。
 祖父の形見のゴーグルが貫通を防ぐ盾となり一命をとりとめたが、一歩間違えれば即死だった。

 僕ならどうだ?
 ヨンイルと同じ立場で、同じ行動がとれるか?

 仮に銃を握っていたのが恵で、前に立っていたのが僕なら。
 殺したいほど憎まれていたのが僕なら。
 あの時ヨンイルが見せたような安らかな達観の表情で、恵の憎しみも哀しみもすべて受け止め浄化する事ができただろうか。
 妹に殺したいほど憎まれている事実を許容し、なおかつ死を受け入れられるだろうか。
 互いに許しあうのは不可能でも、自分に銃を向けた相手を許せるだろうか。

 『もう、ええ』
 殺していいのだと、促してやれただろうか。
 『ヨンイル、悪い。やっぱり駄目だ。お前のこと殺さずに済みそうにない』
 最後に五十嵐は謝った。
 絶望の翳りを帯びた寂しげな笑みを浮かべ、情けなく震え掠れた声で、自分がこれから殺そうとしている相手に謝った。憎んでも憎みたりず殺しても殺したりないはずの相手に、屈折した愛情と勘違いするほど優しい眼差しと表情で詫びたのだ。 
 あの時の五十嵐の顔が、ヨンイルの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
 これからも一生消えない確信に近い予感がする。
 あの時二人の心は確かに通じ合った。
 ヨンイルは五十嵐を許し、五十嵐も引き金を引く一秒の千分の一に満たない刹那だけは、きっとヨンイルを許せたのだ。
 ヨンイルを許したからこそ引き金を引いた。
 ヨンイルを許してしまった自分が悔しくて、娘に申し訳なくて、自責が憎しみを補った反動で。 

 「ヨンイル」

 ヨンイルの強さと潔さに純粋な憧れを抱く。
 唐突に、刺青を間近でじっくり見たい衝動が疼く。
 彼の強さしなやかさの源たる刺青が、服の下でひっそり息づく龍が、羨望とも憧憬ともつかぬ悩ましい衝動をかきたてやまない。
 呼ばれたヨンイルが顔を上げる。
 目が合う。
 沈黙が落ちる。
 書架に挟まれた隠し通路に秘密めかした空気が漂う。
 正面切ってヨンイルを見据え、口を開く。

 「服を脱げ」
 「……………………………………は?え、ちょ、なんやねん急に」

 ヨンイルが狼狽する。
 余程僕の言葉が意外だったのか、床に尻餅付いたままの姿勢であとじさり書架にぶつかる。
 背中から書架に激突したヨンイルへ慎重に詰め寄り口早に付け足す。

 「性的な意味じゃない。誤解しないでくれ、よりにもよって同性にそれも君に欲情するほど僕はおちぶれてないし趣味が悪くない。じろじろと変な目で見るな、僕はただ君の身体に純粋な興味があって」
 「俺の体に!?」
 「胸を覆うな、気色悪い。語弊があったな、僕が見たいのは君の身体じゃなくてその刺青だ。君の裸自体には一切何の興味もないから安心したまえ、刺青の付加価値があるからこそ君の裸に鑑賞物としての価値が生じるというものだ」
 「なんやねん直ちゃんやーらしーわー、いきなり刺青に興味津々て……ギャラリーフェイクじゃあるまいし、俺の身体の龍が芸術的やからて皮剥いでホルマリンに漬けて永久保存したりせんやろな?」
 「触らない。見るだけだ」

 断言する。

 「ペア戦リング上で三万人の大群衆の前に全裸を晒しておきながら何をいまさら恥ずかしがる、羞恥の基準がおかしいぞ。断っておくが脱衣の強要に下心などありはしない、劣情などもってのほかだ。僕は言わずと知れた潔癖症で君に触る気は毛頭ない。君の話を聞いて改めてじっくりと刺青を見たくなっただけだ、上着の裾や袖口から無防備にちらちら覗くのは何度も見たが細部を観察したことはないからな、形而上の興味が湧いた。ペア戦直後は五十嵐の乱入でそれどころじゃなかったし……」
 「なんで直ちゃんに裸見せなあかんねん、こんな暗がりにふたりっきりで」
 「誤解を招く発言はよせ。見たいのは裸じゃない、刺青だ。それとも何か、君はあれだけ僕を友人だの手塚仲間だのと言っておきながら、IQ180の天才がプライドを捻じ曲げて頼んでも刺青を見せるのを拒むような狭量な人間なのか?見損なったぞヨンイル、普段あれだけ無防備にちらちら見せている癖にいざ僕が頼めば出し惜しみするのか。暗がりで肌を見せるのを拒むとは恥じらいを至上の美徳とする処女か、謙譲の美徳の概念は日本人特有のもので韓国人にも応用されるとは初耳だ。君は処女か?それともギャラリーが少なくて物足りない露出狂か。三人以上集まらねば刺青を見せる気がないと言うんだな、わかった、なら早速王虎を……」
 「待ち待ち待ち待ちぃ!」

 ヨンイルが顔前に両手を翳し腰を浮かせかけた僕を制す。
 互いの出方を窺う微妙な沈黙が流れる。
 先に折れたのはヨンイルだ。
 僕の決意が固いと知るやがくりと肩を落とし大げさに息を吐く。

 「………しゃあない。図書室の恥はかき捨てや」
 
 ヨンイルが胡坐をかく。
 胡坐にした膝をぽんと叩き、顔を厳しく引き締め僕に向き直る。

 「出血大サービスやで。たとえるならちぃちゃいナミが裏切り者呼ばわりされるの承知でアーロンとこ行く位の覚悟や」
 「意味不明なたとえはいいから早く脱げ」
 「ちょ、ワンピースも読んでへんのかい!?」
 「手塚治虫と浦澤直樹だけで十分だ。それ以外は読むに値しない低俗図書だ」
 「読まず嫌いはいかんがな、勝手に決め付けんのも!ワンピース読まんなんて人生の五分の一損しとるで、手始めに一巻貸したるさかいにほら、ちなみに俺のおすすめはサンジとギンのエピソードでギンの男泣きがこれまた胸を打つ……」
 「さっさと脱げ、時間の無駄だ」

 苛立ちを堪え催促する。
 顎をしゃくり促せば、議論の余地なしと諦めたヨンイルが溜め息交じりに首を振る。
 深呼吸で意を決したヨンイルが準備体操の要領で両腕を回し、肩の凝りをほぐして天井を仰ぐ。
 覚悟を決め上着の裾に手をかける。

 「道化の心意気とくと見さらせ!」
 威風あたりを払う宣言が響く。

 衣擦れの音が耳朶にふれる。
 僕の目の前、書架を背に立ち上がったヨンイルが手早く服を脱いでいく。
 袖から腕を抜き、首から襟を抜く。
 上着の裾が肌蹴て捲れ、無駄なく引き締まった腹部と胸板が露になる。
 固唾を呑みその光景を凝視する。
 ヨンイルが服を脱いでいく過程を、ヨンイルの服の下から覗いた刺青が次第にその全貌を現していく過程を熱心に見守る。
 服の下にもう一枚服があるかのような、肌の上にもう一枚肌があるかのような奇妙な錯覚を受ける。
 錯覚はじき違和感に変じ、波紋が広がるような感動が体の奥底から生じる。  

 「上だけでええんか」
 「ああ」

 ヨンイルが念のため確認、上の空で頷く。
 一抹の未練なく脱いだ上着をぱさりと床に投げ捨て、羞恥心ごとかなぐり捨てたかのように大胆不敵に腕を組む。 

 「俺の龍や。目ん玉かっぽじって拝んどけ」

 外気に晒した腰に、腹に、胸に、肩に、首筋に。
 四肢に絡み付くようにして刻まれた龍の刺青。

 ヨンイルの体の正面、右腰から左脇腹へと抜けるように蛇腹を波打たせ背中に回りまた一周し、二周三周とヨンイルを中心に螺旋を描く長大な龍。
 それ自体生き物の如く躍動感溢れる見事な刺青で、菱を連ねた鱗一枚一枚に至るまで気の遠くなるような細緻な装飾が施されている。妄執じみた怨念こもる鱗一枚一枚が毒々しく艶めき、紆余曲折と撓り波打つ蛇腹が溜め息が漏れるほど雄渾な筆致で表現される。
 銀を燻して固めたような鱗一枚一枚が妖美なる魔性の輝きを放ち、四肢を縛める蛇腹が呼吸に合わせ蠢動する光景が妙に淫靡で、知らず知らずのうちに手を伸ばす。
 ヨンイルが身籠る龍の胎動を感じる。
 手を触れる前から翳したてのひらに龍の息吹が伝わってくる。

 「生きているみたいだ」

 これが、龍。
 二千人の血肉を喰らい大きくなった、ヨンイルの分身。
 ヨンイルの腹部に触ろうとして思いとどまる。
 何を考えてるんだ、僕は。
 動揺する。
 五指を握りこむ。

 触らないと言ったそばからつい手を伸ばしてしまった。
 他人との接触に恐怖に近い嫌悪感をもつ僕自ら手を伸ばし触れようとした、その事実に愕然とする。
 催眠術にかかったような酩酊感が理性を奪う。
 刺青を見ているうちに恐怖心が麻痺し、その美しさに恍惚となり、深淵のふちに立ったものが渦中に身を投じたくなるような誘惑に抗いきれずおそるおそる手を伸ばしていた。

 龍のあぎとを覗き込み呑まれるならばそれもいいと
 こんな美しい龍にとって食われるなら本望だと
 理性の麻痺した頭の片隅で声がする。
 指先が触れる間際に我に返って手を引けば、頭上から声が降り注ぐ。

 「さわってみぃ」 

 鞭打つような厳しい声に硬直する。
 宙に浮かせた手首を誰かが掴む。
 ヨンイルだ。
 おもむろに僕の手首を掴み、自分の方へと強引に引き寄せる。

 「!なっ………」

 腕力では到底かなわない。
 咄嗟に身をよじり振り解こうとするもヨンイルの握力は強く、手首にぎりっと五指が食い込む。

 「見るだけでいいと言ったろう、触るのは望んでない。即刻手を放せ、痣ができたらサムライが誤解する」
 「サムライは忘れろ」

 耳朶に熱い吐息がかかる。
 いつのまにかヨンイルが至近距離に来ていた。
 僕の手首を掴みむりやり引き寄せたヨンイルが、怖いほどに真剣な顔で覗き込んでくる。
 人懐こい道化ではない、
 僕の知らない男の顔。
 普段奥底に秘めている、静かなる闘志を剥き出しにした顔。

 「熱いやろ」

 掴まれた手から火傷しそうな熱が伝わる。
 ヨンイルに詰め寄られあとじされば背中に衝撃、書架にぶつかる。
 行き止まり。
 書架に寄りかかった僕に上半身裸のヨンイルがのしかかる。
 凄まじい威圧を放ち、龍が迫り来る。
 禍々しく毒々しい瘴気を発し、胸郭と腹筋の上下に合わせてうねる。
 正面にヨンイルが立つ。
 書架に寄りかかった僕の顔の横に指を広げた片手を突き、もう片方の手で僕の手首を掴み、裸の胸へと導く。
 荒い息遣いと早鐘の鼓動が体内にこだまする。
 書架に寄りかかり腰を落とした体勢の僕は、暗がりに沈んだヨンイルの顔を見詰め、苦労して生唾を飲み込む。
 ヨンイルが別人に見える。
 体内の龍がヨンイルの人格を乗っ取ったかのような本能的な恐怖に、全身の毛穴が開いて冷たい汗が噴き出す。
 逃げる事も振り解く事もさらには声を上げる事もできず硬直する僕の手をとり、自分の胸、心臓の上に置く。
 そして言う。

 「ちゃんと聞こえるやろ、心臓の音」

 掌から力強い鼓動が伝わる。
 生命の溶けた血を送り出す心臓の働きを感じる。

 「生きとる証拠や」
 「当たり前だ、心拍が停止してたら今頃砂漠の穴の中だ」

 プライドを振り絞り、何とか憎まれ口を叩く。
 ヨンイルが愉快げに声たて笑う。
 元のヨンイルに戻り安堵したのも束の間、次の瞬間にはまた見知らぬ顔になる。
 普段の人懐こさがなりをひそめ、輪郭鋭く精悍さが増した顔でヨンイルが低く囁く。

 「五十嵐に生かされた証拠」

 ヨンイルが僕の手を握り締める。
 自分の心臓ごと包み込むように。

 「ちゃんと動いとるやろ。生きとるやろ。
  五十嵐な、俺を殺さんかってん。
  せやから生きてんねん、俺」

 声に切実なものが篭もる。
 僕の手を持ったままヨンイルが項垂れる。
 僕の肩口に額を預ける姿勢をとり、問わず語りに告白する。

 「あの時は殺されてもええって思った。それがいちばん筋通っとる気がした。五十嵐に憎まれて殺されてもしゃあない思った。けどな、直ちゃんが」
 「僕がどうした」
 「ダチやて言うてくれはって、途端に死ぬのが惜しゅうなった。そういえば俺、まだまだ直ちゃんにすすめたい漫画あったんやて思い出してもうた。直ちゃんと喋りたいこと沢山あったんやて気付いた。ブラックジャックがいっつもマントの理由とか、封神演義の女キャラなら妲己ちゃん派か胡喜媚派か呂邑姜派か、そんな当たり前の事さえ聞いてへんかったなーて、弾丸が額ぶち割る最後の最後の瞬間に心残りできてもた」
 「呂邑姜には好感が持てる」
 「原作やろそれ、俺が言うてんのは漫画。ほら、やっぱり存在自体知らへんかった!よかった死なんといて、直ちゃんに漫画版封神演義読ませる前に死んだら太乙真人に宝貝搭載で復活させてもらうとこやった!」

 僕の肩からがばと顔を上げたヨンイルが唾飛ばし喚くのに顔を背ける。
 僕の肩に顔を埋めたヨンイル、針のような短髪が頬を擦りむず痒い。
 埃が沈殿する薄暗い通路にて、書架を背にした僕に寄りかかり、悪運の強さにほとほと呆れたように苦笑する。

 「きっとそれが原因や、死なんかったの」
 「何?」

 衣擦れの音と荒い呼吸に神妙な囁きが紛れる。
 額にかけたゴーグルが肩に当たる。
 空気の変化で龍が鎮まっていくのを感じる。
 ヨンイルの体を食い破り外に出んと瘴気を噴いていた龍が、僕の腕の中で宥められ次第に大人しくなり、やがて完全にこちらに身を委ねる。
 弛緩した体を凭せ掛けたヨンイルを慣れない素振りで何とか支える。

 僕が彼を抱いているのか
 彼が僕を抱いてるのか。
 互いに互いが寄りかかっているせいでどちらとも付かない。 
 僕の肩にコトリと額を預け項垂れたヨンイルが、薄っすらと口元に笑みを刷く。

 「弾丸が当たる直前にぎゅって目ぇ閉じて念じたんや、死にとうないて。せやから当たらんかった。じっちゃんのゴーグルが身代わりになってくれた」
 ゴーグルの弾痕を感謝のしぐさでなでる。
 小さく息を吐き顔を上げ、真っ直ぐに僕を見る。

 「おおきに、直」

 禍根を払拭した顔で男臭く笑う。 
 心臓が強く鼓動を打つ。
 てのひらがじんと火照りを帯びる。
 裸の胸に置いたてのひらから強い鼓動が伝わる。

 生きている証拠。
 生かされた証拠。
 ヨンイルが今確かにここにいる証。


 ヨンイルが生きていて、よかった。


 「万分の一の偶然で助かった人間に礼を言われる筋合いはない」

 裸の胸をそっけなく突き放し、床の上着を拾って投げ渡す。
 掌にはまだ熱が残っている。
 掌を介し体内に響き渡った鼓動を覚えている。  

 瞼を閉じる。
 瞼の裏の闇にくっきりと龍が浮上する。
 ヨンイルの体に巻き付く巨大な龍、二千人の血肉を喰らい成長した魔性の異形を見る。
 ヨンイルの身に刻まれた刺青は一生消えない。
 それでいいとヨンイルは言う、ヨンイルは笑う。
 身の内に巣食うのが忌まわしい人喰い龍だとしても、ヨンイルならばきっと飼い馴らす事ができるだろうと楽観させる笑顔で、二千人を殺した事実が消えないなら死ぬまで背負っていくと請け負い、贖えぬ罪の重さに耐え続ける覚悟をする。

 ヨンイルは、強い。
 その強さが愛おしく、眩しい。

 刺青を彫る事により新しい自分に生まれ変わると夢想する王虎の気持ちが、少しだけわかる気がする。
 王虎はきっと、ヨンイルに憧れているのだ。
 刺青を手に入れ、少しでも道化に近付きたいのだ。

 「王虎やけどな、やっぱやめたほうがええで」

 手早く上着を身に付け、襟からすっぽり顔を出したヨンイルが結論する。

 「刺青は一生もん、簡単に付けたり消したりできん。親から貰うた体粗末にしたらバチ当たる、俺かてバレた時はじっちゃんに殴られたもん。王虎かて惚れた女に泣かれるのはややろ?顔に少しくらい傷が付いたからてどないした、そんなもん気にすんな。だいいちあんな優男に刺青なんか似合わへんて、刺青ちゅーのはもっとこう強面のヤクザ顔のな、たとえばそう、よくロンロンにつっかかっとる東棟の俺は凱アンガキ大将とかぴったし……」
 「恋人の姿を彫りたいんだそうだ」
 「はあ?」
 「刑務所の中でも一緒にいられるように、せめても存在を身近に感じたいらしい。背中に恋人がいると思えば自慰にも張りが出るそうだ」
 「阿呆か、俺が凛々やったら興ざめもええとこや!それはよ言うてや直ちゃん、王虎が馬鹿な真似する前に止めへんと!!三次元の女を二次元化するなんてえらいこっちゃ、漫画のアニメ化はありやけど生身の漫画化はあかんあかん、逆輸入は認めへんで!」

 ヨンイルが一陣の疾風と化し通路を駆け抜けていく。
 上着の裾が颯爽と翻り引き締まった背中と刺青が覗く。
 二千人分の業と巨大な龍を背負いながらも足取り軽く、光の方へ跳ぶように駆けていくヨンイルを見送る。
 書架が割れて開かれた出入り口、逆光を背負って振り向いたヨンイルが高らかに叫ぶ。

 「はよ来いや直ちゃん、王虎が手遅れになる前に止めに行くで!凛々ラブとか背中に入れくさった日にゃ西棟の敷居跨がせんからなあの色ボケカスッ、シャワー室の笑いもんなりたいんか!そないに背中が寂しいなら油性マジックで肉って書いたる、肉って!いやむしろ額!?背中に肉って背脂やがな!!」  
 「図書室では私語厳禁だ」

 出入り口に立ち僕を待つヨンイルのもとへ歩き出しがてら、ぬくもりを帯びた手を開閉し、ぎゅっと握りこむ。
 裸の胸に触れても、不思議と嫌ではなかった。 
 それどころか、刺青から活力を分け与えられた心地がした。
 蛇腹が横切る胸に手を置いた事で僕の中にも龍の生命力が流れ込み、ヨンイルをさらに身近に感じた。

 「はよ来んかーい」と飛び跳ね手招きする道化のもとへ向かいながら先刻の情景を反芻、口の端に浮かぶ苦笑を禁じ得ない。

 『おおきに、直』

 あの笑顔にはかなわない。
 天才を降参させるとは、大した道化だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010531193316 | 編集

 「起きろヨンイル。いつまで寝てる気だ」
 偉そうな命令口調に懐かしさを覚える。
 「ん………?」
 頭の芯に沈滞した眠気に抗いゆっくりと瞼を開ける。
 視界が霞む。
 真上におぼろな人影を捉える。
 顔のあたり、ちょうど両目の位置で二つの輪っかがもやもやと鉛筆で書きなぐったような線を結ぶ。
 眼鏡。
 楕円形の眼鏡が似合う聡明な顔だちの少年がこちらを覗きこんでいる。
 「一体どないなっとんねん……」
 気を抜けば塞がりかける瞼を叱咤し、気力を振り絞り持ち上げる。
 なんだかひどく気だるい。
 寝起き特有の倦怠感がつきまとう。
 のろくさと起き上がり、かぶりを振り、眠気の残滓を追い払う。
 横に手をつき体を支える。
 数回瞬きをするうちに、現実味の薄い光景が浮かび上がってくる。
 「ここはどこ?私はだれ?」
 記憶喪失のお約束の台詞が我知らず口から漏れる。
 奇妙に現実感が欠落している。
 体が生身の感覚を取り戻すまで若干の時差を要する。
 頭が重い。
 どうやら大量の水を飲んだらしく、肺がふやけて膨らんでいる。
 「げほ、がほがほっ!!」
 起きしな水が逆流し、体を二つに折って激しく咳き込む。
 体中の穴という穴から水が逆流し、勢いよく排出される。
 大量の水を吸ってたぷんたぷんと波打つ胃袋が不規則な痙攣をおこし、一本の管と化した喉が水を汲み上げて体外へとぶちまける。
 鼻の穴から耳の穴からついには目からも、全身の穴からいちどきに水があふれだすのは非常にシュールな光景だが、生死の境をさまよう本人には笑い事ではない。
 涙と洟汁と水とが体内で攪拌され、胃袋ごと吐き戻す勢いで激しく咽せる。
 「自力で息を吹き返したのなら要救助者への適切な処置、人工呼吸の必要はないな。まったく、どれだけ人間離れした肺活量をしてるんだ、君は。解剖の興味がわく」
 目の前に瀕死の人間がいるというのに声の主はひどく落ち着き払っている。
 ヨンイルの悶絶ぶりを殺処分が決定した実験動物でも見るように冷徹な眼で見下ろし、言う。
 「ヨンイル、君はひどく水を飲んでいる。はやめに気絶したから致死量には達してないが、しかし危険なところだった。いいか?水難者の愚かなところは、水中でパニックになり、むやみに暴れて体力をうしない、余分な水を飲む点だ。水死とはヒトの口腔内から吸引された液体が気管へ侵入し、肺に水がたまるなどして気道がふさがれることにより引き起こされる窒息死の一種だ」
 声の主は淡々と続ける。
 医学書の記述でも読み上げるように平板な口調で、ヨンイルがいかに死に近付いていたか、どのような過程を辿り復活したか語り聞かせる。
 「人間は溺れると無意識に息を吸おうとする。それが結果としてパニックを招く。何とか空気を吸おうと必死にもがくため、動悸を早めてしまい、もっと空気を必要とさせる。動くために必要な酸素がどんどん消費されるため、頭に回る酸素を少なくさせてしまい、さらに正常な判断ができなくなってしまう。そして、徐々に無意識に近い状態になっていく。君は早い段階で気絶したから助かったんだ。強運に感謝しろ。否、悪運と言うべきか」
 やたらまわりくどく難解な長広舌に涙が出そうな郷愁が切々とこみあげる。 
 徐徐に頭がはっきりしてくる。
 思考力が回復し、あたりを見回す余裕ができる。
 この声、この口調、聞き覚えがある。
 自分がよく知る人物と似ている。いや、そっくりや。
 ヨンイルの戸惑いをよそに声の主は至極淡々とつまならそうに溺死に至る過程を説明する。
 言ってる内容は難しくてさっぱりわからないがお構いなしだ。
 自己中を通り越し、いっそ潔い。
 自分の知的レベルについてこれないお前が悪いというばかりの開き直りさえ感じさせる。
 右耳から左耳へ子守唄のように通り抜ける言葉は理解不能だが、この声には覚えがある。
 後頭部にあたる柔らかな感触に気付く。
 「ん?俺のぼんのくぼに誂えたようにぴったりフィットするこのえもいえぬ丸みと感触………すべすべの肌は……」
 ああ極楽極楽。
 後頭部に腿が当たる。
 だれかが膝枕をしてくれている。
 生まれて初めて体験する膝枕の寝心地はヨンイルを至福のまどろみへと誘う。
 声の主の顔は茫洋としたまま、にやけて腿に頬ずりする。
 「せやけどなんや、随分ほっそい足やな~。頭預けたら折れそうやんけ。モヤシやんか。もうちょい肉つけたほうがええで」
 「失礼だな、天才に向かって」
 天才を自称する知り合いはひとりしかいない。
 「!!?直ちゃ、」
 がばりと起き上がり名を呼ぶ。
 この場にいるはずのない人物の声に完全に平静を失う。
 凄まじい勢いで跳ね起きたヨンイルは、そばに横座りする人物を見て、がくんと顎を落とす。   
 「筋肉も贅肉もつきにくい体質なんだ。しょうがないだろう」
 直がいた。
 会いたくて会いたくてたまらなかった直が、目の前にいる。
 メイド服を着て。
 「………直ちゃんそのかっこは………」
 目を疑う。
 次に正気を疑う。
 手の甲で執拗に目を擦り、むぎゅりと頬をつねる。
 直は当たり前のようにメイド服を着ている。
 頭には純白のフリルも可憐なホワイトプリム、俗にいうメイドさんキャップもつける徹底ぶり。
 濃紺の長袖は手首までぴっちり覆い、清楚な仕上がりを意識して露出はあくまで控えめ。
 反面、スカート丈はあざといほど切り詰めてある。
 上半身のストイックさと対照的な絶対領域のチラリズム。ニーソックスから控えめに覗く大腿の上部は眩しいほど白くきめ細かく、貞淑な濃紺の生地に清冽に映える。
 総合評価はだれの狙いやねんと胸ぐら掴んで問い質したいほど劣情そそるできあがり。
 華奢な膝が丸見えのスカートに思わず視線が吸い寄せられる。
 スカートからのびた素足は肉付きが乏しく、ああ、ここにさっきまで頭をのせてたんやなあ、よう折れんかったなあと感心してしまう。 
 いや、ちがうちがう。
 「なんでメイドさんやねん!!!!」
 そう、問題にすべきはそこだ。
 炸裂した突っ込みにメイド直は品よく眉をひそめる。
 「駄目か?」
 眼鏡の奥の知的な双眸が細まり、ヨンイルはたじろぐ。 
 「いや、だめちゃうけど!!似合うとるけど!!なんでメイド服、なんで女装、なんでコスプレ!?あかんがな、直ちゃんのキャラちゃうやろ、なんで俺がいきなり目え覚ましたら直ちゃんがメイドさんで膝枕やねん、妄想爆発で都合よすぎやし出血大サービスが致死量やろ!?」
 「落ち着けヨンイル、発言が支離滅裂だ」
 「落ち着いてられるかいこれが!!さっきまで直ちゃんの膝にごろんて頭のっけて、直ちゃんの肌が二次元の女の子みたくすべすべ~で……」
 そうだ、最前まで自分はそうと知らず直の膝に頭をのせていたのだ。
 実感は自覚を伴い、最前まで意識せずにいた膝枕の感触を生々しく甦らせる。
 細い足だった。
 脂肪の厚みが殆ど感じられず、折れそうで不安だった。
 だが、膝小僧の形は非常に良く、ニーソックスで覆われた華奢な脚線はガラス細工の儚ささえ漂わせていた。
 太股ではなく、細腿。
 むちむち感の足りない腿だったが、密着させた頬に伝わるきめ細かな餅肌の吸いつきは大変心地よかった。
 直は美肌だ。
 付け加えるなら、美肌美人メイドだ。
 そうだ俺直ちゃんの生足生膝に頭のっけとったんやあまつさえすりすり頬ずりして、もうめちゃくちゃ気持ちようて極楽気分で昇天しそうで、尖った膝が首にあたってちょい痛かったけどそれがまた悦の乙で、ニーソックスがぴっちり密着した細くて綺麗な足が、二次元の女の子的なすべすべの肌が……

 おおきに、手塚神様。
 オタク万歳。

 「ぶっ!!!!」
 たまらず鼻血をふく。
 「どうしたヨンイル。長時間水に晒されて鼻腔の粘膜が弱っていたのか」
 膝枕の感触を生々しく反芻し、下半身がむらむらし、直の素肌との密着がもたらす恍惚感に眩暈さえ襲い、ヨンイルは鼻を覆って倒れ伏す。
 ぴくぴくと瀕死の痙攣が襲い、ひくつく尻がずりあがる。
 「た、たまらん……直ちゃんのメイド服、たまらんっ……」
 白と紺のコントラストが目に鮮やかなメイド服を直が着ると、これがまたよく似合う。
 もともと華奢な体格な上、顔立ちも整っているため女装に違和感がない。
 凍り付いたような無表情もこれはこれであり。
 さらには眼鏡がポイント高し。
 無表情クール眼鏡メイドという属性はごく一部のマニアから熱狂的な支持を得る。
 清純なメイド服と人を虫けらのように見下す目つきのギャップがマニア垂涎の倒錯的な色香を醸し、昼は従順夜は淫乱という主客転倒の妄想をむらむらかきたてる。
 なんちゅーか、調教しがいがありそう。
 むしろされたい?
 「直ちゃん、ご主人様がかちーんとフォークおっことしたら五メートル先に蹴っぽりそうやな」
 「僕なら椅子を引いて這いつくばって食わせるが」
 「毒を食わせて皿もかい」
 想像の上をいくドS認定。
 押さえた手の間からぼたぼた鼻血を垂らすヨンイルを、直は眼鏡越しに冷ややかに眺めていたが、ついと顎をそらす。
 「僕だけじゃないだろう」
 「え?」
 直の顎につられ、視線を流す。 
 衝撃と驚愕が手に手をつないでやってくる。
 「うわー、メイド服って初めて着たけどすーすーすんなあ。風が入ってきて変な感じ」
 スカートの端をつまみひらつかせる褐色のメイドがいた。
 身につけているのは直と同じデザインのメイド服。
 しかしこのメイドはアバズレが入ってるらしく襟元を大胆にはだけ、下着が見えそうで見えない危険な角度にスカートを持ち上げてけらけら笑う。
 中身が違うだけでこうも違うのか。
 着こなしに一切の乱れなく手本じみた厳格さを示す直に反し、このメイドときたらとんでもなく奔放かつ淫乱。フェロモン流出量が半端なく、存在自体が風紀違反に抵触する。
 挑発と誘惑の媚態ちらつく褐色メイドがご機嫌に鼻歌を口ずさむ。
 「………聞きたくないけど、一応聞く。レイジ、お前それ、下も女物じゃねーよな」
 スカートの端を持ち上げ、軽快にステップを踏む褐色メイドのそばには癖の強い黒髪をホワイトプリムでむりやり押し込んだメイドがいて、はしゃぐ相棒をジト目で眺めている。
 褐色メイドはレイジで黒髪メイドはロンだった。
 「どうだ?似合うか?」
 まんざらでもなさげにレイジが笑う。
 どんな事態でもあっけらかんと楽しむ事ができるのは才能だろう。
 「気持ち悪ィ」
 転じてロンは不機嫌この上ないふくれ面。
 だが、これがまた憎いくらい似合う。
 つんつんした黒髪にホワイトプリムをつけ、もとから気が強そうな顔だちに今ははっきりと怒りを浮かべている。
 直をクール眼鏡無表情系に分類するとしたら、ロンは猫目ツンデレ系。これに貧乳が加われば無敵だ。小さい肩を怒らせ、スカートを履いてるにも関わらず行儀悪い大股で立ち塞がる姿は実に微笑ましい。
 レイジも同感のようで、メイドロンを見て満悦の笑みを浮かべる。
 「ロンは何着ても可愛いな。俺の下で半脱ぎで喘いでるときが一番だけど」
 「好きでこんなかっこしてるわけじゃねえ、だれかさんのせいだよ」 
 「俺かい!?」
 殺意滾りたつ目でロンに睨まれ、ヨンイルは思わず自分をさす。
 なんやなんやこの展開は。
 話が妙な方向にいっとる。
 立て続けの衝撃に、ヨンイルは混乱する。
 目の前では直が腕を組み、レイジが踊り、ロンが仏頂面をしている。
 メイド服は一応各人のサイズに合わせて作られてるようだが、同年代平均に比して華奢で小柄な直やロンはともかく、長身でしなやかに筋肉が付いたレイジが着ると似合う似合わない以前に違和感ばりばりだ。
 「無表情クールメイドとして需要がある直ちゃんと、猫系の強気な顔立ちがロリツンデレ略してロリツン萌えの心をくすぐってやまんロンロンはともかく、レイジはしんどいやろ?こない肩幅あるメイドおったら怖いで」
 オタク的価値観に照らし合わせ忌憚ない意見を呈す。
 酷評をさらりと受け流し、スカートを履いて二王立つレイジが後ろを指さす。
 「いや、俺なんかまだまだだよ。あいつに比べりゃな」
 核弾頭級の嫌な予感。
 「東京プリズンの王ともあろう方がご謙遜を。レイジ君のメイド姿、なかなか似合っておりますよ。夜毎下克上し、主人を喰い殺す雌豹の野蛮さが立ち姿から滲み出ています。難を申しますなら、下着はちゃんと女性物を身に付けて完璧に徹するべきですね。ガーターベルトにダガーナイフがつけば言うことない」
 深みあるバリトンが重々しく響き、レイジの後ろから異形の物体が歩み出る。 
 「武士ともあろうものがこのような下女の装束に身を包むのは不本意だが、直だけに恥をかかせるわけにはいかん」
 苦渋に満ちた声音で独白し、異形の物体がもうひとつ。
 「あ、あ、あ、あ…………あぼばばばあばばぼあばおあぼあげぼあ!!?」
 ホセ。
 サムライ。
 鍛え抜かれた屈強な体躯をメイド服に包む、異形の漢がふたり。
 「ちょ、ホセ、サムライ、おどれら、な、冥土のメイドが視覚の暴力ッ!?ホセおどれメイドさんキャップが死ぬほど似合わんちゅーか、そない胸筋ではち切れそうなメイドさんはご主人様のトラウマ製造機で仮面つけたらメイドガイやし、サムライその被り方棺桶の中の人やん!!」
 意味不明な奇声を発するヨンイルの前にずかずかと進み出たホセは、豊かな胸筋を強調し、長袖に包まれた腕は隆々と盛り上がり、スカートから突き出た足は丸太のようで、威風あたりを払う立ち姿も男神の如く雄雄しく屹立し、ボディビルダー顔負けの筋肉美を誇示する。
 メイドさんなのに。
 そんなもの誇示してどないするん?節子。
 サムライに至ってはホワイトプリムを逆向きに被っている。 
 レイジでも相当むりがあったが、レイジよりなお長身のサムライがやると、めちゃくちゃきつい。
 なにかの罰ゲームを甘んじて受けているかのような、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ぶ悲壮な高潔感さえ漂う。
 しかしヨンイルは気付いてしまった。
 本来木刀を備える腰に手をやりサムライが渋面を作るのを。
 「……軽すぎて落ち着かんな」  
 はたき、装備。
 もののふ、一点の死角なし。
 メイドという神聖かつ崇高なる偶像美への信仰を完膚なく蹂躙する光景に、ヨンイルは憤激する。
 「メイドさんへの冒涜や!!」
 「奇態な事を言うな。自分の姿をよく見てみろ」
 「そうですよ、ヨンイルくん。胸に手を当てて、自分のあり方を見下ろしてみなさい」
 二人の指摘に嫌な予感をおぼえつつおそるおそる自分の姿を見下ろす。
 脳天を衝撃が貫く。
 硬直。
 「な、な、なんじゃこりゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!?」
 絶叫。
 「何って、メイドじゃないか」
 「似合ってるぜヨンイル」
 「狙ってるよな、あのスカート丈」
 「ニーソックスもな」
 「なかなか可愛らしいですよ、ヨンイル君」
 「素敵ですヨンイルさん、惚れ直しました!!」
 「「D・О・U・K・E!!D・О・U・K・E!!M・A・I・D・О・U・K・E!!」」
 直とレイジとロンとホセとサムライが寸評し、地鳴りの如き大合唱が湧き上がる。
 どこからか湧き出た西棟の囚人たちが、メイドに変身したヨンイルを取り囲み、熱烈な大声援を送る。
 「ちゃうちゃうこれは悪い夢や現実ちゃう直ちゃんは全然オッケーやしロンロンもセーフやけどレイジに加えてホセとサムライてどんな人選やねん、むりありすぎやん!!しっかりせい俺の頭、覚醒せい正気!!」
 頬を叩いて喝を入れるヨンイルとは対照的に、女装姿が自然なものから不自然なもの、さらには化け物までもが一同に会し、和気藹々と雑談に興じる。
 「ロンーやっぱお前最高だよ、スカートからちょこんと突き出た膝小僧がむしゃぶりつきたくなるくれえ可愛いって!元気っ子はやっぱミニスカだよな!!」
 「男にミニスカ着せて喜ぶ心理わかんねーよ。お前の発言だいぶ終わってるぞ」
 ロンのメイド姿に興奮したらしいレイジが両手を広げて抱き付き、猫可愛がりの喩えを体現して頬ずりするのを、ロンがうざったげに退ける。
 ひしとへばりつくレイジを両手を突っ張って遠ざけるロンの横では、精悍なサムライが頬を染めている。
 「その、な、直………武士ともあろうものがこのような惰弱かつ軟弱な事は言いたくないが、俺とてこう言わぬわけにはいくまい」
 含羞の素振りで目線をさまよわせ、ひどくもったいつけて咳払いするサムライだが、そのメイド姿ときたらヨンイルの貧困な語彙では到底表現できぬ異形の域に達している。
 ホワイトプリムことメイドさんキャップは相変わらず逆三角に垂れ下がったまま、猛禽じみて峻厳な眼光を湛える切れ長の双眸が、脳天からつま先まで直の姿を認め、優しく細まる。
 「とてもよく、似合っている」
 「君は第一線の服装倒錯者にしか見えないな」
 直はずばりと切り捨てる。
 「なんやねんこのカオス空間。何角形の宇宙やねん」
 頓珍漢なやりとりを繰り広げるレイジとロン、直とサムライの蚊帳の外におかれ、ヨンイルは深刻な頭痛を訴える。
 「なあ、一発やっていい?」
 レイジが耳を疑う発言を。
 「メイド服でさかってんじゃねーよ節操なし」
 ロンはうんざり顔。
 「いや、性生活にも変化は必要だろ?それにロン、ほんと可愛いって!すっげ興奮する!囚人服を見慣れてるだけにたまに違うかっこすると新鮮ってゆーかさ、なんかもうぎんぎらぎんに辛抱たまんねーって感じ。ちょっと『おかえりなさいませ、ご主人様』って言ってみて、スマイルそえて。斜め四十五度に小首傾げるのも忘れずに」
 「盆でぶん殴ってもよろしいですかご主人様?」
 「たーーーーーーーーーーーーーーまーーーーーーーーーんーーーーーーーーーーーーーーーねーーーーーーーーーーっ!!」
 暴言さえご愛嬌なロンメイドに劣情を刺激されたレイジが宙に1メートルほど跳躍、蛙のように四肢を広げて襲いかかる。
 「出たあ、不二子ロックオンルパン・ザ・サードジャンピング!?」
 条件反射で実況をいれてしまう哀しきオタクのさがを呪う。
 「げ」
 頭上に跳躍した褐色生命体Rに、ロンの顔が強張る。
 激突。
 騒音が生じ、濛々と埃が立つ。
 「うわ、やめろ、こっちくんな重っ………てめレイジいい加減にっ、ちょ、どこさわってんだよスカートめくんなっ!?」
 「『おやめくださいご主人様』ってうるうる涙目でお願いしてくんなきゃはなさねーよ!」
 「とっととどかねーと股間に蹴りいれて玉潰すぞクソ野郎っ!!」
 レイジの下敷きになったロンがぎゃあぎゃあ喚き必死で抗うも体格差は大人と子供に等しく圧倒的、レイジの顔面を掴んで尖った唇を引き離そうとあがけばあがくほどにスカートがずりあがり太股が露出する。 
 「やれやれ、猫科のじゃれあいは微笑ましいですねえ」
 ホセがほくそえむ。
 「助太刀するぞ」
 サムライがはたきを構える。
 「夢や、これは悪い夢や……直ちゃんがメイド服でレイジがメイド服でロンがメイド服でホセとサムライが未知の生命体で俺が巻き添えくうなんて、こんな無茶苦茶に破綻した展開夢でしかありえん!!助けてや直ちゃん!!」
 ばっと飛び起き、どさくさ紛れに両手を広げ直に飛び付こうとしたメイドヨンイルだが突如巻き起こった爆風に吹っ飛ばされる。
 「いててててて………」
 「こんぐらっちゅれいしょん!!呼ばれて飛び出てずばばばんっと魔法少女ビバ☆ビバ☆ビバリー惨状に参上っス!!」
 パンツ丸出しで転倒したヨンイルの視線の先、ショッキングピンクのフリフリ衣装を纏ったビバリーが華麗なターンを決める。 
 「悪のメイド軍団首領ドン・ホセ、東京プリズンの平和を乱すお前を愛と正義と勇気の魔法少女ビバ☆ビバ☆ビバリーがお仕置きしちゃうっス!」
 カオス。
 しかしヨンイルは、メイドに強制転化させられ爆風に巻き込まれ吹っ飛ばされてもなお、魔法少女を微に入り細を穿ち観察するのを忘れない。
 目に痛い、というか視覚の暴力なショッキングピンクの衣装はありていにいえば古臭く、全盛期の魔女っ子アニメを忍ばせるフリル特盛りのデザイン。そこはかとなく昭和の香りが漂う。
 ちりちり天然パーマには間違った少女趣味全開のリボンが飾られている。
 「素敵に無敵なキワモノイロモノ路線驀進中やな……」
 ヨンイルもすでに可哀想なものを見る目だ。
 異形のメイド軍団を代表し、ラスボス級の暗黒オーラ大放出で敢然と立ちはだかったホセが、人類絶滅を企むどす黒い笑みに顔中歪ませて名乗りをあげる。
 「ふはははははっ出たなビバ・ビバ・ビバリー!!東京プリズンに平和を取り戻したくば宇宙提督ドン・ホセ率いるファティマ四天王を倒してみろ!!」
 「設定変わっとるがな!?」
 もうどこに突っ込んだらいいかわからない。
 「しかもホセ、高笑い似合いすぎ!!あの高笑いは一朝一夕でものになるもんやない、デスラー総統級の悪逆非道さが滲み出しとる!!」
 オタクのヨンイルをして唸らせる完璧な役作り。
 いや、案外素かもしれないが、その考えは色んな意味で怖すぎるので却下。
 魔女っ子ビバビバビバリーが身を低め助走を開始する。
 「東京プリズン征服を企む悪の首領ドン・ホセめっ、刑務所の平和はビバ・ビバ・ビバリーが守るっスよ!!」
 黄色い声で叫びつつステッキを振れば地雷原を駆け抜けるが如き小爆発が炸裂、敵を薙ぎ払う。
 「ヨンイルさーん!」
 「成仏せえよワンフー」
 爆風に舞うワンフーに手を振る。
 スカートを翻しビバ・ビバ・ビバリーが跳躍、膝を抱えて宙で三回転し、ホセの頭上を急襲する。
 「くらえっ!必殺技、デモーショナルフリーズッ!」
 吹き替え済みらしく、可愛らしい女の子声で技名を叫ぶ。
 「なんのこれしきっ!」
 仁王立ちのホセが闘気をまとい、全身に力を込めれば、布の裂ける甲高い音が連続し、メイド服のボタンがすべて弾け飛ぶ。
 「なっ!?」
 ビバリーが目を見張る。
 放物線を描いて飛んだボタンが咄嗟に交差させた腕にあたり、あらぬ方向へ散逸する。
 「ふんぬぅっ!」
 アドレナリン過剰分泌、ドーパミン大量製造で胸筋が膨張し、腕と大腿の筋肉が隆起し、メイド服の切れ端をひっかけた逞しい上半身を曝け出す。 
 衝天の勢いで電撃のオーラを噴き上げるホセに、軽快に着地したビバリーが歯軋りする。
 「これがドン・ホセの真実の姿……!」
 「我輩、否、仮の一人称はよしましょう」
 牛乳瓶底眼鏡を取り払い、暴かれたのは猛き戦士の顔。
 地に叩き付けた眼鏡を踏み潰し、趣味特技大量殺戮と喧伝する禍々しき闘気を放ち、上半身裸のホセが歩み出る。
 その笑みはすでに人類絶滅を実現し、銀河系征服の野望渦巻くそれへと変貌している。
 「何を隠そう私の真の姿はスーパーサイヤホセ……宇宙最強最悪の戦闘民族の末裔です」
 「騙された、眼鏡はスカウターか!」
 「待て、おどれ今踏み潰したやん!?」
 あまりにご都合主義な展開と不条理な設定に抗議するヨンイルを無視し、ドンホセ改めスーパーサイヤホセとビバ・ビバ・ビバリーの対決は勝手に盛り上がっていく。
 「魔法少女ビバビバ・リーだかストップひばりくんだか知りませんが、私の拳で永遠に生命活動をストップさせてあげますよ」
 昂ぶりも甚だしく拳を鳴らし、ホセが足を踏み出し、びりっとニーソックスが裂ける。
 ホセの前進にあわせ、魔法少女ビバビバ・リーもといビバリーもまた、勇を鼓して前へ出る。
 「わざと読点を違えるとはみみっちいいやがらせを……みくびってもらっちゃ困りますよ、僕がステッキをひとふりすれば世界は等しくフリーズっすから。ウィルスなめないでくださいよ」
 不敵な笑みを浮かべた魔法少女が剣呑にステッキをぶん回し始める。
 眼光が激突する。
 粉塵が晴れ、決戦の時が迫る。
 「いくっスよー……フーリガン・フリーズ!!」 
 技名も高らかに薙ぎ払うステッキの先端に虹色の光球が生じる。
 虚空で無数に分裂した光球が吹雪を呼びドン・ホセになだれかかる。
 ドン・ホセがうっすら目を開き、残像を引いてすぅと腕を掲げ、深呼吸する。
 開眼と同時に分厚い筋肉で鎧われた胸板に七つの痣が生じ星宿の閃光を放ち、反った指先に北斗の奥義が宿る。
 ぎん、と血走った眼球がせり出す。
 「ほぁたたたたたたたたたたたたたっ!!!」
 宙に翳した両腕が複雑怪奇な千手の軌跡を描き音速で交差、殺到した光球をひとつ漏らさず指突で撃破。
 「スーパーサイヤ七星拳、て混ざりすぎやろーーーー!?」
 爆音と爆風絶えぬ熾烈な争いが続く中、ヨンイルは脂汗の濁流にまみれて苦悩する。
 「こんな見苦しい対決放送コードぎりぎりどころか完全アウトやんけ……!」
 人として止めなければいけないが、止めたくない。
 仲裁に入ったら最後、激しくぶつかりあう闘志のはざまで圧死確実。
 無力感に苛まれ地にひれ伏すヨンイルの胸ぐらを、誰かがぐいと掴む。
 「さあヨンイル、宇宙危機のカオスを収拾するために僕とキスするんだ」
 「はあ!?」
 目と鼻の先に直の大真面目な顔がある。
 眼鏡の奥の目は真剣そのもので、冗談を言ってる気配は少しもない。
 「物語の王道だ。主人公がヒロインと唇を接触させれば破綻した物語が回復する、後はエンディングに一直線だ。以下略、僕とキスしろ」
 「なんちゅー乱暴な説明!?」
 「するのか、しないのか、どちらだ」
 ずいと顔を突き出し、ヨンイルを押し倒す。
 眼鏡の奥の双眸が真剣な光を帯びる。
 胸が高鳴る。
 唇が、すぐそこにある。
 清楚可憐なメイド服の直が、自分の胸ぐらを掴み、漢になるのかならないのかと問う。
 至近距離で向き合う直の顔をまじまじと見て、整った目鼻立ちに魅了され、毒を吐く唇の形良さに理性を奪われ、忘我の境地に至る。 
 
 湿った吐息が唇をくすぐる。
 眼鏡のレンズが吐息で曇る。
 
 艶かしくぬれた唇に生唾を嚥下し、触れ合う膝に熱を感じ、覚悟を決める。

 「これも世界を救うため………!」
 一世一代の決断をくだしたヨンイルに顔つきつけ、直がふと表情を緩める。
 「それでこそ、僕が見込んだ道化だ」
 眼鏡の奥の目が和み、口元が綻び、笑みが浮かぶ。 
 自分の判断は間違ってなかったと、確信をもてる者だけが浮かべることができる笑み。
 その笑みが、目を奪う。
 心臓を止める。
 もうどうなってもええかも、俺。
 幸せの絶頂に羽ばたいたヨンイルの方へと、徐徐に徐徐に、じらすような緩慢さでもって直の顔が近付いてくる。
 理知的に整った顔に眼鏡がよく似合う。
 長い睫毛が儚く揺れ、眼鏡の向こうの目が一抹の恥じらいを宿して伏せられる。
 「さあキスを」
 レイジがけしかける。
 「ぶちゅっとやっちまえ」
 ロンが背中を押す。
 「やっておしまいなさい」
 ホセがダメ押しする。
 「ならん、断じてならん」
 サムライだけが駄々をこねるも、他の三人によってたかって押さえ込まれ悲憤の雄叫びを上げる。
 「我慢しろよキスのひとつやふたつ、世界を救うためなんだからよ」
 「あとで消毒すりゃいいだろが」
 「どういう理屈だ、世界を救うのと接吻と何の関係がある、直の唇を穢すくらいなら俺の唇を奪えばよかろう!?」
 「ヨンイル君にも選ぶ権利があります」
 もはやヨンイルの耳に外野の騒ぎは聞こえず、近付きつつある唇だけに意識を集中する。
 心臓の動悸が際限なく高鳴り、頬が紅潮していくのがわかる。
 「ヨンイル………」
 直が名を呼ぶ。
 「直ちゃん………」 
 ヨンイルも名を呼ぶ。
 互いに見つめあう。
 顔が接近し、唇が近付き、吐息が絡む。
 眼鏡越しの目を潤ませ、頬を上気させた直はひどくいじらしく、主人にご奉仕を命じられたメイドさながら背徳感が漂う。
 メイド IN 冥土最高。
 望外の幸福に見舞われたヨンイルは、スクール水着派からメイド党へとあっさり宗旨替えを表明する。
 「待ちや直ちゃん」
 唇が接触寸前、待ったをかける。
 直が怪訝な顔をする。
 「なんだ」
 「メイドさんならこういう時、言うべきことがあるやろ」
 日頃天才を自称する直が悩む姿を見るのは、存外気分が良い。
 意地悪な気持ちでにやけるヨンイルの視線をどうとったか、直が咳払いする。
 「ヒントは?」
 「天才でもわからんか?」
 ヨンイルは意地悪いにやつきを深める。
 「しゃあないな、特別やで。ヒント。某変身ヒロインものアニメの名台詞。語尾はにゃん。ほんでメイドときたら?」
 ようやく思い当たったようだ。
 その瞬間直の顔に浮かんだ激烈な殺意は、ヨンイルの下半身を萎えさせるのに十分だった。
 凄まじい葛藤と恥辱に顔を歪ませ、目尻に朱を刷き、肩と拳を小刻みに震わす直の姿は嗜虐心を刺激する。
 ひとつ深呼吸し、肩を落とし、吐き出す。
 目と鼻の先に直の顔がくる。
 眼鏡の奥の目尻を屈辱に赤らめたまま、極限の葛藤に顔を歪ませ、そして。

 「ご奉仕、す、するにゃん」

 三秒後。
 「生殺しで夢オチかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
 体中の穴という穴から水を吐き出し、哀れ道化は絶叫する。

 メイド服は男の浪漫。
 そんな夢を見ていた……ような気がするが、真偽はさだかではない。 


にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010530205553 | 編集

 「………はっ………」
 薄く開いた唇から淫蕩な吐息が漏れる。
 「苦痛に歪む君の顔は絵画より鑑賞の価値があるよ、少佐」
 威厳ある口髭を蠢かせ男が嗤う。
 アルセニーの腰を掴み自らの猛りで激しく責め立てつつ唇を舐める。
 薄氷の瞳が朦朧と宙をさまよう。
 乱れた銀髪がしどけなく額に纏わり、官能に溺れた顔に嗜虐の華を添える。
 はだけた軍服から覗く胸板は白く淫らな色香を纏い、目を奪う。
 アルセニーは着やせするタイプだ。一見華奢な体つきの襟をはだけてみれば、日に晒したことなどないような滑らかな肌が露出し、上品な桃色の二つの突起が、控えめに胸を飾る。
 もう何時間が経つのだろう。
 嬲られ弄ぶられ激しすぎる快楽に翻弄され、既に思考が働く状態ではない。
 心もとなく移ろう薄氷の瞳に映る鏡像へと、アルセニーの上官にあたる口髭の男は残忍に笑みかける。
 「そうその顔だ、その瞳だ。叙勲式で一目見たときから君のその瞳が頭から離れなかった」
 アルセニーの尻を掴み、猛りたつ自らをごりっと押しつける。
 「!……っあ……」
 深々と肉を穿たれ張りつめた背筋が撓う。
 白銀の睫毛が縁取る双眸に潤んだ光が爆ぜ、弛んだ口元から一筋よだれが伝う。
 自分の腹の上で乱れる青年の内へと肉の凶器を突き立て、暗い愉悦に浸る。

 初めて見たとき、身の内を貫いた戦慄は忘れ難い。
 激烈な衝動だった。
 この男を手に入れたいという熱情、この男を独占したいという歪な欲望。
 屈折した熱情は倒錯した劣情へと形を変え燃え上がり、上官の立場と権力を行使しても手に入れたいという妄執に取り憑かれた。 

 「覚えているか少佐、私と君の出会いを」
 「……あれは……貴方の叙勲式……入隊まもない私も、そこにいた……」
 苦しげな呼気のはざまから切れ切れに言う。 
 不自然な体勢で貫かれる苦痛はいかばかりか。
 屈強な男の腹にはしたなく股を開き馬乗り、尻を掴まれ、律動的に楔を穿たれる。

 上官の命令には逆らえない。
 奉仕を命じられれば従うしかない。

 アルセニーには軍にいなければならない理由がある。
 軍で出世を極め果たさねばならない目的がある。
 それを叶えるまで、軍を去れない。
 上官の不興を買うのは避けたい。
 上官に冷遇されるのは得策じゃないと、アルセニーの明晰な頭脳で冷静に判断する。
 打算的な処世術。
 高潔な矜持をねじまげてまでアルセニーが守ろうとしたのは幼い日に別れた弟の面影。
 父の飼い犬として裏社会に身を堕とした、自分と同じ銀の髪と薄氷の目をもつ、妾腹の弟の顔。
 『時間は空けている。私の部屋に来い』
 部屋に呼ばれた時から予感があった。
 その後の展開は漠然と予期していた。
 アルセニーの客観的な部分は、上官から向けられる好色な視線の含意を、すれ違うつど故意に触れ合う肩の強張りの理由を、さりげなく掠められた指先の熱の核心を正しく理解していた。
 アルセニーの葛藤を見抜くように、男は言う。
 『君に拒否権はない。なぜなら私は上官で君は下士官、軍とは徹底した階級社会だ。上官の命令に従えぬ軍人はここにはいらない、軍から脱落したくなければ素直に従ったほうが賢明だとおもうがね』
 脅迫というにはあまりにやさしい口調で、真綿を締めるようにアルセニーを追い詰める。
 関係を拒否すればアルセニーは排斥される。
 上官の言葉は事実。
 命令の建前を借る誘いを断れば、服務規程違反に問われかねない。
 肉体関係を強要されたと訴えでたところで、密室で行われ得た行為を証明するのは難しい。
 そしてアルセニーは権威に頭を垂れた。
 一匹の狗となり男に身を差し出す選択をした。

 守りたいものがる。
 この胸の内で点り続ける、ありし日の約束。
 必ず貴方を守ってみせるとひび割れあかぎれた手の甲に接吻すれば、少年は尊大に顎を引く。

 『アルセニーよ。常に、私と共にあれ。私の忠実なる家臣として、栄えある皇帝の御世に貢献せよ』

 世界など本当はどうでもよかった。
 貴方の幸福のためなら、喜んで世界を売り渡す。
 世界さえ売り渡す決意をしたアルセニーは、己の肉体と魂を売り渡す事を、いまさらためらいはしない。

 目的のためなら手段を選ばず、肉体さえ道具にする。

 男が口元をだらしなく弛緩させ、アルセニーの尻を揉む。
 男の腰が跳ね上がるたび敏感な粘膜が擦れあい、鋭い性感が脊髄にそって駆け抜ける。
 「っ、ふ………大佐、どうかもうこれ以上……」
 甘えるような声で嘆願する。
 こんな淫乱な自分がどこにひそんでいたのかと、醒めた理性でいぶかしむ。
 「君は入隊まもない軍人としてあの場にいた。他の若い軍人と混じり後ろで手を組み毅然と立っていた。他の軍人が緊張し強張った顔つきをしているのに対し、凛々しく背筋をのばし、前を向き……何も恐れるものはないと宣言するその姿は高慢にさえ感じられた。私は勲章を胸に飾られながら、君の姿を目で追っていた。君はとても……異質だったよ。高潔で、貞節で。堅苦しく着込んだ軍服をはだけた君がどんな痴態で喘ぐのか想像するだけで、私の肉は固くなった」
 均整取れた筋肉質の尻に手を這わせ、屹立した肉で粘膜を抉り前立腺を刺激すれば、アルセニーが大きく仰け反る。
 「名前を知ったのはその後だ」
 言葉が続かない。
 快楽に溺れ、淫乱に喘ぐアルセニーの痴態を心ゆくまで堪能しつつ、大佐はからかう。
 「まさかあの清廉な青年がこんな淫乱だったとはね。軍服さえ脱がしてしまえば、所詮はただのオスということか。良い道具を持ってるじゃないか」
 その口調にしかし、落胆の色はうかがえない。
 望外の賜わりものを歓迎するように激しく腰を突き上げ、締め上げ纏わり付く若い粘膜を存分に味わう。
 「大佐ッ…………、」
 執拗な責めにアルセニーが声を漏らす。
 きつく瞼をとじ、しかめた眉間に脂汗を浮かべ、淫らな動作で腰をすりつける。
 「可愛いサバーカだ。そんなに私の物が気に入ったかね。自分から狂ったように腰をすりつけて、貪欲にしめつけて……腿の肉がびくびく痙攣している。辛いのかね。ならばこうして」
 「!!っあ、」
 アルセニーの声が一音階高まる。 
 唐突に姿勢をかえ、上にまたがったアルセニーを絨毯に転がし押し被さる。
 片脚を吊られた屈辱的な体勢をとらされ、苦痛に顔を歪めるアルセニーにのしかかり、無理な体勢でおのれを挿入する。
 肉を抉るおぞましい感触にも増して激しい快感が身の内を貫き、アルセニーの胸が波打つ。
 「どんな気分か説明したまえ、少佐」
 「………大佐が中に、入っています………」
 「満足したか」
 「…………きつい、です……内側から焼かれているようです……」
 「君はなにを望む。私にどうして欲しい」
 意地悪い問いに、アルセニーは荒い息を吐く。
 穿たれた肉棒が中で脈打ち固さを増す。
 内臓を圧迫する棒は入り口付近でとまったまま、それ以上進もうとせず、渇望が募る。
 「人間の言葉を喋りたまえ。ただ喘ぐしか能のないサバーカでは、こちらも物足りない」
 傲慢な要求に、アルセニーはたどたどしく言葉を返す。

 己の魂を殺し。
 屈服させ。
 乾いた唇を、弱弱しく開く。

 「………もっと、奥へ……私の奥まで、貴方の物で抉ってください……」
 「体が疼いてしかたないか。白磁の肌が上気している。私のものはそんなに良いか」
 悪意滴る嘲弄に、アルセニーは躾けられた通りに返す。
 「………っ………は、……どうか……大佐の固い肉棒で、淫らな私の尻を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜてください……私は淫らなメスのサバーカ……大佐の肉棒を嘗め回し、銜え込み……この身を捧げ……国と、軍と、貴方に。忠誠を、誓います……」
 偽りを口にする抵抗はなかった。
 たとえそれが自己欺瞞でも。
 己の矜持に背く行為であっても、目的を達する為に必要とあらば。
 ひとつの真実を隠すため百の嘘をつこう。
 祖国の大地を覆う氷雪のように、降り積む百の嘘で貴方への想いを凍らせよう。
 言い終わるのを待たず、肉棒がアルセニーの体の一番奥へと容赦なく侵攻する。
 襞をかきわけ巻き込み体の奥へと達した肉棒が、前立腺を打つ。
 「ああああっ……」
 「君は美しいサバーカだ、アルセニー」
 淫猥に濡れた音たて猛り狂う肉棒を抜き差し、絶頂に上り詰めるアルセニーを思うさま陵辱し、大佐は悦に入る。
 快楽に翻弄され、恍惚と蕩けた表情で乱れるアルセニーの肉襞をぐちゃぐちゃかき回し、宣言。
 「君ほど淫らで従順なサバーカは見たことがない。首輪をつけてずっとそばにおいておきたい」
 大佐の言葉を最後にアルセニーの意識は弾け、体内に熱い粘液が広がりゆく。
 
 けだるいまどろみに堕ちながら、父のサバーカとなった弟と軍のサバーカとなった自分にどれほどの違いがあるか、アルセニーは考えた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010530203022 | 編集

 きらめく星をちりばめた大銀河を見晴るかす戦艦にて、軍服の青年が美酒を呷る。
 「青く美しき惑星、ツンドーラ・リヴァイアサンよ……」
 視線の先には強化ガラス越しに青い惑星が浮かぶ。
 現住の人類に「地球」と呼ばれるその星は、これからツンドーラ・ツンデレ・ラ・サーシャ皇帝率いる大侵略を受け、豊富な資源を搾取されようとしている。
 淑女のショールのように慎み深く地表を覆う成層雲がゆったり移動する。
 緑と茶の斑の陸地がところどころ濃度の異なる大海に浮かぶ美しい星を悦に入り眺め、皇帝は勝利の笑みを刻む。
 「彼の星は私の指を飾る宝玉にこそふさわしい。侵略が成った暁には、彼の星を精巧にかたどった指輪を作らせよう」
 肩で切りそろえた銀髪、傲慢な冷光放つ薄氷の瞳、残忍に歪む唇。
 白皙の美貌もつ若き皇帝は、窓向こうの惑星へと手を伸ばし、五指を折って掴みとる。
 「我が名はツンドーラ・ツンデレ・ラ・サーシャ十二世、ツンドラ星系ツンデレ星雲、モスクー・ワ帝國の正当なる王脈に連なる末裔にして、宇宙の覇者。今でこそ辺鄙な一星雲の支配者にとどまっているが、いずれは銀河全土に勢力をのばし、偉大なる銀河大皇帝として君臨する。これはその序章だ。今こそ伝説が始まる、栄光と賛辞で彩られたツンドーラ・ツンデレ、ラっ!?」
 大仰に両手広げ、陶酔の面持ちで演説をぶっていた皇帝がびくりとはねる。
 饒舌が不自然に途切れ、皇帝が窓に額を付け、ぴくぴく震える。
 「だいじょうぶですか、皇帝」
 脇に控えた白皙の従者が慇懃に尋ねる。
 皇帝はぷるぷる震えながら精一杯の虚勢を張る。
 「……大事はない、従者アルセニーよ。偉大なる銀河皇帝なる身、この程度でくじけはせん」
 「舌を噛まれましたね」
 「噛んでない」
 「噛まれましたね?あと、なる二回は文法上不適切かと」
 「噛んでないと言っている、皇帝を疑うか、三億光年彼方の監獄星に不敬罪で流刑し死ぬまで強制労働に就かせるぞ!!」
 従者の温容な指摘をかぶりを振って否定するも、重ねて確認され、癇癪を爆発させる。
 片膝付いて控えた従者は、幼稚に地団駄踏むあるじに向かい、頭を下げる。
 「失礼いたしました。ツンドーラ・ツンデレ・ラ・サーシャ皇帝」
 一度も噛むこともなく流暢に述べれば、皇帝の顔が恥辱と憤怒に歪む。
 「……僭越ながら、略されたらいかがで?」
 「なにを言うか。これは父祖から継いだ偉大なる名、帝王家の血脈が冠す尊称、省略は不敬にあたる。案じるな、私は皇帝だ。ツンドーラ・ツンデレ・ラ帝王家の名にかけて、一年後には必ずや真名をそらんじてみせる」
 「やっぱり間違えたんじゃないですか」
 『Шут !!』
 皇帝は激怒した。 
 絶叫と同時に手にした酒杯を叩き付ければ、盛大な音ともに割れ砕け、破片と中身が飛び散る。 
 従者は落ち着き払って進み出、胸ポケットから抜いたフキンで、皇帝の裾の汚れを拭う。
 「皇帝、お足にボルシチが」
 「案ずるなアルセニーよ。ドイツ式乾杯だ。そして私が飲んでいたのは地球産赤ワインで、ボルシチではない。赤く液体状のものがすべてボルシチと思うのはモスクー・ワ帝民の悪い癖だ」
 「恐れながら」
 裾の飛沫を拭い終え、改めて従者が傅く。
 床に飛び散った破片を踏み砕き、残忍極まる蛇の目にこれより手にかけんとする青き惑星を映し、皇帝は宣言する。
 「ツァー・ウーラ・ツンデレ・ラ!!これよりツンドーラ・リヴァイアサンの侵略をおこなう、総員配置につけ!!」
 皇帝が発した号令のもと、乗組員一同が所定の位置につき、着陸準備に入る。
 下降軌道に入った戦艦の特等ルームにありながら、皇帝は含み笑う。
 「そういえば、アルセニーよ。私がこの間征服した星から逃げ出した筐体型触手生物がさきに上陸しているそうだが……」
 「はっ。筐体型触手生物は、地球に上陸し、現地人類と接触を試みた模様。地球人の協力者をえて、帝國の侵略に抵抗すると」
 「愚か者が……帝國の艦隊戦力の前には、無駄なあがきよ」
 迂闊にもとり逃した捕虜のけなげな抵抗など歯牙にもかけず、皇帝は大きく反り返って哄笑する。
 「見てろ地球の愚民どもめ、地球は既に私の手の中、モスクー・ワの属領と化した!地球などと地味な名は捨て、永久凍土に封じ込められた青き氷雪の星、ツンドーラ・リヴァイアサンに生まれ変わるのだ……」
 深呼吸し、肺活量が続くかぎり大喝を放つ。
 「ツンドラ・ツンデレ・ラ・ブリザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーード!!!!!」
 貴賓ルームの強化窓ガラスをびりびり揺らし、狂った哄笑が響き渡る。
 地球は外敵の接近も知らず、平和に眠りこけている……

 同時刻。
 日本。

 「やーん、寝坊しちゃった!どうして起こしてくれなかったのさ、ママ!?」

 ここに、ひとりのいたいけな女装中学生がいる。
 彼の名前はリョウ。
 ぱっちり円らな目と鼻梁のそばかすも愛くるしい元気溌剌な十四歳。趣味+特技、女装と小遣い稼ぎ。
 十分遅れでがなりたてる目覚まし時計を窓から放り出し、ベッドを飛び下り、慌ててパジャマを脱いでセーラー服に着替える。

 「リョウちゃーん、ごはんできてるわよー」
 「いらないよ、ハーシーのチョコ走りながら食べるから」
 「んもー朝ぬいたら体に悪いのよ?ママ、リョウちゃんのために奮発して目玉焼きとたこさんウィンナーとシュガートーストとお味噌汁作ったのに」
 「付け合せへんだよそれ、和洋折衷!?節操ないって!てかママ、ちゃんと起こしてよ!」
 「目覚まし時計かけとかなかったの?」
 「なんでか知らないけどかけ間違えてたんだって!あーもう最悪ぜったい間に合わない、まーた安田っちに叱られちゃう、内申響く!安田っち色仕掛けも賄賂も通用しないからやりにくいんだよねー、まったく頭かたいよ。自分だって校医の斉藤と保健室でいちゃいちゃしてるくせに……」
 階下からの間延びした声に殺気だって返し、だぶだぶルーズソックスを引き上げる。
 よし。
 鏡に映し、アイドルを意識してくるっと一回転。出来栄え確かめ満足。
 階段をかけおり、靴を突っかけ、玄関からとびだす。
 「いってきまーす!」
 
 僕?
 僕の名前はリョウ、元気一杯愛嬌が売りの小悪魔的中学生。性別男。
 男なのにセーラー服?あ、これ趣味。似合うっしょ。
 状況説明?えーめんどくさい。ぱぱっとすますね。今ね、学校にむかってるの。猛ダッシュで。
 四字熟語にすると脱兎暴走~みたいな。え、そんな四字熟語ないって?でも獅子奮迅じゃかわいくないしなあ。
 とにかくね、急いでるの。超ダッシュ。学校遅刻しちゃうから。
 いけずな目覚ましが意地悪して、僕をおこしてくれなかったんだよ。あったまきちゃうね、もう。ぷんすかぷん。
 「あーマジむかつくむかつく!なんで目覚ましちゃんと働かないのさもー、役立たず!インポの男娼なみに使えない!これで連続十回遅刻だよー記録更新だよー学級委員の眼鏡にお説教だよ胸糞わるいー。ただでさえ目え付けられてるのにー」
 たらたら不満をこぼしながらダッシュ加速ダッシュ加速ダッシュ加速。
 体力ないからすぐ息切れる。ああ、ぶったおれそ。
 走りながらハーシーのチョコを齧ってカロリー補給するも、補給したそばから消費したんじゃ追い付かない。  
 僕はどこにでもいる普通の中学生だ(かっこ以外は)。 
 放課後いけないバイトをしてたりするけど、それだって、十年後には若気の至りですまされる可愛いやんちゃでしかない。
 僕の日常は変わりなく過ぎてゆく、はずだった。
 この日まで。
 「!あ」 
 前方に友人発見。
 「おーい、ビバリーっ!!」
 ぶんぶん手をふってよびかければ、20メートル前方にいた同級生が、ばっと振り向く。
 狙撃手に照準されたような不審な挙動。
 前方にいたのは僕の幼馴染のビバリー。
 紺色のブレザーを着込んで、なにかを大事そうに抱えている。
 ぶんぶん手を振りながら近付く僕を見て、ビバリーの顔が強張る。
 「だめッス、リョウさん、きちゃだめ、ストップーーーーーーーーーーーー!!」
 「なんだよー冷たいじゃん、小さい頃は一緒におふろに入ってぞうさんひっぱりこした仲なのにさー、最近つれないよ。なに?夢精した?毛が生えた?気にすんなって、男の子ならだれでも通る道だから!」
 抗いあとじさるビバリーめがけ跳躍、タックルをかます。
 
 『  寄生対象  ターゲット  ロック・オン  』

 無機質な電子音声が鼓膜を震わす。
 「ん?なにこのハロ的なアナウン………」
 「すっ!?」と息を吐くと同時に、しゅるしゅると触手がのびてきた。

 触手が。
 触手?

 いやちがう正確には触手じゃなくて触手を模したバーコードで、どっから伸びてるのかなーと辿ればビバリーが後生大事に抱え持ったパソコンからで、え、何この突飛な展開?
 いきなり触手プレイって刺激強すぎじゃない、R18を余裕でとびこえちゃいますか?
 などという僕のフラチな妄想をよそに、手足に絡んだコードから膨大な電気信号が流れ込んでくる。
 稲妻に打たれたような電気ショック。
 「きゃあああああああァあああああああァああっ!?」
 「リョウさん!!?」
 ビバリーが抱えたパソコンが眩い光を発する。パソコンから伸びた触手が生き物のように脈打ち、僕の体内に不可思議なパワーを注ぐ。
 なにこれ?力があふれてくる………! 
 体の内側から作りかえられてるみたいな酩酊感。ああ、体が、体が熱い………ハーシーチョコのせい?
 そして僕は、クリオネを見た。
 ビバリーが抱えたパソコン、電源を落としたその画面に、頭をかぱっと開いて牙を剥いたクリオネが映し出される。
 
 『血液型 遺伝子 適合 アナタハ 地球ヲ守ル ガーディアン二フサワシイ……』

 クリオネが女神のように、厳かに告げる。

 『オネガイシマス。銀河征服ヲ企ムツンドーラ・ツンデレ・ラ・サーシャ皇帝十二世カラ、地球ヲ守ッテクダサイ……』
 切なる祈りをこめた声が直接内耳に響き、そしてー

 『プリティー・プリズン・ガーディアン、リョウ』

 天啓が閃く。
 「ひぁあああああああああああああぁあああああああああんっ!?」
 びりっ、とセーラー服が裂ける。
 僕の四肢に絡み付いた触手が神々しい光となって霧散し、0と1の配列へと変化する。
 電子の輝き放つ0と1の数列が、セーラー服が裂けて全裸となった僕の大事なところを申し訳程度に隠す。新体操のリボンのように螺旋を描く青白い光に包まれ、それまで羽織っていたセーラー服が分子単位で変化し、ふりふりの衣装へと再構成されてく。
 胸元にはおっきなリボン、プリーツスカートにはフリルをあしらって、ずるずるルーズソックスも派手なドピンクに。
 学校指定の靴は可憐なトウシューズになり、僕の手の先に、ステッキが出現。

 『 インストール完了 』 

 無機的な電子音声を最後に画面は沈黙。
 後に残されたのは、通学路のど真ん中、勘違いしたアイドルみたいなふりふりのかっこの僕。
 「………え……触手陵辱ショーおしまい?ちょっと期待してたのに、残念」
 「リョウさんっ!?」
 肩で息をしながら言えば、慌ててビバリーが駆け寄ってくる。
 「無事っすか、リョウさん!?ああっ、リョウさんだけは巻き込みたくなかったのに……でもこうなった以上しかたない、リョウさんはツンドーラ皇帝の侵略から地球を守るプリティ・プリズン・ガーディアンに選ばれたっス!わーすごいっす、六十億分の一の天文学的確率っス、僕だって不適合だったのに!」
 「お願いビバリー僕にわかる言葉で話して。あと、プリティ・プリズン・ガーディアンとか、子連れのお母さんの目が痛いから連呼しないで」
 園児を後ろにのせ自転車をこぐ主婦が、道のど真ん中に立ち尽くす僕を、じろじろ見ていく。「ママー、あのおにいちゃんおねえちゃんのかっこしてるー」とか、いたいけな声がする。いたたまれない。
 興奮したビバリーは鼻息荒くがくがく僕の肩を揺さぶる。
 「ロザンナの説明聞きましたね?あ、ロザンナってのはこのパソコンのことで、でもほんとはパソコンじゃなくて遠い星からきた筐体型寄生生物なんですよー。ロザンナは僕が付けましたっ、可愛いっしょ?で、ロザンナの説明によるとっすね、この地球は現在狙われてるらしいです」
 「触手に?」
 「皇帝です」
 真顔で訂正されても。どっちもどっちじゃん。
 「銀河皇帝ツンドーラってのはとにかく悪い奴で、これまでいくつもの星を征服して植民地化してきたっス。ロザンナは滅ぼされた星の生き残りで……次に狙われるのが地球だと知って、危機をしらせにきたっス。そしてリョウさん、リョウさんは地球を守るプリティー・プリズン・ガーディアンに大抜擢!コングラッチュレイションっす!」
 「おめでたくないし連呼するなばかああああぁああ」
 こんなかっこで叫んでも説得力ない。
 つまり。ビバリーの話をまとめると。今、地球は、そのツンデレ皇帝に狙われていて。
 ロザンナは皇帝に滅ぼされた星の生き残りで。地球を守る戦士を選んでいて。
 僕が、選ばれちゃったわけ?
 んなアホな。
 大迷惑。オーディション申請くらいさせてよ。 
 「冗談じゃないよ……そんな魔女っ子アニメにありがちなトンデモ設定受け付けないよ。しかも僕、男の子だって。こーいうの普通女の子が着るもんしょっ、ビショージョセンシならぬビショーネンセンシって語呂悪いし」
 「女装が趣味じゃねっすか、リョウさん」
 「それとこれとはちがう!」
 「自分で美少年とか言っちゃうあたりまんざらでもないんすね」
 「だって僕可愛いし。そこは認めるよ、うん、否定しない。でもこのかっこはむりむり」
 「女装は市場で需要あるんすよ?ショタコンの八割男性だし」
 「わーいらない知識。ごく一部の特殊嗜好者に需要あってもね」
 「お尻が小さいこの頃流行りの男の子だから大丈夫っすよリョウさんは。僕が保証します」
 「きらきら目を輝かせて保証されても困るんだって。ドゥユーアンダスタン?」
 「似合ってるっす。かわいっす。辛抱たまらんっす」
 ちょっと嬉しい……じゃなくて。ばかばか、おだてにのってどうすんのさ。
 ふりふりスカートの裾をちょいとつまむ。
 「たしかに女装は好きだけど魔女っ子になりたいわけじゃないの、僕の女装は可愛いルックスを利用しててっとりばやく親父から金をむしりとろうっていう打算なの!男の子のかっこしてるより女の子のかっこしてるほうが倒錯的で受けいいの、でもこんなふりふりドピンクなかっこじゃ繁華街立てないし、どん引きー」 

 視界が翳る。
 空から戦闘員がふってきた。

 「え?」
 反射的に顔を上げ、凍り付く。 
 「もう着いたんスか!」
 ビバリーが青ざめ、ステッキを握って硬直する僕をせかす。
 「リョウさん、あれです、ツンドラ皇帝の手下っスよ!早く倒さないと街がめちゃくちゃにされるっス!」
 「え、そんな、だっていきなり言われても……ぼく三分前まで普通の男子中学生だったのに!?」
 抗議の声を上げれば、ビバリーが尊大に顎を引く。
 「だいじょうぶ。必要な情報はコードを介し、リョウさんの頭脳にインストールされてます。リョウさんは本能のまま動けばいい。……街を、救ってください」
 言い争う僕らを嘲笑うかの如く、空から来たりた覆面戦闘員が、暴虐の限りを尽くし街を破壊する。
 レーザー銃で電柱を破壊したり、自販機をひっくりかえしたり、突然奇声を発していたいけな園児を泣かせたり……
 悪者っていうわりには、迫力ないなあ。
 「ぼく、急いでるんだけど」
 「学校と平和とどっちが大事っすか!!」
 「義務教育」
 「リョウさんの大事なママンに危害がおよんだらどうするんスか!?」
 あ。
 『いってらっしゃい』
 家を出る時かけられた優しい声と、優しい笑顔が鮮烈にフラッシュバック。
 ママ。
 僕の大好きなママ。
 今頃はひとり、家に残っている。
 「………………っ、」
 しかたない。
 やるしか、ない。
 「ちょっと、勝手に僕の街あらさないでくれる?」
 ああ、遅刻決定。
 ステッキを構えて踏み出せば、戦闘員が破壊行為を止め、一斉にこっちを向く。うわあ緊迫。
 震えそうな足を叱咤し仁王立ち、視線の集中砲火に耐える。
 「何者だ、貴様っ!?」
 戦闘員の誰何に、僕は答える。
 というか、口が勝手に動く。
 「あるときは女装趣味の男子中学生、あるときはスケベ親父を手玉にとる援助交際の元締め……その正体は」
 もうやけだ。
 羞恥を吹っ飛ばす勢いでステッキを振り上げ、人さし指と中指でVサインを作り、目の横にもってくる。
 「プリティー・プリズン・ガーディアン、リョウ!」 

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010530192450 | 編集

 「日頃の行いがいいからすべりこみセーフっ」 
 ダダダダッ、と弾幕の擬音が突きそうな勢いで校門に転がり込み校庭突きぬけ廊下をすっとばし教室にホール・イン・ワン。
 待ち構えていたように予鈴が鳴る。
 「やったね、危機一髪!」
 息を弾ませ指を鳴らす。のったらのったらビバリーがついてくる。
 僕も自慢できないけどねっからインドア派のビバリーも体力からっきし、運動神経は壊滅絶望的。
 教室のドアをがらっと開けさあうるさい先生がやってくる前に着席着席っと中に入ろうとして、行く手に影が立つ。
 「4.21秒前か。本来、予鈴五分前には着席し、予習を済ませておくべきだ」
 腕時計の文字盤をちらり一瞥、銀縁眼鏡のよく似合う知的な双眸を細め、そいつは言う。
 無視して席に向かう。
 足早に教室を突っ切る僕の背に、レンズの照り返しも威圧的に釘をさす。
 「リョウ。常々言ってるが、その服装は校則違反だ」
 「似合えばいいじゃん」
 「だらしない靴下の履き方は風紀を乱す」
 「そっちかよ!」
 かちっと紺色のブレザーを着こなした学級委員が、上履きの靴音も高く、こっちにやってくる。
 「僕には学級委員として風紀の乱れを監視する義務がある。本校の男子にはブレザー着用が義務付けられている、特例は認められない。第一、そのセーラーは本校の制服じゃない。本校は女子もブレザーだ。貴様、どこから入手した?」
 「ブルセラ。嘘、ネットオークション。九万で競り落とした」
 口を開けばお堅い言葉と嫌味が飛び出す委員長サマ、僕とは水と油犬猿の仲の鍵屋崎直。
 僕が通ってる学校はエスカレーター式中高一貫校、偏差値わりと高め。中の上ってとこ。鍵屋崎はうちのクラスの委員長で担任安田っちの息子。親子そろって四角四面エリートで可愛げない性格してる。苗字がちがうのは複雑な家庭の事情なのだそうだ。
 鍵屋崎は僕を目の敵にしてる。授業態度が悪く素行不良で有名なくせに要領よく、先生受けもまあまあな僕はさぞかし目障りだろうね。
 遅刻常習犯の僕は朝っぱらから鍵屋崎にお説教くらっては嫌~な思いをしてる。
 鍵屋崎は学校始まって以来の天才の呼び声高く学年テストでも常にトップを維持してる。僕?下から数えたほうが早い。とにかく鍵屋崎はイヤなヤツなのだ。がみがみ人の欠点あげつらって小姑かっての。
 机に乱暴に鞄を置く僕の傍らに立ち、鍵屋崎が指摘する。
 「女装するならせめて、本校の女子ブレザーにしろ」
 「やだ。セーラーのが受けいいもん」
 「校則三か条目に男子・女子ともに指定の制服での通学が定められている。本校のブレザーに身を包むなら多少の倒錯も黙認しよう。学級委員として、僕の視野にいる間は校則違反を許可しない」
 まあたしかに「男子は女子の制服での通学禁止」って項目ないけど。
 この上ない渋面作って妥協する鍵屋崎にちょっと愉快な気分になる。
 だから僕は言ってやる。
 椅子に座り、だらしなく頬杖付き、せいぜい憎ったらしくにやにやと。
 鍵屋崎最大の弱点を突く。
 「風紀の乱れがどうこういうならクラスメイトの前に自分のパパン注意すれば~」
 「なぜあの男の話が出てくる」
 「有名だよ~こないだ新聞部にスクープされたじゃん、保健室の情事。安田っち、校医とできてるんでしょ?貧血で保健室いったらカーテン引いたベッドの向こうから不審な物音と喘ぎ声が……」
 「誤解だ。妄想だ。幻聴だ。錯覚だ。捏造だ」
 全否定かよ。
 「安田は教師だ。常に生徒の模範となるべき現職の教師ともあろうものが、率先して校内の風紀を乱すはずがない。おそらくその人物は幻覚を見たのだ、貧血で頭の血がたりなくなって現実にはありもしない音を聞いたのだ。つけくわえるなら君の遅刻とあの男の行為は関係ない、話をすりかえるな」
 「しかたないっしょ、ステッキで撲殺したんだから」
 「撲殺?誰を?」
 「覆面かぶった変質者を。空から大量におちてきて大変だった。リアルオチモノゲー楽しくないね」
 物騒な単語に鍵屋崎が眉をひそめる。
 「なるほど、君は徹夜でゲームに熱中して遅刻したと、そういうわけだな。怠惰な」
 天才が曲解する。
 「いいかリョウ、ただでさえ君はクラスで一番背が小さい。体格も貧弱で持久走では常に最後尾だ。君の体格が貧しいのは、睡眠時間が不十分だからだ。成長期には最低五時間の睡眠時間が必要だ、不十分な睡眠は心身の健全な成長を妨げるおそれが……」
 あーうるさいうるさい。両手で耳をふさぎ突っ伏す。
 「おーい、直ちゃ―――――――ん」
 お気楽に間延びした声に目をやれば、教室のドアを開け放ち、ゴーグル少年が手を振っていた。
 鍵屋崎の友達、高等部のヨンイル。
 ぱっと逃げ道を閃く。
 「違反違反言うならさあ、まず友達の服装注意すれば?あれ、学ランだよね。ゴーグルも私物だし」
 ヨンイルを指さし抗議すれば、鍵屋崎が苦々しげな顔をする。ドアから半身入れて鍵屋崎を呼ぶヨンイルは、前をとめない学ランを粋に着くずし、派手派手な赤シャツを羽織っている。額にはどでかいゴーグル。なんでもじっちゃんの形見らしい。
 お説教を中断し、鍵屋崎がドアへと引き返す。
 「ヨンイル、今度はなんの漫画にはまってるんだ」
 「金剛番長。こぶしたん萌え~~~」
 納得。それで学ラン。校内コスプレってどうなの?
 まわりから突き刺さる痛い視線を快活に笑って吹っとばし、手の先にひっさげた紙袋をずいと鍵屋崎に突き出す。
 「これ、約束のブツ。忘れる前に渡しとこて……」
 鍵屋崎の顔が強張る。
 「教室で渡すな!第三者の不審の目がある!」
 「え?そやかて行き違いは切ないやん。俺今日漫研あって図書室よれるかわからんし、念のため……」
 「言い訳は他で聞く。ふたりっきりで話し合おう」
 口を尖らせ言い返すヨンイルの背中を強引に押し、どこかへと連れて行く。あんな取り乱した鍵屋崎はじめて。
 紙袋の中身がちょっと、かなり気になる。
 「あの慌てぶり、更衣室に仕掛けた盗撮カメラのビデオ受け渡しとしか思えないね。委員長、危ない裏商売に手を染めてたんだ。大人しい顔して、やっるー」
 口笛吹いて茶化せば、息を切らしたビバリーがやってきて、僕の後ろに着席。
 「素直にごめんなさいすればいいのに挑発するから話がこじれるんすよ」
 「だってあいつむかつくじゃん。いっつもひとばかにしてさー。どうせ僕はおばかですよ、保健以外得意じゃありませんよ」
 毒舌家でとっつきにくい鍵屋崎はクラスメイトから敬遠されてる。あいつを嫌ってるのはべつに僕だけじゃない。
 鍵屋崎がいない間に命の洗濯、だらーっと机に突っ伏して足を手をぷらぷらさせる。
 「でも、マジ間に合ってよかった。すごいよね、あの破壊力。一振りで電柱倒れた」
 「力の加減覚えてください」
 通学途中、戦闘員に襲われたけどステッキをぶん回してなんとか追っ払った。戦闘員が命からがら退散した後、変身がとけて、ステッキは消えた。盛大に破れたセーラー服も復活し、全裸で恥をさらすのは避けられたけど。
 「あの使い方でいいの?もっとこー、魔女っ子的にプリティーな呪文唱えて光がしゃらんらー、で、メルヘンな技くりだすと思ったんだけど、やってること単純に撲殺だよ」
 手にはまだステッキで戦闘員を撲殺した時の感触がありあり残ってる。初めて人殺した時ってこんな気分なんだろうか。
 「まだまだ謎が多いっす。ぼくにしたってロザンナと会ったのは昨日ですし、わからないことだらけで……」
 「筐体型触手生物って命名センスがね……」
 よし、説明会だ。
 「サボろう、ビバリー」
 「えっ!?だってリョウさん、せっかく間に合ったのに!!」
 「一限、物理の曽根崎でしょ?甘いからだいじょーぶ」
 どうせ中高エスカレーター式、受験であせる心配もない。そねっち、僕にベタ惚れのパトロンの一人だし。
 善は急げと机を叩いて席を立ち、ビバリーを促し出ようとして、教室の真ん中に空席を見付ける。
 「あれ、ロンいないの?元気だけが取り柄のくせに欠席なんてめずらしー。あ、また上級生の呼び出しかな?人気者だねえ」
 「だ、大丈夫っすかね?先生に言ったほうが……」
 不在のクラスメイトの名前を出せば、お人よしのビバリーが不安げに顔を曇らせる。
 「余計なことすんなってロンキレるよ。男の喧嘩に口を挟むのはルール違反。さ、いこ」
 僕が授業さぼるのもロンが上級生の不良グループに呼び出しくらうのもしょっちゅうだ。可愛げない三白眼と物言いのロンは、上級生のおにいさまがたに「生意気だ」と目を付けられて、頻繁に喧嘩を売られてる。
 「レイジさんもいねっす」
 「不純異性交遊と不純同性交友。さあどっち?」
 鍵屋崎が学校一の優等生なら、レイジは学校一の問題児。中等部で留年という離れ業をなしとげた事からも人となりがわかる。
 しかもとんでもない美形ときた。
 気まぐれで有名なレイジが授業をふけるのは珍しくない。だてに留年してないだけあって、勉強なんてろくにしてないのに、成績は常に上位。頭の出来が特別なんだろう。
 「しかたねっすね……付き合うっす。言い出したら聞きませんし、リョウさんは」
 「さっすがビバリー、話がわかるぅ」
 てか、ビバリーのせいで巻き込まれたんだよね。責任とれよ。
 自分の事は棚に上げため息吐くビバリーを引っ張り、教室を出、屋上へ行く階段をのぼる。
 鉄扉を開けてコンクリート張りの屋上に駆け出し、深呼吸する。
 「じゃ、聞かせてもらおっか」
 屋上に人気がないのを確認し、手摺に凭れて振り返る。
 「君とロザンナの禁断の出会いを」

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010530174807 | 編集

 陰鬱な灰色の街に沛然と雨が降る。
 「風邪をひいたか」
 水溜りを蹴散らし歩く。
 雨で煙る視界に立つ電柱を捉える。
 電柱の脇にちんまりダンボール箱が置かれている。
 密閉された箱から今にも息絶えそうな細い鳴き声が漏れる。
 ただならぬ予感に駆り立てられ、無骨な指に似つかわしからぬ繊細な手つきで蓋を開く。
 箱の内側に一匹の子猫が蹲っていた。
 凛と利発そうな目をした猫だ。
 血統書つきだろうか。
 漆黒に艶めく毛並みはさらさらと湿気を含みなお綺麗な光沢を放ち、いかにも撫で心地がよさそうだ。
 「にー」
 一人と一匹の出会いだった。

 帯刀貢はそぼ降る雨の中家路を急いでいた。
 雨が降ると過去に拵えた古傷やまだ癒えぬ打ち身の生傷が痛む。
 加えて風邪の引きはじめの悪寒がやまず、不摂生からなる不養生に、知らず拳を握り締める。
 「精進が足りん」
 帯刀道場の跡取りが風邪をひくなどけしからん。なんたる軟弱な。
 師範を父と仰ぎ武士道一筋に身を捧げて十八年、稽古は一日も欠かした事がない。
 武士道は一日にしてならず峻烈な峰に挑むが如したゆまぬ努力の積み重ねが技を磨くのだ。
 無口無愛想で近寄りがたく思われる貢だが、人並みに喜怒哀楽の情はあり、怪我をすれば痛みを感じる。持ち前の鉄面皮が人に敬遠される一因だが、既に顔の一部と化した眉間の皺はいかんともしがたい。
 背筋に添う寒気と古傷の疼きに耐え、傘を握り締める手に力をこめる。
 「俺はまだ甘い」
 帯刀家の跡取りとして一身に期待を負う貢は、武士にあるまじき不甲斐なさを痛恨の思いと共に噛み締める。
 一人暮らしを始めてはや一年。
 親元を離れ安アパートで暮らし始めたのは、武士道一筋に十八年を生き、恋人はおろか同性の友人さえ持たぬ己の在り方に疑問を抱いたからだ。
 帯刀の姓の呪縛から逃れ、自分と向き合う時間がほしかった。
 道場を継ぐのが使命だと心得ている。父母の育ての恩に報いるため、一族の悲願をはたすため、自分は剣を修めて道場を継がねばならない。
 時代の趨勢に伴い門下生が離れ、廃れた武士道を復権させる。
 離散した門下生を呼び戻し、傾きかけた道場を立て直すのが使命だと心得、物心つくかつかぬかの頃より努力を重ねてきたが、武士道一筋に捧げた十八年に時折漠然とした虚しさを感じる。
 父を師範と仰ぎ、幼き頃より他の趣味もろくろく知らず厳しい稽古にうちこみ、気付けば冗談ひとつも言えぬ朴念仁ができあがっていた。
 黙然と手を見下ろす。
 ただひたすら刀をふるってきたこの手には他にできることがあるのではないか、他に掴めるものがあるのではないか。
 古い刀傷を刻む掌を見下ろすたび、節くれだった武骨な指を見下ろすたび、胸の内を複雑な想念が過ぎる。
 思春期特有の葛藤と片付けるにはあまりに根深く、帯刀貢の存在の根幹に関わる命題だった。
 傘にあたった雨粒が単調な旋律を奏で、アスファルトに当たって弾けた雨滴が同心円状の波紋を生む。
 「こんな日は湯船で熱燗に限る」
 使い込んだ防具を入れた袋を担ぎ、足早に歩く。
 アパートと道場の往復で日々は漫然と過ぎてゆく。
 友人も恋人もいない孤独で平坦な生活に変化の訪れはなく、今では狭い風呂で嗜む熱燗だけがささやかな贅沢となった。 
 酒は万病に効く。熱燗を呷れば風邪も癒える。手に提げたビニール袋の中には発泡酒とスルメが入っている。
 もうすぐアパートだ。
 角を曲がった途端、電柱の脇にダンボールが置かれているのに気付く。
 無視して通り過ぎようとするも、不自然な箱が意識の隅にひっかかり、無意識に歩調をおとす。
 「にー」 
 密閉された箱の中から弱弱しい声が漏れ、立ち止まる。
 ダンボール箱へと歩み寄り、蓋を開く。
 ダンボールの中にちんまり蹲っていたのは、一匹の猫。艶々と輝く黒い毛並み、利発そうに尖った耳、悠揚と垂れた尾。居住まいにどことなく品がある。両親か、少なくとも片親が血統書付きと見て間違いない。
 蓋を開いた手が止まる。
 猫と目を合わせ、貢は困惑する。
 「捨て猫か」
 厄介なものに関わってしまったというのが第一印象。
 無視して通り過ぎればよかった。何故わざわざ蓋を開けてしまったのかと呪う。
 単調な雨音が沈黙を埋める。
 陰鬱な曇り空の下、幾重にも水溜りがさざなみだつ道路の片隅で、箱入り猫と向き合う。
 「新月の夜のような毛艶だな」 
 美しいと素朴な感嘆が湧く。悪戯に撫でてみたい衝動が湧くも、辛うじて自制する。
 武士たるものが軟弱なと己を叱咤し、誘惑に疼く手を苦労して引っ込める。
 猫はじっと貢を見返している。
 見知らぬ人間に覗き込まれて慌てるでも怯えるでもなく、いっそ無感動に落ち着き払い、ガラス玉のような目に貢の困惑顔を映す。
 猫の目に映った眉間の皺がますます深くなる。
 アパートでは動物を飼えない。
 内緒で飼っているのがばれれば大家に追い出される。
 「武士に情けは無用」
 自分に言い聞かすように低く呟き、未練を断ち切るようにすっくと立ち、その場を離れる。
 「にー」
 猫が貢を見上げる。
 無表情な顔、観察対象に注ぐような冷静な視線になぜか心が痛む。
 空腹を訴えるでもない、人の好意に甘えない、ただただ本能に忠実な平板な鳴き声が一音高く響く。
 俺に生き物を飼う資格はない。
 ましてや猫など。
 刀をふるって人を傷付けることしかできぬ手に、こんな小さく弱く、あたたかで柔らかな生き物を抱けるはずがない。
 傘を握りなおし、アパート目指し歩を再開する。
 猫はダンボールの中に大人しく座し、傘さし遠ざかる貢の背中を深沈たるガラスの目で見送る。
 前脚を行儀よく揃え、眼鏡の向こうの双眸に冷めた達観を宿し、自分を見捨て立ち去る人間へと淡白な視線を放る。
 大股に歩き出した貢は、ダンボールから数歩離れ、不吉なブレーキ音を聞く。
 「!!」
 咄嗟に振り返り、駆け出す。
 嫌な予感に突き動かされ、条件反射で身を翻した貢の正面、非常識なスピードで突っ走ってきた車が盛大に水溜りを蹴立てる。
 雨に煙る視界の中、タイヤがまともに水溜りに突っ込んで瀑布を巻き上げる。
 電柱横の猫の存在など気付きもせず。
 「いかん!」
 手を放れた傘が放物線を描いて宙を舞い、路面に激突する。
 車が完全に走り去るのを待ち、懐に抱いたダンボールから顔を上げる。
 「無事か」
 貢が身を挺し庇った猫は、無事だった。
 守りきった生命の温かみに触れ、安堵の息を漏らす。
 急に駆られ口に出してから、猫が言葉を話せない事に気付き苦笑する。 
 ずぶぬれの前髪からぽたぽた雫が滴る。
 たっぷり泥水を被った髪と服が張り付き、悪寒がますます酷くなる。
 「………にー」
 別段感謝するでもなく、平板に猫が鳴く。
 余計なお世話だと言わんばかりの可愛げない態度が、しかし、この猫には似合う。
 眼鏡の向こうに怪訝な色を浮かべた猫は、しばらく無言で貢を見返していたが、おもむろに動き出す。
 間近で覗き込む貢に近付き、薄桃色の舌を出し、頬の泥汚れを舐めとる。
 ざらついた舌の感触がくすぐったく、胸の内で複雑に絡まった想念を紐解いてゆく。
 見栄と矜持をはき違え、もう少しで助けられるものをむざむざ見殺しにするところだった。
 醜い手を恥じるより、手の届く範囲で助けを乞うものに報いろう。
 泥を舐め取った舌を前脚で擦り、不愉快げな渋面を浮かべる様と仕草の愛らしさに頬がゆるむ。
 「潔癖症の猫とは変わってる」 
 ぎこちない手つきですくい上げ、胸に抱く。
 規則正しい心音となめらかな毛皮の感触、温かい体温が伝わる。 
 「ともに来るか」
 不器用に問えば、ツンと澄ましてそっぽをむく。
 是か否か問えば完全に否の態度だが、手放してしまうには、すっぽり胸におさまる体温はあまりに愛しい。
 せめて悪寒がやむまでの間だけでも、こうしていたい。
 見て見ぬふりはもうできない。一度抱いてしまえば、その瞬間にえにしができる。
 武士に情けは無用だが、今だ未熟な自分は、どうしても甘さが抜け切らない。
 サムライに抱かれた猫は抵抗せず、迷惑そうな顔をしている。
 人間の不潔な手に触られるのは我慢できないが、雨の屋外に放置され凍死するよりましだと妥協したらしい。
 大人しく抱かれるままの猫を腕に乗せ、激しさを増す雨音にかき消されそうな声で呟く。
 「……体が冷えた。せめて一晩、お前の毛皮で暖めてくれ」
 一人と一匹はアパートへの帰路を辿った。
 
 貢が住むアパートは築十八年。
 安普請の壁は薄く生活音が筒抜けでプライバシーなどあったものではないが、もとより欲が薄い貢は余り不便を感じない。
 時代錯誤な慣習が今なお生きる帯刀家には、電子レンジやテレビが代表する文明の利器もなく、炊事や掃除に当たり前の如く人手を使っていた。
 生家での暮らしを考えれば、アパートでの一人暮らしは自由を満喫できるだけ気が楽だ。
 もっとも、自由と孤独が同義と気付いたのはいつ頃か。
 親の監視の目が届かぬゆえ自分の采配で一切合財を取り仕切るのは人の手を煩わさずにすみむしろ気楽だが、友人はおろか恋人も持たぬ貢にとって、アパートでの一人暮らしは日常の孤独を再確認するに等しい行為。
 「帰参した」
 返事がないのはわかっていて、つい口に出してしまう。
 物心ついた頃より父母に厳しく躾けられた。
 殊に母は行儀にうるさく、挨拶は欠かさぬようにと教えた。
 刷り込みの威力は絶大で、稽古を終えアパートに帰宅した際も、貢は必ず口に出し帰還を報告する。
 ドアの向こうに広がるは無味乾燥な部屋。
 六畳四畳半の質素な部屋は妙に寒々としている。隅にきちんと畳んだ布団とちゃぶ台と小さな箪笥のほかに家具は見当たらず、貢の几帳面がすぎて堅苦しい性格を物語る。
 ドアを閉め施錠する。土間に脱いだ靴を揃え、畳に上がる。
 「………………」
 無言のまま台所へ行き、屈んで冷蔵庫の扉を空け、めぼしいものを物色する。
 「…………ない、な」
 眉間に困惑の皺が寄る。
 貢が気難しい顔で見詰める冷蔵庫の中は見事にがらんとして、タッパー入りの佃煮のほかにできあいの料理は見当たらない。
 「に」
 煌々と点る冷蔵庫の中を覗き込み、思案する貢の足元で猫が鳴き、貢を真似て眉間に皺を刻む。
 悩んだ末手を突っ込み、タッパーの蓋を捲る。
 「こんなものしかないが、よいか」
 蓋を剥いだタッパーを床に置く。
 おそるおそる歩み寄った猫が、さも不思議そうな顔をし、小鼻をひくつかせ匂いをかぐ。
 「に?」
 「佃煮は初めてか」
 はたしてこれは食べ物か、口にして危険はないかと猜疑の眼差しを向ける猫に、無愛想に呟く。
 「安心しろ。毒ではない。苗の佃煮は絶品だ」
 それでもまだ口を付けず、半信半疑で固まる猫の背を、片膝たて不器用になでる。
 「苗は料理が得意で、俺の食生活を案じて時折惣菜をさしいれてくれるのだ。きっと良い嫁になる」
 貢の幼馴染の苗は、帯刀家に住み込みで働く女中だ。
 一人暮らしを始めた貢を案じ、時々様子を窺いに来ては、実の姉のような口調で生活態度を嗜める。
 苗は貢の初恋だった。
 しかし当時の貢は淡い恋心を打ち明ける勇気を持たず、成長するにつれ身分差を意識し、以前のように会話できなくなってしまった。
 初恋の人のたおやかな笑顔を追憶し、小さくかぶりをふって未練を断ち切る。
 「遠慮せず食え。味は保証する」
 「にゃあ」
 「猫の餌はおいてないのだ。カツオブシでもあればよいのだが……気がきかず、あいすまん」
 律儀に頭を下げれば、誠意が伝わったのか猫がしぶしぶと承服する。
 一人と一匹しかいない台所で真剣に猫を説得する貢の姿はこの場に第三者がいればさぞかし滑稽に映ったろうが、幸いにして自覚はない。
 優しく促す貢を見上げ、猫がもどかしげに前脚を擦り合わせる。
 「にゃう、にゃぐ、にゃぁ」
 「?何をしたいのだ」
 「にゃ、にゃぐ、にゃが」
 必死に何かを伝えんと、猫がもごもごとしゃべる。
 前脚をしきりと擦り合わす動作をくりかえし、背後の流しに意味深な視線をくれる猫を訝しむも、はたと気付く。 
 「手を洗いたいのか」
 「にゃ」
 漸く理解したか、この低脳めがと尊大に頷く。 
 「……………猫が、手を?」
 「にゃ」
 悪いかと眼光鋭く、猫。
 どうやら間違いない。しかし、食前の手洗いを所望するとは畜生の分際で変わってる。実に礼儀正しい。 
 はたして手洗いを希望する猫などいるものか、しかし現実に目の前にいる以上、こじれぬうちに手を貸すほうが無難だ。 
 そう判断し、軽々と猫を抱き上げてステンレスの流しに向かい、蛇口を捻る。
 「石鹸は入用か」
 「にゃ」
 勿論と首肯する猫の前脚を軽く掴み、石鹸をとって泡立てる。
 そこから先は猫ひとり、否、一匹で出来る。
 貢に両手で支えられた猫は、流しの方へと身を乗り出し、眼鏡の奥の目に真剣な色を宿し、執拗に前脚を洗う。
 「………潔癖症だな」
 貢の呟きを無視し、手を洗い終えた猫が満足げな顔で蛇口を締めようとする。
 が、締まらない。猫の手ではうまく蛇口が回らず、苦戦する。
 「にゃ、にゃぐ、にゃウ」
 ぬれた蛇口と格闘する猫の顔に焦りが浮かぶ。
 見かねた貢が蛇口を締めてやれば、余計なお世話とばかり手から抜け出し床に着地、いざ佃煮を食べようとして……
 「待て。せっかく綺麗に洗っても、四つ脚で着地しては元の木阿弥ではないか」
 素朴な疑問を発した貢の視線の先、猫が口にくわえた佃煮がぽとりと落ちる。
 愕然とした猫を苦笑気味にとりなす。
 「こうすればいい」
 背後から這いより、湿気を含んでしっとりぬれた黒い塊を抱きかかえ、懐から出した手拭いで丁寧に前脚を擦ってやる。
 猫はひどく憮然とした様子でされるがまま手を拭かれていたが、終了と同時に貢から飛び離れ、改めて佃煮をくわえる。
 味に異変があればすぐ吐き出せるよう慎重に咀嚼するも、じきにその目が輝き出し、食べる勢いが僅かに加速する。
 「………行儀が良いな」
 決してがっつかず、食べかすを零すことなく、一口ずつ控えめに佃煮を齧る猫に感心する。
 よほど良い家で飼われていたらしく、食べ方に品がある。
 「………眼鏡が邪魔ではないか?」
 はて、眼鏡をかけた猫とは面妖な。
 前の飼い主の酔狂だろうか、と首を傾げる。
 どうでもよい。
 猫が腹を満たす間に着替えを済まそうと立ち上がり、畳の間へ向かう。
 濡れて肌にはりついた服の不快さに顔を顰め、シャツの裾に手をかけ、一気に脱ぎ払う。
 立会い稽古で出来た青痣が艶めき乱れ咲く体は、細身だが鞭のように引き締まっており、脆弱さとは無縁。
 強靭な鞭の如く引き締まった上半身を外気に晒せば、悪化した寒気が氷柱の如く背筋を貫く。
 「…………まずは、湯浴みだ」
 早く体をあたためなければ本格的に風邪をひいてしまう。
 風邪をひくなど不摂生の証拠だ。
 足早に居間を抜け、台所を突っ切り、風呂へ通じる板戸を引く。
 アパートに備え付けの浴槽は狭く、貢が膝を屈め漸く入れるほどの容積しかないが、この際文句は言えない。
 手早く蛇口を捻り、湯を溜める。
 蛇口から迸る湯が栓を嵌めた浴槽に溜まっていくのを待つも、奇妙な視線を感じ振り返る。
 板戸の隙間で瞳孔の細い目が爛々と光る。
 食事を終えた猫が、板戸の隙間から遠慮がちにこちらを窺っているのを察し、その体をそっと抱き上げる。
 「外は冷えただろう。ともに入るか」  
 湯が浴槽の縁近くまで溜まるのを待ち、白い湯気が立つ中、タイル貼りの床へと猫をおろす。
 下穿きと一緒に下着を脱ぎ、脱衣籠へと入れる。
 一糸纏わぬ姿となった貢を濛々と湯気が包む。
 貢は再び猫を抱き、タイルを踏みしめて浴槽に向かい、まずは右足を入れる。
 なみなみと汲まれた湯がたぷんと波打ち、次いで左足を入れ下半身を沈めれば、脱力伴う安堵感が冷え切った体を芯から溶かしていく。
 「極楽、極楽」
 恍惚の溜め息を漏らし、爺むさく唸る。
 下から次第に身を沈め、しまいに肩まで浸かり、たゆたう湯の至福にしばし瞑目する。
 「次はお前の番だ」
 「にゃあ」
 「風呂は初めてか?怖がる事はない、すぐすむ」
 「にゃ、にゃウぅうううううゥぐ、にゃがごご!!」
 猫がぐるぐると喉を鳴らし、抗議とも制止ともつかぬ奇声を放つも、貢は構わず手を下げていく。
 「気持ちはわかるが、オスなら試練を克服する度胸も大事だ。俺も幼少の頃は父上によく禊の行を課されたが、水責めより湯責めのほうがまし……」
 「にゃがゥ、にゅぎゅ、にゃああああああああぁぐうううううううううゥるゥううううううう!!」
 唐突に猫が暴れだす。
 前脚後ろ脚を突っ張り振り回し、貢の手を逃れようと暴れ狂う激しい剣幕に戸惑い、つるりと手が滑る。
 「!?不覚っ、」
 ある意味自業自得と言えよう。
 猫が身もがき暴れたせいで支える手がすべり、哀れ猫は抵抗むなしく落下、盛大な湯柱を立て沈没。
 「大丈夫かっ、猫!」
 水面に大量の泡が浮かんでは消える。
 底まで沈没した猫を救わんとおもむろに立ち上がった貢、前を隠すのも忘れ浴室どころか薄い壁突き抜け隣室まで届く声を張り上げれば

 「立派な殺人未遂だ」 

 「!?」
 呼吸の泡噴き上げる水面が割れ、大量の湯を浴槽の縁から零して何者かが飛び出す。
 手探りで木刀を求めるも見付からず混乱を深める貢の正面、曇った眼鏡をかけた全裸の少年が場違いに淡々と言う。

 「犯した失態を数え上げればきりがないが、他を差し引いてもこれだけは許せない」

 浴槽の中、膝突き合わす距離に対座した少年の傲慢な物言いに、貢は驚愕を通り越し絶句する。
 前を隠すのも忘れ愕然と仁王立つ貢の股間を一瞥、軽んじるように鼻を鳴らし、びっしりと水滴伝う眼鏡をとる。
 露になった白皙の顔は熱い湯に浸かり上気し、水滴がやどる睫毛の意外な長さに貢の心臓は早鐘を打ち始める。

 「入浴の際は眼鏡をとるのが通例の常識だ。猫の言語も理解できないとは大脳新皮質がくらげの死体なみにゼラチン化してるぞ」
 猫が人間に変身した。

 怪異だ。
 「化かされたのか……」
 堂々前をさらし仁王立ち、呆然と呟く。
 年経た畜生は変化の術を身につけるという。
 この猫も物の怪のたぐいだろうか。
 可愛い姿と鳴き声で人を騙し懐に入り、とって食うのが本性か。
 「君は弁慶か」
 「何?」
 さすが物の怪、胡乱なことを言う。
 驚きと困惑に固まる貢の顔、深く刻まれた眉間の皺を見やり、猫から人へと変化した少年が小馬鹿にしたように言う。
 「武蔵坊弁慶も知らないのか、無知め。日本史の授業では熟睡してたくちか」
 見知らぬ少年と全裸で向き合い、羞恥と困惑が募る。
 しっとり濡れてはりつく髪の先で玉を結び、薄く端正な鼻梁に添って雫が滴る。
 少年の肌は白くなめらかで、肋骨が薄く浮く貧相な胸板を水滴が伝うさまは艶かしく、扇情的な細腰が放つ色香に思わず喉が鳴る。
 生唾を嚥下する貢をさておき、眼鏡に指を当てた少年は淡々と話し始める。
 「武蔵坊弁慶といえば、源義経の腹心として知られた怪僧だ。弁慶の死因には諸説あるが、もっとも有名なのは義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされる、いわゆる弁慶の立ち往生だ。そして弁慶の泣き所とはここをさす」
 古傷だらけの貢の脛を突く。
 「向こう脛は皮膚のすぐ下、骨のすぐ上を神経が通っているため、非常に痛みの強い急所であり、弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる。アキレス腱とともに急所の代名詞としても用いられる。また、中指の第一関節から先の部分も弁慶の泣き所と呼ばれている。これは、指の第一関節を伸ばしたまま第二関節だけを曲げると第一関節に力が入らなくなることから、あの強力無双の弁慶ですら力を入れる事ができない泣き所の意味でこう呼ばれるんだ」
 「ふんどし、ふんどし……」
 「聞いてるか、人の話を」
 「猫だろうお前は」 
 不愉快げな少年の非難を一蹴し、手探りで下着を探すも、脱衣籠は板戸の向こうだ。
 速攻取りに戻るべきか迷うも、今湯船から立つのは非常にまずい。
 腰から下が湯に浸かっているからまだしも、今立ち上がれば、一糸まとわぬ生まれたままの姿をさらしてしまう。
 究極の選択に煩悶する貢を冷ややかに見返し、少年が嘆かわしげに首を振る。
 「……やれやれ。僕の拾い主が、弁慶の泣き所の由来も知らない低脳とはな。先が思いやられる」
 「そういうお前は何者だ、いきなり人の家の湯船に現れて……破廉恥な。出歯亀のたぐいか」
 動揺しつつも言われっぱなしは癪と反骨心がもたげ、油断なく問う。
 「その言葉、侮辱と受け取るぞ」
 「ならば、猫又か」
 最前まで、湯船におとすまで、たしかに猫だった。
 しっとりぬれた毛皮の感触をまざまざと覚えている。胸に抱いた時のぬくもりと筋肉のうねり、こちらを見上げる黒曜石の瞳の利発な輝きも、鮮明に記憶している。
 少年は貢の頭の悪さを哀れむよう嘆息し、気取った仕草で眼鏡をとる。
 「君の頭の中には明治維新が訪れてないようだな。猫又などという非科学的な存在、科学全盛の現代に実在するわけがない。僕はただ、湯を被ると人に変身する特殊体質の猫というだけだ」 
 レンズを覆う水滴を指でしつこく拭う仕草にあわせ、頭部の猫耳がひょこりと揺れる。
 尻から生えたしっぽが水面下で藻の如く妖しく揺れる。優雅な動きが目を奪う。 
 落ち着け、帯刀貢。武士ともあろうものが悪戯に取り乱すな、物の怪一匹退治できず何が侍か。
 もとはといえば自分のせい、情けに負けて猫を拾った自分が悪い。拾った猫が物の怪とはついぞ気付かなかったが、自分の咎は自分で負おう。
 湯船の中できちんと正座をし、深々と吐息する。
 猛禽の如き峻険な双眸に炯炯たる眼光やどし、言う。
 「して、物の怪」
 「物の怪ではない」
 「何と呼べばいい?」
 「直と」
 「直か。よい名だ。直ぐ刃を連想させる」
 素朴に思ったままを言えば、直と名乗る物の怪の耳がぴんと張り、くすぐったげに上下する。
 本人は冷淡な無表情のまま、耳だけ感情豊かに動くさまが微笑ましいと、場違いな感想が胸に湧く。
 いかん。物の怪の策にのせられるな。
 「して、直。お前の目的はなんだ。俺に取り憑いて喰らう気か」
 「どうしても僕を物の怪に分類したいらしいな」
 直が憮然と腕を組む。
 「僕が君を食うなど物理的に不可能だ、体積を考えればすぐわかるだろう。人など食べたら消化不良をおこす」
 「ならば……」
 「恩返しだ」
 迷惑な、と言わんばかりに吐き捨てる。 
 「認めたくはないが、君は僕を助けた。のみならず家に連れ帰り、奇妙な餌を振る舞い、風呂に入れた」
 「奇妙な餌とは失敬な、苗の手作りの佃煮だ」
 「変な味がした」
 「嬉しそうに食べていたではないか」
 「空腹は最高の調味料だ」
 しれっと言い放ち、湯浴みで上気した顔に眼鏡をかけ直す。 
 「僕としても不本意だが、以上の理由から君を恩人と認定し、これより恩返しを敢行する」
 「恩返しだと?」
 妙な雲行きになってきた。
 性急な展開に混乱する貢をよそに、直は湯から上がり、浴槽の縁に手をかけ外に出る。
 湯が伝う素足でタイルを踏み、華奢な背中をさらし、台座の後ろに跪く。
 「来い」
 顎で命じられ、よくわからないまま渋々腰を上げる。
 貢が出たはずみに水面が大きく波打ち、縁から溢れ出した湯がタイルを浸す。
 「恩返しなど、気を遣わなくてもよい。俺が勝手にしたことで、お前が義務を感じる事はない」
 手近の手ぬぐいをとり、前を隠す。
 「同感だ。僕を拾って餌を振る舞い湯に入れたのも全部君の独断、君が勝手にした事だ。もちろん恩義など感じないが、それでも義務は発生する。厄介な体質に生まれたものだな、僕も」
 自嘲的に笑い、貢が台座に腰掛けるのを待ち、手のひらで石鹸を泡立てる。
 「何をする気だ」
 「黙ってろ」
 手拭いで前を覆った貢の背中に、手のひらがひたりと吸い付く。 
 「…………!…………」
 濡れて敏感になった肌を、泡でぬめる手のひらが緩慢に円を描き滑っていく。
 「心配するな、人間のオスの性感帯は熟知している。すぐ気持ちよくさせてやる」
 不穏な単語が焦燥をかきたてる。
 傲慢に言い放ち、直はひどく手馴れた様子で筋肉の張った逞しい背中を洗っていく。
 石鹸でぬるつく手で入念に首筋を擦り、背筋にそって往復し、絶妙な力加減で肩を揉み、肩甲骨をなでる。
 「傷だらけだな」
 直の手を、じかに感じる。
 石鹸で粘る手が、緊張に強張った筋肉を丹念に解きほぐし、火照った指が古傷をひとつずつ辿っていく。 
 「……稽古の痕だ」  
 一呼吸おき、吐息ごと搾り出すように言う。 
 「跡取りだからな。俺は。幼少のころより鍛えられた」
 前に回った手が、太股をなぞる。
 「刀傷か」
 人に触れられた事などない部位を無遠慮に触られ、むずがゆさと紙一重の曖昧な快感が湧き起こる。
 ぬれた手が太股を辿る。
 太股の古傷を繰り返しなぞられるうち、皮膚が毛羽立つような錯覚が襲う。
 「触るな」
 「体はそう言ってない」
 頑として制すも聞く耳もたず、足の付け根までさかのぼった手が、股間を隠す手拭いの端を軽く引く。
 「戯れもいい加減に……」
 「僕が好きでやってると思うか?」
 貢の背中に密着し、前に回した手で手拭いを引き、冷笑する。
 「童貞か、君は?」
 「!なっ………、」
 「手拭いが不自然に膨らんでる」
 貢が絶句した隙に素早く手拭いを引き抜く。
 外気に晒された股間は雄雄しく屹立し、残忍な手に痴態を暴かれ、貢の顔は恥辱に染まる。
 「無礼なっ………」
 台座から腰を上げ振り向こうとして、後ろから押し倒される。
 そのまま台座から転げ落ち、したたか腰を打ち仰向けになる。
 タイルを滑った台座が派手にひっくりかえり、反転した視界に直の淫らな姿態が覆い被さる。
 「まさか、手淫も初めてなんていうんじゃないだろうな」
 「悪ふざけはやめろ、猫の分際で人を茶化すなど無礼千万……」
 膂力と体格に利し押しのけようとするも、直が動くほうが早い。
 手拭いで貢の手首をひとつに縛り、自由を奪う。
 両手を縛られ仰向けに転がされた貢に馬乗り、眼鏡の奥の双眸を冷徹に細める。
 「不本意だが、しかたない」
 「…………っ、は………!?」
 喉の奥で罵倒が霧散する。
 おもむろに胸板に顔を埋め、右の乳首を含む。
 ざらついた舌が乳首をなめ、口の中で転がし、今まで体験した事もない感覚に貢は戸惑う。
 右の乳首をねぶりながら、手を使い左の乳首を捏ね回す。
 直の頭が上下するたび尖った猫耳が顎に触れくすぐったい。
 直の尻から生えたしっぽが柔軟にしなり、貢の分身に絡む。
 「や、め………」
 毛で覆われた尾が股間にそそりたつ分身をなで上げ、しごき、根元を締める。
 手と口としっぽで貢をなぶりつつ、固い胸板に耳をつけ、満足げに言う。
 「心拍数が平常値より上昇している。呼吸も荒く、顔が紅潮している。つまり……性的刺激を受け、取り乱すまいとする意思とは無関係に浅ましく興奮している」
 手拭いも千切れよと必死に暴れるも、胴にまたがった直はせせら笑いを浮かべるばかりで、貢の上からどこうとしない。
 「猫に犯される気分はどうだ、人間」
 貢は童貞だ。
 乳首を口に含まれた事はもちろん、こんな卑猥な言葉をかけられたことも、他人に分身を慰められたこともない。
 自慰さえめったにしない。自慰に耽るのは欲望を制御できない証拠だと、ずっと己をいましめてきた。
 しかし。
 「………っ……猫のくせに、なぜ……」
 直の愛撫は、驚くほど巧みに貢を翻弄する。
 眼鏡の奥の双眸を嘲りに細め、直が薄く笑む。
 「禁欲も度をこすと体に毒だ」
 貢の乳首を執拗にねぶり、精緻な指遣いで煽り立てるように性感を高め、固さを増した分身をしっぽで擦る。
 ぬれタイルが背中に吸い付く。 
 手拭いが手首に食い込む。
 屈辱に呻く貢の腰に尻を据え、屹立した分身をしっぽでゆるゆると締め上げ、呟く。
 「頃合だな」
 醒めた無表情のまま、しかしかすかに呼気を荒げ、慎重に腰を浮かす。
 直がしようとしていることを悟り、貢は大いに狼狽する。
 「これは断じて恩返しではない、恩を仇で返す所業と心得よ!!」
 貢の抗議など無視し、屹立した肉棒に己をあてがい、苦痛に顔を顰め、ゆっくりと腰を沈めー

 暴れる貢の肘が蛇口にぶつかり大量の水が噴出。

 「みぎゃっ……」
 蛇口から噴出した水を頭からまともに浴び、悲鳴を発し転げ落ちた直の姿が、みるみる縮んでいく。
 緩んだ手拭いを振りほどき、息を荒げ上体をおこした貢の視線の先、ぬれそぼった毛玉が縮かみ震えている。

 人畜無害な猫に戻った直が、そこにいた。

 「よし」
 押入れから出した布団を敷き、座禅を組み、習慣の読経を始める。
 眉間に厳しい皺を刻み一心に般若心経を唱えながらも集中力は乱れがちで、視線はどうしても隅に丸まる毛玉へと吸い寄せられてしまう。
 胸の前で組んだ手をほどき、座禅を崩し、いつ賊が押し入ってもいいよう枕元に木刀を置く。
 きびきびと就寝準備を整える貢を部屋の片隅で疑い深く光る目が監視する。
 「………今宵は冷えるぞ」 
 勇をふりしぼり声をかけるも返事は返らない。
 根気強く促す。
 「意地を張らずここへ来い。せっかく熱い風呂に入っても、一晩そこにいれば風邪をひく」 
 半ば布団に入りながらのサムライの薦めを猫は無視し、取り澄ましてそっぽを向く。
 可愛げない態度にサムライもまた気分を害し、意地になる。
 「ならばよい。勝手にしろ」
 手狭な部屋はちゃぶ台をどかし布団を敷けば一杯になってしまう。
 電気を消す。
 闇が部屋を包み込む。
 布団に潜り込み、枕に頭をのせる。
 目を閉じ、無我の闇に没する。
 尖った猫耳と尻からはえたしっぽが誘うように動き、眼鏡の奥の双眸が嘲りの光を宿す。
 『童貞か、貴様?』
 揶揄するような声が甦り、恥辱で体が火照りだす。
 武士を愚弄するなど無礼千万、時代が時代なら無礼討ちされてもしかたない。
 しかし、人の理を解さぬ畜生相手にむきになるのも馬鹿らしい。
 布団にもぐりながら悶々とする。
 体にはまだ悩ましい感触が残っている。
 眼裏の闇にまざまざと残像が浮かぶ。
 煩悩から発した妄想にしては細部までいちいち鮮明で淫らで、感触の再現さえ伴う生々しい痴態の追憶は、色事に疎いなりに人なみの性欲をもつ貢をちりちりと炙り苛む。
 猫から人へと変化した直の白い肌、湯気に巻かれうっすら上気する細い首筋、雫が伝う貧相な胸板とそれに続く痩せた腹筋が次々と眼裏に甦り、欲情をそそる。
 俺に衆道の気はないし男色の趣味もない。
 そう断言し力強く否定するも、網膜に焼き付いて離れない直の裸身に鉄壁の意志が揺らぐ。 
 相手は猫だ。しかもオスだというのに、何故、こうも狼狽する?
 男同士が風呂に入ってもふしぎはない。
 俺とて幼い頃は従兄弟の静流と風呂に入った。
 静流は俺をよく湯船に沈めて遊び、それ故一時期風呂恐怖症になった。
 しかし、それも過去のこと。風呂恐怖症を克服した今の貢なら、猫耳しっぽが付随した物の怪と混浴したところで取り乱しはしない……はず。
 人に仇なす物の怪なら斬り捨てればよい、経を唱えて退散を願う選択肢もあった。
 が、サムライはそうせず、まだ直を部屋においている。
 あんな忌まわしい事があった後というのに。
 「…………………」
 不甲斐なさに唇を噛む。
 武士の分際で刀がなくば何もできないとは情けない。
 風呂場で襲われた時も咄嗟に反応できず、手を縛られ転がされ好き放題に弄くられる醜態をさらしてしまった。
 肝心の木刀は脱衣所におきっぱなしで役に立たなかった。賊が侵入したときのためにと常に身に帯びていたが、入浴中ばかりは油断した。
 しかたない、アパートの風呂はただでさえ狭いのだ。ひとり入れば満杯になってしまう浴室に木刀など持ち込めば邪魔になるのみならず、壁や床や浴槽の内にぶつけて疵をつけてしまう。壁や床ならまだいいが、膝や脛は痛恨の極みだ。
 失策を真剣に悔やみ反省する一方、他人の手により導かれた体の変化に戸惑い、うろたえる。   
 石鹸に泡立つ手が体を這い、栓するように乳首を抓るたび、生まれて初めて体験する淫靡な感覚に翻弄された。
 ぬるつく手が表面をすべり、体の疵ひとつひとつをじゃれるようになぞっていくたび、腰の奥の熾火をかきたてられた。
 他人の、それも男の手に体を弄ばれる屈辱は筆舌尽くしがたいが、直の愛撫はおそろしく巧みで、あのまま続いていれば最後まであらがいきる自信はなかった。
 細い指先が鎖骨を辿り、胸の真ん中を割って縦断した時の背筋に電流が通るような戦慄は……快感、あるいは性感と呼んでさしつかえない。
 一貫して、技巧を凝らした愛撫に翻弄された。手首に食い込む手拭いの擦れ具合がもどかしい刺激となり悦楽の波紋を広げた。
 『猫に犯される気分はどうだ』 
 眼鏡の奥で意地悪く、嗤う。
 「……………っ………………」
 艶かしく上気した顔とさめきった目の取り合わせが、倒錯した劣情を煽り、生唾を飲む。
 巧みに責め立てる細指と、誘うような細腰。
 濡れそぼった黒髪をへばりつかせ、観察対象に注ぐような無機質無感動な視線を眼鏡の奥から注ぎ、独立して動くしっぽでゆるゆると貢自身を擦る。
 しっぽで分身を擦られる感触はくすぐったさと痒みを伴い、しっぽの毛羽立ちが敏感な肉を摩擦するごと、前が角度をもたげていくのがわかった。
 手が、前に伸びる。 
 ズボンの内へ潜り込んだ手が、さらに下着の中へと入り、無造作に己を掴む。
 予想どおり、熱を持ち猛っていた。
 充血した棒を手のひらに包み、軽く動かせば、矢の如く鋭い性感が芽生える。
 自然と息が上がる。
 油断すると声が漏れそうになるのを奥歯をかみしばり堪え、最初は緩やかに、次第に勢いをまし、己を浅ましく擦りたてる。
 「はっ………、は………、」
 手が勝手に動く。
 目を固く閉じる。
 瞼裏に浮かぶのは初恋の苗の微笑みではなく、風呂場で目撃した直の淫蕩な裸身と放埓な痴態。 
 なんたる浅ましさ。恥を知れ、帯刀貢。
 苗への淡い慕情が直接的な愛撫に打ち消され、苗の素朴な微笑みが直の薄笑いに取り代わり、己をしごく手がますます加速する。
 布団に顔を突っ伏し、呻きを押し殺す貢の耳に、磐石の威厳を備えた声が甦る。

 『武士にいちばん必要なものはなんだ、貢』

 いつだったか、道場で向かい合った父が言った。
 父・莞爾は、貢が幼児の頃から真剣を持たせ、帯刀の跡取りにふさわしい人間足るようにと厳しい稽古を課してきた。
 一段高い床の間に座す父に対峙し、凛々しく背筋をのばし、貢は即答する。
 『は。忍耐かと』
 『そうだ』
 我が意を得たりと首肯し、おもむろに父が動く。
 床の間から腰を浮かしたかとおもいきや脇の鞘から刀を抜き放ち一閃、白銀に光る刃の先を、息子の顔面にひたと突き付ける。 
 貢は瞬きひとつせずこれを受けた。
 姿勢ひとつくずさず、顔色さえ変えず、斬と空を切って鼻先に静止した刃を見詰める。
 あと一寸目測がくるっていれば、額が断ち割れていた。
 緊迫した静寂の中、片膝立ちの構えから刀を抜いた莞爾の闘気を練り上げた眼光と、貢の沈着な眼光とが斬り結ぶ。
 『これが忍耐だ。剣圧を耐え瞬きを忍び、肉を斬らし骨を断つ極意こそ、侍が侍たるあかしよ』
 刃を引き、床の間に腰を据え、莞爾が訓戒を垂れる。
 『黙して動かず、己が身を危険にさらし、刀の筋をぎりぎりまで見極める忍耐こそ武士に必要なもの。仮に今、お前の額が断ち割れたとして……額の薄皮一枚と引き換えに、敵の隙に付け込めるなら安いもの。反撃が間に合わなくば、間に合うよう抜き放つ修練をつめばいい。飛燕の如く速くしなやかに、額を裂いた太刀が頭蓋を割るまえに、相手を斬り払うのだ』
 忍耐。
 今の自分に足りないもの。
 父の声に罪悪感と不覚の念が募る。今の貢を見たら莞爾は激怒する。
 これまでは自制できた、耐えていられた。
 身分違いの苗への恋情も、心許せる相手をもたぬ孤独も、鉄面皮の下に隠し恬淡と生きてこれた。しかし今、堰を切ったようにあふれ出した感情の奔流が身の内を席巻し、擦れ合う手から発した熱が、早鐘の鼓動と共に脈打ち広がっていく。
 「………ふ……、っ…………」
 こめかみを伝う汗が点々と布団に染みる。
 噛み締めた唇が切れ、口の中に血の味が広がる。
 四つんばいになり、不器用に腰を浮かせ、股に突っ込んだ手で充血した棒を擦り立てる。
 一度付いた火はなかなか消えず、燎原のように燃え広がるばかり。
 父の厳格な言葉が、冷徹な眼差しが、侮蔑に歪んだ口元が貢の至らなさを責める。
 しかし、若い昂ぶりを持て余した貢は衝動に駆り立てられるがまま無骨な手付きで己を慰め、擦り、粘液を指にすくっては塗りこめ、拙いながら技巧を使い、快楽を貪り得んとする。
 捌け口をもとめ疼く体、火照る肌。
 異様に喉が渇き、全身の汗を吸った寝巻きが鬱陶しく纏わる。
 ばらけた髪が額に濡れ被さり、瀕死の獣のような息が乾いた唇から漏れ、布団に埋めた顔を苦痛と恍惚が綯い交ぜとなった官能の波がさらう。
 手の中で固さ太さを増した棒を夢中でしごき、乱れた呼気のはざまから、掠れた声を絞り出す。
 「俺、は。武士の風上にも、おけん」
 体が熱い。
 布団は大量の汗を吸ってしっとり湿り、手の中で屹立した肉棒はずくんずくんと疼き、眉間に煩悶の皺が寄る。
 余った手で布団の端を掴み、腰を浮かせた貢は、衣擦れの音も性急に、自慰の経験など数えるほどしかない不器量な手付きで慰めるよりは痛め付けるように己を鑢がける。
 直の様子が気になり、最前までいた場所を無意識に目でさがすも、黒猫は闇に同化して完全に気配を消している。
 消えた戸惑いより、醜態を見られずにすんだ安堵がまさる。
 「……はっ………」
 猫の不在を疑問に思うも手は休めず、欲望に挫けた己を罰するように、擦り剥けるほど力をこめ上下する。
 摩羅の先端がびくんと痙攣し、根元まで張り詰める。
 絶頂が近いと悟り、喉の奥で低く呻くー

 「醜態だな。僕ならもっと、強烈な性感を与えてやるが」

 高慢な声とともに、貢の体になにかがのしかかる。
 驚き、手が止まる。
 行為を中断した貢の枕元に、直がいた。
 何をしていると声を上げるより早く、猫特有の敏捷性を発揮し、貢にじゃれかかる。
 四つんばいになった貢を布団に転がし、腹の上に座るや、眼鏡越しの双眸を酷薄に細める。
 モルモットの交尾を観察する科学者さながら、熱のない目。
 「ずっと見ていた。口では抗っても所詮は染色体XY型人間のオス、生理現象には逆らえないか。僕の優秀なる頭脳が計算した巧みな刺激によって限界まで勃起しているようだがー……」
 直が騎乗位で不敵に笑む。
 最初からこうなると予想していたと言わんばかりに勝ち誇った笑みで、宣言。
 「助けはいるか?」

 前髪が風を孕み、一瞬舞ってから額に落ちる。
 「俺に二度乗るとは、命が惜しくないと断じてよいな」
 備えあれば憂いなし。
 枕元の木刀を咄嗟に抜き放ち額に突き付ける。
 「こりずに寝込みを襲うとは、一宿一飯の恩義を仇で返す色猫め。いつ人に化けた」
 「……凄いな。小数点以下の速度だ。眼鏡で視力補助した目でも捉えきれなかった、瞬発力と反射神経は猫をも上回る」  
 貢の上に跨ったまま直が感心する。
 隙を見せぬよう肘つき上体をおこし台所に目を走らせるも湯を沸かした形跡はない。
 いぶかしむ貢にあっさり正答を与える。
 「一人暮らしの盲点をついた。風呂の栓を抜き忘れていたぞ」
 「あ」
 不覚。
 姿が見えないと思ったら、風呂の残り湯に飛び込んで再び化けたらしい。 
 「いいからそこを退け。重くて寝れん。漬物石がのっているかと思ったぞ」
 力尽くで退かすのも考えたが、なるべく暴力はふるいたくない。この期に及んでも貢は甘い。
 「いいのか、この状態で退いても。苦しいんじゃないか」
 あざわらう態度に血が上る。
 木刀の切っ先に力をこめ、猛禽の双眸に威圧の光をやどし、沸々と込み上げる怒気を抑制して低い声を出す。
 「退くか、去るか、斬られるか。ひとつ選べ」
 極限まで引き絞った弓弦の如く殺気を放つも、非情に徹しきれぬ惰弱な心の一部が迷う。
 無益な殺生は好まぬ。黙って退くならそれでいい。しかし、あくまで拒むなら、実力行使も辞さぬ。
 そう意気込んでみた所で、そぼ降る雨の中鳴いていた猫を拾い上げたのはこの自分。ならば今の状況とても自業自得だ。
 瞳の奥の揺らぎを見抜いたか、直が高飛車に腕を組む。 
 「良い機会だ。無知な人間に教えてやる」
 退く気はないようだ。
 いつまでも見下ろされるのも腹が立つ。
 が、下手に動けば硬直が擦れて固さを増し、密着した部位からもどかしい熱感が広がるため膠着する。
 額に脂汗を滲ませ、腰が引け気味に木刀を構える貢に対し、直はレンズにふれる。
 「フレーメン反応を知ってるか」
 「ふれ、めん……剣道か」
 虚を衝かれた貢の無知を哀れむようにため息ひとつ、講義口調で話し始める。
 「猫はフェロモンを感じる器官が口内の上顎にあり、これをヤコブソン器官または鋤鼻器官という。猫はフェロモンを感じると口を半開きにし、目を半分閉じて笑っているような表情をするが、これはフェロモンを分析している行動である。これによりネコがどういう状態にあるかを分析する。マタタビの果実やイヌハッカの匂いを嗅ぐと、ネコは恍惚として身悶えるような反応を示す。これは匂いに含まれるマタタビラクトンやネペタラクトンなどの物質にヤコブソン器官が反応し、ネコに陶酔感をもたらすためと言われている」
 「それがどうした」
 困惑して問えば、わからないのかとばかり侮蔑の眼差しを放たれる。
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、眠たげな半眼で言う。
 「僕は今、君にフレーメン反応を示している」
 まじまじと直を見詰める。
 瞼を半分おろし、笑いたいのを堪えているかのような奇妙な表情に、どう反応したらいいか困る。
 解釈に苦しむ貢に、こめかみをつつき言葉を選ぶ。
 「比喩表現を用いれば、君は僕のマタタビということだ」
 ますますもって戸惑う貢にさじを投げ、直裁に言う。
 「読解力のまずい無知な人間のため意訳すると、簡潔に発情しているという事だ」
 落ち着き払った様子からはとてもそうは見えないが、自己申告されては事実と認めるほかない。
 「待て。お前が発情してるのはわかった、猫ならばそれもしかたない。しかし、俺にその気はない。断じてその気はない」
 「浴場で欲情したのにか」
 「あれは不可抗力だ」
 「布団の中でマスターベーションに耽っていたのに」
 「畜生相手にさかるなど人道にもとる!」
 声を荒げる貢の上に座し、一瞬思案顔を見せるも、吐き捨てる。   
 「武士の癖に情けない。所詮口先だけか」 
 「何?」
 暴言に気色ばむ。
 「武士は忍耐が信条だというが、要するに僕のテクニックに耐え切る自信がないから、理由をこじ付けて逃げているんだ。違うか。僕のテクニックに翻弄され痴態を晒すのが恥ずかしくて、凶器で脅して退散を強要する卑劣な策に出るとは、武士の誇りはどこへやった?」
 「馬鹿なっ……畜生の分際で恥をしれ!」
 「都合が悪くなるとすぐ種族差を持ち出す。呆れた男だな。その畜生のテクニックでみっともなく股間を腫らしたのはどこの誰だ?そう貴様だ。そうして抗うのも、ふたたび醜態を演じるのがいやだからだろう。つまり君はすでに敗北を認めてるんだ。人間のメスと性交渉をもつ以前に僕によって快楽を教え込まれ、そんな自分に動揺し、今またしっぽと肉球を駆使しためくるめくテクニックを体験すれば今度こそ堤防が決壊すると危惧し逃げを打つ……」
 「畜生如きの戯れに取り乱す俺ではない!」
 挑発に乗じ豪語すれば、直の口元が不敵な弧を描く。
 「言質はとったぞ」
 まずい。
 武士の矜持に泥を塗られ喝を飛ばした己の愚を悟るも、直は腰をずらし下へ下へと移動を始める。
 やめろ、と叫びたいのを自制心を総動員し堪える。
 武士たるもの、一度口にした事は撤回できぬ。
 木刀を掴んだまま、しかし振り下ろす先を失い動揺する貢の股間を覗き込み、直が冷めた口調で批評する。
 「平均よりやや大きめ。口に入れるのは少し苦しそうだな」
 言うなり無遠慮に手を触れる。
 「!」
 根元を持った手が先端にかけゆるゆると動き、脊髄から背筋へと微電流が走る。
 「………っ、…………は…………」
 「声を出せ。我慢は体に悪い」
 両手に持ち、指を器用に動かし、薄皮をむくようにもどかしい快感を伝達する。 
 直の手から伝わる熱と感触が、敏感な部分に血を集め、噛み締めた歯の間からかすれた吐息が漏れる。
 自分でするのと人にされるのと、こうもちがうものか。
 木刀に指が食い込む。
 額に脂汗がにじむ。
 恥辱と憤りで目がくらみ、早鐘をうつ鼓動にあわせこめかみが生き物のように脈打つ。
 布団に汗じみができるのを気にする余裕もない。
 力任せに己をしごくときとはまったくちがう精巧な指遣いが生み出す快感は遠回りしてもどかしく、性感帯を知ってるからこそ核心を避け、じらし、勃起の硬度と射精の瞬間を調節する手つきに呻きが漏れる。
 「この程度………で、……声など出す、ものか」
 貢の股間に抵抗なく顔を埋め、苦い上澄みを吸い上げる。
 「頑固な男だな」
 手と口を同時に使い、硬直に舌を絡ませ、顎の角度をこまめにかえ唾液を塗りたくる。
 木刀を持たぬ方の手で直の頭を押さえ込む。
 股間に押さえ込まれても抗議せず、猥褻な行為に没頭する。
 引き剥がそうとしたのか促そうとしたのか、後頭部を覆う手に圧力がかかるも、直は素知らぬふりで硬直を口に含み、唾液を泡立てる水音も卑猥に抜き差しする。
 「一回り大きくなった。感度も良好だな」
 「………………ぐ……………、」
 「苦しいなら、だれか別の人間のことを考えろ。僕は代替品だ。君はただ、快楽に身をまかせればいい」
 どこか自嘲的な台詞に、その一瞬だけ、貢は正気に返る。 
 「ならん」
 「何故だ」
 直の言葉に誘われ去来した苗の面影に妄想が膨らみ、想像の中の苗もまた服をはだけ、艶かしい姿態を見せる。
 初恋の女、貢が接してきた数少ない異性の中で一際優しい女の面影を否定し、脂汗が流れ込みぼやける目で、まっすぐ直を見据える。
 「お前に、失礼だ」
 直の動きが止まる。
 「……お前に、含まれながら、別の女の事を、考えるのは………苗にも、お前にも、失礼だ……」
 直を、想い報われぬ相手の身代わりにはしたくない。
 たとえ本人が希望しても。
 それでいいと言っても、貢は否と言う。
 この行為が貢の望んだ事ではなくても。
 貢の意志に反し、武士の意地に付け込む形で一方的に行われているとしても、直に含まれながら別の人間に想い馳せるのは、最低の不義だ。 
 「………面白いじゃないか」
 皮肉げに呟く。
 「僕を代替品に使わなかったのは君が初めてだ。前の拾い主もその前の拾い主も僕の舌と手と粘膜だけ利用して、別の人間の事を考えていたのに」
 一瞬、直の瞳に乾ききった寂寥感が過ぎったのは気のせいか。
 レンズの向こうで観察するふうに目を細め、さっきまでとはどこか違う、細心の手つきで貢のそれを持つ。
 「なら、僕の事だけを考えろ。他の人間のことなど考えるな。全神経を集中し、僕の手と舌の動きを感じろ」
 深々と貢を銜える。
 口一杯を満たすそれに懸命に舌を絡ませ、それぞれが連動して技巧を凝らす手指を根元に這わせ、絶頂へと導いて行く。
 「頃合だな」
 ひとりごち、唾液に塗れたそれを口から抜く。
 射精寸前で塞き止められ、胸を浅く上下させ、物問いたげに直を見る。
 口から引き抜いたそれを片手で支え、慎重に腰を浮かし、自らの尻へとあてがう。
 楔穿つ苦痛に顔歪め腰を沈めつつ、どこまでも傲慢に宣言する。
 「感謝しろ。特別に僕の中で射精に至るのを許可する」
 
 堪忍袋の緒が切れる。
 「俺をなめるな」
 高慢な言い草が逆鱗に触れる。
 レンズの奥、怜悧な知性を帯びた切れ長の目に動揺の波紋が広がる。
 低く剣呑な声で威圧すれば、触れ合う部位からかすかな震えが伝わる。
 今だ。
 素早く体を入れ替え組み敷く。
 貢の奥で荒々しい獣性が目覚める。
 今まで必死に抑制してきた男の本能、抑圧してきた雄の欲望に憤怒の火が点く。
 腰にのられ好き放題いじくりまわされ醜態を演じ、武士の矜持に泥を塗られた。
 辱められた腹立ちが暴発し、直の華奢な肩を押し倒し、剣で鍛えた膂力に利して布団に縫いとめる。
 無抵抗に倒れこみ、布団と接触した拍子に眼鏡が鼻梁にずりおちる。
 背中から倒れこんだ直にのしかかり、形よい耳朶に口をつけ、獣じみて荒い息を吐く。
 「いつまでもされるがままとおもうな」
 直の舌使いによって勃起した男根が外気に晒され敏感にひくつく。
 口腔の熱い温度と潤いの感触に同化した肉棒は、粘着な唾液に塗れ淫猥に濡れ光り、先端から透明な汁を分泌する。 
 技巧を凝らした舌使いにより、外気に晒されただけで反応するほど過敏に仕上げられたそれは、下腹の翳りから勇猛に屹立する。
 「犯る気になったか?」
 相変わらず人を食った顔と口調で直が言う。
 挑発的な眼光と皮肉な笑みの取り合わせがぞくりとする色香を醸し、脊髄が官能に震える。
 これは、俺の望んだことではない。こんなつもりで、直を拾ったわけではない。
 ただ俺は。そぼ降る雨の中、ダンボール箱に捨て置かれた子猫に、情にほだされ手をさしのべただけだ。
 家に連れ帰り、佃煮をふるまって。
 風呂に入れ、布団を敷き。
 人に懐かぬ猫だった。
 気位の高い猫だった。
 ツンと取り澄まし、しっぽをたれ、観察するような無感動な目でしずかにこちらを見詰めていた。
 人慣れぬ猫に愛着を感じた。
 身の内に飼う孤独が共鳴した。
 人を敬遠し敬遠され、意地でも孤高を貫き通す直が愛しかった。
 拾った猫におのれを投影していた。
 行儀よく佃煮をつまむ姿は微笑ましく、風呂をいやがり暴れる様はたいそう滑稽で、一緒にすごす時間が長引くほど愛着が増した。
 貢は孤独だった。
 自分が孤独であると、それがわからないほど長く孤独と折り合ってきた。
 無味乾燥に片付いた殺風景な部屋。
 ちゃぶ台と冷蔵庫、箪笥があるきりの、寂とした隠居の住まい。
 訪ねる友人知人もなく、道場と往復する以外出かける用もなく、褪せた天井からぶら下がる豆電球の下、手慰みに俳句をひねり経を読むごとに寂寞とした感情が募った。
 貢は人と触れ合うのが不器用だ。
 苗に想いを打ち明けることもできず、思春期に入ると身分差を意識し、自然と距離をとってしまった。
 不甲斐ない。意気地がない。情けない。俺は、武士の風上にもおけん。こんな惰弱な心、武士にふさわしくない。
 心のどこかで虚しさを感じていた。武士の理想に近付けぬ自身の弱さを恥じて憎んでいた。

 俺の心は、どうしてこうも揺れやすい。
 無愛想無表情で近寄りがたい印象の貢だが、その心は存外脆く、些細なきっかけで感情の堰が決壊しそうになる。

 今も。
 押し倒した直を至近で見詰め、貢はみっともなく狼狽していた。
 異常に喉が渇く。口の中が干上がっていく。
 直はひどく落ち着き払ってこちらを見上げている。
 相変わらず冷ややかな無表情で、傲然たる自信を漂わせ、冷徹な観察者の視線で反応を探っている。
 貢は服をはだけ、鍛え抜かれた上半身を晒している。
 細身だが柳の鞭のように引き締まった体。
 直の肩を戒める鉤手には、殺気じみた握力がこもっている。
 「どうするんだ?」
 抑揚なく、直が聞く。
 頭に生えた耳の片方を動かし、酷薄に目を細める。
 「代替品にするのか。抱けない異性の代わりに、性交するのか」
 自分で「抱け」と命令したくせに、その声は、懐疑と嫌悪を孕んでいた。
 「ちがう」
 苗の身代わりに直を抱くのは、どちらにも無礼にあたる。
 断固として首を振る貢をいぶかしげに見上げる。
 長い睫毛が縁取る切れ長の目が、薄墨に一滴水を落としたような不審の色を浮かべる。
 自身の心臓の鼓動が鼓膜に反響する。
 体内を巡る血流が勢いを増し、直の肩を抱く手が悩ましく火照る。
 「俺は、お前を抱く」
 口に出した途端、急激に膨れ上がった欲望を自覚する。
 苗の、だれかの身代わりとしてではない。
 貢は他の誰でもない、目の前のこの少年に劣情を催していた。
 風呂で目撃した裸身が網膜に焼き付き、残像が理性を苛む。
 貧弱に薄い胸板も、上品な鎖骨の窪みも、体の表面をゆるやかに伝う水滴も。
 濡れそぼって額に纏わる黒髪も、湯浴みで上気した目尻も、秀麗な鼻筋も、繊細に尖った顎も。
 湯船で膝突き合う距離にいた直の裸身が頭にこびりつき、振り払おうとすればするほどつきまとい、貢が修行の邪魔と奥底に蓋をして抑え続けてきた雄の欲望を炙りたてる。
 直の存在自体が、毒だ。
 もともと色事には淡白な貢さえも、手と口の技巧を駆使した大胆な誘惑にはかたなしだった。
 この感情をどう説明したらいい。
 溶岩のようにうねり荒れ狂う、激情を。
 苗への優しい慕情とはちがう、目の前の少年を組み敷いて犯したいという強烈な征服と陵辱の衝動を、なんと呼べばいい。

 「俺はつまらん男だ」

 しぼりだすような独白に、ばらけた前髪の向こうで、直が問いたげな目を向ける。

 「口下手で空気も読めん無粋な男だ。ろくに友もいない。もちろん、恋人もいない。物心ついた頃から剣の道一筋に生きてきて、他に誇れるものもない。……今も。どうすればお前を楽しませることができるか、見当がつかん」
 「楽しませるだと?」

 虚を衝かれた直に律儀に頷き、生白い頬にそっと手を添え、ぎこちなくさする。 
 どうしようもなく不器用だが、限りない優しさの伝わる手つき。

 「お前を拾ったとき。生き物を飼う資格があるのかと、自問自答した。無粋な男の独り暮らしで、仮に連れ帰っても、不自由な思いをさせるかもしれん。もっと他に、俺の後に通りかかった人間が拾ってくれるのではないかと……そう思った。こんな面白みのない男に拾われて、猫も迷惑するだろうと」

 貢の手は骨ばっていた。
 物心付いた頃より剣を握り続けた手は節くれだち、本来柔らかいはずの掌は鞣革に変化し、深々と刀傷が穿たれている。 
 繊細さのかけらもない手。
 人に触れようとすれば、忌避される手だ。
 しかしその手は、これまで彼を拾った誰より誠実に、直の頬をさする。
 疵だらけの無骨な指から染みる体温が、凍えた体をあたためていく。

 「だが、拾ってしまった」

 冷えた頬を手で包み、切実な心情を吐露する。

 「冷たい雨の中に、どうしても捨て置けず」

 どうしても、黙って通り過ぎることができなかった。見ないふりで歩み去ることができなかった。
 あの必死な鳴き声が、貢の心の奥、どれだけ鍛え上げても変わらぬ惰弱な本質に触れたのだ。
 あの時、無視できなかった己の弱さが今の事態を招いたのなら。
 貢には、最後まで直の面倒を見る義務がある。

 「…………眼鏡は、とらないのか」
 「これがないと見えない」
 「そうか」

 短い応酬の後、唇を奪う。  
 突然の行為に直が目を見開くも、反射的に跳ね上がった両手首を掴み、布団に押さえ込み、ますます深く口付ける。
 舌がもつれる激しさに前歯がかちあう。絡んだ舌から二人分の唾液がまじりあう。
 手加減など、できるわけがない。そもそも手加減のしかたなど知らない。
 性急な接吻で酸素を奪い、舌で口腔を蹂躙する。
 唾液で潤った口腔をかきまぜこね回し、歯列をたどり、上下前後左右奥まで貪り尽くす。

 「ふっ、ぁ、ぅく」

 直が目を潤ませ切なく喘ぐ。
 無表情が崩れ、苦痛と恍惚が綯い交ぜとなった陶酔の表情が覗く。
 猫耳がピクンと跳ね、尻からはえたしっぽが敏感に逆立ち、さかんに布団を掻く。

 「……こ、の……低脳、めっ……そんなふうに、したら、息が吸えない、じゃないか……僕を窒息死させたいのか?屍姦が趣味か?」

 荒い呼吸の狭間から、切れ切れに憎まれ口を叩く。
 酸欠に陥る寸前、舌を抜く。
 唾液の糸で繋がった直を見下ろし、手の甲で顎を拭いがてら謝罪する。

 「すまん。我を忘れた」

 なにか言い返そうと口を開きかけ、諦めて閉じる。
 憮然と押し黙る直の顔は淫蕩に上気し、苦しげな呼吸に合わせ浮沈する肩の頼りなさが、征服欲をかきたてる。

 「……本当に不器用だな。歯があたったぞ。口の中が切れたらどうする?口内炎ができたらなめてなおしてもらう」

 不満を言いつつ腕をさしだし貢にすがりつく。
 静謐な闇に包まれた部屋の中、一枚の布団の上で、半裸の直と密着する。
 皮膚の体温が交わり、心臓の鼓動がひとつに溶けていく。
 他人の胸に耳を傾け聴く鼓動が安心感を与えるものだと初めて知った。
 人肌触れ合うぬくもりは決して不快じゃない。
 一方的に責め立てられた時は屈辱感と嫌悪感が勝っていたが、自分が主導権を握ってみれば高揚感と快感がより勝る。

 「辛いならはやくいれたらどうだ。外で射精してしまうぞ」  

 貢の変調を見抜いたか、直が指摘する。

 「慣らすのが先だ」
 「なに?」

 直にかかる負担を懸念し、慎重な手つきで肩を遠ざけ、下へと移動する。

 「……俺ばかりよくなっては、面目が立たん」

 直は言葉を失い、自分の下腹へと顔を埋める男を凝視する。 
 今まで拾い主のだれも、そこまで気遣ってはくれなかった。
 誰もが代替品の性処理道具として直を抱き、自分の欲望を満たすのにだけ夢中になり、抱かれる側の負担など一切顧みなかった。ろくに慣らしもせず、閉じた窄まりに強引に突き入れられ、苦痛の呻きを上げた事も一度や二度じゃない。
 直は常に奉仕する側、相手は常に快楽を享受する側。
 中にはわざと乱暴に抱くものもいたが、諾々と受け入れてきた。
 その事にこれまで疑問を持たなかった。不満もなかった。
 拾い主への最大の恩返しが性行為なら、直はためらわず、体をさしだす。

 「……余計な事はしなくていい。僕などどうなっても構わない、これは僕の義務だから。君は一方的に欲望を満たせばいい、心配しなくても男を受け入れるのには慣れ」
 「俺が嫌だ」 

 ひたむきな眼差しで願う。

 「肌を重ねる相手とは心も通い合わせたい。……お前に不要な痛みを与えたくない。他の拾い主のことは知らん。これまでお前がどう扱われてきたのかも、知らん。だが、俺は」

 目を閉じ、風呂場での一件を反芻する。
 直をあそこまで過激な行為に走らせるに至った経緯を想像し、胸中に苦汁が込み上げる。

 「……お前にも。俺が感じたように感じてもらいたい」

 どもりがちに告白し、含羞に頬を染める。
 直はあっけにとられた風情で貢を見返していたが、唐突にその顔が歪み、崩れ、なんとも形容しがたい表情になる。
 泣けばいいのか笑えばいいのか判断できず、そのどちらをも選択したような、心もとない顔。

 「馬鹿だな、君は」
 「馬鹿で結構」

 毒気の抜けた直の独白に照れ隠しの仏頂面を作り、その下腹に顔を埋め、ややためらいがちに性器を口に含む。

 「ー!!ぃ、ぁ」

 切ない声を発し、直がのけぞる。
 性器を口に含むのはもちろん初めてだが、直も同じ事をしたのだと思えば、不思議と抵抗はなかった。
 細い腰を抱き、もう片方の手を根元に添え、含んだ性器にぎこちなく舌を絡める。
 見よう見まね、直のテクニックには及ぶべくもないが、少しでも気持ちよくさせたい一心で舐め上げる。

 「………っ………ぁ、ふ……あ………」

 直が切なく声を漏らす。
 貢の口腔は蕩けそうに熱く、不器用な舌使いは微妙にツボをそれていたが、そのもどかしさがかえって性感を煽り、額に汗が滲む。
 悩ましげに眉間に皺を刻み、きつく目を閉じ、貢の舌に弄ばれ徐徐に硬度を増していく体の中心に全神経を集中する。
 貢の肩に指を食い込ませ、首を振り、ちりちりと皮膚が毛羽立つ熱に炙られ朦朧と呟く。

 「口は消化管の最前端、食物を取り入れる部分であり、食物を分断し、把持し、取り込むための構造が備わっていると同時に、鼻腔と並んで呼吸器の末端ともなる……っあ、ふく……人を代表する地上脊椎動物に限らず、消化器官系の初端であり、栄養素摂取等に用いられる。多く動物の口には付属器官があり、舌や歯、外分泌器等を備え、歯による咀嚼の様な食餌の補助に限らず、外敵に対抗し身を守る手段として利用され、ぅ……」

 語尾が上擦り、途切れ、腰が浮く。

 「敏感だな」

 口の中で転がしつつからかえば、理性に逆らう腰の動きから顔を背け、くぐもる声で直が言う。

 「じれっ、たいんだ、貴様は。性感帯を逸れている。僕が感じるのはもっと下の……」

 まだるっこしい刺激に腰を揺する直を制し、窄めた舌先で尿道をくすぐる。
 技巧は直に劣るが、その稚拙で緩慢な舌使いは、尿意にも似た排泄の感覚を下腹に生じさせる。
 猫耳の先端が小刻みに動き、感電したように毛羽立つしっぽが、貢の腕に巻きつく。
 熱く蕩けた口腔が性器を包み、舌が尿道をくすぐり、唾液で浸す。
 自身が吐く息で眼鏡のレンズが曇り、生理的な涙で視界がぼやけていく。
 貢の肩を掴む手に無意識に力がこもり、腰の動きが速くなり、そしてー……

 「ふあ、ぅくっ……あっ、あ、ああっ!!」

 理性が爆ぜる。
 硬直、弛緩。
 不器用な舌使い。技巧もなにもあったものじゃない。
 ただただ必死で、ただただ誠実で。
 常に奉仕する側だった直は、こんなふうに男に奉仕された事など一度もなかった。
 辱めるためでも嬲るためでもなく、貢は直にも自分が味わったのと同じ快楽を分け与えんとしたのだ。
 射精の寸前、口から性器を引き抜いたせいで、直の下腹と太股には白濁が飛び散っていた。
 既に困憊の色濃く、布団に顔を倒して息を吐く直。
 しどけなく横たえた体に滴る白濁が倒錯的で、生唾を嚥下する。
 下腹に飛んだ白濁をすくいとり、指の間で糸引かせ、双丘の間へと忍ばせる。
 「………大丈夫か?」
 「気に、するな。僕が出したものを……潤滑油にして……慣らすんだ」
 ここまできてやめられない。
 強い決意を宿した目で促す直。
 貢はひとつ頷き、ぬれそぼつ手を双丘の間に沈め、窄まりを探り当てる。
 「!んっ………」
 初めて触れたそこはきつく閉じ、指を拒む。
 少しためらうも、意を決し、指をねじこむ。
 最初の圧迫を通過すれば、潤滑油を塗布した指はずるりと奥へすべりこみ、内壁の収縮をじかに感じる。
 「きついか」
 案じる貢の耳朶に熱く湿った吐息がかかる。 
 「足りない」
 片腕を貢の首に回し、布団に半身を起こした直が、ずれたレンズの向こうから羞恥に僅かに伏せた瞳を注ぐ。
 快感の微熱と行為への期待に潤む目の淫靡さに心臓が強く鼓動を打つ。
 理性と本能が葛藤する瞳の激しさに撃ち抜かれ、貢は息を呑む。
 「聞こえなかったか?指一本じゃ足りないと言ってるんだ……もっと……」
 体を動かすたび内に咥えこんだ指の角度が変わるのか、前立腺には届かぬ刺激にもどかしく腰を揺すり、貢を抱く。
 人外の証の猫耳としっぽをきゅっと伏せ、降参と服従を示し、貢の裸の胸にすべてを委ねる。
 
 「君が欲しい」

 人間に好意をもつのは生まれてはじめてだった。


 
 強く強く抱きしめ縋りつく手に無性に愛しさがこみあげる。
 身の内で暴風のように劣情と激情が荒れ狂う。
 欲情に翻弄され理性が千々に乱れて吹き惑う。
 「いくぞ」
 抱く手に力が篭もる。少し力を込めればたちどころに砕けてしまいそうな華奢で繊細な体躯。貧弱に薄い胸板が浅く荒く波打つ。
 「……前置きはいい……」
 「お前の饒舌が伝染ったのだ」
 「謝罪か揶揄かどっちだそれは?」
 「軽口を叩く余裕はない……俺とて緊張してるのだ」
 言葉に嘘はない。直の発情した姿態を前に理性は吹っ切れ、忍耐は限界に達した。股間の物は雄雄しく猛り、赤黒い肉がそそりたつ。
 指で押し広げた孔に慎重に己自身をあてがう。直の身がびくりと竦み、しっぽが逆立つ。
 「………っ………、」
 渦巻く恐怖と恐慌を堪えるように毛皮が覆う耳を伏せ、唇を噛む。
 尊大な口をきいてもやはり本番が迫ると怖いのか、行為を重ねれど緊張は解けないのか。
 直の心情を慮るように言う。
 「辛い目にあってきたのだな……」 
 「同情は結構だ。早く挿入しろ。……それほど柔じゃない」
 「後悔はないか」
 頷く直。
 背中を往復する手に癒されたか、徐徐に震えがおさまっていく。
 愛しさに胸が詰まる。こんな激しい感情が己のどこに眠っていたのかといぶかしむ。
 貢は直の体にできるだけ障らぬよう、ともすれば欲望に先走りそうな己に手綱をかけ懸命に自制し、骨の尖りが痛々しくも嗜虐を煽る細腰を抱え持つ。
 ほぐした孔に肉の先端を添え、慎重に腰を進める。
 「ぅあ……」
 虚勢を張っていても辛いのか、津波にさらわれ溺れるものの必死さで、貢の背に爪を立てる。
 切ない喘ぎをもらしつつ背を掻く直の内へ飲み込まれゆく貢もまた、初めて体験する感覚に目もくらむような快楽を覚えていた。
 直の内側は溶けそうに熱く、充血した襞の収縮が猛りきった肉に波及し、脊髄ごと引き抜かれそうに腰が疼く。
 「……っ………辛いか……」
 「ふぁ……童貞に心配されたくない」
 「減らず口を叩くな」
 ようやくひとつに繋がれた。どうやっていいかは体が知ってる。わざわざ教えを乞うまでもない。
 これまでさんざん直に嘲られ蔑まれてきた仕返しとばかり、華奢な体を力強く抱き寄せ、貪るように唇を吸う。
 挿入の痛みを紛らわすため唇を貪りながら腰を使い、徐徐に奥へと進めていく。
 無駄口を叩く余裕はない。
 我を忘れ直の体に溺れる、唇にむしゃぶりつく。
 直もまた接吻に応え、最初はおずおずと、次第に大胆に舌を絡めてくる。唇を割ってもぐりこんだ舌先が歯の表面をなぞり、裏をなぶる。恍惚と潤んだ目にうっすらと涙の膜が張る。口の中、一際敏感な粘膜が湧いた唾液に潤む。名残惜しげに唾液の糸引く唇を放し、貢は言う。
 「さすが猫、しっぽと耳で感情表現するのだな」
 「人間の分際で僕を観察対象にするな……あっ……」
 抉りこむように打ち込まれた腰に悲鳴を上げる。
 昂ぶる欲望と本能ままに荒々しく腰を使う。
 「あっ、あっ、あっ、あっ!」
 腰使いに合わせ喘ぎ声が弾む。
 内から巻き起こる快感が貫かれる激痛を上回る。それは貢とて同じこと。
 漸く繋がれた歓喜が砂漠の慈雨の如く胸の空虚を潤していく。直の体温と鼓動が寒々しい孤独を癒していく。
 ようやく手に入れたこのぬくもりを二度と手放したくない。出会いは偶然で必然だった。貢は無意識にぬくもりを求めた。自分と同じ孤独な境遇の猫と一目で惹かれ合った。種族の壁をこえ共鳴した孤独が、一人と一匹を結び付けた。冷え切った肌に肌を重ねれば双方の熱が交流し自然と温まりゆく。
 「俺は、お前を求めていたのか」
 欲望と願望を自覚する。
 貢の奥深くに根ざした孤独が求めるもの、その在り処を突き止める。
 一人と一匹が出会えばそれはもう独りじゃない。
 一度結ばれた縁は絆を紡ぐ。
 今日一日、色んな事があった。沛然と雨降る陰気な街をひとり傘さし歩く貢に密閉された箱の中からか細い声が呼びかけた時から運命は始まっていた。
 「あっ、ふ、あくっ、も、奥、に……」
 貢に組み敷かれ喘ぐ直、官能の吐息に儚く震える睫毛、快感に潤み陶然と濡れる目、半開きに弛緩した唇から漏れる喘ぎ……
 「お前の声はどうしてこんなに甘く響く?」
 「発情、してる、からだっ」
 「なるほど。……あいわかった」
 理性など蒸発してしまえ。
 本能に身を委ねろ。
 押し倒した直の唇に唇を重ね、舌を結び、唾液を啜る。
 「俺もさかっている。けだものの如く」
 頭部より生えた耳が伏せられ、震えて快感を示す。
 汗で塗れた前髪のむこう、涙を溜めた目が一途に貢を仰ぎ、懇願する。
 「名前を呼んでくれ」
 「直」
 「もっと」
 「直」
 「もっとだ」
 「直、直、直」
 「人間の分際で……、っは、この僕を、呼び捨てにするとは……」
 「愛してる」
 抵抗なく言葉が滑り出る。色恋沙汰につきものの軟弱さを厭う武士が、こんな気障な台詞を吐く日がくるとは、ついぞ思わなかった。  
 口下手で不器用な貢は、愚直で一途な言葉に精一杯の思いを込める。
 冷え切った肌は重ねることで熱を持ち、快楽は二乗になる。
 「ああっ、あっ、みつ、ぐ、みつ、ぐ……!」
 背中を爪が抉る。汗ばむ額に前髪が散らばる。絶頂が近い。火照った肌から匂い立つ甘いフェロモンが鼻腔をくすぐる。
 憎まれ口も忘れ快楽に翻弄される直を力強く抱きしめ、貢もまた、炎に身を投じる。
 「直………」 
 肉の楔で繋がれた直の内側が痙攣し、淫靡な襞が精を絞りきるように収縮する。
 二人同時に絶頂に達した。貢が射精に達すると同時に直もまた前から白濁を放ち、内腿に艶めかしい斑を施す。
 背に回した腕から急激に力が抜ける。
 脱力した体を気遣い、優しく布団に横たえる。
 「はっ、はっ、は………」
 汗に濡れそぼった前髪に指を絡め、ゆるやかにかきあげ、額に接吻をおとす。
 溺れる寸前に岸辺に打ち上げられたような虚脱の体を晒す直を見詰めるうち、禁句としてきた言葉が、唇から零れる。
 「これからも添ってくれるか」
 一糸纏わぬ裸身を互いにさらし、共に絶頂に達した今だからこそ、矜持の虚飾を剥いだ本音を打ち明けられる。
 皺の畝を作り波打つ布団に横たわり、肩で息する直の前髪をかきあげつつ、行為の余韻に僅かに上擦る声で貢は乞う。 
 「……そんなに僕の体は良かったか?」
 「そうではない」
 「よくなかったのか、けもののように貪っておいて」
 「誤解するな、もちろんその、そちらも良かった。練り絹のような肌だった。だが俺が言いたいのはそういう意味ではなくて、添い遂げるとは、その……わかるだろう、皆まで言わずとも」
 言外にここまで言わせるかと非難をこめ、羞恥に頬を染め、俯く。
 不面目そうに項垂れた貢の腕の中、怜悧な切れ長の目に疑問を浮かべた直が、さそわれるように指を虚空にさしのべる。
 人さし指の先端が貢の頬に触れる。
 恐怖心と潔癖症から人間との接触を頑なに拒み続けた直が、貢に体を許し、自分から手をさしのべている。
 「………興味深い人間、愚かな男だな」
 笑みに似て歪む唇が嘲弄を吐く。
 貢の頬を手で包み、冷笑する直の肌から、麝香を焚いたような甘美で官能的な匂いがたちのぼる。
 「………これ、は……」
 「猫の恩返しは一晩限り。そう契約で決まってるんだ。行為が終わり次第、僕はすみやかに消えねばならない」
 「消える……だと……」
 「特定の人間に束縛されるわけにはいかない。これは奉仕活動の一環だ。……僕の事は忘れてくれ」
 馬鹿な。
 続けようとした言葉は声にならず、鼻腔からもぐりこんだ匂いが脳に回り、眩暈が襲う。
 鼻腔の粘膜を刺激し、頭を甘美に酩酊させるその匂いは抗い難く貢を眠りに誘い、伸ばした手の先で身を起こした直を捕まえるに至らない。
 「直……どこへ……」
 「次の飼い主のところだ」
 行くな。
 声にならぬ声で叫び、必死に追い縋り手を伸ばす。
 無様を承知で抗い、無謀を承知でもがきあがき、無体に去りゆく直を呼び止める。
 直の体に変化が兆す。
 不健全に生白い素肌に漆黒に艶めく毛が生え、裸身が毛皮に覆われ、頭身が縮み、手の指が退化して丸まり肉球になる。
 猫の姿に戻った直が、布団に突っ伏した貢の鼻先で踵を返し、極端に物が少なく片付いた殺風景な和室を横切っていく。
 「な……お………」
 余力を振り絞って呼ぶ声に、もはや人語は返らない。
 退化した声帯は人語の発音が不可能だ。
 畳を軽やかに踏んで玄関に降り立ち跳躍、前脚で器用に鍵を開け、体で押してドアを開ける。
 薄く開いたドアの隙間にしなやかに身を滑りこませ、宙を泳ぐしっぽも艶やかに外へ出て行く。
 最後に一声、猫が鳴いた。
 別れを告げるようにも、謝罪するようにも聞こえた。
 閉まり行くドアのむこうで一瞬振り向いた黒瞳は冷徹な知性の輝きを宿し、畳を這って追い縋る貢を突き放す。
 伸ばした手の先でドアが無慈悲に閉じると同時に、貢の意識は失せ、無明の闇に呑まれた。
 
 翌朝、貢はからっぽの部屋で目覚めた。
 一度は夢かと疑ったが、体は情事の余韻をひきずって気だるく、布団には生々しい交接のあとが残されていた。
 夢と割り切るにはあまりに抱擁の感触は温かく、現実と信じきるにはあまりに儚い一夜の邂逅だった。
 そして直は再び貢の生活から姿を消した。
 人語を解し湯を被ると人に化ける奇妙な猫との生活は、たった一日で打ち切られた。
 喪失感に打ちひしがれる暇もなく日々は多忙にすぎる。
 貢は直との別離の虚無を埋めるため前にも増して稽古に励み、直の面影を振り切るため、座禅を組み読経に夜を徹した。
 たった一日一緒にいただけだった。相手は猫だ。それも物の怪だ。そう己に言い聞かせてみても、未練は断ち切れない。
 この手で直を抱いた。この唇で接吻した。この肉で繋がった。
 『名前を呼んでくれ』
 「直」
 刀傷が刻まれた無骨な手を握る。失ったものの尾をたどり取り戻そうとするかのように、強く、強く。
 直は猫だ。猫は薄情で無関心、人に懐かぬ気まぐれな生き物だ。人慣れず自由に生きる孤高の生き物だ。
 直は一夜限り貢の孤独を癒し、次の飼い主をもとめ、またどこかをさまよっているのだろう。
 「風邪をひいてなければよいが」
 気まぐれに直を拾ったあの日以来、冷蔵庫にはタッパに詰めた佃煮が詰まっている。
 今度来たら振る舞おうとありもせぬ想像に耽り、直の好みそうな佃煮を取り揃える貢を見て、苗は「佃煮ばかりじゃあれだし、煮物か、何か温かい物でも作りましょうか」と願い出るも、貢は「いや、いい」と断った。
 「猫舌だから、熱いものは食えん」
 月が巡り年をこえまた雨の日が巡ってきた。


 陰鬱な灰色の街に沛然と雨が降る。
 「風邪をひいたか」
 水溜りを蹴散らし歩く。
 雨で煙る視界に立つ電柱を捉える。
 電柱の脇にちんまりダンボール箱が置かれている。
 密閉された箱から今にも息絶えそうな細い鳴き声が漏れる。
 ただならぬ予感に駆り立てられ、無骨な指に似つかわしからぬ細心の手つきで蓋を開く。
 箱の内側に一匹の子猫が蹲っていた。
 凛と利発そうな目をした猫だ。
 血統書つきだろうか。
 漆黒に艶めく毛並みはさらさらと湿気を含みなお綺麗な光沢を放ち、いかにも撫で心地がよさそうだ。
 「にー」
 一人と一匹の再会だった。
 

 帯刀貢はそぼ降る雨の中家路を急いでいた。
 雨が降ると過去に拵えた古傷やまだ癒えぬ打ち身の生傷が痛む。
 加えて風邪の引きはじめの悪寒がやまず、不摂生からなる不養生に、知らず拳を握り締める。
 「精進が足りん」
 帯刀道場の跡取りが風邪をひくなどけしからん。なんたる軟弱な。
 師範を父と仰ぎ武士道一筋に身を捧げて十八年、稽古は一日も欠かした事がない。
 武士道は一日にしてならず峻烈な峰に挑むが如したゆまぬ努力の積み重ねが技を磨くのだ。
 無口無愛想で近寄りがたく思われる貢だが、人並みに喜怒哀楽の情はあり、怪我をすれば痛みを感じる。
 持ち前の鉄面皮が人に敬遠される一因だが、既に顔の一部と化した眉間の皺はいかんともしがたい。
 背筋に添う寒気と古傷の疼きに耐え、傘を握り締める手に力をこめる。
 「まだ甘い」
 帯刀家の跡取りとして一身に期待を負う貢は、武士にあるまじき不甲斐なさを痛恨の思いと共に噛み締める。
 一人暮らしを始めてもう二年。
 親元を離れての一人暮らしも慣れた。この頃は人当たりが柔らかくなったとよく言われ、門下生とも口をきくようになった。根が不器用なたちゆえ饒舌とはいかぬまでも、持ち前の誠実さ実直さで話してみれば、貢の人柄に好感を持った同年代の門下生は、意外と気安く打ち解けてくれた。
 今ならわかる。
 友がいなかったのは、俺が壁を作っていたからだと。
 眉間と同化した厳しい縦皺は消せずとも、誠意をもって接すれば、相手もまた誠意を返してくれる。 
 貢の中で何かが確実に変化していた。おそらくは良い方向へ。
 傘をさしそぼ降る雨の中家路をいそぐ貢は、途中、曲がり角の電柱のところまで来ると極端に歩調をおとす。
 癖なのだ。毎度ここにくるたび期待しては裏切られるくりかえしだが、それでもやめられない。もしかしたらと夢を見てしまう。
 雨に煙る視界に立つ電柱を捉える。
 いつもの癖で電柱の横に目を凝らし、ダンボール箱を見つけ、知らず駆け出す。
 まさか。夢か。夢を見ているのか。電柱の横に駆け寄り、無骨な指に似つかわしからぬ繊細な手つきで蓋を開く。
 「にゃあ」
 蓋の隙間からか細い声が漏れる。
 箱の中にちんまり前脚を揃え、一匹の猫が蹲っていた。
 一年前、初めて出会った時と同じ、知性をやどした利発そうな目がこちらを見上げる。
 偶然か、必然か。どちらでもよい、こうして会えたのだから。
 しかし待たされたぶん、憎まれ口もききたくなるのが人情というものだ。
 「また捨てられたのか」 
 ダンボールに傘を立てかけ、両手をさしのべ、湿気を含んだ猫の体を抱き上げる。
 「にゃああ」と抗議とも肯定ともつかず鳴く猫を大事そうに胸に抱き温め、傘を拾う。
 「相合傘と洒落こむか」
 「にゃあ」
 「お前の好きな佃煮もある」
 「にゃあぁああ……」
 胸の中で猫がもがく。
 貢の腕の中で毬藻の如く丸まった毛玉は、拗ねて背中を向けているようで微笑ましい。
 さて、拗ねた猫をなだめる方法はと思案をめぐらせ、ふと悪戯を思い付く。
 さんざん待たされた意趣返し、それもいいだろう。
 腕の中で丸まる猫に自分の方を向かせ、傘を肩に預け、鼻の先端を擦り合わせ唇を奪う。
 天と地を縫い付ける白糸が単調な旋律で傘を打つ。
 刹那、猫に変化が起きる。毛皮で覆われた獣耳が引っ込み、体毛が薄れ、素肌が覗き、漆黒の毛皮が捲れた下から肢体が生まれる。
 「!?ぶ、」
 突如胸にのしかかった重りに足を滑らせ、そのまま相手を庇い転倒する。
 相手の背中に手を回し道端に転倒したはずみに、傘が放物線を描き宙高く舞う。
 「貴様は変質者か。道端で卑猥な真似をして、僕に恥をかかせて楽しいか」
 水浸しの路上にうつ伏せた貢と胸を接し、眼鏡をかけた少年が皮肉を言う。
 「湯を被らなければ人になれないのでは……」
 「例外はある。……僕が特定の人間に発情した時、体内に特殊なフェロモンが生成され、その影響で変身を促進する」
 目を伏せがちに呟く直の頬は何故か赤い。
 風邪の引き始めだといけないと慌てて傘を手にとり被せ、目のやり場に困る全裸で蹲る直を雨から庇い、脱いだコートを着せる。
 「一緒に風呂に入るか」
 「………君が望むなら」
 余った袖を垂らし、コートに着られるようにして立ち竦み、不服そうに呟く。
 もう言葉はいらない。
 二人一緒に相合傘でアパートへの帰り道を辿る。
 猫耳としっぽの少年と長身痩躯の青年は寄り添い、歩調を合わせて同じ道を行く。

 一人と一匹の物語が始まる。

                                             END

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113855 | 編集

 しとしと雨が降る日だった。
 「やーな天気だなー。体が腐っちまいそうだ」
 しのつく雨をビニール傘で受け、アスファルトのへこみに溜まる水を蹴散らし、憂鬱に息を吐く。
 ビニール傘の表面に雨粒が当たっては弾けるを繰り返す。
 単調な水音に気が滅入り、自然、帰途に就く足取りも鈍くなる。
 家に帰ってもどうせ待つ人はいない。
 おかえりなさいの声がなければ帰宅も張り合いがない。
 自堕落な歩みに合わせ手首に下げた袋ががさつく。
 コンビニで買ったおにぎりと紙パックのコーヒー牛乳が今日の夕飯。
 「一人暮らしだから、食費も切り詰めねーとな」
 誰にともなく言い訳し、自分の声が雨音に塗り潰される寂寥感を鼻歌で紛らわす。
 音痴な鼻歌が雨音にかき消されそうに響く。
 向かいから車が来るのに気付き、傘をさしあげ片道に寄る。
 タイヤが水溜りに突っ込み盛大に水しぶきをまくも、この事態を予測し、傘ですばやく防波堤を築く。
 傘の表面で分岐した雨水の流れをなにげなく目で辿り、再び歩き出す。
 ぱしゃり、ぱしゃり。
 履き潰したスニーカーで軽快に水溜りを弾く。
 もうすぐアパートだ。
 今日は特に予定がない。さて、どうするか。ただ寝るだけというのも味気ない。
 「一人暮らしにゃ慣れても、ひとりぼっちにゃなかなか慣れねーな」
 上の空で鼻歌をなぞりつつ携帯のフラップを開き、女ばかり登録した番号を上から下へ流し見る。 
 呼べば即きてくれそうな手軽な女の子を物色する。女の子は好きだ。後腐れなく遊べる女の子は最高だ。彼女はいないが、セックスフレンドは二桁を超える。お互い割り切った関係はラクだ。孤独を忘れるため、喪失を埋めるため、束の間の馴れ合いもまた、楽しい。 
 「さて、今日はどの子にしようかな。スヨン、杏奈、シェリファ、メアリー、麗羅、ソーニャ、テレサ………」
 歌詞の延長のように浮名を流す恋人の名前を連ね、微妙に違うそれぞれの肌触りを反芻し、相好を崩す。
 「にゃあ」
 「ニャア?」
 足元でか細い鳴き声がした。
 傘を持ったまま、反射的に視線を落とす。
 電柱の横に雨水を吸ってふやけたダンボールがあった。声は閉ざされた蓋の向こうからだ。
 怪訝な顔で屈みこみ、ささやかな好奇心から手を伸ばし、蓋を開けて覗き込む。
 雨水が軽快なスタッカートを刻みダンボールを叩く。
 自然な手付きで蓋を開いたレイジは、四角い箱の中をすみずみまで眺め、声の出所を探り当てる。
 「にああぁあああぁ」 
 ダンボールの真ん中あたりにちょこんと子猫が座っていた。
 癖が強く跳ね放題の黒髪、ぎろりと光る三白眼、なかなか愛らしく生意気そうな顔立ち。
 頭からぴょこんと突き出た猫耳が警戒を示し尖り、尻から生えた虎縞の尾が感電したように逆立つ。
 「捨て猫か」
 しまった、という表情が一瞬過ぎる。
 パンドラの箱を開けちまった、と思った。
 後悔しても遅い。ばっちり目が合ってしまったら後の祭りだ。
 目が合った途端に恋に落ちるのは、男女の間よりむしろ人と猫の宿命だ。
 ダンボール箱の中には一枚メモが入っており、なにげなく手に取れば、「オスです。可愛がってください」と簡潔な一文が添えてあった。
 「そりゃオスだよな」
 弱りきった声を出し、首を傾げる。ダンボール箱の子猫もまた、つられて首を傾げる。
 庇護欲を刺激する目がじっとレイジを見詰める。
 ありもしない母性本能が疼きだす。
 「きかん気が強そうだ」
 試しに手をのばし、喉を指でくすぐってやれば、喜ぶどころか威嚇に歯を剥き爪を振るう。
 「痛っで!?」
 慌てて手を引っ込めるも間に合わず、手の甲が痛々しく腫れて、五線の血が滲む。
 「ふーっふーっ」 
 「なにすんだよもー、俺の自慢の肌に傷が付いたじゃねーか。顔じゃなくてよかったけどさ……俺の顔に傷が付いたら世界中の女が泣くぜ。で、お前は皮はがれて三味線にされるな。猫皮の三味線ってどんな音するんだろうな?」
 敵愾心もあらわに全身の毛を逆立て爪を研ぐ子猫をふざけ半分に脅し、メモを放り捨て腰を上げる。 
 「悪いけど、恨むなよ。アパートじゃ猫飼えないんだ。そのうち通りかかった親切な人が拾ってくれるさ。お前なかなかしぶとそうなつらしてるし、まんいち誰も拾ってくれなくても、だいじょうぶだろ。ネズミを狩ってしぶとく図太く野良として生きていけ。今の一撃の冴えを忘れるな、あの要領でネズミの息の音とめてやれ」
 まだ乳離れもしてない子猫が、大きな目に疑問を宿し、レイジの言葉を聴く。
 「じゃあな」
 胸の痛みを無視し、罪悪感を振り切るように歩き出す。
 立ち上がり、少し迷ってから、ダンボールにさしかけるように傘を置く。
 天から注ぐ雨が干した藁束のような茶髪をしっとりぬらし、シャツの肩を点々と叩く。
 甲高い声で猫が鳴くのに背を向ける。背中に視線を感じる。
 「にあーにあーにあー」
 三歩、五歩、十歩。歩くごとに声が遠く、小さくなる。
 雨音に今にもかき消されそうな弱りきった鳴き声を、それでも必死に張り上げる。
 「スヨン、杏奈、シェリファ、メアリー、麗羅、ソーニャ、テレサ。さて、だれにしよっかな。フェラが上手いのは杏奈だけど、膝枕の感触が一番気持ちいいのはシェリファだし、あ、ソーニャなら腹持ちのいいもん作ってくれっかな、パスタとか。ソーニャが作るパスタ絶品だもんな。スヨンのマッサージも捨てがたいし……」
 ダンボールの縁に前脚をかけ、ふらつく後ろ脚で立つ。
 「にあーにあーにあー」
 「折衷案でテレサにすっか。一週間もごぶさただったし、寂しがらせちゃ悪いもんな。色男の嗜みとして愛は平等に注がなきゃ……」
 「にあーにあーにあー」
 ダンボールの縁をひっかき、懸命に鳴く。
 「色男たるもの、ときに後ろを振り返る勇気も必要だ」
 「にあー……」
 力尽きたように声が消沈すると同時に、水溜りの上で足を止める。
 しなやかに身を翻し、大股に引き返す。
 履き潰したスニーカーで水溜りを払い、あっというまに電柱の横に引き返すや、自らの手でさしかけた傘をもちなおし、中腰で屈みこむ。
 ダンボールの中に子猫が蹲っている。
 しんなりたれた尻尾と耳が不憫を誘う。
 何度もくりかえし通行人に声をかけては無視されてきたのだろう、その顔は深い諦念と失望に満ちていた。
 くりかえし期待しては裏切られ続け、ついには人に期待することに疲れて怯え、爪を立て牽制するようになった子猫へとおもむろに腕を伸ばす。
 「ぎにゃっ!?」
 突然体が宙に浮かび、子猫が狼狽する。
 危害を加えられると勘違いしたか、レイジの手の中でめちゃくちゃに身をよじり尻尾をうちふり、拘束をほどこうと暴れ回るも、レイジは微笑を崩さずその体を抱き上げる。  
 「さっすが男の子。やんちゃだな」
 「ぎにゃ、ぎにゃにゃにゃ、にゃがー!!」   
 「いて、いてててててで、ちょ、顔はやめろ、世界遺産の損失!?やるならボディーにしろボディーに!!」
 パニックを来たした子猫に、自慢の爪で顎といわず顔といわず手の甲といわず引っかかれてもその手は決して放さず、引っかき傷が付いた顔で能天気に笑う。
 神様のように能天気な笑顔に毒気をぬかれたか、猫が一瞬ひるんだすきに、その体をひょいと持ち上げてТシャツの内側に突っ込む。
 「こっちのがぬくいだろ?はは、ネコカイロだ」 
 いきなりТシャツの中に入れられ面食らったか、さっきまであれほど暴れていた猫が、嘘のように大人しくなる。
 が、それも一瞬の事。
 再びТシャツの中で暴れ始めた猫を上から軽く押さえ、鼻歌まじりに歩き出す。
 「背中の爪あとは色男の勲章。胸板の傷跡は優しさの証」
 見慣れたアスファルトの道を歩き、角を曲がって少し行けば、彼が住むアパートがある。
 鉄筋の外階段を一段飛ばしで上がり、二階右端のドアの前に立ち、猫カイロを装備したまま尻ポケットから器用に鍵を取り出す。
 「にぎゃーにぎゃーにぎゃー!!」
 「あばれんなって、三味線は冗談だから」
 命の危機を感じたか、狂ったように暴れだす猫を無視し、鍵穴にさしこんだ鍵を捻り、行儀悪くドアを蹴り開ける。
 玄関にスニーカーを脱ぎ捨て、室内に上がる。
 ぬれそぼつТシャツを脱ぎ捨て、湿った藁束のような茶髪を首をふって乾かし、隅の冷蔵庫を開ける。
 「あちゃ、牛乳切らしてたっけ。コーヒー牛乳でいいか?」
 答えは聞かずひとりで決め、床になげだした袋から紙パックをとりだし、開封しようとして迷う。  
 「………あっためたほうがいいか?でも猫舌っていうくらいだし……でも腹壊されても困るし……何分あっためりゃいいんだ?人肌が適温か?こういう時は耳朶を摘んで……ちがうちがう、こりゃクッキー生地の固さ!」
 頭をかきむしって悩むレイジの後ろ、Тシャツの下で何かがもぞもぞ蠢き、子猫が小鼻をひくつかせ顔をだす。
 レイジが抱えた開きかけのコーヒー牛乳を見るや、その目に稲妻の如く閃光が走る。
 「にゃぎ!!」
 「うわっ!?」
 子猫がぴんとしっぽを逆立て跳躍、紙パックにとびかかる。
 落下した紙パックから床へと零れ出たコーヒー牛乳に顔を近付けるや、桃色の舌を出し、ぴちゃちゃと啜り始める。
 無心な様子でコーヒー牛乳を飲む子猫に、レイジはあっけにとられるも、微笑ましいものでも見るように砕顔する。
 「……………腹、へってたのか」
 レイジの事など完全に忘れ去り、床に広がった牛乳コーヒーで夢中に喉を潤し腹を満たす子猫に、今なら警戒されないだろうと接近する。
 沈んだ頭を優しくなで、もう片方の手で器用に包装を剥いたおにぎりを、顔の前におく。
 「シャケだ」
 「!」
 効果は覿面だった。
 相当腹が減っていたらしく、目の色かえておにぎりにとびかかり、旺盛な食欲を示したちまちのうちにたいらげる。
 顔中に飯粒をくっ付け、大口あけておにぎりにかぶり付く猫を、床にねそべり頬杖付いて観察する。
 「今日からうちの子だ。名前きめねーとな」
 癖の強い髪に指を通し、感触を楽しむ。
 いつしかレイジの頬は幸せそうに緩み、猫の食事を眺める目には、今まで出会ったどの女にも向けたことない素朴な愛情が滲む。
 牛乳の皮膜がこびりついた顔を前脚で洗う猫へと、軽いのりで候補を挙げる。
 「そうだなー、シャケが好きだからサーモンってどうだ?虎猫だからサーモンタイガーでもいいな」
 「にゃー」
 「お気に召さねーか。じゃ、にゃんにゃん。俺の娘娘~」
 ふざけて腹に顔を埋めれば爪が一閃、ざっくり引っかかれる。
 「えーだめ?可愛いと思うんだけどなー略してモンタ。じゃあお前が入ってたダンボール箱からとってみかんってのは……」
 「にゃぎゃ」
 やんちゃかつ愛らしい仕草でぱたぱたしっぽを横に振り却下。
 「……先着アリか。みかんは取り消しっと。ヨンイルじゃあるまいし、漫画のキャラ名付けるのはなしでいこう」
 おにぎりを夢中でがっつく猫を眺め思案すること十秒、指を弾いて決定打を放つ。  
 「よし決めた。ロン。これでいこう。なんか強そうだしかっこいいだろ?その上呼びやすいし可愛いし、ぴったりの名前だ」
 満足げな様子のロンを高々と抱き上げ、猫耳としっぽに刻まれた見事な虎縞模様を明かりに照らす。
 「よろしくな、ロン」
 極上の笑みを向けるレイジに対し、ロンは不満げな鳴き声を上げた。

 猫との二人暮らしが始まった。
 「ふーんふ~んふふ~ん」
 音痴な鼻歌に合わせコンビニ袋を振る。ずたぼろスニーカーをつっかけいそいそと家路を急ぐ。
 リズムをとるような軽快な足取りでスキップを踏めばビニール袋の中の猫缶が弾む。
 電柱の向こうにアパートが見えてきた。
 夜迫る街を行く足取りが期待に急く。錆び付いた階段を二段飛ばしで駆け上がり、向かって二階右端の部屋のドアを開け放つ。
 「待たせたな、ハニー!」
 能天気な笑顔全開、いつとびかかってきてもいいよう両手を広げ待ち構える。
 がらんとした六畳一間に空疎な沈黙が落ちる。
 「……れ?」
 顔がだんだん曇る。
 土間に靴を脱ぎ捨て、床に上がる。きょろきょろとあたりを見回す。六畳の真ん中に据えたちゃぶ台のまわりには読みかけの雑誌や本が無造作に散らばり生活臭が漂う。一人暮らしを始めてから自炊の癖がついた台所は使いやすく片付いている。ルーズに見られがちなレイジだが、一度カビがはびこって懲りて流しの管理だけは徹底している。
 「ご主人様のお帰りだぞー?」
 近所に遊びに出かけてるのだろうか。
 ドアの施錠はしっかりするが、猫用の出入り口として台所に面した窓は開けている。
 袋をさげたまま台所に歩み寄り、窓の隙間に目を付ける。
 「うお!?」
 何かが頭上の戸棚から降ってきた。
 「にぎゃー!」
 元気よい鳴き声が鼓膜を貫く。
 レイジが窓辺に来るのを待ち構えていたかのようなタイミングで戸棚から飛び降りた影が、狙いすましたように頭にのっかり、そこから反転してシャツの背中に爪で引っかかる。
 「こーの、腕白っ子め!」
 笑いをまじえ勢いよく振り返れば、背中にひっかかった子猫も振り子のようにぶらんと揺れる。
 背中に爪を立て弧を描く猫を引っぺがそうにも、相手は背中にしがみついたまま、この姿勢ではどうしようもない。
 「ドッキリ作戦大成功か?俺が帰ってくんの戸棚で待ち受けてやがったのか、驚かそうって。ロンはまったく悪戯っ子だなー、悪知恵ばっか付いちまって……あ、こら、爪立てんな、穴開いちまうよ!?」
 「シャツに穴開くくらい何だ、俺は胃酸で胃に穴開いちまう!」
 レイジの背中から一回転捻りを加え着地、蹲ったロンが舌を出す。
 「遅いんだよ、帰りが。待ちくたびれたっての。留守電いれろよ」
 「さびしかったか?」
 中腰の姿勢で屈み、にやにやと顔を覗き込めば、ロンが鼻白む。
 「自信過剰ってよく女に言われないか、お前。帰りが遅けりゃ自分でえさ漁りにいこーと思ってたのに、留守電入ってねーからどうしようか悩んでたんだよ」
 「で、戸棚に入ってる間うとうとしてたと?」
 戸棚はロンのお気に入りの場所だ。ちょうどすっぽりおさまるらしい。
 「飯は?買ってきたんだろーな、ちゃんと」
 飼い猫のつれない返事に脱力するも、気を取り直し袋をあさる。レイジが手に取った猫缶を見るなりロンの目が食欲旺盛に輝きだす。
 「いたっきます!」
 「ちょ、こら待てって、そのまんまじゃ食えねーだろ!?」
 目の色変えたロンが手に持った猫缶にとびかかるのにレイジが動転するも構わず、前脚で固定した缶詰に齧り付く。 
 大口開けて缶詰にかぶり付き、回しながら歯を立てるロンの意地汚くも微笑ましい様子に、レイジも思わず頬を緩める。 
 「やれやれ」
 呆れ半分、飼い主の弱み半分で腰を上げ、涎にまみれた缶詰を取り上げればロンが反発も露に毛を逆立てる。
 反射的に飛びかかる準備に入るロンを前に、口笛を吹きながら缶詰の蓋をひっぺがしにかかる。
 「待ってろよ、今開けてやっから」  
 レイジが悠長に蓋を開ける間、ロンは待ちきれないとばかり前傾した体をうずうずさせ、目を爛々と輝かせる。
 しっぽが忙しく床を掃き、早く早くと急きたてる。
 癖の強い黒髪は今でも梳かすのに一苦労だが、まめに手入れしてやってるせいか、寒さに縮かみ丸まっていた毛玉の頃よりだいぶ見られるようになった。
 最もロンは膝に乗せられると嫌がり、逃げ出そうとさかんに暴れ、おかげでレイジの手と顔は引っかき傷だらけだ。
 捨て猫から飼い猫へ。
 レイジのアパートに居候する子猫はロンと名付けられ、今のところ病気もせず、すくすくと育っていた。
 体は一回り大きくなり、元気のよさは倍の倍になり、閉め忘れた窓からたびたび脱走を企て柱に爪を立て畳に大量の毛を散らしバッタやネズミを狩ってきたりと、有り余るバイタリティを発揮して酷くレイジの手を焼かせている。
 「早くしろよ」
 「待てよ」
 「早く早く」
 「待てって」
 「腹ぺこで死んじまう」
 「大げさだなー」
 「おなかとせなかがくっついたら大変だろ?ニンゲンもそう唄ってる」
 「肺で呼吸できなくなるもんな」
 好奇心旺盛な三白眼、興味津々な顔。
 レイジの手元を瞬きもせず覗き込み、蓋が捲れていくのを目で追い、しっぽで床を叩く。
 「ほらよ。お前の好きなマグロ味だ」
 缶に顔を突っ込み物凄い勢いでがっつき始める。  
 「慌てて食べると喉詰まらすぜ。ゆっくり食え」
 「腹減ったんだよ、帰ってこねーから」
 「ちゃんと帰ってきたろ?」
 缶詰から顔を上げず不満げに唸るロンに、愛しげに目を細める。
 捨て猫だったロンは、レイジの帰宅が遅れるたびへそを曲げる。
 口には出さないが、また捨てられるのを恐れているのだ。
 そんな所も可愛いと内心レイジは思ってる。
 マグロの切り身を練り込んだ猫缶に夢中なロンを床に寝転がって見詰め、さりげなく手を伸ばし、頭をなでようとする。 
 「なれなれしくさわんな」
 食事を邪魔され不愉快なのか、レイジの手を邪険に払い鼻を鳴らす。
 「ケチ。いいじゃんかよ、飼い主なんだから」
 「飼い主じゃねえ。お前の飼い猫になった覚えはねえ」
 「じゃあなんだよ」 
 「居候だ。一人で生きてけるようになるまで、仕方なくお前んちに居候してるんだ。見てろよ、も少し経てば俺もでっかくなって、一人で狩りができるようになる。そしたらヒトの手なんか借りず……猫缶なんて運んでもらわなくても……」
 「食うかしゃべるかどっちかにしろ」
 「るせ。話しかけてくんな。お前が話しかけてくっから義理で答えてんだよ」 
 しつこくちょっかいをかけて不興を買ってしまった。
 猫缶を夢中で咀嚼するロンを寝転がってまじまじ眺める。
 虎縞の耳としっぽが動きにあわせひょこひょこ動く。
 撫でようと手を翳せばさっと逃げ、迷惑そうにレイジを見る。
 食べ方はお世辞にも行儀よいとは言えず、勢いあまって食べ滓を撒き散らす。
 女の子と一緒にいるよりロンと一緒にいるほうが楽しい。
 ロンと暮らし始めてからレイジの生活は緩やかに変化した。
 毎日に張りができ、家に帰るのが楽しくなった。
 コンビニに立ち寄り、どれにしようかと猫缶を選ぶ。
 憎まれ口を叩きつつがっつくロンの顔を想像すれば、こちらの心も浮き立つ。
 女遊びで埋めていた心の空白がロンとの生活で充足し、単調な毎日が胸躍るリズムで彩られ、素朴な幸福を噛み締める。  
 やんちゃな子猫に振り回される生活は決して苦ばかりではない。
 下心を持った異性や同性に貢がれ尽くされる事に食傷していたレイジはむしろ、勝手気ままな子猫を中心に回る生活に、今までにない新鮮さと面白みを感じていた。
 「美味いか?シーチキンと悩んだけど、やっぱマグロで正解だったな」
 「肉粽食いてえ」
 「ローツォン?」
 初耳の単語に頬杖を崩し、首を傾げる。
 缶詰をあらかたたいらげたロンが、ご満悦の至りで顔についた食べ滓を舐める。
 「台湾風のちまき。もち米の中に豚の角煮やシイタケなどの具を入れ、ハスの葉や竹の皮で包んで蒸したの。隣の女がくれた」
 「隣って、202の梅花か。餌もらってんのか?」
 「梅花はいい女。餌くれる。ロンは可愛いねってなでなでしてくれる」
 短絡的な発想だ。
 一人前に照れてるのか、先刻にも増して激しくしっぽを振り、伏せた顔を赤らめる。
 隣人の梅花は台湾出身の風俗嬢だ。
 根っからの動物好きらしくロンを大層可愛がっている。
 レイジが外泊する時は梅花に連絡を入れロンを預かってもらっている。
 「ローツォンねえ……この近くで売ってんのかな?梅花ちゃんに聞いてみっか」
 なにげなく言えば、ロンがすかさず釘をさす。
 「梅花に手え出すなよ」
 「おま……さすがの俺でもアパートの隣人に手え出すほど飢えてねえよ。遊ぶ女に困ってねーし」
 「尻軽の言い分は信用できねえ。メスならなんでもいいんだろ、お前。発情期の猫より無節操だ」
 「恩人にそりゃねーよ」
 油断ならない目つきでこちらをねめつけるロンに抗議するも、ついである可能性がひらめく。
 「ロン、お前ひょっとして……梅花にほれてんのか?」
 効果的に一呼吸おいて直球を投げれば、ロンが全身の毛を逆立て、わかりやすく赤面する。
 「なっ、なっ、なっ……ちげーよ馬鹿、ちげーよ!ただ梅花は優しくていい女で俺に肉粽くれてロンは可愛いねってすべすべの手でなでてくれて、ふかふかした胸に抱っこしてくれて、なんだかいい匂いするし、メスのフェロモン出てるし、でも人間だから猫の俺には関係ねーし、でもでも梅花が優しくていいニンゲンってのはホントだから、むざむざお前の毒牙にかかるのほっとけねーってか!!」
 あたふたと前脚を上下させ必死の釈明を試みるも、空回って自分のしっぽを踏み付け顔面からすっ転ぶ。 
 大いに取り乱し、自分のしっぽを踏んで滑って転ぶという器用な芸当を演じた子猫に、レイジは懸命に笑いを堪える。
 「…………ぷっ………ぷぷっ……」 
 「………………」
 「ひょっとして図星?梅花に惚れてんの?色気より食い気だと思ってたお前がいつのまにかねえ」
 「………………るせえ。惚れてねーよ」
 「猫が人間に恋か。ハードル高い初恋だな。可哀相だけどロン、梅花はお前の事可愛い子猫としかおもってねえよ。肉粽くれたのだって餌付けの感覚で他意はなし、お前の初恋は残念ながら報われね……」
 さらに続けようとしたレイジの顔面に爪を一閃、豪快な悲鳴を上げさせ脱兎の如く走り出す。
 「てめっ、ロン!脱走か!?」
 慌てて追うレイジが翳した手をすりぬけ、台所の流しに飛び乗るや、窓の隙間に身をねじ込ませる。
 「ヒトと猫じゃ釣り合わねえってわかってるよ!!」
 何かを堪えるような声にはっとし、窓に向かい立ち竦む。
 「わかってっけど……夢くらい見たっていいじゃねーか!」
 最後はほとんど泣き声になっていた。
 窓の隙間から抜け出したロンがすばしっこく廊下を遠ざかっていく。レイジの無神経な言動で怒らせてしまったらしい。
 「………俺の馬鹿!」
 舌を打ち、玄関に転がったスニーカーに足を突っ込んでドアを開け放とうとした途端、懐から電子音が漏れる。
 こんな時に。
 無視しようにも続く着メロに気が散り、荒々しく携帯を耳にあてる。 
 「もしもし!?」
 『レイジのいけず!!』
 携帯から飛び出た声に面食らう。
 玄関で立ち尽くすレイジへと、携帯の向こうの人物は続けざまに吠え立てる。
 『なんで、なんで俺に猫耳拾ったこと教えてくれんかったん!?そうと知ってれば今すぐ直行したのに……猫耳猫しっぽのみかん箱入り美少女拾うなんてエロゲな展開おいしすぎやん、でどないしたんその美少女には名前付けたんか、タマとかデジコとかポチとかミュウとかやらしー名前付けてドッキドキの同棲生活始まりか、アパートのドア開けたら三ツ指付いた美少女が出迎えて『お待ちしとりましたにゃんご主人様。猫缶にします、お風呂にします、それとも……こ・う・び?』の究極の三択、手ずから嵌めた首輪は隷属の証、ああんもう鬼畜にお好きにーーーーーー!!』
 「ヨンイル、今の時間帯バイトじゃないっけ?」
 『漫画喫茶なんぞ放っとけ!それよかレイジ、噂の猫耳美少女と会わせい』
 「家出中だよ。あと、美少女じゃねえ。オスだ」
 『なっー』
 絶句した相手と通話を断ち切り、ポケットをジーパンに突っ込み、まっしぐらに走り出す。
 廊下を疾走し、階段を駆け下り、夜闇の降りた道路に立って左右を見渡す。
 「俺が悪かった、謝るよ、帰ってこい!」
 道のど真ん中に突っ立ち大声張り上げるも、返事は返らない。ロンの姿は完全に闇に紛れてしまった。
 「……………っ………」
 焦燥が身をあぶり、自責の念が胸を締め付ける。
 自分の言動が原因でロンを傷付けてしまった。
 『ヒトと猫じゃ釣り合わねえってわかってるよ!!』
 自棄のように叫んだ捨て台詞が耳の奥で響く。
 窓の隙間から抜け出す寸前、レイジの目に映った横顔は、悲哀と葛藤に歪んでいた。
 報われぬ想いを胸に抱き、それを自覚してなお一抹の希望と期待に縋り、ロンは叫んだ。
 『わかってっけど……夢くらい見たっていいじゃねーか!』
 「俺、馬鹿だ」
 自分がいかに無神経だったか痛感する。
 レイジの言動に傷付き、衝動的に家出したロンを捜し歩き出しながら、再び携帯をとりだして予め記録してあった番号を呼び出す。
 拾ってから三ヶ月、遊びに夢中で帰りが遅くなることは多々あれど、喧嘩が原因の家出は初めてだ。
 ロンが二度と帰ってこないという可能性を考えただけで目の前が絶望的に暗くなり、もし車に轢かれたら、悪い人間に連れていかれたらと、思考が際限なくネガティブな方向に傾いていく。
 こんな別れ方はいやだ。
 二度とロンに会えなくなるなんて、耐えられない。
 これまで数え切れない異性と交際したが、綺麗な別れ方をしたほうが少なく、必ずといっていいほど修羅場と愁嘆場を経験した。
 最低だと罵られた時も、死んでしまえと号泣された時も、合鍵を投げ付けられた時も、レイジは相手の気持ちなど考えずへらへら笑っていた。
 殊勝な顔をしなければと頭では理解していても、心は常に冷めていて、激昂する相手に対し突き放した感情しか抱けなかった。
 だが、今は。
 「頼む、出てくれ」
 ロンを取り戻す為なら手段を選ばない。
 縋るように携帯を握りしめ、速鳴る動悸と呼応する呼び出し音に苛立ちながら、レイジはひたむきに祈った。

 猫が行方不明だ。
 「おっせえ……この緊急事態になにやってんだあいつ、すぐすっとんでくるって言ったじゃねえか」
 苛々と携帯のフラップを開いては畳むを繰り返し、じりじりと焦燥募る無為な時間を潰す。
 夜八時を回った歌舞伎町には色とりどりのネオンが咲き乱れている。
 飛び交う人声の中には甲高い中国語や韓国語が含まれ、肌の浅黒い東南アジア系から黒人まで、様々な人種が入り乱れる。
 喧騒の坩堝と化した新宿歌舞伎町の片隅、友人や彼女と会う際の待ち合わせに使う目立つビルの入り口に立ち、通りを行き交う人の流れを漫然と眺める。
 道行く女の大半と男の一部はレイジの前にさしかかるや極端に歩調をおとし、陶然とする。
 男を伴う女の目さえ奪うエキゾチックな褐色の美貌と豹のような姿態から野蛮な色香が匂い立つ。
 ファー付きフライトジャケットの下に白黒の女の写真とスラングを印刷したTシャツを合わせたラフな着こなしが映え、胸で鈍い光沢を放つ十字架が揺れる。
 前を通りかかった女が好色な目配せを向けてくるのに、いつもなら微笑み返す余裕もあったろうが、今はそれどころじゃない。
 レイジの頭の中は行方不明の猫の事で一杯で、猥雑に賑わう通りに向けた目はその実なにも見ていない。
 心ここにあらずといった様子で物思いに耽るレイジに、雑踏をそれて影が歩み寄る。
 「暇か?」
 はだけたシャツの胸板にチェーンを垂らした軽薄そうな若者がレイジに声をかける。
 ラバーのジャケットと筋肉質の太股にフィットしたジーンズは、新宿二丁目界隈を徘徊するハードゲイが好むスタイル。
 干し藁のおくれ毛をかきあげ、形よい耳朶に熱っぽく饐えた息を吐きかけ、若者が揶揄する。
 「ダチにすっぽかされたのか。ひとりじゃつまんねーだろ、遊ぼうぜ。いい店知ってんだよ、きっと気に入る」
 自信ありげに言い、人工的に日焼けした顔で微笑む。
 男はビルの壁に手をつき、レイジの方へ上体を倒し、キスする角度で顔を近付けていく。
 レイジの微笑に脈ありと見て、ますます図に乗った男がその首に手をかけ、引き寄せる。
 引き締まった首をいやらしく手が這い、もう片方の手が裾から忍び込む。
 さかる男に身を晒し、されるがまま愛撫を受けながら、レイジは言う。
 「悪いな。先約があるんだ」
 「男か?」
 レイジの顎を親指でつまみあげ、唇に吐息を吹きかけ、囁く。
 ナンパを撃退するための口実と決め付けたか、口の端を卑しく吊り上げる露骨な嘲りが覗く。
 「俺よりいい男なのか?」
 上玉をみすみす逃すのは惜しいとばかり、口説きに熱が入る。 
 いやらしく腰をなでさすり、支え、もう片方の手を大胆にもシャツの背中にさしいれる。
 引き締まった腰を、しなやかに筋肉のついた背中を、飢えたように火照った手が這う。
 初対面の男に身を委ね、掴み所ない笑みでのらくらあしらいつつ、唇を狙う顔をそれとなくさけていたレイジだが、雑踏から湧き立つ歌声にはっとする。
 「エロイムエッサイムっエロイムエッサイムっさあバランガバランガ呪文を唱えよう~エロイムエッサイムっエロイムエッサイムっほらバランガバランガぼくらの悪魔くん~」
 「おっせーよ、ヨンイル!!」
 股間膨らませ愛撫に励む男を邪険に突き飛ばし、叱責を飛ばす。
 歌舞伎町には場違いなアニメソングを恥も外聞もない大声で歌いながら、その人物はいう。
 「遅くないて、秋葉原から新宿まで最短コースできたんやで。ちっとはこっちの都合も考えてくれな」
 人ごみを割いてこちらにやってきたのは、奇抜な風体の少年。
 ツンツン立たせた硬い短髪の下、額にゴーグルを装着している。
 精悍に切れ上がった双眸は悪ガキめいた稚気が抜けきらず、快活な顔だちにいかにも喋り好きそうな大きな口が似合う。
 口ずさむという表現はこの際正しくない。
 ゴーグル少年はひとり堂々と、周囲の目など意に介さず気持ちよさそうにアニメソングを歌っていた。人ごみの中、のりのりでアニメソングをがなる少年を異常者または変質者と認定しすれ違う人々が避けていく。
 通行人の白眼視など痛くも痒くもないといったふうに大手をふって意気揚々、活力の塊のような少年がすたすた雑踏を突っ切ってやってくるのを見やり、気まぐれな豹の動作で男から離れたレイジはあきれる。
 「なんだよ、その大荷物」
 「これ?よう気付いたな、さっすがレイジ、目のつけどころがちゃう」
 ゴーグル少年が尖った八重歯を覗かせにかりと笑い、両手に下げた袋をこれ見よがしに示す。
 「そこの本屋で聖☆おにいさん売っとったんや。初版はどこも売り切れで入手できんかったさい、この機を逃しちゃあかんて大人買い。自分用、保存用、布教用、じっちゃんの仏壇に供える用……」
 「ぜんぶ同じじゃねーか。バイト代の無駄遣いだ」
 「食費削っても漫画にかける金は減らさんのがオタクの真髄や」
 飄々と言い放つゴーグル少年の名は、ヨンイル。レイジの数少ない同性の友人だ。
 両手に持った袋を足元におろし、中をあさり、レイジの胸へと真新しい単行本をおしつける。
 「ほなレイジ、これお前にやる。記念すべき布教第一冊目。イエスとブッダの立川エンジョイライフの虜になれ」
 「後でいいよ、これから捜索はじめようってのに邪魔じゃねーか」
 「俺の心意気が受け取れんのか!?おどれの電話一本でバイトほっぽって駆け付けた心の友にむかって、そない暴言吐くか!?」
 受け取り拒否された漫画をひしと抱きしめ、抗議するヨンイルに徒労感が襲う。
 「感謝してるよ。後でなんかおごるから……それよか、猫だ」
 ロンがアパートを飛び出してからレイジはいてもたってもいられず、頼りになりそうな知り合いに声をかけて夜の街に繰り出した。
 目的は夜遊びではなく、猫探し。
 姿を眩ましたロンを追い、ネオンの彩り華やかな歌舞伎町に繰り出したレイジは、秋葉原の漫画喫茶を早退したヨンイルと合流し、捜索を始めることにした。
 が。
 「ヨンイル。お前が働いてる漫画喫茶じゃ、店員にコスプレ義務あんのか」 
 頭のてっぺんからつまさきまでヨンイルの格好を眺め、素朴な疑問をぶつける。
 「どや?かっこええやろ?どこにおっても一発でわかるやろ」
 「目立ちまくりだよ。死亡遊戯のブルース・リーかよ」
 横に黒いラインが入った黄色いジャージを着、額にどでかいゴーグルをかけたヨンイルの姿は、歌舞伎町の雑踏の中で異様に目立つ。
 ヨンイルは頭をかきかきのほほんと笑う。
 「こないだ死亡遊戯観て、ブルース・リーのかっこよさにごっつ痺れて、ドラゴンボール徹夜で全巻読み返してもたん。あーやっぱ亀仙人最高!天下一武闘会のピッコロ戦が一番とかべジータ登場までとか人によって諸説あるがな、俺的ドラゴンボール最大の山場はやっぱフリーザ様やねん。せやけど人造人間18号も捨てがたいしー」
 「影響されやすいヤツだなあ」
 「二次元に片足突っ込んで生きとるからな、俺は」
 踏み切りいらずの暴走特急の勢いでぺらぺらしゃべるヨンイルに手刀で突っ込む。
 「威張って言うな。危険信号がゴーグルかけて歩いてるみてえでお近づきになりたくねーことこの上ねえ」
 「似合わん?」
 「似合ってるけど、一緒に歩きたくねえ。俺のセンスまで疑われる」
 黄色いジャージを得意げに着こなすヨンイルに対し、議論の不毛さを痛感したか、ため息ひとつ携帯をもてあそぶ。
 「こいつがあんたの男か?変わった趣味だな」
 存在を忘れ去られた男が皮肉るも、ヨンイルは初対面の男をまじまじ見て、屈託なくレイジに聞く。
 「この人だれ?DMC関係者っぽいファッションやけど、クラウザーはんの下僕ならサインもらってきてくれへんかな」
 「クラウザーなんて外人の知り合いいねえよ」
 「わこた、クラウザーはんの豚候補やな」
 「豚だと……喧嘩売ってんのか全身タイツのゴーグル野郎の分際で!?」 
 「タイツちゃうわ、ジャージ」
 そこだけは譲れないと反り返るヨンイルに激怒、男が胸ぐら掴み殴りかかるー
 甲高いブレーキ音が耳を劈く。
 「失礼。そこにいらっしゃると、足が地面と同化しますよ」
 慇懃無礼なバリトンと共に、男の足の上をタイヤが猛速度で通過。
 「いぎぃっ!!?」
 この世のものとも思えぬ絶叫を上げ、ひしゃげた片足を掴んで飛び跳ねる男の先で、鈍い光沢のベンツが停まる。
 紋章も華々しい高級車の後部ドアが開け放たれ、ヨンイルに勝るとも劣らず奇抜な風体の男が登場する。
 「ヤクザ?」
 「マフィア?」
 「南米カルテルのドンだろ、ありゃ」
 「あのうそ臭え笑みで飾った極悪非道な目つきただものじゃねえ、血に飢え狂った軍用犬の目だ」
 「目を合わせたら殺される!相手は国際指名手配級の麻薬王だ!」
 周囲の通行人が殺気立ち、潮が引くように車の周りに空きができる。
 好奇と畏怖と戦慄とが交じり合ったギャラリーの視線を一身に浴び、威風堂々路上に降り立つは、貫禄ある大男。
 オーダーメイドのダークスーツを一分の隙なく着こなし、肩からシルクの襟巻きを垂らしている。
 ぴっちり七三に撫で付けた髪、聡明に秀でた額。黒々と柔和な瞳が鼈甲ぶちの眼鏡の奥であやしく微笑むも、抑えきれない殺気が鍛え抜かれた全身から噴き上がる。
 「我輩としたことが、少々遅れてしまいました」
 「おっせーよ、ホセ」
 「すいません……少し問題が起こったので」
 ホセと呼ばれた男が、靴音も高らかに二人のもとへ赴き、如才なく手をさしだす。
 「ヨンイルくんですね?お噂はかねがねうかがっております。我輩の事は気軽にホセとおよびください」
 その対応と微笑みだけ見れば、営業成績トップを維持するセールスマンだ。 
 豪華なスーツや高級な靴、シルクの襟巻きが燦然と放つオーラに目がくらむも、ヨンイルは持ち前の軽いのりで「あ、どもども、おおきにー」と握手に応じる。
 「あ、足、足が潰れ……へ、変な色にぃいいいぃいい……!?」 
 足元から湧く悲鳴に視線をおろし、懐から分厚く膨らんだ財布を抜く。
 「前方不注意とはいえ、さっきは悪い事をしてしまいました。治療費と慰謝料こみで……足りるでしょうか?」
 財布から分厚い札束を抜き、悶絶する男の手にむりやり握りこませる。
 「もし治りが悪いようでしたら名刺に書いてある住所にいらしてください、心をこめて歓待させていただきますので……起訴ですか?お言葉ですが、それはやめておいたほうが無難ですねえ。貴方のご家族、いえ、貴方自身の身に万が一の事があっては大変です。世の中物騒ですからね、いつ上から鉄骨が落ち蓋の外れたマンホールに落ちトラックが突っ込みメリケンサックを嵌めた暴漢に襲われ全身複雑骨折脳挫傷の憂き目にあうやもしれませんし……」
 警告とも脅迫ともつかぬ物騒な内容を吹き込み、札束を渡した男の手を両手で包む。
 さして力をこめているようにも見えないのに関節が軋み指が変な方向に曲がり、もはや声もない男がえびぞりに泡を噴く。
 「わかってくださいましたか。同じ人類、話し合いによる平和的解決が一番ですものね。最後に必ず愛が勝つとはよくぞ言ったものです」
 男の手を包んでさすり、後光さす聖人の微笑みを浮かべるホセ。
 乾いた笑みでヨンイルが呟く。
 「………誰?」
 「ホセ。知り合いだよ。忙しいヤツだからどうかなって思ったけど、だめもとでメール打ったら手伝ってくれるってさ」
 「握手ん時、本気で殺しにきたで。何者なん、あれ」
 腫れた手をさすりながら聞くヨンイルに、レイジはどこか遠い目で答える。
 「聞きてえ?」
 「むっちゃ気になる」
 「数ヶ月前、俺は歌舞伎町でアンジェリーナと出あった。アンジェリーナはメキシコ出身のストリッパーで、ふるいつきたくなるような腰つきをしていた。俺とアンジェリーナはラブラブだったんだけど、ところがこのアンジェリーナ、実は麻薬の運び屋だったんだ。けどよ、誤解するな。アンジェリーナだって好きで危険な仕事と二股かけてたんじゃねえ、故郷の家族を人質にとられてマフィアに脅されてたんだよ。アンジェリーナは泣く泣く俺に訴えた。運び屋やめてストリッパー一本でやってきたいけど、そしたら国の家族が殺される。どうしたらいいかって……」 
 「ふむふむ」
 「俺はホセに相談した」
 「ふむふむ」
 「翌日、東京湾に死体が上がった。アンジェリーナを脅してたマフィアの」
 神妙に頷きながら聞いていたヨンイルだが、ゴーグルがずりおちて目を覆う。
 ゴーグルをぐいと押し上げると同時に、猜疑の目つきで念を押す。
 「……え、終わり?すっごい中略せんかった?」
 「くわしく話すと長いし、えぐい」
 「めっちゃ裏社会の人やん。ドンやん」
 「鋭いな。通り名はドン・ホセ、歌舞伎町の帝王とはヤツの事だ。ちなみにワイフのカルメンは歌舞伎町の女王って呼ばれてる」
 「結婚しとるん!?」
 「内緒話とは水臭い。我輩も仲間にいれてください」
 レイジとヨンイルの間に割り込み、人畜無害な仏顔でこっそり囁くホセに、ヨンイルが「わっ!?」と仰け反る。
 「……さすがドン、侮れん……」
 気配を完全に消した接近に、顔が引き攣る。
 レイジをナンパした男は、びっこをひきひきとっくに去ってしまった。
 何故かホセに対抗意識を燃やすヨンイルはさておき、本題に戻る。
 「んじゃ、さっそく捜索開始。日付が変わる前にロンゲットだ」
 「数多くの女性と浮名を流してきたレイジ君が、猫一匹にそこまで執着するなんて、我輩、少し意外ですね」
 「可愛い猫なんか?」
 意味深にほくそえむホセとヨンイルと均等に見比べ、一呼吸おき、ありのままの本音を述べる。
 ほんの少しばかり照れを含んだ、気安い笑顔で。
 「めっちゃ、可愛い」
 飼い猫を自慢するのではなく、漸く出会えた最高の相棒を誇るように本音が響いた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113729 | 編集

直を前にすると衝動を抑制できない。
青白く静脈が浮く繊弱な首筋に噛みつきたい。病的に生白くすべらかな肌を愛撫したい。額にかかる癖のない黒髪からは清潔な石鹸の香りが漂う。これが直の体臭だ。潔癖症の直はシャワーの際には体の裏表を洗って几帳面に砂と垢をこそぎ落とす。まるで何かの強迫観念に駆られたかのように。
垢染みた囚人服に身を包んでいても他と相容れず清潔な印象を保つ。細いうなじは女のそれと似て非なる色香を放ち、じっと見つめていると理性が蒸発しそうになる。
「ところで、サムライ」
「なんだ」
「髪が伸びたな」
生返事を投げて寄越してから我に返る。洗顔を終え、振り向く。
ベッドに腰掛けた直が眼鏡の奥から観察の眼差しを注ぎ、自らの襟足を指で叩いて指摘する。
「髪だ。君の。気付かなかったか」
「……いや」
「むさくるしい蓬髪だ。放っておくとしらみが沸く」
「失敬な、きちんと洗っている」
「万全ではない」
「頭皮もちゃんと洗っている」
憮然として言い返す。
「散髪は?」
「……いや」
「何故しない」
「……」
「無精か?怠慢か?不潔が基本スタイルか?どうりでフケで白いわけだ」
心外な暴言を吐かれ気分を害す。
「後ろには手が回らん。仕方なかろう」
「刃物の扱いには慣れてるだろう」
「己の髪を切るのは手を煩う」
直が眉間に皺を寄せ考え込む。
そして
「……世話が焼ける」
眼鏡のブリッジを中指で押し上げため息ひとつ、腰を上げる。
「僕がしよう」
突然の申し出に戸惑う。
「気は確かか?」
「正気を疑うほどの発言か?」
逆に鼻白み、不愉快そうに言い返す。
「勘違いするな、借りを返すだけだ。同房の人間が不潔でいるのは耐えられないからな」
借り。
以前、直の髪を切った事を思い出す。
指の狭間を滑らかにすり抜ける繊細な髪質、細波めいた官能を伴うその感触を恋い慕うよう反芻する。
「何をしている。座れ」
共同作業だと言わんばかりに顎をしゃくって促され、諾々とベッドに腰掛ける。
衣擦れを曳く歩みをつい意識し、体が妙にしゃちほこばってしまう。
なにをしているのだ俺は。
言うなりに座ってどうする。
いやしかし髪を切り切られるだけの行為に何ら疚しいところも後ろ暗いところもない、あれこれ邪推し取り乱す方が奇態ではないか。
「……放っておけばよい」
内心の照れをごまかし、無粋の極みの渋面を作る。
「誤解するなと言っている」
直もまた不機嫌に訂正する。
「僕が懸念するのは君が髪を放置することによって発生する事態だ。そのむさ苦しい有様を毎日見せつけられる身にもなってみろ」
鋏を持って後ろに回り、俺の髪をつまみ、長さを測るような均等さで上から順に刃をあてがう。
呼吸を正す。髪に触れる手から微かな緊張が伝う。
「行くぞ」
しゃきん。
据わりの悪い沈黙が漂う中、鋏の刃が噛み合う音だけが勤勉な単調さで響く。
妙な事になったと戸惑う反面、俺には似合わぬ事に、含羞と憤慨を割ったような苛立ちに炙られてもいる。

直は義理堅い。
ただ、それだけの事だ。

「何か話したらどうだ」
「俺がか」
「壁が口を利くか」
交わす会話も自然と険悪になる。

しゃきん、しゃきん。
怜悧な金属音が響く。
襟足まで伸びた髪を切られ、首筋が外気に晒される。
「……」
真意が読めぬ。ましてや抑圧された表情に塗り込められた本心を推し量るのは困難だ。
細い指が脂で光る髪の間を通り抜け頭皮を按摩する心地よさに、思わず吐息を漏らしてしまいそうになる。
不意に、指の動きが止まる。鋏の音もやむ。
首の後ろ、俺からは見えない部位に執拗に注がれる視線。痛ましげな眼差し。
痛恨極むる自責の念が孕まれたかのような眼差しの熱に、チリチリと皮膚が騒ぐ。
いくら鈍い俺でも、直が何を見ているのか判った。
火傷のあとだ。
「これは、治らないな」
「ああ」
背後に気配が寄り添う。
俺の後ろ髪をつまみ、背中の広範囲から首筋にかけて、赤黒く焼け爛れた皮膚を見つめている。
「感覚はあるか」
首筋にひたりと指を添えて訊く。
「あるが、鈍い」
包み隠さず、ありのままを述べる。下手な嘘など直はすぐ見抜く。
「僕の指はどうだ。熱いか、冷たいか」
「……熱い。火照っている」
「そうだ」
「脈を打っている」
「生きている証拠だ」
「汗は?」
「……少し汗ばんでいる」
「君に触れてるからな」
あっさりと手を引き、ズボンの横で神経質に汗を拭う。
後ろ襟から伸びた首筋に再び視線を転じ、醜く引き攣った皮膚を人さし指で慰める。
「いちどは燃えた髪が伸びても治らない」
呟く。

「伸ばすのか」
それが君の優しさか。
「伸ばして、隠すのか」
僕の罪を、その疵ごと覆い隠すのか?

「……」
抑揚を欠いた追及が胸を抉る。
平板な声で俺を詰り、怯惰を責める直に対し、背を向けたまま口を開く。
「……ほうっておいてもいずれ伸びる」
あえて傷を暴き晒す必要は感じない。
しかし、
「ひとつ頼みがある」
「なんだ?」
罪悪感を振り払うように散髪を再開した直の手を唐突に掴み、顔の前に持ってくる。
「っ、」
ぐらつき、つまずく。
俺の背にのしかかり、抗議の声を上げんとした直の手に、ぎこちなく接吻を落とす。
「よせサムライ、鋏を持ってるから危ない……」
「知らん」
批判は無視し、漸くつかまえた手を裏返し、しるしをつけるように唇でなぞりゆく。
乾いた唇で手のひらを愛撫し、手首まで遡り、丸く膨らんだ尺骨を含む。
「―ッ、待」
「待てん」
肌に吹いた塩を舐め、汗を啜る。
「綺麗な手だ」
世辞ではなく、本音を言う。
「俺とは違う」
「汚い手だ。汚れている」
顔が歪む。

友を選ぶか、乳兄弟を選ぶか。
炎上する溶鉱炉にて、究極の二者択一を迫られた。

「……」
華奢な手。少し力を込めれば骨が軋み、容易く折れ砕けそうな不安を抱かせる。
後悔してるのか?
自問に次ぐ反問に煩悶が連鎖、波紋を広げる。
答えは自らの内から、そしてあまりに透明な直の眼差しの底から、自然と湧きあがってきた。

否。
断固として否。

後悔はしない。後悔など許されない。それは俺に一矢報いて死んだ従兄弟への侮辱だ。「俺の傷は、俺の誇りだ」口下手な己が恨めしい。こみ上げる想いの上澄みさえも満足に掬いきれぬ言葉で慰める代わりに、ただひたすらかき抱く。

「今ここに在るものは、すべからく」
短くなった髪も、背に負う火傷も、そしてお前も。

愛しい。いとしい。
ならば何故、愛しいと書いてかなしいと読む?

「サムライ」
直がぎこちなく、既に痛まず鈍く疼くだけの俺のやけどを気遣うように背に手を回す。
「一度しか言わないからよく聞け」
息を吸う。
「僕が髪を切りたいと望むのは君だけだ」
悔いるような苦い声。
「触れるのを許すのも、触れたいと焦がれるのも、君だけだ」
まるで、触れ合う口実が欲しかったと告白するように。懺悔するように。

お前は俺の誇り。
俺はお前の

「………生きる意味を補完してくれる存在だ」
最大級の信頼を支える最上級の賛辞。

鋏は片刃では成り立たぬ。一対で初めて存在意義を持つ。
俺とお前はつがいの刃。生涯ともにあると、誓う。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113728 | 編集

赤ん坊は関節がないかのように柔軟に動く。
いざそれを前にしても、予測不能の動きをする柔らかい塊といった認識以上の感慨は浮かんでこない。
ましてや生後間もない妹への愛情など欠片も抱きはしない。
それら人間に備わっている当たり前の感情が自分には欠落しているのだと思っていた。
今、この時までは。

後見人夫妻の片割れにして僕の母胎でもある鍵屋崎由香里が第二子を出産した。
性別はXX、女性。
母の出産が迫ってるのは知っていたが佳境に入った研究から手が離せず、見舞いには行かなかった。
両親もまた僕の来訪を望まず、ただ一言与えられた課題に専念しろと命じた。
僕は両親に与えられた課題を完璧にこなした。

僕が執筆した論文は海外で高い評価を受け、博士号を取得した。
鍵屋崎優は実子の誕生よりもむしろそちらの方を喜んでいた。
誤解なきよう断っておくが、産まれたばかりの妹に会いに行かなかったのは嫉妬に起因する幼い反抗などでは断じてなく、ただ単純に興味がなかったからだ。

誕生から二週間が経過したある日、妹が家にやってきた。

それは偶然だった。
父の書斎に資料を借りに行った帰り道、通りかかったドアの隙間から見慣れない物が見えた。殺風景な部屋の中央にベビーベッドが一台。最初に覚えたのは違和感。この家にそんな物が存在するという事実そのものが奇異な印象を与えた。

モルモットの檻。

格子の隙間で何か白い物が動いている。
まわりに人はいない。
ささやかな好奇心からドアを開けて入室、木目も冴える新品のベビーベッドに歩み寄る。
妹との初対面。
しかし僕の心は冷たく沈静し、感動や感激とは切り離され、観察者の立場から「それ」の生態を記録する。

それはすやすやと眠っていた。
ベビー服に大量の涎をたらしている。かすかに甘いミルクの匂いが漂ってきて胸が悪くなる。
赤ん坊はうるさくて汚い。
一日中寝てるか泣き喚くかの両極端の不条理な生き物、母乳の搾取と排泄と睡眠、快感原則と短絡に直結した生理的欲求のみで生きる人よりは動物に近しい存在で疎ましくさえ思っていた。
僕にとって赤ん坊とは騒音発生装置の別名に過ぎない。

格子の隙間に手を差し入れ接触を試みたのはほんの出来心。
その頃から僕は潔癖症で、他人との接触を極端に避ける傾向にあったのに、涎まみれの不潔な生き物にふと触って反応を見たくなったのだ。指が触れた。柔らかい。手のひらなど僕の人さし指で足りてしまう。
「………」
急に後ろめたさを抱く。

起こしてはいけない。触ってはいけない。
こんな場面を両親に、人に見られてはいけない。ドアは開けっぱなしだ、いつ廊下を人が通るかわからない。
心臓が疚しく脈を打つ。
咄嗟に手を引っ込めようとした瞬間、思いがけぬことが起きる。

赤ん坊がきゅっと人差し指を握り返す。
「!」
硬直する。
逃げられない。
無理矢理振りほどいて逃げるという選択肢が何故か浮かばず、人さし指を掴まれ棒立ちになる。
赤ん坊はしあわせそうに眠っている。檻の中のモルモット。
実験動物として扱われる運命も知らず、自らの運命を予見せず。

同属嫌悪の対義語が同属憐憫か。今、僕の胸の内を疼かせ溢れ出る感情も?
「恵」
確かそんな名前だった。記憶を検索し、ぎこちなく、たどたどしく呼びかける。
気のせいか、赤ん坊が笑った気がした。
親でさえ出生届に記入したきり忘れていた名を一番最初に呼んだのは僕だった。

目を逸らしつつ、指先をぎゅっと握る。
「………」
今まで体験した事のない感情に慄き震え、繋ぎあった手から通うぬくもりに縋りつく。

「……恵」

僕の庇護と愛情を必要とする存在。
僕を肯定する存在。

人工の天才としての利用価値しか認められず、自分もまたそういうものだと、鍵屋崎直の存在価値は天才であるその一点に尽きると自負していたのに、今この瞬間、生まれて初めて夾雑な付加価値を除く実体を求められた。

天才だろうがそうでなかろうが関係ない、彼女が求めているのは僕そのもの―
「家族」としての、自分を愛し育むぬくもりの具現としての、僕。
庇護者への無条件の信頼がぬくもりに溶けて伝わってくる。
「………」
清潔な檻で飼われるモルモット。
鍵屋崎優と由香里の遺伝子を受け継ぎながら、実験動物としての価値しか認められぬ妹の手を怖々と包んで温める。

この日、鍵屋崎直に妹ができた。
名前は恵。
僕の愛する、たった一人の家族だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113727 | 編集

過去を償うため今を犠牲にするのは趣味じゃない。
過去に犯した罪を濯ぐため、今在る幸せを贖罪の対価に差し出すのは主義じゃない。

それでも過去と現在は切り離せない。

因果の輪は廻る。
俺は過去に束縛されている。
犯した罪と殺した人間、それらに手向けるのは俺の流した血と涙じゃなければならない。
俺は人殺しの烙印を負っている。
魂には罪が刻印されている。
あいつに出会うまで血で血を贖う人生に疑問を持たなかった。

寝苦しい。
真っ黒い夢を見る。
狂ったように足掻き藻掻き叫んでも欲しいものには届かず、縋りつくように伸ばした手は虚空を切って絶望を掴む。
朦朧と熱に浮かされた瞼の裏に結ぶ幻覚、入れ代わり立ち代わり現れる幻。
『悪いレイジ、俺』
その先をいうなロン。
『俺、もう無理だ』
背を向ける。
『お前が怖い』
歩み去る。
一緒にやっていけないと逃げるように歩み去るロンを掴まえようと手を伸ばし、もう少しで届きかけたその手が鋼の光を発する。
いつのまにかナイフを握っていた。
しっくり手に馴染む感触。
これが俺の一部だという天啓じみた霊感が降り、殺意が脊髄に根を張る。
家畜をさばくように延髄を断ち致命傷を与える。
頚動脈から噴き出す鮮血が顔に跳ねる光景を幻視する。
『レイジ』
これが俺の本性か。

『レイジ』

鼓膜をくすぐる衣擦れの音に飛び起きる。
いつもどおりの殺風景な房だった。
ただ一ついつもと違うのはすぐそばにロンがいた事。
「……天国?」
ばぁーか、とロンがいう。
「うるさくて眠れねえよ」
寝癖のついた髪を掻きつつむくれるロンと大量の汗が染みたシーツを見比べ理解する。
「サンキュ。も少しで天国に墜落するとこだった」
「天国なら墜落って言い方はヘンじゃねえか」
「地獄の方が居心地いいからさ、俺は」
ロンを見つめ不敵に笑う。

たとえ東京プリズンが地獄であっても、そこで生きると決めた奴にとっちゃ地獄じゃねえ。
そこで生き抜くと決めた奴には戦場であって、けっして地獄じゃないのだ。
「ロンがいない天国なんて地獄だ」
心の底からそう思う。
夢であって安堵する。

俺がロンを殺すなんて事、想像だって耐えられない。
それなら自分の喉を掻き切って血の海で溺れ死んだ方がマシだ。


「うなされてたぜ。いつも寝つきいいのに珍しい。また鎖が絡んだのか」
「まさか。こいつは神様の棲み家だぜ」
じゃらりと鎖を指に絡め接吻を落とせば、ロンがなんとも微妙な顔で口元をむずむずさせる。
「何?嫉妬してんの、十字架に」
笑う俺の方へとベッドに片膝乗せてにじり、十字架を掴んだのと反対の手を軽く握る。
「ロン?どうしたんだ、今晩はやけに積極的だな」
ロンから積極的な愛情表現なんて珍しい。
というか、奇跡に近い。
「一人寝が寂しいなら一緒に寝るか?ちょうどカイロがほしかったんだ。肌と肌を合わせてスキンベッド、なんちって」
神に祝福された気持ちで振り返れば、やにさがった俺とは対照的に深刻な顔で、手のひらを握ったロンが呟く。
「片手が余ってるなら、俺にくれ」
ぎゅっと力を込める。

夢でナイフを持っていた手の空白を、脈の鼓動があたたかに満たしていく。
それはまるで血で汚れた俺の手でも誰かを守れると、幸せにできると保証するような希望に満ちた心強さで。

「両利きだろ、お前。どっちも使えるんだろ」
「……繋いで寝たら悪戯できねえってわけか。周到だな」
軽口を叩けば「そうだよ」と開き直る。
「お前の手が悪さしねえよう見張っといてやっから、さっさと寝ろ」
「添い寝してくれるんだろ」
笑みを含んだ目で挑発すりゃ当然蹴りが返るだろうと思ったのに、ロンが俺の方へと身を倒し、もう一方の手で眼帯をちょっとだけめくる。

『好的梦』

おやすみ。
よい夢を。
夜泣き癖が抜けずぐずる子供をあやすように囁き、縫い綴じられた瞼に控えめすぎて物足りないキスをする。
マリアを思い出させるキス。

物足りないなんて大嘘だ。

瞼を塞ぐ唇はセクシャルな暗喩を孕まず、たとえるならまじないをかけるのに似ていた。
まだ夢を見てるのかと瞬きも忘れ見返す俺にしてやったりとほくそ笑み、静かに眼帯をおろす。
「いい夢見れるおまじないだ」
「添い寝はお預け?」
「両手縛るなら寝てやってもいいぜ」
「信用ねえなあ」
毛布をひっかむり寝返り打つ背中をしばらく見つめ、右胸から放した手でもって、まだぬくもりが残る手を軽くなぞる。
「サンキュ、ロン」
虚空に礼を投げる。

夢の中のロンは逃げたが、現実のロンはすぐそこにいる。
手が届く距離にいる。

この距離は、天国と地獄ほど離れてない。
天国と地獄ほど遠くない。

無防備に向けた背中は信頼の証。
俺の危険さを十分飲み込んだ上で、それでも大丈夫だと覚悟を映す背中。

「……俺の手でよけりゃ貸してやるよ」

いちど憎しみに売り渡した魂は二度買い戻せばいい。
何回も何回もそれを繰り返し、永遠に届かせよう。
永遠を積み上げて天国に届かせよう。
そうして贖えぬものを贖おう。
安らかに憩うロンの寝息を聞きつつ目をつむる。

ここは天国でも地獄でもない。
だからこそ、生きていける。

戦場の俺は無敵だ。

昔と今と違うのは一点。昔はただ生き抜く為に、今はお前を守り抜く為戦うということ。

天国まであと何マイルか問うよりも、お前の背中まで何センチで届くのか、俺にとっちゃそっちのがよっぽど重要だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113726 | 編集

無自覚と無頓着の公式が導き出す解は鈍感だ。
この風変わりな男と同じ房に配属されてからというものその皮肉な現実を日々痛感している。

「あ」

読んでいた本のページに一点、漆黒の飛沫が飛ぶ。
既にして紙魚に蝕まれ黄ばんだ紙に黒々と墨が沁み広がるのと比例し、冷静沈着を至上の信条とする心中に不快感の泥濘が生じる。
いらだつ心を落ち着かせようと深呼吸をひとつ、染みが出来た本を伏せておく。

「……今のは嫌がらせか」
「すまん」
「墨の飛距離を競うのが趣味ならよそでやれ」
「あいすまん」

写経を中断したサムライが体ごと向き直り重ねて詫びる。
消灯までの僅かな自由時間、いつものように日課の写経に励むサムライを眺めつつベッドに腰掛け本を読んでいたのだが、この迂闊で粗忽な男が僕が借りた本に墨を飛ばしたため、東京プリズンに来てからの唯一の娯楽にして息抜きを諦めざるえなくなった。

不慮の事故と言ってしまえばそれまでだがもとはと言えば不注意が招いたミスで、もう少し彼が慎重な男だったならば苦もなく防げたはずだ。

「大体どうしてその位置から墨が飛ぶ?」
「手元が狂った」

ふと見やればサムライの手元、トメの筆圧が強すぎたのだろう半紙に黒い染みができている。そのせいで墨痕淋漓たる達筆が損なわれているのが惜しい。
不吉な兆しの如く半紙を蝕む黒に冷めた一瞥くれ、頭に浮かんだ一文を流暢に諳んじる。

「水茎の墨の色がはらはらと睫毛を走った。露瞼にうけたように瞬きして、すぐ……」
「なんだそれは」
「知らないのか。泉鏡花、薄紅梅の一節だ。日本文学史の金字塔と謳われる名文だぞ」
「風雅だな」
「野暮な君にもわかるか。涙で睫毛が濡れた所を表現したものだ」

半紙にしぶいた墨を観察、素朴な感慨を懐く。
昔の日本人は達筆の事を「水茎の跡も麗しい」と表現した。
水茎とは筆跡や手跡の別名。
語源には諸説あり、瑞々しい茎の意からとしたり、また昔、手紙をつける梓の枝を瑞々しい木とみなし、転じて筆跡、筆の意となったとする解釈が有力だが、植物のコウボウムギの古い地下茎が筆の穂の形なのでこれを切って筆としたことからなどとする説もある。
いずれも平安時代以後の用法であるが、当時の日本人は筆跡の表現一つとっても感受性豊かだったのだなと感心する。

サムライの筆跡は文武両道を重んじる家柄の末裔に相応しく、水茎の美名と釣り合いのとれるものだった。
この武弁がこれほどまでに繊細な美しさと品位を併せ持った字を紡ぐのかと、筆跡を初めて見て驚いた記憶がある。
黙々と素振りを行う厳つい手が、人を斬る技と業にばかり長けた指が、一たび筆を握れば平生の訥々とした語り口より遥かに雅やかな饒舌さでもって字を紡ぎ出していくのを見るのは化かされてでもいるようだった。

「それで、何に気を取られていた」
「……考え事をしていた」
なにやら思案げな仏頂面で言い筆を横に寝かせる。
「何だ、考え事とは」
興味はないが一応聞いてやる。
「つまらんことだ」
「愚問だな、低能の悩みが常に低俗と断じるほど僕の心は狭くないぞ」
「気にするな」

やけに頑なに拒む。写経を再開しようと何食わぬ顔で筆をとる男、その思わせぶりな態度が否が応にも興味を引き、知らず追及の声が高まる。

「いいから言え、読書を妨げた責任をとれ。心にひっかかってる事とは何だ?」

告白迫る僕を胡乱な眼差しで一瞥、奇妙に緩慢な動作で墨をすって時間を稼ぐ。

「何故そこにいる?」
「は?」

質問の意図が理解できず困惑する。

「貴様の口から存在論的アンチテーゼを聞くとは思わなかった」
「違う」

何故だか不機嫌げに否定し、厭わしさと含羞みとが綯い交ぜとなった仏頂面で続ける。

「何故そこで本を読む?」
「ここが僕の房だからだ」
「そうではない」
眼鏡越しにサムライを見返す。
彼の口から出たのは思わぬ一言。

「近すぎるだろう」

指摘され、初めて自覚に至る。
床に正座し半紙と向き合うサムライとベッドに腰掛け本を読む僕との間は30センチも離れてない。
これでは墨も飛ぶはずだ。

「……」

きまりが悪い。
ここに来たばかりの頃は常に緊張し、無関心と警戒心とを足して割った適切な距離を保っていたというのに……

無意識にサムライを慕い求めていたのか
警戒心を脱ぎ捨て、自然体で寄り添っていたのか。


「……」
本に集中するあまりえてして人は視野狭窄に陥り、無防備な部分を曝け出す。
だからこそ無意識の性として最も安心できる場所、居心地の良い場所を求めてしまう傾向にあるのだと心理学の本から得た知識を元に自己分析。

いつのまに距離が縮まっていた?
いつのまに心を許していた?

「不愉快ならそう言え」
「不愉快とは言っとらん」
「じゃあ何だ」
「……房は寒かろう」

確かに寒い。
いかに数か月東京プリズンで暮らし劣悪な環境に実践的適応を余儀なくされたとはいえ、鉄扉に穿たれた格子窓や壁の隙間から吹き込む冷気に身を晒しての読書は辛い。
本格的な夜を迎え下がりつつある室温を思い出し二の腕を擦って温めれば、サムライが筆を取りつつぶっきらぼうに言う。

「俺でも風除けくらいにはなる。もっと近くに寄れ」

もっとそばに来いと、おもてを俯け言葉少なに促す。
そんな幼稚な口実をもうけなければ距離を縮められない不器用さが滑稽で苦笑を誘う。

これでは庇護と依存をはき違えてしまう。
彼の優しさに甘えてしまう。

「遠慮する。また墨をとばされてはかなわない」
「……そうか」
近くも遠くもなく今はまだこれが精一杯の距離、苦肉の干渉。

「せいぜい風除けになってくれ」

本のページをめくりつつ、視界にちらつく横顔を上目遣いに窺う。

「……君の半径1メートル内で読書する理由は単純だ。ここが一番寒くないからだ」

ただそれだけ。
それだけだと自分に嘘を吐く。

先刻のページに目を落とせば墨はもうとっくに乾ききっていた。
今や文章の末尾に涙滴の痕跡を残すのみとなった墨にそっと触れ、何気なく活字を遡ってみる。

『忍ぶれど 色にでにけりわが恋は ものやおもふと人のとふまで』

見抜かれた気がしてページをめくりかけた手が止まる。
そんな僕の心中を持ち前の勘の鋭さで読んだのかはたまた偶然か、未必の故意ともとれるタイミングの良さでサムライが呟く。

「さっきの言葉でお前を思い出した」
「僕を?」

『水茎の墨の色がはらはらと睫毛を走る』

ごく一瞬、どこか沈痛かつストイックな印象を抱かせる顔に穏やかな笑みが掠めたのは錯覚か。
まるで今手に持つ筆が僕の睫毛を一本ずつ採取して出来たものであるかのように愛おしげに見つめ、涙の色に染め直すように、硯に浸してたっぷりと墨を含ませる。

「お前の睫毛を濡れ染めた涙の色だ」

無自覚と無頓着の公式が導き出す解は鈍感だ。
この男がもう少し言動に自覚を持てば、その一挙手一投足が暗喩する下心を深読みする徒労もなくなるというのに、天然とはかくも始末が悪い。

睫毛の色の変化など唇が触れ合う距離に来なければわからないというのに、馬鹿な男だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

サムライ×直へのお題:無自覚と無頓着=鈍感/「もっと。」/にがくわらう

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113725 | 編集

その夜、俺は下剋上を企てた。
「で、どういう事」
「こういう事さ」
「いや意味わかんねーんだけど」 
二人分の体重で錆びたスプリングが軋む。胸ぐら掴んでレイジを見下ろす。
「今度はお前が抱かれる番だってこと」
「なに、いつから交代制になったわけ?聞いてねーぞ」
「俺が今決めた。文句あっか」
「とりあえず手え放せ、シャツが伸びきっちまう。言いたいことあんなら座って聞いてやっから」
「大人しくしてろ」
低めた声に精一杯ドスを効かせるが哀しいかな致命的に凄みが足りない。
無理もない、俺はまだ声変わりも終えてないのだ。好きでもねえ酒や煙草をかっくらって喉を潰しときゃよかったとちょっとだけ後悔する。
マウントポジションをとられたレイジはただただ目を丸くしている。
「どういうつもりだ」
「犯すんだよ」
器用に片眉を跳ね上げる王様。意訳、マジで?
そこにあったのは驚愕でも焦燥でも勿論恐怖でもない、飼い猫の反抗を面白がる笑み。
コイツがとことん性悪だって思い知るのはこういう時だ。
俺の決死の抵抗や必死の反抗も無敵の王様にとっちゃ趣向の変わったお遊戯、座興のスパイスでしかない。
俺の言葉をどの程度鵜呑みにしたもんか、ベッドに寝転がっても余裕綽々な態度はいっかな変わらねえ。
しどけなくばらけた前髪の下、悪戯っぽく眇めた目に稚気が閃く。
「そりゃ残念、今夜はいやに積極的だなって期待したんだけど」
「馬鹿言え」
「騎乗位だろ、これ」
「突っ込まれるのはそっちだ。覚悟しとけよ王様、余裕ぶっこいてられんのも今のうちだ」
誤解してほしくないからはっきり言っとくが、東京プリズンの悪徳に染まりきったわけじゃねえのをお忘れなく。俺は今でも同じ突っ込むなら男の尻の穴よか壁の覗き穴を選ぶ。
リンチやレイプが横行する東京プリズンに放り込まれてこの方ケツ狙われながら貞操を守り続けたのはレイジに捧げる為じゃねえ、そのへんをコイツは勘違いしてやがる。
何回か肌を合わせただけですっかり恋人気取り、前にも増してべたべたうざったいったらありゃしねえ。
業を煮やした俺はかねてより懐に温めていた計画を実行に移す事にした。
レイジの寝入りばなを襲って胴に跨り、鼻先に人差し指をつきつける。
「俺は男だ。女役に徹するなんざ冗談じゃねえ、たまにゃてめえも突っ込まれる方の痛みと気持ちを味わってみろってんだ」
「気持ちよくさせてやったろ」
肌が粟を立てる。いつのまにか腰を這いのぼり、裾をはだけて中へ忍び込もうとしていた手を邪険にはたく。
「下になるのはごめんだって言ってんだよ!」
レイジと体を繋げてからというもの一方的に組み敷かれ押し開かれる役割にずっと不満を抱いてきた。断っとくが、俺はホモじゃねえ。が、既成事実のせいで強く出れない。
「俺がよその囚人どもになんて言われてるか知ってるか?レイジの女だとさ」
それが新たに頂戴したあだ名。
半々呼ばわりされなくなったからといって素直に喜べない、前のがまだマシだった位だ。
聞こえよがしに陰口叩く連中のニヤケ面を思い出し、憤りと恥辱で自然と顔が歪む。
最中の声はまわりの房に筒抜けだったんだろう、きっと。
何でそんなに怒ってるのか理解できないといった表情できょとんとしおとぼけレイジがのたまう。
「言わせときゃいいじゃねえか」
「股間に関わる」
「沽券?」
「それだ」
よりにもよってレイジに言い間違いを訂正されるとは俺もだいぶヤキが回ってる。
「ロンさ……俺に欲情してんの?」
しなやかな手が頬をなでる。
「なっ」
思わず素っ頓狂な声を上げちまう。
「ロンがヤりてえなら一回くらい代わってやってもいいけど、そのポークビッツで俺を満足させる自信あんのかよ?」
「ーっ!」
頬にまとわりつくおくれ毛が淫蕩な笑みにどぎつい艶を添える。
「……後悔したって知らねえからな。ひんひん言わせてやる」
「そいつあ楽しみだ」
「謝ったって許してやんねーぞ」
憎らしくせせら笑う顔に拳を叩きこみたい衝動をかろうじてこらえ、躊躇いを振り切ってせっかちな愛撫を始める。
裾を毟って引き締まった腹筋を暴き、骨格と筋肉の隆起に沿って金鎖がうねるなめらかな胸板にくちづけ、夢中で吸いつく。いつもレイジがどうやってるか、順序を一つずつ反芻しその通りに真似てみる。
間違っても前戯なんてご大層なもんじゃない、レイジなら鼻で嗤うだろうお粗末な児戯。
テクで劣るのはわかってる。経験の浅さは先走りがちな情熱で埋め合わせるしかなくて、つい相手を気持ちよくさせる事よりがっつくことに耽っちまう。
若く張りのある肌を火照りを帯びた唇で辿り、舌を窄め尖らせ鎖骨の窪みを舐めまくり、オリーブオイルを塗ったような褐色肌に引き立つ黄金の鎖をついばむ。冷たい金属の味に舌がひりつく。
ロザリオの珠を一粒ずつ舌で転がし、奔放に仰け反る首筋に濡れ光る唾液の筋をつける。
「ははっ、くすぐってえ」
この野郎、ちょっとは感じろ。俺ばっか必死で馬鹿みてえじゃんか。
攻めてるのはこっちのはずなのに、どうして俺ばっか切なくこみ上げる熱と疼きを持て余さなきゃいけないんだ?
不公平だ。どうして俺ばっか恥をかかなきゃいけない、白い目で見られて後ろ指さされなきゃならない、ほらあいつが噂の半々だ東棟の王様の飼い猫だと意味深な笑みで揶揄されなきゃいけない。
悪い事したわけでもねえのにこそこそ逃げ隠れするのはまっぴらごめん、攻めて攻めて攻め抜いて喘ぎ声の一つでも上げさせりゃ俺の勝ち、オカズ恋しさに毎晩聞き耳たててるデバガメ野郎どもを見返してやれる。
俺がレイジを抱いたと知ったら連中もちょっとは見直すだろう。
「………ふっ………くふ」
そんな不純な動機が裏目に出た。
皮膚と皮膚が触れ合うじれったさに自然と臀部が上擦り、粘膜と粘膜で結びつきたいと火がついた腰がくねりだす。
性感帯を知り尽くした手が後ろに回り、波打つような動きでびくつき撓う背筋を逆撫でする。
「うあ、ひ」
寄せては返す快楽のさざ波に抗いつつ行為を継続するも、蕩けつつある腰を熱い掌でねちっこくまさぐられ、とうとう抗いきれなくなる。
腰を浮かせたはずみに移動した手がズボンの上から尻の割れ目をなぞり、かと思えば人差し指の先端を浅くねじこんで意地悪く集中を妨げる。
「てめ……ずるいぞ、死角から」
「前戯で息が上がってちゃ世話ねえな」
余裕の王様。舌なめずりがよく似合う不敵な笑みに野生のフェロモンが匂い立ち、こめかみを伝う汗が一筋乱れた頭髪に吸い込まれる。俺の尻を両手で支え双丘を揉みしだき、尻たぶを掴んで広げ一際敏感な会陰をじんわり刺激する。
「んあ、-ちょ、よせ」
「続けるんだろ?どうぞお好きに。できるもんならな」
浅く深く、浅く深く、荒く弾む呼吸に合わせ悪戯に突き立て捻じ込まれる指。
やばい。ぞくぞくする。尻をほじくる指が腰の奥の官能を掻きたてる。ズボンの前がきつく突っ張り、体から次第に力が抜けていく。このままじゃいけねえ、下剋上だの逆襲だの威勢よく息巻いてたはずが結局やられっぱなしじゃねえか。
「どうした?まだイッてねえんだけど……そっちは勃ちまったみてえだな、ズボンの前が膨らんでるぜ」
「黙ってろ」
「マグロみてえに寝転がってるのがお好みか?屍姦趣味はいただけねえぜ」
「萎える事言うな」
「あーあ、退屈すぎて寝ちまいそう」
わざとらしく大あくび、腹の上で跳ねる俺の反応を薄目で窺いつつにやつく。
「まさかそのまま突っ込むんじゃねーだろな。手抜きな前戯じゃ勃たねえし濡れねえよ。まさかロン、お前女が相手でもお構いなしに突っ込むのか?相手が感じてようが痛がってようがどうでもいいって無理矢理こじ開けて抉りこむのか、それじゃレイプと変わんねえよ」
嘲笑にカッとし、下着ごとズボンを引きずりおろし股間をひん剥く。
剥き出しの象徴に若干たじろぐが、意を決し顔を突っ込む。フェラチオの真似事。手本となるのはレイジの舌遣いだ。萎えたペニスを口に含んで愛撫し、括れに舌を絡ませ、根元を手で捧げ持ってしごく。毛細血管が通った裏側が性感帯だと知り、次第に頭をもたげ始めたそれを唾液を捏ねる音も淫猥に繰り返し舐める。
「ふあ……ぅぐ、はぐ……」
悔しいが、やっぱりでかい。それにカタチもいい。
他人のと比較対照できるほどまじまじ観察してるわけじゃねえが、レイジのペニスは生ける彫刻みたいに綺麗に整っていて不潔感があんまりない。頭髪とお揃いの陰毛は薄い方だ。
口に含む抵抗感を乗り越えちまえば後はただひたすらのめりこむだけ、時折喉の奥に突かええずきそうになりながら鈴口に滲み始めた先走りの汁を啜り、脈打つ竿の先端に強弱つけ吸いつき、熱く潤んだ粘膜で包みこむ。
「んッく、ふ」
俺の唾液と先走りの濁流とでぬるぬるになったペニスを持つ手が滑る。べとつく顎をぞんざいに拭うが間に合わない。俺の鈴口にも露が膨らみ始めている。
「ひんひん」
無我夢中でペニスを頬張る俺の頭上でレイジが嘶く。
「満足したか?」
ひんひん言わせてやるって宣言を覚えてたのか。
「~っ、性悪め……!」
「美味いか?」
「笑うな」
「感じねえようがんばってるロンが可愛くて。いわゆる天使って奴?」
「俺の背中に羽が見えンのか?」
「俺の女って呼ばれるのイヤ?」
「あたりまえだ」
俺はレイジの相棒と呼ばれたい、対等な相棒として認められたい。誰々の女だの所有格は願い下げだ。
「じゃあ、俺の天使ってのもNG?」
「頭どうかしたんじゃねえの」
硬くなり始めたペニスを口から抜いて生意気に嘲笑えば、その隙を衝かれ糸もたやすく体を裏返される。
形勢逆転。交尾に挑む獣の体勢で俺の手足を組み敷き、ベッドに磔にする。
「!レッ、」
「しーっ。聞こえちまうぞ」
唇の前で人さし指をたて壁の方へと顎をしゃくる。慌てて口を閉ざす。
仰向けになった俺にのしかかり、じゃれつくように唇を奪う。
ああ、結局こうなっちまうのか。王様の方が一枚も二枚も上手だ。レイジのキスは恐ろしく巧みで、唇の上下を軽くはまれ、窄めた舌先を差し入れられただけで脆くも理性が陥落する。
「………くそ、………」
なんでコイツだったんだ。
なんでコイツなんか好きになっちまったんだ。
自らの胸に問うまでもなく理由はわかりきってるが、認めるのは癪なので知らんぷりをしておく。
下剋上を諦めた俺の服をてっとり早く剥ぎ繰り返し首筋にキスしながら、スケベな王様は最高に卑猥な笑顔を見せる。
「早くおっきくなれよロン。俺をエクスタシーの絶頂に導ける位にさ」
「……じき追い越してやるさ」
鎖骨の突起を滑り落ちた鎖が涼やかな旋律を奏でた。

その夜、俺は下剋上に失敗した。
まあいつものことだ。いつかは成功するだろう、きっと。

レイジ×ロンへのお題:いわゆる天使ってやつ/(もうやだ、このままなんてもう、無理だ)/なんで君だったんだろうね
にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113724 | 編集

紫陽花の咲く庭で逢瀬を重ねる。

規模でこそ本家に勝ちを譲るが格式と造園の美しさでは分家の庭もけして引けをとらない。
家父長制度の権化の如く君臨する当主の居丈高な性格を反映してか、本家の庭園は松や桜などの押し出しが良い大木が多く雄々しく猛々しい威風がある。
その妹であり、季節の移ろいを愛でる世司子が治める庭園には花が多く風雅な趣があり、見事の一言に尽きる好対照をなしていた。
物心ついた頃よりこの美しい庭をもっとも身近な遊び場として育った姉と弟は、木登りよりも花摘みを好み、花を手折るより目で愛でる耽美な性向を伸ばされた。
いずれ嫁にやる娘ならそれもよかろうが、後を継いで家を盛り立てていく長男がそれでは駄目だと嘆いたのは母だ。
分家とはいえ由緒正しい武家の跡取りとして生を享けた息子の、自分の血を引いているとは到底思えぬ線の細さと軟弱さは常々母の悩みの種であった。
おそらく静流が生まれ持つべき芯の強さや大胆さをも姉が吸い取ってしまったのだろう。
たおやめという形容が似つかわしい容姿を持つ姉が内に秘めた気性の激しさは親族含む門下生一同の語り草で男に敬遠される最大の要因でもあるが、四季折々の花が彩る庭園を心許した者とそぞろ歩く時だけは彼女もまた名は体を表すの諺通り穏やかな顔を見せる。
交互に繰り出す下駄の歯音が軽やかに響く。
幼いころより日舞を嗜む身ごなしはひどく優雅で、おくれ毛を耳の後ろに通すしぐさにさええもいえぬ品が漂う。
うなじのあたりに抗いがたく目が吸いつけられ、物狂おしい渇きに苛まれる。

目と鼻の先で揺れる黒髪をこの手で梳き上げうなじを暴きたい衝動に駆られる。
叶わぬならせめて黒髪の先に接吻したいと希う。

美しく成長した姉のうしろにつき従いつつ、どうにもならぬ渇きと餓えを持て余し口を開く。
「姉さんは紫陽花が好きだね」
「ええ。だって綺麗でしょう、お手鞠みたいで可愛いし」
童女のように稚けない言い回しで紫陽花の花弁に触れる。
「覚えてる、静流」
唐突に薫流が言い、庭の片隅、今が旬と咲き誇る紫陽花の群落の傍らで立ち止まる。
「むかし紫陽花の根本に宝物を埋めたわよね」
小さい頃の静流は今にもまして病弱で引っ込み思案、お転婆な姉のあとをいつもくっついてまわっていた。
宝物を埋めようと言い出したのはどちらだったか、おそらくは薫流だろう。
泣き虫でよく転ぶ弟をみそっかす扱いしつつもけして見捨てず、庭中引っ張り回すのが姉の常であった。
あれをとってこい、これをもってこいという矢継ぎ早な命令に目をまわしつつ、幼い静流は姉の期待に添えんと庭と屋敷とを往復した。
全ては姉に褒められたい、その笑顔が見たい一心から発した行為だったが、意地悪な姉は息を切らして駆け戻った静流に労いの言葉一つかけず、彼が持参したものを無造作に地面に叩きつけるくりかえしだった。
「今でも覚えてるよ。姉さんにとってこいって言われて、母さんの鏡台から手鏡を盗んだ事」
「そんなことあったかしら」
「とぼけても無駄だよ」
母愛用の鏡台の一番上の抽斗に手鏡が入っている。
それを拝借して来いと命じられ、ためらいつつも静流は従った。
拒めば姉は怒り狂うだろう。
母の仕置きより姉の怒りの方がよほど怖いと、賢く美しい姉を子供心に崇拝していた静流は思ったものだ。
鏡台の抽斗にはなるほど精緻な装飾を凝らした手鏡がしまわれていた。
頭上に翳して翻せば光を反射しあえかにきらめいた。
手鏡をこっそり懐に呑ませ、生まれて初めての盗みに伴う興奮とそれに倍する罪悪感とに胸躍らせながら駆け戻った静流をむかえた姉は、こともあろうにその眼前で手鏡を叩き割ったのだ。
「どうしてあんなことしたのさ」
思い出すのは砕け散った鏡の欠片、その一片一片が宿す姉と自分。
さながら万華鏡の模様の如く砕け散った何十もの顔。
「教えない」
「癇の発作でもおこしたの?」
愉快そうに含み笑う姉に食い下がるも答えは得られず、繊細な指が紫陽花の花弁をちぎり捨てていくのを複雑な心境で見守る。
姉の行動にはいつも理由があった。
どんなに理不尽な仕打ちや思わせぶりで謎めいた行動に見えても、その裏にはきちんと理由が存在するし本人の中ではきちんと筋が通っているのだ。
後に知れたことだが幼い薫流が弟の眼前で持参品を叩き壊したりわざと汚すのを好んだのは、従順すぎる彼を歯痒く思ったから。
気位の高い薫流の目には、分家とはいえ武家の嫡男でありながらにこにこと自分の指図に従うばかりの弟が媚びてるように映ったのだ。
早い話、彼女一流の天邪鬼なやりかたで弟に発破をかけていたわけだ。
しかし、手鏡を割った行動だけは不自然に思えてならない。何故ならあの手鏡は姉のお気に入りの一品だったのだ。時折鏡台の抽斗を開けては、手鏡にうっとりと見入る姉の姿を小事の隙間から盗み見ていた静流は、よりにもよってその品を壊す姉の行動が理解できなかった。
行動の文脈こそ不明だが、あの時の形相はしかと目に焼きついている。
絶望と憤激とが渦巻く形相は般若のように禍々しく歪んでいたが、昏く燃え盛る熾火さながら凄愴な美をも孕んでいた。

姉は怒る姿も美しい。

一体何が薫流にそうさせたか、ずっと聞きそびれていた。
真実に触れるのを忌む気持ちが心のどこかにあった。聞いたらもう後戻りできぬという予感が瀬戸際の抑止力となったのかもしれない。
互いの出方を推し量るような沈黙を払い明るく仕切り直す。
「貢くんや苗さんがいた覚えがないからあれは実家の庭だね。ということは、このどこかに玉手箱が埋まってるわけだ」
「いやあね、開けたらおばあちゃんになっちゃう」
「なら永遠に封印しておけばいい」
「中に何をいれたか覚えてる?」
「僕は入れなかったよ。姉さんが埋めるのをそばで見ていただけ」
「何故?」
「盛者必衰、全てはただ風の前の塵に同じ。形あるものはいずれ滅び去るから美しい。自分が愛でたものならなおさら死体のように棺に入れて時の流れに逆らうのは見苦しい」
「可愛げない子ねえ」
ふざけてぶつまねをする姉から笑って身を躱す。
「はしたないよ姉さん、こんなところを見られたらお嫁にいけなくなる」
途端、姉の顔から笑みが消えて不自然に強張る。
「私を貰う人はもう決まってるもの」 
気まずく俯く弟めがけ、顔を跳ねあげざま腕を振り抜く。
「隙あり」
「わっ、ぷ」
「お馬鹿さんな静流!」
右手に握り隠した紫陽花の花弁を投げつけ、黄色い嬌声を上げ駆けだす姉。
「待ってよ姉さん、狡いよ!」
「追いついてごらんなさいな」
遠ざかりゆく背で生き物のように黒髪がうねり狂う。
誘うように導くように風を孕んだ袖がたなびき、下駄の歯音が軽やかに鳴る。
しかし女と男では歩幅と脚力が違うため、差は次第に縮まりつつある。子供の頃は姉の方が速かった。
静流は姉の後をついて回るばかりだったというのに、いつ頃から差が開いてしまったんだろう。
「姉さん」
もがくように手を伸ばし、翻る袖をつかまえる。
袖を引かれた体が静流の胸元へ後ろ向きに倒れこんでくる。
反射的に受け止めた薄い肩と背中の感触に狼狽が走る。
男にしては線が細いと静流と比べてもなお薫流の体は頼りなく、蜘蛛の巣に囚われた蝶の如く儚げでさえあった。
「鬼ごっこは私の敗けね」
「下駄で走ったりしたら危ないよ」
「貴方がいるから大丈夫」
「僕は腰元かなにか?」
「召し使いのほうが近いんじゃないかしら」
「酷いな」
漂う体臭と手が受け止める感触に浮き立つ心を必死に偽る。
密やかに生唾を呑み、長い睫毛や秀麗な鼻梁、ふっくらと上品な唇に吸い寄せられんとする視線を引きはがす。
白檀だろうか、懐に焚き染めた馥郁たる香の匂いが鼻腔に染みて眩惑される。
離れなければ。放さなければ。
わかっていても頭の芯が甘く痺れたようになって理性が働かない。
薄い布越しに感じる女性らしい丸みとくびれ、華奢な体には見合わぬ豊満な胸が官能的だ。
誰か、罰してくれ。
誰か止めてくれ。
このままでは遠からず禁忌を犯してしまう。
切なく狂おしい思慕の念を姉離れできぬ甘えにすり替え誤魔化し、軟弱な己を叱咤する。
早く離れろ、抱擁の現場を屋敷の者に見られたらまずいことになる。
何故?転びかけた姉を抱きとめた、ただそれだけのことじゃないか。
何らやましいところも後ろ暗いところもない、堂々と申し開きすればいい。


本当にそうだろうか。
一点たりともやましいところはないと誓いを立てられるか?

腕の中でほのかに息づく女の体に、手のひらに伝うぬくもりと上擦る脈拍に一線を越えかけはしなかったか。
蜜味の背徳と結びついたひりつくような情欲をかきたてられはしなかったか。
違うと否定する。揺れ惑う心に必死に言い訳し、苦渋に歪む面持を俯け、手のひらに残るぬくもりごと握り潰す。
「このあたりに箱を埋めたの」
腕の中から見上げるようにして薫流が囁く。
「覚えてるの?」
長い睫毛に縁取られ、濡れ濡れと妖艶にーどこか淫蕩に輝く瞳に吸い込まれそうになる。
「おぼろげに思い出したわ。……そう、たしかこのへん。あの一際咲き誇る紫陽花の根本よ。覚えてない、静流?花弁をよく髪に散らして遊んだじゃない」
「僕を使ってお人形さんごっこするのはやめてほしかったけどね。女の子じゃあるまいし」
「本当は妹が欲しかったって言ったら怒る?」
「母さんが聞いたら怒るよ。それでなくても女々しいだの未熟だの、分家の跡取りにふさわしくないって叱られっぱなしなんだから」
「本当に女の子だったらよかったのに」
そっと瞳を伏せる。そうすると普段の男勝りな印象は影をひそめ貞淑な儚さを纏う。ごくささやかな衣擦れの音に混じり合う吐息が胸の内をさざなみだてる。
「きっと着物が似合ったのに。紅襦袢なんてどうかしら」
「女々しくて悪かったね」
「貴方が男じゃなければよかった」
「僕は姉さんが姉さんでよかった」
冗談ともつかぬ科白の応酬に小さく笑い、すっとひとかたまりの紫陽花を指さす。
「あそこよ」
おもむろに屈むや袖をたくしあげ、素手で地面を掘り返しにかかる。静流は驚いて声をかける。
「爪が汚れてしまうよ。着物も」
「いいの」
姉は頑固だ。言い出したら聞かない。
ため息一つ、姉の反対側に回り込んで彼もまた袖を捲る。
「僕も手伝う」
向かい合わせにしゃがみこみ、どちらからともなく笑いあう。
「紫陽花の根本には秘密が埋まってるの」
「薔薇じゃなかったっけ」
「細かいことはいいじゃない」
「いい加減だなあ」
「ほら、もうすぐよ。赤いのが見えてきたわ」
湿気を含みしっとり潤った土は容易く指を呑み、お椀の形にした手のひらでもってすくいあげるとほろほろとそぼろの如く零れ落ちる。
子供みたいな人だ。穴掘りに熱中する姉を眺めて思う。一つの事に熱中するとまわりが見えなくなる。地を刷く着物の汚れにも無頓着に、それでも時折腕の動きに合わせ垂れてくる袖を邪魔そうにたくしあげ、一つ一つ丁寧に手ですくって柔らかな土をどかしていく。
そしてついにそれが見えてきた。
「見つけた」
そろえた膝に抱え上げ化粧箱の泥を払う。たしかに見覚えのある箱だ。現物を前にして幼いころの記憶が鮮明によみがえってくる。
「おばあちゃんになっちゃうかもしれないよ」
「もくもくと煙が出てきて?」
「僕が開けるよ、姉さんに皺を増やすのは忍びないからね」
化粧箱を奪おうとした手があっさり空振りする。
「私が開ける」
真剣な、それでいてどこか思い詰めた眼差し。まさか本当に弟の老化を恐れたわけではないだろうが断固として宣言し、ちょうど中間に箱を置く。
元々は祖母が愛用していたもので、それを母が受け継ぎ、世代を経て薫流に回ってきたものだ。
意匠が古いのは江戸時代の細工だからだろう。
泥まみれの細い手がふたにかかる。
少し躊躇うように指が震え、いったん退き、呼吸を整え改めて向かい合う。
息も絶え絶えに舞う蝶を見ているかのようなその動き。
まるで封印を破ることを恐れているような、己の決断がもたらす変化と結果に怯えているように縺れあう指遣い。
見ていられなかった。だから思わずその手を掴んでいた。
「一緒に開けよう」
白い手に手を重ねて握り締める。
紫陽花に埋もれた庭に雨の匂いが充満する。しっとり湿った土が放つ匂いが鼻腔を甘くくすぐる。露と泥に濡れた姉の手を優しく包み、澄んだ眼差しをひたと合わせる。
どこまでも深く深く、心の奥底まで澄明に映し出す鏡合わせの眼差し。紫陽花の陰に隠れての秘め事。
まっすぐに弟を見据える薫流の顔がふっと和み、一瞬の波紋の如く、泣き笑いに似て哀切な表情が掠める。
「……仕方ない子」
それはだれに向けての言葉だったか、あるいは秘めた恋慕に殉じる自分への餞か。
その言葉を許諾の証と受け取り、ふたり呼吸を合わせて蓋を持ち上げる。蓋はごく軽く、さほど力を入れなくてもあっさり動いた。上に乗った泥がさらさらと零れていく。
箱の中身を覗き込み、意外の念に打たれる。
「硝子……いや、違う」
袖を押さえて手を伸ばし、枠だけが残った手鏡を取り上げる。
箱の中には太陽の光を弾いてきらめく破片が敷き詰めるようにして保管されていた。
「母さんの手鏡よ。貴方の目の前で地面に叩きつけて壊した」
姉はあの破片を一つ残らず拾い集め、後生大事に化粧箱の中に保管していた。
「なぜ……?」
何故こんなことを。
疑問を紡ぐ弟に意味深な一瞥をくれ、かちゃりと音たて一つを摘まむ。
「どうして私が手鏡を壊したかわかる?」

あんなに大事にしてたのに。
欲しがってたのに。

「母さんの鏡台の一番上の抽斗、こっそり手にとっては飽きず眺めていた。裏面は黒漆に鶴の絵、柄はすんなりと手になじむ素敵な手鏡……」
歌うような節をつけ片手に持つ手鏡をくるくる回し、反対側の手に摘まんだ破片を枠組みに嵌めてみる。
その瞬間、静流にはわかってしまった。
薫流があんなに大事にしていた手鏡を叩き壊した理由が、実の弟に盗みを犯させてまで手に入れた鏡を葬り去った真相が。
「ほら、そっくりでしょう」
破片に映り込んだ静流と薫流は、あまりにも瓜二つで。
双生児ですらこうも似ないだろうと思わせるほど容貌が酷似していて。
もちろん性別が違うから骨格が違う、静流がいくら細くても薫流とは体つきが違う、それを差し引いてもなおそっくりだと感じさせるほど外見の印象が通底している。

幼い薫流は鏡の中に真実を見てしまったのだ。
残酷な真実を。

「鏡には呪いが宿ると昔から言われていた。いわゆる呪具の一つなの。使い方次第で生霊の呪いを跳ね返すこともできれば反対にひとの魂を吸い込んで永遠にとらえる事もできる」
「呪いの片棒担がせるつもりで盗ませたの?ひどいね」
薫流はそっと笑い、一つ破片をもどした鏡を伏せて置く。

『貴方が女ならよかったのに』
それだったらまだ救われた。

「どう転んでも姉と弟にしか見えないわね」
姉と弟、男と女。
血で繋がれた者同士は肉で通じ合うことができぬ宿命、近親相姦は畜生道に堕ちる一族最大の禁忌。

思えば姉と弟が並んで鏡を見たのはあれが初めてだったのだろう。
物心ついたころより似ていると周囲に評せられてきたが自分の目でそれを確かめたのは初めてで、もはや逃れようもなくはっきりと血の繋がりの事実をつきつけられ狼狽した。
あるいは薫流が幻視したのは瓜二つの姉弟の背後に渦巻く、血の澱みから生み出され、過去と未来を糾う一族の業そのものだったのかもしれぬ。

この世には知らぬほうが幸せな真実もある。

「怖かったの。似すぎているんだもの、私達」
当時はもっと、もっと似ていた。
性差の曖昧な子供の頃、丈夫に育つよう女物の着物を着せられていた静流と薫流の見分けがつかず、使用人たちはほとほと困り果てたものだ。
薫流の人差し指が頬に、ついで形よい鼻梁に触れ、おのれとの相似を確かめるようにおずおずと輪郭を辿っていく。
その指を口に持っていき強く吸いたい衝動に駆られる。
いっそ噛み千切って食べてしまいたい衝動に悩まされる。


ああ、苦しい。
貴女が欲しい。


最後だからと言い訳し自分の方から手を伸ばす。
驚いて引っ込みかけた薫流の手を掴み、薬指を口に含む。
「あ」
熱く潤んだ粘膜が薬指を包み込む。泥と血の味が口の中に広がる。
香り立つ薬指を味わいつつ、唾液に濡れ光るそれを名残惜しげに口から抜いて嘘をつく。
「血が出てたよ。破片か小石で切ったんだね」
「そう?気付かなかったわ」
「姉さんは鈍感だからね。僕はちゃんと見てたよ」
貴女以上に貴女の事を、貴女の事だけを。
忌まわしいが捨てられなかった鏡の破片を慈しむような指遣いで一つ一つ箱におさめ、おもむろに薫流が言う。
「私が死んだら鏡を見てね、静流」
「え」
「鏡を覗けばそこにいるから」
ずっと一緒に。
「私の欠片をひとつあげるわ」
不吉な発言にいろめきだつ弟に笑いかけ、小さな破片を一つ手渡す。
思わず受け取ってしまった静流が、手のひらの破片を持て余し物問いたげに仰げば、弟の手に手を添え優しく破片を包ませる。
「形見だと思って持っていて頂戴」
「いきなり何を言うのさ縁起でもない。形見だとかそんな、姉さんも僕もそんな年じゃないだろ」
「言葉の綾よ。今はまだいいけどいずれどちらかが先に死ぬでしょう、その時になって形見分けで揉めたくないの。母さんと莞爾さんを見てればわかるでしょう?あんなふうにこじれてしまうのはいやだわ、絶対に。だから、ね、静流、持っていて頂戴。私と貴方が仲良く遊んだ子供時代の記憶を忘れない為に、私の想いを託したかけらをあげる」
自分が叩き壊した鏡の破片を弟に無理矢理手渡し、持っていろとせがむ。
その行動の背景にある複雑な心理を解読するには静流はあまりに青く未熟で、結局は薫流に押し切られる形で、懐紙で二重に包んだ破片を袂に隠す。
「姉さんには敗けたよ」
「そうこなくっちゃ。貴方はうんと長生きして私を看取ってくれなきゃだめよ」
「それは貢君の……お婿さんの役目じゃないのかい?」
苦笑がちに問う静流にこちらもまた不敵な含み笑いを返す。
「あの人はだめよ、きっと私の事なんかほっぽって剣をふってる。本家の長男はそうじゃなきゃだめだ、子を生して既に用済みの妻を看取る暇があるなら稽古に励めというのが莞爾さんの主張。貢さんは真面目な人だから、父の理不尽に肩が外れるまで素振りしてこたえようとする。痛ましいわ」
「あの人の男尊女卑は病気だね。頭の中まで江戸時代だなんて救われない」
「同感。だからね、お願い。私が死ぬ時はそばにいて、死ぬ姿を目に焼き付けて。私を看取るのは貴方じゃなきゃ嫌、子供でも夫でもなく静流、貴方じゃなきゃ嫌なの」
「そんな約束はできない。それにきっと姉さんは長生きするよ、皺くちゃのおばあちゃんになっても薙刀の稽古してるんじゃない?」
「静流」
姉が名を呼ぶ。
「たとえ命果てても、魂は貴方とともに行くわ」
地獄の業火に焼かれようとも、懐紙に包んだ破片もろとも蒸発しようとも、貴方が復讐の狂気に魂を売り渡し闇に堕ちようとも

最後の最期までどうか心臓にいちばん近い場所に私を抱いていて。
魂の在り処なんてわからないけど、最後の一音が絶えるその瞬間まで心臓の音を聞かせて頂戴。

孤高を貫くにはこの子はあまりに優しすぎる。

「姉さん……?」
行きたい。行けない。なら逝くしかない。
ある予感がある。
遠からず運命の荒波が古く呪わしい因習に縛りつけられた一族を襲い、なにもかもさらっていくだろう。十年ぶりにふたを開け、中にしまわれていた破片を日に当てた時、そこに映る弟の顔に惨劇の予兆を視てしまったのだ。
静流にまとわりつく黒い靄、秀麗な面差しに施された禍々しい血化粧……
あれは返り血。
おそらくは薫流の血。
時経りた道具には神が宿るという。何十年とたてば人形とて命を宿すという。
ならば先祖代々連綿と受け継がれてきた手鏡が、闇と同化した十年の眠りから目覚めるや所有者一族を破滅に導く惨劇を予知するのもありえる話で。

どうかこの子だけは。

「姉さん」
「なんでもないわ」

私の命も魂も吸い取っていいから、どうかこの子だけは。

心配する静流の胸に手を当て目を瞑る。
懐紙に包まれた鏡の上に片手を乗せ、ありったけの祈りと願いを注ぎ込む。
「今ね、呪いをかけたの」
「え?」
「私より先に死ねない呪い」
してやったりとほくそえむ薫流に何か言いかけて途中で呑み込み、降参したように首を振る。
「そんなに皺くちゃになった姿を見せたいの?」
「おばあちゃんになった私は嫌い?」
「まさか。どんな姉さんでも姉さんは姉さんだ、皺くちゃのおばあちゃんになっても男勝りな美人のままだろうさ。今と変わらずわがまま放題だったら閉口するけどね……いや、ボケが始まってもっと手に負えなくなるかも」
「いやな子ねえ」
元通り埋め直した後、どちらからともなく手を取り合って腰を浮かせる。
「帰りましょう」
「うん」
たった今交わした言葉の真意、微妙な遣り取りの含意を敢えて考えぬようにし、屋敷へと戻る帰途仲睦まじい姉弟を装う。
いつのまにか自分の背を追い越していた後ろ姿を見つめるうち強く吸われた薬指が疼き、潤んだ目を伏せ熱くもどかしい余韻を反芻し、軽く折り曲げたそれをそっと上唇に触れさせる。

薬指には運命の赤い糸が結ばれてると言ったのは誰だったか。
ならば静流は二人を縛る血の糸を噛み切ろうとして愛する人の柔肌を食い破る事を躊躇したのか。



いっそ噛みちぎってくれればよかったのに。
そうすれば貴方の一部として命尽きるまでともにいられたのに。



滾る血潮に熱通う薬指に接吻しつつ、弟の意気地のなさを呪う。



これより半年後、自刃した薫流の返り血を浴びた静流の顔は、彼女がかつて鏡の中に見出した狂相と酷似していた。




静流と薫流へのお題:とっておきの×××/(たすけて、くるしい。きみがほしい)/これが最後

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113723 | 編集

僕は雪を見た記憶がない。
半世紀前から続く温暖化現象により都心の気候は激変し、四季はほぼ存在しなくなった。東京は冬でも暖かく雪が降る事は滅多にない。東京プリズンが建つ砂漠だけは例外で、昼は埃っぽく乾燥し夜は氷点下まで冷え込む過酷な環境にあり、昼夜の極端な寒暖差は人の健康を害す。
そう、東京プリズンには冬がある。
骨身まで凍てつく酷寒の季節。
配管の継ぎ目から汚水垂れ流しの不衛生な環境下、コンクリ剥き出しの一般房に暖房設備など勿論なく、防寒対策は各自自己責任となる。
「それで追い出されたわけか」
「ああ。医務室はインフルエンザ患者で満員御礼、軽傷の囚人を診る暇はないそうだ」
現在、東京プリズンでは悪性感冒ー俗にいうインフルエンザウィルスが猛威をふるっている。
粗末なパイプベッドにぎっしり犇めく囚人たち、ベッドをあてがわれているのは風邪をこじらせ肺炎を併発した重症患者、床に雑魚寝しているのは鼻水咳扁桃腺の腫れなど初期症状を呈する患者。右を向いても左を向いても誰かが苦しげに咳き込んでいる。喉を傷めたのか、ベッドに突っ伏して喀血している囚人もいた。そして僕は自己保全本能が命じるがまま、ずらり居並ぶ病床の囚人らにあっさりと背を向け、阿鼻叫喚の野戦病院と化した医務室を早々と後にした。
臆病風吹かせ保身に走ったと後ろ指をさしたいならさしたまえ、犯罪者に利己主義者と非難されたところで痛くも痒くもない。そもそも良心や倫理観といった人を人足らしめる最低条件が正常に機能していたら僕は今頃こんな場所にいない、国家の未来を牽引する優れた人材として有益な研究に携わっているはずだ。
ただでさえ連日の肉体労働で疲弊しきったところに追い討ちをかけられ死に体の患者たち。免疫力の低下に付け込まれればただの風邪が命とりとなる。
同情はしない。明日は我が身だ。
「生憎と僕はデリケートなんだ。菌を伝染されてはたまらないから早々に退散してきた」
「ふむ」
「医師の手をわずらわせるほどの怪我でもないしな」
「擦りむいたのか」
「見ればわかるだろう」
眼鏡のブリッジを押さえつつ不機嫌に答える。
イエローワークの強制労働中転んで膝を擦りむいた。たいした怪我ではないが楽観できない、小さな傷口から雑菌が入って破傷風になるおそれもある。念のため医務室で治療を受けようと思ったのだが、いざ足を運んでみればそれどころではなかった。医務室を切り盛りする老医師は顔半分を覆う巨大なマスクの向こうから至極迷惑そうな視線を向けてきた。意訳、自分で歩けるなら歩いて帰れ。
「擦り傷なら唾をつけておけば治るだろう」
「正気か君は。唾などつけたら汚いじゃないか」
僕の同房のこの男……ざんばらの長髪を後ろで一つに束ね、切れ長の一重瞼の向こうから胡乱な眼差しを向けてくる彼の名はサムライ。もちろん戸籍登録された本名ではなく通称だ。東京プリズンでは本名など何の意味持たない。実質的な力の証明となるのは周囲から与えられる通称の方だ。
サムライは手拭いで木刀を磨きつつまじまじと僕の顔と膝とを見比べる。
「潔癖症だな」
「君が不潔なだけだ」
「……シャワーがない日もちゃんと体を浄めている」
どうやら気分を害したようで、憮然と黙り込む。一見身だしなみに無頓着そうなこの男が、シャワーがない日も手拭いですみずみまで身を浄めていることは知っている。同房の住人なのだ、いやでも目に入る。しかし彼の場合綺麗好きというより寒風摩擦を精神修養とすり替えている気がしなくもない。
ぎくしゃくとベッドに腰掛け、奇妙な性癖を持つ男を睨みつける。
「そこまで気遣うくせになぜひげは剃らない?凡人には理解できない武士の美学か」
「剃刀が手に入らんのだ」
「リョウに頼めば剃刀くらいすぐ手に入るだろう」
「あいつに借りを作るのは気が進まん」
渋々といった口調で言いつつ一際強く木刀をしごく。
最もだ。一度借りを作れば命まで取り立てかねない、それが僕が知るリョウという囚人だ。
「……俺と刃物の取り合わせは危ないとも言われた」
「誰に」
「レイジに」
「なんとかに刃物か」
サムライと刃物の取り合わせが危険視されるのは無理からぬことだ。
何回か木刀での戦闘を目にしたが、一対多数の立ち回りで完全に他を制圧していた。
もし彼が真剣を握ったら……想像しただけで鳥肌が立つ。
「……寒いな」
囚人服の二の腕を抱いて、配管剥き出しの殺風景な天井を無意識に仰ぐ。
こんな寒い夜は雑談に時間を費やさず早く毛布に潜りこむべきだ。
わかっているのに、なぜかこの無口で退屈な男の相手をしてしまう。
隣の房から咳が響く。一種の連鎖反応だろうか、遠く近く咳が唱和する。
東京プリズンに風邪が蔓延しているという事実をしみじみ実感する。
気が済んだのか、今日の務めを終えたサムライがゆっくりと丁寧に木刀を寝かせる。
漸く就寝の支度を始めるかと思いきや、表情の読めない目にわずかに気遣わしげな色を浮かべる。
「足は大丈夫か」
「一応歩けるが」
「痛むか」
質問を微妙に変える。そこで漸く彼なりに気にかけているのだと思い至る。
「……唾液で痛みが和らぐなど迷信だ。唾液の成分に鎮痛作用は含まれてない」
関係ない事を口走り、伏し目がちに視線を避ける。
サムライが静かに歩み寄り、ごく自然な動作で正面に跪く。武家育ちなせいか、この男の立ち居振る舞いはいちいちがため息出るほど端正だ。立って座る、ただそれだけの動作が目を惹きつけてやまない。
「見せろ」
低い声を乗せた吐息が膝に触れ、びくりとする。
冷たい手が膝頭に触れ、軽く傾けてためつすがめつする。
膝を引っ込めることもできた。だがそうしなかった。そうできなかったというのが正しい。
冷たい指が敏感な膝裏を這う。毛細血管の集中した膝裏は性感帯ともなっていて、指が掠るたびに皮膚が妖しくざわめく。
思わず声を洩らしそうになり、慌てて唇を噛み締める。いつも軽々と木刀を扱う節くれだった指が、皮膚を張った柔肉を慎重に揉みほぐす。筋肉で守られてない膝裏にまでもぐりこみ、片手で支え、関節の曲がり具合を確かめる。
彼との接触に抵抗を感じなくなったのはいつからだろう。拒む事もできた、だがそうしなかった。挙句このお遊びの延長めいた一方的触診行為に信頼に似た心地よさまで感じてしまっている。
サムライの手は冷たい。
冷たくて気持ちがいい。
彼の温度が皮膚に沁みて、僕を内側から溶かし侵していく。
手が冷たい人間ほど心が優しいと誰かが言った。
ならば僕はこの手に救われているのだろうか。
実際何度も救われてきた、自分では何もできないくせに口ばかり達者な僕が窮地に立たされるたび彼は何度もこの手で木刀をふるい並み居る敵を倒してきた。
だからだろうか、この冷たい手に身を許す気になったのは。
思い返せば短いようで長い十五年の人生、相手から触れる事を許したのは妹の恵だけだ。
恵。今頃どうしているだろう。ひとりぼっちで寂しがってはいないだろうか。
「!ーっ、」
傷口に疼痛が走る。サムライが顔を顰め、僕の足を掴んで固定する。
「骨に異常はないな」
「なに、を」
「少しの間我慢しろ」
力強い手。もがいても抜けない。
僕が凝然と身を竦ませているすきに無造作にズボンの裾を巻き上げ膝を露出、時間が経過してなお薄く血を滲ます擦り傷へ舌先を近付ける。
ぴちゃり。唾液と血が混じって薄赤く滲む。
「念のためだ。破傷風にならぬよう吸いだす」
「馬鹿、か君は。感染したらどうする?」
目の前の男はひどく生真面目な顔をしている。
冗談で言ってるのではないのはわかった。
わかったが、どうかしているとしか思えない。
咄嗟にあとじさり逃げ出そうとした僕を押さえつけ激しくばたつく膝をこじ開け、しっかりと引いて床と垂直に据え直す。
「う」
熱く柔らかな粘膜がぴちゃぴちゃと肌の上を這いまわる。
薄く引き伸ばされた唾液が脚を伝い、失禁に似て濡れた感触が広がるにつれ羞恥心が燃えたつ。
まるで疑似的な性行為、前戯の代償行為。
この馬鹿で鈍感な男に下心などないのはわかっている、彼は親切でやっているのだ。
おかしいのは、僕だ。
唾液を用いた消毒行為を性的な暗喩を孕んだ愛撫にすりかえ、特別な意味と感情を求めてしまう僕の方だ。
治療行為と前戯の区別もつかないなんて。
「やめ、ろ、く」
肩を掴んで押し返そうとしたそばから腕が弛緩し、だらしなく力が抜けていく。
前屈みに蠢くサムライに縋り付き、あまりによわよわしく押し切るのが簡単な抵抗を口にする。
唇が伝った部位に悩ましく淫靡な熱が広がる。
サムライに抱きつき、シャツの背を皺が寄るほどに掴み、肩口に突っ伏し必死の想いで吐息を呑む。
「……こん、なことをしても、意味はない……」
「俺はいつもこうしていた」
「怪我はなめて治す主義、か。自然治癒力は偉大、だな」
熱を伴いこみ上げる疼きに翻弄される。
下腹部がじんと痺れ、膝が慄き、少しでも気を抜くとその場に崩れ落ちそうになる。
「……っ、これが君流の消毒、か……」
「動くな。やりにくい」
「誰のせいだ、く」
声が途切れる。すっかり触覚過敏になってしまった。至近距離で見上げるサムライの顔はひどく真剣で、けっして僕をからかっているわけではないのだと理解する。
だからこそよりいっそう辱められてる気がする。
唾液の粘りが糸を引く。
透明なぬめりを帯び、赤く濡れ光る傷口が気恥ずかしく直視できない。
柔くはまれ舌でねぶられ、生煮えの掻痒が冷たい手で挟まれた膝裏をじくじくと蝕んでいく。
自分でも知らなかった性感帯を無理矢理に暴かれて開かれていく感覚に、悦びと紙一重の怯えが走る。
「はっ……」
渦巻く熱に溺れそうな恐怖に抗いシャツの背を掻き毟る。
淫猥に濡れた音が耳朶を犯し、シャツに取り縋る指関節が白く強張る。
汗と垢の混じった雄の体臭に包み込まれ、けっして巧くはない、じれったく誠実な舌遣いにゆるやかに追い上げられ膝の痛みが次第にむず痒さに紛れていく。
「もういい……やめろ……やめてくれ」
じくじくと傷が痛む。それ以上に胸が痛む。
僕の膝から汚れた血を吸いだし、手拭いに吐き捨てる。
「終わったぞ、直」
肩で息をしつつ、どこまでも鈍感なサムライを突き放しベッドに戻る。
膝の痛みが薄らいだ代わりに、違う疼きに支配されつつある体を持て余しぐったりと仰向ける。
「はっ……はぁ……」
しどけなく膝を崩す。シャツの裾が乱れて貧相な腹筋とへそが覗くが、手を動かし整える気力も尽きた。ただ唇が触れただけ、それだけだ。やましい意図をもって成された行為ではないと頭では分かっていても、彼の唇になぞられた場所が発情したように疼きをこもらせるのはどうともしがたく、口を手で覆い吐息の上擦りをひた隠す。
「そんなに痛かったのか」
「そうじゃない……君の唇が熱すぎるんだ」
何を言ってるんだ、僕は。
眼鏡が吐息で曇る。
サムライの肌を、唇を、その吐息を特別熱く感じてしまうのは今が冬だからだ。
雪など降らなくても東京プリズンは十分寒い。
「俺の唇が?」
一回瞬きをし、虚を衝かれたように唇をなぞるしぐさが憎たらしい。怪訝な表情で見詰めるサムライにそっけなく背を向け、毛布を被って沈黙に逃げこむ。
「待て、手拭いを巻かせろ」
「そんな汚い物を巻いて雑菌が入ったらどうする」
「ちゃんと洗ってる、汚くなど」
「君が毎日体を拭いてる手拭いだろう」
「………」
暴言に腹を立てたのか、説得を諦めて大股に帰っていく気配に安堵する。今の見苦しい状態をほかならぬ彼に知られるのだけはプライドが許さない。

彼の唇に癒されたなど断じて認めたくない。
彼の唇は生傷を抉るように優しくて、僕の隠しておきたい欲望をちりちりと燻らせ、微弱に吹きかける吐息でもっていやおうなく煽り立てる。

僕は彼というウィルスに感染している。
きっともう末期で手遅れだ。

だからこんなにも体が熱いのだ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

少年プリズン(未完) | コメント(-) | 20010529113722 | 編集

 いつ死ぬかわからないけど何でもできるやつがいる。
 それが自分の弟だったらどうだと聞かれたら迷わずこう答える。
 不公平だ。

 アフガンの子供みたく戦争で死なずアフリカの子供みたく餓死しない日本人の平均寿命は八十年。
 太一は生まれつき心臓の畸形だった。
 生後九ヶ月の時余命はもって十歳までと診断され、父さんと母さんは悔いないよう残り七十年分愛することにした。
 「兄貴んちって品揃え悪いよな、ゲームの」
 「ゲームなら家でやれよ、俺んとこに寄らず。勉強の邪魔」
 「いいじゃん別に、電車で三駅なんだから遊びにきたって。つか大学とそんな距離変わんねーしうちから通えばいいじゃん。わざわざ一人暮らしとかわけわかんね、金もったいねー。やっぱさ、あれ?親元を離れ自由を満喫したいとか支配からの逃走気取っちゃってんの?」
 「尾崎か。古い」
 「家でゲームやってっとババアがうるさいんだよ、心臓に悪いからってシューティングやホラーやらしてくんねえしさ。俺ができるのぷよぷよとかテトリスとか落ちゲーだけ。あと太鼓の達人?」
 「音ゲーも十分体に悪い。めちゃくちゃスタミナ使うぞあれ」
 太一は十六歳になった。高校一年生だ。
 いつ死ぬかいつ死ぬかちょっと目をはなした隙に死んでるんじゃないかと親をさんざんひやひやはらはらさせた太一はどうやら反抗期とやらに突入した模様で、俺のアパートにたびたび入り浸ってる。
 両親の過保護ぶりにうんざりして逃げてきた先では放任される。
 かえってこっちのが居心地いいみたいで、へたくそな鼻歌まじりにゲームソフトをあさってはとっ散らかす姿は実に伸び伸びしてる。
 テレビの前に胡坐をかいてゲームソフトを漁っていたが結局お気に召すのが見つからなかったらしく、テーブルでレポート執筆中の俺んところに這いよってくる。
 「せっかく弟が遊びにきたんだから、むつかしー本読んでねえで対戦しようぜ」
 「レポートの締め切りが近いんだよ」
 太一はわがままで気分屋だ。
 過保護に育てられたせいで堪え性がない。
 ごねる太一を無視し、フローリングにじかに置いたテーブルに向かい、分厚い専門書をぱらぱらめくってノーパソのキーを打つ。
 太一とは四つ離れてる。
 俺は今大学生で、心理学部に籍を置いてる。
 大学生は暇じゃない。少なくとも用もないのにだらだらずるずる一人暮らしの兄のアパートに入り浸って、ゲームや漫画にうつつを抜かす暇人の弟をかまうほどには。
 参考書から顔も上げずレポートの下書きを続行すれば、ご不満そうに鼻を鳴らし、サバンナのライオンの如く悠然と寝転がる。顔の周りにたてがみのように茶髪が広がる。
 同じ親から生まれたのに俺たちはあんまり似てない。
 俺はごくごく平凡な顔をしている。外見的な特徴といえばセルフレームの眼鏡と芯の固い黒髪、神経質そうな目つき。服のセンスもださい。もさっとしてる。太一は俺と正反対、明るい茶色の髪は中途半端な長さで、だけどそれがさりげなくお洒落に見える。非の打ち所ない美形というよりも造作が崩れているのが魅力になる快活な顔立ちで、女の子にモテるのがよくわかる。……実の兄から見ると下がり気味の口角や笑ってるようで笑ってない目元にそこはかとなく一癖ありそうなルックスだが。
 四つんばいで近づいた太一が、テーブルに乗っかった分厚い本の一冊を手に取る。
 「なに読んでんの」
 「ジグムント」
 「だれ?外人?」
 「フロイトって言えばわかるか」
 「医者だっけ」
 「精神医学の始祖。ユングと二大有名人。学校でやらないか」 
 「聞いたような覚えはあるけど……で、その人の本楽しいの」 
 「面白い」
 普段漫画しか読まない太一が俺が読んでる本に興味を示す。珍しいこともあるものだ。まあ、こいつは殆ど好奇心で生きてるけど。 
 ぐうたら寝転がった姿勢のまま片手でテーブル上をさぐり、ぱらぱら本をめくる。
 だらけきった寝相は猟銃で仕留められるのを待つライオンのよう。油断を誘うあくびをひとつ、眠たげに瞬きしページの残像を追う。
 「兄貴さーうち帰ってこねえの」
 「うん」
 「なんで」
 「帰りたくないから」
 「俺のせい?」
 本のページを惰性で羽ばたかせつつ言う。キーを叩く手がとまる。
 「俺がいるから、帰ってこないのかなって」
 違うと笑って否定しようとして、太一の大人びた表情を見てしまい、嘘をつけなくなる。
 いつもやかましいやつが突然だまりこむと、どうしてか含意を読み取ってしまう。
 「………もう大学生だぜ。とっくに親離れしてるよ、どっかのすねかじりと違って」
 今さら寂しさを覚えはしない。
 そんな時期、とっくに過ぎ去ってしまった。
 四つ下に太一ができてから、俺の家はいつも太一を中心に回っていた。母親は太一の体を常に気遣い、容態が悪化したら病院に泊り込んで付き添った。俺はその間、家でずっとひとりぼっちだった。
 仕方ないとわかっている。太一を恨むのは間違ってる。
 大学に上がると同時に家を出て、アパートで一人暮らしを始めた。
 大学は家から通えない距離じゃなくて、親と同居してるほうが経済的にはラクだったけど、あえて一人暮らしを選んだ。

 こいつは悪くないと理屈ではわかってる。
 
 「兄貴さあ、かまってよ」
 「うるさいよ。帰れよ。忙しいんだ、今手放せないの。見てわかんないか」
 退屈しきった太一が舌を打つ。分厚い本をほうりだし頭の後ろで手を組み寝転がる太一、半袖シャツから突き出た二の腕の健康的な日焼けが目を奪う。
 なめしたような肌に淡く光る産毛が綺麗だ。
 「焼けたな」
 「走ってっから」
 太一は陸上部だ。無謀にも。はにかむように笑う顔に白い歯が映える。
 中学では帰宅部だった。高校にあがると同時に念願の陸上部に入った。親は心臓に万一の事があったらと反対したけど、どうせ長く生きられないんだから悔いを残したくない、自分の好きなことをおもいっきりやりたいと、その反対を押し切って無理矢理入部したのだ。
 「ずるいよな」 
 太一はずるい。
 余命をたてにしたら親は逆らえないと知ってて、その手を使ったのだ。
 「知能犯っしょ」
 「確信犯だな」
 「今、どうせ余生みたいなもんだし。好きな事したいんだ」
 太一は常に死を意識しないではいられない環境で育ってきた。
 年に数回、軽い発作が起こる。重篤な発作は三年に一度の頻度で起こる。
 死は太一に寄り添ってる。
 明るいところほど深くて濃い影ができるように。

 ジェンガをひとつひとつ積み上げ高くしても、崩れるときは一瞬。

 「学校どうだ」
 話題が尽きて、沈黙の居心地悪さと気まずさにそわそわして、文章を打ち込みつつ聞く。
 「普通」
 「普通って、答えになってねえよ」
 「普通に楽しい」
 「部活はどうだ」
 「ばしばし走りこんでる。先週タイム更新したんだ、200メートルぶっちぎり。顧問に今度の大会代表で出ないかって言われた」
 「すごいじゃん、一年で」
 「断った。ババア説得すんのめんどいし、先輩に目えつけられるのもうざいし」
 走ってるだけで楽しいという無欲な達観がさばさばした口調に透けて見える。
 もてるものほど淡白なのはどういうわけだろうと皮肉っぽく韜晦する。結局はもたざるものの僻みだ。
 「勉強は……心配ないか」
 入院が多いくせに、太一はふしぎと勉強もよくできる。高い月謝を払って家庭教師を雇ってるからだろう。至れり尽くせりだ。
 ガキっぽい嫉妬を自嘲し、自己嫌悪を抱く。
 寿命は先負、されど万能。
 「兄貴、教えてよ」
 「なにがわからないんだ」
 「保健体育」
 「童貞のくせに」
 「童貞じゃねえよ」
 「え」
 おもわずまじまじと太一の顔を見てしまう。
 太一はフローリングの床に頬をつけ、つまらなそうに言い放つ。
 「いつ」
 動揺を隠せない。問い詰めるような調子になる。太一は流し目でちらりとこっちを一瞥、ようやく俺の興味を引いた事に満足そうに笑う。悪戯が成功したガキみたいな笑顔。
 「中2」
 「……はやっ」
 「そう?普通だろ、割と」
 「お前の普通の定義おかしいよ。で、だれと。当時付き合ってたミカちゃんか」
 「想像におまかせ」
 「……モテるからなー、お前」
 「兄貴だって悪くねえよ」
 「慰めどうも。でも良くもないって続くんだろ」
 ジグムントの本に飽きた太一が部屋をきょろきょろ見回し、向こうに何かを発見したらしく「あっ」と叫んで駆けていく。ソファーの横、崩れなだれた雑誌の浅瀬に埋もれて今の今まで存在を忘れられていたゲーム盤を発掘し、顔輝かせ持ち上げる。
 「いいもんめっけ。人生ゲーム?」
 「あー……ジェンガだよ。こないだ友達が持ってきた。あいつ忘れてったな」
 「どうやって遊ぶの」
 「ブロックを積み上げて崩さないように抜いてくんだ。結構集中力使う」
 「面白そう。やろうぜ」
 太一はえらく乗り気だ。ジェンガは初体験なのだろう。まあとっくに流行が去った遊びだし、知らなくても無理はない。
 「だーかーら、レポート中なんだよ。単位おとしたらどうする」
 「兄貴は頭いいから大丈夫。ケチケチせず付き合えよー」
 「よくねえよ。陰に日なたに努力の人で売ってんだよ、俺は」
 「単位とヨメイイクバクもねー弟とどっちが大事なんだよー」
 「……三十分だけな」
 盛大なブーイングに根負けし下書きを保存してからパソコンの電源を落とす。
 ゲーム盤を挟んで太一と向き合い、簡単にルールを説明する。
 「いいか?ジェンガは54本のパーツを縦横に3本ずつ組み上げた18段のタワーとなっている。パーツは最上段を除きどこから抜き取ってもいいけど、最上段に3本そろわないうちにそのすぐ下の段から抜き取ってはだめ。タワーを崩した人が負けな」
 「OKOK」
 ふたつ返事で了解する。
 軽い調子で頷きつつ、早速下から三番目、真ん中のブロックを無造作な手つきで抜く。
 「……っしゃ、摘出成功。次、兄貴」
 促され、弟のわがままに不承不承付き合ってやってるんだという辟易を顔に出し、下から二番目の端のブロックを抜く。さすがに緊張を覚える。
 片手をつき、前に乗り出し、指先に神経を集中し細心の注意を払って、扁平かつ微妙な凹凸のあるブロックを取り去る。
 ゲームは淡々と進行する。
 安定箇所のブロックをあらかた抜いてしまえば必然先細りバランスが悪化し、いたずらに服が触れただけでぐらついてしまうから油断できない。
 プレッシャーが持続する。
 他愛ない盤上遊戯にのめりこむ。
 「案外むつかしいな」
 「だろう」
 「地味だし」
 「崩れる時は派手だ。一瞬で」
 「むしろ崩すのが醍醐味、みたいな」
 ありもしない余裕を演じ軽口を叩き合う。
 「お前と遊ぶの久しぶりだな」
 息がかかっただけでぐらつきよろめくジェンガのタワーをためつすがめつ、手をつけあぐね思い悩む。
 ジェンカはバランスが命のゲーム。
 どのブロックを抜いたら全体にどう波及するかという関係性を脳内で立体化して空間的に把握せねば勝利を手にできない。
 升目を埋めるような慎重堅実派な生き方の俺とは対照的に自由で柔軟な発想を得意とする太一は、スリルを楽しむ表情で直感的に、大胆にど真ん中からブロックを抜いていく。
 極悪人に向かい引き金を引くようなためらいなさ。
 「小学校の頃は遊んでくれたのに」
 「ボードゲームばっか」
 「オセロは兄貴のが強かった。退院したての弟に手加減しようとか思わなかったわけ」
 「手加減されて勝っても嬉しくないだろう」
 というのは詭弁で、俺はガキの頃からひどく負けず嫌いだったのだ。
 「うそつき。兄貴、単に負けず嫌いだったんじゃん。俺がたまぁに勝つと顔真っ赤にして怒って盤面ひっくり返すし、海原雄山みてーに」
 ばれてた。
 懐かしい思い出話に耽るうちに張り詰めたプレッシャーが適度に和み、親密な空気が底に流れる。
 「兄貴が盤面返しの大技くりだすたび心臓とまるかと思った」
 兄弟仲良く力を合わせひとつひとつ積み上げ高くしても、崩れる時は一瞬。
 「……悪趣味な冗談よせ」
 「冗談ならいいんだけどさ」
 「つーか、それだと俺はたかがゲームの勝ち負けにこだわって、何度も殺人未遂してたのかよ」 
 「発作起きなくてよかったな。兄貴を人殺しにしなくてすんで安心した」
 「やさしい弟で泣けてくるね」
 「ちょっと残念だけど」
 「はあ?」
 「そしたら兄貴、俺の事忘れねーじゃん」
 言葉を失う。 
 それは心臓が抱え込んだ時限爆弾の限界を体を張って試し続けてきた人間の笑顔で。
 してやったりと意地悪そうに目を細め含み笑い、余裕を演出する極端に緩慢な動作でブロックを抜く。

 処女をリードするような手つきが目を奪う。
 この手にこんな風に触ってもらえる女は自分が特別な存在になったかのような幸福な錯覚に溺れるだろう。
 漠然と、羨ましさを覚える。
 太一に対してなのか太一が抱く女に対してなのか、保留でわからないふりをしておく。

 「さっき何書いてたの、レポート」
 「言ってもわかんねーよ」
 「試しに言ってみ」
 「吊り橋効果における男女の親和性についてのフロイト的解釈」
 「それジグムントさん?」
 「違う。吊り橋効果を提唱したのはカナダの心理学者、ダットンとアロン」
 「ダットン・アンド・アロン……愉快なコンビ名。そういう海外ドラマなかったっけ。で、吊り橋効果って?」
 太一の番。ブロックをひとつ抜く。
 「映画でよくあるだろう、絶体絶命のピンチやパニックを一緒に乗り切った男女が結ばれちまうパターン。すごく簡単に言うとあれだよ。平常時と吊り橋を渡ってる最中とで男女にアンケートをとって、どっちの方がより相手に対し好意を抱いたか調べた結果、後者のがダントツだったんだ」
 「なんでなんで?」
 「種明かしするとな、吊り橋の揺れが伴う動悸を恋愛の高揚と勘違いしちまったんだよ」
 俺の番。ブロックをひとつ抜く。
 太一が素直に感心する。
 「へえー」
 「大抵吊り橋上で生まれた愛は長続きしないんだけどな、限られた状況における一過性のもんで。一時的な緊張状態による興奮が理由の恋愛は、継続的な恋愛には発展してかないってのが結論」
 「ドキドキの質が違うんだ」
 「そういうこと」
 「じゃあ、これもそうかな」
 「はあ?」
 ブロックをひとつぬく。ふたつぬく。みっつ、よっつ、競い合うようにしてタワーを解体していく。
 「ゲーム中に味わうスリルと興奮がきっかけで恋に落ちちゃったり、とか」
 「………お前と?」
 目が合う。視線が絡む。太一がきっかりと俺を見据え、いやに真剣な表情で白状する。
 「俺、今、かなりドキドキしてるんだけどさ」
 「………」
 「くらっときた?」
 「……どん引き」
 「やっぱだめかー」
 大げさに項垂れる様がおかしみを誘って、二人一緒に示し合わせて吹き出す。 
 「なんか賭けよっか」
 「金?やだよ」
 「キスとか」
 「は」
 次の瞬間タワーの主軸が歪み傾き連鎖崩壊、ばらばらに分解されたブロックがけたたましく床を打つ。俺たちを中心に床の広範囲に出現した無秩序状態を見回し、太一は残念そうに嘆く。
 「あーあ。負けちった」
 二人一緒に後片付けをする。クーラーの空調の音の他にはプラスチック製の安っぽいブロックが床とかちあう音と、俺たちの身動きに伴うごくささやかな衣擦れの音しかしない。
 瞼の裏にちらつくバベルのミニチュアの残像、共同作業で築き上げたタワーの印象はひとつひとつ残骸を拾い集めるごと薄れつつあって、最初からそれが存在したかどうかも疑わしくなる。

 人間の記憶はとても頼りない。
 手で触れて確かめる事ができなければ、形を知覚し得なければ、すぐに薄れて消えてしまう。

 額突き合う至近距離でブロックを拾い集める俺をまともに覗きこみ、太一が囁く。
 「その眼鏡」
 「うん」
 「最初、びびったあ。病院から帰ってきたら、兄貴が眼鏡になってんだもん。超ウケる」
 小五の冬から小六の春先まで、太一は入院してた。
 家に帰ってきた太一は、留守番してた俺の顔を見るなり、「眼鏡!?うははっ、兄ちゃんが眼鏡になってる!!」とこっちを指差し飛んで跳ねてひとしきり大騒ぎした。 
 何年か越しに太一のオーバーアクションの理由に思い当たり、胸が少し疼く。
 約一ヶ月にも及ぶ入院中、一度も見舞いにいかなかった。太一と会うのを徹底して避けてきた。受験と重なって神経過敏に思いつめた反抗期だったのだろう。
 ソファーのスプリングを壊す勢いではしゃぎまわった太一の電池が切れてぽつりと一言、「……なんか別人みてー」と零した様が、忘れられない。 

 兄ちゃんから兄貴に呼称が変わったのは、それからだ。

 「眼鏡貸して」
 「遊ぶな」
 ずうずうしく伸びてくる手を払う。
 邪険な態度をとってしまったと反省、のふりだけする。
 だけど太一は楽しそうに笑い、からかい半分に俺の顔に手をのばすのをやめない。
 しつこい手をこりずはたき振り払う。ぱしん、ぱしん、軽快な音が鳴る。
 俺と太一は兄弟喧嘩をしたことない。せいぜい兄弟喧嘩ごっこどまりだ。
 男兄弟につきものの取っ組み合いなんかした日には心臓がびっくりして止まっちまうかもしれない。
 前に太一が「俺の心臓がとまっちまったら兄貴ドロップキックしてよ。また走り出すからさ」と、朝食の席で牛乳をイッキしながら言った。心臓マッサージ、もとい心臓キック。

 そして太一はまた走り出す。
 輝かしい人生が続く。

 どこまでが人生で本番でどこまでが余生でおまけなのか、俺にはわからない。
 本気で生きた分だけ人生と呼べるならこいつはいつだって人生を生きてるだろうに、俺とふたりっきりの時だけ冗談とも自嘲ともつかぬ口調で余生という。
 もう少しで死ぬんだから許してよ、と。
 甘えさせてよと、確信犯的につけこむ。

 じゃれつく太一の相手をしつつ、テーブルの隅っこにおいた時計代わりの携帯に一瞥払う。
 「家に連絡入れたのか」
 「うん。兄貴んとこよるって」
 「そっか」
 「泊まるって」
 「泊まらせねえよ。帰れ。母さん心配するだろ」
 「ちぇ。ケチ」
 「毎日毎日俺んとこ入り浸って……合鍵渡すんじゃなかったよ。こっちだって都合があるんだ、飲み会とかさ」
 「いなくても勝手に使っていいっつったじゃん」
 太一が不服げに口を尖らす。
 プラスチック製の本棚に心理学関係の本や小説がぎっしり詰まった殺風景な部屋を見回し、呟く。
 「俺もこっち引っ越そうかな」
 「ふざけんな」
 自由気ままな一人暮らしを文句の多い居候に邪魔されたくない。
 即座に却下すれば、太一は「えー」と声を上げ、非難がましい目つきでこっちを睨む。
 もう八時を回ってる。九時になる前に帰さないと。
 「ほら、明日も学校だろ。電車なくなったら家まで走って帰らなきゃ」
 「いいよ、そうする」
 「お前になにかあったら困る」
 「『心臓になにかったら困る』だろ」
 俺の中では同義だが、太一の中ではちがうらしい。
 間違ってないから返答に詰まる。
 太一がふてくされ腰を上げ、スポーツバッグをもって大股に玄関へ向かう。
 背中、ちょっと見ない間に広くなった。骨格も年を追うごとにしっかり完成されてきた。
 こいつは健康に成長してて、でも、こいつの心臓は成長に追いついてってなくて。

 ごまかしごまかし生きてるけど、いつかは破綻する。
 ジェンガを崩すように終わりは一瞬だろう。
 終わりはせめて慈悲深くあるよう、祈る。

 腰を上げ、玄関まで太一を送る。
 ノブに手をかけ開けようとしてちょっと戸惑い、振り向く。
 引き止めてほしがってそうな顔だ。
 「ドロップキックしてやろうか」
 「……虐待反対」
 「とんでもない、スキンシップさ」
 太一が占有の特権を誇るかの如く笑い、自分の胸のあたりを拳で殴る。
 「俺のハートをジャンピングスタートさせるのが兄貴の役目だもんな」

 終わりが来ないようにと祈るほど俺はガキじゃない。
 兄ちゃんが兄貴に代わった瞬間から、いずれ終わりが来るのに生まれてしまった感情を自覚した瞬間から、ガキでいられなくなった。

 ため息を吐きノブを捻った途端、電気が消えて人工の闇があたりを包む。
 「またブレーカー落ちた」
 舌打ち。このアパートはよく停電になる。
 どうせもう帰るんだ、平気だろう。
 ノブががちゃつく音を聞きつつ部屋に取って返そうすれば、後ろからあたたかいものが抱きつく。
 心臓がひとつフライング気味の鼓動を打つ。耳朶をくすぐる切羽詰った低い声。
 「兄貴」
 「こら、ふざけんな」
 「好きだ」
 耳を疑う。
 振り向こうとするのを制し、俺の胴に回した腕をますます強める。
 停電の暗闇の中、気配と衣擦れの音が奇妙な生々しさを帯びてまとわりつく。胴にしがみつく腕をこじ開け振りほどこうと我を忘れ引っかく、爪を立てる、暴れて抵抗する、しっとり汗ばむ肌が触れ合う。太一の腕は強くて、背は俺より大きくて、後ろから抱きすくめられて混乱して、そのまま吐息がー……
 唇が被さる。頭が真っ白になる。完全な思考停止。
 俺を抱きしめる腕の皮膚の下に筋肉の躍動と血の脈動を感じる。汗ばんだシャツの胸と胸とがぶつかりあう。 

 太一は生まれつき心臓の畸形だった。
 生後九ヶ月の時余命はもって十歳までと診断され、父さんと母さんは悔いないよう残り七十年分愛することにした。
 最初の十年に凝縮された七十年分の愛情。息苦しいほどの。
 俺はいつも、こいつを羨んでいた。

 「音、聞いて。俺の心臓の音。兄貴とおんなじでしょ」
 いつ壊れてとまるかわからないくせに、こいつの心臓はちゃんと鼓動を打つ。
 俺と接するうちにその鼓動がだんだん速くなって、足並みを乱して、発作の兆候じゃないかと不安を誘う。
 抗う気力をなくす。
 黙って抱擁される。
 日焼けした腕に弛緩した体をゆだね、ぼやく。
 「……賭けに負けたくせに」
 「そこはほら、サービスですよ」
 こういう日がいつかくると予感していた。
 太一が俺のアパートに入り浸る理由も、病院から帰ってくるたびうるさく懐く理由も、時たま俺を見る目によぎる物狂おしい影の理由だってわかっていた。
 わかっていて、無視をした。
 俺はどうしたらいい。どうすればいい。
 兄弟だから、家族だから、男同士だから。拒む理由断る理由はいくらでもあって、でも、こいつの願いを拒否したら、その瞬間心臓がとまってしまいそうな恐怖がつきまとって。
 「……心音、うるさい」
 「ドキドキしてんだよ。発作じゃない」
 「区別つかねえよ」
 「もっとくっつけばわかる。耳澄ませて」
 ずっと疎外感を抱いてきた。孤独感を内に抱え込んだ子供時代、俺は両親に沢山かまってもらえる太一が羨ましくて、わざと見舞いに行かなかった。
 俺が来ると本当にうれしそうな顔をするから、それがかえってたまらなくて。無神経が憎たらしくて。
 病気の弟に優しくできない自分は最低なヤツだなあと子供心に哀しく思って、泣いた。
 
 「今、すっげどきどきしてる。キスしたらとまるかな」
 「ばか。セックスの時もとまらなかったんなら大丈夫だよ、お前は長生きする。そんな性格だし」
 「兄貴が相手なら、ちがうよ」 

 ジェンガを崩すように終わりは一瞬だろう。
 終わりはせめて慈悲深くあるよう、祈る。
 大切な人に先立たれた時から人生は余生になって、あとに残された人間は、もう誰もいない部屋や家や心に散らばった思い出をひとつひとつ拾い集めて生きていく。

 俺のうなじに顔を埋めこすりつけ、心臓の鼓動が伝わる距離でつぶやく。
 「前の時ヘイキだったのは、兄貴が相手じゃなかったからかも」
 「試してみるか」
 
 余生のような人生にキスで終止符を打つのも悪くないだろうと、太一の心音と体温に包まれ安らぎを覚えながら、思った。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ジェンガ]
ジェンガ | コメント(-) | 20010509215243 | 編集

 聞いて驚け、最近の吸血鬼は日光に耐性がついたんだとさ。
 
 「あー。たるー」
 屋上のフェンスに凭れて細々と煙草を喫う。青い空へと一筋紫煙が立ち昇っていく。
 ご機嫌うるわしい陽気とのどかな光景があくびを誘い、眠たげにぼやく。
 「そもそも完全禁煙制つっても法的拘束力はないんだよなー。言わぬが華だけど」
 俺はサボり……じゃなくて、心の洗濯喫煙タイム。
 選んだ場所は最近のお気に入り、気持ちいい風が吹くコンクリ張りの屋上。
 教師だって一日中授業してるわけじゃない、時間割の調整で体が空くこともある。
 そういう時、他の先生方はテストの採点をしたり次の授業で使う教材を整えたり茶飲み話に興じたり職員室でまったり過ごす。
 ここだけの話、「1年A組の篠塚は随分あれですな、体の一部分の発育がいいですな」「1年だっていうのにけしからんです」「しかも最前列で制服のボタンをはだけるもんだから目に毒で」「体育の授業中どきどきもんですな。もうぶるんぶるんでしょう?」「ぶるるんぶるるんですとも」というセクハラすれすどころかど真ん中のきわどい会話が普通に交わされ盛り上がるのは日常茶飯事でして。
 ……本人か保護者に聞かれたら訴えられそうだ。
 もちろん、そんな男性陣をバナナで釘を打てそうな氷点下のまなざしでねめつける女性陣もお忘れなく。
 教師だって聖人君子じゃない。
 よく言うけど、教師である前に人間なのだ。もちろん、人並みに性欲だってありますよ?
 目に染みるような青空とマシマロのような雲とを眺め、一種の感慨に耽る。
 そう、教師だって聖人君子ばかりじゃない。
 休み時間に屋上でぷかぷか煙草を吹かす不良教師もいれば、軽薄でナンパな若造を煙たがる団塊世代の先生方もいらっしゃるわけで、正式に教職についてまだ二ヶ月も経ってない俺は、派閥争いだの何だの面倒くさい人間関係に巻き込まれるの嫌さに適当な口実をもうけ外をふらつくのが習慣になっている。
 「教師、向いてなかったかな……」
 そもそも、教師ってもっと情熱あるやつがなるもんだと思う。
 俺みたいに周りに流されてなんとなく、夢も目的も野望もなく、お前はちゃらんぽらんでてきとーな人間だからせめて食いっぱぐれる心配ない職業につけと親に説得され、補講に補講を重ね教員免許を取得したようなやつは、きっと教師を名乗る資格がないだろう。
 軽快な着メロが憂鬱な思考を払う。 
 ズボンに突っ込んだ携帯を開いてメールチェック、送信者の名前に自然と鼻の下がのびちまう。
 先日、大学の同期と合コンした際に知り合った女の子からメールが来てた。
 「よっしゃ」
 心の中でガッツポーズ、でれでれだらしなくにやけまくってメールに目を通していく。
 『こないだの合コン楽しかったー小山内くんて面白いねー今度また飲もうよ(できればふたりで)』
 おおまかに要約するとそんな内容で、おお脈ありじゃんさすが俺、女受け上々と、世のモテない男どもから袋叩きされそうな優越感に酔って自画自賛。
 俺も楽しかったよと返信を打とうとして、どこからかかすかに流れる異音に気付く。
 ずずっ、ずずっと、どこからかなにかを啜る音が聞こえてくる。
 「……誰だ、屋上でラーメン食ってんのは」
 まさか。
 職寝室ならともかくここは屋上で、しかもラーメン屋が高校に出前に来るとかありえなくて。
 じゃああの音はなんだ一体?
 奇妙な音に興味を引かれ、携帯をしまう。大きく迂回しつつ、音源に赴く。
 正体不明の音は隆々とそそりたつ巨大な給水塔のうしろから聞こえてくる。
 給水塔の壁面に手をつき、抜き足差し足忍び足でのぞきこむ。
 最初に声をかけりゃいいものを、わざわざスパイのような真似をしたのはほんの遊び心。
 「誰だ、午前中からラーメン啜ってんのは?罰としてナルト没収……」 
 笑顔が硬直。 
 給水塔の、裏。
 心臓の弱い人にはおすすめしない、スプラッタな光景が広がっていた。
 まず真っ先に飛び込んできたのはブレザーの華奢な背中で、そいつは俺に背中を向け片膝ついて誰かを抱いていて、その誰かは紺のプリーツスカートからすんなり伸びた足を見るにうちの生徒で……
 待て、どういうことだ。
 ずるずると美味しそうな音がする。液体状の何かを啜る音。
 仰向けに寝かせて抱いた生徒の首に口をつけ、ずるずる啜るものといったらただひとつ。
 「ひっ………」
 腰が抜ける。尻餅つく音でこっちをむく。
 金髪翠眼の、おっそろしくキレイな顔があった。
 「あれ、先生。困ったなあ、まずいとこ見られちゃった」
 そいつは悪びれずにっこり笑う。
 口元にべっとり血がこびりついてなきゃ、天使のようなと形容したい、神々しい笑み。
 記憶を検索し顔と名前を照合、戦慄く指先でそいつをさしつつあとじさる。
 口がぱくつく。酸欠に陥る一歩手前で喘ぐように深呼吸、固い唾を嚥下。
 「えっ……と、お前、二年一組の、名前……」
 「ステヴァン・パイヤーです。出席番号は八番。ご希望なら生年月日血液型スリーサイズ好きなお笑い芸人も教えますが」
 腰が抜けた俺と対峙する少年の名前は、ステヴァン。
 今年から二年に編入したハーフの少年で、背景に薔薇でも散らしたい耽美な容貌で全校女子を騒がせている。煙るように長い睫毛が物憂く影を落とす頬はアラバスターの白さ。絹のような質感の金髪は丁寧に巻かれ柔らかに顔の輪郭を縁取り、謙遜するような微笑みは実に感じが良い。
 最前までひとの血を吸ってなけりゃの話だ。
 「お前なにしてんだ?!死、死、血……」
 「気絶してるだけですのでご心配なく。そのうち目覚めます。念のため保健室に運びますか?貧血って診断されるでしょうけど」
 安心させるように微笑む。落ち着き払った口調に激しい違和感を抱く。
 口元の血のせいか酷薄で邪悪な色の瞳のせいか、どことなくアルカイックでミステリアスな笑みを浮かべるステヴァンを突き飛ばし、その腕から生徒を奪う。
 大丈夫、息はある。
 耳をつけ、心臓がちゃんと動いてるのを確かめほっとする。本当に気絶してるだけみたいだ。
 腕の中でぐったりする女生徒をざっと観察、しどけなくめくれたスカートを目を逸らし直す傍ら、項垂れた首筋に開いた一対の穴に着目。
 鋭利な牙で突き破られた皮膚から新鮮な血が零れる。
 「!!お前っ、なにしたっ」
 犯人候補はひとりしかいない。
 声を荒げ詰問する俺をよそに、ステヴァンは優雅に腰を上げ、そしてー……
 「鉄分補給ですよ、小山内センセ」
 吊り上げた唇の端から、異様に発達した真珠色の犬歯を覗かせ、哂う。
 人間にはありえない長さ鋭さの立派な牙。
 「~っ!?」
 魂切る悲鳴をあげ四つんばいで逃走、しかけ慌てて逆戻り、動転のあまり放り出した女生徒を拾う。女生徒をひきずるようにして這う背中に視線を感じる、ステヴァンがそこはかとなく不気味さ漂う笑顔で俺を眺め小声で何かを呟く。
 太陽の逆光になった顔に、牙の存在感をいっそう際立てる耽美な陰影がつく。
 「………口封じ」 
 物騒な単語に全身の産毛が静電気を孕んで逆立つ。
 給水塔の威圧と逆光の効果を背負って、得体の知れぬ魔性のオーラを纏うステヴァンの瞳孔が、猫のそれのように縦長に収縮する。
 屋上を全力疾走で突っ切り、ゴールの鉄扉を蹴り開けて転げこむ。
 「牙、生えてたよな。血、吸ってたよな。つーことはあれは……」
 吸血鬼。
 鉄扉を閉めた途端体の力が抜け、へなへなとその場に崩れ落ちた。


 「二年一組のステヴァン・パイヤーですか。知ってるもなにも、校内一の有名人ですよ、彼」
 隣の机の萩尾先生がテストを採点しつつ言う。
 女生徒を保健室に預け職寝室に戻るや、早速ベテラン女教師を掴まえて、情報収集を開始した。
 さいわい犠牲者、もとい被害者の女生徒は気絶してるだけで命に別状なし。
 少し貧血の症状を呈してる他に異常はないそうで、非力な校医の指示を受け、彼女をベッドに寝かせようとしたまさにその瞬間にぱっちり目を開けて「超セクハラ!!」とビンタをくれるだけの元気があった。セクハラ言うならそんな短いスカートはくな、校則違反だ。
 右頬に真っ赤なもみじを咲かせ、萩尾先生の話に耳を傾ける。
 「父親は俳優上がりの映画監督、母親は日本人女性。幼い頃に両親が離婚して以来ずっと父子家庭で暮らしてたんですけど、両親が再婚して、今年から日本に移住したんだそうです。うちの二年に編入しました」
 「ずっと海外暮らし?日本語ぺらぺらでしたよ」
 「英才教育のたまものでしょう。もしくはよほど環境への適応力が高いのか」
 二年一組のステヴァン・パイヤー。
 授業で何回か顔をあわせたが特別意識してなかった。だって男だし。
 「成績は上々、テスト順位は常にトップ10内。おまけにものすごい美少年でしょう、ウイーン少年合唱団にいそうな」
 「少年合唱団に入るにはとうがたちすぎてるんじゃないかな……」
 「特に女子の人気がすごい。彼はスマートな紳士ですから、歩く時は常に女子に譲り、あらかじめドアを開けておく。そういうふうにジェントリにエスコートするんです」
 「キザなやつだなあ」
 父親の名前を聞き、合点がいく。
 恋愛映画の巨匠として絶賛される大物監督だった。
 「待ってください、そんな有名人のご子息がなんだってこんな偏差値中の下の平凡な公立校に」
 「お世話になってる職場にむかって失礼ですよ」
 萩尾先生に注意され、反省のふりだけ。いや、だって事実だし。
 「よくわからないけど、彼にも色々事情があるんじゃないですかね。気になるなら本人に聞いてみたらどうですか?」
 つれなくそう言って話を打ち切る。
 「それができれば苦労しません……」
 しょげて頬杖をつく。
 白髪まじりの髪をきつくひっつめた、化粧気のないオールドミスの横顔をちら見。
 緊張に乾いた唇をなめ、タイミングを見計らい、聞く。
 「ところで、萩尾先生の授業中ステヴァンは不審な行動をとったりしませんか」
 「不審な行動?カンニング疑惑ですか」
 風紀に厳格な萩尾先生の顔がにわかに真剣みを増す。
 険のある目つきで一瞥、背筋を伸ばしてペンを置く。
 「いえいえ、そういうんじゃなくて」
 「煙草?覚せい剤?携帯ゲーム機持ち込み?」
 眉間の皺がどんどん深くなっていく。
 目元が神経質に引き攣り、今にも亀裂が生じそう。
 生徒の一人に校則違反の疑惑が持ち上がるやがぜん興味を示し、セルフレームのメガネを押し上げ詰め寄る剣幕にたじろぐ。
 「ひょっとして大麻ですか、むこうの高校では遊び感覚で普通に吸うとか……ああ、なんておぞましい退廃文化。偏見は持ちたくないけどお父さまが映画監督だとやっぱりインスピ得るために大麻を吸うのは日常で、息子の彼も影響されて」
 萩尾先生こそ何の雑誌に影響されてるんだろう。意外とミーハーだこの人。
 慌てて手を振って妄想を打ち消し、軌道修正を図る。
 「いえいえ大麻じゃなくて!たとえばですね、女子と話すときに物欲しげに首筋を見てるとか、やたら首筋にさわるとか、噛み癖があるとか」
 「犬猫じゃあるまいし」
 萩尾の体からすっと殺気が抜ける。
 興味が失せたように椅子を引いて自分のデスクに戻る。
 「私が見る限りそんなの全然ありません。だいいち、異性と話すときに首筋の一点見つめて動かないなんてふしだらです」
 「ですよねー……」
 胸ならわかるけど首でもセクハラなのだろうか。判定きびしい。
 萩尾先生はメガネをはずしレンズを拭く。近眼、いや老眼?
 「質問の意図が不明確です。一体ステヴァンくんの何を知りたいんですか」
 吸血鬼か否か、そして願わくば身を守る方法を知りたい……なんて、口が裂けても言えない。こっちの正気を疑われる。
 屋上で衝撃の出会いをしてから一時間後、間の悪い事に次は問題の二年一組の授業。
 予鈴が鳴る。びくりとする。
 職員室で茶飲み話に興じていた先生方が一人また一人と予鈴につられ席を立ち、教科書やレジュメ小脇に教室へ向かう。
 萩尾先生も席を立つ。
 採点済みの答案を束ねてまとめ胸に抱き、ついでのように言う。
 「小山内先生も早くしないと。先生が遅刻なんて生徒にしめしがつきませんから、いつまでも学生気分でいられちゃ困ります」
 あとはもう振り返りもせず、職寝室を出て行く。
 ああ、憂鬱だ。
 「吸血鬼の苦手なものってなんだっけ……そうだ、にんにく!」
 がらりと引き出しをあけ、そこに常備しといた栄養ドリンクの中からにんにくエキスが入った一本を一気飲み。
 「うー、効っくう」
 これから吸血鬼に会いに行く。
  
 「で、百年戦争の影の主役といえばジャンヌ・ダルクだが、彼女は魔女裁判にかけられた悲劇の乙女でもある。別名オルレアンの乙女。このオルレアンってのは百年戦争の趨勢を喫する要衝の町の名前で、ジャンヌが勇敢に仲間を率い守り抜いた町。ジャンヌの名はこの戦いを機に一気に認められるようになったわけ」
 俺の担当は世界史。
 本筋からずれているのを承知で、ジャンヌの武勲と数奇で悲劇的な人生について講釈をたれる。
 ジャンヌ・ダルクの生涯については別に受験にもテストにも出ないが、かといって、年号と地名と人名だけを暗記させるような無味乾燥な授業じゃあ退屈を誘うだろう。教師もサービス業だしね。
 教壇に立ち、一息ついてぐるりを見回す。
 「ここまで、何か質問は」 
 「はぁいせんせー」
 最前列の女子が挙手。
 「なんだ安達」
 「せんせー彼女いますかあ」
 「残念だが、特定の彼女はいない」
 「じゃあ私りっこうほしちゃおっかな」
 「十八歳以下のガキに興味はない。ちなみに十八歳でも高校生は論外、教員免許剥奪されるから」
 「先生の腰抜けー」
 「ちきんー」
 「セクハラ教師ー」
 たちまちふざけた非難があがる。セクハラは冤罪です。
 若い教師をからかって遊ぶハイテンションな女子高生どもをてきとうにあしらいつつ、目でステヴァンを追う。
 ステヴァンは真面目にノートをとる、ふりをしていた。
 俺にはわかる、あれはふりだ。
 板書の最中、背中とうなじに異様な視線を感じた。犯人はあいつだ。
 へたに振り向いたらあの猫みたく瞳孔が縦に細まった気色悪い瞳とかちあう気がして、勢いとって食われそうな予感がして、黒板全体をチョークの字で埋め尽くすまで振り向く決心がつかなかった。
 生徒にばれないようため息ひとつ、教壇に両手をつき前傾し平静を装う。
 「他に質問はないか。ないなら次、百年戦争後のフランスの政治的変化について」
 すっと手が挙がる。白鳥の首のように優美で洗練された動き。
 「小山内先生は、どうしてジャンヌが火刑に処されたかご存知ですか」
 丁寧な敬語。非の打ち所ない礼儀正しさ。質問ないかと聞いて、逆に質問された。
 「……教師に逆質問とはいい度胸だな」
 教室の雰囲気が若干変わる。
 それまでうるさく囀っていた女子が口を噤み、居眠りしていた男子がぱちりと目を開け、メールや爪の手入れや枝毛いじりの内職に励んでいたヤツらがそれぞれ比率の違う興味を覚えてステヴァンを見る。
 しかもステヴァンのヤツめ、「先生」と呼べばすむところを、あえて「小山内」と名前をつけやがった。
 個人的な挑戦状を受けて立つ。
 「もちろん、知ってるさ。ジャンヌ・ダルクは少女時代に天啓を受けて出陣した。有名な神の声だ。それで勇敢に戦って味方を大勝利に導いたが、戦況が傾くにつれジャンヌの威光は陰りを見せ始め、敵の捕虜になると同時に魔女の烙印を押された。そして火あぶりに」
 途中から笑い声が混じる。
 奇妙におもって顔を上げれば、ステヴァンが楽しそうに笑っていた。
 「やだなあ先生、わざととぼけてるんですか?ぼくが聞いたのはジャンヌが火刑に処されるまでの経緯じゃなくて、なんで処刑法が火あぶりだったのかって事です」
 「なんでって……そりゃお前、魔女だからだろ。当時、魔女裁判で有罪と断定された者は見せしめとして火あぶりにされる決まりで」
 「残念ながら、見せしめだけが目的じゃないんです」
 ステヴァンが含み笑う。天使のような悪魔の笑顔。
 「キリスト教徒にとって火あぶりほど恐ろしい刑罰はない。終末の日、復活したキリストは土の下でねむる死者を蘇生させ神の国に連れて行く。だから向こうは土葬なんです。火あぶりにされれば、神の祝福をうけるべき肉体が完全に灰になる。いくら万能のキリストでも、灰から死者を甦らせるのはむりだ。だから……魔女の烙印を押されたキリスト教徒にとって、火刑ほど恐ろしく残酷な罰はないんです。もちろん、生きながら焼かれる苦痛も凄まじい」
 「すごーいステヴァンくん物知りー」
 「博学」
 「さすがガイジン」
 教室のあちこちから無邪気な賞賛があがる。
 だが俺は、それよりもステヴァンが発した最後の一言にぎくりとする。
 「……灰から復活できるのは、吸血鬼だけですよ」
 「えっ、そうなんだ。初めて知った。あれ、でもこないだ読んだ漫画の吸血鬼は灰になったらそのまんまだったよ」
 「普通の吸血鬼はね。吸血鬼の中でも始祖と言われる、すべての吸血鬼の長は例外」
 「そうなんだー」
 「さすが半分ルーマニア人、その手の知識にはくわしいなあ」
 「ステヴァンくんひょっとしてオカルトマニア?ねえ、ネッシーてほんとにいるの?」
 「いるんじゃないかな」
 教師を無視して盛り上がる教室。
 ステヴァンはにこやかに周囲の疑問質問に受け答えしつつ、挑発的に俺をうかがう。
 屋上で目撃した光景が脳裏にちらつき、心臓が早鐘を打つ。
 スピーカーから流れるチャイムが授業の終わりを告げる。
 「……おしまい!百年戦争は中間にでるからきちんと勉強しとくように!」
 教壇を教科書でひとつ叩き宣言を放つ。
 教室に弛緩した空気が流れ、席を立った女子が二、三人まわりに寄って来る。
 「せんせーなんかイライラしてない?こないだの合コンうまくいかなかったの?」
 「ノーコメント」
 「また振られた?」
 「ノーコメント」
 「なぐさめたげよっか、体で」
 「どの部分で?見たところお前の体の使い道なんて二の腕枕しかなさそう」
 「ひどっ!!セクハラじゃないの今の!?」
 今日も女子高生に大人気。というかお前ら、授業の質問しろ。
 一刻も早く教室から出たい、遠ざかりたい。
 その一心で女子を振り切り、教室を出る。
 足早に廊下を歩く俺の背に、聞き覚えある、二度と聞きたくなかった声がかかる。
 「小山内先生」
 まただ。「小山内」を強調する呼び方。
 振り向くのに、一瞬躊躇を覚える。
 誰がそこにいるかわかっていて、無視して逃げたい衝動を辛うじて堪える。
 教室から駆け出た生徒が歓声をまきちらし他の教室へ遠征する。
 おしゃべりしつつつるんでトイレに行く女子グループが、廊下のど真ん中で立ちすくむ俺をスムーズに避けていく。
 「………まだ何かあるのか、パイヤー」
 「ファーストネームで呼んでください。かっこ悪くてやなんです、その呼び方」
 ステヴァンがはにかむ。
 見た目は黄金の巻き毛くるくる、寄宿舎ものの少女漫画にでてきそうな中性的に整った顔立ちの美少年なのに、弧を描く唇の下に搾取と捕食の為の牙を隠し持つ。
 「さっきの授業でわからないことあったんで、改めて聞きに行きたいんですけど、いいですか」
 「ここで聞けばいいだろう」
 「ここじゃちょっと……長くなりそうだし」
 唇の端から鋭いきらめきが覗く。
 ちょうど俺の首のすぐ近く、ステヴァンさえその気になりゃがぶりとやれる距離。
 首筋を妖しくなでる吐息にびくつき、ステヴァンを追い払いたい一心で承る。
 「………わかった。あとで来い」
 ステヴァンが離れていく。
 廊下で立ち話していた友人に合流し、ごく自然に話の輪に加わる。
 努めて意識せぬようその横を通り過ぎる際、ステヴァンと友達のおしゃべりがとびこんでくる。
 「小山内となに話してたんだ?めずらしい」
 「授業でわからないとこあったから教えてもらう約束したんだ。いい人だよ、親切で」
 「俺は嫌いだな。女にモテるしてきとーだし、調子が軽いじゃん」
 「でもね、ああ見えて意外と口が堅いんだよ。……意外と」
 「そういやさ、お前、二組の相原に呼び出されたろ?あいつ、倒れて保健室に運ばれたってうわさだぜ」
 「んだよー、まあた振ったのか?相原結構イケてんじゃん、なにが不満なんだ」
 「血液型が合わない、かな」
 「ステヴァンて血液型占い気にする人?」
 「相性っていうか、嗜好の問題」
 
 
 騙されてる。
 俺を除く全校生徒(教師含む)が、猫かぶりの吸血鬼に騙されてる。


 その日、結局ステヴァンはたずねてこなかった。
 昼休み中も放課後もいつあいつがたずねてくるかとどきどきして仕事が手につかなかったが、杞憂に終わって安堵した。
 職員室の先生方に会釈し、すれちがう生徒に片手を挙げて校門に向かいがてら、今日はなんとか無事に乗り越えられそうだけど明日からの日々を考えて欝になる。
 これからステヴァンと授業で顔をあわせるたび心臓に汗をかく。
 あいつの正体を知ってるのは学校で俺だけ、いや、ひょっとしたら世界中で俺だけかもしれなくて
 『口封じ』
 去り際、背中に投げかけられた台詞を反芻し、鳥肌立つ。
 帰りに百円均一によって十字架のアクセサリーを買い、即身につけた。
 気休めでも、なんの対抗策もこうじないよりはましだろう。
 まさかその六時間後に、メッキが剥げるとはおもわなかった。


 深夜。
 住人が寝静まった、夜。
 独身者用1LDKマンションのパイプベッドに寝転がって悶々としてた俺を、ピンポンが叩き起こす。
 「はい?」
 枕元の携帯を開いてデジタル時刻表示を確かめる。
 深夜0時、丑三つ時。こんな時間にだれだ?
 その日はなかなか寝つけなかった。
 昼間屋上で見た光景がよみがえって、牙を剥いてにっこり笑いかけるステヴァンの笑顔が瞼の裏にこびりついて、浅い眠りにおちては悪夢にうなされ絶叫し飛び起きる繰り返しで、精神的にかなりどん底の状態だった。
 だから。
 寝ぼけた俺が、無防備にドアを開けてしまったとしても、誰も責められまい。
 「どなたですか」
 「ステヴァンです」
 力一杯叩き閉める。
 一瞬だけ覗いたドアの向こうに見覚えある少年が闇を背景に立っていて、聖書を売り歩く牧師さながら宗教家くさい笑顔を湛えて、条件反射で身の危険を感じドアを閉じる。
 「どうして住所がわかった!?」 
 「失礼ですが、尾行させていただきました」
 「尾行っていつから、学校出てから、あれからもう六時間たって……まさかずっと表で見張ってたのか!?おまっ、夜間外出と不順異性交遊は校則違反だって生徒手帳にのってんの読んでないのか!?」
 「大丈夫、家にはちゃんと連絡入れましたから」
 「お前の両親はストーキング許可したのか!?」
 「むしろ奨励の方向で。ぼくの不注意で例の現場を先生に見られたと言ったら、ちゃんと口封じするまで帰ってくるなと申し付けられました。中世の魔女狩りを例に出すまでもなく、迫害は怖いですから……」
 しおらしく言うが、全然ちっとも同情できねえ。
 「父は特にナーバスなんです。幼い父を可愛がってくれた叔母の一人が、とある屋敷の住人を狩ったんですが、うら若いメイドにほだされてその子だけ逃がしたら、後日吸血鬼だと噂がながれて……胸を杭で貫かれ、三百四十二年の短い生涯を終えました」
 「十分だよ!!」
 四つんばいで引き返し、雑誌や脱ぎ散らかした服やインスタントラーメンの空き容器やらで混沌係数が高い室内をあさって、百均で勝ったばかりの十字架のアクセサリーを掴む。
 ドアの方でがちゃがちゃ音がする、むりやり鍵をこじ開け入ろうとしている、背中がびっしょり汗をかく、十字架を強く強く握りしめ退散を祈る……
 あれ?
 そういえば、鍵、かけたっけ。
 「まずい!」
 弾かれたように駆け戻る。
 ドアの鍵はさっき開けたまま、だけどもチェーンが繋がったままでステヴァンは入れない。
 貴族的にノックをするステヴァンをよそに、防犯チェーンを二重に掛けなおそうと汗で滑る手で作業を行う間に、呟きが落ちる。
 「………しかたないな」
 ステヴァンが消失。
 「!?うぶあっ、」
 ノックを続けていたステヴァンの輪郭が消滅、その肉体を構成する物質が分解、粒子と化して大気に拡散。
 闇よりなお黒い漆黒の霧がドアの隙間から流れ込む、両腕で顔を覆う、交差した腕の隙間から暗い室内を透かし見れば雑誌や服が散らかった真ん中で再び凝結し人の写し身をとる。
 「お邪魔します」
 「い、今のきり、きりきりきり!?」
 「ご存知ですか?吸血鬼は時に霧に姿をかえ人の家にもぐりこむのです」
 ステヴァンがあっさりネタばらし。
 「先生が快く申し出を受けてくれて助かったな。吸血鬼は人に招かれなきゃ家に出入りできないし、結構不便な体質なんです」
 『さっきの授業でわからないことあったんで、改めて聞きに行きたいんですけど、いいですか』
 「あ……」
 てっきり職員室に聞きにくると誤解して、まあ、職寝室なら他に人がたくさんいるし危険もないだろと楽観して請け負ったのが裏目に出た。
 まさか直接家にやってくるとは。
 「口封じって、俺をどうする気だ?あの女子みたく、啜って食うのか」
 「それが一番簡単かな?」
 砕けた雰囲気で肩を竦める。部屋にふたりきりになったせいか、徐徐に地が出始めている。
 電気をつけない暗闇の中、碧の瞳が夜行性の危険な輝きを放つ。闇の眷属特有の邪悪な精気が、ステヴァンの体から濃厚に漂う。
 どうする?
 逃げるか、逃げて助けを呼ぶ、そうだそれがいい!
 咄嗟に判断、ノブを掴んでドアを開けようとしたが妙な抵抗を覚え狼狽、引いても押しても開かない。
 「くそ、なんで突然開かなくなったんだ、まさかこの最悪のタイミングで壊れたのか中古物件め!」
 「ノブは無実ですよ」
 くすくすと笑う。
 そして俺は知るのだ、ドアが開かなくなったのはステファンのせいだと。念動力とか、多分そんな感じの。 
 「サイコキネシスまで使えるなんてゴシックホラーの設定無視しすぎだろ、だいたいSFとホラーは相性悪いんだよ!?」 
 「心外な言いがかりだなあ。獲物は檻に、食糧は貯蔵庫へ。ぼくらの一族に代々受け継がれてる能力ですよ?」
 往生際悪くドアと格闘する背後に、闇に紛れて忍び寄る足音。
 ステヴァンが、くる。
 「―っ、立ち去れヴァンパイア!!」
 振り返りざま、十字架をつきつける。
 俺の予想では十字架をつきつけられたとたん目が眩み肌が焼け爛れていくはずだったんだが、なぜかステヴァンは平気のへいざで、俺の顔と十字架をしげしげ見比べる。
 「なんで利かないんだ……」 
 「百円均一で勝った安物じゃ不足です」
 「見てたのか!?見てたんなら言えよ恥ずかしい!!」
 ステファンは悪戯っぽく目を細めて十字架を取り上げ、それを遠くへほうる。
 俺が勝った十字架は放物線を描き、ゴミに埋もれ見えなくなる。
 絶体絶命、八方塞がり。
 ステファンは吸血鬼だけあって夜目が利くらしく暗闇の中危うげなく歩いてくる。
 「く、来るな、ケイサツ呼ぶぞ、家宅不法侵入の容疑で……」
 四つんばいで逃げつつ、散らかり放題の床に手を這わせ携帯を捜す。
 ない、ない、見当たらない、くそどこへやったこの時ほど自分の片付けられない癖を呪った事はない、そうだ枕元!
 「往生際悪いですね。素直に吸われてください。……痛くしませんから」
 「下僕にする気だろう!?」
 吸血鬼に血を吸われたらドレイになる。
 ホラー映画や本で仕込んだ知識が、牙穿つ苦痛にも増して本能的な恐怖を煽る。
 「先生に見られちゃったのは誤算でした。十分気をつけてたつもりなんだけど……屋上にはめったに人こないし、あそこなら安全だろうとおもって、相原さんと落ち合ったんだけど」
 「ずずっ、ずずってあんだけ音させたりゃいやでも気付く!」
 ステヴァンが頬を染めてうつむく。
 「食事の仕方が下品だって母によく叱られます。血を啜る時は音をたてないのがマナーなんだけどついつい……ラーメンのスープだって音たてて飲んだほうがコクがあって美味しいし」
 「一緒にするな、謝れ、ラーメンに謝れ!」
 しかもそこで照れるのか。
 透明度の高い碧の瞳が、飢餓に支配された狂気の輝きを増す。
 「大丈夫、優しくするから」
 唾液滴る牙の先端を覗かせ、処女を誘惑するように甘美に囁く。
 まずい。
 まずいぞこれは危機一髪、屋上で血を吸われ青ざめた顔で気絶した女生徒とその女生徒を抱いたステヴァンの姿がフラッシュバック、俺もああなるのか全身の血を一滴残らず絞り取られてミイラになるのか、合コンで落とした子にまだメールしてねえのに……
 脳裏に天啓の如く、窮余の策がひらめく。
 回れ右で水道にとびつき蛇口をひねる、全開にした蛇口をステヴァンのほうにむける。
 「!?あ、」
 ステヴァンがたまらず顔を覆う、上向きに固定した蛇口から噴き出す大量の水がフローリングの床にたまりちょっとした海を作る。
 「一体なんのつもりですか先生、この期に及んで悪あがきを……」
 「わたれないだろう」
 唇の端を吊り上げ指摘すれば、ステヴァンがおのれの足元を見下ろし、ぎょっとする。
 「『吸血鬼は水が苦手、水を渡れない』。確かそうだったよな」
 何かで読んだか見たかしたおぼろげな知識が役に立った。
 蛇口からは今だ噴水の如く水が舞い上がって、長大な弧を描いてフローリングの床を浸しつつある。
 階下の人、ごめんなさい。だけど俺は命が惜しい、苦情は覚悟しよう。
 「………悪知恵がまわるなあ」
 ステヴァンが舌打ち、不承不承足を引っ込める。
 どうやらその伝説は事実だったらしく、悔しげな面持ちで音もなく広がりつつある水溜まりを睨む。
 「水道水、利くんだ……」
 百均の十字架はきかなかったくせに。助かった事は助かったが、なんとなく釈然としねえ。
 「わかったら帰れ。この有様じゃこっち来れないだろ?それとも朝になってお日様あがるの待つか?灰になりたいなら止めねえけど」
 そこまで言いかけ、ひとつ疑問にぶちあたる。
 「そういえばさ、お前、昼間フツーに屋上にいたけど……」
 「吸血鬼っていってもぼくの場合混血ですし体質が中和されるんです。昼間の活動に支障ありません」
 「だから十字架もきかなかったのか……待てよ、じゃあ水も渡れ」
 ないか。本気で困ってるっぽいし。
 「吸血鬼っていっても色々です。水が苦手な吸血鬼もいれば日光が苦手な吸血鬼、A型しか吸えない偏食もいる。父方は特に水が苦手な一族なんです」
 「ルーマニア内陸だもんな………はははははっ、お気の毒さま!」
 緊張の糸がプツンと切れ、ヒステリックな笑いをたてる。
 ステヴァンは水溜りにおそるおそるつまさき近づけてはひっこめるを繰り返し、忌々しげに顔を歪める。
 この分なら安心だ。水を渡れないステヴァンは、絶対俺に近付けない。放っとけばそのうち諦めて帰るだろう。
 「じゃあ、おやすみ」
 「え?おやすみになるんですか」
 「お前も明日学校なんだから早く帰って寝ろ」
 安心したら、途端に猛烈な睡魔が襲う。
 ステヴァンはまだ部屋にいるが、直径1メートルはあろうかという巨大な水溜まりを挟んであっちとこっちに分断された状況下で、俺に手出しできないだろう。
 ケイサツに通報するのは、やめとく。
 一応、俺の生徒だし。まだ何もされてないし。
 そもそも「吸血鬼が霧に姿を変えて不法侵入したんです助けてください」と電話したところで、カウンセラーを紹介されるのは予想がつく。
 とりあえず、寝る。一眠りして、明日の朝考えよう。
 その頃にはきっと、ステヴァンも諦めて帰ってるはず。
 パイプベッドに身を横たえ、タオルケットを羽織って丸まった俺の耳に、ステヴァンのうってかわって情けない声が届く。
 「放置プレイは酷いです先生、ぼくまだ一滴も吸ってないのに!!」
 
 そうですか。
 お引き取りください。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [S・I・V]
S・I・V | コメント(-) | 20010509215116 | 編集

 熱く湿った吐息が首筋をなでる。
 「んぅ……明日早いんだからやめろよ、麻美……」
 三ヶ月前に別れた元カノの夢は肉感的な生々しさとたゆんたゆんたゆむ乳の量感を伴い、シーツの布擦れに混じる息遣いに股間がむずがゆく反応を示す。
 「……あちゃー。体の一部が先に起っきしちゃったみたいですね」
 悪戯っぽい含み笑いが耳朶をさし、咄嗟に跳ね起きようとして、逆に押さえ込まれる。
 闇の中、燐のように不吉に炯々と輝く碧の瞳。
 端正な唇の端から覗く牙が一対。
 やけに首筋がくすぐったくて正体はステヴァンの吐息と髪の毛でどうしてこいつが俺の上にのっかってるんだ水を渡れないはずなのに、吸血鬼のくせにまたしても設定無視か。
 「~水をわたれないってのは嘘か、騙したのか!?」
 「本当ですよ」
 あらぬ疑いに気分を害したか、さも心外そうに言う。
 人さし指でこめかみをつつき、自分がやってきた方向を振り仰ぐ。
 「いわゆるカルネアデスの板です」
 合点した。
 直径1メートルはあろうかという巨大な水溜まりには即席の橋が架かっていた。
 橋の正体は部屋中に散らばった雑誌。
 「……飛び石?」
 「渡るのが不可能なら、渡れるようにするまでです」
 「反則……」
 俺、すでに涙目。
 まさかこんな展開になろうとは。
 「びっくりしました、血を吸うのは初めてじゃないけど正体バラしたあとで堂々寝こむ人がいるなんて……神経図太いですね、先生。命知らずです」
 「いや、だって夜遅いし、俺眠いし……」
 「生徒より睡眠を優先するんですか?」
 「え、なに、俺が悪者なの?責められてる?」
 堀さえ作れば大丈夫だろうと油断しきってタオルケットかぶったのは認めるが。
 突然の事態にたじろぐ。
 本能と欲求に忠実に、生徒よりも睡眠を優先した結果大ピンチに陥った。
 「どけよ、お前に吸わせる血は一滴もない、言っとくけど俺の血は激マズだぞ、吐くぞ!」
 「吸ってから後悔するのでご心配なく」
 脅しとも警告ともつかぬ俺の怒声を余裕であしらって押し倒す。
 華奢な体躯のどこにこんな力が秘められてるのかと疑う。
 手足をばたつかせ激しく揉み合う、パイプを軋ませ撓ませどうにかステヴァンを押しのけようと格闘抵抗する、俺の首筋をつけねらい牙を剥くステヴァンを引っぺがさんと限界まで腕を突っ張る。
 「それ以上近づいてみろ、俺の血を吸ったら停学にするぞ!」
 「先生にそんな権限ないでしょう」
 「ばかにすんな、立派な犯罪だろこれ、ストーキングと家宅侵入と傷害……」 
 「どう説明するんです?授業で週何回か顔をあわせるだけの生徒が住所を突き止めて、深夜に突然やってきて、ドアの隙間から霧になってもぐりこんだとでも?カウンセラー紹介されるのがおちです」
 口止め。口封じ。
 俺もあの女生徒とおなじ運命をたどるのか。
 軋むベッドの上、ステヴァンの細い腕を死に物狂いで払う。
 だけどすぐさま肩を掴まれ正面に固定、ステヴァンが恍惚と宣言。
 「大丈夫。血を吸われるのって、慣れると快感になるんですよ……」
 碧色の瞳に倒錯した愉楽が浮かぶ。
 口元が妖艶にほころんで、唇の赤さと好対照を成す純白の輝きが零れる。
 「!やめ、ぅあ」
 懇願を遮るようにして、覆い被さる。
 シャツの襟元を手際よくはだけ首筋から鎖骨にかけて大胆に露出させる、外気に晒された範囲が鳥肌立つ、人さし指が首筋をなぞれば皮膚の下で官能がさざなみだつ。
 闇に白い残像をひき、獰猛に牙を剥き、俺の首筋にかぶりつく。
 「!?―っああああああ、」
 牙が突き立つ箇所から血流に乗じ、全身に麻薬がめぐりゆくような感覚。
 全身の皮膚が毛羽立つ。
 感電したようなショックを受け、意志で制御できず体が跳ねる。
 不規則に痙攣する体でシーツを蹴る、目を剥く、口の端から一筋唾液が伝う、皮膚を突き破って深々埋められた牙、傷口から容赦なく吸い上げられる血、恍惚とした虚脱感……
 そのまま昇天しちまうんじゃないかという刹那の絶頂を体験し、無意識にステヴァンのシャツを掴む。
 「うっ」
 「?」
 突然、突き飛ばされる。
 口元を手で覆いぷるぷる震えるステヴァン、その顔がみるみる青ざめていく。
 「ま、まずい……たとえようもなくまずい……ニコチン、タール、にんにく……なんだこれ、有害物質の濃縮ジュースじゃないか!!」
 俺は喫煙者。一日十数本煙草を喫う。
 汚染された血のまずさに胸掻き毟り身悶えるステヴァン、天を仰ぎ地にひれ伏し神を呪う、嘔吐を堪え両手で口を押さえ突っ伏す、悶絶ぶりがあんまり大げさなんで本来被害者のこっちの方が心配になってくる。
 「……大丈夫か?シーツ汚すなよ。うがいならトイレで……」
 「まずい、まず、まずすぎ、舌が死ぬ!口直ししなきゃ、今すぐ」
 痺れた舌を棒みたく突っ張りステヴァンが言う、別人の如くやつれきった形相で俺と向き合うやおもむろに服を脱ぎだす。
 「はい?」
 上着を脱ぎ捨てたステヴァンが改めて俺を押し倒す。
 「ちょっと待て口直しでなぜ脱いで押し倒す必要が、」
 ふいに眩暈が襲う。頭の芯が甘美に痺れて思考力を奪う。 
 「ぼく、混血だって言いましたよね。父は吸血鬼、母は……なんだと思います?」
 天使のように中性的な美貌が一皮剥けて妖艶な色香が匂いたつ。
 まさしくヴァンプの媚態を演じ、煙るような睫毛が覆う碧の瞳を濡れ濡れと欲望に輝かせ、シーツを擦ってにじりよる。

 「ぼく、吸血鬼と淫魔のハーフなんです」
 
 淫魔。
 「……インキュバスとかサキュバスの、あれ?」
 思考停止。
 「はい。そのあれです。父は吸血鬼、母は淫魔。したがって、生きてくために必要な栄養分は血液外の体液からでも摂取可能です」
 唄うような抑揚で説明しつつ、少しだけ気の毒そうに、口パクで狼狽する俺を見る。
 「……吸血の方が経口摂取の面で効率的ではあるんですが。少量の血と貞操をはかりにかけたら前者のほうがマシって人も多いし……でも今回は仕方ない、先生の血は不味くて不味くてとても吸えたもんじゃない、だから……」
 不自然に言葉を切る。おもむろに手が伸びる。発情した蛇のように淫猥な動きに、身が竦む。
 「違う体液を頂きます」
 「!やめっ、さわるな!」
 体に絡みつく手をぞっとして振り払う、シーツを蹴ってあとじさってついには行き止まりのパイプに激突、ベッドを下りて逃げようとするもステヴァンに両手首を掴んで押し倒される。
 揉み合う衝撃で携帯が落ち床を打つ、ステヴァンは華奢なくせに化け物じみた怪力で、というか化け物か、締め上げられた手首に激痛が走る。
 「あぅ、ぐっ」
 「服従してください」
 「だれがっ……」
 罵倒を浴びせようと開いた口に唇が被さる、舌がもぐりこむ、唾液を移される。
 「―むっ、むう、ぐ!?」
 口移しで飲まされた唾液が口の端からあふれて顎を伝う、舌を絡めとられ狼狽する。
 噛むという発想が働かず卓抜したテクに翻弄される、息が出来ず窒息、酸欠になる、清楚な顔して恐ろしくキスがディープで上手くて今までは女の子にする側で男からそれも年下の生徒からキスを仕掛けられるのは初体験で、自分の身に現実に起きてる衝撃的な事件を理解するのを頭が拒む。
 「はっ、んぐ、ぁむ」
 唾液に溺れて組み伏せられる、どれだけ必死に拒んでも絡みついてくる舌に口腔狭しと征服され不器用にそれに応じる、頭の芯に生のアルコールを塗りこめられたような酩酊を誘われ体の力が抜けていく。
 「先生、軽くて、遊んでるように見えて……キス、余裕ないじゃないですか」
 「うるさ……い」
 「……にが。ニコチンタールの味がする」
 不味そうに舌を出す。
 ならキスするなよ。
 「口直し、に、なんのかよこれえ……」
 語尾が嗚咽で萎える。
 ニコチンタールを上塗りした舌を不味そうに突き出してぺっぺっと唾吐くステヴァン。実に失礼なヤツだ。
 初めて男に、それも教え子の高校生から濃厚な舌入りキスされたショックも冷め遣らぬままベッドパイプにしがみつけば、ステヴァンの手がズボンにかかる。
 「待てっ、そこはぜひアンタッチャブルの方向で!?」
 「魔性に禁忌を説くとは愚かしい」
 言ってることはかっこいいが、やってることはえろい。
 碧の瞳が性的な欲望全開でぎらつき、顔全体に歪んだ笑みが浮かぶ。
 おそらくこれこそステヴァンの本性、吸血鬼の父と淫魔の母もつサラブレッドの正体。
 「血はすっかり汚染されて手遅れだけど、こっちは大丈夫なはず」
 「手遅れ言うな、俺まだ二十代で肺癌で死にたくない!」
 抗う、拒む、おもいっきり蹴り上げた拍子に足からズボンが抜ける、ステヴァンがほくそえみ下着の股間をなでる。
 「!ぅあっ、」
 そのまま、下着越しにやわやわと手のひらを波打たせ愛撫する。
 下着越しの柔な愛撫に煽られ、若く敏感な先端に血が集まりだす。
 相手は男で、教え子で、けれど絶世の美少年でそのテクときたら超絶的で、おまけにさっき飲まされた唾液に変な成分でも入ってたのか突き飛ばそうにも体にさっぱり力が入らない。
 「ご存知ですか、先生。淫魔の唾液はね、媚薬の成分が入ってるんです」
 ほーら、そういうオチだとおもったさ。
 「やめ、頼む、さわん……ないでくれ、帰れ、今日の事は学校にも警察にも言わないから……それが目的できたんだろ、口止めが本題だろ、ならもういいじゃないか約束したんだ、口約束が不満なら印鑑でもカードでも好きなだけもってけ泥棒!」
 布と擦れ合う感触がひどくもどかしく、滾り始めた前を恥じ、内股でもぞつく。
 「せ、せめてぼんきゅっぼんの美女か十八歳以上の美少女に化けるオプションを……期待したいなーなんて、だめか?」
 「性別のみぞはテクニックでカバーします」
 有無を言わせぬ笑顔で力強く請け負い、下着を脱がす。
 淫魔は夢を魅せるのに、こいつは悪夢を見せる。
 「………っ………」
 外気に晒された下肢をじろじろ視姦され、顔が赤らむ。
 淫魔という割には角も羽もしっぽも持たないステヴァンが、猫のような目を嬉々として好奇心に輝かせ、いっそ無邪気な手つきで俺のものに触れる。
 「ぅあ、ひ」
 やめろ。
 拒絶の言葉は塊となって喉にひっかかり出てこない。
 生理的嫌悪と本能的恐怖とで全身硬直、股間を隠す知恵も働かない俺を、上目遣いにうかがう。
 口をあけ、それを含む。一瞬の躊躇も抵抗なく。
 「!―っあぁあああっ、ひ、あつっ……」
 股間に顔を埋めぴちゃぴちゃと舌を使う。唾液を捏ねる音が淫猥に響く。
 裸の股間に突っ伏したステヴァンはとろんとした目つきで頬を淫乱に上気させ美味しそうに竿をしゃぶる、ステヴァンの口の中は溶けそうに熱くて舌使いは極楽で鼻にかかって湿った声が漏れる。
 「保護者に連絡するぞ……」
 「この状態で?いいですよ、どっちが淫行罪で捕まるか試してみますか」
 ……この野郎。
 高をくくった挑発に殺意が沸く。
 股間にむしゃぶりつくステヴァンの髪を掴み力づくで起こそうとする、その途端カリ首に舌が巻きつく、小魚の如く踊る舌先で裏筋をちろちろなめあげる、鈴口をちゅうと吸う、強弱緩急つけた刺激を与えられ腰が砕ける、結果として手に力が入らずステヴァンの頭を抱きこんで突っ伏す格好になる。
 「ふぁ……あっ、あう……も、やめ……」
 息を荒げびくつく。
 情けなさと悔しさとで目に涙が滲み視界がぼやける。 
 こいつ上手い。反則だ。体が浮つく。
 前のめりに突っ伏し、もっともっととねだるように、上ずりつつある腰をステヴァンに押しつける。
 やばい、でる、耐えろ、教え子の口の中でイッちまうとか最低プライド台無し、どうにか気をそらせ注意を他にむけろ……
 「問題。ブルゴーニュ公フィリップとシャルル7世の間に休戦が締結されたのは、いつだ」
 俺のものをくわえ込み、微妙に上下させつつ愛撫していたステヴァンが、とまる。
 「わからないのか?今日授業でやった範囲だぞ、ちゃんと聞いてたらわかる、はず」
 時間稼ぎ。
 よし、ステヴァンが考えてるこの隙に逃げ
 「1431年」
 「はやっ!?」
 つまさきを床につける暇もなかった。
 「うあっ、あっ、あくっ、あ」
 パイプにうつぶせにしがみつく俺の膝をこじ開け、四つんばいに立たせ、後ろから股をさぐる。
 「すいません、先生。これが一番簡単確実な方法だから……」
 「強姦がかよ!?」
 うつぶせにした俺の首筋を唇でなぞる、唇で烙印を施された部位の皮膚が毛羽立つ、後ろでステヴァンがくちゃくちゃと音をたてる。
 指に唾液を絡める音。
 淫魔の唾液には媚薬の成分が含まれてる。
 「痛みはそんなにないはず……」
 どうするんだ、なんて馬鹿な質問はしない。
 男同士がどうやってヤるか、さすがにそれくらいの知識はある。
 「許してくれ……」
 プライドを捨て、哀願する。たっぷり唾液を塗した手が尻たぶを割り、ひやりと窄まりに触れる。
 「見たこと誰にも言わない、黙ってるから……頼む、見逃してくれ……あぅっ、ひう!?」
 語尾が上がる。唾液にぬれそぼった指が、肛門をくちゃりと押し広げて、体内へともぐりこむ。
 「はっ………はあっ………」
 背中がしなる。
 両手でパイプを掴み背筋をぞくぞく伝う悪寒と紙一重の快感を逃がそうとどこにもないはけ口をさがす。
 挿入の痛みは恐れてたほどなくて、だけど本来出す器官に指を突っ込まれた違和感は酷くて、窄まりをかき混ぜる動きに吐き気を催す。
 不快な肉襞のうねりの中に、一筋熱湯が混ざる。
 「ベッドの先生って可愛いんですね。友達にも見せてあげたいな」
 二本に増えた指が、窄まりの奥深く、快感の源泉を掘り当てる。
 「!んうっ、う」 
 「直接吸ってもいいけど……どうせなら快感の絶頂で吐き出された蜜を啜りたいな。ご存知ですか?男性の体でも女性と同じように絶頂を体験できるんですよ、後ろさえ使えば……ね。その蜜は、とても甘いんです。癖になる味だ」
 「精液に味なんかねえよ」
 「人間はそうでしょうね」
 俺の肩甲骨に唇をつけ、窄まりに突っ込んだ指で中をほぐしながら囁く。
 「淫魔は違う。吸血鬼にとっての血がこの上なく美味なように、愛液だってえもいえず甘い。両方味わえるぼくは二倍お得、素敵な両親に感謝しなきゃ」
 指を抜く。
 潤滑油代わりの唾液をすりこんで入念にほぐした窄まりに、熱く固い怒張をあてがう。
 筋肉が弛緩した窄まりが物欲しげにひくつき、それはぬめりに乗じて一気にすべりこむ。
 「ーーーーーーーーーっああああああっあああ!!」
 窄まりを押し広げ穿つペニス、ステヴァンがリズムをつけ抉りこむように跳ねるように腰を使う、曲芸のように軽快に動く。
 「あっ、ああっ、ふあ、や、やめ、うあ、からだ変っ……」
 体の中で剛直が膨らむ、鼓動にあわせ熱く脈打つ、犬のように四つんばいで犯されてるのに一突きごと快感が加速して脳裏で白い閃光が爆ぜる、相手は男でそれも生徒で高校生でレイプで気持ちいいわけないのに媚薬の成分を含む唾液のせいか相手が半淫魔だからか窄まりが蠕動してますます強く締め上げる。
 「お前せいとっ、俺教師っ!」
 「だから?悦んで銜え込んでるじゃないですか」
 「ちが、―っ、不可抗力……ああっ、あ、ああっああ!」
 体前に回った手が乳首をつねりもてあそぶ、もう一方の手が股間に伸びて勃起したペニスをくすぐる、窄まりがうねる、前立腺をがんがん突かれて次第にわけがわからなくなる、女を抱くのとは全然違う受身の快感は強制的に与えられるから一層濃く激しくて
 「も、でる……!」
 朦朧と口走れば、汗まみれの背中に密着したステヴァンが、ぐいと俺を抱きしめる。
 「よくできました」
 先生が生徒に言うように、褒める。
 耳朶に吐息が触れた刹那、それまでにも増して強烈な快感が、脊髄から脳天まで一直線に駆け抜ける。
 「あっ………!!」
 ステヴァンの手の中に大量の白濁を吐き出す。
 中を埋めていたものがずるりと糸を引いて抜け、同時にバランスを失いベッドに倒れこむ。
 指に絡んだ白濁に丁寧に舌を這わせ、一本ずつ根元からしぼりとるようにしてなめとり、天使のような悪魔のような、吸血鬼にして淫魔が微笑む。
 「思った通り、こっちは極上だ」
 「お前……」
 一滴残らず精を搾り取られた体はだるく、芯がふやけきって指一本動かすのも億劫。
 爪の先、毛穴のすみずみまで泥が詰まったような疲労感に抗い、行為が終われば用がないとばかりシャツを羽織ってドアへ向かうステヴァンをねめつける。
 「待てよ、これで済むとおもってるのか!?」
 「ええ、口止めは終わりましたし」
 「終わったって、単にヤッただけじゃないか……」
 困惑する俺に向き直り、性悪な碧の目を細めるようにして、衝撃的な発言を投下。
 「先生はもうぼくなしではいられない体になったんです。知ってますか?淫魔の体液には強烈な依存性がある。一度関係をもった人間はもっともっと欲しくなる」
 「嘘だろ……」
 素っ裸で、呆然。
 「ぼくにしてほしかったら、言うこと聞いてくださいね?」
 悪戯っぽく唇の端から牙を覗かせ、あろうことか教師を脅迫。
 完璧なめてる。
 一戦終えて枯れ果てるどころか俺の精気を吸い尽くし健康的に色艶増して、香油を塗ったようなバラ色の頬に大輪の笑みを咲かせてステヴァンがのたまう。
 「ああ、でも小山内先生には荷が重いかな?先生、なんとなく教師になっちゃったんですよね。自分に向いてない、どうしようか、やめようかってずっと悩んでたんですよね」
 「どうしてそれを」
 「わかりますよ、屋上でぼーっとたそがれてる姿見れば。あれが初めてじゃないでしょう?」
 図星だ。
 「もし先生がぼくの顔も見たくない、金輪際ぼくのような化け物と関わるのがいやだっていうなら逃げたっていいですよ?マンション引き払ってどこへでも逃げてくださいな、そうだな、先生はそれがお似合いかも。口ではかっこつけても全然実力が伴わない、えーと、なんていうんでしたっけ……そう、へタレ。一生徒にあっさり下克上されちゃったし、明日から恥ずかしくって学校これませんよね。牙を抜かれた負け犬のまま町を去ればいいんです。教え子に下克上されるなんて教師失格だし、この上顔出して恥の上塗りしなくても」
 頭で考えるより先に手が出た。
 ベッドの端っこに伏せておいてあった映画雑誌を手に取り、ステファンの顔面めがけ、おもいっきりぶん投げる。
 全力で振りかぶった放物線の先、ステヴァンは猫の目で完全に軌道を読んでそれを避け、ステヴァンの頬を掠って抜けた雑誌が壁にあたって跳ね返る。
 水溜まりの上に落下、たまたま開いたページには、何の因果か悪魔の偶然かステヴァンの親父の特集が組まれていて。

 『今度の新作は淫魔の美女と吸血鬼の美男、その血を受け継ぐ息子が人間界と魔界を股にかけ繰り広げるファミリーコメディ』

 「はっ」
 冗談きついぜ。
 「………絶っ対、更正させてやる」
 たった今生まれた、教師のプライドにかけて。
 教師に向いてないとずっとずっと悩んでいた。辞めようかどうしようか悩みに悩んで、ずるずる惰性で仕事を続けてきた。
 だが、それも今宵まで。
 教師を平然とゲボク扱いする吸血鬼と淫魔のハーフにさんざん体をもてあそばれた上言いたい放題こけにされ、溜めに溜め込んだ怒りが沸点に達する。
 教師を続けていく上での目的ができた。
 どっちの立場が上か、どっちが生徒で先生か、たとえそれが他人から見てどんなにくだらないどうでもいい理由だろうが
 ベッドから跳ね起きステヴァンに掴みかかる、ろうとして転落、ぶざまに倒れこむ。
 固い床でしこたま顎を打ち瞼の裏に星屑が散る、手をついて這い上がり断固としたまなざしに宣戦布告をのせステヴァンをにらみつける。
 「この程度でやめるもんか、生徒にこけにされたまま辞めれるか、いいか、次来るときは絶対答えられない世界史の超難問用意しとくからな」
 「ベッドの上で予習復習ですか」
 ステヴァンがかすかに苦笑する気配が暗闇を縫い伝う。
 「楽しみにしてますよ、小山内先生」
 「楽しみにしてろ、吸血鬼もどき」
 かちあう視線が静かに火花を散らす。
 飛び石代わりの雑誌を踏んで玄関にたどり着いたステヴァンが指を弾けば、あっけなくロックがはずれ、チェーンがひとりでに浮く。
 貴族的に一礼し退散するステヴァン、金色の巻き毛が繊細に揺れて魅惑のフェロモンを振りまく。
 ステヴァンの姿が完全に消え、マンションの廊下を遠ざかっていく靴音を聞きつつ、水浸しの床を見回し途方にくれる。
 「………後始末くらいしてけよ………」

 
 小山内宅を後にしたステヴァンは、ご機嫌に鼻歌口ずさみ夜道を歩く。
 ポケットに手を突っ込み、等間隔に常夜灯が照らす閑静な住宅街をぶらつくさなか、十メートル先に人影をとらえる。
 常夜灯が作るぼやけた光の中にたたずむ一人の女性。
 髪をきつくひっつめ、化粧けのない顔を厳格に引き締めてステヴァンを待ち構えるのは、萩尾。
 夜間外出中の不良を咎めるように眉間に皺を刻み、目元を癇症に引き攣らせた萩尾のもとへ、ステファンは無邪気に手をふり駆け寄っていく。
 「母さん!」
 「首尾はどう、バカ息子」
 「上々」
 正面に立ち、親指を立てる。
 息子の報告を聞いた萩尾は鷹揚に頷き、左手で眼鏡を、右手で髪にさしたピンを抜く。
 常夜灯が作るスポットライトの中。
 仕事の邪魔にならぬようピンでとめていた黒髪が滝の如く艶やかに波打ち流れ、だて眼鏡を取り払った美貌に熟れた色香が滴る。
 毒花の如く官能的な肉厚の唇に嫣然と笑みを刻み、女は囁く。
 「どうなることかとひやひやしたけど、災い転じて福となす機転の勝利ね」
 職員室にいた時とは口調さえがらりと変わる。
 そこにいるのはオールドミスと陰口を叩かれるヒステリーな女教師でなく、グラマラスな肢体を禁欲的なスーツに包む妖婦。
 萩尾は息を吐き、男の視線を絡め取る手つきでスーツの胸元をはだけ、豊満な乳房の上半分を覗かせる。
 「だろ?だろ?ぼくのおかげだろ?」
 「調子にのるんじゃないわよこの食いしん坊さんが、学校でつまみ食いはやめろってあんだけ言ったのに」
 人類の半分を悩殺する脚線美を一閃、スーツの裾からパンツが見えそうで見えない絶妙な速度と角度でステヴァンの尻を蹴る。
 「なんだよ、蹴るなよ、だいじょうぶ心配ないって吸ったのちょっとだけだし催眠かけたから何も覚えてないって!」
 「そういう問題じゃない。家に帰れば冷蔵庫に輸血パックがたんまり残ってるってのに、あんたねえ、少しは兼業主婦の苦労も考えなさい?どうすんのよ、もうすぐ賞味期限切れちゃうじゃない」
 「養殖は口に合わないんだよね」
 「贅沢言わない」
 「やっぱ生がいいよ、生が」
 「今度は卑猥」
 「でもさ、ぼくが屋上で吸血したせいで小山内先生に近寄る口実できたし」
 「はい、口答えしたからぼっしゅー」
 萩尾の手が音速で動き、ステヴァンの髪を頭皮ごと容赦なく毟る。
 否。
 萩尾がステヴァンの頭からひったくったのは本物と区別がつかない精巧な金髪のかつらで、その下から日本人特有のストレートの黒髪が流れ出る。
 「母さん、道の真ん中でやめてよ!」
 「慌てるくらいならつまらない見栄はるのよしなさい、ほんとは黒髪黒目のくせにかつらとカラーコンタクトで外人偽装なんて寒いわよ」
 「ステヴァン・パイヤーなんて外国人名前のくせに黒髪黒目だったら学校でいじめられる」
 「なら太郎ってつければ満足だったの?悪くないわねステヴァン・太郎・パイヤー、いい名前じゃない。今度改名したらどう?」
 「……百年後に考えるよ」
 魔性の本性隠す神秘的な碧色の目は、カラーコンタクトをはずせば何の変哲もない平凡な黒目。瞳孔の収縮を操る吸血鬼特有の能力こそ目の色関係なく健在だが、本当のステヴァン・パイヤーは、日本人の母の血を濃く受け継ぐ少年だった。
 「小山内先生、学校やめないってさ」 
 小山内を容赦なく辱めた口調も、母親の前となると途端に子供っぽく砕ける。
 胸の谷間に挟んだ箱から一本とりだすや、セクシーな唇にそれを銜え、惚れ惚れするようなポーズで紫煙を燻らせつつ相槌を打つ。
 「当たり前。あの子に辞められたら私の仕事が増えるじゃない。だからあんたをさしむけたの」
 「……母さんて真面目に見えて不真面目だよね……」
 ステヴァンがため息をつく。
 新たに外気に晒された癖のない黒髪をあきらめたようにかきあげて、上目遣いの双眸にちらりと疑問の色をやどす。
 「あのさ、ひとつ聞きたいんだけど。母さんが自分でやろうとはおもわなかったの」
 「私はだめ、淫魔は引退。父さんとより戻して早々浮気なんて女の仁義に反するわ。それにあんた年上好みでしょう、譲ってあげたの」
 「まあ、確かにタイプだけどね」
 すべては萩尾が仕組んだ計画だった。
 小山内が屋上でステヴァンの吸血シーンを目撃したのは偶然。
 萩尾はこれを逆手にとって、仕事に悩む小山内に斬新なやりかたで発破をかけた。
 「小山内の血はどうだった?美味?」
 「まずかったよ、とても飲めたもんじゃない」
 「そう、残念。あっちの方は」
 「極上」
 反芻するように舌なめずり、太鼓判を押す。
 「でもさ、血も飲みたかったな」
 「舌は父さん譲りだものね」
 「血は主食、愛液はデザート。あっちだけでもいいけど、抱いてる最中にちゅうって血をすったら、ぼくも先生もきっと二倍気持ちよくなるよ」
 萩尾はひとつ頷き、煙草をつまんだ指をちょいとあげる。
 「淫魔の体液は人体に作用する。肝心の血が口に合わないなら、これからたくさんセックスして自分好みに変えてけばいいのよ」
 「もとからそのつもり。ああ、でもひとつ不安要素が」
 「なあに?」
 「小山内先生の寿命、あと二十年くらい。血がね、だいぶニコチンタールに汚染されてて……四十代の初めに肺癌で召されそうな感じ」
 「バカねえ」
 小山内の身を純粋に案じ、陰鬱な顔で呟く息子に向かい、萩尾は母親の顔で微笑みかける。
 「言ったでしょ?淫魔の体液は人体に作用する。淫魔に精を絞りとられた人間は早死にするけど、逆もしかり。こまめに精を与えてやれば、百歳まで長生きするわ」
 「ああ、そうか!」
 ステヴァンの顔が明るくなる。
 この子が一人に決めてくれるならいい。
 男女問わぬ息子の「つまみぐい」にしばしば頭を悩ませていた萩尾は、紫煙で肺を満たしつつ、小山内延命の策が見つかってはしゃぐステヴァンを見つめる。
 自分が勤める公立校に息子を呼んだのは、よそで暴飲しないよう監視するため。
 ステヴァンが一人の人間を生涯のパートナーとするなら、母としての悩みは解決する。
 そして萩尾は、軽薄でナンパに見えるが、内実は生徒思いな小山内になら大事な息子を預けてもいいと思っていた。
 「……性別とか、私たちにはあんま関係ないしねえ」
 魔性はそれそのものがひとつの性。
 特に淫魔や吸血鬼は生殖を目的前提とせず、体の相性でパートナーを選ぶ傾向にある。
 そこに真実の愛が芽生えるなら性別などささいなことだというのが、人と違い永きを生きる、彼ら彼女らの価値観なのだ。
 
 「母さん、ぼくこれから頑張る」
 「頑張りなさい、ステヴァン。あなたの努力で彼の血中からニコチンタールコレステロールの毒素を駆逐してやるのよ」
 「えっ、コレステロール高めのほうがコクがあって美味しいよ、トンコツぽくて」
 「適度に抜いておあげなさいな」
 「あ、母さん白髪発見」
 「枯らすわよ?」 

 平和な月明かりのした、淫魔の母と吸血鬼もどきの息子の話題の的になっているとも知らず。
 ふやけた雑誌がちらばる床のど真ん中にへたりこみ、水浸しで壊れた携帯を抱き、小山内は泣くのであった。

 「メールもアドレスも新しい恋の予感もパア……くそう、あの疫病神め」

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [S・I・V]
S・I・V | コメント(-) | 20010509215012 | 編集

 吸血鬼は繁殖している。
 そして俺は養殖されている。

 「―というわけでフランス革命がおきるまでの流れは大体掴めたな?」
 手に塗したチョークの粉を音高く払いつつ教室を見渡す。
 「当時フランスではルソーやヴォルテールが唱えた社会契約説が知識人に影響を与え、それに国民が共感したことで社会体制に対する不満が鬱積した。ま、そんだけ貧富の差が激しかったんだな。贅沢三昧の特権階級の裏には圧制に虐げられ苦しむ市民の姿があった。当時のお妃といえばオーストリアから輿入れしたかの有名なマリー・アントワネット。その可憐な美貌と放蕩ぶりで後世まで語り継がれるアントワネット王妃が、パンにもろくにありつけねえ庶民にむかって言い放った台詞とは?」
 「はい」
 最前列の生徒が挙手する。
 教師一人生徒一人、ガチで一対一の補習授業なんだからわざわざ手を上げる必要ないってのに律儀なのかズレてるのか一種のいやがらせか判断に困る。
 「どうぞステヴァンくん」 
 「輸血パックがなけりゃ生き血を吸えばいいじゃない」
 「不正解」
 答えを外したステヴァンは「え~」と不満そうなふくれっつら。
 「正解は……」
 「はいはいはい!」
 「……どうぞステヴァンくん」
 先生あててあてて今度こそ外さないからと椅子から伸び上がって手を上げるステヴァンをいやいやさす。一対一、それも教壇と最前列じゃ1メートルと離れてないんだから無視するわけにもいかねえ。
 そもそもこれはステヴァンただ一人のために設けられた特別授業なのだ。
 ステヴァンは自信たっぷりに顎を引き咳払いをかます。
 「糖分が足りなければ鉄分で」
 「次、バスチーユ監獄行くぞー」
 「補えばいいじゃない、って最後まで聞いてください」
 「既にして原型ねえよフツーに不正解だよ、間違える方がむずかしいだろ。正解はパンがなければお菓子を食えばいいじゃないだ。宮廷育ちのセレブ王妃はこの一言で飢えてる国民を完全に敵に回して断頭台の露と消えたわけ」
 「歴史に残る暴言ですね」
 「革命の引き金をひいた暴言としてノートに書いとけ」
 ステヴァンは素直に従う。シャーペンをさらさら走らせ俺が板書した内容をノートに書き写していく。
 見た目は完璧外人のくせに誤字脱字ひとつなく綺麗な日本語を書くあたりイヤミだ。
 勤勉な生徒がノートに補習内容を書き写すあいだ、暇を持て余し教壇に頬杖をつく。
 外は馬鹿みたいにいい天気だ。
 半端に引かれたカーテンのむこうから校庭で練習中の野球部や陸上部のかけ声が届く。
 大きく振りかぶられた金属バッドが硬球と激突、快音を響かせるいつもの放課後だ。
 現役高校生の時は時代遅れの坊主狩り、甲子園なんかめざしちゃったりするヤツらの気が知れなかったが大人になってみるとちょっとわかる。
 俺は当時からいかにして女の子と付き合うか先に進むかで頭がいっぱいのナンパでスケベな男子高校生だった。それがどこでどう道を間違え高校教師なんてお固い職についてるのかふしぎでしょうがねえ。
 教える側に立ってみて初めてわかる当時の担任の気苦労。
 不真面目な生徒でごめんなさい岡田先生と当時の担任を思い出し反省、あくびをひとつぱらぱらと手元の教科書をめくる。
 「あーだりー家帰りてー」
 「真面目に補習してる生徒の前で人としてダメダメな本音を吐かないでくださいよ先生」
 「やる気ねー帰りてー。議会で一番後ろに座ってる野党の人なみにやる気ねー」
 「政治批判ですか」
 ばたりと教壇に突っ伏す。
 「あーなんだってよりにもよって今日に補習なんかー……タイミング悪い。しかもお前とふたりっきりで」
 「元気だしてください、僕は放課後も先生と会えて嬉しいですよ」
 最前列の机に着席し、にっこりと微笑む生徒の名前はステヴァン。俺の天敵。
 笑うと持ち上がった口の端からやけに尖った犬歯が覗く。
 天使のような巻き毛と青い目、生まれたての子鹿のように華奢でしなやかな体つき、どっかの聖歌隊に混ぜたくなる可憐で中性的な容貌の美少年。
 髪と目の色はルーマニア人にして世界的映画監督である父親の遺伝らしい。
 きっちり学ランを着込んだステヴァンは、人さし指と中指に挟んだシャーペンをくるくる回しつつからかう。
 「どうせこのあと予定ないんでしょ、また彼女と別れたって聞きましたよ」 
 「または余計」
 「長続きしないんだから。やっぱり先生に性的な欠陥があるんじゃないですか」
 白々しくほざくステヴァンに堪忍袋が切れ、教壇を叩いて立ち上がる。
 「今回の破局はお前のせいだお前の!」
 シャーペンを回し続けるステヴァンにわななく人さし指をつきつけ、シャツの襟元を寛げておもいっきり横に広げる。
 「見ろ、これを!」
 首筋を外気に晒す。
 俺の位置からじゃ見えないがそこには一対の穴が生々しく穿たれている。
 出血はとまってるが、まだ傷は塞がりきってない。
 首元をはだけ傷痕を露出した俺に何を勘違いしたのか、ぽっと頬を赤らめる。
 「いやだな先生、学校の教室でストリップなんて過激だな。そんなに欲求不満なんですか」
 「お前が!俺の血を吸いまくるから!肝心な時に貧血でくらっときてこのへタレとか持久力なしとか罵られるんだろうが!!」
 「辛辣なカノジョですねえ」
 ステヴァン・パイヤーの正体は吸血鬼だ。
 正確には淫魔の母と吸血鬼の父をもつ混血だ。
 ひょんなことからそれを知った俺は、以来ステヴァンにえものとして目をつけられ受難の日々を送るはめになった。
 たった今えものと表現したが、その扱いは非常食か携帯用輸血パックに近い。
 半分淫魔の血が流れてるせいか吸血鬼としちゃ変わり種で太陽の光を浴びたところで灰にならずぴんぴんしてるが、一定期間血を摂取せずにいると色々不都合が生じるんだそうだ。

 よって、俺はステヴァンに養殖されている。

 「だって約束したでしょ、自分が犠牲になるから教え子には手をだすなって」
 瞳孔を細めてほくそえむステヴァンに痛いところをつかれ、うっと言葉に詰まる。
 襲撃の翌日、学校で見かけたステヴァンを屋上に引っ張って給水塔裏で説教した。
 俺は非常食の運命を妥協する。
 その代わり正体をばらされたくなければ他の生徒、否、他の人間には手を出すな、所構わず人を襲ったりせず俺の血だけを吸えと迫った。
 保健室に運ばれた女生徒はすぐ目を覚まし軽い貧血と診断されたが、吸血行為の記憶だけはすっぽり抜け落ちていた。
 理由を問う俺にステヴァンは平然と答えた。
 『一種の催眠術です。吸血鬼が使える特殊能力のひとつ、相手の目を見つめて魔法をかける。今体験した事は目を覚ましたら全て忘れろってね』 
 『そんなに上手くいくのか?』
 『血を吸われショック状態に陥ってるときほど暗示にかかりやすいですし』
 つまるところ被害者に記憶が残らない学校はステヴァンにとって理想の狩場。
 このままではどんどん被害が広がっていくと懸念し交換条件を申し出たのだが。

 「俺の血が吸えりゃ満足だろ……」
 「満足ですよ。食生活が改善されたせいかな、先生の血最近おいしくなってきたし」
 「お前が毎日通い妻して鉄分たっぷりレバニラ定食責めにしてくれるおかげでな」
 「うち共働きなんで子供の頃から料理は得意なんです。マイエプロンだってもってます」
 ステヴァンいわく、俺の血はひどくまずくてとても飲めたもんじゃない。飲めるようになるまで最低でも三ヶ月かかるんだそうだ。
 俺は鬼コーチステヴァンの指導のもと血をキレイにする為のあらゆる努力に励み、現状少しずつ体質が改善されつつある。つまりは確実に健康になりつつあるのだが素直に喜べない。
 教壇にだらしなく頬杖つき、治りかけで痒い噛み傷をぽりぽり掻く。
 「どっかの馬鹿が首筋にがぶりと噛みつきやがるせいで女の前で迂闊に脱げねえし、それ以前に毎日毎日レバニラ定食作りにきやがるせいで家に呼べねえ」
 「僕のことなんか気にせずどうぞカノジョさんと楽しんでください」
 「蝙蝠の見張りまでつけられて楽しめるかっ」
 「僕が知らないところで禁煙の誓い破られたらせっかくキレイになりかけた血が台無しですし」
 しれっと言い放ち軽快に指を弾く。
 上を向いた人さし指から黒い霧が生じ一羽の蝙蝠へと凝縮、超音波じみた奇声を発し天井付近で円を描く。
 「俺に自由はねえのか……」 
 「毎日ごはん作りにいってあげてるのに何が不満なんですか」
 「たまにはあっさりしたもんが食いたい」
 「ダメです。血を増やさなきゃ」
 「毎日毎日おれんち入り浸って親の許可はとってんのか?いくら共働きだって息子がほっつき歩いてりゃ心配するだろ」
 「うちは放任主義ですからそのへんは子供の自己管理に任せるってことで。元々夜行性の一族ですし月が出てからが本格的な活動時間です」
 「モンスターペアレンツが」
 真剣に三者面談の必要性を検討する。もうちょっと息子の監督しっかりやってくれ。
 時々俺に飯を作りにきてるのか女との仲を邪魔しにきてるのかわからなくなる。
 今日はカノジョが来るから絶対くんなと強く言い置いた日に限って「おかえりなさい先生。お風呂にします、レバニラにします?」とよりにもよって自前のエプロン姿でぱたぱたやってくるんだからたち悪ぃ。
 しかもよりにもよって玄関でお出迎えって
 「不法侵入だろ」
 「通い妻です」 
 「おかげでなあ、俺は教え子に、しかも男に手をつけたって誤解されてビンタくらったんだぞ!合鍵も渡してねえのに勝手に人んち上がりこんでガス使うんじゃねえ、危ないだろうが」
 「カノジョとセックスするならなおさら精力つけたほうがいいじゃないですか」
 「セックスとか真顔で言うな破廉恥な」
 「僕だって気を遣ってるんですよ、先生には迷惑かけっぱなしだから」
 しおらしく目を伏せる。だまされるな。まとわりつく蝙蝠を教科書で追い払い、背後の黒板を振り仰ぐ。
 「本当に悪いと思ってるなら世界史でいい点とってくれ。他の教科は軒並み90点以上のくせにどうして世界史だけ赤点なんだ、いやがらせか」
 「授業に集中できないんです。先生が美味しそうで」
 教科書で頭をはたく。巻き毛が乱れる。
 「あ痛っ」と叫んで首を竦めるステヴァンに英語で聞く。
 「パードン?」
 「授業中先生の首筋から目がはなせなくて、先生の首筋で頭がいっぱいで。これは空、恋ですか」
 「ケータイ小説風に区切ってもだめだ。いま空腹って言おうとしたろ」
 「そろそろ飲み頃になったかなあとか三ヶ月徹底管理のもと濾過した血はさぞ美味しいだろうなあとか、先生が無防備に背中向けて黒板に書いてるときなんて首筋がちらちらして口の中に唾わいて」
 「そんな阿呆な理由なのか?そんなアホな理由で二十点とったのか?」
 ステヴァンがもじもじと俯く。気色悪い。
 人さし指の先をつつきあわせ、はにかみがちに笑う。
 「先生を見てるとその、昨日の痴態を思い出して平常心でいられなくなるというか、ぶっちゃけ授業どころじゃないといいますか」
 絞め殺したい。
 「授業中の俺をご満悦で眺めながらンないかがわしい妄想してやがったのかお前は」
 連続二回、教科書で頭をはたかれステヴァンが涙目になる。
 「いいじゃないですか、妄想くらい。先生が僕の獲物なのは事実なんですし」
 「吸血鬼である前にお前は一介の高校生なの、本分を忘れるな!」」
 憎ったらしいことに、俺以外の人間の前じゃステヴァンは文句のつけどころがねえ優等生で通ってる。成績優秀品行方正、他教科はすべて九十点以上を叩き出したステヴァンが世界史で二十点をとったと発覚するや、「小山内先生の教え方に問題があるんじゃ」「よっぽど意地が悪い問題だしたのよ」「可哀想にパイヤーくん」「いくら女生徒にモテモテだからっていやがらせとは大人げない」と職員室で槍玉にあげられた。俺は無実だ。 
 「お前が世界史でいい点とってくれなきゃ査定に響くんだよっ、授業中サボってメールしてたんじゃねえかとか生徒から没収した漫画読んでたんじゃねえかとか現に教頭に疑われてんだよ、多くは望まないから少なくとも平均点とってくれ、頼む!」
 「そういえば加藤さんから没収した少女漫画にハマって終わりのベルが鳴っても気付きませんでしたね。鼻水までたらして泣いてたけどそんなに感動したんですか、『君に仏』」
 「そうそう、廃寺で見た仏像に感動した女子高生がイケメン師匠に弟子入りして本気で彫り師をめざす姿が一途で泣かせてさあ……」
 じゃない。
 咳払いで軌道修正、教壇に手をついて身を乗り出す。
 「と・も・か・く、お前が赤点とると俺の教師としての能力まで疑われるんだ。俺がクビんなったら困るだろ?」
 「寂しいです」
 「じゃあとっとと」
 俺の演説を遮って何やらごそごそやりだすステヴァン。
 机の横にさげた紙袋から平べったい箱をとりだし机に置く。
 「これを先生に」
 「なんだ突然」
 「父がハワイ撮影に行った時のお土産。どうぞご遠慮なく召し上がってください」
 ぱかりとふたを開く。
 「マカデミアンナッツか」
 俺の好物だ。漂う甘い匂いに自然と小鼻がひくつく。
 箱をこちらにさし出し、謙譲の美徳の実用例として辞書に載せたい笑みを湛える。
 「僕が至らないばっかりにせっかくのバレンタインデーを潰してしまったお詫びです」
 そう、今日は2月14日……バレンタインデーだ。俺が不機嫌な最大の理由。彼女と喧嘩別れして特に予定がないからといって、年に一度のバレンタインデーが補習で潰れて喜ぶ教師はいないはず。
 面食らう俺を上目遣いに見上げ、おずおずと箱を引っ込める。
 「ひょっとして甘いもの嫌いですか?余計なことしちゃったかな」
 「あ、いや」
 「今日だけで女の子からたくさんチョコもらってましたもんね。一組の保科さん都沢さん長谷川さん、二組の相馬さん金田さん小泉さん、三組の野々原さん……さすがに食べきれませんか?」
 黄金の巻き毛縁取る美貌に憂愁の翳りがおちる。
 確かに女子から大量のチョコを貰ったが全部紙袋の中で職員室の机の上だし時間的に小腹が空く頃だし、ステヴァンが気を遣って持参した父親のハワイ土産を断るほど鬼じゃない。男からチョコを貰うというシチュはちとしょっぱいが、日頃迷惑かけているおわびというなら有り難く貰ってやる。
 「お言葉に甘えて」
 教壇から行儀悪く身を乗り出し、ひとつつまんで口に放りこむ。一瞬ステヴァンの目が光る。
 「うん、うまい」
 ひとつ、もうひとつとついつい欲張って手が伸びちまう。やめられないとまらないマカデミアンマジック。
 自分でも意地汚いなとあきれつつ夢中でチョコを頬張る。ステヴァンは俺の食欲を微笑ましげに見つめていたが、おもむろに席を立ち、獲物を狙う猫のように忍びやかな足取りでこっちにやってくる。
 「喜んでもらえてよかった……本当に」
 「!?うわっ、待て、よせっ」
 振り返ろうとした刹那、蝙蝠が足に激突しバランスを崩し倒れこむ。
 教壇の下にふたりして縺れ合い転がり込む。しもべの蝙蝠が耳元でうるさく羽ばたく。しこたまぶつけた背中が痛い。
 それまで猫をかぶっていた教え子の豹変に危機感が募り、背広を皺くちゃにして揉み合いつつ怒鳴る。
 「席にもどれステヴァン・パイヤー、廊下に立たすぞ!」
 「古いなあ発想が。今の子には窓から逆さ吊りにするくらい言わないとききませんよ」
 「やっぱり演技だったのか、騙された!伏せ目でしゅんとしやがって!」
 「先生て単純だなあ、毎回同じ手にひっかかる。教師のくせに学習能力ないんですね」
 してやったりとほくそえみつつもがく俺に馬乗りになり、手際よくシャツをはだけていく。
 「どけよステヴァン、人が来たらどうする……」
 「運動部が居残ってるだけ、他にだれもいませんよ」
 「バレたらどうする、俺がクビんなってもいいのか!」
 「静かにして、先生」
 色素の薄い瞳が真剣な色を帯びる。唇の端が捲れて牙が伸びる。しなやかな手つきでシャツの襟元を開き、肌を磨き上げるようにくりかえしなで上げる。ただ触られてるだけだというのに何か変だ、次第に息が上擦っていく。
 「……真面目に補習しろよ……」
 「おなか空いたんです。補給させてください」
 熱く湿った吐息が首筋にあたるたびぞくりと悪寒が駆け抜ける。聴覚を研ぎ澄まし、引き戸を隔てた廊下の気配をうかがう。離れた音楽室からだろう、吹奏楽部の演奏が流れてくる。他の教室に居残ってる生徒が通りかかったりしないか、他の教師が見回りにこないかと嫌な汗をかく。
 体に力が入らない。どうしたんだ。抵抗しなきゃと頭では分かっている、なのに体が言う事を聞かない、手足がむなしくばたつく。
 弛緩しきった腕を辛うじて持ち上げ押し返そうと努めるも脱力、ステヴァンは俺の肘をおさえつけ耳元で囁く。
 「あのチョコ、美味しそうに食べてましたね」
 まさか。
 「なんか盛ったのか……!?」
 深まる笑みは肯定の証。邪悪な笑みを浮かべたステヴァンが俺のネクタイをあっさりほどき頼んでもない説明を始める。
 「淫魔の唾液には媚薬の成分があるって前に説明したでしょう。ですから効果は実質二倍だ」
 とんでもないガキだ。争いあうにつれ体力を消耗していく。ステヴァンが唇を奪う。しつこく吸いついてくる唇を顔ごとひっぺがそうとぎりぎり力をこめるが、舌を伝って注ぎ込まれた唾液が粘膜に浸潤し、カッと体が熱くなる。
 「甘い」
 上唇を舐めて感想を呟く。余裕ありげなステヴァンとは対照的に、熱く敏感になる一方の体の変化に愕然。
 「―っは、は……やめ、……―っ、変だ、体が……疼いて」
 身を丸めて絶え間なく襲う疼きに耐える。前がきつく窮屈になる。体の中から炙られるようなもどかしさに苛まれ、口の中にあふれた唾液を何度も嚥下し、物欲しげに潤んだ目でステヴァンを睨みつける。
 「……チョコ、………へんな味、しなかったぞ……!」
 「先生の味覚が鈍いんですよ」
 「失礼なこと言うな、きっとレバニラのせいだ、お前が毎日レバニラばっか食わせるから舌が麻痺したんだ!」
 まずい、ヘタに口をきくと喘いでしまう。慌てて唇を噛む。前の突っ張りが苦しい、今すぐファスナーを下ろしてしごきたい。どんどん息が上がっていく、つらくなる、何も考えられなくなる。ワックスで光る床に爪を立てる。
 「あっ、―あっ、うあ、ひ」
 変だ、体がぞくぞくする。くりかえし襲う痙攣を前傾しやりすごす。飲み干しきれず口の端からたれた大量の唾液が床にたまる。
 「苦しいですか、先生。前がすごいきつそうですよ」
 「うるせ、見んな……席もどって、補習続けろ」
 「先生がこんな状態でどうやって続けるんですか、教えてくれるひともいないのに」
 喉の奥で意地悪く笑いつつ、妖艶な色香匂いたつ流し目をくれる。
 「正解言えたらラクにしてあげますよ」
 「教師に、問題、だす気かよっ……」
 身の程知らずめ。片頬をひくつかせ虚勢の笑みを浮かべる俺をのぞきこみ、優しく問う。
 「問題一。マリー・アントワネットの旦那は?」
 「ルイ16世」
 「正解」
 「うわっ!?」
 ズボンの上から股間をなでられ仰け反る。思わずステヴァンの腕を掴んじまう。傍から見れば縋り付く格好だ。
 「んんっ……」
 ズボン越しの刺激だけで甘美な刺激が走り、募り行くもどかしさに腰を揺する。
 ゆっくりとじらすようにしてジッパーをずり下げた手が、今度は下着の上から既に勃起した分身をくりかえしなで上げる。
 「うあ、や、よせっ…………」
 下着越しのゆるやかな愛撫。泣きたいほどのもどかしさ。直接握ってしごいてくれと懇願しかけた口を慌てて塞ぐ。死んでも言うかそんなこと、教え子に自慰を手伝ってくれと泣きつく教師がどこにいる。いつもより体が敏感になっている、なにをされても感じてしまう、下着と擦れ合う感触さえも刺激に取って代わる。肌をやすりでこすられてるようだ。
 「問題二。全国三部会とはなにか」
 耳朶に唇がくっつく。魅惑的な声が脳髄を蕩かせる。頭が正常に働かない、思考が空転する、こんな状態で答えを言うなんて無茶だ。
 下半身を覆うズボンがずり落ち、勃ちあがったペニスからぼたぼたと雫がたれる。ステヴァンがぴたりと背中に密着する。
 「う………各身分の代表から構成される、身分制議会………」
 「正解」
 尻のはざまに勃起した股間がおしつけられる。ステヴァンが前に手をのばし、下着の中へと手をすべりこませ、直接それを握る。
 「――――んんんっ、ン―!!」
 ただ握られただけで達してしまう。体がびくつき、ステヴァンの手の中に粘っこい白濁を放つ。
 「はあっ………は………」
 汗が目に流れ込んで視界が霞む。一回達しただけで凄まじい疲労が襲う。続けてイかされたら死ぬかもしれない。
 「声我慢しなきゃ誰かきちゃうかも」
 ステヴァンが耳朶を噛んで悪戯っぽく囁くが答える気力もない。チョコレートに盛られた媚薬のせいか、射精したそばから前が力を取り戻していく。嘘だろ?ぎょっとする。背後でステヴァンが動く。なにをしてるのか振り向いて確かめるのが怖い、大体見なくても把握できる。生き物じみた舌が首を這い耳の後ろに絡みつく。
 前を握ったのとは逆の手がシャツの隙間に侵入し、色づいた乳首をつねる。
 「―い、やだ、痛ッ……さわんな、そこはやなんだよ、強くすんなっ……」
 「尖ってきましたよ」
 痩せた腹筋が波打つ。ステヴァンは笑いつつ、しこりを楽しむようにして指の腹で乳首を揉みころがす。
 人さし指と親指でつねって搾りだし、赤く熟れた豆粒に爪を立て、もう片方の手で間欠的にぱくつく鈴口をほじる。
 「あっ、あっ、あ」
 「問題三、1789年7月14日に民衆が襲撃した場所は?」
 ステファンが冷静に問う。快楽に濁り始めた頭で、早く精を吐き出したい一心で必死に考える。
 「バ………バスチーユ監獄っ………」
 あっけなく手が離れる。
 「えっ」
 「残念。不正解」
 「う、嘘……あってるだろバスチーユ監獄で、教科書見ろよ!」
 「発音が違います。正解は『ヴァ』スチーユ監獄」
 ステヴァンが己の口元を示し正確に発音する。
 呆然と息を荒げる俺を見下ろし、先走りで濡れた手を学生服で拭く。
 「お預けですね」
 「待て………」
 「そんな状態じゃ補習どころじゃないですね。帰ります。さようなら」
 「待て!!」
 こんな状態でおいてけぼりにされちゃたまらない。
 自分の机に戻って鞄をとりあげるや、平然と出口にむかいかけたステヴァンに我を忘れ追いすがり、その足首を掴む。
 「責任とれよ……」
 劣情で声が掠れる。ステヴァンは黙って、足元に這い蹲る俺を見下ろす。
 ふと気が変わったように屈みこむや、くたばりぞこないの犬を構うような残酷な無邪気さで俺の髪に指を通して梳きはじめる。
 目と鼻の先に神々しく後光さす極上の微笑みが浮かぶ。
 「生徒の手本になるべき人なのにお願いの仕方がてんでなってませんね。がっかりです」
 笑顔でダメだしし上履きの靴底で軽く股間を押す。
 「―――ひっ、ひぐ………てめ、今の教師に対する暴力」
 「こうですか?こうかな?」
 「ちょ、やめ、マジでやめろしゃれになんねーから!」
 ステヴァンは嬉々として薄汚れた上履きの裏で俺の股間をつつく。
 両手で股間を庇って身を丸める、ステヴァンは這い蹲った俺の顔を手挟んで持ち上げる。
 「お願いする時はどうするんですか?」
 美しいボーイソプラノ。葛藤、逡巡。ステヴァンは俺を試している、いや、おちょくって楽しんでやがる。さっきからずっと体が変だおかしい熱いイってもイッても勃ちっぱなしで少しも萎えない、言う事を聞けばらくにしてもらえるのか……
 床に手をつきのろのろと起き上がる。黙って待つステヴァンを憎しみぎらつく目で睨みつけ、生唾を飲んで覚悟を決める。
 急いた手つきでステヴァンのズボンを下ろす。ベルトがうるさくがちゃつく。床に跪き、小刻みに震える手で下着をずらしていく。
 「んっ」
 ステヴァンが呻きをもらす。
 むき出しの股間に顔を埋め夢中で舌を使う、むしゃぶりつく。した事はないがされたことは何度もある、そのやりかたをまねて口に含み強弱つけて吸う、淫猥に唾液を捏ねる音が耳につく、青臭く生臭い匂いに吐き気を覚える、喉を圧迫されてえづく。
 脈打つ竿へと性急に舌を這わす、鈴口を舌でねぶり唇をおしつけ唾液を塗り広げていく。
 「もういいから先生……」
 「―あ、あつくてくるしいんだ……体ン中ドロドロで……イ、イきてえ……」
 ペニスを頬張りつつ、くぐもった声で呟く。ステヴァンが俺の顔を手挟み、じゃれつくようなキスを額に落とす。
 ガマンできねえ。
 「欲しい………お前の……」
 俺の体はステヴァンがそうあれと望むよう造り替えられている。
 何度も何度もそれ自体強烈な媚薬となる体液を注がれて、そのたびステヴァンを貪欲に求めるよう仕向けられる。
 すっかり快楽の虜と化し、ステヴァンのズボンを掴んでねだる。ステヴァンが俺の後ろにまわり、ぐっと腰を抱え上げる。
 「力抜いて」
 「あぐっ」
 窄まりに肉が押し入ってくる。痛みは一瞬、すぐにそれは激烈な快楽へと代わる。
 挿入が伴う激痛を体内に浸潤した媚薬が中和し、抽送のつど脊髄から脳髄へと稲妻の如く快楽が駆け抜ける。
 「あっ、あっ、あっあっあっあっ!」
 声を堪えるのを忘れる。死ぬほどほしかったものを漸く与えられ沸騰する細胞が歓喜に咽び泣く。
 ステヴァンが深々と楔を打ち込む、快感を増幅する前立腺を突いて突いて突きまくる、俺の体内へと欲望を注ぎながらもう片方の手でだらだら雫を垂れ流すペニスを慰める。
 「―やっ、はやくイかせろ、イ、イきてえ、もうっ……もたねーから」
 ヨすぎて死ぬんじゃないか。
 「後ろすごく締まる……前もぐちゃぐちゃだ。感じまくってるんですね、可愛い」
 「あっ、は、ふあっ、ひ、あっあっあああっ!」
 どうか誰も来ないように―見られませんように―前立腺を突き上げるペースが上がりラストスパートに入る、ステヴァンの動きに合わせ尻を振る、ステヴァンが俺のうなじに浅く歯を立てる。
 「あ」
 来る。
 鋭利な牙が皮膚に突き立つ。

 「――――――――――っっ!!!」
 後ろがきつく収縮し中に入ったままのペニスを締め上げ背筋が弓なりに撓う。
 「先生!」
 ぐったりと突っ伏す俺から分身を抜き、慌てて下着を身につけやってくるステヴァン。
 「ごめんなさい、ちょっと吸いすぎちゃったかな?まさか先生がフェラしてくれるなんて思わなくてつい夢中に……大丈夫ですか、保健室行きます?」
 なんとか肘をついて上体をおこす。気持ち悪い。貧血で頭がくらくらする。
 「ヤッてる最中に吸うとか殺す気かよ……」
 ただでさえ最近味見が頻繁になってきたのだ。吸血行為はしばしば依存症になりかねないほどの凄まじい快楽を伴う。セックス中に血を吸われなどしたら絶頂で心臓がとまっちまう可能性だってあるのだ。
 だからステヴァンは毎日せっせと鉄分たっぷりの料理を作って与え……
 まさか。
 「なあステヴァン、ひとつ聞きたいんだが。お前が今日俺にチョコもってきたのって、あれか。フォアグラか」 
 「どういう意味ですか?」
 ぶりっこして小首を傾げるステヴァンに、皺くちゃのシャツに袖を通しつつ疑問をぶつける。
 「フォアグラの作り方、狭い場所にガチョウを閉じ込めて栄養たっぷりの餌を漏斗でむりやり与え続ける。そうしてできあがった脂肪肝をおいしく料理したのをグルメが召し上がるわけだ」
 つまりは俺にやたらとレバニラを食わせるのもハワイ土産のチョコを与えるのもより美味しく太らせるための餌付けの一環で。
 「俺はフォアグラか?」
 ずいずいとにじり寄る俺の迫力にたじたじとなり、ステヴァンは「いやだなあ」と笑ってごまかす。
 「先生はフォアグラなんて比べ物にならない、僕にとって最高級のご馳走ですよ。最初はまずくて飲めたもんじゃなかった血だってほら、すっかり」
 身だしなみを整え立ち上がり、困憊して座り込んだままの俺に手を貸して助け起こす。
 教壇に寄りかかってシャツの前をとめながら、反省の色や良心の痛みなどかけらもなく取り澄ましたステヴァンを睨みつける。
 「大体どうして俺が女役なんだ、精液を摂取するなら逆の方が効率的じゃねえか」
 「抱きたいんですか?」
 「生徒に手をだすなんて教師失格、おまけに男じゃねえか!職場で漁んなくても相手にゃ困ってねえよ。ただビジュアル的にもそっちのが自然じゃねえかって思っただけで、」
 ボタンひとつとめるのにも手こずる俺を見かね、向かい合うステヴァンが甲斐甲斐しくボタンをはめていく。
 「だって僕男ですよ?」
 「俺も男だよ!!!」
 「や、知ってますけど。攻める方が性にあってるというか燃えるというか、吸血鬼が襲われる側にまわるなんて笑い話にもならないじゃないですか。確かに摂取の観点から見れば女役の方が都合いいけど……」
 仕上げにネクタイを締めて、極端に顔を近付け囁く。
 「僕はね、実のところ結構本気で先生が気に入っちゃってるんです。先生が上げる可愛い喘ぎ声やイく時の泣き顔、ねちっこく攻められていじめられてなにがなんだかわかんなくなってる顔が大好きなんです」
 新しくできた首筋の傷がひりつく。ステヴァンが衣擦れの音たて詰め寄る。
 後ろ手で教壇を掴み、目にちらつく怯えを悟られぬよう精一杯顔を背ける。
 血がこびりついた噛み傷を指の背でそっとなで、唇をついばむ。
 「その顔、すごくそそるな……」
 「やめろ……教室だぞ」
 「さっきまでもっとすごいことしてたじゃないですか」
 魔性のフェロモンをまきちらしつつ迫り来る脅威にたじろぐ。せっかく身につけたシャツを再び毟り取られる恐怖からへっぴり腰で逃げ、窓際のカーテンにくるまって絶叫する。
 「もういいだろ、気がすんだろ、たっぷり血を吸って満足したろ!?補習する気がねえなら帰れよ、ヤる気のねえ生徒に付き合って時間を潰したくない!」
 「だけど先生、さっきは随分乱れてたじゃないですか。跪いてフェラまでしたくせに」
 「あれはお前が薬を盛ったから、」
 「嘘ですよ?」
 「……なんだと?」
 外人っぽいジェスチャーで大袈裟に肩を竦め、箱から一個つまんでいやらしくしゃぶる。
 「でまかせです。いくらぼくだってお土産のチョコに異物混入したりしませんよ。まさか真に受けたんですか?ほんっと暗示にかかりやすいタイプですね」
 「いや……待て、嘘だろ?じゃあなんで俺」
 「それはですね、先生が天然のド淫乱だからです」
 言い返そうにもさっき俺がめちゃくちゃ発情してたのは事実で、だけどあれが薬のせいじゃねえとしたら感じて乱れまくったのって何で、そもそも淫魔の体液には媚薬作用があるからしてそれを慢性的に摂取してりゃ淫乱になっちまってもしかたね
 「お前のせいじゃん!!!」
 「責任はとります」
 カーテンに包まってしっしっと牽制する俺へ歩み寄るや、いきなり抱き寄せ唇をつけ狙うステヴァンをこづきまわす。
 「さっきさんざんやったのにまだ足りないのか、絶倫だな!」
 「暴れないでくださいよ、いてっ、先生っていつもそうだ往生際悪いんだから、この頃わざと残業でうちに帰るの遅らせてるでしょ、せっかく料理作っても冷めちゃって……先生とふたりっきりになりたくてわざと赤点とったのに」
 ステヴァンが口走った聞き捨てならない台詞にハッとする。抵抗が止んだ隙をつき、ステヴァンがすかさず抱きついてくる。
 「そんなにいやですか、ぼくにつきまとわれるの」
 「当たり前だろ、吸血鬼なんか」
 「こんなに気持ちよくしてあげてるのに」
 ダメだ耳を貸すなほだされるな、相手は吸血鬼だぞ。ステヴァンとふたりしてカーテンに隠れ揉み合う。
 ステヴァンが俺の両手を掴んで顔の横にはりつける。
 「お前は生徒で、俺は先生で、学校でこういうことするのは生活指導的に間違ってるんだよ……」
 語尾が弱弱しく萎む。いまさらそんな建前をもちだしたところで、既成事実を作っちまったんじゃ説得力ねえ。
 案の定ステファンは苦笑し、俺の顔を包んで起こすや、光の加減で黄金に輝く目を細めて微笑する。
 「僕は吸血鬼、あなたそれに魅入られた獲物。こうなるのは正しいでしょう」
 唇が迫りつつある。カーテンを後ろ手に握り締め、きつく目を瞑る。
 重ねた唇を蜂を誘う雌しべのようにくねる舌でもってこじ開け―  
 
 教室の引き戸が開け放たれる。

 「!!」
 反射的にステヴァンをひっぺがす。
 「何をなさってるんですか小山内先生」
 「中世フランスにおける女性のファッションの流行を参考までにステヴァンに教えてたんです。いいかよく聞けステヴァン、ベルサイユ宮殿に出入りする貴族のご婦人方のあいだじゃこうやって肩にストール巻くのが流行ってたんだ。裾がひらひらそよいで優雅だろ?こいつを連れの男にもたせてしずしず入廷するのが一種のステータスとして認知されてたんだ」
 カーテンの切れ端をまとって肩に巻きつけのべつまくなしにまくしたてる。
 引き戸の前に敢然と立つ女教師―職寝室のお局として恐れられる萩尾女史。
 「そろそろ下校時刻です。補習は適当に切り上げて帰られてはいかがです?」
 鋭角的な眼鏡をくいと押し上げ注意する。タイミングよく、教室内に設置されたスピーカーから最終下校時刻を告げるチャイムが鳴り響く。助かった。危なくながされちまうとこだった。
 「そうします、即帰ります。ステヴァンお前も寄り道せずまっすぐ帰れよ、家でちゃんと勉強やっとけ、夜間徘徊は校則違反だからな」
 言うだけ言って後も見ず駆け出す。教壇にとってかえして鞄と背広をひったくり、廊下に立つ萩尾に会釈し、階段を駆け下りて職員室玄関から転がりでる。
 夕日に染まる校庭では野球部の連中が球拾いをしている。
 危なかった本当に。萩尾先生が乱入してこなかったらどうなっていたか、ステヴァンに言いくるめられてまんまと……
 無意識にポケットをさぐるも求めた感触を得られず、夕焼け空を仰いでたそがれる。
 「あーくそ、煙草吸いてえ……」
 「先生!」
 ガラッと二階の窓が開き、教室から顔を出したステヴァンが叫ぶ。
 「忘れ物です」
 そう言ってなにかを投げる。
 長大な放物線を描いて落下したそれは、たまたま上を向いていた俺の口にクリーンヒット。
 「………甘い」
 「最後の一個です」
 おもわずまるごと飲み込んでしまう。もうちょっと味わいたかったのに畜生……ああ、すっかり餌づけられちまってる。
 「鯉か俺は!食べ物を投げるな」
 無邪気に笑うステヴァンがむかっぱらがたつ。
 教室に駆けもどって頭をひっぱたいてやろうと思ったが自重し、校庭を突っ切って駐車場へ向かえば、どこからか飛んできた蝙蝠がちょこんと肩にとまる。指パッチンでステヴァンが生み出したしもべ。
 「フォアグラ、フォアグラ、フォアグラ」
 「口きけんのかよ」
 しかもフォアグラって……絞め殺してやろうか。しゃべる蝙蝠を追い払おうとして、次の瞬間硬直。
 「ステヴァン、フォアグラスキ」
 「え」
 車にキーをさした姿勢で凍りつく。
 蝙蝠がぱっと飛び立ち、空高く舞い上がり霧散する。
 おそらくステヴァンが伝言を頼んだのだろうその意味を考えつつ、しつこく唇をなめてチョコの後味を反芻する。
 「………小山内先生だっつの」 
 
 喜ぶべきか哀しむべきか、俺は非常食よりはちょっとだけ上等な存在として吸血鬼に認知されてるようだ。 
 とりあえず喜んでおくか。 

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [S・I・V]
S・I・V | コメント(-) | 20010509215011 | 編集

 アパート帰るのたるさに近所の公園で時間をつぶすのが最近の日課だ。
 最寄り駅から徒歩五分、アパートまで徒歩七分の中継地点にその公園はある。 
 手垢のついた遊具が電灯に影引くこぢんまりした公園の片隅、指定席のブランコに腰掛ける。
 中1ん時から世話んなってるピースをくわえ深々一服、肺で醸した紫煙を鼻から抜く。
 体がだるい。腰が痛い。
 金と引き換えた行為の余熱と余韻は鈍い痛みと倦怠感に化けていつまでもまとわりつく。
 「!あつっ、」
 鎖に指を絡め、スニーカーの靴底で砂を塗した地面をそっと蹴れば、ジーパンの生地がきつく突っ張って裂けた傷口を圧迫し顔を顰める。
 「……マツモトキヨシ開いてっかな」
 薬、また買ってこねーと。ついでにコンドームも。
 尻に体重がかからぬよう姿勢を調整し、薄汚れたビルがひしめきあう都会の空を仰ぐ。
 軽薄なネオン瞬く歓楽街の猥雑な空と対照的に、一駅挟んだこの場所から見上げる空は書割のように一色で事足りる。安っぽさはいい勝負で、電灯のまわりだけ仄かに白む。
 電灯の明かりが届く範囲だけたゆたう闇がやわらかな紺色に明るむ公園を眺め、持病みたいなもんだから仕方ないかと、憂鬱な吐息を煙に乗せて自分を慰める。
 「………訂正、職業病」
 子供の姿が絶えた夜の公園は本来の賑わいと遠く隔たって、かつん、かつんと間延びしたリズムで蛾がぶつかる電灯の監視の下仮死の眠りにつく。
 すべり台ジャングルジムにシーソーなど代表的な遊具がそれぞれ独立した孤島のように間隔を空けて佇んでいるが、いずれも塗りの劣化著しくペンキの剥げたまま放置され、砂浜に乗り上げた難破船の如く廃れて侘しさを誘う。
 夜限定俺の憩い場たる公園はほぼ四辺の長さが等しい正方形。真ん中にミニチュア展望台をかねたコンクリートの丘、東側にジャングルジムとシーソー、西側に大中小の鉄棒、北側入り口付近には不細工なラッコとゾウとキリンの乗り物、俺がいる南側にブランコと砂場を配置した定番の造りで、そこそこ遊具も充実しているのだが、夜零時を回ったこの時間にうろつく物好きはさすがにいない。
 帰るか。
 そう思うのは何度目か、浅く腰を浮かせるも、ケツを引き裂く痛みと同時に脳裏をよぎるからっぽの部屋の情景に気分が萎えて、なかなか踏ん切りがつかない。
 長く退屈な夜を寝返りで持て余すよりかブランコでもこいでたほうがいくらかましだ。
 アパートに帰るの自体よく考えれば一週間ぶりで、しょっちゅう留守にしがちな部屋は、生活臭がさっぱり染みつかないせいかちっとも家って感じがしない。隣に住む韓国人夫婦の喧嘩の声、ついでに仲直りのあの声がうるさいのも辟易する原因のひとつ。
 たまに寝に帰るだけの場所に愛着もてないのは当たり前か。
 しっとり湿った髪に手をやって風を通す。
 いまどきありえない話だが、俺の部屋には風呂がない。シャワーを浴びたきゃホテルに行くっきゃない。最近は行為のためにシャワーを浴びるんじゃなく、シャワーめあてでホテルに行ってるようなもんだ。
 このへんは入居審査がずさんなアジア系外国人向け安アパートと老朽化した雑居ビルとが混在する胡散臭い地域で、昔はともかく、公園で遊ぶ子供なんか今は殆どいないのだろう。酔っ払いの喧騒華やぐ歓楽街からは一駅離れており、雑居ビルが聳え立つ谷間に存在するせいか存在自体知らず素通りする人間が多い。
 日照権妨害で裁判おこしたら多額の賠償金ふんだくれそうな立地条件の悪さ。
 もとは見晴らしよい通りに面してたのが、後からどんどんビルが建て増しされ囲い込まれてしまったらしい。どん詰まりとか行き止まりとか、そういう不景気な言葉が似合う場所だ。
 二口目を喫おうとして、中央に建つコンクリートドームの麓に動く影を見つける。
 トンネルの奥の暗がりに人がいる。寝返りを打つ。一瞬、目の錯覚を疑う。
 やっぱりいた。
 子供がよじのぼり遊ぶため、限りなく球に近いなだらかな斜面に凹凸の足場がついたドームのトンネルの中、新聞紙をまとって身を横たえた小汚い男。
 ホームレスだ。
 縄張り争いに負けたのか市に撤去を命じられたのか、どういう事情で流れついたかは定かじゃないが、夜の公園という現実から3センチ軸がずれた非日常空間に自分以外のだれかがいるという状況が落ち着かず、なんとなく気になって目で追う。
 と、男がのそりと起き上がる。
 毛布代わりの古新聞をどけて、トンネルからのそのそ這い出し、寝ぼけ眼であたりを見回す。
 視線がぶつかる。
 面倒なことになったと舌を打つ。寄り道なんかせずとっととアパートに帰りゃよかった。
 謎のホームレス男は、ブランコに腰掛けた俺のもとへ寄ってくるや、フケと脂の浮いたぼさぼさの黒髪に隠れた顔に、負け犬の習性もろだしの卑屈なおもねり笑いを浮かべる。
 金?
 食い物?
 まずはその二択。
 前者は多少あるが、後者は残念、持ち合わせがない。
 頭の中で打算と計算が働き、トラブルを避けて腰を上げる。
 「悪いけど他あたって。俺貧乏だから、あんたが欲しいもんきっとあげらんないよ」
 なめらかに嘘をつき、さりげなくジーパンの横を庇う。そこには剥きだしの万札が三枚入ってる。
 俺が体で稼いだ金、当面の生活費。ホームレス救済という偽善で彩った社会福祉のため募金するつもりはさっぱりない。
 恐喝?それにしちゃ目の前の男から危険な匂いは感じ取れない。
 頭の中で勝率を計算する。
 ひょろりと縦にばかり長い痩躯にボロを纏った男はちっとも強そうじゃない。喧嘩になったら余裕で勝てそう。いざとなったら殴り倒して逃げると決意し、腹をくくる。
 いつ豹変し殴りかかってくるかと浅く腰を浮かせ牽制する俺をよそに、男は赤く爆ぜる煙草の先端を凝視する。
 前髪が両目どころか鼻の頭まで覆ってるせいで表情がまったく読めず不気味。
 かつん、かつん。蛾と電灯の衝突音が性急に鼓膜を打つ。
 おもむろに男が手を出し、幼児がおやつ頂戴するような無邪気なポーズで催促。
 「それ、くれ」
 「どれ?」
 「あんたが喫ってるもん」
 男が物欲しげに見つめていたのは俺本体じゃなく、俺の口元の煙草だった。
 煙草をつまんで口からはなし、軽く叩いて灰を落とす。
 「……自分で買えば」
 「金がない」
 「お断り。変なビョーキ伝染すかもしんないし」
 「伝染す?伝染るじゃなくて?」
 「売り専だから、俺」
 困惑顔の男に対し、さあ、引くなら引けよとあっけらかんと言い放つ。
 初対面の他人、それも素性の知れぬホームレスなんかに職業をばらしたのは、それが一番手っ取り早く撤退させる口実と踏んだのと、いつもの欝が訪れて自暴自棄な気分に急傾斜したせいだ。今夜の客ははずれだった。
 一体どういう反応をするだろう。嘲り、蔑み、哀れみ?
 しかし、男が返した反応はそのどれとも違う。
 煙草から俺の顔へと視線を移し、まじまじと見つめて、不潔な前髪から覗く口元にシャイな微笑を添える。
 ホームレスのくせにシンナーで溶けもせず、やや黄みがかってるのを除けば、健康的で綺麗な歯並びだった。
 「あんた、いいやつだな」
 「は?」
 「俺のなり見た上で、伝染るほうより伝染すほう心配してくれた。いいやつだよ。いいやつだからきっと、煙草を譲ってくれる」
 見え見えのお世辞にあきれる。
 「……そんなほめられ方したの、生まれて初めて」
 肩透かしをくって呟けば、好感を得たと勘違いした男が、下心満載の笑みを口元にちらつかせ揉み手でおこぼれを待つ。
 リバージブルな態度に、図々しい男だなあとむかっぱらがたつ。
 「いいよ。手えだせ」
 偉そうに顎をしゃくる。
 男が歓喜に顔を輝かせ―髪に隠れて見えないが、どこまでもゲンキンに嬉しそうな雰囲気が伝わる―突き出した右手に、煙草の灰を落とす。
 「あつっ!?」
 仰天し、反射的に右手を引っ込める男。
 火傷した右手を大げさに庇って痛がる気の毒な姿がおかしみを誘って、ブランコからすべり落ちんばかりに手足をばたつかせ笑い転げる。
 「もうちょっと人を疑えよ、ホームレス」
 「前言撤回。意地悪だ、あんた」
 「どうも」
 口を尖らせ手の火傷にふうふう息を吹きかける男に肩を竦めてみせる。
 俺より年上なんだろうけど、やることがいちいちガキっぽい。具体的に何歳くらいか想像つかない。年齢年齢不詳の男は、無精ひげの散った顎を人さし指で掻いて、恨めしさと羨ましさが半々の上目遣いで俺の喫う煙草を見つめている。見つめつづける。
 「ちっ」
 ずっと見られてたんじゃ気が散る。落ち着いて煙草が喫えやしない。
 正面に立つ男の視線に辟易、まだ半分も残った煙草を地面に捨て、ブランコを立つ。
 俺が立ち上がると同時に待ってましたと這い蹲り、せこい手つきで吸殻をつまみあげ口に持っていく。
 俺が捨てた吸殻のおこぼれに預かる男を、公園を去りかけ、呆れ顔で見つめる。
 「よく人が口つけたもん喫えるな」
 「唾液で感染する病気なのか」
 「ちがうけど」
 「もっと汚いもんしゃぶっておまんま食ってんだろ、あんたは。とやかく言われる筋合いねえな」
 きわどい冗談だ。俺がもう少しへそまがりだったら、きっと気分を悪くしただろう。
 こいつは間違いなく変人だ。
 公園で寝起きする夜の住人、ボロ新聞を纏った不潔なホームレス、ぼさぼさの黒髪は無造作に伸びっぱなしで無精ひげが生えている。俺の足元に這いつくばって、吸殻を拾い、ちびちび一口ずつ味わうようにそれを喫っては細く煙を吐く。
 ついさっきまで俺が銜えてた煙草をすぱすぱやってくつろぐホームレスに、むきになって言い返す。
 「他人の捨てたもんを四つんばいでかき集める社会のクズよか、体でおまんま稼ぐクズのがちょっとはマシだろ」
 「所詮おなじクズ。同類。仲間」
 俺と自分を指さしホームレスが知ったかぶって嘯く。
 言えてる。クズが優劣を競ってもむなしくなるだけだ。お互い社会の底辺を這いずり回るのが似合う。
 「仲間じゃねーし」
 ただ、それだけは訂正しておく。勝手に仲間にされちゃたまらない。
 相手から見てどうだろうが、俺はまだ、男のいるゴミ溜めまで落ちちゃない。
 名前も知らないホームレスは、立ち去りかけた俺に質問をかぶせる。
 「近所に住んでんの?時々座ってるけど」
 「あんたあんた気安く呼ぶな。質問は、ノーコメント」
 「つれねえなあ。いいじゃんか、一本の煙草を喫い回した仲なんだから」
 「お前が勝手に拾って喫っただけ。俺、関係なし」
 人恋しいのだろうか、とぼけた調子で話しかけてくる男をそっけなくあしらう。
 もう無視して帰ることにする。ジーパンのポケットに手を突っ込んで、公園を突っ切るさなか、男の声が上がる。
 「帰り、気をつけろよ」
 思わず振り向いてしまう。
 男は自分がたった今放った文句に困惑し、ごまかすように笑う。
 「……何に?」
 「……車とか痴漢とか?」
 煙草恵んでくれた恩人に死なれちゃ寝覚めが悪いし、と、冗談めかしつけくわえる。
 肩を竦め、再び歩き出す。
 公園の出口で振り返れば、男はまだブランコのところにいて、地べたに座りこんで煙草を吹かしている。
 間接キスだな、とどうでもいい事が一瞬頭に浮かび、振り払う。
 そういえば、だれかに「気をつけて」なんて言われた事はひさしくなかったと思いながら、俺は家路についた。

 翌日も公園に寄った。
 男は相変わらずそこにいた。どうやらトンネルをねぐらにしてるらしい。
 俺がブランコに腰掛けるのを見計らい穴ぐらからもそもそ出てくるや、デジャビュをもよおす足取りで接近し、厚顔無恥に煙草をねだる。
 「くれ。煙草。はやく」
 「単語でしゃべるな」
 両手をそろえて突き出す。
 くれないのかと恨めしげな上目で睨まれ、絡まれるのもいやだから舌打ちひとつ、百円ライターで火をつけたばかりの煙草を回す。
 「さんきゅー」
 男は一口ずつ、天に感謝するようにしみじみとニコチンを味わう。むしろ目の前の俺という恩人に感謝しろ。
 完全に俺の正面に座り込んだ男を前かがみに睨みつけ、嫌味を言う。
 「あんたさ、昼間もここにいんの。親子連れにいやがられない?」
 「人に嫌われるのは慣れてる。……てのは冗談で、俺がいるってわかってるから、最近は親子連れもよってこない。昼間でも貸切状態」
 「贅沢だね。いい迷惑」
 「あいつらは帰る家があるだけいいだろう。冷蔵庫開けりゃたっぷり食い物が詰まってる。だったら公園くらいホームがレスな俺に明け渡してくれてもいい」
 底辺な会話をしつつ煙草を吹かす。
 紫煙が二筋絡みあって流れていく。
 一日一日と時間を共にするうち、男に対する警戒心は消え失せていた。 
 偉そうな大人は嫌いだが情けない大人は嫌いじゃない。
 十歳は確実に年下だろうガキに拝み手で煙草をたかる男はみじめでおかしみを誘って、帰る家がない者と帰るところがないもの、境遇が近しい者同士の間にゆるやかな連帯感が生まれる。
 俺が分けてやった煙草が減るのがもったいないからと、ちびちび喫う男を見つめ、疑問を述べる。
 「どっから流れてきたんだ?仕事と家族は?」
 「いきなりタブーに触れるねショウネン。ノーコメント」
 「名前は?」
 「自分から名乗れ」
 「司。おっさんは」
 「ななし」
 「うわつまんねー」
 おっさんと言っちまったが、よく見れば意外に若い。
 垢じみた前髪を伸ばしっぱなしにしてるせいで年齢不詳の不気味な雰囲気が漂うが、ちゃんとひげをあたれば二十代でとおるかもしれない。
 錆びたブランコをきこきこ揺らしつつ、ななしのホームレスに勝手なあだ名をつける。
 「ナナシさんはいっつもここにいンの?」
 「漂流は飽きた。しばらくここに定住予定」
 「迷惑だね、子供たちに」
 「現代っ子は家でゲームしてろ。公園は大人に譲れ」
 「んな無茶苦茶な」
 「こっちは身ひとつで暮らしてんだ、ぬくぬく親に保護されてるガキめらに遠慮する義理はねえ」
 「大人げねー大人」
 いっそ潔いほど開き直るナナシにあきれて苦笑する。
 ナナシとはそれから毎夜公園で顔をあわせた。
 俺はアパートへの帰途にある公園に寄り、短いときで三十分、長い時で二時間、ナナシと煙草を分け合うついでに他愛ない話をする。
 いつしかナナシとの会話が楽しみになっていた。
 どうせアパートに帰っても寝るだけで、他にすることもない。
 時々、最終電車のシートに置きっぱなしにされてる漫画雑誌や週刊誌をナナシのために持ち帰った。ナナシはこの土産を大いに喜んで、食いつくように読み漁った。たまに財布をはたいてナナシの分まで弁当を買ってやった。俺が「ほれ」とコンビニの袋を掲げると、ナナシは熱心に読んでた週刊誌をほっぽりだし、それこそよだれをたらした犬のような勢いで駆け寄ってきて土下座で仰がんばかりだった。夢中で弁当をがっつき、たまに喉に詰まらせ目を白黒させるナナシにミネラルウォーターをさしだしながら、ああ、野良猫の餌付けにはまる年寄りってこんな気分なのかなあと感慨に耽った。
 ナナシは臭かった。じきその匂いにも慣れた。一緒にいるのは苦にならなかった。
 俺もナナシもひとりぼっちで、世間さまから後ろ指さされる存在で、だからつまりそういうことなのだろう。
 不覚にも、不本意にも、ぬるい愛着を抱いちまった理由は。
 「ナナシさん、毎日体洗ってる?」
 「もちろん、そこの公衆トイレで。暑い日は水飲み場で頭っからシャワーをかぶる」
 公園の隅の公衆トイレとコンクリートで固めた水のみ場とを交互に箸でさす。
 「お前も一緒に浴びるか?水しかでねえけど気持ちいいぜ夏は」
 「頭がおかしいとおもわれたくないから遠慮しとく」
 「ところで、つかさ」
 賞味期限寸前の値引きセールで売り叩かれてた弁当のからあげを美味そうに頬張りつつ、割り箸の先端で、ちょんと俺の鎖骨をつつく。
 「痣がある」
 「見せてるんだよ」
 「見せてどうするんだよ」
 「……営業?」
 「……買う金ねえぞ」
 ナナシが渋面を作り、割り箸をひっこめ、再び食事に戻る。
 伸びきったТシャツの襟ぐりを引っ張り、血の寄り集まった鎖骨の痣を隠す。
 足元でにゃあと声が湧く。同時に目をやればナナシの足元にいつのまにか猫がすりよっていた。
 「おお、唐十郎」
 がりがりに痩せ細った野良猫にナナシは箸を止め笑顔で挨拶する。
 「何その歌舞伎役者みてーな名前の猫」
 「からあげが好きだからからじゅうろう」
 「まんまじゃん」
 唐十郎と呼ばれた猫は名前にふさわしからぬ薄汚さで、ギャップが笑いを誘う。
 「猫にはモテるんだよね、俺」
 「同じ匂いしてんじゃねーの」
 「マタタビ臭するか?」
 「トイレと間違えてんだよ」
 「あの砂場このへんの野良のトイレになってんだ」
 「……食欲失せる情報どうもありがとう」
 ナナシはいそいそと浮かれて、からあげをひとつつまんでやる。箸の先に挟んだからあげをぱっとくわえるや、猫はもう用はないとばかり駆け去って、公園を囲う茂みにとびこんで姿を消す。 
 「……ゲンキンな猫」
 「だれかさんとそっくりだ」
 そっけない猫に気を悪くしたふうもなくナナシがからから笑う。
 消えた猫の行方をぼんやり追って、ずっと頭の隅にひっかかっていた疑問を独白。
 「………あんたはさあ、気持ち悪くねえの」
 「うん?」
 「俺、男と寝てんだよ」
 金のために。続く言葉は口の中で言うにとどめ、ブランコの鎖を握り反応をうかがう。
 初対面で男娼とばらした時からナナシの態度は一貫して変わらない。
 嫌悪も同情もそこには存在せず、無関心と許容が同義の、適度な距離の心地よさがある。
 「男に尻貸すなんて気持ち悪くね?想像できないって人、結構いるし。離れてったダチもいるし。……俺、まだ若いから、選ぶ客さえ間違えなけりゃ割かしいい金になるんだけどさ」
 「好きか、仕事」
 「……好きとかきらいとか考えた事ないけど、割がいいし、ラクだから。バイトも……俺みたいな補導歴ありの中卒、なかなか雇ってくんなくて」
 「中卒なのか」
 「……いや、ウソ。ほんとは中学中退。卒業してねーの。色々あってさ、中学まともに通ってないんだ。小学校も行ったり行かなかったりで」
 俺の告白に、ナナシはぎょっと目をひん剥いて仰天の表情を作る。
 「そりゃーまずいぞ。因数分解と平方根は知らなくても世の中渡ってけるが、割り算とかけ算はできたほうが断然便利だ」
 「ばかにすんな、九九はできる」
 「ろくは?」
 「しじゅうはち」
 「おー」
 ナナシが間延びした拍手をする。馬鹿にされてるようで腹が立つ。
 不機嫌に黙り込んだ俺に気付いて拍手をやめ、してやったりと口元をひん曲げる。
 「不幸自慢なら煙草一本でつきあう」
 がめついおっさんだ。
 しぶしぶ懐から煙草を取り出し、その口に突っ込む。
 食後の一服とばかり、ナナシは目を細め実にうまそうに煙草をふかす。
 口元だけでも案外表情豊かだ。不機嫌な時は右の口端がくいと下がるから一発でわかる。
 本日はご機嫌麗しいご様子で、くわえた煙草の先端をちょいと振って、火をつけろと促す。
 「ホストかよ俺は。甘えんな」
 「いいじゃねえか、サービスしろよ。大人は敬うもんだぜ」
 「税金払ってる大人しか尊敬すんなって言われて育ったけどな」
 「……かっわいくねー」
 ほら、右の口角が下がって窪みができる。
 一度すねると面倒くさいので、降参し肩を竦め、先端にライターの火を近づける。
 「まだ若いだろ、お前。17かそこらで仕事なんざさがせばいくらでもある、えり好みさえしなけりゃな」
 「ナナシさんはどんな仕事してきたの」
 「やばい仕事」
 「ヤクザの使いパシリ?」
 あてずっぽうで指摘すれば、煙草をつまんだナナシの目が過去に焦点を合わせ、若干鋭くなる。
 「やっぱな。どーせなんかヘマやらかして組追われたんだろ、そんで全国漂流中なんだ」
 「滅相もない。ただの児童公園マニアのホームレスさ」
 「うそつけ」
 ふたり、声を合わせ笑う。
 危険な奴には見えないが、ナナシにはどこか浮世離れした達観じみたものがつきまとっていた。
 人生の辛酸をいやというほど噛みしめたホームレス特有の諦観というよりは、若い頃から人間のどす汚い部分をくさるほど見てきたが故の韜晦と倦怠に似ていた。
 ナナシは指の股に煙草を預け、窄めた口からふーっと紫煙を吐く。
 「過去つったって語るほどのもんはねえ。普通の会社に勤めるごくごく平凡なサラリーマンだったのが、あっけなく会社が倒産してぽーんと放り出された。そっからはお決まりのコース。不況の時代で再就職の口なくてやけンなって、憂さ晴らしの競馬やパチンコにどっぷりはまって、サラ金からの借金がどんどん膨れ上がって……で、どうにもならなくなって今に至る」
 「ホントありがち」
 憎まれ口を叩けば、ナナシはなぜかくすぐったそうに「だろう?」と歯を見せて笑った。

 夜毎奇妙な逢瀬を重ねるごと、俺はナナシに惹かれていった。
 その事を自覚したのは、随分遅かったけど。
 こんな小汚い、得体の知れない男に惹かれるなんて自分でも予想外の展開だったけれど、ナナシといると妙に心が安らいだ。
 スレた生き方をしてきた者同士波長が共鳴し、暗黙の内に共感が通い合う。
 トモダチでもない、家族でもない、夜の公園でほんのひとときじゃれあうだけの希薄な関係なのに、こんなにはまっちまうなんて。

 「万有引力とは引き合う孤独の力である」

 ある日突然、ナナシが言い出した。
 「……哲学?」
 「詩だよ。谷川俊太郎。……好きなんだ」
 照れたようにつけくわえる。
 「がつんとくるフレーズだろう」 
 それは、いつもの延長線上の夜だった。
 ただ違うのは、俺の顔にはサドな男に殴られた痣がくっきりと映えて、ナナシはその日の昼、小学生の襲撃を受けて擦り傷だらけだった。公園入ってお互いのつらを見るなり、爆笑しちまった。
 男前が上がった理由をからかい半分不審半分に問えば、金属バッドをひっさげ集団で殴りこんできた悪ガキどもを素手で勇敢に返り討ったと自慢した。
 ナナシは自らの力で砦を守り抜いたのだ。
 勝利の代償は相応に高くついた模様で、左目のまわりにコントみたいなどす黒い痣ができてる。
 しゃべるたびに痛むらしく左右非対称に顔を痙攣させつつ、右手をさかんにひらつかせ、ナナシは愚痴をぶちまける。
 「中学生ならともかく小学生だぜ?最近の親はどういう躾してんだよ、せめて金属バッドはやめろよ、普通の木のにしろ。骨折したって病院の世話になる金なんかねーぞ、こっちは。無職舐めんなよ」
 「相変わらずサバイバルな毎日おくってんね」
 ナナシのしぶとさおよび図太さに感心。
 ナナシは俺が二十四時間営業のドラッグストアで急遽買ってきたバンドエイドと消毒液で、涙目で手こずりつつけがを治療していた。被害は顔の痣だけに留まらず、文字通り一張羅のトレンチコートは電灯に照らされ、カラフルなまだら模様に染まっていた。
 ナナシを襲撃した悪ガキどもが「殺菌消毒!」と調子こいた奇声を発しスプレーを噴射したのだ。
 「ったく、とんでもねーギャングエイジどもだ」
 「最近のガキはやることえぐい」
 「他人行儀に言うなよ、お前だって十分ガキじゃんか」
 完全に他人事な俺の口ぶりに笑うも、「あつっ」と顔を顰める一人芝居。
 滑稽な渋面を作るナナシを指さし笑い、突っ込む。
 「小学生相手に大人げなさかなぐり捨てて立ち向かうどっかのホームレスに言われたかないね」
 「大人げをかなぐり捨てなきゃ守れないもんだってある」
 平然と振舞おうと懸命に努力してるが、傍若無人なギャングと化した小学生に遊び半分の襲撃を受けたショックは相応にでかいらしく、大人のプライドを傷つけられたナナシは憤慨する。
 「ナナシさん襲ったガキの気持ちちょっとわかる。からかうと面白いんだもん、癖になる」
 「……ガキの頃のお前が目に浮かぶぜ。さぞかし悪さし放題の悪ガキだったんだろうさ。愚連隊気取りで窓ガラス割って回って、無免許でバイク乗り回して、トルエン吸ってトリップしまくってたんだろ」
 「何それ」
 「知らないのか、愚連隊」
 「初耳」
 「……ジェネーレションギャップ……」
 ナナシが遠い目を虚空に泳がせる。
 話を元に戻す。
 「で、なんでいきなり谷川俊太郎?詩なんか読むんだ、意外」
 「馬鹿言え、もう何年も本なんか読んでねー」
 「じゃあなんで知ってんだよ」
 矛盾した言動を突っ込めば、ナナシが首を傾げる。
 「国語の教科書に載ってたろ?」
 「……中学の教科書は手癖がつく前にぜーんぶ投げちまいましてねー」
 知ってるくせに性悪なおっさんだ。
 ふてくされる俺に苦笑し、ナナシがふっと目を和ませる。
 「……もう何年も忘れてたんだけど。あいつら見てたらさ、ふっと思い出した」
 ナナシが視線をとばした方向をつられて振り仰げば、ジジジと発光する電灯の信管に、頭の悪い蛾が性懲りなく体当たりを繰り返していた。
 荒廃の闇に沈む公園を唯一照らす電灯の光にひきつけられ、翅を灼かれてもなお体当たりをやめぬ蛾の生態と照らし合わせ、不可解な発言に納得いく。
 翅を焦がし電灯にぶつかり、死ぬまで光を乞う蛾。
 多分、俺が公園に通うのと同じ理由で。
 ナナシは自分で包帯を巻こうとしていたが、根っから不器用なたちらしく包帯が縺れ絡んでしまい、とても見ちゃいられない。
 「貸してみ。やる」
 「え?……いいって」 
 「俺にさわられんのいや?」
 冗談めかし聞く。ナナシは言葉に詰まる。降参。
 袖をまくりあげて手足の擦り傷を処置するさなか、偶然覗き込んだ股間に懸念が宿る。
 「ちゃんと洗わねーと病気になるよ。毛ジラミも沸くし」
 「失礼な、毎日洗ってるっつの。トイレのちびた石鹸使って」 
 「毎日どこで寝てんの?あそこ?場所かえねーの」
 公園のど真ん中、こんもり目立つコンクリートのドームに顎をしゃくる。
 灯台代わりの常夜灯が定点に光を投げかける公園において、おわんを伏せたような形のそのドームは墳墓さながら非現実的な存在感を示す。
 「雨風しのぐ天井と壁があって、寝る場所が平らなら文句は言わねえ」
 ナナシはコンクリートトンネルを住処にしている。
 「慣れれば結構快適だ。夜の駅とか追い出されっし、他のホームレスがいるとこは変な派閥ができて人間関係面倒くせえし……川原とか駐車場とか色々行ったけど、ここが一番落ち着く」
 「ホームレスにも派閥とかあんの?」
 「あるとも。ダンボールハウスが3センチ自分の陣地に寄ってるとかでキレるいかれたジジィもいりゃ、酒がないから代わりにどっからかかっぱらってきたしょうゆをイッキして救急車で運ばれたどうしようもねえアル中ジジィもいたし。しょうゆだぜ?信じられっか、ウオッカより危険なんだぞ、あれ」
 「ははっ」
 しかめつらのナナシにつられ、久しぶりに声を出して笑う。
 俺と出会うまでにも色んな人の間を渡り歩き、悲喜こもごもに彩られた出会いと別れを繰り返してきたのだろうナナシに、憧憬とも羨望ともつかぬ眩い感情を抱く。
 同時に、ワケありっぽいナナシの過去について知りたいという欲求が芽生える。
 ナナシはどこを見てるかわからない目を俺の手に落とし、雨だれに似たリズムでぽつぽつしゃべりだす。
 「そのじいさんが救急車で運ばれた時、付き添ったんだよ、俺。他に付き添うやつもいねえし、そこらのダンボールハウスから沸いた野次馬は役に立たねえし、仕方なく……お隣さんだったんだよな。歯も抜けまくって、なに言ってんだかわかんねえよぼよぼの年寄りだったんだけど、大丈夫か、じいさん、しっかりしろ、急性アルコール中毒ならともかく急性醤油中毒なんて死因を死亡診断書に書かれたら恥ずかしくて浮かばれねえぞって発破かけてさ。じいさん乗っけた担架が救急車の後ろに運び込まれる時、何かが落っこちて。保険証かなって拾ったら……」
 「なんだったわけ?」
 「レシート。コンビニの」
 「はあ?」 
 予想外の答えに思わず処置の手を止める。ナナシはひどく優しい目をして続ける。
 「ウソのようなホントの話、じいさん、コンビニのレシートをお守りがわりにしてたんだよ。最初は意味わかんなかった、生きるか死ぬかの一大事になんでレシート握り締めてんだよ、他にもっと大事なもんあるだろって……思うよな、普通さ。ワケはあとでわかった。じいさんが病院に強制入院したあと、ホームレス仲間のおっさんがこっそり教えてくれたんだ。じいさんが持ってたレシート、じいさんがよく廃棄弁当漁りに行くコンビニのでさ。そこの店員はじいさん見るといやな顔するか追っ払うかのどちらかなんだけど、一人だけ優しくしてくれる女子高生バイトがいて、その子、じいさんの孫とおなじ年齢で。一回だけ、なけなしの小銭をはたいて、その子から缶コーヒーを買ったんだ。しわしわで垢だらけのきったない手で、普通そんな手を見せたらうわばっちいって引くのに、すげー丁寧に、こう、包み込むようにしてレシート渡してくれたんだって。それがよっぽど嬉しかったみたいで、お守り代わりに上着に入れて持ち歩いてたんだ。……じいさん、ボケてたから。バイトの子をホントの孫だって思い込んでたのかも」
 悲哀の光といとおしむようなぬくもりを目に同居させ、ナナシが結論づける。
 「あのくしゃくしゃのレシートはじいさんにとって、何年かぶりに人に優しくしてもらった思い出そのものだったんだ」
 「………ほらよ。終わり」
 ナナシの膝を軽く叩いて終了を告げる。
 余ったバンドエイドを袋にしまいつつ、できるだけ興奮を抑えた声で先を促す。
 「で、そのじいさんはどうしたの。生きてんのか」
 「さあな」
 「さあって、」
 「じいさんが帰ってくる前に、俺、よそに移ったから。揉め事がおきてさ」
 そう言われちゃこっちとしても引き下がるしかない。釈然としないが。
 だが、俺より誰より一番じいさんの事を心配して無事を祈ってるのはナナシなんだろうなと、がらにもなく憂いに沈んだ暗鬱な表情で察しがついた。
 醤油イッキじいさんの生死は曖昧にぼかし、ズボンを引き上げながら、ナナシはさりげなく聞く。
 「お前、家族いんの」
 「なし。施設育ちだから、俺」
 「……そっか」
 「ウリなんかやってないでとっとと親んとこ戻れって説教するつもりだった?」
 くさくさした気分で攻撃的に問えば、ナナシはばつ悪げに頬をかき、伸びきった前髪の奥から困惑した視線を放る。
 闇の中、地べたに座り込んで重苦しく黙り込んだナナシに向かい、年下の俺のほうが大人げなさを自覚する。
 「……止めてくれる人間いたらこんな商売やってねーって」
 妙な雰囲気だ。いやに胸が騒ぐ。俺はナナシのことを何も知らない、どうしてナナシがホームレスになったのかとか家族や仕事はどうしたのかという最低限の情報さえ知らない、ナナシの過去について何も知らない。俺が知ってるのは今のナナシだけ。いつのまにか近所の児童公園に居ついたホームレス、引きずるくらい裾が長い灰色のトレンチコートにシャツという不潔な格好、無造作に伸びた前髪は脂じみて顔を隠す。
 年齢不詳、正体不明。
 夜の公園でひととき煙草を分け合い、くだらない話をするだけの定義しづらい間柄。お互いの事を何も知らない、ナナシは俺の名字を知らない、俺はナナシの本名を知らない。知らない尽くしの関係で、ナナシが知ってるのは俺が売り専の男娼だって事と、好きな煙草の銘柄くらいのもので
 だから俺は、俺がこうなるに至った十七年の経緯ってのを、簡単に説明してやる。
 「俺さ、漫画喫茶のゴミ箱で見つかったの」
 ブランコに腰掛け、鎖に指を絡める。スニーカーの靴裏で地面を軽く蹴り、力を入れず惰性でこぐ。唐突な出だしにナナシが面食らう。
 夜を泳ぐようにブランコをこぎつつ言う。
 「漫画喫茶のトイレのゴミ箱に突っ込まれてたんだ、へその緒ついた状態で。トイレの個室で産み落として、たまたま目についたゴミ箱に突っ込んだんだろうって話。どんな親だか知んねーけど、ろくな親じゃないんだろうって、それだけでわかる。駅のロッカーならまだしも漫喫のトイレのゴミ箱だぜ?回収にきた店員がぶったまげて腰抜かしたって施設の職員にあとから聞かされて不覚にも爆笑しちまった。よくへその緒絡んで窒息死しなかったなあって悪運に感心したけど……ゴミがどんどん上のっかって圧死してた可能性もありか。ま、そんなわけで、一応息のある状態で救出されたんだけど、とうとう親は名乗りでなくて、結局乳児院から施設送り。多分さ、最初からそのつもりで満喫入ったんだよ。トイレで産み落として、そこに放置してとんずらこくつもりだったんだ」
 産まれた時の事なんか覚えてない。記憶がなくてよかったと思う。もし覚えてたら、かなり深刻な閉所恐怖症になってただろう。
 軽く地面を蹴って、次第に力を込めてブランコを押し出す。風を切ってこぎながら、冷めた声で続ける。
 「で、またありがちな話、俺が送られた施設ってのが酷いとこでさ。職員は最低な連中ばっか、殴る蹴る飯抜きは当たり前、おねしょしたガキは素っ裸に剥かれて一晩中トイレに閉じ込められた。チンコをこう、輪ゴムでぐるぐる巻きにされてたさ……俺も何回かされたけど、すっげー痛てえの、あれ。炎症おこして、病院に運ばれたガキもいたっけ」
 施設では職員による折檻が横行していた。児童虐待。あそこはとても賑やかな地獄だった。
 歪んだ口元に自嘲と自虐の入り混じった笑みがちらつく。
 しみったれた過去を振り切るように勢いをつけ、ブランコをこぐ。
 「職員に一人変態がいてさ。小3の時、妙に寝苦しいし、ごそごそ音がするから妙におもって目を開けたら、上にでっけえ影がのっかって動いてるの。なにしてるのって聞いたら口ふさがれて、もう一方の手でパジャマむしられて……さんざんいじくり倒されて、わけわかんなかった。精通もまだだったから、快感とか全然ねえの。しょうべん我慢してるみたいなむずむずした感じがずっと続いて、気持ち悪かった」
 行為は夜毎エスカレートしていった。
 俺が脅しに怯えてばらさないとみるや、職員はどんどん大胆になっていた。
 「……最後まで行かなかった。しゃぶらせるだけで満足してた、相手は。さんざん指や舌突っ込まれたけど、とうとうアレは入れてこなかった」
 まだ剥けてもない未熟な子供のペニスをいじくり倒しながら、職員は息を荒げ、さんざん卑猥な文句を吐いた。
 四つんばいにさせられ、後ろの穴に指を突っ込まれ揉み解される間中、シーツを噛んで必死に悲鳴を押し殺した。
 髪の間を通る指の感触も体の裏表をくまなく這う舌の感触も尻の穴をほじくる指が与える痛みも、精通を迎えてない、皮も剥けてない小学生のガキにとっては真っ黒い苦痛と恐怖でしかなかったが、俺が痛がるばかりでちっとも感じないと職員が不機嫌になってますます酷くするから、いつ頃か職員の機嫌を損ねたくない一心で女みたいに甘い声を上げ、腰を振り、幼稚な媚態を演じるようになった。
 誰からも祝福されない男娼人生のはじまりはじまり。
 「フェラチオもシックスティーナインも、ぜんぶそいつに手ほどきを受けた。俺に入れなかったのは、多分、血とかたくさんでてシーツが汚れんの警戒したから。自分の性癖がまわりにばれんのが怖かったんだ」
 「ずっと我慢してたのか」
 「中学で追ン出た。それからずっと男の相手して暮らしてる。本番が追加されただけで、やってることは昔と変わんねえ」
 指と口で俺を犯した職員の顔は、俺の体の上を通りすぎていった色んな男たちと混じり合い溶け合って今では上手く思い出せない。
 「……結構性にあってるよ、この商売。俺さ、セックス上手いんだぜ。人気者。若いから締まってるし、もうしばらくは食っぱぐれずにすむ……」
 「俺がやめろって言ったらやめるか?」

 不意打ちだった。

 靴裏で砂を蹴立てブレーキをかける。
 鎖を握った手がずりおち、虚を衝かれた声が不自然に上擦る。
 「………何、いきなり」
 ぎこちなく笑って冗談にするつもりだった。しかし、ナナシは笑わない。
 ブランコに腰掛け、顔筋を引き攣らせ滑稽に笑う俺に向き合い、真剣な顔つきでくりかえす。
 「俺がさ。やめてくれって頼んだら、好きでもない男に体売んの、今日限りでやめるか」
 耳を疑った。
 心のどこかで期待していた言葉、今まで誰からも貰えず貰う事を諦めていた言葉を、目の前のホームレスが真剣に繰り返す。
 なんだこれ。
 これじゃまるで、不幸な身の上話で同情を引いたみたいだ。
 自分の不幸をネタにして、ナナシの同情を誘ったみたいだ。
 やっすい俺。
 やっすい手口。
 こんなやっすい手口にひっかかる男もどうかしてる。
 俺は、哂う。唇の端を皮肉っぽく吊り上げ、台詞に見合いの安い虚勢を張って、せいぜいふてぶてしく性悪な笑みを浮かべてナナシの「お願い」を蹴っ飛ばす。
 「……やめねーよ。やめてどうすんだ、他に仕事みつけんのか。みつかんないよ。保証人もいねえし……金払えなきゃアパートも出てくしかねえし、あんたにやってる弁当、煙草、それ買う金もなくなっちまう」
 とめてほしがってるのか、俺は。ナナシに、この男に、そんな商売はやめろと、クサイ台詞をかけてほしかったのだろうか。
 知らず頬に赤みがさす。胸が高鳴って、手に汗をかいて、自分が動揺してるのが恥ずかしくて、やけっぱちでブランコをこぎまくる。
 「追んだされたら俺んとこ来い。一緒に住もう。結構快適だぜ、コンクリートトンネル。たまに小学生に襲撃されっけどさ、ダンボールで出口ふさいで、バリケード作って。秘密基地ごっこみたいで楽しいぜ、きっと」
 「冗談かよ」
 「半分本気。こっちはいつでも歓迎」
 そしてナナシは両手を広げて快活に笑い、禁じられた王国の領土を誇るかのように、さして広くもない公園のぐるりを見回す。
 「ホームレスの醍醐味を教えて進ぜよう。おちてる吸殻でも美味しく喫える、賞味期限切れの廃棄弁当でも美味しく食える。最低の場所から眺めりゃなんだって最高さ」
 目からうろこが落ちた。
 あざやかな発想の転換、視点の移動を示唆され、世界の見方ががらりと変わる。
 両手を広げたナナシの背景にはお馴染みの遊具がたたずみ、常夜灯が白く照らす、ちっぽけな王国の全土が浮上する。
 薄汚れた雑居ビルに挟まれ存在自体忘却された廃墟の公園に、大胆な宣言が響く。
 俺に斬新な見方を提示したナナシはといえば、かっこつけた自覚はあるのか、照れたように前髪をかきあげる。
 伸びきった前髪が上がり、一瞬だけ暴かれた素顔は意外に若々しく、外気に晒された両目はしてやったりと小癪な笑みを含んで。

 ああ、まずいなあ畜生誤算だと思いつつ、その瞬間恋に落ちた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ナナシノハナシ]
ナナシノハナシ | コメント(-) | 20010508222312 | 編集

 「うぶ、うぐ、あぶ」
 ステンレスの棒状ギャグを噛まされた口から飲み干しきれない涎が滴る。
 鋭く風切る音に続き、鎌首もたげた蛇さながらの俊敏さで鞭が肩に食らいつく。
 「んんーっ!!」
 体のあちこちで続けざま激痛が爆ぜのたうつ、皮膚が裂けて血が滲み醜悪なみみず腫れが縦横斜めに走るのを熱の分布として感じる。
 「!!あぅぐ、ぅぶ」
 鞭が乳首を掠め一際鋭い痛みが駆け抜け全身が痙攣、喉が反って大量の唾液がほとばしるも悲鳴はギグに阻まれくぐもった嗚咽にしかならない。
 「淫乱のクソガキ、変態野郎、どうだとっときの乗馬鞭の味は、美味しいかたっぷり食らえ感謝して召し上がれ、鞭で死ぬほどぶっ叩かれりゃ使い古しのガバガバケツマンもちょっとは締まるだろうさ、ははっ」
 風切る唸りを上げて撓る鞭が無防備に吊られた体を打擲、両腕を縛られ吊るされ無抵抗のまま折檻を受ける。
 男が使うのは本格的な乗馬鞭で太くてよく撓って皮膚に無数の裂傷を刻む、痛い、体中熱に侵されていく、それとは別に股間で滾りたったものを皮製の特殊な拘束具で塞き止められ射精できない苦しみに気が狂いそうだ。
 いま自分の体がどうなってるかわからないしわかりたくない、でもろくなことになってないだろうと予想がつく、前からぼたぼた雫が滴る、皮製のリングは根元にきつく食い込んでペニスを痛めつける。
 爪先立つ、バランスをとる、両腕を縛り上げた縄がぎしぎし軋む、体を左右に揺らすごと後ろに突っ込まれたバイブが電動の唸りを上げて前立腺を責め抜く。
 姿勢を保つのが辛い、腕が抜けそうだ、解放してくれ。
 一秒でも早くロープが擦り切れよと腕をよじる、暴れれば暴れるほど前を塞き止めたリングと後ろのバイブとが圧迫して快感が沸騰する、せめてギグが外れれば助けてと哀願できる、死に物狂いで顔を振ってギグを吐き出そうと努めるもむだで再び鞭が飛ぶ。
 「凄いな、魚みたいに飛び跳ねる、前からぼたぼた涙たらして悦んでやがる、極太バイブがよっぽどお気に召したかなあ司、お前のがばがばケツマンにはそれだってゆるいくらいだろ、ほら、マックスにしてやっからもっと腰を捻って踊れよ!!」
 暗闇に渦巻く哄笑、カチカチと摘みを回す音に続き衝撃が襲う。
 後ろに挿入されたグロテスクな形状のバイブが、さっきまでとは比較にならない勢いで窄まりを攪拌し、ローションと腸液でぬるつく粘膜にあぶくを吹かせる。
 「んーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 後ろに与えられる強烈な刺激に背骨もへし折れんばかりに仰け反る、バイブの震動は凄まじく腰全体が痺れて前がぎちぎちに膨れ上がる。
 布の裏で白目を剥き射精のない快感を味わう。
 爪先がびくつく、腹筋がひくつく、気が狂う、おかしくなる。
 なんで俺がこんな事してるのかここにいるのかここはどこで今日はいつ、そうだナナシ、目隠しの布の裏瞼の裏浮かぶ前髪の長い男の顔、小汚いホームレスがいつもの公園で俺を待つ、笑って俺を迎える、帰らなきゃ早く、電車に乗ってもうすぐ終電間に合うか不安だ、帰りにコンビニよって売れ残り弁当買って二人で食べる、ナナシはからあげ弁当がよかったと愚痴るが人におごってもらってる身分で贅沢いうなと叱る、ここんとこ定番のやりとり……
 「んぶ、んっぐひぅっ、ぐぅ」
 豚のように鳴く。
 口一杯に詰まったギグのせいで息が吸えず苦しい、酸欠一歩寸前で死と隣り合わせのパニックを来たす、屠殺される豚のように汚い裏声で絶叫する、もがく、苦しい誰か助けてくれお願いだからなんでもするしゃぶるなめる服従する奉仕する隷属する、あんたの言う事なんでも聞くだから痛いのはやだやめてください先生……

 先生?

 無意識に口走った哀願、脳裏に瞬く過去の悪夢の残像、夜中胸のあたりが重苦しくて目が覚めたらのしかかっていた大人の体、汗でねちっこい手で俺の口を塞いでなんて言ったっけ先生は、内緒だよ司お前はおねしょの常習犯だからおちんちんを懲らしめてやる……
 溶けて混ざるごった煮の記憶、とっくに忘れたはずの過去の悪夢の断片が浮上する、振り切れない振り放せない振りほどけない、腕が肩が胸が足が全身が痛い、赤剥けた皮膚に外気が染みてそれだけで塩をすりこまれるような拷問、後ろで凶暴に唸り続けるバイブレーター、屹立したペニスがてらてらと先走りを滲ませる……
 「んんっ、うぶ、ふっぐひぅぐ、あぅうぐ」
 ゆっくりとじらすような動作で後頭部に手が回り、留め金が外される。
 「げほげほげほっ!!」
 呼吸がらくになりむさぼるように酸素を嚥下、薄い胸板を浅く荒く上下させつつ正面に目を凝らす。
 透明な唾液の糸ひき外されたギグに続き目隠しがとかれ、生理的な涙で曇った視界に男の顔を捉える。
 「ぅあ……っ、各務さ、ねがい……前、きつ、ほどいて、死ぬ……後ろ、抜いてください、おねがいしま……」
 「遠慮するなよ司、まだ不満だろ。まだまだ足りないって粘膜が食らいついてくるぜ」
 無造作に鞭をひっさげ歩み寄った男が、口角を吊り上げあざ笑う。
 嗜虐の悦びにぎらつく双眸に、憔悴しきった俺が映る。
 各務が背後に回る。嫌な予感がする。
 激しい震動に耐えかねて三分の二も抜け落ちかけたバイブを、再び深々と抉りこむ。
 「!!―ひあぅっ、あふぁはっ」
 手首に捻りを利かせ一気に挿入されたバイブが腰を殴りつける、俺が勃起した状態より二回りはでかい模造ペニス、カリは誇張され前立腺にごりごり当たる。
 窄めたつま先が突っ張る、喉が仰け反る、各務がバイブを動かす、激しく抜き差しするごと快感の津波が襲い淫乱に喘ぐ。
 「ああっ、あっ、ぅあ、やめ、抜、んあ、あう」
 「気持ちいいか、目えとろんとさせてイきやがってやらしい顔だ、ケツで感じるなんてその年で立派な変態だな、親が泣くぜ」
 「―ん、なの知らね、会ったことね……ひう、はあ!」
 ぐちゃぐちゃドラスティックな抜き差しに合わせ水音がたつ、耳裏をなぞる吐息の湿り気にさえ感じてしまう、イきたいイきたいイかせてくださいごめんなさい許してくださいもう口答えしません、いやいやするようにかぶりを振って許しを請う、焦点をぼかす、体中熱くて熱くて鞭傷から発した熱が全身を苛んで体の中からも外からも責め立てられて 
 「各務さ、っねがい、も、限界……ゆるしへくだはい、ぬいて、謝る、ります……」
 「なにを謝るんだ?」
 肝心の主語を省略した罰とばかり、いや、それを口実にますます残忍に責め立てられる事を単純に喜んで、狂気の形相でバイブをねじこむ。
 俺は―……
 わからない、なに謝るんだっけ、しっかりしろ、思い出さなきゃいつまでたっても終わらない。

 謝ンなきゃいけないようなことしたっけ?
 見つかんなかったらこじつけろ、無理矢理にでも。

 「―……フェラ、んとき、さぼった……舌、よそ見して……不愉快にさせました、ごめんなさい……」
 「それから?」
 「…………縛られんのやだってごねて、手こずらせました、すいません……」
 「ほかには」
 「シーツ、汚しました……大きい方、我慢できなくて……トイレ、間に合わなくて……」
 「俺がここでやれって命令したんだろ?」
 「そう、……そうでした……」
 「なら謝らなくていい、お前は言われたとおりにしたんだ、初潮前のメスガキみてえにべそべそ泣きながらな」
 ぐいと顔を掴まれ無理矢理振り向かされる。
 各務と目が合う。
 「もらしちまったんだろ?我慢できなくて。浣腸されて、ベッドで四つんばいになって」
 「……………」
 「言えよ」
 「……………はい、そうです、もらしました。ガマンできなくて……すいませ……」
 「尻の穴がゆりィな」
 頬に血が上る。唇が勝手に動く。
 こないだ各務に呼び出された時された事二度と思い出したくない記憶が叩き起こされる。
 「いいか?これはな、お仕置きだよ。前も後ろもがばがばのゆるゆるだから、こうやって栓しとかねえと漏らしっぱなしにしちまうだろ」
 口を利く代わりに首を振る、切迫したまなざしで各務を仰ぐ、卑猥な水音伴うバイブの抽送に耽溺し腰を揺すりたてれば各務が鼻で笑う。
 脳裏にちらつくナナシの顔、俺を犯した職員の顔。
 「おねはいしまふ、イかせて、―っあ、は、んんっ!」
 「それだけか?」
 「……俺のケツマン、奥まで、ぶっといバイブ突っ込んでぐちゃぐちゃにして、イかせてください、すごいのくらはい……ぬるぬるちんぽ、一緒にしごいて、はふっ、ふは……」
 呂律が回らずもたつく。教えられた通りの台詞をなぞれば、ようやく満足した各務が、リングを嵌めた俺のペニスをあやすようになで上げる。
 「あぁあああああああああああぁあっ!!」
 バイブの震動が最強に跳ね上がる。
 同時にリングが弾け、極限まで張り詰めたペニスが大量の白濁を吐き出す。
 尿道を通り抜けた熱いものは一度じゃ枯れず、二度三度と痙攣を続け、透明に漉された残滓まで搾り出す。絶頂に達した後もバイブは最強の状態で体内を抉ったまま、凶暴な蠕動を続けている。
 自力で排泄しようと括約筋を収縮させてみるも、既にバイブで苛められ抜かれたそこは弛緩しきって閉じず、ずるりと半端に抜け出たバイブが一滴残らず精液を搾り尽くした下腹にじれったく響く。
 「はあっ、はっ、は……」
 声を上げる気力もなく、ぐったり項垂れる。
 床にザーメンの水溜りができる。
 汗で濡れそぼった髪がばらつき顔にへばりついて不快だ。
 携帯が鳴る。
 各務が迅速に対応、射精に達してなおバイブの責めに条件反射で戦慄く俺をさあ次はどういたぶってやろうかと妄想逞しくねちっこくいやらしい目つきで眺めつつ電話に出る。
 「俺だ。各務だ。……今?プライベートだよ、ほっとけ。……なんだ、知ってんのか。そうだよ、例のガキと遊んでたんだ。声聞くか?可愛いぜ」
 くっくっと笑う。
 部下の受け答えに上機嫌が一転、剣呑な表情に切り替わる。
 「………なんだって?帰ってきた?本当かそりゃ」
 一旦は閉じかけた瞼を余力を振り絞って持ち上げる。
 涙と脂汗が流れ込んで歪む視界に、各務の横顔が映る。
 二年間付き合って初めて見る、余裕を失った表情。
 「ああ?馬鹿が、確かな情報かって聞いてんだよ!でまじゃないんだろうな?見た人間がいるんだな?……ふざけやがって」
 癇性にこめかみがひくつく。ついで目尻が小刻みに痙攣し憤激の前兆を示す。
 「当たり前だ、死ぬ気で捜せ。何人使ってもいい、近日中に引っ張ってこい。他の連中、とくに神崎には出しぬかれるな。捕まえて、爪の二・三枚剥ぎゃすぐ唄うだろうさ」
 物騒な会話。部下に指示を下し携帯を切る。
 バイブの低い電動音で初めて俺の存在を思い出したとばかり振り返り、面倒くさげにロープを解いて突き飛ばす。
 体がぐらつく。床に転げる。
 転倒のはずみにローションと腸液の混じった粘着の糸引いてバイブがずり抜け、その刺激で少量のザーメンをこぼす。
 「………今の電話、組の……」
 「柴田だよ。こないだ会ったろ」
 「迎えに来てた……スキンヘッドの……」
 両手をついて起き上がろうと試みるも、肘が砕けてぶざまに突っ伏す。
 腰が抜けて立ち上がれない。
 バイブが抜け落ちた肛門はひくついて、下腹一面と内腿にザーメンが飛び散って、顔はよだれと涙と体液でべとついて酷い有様だ。
 さんざんかきまぜられた中がぐらぐら煮立つ。
 鞭で打たれた傷がひりつく。
 全裸で這う俺に舌打ちひとつ、邪魔っけに服を投げつける。
 「……なんかあったんですか」
 各務に対しては敬語を使う癖がついた。そうしないと後が怖い。
 「馬鹿がな、戻ってきたんだよ。二年前、組の金を持ち逃げした裏切り者だ。そいつを見た人間がいるんだとさ」
 各務がベッドに腰掛ける。
 のろのろと服を身につけつつ、各務の顔色をうかがう。
 苛立ちと興奮に血走る眼球ぎょろつかせ、各務は饒舌にまくしたてる。
 「馬鹿が、たった二年でほとぼりが冷めたとでもおもってんのか?のこのこ帰ってきやがって。金庫から持ち逃げした三千万の使い道、あらいざらい吐かせてやる」
 「三千万……」
 「そうだ、三千万だ。貧乏人には想像つかねえ額だろ、司」
 各務は俺の愛人兼後見人で、サディスティックな性向の持ち主。
 この街に事務所を構えるヤクザの幹部で、プレイはひどく暴力的かつ変態的だが、金払いはすこぶるいい。
 俺はこいつが嫌いだった。
 こいつは相手を痛めつけることでしかイけない変態ときた。
 実際、呼び出されるたび死ぬほど酷い目に遭う。
 各務が背広の懐から一枚の写真をとりだし、俺のほうへ投げる。
 Tシャツの裾を下ろしてへそを隠し、床におちた写真を拾う。
 「そいつに見覚えねえか」
 「………ぜんぜん知りません」
 事務所の金庫から三千万を持ち逃げし、現在各務を初めとしたヤクザ連中が血眼になって行方を追跡中の男は、ごく平凡で無害そうな顔だちをしていた。
 「この人、なんでそんなことしたんです」
 「知るか。金がほしかったんだろ。可愛いねえちゃん買って欲しいもん買って飲んで騒いでぱーっと使っちまったんじゃねえか」
 動機には興味ない、ただライバルを出し抜き手柄を上げたい野心の塊の各務がてきとうほざく。
 「写真やっから、ぴんときたらすぐ連絡しろ」
 「懸賞金、でるんですか」
 各務が一瞬目を丸くし、この上なく愉快そうに笑み崩れる。
 「持ち逃げした額の十分の一くらいはな」
 ざっと三百万。
 悪くない。臨時収入としたら破格だ。
 事を終えてすっきりしたら、各務はすぐにホテルを出て行った。
 各務に遅れること一時間、動悸が静まって体力が少し回復するのを待ち、だるい体をひきずるようにして歩く。
 記憶は切れ切れで、どうやって電車に乗ったかも覚えてない。切符を買えたのが不思議だ。
 各務とヤッたあとはいつもこうなる。
 鞭で打擲された痕がじくじく疼いてやり場のない熱が苛む、服とみみず腫れが擦れ合うたび引き攣れる痛みが苛む。

 どうってことないだろう、こんなの。
 酷く痛めつけられる代わりに口止め料と治療費が上乗せされる。
 儲かったんだから、よろこべ、俺。
 最終電車はがら空きで、シートには読み捨てられた雑誌や新聞が放置されてる。
 シートをひとつまるごと占領し、火照る手足を無気力に投げ出し、断続的な振動に合わせ揺れる吊り広告を眺める。
 
 報酬が出る。
 悪い話じゃない。

 損得勘定が働く。
 見つけたら、居場所をチクるだけで大金が手に入る。
 俺は今、喉から手が出るほど金が欲しい。
 施設育ちを卑下して劣等感にこり固まって世間知らずで、馬鹿で中卒で男に体を売ったらいい金になることがわかって流されるままケツを貸して、ラクな方へラクな方へ流されて生きてきてとうとうこのザマだ。

 這い上がりたい、どん底から。
 金さえあれば這い上がれる、違う自分になれる、今と違うもっとずっとマシな生き方ができる。

 やり直すんだ。
 俺は若い、まとまった金さえありゃすぐにでも仕切りなおせる。
 
 『ぴんときたらすぐ連絡しろ』

 各務の言葉が暗示のように内耳に響く。
 誘惑に心が傾く。
 金があれば賞味期限ぎりぎりの不味い弁当なんて買わずにぱあっと外食できる、焼肉食える、服が買える、靴も新調できる、滞納してた家賃を一括払いしてさっぱり身軽になれる、欲しくてもむりだと諦めてたものがぜんぶ手に入る。
 
 電車が駅に到着、空圧の音たて扉が開く。

 ふらつく足取りで家路につく。痛む肩を庇い、びっこをひく。
 薄汚れた雑居ビルと安アパートがごちゃっと立て込む猥雑な街。
 施設を飛び出して、他に行き場がなくて、流れ着いたのがここだった。
 各務と出会ったのは二年前。
 俺は十四か五かそこらで、路頭に迷って行き倒れかけたところを憂さ晴らしの対象をさがしてた各務に気まぐれで拾われて、生活に必要最低限の小遣いと引き換えに体を好きにさせる契約を結び、風呂なし共同便所四畳半のアパートをあてがわれた。
 
 脳裏にちらつくナナシの顔。太平楽な笑顔。
 公園で野宿なんて最低の暮らしをしてるくせに、その最低の暮らしをエンジョイしてる。

 『最低の場所から眺めりゃなんだって最高だ』
 「……うそつけ」
 最低の場所から見たら、なんだって最低だ。
 泥たまりを這いずる虫けらは、なにもかもを自分のいる場所まで引きずり落として貶める。
 視線の先に公園が見えてくる。
 あそこまで辿り着けるか自信がない。
 体力はもう底を尽きかけている、ここまで歩けたのが奇跡みたいなもんだ。
 「……うそつけよ、最悪じゃんか……あれもこれもそれも、どれも最低だ……」 
 今日は特に酷く嬲られた。行為に熱中するあまり、各務は完全に加減を忘れていた。
 一歩足を踏み出すたび、下肢を引き裂く激痛が走る。
 公園が近付く、距離が縮まる、体の揺れ幅が不安定に大きくなる。
 公園の前にさしかかると同時に、ついに力尽き跪く。
 入り口のポールを掴んで公園を見回す、思い詰めてナナシを捜し求める。
 体が熱い。ぞくぞくする。
 脊髄にそって悪寒が走り抜けて鳥肌立つ。ポールにしがみついて荒い呼吸を整える、ぐらりと眩暈が襲う、まずい、受身をとる暇もなく倒れこむ。
 地面が冷たい。ひんやりして気持ちいい。
 疲労と睡魔に抗えず、闇に蝕まれた意識を手放す。
 司と、だれかが名前を呼ぶ。
 慌しい足音、続く感触。
 だれかが肩を掴んで揺さぶる、糸のように細く開けた視界に動転したナナシが映る。
 どうした、しっかりしろ、救急車呼ぶか?
 矢継ぎ早に質問する声はひどく切迫して、口元だけの表情は焦慮に歪んで、ナナシに抱かれた俺は今一番伝えたい事を伝えるために痺れた口を動かす。

 「ナナシさん……」
 「何だ!?」
 「弁当、売り切れだった……」

 腹ぺこで待つナナシの分も、コンビニ寄って弁当買ってくるのをド忘れしていた。

 「~ばかやろっ、賞味期限ぎりぎり値引きセール特盛りからあげ弁当を遺言にするつもりか!?」
 
 ……そこまで具体的に言ってない。
 ナナシが俺を抱きかかえ公園に駆け戻る、右向き左向き確認じれて中央へ向かう、ねぐらにしてるコンクリートトンネルの中に慎重に俺を横たえ自分は消える、行き先に疑問を抱くより先に全速力で引き返してきて、手のひらに汲んだ水を俺の顔面に放つ。
 「!?っぶ、つめてっ、なっ!?」
 「水道水!気つけ!おはよう!」
 顔面に水ぶっかけられ口パクで硬直する俺をよそに、特急で身を翻し、再び水のみ場と往復しようとするトレンチコートの端をひっ掴む。
 「ちょっ、待ったたんま違うって、俺に水ぶっかけてどうすんだよ落ち着けよ!」
 「だってお前すっげ熱いし、熱、そうだろ熱あるんだろ40度くらい大変だ冷やさなきゃ、喉渇いてねえか、今汲んでくっから」
 「その前に手え洗えよ!」
 「いやだって、俺が目え放した隙に蒸発しちまったらどうしよう!?」
 意味不明支離滅裂本末転倒な事を口走り深刻なパニックを来たすナナシ。
 どうしようって聞かれても知るか、というか俺をどうしたい?
 ナナシは俺の傍らに膝をつくや、両手を忙しく結んで開いて、前髪に隠れた目を潤ませて矢継ぎ早に聞く。
 「公園の前で行き倒れ?原因は、空腹、食中毒?俺やばい、ひょっとして俺なんか伝染した、やばい菌伝染しちまった?一応気をつけてたつもりだったんだけど、毎日あそこの水のみ場で手と体洗ってさ、髪だって三日に一度は洗うし、でも石鹸ねーからあんま意味ねーか、あ、でも歯磨き粉はもってんの、前に街で配られてた無料の試供品もらってきて」 
 「どうりでホームレスの割に歯がキレイ……」
 じゃなくて。デンタルヘルスケアはどうでもいい。
 「どうする?どうしたい?俺どうしたらいい!?」
 ナナシが俺に膝枕する。
 ナナシの膝は尖って骨ばってお世辞にも寝心地いいとは言えないけど、ズボンを通して伝わる人肌のぬくもりが妙に染みて、そこに頭を預ける。
 ナナシの膝に頭を乗せ仰向けになる。
 トンネルの天井は低く、アーチを描いている。
 中は一際暗闇が濃く胎内回帰に似た閉塞感があり、取り乱し喚くナナシの声が、コンクリートの壁に殷々と不気味に反響する。
 瞼を持ち上げるのさえ億劫だ。
 体中痛くて、みみず腫れは疼いて、切れた肛門はじくじくして、笑っちまうくらい満身創痍ぼろぼろの状態だってのに、俺の事を心配してぎゃあぎゃあ喚くナナシのざまがあんまりオーバーでおかしくって
 「………ナナシさん、ひとつ頼んでいい?」
 「何!?」
 静かに目を瞑り、ねだる。
 「煙草、喫わせて」
 さっきまで深刻に悩んでたのがばかばかしくなる。
 「え、あ、たばこ?」
 俺を膝にのっけてきょろきょろするナナシ、手近なところに煙草とライターが見つからず落胆、ふと地面にへばりついた吸殻を発見しそれを引っかいて剥がすや俺の口元へもってくるー……
 「ぷっ」
 「あっ、もったいね!?」
 「……尻ポケットに新しいのがあるから」
 俺が吹き出した吸殻を名残惜しげに見つつ、素直に従う。
 俺に膝枕したまま前かがみになり、Tシャツの裾を捲り、尻ポケットに突っ込んだライターと煙草を抜こうとして、驚愕に目を剥く。
 捲れたTシャツの下、痩せた腹筋から貧相な胸板まで縦横斜めに交差するみみず腫れ。
 内出血のあと。
 「………これ………」
 「ハードSМ」
 絶句するナナシに、弱弱しく笑いかける。
 意図的に表情を消したナナシが無言で動作を再開、尻ポケットから抜き取った煙草を俺の口にさし、もう一方の手でライターを持ち、先端に点火。
 トンネルの暗闇に一点、幻想的なオレンジ色の光が点る。
 ライターの火がおぼろに照らすナナシの鼻梁に哀愁誘う陰影が漂う。
 痛みを堪えるように口元を引き結び、じっと俺をのぞきこむ。
 「………いつもと逆、だ。そっちからねだってくんのに」
 「その怪我、だれにやられた。こないだの痣と同じ客か」
 「……………」
 前髪に隠れた顔は見えないが、いつにも増して口端が下がっているから、怒っているとわかる。
 前髪のすだれ越しにまっすぐ見据える目に耐え切れず、消え入りそうに弱音をこぼす。
 「ナナシさんさあ……なんでか上手く行かないんだよね、俺。ぜんっぜんだめで。あの時声上げてたら、なんか変わったのかな」

 あの時も、ちょうどこんな位置関係だった。
 夜中、目を開けたら、上に職員が覆い被さっていて。
 すぐ隣のベッドには同室のヤツが寝ていて、大声で叫べば、助けを呼べば、ひょっとしたら誰かが助けにきてくれたかもしれないのに

 俺は何もせず、諦めた。

 「……最初はさ、感じなかったんだ。ホント、べとべとして気持ち悪いだけで。でも、小5くらいから……しつこくいじくり倒されて、だんだんむずむずしだして。前だけじゃない、後ろも。後ろいじくるとさ、前もびくびく反応するんだ。それを見たアイツ、すげえ喜んで、勝ち誇って。それからさ、それからなんだ、俺だけ贔屓されるようになったの」

 感じるようになったご褒美。
 思い出したくもない、忘れたふりをしていた記憶が堰を切ってあふれだし理性を押し流す。
 俺がいた施設は最低なくそったれな場所で職員はしじゅうイライラして子供に当たり散らして子供同士の喧嘩も絶えなくて、職員は子どもを小突いてストレス発散して、職員の一人はド変態で、物心ついた頃から施設にいて面会に来た親に告げ口するという逃げ道を持たない俺に目をつけて、毎晩毎晩ベッドに忍んできた。

 いやだった。怖かった。誓って本当だ。
 でも、見返りも、あった。

 「……初めてイッた次の日、夕食のおかずさ、俺のだけ一品多かったの。エビフライ。他のガキは変な目で見てたけど、ああ、これは交換条件なんだって俺はすぐわかった。もっとよがるふりして相手を悦ばせりゃご褒美にありつけるって気付いて、その晩から積極的にしゃぶるようになった。そしたら、俺にだけこっそりお菓子とか、小遣いとかくれるようになって……待遇がぐんとよくなって……」
 「うん」
 「ああ、この手があったか。なんだ、簡単じゃん、ちょっと痛いのと気持ち悪いのガマンすりゃ欲しいもん手に入るんだって、調子こいた」

 あるいは、欺瞞。
 交換条件に乗ることで、これは正当な取引なんだと、一方的に奪われ搾取されるだけじゃなく対等な取引が成立してるんだと自分で思い込み、踏みにじられたプライドの回復を図ったのかもしれない。
 俺の男娼人生の、本当のハジマリ。

 「ほんとは……小遣いよかお菓子よか、ぶたれずに済むのが一番嬉しかった。でも、職員に特別扱いされるようになって、今度はなんでお前だけって、施設のガキからいじめられるようになって。中学ん時、飛び出した。……やりかたは、もう、わかってたから」
 選択肢を狭めてたのは、俺だ。俺自身だ。
 捜せば他にいくらでも仕事があるのにあえて男娼を選んだのは、取り引きの名を借りた搾取の記憶に縛り付けられてたからだ。

 「あー、くそ……失敗した」
 「もういい、しゃべんな」
 「世の中に出ても、体さえさしだせば特別扱いしてもらえるって思ってたんだ。んなわけねえのにさ、ばっかみて……。顔も体も大した事ねえのに、若いだけがとりえなのに、勘違いして……あげく、このザマです。笑えよ、ナナシ」
 「笑わない」
 「笑ってよ」
 「笑えない」
 「笑えよ!!」
 俺はヒステリックに笑う、痙攣するように笑いだす、肩を震わせ頭を上下させ涙を流し笑う、暗く狭いトンネルに狂気の発作の哄笑が響く。
 笑ったはずみに煙をおもいっきり吸い込んで咳き込む、だけどまだ笑う、まだ全然笑いたりねえ、煙草を指に挟み喉を鳴らす、片腕で腹を庇いくくっと笑えばシャツが捲れてみみず腫れが走る腹筋が覗く、笑うと筋肉が引き連れて傷に障る、でも笑う、まだ笑う、俺なんかいっそ死―

 等身大の影が視界に覆い被さる。
 熱く柔らかな粘膜が唇を奪う、指の間から煙草を奪う、指から指へと移った煙草がテールライトのようにオレンジの残光引く、ナナシが俺を押し倒す、重なり合う。
 「んぅ、」
 唇が唇を塞ぐ。
 
 「見返り期待して何が悪い?悪いことなんかないさ、何も」
 ナナシの唇は、煙草の味がした。
 俺が好きな、俺がやった、ピースの味。俺の唾液から感染した味。
 頭上にナナシの顔が浮かぶ。
 俺をのぞきこんだ拍子に前髪がはらりと捲れ素顔が覗く。
 無精ひげを散らした若い顔、頬は不健康にこけて唇はかさついて全体が栄養失調気味に尖ってる。

 ホームレスなんか誰も彼も飢えた野良犬みたいな目をしてるとばかり思ってたのに
 ナナシは、草食動物みたいに優しい目をしていた。

 「俺、は」
 鼓動が浅く跳ね回る。
 鼻先にナナシがいる。
 唇とおなじくらいかさついた手で俺の頬に触れ、切れた唇を優しくぬぐい、囁く。
 「……夢もロマンもないけど、人生ってきっと、極論しちまえば見返りの累積で成り立つんだよ」
 「………累積?」
 「誰だって赤字を避けて黒字を望む。お前は人にたくさん優しくしてほしかった、人を沢山気持ちよくすりゃ自分も気持ちよくしてもらえるって思い込んだ、ギブアンドテイクで与えた分だけ戻ってくるっておもった。俺が初めて煙草をねだった時、お前、わざと地面に捨てたろ?間違ってないんだ、あれは。だってあのとき、俺、お前になにもやるもんなかったもん。あげるもん何もねえのに貰ったら、一方的にお前の損だ」
 ナナシは必死に言葉を選ぶ。
 どん底に落ちた俺を引っ張り上げるため、支離滅裂でつたない言葉を駆使し、人間のどす汚い部分を見続けてきたのに不思議と澄んだ目で、語る。
 「貰いっぱなしじゃ不公平だから、お前にやれるもんないかって、俺、一生懸命考えたんだよ。煙草のお返しにやれるもんをさ。弁当も貰ったし、雑誌も貰ったし……けど俺、なんも持ってないから。この通り、ホームがレスだから。マネーもレスだし。だからさ、せめて俺と一緒にいる間だけは、最っ高にくだらない話をして笑かせてやろうって思ったわけよ」
 「わら………?」
 「煙草一本分、いや十本分、楽しませてやろうって。……ぶっちゃけ空回りしてたけど、頑張ったんだぜこれでも」

 ナナシのハナシ。
 醤油じいさんが大事にしてたレシート。
 小学生の襲撃。放浪生活における悲喜こもごも、荒唐無稽なエピソードの数々……

 脳裏にとある直感がひらめく。
 「……あんたを襲った小学生、スプレー持ってたんだよな」
 「ああ」
 「公園中追っかけまわして、スプレーぶっかけたんだよな」
 「ああ」
 「ならなんで、他の遊具や地面にペンキのあとがないんだ?」
 ナナシのハナシが真実だとするなら小学生たちはスプレー缶と金属バッドをもってたはずで、だけどそれを裏付ける証拠はナナシのトレンチコートの染みと腿の痣だけで、所構わずスプレーを噴射したのなら当然あちこちにあるはずの痕跡がまったく見当たらない。

 まさか、
 そんなばかな。

 俺をまっすぐ見据え、ナナシが笑う。
 悪戯がまんまと成功した子供のように、してやったりと口元を綻ばせる。
 「……嘘なのか?」
 どうしてそんな嘘を。
 意味がない。自分を痛めつけてまで。
 声を荒げ問い詰めようとして、その答えに気付き、目を見開く。
 案の定ナナシは頭をかき、今度は悪戯がばれて叱責を覚悟する子供のように情けない笑顔で、あっけらかんと宣言。

 「司に笑ってほしかったから」


 そうだ、実際俺は笑ったのだ。
 『ナナシさん襲ったガキの気持ちちょっとわかる。からかうと面白いんだもん、癖になる』
 そう言って、全身擦り傷と内出血の痣だらけのこの男の前で、無邪気に無神経に笑ったのだ。
 今の俺とおなじように、全身ぼろぼろの男を、笑いものにしたのだ。
 はるか年下の小学生なんかにヤられて馬鹿だなあと、その間抜けさを、情けない負け犬っぷりを、指さして笑いのめしたのだ。


 「……ペンキはどっから……」
 「近くでビルの壁塗り替えててさ。隙を見て、ちょっと拝借。コートの模様替えもできて一石二鳥」 
 「痣は、」 
 「自分で」
 「殴ったのか?」
 右目にまだ癒えぬ痣を残し、ナナシが照れ笑いする。
 「加減がむずかしいんだ、見事に丸く黒くするのは」

 夜の公園を舞台に、ナナシは自ら道化を演じて、俺というたった一人の観客を楽しませようとした。
 時としてかなり悪趣味で無茶なやりかたで。
 でも確実に、体を張ったナナシのホラ話は、俺から久方ぶりの笑いを誘い出した。
 
 「醤油じいさんの話も嘘か」
 「あれはホント。ところどころ脚色まじってるけど、大筋はあれで合ってる。ただ、爺さんがイッキしたのは醤油じゃなくてガソリンだったけど」 
 ガソリンを一気飲みした人間が生き延びる確率がどれくらいか、さすがに俺でもわかる。
 「……全部嘘なら……嘘でもいいから、元気に退院したって事にすりゃよかったじゃんか」
 ナナシのバカさ加減に愛想を尽かし、泣き笑いに似て滑稽な表情で突っ込めば、ナナシもまた同じ顔になる。
 「……自分の事ならいいけど、他人のことでそういう嘘、吐きたくなかった。生きてる人を嘘で殺すとか、その反対も……」
 どこまで誠実な道化なんだ、この男は。
 このナナシは。
 かさつき節くれだつ手が頬を包む。
 トンネルの中にわずかに電灯の光がさしこみ、ナナシの横顔を照らす。
 「狂ってる。正気じゃない」
 「そうかな」
 「そうだよ」
 「中途半端はバレると思って徹底したんだが」
 「……あんたが今まで言ったことの中にホントってあんの」
 「売りをやめてほしいってのはマジだ」
 「信用できねえ」
 「んじゃ、今から掛け値なしのホントをひとつ言う」
  
 俺からすっと身を放したナナシが、トンネルの出口のほうへ、吸い寄せられるように歩いていく。
 電灯の光に導かれ出て行くナナシを追い、トンネルをのそのそ這い出せば、自作自演前衛的なまだら模様にコートを染めたナナシが満場の喝采に応える道化師のように優雅に両手を広げ、砂場の方角を振り返る。
 すいと片腕が上がり、人さし指が砂場を一直線に指さす。

 「あそこに宝物が埋まってる」
 顔に疑問符を浮かべ、肩を浮き沈みさせつつ隣に歩いていく。
 「宝物っていうにはいささか俗っぽいけど、みんながよだれをたらして欲しがるお宝には違いねー」
 舞台裏のようにひっそり静まり返った公園のほぼ真ん中にナナシを残し、覚束ない足取りで砂場に接近し、そこにかがみこむ。
 宝物。魅惑的な響きに喉が鳴る。
 まさかと否定する心と裏腹に、ひょっとしてという可能性が騒ぎ出し、胸の鼓動が跳ね回る。
 砂場にへたりこむと同時に尻ポケットに突っ込んどいた写真がはらりと舞い落ち、電灯の光を浴びて、カラーの印刷面が艶やかに輝く。
 
 横領犯の口元が俺がよく知るナナシの道化と酷似している事に、初めて気付いた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ナナシノハナシ]
ナナシノハナシ | コメント(-) | 20010507222546 | 編集

 「俺、ヤクザの金庫番だったの」
 電灯が寂しく照らす公園の片隅、ブランコに腰掛けたナナシが過去を告白する。
 「二年前……まだたった二年しかたってないのか。不思議だなあ、十年くらいたった気がすんのに」
 ナナシがくつくつ笑う。
 深夜の公園を静寂が包む。
 空は書割のように低く、箱庭のように四角く区切られている。
 コンクリート丘の横に電灯が建ち、黄みがかった光がおぼろに夜を染め抜く。
 いつしかナナシとのあいだにぼんやりした絆めいたものができあがっていた。
 どっかの詩人は万有引力とは引き合う孤独の力だと言った。
 俺もナナシもひとりぼっちで心のどこかでお互い話を聞いてくれる人をさがし求めていた、磁石のように孤独な波長が呼び合った。
 夜の公園には不思議な磁場が生まれる。
 現実と地続きの非日常がそこにある。
 「ほんの何年か前まで、俺、経理畑のサラリーマンだったのよ」
 「経理?」
 「見えねーだろ」
 「ゴミ清掃の作業員って言われたら信じたけど」
 「……そんなにスーツ似合わねえか」
 「うん」
 ナナシががっくりうなだれる。話の先を促す。
 「で、自称平凡なサラリーマンがどうしてホームレスに?」
 「よくある話、博打にはまったんだ。トモダチに初めて連れてかれた競馬で大穴あてて、ずっぽり。それまで趣味らしい趣味もなかったんだ。酒もてんでダメで、飲み会とか行けなくて、地味でネクラでつまんないやつだなあって職場で陰口叩かれてた。昔っからそうなんだよ、要領悪いんだ。どこ行ってもいつのまにか孤立しちまう。俺の歩く速度とまわりが歩く速度がちがうの。俺さ、よくキャッチセールスにひっかかんの。ほかにもティシュ配りとか、街頭アンケートとか、宗教の勧誘とか……一度なんか占い師見習いのおねーさんにただで手相見てあげるってしつこくされて断りきれず変な壷買わされそうになったし……ローン払いで」
 「ははっ」
 「笑い事じゃねえっつの。とにかくさ、とろかったんだよ昔から。俺がのろくさ歩いてる間にまわりは凄いスピードで流れてって、気付いたらぽつんと置いてかれてる。まわりの連中はベルトコンベアーでらくらく運ばれてンのに、俺だけ必死こいて走ってるみたいな理不尽を感じた。そんな時、競馬に出会った。面白かった。馬が一斉にスタート切ってまっしぐらにゴールめざす姿見て、久しぶりに体が熱くなった。どの馬もみんな置いてかれまいって懸命に走る姿が自分と重なって、声だして応援した」
 自嘲的に口角を吊り上げる。
 「大穴一点賭けって言えばかっこいいけどさ、単に自分と似た馬応援してただけ。一番ドンくさい、遅い、ああ、こいつ絶対だめだろうって馬に賭けるんだ。普通勝てないだろ?でもな、そいつがごくたまにすっげー走りを見せる。コース終盤でスパートかけて他をぬく、引き離す、一位に躍り出る。痛快だった。やった、見返してやったぞーって。俺の事をばかにしてる連中、いばった上司、イヤな同僚、無視する後輩、そういうヤツらの鼻を明かしてやったって」
 「馬に自己投影してたわけ?」
 「そう……そうだな、言っちまえば」
 「ばっかみてえ」
 真面目に地味に生きてきた人間ほど博打にはまると怖いという。
 限度を知らず、たやすく自制を失う。ナナシもまたその典型だった。
 酸化した鎖を握り、ブランコを軽く揺らし、正面の暗闇に虚ろな視線を放って続ける。
 「会社を早引けして競馬場に通い詰めてんのがばれて上にきつく注意された。職場じゃますます孤立した。もうだれも話しかけてこなくなった、毎日毎日無視された。ストレス解消に給料の殆どを競馬に注ぎこんで、でも足りなくて……サラ金に手を出した。そっからは典型的な転落ルート。借金が嵩んで、サラ金に手を出したのと競馬と手が切れてないのがわかって、あっさりクビ。次の就職口さがしもせず、競馬場とパチンコ屋往復するうちにどんどん借金かさんで、利息が膨大に膨れ上がって……」
 「目先の借金返すためにもっと悪質で悪徳なサラ金から借りる。あり地獄ルート」
 「とうとうまともなとこはどこも貸してくれなくなった。最後に泣きついたのが、あそこ」
 ナナシが挙げた会社は非常識な暴利と過酷な取り立てで過去何人も自殺者をだした悪名高い街金で、ヤクザの後ろ盾が噂されている。
 「半殺しにされたよ」
 笑いながらあっさり言う。
 「内臓抜かれるか東京湾に沈められるかってびくついたけど、半殺しですんだんだから、ついてるほうだよな。だけどな、それも罠だったんだ。もともと経理畑で数字が強い俺に目をつけて、借金ちゃらにしたいなら事務所に来いって系列のヤクザにスカウトされた。俺は口が堅い、命を担保に入れてるから逆らえない、借金の弱み握られてるから言う事聞くっきゃない。それからずっとヤクザの事務所の金庫番、裏金の出納係。おっかないヤーさんに灰皿片付けてない履物そろえてないだの難癖つけられ日々小突かれつつ、しこしこ帳簿をつけていた。……つーかさ、そいつは舎弟の仕事だろ?俺の仕事じゃねえっつの。ついでにお茶汲み雑用までやらされてさあ……言うなりゃただ働きのドレイだよ」
 「だから逃げたのか」
 「………魔がさしたんだよ」 
 陳腐な返答。
 ナナシは煙草を口に運びつつ、遠い目をする。
 「いい加減うんざりだった。来る日も来る日もヤクザの恫喝と暴力に怯えながら後ろ暗い金を管理する仕事につかれきった。もともと小心者だからさ、胃がさきに音を上げた。従順なうちは生かしてもらえる、だけど利用価値がなくなったら、俺より役に立つヤツを拾ったら……どうなる?用済みは始末される。俺の命は安い。毎日毎日、神経をすり減らしてたよ。自業自得だけどな……はは。で、キレた」
 二年前のある夜、事務所に一人居残り帳簿をつけていたナナシは、吐血した。
 「神経性胃炎患ってたんだよ。ストレスが原因の」
 自分の両手と事務所の床に飛び散った赤い血を見た途端、ナナシは壊れた。
 「どのみちここにいたら殺される。体の内側からヤられるか、外からヤられるか、それだけの違いだ」
 ナナシの体と精神は限界を訴えていた。
 二年前、ナナシは事務所の金庫から現金三千万を奪って逃走した。
 前髪に隠れて目は見えねど、ナナシは紫煙まとわりつく口元だけで不敵に笑う。
 「どうせいつか殺されるなら、その前に逃げ出してやる」
 「逃亡資金か」
 「まあ、そんなとこ」
 「なんで帰ってきたんだ?」
 「………」
 「詫びいれて、また雇ってもらうつもりか。虫がよすぎ」
 「……逃げるの、疲れちまった」
 節くれだった手に煙草を預け、紫煙を吐く。横顔はひどく老け込んで見えた。
 「どこへ逃げてもやつらが追ってくる、見張られてる気がする、視線を感じる。いつドアをぶち破って殴りこんでくるかびくびくしてホテルにも泊まれねえ。実際何度もニアミスした、悪運頼みで間一髪逃げ切ってきた。金を詰めたバックを肌身離さず抱いて、この二年、ホームレスに混じって息をひそめて暮らしてきた。四六時中神経が張り詰めて、眠りも浅い。熟睡できた試しがねえ。ちょっとした物音でもすぐ目が覚める、誰かが忍び寄ってる気配がして悲鳴を上げる。本当、笑っちまうくらい神経細い小心者なんだよ、俺って。犯罪にむいてねーの。金庫破る前にわかりゃよかったんだけど、手遅れで……後の祭り。ホームレスに混じって暮らしたら暮らしたらで、隣のジジィがバック狙ってる気がして。実際盗まれかけた事あったし……そん時、俺さ、どうしたと思う?金入れたバッグ持って逃げたジジィを追っかけて、引きずり倒して」
 「……いいよ、もう」
 「じいさんだってバックの中身知らなかった、三千万が入ってるなんて夢にも思わなかった。ただ、俺が大事にしてたから、寝るときもクソするときも肌身はなさず持ってたから、ひょっとしたら貴重品が入ってるんじゃないかって勘ぐって、そんで……すっかり油断してた。そのじいさん、気さくなヤツでさ。流れ者の俺にお近づきのしるしだって発泡酒一口分けてくれたり、かちかちのスルメくれたり、色々世話んなった……バッグ持って逃げる後ろ姿見たとたん、頭が真っ白ンなって。カッときて、殴り倒した」
 「むりすんな」
 手の震えが煙草に伝わり、灰がぱらぱら落ちる。
 膝の上で両手を握り締め芯から発する震えをおさえこむ、俯き加減に呼吸を整えかすれた声を絞り出す。
 「気付いたら、手、真っ赤で、傷だらけで。じいさん真っ赤で、倒れてて。……怖かった、自分が。手加減とか、考えもしなかった。これまでの人生、半殺しの目にあった事は何度かあるけど、自分が加害者の側に立つなんて思ってもなくて、ああ、ダメだ、このままだったら俺いつか人殺しちまう、こんな重たい、不釣合いなもん持ってっから……」
 ナナシにとって、罪悪感を吸ってふやけた三千万は重すぎた。
 「俺は逃げた。じいさんの生死を確かめもせず、バッグを取り戻して、逃げた。それからもおんなじことの繰り返しで……誰も信用できなくって、不眠症になって。親切ごかして話しかけてくるホームレスのじいさんやおっさんにも、誰にも心を開けなくて、秘密が重くて苦しくて、何度もこんなもん捨てちまえっておもったけど結局手放せなくて。足がつくのいやで、使いきる度胸もなくて」
 「……結局、舞い戻った」
 どこまで馬鹿なんだろうナナシは。
 ヤクザに飼われる生活がいやで逃げ出したくせに、逃亡先でも安息を得られず、すごすごと帰ってきた。
 どうしようもない小心者。
 泥棒しても人は殺せず、ホームレスを殴り殺してしまったと勘違いして罪悪感に頭を抱えこむような男。
 「三千万もあるんなら海外に高飛びすりゃよかったんだ」
 「パスポートもってねえもん」
 煙草を口先にくわえぶらつかせ、あっけらかんとのたまう。
 俺はため息をつき、さっきから気になってたことを聞く。
 「今どんくらい残ってんだ」
 「百万しか使ってねえよ」 
 「二年で百万きゃ使ってねーの?節約家だな」
 「穴の開いた下着取り替えたり、電車の切符買ったり、煙草や弁当買ったり……出費なんていったらせいぜいそんくらい。移動も殆ど歩きだし」
 「余らしてんなら人に煙草たかるなよ」
 「いいじゃんか、ケチケチすんなよ。ここで会ったのも何かの縁だろ」
 「腐れ縁な」
 なれなれしいナナシにあきれる。
 説教もばかばかしくなり、景気よく地面の砂を蹴り上げてブランコをこぐ。
 「大事な運用資金、砂場に埋めといていいのか」
 「俺みたいなホームレスが後生大事にバッグなんか持ってたら目立つだろう。公園から出ない限り安全だ、近付くヤツいたらすぐわかるし」
 「一日中見張ってんの」
 「肌身離さず持ってんの疲れた。……なんかさ、もーいいやって。砂場に埋めて、忘れられるもんなら忘れちまおうって。重たすぎんだよ、あれ」
 うっそりと倦怠感漂う目で砂場を見つめ、呟く。
 接近の気配を感じさせぬ神出鬼没の静けさで忍び寄った猫が一匹、手ぶらの俺を無視してナナシの足元にまとわりつく。唐十郎だ。
 「悪いな。今日はないんだ」
 詫びの代わりに頭をなでようと手をかざすも、唐十郎はさっと通り抜けていってしまう。
 お預けをくらった手を持て余し、薄情な猫の後ろ姿を見送り、哀愁誘うため息をつく。
 「あり地獄できねえかな。さらさらと砂が崩れてって、底なしの穴に飲み込まれて……そうなりゃ諦めがつく」
 ナナシは腰抜けで臆病者だ。
 あてのない逃走に疲れ切って、使い切れなかった三千万を抱いて舞い戻ったはいいが、それを持て余し、かといって捨てる決心もつかず、目の届く範囲に埋めて監視を続けている。
 中途半端な放任。あるいは肌身離さず持ってると襲われた時に危険だと踏んだのか……後者の推理のほうが現実的だ。
 一方で、手放したいのに手放せない二律背反の葛藤に苦しんでるのも事実だろう。
 「……どうすんの?警察に届ける?」
 義務のように惰性のように寝ずの番をするナナシを、意地悪な質問で試す。
 ナナシは眉間に皺を寄せ少し悩む素振りをしてから、小さく首を横に振る。
 「根堀り葉堀り聞かれて色々面倒な事になるし……」
 「刑務所ぶちこまれんの怖い?」
 「それもあるけど。……警察に捕まったら家族に連絡行くし。今の姿、見せたくねえ」
 落ちぶれきった今の姿を家族に見せるのは嫌だと渋る。
 道化にも見栄がある。家族を思う心がある。
 俺には、そんなもの、ない。
 「……いまさらこんなのが息子ですって名乗りでたら、困るよな」
 家族に迷惑かけるのが嫌で警察に行けないナナシ。
 せっかく帰ってきたのに、踏ん切りつかず、ずるずる公園に居つくナナシ。
 「……ナンギなオトナ……」
 「なあ、司。一緒に逃げないか。あれ持って」
 砂場に顎をしゃくり、腰を浮かす。
 逃避行の提案に耳を疑う。
 ナナシは身を乗り出すや、前髪のすだれごしに、思い詰めたまなざしを向けてくる。
 「金に困ってんだろ?アパートの家賃滞納してるって言ったよな、今の仕事うんざりしてるんだよな、変態に鞭でぶっ叩かれて体中傷だらけで……だったらさ、なあ、一緒に逃げようぜ。金持って。金はまだたっぷり残ってる、俺一人じゃ使い切れなかった、でもお前が一緒ならさ……」
 「駆け落ち?」
 新しい煙草に火をつける。
 ナナシが口を開いたまま硬直、含羞と困惑が入り混じった顔で俺をうかがう。
 どこまでめでたいヤツなんだろう。あきれを通り越し、いっそ笑えてくる。
 「……どこでも、お前が好きなとこ行こうぜ。こんなくそったれな街捨てて、もっといいとこへ……海外だっていい」
 「パスポートはどうすんだよ」
 「密航だよ。タンカーに隠れてさ」
 「一人じゃ怖くてできねーけど二人なら船にも乗れる」
 「行き先はどこでもいい、お前が好きなところへ行こう。東南アジアで海賊になるか、ロシアでタクシー転がすか、タイで美人局やるか?俺がポン引きでお前がぼったくり、二人で間抜けな客から金奪ってトンズラこくの。楽しいぜ、きっと……それとも、そうだ、せっかく三千万もってんだからぱーっと使わなきゃな。マカオのカジノでルーレット一点賭け、孔雀羽の扇子もったチャイナ服の美女侍らせて……なんて、はは、似合わねーよなあ!いっそ福建で畑でも耕すか?」
 「あんた、一緒に逃げてくれるヤツをさがしに戻ってきたのか」
 お生憎様。
 口元を歪め吐き捨てた声音の非情な冷たさに、ナナシが黙りこむ。
 「あんたの人生に巻き込まれるなんて冗談じゃねえ、自分のケツくらい自分で拭けよ。戻ってきたんだろ?自分のクソのまわりをぐるぐる回る犬みてえに、あんただって、結局この街にもどってきたんじゃねえか。逃げ回るのに疲れ切って、もうどうなってもいいやって自暴自棄で元の場所に戻ってきたくせに、そこで偶然会ったガキにちょっと優しくされたからって、今度はふたりで、まーたおんなじ失敗くりかえすのか?なんだよ、あんた、わけわかんねえよ。自分がやってることに筋通せよ、俺を巻き込むなよ。ぶっちゃけナナシさん、あんたがどうなろうが興味ないんだ。俺の人生にはなーんも支障ないんだ。たまたま夜の公園で知り合ってくだらねえ世間話するだけのあいだがら、本名も知らねーホームレスがヤクザのリンチでのたれ死のうが、刑務所で首吊ろうが構わない。あんたのくだらない、くそったれたどん底人生に、俺を引きずり込むな」
 腹の底で真っ赤に燃え立つ怒りと激情が荒れ狂う。
 俺は怒っていた、ナナシの人生に。内省と無縁な楽観的性格に。
 ナナシは普通の家庭に生まれた普通の男で、平凡だが堅実なサラリーマンで、本当なら俺と出会うはずもないヤツで、こいつが道を誤ったのは他のだれでもないこいつ自身のせいで、だからこんなヤツ同情にも友誼にも値しない。
 ヤクザの事務所から三千万持ち逃げして追われる羽目になって逃亡生活で神経すり減らして戻ってきたくせに警察に行くのも腰が引けてヤクザに見つかるの怖くて公園に隠れ潜んで、だけどそこにたまたま俺が現れて、人恋しさからすりよって、ちょっと優しくしてやったらつけあがって、俺と一緒なら今度こそ本当に逃げ切れるかもしれないと身の程知らずな夢を見て
 「心中相手さがしてんならお断りだ、他あたれ」
 「司」
 たじろぐナナシにぎらつく敵意むき出しのまなざしを叩きつける。
 「あんたはただの負け犬だ、行く場所ないから戻ってきた、三千万の重みに耐え切れなくなって一度捨てた街に舞い戻った。それで?どうしたいんだよ?縁が切れたダチに泣きつくか、ヤクザに詫びいれてまた飼ってもらうか、十歳も下の売り専のガキを泣き落として囲ってもらうか?」
 「ちがう司、俺は」
 「あんたがやってること意味不明だ、ぜんぶ自業自得じゃねえか、あんたの人生がどん底なのはあんたが考えなしの底なし馬鹿なせいだ、ちゃんと仕事あったんだろ、少ないけど心配してくれるヤツがいたんだろ、迷惑かけたくないって思える家族がいるんだろ、なのに何であんた自身はそんなクズなんだよ!?」
 俺とナナシは違う。ナナシがこうなったのは、どこまでも自業自得でしかありえない。
 一緒に逃げるかという誘いは甘えだ。
 一人で逃げるのに疲れたから今度は二人でという安易で短絡的な発想を憎む。
 ナナシはただもたれかかる相手が欲しいだけで俺じゃなくてもいい俺である必要なんかこれっぽっちもない、たまたまあの日あの夜俺が公園にいたから、たまたま煙草をくれてやったから俺に目をつけただけで、あの日あそこに現れたのが俺じゃなかったらそいつを慕ったはずだ。なあお願いだから一緒に逃げてくれと、頃合を見て切り出したはずだ。

 隙なんか見せるからつけこまれる。
 裏切られて、痛い目に遭う。

 「違う司、お前を利用しようとしてるわけじゃない、金で釣って逃避行に付き合わせようってんじゃない、いやならそれでいい、ただ」
 「ただ何だよ、俺は」

 夜の公園でほんのひととき煙草を分かち合い、くだらない世間話をするだけで満足だったのに。
 その時だけは、自分がひとりぼっちだって事を忘れられたのに。
 ナナシの隣で馬鹿笑いできたのに。

 「……身の上話で同情引いて、金の話持ち出して……最初からそういう魂胆だったんだ」

 ナナシの身の上話なんて聞きたくなかった。
 俺の隣では、ただのナナシでいてほしかった。

 「俺なら、すぐとびつくだろうって?四畳半のアパート住まいで、サドの変態に死ぬほどぶっ叩かれて、ケツは擦り切れて、病気持ちかもしんなくて……そんなヤツに金ちらつかせたら今の生活から抜け出したい一心でよだれをたらしてしゃぶりついてくるに違いない、二つ返事で駆け落ち承諾してくれるだろうって?安く見られたもんだな」
 自分と一緒に死んでくれる相手をさがしに舞い戻ってきたのか、自分と一緒に破滅してくれるヤツを求めていたのか。
 俺はナナシになめられていた、馬鹿にされていた。
 信頼なんて欺瞞だ、絆なんて嘘だ、親もない金もないないない尽くしのガキなら二つ返事で逃避行に乗ってくれるだろうと踏んだ、金欲しさに目が眩んで心中に付き合ってくれるだろうって決めつけられた、ナナシはただ手っ取り早く寂しさを埋め合わせる相手をさがしてただけだ、場繋ぎの心中相手を募集してた。
 裏切られた。
 そうだろう、これが裏切りじゃなくて何だ、ナナシと逃げたところですぐつかまる、どん詰まりだ、こいつはそんなこともわからない馬鹿なのか、俺をおとりにしてまんまと逃げのびる気か?
 幻滅する。疑心暗鬼が苛む。
 これまで見てきたナナシと今のナナシにずれが生じる。
 今の今まで芝居を打ってたのか、俺を騙し続けたのか、ナナシの正体は狡猾な横領犯でガキ一人騙すのなんて朝飯前だって今も腹ん中でほくそえんでやがるのか……
 「死ぬなら勝手に死ね、どこへでも行け」
 ブランコからとびおりて絶縁状を叩きつける。 
 誰かに依存するのもされるのもごめんだ、誰かに執着するのもされるのもお断りだ、ナナシの不幸に引きずり込まれちゃたまらない、今だってどん底なのにさらに地獄に落ちたくない、俺の靴には滑り止めなんて上等なもん付いちゃない、だから手遅れになる前に逃げる、ナナシと手を切る、突き放す。
 「待てよ司、ちがう、話聞けよ!なにキレてんだよ、なんか気に障ること言ったか!?」
 ナナシが泡を食いブランコから転げ落ちる、地面を這って砂を掴んで俺を仰ぐ、言動がいちいち癪に障る、憤りの内圧が高まりついに沸点に達する、みっともなく地面に這いつくばるナナシを見ているとおもいきり蹴り上げてしまいそうで自制が利かなくなりそうで背を向ける、公園を駆け出る……
 足首に激痛が響く。
 「!痛ッ、」
 「司っ、これ!」
 体重をかけると同時に各務に鞭で打たれた裂傷に激痛が走り足首を押さえてその場にへたりこむ、背後でナナシが動く、砂場の方へ駆けていく姿が視界の隅にちらつく、衣擦れの音、砂の積もる鈍い音、なにをしてるのか気になって脂汗が流れ込み滲む目で行動を追う、砂場に突っ伏したナナシが切羽詰った剣幕で両手で砂を掘る、砂を掘って掘り進めて引きずり出したナイロンの鞄のチャックを開けて一掴み掴みだしたのは……札束。
 頭が空白になる。思考停止。
 息を切らし立ちはだかったナナシが、無造作に鷲掴んだ札束を突き出す。
 「……持ってけ。薬買え」
 「……これもあんたの言う見返りかよ」
 狂的な笑いがこみ上げて断続的に喉を震わす。ナナシはむっつりと戻ってきて、地面にへたりこんだ俺の手に、さらっぴんの万札をむりやり握らせる。
 「……こないだ、世話んなったな」
 「金ならたっぷりあるよ。あんたと最初に会った日だって、ほんとは持ってたんだ。小遣いも含めて、たっぷり貰って……体を売って稼いだ金、今日だって………」
 「自己満足だから気にすんな。お前にその金を使わせたくない、俺のわがままだよ」
 どこまでコケにすれば気が済むんだ。
 俺が体を売って稼いだ金は汚い金だと、今の行為で代弁したとも気付かずに、ナナシはぼんやりそこに突っ立ってる。
 不機嫌そうに。心配そうに。優しさとずるさを取り違えて。
 「……俺が稼いだ金は汚くて、これは違うのか」
 指の関節が白く強張る。
 ナナシに手渡された万札をくしゃくしゃに握り潰す。
 顔が痙攣するように醜く歪み、劣等感にこりかたまった卑屈な笑みが浮かぶ。
 「俺がウリで稼いだ金は汚くて、あんたが盗んで手をつけなかった金は上等か。恵んでくださってありがとうって、感謝すりゃご満足か」
 ヤクザの金庫に眠ってたピン札と、俺が体をすり減らして稼いだ金とじゃ、価値が違うのか。 

 哀れみと蔑みはよく似ている。
 ナナシはそうやって、無神経な善意でもって、俺の生き方を否定する。
 俺を救うふりをして、どん底に突き落とす。

 「………なんだ………」
 そういうことか。
 そういうことだったんだ。
 前髪に顔を隠した俺の呟きを聞きとがめ、ナナシが怪訝な顔をする。
 咄嗟に引っ込めようとしたその手を逆に掴み、引き寄せ、もう一方の手でナナシの股間をまさぐる。 
 「俺に『してほしい』んなら、はっきりそう言やいいのに」
 「!なっ、」
 ナナシの顔に動揺が走る。
 仰け反り、腰が引け、慌てて俺を押し返そうとするも股間をまさぐる淫猥な手の動きに膝から崩れてへたりこむ。
 「……随分溜まってんね。ひょっとして、二年間、ずっとご無沙汰だった?金があんなら風俗いきゃいいのに」
 「司、やめろ」
 狼狽しきった声で制す、俺の肩に手を置き押し返そうとするのを邪魔っけに振り払う、ブランコの手前のポールに背中からぶつかる、ナナシが苦痛に顔を顰めた隙にベルトのバックルをいじってズボンを引き摺り下ろす。
 「汚いからやめろ、病気でも伝染ったら大変……」
 「へえ、心当たりでもあんの?」
 自嘲的に笑って茶化す。ナナシが抵抗する、だけどその手は力が入らない、男にしても痩せて非力な腕が嗜虐心を刺激する。
 下着ごとズボンを引き摺り下ろし下半身をむき出しにする、小便の匂いが鼻をつく、慣れてるからどうということもない。
 「汚いからやめろ、くさいだろ……」
 「毎日洗ってんだろ、水のみ場で。じゃあ大丈夫」
 「お前だっていやだろ、小便の匂いすんのしゃぶるのなんて!」
 ポールを背に、行き止まりに追い詰められたナナシが金切り声で叫ぶのに、萎えたペニスを捧げ持ちながら鷹揚に返す。
 「俺、小便飲まされた事もあるんだぜ?」
 ナナシが愕然と目を剥く。抵抗がやんだ隙にそっと口をつけ、先端を含む。両手をゆるやかに動かし、竿をしごく。
 不潔だとか不衛生だとかいう抵抗意識や嫌悪感は殆どなかった。逆にナナシを征服してるみたいで、嗜虐心が疼く。ナナシは抗う、俺を引き離そうと細く筋張った腕に懸命に力を込める、俺は負けじと攻める、ナナシの股間に顔を埋めペニスを咥える、わざと唾液を捏ねる音をたててやればナナシの顔が羞恥に染まる。
 男にされるのは初めてなのだろう。
 さまざまな技巧を凝らし舌を使う。
 透明な先走りでぬめる亀頭を唇で捏ねて愛撫し、鈴口に舌を踊らせ割れ目をほじり、竿をなめ、裏筋をなであげ、緩急強弱つけて喉の奥まで吸引する。
 「うぁっ……」
 熱く湿った吐息と一緒に切ない声を漏らし、俺に凭れる。肩にしがみつく手が震える。
 口の中でペニスが質量を増す。喉の奥を犯す異物感に息苦しさを覚える。
 「やめろ、ちがう、そういう意味じゃない、こんなことさせたかったんじゃ……」
 「俺は『こんな事』で稼いでるんだけど?いい加減わかれよ」
 理解の鈍いナナシにいらついて毒づく。
 電灯が照らす深夜の公園に、卑猥な水音と衣擦れの音、劣情の息遣いだけが響く。
 「……いつおれが笑わせてくれって頼んだ」
 「うあ、はっ……ぅ」
 「あんたがくだらない嘘ついて、自分痛めつけて、それを見て俺が笑ったからって、結局ぜんぶ自己満足じゃねえか」
 誠実なものか。これほど不誠実な男は見た事がない。こいつの優しさはいつだって自己本位な欺瞞と偽善にいろどられている。
 こいつはその無神経で、人を傷つける。
 「見返りだよ。あんたが教えてくれたんだよ、ナナシさん。貰った分は……きっちり返さなきゃって」
 次第に息が上擦り始めたナナシに対し、どす黒い憎悪が膨れ上がる。
 器用に舌を使いナナシを追い上げ責め立てる。ペニスを深々くわえこみ、歯を立てず亀頭を食み、舌先をちろちろ挑発的に躍らせる。
 唾液に溶けた苦い先走りを飲みながら、心は冷めてく一方だ。ナナシと俺は違う。絶対にわかりあえない。仲間だとおもったのは間違いだった。
 「気持ちいい、ナナシさん」
 「……司っ……」
 「気持ちいいんだ。ひくひくしてる」
 結局、各務の同類か。俺を買った男たちの同類か。
 口ではどんなに偉そうなこと言って偽善を気取ったところで、フェラチオですっかりイイ気分になって、俺の頭にしがみついてくるじゃないか。
 無意識だろうナナシが俺の頭を両手で抱えて股間に押しつける、各務や他の客の手を思い出す、そいつらとどこも違わない、俺の髪に手を通し力を込める、奉仕を強制する、もっともっととねだる。上目遣いに見上げたナナシは弛緩しきった口元から熱い息を吐き、頬は淫蕩に上気して、俺の口の中でペニスはますます怒張する。
 「うあっ……」
 ナナシが絶頂に達する。苦い粘液が喉を打つ。
 ザーメンを音たて飲み干し、手の甲で口を拭う。
 ナナシは肩を喘がせつつ後ろ手にポールに縋り、虚脱しきった表情で俺を見つめる。 
 自分が男に、それもはるか年下のガキなんかにイかされた事が信じられないといった反応。
 貧弱な胸を浅く上下させ、萎んだ股間を出しっぱなしにしたまま、ポールに寄りかかって辛うじて立つナナシから離れ、呟く。
 「毎度あり。またのご利用お待ちしてます」
 どっかのAТMみたいに平板な口調で言い、ナナシから渡された万札を、無造作にジーパンに突っ込む。
 あとはもう振り返らず、大股に歩き出す。ナナシが俺を追いかけ呼び止めようとするも、途中で力尽きる。公園を突っ切って、通りに出て、アパートをめざす。
 尻ポケットに突っ込んだ万札がやけに重くて、それはきっとナナシが逃亡と懺悔に費やした二年間の重みで、今すぐ破り捨てたい衝動を辛うじて抑え、携帯をとりだす。短縮を押せば、すぐに相手が出る。
 「各務さん、次の土曜いつものホテルで会えませんか。話したいことがあるんです」
 各務に電話をかけながら、俺の脳裏では、泣くのを我慢するかのように快感を堪えるナナシの顔がちらついていた。
 俺にフェラチオされながら、ちがう、ちがうとくりかし抗う悲痛な表情が脳裏にこびりついてとうとう離れなかった。



 
 「うあっ、あう、ああっ!」
 ざらつく男の手が裸の背をなで尻をまさぐる。
 シーツを掻き毟って乱暴な挿入に耐える、押し潰された喉からくぐもった呻きが漏れる。
 けばい壁紙の安ホテルの一室、むせ返る人いきれと饐えた体臭、濃厚なザーメンの匂い。
 「―っ、やっぱ女と具合が違うな、みちみち肉にめりこんでく……ははっ、たまんねえやこりゃ。そっちはどうだ?」
 俺を犬のように四つんばいにさせ後ろから貫きながら若いヤクザが言う。
 「上々。女よか上手いくらいだ。やっぱ男だと男のいいとこわかってんのかな?信じらんないくらい奥まで吸い込みやがる……」
 俺の前髪を掴み、無理矢理こじ開けた口に指をひっかけ伸ばし広げ、怒張したペニスを突っ込む。
 後ろを貫かれ揺さぶられながら、こみ上げる吐き気を抑え、口に突っ込まれたペニスに舌を這わせる。
 夢中でペニスを吸いつつ腰振る俺を、各務は舌なめずりしそうな顔で眺めている。
 自分の犬に余興として芸を披露させ、その成果に甚くご満足といったゲスな笑み。
 時々、四つんばいにされた俺の股に手をやっていじくりまわす。各務に股ぐらをまさぐられる度腰が跳ね、舌使いがおろそかになり、それを理由にこっぴどくどやしつけられる。
 「でも各務さん、ほんとにいいんすか?こいつ、各務さんのコレなんでしょう」
 「いいんだよ。いっつも同じプレイばっかじゃ飽きるし……たまには刺激が欲しいよな、司。お前は一本じゃ足りねえ淫乱だから、前にも後ろにもぎっちり二本くわえこめて嬉しいよな?」
 各務が嘲る。朦朧としながら太い笑い声を聞く。
 シーツにしがみついて前から後ろからの激しい責めに耐える。
 事の発端は各務の舎弟の他愛ない好奇心、各務が男娼を囲ってると知って一回男で試したいと申し出た馬鹿がいた、各務はそいつらに俺を貸した、そして俺は今前から後ろから突っ込まれ揺さぶられて死んだほうなマシな目にあってる。
 「ああっ、あっ、ふう……」
 「こないだの傷、もう殆ど治りかけてら。若いってなあいいな、うらやましい」
 嗜虐の愉悦に酔った嘲弄が耳裏の産毛をなぞり、まだ痛む背中のみみず腫れをひとつひとつ指でたどっていく。
 「痛あっ……」
 閉じかけた傷口に爪を立て抉られる痛みに背中が反り、肌の表面を大量の汗が伝う。
 火照りを帯びたみみず腫れをうっそりと指がなぞるたび、嗜虐に慣らされた体がそれさえ快感に昇華し、絶頂が近付く。
 「女みたいな声上げるんすねえ、ホントに」
 「まだ気絶すんなよ、坊主。目え閉じんのはイかせてからだ」
 平手で頬を叩かれ起こされ、ふやけた頭を叱咤し、涎と先走りでねとつくペニスを貪欲にしゃぶる。
 「かはっ」
 舎弟ふたりが出すもん出しきって、そこからさらに前後交代して満足するのを待ってから、煙草を持った各務がやってくる。
 「お前の方から呼び出すなんて珍しいじゃんか。話したい事ってなんだ」
 口をきくのがだるい。瞬きするのも億劫だ。
 全身ザーメンに塗れて、ベッドに横たわったまま、無気力に各務を仰ぐ。
 シーツを握り締め、上体をひきずりおこす。今さっきまで俺を犯してたヤクザふたりは下着だけ身につけた姿で、荒く息つく俺を下劣ににやつき眺める。
 頭の中で報告する内容を整理する。
 虚ろな目で各務を見つめ、縺れる舌でたどたどしく告げる。
 「……こないだの話……金庫番……見つけました」
 各務の表情が豹変、空気が瞬時に硬化。半裸で寛いでいた舎弟ふたりも途端に怖い顔になる。
 一瞬、ナナシの顔が浮かんで消える。
 後悔と罪悪感が綯い交ぜとなった暗い沼が胸に広がる。
 あれからナナシと会ってない、公園には寄り道してない、ナナシが今どうしてるかは知らないし知りたくもない。もう、俺には関係ない事だ。
 灰皿で煙草をもみ消した各務が大股ににじり寄り顔を突き出す。
 「どこで会った?」
 「近所の公園で……ホームレスやってました……偶然知り合って、話すようになって……写真もらって、照らし合わせて、同一人物だってわかったんです」
 嘘を吐く。ナナシは自分から素性をばらしたのだ。
 おそらくは、俺を、俺なんかを信頼して。
 「同一人物で間違いねえんだろうな。人違いでしたじゃ済まされねえぞ」
 「金ほしさにでたらめ言ってんじゃないっすか、このガキ」
 舎弟ふたりが半信半疑の視線をむけてくる。各務も懐疑的に念を押す。俺は何度も首を縦に振る。
 「間違いないです、髪は伸びてだいぶ人相変わってたけど……口元、おなじでした。それに、それとなく探りいれたら、二年ぶりに街にもどってきたって」
 俺はナナシを売った。
 胸なんか痛まないはずなのに。もう関係ないのに。ナナシはトモダチでもなんでもないはずなのに、どうしてこんな惨めな気分になる?
 ナナシはいまだに三千万持ってる。三千万がありゃ何でもできる、美味いもんたらふく食えてイイ女抱けてどこへでもいける、なのにわざわざ戻ってくるなんてばかだ、見付かったら殺されるってわかりきってんのに。
 俺は、金が欲しい。
 金のためならなんでもする、どんな汚い真似もする、たった三百万ぽっちのためにナナシを売る。
 ナナシは二年前チャンスを手にした、大金を手にして一から人生をやり直すチャンスだ、それを自ら舞い戻ってふいにした。
 俺ならそんなヘマはしない、絶対にチャンスをものにする、どん底から這い上がってみせる。ナナシとおなじ過ちはおかさない。

 『一緒に逃げよう、司』

 「でかした、お手柄じゃねえか、司!」
 各務が歓声を上げ俺の肩を叩く。馬鹿力で痛い。心が麻痺したように何も感じない、虚無が身の内を蝕んであり地獄が生まれる、電灯に浮かび上がる砂場のイメージとともにさらさらと砂が崩れる幻聴がする。
 狂喜した各務が俺の髪をわしゃわしゃかきまぜる、各務は俺を気まぐれにペットか子供のように扱う、大の大人が相好を崩し有頂天にはしゃぐ様に奇妙な感じを抱く、乱暴に頭を揺り動かされ眩暈が襲う。
 仕方ないだろうとその必要もないのに自分に言い訳する、こうするしかなかった、仮にナナシのばかげた提案に乗ったところで待ち受けるのは破滅、すぐさま追っ手がかかってリンチを受けた上処分される。俺は死にたくない、まだまだ生きていたい、ナナシと心中するのはごめんだ……

 でももし、本当に逃げられるのなら
 あの時、ナナシの手をとっていたなら

 「で、そいつはちゃんと三千万もってんだろうな」
 「……たぶん……」
 「まあいいさ、隠し場所は吐かせりゃいい」
 各務が舌打ちひとつ、俺の肩を突き放して服を放る。
 舎弟ふたりに連絡をまわせと指示をとばしてから改めて向き直り、低い声で聞く。
 「金庫番とはどの程度親しいんだ?」
 唐突な質問にたじろぎ、答えに詰まるも、威圧の質量を乗せた眼光に気圧され躊躇いがちに口を開く。
 「親しいってほどじゃないです、公園で顔あわせてちょっとしゃべるくらいで……」
 言い訳じみた台詞に少しばかりの自己嫌悪が疼く。
 「ヤッたのか?」
 「まさか。相手はホームレスですよ」
 「お前には気を許してんだろ」
 「…………ちょっとは……」
 「だろうな。そうだよな。俺たちが血眼でさがしてもしっぽ掴ませなかったはしっこい金庫番が、二年ぶりだなんてうっかり口滑らす位だもんな」
 一人納得したように頷く。いやな予感が騒ぐ。
 各務が何を考えてるのかわからず漠然と不安が募る。
 「お前にチャンスをやる」
 各務が肩を掴む。
 「一生ケチな男娼で終わりたくないだろう。このヤマが成功すりゃ俺の口利きで盃分けてやる」
 俺の肩を掴んで詰め寄る各務を見返す。歪んだ笑みを湛えた醜悪な顔。眼光は爛々とぎらついて、引き伸ばされた口元から犬歯が覗く。
 「何をさせたいんですか」
 喉が異常に渇く。激しい動悸が襲う。ナナシの笑顔が瞼の裏を過ぎり、声が上擦る。
 「お前なら怪しまれる事なくぎりぎりまであいつに近づけるだろう。あいつは鼻がきく。これまであともう一歩のところで取り逃してきたんだ。今度こそふんづかまえる、失敗は許されねえ、念には念を……な。手引きしてくれりゃあ心強い」
 「冗談だろ……」
 「冗談なもんか。なあ司、今までよく偵察の役目をはたしてくれたよ。情にほだされず、ちゃんと報告してくれた。見直したんだよ、お前を。お前だってちんけな男娼で一生終わる気ないだろう、ここらで一皮剥けて一人前の男になりたいだろう。もうすぐ十八だよな、確か。いい加減ガキじゃねえんだ、わかれよ。俺はな、お前に目えかけてるんだ。こすっからく頭も回るし年の割に度胸が据わってる、単なる男娼で終わらせンのは惜しい。今後の働き次第じゃ俺の右腕にしてやってもいい」
 嘘だ。各務は俺を利用しようとしている。本当に目をかけているならもう少し大事に扱うだろう。
 だけど、逆らえない。
 肩を掴む手が強く食い込み、迫る顔は鬼気を湛え、雄弁な眼光が反論を封じる。
 「ここらで一発男を上げて、まわりを見返してやれよ」 
 嫌だ。
 悲鳴を上げる心と裏腹に、ごくかすかに頷く。
 底冷えする眼光に促され、催眠術にかかったように、我知らず首肯していた。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ナナシノハナシ]
ナナシノハナシ | コメント(-) | 20010506002301 | 編集

 日常と非日常のはざまの公園に、ぽつんと佇む影ひとつ。
 電灯の黄ばんだ光に落ちぶれた背中を晒し、悄然とうなだれる男。
 俯き加減の表情は手入れの形跡もなく伸び放題の前髪に隠れ窺い知れないが、力なく鎖を握る様から落胆の気配が漂う。
 「ナナシさん」
 声をかけると同時に顔を上げる。
 「司!」
 トレンチコートの裾を翻し、底がぱくつくボロ靴で地を蹴り弾んでやってくる。
 ブランコから転げ落ちるなり、ようやく拾ってもらえた捨て犬のように駆けて来るナナシを逆光に表情を隠し、待つ。
 ナナシが失速しやがてゆるやかに立ち止まる。
 電灯が灯台のような光を投げかける孤島の公園にて、対峙する。
 「………ひさしぶりだな。もう来ねえかとおもった」
 「待ってたの、俺んこと」
 「お前がこなきゃ煙草が喫えねえ」
 「ケチくさ」
 本気とも冗談ともつかぬ軽口の応酬。愚にもつかぬやりとりが、やけに懐かしい。
 祈りを捧げる姿勢で頭をたれたナナシはやけに神聖で、侵しがたい静寂に満ちて、乞食に身を窶した聖者にも見えた。
 しょんぼり鎖を握ってうなだれていた姿とはうってかわって、はにかむように目を細めて言う。
 「もう一度きてくれるようにって、毎日祈ってた」
 「愛想尽かされた理由わかった?」
 ジーパンのポケットに手をやり煙草をとりだす。
 百円ライターで火をつけ、吸う。
 穂先にオレンジ色の光点が点り、退廃した紫煙が漂う。
 ナナシが口元を引き結ぶ。
 懊悩と逡巡の表情。前髪のすだれ越しに俺を見据え、口の中でぼそぼそと呟く。
 「正直……俺、ばかで鈍感だから、なんであの時お前がキレたのかよくわかんなくって。でもさ、俺が原因だよな、きっと。司、俺さ……ずっと謝んなきゃって」
 ゆっくりと深呼吸し、表情を改める。
 一歩間合いを詰め、冗談言ってばっかの道化と同一人物とは思えぬ真剣な声音で続ける。
 「だけど、これだけは言っとく。あんな事の為に金を渡したんじゃない」
 「その『あんな事』で俺は稼いでるんだよって、この前言わなかったか」
 ぐっと黙り込み、しかしそこで引き下がらず一歩前に出る。
 「あれはお前の金だ、お前が働いて稼いだ金だ、大事にとっとくべきだ……こっぱずかしくて言えなかったけど……俺がお前に金を渡したのは同情なんかじゃなくて、なんていうか……バックん中で腐ってた札束がお前の役に立つんなら、俺の二年間もちょっとは報われるかなって」
 ヤクザの事務所からかっぱらった三千万を懐に抱いてさすらった二年間の辛酸を反芻し、前髪に見え隠れする双眸に複雑な色を乗せる。
 「俺が持ってたってどうしようもねえ金だ。汚いキレイで言ったらあの三千万のがよっぽど汚ねえ、人の怨嗟と血と涙を吸ったヤクザの金だ。俺はそれを泥棒した、色んな人間の手から手に渡って際限ない欲に塗れた汚い金だ」
 「俺が稼いだ金だって似たようなもんさ。汗とかザーメンとか、人の体から出る色んなもので汚れきってる」
 静かに口を開く。
 年下のガキに諭されてもナナシは動じず、毅然と顎を上げる。
 「自己満足って言ったろ?お前、ひとりで突っ走りすぎ。ちょっと前まで膝枕でいい雰囲気だったのに、キレて騒いでついてけねえよ。あげく勝手に勘ぐって、下心あるって決めつけてさ……たまんねえよ」 
 「キスまでしたくせに?」
 「―っ、それとは別」
 ナナシが頬を染める。素直な反応に失笑。
 「俺の口ん中でイッたくせに」
 「……不可抗力だよ。上手すぎお前」
 「あんがと。ナナシさんは持久力ねーな」
 「確かに気持ちよかったけど、反則」
 笑う俺につられ、ナナシもまた照れ隠しに笑う。温度差のある笑みを交わし合う。
 「………どーせ使い道ねえ金だ、くれてやるさ。そうしたかったんだ、俺が」 
 「自己満足か」
 「……馬鹿にするつもりじゃなかった」
 俺の為に何かしたい一念で砂だらけになってバッグを掘り出して、札束を掴んだ。
 そうだ、落ち着いて考えりゃすぐわかるじゃないか。
 ナナシはあの時俺のために何かしたくて、その一心で今の自分にできる範囲で最大の奉仕をしたのだ。

 下心なんか、あるはずない。
 ナナシは純粋に俺を心配して、ぼろぼろの俺に走りよって、薬を買えと札束を握らせたのだ。

 「………悪かった………傷つけて」
 ナナシは俺のためになにかしたい一心で二年間片時もはなさずにいた金をくれた、謝る必要なんかこれっぽっちもない、謝るべきは俺だ、勝手に誤解して思い込んで偽善者と決めつけ拒絶した。
 わかってるよそんなこた。
 本当はあの時だってわかっていた、札束掴んで走り寄ってくるナナシを見た途端頭が真っ白になった、心臓がどくんどくん高鳴った、金を受け取ったら俺とナナシの間に生まれ始めていた何かが壊れちまう、そうとわかってながら受け取った、突き返せなかった、金に目が眩んだ。
 思い出す俺だけ一品多かったおかずエビフライ、いつ頃か金を出す人間を憎む習性が身についた、ナナシが俺に金を渡した瞬間に友達でいられなくなった、変な理屈だ、理不尽だ、わかってる

 「役に立ちたかった」
 電灯の光を浴びて、地面に黒々と懺悔の影引くナナシ。 

 「…………」
 俺は、汚れてる。
 体も心も汚れきってる。
 他でもない俺自身が、優しさを受けるに値しない人間だと諦観しきってる。
 ナナシの優しさをとことん疑った、偽善と決めつけた、下心を勘ぐった。
 俺はそういう人間だ。
 自分がそうだから他人もそうだろうという仮定で行動する、俺自身が他人の善意を額面どおり受け取れないひねくれた人間だからナナシもそうだろうという前提で行動した。
 公園に来なくなって数日経つ。
 少し会わない間に心なしかやつれたナナシが、訥々と切実な調子で言う。
 「余計な事だったか?おせっかいだったか?俺なんかが手をさしのべるなんて、おこがましいか」
 葛藤に顔が歪む。体の脇で握り締めたこぶしが震える。
 公園のど真ん中でナナシと対峙する。
 俺に思いの丈をぶつけるナナシを冷ややかに突き放し、穂先から立ち上る紫煙を目で追う。
 「同情?」
 「わかんねえよ、同情だとか偽善だとか頭でぐだぐだ考える前に体が動いたんだ。お前の力になりたかった、どん底で出会った友達だ、大事な奴だ、まともに人と話すの二年ぶりなんだ。二年間あちこち逃げまくって誰にも心を開けなくてホームレス仲間にも身元偽って嘘吐いて、身ばれすんのがイヤでだんまり通して、おかげで喋り方忘れそうになって、自分の声どんなだか忘れかけてた時にお前と会った」
 激情に突き動かされ叫ぶ、失くしたもの捨てたもの手元に取り戻せないものすべてを俺の中に投影してナナシが叫ぶ、擦り切れた人間性を回復するように全身全霊渾身で叫ぶ。
 「仲間だって……口にしたらくせえけど、そう思った。あの夜、ぽつんとブランコに腰掛けたお前見て」
 「同類の匂いがした?」
 「お前は知らないだろうけど司、これまで何人か公園に来た人間に話しかけたんだ。煙草くんないかって、いっつも芸なしの同じ台詞で。お前のほかは全員、口をきいてもくんなかった。俺の事見なかったふりで、イヤな匂い嗅いだみたいな顔してスッといなくなっちまった。お前はちゃんと俺を見た、いやだって言った、嬉しかった、すっげえ嬉しかったんだ。俺を無視しなかった、面倒くさそうに、だけどちゃんと相手してくれた。俺がここにいるって認めてくれるヤツがいてどんだけ救われたか」
 ナナシは必死に言う、切羽詰った剣幕で俺に詰め寄る。
 二年間ホームレスに混じって暮らした男は身も心もぼろぼろに擦り切れ汚れ切って臭くて下着は小便のしみができて、真っ当な人間なら近寄るのすら耐え難い。
 まともに人と話すのは二年ぶりだと告白するナナシの孤独はどれほど深いのだろう。返事を貰えた驚き、喜び、初対面で這いつくばって吸殻を拾い上げる所作が瞼の裏に浮かぶ。

 「すっげえ嬉しかった」

 いまさらそんなこと言ったって、遅いんだよ。
 感謝をこめて俺を仰ぐナナシに歩み寄り、無表情に誘う。

 「―それがホントならさ、俺を連れて逃げてよ」
 ナナシの顔に当惑が広がる。俺の唐突な発言に戸惑い、目を剥く。
 ナナシに無造作に歩み寄り、電灯の光を浴びて片手を広げ、続けざまに畳み掛ける。
 「こないだ言ったじゃん、一緒に逃げようって。なあナナシさん、あん時俺連れてどこへ逃げるつもりだったの。今でも気持ち変わらない?」
 俺の平板な声音とただならぬ雰囲気に一瞬気圧されるも、きっぱり首肯する。
 長く伸びた前髪越しに電灯の光を照り返す率直な瞳、決意はまだ変わってないと雄弁に語る立ち姿。
 「行き先は?」
 「どこでもいい。マカオでもタイでもロシアでも中国でも世界中どこでも、お前が行きたいところへいこう」
 「施設育ちの男娼くずれに夢と自由を恵んでくれンの、ナナシごときが」
 「……怒らせるのを承知で言うけど、司。俺に買われてくんねえ?」
 「慈善?」
 「投資」
 「ものは言いようだ」
 冗談だろと、笑い飛ばせばよかったのか。そうできたらよかったのに。
 冗談のつもりで口にしたんだろう提案に俺が過剰反応したから後に引けなくなった、冗談のつもりの提案さえ真に受けて激昂するほど俺が追い詰められてると知ってナナシは腹をくくった。

 嘘から出たまこと。
 返事をくれた、無視しなかった。

 たったそれだけの理由で、信じるに値しない俺に、自分の夢と三千万を賭ける。

 「また気に障るかもしんねえけど、俺……やっぱ、お前をここにおいてくの、いやだ。体も心もぼろぼろになってくの黙って見てらんねえよ、だってお前笑ったじゃん、俺のくだらない嘘真に受けて、ばかばかしい冗談で腹抱えて……こんなつまんねえ、どうしようもねえ俺の話で笑ってくれたの、お前が初めてなんだ」
 どこまでも自分を卑下し依存する。
 友情と愛情の境界線もさだかじゃない執着に突き動かされ、しどろもどろ弁解する。
 「変なヤツだって思うだろ?ひ、引くだろ。わかってんだよ、んなの……一人で逃げンのが怖いだけだろとか、そう言われちゃ返す言葉ねえけど、それはそうだけど、それだけじゃなくて、お前じゃなかったらきっと三千万のこと言い出せなくて……お前が頼ってくれたから」


 ナナシの膝枕で泣いたのは、ついこないだのことで。
 痩せて骨ばった膝の寝心地悪さを、まだ覚えてる。


 「俺は、俺を必要としてくれるヤツと一緒にいたい……」
 含羞に負け、消え入りそうな声音で呟く。
 出会いは偶然だった。
 夜の公園でなれなれしく話しかけてきたホームレスをたまたま相手してやった、それだけ。無視したってよかったんだ、本当は。
 口をきかずブランコを立って、アパートに帰ったってよかったのに。
 どうして振り向いちまったんだろうと、自分の馬鹿さ加減を呪う。
 四角く区切られた暗い夜空に一筋紫煙が立ち昇っていく。
 空に吸い込まれて、やがて見えなくなる。
 「………そっか。ナナシさん、ぞっこん俺に惚れてんだね。フェラ、そんなによかった?」 
 口から煙草を放し、寂寞と乾いた声で笑う。
 「気付かなかった?囲まれてんの」
 俺が手配した。俺がチクった。
 何も知らないナナシをひっかけた。
 「とんだやつにひっかかったな、金庫番。司はな、金のためなら平気で男と寝てケツにぶっといバイブくわえて吊られてよがり狂うくせに、事が終わるとけろっとして次のカモをひっかけるしたたかなガキなんだよ」
 公衆トイレの裏に隠れていた各務が、舎弟ふたりを率いてこっちにやってくる。
 あたりに漂う闇に殺気走った重圧が加わる。
 地面を蹴りつけやってきた各務が、俺の隣に立つ。
 口を開き、また閉じ、極限まで剥いた目に驚愕を映す。
 「各務……さん」
 「まださん付けで呼んでくれんのか」
 俺の肩を抱いて引き寄せ、ほお擦りし、棒立ちのナナシに見せつける。
 「まだわからねえか?はめられたんだよ。こいつは俺の愛人、おもちゃ。兼スパイ」
 「……嘘だろう……」
 「お前をさがしてあっちこっち、大変だったぜ。まさかホームレスに紛れてるとはな……気付かねえわけだ、盲点だった。手持ちの三千万があるなら高飛びするか、そうじゃなくてもかなりの距離移動すんだろうって網張ったんだが、案外近場をぐるぐるしてたんだな」
 「………」
 「二年ぶりか?やつれたじゃねえか。胃の調子はどうだ。ホームレスなんざしてるとろくろく医者にもかかれねえ、よくなるはずねえな、そりゃ。で……金は?」
 「…………」
 各務が放つ暴力慣れした威圧に怖じて、すり足で後退を余儀なくされるナナシを、間合いを詰めた舎弟が乱暴に突き飛ばす。
 「返せ」
 「………」
 「懲りずにだんまりか?」
 ナナシの頬を脂汗が伝う。突破口をさがし前後左右を眺め見るも包囲網に隙はなく、中央に追い詰められ血の気が失せるほど唇を噛む。
 絶体絶命窮地に立たされたナナシから腕の中の俺へと視線を切り替え、各務がご機嫌に砕顔する。
 「ともあれ、一番乗りできたのはお前のおかげだ。利口だよ司は、どっかのだれかと違って世の中上手くタチ回るコツを知ってらあ。どっかのバカがちらつかせる三千万と絶対手に入る目先の三百万なら後者を選ぶ、さすが俺の見込んだ男だ、そうこなくっちゃ!あいつと逃げたって破滅は目に見えてら、俺をとったお前は賢い。しかし笑える話だよなあ公園でたまたま出会ったガキと駆け落ちなんざ夢見て挙句ふられて、なんだよそんなに二年ぽっちの逃亡生活がこたえたのかよ、胃袋にどでかい穴開いちまうほど罪悪感に苦しんだってか、ははっ、俺らはなあお前がクソ往生際悪く逃げ回った二年間上にどやされながら必死こいて行方を追っかけたんだよ、てめえがぶんどった三千万がどんな意味持つかわかってんのか!?」
 上機嫌から一転憤激、怒りに充血した顔に目を剥いて唾をとばす。
 ナナシは目を閉じて浅く跳ね回る呼吸を整えていたが、汗でぬめる手のひらを拭いて落ち着きを取り戻す。
 「……ヤクザが一箇所に大金おいとくはずねえ、何箇所かに小分けするのが常識だ。それがあの日、あのときに限って、金庫ン中に一緒にしまってあった」
 各務の顔から激情が失せ、眇めた双眸が狷介な眼光を放つ。
 「……右翼か……警察か……もっと上の政治家……」
 「だまれ」
 「献金……賄賂……ちょうど選挙の時期だったしな。表に出たら困る金だろう。必死にさがしまわるわけだ」
 「だまれってんだよ」 
 「ケツに火がついたんだろ?バカにしてた金庫番にまんまと三千万もってかれた、幹部の面目丸潰れだよな、しっぽ掴んで目に物見せねえと。盗んだ俺ももちろんやばいが、まんまと持ってかれたあんたらの方こそ身内の笑いもんだ」
 ナナシがざらついた哄笑を上げる、夜の公園に殷々と響き渡る場違いな笑い声、絶体絶命死と隣り合わせの窮地に立たされ理性が崩壊したか天を仰いでだらしなく口かっぴろげ爆笑する、笑いすぎて涙を流しひくひく痙攣しそれでも止まらず千鳥足で電灯に激突、今度は電灯によりかかって肩を浮き沈みさせ過呼吸の発作でも起こしたような甲高く間延びした声で笑い続ける。
 「二年間なにやってたんだあんたら、遊んでただけか、俺から一銭も取り戻せねーで」
 「うるせえ」
 「図体ばっかでかくてオツムからっぽか、居場所突き止めるのに何年かかってんだ、ははっ、なんだよおいばかばかしい、お前ら十人束になっても司一人の狡賢さにかなわねえのかよ!?」
 え?
 「お前らよか司のよっぽど優秀だ、ずっとずっと頭がいい、ははっ全然気付かなかったぜはめられてたなんて、すげえや見事な芝居、ガキだと思って油断したぜ、でもそれ差し引いたってすげえよお前、最高、俺の方が嘘吐かれてたんだ……そっか、はは」
 電灯の支柱に後頭部と背中を預けずりおちつつ、どこか満足げに目を閉じて息を吐く。

 「………うん。お互いさまだな」
 どうしてこの状況で、そんな事が言える。

 殺されるかもしれないのに
 裏切られたのに。

 「嘘の見返りに嘘をもらったから、おあいこだな」

 どうしてそんな、優しい顔で笑える?

 「うるせえ黙れ、誰のせいで笑いもんになったと思ってやがる、お前が変な気おこさず大人しく飼い殺されてりゃ今頃俺は!!」
 ポールに背を預けへたりこんだナナシをヤクザたちが各務の指示に従い取り囲む、各務が怒号を飛ばす、凄絶な私刑の火蓋が切って落とされる、殴る蹴るの過酷で過激な暴行、暴力沙汰に慣れたヤクザたちがナナシに向かい足を振り上げ振り下ろし鉄拳をたたきこむ、ナナシの痩身が右に左に揺らいで吹っ飛ん地面に激突仰け反って吐血、中の一人がナナシの顔を跨いで前髪を両手で掴み持ち上げ乱暴に揺する、髪が束になって毟れ頭皮に血が滲む、暴力の嵐に翻弄され右へ左へ独楽のように錐揉みもんどりうつナナシをヤクザたちが蹴り上げ笑いのめす……
 予想していた光景だ、覚悟してここに来た、どうして今さら心が揺れる、心臓が責めるように鼓動を打つ?
 たった三百万ぽっちと引き換えにナナシを売った居場所をちくった各務にほめられたよく出来たお前はいい犬だお利口さんだと、嬉しい?嬉しいわけない、屈辱だった、自分に反吐が出た、だけど仕方ない割り切って割り切るしかない、一緒に逃げようと誘うナナシのはにかむような笑みがフラッシュバックで苛む、俺はこんな生き方しかできない、俺に金をくれる相手は決まってこっぴどく俺を痛めつける、要求される見返りはいつだってばか高い、そんなものは払えやしない
 「がっ!!」
 苦痛に濁った悲鳴が、物思いに沈んだ俺を現実に引き戻す。
 知らず、無意識に、足が一歩前に出る。
 ナナシは酷い顔酷い有様、瞼は倍ほども腫れあがって目を塞いで唇の端は切れてどす黒い血が付着する。
 さんざん殴られ蹴られた顔は腫瘍に目鼻をつけたような醜悪な相へ成り果て、髪を毟られた頭皮は斑に血に染まる。舎弟の一人がナナシの前髪を掴み吊り上げ無防備なみぞおちに爪先を抉りこむ、ナナシがえびぞりに跳ねる、口から泡を吹いて痙攣する。
 「金はどこだ」
 「知る……知らねえ、げあっ!」
 喉が潰れたような呻きと共に血塊を嘔吐。各務がナナシの腹に重点的に攻撃を加える、イタリア製の本革高級品だと自慢していた靴でナナシの腹を抉る、体重かけて踏みにじる、貧弱に薄い胸板を踏めば乾いた音が鳴る。肋骨が折れた。
 二年にわたる逃亡生活で肉体が衰えきったナナシに逆らう術などあろうはずない。
 「もって、るんだろ、お前が。吐けよ、どこにやった。こいつに渡したんだろ、小遣いめぐんでやったんだろ司に、なあそうだろ司お前こいつのしゃぶったんだろ、どうだった二年ものの垢の味は!?」
 爛々と狂気に目をぎらつかせ各務が恫喝するもナナシは頑として口を割らない、靴裏にゆっくり全体重かけて一本ずつ肋骨へし折る拷問に脂汗をかいて耐え抜く、貧相な胸が陥没する、血のこびりついた顔が胸を圧迫される苦痛に歪むのをサディストの本領発揮とばかり嬉々としてねめつける。
 「吐けよ言えよネタは割れてんだよ金庫番、さっき言ったじゃねえかまだたっぷり残ってるって、この公園のどっか隠してんのか、小心者のお前のこった肌身はなさず抱いて寝てんだろどうせ、お前の財産っていったら三千万だけだもんな、肋骨全部へし折れる前に言っちまえよ」
 「がっ………」
 「しぶといですね、ぜんぜん口割りません」
 「半殺しじゃ足りないんすかね」
 各務を筆頭に群れ集まった舎弟たちが、胸板を踏まれ息も絶え絶えのナナシを覗き込み、言いたい放題憶測する。
 本来凪いでるはずの夜の公園の空気が暴力の余熱をはらんでひりつき、膨れ上がった舌が喉にはりついて言葉を奪う。
 満身創痍瀕死の状態で秘密を守り続けるナナシに痺れを切らし、各務が振り向く。
 「おい司あ、お前知ってんじゃねえか、金のありか」
 
 知ってるといえば、ナナシは助かるのか。

 口を開き、凍りつく。
 視殺せんばかりの眼光に晒され金縛りに遭う、喉が渇く、心臓が狂ったように鼓動を打つ。
 ナナシと目が合う、視線が絡む、舎弟どもに嬲り者にされ仰向けに大の字に寝転がるナナシ、自分の意志ではもう指一本動かせず糸目を開けてるだけでやっとで視力も殆ど喪失してる、ナナシの目に映る俺はきっとぼやけてだれだかわからない、今さら?今さら後悔したって遅いだろう、裏切り者が土下座で謝ったってどん詰まりの運命は変わらない。
 俺はナナシを売った、俺は各務の飼い犬だ、ナナシは一緒に逃げようと手をさしのべたがそもそもの初めから破綻した計画に乗るのは破滅を意味する。

 俺はナナシが好きだった。

 「………知りません」

 だれかを好きということは、そのだれかを裏切らないという確約には必ずしもなり得ない。
 好きも嫌いも生きていく上でのおまけだろう?
 
 やっとの思いで唇からしぼりだした声は、自分のものかと疑うほどに、酷くかすれていた。
 「嘘ついてんじゃねえだろうな。お前、こいつとヤッたんだろ?手に手をとって駆け落ちしようって浮かれてたんだろ」
 「聞いてません、金のありかなんて。駆け落ちなんて寝言、真に受けるわけない」
 砂場に視線が行かないよう足元に縫いつけ自制する、各務が俺の顔をねちっこくのぞきこむ、ひりつく視線を浴びて首筋の産毛が逆立つ。
 おもむろに手がのび、胸ぐらを掴む。首が締まる衝撃に足がぐらつく。
 腕一本の膂力で俺を引き寄せ、吐息を絡めるようにして囁く。
 「こいつと俺どっちが好きだ?」 
 「各務さんです」
 「嘘ふきやがったら一緒に埋めんぞ。お前の代わりなんていくらでも」
 「な、い……」
 各務の脅迫を遮り、地を這いずるようにして湧き上がる、かすかな声。
 衣擦れと喘鳴に紛れ今にもかき消えそうなその声をたどれば、ナナシが胸郭を上下させつつ、さばさばした調子で言い放つ。
 「……関係ねえ……なんも知んね……聞いたってむだだよ……あの金は、血反吐吐いて守り抜いた三千万は、一緒に地獄にもってく………」 
 遺言のように途切れ途切れの調子の声と、不釣合いに清清しい笑顔とが、得体の知れぬ不安を煽る。
 「事務所に運びますか」
 「……どのみちもたねえよ。やりすぎちまった」
 各務が舌を打つ。片腕を振って舎弟をさがらせるや、背広の懐に手を突っ込み、なにかを取り出す。
 「!」
 息を呑む。
 各務がうっそりと倦怠感漂う動作で懐から抜き出したのは、一丁の拳銃。おそらく足がつかない外国製だろう。
 「……二年もろくに治療せずほっといたんじゃ、胃、ぼろぼろだろ」
 「…………」
 「どす黒い血反吐が証拠だよ。ほっといたってじきに死ぬ。俺たちに殺されるか、公園で行き倒れるかの違いだけだ。なあ金庫番、お前だってそうだろ、自分の死期を悟って最後の余力をふりしぼって罪滅ぼしに戻ってきたんだろ?じらすなよ、忙しい中縫って回収にきてやったのに」
 ナナシに銃口をむけ、恐怖を煽って自白を引き出すような計算され尽くした緩慢さで引き金を絞る。
 背中を電灯の支柱に立てかけ、無気力に手足を投げ出したナナシが、生命力の枯渇した虚ろな眼窩で夜の闇よりなお黒い銃口の奥を見返す。
 「金はどこだ」
 恫喝。ナナシは無反応。ずたずたに引き裂かれたトレンチコートは不吉なカラスの羽の如く舞い広がって、不気味さが引き立つ。
 全てを諦めきったように体を弛緩させ、軽く目を閉じたナナシの顔に、初対面でニヒルを気取った笑顔が重なる。
 部屋に帰るのいやさに公園で無為に過ごした日々はナナシとの出会いで変わった、退屈な夜が新鮮な色合いを帯びた、念入りにシャワーを浴びてもまだとれぬザーメンのべとつきを風に当たって乾かすあいだ軽口叩いた、身の上話をした、俺の身の上話をナナシは黙って聞いてくれた、受け入れてくれた……

 「あ………」

 ナナシには、ただのナナシでいてほしかったなんて。
 最初に俺が話したからこそ、せめて対等な見返りをと、秘密を打ち明けてくれたのに。

 勝手にキレて怒って振り払って、ばかで鈍感でわけわかんないのはどっちだ。
 
 「やめろ」
 売ったくせに、裏切ったくせに、ナナシが殺されるのはいやだと心が叫ぶ。
 「ホームレス狩りに見せかけるなら銃は使わねえほうがいい。ここ、意外と音響くし、銃声聞かれたらまずいし」
 できるだけ軽薄な芝居を打つ。ナナシの身の安全ではなく、あくまで自分の保身にこだわっているかの如くふるまう。
 死んでほしくないと土壇場で寝返りを打つ、どうしちまったんだ俺は、さっきから言動矛盾しまくりだ、支離滅裂でいっそ笑えてくる、ナナシが額のど真ん中撃ち抜かれてゆっくり後ろに倒れこんで白濁した脳漿ぶちまける映像が鮮明にフラッシュバック、ほんの数秒後に訪れるかもしれない光景を想像しただけで足が震えてとまらない。
 「……人、くると困るし。警察いるかもしんないし、事務所に連れて帰ってゆっくり……」
 「だれが来ンだよ、こんな寂れた公園に。よぅく見回してみろ、まわりのビルだって全部電気落ちてんだろ。目撃者がどこにいるって?」
 猥雑な都会の死角、誰からも存在を忘れ去られたこぢんまりした公園。麻薬取り引きにしろ人殺しにしろ、犯罪を行うにもってこいの場所。
 「びびったのか、友達が目の前で殺されそうになって。てめえが売ったのに今さら仏心だすなよ」
 各務が喉震わせ笑えば、周囲に屯う舎弟どもも各務の機嫌を損ねたくない打算が働いて下卑た哄笑を上げる。
 公園狭しと太い哄笑が渦を巻く、音に変換された悪意の波動がびりびり鼓膜を叩いて痺れさせる。
 「銃なんか使ったら面倒くさい事になりますよ、絶対。それにまだ金の場所聞き出してねえし、今殺さなくたっていいじゃないすか」
 「やけに庇うじゃねえか。お前に言われなくたってその辺は手を打ってあるさ、口出しすんな。所轄が上手く処理してくれる予定だ」
 「警察が……?」  
 脅しをかね銃をぶらつかせつつ、細い目を陰湿な光にぬめらせ、興奮に乾いた唇をしつこく舐める。
 「ナナシのホームレスが公園で変死した。だから?社会の片隅に寄生するダニが一匹死んだだけだろ。税金で食わせてもらってる警察が税金払わず人のお情けで生きてるクズの殺しを真面目に捜査するか?」
 前もって、警察と話をつけてるのか。
 ナナシの命は、とてつもなく安い。
 ナナシは腫れ上がった悲惨な顔で各務を仰ぐ、腫れ塞がった目に浮かぶ感情は命乞いか諦観か闇に紛れて判別しがたい。
 「ころはないでくれ……」
 「命乞いか?」
 折れた歯を吐き、肘で地面を這いずって、各務の足に縋りつく。
 血のこびりついた前髪が鼻梁にそって流れ、大粒の涙をためて潤みを帯びた目が、電灯の光を照り返す。
 「日本語で命乞いしろ」
 「ころひゃないで、しにはふない……ゆるしへくらはい……あやまる、金の事、つい出来心で……魔が差して……あの日俺、事務所に一人だったから、手が届く場所に金庫があったから……番号知ってたし……他のヤツら、席外してたし、チャンスらって……人生変える……やり直す……さいごの」
 「最後のチャンスを最期に生かせねえんじゃどうしようもねえぜ、ははっ!」
 猛然と顎を蹴り上げる、鼻血の弧を描いて仰け反ったはずみに砂場の方へ転がるナナシ、トレンチコートの血が接着剤の役目を果たし大量の砂が吸い付く。各務が笑う、喉ひくつかせさもおかしそうに笑う、こいつは人を嬲る時本当に心底楽しそうに哄笑する、そいつが惨めなら惨めなほど正視に堪えぬ醜態を晒せば晒すほどサディスティックな傾向に拍車がかかる、今も暴力に陶酔し顔全体を凶悪に引き攣らせ苛烈な拳と蹴りを浴びせ瀕死の獲物を嬲る、舎弟はだれも止めようとしない、各務の圧倒的に一方的な理不尽で無慈悲な暴力に恐れをなしてだんまり、このままじゃナナシが殺されちまう、死んじまう……


 『遅せえよ司、待ってたぜ!もー腹ぺこ、早くくれ、弁当!賞味期限?んなの関係ねえって!』
 関係ねえわけあるかよ、胃を壊してたくせに。
 そのくせ、俺が買ってきた弁当を、本当に嬉しそうにがっついたっけ。
 がっつきすぎて、たびたび喉詰まらせて、俺からひったくったミネラルウォーターを一気に呷っちゃ息吹き返しふたりで笑い合って
 『俺、くさくねえかな。毎日ちゃんと洗ってんだけどさ、そこの便所で』
 『夏場はさ、便所じゃなくて水のみ場で素っ裸になってシャワー浴びるんだ。蛇口を逆さにしてさ、頭っから……生き返るぜー』
 俺は知ってる。
 ブランコに腰掛けて弁当を食う時は足元にすりよってきた野良猫にからあげをこっそりひとつ分けてやる、俺がくれてやった煙草を一口ずつ感謝するように吸う、ナナシが羽織るトレンチコートは前に知り合ったホームレスの爺さんから形見分けに譲り受けたもので


 「司」
 犬のように名前を呼ばれる。
 各務が俺を振り返り、無造作に銃を放り投げる。電灯の光を浴びて金属質に輝く銃を思わず受け取ってしまってから、じっと見返す。
 「けりをつけろ」
 「……………え?」
 ナナシをさんざん殴りつけ裂けた手の甲を舐め、電灯が照らす顔に闇と溶け合う冷酷な陰影をつけ、各務が言い放つ。
 「そいつを殺したら、現金で百万やるよ」
 
にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ナナシノハナシ]
ナナシノハナシ | コメント(-) | 20010505013107 | 編集

 「けりをつけろ」
 銃口とナナシの額を延長線で結ぶ。
 砂場に尻餅ついたナナシが呆然とこっちを仰ぎ、鼻水と涙と涎でぐちゃぐちゃに溶け崩れた顔に白痴の表情が乗る。 
 「やっぱできてたのかこいつと、殺すの抵抗ありか」
 「惚れてなんかないです」
 「にしちゃあ随分入れ込んでるみてえだけど」
 限りなく薄めた口元の笑みと眼光の鋭さに冷や汗が滴る。
 「お前、裏切ろうとしたろ」
 底冷えする凄味を含む声が心臓を握り潰す。眇めた双眸に癇癪が爆ぜる。
 「拾ってやった恩忘れやがって……誰がアパートまで世話してやった?」
 「誤解です、俺は」
 「小遣いもたんまり弾む。悪い話じゃないだろう」
 「……………」
 「お前の覚悟を知りたいんだ」
 嘲笑を塗した陰湿な声が、ねっとりと耳裏の産毛をなぞり怖気をふるう。
 「四つんばいになってべそかきながらクソひりだしたガキが本当に人殺せるか、盃を分けるに値する度量の持ち主か、見極めたいんだ。お前だって一生おちぶれた男娼で終わるのはいやだろう、成り上がりたいよな。折角のチャンス、生かさなきゃもったいねえぜ」
 「できません」 
 「殺れ」
 背後に立つ各務が手を伸ばし、俺の腕をとって構え方を直す。
 強張った指を一本ずつ矯正し右手に銃を握らせてから底をしっかり左手で支え固定、茶化して肩を叩く。
 「男にケツ貸して稼ぐのはこりごりだよな」
 銃を支え続けるプレッシャーに追い詰められ、逃げ道を探して公園のぐるりに視線を逃がす。
 ナナシと隣り合って腰掛け弁当食ったブランコが、ナナシと語り合ったコンクリートトンネルが、ナナシがふざけてよじのぼって俺も真似たジャングルジムが、逆上がりができないんだと白状したナナシに俺が手本を示した鉄棒が、続けざま目にとびこむ。

 「……あん時、あんた、傑作だったよな。いい年して逆上がりできないなんて言い出して……教えてやるよって請け負って……トレンチコート脱がずにやったもんだから、蝙蝠みてえにべろんと逆さ吊りになって。あンとき手え滑らせたのも、わざとなの?」

 ナナシと過ごした夜の思い出をひとつひとつ数え上げる。

 「大人のくせにはしゃいで……ジャングルジムのぼって、てっぺんから絶叫して……」
 「知ってるか?ジャングルジムのてっぺんから願い事叫ぶと叶うんだぜ」
 「嘘吐け」

 公園は、完結したひとつの世界だった。
 こっから出る必要なんか、なかったのに。

 「……どうしてあんなバカ言い出したんだよ」
 声の震えがやむ。
 心臓の鼓動は内側から破りそうに高鳴っていたけど、もう手は震えてない。
 諦めにも似た虚無が身の内で水位を上げて、無感動な声が出る。
 「あんたが一緒に逃げようなんて言い出さなきゃ、こんな羽目にならなかった」
 「俺のせいか」
 「あんたのせいだ」
 ナナシはかける言葉を間違った。
 一緒に逃げようじゃなく、一緒にいようだったら、俺は今この場に立ってなかった。
 逃げるという事は公園を出る事を意味して、俺は公園の外の世界にナナシと一緒に放り出されるのが怖くて、公園の中なら俺とナナシはふたりぼっちで寄りかかっていられるのに、どうしてわざわざ安全な場所を安息の箱庭を捨てるのか幻滅した。
 「三千万はどこだ」
 俺の隣に立ち各務が言う。素直に吐けば命だけは見逃してやるという高圧的な口調。
 ナナシは口を割らない。前髪の間から、おそろしく澄み切った目で銃口を見返す。
 静寂の浸透圧が鼓膜を押し潰す。心は酷く冷め切っていた。あらゆる痛みと切り離され麻痺していた。ふと、ナナシが体をふたつに折り曲げ激しく咳き込む。大量の吐血。トレンチコートにどす黒い血が飛び散る。内臓に重篤な損傷を負ってるのは明白、顔はむざんに腫れあがって判別つきにくい、片腕で自分を抱いて咳き込む姿から饐えた死臭が漂い鼻をつく。
 垢と汗とその他もろもろの肌の老廃物が入り混じった独特の体臭が鼻腔の奥に絡む、ついこないだ含んだばかりのナナシの味を反芻し引き金から指が抜ける、その隙をつき標的が反転、砂に足をとられつつ決死の逃走を図る。
 「ばかっ、なにやってんだ!」
 各務の怒号が耳元で炸裂し鼓膜を叩く、視線の先には砂を蹴散らし必死に逃げるナナシ、手足をばたつかせぶざまに見苦しくこけつまろびつ余力をふりしぼって走る、てんでなっちゃないフォーム、足と手がばらばらで今にもけっつまずいて転びそう、派手に砂を蹴散らし宙を掻き毟るように手を泳がせコートが纏わる足を重力に抗って蹴りだす、全身で死にたくないと絶叫ししぶとくあがいてもがく、トレンチコートの背中に被さる思い出、煙草をたかってきた人懐こいホームレスの面影が瞼の裏をよぎる、俺を司と名前で呼んだ人間は各務以来どれくらいぶりだろう


 嬉しかったよ、俺は。
 「あんたのこと、とうとう名前で呼んでやれなかった」
 ちゃんと聞いときゃよかった。


 夜の崖っぷちの公園で銃が咆哮する。

 電灯の光を受け遠ざかりつつある背中に狙いをつけ銃弾を放つ、反動で鎌首もたげるように腕が跳ねる、視線の先でナナシが倒れる、悲鳴はない、一連の映像はミュートのスローモーションを思わせる、トレンチコートの背中が爆ぜる、擦り切れた裾が風を孕んで優雅に舞う。
 羽を毟られたカラスが闇夜に墜落するようにつんのめり、倒れこむ。
 鈍い音たて突っ伏すナナシに硝煙吹く銃を放り出し駆け寄る。
 うつぶせに倒れこんだ背中に開いた一点の穴、急速に範囲を広げつつあるどす黒く不吉な染み。 
 傍らに膝をつき、両手で抱き起こす。
 うなだれた頭をそっと膝に乗せる。
 「………膝枕……こないだと、逆……」
 前髪を梳いて分けて、憔悴しきった素顔を晒す。
 眼窩が落ち窪み頬骨が高く突き出た顔に、二年間の放浪の痕跡と死相が浮かぶ。
 「………軽いね。トリガラみてえ」
 「トリガラはひでえ……」
 トレンチコートに包まれた体がこれほど痩せ衰えていたと、膝枕して、初めて気付いた。
 最期の最後まで往生際の悪い男だ。命乞いが報われないと知るや背を向け逃げ出した。
 「トリガラ……で、思い出した……安くて旨いラーメン屋知ってんだ……二年前行ったきり……まだあんのかなあ」
 「さあ」 
 「連れてきたかった……」
 「煙草の恩返し?」
 ナナシ行きつけのラーメン屋の話なんて初めて聞いた。俺はまだまだこいつのことを知らない。もう永遠に知ることはないだろう。
 砂場のど真ん中に倒れこんだナナシを膝枕する。
 呼吸の間隔が次第に空いて瀕死の喘鳴が入り混じる。  
 あっけない末路。ナナシは逃亡に失敗した。
 視力を喪失し、意識が濁り始めた虚ろな目で、俺をとおりこしたどこか遠くを仰ぐ。
 ひゅうひゅうと風鳴りに似た呼吸音をくりかえしながら、ごぼりと血泡を吐く。
 「みんな一緒にスタート切んのに、どうしておいてかれるんだろうな……」
 「競馬?」
 「追いつかれないよう全速力で走れば逃げ切れたのかな……俺、どんくせえから……自分と似てる、足遅い馬にばっか入れ込んで……」
 揺れていた焦点が定まり、ナナシが酷く優しい目で俺を見る。
 「つかさ……」
 「うん」
 
 「突っ走れ」

 お前に賭けた。
 今度こそ、勝たせてくれ。

 「司の膝枕で昇天する前に言うことあるだろ?とっとと吐け」
 ぞろぞろと舎弟を引き連れ大股に砂を蹴散らしやってくる各務。
 絶命まで秒読みのナナシの胸ぐらを乱暴にひっ掴んで恫喝する。
 「各務さん。手、放してください」
 「口出しすんな」
 「お願いします」
 
 各務が目を剥く。
 従順で臆病な飼い犬に、だれかれ構わず噛みつく狂犬病の兆しが見え始めたかのような反応。
 
 「……はなしてくんないかな……」
 
 殴り飛ばされるか蹴り飛ばされるか予期するも、各務は露骨に舌を打ち、怯えを隠すように荒っぽくナナシの胸ぐらを突き放す。
 「~どうせこの公園にあんのは間違いねえんだ、探せ、死ぬ気で!」
 激した各務の号令のもと、舎弟どもが公園の四方に散開する。
 あるものはコンクリートトンネルへ、あるものはすべり台へ、あるものはジャングルジムへと向かって脇目もふらぬ捜索を開始する。
 死にぞこないのホームレスと、そのホームレスを撃ったガキの存在は、今この瞬間完全に連中の脳裏から消滅する。
 にゃあと細い声。いつのまにどこから現れたのか、俺に抱かれ砂場に身を横たえたナナシの傍らに唐十郎が寄り添う。心なしかしっぽがしなだれ、普段より殊勝らしく見える。
 ナナシが無意識な動作で手を伸ばす。唐十郎は、最後に大人しくなでられてやったりはしなかった。くたばりぞこないのホームレスに対しても野良のプライドと警戒心は健在で、いざなでようと緩慢に手を動かすや、つれなくすりぬけていってしまう。
 「ちくしょー……最後くらいいいじゃんか……ケチ」
 「……畜生だもん……」
 「はは……そっかあ……ちがいねえ」
 だからナナシは、行き場を失った手を代わりに俺の頬におく。
 かさついた手が頬に触れる。やすりの感触。
 ひとりぼっちが長すぎて泣き方を忘れちまった子供にするように、俺の頬を包む。
 涙は出てこない。
 感情は相変わらず麻痺してて、哀しみも憤りも憎しみも、胸の底をさらったところで何もひっかからない。
 引き金を引いた瞬間、感情の一部が壊死しちまったみたいだ。
 ナナシが酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせる。仕草と目線で耳を貸すよう促す。最期の力を振り絞ってなにかを伝えようとしていると察し、耳を貸す。
 「……右から三番目、ブランコの裏……」
 首の後ろを支えられ、吐息と喘鳴にかすれ酷く聞き取り辛い声で告げるや、血の気の失せた瞼を閉じる。
 そして、二度と開かなかった。
 「……………」
 息絶えたナナシを静かに砂場に横たえ、腰を上げる。
 ふらつく足取りで砂場のふちを乗り越え、ブランコに向かう。
 地に足が付いてる感じがしない。妙な浮遊感が体を包む。各務が俺を見て怒鳴る、公園中を走り回っていた舎弟が邪魔っけに舌を打ち俺を突き飛ばす、転ぶ、起き上がる、歩く、右から三番目のブランコに腰掛ける。
 ナナシはいつもここに座っていた。
 『右から三番目、ブランコの裏』
 各務たちにばれないよう用心し、こっそりとブランコの裏をさぐる。
 「あった!見つかりました、多分このバッグですよ、ほら!」
 「野郎砂場に埋めてたのか、ははっ、気付かねえわけだ!灯台もと暗しだな。中見せろ、三千万は……」
 バッグを発見した舎弟が快哉を上げ、喜色を満面に湛えた各務や仲間たちがナナシの亡骸に後ろ足で砂かけ群がる。
 バッグを囲んで盛り上がる各務たちをよそに、ブランコの裏に接着された金属を取り外し、手に隠して前に持ってくる。
 プラスチックの番号札が付いた鍵。
 たぶん、俺が乗り降りする最寄り駅の。
 バッグのジッパーを引きおろし手分けして確認作業を行う各務たちに知られぬよう、手に握りこんだ鍵をジーパンの尻ポケットにしまう。
 欲望ぎらつく顔でバッグの中をかきまぜていた舎弟が殺気立つ。
 「おかしい……一千、二千……二千万しかねえ」
 「残りはどこだよ?使っちまったのか」
 「くそったれが、組の金に手えつけやがって……一千万も何に使いやがったんだ。女か?」
 「まあ二千万無事に戻ってきただけでよしとしとこうや、最悪全部パアになってたんだからよ……でしょう、各務さん」
 「二千万回収できりゃ上出来だ、上にも面目立つ。二年もたってるんだ、女や遊びでパーッと使い切ってるんじゃねえかって思ったが遊び方もろくにわかんねえカタギ崩れに余計な心配だったな」
 消えた一千万は諦めようと、討論の末見解が一致する。
 とりあえず二千万円は手つかずでもどってきたのだ、これを上納すれば過去の汚点が清算できると考え報告のため早速携帯を出す各務を目で追いながら、俺は消えた一千万の行方だけを考えていた。


 乗り降りする利用者で賑わう構内を足早に歩き、隅に設えられたコインロッカーのもとへ赴く。
 各々番号を振られたロッカーの内、キーの札と一致する物を捜す。
 ロッカーの前を行きつ戻りつひとつずつ照合するうちに、目的の番号が見つかった。
 ずっと手に握りこんでいたせいですっかり体温が移ってぬくもった鍵をさしこみ、捻り、扉を開ける。中には紙袋がひとつしまわれていた。
 四角い闇に目が慣れるのを待たずそれを引っ張り出し、中に手を突っ込んで円を描くようにまさぐれば、紙がうるさくがさつく。
 「…………」
 砂場に三千万を埋めたというのは嘘だった。
 ナナシはいつかまた逃げるつもりだった。
 二年にわたる逃亡生活に疲れ果て、死に場所を求め元いた街に舞い戻ってなお競馬の大穴を夢見るが如く別天地の夢を捨て切れず、各務たちに見つかった時にそなえ、三千万のうち一千万を別の場所に分けて隠しておいた。
 構内の喧騒が耳の後ろを通り過ぎていく。
 駅を通過する客の靴音や話し声がさまざまな音域で混じり合い日常を演出する。
 アパートは引き払った。
 駅にくる途中、携帯は捨てた。一ヶ月ぶりに寄った公園の砂場に放り捨てた。
 紙袋をさげて改札を通り抜け電車に乗る。一回新宿駅に出て、新幹線を待つ。
 発車のベルと共に内圧の音たてドアが閉まり、新幹線が円滑に動き出す。
 車窓に映る俺の横顔はたった一ヶ月で別人のように痩せて尖って、目には倦怠と諦念の入り混じった老成の翳りを宿し、ナナシに酷似していた。
 必要最低限の品を詰めた手荷物と紙袋を足元に置く。
 悠々と足を伸ばし、肘掛けに肘をおき、もう片方の手で懐をさぐって煙草をとりだしてから、向かい席の中年サラリーマンの非難のまなざしに気付く。
 そういえば車内禁煙だった。
 それ以前に未成年か、俺。
 「すいません」
 煙草を元に戻し頭を下げた拍子に、サラリーマンが読む新聞の片隅に載った小さな記事が目にとまる。
 ナナシがいた。


 『公園でホームレス変死 事件性は?
 7月27日未明、新宿区○○町の児童公園でホームレスの変死体が発見された。
 警察の調べによるとそのホームレスは身元不明で、背中に撃たれた傷あり。
 身元を特定する品を所持してなかったため遺族の引き取り手がないという』


 「最後までナナシのまんまか」
 つい声に出して呟けば、向かいのサラリーマンが妙な顔をする。
 身元を特定するような物は各務たちが根こそぎ没収したのだろう。顔と指紋を削り取らなかっただけ優しい方だ。
 無名のホームレスが一人、名もない児童公園の砂場で撃たれて死んだ。文章にすれば、たったそれだけの事。たった数行で要約される無名の人生。
 「その新聞、くれませんか」
 「え?だめだよ、読んでるのに」
 試しに言ってみれば、案の定断られる。
 露骨に怪しむサラリーマンに向かい、紙袋から無造作に一万円を抜いて渡す。
 「売ってください」
 絶句しつつも欲望に率直に一万円札を受け取ったサラリーマンの手から引き換えに新聞をひったくり、3センチ×3センチに満たない枠におさまった記事をくりかえし読む。
 ナナシの件は上手く処理されたようだ。
 裏切り者の金庫番を始末し、二千万を無事取り戻した各務の評価は現在うなぎのぼりで、この調子でいけば他のライバルを蹴散らし若頭を襲名できるという。
 今回の件で各務は手柄を上げた。俺は報酬の四百万をもらった。
 プラス百万は、ナナシの命の値段だ。
 俺の手元には現在一千四百万がある。
 どこまで逃げ切れるだろうか。つかまったらどうなるのか。
 一緒に逃げようというナナシの誘いは拒んだのにどうして今新幹線にのってるのか、自分の不可解な行動に皮肉っぽく苦笑する。
 俺はまた戻ってくる。
 ナナシが人生の最期にこの街に戻ってきたように、あの公園を最期の場所に選んだように、自分の意志で戻ってくる。
 それが何年後かわからない。
 何十年後かわからない。
 けれども戻ってくる。途中で捕まらず逃げ切れたら、今手元にある金を膨らませる事ができたら、必ずこの街にもどってくる。
 帰ってきて、まず最初にやることは決まってる。


 「ばあん」
 人さし指で銃を模し、しばらく見納めだろう東京の風景に被さって車窓に映る自分の横顔を撃つ。
 正面のサラリーマンがびくりと硬直するのに悪戯っぽく笑いかけ、ついでに頼む。
 「すいません、携帯持ってますか?」
 「え?持ってるけど……」
 「貸してくれません。すぐ済むんで」
 「自分のはどうしたの」
 「捨てました。いらねーから」
 不審顔のサラリーマンに札をちらつかせ引き換えに携帯を借り、暗記した番号を押し、耳につけて待つ。
 『だれだ』
 「俺だよ、各務さん」
 『司か?非通知だから驚いた。なんだよ、昼間にかけてくるなんて珍しいじゃねえか、また遊んでほしいのか。悪いけど今日は上の呼び出しが』
 「十年」
 『は?』
 「ナナシは二年でギブしたけど、俺は十年逃げ切ってみせる。あんたに十年時間をやる」
 横目で見れば新幹線の窓ガラスに携帯を構えた俺が映る。顔は無意識に笑っていた。
 屈折したまなざしに似合いの狂気の笑みを湛えつつ、電話の向こうで息を殺す相手の気配の核を掌握し、吐息を絡めるようにして囁く。
 「殺しにいくから待ってろよ」
 脅迫。
 『お前……っ、まさか消えた一千万を。待てよ、お前が殺したんだろ、逆恨みじゃねえか』
 「だから?そんなのわかってんだよ。逆恨み上等、たしかに引き金を引いたのは俺だ、あいつを売ったのも俺だ。だから?それがあんたを殺さない理由になるか」
 シートに身を投げ出し足を組む。携帯の向こうの気配をさぐる。
 「復讐を建前にした私怨はおっかないぜ?」
 各務が息を吸い、吐き、動揺をしずめるように声を絞って吐き捨てる。
 『いかれてるぜ、お前』
 「アパート行ったって無駄だ、からっぽだよ」
 『何が不満なんだよ、たんまり小遣いやった、アパートだって世話してやった、盃も分けてやるって』
 「あんたのザーメン汲んだ盃なんて反吐が出るっつってんだよ、ドブロクのほうがマシだ。あんたの変態ぶりにはいい加減うんざりだ、俺を吊るして鞭でぶった叩いてご機嫌だったな、舎弟に輪姦させて笑いながら見てたっけ、ったくいい趣味してるよあんた、クソひるとこ見ながらさんざん笑い転げてたよな」
 『……てめえ、逃げ切れると』
 「次帰って来る時は顔も名前も変えてっから、俺だってわかんねーかな」
 『たった一千万ぽっちで何ができるってんだ、笑わせんな、お前は俺に飼われてひんひん腰ふってんのが似合いだよ、淫乱ホモの売り専が!!』
 支配下においていたガキに裏切られあまつさえ殺しを予告され、各務が怒号を上げる。
 こいつからは逃げ切れないと諦念していた、逃げたら死ぬほど酷い目にあうと恐怖に縛りつけられ従うだけだった、なのに今俺は笑ってる、携帯越しの太い声に鼓膜をどやしつけられ恫喝されてるというのに腹の底から笑いが湧いてとまらない、こんなみっともない小さい男だって知ってたらもっと早く逃げてたのに、今までこんなヤツに怯えてたのか、くだらねえ、ああ、本当くだらねえな……


 こんなことなら、あんたと一緒に逃げてりゃよかった。


 「各務さんさ、話したっけ」
 こみ上げる笑いを自制心の限り押し殺し、できるだけ軽薄な口調で言う。
 「俺さ、前にいた施設の職員にイタズラされてたの。各務さんに拾われる前。それがいやで飛び出したけど、やられっぱなしが癪だから、飛び出す日の夜、仕返ししたんだよ。いつもどおり部屋にしのんできたそいつを、いつもどおりしゃぶると見せかけて、がりっと」
 限界まで口をあけ食いちぎる真似をすれば対面席のサラリーマンが仰け反り、いつのまにか膝に抱き上げた鞄をひしと抱く。
 「あんたがくれた四百万は見返りとしてもらっとくよ。足りねえ分は十年後きっちり回収しにいく」
 『待て、』
 各務が何か言いかけるのを遮り耳から放した携帯を一瞥、憎悪さえ凍りついた声音で最後通牒をつきつける。

 「ナナシの意地を見せてやる」

 携帯を切り、弧を描いて向かいに投げ返す。
 両手を突き出し携帯をキャッチしたサラリーマンが物騒なガキと関わるのを恐れ逃げてくのを見送り、ゆったり寛いでシートに沈みこむ。
 靴の先が紙袋に当たる。
 何気なく中に手を突っ込んでかきまぜるうちに、札束の間に黒いパスケースがちらつく。
 予感があった。
 免許証に記された氏名に見覚えはない。写真の顔には見覚えがある。
 平凡で無害な顔立ちの若い男、はにかむような笑み、トレンチコートじゃなく地味なスーツをきちんと着こなした男の名前は
 
 七橋 洋平。

 「七橋だからナナシ……」

 七橋を縮めてナナシ。
 人との触れ合いに飢えたナナシは、仮名の中に本当の名前を紛れ込ませた。
 身元を隠したい気持ちと矛盾するが、人に名前を呼んでもらいたい願望はそれ以上に強く、そんな回りくどい形でしか本当の自分をさらせなかった。
 どこまでも臆病で意気地なしで腰抜けで
 「………………………はは」
 ナナシが唯一所持していた身元を証明する品は、不思議な縁を経て、俺の手に渡った。
 かつて七橋洋平と呼ばれた男が文字通り血反吐吐いて守りきった金の一部と共に、今、俺の手元にある。
 
 『右から三番目、ブランコの裏……』

 俺が殺したのに。
 あんたを撃ったのに。
 死に際、どうして教えてくれたんだ。

 聞きたいことが沢山ある。
 コインロッカーの鍵をブランコの裏に貼りつけたのは、事の顛末を見越したからじゃないかとか。
 公園に追い詰められ殺される未来を幻視して、駆け落ちを誓ったガキに遺志を託したんじゃないかとか。

 あんたはひょっとして本当の名前を、ナナシになる前の自分を世界でただ一人せめて俺だけには知っといてほしかったんじゃないか。
 俺がナナシさんと呼ぶたび恥ずかしそうに少しだけ嬉しそうにはにかんで、俺もあんたに名前を呼ばれるのがくすぐったくて、でも一歩公園の外にでたら俺はヤクザに飼われる売り専のガキで、身寄りのない男娼で、あんたはただの小汚いホームレスにすぎなくって、そんな俺たちふたりが街を捨てて逃げ出したところで行き詰まっちまうのは目に見えて

 免許証を両手に握り締め、うつむく。
 俺が泣くのは卑怯だろう。
 そんなのただの自己満足で自己憐憫だろう。 
 両手で免許証を握り、俺が知る男よかこざっぱりしたナナシの写真に額をすりつければ、緩く閉じた瞼の裏に電灯のあかりに抱かれた公園の情景が甦る。
 
 ブランコに腰掛けだれかを待つ男。
 足音に反応し、擦り切れ薄汚れたトレンチコートを翻し振り向いた顔には笑み。
 片手で拝むようにして煙草を受け取り、実に美味そうに吹かす。
 
 『嘘の見返りに嘘をもらったんだからおあいこだな』

 今でもそう思ってくれるだろうか。
 あんたに優しくしてもらった見返りに俺ができることは少なくて、あんたの敵討ちなんて各務を殺すための口実で、もし本当に敵を討ちたいなら今すぐ新幹線の窓から飛び降りて自殺するべきで、ずるずる生きてるのは俺のエゴだ。
 エゴを押し通して、生きる。

 『突っ走れ、司』
 
 あんたの分まで生きるとは言わない。
 その代わり、あんたの分まで逃げ切ってやる。 

 公園を出ても人生は続く。
 あんたの人生はあそこで終わっちまったけど、俺はあんたに託された金と今や俺しか知らないだろうあんたの名前を抱いてどこまでも逃げ続ける。
 心はあんたと出会った夜の公園に置いてきた。名無しの亡骸と一緒に砂場に埋めてきた。
 再び帰ってくる日まで、俺があんたを殺しいつか各務を殺すだろうあの公園へ戻る日まで、死ぬ気で生き切ってやる。 

 レシートを捨てられなかった醤油じいさんの気持ちが今ならわかる。

 静かに目を閉じ、手に捧げ持った免許証を額に当てる。
 永久に続く懺悔のように。刹那に瞬く祈りのように。 

 最後にナナシの話をしよう。
 優しくてずるくて弱くて意気地なしで嘘つきな、道化になりたくてもなりきれなかった一人のホームレスの話をしよう。
 
 耳の中、鼓膜の裏側をくすぐるように人懐こい声がする。なあ煙草くんないと、屈託なくねだる声がする。
 駅へ向かう途中公園によって、砂場にピースを一箱墓標代わりにそなえてきた。
 中から一本をとりだし火をつけ、深々と一服してから、ナナシの体から流れた血がどす黒くしみこんで乾いた砂に挿した。
 一人見渡す昼の公園は空疎に白茶け寂れて、夜の公園に満ちていた退廃的な非日常性が消え失せて、砂に挿した煙草がひどく場違いで少し笑えた。
 やっぱりいつのまにかやってきた立派な名前の野良猫が、唯一自分に優しくしてくれた名付け親の死を悼むように砂場をぐるぐる徘徊していた。
 いつだったか俺にそっくりと評された野良猫はそのうち徘徊をやめて、ピースの先端から立ち上り空へ消えていく煙を仰ぐ。
 俺は煙草が尽きるまでぼんやりそこに突っ立って、人殺しのがらじゃない祈りを捧げる代わりに、もういない男のまだ残る面影を網膜に刻みつけた。

 墓標に刻む名前はない。
 ただのナナシで十分だ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ナナシノハナシ]
ナナシノハナシ | コメント(-) | 20010504233316 | 編集

 酒は呑んでも呑まれるなというが俺はもっと厄介なもんに溺れた。

 「なあ、俺に足りないものってなんだと思う?」
 酒は入っていた。それは確かだ。魔が差したのだ。
 「どうしたんだいきなり」
 友人のあきれ声。
 居酒屋の座敷で行われたサークル主催恒例の飲み会、俺の隣には小学校から腐れ縁の幼馴染が胡坐をかいてビールをお代わりしていた。
 「だからさー、不足分だよ不足分。これでも頑張ってんだよそう見えねえかもしんねーけどさ。へこむんだよね地味に。髪だって雑誌見ながら研究してようやく納得いく角度と柔らかさに仕上げたんだよ、鏡とにらめっこして整髪料使って……髪質に合う整髪料さがすのも大変だった、俺の髪コシがねえから相性よくねえとすぐしんなり垂れてきちゃうんだよ。最近流行りの無造作ヘアー?それ狙ったの、演出。くどくなく、あざとくなく、なおかつイケてる路線をね」
 「ふむ。研究熱心な事で」
 「だろ?俺って実は真面目くんなの、ひとつのことに打ち込むとそれしか見えなくなるっつうか」
 「知ってるよ、何年つきあってると思ってる。ガキの頃から見てるんだから」
 「服だってさー、気を遣ってるんだよ。ウニクロ?あ、ちがうユニクロね、ウニは寿司のネタか。いかに安くおシャレに見せるかって上下の組み合わせ考えて裾出して、カジュアルでいながら崩れすぎず、こうね、ナチュラルオサレを狙ってるわけなのよ」
 「努力の痕跡は認める」
 「ありがとう」
 頭のてっぺんからつまさきまで流し見て判定を下す偉そうな幼馴染に、ついつられ頭を下げる。
 この時点でだいぶ酔っ払っていた。
 呂律は怪しくもたつきアルコールを過剰摂取した目はとろんと濁り、すっかり骨抜きになった体はくらげのようにぐにゃぐにゃして右に左に不安定に揺らめく。
 どよんど負のオーラ炸裂でくだ巻く俺を出来すぎた幼馴染は生温かく見守る。
 微笑ましさと仕方なさを六対四で割ったような眼差しで、理不尽な言いがかりをつけられても決して怒らず寛容に徹し鷹揚に応じる様がなおさら憎たらしく、自分の顔を指さし懇々と訴える。
 「俺が言いたいのはさ、問題はさ、なんでこんなに頑張ってるのに致命的絶望的壊滅的にモテねーのかって一点に尽きる。おかしくね?晴天のヘキレキじゃね?どう思うフジマ―」
 藤馬は苦笑しつつ大人しく俺に肩を貸す。
 実にご立派あっぱれ模範的態度、相手がぐでんぐでんな酔っ払いだろうが冷たく突き放したりしないんですこいつは。なんたって出来たヤツだから。モテモテですから。見てくださいこの包容力、大人の魅力全開の微笑み。全知にして全能の釈迦の如く慈愛を体現するアルカイックスマイル。
 完璧。
 降参。
 はいはいもう認めます、高橋巧はなにひとっつ安西藤馬にかないません。
 顔も頭も性格もこいつのほうがはるかに上、比較すんのもおこがましいってなもんです。 
 「フジマー、お前が女おとした最短記録って何秒だっけ……」
 酒が入ると絡み癖がでる。そう自覚しつつヤケ酒かっくらったのは理由があって、その日俺は片想いの相手に告白して案の定振られたのだ。
 玉砕。
 地獄の底から湧きあがるような鬱々とした呪詛に文句も言わず延々つきあってくれる藤馬によどんだ三白眼で因縁ふっかけりゃ、よくできた友人は内心の辟易などおくびにもださず(辟易してるだろうさすがに)ぐずる赤ん坊をあやすような調子で俺に言う。
 「覚えてない」
 「二秒」
 断言できる。
 自信をもって断言しますとも、なぜなら俺は人が恋に落ちる瞬間を見てしまったのだから。
 正確には俺の惚れてた女友達が出来心で引き合わせた藤馬に一目ぼれする瞬間であってんなもん見たくなかったんだよちきしょーと絶叫したところで後の祭り、時よ止まれお前は美しいと偉大なる先人は言いましたが俺の場合時よ戻れ俺が失恋する前にと土下座したい気分だ。
 「そうだっけ?」
 わずかに眉根を寄せて記憶の襞をなぞるも、つきつめて考えるのを放棄し、にっこり華やかに笑う。心当たり多すぎてひとつに絞れないって可能性もありか。
 泡立つビールを一気に干し空のジョッキを卓に叩きつける。朗らかに笑う藤馬の鼻先に人さし指をつきつけ、気炎を上げて吠え猛る。
 「同じ学部の崎谷さん紹介した時!いやな予感はしてたんだ、でも崎谷さんがどうしてもっていうからしぶしぶ連れてったんだ、そうしたら案の定……的中だよ」
 藤馬はキャンパスでもひどく目立つ。
 片想いしてる女の子は数知れず、積極的にモーションかけてくる子も多いという。
 ガキの頃はどちらかというと線が細く色白の女顔だったのに、高校に上がる頃から背がのびてしなやかな筋肉がついて、あっというまに王子系の男前に成長した。
 中学の時分から街を出歩くたび雑誌モデルにスカウトされる藤馬は服の着崩し方も垢抜けて、俺なんか引き立て役にしかならない。
 こいつは引き立て役が欲しくて俺と行動してるのだろうか。
 「食堂で待ち合わせして、俺が声かけてお前が振り向いた時、コトッと音がした」
 「音?」
 「人が恋に落ちる音」
 「はは、巧は面白いこと言うなあ」
 「笑い事じゃねえよ。したんだよ、マジで」
 実際、音はしたのだ。ただそれは崎谷さんの手が動いて、携帯にぶらさげてたぬいぐるみのストラップがぶつかった音だったけど。
 「俺の失恋瞬間風速も塗り替えられた……」
 どうあがいたってかなわないやつがいる。
 携帯にぶつかったストラップを見た時、戦わずして敗北を悟った。
 ざわつく食堂の中央で、椅子に掛けた藤馬が振り返って優雅に手を挙げた瞬間、崎谷さんの恋愛ベクトルは固定されてしまったのだ。
 たったそれだけの事と人は笑うだろうか。
 俺の思い過ごしだと、頑張れと、無責任にけしかけるだろうか。
 だけどこれが初めてじゃないんだ。
 俺が好きになった女の子を藤馬がかっさらうのは小学校低学年からずっと繰り返されてきたセオリーで、不幸な経験が鍛え上げた勘が働き、俺の好きな子が藤馬を恋愛対象として意識し始めたらすぐわかるのだ。
 そして案の定、大学に入っても同じ悲劇が繰り返された。
 いつになったら呪縛が断ち切れるんだろう、藤馬に対するコンプレックスを拭い去れるんだろう。
 たちが悪い事に藤馬本人に俺の好きな子をとったという自覚はない。自覚がないから罪悪感も発生しない。どの場合も全て女の方から勝手に惚れる。だから藤馬を責めるのは間違ってる、と頭ではわかる。
 藤馬は人気者だ。何をやらせてもパーフェクト。文武両道才色兼備、その上家は金持ちな王子様だ。
 俺のお袋の口癖は「あんたも藤馬くんを見習いなさい」で、歴代担任の口癖も以下同文。あれ?才色兼備って女に使う四字熟語だっけ?……どっちでもいいや、酒が入ってるんだ、誤用は見逃してくれ。
 小中高と一緒の腐れ縁で大学まで一緒、何の因果かサークルまで一緒ときた。藤馬ならもう一ランク上の大学も狙えたのにと疑問を抱けば、「俺は巧と一緒がいい」と例の輝かんばかりの笑顔で返された。
 俺も健全な男子だ。隣家の美少女が毎朝窓伝いに起こしにきてくれるお約束のシチュエーションを妄想しなかったといえば嘘になるが、残念ながら幼馴染の性別は野郎だ。この年までつきまとわれても鬱陶しいだけ。
 ガキの頃から一緒だった幼馴染が足かせになり始めたのはいつからだろう。
 サークルの飲み会。日常に組み込まれた馬鹿騒ぎ。座敷を占領した学生どもは底なしに飲んで騒いでどの顔も無邪気に楽しげで、べそべそ愚痴ってるのは俺だけだ。ビールを舐める。苦いだけだ。
 「フジマ―……俺に足んねえもんってなんだよ……」
 傷心を抉る。穿り返す。とことんナーバスでネガティブな泥沼にはまり込んでる、やばいなと思うもブレーキが利かない。違う、わざと利かなくさせてる。酒で加速をつける。絡みでもしねえとやってらんねーと自暴自棄に走り、ますますピッチを上げていく。
 「お前にあって俺にないもんって何?」
 こいつの引き立て役で一生終わるのはいやだと心が抗う。
 俺にだってプライドがある。
 ちゃちなプライドだけど、大事に磨けばいつか化ける可能性のあるダイヤの原石と信じたい。
 けど、涼しい顔してなんでもパーフェクトにこなす藤馬が隣にいると輝きを食われて一生原石のまま終わっちまいそうだ。
 俺が劣ってるとは思いたくないけど、少なくとも平均いってると思いたいけど、オールマイティな藤馬と並ぶと比較を運命づけられくすんじまう。
 酒臭い息に乗せてわだかまりを吐き出す。
 藤馬の笑顔はざらめでコーティングしたトゲのように劣等感をちくちくつつく。
 酔っ払いなりに真剣に聞けば、暗澹と俯く俺に寄り添う藤馬が、虚空に目を泳がせて唐突に言う。
 「……色気、かな」
 「色気?男の色気って事か」
 困った。確かに、ない。そんなものは全然ありません。
 自慢じゃないけど大人の余裕とか男の色気とか俺は皆無で、というか一日二日で身につくもんじゃないだろうそれは、成長と経験にしたがって自然と醸し出されるもんだろうと反論したいのは山々だが、俺と同い年で大人の余裕と男の色気とさらには秀麗な容貌を兼ね備えた実例が隣に居座ってるもんで返答に詰まる。
 意味深な流し目で困惑する俺に一瞥くれ、ビールを舐める。呑み方もかっこいい。アルコールが入っても決して自分を失わないのだ。
 「巧はさ、軽い」
 「存在自体が?ヘリウム並に軽いと?それともこっちが?」
 自分の頭を小突いて絶望的な顔をすれば、藤馬は笑って首を振る。
 「軽くて浅い。だからにじみ出るもんがない。すぐネタ切れ弾切れになる」
 さすが幼馴染。的を射た指摘。
 「……色気……あれば、モテんのかな……どこに転がってんだよ、拾ってくる……」
 ジョッキをもってうなだれる。頭の上を黄色い嬌声と低い話し声と喧騒が飛び交う。俺は男だ。遺伝子がメスを、女を求めてる。なのにちっとも、誰も振り向いてくれない。不憫だ。誰も同情してくれないから自分でする、思う存分アルコールと自己憐憫にひたってやる。失恋を吹っ切るために必要な儀式みたいなもんだ。
 「こんな酔っ払いほっといてこっちのテーブル来ようよ安西くん、みんな待ってるよー」
 「こっちきてみんなと混じってさ。そっちのが楽しいよ絶対」
 人気者の藤馬にあっちからこっちからお呼びがかかる。
 度重なる出動要請をやんわり蹴って、いつ終わるとも知れぬ俺の愚痴に相槌を打つ。
 「……ほんっと、イヤミな……」
 感謝よりも嫉妬が先に立つ。杯を重ねたところで苛立ちは晴れず、次第に気分が悪化し眩暈が襲う。視界がぐらつき畳目がぼやける。
 「大丈夫か?」
 「ほっとけよ、あっち行けよ、お前なんかちゃっかり林さんの横に座って乳揉んでりゃいいよ」
 「しねえよそんなこと」
 「ああしないだろうな、今の俺の願望、つうか欲望」
 どさくさ紛れに吐露すれば、地獄耳の林さんが「高橋サイテー」と大きな弧を描いてお手拭きを放ってくる。
 座卓ふたつごえの遠投だというのにコントロールは絶妙にして的確で、弧を描いたお手拭は見事俺の顔面にべちゃりとへばりつき視界を奪い、座がドッと沸く。
 爆笑の渦に包まれた座敷の中、自分の馬鹿な発言がもととはいえ笑いものにされた屈辱とアルコール過剰摂取とで精神状態はぐちゃぐちゃに最悪で、顔にへばりついたお手拭をひっぺがした俺は、口先だけでへつらう。 
 「あははは、すげー林さん、ナイスコントロール。今すぐ球界入りできそ。んじゃ、これで……」
 早く帰りたい。
 アパートに帰ってひとりで膝を抱えて泣こう、吹っ切ろう。
 座卓に手をついて腰を浮かす。足元がおぼつかず転倒の不安を誘う。よろけた拍子に、腋の下に素早く肩があてがわれる。
 「俺も失礼します。こいつ送ってくんで」
 出たよ。また。
 「えー安西くんも帰っちゃうの?」
 「安西お前ちょっと過保護すぎ。ガキじゃないんだから一人で帰れるって、なあ高橋?」
 酒癖の悪い先輩が物騒にぎらつく酔眼で俺を睨みつける。冗談みたいなホントの話、藤馬めあてでサークルに入った女子がかなりの数いて、俺はともかく藤馬が途中で抜けると藤馬狙いの女性陣までぞろぞろ帰っちまうのを懸念したのだろう。男だらけの飲み会のむさ苦しさったらねえ。
 「大丈夫です、一人で帰れます。お前残れよ」
 後半は小声で藤馬の耳元だけで囁く。しかし俺を支えた藤馬の決意は固く、先輩の機嫌をこじれるのを憂う素振りもなく、あっさりと言い放つ。
 「すいません、埋め合わせは後日必ず。今日は勘弁してもらえませんか」
 「幼馴染の腐れ縁ってか?」
 ピーナツを前歯でかじりつつからかう先輩のにやけ顔が癇に障る。
 好きで幼馴染やってんじゃねえと怒鳴りつけたくなる。
 「ピンで返して行き倒れたら寝覚め悪いし、俺がついててやらないと」
 俺がついててやらないと。
 物分かりよく保護者ぶった台詞に反発がもたげる。
 同い年のくせに、背だってそんな違わねえくせに、畜生。
 胸の内が不穏にざわつく。喉の粘膜がひりつく。発作的に横っ面をぶん殴りたくなるも、脇でこぶしを握りこんで辛うじて抑える。
 瞼の裏にちらつくぬいぐるみのストラップ、崎谷さんの白く綺麗な手、それを打ち消す藤馬の勝ち誇った笑顔。
 「余計なお世話だ」
 突き飛ばしたくても腕に力が入らない。アルコールは魔物だ。しかもその魔物は、俺の体内にしっかり巣食って血管内に触手をのばす。
 女ならともかく、この年で男に抱きかかえられて帰宅ってかっこ悪すぎ。屑石のプライドがますます欠けて行く。別れを惜しむ女性陣の声を背に受けつつ、藤馬は俺に肩を貸して暖簾をくぐり表に出る。
 敷居を跨いで地面を踏むや、酩酊した足元がふらつく。
 「っと、」
 「気をつけろ」
 つんのめる俺の肘を掴み、引き戻す藤馬。
 「今日の地面は特に俺に冷たい……」
 藤馬を押しのけ一人で歩こうとするも、危なっかしく体がぐらつき、大嫌いな男の手でまた支えられる。
 「重力まで俺に意地悪する」
 「大丈夫、地面は味方だから。安心して踏んづけろ。一歩、にーほ」
 拗ねる俺を宥めすかし、歩調を合わせ歩く。
 わざわざ先輩を敵に回してまで俺を選ぶ藤馬。友達想いのいいヤツ演じて、好感度を上げて、またファンを増やすつもりか。
 タクシーのタイヤが路面を噛んで路肩に寄る。
 自動で開いた後部ドアから中へと押し込まれ、続いて藤馬が乗り込む。
 「気持ち悪……」
 猛烈な吐き気がこみ上げる。胃袋がでんぐり返る。ドアが閉まる音がやけに大きく響き、藤馬が住所を告げるやタクシーが走り出す。
 「呑みすぎだよ」
 「さわんな」
 気分がくさくさする。ひどくいらつく。額に触れようとする藤馬の手を邪険に払う。
 俺を気遣うふりして。点数稼いで。胃がむかつく。喉の奥に苦い塊がせりあがる。
 俺がついててやらないと。責任感と義務感と、何よりひそやかな優越感に満ちた台詞。保護者を自認する意志表明。
 お前が無神経に気遣うたび、俺が傷つくと思いもしないで。
 できるヤツの同情も優しさも、そうじゃないものにとってはありがた迷惑余計なお世話で、いっそ無視してくれたほうがどれだけラクか。

 時々思う。
 不安に駆られる。
 俺が胸に飼うちっぽけなプライドは、ダイヤの原石なんかじゃなくて、ただの屑石じゃないかって。
 後生大事に研磨したところで屑石は一生屑石のまま、ひとりでに輝く事なんかあり得ない。
 ダイヤモンドのお零れに預かるだけで、自分で光を放つなんて、夢のまた夢で。

 「どうせ浅くて軽いし……」
 色気、ねえし。
 前髪に沈んだ表情を隠し呟けば、藤馬がなだめるように俺の頭を叩き、顔を覗き込んでくる。
 「色気、ほしい?」
 「くれんのかよ」
 酒臭い息と共にひねくれた失笑を吐き出し、挑戦的に言う。
 積年の恨みとコンプレックスで屈折しまくった怨念の目つきで藤馬を睨みつければ、藤馬は俺の頭をかきまぜながら、ひとつ頷く。
 藤馬にあって俺にないもの、アンサー色気。正解?短絡的な方程式がアパートに近付くにつれ真実味を帯びてくる。
 体が妙にふわふわすんのは酒のせいだ、そうに決まってる。タクシーのタイヤが道路を噛んで停車、ドアが開く。藤馬が料金を払う。
 「俺が出す……」
 「いいから。後で」 
 柔和だがどこか有無を言わせぬ口調で指示し、俺を担いでタクシーを出て、鉄筋製の階段を一段ずつ踏みしめ上がってく。
 「巧のアパートくるの久しぶり。大学入ってから数えるほどしか来てない」
 「…………いつまでもつるんで遊ぶの、気持ち悪いし」
 「気持ち悪いか」
 「常識的に考えて引くだろ、小中高一緒の幼馴染と大学までつるんでるなんてさ」
 二人分の体重がかかって錆びた階段が軋む。藤馬は俺に肩を貸し、俺は藤馬にぐったり凭れ、なかば引きずられるようにして階段を上る。
 預けた肩から体温と筋肉の動きが伝わる。藤馬が足を繰り出すたび連動する肩。
 「俺、いつ呼んでくれるのかなってずっと待ってたんだけど」
 言動に違和感を覚える。階段を上るにつれ若干雰囲気が変わる。
 具体的にどこがどうと指摘できないが、闇を透かして見る目つきは酷薄に細まり、笑みを浮かべた顔に一抹の寂寥がちらつく。
 「……家こなくたって……大学やサークルでしょっちゅう会ってるだろ」
 大学以外で顔を合わせたくないという本音はしまっておく。
 藤馬はそれじゃ足りないとでも言いたげに、もどかしげな焦燥の上澄みを一瞬顔に浮かべ、すぐに消す。
 すれ違い食い違う会話。体はぴったりくっついて離れない。
 藤馬は俺の片腕を首をくぐらせ反対側の肩にさげ、もう片方の手を俺の腰に回し、ドアの前に立つ。
 「あんがと。じゃ、また」
 一応、礼を言う。ジーパンのポケットに手を突っ込んで鍵をまさぐるも、酔ってるせいかなかなか掴めず、いらだつ。藤馬は無言で傍らに突っ立つ。
 「いいから、帰れよ。明日講義あるんだろ」 
 「鍵どこ」
 「ズボンのポケット……いいよ、ひとりでできる」
 そこまでしてくれなくてもと抵抗を感じ拒むも、藤馬は俺の意見など聞かず、ズボンのポケットに手を突っ込んで中身をあさる。
 藤馬の手がポケットの中で蠢き、不思議なくすぐったさを覚える。
 アルコールで火照った体はやけに敏感になっていて、デニムの布地は下肢に密着して、ポケットの中は窮屈で、身動きするたび不自由に突っ張っる。
 「うは、ひゃは、やめ、くすぐって……」
 「あった」
 藤馬が鍵を見つける。ポケットから手を抜き、鍵穴にさしこみ回す。いつのまにかすっかり藤馬のペースで調子が狂う。
 藤馬が先に立って部屋に入る。俺も続く。電気をつける前に、背後でドアが閉じると同時に
 「―!?っ、」
 抱きつかれた。
 思考停止。
 「………フジマ………酔っ払ってる?」
 部屋の中は暗い。今朝出てったときのまま散らかってる。雑誌や服が散乱して足の踏み場もない状態。
 「……靴、脱ぎたいんだけど……」
 遠慮がちに意見する。体が熱い。心臓が鼓動を打つ。藤馬はなんで俺にひっついてるんだろう。
 「巧の足りないもの、あげようか」
 耳元で囁かれた声が孕む悪戯心。耳朶に吹かれた吐息に産毛が逆立つ。至近距離にあるはずの顔に目を凝らし、手で払う。
 「帰れよ」
 「モテたいんだろう」
 「モテてーです」
 いかん本音が出た。
 言質を引き出した藤馬が愉悦に酔って口元をほころばせる。整ってるだけにむかつく顔だ。
 「じゃあキスからだ」
 そしてレッスンが始まった。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ダイヤと屑石]
ダイヤと屑石 | コメント(-) | 20010504233241 | 編集

 俯く頬を手のひらが覆う。
 「唇、開け」
 藤馬の顔が近い。
 甘い囁きが耳朶を伝い、むず痒さが這い上がる。
 「はあ?何言って」
 「もてる秘訣教える。最初はキスの仕方から」
 至近距離で魅惑的に微笑む瞳に吸い込まれる。
 電気をつけない部屋の中は暗く、互いの息遣いと衣擦れの音がひそやかに胸を騒がせる。
 「お前、頭沸いてんのか。とっとと帰れ。男同士だぞ?」
 「練習台さ、本番で失敗しないための」
 藤馬は実にあっさり言う。
 頬を包む手の温度に心臓が早鐘を打つ。
 労働と無縁の王子様の手のひらはその癖俺より一回り大きく、しなやかな優美さと思わず身を預けちまう包容力とを兼ね備える。
 練習台を自称する見慣れた幼馴染の顔が妙に気恥ずかしく視線をそらす。
 「モテたいんだろう」
 「モテたいけど……やっぱなし、へんだろ、酔ってんだろお前、な?ぜーったいそうだって、意味わかんねえし……アパート送ってもらって感謝してる、お前が肩貸してくれたから階段転げ落ちて頭割らずに済んだし、だけど無理矢理鍵奪って中まで押しかけるなんて話違う」
 「巧はさ、女の子が相手の時もそうやってぐだぐだ往生際悪く文句言うわけ?興醒めするじゃないか」
 言葉に詰まり、図星の間抜け面で藤馬を仰ぐ。
 顔が、唇が近い。至近距離にある。
 吐息の湿り気が顔をなでるたび、くすぐったさで毛穴が疼く。
 追い詰められ体をずらせば背中がドアにぶつかる。
 退路を封じられ身動きできず、せめてもの抵抗に後ろ手でノブをがちゃつかせる。 
 汗で滑る手でノブを手探りまさぐりロック解除で逃走を試みるも、それを察した藤馬が悪戯を咎めるように目を細める。
 「幼馴染なんだから今さら恥ずかしがるな」
 「幼馴染とか関係ねえよ、俺もお前も男だろうが」
 「小さい頃は一緒に風呂入ったじゃないか。お前の裸なんて小学校の頃からプールや体育の着替えで見慣れてる」
 「話すりかえんな。つうか、さ、俺もお前も男。ついてるの。わかる?可愛い女の子ならともかくどうして腐れ縁のお前相手にキスの練習なんてしょっぺー真似せなならんのかって話で、あ、そっかからかってんだはは、ふざけてんだろ藤馬?お前さては真顔で酔っ払ってんだろ?呑みすぎが顔に出ない体質なんだお前って、実は結構ぐでんぐでんだろ今、だからそういうワケわかんないこと言い出すんだ?」
 頼む早く正気に戻ってくれと絶体絶命の危機に瀕して切に祈る。
 俺の方の酔いは一瞬で冷めてどこぞに吹っ飛んだ、ドアを施錠すると同時に藤馬に抱擁され藤馬の手に頬を包まれるや無意識に硬直、予期せぬ接触に理性が蒸発し動揺で声が上擦る。
 もともと部屋に上げるつもりはなかった、ドアの前で帰すつもりだったのにと一世一代の失態を呪う。
 一人暮らしを始めてからめっきり行き来がなくなった幼馴染が今、部屋にいる。
 脱ぎ捨てたシャツや雑誌やペットボトルで散らかり放題の部屋ん中に当たり前の顔して存在するという異常な状況に眩暈がする。
 しかも今は夜で、電気もつけてなくて、部屋ん中は真っ暗で、俺は藤馬に抱きしめられている。
 俺と藤馬はぴったり密着して、藤馬は俺より頭ひとつ身長高いから強制的に凭れかかる格好になって、もしこの場に第三者がいりゃ同性愛者の誤解を招くこと必至なフォーリンラブでホールドミータイトな光景が出来上がってる。
 ……どんなだ、そりゃ。
 過剰な接触に本能的危機感を覚え、藤馬の腕の中でじれったく身をよじりもがく。
 「も、いい加減帰れ。な?真顔で酔っ払うなよ気色悪い、熱いし……」
 「モテたいって嘘か」
 「嘘じゃねえけど……」
 「巧がモテない原因のひとつ。優柔不断。都合が悪くなるとすぐ逃げる」
 「う……」
 「女の子は押しが強い男が好きなんだ。まあ好みにもよるけどさ、ふたりきりでいい雰囲気になってさあこれからキスしようって時にのらくら逃げられちゃ幻滅だろ。部屋に二人きりって事は女の子だって相応の覚悟決めて来たんだよ、なのに男側が優柔不断なせいで恥かかされる。巧、今のお前の態度そのもの」
 耳元で囁く低い声が、俺の欠点を的確に容赦なく挙げ連ねていく。
 俺は心当たり大アリで、今までいいとこまで行った女の子たちに土壇場で逃げられ続けた苦い思い出を回想する。
 思い返せば中学の頃から数えて何人か部屋に呼んだけど、三十分位で話題が尽きて気まずい沈黙が流れ、「漫画読む?面白いんだぜ、今ジャンプでやってる」「それ持ってるから」「あ、そうなんだ……」という核心を迂回する平行線の会話に終始してきた。
 部屋に女の子を呼ぶというだけで思春期の男子にとっては心臓爆発秒読みの革命的大イベントであるわけでそれ以上を暗に求められてもご期待に添えないと言いますか、ガキに毛が生えた程度の中学生男子に不純異性交遊の第一歩たる接吻やましてやそれ以上の過激な行為に及べというのは酷な注文でありまして、手に触れるだけでドキドキもんなのに唇とか胸とかハードル高すぎてどうやって切り出したらいいかわかんねーしがっついてるように見られんのヤだしと悶々と葛藤するあいだに時間はすぎて、「また明日、学校でね」と彼女らは去っていくのだ。

 哀しいかな、土壇場に弱いのだ俺は。
 伊達にはたちになるまで童貞をこじらせてない。

 「巧さ、今まで部屋に呼んだ女の子たちとどうやって過ごしたわけ」
 一段階声のトーンが低まって、怜悧な双眸が追及の光を孕む。
 「関係ねーだろ」
 「一緒にCD聞いたり漫画読んだり共通の友人の話で盛り上がったりおばさんが用意した茶菓子食べたり」
 「わかってんなら聞くな」
 「いよいよ話題が尽きたら背中合わせでメールの寒い光景?」
 「うわあああっ」
 甦る過去の悪夢に頭を抱え込む。藤馬は冷静に尋問する。
 「まさか大学生になって一人暮らし始めてからもCD聞いてるだけなわけ?女の子がせっかく部屋に来たのに何もしないで」
 大げさに驚くふりに腹が立つ。きつい目つきで藤馬を睨みつけるも、本人はさも呆れた調子で首を振り、それだけは言っちゃいけないタブーを口にする。
 「ユーはヘタレだ」

 そうだとも。
 そうですとも。
 俺はヘたれですとも。

 「なんで英語?」
 「ほら、またそうやって話をそらす。悪あがきの骨頂だね。せっかく期待して部屋に来たのにさんざんじらされた上に曖昧な態度とられちゃ彼女だって見放すさ」
 一息つき、端正な顔に似合いの爽やかな笑みで訂正する。
 「あ、ごめん、彼女になるまで行かなかったんだっけ。彼女候補どまりか」
 この野郎知った口を。同い年の分際でお説教か。
 俺の頬を抱いて顔を近づけた藤馬が、教師じみて優しく包容力に満ち溢れた口ぶりで導く。
 「言ってごらん、ぼくはヘたれです」
 「言うか馬鹿」
 「英語で」
 「え、えいご?」
 「中学生レベルの問題だ。答えられなかったらお前中学生以下の馬鹿だぞ」
 既にして一杯一杯許容量限界の頭が予期せぬ難問に混乱を来たす。
 中学高校と通ったものの英語なんか日常で使う機会さっぱりなくて、だからさっぱり物にならず、というか今この状況で酷な要求だろうそれは、藤馬の顔が近くて生ぬるい吐息が顔を湿らせ頬に触れた手はひどく熱くて心臓の音がうるさくて、でも待て今答えられなかったら俺ってば中学生以下の馬鹿の烙印おされちゃうわけ、まずいだろうさすがに、英語の授業中エレファントの意味を聞かれ自信満々マウンテンと返し失笑を買った中1のトラウマがまざまざ甦る。
 エベレストだから、それ。
 山だから。
 しかも意味聞かれて英語で答えるって天然受け狙いかよと当時の俺の胸ぐら掴んで張り飛ばしたい。
 愚か者はフール、嘘吐きはライアー。へたれは?
 ドアを背に嫌な汗を垂れ流し呻吟し苦悩する、中学で叩き込まれた英語の文法と単語を音速で総ざらいし口を開く。
 「アイ……アイ・アム・チキン……」
 「認めたな?」
 完敗。
 すっかり藤馬の術中にはまっちまい、猛烈な敗北感に打ちのめされる。
 藤馬が冷静に追い討ちをかける。
 「正確にはチキンは腰抜けって意味だが、ニュアンスとしては正しい」
 「ずっと不思議だったんだけどチキンってニワトリの事だよな、フライドチキンのアレだよな。腰抜けの代名詞がニワトリって失礼じゃねえ?」
 「チキンにされるニワトリが羽を撒き散らして逃げるから」
 「あー……」
 思わず納得し感心の表情を浮かべた俺の耳に、藤馬は誘惑を吹き込む。
 「キスのコツ教えてやる。本番で前歯がぶつかっちまったらかっこ悪いからな」
 「!やめ、」
 続く言葉は声にならず、喉の奥でくぐもり、泡となって消える。
 抗う俺を押さえつけ唇を奪う藤馬、熱く柔らかく濡れた粘膜が唇を塞ぐ、息が吸えずパニックに陥る。
 自分が今何されてるか相手は男で幼馴染でちょっと待て危険すぎるだろこのシチュエーションはとなけなしの理性が警報を鳴らすも血中に回り回ったアルコール濃度は正常な判断と対処を遅らせるほど高く、なんだか体が熱くてふわふわして、全然力が入らなくて、藤馬をどかそうと目一杯突っ張った手はしなだれ行き場をなくし、俺と藤馬の体の間に挟まれ潰れて、藤馬の胸に手を突いた半端な姿勢は抗うのでなく甘えて縋っているようで、羞恥を煽る。
 「―むっ、ふむ!?」
 色気のない呻きがふさがれた唇から湿った吐息に混じって漏れる。
 藤馬の舌が唇を這う、つつく、窄めた舌先で機嫌をうかがうようにノックする。
 「口、開けろ」
 促されても頑として応じず、高速で首を振る。
 俺の顎を掴み、むりやり顔を上げさせためつすがめつじれたように言う。
 「巧、開けて。続けられない」
 「…………」
 無言で首を振る。俺は既に涙目だ。あんな濃厚なキス女の子とだってしたことねえのに反則だ、初めてのキスの相手が男で幼馴染とかしょっぱすぎる。
 酸欠とショックとで潤んだ上目で、精一杯の怒りと反感を込めて藤馬を睨みつける。
 手の焼ける俺を微笑ましげに眺め、藤馬が優しく呟く。
 「北風と太陽の話、知ってる?」
 「?」
 口元を結んだまま頷く。
 北風と太陽がどちらが先に旅人の外套を脱がせるか競争する童話で、北風が強く吹きつけるほどに旅人はますますきつく襟をかきあわせる。しかし太陽が顔を出しあたりを照らせば、汗ばむ陽気につられ自ら外套を脱ぐというオチがつく。
 「……には……太陽のがいいかな」
 巧には太陽のほうがいいかなと、聞こえた気がした。
 「―!んっ、ふ」
 再び唇が被さる。
 親指で俺の顎を持ち、上向きに固定し、ゆっくり味わうように唇を重ねる。
 さっきの性急で強引なキスとは違い、あくまで紳士的にリードしながら未知なる領域の感度を開発し高めていく。
 粘膜同士が唾液を潤滑油にして触れ合う音が空気を攪拌する。
 藤馬がキスの練習台を名乗り出たら面食い女が列を成すに決まっていて、藤馬相手なら金を払ってでもキスをしたいという女が尽きないというのに、どうしてこいつはよりにもよって俺を選ぶ?

 男の、同性の、幼馴染の。
 とりたてて魅力もない、平凡な容姿の俺なんかとキスしてるんだ?

 藤馬にされて、自分が受身に回って、キスにも段階があると初めて知った。
 段階を踏んでどんどん高まっていくものだと、嘘をつけない体の反応で痛感した。

 「……っと、たんま、ふじま、俺が女役じゃ意味ね……」
 男役ならいいって問題じゃねえけど、女にモテる特訓だって建前なのに翻弄される一方で、これじゃあ攻めのテクが身につかない。
 藤馬の胸を力ない拳で殴りつつ息も絶え絶えに抗議すれば、藤馬が唇を放し、真面目な顔つきで言い含める。
 「受身の方が共感できる。女の子の気持ちになって素直にキスを感じるんだ。どこが気持ちいいか、どこをどんなふうにされたらくすぐったいか体で覚えろ。たとえば、下唇のふくらみを吸われると気持ちいいとか」
 慣れた風情で教え諭しながら、問題の部位を軽く吸う。
 「……頬の内側って意外と敏感なんだな、とか」
 もうやめろと叫びだしたいのを堪え抗うも、力が抜ける。
 膝裏が弛緩し、不可抗力でシャツに縋りつく。皮膚の下を刷毛でなぞられるようなくすぐったさに姿勢を保てず、へたりこみかけては引き起こされる。
 唇をこじ開け舌が入り、控えめに頬の内側の粘膜をさぐる。
 「ふひま、ひゃめ」
 唾液を捏ねる音がいやらしく耳につく。混じり合う吐息に溺れる。
 判断力が鈍磨し、思考力が減退し、アルコールで加速した快楽に身を委ねてしまう。
 体の内側から細胞が溶け崩れていくような恍惚。今まで意識した事もなかった歯の裏や舌の裏や舌の根元に喉の奥、自分で触った事もない領域を暴かれて思いもしなかった性感帯を開発される。
 藤馬のキスは恐ろしく巧みで、その舌は情熱的な好奇心に突き動かされて俺の全てを貪欲に暴く。
 唇をゆるく優しくなぞっていた時とは一転激しさを増し、ばたつく俺を制して積極的に舌を絡め、口移しで唾液を飲み干す。
 舌だけは守ろうとした。
 無理だった、無駄だった、ファーストキスと同時にディープキスまで奪われちまった。
 「は………」
 口の中がとろとろに蕩け、溢れかえった唾液にむせる。
 前髪ばらけて消耗しきった俺を見つめ、藤馬が片頬笑む。
 「な?口の中もちゃんと感覚あるだろ」
 「…………悪ふざけがすぎるぞ」
 足がぐらつく。膝が震える。手の甲でくりかえし唇を拭う。肩で息をしつつ、悪びれた様子のない幼馴染を牽制するも効果は無い。
 おもむろに藤馬が屈みこむ。主人に侍る執事さながら跪くや、恭しく俺の足元に手を伸ばし、丁寧に靴を脱がす。
 突然の行動に困惑し、動きが止まる。
 「なにやってんだ」
 「はいてちゃやりいくいから」
 藤馬が俺の足を捧げ持つ。いっそ蹴飛ばしてやろうかと思ったが、後が怖いと引っ込める。選択を誤ったと悟るのは、この数秒後だ。
 脱がした靴を玄関にそろえて置いて、改めて俺に向き直るや、腕を掴んで歩き出す。
 引きずられるがままけっつまずきつつ歩く、藤馬を追いかける。
 腕を払うという発想がなかったのはきっとアルコールのせいだ、さんざん口の中かきまぜられて骨抜きにされたからじゃ断じてねえ。
 唇はまだ濡れて口ん中には舌が這い回った余熱と余韻が残り、背骨がふやけきって二足歩行も困難で、視界は不安定にぐらついて、漠然と不安に駆られ先に立つ藤馬に呼びかける。
 「お前、キス、初めてじゃないよな……」
 何言ってんだ、俺。
 何聞いてんだ?
 「とっくに経験済みだよな。キスだけじゃなくて、その先も……」
 馬鹿、やめろ。藤馬の性体験の有無なんて聞いてどうする、へこむだけだ。どうせ俺は彼女いない歴イコール童貞ですよ。
 経験豊富で落ち着きがあって、いつだって自信と余裕に満ち溢れた同い年の幼馴染の背中が、羨望と嫉妬をかきたてる。
 いつだってこいつが目障りだった。なんでも俺よりできるくせして、いつだって俺につきまとって邪魔をするこいつが目障りで、憎らしかった。
 いつ童貞捨てたなんて聞けるか、相手はだれかなんて聞けるか。
 藤馬の初体験について詮索したい気持ちを必死に隠しつつ後を追えば、強く腕を引かれバランスを崩す。
 あざやかに足をすくわれ倒れた先にはベッドがあった。
 藤馬は王子さながらスマートな動作でもって俺の首の後ろと腰の後ろに手をあてがい、着地の衝撃をできるだけ減らし、ベッドに寝かせる。
 背中が弾む。スプリングが軋む。
 パイプベッドの上に仰向けになれば、藤馬が真上から覗き込む。
 「レッスン第二弾だ」

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ダイヤと屑石]
ダイヤと屑石 | コメント(-) | 20010504233117 | 編集

 優しい顔して王子様は強引だった。
 「たんまっ、もういい、そこまでしなくていい!」
 手足をばたつかせ必死に抗う、パイプベッドが断続的に軋む、顔の横に手をつきのしかかる藤馬をどかそうと精一杯暴れて抵抗するも押し被された体勢からじゃ物理的に不可能だ。
 金切り声の抗議を発しいやに積極的な藤馬を力一杯制す。
 「モテたいんだろう」
 「モテ……たいけどっ、洒落になんねーだろ!大体キス、ベロチューだけで沢山なのに、いきなりベッドに倒して上押し被さってこれヤバいだろ常識的に考えて、はたして正常位なのか騎乗位なのかって問題以前に!」
 よく知る幼馴染が突然見知らぬ男に豹変した、ガキの頃からずっと一緒だったヤツの思考回路がまったく読めない、酒のせいにしたくたって藤馬はちっとも酔っ払った様子を見せなくて冷静沈着に落ち着き払って、往生際悪くあがいてもがく俺の醜態を見下ろす目は笑みさえ含んでいる。
 「レッスンの一環だ。諦めろ」
 「レッスンなんかじゃねーよっ……」
 「色気、欲しいんだろ」
 耳元で囁く声が理性を奪う。鼓膜に響く甘美な声。
 俺の顎を指先でつまみ、顔を近づけて藤馬が言う。 
 「色気を獲得する一番簡単な方法がなにか知ってるか?……抱かれる事さ」
 フジマオウジ様ご乱心。突然なにを言い出すのやら。
 「よ、酔っ払いの戯言真に受けて……はは、ばっかじゃねえの……」
 「よく言うだろ、男を知った女は見違えるって」
 「俺、男なんですけど……」
 まるきり女扱いされ屈辱と反感がもたげる。
 弱りきった本音を虚勢で偽り睨み返せば、憎まれ口さえ愛しげに頬に手を触れる。
 「試してみる価値はあると思わないか」
 「代償が大きすぎるんですけどー……」
 「さっきのキス、どうだった」
 直球の質問に心臓がひとつ跳ねる。
 藤馬がまっすぐに俺の目を覗き込む。
 暗闇の中、ガラスみたいに光る虹彩に魅入られる。
 「……よくなかった?」
 少しだけ不安げな声音。闇を透かして仰ぐ顔が若干強張る。
 今日初めて見せる頼りない表情、初めて聞く殊勝な声音に罪悪感が疼く。
 「……よくなかった……って事はないけど。ああいうのはふざけてやるもんじゃないだろ、ましてや男同士でさ……舌まで入れて……絡めて……俺も流されそうになったけど、つか流されちまったけど……そうだ、埼谷さんはどうしたんだよ!?」
 怒鳴られた藤馬はきょとんとする。
 「どうしていきなり彼女がでてくるんだ」
 「こないだ紹介したろ?あの子がお前に一目ぼれしたってわかるよな、わかんないって言うなよ畜生そこまで鈍くねーよな、でどこまで行ったんだ彼女とは、もうヤッちまったか?俺が好きな子自覚なく奪っといて挙句その子にキスした唇で俺におなじことするとか最低だ、最悪の間接キスだ!」
 思い出してもはらわた煮えくり返る。
 おねだりに負けてうっかり引き合わせたせいで崎谷さんの心は完全に藤馬の物になっちまい、俺はまたしてもみじめなウマイヌになりさがった。
 すなわち当て馬で負け犬。
 食堂で振り返った藤馬を一目見るや崎谷さんは恋に落ちて、以来俺とはすっかりご無沙汰で、メールの返信もろくすっぽよこさなくなっちまったというのに、その元凶は事もあろうに俺のアパートに乗り込んで強引に唇奪いやがって
 「彼女とはメアド交換しただけ。一回お茶したけど、何でもない。付き合ってもない」
 柔和だが断固とした口調で否定する。
 俺を見詰める双眸に強い意志が宿る。
 身の潔白を訴えられても信用できねえ、なんたってこいつは異常にモテるのだ。
 片想いの女の子を横取りされた。 
 小学校の頃から数知れず繰り返された悲劇は、俺をコンプレックスの塊にした。
 今だって、藤馬に対し怒りを感じる。
 崎谷さんと会ったのは俺のほうが先なのに、俺だって好きだったのに、どうして何の努力もしない藤馬がいともたやすく彼女を虜にしちまうんだと理不尽に憤りを隠せない。
 だけど俺の口から出たのは、自分でも意外な台詞で。
 「なんで付き合わないんだよ……」
 藤馬のまわりには昔から女の子がいっぱいいて、告白なんか日常茶飯事で、その手の話は腐るほどありそうなのに。
 「お前、モテるのに……女に興味ねーの?」
 「………好きな子がいるんだ」
 片想いだけど、と面映げにつけたす。
 藤馬が片想い?
 信じられない。藤馬の魅力が通じない女の子がこの世に存在するのだろうか。
 「そういえばお前から女の話聞いたことない……」
 藤馬は王子様だ。
 才色兼備、品行方正、誰にでも優しい博愛主義の王子様。
 だがしかし、その容貌は整いすぎてるが故のノンセクシャルな潔癖さを漂わせていた。
 ふざけ半分にセックスの話を吹っかけようものなら蔑みの目で見られ絶交されそうで、自然藤馬にその手の話題はタブーになった。
 十数年来の幼馴染の俺でさえ、一日の自慰の最高記録とかエロ本交換とか、他の同級生とは当たり前にできるバカ話を藤馬に吹っかける無謀と紙一重の勇気はとうとう出せずじまいだった。
 藤馬がモテすぎるからやっかんでたのも、ある。
 藤馬は下ネタ嫌いだろうと、その見目麗しい容姿から勝手に先入観を抱いてたのもある。
 「好きな子いるのにこんなことやってちゃますますだめだろ……その子に失礼だ」
 どうしてだか胸が痛い。
 藤馬の片想いの相手はどんな子だろうと想像する。
 きっと、藤馬に釣り合ういい子だろう。
 ずっと一緒にいたのにどうして打ち明けてくれなかったんだと、俺が怒るのは理不尽というもので。
 「……鈍感なやつだから。態度に出しても全然気付いてくんなくて」
 「俺を練習台にして口説くつもりか」
 一瞬、動揺が走る。
 闇を透かして見る顔がわずかに赤らむ。
 藤馬がうろたえるなんて珍しい。こんな状況だってのになんだか愉快になって、からかう。
 「どんな子だよ」
 「馬鹿」
 「頭悪いのか」
 「ひとつのことに夢中になるとまわりが見えなくなるタイプで色々暴走しがち。お人よし。軽くて浅く見えるけど大学の講義中はちゃんとマナーモードにするし、そういう根は真面目な所がいい」
 「顔は?」
 「……普通っぽいけど、笑うと見える八重歯がすごく可愛い」
 「八重歯フェチなんだ、フジマって。初めて知った」
 「あとは……英語が苦手」
 くすぐったさを堪える微妙な表情で惚気る藤馬を見てるうちに、胸が鈍く疼く。
 「あと、酒も弱いかな。ちょっと酒乱」
 「酒乱なの?」
 「しつこく絡んでくるんだけど、そういう所も可愛い。酒が入ると無防備になって、泣いて騒いで手に負えなくて、危なっかしくて目がはなせない。ぐでんぐでんで寄りかかってくると俺がついててやらなきゃって思う」
 「ホントに好きなんだ、その子」
 「うん」
 「本命いるのに酔った勢いでさかるなんて最低だ」
 藤馬が愕然とする。
 「もうさ、帰れお前。頭冷やせ。まともじゃねーって。レッスンやめ、十分参考になりました。今度女の子好きになったらお前から教わったの試してみるよ、その、結構気持ちよかったし……」
 「巧」
 「色気とか、さ、もとからないもんは無理でも男気でカバーできるだろ?飲み屋でさんざん愚痴って悪かったな、お前は悪くねーのにやつあたりして……大人げなかったってマジ反省。結局俺に魅力ねーのが敗因だよな。うん、わかってるんだ。お前の言うとおり、俺、浅くて軽いし、顔も地味だし……モテるわけないよな」
 ネガティブ思考で卑下する俺を藤馬は呆然として見つめる。
 言ってるうちにすげえ情けない気分になって、鼻につんときて、潤んだ目をごまかすように忙しく瞬きする。
 「あーあ……もうさ、俺のこと好きになってくれる子なんて永遠に現れねーのかな?」
 子供の頃から何でも完璧にこなしてきた藤馬。
 なにもかも平凡な俺。
 どうして幼馴染は、こうも俺と正反対なやつなんだろう。

 屑石は所詮ダイヤにかなわないのか。
 ダイヤの輝きに目が眩んだ女の子にとっちゃ屑石なんて無価値な存在で、あっけなく蹴飛ばされ忘れ去られる運命で。

 「やんなっちゃうぜ……っとに」
 屑石の底力を見せてやると力んだ所で、俺が発揮できる力なんて知れたもの。
 「………泣くなよ」
 心底困り果てた藤馬の声が耳朶に触れる。
 失恋の傷は思ったより深く、いつのまにか涙と一緒に垂れてきた鼻水を啜る。
 酒のせいだ。ぜんぶ酒が悪い。
 幼馴染にみっともない泣き顔を見せたのも鼻水ずびずびの醜態を晒したのも酒でナーバスになってるからだ、きっとそうだ。
 「お前がもうちょっとダメなヤツだったらよかったのに……したら、俺だって」
 俺だって?なんだよ?
 藤馬がいなけりゃ藤馬を好きな女の子たちが振り向いてくれるとでも?
 温かく力強い腕に抱きしめられる。
 こめかみを伝う涙を唇をつけ啜る。
 シャツの裾をはだけてもぐりこんだ手が下腹をなぞり、喉が仰け反る。
 「―っ!?」 
 やめろと叫ぼうとした。できなかった。
 怒鳴るのを見越した藤馬の手が口を塞いで、もう片方の手がシャツの内側で器用に蠢いて、下腹から胸板にかけて広範囲を撫で回す。
 繊細にして巧妙な指遣いに喉までせりあがった悲鳴がくぐもり、鼻から吐息が抜ける。
 俺と藤馬と二人分の体重でベッドが軋む。
 「やめ、ふじま、っともう勘弁……いい加減にしねえと蹴飛ばすぞ」
 「俺のほうが力強い。怪我したくなかったら大人しくしてろ」
 シャツの裾から侵入した手が弱い脇腹をまさぐり嫌悪と恐怖とむず痒さが入り混じった感覚が芽生える、腰に添って上下する手が熱を煽る、背中に回った手がさらにその下へ
 「やめ、ろ」
 首筋と鎖骨を行きつ戻りつする唇の火照りが伝染り、体が疼く。
 「大きな声出すと隣に聞こえる」
 シャツの下を執拗に這う手の動きをいちいち意識しちまう、フジマの手つきは恐ろしく慣れている、嫌悪感と恐怖心と恥辱の入り混じった混沌とした感情が次第にぼんやりした快楽に取って代わられていく。
 「ふじま、なんっ、かへん……くすぐってえ、ひゃは、そこ、背中弱いから……!」
 びくんと体が仰け反る。シャツの中で這い回る手が胸の突起を掠めたのだ。
 「巧……顔、赤い」
 「酔ってんだからしかたねーだろ…………」
 おかしい。どうしたんだ。まともじゃねえ。
 味をしめた藤馬が、俺の乳首をつまむ。
 しこった乳首を緩急つけてつねられ、耐え切れず喘ぎをもらす。
 「ふあ……ぅく、やめ……も、いい加減手え抜け……」
 体がふわふわする。眩暈が酩酊を誘う。
 乳首なんか他人に触らせた事はおろか自分でいじった事もない、無意味な飾りに性感帯が隠れてたなんて知らなかった、藤馬は俺の反応を見つつ乳首を揉みほぐす、固くしこって充血した乳首を指の腹で潰して捏ねる。
 「色気が乗った声、出せるようになったじゃん」
 抵抗しなきゃ。
 わかってる、頭では、だけどさっぱり力が入らない、抵抗しろとけしかけるなけなしの理性をアルコールが煙に巻いて思考がよどんでいく。
 今さらながらヤケ酒かっくらったのを後悔する。
 藤馬の手がズボンの股間に伸びる。
 「固くなってる。感じてんだ」
 「調子のんな……誰がお前に」
 「エロい顔して睨むなよ」
 藤馬が嘲笑する。俺の知らない顔。藤馬の手がズボンにかかる。
 咄嗟に蹴飛ばそうとするも足を押さえつけられ、器用にズボンを脱がされていく。
 下肢に密着したジーンズを無理矢理脱がされ、トランクスで覆った股間を露出する。
 あんまりにも情けない自分の姿に頬に血が上る。
 「俺じゃ感じないってどの口で言ったんだ?嘘つき」
 残酷な嘲弄が心を引き裂く。今すぐ蒸発したい。
 赤面して唇を噛む俺に対し藤馬は余裕で微笑みかけ、俺の口元へとシャツから抜いた指先を持ってくる。
 「舐めて、巧。俺の指」
 「な………」
 「舌の絡め方教えてやったろう。実演だ」
 「正気かよ。誰がするか、そんな事」
 「キスが下手な男はモテないぞ」
 「う………」
 しなやかな人さし指がくりかえし唇を刷く。
 誘われるように唇を開けば、待ちかねた指がもぐりこんでくる。
 人さし指と中指を突っ込まれる。
 口をこじ開けもぐりこんだ指におずおずと舌を絡める。
 二本指が意地悪く舌を押さえ唾液をかき混ぜ、口の粘膜を蹂躙する。
 「っは、はふ、ふく」
 口の端から溢れた唾液がしとどに顎をぬらすがやめない、今さっき藤馬に教え込まれたキスを反芻し丁寧に濃厚に指をねぶる、ぎこちなく舌を操って指に唾液をぬりたくる。
 漸く引っこ抜き、指を擦り合わせて糸引く唾液の粘度を確かめる。
 「へただけど頑張りは認めよう」
 「るせ……」
 俺の唾液で藤馬の指が濡れ光るさまが淫猥で、腰がむずむずする。 
 藤馬が俺のトランクスを下ろす。弛緩した足をベッドに投げ出し、目だけでそれを追う。
 俺の体は平たく伸びて、敵を蹴り上げる余力さえ残ってない。
 外気に晒された股間が涼しく、内腿が鳥肌立つ。
 藤馬が俺の膝を掴んで割り開き、唾液に塗れた指を後孔にあてがう。
 言葉にできない違和感にぎょっとする。
 身をよじって逃げる前に指に圧力がかかり、排泄の用しか足してなかった窄まりに指先が沈む。
 「!―っひ、」
 呼吸が途絶、喉が仰け反る。反射的に括約筋が締まる。
 「ふじま、やめ、抜け、頼む、痛ッ……」 
 「その調子。わかるか?今の巧すごくいやらしい」
 「嬉しくね……っ、俺が欲しいのは男の色気で、女みたく抱かれたって苦しいだけ……」
 「女の子の身になって抱かれたら違うものが見えてくるかもしれないだろ」
 「童貞捨てる前にバックバージン喪失なんて救われねえし、お前、好きな子はいいのかよ!?」
 どうにか思いとどまらせようと叫んだ台詞で怒りを買う。
 指を出し入れする速度が上がる。
 窄まりに突っ込まれた指が中で鉤字に曲がり粘膜をひっかく、かき混ぜる、攪拌する。
 「あ、ふじま、っ痛あぐ、たんま洒落になんね、なにキレてんだよ!?」
 たっぷり唾液でぬらしてあっても初めて銜えこんだ指は凄くきつくて、異物を吐き出そうと窄まりが不規則に収縮し内臓を押し上げる。
 「離れろ、よ、絶交だぞ、口きかねえぞ、大学で会ったって完全無視だ、色気教えてやるとかでたらめ言って、からかい倒しておちょくって、あげくこんな」
 シャツを掴むも押し戻せず、藤馬の胸に縋りついたままところどころ喘鳴の混じった怒声を飛ばす。
 「大嫌い、だ」
 俺が劣るからって馬鹿にして。
 馬鹿さ加減につけこんで。
 肛門から指が抜けてこれで終わりかと安堵したのも束の間、不穏な衣擦れの音に硬直。
 ふと前を見れば藤馬が自分のズボンごと下着をさげおろし、立派に勃起したペニスを外気に晒す。
 「逃げるな、巧」
 嫌々するように首を振ってシーツを蹴ってあとじさる、ベッドパイプに背中があたる、行き止まりに追い詰められた俺の腕を掴んで引き戻し組み敷く、足の間に藤馬の体がある、大胆に股を開いて藤馬を挟みこむ屈辱的ポーズに頬がひりつく。
 「色気なんか欲しくねえよ、いらねえよ、元のフジマにもどれ」
 「『元』ってなんだよ?」
 藤馬の顔に悲哀の影が過ぎる。
 組み敷いた俺の顔に首筋にあちこちに宥めるようなキスを降らせる、嫌がって顔を背け暴れる俺を容赦なく押さえ込んでキスの洗礼を施していく、いつのまにかシャツは腕の付け根まで捲りあげられ上半身が露出する、俺の乳首を口に含んで転がしつつ吸う。
 気持ち悪い、気持ちいい、感情とは裏腹に体は快楽を求め堕ちていく、気持ち悪いのと気持ちいいのが混じって頭が変になる。
 「ずっと片想いしてたのも知らなかったくせに、よく言う」
 「ふじま、さわんな……」
 「陳腐な台詞だけど、お前に俺の何がわかるんだ?」
 藤馬の唇がもどかしげに歪む。
 俺を扱う手つきがじれて激しさを増す。
 絶望したような、縋るような切実な顔で藤馬は言う。
 「お前のいいところひとつずつ教えてやる」
 
にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ダイヤと屑石]
ダイヤと屑石 | コメント(-) | 20010504223031 | 編集

 「そういう鈍感さ、残酷だよ」
 俺の膝を掴んで割り開き、指を抜き差しほぐした窄まりにペニスをあてがう。
 「痛ッて………!!」
 洒落にならない。
 お前が今ぶちこもうとしてる穴は出すところであって断じて入れるとこじゃねえ、はいストップ終了そこまで冗談やめろ、そう喚いて押しのけようにも上背利して組み敷かれちゃ無理な相談で藤馬は俺の悲鳴にも耳を貸さず肉を裂いて進んでくる。
 「ふじ、ま、やめ、つあ、うぐ………」
 何だこれ痛えマジ痛え全然気持ちよくねえ、男同士がどうやってヤるかそれくらい知ってるだけどまさか自分が体験するとは思わなくて悪夢よ覚めろと頬をつねりてえ、藤馬はどうしちまったんだ俺が知ってる藤馬はこんなヤツじゃない誰にでも分け隔てなく優しく頭がよい完璧な幼馴染、俺のコンプレックスを刺激し増長する目障りな存在、だけど今俺にのしかかる藤馬はいつもの余裕を失っていつもの笑顔が剥がれ落ちて痛々しいほど切羽詰った素顔を晒す。
 「ふあっ、あ、あう」
 排泄の用しか足してなかった孔を熱く固い異物がこじ開ける。
 荒々しい突き上げに合わせ繋がった下半身が脈打つ。
 どうしてこんな目にどうして藤馬は脳裏で渦巻く疑問符がちぎれとんで喉が仰け反る、迸り出るはずの絶叫は内臓を圧迫されくぐもった呻き声にしかならず嗚咽を噛み潰す。
 「減点。もっと色っぽく喘げ。全然そそられない」
 「―っ、ふじまてめ……モテモテで相手に不自由してねえくせに……俺のこと騙して、部屋押しかけた上、舌まで突っ込んで……」
 きつく瞑った目に悔し涙が滲む。
 俺の中で完璧な王子の虚像ががらがら音をたて崩れて行く。
 ガキの頃から近所に住んでた遊び友達、優しくて頭も顔もよくてみんな藤馬が好きだった、小学校も中学も高校も一緒でずっとずっと一緒で、あんまり一緒にいたせいで比較され貶められるのに慣れきって、所詮俺なんかどれだけ頑張ったって藤馬にかなわないんだからと物事を途中で諦めて投げ出す卑屈な人間になっていた。成り下がった。

 俺の限界が藤馬の序の口と知ったときから

 「楽しいか……」
 屑石は光らない。
 俺には道端の石ころ程度の価値しかなくて、女の子は目の色かえてダイヤモンドに群がって、不公平だ理不尽だと憤ったところで負け犬の遠吠えで、嫉妬で、俺には俺のいいところがあるさとかっこつけてみたって虚しい。
 俺が持つ輝きなんて、藤馬と並べばあっというまにくすんじまうちんけな代物。
 湿った鼻声でぐずれば、俺を貪る藤馬の動きが止まる。
 俺を見下ろす目には疑問の色、虚を衝かれた空白の表情。
 不安げに見下ろす藤馬を睨み返し、浅く弾む息のはざまから掠れた声を絞る。
 「崎谷さんだけじゃねえ……小学校から好きな子横取りしてきたくせに。時飼育当番で一緒のイズミちゃん、委員長の春日さん、高校はクラスメイトの入江……なんでみんな示し合わせたようにお前の事好きになるんだよ、俺のが先だったのに」
 違う、藤馬を責めるのは間違ってる、こいつに責任はない。俺が好きになった子が藤馬を好きになった理由はおのずと察しがつく、俺と藤馬は家が近いから一緒に帰る事が多くって俺と藤馬が並んで歩いてるとこ目撃した女の子がよりルックスいい方に目移りしちまうのは仕方ない。
 仕方ないけど、腹が立つ。
 「お前ばっか、ずりい」
 痛い。苦しい。情けない。引き裂かれた下肢が痛む、繋がった箇所が溶けそうに熱い、中に入ったものが脈を打つごと太りゆくのをリアルに感じちまう。
 「……巧……」
 言いかけ、やめる。
 戸惑いがちに伸びる手にびくつき身を引く。
 恐怖心を剥き出した反応にはっとし手を引っ込めかけかけるも、意を決しまた伸ばす。
 「泣くな」
 頬に手をあて、目尻に浮いた涙を人さし指ですくう。
 「怒っていいけど、べそかくな」
 がらにもなくまごつき耳元で懇願する。
 藤馬の顔を直視するのが癪で、絶対目を合わせてやるもんかと意地になって、広い胸に顔を埋めておもいっきり洟をかむ。
 「許さねえ」
 「許さなくていい」
 耳を疑う。
 潤む目を薄く開ければ、吐息が絡む距離に藤馬が迫っていた。
 聡明に整った顔立ちを苦悩と快楽に歪め、告白を迂回するように俺に触れる。
 「俺は多分、お前がその子たちを好きになる前から、お前が好きだったよ」
 藤馬でもこんな切ない顔をすると初めて知った。
 叶わない願いを抱くような、どうしても手に入らないものを仰ぐような、葛藤せめぎあう哀切なまなざし。
 「練習台って、嘘か」
 「むっつりだから、俺」
 王子の口から出た、見た目にそぐわぬフラチな台詞に驚く。
 「お前単純だから、練習台の口実に流されて舌まで入れてくれて得した」
 「口の中ぐちゃぐちゃかき回すから……」
 「気分出してたくせに」
 責任をなすりあうも分が悪い。確かにキスひとつで骨抜きにされちまったのは事実だ。
 腹が圧迫されて苦しい。満足に呼吸もできない。藤馬の存在を俺の中に感じる。男とセックスしてる。つうか、どう見たって強姦だ。無理矢理だ。アルコールが回った体はクラゲみたいにふやけきって、なのに体の一部分だけ露骨に主張してる。
 透明な先走りを滲ませそそりたつペニスに頬が燃え立つ。
 「酔っ払ってちゃ勃たないかもって心配したけど、元気だな」
 「るせ……」
 息も絶え絶えに反抗する俺にちらりと笑い、股間に手をもぐらせペニスを軽くしごく。
 先走りのぬめりを指に絡め手のひら全体に広げ、それを鈴口に塗りこめていく。
 「は……、」
 裏筋にそって緩急つけて上下する指。
 先走りを捏ねて糸引かせ、粘着性の卑猥な水音をたて、後ろを貫く痛みを逸らすように優しく意地悪く次第に勃起し始めたペニスをいじくる。 
 「!ぅあっ」
 耳の裏を強く吸われ、不意打ちに声が上擦る。
 俺のものをいじくるのと反対の手が膝裏にもぐり、筋肉に覆われてないそこをやわやわ揉み解す。
 「お前のいいところ、耳。膝裏」
 「よせ……っ、頼む、変なことすんな……ぞくぞくして……」
 「全部性感帯だ。覚えとけ」
 血管が青く透ける耳朶を啄ばみ、弛みきった襟ぐりから覗く鎖骨の膨らみを甘噛みする。
 皮膚が薄く敏感な膝裏を集中的にいじくりまわされ、子犬がむずがるように鼻から吐息が抜ける。
 「……エロい顔。物欲しそうだ」 
 真綿で締めるような緩慢さで手淫を施され、嬲るだけ嬲ってイかせないじらしのテクが後ろの痛みを散らし、闇に沈んだ天井を仰いで啜り泣く。
 「―も、離れろ、抜け……なんでこんないきなり、わけわかんねえ、さっきまで普通だったじゃん……」
 居酒屋で隣り合った藤馬の人当たりよい笑顔を思い出し、打ちひしがれてなじる。
 「はじ、めてなのに、畜生、なんで相手お前、男、幼馴染で」
 恥ずかしい情けない今の顔見せたくない、自己嫌悪と羞恥と根深いコンプレックスが闇鍋のように煮え滾って交差させた腕で顔を隠す。
 「よりにもよって、お前」
 どうして俺をそばにおく?俺なんかに構う?
 釣り合わない、相応しくない、引き立て役にしかならない、それに類する事は周りの人間にさんざん言われてきた。そのたび能天気に笑って聞き流してきたけど限界だ、俺だって傷つく、プライドを引き裂く藤馬を恨む。
 屑石の殻を破れない焦りと苛立ちと不満が腹の底で燻って含んだビールはやけに苦くて、失恋の憂さ晴らしにさんざん絡んで、よく出来た幼馴染はそんな俺を笑ってなだめて、聖人君子な横顔を仰いで、ああ、本当にこいつにはかなわねえやとしみじみ感じ入った。
 「―ヤられる側で、全然想像と違う、しかも酒入って、わけわかんなくて……揺らすな、吐く……」
 「三半規管弱いな。小学校の遠足でも悪酔いしたっけ」
 思い出し笑いする顔にガキの頃の無邪気な面影がだぶり郷愁が疼く。
 「あん時、お前……行き帰りのバスん中で、つきっきりで背中さすってくれた」
 記憶の中の手のぬくもりが俺自身をしごく手の嫌悪を緩和する。
 藤馬は俺に優しい。どうしようもなく優しい。その優しさが俺を傷付けると知らない。
 優しくされればされるほどみじめになる。優しさに値しない自分が辛くなる。
 「……そばにいちゃ迷惑か」
 「迷惑」
 間髪いれず言い返す。
 大学入ってからできるだけ近付かないようにしてたのに、俺を追うようにしてサークルに入って、また元の木阿弥。
 「なんにもしなくてもただそばにいるだけでみじめになる。イヤミだよ、どうして俺なんか」
 「なんかって言うな」
 「なんかだよ。なんかだ。俺につきまとう価値ねえよ。同情してるのか?」
 「違う」
 「俺があんまりみじめでださくてモテない後ろ向き野郎だから、気の毒がって一緒にいてくれんのか。だれそれに告って振られたとかって愚痴をにこにこしながら聞いてんのは、かっこ悪い俺を腹ん中で笑ってるからか」
 藤馬は優しすぎる。
 優しすぎて、怖くなる。
 世の中には選ばれた人間と選ばれなかった人間がいる。
 藤馬は前者で俺は後者。
 藤馬はスポットライトの当たる道を歩く人間で、俺はきっと、とぼとぼ端っこを歩く。
 喘ぐように息を吸う。腹筋が引き攣る。
 苦痛に顔を顰めた俺の頬を手で包みさする藤馬、心配そうな顔。
 「……呑んだんだから、もっとばかになりゃいいのに」
 意識が飛んじまえばいいのに。都合よく記憶喪失になれたらいいのに。
 失恋の痛みも理想に届かない自分への不満も十数年越しのコンプレックスもすべて流れ去る成果を期待して酒をかっくらったのに、肝心な時に役に立たない。
 中途半端に正気を保ったままコンプレックスに凝り固まった本音を語るのは辛い。
 どうして藤馬は俺を抱くんだろう。
 どうして俺なんかがいいんだろう。
 「さっきの約束守る」
 唐突に藤馬が俺の顔を手挟み、強引に前を向かせる。
 正面に固定された視界に藤馬が映る。
 衣擦れの音が響く闇の中で俺と向き合い、情熱に狂う一途な瞳で見つめる。
 「お前のいいところ、ひとつずつ教えてやる。いつもちゃらけてるけどほんとは真面目だ。思いやりがある。人を笑うより笑われるほうを好んで選ぶ。居酒屋でお手拭き投げつけられた時、怒ったってよかったのに、場の空気を壊すのがいやで笑って済ませたろ。大人だって感心した。あんなふうに大勢の前で恥をかかされたら怒り出すヤツもいるのに、ぐっと堪えた」
 「あの程度でキレたりしねえよ。居酒屋だし、迷惑だし、相手は女だし……」
 「そう思えるのがお前の長所だ。他にもある、たくさんある、ちゃんと聞け。お前は優しい」
 「お前のほうが」
 「誰にでも優しいってのは誰にも優しくないのとおなじだ」
 両手で俺の顔を包んで引き寄せ、至近距離で目を見据える。
 真剣な眼光に息を呑む。
 ふいに固い表情がゆるみ、口元にほのかな笑みが上る。
 「お前はいいヤツだ、保証する。ずっと見てきた俺が自信もって太鼓判おす。お前は真面目で優しくて、人を笑うよりか笑われる方を選ぶヤツで、自分を振った女の事を絶対悪く言わない。自分の魅力のなさを嘆きはするけど、相手は恨まない。もし恨んでたとしても人前で口に出さない。……そういうとこ、すごくかっこいいと思う。惚れ惚れする」
 「ほれぼれ……?」
 口説かれてるみたいな錯覚に陥り、呆けて繰り返す。
 藤馬ははっきり首肯し、誠実に誓いを立てる。
 「俺はもう何回もお前に惚れ直してる。お前のいいとこわかんない連中は馬鹿で節穴で相手にする価値ない。お前が言わないから俺が言う、放っとけよ、お前のよさがわかんない女なんか」
 「だってお前、女友達いっぱいいんじゃん」
 「好きなのは一人だけだ」
 藤馬が近い。どうしてこんな切ない目で俺を見る?
 乞うように縋るように一心に俺を見詰め、俺の背中に手を回し、熱に浮かされ今にも蒸発しそうな輪郭を確かめるようにして抱きしめる。
 「お前のよさに気付きもしない節穴女追いかけるのやめて、俺にしろよ」
 今まで藤馬は誰にでも優しいと思ってたけど、違う。
 藤馬は俺にだけ優しい。
 俺の絡み節にいちいち相槌打って辛抱強く付き合ってくれんのも、タクシー放り込んで肩貸して階段上がってくれたのも、鍵さがすの手伝ってくれたのも俺だからこそで、俺の特権で。
 そういえば俺は、藤馬が他人の愚痴に付き合うところを見た事がない。
 藤馬はもとから要領がよく機を見るに敏で立ち回りに長けているから、誰かが酒をくらって荒れだす兆候と共にふらりと消えて、嵐が去るまで別の島に避難するのが常だった。
 俺だけが、特別だった。
 藤馬は誰にでも優しいけど、肩を貸してくれるのは、俺だけだ。
 「……お前じゃなきゃ誰がするか。お前だから、お前が好きだから、重くたって苦にならなかった。ずっと寄りかかっててほしかったくらいだ。肩が痺れたって構わなかったんだよ、こっちは」
 猫かぶりの王子様が吐き捨てる。
 「変に思わなかったか、飲み会のたび隣に座るの。隣おさえるのは下心だよ、俺以外のだれも酔っ払ったお前に近づけたくなかった、お前が頼るのは俺だけでいいから……他の人間に寄りかかるところなんて見たくない、隣にいれば俺を見るだろう。お前が失恋するたびほっとした、最低だよ俺は。お前が思ってるようなヤツなんかじゃない、そんな余裕ぜんぜんない、ヤキが回ってるんだ、お前が」

 『色気を教えてくれ』

 「あんなこと言い出すから」
 目の前にいる藤馬は俺の知らない藤馬で、俺が今まで見てきた王子様とは別人で、でもやっぱり藤馬に違いなくて、その証拠に、今もこうして胸を貸してくれる。
 酔っ払って気分が悪くなるたび、こうやって藤馬にもたれかかった。
 吐き気がおさまるまで、あやすように背中をなでてくれたのもまた藤馬だった。
 「ごめん、巧……」
 藤馬が謝る。
 「俺、我慢も加減もできない。ほんというと、今のお前、めちゃくちゃ色っぽい」
 しどけなく乱れた前髪が気だるい色香を付け足す欲情の表情に、浅ましく喉が鳴る。
 耳元で何度も何度も謝りながら抽送再開、容赦なく突き入れてくる。
 「ふあっ、あう、ああっ」
 さっきまで苦痛なだけだったのに腸を滑走するペニスが一点をつくなり鋭い性感が閃く、艶めく声の変化を感じ取った藤馬が重点的にそこを突く、体の奥に眠る未知なる性感を掻き起こされ電流が背筋を貫く、俺を抱く藤馬と目が合う、視線が絡む、まともにものを考えられないのはアルコール過剰摂取が原因か現在形で与えられる快楽のせいか判断できない。
 「俺、ぜんぜん、自慢できるような人間じゃないんだよ」
 俺に突っ込みながら、次第に呼吸を荒げ始めた藤馬が辛そうに顔を歪める。
 「中身ぐちゃぐちゃのどろどろで、汚くて、俺がほんとはどんな人間か知ったらみんな幻滅する。お前がだれか好きになったって報告してくるたび苦しくて、どう上手く行きませんようにって祈って、お前が片想いしてる子にわざと勘違いさせるようなまねして……無自覚でも無神経でもない、言い訳なんかできない。嫉妬したんだよ、お前が好きになった子たちに。だから上手くいかないよう邪魔した」
 衝撃の告白。
 締め付けのきつさに藤馬の顔を汗が伝う、俺を組み敷いてキスを落とす。
 「どうしようもないくらい好きなんだ。お前が好きな女をとっておきながら、どうしてお前じゃなくて俺を選ぶんだって腹の中で怒りまくって……ばかだよな。勝手すぎる。俺なんて猫かぶりが上手いだけで、お前の中身のがよっぽど上等で、彼氏にするなら断然巧のほうがいいのにどうして気付かないんだよって」
 どうかしてるな、と皮肉っぽく片頬歪めて自嘲する。
 初めて見る藤馬の卑屈な顔に、不公平だと拗ねてばかりの自分を投影する。
 「俺なら巧がいい。巧しか欲しくない。仕方ないじゃないか気付いた時には手遅れだった、欲しくて欲しくてたまらなかった、ぐでんぐでんに酔っ払ったお前を見てチャンスだとおもった、色気教えてほしいって言われて舞い上がった、あんな顔でそんな事言われたら我慢できない、お前が他のヤツ好きになって振られまくる間ずっとずっと好きだったんだ、何年越しだかわからない、今度は誰々を好きになったって相談されるたびロシアンルーレットの引き金引かれる気分だった」
 こめかみを伝う涙が熱い。
 懺悔しながら後戻りできぬ加速がついて俺を抱く、皮膚に包まれた鎖骨のふくらみを唇でなぞりつつ猛りたつペニスをしごく、足を高く持って密着する、前立腺を擦過する怒張の質量をやり過ごす、結合が深くなってこらえきれない嬌声が上がる。
 「あっ、あ、ああっやっああっ!」
 自分が何を口走るかわからず怖い、無意識にもがいて藤馬に抱きつく、藤馬が唇を吸う、唾液を分け合い飲み干す、夢中で絡めあう舌は麦酒の味がして口の中に苦味が広がる、潤沢な襞を練りこみ体内の一点を穿つたび苦痛は薄れて下半身からどろどろ煮溶かされていく、ピッチを速め抜き差しされるペニスが内壁を削って欲望の律動に乗じて絶頂へと追い上げていく。
 「ひぅ………!」
 体内に挿入されたペニスが鼓動を打って膨らみ、熱い液体が爆ぜる。
 同時に射精の瞬間を迎えた。
 力尽き、藤馬の肩にかけた腕がずりおちる。藤馬が俺を呼ぶ。
 背中からマットレスに衝突、虚脱した四肢を無造作に放り出して瞼を閉ざす。
 急激に睡魔が襲い、明滅する意識をあっさり手放す。
 「巧!」

 最後に聞いたのは、俺を呼ぶ絶望した声だった。


 「………………」
 腰にだるさがつきまとう。
 どれくらい寝ていたのだろう。雑に引いたカーテンの隙間から白々した朝の光がさしこみ、雑誌や服が散らかり放題の床を刷く。
 目覚めた時、そこは見慣れたアパートだった。
 ベッドに寝転んだ俺のズボンはきちんと引き上げられて、ご丁寧に毛布がかけられていた。
 「ふじま……」
 いた。
 「うわ」
 ベッドの端に腰掛けていた。
 俺の目覚めに気付いた藤馬が振り向き、「おはよう」と憔悴した笑みを浮かべる。
 一睡もしなかったのだろうと目の下の青黒い隈でわかる。
 「喉渇いたろ。なんか持ってくる」
 「……冷蔵庫にコーラが入ってるから」
 心得たとばかり頷き、雑誌や服で覆われた床を歩いて台所に行き冷蔵庫を開ける。引き返し藤馬の手からペットボトル入りのコーラを受け取り、じかにあおる。
 「……いけそうか」
 「だりいから休む」
 「そか」
 覇気のない声。肩を落とした姿はひどく頼りなく、王子様の面影なんて微塵もない。
 藤馬は俺から距離をとり、雑誌をどかして作った場所にじかに座る。宙ぶらりんの沈黙が漂う。
 たぷつくペットボトルをもてあそびつつ、とりあえず、さっきから気になってたことを聞いてみる。
 「……後始末してくれたんだ」
 「うん」
 「サンキュ」
 「俺のせいだから」
 その一言で、藤馬が昨夜の行為をどう思ってるのか理解できた。
 床に座り込んだ藤馬は下を向いたまま、俺と目を合わすのを避けている。気まずい雰囲気がむず痒く、持て余したペットボトルを翳してみる。
 「飲むか」
 ぽいとペットボトルを放る。
 藤馬はそれを危うげなくキャッチし、一瞬俺の顔色をうかがってから口をつける。
 ペットボトルからじかにコーラを呑む口元が目を奪う。
 規則正しく上下する喉仏の動きに魅せられる。
 ベッドに胡坐をかき、藤馬が油断しきったタイミングを見計らって爆弾を落とす。
 「間接キスだ」 
 案の定、豪快にむせた。
 俺の指摘にうろたえきって激しく咳き込み涙目になる姿があんまりおかしくて、腹を抱えて爆笑する。
 口を拭い向き直った藤馬が不機嫌になにか言いかけてやめ、ぎこちなく強張った顔をほんの少しゆるめ、気遣いに感謝するようなまなざしを注ぐ。
 「……手痛いレッスンだったな」
 顔を上げた藤馬をまっすぐ見詰め、口の端を吊り上げ自慢の八重歯を覗かせ、わざと不敵な笑みを作る。
 「どう?ちょっとは色っぽくなった?」
 ふざけてまぜっかえせば、藤馬がまたしても口を開きかけて閉ざし、沈痛な表情で俯く。
 「……昨日、居酒屋で言ったよな。自分に足りないものは何だろうって」
 「ああ」
 「ベッドの中でこう言った。俺の事好きになってくれる子なんか永遠に現れないって」
 「そんなこと言ったっけか?」
 さすがに恥ずかしくなってとぼければ、いつのまにか藤馬が立ち上がりそばにより、手にしたペットボトルを突き出す。
 「俺は?ずっと好きだったのにカウントされてないのか」
 俺の頬にペットボトルをすりつけ、手渡す。
 ベッドの端に腰掛け、膝の上で五指を組み、困り果てた視線を床に放って訥々と語りだす。
 「……俺に足りないのはお前だ。お前がいないと胸が苦しい。お前の声が聞けない大学はつまらないし、お前の顔を見ない日は気分が晴れないし、お前がだれかを好きになれば嫉妬に狂って息も吸えない。お前がいないと空気が極薄な場所に放り出されたみたいでいてもたってもいられない。だから追いかけた。高校も大学も一緒のとこ選んだ。迷惑だってわかってた、俺と比べられるのうんざりしてるってわかってた、でも」
 ダイヤモンドは単体で輝く宝石だとおもっていた。
 「ハリボテなんだよ、俺は。ぐちゃぐちゃどろどろの中身を隠して愛想ふりまくイミテーション。本当の俺は嫉妬深くて、独占欲強くて、女と一緒にいるお前を見ては苛立って、男友達と笑ってるお前を見ては相手をぶん殴りたい衝動を必死で我慢するようなあぶないヤツで」
 飲み会の時は必ず隣の席を確保する。
 俺に近付く女は魅惑の笑顔を武器に片っ端から追い払う。
 「ハリボテだけど、巧を好きな気持ちは本物なんだ」
 恋する気持ちはダイヤの原石に似ている。
 純粋な核の結晶を守るため、嫉妬や独占欲や意地やコンプレックスの殻が表面を覆っている。
 ハリボテ王子は頭を抱え、顔を覆った手の中に弱音をこぼす。
 らしくもねえしょげきったポーズにむかっぱらがたち、威勢良く発破をかける。
 「―レッスン、あれで終わりかよ」
 「え?」
 「全然よくなかったよ、昨日の。参考になんねえ。キスはともかく肝心のセックスがあのざまじゃ、俺が晴れて女の子とラブラブで付き合いだした時恥かくぜ。大体さ、何あれ?お前強引すぎ。あんなふうに足かっぴろげて突っ込んだら女の子恥ずかしがるだろ、物事には手順ってもんがあるんだ、すっとばすなよ」
 いつもと逆に説教かましてるのがおかしくて笑っちまった顔を引き締め、深呼吸し、宣言。
 「お前のテク、ぜんぶ盗みきってやる」
 藤馬は俺が好きだった。
 俺のことを好きになってくれるヤツなんて永遠に現れないと諦めていたのに、この馬鹿は、ずっと俺が好きだったという。
 愛されてこそ人は輝くのだとのたまったのはだれだったか。
 誰かに好きだといわれるのは、まんざら悪くない気分だ。
 「……おかしいな、フツーに女の子が好きだったんだけど」
 
 藤馬は俺の憧れで。
 憧れだからこそ反発して。
 妬ましく疎ましく思う気持ちの裏で、同じ位の強さの羨望を抱いていた。
 
 「巧、それって」
 藤馬が振り向く。
 頬にさした赤みを悟られるのがいやであえて藤馬の方は見ず、口ごもりつつ続ける。
 「恋愛感情だって断定できねえけど。つうか俺腐ってもノーマルだし、やっぱ痛かったし、ぶっちゃけは?ってかんじで、でも嫌だったかっていうとそうでもなくて、痛いだけじゃなかったっつーのが本音で、いきなり押し倒されてびびったけど、その……」
 ひとつ息をつき、昨日の今日でとっちらかった気持ちに整理をつける。
 「……俺さ、好きになった子には甘いたちみたいで。あんな事があったのに一晩明けてもお前の事嫌いになってなくて、酔いが覚めてもお前の……キスとか、手とか、感触はっきり覚えてて。思い出すと死ぬほど恥ずかしいけど、認めるのはちょい癪だけど……えーとだ、つまり」
 曖昧に言葉を濁し、こみ上げるむず痒さを堪えてぶっきらぼうに言う。
 「今まで好きでいてくれてありがとう。気付いてやれなくて、ごめん」
 その瞬間の藤馬の表情をどう形容したらいいだろう。
 安堵と喜びと愛しさが綯い交ぜとなった顔は少し滑稽で情けなくて、おっかなびっくり腕を伸ばす不器用さが笑みを誘い、今度は俺のほうから倒れこむ。
 藤馬の胸にぼふんと顔を埋め、絶叫する。
 「~いってえええええええええ!!」
 忘れてたが、二日酔いだ。
 腕の中で悶絶する俺に驚き、反射的に身を引く藤馬の腕を掴む。
 「~つーことで、今日の代返よろしく。もう一眠りすっから」
 「ごめん、むり」
 「無理っすか!?」
 即断られ抗議の声を上げれば、声がじかに頭蓋に響いて再び突っ伏すはめになる。
 ベッドの上で七転八倒する俺の上から毛布を剥ぎ、拒絶させぬしなやかで隣に滑りこみ、身を横たえる。
 「俺も休むから」
 王子様は幸せ絶頂蜜月の笑顔でそうおっしゃって、俺の顔を優しく掴み、コツンと額をぶつけてくる。
 「言ったろ、慢性的にお前不足だって」
 額と額を合わせるうちに人肌の体温が引っ越してふしぎと頭痛が和らいでいく。
 藤馬の腕に大人しく身を委ねまうつらうつらどろみつつ、釘を刺す。
 「つぎはシラフで頼む。酔っ払いのキスは苦くていやだ」

 かくしてダイヤと原石の恋は始まったのだ。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ダイヤと屑石]
ダイヤと屑石 | コメント(-) | 20010503230954 | 編集

 所有格で語りたい幼馴染がいる。
 「あーなんでモテねーんだろ」
 そんなことない。
 巧は可愛い。
 すごく可愛い。
 何度強調しても足りないくらい可愛い。いつまで見てても飽きない。たぶん一日中見てたって退屈しないだろう、表情がころころ変わって面白い。こんなに観察し甲斐のあるヤツってそうはいないんじゃないかな。
 なんでモテないんだろうがこの頃口癖の幼馴染が椅子に反り返って背筋の限界に挑戦するのを、はらはらしつつ見守る。
 「そんなに仰け反ったら倒れるぞ」
 「大丈夫、バランス感覚だけは自信あるから」
 口にはストローを咥えている。行儀が悪い。
 俺たちは今高校近くのファーストフード店にいる。
 期末考査に備え二人で勉強中だ。
 どちらかの部屋で勉強する手もあるけど、俺はともかく巧は飽き性で、まわりに漫画やゲームが散らばってると気がそれてしまう悪癖がある。
 だからこうして放課後、衝立で仕切られたファーストフード店のテーブルで向かい合い範囲をつきあわせている。
 俺は一組で巧は二組。一組の方が若干先に行ってる。
 高校入ってからこっち俺を避けてる巧が背に腹は代えられず泣きついてきたのはアドバイスを乞うため。
 俺を避けてる理由は想像つく。
 クラスが分かれて内心安堵してる事も、その理由も知ってる。
 巧はゲンキンだから思ってることがすぐ顔に出る。知らぬは本人ばかりなり。
 鈍感は残酷だ。恋する人間を悪意なく追い詰める。
 店内はざわついている。俺たちと同じ学校帰りだろう中高生のグループがテーブルを囲んで騒いでるほかはカップルやサラリーマン、親子連れも目立つ。
 俺たちと同年代のグループは金がないのか、ポテトと飲み物だけで時間を潰すつもりのようだ。
 しばらく真面目に勉強していたのだが、巧は集中力散漫で、二十分も経つころにはだらけきってしなびたポテトをぱくつく始末。
 ノートと教科書をテーブルに広げ、巧が大の苦手な数式の応用問題について懇切丁寧に説明していた俺は奉仕が報われず肩透かしをくう。
 「真面目にやれよ。数学の赤点やだって泣きついてきたのお前だろ」
 「だってさー、ずっとxとかyとか見てると頭痛くなんだもん。息抜きは必要だろ」
 「俺だって暇じゃないんだけどな。ほかならぬお前の頼みだから……」
 さりげなくほのめかすも巧はあっさりと受け流し、俺のノートを開いてぱらぱらめくる。
 「超キレイなノート。頭いいヤツってやっぱ違うな」
 「お前のノートは落書きと涎の染みだらけだな。授業中なにやってんだよ」
 「人間観察と昼寝とメール」
 俺のノートをほっぽりだすや度は自分のを手に取り、真ん中あたりを開いてページの端を指さす。
 「どう?英語のヤマシタ。くりそつじゃね?自信作」
 そこには英語教諭ヤマシタの似顔絵が、特徴をユーモラスにディフォルメされ描かれていた。生徒の間じゃ何年か前の首相になぞらえて冗談の種になるゲジ眉におもわず吹き出してしまう。肩をひくひく痙攣させ笑いを堪える俺と向き合い、巧が満足げに笑う。
 「他にもあるのか?見せてみろ」
 「あ、待て」
 巧の手からノートを奪いページをめくる。
 欄外に描かれているのは漫画のキャラクターや教師の似顔絵、おもいっきり不細工にした友達のギャグ顔で手慰みの趣味の割に出来がいい。ぱらぱら漫画まである。
 棒人間が走って転びまた走り出し、転石に押し潰されぺらぺらになって風に吹き飛ばされた挙げ句川に流され、洗濯バサミに挟まれて乾かされているところまで来て、ふいに手をとめる。
 「もういいだろ、返せよ。ひとのノート見んな」
 「……だれこれ?」
 俺の声は低くなってたかもしれない。
 気恥ずかしげに急かす巧をじっと見つめ、最後のページを開く。
 そこに描かれていたのは女生徒の横顔。
 シャーペンを握り、なにかを書き写してる最中らしい。巧が赤面する。
 俺からノートを奪い返そうと腰を浮かせ両手を激しくばたつかせるも、その行動を予め見越した上で右に左に翳して回避。
 「だれ?」
 「だ、だれだっていいだろ関係ないだろ!返せよノート、勉強に使うんだから!」
 「いまやってんの数学だろ?言えないわけ?……下心でもあるの」
 「おなじクラスの子だよ!」
 「二組の?名前は?出席番号は?」
 「いいだろ、ほっとけよ!」
 「教えてくれなきゃ返さない」
 「おなじクラスの入江、入江真紀!これでいいかよ畜生、満足したんなら返せって!」
 やけっぱちの勢いで宣言するや俺の手からノートをひったくり、息を荒げて胸に抱く。
 巧自身、おそらく忘れていたんだろう。授業中の手慰みに、殆ど無意識状態、自動筆記状態で片思いの相手を写生してしまったのだ。
 耳まで赤く染めて黙り込む巧と見つめあう。
 「好きなのか」
 「片思い……だよ。悪いか」
 お前とは違うんだよ、と口の中だけで呟く。
 入江。イリエマキ。
 イリエを描いた時の巧を想像する。
 教科書の記述をなぞる退屈な授業のあいだ、だるそうに頬杖つき、一抹の後ろめたさとときめきを感じつつモデルを盗み見、シャーペンをしゃしゃっと素早く動かして特徴を捉えていく。
 真剣な顔。潤んだ目。
 ああ、巧はその子のことが好きなのだ、授業中手が勝手に走ってしまうくらいに。
 ノートの白紙に滾る想いをぶつけてしまうくらいに。
 どうしてクラスが離れてしまったんだろう。
 どこかのだれかの、たとえば神様の意地悪な采配を呪う。 
 どうして世の中にクラス替えなんてものがあるんだろう、だれがそんなつまらないことを考え出したのだろう、一体誰の陰謀だろう。
 俺と巧の仲を引き裂く誰かの悪意を恨む。
 一組と二組に分かれてしまったせいで俺は授業中の巧の様子を知ることができず交友範囲を把握しきれず、休み時間中クラスメイトとどんな話題で盛り上がってるのかさえ知る事ができない。
 巧の全てを知りたい、独占したい、永遠に俺だけのものにしてしまいたい。
 危険な考えだ。
 願望は欲望に結びつく。
 俺の知らないところで巧が友達を作りその友達とふざけあい弁当を食い芸能人の話で盛り上がる、俺の知らない誰かに恋をする、そんな事は許せない。
 許せなくたって実際どうしようもない。
 俺は自分の気持ちを告白してもないし、まだ当分カミングアウトする勇気はない。
 ストローを咥えて振る唇に自然と視線が吸い寄せられる。
 「………イリエ、ね」
 上下するストローの先端を追う。
 「どこが好きなの?」
 「いいだろ別に、どうだって……関係ねえよ」
 「フツウじゃん」
 「フツウでどこが悪いよ」
 「別に可愛くないし」
 ストローの上下動がとまる。巧がむっとする。
 机に身を乗り出し、ノートを平手で叩いて弁護する。
 「俺の腕じゃ表現しきれなかっただけ。実物はもっと可愛いの」
 胸の奥がざわつく。なんだろうこの感情は?
 ああ、嫉妬だ。
 俺をかきたてかきみだす、静電気のように炭酸のように胸でぱちぱち弾けるとても不快で不可解な感情。
 「どうしてよく知りもしねえくせに悪く言うんだよ。お前、そんなヤツじゃないだろ」
 巧がむくれる。本気で腹を立てる。むっつり頬杖つきそっぽを向く、その横顔さえたまらなく愛しく思ってしまうんだから重症だ。手遅れだ。後戻りできない。
 無神経で鈍感な巧。
 どうして俺の前で好きになった子を庇う、好きになった子の味方をする?
 もとはといえば俺のせいだ、俺が無理矢理ノートを奪ったから、もとはといえば俺が悪い、巧の秘密を暴き立てた俺に非がある。
 頭ではわかっていても感情は納得しない。 
 「………ごめん」
 大人しく謝罪する。
 本気で反省したわけじゃなく、ただ、巧に嫌われたくない一心で頭を下げる。
 俺はずるいヤツだ。
 「……応援してるよ。上手くいくといいな」
 心にもないことを言う。
 頬杖をくずし、こっちを見る。
 自分も大人げなかったなあと思ってる事がまるわかりの決まり悪げな表情。
 巧が笑ってくれるなら、嫌わないでいてくれるなら、いくらでも嘘をつく。ギゼンシャを演じる。恥ずかしながら認めよう、俺はいつだってこいつに構われたくてしょうがないのだ。高校生にもなってどうかと思う。幼馴染への依存とも執着ともつかぬこの気持ちに名前をつけるなら変……もとい、恋だろう。
 問題なのは俺もこいつも男って事で、だけどそれはささいな問題って気もする。
 少なくとも、俺は性別が障害とは思わない。
 巧はどうか知らないけど……というか、引くだろうフツウに。
 巧を困らせるのはいやだ。
 いや、詭弁だ。よそう、キレイごとは。俺はただどうしようもなく、救いがたく、こいつに嫌われるのが怖いのだ。高校に入ってからただでさえ避けられてるのに、俺がもし恋してるとばれたら気持ち悪がって絶対一緒に帰ってくれなくなる。廊下ですれ違っても無視されるか駆け足で去られるかで、たぶん、そうなったらもう一生捕まえられなくなるのが怖いのだ。
 もちろんどこまでもどこまでも追いかけていくつもりだけど、俺は臆病だけど鈍感じゃないし、相手にとことん嫌われてると自覚しながら報われぬ想いを抱き続けるのも追い続けるのも辛くて、そのうち耐えきれなくなってビルの屋上からダイブしそうだ。それならまだ、可能性は可能性のまま残しておきたい。そちらのほうが余程望みを持てる。
 放課後、マックでポテトをぱくつきつつだべる他愛ない日常を俺は愛する。
 どうかこの愛すべき巧がいる日常を奪わないでほしい。
 現状、俺は巧と一緒にいるだけで息が詰まるほど幸せだ。欲を言うならもう一時間、だめなら十分、せめて一分でいい、蜜月の幸せを引き延ばしてほしい。
 新学期のクラス発表では絶望した、一時は真剣に登校拒否を検討した。巧と違うクラスなんて耐えられない、一日の大半を巧の顔を見ずに過ごすなんてきっと窒息してしまう、他のだれがいてもそれが巧じゃなけりゃ意味がない、俺にとって全然なにひとつ意味なんかないのだ。
 俺が毛布を被ってひきこもれば、お人よしな巧はきっとどっちゃりプリントをもって毎日律儀に家を訪ねてくれる。俺はドアを隔て巧と会話する。どうでもいいくだらないことを、まだ巧が俺を避けずにいてくれた頃、俺が巧を汚らしいいやらしい想像の餌食にせずにすんだ無邪気な子供時代の馬鹿げた思い出を、何時間でも。

 素晴らしい思いつきに酔う。
 お父さんお母さんごめんなさい、あなた達の息子はとんでもない変態だ。
 せっかく高校まで行かせてくれたのに、輝かしい青春全てと引き換えても巧を独占したい気持ちが上回る。

 「ごめん」
 「え」
 異次元に飛躍していた思考が現実の地平に舞い戻る。
 テーブルを挟んだ対面で、巧は何故だかしおらしい顔をし、俺が返したノートを立てて持つ。
 「……その、俺もちょっと言い過ぎた。せっかく勉強教えてくれてんのに。ホントは今日用事あったんだろ、生徒会の」
 「気にするなよ、巧の頼みだし」
 巧のほうが大事だし。
 ちなみに、生徒会の用事といっても大した事はないのだ。
 学園祭の資材調達についての案件が二・三たまってただけで、副会長の俺が抜けたところで働き者の書記がしっかりフォローしてくれる。まあ少しは心が痛むから、次顔出す時は駅前のワゴン屋台で売ってるクリームタイヤキを差し入れよう。
 巧と水入らずで過ごす時間とひきかると思えば安いものだ。
 「次期生徒会長最有力候補じゃん、お前……つまんないことにつき合わせて悪いと思ってる」
 「巧の頼みをつまんないなんて思ったこと一度もないよ」
 むしろどんどん頼って欲しいのだ、俺に。俺だけに。
 他のヤツらに目移りなんてしなくていい、依存するなら俺一人で間に合うよう巧がいつなにを相談してきても対処できる完璧な優等生をやってるのだから。
 「ごめん、俺がつまんなくてモテないやつだから」
 主旨がずれてきてる。
 どうやらネガティブスイッチが入ってしまった模様。
 俺と自分を比較し欝に入るのが巧の悪い癖だ。というか、そんな必要全然ないのに。巧は巧だからいいんであってもし巧が巧じゃなかったらぜんぜん惚れなかった、尽くそうなんて思わなかった。
 「自信もてよ、巧。自分を卑下するな。お前はいいところたくさんある」
 俺は理想の友人を演じる。だけど巧はへこんだまま、冴えない顔でうなだれている。心なしか、ストローの先も力なくしなだれている。
 「いいんだよ、わかってるよ、身の程くらい。フォローいらねえし」
 ひねくれた態度でそっぽを向く。
 次の瞬間、驚きに目を剥く。
 「巧?」
 素早くテーブルに突っ伏すや教科書を広げ顔を覆う。
 「隣の隣の席。わかるか。女子四人」
 しきりと顎をしゃくり小声で囁く巧に促され、そちらを向く。同じ学校の女子が四人、黄色い声で騒いでいる。テーブルに教科書やノート、カラフルなペンシルケースを広げてることから、考査にそなえ勉強会を開いてるのだろうと察しがつく。
 「うちの生徒だな。どうかしたのか」
 教科書の端から覗く耳朶が薄赤く染まる。
 「………イリエがいる」
 イリエ。巧の片思いの相手。
 「……どの子?」
 「右端の子。黄色いヘアピンさしてる」
 「下ぶくれの子か」
 「下ぶくれ言うな」
 巧が指示する方向を横目でうかがう。
 隣の隣のテーブルを占拠した女子四人組は、勉強そっちのけでハイテンションなおしゃべりに興じている。先生の悪口、誰と誰が付き合って別れた、好きな芸能人やミュージシャンと話題は多岐に移り変わる。
 イリエは右端に座っていた。黄色いヘアピンで前髪を分けて額を露出し、ポテトをつまみ相槌を打ち、屈託なく笑い転げる。いちいちリアクションが派手で快活。クラスでは中心グループに属してそうな子だ。
 「………ああいうタイプが好きなんだ。知らなかった」
 できるだけそっけなさを感じさせないよう、注意しつつ言う。
 ついで、教科書を盾に伏せる巧を冷めた目で見る。
 「なんで隠れるの?」
 「………なんとなく」 
 「見られて困るわけでもないだろ」
 「いいじゃん、ほっとけ」
 耳がますます赤くなる。
 女子高生四人組は俺たちの存在に気づかず騒いでいる。
 学校近くの店だから、学生が屯うのも顔見知りと会うのも別に珍しくない。視界にちらついたところでせいぜい「あ、同じ制服」くらいの注意しか払わないだろう。
 巧が声を上げなかったら、俺だってきっと気づかなかった。
 俺は基本的に巧以外の事柄はどうでもいいのだ。
 「……可愛い、巧。恥ずかしいんだ?」
 自分でも声が意地悪くなるのがわかる。
 巧はテーブルにべたりと突っ伏し教科書に隠れたまま、息を殺している。俺の問いかけを無視する態度が癇に障る。そんなにイリエが大事なのか、イリエの話が聞きたいのか?

 どうだっていいじゃないか。
 どうして俺といるのに俺を見ない?
 どうして教科書で視界を閉ざす?

 イリエの向かいで二つ結いの女子が席を立ち、プラスチックのトレイを持ってカウンターへ歩く。
 追加注文をしにいくのだろう。
 巧の背中がびくりと強張る。すごくわかりやすい。
 ウブな反応を笑いつつ教科書の横から手を伸ばし、学生服の肩をつっつく。乱暴に振り払われる。
 「ずっと隠れてるつもりか」
 「……いなくなるまで待つ」
 「当分出て行きそうにないぞ」
 けれども巧は頑固に教科書にしがみついたままこちらを見ようともせず、切れ切れに届くイリエたちの会話に耳をそばだてる。
 面白くない。
 テーブルの下、こっそりと足を伸ばし、巧の履くスニーカーの先をつつく。
 「―っ、なんだよ?」
 「別に?」
 教科書をどかし噛みつく巧ににっこり微笑み返す。
 巧は再び教科書に戻る。熱心に教科書を読む―ふりをする。
 ド近眼の人間がそうするような猫背で教科書に顔を埋める巧を見るにつれ嗜虐心と悪戯心が騒ぎ、テーブルの下で伸ばした足を慎重に絡める。驚き、戸惑い、逃げようとするのを素早く制してするりと足首に巻きつく。
 「ちょ、フジマ」
 上擦る声に動揺が伝う。教科書がずれて顔上半分が露になる。
 逃げ腰で引っ込もうとするのをつかまえますます強くきつく締めつけ、反対側の足でもって無防備な靴裏をくすぐる。
 「―ふは、ちょ、たんま、悪ふざけやめろって!」
 取り乱す巧の制止は聞かず、ズボンの裾を足でもって器用に捲り上げ、靴下をちょっとだけずらしてやる。
 「いい加減にしねえと怒るぞ」
 「怒れば?」
 精一杯の脅しに余裕の笑みで報う。
 テーブルの下で悪戯しながら笑みは絶やさずストローを吸う。
 巧がむきになって蹴りを放つ。
 椅子が不規則にがたつく。
 だけど俺はやめない、嫌がる巧にしつこくつきまとう。巧がいらだつ。顔にあせりがちらつく。もうすぐイリエのつれがカウンターから戻ってきてしまう。俺の足を振りほどこうとばたつく一生懸命な顔を観察し優越感を味わう。
 「騒ぐとばれる。大人しくしろ」
 「ちょっかいかけんなよ、お前わざとやってんだろ!ええい鬱陶しいっつの、水虫伝染すつもりか」
 「イリエさんに見つかっちゃうぞ」
 耳元で脅す。
 教科書の影で歪む顔に葛藤と逡巡がせめぎあう。
 ああ、こいつほんといい顔する、いじめたくなる。サドの気はないつもりだけどいじり倒し甲斐あるなあ。願わくば、巧にこんな切ない顔させてる要因が俺だったら言う事ない。だけど巧の頭の中は今イリエさんのことで一杯で、俺はそれが腹立たしい。どうして目の前にいる俺を見てくれないんだろう?振り向かせたいと躍起になる。
 「水虫なんかないよ」
 「フジマ王子に水虫あったら女子が幻滅して暴動起こすぜ。ざまーみさらせ」
 巧が茶化して舌を出す。
 ああ、くそ、反則。可愛いな。
 ついうっかり魔が差し、靴の先端で筋肉に守られてない膝裏を掠る。
 保健の授業では確かここに迷走神経が……
 「!―んっ、」
 やらしい声。
 俺のほうがびっくりしてしまう。
 「あれ、タカハシ?」
 ボードを持った女の子がこちらにやってくる。隣の隣のテーブルで女子の集団が立ち上がる。
 「なんだ、いたんだ」
 「つーかフジマくんじゃん!嘘っ、偶然!」
 「やだー、フジマくんいたんなら早く声かけてよ気づかなかった」
 甘ったるく語尾を伸ばしてわらわらやってくる女の子たち。中にイリエがいる。
 「ごめん。勉強してたから邪魔しちゃ悪いとおもって」
 「そうだよ、俺らは勉強に来たんだよ、珍獣の相手してる暇ねえの。しっしっ」
 教科書を投げ捨てた巧が顔にさした赤みをごまかすように邪険に追い立てれば、女子たちが一斉にブーイングを放つ。
 「タカハシやな感じ―。お前こそどっか行け」
 「どっか……行けって俺は最初からこの席なの!お前らこそどっか行け、マックで勉強すんな、図書館行け!」
 「自分だってだべってたくせにねえ」
 「ねー」
 女の子は口達者だ。押しに弱い巧は口の中でもごもご呟いて黙り込んでしまう。
 俺はといえばテーブルを包囲する女の子たちなんて殆ど眼中に入らず頭の中はさっき一瞬巧が漏らしたやらしい声で一杯で、反芻するにつけ顔が危険な感じに熱くなって、ああ今考えてること巧に透視されたら絶交される軽蔑されるそれだけはやだ絶対と自己嫌悪ぐるぐるで突発性の眩暈と発汗とその他もろもろの症状が襲って
 だけど俺は気づいてしまった。
 気づかなくてもいいことに気づいてしまった。
 きゃあきゃあ騒ぐイリエを上目遣いに窺い、いつもは絶対そんなことしないくせにズボンの上に散った食べかすを几帳面に払う巧の異変に。
 俯き加減の顔はほんのり上気して、伏し目がちの瞳は微熱に潤んで、虫歯を堪えるみたいにむず痒げな表情で伸び縮みする口元を結んでほどいて、しまいには困り果て。
 戸惑い揺れる一連の表情は切実に一途で純情に甘酸っぱくて。
 今、巧の頭の中から、俺の居場所は蒸発してしまった。
 「……トイレ。すぐ戻る」
 いたたまれず踵を返す。
 逃げるようにその場を去る。
 トイレに飛び込んで個室に鍵をかける。
 便座に座って深呼吸、ミントの芳香が混じる爽やかな空気を吸い込む。
 「……馬鹿だ、俺」
 頭を抱え込む。
 ちゃんと手を洗って拭いてからトイレを出るや、そこで待ち伏せしていた人影と出くわす。
 「「あ」」
 どちらからともなく声を上げる。
 イリエがいた。
 「……どうしたのイリエさん、女子トイレならこっちだよ」 
 波立つ心を抑え、友好的な笑みを繕う。
 突き当たりの壁を挟んで反対側に位置するドアを指させば、下腹部で手を組んだイリエがぼそりと呟く。
 「フジマくん、私の名前知ってたんだ。クラス違うなのに」
 「もちろん」
 巧が教えてくれたから。別に知りたくなかったけど。
 イリエがはにかむ。様子が変だ。用を足しに来たんじゃないのか?
 「何か用?」
 「うん、あのね……」
 組んだ手をもじつかせ、尿意を我慢してるような内股で恥じらい、一息ついて口を開く。
 「メルアド教えてくれない?」
 イリエはついさっきの巧とおなじ熱っぽい目をしていた。
 直感があった。
 「イリエさん、俺のこと知ってるの。巧から聞いて?」
 「え?うん、それもだけどそれだけじゃなくて……フジマくん有名だし。かっこよくて優しくて勉強もスポーツもできるし、ガッコで知らない女の子なんていないよ。人気者じゃん」
 「巧はなんて言ってた?」
 最大の関心事を聞く。
 他人の評判なんて関係ないし興味もない、ただ巧が俺の人となりをどう評したかだけが気になる。
 イリエは俺の質問を疑問にも思わない。
 「なんでもできる凄いヤツ。幼馴染だけど、自分とは全然違う。当たり前だよね、比べるのもおこがましいってかんじ?」
 多分、きっと、おそらく。その台詞に悪気はないのだ。
 イリエと巧はたぶんそれだけ距離が近くて、砕けた軽口を叩く間柄で、イリエに巧を貶めるつもりなんてさらさらなくて、今のもきっと笑って流されるのが前提の冗談のつもりだったのだ。
 「……前から気になってたんだ、フジマ君のこと。きょうお店で偶然見かけて、チャンスだって追いかけてきちゃった」
 女の子って残酷だ。
 女の子って馬鹿で鈍感だ。
 どうしてあいつのよさに気づかないのだろう。
 「だからその、メル友から初めて……ちょっとずつ仲良くなれたらいいなって」
 「いいよ」
 あっさり言う。
 イリエがぶたれたように顔を上げる。
 驚き見開かれた目に映る俺はセメントで固めたみたいな笑顔。
 「俺も今日偶然イリエさん見て、あ、可愛い子だなって気になってたんだ」
 「嘘っ」
 「ホントホント。黄色いヘアピン似合うね。さっきからずっとちら見してたの気づかなかった?」
 頬を両手で包んだイリエが嘘、うそと連呼する。
 嘘はついてない。さっきからずっと盗み見してたのは事実だ。視線に恋愛感情が含まれてなくても嘘とはいえないだろう。
 頬を上気させたイリエがはしゃぐのを冷めた気持ちで眺める。
 メルアドを交換し席に戻る。
 イリエの方はといえば、待ち伏せを示し合わせた友達にどよめきをもって迎えられ、やったね、よっしゃ、と口々に健闘をたたえられる。
 「遅かったな」
 「まあな。……俺がいない間どうしてた?」
 「勉強してた」
 「寂しかった?」
 「ルーズベルトってだれだっけ?」
 「合衆国三十二代大統領」
 「あーそっか。しかしルーズベルトってメタボなネーミングだな~」
 「いつのまに世界史に浮気したんだ?」
 「二股は男の甲斐性」
 「……それ女の子の前で言うなよ。顰蹙買う」
 「二股かけるくらいの甲斐性欲しいぜ。ほら、俺モテねーし?おわっ」
 テーブルにだらしなく突っ伏す巧の頭に手をおき髪に指を通してくしゃくしゃかき回す。
 「……なんですか、フジマさん。やめてください。勉強中なんすけど」
 ああ、上目遣い反則。
 どうして女の子は巧の魅力に気づかないんだろう。
 「ルーズなベルトの偉大なる業績について復習すんだからジャマすんな」
 「一緒にやろう。フジマさまがわからないとこ教えてやる」
 かちかちとシャーペンの芯をだしつつ文句を垂れる巧の頭から名残惜しげに手をどかし、二ヶ月だか三ヶ月だか先の事を漠然と思う。
 「俺が思うにルーズ氏の功績はベルトの穴を一気にふたつぶっち抜いたことだな」
 「違う。ニューディール政策」
 俺は巧みたいに優しくないから、イリエをこっぴどく振るだろう。
 見せかけの優しさを愛情と偽って欺いて、とことん惚れさせてから突き放すだろう。
 「……フジマ?」
 「なに、巧」
 「お前、なんか怖えカオしてるよ。笑ってんの口元だけ」
 鈍いようで鋭い巧の指摘に動揺するも、俺は再びノートと教科書を開き、大事な幼馴染にむかって極上の笑みを浮かべる。
 
 こいつは俺のダイヤモンド。
 こいつのよさも見抜けないくだらないヤツに傷なんかつけさせない、絶対。

 「じゃ、45ページ開いて」

 けれど、どうかもうしばらくは原石のままで。 
 他のヤツらが原石の真価に気づいてしまわないように、俺だけのお前でいてくれるように、祈る。

にほんブログ村 小説ブログ BL小説へ

関連記事 [ダイヤと屑石]
ダイヤと屑石 | コメント(-) | 20010503230828 | 編集

 知らなかった、クリスマスケーキってしょっぱかったんだ。

 「頼むフジマ一生のお願い。このとーり」
 両手を合わせてフジマを拝む。
 幼馴染にしてダチにしてこのほどあんまりめでたくないことに恋人未満の存在に昇格した男が、洒落たダッフルコートを着て隣を歩きながらしげしげ俺を見つめる。
 十二月中旬ともなれば街にはクリスマスソングが流れ行き交う人みな浮き足立つ。
 キリスト教徒でもないのにどうしてよその神様の誕生日をこぞって祝福しなけりゃいけないんだという疑問はそれを口実にして馬鹿騒ぎしたいヤツらの存在でかたがつく。
 そう、人はえてして口実を欲しがるものだ。
 クリスマスだから多少ハメをはずしてもいいだろう、クリスマスだから手を握ってもいいだろう、クリスマスだからヤドリギの下でキスしていいだろう、クリスマスだから一線を越えてもいいだろう……
 ぱっと思いつくだけでこれだ、毎年クリスマスを好都合の言い訳にして多くのカップルが童貞や処女を捨ててるのは統計学的に信用できるデータ。まあモテない童貞彼女なし、今年のクリスマスもバイトで埋まった学生には関係ねーけど……
 俺は相も変わらずコンプレックスの塊の屑石のまま、殻を破れずにいる。
 「巧のお願いなら今すぐフィンランドに行って一番高いヤドリギの上から雪をお裾分けしてもらってくるよ」
 スリムな長身と均整取れた素晴らしく長い足を軽快に繰り出し、博愛主義の手本のような微笑みを浮かべる。
 「いらねーよ。溶けるし」
 「アイスボックスに詰めてくる」
 「貰ってどうすんだそんなの、雪ウサギ作って冷凍庫に入れとくか。じゃなくて」
 俺がじゃあ頼むと言えばよしきた任せとけと喜び勇んで飛行機に乗りそうで油断できず、返しは自然慎重に、突っ込みはきびしめになる。
 バロットという料理をご存知だろうか。
 一部のゲテモノ食いに絶大な支持を誇る、孵化する前のひよこを卵の中で煮殺して食べる料理だ。見た目はグロいが大変美味らしい。
 こいつと一緒にいると一方的に注がれるなまぬるい優しさでもってじわじわ煮殺され、晩餐に美味しく召し上がる為に調理されてるような妄想が育つ。
 自分で言うのも恥ずかしいが、フジマは十数年越しの片思いが実ってようやく結ばれたあの夜から俺を甘やかし放題に溺愛してくれちゃってる。
 だから俺のお願いならなんでも快く引き受けてくれると見込み、再三手を合わせ拝み倒す。
 「他のヤツらも当たってみたけどさすがに予定埋まっててさ、お前が最後の希望なんだよ。頼む、助けると思って」
 「どうして真っ先に俺んとこ来なかったの?」
 哀しいかな、中学以降運動部に所属してない故に体力がない。
 足の長さが違うからフジマが引き離すつもりなら簡単に追いつけるはずもねえ。
 「……ずるい」
 「ん?」 
 「足の長さ。すげー股下長いだろ、モデル並に。俺は胴長寸胴体型なのにさ……」
 「巧は腰細いよ。脱ぐとわかるけど」
 「街なかで腰細いとか言うな」
 僻んでるのは足の長さだけじゃねえけど。
 ポケットに手を突っ込み、フジマの隣に並びつついじけてみせる。
 「中学のバスケ部じゃ万年補欠の俺をさしおいて一年で異例のレギュラー抜擢、他校との交流試合で大活躍。ファンの女の子から山ほどファンレターやらお手製フジマくん人形ユニフォームバージョンやら差し入れ貰ってたバスケの王子様だもんな」
 「巧がいたから入ったんだよ。バスケ自体あんま興味なかったし……やってみたらハマったけど」
 とことんイヤミなヤツめ。
 フジマいわく、入部動機は俺。
 しかし肝心の俺はといえば二年の初めに早々に脱落した。
 理由は単純、黄色い声援浴びてコート狭しと駆け回る王子の活躍をベンチで見せつけられる補欠の屈辱に耐えかねたから。
 ずっとずっと、年が同じで家が近いというただそれだけの理由で幼稚園の頃からずっとフジマと比較されダメだなあと貶され続けてきたのだ。卑屈になっちまうのもムリはねえ。
 フジマだって知ってるくせに無神経だ、そんなに優越を見せつけたいのかよ。
 声に不満がでないよう用心し、薄汚れたスニーカーを睨んでそっけなく聞く。
 「あの人形まだ持ってんの?」
 「ジョンに食われた」
 ジョンはフジマの自宅の飼い犬。補足、悪食。
 「一緒に貰ったマフラーはとってあるけど」
 「ふーん、女の子からのプレゼント大事にとってあるんだ。やっさしーねフジマは。モテるはずだ」
 フジマが他校の女子に告白される現場やプレゼントを手渡しされる現場に居合わせたのは一度や二度じゃない、フジマと一緒に行動してりゃ避けがたい事態だった。
 もっとも渡す方や告白する方にしてみりゃフジマの後ろにぼけっと間抜けづらで突っ立ってる友達Aなんて眼中になかったろうけど。
 わかってるさ、どうせ世界人類の約半分から無視される運命なのさ。
 聖夜の厳粛さよりは前夜祭の高揚を誘発するクリスマスソングが流れ、緑と赤と真綿を雪に見立てた白の装飾も華やかに、めかしこんだ老若男女が笑いさざめく街をあてどなくぶらつきながら気分は鬱々と沈んでいく一方だ。
 今の心境を一言で表現するなら、侘しい。
 カトリック最大の祝祭一色に染まる街に紛れ込んだ虚無僧さながら場違いな孤立感と疎外感を持て余す。

 吹け、滅びの風。
 恋人たちに永劫の呪いあれ。

 バカップル撲滅運動の旗印となるのも辞さぬ危険思想を膨らます俺と隣り合い、前を向いたままフジマが呟く。
 「やきもち?」
 「え?」
 「だったら嬉しいなって」
 「……ばーか。ねえよ」 
 頬が赤くなるのは自然現象、寒い中ずっと歩いてたから。
 俺の内心を読み取ったか、ふいに手が伸びてくる。
 「!っ」
 人通りの多い街中で。
 「巧って冷え性だよな。外でるといつもポケットに手を入れてる」
 フジマが俺の顔を抱く。
 上背で負け、自然見下ろされる格好になる。
 俺の顔を手挟み微笑むフジマ、幸せそうにのろけまくった笑顔。
 手のひらはひんやり冷たく、カイロの役目も果たさない。
 「やめろよ、人が見てる」
 「もうしばらくこのままで。手がかじかんじゃってさ、巧カイロであっためてくれ」
 向き合う俺とフジマを避けて流れる人ごみからくすくす笑いが漏れる。
 美人なお姉さんがこっちを一瞥、彼氏をつっついて笑い合う。
 人間しあわせだと心に余裕ができるもんだ。
 現にすれ違う人の大半は彼氏彼女持ちの恋人たちで、往来で堂々いちゃつく男ふたりにいちいち目くじらたてたりしないのだ。
 できすぎなほど整った顔が目と鼻の先に迫る。
 線が細く甘い顔立ちは頼りなさより優雅さを感じさせ、物腰はいちいち紳士的に洗練されて、頬を包む手のぬくもりに塩と砂糖を一緒くたに傷口に塗りこまれているようなむず痒さを覚える。
 劣等感と羞恥心とほんの少しの後ろめたさ、ひょっとしたら幸福感に似たもの。
 「……俺カイロは店じまい」
 「いたっ」
 手の甲をつねってひっぺがせば、フジマが大袈裟に顔を顰め残念そうにため息を吐く。
 「恥ずかしがらなくても」 
 「むり」
 しゃらんらジェリービーンズのように俗っぽくパッケージングされた音楽が流れる。
 どんちゃか飲み食い浮かれ騒げ大衆どもよ、汝らに幸多からんことを。
 めげずに頬をつけ狙うフジマの手を邪険に払い、口を尖らす。
 「どうせフジマみたいなモテ男にはわかんねえよ、世を拗ねて儚む一人ものの気持ちは」
 「誰が一人ものだって?今お前の頬っぺを抱っこしてる俺は無視なわけ」
 「同情するなら奉仕しろ」
 ポケットに突っ込んであったチラシをフジマの鼻面につきつける。
 フジマが目をしばたたく。
 「俺がバイトしてる商店街のケーキ屋。イヴは人手が足りなくてさ、助っ人募集中なの」
 毎年この時期に行われるクリスマスケーキの街頭販売、店長に一人ノルマ十枚の配布を厳命された販促チラシをどさまぎで握らせる。
 「うちの店イヴは毎年街頭に立って販売するんだ。けどさ、肝心のバイトが彼氏彼女との乳繰り合い優先してごっそり抜けちまって……心当たりあるヤツ引っ張ってこいって言われて思い出したのがお前」
 「巧のお願いならなんでも聞いてやりたいけど、俺、ケーキ屋のバイトって初めてだよ。接客やったことないしトチるかも」
 「嘘だろ、お前の失敗なんて想像つかねえ」
 「足滑ってケーキとか投げちまうかも」
 「コントかよ。んなむずかしい仕事じゃねえし大丈夫、たんにケーキ売りさばくだけだから。サンタの服着て」
 「コスプレすんの?巧も?」
 「そ。客寄せサンタ」
 フジマがふむと考えこむ。心なしか口元がにやけている。
 ろくでもないこと企んでるな、また。
 経験に基づく勘が騒ぐ。
 「……行ってもいいよ」
 「マジで?」
 フジマが振った釣り針にぱっと顔を輝かせ食いつく。
 「ありがとう、感謝するフジマ!」
 「その代わりプレゼントね」
 「えっ」
 「イヴ返上で巧の為に働くんだから見返り求めるのは当然だろ?」
 俺のためにってとこをことさら強調する確信犯。策士。
 目を細めて笑う食えない顔に警戒せよと警報が鳴り響く。
 ためて囁かれた見返りという単語が不安を煽る。
 俺の為にイヴを返上すると宣言したフジマの顔を見つめ、迷い、妥協する。 
 「………わかった。用意しとく」
 駆け引きじゃこいつに勝てない。
 しぶしぶ請け負う俺とは対照的にフジマは嬉しげ、「そうこなくっちゃ働き甲斐ない」と舞い上がっている。寂しい限りの自分の懐具合を思い出し、フジマが期待しすぎないようあせって歯止めをかける。
 「あんま期待すんな、ビンボーだからな」
 「聖夜の奇跡に期待する」
 陽気なクリスマスソングを口ずさみつつ遠ざかっていくフジマを追いかけながら、粘り強い説得を重ね助っ人の約束をとりつけたというのにどうしてだか胸騒ぎがし、今年のイヴは受難に見舞われそうだなあと諦め気味に思った。


 結論から言うと、フジマを助っ人に抜擢した俺の目論見は大当たりだった。
 「すっげえ売れたな!積んどいた山が端から売れてった!去年一昨年より捌けるの早かった、外売り始めてから一番の売り上げだってさ!」
 「お役に立てて嬉しいよ」
 「店長からケーキ貰ったし食お!賞味期限切れねえうちに!」
 「ここで?家帰ってからのがよくないか、フォークもないのに」
 「日付変わる前に食わなきゃクリスマスケーキの意味ねえよ!いや、まだイヴだからクリスマスイヴケーキが正解?」  
 はしゃいで扉を開け放ち更衣室にはなだれこむ。
 壁に沿って等間隔にロッカーが並んだ更衣室の中央には長い机とパイプ椅子がある。
 「ありゃ、俺たちだけ?須賀さんとかはもう帰っちゃったのか」
 からっぽの更衣室を見回し呟く。
 須賀さんは俺のバイト仲間で現役女子大生、親しみやすい笑顔が魅力の清潔感ある美人だ。
 ほんの三十分前まで表で一緒に売り子してたんだけどどこにも姿がないってことはとっとと帰っちまったんだろう。着替えを覗こうって下心があったわけじゃないが、ちょっと寂しい。
 「この店の更衣室って男女共用なの?」
 ぎくりとする。
 フジマのヤツが俺の心を読んだように絶妙のタイミングできわどい質問をしてくる。
 「あー……大丈夫、女の子が着替える時はちゃんと時間ずらして男は外で待つ決まりだから。覗きません、誓って。そんなけしからんまね神様仏様イエス様ついでにお袋さまに誓っていたしません」
 「むしろ巧が覗かれないか心配だな」
 「~お前はまたそういう……」
 脱力。
 右手にケーキの箱をぶらさげ敷居を跨ぎ入室、背後でフジマがドアを閉ざす。
 「なんにせよ無事終わってよかった。一時はどうなることかと思ったけど」
 ケーキは売れた。
 売れすぎたのだ、予想を超えて。
 積み上げた山の端から飛ぶように売れていく様は壮観だった。
 一時は在庫が追いつかないのではないかと危惧したほどだ。
 というか、例年になく好調で快調な売れ行きだったのはフジマのおかげというかせいなんだが。
 「ふ~……」
 どちらからともなくパイプ椅子を引いて疲れきった体を投げ出す。右手に下げたケーキの箱を机に置く。
 隣でため息をつくフジマを一瞥、素直な感想を述べる。
 「なに着てもいやみなほど似合うなあ」
 今のフジマは俺とおそろいの赤いサンタ服、おまけに先端がくたりとしなだれたトンガリ帽子を被っている。珍しく意外性を狙ったイロモノお笑い路線だが、なにしろ素材が申し分ないので、インパクト満点のコスプレにも霞まぬ中身が輝く。
 サンタクロースのコスプレがけっして滑稽に見えず、これはこれでありかなと錯覚来たすお茶目で遊び心にあふれた着こなしに見えてくるのは絶対こいつが美形だからだ。

 その証