ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 「残念、モルヒネがない」
 「モルヒネ?」
 敷島が胡乱げに眉をひそめる。
 露骨に不安げな敷島に背中を向け、手を突っ込みがさごそ戸棚をあさりながら答える。
 「知らないんすか先生、モルヒネはボームズ常用の麻薬として知られるけど適量なら痛み止めになるんですよ」
 「いや、知ってるが……学校の保健室にモルヒネはないと思うよ?」
 「やだなあ冗談だって、本気にしないでください。いくら俺でも保健室にモルヒネあるはずねーってわかってますよ、ジョークっすよジョーク。モルヒネはベーカー街221番地のアパートか病院にしかおいてないってわかってますよ。とりあえず手当てしますんで。……えーと、糸?針?家裁道具箱どこだろ」
 「……目下捜索中のところ悪いけど秋山くん、針と糸を持ち出す必要はないのでは」
 「赤チンで手を打つか」
 「殺す気だね?」
 敷島が懸念を示す。
 消毒液の瓶と包帯を掴みとり、横に懐中電灯をおき、大人しくベッドに腰掛けた敷島に向き直る。
 「ちょっと痛いけど我慢してください。なるべく早く済ませますんで」
 「生徒に気を遣われるとかえって不甲斐なさが身に染みる」
 「これからもっと染みますよ?」
 正面に片膝つき、血に濡れたハンカチをほどく。
 ハンカチの下からあらわとなった傷口に顔をしかめる。
 引いてる場合か。びびる己を叱咤、嫌悪を堪えて傷の程度を調べる。
 出血は多いが注意して調べれば縫合する程の怪我じゃなく安堵。
 さすがに針と糸で縫うとなると素人の手に余る。
 惨劇の現場となった美術室から渡り廊下を抜け新校舎の保健室へ場所を移し、緊急時故勝手に医療品を借り、負傷した敷島の治療にあたる。消毒液を染みこませたガーゼで丁寧に傷口を拭き清め、戸棚から拝借した新しく綺麗な包帯を巻いていく。
 「手際がいいね」
 「こういうの得意なんすよ。手先の器用さには自信ありです」
 軽口叩きながらも手はとめず、傷口を覆ったガーゼの上から清潔な包帯を一周二周させる。
 「おちこぼれにも世を渡ってくための特技があるもんです」
 「おちこぼれだなんて思ってない」
 「またまた先生てばうまいんだから。お世辞言ってもスマイル0円」
 「本心から言ってる。君は心根が正しくてまっすぐないい子だ」
 「高校生にむかっていい子はこそばゆい……」
 「古典の授業中に寝なければもっといい子だ」
 「………バレバレ?」
 「教室の前列、机に突っ伏して豪快に寝てればね。よだれもたれてるし」
 「一回も叱られたことねーし……」
 「あんまり気持ち良さそうに寝てるから起こすのが気の毒になってね。……授業が退屈な自覚はあるし」
 「うわ、哀れまれてたんだ俺。恥ずっ。あ、でも勘違いしないでくださいよ?断じて先生の授業がつまんないとか意味不明とかけりとかなりとかしかじかとか社会に出て何の役立つんだってバカにしてるんじゃなくて、ちゃんと聞かねーとって頭じゃわかってるんだけど、先生のおっとりゆったり聞き心地いい声聞いてるとついうつらうつら瞼がおもたくなって熟睡しちゃってるんです。一種の催眠療法?みたいな」
 「いいんだよ、むりしなくて。古典は今も昔も不人気だからね。……なかなか奥深い世界ではあるんだけれど」
 敷島はこういうことを面と向かって恥ずかしげもなく言えちゃういまどきの冷えた世相じゃ奇特な教師だ。しかも本人は大真面目ときてるんだから手に負えない。
 手振りもあたふたと弁明はかる俺に苦笑し、自分の関心分野が人に理解されない一抹の寂しさを顔に過ぎらせる。糊のきいたシーツに猫背で腰掛ける地味な背広の男は妙に浮く。
 「敷島先生はこの学校に来て長いんですか?」
 「十年になる」
 「じゃあベテランだ。そんなに長くいるなら、御手洗高の七不思議も知ってますよね」 
 世間話とみせかけ探りをいれる。敷島が思慮深く首を傾げる。
 「生徒の間で流行ってるというのはちらっと聞いたが、あまり関心がなかったから、くわしくは知らない。どこの学校にもある怪談のたぐいだろう」
 「こないだ古い部誌見つけて、そこに色々書いてあったんすけど、校庭に不発弾が埋まってるってマジっすかね?」
 「さあ」
 「ケータイ繋がりにくいのなんでだろって不思議だったんです。不発弾の噂がホントなら、電磁波に影響してんのかなって……不発弾って金属でしょ?よくわかんねーけど、特殊な磁場がケータイの電波妨害してんのかも」
 「さすがミステリ同好会部長、鋭い推理だ」
 敷島が合いの手をいれる。
 悪い気分じゃない。が、不発弾の話は導入の前振りだ。
 得々と推理を披露しにやけた顔を引き締め、核心を突く。
 「昔からいるならセンセ、学校の屋上から飛び降り自殺した生徒の事、知ってますか?」
 敷島の顔から笑みが拭い去られ、黙祷を捧げるが如く沈痛な面持ちに変わる。
 「さっき美術室にあった絵……麻生が用意した肖像画。俺、前に見たことあるんです。七不思議のひとつですよね?むかし屋上から飛び降り自殺した生徒が残した絵で、夜な夜な涙を流すって……ぱっと見わかんねーけど、懐中電灯で近付いて照らすとたしかに頬のあたりがかすんでて。涙のあとみたいに見えないこともないんです」
 Z.K。
 涙を流す肖像画。学校の屋上から飛び降り自殺した少年の遺作。
 懐中電灯の光の加減か先入観のなせるわざか、寒々とした美術室に放置された肖像画は救いがたい悲哀と孤独を帯びているかに見えた。
 消えた不発弾、すりかわった七不思議。
 持参した部誌を開かなければ見落としていたささいな矛盾点がどうにもひっかかる。
 夏休み最初の夜、壁に手を接着された俺の前に例の肖像画を引き出し、調子こいてさんざん脅したボルゾイ。ホラを吹いたとはおもえない。
 ミス研部長の面目躍如とばかり好奇心が疼き、七不思議の矛盾点を究明する。
 「昔から学校にいたなら自殺した生徒も知ってるんじゃ」
 「……ああ。覚えているよ、彼の事は。そんなに親しくはなかったが。真面目で大人しくて、いい生徒だった」
 「先生が教えてたんですか?」
 「担任じゃなかったが授業を教えていた。美術部で……絵を描くのが上手かった」
 細めた目が追憶の悲哀を帯びる。
 目尻に皺を寄せた苦悩の表情は冴えない中年男をなおさら老けさせてみせる。
 肖像画の少年の顔が脳裏に浮かぶ。
 夏休み最初の夜、そして今晩、二回遭遇した。敷島の言うとおり大人しそうな少年だった。
 四角い枠組みに閉じ込められた笑顔は懐中電灯の橙色の光を帯びて寂しげだった。
 不謹慎な好奇心が騒ぎ出す。
 テープを切って包帯をとめながら世間話の延長のさりげなさで聞く。
 「なんで自殺したんですか?」
 追憶の余韻をひきずった敷島がのろのろと向き直る。
 過去を映すその目に、迂闊な質問を悔やむ。
 「秋山君は地元だよね。何も聞いてないのかい?当時は随分騒がれたんだが……」
 「家の事とか……色々あったんで」
 曖昧に言葉を濁す。
 六年前といえばうちが一番大変だった時期。
 一家ぐるみでハブられお袋は家計を支えるため慣れないパートに出て俺は妹の面倒にかかりきり、地元高校の自殺騒ぎがちらっと耳に入っても日常に忙殺されすぐ忘れちまった。
 「いじめとか、受験ノイローゼとか?」
 「…………動機はよくわからない。いじめられていた形跡はない。勉強に悩んでいたという話も聞かなかった」
 「遺書はなかったんですか?」
 「なかった」
 止血完了と同時に断言。
 「そうですか」と立ち上がり、余った包帯を手軽く巻いて消毒液の瓶と一緒に返しにいく。 
 敷島の話からわかったのは、過去、学校の屋上から飛び降り自殺した生徒が実在したこと。
 事件が起きたのは六年前、俺が小学生の時。
 自殺した生徒と面識があった敷島の消沈ぶりに胸が痛む。戸棚をがらぴしゃ閉めながら詫びる。
 「………すいません。なんか、やなこと聞いちゃって」
 「いや、いいんだ。疑問に思うのも当然だろう」
 「麻生はなんであの絵を選んだんでしょうか」
 「心当たりは」
 「なくはねーけど……」
 次の目的地に美術室を指定したまではいい。
 あそこは俺たちの距離が初めて失せた場所、初めて麻生の方から境界線をこえ手をさしのべた分水嶺。
 ここまでくればさすがにあいつの意図も察しがつく、携帯で誘導して俺たちに関連づく場所をひとつひとつ辿らせるつもりだ。
 だが絵を用意したのは何故?
 夏休み最初の夜の状況を忠実に再現しようとして?本当にそれだけの理由?
 麻生の考えがわからない。
 悪趣味で挑発的なゲームに巻き込まれ学校中さんざ走りまわされて、タイムリミットが迫った今になっても全貌が見えてこない。
 敷島の右手に目をやる。
 絵の裏側に仕掛けられた剃刀で切り裂かれた右手……狡猾で陰湿なトリック。
 もし絵を持ち上げていたのが俺だったら、手を怪我していたのも俺だった。
 麻生は俺を狙っている。
 俺を殺そうとしている。
 念のため携帯をチェック、着信履歴を辿るも麻生からメールが届いた形跡なし。
 八方塞がり。一方的にかかってくる電話に振り回され、膨大な徒労が募る。
 手首を返してフラップを閉じ、改めて敷島を見据える。
 「聞いていいですか、先生」
 「私に答えられることなら」
 気安く応じる敷島に向かい、ひとつ息を吸う。
 「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」
 敷島が困惑する。
 「……さっき麻生に聞かれたんです、携帯で。走ってるときに。なんで人を殺しちゃいけないのか推理小説たくさん読んでる俺ならわかるんじゃねーかって……でもそんなの買いかぶりで……たしかに俺推理小説よく読むし、好きだし、ミス研の部長なんかやってるけど、そんなのいきなり聞かれたってわかんねーし。最初の電話でも聞かれたんです、同じこと。なんで人殺しちゃいけないのかって……俺、詰まっちゃって。笑い話でごまかして。あいつ、真剣に聞いてたかもしんねーのに」
 あの時俺が問いに答えられていれば今の状況はなかったんじゃなかいか、もう少しマシな状況だったんじゃないか。麻生は答えを求めていた。俺は笑い話でごまかした。冗談かと思って、笑い飛ばした。
 麻生をこっち側に引き戻すための答えが欲しい。
 藁にも縋るような切実な心境で、火のような焦燥に炙られ訴える。
 「あいつ、この世には死んでもいい人間が多すぎるって言ってた。俺もそう思う……そう思った、あいつの話を聞いて。あんまり酷い話ばっか聞かされて、やりきれなくて。なんで何も悪いことしてない人や子供が殺されなきゃいけないんだよ理不尽だ、言い逃れする犯人が許せねーって……」
 耳から入る毒は魂を腐らす。
 俺も知らず取り込まれかけていた。
 「答えられなかったんです、俺。答えてやるべきだったのに。人を殺しちゃいけない理由ちゃんとあるはずなのに、うまい言葉が見つからなくて、一方的に言われっぱなしで……あの時、最初の電話で説得できてたら、麻生だって今頃」
 「人を殺しちゃいけない理由はない。人を殺すと不都合があるだけだ」
 「え?」
 保健室の闇に裁きを申し渡すがごとく厳粛な声が響き渡る。
 いつも力なく丸めた背筋をのばし、両手をきちんと膝の上におき、理性の光を双眸にやどした敷島が静かに言う。
 「人間は社会的動物だからね、共同体を営み暮らすのを前提にしたら殺人は行われないほうが好都合だ。殺人行為で発散するフラストレーションと蓄積するフラストレーションを比べたら後者の割合が大きい、よって殺人は非効率的ともいえる。人はその発達した知性ゆえか、不安の継続に酷く脆い。隣人が潜在的殺人者であるかもと邪推すればきりがなく、ひとたび疑心暗鬼に陥れば人間関係が破綻し、健全な社会を築くのが困難になる。だから人殺しは異端とされ、行為そのものはタブー視された」
 「ちょ、待ってよセンセ、それじゃ人殺しは別に悪くないみたいな……」
 「人殺しは法律で罰せられる。しかし人を殺すと死刑になるから殺すなというのは本末転倒だ。たとえば、そう………自分の命になんら価値を見出さない殺人者、死を恐怖しない人間に、その理屈は通用するかね」

 麻生の顔が脳裏に浮かぶ。
 窓枠を軽々乗り越え二階から飛びおりる姿。ボーダーラインを飄々とこえる男。
 命になんら執着を抱いてないような身軽さ。

 「裏を返せば、人を殺せば死刑にしてもらえると思った人間が無節操に殺人に走りかねない。自分で死ぬ勇気はない、ならば国に殺してもらおうと他人を手にかける自己中心的な人間は意外と多い」
 「そんな………」
 「教師失格かね、命を軽んじるような発言は。しかし偽らざる本音だよ。明確な答えを求める君には悪いが……私だって、人を殺しちゃいけない理由を問われたら即答できない。この年になってもそうなんだ。四十そこそこ生きたところで答えなんて見つからない」
 哀しそうに目を伏せる。
 敷島は敷島なりに、俺の質問に誠実に答えてくれた。
 精一杯の誠意を尽くし、慎重に言葉を選び、詭弁を弄して逃げずに本心から語ってくれた。
 答えがないのが答えでも、その場しのぎの嘘を吐かれるよりはよほどいい。
 俯く俺の肩にそっと手がかかる。
 よわよわしく目を上げれば、敷島が真剣な顔つきで身を乗り出していた。
 「秋山くん。君は、麻生くんが梶先生に爆弾を送りつけた動機を知ってるのか」
 心臓が強く鼓動を打つ。 
 「知ってるなら教えてほしい、教師として私には聞く義務がある」
 「先生………」
 咄嗟に身を引けば、肩を掴む手に力がこもる。
 治療したばかりの右手の傷が開くのをおそれ硬直すれば、敷島が思い詰めた眼差しで覗きこむ。
 「無差別殺人とは思わない。麻生くんは頭がいい、これは計画的な犯罪だ。梶先生を狙った動機が知りたい。梶先生と麻生くんの間になにかあったのか、梶先生に殺意を抱くきっかけになるような事件がおこったのか?君もそれに関係してるのか?」
 容赦ない追及。抉りこむような眼差し。
 肩に指が食い込み、痛みが走る。
 「麻生くんは君を狙った。美術室に罠を仕掛け、君を傷付けようとした」
 絵の裏側に接着された剃刀の刃。
 携帯電話からもれるうっすら愉悦を含む嘲笑。
 『よくわかってないみたいだからわからせてやったんだ』
 「秋山くん、君は何か知ってるんじゃないか。知ってるから止めにきたんじゃないか。警察まかせにせず、大晦日の夜道をひた走って学校にとびこんで、校舎中駆け回って麻生くんをさがしているのは、罪悪感と責任感のせいじゃないか」
 「罪悪感て」
 「罪滅ぼしと言い換えてもいい。秋山くん、君はなにを隠してる?麻生くんに引け目を感じる理由はなんだ?普通友達のためでもここまで必死にならない、タイムリミットを設定した爆弾が仕掛けられてるんだ、へたしたら巻き添えで死んでしまう。手に負えないと判断して警察に任せるのが普通だ、しかし君は挑発に乗ってここへ来た、心中の危険を犯してまでどこにいるとも知れない彼を救おうとしてる」
 「麻生は友達だから、俺を名指ししたから、宣戦布告を受けて立たなきゃミス研部長の立場ねーし」
 「詭弁だよ。欺瞞だ。私の目を見なさい。どうして避ける?そうまでして、何を守ろうとしている?」
 夕日のさす冬の図書室、残照で真っ赤に燃える床、書架によりかかったふたつの影、やましい衣擦れの音…… 
 あの日俺が見たもの。
 一生忘れられないおぞましさ友達の豹変みだらがましい衣擦れの音息遣い、ずっと封印してたあのー……
 「勘ぐりすぎだ、先生。麻生が梶をねらった動機なんて知らねーよ、俺はただ呼ばれたからここへ来た、そんだけだ。アイツが何考えてるかなんてわかった試しがない、俺とはハナっから頭のデキがちがうんだ」
 「話せないのか?」
 あんたにダチを売り渡せとでも?
 言えるか。言えるわけない。
 あの日見たことは俺の腹ん中だけにおさめとく、誰にもしゃべったりしない、秘密を守る。
 ばれたら麻生はどうなる、梶に爆弾送り付けた事実が発覚するよりもっと酷い偏見と中傷が待ち構えてる、マスコミにぼろぼろにされる、地元にいられなくなる。
 「麻生くんに殺されてあげるのが友情か」
 敷島の言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
 敷島が深刻な面差しで言う。
 「……私じゃ頼りないかもしれないが、話してくれれば力になる。動機と事情次第では弁護もしよう。彼を救う方法を考えよう」 
 「先生……」
 「麻生君が無差別殺人に走るとは考えにくい。梶先生を狙った動機が知りたい。それさえわかれば学校や警察に掛け合って罪を軽くすることだって不可能じゃあない。しかし話してくれなければどうにもできない、彼を救うも破滅させるもすべて君一人の決断にかかってるんだ」
 「………………ッ…………、」
 力強く肩を掴み揺すりたてる。
 何が正しくて正しくないのか、またわからなくなる。
 決断を迫られ、心が激しく揺れる。
 俺の決断ひとつで麻生の運命が左右される。
 麻生を警察に売り渡すのに抵抗を感じる、そんなこと言ってる場合か、敷島に本当の事を話すのはいやだと意地張って駄々こねてそれでいいのか本当に正解なのか麻生のためになるのか、俺はひょっとして間違ってるんじゃないか、あの時と一緒だ『透 母さんと真理をよろしく頼む』あの時と同じ………
 なにもかも洗いざらいぶちまけたい衝動に駆り立てられる。
 敷島なら信頼できる、相談できる、協力を頼める。告白してらくになりたい、重荷をおろしたい。
 あの日俺が見たもの、見ちゃいけなかったものの実態を全部伝えて、正しい判断を仰げばー……
 「実は俺、図書室で」
 場違いに軽快な着メロが流れる。
 「もしもし?」
 出る。
 『逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ……』
 「ネルフじゃありません」
 切る。  
 「誰かね?」
 「シンジくんです。声変わりしてたけど」
 「真二くん……友達?」
 「最速の男です」
 友達にはなりたくねえ。
 再び着メロが鳴る。しかたなく通話ボタンを押す。
 『なんで切るんすか先輩!見捨てないでください!』
 「開口一番陰鬱な念仏リフレインされちゃ消したくなるよ、聡史」
 携帯の向こうじゃ後輩が野太い声で泣き喚いていた。
 まだ警察署にいるらしく背景がざわめいている。
 敷島に目礼で断り、体の向きを変えて人騒がせな後輩を小声で叱る。 
 「いま取り込み中なんだよ、後にしろ」
 『取り込み中ってまだコンビニから帰ってないんすか?どんだけ暇人なんすか?』
 「お前こそ、まだ警察署に足止めくってんのかよ。事情聴取にいつまでかかってんだ」
 『俺に言われたって困ります。なんでも忘年会で羽目はずしすぎた酔っ払いや大晦日だからってはしゃぎすぎた不良の方々で混みあってるそうで、なかなか順番回ってこなくって……さっきからずっとソファーで待ちぼうけっす。ユキなんかすっかり婦警さんと仲良しで、俺除け者にして盛り上がっちゃって……もー帰りたくって帰りたくって、孤独という名の精神的プレッシャーから逃げないよう逃げないよう闘魂を注入してたんす』
 「かっこよく言ってるけどただの現実逃避じゃん」
 『……先輩のイケズ………』
 「いい年して泣くなよ」
 『泣いてないすよ』
 「ずずっ、ずずって洟啜ってんじゃねーか」
 『あ、これそばです。ユキがびいびい泣くもんだから同情した婦警さんがそばとってくれて、ふたりして啜ってるとこっす』
 「お兄ちゃんが泣いたんじゃん」とユキちゃんの可愛い声でツッコミが入る。この野郎、俺だってまだ年越しそばにありついてねーのにちゃっかりと。
 呑気な報告に脱力の反面、安堵を覚える。
 おかげで敷島の追及から逃れられた。
 詰問の気迫に負け、うっかり秘密をしゃべりそうになっちまった。
 敷島の視線を背に感じつつ携帯を持って移動し、たまたま思いついた疑問をふってみる。
 「そういや聡史、七不思議って知ってる?」
 『うちの高校の?知ってますよ、有名だし。俺もミス研部員の端くれ、ミステリと名のつくものならオカルトにだって食いつきます』
 「ぜんぶ言えるか?」
 『一、夜になると片目を瞑る校長像。二、旧校舎北トイレの啜り泣き。三、勝手になる音楽室のピアノ。四、図書室に紛れ込む血染めの本。五、体育館で誰もいないのに跳ねるバスケットボール。六、夜になるとスクワットする人体模型。七、涙を流す肖像画……なんすかいきなり』
 やっぱり。
 七不思議がひとつすりかわってる。
 「……末広がりの八不思議じゃ語呂悪いもんな……」
 『もったいぶらずに教えてくださいよ、いきなり七不思議の話なんか持ち出してどうしたんですか』
 聡史が色めきだつ。
 ミス研の端くれの自称は伊達じゃない。さっきまで暮れの警察署の片隅でべそかいてたくせに鼻先に吊るされた謎にがぜん興味を示す。
 頭の中で推理をこねくりまわす。
 六年前に発行された七不思議特集号には美術室の怪異は載ってなかった。
 ということは美術室の怪が追加されたのは六年前以降、泣く肖像画は新興の不思議。
 美術部の生徒が自殺したのは六年前、俺と聡史が小学生の頃。計算は合う。
 「うちの学校で飛び降り自殺があったって話、知ってるか。七不思議のもとになった事件なんだけど」
 『知ってます。地元じゃ結構有名な事件っすよ。むしろ先輩が知らなかった事に驚いたんすけど』
 「六年前だよな?」
 『……すいません、無神経で。それどころじゃなかったですもんね』
 俺たち一家が当時おかれた状況に思い至ったか、聡史が殊勝な声で詫びる。
 「いいって別に。気にすんな。しっかし考えてみりゃ妙な話だよな。過去に自殺者が出たなら学校でももっと噂になってそうなのに……」
 『タブー視されてるんすよ、きっと。学校の屋上から在校生が飛び降り自殺なんて学校側にしてみればとんでもない醜聞。当時も色々騒がれたみたいだし、一日も早く揉み消したかった先生たちが生徒を締め付けたせいで自殺者の噂が下火になったかわりに、七不思議に組み込まれて語り継がれることになった……』
 「なるほど。冴えてんじゃん」
 聡史は機転がきく。説得力ある推理に感心。ひょっとしたら俺より頭いいかも。
 携帯を握りながら想像を飛躍させる。
 俺を美術室に行かせるのが目的なら手紙の置き場所はどこでもよかった、それこそ真っ先に目に付く入り口付近に落としておけばよかった。事実第一第二のヒントの切り抜きは机の上に無造作に放置されていた。
 なんで第三のヒントだけ例外的に絵の裏側なんてわかりにくい場所に隠されてたんだ?
 せっかくの手のこんだヒントも気付いてもらえなけりゃ意味がない。
 第一第二のヒントと違って第三のヒントだけ故意に隠されていたのは不自然だ。
 まわりくどい手口。麻生らしくない。何かがひっかかる。時間稼ぎ?そんなみみっちいまねするか?
 「あの絵になにかあるのか……?」
 わざわざ目に付く場所に絵を引き出した意味。
 剃刀の罠を仕掛けた意味。
 第三のヒントが手紙だけじゃなかったとしたら……
 麻生はあの絵になにを託し伝えようとしている?
 『先輩?』
 「自殺した生徒について、くわしく知ってるやつに心当たりあるか」
 『心当たりって言われても……あ、思い出した。友達の兄貴がたしかうちの卒業生で、自殺した人のこと知ってるかも』
 「ほんと悪いんだけど聡史、一生のお願い。その友達の兄貴さんから自殺した生徒について、くわしく聞けないかな」
 『え、だって先輩、「かも」っすよ?絶対知ってるとは断言できねーし年末の忙しい時期につかまるかわかんねーし、第一なんでそんなこと知りたがるんすか?先輩の頼みならどんと来いっすけど、せめて理由くらい』
 「今書いてる小説で七不思議ネタにしようとおもって調べてるんだよ」
 『夏休みに言ってた例の大作にとりかかるんスね!?』 
 苦しい言い訳かと危ぶむも案外すんなり通った。素直な後輩で助かった。   
 興奮に席を立った聡史が目を輝かせるさまを想像し、一抹の良心の痛みを感じつつ、すらすらと即興のホラを吹く。
 「そーそー例の大作。オカルトとミステリが融合した大作、占星術裏鬼門殺人事件。学校内を通る霊道にそっておきた凄惨な連続殺人に、陰陽師安部清明の末裔で現役女子高生探偵・安部マリアと、マリアをお姉さまと慕う百合百合ロリロリな美少女助手にして小野篁の末裔・小乃野モモコの霊能マリモコンビがいどむ!タイトルは「霊能マリもっこリ~百合のち見立て殺人~七不思議にドキドキッ☆」、冬休み中に突貫で仕上げてメフィスト賞とる!」
 『…………ワー凄イ。頑張ッテクダサイ先輩、微力ナガラ助太刀シマスンデ』
 何故か聡史の声が遠い。
 『……一応確認しますけど、メフィスト賞っすよね。フランス書院ナポレオン文庫じゃないっすよね』
 「本格ミステリーだ。情報収集頼む」
 『……わかりました……』
 納得できないなにかを強引に飲み下すような敗北に折れた声だった。
 何故だかどんより沈んだ雰囲気を盛り上げようと、夏休み一日かけて古本屋をめぐりながら、小説の構想を話した思い出を回想する。
 「覚えてるか、聡史。神保町遠征夏の陣。俺とお前と麻生で電車乗り継いではるばる神保町でかけて……」
 『麻生先輩までついてきてびっくりしたけど。どうやって説得したんすか?』
 「ナイショ。でもさ、楽しかったろ?はしゃいでたもんなーお前」
 『一番はしゃいでたの先輩じゃないすか。わざわざ東京神保町に出かけて穴場の本屋一軒残らず引きずり回して、くたくただったんすからね!よくまーあんなハイテンション維持できるなって脱帽ッスよ』
 「しかたねーだろ、地元の本屋は夏休み上旬で制覇しちまったし……都会まで足のばさねーと掘り出し物ゲットできねー世知辛い世の中を恨め」
 『修道士カドフェル全巻初版でゲットできたからいっすけどね』
 ミステリマニアの業深く、聡史も嬉々として話にのってくる。
 話が弾めば弾むほど寒々しい保健室から心は離れ、日本最大の古本屋街、膨大な量と質の書籍が集まる神保町を探訪した夏休みの思い出があざやかによみがえる。
 本好きの聖地に乗り込んだ興奮に浮かれる俺、ペットボトルのコーラを汗だくでがぶ飲みする聡史、麻生は神保町の情緒ある風物にも興味なさげに買ったばかりの本をめくっていた。
 俺たちの住む県から東京まで電車で往復四時間。ぶっちゃけ出費は痛かったが、遠出しただけの収穫は十分にあった。
 神保町は以前から憧れの場所だった。
 遠征に踏み切るに至ったきっかけは麻生の一言、「古本屋に案内してくれ」。
 言質をとった俺は麻生の気が変わらないうちにと気合を入れて日程を組み、ネットで下調べをばっちり行い、当日は神保町のすみずみまで本領発揮とふたりを引きずり回した。
 唯一失念していたのは帰りの電車の時間。夕方には余裕で帰り着く予定が、物色と観光に夢中になるあまり時刻表をド忘れしていたのだ。
 「神保町は摩窟だな……」
 神保町の熱気にあてられたせいか帰りの電車に揺られ地元まであと五駅というところで精根尽きた。
 俺と聡史の両手は大量の戦利品でふさがっていて、持ちきれない本の袋が網棚に床に膝の上に大昔の石抱きの拷問さながらどさどさおいてあった。
 時間はすでに夜九時を回っていた。
 この状態で歩いて家に帰り着くのは物理的に不可能。
 神保町をすみずみまで歩き回った足は不自然に突っ張って感覚がない。
 明日は酷い筋肉痛に襲われること必至。
 口から出た魂を戻す余力もなく座席に伸びた俺と聡史を見かね、自分の分の荷物を持ち上げながら、麻生はとてもとても嫌そうに言った。
 

 「うち来るか?」


 駅名のアナウンスとともに電車の扉が開く。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010330145524 | 編集

 泊めた理由を尋ねたらしゃらっと人を食った答えが返ってきた。
 「死屍累々」
 困憊した俺と聡史に顎をしゃくり「死屍」、俺たちが両手にぶらさげた袋詰めの本および玄関先の袋詰めの本を見比べ「累々」。
 ぽんと手を打つ。
 「おれたちが死屍で本が累々ね。なるほど」
 「感心してる場合じゃねっすよ先輩」
 「放置して帰ったら色々なもの遺棄罪で捕まりそうな気がした。半分死んでたし」
 「誰が死んでた誰が。半分だけだよなー?」
 今日はミス研はじまって以来の歴史的な一日となった。名づけて神保町遠征夏の陣。
 地元から東京まで電車を乗り継ぎ往復四時間、けっして短いとはいえない距離と時間を費やし足を伸ばした甲斐は、俺らの両手をご覧いただければわかるとおり十分あった。
 東京神保町は本好きの聖地、日本屈指の規模と質量を誇る古本屋街。本好きを自認するなら一度は訪れたい憧れの場所。
 神保町初体験の興奮冷めやらず、両手一杯に戦利品を携え気分上々の俺と聡史は帰りの電車でもハイテンションでしゃべりどおし。互いの戦果を得意げに見せ合っては健闘を称え合ったり羨んだり妬んだりと賑やかに車中の時間をすごした………
 ……………………………………………のだが。
 はしゃぎまくった昼間のツケで峠をこえる頃にはテンションローダウン、地元まで五駅の地点で真っ白に燃え尽きた。
 口から魂吐いてグロッキーに果てた俺と聡史があんまり見苦しかったのか、公共の座席にゴミを捨ててくのはさすがに気が引けたのか、驚くべき事に人嫌いの麻生の方から泊まらないかと言い出したのだ。
 以上、証明終了。

 「本に埋もれて死ぬなら本望だけど、どうせなら読み終えてから死にたいよな」
 「せっかくの戦利品、志半ばに読めずして行き倒れは切ないっすもんね」
 「じゃあ持ちきれないほど買うなよ」
 ドアを施錠しながらの麻生の突っ込みは無視する。
 俺たちの地元から五駅離れた隣の隣の市に麻生のマンションはあった。
 駅前はデパートが多く垢抜けていた。新旧の団地を擁するベッドタウンとして栄えてるらしく、駅から少し歩けば瀟洒なマンションが立ち並ぶ閑静な区となる。
 コンビニやファミレスもそこそこ充実した暮らしやすそうな街だ。
 俺と聡史が半死半生、あっちへふらふらこっちへのらくらのゾンビの歩みで辿り着いたマンションは、新しく綺麗だった。
 家賃高そうというのが第一印象。
 自動ドアをくぐり、開放的な吹き抜けのロビーを突っ切ってエレベーターホールに向かううちに、それは確信へと変わる。
 驚くなかれ、エレベーターの中はちゃぶ台おいて家族団欒できそうな広さ。
 本音を言えばちょっと、いや、かなり本気で間借りしたいとおもった、エレベーターに。
 エレベーターは八階でとまる。
 扉が開くと同時に走り出す。麻生の部屋は802号室。
 扉が開ききるのを待たず飛び込めば、広々した玄関と飴色の光沢の床が出迎える。
 そしたらもうこう叫ぶしかない。
 「お邪魔しまー……明るっ!広っ!分譲!?ヨーイドンで走れんじゃんむこうまで!?」
 「いや、賃貸」
 直視したら目が潰れそうな広さ眩さだ。
 床はおろか壁も天井もすみずみまで光を放ってるように見えたのは錯覚か?玄関から突き当たりまでの距離を目測で算出したところ俺の部屋が余裕で3個は入りそうだった。 
 麻生んちを訪ねるのは初めてだ。
 聡史とふたり間抜け面さげて玄関に突っ立ち、好奇心旺盛にあたりを見回す。
 俺と聡史ごくごく普通の一般家庭出身者は、明らかに中の上か上の下、裕福で悠々自適な麻生の暮らしぶりにブルジョワジーショックを受ける。 
 ……ごめんなさい、嘘吐きました。
 聡史はともかく俺んちの暮らしぶりはせいぜい中の下か下の上レベル、一般人を名乗るのも肩身が狭い貧乏人だった。
 「………一般人には刺激が強すぎるな、聡史」
 「先輩、あれ、床が光ってます。ニスっすかね、ワックスですかね?」
 「突っ立ってると邪魔。入れよ」
 手持ちぶさた所在なげに玄関に立ち尽くす俺たちの横を素通り麻生がそっけなく促す。
 麻生に促され、履き潰したスニーカーを脱ぎ散らかし廊下に上がる。
 「麻生、マジでここで一人暮らししてんの?」
 「ああ」
 「すげー。いいなー。最高じゃん、毎日ピザとかとり放題じゃん」
 「カロリーお高めで体に悪いっすよ先輩……」
 「ピザはとらない」
 「え、なんで?もったいない、一人暮らしっていやピザだろピザ。デリバリーだろ。店屋物バンザイ」
 「毎日そんなもん食ってたら胸焼けする」
 「今日はいいだろ、今日は。特別に。俺と聡史が初めてお前んちにとまりにきた記念日ってことで即興パーティー」
 「金は?俺がもつの?」
 「ワリカン。こないだからあげくんおごってもらっちゃったし」
 「からあげくん?何それそれ聞いてないすよ先輩、いつのまに麻生先輩とからあげくんおごったりおごられたりする仲に……」
 わやわや雑談しながらリビングに入る。……比喩ではなく光り輝いていた、本当に。フローリングの床が。ステンレスの流しが。もろもろが。 
 廊下の突き当たりはスケートリンクと見まがうだだっ広いリビングだった。
 小手をかざしコンクリ打ち放しの壁にそって視線を一巡、開放的な空間の全容を把握する。
 「リビングキッチンっていうんだっけ、こういうの」
 新品同然、手垢の形跡一切なく輝きを誇るステンレスの流しに軽く感動する。
 「自炊は?」
 「してない」
 リビングとキッチンは壁取っ払い一続きの床で繋がってる。視界に遮蔽物がなく見晴らしがいい。台所に使用された形跡はさっぱりない。入居した時から蛇口もひねってないんじゃねーかと邪推したくなる水回りの綺麗さだ。
 リビングに荷物を置きにいった麻生の背中を盗み見、台所に屈み腰で忍んでいって、家電特有の低く単調な唸りを発する冷蔵庫の扉を開ける。
 「…………ジーザズ」
 冷蔵庫の中は殆どからっぽだった。ミネラルウォーターと烏龍茶とコーラのペットボトルが数本、あとは缶ビールと果実酒が入ってるだけ。
 「人んちの冷蔵庫勝手に覗くな」
 上から伸びた手が叩き付けるように扉を閉め、冷気の漏出を遮断。
 傍らに不機嫌顔の麻生がいた。
 叩き付ける寸前に手を入れてコーラのペットボトルを抜いていた。
 「悪い、人んちの冷蔵庫と本棚の中身はつい気になっちゃって」
 「主夫か、お前は」 
 「……反論できねーのが哀しい」 
 人んちに乗りこんで真っ先に冷蔵庫の中身の確認に走るあたり所帯じみてると自分でもおもう。
 「しかたねーだろ、習性なんだ」
 「覗きが習性?誇れる趣味じゃねーな」
 「露出狂よりマシだろ。冷蔵庫の中見たら腹へっちまった。なんかねーの、なんでも。なけりゃコンビニに買出しにいくけど」
 「出前とる」
 「ピザがいいな、俺」
 「大人しく本読んでろ」
 随分な言われようだが、自覚があるので反省。
 蝿でも払うように邪魔っけに追い立てられリビングに行く。
 聡史の向かいに足をくずして座り、落ち着かない気分で壁に沿って視線を一周させる。
 清潔で殺風景で生活感が希薄。モデルルームみたいに整っている。
 数少ない家具は麻生の趣味か上品なモノトーンで統一されていた。
 フローリングの床にじかに置かれたソファーは見るからに高そうな黒革の光沢を放ち、ガラスのテーブルに灰皿と文庫本がのっかってる。
 「………不良め」
 あいつが煙草の喫いすぎで肺癌になろうが関係ねーけど。
 室温は肌寒いほど低く保たれている。ひんやりとした床の固さが疲れた足に心地いい。
 飴色の光沢を放つ床にも上質な材質のソファーにもシンプルなテーブルにも塵ひとつおちてない。
 ぶち抜きでリビングとキッチンが繋がっただだっ広い空間は、引越ししたてで荷物をほどいてないのかと誤解させるほど極端に物が少なく、明るく綺麗な廃墟とでも形容すべき空虚さをぽっかり漂わせる。
 散らかり放題の俺の部屋とは雲泥の差。しかしどこか違和感も感じていた。
 無個性な灰色のカーテンを掛けた窓から手前に視線を転じ、ああそうかと得心がいく。
 麻生の部屋は親しい人間の存在をまったく感じさせない。
 一人暮らしでも友達か家族か恋人なにがしか他人の存在を匂わせるものが最低限あるはず、持ち主の人となりを示す私物が置かれてるはずだ。
 だが麻生の部屋には家族の写真とか友達の写真とかそういったプライベートの痕跡がまったく見当たらない。
 この部屋、なにかに似てる。
 「カメラオブスキュラ……」 
 「?なんすか先輩」
 聡史が夢から覚めたように顔を上げる。
 「いや……なーんかさ、この部屋カメラオブスキュラに似てんなって。こないだ本で読んだんだけど」
 「ラテン語で暗い部屋の意味、素描を描くために使われた光学装置」
 聡史が興味を示し、本を脇に伏せ胡坐をかく。体育会系に見えて博識なのだ、この後輩は。
 「写真術発明にあたり重要な役割を果たした装置。写真撮影用の機械をカメラと呼ぶのはカメラ・オブスキュラに由来してるんだそうだ」
 「言われてみればたしかにそんな感じっすね。照明は明るいけどモノトーンの沈んだ色調でまとめてるせいか妙に殺伐として……鑑識があらかた撤収した殺人現場のような……部屋のど真ん中にチョークで人型囲いたくなりますね」
 悪趣味で不謹慎だが的確な聡史の比喩に、ルービックキューブがカチリと組み合わさるように違和感が晴れる。

 暗い部屋に一人住む男。
 カメラオブスキュラの住人。

 口にした言葉に寒気が走る。
 何故カメラオブスキュラを連想したのかわからない、新しく仕入れた知識がモノトーンの部屋の印象と結び付いてたまたま表層に浮かんだのか?
 「片付きすぎてるから居心地悪いんですよ、きっと」
 「だよな。俺んち散らかり放題だしな……真理のヤツなんて読んだ漫画居間に転がしとくんだぜ、踏ん付けて転びそうですげえ迷惑」
 「先輩だってテーブルの上に推理小説おきっぱなしにしてるじゃないっすか」
 「あれはだなー、トイレで中座して……」
 軽口叩きがてら、テーブルに伏せられた文庫本に手を伸ばし最初の方をぱらぱらめくる。
 麻生が読んでる本だった。
 「なあ、悪童日記って面白い?」
 「推理小説じゃねーよ」
 「面白いかどうか聞いてんだよ」
 「面白いよ。……興味深い」
 「ふーん。読んでいい?」
 「いいけど、ヨダレ付けるな」
 「途中で寝るの前提!?」
 麻生から許可をもらい、床に寝そべって、足を遊ばせながら読書にとりかかる。
 床に腹ばった俺の隣で聡史も凄まじい集中力を発揮し本を読む。
 電話の子機をもった麻生がキッチンを出てこっちにやってくる。
 「ピザ何にする?」
 「まかせる」
 「まかせます」
 偶然声が揃った。本から顔をあげる暇が惜しい。手元の本に全幅の意識を傾ける。
 「肉が入ってないのにする」
 麻生が薄くため息を吐き、自分はさして食いたくもないピザのメニューを決定し、注文の電話をかける。
 ……おっと、忘れてた。これだけは言っとかねーと。本から顔を上げず、素早くリクエストを追加。 
 「「Lサイズで」」
 「ぬかりない」
 麻生もだんだん俺たちの色に染まってきた。 
  
 今夜は無礼講だ。
 「アガサ・クリスティの最高傑作を決めようじゃんか」
 濃厚にチーズの糸引くピザを豪快に齧る。
 くちゃくちゃ下品な咀嚼音たてペットボトルのコーラを掴んで一気飲みすれば、麻生が気取って眉をひそめる。
 「コップ使え」
 「こまかいこと言うな男のくせに。それよかアガサ・クリスティだ。ミス研メンバー全員そろった今夜こそ、ミステリの女王と名高い彼女の最高傑作を決める絶好の機会」
 到着したピザを中心に車座になり、遅い夕飯にとりかかる。
 景気よくコーラをラッパ飲みする俺の向かい、顎を規則正しく動かしながら聡史が挙手。
 「おへはだんひぇんそしへだへもいひゃくひゃるへす」
 「口の中のもの飲み下してから言え」
 義理でピザをつまむ麻生の小言に猛烈な勢いで咀嚼嚥下し口の中をからっぽにしてから、意気軒昂に宣言。
 「断ッ然そして誰もいなくなるっす!アガサ・クリスティの傑作にして孤島ミステリの傑作、疑心暗鬼に陥る人間の描写が巧みでぐいぐい読ませます」
 「ポアロでもマープルでもない単発を上げるか」
 「その二人はたしかにアガサ作品を代表するキャラ立ち抜群の名探偵っすけど、ストーリーテリングの意外性で言ったら『そして』にかないませんよ」
 鼻の穴をふくらませ力説する聡史の青さを笑い、コーラを呷るや手の甲で顎を拭い、ぴんと人さし指をたてる。
 「俺はあえて火曜クラブを推す。アガサ作品の中じゃ地味な位置付けだけどマープルデビュー作としてもっとスポット当たっていいとおもうんだよね、トリックもよくできてるし。なんといってもアガサ最大の美点、ウィットとユーモアに富んだ台詞の応酬がたまらなく小気味いい。そしてみたいなどんでん返しの奇抜さこそねーけど、大佐をはじめとしたアクの強い脇役の個性が際立ってる。ちなみに原題はミス・マープルと13の謎、ホームズの五粒のオレンジの種思い出すよな」
 「青いゼラニウムはよくできてるなあと感心しました」
 「動機対機会も好き。あとさあとさ、アガサ作品はヒロインがめっちゃ可愛いんだ!お茶目でコケットリーでちょっとお間抜けで……バントリー夫妻の晩餐会に招かれた女優のジョーン・へリアなんて、頭ゆるゆるのおばかと見せかけてラストで憎い演出を」
 「火曜クラブに捧げる先輩の愛はよくわかりました、でもやっぱマープルよりポアロっしょ、常套。灰色の脳細胞にかないっこありません。オリエント急行は興奮したなあ」
 「待て、ポアロの脳細胞が灰色だってなんでわかる?ぱかっと開けてみなけりゃわかんねーじゃんか、自称だよ、自称」
 「ミセス・マープルはしょせん田舎のおばあちゃんじゃんじゃねっすか、世界を股にかけ精力的に活動する名探偵ポアロにかないませんよ」
 「世の人々はしばしば誤解してるけど声を大にして俺は言いたい、人がばたばた死ぬばっかじゃミステリじゃねー!」
 「フランス人じゃない、ベルギー人です!この灰色の脳細胞を見よ!一発芸、頭蓋骨ご開帳ッ!」
 コーラ回し呑みピザぱくつきつつ気心知れあう者同士の無礼講がどんどん混迷の相を呈してきた。ノンアルコールで酔っ払えるのは高校生の特権。
 手振り身振りもはげしく熱弁ふるい議論を戦わせる俺と聡史から少し離れ、ソファーに凭れた麻生はスマートに本をめくる。
 「神保町一日歩き回って電車ん中じゃ死んでたのに、どっからその元気でてくるんだ?」
 「栄養補給で完全復活!徹夜でミステリ談義!」
 「よそでやれ」
 「そうそう聡史、麻生がさ~有栖川有栖読んでそこそこ面白いって……」
 不快げに本を閉じるや立ち上がり、一片残らず貪り尽くされたピザの空き箱を片付ける。
 「いいじゃん、恥ずかしがらなくても。お前も加われよ。大歓迎だぜ」
 「寝ろよ」
 「だってもったいねーじゃん、せっかく……」
 せっかく麻生んちに泊まってるのに、すぐ寝ちまったらもったいねえ。
 昼間の興奮の余熱で体が疼く。
 聡史んちに泊まったことは何度かあったが、同級生のうちに泊まるのは初めてだ。
 そのへんにいる普通の高校生みてーに、もっと色々なことをくっちゃべりたい。
 ソファーまわりの床には俺たちが神保町から持ち帰った大量の書籍が傾いだ袋から乱雑になだれて散らばってる。
 「あー、食った食った」
 床にゴロンと横になる。大の字に手足をのばし天井を仰ぐ。
 「日に焼けたな~聡史」
 「先輩も焼けてますよ、ほら、首んとこの色がちがう」
 「一日歩きぱなしだったもんなあ。ご苦労ご苦労」
 「修道士カドフェルも全巻ゲットできたし戦果は上々。また行きましょうね、神保町。今度はふたりで……」
 「三人で!」
 聡史がむくれる。
 変なヤツ。大勢でいったほうが楽しいじゃんか。
 ふたりして寝転がり頬杖つき、紙魚を標本した古本の埃っぽく褪せた匂いの中に通人の粋を感じさせる神保町の風俗を回想する。
 神保町探訪で得たものは大きい。三人でめぐれば楽しさも三倍。古本屋を片っ端から回り、棚のこちらからあちらまで掘り出し物の発掘にいそしみ、昼間は実に精力的に活動した。暑さにばてたら自販機で水分補給、穴場から穴場へはしごして、聡史と競って両手に持ちきれないほどの本を仕入れた。
 本に囲まれた至福の時間、充実した一日を振り返り、頬がゆるむ。
 「先輩が迷子になっちゃった時はどうしようかと……」
 「迷子になるかよこの年で。店の反対側にいただけだろ。ずっと時計回りにぐるぐるぐるぐる行き違って……」
 「成人指定の漫画コーナーで発見した時はこの人捨てていこうかなって」
 「……大目に見ろ。俺も男だ。あとで見せてやるから」
 「買ったんすか」
 全力で話をそらす。手近な本をとってぱらぱらめくり目を通していく。随分古い本らしく、日に焼けた匂いが鼻を突く。古本屋の店頭ワゴンセールで売り叩かれてた一冊。奥付には鉛筆の殴り書きで100円の表記が。
 「小説書いてみよっかな」
 「先輩が?」
 大仰に驚く。
 「心外だ、その驚き方は。一応ミス研てご立派な名が付いてんだから、放課後集まってだらだらだべってるだけじゃなくなんか活動しなきゃ対外的にまずいだろ。俺もまあそこそこ古今東西の推理小説読んでるし、ここらで一本長編しあげてメフィスト賞に応募してみようかなって……」
 突然、骨が軋むような握力で両手を握られる。
 驚く俺の眼前で跳ね起きるや尊敬の眼差しを無垢にきらめかせ、興奮に鼻の穴をふくらませた聡史が、感極まって俺の手を鷲掴みぶん回す。
 「俺ッ、俺ッ、先輩はやればできる人だっておもってました!!」
 「痛て、痛いって聡史手が軋む骨がばきばき……」
 「先輩は普段ちゃらんぽらんだけどやればできるひとだって中学から信じて疑わなかったけどついに、ついにやる気になってくれたんすね!?それでこそ高校までおっかけてきた甲斐があるってもんす、俺の野望はメフィスト賞から作家デビューした先輩を熱血編集者として補佐して二人手に手をとりあってスターダムに……」
 「痛い痛い関節が変な方向に曲がってるーって、聞けよ聡史ィいィい!?」
 夜のマンションに近所迷惑な絶叫が響き渡る。
 俺の決意表明というか野望の暴露に感銘を受けたか、分厚い手でぶん回しただけじゃ足らず暑苦しく抱擁までされ限界まで反った背骨がへし折れんばかりに軋む。
 感動的な抱擁の光景が一方的に関節極められ悶絶する生き地獄へと成り果てる。
 必死に身を捩り関節技から抜け出し、両手を突っ張って聡史を引き剥がす。
 図体のでかさと腕力が比例した後輩とのじゃれあいは毎度命がけだ。
 肩で息をしながら腕をさする俺に向き合い、聡史が太い眉をよせる。
 「……先輩。手、どうしたんですか」
 聡史が心配げな面持ちで俺の右手に巻かれた包帯をゆびさす。
 「これ?こないだ自転車で走ってるときに転んで、手えついた拍子にべろりと剥けちまってさ……たいしたことねーんだけど」
 さりげなく右手を隠す俺の前に正座し、膝の上で拳を握りこみ、息を吸う。
 「……夏休みに突入して聞きそびれてたんすけど……終業式の日、帰り、遅かったっすよね。心配した真理ちゃんからうちに電話かかってきて」
 俺の顔色を遠慮がちに、しかし油断なくうかがいつつ、熾火ちらつく表情で聡史が言う。
 「あの日、ひょっとして、なんかあったんすか」
 「なんもねえよ。勘ぐりすぎ」
 聡史は鋭い。野生の勘が働く。下手な嘘は邪推を招く。
 右手を背に隠し、左手を顔の前で軽く振って否定するも、追及はゆるまない。
 「先輩、最近ちょっとおかしいですよ」
 「おかしいって、何が」
 「今日も……自分で気付いてないんすか?たまにぼーっとしてるし。心ここにあらずって感じで。顔色も……あんま寝てないみたいだし。調子よくないんじゃ」
 「そんなことねーよ」
 「その手、ほんとに転んだんですか」
 ひしひしと重圧を感じる。
 剛毛が密生した太い眉の下、黒く小さな目が純粋な懸念を湛えて潤む。
 「俺、前に………」
 「シャワー行って来る」
 聡史が何か言いたげに口を開き、諦めて唇を噛む。
 膝の上においた手を親指を内にして握り込む。
 リビングを抜け、廊下を歩き、浴室のドアを開ける。浴槽に湯が張ってない。
 「あいつ、風呂に浸かる習慣ねえのか」
 人さまんちで贅沢は言うまい。シャワーを貰えるだけ有難い。
 一日中歩き回って汗をかいた。
 塩を吹いたシャツを脱衣カゴに放り込み、ジーパンを脱ぎ、上にかける。
 浴室にとびこむなりコックをひねる。
 適温に調節された湯が頭上に降り注ぎ、一日の垢と汗を洗い流していく快感に息を吹き返す。
 人んちのシャワーは勝手が違う。ちょっと戸惑うも、すぐ飲み込む。
 濡れた前髪を右手でかきあげ、気付く。
 「……あ。やべ、忘れてた」
 前髪から雫が滴る。
 湯を吸って変色した包帯はもとからゆるんでいたのか、ほどく前から自然に螺旋を描き落下していく。
 波打つ包帯の下から治癒過程の右手のひらがあらわになる。
 手のひらに張った赤い皮膜が水滴を弾きかえす。
 シャワーの放水に流され、タイルの床を滑って排水溝にとぐろを巻く包帯を拾い、ぞんざいに手首にひっかけ、外へ。
 そこで初めて着替えもタオルも持ってこなかった失態に思い至る。
 逃げるようにリビングを出て、浴室に避難して、右手にふやけきった包帯を雑に巻いた間抜けな全裸で立ち尽くす。
 「あー……なにやってんだ、着替えも持ってこないでさー……」
 隅のクズカゴに叩き付けるように包帯を捨てる。
 腕を振った瞬間、同じ動作をなぞる人影が視界にちらつく。
 顔を上げれば、たまたまそこに洗面台の鏡があった。
 壁に嵌めこまれた鏡に一糸まとわぬ上半身をさらした俺が映る。
 『先輩、最近ちょっとおかしいですよ』
 『今日も……自分で気付いてないんすか?たまにぼーっとしてるし。心ここにあらずって感じで。顔色も……あんま寝てないみたいだし。調子よくないんじゃ』
 「あたり」
 目の下にうっすら隈が浮く。少し頬が痩せた。最近よく眠れない。
 吸い寄せられるように鏡の前に立ち、へその上あたりに手を添え、なでる。
 夏休みに入ってだいぶ経って痣は薄まった。夏休みが終わる頃には綺麗に消えてるはず。
 貧弱に痩せた腹筋、軟弱に薄い胸板、左右対称の細い鎖骨。広範囲の痣。
 下腹部に重点的に広がる痣を緩慢に円を描くような動作でたどり、いちいち顔をしかめ、指に慎重に圧力を加える。

 『覚えてろよ、殺してやる、お前らふたりとも学校にいられなくさせてやる!!』
 腹の柔肉に指が沈む。
 『こっちにゃ証拠がある、お前が逆らったらアレを流すだけだ、家族そろって地元にいられなくしてやっからな!!』
 抉るように指を立てる。
 洗面台に左手ですがる。
 痣だらけの汚い下腹を右手でまさぐり、目を固く瞑るー……

 「秋山」
 

 振り返る。
 扉が開き、廊下にタオルを抱えた麻生が立っていた。
 「タオルと着替え。なかったろ」
 「……サンキュ」
 「服、俺のだけど。サイズ合わねーかも」
 「なんでもいいよ、別に。はは、お前こんな趣味してたんだ。アディダスとか着るんだ、意外」
 「素っ裸で笑ってるとばかみたいだぞ」
 深呼吸で平常心を回復、麻生に背中を向け、投げ渡されたタオルで湯冷めした体を拭く。
 乾いた生地に水滴が吸い込まれる。
 タオルの端を握って頭を覆い、乱暴に髪をかきまぜる。
 麻生はずっと廊下に立って俺が体を拭くのを見ていた。
 男同士だから別にどうもしない。
 俺は至って普通だ。
 落ち着いてる。
 あの時みたいに取り乱したりしねえ、異常な状況に取り込まれてべそかいて醜態さらしたりはしない。
 男同士だ。友達だ。麻生はこの痣を見てる、俺の裸を知ってる。だから……
 「沢田がしょげてた。なんかあったのか」
 「おせっかい焼かれた」 
 「お前の得意分野じゃねーか」
 「後輩に気ぃ遣われたら立つ瀬ねえ」 
 麻生が服を放る。
 左手で受け取り、体にあてる。
 やや大きく、裾が膝まで来るも気にせず羽織る。
 首から襟を抜き、裾を引っ張り、下腹を完全に隠し、同時に体の強張りが解ける。
 「お前んちの風呂きれいだよな。広いし、余裕で足のばせそ。使わねーならうちにくれ」
 ぶかぶかのシャツの中で細い手足が泳ぐ。もどかしい手付きでトランクスを穿く。
 平静を装う。
 指が縺れる。
 動揺を糊塗する。
 心臓が速く鼓動を刻む。
 シャワーを浴びたばっかの腋の下を汗が伝う。
 性急に着替えを終え、すれちがい出て行こうとした俺の耳元で低い声が囁く。
 「びびってんのか」
 弾かれたように顔を上げる。 
 廊下に立った麻生が眼鏡の奥の目を意地悪く細め、試すように言う。
 無慈悲に整った横顔と、羽織ったシャツを透して皮膚病の進行度合いでも観察するような無感動な目に、腹の底で溶岩のように濁った感情が渦巻く。
 正面を向いたままそっけなく問う麻生から顔を背け、苦りきって吐き捨てる。
 「お前に何がわかるんだよ」 
 あの日重なり合った線と線とがすれ違い、二本の平行線に分かれていく。

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 おかえりなさいが返ってこない。
 玄関のドアを開けると同時に違和感の第一波が襲う。
 肌に感じる空気がいつもと違う。
 家の中が妙に薄暗くがらんとして人の気配が絶えてしない。
 帰ったらまずただいまを言うのが習慣だった。
 お袋特有の間延びした声でおかえりなさいが返ってくるとその日も俺は信じて疑わなかった。
 背中のランドセルがやけに重い。もどかしげに靴を脱ぎ捨て上がり框にあがる。
 どうして家の中が暗い?お袋は、真理は、家族はどこへいった?
 輪郭の曖昧な不安に絡めとられ騒々しく廊下を駆ける。
 歩きから小走りに、焦燥に急き立てられ、軋み撓む床を蹴る。
 背中のランドセルがかしゃかしゃうるさく跳ねる。
 無造作に突っ込んだリコーダーと定規が中の教科書とぶつかりあって耳障りな音をたてる。
 床板が軋む。走る。
 日常が破綻する。世界が歪曲する。視軸が伸縮する。足が萎縮する。
 ここから先にいっちゃいけないと理性が制止する、本能がそれに逆らう、床と接した足裏から非日常が浸水し緊張の水位が高まっていく。
 どうしてこんなに暗い、どうして空気が澱む、どうして胸がざわつく。
 なにか異常な事がおきてしまったと肉眼で確かめる前からわかった。
 廊下の右手の台所に転がりこむ。
 台所はきれいに片付いていた。
 水を切った皿が流しに立てかけられている。
 三角コーナーはからっぽだった。お袋が出かける前に捨てていったらしい。
 テーブルの中央にみかんがのっていた。
 帰宅した俺がよくつまみ食いした、まるまる肥えた美味そうなみかん。
 テーブルには家族の人数分の椅子が用意されてる。
 朝出かける時に見たのとどこも変わってない光景に膝からへたりこみそうな安堵を覚える。
 杞憂か。
 見慣れた台所に立ち尽くし、細く息を吐く。
 ランドセルの吊り革を握る手はいつのまにかじっとり汗ばんでいた。ひっぺがすと手のひらにくっきり痕が食い込み充血していた。
 テーブルを時計回りに迂回する。台所をぬけて居間に行こうとして、気付く。
 テーブルの端に一枚のメモがのっかってる。
 電気を消した台所で、その白っぽい紙は、妙に浮いて見えた。
 一旦沈静化した胸騒ぎがまたぶりかえす。心臓が速足になる。
 嫌な予感。
 おそるおそるテーブルに近付き、メモを覗き込む。

 
 『今まで世話になった。
  保奈美 迷惑かけてすまない。
  真理  駄目なお父さんでごめん。もう遊んでやれない。いい子になってくれ。
  透   母さんと真理をよろしく頼む』


 筆圧の強い神経質なボールペンの字で、たったそれだけが記されていた。
 たった数行の走り書き。
 メモに手をとり、息を詰め、食い入るように読み返す。
 何度も何度も最初から字をたどり最後まで来たらまた最初から何度も往復反復する。
 服の下を汗が流れる。
 メモをとった手から感覚が失せていく。
 呼吸が急にしににくなる。
 俺を包む重力が何倍にも増したような錯覚。
 日常が破綻する。世界が歪曲する。視軸が伸縮する。
 俺がこれまで信じていたもの、これまで当たり前に依存してきたものに根底からひびが入って壊れていく。
 何、この深刻な書き置き。
 ベタなホームドラマみてえ。
 俺が朝寝ぼけた頭であたりまえに朝飯とったテーブルにたった一枚きり残されたメモには、見覚えある筆圧の強い神経質な字で辞世の句が記されてる。
 ……辞世とは言わないか、親父は生きてるんだし。
 どっかで。俺たちが知らないどっかで、俺たちが知らない若い女と。でもそれ、生きてるっていうのか?死んだも同然じゃないか。親父は俺たちの人生を放棄した、家族を養う義務を放棄した、家族との関係を最悪の形で断ち切った。
 離婚の手続きも踏まず、なにも言わず、ある日突然会社の金を持ち逃げして女と出奔するという考えうるかぎり最悪の形でふらっと行方をくらました。

 最初に書き置きを見付けたのは俺だった。
 学校から帰って、台所に行って、偶然それを手にした。
 一番最初に親父の絶縁状を読んだ。

 そうだ、あれは今までの感謝と謝意をこめた詫び状だとか家族への最後の手向けとかなまやさしいもんじゃない、俺たち家族とすっぱり一方的に縁を切ったという宣言、もう俺の人生にかまうなと叩き付けた最終手形だった。
 手にとったメモの裏はところどころボールペンの芯先で抉れてへこんでいた。
 耳の奥で今はもういない親父の声で幻聴がこだまする。
 『透 母さんと真理をよろしく頼む』
 最後の一文に目が釘付けになる。
 言葉に呪縛される。
 身勝手で無責任でくそったれな親父、家族を捨て会社の金を盗み女と逃げたクソ親父。あんたなんかいらない。あんたなんか必要ない。家族に迷惑かけるだけかけて尻拭いもせずとんずらこいたあんたなんかこっちから願い下げだ、どこへなりとも行っちまえ。
 手に無意識に力が入り、勢い余って握り潰しそうになる。

 『透 母さんと真理をよろしく頼む』

 メモの内容が一字一句違わず閉じた目に焼きつく。
 俺は長男だ、兄ちゃんだ。
 親父が消えた今、お袋と妹を守ってやれるのは俺だけだ。俺が家族を守る。メモから託されたものが重く、ずっしりと手に食い込む。暗い家。暗い台所。窓の外で日が暮れていく。台所の床に呆然と立ち尽くす俺の影が伸びる。ランドセルを背負ったまま、手の中のメモを見詰める。

 俺は今どこに立ってるんだろう。 
 線の内側か、外側か。
 ボーダーラインのどっち側にいるのか、自分でもはっきりとわからない。

 いや、わかってる。
 本当はわかってるんだ。
 俺は自分に嘘を吐いてる、罪悪感を軽くしようとごまかしてる。
 親父の様子がおかしいのには薄々勘付いていた。
 疲れたを理由に俺たちと遊んでくれなくなった。
 夜帰ってくるのが遅くなった。
 朝は俺たちと顔を合わせるのを避けて出ていった。


 今日だって


 『お父さんいないいないで寂しいか、秋山』 
 もう二度と聞きたくない声がする。
 床が傾斜し、視軸が歪み、酩酊を誘い、色彩が混沌と渦巻く。
 『知ってるぜ、秋山。お前の弱みは家族だ。会社の金を持ち逃げして女作って出ていったクソ親父、あとに残されたのはくたびれた母親と小さい妹。家族おもいの秋山くんはバイトで必死こいて稼いで家計助けて、えらいえらい』
 ふざけて拍手のまねをする。やる気のない乾いた音が響く。
 いつのまにか立ってる場所が変わっていた。
 台所全体が歪み、次元の位相がずれ、認識が塗り替えられ、あの日の美術室に移動していた。
 ボルゾイが目の前にいた。
 例の癇に障るにやにや笑いを顔一杯に浮かべ、肖像画を立てかけた画架にだらしなくもたれてる。
 『よくできた息子で妹おもいのおにいちゃん。そんなお前のエロ可愛い姿、家族にも見せてやろうか』
 『やめ、ろ』
 語尾が情けなく震える。
 恐怖と憤りとあせりと、激情に掠れて声が出ない。 
 喉を鳴らし牽制する俺を無視し、画架に自堕落によりかかったボルゾイが、ポケットから出した携帯を手早く操作する。
 『ほら見ろよ、四つんばい。俺たちに押さえ付けられて、むりやり床に這わされて、半泣きの』
 『やめろ』
 『シャツがはだけて下腹まるみえ、いい色に染まった痣も大胆に公開。美術室で露出プレイ、次いでに記念撮影会。おかげでいい絵が撮れたぜ。コレクションに追加っと』
 『消せ』
 液晶に写メを表示、鼻先に突き付ける。
 液晶には俺がいた。
 何本もの腕によってたかって押さえ付けられ、壁に向かい這わされ、シャツをはだけた俺が。
 乱れたシャツから覗く下腹には青紫黄淡色の痣が不浄に重なり合って散らばってる。
 苦痛と恐怖に歪む顔、涙にぬれた目尻、快感の微熱に潤む瞳。
 腰が萎えた不自然な体勢。
 股間に忍んだ手によって強制的に快楽を注入され、めめしくべそをかいてる。
 『へっぴり腰で強がっちゃって、ざまあねえな。学校中にばらまいて地元にいられなくしてやる。お前の家族ともども』
 『――っ!!』
 理性が爆ぜる。我慢の限界。
 視界が真っ赤に燃える憤激に駆り立てられ、全力で床を蹴り、脱臼の危険も厭わず手をのばし掴みかかる。
 さも得意げに写メの痴態を見せびらかすボルゾイの手から携帯をひったくらんと床を蹴るも、同時に背中に重みがのしかかり前のめりに転倒する。
 いつのまにか取り巻きが背後に迫っていた。
 背中からのしかかられ押さえ込まれ、交差した腕を締め上げられ、激痛に仰け反る。
 『はなせよ、はなせって!お前らこいつのいうなりで恥ずかしくねーのか、ちょっとは自分の頭で考えろ、こんなやつに顎で使われて情けなくねーのかよ!?教師にバレたらお前らだっておしまいだ、停学か退学くらう、学校にいられなくなんぞ!』
 『そこんとこは抜かりない。表じゃうまくやってるよ』
 ボルゾイが嫌味っぽく肩をすくめフラップを軽快に開閉する。
 『優等生の俺とおちこぼれのお前の証言、先公がどっち信用するか試してみるか』
 よってたかって床に這わされ、拘束から抜け出そうと必死に身をよじり暴れ喚く。
 背中を容赦なく押さえ込む手、手、手、悪意にさざめく嘲笑。
 手荒く小突かれるたび頭が左右に傾ぐ。
 それを見て同級生が笑う。
 腰から尻にかけてみだらがましく手が這う。
 ズボンの尻をねっとり揉まれる。
 内腿に入った手が緩慢にすべって股間のふくらみに触れる。
 奥歯を噛み締め、耐え難くふくらむ生理的嫌悪と不快感を堪える。
 毟らんばかりに前髪を掴み、吊り上げられる。
 『続きしようぜ』
 強引に上を向かされる。
 雑草を毟るように掴まれた前髪に灼熱の痛み。
 『こないだは邪魔が入ったからな。フェラチオショーの続きだ』
 『ふざけ』
 んな、と続けられない。口の両端に指がかかり、横に広げられる。
 顎も外れんばかりにこじ開けられた口に指を突っ込まれる。
 舌を摘まれ、抓られ、口の中でさんざん遊ばれる。
 唾液が逆流し、むせる。
 息苦しさに生理的な涙が浮かぶ。
 あふれた唾液で顎がぬれる。
 口の端から滴った唾液がシャツにたれて染みを作る。
 ボルゾイが片手でズボンのチャックを下ろす。
 下着の中心の切れ目から猛りきった男根を掴み出す。
 『歯、立てたら殺すぞ』
 赤黒い肉の塊を口に突っ込まれる。
 発作的に吐き出そうとしたが、できなかった。
 後ろから伸びた手に頭を固定され、強引に前を向かされ、こじ開けられた口をさらに押し広げる形で怒張したペニスが唇をなすって割り込む。
 『かはっ、』
 猛烈な嘔吐の衝動。胃袋と腹筋が痙攣する。
 口一杯に広がる生臭い味と匂いが鼻腔に抜ける。
 酸っぱい胃液が食道を焼いて喉元に込み上げる。
 はち切れんばかりに怒張したペニスを咥えさせられ、隙間を埋め尽くされ息が吸えない。
 『さぼるな。ちゃんと舌使え。楽しませろ』
 ボルゾイの手が前髪にかかり、俺の頭を乱暴に振る。
 喉の奥にペニスが突き当たり、くぐもり濁った呻き声がもれる。
 『麻生とどっちがでかいか言ってみろよ』
 『ん、で、麻生が、でてくん、だ……も、やめ……ッ、んなの、入るわけね……』
 『入ってるだろ、お口いっぱいに。味はどうだ?うまいか。美味そうな音たててねぶってしゃぶってっけど』
 粘膜を犯される。喉に逆流した唾液にむせる。同級生の哄笑、ボルゾイの卑猥な含み笑い……
 『次は俺だな、伊集院。一回試させてくれよ』
 『男でも女でも口の使い道は一緒』
 『はは、可哀相に、お前のもんがあんまりでかすぎて唇の端っこ裂けちゃってる』
 『初めて男のもんしゃぶった感想はどうだ、秋山』
 『初めてじゃねーだろコイツ、麻生とできてるって噂だぜ』 
 『あの優等生と?まっさか。で、どっちが女役なんだ?』
 嘲弄、罵倒、野次。
 卑猥な水音とともに粘着な唾液の糸引き抜き差しされるペニスを朦朧と目で追い、ボルゾイの手で頭ごと揺り動かされる。
 『夏休み明けが楽しみだ。二学期から晴れて俺たちの奴隷だ。ここにいる全員しゃぶって、ケツ掘らせて、公衆便所になってくれよ。登校拒否とか転校とか考えるなよ、んなことしたらお前の恥ずかしい写メが学校中……ネットで全国に出回るからな。家族そろって地元にいられなくさせてやる。引越し先でも地獄が待ってる。諦めてペットになれよ、秋山。可愛がってやるからさ。俺たちが卒業するまで、いや、学校出てからも一生ー……』
 くそったれ変態野郎それ以上言うなつきまとうなどこまで俺を苦しめれば気がすむ『迷惑かけてすまない』俺がお前になにしたってんだ何もしてないお前に手を出した事なんかないお前の家族に手を出した事もない『透』なのに何でこんな理不尽に憎まれる蔑まれる嘲られる虐げられる『母さんと真理をよろしく頼む』いい加減にしてくれ!
 『は………ふぐっ………』
 口の中に青臭い苦味が満ちる。ボルゾイの味。
 吐きたい。吐き出したい。
 目尻に溜まった涙が頬を伝う。
 息ができねえ。
 前髪を毟られる痛みにも増して口の粘膜を蹂躙される苦しみが耐え難い。
 恥辱で頬が熱くなる。
 酸素が不足して頭が朦朧とする。
 耳朶が熱をもち、体が火照って疼き、それでもボルゾイの手に強制され、頬を膨らませへこませ、稚拙な舌使いで怒張した肉を慰める。
 汗でぐっしょりぬれそぼった俺の髪に手を絡め、恍惚と愉悦に満ちた薄笑いで、ボルゾイが陶然とほざく。
 『アルコールランプの火を内腿に押しつけて焼印くれてやる。安全ピンを乳首にさしてやる。ローターケツに突っ込んで校庭十周させてやる。逃げようなんて考えるなよ、秋山。お前の大事な大事な家族が破滅する。二学期、ちゃんと学校来い』
 盛大にシャツをはだけ、制服の下に手がもぐりこむ。
 後ろにのしかかった同級生の劣情の息遣いと体温、勃起した股間の固さを感じる。
 『こっちには証拠がある』 
 『やめ、んく………!』
 ズボンにもぐりこんだ手がじかに股間をまさぐる。
 前をしごかれて腰が沈む。
 前のめりに突っ伏す耳朶に淫蕩な熱で濁った吐息がかかる。
 『今のお前見たら麻生も幻滅するだろうな』
 後ろから前から手が群がる、口の中でペニスが脈打ち抜こうとあらがうも果たせず痙攣が激しくなってー……



 目を開ける。
 天井が高い。 
 「はあっ、はあっ、はっ、はっ、は………」
 もがいてもがいてもがき続けて、四肢に絡まりつく藻をひきずって、ようやく悪夢の泥沼から現実の岸辺に這い上がれた。
 全身にびっしょり寝汗をかいていた。
 大きめのシャツが汗を吸って素肌に不快にへばりつく。
 「夢か………すげーお約束なオチ………」
 フローリングの床にタオルケット一枚羽織り、大の字に寝転がった聡史の隣、タオルケットごと片膝を抱き寄せる。
 俺らの簡易宿泊所にあてられたリビングキッチンはよく冷房が利いていた。
 ……ちょっと冷えすぎだ。寒い。
 コンクリ打ち放しの灰色の壁のせいか、物が極端に少なく殺風景なせいか、モルグさながらスノッブに冷えた空気が漂ってる。
 惰性じみた緩慢さで起き上がるまでの間に、麻生んちに泊まってることを思い出した。
 「かー。かー。かー」
 聡史はよく寝てる。間抜けな寝顔が笑いを誘う。
 起こさなかった事に安堵し、出来心でその鼻を摘めば、いびきが低くくぐもった。
 鼻詰まりのいびきでもがく聡史にちょっと憂さを晴らし、手を放す。
 元の規則正しいいびきと平和な寝顔が回復する。

 『こっちには証拠がある』  
 『学校中にばらまいて地元にいられなくしてやる。お前の家族ともども』

 調子のりくさったボルゾイの声が絶望の深淵から呪詛の如く響く。
 俺は間違っても枕が変わると眠れないような繊細な人種じゃない。
 どこでも図太く熟睡できるほうだ。でも最近はよく眠れない。
 眠りは浅くすぐ目覚める。
 途切れがちな夢の中でも安息は得られず、酷くうなされる。  
 測ってないから正確なところはわからないが夏休みに入って体重がかなり減った。
 夏バテの言い訳がきかないほど肉がおちてただでさえ貧弱な体がさらに薄っぺらくなった。
 包帯をとった右手で前髪をかきあげ、タオルケットに包まり放心してたら、床を席巻する大量の本が目につく。
 神保町から持ち帰った大量の本。遠征の戦利品。
 本に埋もれて死ぬなら本望と公言しながら本に囲まれ悪夢にうなされ、自嘲の形に頬が歪む。
 「………ばかじゃん、俺。こんなに買っちまってどうすんの」
 どうせもうすぐいなくなるのに、買ったって邪魔になるだけだ。
 頭じゃ分かっていても掘り出し物を見つけると浪費の衝動を自制できない、本好きの哀しいさがだ。
 夏休みが終わる前に家を出る。
 東京かどこか、誰も知らない町に行って自活する。俺は若い。来年で十八だ。働き先はいくらでもある。さいわい中学ん時新聞配達でコツコツ貯めた金がある、それと今年入ってバイトで貯めた金をはたけば安いアパートくらい借りれる。 
 どこでもいい、どこでも。地元から消えるんだ。お袋と妹に迷惑はかけられない。高校は辞める。一人で生きてく。

 『透 母さんと真理をよろしく頼む』

 「……忘れてたのに……」
 カメラオブスキュラ、暗い部屋からの連想か。
 暗い家。暗い台所。テーブルに残された書き置き。
 筆圧の高い神経質なボールペンの字……蒸発した親父が俺に託したもの。
 約束、守れそうにない。
 俺が地元にいたらお袋たちに迷惑がかかる。
 真理はまだ中学生だ。親父の時と同じ目に遭わせたくない。
 身から出た錆だ。自分のケツは自分で拭く。図太くしぶとくしたたかにが信条だ、どこでだって雑草みたく根をはってやる。
 だから……
 「…………思い出、ほしかったんだけど」
 高校生活最後の思い出。
 ミステリー同好会の面子で神保町に遠征して、浮かれて騒いで片っ端から本屋覗いて、どっさり収穫もって帰還して、ただいまが言いたかった。
 高校生活、やなことばっかじゃない。聡史がいた。麻生と出会えた。高校二年の夏は一生の思い出に残る最高の夏だった。

 他のだれでもない自分に、胸張ってそう言いたかった。
 言えるようになりたかった。

 「現実的に考えてどうすんだよ、この本。こんなにたくさん持って家出れねーよ……うちに残しとくわけにもいかねーし……おいとくのもやだし………待てよ、そもそもダンボール一個に入りきんのかよ、これ。全部読み終えるまで延期すっかな、家出……」
 行くあてはないが、このまま地元に居残るわけにはいかない。
 お袋に、真理に、迷惑がかかる。
 二学期になるのが怖い。
 学校が始まるのが怖い。
 カレンダーがめくれる想像だけで胸の動悸が速くなり全身にびっしょり冷や汗をかく。
 ボルゾイは病的に陰湿で狡猾だ。
 絶対に俺を逃がしはしない。
 あの日美術室で宣言した通り、写メの証拠で脅して、俺をペットにする。
 警察には言えない。
 俺も男だ、プライドがある、同級生によってたかって押さえ込まれて裸に剥かれてナニされたなんて言えるわけない。第一お袋が知ったら、妹にばれたら……守ってやらなきゃいけないのに、しっかりしなきゃいけないのに、俺が

 親父の代わりに

 「…………はは……手、震えてるし……」
 情けないこのていたらく。
 違う、この手の震えはと室内が寒すぎだからだ。冷房かけすぎなんだよ現代っ子め、風邪ひいちまう。
 鳥肌だった二の腕を擦り、殺風景な室内をぐるり見回せば、自然な夜風が頬をなでる。
 空調で人工的に冷やされた室内に、一筋清流を引くような風をたぐり、そっちを向く。
 窓が開いていた。
 夜風を孕みふくれあがるカーテンの向こうに背中が見え隠れする。
 麻生がベランダにいた。
 声をかけようとして、やめる。
 距離を隔てたせいか俺が起きたのに気付きもせず、ベランダに出て煙草を喫っていた。
 ベランダの向こうは闇に沈んでいる。
 道路を走る車のライトだけが点々と光る。
 口に咥えた煙草の穂先からゆるやかに紫煙が漂い、スモッグを含んだぬるい風と戯れる。
 声をかけるのを忘れたのは、多分、その背中に見とれたからだ。
 麻生は片手に呑みかけの缶ビールをもち、それを時折口に運ぶ。
 煙草とビールを併飲してるのだ。依存性が二乗高い嗜癖にあきれる。
 おっさんかよと心の中で突っ込むも、くすんだ夜を背景に麻生が物思いに耽る姿は絵になった。
 静かだった。
 エクスタシーの匂いが鼻腔をくすぐる。
 ベランダの向こうの闇と手摺ひとつへだて麻生は煙草を喫う。
 気化した生き物のようにかそけき儚く紫煙が漂う。
 ゆるやかに流動する紫煙の向こう、孤高とも孤独ともつかぬ秘密の気配がつきまとう背中が漠とした不安を煽る。
 胸が騒ぐ。
 前屈みになると同時にタオルケットが膝から滑るも、気にせず背中に手をのばす。
 ベランダに立つ麻生は世界を斜めに眺め非日常の空気をまとう。
 語らぬ背中はすぐにでも手摺を乗りこえ虚空の闇に墜ちていきそうな危うさを漂わせる。
 麻生と向こう側を隔てるものは一本の手摺しかない。
 あまりに頼りなく心もとないボーダーライン。俺が手をのばせば、今ならまだー……


 携帯の電子音が静寂を破る。


 「!」
 感電したように手を引っ込め、タオルケットをまとい、ゴロンと床に横になる。
 咄嗟に寝たふりをするも、聴覚を研ぎ澄ませ、カーテンの隙間から夜風にのって漏れ聞こえる声に耳を澄ます。
 「……俺。今から?」
 そっけない返答。
 脳裏を疑問が掠める。こんな時間にだれと話してるんだ?
 片目だけ薄く開けてベランダを覗き見る。
 一瞬、心臓が止まる。
 麻生が体の向きを変えていた。
 体ごとこっちに向き直り、手摺に背中をもたせ、携帯と話している。
 「………別にいいけど。……不満?ないよ」
 闇に慣れた目でわずかな表情の変化をうかがう。 
 自堕落に弛緩した姿勢で手摺に寄りかかった麻生が、耳につけた携帯にむかい、俺の見たことない顔で笑っていた。
 淫猥さと狡猾さを織り交ぜた含み笑い。
 虚無と溶け合う紫煙の揺らめきの向こうにちらつくは、自嘲と自虐が綯い交ぜとなった、俗っぽく露悪的な表情。
 「俺はあんたの奴隷だから」
 『俺の奴隷になれよ、秋山』
 品行方正な優等生の口から放たれた所有格の単語に耳を疑うも、その時にはすでに携帯をおろし、リビングに戻ってきていた。
 「またあとで」
 切った携帯をソファーに放り、床に寝転がった俺と聡史をつまらなそうに見る。
 俺たちがいることをたった今まで忘れていたみたいな空白の表情。
 眼鏡のレンズに覆われた目の表情は読めず、足音も殆どたてず、だだっ広いリビングを抜けて廊下に出る。

 『俺はあんたの奴隷だから』 

 扉を開け閉めする音。次いでシャワーの水音。
 背中がざわざわ毛羽立つ。
 麻生がシャワーを使ってるのがかすかに響く水音でわかる。 
 なんでこんな不自然な時間にシャワーを浴びるんだ。 
 「………奴隷って……普通の会話で出てくる単語か?だれと話してたんだよ」
 胸が変に騒ぐ。
 むりやり目を閉じるももう寝付けそうにない。
 詮索はやめろまたうざがられるぞと良心が咎めるも、一度騒ぎ出した好奇心は謎の解を見つけるまでひっこみそうにない。
 麻生を奴隷にする人間。彼女?にしちゃあ色気のない会話だった。
 彼女に愛を囁く麻生ってのもなかなか想像しにくいが……
 少なくとも俺には、彼女と話してるようには見えなかった。
 麻生の顔からはうっすらと嫌悪が読みとれた。
 いや、ちがう、あれは……
 『憎悪』。
 憎悪と嫌悪の区別くらいつく。自慢じゃないが俺は憎しみを浴びるのに慣れてるのだ。
 「ピロートークにゃおもえなかったな……」
 タオルケットを顎までたくしあげて呟く。
 何故か落ち着かない。
 あの時と一緒、親父が出てった日と同じ底知れぬ不安感が胸に広がる。 
 水音がやむ。
 反射的に目を閉じ、規則正しい寝息をたてる。
 麻生がシャワーを終えて帰ってきた。
 耳に全神経を集中しかすかな足音を聞き分ける。
 ソファーが撓む音を聞き分ける。
 麻生がソファーに腰掛けた気配が空気を縫って伝わる。
 携帯が再び鳴る。行動を監視してたかのようなタイミングの良さ。
 「シャワー浴びてきた。やることは一緒なんだ、そっちのが手間省けるだろ」
 体重がかかりスプリングが軋む。
 麻生が深く背凭れにもたれる。
 俺の知る麻生らしくない皮肉な口調。 
 瞑った瞼の向こうで空気が変わる。
 目で見なくても麻生の顔が不愉快げに歪むのがわかる。
 不自然な沈黙から疑問とかすかな当惑の気配がはっきり伝わる。
 「……聞いてない。何人?………三人?あんたも入れて?……じゃあ四人だ。………そういうの、困るんだけど」
 不安が芋虫でも這うみたいに胸の内をせりあがって喉を塞ぐ。
 諧謔と倦怠を均等に含んだ口調で、辟易と続ける。
 「この前も言ったろ、後始末が大変だったんだ。……知ってる、あんたはそういう奴だよ、こっちの都合は全然考えない。……恩に着せるな、こっちも予定は調整してるんだ。まわりに不自然に思われないよう気を遣ってるんだ。……友達?」
 心臓が跳ねる。
 麻生が目を上げてこっちを見る気配がした。
 背中を向け、床に寝転がった俺と聡史を等分に見比べた視線が、俺に固定される。
 「関係ない」
 背筋に氷柱を突っ込まれたような気がした。
 じかに寝転がったフローリングの冷たさ固さが身にしみる。
 タオルケットの端を握る手に力が篭もる。
 麻生は平然と続ける。
 「授業中にぶっ倒れて保健室に運ばれでもしたら困るのはあんただ。……まずいだろ、下見られちゃ。………こないだだって、あせってたじゃないか。秋山に腕掴まれて。だから血相かえてすっとんできたんだ。笑えた」
 不意に名を呼ばれ、全身の毛穴が収縮し、汗が噴き出す。
 ソファーが体重を受けて軋む。
 かすかな物音……麻生が低いテーブルに手をのばし、灰皿を引き寄せる。
 灰皿のふちで煙草の灰をおとし、再び唇にはさみ、右手に持った携帯に冷めた声を送り込む。
 「………非難してるんじゃない。あんたの趣味をとやかく言える立場じゃねーし。でも……わかるだろ?表向き優等生で売ってるからさ、俺。制服脱がしてみたら実はなんて、笑えないだろ」
 非難。立場。趣味。表向き。優等生。制服。その下。
 「そうだな。できるだけ痕残さないでもらえると助かる」
 痕。
 廊下で手首を掴んだときの過剰反応、大げさな痛がりよう。
 心臓が狂ったように脈を打つ。
 全身が熱くなる。
 タオルケットの端を握りしめ、慎重に慎重に薄目を開ける。
 ぼやけた視界に人影が浮かぶ。
 ソファーの真ん中に姿勢をくずし腰掛けた麻生の姿を捉え、息を呑む。 

 裸だった。
 肩にタオルを掛け、トランクスを穿いただけで、上半身には何もまとってなかった。
 しなやかでなめらかな上半身、タオルに隠れた以外の場所、広範囲に散らばった淫靡な痣。唇で吸われたあと。引き締まった首筋にも鎖骨の上にも窪みにも胸板にも腹筋にもへその横にも、薄赤く妖艶な痣がちらばっていた。それだけじゃない。もっと酷いものがあった。
 傷。
 痣。
 内出血の痣。
 拘束のあと。
 携帯をさりげなく持ち上げた手首にロープで縛られた内出血の痕縄目もきめ細かくくっきり左手首にも同じものが、下着から突き出た太股足に鞭打たれたみみず腫れ、麻生が携帯もって何か話しながら心臓うるさい聞こえないちょっと横にずれ背中を向ける、剥き出しの背中に縦横斜めに走る痛々しいみみず腫れ、肩甲骨の間に煙草のやけどー……

 
 なんだ、これ。
 俺の痣より、ぜんぜん酷いじゃんか。

 
 何をどうしたら、こんなになるんだ?
 何をどうされたら、こんなになるんだ?


 手首に残る独占欲の烙印束縛の痕も気にせず煙草を口にもっていく。
 床から見上げる俺に気付かず、煙草を口に近付け、含み、綺麗な動作で紫煙を吐く。
 くっと喉を鳴らす。
 最高に悪趣味な冗談を聞いたふうな淫らな笑み。
 俺に見せたことない俗悪で性悪な顔。
 「淫乱にしたのはあんただろ?」
 失望に染まりきった声で共犯者じみて低く囁きかけ、携帯を切る。
 だだっ広いリビングに透明な沈黙が降り積もる。
 冷房の稼動音だけが空気を単調に攪拌する中、床に脱ぎ捨てたТシャツを取り上げ、素肌にじかに羽織る。
 ジーパンに足を通し尻ポケットに携帯をしまい、顔を右へ左へ傾げ、なにかを探す動作をする。舌打ち。
 足の低いガラステーブルに手を伸ばし、伏せてあった読みかけの文庫本を取り上げ、奥付に一枚はさまった白紙を切り取る。
 俺が読みかけた悪童日記から一枚破きとった白紙をテーブルにおき、そばに転がったボールペンを拾い、何かを素早く書きつける。

 書き置き。
 どこかへでかけるつもりだ。

 寝転がった俺に背中を向けテーブルに前屈み、ペンを動かして書き物をする麻生に親父がだぶる。
 さらさらと手が動く『透 母さんと真理をよろしく頼む』器用そうな長い指がボールペンを操ってカリカリと『よろしく頼む』芯先とガラスの天板がふれあって引っかくような音をたてるー……
 瞬きも忘れ、書き置きを残す麻生の横顔を仰ぐ。
 書き置きを終えた麻生が、灰皿でメモをとめ腰を浮かすと同時に、勝手に手が動く。
 宙を走った手がシャツの裾を掴み、おもいっきり引っ張る。
 麻生がぎょっとする。
 一瞬覗いた無防備な素顔。
 眼鏡の奥の目が驚きに見開かれ、次の瞬間、怪訝そうに細まる。
 剣呑な光を帯びて細まった目が自分の裾を掴んだ手を、床に這った俺を射抜く。
 「どこ行くんだよ」
 「起きてたのか」
 「今起きたんだよ、物音がして。……それ、書き置きだろ。どこ行くんだよこんな時間に。もう夜じゃん」
 「どこでもいいだろ」
 心臓が蒸発しそうだ。体温が急上昇し、異様に喉が渇く。
 体をおこしたはずみにタオルケットが床に落ちる。
 シャツの裾がすっかりのびきっちまうほど引っ張り、冷房に冷やされた床に跪き、頑是なく翻意を促す。
 さっき見た麻生の裸、全身の傷跡、内出血の痣、ロープの痕は見ないふり忘れたふりでたった今起きた演技を続け、非常識な時間にどこぞの誰かに呼びだされたふらり出て行こうとする友達を全身全霊をもって諭す。
 「よくねえよ、こんな時間に。危ないだろ」
 「男だぞ、俺」
 「車とかよく見えねーし、危ないだろ」
 「こんな時間に車走ってねーよ」
 「走ってるよ少しは、日本の交通事情甘く見んなよ。起きた時電話してたけど……寝ぼけて話聞いてなかったけど、様子おかしかったし。起きたらもう書き置き終えてどっか行こうとしてて、でもお前、ほんとは行きたくないんだろ?そんな顔してる。すっげえいやそうな顔してる。どこの誰の呼び出したか知んねーけどすっぽかしちまえよ、こんな非常識な時間に電話してくるような相手の言うこと真に受けんなよ」
 「盗み聞きしてたのか」
 「してねえよ!顔見りゃわかるんだよ!!」
 支離滅裂な事を叫びぐいと裾を引けば、バランスを崩した麻生がソファーに倒れこむ。
 我を忘れソファーに寝転がった麻生にのしかかり、胸ぐら掴まんばかりの勢いで饒舌にまくしたてる。  
 「第一お前ホストだろ、自分から言い出して泊めたくせに勝手にどっか行っちまうのかよ、あんまり無責任で不用心だろ!?」
 「鍵かけとく」
 「~そういう問題じゃなくて!俺らを泊めたからにはせめて一晩一緒にいろっての、一人ですましてねーで馬鹿騒ぎに付き合ってくだらない話しろっての!」
 「俺がいない間に家荒らす気か?一応信用してるんだけど、お前らはそういうことしないって」
 「信用してくれんのは嬉しいけど今引き合いに出されても嬉しかねーよッ、なんだよその面、人ばかにして……お前だって本当は行きたくないんだろ、じゃあ簡単だ、行かなきゃいいんだよ、俺たちと一緒にいりゃいいんだよ、ここはお前んちなんだから!!」
 「自分んちなんておもったことない」
 暗い部屋。
 カメラオブスキュラ。
 私物が極端に少ない、冴え冴え行き渡る照明が空虚さを暴き立てる、がらんとした廃墟。
 憤激のあまり胸ぐらにかかった手を邪険に払い、針のような目で俺を串刺し、失笑を漏らす。
 「父親と勘違いしてるのか」
 ぶん殴らなかったのは奇跡だ。
 俺が廃工場で打ち明けた話を、コイツならばと信頼して打ち明けた身の上話を、こんな最悪の状況で引き合いに出す。
 胸を抉る指摘はしかし、的を射ていた。俺は麻生が書き置き残してふらり出かけたまま二度と帰ってこない気がして『透 よろしく頼む』ボーダーラインの向こうに行ったまま永遠に戻ってこない気がして『俺は奴隷だから』手を伸ばしても伸ばしても届かなくて、手が届くうちに引きとめようとして、こうしてソファーに押し倒してのしかかって胸ぐら掴んでゆさぶって『淫乱にしたのはあんただろ』……
 こいつはまた傷を増やして帰ってくる。
 境界線のあっちとこっちを行き来して、帰ってくるたび傷を増やして、そしていつか、あっちに行ったきり帰ってこなくなっちまう。
 駄目だ、行かせちゃだめだ、なんかわかんねーけど絶対だめだ。
 携帯の会話。相手は誰だ?
 頭で疑問符が渦巻く。
 何かがわかりかける。
 知りたくない、暴きたくない。
 ソファーに倒れこんだ麻生に馬乗りになり、至近距離で睨み合い、荒い呼吸のはざまから切実な懇願をしぼりだす。
 「行くな、麻生」
 「俺の生活に踏み込む権利ない」
 「ならなんで泊めた。先に踏み込ませたのはお前だろ」
 鼻梁にずれた眼鏡の奥、切れ長の目に当惑の波紋が生じる。
 麻生自身、俺らを泊めた判断に戸惑ってるらしい。
 「秋山、どけ」
 「ほっとけよ。行く必要ねえ。ここにいろ」
 「怒るぞ」
 「殴るのか?」
 全然怖くない。
 俺が怖いのは、おいてかれることだ。勝手に重たいもん持たされることだ。
 優柔不断が原因でボーダーラインの向こうに消えた背中を終えず、何年も何年も、ずっと同じ場所でぐるぐる後悔し続けることだ。
 今なら間に合う、麻生はここにいる。全力でとめる。
 窓枠を蹴る気軽さでベランダの手摺を乗りこえはるかな虚空に墜落しそうな背中を、今ならまだ現実に引き止められる。
 「……事情はわかんねーけど、お前、らしくねえよ。らしくねえ顔してる。ボルゾイみたく悪ぶって、かっこつけて………むりしてんのどっちだよ。滑稽だよ」
 「廃工場の逆襲?」
 「滑稽なお前、見たくねーよ」
 「いいかげんにしろ。腹蹴っ飛ばして内蔵破裂させるぞ」
 「いいよ、やれよ。ボルゾイに絵の具水のまされて壁に磔にされて殴る蹴るされて、いまさら腹に一発くらって音を上げるような俺に見えるか?いじめられっこなめんな」
 麻生が苛立ち乱暴に俺の肩を掴みおしのけにかかる、俺は抗う、二人して激しく揉み合う、ガキの喧嘩みたく互いの前髪を掴んで引き剥がし揉みくちゃにし勢い余って床に落下、上下逆転しつつ転げる。騒々しい物音をたて床を転がるうちに蹴り上げた足がテーブルをひっくりかえし灰皿が弾む、缶ビールが転倒して床一面に中身が広がる、その中身が大口あけて熟睡中の聡史の首根っこに触手を伸ばし「ひゃあ!!?」と可愛い悲鳴があがる。
 「せ、先輩と麻生さん……なにやってんすか、ご近所迷惑っすよ!?」
 タオルケットをどけ跳ね起きた聡史が仲裁に入るも俺と麻生は躍起になってやりあい、真ん中に割り込んだ聡史を哀れ巻き添えにする。
 「ガキかよお前は!」
 「ガキはそっちだろ、優等生のくせに!」
 「関係ねーだろ今、いいからはなせよ、お前と遊んでるひまねーんだよ!」
 「嘘吐け俺たち以外友達いねーくせに暇なら夏休み一杯あるだろ、まだまだまだまだ遊べるだろ、だって前そう言ったじゃんか夏休み遊ぼうぜって、いまさらなしでしたはなしだ、こうなったらいやがるお前を巻き込んで夏休み一杯遊んで遊んで遊び倒して男だらけでしょっぱい青春の思い出作りまくる!!」
 台風の如く怒り狂った俺が拳と一緒にぶちあげた抱負に麻生が辟易と顔を顰める。
 体格では俺が少し劣る。腕力もちょっと負ける。くそ、分が悪い。しかたない、作戦変更。
 床を転がって麻生の手から抜け出し、手近に置きっぱなしの袋を兵糧さながら抱え込む。
 「どうしても出てくってんなら考えがある、この本がどうなってもいいのか!?」
 「ゴミ捨て場にもってくのか?」
 「んなことするか、本に土下座で謝れ!」
 神保町で麻生が買った本は文庫ばかり十冊、俺と聡史に比べたらごく少量だ。
 その袋をひしと抱え込み、麻生から庇うように油断なく後退しつつ言う。
 「この本は俺がもらう!」
 「はあ!?」
 「どうだ悔しいだろ、せっかく買ったのに読めなくて残念だな、お前が俺たちと大事な大事な本を捨てて出てくってんならこの本は俺のもの、俺が家に持ち帰って大事に大事にムッツリ愛でるからせいぜい泣いて悔しがるんだな!!第一お前は投げたり破いたり本に対する愛が致命的に欠落してる、そんな粗末な扱いしときながら自称本好きとかちゃんちゃらおかしいぜ、へそで熱燗が沸いちまうぜ!」
 「お前だって投げたろーが虚無への供物!」
 「あれはいいんだよ供物だから!だって真正面から行ったら絶対受け取らねーだろお前、突っ返すだろ、条件反射に付け込むっきゃなかったんだ!要は奇襲作戦だ!」
 麻生が買ってきた本を袋ごと懐に抱えこみ、廊下を転げるようにしてひた走り玄関にむかうや、ドアを背に絶叫する。
 「さあ、俺と本の屍をこえていけ!どうしてもというなら俺と本を踏ん付けて薄情にも行っちまうがいいさ!」
 「先輩抑えて抑えて、ご近所迷惑ですから……」
 「どっちだよ!?」
 両手を上げ下げ宥める聡史の肩越し、あきれ顔で歩いてくる麻生に猛然と食ってかかる。
 ずれた眼鏡を神経質に直し、喧嘩の疲労でぐったり消耗しつつ、こっちにやってくる麻生にたじろぐも足で床を掴んで踏ん張り、二者択一の眼光を放つ。
 胸に抱いた本に力強く腕を回す。麻生の視界から隔てるようにドアを隠す。
 心臓が肋骨を叩く。血液が沸騰する。
 絶対どくもんか。
 葛藤を克服し決断に至り、玄関に立ち塞がる。
 正面に立った麻生が口を開くのを遮り、呟く。
 「頼む」 
 本を抱く手に決死の力が篭もる。
 膝が笑い、その場にへたりこみそうになるのを気力をかき集め辛うじて支える。
 「先輩?」
 俺の様子がおかしいのに気付き、聡史が不安げな面持ちで呟く。
 深呼吸で度胸を吸い込み覚悟を決め、無表情な麻生と対峙し、混乱を来たした頭で必死に考えに考え抜いて、たどたどしく訴える。
 「……俺、ほんと言うと友達んち泊まるの初めてで……そりゃ何度か聡史んちに泊めてもらったことはあったけど……小学校から振り返って、同級生のうちに泊めてもらうのって、恥ずかしいけど、これが初めてだったんだ。はしゃぎまくって迷惑かけて……冷蔵庫ん中勝手に覗いて……不快にさせちまったけど。なんか、畜生、うまく言えねー……とにかく、浮かれてたんだ。お前と一晩中くだらねーことで騒げるかなって期待して……寝ちまうのもったいなくて……夜が少しでも長く続きゃいいなって……」
 ああ、何言ってんだ俺、かっこ悪ィ。
 わざわざ小学校から友達いねえって暴露して、同情誘ってんのかよ?
 くそ、誘えるもんなら誘ってやる、同情でも憐憫でもいい、付け込むすきがあればがっちり付け込む。手段を選んでられっか、いまさら。
 絶対行かせるもんか。
 ここが俺の正念場、運命を分ける分水嶺。
 扉を開けた向こうは境界線のあっち側、蒸発した親父が属する非日常の空漠が広がるばかり。
 そんなとこに、やっとできた友達を行かせてたまるか。
 俺はまだまだ麻生と遊び足りない騒ぎ足りない、こいつを立派なミス研部員に育て上げるまでどこにも行かない。
 くそ、もうやけだ。どうとでもなれ。家出は取り止めだ。
 だってそうするっきゃないだろ、俺が家を出たら麻生もふらっと消えちまう、麻生をこっち側に引き止める人間は今度こそ本当にだれもいなくなる、どうぞお好きに、いやそれじゃだめだ、ああ支離滅裂だ、とにかくいやなんだいやなんだ俺は、地団駄踏むさ駄々だってこねるさ
 だって俺は、
 「おいてけぼりは反則だろ!」
 喉までせりあがった感情を言葉にして解き放つ。
 胸に本の袋を抱いたまま、正面にたたずむ麻生の方へ前傾し、胸板に頭突きして押し戻す。
 そうしたはずが途中で力が抜けて、膝からへたりこみそうになって、麻生の胸に額を預けた間抜けなかっこをさらす。
 「……今出てったら、お前の本、全部もってくから。部屋に入りきらなくてももってくから」
 「先輩」
 「聡史と手分けして」
 「俺もっすか!?」
 巻き込まれた聡史が抗議と非難の入り混じった悲鳴を上げる。
 頼む、いかないでくれ、ここにいてくれ。
 気も狂わんばかりの一念で祈り、目を瞑る。
 額に麻生の鼓動と熱が伝わる。
 麻生の手が肩にかかる。
 さりげない、しかしうむをいわせぬ力で俺をどかし、ドアを開錠する。
 「麻生、待」
 振り向かずノブを捻る。
 追い縋る俺の鼻先で無慈悲にドアが閉じ、麻生が外廊下に消える。
 ドアが閉じる。
 空気に振動の波紋が広がる。
 本の袋を抱え玄関に立ち尽くす俺の横に、寝ぼけた顔で聡史がよってくる。
 「……先輩……?」
 「………………」
 「………あの、よくわかんないっすけど……麻生先輩なら、どうせすぐもどってきますよ……夜も遅いし、先に寝てましょうよ」
 親切心から気休めを吐く聡史をよそに、俺は呆然と玄関に立ち尽くしたまま、閉じたドアに虚ろな凝視を注ぐ。
 止めたのに無駄だった。 
 必死に伸ばした手は、今度もまた、届かなかった。
 「…………まだ間に合う」
 「え?」
 小首を傾げた聡史に本の袋を預け、「先輩!」の呼びかけと共に伸びた手をふりきり、ドアノブを掴む。
 まだ間に合う、走れば追い付く、ぼけっと立ち尽くしてるひまがあるなら追っかけろ、ボーダーラインの向こう側に行っちまうまえに……
 開けドア、
 「どわああっ!?」
 開いた。
 そりゃもうあっけなく開いた、俺が腰ぬかし吹っ飛ばされる勢いで。
 俺が掴んだノブを捻ると同時に外側からも同じ動作がされ、二乗の反動で吹っ飛ばされ、玄関に派手に尻餅付く。
 「だいじょぶっすか!?」
 「痛ッて~………」
 視界が反転、打ち付けた尻の激痛に涙が浮かぶ。
 静かにドアが閉じ、蝶番が再び噛み合わさり、携帯をさげた人影が中へ入ってくる。
 「…………何してんの?」
 麻生がいた。とんでもない馬鹿を見る目で冷ややかに俺を見下ろしてる。
 「………なに、て……追っかけようとして」
 「必要ない」
 携帯を尻ポケットに突っ込み、靴を脱ぎ、框に上がる。
 転んだ俺に手を貸しもせず横を素通り、廊下を抜けてリビングに入り、視界から完全に姿を消す。
 聡史の肩を借りてリビングに帰還した俺をソファーに腰掛け出迎えた麻生の手には、いかなる早業か、ちゃっかり果実酒の缶が握られていた。
 プルトップを引き、水でも呑むみたいに酒を呷る麻生を、肩を組んだ後輩と一緒にただただ呆然と見詰める。
 あっけにとられた俺たち二人は完全に無視し、世にいうヤケ酒っぽいぞんざいさで缶に口をつけながらテーブルに手をやる。
 「ほら」
 腕を一閃、無造作に何かを投げる。
 反射的に手を前に出し受け取れば、冷蔵庫でキンキンに冷やされた果実酒だった。
 結露した缶を目をしばたたき見下ろす俺と聡史の方は見ず、惚れ惚れするくらい粋に慣れた呑み方でアルコールを喉へ流しこむ。
 嚥下に伴い動く喉の艶かしさに、俺の喉仏もまた呼応して、生唾をのみこむ。
 「あのさ、俺たち一応未成年なんだけど……」
 「引き止めた責任とって付き合え」
 むちゃくちゃな言い分。
 酔っ払いのなせる業かそれとも地が出てきたのか、俺たちに平然と理不尽な要求をした麻生は、酷く不機嫌な仏頂面で果実酒をあおりながら、眼鏡をはずし、瞼を揉み、完全に据わりきった三白眼で薙ぎ払うようにこっちを睨む。
 視殺の気迫みなぎる眼光で射すくめられ、手にした缶の冷たさ以上の悪寒が背筋を駆ける。
 「先に言っとく。そっからさきは素面禁止。アルコールが入ってねー奴と話す気はない」
 無防備に踏み込もうとした俺を鋭く制し、片頬を歪め挑戦的に笑う。
 リビングの桟の手前、手のひらの体温が移ってぬるまりつつある缶をみおろし、言う。
 「挑戦を受けて立つ」
 「正気っすか先輩、お酒なんて飲んだことねーのに無謀……!?」
 「男には引けない時がある。あそこまで馬鹿にされてすごすご引き下がれるか」
 テーブルを挟んで対面にどっかり胡坐をくみ、プルトップを引く。
 「後悔するなよ」
 「そっちこそ。俺に酒飲ましたこと後悔させてやる」
 「そりゃ楽しみだ」
 挑発にのって啖呵を切り、高々突き上げた缶の表面をかち合わせる。
 「「乾杯」」
 心配げに見守る聡史と麻生の前で引くに引けず深呼吸、一気に―




 朝まで記憶がない。
 

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010328162258 | 編集

 『先輩に呑ましたこと後悔しました』
 携帯から沈痛な声。
 『分際を弁え身を挺しとめるべきした。滝壺でモリアーティ教授に挑むホームズの如きバリツの気合で立ち向かえば悲劇は未然に防げたのにまあいっかと軽い気持ちでスルーしたばっかりに伝統あるミス研の歴史に拭い去れぬ汚点を残してしまった』
 「缶チューハイ一杯でもたらされる悲劇っておおげさだぞ」
 『思い出すのもおぞましく忌まわしい惨事がおきてしまった』
 語尾が嗚咽に震える。
 『先輩の将来を考えるなら一滴たりとも飲ませるべきじゃなかった、ホームズだって現役の医師たる助手ワトソンの賢明な忠告に従って艱難辛苦のリハビリの末モルヒネを断ったのに、俺は、おれはワトソン失格だ!!先輩から酒を奪っていさえすればそもそもあんな悲劇はおきなかった、先輩は気楽でお調子者で優しい先輩のまま青春の輝かしい思い出として永遠にその笑顔をとどめてくれたのにッ!』
 「ちょっと待て、背景でガンガン轟音してるんですけど後悔極まって壁に頭突き!?」
 『おにいちゃんやめて壁が壊れる!』『君、壁の耐震性を試すのはやめなさい』……ユキちゃんの可愛らしい悲鳴と婦警さんのクールな注意、激しく揉み合う気配からすると憶測が的中した模様。
 携帯の向こうで出血するまで壁に額を殴打し、あの日の悲劇を防げなかった後悔と自責に咆哮をあげる聡史に引く。
 悲劇とか惨事とかすでに泥酔した上での醜態の範疇をこえてる。
 神保町遠征を終え麻生のマンションに泊まった夜の記憶は、酒をあおった時を境にプッツリ途切れてる。
 麻生の挑発にのってどっかり胡坐くんでいざ乾杯ー……

 暗転。
 目覚めたら朝だった。

 日はすでに高く、カーテンの隙間から眩い陽射しが入って目を焼いた。
 俺は死体さながらリビングのど真ん中に大の字に寝転がり、現場にはビールや果実酒の空き缶が累々と散乱していた。
 昨夜の事を聞いたら聡史は固く口を噤み、麻生はぱんぱんに膨らんだゴミ袋の口を縛りながら「お前もゴミに出したい」と言い放った。
 ふたりとも目の下に隈ができていた。
 「なあ、教えてくれ。あれから麻生の態度も変なんだけど、あの日、俺、なにやらかしたんだ?」
 『………………』
 「黙るなよ!怖えーよ!」
 『おそろしくて……言えません……あの日の事は……思い出したくない』 
 「思い出したくないって……まさか、脱いでないよな?腹踊りとかしてないよな?」
 『Yの悲劇……』
 「Yの悲劇ってなに!?酔っ払い疫病神ヤンデレヤリチン!?」
 『童貞でしょう』
 「童貞だよ悪いか!?」
 『先輩の尊厳を傷つけ人格を貶める発言は信義に反します。世の中には知らないほうが幸せな真実や暴き立てるべきじゃない秘密がある、日のもとにさらすべきじゃない酔っ払いの醜悪な生態があるんです、たとえるなら悪魔が来たりて笛を吹くの真相のように……四十六番目の密室のように……ああだめだこれ以上はとても、続きは麻生先輩に』
 「おい聡史」
 唐突に切れる。
 「一体何があったんだ……」
 ツーツーと不通音が漏れ出る携帯を手に放心、呆然としゃがみこむ。
 自己同一性の危機に瀕し、床に跪いてたっぷり十秒ほど喪神していたが、喝を入れ思考を切り替える。 
 「秋山くん、今の電話は……」
 「先生、懐中電灯貸してください」
 不審顔の敷島に問答無用で手を突き出す。
 敷島から懐中電灯を借り、ポケットに無造作に突っ込んであった二枚の記事をひっこぬく。
 皺くちゃになった記事を手のひらで撫で付けのばし、床に並べ、懐中電灯の光で照らす。
 携帯の液晶は光が足りず、小さな活字を読むのに苦労した。
 保健室の床に跪き、穴のあくほど二枚を見比べる。
 麻生が残したヒント。数少ない手がかり。
 「必ず接点があるはずだ」
 教師に脅迫され関係を強要された神奈川の女子高生、いじめを苦に自殺した鳥取の男子高校生。
 二枚の記事を熱心に比較検証、隠れた接点をさがす。
 集中時の癖で上唇をちょっとなめ、自分に言い聞かせるように呟く。
 「麻生が無意味なことするはずない、必ず共通点があるはずなんだ」
 「このふたつは麻生くんがのこしたもので間違いないのかね」
 「こっちは教室、こっちは部室。どっちも机の上においてありました。間違いない、麻生はこの記事に託して俺になにかを伝えようとしたんです。重要なメッセージを……でも、肝心のそれがわからない」
 髪をかきむしる。
 敷島が隣に片膝つき手元を覗きこむ。
 懐中電灯の光がくたびれた横顔に隠者っぽい陰影をつける。
 「教室と部室……どちらも麻生くんにゆかりある場所だね。君たちにとって思い出深い場所だ。美術室もそうなのか」
 「……麻生は……あの日、俺を助けにきてくれた。窓ガラスをバッドでぶち破ってとびこんで、自分からボーダーラインをこえて。そういうめんどくせーことしそうにねーキャラなのに。たまたま届いたメールに後ろ髪ひかれて、暗い夜道を突っ走って、まっしぐらにとんできた」
 「そうか……」
 記事に目を落としたまま敷島が感慨深げに呟く。
 「夏休み明け、旧校舎の窓が割られていて騒ぎになった。犯人は見つからなかったが……麻生くんの仕業か」
 ………………………………まずい。
 「あ、いえ、センセ?話せば長いわけがあって、麻生だって別に好きで金属バッドで窓ぶち破ったわけじゃなくてですね、緊急時ゆえしかたなく……そうしねーと俺の貞操の危機に間に合わなくって」
 「わかるよ、青春の暴走だね。私にもそういう時代があった。若者はだれしも通る道だ」
 「いやわかってねーし違いますよ、むかし懐かしむ遠い目で納得しないでくださいよ。共感されても困りますって、麻生は別に学校に不満があって窓ガラス割って回ったんじゃなくて、絶賛監禁放置プレイ中の俺を助けるため泣く泣く金属バッドを手にとり」
 「心配せずとも口外しない。今はそれどころじゃないしね。窓ガラス一枚なら権威に反抗し盗んだバイクで走り出す十七の夜の過ちとして大目に見る」
 「自転車だったんだけど……」
 弁護の成功にひとまず安堵の息を吐く……まだ誤解されてる気がするが。
 寛大ぶってるけど実は思い込みが激しいだけかも、この先生。
 一抹の不信を胸に、懐中電灯をツイと動かし検証作業にもどる。
 「神奈川のレイプ事件と鳥取のいじめ自殺。共通点は被害者がどっちも高校生だってこと、学校が絡んでること」
 「裏を返せばそれくらいしか接点が見当たらない」
 「被害者ふたりが顔見知りだって可能性は……」
 敷島が難しい顔で右の記事を指さす。
 「こっちは十五年前の事件だ。レイプ被害者の女子高生が故人と顔見知りだったとしても、その頃は赤ん坊だろう」
 「ですよねー……」
 俺も同じ事思ったんだけど、指摘されると悔しい。
 かたや神奈川の事件、かたや十五年前の鳥取の事件。被害者が両方とも高校生、現場が学校であることを除けば共通点はない。
 もう一度あたまから読み返し、読み比べる。
 被害者の顔、名前、事件の経緯、加害者のその後……
 脳裏で何かが閃く。
 麻生はこの記事に爆弾のありかがほのめかされてると言った。
 最初の記事を発見した時、一読、告発かと思った。
 その路線を突き詰めて考え、ひとつの可能性が浮かぶ。
 「敷島先生は梶先生と親しかったんですか?」
 「親しいと言えるほどの間柄じゃなかったが、同僚だしね。職員室で話くらいはしたが……彼はまだ二十代で若く外交的な性格をしていたし、私のようなおじさんとは話が合わないよ」
 「梶先生はずっとこの学校にいたんすか?」
 「何が言いたい?」
 敷島の目が胡乱げに細まる。
 柔和な顔に似合わぬ眼光の鋭さに生唾を呑む。
 二枚の記事を交互の手にとりあげ、話す。
 「麻生が梶先生を狙った動機を考えてたんです。さっき麻生ほど頭がいいヤツが無差別殺人に走るとは思えないって言ったっしょ、同感です。梶先生を狙ったからにはちゃんと理由がある。で、ぱっと思い付いたんです。記事で動機をほのめかしてるんじゃないかって」
 「続けなさい」
 教壇に立った時とおなじ温和な口調で促され、手に持った記事を順番に示す。
 「鳥取と神奈川、一見接点はない。でも、どっちも高校でおこった事件だ。教師でも異動ってありますよね?被害者が繋がってる線が薄いなら、加害者が繋がってる線はないかって、ふっと思ったんです」
 レイプ事件の見出しといじめ自殺の見出しを懐中電灯で順番に照らし、暗鬱に呟く。
 「仮に、だけど。梶先生が十五年前鳥取でいじめられた生徒を見殺しにして……その後神奈川に異動して脅迫に関与してたら、恨まれる動機は十分あるんじゃないかって……」
 「憶測でものを言ってはいけない」
 「思いつきで言ってるのは認めます。でも梶なら、あいつなら……」
 あいつなら人に恨まれる要素は十分ある。
 現に俺だって、あいつを憎んでる。
 敷島がため息をつく。
 「残念だがはずれだ。梶先生は教員免許をとってすぐこの学校に来た、六年前だ。十五年前の事件に関わってるはずがない」
 「……は、はは。やーっぱそうですよね。先走りすぎちゃったかも……」
 冷静に考えれば現在二十代後半の梶が十五年前の事件に関与してるわけがない。計算が合わない。
 待てよ。
 梶は今年で三十だったはず、ということは十五年前は十五歳、高校一年生と仮定する。
 いじめ自殺に追い込まれた被害者も同い年、当時の同級生の可能性は?
 加害者の氏名は公表されてない、当時の加害者が成人し教師になったとしたら……
 「梶先生の出身地は?」
 「ここだよ。父親は地元の有力者、市議会議員。東京の大学を出て戻ってきたそうだ」
 「へえ、金持ちのお坊っちゃんだったんだ。どうりで」
 どうりで威張ってるはずだ、と後半は口の中で呟く。
 またはずれ。俺の推理はいっかなあたらない。
 この記事が動機をほのめかしてるというのは思いすごしか?
 トランプを切る要領で記事をシャッフル、どうにも手札が少なすぎて糸口が見つからない。
 「~麻生のヤツめ、もうちょっとわかりやすいヒントくれよ」
 液晶のデジタル時計が残酷に時を刻む。
 腕時計の秒針が小刻みに走る。
 常に時間の経過を意識させられ、神経がささくれだつ。
 苛立ちまぎれに髪をかきむしる俺を心配げにのぞきこみ、敷島が強い決意をもって口を開く。
 「今からでも遅くない秋山くん、後の事は私に任せて家に帰るんだ」
 「そんないまさら……」
 「悪趣味なゲームに巻き込まれて家族や友達をおいて死んでもいいのか?」
 真新しい包帯を巻いた手が肩にかかる。
 闇に浮かび上がるその白さが麻生の悪意を象徴してるようで、不吉さを一層引き立てる。
 敷島が俺の肩を掴み、自分の方を向かせ、妥協を許さぬ眼差しで言う。
 「これはもうゲームじゃない、れっきとした傷害事件かつ犯罪だ。軽い気持ちで首を突っ込めば怪我をする。私としてもこんな言い方はしたくないが……君んちは母子家庭だろう?妹さんはまだ中学生だ。万一の事があったらお母さんが嘆く、妹さんも泣く。今ならまだ間に合う、君を待つ人たちのところへ早く帰るべきだ」
 脳裏に浮かぶお袋と妹の顔を無理矢理かき消し、肩を掴む敷島の手から身をよじって逃れる。
 「手紙を見せてください」
 「………決意は固いのか」
 「はい」
 「心中する覚悟はあるのか」
 「ないっすよ、んなもん。俺、絶対生きて帰るんだから」
 麻生と一緒に。
 説得が受け入れられなかった失意に沈む敷島に、多分に虚勢と希望的観測の入り混じった笑みを浮かべてみせる。
 観念したようにため息ひとつ、ためらいがちに背広の内をさぐるも、次第に顔色が蒼ざめていく。
 「…………センセ?」
 笑顔が引き攣る。
 敷島が体ごとこっちに向き直り正座、爆弾発言。
 「すまない、秋山くん。おとしたみたいだ」
 「―はあ!?」
 脳天から素っ頓狂な声を発する。
 抗議の声を上げ腰を浮かせる俺の正面、きちんと正座した敷島が不面目に頭をさげる。
 俯いた表情は窺えないが、膝に指が食い込んでる。
 「おとしたって、え、な、はあぁあああっ!?冗談っすよね!?」
 「旧校舎からもどる途中でおとしたみたいだ……ばたばたしていたから気付かなかった」
 「気付かなかったって先生ことの重大性わかってんの、あれ第三のヒントだよ、ピースが足りなくなっちゃうじゃん!?意味不明な記事も第三のヒントを足せば劇的な真相が浮かび上がるかもしれねーのに先生がドジったせいで振り出しだよ!?」
 「申し訳ない」
 どうぞ好きなだけ罵ってくれと深々うなだれ、全身で謝る敷島が批判の気勢を削ぐ。
 怒鳴り飛ばしたい衝動を辛うじて堪え、こうしちゃらんねえと回れ右で引き戸を開け放つ。
 「くそっ!」
 「秋山くん!?」
 「捜しに戻ります!」
 保健室を後に一散に駆け戻る。
 旧校舎美術室から新校舎保健室までだいぶ距離がある。タイムロスを呪う。
 来た道を全速力で駆け戻る俺を敷島が追い、苦りきった面持ちで詫びる。
 「私のせいで迷惑を……」
 「いーってもーわざとじゃないんだから、気付かなかった俺も間抜けだから言いっこなし、謝ってるひまあんあら目を皿にして手紙を……おっことした場所心当たりねーの!?」
 頼りなく首振る敷島に舌打ち、懐中電灯を持って先導しながら廊下のすみずみに素早く目を走らせる。
 ここもちがう、ここもはずれ、ちがう、ちがう、ちがう……新校舎の階段を駆け上がりつつ懐中電灯を操作、足元に目を配る。
 スニーカーの靴裏で階段を叩く、踊り場を抜けて二階へ、闇に沈む床を光の円盤で薙ぎ払う。
 
 回線が接続する音がし、続いて不快な雑音が空気に混ざる。
 
 『ー……が……で………』
 「!?」
 階段の踊り場で硬直、打たれたように頭上を仰ぐ。
 手摺にすがって息を切らした敷島もまた異状を察し、目を細める。
 「校内放送……?」
 スピーカーから放たれるノイズまじりの声はひどく聞き取り辛い。
 「麻生か……?」
 単純な消去法の帰結。
 俺たち以外にはだれもいないはずの校舎で、突如放送が流れたとしたら、黒幕は麻生だ。
 踊り場に立ち竦み、敷島とふたり背中合わせに耳をすます。
 『………いまさら抜けたいなんてなしだ……お前はさからえない……こっちには証拠がある……』
 聴覚を研ぎ澄まし音声の断片を捉える。
 『脅迫?……構わない………お前……俺……共犯………破滅……ザマケイ……』

 ザマケイ?

 不透明な雑音の膜が張った低い声に、脳の奥で既視感がふくらむ。
 俺は、この声を知ってる。
 「…………梶……?」
 脅すような凄みを含んだ低く太い声は、たしかに梶のもの。
 一喝されるたび心臓が止まりそうになったが、今スピーカーから放たれる声は優位を誇示する者特有の尊大ぶった余裕を含んでいる。
 「なんで梶が……爆発に巻き込まれて病院送りになったはず……幽霊なんてオチ」
 あるわけない。
 でも現実に、スピーカーの向こうでは人が、重傷負って病院送りになったはずの梶が得々としゃべってる。
 幻聴?空耳?心臓の鼓動が爆発しそうに高鳴り全身の毛穴が開いてドッと汗がふきだし、待て、平常心を保て、この放送はどこかおかしいノイズが酷い内容も不自然だ、まるで誰かと話してるような、相手の声だけ巧妙に消音処理を施したようなブツ切り……  
 「!?先生っ、」
 突然、敷島が駆け出す。
 それまで慄然と虚空を凝視していたが金縛りがとけ、踊り場を抜け、追い縋る俺を一顧だにせず廊下を疾走する。
 「待って先生懐中電灯もってねーのに危ねーって、今行くから……」
 「放送室だ!」
 「え?」
 「麻生くんは放送室にいる、放送室からこれを流してるんだ!」 
 敷島の目的が分かった。
 校内放送から麻生の現在地を突き止め、まっしぐらに目的地をめざす敷島に触発され、懐中電灯をもって駆ける。
 息切らし走る間も放送は続く、校内に複数設置されたスピーカーから断続的にノイズが挿入され不自然に途切れる声で『……お前は逃げられない……を、殺したのはお前だ……罪の意識に縛られてる……抜け駆けしようったってそうはいくか……』断線『逃げられない……を、殺したのはお前だ……』リピート『ザマケイ』断片『呪われてるんだ』リピート『俺?』嘲笑うような勝ち誇るような『これからもお前がいれば』詭弁を弄しなだめすかし『うまい汁吸わせてやる』猫なで声で懐柔する『お利口さんにしてろ』……
 『忘れるな、俺とお前は共犯だ』
 二十メートル先に放送室が見えてきた。
 放送室まで二十メートルを残す廊下のど真ん中で携帯が鳴り、反射的にとり、怒鳴る。
 「麻生、お前、そこにいるのか!?」  
 『カメラオブスキュラ』
 「は……?」
 『次のヒントだよ。カメラオブスキュラだ。よく意味を考えろ』
 「なっ……、まだこのくだらねーゲーム続ける気かよ敷島まで巻き込んどいて!?」
 床板が軋む。走る。日常が破綻する。世界が歪曲する。視軸が伸縮する。足が萎縮する。
 「さっきの手紙何が書いてあったんだ、大切な事か、俺に伝えたいことなのか!?だったら手紙に頼らず直接口で言えよ!!」
 『お前、悪童日記読んでどう思った?』
 悪童日記。
 麻生に借りて読んだ本。
 『悪童日記は戦火を逃れるため狂人的な祖母の元に預けられた双子の兄弟の奇妙な生活を描く。作中を通して性描写が多く、不純異性交遊、児童買春、逆レイプ、集団強姦など生々しい描写のオンパレードとなっている。……賛否両論、好き嫌いがわかれる話だ』
 面白いよ。……興味深い。
 細胞分裂でも観察するような静かに凪いだ声を思い出す。
 「俺、は……途中までしか読んでないけど、なんか、気持ち悪かった。面白かったけど、作中おこってることはすげー悲惨なのに、描写が淡々としてて。主人公の双子はまだ小せえのに、世界を斜めに見てるみてーな妙に冷めたところがあって……お互い傷つけあって痛みに耐える訓練とか、ぞっとした」
 『健全な感想。お前らしい』
 「予想してたのか、返し」
 『一年近く付き合ってりゃいやでもわかる。覚えてるか、秋山。あの日お前、酔っ払って』
 「途中までしか覚えてねーよ、酒飲んだとこから記憶がねー、一体全体俺なにしでかしたんだ!?」
 『吐瀉物の後始末させられた』
 「……ごめん、ほんとごめん、それは謝る。謝るけど、もとはといえばお前がヤケ酒かっくらってイッキ強要したのが」
 『俺とはちがうんだな』
 
 硬直。 
  
 『俺が共感した双子にお前は嫌悪を抱いた。俺たちの価値観は相容れない。どこまでいっても二本の平行線だ』
 
 あの日重なり合った線がすれ違い、二本の平行線に分かれていく。
 いや。
 重なり合ったと思ったのは俺だけだったのか?

 俺を置き去りに敷島が放送室のドアノブに手をかけ、おもいっきり引く。
 愕然と剥かれた目、戦慄に凍りつく横顔。
 敷島の視線を追って放送室の中を覗きこみー

 
 暗闇の中、引き絞られた矢先がこちらを狙う。


 「!危ね」 
 携帯を投げ捨て、膝を撓め、跳ぶ。
 猛然と敷島を押し倒す、敷島の前髪が風圧で浮く、頬にマッチで擦ったような一瞬の灼熱、泳ぐ四肢傾ぐ肩を鋭利な風が削り背広が裂け床と激突打ち身の痛み、ふたり縺れ合って転倒した背後で鈍い音、壁を穿つ太い矢ー……
 ボーガン。
 ドアの開錠に連動してボーガンが作動する仕組みだった。
 照準はドアを無防備に開けた侵入者の中心に絞られていた。 
 押し倒すのがあと一秒遅れていたら敷島は胸を貫かれ即死していた。
 たった今、猛烈な勢いで風切る矢を射出した異形の装置が、暗い放送室の中心で異様な存在感を放つ。
 「………はっ、ひ………ひあ」
 間一髪、命拾いした敷島が腰をぬかし喘ぐ。
 そんな敷島を、俺も笑えない。
 互いに寄りかかるようにして体を支えていたが、漏らさんばかりに膝が笑っていた。
 敷島と一緒に尻餅つき、壁に深く突き立つ矢を恐怖に蒼ざめ見上げるうちに、どこからか声がする。
 『く………はははははははっ!』 
 「麻生…………?」
 カメラオブスキュラの中から響く哄笑。
 暗い箱の中で反響し狂気を増幅する笑い声。
 よく考えれば校舎自体が巨大なカメラオブスキュラで俺はその中に閉じ込められて笑い声を響かす携帯も箱で、箱の中に箱があって入れ子細工で次元が歪み、麻生は一筋の光も通さない暗い暗い二重の箱の中で屈託なく笑ってる。
 『命がけのゲームだ。勝ち残りたきゃもっと慎重になれ』
 宣言し、携帯が切れる。
 敷島を助け起こし、前方の闇に目を凝らす。
 射出機の後ろ、操作盤の音量調節レバーにぶらさがった紐の先で小型のテープレコーダーが回ってる。
 レバーにひっかけたレコーダーの中でテープが巻かれきり、それまで続いていた梶の声が、ようやく終わりを迎え途絶える。
 熱風伴う高速の矢が掠った頬をぬるい液体が伝う。
 「秋山くん、ち、血が……」
 へたりこんだ敷島が、裂けた頬から滴る血を指さし戦慄く。
 拭うのも忘れ頬から顎先へ伝った血が足元の床を点々と叩く。
 麻生は俺の命を狙ってる。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010327143212 | 編集

 朝起きて、目を開けたことを後悔する。
 9月1日。
 今日なんて来なけりゃいいのに。

 「おかーさん醤油とって」
 「はいはい醤油ね……ぷっ」
 「はやく醤油ちょうだい、私朝食べる目玉焼きには醤油派なんだから」
 「いやね、今面白いこと思いついちゃって……聞く?聞きたい?」
 「聞きません」
 「ほら、この醤油濃い口でしょ?濃い口醤油、こいくちしょうゆ、こんちくしょうゆ……ぷぷっ」
 我が家の朝はお袋の脱力ギャグで始まる。
 「………朝から超~テンションさがるんですけど……」
 現在中二、反抗期真っ盛りで可愛げない妹が箸を持ってげんなりする。
 透明人間に相槌でも打ってんのか「濃い口醤油がこんちくしょうゆ、あはははっ面白い~天才じゃないのお母さん、笑いの才能に列島震撼だわ」と左手をはたはた振りながら笑い転げるお袋の震えが伝わり、右手に持った瓶が鹿おどしの如く傾ぐ。
 「お母さん醤油、座布団に染みついちゃうから!あーもう一人でバカ受けしてないでさっさと貸してっ!」
 金切り声で喚く妹は地元の公立中学に通う。
 白地に紺リボンの正統派セーラー服のスカート丈は膝小僧が見えそで見えない絶妙にして微妙な長さ、校則にぎりぎり違反しない際どい線を見極める狡猾な知能犯。ミスマッチなことにいまどき都会じゃ廃れたんじゃねーのって感じのルーズソックスをはいてる。
 余談だが俺は地元の女子中高生がルーズソックスで闊歩する姿を見るにつけ心の中で「象足」と呼んでる。ルーズソックスよりよっぽどぴったりな名称だと思う。ばれたら張り倒されそうだけど。
 それはおくとして、兄の贔屓目をぬきにしてもまあ可愛い顔をしてる。
 濃い睫毛が跳ねるアーモンド形の目。勝気そうな顔だちに憎めぬ愛嬌を足すちんまり低く丸い鼻も、本人はコンプレックスだそうだがこれはこれで童顔好みの男心をくすぐると思う。とびぬけた美人じゃないがファニーフェイス寄りのベビーフェイスは雑種の子犬のように人懐こく好感もてる。
 嫁にはやらんが。
 もとから色素が薄く茶がかった髪をお転婆そうなポニーテールにし、座布団の横に鞄をおいた妹は、自分の発言に大受けして朗らかに笑い転げるお袋の手から醤油の瓶をひったくるなり「もーお母さんてば、いい年して笑いの沸点低すぎ」と目玉焼きに注ぐ。
 「兄貴、醤油は?」
 「え?ああ、やる」
 「もうかけたし。じゃなくて、目玉焼きにかけるんじゃないの?」
 「ああ、うん。目玉焼きにはやっぱ醤油だよな」
 訝しげな妹に上の空で受け答えする。
 綺麗なアーモンド形の目を意味深に細め、探るように俺を眺める。
 「兄貴、なんか変。寝ぼけてんの?」
 「ちょっとな……」
 「透、あんたまたゲームで徹夜したでしょ?だめよ、もう夏休み終わりなのに~」
 天然マイペース早合点の三拍子そろった愉快で陽気で時々うざいお袋が、おきあがりこぼしのように座布団に跳ね起きる。 
 蒸発した親父に代わり、親父の分まで朝早くから夜遅くまで働き詰めで家計を支えるお袋だが、無限のバイタリティからするとまだ当分過労死しそうにない。息子としちゃ安心するやら疲労するやらだ。
 夕飯は俺と妹が一日おきに交替で当番するが、朝は大抵こうして家族三人顔を合わせ朝食をとる。
 親父が蒸発してからこっち苦労し通しで皺が増えたお袋。
 これでも昔は美人だったのよと冗談とも自慢ともつかず屈託なく笑う。
 親父の蒸発を機に経済的に追い込まれ、一軒家から築二十八年の借家に越して、デカブツで場所ばかりとるダイニングテーブルが消えた。
 今は俺と妹とお袋の三人、畳の上で飯を食ってる。
 前の台所に陣取っていた貫禄あるテーブルは三人で使うには広すぎる。
 四人ならちょうどよくても、どうしても空席が目立ってしまう。
 俺は今のちゃぶ台が一回り成長したようなこじんまりしたテーブルが好きだ。醤油の受け渡しがスムーズに行えるし、なにより話し手との距離が近い。
 借家に引っ越してからこっち本当に色々あった。
 この家に越してから辛いこと楽しいことを沢山経験した。
 板張りの床にも階段にもラップ音が絶えぬ天井にも思い出が染みついてる。
 安普請の借家には両手で持ちきれない思い出が詰まってる。
 「あんた、寝ぼけてんの?お椀もったままぼーっとしちゃって」
 お袋の声が感傷的な物思いを破り、俺を騒々しい現実へと引き戻す。
 「おかわりは?」
 俺は毎日ごはんを二杯食べる。
 座布団横に準備した炊飯器の蓋を開け、すでによそる気まんまんでしゃもじを構えるお袋に、喉元まで込み上げた台詞をぐっと飲み込む。
 「多めにしてくれよ、今日からガッコだから体力つけねーと」
 「はいはい。……ったく、ひょろひょろしてんのによく食べるんだからこの子は。もうちょっと鍛えないと女の子にモテないわよ?母さんの子だけあって素材は悪くないのにもったいない」
 「そーそー。兄貴ってよーく見れば顔はそんなに悪くないんだから。中身はオタクだけど」
 お袋は実に嬉々として飯をよそる。
 しゃもじで押し付けるようにして大盛り一杯ご飯をよそる節くれだった手に目がいく。主婦業とパートを掛け持ちする肌荒れした働き者の手。しゃもじを握る右手の反対、お椀を支える左手の薬指にくすんだ指輪がはまってる。
 それを見るたび、たまらない気持ちになる。
 お袋から椀を受け取り、箸を持ち直し、むりやりかっこむ。
 味噌汁を行儀悪く音たて啜り、目玉焼きを切って放り込み、気持ちいい食いっぷりを演じる。
 隣で妹が「よく噛まないと喉詰まらすよ」と上品ぶって眉をひそめる。
 「じゃ、母さんパートだから。昼ごはんと夕ごはん、ちゃんと食べなさいよ」
 からっぽの食器を重ねて持ってお袋が立ち上がる。
 暖簾をくぐり、台所へ行き、蛇口をひねって流しに汚れ物を浸す。
 出かける前に鏡に向かい髪をひっ詰め化粧むらがないか点検、「口紅のりが悪いわねえ」と頬に手を添え嘆く。
 今年で四十三か四か。
 鏡と向き合って丸まった背中は所帯じみて人生の辛酸が滲む。
 妹が「ごちそうさま」と台所へ消える。
 箸をがむしゃらに動かし飯をかっこみ、口の中のものを味噌汁で流しこみ、「ごっそさん」と後に続く。
 台所から廊下に出れば、お袋はすでに玄関に移動していた。
 「いってきまーす」
 俺の横を疾風の如く妹が素通り、板張りの床が軋む。
 玄関に揃えた靴に足をすべりこませ、はや出て行こうとしたその手を、お袋がむんずと掴む。
 「いってきますじゃないわよ。あんた鞄になに入れてんの、また漫画?」
 「え、なんでわかったの?」
 「今日は授業ないでしょ。なんでカタカタ音すんのよその鞄。いいから見せない」
 「ちょ、プライバシー侵害反対!返して!」
 妹の手から鞄をひったくるや中を点検、お袋の目尻が吊り上がり神経質に小皺波打ち般若の形相に変じる。
 「あんたって子は……学校に漫画雑誌なんか持ってって没収されても知らないわよ!?」
 「漫画じゃないもんファンロードだもんユキに貸すって約束しちゃったんだもん!!」
 「漫画みたいなもんでしょ!おにいちゃんの悪い影響ばっか受けて……」
 「酷い兄貴と一緒にしないで、私はファッションとオタク趣味の両立めざしてんだから家じゃいつもジャージな兄貴と一緒くたにされたくない!」
 「とにかくこれは没収ね」
 「酷い!お母さんのケチ!今月号のシュミ特私の投稿のったのに、ユキに見せるって約束しちゃったのにー!」
 玄関先で喧嘩する二人を盗み見、廊下を真っ直ぐ行った突き当りのトイレに駆け込む。
 力一杯ドアを閉じる。
 安普請の壁に振動が走る。
 ドアを隔てた背後で口論の声が響く。
 軽くあしらうお袋の声、地団駄踏んで抗う妹の声、毎朝おなじみのやりとり、毎朝おなじみの……

 「がはっ!!」

 便器を抱え込んで激しく嘔吐。
 喉が一本の管になったように今食べたばかりの朝飯が逆流する。
 トイレに顔ごと突っ込み、胃の中身を洗いざらいぶちまける。
 苦い胃液が口に満ち、口の端から黄色く粘った糸引く。
 ドアの向こう側で他愛ない日常が続く。
 お袋と妹がやりあってる、言い争ってる、玄関先で早く出かけねえと遅刻するのにこりずにあんたはスカートが短すぎる校則違反してないんだからいいじゃん母さんこそ化粧濃いよ仕方ないのよ曲がり角だからもうとっくに曲がってるじゃん、あー女って怖え、駄目だ、また来た、便器に縋って嘔吐、塊が喉を押し塞ぐ苦しみで生理的な涙が浮かぶ。
 「げほごほっ……」
 トイレまでなんとか保ってよかった。
 二人とも気付いてない、セーフ。
 便器に凭れ、肩で息をし、手の甲で顎を拭う。
 口の中にねっとり苦味が満ちる。
 余力を振り絞ってレバーをおろし、水を流す。
 勢いよく吐瀉物を押し流す飛沫が頬にはねる。
 レバーから力尽きたように手がおちる。
 トイレの床にしゃがみこみ、便器に顔を突っ込んだまま扉を隔てた口論を聞く。

 9月1日。
 二学期の始業式。
 夏休み明け、最初の登校日。

 「………ループ………しねーかな……夏休み」
 日常にバグが発生して。
 最終日に来るとまた振り出しにもどって、夏休みが永遠に続くんだ。
 たしかそんなゲームがあった。
 ずっと夏休みならよかった。夏休みが明けなけりゃよかった。
 学校、行きたくねえ。
 「………なんて……はは、言えるわけねーし………」
 俺自身もいっそ流してしまいたい。
 弱音と一緒に、惰弱な心と一緒に、トイレに流しちまいたい。
 不要物なんだから。いないほうがいいんだから。
 このまま居残ったって迷惑かけるだけなんだから。
 結局家出の決心はつかなかった。
 麻生のマンションに外泊以降、胸の内でひそかに温めていた家出の計画は実行に至らぬまま、煮え切らずに日々がすぎた。
 麻生や聡史とだらだら過ごす毎日が居心地良くて、その居心地よさにどっぷり浸って、甘えの依存が出て、一日一日と家出を延期した。
 お袋と妹の顔を見るたび、気丈ぶって軽口を叩くたび、決心が鈍った。
 早く出なければいけないと頭じゃ分かっていても未練を断ち切れなかった。
 俺が消えりゃすべてまるくおさまるのに。
 分かってる、分かってるよそんなこと。
 俺が単身地元を離れればまさかボルゾイだって追ってこないだろう。
 ボルゾイが掴んだ証拠、俺の痴態を撮った写メは本人がいてこそ効力を発揮するもんだ。
 ネットに流すぞと脅したところで本人が消えちまえば使い道はない。人一倍臆病で保身に敏感なボルゾイが、へたしたら警察沙汰になりかねぬリスクを犯してまでネットに写メを流す利益はない。
 夏休みの間がチャンスだった、執行猶予期間だった。
 夏休みが明けるまでに家を出れば、地元を離れて誰も知らない町に逃げれば、ボルゾイの手が届かないところへ逃げちまえば自由になれた。
 俺が地元から姿をくらませばボルゾイが持ってる証拠、俺の弱み、あの写メは、宝の持ち腐れになりさがる。

 逃げるんだ、今のうちに。
 手の届かないところに。
 家族や友達、地元と縁を断ち切って、完全に自由になるんだ。

 本気で家出を考えた。毎日毎日考えた。考えない日はなかった、一日も。
 必死に考え考え抜いてそれでも決断できなかった、どうしても。
 土壇場で臆病風が吹いた。
 今日じゃなくてもいいだろうと優柔不断につけこんでだれかが囁く。
 まだ日は残ってる、まだいいだろう、まだ……
 知らない町に行くのは不安だ。地元を離れるのは不安だ。お袋と妹を残して家を出るのは不安だ。
 俺はもうすぐ十八だ。
 裏っ返せば、まだ十七だ。
 まともなとこじゃ雇ってもらえない。新聞配達とバイトで貯めた金もアパート借りれば殆ど消える。ガスは?水道代、電気代は?一人で生活してくには金がかかる。高校生活にも未練がある。俺はもっと勉強したい、勉強して色んなことを知りたい、友達とバカ話して青春を満喫したい。せっかく麻生と友達になれた、もっと遊びたい、色んな話をしたい、アイツのことを知りたい。

 こんな形で別れたくねえ。

 「…………っ………、」
 嗚咽が熱い塊となって喉をせりあがる。
 今からでも遅くない、家を出るんだ。学校行くふりをして、さりげなく家を出て、ふらっと……「いってきます」って嘘吐いて。あの日親父が何食わぬ顔でそうしたように。
 準備は万端だ。
 部屋のベッドの下に身のまわりのもの一式を詰め込んだスポーツバッグが隠してある。給料袋に入った現金は当面の生活費、アパート借りるにも謄本や敷金が必要、保証人後見人がいなきゃ借りられない、だから適度に猥雑な街のカプセルホテルに泊まって今後の身の処し方を検討する。
 今からでも遅くない、学校行くふりで駅に向かって、そのままー……
 きつく目を瞑る。
 額にふつふつと脂汗が滲む。
 目を瞑るたび、嗜虐の愉悦に歪むボルゾイの底意地悪い笑みが闇に浮かぶ。
 よってたかって俺を嬲りものにした同級生の下劣なツラと哄笑が渦巻く。
 体重はまだ回復してない。回復する兆しもない。
 下腹を覆っていた濃淡のまだらは消えたが、学校が再開すれば、また新しい痣ができる。

 『夏休み明けが楽しみだ』

 ボルゾイの勝ち誇った声が耳に響く。

 『二学期から晴れて俺たちの奴隷だ。ここにいる全員しゃぶって、ケツ掘らせて、公衆便所になってくれよ。登校拒否とか転校とか考えるなよ、んなことしたらお前の恥ずかしい写メが学校中……ネットで全国に出回るからな。家族そろって地元にいられなくさせてやる。引越し先でも地獄が待ってる。諦めてペットになれよ、秋山。可愛がってやるからさ。俺たちが卒業するまで、いや、学校出てからも一生ー……』
 「うるせえ変態野郎、寝言ほざいてろ」
 『アルコールランプの火を内腿に押しつけて焼印くれてやる。安全ピンを乳首にさしてやる。ローターケツに突っ込んで校庭十周させてやる。逃げようなんて考えるなよ、秋山。お前の大事な大事な家族が破滅する』
 「知るかよ」
 『二学期、ちゃんと学校来い』
 「知るか」

 ボルゾイなら、アイツなら、きっと実行する。
 今度こそ耐えられない。
 現に体が拒絶反応を示している。
 登校を目前に控え、猛烈な吐き気に襲われ、トイレに逃げ込んだ。

 どうする?
 どうするんだ?
 どうすればいい?
 どうすれば逃げ切れる?
 だれか教えてくれ

 「兄貴?」
 外からドアが叩かれる。
 便器から顔を上げ、背後のドアを注視する。
 「まだ入ってんの?いいかげんにしてよもー、兄貴だけのトイレじゃないんだから」
 「早くしないと遅刻しちゃうわよ、透」
 何も知らない妹が間延びした声で非難を浴びせ、和解に至ったお袋も加勢する。
 便器に片腕を置いたまま、凝然とドアを見詰め、さっきまで朦朧と考えていた事を反芻する。

 逃げる?
 ふたりを置いて、俺一人安全圏に逃げ出すのか?

 萎えた膝を叱咤し立ち上がり、レバーをおろし、水を流す。
 鍵を開錠してドアを開ければ、妹がふくれっ面で拳を掲げていた。
 「るっせーな、ぎゃあぎゃあ。クソくらいゆっくりさせろっての」
 「なっ……妹の前でクソとか最低!?」
 「トイレに漫画持ち込んでお楽しみなヤツにそんなお上品な非難されたかないね」
 「ちょ、なんで知って……あれはだってトイレなら邪魔入んないし集中して読めるから!」
 顔を赤くして弁解する妹に背を向け、足早に装い廊下を歩き、玄関へ向かう。
 玄関の脇に立ったお袋の物言いたげな視線を感じつつ靴を履く。
 「透、あんたそろそろ靴買い換えたら?ぼろぼろじゃない」
 「いいよ、別に。まだ履けるし」
 そっけなく返せば、お袋は言おうか言うまいか上唇をなめ迷っていたが、肩にかけた鞄を抱えなおし切り出す。
 「自分が働いて稼いだお金なんだから、自分のことに使っていいのよ」
 集中した時、迷った時、舌先で上唇をなめる癖。俺にも遺伝した癖。
 鞄の紐を握る左手薬指で控えめに存在を主張する、輝きの鈍った結婚指輪。
 トイレを速攻で終えた妹が慌しく靴を履き今度こそ「いってきます!」を言い表に飛び出す。
 頭の後ろで元気に跳ねるポニーテールと快活な走り、翻るスカートから覗く足と、玄関の中、困ったように微笑むお袋を見比べる。
 
 『透 母さんと真理をよろしく頼む』
 なあ親父。
 俺は、誰によろしくしたらいいんだ?

 生活苦の皺を刻む柔和な笑顔と、清廉な朝の光の中、活発に駆けていく妹の後ろ姿を見比べる。
 王手がかかった気がした。
 「いってきます」
 「いってらっしゃい」
 履き潰したスニーカーに足をもぐらせ、玄関を出る。
 「おはようございます、先輩!」
 家の前に聡史がいた。
 「あらおはよう聡史くん。うちの迎えにきてくれたの、ご苦労さんね」
 「いえ、後輩として当然の勤めっすから!」
 前の通りで待っていた聡史と別れ、お袋は駅の方へ歩いていく。
 「よ、聡史。今日から新学期だな」
 「新学期っすね。二学期もよろしくおねがいします、先輩!」
 「……だよな。やっぱそうなるよな」
 「え?」
 「いやさ。やっぱ俺しかいねーよな、よろしくされるの」
 上手く笑えた自信は毛頭ないが、勘ぐられない程度の演技はできた。
 庭から自転車をとってきて聡史と合流する。ちんたら歩く俺たちを自転車の学生が追い越してく。
 「……サボりてえなあ」
 「新学期早々ローテンションですね」
 「このままサボっちまうか」
 「え?それって二人でってことですか?」
 「誰も知らない町に行きたい」
 「駆け落ち……!?そんな大胆な」
 「飛躍しすぎ」
 会話は上の空で上滑り、聡史が隣で何かしきりにしゃべってるがまったく耳に入っちゃない。
 地に足が付いてる気がしない。
 スニーカーの底で踏むアスファルトの地面が現実と剥離し、やけに遠く感じる。
 逃避の願望に鈍る足を惰性で動かす。
 胃のあたりにしこりができる。
 駅は反対方向だ。駆け戻るなら今だ。今なら家にだれもいない、飛んで帰ってスポーツバッグを持って、電車に飛び乗って知らない町へ……
 家族を捨てるのか?
 見慣れた通学路がよそよそしい顔を見せる。
 等間隔に並ぶ電柱、塀、郵便ポスト、公園……学校に行くまでに存在するさまざまなものが、配置はそのままに、真昼の月のような他人の顔で俺を拒絶してるように思えてならない。
 「あ」
 顔を上げ、正面を見る。
 麻生がいた。
 学校へと続く長い長い坂の始点に立ち、文庫本を開いていた。
 声をかけるより先に顔を上げ、こっちを見る。
 器用そうな長い指でしおりを挟み、本を閉じる。
 「遅い」
 「ーって、お前、なんで?」
 「待ってたんすか?」
 眼鏡の向こうで軽蔑的に目が細まる。新学期から不機嫌そうだ。
 まともに口をきくようになって四ヶ月が経過するが行きが重なったことは一度もなかった。
 「別に」
 そっけなく答え、先に立って歩き出すのを慌てて追う。
 聡史と麻生と俺と三人で、精白のシャツの群れに紛れ、長い長い坂をのぼる。
 俺たちを颯爽と追い抜き自転車の車輪が回る。
 見慣れた通学路を気安い人間に挟まれて歩くうちに、萎縮した舌がいつもの調子を取り戻し、また軽口が叩けるようになる。
 「江戸川乱歩の初期の名作といえばやーっぱ二銭銅貨だよな。とぼけたオチがまた憎い」
 「俺は小林少年シリーズが好きっすけどね」
 「乱歩は短編もいいんだよ。二銭銅貨は書生ふたりが下宿でしゃべってるだけの話なんだけど、ああでもないこうでもないと推理するうちにどんどん枝葉が広がってくのが面白いんだ」
 「安楽椅子探偵ならぬお座敷探偵っすね」
 「お、うまいこというな」
 俺たちの会話を聞き流し麻生は本を読む。
 ミステリ談義に混ざらず読書に没頭する優等生の横顔へ話をふっかける。
 「麻生は乱歩読んだ?」 
 「ああ」
 「何?」
 「人間椅子はおもしろかった」
 「だろ!?だろ!?名作だよな!!俺小学校ん時にあれ読んでしばらく椅子に座れなくなっちゃったんだよな~しばらく座布団ひっくりかえして裏側じっと見る癖がなおんなくて、お袋に早く食べちゃいなさいって叱られて」
 「座布団は関係ないだろ」
 「気分の問題」
 「人でなしの恋とか。ロマンス作家だよな」
 「わかる!?わかってくれる!?江戸川乱歩は猟奇推理小説で名を上げたけどその深層には純愛がひそんでるって常々思ってんだよね俺は、芋虫も見方を変えりゃ究極の夫婦愛小説だし」
 「マジっすか先輩、芋虫ってあれっすよ、井戸っすよ、ドボンっすよ!?」
 「最後の一行がトラウマなんだよな~」
 坂が終わる。
 学校が見えてくる。
 門の前で足が止まる。
 「先輩?」
 聡史が振り返る。麻生が振り向く。
 学生が門の内へ駆け込んでいく。
 正面に威圧的な校舎が聳える。
 深呼吸し一歩を踏み出す。
 汗ばむ手で鞄の吊り紐を掴み、校内へ入る。
 一年と二年は使う玄関が違う。
 校舎の前で聡史と別れ、麻生と一緒に下駄箱で靴を脱ぐ。
 三階、見慣れた廊下。
 2-Aの表札が出た教室の引き戸の前で立ち尽くす。
 引き戸一枚隔てざわめきが伝わり、足が凍り付く。
 引き戸を開けた瞬間、紛れ込んだ異物を見る白けた空気と視線の集中砲火を予期する。
 ボルゾイはもういるか、きてるのか、机に座ってるのか。ボルゾイの机のまわりにたむろった同級生のにやにや笑い、駄目だ意識するな全身の毛穴が膨らみ汗が噴き出す、膨張した恐怖が心臓を蝕み血中にドーパミンが拡散し妄想が暴走、イヤだ、思い出すな、引き戸に手をかけ硬直『夏休み明けが楽しみだ』ボルゾイの勝ち誇った声が耳に響く『二学期から晴れて俺たちの奴隷だ。ここにいる全員しゃぶって、ケツ掘らせて、公衆便所になってくれよ』なりたくねえ『登校拒否とか転校とか考えるなよ、んなことしたらお前の恥ずかしい写メが学校中ネットで全国に出回るからな。家族そろって地元にいられなくさせてやる』逃げてえ『引越し先でも地獄が待ってる』いやだ『諦めてペットになれよ、秋山。可愛がってやるからさ』放っといてくれ『俺たちが卒業するまで、いや、学校出てからも一生ー……』

 『アルコールランプの火を内腿に押しつけて焼印くれてやる。安全ピンを乳首にさしてやる。ローターケツに突っ込んで校庭十周させてやる。逃げようなんて考えるなよ、秋山。お前の大事な大事な家族が破滅する』

 『二学期、ちゃんと学校来い』

 目を瞑る。
 戸が勢いよく桟を滑る。

 「!?っ、」
 「突っ立ってられると邪魔。入れない」
 葛藤が霧散する。
 麻生が引き戸をガラリ乱暴に開け放ち、俺の尻を蹴り上げて教室の中へと放りこむ。
 二学期早々、優等生の暴挙を目撃したクラスメイトが話をぴたりやめ呆気にとられ入り口を凝視する。
 「麻生おまっ、ひとが真剣に悩んでる時にケツ蹴っぽって、ちょっとは空気読め……!」
 重苦しく不自然な沈黙に包まれた教室へたたらを踏み転がりこむや、目を点にしたクラスメイトの顔をざっと見回し、疑問を抱く。 
 ボルゾイがいない。
 「………え………?」
 「お前ら席に着けー朝礼始めるぞー」
 背後でガラリと戸が滑り、出席簿を抱えた担任が大股に入ってくる。
 蜘蛛の子散らす素早さで席に戻った同級生にもみくちゃにされ、何がなんだかわからぬまま、ボルゾイの不在に安堵とも拍子抜けともつかぬ気持ちを抱き、着席。
 教壇に立った担任が顎を引き教室を見回す。
 「遅刻は伊集院と……六人か?なんだ、夏休みボケが抜けきらないのか?」 

 終業式の日、俺を襲った面々が全員いない。

 「よそ見するな秋山!」
 「はい!」
 教室に六ヶ所点在する不自然な空席を確かめていたら叱責がとぶ。
 反射的に姿勢を正し前を向く。
 ボルゾイがいない。あの日俺を襲った同級生もいない、全員消えてる。
 その日は点呼と始業式、簡単な連絡だけで、午前中にお開きになった。
 俺の心配は杞憂ですんだ。
 ボルゾイたちはとうとう最後まで現れなかった。
 二学期最初の日に、まるで示し合わせたかのように、全員が学校を休んだのだ。
 偶然にしちゃできすぎてる。奇跡がおこった。そうとしか考えられない。
 その日は部室に寄る気になれず、真っ直ぐ帰ることにした。
 俺は俺の身におきた奇跡が信じられず、醒めない夢を見ているような高揚した浮遊感の中を漂っていた。
 一学期終了日と同じルートで自転車をとりにいき、秋空の下、野球部が練習にはげむ校庭を迂回する。
 緑のネットのむこうではあの日と同じ光景が繰り広げられている。
 バッドが鋭角に空を切る。
 甲高い打撃音。
 高く爽快な青空に白球が弧を描き、どよめくような歓声が湧く。
 砂を蹴ってボールを追う野球部員たちを眺めながら、自転車のハンドルを握り、腑に落ちず呟く。
 「ボルゾイ、どうしたんだろ」
 その時の事は忘れ難い。
 麻生は隣を歩いていた。
 一学期最後の日と同じ距離で、自転車をちんたら引く俺の隣を歩きながら、笑った。
 笑ったのだ。
 「保健所送りになったんじゃないか?ボルゾイだけに」
 マンションに泊まった日、俺が目撃したのと同じ顔で。
 片頬歪め、吐き捨てるように。
 「躾のなってねえ犬は調教しなきゃな」

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010326174757 | 編集

 「秋山くん、大丈夫か!?」
 「………あ……………」
 頬を伝うぬるりとした感触に膝ががたつく。
 一瞬の放心から醒めれば恐慌が襲う。
 力強く腕を掴まれ、前傾した姿勢で辛うじて重心を保つ。
 開け放たれたドアのむこう、放送室中央に異形の装置が佇む。
 一足先に平常心を回復した敷島が懐中電灯の光を走らせ危険がないか点検、慎重に踏み込む。
 「隠れてる気配はない。無人のようだ」  
 操作盤に接近、レバーにかかったテープレコーダーをとめる。
 レバーから取り上げたレコーダーを背広の内にしまい、壁に沿って光を一巡させてから、中央の装置に焦点を当てる。
 「麻生くんが仕掛けたのか」
 懐中電灯を傾け、矢を射出した装置を調べながら呟く。
 「なるほど、わかった。ノブに括ったワイヤーが接敵を感知して、矢を打ち出す仕組みだったのか。知らずドアを開けた侵入者は重傷を負う。よくできている」
 技術屋の手腕を評価する口調に純粋な畏怖と感嘆が忍び込む。
 敷島が懐中電灯で照らす方を辿れば、虚空に渡された銀線が光を反射して鈍くきらめく。
 内側のノブにワイヤーが張られていた。
 「美術室の一件にも背筋が寒くなったが、今度こそ思い知ったよ。彼は知能犯だ。人の心理の隙を突く、実に狡猾な罠を仕掛けてくる」
 知能犯。
 眼鏡の似合う知的な面差しが浮かぶ。
 漸く膝の震えがおさまってきた。壁を伝い歩き、敷島に近付き、生唾を呑む。
 「あの時、もうここにいなかったんだ……俺らが必死こいて廊下走ってる時、あいつはもう放送室を離れてたってことですよね。ボーガンとテープレコーダーを仕掛けて」
 「悔しいが、そうなるね。行き違いだ」
 「どうりで変だと思ったんだ。放送の声、ノイズが酷くてやけに聞き取り辛かったし。録音テープを流してたんだ」  
 してやられた。俺たちがここに向かってるあいだに麻生は次の目的地へ移動していた。
 「さっきの放送は一体……」
 校内放送で流された録音テープの声はたしかに梶のものだった。不自然なのは内容だ。
 思い付くまま捉えた断片を列挙する。
 「脅迫………共犯………破滅………物騒だな。放送のかんじからすると誰かもう一人と話してたみてーだけど、不自然なノイズが入って消されてたし」
 あのテープも麻生が用意したんだろうか。
 会話の雰囲気から察するに、盗聴で録音した可能性が高い。
 「テープを仕掛けたのが麻生くんなら、話し相手も彼と見るのが妥当だ」
 「自分と梶の会話を盗聴して放送にかけた?」
 『脅迫?……構わない………お前……俺……共犯………破滅……ザマケイ……』
 砂嵐にざらつく声を思い出し、肌が粟立つ。
 不穏当な会話の断片を継ぎ接ぎし、全貌の炙りだしに挑む。
 麻生はあの放送を俺に聞かせようとした。俺に聞かせて放送室におびきよせた。
 麻生は会話を盗聴できる立場にあった。
 麻生が当事者として梶と話し合いを持ったとすれば録音は可能だ。
 敷島が思慮深げに顎をなで、首を捻る。
 「わからないのはあの会話だ。あれが仮に梶先生と麻生君の会話を盗聴したものだとして……彼らは何を話してたんだ?脅迫だの共犯だのどうも穏便な内容じゃなかったが……梶先生が一方的に脅してるように聞こえた」
 「人殺しって言ってました」
 顎から手をおろし、弾かれたようにこっちを見る。
 深く息を吸い、肺を膨らませ、吹っ切るように断言する。
 「お前は逃げられない、なんとかを殺したのはお前だ、抜け駆けさせるか。俺とお前は共犯だ。たしかにそう言ってました」
 凄みをきかせた威圧的な太い声。脅迫。
 「テープ貸してください」
 敷島の手からテープレコーダーをひったくり、操作盤に片手をつき身を乗り出し、耳に近付け巻き戻しボタンを押す。 
 冒頭まで巻き戻したテープをもう一度再生、一言も聞き逃すまいと集中力を総動員し、聴覚を研ぎ澄ます。

 『脅迫?……構わない………お前……俺……共犯………破滅……ザマケイ……』不自然な断絶『……お前は逃げられない……を、殺したのはお前だ……罪の意識に縛られてる……抜け駆けしようったってそうはいくか……』断線『逃げられない……を、殺したのはお前だ……』砂嵐『ザマケイ』砂嵐『呪われてるんだ』砂嵐『俺?』空白『これからもお前がいれば』空白『うまい汁吸わせてやる』砂嵐『お利口さんにしてろ』……

 一時停止で確信に至る。
 「やっぱ『脅迫』『共犯』って言ってます。殺した、罪の意識、抜け駆け……逃げられない……呪い……リピート……」
 テープを巻き戻す。
 再生。巻き戻す。再生。延々続ける。
 集中のし過ぎで眉間が熱を帯びる。
 大体聞き取れたがひとつだけ意味不明な単語が紛れこんでいた。
 「ザマケイってなんだ?くそ、ノイズが酷くてこれ以上わからねー」
 「麻生くんはテープをかけて何を知らせようとしたんだ?心当たりあるかい」
 隣に来た敷島が不安顔で問う。
 テープレコーダーをとめ、首をうなだれ操作盤と向き合う。
 放射能で汚染されたような沈黙が漂う。  
 麻生と梶には隠れた接点がある。
 俺の推理があたってるなら、麻生には梶を憎む明確な動機がある。
 品行方正な優等生と感情的な指導で敬遠される若い教師の秘密の関係。
 共犯、脅迫。マンションに外泊した日に目撃した裸の痣、傷。
 わからないのは「人殺し」「罪の意識」だ。
 梶は相手を脅迫していた。
 話し相手が麻生なら、「人殺し」と詰られたのもまた麻生ということになる。
 どういう意味だ?
 麻生は人を殺した弱みを握られ脅されていたのか?
 殺人の罪を周囲にばらされたくないなら従えと関係を強要されていた?
 「そうか、それで……」
 神奈川の女子高生レイプ事件。被害者は麻生と同じ境遇だった。
 「暗号文じゃなくて告発文だったのか?」
 麻生は過去、俺と出会う前に殺人を犯していた。
 まさか。そんなことありえねえ。
 当時の麻生は中学生か小学生か、そんな年齢で誰を殺したんだ、第一子供でも人を殺したら施設送りになるんじゃないか?普通に高校に通えるのか?
 疑問は尽きねど一方で奇妙に納得してもいた。
 『この世には死んでもいい人間が多すぎる』 
 虚無を孕んだ厭世的な声と殺伐と冷えた横顔を思い出す。  
 麻生なら、あいつならやりかねない。
 初めて会った時から異質だった、集団から浮いていた、孤立していた。
 窓枠を乗り越える気軽さで常識と倫理の境界線をこえるあいつなら、眼鏡のむこうに醒めた光を浮かべ人を殺しかねない。
 容赦なく金属バッドを振るいボルゾイの足と腕を砕いた時のように、ただただつまらなそうに。梃子の原理でも試すみたいに。
 「……まさか、麻生がんなことするはず……」
 言い切れるのか?
 自分に狂気と凶器を向けた相手にむかって言い切れるのかよ?
 お人よしもいいかげんにしろ。
 麻生は俺を殺そうとした。
 美術室の一件と今の一件、合わせて考えたら疑問の余地もない。
 敷島の存在はイレギュラーだ、麻生だって予想しえなかった。
 麻生が狙ってるのはこの俺、秋山透だ。
 俺が持ち上げる事を予想し絵の裏側に剃刀の刃を接着し、俺がドアを開ける事を念頭におきボーガンを仕掛けた。
 あきらかに危害を加えるつもりだった。
 「秋山くん。秋山くん?」
 敷島の声に意識を向ける。
 「本当に大丈夫かい?ひどい顔色だ」
 どこかに遊びに出かけていた正気が漸く戻ってくる。
 「…………っ………」
 頬を伝う血を手の甲で拭う。親指に唾をつけ、擦る。 
 「ここには用がねえ、次の場所へ……」
 「続けるのか?」
 「冗談。逃げ帰れるか」
 非難めいた調子で自重を促す敷島に啖呵を切り、レコーダーを投げ返す。
 「あいつが待ってる。とめなきゃ」
 ったく、世話ばっかかけやがって。
 自分でも馬鹿だと思う、底抜け底なしの馬鹿だと思う。
 大晦日の夜の校舎をさんざっぱら走り回されて、心臓は悲鳴を上げて、体力は限界で、とうとう命の危険に晒された。
 正直、怖い。怖くないはずがない。
 俺はどこにでもいる平凡な高校生で、特別な技能は何も持っちゃない。
 だからって、ここで逃げ帰っちまったらきっと一生後悔する。

 麻生が呼んでる。
 麻生が待ってる。
 走り出す理由なんて、それで十分だ。

 「こんなかすり傷唾つけときゃ治る。ボーガンにキスされたくらいでいちいちびびって逃げ出してたら推理小説なんか読めませんよ」
 必ず見つけてやっからな、麻生。
 決意あらたに身を起こした俺の耳に間の抜けたメロディが届く。
 咄嗟に廊下に駆け戻り、場違いなメロディを奏でる携帯を拾う。
 「もしもし!?」
 麻生か?

 『女でしょ』
 「は?」

 予想と期待に反し、携帯からもれてきたのは恨めしげな声。
 『女でしょ。女に違いない。妹が煮込んだそばを放置してとびだしてそれっきりだなんて、女しかありえない』
 「まり……?」
 『さっきの電話彼女でしょ。大晦日の夜に血相かえてとびだして……不潔……やらしい……いつのまにナイショで彼女なんか作ったの……』
 深読みしすぎな妹の幻滅の声。
 飛び出したっきりいつまでたっても帰ってこない俺に業を煮やし妄想力豊かな憶測を述べ立てる。
 『コンビニってのも嘘でホントは彼女と会ってるんでしょ、そうなんでしょ?隠したってむだだから、お見通しだから』
 「おい真理、」
 『わかってるんだから。さっき様子おかしかったし。彼女と一緒にいるんでしょ』
 「だからちげーって、ほんとにコンビニで立ち読み……」 
 『今週号のジャンプ142ページ、何?』
 「は?」
 『答えて』
 ……我が妹ながら侮りがたし。
 不意打ちの質問にたじろぐも、必死に頭をひねり、どうせバレやしないだろうと適当に嘘を吐く。
 「ハンター×ハンター」
 『休載』 
 瞬殺。
 ズボンに突っ込んだ部誌を慌ただしくめくり、音の演出つきで恥と嘘を上塗りする。
 「ごめん、間違えた。えーとそうそう、こち亀だよこち亀!あははははは相変わらずおもしれーなー両さんは、まーた下駄とばしてら」
 『今週号142ページはリボーン。私の雲雀さんが流血してたから衝動買いしたの』
 ……………はめられた。
 「どうでもいいけどお前さ、二次元キャラに私のとか所有格つけるの痛いぞ?」
 『やっぱり女と会ってるんだ。大晦日の晩に妹と妹のゆでたそばほったらかして彼女といちゃいちゃしてるんだ。今どこ?駅前のラブホ?河原で青姦?』
 「あおかっ……おまっ、中学生がなんてこと言うんだ、てかなんで知ってんだそんな言葉!?漫画か、例の男同士が裸で抱き合ってる漫画の影響か!!」
 『普通だよ。てかさ、大晦日に妹ほっぽって彼女とデートかマジありえない。最悪。こっちはわざわざ兄貴なんかのために腕まくりしてそばゆでて待ってるのに、肝心の兄貴は大晦日までさかって彼女ともふもふ……』
 「もふもふってなんだよもふもふって!自慢じゃねーけどしたことねーよ!」
 大声で怒鳴り散らす俺を不審がり、敷島が表に出る。
 『ユキのにいちゃんだって心配して電話くれるのに、大体兄貴はこっちから入れなきゃかけてもこないし。そばどうすんの?食べるの?捨てていいの?』 
 「食べるからラップしとけよ」
 『もうすぐお母さん帰ってくるよ。どこ行ったのって聞かれたら彼女と出かけてるっていうからね』
 どんだけ信用ないんだよ俺。完全に疑われてる。
 携帯の向こう、不機嫌の絶頂で受話器を握りしめる妹を思い浮かべ、ヤケになって叫ぶ。
 「~だーかーら、お前の妄想裏切って悪いけど女じゃねーって!呼び出したのはれっきとした男だよ!」
 『……………男…………?』
 妹の声が微妙に変わる。
 何故かあたりを憚るように声を低め、受話器におもいっきり顔を寄せ、神妙に聞く。
 『……じゃあ兄貴、さっき男の人に呼び出されて、あんなに慌てて出てったの?玄関の靴ぐちゃぐちゃにして』
 「………悪かったよ。あとで片付けるよ」
 『そんなこと聞いてないの。男の人に呼び出されて出てったの?血相かえて?とるものとりあえず?コートも羽織らず?誰それ、友達?』
 「麻生だよ、ダチの。前に話したろ?同じクラスの、ミス研の……ちょっとトラブってさ。呼び出されたんだよ」
 『眼鏡の優等生?』
 「眼鏡の優等生」
 『イケてる?』
 「は?」
 『顔。どんな感じ。イケてる?イケてない?リボーンでたとえると……あ、待って、範囲広げる。ジャンプでたとえると誰?』
 「それ広がったのか?」
 『いいから』
 声から高揚が伝染する。
 予期せぬ関心の高さを訝しみながら、事実に沿った答えをひねりだす。
 「顔は……そこそこイケてる。イイ男。鬱陶しい黒髪で、涼しげな切れ長の目で、シャープな眼鏡が似合って……無表情であんま感情表に出さねーからちょっとばかし鼻につくけど」
 実際、麻生は容姿に恵まれてる。顎は神経質に尖り、唇は形よく薄く、鼻梁は高く秀で、同性の俺でもたまに見とれちまうくらい横顔が整ってる。
 『なにそれ。完璧じゃん。理想じゃん。クールビューティーじゃん』
 「男にその表現はどうかと思うぞ。あ、ちなみにジャンプだと一番近いのはH×Hのノブさん」
 『へたれなの?』
 「へたれてない頃のノブさん」
 『最高じゃん』
 ……気のせいじゃなければ、兄としちゃ気のせいであってほしいが、声が興奮に比例して危険な感じに上擦っている。
 『そっか……男……男ね……しかも同級生……大晦日の夜、友達だと信じてた同級生に呼び出されて……』
 「何?」
 『友達だと信じてたのは兄貴だけ。相手はちがう』 
 予知能力者か?
 なにもかも見通すような発言に狼狽し、携帯に向かい、感情的に声を荒げる。
 「お前、お前になにがわかんだよ、俺と麻生のことなんも知らねーくせに憶測で物言うんじゃねーよ!アイツと俺はこれからもずっと友達なんだ、妹のくせに口出すな!」
 『相手は兄貴を友達として見てない、わかんないの兄貴、そんな単純な事が!?』
 「うるせえ!」
 『大晦日に呼び出された意味よく考えてみなよ、大晦日だよ大晦日、一年の終わり新しい年の始まり記念すべき日、そんな大事な日に呼び出したって事は告』
 
 告発しか考えられない。

 意気込み捲くし立てる妹の、なぜか的を射た糾弾を聞くに耐えかね、携帯を叩き切る。

 通話の遮断を示す信号音が漏れる携帯を見詰める俺のもとへ、破けた背広の肩を押さえ、敷島が寄ってくる。
 「秋山くん……どうしたんだね、絶望的な顔をして」
 「先生……俺の妹、予知能力者かもしんない」
 情けない半笑いで手の中の携帯を見詰めるうちに、もう何ヶ月前の夏の夜の情景が浮かぶ。
 「……麻生、なんであの日、わざわざ書き置きなんてしたんだろ」
 初めて矛盾に思い至り、眉根が寄る。
 今だからわかる。よく考えれば、麻生がわざわざ直筆で書き置きを残す必要なんてこれっぽっちもなかった。わざわざそんな面倒くさいことをしなくてよかったのだ。
 ガラステーブルと向き合い、本の白紙を破り取り、拾ったボールペンで書き付ける麻生を思い出す。
 そして、気付く。

 パンドラの箱の底には希望があった。
 なら、暗い暗いカメラオブスキュラの底にも希望がねむってるかもしれない。

 たった今閃いた可能性の是非を、本人に確かめたい。
 俺の推理が正しいなら、書き置きにはちゃんと意味がある。
 敷島の不審な眼差しを感じつつ携帯をじれて操作して応答を待つ。
 目を瞑り、繋がるようにと一心に祈る。
 祈りは通じた。床に落とした時に壊れたかと危惧したが、さいわい生きていた。
 手の中の携帯が反応し、電波に乗じた密やかな気配を感じ取る。
 悪趣味なゲームに巻き込まれ命の危機に瀕した怯えを克服、口を開く暇を与えずしっかり芯の据わった声で断言。
 「麻生、俺、わかった。お前、イイヤツだ」
 『……………………は?』
 ああ、本人が目の前にいないのが残念だ。きっと傑作な顔してるだろうに。
 まさかボーガンを仕掛け迎え撃った相手から、開口一番そんな言葉を貰うとは思ってなかったんだろう戸惑いが伝わってくる。
 一呼吸おき、続ける。
 「今気付いたんだ。マンションに泊まった日、だれかに呼び出されてふらっと出ていこうとしたろ。書き置きだけ残してさ。でもよく考えたら、わざわざそんな面倒くさいことしなくてよかったんだ。適当な紙がねーからメモ帳代わりに本破って、ボールペンさがして……」
 『………………』
 続きを促すような沈黙。
 白い息を吐き、携帯を持ち直し、会心の笑みを浮かべる。
 「携帯がある。そうだろ」
 あの日の麻生の行動は不自然だった。 
 今時の高校生は携帯をもってる。俺も聡史も麻生も例外じゃない。わざわざ直筆で書き置きなんか残さなくても、「ちょっとでかけてくる」とメールを入れておけばよかったのだ。その方がずっと手軽で簡単、後腐れがない。麻生には俺と聡史のメルアドを教えてある。麻生の性格ならそっけなくメールだけ入れて出ていくか、最悪何も言わず出て行っちまってもおかしくない。
 「なんでそうしなかったのか考えたんだ。で、わかった。俺の推理、聞くか」
 『…………………』
 「俺は着メロを設定してる。メールが入れば携帯が鳴る。あの時お前、俺がぐーすかよだれたれて熟睡してると思ったんだろ」
 『…………………』
 「俺を起こしたくなかった。だから書き置きにした。お前ってさ、変なところで律儀だよな。メールも書き置きも残さず出て行けばうざい目に遭わずにすんだのに……メモが見当たらないから大事な本破いて、心配させないように、わざわざ」
 『…………………』
 「そんなお前がイイヤツじゃないはずない」
 そうだ。
 麻生は俺たちを起こしたくなかった。だからあえてアナログで回りくどい方法をとった。
 携帯にメールを入れるか黙って出て行けばすむのに、俺たちに心配かけまいと、義理でもなんでも形ある何かを残そうとしてくれた。
 そんな麻生が、俺を殺そうとするはずない。
 どうしてこんな単純なこと見落としてたんだろう。
 剃刀とボーガン如きでびびってちびって逃げ出して、俺たちが積み重ねてきた思い出をゼロにするところだった。
 「実は優しいだろ、お前。優しさを見せるのが苦手なだけなんだ」 
 『………ヒント、わかったのか?』
 漸く声が返る。
 「なめるなよミス研部長を」
 携帯を持ち背後の壁に凭れ、口の端を不敵に吊り上げる。
 もう少しで忘れちまうところだった。気付かずに通り過ぎちまうところだった。今ここで気付けてよかった、思い出せてよかった。
 俺が麻生を友達だと思っているように、麻生の方でも、少しは俺の事を気にかけてくれている。
 俺の睡眠を気にかけメールをとりやめ、大事な本の1ページを破りとって書き置きをしたためるくらいには。
 暗い箱を開けてみれば底には希望がねむってる。
 カメラオブスキュラを解体したら、そこにはきっとー……
 白い息を吐きながら矩形の天井を見上げ、ヒントを貰ってからこっち、組み立てた推理を滔滔と披露する。
 「カメラオブスキュラはラテン語で暗い部屋の意味、写真術発明にあたり重要な役割を果たした装置。学校で映像が見れる部屋は限られてくる。スクリーンがある教室はひとつだけ、黒いカーテンで囲っちまえば即席の映画館のできあがり」
 黒いカーテンで囲われた暗室、暗い箱、映写機とスクリーンがある場所といえばあそこしかない。
 「視聴覚室だ」

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010325172513 | 編集

 「学ランて保護色に似てる」
 「え?」
 きょとんとする。
 「保護色って、あれか。カメレオンか。敵から身を守るために背景に溶け込む」
 「似てないか、ああして大勢で同じかっこして群れてると」
 夏休み明けから麻生と一緒に登校するのが習慣になった。
 事前に時間や場所を取り決めたわけじゃないが俺が家を出て坂へむかうと大抵麻生が本を読んで待っている。 
 九月も終わりに近付き風が少し涼しくなり、廃工場と荒地が点在する通学路の坂は、薄手の白シャツから野暮ったい学ランに衣替えした学生で猥雑に賑わう。
 「カラスか。そういわれるとたしかに……群れに混じっちまうと固体識別しにくいな。推理小説風に言うと木を隠すなら森の中」
 「誰の言葉?」
 「ブラウン神父。知んねーのか、常識だぞ」
 洞察力観察力に優れた秀才の指摘は鋭い。
 口数こそ多くないが、無駄な修辞を省いて的確に本質を射た比喩をする。
 諦観と倦怠を孕む視線を前方、横広がりに練り歩く黒い学生服の集団に投げ口を開く。
 『何が少年を苦しめているのか』
 片手で器用に本を開き、緩慢に足を繰り出しながら唇を動かす。
 『少年期が死んだのです。今 彼は喪に服し 黒服を選んだのです』
 硬質ガラスの如く冴えきった声は、低俗に堕さぬ厳粛で静謐な響きを宿す。
 怜悧な切れ長の双眸と高い鼻梁が調和する横顔で図太さと脆さとが均衡をとる。
 大人でも子供でもない多感な時期、地元じゃ有名な詰め襟学生服の集団に、変声期を経て老成した低い声で追悼を捧げる。
 『彼は中間に立っているのです そして隣に 彼は大人でもなく 子供でもありません』 
 保護色に守られた無個性な少年たち、死にゆく刹那の少年期を悼む詩。
 ボーダーラインの上を歩く男。
 世界と斜めに接して歩く傍観者のスタイル。
 見慣れた通学路の中で麻生の周りだけ喧騒に染まらぬ冷えた空気が漂っていた。
 孤高とか異端とか相変わらずそんな言葉が似合う薄情で殺伐とした印象がある。
 神経質に尖った顎
 薄く形良い唇
 高く秀でた鼻梁
 地味な眼鏡と鬱陶しい前髪に隠れて普段は意識させないが、近くでよくよく眺めてみればちょっと酷薄な感じがするほど端正な顔立ちをしていた。
 糊の利いた詰め襟に守られた首で、鋭く尖った喉仏が発声ごとにかすかに震える。
 額に揺れる黒髪と病的な肌の白さの対比が妙に倒錯的で艶めかしい。
 「堅信を受けたある少年の写真に添えて。E・ケストナー」
 「暗記してんの?」
 「まさか。ちょうど読んでた」
 「道のど真ん中でいきなり暗誦しだして、自分に酔ってんの?」 
 「なんとなく言いたくなっただけ」
 「よく透るいい声してる」
 「普通だよ」
 「カラオケとか行ったことは?」
 「ない」
 「ねえの?マジ?今までの人生で一度も?うわ、天然キネンブツ、絶滅キグシュ」
 大げさに仰け反れば、麻生が少しだけ不愉快そうに眉をひそめ、薄暗い険を孕む流し目を送る。
 「そういうお前はどうなんだ」
 「ばかにすんな、あるよ。聡史と」
 「また沢田か。仲いいんだな」
 「小学校からの付き合いだからな。腐れ縁だよ。すっかり図体でかくなっちまったけど、むかしはあれでも可愛げあったんだぜ。とおるちゃんとおるちゃーんてどこ行くんでもついてまわって」
 「懐かれてたのか」
 「まあな。例の廃工場にも一回忍び込んだし。びびって入り口で逃げ帰っちまったけど振り返りゃいい思い出。スタンドバイミー、リピートアフタミー」
 「意味わかって言ってる?」
 麻生が半眼をむけてくる。おどけて頭をかいてごまかす。
 道化を演じながらなめるように首元を見る。
 制服に覆われたその下、マンションで目撃した痣と傷が今もちりばめられているのかと勘ぐる。
 本を支え、さりげなく掲げた手首に目が吸い寄せられる。
 体格に比して華奢といっても差し支えない骨ばった手首を見詰めるうちにふと疑問が湧く。
 「時に聞くけど麻生」
 「なに」
 「俺ら、ゲーセン行ったことないよな」
 「ああ」
 「ナンパは」
 「ない」
 「合コンは」
 「ない」
 地方都市に生きる高校生の悲惨な現実に直面し、自転車を引く手と足が止まる。
 道のど真ん中で愕然と立ち竦めば学生と麻生が意に介さず追い越していく。 
 「俺らの青春まちがってね?」
 遊びに出かけても行く先が毎回本屋か古本屋か漫画喫茶ってのはどうなんだ、俺の青春それでいいのか、浮いた話のひとつふたつなきゃ男子の本懐に関わる。
 葛藤に悩む俺に、色恋沙汰に無関心な秀才は本を読みながら一言。
 「気付けてよかったな」
 坂の上に学校が見えてくる。
 他の連中と混ざって校門を抜け、緑のネットを張った運動場を迂回し、二年用の玄関へ。 
 「おす、秋山」 
 「よ」
 「今日も優等生と登校か。仲いいね、おまえら」
 「だろ?羨ましがれ」
 「テスト前だけな。俺にもノートコピーしてくれよ、優等生サマの」
 「んじゃ仲介料五百円」
 「高ッ!仲介料って、おまえなんもしてねーじゃん!」
 九月に入ってから学校生活に変化があった。
 下駄箱の蓋を開け、上履きをとりなが同級生と挨拶する。
 軽口に冗談を返せば相手は快活に笑って通り越していく。
 クラスメイトとの間に交流が生まれた。
 今じゃ下駄箱で行きあうたび教室で顔を合わすたび砕けた口をきく相手がちらほらできた。
 四月からこっち、俺が教室で孤立していたのはボルゾイと不快な仲間たちのせい。
 巻き添え食うのをおそれいじめを見て見ぬふりしていたクラスメイトの大半が、九月に入ってからその罪滅ぼしか帳尻合わせとばかり親切に接してくる。
 横領犯の息子の噂が高校にも広まってるというのは思い過ごしだった。
 知ってる連中も少なくないが、月日が経ち分別が育って高校生にもなりゃよっぽど幼稚なヤツじゃねー限りいちいち蒸し返したりしない。そもそも会社の金を横領して逃げたのは親父であって俺じゃない。親父の前科がばれたところでクラスメイトの反応は「関係ねーよ」とあっさりしたもんだった。逆にこっちが拍子抜け。
 「よー。早くしねーと遅刻すんぞ」
 「わかってるって」
 「今日も麻生と同伴か?」
 「まーな」
 会うやつ会うやつ揶揄ともつかぬ野次をとばすのを歯を見せあしらう。
 麻生はツンと澄ましてる。
 自分が話題に上ったところで興味ねえ素振りで流し、簡単な数式でも解くような退屈そうな横顔を見せ、敬遠されてもしょうがねえ態度を貫く。物好きな同級生がごくまれに「よっ」と声をかけるが、「ああ」とか、それ挨拶としてどうなの?というどうでもよさげな首肯で済ます。
 心なしか俺と他の奴らとじゃ態度が違う。
 他の奴らに話しかけられても目を見もしないが俺だとつけこむ隙が生まれる。
 他の連中には線を引いて接する麻生が俺にだけ踏みこむ隙を見せてくれるのが嬉しく、自分が特別な何かになったような幸せな錯覚とささやかな優越感に浸る。
 砕けた雰囲気でしゃべる俺の傍らで優等生は黙々と靴を脱ぐ。
 下駄箱の金属の蓋を閉めながらあたりを見回す癖が治らない。
 蓋に手をつき、遅刻ぎりぎりで駆け込んでくる連中の顔をひとつずつ確認し、ようやく歩き出す。 
 今日こそはっきりさせる。
 麻生を追って階段を上がり三階へ行く。
 2-Aのプレートが見えてくる。
 教室をめざし歩きながら、廊下にたむろってしゃべってるヤツに気付き、身が竦む。
 「……………っ…………」
 俺を美術室に拉致った同級生の一人が、いた。
 二学期の始まりの日こそ示し合わせたように欠席していたが、今じゃ一人を除き、全員学校に復帰している。
 今、廊下で友達とくっちゃべてるヤツもあの日の美術室に居合わせた。忘れもしねえ、俺を背中から組み伏せて床に這わせてくれた張本人……名前はたしか、馬渕。
 馬渕の下卑た顔を見た途端、足が竦んで一歩も動けなくなった。
 教室まで十メートルを残し立ち竦んだ俺の隣で、麻生もまた立ち止まる。 
 「一限から数学かよ、たりいな。さぼっちまうか」
 「でも梶うるせーから……」
 思い出す声、思い出す感触。
 よってたかって組み伏せられ唇にごり押しされたガラスのコップが歯茎を削り痛い歯にあたり喉の粘膜を焼いて注がれる混沌と濁った水、毟られた前髪の激痛、耳に付く性急な衣擦れの音、体の裏表を這い回る無数の手………

 『同級生の前で下半身剥かれて、しごかれる気分はどうだ』
 『色っぽい声出すじゃん』
 『やべ、なんか興奮してきた』
 『写メ撮るか記念に」
 『やべー、おれ勃ちそう。そっちの道目覚めちゃったらどうしよ』
 『コイツ割に可愛い顔してるしがんばればイケるよ』
 『今度女装させてみようぜ』
 『今話題の学校裏サイトあんじゃん、あれ作ってこいつの写真載せんの。アクセス稼げるぜ、きっと。うけるし』

 鼓膜で鼓動が反響する。
 心臓が狂ったように激しく脈打ち沸いた血を送り出し憤激と恥辱で視界が苛烈な赤に染まりゆく。
 屈辱的な体勢で浴びせかけられた屈辱的な台詞が恥辱を煽り、体の脇で握り込んだ拳にひどく力が入って戦慄く。
 あの連中が目の前にいる。目と鼻の先で呑気にくっちゃべってる。
 びびるな、堂々としてろ、何も悪いこと恥ずかしいことしてねえ俺が逃げ隠れする必要ねえ。
 懸命にそう言い聞かせ踏みとどまるも、毛穴が開いて冷や汗が噴き出し、心臓は今すぐこの場から逃げ出せと高らかに跳びはね訴える。
 あとじさったはずみに鞄が麻生にぶつかる。
 「わり……先行ってて。俺、便所行ってくるから」
 廊下のど真ん中で不満を吐き出していた同級生が顔を上げ、こっちを向く。
 目が合う。
 「…………っ………」
 変化は一瞬で劇的だった。
 同級生の顔色が豹変、俺を見るなり凍りつく。
 極限の恐怖と嫌悪に歪む醜悪な形相はまわりに伝染し、夏休み前まで調子のって俺を小突き回していた連中が詰まった悲鳴をあげ、蜘蛛の子散らすように解散する。
 押し合いへしあい競うようにして教室に逃げ込む同級生にあっけにとられ、その後ろ姿を見送るうちに、最後尾の一人が左手に包帯を巻いてる事に気付く。
 「待てよ、なんで逃げんだよ、普通逆だろ!?人のパンツまでおろしといて、自分らが強姦された処女みてーな顔するの理不尽だろ!」
 「秋山、麻生、どうした。早く中入れ、遅刻だぞ」
 靴音に振り向けば、出席簿を掲げた担任が鼻毛を抜きながら歩いてくるところだった。
 出席簿で肩を叩きながらかったるそうにやってくる担任と教室を見比べ、憤然と間合いを詰める。
 「聞いていいっすか、センセ」
 「残念だが今度のテストは大目に見れん。だが付け届けはきく」
 「伊集院どうしたんですか。ずっと学校きてねーけど、なんかあったんすか」
 二学期が始まってそろそろ一ヶ月が経過するが、伊集院はずっと欠席してる。
 他の連中が復帰しても、なぜか伊集院だけがやってこない。
 「お前、伊集院と親しかったか?」
 抜いた鼻毛を吹きながらの担任の問いにぎくりとする。
 上唇をなめて緊張をほぐし、お粗末な嘘を吐く。
 「別に親しかねーけど……席に空きあるとやっぱ気になるし……」
 「自主退学だ」
 「え?」
 「聞こえなかったか?伊集院なら自主退学した。夏休み中に手続きを終えて」
 退学?ボルゾイが?
 「は?え、退学って……ちょ、ま、俺ぜんぜん聞いてね、そんな突然」
 口半開きの呆け顔がよっぽど間抜けだったのだろうか、出席簿をおろすや渋面を作る。 
 「最近多いんだ、夏休み中に怠け癖ついて二学期から来なくなるのが。伊集院も大方そんなとこだろう。事情は聞かなかったが……ま、いちいち聞いてやるほど親切じゃあない。退学するって本人が決めたんなら俺がとやかく言う義理はない。十七になりゃ自分の人生決められるくらいの知恵はつくだろう。だからお前らにも伏せといた」
 「んな身勝手な。生徒信用しすぎだよセンセ」
 「勘違いするな、なにも信用してるわけじゃあないぞ。俺は給料分しか働かないことにしてるんだ、ボランティアでもカウンセラーでもないからな。ぶっちゃけていうと、あれだ、生徒の尻拭いはごめんだ」
 どうだ文句あるかと腕を組み、極道じみていかつい面構えで睨みをきかす。
 放任主義も開き直ればご立派。
 「話はそれだけか。入れ、点呼とるぞ」
 とっとと話を打ち切りガラリと引き戸を開け入ってく担任に、のばした手をむなしくしまう。
 「退学?ボルゾイが?まさか、アイツに限ってそんな……」

 『二学期絶対学校こいよ』
 『お前も麻生も学校にいられなくしてやる』

 てっきり麻生が叩き折った腕と足の治療で休んでるのかと、長期入院なら安心だ、できるだけ入院が長引いてほしいと願ったが、この展開は予想外だ。ボルゾイが学校やめる理由がない、少なくとも俺は思いつかない、あんなに二学期を楽しみにしてたくせに……
 「少年期の死」
 耳朶に息がかかる。
 肘がふれあう距離にいた麻生が、開け放たれた引き戸に手をかけ、ざわつく教室をつまらなそうに眺め言い放つ。
 「駄犬の喪に服すには誂えむきじゃないか、この服は」 

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010324005354 | 編集

 十月中旬、運命の三者面談。
 「あんたって子はもー母さんに恥かかせて!」
 俺はお袋にしばかれていた。
 「いてっ、ちょ、やめっ、叩くなお袋ひとが見てる!?」 
 「だったら叩かれるようなことするんじゃないわよこのバカ息子、バカだバカだ思ってたけどここまでバカだと思わなかった、母さん先生の話聞いて顔から火が出ちゃったわよ!」
 「ははは秋山ーパワフルな上にアグレッシブなお母さんで先生羨ましいぞー」
 「先生笑って見てねーで助けて、痛てっ、頭はやめて、もっとバカになる!」
 「もう手遅れだからいいのよ!バカだバカだと思ってたけど先生から成績聞いてびっくりしたわよ、なにあれ酷いじゃない、国語数学社会化学軒並み赤点補習の勢いで今にも墜落しそうな低空飛行!しかも一学期の世界史のテストでアメリカ31代大統領はだれかの問いにベルトコンベアって……ウケ狙いなの、ねえウケ狙いなの?」
 「ははははベルトしかあってないぞー正解はルーズベルトだー」
 二年もなかばが過ぎて本格的に秋に突入すると気の早い奴は将来の進路についてそろそろ真剣に検討しだす。
 俺の通う高校は進学と就職が半々ずつの割合だが前者はここらで志望校をはっきりさせて受験の助走に入る。
 そういうわけで三者面談が持たれた。
 十月中旬という半端な時期にずれこんだのはこける時でも前のめり死ぬ時は前屈みと喧伝して憚らぬ、三十七になるこの年まで童貞を死守したともっぱらの評判な、早漏と書いてせっかちと読む担任の都合および他クラスとのスケジュール調整の結果らしい。
 俺の担任は悪い人じゃないんだけど、なんというか、あれだ。とてもあれだ。
 空気が読めないというか、平気で生徒の人権を無視して踏みにじり時として出席簿で脳天はたく体罰上等な学年主任という名のヤクザな暴君である。
 危惧は現実のものとなった。
 案の定ふたりは初対面から意気投合で暴走し、俺がいかに授業中爆睡してるか家でゲーム漬けか時間が余ったらテスト用紙の裏に落書きしてるかに始まり、過去テストで職員室の笑いをさらった珍回答(問 過酸化水素水に二酸化マンガンをいれると何ができる 答え・泡 正解・酸素)を披露し椅子から転げ落ちんばかりに爆笑、したとおもったらこれだ。
 面談終わって一歩教室の外に出た途端、俺は面談待ちの親子の注目と失笑に晒されつつ般若に豹変したお袋に説教と折檻をくらってる。
 とても理不尽。
 待遇改善を要求する。
 「本当にもーこの子は……せっかく受かった高校で授業中大半寝て過ごしてるってどういうこと?母さん哀しい」
 「まあまあお母さん、秋山にもよくよく捜せばいいとこありますから」
 「よくよく捜さないとないんすかいいところ」
 「テストの珍回答には毎度笑わせてもらってるぞ。お前の採点の番になると職員室中から待ってましたと先生方が寄ってくる」 
 「ひとのテスト見世物にすんな!プライバシー侵害!」
 「五十点の大台突破した時は自然と拍手が湧いた。校長なんて感極まって泣き出す始末」
 「校長まで!?だめだこの学校、しかも五十点台で大台認定ってどんだけバカ扱いなのさ俺!?」
 「透、あんたって子は先生にむかってなんて暴言を……」
 「イタイイタイ、耳引っ張んな!?いやだってお袋今の聞いたっしょ、聞いたよな、息子のテスト職員室中で見世物にされてんだけど心痛まないの、腹を痛めて産んだ息子笑いものにされて怒んねーの!?」
 「あんたがまともな答え書けばいいだけでしょ」
 正論。お袋に耳をつねられがっくりうなだれる。
 意気消沈する俺をよそに担任とお袋の会話は続く。
 「いや、今日はお忙しい中とんだご足労を。お仕事の方は?」
 「気になさらないでください、私も貴重なご意見が聞けてよかったです。うちじゃ学校のこと全然話してくれなくって……」
 「高校生なんてどこもそんなもんですよ。ま、秋山はクラスの連中ともうまくやってるんで心配しないでください」
 二学期からだけど。
 頬に手を添え憂鬱なため息吐くお袋に担任はフォローをいれる。
 「授業態度がふぬけで成績が悪い以外は特に問題も見当たりません。お調子者で人懐こいし、クラスの連中にも好かれてますよ」
 二学期からだけど。
 今度は担任がため息吐き、含みありげな目つきで俺を見る。 
 「これでもうちょっとやる気出してくれたらなあ……仮にも入試じゃ上位十番以内に入ったんだ。まぐれ合格って言われたら悔しいだろ」
 「いや別に。プライドないんで」
 「やればできる子なんですけどねえ」
 「やらないんだよなあ」
 お袋が深く頷き同意を示す。息子の事がよくわかってらっしゃる。
 基本人の話を聞かない人たちの会話に混ざるのはむずかしい。諦めてそっぽを向く。
 「あ」
 教室の外、いくつか並んだパイプ椅子のひとつに見覚えある生徒が座っている。
 姿勢正しく、一番手前のパイプ椅子に腰掛け文庫本を読んでいるのは麻生だ。
 三者面談は出席簿順で行われる。
 だから俺の次は必然並びが後ろの麻生となる。 
 それ自体は何の不思議もないが、一方で違和感を覚える。
 原因はすぐ判明した。麻生の隣、本来保護者で埋まってるはずの椅子が空だった。
 麻生の後に控える生徒はいずれも保護者と並んで和気藹々雑談してる。
 保護者を伴わずさも当たり前な様子で一人腰掛ける麻生は奇異に映った。
 お袋と担任はまだ話し込んでる。
 声をかけようとしてやめ、少し離れて観察する。
 「ほんと親から見てもいいかげんな子で……家じゃ妹の面倒よく見てくれるんですけど、自分の事となると全然」
 「進路はまだ決まってないそうですが」
 「そうなんですよ、あんたなんかしたいことあるのって聞いても生返事ばっかで……頼りないったら……」
 麻生は本から顔を上げもしない。
 俺の視線と周囲の雑音も意に介さず、食い入るようにというほど熱心でもなく、かといってつまらなそうというほど投げやりでもない速度と態度でページをめくる。
 麻生とひとつ隔てた席では順番待ちの生徒が母親と冗談言い合って笑ってる。  
 「じゃ先生、これからもよろしくお願いします」
 「いえ、こちらこそお願いします」
 お袋がハンドバッグを両手に持ち丁寧に頭をさげる。
 最後だけ教師の本分に立ち返った担任が鷹揚に笑って会釈、室内履き用サンダルの扁平な靴音も間抜けに教室にとって返す。
 お袋につられ頭をさげながらも目は自然と横に流れていた。
 「帰るわよ、透」
 お袋が気忙しく踵を返す。これからパートにでかけるのだ。
 しかし俺はその場から動けない。
 「ああ」とも「うん」ともつかぬ生返事をしつつ、階段の前で立ち去りがたく立ち竦み、椅子のひとつを注視する。
 「なに見てんのよ……あら」
 お袋が怪訝な顔をする。
 眼鏡越しの知的な双眸を伏せ文庫本を読む麻生に惚れ惚れ見入るさまに邪推が働く。年甲斐もなくミーハーなお袋のことだ、息子の同級生にフラチな関心を示すのは十分ありえる。
 お袋はしばらく頬に手をあてしげしげと麻生を眺めていたが、思案げに口を開く。
 「あれ、ひょっとして、あんたが言ってた友達の……麻生くん?」
 「話したっけ?」
 「話したわよ。いつも本を読んでる、勉強がよくできる、優等生の……あんたがミステリ同好会とかわけわかんない部活にむりやり引き込んだ」
 「訂正しろ。いくらお袋でも今の発言は許せない、ミステリ同好会はわけわかんねー部活なんかじゃねー古今東西の推理小説を読み漁って優劣を議論する高尚な目的をもった」
 「寂しそうね」 
 「え?」
 気遣わしげな面持ちで意外な台詞を吐くお袋。
 振り返り、麻生を見る。
 母親と生徒が二人一組で席を埋め、呼ばれるまでの時間潰しに友人関係を詮索したり担任の人となりを事情聴取したりと他愛ないおしゃべりに興じる廊下にあって、そこだけ時間の流れ方がちがっていた。
 階段の前で立ち止まり、一人椅子に座る麻生に視線を注ぐ。
 「お袋、俺」
 「一緒にいてあげなさい」
 皆まで言わせず力強く頷く。
 厳しさと優しさが入り混じった表情が柔和にほどけ、目尻と口元に皺が浮かぶ。
 「………サンキュ」
 無言で叱咤し促すお袋に片手を挙げる。
 お袋が背中に手を振ってるのが見なくてもわかった。
 さすが俺のお袋、話がわかる。
 階段前でお袋と別れる。
 一旦教室に引っ込んだ担任が引き戸を開け、太い濁声で「麻生!」と呼ぶ。
 麻生が本を閉じ腰を浮かし、教室へ消える。
 再び引き戸が閉まり、廊下に静寂が戻る。
 座っちまおうか一瞬迷ったが、生徒と保護者のために用意された椅子を面談済みの俺が不法占拠するのは気が引け、薄っぺらい鞄を小脇に抱え引き戸の横の壁に寄りかかる。
 時間潰しに鞄の中をさぐり、読みかけの文庫をとりだし、栞をはさんだページを開く。
 「麻生、おまえ……親御さんは?」
 「来ません」
 「来ませんてな……都合が悪かったのか?面談、今日だって話したろ?連絡行ってないのか」
 「さあ」
 「さあってな……三者面談で保護者がこなくてどうする、これじゃ二者面談だろ」
 盗み聞きはよくない。
 担任の地声がでかいのを失念していた。これじゃそのつもりがなくてもでばがめだ。
 壁沿いに移動しようとして、麻生の乾ききった声が偶然耳に入った瞬間、足が止まる。
 背中を付けた壁から困惑の気配が伝わる。
 やや間をおいて、対処に困りかね担任が口を開く。
 「あー……成績についてだが、特に言うことはない」
 「そうですか」
 「進路は考えてるか?お前なら地元じゃなく東京の大学も狙えるぞ。早稲田とか慶応とか……」 
 「どうでもいいです」
 「どうでもいい?」
 「興味ありません」
 「自分の進路だろう」
 担任が途方にくれる。
 盗み聞きの後ろめたさと先を聞きたい欲求とがせめぎあい、手がページの前後を行き来する。
 「お前の成績なら進学を勧める。体育は……なんだ、今まで一度もまともに出てないのか。全部見学。どっか悪いのか?」
 「別に。……高校生にもなって跳んだり跳ねたり校庭十周したりするのばかみたいじゃないですか」
 服の下にちりばめられた情事の烙印、無数の痣と傷とロープのあと。
 「……体育はおいといて、それ以外は殆どパーフェクトの出来。自信をもって推薦できる。正直、地元に埋もれさせるのが惜しい」
 おお、担任が担任みたいなこと言ってる。ちょっと感動。
 「お前はどうだ。興味ないと言ったって、当然進学を考えてるんだろ。希望はどこの……」
 「先生」
 担任を呼ぶ。 
 「俺、一年後の自分がどこでなにしてようが興味ないんですよ」
 刹那的で厭世的、他人行儀な言い方。
 現在と将来を完全に別物として切り離し考える、一年後の自分を価値観の断絶した他人と割り切る人間の言い分だった。
 超然とした態度に鼻白むも、一瞬言葉に詰まった担任が語気を強め説き伏せにかかる。
 「……だがな麻生、そろそろ二年も終わりだ。進学考えてるなら本腰入れて準備したほうがいいし、親とも相談したほうが」
 「帰っていいですか」
 「駄目だ」
 「そうですか」
 「本を開くな。担任を無視して読書とはいい度胸だな」
 「時間を有意義に使いたいんで」
 忍耐力が一分一秒と削ぎ落とされてくのが怒気と威圧膨らむ声から伝わりこっちがはらはらする。
 形だけ本は開いてるが、内容がちっとも頭に入ってこない。
 視線と意識は活字を上滑りし、耳は引き戸の内の会話を捉えようと鋭敏に研ぎ澄まされていく。
 緊張に突っ張る指先でページをめくる。
 読書で鍛えた想像力が悶々と膨らむ。
 引き戸を閉めた教室の中の光景を想像する。
 机を隔て向き合う麻生と担任。
 担任は腕組み苛立ち貧乏ゆすりを始めるも麻生は退屈そうに机の一点に視線を投じる。
 麻生の隣に用意された椅子は空。
 時折担任が空席をいましましげに睨み、腕時計を一瞥しては舌を打つ。
 秒針が時を刻むごとにフラストレーションの重圧と緊迫感が高まっていく。
 喉が渇く。
 ページをめくる指から感覚が失せる。
 弾まぬ会話。
 適当な相槌。
 担任が時間稼ぎに投げかける質問に、麻生は熱の入らぬ、愛想のない、それでいて要点を的確に掴んだ非の打ち所ない答えを返す。
 全く付け入る隙を見せない優等生。息詰まる時間。
 「…………来ないな」
 二十分も辛抱強く待っていただろうか、貧乏ゆすりに飽きた担任が痺れを切らす。
 「どういうことだ、麻生」
 「多分、興味がないんですよ」
 「三者面談にか」
 「俺に」
 卑下でも自虐でもなく客観的に事実を語っていた。
 心底どうでもよさげな言い方に、冷たい手で心臓を掴まれた気がした。
 担任が絶句する。
 ガタンと椅子が鳴る。麻生が椅子を引く。
 「帰ります」
 引き戸の隙間から覗けば、麻生が鞄を取り上げ、担任に軽く会釈してこっちにやってくるところだった。
 「待て麻生、話はまだ終わってないぞ!」
 勝手に面談を切り上げ麻生が近付いてくるや、退出寸前に引き戸の前からとびのき、背中を壁に密着させる。
 引き戸の横手の壁に張り付いた俺を横目で一瞥、麻生の横顔にかすかな驚きの波紋が広がり、次いで不審げに眉をひそめる。
 「いたのか?一番最初に終わったろ」
 「……一緒に帰ろうとおもって」
 「物好きだな」
 自分を待ってる人間がいるなんて思いもよらなかったみたいな反応に、なぜか胸が痛む。
 物好きを珍しがるように呟き、担任の怒号にあっさり背を向け、麻生は階段を降りていく。
 頭に血が上った担任が追っかけてこないうちにと急いで続く。
 下駄箱でふたりそろって靴を履きかえるあいだも学校を出る間も無言だった。
 お袋の姿はもうなかった。
 秋の夕暮れは早い。
 見渡せば通学路の左右の荒地に生い茂る雑草も勢いを失い、背丈の高いススキが混じっていた。
 使い古しの箒さながら不揃いに毛羽立ち夕空を掃くススキから、隣を歩く麻生に目を転じ、盗み聞きの後ろめたさを払うようにして快活に笑う。
 「あーやだやだ、参っちまった!三者面談とかほんと最悪。テストの珍回答まで暴露されちゃってさ、便器に頭突っ込んで尻隠さずな心境」
 「ホントに突っ込めば。エコー返るから寂しくねーだろ」
 「抜けなくなるっての。お袋もさー、いい年こして厚化粧で若作りしちゃって、ちょっとは息子の気持ち考えてほしいよ」
 「廊下で話してたの、母親?」
 「そ。普通のおばさんだろ」
 「普通だな。どこにでもいる感じ。顔似てた」
 「え、マジで?そうかな?お袋と妹は似てるけど、俺が言われたの初めてかも」
 「目元のあたりが」
 「うち両方ともお袋似なのかな」
 どうでもいいことをだらだら話しながら麻生とふたり帰途をたどる。
 片側には廃工場の長く殺風景なコンクリ塀、片側には廃車が放置された野原の斜面が続く。
 茜色の空と枯れた情景の対比が哀愁と感傷を誘うも、普段どおりお調子者で明るい道化を演じて喋り続ける。
 一方で頭を働かせ、少しでも麻生を楽しませよう笑わせようと試行錯誤しては空回りする俺がいた。

 なんで親、来なかったの?

 それとなく聞けば案外軽く答えてくれるのかもしれない。
 だが聞けない。
 いくら空気を読まない俺でも、こいつが守る線の内側に踏み込むのは勇気がいる。
 だからなるべくどうでもいい、境界線に接触せずにすむ、関係ない話題を採用する。
 核心を迂回して迂回して、こいつがちらりとでも笑ってくれるなら、ばかだなあと苦笑いしてくれるならそれで俺は救われる。盗み聞きの罪が帳消しになるような錯覚にとらわれる。
 「俺の妹さ、真理っていうの」
 「ああ」
 「透と真理」
 「だから?」
 「わかんね?」
 タイヤが小石をのりこえ反動がハンドルを通し手に伝わる。
 「かまいたちの夜。主人公、ヒロインと一緒。初プレイで運命感じた」
 麻生は理解不能という顔をする。
 なんだ、その顔。ウケ狙いで滑ったか。
 後悔するも、宙ぶらりんの沈黙をおそれて独りよがりな饒舌を糊塗する。
 「今度貸そっか?我孫子武丸監修だけあってばかにしたもんじゃないぜ、トリックも本格だし……ウケ狙いの選択肢えらぶと死亡フラグ立つけど。釜井たちの夜は爆笑もの。いちおしはスパイ編。通算三十回プレイしてもピンクのしおりにならなくて聡史に泣きついた苦い思い出が……」
 「……………」
 「………何か話せよ」
 虚しさに閉口する。
 西空が夕焼けに燃える。
 五線譜のような電線が撓って、管楽器の弦を弾くような甲高く哀切な音をたてる。  
 風が出てきた。寒さに身を竦める。そろそろコートを出す季節だ。
 空から吹きおりた乾いた風が電線をかき鳴らし髪をかきまぜ、斜面一面に生い茂るススキを薙ぐ。 
 風が吹くや斜面を覆うススキが一斉に平伏、ざわめきに乗じて波紋が広がりゆく。
 乾燥した空気をおもいっきり吸い込めば、不燃焼のおが屑を敷き詰めたみたいに胸と喉がとげとげしくかさつく。
 正面から吹く風に晒され急き立てられるように次の糸口をさがし、思い定まらず口を開く。
 「お前さ、なんでゆずるっていうの」
 麻生を下の名前で呼ぶのは初めてだ。
 口に出す時、若干緊張した。
 本人は気にした素振りもなく歩き続ける。
 無視されむきになり、小走りに追いついて図々しく顔をのぞきこむ。
 「似合わねー謙虚な名前。譲ってかんじじゃねーよ、絶対」
 笑い話のつもりだった。
 あんな答えが返ってくるなんて予想もしなかった。
 「母方の伯母が不妊症なんだ」
 自転車を引く手がかじかむ。
 離れかけた靴裏が再び地面を踏む。
 強い風が吹く中、顔を伏せがちに歩きながら乾いた声で続ける。
 「産んですぐ譲ろうと思ったから譲」
 電線が撓む。
 「……………………え?」
 聞き違いかと思った。
 風があんまり強く吹いていて。だから、聞き違いかと本気で訝しみ疑った。
 多分願望だった。聞き違いであってほしいという祈りだった。
 乾いた草と土の匂いを含んだ風が枯れ草を無体に蹂躙し、何かの兆しのように野原がさざなみだち、空を横切る電線が引き絞られた弦の如く軋み撓む。
 固い唾を飲みくだし、背中を向けた麻生に追い縋り、口角を釣る不誠実な笑いで茶化す。
 「は、はは。冗談キッツイ。なんだよ、それ」
 「信じなくていいけど」
 「………本当なのか」
 「子供をほしがってたから譲ろうとしたんだけど、養子を貰っていらなくなったんだとさ」
 いらなくなったとかいうな。
 咄嗟に言い返そうとして、込み上げた言葉が詰まる。
 自己憐憫でも自己嫌悪でも自虐的な開き直りでも、口調に一片の感情ないし感傷が含まれてるならまだしも救われた。
 麻生の言葉はただただ乾いていた。
 十月の風みたいにそれ自体は殺伐と乾ききっていても、聞く者の胸に熾き火を燻す。
 自分の一部ごと痛みを切り離し忘却する、風葬の、声。
 「…………………」
 色々な事をひとつひとつ思い返し腑に落ちた。
 家族の気配のないだだっ広くからっぽなマンション、毎日コンビニ弁当か外食、面談にとうとう現れなかった親、理由を問われ「興味がない」と卑下でも自嘲でもなく客観的主観的事実として回答する麻生、親子が二人一組で控える廊下でたったひとり椅子に腰掛け本を読む姿…… 
 
 『寂しそうね』
 麻生を見て、お袋は言った。
 
 「なんでお前が泣きそうなんだよ」
 弾かれたように顔を上げ、前を向く。
 五歩先で体ごと向き直った麻生が、白けた顔でこっちを見ていた。
 自分が今どんな顔してるかなんてわからない。
 ハンドルを握る手に力がこもって、俯いた顔が紙みたいに歪んで、瞼が熱を帯びて、胸から喉にかけて塞ぐ鬱屈を吐き出したい衝動が燃え広がる。
 突如身の内に湧いた感情を持て余し、どこに捌け口を求めていいのかわからず硬直する俺と対峙し、地面に長く影を従えた麻生がそっけなく呟く。
 「同情されたくない」
 夕映えの逆光に塗り潰され、世の中の善意を軒並み塵芥同然に掃いて捨てるような表情だった。
 冷たい秋風を受けてひとり立ち、ここから先は来るなと線を引くように毅然と突き放す麻生に対し、理不尽な怒りと切なさに駆られ吐き捨てる。 
 「同情じゃねえ」
 「じゃあなんだ」
 「時間差トリック」
 瞼が熱い。
 涙腺がゆるむ。
 うっかり気を抜くと洟汁が垂れそうになる。
 何も知らない俺が泣くのは卑怯だ。
 名前の哀しい由来を聞かされて、それだけで事情もよく知らず泣き出すのは卑怯だ。
 わかってる、理屈じゃそうだ。
 なのになんで瞼が熱く震える、なんで目がよく見えない、視界が不透明に曇る。
 俺は麻生の事を何も知らない。
 どういう環境で育ったのか、なんでマンションで一人暮らししてるのか、なんで三者面談に親が来なかったのか背景の家庭を知らない。
 少年期を悼む喪服じみて黒く潔癖な制服の下、全身の痣と傷痕の理由さえ知らない。
 何も知らないから、麻生の親を安易に非難も批判もできない。
 来たくてもこれなかったのかもしれない、急に用事ができたのかもしれない、たまたま連絡がとれなかっただけかもしれない。
 そうであってほしいと願う、心から。
 でも

 「子供の頃のお前の分も泣いてんだ」

 産んですぐ譲ろうとおもったから譲。
 今までの人生で、誰か、麻生の名前を愛情こめて呼んでやった人はいるんだろうか。
 下の名前があると、気付いてる人間がどれ位いるんだろうか。
 俺だって今の今まで、話題に窮して由来を聞くまで、麻生の本当の名前を忘れかけていた。
 自分に失望した。
 酷く薄情な人間になった気がした。 
 それ以上に、哀しい名前の由来をつまらない本の話でもするように言ってしまう麻生がやりきれなかった。
 
 風が凪ぎ、野原に広がる漣がかすかな囁きだけを残し静まっていく。  
 茜の上澄みに薄墨が混じり始めた寂寥とした夕空の下、坂のど真ん中でハンドルに突っ伏し嗚咽を堪える俺の方へ舌打ちひとつ影が歩いてくる。
 「顔あげろ」
 言う通りにするや、何枚かまとめたティッシュで強引に洟をかまれる。
 「!もがっ」 
 「垂らすな」
 優しさのかけらもない、ひたすら煩わしげな手つきでやすりでもかけるみたいに鼻を擦られ、むずがゆさに勢いくしゃみをする。
 「っくしゅ、」
 「変な顔」
 ティッシュを裏返し、できるだけ綺麗な余白でついでとばかり鼻まわりをごしごし拭く。
 使用済みティッシュをさも嫌そうに見下ろすや始末に困り苦渋の決断、慎重に厳重に丸めて学ランのポケットに突っ込む。さすがにポイ捨ては抵抗あるらしい。
 ティッシュをつまむようにしてポケットにしまい、麻生は辟易と言う。
 「高校生にもなってくだらねーことで泣くな」
 「くだらくなんかねえ」
 即座に言い返せば、眼鏡の硬質レンズの奥からどうしようもない馬鹿を哀れむ眼差しが返る。
 「救いようないお人よしだな」
 まわりに人がいなくてよかったと安堵する。道のど真ん中で体格も大して変わらねえ同級生に鼻をかまれてるところを見られちゃさすがに気恥ずかしいしばつが悪い。
 聡史に目撃された日にゃ二度と先輩といばれなくなる。
 「待てよ、あ………」
 名前を呼びかけ、地面を蹴って軽快に走り出そうとして、ふと迷う。
 「何?」
 まだ何かあるのかと露骨に迷惑そうに振り向く麻生に対し、「強くかみすぎだよ。赤ん坊の尻拭くようにソフトリーフレンドリーに頼む」と冗談めかせば「次はない」と断言される。
 赤く染まった鼻の頭をこすりながら麻生の背中を追いかけ、いざとなると恥ずかしさが勝り、「譲」と呼べない臆病な自分を呪う。
 俺が付いてこようがきまいがかまいやしないとそっけない背中を見詰め、心の中で漠然と思う。

 麻生を下の名前で呼ぶ最初の人間になりたい。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010323174929 | 編集

 翌週、麻生が学校を休んだ。
 「誰か麻生んち知ってるかー」
 長い一日も終わり、ホームルームを迎えた教室に弛緩しきった空気が蔓延する。
 放課後どこへ寄るか部活に出るか机に突っ伏し椅子に寝そべりだらけきってだべりあう生徒のうち担任の話に耳を傾ける物好きは少数派、その少数派もまともに聞いてるわけじゃない証拠に前後左右の友達とつつきあって笑ってる。
 「麻生んちなんて知らねーよ、人嫌いで秘密主義な優等生だもん」
 「地元じゃねえよな、ふらついてるの見ねえし」
 「ひきこもりじゃねーの?学校帰ったら家から一歩も出ねえでゲームと本漬け」
 「ありうる!」
 「ネクラ眼鏡はオタクって決まってるもんな!」
 同級生がウケる。爆笑が巻き起こる。たえまない私語に偏見から捏造された噂が混入、なかば公認の事実として流布する。
 決して集団に染まらぬ麻生に対し、その容姿と成績の良さも手伝って反感を持ってるヤツは多い。
 普段は表にこそ出ないが、本人が欠席するなり謎に包まれたプライベートをネタにした様々な憶測が飛び交う仕様だ。 
 「塾とか行ってんじゃねーの。じゃなきゃ成績維持できねーべ」
 実力だよ。
 「ばかにした目つきで人のこと見下して、前から気に入らなかったんだよな」
 自意識過剰、被害妄想。
 「せっかくこっちから話しかけてやっても本読んで無視しやがって……ずっとこなけりゃいいのに」
 逆恨み。
 クラスに馴染まぬ異分子に根強い反発を抱く連中が本人の不在を理由にここぞとばかり不満を吐き出し中傷をおっぱじめる。
 俺は席に座ったまま、机の上で拳を握り締め、クラスの連中が麻生を悪く言うのを自制心を振り絞って聞いていた。
 「うるさいぞお前ら。で、麻生んちにプリント届けてほしいんだが……」
 「むりっすよセンセー、あいつトモダチいねーし」
 お調子者が椅子をがたつかせ机を蹴り教室がどっと沸く。
 「言えてる、誰もあいつんちなんか知らねーよ!」
 「どこに住んでるか聞いたこともねーし」
 「ホームレス高校生だったら笑えるよな。河原でダンボール生活」
 「地元じゃねえならむりっすよー。俺、このあと予定あるし」
 「北高の佐奈ちゃんとデート?てめっ、俺が紹介したのに横取りしやがって!!」
 ホームルームの体をなさぬ喧騒の混沌の中、担任は困惑気味に眉根をかき、片手のプリントを持て余す。
 「あー……いないんなら仕方ないな……」
 「行きます!」
 ガタンと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がれば、ざわめきが途切れ注目が集まる。
 まさか有志が立候補するとは思いもしなかったのか、麻生を笑っていた同級生が呆気に取られる。
 椅子に反り返り笑っていた中の一人が大股開きでひっくり返る。ざまあみろ。
 「俺が行きます。家、知ってるんで」
 まっすぐ担任を睨みつけ、一言一言切りつけるように言う。
 「物好きだな、秋山」
 野次をとばした隣の席の生徒を文句あるかと尖った眼光で一瞥、閉口させる。
 乱暴に椅子を引き、物珍しげな視線を独占しつつ憤然たる大股で突っ切り、教壇を隔て担任と向かい合う。
 「プリントください」
 傲然と顎を引き、立場逆転したかのように強い語調とともに右手を突き出す。
 俺の手に三日分溜まったプリントの束をのせながら担任が歯切れ悪く聞く。
 「秋山……お前、麻生の友達なのか」
 同級生が興味津々俺の返事に耳をすませている気配が伝わる。
 「友達です」
 高校で初めて出来た、を付け加えてもいい。
 教壇に向かい立ち、挑むように担任を見据え宣言すれば、背後で爆笑と野次と口笛とが巻き起こる。
 高校生にもなって臆面なく友達なんて口にするやつはさぞかし新鮮で滑稽だろう。クラスを敵に回し麻生を擁護した俺の言動はそれだけ奇矯で目立つ。
 「熱いね、お二人さん!」「いつからそんな関係になったんだ」「あやしいと思ってたんだよな」「ほら、俺の言ったとおり、できてただろうあいつら」……言いたいだけ言わせとけ。
 「やかましい腐ったみかんども、皮剥くぞ!!」
 唾しぶく距離で豪快に大喝がとぶ。
 爛々と光る三白眼をカッと見開き、教壇を平手で殴打すると同時に一喝すれば、極道まがいの強面の迫力に教室中が静まり返る。
 椅子からずりおちたかけた姿勢で硬直する生徒を剣呑な眼光で黙らせ、威儀を正して俺の手にプリントを渡す。 
 そして。
 咳払いがてら、照れくさげに口を開く。
 「頼む」
 「はい!」
 とびっきりの笑顔で元気よく首肯する。 
 俺の担任は悪い人じゃない。ちょっと鈍感だけど。


 電車に揺られ五駅、麻生が住む町を二ヶ月ぶりに踏む。
 「麻生先輩が欠席なんて珍しいですね。風邪っすかね、最近急に寒くなりましたし」
 「別にお前まで来なくてもよかったんだぞ。友達と遊ぶ予定とかねーのか」
 「先輩を一人で行かせるわけにはいきませんし」
 謎の使命感に燃えて拳を握る聡史の背後にめらめらと気炎を幻視、執念にちょっと引く。
 駅を降りて夏休み歩いたルートで目的地に向かう。
 景色の記憶を頼りに五分も行けば白亜の壁が清潔で瀟洒なマンションが見えてくる。 
 「駅から近くていいな、ここ」
 駅前は地価が高い、家賃が気になるところだ……前も言ったなこの台詞。つくづく俺はせこい。
 自動ドアを抜けいざ広壮な吹き抜けのホールへ。管理人は常駐してないようだ。その分セキュリティがしっかりしてる。監視カメラに見張られながら奥のエレベーターに乗り込み、ボタンを押そうとして聡史を仰ぐ。
 「……何階だっけ」 
 「八階です」
 心強い後輩。一緒に来てよかったと心の中で感謝する現金な俺。
 エレベーターはすぐ八階に着く。
 勝手知ったる他人のマンション、聡史も俺も遠慮はしない。
 夏休みに外泊してからもう二ヶ月経過してるが当時と内装は変わってない。  

 麻生が突然学校に来なくなった。
 まめに携帯をチェックしてるが、メールは一通も入ってない。
 同じクラスになって以来こんな事は初めてだ。
 ただの風邪だと自分に言い聞かせささくれる気持ちを宥めても、欠席が三日も続けば想像は不可抗力で悪い方へと傾く。

 麻生の身に何かあったのか?

 マンションに外泊した日に偶然目撃した裸身がくりかえし浮かび上がる。
 情事の痣と束縛の痕と煙草の火傷、陵辱と虐待の痕跡明らかな裸。
 臆病で腰抜けな俺は、あの痣と痕の理由をとうとう聞けずじまいだった。どうしても聞けなかった。口に出した途端俺と麻生の間を繋ぐ細い糸があっけなく断ち切れてしまいそうで、月日を積み重ね危機を乗り越え漸く縮まり始めた距離が開いてしまいそうで聞くのに抵抗があった。
 麻生の欠席が傷痕と関係あるというのは思い過ごしか。
 思い過ごしであってほしいと願う。
 俺がぐずぐずタイミングを逃したせいで手遅れになっちまったら……

 「あ」
 「ぶっ」
 お約束の接触。
 前を行く聡史がいきなり立ち止まったせいで背中に顔面から激突。
 鼻の頭を赤くし、先輩をさしおいてやたら上背があり体格の頑丈な後輩を恨む。 
 「なんだよ聡史、急に立ち止まって……」
 「先輩、あれ」
 聡史が目で促す方向に向き直り、眉根が寄る。
 今しも麻生の部屋のドアが開き、見慣れぬ黒背広の男が出てきたところだ。
 「お客………?」
 年齢は三十代半ばから後半、苦みばしったいい男。
 整髪料で几帳面に撫で付けた髪をオールバックに纏めている。
 知的な双眸、彫り深い顔立ち、紳士的な振る舞い。物腰は礼儀正しく洗練されている。
 写真を見せられ職業を問われれば「秘書」と即答しただろう。 
 糊のきいたスーツを端正に着こなす男に続き、ドアから出てきたのは麻生。
 三日ぶりに顔を見てほっとするも、本人の顔色はいまひとつ冴えない。
 表情は険しいというほどじゃないが、かすかに眉をひそめ迷惑そうにしている。
 「私はこれで。今月分の生活費は口座に振り込んでおきましたので」
 「電話で済む連絡、わざわざ伝えに来なくていいから。あんただって暇じゃないだろ」
 「仕事のうちですので」
 「生存確認して来いとでも言われたか?」
 言いよどむ男を皮肉る。砕けた口ぶりから年月を経た知己と推察した。
 「残念だけどまだ生きてるよ」
 「譲さん、その言い方は……唯さんだって心配してるんですから」
 「あの人が?三年は顔見てないけど」
 「譲さん、仮にも親にむかって」 
 親?
 「他に必要な物、欲しい物は?」
 「何も要らない。帰ってくれ」
 気遣う男を煩わしげにあしらう。
 スーツで決めた年嵩の男を十七か八のガキがそうして顎で使うさまはめちゃくちゃ傲慢で不遜だった。推理小説にはたびたび登場するが現実ではついぞお目にかかったことない後見人の呼称が断片的な会話から浮かぶ。
 何か言おうとして飲み込み、男が恭しく頭をさげる。
 敬意を払い一礼する男を見下ろす麻生の目は、眼鏡の奥で無関心な低温を保つ。
 男が踵を返し、こっちに歩いてくる。
 すれ違い際、肩が軽く触れる。
 「失礼しました」
 「あ、いえ、こっちこそ」
 ぼけっと突っ立ってた俺らが悪いのに謝罪をかねて会釈されかえって恐縮。
 男が乗り込んむやエレベーター円滑に降下を始める。
 聡史と一緒に廊下に立ち尽くし、稼動再開したエレベーターを呆けて見送る。
 非友好的な態度で男を送り出した……事実に沿って言えば追い払った麻生は、腕組みをほどき、何事もなかったように玄関に入りかけ

 倒れる。

 「麻生!?」
 「大丈夫っすか、先輩!!」
 スローモーションのような一瞬。
 ドアに隠れかけた体が不安定に傾ぎ、膝から一気に力が抜け、前髪が風圧で浮く。
 ドアに凭れるようにしてへたりこんだ麻生に、聡史とふたり血相かえて駆け寄る。
 鞄の金具をカチャカチャ言わせ駆け寄るや聡史と手分けして肩を貸し玄関にひきずりこむ。
 塞がった手の代わりに行儀悪く足でドアを閉め、突如昏倒した麻生を上がり框に転がす。
 「おま、いきなり倒れんなよ、心臓が保たないって……隣のマンションからゴルゴ13に狙撃されたかと思ったろ」
 「すごい熱っす」
 仰向けに寝転がった麻生の額に手をあて、聡史が深刻そうに呟く。
 即座に手を引っ込めるや、熱く荒い息を吐く麻生にごくごく正論な説教かます。 
 「こんな熱出してんのに呑気にお客さん迎えて何やってんすか、病院は、保険証どこっすか!?」
 「病院は……イヤだ……」
 「子供っすかあんた!!」
 キレた。
 怒りに任せて二人称があんたになってるが、一応先輩だということは忘れてないのか、砕けた敬語混じりの支離滅裂な口調で難詰する。
 「聞き分けないこと言ってないで保険証出してください、先輩が自分で動かないから俺がとってくるからせめて場所だけ教えてください!」
 「知らない」
 「知らないって、知らないで今までどうやって暮らしてたんすか!」
 「風邪ひいたらどうしてたんだ?」
 「……寝てた……」
 「「免疫力に頼りすぎ!!」」
 朦朧と寝言をほざく麻生に呆れるやら仰天するやら。
 聡史は立腹極まって頭から湯気ふきそうな勢いだ。
 気持ちはよくわかる、俺だって今非常に対処に困ってる。
 様子見がてらプリント届けにきてみたら同級生が高熱発して玄関先で倒れる現場に出くわして後輩ともどもパニック状態、しかも今上がり框で死にかけてる病人は自分の保険証のありかも知らねえととんちきで非常識な申告をしやがる。
 「~下々が羨むマンションで一人暮らししてるくせに生活能力おそろしく低いな、保険証と印鑑と通帳の場所だけは覚えてろよ!」
 薄々思っていたが、今確信した。頭はいいんだろうが社会性が致命的に欠落してる。
 俺と聡史がタイミングよく現れなかったら玄関先で死んでたんじゃねーかコイツ、死体の第一発見者にならずにすんでよかった。警察での事情聴取は一度体験してみたかったけど。
 「聡史、お前はそっち持て。靴脱がしてベッドに運ぶ。えーと、寝室は……どっちだ?ソファーでいいか」
 よくできた後輩が指示に従い手際よく靴を脱がす。
 麻生を間に挟んで三人六脚の要領でえっちらおっちら危なっかしく廊下を進み、横手の扉を開け放ち、リビングへなだれこむ。
 こんな事態を想定して同伴したわけじゃないが聡史がいて助かった。
 俺も一応男だがこの通り貧弱な痩せっぽち、生白い坊やで腕力はからっきし。肉体労働には向かない。もし俺一人でのこのこ訪ねていたら、麻生は玄関からリビングに引きずられる過程の段差で体の至る所を殴打し痣だらけ傷だらけコブだらけで眼鏡も割れていた。最悪俺が麻生を死体にしていた可能性もある……笑えねえ。
 聡史と手分けして麻生を担ぎ、なんとかソファーの片方に寝かせる。
 「先輩、どう、どうしましょう?」
 「どうどう、落ち着け聡史。ひっひっふー、ひっひっふー」
 「ラマーズ法っすよそれ、なに産ませるつもりっすか!!」 
 「よし、ツッコミ顕在。まずやることは……麻生、薬はどこだ?」
 「全部飲んだ」
 病人役に立たねえ。
 「ドラッグストアで買ってきます!」
 「頼む!」
 リビングをとびだし床踏み抜かんばかりに猛然と玄関へ直行、靴を履くのもそこそこに転げ出る。
 聡史が外出したのをドアの閉まる音で確認、閑散と殺風景なリビングを見回し舌打ち、ソファーに横たわる麻生に背を向けキッチンへ。
 テーブルを迂回し台所に行き、冷蔵庫の扉を開ける。
 案の定からっぽに近い状態で失望。
 「……卵と生姜の調達も頼めばよかったな……」
 後悔すれども遅し。
 扉を閉じ、今度は冷凍庫の引き出しを開ける。大量の氷が自動的に精製されていた。
 アイスボックスの氷をスコップですくってビニール袋に入れ、蛇口を捻り、水で満たせば即席の氷嚢のできあがり。
 氷水でたぷつく氷嚢を持ってリビングに行き、苦しげに胸を波打たせる麻生に聞く。
 「タオルどこ?」
 「…………………部屋……」 
 喘鳴に紛れ、掠れて弱々しい声で教える。
 リビングを出た足で廊下を歩き、ちょうど向かいのドアを開ける。
 電気が消えてるせいで中は薄暗い。
 麻生はここで寝起きしてるらしく、だだっ広く空疎なリビングと比較しいくらか生活感があった。それさえ誤差の範囲内だが。
 電気を点ける手間も惜しみ中に入り、奥のベッドを手探りしてタオルをさがす。
 「エロ本ねーな……シーツの下にでも隠してやがんのか」
 リビングと同じく、寝室もよそよそしいほどに片付いていた。
 極端に物が少ない。私物はパイプベッドとクローゼット、机とデスクトップパソコン、文庫やハードカバーが幾層にも分かれぎっしり詰まった立派な本棚くらいか。「腐海」と妹が鼻をつまむ俺の部屋とは雲泥の差。
 「ーって、よそ見してる場合じゃねえ」
 自分にツッコミを入れる。
 ずれた枕、寝汗を吸って人型に変色したシーツ、だらしなく捲れた毛布が目に入る。
 床にタオルがおっこちていた。
 拾い上げ、握り締め、秀才と評判の友達の馬鹿さ加減に心底あきれ憤りを覚える。
 麻生は嘘は言ってなかった。
 風邪をひいてから三日間、本当にただ寝ていただけだ。
 台所で飲み食いした形跡はない、ベッドから出た形跡は殆どない。おそらくさっきの男が訪ねてきて慌てて起きたのだろう、床に落ちたタオルはすっかりぬるくなっていた。
 タオルを掴み、一陣の風の如くリビングにとって返す。
 階下の住民から苦情が出るかもしれないが謝罪は家人に任せる。
 ソファーの傍らに跪き、氷水を入れたボウルでタオルを冷やしながら低く聞く。
 「ずっと一人だったのか?」
 「…………ああ」
 「なんでメールくんなかったんだよ」
 タオルを絞りながら吐き捨てる。
 「風邪ひいたって連絡くれれば寄ったのに……全然知らなくて……こっちから打っても返信こねえし」
 「チェックしてなかった」
 そりゃそうだ、身体が辛い時にメールのチェックなんてやってらんねー。
 責めるのは理不尽だとわかっていても、一度堰を切って迸り出た不満はとまらない。
 「こんなになるまでほっといて……寝っぱなしで……『風邪ひいた』の一言でいいから連絡くれりゃ、もっと早く見にきたのに」
 「関係ないだろ」
 タオルを絞る手が止まる。
 ソファーに身を横たえた麻生が、眼鏡の奥、熱っぽく潤んだ目で俺を見る。
 「関係なくねえよ!」
 病人相手に、おもわず声を荒げていた。
 麻生が心外そうに眉をひそめる。こっちが心外だ。
 行動を自制する理性が蒸発、手を振りかぶって顔面めがけ濡れタオルを投げる。
 べちゃりといい音がし病人の顔面をタオルが覆う。
 「………眼鏡の上からぶつけるな………」
 タオルをきつく絞り、今度はきちんと畳んで額にのせてやる。
 「体温計は?」
 「どっかそのへんに転がってる……はず」
 語尾が頼りなく萎む。
 本当に具合が悪そうだ。一時的な感情に流され病人にした仕打ちを悔やむ。
 聡史はまだ帰ってこない。
 リビングの床を這って体温計を捜すも見当たらず、諦め、甲斐甲斐しく看病にあたる。
 寝室から毛布を持ってきて掛けてやる。まめにタオルを取り替える。ぬるくなってきたら氷水に漬け、絞り、額にのせる。
 台所とリビングを何往復もし冷蔵庫の扉を開閉、蛇口を捻り忙しく立ち働く。
 アイスボックスに補充された氷をボウルと氷嚢にぶちこみタオルを冷やし、絞る。
 「大丈夫か、麻生」
 「………………」
 「寝たのか」
 返事はない。
 試しに口元に手を翳せば、よわよわしいながら呼吸をしていたので一安心。
 ソファーに凭れ後ろ手付く。
 熱が感染した不規則な呼吸が聞こえてくる。体をずらし、覗き込む。
 額を覆う濡れタオルの下、病的に生白い肌が鮮やかに上気している。
 憔悴した寝顔を見詰め、切々と込み上げる無力感に唇を噛む。
 「………そんなに頼りねーかな、俺」
 風邪で辛い時くらい遠慮なく頼ってくれたらいいのに、水くせえ。
 四月からこっち友達やってきたのに、麻生はまだ距離をおいてる。
 滅入りがちな気分を首振りで払拭、顔を上げた拍子にふと眼鏡が目にとまる。
 寝返り打ったはずみに壊しちまったら大変だ。
 体ごと向き直り、前髪をのけるようにして、繊細な手つきで弦に指を這わせる。
 慎重に弦を摘み、手前に引き、レンズを浮かせる。
 意識が混濁してるのか、抵抗らしい抵抗もせず、無気力に四肢を投げ出している。
 弛緩した四肢、弾む息、熱を帯びてだるそうな様子を眺め雑感を抱く。
 今なら簡単に絞め殺せる。
 唇も
 「………え……」
 突飛な連想にたじろぐ。
 なに考えてんだ、俺。相手は病人で、しかも男で友達だ。
 首の動きに合わせ雑念を払い、心奪われ中断した作業を緩慢に再開する。
 熱に潤み朦朧とした目が、茫洋と不透明な眼差しを虚空に投げかける。
 黒く澄んだ虹彩が眼前に現れた手を反射で追い、ゆっくり離れていく眼鏡を見送る。
 剥離手術の完了した患者を見下ろし、安堵の息を吐くと同時に他愛ない悪戯を思い付く。
 麻生の顔から取り外した眼鏡を出来心でかけてみる。刹那、世界が歪曲した。
 「……度が強ぇ……こんなのかけて暮らしてるのか、尊敬」
 視軸が歪み眩暈が襲い、慌てて遠ざける。
 弦を畳み、ガラステーブルの端に置く。
 眼鏡を外した寝顔は存外無防備であどけなかった。
 人を寄せ付けないシャープな冷淡さが薄れ年相応に多感で繊細な表情を見せる。
 タオルをかえるついでに、妹が風邪をひいて寝込んだ時そうしたように、俺が寝込んだ時お袋がそうしてくれたように前髪を梳いてやる。
 氷水で冷やした手から額に直接冷気が染みていく。
 見てるこっちの胸が痛くなる寝顔だった。
 普段の言動がアレでアレなだけに、大量の発汗を促す熱に苛まれ消耗してく様子が痛々しい。
 憔悴の翳り隈取る顔を仰向け、意外と睫毛が長い目を物憂く閉ざし、唇を薄く開く。
 「圭ちゃん………」
 人の名前だった。
 「…………ちゃん付け似合わねー……」
 熱にうなされて、俺を誰かと間違えてるのか?
 彼女?
 詮索の欲求をぐっと堪え、慰撫する手つきで前髪を梳く。
 目はずりおちたタオルに隠れ、表情が読めない。
 眉間に苦痛と苦悩の皺を刻み、びっしょり汗をかいて煩悶する麻生。
 毛布がはだけ、ずりおち、シャツの裾が捲れて呼吸に合わせ収縮する腹筋が覗く。
 喉仏の尖りが精悍な首筋に沸々と汗が浮く。
 濡れそぼり漆黒の光沢を増した前髪がしどけなく額に纏わる。
 しかめた眉が色っぽい。紅潮した目尻としっとり汗ばむ首筋、シャツが吸い付き悩ましく肌が透ける姿態が倒錯した劣情を誘う。
 生唾を呑む。
 「…………秋山…………?」
 「いるよ」
 一握りの正気を取り戻し薄目を開ける。
 さんざん泣き腫らしたみたいに白目が充血し涙液のぬめりを帯びていた。
 「なんか話せよ」
 視界を塞ぐタオルを手探りで額にもどしねだる麻生に、少し考え、人さし指を立てる。
 「推理クイズ初歩編、消えた凶器の謎」
 目だけで促す麻生へと乗り出し、タオルの上から氷嚢を押し当てる。 
 「ある別荘で殺人事件が起きた。殺されたのは別荘の主人。死因は鈍器による脳挫傷。窓ガラスが割れ、破片が床一面に飛び散っていた事からも犯人が外部から侵入した形跡は明白。しかし肝心の凶器が見たらない。被害者は固い物で頭をガツンとやられたにもかかわらず、花瓶にも文鎮にも血は一滴も付着してない。場所も変わってもない。されど凶器は現場にある。さて、犯行に使われたのは?」
 「…………………」
 「ヒント。被害者の後頭部はなぜか濡れていた」
 考える素振りを見せる。
 正面の虚空に顔を向け、空気中に拡散する蹉跌の一粒を捉えようとするかの如く目を細める。
 「ヒント。木を隠すなら森の中。凶器は現場にあった、だけど気付かれなかった」
 「氷」
 正解。
 「………理由を述べよ」
 「犯人が用いた凶器は氷塊だ。氷の塊で被害者の頭を殴ったんだ。被害者を殺し、用済みとなった凶器をわざわざ持ち去る必要はない。床に落として砕いちまえばガラスの破片と混じって見分けがつかなくなる」
 意識が回復してきたのか、苦しげな息のはざまから存外しっかりした声で筋道だった推理を紡ぐ。
 ボウルを満たす氷水と、自らの額に押し当てられた氷嚢とを見比べる。   
 「木を隠すなら森の中、氷を隠すならガラスの中。常識だって言ったの、お前だろ」
 一本とられた。
 俺の仏頂面に溜飲をさげたか、氷嚢を自ら掴んでどけ、起き上がりながら解説を付け足す。
 「一見関係ないものの中に真実を隠すのは推理小説の常套手段だ。……俺もちょっとは勉強したんだよ」
 麻生の視線を辿り振り返れば、テーブルに文庫本が何冊か重ね置かれていた。
 どれも有名どころの推理小説だった。
 「スリーピングマーダー、Yの悲劇、火刑法廷……」
 「結構面白かった」
 最高の賛辞。不覚にも目頭が熱くなる。布教活動は無駄じゃなかった、今ならフランシスコ・ザビエルともわかりあえる……どうせなら修道士カドフェルのがいいけど。
 血管を砂が流れてるかのように鈍重な動作で手足を引きずりソファーに起き直るや、背凭れにぐったり凭れかかる麻生に、取り上げた文庫本をめくりながらそれとなく探りを入れる。
 「さっきの人、知り合い?」
 「………親の」
 関係ないとは言わなかった。
 テーブルに手を伸ばし、目を極力細め、眼鏡を掴もうとして目測が狂う。
 レンズと指先がかちあうのを見てられず、ひったくって投げてやる。
 膝で跳ねた眼鏡を手にとり、顔にかけ、ようやく人心地つく。
 「風邪で寝込んでるの、親は知ってんのか」
 「さあな」
 「ごまかすなよ」
 「知らない」
 「………いいのか?あの人、お前の事心配してた」 
 「あいつが様子見にくるのは義務だよ。死んでたら死んでたでマンション引き払う手続きとか面倒くさいから」
 すれ違い際、何かに耐えるように目を伏せた苦渋の面持ちを思い出す。
 『生活費、口座に振り込んでおきましたから』
 麻生はマンションでひとり暮らしてる。
 生活費は自動的に口座に振り込まれ引き落とされる。
 風邪をひいても一人、看病してくれる人間さえいない。
 三者面談にも来ない親。
 口座に生活費を振り込んで使いを生存確認に来させ、自分は電話一本かけてこない放任主義が徹底した親。
 冷え冷えしたものを感じ、口を噤む。
 麻生の親子関係が冷え切ってる事は、極端に物が少ないだだっ広い部屋と、実の親を「あの人」と他人行儀に呼び捨てる態度からもわかる。
 正直、麻生の家庭環境に興味がないといえば嘘になる。
 四月からずっと付き合ってきて、麻生の家族についてなにも知らない。 
 産んですぐ人に譲ろうと思ったから譲。自分の子供にそんな薄情な名前をつける親が実在するなんて信じたくない。
 けれども麻生が嘘を吐く理由がない。
 あの時の殺伐と乾ききった目が、空虚に乾ききった声が、演技だとは思えない。
 「もう帰れ」
 「帰れるか」
 「明日か明後日か……大人しくしてりゃ熱さがる」
 「こじらせて肺炎になっちまったらどうする」
 言い争いを遮り扉が開け放たれ、使い走りに出した斥候が雄雄しく帰還する。
 「買ってきました!!」
 「待ってたぞ!」
 息切れも激しく両手に持った袋を突き出し、片方をあさって市販薬の箱をとりだす。
 俺は台所に水を汲みに立ち、蛇口を捻りコップ一杯水を注ぐ。
 引き返せば、聡史が箱を破き錠剤を麻生に渡していた。
 「ぐいっと一杯」
 俺たちに手拍子で煽られ、逆らう気力もなくしたのか大人しく水で流し込む。
 「あとこれも。……喉渇いてるんじゃねーかって」
 「おー、気がきくな聡史」
 「べ、別に麻生先輩のためじゃないっすから!人として当然の事っすから!」
 ポカリスエットのペットボトルを取り出しながら、顔を真っ赤にして主張する聡史の肩を抱いてねぎらう。
 憮然とそっぽを向く聡史からポカリスエットを受け取り、蓋を捻る。
 飢えたように喉を鳴らし三分の一ほど一気に干す。
 脱水症状で干上がった五臓六腑に染み渡る呑みっぷり。
 蓋を閉め、ボトルをおき、こういう時なんていえばいいんだっけという微妙な思考の空白をはさみ、滅多に使わないがとりあえず備蓄してある語彙を呟く。
 「……ありがとう」
 一瞬、聡史が固まる。
 素直な麻生と感謝の言葉に驚くも、足裏くすぐられるむずがゆさを我慢するように口をへの字に曲げ、しゃきんと背筋を正す。
 「どういたしまして」
 二人して正座で向き合い頭を下げる。麻生は力尽きてうなだれてるだけ。
 「あと……どうせろくなもん食べてないんじゃねーかって思って」
 もうひとつの袋からレトルトのおかゆがでてくる。
 「さすがにこれだけじゃさびしいんで薬味の長ネギも」
 「台所借りるぜ」
 家で主夫を代行する俺の出番だ。
 学ランを脱ぎ威勢よく腕まくり、本領発揮とばかり袋を携え台所へのりこむ。
 コンロの摘みを捻り点火、湯を汲んだ鍋を火にかけレトルトのおかゆを袋ごと入れる。
 まな板を出して長ネギを刻もうとして、包丁もまな板も見当たらず困惑。  
 「包丁もないのかよ……」
 脱力。自炊しないヤツにこんな立派な台所宝の持ち腐れだ、うちに移植したい。
 鍋の沸騰を見計らい袋の端を摘み、深皿にお粥を注ぎ、かくなる上はとハサミで輪切りにしたネギを投入する。
 引き出しをさぐってみたら匙はあった。盆に深皿と匙をならべリビングに戻る。
 「食え」
 ガラステーブルに盆を載せる。麻生が胡乱げに俺と盆とを見比べる。
 「食欲ねえ」
 「ちょっとでいいから。どうせ三日間ろくなもん食ってねーだろ?体力つけねーと負けちまうぞ」
 「……………」
 「第一発見者の言うこと聞け」
 先客は勘定に入れない。
 「あ。猫舌だっけ、お前。冷ましたほうがいいか」
 「…………」
 「レトルトだけど……味は悪くないぜ。聡史、あーん」
 「ちょうどいい塩加減っス」
 「うん、男同士であーんなシチュも含めていい感じにしょっぱい」
 毒見兼味見役を買って出た聡史がはふはふと粥を頬張り、幸せそうに相好を崩す。
 つられてちょっと味見したが、なかなかイケる。特にネギの歯ごたえがいい。 
 代わる代わる粥の食べっこをする俺と聡史を隈が出来ていつもに増して悪い目つきでじっとり睨み、手の甲見せて追い払い、毛布を羽織って寝転がる。
 「………あとで食うからおいてけ」
 「これ、担任から預かったプリント。元気になったら学校こいよ。部活にも顔出してさ」
 鞄の留め金を外し、プリントの束を出し、そっとテーブルに置く。
 麻生は振り向きもしない。
 陽気を装って話しかける俺の声だけが、広大なフローリングの空間に白々しく流れていく。
 「しんどくなったらメールくれ。とんでくるから」
 鞄を持ち、腰を上げる。
 「じゃあな」と告げる俺の横、聡史が体育会系の躾のよさで「お邪魔しました」と頭を下げる。
 口ではぼやいているが、聡史もまた麻生の体調を案じてるのが伝わってきてやるせなくなった。
 聡史を伴い廊下に出、玄関で靴を履く。
 「あ」
 「どうしたんすか先輩」
 「悪ィ、先行ってて」
 不審顔の聡史を閉め出し、靴を脱いで引き返し、リビングに駆け込む。
 俺が作った粥に見向きもせず、麻生はソファーに突っ伏していた。
 粥も喉を通らないほど体調が悪いのか…余計な事、したかもしれない。
 俺のやることはいつも裏目に出る。
 薄暗くだだっ広いリビングの片隅、ソファーに横たわって絶え間なく襲い来る熱と寒気と発汗に耐える背中を見詰める。
 幼稚園の頃、俺が風邪をひいて寝込むとお袋がしてくれたおまじないを思い出す。
 小さい妹が風邪をひいて寝込んだ時、パートで留守がちなお袋の代わりにしてやったおまじないを思い出す。
 高校生にもなってやるとは思わなかったけど、まあいい、かまうもんか。
 開き直り、鞄の留め金をはずし、中をさぐってノートを取り出す。
 ノートの端を破りとり、その切れ端にシャーペンで願い事を三行書きつける。
 「………なにしてんだ?」
 「内緒」

 治りますように。
 治りますように。
 治りますように。

 「病は気からっていうだろ」
 数年ぶりに手順をなぞり、切れ端を丁寧に畳み、はたと失態に気付く。 
 枕がない。迂闊だった。願掛けした紙を枕の下に入れて初めて完了するのに……気付いたところで遅い、いまさら枕をもってきたら怪しまれる。仕方ない、妥協案を採用。テーブルの端の文庫本を一冊手にとり、適当なページを開き、切れ端を挟む。
 「よし」
 俺の代わりに麻生をよろしく頼む。
 願掛けした文庫を細心の注意を払って傍らにおき、本人が意識を取り戻す前に、抜き足差し足忍び足、廊下に出た途端に脱兎の如く逃げ出す。 
 背後でドアが閉じる。
 外廊下に出、ドアに凭れて長々と息を吐く。日はもう暮れかけ、空は赤く染まっていた。
 
 子供だましのまじないも案外ばかにしたもんじゃない。
 事実お袋がこれをすると俺の風邪はたちまちよくなった。妹の場合もそうだ。
 自己満足。知ってる。俺はただ、この寒々しいマンションに麻生をひとりぼっちで残していきたくなかっただけだ。
 だからせめてもの気休めに、ノートを破りとって願掛けをした。
 こればっかりはメールじゃ代用できない。
 携帯に表示される文字じゃ祈り不足で治癒に至らないのだ、きっと。

 エレベーターの方へ歩きながら、こないだ麻生の影響で読んでみた人間失格の一節を口ずさむ。


 「咲クヨウニ、咲クヨウニ、咲クヨウニ……」


 あるところに貧しい花売りの少女がいた。
 少女は混血の孤児だった。
 みすぼらしい身なりで、みすぼらしい造花の蕾を売って生計を立てていた。
 ある時、そんな少女に一人の男が声をかけた。
 『この花は綺麗に咲きますか?』
 全部売りさばかないと親方に折檻される。
 けれども造花の蕾を買っていく物好きはいない。
 造花を本物と勘違いした愚かな男の質問に、少女は売りたい一心で『咲ク』と答えた。
 男は了承し、言い値にさらに上乗せした金を払って、嬉々として土産に一本買っていった。
 少女は後悔した。
 そして街の片隅で、誰の目も届かない路地裏で、あかぎれだらけの小さな手を組んで一生懸命祈るのだ。


 『咲クヨウニ 
  咲クヨウニ
  咲クヨウニ』

 
 三回祈ればきっと叶うよと、あの女の子に言ってやりたい。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010322163908 | 編集

 カメラオブスキュラは視聴覚室。
 麻生のヒントを理解し一路目的地をめざす。
 視聴覚室は特別教室が詰まった旧校舎二階に位置する。
 硬質に靴音響く渡り廊下を経て再び旧校舎へ乗り込みひた走る。
 吐く息が小刻みにちぎれ弾む。
 肺活量はとっくに限界をこえてる。
 だからって立ち止まってる暇はない。麻生が呼んでる、行かなくちゃ。
 使命感なんてご立派なもんじゃない。
 義務感なんて堅苦しいもんじゃない。
 ただそうしたいからする、腹の底から噴き上げる激情に駆り立てられがむしゃらに足を蹴りだすだけだ。
 後ろから疲労に足縺れさせ敷島がなんとかついてくる。四十路ごえの中年教師にゃ激しい運動はしんどいだろうと同情するも足はゆるめず加速する。
 加速、加速、前進。目的地が見えてくる。
 「あれだ!」
 興奮のあまり、叫ぶ。息が濃霧と化し大気中に拡散していく。前方、視聴覚室のプレートが出ていた。教室名を掲げたプレートを道しるべにラストスパートをかけ直線の廊下を一気に駆け抜ける。両手を水平に引き戸を開けはなち、なだれこむ。
 「麻生、いるのか、隠れてないで出て来い!!」
 借金取りさながらの剣幕で怒鳴り散らし、大股で踏み込み、突っ切る。視聴覚室はがらんとしていた。人が隠れてる気配はない。
 整然と並ぶ机と椅子、採光を遮断する漆黒のカーテンが厳重に張り巡らされてるせいで一層閉塞感が強まり闇が濃厚にわだかまる。
 「ほ、ほんとうにここで間違いないのかね、麻生君が示した目的地は……」
 遅れて到着した敷島が呼吸を整えつつ問うのに、教室内をくまなく移動し異状を調べつつ答える。
 「カメラオブスキュラはラテン語で暗い部屋、転じて光学装置をさす。学校で投影機材が備わってるのはここしかない。秀才の麻生なら当然知ってるはず、知ってて俺をおびきだしたんだ。視聴覚のカーテンは黒い、窓をすっぽり覆っちまえば暗室のできあがり」
 「ポジが反転してネガになる、か」
 「そういうこと」
 顎先で頷く。敷島が顎に滴る汗を拭い懐中電灯を動かす。光の円盤が手前の床から向こうへと走る。
 懐中電灯の薄ぼやけた光が床を走査するも異状は見当たらず拍子抜け。
 息を殺し、石灰質の沈黙が押し被さる暗闇の中五感を鋭敏に研ぎ澄ませ気配をさぐってみるも、第三者が潜伏してる様子はない。
 「麻生、返事しろよ!どこに隠れてんだよ!」
 苛立ち、叫ぶ。これまで堪えに堪えてきた怒りが一挙に噴き上げ、制御不能の感情が暴走する。俺は推理に自信をもってる、ヒントから合理的に解釈するならカメラオブスキュラは視聴覚室をほのめかしてるはず、けれども机の下にも教壇の下にも麻生はいない、隠れてない。
 「あの野郎………ッ」
 こめかみの血管が熱く脈打ち血を送り出す。
 またか、また空振りか、これで何度目だ。何度も何度も何度も、きりがねえ。
 奥歯を噛み縛り、力任せに手近の机を蹴り上げ椅子を引き倒す。
 「聞いてんのか麻生、いるならとっとと出てこい、ひとおちょくんのもいいかげんにしやがれクソメガネ!!本当なら俺は今頃炬燵でぬくぬく丸まって紅白見てるんだよ、こんな所にいねーはずなんだよ、お前が呼び出したからわざわざ来てやったんだよ、学校全体舞台にした規模でっかすぎな隠れんぼに付き合ってやってんだ!それをお前はなんださんざおもわせぶり仄めかして人を走り回らせて、またか、まだなのか、まだ終わんねーのか悪趣味なゲームはよ!!!」
 怒号は壁に跳ね返り、虚空に吸い込まれる。
 視聴覚室の壁は音楽室防音仕様となってる。ここなら声が漏れる心配もない。性悪メガネ、エセ優等生、陰険策士、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……小説と漫画とテレビで蓄えた悪態の語彙を総ざらいし、俺をこの馬鹿げたゲームに巻き込んだ黒幕を口汚く罵る。
 床と激突した椅子が騒音をたて、机が乱雑にずれ、列が崩れて混沌の相を呈す。
 「ここか、ここかよ、隙間から盗み見てほくそえんでんのかよ!?」
 猛然と窓辺に駆け寄り、カーテンを割り開く。ちがう、舌打ち。ここもちがう、ここもちがう。人一人分隠れる場所はほかにない。焦慮に駆られ狂乱来たす俺を、敷島は懐中電灯を持て余し、呆然と見守っている。
 「隠れんぼか?鬼ごっこか?どっちもでいいよ畜生、高校生にもなってこんなガキっぽい……」
 携帯が鳴る。もう慣れっこだ。心臓もだいぶ図太くなった。
 暗闇の中、突如鳴り響く着メロに逆に落ち着きを取り戻す。頭から冷水を浴びせかけられたように血が下りてくる。
 カーテンの襞をかきわけ捌き、布地裏の闇に手を突っ込んで懸命に何かを掴もうとして、頬をぶたれたように正気に戻る。
 「―もしもし」
 自分でも意外なほど、おそろしく低い声が出た。
 『箱の中の猫を知ってるか?』
 汗でぬめる手をズボンの横で拭き、机に腰掛け携帯を握る。
 「量子論の猫の話?」
 『シュレーディンガーの猫は物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーが提唱した量子論に関する思考実験、パラドックスの命題。箱を開けてみるまで猫の生死はわからない』
 「俺は生きてるぜ、暗い箱の中で」
 『箱を開けてみなきゃな』
 「箱?」
 こんな時だってのに、機械を介した声は憎たらしいほど落ち着いてる。
 『放射能で汚染された箱に猫を閉じ込める。普通猫は死んでると思う、けれども猫の生死は実際箱を開けてみるまで分からない。……たとえば、秋山。俺たちは今、手の中にすっぽり入る小さな箱で連絡とりあってるけど、この先電波が途切れたら……もし俺かお前か、どっちかが電源切っちまったら、互いが生きてるかどうしてわかる?』
 「……むずかしーこと聞くなよ」
 『携帯が切れたら箱の中の猫と同じ、互いの生死を知る術もない。お互いの中から消えちまうってことだ』
 「哲学問答はシュミじゃねえ」
 麻生の言うことは難解すぎてよくわからない。自慢じゃないが、俺はばかだ。そりゃもう大馬鹿野郎なんだ、友達がここまで追い込まれてるのに今の今まで気付けなかったんだから。
 悔恨が底なし沼のように胸に広がる。 
 携帯を握る手に力がこもる。
 祈るような気持ちで麻生の声に、縋る。
 『ピースはもう出揃ってる』
 「あとは組み立てるだけか……簡単に言うな」
 『組み立てる時間は与えた。その為の運動だ』
 校内にばら撒かれたパズルのピース。
 巧妙に仕掛けられた罠。
 教室、部室、美術室、放送室に残されたヒント。
 深呼吸し、目を閉じる。麻生は俺を試している。俺が正解に辿り着けるか否か、どの程度正解に近い場所にいるか、探りを入れている。
 挑発。挑戦。純粋な好奇心、疑問。
 『お前の考えを聞かせてくれ』
 思考を柔軟に。固定するな。先入観を排除しろ。
 答えは目の前にある。
 パズルのピースは出揃っている。
 電話を受けてからの麻生の言葉をひとつひとつ回想する。
 ジャージのポケットをさぐり、ぐちゃぐちゃになった切り抜きと部誌をとりだす。
 教室と部室で入手した切り抜きに目を凝らす。
 神奈川の女子高生レイプ事件、鳥取の男子高生いじめ自殺。一見接点のないふたつの事件。
 「木を隠すなら森の中」
 携帯の向こうから沈黙が返る。
 気にせず続ける。
 「俺の言葉で閃いたんだろ」
 麻生が風邪で倒れた日、戯れに出題したクイズを思い出す。
 消えた凶器の謎。正解は氷。窓ガラスの破片に混ぜてしまえば見分けが付かなくなる。
 「ずっと不思議だったんだ。一方は今年おきた女子高生レイプ事件、一方は十五年前のいじめ自殺。場所も年代もちがう、被害者に接点はない。なら加害者は?却下。最初、この記事で梶に爆弾送り付けた動機をほのめかしてるんじゃないかって思った。でもちがった、梶は六年前からずっとこの学校にいる、異動の経験もない。それに……仮に梶が両方の事件に関わってても、お前が復讐買って出る動機はさっぱりないわけだ」
 『社会正義に突き動かされて』
 「笑えねー冗談」
 鼻先で笑い、手にもった記事を翻す。
 「俺は勘違いしてた。記事の裏を勘繰りすぎた」
 二枚の記事をよくよく見比べて、漸くわかった。
 一呼吸おき、意を決し、まずは空白に二片のピースを当て嵌める。
 「重要なのは、名前だ」 
 
 《女子高生に関係強要 神奈川の高校教師逮捕
 今月二日、神奈川県立A高校の国語教師、座間誠二(27)氏が強制猥褻罪で逮捕された。
 調べによると座間容疑者は三ヶ月前、補習で残された女生徒Aさん(17)に暴行を働き、予め教室に仕掛けていたビデオカメラでその模様を一部始終撮影。盗撮した映像でAさんを脅迫し、数ヶ月間関係を続けていた。
 座間容疑者は同校に赴任した二年前から、他の女生徒に同様の行為を繰り返しては卒業後もビデオで脅し関係を迫ったり、金銭を脅し取ったりと、悪質な行為を繰り返していた事が発覚。
 容疑者の自宅からは行為の様子を撮影した大量のビデオテープが押収された。
 警察は卒業生に事情を聞くなどして余罪を厳しく追及していく方針である》 

 《鳥取の男子高生 学校の屋上から飛び下り自殺 原因はいじめ?
 今月十八日、鳥取県立某校一年の神崎圭君(16)が学校の屋上から飛び下り自殺をした。現場に残された遺書によると圭君は同級生数名からいじめを受けていて、それを苦にした自殺だという。 
 いじめは同校に入学した四月より始まっていた。
 殴る蹴るの暴行を受ける、上履きや体操着を隠される、トイレに連れ込まれ便器に顔を突っ込まれるなど、内容は極めて悪質陰湿。数十回におよぶ恐喝で三十万もの大金を巻き上げられたともいい、警察はいじめグループの主犯を近日事情聴取する予定。
 なお教諭は圭君から相談を受けたことはなく、いじめの存在にも気付かなかったと証言している》

 全文を早口で引用し、唇を舐め、息を継ぐ。
 「レイプ事件の加害者は座間誠二。いじめ自殺の被害者は神崎圭」

 『圭ちゃん』と高熱に浮かされた麻生は口走った。
 看病にあたる俺を大切なだれかと見間違えて。

 「座間誠二。神崎圭」
 『それがどうした?』
 「肖像画のイニシャルはZ.K。Zで始まる苗字が珍しかったら記憶に残ってる」
 『………それで?』 
 「Z。珍しい苗字だよな。ぱっと思いつくのは雑司ヶ谷、蔵王、座頭市……」
 『座頭市は苗字じゃない』 
 「黙って聞け。……座間」
 
 沈黙。

 「日本人がイニシャルを彫れば苗字が最初に来る。肖像画を見てそれがひっかかった。ザ行から始まる苗字なんて珍しい、自然限られてくる。ところが偶然にも、レイプ事件の犯人も日本じゃごく少数のイニシャルZだ」
 『続けろ』
 「美術室の肖像画は屋上から飛び降り自殺した生徒が遺したもの。六年前、ミス研が発行した部誌じゃ七不思議が食い違ってた。当時は美術室の怪がなかった。何故?涙を流す絵の怪談は、ここ六年以内に加わったから」
 『続けろ』
 「六年前に飛び下り自殺したイニシャルZ.Kの在校生。お前が寝言で口走った『圭ちゃん』。決め手の放送ですぐ気付くべきだった、でも気付かなかった、ノイズが酷くって……一連なりの音として聞いていたせいで、ザマケイが人名だと気付かなかった。とんだ間抜けだよ、俺は。ザマケイ。座間圭。レイプ事件の加害者といじめ自殺の被害者を組み合わせたら、同じ名前が浮かんでくる」
 『……………』
 「木を隠すなら森の中、そう教えたのは俺だ。名前を隠すなら名前の中。そうだろ?」
 『……………』
 「お前が意味のないことするはずない。美術室のど真ん中、目に付く場所に肖像画が出してあったのにもちゃんとわけがある。イニシャルZ.Kの本名は座間圭、六年前に飛び降り自殺した生徒。そして、たぶん……」
 携帯を強く、強く握り締める。
 息を吐く。
 「お前が口にした『圭ちゃん』と、同一人物だ」
 おそらくは、お前が殺した人物と。
 物理的な重圧さえ感じさせる長い沈黙。麻生の答えが返るまで、俺はひとり、推理を紡ぐ。
 「あの記事を採用したのも無関係じゃない。俺の想像だけど、あの記事が告発だって発想は、たぶん半分は正しかった。座間圭は六年前、学校の屋上から飛び降り自殺した。記事の少年と同じ死に方だ。そして麻生、お前は……」
 言葉が吐息に紛れ、消える。
 傍らに立った敷島が、懐中電灯をもった手を力なくたらし、愕然と俺の口の動きに見入っている。
 「一枚目の記事とも、無関係じゃない」
 二枚の記事は二人分の告発だった。
 一言絞るたび、胸がずたずたに切り刻まれるようだった。
 腰掛けた机から固さ冷たさが染み、全身が凍て付く。
 返事が来るのを辛抱強く待ちながら足を棒にして辿り着いた結論を反芻する。
 一枚目の記事では殺人を犯さざる得なくなるまで追い詰められた現状を訴えていた。 
 二枚目は故人の代弁だった。
 座間圭と麻生にどんな繋がりがあるのかわからない。
 「圭ちゃん」と呼ぶのだから親しい間柄だったのだろう。
 六年前、座間圭が自殺した当時、麻生はまだ小学生。
 体格と腕力の不利を顧みても高校生を殺せるか半信半疑だが、背中から一突きするなり不意をうてば、あるいは死に至らしめるのも不可能じゃない。
 座間圭の死は自殺として処理されたが動機は今だ不明、遺書ものこされてない。
 六年前、自殺として処理された座間圭を、当時小学生だった麻生が殺したとしたら。
 学校の屋上に呼び出し突き落とし、自殺に見せかけて殺したのだとしたら。
 六年前の真相を梶に掴まれ、警察にばらすぞと脅され、意に添わぬ関係を強要されていたとしたら……。
 麻生は過去の亡霊に追い詰められた。六年前に死んだ圭ちゃんが梶の姿を借りて甦ったのだ。麻生がこの学校に進学したのは座間圭の死が理由かもしれない、罪悪感が進路を選ばせたのかもしれない。以前から不思議だった、麻生の成績ならもっと上を狙えたのに何でわざわざ五駅も離れた不便な高校を志望したのか疑問だった。
 だがもし六年前から座間圭に呪縛されてるとしたら筋は通る。
 犯人は現場に戻る。
 「……梶に、脅されてたのか」
 座間圭ってだれだ?
 お前が殺したのか?
 どうして殺したんだ?
 聞きたいことは山ほどあった。
 麻生と座間圭の関係、座間圭の自殺の真相、梶の脅迫の真相……だが、聞けない。
 過去の殺人をネタに脅され、誰にも相談できず、ひとり悩みに悩みぬいたあげく第二の殺人を犯したのだとしたら。
 あんまりにも、救われない。
 『……ザマケイが人名だと気付かなくてもおかしくない』
 長い長い不安定な沈黙を経て、なげやりな調子で言い放つ。
 「ドラクエの呪文かとおもった」
 『お前らしい』
 麻生があきれて笑う。俺も笑う。泣き笑いに似て顔が歪む。
 『普通人名だと思わないよな。いつから気付いてたんだ』
 「放送かかって、お前の電話受けてから。ぎりぎりまでわかんなかった。さっきの電話で、色々思い出して……お前が美術室の窓ぶち破って乗り込んだこととか、自転車二人乗りしたこととか、廃工場で色んな話したこととか、神保町とか、マンション泊まった日とか」
 『ああ』
 「……書き置きとか。喧嘩とか。酔っ払って、俺、先にダウンして」
 『迷惑だった』
 「三者面談の日、一緒に帰って。洟、かんでくれて。めちゃくちゃいやそうな顔して」
 『次はない』
 ある。
 「風邪ひいて休んだ時、見舞いにいって……聡史ふたり、看病して。粥作って」
 『余計なお世話だ』
 治リマスヨウニ。
 治リマスヨウニ。
 治リマスヨウニ。
 「―寝言、思い出して。瞬間、ピースがカチリと嵌まった」
 圭ちゃん。ザマケイ。座間圭。熱にうなされた麻生が求めた大切な人、俺じゃない誰か。もういない人間。
 六年前、麻生が殺した少年の名前。
 それまで抑圧していた激情が毛穴から噴き出し、ひしぐ握力に携帯が軋む。
 「……誰なんだ、座間圭って。どういう関係なんだ。さっきの放送、盗聴して録音したの、ノイズ混じりの酷い音声、あれ、梶とお前なのか?梶のヤツお前を脅してたのか、お前になにさせてたんだ、六年前の事件のことで脅してゆすって、お前に!!」
 『知りたいのか?』
 「ここまで首突っ込んで引き下がれるか!!」
 『後悔しないか』 
 試すように嘲るように。
 俺は、真相を知らなきゃいけない。麻生が二枚の記事と座間圭の絵に託した意味の重さを知らなきゃいけない。
 見て見ぬふりを決め込んだ俺の無神経が麻生を追い込んだ、俺は麻生を見殺しにした、西日さす放課後の図書室に麻生をおいて逃げ出した、だから今度は逃げない、逃げてたまるか、どんな残酷な現実残酷な真実が待ってたってー……
 相対し、直視する。
 『最前列、右から三番目の机の中』
 携帯から指示が出る。息を呑み、従う。
 携帯を持ったまま机からとびおり、教えられた机の中をさぐれば、固い異物感。
 「………テープ」
 『知りたいんだろ?』
 麻生が耳元で囁く。
 『かけてみろ』 
 「先生、スクリーンをおろしてください」
 「秋山くん、」
 「はやく」
 抑えた声で命じる。
 敷島が込み上げた言葉を飲み込み、正面に巻き上げてあったスクリーンをおろす。
 カシャンと音がし、壁一面の黒板を完全に隠す巨大スクリーンが出現。
 ぎこちない動作で歩き、映写機に付随した再生装置にビデオテープをセットする。
 傍らに跪き映写機の位置と角度を調整、テープの映像をスクリーンに投じる。
 暗い部屋、カメラオブスキュラの中、正面におろされた巨大スクリーンに拡大された映像が浮かぶ。
 闇の中おぼろに光を放ち、スクリーン狭しと上映されたのはー 
 


 


 悪夢だった。 

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010321193323 | 編集

 十一月上旬、お袋と喧嘩して家を飛び出した。
 「唯ちゃんいつ見ても若いわね~。さすが元女優さんはちがうわ」
 テレビでは国会中継が流れている。
 議席に起立し、現職の大臣を手厳しく批判するのは決然と背筋が伸びた女傑。
 半分は居眠りし半分は仏頂面で腕を組み議席を埋める親父たちの中で、華やかなスーツに身を包み、よく通る声で問題提起する彼女の周囲だけ颯爽と明るい。
 いい声、いい喉をしてる。
 暦がめくれ、季節はいよいよ冬に突入。十一月に入り一気に冷え込みが厳しくなった。朝は布団から出るのが辛い。うちでも本格的な冬の到来に備え炬燵を出した。
 今日はたまたまパートがお休みでお袋が家にいた。珍しい。たまにはこんな日があってもいい、お袋は働きすぎだ。
 居間の中央の炬燵を囲み、でがらしの茶を啜りささやかな家族団欒に興じる。
 狭いけれども楽しい我が家、俺の向かいじゃ妹が寝転がって国会中継をBGМに漫画を読んでいた。例の裸の男が抱き合ってるフラチな漫画だ。道徳的観点と複雑な兄心から保健体育の教科書にさしかえたい。
 炬燵の机上には茶菓子を盛った盆が置かれていた。
 平和で退屈な土曜の午後。
 今日は学校も部活もない、家でのんびりまったりだらけきって過ごす方針。
 これぞ冬の醍醐味と炬燵に入ってぬくぬくまどろんでいたら、赤熱した中で足がぶつる。
 「いたっ、兄貴今蹴ったでしょ!?もーいいとこなのにジャマしないでよ!」
 「蹴ってねーよ、お前が蹴ったんだろ」
 「マジ最悪。狭いんだから早く部屋帰ってよ」
 「そっちこそ帰れよ。それかトイレで読みゃいいんだろ」
 「冬場にトイレで読書なんかしたら凍えちゃうでしょ」
 妹が不満げに口を尖らす。さいですか。
 ふくれっ面で漫画に戻る妹はさておき、せんべいかじるお袋に聞く。
 「この人女優なの?」
 「元ね。綺麗だったのよ~唯ちゃん、今でも美人だけど。あんたが幼稚園の頃にはもう政界入りしてたけど……結局芸能界には二・三年しかいなかったかしら?活動休止してた時期もあったし」
 「ふぅん」
 「お母さんファンだったのよ」
 「苦労してるよね、この人。ワイドショーで見た。ゲキドーの人生」
 妹が漫画を中断し話に加わる。
 漫画を伏せ起き直り、掛け布でぬくぬく膝を覆って天板に顎をおく。
 茶菓子の器に手を伸ばし包み紙を開き、キャラメルを一粒口に放りこむ。
 お袋が「そうそう」と相槌を打つ。
 「一回映画監督と結婚して離婚してるの。子供はなし。政界では別れた夫の姓を名乗ってるそうよ」
 「え、なんで?別れたんでしょ?」
 素朴な疑問に、お袋はせんべいを口に運ぶ手をとめ少し考える素振りをする。
 「知らない。ころころ名前変えたらおかしいでしょ、それでじゃない」
 あっけらかんと答え、せんべいを一口噛み砕く。適当だ。
 天板に頬杖つき、与党と野党が因縁の火花を散らし喧々囂々紛糾する国会中継を映すテレビに向く。
 友永唯。
 年齢はこないだ読んだ新聞の記載がたしかなら四十二歳のはずだが、ぱっと見三十代にしか見えない若作りの美貌の持ち主。
 弁舌に定評ある女優上がりの才媛。
 独学で大検とって上り詰めた経歴から「政界のシンデレラガール」というださい二つ名を頂戴してる。
 顔の汗を拭き拭き優柔不断に答弁する大臣を友永議員は囲い込みの手腕と怜悧な才覚を発揮し、詰め将棋さながら完璧に構築した論理を流麗に駆使し追い詰めていく。
 抑制のきいた口調と沈着で典雅な所作、聡明で鋭角的な美貌には女優時代に磨いた卓越した演技力の名残りが窺える。
 へどもどする大臣とは対照的に落ち着き払って論陣を張り、一堂に会した議員の喝采を受ける。
 議会で脚光浴びる議員の横顔を他にすることもなくぼけっと眺める。 
 神経質に尖った顎、酷薄そうな薄い唇、高い鼻梁、知性的な切れ長の双眸、きりりとアップにした艶やかな黒髪。うなじが色っぽそうなタイプだ。
 口半開きの呆け顔で来年度予算案を討論する画面を眺めるうち、硬質に整った横顔に既視感が疼く。
 「そういやお袋、ガキの頃よくしてくれたおまじないあったじゃん。風邪ひいたときにさ」
 「おまじない?」
 「忘れちゃった?治りますようにって願掛けした紙を枕にはさんどくの」
 「ああ、あれね。あんたそんな昔のことよく覚えてるわね~」
 お袋が感心したように頬に手をあてる。妹が黄色いくちばしを突っ込む。
 「それ知ってる、小学校の頃兄貴がしてくれた。案外効くよね」
 「そうなんだよ、ふしぎと効くんだよ。こないだ風邪でぶっ倒れた友達にやってみたら次の日ケロッと学校来て、びっくりしちまった」
 麻生は全快した。
 一日たっぷり寝てたのが良かったのか、俺が作ったお粥の滋養か、翌日には平然と登校してきてかえってこっちが拍子抜け。
 気休めのまじないがここまで劇的に効くとは思わなかった。
 正直驚きを隠せない。病は気からというが迷信も存外ばかにしたもんじゃない。
 「お袋、実は呪術師の家系出だったりする?」
 「あんたばかねえ」
 「いやだって、そうでも考えねーと説明つかねーし」
 おまじないの効力を身をもって体感した妹も興味あるのか「陰陽師?かっこいい」と目をミーハーに輝かせ身を乗り出す……兄が兄なら妹も妹だ。
 お袋はせんべいを豪快に噛み砕きながら、炬燵に起き直った俺たちをしげしげ見比べる。
 「あのおまじないね、実は」
 「「実は?」」
 いよいよ秘儀が明かされるのかと生唾を呑む。
 「若い時、お父さんに教えてもらったのよ」
 親父の名が出た瞬間身が強張る。
 妹もおもわぬ成り行きに戸惑っている。
 微妙に黙り込む子供の顔色と空気も読まず、齧りかけの煎餅を右手に預け、お袋がしみじみ昔語りを始める。
 「結婚前の話だけど、風邪をひいて会社を休んだ事があったの。親元離れて一人暮らしだから何も手が付かなくて……お父さん、心配してお見舞いに来てくれて。見よう見まねでお粥まで作って食べさせてくれたの。不器用な人なのに、一生懸命ね」
 俺とおなじことしてやがる。
 争えない血を憎み、恥じる。
 険悪な空気も読まずふくよかな顔を含羞に染め、細めた目を追憶の光に濡らし、首を振り振り科を作るお袋。
 「『大丈夫だよ、すぐ治るから』って風邪で辛い私の耳元で励ましてくれてね……こう、手をぎゅっと握ってくれて。冷たくて気持ちよかったわ。手が冷たい人は気持ちが優しいっていうけど、本当ね」
 何言ってんだよお袋。
 どこまで底抜けにお人よしで馬鹿なんだよ。
 その気持ちの優しい男が、俺たちになにをした?
 あんたと小さい子供を捨てて、よそに女作って、会社の金を持ち逃げして駆け落ちしやがった人間のクズだろ。
 掛け布においた拳を無意識に強く強く握りこむ。
 伸びた爪が手のひらの柔肉を抉り鋭い痛みを生む。
 妹は曖昧な反応。
 中学生の妹は親父の事を殆ど覚えてない、顔なんかとっくにぼやけちまってる。
 俺はちがう、はっきりと覚えてる。
 お袋は噴飯ものののろけを垂れ流しつつとぼけて笑う。
 「お父さん、突然紙と鉛筆ないかって言い出してね。渡したら、何か夢中で書いて私の枕にはさむの。絶対開けちゃだめだって言い含めて。翌日、嘘みたいに風邪が治ってメモを開けてみたら……なんて書いてあったと思う?」
 治りますように
 治りますように
 治りますように
 「憎い演出。そりゃ惚れちゃうわよ、小娘だったんだもの」
 『透 母さんと真理をよろしく頼む』
 お袋の治癒を祈願した手で、あの自己完結した書き置きを残したのか。
 俺が妹や麻生にしたおまじないは、お袋考案じゃなく、親父から受け継いだものだった。
 腹の底で巣穴から這い出た蛇みたいにどす黒く粘性の鬱屈がうねる。
 お袋は消えた親父の事を懐かしそうに語る。
 あの人今頃何してるのかしらねって他愛ない調子で、長い間九州に単身赴任中の旦那の事でも話すみたいに屈託なく話す。
 お人よしを通り越し、いっそ間抜けだ。
 俺は覚えてる。親父の浮気がばれた時お袋がどんなに怒り狂って嘆き哀しんだか、一度ならず痴話喧嘩の修羅場を体験したか鮮明に覚えてる。
 なのにお袋は、それさえ振り返ればいい思い出だったと言わんばかりだ。
 冗談じゃない。
 話は脱線し、興に乗ったお袋は、親父との馴れ初めや初々しいエピソードや結婚に至るまでの道のりを饒舌にくっちゃべりはじめる。お袋に負けず劣らずおしゃべりな妹は相槌も打てず、ぎこちなく笑って聞いてる。膝を立て、揺すり、部屋かトイレに逃げ込みたそうにしてる。俺は戸惑いより怒りが勝っていた。親父に対しわだかまりがある、恨みがある、お袋はちがうのか?自分と子供を捨てて女と逃げた男が憎くないのか、浮気が発覚した時はあんなに泣いたくせにー
 俺が麻生の回復を祈って手がけたおまじないは、家族を捨てたクソ野郎から受け継いだものだった。
 どこへなりと失踪した後も、アイツが会社の金を持ち逃げしたせいで俺たちは近所から白い目で見られ学校で除け者にされお袋はパート先でも肩身狭いおもいして小さい妹はひとの顔色をうかがう癖がついて、俺たちは狭苦しく汚い借家に引っ越して、家族三人助け合って支え合って貧乏でもそれなりに楽しく暮らしてきたのに、お袋は親父の分まで働いて働いて子供育てて、俺は親父の分までしっかりしなきゃって自分に言い聞かせて、七年経って漸く吹っ切れたとおもったのに。
 「失踪宣告の期限は七年」
 おおらかな笑いを引っ込め、お袋がきょとんとする。  
 「小説で読んだ。失踪して七年経てば死人も同然になる。葬式だって出せる。殺人の時効は十五年だけど、失踪の場合は七年」
 理性が手綱を引くも、一度堰を切って迸り出た言葉はとまらない。
 荒れ狂う激情を極端に抑制し、込み上げる罵倒の文句をねじ伏せ押さえ込み、低い声を出す。
 「今年で七年目だ。親父が、アイツがいなくなってちょうど七年。俺ん中じゃ死人と同じだ」
 「透そんな、お父さんにむかって……」
 その一言で忍耐力が切れた。
 「うぜーんだよ、いいかげん!!」
 その一言で。
 お袋が眉をひそめ放ったその一言で、この七年間積もりに積もった親父への呪詛や怨みが爆発して、知らず叫んでいた。
 激昂の発作に駆られ天板を平手で叩き立ち上がる。
 衝撃で茶飲みがひっくり返り中身が一面に広がる。
 お袋が半笑いで固まる。
 妹がびくりとする。
 とまらない。とめられない。
 今まで鬱積したもの、七年間堪えに堪えてきたものが解き放たれ一挙に噴き上げて、狂ったように吠える。
 「何がお父さんだ何がおまじないだ、わかってんのかよお袋アイツが俺たちに何したか、忘れたなんて言うなよさんざしなくていい苦労させられたのに!どこまでお人よしなんだよ、空気読まねえ天然もいいかげんにしろよ、誰もアイツの話なんか聞きたくないんだよ、俺も真理もアイツの事なんか一日も早く忘れたいんだよ、話に出して欲しくねーんだよ!」
 「兄貴、ちょ、落ち着いて」
 「ボケかますのもいいかげんにしろよ、あいつが俺たちにしたこと忘れたのかよ、よそに女作って会社の金持ち逃げしたせいで俺たちがどんだけ………」
 熱い塊がせりあがり喉が詰まる。
 薄暗い台所に残された書き置き。七年間、必死に忘れようと努めた親父の思い出。
 必死に振り払い忘れようとしてたのに、七年かけて漸く少し薄らいだ面影が、他ならぬお袋の無神経でまたぞろ蒸し返された。
 親父に一番迷惑かけられたお袋がなんだって呑気に笑いながら思い出話をする、俺も妹もお袋を慮ってできるだけ親父の事は忘れたふりで話題に出さず最初から三人家族だったように振る舞ってきたのに七年間の苦労と我慢が水の泡だ。
 親父が消えてからお袋は子供抱えてパートに出て近所に白い目で見られてまだ四十そこそこなのに白髪が目立って、手はゴツゴツ節くれだって、若い頃はこれでも綺麗だったのよと懐かしみ笑うしかないー……
 茶が染み広がった天板の上に重苦しい沈黙がおちる。
 「指輪も外さねーで未練がましいんだよ」
 お袋の左手薬指の根元、くすんだ指輪がはまってる。親父とペアの結婚指輪。
 年月を経て疵がつき、垢染みて鈍い光沢放つ指輪を仇のように睨みつけ、言う。
 俺をまともに見れず顔を伏せ、さりげなく薬指に手を添え回顧するように指輪をさする。
 「……しかたないじゃない、抜けなくなっちゃったんだもの」
 怒ってくれればまだ救われた。
 お袋は傷付いた顔をした。
 一方的に取り乱し怒鳴り散らす俺を責めも罵りもしなかった。
 ただただ哀しげに萎れて目を伏せた面持ちは、休日で化粧してないせいか生活苦が刻む皺が目立ち、やけに老けて見えた。
 働いて働いて働いて、固く節くれだった指の根元から、もう一生指輪は抜けない。
 テレビでは淡々と国会中継が流れる。
 お袋と同年代のくせに、肌の張りと声の艶を失わない議員の顔が画面に映る。
 『大臣に回答を求めます。今回の消費税引き上げは国民にさらなる負担を負わせ、現状を省みても失策であると……』
 いたたまれなくなった。
 「兄貴!?」
 「透、」
 お袋と妹、音程のちがう二人の声を背に受け走り出す。
 廊下を盛大に軋ませ玄関に直行するや踵を履き潰したスニーカーをつっかけ、引き戸を開け放つ。
 十一月の風が顔を打つ。
 風を切るように飛び出し、そのままあてもなく駆けていく。
 『指輪も外さねーで未練がましいんだよ』
 自分の声が耳の中でエコーする。
 『しかたないじゃない、抜けなくなっちゃったんだもの』
 厚手のパーカーを羽織っていても外気がもろに洗う顔がひりひり痛い。
 どこをどう走ったか覚えてない。とにかく家から離れたい一心だった。
 自分がぶざまで情けなくて、お袋に腹が立って、親父を殺したくて、色んな感情が湧き立って体が火照っていた。
 俺の七年間はなんだったんだ。
 親父の分までしっかりしなきゃと気負って妹を守ってお袋を支えてきた、あんなヤツいなくても俺がいるから大丈夫だと思ってた、思い上がっていた。お袋や妹も、口には出さないけど、俺を頼りにしてくれてると自負してた。 
 なのに。
 「畜生」
 結局俺じゃ、親父の代わりになれないのか。
 お袋が今でも結婚指輪を外さないのは親父の帰りを待ってるからなのか。
 憎しみが鼓動に溶け血に引火し体内を循環する。
 走る、走る、猛然と風を切ってどこまでも。
 肺活量の限界に挑む。首の後ろでフードが跳ねる。住宅地の景色が繁華街へと移り変わる。
 自動ドアが開閉し、ゲーセンから軽快な音楽が漏れ出る。
 パチンコ店から不況の世相を吹き飛ばす景気よい軍艦マーチがどんちゃん流れる。
 雑音の洪水に取り巻かれ、膝に手をつき呼吸を整える。
 いつのまにか駅前に来ていた。
 酷使した肺が痛い。
 貪るように酸素を吸い込む。
 どっか遠くへ行きてえ。
 試しにパーカーのポケットをさぐる。じゃらりと小銭が鳴る。
 しめて百二十円……笑っちまう。
 「せいぜい一駅しかいけねーよ」
 麻生の住む町は五駅離れている。
 聡史に匿ってもらう手もあったが、妹から電話が入るとめちゃくちゃ気まずい。
 仕方なくたまたま目についたコンビニで時間を潰すことにする。
 自動ドアが開くと同時に「いらっしゃいませー」と店員が元気よく挨拶する。
 適当にやりすごし、窓に面した雑誌の棚に向かう。
 漫画雑誌を立ち読みしようとして、ふと週刊誌の見出しが目にとまる。
 「友永唯(42)議員に隠し子疑惑!?~若き日の乱れた生活~」
 さっきまでブラウン管越しに目にしていた議員の顔が浮かぶ。 
 何気なく週刊誌を手に取り、ぱらぱらめくる。
 記事には議員の略歴と政界入りに至る経緯が載っていた。

 「『政界のシンデレラ』友永唯。
 いまだ衰えぬ美貌とエレガントな立ち振る舞い、論理武装したクレバーな舌鋒で一部の層の絶大な支持を得る彼女にまつわるある噂が囁かれている。
 読者諸氏は友永議員がかつて女優だった事をご存じだろうか?
 女優としては短命でドラマ・映画の出演本数あわせて十三本とパッとしないが、これからというときに突然芸能界から引退を表明、政界入りを宣言。
 猛勉強の末独学で大検資格をとり立候補、当選、議会に進出。若手映画監督と結婚するも離婚。
 以上のように波乱のシンデレラストーリーを歩んできた彼女だが、実は業界筋の情報によると、引退表明までの一年余りの活動休止期間に子供を出産した疑いがあるのだ」 
 「当時、唯と同じ事務所に所属していたタレントA子はこう語る。
 『活動休止に入るちょっと前、唯ちゃん、様子がおかしかったんですよね。出演予定の番組の直前に体調くずして……いきなりトイレに駆け込んだり。つわりじゃないかって事務所の女の子の間で噂になってましたよ。当時は売れっ子だったからまあ嫉妬もあったんでしょうね』
 『それからすぐ活動休止に入って……オフレコだけど、上とだいぶ揉めたらしいです。で、ある日ふらっと消えて……一年経って戻ってきたら突然引退宣言でしょ?何かあったって勘繰らない方がおかしいです』
 活動休止期間中の友永唯の足跡は謎に包まれている。
 実家に帰ったという者もあれば内縁の男性と同棲していたという者、匿名で入院していたという証言もある。
 本誌は友永議員の秘められた過去と私生活を今後も鋭意追跡していく方針である」

 下世話な覗き見シュミにあふれた記事に目を通し、どうでもいい感想を述べる。
 「隠し子ねえ。議員も大変だな」
 週刊誌を棚にもどし、しばらく立ち読みで時間を潰すも、二時間も粘れば大概読み尽くす。
 いい加減店員の視線が痛い。さっきからずっと睨まれてる気がする。
 潮時かな。退散するか。
 立ち読みの罪滅ぼしに缶コーヒーを一本持ってレジに向かえば、前に人がいた。
 パーカーのポケットを探り、小銭を取り出そうとして、トチる。
 「あ」
 ポケットに手が突っかかった。
 指の間をすり抜けた小銭が床を転がっていく。舌打ち。
 慌てて屈み、這い蹲ってかき集めにかかる。
 「大丈夫ですか?」
 「すいません」
 会計を終えた客が親切にもその場に屈んで手伝ってくれる。
 買ったばかりの煙草を背広の胸ポケットにしまい、俺の正面にしゃがみこみ、素早く小銭を拾い集める。
 「ありがとうございます」
 顔を上げ、礼を言うと同時に既視感が騒ぐ。この人どっかで見たな。
 相手も同様の気持ちを抱いたらしく、記憶の襞をなぞるように目を細め、俺の顔をじっくり見る。
 「ひょっとして……譲さんのマンションにいた?」
 「あの時、麻生の部屋の前にいた?」
 後見人。
 駅前のコンビニでばったり遭遇したのは、麻生と玄関先で押し問答してた背広の男。
 困惑が晴れ、俺の手に硬貨を渡しながら男が口を開く。
 「譲さんのお友達ですか」
 俺が「麻生」と呼んだせいで、知り合いと見抜いたらしい。
 立ち上がった俺と向き合い、ここでこうして会ったのも何かの縁と腰低く気さくに微笑む。
 「よかったら少し話しませんか?コーヒーご馳走します」

 コンビニの前には小さな駐車場があった。
 車が三台とまれば一杯になっちまう狭い駐車場の置き石にふたり並んで腰掛け、おごってもらった缶コーヒーのプルトップを引く。
 「いただきます」
 「どうぞ」
 ほろ苦いコーヒーを啜りながら、隣に座る男を横目で観察する。
 俺はともかく、スーツで決めた大の男がそうして駐車場に座り込む様はひどく浮く。
 実際、さっきから通行人が好奇と不審と詮索の入り混じった視線をちらちら投げかけてくるが平然とした素振りで缶コーヒーに口をつけている。
 「喫茶店の方がよかったでしょうか」
 「いや、全然!知らない人に喫茶店でおごってもらうんはさすがに気が引けるんで、こっちのがいいです」
 手に持った缶をちょいと掲げフォローすれば男が「そうですか」と安心する。笑うとだいぶ印象が柔らかくなる。
 「君は……ええと」
 「秋山です」
 「譲さんのお知り合いで?」
 「クラスと部活が同じで。といっても俺がむりやり引き込んだんだけど、麻生も順調に染まってきて、最近は推理小説読んで勉強してます」
 「推理小説というと」
 「ミステリー同好会。部長は俺です」
 「それはすごい」
 「いやあ、ただ本読んでくっちゃべてるだけの部活っす」
 褒められるのに慣れてないから嬉しい。
 頭をかきかき挙動不審に照れる俺に向き直り、かすかに不安げに聞く。
 「学校ではどうですか、譲さん」 
 「いっつも本読んでます。授業の時しか口きかねーし。正直クラスじゃ敬遠されてるけど、話してみると結構楽しいですよ。物知りだし」
 「秋山くんは譲さんのお友達ですか?」
 直球の質問。
 面と向かって聞かれると答えにくい。
 人さし指で頬をかきコーヒーを一口、面映げに呟く。
 「一応……むこうもそう思ってくれてるといいんだけど、ちょっと自信ないす」
 正直、麻生が俺の事をどう思ってるかなんてわからない。
 俺の事を対等な友達だと思ってくれてるのか、四月から変わらず鬱陶しい位置付けなのか、冬風の如くドライな態度から内心を推し量るのは困難だ。
 「ええと、おっさんは」
 しまった、おっさんは失言か。
 機嫌を損ねたか危ぶむも、相手は気にした素振りもなく、「申し遅れました」と背広の内側から名刺をとりだす。
 「私、後藤といいます。譲さんの後見人のようなものを務めさせていただいてます」
 「ども、ご丁寧に」
 おお、推理的中。やっぱり後見人だったのか。
 手馴れた礼儀正しさで頭を下げられ、恐縮して名刺を押し頂く。
 名刺には「秘書 後藤弘文」とだけ刷られていた。
 こっちの推理も当たり。さすが俺、部長の肩書きは伊達じゃない。
 初対面も同然の高校生のガキ相手に礼儀正しく名刺を渡すさまは戯画化じみて滑稽であると同時に、相手を重んじる誠実さが伝わって好感をもつ。
 「麻生とはどんな関係なんですか?」
 「譲さんのご母堂の下で働いてます」
 「ゴボドウ?」
 「お母様です」
 ごぼうとは無関係だった。
 口語にそぐわぬ台詞がさらっと出てくるあたり教養と経験の差を感じさせる。
 受け取った名刺をためつすがめつひねくりまわす俺をよそに、後藤は缶コーヒーを両手に握り淡々と続ける。
 「譲さんの事は小さい頃から知っています」
 「今日も麻生んちに?駅ちがいますよね」
 「ええ。今日は譲さんの学校へ……先日の謝罪と事情説明に伺った帰りです」
 後藤が何を指してるか察しがつく。三者面談の事を言ってるのだ。
 「……麻生の親、三者面談にきませんでしたね」
 「……はい」
 「一応、連絡は行ってたんですか。麻生一人暮らしだし、連絡ミスで来れなかったとかじゃ」
 「連絡は来ていました。しかしあの日は都合が悪く……どうしても抜けられない用があって。私が代行しようかとも考えたのですが、譲さんに言ったら余計な事をするなと叱られてしまいました」
 「だって三者面談ですよ?進路を決める大事な話し合いなのに親が欠席したら意味ないじゃないすか」
 「おっしゃるとおりです」
 非難を甘んじて受け入れ苦渋の面持ちで俯く。
 感情的に責め立てた事を反省、浮きかけた尻を再び置き石に戻す。第一、三者面談をすっぽかしたのはこの人じゃない。謝罪まで肩代わりしなきゃいけない立場に同情こそすれ理不尽に詰るのは筋違いだ。
 名刺をポケットに突っ込み、ぬくい缶コーヒーをいじくりまわしつつふてくされた調子で言う。
 「麻生の親ってどんな人なんですか」
 三者面談を終えた帰り道。
 強く吹く風に電線が撓む。
 ススキが生い茂る斜面。自転車を引きながら窺った麻生の横顔を思い出し、やりきれなくなる。
 後藤は遠くを見て、少し考える素振りをする。
 駐車場の前の通りをベビーカーを引いた若い母親が歩いていく。
 厚着に包まれた赤ん坊がこっちを見る。うさぎの耳付きフードが可愛い。
 円らな目で不思議そうにこっちを凝視する赤ん坊に笑って手を振れば、隣でいい年した大人が慎み深く同じことをしていた。
 子供好きなのか。きっと悪い人じゃないんだろうなと警戒の水位を下げる。
 母親に会釈を返し、ベビーカーが通り過ぎるのを待ち、思い出したように口を開く。
 「むずかしい人です」
 去りゆくベビーカーを優しい目で見守り、慎重に言葉を選ぶ。
 「周囲を信用しない。自分にも人にも厳しい。ある意味では容赦がない、酷烈といってもいい。常に理想と完璧を追い求め他人にもそれを課す。人に優しくするのもされるのも不得手で誤解されやすい……譲さんとよく似てます」
 弁護とも擁護ともつかぬ口調だった。
 もっと詳しく聞きたい欲求がもたげるも、警戒心と遠慮からためらい、違うことを聞く。
 「後藤さんはどれ位の頻度で麻生のところへ?」
 「月一ですね」
 「様子を見に来るのは親に言われて?」
 「半分は。もう半分はお節介です。譲さんには鬱陶しがられますが、子供の頃から見ているので気になってしまって」 
 麻生が鬱陶しがってるのは邪険な態度からよくわかる。
 ささやかな好奇心から、もう一歩突っ込んでみる。
 「子供の頃の麻生ってどんな感じだったんですか」
 「博識で寡黙で偏屈」
 「今とあんまり変わんないですね」 
 顔を見合わせ笑いあう。連帯感が生まれる。
 缶コーヒーを両手に持ち、俺には想像できない麻生の子供時代を回想するように目を細め、訥々と言う。
 「気難しい子供でした。少なくとも世に言う子供らしい子供じゃなかったな。あまり笑いませんでしたし……友達も多くはなかった。どこか周囲を距離をおいていた。当時から勉強はよくできたし、しっかりしてましたが……かえってそれが危なっかしく、痛々しかった」
 「無理してるところが?」
 「孤独を孤独と思わないところがです」
 後藤の言わんとすることは漠然とわかる。
 それは俺が常日頃から麻生に感じてる不安の輪郭をなぞる言葉だった。
 後藤がふいに真顔になり、値踏みするように俺を見る。
 顎を引き唇を結び、控えめな値踏みを意を決し受けて立つ。
 麻生について知りたい。
 三者面談に親が来なかった理由、だだっ広いマンションで一人暮らしする事情、全身の傷痕と痣の真実を知りたい。
 だが一方で麻生が頑なに守る線の内側の核心に触れるのに抵抗があった。
 この人なら何か知ってるかもしれない、教えてくれるかもしれない。
 間接的にでも核心に触れることができるかもしれない。
 缶コーヒーを握りこみ、一途に思い詰めた表情で見詰め返す。
 俺の目をまっすぐ捉え、信頼できるか否か、話してもいいものかと思慮を働かせる。
 「譲さん、小学校二年生まで自分の誕生日を知らなかったんですよ」
 突拍子もない言葉に面食らう。
 後藤は虚空に目を馳せ、感傷的に言葉を重ねる。
 「譲さんは諸事情あって中学まで母方の祖父母と同居されてました。マンションを借りて一人暮らしを始めたのは高校から。本人たっての希望です」
 「初めてのわがまま?」
 「遅れてきた反抗期と言いますか」
 ちらり笑うも、横顔はすぐ憂愁に翳りゆく。
 「譲さんがご実家にいらしいた時からたびたび様子は見に行ってたのですが、なかなか打ち解けてくれませんでした。ある時、滅多にないことですが、譲さんのほうから話しかけてこられたんです。その時、開口一番聞かれたのが……」
 『自分にも誕生日はあるのか?』
 「知らなかったんですよ、自分にも誕生日があると。おそらく、クラスのだれかの誕生日の話がでたんでしょうね。それで初めて、自分にもあるのか疑問に思ったらしいです」
 胸を殺伐とした風が吹き抜ける。
 言葉を失う俺から顔をそむけ、手の中の缶コーヒーを見詰める。
 「ああ、可哀相な子だなと思いました」
 誰も教えてくれず、祝ってもくれず。誕生日の存在さえ知らなかった子供。
 それだけで、幼い麻生が祖父母にどういう扱いを受けていたのか想像できる。
 産み落としてすぐ人に譲ろうとおもったから譲。 
 愛された形跡のない名前にふさわしい境遇だった。
 「自分を可哀相だと哀れめるうちはまだ大丈夫なんです。本当に可哀相なのは自分をないがしろにする人です。ないがしろな生き方しか知らない人です」
 手の中の缶コーヒーはすっかり冷え切っていた。
 思い出したように口に運び、あおる。
 苦味を増した液体が喉を通り、胸が焼け、顔をしかめる。 
 コンビニの自動ドアが開き、袋をぶらさげた若い男が不審そうに駐車場に座り込む俺たちに一瞥くれるも、気にならない。
 長い長い沈黙の末、アスファルトの地面に視線を固定し、吐き捨てる。
 「俺、可哀相って言葉嫌いなんです」
 後藤がこっちを向く。
 全部飲み干した空き缶を落ち着きなくひねくりまわし波立つ胸中を宥め、言う。
 「だって、相手を下に見てるじゃないですか。言ってる本人は気分いいかもしれないけど言われるほうはたまったもんじゃない。俺もたぶんひとに言われたらムッとすると思うんです。でも……今の後藤さんの話聞いて。上手く言えねーけど、自分を哀れむことで救われることもあると思うんです。誰も哀れんでくれないならせめて自分だけでも哀れんでやろう、自分の痛みをわかってやろうって。それで慰められることだってあるでしょう」
 空き缶の底で地面を叩く。
 麻生はおそらく自分を可哀相だなんて思ってない。自覚しないことで他人に哀れまれるのはさぞかし不本意だろう。
 だから、俺があいつを哀れむのは傲慢だ。
 ひとりよがりの偽善だ。
 わかってる、俺にはあいつのために泣く資格がない。

 だったら、この胸の痛みをどう処理したらいい?
 涙で洗い流せない痛みをどこへ捨てたらいい?

 「……麻生、全然自分の事話してくれねーから、俺、付き合い始めて何ヶ月もたつのにあいつのこと全然知らなくて。本当は、友達とか名乗る資格もなくて。わかってるんだけど、なんか、時々たまんなくなる。俺、そんなに頼りないのかよって……こないだもそうだ、風邪ひいて辛いのに電話一本よこさなくて、三日も経ってから初めて知って……びっくりして」
 自己紹介から何分も経ってない人間にこんな事ぶちまけていいのか。
 こんな、麻生本人はおろか長い付き合いの聡史にも打ち明けてないことを冬風吹くコンビニの駐車場で相談しちまっていいのか。
 けれども今は羞恥より戸惑いより、誰かに胸の内を聞いて欲しい願望が膨れ上がって喉を衝く。
 俺の知らない麻生を知ってるこの人に、俺より麻生と付き合いの長いこの人に、無性に縋りたかった。
 後藤には硬軟併せ持ち人を懐柔する雰囲気、信頼に足る寡黙な度量がある。 
 話し込むうちに警戒心が霧散しちまえば、俺は実にあっさり口を割って、一言ぽろっと本音を零せば感情が決壊して、この数ヶ月、誰にも言わず胸に秘め続けた葛藤やら悩みやらを洗いざらいぶちまけていた。
 よく知らない人だからこそ話せることがある。
 自暴自棄に近い衝動に駆り立てられ、しゃべるうちに喉が渇いて、からっぽなのも忘れて空き缶に唇をつけて、それでも止まらない。
 「俺、正直、頼られるのが鬱陶しかった。嬉しい反面、同じくらい、それ以上にうんざりしてた。もういい加減にしろよって叫びたかった。なんでもかんでも俺に押し付けるなよ、好きにさせてくれよって」

 親父の分までしっかりしなきゃ
 俺が。
 俺が。
 なんで俺だけ

 「しんどかった。時々全部投げ捨てて、バイトでためた全財産はたいて電車とびのって、誰も知らない町に行きたくなった。家も学校も、何もかも投げ出したくなった。けど……麻生と会ってから、ああ、こいつ放っといちゃだめだって。放っとけないって思って」
 麻生と近付くきっかけとなった四月、図書館の二階の窓から、颯爽と飛びおりる姿を思い出す。
 「目を離したら、どっか行っちまいそうで」
 ボーダーラインの彼方に行ったきり戻ってこない気がして。
 「……俺がいてもいなくても変わんねーけど、でもそれでも、いないよりマシだって思う」
 俺は麻生に、ここにいてほしい。
 「麻生は俺を頼らない。頼らねーのに、そばにいてくれるんです」
 麻生のそばにいると呼吸がらくだった。誰かに頼りにされなくてすむことがあんなに気楽だなんて知らなかった。他人が哀れむ家庭の事情も吹っ切れて、普通の高校生になれた気がした。
 俺が守る必要のない人間、一人で生きられるくらい強い人間。
 麻生譲はそんな少数の選ばれた人間だと信じて疑わなかった。
 いつからだろう、頼ってもらえなくて物足りなさを感じ始めたのは。
 頼ってもらえなくて息が苦しくなり始めたのは。
 「俺……もっと、頼ってほしい」
 今は、胸が苦しい。
 口の中にカフェインの成分に溶け無力の苦味が広がる。
 麻生にとって必要な存在になりたいというのはわがままだろうか。
 俺の分際で、上を見すぎだろうか。
 辛いこと苦しいこと哀しいこと遠慮なく話して欲しい、捌け口にしてほしい。
 俺は麻生の前で鼻水たらし涙を見せたのに、あいつは一回も泣かない。

 なにもできないと諦めるんじゃなくて、なにかできると信じたい。
 辛かったら、苦しかったら、ちゃんと言ってほしい。

 膝を抱え込むようにして黙り込む俺の隣、後藤が腰を上げ、背後のゴミ箱に空き缶をおとす。カコン、と金属音。
 「こないだ譲さんの部屋を訪ねた時、私物が増えていて驚きました」
 膝から顔を上げ、緩慢に振り向く。
 「推理小説です。おそらく秋山くんの影響で手を付け始めたんでしょうね。私が不思議に思って聞けば、友達が読め読めうるさいからと、不機嫌な様子でおっしゃりました」
 友達。
 後藤さんがなにげなく発した言葉に、胸の氷が溶け、ぬるい水となって広がっていく。
 「一方通行を気に病むことはありません。譲さんはただ、好意を表現するのが不得手なだけです。あの事があってから……」
 「あの事?」
 「大事な人が亡くなったんです。譲さんの支えだった人が」
 後藤が手を差し伸べる。意図を察し、無言で空き缶を載せる。
 俺が手渡した空き缶を金属の蓋のむこうへと落とし、向き直った後藤が、冬空に晴れ渡るような笑みを浮かべる。 
 「君と会えてよかった。安心しました」
 「あの、」
 踵を返し立ち去りかけた後藤を呼びとめる。
 訝しげに振り返った後藤に一歩踏み出し、白い息を吐きながら、最後に肝心な事を聞く。
 「麻生の誕生日っていつですか?」
 「12月1日です」
 「じゃあもうすぐだ」
 俺の考えを読んだか、後藤の顔に一瞬驚きが広がり、次いで柔和な笑みが染み広がる。
 駐車場を離れ、駅の方へと続く通りに立った後藤がゆっくりとお辞儀をする。
 「譲さんをよろしくお願いします」
 猥雑な雑踏を背景に、丁寧に腰を折る黒背広の男を、そこだけ日常から切り離された厳粛な空気が包む。
 『透 母さんと真理をよろしく頼む』
 親父によろしくされた時は反発と怒りと義務感で窒息しそうだった。
 後藤のお辞儀からは誠意と信頼が伝わってこそばゆくなった。
 雑踏に紛れかけた背中を追い駆け出せば、駐車場での青臭い会話を反芻したか、後藤が気恥ずかしげに呟く。
 「過干渉ですかね」
 「言い間違いです」
 パチンコ店やゲーセンから流れる音楽に負けじと声を張り上げる。
 「そういうのは過干渉じゃなくて、過保護っていうんです」
 雑踏に埋没する間際、ちょっと振り返った横顔にはにかみがちらつく。
 麻生にこの人がいてくれてよかった。
 土曜日の午後、人で賑わう繁華街の通りで後藤と別れ、少し迷い、ポケットに手を突っ込み携帯をとりだす。
 短縮を押し、家電にかける。
 外をふらついて頭が冷えた。お袋に謝ろう。謝って、もう少ししたら帰ると言おう。
 通行人の邪魔になるのを避け目についた路地にそれ、壁に凭れ、応答を待つ。 
 携帯に注意が行き、背後からの接近に気付くのが遅れた。 
  
 「もしもしお袋」
 脇腹で電圧の火花が弾ける。

 「!!―ッ、がっ」
 脇腹に喰らった電撃に筋肉が弛緩、膝から挫けて倒れこむ。
 表通りから引っ込んだ路地で倒れても、通行人は気付かない。
 声を張り上げ助けを呼ぼうにも、声帯が痺れ、視界は急速に明度をおとし狭まっていく。
 何が起きたかわからなかった。
 力の抜けた手から携帯が落ちて地面に転がる。
 倒れこんだ俺の周囲にどこからか沸いて出た人影がたむろする。 
 「―捕獲完了。これでいいか、伊集院」
 伊集院?だれだっけ。
 中の一人が携帯で報告する。
 鼻先を踏む汚い靴。ざらつくアスファルトが頬を削る。首筋に鋭利な冷気が忍ぶ。
 誰かの足の間をすりぬけ向こうに転がった携帯に手を伸ばすも果たせず、か細い糸一本で繋がっていた意識が断ち切れ、真っ暗闇に飲まれた。

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 「起きろ」
 冷たい液体を勢いよくぶっかけられる。
 「かはっ」
 顔面から大量の雫が滴り強烈なアルコール臭が鼻腔を突く。
 ビール。
 素手で拭こうとして手首に抵抗を感じ、続く金属音に違和感。
 そこで漸く両手が自由に使えない現実に至り愕然。
 身を捩って振り仰げば両手にがっちり手錠がはまり、壁から突き出たフックに鎖部分が吊り下げられいる。
 「んだよ、これ……」
 無防備な目鼻にアルコールが流れ込み激しくむせる。
 両手の理不尽な拘束に戸惑いを覚え、暴れれば暴れるほど金属の固い手錠が手首に食い込み鮮烈な痛みを生む。
 徐徐に睡魔の名残りの靄と視界の濁りが晴れ頭が冴えていく。
 得体の知れぬ不安と疑問に駆られあたりを見回す。
 天井は開放的に高く太い鉄骨が碁盤の目さながら幾何学的に行き渡っている。
 鉄骨を組んだ無機質な天井から視線を下ろせば、一面コンクリ打ち放しの殺風景な空間が広がっていた。
 見覚えある情景。
 そうだ廃工場。
 夏休み最初の夜、麻生に連れ込まれた場所。
 暴走族の集会場とも不良の溜まり場とも噂され地元で忌避される場所。
 「起きたか」
 「よく眠ってたな」
 押し殺した笑声が流れる。周囲に影がたむろっていた。
 工場の床は広範囲にわたり、煙草の吸殻やシンナーの袋ポルノ雑誌スナック菓子の袋が乱雑に投げ捨てられ蹂躙されていた。
 不特定多数の人間に踏み荒らされた工場内は荒廃と退廃の気の澱みを一層濃くしている。
 正面の闇に目を凝らす。
 人がいた。一人、二人、三人……四人。
 俺と同じか少し上くらいの連中。最年長は二十歳前後に見える。
 一目で不良とわかる柄の悪さ、格好、スレた目つき。
 どいつもこいつも知らない顔、赤の他人。
 パンク系ファッションの一人が、中身をあらかた俺の顔にぶちまけた空き缶を無造作に放る。
 「……誰だ、あんたたち……俺に用か?にしちゃ、手あらい、歓迎だな」
 一言ずつ息を区切って言う俺を指さし不良どもが笑う。
 頭のネジが数十回転ゆるんでそうなけたたましい笑い方。
 軸ブレまくりいの哄笑が高い天井に殷々と反響し、怪物の咆哮じみた余韻を帯びる。
 足元の床に落ちたシンナーの袋がいやでも目に入る……一発キメてご機嫌らしい。
 落ち着け。
 冷静に思い出せ。
 自分に起きたことを順番に、時系列の順に並べて。
 「―!痛っ、」
 深呼吸と同時に脇腹が引き攣る。
 暴れたはずみにパーカーの裾がずりあがり真新しい火傷のあとが覗く。
 範囲はそれほど広くない、直径三センチほど。
 脇腹の火傷が引き金となり記憶が一挙にフラッシュバック。

 お袋と喧嘩して家を飛び出した。身を切るように冷たい風が吹いていた。空気は乾燥していた。空は高かった。逃避が目的でがむしゃらに足を蹴りだし駅前に来て、コンビニで立ち読みして、ああそうだ、レジの前で小銭を落として……
 親切な人が拾ってくれた『大丈夫ですか』名刺・後藤弘文『君はひょっとして』麻生の後見人、マンションですれ違った男『話しませんか』缶コーヒーをおごってもらい、二人して駐車場の置石に腰掛け、世間話をした『君は譲さんの友達なんですか』俺はなんて答えた?そうだ、はいと言った、そうだと認めた。相手がそう思ってくれてる自信はないが、少なくとも俺は、一方的にそう自認してる。
 何を話したっけ?……麻生の事、麻生の話。後藤さんは麻生を心配してた。いい人だった。この人が麻生にいてくれてよかった。俺は誰にも話せなかった胸の内と腹の底を出会ったばかりの後藤さんに洗いざらいぶちまけていた。後藤さんには不思議な魅力、出会ったばかりの人間がおのずと悩みを打ち明けたくなる包容力があった。俺は……麻生ともっと距離を縮めたかった、アイツに頼ってほしかった。辛いこと苦しいこと、もっと共有したかった。『譲さんをよろしくおねがいします』耳に心地よい低音。後藤さんは丁寧にお辞儀して雑踏に紛れ去っていった。
 後藤さんを追って通りに出て、しばらくしてパーカーのポケットを探り

 「路地」

 路地に逸れた。
 今帰ると電話を入れようとして。
 人けがない閑散とした路地、建物の壁に阻まれた狭苦しい場所、表通りからは死角に入る。
 拉致には最適の条件が揃っていた。
 脇腹に喰らった衝撃を思い出し、顔を顰める。
 「やっぱきくな、スタンガンは。一発で気絶しちまった」
 「ちょっと強すぎたんじゃねーか?いきなりぶっ倒れてバンまで運ぶの苦労したぜ」
 「車に近い場所でやれよ」
 「下手に誘導して逃げられるよかマシだろ。文句ばっか言うな、じゃあお前がやれ」
 不良どもがヒステリックに言い争う。
 路地裏でスタンガンの一撃を喰らった、それは疑う余地もない事実。
 現場で昏倒した俺は、近くに停まっていたバンに引きずり込まれ廃工場に運ばれた。
 「待てよ……意味わかんね」
 状況は大体わかった。わかんないのは事情だ、なんだって俺が拉致されなきゃならない?
 俺はこれといってとりえもない平凡な高校生で犯罪に関与した前科は一切ない。
 唯一やらかした悪さといえば小5の時、道で拾った千円を交番に届けず猫ババしたことか。
 夏目漱石の祟り?
 まさか。スタンガンで気絶させる手口からして尋常じゃねえ、そんな恨みを買った覚えは…… 

 逆恨みなら?

 「勝手にくっちゃべってねえで人の話聞けよ!なんだよこれは、悪ふざけもいいかげんにしろ、人にスタンガン向けちゃいけないって親から教わらなかったのかよ!しかも今俺の手に嵌まってるコイツはなんだ、手錠じゃねーか、警察から盗んできたのかよ!?大体スタンガン使って拉致とかフィクションの悪影響だ、一歩間違えば心臓麻痺でショック死だ、お前らみてーなごく一部の非常識な連中が現実と虚構の区別つかねー行動するから娯楽に規制かかるってわかってんのかよ!?誘拐ならあてが外れて残念だな、うち貧乏だから身代金払えねー……」
 「知ってるよ」
 二度と聞きたくない声。
 笑う人影をかきわけ、体の半分が沈む不安定な歩き方でやってきたのは……
 「ボルゾイ」
 二度と見たくなかった顔。二度と会いたくなかった元同級生。
 二学期の始まりと同時に学校から消えたボルゾイが目の前に立つ。
 片手に分厚く包帯を巻き、片脚はギプスで固めぎくしゃく松葉杖を付いてる。
 大人しく入院してろと言いたい重傷人の風体だが、目には爛々と憎悪が滾っている。
 「退院したのか」
 さすがボルゾイ、ゴキブリなみにしぶとい。生命力と回復力がすごい。
 一瞬自分が置かれた状況も忘れ呑気に感心するも、次なる疑問が浮かぶ。
 「学校辞めたんじゃなかったっけ。自主退学って聞いたけどなんでここに……がらの悪い連中と付き合って……」
 「つくづくお気楽だなお前は。世間話する気か。状況見てもの言えよ」
 ボルゾイが唇をひん曲げ揶揄し仲間が追従し失笑を漏らす……仲間なのだろう。
 「紹介まだだったな。こいつらは俺のダチ、とっくにドロップアウト済み」
 「お前もだろ伊集院」
 「俺たちの世界にようこそ!」
 野次と口笛が狂騒的に乱れ飛び男たちがなれなれしくボルゾイの肩を叩く。
 言われてみればどいつもこいつもボルゾイに勝るとも劣らぬサドっ気が顔に出ている。
 脱色した髪を立たせ髑髏の指輪で飾るパンク気取り、上唇にピアスを嵌めた肥満体、やたら顔色が悪く瞬きの多い痩せぎすの男……
 人を見た目で判断しちゃいけないのは重々承の上知だが率直に言って気持ち悪い奴ら。
 「俺がここにいる理由説明しろよ」
 「偶然だよ。ふらっと散歩に出たらコンビの駐車場で知らねえおっさんとだべってるとこ見かけて、つい懐かしくなっちゃって」
 「整骨院の帰り?」
 「また減らず口が聞けて嬉しいよ……で、親切な友達に連絡したわけだ、元同級生と久しぶりにゆっくりおしゃべりしたいからセッティング頼むって。案の定携帯かけたら即飛んできた」
 「たまたま近場にいてよかったよ」
 松葉杖を振って種を明かすボルゾイと相槌打つ男達を見比べせいぜい憎憎しく毒づく。
 「パシリか。とりまき侍らせてご機嫌なのは学校の中でも外でもおんなじか、進歩ねーな」
 松葉杖に縋ったボルゾイが中腰の姿勢から前傾、高圧的に顔を突き出す。
 鼻の先端が触れる距離に狡猾で陰湿な笑み。  
 「会いたかったぜ、秋山。何ヶ月ぶりだ?相変わらずヌケた顔だな」
 「……拉致の黒幕はお前か」
 警戒心がこもり声が低まる。
 ボルゾイの様子は尋常じゃない。以前からイカれてたが今の比じゃない。
 躁鬱の気の激しい哄笑をあげ、無事な方の手で俺の頬をぺたぺた叩く。
 「ご名答。バカの癖に頭の回転は鈍くねえな。ああそうか、バカなふりしてるんだっけ。俺に目をつけられるのがいやでわざと実力隠しておちこぼれ装ってんだろ?俺がいなくなって過ごしやすくなっただろ、なあ?学校楽しいか、俺が消えて」
 粘着な言い回しに辟易。
 頬を包む手の温度と感触が不快。
 頬にべたべた触りまくるボルゾイを反抗的に睨みつけ不敵に笑う。
 「楽しいよ、お前が消えてくれて最高に。青春満喫してる」
 高く乾いた音が鳴る。おもいっきり頬を張られた。
 「…………調子にのるなよ、生活補助もらってる貧乏人の分際で」
 「こう言ってほしかったんだろ?お前の考えてることくらいバカでも読める、俺を殴る理由ができるからな」
 鉄錆びた味が口の中に広がる。
 唾を吐く。薄赤い粘液が床に付着する。
 工場は暗い。今が何時か分からないが、おそらく夜なのだろう。
 煙草の煙とシンナーの匂いが混ざり合い悪徳の巣の如く廃墟の空気を濁らせている。
 ズボンの尻がざらつく。不衛生な床で砂利と埃が擦れる。吊られた両腕がキツイ。
 手錠の鎖は壁から突き出たフックにひっかけられてる。精肉工場の豚みたいな扱い……末路も似たようなもんだろう。
 「さんざんいたぶって気がすんだんじゃないのか」
 「まさか。本当ならこれから二年間、手をかえ品をかえたっぷり仕込むつもりだった」
 「途中退場は不本意?」
 「計画が狂った。本当なら今頃俺たちのドレイになってたんだ」
 「ドレイって……リアルに口に出すヤツがいるとはな。なかなか新鮮な響き」
 気丈ぶって軽口叩きつつ、だだっ広い工場内を視線で走査し逃げ道をさがす。 
 焦慮に苛まれ尻が焦げ付く。心臓が早鐘を打つ。
 夏休み最初の夜、ボルゾイから受けた仕打ちがひとつひとつ甦り鳥肌立つ。
 「なあ、一度聞きたかったんだけど」
 できるだけ砕けた口ぶりで元同級生に長年の疑問をぶつける。
 「なんで俺を目の敵にするんだ?どうしてそんなに憎めるんだ?俺、お前になにかしたか。自分じゃ気付いてねえけど、お前の気に障ることでもしたっけ。廊下ですれちがうとき足踏んだとか……学食で列に割り込んだとか……ほとんど弁当持参だから後のほうは可能性低いけど……俺、お前が根にもつことしたか」
 本当にわからない。
 こんなに執念深く恨まれる心当たりがない。
 確かに入試の順位はボルゾイより上だった。でもそれだけだ、恨まれる心当たりなんてそれしかない。たったそれだけで、こうも執着できるのか。
 退学して、いなくなって、やっと腐れ縁が切れたと安心したのに。
 油断につけこまれた。
 俺はふらふら外を出歩いちゃいけなかった。ボルゾイがどこに潜んでるかわかんねーのに、どこで見張ってるかわかんねーのに、ただでさえ人出が多い土曜の午後に呑気に駅前を出歩いちゃいけなかった。ボルゾイと行動範囲が重なってる事を忘れちゃいけなかったのだ。 
 「聞きたいか」
 「すっごく」
 一も二もなく頷く。好奇心と時間稼ぎ、両方の理由で。
 ダン、と耳のすぐそばに衝撃。思わず身が竦む。
 顔の横に無事な方の手を付き、唇が触れる寸前まで身を乗り出す。
 「顔」 
 「顔?俺の?」
 間近に詰め寄るボルゾイを身じろぎもせず見つめ返す。
 本音を言えば顔を背けたい衝動と必死に戦っていた。
 意志の弾丸を装填し、銃口のように強い目でボルゾイを直視する。
 髪も肌もがさがさに傷んでる。
 自慢の白い歯は不潔に黄ばみ唾と一緒に嫌な匂いをまきちらす。
 少し痩せた、か?頬骨が高く浮き出、こけた目に青黒い隈ができてる。
 毛細血管が蜘蛛の巣状に張り巡らされた眼球のぎらつきと毛穴からアドレナリン吹き零れる凶相に息を呑む。
 息がシンナー臭い。間違いなく薬をやってる。
 「自分で気付いてねーか?お前の泣き顔、すっげそそる。男の俺でも勃っちまう」
 堕落に染まった吐息、歪み腐りきった性根。
 「………は、………ははははははははは、冗談キッツイ。お前、正気?頭大丈夫?俺、男だぜ。別に顔キレイじゃねーし……美形じゃねえし、普通の、どこにでもいる……麻生みたいな二枚目じゃねえし」
 腹に激痛が走る。
 「!!―ひぐっ、」
 脇腹に剣山を突き立てられたような衝撃に極限まで目を剥く。
 刺激に涙腺が弛緩し生理的な涙で視界が霞む。
 「麻生、麻生、麻生、麻生……そればっかだな。うざいんだよ、許可なく名前出すな」
 「あくっ……ぅあ、がっ………」
 「仮病の演技で同情引こうってか?電圧弱めに設定してやったんだ、有難くおもえ」
 恩着せがましくほざき仲間から借りたスタンガンを虚空で放電させる。
 スタンガンの電極の間で青白い火花が散る。
 これで弱めだなんて、さっきは何ボルトだったんだ? 
 両手を拘束されてるせいで腹を庇えず無力に身を丸めることしかできない。
 スタンガンを押し当てられた脇腹がずきずき痛む。
 酸素を欲し喘ぐ俺にのしかかりボルゾイが唾まきちらし笑う。
 「そう、その顔傑作!悔しさと恥ずかしさで死にそうなところをぎりぎりで持ちこたえてるその顔たまんねえよ、今まで色んなヤツいじめてきたけどお前が最高だ、最高にいい声と顔で鳴いてくれる、そこらの女なんかめじゃねーよ!!」
 「………手錠……はずせ……」
 息も絶え絶えに命令する。
 ボルゾイがこれ見よがしにスタンガンを翳す。
 「まだ懲りねーのか?」
 やめろと叫ぶ暇さえ与えられなかった。
 二回目、今度は腹のど真ん中にスタンガンが食い込む。
 息が止まる。
 三回、四回……立て続けに来る。
 火花の弾ける音
 頭が漂白
 閃光が炸裂
 体が意志で制御できず跳ねるたび手錠の鎖が耳障りに軋り鳴くスタンガンで責められる俺を囲み男たちが笑うボルゾイが恍惚と笑う
 「ショック死しちまったらもったいねーぞ、お楽しみ残ってんのに」
 「大丈夫だよ、一番低めにしてあるし。一回やってみたかったんだよな、スタンガン責め」
 「はは、口からヨダレたらしてのたうちまわってエロいかっこだな」
 「ふざけ……ーっ、お前らこんなことして、警察に」
 脅しで口走った言葉を遮るように今度は首の後ろに
 「!!っあい、ぎ」
 「警察に駆け込む?やめとけ、恥かくだけだぜ。いじめっ子の元同級生と愉快な仲間たちに拉致られて、廃工場でスタンガン責めにあったなんてどの面下げて泣きつくよ?」
 思考が働かない。
 正常な判断ができない。
 痛くて痛くてあとからあとから涙が出る。涙腺の調節がいかれちまったようだ。
 最悪だ畜生、今日は厄日か、お袋に罰当たりなこと言ったからバチがあたったのか。
 体表から体内へと電気が通過、太いニードルを突き立てられるような衝撃、激痛。
 遊び飽きたスタンガンを引っ込め、にやにやと反応を窺う。
 貪るように酸素を吸い込み、痺れた喉から掠れた声を絞り出す。
 「うち………帰してくれ………」
 目から鼻から滴った液体がビールと混じって顔をべとべとに汚す。
 肩を不安定に沈め胸を喘がせ呼吸しつつ許しを請う。
 前髪に衝撃。強引に顔を上げさせられる。
 「わかってんのか、おい。お前のせいで学校やめさせられたんだよ」
 「俺……なんもしてね……お前が勝手に、はっ……逆恨みじゃねーか………」
 「チクったくせに」
 誰に?
 薄ぼんやり涙の膜が張る目で問い返す。
 とぼけてると勘違いしたか、ボルゾイが黄ばんだ歯をむき出し唸る。
 「チクったんだろ。そのツラとケツでたらしこんで、いいように使ったくせに。とんだ性悪だよ。俺に直接歯向かうのが怖いからって卑怯な手使いやがって……裏から手え回して……おかげでこちとら人生台無し将来設計完全に狂っちまったぜ、全部全部お前が余計なことしたから……お前みたいなクズは俺の下であがいてりゃいいんだよ、ああッ、俺辞めさせて勝ったつもりかよそれで!!?」
 性悪?俺が?たらしこむ?誰を?
 話が飛躍しすぎてついてけないが、これだけは確か。

 ボルゾイは俺がすべての元凶が思い込んでる。
 どうあっても俺に復讐しなきゃ気がすまないのだ。

 激昂の発作に駆られ、髪をぷちぷち引き抜きかきむしりつつサディストの悦びに染まりきった狂気の哄笑を放つ。
 「はは、その顔。びびりまくったその顔だよ、それが見たかった!まったく嬲り甲斐があるよ、なあ秋山これなにかわかるか、小学校から高校まで数えて八人!俺がいじめで登校拒否と転校に追い込んだ記録だよ、めちゃくちゃ簡単だった、すぐ音を上げてこなくなる歯ごたえねえヤツもなかなか粘るヤツもいた!!けどクラス全員の前で自慰強制されちゃおしまいだ、自殺未遂したヤツもいたっけ、可哀相に失敗したあげく手首の腱が切れて一生箸が持てなくなっちまったけど!!」
 ボルゾイが誇らしげに仰け反り高笑い悪行の数々を暴露し、生理的嫌悪が極限まで膨れ上がる。
 どういう神経してりゃこんなに楽しげに自慢げに自分がいじめて追い込んだヤツのことを話せる、理解できないしたくもねえ、頼むとっとと消えてくれ、これ以上俺の耳に腐った言葉を注ぎ込むな!!
 「最、低だ、お前。お前がいじめたヤツらだって……痛みを感じて……家族もいて……これからの人生あるのに、生きてかなきゃいけねーのに」
 「知るか。俺が楽しいからいじめるんだよ。でもな、お前はとびっきりだよ。今まで俺が追い込んだへタレの中でもとびっきりいい声と顔で泣いてくれてめちゃくちゃ興奮する。美術室の一件、覚えてるか?水吐き零してのたうちまわるお前、最高だった。バイブを股間に押し付けられて喘ぐ姿めちゃくちゃエロかった」
 「言うな」
 「感じてたくせに。気持ちよかったろ携帯バイブは、またしてほしいだろ。俺の手にしごかれて射精したもんなドピュッて、同級生に見られて興奮したろ?耳朶まで真っ赤に染まって、目がとろんと潤んで、ばらけた前髪が額に張り付いてすっげ可愛かった」
 「地獄におちやがれくそったれ変態野郎、自分でしごいてろ」
 「最高の褒め言葉だ。もっと睨んで罵ってくれよ、大人しい獲物にゃ興味ないんだ」
 ボルゾイが笑いながら背後の男に顎をしゃくる。
 革ジャンにブーツのガタイのいい男が歩み出、ポケットから瓶をとりだす。
 「なん、」
 ボルゾイと立ち位置を入れ替わり、栓を抜く。
 俺のパーカーの裾を掴み、大胆に捲り上げ、火傷のあとも生々しい下腹部を外気に晒す。
 「貧相な腹筋、女みてえに生白い肌」
 「!ひ、」
 傾いた瓶から裸の腹へと透明な液体が零れ落ちる。過敏な反応に笑いが渦巻く。
 腹の窪みに溜まる液体を手で伸ばし塗り広げていく。
 貧相に痩せた腹筋から薄い胸板へかけ骨ばった指の感触に伴い冷感がしみこんでいく。
 瓶から零れた透明な液体は独特の粘性があり、捏ねれば捏ねるほどいやらしく糸を引く。
 「やめろよ気色わりぃ、日焼け止めクリームが要る季節じゃねーだろ!!」
 「暴れるな」
 手錠の鎖もちぎれよと足を蹴り上げるもボルゾイの指示を受けた残るメンバーが寄ってきて、俺の肩を掴み抵抗を封じる。
 壁に背中を固定され、身動きを奪われ、後頭部を分厚い手で押さえ込まれむりやり前屈みの姿勢をとらされる。
 「勘違いすんな。お前だって聞いたことくらいはあるだろ……ローションだよ。潤滑剤。濡れない女の滑りをよくするために使う」
 「ラブホによくおいてある」
 「むりむり、コイツ童貞だから知んねーよ!」
 下品な哄笑が渦巻く。松葉杖の先端がコツコツ神経症的にコンクリ床を叩く。
 「裂けちまったら大変だろ、後始末が。病院ざたにゃしたくねーし」
 その一言で。
 これから行われようとしてるおぞましいの一語に尽きる悪趣味を、完璧に理解する。
 「……ふ、……ふざけてんだろ」
 声が震える。声だけじゃない、体も震える。
 頭に上った血がすっと下りて、体を冷やす。
 「だって、俺、男で……わざわざローション使って男を強姦するとか、正気じゃねえ」
 「強姦じゃねえ、輪姦だ。本たくさん読んでるんだから言葉は正しく使え」
 「ボルゾ、じゃねえ伊集院、だってお前、俺と同じクラスで……俺たち同級生で……」
 「辞めたんだから関係ねえよ。まあ辞めなくてもお前は肉ドレイルートだけど」
 お話にならない。
 言葉が通じないボルゾイの説得は諦め、俺の腹にローションを塗り広げていく男に凄まじい剣幕で食ってかかる。
 「お前らはいいのかよボルゾイの言いなりで、男をレイプとかできんのかよ、だってケツの穴にいれるんだぜ、汚いだろ普通に考えてさ!汚いだけじゃねえ、俺が警察に駆け込んだらお前ら全員逮捕だ、男をレイプした男って新聞に書きたてられたら外で生きてけね」
 「お前は?」
 ボルゾイが揚げ足とってほくそえむ。
 「冷静に考えて外で生きてけないのはお前の方。元同級生に拉致輪姦されましたって証言できるか?男が男に手錠噛まされて強姦されたって言えんのかよ。証拠写真撮られるぜ?腫れて裂けたケツの穴に医者が指やら道具やら突っ込んで検査するぜ?誰に何回犯されたか、どんな言葉で辱められたかねちねち掘り返されて耐えられるか。刑事もどん引き」
 「………………っ」
 「新聞の見出しはこうだ、『地元高校生A君 元同級生に輪姦される』……同級生に、それも男に輪姦された悲劇の高校生として一躍全国区の有名人。ま、地元にゃいられなくなるだろうな」
 加害者より被害者の立場の方が不利だ。
 ボルゾイ達に輪姦されて、警察に駆け込んで。刑事に事情聴取を受けて。調書を作成され。
 ……証言できるか?
 できるわけねえ。
 最初から分が悪い駆け引きだった。輪姦は俺の口封じも兼ねた行為だ。
 レイプ被害を訴えるのには物凄い勇気がいる、ましてや男が男に輪姦されましたなんて口が裂けても言えねえ。
 スタンガンの不意打ちくらってあっさり気を失って気付いたら手錠噛まされて犯られ放題でしたなんて、自白と引き換えにプライドを売り渡すようなもんだ。
 ズボンに男の手がかかる。
 膝を蹴り上げるもたちどころにおさえこまれ下着ごと引き下げられる。
 男が野卑な口笛を吹く。ボルゾイの笑みが大きくなる。
 「ああ、一応皮は剥けてんだ。手間省けてよかった。剥くのも一興だけど」
 「さらっぴんの新品だけにキレイなピンク色してる」
 下劣な笑みを滴らせ、ローションに塗れた手を下へと移す。
 「さわんな!」
 ねちゃりぬちゃりと音がする。濡れた手の気色悪さに太股が粟立つ。
 ぬるつく手が直接前を掴み緩慢にしごきたてる。指の間でローションが糸引く。
 「!―んっ、」
 恥辱で頭が煮える。
 自分しか触ったことない場所をローションでぬめる他人の手にいじくりまわされ、悲鳴とも喘ぎともつかぬ塊が喉につかえる。
 「……嫌だ、さわんな、気持ちわり……冷て……手えどけろ!」
 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、ローションに塗れた手がくちゃくちゃ卑猥な水音こね回し前をゆるゆるしごきたて腰の奥の性感をかきたて快感を叩き起こす。
 「反応いいな。今までで一番かも」
 「感度いいんだよ。仕込めば使いものになる」
 「こういうスレてねータイプ親父受けしそうだし」
 「伊集院、あの人に談してみろよ」
 「もう手は打ってある。例の写メは回したからあとは返事待ち。ま、今晩の仕上がり次第だな」
 意味不明な会話の断片が強制的にもたらされた快感と淫蕩な熱で霞がかった脳裏に拡散していく。
 「んっ……あ、ひぐ………ちょ、たんま、っとにも……うち返せ……俺の携帯……」
 「今頃だれかに拾われてるんじゃねーか、路地裏にほっぽってきたし」
 助けを求める手段さえ取り上げられ、絶望する。
 携帯は路地裏だ。
 肌身離さず持っていたところで、両手に手錠をかまされたこの状態じゃ家にも警察にも聡史にもかけられない。

 麻生。
 麻生。
 麻生。

 強制的に快楽に慣らされ呼吸が次第に荒く浅くなる。
 執拗に前をいじくり倒していた手が、勃ちあがった頃合を見て後ろにもぐりこむ。
 「!!―っく」
 排泄にしか使ったことない孔に、ローションに塗れた指がねじ込まれる。
 後ろが収縮、腸壁の猥雑な動きを楽しむように指が二本に増やされる。
 息が、詰まる。
 「処女の反応だな。体の力抜けよ、後がキツイぞ」
 舌なめずりしそうな顔で男がうそぶき指を引っこ抜く。
 圧迫から解放され、安堵で体がゆるむ。
 その隙を見計らうように再びたっぷりローションを付けた指をねじこまれ、律動的に抜き差しされる。
 内蔵がでんぐり返る。
 痛い、涙が出るほど痛い、帰りたい、帰してくれ。
 「痛ッ……やめ、頼むやめさせてくれ伊集院、こんなのっ……なんでもするから、土下座しろっていうならする、靴なめろっていうならそうする、だからこんな……ッ、も、保たね……おかしくなっちまう……」
 「恥ずかしいか」
 「恥ずかしいよ、やめろよ!!」
 今ならボルゾイに土下座できる、恥もプライドもかなぐり捨て這い蹲れる。手が自由ならすがり付いていただろう。
 抵抗しようにもさんざん電流責めにあって体に力が入らない。
 命令系統の神経が麻痺し断ち切れて四肢が皮一枚でだらしなくのびっきてる。
 顎の筋肉ががちがちに強張って口を開くだけで余力を使い果たし、罵倒も哀願もどちらにせよ用を足さない。
 男たちが含みをもたせ目配せを交わす。
 ボルゾイがにやつきつつ傍らの男に顎しゃくる。
 唇ピアスがポケットから何かを取り出し、俺の膝に投げる。
 コンクリ床に落下したのは……
 妙にのっぺりした表面に光沢ある、プラスチックの球体。
 「ローターだよ」
 焦点の曖昧な目でボルゾイを仰ぐ。
 男たちを仰ぐ。
 全員いかれてる。
 「ここにいる全員をしゃぶるか、ローター突っ込まれてイキっぱなしか、どっちか選べ」
 この声どこから響いてるんだ。
 遠近法が狂い、三半規管が酔う。
 「はははははははっ、だってこれ指よりでかいし……ケツの穴に入るわけねー」
 「しゃぶるほうでもいいんだぜ?」
 「こっちは大歓迎。ローターで気持ちよくなンのお前だけだし?」
 夢なら覚めてくれ。今すぐ。
 そうだきっと瞼を開ければそこは居間の炬燵で俺はぐっすり眠りこけて妹に「兄貴ジャマ」って邪険に蹴り起こされる、目が冷めたらもう夕飯でお袋は台所でトントンと包丁の音が響く、だから嘘だ、こんなの夢だ、コンクリ床に転がったカプセル状のおぞましい物体もカプセルの尻から突き出たコードとそれに繋がるコントローラーも、全部、全部……
 「どっちにしろほぐしてもらったほうがラクだろ、ヤることは一緒なんだからさ」
 ボルゾイが物分りよく促し、なだめる。
 俺の頭を抱え込むようにして引き寄せ、髪に指を絡め、くしゃりとかきまぜる。
 「……突っ込んで……校庭十周とか……本気だったのか」
 「スタンガンでケツの穴ゆるめっか。加減間違えて死んじまうかもしんねーけど」
 ボルゾイは本気だ。
 細めた目が嗜虐の愉悦に蕩け、ズボンの股間ははち切れんばかりに勃起してる。
 拒めば本当にスタンガンを食わせかねない。
 麻生のマンションに泊まった夜の夢を思い出す。 
 夢の中で美術室にいた。
 同級生によってたかって組み伏せられ押さえ込まれ口をこじ開けられ、むりやりボルゾイのものをしゃぶらされた。
 口の中に満ちる青臭い苦味まで忠実に再現され胃液が込み上げる。
 「さっさと決めろよ」
 苛立った男たちに手荒く小突かれ、右に左に頼りなく傾ぐ。
 「同級生が手のつけようねえ変態だったなんて哀しいよ」
 心と現実が乖離し、口が勝手に動く。
 「お前らご自慢の雑菌繁殖した汚えもんしゃぶるくらいなら、ローター突っ込まれたほうがマシだ」
 あんな苦しいのはごめんだ。
 口の中一杯に膨張した肉が詰まって喉の奥まで衝かれて、苦い胃液にむせるような羽目は。
 自発的にしゃぶるより強制的に突っ込まれるほうがまだマシだ。
 俺が決めた事だ。でも卑怯だ、こんなのって。どっちに転んでも最悪じゃねーか。
 せいぜい虚勢を張って不敵に笑ったつもりが、語尾の震えを隠せず失笑を買う。
 恥辱と怒りで顔が染まる。
 今すぐ消えてなくなりたい、蒸発したい。もう沢山だ、こんなの。どこに逃げてもボルゾイは追いかけてくる。俺がなにをした?何もしてない、ただいるだけで気に入らない、存在するだけで憎まれる、蔑まれる。
 逃げればよかったのか?お袋と妹をおいて、誰も知らない町へ、貯金を持って逃げりゃよかったのかよ。そしたらこんな目に遭わずにすんだ、夏休みのあいだに決断してりゃこんな事には……

 うんざりだ。
 たくさんだ。
 ぜんぶぜんぶ終わりにしてくれ。

 「ひぐっ、」
 しゃくりあげる。
 ローションに塗れた手がローターを摘み上げケツの穴に押し当てる。
 異物感の圧迫に喉が鳴る。
 冷たく固いプラスチックの塊が、ローションで攪拌された穴の中へねじこまれていく。
 内蔵が軋む。腹筋が引き攣る。声が小刻みに弾む。 
 「あっ、あっ、あっ」
 指とは違う無機的な質感に体が拒絶反応を示す。
 「感じてんの?エロい声出して」
 場所を入れ替わり、再び正面に陣取ったボルゾイに残る片手で前をいじくられ、必死に歯を食いしばり喘ぎ声を殺す。
 「ははっ、初めてケツに入れられるわりにゃ感じてるじゃん」
 「マゾっ気あるんじゃねーの。いじめられっ子だろ、コイツ。なあ伊集院」
 「なあ秋山、ここだけの話おしえてくれよ。お前、俺にいじめてもらってまんざらでもなかったろ。美術室でもちゃんと勃ってたじゃん。殴る蹴るされて言葉で辱められて実はむらむらしてたんだろ。マゾ犬の素質あるよ、たっぷり一晩かけて調教してやる」
 膝を割り開かれた恥ずかしい格好をよってたかって視姦され、口笛と卑猥な揶揄を浴びせられ、堪えに堪えていたものが水位を上げあふれ出す。
 帰りたい。俺が何したんだ。割にあわねえ、逆恨みだ、変態に目を付けられて、こんな……
 ガチガチと手錠が鳴る。拘束をとこうと死に物狂いで暴れるほど手錠が手首を削り血が滲む、意味不明な奇声を発し支離滅裂に罵り精一杯の抵抗を示すも微熱に潤む涙目は迫力不足、男たちがげらげらと笑う、異物が奥へ奥へともぐりこむ、力んで押し出そうとしてもむり、苦しい、息ができねえ………
 「―!ッは、はあっ、は、かふっ」
 脂汗が前髪から滴り、床に染みを作る。
 くちゃりと音たて指が抜かれる。
 「辛そうだな」
 「……は……頼む、伊集院……これ、……中、入ってんの……抜いてくれ……ッ、なんか、変で……へんなふうにあたって、動けね……」
 息も切れ切れに訴える。
 本当は、声を出すのも辛い。ケツん中の異物が、足をもぞつかせるたび妙な具合に動く。
 使えない両手の代わりに限界まで身を乗り出し、ボルゾイに乞う。
 びしょぬれの前髪と顔から脂汗とビールの混じった雫を滴らせ、跪く俺を勝ち誇って眺め、ボルゾイが手の中の物を見せる。
 ローターのリモコン。
 
 「―-----------――あああああああああっああああ!!」

 不意打ちだった。
 ほとんど準備もさせてもらえなかった。
 体内から、凄まじい振動が、来る。
 奥まで突っ込まれたローターが振動し、直接前立腺を揺すり立てる。
 衝撃が突き抜ける。
 背中を仰け反らせ喚く、背中が壁に激突し息が詰まりずりおちていく。
 痙攣、不規則に跳ねる。息を吸って吐き吸って吐き、そんな当たり前のことができなくなる。
 「あぐ、ぁふ、あ、ああ、っ、やめ、はず、んく、いッ」
 機械のカプセルが激しく震え動き体内を攪拌、前立腺への刺激に連動して既にぎりぎりまで高められた前が爆ぜ、白濁を散らす。 
 振動が弱まる。
 リモコンを一気に最強に跳ね上げたボルゾイが俺の反応に満足し、摘みを調節する。
 「ローター初体験のご感想はどうだ?」
 「もうイッちまったのか、つまんねー」
 「じりじりためて遊べよ、一気に最強なんかにしたらへばっちまうって」 
 「沢山出たな。腹まで飛んでる。や~らしい眺め。本格的に撮影しね?」
 「悪くねー案。あの人の都合次第だ」
 手錠で吊られてなかったら倒れこんでいた。
 「…………伊集院、てめえ………」
 「美術室は序の口。廃工場が本番」
 ボルゾイが松葉杖を持ち直し先端を突きつけ、宣言。
 「言ったろ、ドレイにしてやるって」

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010319140911 | 編集

 目隠しされ手錠で吊られる。
 「はっ、はふ………」
 目を閉じても闇、開いても闇。
 濃さが違うだけで黒一色ののっぺり平坦な視界に変化なし。
 裏漉しされた闇が視界を奪う。蒸れた布が不快に顔にへばりつく。
 窒息感、閉塞感、圧迫感……耐え難い。苦しい、助けてくれ。
 来た。
 まただ。
 これで何度目?
 「―ッ、あぁあっ」
 突然振動が激しくなる。
 体の奥に突っ込まれたローターが激しく踊り、前立腺を直接揺すりたてる。
 腹が熱い。
 ぐちゃぐちゃのどろどろに中をかきまぜられる。
 身を捩り半狂乱で暴れるもランダムに設定されたローターは機械的な振動を続ける。
 初めて体験するローターの味は強烈だった。
 前立腺を刺激されると男でも感じるって聞いてたけど、嘘じゃなかった。
 振動は弱まりまた強くなり、一瞬たりとも気が抜けない。
 悦楽の波が引き微弱で単調な振動へと戻る。
 怖い。
 暗闇が。
 自分が自分でなくなるのが。
 「伊集院、どこだよ、いるんだろ、聞こえてんだろ!?」
 喉を絞り名前を呼ぶ。
 鉄骨を打ち立てた工場内に殷々と絶叫が反響する。
 「いるんだろ、返事しろよ、無視すんな!-はっ……んく……早く、俺ん中に突っ込んだ、このふざけたおもちゃとれよ!」
 腹筋に力が入らず、呼気が抜け語尾が萎える。
 唇を噛み、喘ぎに変わりそうな怒声を律する。
 暗い。怖い。
 スタンガンのショックとローターから絶え間なく送り込まれる振動、それによる消耗で朦朧としていた間に目隠しをされた。
 奪われた視覚をその他の感覚が補う。聴覚が過敏になる。身を捩るたび動きに合わせじゃらじゃらと鎖が鳴る。触覚。パーカーの背中に堅固な壁の感触。嗅覚。アルコールと煙草の煙が混ざりあった嫌な匂いが噎せ返るようにたちこめる。
 ローターの振動はイきたくてもイけないぎりぎりに保たれている。右足から左足へ、左足から右足へ爪先立ち重心を移し気を紛らわす。熱を持て余した体がちりちり疼きだす。前が窮屈だ。パンパンに張り詰めてる。今すぐズボンのファスナーをおろしてしごきたい、じわじわ水位を増し込み上げてくるものを吐き出したい。
 ジーパンの布地が勃起した前を圧迫、デニム地の抵抗がじれったい。苦しい。今すぐ手を突っ込んでめちゃくちゃにしごきたてたい。
 振動には波がある。
 初体験の玩具が体内で暴れ出し、腰の奥の性感の火種をかきたてる。
 震えが粘膜を伝わって波紋が広がる。
 手錠の鎖が擦れ合い耳障りに鳴る。
 感覚を研ぎ澄まし、意識を延長した不可視の触手を伸ばし人の気配を探る。
 手錠で吊られた俺を肴にボルゾイたちはどんちゃん騒ぎをしている。
 放置プレイってヤツか?……人おちょくんのも大概にしろ。
 「で、こないだの女ときたら傑作でさ。さわんなインポ!って蹴るやひっかくや大暴れしたくせに突っ込まれたら気分出してあんあん喘いでやんの」
 「勝手に濡れるから女は便利」
 「いい画が撮れたぜ。高い値がつく」
 「無視すんなよ、聞こえてんだろ、なあ、なんとか言えよ!―っ、は……もういいだろ、こんなの……早くとれ……抜いて……」 
 酔っ払いの哄笑が爆ぜ、工場内に打ち立てられた鉄骨に跳ね返って殷々と響く。
 アルコールが入ってすっかりご機嫌、俺の訴えなんか聞いちゃいない。
 どこにいるんだ?距離感が掴めねえ。
 「!!ひっ、」
 顔の横で甲高い金属音が炸裂、次いで何かが勢い良く跳ね返る。
 不意打ち。目隠しのせいで全く心の準備ができず心臓が止まった。
 顔の横の壁に投擲された物体は反動で放物線を描き、カンカンと床を跳ね打つ。
 意地悪い爆笑。
 身を竦める俺へと浴びせかけられる悪意、乱れ飛ぶ野次と揶揄と罵声。
 多分、空き缶。
 中の一人がふざけて空き缶を投げ付けた。目隠しのせいで軌道が読めず冷や汗をかいた。
 心臓はまだ鳴り続け首筋の脈が激しく踊る。
 喉仏を動かし、固い唾をむりやり嚥下。拉致犯どもは完璧楽しんでる。
 既に手錠をかまされている。この上目隠しは不要だ、意味がない。
 目隠しはただの悪ふざけ、恐怖をより効果的に高め反抗を封じ込める小細工。 
 視界を奪われてから消耗度合いは著しい。
 暗闇は精神的に来る。
 現に今、俺は顔の横にぶつかった物がなにかもわからず、小便漏らさんばかりにびびりまくってる。
 「さっきまでの威勢はどうした、みっともねえ悲鳴なんかあげちゃって」
 ボルゾイが立ち上がってこっちにくる。アルコール臭が鼻を突く。
 「……抜け……はやく………」
 「何を?」
 「中に入ってるもん……奥まで突っ込んだ……」
 「何を?」
 「ローターだよ、あの気色悪ィおもちゃだよ、とぼけんな!」
 「コントローラーはポケットに入ってる。人の手借りず自分でとめたらどうだ?」
 ローターと余裕を持たせたコードで繋がったリモコンはパーカーのポケットに入っている。
 距離にして僅か数センチ、できるものならとっくにスイッチを切ってる。
 「わかって言ってんのかよ……このかっこで、どうやって切れっていうんだ」
 実際何度も試した、諦め悪く挑戦した、その度失笑を買った。
 自力で手錠を切ろうと身を捩り肩を揺すりめちゃくちゃに暴れたが体力を無駄に消耗しただけ、一向に成果は上がらない。土台、鉄製の拘束具を自力で切ろうという試みからして無茶だったのだ。
 ポケットはすぐそこだ。わかってる、わかってるから諦めきれない。
 手錠さえ切れれば、輪っかさえ抜ければー……ポケットからぶらさがる卑猥なピンクのコードが恨めしい。
 「ホントは楽しんでるんだろ。とめてほしくないんだろ。ぐちゃぐちゃのどろどろにしてほしいんだろ」
 「ローターで処女ケツ犯される気分はどうだ?」
 「前立腺中からひっきりなしに揺すられて、口からヨダレたらすほど気持ちいいってか」
 「前もパツンパツンじゃねーか」
 「ずっと突っ込まれたまんまだもんなあ。辛いだろ、イきたくてもイけなくて」
 「二時間?三時間?よく保った方だよ」
 頭の芯がふやけきってまともにものを考えられない。 
 前屈みに突っ伏し、唇を噛んで耐える。
 汗で濡れそぼった前髪を誰かが摘み、悪戯っぽく囁く。
 「質疑応答タイムといくか」
 ボルゾイ。前髪から離れた手がポケットにもぐりこみコントローラーを掴み出す。
 やっと切ってくれるのか。
 俺の思惑に反し、ローターは不気味な振動を続けたまま。脳腫瘍の如く嫌な予感がふくらむ。
 「秋山。お前、麻生とデキてるんだろ」 
 ボルゾイの声がすぐ耳元でする。
 「………まだそんな……」
 俺を貶める冗談か。こんな時だってのに、笑っちまう。
 憔悴しきった半笑いを浮かべれば、摘みを調節する音に次いで衝撃が来る。
 「―---―ー!!ぁぐ、」
 振動がいきなり強まる。ボルゾイが摘みを一気に最強に跳ね上げたのだ。
 俺はバカだった、スイッチを切ってくれるわけじゃなかった、都合よく勘違いして……下腹がジンと熱を帯びる。ローターが暴れまわる。肉襞に阻まれ低くこもった電動音が漏れる。
 「余計なことは言うな。質問にだけ答えろ」
 カチカチと摘みが回り振動が一定に戻る。
 完全に止まったわけじゃない、腹の奥に埋め込まれたプラスチックの卵は単調な振動を続けてる。
 とりあえず口を利く余裕はできた。へたを言えばまた強くされる。
 尋問の形をとった陰湿な拷問。ボルゾイが底意地悪く含み笑い一方的な質問を再開する。
 「麻生と仲いいよな、お前。麻生麻生って名前呼んで、どこでも付き纏って目ざわりだった。ちぎれんばかりにしっぽふって、そんなに麻生が好きか。どこがいいんだよ、あんなお固いクソ眼鏡」
 「麻生を悪くいうな……」
 摘みが回る。カチカチカチ。振動が強く激しくなり、汗が伝う喉仰け反らせ喘ぐ。
 「――んんッ、あく、はっ、やめ」
 前立腺に強烈な刺激が送りこまれ、手錠に繋がれた体が不規則に跳ねる。
 「さすがおちこぼれ、学習能力ってもんがないな。俺の質問にだけ答えろ。麻生とはデキてんのか、もうヤったのか、済みか?」
 「……は、はは……いかれてんじゃねえの。ねえよ、ありえねえ、アイツは友達だ」
 「本当か。にしちゃあ随分仲良しだけど。行きも帰りも麻生と一緒、こちとらいじめる暇がありゃしねえ。どこがいいんだよ、あんなヤツ」
 「お前よりよっぽど……物知りだし、本読んでるし」
 いいヤツだし。
 「………助けに来てくれた」
 「正義の味方の麻生クンか。助けてもらった恩感じてるのか」
 余力を絞って弱弱しく首を振る。
 「おこぼれ目当てのとりまきしかいねえお前にはわかんねえだろうけど」
 振動がまた―駄目だ、憎まれ口を噤め―わかってる、畜生、頭じゃちゃんとわかってるのに、しおらしく従順にボルゾイの気に入るように受け答えしろ―「あっ、ん、ッくー」―湿った闇が視界を塞ぐ、汗を吸ってどす黒く変色した目隠しが顔に貼り付く「あっ、ああっ、あ!」抑えろ抑えろと念じるほど快感が込み上げてくる。
 「一年のときから目えつけてたんだ」
 耳朶に生温かい吐息が絡む。
 「俺が先に目えつけてたんだ。入試の順位ぬかれた?もちろんそれもある、そりゃそうさ、お前みたいなまぐれ当たりの貧乏人に抜かれちゃ俺のプライドがぎたぎただ。小学校の頃から塾入ってたのに、塾もろくすっぽ行ってねえ母子家庭の貧乏人に見下されるなんて理不尽だろ」
 「見下してなんかねえ」
 「一年の時から目障りだったんだ。クラスは違ったけど、名前とツラはちゃんと覚えてた。お前と違って頭の出来具合がいいからな。二年で同じクラスになれた時は最ッ高に嬉しかったぜ、毎日心置きなくお前をいじめることができるって」
 執念深いを通り越し異常だ。この偏執狂め。
 「気付かなかった……ずっとストーキングしてたのか……」
 「お前が鈍感なだけだ。廊下ですれ違うたびそのお気楽な間抜け面をぶん殴りたくてしょうがなかった、犬みたいに茶色っぽい髪を毟りたかった、縛って剥いてめちゃくちゃにしてやりたかった」
 「長年の夢が叶ってよかったな」
 「俺が先に目え付けてたのに横取りしやがって……裏から手えまわして、学校追い出して……畜生、思い通りにさせてたまるか……仕返ししてやる……目に物見せてやる……コイツは俺のもんだってわからせてやる……」
 「何言ってんだ?」
 すっかり飼い主気取り。
 いや、その前に、裏から手を回したって?
 濡れ衣だ。俺は何もしてない、さっぱり心当たりがない。ボルゾイの被害妄想だ。
 元同級生に対し本能的な恐怖を感じる。
 コイツ、完全に狂ってる。倫理と常識の境界線を踏み越えてあっち側に行っちまった。
 次の瞬間、ガクンと落下する。
 フックに吊られた鎖が外され、重力の法則に則って前屈みに突っ伏す。
 冷たく固く砂利と埃でざらつくコンクリ床に倒れこむ。
 フックからはおろされたが、両手には相変わらず金属の輪っかが嵌まり、自由に使える状態じゃない。
 「秋山、ここが何かわかるか?」
 「廃工場だろ」
 当たり前の質問をいぶかしみつつ当たり前に返す。
 ボルゾイ含むメンバーは盛大に笑い転げ、床に転がった空き缶を蹴り飛ばし、ピンボールの要領であちこちの壁や鉄柱に弾かせる。
 「違うな、違う、ここは撮影所だよ!」
 「撮影所?」
 そういえば、たしかさっきそんなことを言っていた。
 おぼろげな記憶を反芻する。
 目隠しをされたまま、廃工場の内部の状況を再現する。
 工場内は不特定多数の人間に踏み荒らされた形跡があった。吸殻やポルノ雑誌やシンナーの袋、使用済みコンドームが累々と散乱し荒廃の一途を辿る工場には瘴気が濃く漂っている。
 「じき同じ運命たどるんだ、特別に教えてやる。ここが暴走族の集会場ってのは大ボラだ、不良のたまり場ってのは間違ってねえけど」
 ボルゾイが鼻先にしゃがみこみ、俺の顔を手挟んで強引に持ち上げる。
 「第一、誰がとまってるバイクを見たんだよ。このへんにゃ民家もねえし、夜ともなりゃすっかり人けがなくなる。暴走族がはしゃごうが何しようが人がいなけりゃ目撃しようがねえ、ちがうか」
 「俺たちが広めたんだよ、噂を。暴走族が集会場に使ってるって嘘を流せば、物好きな野次馬だって寄ってこねえだろ」
 「抗争に巻き込まれでもしたらたまんねーし?念には念をな」
 「暴走族の集会場って噂を流して……人を遠ざけて……さあ、そこで何をしてたでしょう」
 漠然と答えがわかりかけてきた。
 『伊集院には気を付けてください』
 数ヶ月前の聡史のアドバイスを思い出す。俺の身を一途に案じる思い詰めた目も。
 あの時、もっと真剣に聡史の言葉を検討していれば、こんな事にはならなかった。
 「………後輩から聞いた……お前、悪い連中と付き合って、クスリにも一枚噛んでるって」
 「後輩ってあれか、よく一緒にいるガタイのいいヤツか。油性マジックでぐりぐり描いたような太眉の。ハチ公ってかんじの」
 「お前ら、ここで……何をした?」
 この廃工場で。
 暴走族の集会場だとまことしやかな噂を流し、人を遠ざけて。隔離して。
 思い返せば不審な点が多々ある。
 暴走族の集会場という割には落書きが少ない、付近の住民にエンジン音を聞かれていない。
 暴走族の集会場を隠れ蓑にして、廃工場で現実に行われていた事を想像し胸が悪くなる。
 「あのフック、高さといい形といい人を吊るすのにちょうどいいよな」
 「精肉工場の牛か豚みたいに」
 「手錠をかませて吊るして、あとは腹でもどこでも殴り放題」
 「声がもれる心配はない。近くに民家はない。夜ともなりゃひっそり静まり返る、通報される危険もない」
 「生意気な女、口答えする後輩、気に入らない同級生……連れ込んでヤキ入れるにゃ理想的な条件が揃ってる」
 リンチ。レイプ。廃工場は現役の犯罪の現場だった。
 俺が最初じゃない、一人目の犠牲者じゃない。思い返せばボルゾイと懇意のメンバーはやけに手馴れていた、拉致の手順がスマートだった。
 普通スタンガン一発くらったくらいじゃあっさり気絶しない。
 よっぽど慣れてなきゃどこが一番きくかなんて咄嗟に判断できない。
 近くにバンを待たせていた点といい抜け目がない。ボルゾイたちは常習で前科がある。
 漸くわかった。
 廃工場の空気が澱んでるのは不衛生な塵や埃のせいだけじゃない、ボルゾイ達に拉致監禁輪姦された被害者の怨嗟の声が染み付き負の磁場を形成してるのだ。
 待てよ、ボルゾイはさっきなんて言った?
 『生意気な女、口答えする後輩、気に入らない同級生』
 『実は、俺の友達も』
 言いかけてやめた聡史、気まずげに俯く顔。
 「お前まさかうちの一年にも」
 「ああそうだ、そういえばいたなあ、俺が飼ってやってる一年が。ひょっとして知り合い?」
 聡史は友達から相談を受けてたんじゃないか。
 どの程度明かされたかはわからないが、友人の話で伊集院の本性を知って、呑気な俺に警戒を促したんじゃないか。
 「……最低の底も抜けた」
 吐き気がする。とまらない。早くここを出たい。
 夏休み最初の夜、麻生とふたり廃工場で過ごした思い出が土足で踏みにじられる。
 あの廃工場で、ひょっとしたら前日、おぞましい行為が行われていたのかもしれない。泣いた人がいたかもしれない。
 俺が腰掛けた鉄骨にボルゾイも腰掛け、泣き叫び許しを乞う被害者を、例のにやにや笑いで眺めてたのかもしれない。
 麻生と過ごした夏の夜の思い出が、真相を知らされた今は、嫌悪と怒りしか生まない。 
 体と一緒に思い出を冒涜された。
 「ただレイプするだけじゃツマンナイからさ、記念にビデオを撮って」
 「カメラ持ち込んでAV生撮り」
 「女がマワされるとことか、ズボンひん剥かれたガキが這って逃げようとするとことか、作り物にはねーリアルな迫力と手動のアングルが大好評」 
 耳を塞ぎたい衝動に駆られる。
 もうこれ以上変態どもの寝言を聞きたくない、犯罪者の戯言に付き合いたくない。
 ボルゾイ達は気に入らないヤツを男も女も片っ端からこの廃工場に連れ込んで輪姦してその一部始終をビデオに撮って脅していた、俺もそうなるのか、こんな腐ったヤツらのドレイにされるのか。
 冗談じゃない、嫌だ、帰りたい、助けてくれ!
 「ビデオがあるから被害届を出せない……警察にチクったらビデオが出回るって脅されて……被害者を口封じ、か。ゲスだ」
 頭の上に、土下座を強制するように手が置かれる。
 「お前もそうなる」
 愉悦を含んだ声音で予告するボルゾイ。
 そうだ、俺に全部バラしたってことはただで帰すつもりがないのだ。
 こんだけ人員を揃えたのは?無理矢理ぶちこまず、ローター突っ込んで宙吊りなんて回りくどい手を使ったのは?……時間稼ぎ。撮影機材が持ち込まれるまでの。長く遊ぶなら断然ローションを使ったほうがいい、ケツが裂けて血に染まったらカメラを回せない。
 それに。
 ただ痛がり泣き叫ぶ様を撮るより、不本意にも感じ乱れまくる様を撮影したほうが被害者のダメージがでかい。お前だって感じてたじゃねえか、まんざらでもなかったろ、ビデオを家族や警察が見たらどう思うか……陳腐な脅迫の文句がすらすら想像できる。
 「……表じゃいじめっ子で裏じゃレイプ常習犯……腐りきってやがる……どうりで」
 機材が到着するまでの暇潰しか、ボルゾイが悠長に俺の頭をなでまわす。
 駄犬を手懐けるようなしぐさ。
 「なあ秋山、教えてくれよ。ローター奥まで突っ込まれた気分はどうだ」
 「便秘してるみてえ」
 「色気ねえな。萎えさせようって魂胆?」
 ボルゾイが鼻を鳴らす。汗でぬれそぼった髪にくしゃりと指が絡む。
 這い蹲った床から零度の絶望が染みていく。
 床に付いた腕に膝に砂利が擦れ合う。
 崩壊寸前の精神の均衡をとろうと虚勢を振り絞って軽口を叩く。
 「今度はこっちが質問。前に俺のジャージなくなったことあったけど、あれ、お前?俺のジャージ盗んで、オナニーに耽ってたの」
 「よくわかったな」
 …………聞くんじゃなかった。
 「汗臭いジャージの匂いたっぷり嗅ぎながら、俺の下でよがるお前想像して耽ったオナニーは最高だった。わかるか?今もびんびんに勃ってる。ローター突っ込まれて手も足も出ず、汗だくでのたうち回るしかねえお前のかっこ、たまんないね」
 瞬時に理性が蒸発、手錠で括られた両腕を振り上げる。  
 両手を束ね殴りかかるも足首に抵抗を感じ、前のめりに突っ伏す。
 殆ど受身もとれず床に激突、パーカーに包まれた肘を擦り剥く。足払いをかけられた。
 「まだ逆らうのか。退屈しないね」
 「コナン・ドイルも知らないヤツとは話したくねえ」
 「元気有り余ってるんならちょうどよかった」
 躁鬱の気の激しい声の調子に不安が過ぎる。
 「!?なっ、」
 突然、腕と足を掴まれ固定される。
 四肢を磔にされた顔面に荒い鼻息がかかる。
 パーカーの裾が一気に捲り上げられ薄く貧弱な胸板が外気に晒される。
 組み敷かれた四肢に握力が加わり、骨が軋む激痛に顔が歪む。
 「痣消えちまったな」
 下腹にねちっこい視線を感じる。
 俺の裸をすみずみまで視姦し、自分がつけた痣がきれいに消えてるのを確かめ、残念そうに呟く。
 恥辱で体が熱くなる。
 腰の奥でジリジリ性感が高まりゆく。ローターの波が、来る。
 「いっ……放せよ、おい、手錠だけで十分だろ!?もうさんざん遊んだろ、家帰せよ、頼むから!」
 「黙ってろよ、マザコン。うち帰せうち帰せうるせえよ」
 腰に重石がのっかる。ボルゾイが俺に跨る。
 脇腹にもぐりこんだ指がスタンガンの火傷をなぞり、新鮮な痛みが走る。
 ボルゾイを振り落とそうと死に物狂いで暴れる、手足を押さえ込む連中ごと弾き飛ばそうと必死に―
 「―--------------------------------------ぁああああああ!!」
 また―――もう嫌だ―――頭が真っ白になる。
 ローターを一気に最強にされ前立腺を律動的に弾かれる。
 狂ったような震えが粘膜に伝わって腰全体を甘く蕩かす。
 「はははははははははは、生まれてたの小鹿みてーにぶるぶる震えてやんの!」
 「手の鳴る方へバンビちゃん!」
 ローターに翻弄され抵抗がゆるんだ隙に乗じ、ボルゾイが手を上へ上へと移動させる。
 「変、なとこ、さわんなっ……やめ……も、いい……」
 嗚咽の詰まった鼻声で拒否、懇願。
 しゃくりあげる俺をよそに、ローションで濡れた手が胸板を弄繰り回す。
 鋭い痛みに爪先が跳ねる。意地悪い手が胸の突起を抓る。
 「男でも乳首さわられると感じるだろ」
 性格そのもののねちっこい愛撫。軽く爪を立てひっかき揉み潰し、絶え間なく刺激する。
 「ちょっと尖ってきた。秋山ァ、お前の乳首キレイなピンク色だな。下と一緒だ」
 「男に乳首とか……恥ずかしく、ねえのかよ、言動……」
 「いいね、もっと罵ってくれよ。お前らもいじってやれよ。コイツ淫乱だから、一人じゃ満足できないんだとさ」
 指で摘み突起をこね回す。二本、三本と手が増えていく。
 俺を押さえ付けた男たちが―手を伸ばしてーあちこち好き放題にいじくり始める。
 「いっ……ぃヤだ、気持ち悪ぃ、マトモじゃねえ……こんな事して何が楽しいんだよッ、わけわかんねー、力でむりやり押さえ付けて暴力とビデオで脅して従わせて、こんな……今までずっとこんな悪趣味続けてきたのかよ、おかしいんじゃねーかお前ら、錆びる前に早くネジ拾ってユルい頭に刺せよ、警察にバレたらただじゃすまねーぞ、全員年少送りだ!!」
 「その為の口封じだよ」
 「警察にチクったら自分のレイプ現場がネットと地元に流れる。自分の人生台無しにしてまで、俺らを売るバカがいるか?」
 「お前もドレイの仲間入りだよ、秋山。ずっと待ってたんだこの日を、一年前からずっと……お前をめちゃくちゃに犯したかった」
 誰だ、誰がしゃべってるんだ?―わからない、声が混じり合ってー眩暈がー吐き気がーかきわけてもかきわけても暗闇ー闇のむこうに闇がー
 出口は?
 叫びすぎて喉を痛めた。手錠ががちゃがちゃ性急にぶつかりあう。背中に固い床が当たり砂利が擦れる。
 誰か、助けてくれ。
 お袋ー聡史ー麻生ー思考が拡散する。精神が崩壊する。
 暗い、息が詰まる、底なしの闇に溺れる。
 体の奥に異物感ー固いしこりー不気味に動き続けるー
 「!あああああっ、ひ」
 「聞いたか、『ああああっ、ひ』だってよ!ジーパン越しにちょっと触っただけで爆ぜちまった!」
 ボルゾイが高笑いで勝ち誇り仲間が付和雷同で追従。
 ジーパンの股間をねっとりまさぐられるや、限界まで高まっていたものがあっけなく爆ぜた。 
 目隠しの布が湿る。涙と汗を吸ってべっとり密着する。
 濡れた股間が気持ち悪い、湿った下着が気持ち悪い。
 絶頂に達したのにローターは構わず動き続けてる。射精一回で終わりじゃない。
 機械的な振動に中から揺すられ、萎えた前が次第にもたげはじめる。
 「イッたあとに入れっぱなしはキツイだろ」
 「……抜いてくれ……頼む、なんでもする……ッ、も……腹が、変……ずっと熱くて……中、動いて……とまってくんね……」
 「電池切れまで放っとけよ」
 「死んじまう」
 「じゃあ死ね」
 イッたのに、言ったのに、まだ許してくれないのか。
 なんでこんな目に?射精の快感が霧散しどす黒い絶望と憎悪に取って代わる。 
 腹の奥でドロリと熱塊が蠢く。
 ローターが振動を続ける。
 前立腺への絶え間ない刺激ー粘膜が蕩けてー背骨がぐにゃぐにゃになる。
 麻生、麻生、麻生。助けてくれ。
 逆流した涙と鼻水にむせながら心の中でくりかえし名前を呼び、縋る。情けねえ、また苦しい時の麻生頼みか。何回迷惑かけりゃ気がすむんだよ、たまには一人で頑張れよ。頑張る?十分頑張った、我慢した、許してくれ。どうすれば気が済む?どうすればいい?俺が泣いて謝れば、命乞いすれば、それで気がすむのか?……まさか、どっちにしたって運命は決まりきってる。
 ボルゾイと不快な仲間たちは、必ず俺を犯す。
 その為にわざわざスタンガンとバンを用意して廃工場に拉致監禁した、黒幕と連絡とった。俺をマワして……一部始終をビデオに撮って……男に、それも元同級生にレイプされたなんて口が裂けても言えねえ……
 「!?痛っ、」 
 ボルゾイの指に絞られ尖りきった突起に、鋭利な切っ先が触れる。
 「なんだかわかるか?」
 冷たい切っ先が突起をつつく。
 針?……充血した突起に尖った先端があたるたび、冷気を伴う疼痛が走り、身が竦む。
 「安全ピン。ピアッシング」
 絶句。全身から血の気が引く。それを、刺すのか?俺に…………
 「俺の物だって印を付けてやる」
 愉悦と狂気を含む、本気の声音で宣言する。
 「ふざけてるんだろ、ふざけてるって言えよ、なあ……だって、そんなもん、痛いに決まってる。針だろ?人に刺すもんじゃねえ」
 声が震える。語尾が聞き取れない。
 「針って言えば……でもそうだ、針を使ったトリックがあった……針の先にニコチンぬって……針でちくんとやっただけで即死に至る猛毒だから、ニコチンは……」
 「何もぬってないから安心しろ。血は出るけどな」
 「大丈夫、痛みは一瞬」
 「伊集院は上手いから」
 「チンコじゃなくてよかったじゃんか」
 男たちが口々にほざくが慰めにも気休めにもなりゃしねえ。
 喉から咆哮が迸る。意味不明な奇声を発し、足を蹴り上げ蹴りだし、不自由な体を捩ってめちゃくちゃに暴れ出す。
 「さわんな、殺す、俺に指一本でも触ったらぶっ殺す!本気だから、部長をなめんな、俺の頭ン中には古今東西百通りの殺人トリックと完全犯罪が詰まってる、お前たち殺すのなんざ簡単だ、バイク乗るときは気を付けろ夜道にピアノ線張って首ぶった切ってやーふぐ、」
 分厚い手が口を塞ぐ。抗議の声が途端くぐもる。
 「ふー……ふぐ、ん、ふ……!」
 ローターの振動で下肢が力を失う。息が吸えない苦しさに顔が充血する。
 「黙ってろ。舌噛むぞ。それとも舌ピアスがいいか?」
 ボルゾイの嘲笑。男たちの冷笑。目隠し……視界が暗い……手探り……できない。両手に固く冷たい手錠、背中に固く冷たいコンクリ床。
 突起に針先をあてがう。針先に圧力がかかる。
 「!痛っあ」
 針先が乳首をずれ、皮膚の薄皮にもぐる。
 針が突き通った皮膚がピンと張り詰め、毛穴から大量の脂汗が噴き出す
 「ごめんごめん片手じゃ狙いが付けづらくてさあ、恨むんなら片腕叩き折った彼氏を恨め」
 「彼氏なんかじゃねえ……麻生はダチで……―ッ!?」
 鋭利な切っ先がゆっくりと緩慢に、苦痛を煽り長引かせるように、乳首を刺し貫いていく。
 「―-―ッ、あ、ぃ」
 激痛で視界が真っ赤に染まる。
 ねちっこくこね回され一際敏感に尖りきった乳首に、金属の針が通る。
 涙腺が弛緩し、布の内側で剥いた目から塩辛い水が滴る。
 目隠しが吸いきれなかった分がこめかみを伝い、耳の穴に流れこむ。
 顔中這い回る熱く柔らかな軟体動物……正体は、舌。
 ボルゾイが嬉々として俺の顔中なめ回している。
 俺の顔を滂沱とぬらす汗を、涙を、それらが混じり合った体液を、本当の犬みたいに悦び勇んでなめとってる。
 一気に貫いてくれりゃらくなのに、途中でわざと手を休め反応をうかがう。
 「うわイタそ、血ィ出てる」
 「真っ赤に充血してる……なあ、ピアッシングってされるほうは気持ちいいの、どうなの?」
 「マゾっ気あるヤツなら気持ちいいんじゃねーの?よく知んねーけど。体験者に聞いてみろよ」
 「だってさ。なあそこのお前、実際どうなワケ。乳首に安全ピンさされて、まんざらでもねー顔してるけど」
 「ローターのせいじゃね」
 前から後ろから責め立てられ意識が遠ざかる。
 ローターを、針を抜いてくれ。腹が苦しい。胸が痛い。
 体が被虐の熱を帯び腰が淫蕩に重くなる……
 「ほら、可愛くなった」
 針が反対側に抜け、安全ピンがとまる。
 右の乳首がジクジク疼く。煙草の火でも押し付けられたみたいだ。
 「―っは、はあ、ふっ………!?」
 ボルゾイが安全ピンを指で弾き、戯れに引っ張る。
 乳首がちぎれそうな激痛に恥もプライドもかなぐり捨て泣き喚く。
 「乳首刺されると痛いだろ。痛みがジクジクずっと持続するんだ。首輪代わりに嵌めとけよ、ずっと」
 長い舌が耳の穴をほじくり、涙を啜る。
 頭がぼんやりする。思考に霞がかかって、正常に物が判断できない。自分が今どうしてここにいるのか、時系列の整合性に矛盾を来たす。
 ここに来る前、なにがあったっけ。誰と会ったっけ。大事な話、した気がするんだけど。夕飯。もう始まってるかな。終わっちまったか。土曜日。じゃあ、明日は日曜日か。学校はない。この馬鹿げた遊びはー……朝まで……ひょっとしたら、明日いっぱい……
 「麻生と俺、どっちがいい」
 頭にかかる霞がふいに晴れ、ボルゾイの声が明瞭にとびこんでくる。
 「俺が友達の方がいいだろ?ずっと楽しませてやれる。麻生の事だ、保健の教科書で学んだ退屈なセックスするんだろうさ。優等生は正常位しか知らねーからな。頭でっかちで応用がきかないんだ。その点俺なら色々使って最ッ高によくさせてやる。なあ秋山、俺の方がいいだろ。俺の方がずっとでけーし、」
 「お前……」
 目隠しに遮られていてもボルゾイの狂喜が伝わる。
 俺は続ける。
 男たちに手足を仰向けに押さえ込まれたまま、目隠し越しにボルゾイを睨み、怒り滾らせ犬歯を剥く。
 「お前となんか、絶ッ対、頼まれたって、友達になってやんねえ」
 空気が凍った。
 「そうかよ。そんなに麻生がいいのか。まだわかってないのか、お前。じゃあ教えてやる」
 ジーパンに手がかかる。蹴り上げようとした膝をたちどころに押さえ込まれ、下着ごとずりおろされる。ローターの電動音がはっきり聞こえる。
 「あああああああああっあっ、あ」
 ローターがずるりと抜ける。
 しっぽのように尻の窄まりからたれたコードを掴み、手加減せずローターを引っ張り出したボルゾイが口笛を吹く。
 「どろどろのぐちゃぐちゃだな。ぱっくり口が開いてる」
 ローターで慣らされた尻に固く猛りたった肉塊があたる。
 俺の膝を割り開き腰を抱え上げ、ローターを吐き出した余韻でひく付く窄まりに自分をあてがい、興奮に掠れた声でボルゾイが囁く。
 「最初は俺が、そのあとは順番に。めちゃくちゃに犯してやる。一学期の痣の比じゃねえ、二度と麻生の前に出れねえ体にしてやる」
 ローターで骨抜きにされた。体に力が入らない。ボルゾイの声がー近く遠くー笑い声がー……
 剥き出しの背中に砂利が擦れる。剥き出しのケツに固い物があたる。体外に排出されたローターは凶暴に唸り続けている。
 視界を覆う湿った闇、鼻先を過ぎるこげ臭い匂い……

 「え?」
 
 焦げ臭い匂い?
 俺に遅れ異状に気付き、ボルゾイ達の様子が豹変する。
 馬鹿みたいな高笑いが宙ぶらりんに途切れ、にわかに殺気だつ。
 「おい、変な匂いしねーか。なんかこげてるみてーな……」
 「燃えてる?外が?」
 「誰か見てこいよ」
 「待て、あれ……窓が……!!」
 何が起きてるんだ?わからない。俺の存在は念頭から消し飛んだか、男たちが慌しく駆け回る気配がする。入り乱れる靴音、悲鳴と罵声、シャッターが上がる音……
 腹の上でボルゾイが息を呑む。
 広大な暗闇に靴音が響く。たった今、シャッターを上げて工場内に踏み込んだ人物が、悠長な歩幅でこっちにやってくる。
 異臭が一層強くなる。火花が爆ぜる音がする。何かが燃えている……間違いない……工場の壁をなめる炎が鮮烈に瞼裏に浮かぶ。
 闇を薙ぎ払う赤い炎の幻影。
 さんざん暴れたせいか、頭の後ろで結ばれた目隠しがゆるみ、体を起こしたはずみに下へとずりおちる。
 「お前……ッ、どうしてここに!?」
 「教えてもらったんだよ、『あの人』に」
 酷く落ち着き払った声。
 俺が聞きたくてたまらなかった声の主が、半開きのシャッターとそこから覗く赤い炎を背に、殺風景な工場内に立つ。
 一度あることは三度ある。
 麻生譲は平然と俺の前に立ち、眼鏡のレンズにボルゾイの戦慄の表情を映し、裁判官と処刑執行人を兼ね判決をくだす。
 「そんなに燃えたいならいいさ、燃えりゃいい」 
 火刑法廷の開幕。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010318122446 | 編集

 「お前っ、どうしてここに!?」
 「教えてもらったんだよ、あの人に」
 床一面に散乱する割れた窓ガラスの破片と吸殻、スナック菓子とシンナーの袋、空き缶。
 荒廃の様相を呈す殺風景な工場内に風に乗って火の粉が吹きこむ。
 「あの人……」
 ヒステリックに髪掻き毟るボルゾイの目に理解の光が点る。
 「そうか、そういうことか、はははははっなあんだわかった!!」
 枝毛だらけの髪を振り乱し発狂したように笑い出すボルゾイにぎょっとする。  
 「あの人が言ってたお気に入りの二年って、あれお前か!びっくりしたぜ、まさか優等生と評判のお固い麻生クンが専属契約ドレイとは衝撃だ、そうかそうか、ならここ知ってても納得!フェラ一回と引き換えに教えてもらったのか、ベッドで教えてもらったのか、あの人も口が軽いぜ、大事な大事な俺たちの秘密のアジトぽろっとこぼしちまって……」
 暴発、または起爆。
 「ああッ、畜生ふざけやがって、おかげで台無しだ、漸くコイツを犯れるとおもったのに待った甲斐なしときた!!この前の美術室といい懲りずにいいところを邪魔しやがって、そんなにお熱か、他の男に犯らせたくないか、恐れ入ったね!!全くよく出来たストーカーだよ秋山のピンチとなりゃ目の色かえて飛んでくるヒーロー見参見参ってかくそったれが一人でカッコつけやがって、秋山も秋山だ、俺がこんなによくしてやってんのに麻生麻生馬鹿のひとつ覚えみてえに……」
 窓から火の粉を伴う熱風がふきこみ髪をひっかきまわす。
 麻生は平然と風を浴びて立ち、蔑みきった目であたりを威圧し、呟く。
 「燃えたいなら燃えりゃいいさ」
 投げやりな口調、淡白な表情、全てに無関心な態度。
 俺が知る麻生そのもの、いっそ場違いなほど沈着な態度。
 麻生の服装。裾が膝まである、フェイクファー付きの黒いコート。
 シャツにジーパンのカジュアルな私服を見慣れているとひどくスタイリッシュで斬新に映る。
 体躯に沿ったスリムなコートは似合っているが、黒一色の不吉なコーディネートは死刑執行人の正装さながら断罪の炎に映える。
 火刑法廷の開幕。
 裁判官と処刑執行人を兼ねるのは麻生、証人は俺、被告はボルゾイとその他大勢。
 傍聴席なんて上等な物はない、ここは即席の法廷だ。
 裁判官も処刑執行人も証人も被告も平等に立ち見だ。
 「………あ………」
 頭のてっぺんから爪先まで冷徹な視線にさらされ裸足で駆け出した理性が戻ってくる。
 自分がどんなかっこをしてるか思い出し、恥辱で顔が燃える。
 そのまま俯けば剥き出しの腹と股間がいやでも目に入り、咄嗟に横を向く。
 パーカーの裾をはだけ、白濁が散った下腹から貧弱に薄い胸板まで大胆に露出し、ほとんど半裸に近い姿でボルゾイに抱かれてる。
 「見んな!」
 手錠を嵌められた両手で下腹を覆うも、ボルゾイがそれを払う。
 「見ろよ、麻生。お前の可愛い秋山のエロいかっこ。興奮しね?」
 ねちっこい揶揄が耳朶をねぶる。
 剥き出しの背中にボルゾイが密着、長い舌が耳をなぞっていく。
 俺の耳を唾液でべとべとにし穴をほじくり、片手を前に回して胸板をまさぐる。
 「さわるんじゃねー変態、この露出狂、茶番はおしまいだ、とっとと手錠はず……ひっ!?」
 乳首がちぎれる激痛に体を折って悶絶、声にならない悲鳴が嗚咽と混じって喉で沸騰する。
 ボルゾイが俺の乳首を弾き、安全ピンを摘み、缶のプルタブでも引くみたいに引っ張ったのだ。
 針で刺し貫かれた乳首にじわり血が滲む。
 反応を面白がり、強弱を付け安全ピンを弾き、引っ張る。そのたび悲鳴を上げ身悶える。
 「見ろよ、コイツの乳首下とおそろいでキレイなピンク色なんだ。そそるだろ?血が出て……赤く……尖りきってる。貞操帯代わりの粋なアクセサリーだ。ピアッシングだよ、ピアッシング。俺という飼い主がありながら他の男にもケツ振る悪い子にはおしおきしなきゃな」 
 「だれが、飼い主、だよ……犬扱いすんじゃねえ……ボルゾイのくせに」
 痛すぎて舌が縺れる。目尻に涙が滲む。
 安全ピンが肉を抉る。
 肉の中で針が動き、鋭い痛みを生む。
 ボルゾイが唾で湿した指で乳首をコリコリ揉み転がす。
 安全ピンの上からー痛いー脳裏で赤い閃光が膨らみ炸裂、口から悲鳴が迸るー痛覚が焼き切れるー
 痛いだけじゃない、理性も飛ぶ激痛の中に甘い刺激が隠れている。
 ボルゾイが俺の胸をまさぐり、敏感な突起をねちっこく摘んで揉んでをくりかえすごと、微電流に似た性感が覚醒する。
 「はあっ、は、はっ……痛ッ、いい加減にしろ……調子にのってると、後で……」
 「後で?どうしてくれるのかな?ほら顔上げろ、コリコリ乳首もまれて感じまくってるエロい顔おともだちの麻生クンに見せてやれ」
 無理矢理顎を掴み上げさせられる。
 前屈みの姿勢から正面の麻生を仰ぐ。
 やめろ、見るな、頼むから見ないでくれ。どうしちまったんだ俺は、体が熱を持て余して疼く、ボルゾイの手なんかでー……どうして………麻生が見てるのに……
 無気力に四肢を投げ出す。
 ボルゾイが優越感に酔いしれ腕を振りぬく。
 「なんだかわかるか」
 放物線を描き麻生の足元に落下したのは……さっきまで、俺の体内で暴れ続けていたローター。
 今だスイッチが入ったまま、コンクリートの床で低い電動音を発し続けている。
 「さっきまで秋山のケツん中に入ってた。ローションでぬるぬるしてんだろ。さわってみろ、まだあったかいぜ。ぐちゃぐちゃのどろどろだ。すごかったんだぜ、コイツ。入れっぱなし、イキっぱなし。目隠しされて……手錠で吊られて……腰揺すって……さっきまでうるさくて大変だった。頼むこれとっておかしくなる腹苦しい、あっ、ひあっ、おかしくなっちまうっ、頭が変になる、ごめん謝るだから手錠はずしてこれとって伊集院ーって、顔中涙と汗と鼻水でべとべとにして泣き叫んでさあ。ケツの穴もがばがばにゆるみきって……」
 太股に固く熱いものが当たる。
 腰を浮かし身をよじりケツを狙うそれを遠ざけるも、ボルゾイは俺の膝を器用にこじ開け、胡坐をかいた自分の上に座らせようとする。
 「ローターは気に入ったか?気に入ったんならまた持ってきてやる、遠慮すんな、家にいっぱいあるんだ」
 安全ピンに指が絡む。引っ張る。悶絶。
 前屈みに突っ伏す、手錠で括られた手で床を掻く、掻き毟る、塩辛い涙を噛み締める。
 嫌だ、こんな所、こんなかっこ悪くて恥ずかしいところ麻生に見られたくない幻滅かっこ悪い、恥ずかしい、ボルゾイが俺の胸をまさぐって乳首を抓って、嫌だ「あっ」俺の声?ー「んっ、く」ーこんなー
 「お前は」
 麻生が静かに口を開く。
 コートのポケットに片手を入れたまま、炎の陰影が舐める床に立ち尽くし、レンズの奥から冷えきった目を注ぐ。
 「殺しときゃよかったな」
 ゴミを捨て忘れたみたいな口調だった。
 麻生がローターを蹴り上げる。
 無造作に蹴り上げたローターは放物線を描きボルゾイの眉間を直撃、ボルゾイが「ぎゃあっ」と絶叫、割れた額から血が滴る。

 今だ。

 拘束がゆるんだ隙に必死に身を捩りボルゾイの腕の中から抜け出し、膝と肘で這って逃れる。
 ボルゾイの額はぱっくり裂け、傷口から鼻梁に沿って血が迸っていた。
 眉間から顎先まで二等分する血の筋が、憤怒と苦痛に歪む醜悪な形相をより凄惨に染め上げる。
 「………ろしてやる……」
 犬歯を剥いて唸る。
 「あの人のお気に入りだろうが知るか、殺してやるよ麻生、俺の邪魔ばっかしやがって……前から気に食わなかったんだ!!」
 鉄骨を組んだ高い天井と、鉄骨を打ち立てた広大な空間に殷々と絶叫が響く。
 「いいのか勝手に決めて」
 「あの人のお気に入りなんだろ」
 残りのメンバーがおずおずと意見を申し立てるも、ボルゾイは動じない。
 「どのみちここ知られたら口封じしねーと……いや、わかった、そうか。はははっ、そうか、あの人は俺たちに口封じまかせたんだ!」
 「え?」
 「考えてもみろ、いくらお気に入りだからってあっさりアジトを教えるもんか、俺たちがいるって知ってて一人で来させたってことは……好きにしていいってことだ、口封じを兼ねてたっぷり遊んでやれってことだ、ちがうか!?」
 ボルゾイの目が狂気に濡れる。男達が生唾を呑み、嗜虐的に唇をなめ、麻生を取り囲む。
 工場内に殺気が充満する。
 ボルゾイの言葉に触発され、まるで催眠術にかかったように理性を手放した男たちが、包囲の輪の中心にじりじりと麻生を追い詰めていく。
 「麻生!!」
 叫ぶ、自分が置かれた状況も忘れて。
 俺も、俺だって麻生の心配をしてる場合じゃねえ。だけど、目と鼻の先で友達が危険な目に遭ってるのにじっとしてられない。
 発作的に駆け出そうとして、立ち上がった途端に膝が笑い、二・三歩よろめいてけっつまずく。
 足が縺れ、埃を舞い上げ倒れこむ。
 膝が言う事を聞かない。
 腰がだるい。
 手錠されてるせいで歩行のバランスがとりにくい。
 どうして麻生がここに?俺が捕まってるのがわかって?『あの人に教えてもらった』あの人ってだれだ、ボルゾイと共通の知り合いか、俺の拉致を仕組んだ黒幕か『あの人のお気に入り』ボルゾイと麻生はあの人を介して繋がっている……?
 悠長に推理してる場合じゃねえ。
 麻生は無防備にその場に立ってる。武器を持ってる形跡はない。コートの中に隠し持ってるのか?
 あざやかな反撃を期待し息を詰めるも、予想は外れた。
 正面に陣取ったボルゾイが顎をしゃくる。
 唇ピアスの肥満が麻生の後ろに回り羽交い締めにする。
 無防備に身を晒した麻生を悪意の波動が取り囲む。
 ボルゾイが小声で指示し、パンクに場所を譲り、そして……
 「かはっ!!」
 鈍い音、鳩尾に重い衝撃。
 パンク男が、ブーツの固い靴底で蹴りを入れる。
 白目を剥いて咳き込む麻生の前髪を乱暴に掴み顔を上げさせるや、続けざまに二発、往復で頬を張る。
 「麻生!!」
 拳が腹にめりこむ。麻生が呻く。
 脂汗にまみれ苦痛に歪む顔……今度は痩せぎすの男が前に出て、下腹を集中的に殴る。
 鈍い音、連打、殴打……袋叩き。リンチ。暴力の熱狂に沸く男たちが、競うようにして場所を譲り合い、麻生の顔に肩に腹に全身至る所に蹴りとパンチを浴びせる。
 「―っぐ!」
 痩せぎすの男が高く乾いた音たて頬を張り飛ばす。
 勢い余って眼鏡がとび、かしゃんと床で跳ねる。
 「おい、顔はやめとけ。やるなら腹だ。あんま腫れると萎えんだろ」
 「オーケー、わかってるって」
 「三好ぃ、そのへんにしとけよ。吐かれたでもしたら後始末が大変だ、このブーツ結構高いんだぜ」
 「ねえ、鎖骨折ってみない鎖骨。肋骨でもいいよ?きっといい顔するよお」
 唇ピアスの愚鈍そうに間延びした声、痩せぎすの神経質に尖った声、パンク男の低く掠れた声、それらに被さるボルゾイの狂った哄笑……
 麻生が殺されちまう。
 俺を助けにきたばっかりに
 「麻生に手を出すな!」
 ボルゾイが愉快そうに目を眇め、片膝折った麻生の前髪を掴む。
 「ちょうどいい、一緒に犯してやる。お友達がいた方が心強いだろ?」
 おぞましい提案。
 麻生の前髪を毟るように掴み、顔を引き起こし口笛を吹く。
 「眼鏡はずしたとこ初めて見たけどそそるじゃん、しかめた眉間が色っぽいね。なるほど、あの人が夢中になるわけだ」
 朦朧とした麻生のコートを剥ぎ、シャツの胸繰りに手をもぐらせる。
 「ご奉仕してくれよ、優等生」
 「麻生にさわんなゲス野郎、とっとと離れろ、殺すぞ!!」
 渾身の力を振り絞って叫ぶ、変態どもを麻生から引き離そうとあがく。
 俺が抗えば抗うほどボルゾイの笑みは広がり、右手が使えない自分の代わりにパンク男を呼び麻生をいじらせる。
 シャツが捲れ白い裸身が覗く。
 引き締まった腹筋とヘソ、なめらかな胸板。
 指輪を嵌めたゴツい手が腰から上へと、性感の燻りを煽るように移っていく。
 「あ………」
 見るな、見るんじゃない。
 理性が命じるも視線は正面に釘付けで、麻生と密着した男が前戯を施していく様をつぶさに追う。 
 指輪を嵌めたゴツい手がシャツの下にすべりこみ、腰を抱き、背中を支える。
 麻生が押し倒される。
 さっきの俺と同じ体勢、同じ状況。
 痩せぎすと肥満が腕を掴み床に固定、パンク男が腰に跨り、麻生の胸板に根元から舌を這わせる。
 不潔な床に寝転がった麻生は、シャツを捲り上げられ、上半身を外気に晒したあられもない格好のまま退屈げに男を見返す。
 不感症的な無表情が気に障ったか、パンク男がおもむろに腕を振りぬく。
 鈍い音、頬に拳が炸裂。
 指輪を嵌めた手で殴られ唇が切れる。
 「痛っ…………」
 初めて生の反応を示す。
 喉を焼く血の不味さに眉をよせた顔は普段がクールなだけに一層嗜虐をそそる。
 喉が渇いてるのに気付く。
 麻生から目が放せない。切れた唇に滲む血が鮮やかで……苦痛に歪む顔がやけに色っぽくて……
 屈強な男にのられ首筋や胸板を舌でねぶられるうちに、眼鏡がはずれた双眸は淫蕩な熱に濁り、上気した肌が倒錯的な色香を放ち始める。
 炎に冴える闇に朧に浮かぶ裸身、シャツから覗く肌、乱れた黒髪、仰け反る喉、撓る背中、しどけない衣擦れの音、上擦る吐息。
 「こんな事してる場合か?」
 パンク男は耳を貸さず、夢中で麻生の体を貪っている。
 麻生の腹に顔を埋め、唾液を捏ねる音も卑猥に舌を使い、一方でベルトに手をかける。
 眼鏡を見付ける。手を伸ばし、掴む。
 片手で眼鏡をかけなおし、男の耳元で囁く。
 「ほら」
 静寂を切り裂き響き渡るパトカーと消防車のサイレン。
 遠くから徐徐に音量を増し近付いて来るそれに、ボルゾイ達が硬直。
 互いに顔を見合わせ混乱するボルゾイたちに眼鏡の埃を拭き取りながら釘をさす。 
 「現場にいたら放火犯扱いされるぞ」
 「お前……時間稼ぎを!?」
 「伊集院、まずい、早く逃げねーと」
 炎の勢いが激しさを増す。男たちが慌てて退散していく。
 仲間と仰いだ男たちに見捨てられ、最後に残ったボルゾイと麻生が工場のど真ん中で対峙する。
 「秋山に手を出すな」
 「………………っ」
 「この前言ったよな」
 「……………………」
 「契約不履行か」
 「待て、勘違い。単なる冗談、悪ふざけだよ、ははっ、本気にすんなって!たまたま外歩いてたら見覚えある顔に出会って懐かしくなっちゃって、工場寄っておしゃべりしてただけで……なあ秋山、そうだろ、俺たち友達だよな!?」

 友達?
 お前と?

 「反吐が出る」

 だから、そう言った。
 心のままに真実を述べた。

 「消えろ。二度と俺の前に現れるな」
 「秋山」
 「今度現れたら警察に行く。被害届を出す。お前が俺にしたこと洗いざらいぶちまけて檻ン中にぶちこんでやる。そこでカマ掘られる側の気持ちたっぷり味わってみろよ、ゲス野郎。お前にはみっともねー泣きっツラがお似合いだ」
 コイツのせいで、俺がどれだけ。
 どれだけの人が泣いたのか、苦しんだのか。
 腹ん中はまだぐずぐずだ。内蔵が溶け流れたみたいで力が出ない。
 四月同じクラスになってからこっちずっと溜め込んできたボルゾイへの怒り憎しみをかき集め、震える膝を叱咤し、壁に縋るようにして立ち上がる。
 手錠をかまされた両手を膝の間にだらり垂らし、火の粉すさぶ視界にボルゾイを捉え、啖呵を切る。

 「『そして誰もいなくなる』……お前が最後の一人だ。消えろ、負け犬」

 本当は怖かった。
 膝の震えを隠すだけで精一杯だった。
 息が切れて今にもその場にしゃがみこみそうなのを気力だけでもちこたえていた。
 沸騰する怒りが恐怖を上回り、虚勢を貫いた意地が俺を駆り立てる。
 あらん限りの威圧と拒絶をこめボルゾイを睨む。
 視線の熱量だけで殺せるならボルゾイなんて今この瞬間に蒸発していた。
 ボルゾイの顔が歪む。
 俺に対し罵声を張り上げようとして口を噤み、身を翻し猛然と逃げ出す。
 「待てよ」
 ボルゾイが感電したように振り向く。
 麻生が無言で右手を突き出し、命じる。
 「手錠の鍵」
 虚空に突き出された手を無視し足元に鍵を放る。負け犬の最後の意地。
 鍵を投げ捨て逃げていくボルゾイを見送るや緊張の糸が切れ、全身から嘘のように力が抜けていく。
 「………勝った」
 土壇場で逃げなかった。俺にしちゃ上出来だ。
 壁によりかかりへたりこみ、高い天井を仰ぎ、呟く。
 放心状態の俺の方へ、シャツに付着した埃を払いながら麻生がやってくる。
 「立てるか?」
 「……………」
 「顔見て腰抜けたなんていうなよ。二度目だ」
 「二度目だな」
 「?」
 「助けてもらうの」
 一呼吸おき、前もって用意していた台詞をそうと思わせぬ自然さで口に出す。
 「ありがとう、ゆずる」
 「…………言ってる場合か」
 初めて名前を呼んだ。 
 精一杯勇気を振り絞ってそれなりに緊張して呼んだのに反応はつれなかった。
 無言でさしだされた手にすがり立ち上がると同時に麻生の腕を強く掴む。
 腕に指が食い込む痛みに顔をしかめた麻生が、すかさず異変を察しパーカーの裾を捲り上げる。
 「………馬鹿」
 舌打ち。安全ピンに貫かれた乳首に血が滲む。
 パーカーと乳首が擦れる痛み、ピンが生み出す痛みとで上擦る息を辛うじて整える。
 「……あとでとるから……早く逃げねーと警察が」
 「ちょっと痛いけど我慢しろ」
 麻生の手が安全ピンに伸びる。
 「!?っ、」
 突然の事に気が動転、びくりと身が竦む。
 器用そうな長い指が安全ピンを細心の注意力で取り外しにかかる。
 「痛ッて、やめ……こんな事してる場合じゃね、自分でやる……ふあ、」 
 鋭利な針が肉を突き通す痛みに堪えきれず縋り付く。
 「掴んでろ」
 そうする。
 麻生の服の胸を掴み深く深く息を吸い、もれそうな声を懸命に噛み殺す。
 五指の間接が白く強張る。
 尖りきった乳首が痛みの信号を増幅して脳髄に伝え、こみあげる悲鳴を聞かせたくない意地でシャツを噛む。
 「ふっ………ふく、あふ………」
 「ひっつかれちゃやりにくい」
 麻生の胸に涙と汗と鼻水がしみこんでいく。……鼻水はいやだ。
 「お前、ボルゾイより性格悪ぃ……抜くならじらさず一気に抜け……」
 「アイツと比べるな。……できるだけ痛みを少なくしてるんだ」
 「ーんっ、くふ……はっ、早く、こンなの生殺しだって……!」
 シーツのように麻生の胸を掻く。嗚咽の発作に合わせ肩がひくひく上下する。
 巧みな指をじかに感じ、性感の塊となった乳首がずきずき鼓動を打って疼く。
 「あっ、あっ、あっ」
 針が抜けるごと硬直と弛緩を繰り返しまだるっこしく絶頂へと駆け上がっていく。
 スニーカーの靴裏でギブアップを表明しさかんに壁を蹴り付ける。
 スッと冷気が通り、乳首から針が抜けていく。
 「はあっ、はっ、はっ、は……」
 びっしょり汗をかく。苦痛を和らげる脳内麻薬の過剰分泌で恍惚の余韻が長引く。
 指はがちがちに固まったまま、服を手放そうにもなかなか言うことを聞かない。
 「……とれた。行くぞ」
 麻生が俺を引き離し鍵をさしこむ。手錠が外れ床に落下、甲高く澄んだ音をたてる。
 自由になった手首をさすり駆け出しかけくしゃみ一発、先行する麻生がコートを放る。
 「着てろ」
 「いーよ、高そうだし。鼻水つけたら弁償弁償うるせーだろ」
 「そんなにせこくねえ。いいから着ろ、ずっと半裸だったくせに」
 「好きで半裸でいたんじゃねーよ、ひとを露出狂みてえに言うな」
 不毛だ。ここは大人しく従いコートを羽織る。あったけー。
 麻生に腕を引かれ工場の外に出れば、芝生の一隅が勢い良く燃え、割れた窓から炎の舌先が侵入していた。 
 「火をつけたのか?」
 「工場は壁に囲われてる。近くに民家はない。廃工場に友達が拉致監禁されてるって素直に電話したところで証拠がなけりゃ説得力にかける、警察がすぐ来るかもわからない。その点火事なら一発だ」
 放火犯の告白を存外冷静に受け止める。トラウマ物の衝撃的な体験をして心が麻痺してんのかも。
 不意に言葉を途切れさせ、眼鏡のレンズに炎を映し、廃工場を仰ぐ。
 麻生と並び、囂々と炎に呑まれゆく廃工場と煌々と染まる背景の空を見詰める。
 降り注ぐ火の粉を払いもせず夜風に髪を嬲らせ、表情を消した麻生が呟く。
 「こんな場所、燃えちまったほうがいいんだ」
 ボルゾイ達の犯罪現場、浄化の炎に包まれゆく廃工場に背を向け、塀沿いにぐるり回りこみ反対側の塀を乗り越え外へ出る。
 「あ」
 黒い乗用車が一台夜闇に紛れて停まっていた。
 麻生が臆さず歩み寄るのを待ちかね後部ドアが開く。
 「早く乗れ」 
 当然のように促され、わけもわからずお邪魔する。
 俺が乗ったのを確かめ車が出る。
 ミラーの中、急接近するサイレンと逆行して廃工場がどんどん遠ざかっていく。 
 「麻生、この車……」
 「譲さん、秋山くん、ご無事ですか」
 運転席からの渋い声にはっと身を乗り出す。
 「後藤さん!?え、帰ったんじゃねーの!?てか車で来てたの、さっき駅にむかってたからてっきり電車で」
 「駅前の立体駐車場に停めてたんです。コンビニのすぐ近くの。あそこ人通りが多くて乗り入れしにくてて……大した距離じゃありませんし、譲さんが通う学校まで散歩がてら歩いてみようかと」
 ……詐欺じゃん。
 口には出さなくても顔に不満が出たらしくミラーを一瞥した後藤が苦笑い。
 落としたはずみにひびが入ったレンズを擦り、麻生がうっすら憂鬱げにため息を吐く。
 「あの人って……」
 「後藤のおかげだよ」
 俺の質問は宙に浮く。
 機先を制すように言い、座席に深く凭れた麻生が淡々と説明する。
 「話は後藤から聞いた、携帯で。コンビニでお前と別れたあと、言い忘れたことがあって引き返したら姿が見当たらなくて……いくらなんでも早すぎる、妙だって思ったそうだ、コイツは」
 「刑事ドラマ風に言えば現場の状況がいかにも不審でして。近くの路地をひょいと覗き込んだら、携帯が落ちている。失礼を承知で中身をチェックしたら、秋山くん、君のでした。拾い上げると同時にエンジン音、視界の隅で急発進するバン……拉致だと直感しました。だが行き先がわからない。そこで譲さんに連絡したんです」
 「後藤はお前の恩人てわけだ」
 「ちょっと待て、だからなんでお前が俺の居場所知ってたんだよ?」
 向き直り詰問するも麻生は徹底して回答拒否、窓の外を眺めてだんまりをきめこむ。
 胸ぐら掴みたい衝動を後藤さんの手前ぐっと堪え、長々と息を吐いてクッションのきいたシートに沈む。
 ………今日は色々な事がありすぎた。正直、体力の限界。眠たくて仕方がない。麻生をとっちめ真相を白状させるのは明日でもいい。
 どっちにせよ、俺がまた麻生に助けられたのは事実なワケで。
 「後藤さん、言い忘れた事ってなんだったんですか」
 「メルアド言い忘れたんだと。女子高生かよ」
 「譲さんにもし万一の事があった時こっそり教えていただければと思いまして……」
 「本人の前で言うな」
 泰然とハンドルを操作する後藤にあきれる。
 瞼が重い。後藤と麻生が何か言い争ってる。
 目を瞑る。
 傾いだ頭が固く柔らかい物にあたる。
 誰かが俺を支えてる。
 黙って肩を貸してくれてる。

 「おい」
 「寝かせてあげましょうよ、家まで……色々あったんでしょうから」
 
 憮然とだまりこむ気配。
 車の心地よい振動にまどろむ。
 信頼できる誰かの肩によりかかり眠りにおちながら、衣擦れの音に紛れて消えそうな呟きを聞く。

 それは本当にごくささやかな
 いかにも呼びなれてない感じの ぎこちなく不器用な響きで
 

 「…………透」

 耳朶をくすぐった自分の名前は、大事な人に呼ばれるからこそ、平凡だが特別な響きを有していた。

 「…………やっぱ変」
 最後の一言は余計だ。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010317001258 | 編集

 「待てよ馬渕、逃げんな!」
 一目散に逃げる学ランの背中を追いコンクリ敷きの犬走りを駆ける。
 時計回りにぐるりと半周、校舎の反対側に出ると運動部の部室が入った二階建ての別棟に行き当たる。
 なんで逃げるんだ?決まってる、やましいところがあるからだ。
 相手に失速の気配がないのを察知、かくなるうえはと最終手段に訴える。
 「聡史!」
 応援を頼む。前方で馬渕がぎくりとする。
 別棟の階段下にでかい図体をひそめ待ち伏せしていた聡史が「よしきた!」と発奮、とって食うぞと言わんばかりに両手を突き出し憤然と出陣。
 階段下からぬぼっと現れたご立派な体格の不審者ー訂正、後輩を不審者呼ばわりはあんまりだー刺客に馬渕はきょどる。
 「な、なんだよお前、こっち来んなデカっ!?」
 人を見た目で判断するのはよくない。聡史は無駄にでかいが先輩の言う事をよく聞く可愛い後輩だ。
 ほらこんなふうに
 「確保っ!」
 間髪いれず指示をとばす。聡史が動く。
 鍛え抜いたバネを生かし地面を蹴り、抜群の瞬発力で馬渕にとびかかる。
 「ーっ、」
 地面に落下したスポーツバッグからぼすんと空気が抜ける。
 奇襲大成功。逃走を視野に入れ計画的に追い込んだ機転の勝利。
 抗う馬渕と激しく揉み合いつつ聡史が生き生き叫ぶ。
 「捕獲しました、先輩!」
 「でかした聡史、俺が行くまでそのまま捕まえとけ!」
 膂力と上背を利し攻防を制した後輩のもとへ全速力で向かう。
 追い付いた時、馬渕は既に抵抗をやめていた。
 「お前の知り合いか。きったねーぞ、仲間がいたなんて聞いてねえ」
 「へえ、お前らがよってたかって俺にしたことは汚くねーの?」
 馬渕の顔がどす黒い怒りに染まり、さらに凶悪で醜悪な人相へと変わる。
 馬渕こと馬渕修一。
 名前の通り馬面ぎみな俺の同級生、ボルゾイの元とりまき。
 「一学期は随分世話んなったな」
 まともに話すのはこれが初めてだ。俺から声をかけなきゃこれからもずっと話す機会はなかっただろう。相手だって俺とのおしゃべりは歓迎してない。
 二学期からこっち、馬渕を筆頭にしたボルゾイの元仲間はあからさまに俺を避けまくってる。
 「………仕返しかよ、いまさら。もうすんだことだろ」
 「……わあー、その台詞いじめっこの口から聞くとむかつきひとしお」
 「悪かったよ、謝るよ。これでいいか?反省してる、許してくれよ」
 勝手に勘違いした馬渕が、卑屈な笑みを顔全体に貼り付け詫びを入れてくる。
 誠意のない謝罪をくりかえす馬渕を冷めた目で見返す。
 こんなヤツにびびってたなんて、なんだか馬鹿らしくなってくる。
 「聞きたいことがある」
 正直、割り切れない思いはある。
 ボルゾイ達にされたことは今でもはっきり覚えてる、毎晩のように夢でうなされる。
 美術室で俺を嬲ったメンバーの中に馬渕もいた。俺の背中にのしかかり腕をひしぎ固めて、にやにや笑いながら嘲笑を浴びせていた。
 当時の怒りと屈辱と嫌悪が一挙に甦り、口の中に絵の具の苦味が満ちる。
 ひとつ深呼吸し、できるだけ平静を保ち、落ち着いた声を出す。
 「馬渕。お前、ボルゾ……伊集院とはどんくらい親しかった?」
 反応は顕著だった。
 伊集院の名を出すなり馬渕の体がびくんと竦む。
 挙動不審。傍らの聡史とちらり目を見交わす。心の中で呟く。ビンゴ。
 「どんくらいって……」
 「外でも遊ぶくらい仲良かったのか」
 慎重に尋問を行い外堀を埋めていく。
 馬渕が怪訝そうな表情を浮かべる。目には疑問の色。質問の意図が飲み込めてないみたいだ。
 馬渕の前に立ち、高圧的に身を乗り出す。
 「答えろ」
 「親しくねーよ、全然。そりゃたまにはカラオケやらゲーセン行ったけどほかのヤツらも一緒だったし……伊集院が外でなにしてるかなんて知んねーよ」
 弁解がましい口調。唾とばし必死にまくしたてる馬渕を制し、聞く。
 「伊集院の噂、知ってるか」
 「……………ああ」
 「学校じゃ猫被ってるけど、外じゃ悪い連中と付き合ってるって。クスリも扱ってるって」
 「ああ」
 「それだけ?」
 「…………」
 手ごたえがあった。
 馬渕が居心地悪そうに身じろぎしよそ見をする。
 視線を避けて俯く馬渕を、厳しい声で現実に引き戻す。
 「他には聞いてないか」
 「他?」
 「とぼけるな」
 今は俺が責める側だ。一学期とは立場が逆転した。
 下克上の快感が全くないといえば嘘になるが、今はそれより真実を知りたい欲求と好奇心が先行する。
 馬渕はちらちら俺の顔色をうかがう。
 群れなきゃ何もできない奴は一人になると弱い、いくらでもつけこむ隙ができる。
 俺はその隙をねらった。一番突き崩しやすいところをねらった。
 馬渕が友達と別れ下駄箱で一人になったタイミングを見計らい「ちょっといいか」と声をかけた。
 結果、追いかけっこを経て今の状況に至る。
 虚勢から内心の怯えが透けて見える馬渕と対峙し、声をひそめ核心に踏みこむ。
 「お前、本当は知ってたんじゃないか」
 「何を」
 「伊集院から聞いてるんじゃないか、廃工場で何があったか」
 馬渕の顔色が豹変したのを見逃さない。
 聡史を目配せで後退させ、高まる緊張に喉の渇きを感じ畳みかける。
 「伊集院は何か話さなかったか。仲よかったんだろ?俺にちょっかい出す時いつもつるんでたし」
 「だから謝るって」
 「廃工場で何してたか、お前らにはしゃべったんじゃないか」
 「詳しくは知らねえよ……前に伊集院が自慢してたの聞いただけで……関係ねーし」
 「教えろ」
 「大体お前の言った通りだよ。通学路の途中の廃工場、あそこに気に入らねーヤツ連れ込んでヤキ入れたって。うちのガッコのヤツも他校のヤツも………いろいろ拉致って遊んだみたいで」
 「白いバンを使って?」
 「復讐代行みてーな感じ。裏で金とって、依頼者の気に入らねえヤツを痛い目遭わせたりもしたとか」
 ボルゾイ=伊集院が裏で悪事に手を染めてるのは一部で有名な噂だった。
 ボルゾイは金と引き換えに地元の不良と徒党を組んで復讐代行を請け負い、被害者の輪姦シーンをビデオに撮って金を強請っていた。
 そしてその悪行の数々を学校の仲間に吹聴していたのだ、自慢げに。
 「……伊集院、やけに金回りがよくて。なんでそんなに金持ってるんだって聞いたら教えてくれた」
 「警察には?」
 「言うわけねーじゃん。俺ら関係ねえし」
 金で繋がった友達はすぐ寝返る。ボルゾイも薄情な仲間を持ったもんだ。
 罪悪感などかけらもなくボルゾイを売った馬渕は、自分の無実を証明したい一心で聞いてもねーのにべらべら捲くし立て始める。
 「伊集院が廃工場で悪さしてるのは知ってた、クスリを売り買いしてるのも知ってた。アイツ、売人だったんだよ。お前だって知ってんだろ、図書館裏におちてるシンナーの袋、あまったるい匂いがする……伊集院、学校でもクスリを売ってたんだ。こっそりと、バレねーように。俺らはそのおこぼれに預かってただけで……俺、本当は嫌いだったんだよ、アイツ。いばってていけすかなくて。お前にもやりすぎたなって」
 「カシャカシャ楽しそうに写メってたくせに?」
 調子いい言い分を鼻で笑う。馬渕の胸ぐらをきつく掴み、急激に顔を近付ける。
 「『あの人』って誰だ」
 「は?」
 「伊集院の黒幕」
 ボルゾイの裏にはもっと頭の切れる黒幕が存在する。
 ボルゾイの言動から俺は組織的犯罪の匂いを嗅ぎつけた。
 廃工場でボルゾイは何度も「あの人」と口走った。
 自分はただの使い走りに過ぎない、あの人の指示に従ってるだけだと言った。
 今日馬渕を呼び止めたのは尋問が目的。
 ボルゾイの裏にいる「あの人」の正体を知るためだ。
 地元の不良の頭で考え付くのは廃工場でのリンチ、レイプ、それ位がせいぜいだ。しかしボルゾイとその一味は、輪姦シーンをビデオに撮って被害者を強請り、売春斡旋にも手を染めていた。
 組織的な犯行と仮定するなら、連中を束ねる黒幕がいる。
 結局ボルゾイは捕まらなかった。
 廃工場は壁の一面が燃えただけで本格的な火災には至らなかった。
 失火原因は煙草のポイ捨てとして処理された。現場には吸殻が沢山残されていたから単純にそう決め付けられてもむりはないが、事件は終わってない。
 俺は間一髪危地を脱したがまだどこかで泣いてる人間がいる、ボルゾイの食いものにされてる被害者がいるのだ。
 「あの人って誰だ」
 「知、知らねえよ……」
 よわよわしく首を振る。
 困惑の表情でシラ切る馬渕の胸ぐらを容赦なく握力加え締め上げる。
 「知らない関係ないは通らない。おしゃべりな伊集院が愉快な仲間たちに手柄を伏せるはずねー。あの人の正体についてぽろっと零したことが一度か二度あったはずだ。思い出せ」
 指に力がこもる。
 喉を絞められ、窒息の苦しみに下卑た顔が歪む。
 「ほ、ほんとに知らね……伊集院はおしゃべりだけどあの人の話になると口が固くて、怒らせると怖いってマジびびってて……地元の有力者の血縁で、警察とも繋がりあって、だからあの人に付いてりゃ大丈夫だって自信満々」
 「他には?」
 「お、思い出した、先生、先生だよ!」
 先生?
 馬渕が俺の手を払い激しくせきこむ。
 首をさすりながら涙目で俺を見上げ、呟く。
 「ウチの先公のだれか……名前はとうとう言わずじまいだったけど」
 「教師が黒幕だってのか?」
 半信半疑の俺の前で体を起こしがてら鞄を拾い、馬渕がブツブツ愚痴る。
 「関係ないんだ、俺は……伊集院の事なんか知らねーよ、もうほっといてくれよ、約束どおり二学期から手出ししてないんだから」
 「約束?」
 しまった、というふうに顔をしかめる。
 鞄を掛けなおした馬渕が用は済んだ踵を返す。
 校舎を回って校門に向かいかけたその背に追い縋る。
 「待てよ、約束ってなんだよ」
 「知らねえのか」
 肩を掴み振り向かせる。
 馬渕が驚愕に目を剥く。
 自然、馬渕の手に目が行く。包帯がとれたばかりの手。
 「お前、あの包帯」
 気付けば口に出していた。
 馬渕の表情が強張る。
 力一杯俺を振り払い、癇癪をおこしたように怒鳴る。
 「頼むから、俺に近付くな!ーッ、言われた通りにしてるのになにが不満なんだよ根掘り葉掘り変な事聞きやがって、俺ちゃんと約束守ってんだろ、写メだって全部破棄した、親にも警察にもだれにも漏らしてない、チクったらもっと酷いことになるっていうから……くそっ、包帯だってやっととれたのに、なんだよ、仕返しかよ、一学期の!?」
 まるで自分こそが被害者だと言いたげな態度と支離滅裂な罵倒に堪忍袋の緒が切れる。
 「!!ーこのっ、」
 自分の事は棚に上げ支離滅裂意味不明な妄言を吐く同級生に対し、積もりに積もった鬱憤を突発的な暴力の形でぶちまける。
 おもいきりぶん殴って、一学期の借りを返そうとした。
 一学期中陰湿に陰険に俺をいたぶったくせに、美術室でズボンまで脱がしたくせに、コイツはなに被害者ぶってんだ?
 怒声とともに拳を振り上げ振り下ろし、
 「ひっ!!」
 怯えきった悲鳴を発し、顔の前で腕を交差させる馬渕。腕の下から覗く戦慄の形相。
 俺は見た。
 手の爪が全部剥がされていた。
 赤い肉の断面に、漸く新しい爪が生えかけたところだった。
 腕から力が抜け軌道が狂う。馬渕が勝手にすっ転び尻餅をつく。
 「ひっ、ひあ、ひぃああああ」
 深々頭を抱え込み身を丸める。
 爪の剥がれた手で頭を庇い、もう片方の手を無意味に宙で振りたくり、呆然と立ち尽くす俺を少しでも遠ざけようとスニーカーと両手で地面をかきむしって醜態を演じる。
 「ごめん、秋山、ごめん、謝る、許せ、言わないで、もうしねえ、二度としねえ、近付かねえ、ごめんなさい!!」
 やり場をなくした拳をひっこめる。
 虚勢のメッキがはげたいじめっ子の醜態を目の当たりにし喉元に苦汁がこみあげる。
 狂ったように許しを乞いつつスポーツバッグをかっさらい小石を蹴立て逃げ出す馬渕、動揺に足縺れさせ嗚咽混じりの濁った奇声を発し去っていく。
 「………んだよ、あれ………」
 一学期とはまるで別人だ。
 気持ち悪い。胸がむかむかする。弱いものいじめなんてふりでもするもんじゃねえ。
 後味の悪さを噛み締め、聡史のもとへ戻る。
 「なんすか、あの人。めちゃくちゃびびってましたよ」
 「知んねえよ、実際殴ったわけでもねえのに……一回部室に戻るか。お前の友達、もう待ってんだろ」
 「麻生先輩も部室ですよね?」
 馬渕の豹変に釈然としないものを感じながら旧校舎に足を向ける。

 資料室兼部室の戸を開けると見慣れぬ一年が無言で待っていた。
 「久保田」
 聡史が名前を呼ぶ。
 一年が顔を上げる。緊張と不安で強張った顔が安堵にゆるむ。
 「沢田」
 所在なげにパイプ椅子に腰掛け、首をうなだれていた一年の顔に控えめな笑みが浮かぶ。
 一年の向かいには麻生がいた。パイプ椅子に腰掛け文庫をめくっている。
 引き戸を開け入ってきた俺を一瞥もせず、退屈げに呟く。
 「終わったか、追いかけっこ」
 「見てたのか」 
 「窓から。校舎をぐるっと回ってたから嫌でも気付く」
 「麻生先輩も来ればよかったのに。同級生でしょ?」
 「お前の方が図体でかいし頼りになる。ちょうどいいところだったし」
 読んでる本をちらり掲げてみせる。聡史が不満げにだまりこむ。麻生が二択で本を選ぶのはいつものことなので別に気にしない。
 念のため廊下を見回し人けがないのを確認後、厳重に戸を立てる。
 新顔一年の隣に聡史が座る。
 俺もパイプ椅子を引き出し、麻生と並んで座る。事情聴取の体勢は整った。
 いざ
 「じゃ、自己紹介から。聡史から聞いてるかとおもうけど、俺、二年の秋山。これでも伝統あるミステリー同好会の部長。隣の愛想ねーのが麻生。俺のクラスメイトで部員。一年の聡史を加えてメンバー紹介終わり」
 「……一年B組の久保田です。沢田の友達の。秋山先輩のことは聞いてます」
 「なんて?」
 「面倒見がよくて、明るくて楽しいいい先輩だって。ちょっとばかだけど」
 「久保田!」
 ……コイツ、俺がいないとこじゃそんなこと言ってんのか。
 久保田と名乗る一年はか細い声で言う。
 「沢田とは幼馴染なんですよね。家が近所で、小学校から一緒だって。小さい頃からよく遊んでもらったって自慢してました」
 「まあな。俺んちちょっとワケありで同じ学年にあんま友達いなかったから、いっつも聡史とつるんでて」
 「沢田、先輩に憧れて同じ学校に入ったって言ってました。スポーツ推薦でもっといいとこ行けたのに」
 「え、そうなの?」
 軽く驚く。
 「余計なこと言うな久保田!!」
 聡史が怒る。
 「待てよ聡史、聞いてないぜ。お前、俺がいるからここ来たの?スポーツ推薦蹴って?おじさんおばさんは知ってるのか」
 「違います、いや違くないけど俺がここ選んだのは家が近くて通学に便利だったからで別に先輩がいるからとか不純な動機だけで選んだわけじゃ全然なくて、だってそんな理由で志望校決めたらぶっちゃけストーカーじゃないっすか、きもいっすよ!!ね、麻生先輩だってきもいっすよね、190の大台突破しそうな図体デカイのが先輩と一緒にいる時間が減るのいやさに決まりかけたスポーツ推薦蹴ってここ来たとか普通にどん引きっすよ!」
 「きもい。引く」
 聡史撃沈。
 久保田君が提供した新事実のせいで話が妙な方向に行ったが、このままじゃいかんと軌道修正を図る。
 「……えーと、なんか飲む?っても烏龍茶くらいしかねーけど」
 前もって用意してあった紙コップにペットボトルの烏龍茶を注ぎ、手渡す。
 久保田は「どうも」と会釈し、両手で包むようにして受け取る。礼儀正しい子だ。
 「今日来てもらったのは他でもない。……聡史から聞いてるとおもうけど、俺の同級生の事で。知ってるかな?伊集院ってヤツ、」
 久保田の手が震える。紙コップが揺れ中身がこぼれかける。
 久保田に視線が集まる。
 聡史が気遣わしげに見守る。麻生が冷ややかに眺める。
 正面に陣取る俺は、生唾を呑み、舌の滑りをよくしてから殊更ゆっくり噛み砕いて話し始める。
 「………2-Aの伊集院。一学期まで俺のクラスメイトだった。二学期に突然やめちまったけど……知ってるよな?」
 「……………」
 久保田が小さく頷く。顔色が心なし蒼ざめている。
 「……伊集院先輩は同じ中学でした。その頃から評判悪くって……先生受けはよくて……でも、裏じゃ不良と付き合ってやりたい放題で」
 言葉を切る。
 言いにくそうな上目遣いで俺を見、ついで聡史を見る。
 聡史が力強い首肯で励まし先を促す。
 「秋山先輩なら大丈夫、相談に乗ってくれるから。遠慮なく話しちまえ」
 肩を叩いて発破をかける。乗り気な聡史と対照的に久保田はおずおず目を伏せる。
 優柔不断な様子にじれたのか、聡史がその肩を掴み、何か言おうと腰を浮かせる。
 「聡史」
 気弱な友達を叱咤しようと口を開きかけた聡史をやんわり制し、小首を傾げてお願いする。
 「悪いんだけど、ちょっと出ててくれるか?すぐ終わるから」
 「え……」
 心外な申し出に聡史が目を丸くする。
 聡史の気持ちはわかる。久保田を引率したのは自分なのに何故か追い払われようとしてるのだ、そりゃ腹も立つだろう。
 「だって先輩、俺、コイツの友達なのに!」
 「だからだろ」
 久保田と俺を見比べ抗議する聡史にそっけない声がとぶ。
 パイプ椅子に腰掛けた麻生が文庫のページを静かにめくりながら指摘する。
 「友達だから聞かせたくない事もある」
 怜悧な知性を宿す切れ長の目が、硬質なレンズ越しに久保田を一瞥。
 「ちがうか?」
 「……沢田、ごめん」
 久保田が本当に申し訳なさそうに謝る。
 今にも泣きそうにくしゃくしゃに顔を歪ませ、こみあげるものを抑えて唇を噛むさまに、こっちの胸まで痛くなる。
 申し訳なさそうな久保田と申し訳そうな俺と全然申し訳なさそうじゃねー麻生の視線を受け、聡史がぐっと顎引き決断に至る。
 「…………わかりました」
 一礼し、未練を振り切るように踵を返し準備室を出る。
 引き戸ががたぴしゃ桟を滑り、閉まる。
 ダンボール箱が堆積する埃っぽく狭苦しい準備室に辛気くさい沈黙が落ちる。
 ……あーもー、こういう雰囲気ホント苦手。
 麻生はもとから無口だし後輩はだんまりで結局は俺が場を仕切るしかない。
 くさっても部長だ、気をしっかりもて。二年の面目を保て。
 「そー固くならずにリラックスして。な?」
 気軽に砕けた口調とともにぽんと肩を叩こうと手をのばす。
 「!ッ、」
 手を伸ばすと同時に久保田の顔に紛れもない恐怖が走る。
 即座に手を引っ込める。
 「さわられんの怖い?」
 勘が当たる。
 苦笑いして手を膝におく。
 久保田は一層警戒心を強め、猜疑と怯えに満ちた目で俺の手と顔を見比べる。
 上唇をひとなめ、ちょっと考え横を向く。
 文庫本から顔を上げた麻生が目だけでどうするか問うてくるのにほくそえむ。
 正面に向き直り、久保田の目の高さに手首を翳し、袖口をさりげなくめくる。
 「な?」
 相手を安心させるにはまず自分から弱みや恥ずかしいところを見せなきゃいけない。
 俺が安い弱みを見せることでこいつが少しでも救われるならささやかな露出は惜しまない。
 俺の手首……外気に晒された手首の擦り傷と内出血の痣を目にし、久保田が絶句。
 「俺も一緒。恥ずかしいことねーよ」
 袖を戻し、照れたように笑う。
 久保田が俯く。目のふちに透明な水が膨らむ。
 目尻に浮かんだ水滴を拭い、堰を切ったようにしゃくりあげる久保田をしばらく黙って見守る。
 麻生は周囲の状況と関係なく本を読んでいた。鉄の神経だ。
 烏龍茶を一口含み、深く深く息を吸い、久保田が漸く顔をあげる。
 「………沢田には言わないでください。全部は話してないんです」
 赤く充血し、思い詰めた目でまっすぐ俺を見る。
 「わかった」
 どうやら信頼してもらえたようだ。
 烏龍茶で喉を湿す。
 目を閉じて内なる恐怖と葛藤し、惰弱な自分を抑圧して口を開く。
 「俺、中学の頃、伊集院先輩にレイプされて。それからずっと使いパシリで。工場で何度もレイプされて……」
 悪夢の再来に語尾が震える。
 自傷行為に似た痛みを伴う告白の重圧で紙コップを包む手に力がこもる。
 「……ビデオ撮られて。逆らえなくて。本当はいやだったけど、すごくいやだったけど、怖くて、親にも警察にも言い出せなくて。伊集院、アイツ、キレると手がつけられなくて。い、一度なんか、俺、ボールペンで目刺されて……失明しかけて……それで」
 「いやいや呼び出しに従った」
 勢いを得て何度も頷く。
 紙コップが指圧でへこむ。
 悲痛な顔に希望の薄日が射すもすぐに消え、出口のない絶望に取って代わる。
 「だからやめたって聞いて、学校からいなくなって、すごく安心した。何があったか知らないけどこれで解放される、自由になれるって喜んだ。でも……よく考えたら伊集院が俺のビデオ持ってる事実に変わりなくて、アイツがその気になりゃすぐばらまかれて、そしたら俺、学校にいられなくなるし……家族に迷惑かかるし……沢田とも」
 「他の被害者の事は知ってるか?」
 「……名前は知らないです。でも、顔ならぼんやりと。何回か、その……混ぜられたことあるし」
 「混ぜられた?」
 ためらいがちに俯き、さざなみだつ紙コップの中をのぞきこむ。
 「……そっちのが刺激あるからって……俺や他の人をまじえて複数で撮るんです、ビデオを。乱交とか。輪姦とか。そんなかんじで。中学生くらいの女の子もいて……制服でわかったけど、地元で有名な私立の。あの子、泣いてて……痛い、やめて、うち帰してって……耳についてはなれなくて」
 胸が悪くなる話だ。
 「そん時の状況、詳しく話してくれるか」
 「伊集院と……唇ピアスの太ったのと、パンク系のと、痩せぎすのと、四人で。工場に機材もちこんで。犯る側は他にも何人か日替わりで出入りしてたけど……はたち前後で、ちゃらちゃらした不良っぽい奴らで……撮られた側は、俺と、その中学生くらいの女の子と……」
 顔が紙のように白くなる。
 フラッシュバックから来る吐き気に襲われ口を覆って突っ伏す。
 「大丈夫か?」
 「大丈夫、です」
 「ビデオは誰が持ってるんだ」
 「わかりません……連中の話しぶりからすると、ビデオ、裏に流れてるみたいで」
 「裏?」
 「そういうのが好きな連中の間に。伊集院が言ってたんです、自慢げに。客にビデオ見せて、気に入ったヤツを指名させるんだって。そういう商売なんだって」
 商売。客。指名。物騒な単語が脳裏でぐるぐる回る。
 「それ……ひょっとして、売春って事か」
 組織的な。大掛かりの。
 実行犯はボルゾイと地元の不良からなるその一味。
 目をつけた標的を廃工場に拉致監禁輪姦、一部始終をビデオに撮って強請り、飼い殺しにする。
 のみならず顧客の間にビデオを流し、気に入った相手を指名させる。売春斡旋も同時に行える極めて効率的なシステムだ。
 「まさかお前も」
 「沢田には言わないで」
 椅子ががしゃんと鳴る。久保田が腰を浮かせ縋り付く。傾いだ紙コップから零れた烏龍茶が床をぬらす。
 「………嫌われたくないんです」
 「こんな事で嫌ったりしねーよ」
 「知られたくない!」
 「わかった、言わない」 
 「絶対?」
 「ゼッタイ」
 「ほんとに?」
 「ホント。嘘だったら部長の座を麻生に譲る」
 「いらねえ」
 野郎、本から顔も上げずに答えやがった。
 取り乱す久保田の腕を軽く叩き落ち着かせ、再び椅子に座らせる。
 椅子に深く沈んだ久保田は、ギザギザのあとが付いた爪を神経質に噛み血走った目で続ける。
 「……一回だけ……伊集院に呼び出されてホテルに行ったら、知らない男がいて……ちゃんと背広着た、サラリーマン風の、普通の人に見えたけど……全部終わった後に俺を指名した客だって聞かされて。お前の事気に入ったみたいだからこれからも頼むって、あのクソ野郎笑いながら」
 深爪が気がかりだ。
 激しい貧乏揺すりとともにボルゾイへの呪詛を吐く久保田に、用心深く訊ねる。
 「伊集院の黒幕知ってるか?」
 「知りません、会ったこともありません」
 久保田が驚く。演技じゃなくて本当に知らなかったようだ。
 「聡史!」
 廊下に控えていた聡史が即座に戸を開け放ち再入室、久保田の顔に救われたような表情が浮かぶ。
 「送ってやってくれ」
 聡史が何か言いたげに俺を見るのに無言で頷く。
 素直な後輩は久保田を促し部室を出て行く。
 引き戸が閉まる。靴音がふたつ遠ざかっていく。
 急にがらんとした準備室に取り残され、正面に位置するからっぽの椅子を見詰める。
 「…………満足?」
 頭をかきむしり隣を見る。
 読み終えた本を閉じて鞄にしまいこみながら、麻生がうっそり口を開く。
 「何が」
 「探偵ごっこ」
 胸の内で反発がふくらむ。
 席を立った麻生に何か言おうとして、眼鏡の向こうの冷徹な眼差しに息を呑む。 
 「同級生を力尽くで問い詰めて、後輩を事情聴取して。それで、どうする気だ」
 「どうするって……ほっとけっていうのかよ?このまま見て見ぬふりしろって?」
 「余計な事に首突っ込むな。推理小説の読みすぎだ」
 無神経な暴言に怒りが湧く。
 席を立った麻生に憤然と詰め寄りかけ、途端立ちくらみを覚える。
 「-っ、」
 まずい。
 「学校出てこれる状態なのか。体、辛いんじゃないか」
 「丸一日寝たらだいぶラクになった」
 嘘吐け、無理してるくせに。
 片手で机を掴み転倒を防ぐ。しゃがみこんだ俺にあっさり背を向け、麻生が退出する。
 「待てよ!」
 その背を呼び止め、無理を押して立ち上がる。
 「じゃあお前はほっとけってのか、廃工場で見たろ、ボルゾイたちのやりたい放題!俺はたまたま助かったけど久保田みたいにボルゾイ達に脅迫されてるヤツは沢山いる、自分が助かったら他は見殺しにすんのが正しいのか、ボルゾイ達がやってること忘れろっていうのかよ!?」
 「お前には関係ない」
 「関係ある!!」
 俺はたまたま偶然助かった、タイミングよく麻生が来てくれたから。けど、他のヤツらは?手遅れの被害者は?廃工場でボルゾイ達に輪姦されビデオを撮られ脅迫され客の相手をさせられてる被害者は、久保田は、女子中学生はどうなる?
 『うちに帰して!!』
 顔も知らない女の子は暗く汚い廃工場で男たちに襲われ泣き叫んだ。
 俺は無事うちに帰れた。一方で帰れない人間がいる。
 警察にも家族にも相談できず一人苦しみ続ける人間がいると知りながら、自分さえ無事ならそれでいいと見て見ぬふりするのが正しいはずない。
 俺はボルゾイの犯罪を知ってる。
 ボルゾイの裏で糸引く「あの人」がこの学校の教師であることも突き止めた。
 そこまでわかっていながら、いまさら見て見ぬふりができるか。
 「久保田の話聞いて、お前、まだそんなこと言えるのか。アイツ、本気で悩んでたろ。初めて会った俺たちの前でぼろぼろ泣いちまうくらい追い詰められてたんだよ」
 「本気で悩んでるんなら警察に被害届を出せばいい、お前が首突っ込む事じゃない」
 「~わっかんねーヤツだな、だから脅されてるんだって、ビデオで!口封じ!相談したくてもできないんだって!被害者除けば俺が唯一の証人なんだ、だってそうだろ、俺はあの時廃工場にいたんだ、ボルゾイ達の話全部聞いてるんだよ。そうだよ、聞いちまったんだ、いまさらなかったことになんてできるか」
 忘れようったって忘れられない邪悪な哄笑が耳に響く。
 廃工場の悪夢が炎の色彩を伴い鮮明に甦る。
 「警察にも親にも頼れずひとりぼっちで泣き寝入りしてる連中がいるのに、俺だけ無事に帰れたからとっとと忘れちまえって?」
 それができたら苦労しない。現に久保田はボロボロになるまで追い詰められている。
 「お前は何がしたいんだ?」
 引き戸の前で立ち止まり、麻生が振り向かずに聞く。
 「ボルゾイを破滅させるのが望みか」
 「黒幕を引っ張り出す」
 即答する。
 「馬渕が言ったんだ、ボルゾイの黒幕はうちの教師だって。多分そいつがビデオを持ってるんだ。そいつを警察に突き出す」
 「警察に突き出して?それで?司法にさばいてもらうのか。被害者がそれを望むとでも?」
 麻生の声が挑発的に変化する。
 正直、俺だって何が正しくて正しくないか分からない。廃工場の体験は一日経ても生々しく体のだるさとして残っている。ボルゾイの顔なんか二度と見たくないのが本音だ。
 だけど、だからって、このまま平凡な日々に紛れて忘れちまってそれでいいのか?
 いいはずねえ。
 俺は事件の被害者で目撃者だ。
 なら俺のやりかたで、とことん事件にかかわってやる。
 推理小説の読みすぎと非難されてもいい、とことん首突っ込んで意地でも黒幕を引っ張り出してやる。
 「俺だって一歩間違えりゃ今頃ボルゾイに飼われてたんだよ。久保田と同じドレイの身の上だ、他人事じゃねえ」
 口にするのも忌まわしい想像を苦りきって吐き捨てる。
 「他の連中が今でも苦しんでるのに自分さえよけりゃいいって納得できるか!!」
 癇癪が爆発する。
 背を向けた麻生に追い縋り、肩を掴み振り向かせようとしてー
 あれ?
 俺、何か、重要な事忘れてないか。
 丸一日熱を出して寝込んで、記憶が一部ぽっかり欠落してるー
 『忘れちまえ』
 心地よい振動に揺られまどろむ耳元で繰り返し暗示をかける声、初歩的な催眠術、無意識の忘却。
 麻生がタイミング良く廃工場に現れたのは

 衝撃。

 「……探偵ごっこ?」
 顔の横、戸棚のガラスに平手が激突。
 振り返り際腕を振りかぶり、戸棚を背にした俺を周到に追い込む。
 平手が炸裂したガラスが微弱に振動する。
 上背を利し麻生が目の前に立つ。
 長身の麻生が前傾すると、真っ直ぐな前髪と眼鏡に隠れた表情の希薄さも相まって得体の知れぬ威圧感を醸す。
 俺にのしかかるような体勢で目を細め、口角を皮肉げに吊り上げる。
 「………そのザマでか」
 眼鏡越しの視線が侮蔑を孕み、体にそって滑る。
 膝がかすかに震え出す。
 麻生が手を振り上げた瞬間虐待の予感に身が竦み、眼鏡をかけた理知的な顔にボルゾイがだぶった。
 「好奇心猫を殺す。英語の諺にもあるだろ。少しは懲りろよ」
 低く落ち着いた声音と無慈悲な眼差しで、淡々と諭す。
 「無防備だからいけないんだ。無防備だから付け込まれる。いい加減学習しろ。危険には近付くな、見て見ぬふりだ。他の連中がどんな目に遭ってようがお前には関係ない、赤の他人がいちいち気にかけてやる必要ない。本当に困ってるなら被害者本人が警察に駆け込むなりなんなりするさ。いいか?素人探偵気取って事態をややこしくするな。それとも何か、お前が関わる事で事態が好転するとでも?被害者が救われるとでも?自信をもってそう言えるか、断言できるか。お前が首突っ込んであちこち嗅ぎまわることで被害者の立場がもっと悪くなるかもしれないのに」
 「っ………」
 「自分に何かできるかもなんておめでたい頭で思いあがるな」
 「……………」
 「迷惑なんだよ。無力で無能な人間の思いやりは思いあがりと同義だ」
 麻生の顔が近付く。
 鼻先に顔が来て、湿った吐息が絡む。
 距離をとろうと身を引けば、戸棚に背中が当たり逃げ場をなくす。
 視界が暗く翳る。
 校舎の外から運動部のかけ声が響く。
 日が暮れ始めて準備室が薄暗がりに沈む。俺の吐く息の音ばかりが荒い。
 俺の行動は間違いなのか?
 脳裏に疑問が浮かぶ。違うと強く首を振って打ち消す。俺は単なる好奇心で事件に首を突っ込んだわけじゃない、黒幕捜しを始めたわけじゃない、絶対ちがう。だって俺はもう事件に関わってる、巻き込まれてる、警察には言えない、家族に心配かけたくない、だったら自分で何とかするしかない……
 降りかかる火の粉は自分で払う。 
 「制服に擦れて痛いんじゃないか?」
 一瞬、何を言われたかわからなかった。
 理解と同時に体が発火、耐え難い羞恥に思考が鈍る。
 麻生がじっと俺を見る。
 学ランを透かして直接裸を見るような冷たい熱を孕む視線に晒され、物欲しげに喉が鳴る。
 「助けてくれなんて頼んでねえよ」 
 安全ピンを刺された場所が熱を帯びて疼く。体全体が恥辱と快楽の余韻で疼く。
 怒りと反発と情けなさと、それらが一緒くたに煮えた激情に突き動かされ、気付けば怒鳴っていた。
 「呼んでもねーのに勝手に来たくせに、あとになってあれこれ勝手に指図して、思いあがってんのはどっちだよ。首突っ込む突っ込まないは俺が決める、何が『お前には関係ない』だ、大ありだよ、当事者だよ、被害者で目撃者だよ、俺はもう最初から否応なく巻き込まれてんだよ!!ボルゾイに目え付けられた時からこうなるのは決まってたんだ、だったら腹括ってとことん踏み込んでやるさ自分の意志で、もう引き下がれないよそうだろ、部長の意地とプライド賭けて黒幕引っ張り出してやる、それが俺のけじめの付け方なんだよ!!」
 偉そうに偉そうにお前になにがわかる冷静沈着な優等生に俺の何がわかる俺の気持ちを勝手に騙って語るな
 いじめられた事もねーくせに
 理不尽に踏みにじられた経験もねーくせに
 「命令すんな指図すんな偉そうに、いつ助けに来てくれなんて頼んだ、余計な事してんのはどっちだ!!久保田の話聞いたろ、なのになんでそんな冷静でいられるんだ、心ないのかよ!?関係ないとか言うなよ、お前はすぐそうやって関係ない関係ないって線の外側に突き放して知らんぷりで俺の事だって本当は」
 「……勝手にしろ」
 不毛な口論に終止符を打ち、黙って部室を出て行く。引き戸が乱暴に閉まる。
 麻生を追いかけようとして、しかし腰が抜け、その場に膝からへたりこむ。
 
 『制服に擦れて痛いんじゃないか』

 あんな事言うから
 あんな
 
 「………卑怯だ………」
 耳朶までカッと熱くなる。
 疼く胸を庇い、拗ねて膝を抱え込む。 
 俺は、たぶん、麻生は無条件で協力してくれる応援してくれると信じて疑わなかったのだ。
 同級生だから。同好会の仲間だから。友達だから。二度も助けにきてくれたから。だから今度もいちいち確認なんかとれなくても、黒幕捜しに乗り出した俺を助けてくれると信じて疑わなかったのだ。
 「……はは。ひとり思いあがって馬鹿みてえ」
 一人前に探偵気取りで。
 探偵には助手が付き物だから。
 麻生ならはまり役だと、そう思って。

 「……………ゼッコーしてやる」
 体の火照りはまだ引かない。
 器用に安全ピンを取り外す指の残像と感触が消えず、学ランが包む肌をじれったく苛む。 
 戸棚に追い詰められた時、恐怖と一緒に不可思議な高揚と動悸を覚えた。 
 麻生の顔が近くて。顔が熱くなって。視線と吐息が密接に絡んで。
 目が、放せなくて。
 
 めちゃくちゃに頭をかきむしり悶々と膨れ上がる妄想と煩悩を払拭、とっくに立ち去った麻生に罵詈雑言を浴びせる。
 「ーーーーーあーいいさいいさ、そっちがそのつもりなら上等だ勝手にするさ、お前の協力なんかあてにしねーよ、俺一人で黒幕突き止めてとっちめてやる!!古今東西の推理小説読み漁った部長をなめんなばーか、お前なんかいなくても俺にはポアロとホームズと明智と金田一と十津川と浅見と火村と江神と犀川と京極堂と猫丸先輩が憑いてる、名付けて一人JDCだ!!」
 この時は気付かなかった。
 麻生との間に生じた軋轢が、後になって、あんなふうに俺たちの関係を変えてしまうだなんて。
 
 
 そして運命の日がやってくる。
 俺は最悪の形で、「あの人」の正体と麻生の本性を知る事になる。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010316184905 | 編集

 映写機が回る単調な音に乗せ上映が始まる。
 ザッ、ザザザザッ……不快な断線の音。横長のスクリーン全体にノイズの紗がかかる。
 砂嵐が凪ぎ、不気味な闇に沈む廃工場が像を結ぶ。
 ザッー『カメラは?回ってるか?よし、んじゃスタート』
 最初は床。
 コンクリート打ち放しの床に乱雑に積み上げられた鉄骨、斑の吸殻、シンナーやスナック菓子の空き袋が不衛生に散乱する。
 平坦な床から徐徐に視点を上げ壁にそってぐるり一周、殺風景な工場内の様子を映し、カメラを正面に固定する。
 目立ちたがりのお調子者が至近距離で手を振る。
 『ちゃんと映ってる?おーい』『ばぁか、おめ誰に手え振ってんだよ』『カメラの向こうの変態さんに。見てますかー俺らの晴れ舞台』『俺これが男優デビューだよ、気張っていかなきゃ』『男優ってツラかよお前が、タイヤに轢かれて潰れたみてえな顔しやがって』『あ、ひでっ、そゆこと言う?言っちゃう?もー傷付いちゃった俺、賠償金一億ね』『てか大事なのはビジュアルよか下半身っしょ、下半身。その点安心、俺馬なみだから。こっちは自信あんだよね』『おーい、ちゃんと撮ってる』『だから前出んなって、主役気取りかよ、俺が映んねーだろ!』『ギャラいちおくえーん』『いっちょうえーん』
 シンナーでもキメてんのか、躁的な饒舌でしゃべりまくる男たちの顔はいずれも闇に沈みよく見えない。ニット帽を深く被りサングラスをかけ、面が割れない細工をしてる男たちは全員若い。一番年嵩でも三十は行ってない、地元の不良っぽいなりをしてる。
 カメラが下がり、戦慄の落雷が背筋を貫く。
 「久保田」 
 聡史の友達、一年の久保田がそこにいた。にやけ面の男たちに取り囲まれ震えている。
 学生服をきちんと着込んだ久保田をカメラはなめるように映していく。
 俯瞰とあおり、扇情的なアングル。ストイックな学生服を透視する欲望の視線。
 『はじまりはじまりー』
 誰かが口笛を吹く。野次が爆発する。
 男が久保田を蹴り倒す。久保田は無抵抗でずしゃり突っ伏す。
 『ご、ごめんなさい』
 『ごめんなさいですめば警察はいらないんだよ、ぼく』
 暴行が始まる。
 スクリーンの中、久保田はよってたかって男達に嬲りものにされる。
 ニット帽を目深に被った男が久保田を蹴る。肩を、胸を、腰を、鳩尾を。暴力担当の男とは別に、二人が久保田の背に回り、学生服を無理矢理脱がしにかかる。
 シャツのボタンがちぎれとぶ。
 『あ!』
 学生服の袖が肩からおちるや久保田の顔が羞恥に染まる。
 『びびっちゃって、かーわいい。コイツ童貞?あ、ちがう、処女?』
 『もう犯られちゃってるとさ、伊集院に』
 『なんだ。まあいいか、中古のほうが具合いいし。初物はキッツイもんな』
 『ちゃんと呼び出し守って感心感心。ま、すっぽかしたらあとが怖いもんな。伊集院はおっかないもんなあ?』
 『約束守って親にも警察にもチクらず一人で我慢して偉い偉い。ご褒美にいい事してやる、ここにいるみんなで最ッ高に気持ちよくしてやっからさ』
 廃工場に狂った哄笑が渦巻く。
 久保田が嫌々するように首振りあとじさる、腕を押さえ込む男たちの腕から逃れようと前が開いたシャツをはだけしきりに暴れる。
 多勢に無勢、無力。久保田……部室で引き合わされたあの一年が、聡史の友達が、今、目の前のスクリーンで犯されている。
 何本もの非情な手が久保田を押さえこみ抵抗を封じ、服を剥ぎ生白い肌を外気に晒す。
 床に突っ伏した久保田が声にならない悲鳴を上げる。
 あどけない顔が未曾有の恐怖に歪み、剥かれた目から涙が滴る。
 ズボンを下げた男が久保田に騎乗、剥き出しの尻に赤黒く猛りきった男根をあてがう。
 『やだ、やっ……!?』
 久保田が恐慌を来たす。
 『ーーーーーーーーーーーーーーーーっひ、ぎ!!』
 体重をかけ一気に貫く。
 身を引き裂く激痛に久保田が仰け反る。
 喉から掠れた絶叫が迸る。
 もがきあがき暴れる久保田を、繋がった男は容赦なく揺さぶって自己中な快楽を貪る。
 結合部から血が滴る。血が潤滑油代わりとなり、挿入のたび卑猥な水音をたてる。
 律動的に腰振り抽送に励む男が仲間をけしかける。
 『ーっ、すっげえ締まる……いい……試してみろよ、お前も』
 『俺は前でいいや』
 『んだよ、俺と穴兄弟じゃ不満か?』 
 『お前が出した後なんか汚くて入れられっか』
 もう一人が久保田の前髪を乱暴に掴み顔を上げさせフェラチオを強制する。
 『んぶ、』
 久保田の顎を強引にこじ開け、怒張した男根を突っ込む。
 酸欠の苦しみにくぐもった呻きを漏らす久保田は気にせず腰を使えば、久保田を貫いた男も競うようにしてピッチを速め、激しく腰を打ち込む。
 前から後ろから責め立てられる久保田を、カメラはアップで映す。
 酸欠の苦しみに充血する顔、目尻にうっすら張った透明な膜、苦痛と恍惚が綯い交ぜとなった表情……
 「秋山くん、これは」
 敷島が愕然と呻く。
 視線はスクリーンに釘付けで敷島の呼びかけに答える心の余裕がない。
 思考が健全に働かない。 
 聡史の隣で気弱げに俯いていたあの一年が、所在なげに椅子に身を縮めていた一年が、スクリーンで輪姦されている。
 廃工場の塵と埃だらけの汚い床に転がされ、発情した男たちに体中の穴という穴を弄ばれ痴態を演じている。
 『ああっ、はっ、や、も……あっあああっあっひあ!!』
 久保田が悲痛に叫ぶ。叩かれ振りたくる尻にくっきり大臀筋が浮かぶ。
 絶頂に追い上げた久保田の体内に白濁をぶちまけ、さっぱりした様子で上体を起こす男。
 同時に前の男も爆ぜ、久保田の口腔へ白濁をそそぐ。
 男が交替する。
 入れ代わり立ち代わり体力が続く限り久保田を犯す。
 カメラは一部始終を機械的に撮り続ける。
 ばらけた前髪の下あどけない顔は焦点を失い、飲み干しきれない白濁が糸引く。
 「う…………」
 聡史に促され一生懸命口を開こうとする様子が、聡史に支えられ部室を出ていく背中が映像に重なり、喉もとで吐き気が膨れ上がる。
 これは、例のビデオだ。
 廃工場でボルゾイが存在を仄めかした輪姦シーンを収めたビデオ、被害者を脅迫し金を強請りとる材料。
 男たちの服装や久保田の学生服から推察するに季節は夏、廃工場が燃える前。
 『わかってんのか久保田ちゃん、お前が逆らったらおうちの人に迷惑かかるんだぜ。恥ずかしいビデオが流出して、家族そろってお引越し。学校にもいられなくなる。大好きなお友達と離れ離れになんのはイヤでしょー』
 『……さと、し……には、この、事……言わない、で……』
 『聡史?おトモダチ、それともおホモだちかな?だーいじょうぶだよ、言う事さえ聞いてりゃヒミツにしといてやっから』
 男たちがどっと笑う。
 久保田がぎりぎりで精神の均衡を保ち、泣き笑いに似て悲痛な表情を浮かべる。
 直視できない。
 聡史に言わないでと縋るように懇願する久保田から顔を背ける。
 『きゃあっ』
 スクリーンを、向く。
 場面が切り替わる。
 廃工場の壁際に制服姿の女の子が追い詰められている。真理と同じくらいー……まだ中学生か。
 地元で有名な私立の制服を着ている。靴が片方脱げていた。
 『イヤだ、こっちこないで……それ以上近寄ったら人を呼ぶから!』
 壁にへばり付いた女の子が狂ったように首を振る。
 くしゃくしゃに歪むその顔を、カメラは映す。
 『呼べば?誰も来ないから。ここどこかわかってんのお前?廃工場だよ。近くに家もねーし、大声で叫んだってだあれもこねえよ』
 聞き覚えある、これは……ボルゾイの声。
 女の子の顔が絶望に凍る。
 カメラに手の揺れが伝わる。ボルゾイが近付く。
 一歩一歩距離を詰めるボルゾイを涙に潤んだ目で睨み、女の子が叫ぶ。
 『知らない……私なんにも悪い事してない、うちに帰してよ!!』
 『悪い事してない?忘れたんだ、あの事』
 『あの事?』
 『塾帰り、自転車で。俺の足踏んで。覚えてない?覚えてなくてもしゃあないか、一瞬だったもんな。こっちはすっげー痛かったのに』
 『だって……そんな、何日前のこと言ってんの』
 女の子の顔が引き攣る。あんまり馬鹿馬鹿しくって理解不能という表情。
 壁際に追い込まれた女の子へ左右から影が迫る。
 ハッと気付いた時には遅く、左右から忍び寄った男達が手をのばし、女の子を押さえ込む。
 手足をばたつかせ激しく抵抗する女の子、拘束の手を振りほどこうと身をよじるうちに靴下がめくれ華奢なくるぶしまで露出する。
 女の子が叫ぶ
 『お母さん!!!』
 極限の恐怖に引き歪む顔に、妹の、真理の顔がだぶる。

 「もうたくさんだ……」
 知らず呟いていた。
 
 胸糞悪い画。
 正視にたえない映像。
 まともな神経じゃ鑑賞できない。
 スクリーンの中から割れた悲鳴と号泣が響く。久保田の、名前も知らない女の子の顔がー名前も知らない犠牲者の痴態がー次々とスクリーンに映し出される。
 暴行、輪姦、乱交。酸鼻な映像のパッチワークに吐き気を催す。
 耳を、塞ぎたい。
 耳に手で蓋をして、見て見ぬふり聞かぬふりを決め込みたい。

 『あっ、ああああっああ、やっ、ひぁぐ』久保田が嗚咽する『痛い、痛いよ、やめ……お願い、撮らないで、こんな』女の子が哀願する『なんでこんな目に?なんも悪い事してないのに、こんな』殴打で腫れた顔の女子高生の疑問『許してくれよ、頼むから、お前らがここでしてること言わないから……な、頼む、この通り!パシリでもなんでもやるからさ!だから頼む俺だけは見逃してくれ、俺のトモダチのそのまたトモダチでも何人何十人でもスカウトしてくるから、もっと顔がよくて撮りでのあるヤツ連れてくっから』土壇場で友達を売る学生『ああっあっひあっ』喘ぎ声……

 麻生が編集したテープには、何人、何十人もの犠牲者の映像が収録されていた。

 場面は次々切り替わる。
 場所は廃工場。加害者は入れ代わり立ち代わり十数人、被害者は色々。
 足首に下着を絡め逃げる少女を凶暴な怒号を発し群れて狩り立てる男たち。
 半裸で泣き叫ぶ少年の顔の横を風切る弧を描き鉄パイプが穿つ。
 冷たいコンクリ床に手錠をかけられ転がされた女子高生の膝を掴んで割り開く。
 ……ああ、沢山だ、本当に。麻生は俺に、これを見せてどうしたいんだ。どうさせたいんだ。
 何もできない自分の無力を痛感する。
 スクリーンの中には手が届かない。
 悔しいが、どうすることもできない。
 久保田を助けたい。女の子を助けたい。実行できるなら、とっくにしてる。
 「大丈夫か、秋山くん」
 「大丈夫、です……」
 敷島の気遣いが重い。口元を手で拭い、顔を上げー

 再び場面転換。

 「!」
 違う。廃工場じゃない。
 今度スクリーンに映し出されたのは見知らぬ部屋。
 フローリングの清潔な床、快適に広い空間……どこぞのマンションの一室か? 
 白い壁紙を貼った部屋に、太い男の声が響く。
 『お仕置きだ』
 カメラの視線が下りる。
 床に全裸の少年が這い蹲ってる。
 「…………な………」
 『苦しいか?』
 聞き覚えある声が笑みを含ませ問うも、少年は答えない。答えられない。口に棒状のギグが嵌められている。
 形良い唇を割ったギグの奥から荒い息とくぐもった唸りが漏れる。
 『……ふぐ………ふっ……』
 ギグ。目隠し。長い前髪の奥、両目は黒い布で覆われている。
 金属のギグを噛まされた口から犬みたいに涎がぼたぼた流れる。
 目隠しで覆われていても、怜悧に通った鼻梁から端正な顔立ちが想像できた。
 何故だか既視感が騒ぎ出す。
 『お前用に誂えたギグの味はどうだ。金属の冷たい味がするか。個人的にボールギグよりこっちのほうが好きなんだ、ボールギグは容積が大きすぎて顔まで変わっちまうからな』
 イヤだー思い出すなーこの声は
 全裸で這い蹲った被写体の頭に骨ばった手をおく。
 髪をかきまぜていた手が顔に移り、唇をねちっこくなぞる。
 『どんな感じだ。息が吸えなくて苦しいか』
 『………ふ………、』
 『我慢しろ。約束をすっぽかした罰だ』
 罰?
 約束? 
 カメラの角度が変わる。目隠しされた被写体の後ろに回りこむ。
 さっきから続く低い電動音の正体……被写体の後ろに黒く巨大なバイブレーターが突っ込まれ振動を続けている。
 『ー!っぐ、』
 被写体がいきなり仰け反る。
 カメラを持った人間がバイブレーターをひっ掴み、乱暴に抜き差しを始める。
 グロテスクな形状のバイブで体内をかき混ぜられ、汗で濡れそぼった髪で顔を隠し、懸命に震えを堪えている。
 『もっと奥を突いてやれ、そう……抉りこむように、手首に捻りをきかせて』
 『ぐ、ぁぐ、ふ』
 喘ぎ声はギグに遮られ濁る。
 目隠しに遮られ表情は読めないが、涎に濡れ光る半開きの唇と、苦しげに寄せた眉が倒錯した色気を垂れ流す。
 ぐちゃぐちゃと卑猥に捏ねる音。
 バイブレーターの振動が強くなり背中の筋肉が張り詰める。
 『下はどうだ?』
 自重を支えられず倒れこんだ被写体の股間に手を突っ込み、無造作に掴む。
 『……こんなに固くして……』
 カメラが正面を向く。
 そこにいる人物を見て、敷島ともども絶句。

 「梶」 

 数学教師の梶がいた。
 目隠しされギグを噛まされ、バイブで責められる被写体の股間を邪悪な笑みでまさぐっている。
 淫猥さと狡猾さを織りまぜた含み笑いが既視感を揺さぶり起こす。
 「梶先生が……?これは一体どういうことだ………」
 敷島が息を飲む。
 『イきたいか?バイブレーターで責められてこんなになるなんて真性の淫乱だな、お前は。こんな悪趣味なオモチャで感じるのか?』
 嘲笑を含む揶揄が耳朶に触れる。
 梶が白い歯を零し、非情な手で被写体の前をしごく。
 『ふ、ふっ、ぁぐ』
 鑢をかけるようにきつく擦り上げるも、根元をベルトで縛られてるせいで射精に至れず嗚咽が喉に詰まる。
 『何か言いたそうだな』
 塞き止められ赤く怒張した性器をいじくりつつもう片方の手でギグを外してやる。
 涎に塗れたギグが外れるや息を吹き返し、激しく咳き込む。
 目隠しはされたまま、しかし枷が取り除かれ自由になった口を動かし、途切れ途切れに懇願する。
 『……イ……かせて………』
 『もう一回』
 『イかせてくれ……』
 からからに嗄れた声。
 梶はわざと意地悪くとぼける。
 その膝に縋り付き、上体をずりおこし、バイブの動きに合わせ腰を揺すりながら言う。
 『心がけ次第だな』
 梶の指がしつこく唇を這う。
 薄く唇を開き、その指を咥え、赤ん坊のように無心にしゃぶる。 
 唇の隙間から覗く舌が淫らに赤い。
 根元まで涎まみれにした指を放し、梶の股間を探りあて、性急にジッパーをおろし、下着の隙間からそれを掴み出す。 
 抵抗なく口に含む。
 右手で根元を支え、左手を添え、夢中で舌を絡める。
 床に転がったギグ。
 体内で暴れ回るバイブの凶暴な唸り。
 後ろをバイブで責め立てられつつ前の口でも奉仕する。
 『は……従順だな……なんであの日はさからったんだ?お前らしくない。俺の呼び出しは絶対だ、そうだろ』
 呼び出し。あの夏の日。深夜、麻生にかかってきた電話。 
 俺が駄々をこねたから
 止めたから
 行かないでくれと頼んだから
 「やめろ」
 『新しくできたお友達とワイワイ遊んでるうちに自分の立場を忘れちまったか?』
 梶が征服者の愉悦に満ちて笑い怒張を咥えこむ被写体の髪をゆっくりかきまわす。
 目隠しの向こうで苦痛に顔が歪む。
 唇が艶っぽく濡れ光る。
 手と連動し性器に舌を這わせ、絡め、繊細な技巧を凝らし劣情と性感を高めていく。
 完全に一方的な奉仕。
 盲目の犬のような。
 絶対服従のドレイ。
 『は…………』
 性器を掴んだ手が止まる。
 バイブの唸りが一層高まる。
 被写体が前屈みになり、肩が不規則に跳ねる。
 『前………ほどけ……』
 感電したように跳ねる肩。
 ベルトで圧迫され意地悪く塞き止められた前は、下腹に付くほど反り返っている。
 『俺に命令か?ほどいてほしけりゃ最後までやりとおせ』
 痛みを堪え、再び舌を使い出す。 
 先走りの汁を啜り、唾液と混ぜてこね回し、喉の奥まで深く咥えこむー……
 『ーッ、』
 梶が顔をしかめる。射精の瞬間、被写体の前髪を強く掴む。
 咄嗟に口から抜こうとするも間に合わず、黒い目隠しの上に大量の白濁が飛び散る。
 『いい子だ』
 梶が手をのばし目隠しを毟り取る。
 外気に晒された顔は、俺のよく知る……

 「あ………」

 眼鏡をしてないせいで一瞬だれだかわからなかった。
 
 「麻生……?」

 名前を呼ぶ。
 スクリーンの中には届くはずもない声で。
 スクリーンの中には届くはずもない指先を、暗闇にのばす。

 懐中電灯が床に落下、足元に転がる。
 スクリーンに麻生が閉じ込められている。
 
 首にずり落ちた目隠しの布。
 目尻は赤く上気し、生理的な涙に潤み、弛緩した唇から涎が一筋伝う。
 人を寄せつけぬ輪郭の鋭さはかき消されていた。
 息も絶え絶えに疲れきった表情。
 嬲られ虐げられ顰めた眉に憔悴の色が濃く蟠る。
 純粋な苦痛と被虐の快感とに潤む瞳。
 梶が放った白濁に塗れ生白い肌を上気させ、淫乱な本性を曝け出す姿態。
 しどけなく濡れた前髪に隠れ、焦点の定まらぬ目がじっとこっちを見る……

 携帯が鳴る。
 即座に通話ボタンを押し、耳に付ける。
 『見たか?』
 落ち着き払った声が聞く。
 スクリーンでは行為が続く。
 梶がズボンをおろし下半身を剥き出し、麻生にのしかかる。
 「………見たよ」
 目を瞑る。
 平静を繕って……駄目だ、声が上擦る……手に滲む汗で携帯が滑る。
 目を瞑るー見たくない、もう見たくないーなのに目を閉じても追いかけてくる、図書室で目撃した光景が瞼の裏に上映されて、今さっきスクリーンで見た画と溶け合って、麻生の痴態が、唾液を捏ねる音が、夢中で舌を絡める音が再生される。
 梶のものに浅ましく舌を這わせる顔 
 『興奮した?』

 心臓が凍る。

 「なにを、」
 『俺を抱きたいか』 
 携帯を通し耳元で低く囁く。
 誘惑。挑発。
 スクリーンでは麻生が梶に抱かれている。
 麻生が梶に組み伏せられ爪を切った手を背中に回し
 
 あの日と同じ光景が

 衝動が炸裂、手近の椅子をひったくって力任せに映写機を殴り倒す。
 映写機が横倒しに吹っ飛び床に激突、スクリーンの映像がプツンと消える。
 「秋山くん、落ち着きたまえ!!」
 敷島が制止するも腕をおもいっきり振りかぶってスクリーンに椅子をぶん投げる。
 「こんな……っ、こんなビデオ俺に見せてどうさせたいんだよ!!?」
 『人は見たくないものから目をそらす習性がある。お前もだ、秋山。盲点は願望が作り出す。答えは目の前にあるのに』
 「意味不明な禅問答よせよ、はっきり言えよ!!」
 『俺の裸見たろ』
 麻生の裸。痣と傷だらけの裸。肩甲骨の火傷のあと。
 『あれを見て、なんですぐ売春組織と結び付けなかった?黒幕が学校の教師だとわかったならなおさらだ。他にもお前は見落としてる。見たくないものには目を塞いで……すぐに忘れて。工場に来た時、俺がなんて言ったか覚えてるか』
 あの人に教えてもらった。
 『あの人の正体わかったか』
 冷静に聞く。
 俺にあのビデオを見せたあとで、陵辱シーンを見られたあとでどうしてこんな冷静な声が出せるのかふしぎだ。
 「……思い出したよ、全部」
 忘れたかった。忘れていたかった。
 忘れたままでいれば関係を壊さないでいられる、麻生はどこへもいかない。
 
 麻生を失いたくなくて自分に嘘を吐いた。
 自分をごまかし続けた。
 
 虚構に捏造を上塗りして。
 被害者同士の接点をあれこれ模索して推理をわざと複雑にして。
 麻生が梶を殺す動機なんか、はっきりしてるのに。

 『見て見ぬふりしろって警告したよな』
 「麻生、俺は……」
 『そろそろ終わりだ』
 
 反射的に液晶の時刻表示を見る。
 11:10分。
 タイムリミットまで一時間をきった。

 『箱の中の猫が生きてるか死んでるか、お前自身の目で確かめてくれ』

 俺にはそれが、助けてくれと聞こえた。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010315231200 | 編集

 十一月中旬某日、放課後。
 俺は図書室にいた。
 「ケストナー、ケストナー……Kで始まる外国文学……待て、児童書?でも人生処方詩集って名前が付くくれーだから詩集の棚か。あ、待て、フルネームだとエーリヒ・ケストナー?じゃあKでさがしてもだめか、Eからいかねーと。くそ、最初からやりなおしか、めんどくせー」
 ぶつぶつ呟きつつ片っ端から棚を見ていく。ちがう、ここじゃない、ここもはずれ。がっくし。
 本当なら今頃部室にいるはず、部室でスナック菓子の袋開けてペットボトル回し呑みして聡史とくっちゃべてるはず、だった。
 放課後のリフレッシュタイム、輝かしい青春のひととき。
 ところがなんの因果か、人けのない図書室の二階を徘徊しつつぶつぶつ独り言を呟いて一冊一冊指さし確認を行ってる。
 最近部室に寄ってない。
 理由は単純明解、麻生に合わす顔がないからだ。
 あれから麻生とのあいだはぎくしゃくしてる。教室でも口をきかない。
 お互い意地になっちまってる……いや、ちがう。
 「意地張ってんのは俺か」
 渋面で自嘲する。
 喧嘩別れしたあの日から麻生の態度が変化した。
 俺のペースに合わせ軟化した態度が一気に四月の時点に逆戻りして、冷戦状態がかれこれ一週間も続いてる。
 たった七ヶ月前の事が何年も前の事のように思える。
 出会いから七ヶ月経て縮まった距離、日ごと積み重ねてきたものが白紙に戻っちまったようなむなしさが胸を吹き抜ける。

 『助けてくれなんて頼んでねーよ』
 『お前が勝手にしたんだろ』

 あの時の俺の態度、あれはない。
 あの時、間一髪麻生が廃工場に来てくれなけりゃ今頃ここにこうしていなかった。俺は身も心もぼろぼろにされて、とっくに壊れちまってたかもしれない。
 麻生は二度も助けに来てくれた。
 自分だって危なかったのに。
 袋叩きにあったのに。
 「……だよな」
 後悔の苦味を噛み締め、反省する。
 時間を巻き戻せるならあの日麻生に暴言吐いた自分をぶん殴りたい。
 挑発されたから。
 売り言葉に買い言葉で。
 俺が悪いんじゃない。一方でその気持ちも心の片隅に根強く残ってる。
 でも。
 ガキっぽい反感を帳消しにするほど、麻生からもらったもんはでっかくて。
 『制服に擦れて痛いんじゃないか』
 あれからだいぶ経って腫れは引いた。
 癒えないのは胸の痛みだけだ。
 「……セクハラじゃねーか、あれ。なしだろ、なし。男相手にセクハラとか使うのもビミョウだけど……擦れて痛いとか、あんな……知ってるくせに……あたりまえじゃねーか……自分が抜いたくせに」
 激しくかぶりを振って頬の火照りを冷ます。
 今日ここに来たのは一冊の本をさがすため。
 タイトル、人生処方詩集。作者はエーリヒ・ケストナー。こないだ麻生が読んでた本だ。
 どうにかして仲直りの糸口を見つけたい。
 麻生が読んでる本を読めばあいつの事がもっとよくわかる気がした。
 「『読んでる本を言え、君がどんな人間かあててみせよう』ね……」
 ぶっちゃけ、麻生については知らないことだらけだ。知らないことのほうが断然多いくらいだ。
 家族の事。マンションで一人暮らしする理由。全身の痣と傷の真実。 
 『大事な人が亡くなったんです。譲さんの支えだった人が』
 過去に亡くしたという大事な人。
 感傷的な台詞を反芻し、ひとりごつ。
 「……………支えか………」
 大事な人。どんな人だろ。男?女?……想像できねえ。あの麻生がだれかに心を許すところなんて、上手く思い描けない。
 処方箋が欲しい。どこがどんなふうに悪いか、症状がちゃんと書いてある紙が欲しい。
 ないから苦労する。外から見ただけじゃどこが悪いかなんてわからねえ。
 もし話してくれるなら、俺は
 
 かすかな物音、人の気配。

 「!」
 俺以外だれもいないとおもってたから不意打ちだった。反射的に隠れる。
 「-て、隠れることねーか……」
 誰かが二階にやってきた。誰?……靴音は二人分。二人連れか。
 ズボンのポケットから携帯を引き抜き時間を確かめる。五時三十分、もうだいぶ遅い。
 こんな時間に、図書室に用?
 「めずらしー……うちのガッコに閉館ぎりぎりに駆け込んでくる感心な本好きいたっけ、俺と麻生と聡史以外に」
 待て。
 巨大な書架になかば身を隠し、慎重に階段の方をうかがう。
 予感は的中した。
 書架の入り口に見覚えある学生がいた。
 ほんの数時間前まで、真後ろの席でノートをとってた優等生だ。
 麻生。
 「……そっか。ここ、あいつのプライベートエリアだもんな」
 学校のいち施設がプライベートエリアってのもおかしいけど、実際毎日のように図書室に入り浸ってる物好きは麻生くらいのもんだ。
 俺も四月中はちょくちょく足を運んだ。
 部活勧誘が目的で、麻生の隣に腰掛けてぺちゃくちゃしゃべりかけちゃ読書のジャマをした。
 「………よし」
 チャンス。
 さあ行け、がばっと謝っちまえ、土下座で……いや待て、土下座は引く?引くだろ常識で考えて、アホか。
 書架に背中をはりつけぐるぐる葛藤する。
 一念発起とびだしかけ、待て待てとはやる心の手綱を引く。
 だってこの状況まるでストーカーみてえじゃん、勘違いされたらどうする、待ち伏せとか誤解されたらきもすぎかっこ悪すぎもうどん引き。
 いや、考えすぎだ。堂々としてろ俺。
 俺はなにも麻生を付け回してたんじゃなくてあいつが読んでた詩集をさがして図書室に来たらたまたま後から本人が現れたわけで、だからやましいところなんて別に
 「ーよし、メルカトルが憑依した。挨拶は『謎ある限り戦います、命燃え尽きるまで』」
 深呼吸で度胸を吸い込み、いざ出陣……

 「こんな所に連れ込んで何の用?学校じゃお互い近付かない取り決めじゃなかったか」
 麻生の声。
 「たまには趣向を変えてみるのもいい」
 答える、これは……聞き覚えある太い声。
 誰?

 咄嗟に身を翻す。
 書架に背中を付け、西日さす通路をそろそろとのぞきこむ。
 書架を背にたたずむ麻生、その正面に立つ体格のいい男。
 「最近つれないからな、お前。こうして無理に連れてこなきゃまたあの退屈な部活に行っちまうだろ。秋山が部長やってる……ミステリー同好会、だっけ。くだらない。テストでも下から数えたほうが早いおちこぼれのくせに、本に書いてあること理解できるのか」
 俺の名前が出た。あからさまにばかにしきった口調。西日が暴く横顔に、息を呑む。
 数学教師の梶。
 「推理小説にかけちゃ俺よりくわしい」
 「本当か?信じられない」
 「好きな事に関しちゃ全力投球なんだ、あいつは。勉強は全然だけど」
 「やけに親しげな口ぶりだな」
 「……別に。見てて面白いけど。ころころ表情変わって飽きない。犬みたいに人懐こい」
 「類は友を呼ぶ、か。犬同士惹かれあったか」
 「……絡むなよ。アイツは別に……うるさくじゃれてくるから相手してるだけさ。どうでもいい」
 『どうでもいい』。
 眼鏡のレンズが西日を反射し、表情は暗く沈んで読めない。
 「どうでもいいのか。それにしちゃ仲良しじゃないか、いつも一緒に行動して。秋山、あいつ、お前の事が大好きみたいだな。犬ころみたいに息弾ませてお前のケツ追っかけて……懐かれて悪い気はしないだろ」
 梶が含み笑い、書架に寄りかかる麻生の顔の横に手を付き、ぐっとのしかかる。
 推し量るような沈黙をはさみ、レンズごしの目をすっと細める。
 「嫉妬?」
 「ここでするか」
 「したいのか」
 「お前次第だ」
 「人がきたら」
 「誰も来ない。誰もいない。司書は所用で外してる」
 「……根回し万全か」
 なんだ、この会話。雰囲気がおかしい。
 麻生と梶……優等生と教師……意外な組み合わせ。
 二人が一緒にいるところを初めて見た。
 ちがう、前に一度……そうだ、あれは五月、俺が廊下で麻生を掴まえてそしたら梶がおっかない顔でとんできて、俺を即引き離して……
 「俺が欲しい?」
 麻生が挑発的に笑った瞬間、教師と生徒の一線が消える。
 書架から覗く俺の視線の先、梶が上体を傾げ、麻生の顎をくいと摘む。
 麻生は何故か抵抗しない。
 他人にさわられてるのに。
 潔癖症かよって突っ込みたくなるくらい、普段そういうのにうるさいのに。
 梶の手を退けるどころか、その手に身を委ね、緩慢に顔を上げる。
 おもむろに梶が動く。
 ゆっくり顔が重なっていく。
 二人の間で距離が消失、唇が触れ合い、舌が絡む。
 「ん」
 麻生が仰け反る。噛みつくようなキス。
 獣が肉を貪るような野蛮さで唾液に濡れた唇を吸う。
 「………!っ、」
 動揺。混乱。麻生が。梶と。教師と……見間違いじゃないか?
 だってそんなわけない、なんで麻生が嫌われ者の梶と?男同士じゃん。アイツ、だって、彼女が『お前には関係ない』ちがうそんなこと一言も言ってない、麻生は一回も彼女がいるなんて言ってない、全部俺が勝手に思い込んだだけだ。
 でも、じゃあ、あの首筋の痣は……
 「は、ふ」
 禁欲的な黒い学ランに西日が映える。
 斜陽が床に二等分線を引き、麻生の半身と梶の横顔が朱に染まる。
 「お前のキスはエクスタシーの味がする」
 「あんたには似合わない」
 「何なら似合う」
 「マルボロ、セブンスター」
 「王道だな。……宗旨替えだよ。エクスタシーならほとんどニコチンが入ってないから健康にいい、教師なんかやってると自己管理をしっかりしろって上がうるさい」
 「健康に気遣う年?」
 「十代の頃のようにはいかない」
 梶が背広から出した煙草の箱。
 羽に緑の光沢を帯びた蝶……麻生とおなじ銘柄。
 梶からは麻生とおなじエクスタシーの匂いがした。
 「図書室は火気厳禁」
 「うるさいこというな」
 ライターを出し着火、深々と紫煙を吐く。沈黙。
 茜色の鈍い陽射しが床の木目にたまった塵を掃きそめる。
 麻生が無表情に口を開く。
 「俺の事、伊集院に売ったのか」
 「あん?」
 「秋山が拉致られた場所あっさりしゃべったろ。最初から伊集院に犯らせるつもりだったのか」
 意味深にほくそえむ梶を冷めた目で見返す。
 と、梶の指から煙草をもぎとり、真ん中でへし折って床に捨てる。
 「輪姦くらいいまさらどうってことないだろ?お前なら」
 ボルゾイの黒幕はうちの学校の教師。
 地元有力者の血縁で、警察とも繋がりがあって、おちおち手を出せない人物。
 馬渕の証言が梶の笑みに重なる。

 売春組織の元締めの正体は、数学教師の梶。

 「……………!」
 梶はボルゾイの裏で糸を引いていた。
 目を付けた標的を廃工場に拉致し、輪姦ビデオを撮り、それを同好の士の間に流し売春を斡旋していた。
 それなら筋が通る。
 ボルゾイは贔屓が激しくて有名な梶のお気に入りだった。
 その悪知恵と交友関係を見込まれ、被写体調達係として梶にスカウトされたんだとしたら……梶は黒幕、ボルゾイは実行犯。
 ボルゾイと梶は裏で繋がっていて、梶と麻生は
 ちょっと待て。ふたりはどういう関係だ?
 「怒ってるのか?」
 「どうだか。……その後伊集院から連絡は?」
 「別のマンションに匿ってる。仲間と一緒に。当分じっとしてろって言い含めたから大丈夫だろ。放火容疑もかかってるし、今動かれちゃこっちが困る」
 「伊集院の逃亡を手引きしたのもあんたか」
 「元同級生の消息が気になるか。そんな人情があったとはな」
 「……別に。あいつがどうなろうがどうでもいいけど、二度と顔は見たくない」
 「廃工場で何があったんだ?」
 「…………」
 「まただんまりか。都合が悪くなるとすぐそれだ」
 「あんたが想像してるとおりだよ。話すまでもない」
 「伊集院とヤッたのか」
 「あんたの方がいい」
 麻生が笑う。
 俺の見たことない顔で。
 俺に見せたことない顔で。
 「伊集院は一人じゃ満足させる自信がないからぞろぞろおまけを引き連れてくる。あんたはちがうだろ」
 眼鏡の奥、怜悧な切れ長の双眸が打算的な光を孕む。
 こんな麻生、俺は知らない。俺が知ってる麻生じゃない。
 登下校中俯き加減に本を読む麻生『うるさい、集中して読めない』話しかけると露骨に迷惑そうに眉をひそめ『黙ってろ』俺の胸ぐらを掴み警告した『もう関わるな』『首突っ込むな』『関係ない』ちがう、俺が知ってる麻生はこんなー……
 梶の手が襟元にかかる。
 じゃれるようにボタンを外していく。
 開かれた襟から覗く首筋、シャツから零れる白い胸板に乱れ咲く薄赤い痣、上品に浮いた鎖骨。
 梶の手がシャツの上で円を描き遊ぶ。
 「淫乱だな。もう尖ってる」
 シャツの上から乳首をひっかかれ、前に突っ伏した肩がびくりと跳ねる。
 「―あんたのせいじゃないか……」
 「自分が感じやすいのを人のせいにするなよ。ああ、俺の躾の成果だって言いたいのか?そうか……一年になるんだもんな……一年間も壊れずによくもったよ、感心してる。普通ならとっくに精神が壊れてる。正直いつ退学届けを出すかひやひやしてた」
 「退学届け受理してくれるか」
 「まさか。俺がお前を手放すわけないだろう」
 「……だと思った」 
 「知ってるか、権力ってのは濫用するためにあるんだぞ」
 「知ってる。身近にふたりほど手本がいる」
 「俺と、もうひとりは?」
 「秘密」
 前戯に似た軽口の応酬をしつつ、まどろっこしげに裾をさばき学ランの前を開く。
 「お前だってもう俺なしじゃいられないカラダのはずだ。一年かけて仕込んだんだからノーマルなセックスじゃイけないはずだ、ちがうか」  
 「…………っ………」
 「俺が欲しくてたまらなくて体中の穴が疼く。女を抱くより抱かれる方がいい。お前のいいところは俺が一番よく知ってる………はは、笑える、麻生……みんな上っ面に騙されて……知らないんだ、本性を。制服を脱いだお前がどれだけ」
 「どれだけ、何?」
 「アブノーマルか」
 シャツの内側で発情した蛇のように手が蠢く。
 「優等生?すらすら流暢に数式を解く口で、夢中で俺のもん頬張ってしゃぶりまくるくせに。俺が出したもん一滴残さず呑むくせに。床に零れた分まで犬のように這い蹲って啜るくせに。お前だって知ってるだろ麻生、自分がどれだけ淫乱か。前に鏡で見せてやった、ビデオに撮って見せてやったろ」
 「変態、っぐ!!」
 梶がいきなり肩に噛みつく。
 突き立てた犬歯を滴り、学ランの肩にじわり唾液が染みていく。
 唾液を吸いどす黒く染まった肩に喰らいついたまま、邪悪にくぐもった笑いを漏らす。
 「……はなせ……」
 肉を噛む梶を引き離そうと懸命にもがく。
 今度こそ飛び出そうとした。
 床を蹴り、とびだし、駆け出して。力尽くでもなんでも、麻生を梶から引き離そうとした。
 だって、痛がってるじゃないか。いやがってるじゃんか。
 今度は俺が麻生を助ける番だ、今までの借りを返す番だ。
 書架から飛び出そうとして
 「………………」
 全身の血が凍りつく。
 「は………っ、ん……」
 麻生の手が。
 梶の肩を弱弱しく叩いていた手が、諦めたように肩に添えられ、抱擁をねだる。 
 梶の肩を抱く。
 腰を浮かせ、足を広げ、体を開き。自分から積極的に迎え入れる体勢を整える。
 窓からさしこむ西日が二人を照らす。
 耳を塞ぐ。息を殺す。
 「麻生………」
 見間違いじゃない。
 書架から飛び出しかけたあの一瞬、麻生はたしかに笑っていた。
 梶に制服の肩を噛まれ、ずれた眼鏡の奥で、とろけそうに笑っていた。
 イヤなら本気で抵抗するはず。
 抵抗しないのは、合意だから?
 教師と生徒で、男同士で、だってそんな……笑い飛ばそうとして、顔が引き攣る。
 俺はボルゾイに犯られかけた。
 久保田は廃工場でレイプされた。
 なら麻生と梶ができていても、なにも不自然じゃない。
 梶はあの人で、麻生はあの人に俺の居場所を教えられて廃工場に来て、あの人は梶で、梶と麻生は一年前からそういう関係で、俺と親しくなるずっと前から麻生と梶は……

 『これ以上首を突っ込むな』
 麻生の体の傷は。
 『危険には近付くな、見て見ぬふりだ。他の連中がどんな目に遭ってようがお前には関係ない、赤の他人がいちいち気にかけてやる必要ない』
 麻生に傷をつけたのは

 共犯。

 「あ、あっ、あっ」
 『何が少年を苦しめているのか』
 耳を塞ぐ
 塞いでも塞いでも聞こえてくる
 『少年期が死んだのです。今 彼は喪に服し 黒服を選んだのです』
 「はっ……」
 切なく吐息を漏らし仰け反る。
 『彼は中間に立っているのです そして隣に 彼は大人でもなく 子供でもありません』 
 俺の知らない麻生がいる。
 寄せては返す波のように抑えても抑えても込み上げるものをおさえきれず、淫乱な本性をさらけ出し梶に抱き付く。 
 乱暴に揺さぶられ、立ったまま負担を伴う行為を強いられ、前髪を額にばらまき喘ぐ。
 「ー……っ、先生……」
 こんな声、知らない。
 こんな、甘えるような声は。
 「どうした麻生、顔が赤いぞ。感じてるのか」
 梶がせせら笑い、麻生を貫く。
 冷静沈着な優等生が、俺と部室に居る時だって無表情に本を読んでるのに、梶にこんな、めちゃくちゃに貫かれて完全に余裕を失くしてる。
 長身の麻生より梶の背はさらにでかく、筋肉質で体格もいい。
 性欲剥き出しの下卑た笑みを浮かべ、残酷な手で麻生の膝をこじ開け、律動的に突く。
 見るな、聞くなー「っあ」粘膜がぶつかりあう「……は、ぃぐ、ぁ」麻生、麻生、麻生『少年期が死んだのです』黒い服を着て喪に服す『彼は中間に立っているのです』俺はどこに、麻生はどこに『彼は大人でもなく子供でもありません』「あっ、あっ、あっ!」
 気付けばズボンの股間が固くなっていた。
 「どうして欲しい、麻生」
 梶の勝ち誇った声。
 優位を誇示するような意地悪い囁きに、学ランの前をしどけなくはだけてねだる。
 「もっと奥………」
 「欲しいか」
 従順に頷く。
 梶が腰をえぐりこめば、厚い肩にない爪を立て喉の奥からくぐもった声を漏らす。
 今の麻生からは、異端とか孤高とかあいつを集団から浮かせる異質なオーラが感じられない。
 ただ、ひたすらに淫らで。
 眼鏡の奥で伏せた目は倒錯した快感に潤み、頬は淫乱に上気し、虚脱と恍惚が綯い交ぜとなった表情がたまらなく嗜虐をそそる。
 ズボンの股ぐらを掴む。
 「……さっさとイかせろ……」
 「言葉遣いがなってないな」
 「………イかせて………」
 「敬語は?」
 「イかせて、ください」
 「先生を付けろ」
 「-先生……イかせてください……」
 「具体的にどうしたいんだ?ちゃんと口で説明しなきゃわからないだろ、国語の成績いいくせに」
 「……中……入ってるの、もっと動かして……突き上げて……っあ、は、揺す、って、前、擦って、めちゃくちゃに、あ」
 「続けろ」
 「……射精したい……イきた、イかせ、て」
 「大好きな本に囲まれて犯されて嬉しいだろ?夢中で腰ふって俺をくわえこんで、白痴みたいな顔で口から涎たらして興奮しまくって、優等生の評判が泣くぞ。前もこんなに勃たせて、悪い子だ。そんなに俺がいいのか、本棚に寄りかかって立ったままされるのが気持ちいいのか?背中がゴリゴリ擦れるのが気持ちいいか、誰に見付かるかわからないスリルがたまらないか、マゾ犬!!」
 逞しい手が前髪を掴み腰を激しく突き上げ「あっ、ひっ、あっあっあ」罵られ嬲られ蔑まれ「マゾ犬、マゾ犬、マゾ犬!俺の言うことだけ聞いてればいい、余計なことはするな考えるな首輪付きの飼い犬でいろ、友達なんか作るな目障りだ俺といる時間がへるだろ、お前には俺さえいりゃあいいそうだろそうだよな、俺が遊んでやりゃ十分だよな、こんなに可愛がってやってんのに手を噛むとかありえないよな、肩に焼印くれたくらいじゃ反省しないか、お前は」麻生の髪と腰を揺さぶり哄笑する、痛みに歪む麻生の顔、歪み、笑い、笑い……
 爆ぜる。
 「はあっ、はっ、は……」
 梶のシャツを掴みへたりこむ。
 膝を屈した麻生の腹に、ねっとりと白濁が散る。
 「後始末しとけ」
 シャツにしがみ付く麻生の手をもぎはなし、ズボンを引き上げ立ち去る梶。
 靴音が遠ざかり、やがて消滅する。 
 書架に背を預けしゃがみこんだ麻生は、そのまましばらく放心していたが、行為の余熱が冷めるのを待ち、のろのろと下着を引き上げる。
 
 西日が赤々と染める図書室。
 ズボンを引き上げると同時に力尽きたか、快楽の余韻にひたりきって虚空に視線を投じる麻生が、その時、線の向こう側に消えてしまいそうに感じた。 
 境界線のあっち側に行っちまったきり、二度と帰ってこない予感がして。
 
 発作に駆られ立ち上がる。

 物音に反応し、緩慢にこっちを向いた麻生が、眼鏡の奥、微熱に潤んだ目を億劫げに細める。
 「………秋山………?」
 瞳の焦点が徐徐にあっていく。
 最初は驚き、そして当惑。
  
 残照に輪郭をぼかし、逆光を背負った俺を眩しげに仰ぎ、無音で唇を動かす。

 なんで
 とも、
 見るな
 とも、
 
 衝動が爆ぜる。
 床を蹴り、書架の間を駆け抜ける。麻生は、追いかけてこない。俺は振り向かない。振り向けるわけが、ない。
 あの光景を見た直後で。
 だから、逃げ出した。麻生を見捨て、おいてけぼりにして。
 頭がぐちゃぐちゃで、息ができなくて、胸が苦しくて、走っても走っても残像が振り切れなくて、麻生の顔が追ってきて、麻生の声が耳の中で響いて、あんな、あんなー……
 
 怖かった。
 本能的な恐怖を感じた。
 あの時、狂ったように哄笑する梶に激しく貫かれながら、麻生は笑っていた。
 悪魔が本当にいたとしたら、きっと、あんな顔をしてる。
   
 『何が少年を苦しめているのか』
 耳を塞ぐ
 塞いでも塞いでも中から外から聞こえてくる
 『少年期が死んだのです。今 彼は喪に服し 黒服を選んだのです』
 『彼は中間に立っているのです そして隣に 彼は大人でもなく 子供でもありません』 
 
 梶に抱かれながら、麻生の内側は冷えて燃えていた。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010314221155 | 編集

 「なんで十二月を師走っていうか知ってるか?」
 「知んね。なんで?」
 「師匠が走るからだよ」 
 「まんまじゃん。意味わかんね。師匠って何、K1?なんで冬になると師匠が走んの?大晦日の頂上決戦に備えて走りこみの特訓?」
 「師走はあて字。ほんとは師馳すって書く」
 宙にすらすらと字を書く。せっかくだけど、わかりません。自慢じゃないが俺は全科目低迷中で、とくに古典はひどい。
 白い息を吐きながら宙に字を書く指先を辿る。
 寒気で眼鏡のレンズが曇り、表情を地味に隠す。
 俺たちは一緒に歩いていた。
 十二月十日、本格的な真冬日、木枯らしすさぶ帰り道。
 「師匠は坊主のこと。坊主が走り回るほど忙しくなるから師馳すだって」
 「え?なんで走んの?年末葬式たてこんでるの?さみいから心臓麻痺とかでぽっくり逝っちゃうお年寄り多いってことか。あ、俺のじいちゃんが死んだのも十二月だ」
 「短絡だな」
 むっとする。
 「じいちゃんばかにすんな。死人に鞭打つなんて最低だぞ」
 「いや、お前の短絡思考を馬鹿にしてるんであって、故人には敬意を表する」
 「ならいい……待て、よくない。それ結局、俺ばかにしてんだろ」
 「ばれたか」
 性格が悪い。
 「とにかく、僧侶が袈裟からげてあたふた走り回るくらい忙しいから師走なんだってさ」
 「へえ。へえ。へえ」 
 「古くね、それ?」
 麻生は淡々と続ける。
 「年が果てる意味の年果つから変化した説、四季の果てる意味の四極から変化した説、一年の最後になし終える意味の為果つから変化した説もある」
 「さすがオールAの優等生はおっしゃることがちがう」
 「お前こそ。古典の授業中なに聞いてたんだ」
 「寝てた。六限の古典は睡眠タイム。部活にそなえて英気養っとかなきゃ」 
 「引退したんじゃないのか」
 「休止中なだけ。春になったら再開する。将棋でいうと穴熊だな、今は穴ごもりなの。だってさー部室暖房入ってないから寒ぃじゃん。今は積みゲー崩し期間なの、徹夜で。ドラクエが俺を待ってる。あれ、ドラゴンほとんど関係ないのに、なんでドラクエっていうんだろ。ファイナルファンタジーも謎。十本以上出てるくせしてなにがファイナル?」
 「購買者の気力がファイナルなんだろ」
 「……お前頭いいな」
 学校の行き帰り見慣れた坂道は陰鬱な鈍色に沈んでいた。
 長い長い、永遠に終わらないかに思える坂を歩調をあわせ歩く。
 「そういや沢田は?」
 「久保田と帰った。俺は待ってるからいいって、先帰れって言ったんだ。ほら、アイツも先輩離れの時期だし」
 自然と顔がにやけちまう。
 「なに?気になんの?」 
 「別に。いてもいなくてもどっちもでいいけど、いなけりゃ静かで助かる」
 「またまたーほんとは寂しいんじゃね?しずかすぎて落ち着かねーだろ」
 「お前ひとりでも十分うるせえ」
 一本とられた。
 「けど聡史のこと気にするなんて意外。部室じゃ互いに無視しあう犬猿の仲のくせに」
 「俺じゃない、あいつが一方的に噛みついてくるんだ」
 「部員の自覚が芽生えてきたか?嬉しいね」
 「……聞いてねーし」
 いい傾向だ。部員の協調性のなさに頭を悩ましてきた俺としちゃ嬉しいかぎり。
 本にしか興味がなかった麻生も、俺たちの努力が実を結び、ここにきて漸く周囲に関心を持ち始めたらしい。
 「ま、ぜんぜん寂しくないっていや嘘になるけど、後輩の巣立ちは祝ってやんねーとさ」
 久保田と一緒に帰るとすまなさそうに言い出した聡史を、俺は引き止めなかった。そっかと笑って送り出してやった。
 若い二人をジャマしちゃ悪い。
 小学校の頃から俺のあとをついてまわった聡史が同い年の友人を選ぶようになったのは遅めの自立の兆候、寂しくもあり嬉しくもありだ。
 冬枯れの帰り道。
 勝手に動く口と裏腹に俺はぐるぐると考えていた。
 あの事は忘れる。
 忘れたふりをするのが俺にとっても誰にとっても一番いい。
 麻生とは一応仲直りした。
 図書室で目撃した出来事には一言も触れなかった。
 上手い芝居とは言えない。気を抜けばボロが出る。
 俺は知らない。何も見てない。だからなにも変わらない。
 友達と家族がいる他愛ない日常を守りたい。その為なら名もない被害者を犠牲にしてもいい。
 目と耳と口を塞いで知らんぷりをする。廃工場の一件は忘れる、ボルゾイの事は忘れる、あの人の事は忘れる。みんなみんな忘れちまえ、頭の悪い犬みたいにほじくりかえすな。俺が首突っ込んで事件を嗅ぎまわることを被害者は望まない。久保田を例にとりゃわかる、自分の身に起きた悲劇が広まるのをあんなにおそれていたじゃないか。
 時として平凡な人間の好奇心と善意が被害者を追い詰める。
 何より俺は、あの人と麻生の関係を知っちまった。
 「……………」
 あの人の正体と犯罪を警察に訴えたとして、そしたら麻生はどうなる?
 関係が暴露されて困るのは麻生だ。
 教師と生徒、しかも男同士で性交渉をもった。合意の愛人関係だった。
 偏見、中傷、迫害。最悪の想像。
 麻生が梶の犯罪を幇助してたら? 

 『秋山はどうでもいい』 
 『伊集院の逃亡を手引きしたのもあんたか』

 会話の断片を思い出す。
 麻生は俺と出会う前からずっと、一年近くも梶とできていた。
 騙されていた。
 裏切られてた。
 ずっと、ずっと。七ヶ月もの間俺を騙し続けていた。
 廃工場にタイミングよく現れたのは梶のさしがね、首突っ込むなという警告は身バレを防ぐため。
 保身と打算。
 事件を嗅ぎまわられちゃ困るから釘をさした。
 どこからどこまで麻生の意志で梶の命令なのか……
 「いつもは二人分うるさいくせに今日はやけに静かだな」
 顔を上げる。隣を見る。長い足を蹴りだしつつ、麻生がかすかに不審そうに目を細める。
 「ばれたか。実は」
 自転車をとめ、鞄を開けて中をさぐり紙袋をとりだす。
 「じゃーん」
 効果音つきで突き出した紙袋を一瞥、麻生が怪訝な顔をする。
 「なにこれ」
 「今日は何の日?ヒントは」 
 「お前がバカになった日」
 「もう手遅れだって。じゃなくて、ヒント!聞けよ!」
 「三億円事件発生日」
 「マイナーすぎ。そういうマニアックな知識どこでしこんでくんだよ、本か、本なのか?」
 「ヤフーとグーグル」
 「今のボケ?真顔で?」
 本当にわからないという困惑顔。こいつの困惑顔なんてめったに見れるもんじゃないからよく拝んどこう。
 坂のなかば、道のど真ん中で振り返り、紙袋の向こうからひょこっと顔を出す。
 「十七歳おめでとう!」
 ……あれ、はずした?
 「誕生日。……誰の?俺の?」
 「自分の誕生日忘れんなよ。十二月一日。今日だろ、お前」
 「誰から聞……あのバカ余計なことを」
 思い当たり舌打ち、口汚く毒づく。
 渋面を作る麻生に紙袋を手渡し、待ちきれずいそいそと促す。
 「開けてみろ」
 「………………」
 促され、いかにも渋々といったかんじで紙袋を開け中をのぞきこむ。
 眼鏡の奥で目が点になる。
 「…………なにこれ」
 「よくぞ聞いた。俺が自信を持って推薦する一冊、『黒後家蜘蛛の会』」
 取り出した本と俺の顔とを見比べ、対処に困った様子で眉をひそめる。
 「『黒後家蜘蛛の会』はSF作家として超有名なアイザック・アシモフの短編推理小説で、殺人事件さえめったにおこらない純粋なパズルストーリーとしても評価が高い。発表年代は70年代だけど今でも熱烈なファンが根強くのこってる傑作ミステリーだ。主人公のレストラン給仕ヘンリーは該博な知識をもつ安楽椅子探偵の代表格、なみいる紳士淑女の参加者を冴えた推理であっといわせ」
 「……誕生日プレゼントに本ってどうなの」
 「いいじゃん、本好きだろ」
 「好きだけどさ……」
 盛大な前口上に肩透かしを食い、辟易と本のページをめくる。
 よしよし、計算どおり。
 空気の読めない道化を演じながら、一方で鞄の底から一回り大きい紙袋を注意深くとりだす。
 いくら俺だって友達の誕生日まで自分の趣味を押しつけたりしない、見損なってもらっちゃ困る。
 空気が読めない読めないと妹や聡史からたびたび非難されるが、今こそ汚名返上の時。
 「じゃじゃーん」
 得意げに掲げた紙袋を見て、レンズを隔てた視線が懐疑をはらむ。
 「びっくりしたか?本命はこっち、本はおまけでフェイク。いくら俺だって誕生日プレゼントに古本とかしょぼいまねしねーよ」
 「しかも古本かよこれ」
 栞をはさみ本を閉じる。苦りきった表情の麻生に無理矢理紙袋を押しつける。
 「まあまあ、いいから。開けてみろって」
 困惑し、新たに渡された紙袋を見下ろす。
 糊付けされた紙袋の口を破き、がさがさと手を突っ込む。
 顔に軽い驚きが広がりゆく。二段オチの仕込みの勝利。
 「どう?」
 麻生の手にあったのは新品の青いマフラー。
 先週の日曜日、妹と一緒にデパートに出かけて選んだもんだ。
 「妹と一緒に選んだんだ。俺、センスに自信ねーから」
 「私服でわかる」
 「うるせえよ。……でもま、アースカラー似合いそうなイメージだし。血圧低そうな顔色だから暖色系のがいいんじゃねって妹に言ったんだけど、断然こっちってすすめられて」
 デパート売り場であーでもねーこーでもねーと言い争った記憶が生々しく甦る。
 綺麗な青に染まったマフラー。滑らかで手触りのよい生地。
 黒い学ランの上に黒いダッフルコートを羽織り、全身黒尽くめでキメた中で、麻生の手の中の一点だけがあざやかに青い。
 鼻の頭をかきつつ上目遣いに反応をうかがう。
 麻生はむずかしい顔で押し黙ってる。
 気に入ったのかはずしたのか、表情だけじゃ読みにくい。
 「やっぱヘンかな?派手だし。いいもん持ってるもんな、お前。こないだ着てたコートもセンスよかったし、あれと比べちゃ全然安物だし……無理に付けなくていいからさ、箪笥の肥やしにでもしてくれよ。あ、箪笥はねーか、クローゼットか」
 高校生にもなって、男友達に誕生日プレゼントを贈るなんて気恥ずかしい。
 羞恥に顔を染め俯く。
 「……首筋、寒そうだし。気になってたんだ」
 ああ畜生、消え入りてえほど恥ずかしい。墓穴をほって首まで埋まりたい心境。
 頼む、なんか言ってくれ。
 家族と聡史以外の人間に誕生日プレゼント贈んの初めてだからどれにしたらいいか全然わからなくって、できるだけ喜んでくれるもの、長く使ってくれるようなもんがいいなって、デパート中歩き回って漸く選んだのがこのマフラーなんだ。
 だれかにまともに祝ってもらうの初めてかもしれないこいつのために、一生懸命悩んで悩んでこれにしたんだ。
 沈黙は長かった。
 冬枯れの斜面を雑草が薙ぐ。
 墨が滲み始めた夕空で電線が撓む。
 向き合って十秒も過ぎた頃か、マフラーの繊細な手触りを確かめ、面映げに口を開く。
 「………サンキュ」
 「………はは。どういたしまして、ってのもヘンかな」
 気に入ってくれたらしい。よかった。心の底から安堵する。
 素直に感謝を口にした麻生と向き合い、微笑ましくこそばゆい気持ちにひたりつつマフラーをなでる手の動きを見守る。
 温かい感情が胸に満ちていく。

 このまま黙っていれば、これまでどおりでいられる。
 麻生と友達でいられる。
 
 良心を殺す。簡単だ、知らんぷりをすればいい。
 名前も顔も知らない不特定多数の被害者なんか忘れちまえ。
 事件を掘り返したって誰も幸せにならない。
 真相が公になりゃ被害者はもっと不幸になる。
 俺さえ黙っていりゃ、忘れたふりをすりゃ、すべて丸くおさまる。
 廃工場の一件は水に流して、図書室の出来事は封印して、梶が仕切る売春組織のことなんか関係ないって割り切って普通の高校生に戻るんだ。

 胸が痛む。
 良心が悲鳴をあげる。
 お前は最低の卑怯者だとほかならぬもう一人の俺が糾弾する。
 うるさい、黙れ。これ以上俺にどうしろってんだ。
 図書室で麻生と梶の関係を目撃してから悩み続けた、どうすんのが一番いいか考え続けた、梶が逮捕されたら道連れでただじゃすまない、教師と倒錯した関係を結んだ高校生にどんなレッテルが貼られるかばかな俺でもわかる、学校にも地元にもいられなくなる。
 親父は会社の金もって女と逃げた、そのせいで俺たちがどんだけ近所や世間から白い目で見られたか。
 麻生をおなじ目にあわせたくない、同じ辛酸をなめさせたくない、もう十分苦しんでるじゃないか。
 『このマゾ犬』
 あんなふうに
 『マゾ犬、マゾ犬、マゾ犬!』
 むりやり抱かれて

 「巻いてやる」
 瞼の裏に浮かぶ淫らな残像をふっきり、麻生の手からマフラーを奪う。
 「自分でやる」
 「遠慮すんな、包帯もまけねー不器用のくせに」
 「こんな道のど真ん中で」
 「今人いねえだろ」
 降参のため息を吐く。
 麻生の前に立ち、両手に持ったマフラーをふわりと首の後ろにかける。
 黒い詰め襟に包まれた首を覆い、前で結ぶ。
 「男同士でしょっぱい光景」
 「おまっ、人が親切でしてやってんのにそゆこと言うか」
 「頼んでねえ」
 「最初の一回くらいいいじゃねえか、特別サービス……背高いからやりにくいな、前屈め」
 「そっちが背伸びしろ」
 「協調しろよ」
 「妥協したくない」
 他人のマフラーを結ぶのは初めてだ。なかなかうまくいかない。
 顔を傾げ、苦労して前をくくり、片端を引っ張る。
 詰め襟がちょっとジャマ。無意識に手をかけずらし
 固まる。
 なにげなく詰め襟にふれた指、その下。
 斜めった襟から覗く首筋に、唇で吸われた痣。
 平静にー見て見ぬふり、しらんぷりー駄目だ、さっき決めたばっかなのに、くそ、不審がられる。
 しなやかな首筋、病的に白い肌に映える赤い痣、詰め襟の奥から露出した情事の烙印。
 残照に燃える図書室、床にふたつ重なり蠢く人影、学ランの前をはだけ腰を抱え上げられた麻生のみだらな姿……

 エンジンの獰猛な唸りと砂利を弾くタイヤの回転音。 

 麻生の肩越し坂の上、学校の方から一台の車が砂利はねとばし迫りくる。
 「!!危ねえっ、」
 猛スピードで走りぬけた車が側面を掠め、自転車が傾ぐ。
 咄嗟に麻生を庇う。
 一瞬の浮遊感、ついで転落。
 斜面に生い茂った冬枯れの雑草を勢いよくなぎ倒し土くれにまみれる、口の中に土と草が入って鼻腔に抜ける、視界の隅に愛用の自転車が映るも回転はとまらず暮れなずむ空とゴツゴツした地面がかわるがわる目にとびこむ
 
 「ぶはっ!!」

 起伏に全身をしこたま打ち付ける。
 斜面の中腹、冬枯れの草に埋もれ息を吹き返す。
 何がおきた?頭がガンガンする。視界が暗い。
 そうだ、麻生は
 「大丈夫か!?」
 道の片側は野ざらしの斜面になっていた。
 よけたはずみに足を滑らし、自転車ごと転落しちまったようだ。
 口の中に入った砂利と草の切れ端を吐き出し、下敷きになった麻生に呼びかける。
 「う………」
 短い呻き声。よかった、生きてる。
 「大丈夫か、どこも怪我は……」
 固まる。
 縺れ合って斜面を転げ落ちたどさくさで、学ランとシャツがはだけ、上半身の素肌がところどころ外気に晒されていた。
 麻生は朦朧と呻く。麻生を押し倒し、生唾を呑む。顔が近い。体が密着する。吐息の湿り気をじかに顔に感じる。鼓動さえ聞こえそうな近距離。
 「………んだよ、これ……」
 はだけた学ランとシャツの下、外気に晒された胸板に散らばる痣と傷痕。乳首に血が滲む痛々しい歯型。
 堰を切って流れ出す映像『淫乱だな。もう尖ってる』『あんたのせいじゃないか』やめろ『ー……っ、先生……』やめてくれ『どうした麻生、顔が赤いぞ。感じてるのか』『先生、あっ、先生』『どうして欲しい、麻生』優越感に酔いしれて『もっと奥……』浅ましく腰を上擦らせ物欲しげに仰け反り『具体的にどうしたいんだ?ちゃんと口で説明しなきゃわからないだろ、国語の成績いいくせに』『……中……入ってるの、もっと動かして……突き上げて……っあ、は、揺す、って、前、擦って、めちゃくちゃに、あ』
 沸点に達した血がおりて股間が急激に固くなる。
 「秋山………?」
 「なんだこれって聞いてんだよ」
 乳首の歯型を見た瞬間、理性が蒸発した。
 名伏しがたい衝動に襲われ胸ぐらを掴み、激情を押し殺し低い声を出す。
 「体、痣、普通じゃねえよ」
 「秋山」
 「見ちまったんだよ。お前だってあの場にいたろ、俺が知ってること知ってんだろ。体、こんなになるまで無茶して。そんなにいいいのかよあの変態が」
 興奮に息を荒げシャツを揺さぶる。
 「聞いちまったんだ、全部」
 決定的な一言を放っても顔色ひとつ変わりはしない。
 くそ、なんでこんな冷静に―人をばかにして―眼鏡の奥から注ぐ冷徹な視線、零度の視線、癇癪の発作を無感動に観察するみたいな―やめろそんな目で見るな不可思議なものでも眺めるみたいに見るな見透かすな、欺瞞を暴くな、見るな、なんで押し倒されて落ち着き払ってられる、これが初めてじゃないみたいに―
 「誰にヤらせたんだよ!!」
 「わかってるくせに」

 ああ、そうか。
 初めてじゃないのか。

 「騙してたのか」
 ずっと
 「前から梶とできてたのか」
 一年以上前からずっと
 「梶がやってること知ってたのか、ボルゾイたち実行犯に使って拉致って輪姦ビデオ撮って裏に流して売春させて稼いでたの知ってんのか、知ってて付き合ってたのか!!?久保田の話聞いたろ、よくあんな冷静に聞けたな、お前の男がやってることだろ、久保田は梶に死ぬほど苦しめられて他のヤツらだって泣いて泣いて泣き寝入りで、お前だけ梶に特別扱いで自分さえよけりゃそれでいいのか!!?」

 騙された。
 裏切られた。
 嘘を吐かれた。
 知り合ったばかりの頃、麻生は俺にだまってさっさと帰っちまった。部室でちょくちょくメールをチェックしてた。 
 点が線に繋がる。
 今ならわかる。
 麻生は梶に飼われていた。
 放課後急いで帰ったのは梶と約束があったからだ。

 「マゾ犬よばわりされて腹立たねーのか、あんな変態の何がよくて付き合ってんだよ、ずっとそうなのか、四月から夏休み挟んで七ヶ月も俺にも聡史にも黙って付き合ってたのか、マンションで電話してたのも梶か、梶のスパイだったのか、梶に言われて俺の動き見張ってたのか、首突っ込むなって警告も自分がやってることバレるの怖かったからで俺のためじゃなかった、俺のことなんかどうでもよかった!!」

 『どうでもいい』
 だって、本人がそう言ったんだ。

 「どうした、言い返せよ」

 麻生は沈黙を守る。
 おもいっきりシャツを揺さぶられ、枯れ草がちくちく肌に刺さって、眼鏡は鼻梁にずりおちて。
 すべて肯定するみたいな無表情。

 「裏切り者」
 腹の底で溶岩の如くどろり憎悪を溶かし込んだ激情の熱塊がうねる。
 「卑怯者」
 喉元に込み上げる熱いかたまりを噛み砕き、息を吸い、吐き、絶叫する。
 「教師でも男でも気持ちよけりゃだれでもいいのかよ、この淫乱!!」
 
 遅かった。
 絶対口に出しちゃいけない言葉だった。
  
 無意識に叫んだ言葉にはっとし、正気に返って麻生を見下ろす。
 俺に胸ぐら掴まれ、淫乱と罵られ、麻生はー……

 笑った。

 「まぜてほしけりゃそう言やいいのに」

 ばらけた前髪の下、細めた双眸と曲げた口元に毒気を含む笑いが閃く。
 淫猥さと狡猾さを織りまぜた含み笑い。
 図書室で梶の横顔に見た表情と酷似していた。

 ぶん殴る。
 眼鏡が放物線を描き枯れた草の根元に消える。
 衝動が爆ぜ、欲望が滾り、激情の荒波に乗じシャツを割り開く。
 「はあっ、はあっ、はっ」『淫乱め』『お前だってもう俺なしじゃいられないカラダのはずだ。一年かけて仕込んだんだからノーマルなセックスじゃイけないはずだ、ちがうか』ちがう『優等生?すらすら流暢に数式を解く口で、夢中で俺のもん頬張ってしゃぶりまくるくせに。俺が出したもん一滴残さず呑むくせに。床に零れた分まで犬のように這い蹲って啜るくせに』ちがうちがう『大好きな本に囲まれて犯されて嬉しいだろ?夢中で腰ふって俺をくわえこんで、白痴みたいな顔で口から涎たらして興奮しまくって』消えろ、変態、出てくるな!!
 梶に貫かれ喘ぐ姿を回想し、嫉妬と劣情が暴風の煽りを受け燃え広がる。
 抵抗を制し激しく揉みあい皺くちゃのシャツを性急に剥ぎ、ぎこちなく首筋をついばむ。
 本を読む姿にみとれた『うるさい、集中できない』横顔に見とれた『なんだよ』二階の窓枠を蹴って軽々宙に飛び出すさまに見とれた『読書の邪魔だ、他でやれ』美術室の窓をぶち破って乗り込んだ『秋山から離れろ』夏の夜自転車の二人乗りで坂道を駆け下りた『しっかり掴まってろ』廃工場で手当てしてくれた『ちょっと染みるぞ』不器用なりに、一生懸命『染みるって言ったろ』廃工場は燃え、壁は煤けた

 「痛くしないでくれ」
  
 それで。
 頬を赤く腫らし、暴力と惰性に身を委ね、幻滅したように目を瞑りながらの譲歩で。
 
 こえちゃいけない一線をこえたことに気付く。

 痛くしないでくれなんて友達に言う台詞じゃない。 
 諦め、疲れきって目を瞑る顔。どうでもよさそうに力を抜いた四肢。

 おれ。
 俺は、なにを。今、何をしようとしたんだ。
 梶と一緒だ、

 欲情。
 
 「あ、」
 
 お前が悪いんだ。
 騙してたから、裏切ってたから、よりにもよって梶なんかと。
 腹の底でどす汚い感情が渦巻き、自分を正当化しようとすさまじい欺瞞が働き、シャツを掴む手からすっと力が抜ける。
 即座に殴り返され吹っ飛ぶ。
 頬に一発くれて草の海に叩き落とした俺を見下げ果て、切れた唇を手の甲で拭い、屈折した眼差しと露悪的な口ぶりで吐き捨てる。
 「おあいこだよ。ボルゾイたちにヤられて腰抜けるほど感じまくったくせに」
 「未遂だ……」
 かじかむ指先でシャツのボタンをはめ、学ランの乱れを整え草の切れ端を払い、眼鏡を取り上げる。
 「自転車、壊れちまったな」 
 自転車は車輪を上に向け倒れていた。
 上を向いた車輪が空転する。
 泥に塗れたタイヤはパンクし、空気が漏れてへこんでいた。フレームも歪んでいる。
 「……麻生、俺、おれ……」
 体が勝手に震え出す。
 身を翻し、斜面をのぼりかけた麻生に膝を汚して這いより、喉から振り絞るように叫ぶ。
 「図書室の事は忘れる、見た事全部忘れる、これっきり口にしねえ。お前の言う通り首突っ込まない、後追い深追いしない、だから……」
  
 このまま一緒にいてくれ。
 ボーダーラインをこえないでくれ。

 寒い。
 芯から凍える。
 吐く息が大気中に白く拡散する。
 
 「どこにも行かないでくれ」
 「……………」
 先に立って歩き出しがてら、泥と草の切れ端にまみれ変わり果てたマフラーを拾い首に巻く。
 たった今、俺がつけた首の痣を隠すように。
 「帰るぞ」

 マフラーを踏みにじって。
 本を泥だらけにして。
 変わり果てたその両方ともをさりげなく回収し、斜面を登っていく背中を見つめ、自己嫌悪に吐き気さえ覚える。 

 十七歳の誕生日は一生に一度しかやってこない。
 俺は、たった一度しかこない麻生の十七回目の誕生日をめちゃくちゃにした。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010313175930 | 編集

 悪夢の上映が終了する。
 横倒しになった映写機が沈黙し、視聴覚室を静寂が包む。
 「秋山くん、今のは……梶先生か。どういうことか話してくれないか」
 敷島が口火を切る。
 「あの映像は犯罪現場を撮ったものだ。様子が尋常じゃない。しかも、あのビデオには……」
 言いにくそうに口を閉ざし、白紙に戻ったスクリーンに懐中電灯を向ける。
 「麻生くんと梶先生が映っていた。あそこはおそらく梶先生の自宅マンションだ。梶先生と麻生くんは、その……親密な関係だったのか?」
 曖昧に言葉を濁す。
 「親密な関係、か。そんな生易しい関係に見えましたか、あれが」
 俺の口。勝手に動く。
 俺の声。遠く響く。
 「麻生と梶は付き合ってたんです」
 頭の働きが鈍り始める。
 呂律の回らない口で呟く。
 「先生も見たでしょ、あれ。廃工場の。梶が地元の不良に指示して撮らせたんです。通学路の途中にある廃工場に目を付けたヤツ拉致って、よってたかって輪姦して、ビデオを撮って脅すんです。ばらされたくなきゃ言うこと聞けって。きたねえ手口。それで、ビデオを裏にながして……売春斡旋して……荒稼ぎしてたんです、あのクズは」
 真面目な教師の顔の裏で、麻生をさんざん弄び、嬲りものにして。全身にしるしをつけて。
 教師と呼ぶに値せぬ鬼畜の所業。
 映像を回想し語れば胸が悪くなる。
 暴かれた同僚の本性に絶句、懐中電灯の照り返しを受けた顔が凍りつく。
 「まさか梶先生が……信じられない」
 「まだそんなぬるいこと言ってんのかよ、信じなくたって事実は事実なんだ!!」
 目と耳と口をふさいで知らんぷりすれば全部上手くいくと思い込んだ、被害者が事件をほじくりかえされるのを望んでないならと自己欺瞞に逃げた、梶と麻生ができてると知って、梶が逮捕されたら麻生まで累がおよぶんじゃないかと勘繰って見て見ぬふりをえらんだ。

 俺の選択は間違っていたのか。
 なあ麻生、教えてくれ。
 なら俺はどうすりゃよかったんだ。

 「―っ、俺は……」
 泣き寝入りをよぎなくされた名前も顔も知らない被害者より、隣のダチを選んだ。
 聡史に嫌われたくないと泣いて訴えた後輩より、お前を選んだ。
 偽善。独善。俺のエゴが、お前を追い詰めたのか。
 「ただ、一緒にいたくて……」 
 麻生を、ダチを警察に売るようなまねできるか。
 高校入って初めてできた、俺のこと何度も助けてくれた、大切なダチなんだ。
 俺のことバカバカばかにして、本読んでるからじゃまするなってツレなくて
 「いいヤツなんだ、あいつは」
 俺だけが知ってる麻生のいいとこ、いっぱいある。
 小便くさい俺を自転車の後ろにのっけてくれた。
 不器用なりに一生懸命包帯巻いてくれた。
 書き置きを残してくれた。
 部屋を出て、もどってきてくれた。
 ぼろぼろになったマフラーと本を拾ってくれた。
 他にも、他にも……かぞえきれない。
 積み重ねた思い出。積み重ねた歳月。たった七ヶ月。重すぎる七ヶ月。
 「秋山くん、どこへ!?」
 敷島が叫ぶ。引き戸を開け放ち、廊下を突っ走る。正面から冷気が殺到し顔を洗う。
 「手紙を見つけにいく!」
 寒い。手がかじかむ。心臓が燃え立つ。体の内側と表面で温度が違う。
 「麻生が俺に残したヒント、切り抜きだけじゃわかんねーけど手紙とあわせて考えればわかるかも、あの手紙を入れて初めて完璧になるんだ!全部集めなきゃなにを伝えたいかわかんねえ、きっとあの手紙に本当の事が書いてあるんだ!!」
 手紙はどこだ?
 闇に目を凝らす。すみずみまで視線で薙ぎ払う。見あたらない。時が首を絞めるような焦燥に炙られ、胸元に手を突っ込む。
 携帯を手に持ち逡巡、葛藤。毛穴から汗がふきだす。
 登録アドレス一覧表示、高速スクロールし該当欄を見つける。
 『後藤』
 「どのあたりでおとしたんすか先生!」
 壁に手を這わせ頬を寝かせ、封筒が落ちてないか片っ端から調べる。
 息を切らし追いついた敷島が言う。
 「秋山くん、もうやめよう。諦めるんだ。タイムリミットまで一時間を切った、あとは警察にまかせよう。君はやれるだけのことをした」
 「まだ時間はある!」
 「諦めなさい。手紙も見つからない。こんなに暗くては」
 「無駄口叩いてるひまあんなら手伝えよ、あんたがおとしたんだろ!!」
 敷島が悟りきって首を振る。
 「今回の件は個人の手に負えない、警察にまかせるべきだ。さっきのビデオ……梶先生が売春組織の元締めで、麻生くんはじめ多くの被害者が実在するなら、事がおおきくなるのはふせげない。仮に手紙を見付けたとして、本当に爆弾のありかが記されてる保証はない。全ては麻生くんの気まぐれに左右される。一連の出来事を例にとればわかるだろう」
 本当に敷島の言い分が正しいのか。
 手に負えないと判断して、大人にまかせちまうのが正しいのか。
 この件から手をひいて。
 悪趣味なゲームからいちぬけて。
 こんな時、後藤さんならどうする?
 コンビニの駐車場で会った、麻生の保護者を名乗る男の顔が思い浮かぶ。
 『譲さんにもしもの事があったら内緒でこっそり教えてください』
 冗談めかした台詞。本気の目。
 あの人なら頼れるんじゃないか?
 液晶に表示したアドレスにかける。敷島が困惑。
 「秋山くん、だれに」
 『はい』
 すぐに応答があった。
 「後藤さんですか。俺、秋山です。前に駐車場でしゃべった……送ってもらった……麻生の友達の」
 『秋山くん?どうなされたんですか、こんな時間に』
 「………」
 麻生の友達。
 今の俺に、そう名乗る資格があるのか?
 あいつを裏切って大人を頼ったくせに
 『もしもし。譲さんになにかあったんですか』
 後藤は勘がいい。
 俺の沈黙にただならぬ気配と事態を察し、警戒心をこめ囁く。
 「後藤さん………」
 麻生が突然、電話をかけてきたんです。
 学校に爆弾を仕掛けた、だって。
 俺、そば食うところだったのに。ドラクエの途中だったのに。
 笑っちゃうっしょ?
 妹とそばとドラクエほっぽらかして、急いで駆け出して、愛用の自転車修理中だからママチャリ飛び乗って。
 ジャージ一着で、身を切るように寒い中がむしゃらに突っ走って。
 学校呼び出されて、さんざん駆けずりまわされて、やんなっちゃうよ。
 「パシリじゃねーっつのに」
 『え?』
 深く息を吸い、吐き、意を決し口を開く。
 「後藤さん。麻生のお袋って、国会議員の友永唯でしょ。よくテレビに出てる」
 沈黙。
 「あたり?」
 『………気付かれていましたか』
 「だって顔似てんもん。そっくり。ツンケンしたとこがさ」
 『……はは。さすが部長、洞察力が鋭い』
 心なしか嬉しげに後藤が笑う。つられて、幾分力なく笑う。
 テレビで見た時から既視感があった。雑誌を立ち読みし、その後後藤から渡された名刺の「秘書」の肩書きと、図書室で麻生が口にした「手本」の台詞で確証を得た。
 『君にはいずれ話すつもりでしたが、ばれてしまったならしょうがない』
 「三者面談に来なかったのも」
 『本当に忙しかったんです』
 「しょっちゅう国会中継に映ってましたもんね」
 『税金で食べさせてもらってる身分ですから』
 週刊誌の記事。若い頃の乱れた私生活、隠し子の存在。クリーンが売りの議員にとっては致命的なダメージ。
 『それを聞きにかけにきたんですか?』
 後藤の声が不審げな色を帯びる。むりもない、大晦日の忙しい最中ジャマされたんだ。
 『私としては譲さんから直接話してもらうのが理想でしたが……譲さんと唯さんは疎遠でして。私が間に入って調整したところで疎まれるのがおちなんです』
 「潤滑油として期待した?」
 『譲さん、君のことは信頼してるみたいですから。君と出会ってからです、顔つきがやわらかくなったのは』
 「……………」
 『不器用な性格ですからね。子供の頃から友達ができにくく、いつもひとりぼっちでした。一時は随分よくなったんですが、六年前……例の事件があってから完全に周囲に心を閉ざしてしまって』
 「大切な人がなくなったっていう?」
 『はい。譲さんの支えだった人が亡くなったんです』
 「その人、なんで死んだんですか」
 突っ込んだ質問に一瞬だまりこむ。
 一呼吸遅れ、答えが返る。
 『……自殺です』
 やっぱり。
 どこかで予感していた、覚悟していた。
 衝撃を受け流し、ジャージの胸を掴み動悸をおさえ、慎重に聞く。
 「正直に答えてください。その人、ひょっとして、学校の屋上からとびおりたんじゃないですか」
 『………』
 「名前は圭ちゃん。座間圭」
 『譲さんが話されたんですか』

 亡霊の正体がやっとわかった。

 口の中の苦味を噛み締め、絶望と紙一重の諦念に至り、そっと目を閉じる。
 「……麻生が呼んだんです、寝言で。熱にうなされて、圭ちゃんて」
 『私が訪ねた時ですね。様子がおかしかったから気になっていたのですが、しつこくしたら追い払われてしまって……』  
 圭ちゃん。座間圭。六年前死んだ麻生の大事な人、心の支え、学校の屋上から飛び下り自殺した生徒。
 ばらばらだった点がひとつの線になり仮説を導きだす。
 「教えてください後藤さん。六年前、なにがあったんですか。当時、麻生は小学生ですよね。俺と同い年だから十一歳、たった十一歳の子供だった。その子供が……っ、やっぱ信じらんねえ、なんかの間違いだ、だってそんなことあるはずねえ!」
 『落ち着いてください秋山くん』
 「十一歳のガキになにができるっていうんだ、俺が十一の頃なんてどこにでもいるただのガキで聡史子分にして廃工場探検とか毎日遊びまくって、ゲームのやりすぎでお袋に怒られて、ジャンプの立ち読みが習慣で、分数の割り算が苦手で、さされて赤っ恥かいて」
 『秋山くん?』
 少年期が死んだのです
 彼は大人でも子供でもない
 「……熱出して、辛くって、それで寝言で呼んだんだ。体、辛くって。頼りたくって。一番大切な人、呼んだのに」 
 麻生が呼んだのは俺じゃなかった。
 圭ちゃんだった。
 俺はずっと、圭ちゃんの代わりだったのか?
 当時、圭ちゃんとの間になにがあったか知りたい。
 麻生が圭ちゃんを殺す動機なんて、俺の貧相なオツムじゃ想像できねえ。
 とっかかりがほしい。
 「後藤さん教えてください。圭ちゃんて、麻生のなんなんですか」
 あまりに抽象的で漠然とした質問。
 圭ちゃんは麻生の心の支えだった。その支えを自分で殺したりするもんだろうか。そんな事したら、麻生は本当に孤独になっちまう。
 ひとりぼっちが怖いのは、俺だって、だれだっておんなじなのに。
 「麻生、今でも圭ちゃんに縛られてるんです。クローズドサークルなんです」
 『…………』
 「教えてください、知りたいんです、知らなきゃいけないんだ」
 『座間圭は、譲さんの……』
 
 着信が入る。
 名前表示欄を見る。聡史。

 「―-っ、大事なとこなのに!?」
 思い余ってパニックをきたし、一発ガツンと言ってやるつもりで通話を切り替える。
 「もしもし聡史、お前空気読」
 『見付かりましたよ先輩、例の卒業生が!』
 「あ」
 そういやすっかり忘れていた、卒業生と連絡とってくれるよう頼んであったのだ。   
 携帯のむこう、待合所の喧騒を背景音に聡史がはしゃぐ。
 『大晦日だから捕まらないかもっておもったんだけど駄目もとでかけあってみたらいいって』
 「でかした聡史!」
 『直接聞いたほうがいいと思ってアドレス控えてあるんです』
 交友範囲の広さに感心、守備範囲の広さに感謝。
 後輩へのねぎらいもそこそこに、早速教えられた番号を入力。
 緊張と興奮に乾いた唇を湿らす。五秒ほど待たされてから電波が届く。
 「もしもし?俺、御手洗高二年の秋山っていいます。聡史の知り合いの。七不思議に詳しい人って」
 『W大ミス研的王様ゲーム!!一番が二番にメルカトル流告白!!』
 「は?」
 音響から察するに、どうもカラオケボックスにいるらしい。
 『一番は……三村か。よしやれ。なにメルカトル知らない?おまっ、メルカトル読んでねーのにミス研入ってくるか!?メルは基本だろ基本、メタを語る上で欠かねー唯我独尊名探偵だろうがよ!!いいかよく聞けメルカトル京極龍宮はメフィストが生んだ三大黒衣の名探偵、メルカトルを知らずメタミスを語ろうなんざ十年早い、エラリィ・クイーンから出直してこい!!っとわりわり、携帯が』
 「気付くの遅っ」
 『もしもーし?わりわり、今絶賛忘年会の最中でさ。ちょっとうるせーけどガマンして』
 全然反省してねーお調子者の声色に不安が募る。
 しょっぱなから脱力。
 「あ、俺、秋山って言います。聡史の知り合いで……」
 『おー、よくぞかけてくれた後輩。俺こそはW大ミス研のヒーロー、二階堂だ』
 「黎人ですか?」
 『英生だ』
 火村か……じゃなくて。
 気を取り直し、既にできあがっちゃったかんじの卒業生の尋問を開始する。
 「聡史から聞いてると思うんすけど、俺、今度書く小説の参考に七不思議しらべてて。うちの卒業生なら詳しく知ってるんじゃねーかって、教えられた番号にかけてみたんすけど」
 『七不思議?ヘンなこと調べてるんだな』
 「余計なお世話っす。で、早速聞きたいんだけど。七番目の不思議、肖像画のモデルは」
 『はあ?なに言ってんだお前、うちはもとから六不思議だぞ』
 
 え?

 目をしばたたき、携帯を見下ろす。
 「……は?意味不明。それじゃ数あわせねーし。部誌にも七番目がのってるじゃねっすか、内容食い違ってるけど」 
 『当時の先輩から聞いたんだから間違いない、元ミス研部長が断言する』
 ちょっと待て、今聞き捨てならない台詞を口走ったぞこの人。
 「元部長って……先輩マジ先輩だったんですか!?」
 『二年前までな。ふふ、驚いたか。土下座で崇め奉れ後輩。ところでお前、秋山とか言ったか。メルカトルは当然知ってるよな』
 「愛ある限り戦いましょう命燃え尽きるまで」
 『ぬ、メルカトルが初登場時に口走ったポワトリンのキメ台詞を諳んじるとはさすがミス研の現部長』
 絶賛の嵐に照れる。いい人じゃん。あれ?でも二年前って
 「じゃあ二階堂さん、俺と入れ違いに卒業したんですか?六年前の在校生じゃ」
 『ばかにするな、現役合格だ』
 カラオケボックスでふんぞり返る姿が目に浮かぶ。 
 座間圭について聞けるかもしれないと期待したぶん、失望もでかい。
 「そっか、二年前……」
 二年前?
 「………待てよ、おかしい」
 座間圭が死んだのは六年前。
 不思議が増えたのは二年前。
 六引く二は四。計算が合わない。
 四年の潜伏期間にはどう説明がつく?
 「六年前の部誌には不発弾が七番目の不思議として載ってるんですが」
 『だーかーら、数合わせ。六不思議じゃしょぼいだろ?むりやりこじつけたの、七番目を。捏造だよ』
 酔っ払った二階堂が、呂律の回らない口調で話し始める。
 『学校建ってる場所に不発弾埋まってるってのは地元で有名な噂。七不思議ってのはさ、学校限定で生きるもんなんだよ。地元に広まってたら意味ねーじゃん。俺も先輩からの又聞きだけど、六年前のミス研けっこーテキトーだったみたいでさ~。六不思議特集じゃかっこ悪いだろ?ネーミングも今いちだし、ねーなんかいいのない?そだ、不発弾加えちゃえって』
 「じゃあ、もとから六不思議だったんですね」
 『人体模型スクワットとか校長像ウィンクとか非科学的超自然的エピソードの数々の中で妙に浮いてんだろ?不発弾は学校の怪談てより地方都市伝説の分類で』
 饒舌にたれながす薀蓄をよそに、頭を高速で働かせる。 
 座間圭の自殺は六年前。
 怪奇な噂が流布しだしたのは二年前、俺が入学した時期。
 てっきり六年前、座間圭の自殺と同時に加わったとばかり思っていたのに。
 「二階堂先輩は、あらたに加わった美術室の怪を知らないんですね」
 『うん』
 「六年前、自殺した生徒の話は」
 『ちらっと聞いた。結局原因わかんないんだって?謎だよな。学校にとっちゃウィークポイントだろ?一刻も早く忘れたいってかんじで、そういう学生がいたってのも先輩から初めて聞いたくらいで、教師は固く口閉ざしてたっけ。タブーだよ、一種の。アンタッチャブル』
 六年前に自殺した座間圭の話は、教師はおろか生徒の間でさえ禁忌として扱われた。
 それが二年前、俺の入学と時同じくして、七不思議に巧妙におりまぜられ復活した。
 墓を暴き、亡霊を甦らせたのは誰だ?
 『でもさ、面白いよな。お前の話だとその自殺した生徒?が、七番目の不思議になってんだろ、今。ミステリー!ミステリー!遅れてきた幽霊、うわ、すっげおもしろそー。しかしさあ、その生徒もなんだって今頃でてくるかね。六年も経っちまってからさ。同級生は社会人になって地元はなれちまってるし、先公は……まあ残ってるとしてもさ』
 六年前。
 梶が赴任した時期。
 『四年間どこさまよってたんだろうな、幽霊クンは。迷子になってた?方向音痴?はは、まっさか』
 二年前。
 俺が入学した年。麻生が入学した年。
 『四年越しで会いたい人間でもいたのかね~』
 麻生の入学と同時に七番目の不思議が広まりだした。
 故人が復活した。
 もし仮に、誰かが故意に噂を広めたのだとしたら。
 間接的な手口。
 遠大で巧妙な計画。
 故人の存在を思い出させるのが目的なら、この手は学校関係者にのみ有効だ。
 偶然か?ちがう、必然。
 俺たちの入学と同時に噂が広まりだしたのは偶然じゃない、そこには目的があった、計画があった。
 麻生が七不思議の形を借りて故意に美術室の怪を広めたのだとしたら、何故そんなことをする?動機が不明だ。
 わざわざ蒸し返したって自分が不利になるだけ、いらぬ疑いを招くだけ……
 

 前提が間違ってるなら?


 「犯人は現場に戻る」
 『定番だな。そう、快楽殺人者の中にはわざわざ危険をおかし犯行現場にもどるものもいる。犯行時の記憶を反芻し、妄想にふけるために』
 生唾を呑む。
 喉仏が動く。
 「じゃあ、現場に戻った犯人が被害者の幽霊を見たと言い出した場合は?」
 『はあ?』
 「どんな可能性が考えられますか」
 『そりゃお前……』
 二階堂がふいに真面目な声を出し、思考遊戯に耽る。 
 「現場に戻ったんです。身バレの危険をおかして。たとえば、学校。生徒として潜入し、死んだ人間を見たと吹聴する」
 『自己顕示欲……ちがうな、それじゃただのバカだ。逮捕してくれって言ってるようなもんだ。あやしすぎる。痛む虫歯を舌で突いてみる行為……って、火村の言葉だけど』
 「リスクが多すぎる。考えられない。視点をひっくりかえす」
 『視点?』
 「現場に戻るのは犯人だけじゃない」
 早口に考えをまとめる。
 携帯を握る手がじっとり汗ばむ。
 「探偵は現場に戻る。過去、迷宮入りした事件を暴きに。そして噂を流す。犯行現場で被害者の幽霊を見たという噂を広め、プレッシャーをかける」
 『誰に』
 「決まってます」
 
 深呼吸し、断言。
 「真犯人に」

 麻生はめちゃくちゃ頭がいい。
 その麻生がつまらない見栄にかまけ自爆の危険をおかすか?
   
 『話がさっぱり見えね』
 「またかけます先輩」
 携帯を切る。
 タイミングを見計らったようにまた鳴る。胸騒ぎ。通話ボタンを押す。
 『先輩!』
 うろたえきった聡史の声。
 「どうした聡史」
 『刑事さんからの話で、梶が、梶先生が今』

 死んだって。

 「―--―---死、」
 これで麻生は名実ともに人殺しになった。
 梶の死亡宣告に衝撃を受け、かくんと膝がよろめく。
 「………マジかよ」
 殺しても死ななそうなかんじだったのに。
 膝から砕けるようにしてその場に這い、震える手で携帯を掴む。
 聡史の言葉はまだ続く。
 『それがヘンなんです、刑事さんから今聞いたんすけど……梶先生の死体におかしな点があって。俺、ただ現場にいただけなのに、悪ノリした高坊しぼるだけでこんな待たされるのおかしいなって思ったら、裏があって』
 混乱を来たした頭に理性が復帰。
 震える手で携帯を持ち直し、聡史の報告に耳を傾け、梶の死亡宣告に勝るとも劣らぬ衝撃を受ける。
 驚愕を通り越した驚愕。
 どういうことだ?
 たった今、聡史から聞いた話がぐるぐる頭を回る。携帯が勝手にしゃべくりちらす。
 『遺体は解剖に回されるとかで……直接の死因も爆弾じゃないんですって。今警察が調べてるけど……もしもし、先輩?』
 
 目を閉じる。
 考える。
 こめかみを汗が伝う。

 携帯に着信。
 誰からか直感、即座に出る。
 
 『答えを聞こうか。俺がどこにいるかあててみろよ』
 麻生からだ。
 視界の端に立ち尽くす敷島。
 おろおろ俺を見守る。
 右手に懐中電灯。床を照らす円い光。
 敷島の背後、壁一面に嵌めこまれた窓ガラスに校舎の屋上が映る。
 膝から染みる床の冷気に耐え、携帯を強く握り締め、推理を練った上での結論を出す。
 「屋上だ」
 『……根拠は』
 「書いてあったろ、新聞に」
 鳥取の高校生は、いじめを苦にして学校の屋上から飛び降りた。
 座間圭は六年前、校舎の屋上から飛び降りた。
 二人の死に方は一致する。偶然で片付けるにはあまりに都合よい接点。
 すぐ気付かなかった自分の馬鹿さ加減を呪う。
 麻生がいる場所、爆弾が仕掛けられた場所は、記事の中にはっきり示されていたのに。
 「嘘は吐いてなかったんだな。たしかにこの記事は爆弾のありかを教えてくれたよ」
 もうひとつの根拠。
 屋上からなら、旧校舎の廊下を走り回る俺たちを見通せる。
 窓に映る懐中電灯の光で現在地がすぐわかる。
 『正解』
 携帯のむこうでひそやかに笑う気配。
 『来いよ、秋山。終わりの始まりの場所へ。箱の蓋を開けに』
 量子論の猫の謎かけもヒントになっていた。 
 校舎を六面体の箱に見たて俯瞰すると一番上の面が目に入る。
 箱を覗け。
 カメラオブスキュラ。暗い箱は校舎の暗喩。
 「学校が四角いでかい箱で上から覗きこむとなると、正面にくるのは……屋上」
 『数学苦手なお前にはむずかしかったか』
 「苦手なのは数学だけじゃねーよ、全科目低迷中。知ってるくせに、イヤミな優等生め」
 震える膝を意地と見栄で支え立ち上がり、携帯を切る。

 もう携帯はいらない。
 直接会って言えばいい。

 「ゴールがわかりました、先生」
 「どこだね」
 緊張と警戒を孕む敷島の問いに、不敵な笑みを返す。
 「天才と紙一重のバカが好きな場所です」

 対決の場は屋上だ。  

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010312010549 | 編集

 「麻生!」
 重厚な鉄扉を開け放ち対決の場に赴く。
 鈍い残響が大気に音の波紋を広げていく。
 冬の澄み切った空気に月が冴える。
 煌々と月が照る夜空は濃紺に明るみ、吐く息が白く濁りを帯びる。
 「遅かったな」
 推理は間違っていなかった。
 予感は的中した。屋上には孤高にして異端の人影があった。
 夜闇に溶け合う漆黒のコート、堕天使の羽をむしって散らしたようなフェイクファー。
 底のすりへったスニーカーでコンクリ打ちっぱなしの地面を踏む。
 殺風景な屋上、四角く無機質な空間。
 全長3メートルはあろうかという巨大な給水塔がずんぐり円いフォルムを際立て聳え立つ。
 息が吹きちぎれ空に上っていく。
 肩の浮沈に伴い呼吸を整える。
 弛緩した姿勢でフェンスに凭れた男が、白い息吐き出迎える。
 「なんとか時間に間に合った」
 青白い月明かりが冴え冴えと麻生譲の素顔を暴く。本性と言いかえてもいい。
 「ーまに、あったじゃ、ねえよ……悪戯電話かと思ったぜ、最初」
 「内心きてくれなかったらどうしようとかあせった。開口一番寒いからやだってすげなく断られたし」
 「嘘吐け、そんな涼しいツラして。相変わらず余裕ぶって、ムカツクんだよ」
 麻生の服装。廃工場に着てきたフェイクファー付き黒のコートの裾が風にはためく。
 首に巻いたマフラーが月光に冴え冴え映え渡り、余った切れ端が風になびく。
 夜目にもあざやかな青。俺が誕生日に贈ったマフラーだった。
 マフラーの片端を吹き流し、端正な人影が口を開く。
 「爆弾と俺が別々の場所だとは考えなかったのか」
 「そういうのフェアじゃねーだろ?お前らしくない」
 断言する。
 麻生と爆弾が別の場所だとは考えなかった。
 その行動は、なんというか、麻生らしくないのだ。
 現場に爆弾を仕掛けてながら結果を見届けず、自分だけ安全圏に退避するようなまねは、俺が知る麻生譲の人物像にあてはまらない。
 麻生は最初から逃亡を意図してないという直感を俺は信じた。
 「俺を命がけの悪趣味なゲームにひきずりこんでおきながら、自分だけどっか行っちまうようなずるはお前の哲学に反する」
 「哲学とか上等なもんでもないけどな」
 「悪趣味なかくれんぼはおしまいだ。おにごっこのほうがお気に召すか?一生分の肺活量使い切った心境、ドラクエ風にいうとМPゼロ」
 「たまには運動もいい。冬休みだからってゲーム漬けで怠けてると黴がはえる」
 「はえねえっつの、寝返りくらいうつよ」
 他愛ない軽口の応酬がなんだかたまらなく懐かしく、鼻の奥がツンとする。
 背後で慌しく扉が開く。
 遅れること一分、階段の途中で息切れし小休止を挟んだ敷島がやっと追いつく。
 「……盲点だった」
 月明かりを背に立つ麻生と敷島の視線が絡み合う。
 息を整える暇も惜しみ、皺のついた背広から携帯を抜く。
 「約束の時間は過ぎた。タイムリミットまで三十分を切った、警察に連絡させてもらう」
 「待ってください、先生。時間をください」
 「まだそんな」
 「いいから」
 目の端、敷島の顔に焦燥が浮かぶ。苦渋に歪む顔で俺と麻生を見比べ抗弁する。
 「悠長に構えてる場合かね、君もわかってるだろう、すでに楽観できる事態じゃないことは!放っておけばもうすぐ爆弾が爆発する、校舎に被害が出る。麻生くんを見付けた、だが私たちだけでは対処に余る、もう警察に頼るより他に手段がないんだ」
 切羽詰った声音、真剣な顔。手の中の携帯から切り上げた視線で麻生に切り付ける。
 「素直に解除してくれるなら別だが」
 麻生は無言で肩を竦める。
 眼鏡の奥、硬質レンズの向こうの切れ長の目が、侮蔑と嘲弄の光を孕み細まる。愉快犯じみて人命を軽んじる、酷薄な表情に息を呑む。
 「もう少し付き合えよ。あんたはとにかく、秋山にはまだ話したいことがあるみたいだ。そうだろ、秋山。俺に聞きたいことがあるんだろ」
 口の端をねじり、挑発的に聞く。
 役者は揃った。閉鎖された輪。屋上は即興推理劇の舞台と化す。演出家兼脚本家を気取った麻生をまっすぐ見詰め、囁く。
 「たった今、聡史から電話があった。重態の梶が、病院で死んだって」
 目の端で敷島の表情をさぐる。驚愕。蒼ざめ、強張った表情で立ち竦む。
 「本当かね、秋山くん」
 「はい、確認をとりました。刑事さんからの話で……」
 「そうか、アイツ死んだんだ」
 雑感の口調はヘリウムの如く軽く、死者の尊厳を踏みにじる。もっとも、敬意を払うに値しない死者も存在する。
 「殺しても死なないようなタイプだから生きてるかと期待したけど、残念」
 それほど残念がってもない様子で淡々と述べる。
 自分で爆弾を送り付けておきながら生存と延命を期待するなど、ふてぶてしいを通り越し傲慢だ。悪魔的でさえある。 
 「お前、よくそんなあっさり言えるな」
 「理解不能?」
 「梶のマンションに爆弾を送り付けたのか」
 「いまさらだな。そう言ったろ。まさかまだ疑ってるのか、犯人は俺じゃないって。低脳な質問で煩わせるなよ」
 「梶とはどんな関係だったんだ」
 「あの日図書室で見た通りの関係だよ」
 フラッシュバック。西日に赤く染まる図書室、書架の陰で重なる人影、抱き合うふたり。
 はだけた学ランと首筋の痣、梶に貫かれ喘ぐ淫らな姿、先生と呼ぶ甘ったるい声。
 「ビデオ見たろ」
 「ああ」
 「そうか」
 自分から聞いておきながら、首肯を返せば押し黙る。  
 麻生に会ったら言いたいことがいっぱいあった。喉元に言葉が殺到して、でもひとつも満足に言えない。
 体の脇でこぶしを握り締め、荒れ狂う激情を抑え、低く平板な声を出す。
 「梶とできてたのか」
 「ああ」
 「いつから」
 「一年前」
 「俺と会う前からだな」
 それで救われるのかと麻生が目で問う。
 手のひらに爪が食い込む痛みで今にも弾けそうな理性を保ち、口を開く。
 「マンション泊まった日に見た体の傷。あれ、梶がやったのか。斜面転がり落ちたときの歯型も」
 沈黙の重圧に挫けそうな心の手綱を引き、懸命に前を向く。向き続ける。
 距離をへだて正面にたたずむ麻生が、フェンスから背中をおこし、表情を消す。
 「梶は真性のサディストで変態だった」
 静かな告白に衝撃を受ける。
 予想はしていたが直接麻生の口から聞くと、足元が崩れ去るような錯覚に飲み込まれた。
 語る内容とは裏腹に弛緩した姿勢でフェンスに凭れ、首に巻いたマフラーに顔を埋め、回想を続ける。 
 「一年前、入学した時から。お前と知り合うずっと前から、俺、梶とヤッてたんだよ。そういう関係だった。教師と生徒で愛人関係なんていまどき珍しくもないだろう。男同士は……さすがに珍しいけどな。ありえなくはない」
 「ありえねえよ」
 「ねっからまともなお前には想像できない世界があるんだよ」
 言い含める口調に反発が湧く。
 梶と抱き合う麻生の痴態を回想し、身の内でちりちり嫉妬が燻る。
 「梶がやってたこと、知ってたのか。知ってて関係を続けたのか」
 聞きたいことは山ほどある。思い詰めた表情と切迫した声音で、知らず一歩踏み出し問い詰める。
 麻生が少し考え込む素振りをし、俺を見る。
 「淫乱だからな、俺は。その点梶は絶倫で退屈しなかったよ」
 「麻生」
 「俺から誘惑したんだ」
 「麻生」
 「俺の体見たろ。図書室で俺、抵抗したか。しなかったよな。自分から悦んで梶に抱き付いてたろ、もっとしてほしいってねだってたろ。ああいうのが好きなんだよ。お前は俺を過大評価してる。気持ちよけりゃ男でも教師でも関係ない、相手が何人だろうが悦んでケツ振るマゾ犬、それが本当の俺だ。梶とは一年の頃から付き合ってた。倒錯した趣味嗜好の持ち主は態度でなんとなくわかる。持ち物検査の時の触り方とかな」
 廊下で呼び止められ、持ち物検査と称し体をあちこちまさぐられた。
 制服の胸をねちっこく這う手を思い出し、気分が悪くなる。 
 「俺から誘ったんだ。案の定梶はのってきた。むこうも興味があったんだ。優等生の建前、問題児の本性。粘着し甲斐があるだろ。適当におだてて自尊心を満たしてやれば、あとは簡単だった」
 「そういや梶、一年のときお前がいた……」 
 「元担任」
 口内に湧いた生唾を呑む。俺の動揺を見透かすように麻生が笑う。
 「SM趣味だけは頂けなかったけど、案外楽しめたよ。梶は俺を独占したがってたから、お前はさぞ目障りだったろうな」 
 目障り。嫉妬。麻生に密着しマフラーを巻いてやった時、学校の方から猛スピードで爆走してきた車。
 「あれも梶か」
 そういや職員用駐車場にとまってたのを見た。高級そうな黒い光沢の車。
 「脅しのつもりだったんだとさ。ちょっと掠めてやろうくらいにおもってたらしい」
 「弁償させたかった。フレーム曲がっちまったんだぜ、自転車。修理に一ヶ月かかるって。出費も痛えし」
 「買い換えたほうが安上がりじゃないか」
 「愛着あるんだよ、小学校の時から使ってたから」
 思わず本音が出た。麻生が喉の奥でくぐもった笑いをたてる。
 梶は麻生に執着していた。放課後も束縛し関係を迫った。独占欲の塊のような男。
 自由を制限され、麻生は次第に梶との交際にうんざりしていった。 
 「部活に入ったのは梶へのあてつけ。だれかさんの暑苦しい説得に折れたわけじゃない」
 「梶が売春組織の元締めだって知ってたのか」
 「……………」
 「なんとか言えよ」
 「知ってたとしたらどうなんだ」
 肘をずらす。檻のようなフェンスに背中を預け、共犯の笑みを浮かべる。
 「梶のヤツ自慢してた。贅沢なマンションに俺を連れ込んで高いソファーにふんぞりかえって、自分には膨大な副収入源があるって。六年前、赴任した時から根を張り巡らせ組織を作り上げた。知ってるか?梶、このへんじゃ有名な不良だったんだ。傷害・暴行で何度も起訴されたけど親が裏から手を回して金積んで、鑑別所に入れられそうになるたび上手く逃げたんだそうだ。東京に行って、大学出て、また戻ってきて。更正したとおもわせ裏で本領発揮、不良時代の人脈を使って売春斡旋業を始めた」
 「むりやり仕事させられたのか」
 「そこそこ楽しめた。刺激的な体験もできたし」
 スクリーンの映像が脳裏に浮かぶ。目隠しでギグを噛まされ前を縛られバイブを突っ込まれ、肉奴隷として傅く麻生のすがた。
 「あれを楽しんでたっていうのかよ。たち悪い冗談」
 「お前にはわからない」
 またそれか。俺にはわからないか。そうやって関係ないと、はなから理解できないと線を引くのか。
 「梶が犯罪者だろうが売春組織の元締めだろうが関係ない、気持ちよけりゃそれでいい。束縛には辟易したけど」
 「俺を助けに来たのは」
 「どうでもいい」
 「どうでもいいヤツをわざわざ助けにきたのか。飼い主に呼び出されて、さからえばお仕置きが待ち受けてるのに、どうでもいいヤツのためにわざわざ戻ってきたっていうの」
 「梶へのあてつけ。お前なんかどうでもよかった。部活もうざかった。しつこくつきまとわれてうんざりした。けれど梶の束縛のほうがいやだった、全部思い通りになるのは癪だ、だからちょっと手を噛んでやったのさ」
 「首突っ込むなってのは」
 「トモダチが頼めば引き下がるだろうって笑いながら言ってたよ、アイツ。腐っても教師、お人よしを見抜かれたな」
 「……腐りきった教師の間違いだろ」
 犬歯を剥いて唸る。麻生は無表情で同意。マフラーを少しずらし、むき出しの首筋をちらりと見せる。
 「俺にビデオを見せたのはなんでだ」
 「本性を知らせるため」
 「梶の?」
 「俺の」
 さりげなく答え、空を仰ぐ。
 「さすがに引いたろ。気持ち悪かったろ。どう思った?興奮したか?まさか、お前は梶の仲間じゃない。ねっから真っ当な人間、常識人だ。ビデオを見て吐き気がしたはずだ、ちがうか」
 「ちがわねえ」
 「幻滅したか」
 返事に詰まる。
 麻生がマフラーの内に指をかませ下方へずらす。露出した首筋に痣が咲く。
 梶が施した隷属の烙印。
 「お前はこっち側にこれない。線をこえるのはむりだ。俺と梶は同類なんだよ。だから気が合った、体の相性があった」
 「やめろ」
 「梶とのセックスは最高に気持ちよかった」
 「いうな」
 「俺をマゾ犬って罵りながらヤるのが好きだったんだよ梶は。教師なんかやってる反動かな、プライベートじゃ暴力的なセックスを好んだ。複数プレイも好きだったな。人に犯らせて自分は見てるのも好きだった。梶の部屋には今まで撮り溜めたビデオが山のようにコレクションされてた。廃工場で撮った輪姦ビデオ、趣味で撮った撮らせたビデオ、通販用のビデオ……何回も、何十回も、DVDに焼いたのを見せられた。梶はテープを流しながらヤるのが好きだった」
 頭がおかしくなりそうだ。
 あんなものを何回も何十回も、テープが擦り切れるまで見せられたっていうのか?俺は一回でギブした、耐えられなかった。 廃工場を逃げ惑う女の子、面白半分に奇声を発し狩り立てる不良集団、制服を乱し抗う学生を容赦なく殴りつける男。
 背筋を戦慄の氷柱が貫く。
 麻生は毎日、あんな映像を見せられてたのか?
 「体の相性はよかったけどしつこすぎてうんざりしてたんだ、アイツには。こっちの体がもたない。手を切りたかった」
 「だから爆弾で始末したのか」
 「話し合いで平和的解決は不可能、梶の性格じゃキレるのがオチだ。俺は一生梶から逃げられない。なにを勘違いしたんだか梶のヤツ、最近じゃ俺の進路にまでうるさく口を出すようになった。地元を離れるな、高校出たら一緒に暮らせ、専属奴隷になれとさ。うんざりだ、アイツのおめでたさには。秋山、お前の方がまだマシだ。俺は梶のドレイだけど、一生縛られてやるほど安くない」
 「別れ話が決裂したから、それで梶を殺そうとしたのか」
 「ああ。梶が死のうが生きようがどっちにしろ自宅に捜索の手が入る、そこで例のコレクションが見付かったら大変だ。コネ持ちだろうがさすがに言い逃れできない。俺は晴れて首輪が外れ自由の身、梶ともお別れだ」
 「一年越しの腐れ縁に決着付けたわけか。随分あらっぽいやり方だな、頭いいくせに」
 「追い詰められてたんだ」
 全然そう見えない顔でしれっと言い放つ。案外事実を言ってるのかもしれないが、表情はごく冷ややかなものだ。
 「麻生、お前」
 「がっかりしたか、せっかくできた友達がこんなヤツで」
 先回りし、俺の口を封じる。
 「ショック受けたか、ビデオを見て。俺が淫乱で。教師でも男でも気持ちよけりゃそれでいい、それが俺だ。ただうるさくされるのはいやだった、しつこいのはうんざりだ。だから殺した。卒業後の進路まで口出しされちゃたまらない。たかが梶の分際で思い上がった、だから殺した。目障りだった、耳障りだった。梶の下半身だけ好きだった、腹から上は嫌いだった、いらなかった。だから吹っ飛ばしてやったんだ、爆弾で。おかげですっきりした。お前だって腹の中じゃ喝采してるんじゃないか、秋山。梶に目を付けられてたから」
 「ふざけんな」
 「冗談だよ。世界で一番嫌いなヤツ、たとえばボルゾイが死んだと聞いても安堵こそすれ喜びはしない、それがお前だ」
 「偽善者だって言いたいのか」
 「わかってるじゃないか」
 自覚はあるんだなとほくそえむ。手のひらに爪を突き立てだまりこむ。屋上に吹く冷たい風が前髪を煽る。
 「もっと知りたいか、俺の本性。梶の性癖。知りたきゃ話してやるよいくらでも、ただだしな。死人に鞭打ってやる」
 「麻生」
 「お前と話してるだけで轢き殺そうとした男だ、ストーカーだよ殆ど。毎日のようにメール入れてくる、授業中でも。うんざりだった。絶倫が聞いて笑う。アイツ、早漏なんだ。だから道具や人を使ってねちねち長くたのしむ。勃ち直るのは早いけど」
 「麻生」
 「最近は取り決め破って学校でもさかるようになった。躾が悪いのはどっちだよ、体がいくつあっても足りない。少しはこっちの都合も考えてくれ、優等生で売ってる努力が水の泡だ。だから始末した。お前はついで。首突っ込んだのが仇になったな」
 「麻生」
 「お前は多くを知りすぎた。大人しく引っ込んでりゃよかったんだ。推理小説の悪影響か?探偵気取りではしゃいで空回って、傍で見てて退屈はしなかったけど………決定的瞬間、見られちまったからな」
 図書室で目撃した教師と生徒の情事。俺が噂を広めれば、麻生の立場が不利になる。
 「口封じが目的で呼び出したのか。俺が他のヤツらにばらすかもって疑って、梶と一緒に片付けちまおうって」 
 「どうでもいいんだよ、お前なんか。梶と一緒に消えてくれりゃせいせいする。俺はまた静かに本が読みたいだけだ」
 麻生が切り捨てるようにして笑う。共に過ごした七ヶ月、積み重ねた歳月を踏みにじるように抑揚なく暴言を吐く。
 「目障りだ。消えてくれ」
 「麻生」
 「空気を読めよ、俺がいやがってるのわからないか?ずっと前からうざかった、出会った時からずっとうんざりしてた。しつこくされるの嫌いだって言ったろ。部活もいやいや付き合ってたんだ。それを勘違いして、トモダチだとか喜んで、滑稽だよ」
 あの日、携帯で調べた言葉が胸を抉る。
 俺は道化だ。麻生に振り回されて、冬休み中の校舎を行ったり来たりして、最終局面でも一方的にやりこめられている。
 「一回くらい寝てやってもいいかと思った」
 「麻生」
 「お前なら抱かれるほうが似合うな。ボルゾイたちにいじられて感じまくったろ?俺とおなじで淫乱の素質がある。あの時のお前、なかなかそそったよ。俺に乳首いじられて感じたろ、下も固くなってたんじゃないか。敏感なカラダ。草っ原で押し倒されたのは予想外だったけど……お前も健全な高校生だったって事か。俺と梶の現場を盗み見て興奮したんじゃないか?カラダは正直だな」
 「……………っ、」
 「赤面症。すぐ顔が赤くなる」
 悠長な動作でコートから携帯を取り出し、高く翳す。
 「まだ話すか。時間、足りないぜ。俺の本性はよくわかったろ。俺と梶はできてた。動機は別れ話に端を欲する痴情の縺れ、お前を呼び出したのは次いでの口封じ。お前は俺の予想どおり動いてくれた……」
 駄目だ、もうガマンできねえ。

 「ははははははははっははははははははははっはははははははっ!!!!」

 コンクリートで固めた殺風景な屋上に、狂気を発したような哄笑が響き渡る。
 「秋山くん?」
 敷島の目が点になる。麻生が怪訝な顔をする。
 気にせず肺活量の限界まで笑い続ける、仰け反るようにして空を仰ぎ哄笑を放てばびゅうびゅうと風が渦巻く。
 「頭、どうかしちまったか」
 麻生が冷静さを回復し、聞く。俺は麻生も梶も無視したっぷり笑う、ここが年貢の納め時と笑い続ける。
 笑って笑って笑って酸欠に陥る寸前、深呼吸で涙をひっこませ、笑いの余韻に痙攣する顔を傲然とあげる。 
 「あー、笑った笑った。壮大な嘘。そんなタマかお前が」
 コンクリの地面に踏ん張りを利かせ、巻き返しを図る。
 気持ちは妙に清清しい。
 今まで深刻に思い悩んでいたのが爆笑と一緒にどっかに吹っ飛んで肝が据わり、肩をすくめ不敵に笑む。
 「俺が独善で偽善なら、お前は露悪で偽悪だ」
 虚勢を貫けば自信になる。
 火事場のクソ度胸を武器に麻生と対峙、毅然と顎を引き強い眼光を放つ。
 「いまさら悪党気取んの無理ありすぎ。七ヶ月間、一番近くで見てきた俺にそんな臭い演技が通じるかよ」
 そう、俺は誤解していた。
 麻生の目的を誤解していたのだ。
 麻生の顔が若干真剣みを帯び、試すような光が双眸に宿る。緊迫した視線が絡み合う。
 体の脇で汗ばむ手をにぎりこみ、全身に気迫と意志を漲らせ、大股に一歩を踏み出す。
 「最初は俺を殺すつもりだとおもった。ぶっちゃけついさっきまでそうおもってたよ、ある事に気付くまで」
 「ある事?」
 ジャージの懐に手を突っ込み、取り出したものを掲げる。
 「ケータイ」
 反撃に転じ、巻き返しを図る。
 ここが正念場だ。
 頭の中で順序を練り、照準を絞った銃口の如くまっすぐ麻生を見詰め、慎重に話しはじめる。
 「最初は俺を殺そうとしてるとおもった。お前は俺を憎んでる、だから悪趣味なゲームに巻き込んで始末するつもりだとおもった。一種の仕返しだな、ガキっぽい。だけどお前にはそうするだけの理由がある。俺は多分、選択をまちがったんだ。図書室の出来事を見て見ぬふりすることで、無意識にお前を追い詰めた」
 「続けろ」
 「あれから……図書室の事があってから、お前とうまくいかなくなった。俺たちの間はぎくしゃくして、まともに目を見れなくなった。決定打は誕生日の一件。気まずいまま冬休みに突入して……メール、一通も来なくって。愛想尽かされたんじゃねえかって落ち込んでたんだぜ」 
 「それでゲームに逃避か」
 「うるせ。……そこに突然、お前から電話だ。内心びびったよ。大晦日いきなり学校に来い、爆弾しかけたって。最初は嘘かとおもった。でも本気だった。聡史の電話で梶の事件を知って、ゲームとそばと妹ほっぽりだして駆け付けた」
 一呼吸おき、かすれた声をしぼりだす。
 「……復讐だとおもった」
 「よく逃げなかったな」
 「今度逃げたら二度目だろ?かっこ悪すぎ」
 にやけた顔を引き締め、真剣な眼差しで挑む。
 「教室と部室で切り抜きを発見した。なにがなんだかさっぱりだった。古今東西の推理小説読んでるくせに我ながら情けねーけど……この中にヒントが紛れ込ませてあるか半信半疑だった。俺をおちょくってるんじゃないかって……お前、性悪だから」
 「よくわかってるじゃないか」
 「その台詞二度目。……次、美術室。真ん中に絵がおいてあった。六年前に自殺した生徒……座間圭の遺作だ」
 座間圭の名前を出すやそれまで平静を保っていた顔色が豹変、目つきが険を含む。
 牽制のポーズを無視し、続ける。
 「これ見よがしに真ん中においてあった。デコイだよ。懐中電灯で照らしゃ真っ先に目に入る。裏側には剃刀が仕掛けてあって、持ち上げたらざっくりだ。お前が俺に害意をもってるのが判明して、楽観はふきとんだ。……どこかで甘えてたんだろうな、俺に危害を加えるはずねえって」
 「友達だから?」
 嘲弄の台詞に、苦汁を噛み締め頷く。
 「……一方的な思い込み。俺を恨んでるってわかりながら、お前が実際手を出すはずないって、剃刀見るまで油断してた」
 絵の裏にテープで貼られた鋭利な剃刀。
 俺をさしおき不用意に持ち上げた敷島は手のひらをざっくり切った。字義どおり流血の惨事。
 「とどめはボーガン。扉を開けたらいきなりズドン、寿命が縮まったよ。扉を開けたのが俺なら即死だった、きっと」
 先頭を走る敷島。
 廊下を走るなという標語を無視するいい走りっぷり、必死な形相、血走った目。
 焦燥に駆られた後ろ姿を思い出す。
 「あの二例で害意をもってるのがわかった、俺を殺すつもりだと確信した」
 「それが?」
 麻生は余裕を失わず、落ち着き払った態度をくずさない。しらけきった表情に腹が立つ。
 「学校に呼び出したのは巻き添えで始末するため」
 「無理心中を疑ったか」
 酷寒の空気が肺を刺す。互角を期し挑み立つ。
 硬質な視線がぶつかり削りあう。
 視界の隅で敷島が蒼ざめる。
 そして俺は言う、立ち上る吐息を追いつつ。
 「ミスリードだ」
 言葉の駆け引き。どちらが上手に立つかこれで決まる。案の定、予想外の発言に麻生は戸惑う。
 「推理小説の常套手段、真犯人とは別の人物に疑いを向けさせるため誤読を誘う伏線をまぎれこませる。俺、単純だからよくひっかかるんだ」
 「何が言いたい」
 「行動に不自然な点が多すぎる」
 人さし指をたてる。
 「俺を学校に呼び出し手遅れになる前に見付けろと挑発した。再起不能でリタイアしたら見付けられない、ちがうか。唯一の参加者が負傷したらゲームが継続できなくなる。お前としちゃ手がかり全部集め終えるまでは俺に無傷でいてほしい。だが実際には美術室と放送室、二点の罠が仕掛けられていた。最初は剃刀、二番目はボーガン。剣呑だよな。剃刀はともかく、ボーガンは死に至る」
 「それは認める」
 「でも俺は生きてる、ぴんぴんしてる」
 わざと大げさに両手を広げ、五体満足を主張する。実際、頬のかすり傷のほかにはけがもない。走り回って体力を消耗しただけだ。
 俺の宣言に麻生は無反応、目だけで先を促す。
 「どうしてだ?おかしいよな?こんだけ頭が回るお前が標的を仕損じるか、時限式ボーガンなんて周到な準備までしといて大事な局面でドジるか。美術室に乗り込んだとき、中央に絵があった。疑似餌だ。俺は真っ先に歩み寄って、そして……煙草に気付いた」
 エクスタシー。
 緑の光沢を帯びた羽の蝶の印刷。麻生が愛飲する煙草。
 「エクスタシ―。お前の煙草。懐中電灯で照らして真っ先に気をとられた。むかっぱらが立った。大晦日の夜、こちとらレコード大賞も紅白も見れずに駆けずり回ってんだ。俺はからっぽの煙草の箱をくしゃくしゃに握り潰し投げ捨てた」
 空箱にやつあたりして鬱憤を晴らした。直後、悲鳴が上がる。
 「お前がエクスタシーを喫うのを知ってるのは、多分、梶と俺だけ。お前は絵より先に煙草に目が行くと予想した、だからあそこにエクスタシーを置いた、注意を引き付けるために」
 煙草の箱は疑似餌だった。
 そしてタイムラグが生じる。 
 「俺は煙草に目と手が行く。裏を返せば、そのおかげで無傷ですんだ。不用意に絵にさわったら敷島先生の二の舞になってた。次、放送室。学校中に流れた放送、今考えればあれもおかしい。あれが梶とお前の会話を録音したもんなら相手を消す必要がどこにある、全部聞かせりゃいい。出し惜しみ?まわりくどい、お前らしくない。無意味、いや意味はあった、ミスリードだよ」
 また一歩間合いに踏み込み、王手をかける。

 「放送で流れた会話が梶とお前のものだって物的根拠はない」
 
 会話の相手は消されていた。
 放送では梶が一方的にしゃべっていた。
 俺は話の流れから相手は麻生だと安直に思いこんだ、先入観に騙された。
 
 「俺と先生は放送室をめざし走り出した、そこにお前がいると早とちりして」
 『麻生くんは放送室にいる!』
 そう叫んだのは敷島だった。先頭に立ち、必死な形相で走り出したのも。俺も慌てて後を追おうとして、
 「立ち止まった。タイミングよく携帯が鳴ったからだ」
 手中の携帯に意味深に一瞥くれほくそえむ。麻生は無表情。
 「携帯を取り出す。お前からだ。悪童日記がどうとか、変な謎かけをしてきた。自然歩調が鈍る、遅れる、速度をおとす、引き離される」
 廊下を走りながら携帯で会話した。敷島とは五メートル以上引き離されていた。
 そして敷島は、真っ先にドアを開けた。直後作動するボーガン。
 「あのタイミングは偶然か?」
 テープを仕掛けた麻生は、当然俺たちが放送室にむかってると考える。
 携帯。電話。足止め。携帯に気をとられ距離が空く。先に目的地に辿り着いたのは敷島、ドアを開けたのも敷島。
 「咄嗟に先生を突き飛ばし転がした。間一髪だった。あと一秒気付くのが遅かったら、先生は死んでいた」
 そう、俺の反応があと一秒遅かったら敷島は即死だった。
 本気で俺を殺すつもりだ。
 ボーガンの矢が頬の薄皮を切り裂くと同時に戦慄が走りぬけた。
 「ばかだな、俺」
 口元に苦笑が浮かぶ。
 
 剃刀で実際にけがしたのは?
 ボーガンが実際にねらっていたのは?

 どっちも俺じゃない、俺はぴんぴんしてる、このとおり五体満足で麻生と対峙してる。

 絵の裏側に仕掛けられた剃刀。
 煙草に注意を引かれた俺の背後、素早く接近し絵を取り上げたのは?
 廊下を全力疾走して放送室に急いだのは?

 「―っ、何を言い出すんだ突然。推理ごっこは終わりだ、秋山くん。もう時間がない、話は生きて帰ってからすればいい。麻生くん、君が素直に爆弾をわたしてくれないなら私としてもしかたない、警察に連絡を……」
 「先生、なんで土足なんですか」

 刹那、空気が凍り付く。
 「は?」
 振り向かず問う俺に、携帯に手をかけた敷島が眉をひそめる。
   
 「どうして土足なんですか?」
 もう一度ゆっくりと、噛み含めるように聞く。
 理解不能といった様子で立ち竦む敷島に向き直り、足元に視線を落とす。薄汚れたスニーカー、敷島は革靴、両方とも土足。
 「校内は土足厳禁、ですよね」
 「こんな時に何を……場合が場合だからしかたないだろう」
 「そうじゃなくて。先生、最初っから革靴でしたよね。部室で出会った時から」
 部室の机の下に隠れた時、真っ先に目に入ったのはくたびれた革靴。
 『冬休み中は当番で見回りをすることになってる』敷島の言葉『私は大晦日を割りふられた』くたびれたやもめ男の演技。
 「俺も土足なんです。靴はいたまま上がっちゃった。急いでたから……ってのは言い訳になんねーけど、あせってたのはほんと。警備員さんごめんって腹ん中で謝りながらそのまま」
 「なにを言いたい」
 「人間はずるがしこい生き物で、ばれなきゃいいじゃんという心理が働く。冬休み中だれかが土足であがりこんでも、犯人がわからなきゃ咎められない。俺もその心理が働かなかったといえば嘘になる。でも先生は?当番ですよね?ありえない。敷島先生が当番だって他の先生も知ってるんだ、土足で入って靴跡付けて回ったら怒られるっしょ、あとで。バレバレなのに」
 「しかたないだろう、急いでたんだ。麻生くんが爆弾を仕掛けたと知って」
 「失言カウントいち。部室で会った時、先生は麻生が学校にいると知らなかった。旧校舎見回ってるうちにたまたま物音を聞き付けたって、先生自身が言ったんですよ」
 困惑から動揺へ。
 「教職員は校内じゃ室内用サンダルかスリッパをはく決まり。うちの担任もそうしてる」
 「たまたまサンダルとスリッパを忘れて、」
 「裸足は冷たいですもんね。いやですよね。けど、先生は他にもミスしてる」
 「ミスだって?」
 穏やかな声が険を含む。心外そうな顔。くたびれた背広姿の中年教師が不快感を露にする。
 息を吸い、手の中の携帯を軽く振って指摘する。
 「失言カウント二。携帯学校に忘れた俺が、『さっき、メールで』梶の事件を知ったっていっても驚かなかった」
 「な」
 「失言カウント三。梶の話になったとき、先生なんて言ったっけ。思い出してください」

 『梶先生の話を聞いたかい』
 『あ、はい。さっきメールで……』
 『そうか、既に噂がながれてるんだね。じきに連絡網が回るとおもうが……』
 『年に一度の大晦日だというのに梶先生は災難だった。どこの誰の犯行か知らないが、一命をとりとめてくれるよう祈るよ』
 『隣近所が巻き込まれなかったのは不幸中の幸いっすね』
 『え?』
 目を見張る敷島。一瞬の驚愕、狼狽。

 妙な成り行きに麻生がフェンスから身をおこす。
 「秋山、一体……」
 「麻生、お前は人殺しじゃない」
 「まだそんなことを。さんざん言ったじゃないか、俺が爆弾を送り付けたって」
 苛立ち歩み寄る麻生を制し、言う。
 
 「梶の死因は刺殺」
 「は?」 
 「聡史から電話で聞いた。梶は腹を刺され出血多量で死んだ、直接の死因は爆発じゃない」

 爆弾の威力は近隣に被害が出ない程度に抑えられていた。
 梶が包みを受け取ったとして、それをすぐ開封せず部屋のどこかに転がしてたら死傷しない可能性はおおいにありえる。
 時限爆弾なのだから。

 『だって、爆発でしょ。もっと威力があったら壁ぶち破ってたかもしれないし……運送屋も危機一髪っすよね、まさか年末の忙しい時期に時限爆弾なんて危険な代物トラックの荷台にのっけてごとごと運んでるなんて考えねーし、うっかりおとしたショックでボン!となったらたまったもんじゃないな』
 『……そうだね、他に怪我人がでずにすんでよかった。梶先生は気の毒だが、警察が必ず犯人を見つけてくれるだろう。なにも心配いらない、私を含む先生方に事後処理はまかせておきたまえ』

 不自然な間、思考の空白。
 会話の齟齬、膨らむ違和感。

 『死人がでたんだぞ』
 『気持ちはわかる。麻生くんは友達だろう。だからこうして呼び出しに従って大晦日の夜学校に来た。突然かかってくる電話に振り回され、息を切らし、学校中走り回って彼をさがしてる。どれだけ彼を大事に思ってるか想像つく。しかし現実に犠牲者がでた、梶先生の事件は生徒の間に広がり波紋を生む。警察も動き出した。捜査の手がのびるのは時間の問題、いつまでも隠しとおせるものでは』

 「犠牲者って言いましたね、センセ。あの時点じゃ生死は不明だったのに」
 敷島が沈黙する。
 「先生は梶を過去形で語っていた、死亡したものとして扱っていた。なんで?おかしい。ニュースでは梶は爆発に巻き込まれ病院送りになったとだけ伝えられた、聡史もそう言った。先生だけが犠牲者と明言した。疑問に思わず流された俺も俺だけど、よくよく考えればこれっておかしい。すごくおかしい。実際現場にいたわけでもないのに、梶の死を断言できるはずない」
 「勘繰りすぎだ。私は爆発に巻き込まれたとだけ聞いて、なら助かるはずない、即死だと短絡的に考えて」
 「現場にいたんですか?」
 鋭くきりこむ。
 「先生の背広、やけにくたびれてるなっておもった。皺くちゃで、だれかと揉み合ったみたいだ。聡史が今の時間まで署に足止めくらったのも、現場の状況が不審だからじゃないか?」
 「…………」
 「警察は他殺を疑ってる。爆発はあと、たまたま重なったんだ。隣の住人が爆発前に客が訪ねてきたと証言してるそうです」
 「私と関係ない」
 「もう少し頭が回ったら靴を脱いであがったはず、けど余裕がなかった、殺人の直後で気が動転してたから。当番も嘘、見回りなんてほんとはなかった。冬休みの学校で先生と会ったのは偶然じゃなかった、先生は用があってここに来た、呼び出されたんだ」
 言葉を切り、大声を張り上げ後ろに呼びかける。
 「そうだろ、麻生」
 「………………」
 「お前の目的は最初から敷島だった、俺は眼中になかった。心中相手に選んだのは残念、俺じゃなかったわけだ」
 「秋山」
 麻生が呼びかけ、だまりこむ。ただでさえ白い肌が蒼ざめている。梶の死因を知ったショックからだ。
 苦いものをのみこみ、吐き出す。
 「不自然なんだよ、矛盾だらけだ。俺とお前中心に考えてたからわからなかった、先入観にジャマされた。よく考えれば冬休みの学校に先生がいること自体不自然だ、見回りだって普通もっと早い時間にする。警察に連絡すると口では言いながらぐずぐずしてたのは、今の今まで引きのばしたのはなんで?決まってる、怖かったからだ、自分が犯人だってバレるのが。先生はジャマな俺を家に帰したかっただけだ、適当に言いくるめて」
 「秋山くん」
 「俺はジャマだから、逢引の。呼び出した目的は?放送で流れた録音テープ、不自然に消された台詞。梶は一回も麻生の名前を呼ばなかった、相手への呼びかけは不自然に音が抜けてた。梶は相手を脅してた、共犯のくせに自分だけ抜けるのかって……」
 「待ちたまえ、誤解だ。君は突っ走りすぎだ。警察への連絡が遅れたのは事を荒立てたくなかったからで、他意はない」
 取り憑かれたような饒舌。舌が勝手に回る。
 騙された、裏切られた、嘘を吐かれた。
 その悔しさ怒りが沸騰し理性を剥ぎ取り、口調が激昂の熱を帯びていく。
 「俺をだましてたんだ。なにが見付けてほしいだ、てっきりご指名だって思いこんだ、でも違った、麻生俺はなんのために呼ばれた、なんのために悪趣味なゲームに付き合わされた?敷島を呼び出すだけじゃ足りなかったのか、やっぱり俺も殺そうとしたのか、目障りだから次いでに口封じしようとしたのか、俺はおまけで殺されそうになったのかよ!?」
 怒号を発し、詰め寄る。
 「本当の事を教えろ、ここへ呼び出した本当の理由を教えてくれ、話してくれなきゃわかんね」
 
 言葉が切れる。
 突如動いた敷島が、俺の首に腕をまわし、背広から抜き取ったナイフを擬す。

 「え?」
 ナイフには乾いた血がこびりついていた。
 「さっき梶先生を刺したナイフだ。切れ味は悪いよ」
 「センセ……え、本物?」
 
 迂闊だった。
 真犯人と糾弾しておきながら、背を向けたのが仇になった。
 「………っ!だから言ったろ、無防備すぎるんだよ、お前は!」
 麻生が舌を打つ。
 俺は、動けない。金縛りにあったように硬直する。
 梶を刺した犯人だと推理しながら、心のどこかで油断していた。敷島を信頼していた。
 背後からいきなりしがみつかれ、ナイフをつきつけられる事態は想定してなかった。
 頚動脈に切っ先が触れる。
 硬質な刃から皮膚へと剣呑な冷気が染みていく。
 「やっぱり先生が……」
 「幻滅したかね」
 声音はいっそ落ち着いていた。開き直りに似た不吉な沈着。
 静謐な諦観と凄絶な覚悟を均等に宿す目が、ふしぎな穏やかさでもって、腕の中の俺を見下ろす。
 「……教え子にこんなまねはしたくなかった。残念だよ。君はいい生徒だったから」
 凪いだ表情で口を開く。
 首筋に擬されたナイフは赤黒く染まり、ああこれが梶の血の色か汚いなと頭の片隅で妙に冷静に考える。
 「人質か。古典的だな」
 呆れた表情で歩み寄る麻生をナイフを首に食い込ませ牽制、威嚇。刃から伝わる圧力に息を呑む。
 「彼とは友達なんだろう」
 「…………」
 「秋山くんが傷付くところを見るのはいやなはずだ。君の良心を信じてる」
 敷島が微笑む。この状況で笑えるなんてすでに神経が普通じゃない、狂気に冒されてる。
 「あそう……」
 下手に動くと圧力が増す。唾を嚥下すれば、喉の動きに伴い、刃がさらにくいこむ。
 「調子にのるからだよ、ばか。得々と推理すんのはいいけど、後ろには気を付けろ。犯人に背を向ける探偵なんて最低」
 「最低なのは犯人を自殺においこむ探偵、二番目に最低なのは助手を人質にとられる探偵、自分が人質にとられんのは最低の三番目だよ!」
 なに言ってんのか自分でもよくわからねえ。パニックを来たし、意味不明支離滅裂な事を口走る。
 こめかみで汗が玉を結ぶ。
 頼りなげに見えて梶の腕力は侮れない。首を締められ、息苦しさに喘ぐ。
 「さあ、渡してくれ」
 敷島が片手を突き出す。麻生は冷笑まじりにあしらう。
 「ひとにものを頼むときは跪いて足をなめろって教わらなかったか」
 「君にそれを教えたのは梶先生か。私の趣味じゃないね。折角だがズボンが汚れるから断る、安物だから膝が破けてしまう」
 「斬新なファッション」
 「保守派だからね、私は。若者の服装は理解できない。早くあれを……持ってきてるんだろう、約束どおり」
 あれ?あれってなんだ、爆弾のことじゃないのか?
 話が見えない。困惑する俺をよそに、敷島は追い詰められた様子でくりかえし要求する。
 ナイフが首筋に食い込み、皮膚がプツンと裂ける。
 「!痛ッ」
 「秋山くんがどうなってもいいのか」
 「安い悪役の台詞だな」
 緩慢な動作でコートの内側に手を入れ、四角い封筒を取り出す。
 俺が美術室で入手したのと同じ封筒……
 「それ……」 
 梶が落とした手紙を、どうして麻生が持ってるんだ?
 素朴な疑問が浮かぶ。
 麻生が翳した封筒を見るなり敷島の顔色が豹変、純粋な恐怖と安堵がまじりあう。
 「あんたが欲しいのはコイツだろ。寒い中、薄っぺらい紙きれ一通のためにわざわざご苦労なことだな」
 「渡してくれ」
 「秋山を放すのが先だ」
 「こっちに渡すんだ、さあ」
 「秋山をはなせ」
 傲慢な調子で命じる。敷島の顔が焦慮に歪む。
 敷島の腕の中、麻生と目が合う。俺を見る目に複雑な色が浮かぶ。
 手紙をちらつかせる麻生の方へ敷島が歩を進め、俺から注意がそれるー……
 
 「-!?くっ、」

 おもいっきり二の腕にかぶりつく。
 力一杯突き飛ばされ前のめりにたたらを踏む俺を、反射的に手を出し俺を抱きとめる麻生。
 手紙は?
 宙に舞う手紙を敷島が追う、風に遊ばれ舞う手紙につられ走る。
 無防備に背を向けた敷島。麻生がコートの内から何かを取り出す。
 鞘を払い抜き放つは大ぶりのナイフ、清冽な月光をあび切れ味よさげな銀に輝く……
 「やめろ!!」
 白銀の軌跡を引くナイフ。
 俺の制止を振り切り地を蹴り走り出す、敷島が気付く、ナイフが弧を描く。
 激しく揉みあう麻生と敷島、激しくかちあい火花を散らす硬質ナイフの音。
 別人のような顔つきの敷島が必死に抗う、麻生は冷静な表情、眼鏡の奥の双眸は相変わらず冷え切って、バッドをぶんまわしてボルゾイの腕を叩きおった時さながらつまらなそうだ。
 優勢、劣勢、上、下。ナイフがコンクリを穿つ。
 敷島のマウントポジションをとり、一気にナイフを振り上げとどめをさそうとー……
 「殺すな!!」
 叫ぶと同時に体当たり、敷島の上から麻生をどかしふたり縺れ合ってたおれこむ。
 転倒のはずみにジャージの肘と膝を擦る。
 麻生の腕を掴み手をこじ開け、なんとかナイフを奪おうとも抵抗にあう。
 「麻生、おまえっ、なにやってんだよ!!おにごっこのケリに刃物持ち出すな、もうゲームじゃねえよ!!」
 「お前に関係ない」
 「お前が巻き込んだくせに勝手いうな、んな危ねーもん捨てろ、けがしちまったらどうする!」
 「人殺しをかばうのか」
 ずれた眼鏡の向こうに冷徹な眼光を湛え、この上なく邪悪に楽しげに笑う。
 「人殺しだから殺していいって理屈はねーよ、敷島が梶殺したなら警察に突き出すべきだ、梶が仕切ってた組織のこともひっくるめてちゃんと話すんだ、今度こそ逃げずに、逃げ出さずに!!」
 吠える俺の馬鹿さ加減を哀れむように麻生は笑う。
 「秋山、知ってるか?そいつが殺したのは梶で二人目なんだよ」
 「え?」
 「死んで当然なんだ、そいつは」
 予想外の発言に耳を疑う。
 「!!がはっ、」 
 不意打ちをくらう。
 麻生が突然膝をはねあげ、胴にのっかってた俺はひとたまりなく吹っ飛ぶ。
 風圧で捲れた髪を鋭利な風が薙ぎ、髪の毛を何本か持っていく。
 俺の後ろに忍び寄った敷島がナイフを振るったのだ。
 視界が回る。悪酔い。
 後頭部に衝撃が炸裂脳を攪拌、フェンスに激突し意識が急速に霞んでいく。
 「秋山っ!!」
 敷島と揉み合いつつ麻生が叫ぶ。
 こいつのこんな顔、初めて見る。こんな状況なのに、なんかちょっとだけ愉快になる。
 取り乱す麻生を見れて得した気分、なんて。俺もだいぶひねくれてる。
 後頭部が熱を持ち疼く。コンクリをひっかき、むなしく手を伸ばす。
 待ってろ麻生、今助けに行く。
 いつもいっつも助けられて、足手まといで、たまには俺にもかっこつけさせろよ。
 麻生が口パクで何か叫ぶ。おかしい、聞こえない、耳がどうかしちまったのか。どうかしちまったのは頭の方か。
 瞼が重く垂れ下がる。視界が狭窄し、完全に暗闇に沈む。 
 感覚がこぞって遠ざかる中耳だけが辛うじて生きてる。固い床と激しくぶつかり合う音、悲鳴、罵声、そして苦鳴ー……
 
 「圭の遺書を渡せ!!」
 
 あらん限りの憎しみを込めた絶叫を最後に、意識は途切れた。 

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010311233251 | 編集

 後頭部に沈殿する鈍痛で目が覚める。
 「うっ………」
 頭痛に障らぬようゆっくり目を開く。
 意識が覚醒し暗闇が露光、糸の視界が徐徐に広がっていく。
 「起きたか」
 隣に麻生がいた。
 「アンハッピーニューイヤー」
 「まだあけてねえ」
 「………ってことは……」
 「大晦日だよ、ぎりぎり」
 外気に冷やされ頭がしゃんとするのを待ち、疑問を呟く。
 「俺、どうして……」
 「覚えてないのか?フェンスに頭ぶつけて脳震盪おこしたんだ」
 「何分くらい気を失ってたんだ?」
 「十分くらい」
 「……眠ったのに体がだりぃ。十分じゃHP回復しないよな、はは」
 無理して笑えばずきりと頭が痛む。
 手首に抵抗を感じる。
 「前にもあったっけ、このパターン」
 もう笑うしかねえ。自分の馬鹿さ加減にとことんあきれ不運を恨む。
 俺たちは給水塔の基底部の鉄梯子に手錠で連結されていた。
 手首にはがっちり手錠が噛まされ試しに引っ張ってもびくともしない。
 絡んだ鎖が鉄棒と擦れガチガチ耳障りに鳴る。
 「へぶしっ!!」
 唾しぶき盛大にくしゃみを放つ。
 横顔にくしゃみをくらった麻生が露骨に嫌そうに身を引く。
 「汚い。俺にかけんな」
 「しかたねーだろ、ジャージ一枚っきりなんだから」
 「コートくらいひっかけてこいよ」
 「~急いでたんだよ、だれかさんが学校に爆弾仕掛けたなんて犯罪予告してきたおかげで」
 「風邪ひくぞ」
 「腹いせにウイルス感染させてやる」
 「ならキスするか」
 「~ほんっと悪趣味だな、この状況でそういう冗談いうか普通、仲良く手錠噛まされて人質とられた状況でさ!」
 「いちいち感情的になるな」
 「俺からかって楽しいか、なあ楽しいか?」
 怒りに任せ限界ぎりぎりまで鎖を引っ張り手首を振り、麻生の方へ身を乗り出し怒鳴る。
 「痛っ……」
 はっと息を呑む。
 隣り合わせに蹲る麻生の腕……コートの色が黒いせいでパッと見わからなかったが、袖の上部が裂けてどす黒い染みができている
 血。
 「腕、怪我してるのか」
 「……放っとけ……」
 「血い出てるじゃんか!!」
 むりやり手錠をひっぱったのが傷に障ったらしい。
 蒼ざめ俯く麻生に猛然と噛みつく。
 「怪我してるならしてるって言えよ、傷開いちまったじゃんか!!腕、痛いのか。傷深そうだ。早く手当てしなきゃ……くそ、さっき保健室から包帯もってくりゃよかった。大丈夫か、辛いか?汗すごいぞ。あんまむりすんな、じっとしてろ……って往生際悪く暴れた俺が言っても説得力ねえけど、とにかく動くな。痛み止めのモルヒネは持ってねーからこういうときはそうだ、全力で他の事考えろ、ホームズの踊る人形に出てくる百体の人形を順番に思い浮かべてシャル・ウィー・ダンス」
 腕の怪我は深い。
 コートの色に紛れて一瞬判別つきにくいが、出血がだいぶ多い。
 「とにかく手錠外して病院に、ケータイで電話……くそっ、固え、とれねえ!こういう時は油、前に本で読んだんだ敵にとっ捕まった探偵が手首に油ぬってツルッと抜け出すの、それかバターかマーガリンかワセリンかなんでもいい油性のもん、潤滑剤がいる!!てかなんだよ手錠って、廃工場に続き二度目の体験、手錠って日本のどこでも普通に買えるのか、ドンキとかで普通に売ってんのかよ!?どっから取り出したんだこんなマニアックな拘束具、ドラえもんの四次元ポケットからか!?」
 「梶先生の自宅から失敬した。こんな事もあろうかとね」
 ぴたり反抗をやめる。
 正面に立つ不吉な人影。
 薄汚れた革靴で地面を踏み、くたびれた背広姿の中年男が気さくに微笑む。
 「……梶先生の趣味には感心しないが、コレクションの一部を拝借しておいてよかったよ」
 敷島。
 授業が退屈と評判のうらぶれた教師の面影を引きずってはいたが最前までとどこか雰囲気が違う。
 本性さらけ出した敷島を眼光鋭く一瞥、麻生が嗤う。
 「……殺人罪に窃盗罪が加算されたな」
 「いまさらさだ」
 「おかげで手錠本来の用途がプレイじゃなくて拘束だって思い出せた」
 「麻生の腕、先生がやったんですか」
 片膝立て抑えた声で敷島に問う。
 腹の底で暴れ狂う憤激に駆られ、反抗的な眼光をぶつける。
 「あんたがやったのかって聞いてるんだ。麻生に、教え子にナイフ向けて恥ずかしくねえのかよ?-っ、今まで授業教えてきたじゃんか、あれは嘘か、人がいい中年教師の顔の裏で梶の副業に加担してたのか、眠たげな顔はよそゆきか、俺に付き合ってぐるぐる校舎回ってくれたのも全部演技だったんだな、梶を殺して俺を騙しただけじゃ飽き足らず今度は麻生を……クズが!!」
 「生徒にクズよばわりはこたえる」
 「自業自得」
 麻生が憎まれ口を叩く。
 「先に裏切ったのはあんただろ」
 俺も加勢する。
 片膝立ちの姿勢で油断なく敷島の顔色をうかがいつつ口を開く。
 「さっきの放送でひとつひっかかった。相手が麻生ならあんた呼ばわりはへんだ、梶は生徒をお前よばわりする最低教師だ」
 麻生への呼びかけとすると二人称が不自然だ。
 俺は図書室で麻生とふたりきっりになった梶がお前よばわりする現場を目撃した。
 「……話し相手は麻生じゃありえねー。そうなると……」
 「私だ」
 あっさり白状した、こっちが拍子抜けするほどに。
 わかっていたが、本人の口から聞くとショックがでかい。
 「……梶はあんたを脅していた、共犯と呼んだ。あんた、梶が仕切る組織にかかわってたのか。いつから?六年前から?学校じゃお人よしのふりして、生徒と同僚だまして、裏じゃ梶と組んでレイプ被害者食いものにして荒稼ぎか。なんでそんなこと………教師の給料だけじゃ満足できなかったのか、刺激がほしかったのか?そんなに毎日つまらなかったのか、先生は。たしかに俺、居眠りばっかでテストの点も悪くって、全然いい生徒じゃなかったけど……優しいいい先生だとおもってたのに」
 抑揚なく詰問する。
 敷島の視線が泳ぐ。
 「……六年前にも同じことを言われたよ」
 誰に言われたかは聞かなかった。
 聞かなくても薄っすらわかった。
 「田舎の母が病気でね。………金が必要だったんだ」
 六年前、敷島は母親の入院費を稼ぐため犯罪に手を染めた。
 あるいは弱みにつけこまれ、梶にむりやり従犯と幇助を課された。
 「陳腐なお涙頂戴話と笑われてもしょうがない、実際その通りだ。梶先生は六年前、着任と同時に売春斡旋に手を染めた。そして当時、入院費と手術費の捻出に頭を悩ませていた私に従犯として目を付けた」
 色気の枯れた顔が哀愁を誘う。
 平凡な幸福と縁遠く四十年の人生で辛酸をつぶさになめてきたような中年男が卑屈に笑う。
 「察しの通り、梶には脅されていた。金が欲しくて最初は手を貸した、だがもううんざりだった。手術の甲斐なく母は死んだ、悪趣味な副業に手を貸す理由もなくなった。手を切りたかった。しかし彼は、梶先生はそれを許さなかった。自分の本性と商売を知る私を野放しするものかと、抜けたら私がやってきたことをバラすと脅し続けた。……六年間、心が安まる日は一日もなかった」

 「座間圭」

 敷島が目を見開く。
 視線を横に流す。
 手錠に繋がれた麻生が億劫げに上体を起こし、ひどく冷たい目で敷島を見詰める。
 糾弾の銃口の目。
 「あんたが最初に殺した生徒の名前だ」
 「………そうだ」 
 背広から抜いた手が掴んだものを見て、あっと叫びかける。
 敷島の手の中には例の封筒があった。
 今さっき、麻生と格闘を演じ奪い合った手紙。
 だがそれはよく見ると色褪せ古びている。美術室で入手した封筒はもっと新しかった。
 「……その手紙……てか、なんで敷島がおっことした手紙をお前がもってんの。瞬間移動トリック使ったのか、二十面相みてーに」
 「圭の遺書だ」
 敷島がいとおしむ手つきで封筒をなでる。
 人殺しには似つかわしくない優しい表情、目に宿る郷愁の光。
 授業中も、夜の校舎を走り回ってる時さえ見せたことない表情だった。
 暴力を用いた壮絶な奪い合いを制したのは敷島だった。
 敷島に渡った手紙を見る麻生の目に、氷点下の憎悪と殺意が覗く。
 「………六年前の真相を教えろ。あんたは座間圭の死因を知ってるはずだ」
 「読んだならもう知ってるだろう」
 「だいたい予想はつくけど、本人の口から聞きたい」
 緊迫した視線が絡み合う。
 麻生が放つ苛烈な眼光と、殉教者じみて静謐な敷島の眼差しとが削り合う。
 「……圭は自殺だった。そう言ったら信じるかい?」
 「あんたが殺したんじゃないのか」
 敷島が哀しげに微笑む。
 「圭とは美術室で出会った。放課後、下校時刻ぎりぎりまで居残って絵を描いてるところを、教室の前を通りかかって偶然見かけてね。何度か会話をかわした。最初はそれだけだった。……圭が一年の五月、美術部の顧問が産休に入って、急遽私が代理を務めることになった。圭は熱心な生徒だった。指導し甲斐があった。ひとの目をまっすぐ見て、真面目に話を聞いた。授業中、無視されることに慣れていた私は……たぶん、嬉しかったんだ。親子ほども年の離れた生徒に慕われて、悪い気はしない」
 白く儚い息吐き、淡々と述懐する。
 「圭は従順だった。そしてとても優しかった。困ってる人を放っておけない性格で、私が資料運びをしてると、すぐとんできて手伝ってくれた。私たちは急速に親しくなった。圭は……家庭環境が複雑で、そのせいかほかの子と比べて大人びたところがあった。同年代の友達にも一線引いた礼儀正しさで接する圭が、私とふたりきりになった時だけ年相応の笑顔を見せてくれるのがたまらなく嬉しかった。……圭の特別な存在でありたかった」
 誠実な教師そのものの口ぶりに引き込まれる。
 人殺しとは思えないほど穏やかな顔と声音で故人を語りながら、色褪せた封筒に指を這わせる。
 「……梶はまず手始めに、私の一番身近にいた圭に目を付けた」
 話の核心に至り、麻生の顔に緊張が走る。
 生唾をのみ、強張る横顔と敷島の柔和な表情を見比べる。  
 「……ここから先はおおむね君の想像どおりだ。梶先生の持論だと、相手を意のままに従わせる一番手っ取り早い方法は暴力らしい。母と圭ふたりを人質にとられ、逆らえなかった。私が抜ければ、あるいは真実を告発すれば圭に危害がおよぶ。……私にも良心があった。梶の犯罪に手を貸すのは躊躇があったが、金と圭にはかえられない。だが、圭は……圭は優しすぎた。耐えられなかった」
 「あんたが殺したんじゃないのか」
 「圭は屋上から飛び降りた。目撃者がいうんだ、間違いない。信じるかどうかは勝手だがね」
 目撃者。
 その一言で、敷島が座間圭の自殺現場に居合わせた事実が発覚した。
 「……寒い日だった。暗い夜だった。ちょうどこんなふうに吐く息も白く凍った」
 敷島と座間圭は互いに想い合っていた。
 二人の間に麻生と梶のような性交渉があったかはわからないが、感傷的な口ぶりは教師と生徒の一線をこえた関係をほのめかしていた。
 プラトニックな関係だったのかもしれない。
 敷島の口ぶり性格からするとその可能性が高い。
 すべて敷島の証言に拠る推測。すべてが真実だとは断定できない。
 だが少なくとも、俺には敷島が嘘を吐いてるようには見えなかった。
 麻生は眼光鋭く敷島をうかがっていたが、ふいに顔を伏せる。
 「………くっ」
 「麻生?」
 「ははははははははははははっ!」
 仰天。 唐突に笑い出す。
 さっきの俺みたいに仰け反るようにして哄笑する、品行方正な優等生の仮面をかなぐり捨て前髪を振り乱し大袈裟に笑い飛ばす、世界に宣戦布告するように。
 「人が悪いな、先生。秋山単純だからすっかり騙されてるじゃないか、あんたの上っ面と同情誘う演技に。座間圭の死について非がないならなんでここに来た、俺の呼び出しを真に受けた?」
 笑い歪む横顔に毒々しい瘴気がにじむ。
 「自分は関係ない?加害者である前に被害者だってそう言いたいのか、梶に脅されていやいや手を貸しただけだって主張するか、だから悪くないか。自己憐憫に見せかけた自己弁護はやめろ、偽善者。座間圭を殺してない、あくまで無実だって言い張るならどうして学校に来た?犯人は現場に戻る、あんたはまんまと釣られたんだ、俺がちらつかせた餌に」 
 「餌?」
 「遺書だ」
 唇を下品にねじり、軽蔑しきった顔で唾棄する。
 片膝たて敷島と対峙し、失血による消耗に息を荒げつつ、抑圧した声音で言う。
 「『座間圭の遺書を持ってる、取り返したけりゃ学校に来い』。そうケータイにかけたらすっとんできた。あんたの慌てぶりときたら傑作だった、さぞはらはらしたろうさ、そんなに蒼ざめて生きた心地がしなかったろうな。まさか梶を殺した直後だとは想定外だったけど……卑怯で腰抜けなあんたのことだ、自分の手で梶を殺しときながら何食わぬ顔で言い逃れるつもりだったんだろ?梶はそこらじゅうから恨みを買ってるからな、誰に刺されたっておかしくない。勿論俺もその一人だ、独占欲の強い変態には辟易してた、殺す動機は私怨で十分だ。だけどあんたは律儀にやってきた、なんでだ、怖かったからだ、圭の遺書に何が書いてあるか知りたくて言われた通り来るしかなかったんだ!圭の遺書を取り返して始末するつもりだった、そうだろ、証拠隠滅するつもりだったんだ。不都合な事や物や人は始末してさっぱり忘れる、それで余生は安泰だ、あんたは何食わぬ顔で安月給の教師を続ける!!」
 眼鏡の奥、沸点に達した憎悪が冷却され、底冷えする眼光を放つ。
 「………させるか」
 視線に霜が下りる。
 俺が知る麻生はいつもつまらなそうな顔をしていた、気取って本を読んでいた。
 無表情、無感動、無関心。
 しかし今の麻生は感情をむきだし、敷島への敵愾心と憎悪を露にしている。
 麻生の中にこんな激しいものが眠っていたなんて
 圭ちゃんは麻生にとって、それほど大切な人間だったのか。
 「あんたはたっぷりびびらせてから殺してやるつもりだった」
 「……秋山くんを巻き込んだのは私に対する牽制か」
 「監視役さ」
 唐突に名前を出されたじろぐ。
 「言われた通りあんたは学校へやってきた、座間圭の遺書を取り戻しに」
 「梶先生のマンションで電話を受けた。座間圭の遺書を持ってると君からケータイにかかってきた時はびっくりしたよ」
 「あんたは大慌てでやってきた、そこで秋山と出会う。気が気じゃなかったろ?あんたは遺書を捜してた、秋山は俺をさがしてた。目的と方針の違うふたりが一緒に行動してたんだ、空回るはずだよ。内心びくびくもんだったろ。美術室で手紙を発見した時は心臓がとまったはずだ、ちがうか」
 饒舌にまくしたてながら挑発的な上目で敷島をうかがう。
 降参したように敷島が苦笑する。
 図星。
 「……十年は寿命が縮んだ」
 「あんたは真っ先に絵に駆け寄った。傑作だよ、計算通りだ。犯罪者の心理を読むのは簡単だ。座間圭の絵は罪の証、人目にさらすのは耐え難い。そしてあんたは秋山の目から絵を隠そうと、咄嗟に取り上げ……」
 「ざっくり手のひらを傷付けた」
 「一応罪悪感はあったみたいだな。単に臆病なのか?自殺に追い込んだ生徒の絵と向き合うのは耐えがたいか」
 美術室に乗り込んだ時の状況を克明に思い出す。
 あの時敷島は懐中電灯を室内に一巡させ、絵を見るや愕然と立ち竦んだ。顔色は紙の如く、血の気が失せきっていた。
 俺が煙草に注意をとられた隙に素早く絵に接近し、不用意に取り上げた瞬間、第一の罠が発動する。
 仕掛けられた剃刀は深々敷島の手のひらを切り裂いた。
 「あんたは絵に付せられた手紙が遺書だと思い込んだ」
 「だから背広にしまったのか」
 『これは私が預かる』
 怪我して不自由な手でわざわざ手紙をしまう敷島。不自然な態度。
 あの時は注意力散漫な俺を気遣っての申し出と解釈したが、実際は違った。
 「じゃあ……手紙をおとしたってのも嘘か」
 「わざわざ捜しに戻らせてすまないことをした」
 首をうなだれ殊勝に謝罪する。
 保健室の光景が甦り、ガリッと奥歯を噛み縛る。ころっと騙された自分の愚かさが腹立たしい。
 敷島が背広の内からもう一通封筒を取り出す。
 見間違えようもない、俺が美術室で入手し敷島が紛失したと偽った封筒だ。
 同じ二通の封筒を手に持ち敷島が言う。
 「恥ずかしいことに、麻生くんが本物を出すまでだまされきっていた」
 二通の封筒を比較すると右手の方が古びていた。
 闇の中では一見判別し難いが、左手の封筒は真新しい。
 頭を高速回転させ情報を右から左へ整理する。
 麻生は座間圭の遺書を持ってると言って夜の学校に敷島を呼び出した。
 敷島は梶殺害現場となったマンションで携帯に連絡を受け、その足で学校に直行した。
 懐中電灯を持って旧校舎を探索していた敷島は、物音を聞き付け準備室に向かい、ばったり俺と遭遇する。
 ここにいる本当の理由を勘付かれてはなるまいと宿直の嘘を吐き、麻生捜しの手伝いを買って出る。
 俺は敷島に感謝する。
 敷島という心強い味方を得て、はりきって捜索を再開する。
 敷島は内心あせっていた、俺と遭遇したのは誤算だった。
 性悪な麻生はおそらく同時に俺を呼び出した事を伏せていた。
 俺と一緒に校舎を徘徊しながら敷島は焦っていた。焦慮は恐怖の域にまで高められた。
 殺人の直後で動転していたのに加え麻生の呼び出し、隣には俺がいる。
 決め手は美術室の絵。
 踏み込んだ瞬間顔色が豹変したのもむりはない。
 敷島は生前の座間圭と面識があったばかりでなく、加害者としてその死に深く関与していたのだ。

 遺書
 手紙
 座間圭
 遺作の肖像画

 俺の目には第三のヒントに見えた物が敷島には全く別の物に映った。
 すなわち過去からの脅迫状。
 先入観と罪悪感に起因する錯覚。
 上記の条件が揃えばフェイクの手紙を本物の遺書と誤解するのもむりはない。

 「煙草と手紙、二重の疑似餌に釣られたワケか」
 心理の裏をかく巧妙な作戦。
 頭脳明晰な麻生は敷島の行動を正確に読み、俺というおまけを付けてプレッシャーをかけ続けた。 
 何も知らない俺は、道化だった。
 「……回りくどい手を」
 「あんたはただ殺すだけじゃ惜しい、とことん追い詰めてやるつもりだった」
 「さっきの言葉をそのまま返す。安い悪役の台詞だね」
 俺がいたんじゃ敷島は自由に動けない。
 俺はただそのためだけに呼ばれたのか。
 敷島を牽制するためだけに、悪趣味なゲームに巻き込まれたのか。
 そもそもの始まりから麻生と敷島、一対一の対決だった。
 俺は眼中にさえ入ってなかった。
 敷島にプレッシャーをかけるためだけに盤面に配置された駒だった。
 「……麻生、お前」
 「『よくも裏切ったな』か?」
 『見付けてくれ』
 『とめてくれ』
 「嘘、だったのか。俺にとめてほしいって、あれ。わざわざうちに電話かけてきて……」

 俺じゃなくてもよかったのか。
 
 「………電話……ケータイ、何度もかけてきて。足棒になるまで必死に走り回ってお前さがして、大晦日だってのに、今頃コタツでぬくぬくしてるはずだったのに、俺、お前の言葉真に受けて。寒い中走り回って、でもこれ、嘘なのか。全部ぜんぶ大掛かりな芝居だったのか。お前の目的は敷島で、あとはどうでもよくて、俺はおまけで、ただ敷島を苦しめたいだけに呼んで、だから別に俺じゃなくてよかった、たまたまテキトーなのが俺しかいなかったから」
 「お人よしに付け込んだんだ」

 胸が、
 切り刻まれるように痛い。

 「案の定、単純で鈍感なお前はくるくる予想通り動いてくれた。無知な言動で敷島を困らせてくれた。笑えたよ、秋山。最高だった。想像するだけで笑いがとまらなかった、なんにも知らないお前が無邪気に敷島頼って、敷島がそんなお前を内心うざがりながら道化の笑顔貼り付けておくびにださずいい人ぶって捜索に協力して、最高の喜劇だった」

 憎悪を圧し握り込んだ拳が疼く。
 熱い塊が喉にせりあがる。

 「爆弾もでたらめか」
 「本当」
 「そこは嘘にしとけよ、なんで仕掛けんだよ馬鹿じゃねえかお前!?」
 「ニトログリセリン余ったから」
 「発想せこっ、んな危険物余らせんな!!」
 「冗談」
 この状況で冗談言える神経すげー。
 最低の底も抜けて、いっそ笑っちまう。
 「復讐ついでに俺をおちょくったのか。俺はあくまでついでのおまけで、いてもいなくてもどっちもでよかったのか」
 「いてもいなくてもどっちもでいいけど、いたらちょっとだけ面白くなるかなってさ」 
 悪びれず言う涼しげなつらをぶん殴りてえ。
 親指を内に握りこみ、身の内で荒れ狂う激情を辛うじて抑える。 
 頭に血が上る。
 心臓が爆発しそうに高鳴り、血液中にドーパミンが拡散する。
 「爆弾仕掛けたとか言うから本気にして、学校来て、ほんと寒くって」
 「コート着て来い」
 「そういう問題じゃねえよ!俺、夕飯もまだで、腹へって、大晦日なのにしけったポテチで、すっげー侘しくて、でもそれでもガマンしたのはお前を是が非でもぶん殴りたかったからだよ!なんだよ、これじゃ俺ばかみたいじゃんか。麻生無視すんな、こっち見ろ、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。不謹慎だけど、俺、お前からの電話とってちょっと嬉しかったんだよ」
 「梶が爆発に巻き込まれたって聞いて?」
 「初めて頼ってもらえて嬉しかったんだよ!!」
 そうだ、白状する。俺は嬉しかった。
 ママチャリをがむしゃらにこぎ坂道を一気にかけのぼりながら、土足で校舎にあがりこんで階段を駆け上がりながら、心のどこかで浮き立つ喜びを感じていた。

 漸く頼ってもらえた、話してもらえた。
 随分一方的な頼みだけど、でもそれでも頼ってもらえて嬉しかった。
 麻生に頼ってもらうのが初めてで
 なんでもかんでもひとりで抱え込んできた麻生が、ボーダーラインの内側に俺を招きいれてくれたことが嬉しくて
 有頂天だった。
 舞い上がっていた。
 梶が重態で病院送りになって、聡史は警察署に足止めくって、麻生は学校に爆弾を仕掛け立てこもってるのに、麻生の指名を受けた俺はこれで漸く借りを返し対等になれるかもしれないと勇み立っていたのだ。

 全部でたらめだったなんて、
 俺じゃなくてもよかったなんて。

 「頼ってもらえたとおもった、次に恨まれてるとおもった、図書室で見て見ぬふりした俺を恨んで心中するつもりだっておもいこんだ、でも違った、お前は恨んでさえなかった、どうでもよかったんだ!!」
 
 駄目だ、とまらない、洪水のように罵倒があふれ出す。
 胸が苦しい、つかえをとりたい。
 だから叫ぶ、がむしゃらに叫ぶ。
 ここに呼ばれた理由、ここにいる理由、それを「どうでもいい」の一言で片付けられた。
 走りすぎて肺を痛めて、心臓はばくばくして、口の中は干上がり血の味がして、なのに麻生は「どうでもいい」と言い放った。

 「俺、なんのために走ってたんだよ?!」
 「自己満足のためだろ」

 麻生が口を開く。
 「お前が余計な事したせいで最後の最後で計画がくるった、台無しだ。駒のくせに勝手に動くな、俺の手の上で動いてりゃよかったのに。駒は駒らしく駒に徹してりゃいいのに、でしゃばるなよ。お前なんかただの疑似餌だ、敷島を翻弄するための餌だ。疑似餌としちゃ十分な働きだよ、毛ほども敷島を疑ってなかったんだから。敷島、お前もまんざらじゃなかったろ?秋山に慕ってもらえて嬉しかったんじゃないか」 
 「こっち見ろよ」
 「良心とやらが痛んだろ?懐く秋山の姿に圭ちゃん思い出して」

 我慢の限界だった。
 脳裏で閃光が弾け、気付けば猛然と麻生に掴みかかっていた。
 相手が怪我人だというのに容赦も忘れコートの胸ぐら掴み勢い込んで縺れ合って倒れこむ。
 「圭ちゃん圭ちゃん圭ちゃんさっきからそればっか、いい加減俺を見ろよ、今隣にいる俺は全無視かよ、ふざけんなよ!!俺は駒か、ははっ駒がこうやって歯向かうもんか、駒に下克上される気分はどうだよ秀才、答えてみろよ!!」
 「邪魔するな」
 「俺を見るまでジャマしてやる!!」
 抗う麻生に眼光をえぐりこむ。激昂し、コートの胸ぐら掴んで罵れば、麻生もまた鬱陶しげに肘を払って応戦する。
 暴れれば暴れるほど梯子に巻かれた鎖ががちゃがちゃ擦れ騒々しい音をかなで手首が痛み、けど俺は頭が真っ白で、目の前は真っ赤で、圭ちゃんと敷島しか見えてない麻生をこっち側に引き戻そうと上等なコートをぐいぐいひっぱる。
 ガキっぽい喧嘩、悪態の応酬。
 ふたりして床に転がり揉みあう鼻先を薄汚れた革靴が過ぎっていく。
 「お先に失礼」
 「待て敷島!!」
 「これを取り戻したからには長居の理由も消えた。君たちは年が明けるまで遊んでればいい。……生きて新年を迎えられる保証はないが」
 青春ていいねと言わんばかりの笑み。
 鷹揚ぶった物腰で退散する敷島に麻生が手をのばす、俺も正気に戻り敷島を目で追う。
 硬質な靴音がコンクリ固めの屋上に響く。
 犯罪の証拠の遺書を入手し、もう屋上に用はないと背中で宣言し、教師が立ち去る。
 「麻生くんが仕掛けた爆弾は至近で作動すれば二・三人を死に至らしめる威力があると証明された。……梶先生を刺した時、むこうに包みが転がっていた。あれが爆弾だったとはね」
 口封じ。
 俺たちが死ねば梶を殺した犯人と六年前の黒幕を知る人間もいなくなる。
 俺たちを屋上に放置し帰ればそれで殺人が完了、あとは爆弾が始末を付けてくれる。
 「畜生っ、行かせるかよ!」
 無慈悲に鉄扉が閉じる。
 興奮の余り起き直り駆け出しぐいと手首を引かれバランスを崩す。
 手錠の存在をド忘れしていた。
 「!!痛って、」 
 頭に来てがちゃがちゃ手錠を揺する。
 だが俺の手首が擦れて血が滲むだけで一向に輪抜けの極意は体得できない。
 「こういう時は肩と腕間接外して、って無茶いうなできねーよ!!」
 「役立たねー知識」
 「うるせっ、お前も手伝……」
 振り返り、絶句。麻生の顔色が青を通り越し白くなってる。
 コートに染みた血は腕を伝い、指の先からコンクリ床に滴る。
 だらしなく投げ出した腕、弛緩した四肢。
 失血のせいで意識が薄れ始めたらしく瞼がうつらうつらする。
 「爆弾はどこだ?」 
 質問をかえる。
 焦点の合わない目で俺を見て、次いで、給水塔の頂を仰ぐ。……あそこか。
 「実際どの程度の威力なんだ」
 「一人は確実に即死。巻き添えでもう二・三人」
 「俺と、お前と、敷島と……残念、ひとり欠けちまったな」
 指を三本折って強がる。麻生が力なく笑う。 
 ふと真顔になり、呟く。
 「学校はむりでも屋上くらいは吹っ飛ぶ」
 「……おれたちを道連れにか」
 「給水塔が墓標になるわけだ」
 鉄扉のむこうに耳を澄ましてみたが、敷島が帰って来る様子はない。
 このまま見殺しにする気か。
 時間が来れば爆弾ドカン、俺と麻生は仲良く心中の運命だ。
 「今何時?」
 不器用な右手で携帯をチェック、液晶の時刻表示を確認。
 刹那、全身から血の気が引く。
 タイムリミットまで残り十分を切っていた。
 「早く解除……いやその前にこれ外さねーと梯子のぼれねーし、鍵、待て待てもってねーし、どっかにヘアピン……その前に俺男でここ男子校、屋上にヘアピンなし!あったとしてもこの真っ暗闇でわかるか普通!?」
 「逆ギレかよ。ひとりで騒がしいヤツだな」
 「なんで作って仕掛けた本人が一番落ち着いてんだよ!?」 
 不条理だ。理不尽だ。
 掴みかかる勢いで吠えれば、瞼を開けてるのも辛そうな麻生がぼそり呟く。
 「…………そうだな。変だな。妙に現実感がない」
 なげやりな調子。すべてに疲れきった様子。
 弛緩した腕から大量の血が流れ出し、コートをどす黒く染める。
 よく見ればコートはあちこち裂け、首に巻いたマフラーにも血痕が付いている。
 「携帯鳴ってる」
 麻生が顎をしゃくる。場違いな古畑任三郎のテーマ。
 片手で不器用に操作し、ぎこちなく耳にあてがう。

 『もしもし、透?真理から聞いたけどあんた遅くまでなにやってんの、友達の家にお邪魔しちゃ悪いでしょ』

 お袋。

 「帰ってたんだ」  
 『とっくに帰ってるわよ、パートから帰ったらあんたがママチャリ飛び乗って出てったって聞いてびっくりしちゃった。夕飯食べたの?お友達の家でご馳走になった?おそばは茹でてラップしてあるからおなか減ったらあとで……どうしたの、だまりこんじゃって』
 「お袋、ごめん」
 『どうしたの、いきなり』 
 「こないだのケンカの事。ちゃんと謝ってなかったからさ」
 『………もういいのに』
 「よくねえよ」

 これっきりになるかもしれねーのに

 『……変な子ねえ、改まっちゃって。大晦日に過去清算?水に流して新年迎えようって魂胆?』
 「魂胆て。息子にむかって」
 麻生の視線を横顔に感じる。
 深呼吸で冷静さを吸い込もうとして失敗、半笑いで引き攣る。
 お袋に心配かけまいと条件反射が働く。
 努めて軽口を叩き、いつもどおりの俺を演じる。
 「……ごめん。酷いこと言って」
 携帯を握る手がかじかむ。指が小刻みに震え、ともすると取り落としそうになる。
 耳に挟んだ携帯がずりおちる。吐く息が白く溶ける。鼻の奥がツンとする。
 深く首をうなだれる。
 お袋の声、たまらなく懐かしい。
 安堵と虚脱が入り混じった温かい感情が押し寄せ、なかなか言葉が続かない。
 爆発まで残り十分を切った。
 給水塔の頂に爆弾がセットされてる。至近で爆発すれば、間違いなく即死。

 俺、死ぬかもしれない。
 死ぬのいやだ。
 怖いよ、うち帰りてえ。

 「……………」
 弱音を吐くな、心配かけるな。
 折れそうな心を懸命に叱咤、携帯を握り締める。
 麻生の視線が痛い。安堵と羞恥を同時に覚える。今の俺、どんな顔してるんだろう。きっと最高に情けない顔、今にも泣き崩れそうな面だ。
 家に帰りたい。お袋に会いたい。真理に会いたい。
 畜生、情けない、でもそれが本音だ。
 寒い中走り回るのはもうこりごりだ。

 「お袋、俺」

 帰りたい

 『どうしたの深刻な声出して。てんぷらならとっといたから安心なさい、あんたの好きなかぼちゃよ。海老は真理が食べたけど』

 くそ、あいつ俺の一番の好物を。
 こんな時まで、せこい。せこすぎて情けないやら笑っちまうやらで、泣き笑いに似て顔が歪む。
 考えたくねーけど、これが最期の会話になるかもしれない。
 何を言えばいい?何て言えばいい?さようなら、ありがとう、元気で。どれもふさわしくない気がする。遺言の文才なんて持ち合わせない。
 この年になって、お袋の声聞いただけでうっかり泣きそうになるなんて情けない。恥ずかしい。麻生の顔、まともに見れねえ。
 重苦しい沈黙が続く。
 お袋がふとだまりこむ。
 俺も言葉を返せず、込み上げる熱い塊を噛み砕き、俯く。
 一方で諦めきれず、がちゃがちゃ手錠をひっぱる。
 『あんたには苦労かけるわね』
 お袋がしんみり呟く。  
 「そっちこそ、どうしたんだよいきなり」
 『……あんたとこういう話したことなかったし。いつも照れくさくって避けちゃってたから、いい機会だし、ね?』
 そしてお袋は語り始める。
 『透には感謝してる。あんたはバカな子だけど面倒見よくて優しくて、だからお母さん、甘えちゃってた。息子に甘えるなんて母親失格よね』
 「そんなこと」
 『あるの。あんたがしっかりしてるから、透にまかせておけば大丈夫だって、心のどこかでそう思ってたの。でも、こないだのあれで……ああ、あんたもまだ反抗期終わってないんだなあってしみじみ安心しちゃった』
 「安心?」
 『そう、安心。だって考えてみてよ、あんたがああやって怒鳴ることなかったじゃない。真理とはテレビのチャンネル争いとか漫画のとりあいとかくだらないことでしょっちゅう喧嘩するけど私にむかって本気で怒ったことないでしょ。……お父さんがいなくなってから』
 心臓が強く鼓動を打つ。
 『無理させちゃってごめんね。小学校の時からずっとだもんね。そりゃいやになるわよ。あんたはばかだけどすごくいい子で……すごくいい子だから。何も言わないのにバイト代家に入れてくれるし。私にはもったいないくらいいい息子』

 反則。
 なんでこんな時に

 『でもね、透。これだけは言わせて』

 お袋の声が若干真剣みを帯びる。
 どうしても譲れない大切な事を話そうとしてると察し、こっちも相応に真剣に、身構えて聞く。
 俺には見えた。
 実際目の前にいないお袋が、携帯のむこうで、左手薬指に嵌まったくすんだ指輪をなでる様が。

 『いい思い出なら、とっといたっていいじゃない』

 携帯の向こうで、お袋はきっと笑ってる。
 苦労しどおしの荒れた手をさすり、所帯やつれした顔で、それでもむりせず幸せそうに笑ってる。
 『過去に縛られて生きるのはかっこ悪いって風潮あるけど、お母さんこうおもうの。過去があるから今があるって』
 陳腐な台詞。もしお袋が目の前にいたら、直接会って話していたら、とてもじゃないが素直に聞けなかった。
 鼻で笑ってすませるか、キレてまた怒鳴り散らしていたはずだ。
 でも、今。
 もう少しでこの世とおさらばするかもしれない状況で聞くお袋の声は、鼓膜を通し、心に染みる。
 『……お父さんは確かに身勝手で駄目な人だけど、いい思い出もちゃんとある。虫がいいかもしれないけど、その思い出まで否定しなくたっていいじゃない。本人がどっか消えちゃったんなら、せめて思い出くらい持ってたってばちあたらないわ。あの人が遺してくれたもの全部に価値がないとは母さん思わないわ』
 そんなこと知ってる。
 転んだとき、泣くのを我慢した俺の頭を大きな手でぐりぐりなでてくれた。
 「透は強い子だな」と笑って褒めてくれた。
 お袋の言葉が呼び水となり、もう顔も薄れ始めた親父とのささやかな思い出が漠然と甦る。
 ああ、そうだ。俺から言い出したんだ。
 親父に「強い子だな」と褒められて嬉しくて、だから俺は調子にのって、「おれは強くてかっこいいから、なんかあったらエンリョなく頼っていいよ」と言った。「そうか、そうか」と親父は嬉しそうに頷き、大きな手でわしゃわしゃ頭をかきまわした。

 ああ、そうだ。
 俺から言い出したんだっけ。

 『透 母さんと真理をよろしく頼む』

 親父は信頼してくれたのか。

 『お父さんと出会えたから透と真理がいる。全然後悔してないわ』
 きれいごとだと笑って片付けるのは簡単だ。
 おふくろだって完全に割り切ってるはずがない、女を作って会社の金持ち逃げした親父にわだかまりを残してるはずだ。

 だけど。
 それでも。

 『透と真理のお母さんになれたのはお父さんのおかげよ。……あの人のせいで色々苦労したし、一時は本当に恨んだけど、でもね、なんか吹っ切れちゃった。あんた達、笑うんだもの。お父さんがいなくなった分、笑うんだもの。笑い声がうるさくて、いやでも前向きになっちゃうわよ』

 くそったれな親父だけど、それだけじゃなかった。
 それだけにしちゃいけない。

 涙腺がゆるみ視界が曇る。
 携帯掴む手の甲で瞼を拭う。
 情けねえ、ほんとかっこ悪ぃ。なに泣いてんだ、いい年して。十七だぞ。

 ギャグがすべりがちな天然のお袋。
 足癖の悪い、口答えばかりする生意気な妹。

 捨てなくてよかった。

 握り締めた携帯電話から電波に乗じ声が伝わる。
 押し黙った俺を案じ、お袋が『透?とおる?』とくりかえし名前を呼ぶ。
 なんか答えなきゃ。安心させなきゃ。なんでもねーふりしなきゃ。
 液晶の時刻表示がプレッシャーを与える。携帯をもつ手が汗でぬめる。胸が騒ぎ、心臓がばくばく脈打ち、頭が真っ白になるー……

 指が触れた。

 「!」
 指の又に指がすべりこむ。
 手と手が重なり合う。
 弾かれたように隣を見る。
 麻生は正面に視線を投じ、給水塔の梯子にぐったり背中をもたせている。
 麻生の手はひどく冷え切っていた。
 かいたそばから汗は冷やされ容赦なく体温を奪い去る。
 重ねた手から伝わる体温と感触に徐徐に平常心を回復、深呼吸で顔を上げる。
 「……大丈夫、聞いてる。……うん、もうすぐ帰る。そば、とっといて。あとで食うから」
 約束し、携帯を切る。
 携帯を懐に突っ込み、給水塔のてっぺんを睨む。
 給水塔の頂からちらり箱が覗く。
 梯子をのぼりきった縁にのっかってる、あれは……
 試しにもう一度手錠をひっぱる。やっぱだめ、どうしたって切れそうにない。
 手だけなら?
 巨大な給水塔を見上げ、覚悟を決める。
 「秋山?」
 給水塔の側面におもいっきり肩をぶつける。
 骨まで響く震動に顔を顰める。
 側面に体当たりすれば、縁に見える奇妙な箱が震え僅かに手前に動く。
 「のんびりみてねえで手伝えよ、爆弾おとすんだよ!」
 我ながら手荒だ。
 かたや指を湿し入念に唾をすりこみ、圧搾の痛みに耐え、手を引っこ抜きにかかる。
 俺の手には少し大きめな手錠だ、頑張れば抜けるはず、きっと。
 「下手にショック与えたら爆発するぞ」
 「何をいまさら、ほっとけばどっちみち死ぬだろ、だったらあがいてあがいてあがききったほうがましだ!!」
 ガンガン給水塔を蹴り付け、体当たりをくりかえす。
 屋上でひとり暴れる俺と対照的に麻生はあきれ顔、指一本動かさず醜態を見守り続ける。
 「かっこ悪ぃ」
 「お前は黙って死ぬのを待つのがかっこいいとでも思ってる高二病か、敷島ぶん殴りたいだろ、いいのかよこのまま死んじまっても!?自殺するために爆弾仕掛けたのか、だったら願ったり叶ったりだけど付き合いきれねーよ、俺は死ぬためにわざわざここに来たんじゃねえ、天国に一番近い屋上にきたんじゃない、お前と生きて戻るためにここに来たんだよ!!」
 麻生が爆弾を仕掛けた理由。
 敷島と心中するつもりだったのか、自殺が目的か。
 バカと紙一重の天才の思考回路は理解できない。
 今は理由を云々してる場合じゃねえ、一分一秒でも早く爆弾をおとす! 
 「もう疲れた」
 「厭世的な事言ってんじゃねえよ、まだ十七だろお前、こないだ十七になったばっかだろ、高校生活まだ一年も残ってんだよ、これからまだまだ色々あるんだよ、思い出作るんだよ!!」  

 くそったれな親父だけど、それだけじゃない。
 けれど親父は戻ってこない。
 俺の人生から永遠に消えちまった。
 麻生はまだここにいる、今ここにいる、今ならひきとめられる、こっち側に引き戻せる。

 「今ここで終わっちまったら麻生、俺おまえ恨むからな、死にたくねー俺巻き添えに無理心中した傍迷惑なダチだって死んでも恨むからな、地獄で一生呪い続けてやっから覚悟しろ、あの世まで付き纏ってやる!」
 「ぞっとしねーな」
 麻生は力なく笑う。
 叫びながら怒鳴りながら体当たりを続ける、ガンガン衝撃が炸裂する、震動が骨に響く。
 激突、また激突、全身が痛い。
 爆弾はじりじり着実に手前に乗り出している。
 もうちょっとでおちてきそうだ、でもとどめの一撃が足りない。
 「お前と手錠で繋がれ心中なんてしょっぱい死に方ごめんだ!」
 「こっちこそ」
 「じゃあがけ!」
 「無茶いうな、疲れたんだ」
 嘘じゃない、本音だ。
 麻生は本当に疲れきってる。
 その証拠に腕が動かない。ナイフで切り裂かれた傷口からは失血が続く。
 指一本動かすのもだるいらしく、震動が伝う給水塔に背中を預け、無造作に四肢を放り出す。
 「ーーーーーーーーーっ、あきらめーねからな!!」
 「どうしてそんなに」 
 「生きたいからに決まってんだろ!!」
 即座に言い返し再突撃、給水塔全体が揺れ眩暈が襲う。
 押して引いて蹴って蹴り上げて体当たり、巨大な給水塔に挑戦しつつ、怒り狂って叫ぶ。
 「生きたいんだよ俺は、お前と一緒に!せっかく出会えたのに、やっとできたダチなのに、じゃなくって、ああくそ正直わかんねーし恥ずかしいよ自分でも何言ってっかわかんねよ、俺が一方的にダチだと思い込んでるだけでお前にとっちゃどうでもいいのかもしれない、どうでもよくねーのは俺だ、俺たちまだ出会ってたった七ヶ月だ、たった七ヶ月ぽっちっきゃ付き合ってねーんだよ、まだまだ読ませたい本たくさんある案内したい穴場たくさんある、なのにこんなとこであっさり死んでたまるか、心残り多すぎだ、お前はいいのかよ麻生、誕生日に贈った本読みきったのかよ!?」
 朦朧と濁り始めた目に理性の光が点る。
 「黒後家蜘蛛の会、お前の十七の誕生日に俺が贈った本、どれにしようか棚の前で三時間も迷った!あの本最後まで読んだのか、あとがき解説までちゃんと読んだのか、読んでねーのに死ねるのか、だったらお前の本への愛たいしたことねえな、俺のミステリへの愛のが断然上!!」
 勝ち誇り、やけっぱちの哄笑をあげれば、聞き捨てならねーと麻生が身をおこす。
 梯子に縋って上体を起こした麻生が剣呑に睨んでくるのを無視し、ガンガン給水塔を蹴り付ける。
 「どーしたくやしいだろ、自分の負けだって言ってみろ、素直に敗北を認めろ!お前の本への愛って結局その程度だったんだな、結末読まずに死ねる程度のあっさいもんだったんだな!!俺なんかこないだ買った新刊まだ読み終えてなくて、いいところで中断したからもー結末が気になって気になって眠れないね!!」
 「………もう少しで読み終える……」
 「はい負け!てことはまだ読み終えてないんだ、なのに死ねるんだ、へーお前の本への愛ってホームズが刻んで詰める煙草の葉っぱくらい薄っぺらいね、関口に対する榎さんの友情くらい軽薄で不誠実だね!!!」
 スニーカーの靴裏に衝撃が爆ぜる。あともう少し

 轟音。

 「………言いたい放題言いやがって」
 無理を押して立ち上がった麻生が、給水塔に蹴りをくれる。
 「!?危ねっ、」
 腰が前に泳いだ刹那、するり手錠が抜ける。
 手首の貧弱さ間接の柔軟さに加え執拗に唾をすりこみ滑りをよくしたのが利いたらしい。
 だが代償は大きい。
 前に踏み出た反動で輪抜けが成功したはいいものも手首をくじき、激痛が火矢の如く脳髄を貫く。
 ヤジロベエの如く傾ぐ爆弾は落ちそうで落ちない、どころか麻生の一撃のはずみでこてんと反対側にひっくり返っちまう。
 「いらんことしい!!」
 舌打ち。
 横に転がったナイフを奪い、捻った手首の痛みをごまかし鉄梯子を掴み足をかける。
 カンカンカン、靴底で梯子を蹴って素早く上る。屋上のさらに一番高い場所、給水塔のてっぺんをめざす。給水塔の頂点に手を付き一気に体を引き上げる、前のめりに倒れこんだ鼻先に爆弾、夢中で蓋を取り外す。
 「どっち!?」
 ほかより一回り太い赤と青の導線が存在を主張する。
 生か死か究極の二択。
 不正解を選べば即死。
 「爆弾の中ってほんとこんななってんだ、映画で見た通り……じゃなくておい、麻生、どっちだ!?これってあれだよな、どっちかひとつ正解で、間違った方切るとドカン!だよな、ちょ、マジかよ洒落になんね、俺こういうのだめだって弱いんだってツキのなさにかけちゃ関口巽をも上回るいやこの場合は下回るか、あーどっちもでいいよ今大事なのは爆弾、赤と青どっち!?」
 ばっと下を向きぎょっとする。
 「大丈夫か!?」
 麻生が倒れていた。さっきの蹴りで余力を使い果たしたか、貧血か。
 携帯の液晶は23:58を示す。
 「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー気合で二分もたせろ!!」 
 俺、すでに涙目。もう泣きたい、かなり本気で。
 ナイフの刃を青にあて赤にあて忙しく移す。
 どっち?青、赤?
 力一杯投げ捨てる?
 駄目だ俺の腕力じゃ途中で落ちる、いまさら給水塔おりてフェンスに駆け寄る時間ない、距離を稼げなきゃどっちみち巻き添えだ。
 究極の二択、これで運命が決まる。もうやだなんだってこんな目に、畜生どうせへタレだよ俺は、今だって怖くて怖くてちびっちまいそうで膀胱ぱんぱんだよ、手は汗でぬめってナイフ滑りそうで、体中巨大な心臓になっちまったみたいにばかでかい鼓動が轟く。
 極限の興奮と緊張に喉が渇く。
 唾なんか一滴も出てこねえ。
 瞬きも忘れ爆弾を凝視、ほかより一回り太い赤と青のコードを見比べ、そしてー……

 閃き。
 即座に決断。

 刃に圧力を加え、片方のコードを切断する。 
 コードはあっけなく切れる。

 一生分の体験を濃縮したような二分間。
 比喩じゃなく一秒ごと寿命が縮まっていく戦慄。

 タイマーの時刻表示が止まる。
 00:00:03。 

 携帯をひったくり時刻を確認。


 1/1 00:00:00


 膝から下の感覚がねえ。
 手、まだ震えてる。
 ナイフを切る瞬間はとまっていた震えが、安堵とともにまたぶりかえした。
 携帯を胸に抱き、爆弾を見る。青のコードが真ん中でプッツリ切れていた。
 
 ヒントは麻生が巻いていたマフラー。
 
 『おまえ、アースカラー似合いそうだから』

 麻生はぼろぼろのマフラーを拾って帰った。
 のみならず、わざわざ屋上に巻いてきた。
 月光に冴え冴え映えるマフラーの色は………青。

 「………はは」

 俺ならわかると思って、
 勘付くと思って。
 むしろ俺が真っ先に気付くべきヒントだった。

 「起きろよ、麻生」
 「う………」
 給水塔の上から呼びかければ、ぴくりと腕が動く。
 薄く目を開けたその顔にむかい、携帯を掲げ笑ってみせる。
 「ハッピーニューイヤー」
 液晶の時刻表示に目を移し、力尽きたように瞼を閉ざす。
 「………爆発、しなかったな」
 「ヒント、わかったよ」
 「解除したのか」
 「ヒントくれたから。……マフラー締めてくれたんだな」 
 「かっこ悪ぃ」
 マフラーのことか俺のことか自分のことか、それ全部ひっくるめての台詞か。
 屋上に手足を投げ出し、月が浮かぶ夜空を仰ぐ麻生をよそに、手で膝を支え立ち上がる。
 「そだ、救急車……」
 携帯に番号入力、通話ボタンを押す。
 もうだいじょうぶ、全部終わった。
 年が明けた。爆弾は解除成功、悪趣味なゲームも終了。
 俺たちはまた日常に復帰して今までどおり……

 何者かが鉄扉が開け放つ。
 静まり返った屋上に乱暴に鉄扉を開け放つ音が轟き、大気がさざなみだつ。
 
 「……やってくれたね、麻生くん」
 
 敷島がいた。
 戻ってきた。
 なんで?

 「本物の遺書はどこだ?」
 
 歩きながら五指を広げる敷島、夜風に吹き散らされ舞う紙片。
 ぱらぱらと、ぱらぱらと、俺の鼻先にまで流れてくる。
 封筒ごと破り捨てた手紙を宙に吹き散らし大股に歩みがてら駆け足になり、猛然と突進。
 「麻生!!」
 叫ぶ、だが遅い。
 携帯を懐に突っ込み給水塔から風切り飛び下りる、靴裏から骨貫く衝撃、固い地面に着地、痺れを堪えふたりを追う。
 麻生の手錠を外し、後ろ襟引っ掴みフェンス際へひきずっていく敷島。
 「……やっと気付いたのか、遅いんだよ。ここで開けてりゃよかったのに、あんたときたら……本当に臆病者だ。俺たちに見られるのが怖かったのか?だから一人になってから、こっそり開封したのか。中身びっくりしたか」
 「びっくりしたともおおいに、まさか私が採点した古典の答案がでてくるとはね。一体いくつフェイクを用意してるんだい?」
 声音はおだやかに、しかし内に憤激を秘め、麻生の胸ぐらを掴みぐいぐい力の限りフェンスに押し付ける。  
 麻生の背がフェンスを乗り越える。
 「!!やめ、」
 床を蹴り跳躍全力疾走、疾駆する視線の先、敷島に首を絞められフェンスから乗り出た麻生が邪悪に笑う。
 敷島の顔に殺意が爆ぜる。
 握力と握力が強まり、麻生の体がぐらり傾ぐ。

 墜ちる、
 落下。

 「ーーーーーーーーぁあああああああああああああああああああああぁああああああああっ!!」

 絶叫。
 フェンスに乗り出し滑りゆく腕を掴む。 
 腕が抜けそうな衝撃、激痛。
 捻った手首でフェンスを掴み、なかばフェンスに乗り上げた前傾姿勢で不安定な均衡をとり、完全に外に出た腕で麻生をキャッチ。 
 腕一本に俺と麻生と二人分の体重がかかる。
 下方から吹く風が前髪を煽り、覗き込んだ闇の深さ、地上までの距離に息を呑む。 

 「………ッ、でぇ……麻生、早く、あがってこい……この体勢キッツぃ……腕抜けそ……」
 「遺書を渡すんだ」
 後ろに気配、耳朶に触れる低い脅し。
 頬にひやりナイフが擬される。
 さっきと同じパターン。しかし今度は本気の度合いがちがう。
 「圭の遺書はどこだ。まさか持ってきてないなんて言わないでくれよ、君の脅しを真に受けてはるばるやってきた私がばかみたいじゃないか」
 「この状況見てそんな……あんたほんとにいかれちまったのか、教え子が腕一本でぶらさがってんだぞ引き上げんの手伝えよ、御手洗高一お人よしな教師の評判は紛いもんか!」
 「俺が死んでくれたほうが都合がいいんじゃないか、あんたは」
 麻生が皮肉る。
 腕一本で宙吊りで、足元にはぽっかり虚空が口を開けて待ち構えてるのに、どうしてこんな冷静でいられる?
 敷島も麻生も理解できない。
 こめかみにぷつぷつ脂汗が浮かぶ。
 腕が抜ける激痛に奥歯を食いしめ抗い、麻生の腕を掴む。
 「遺書を渡したまえ。宙吊りでも腕は動くだろう」
 「自分が刺したんじゃないか」
 「動くはずだ。試してみたまえ」
 麻生の痛みには頓着しない口調で、ゆったり促す。
 「この野郎…………」
 激痛と憤激と憎悪と激情が荒れ狂う。
 生理的な涙にしめり、血走った目で余裕ぶった敷島を睨みつける。
 俺の頬に押し当てたナイフをすっと引く。皮膚が裂け、顎先へと血が滴る。
 それでも麻生が言うことを聞かないとみるや話題をかえる。
 「……どうやって圭の遺書を手に入れたんだ。死体はしらべたのに」
 「葬式の夜。圭ちゃんの机の引き出しから」
 「隠匿したのか?」
 敷島が軽く驚く。
 そんな敷島を鼻先で笑い捨て、言う。
 「警察はあてにならない。俺の手で殺してやるつもりだった」
 手首が痛い。腕が痛い。気を抜くとふっと意識が遠ざかる。
 「君は圭のなんなんだ」
 「さあな。そういうあんたは?」
 「………………」
 慙愧の面持ちで押し黙る敷島を挑発する。
 「理解者?保護者?恩師?恋人?愛人?」
 「黙れ」
 「答えられないってことは生徒と教師の一線こえた負い目があるんだ」
 腱が焼き切れそうな痛みに顔がゆがみ、大量の脂汗が滴り、床に染みを作る。
 「殺す、とか……簡単にいうなよ……」
 苦痛に濁った声をようやっと絞れば、それで這い蹲る俺に初めて気付いたとばかりにふたりの視線が向く。
 「本気だ。梶、敷島。少なくともあんたと梶のふたりは、俺の手で……俺が作った爆弾で始末する気だった。実際こいつが余計な事さえしなけりゃそうなってた」
 「余計な事じゃねえ」
 「もう一歩だったのに。……ここに呼んだのは失敗だったかもな」
 腕を掴む俺を見上げ、麻生が笑う。夜に墜ちていきそうな儚く不安定な笑み。
 「大した名探偵だよ、お前は」
 「俺は証人か。俺の前で敷島の本性を暴き立てたくて御手洗高に呼び出したのか」
 「……まあ、それもあった」
 屋上は法廷だった。
 麻生は俺を検察側の証人に仕立て上げようとした。
 証人に指名された俺は、その働きを十分に果たせただろうか。
 自信はこれっぽっちもない。
 付け焼刃の推理で真犯人をあてたところで、達成感とも爽快感ともさっぱり無縁だった。
 ただ、胸が痛い。
 幻滅、失望。
 敷島に裏切られた事が、麻生にだまされたことが、こんなにも。
 「遺書を渡せ」
 「俺の死体から回収したらどうだ?圭の死体も検めたんだろ。梶も変態だけどあんたも負けず劣らず変態だな、屍姦でもするつもりだったか」 
 「馬鹿っ挑発すんな、状況わかって物言って」

 喉の奥から裂かれた絶叫叫をしぼりだす。
 
 敷島がナイフを振り下ろし俺の手を刺す。
 「秋山!!」
 仰向く麻生の顔に血がとびちる。
 痛い痛いなんてもんじゃねえフェンスの根元に掴み縋る手の甲にナイフで切り付けられ深々と、指の間に血が滴る、脳裏が真っ赤に染まる、絶叫、悲鳴、全身の毛穴が収縮しドッと脂汗がふきだす。
 「……乳首に安全ピン刺されるのと比べ物になんねー痛さ……はは……」
 「次はどこを刺そうか」
 敷島がナイフをもてあそぶ。
 俺の新鮮な血と梶の乾いた血がこびりつくナイフを間近に見て、恐怖と嫌悪に胃が縮む。
 「腕か、足か、背中か」
 「………先生……」 
 「まだ私を先生と呼んでくれるのかね?ありがたいね、だが期待には応えられない。……もっとも麻生くんの心がけ次第だが」
 優しげな笑みでナイフを扱う。 
 「秋山から離れろ」
 「遺書が先だ」
 「……………」
 「死んだ人間と生きてる友人、どちらをとる?」
 「俺の中では死んでない」
 「ならば言い方をかえよう。君と私の中で生きてる彼と、これから死のうとしている彼と、どちらをとる?」
 敷島が狂気と紙一重の聖者の笑みをたたえつつ、ジャージの上から俺の背筋にそってナイフをおろす。
 「………は………っく、ぁ」
 刃がふれ、ジャージが裂ける。
 寝かせた刃が裾を払い、内側へともぐりこむ。
 背中にもぐりこむナイフの冷たさにびくりと身がすくむ。
 必死にフェンスを掴み、もう一方の手で懸命に麻生を引き上げる。
 肌を這うナイフの冷たさが絶望を伝える。
 「秋山に手をだしてみろ。殺してやる」 
 「宙吊りでなにができる?せいぜいそこで友達が切り刻まれるのを見てればいい」
 「圭ちゃんだけじゃなくて秋山も殺すのか」
 「いまさら怖くはない。躊躇もない。私はもう人殺しだ。……圭を死に追いこんだ時からね。ああそうだ、梶先生は『人』の勘定に入らないから彼だけなら人殺しとは呼べないね。鬼畜殺しかな」
 諦観を帯びた憫笑。
 現実と乖離し、妄想の世界をさまよう敷島と視線を絡め、ゆっくりとコートの内に手を入れる。
 三通目の四角い封筒。 
 「偽物じゃないだろうね」
 「中身は本物だ。あんたが来る前に入れ替えた。……確かめてみろ」
 封筒が手渡される。
 受け取った封筒を感慨深げに見詰める敷島。目に沈痛な光が閃く。
 「開けないのか」
 「……………」
 「勇気がないか。ぼろくそ叩かれてるかもって?卑怯者、腰抜け、裏切り者、偽善者。好きなのを選べ」
 不安定な体勢でせせら笑う麻生を一瞥、再びナイフを振るう。
 「ーあっ、ぐ!!」
 「秋山!!」
 今度は上腕。
 ジャージが破け朱線が斜めに走った素肌が覗く。
 熱と痛みと悪寒で意識が朦朧とする。踏みしめた地面からひしひし冷気が染み骨が凍て付く。
 汗でぐっしょりぬれた前髪が額にへばりつく。
 「……………………殺してやる」
 麻生の低い声。
 「梶は爆弾で済ませた。あんたにはそんなずるしない、直接殺してやる。あんた、本気で逃げ切れるとおもってるのか?六年前はなるほど自殺で処理された、だけど今度はれっきとした他殺だ、警察があんたを見付けだすのは時間の問題。刑務所に入れば安全?俺の手が届かない?まさか、なめてもらっちゃ困る。絶対にあんたを殺す。どんな手を使っても殺す。圭の味わった苦しみ、秋山が受けた痛み、あんたにたっぷり味あわせて殺してやる」 
 馬渕の手。
 全部の爪が剥がれた指。
 「……馬渕になにしたんだ……」
 熱っぽく荒い息を吐きつつ、ずっと気になっていたことを問う。
 ずっとひっかかっていた、馬渕の異常な怯えようが。俺をいじめてた連中の豹変ぶりが。
 「……ある快楽殺人者がいた。そいつは真性のマゾヒストで、自分の肉体を傷つけ痛め付けることで快楽をえていた。ペニスに釘を打って絶頂に達する手合いだ。けどその真性マゾも、指の生爪を剥ぐのだけは断念したんだそうだ。指の先端には神経の束がある。爪を剥がれると死ぬほど痛い」
 「………お前………」
 「世の中にはたちが悪い連中が大勢いる。他人の痛みを想像できても、自分の痛みじゃないならどうでもいいと割り切って、かえってそれを楽しむ連中だ。金さえ渡せばなんでもやる手合いだ。夏休み中、金で雇った奴らにボルゾイの仲間を襲わせた。……馬渕の爪を剥いだのは俺だけど」
 「どうしてそこまで」
 「さわったろ」
 「は?」
 俺を背後から組み伏せたのは馬渕。
 「去勢だよ」
 そう言って俗悪に醜悪に笑う。良心が死に絶えた笑み。
 麻生の腕を掴む手から力が抜けていく。
 絶句した俺の背に密着しナイフを首筋に擬す敷島に対し、宙吊りの麻生がおぞましい脅迫を続ける。
 「あんたは剥ぐだけじゃすまない。まず爪の肉に熱した針を深くさす。何本でも、刺せるだけ刺す」
 「やめろ麻生、」
 「手足の指を針だらけにしてやる。ライターオイルをぶっかけて、あんたの貧相なアレを燃やしてやる。もう二度と悪さできないように去勢してやるよ」
 「やめてくれ」
 「ガラスの欠片を口に詰めてガムテープで塞ぐ。殴る。口の中は切れて血だらけ、ガラスを呑んで喉は」
 「やめてくれ、それ以上言うな!!」
 聞きたくない聞きたくない聞いていたら頭がおかしくなる引きずり込まれる

 邪悪で異端な。
 狂気と憎悪を飼い馴らし飼い殺し。
 
 六年前麻生の胸の内に播種された殺意は今や飽食を知らぬ怪物の如く育ち、宿主そのものをのみこんでしまうほど深淵を広げていた。
 眼鏡の奥の目に底冷えする光をたたえ、淡白な表情には不釣合いな歪さで口元をねじる。

 「殺してやる」 
 「どうやって?」
 「俺が生きてる限りいくらでも方法はある、安心なんかくれてやらない、俺の大事なものを傷つけた。警察?逮捕?くだらない、殺人罪は最高で懲役十五年。無期懲役は無期じゃないんだ、上限があるんだ。人一人殺したら平均八年か、あんたはたった八年で出てくる。仮に死ぬまで刑務所にいたところで、それが?あんたが刑務所にいれば死人が戻るのか、あんたがめちゃくちゃにしたものがもとに戻るのか。戻らない、戻るわけがない、俺はそれを知ってる。戻らないんだよ時間は、どんだけあがいて暴れたって絶対戻ってこないものがあるんだよ」
 「……知ってるよ、私も」
 敷島が微笑む。目は笑っていない。
 俺の首をナイフでなめながら、深沈と冷えた光を湛えている。
 「俺の大事な人間を殺した人間を殺したところで、心は痛まない」
 「麻生、」
 「痛むような心は持ち合わせない」
 「麻生、」
 「俺の大事な人間以外はどうなったっていい、償えとは言わない、詫びろとも言わない。ただ、死ね。苦しみぬいて死ね。贖罪も謝罪もいらない、俺はただ殺したい、俺の大事なものを、ひとを、めちゃくちゃに壊して最悪の死に追い込んだ人間を殺したい。捕まろうが裁判になろうが刑務所に入れられようが……」
 「人殺しちゃいけねえ理由なんてわかんねえよ、でもお前が人殺しちゃいけねえ理由ならわかる!!!」
 麻生の目が動く。
 衝動に駆られ知らず喉も裂けよと叫んでいた。
 ずりおちる腕をにぎりなおし、ぎりっと容赦なく指を食い込ませ、フェンスに乗り上げ転落寸前の勢いで叫ぶ。
 「……お説教か?人を殺しちゃいけない理由を即答できなかったくせに、いまさら」
 息を吸い、嗤う。
 「世の中には死んで当然の人間がいる」

 梶のように
 ボルゾイのように
 敷島のように

 「あのビデオを見たならいやでも納得するはずだ。泣くとうるさいからと赤ん坊の口にガムテープを貼る強盗、レイプした女の数を自慢する男、遊び半分のリンチで同級生を殺した奴、陰湿ないじめの主犯。梶のようにボルゾイのように敷島のように沢山の人間を不幸にしておきながらのうのうと生き続ける悪党、人の痛みを想像できても興味がない人間」 

 嗚咽する久保田
 お母さんと呼ぶ女子中学生 
 埃っぽい闇に沈む廃工場を狩り立てられ逃げ惑う大勢の被害者たち

 「殺されて当然なんだ、連中は」

 思い出したくない。
 何も言い返せない。
 視聴覚室で見た悪夢の映像は悪夢じゃなくて現実で梶が趣味と実益をかね撮りためた犯罪の証拠、思い返せば猛烈な吐き気が襲う、久保田の泣き顔が少女の泣き顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃの他の被害者の顔が網膜に焼き付いてはなれない。
 一生忘れられない

 「お人よしが人殺しを擁護するか?生きてる価値のない人間なんて世の中にはひとりもいない、生まれてきた意味のない人間なんてひとりもいないって性善説の理想論を唱えるか?」
 「……お前の言う通り……世の中には、生きる価値と資格のない人間もいるかもしれない」
 
 世の中には生きてる価値のない人間が絶対的にいる。

 罪を犯せど裁かれず
 人を殺せど殺されず
 自分が人殺しだという事実さえ忘れおもしろおかしく暮らすもの
 ボーダーラインをあっさりこえておきながら代償も払わずこっち側にとどまろうとするものたち。

 「赤ん坊の口にガムテはった強盗も……誘拐犯も……梶も、ボルゾイも、殺されたって文句は言えねえ。自業自得」
 「殺していいだろ」
 「駄目だ」
 「殺したい」
 「駄目だ」
 「殺させてくれ」
 「絶対駄目だ!!」
 「なんで」
 「俺が哀しいからだ!!」
 眼鏡の奥、麻生が目を見開く。
 俺は続ける。
 体の底にたまったもの、腹の底に渦巻くもの、全部全部吐き出す勢いで沸騰する感情を一挙にぶちまける。
 「裁判でさらしものになんのが哀しい、刑務所いれられて離れ離れになんのが哀しい、遺族に憎まれんのが哀しい、でも一番哀しくて悔しいのは麻生譲ってちゃんとした名前があんのにお前をよく知らねえヤツらがその他大勢の人殺しの一人としてしかお前を見なくなることだ、呼び名が人殺しになっちまうことだ!!」
 「たいしていい名前じゃない」
 「俺が呼ぶ、譲を呼ぶ!!」
 麻生が大きく目を見開く。
 まるで、再びその名前で呼ばれることがあるとは考えもしなかったみたいに。
 俺は叫ぶ、哀しみも苦しみも全部絞りだす勢いで叫ぶ、六年前こいつを譲と呼んだ誰かに代わって、そいつの面影を蹴散らす勢いで

 「俺は譲を譲らない、頼まれたって譲ってやるもんか、大事な大好きな一番のダチを警察に売り渡すもんか、お前の名前を呼ぶ、しつこいくらい呼ぶ!!」

 呼ばれるから意味ができる

 「麻生譲!!」

 譲れない意志をこめ
 譲れない一線を引き
 ボーダーラインの内側へ、麻生を力づくでひっぱりこむ。

 「……俺が可哀相か?」
 麻生の顔が、変なふうに歪む。
 笑い方を忘れちまった人間が笑ってるような、できそこないの笑い。
 目の錯覚だろうか。脂汗が目に流れ込んだせいで、幻覚を見てるのか。
 産んですぐ譲ろうとおもったから譲、たしかに哀しい名前だ、酷い由来だ。
 でも俺は、同情しねえ。
 だって、

 「ふざけんなっ、なんでお前が可哀相なんだよ!!」

 麻生がひっぱたかれたように顔を上げる。

 「もう一度言う、何度でも言う、お前にっ、俺がいてっ、なんで可哀相なんだよ!?可哀相なわけあるか、俺がいるんだぞ、聡史もいるんだぞ、ヤクザな担任も後藤さんも心配してんだぞ、こんな大勢に世話焼かれてるくせに孤高ぶってかっこつけんな!!」

 腕が重く痺れ感覚がなくなってきた

 それでも俺は、手を放さない
 こいつの手だけは放さない

 「譲らない、譲れない、これは俺の我侭だ、エゴだ独善だ、だからなんだ、お前が人殺しになったら哀しいんだよ俺は、お前を人殺しにしたくないんだよ、相手がどんな人でなしなクズだろうが殺してほしくねえ、俺が泣くからだ、いやだからだ、お前が好きだから、俺の好きなお前が憎まれんのがいやだ!!」
 
 考えて考えて考え抜いて
 出した結論がそれだ。
 
 人を殺しちゃいけねえ理由なんてむずかしすぎてわからない。
 そんなもの、ほんとはないのかもしれない。
 敷島の言う通り人を殺すと不都合があるだけで、人を殺しちゃいけない理由なんてのは所詮こじつけで、本当の所は誰にもわからないのかもしれない。
 だけど麻生、お前が人を殺しちゃいけない理由なら、あるんだ。
 
 「好きな奴を人殺し呼ばわりさせてたまるか、お前には譲ってちゃんとした名前がある、これから何度だってくさるほど呼んでやる、名前の下に容疑者も被告もいらねえんだよ!!」

 自分を貶める気か。
 人殺しを殺した人殺しに成り下がる気か。
 どんな理由があったって、復讐だって、相手が人殺しだって、どんな理屈を捏ねたって
 
 早く腕を掴めと一心に念じる、祈るように切実に念じる、腕から伝わってくる温度に縋る。
 無気力に弛緩した腕を必死に掴む。

 「譲」

 恥ずかしがってる余裕なんかないから、俺は俺にできる精一杯で、大好きな友達の名前を呼ぶ。

 無気力に垂れた腕が持ち上がり、ぐっと俺の手を掴む。
 固く繋がり合った手に気圧されたように敷島が身を引く。
 かすかな動揺が伝わり、首筋からナイフが離れる。
 その一瞬を逃さず全力で引き上げる、腕が抜けそうな引力に勝手に悲鳴が迸る、フェンスに乗り上げた麻生を抱きかかえ引き戻す。
 ふたり縺れ合って転がる。転倒のはずみに肩と肘そこかしこを打つ。
 胸が破裂しそうに鼓動が高鳴り跳ね回り、汗みずくで抱き合い、感触を確かめ互いの体に手を回す。
 
 生きてる。
 ああ、よかった。

 「このばか」
 背中に手が回る。
 上背のある麻生が俺の背に手を回し、ガキみたいに抱きしめる。麻生の胸に顔を埋め、浅い鼓動を聞く。
 「おかげで殺し損ねたじゃないか」
 「死に損ねたの間違いだろ」
 減らず口を交わす。どちらともなく不敵な笑みを浮かべる。
 背後に忍び寄る気配。
 麻生と抱き合って振り返れば敷島がいた、ナイフをだらり垂れ下げ熱に浮かされた覚束ない足取りでやってくる。
 殺すつもりだ。
 「…………私の時は間に合わなかった」
 穏やかな笑みが歪み、崩れ、泣き笑いに似て哀切な表情へと変わる。
 白い息を吐きながらやってくる敷島。
 足取りに合わせたくたびれた背広が揺らめき、ナイフの切っ先からぽたぽた血が垂れる。
 俺の血。
 「終わりにしましょう先生」
 俺を庇う麻生を目で制し、静かに言う。
 敷島は歩みを止めずむかってくる。狂気を感じさせる危険な足取り、絶望に憑かれた目。

 だめだ。
 殺されかけたってのに、やっぱりこの人を恨めない。

 「……おしまいなんです」
 敬語が抜けない。
 麻生の胸から身を起こし、ナイフを抜こうとする友達の手を宥め、そっと目を閉じる。

 「ほら」

 刹那、闇を切り裂いて屋上まで赤いランプの光が届く。
 「!!」
 慄然と立ち尽くす敷島。屋上に居合わせた全員同時にフェンスのむこう、だだっ広い校庭を見る。
 煌々と点り旋回する赤色灯。校庭に乗り込んだパトカーが五台、救急車が一台、それぞれから慌しく人がおりてくる。
 パトカーから降車した刑事と警官のうち何名かがランプの照り返しを受け屋上に人影を発見、大声で叫び交わし校舎にかけこむ。
 じき屋上に辿り着くだろう。

 「何故」

 目にした光景の不可解さに敷島が呆然と呟く。
 ごそりとジャージの懐をさぐり、突っ込んだケータイをとりだす。

 「警察につなぎっぱなしでした。会話ぜんぶ丸聞こえ」
 
 カラン。
 ナイフを落とすと同時に糸が切れたように膝を付く敷島、完全に戦意喪失した真犯人。
 靴音の大群が一挙に階段を駆け上り屋上に殺到、鉄扉が開け放たれ警察がなだれこんでくるまで、俺は黙って麻生に抱かれてやっていた。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010310051018 | 編集

 屋上から校庭に移ればちょっとした騒ぎになっていた。
 開け放たれた校門から乗り込んだパトカーが五台、救急車が一台、赤色灯をめまぐるしく旋回させ夜を染め抜く。
 「先輩!!」
 パトカーの扉が開き、でかい犬が弾んでやってくる。 
 よく見たら犬じゃなくて聡史だった。
 「おー聡史、ハッピーニュー……いやぁあああああああぁあああ骨折!?」
 「俺、おれ、めっちゃじんぱいしたんすよ!!警察に突然電話かかってきて、よく聞いたらぜんぱいの声で、コンビニにいるはずの先輩がなんでか夜の学校にいて屋上から宙吊りで超ピンチで、刑事さんにむり言ってパトカーに乗り込んだんすから!!」
 「背骨、背骨折れる!!」
 顔に似合わずナイーブな泣き上戸なのだ、この後輩は。
 「わ、わかったから聡史ギブ、ちょっと力ゆるめてくれねーと内臓でちゃう」
 「せ、せんぱいに万一の事あったらおばさんとマリちゃんに申し訳たたねーしふたりに合わせる顔ねえし、お、俺先輩のこと心配で、先輩いたからこのガッコ来たのに、ガキの頃からずっと先輩は面倒見よくて頼りになって憧れで俺のヒーローで、先輩がもしいなくなっちゃったらって考えたらこ、怖くて、膝がたがたして、図体でけえのにかっこ悪……おれ柔道で鍛えたしからだもでっかいし、先輩の事守ってやるって心の中で!」
 えぐえぐしゃくりあげる後輩の頭をよしよしとなでてやる。
 扱いは慣れたもんだ。
 聡史をなだめる方法は大型犬をあやすのと一緒、とりあえず気が済むまでハグしてやる。
 中一の時に身長はこされた。
 柔道初めて体格もりっぱになって、頭をなでてやりたくても背が足りなくなった。
 だけど外見がどんなにむさくるしくなっても中身は昔のまんま、俺のあとついてまわった小学生の頃とおなじ純粋で心配性な聡史だ。
 ……久保田ってダチができてちょっとは先輩ばなれしたとおもったんだけどなあ。
 「……俺、先輩の一大事に警察署にいて、そば啜ってて、なんもできなかった……情けねー……」
 「あー……ずるずる啜ってたな……ひとが飢えてるのに」
 「すびまぜん」
 「怒ってねえよ。ちゃんとむかえにきてくれたじゃん」
 赤く泣き腫らした目で謝罪する聡史の頭をぽんと叩く。
 聡史がはにかむように笑う。つられて俺も笑う。
 「俺、先輩のそういうとこ大好きっす」
 「よせよ、改まって……照れるじゃん」
 「というか先輩が大好きっす」
 「?二度くりかえさなくていいよ」
 「いやだから今のは真剣な」言いかけやめ、何故かしょげる。変な後輩。
 ほのぼのぬるーい空気が流れる中、ぐちゃぐちゃに泣きぬれた顔を上げ、聡史が目を丸くする。
 「あ、麻生先輩もいたんすか」
 「俺はおまけか」
 俺の隣にやってきた麻生が憮然と言う。
 コートを脱ぎ、上腕の傷口に純白の包帯を巻いている。さっきまで警察と一緒に到着した救急隊員の処置を受けていたのだ。
 「怪我はどうだ?」
 「大した怪我じゃない。何針か縫うだろうけど」
 「病院いかなくていいのか」
 「ひとのこと言えんのか、そのなりで」
 麻生が顎をしゃくる。
 言われ、はたと戻り自分の身なりを確かめる。
 ジャージはあちこち切り刻まれ血が滲んでいた。
 捻挫した手首は湿布で冷却中。
 頬の切り傷にはバンドエイドを貼り、袖をからげた腕に麻生と同じく包帯をぐるぐる巻き。
 ナイフで刻まれた背中は熱を帯び痛みを訴える。
 正直立ってるのも辛い状態だが、聡史を心配させたくない男気と、かっこ悪いとこ見せたくねー意地と見栄で虚勢を保つ。
 自分の酷いなりを見おろし、憂鬱にため息を吐く。
 「あ~……ジャージ買い換えなきゃな」
 「せこい。開口一番それか。服より自分の心配しろ」
 「血の染みクリーニングでおちっかな」
 「聞いてねえし」
 「待てよ、こないだ読んだ本に上手い血の染みの落とし方のってたような……ここまで出かかってんだけど」
 こめかみをつつき悩む俺を見て、処置なしと麻生が首を振る。
 「透ちゃん!」
 「ユキちゃんもきてたのか」
 聡史に遅れること数分、乗せてくれた刑事に丁寧にお辞儀をしてから聡史の妹のユキちゃんがやってくる。
 俺の愚昧とちがって相変わらず素直そうで可愛い。
 爪の垢とは言わないから、せめて枝毛の一本でも煎じて飲ませればうちの妹もユキちゃんのように素直で可愛くお兄ちゃんと懐いてくれるんだろうかと虐げられる兄の現実逃避な妄想がふくらむ。
 事件に巻き込まれた……実際そうなんだけど……ような俺のなりを頭のてっぺんから爪先まで見詰め、ユキちゃんが心配げに顔を曇らせる。
 「透ちゃん、だいじょうぶ?どこも痛くない?」
 「この通りぴんぴんしてるし、歩いて帰るよ。ママチャリもとめてあるし」
 「大変だったんだよ、きょうは一日。お母さんに頼まれて買い物いったらちかくで爆発あって、おにいちゃんのガッコの先生だっていうから見にいったら、警察の人に連れてかれちゃって……でね、ずっと警察にいたの」
 「そか。刑事のおじさんに怖い事されなかった?」
 ユキちゃんと話すときの癖で、ひょいと屈み視線の高さを合わせる。
 ユキちゃんに限らなくても子供と話す時の常識だ。
 「ううん、全ッ然。優しい婦警さんもいたし、大丈夫だったよ。お兄ちゃんはびびってたけど」
 「余計なこと言うなユキ」
 「待合室のソファーで膝抱え込んでたのはホントの事じゃん。私すごく恥ずかしかったんだから。酔っ払いの人もじろじろ見てくるし、逃げちゃだめだー逃げちゃだめだーってひとりごとうるさいし。しかも似てないし」
 「うるせー」
 「それでね、順番くるまで待合室でおそばご馳走になって待ってたんだけど……ついさっき、電話がかかってきて。刑事さんたちがばたばたしだして。なんだろうって近付いてみたら、電話から透ちゃんの話し声が聞こえてくるからびっくりしちゃった。おにいちゃんパニクって大変だったんだよ?待っててください先輩今すぐ駆け付けるっスーってパトカー乗っ取らんばかりの勢いで、刑事さんに羽交い絞めにされて後ろに放り込まれて」
 「電話の向こうにいるのは俺の大事な先輩だって言い張ったら乗せてくれたっス!」
 「きっとおにいちゃんにパトカー壊されるのいやだったんだよ」
 なるほど納得。
 署で待たされ中の聡史とユキちゃんがなんでここにいるか勘繰ったが、電話の声から俺を特定し、刑事に無理言ってパトカーに乗せてもらったらしい。
 警察も警察で、正体不明の通報相手がたまたま場に居合わせた高校生の知人とわかれば、行きがかり上連れてこざるをえまい。
 「それで先輩、警察署でだれに会ったとおもいます?意外な人物……」
 「秋山、麻生!!」
 含みありげな聡史の台詞をさえぎり、バタンと開け放たれた車のドアから意外すぎる人物が駆けてくる。
 「先生!?」
 たった今、聡史とユキちゃんが乗ったのとは違うパトカーの後ろから転げ出たのは、なんと俺たちの担任。
 極道まがいの強面は相変わらずだが分厚いどてらを羽織り、右手に割り箸、左手にどんぶりを持ったまぬけなかっこは殆ど体当たりのコント。
 真冬にサンダル履き、しかもどてらの下はジャージというずぼら出不精極まれりないでたちの担任が正面に来るのを待ち、全力で突っ込む。
 「ーってセンセ、なんで大晦日にラーメン!?邪道!!」 
 「ラーメンをばかにするなラーメンを、先生の友人経営で大晦日でも出前を受け付けてる良心的な店だぞ」
 「それはどうでもよくて!待て、なんでジャージ、しかもどてらとの組み合わせどうなの!?」
 「お前こそなんでジャージだ、まねするな」
 「まねじゃねえよ、俺はうちじゃいつもジャージって決めてんだよらくだし落ち着くんだよ!」
 「俺も一緒だ、休み中は大抵ジャージでごろごろしてる」
 「先生と同レベルなんてショック立ち直れねー、HP一気に50もってかれた!!しかもラーメン啜りながらしゃべるなよ、ひとの話真面目に聞けよ!!」
 「お前だってホームルーム中俺の話聞いてないだろ!!」
 不毛すぎる口論にドッと疲れる。
 「先生はなんでここに?」
 「梶先生に大事があったと警察に呼ばれたんだ。マンションで爆弾が爆発したとか……あー、刑事ドラマでよくある……同僚に事情聴取ってヤツか?警察の話だと梶先生は腹を刺されてたっていうし、他殺の線も疑われてな。一時間前に連絡網が回って、教師全員に召集がかかったんだ。ひとり、古典の敷島先生にだけ連絡とれなかったんだが……」
 なにげなく発した敷島の名に息を呑む。
 「しかしまあ晩飯もまだだし警察のご好意とやらで出前をとってもらったんだから、箸付けると同時にばたばたしだしてな。沢田の話だとお前の身に大変な事があったっていうし、なんかったら俺が責任とらせるってんで、めんどくさいのおして一応来てみたんだが……」
 ラーメンを食べ終え「馳走さん」と合掌、どんぶりを綺麗にからにし俺たちを交互に見比べる。
 「だいじょぶか?」
 いかにも気遣うのに慣れてないぎこちない口調で言う。
 多分、生徒に本心を見せるのが苦手な人なのだ。
 「……とりあえず、生きてます」
 「そうか」
 間一髪、刑事が鉄扉をぶち破って刑事がなだれこんでくれたおかげで命をとりとめた。
 敷島は刑事数名に取り押さえられ手錠をかけられた。
 抵抗の素振りはなく、逃げられないと観念したのか至って大人しいものだった。
 屋上は封鎖された。
 校庭は喧しい。
 怒号の応酬に煽られ、殺気だった喧騒が場を包む。
 「刑事さんがね、近くの派出所からすぐパトカーだしてくれたの」
 「間に合ってよかったっす」
 「しかし梶先生は災難だったな、大晦日に爆弾が送り付けられて……いや、直接の死因は刺殺か?誰がそんな事……」
 担任がひとり言をもらす。俺は聞かないふりをする。俺から話さなくてもじきにわかることだ。
 麻生はどうなるんだろう。
 梶を殺したのが敷島でも、梶宅に時限爆弾を送りつけた事実は変わらない。
 やっぱり罪に問われるんだろうか。
 未成年の事情と動機を鑑みて罪は軽くて済むかもしれない。情状酌量の余地は十分にある。
 けれど。
 実際梶を殺したのが敷島でも、麻生が明確な殺意を持って爆弾作りに手を染めたのは揺るぎない事実であって。
 敷島のあと少し訪問時刻がずれていれば、麻生が作った爆弾こそが梶を殺していたかもしれなかった。
 「麻生」
 ありったけの勇気をふりしぼって呼ぶ。
 ここじゃない、どこか遠くを見る麻生を振り向かせようとする。
 麻生がかすかに反応を示す。
 俺の声で現実に引き戻され、虚空に投じた視線をゆっくりとこっちにー……
 「やあみなさん、おそろいで。関係者一同おそろいで、事情聴取の手間が省けてラッキーですな」
 バタン。
 一番手前のパトカーの扉が開き、胡麻塩頭の初老男がのらくらと歩いてくる。
 背広のくたびれ具合と着古しトレンチコートの揺れが侮りがたい。
 和製コロンボの風格に不覚にも胸がときめく。
 「うちのカミさんがそばゆでて待ってるんでなるだけ早く帰りたいんですが、このぶんだとまーた残業になりそうですなあ。年越しそばは諦めて年越しちゃったそばにしますか」
 「うちのカミさんて言った!」
 「たしかに言いましたっす先輩、聞きましたっすこの耳ではっきりと!」
 おもわず聡史と顔を見合わせはしゃぐ。和製コロンボの見た目とミステリマニアの期待を裏切らない人だ。
 コロンボ似の初老刑事はそんな俺らを妙な目で眺めていたが、咳払いで気を取り直し、おっとり口を開く。
 「きみが署に連絡をくれたのか」
 「はい」
 「大変だったね、大晦日に……ところで被害者の梶晴満さんだが、自宅からいかがわしいビデオから押収されてね」
 「いかがわしいというと?」
 三十路で独身の担任が興奮に鼻の穴ふくらませ、聡史がはっしとユキちゃんの耳を塞ぐ。
 「無修正と言いますかね?そういうのがわんさか……しかも、中に犯罪の証拠が混じっていまして。この学校の近くにありますでしょ、廃工場が。映像の状況からすると、どうもそこで撮られたらしい。普通のAVじゃないんですよ、これが。強姦、輪姦……人道的によろしくないたぐいですな」
 担任の顔が強張る。
 聡史の顔色が蒼ざめる。
 耳を塞がれたユキちゃんだけわけがわからずきょとんとする。
 「どうも被害者は売春組織の元締めのまねごとをしてたらしい。親がね、地元で有名な建設会社の社長とかで。そこの次男だったんですよ、ガイシャは。後ろ盾、人脈……組織を作り上げるに足るコネはそろってますな。ほかに有力な証言も得られましたし」
 「有力な証言?」
 探るような担任の言葉に、刑事は聡史へと柔和な視線を転じる。
 「沢田くん……だったっけ?」
 「はい」
 背筋を正す聡史に鷹揚に微笑みかけ、両手をトレンチコートのポケットに突っ込み耳打ちする。
 「君の前に取調べを受けていた久保田くんがさっき証言した。同じ学校の先輩に陰湿な暴行、恐喝を受けていた事。主犯は二年の伊集院。他にも大勢被害者がいるそうだ。実は以前からちらほらその手の被害届が出されていてね……恥ずかしながら身内―警察に協力者がいて上に届く前に握り潰されていたんだが、梶の死と久保田くんの証言がきっかけとなって立件できそうだ」
 「久保田が被害届を……?」
 聡史が言葉を失う。
 刑事はひょいと肩をすくめる。
 「刑事と接した際の怯えぶりが普通じゃなかったら、これは匂うとおもってせめたのさ。可哀相に、あの子もだいぶ悩んだみたいだ。相当脅されたみたいだね。しかしとうとう口を割ったよ。いや、私らはガイシャの死に関わってると睨んだんですが……実際は自分がされた事を必死に隠していたわけだ」
 「刑事さん、久保田になにしたんすか」
 聡史の声が険と凄味を含み低まる。
 年嵩の刑事に対しても一歩も怖じず譲らず、ここにはいない友達を弁護するように前に出る。
 おどけて両手を上げ身をひくや、刑事は眩しげに目を細め笑う。
 「誤解だよ、何もしてない。あくまで彼からすすんで話してくれたんだ。だが、ね……まさか点が線に繋がるとはね。久保田くんはあらいざらい話してくれると約束したよ。決断には時間がかかったが、途中何度もちらちらドアの方を見ては、重い口を励まし話し続けた。ドアの外、待合室の長椅子に座る君に勇気を得てね」
 聡史から担任へと向き直り、目を眇める。
 「梶が手足として使ってた実行犯の中に、おたくの生徒が含まれていたようですな。伊集院とかいいましたか……夏休み中に自主退したそうですが」
 「アイツが!?」
 「現場に捜査の手が入って、隠れ家として使っていたマンションが分かりました。そろそろ……」
 懐で携帯が鳴り出す。
 即座に抜き出しボタンを押す。
 担任や聡史と接していた時とは別人のような厳しい声で指示を出し、通話を切ってからにっと笑う。
 「部下から連絡です。たった今、実行犯一味を逮捕しました。連中、ピザの宅配と勘違いしてあっさりドアを開けたそうです」
 ボルゾイが逮捕された。
 野卑な笑みを浮かべた刑事の言葉に、膝が砕けそのままへたりこみそうになった。
 情けない話、まだ心のどこかでボルゾイの影におびえてたらしい……それにしちゃあっけない幕切れだけど。
 刑事は寒さに身をちぢかめ嘆かわしげに首を振る。
 「しょうもない連中です。踏み込んだ時車座でピザ待ちながら、さて、なにしてたと思います?ビデオ鑑賞会です。梶が提供した隠れ家にぬくぬくこもって自分らが撮ったビデオを見てたんですよ。バカといいますか、実に呑気なもんです。ばっちり犯罪証拠を掴みました」
 「ご愁傷様」
 失笑を禁じ得ず俯く。
 安堵と自嘲と元同級生への一抹の同情を抱く。
 こっそり麻生をうかがえば心なし気分良さそうな顔をしていた。
 「ここだけの話、私らも怪しい動きには勘付いていたんです。数年前から地元でおかしな組織が根を張ってるらしいって。ただしなかなかしっぽが掴めなかった。はは、それもそのはず、被害者は地元有力者の息子ですからね……生臭い話、親の人脈やら裏の繋がりやらで捜査の手がなかなか核心にのびなかったんです。死人がでたってのにこんな言い方は不謹慎ですが、今回の事件はいいきっかけになりました。がさ入れの手間も省けましたし。先生には後日くわしく事情をうかがうことになるでしょうね。ま、よろしく頼みますよ」
 「はあ……」
 担任が気抜けした様子で呟く。
 元教え子の伊集院が実行犯として関わっていた事にショックを受けてるらしい……ちょっと気の毒。
 なめたように綺麗などんぶりと箸をもったまま、間抜けな対応をする担任の横で、聡史が切実に込み上げるものを噛み締め呟く。
 「久保田……頑張ったんだ……」
 久保田をはじめとした被害者の傷は深い。
 これから警察に取調べを受ける中で、世間の偏見とか中傷とか無理解とかで辛い目にたくさん遭うだろう。
 しかし久保田はそれを覚悟の上で、ありったけの勇気を振り絞って自分の体験を話した。
 刑事に直接取り調べられたのだけが告発に至った理由じゃない。
 担当者の取調べ手腕が優秀だったのもあるだろうが、久保田はきっと、悩んで悩んで悩みぬいて最良の選択をしたのだ。
 聡史に恥ずかしくない自分になろうとして。
 取調室のドアの向こうで待つ友人に胸を張れるようになりたくて、凄まじい心の葛藤を経て、弱虫を克服した。
 「おかしいなっておもったんだ。現場でふざけてただけなのに、大晦日忙しい中、何時間も足どめされて……刑事さんだって暇じゃねーのに」
 「君についていてほしかったんだそうだ、久保田くんは。……わがままを責めないでやってくれ」
 「あたりまえっす」
 子供っぽくあらっぽいしぐさで目から出た塩水をごしごし拭う。
 泣き顔を見せまいと唇を噛む聡史の、タワシのような剛毛の髪をくしゃりとなでてやる。
 「久保田は強いな」
 「自慢の友達です」
 聡史が最高の笑顔を見せる。一皮むけた男の顔。
 俺がいなくてもこいつはもう大丈夫なんだろうとおもうと、一抹の寂しさが胸を吹き抜ける。
 「……ところで君たちふたりは、えーと」
 「あ、御手洗高二年の秋山透です」
 「麻生譲」
 肩を並べた俺たちふたりをしげしげ見比べ、コロンボ刑事が思案げに顎を揉む。
 「なんで学校にいるんだね。今は冬休み中だろう」
 「あ」 
 ……まずい、言い訳用意してねー。
 説明に窮し、口パクの醜態をさらす。
 刑事がますますもって疑念を強め、眉間に縦皺をきざむ。
 「夜の学校から通報があって、急ぎ駆け付けてみれば屋上に人影があった。きみたちは体の至る所にけがをして、そばにはナイフをもった男がいた。様子が普通じゃない。しかもあの男……きみたちの近くにうずくまっていた……この学校の教師だそうだが。話を聞いて驚いたよ。梶殺しを自供した」
 戦慄が走る。
 担任と聡史が顔に疑問符を浮かべる。
 刑事はコートのポケットにだらしなく手を突っ込んだまま白い息吐き言う。
 「梶は自分が殺ったと全面的に認めた。詳しい事情は署で聞くが……彼も梶が作り上げた売春斡旋組織に関わっていたんだね。六年も前からというから驚いた。母親の手術費を工面するためしかたなく、か……六年間心安まるひまがなかったとは可哀相な男だ」
 「可哀相なもんか」
 唾棄する麻生に刑事はちょっと目を見開き苦笑い、首を傾げるようにして矛先をそらす。
 「ふしぎなのは何故よりによってこの日に、大晦日にかねてよりの計画を実行に移したかって点だ。なにもこの忙しい時期に、ナイフを忍ばせ怨敵のもとへ向かわなくてもいいじゃないか」
 俺も疑問だった。
 麻生の計画と敷島の殺人がたまたま重なった、はたしてそんな偶然があるのだろうか?都合がよすぎる。
 疑問を孕む俺の眼差しと、刑事の追及の眼差しとを同時に受け、麻生がなにか言いたげに表情を動かす。
 「それは……」
 「ちゃんと歩け!」
 言いかけた答えを制し、むこうで怒号があがる。
 全員そろって顔を上げ、そちらをむく。
 若く体格のよい刑事ふたりに挟まれ連行されていくのは……敷島。 
 屈強な刑事ふたりとの対比か、悄然とした足取りとうなだれた顔ゆえか、その姿は屋上で対峙した時よりひとまわりも小さく見えた。
 パトカーの赤色ランプが気まぐれに照らす顔は一気に老け込み、頼りない足取りに合わせくたびれきった背広が揺れる。
 「敷島先生……何故ここに?」
 箸とどんぶりを交互の手にもった間抜けなポーズで担任がいぶかしむ。聡史とユキちゃんが兄妹そろって首を傾げ気味に敷島を目で追う。
 コロンボがぴしゃり額を叩く。
 「私としたことが、そうだ、肝心の名前を言ってませんでしたね。彼が梶殺しの犯人なんですよ」
 「は?」
 担任の目が点になる。
 「は、ははははっははっははは!人が悪いなあんた、よりにもよって敷島先生があの若造を殺したなんて言うに事欠いて……あんたの話で梶がとんでもなく腐ったヤツだってのはわかった、けど敷島先生は違う、敷島先生はこの学校に古くからいて、真面目で、生徒おもいで、俺も来たばっかの頃さんざん世話んなって……あのひとが人殺しなんかするはずないだろう」
 「事実です。認めたくないのはわかりますがね」
 重ねて抗議の声を上げかけるも、傷だらけの俺と麻生をおもいだし、激情を制して威圧の声を出す。
 「刑事さんの話は本当か?そのけがも、敷島先生がやったのか」
 敷島は前に回した手に手錠を嵌められていた。
 完璧犯罪者扱いだった。
 したことを考えれば当然の処遇だが、胸が痛む。
 俺は教壇に立つ敷島を知っている、最前列で堂々居眠りする俺を苦笑で見逃してくれた優しい先生を知っている。
 全部世を偽る姑息な演技だったとはどうしてもおもえない、信じたくない。
 胸の内で痛みが荒れ狂う。
 敷島は鈍重な足取りでパトカーへむかう。
 歩みの鈍さに痺れを切らした刑事が声をあらげ、手錠を乱暴にひっぱる。
 小突かれても抵抗せず、頼りなく傾ぐ。俯き加減の横顔からは一切の覇気が消え失せている。
 屋上でナイフを振り上げた時とは別人のような魂の抜け殻ぶり。
 パトカーの手前まで来た時、おもむろに麻生が動く。
 「敷島」 
 低く静かに呼びかける。
 決して大きな声じゃないにもかかわらず、刑事や鑑識の話し声でうるさい中、麻生の声はよく響いた。
 校庭の砂を踏み、蹴散らし、敷島に接近する。
 「君、なにを」
 部外者の予想外の行動に、血気さかんな若い刑事が気色ばむ。
 歩み寄る麻生を制しかけ、「まあまあ」とコロンボにとめられる。
 コロンボはコートに手を突っ込み、興味深げに麻生の行動を眺める。
 聡史と担任は困惑顔。
 俺はというと、気付けば足が勝手に動き麻生の背中を追っかけていた。
 両隣の刑事の牽制も意に介さず、ずたずたに切り裂かれたコートで敷島と対峙する。
 鼻の高い端正な横顔と黒いコートを鮮烈な赤色が染め抜く。
 麻生は抑揚なく促す。
 「遺書、開けろよ」
 「………」
 「また失くしたなんていうなよ。もってるんだろ」
 口の端をかすかすに吊り上げ嘲弄する。
 敷島は無言。
 焦点の合わぬよどんだ目で、皮肉げな麻生の顔を見返す。
 「怖いのか」
 「…………」
 「あんなにほしがっていたじゃないか。……知りたがっていたじゃないか、真実を。あれが欲しくて、わざわざ梶を殺してから夜の学校にきたんだろ。俺がなに企んでるか薄々察しながら、危険を承知でやってきたんだろ」
 「……………」
 暴風の如き狂気が去り、殺意が沈静した今の敷島からは、俺を戦慄せしめた人殺しの面影が払拭され、そこにいるのはただただ生活に疲れ果てた孤独な男だった。
 俺がよく知ってる、気弱で優しい先生だった。
 「読めよ」
 「……私は」
 「怖いのか?」
 「……もう終わった。私は……圭の遺書を開く資格がない」
 「あんたには圭ちゃんの遺書を読む義務がある」
 「ニセの答案までしこんで、本物の遺書を私の手から遠ざけようとした生徒の発言とはおもえないね」
 敷島が苦笑する。
 目には苦味を帯びた自虐の光。
 敷島の皮肉は意に介さず、麻生は無言で歩み寄り、左右の刑事に断りもなく敷島の背広の袷に手を入れる。
 「おい、被疑者に勝手にさわるな!!」 
 被疑者の呼び名が、胸に刺さる。
 「いいから好きにさせてやろう」
 「ですが警部」
 「最後の別れになるかもしれないんだ。教え子と恩師の話をじゃましちゃいけない」
 コロンボが積んだ経験と年の分だけでかい度量を示す。……どうでもいいが階級はやっぱ警部だった。
 不満げな刑事に挟まれた敷島は、背広の袷を無抵抗にさぐらせている。
 スリ顔負けの手際で封筒を抜き取り、敷島の目の位置にそれをかざす。
 「座間圭が六年前残した本物の遺書だ。読んでから行け」
 遺書はおそらく、梶と敷島が与した犯罪を告発し糾弾する内容で。
 「……卑怯者、腰抜け、裏切り者、偽善者。どれだろうね」
 「人殺しもくわえとけ」
 梶と敷島の犯罪を暴露し、自分を死に追い詰めたふたりを非難する内容に違いない。
 警察の前で読み上げれば、過去の犯罪をも暴き立てられる。
 敷島はどうしても封筒を開けられなかった。
 麻生がいくら挑発し促しても遺書に目を通せなかった。
 屋上で俺にナイフをあてた敷島の顔には純粋な恐怖と壮絶な葛藤があった。
 敷島こそだれより真実を知るのをおそれていた人間だった。
 「その手じゃ不自由だろう。代わりに開けてやる」
 そっけなく言い捨て、わざと時間をかけゆっくりと封筒の口を開ける。
 中から取り出した便箋には、何度も読み返したらしくくっきり折り皺が付いていた。
 几帳面な手付きで便箋を広げる。
 文面に目を落とす横顔をランプが血の色に染める。
 声をかけるのを忘れた。
 便箋に目を落とした麻生の横顔が、あんまり厳しくて、孤独で。
 細めた双眸がここじゃないどこかだれかを見ているようで、胸が詰まる。
 無言で敷島に便箋をさしだす。
 一瞬怖じ、あとじさる気配を見せた敷島に許さず詰め寄り、強い眼光で見ろと強制する。
 口を開き、喘ぐようにまた閉じ、一回目を閉じる。
 閉じた瞼のむこうで激しい感情が吹き荒れる。
 駆け引きに勝利したのは麻生。敷島は圧力に屈し、ゆっくりと目を開け、麻生に歩み寄るー………

 真空に吸い込まれるような静寂。
 麻生がさしむけた便箋をのぞきこんだ敷島の顔、すべてに疲れきったその顔が豹変する。

 「あ……………」
 驚愕に目を見開く。
 絶望と希望が綯い交ぜとなった泣き笑いに似た表情がやがて歪み、唇がかすかに震える。
 一定の間隔で回る赤色ランプが照らした文面は、たった二行、そっけないものだった。



 『敷島先生へ 
  好きでした』



 「好きのあとに消したあとがあるだろ。……好きですって書いて、過去形に直したんだ。自分が死ぬことがわかっていて」 
 人柄が伝わってくる几帳面な文字。
 便箋にかすれた鉛筆書き。
 乾いた涙のあとでところどころへこんでいる。

 生前の圭の涙か
 過去の麻生の涙か。

 俺にはわからない。
 知るよしもない。

 「………圭………」
 敷島の唇が震え、衣擦れにかき消えそうな、かすかな呟きをもらす。

 圭と、敷島はそう呼んだ。
 生徒を下の名前で呼んだ。

 『圭の遺書を渡せ!』
 屋上の絶叫が甦る。憤怒の形相が甦る。別人の如く豹変しナイフを振るう敷島、座間圭の遺書を奪うため躍起になった姿を思い出す。
 『圭は優しい子だった。私は圭の特別な存在でありたかった』
 静かな妄執を感じさせる口調、
 『私の時は間に合わなかった』
 後悔と絶望に打ちのめされ、膝を折った姿。
 ひょっとして、俺は、とんでもない誤解をしてたんじゃないか?
 「遺書じゃなくてラブレターだったんだ」
 手紙を畳みながら麻生が言う。
 敷島は瞬きも忘れ麻生の手の動きを追う。
 「……圭ちゃんはあんたが好きだった。遺書を読んでわかった。最後の最後、恨み言でも泣き言でもなく、どうしても伝えたい言葉がそれだったんだ。全部あんたの妄想、罪悪感が見せた幻覚だよ。びびんなくたって、ナイフ振り回して取り戻そうとしなくたって、圭ちゃんの遺書には最初っから梶の事も梶が作り上げた組織の事も書いてなかった。罵倒も呪詛も一言もなかった。ただ……過去形になってもいいから、想いを伝えたかったんだ」

 俺は生前の座間圭を知らない。
 麻生がそこまで盲目的に慕う座間圭が、敷島がそこまで執着する座間圭がどんな少年だったか知らない。
 ただ、俺に言える事は。
 座間圭は死ぬ前に書いた手紙で、呪詛も罵倒も一言も書かず、大好きな人へ気持ちを伝えていた。
 死ぬ前にどうしても言いたい台詞がそれだった。自分の口では直接伝えられなくてもいつか知ってもらいたいと、本当の想いを手紙に託した。 
 優しく真面目で不器用な圭ちゃん。
 麻生が大好きだった人。
 敷島が愛した少年。
 ふたりの心の拠り所。

 「……俺の事、書いてなかった。あんたに敗けたんだ」
 勝ち負けで語ることじゃないけれど、自嘲的に呟く麻生の声は救いがたい悲哀を帯びているように聞こえた。 
 一瞬、六年前の麻生が顔を出したようだった。
 「俺は多分、あんたに嫉妬してた。圭ちゃんが好きだったあんたに……たった一人、遺書に名前が出たあんたに。だから真実を知りたくてここに来た。圭ちゃんが先生を付けて呼ぶのはここの教師だろうとあたりを付けて、進路を決めた。予想どおり、あんたはすぐ見付かった。正直、こんな冴えない中年のどこに圭ちゃんが惹かれたのか理解不能だったけど……男の趣味、悪かったんだな」

 麻生、笑うな。
 そんな痛い顔して笑うな。

 「血は繋がってないのに、俺と一緒だ」

 一呼吸おき、封筒をコートの袷にしまう。

 「あんたは勘違いしてる。俺は圭ちゃんの遺書で真相を知ったんじゃない、自力で調べ上げたんだ。執念だよ。中学から、足かけ……五年か。マンションに移り住んで、自由が利くようになってから本格的に調べだした。金には困らなかった。金さえばらまきゃ皆おもしろいように口を開く。金も、コネも、体も、使えるもんはなんでも使った。結果、わかったこと……梶に近付いたのは、直接懐にとびこむのが一番確実に情報を入手できるとおもったからさ」
 眼鏡の奥から投げかける視線が茫洋と虚空をさまよう。
 「圭ちゃんを自殺に追い込んだやつら、全滅させるつもりだった」
 凄まじい執念、復讐心。
 目的のためなら手段を選ばず、世界で一番憎む男にも体を売る。
 「圭ちゃんは、どうしてあんたなんかを」
 麻生の告白に現場が水を打ったように静まり返る。
 担任も聡史もユキちゃんも、おおいに戸惑っている。
 敷島は深々俯く。
 麻生の糾弾をあまんじて受け、全身で懺悔するが如くうなだれる。
 「どういうことだね?」
 コロンボが動く。
 トレンチコートの擦り切れた裾を揺らしふたりに接近、意味深な目で顔色をさぐる。
 麻生も敷島も黙秘を知るや長く息を吐き、フケの散った髪を振り乱す。
 「……まあいいか。立ち話もなんだし、詳しい話は署で聞くよ。きみにもご同行願うが、いいね?」
 口調こそ柔和だが、譲らない意志を秘めていた。
 眼光鋭く確認をとる刑事に麻生は頷きもせず、しかし拒否もせず、刑事に背中を押されるがままパトカーに歩を向ける。
 「待ってください刑事さん、けがしてるんですよ、病院が先っしょ!?」
 「病院行くほどのけがじゃないだろう。手当てなら警察でもできる」
 「彼にはほかに聞きたいこともあるしね。……屋上に転がってた黒い箱、あれ、何?おんなじものが梶の自宅から出てきたんだけど」
 しまった。
 俺の顔色がさっと変わったのを目の端で見てとり、野卑に唇をめくる。
 「梶殺しはそこの先生が吐いたけど、爆弾おくった犯人は謎のまま。はて、誰だろうね?君、麻生くんだっけ。被害者宅から押収したテープにおもしろいもんが映ってたんだけど……」
 殴りかかるのを我慢した自分を褒めてやりたい。 
 実際こぶしを振り上げるところまで行ったが、後ろからがしっと手首を掴まれ、よろめく。
 振り返ればおっかない顔の担任がいた。
 「ジャマすんな先生、生徒が警察に連れてかれよーとしてんだぞ、なんとか言っ」
 「俺の生徒に手を出すな」
 「は?」
 ヤクザな担任の台詞とおもえず耳を疑う。
 しかし担任は大真面目な様子で、片手にからのどんぶりをもったまま、獅子吼するが如き気迫に満ちコロンボに立ち向かう。  
 「麻生先輩を連れてくなら俺も、俺も行くっす!どうせ三時間四時間も警察に長居したっす、このまま徹夜も覚悟の上っす!!」
 「私もおにいちゃんと一緒に行く!」
 事情がよくわからぬなりに聡史とユキちゃんが加勢に入り、心強い味方を得た担任が共同戦線をはって、刑事たちと揉み合いを始める。
 「先生、聡史、ユキちゃん……」
 現場が騒然とする。
 聡史ユキちゃん担任の三人は喧々囂々刑事とやりあい、コロンボが渋面を作り説得にかかるも耳を貸さない。
 ここからが正念場。
 担任は野太い雄たけびをあげ太い腕ぶんまわし警察の若造相手に本職ヤクザ顔負けの奮戦を見せ、聡史は聡史で後ろにまわりこみ羽交いじめにかかった刑事に見事な背負い投げをくらわせ、ユキちゃんは「おにいちゃんかっこいい!」と黄色い声援を送る。
 ぼんやり立ち尽くす俺の脳裏で、なにかが閃く。
 大立ち回りを演じる面々にあっけにとられる麻生、手錠をかけられ立ち尽くす敷島、ふたりの顔を見比べ

 『涙を流す肖像画』
 『敷島先生へ 好きでした』

 もし座間圭が、敷島に恋してたなら?   
 敷島の身勝手な思いこみじゃなく、ふたりが互いに思い合っていたんだとしたら、証拠があるはず。

 俺は可能性に賭ける。
 
 「!?おい秋山、どこいくっ!!」
 「先パイちょっ、この状況でトンズラはなしっす、鬼畜っす!!」
 「透ちゃん最低、見損なった、マリちゃんにちくってやる!」

 ……最後の一言が地味に一番きいた。
 理想の妹、ユキちゃんに幻滅されるのは辛い。
 不審顔の麻生と敷島と刑事たちと喧嘩中の面々に背を向け、全速力で校庭を突っ切り、土足で校舎にあがりこむ。
 めざすは美術室。
 床を蹴り、加速し、がむしゃらに肘をふり、息と鼓動を弾ませる。

 『敷島先生へ 好きでした』

 耳の中でリフレインする声
 脳裏に再生される文面

 座間圭が本当に敷島と愛し合ってたなら、遺書のほかにも証拠をのこしたかもしれない。
 梶に目を付けられぼろぼろにされ、もう死ぬしかないとこまで追い詰められて、でもそれでも敷島を好きだって気持ちが本当だったなら、手紙のほかになにかを残したかもしれない。

 肖像画が流す無念の涙。
 下に透けて見える真実。

 美術室の引き戸をガラリ開け放ちとびこみど真ん中に放置された絵をひったくる、七不思議だとか呪われてるとか関係ない、呪いは実際なかった、七不思議は捏造だった、でも肖像画の顔が汚れてるのは本当だ、この謎をどう解明する?

 説明は付く、合理的に。

 「絵を隠すなら絵の中!!」
 座間圭の素顔をじっくり見てるひまはない。
 絵を小脇に抱えまた全速力で走り出す引き返す、胸が苦しい肺が痛い切り刻まれた背中がずきずき熱と痛みを訴え、それでもとまらずいっそう加速し玄関から走り出る。視線の先刑事にパトカーに押さえこまれようとしてる敷島を発見、猛然と砂蹴散らし書けながら待ったをかける。
 「先生っ、これ!!」
 一同、いっせいに振り向く。
 靴裏で砂を削って辛うじて制動をかけ、停止、五メートル離れたパトカーに今まさに乗り込まんとする敷島の方へ因縁の絵を突き出す。
 「麻生、ナイフ貸せ!」
 「は?」
 「いいから!」
 当惑する麻生を急かし、片手で絵を掲げナイフを奪う。 
 圭の絵を見た敷島の顔色が蒼ざめる。
 絵にむかいナイフをかざす俺に、麻生が取り乱す。
 「馬鹿っ、なにを!?」
 「黙って見てろ!」
 奇行に走った俺に唖然とする一同。
 この際とちくるったと誤解されてもいい。
 気色ばむ麻生を鞭打つように制し深呼吸、意を決し絵の上に鋭利なナイフをあてがう。
 ナイフに力をこめ、上から下へと表面の塗料を削る。
 力をこめおろしたナイフの刃が表面の塗料を削り乾いた絵の具がざりっとこそげおち、六年間、隠され続けた真実が暴かれる。


 粉末状の塗料があっさり剥落した下、赤色ランプの光に照らし出された絵を見て、一同息を呑む。


 「……座間圭の本当の遺書です」
 美術室の肖像画が涙を流すのには理由があった。
 美術室に放置プレイされた夜、ちびりそうな恐怖をごまかすため口走った推理は正しかったのだ。


 『びびらせようって魂胆で適当ふいてるな?その手はくうか。もし噂がホントなら、トリック仕掛けられてるに決まってる。ナイフで削りゃ下にちがう絵が描かれてるとか、よくあるだろ。推理小説どころかめったに本も読まねーお前らは知らないだろうけどさ』
 「絵がひとりでに涙を流すはずない。流すとしたら、理由があるはずだ」
 

 パトカーに乗り込みかけた姿勢で硬直する敷島に向き合い、絵を見せる。


 
 「……………私…………?」
 敷島が目を疑う。
 座間圭の絵の下から露になったのは、敷島の絵。
 「一回絵を描いて、その上からまた別の絵を描いたんです。知られちゃ困る真実を隠すために」

 そうまでしても座間圭は本当の想いを伝えたかった。
 いつかだれかにわかってほしくて
 いや、違う。
 座間圭がわかってほしかったのはいつかだれかなんて曖昧な定義じゃなくて、この世でただ一人、本当に愛した男。
 命にかえても愛し抜こうとした男。

 「六年経って塗料が褪せて、下の色が透け始めた。だからぱっと見泣いてるようにみえたんだ」

 圭は美術部だった。
 敷島との出会いもまた美術室だった。
 顧問代理の敷島と過ごした期間は、圭にとってもかけがえのない時間だった。

 「……………あ…………、」
 敷島がよろめき、ころび、縺れる足取りで絵に歩み寄る。
 今度は刑事も止めに入らなかった。
 麻生も、他の人間も口出ししない。こける敷島に手さえ貸さない。
 敷島が絵に接近する。
 両手に絵を抱え敷島を待つ。
 ようやく正面に辿り着くや、手錠で括られた手を絵の前にかざし、そっと触れあう。
 座間圭の絵の下に描かれていたのは、敷島の絵だった。
 見ているだけで胸が一杯になるような、好きだって気持ちが伝わってくるような、そんな絵だった。
 「……座間圭は先生のことが本当に好きだったんですね」
 敷島が地に膝を付く。
 へたりこんだ敷島の目の高さにあわせ、後ろから絵を支え、ゆっくり地に置く。 

 ときとして優しさや善意、愛情がひとを追い詰めることもある。
 敷島は優しくずるく臆病な人間だった。
 六年前、母親の手術費を工面するため梶の犯罪に加担した。
 圭もまた敷島への想いから売春に関与した。
 ふたりは互いに想い合っていた。
 教師と生徒の一線をこえ想い合い、慈しみあっていた。
 だからこそ圭は耐えられなかった。
 自分が敷島の枷になってる現実に、敷島を苦しめる人質である現実に耐えられなかったのだ。

 「………圭を愛していた」

 手錠で括られた掲げ、絵の中の微笑みに触れ、か細く震える声で呟く。

 「……教師と生徒で……男同士で……年も親子ほどに離れていた。だが圭は、私を一途に慕ってくれた。けなげに懐いてくれた。家族にも明かせない悩みを、放課後の美術室で、こっそり話してくれた。圭の描く絵がすきだった。色使いが優しくて、見ていると自分が遠い昔に失ったものを思い出せた。……いつのまにか、親子ほど年が離れた圭を好きになっていた」

 絵の中の敷島ははにかむように笑っていた。
 たぶん生前の圭の前では、こんなふうに笑っていたんだろう。
 俺はどこか哀しげに諦めた敷島の笑みしか知らない。
 圭に死なれて笑えなくなったのは、麻生だけじゃない。

 「初めて名前で呼んだ時……一線をこえてしまったとおもった。後悔もした。だがそれ以上に嬉しかった。漸く名前を呼べて……あとから貰った名字じゃなく、本当の名前で圭を呼べて、嬉しかったんだ」
 「あとから貰った名字?」
 「座間圭は養子なんだ」
 不可解な発言にとまどう俺の後を継ぎ、麻生が目を閉じる。
 困惑し、振り向く。
 「………聞かせてくれ。お前と圭ちゃんはどんな関係なんだ」
 質問を口にするのは勇気がいった。
 禁忌にふれるような後ろめたさがあった。  
 コートのポケットに手を入れ、弛緩した姿勢で夜空を仰ぐ。
 校庭を染め抜く赤色ランプの光が、研ぎ澄まされた横顔に映え、レンズに反射する。
 
 「彼は屋上の張り出し窓に腰掛け 
  おのれに及ぶ者を知らぬ 
  これほど高く来るつもりはなかった
  しかも達したのだ」

 
 詩の暗誦。
 まるでかりそめの言葉に託し、埋葬した真実を語り直すような。 


 「彼は蝶々としてさえも再生を信じない
  彼が登り始めてから彼の家にはもう扉がない
  教会の彼方に燃える遅い夕焼けを彼は愛する
  彼は生と死を愛し
  その二つをわかつものを愛する
  窓は次から次へと彼に風景を示す
  そしてそれらの風景を額縁にはめる
  彼はその前に腰掛け おだやかに微笑む
  そして悲しむことを好まぬ」


 額縁の前でおだやかに微笑む圭。
 もうここにはいない人。
 麻生と敷島の心の中でだけ生き続ける少年。
 遅い夕焼けのような赤色ランプが煌々とあたりを照らし、地に長く影をひく。



 「彼はほほえむ なぜなら君たちが幸福だから
  ただときどき彼はささやく
  ああ この時の流れが どこか大海にそそがぬものか?
  運命は彼を忘れたのに
  彼はとっくに運命を赦している
  彼を羨め
  彼を軽蔑しろ
  それは彼を測る物差しではない
  エーリヒ・ケストナー『従兄の隅窓』…………圭ちゃんは俺の従兄だった」

  
 『母方の伯母が不妊症なんだ』
 『子供をほしがってたから譲ろうとしたんだけど、養子を貰っていらなくなったんだとさ』
 『圭は家庭環境が複雑で、たびたび相談に乗っていた』

 「圭ちゃんは子供のころ伯母夫婦の養子に入った。俺は六年前、一時期伯母の家に預けられて……圭ちゃんと出会った」
 ポケットの内側で握りこむ手が震える。
 「圭ちゃんは俺のすべてだった」
 「圭が死んだ時、私の一部も死んだ」
 被害者の遺族と加害者と。 
 麻生も敷島も形はちがえど、圭の死により大事なものを喪失した。
 感情の一部であったり痛みを感じる心であったり涙であったり失ったものは多すぎて、とても一口じゃ言えない。
 だから敷島も麻生も泣かない。
 泣いていいのに泣けない。
 泣きたくて泣きたくて、切実な感情が込み上げて胸が苦しくて熱くて吐き気がして、でも、泣けない。
 ふたりにとって圭がどれほど大切な存在だったのか。
 どれほど支えだったのか。
 「十二月は終わる月だ。圭ちゃんがそう言ってた。……師走の由来を教えてくれたのも圭ちゃんだ」
 敷島が弾かれたように顔を上げる。
 麻生は敷島を見ず、俯きがちに続ける。
 「年果つ、四極、為果つ」


 年果てる月。
 四季の終わる月。
 何かをなし終えるための月。

 
 「だから圭ちゃんは、十二月の最後の日に、すべてを終わらせようとしたんだ」

 十二月が終わる月なら、十二月の最後の日は、一年の清算をする最後のチャンス。 

 「今日は圭ちゃんの命日だ」

 敷島が梶を殺したのも麻生が遺書で釣って敷島を呼び出したのと、日付が重なったのは偶然じゃない。
 十二月三十一日はふたりにとって特別な意味をもつ日だった。
 この日に復讐を行う意味だけは譲れなかった。
 他の日じゃ意味がなかった、今日じゃなければ意味がなかった。
 十二月は終わる月。
 圭が命を絶った日。

 「私が圭に教えたんだ」
 「え?」
 麻生が意外げな顔をする。
 眼鏡の奥の目に疑問の色をやどし、へたりこむ敷島を見おろす。 
 「私が圭に教えたんだ。師走の由来、十二月は終わる月だと。だから圭は……六年前の今日、十二月最後の日を……自分の終わりに選んだ。私のなにげない一言が、圭の死の引き金になった」
 大事な人から大切な人へ、受け継がれた言葉。
 敷島が教えた師走の由来は、圭の口から幼い麻生へと受け継がれ、麻生から俺へと伝わった。
 人が消えても、想いは循環する。
 「圭………」
 括られた手を掲げ、絵の額に額を擦り合わせ、嗚咽する。
 胸が浅く上下し、肩が浅く浮沈し、しかし涙は出ない。
 自分には泣く資格がないと戒めてるかのように、嗚咽をまねても声は枯れ、涙は一滴たりとも絞れない。
 絵のてっぺんに手をおき、俺は思ったまま感じたままを述べる。
 「絵の先生、笑ってますね。優しい顔してる。……圭ちゃんにはこう見えたんでしょうね。背広、ひょっとして六年前から買い換えてないんですか」
 「え?」
 「おんなじの着てる。ずっと喪に服してたんだ」
 
 俺の言葉がひとを救うなんて思いあがりだ。
 言葉で救えるほど人間は安くできてない。

 でも、それでも。
 前を向くきっかけくらいにはなるかもしれないと、信じたい。

 「座間圭は先生のことをよく見てた。背広の皺ひとつとっても、細かく、正確に……」
 俺の言葉に促され、指先でぎこちなく、正確に描きこまれた背広の皺を辿りゆく。 
 「右下を見てください。なんて書いてあります?上の絵がはがれて、イニシャルも変わったでしょ」
 上の絵は、右端にZ.K……座間圭の略称がしるされていた。
 「敷島先生の下の名前……たしか、治でしたっけ。人間失格の作者とおなじ。イニシャルだとS.О」
 片膝付き、力が抜け、絵から滑り落ちかけた指を隅っこのイニシャルへと導く。
 絵の右下には、ふたつのイニシャルがならんでいた。  

 Z.KからS.Оへ。

 「敷島先生の絵の上に自分を描いて、敷島先生のイニシャルの隣に自分のをならべて。一緒にいたかったんだ」

 Z.KからS.Оへ。

 括られた手じゃ抱きしめられない。
 敷島は手錠ごと手を胸の前に掲げ、褪せた絵にできるだけ近付き、託されたぬくもりを感じようとする。
 「………梶が憎かった。六年間、ずっとずっと、殺す日を夢見ていた。圭を失ってから一日だって満足に寝れた試しはない。あの男は、圭を……私の目の前で犯したんだ」
 麻生の顔が蒼ざめていくのが暗闇の中はっきりわかる。
 絵を支えるのと反対側の手で、すっかり冷え切った麻生の手を握ってやる。
 さっき麻生がそうしてくれたように、ぎゅっと握り締める。
 「………あれから圭の様子が変になった。圭の変調に気付いていたのに、あの時、屋上でとめられなかった。フェンスのむこうに立つ圭は……最後に泣きそうな顔で笑って……」

 『私の時は間に合わなかった』

 「殺してやりたかった。六年間、ずっとずっと決心がつかなかった。六年たって、七回忌まで一年を残す今になって、やっと決心できた」

 敷島は圭を愛していた。
 純粋さが狂気に達し、妄執に迫るほどに。
 梶を殺したのも手紙を奪いに来たのも保身のためだと俺はおもっていた。
 梶の犯罪に加担した証拠がバレるのをおそれ梶に脅迫されていた事実が明るみに出るのをおそれ、麻生の呼び出しに応じたのだとおもっていた。
 事実それもあったのだろう。だが、それだけじゃない。
 敷島は圭の手紙をもつ麻生に嫉妬していた。なにがなんでも圭の遺書を取り返したいという独占欲が高じ、ナイフで刃向かってきたのだ。

 「梶を殺した動機も脅迫に端を欲する私怨じゃなくて、本当は……」

 続けようとした俺を制し、静かに立ち上がる。
 自分には麻生とおなじ次元で語られる資格がないとばかり首を振り、救いがたい悲哀にぬれた目で絵をみおろし、別れを告げる。

 「さようなら、圭。秋山くん。麻生くんも……怪我させて悪かった」

 手錠に括られた手で、慈しむように絵をひとなでし、踵を返す。
 タクシーへと歩く古背広の後ろ姿にむかい、やりきれない感情に駆られて叫ぶ。
 「先生!!」
 「おちこぼれだとおもってないのは本当だ。……君はやればできる子だ」
 パトカーに乗り込むついで、ちょっと振り返って言った台詞に笑っちまう。
 「ひと切り刻んどいて説得力ねっすよ」
 「ジャージは弁償する。警察に請求書をまわしてくれたまえ」
 本当はわかってる。
 梶を殺せても俺を殺せるはずがない、教え子を殺せるはずがないのだ。
 腕や背中や致命傷を避けてあちこち切り刻んだのは苛むのが目的じゃなく、殺すのをためらったから。
 敷島は梶のようなサディストじゃなかった。
 ただ臆病でずるくて、優しいだけの人間だった。
 事件の主犯格ならいざ知らず、もともと事件に関係ない俺を梶を刺し殺したナイフで始末するようなまねが、この人にできるはずない。

 敷島はどこまでも優しくてずるくて臆病な男で、
 座間圭はきっと、この男の優しさずるさ弱さを全部ひっくるめて愛していた。

 最後に刑事が乗り込みパトカーの扉を閉じる。
 窓に敷島の横顔が映り、すぐ刑事の肩に阻まれ見えなくなる。
 パトカーが出発する。
 砂を蹴散らし、開け放たれた校門から出て行くパトカーをその場に立ち尽くし見送る。


 長い夜だった。
 一生分の体験をしたような密度の濃い夜だった。

 
 遠ざかっていくサイレンと赤色ランプの光を目で追い、隣に立つ男へ問う。
 「……ひとつ質問」
 「なんだ」
 「俺と初めてしゃべった日、窓から人間失格なげたろ。本好きなくせに本粗末にするなんてけしからんってぶっちゃけ腹立ったけど、あれひょっとして、作者が敷島とおなじ名前だったから?」
 「……はあ?」
 「はずれ?」
 眼鏡の奥からあきれ果てた眼差しを注ぐ。
 「お前ばかか、いちいちそんな小せえこと気にしねーよ」
 「ばかって言うな」
 「人間失格好きじゃねーのはホントだけど。……手元の本でいちばん気に食わないの咄嗟に選んだってのはあるかも」 
 「理由は?」
 「根暗で卑屈」
 教科書に絶対のってる文豪の傑作をばっさり切り捨て、続ける。
 「自意識過剰で対人恐怖症気味な作家の愚痴垂れ流しなんて興味ない。俺が好きなのは同じ太宰でも併録の『葉』の断章」
 「葉の断章?」
 なんだそりゃってかんじで首を傾げる俺をちらり流し見、ぶっきらぼうに言う。
 「咲クヨウニ。咲クヨウニ」
 「え」
 「……そういう台詞が出てくるんだよ。貧しいロシア人の花売りが造花の蕾を売って……何にやけてるんだ?」
 「え?別ににやけてねーよ、どうぞ続けて」
 「………やめた」
 「なんで!?」
 「お前のにやけ顔見ると腹立つ」
 がらじゃねー台詞を言った自覚はあるらしく、足元の砂を蹴散らし不愉快げにそっぽをむく。
 数多い太宰の作品の中で、俺と麻生は偶然にも、おなじ話のおなじ台詞を気に入っていた。

 悪童日記の見解の違い。
 太宰の好みの一致。
 悪童日記の双子の気持ちがわかると言った麻生が、造花の蕾が咲くよう祈る花売りの台詞を好きだと言った。 
 前者は理解できなくても後者は共感できる。
 すれ違っては近付いて、近付いてはすれ違って、俺たちはこれからも境界線上を歩いていく。

 「咲クヨウニ、咲クヨウニ、か。意外と可愛いとこあるんだな」
 「うるせえ」
 「ついでに聞くけど、覚えてるか?二階からド派手な登場したとき、ミステリに興味ねーって言ったくせに俺とおなじの読んでたじゃん。さらっとネタバレしてさ。興味ねーくせになんで読んだんだ、前に言いかけてやめてずっと気になってたんだ」
 「どうでもいいだろ」
 「あーそういうこと言う、言うか!?一体だれのせいで学校中かけずりまわって手首ひねって切り刻まれてあげく爆弾解除までやらされたと」
 「ーーっ、作家のファンだったんだよ」
 「……はあ?はあ!?え、マジそんな理由!?」
 「……純文の頃から買ってたんだ。ミステリーに転身して……読まず嫌いも何だし、試しに一冊……」
 「ははっ、だからマイナーって言われて怒ったんだ」
 「駄作だった。買って損した」
 舌打ちしてそっぽを向く。 
 まだまだ話したりない、一晩中でもしゃべっていたい俺の方へコロンボが手をあげ近付いてくる。
 「おしゃべり中申し訳ないがそろそろ行こうか、署へ」
 「……やっぱ行くんすか?」
 「親御さんにも連絡せんとならんしね」
 「あ」

 忘れてた。
 刑事との攻防もむなしく、ぼろっと疲れきった教師聡史ユキちゃんがやってくる。

 「せ、先輩たちふたりっきりになんかしませんから……行くなら俺も一緒に……間にはさんで……久保田の顔も見たいし」
 「ど、どんぶり返さなきゃな……もったまま来ちまったぜ……」
 「あんたたちねえ。パトカーはタクシーじゃないんだけどね……ま、いっか」
 パトカーの扉にしがみ付く聡史をふたりがかりでひっぺがしにかかる部下、どんぶりもって猛々しく吠える担任とを苦笑で眺め回し、コロンボが悪戯っぽく口添えする。 
 「ま、思い詰めなさんな。ビデオ見た限りじゃ被害者だしね、きみ。……仮に、だ。これからは私の妄想だから、話半分に聞いてほしいが」
 使い込み古びたトレンチコートの裾をひるがえし、なれなれしく寄り添ったコロンボが、両腕をまわして俺と麻生の肩を抱く。
 俺たちの間に顔を突っ込み、頬ぺたくっつけるようにして小声で囁く。
 「……爆弾作って送り付けたとしても、直接の死因が刺殺ならせいぜい器物損害程度の罪だ。未成年なら動機次第で酌量の余地もある。梶は札つきのワルだったようだし……殺されて当然とは言わないがね」
 俺たちの肩を抱く手に有無を言わせぬ握力と重圧がこもる。
 「手あらなまねはしたくない。自分の意志で署にきてくれるね」
 眼光鋭く聞くコロンボ。
 断固として真実を追う職人気質の横顔と、妥協を許さぬ眼差しに気圧され唾を呑む。
 「いい」
 「いいの!?」
 「時間はたっぷりある」 
 肩をすくめ、コロンボをはさんで隣の俺に挑発的な一瞥をくれる。
 「殺し損ねて死に損ねた。……生きてるんだから、生き続けるさ」 
 笑う。
 「……気が合うな、俺も」
 「決まり。さあ、乗ってもらおう」
 コロンボに背中を叩かれパトカーに誘導される。
 コロンボとその部下に背を固められ、手錠こそないが監視つき、逃げ場のない状況で歩調をあわせ歩けばジャージの切れ目に外気が染みる。
 「―ッ、て!」
 反射的に切り刻まれた腕を庇う。
 歩みが一瞬遅れた俺を憚り、振り向く。
 「……だいじょうぶか」
 「気にすんな、かすり傷。俺をだれだと思ってる、部長だぞ」
 「迷惑かけたな」
 「かけたのは迷惑じゃなくて心配」
 扉を開いて待つパトカーの方に顎をしゃくれば、聡史と担任とユキちゃんが手をふってはしゃいでいる。
 パトカーのまわりにたむろう顔見知りと、隣を歩く俺とを見比べ、小さく呟く。
 「……そうか」
 「そうだよ」 
 麻生が軽く頷く。俺も頷く。ふたり歩調を合わせ、赤色ランプが点る夜の校庭を歩く。
 パトカーに辿り着くまでの間がやけに長く感じる。
 距離にしてたった十五メートル、されど十五メートル。
 緊張に乾いた唇をちょっとなめて湿らし、ずっと気になっていたことを聞く。
 「麻生さ、聞いていい」
 「またか。今度はなんだよ」
 「なんで爆弾しかけたんだ?……ほんとに死ぬつもりだったのか」 
 後ろの刑事に聞かれぬよう声を低め、深刻ぶって囁く。
 敷島と心中するつもりだったのか、自殺するつもりだったのか。
 「………それもいいかとおもってた」
 ブリッジを神経質に押し上げ、自らの内面を覗きこむように深い目をし、俯く。
 「部室にケータイかけてきた時……試合に勝って勝負に負けるか、試合に負けて勝負に勝つかって謎かけしたろ。あれ、どういう意味だ」
 「ああ」
 そして麻生は実にさらりと、なんでもないように言いやがったのだ。
 白い息吐き、茫洋とした眼差しを虚空に投じ。
 夜目にも白く血の気の引いた横顔をさらし。
 「時間に間に合ったらお前の勝ち。間に合わず、俺が爆弾と一緒に吹っ飛んだら敗け。敷島を釣る餌でも建前上ゲームと銘打ったんだ、そんくらいしないとフェアじゃない」
 「うん」
 「で、二択。謎を解いて屋上にきたら試合は勝ち、でも爆弾ともども吹っ飛ぶ可能性あり。俺も爆弾も放り出して逃げたら試合は負け、けど結果的に生き残りゃ勝ちともいえる」
 ……まさか。
 「えーと、たんま。今の爆弾発言?」
 「ダジャレ?」
 「しゃれじゃなくて真剣に聞いてんの。な、いいか、もう一度聞くぞ。お前、ひょっとして、自殺とか心中とか深いこと一切考えず、大晦日の晩に俺を巻き込んだ手前自分も命くらいかけねーとフェアじゃねーとか、そんなねじくれた発想で爆弾しかけやがりましたか?」
 動揺と混乱のあまり日本語が破綻する。
 俺の指摘で初めて自分の矛盾した行動が腑に落ちた様子で、レンズの奥の目に紛れもない賛嘆の光をやどし、こっちを向く。
 「お前実は頭いい」
 「馬鹿野郎!!!!!」
 ぶん殴るのだけは一握りの理性で抑えた。
 というのは嘘で、俺が渾身の力でこのバカぶん殴ろうとこぶし振り上げたらすぐ後ろの刑事が組み付いて、よってたかって阻みやがるもんだからますます頭に血がのぼって、激しくかぶりを振り地団駄ふみ手足をふりまわし、躍起になって暴れ狂う。
 「よく考えたらそれどっちにしたってお前死ぬじゃん、命危険じゃん、俺が間に合っても解除できるかわかんねーしもし違う線切ったらドカンじゃん、しかも俺のこと抜きにしても敷島呼び出しただけで十分危険だし、おまっ、ほんとなに考えたんだよ!!?」
 「落ち着いて、けがしてるんだから!」
 「はなせっ、コイツは泣くまでぶん殴る!!」
 「勝ったんだし、間に合ったんだからいいだろ?」
 「お前が死んだらどっちみち俺の敗けなんだよ!!」
 懐から場違いな古畑任三郎のテーマが流れる。何回目だこのパターン。
 足をむちゃくちゃ蹴り上げ暴れながら片手を懐に突っ込み携帯をとりだしメールをチェック、凍り付く。


 『兄貴って絶対受けだよね?』
 マリからメールだった。


 「受け……?」
 わけわからん。
 怒りもどこかへ吹っ飛びしばし黙考、妹がよこした謎の暗号に頭を働かせ、刑事に肘固めくらったままメールを打ち返す。
 『受けってなんだ?』
 返信終了。
 大人しくなった俺を力尽くでパトカーまでひきずる刑事一同、ユキちゃんと聡史と担任が心配げな顔で見守る中、また携帯にかかってくる。 
 即座に通話ボタンを押す。
 「あのなマリ」
 『イヤーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ、なんでユキにかけたつもりが兄貴にとどいてんの嘘ウソ信じらんない新年一発目のドッキリって言ってよ!!?』
 年明け早々ハイテンション高音粋な絶叫が右耳から左耳を貫き、まわりの刑事たちも耳を塞ぐ。
 もちろんマリの悲痛な絶叫はタクシーのそばに突っ立ってた担任と聡史とユキちゃんにも聞こえたわけで。
 「マリちゃん、また間違えて透ちゃんにメールしちゃったんだ……」
 ユキちゃんがぬる~い笑みを浮かべる。
 『え、ウソ、そこユキいんの?なんでユキがうちのバカ兄貴と一緒にいんの、警察にいたんじゃないの、兄貴ユキんちにお邪魔してんの?てか攻め、じゃなくて友達はどうしたの、メガネクール攻め、じゃなくてメガネで優等生の麻生って人と一緒だって言ってなかった?』
 『透?ちょ、貸しなさい!』
 『ひどっ、私のケータイなのにお母さん横暴!』
 電話のむこうで揉み合う気配がし携帯がひったくられる。
 『あんたさっき電話くれたから待ってんのにちっとも帰ってこないじゃない、お母さんそばにラップして待ってたのにすっかり伸びきっちゃったわよ、どうしてくれんのよこのそば、食べちゃうわよ!?』
 「食うなよ息子の年越しそば!?」
 『もーあんたって子は、さっき突然ヘンな事言い出すもんだから釣られてしんみりしちゃってお母さん恥ずかしいわ。わかった、あれも作戦のうちね!帰りが遅くなるから情に付け込んで説教軽くしようって作戦ね、ケータイのむこうで計画通りな笑みを浮かべてたのね!?」
 「お袋酷っ、しかも計画通りとかマリの漫画読みすぎだって!!ちがうって、話すと長くなるけどホント大変だったんだって色々!走り回ってくたくたであちこちけがだらけだしさー、今生きてるのが奇跡ってかんじ?」
 『コンビニで立ち読みしてるんじゃないの?』
 「おれ何時間コンビニで立ち読みしてんの!?」
 『まさか家出?そうか反抗期なのね、さっきの電話は東京駅からで早速ホームシックなのね!?悪いこと言わないから帰ってきなさい透、入試のカンニングなら母さんもう気にしてないから!!』
 「カンニング決定事項なのか!?」
 『気にしないの?なーんだ。お母さん、私もこないだの期末で実は……』
 『はあ!?あんたねーカンニングなんてクズよクズ、だから母さん裸の男の子が抱き合ってる漫画ばっか読まず真面目に勉強しなさいって言ってるでしょ!』
 ……お袋、酷い。子供の人格全否定かよ。さっきのちょっといい話はなんだったんだ。
 携帯ごしに壮絶な親子喧嘩をくりひろげる俺のそば、「透ちゃんは受けというよりむしろ総受けだとおもう」とユキちゃんが妙にもじもじし、「おばさんの説得ならまかしてください、むしろ菓子折りもって正式にご挨拶に!!」と聡史が気勢をあげ、担任が「お母さん心配させちゃだめだぞー秋山」と人さし指の上でコマの如くどんぶりを回転させる。
 パトカーに乗り込もうにも乗り込めない状況でがなりたてれば、ふいに鼻がむずがゆくなりくしゃみを放つ。
 「へぶしっ!!」
 後ろから首にふわりとあたたかいものが巻かれる。
 鼻の頭を赤くし隣をむけば、自分の首からむしりとったマフラーを俺に巻き、麻生がしかたなさそうに笑っていた。

 俺の見た事ない顔で。

 「ヘンな顔」 
 冷笑でも嘲笑でも蔑笑でもない。
 六年前、圭ちゃんといた頃の麻生ならこう笑っていただろうという顔で、まだ多少ぎこちなさが残るけど楽しげに笑っていた。

 鼻を人さし指でこすりむくれる俺をからかい、自分の首元を指さす。
 「巻いとけ」
 赤色ランプが点滅する。
 「俺がやったんだぞ?」
 「貸すだけ。やらないよ」
 「……注文多いヤツ」
 「友達にもらったんだ」
 くしゃみをしかけ、びっくしりしてやめ、鼻に皺を寄せたへんな顔でまじまじ見詰める。
 今の言葉を咀嚼し、反芻し、胸の内が幸せな感情に満たされていく。
 担任が聡史がユキちゃんが口々に勝手を喚く中、とっととパトカーに乗り込んだ麻生を追って乞う。
 「圭ちゃんのこと、聞かせてくれ」 
 「………いつかな」
 
 時間はまだ沢山ある。
 俺たちはまだ十七で、たった十七で、これからたっぷり未来へ助走する時間が残されてる。
 
 死んでしまった人のこと、生きてる人のこと、一緒にいる人たちのこと。
 俺たちがこれからどうなるかわからない。
 このまま一生ずっと友達でいるのかいつかは境界線をこえてしまうのか、それはまだわからない。
  
 圭の事。敷島の事。梶の事。
 麻生が十七年間抱え続けたもの、六年間秘め続けたもの、その全部を知ろうとしたらこれからいくら時間があっても足りないし、その全部を知ったら、もしかしたら俺の手じゃ抱えきれないかもしれない。
 それがどうした?
 ひとりで持ちきれないならふたりで分け合えばいい。

 「寒い。早く乗れ。外にいたんじゃドア閉められないだろ」
 薄く目を開き、眠たげな顔で俺に手を貸す。
 麻生が億劫げによこした手をしっかりとり、冷えきってはいても生きてる実感を与える体温と感触を確かめ、若干緊張ぎみに呟く。
 「譲」
 「なに」 
 「……別に。呼んでみただけ」
 だらしなく笑って言えば、俺の手をにぎったまま、麻生がぐったりシートにもたれる。
 「……おれを人殺しにしないようちゃんと見張っててくれよ」
 ぬくもりをもとめむさぼるように、五本の指が強く絡んでくる。
 「重いな、それ」
 「お前が余計な事したおかげで生き残っちまったんだから、意地でも生きてやるさ」
 「俺、圭ちゃんに似てる?」
 「……ぜんぜん似てねー。圭ちゃんはもっと頭よさそうな顔してた」
 「そっか」
 「安心したか」
 「ああ」
 瞼を半眼にし、まどろみをたゆたいつつ、眠るのが怖いガキみたいに俺の手にすがる。
 「……圭ちゃんの代わりなんかじゃないよ、おまえは」
 「目障りとかどうでもいいとかさんざん言ってたじゃんか」
 「目障りだよ。しずかに本読みたいのに、視界にちらつくと気になって集中できない。うるせーしすげー邪魔」
 「どうでもいいは撤回する?」
 一本とった。
 ふてくされだまりこむ。
 そっぽを向いた麻生のコートから赤い栞がたれてるのに気が付き、こっそり手を伸ばし、抜き取る。
 「あ」
 コートのポケットから抜き取った拍子に一枚メモがおちる。
 麻生がコートのポケットに忍ばせていたのは、俺が誕生日に贈った古本だった。
 ページの間から滑り落ちた紙片をかがんで拾い上げ、何の気なしに開く。

 
 治リマスヨウニ
 治リマスヨウニ
 治リマスヨウニ


 見慣れたへたくそな字で三行、同じ文がくりかえされていた。
 「返せ」
 俺の手から凄まじい勢いでひったくり、また本にはさんでコートのポケットに突っ込む。
 「持ってきたのか」
 「……処方箋」
 ぶっきらぼうに呟く麻生の頬が薄赤く上気してるのを察し、得した気分になる。
 くすぐったいようなこそばゆいような、浮遊するようなこの気分に名前を付けると、幸せとかになるんだろうか。 
 そっぽを向く麻生の手をしっかり握って、パトカーに乗り込みがてらひそかに気に病む。
 男友達の横顔に無性にキスしたいっていうのは、やっぱりへんなんだろうか。 

 「……答えを出すのは先でいいか」
 
 目を閉じると何度でも浮かぶ光景がある。
 図書室二階の窓枠を蹴り、軽々ととびおりる麻生の姿。
 ボーダーラインを越える事を一切躊躇しないいさぎよさ。
  
 「なあ麻生」
 「なんだよ」
 眠たげな声で答える。
 腕の怪我は浅いといってもほかにも傷だらけで、敷島と揉みあって体力は底を尽きて、今にも眠りにおちてしまいそうに瞼が危うい。
 睡魔と戦いながら面倒くさげに聞く麻生の隣に腰掛け、じっと横顔を見つめる。
 「四月、図書室の二階からとびおりてきたろ。かっこつけて」
 「………ああ」
 「あの時とおなじこと、今、できるか」
 「できるけど、しない」
 「なんで?」
 「お前がいるから」

 俺の手をまさぐり、寝言と境界線が曖昧な独白をもらす。
 麻生の手と俺の手が繋がり、平行線が円に結ばれ、距離がゼロになる。

 「………おまえがいるなら、ここがいい」
 
 ここでいい、ここがいい。
 前者と後者は全然ちがう。
 前者は妥協だが、後者は意志だ。
 麻生譲はボーダーラインのこちら側にとどまることを自分の意志で選んだ。
 頭をあずけて規則正しい寝息をたてはじめた麻生を気遣い、凭れあうようにしてまどろむうちに、今度こそ完全な寝言を聞く。
 「………秋山」
 「…………いいよ。名字で譲歩する」
 麻生に肩を貸し、自分が笑ってることに気付きながら目を閉じれば、バタンとドアを閉じ最後に乗り込んだコロンボが微笑む気配が伝う。

 「………寝顔はガキだな」

 俺たちは境界線上を歩いていく。

                                        
                                              END

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010309232659 | 編集

 何が間違ってたんだろうと考える。
 なにがいけなかったんだろうと考える。
 ぼくはどこで間違えたんだろう。どこで間違えてこうなってしまったんだろう。
 安住の地はもうない。永遠に失われてしまった。
 ぼくのサンクチュアリ。あの人がいた場所。
 放課後のぬるい陽射しがさしこむ美術室。
 飴色に輝く床の木目にしみた色とりどりの絵の具、こもる独特の匂い。
 あのときぼくはたしかに幸せだった。
 満ち足りた幸せに包まれていた。
 生まれてきてよかったなんて口にすれば陳腐になってしまう。
 だけど今生きていることに感謝できるのはぼくが生まれてきたからで、あの人に出会えただけでもぼくの人生には意味があったんじゃないかと、そう思いたい。
 ぼくはどこで間違ったんだろうか。
 たくさんの人を哀しませて。
 不幸にして。
 絶望させて。
 だけどあの人を好きになったことだけは、間違っていたとは思いたくない。
 人を好きになったことを、後悔したくない。


 「優しい絵だね」
 最初の一言はそれだった。
 ぼくは右手に絵筆をにぎり、左手に絵の具を溶いたキャンパスをもち振り返る。傍らに立つ教師が、未完成の絵を覗き込んでいた。
 きっかけはささやかなこと。彼と初めて言葉を交わした。
 それまで、彼はぼくにとって遠い人だった。
 学校内で遠目に見かけることやすれちがうことはあってもそれだけの人、それだけの存在。
 彼はけっして目立つほうじゃなかった。
 年は四十近い。いつもくたびれた背広を着ている。
 容貌も、着てる物に負けず劣らず地味で冴えない。
 実直で誠実そうな人柄が伝わってくる平凡な顔立ちには、哀愁を誘う苦笑がよく似合う。
 「優しい、ですか?」
 手を止め、かすかに訝しげに聞く。
 虚を衝かれた。
 椅子に座り、教師を仰ぐ。
 彼は産休をとった美術部の顧問の代わりにやってきた。言うなれば顧問代理、穴埋め。
 そんなふうにして突然自分の興味のない部活を受け持たされたのだから熱が入らなくても当たり前なのに、律儀に毎日やってきては、部員の様子を見守っている。
 さぼったりはしない。
 すっぽかしたりもしない。
 どうかすると部員よりよっぽど真面目だ。 
 「ヘンかな、この言い方は。でも、素直にそう感じたんだ。とても優しい絵だ」
 彼が不器用にフォローする。
 はにかむような笑みが枯れた顔に浮かぶ。
 自分で言いながら照れてる。面白い人だ。
 彼はけっして生徒を馬鹿にしたりしない。
 一人の人間として、生徒の個性や意志を尊重する。
 絵の評価基準に「優しい」が含まれるなんて、ぼくは知らなかった。
 彼の示唆で、啓蒙で、初めてそういう感じ方があるんだと知った。
 あるいは評価じゃなく、率直な感想。
 彼は上手い下手で絵の価値を測らない。
 「優しい絵なんてはじめて言われました。………拙い絵ですけど」
 絵を描くのが好きだった。子供の頃から。
 絵を描いてる時間は幸せだった。
 無心にペンや筆を動かしている時は悩みを忘れられた、色を塗っている時だけ孤独が癒された。
 ぼくは地味で目立たない方で、友達も少ない。
 クラスのだれかに話しかけられても、咄嗟に気の利いた事が言えない。
 内向的な性格。皆で遊ぶより一人で絵を描いてるほうが楽しかった。
 「これは、どこの風景?」
 彼が聞く。描きかけの絵を見詰める目は柔和で優しげだ。
 捨てた故郷を懐かしむ旅人に似ていた。
 「……さあ。よく知りません」
 「想像で描いてるのか」
 「どこかで見たような気はするんだけど思い出せなくて……なにかの写真集か本で見たのかな?妙に気に入って、それで覚えてるんだと思います」
 「記憶力がいいね」
 褒められ、照れる。
 「かなり想像入ってるし、記憶力がいいってわけじゃありませんよ」
 照れ隠しに絵の具を溶く作業に集中する。
 絵筆の毛先に白と混ぜた青を含ませる。空の色。
 ぶっきらぼうな言い方に機嫌を損ねたのではと案じ、ちらりと横目でうかがえば、彼はまだ熱心に絵に見入っていた。
 僅かに膝を屈め、中腰の姿勢で。
 「座間くん、だっけ」
 いきなり名を呼ばれる。
 振り返りざま目が合う。
 「君は真面目だね。放課後、欠かさず部活にやってくる。他の子たちはさっぱりなのに……小此木先生の代わりにきてびっくりしたよ」
 「びっくりしましたか、やっぱり」
 「幽霊が多くてね。せっかく広いのにもったいない」
 「というか、殆どの場合ぼく一人です。多くて二・三人。地味な部活だし、人気ないんですよ」
 美術部は幽霊部員が多い。
 真面目に参加してるのは殆どぼくだけだ。
 たまに気まぐれに顔を出す二・三人のほかは、殆どぼく一人でキャンバスを占領してる。
 実績や勢いのある部活とはお世辞にも言えない。
 同好会に毛が生えた程度の規模と人数で、辛うじて存続を許されている。
 あんまり人がたくさんいると息苦しいから、ぼくは現状に満足してる。不満はない。
 広々とした美術室は快適で、絵の具の匂いも慣れてしまえば心地よい。
 彼は少し哀しげな顔をする。ああ、こういいう表情が似合う人だな、と思う。
 「そうか。……小此木先生は寂しいだろうね」
 「いえ、別に。彼女は……小此木先生も、そんなに身を入れてるわけじゃなかったし。よくわかんないけど、教職員の人事バランスに流されて、むりやり顧問を押し付けられたってかんじかな?来ない日もよくあったし……すっぽかす、って言ったら言葉が悪いけど。ほとんど放任状態でしたよ」
 「君は?」
 「え?」
 「いつもひとりで寂しくないのか」
 彼は真剣に、美術部の現状を憂えている。ぼくの孤立を案じている。
 顧問の代わり、穴埋め。
 小此木先生が元気な赤ちゃんを産んで復帰すれば去っていく一時しのぎの存在なのに、適当にごまかしやりすごすという処世術を是としないのだ。
 不器用で誠実な人柄に好感を持つ。
 「絵を描く時に寂しいとか寂しくないとか考えません。いつも夢中で……絵を描く時のひとりは、ひとりぼっちと違う。自分で選択した孤独だから、どちらかというと心地いい。誰にも気を遣わずにすむ」 
 できるだけ平易に噛み砕いて考えを口にする。
 伝わるかもと、期待はしてなかった。
 ぼくの言葉はあまりに抽象的で漠然としている。
 付き合いの短い、今日初めてまともに言葉を交わした彼に、いかにも鈍感そうな中年教師に、ぼくが絵を描きながらひそかに思っている事が伝わるなんて思ってもみなかった。
 ところが、彼は静かに頷く。
 理解はできないけど共感は可能だとでも言いたげに、否定も肯定もしないが許容は可能だと言いたげに、思慮深く首肯を示す。
 「わかる気がする」
 「先生もですか?」
 「絵を描く時はよそ見をしない。私が見た限り、君はずっと絵と向き合ってる。君の世界には絵と君しかない。ならそれは一対一で、対話だ」
 驚いた。ぼくの身のまわりには、彼のようなことを言う大人はいなかったから。偽りの共感じゃない、もっと深い核心から発した言葉。
 手近な椅子をもってきて腰掛け、親しみの湧く口調で問う。
 「ずっと絵を描いてるのかい?」
 「小学校の頃からです」
 「風景画ばかり?人は描かないのか」
 「人は難しくて。……あの、人の顔って、ちゃんと見るの怖くないですか」
 「怖い?」
 「顔を見ればその人がどんな人間かわかるって言うでしょう。だから怖い。たとえば、ピカソの自画像とか……ゴッホの耳のない自画像とかもですけど、自分を描いた作品なのに、内面の狂気が抉り出されて圧倒される。自分でさえそうなんだから、客観的な視点で長時間モデルと向き合って、その人を紙に描き写したとしたら……」
 「『絵は本性を暴く』か」
 面白そうに口元を緩める。
 青臭い理論をぶって、気恥ずかしくなって俯く。 
 「……その。今の、実は言い訳で。ホントはぼく、人が苦手なんです」
 「だろうと思った」
 「からかってます?」 
 険悪な目で睨む。彼はのらりくらりとぼける。
 眠りの成分を溶かし込んだように穏やかな時間が流れる。
 白茶けた陽射しは傾いて床を洗う。埃が舞う。
 しばらく、ぼくが筆を動かす音だけが響く。
 学ランの前に羽織ったエプロンに絵の具が斑模様を作る。
 毛先に染ませた青で空を刷きながら、落ち着かない気持ちをもてあまし、傍らに座る男を目の端でさぐる。
 彼は眠たげな顔でキャンバスの上を行ったりきたりするぼくの手を見守っていたが、ふいに口を開く。
 「座間くんは青が好きなのか」
 「はい。キレイだから」
 「無垢は白、情熱の赤、憂鬱の青……か」
 連想ゲームのように口ずさみ、空が占める割合が多いぼくの絵をじっくり見詰め、するりと自然に口にする。
 「なにか悩みでもあるのかね」
 答えを期待してないような軽さで放たれた台詞に、なめらかに絵筆を滑らせていた手が微動する。
 「心理学ですか?青を好んで使う人間は精神的に落ち込んだ状態にあるって言いますよね」 
 「気に障ったんなら謝る。余計なことを言った。ただ、君の絵を見てて……ちょっと気になったんだよ」
 たしかにぼくは色を塗る際青を多く使う。
 細部をあまり書き込まない代わりに、空や海が占める割合が多い。
 自覚はしていた。
 テクニックの拙さを空間と色に頼ってごまかしてると批判されたら反論できない。
 でも、素人心理学で内面を分析されたくない。
 やや緊張して押し黙れば、彼はいとおしげに描きかけの絵を眺め、凪いだ表情で呟く。
 「ゴッホの絵で一番有名なのはひまわりだが、私は晩年の絵のほうが好きだ」
 そばの本棚から一枚画集を引き抜いて持ってくる。
 ゴッホの画集。
 「ゴッホは不遇の画家だった。生きている間は才能を認められず、志を同じくした友達とも喧嘩別れし、晩年は狂気に苛まれ孤独に死んでいった。ゴッホの名声は死後に得たものだ。……はたして彼は幸せだったのかな」 
 「……ひとの人生を定義付けるのは好きじゃないけど。不幸だったと、おもいますよ」
 思ったままを言う。
 死後に勝ち得た名声なんて無意味で無価値だ。
 ぼくだったら、なんで生きてる間の努力と苦悩に報いてくれなかったのかと世を呪う。
 彼も想いは同じだったようで静かに頷く。
 目に宿るのは感傷の光。
 会った事もない孤高の画家に対し、素朴な親近感を抱いてるような。
 「この絵を見てごらん」
 彼は椅子に腰掛け、画集のページをめくる。紙が触れ合う音が空気をかきまぜる。
 開いたページを無言でこちらに向ける。
 画集をのぞきこみ、息を呑む。
 「『ローヌ河の星月夜』だ」
 ひきこまれるような絵だった。
 たゆたう川面に映る街明かり。
 手前の散歩道を腕を組んで歩く淑女と紳士の恋人同士。
 空に瞬く星星。
 夜の帳が落ちた川辺を照らす地上の街明かりと天の星は、黒と青のはざまの闇を親しみやすく見せる。
 「……いい絵ですね」
 感動という言葉は、安っぽいから使いたくない。
 だからその一言に、こみ上げる感情を凝縮する。
 「ああ。いい絵だ。夜を描いてるのに、けっして暗くない。闇を描いてるのに、暗いだけで終わりはしない」
 「心を病んでいても、彼にはきれいなものがちゃんときれいに見えてたんですね」
 「きれいはきたない、きたないはきれい。自分が不幸だからと、世界まで道連れに貶めたりはしない。美しいものを美しいものとして、ちゃんと写し取る腕と心が彼にはあった」
 人の心を幸福で満たしていくような絵が、世の中には存在する。
 絵筆をおき、おそるおそる身を乗り出し、画集に収録された「ローヌ河の星月夜」に触れる。
 なでる。
 「……ゴッホは不幸せだったかもしれないけど、人を幸せにする絵を描いた」
 「その幸せが自分に還元されなくても描き続けた、描かずにはいられなかった。宿命のように。贖いのように。画家というのは絶望を糧に希望を生む生き物なのかもしれない」
 はるか昔に逝った画家への崇敬の念が、寄せては返す波のようにひたひたと胸に満ちる。
 彼の言葉をじっくりと噛み締める。
 彼は、慈しむような手付きでページをなでる。
 真心のこもる指先。
 「造詣の深くない私が絵を語るのはおこがましいけどね。……座間くんの絵は、少しこれに似ている」
 「これにですか?」
 驚く。声が、わずかに上擦る。
 気恥ずかしさで顔が染まるのがわかる。
 「青を多く使ったら普通冷たく見えるはずなのにあたたかい。なぜかやさしい。………好きな絵だ」
 ぼくの描いた絵を好きだと言ってくれた人は、初めてだった。
 上手いと言われた事はある。
 先生に、両親に、友達に。
 だけど、本当はそうじゃない。ぼくはただ、「好きだ」と言ってほしかった。
 技術の巧拙を褒められるよりも、ぼくの手と心が生み出したものを好んでほしかった。
 「座間くんはきっと、心が優しいんだね」
 何故だろう、顔が熱い。絵筆を握る手が火照りを帯びる。
 誰かに面と向かって優しいといわれた経験がないからだろうか。
 放課後の美術室にふたりきり。
 窓からさす陽射しが透明な羽毛のように床を刷く。
 空気はぬるく、安らかにまどろむ。
 教師と一対一で接する経験も、そういえばあまりない。
 教壇の前に立ってないと、この人は普通のおじさんに見える。
 皺くちゃの背広を着た、地味で冴えない中年男。
 だけどぼくは、気付く。
 彼の声は、ひどく心地いい。
 低く落ち着いていて、鼓膜にしみこむ。ずっと聞いていたくなるような声だ。
 「ぼくはただ、絵を描くのが好きだけです。優しいとか……関係ないです」
 「タイトルは決まってるの?」
 「決めてません。絵にタイトルってつけないんです」
 彼が不思議そうな顔をする。ほら、やっぱり、不審がられた。後悔しつつ、目を伏せがちに続ける。
 「タイトル考えるの、むかしから苦手で。そういうの、絵を見た人が自由につけてくれればいいなって思ってたから……人任せだけど」
 だから、ぼくの描く絵はすべて無題だ。
 描き上げてタイトルを付けるまでが仕事だというひともいるが、ぼくは趣味で描いてるのだから、とやかく言われたくない。
 「サンクチュアリ」
 「え?」
 「っていうのはどうだい」
 サンクチュアリ。聖域。
 彼は熱心に、描き途中の絵を見詰める。
 キャンバスに乗せた画布には、青空と山並みを描いた絵。
 手前には蛇行する川が流れている。
 どこか遠い外国の景色のようにも見える絵。
 「……気どりすぎじゃないですか?」
 「そ、そうかな。やっぱりネーミングセンスがないかな、私は」
 「聖域なんて……ただの山と川と空なのに」
 「オーバーかな?」
 「だって、サンクチュアリって。先生、なんか古いよ」
 「しかたないだろう、年なんだから。ださいのは勘弁しなさい」
 過ぎた名前だ。頬にさした赤みを悟られないよう俯く。
 彼も照れて頭をかく。
 空気が和み、どちらからともなく吹き出す。
 いつのまにか敬語が砕けていた。
 しばらく笑ってから、彼はふいに真顔になる。
 「絵を見た人が自由につけて構わないんだろう。なら、これは私のサンクチュアリだ。どこかにあるかもしれない、どこにもない、美しい国だ」
 彼は。
 先生は、孤独なのかもしれない。
 ひょっとしたらぼくよりずっと、孤独な人なのかもしれない。
 ぼくの絵はただの絵で、それ以上でも以下でもない。少なくとも主観的にはゴッホのような才気など感じられない、平凡な絵。
 だけど。
 彼はこの絵が好きだと言ってくれた。
 サンクチュアリと呼んでくれた。
 憧憬のまなざしを注ぎ、慈しむように指を触れる。
 サンクチュアリと名付けた絵に触れる手はどこまでも優しくて、眩げに細めた目は郷愁の光をやどし。
 この人は、ぼくとおなじだ。
 いつもどこかに帰りたがっている。
 帰る場所なんかどこにもないのを承知で、自分を迎え入れてくれる懐かしい、安心できる故郷をさがしている。
 画布の下あたりをくりかえしなぞる、追憶の指先が目を奪う。
 ぼくはこの人のことをよく知らない。古典の先生だということ、四十近くて今だ独身だということ、授業が退屈で評判だという事くらいしか知らない。
 もっと知りたい。
 彼が帰りたがってる場所は、ひょっとしたらぼくと同じかもしれないという漠然とした予感を抱く。
 あるいは願望。あるいは希望。
 ぼくとおなじ場所を捜し求める彼のことをもっと知りたい、近付きたい。

 どこにもない場所。
 どこかにあるサンクチュアリ。

 「敷島先生」

 緊張に渇く喉を唾で湿し、そっと名前を呼ぶ。僅かに震える声。
 ゆっくり振り向いた彼をまっすぐ見詰め、ぼくと同じ、けっして帰り着けない場所への郷愁と憧憬を抱く男へと告白する。

 「ぼくの話、聞いてくれますか」

 それがすべての始まりだった。
 ぼくがサンクチュアリを得て、失うまでの話。

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ボーダー×ボーダー | コメント(-) | 20010309232520 | 編集

 最後の一押しがほしかった。
 一線を踏み越えるきっかけが。


 「今日も放課後は部活か」
 「時間には間に合っただろう」
 梶がロック解除、ドアを開けて入れと促す。
 梶は親の金でいい部屋を借りてる。地元有力者の息子、長男。金には不自由しない。
 玄関入ってすぐの廊下をまっすぐ行った突き当たりはリビングになっている。
 快適に広いリビングに配置された本革ソファーの一隅に麻生は腰掛ける。
 「コーヒーでも飲むか」
 「いらねえ」
 「水分とっとかねえとあとが辛いぞ」
 「今日は何して遊ぶんですか、先生」
 わざと敬語を使ってやる。先生と呼ぶと梶は喜ぶ。扱いやすい男だ。
 教師と生徒、指導者と指導される側。社会的な立場や役職をプライベートに持ち込むのもプレイの一興だ。
 読みかけの本がある。早く帰りたい。秋山にむりやり押しつけられた推理小説。明日になったら感想を聞かれるだろう。

 『麻生どうだった、おもしろかったろ、探偵が犯人名指しする場面の緊迫感最高だよな!?』
 『最後のどんでん返しがまた憎くてさー。あそこでああくるとは思わなかったぜ、完敗!』

 資料室で騒ぐ秋山を思い描き、自然と口元が綻ぶ。
 「思い出し笑いか?」
 梶に指摘されるまで、自分がうっすらと笑みを浮かべてるのさえ気付かなかった。
 笑みを消す。無表情を繕う。遅い。見抜かれた。猜疑心の強そうな目つきで梶が囁く。
 「今日はいいことあったのか」
 「別に」
 「あのくだらない部活……なんだっけ、子供だましの……ミステリ同好会だっけ?お前と同じクラスの秋山が部長やってる。寄ってきたんだろ?」
 あいつの名前をお前が口に出すな。
 「どうだっていいだろ。学校の話をするために呼んだのか?なら進路相談室でも使えよ」
 梶とは別に学校を出る。
 下校は秋山と一緒。一旦マンションにもどり私服に着替え、梶のマンションに行く。
 梶が車で迎えに来ることもある。呼び出されるのは大抵夜、梶の帰宅後。おかげで殆ど睡眠時間がとれない。
 秋山は妙に勘が鋭い。
 自分の事となると途端に鈍感になるくせに、人の不調や悩みは真剣に気遣う。
 憔悴が顔にでない体質ならよかった。ごまかすにも限度がある。
 最近、寝不足なのかと覗き込まれることがとみに多くなった。
 秋山の心配そうな顔が瞼の裏にちらつき、かぶりを振る。
 「言ったそばからほら、また違うこと考えてるだろう」
 梶が喉の奥で笑う。いつ聞いても不愉快な笑い声だ。
 首に腕が絡む。
 ソファーによりかかった梶が、麻生の胸の前で腕を交差させ、後ろから軽く抱きしめる。
 太い腕から体温が伝わる。
 肩にかかる手を邪魔っけに払うも、すぐまた戻ってくる。しつこい。
 払うのは諦め、腕に手を添えて仰向く。傍目には恋人同士のじゃれあいとも抱擁とも映るだろう。
 恋人同士か。笑える。
 口の端が皮肉に歪み、失笑とも自嘲ともつかぬ退廃した笑みが漂う。
 麻生の首に腕を絡めた梶が、さかさまにその顔を覗きこむ。
 「友達ができて楽しいか」
 「友達じゃない。ただのクラスメイトだ。同好会も義理で参加してる」
 「嘘吐け、秋山とつるみはじめてから変わったぞ、お前」
 「へえ、どんなふうに」
 「生き生きしてる。楽しそうだ、雰囲気が。表情はあんま変わんないけど」
 「抽象的だな」
 「あんなガキくさい部活興味なかったんじゃないのか?その割にはサボらずいそいそと通い詰めて、熱心だね」
 「サボると迎えにくるんだよ。犬みたいだ、あいつ」
 「犬か、そりゃあいい。クラスメイトの麻生くんが大好きで送り迎えを欠かさない可愛いわんこか」
 「柴犬だよ、きっと。そんなつらしてる」
 「番犬にしちゃ頼りねえ」
 梶がうける。秋山もまさかこの男に犬呼ばわりされてるとは思うまい。
 腕の締めつけが強まる。
 部活の話は打ち切りたい。秋山に話がおよぶのは避けたい。
 親しさを感じさせる動作で梶の腕に触れ、さりげなく話題を逸らす。
 「………脱がされるのと脱がすの、どっちがいい?」
 答えは行動。
 梶が無言で手を動かす。
 汗でひたつく手がシャツを巻き上げ素肌をすべる。
 性急な愛撫に追い上げられながら目を瞑る。
 おざなりにキスに応じ、舌を絡めあう。
 「………退屈か、俺の前戯。半分寝てるぞ」
 来る、と予期、とっさに目を瞑る。
 前髪に衝撃、鳩尾に食い込む蹴り。
 前髪を掴み引きずり倒し、その上に馬乗りになる。
 欲望と憤怒にぎらつく目を、少しも懲りないしたたかな笑みで麻生は見返す。
 「……ぬるいのじゃ足りないんだよ、俺は」
 緩慢に手をさしのべ、梶の頬に触れる。
 淫乱を演じると男は悦ぶ。
 予想通り、梶は野蛮な手つきでシャツを捲り上げ胸板に口をつける。
 床の冷たさと固さが背中に染みる。
 上下に動く梶の肩越しに、白い天井を虚ろに見上げる。
 床で行為に及ぶと関節を痛める。
 ベッドか、せめてソファーに移りたいが、要望を口にしたところで殴られるのがおちだろう。
 痛いくらいがちょうどいい。
 余計な事を考えずにすむ。

 たとえば、もういない人の顔とか。
 たとえば、無視できないくらい大事になり始めたやつの顔とか。

 「は…………、」
 淫蕩な熱に支配され始めた頭に雑念が入りこむ。瞼の裏に残像がちらつく。
 振り払う。
 浮かび上がる。
 散らしたそばからまた意識の表層に像を結ぶ。
 煩わしげに顔を背け、したいようにさせる麻生の首元に着目し、梶はさも面白い発見をしたように優越感に酔って呟く。
 「学校じゃ相変わらず一番上まできっちりとめてるのか。潔癖症」
 「……誰のせいだと思ってるんだ、目立つとこばっか吸いやがって」
 「秋山にばれるのはいやか?はは、お前にもあったんだ羞恥心」
 「面倒くさいからだよ、色々。詮索されて困るのはあんただって同じだろ?……共犯だからな、俺たち」
 「抜け駆けするなよ」
 「抜け駆けしないよう縛っとけば」
 「縛られるのが好きか?そうか、悪い悪い、お前は躾けがなってないからちゃんと縛っとかないと学校だろうが街なかだろうがところ構わず漏らしちまうんだっけか。じゃあ今度からちゃんと縛っとかねえとな、ここも」
 「!-痛ッ、」
 梶が下劣に笑い、組み敷いた少年の股間をぎゅっと握る。
 「どうした?感じちまったか?まさかイッちまったんじゃないよな、いくらマゾの淫乱犬だからってズボンの上からペニスいじくられたくらいでもらしゃしねえよな」
 シャツを毟り胸板を露出させ荒々しい口づけと愛撫を施す。
 鎖骨のくぼみをぬるつく舌が這う、首筋が唾液に濡れ光る、仰向けに寝転がった麻生が肩にしがみつき抗う。
 「………眼鏡、」
 「かけたままでいい」
 「壊れたらどうすんだよ」
 梶は笑って答えない。邪悪な企みを秘めた不気味な笑顔。
 火照った手がジーパンの内側へとすべりこみ下着ごとずりおろす。
 無意識に腰をひねり、呼吸を合わせ手伝う。
 「俺との約束と同好会の活動とどっちが大事なんだ?」
 「またそれか。いい加減しつこい」
 「とぼけるな。一年のときは帰宅部だったろ?部活なんて馬鹿にしてとりあわなかった。二年に上がって、突然……どういう心境の変化だ?秋山にほだされたのか。高校で初めてできたお友達の誘いを断れなかった?お前がそんなヤワで優しいやつだったとはな、初耳だ」
 「前に言ったし何度も説明した。同好会は秋山に引きずり込まれたんだ、そんなに熱心に参加してるわけじゃない」
 「夏休み、神保町に出かけたろう」
 「………なんで」
 「言ってないのに知ってるかって?秋山がこないだ話してたの偶然聞いたんだよ、後輩の一年と、廊下で。来年もまた行きてえなとか、例の馬鹿みたいに能天気な顔で笑ってたぜ。……可愛いな、あいつ。俺のタイプじゃねえけど、仕込めば高く売れそうだ。感度いいし」
 梶は生徒を被写体として見ている。あるいは商品。
 二年はじめのころ廊下で秋山に身体検査を実施したが、胸のあたりを重点的にまさぐる触り方は下心をはらんで粘着だった。
 鈍感な秋山は気付きもしなかったけど。
 あの馬鹿、隙だらけだ。
 「どうした、おっかない顔して。友達を悪く言われて怒ったのか?……秋山、秋山、秋山……最近ヘンだよお前、そんなにあいつがいいのか?まさか、あいつに惚れちまったか?好きだから、まんざらでもねえから、毎日毎日部活に寄って一緒に帰って、結果俺は後回しってか。マゾ犬の分際で何様だよ、自分の立場忘れたのか、お前は俺の奴隷だろうが」
 嫉妬と独占欲が綯い交ぜとなった醜悪な形相。
 梶は、麻生と秋山の交友を常々不満に思っている。
 秋山さえいなければ、麻生の身も心も独占できると信じている。
 秋山は邪魔だ。目障りだ。
 一年の頃と二年の頃とで麻生は変わった、同好会に所属して帰りが遅くなった、梶のメールを頻繁に無視するようになった。飼い主よりも友達を、秋山を優先し尊重するようになった。

 飼い犬の分際で、友達を作った。

 「思い上がりもほどほどにしとけよ。……しつけ、しなおさなきゃだめか?」
 一年のときからずっと飼ってやったのに、膨大な手間と時間を注いでここまで仕上げたのに、秋山がまるごと持ってこうとする。   
 梶の独占欲の強さは異常だ。偏執狂の域に達する。
 入学時から目をかけ倒錯したセックスを教え込んだ麻生に対する執着は病的なほどで、それはたびたび歪んだ暴力の形で表出する。
 嗜虐的な性向のある梶は、これまでも罰を口実に、麻生を自宅マンションやホテルに呼び出しては拘束具を噛ませたり薬を使ったり人を使って輪姦させたりと色々なプレイを試みた。
 あらゆる手段を駆使し責めて責めて責め抜いて、いつも無表情な麻生がとうとう理性ごと崩れ落ちる瞬間ほどエクスタシーを感じるものはない。
 満を持して放たれたしつけの単語にも麻生は動揺を見せず、とっつきにくい無表情を保つ。
 眼鏡の奥から覗く怜悧な切れ長の目は、恐怖とも怯えとも無縁に、こちらを観察するような色を湛えている。
 「勝手にしろよ。あんたの物だから、したいようにすればいい」
 感情と乖離した沈着な色。
 まるで、こちらが試されているような気にさせる。
 だからこそ、嬲り甲斐がある。
 すぐに精神崩壊を来たすようなヤワな犬は物足りない。
 「欲を言うなら、そうだな……服で見えねー場所ならいいけど、顔とか傷つけんのはやめてくれ」
 「お友達にどうしたのって聞かれるからか?優しいな、麻生。友達に心配かけちゃ心が痛むか?」
 「色々聞かれるのがうざいからだ。いちいち言い訳考えるこっちの身になれ。擦り傷ならともかく、みみず腫れとかごまかすの面倒」
 「全裸に剥かれて鞭でぶっ叩かれて、ケツふって悦ぶマゾ犬だからって白状すりゃあいい」
 「引くだろう。……あいつには刺激が強すぎる」
 「だよな、童貞だもんなあ。女も男も知らねえウブな顔してるもんな。けどな、ああいうのがびっくりするほど淫乱だったりするんだ。制服の上からまさぐられた時だってまんざらでもねえ顔してたしよ。わざと指で乳首掠めたんだけど、気付いたかな」
 秋山の顔を思い出し、梶が舌なめずり。
 乱暴な前戯やキス、罵り言葉にも反応を示さなかった麻生の目に、抑圧した激情が渦巻く。
 「お前は友達とか興味ないのかと思ってた。同級生馬鹿にしてたろう、程度が違う連中とは話が合わないって」
 「勝手に話作るな。……面倒くさいから、積極的に作らなかっただけだ」
 「秋山ならいいのか?」
 ねちねちと言葉でいたぶりつつ、ソファーの端においた袋から何かを取り出す。
 麻生の顔が強張る。
 紙袋から出てきたのは挿入部だけで十五センチはあろうかという巨大なバイブ。男根を模したその形は、先端のカリが誇張され、表面には粘膜を刺激する疣状の突起がついている。
 シリコン製のグロテスクなバイブレーターと一緒に取り出されたプラスチック容器には、とろりとした透明な液体が封入されてる。
 梶が見せつけるようにゆっくりとふたをとり、手のひらに粘液をたらし、それをねぶす。大量のローションを糸引くまで指に絡め、バイブレーターをとり、太く長い挿入部に塗り広げていく。
 「足を開け。ケツ穴を広げろ」
 「……………」
 「どうした?ちゃんとキレイにしてきたんだろ。俺が言ったとおり、来る前に自分で中洗ってきたんだろ。なら見せられるよな」
 生理的嫌悪と葛藤が綯い交ぜとなった苦渋の表情が一瞬浮かび、すぐに沈む。
 感情の働きを抑制した無表情を取り戻す。 
 梶は洗腸に手間をかけるのを好まない。プレイなら話は別だ。
 スカトロも好奇心と顧客の需要から何回か試してみたが、どちらかというと鞭や道具など他のプレイに比重を置いている。
 麻生が動く。
 結局こいつは俺の命令に従う。口では逆らっても、最後には折れる。
 飼い主に絶対服従の飼い犬。可愛いマゾ犬。
 梶は満足げにほくそ笑み、麻生に歩み寄り、その膝を押し開く。
 「キレイな形だな、あんま焼けてねえし。オナニーヤリすぎるとどす黒くなるんだぜ、ここ。自分でいじってないのか?俺にされるほうが気持ちいいか」
 ローションをたっぷり塗したバイブレーターの先端で、後ろの窄まりをつつき、肛門でゆるやかに円を描く。
 萎えたペニスを視姦される恥辱にも、麻生は凄まじい忍耐力で平静を保つ。
 「ケツを上げろ」
 交尾にのぞむ犬のように物欲しげで劣情を煽る姿態に、梶は生唾をのむ。
 後ろに回る。まずはローションをまぶした指を挿入する。
 「!っ………」
 「ゆるんでる。浣腸のせいか?ちょっと腫れてる」
 詳細に説明しつつ、腫れて赤く盛り上がった肛門のふちを指でなぞってやれば、四つんばいになった麻生が背をしならせ息を吸う。
 弓なりに反った背筋がきれいだ。
 しなやかに筋肉のついた骨格は均整とれて、脂肪と曲線で構成された女とはまた違うシャープな美しさがある。
 肩甲骨と背筋のバランスまでも完璧な裸の背を心ゆくまで眺めつつ、肛門に挿入した指をピストンさせれば、ローションがぐちゃぐちゃと卑猥な音をたてる。
 腫れた肛門が収縮し指の根元まで咥えこむ。
 「……ぅあ………」
 挿入が伴う痛みは殆どない。
 一年かけて慣らされた体は、ローションの潤沢なぬめりも手伝って、太い指をらくらく根元までくわえ込み締め付ける。
 裸の背がしなり、しっとりと汗ばむ。
 三本指で前立腺をピストンすれば、動きに合わせ誘うように腰が揺れる。
 麻生は声を殺す。
 しかし快感は殺せない、殺しきれない。
 顔を伏せて表情を隠しても、扇情的に上気した肌が、今感じている熱を物語る。
 「指だけで腰ふるのか?淫乱だな、お前は。もっと太くて固いのが欲しいのか?指三本でも物足りないって食いついてくる。今の姿、秋山が見たらどういうだろうな。同級生が四つんばいになって男に指突っ込まれて腰振ってんだ、ぎょっとするか、興奮するか……」
 「!!--っあぐ、」
 異物がめりこむ衝撃、圧迫感。
 バイブレーターが後ろの窄まりを犯す。
 目を瞑る、息を吸う、吐く、唇を噛む、苦痛な時間をやりすごす。
 いくら慣らされゆるんでいても固く太い異物が本来出す場所に入ってくる不快感は凄まじい、指やローターとは違う質量が直腸をぎっちり埋める。
 挿入部の突起が性感帯と化した直腸を擦るごと、戦慄に似た快感がぞくぞくと背筋を駆け抜けて、理性を手放してしまいそうになる。
 梶は麻生の背を押さえ、容赦なくバイブレーターを押し込む。内圧にさからって根元まで突っ込んでからようやく手を放す。
 「よし、いいぞ。ズボンをはけ」
 振り向き、麻生が困惑する。
 「ぐずぐずするな」
 鈍重に起き上がった麻生が、不自然に緩慢な動作で下着とズボンを身につける。
 息を上擦らせズボンを引き上げた際、下着の布地がバイブの根元を押し上げ食い込みが一層きつくなり、顔を顰める。
 これで簡単には落ちない。
 「……しないのか?」
 「今日は特別な趣向を用意してある。ついてこい」
 梶がそう言えば、どうせろくなもんじゃないだろうと麻生が鼻白む。
 スイッチは入れてないが、ただ歩くだけで尻に挟んだバイブが前立腺に刺激を伝え、壮絶な快感を生み出す。
 足をひきずるようにしてついてくる麻生を横目で振り返り、続き部屋のドアを開ける。
 ドア一枚隔てた続きの間は梶のプライベートシアターになっていた。
 フローリングの床はだだっ広く、正面にワイド画面のテレビが一台据えてある。
 テレビの前には椅子が一脚。
 「座れ」
 「……何するんだ?」
 「お楽しみだ」
 さすがに怪訝に思った麻生が聞くも、梶はとぼけて、顎をしゃくる。
 言われるがまま椅子に腰掛ける。
 座ったはずみにバイブが内部を深く