ロールシャッハテストB

まさみの18禁オリジナルBL小説ブログ。

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 革張りの椅子に身を沈め、まどろむように目を閉じているのは若い男。
 どう年配に見積もっても三十半ばといったところ。
 暗闇にほの白く浮かび上がる横顔は東欧の俳優の如く端正だが、固く引き結んだ唇と怜悧な切れ長の眦が、細身のナイフに通じる研ぎ澄まされた風情を漂わせる。
 一見暴力沙汰とは最も縁遠い場所にいるエリート風だが、勘のいい者が接見すれば、スーツの下の筋肉が筋金のように鍛えられている事実が見てとれる。隆起を誇示して自尊心を充たすでもなく、徹底して贅を削ぎ落としバネの撓りをよくした肉体は、もう一枚の毛皮として艶めく闇をまとう静かなる黒豹のそれ。
 執務室にノックが響く。
 耳朶を打った空気の振動に男の瞼がぴくりと反応する。
 ゆっくりと瞼を開き、薄目を開ける。
 瞼を持ち上げると形よく切れ上がった眦が現れる。
 双眸に鋭利な光が宿る。
 誰何の黒瞳を扉へ向ける。
 「失礼します」
 扉が開く。
 黒背広の男が慇懃に一礼する。
 主の機嫌を損ねることを何より恐れる黒背広は、音をたてぬよう静かに扉を閉じる。
 部屋の入り口に立ち、壁に沿って視線を一巡させる。
 何度訪ねても部屋の暗さに慣れることはない。
 そして、目の前の男にも。
 額に浮いた冷や汗を悟られぬよう、絨毯を踏みしめ執務机へと向かう。
 毛足の長い絨毯が足音を吸収してしまうため、衣擦れの音のほかに耳に届くのは自身の荒い吐息と動悸ばかり。
 歩幅を意識して前後に足を繰り出しつつ、生唾を嚥下する。
 執務机の前に立つ。
 踵を揃えて直立した配下を、男は無関心に一瞥する。
 背筋を伸ばし直立不動の姿勢をとった配下は、こわばった舌を叱咤して要件を告げる。
 「例のブツのありかがわかりました」
 わずかに顎を反らし、野太い声で報告する。
 その間も体の脇に垂らした掌はじっとり汗ばみ、腋の下には粘液質の汗が滲み出す。
 男の目が忙しく動く。
 男の目の奥を凝視すると、期せずして冥府を覗き込んだかのような戦慄が走る。
 「どこだ?」
 一声で女の背骨をとろかす美声に申し分ない容姿。
 目の前の男は、自分のような醜男とは別世界に住んでいる。
 莫大な富に明かせて世界中の美女を侍らすことすら不可能ではない、脳天から爪先まで札束で磨き上げられた完璧な男。
 内心ひと回りも下の男に顎で使われる現状に忸怩たるものがないではなかったが、それ以上に彼が抱いていたのは、目の前の男に対する底冷えする畏怖と恐怖心。

 得体の知れない男。
 危険極まりない男。

 野生の動物が匂いで外敵を嗅ぎ分けるように、人間にも外敵を嗅ぎ分ける能力が備わっている。
たとえ相手が自分に害意を持っていなくても、その人物が強大なー…あまりにも自分とかけ離れた存在であると本能が感知すれば、人は自然その人物と距離をおくようになる。

 住む世界がちがうと痛感させるとてつもなく不吉な何かが、この男からは強烈なまでに放たれている。
 人から忌避し畏怖されることによって強大な力を得る
 悪魔的な何か。
 デビリッシュ。

 「……この男です」
 背広の内ポケットから一葉の写真を抜き取り、デスクに滑らせる。
 スタンドに点灯し、掌中の写真へと目を注ぐ男。
 無言。
 沈黙。
 上目遣いに主人の顔色を見る。あるじをさしおいて口をきいてよいものか迷う。
 男はじっくりと写真を検分する。間接と長さのバランスが絶妙な指に見惚れる。
 口を開きかけたまま凍り付いた男の耳を単調なリズムが叩く。
 男の人さし指が机を叩き、拍子をとる。しばらくそうしてから、おもむろに口を開く。
 「愚鈍だな」
 「は?」
 刹那、指に挟んだ写真を投擲。
 風切り音が耳朶を掠め、頬に朱の斜線が走る。
 頬に浮き出た血の筋に一呼吸遅れ我に返った配下は、炯炯たる眼光に気圧され後退する。
 顔面蒼白の配下を見下し、男ははっきりと歎息した。
 「今この場で殺されないことを感謝しろ。俺は愚鈍な男が嫌いだ。もう一度だけチャンスをやるから、この男について説明しろ」
 男が投げた写真が空を切り、頬の薄皮を裂いたのだとようやく合点がいった配下は、膝から下の震えを止めることができなかった。
 まさか恐ろしさで口が利けなかったとは言えない。
 ましてや写真を滑る指の美しさに目を奪われていたなど。
 大きく深呼吸し、酸素で肺を満たす。
 うわべだけでも平静を取り繕い、事務的な口上を述べる。
 「……名前はダンカン・フォーマシィ、42歳。我が組織の末端構成員で麻薬の運び屋として働いていました。ケチな小悪党です。組織では全く重きを置いてません、いくらでも換えの利く使い走りです。二週間前は埠頭での荷下ろしに駆り出されたようですが、例の銃撃戦のどさくさに紛れてとんずらこいたってのが一緒に働いてた男の証言です。経歴を簡単にまとめますと窃盗の前科五十八犯、二十代の頃に二度ムショにぶち込まれてます。今回はそう、悪い手癖がぶりかえしたといったところでしょうか。フォーマシィには親しい友人や近い身寄りもなく、腐れ縁の情婦にも門前払いをくって行き場をなくしてる模様。421丁目のアパートには二週間前より帰宅した形跡なし、現在自宅と情婦宅、行きつけの酒場とカジノに見張りをあたらせてます。現在八十名余りを動員して鋭意追跡中ですが、どうも場末のモーテルやら倉庫やらを転々としてるそうですね。機を見るに敏というか……もとコソ泥だけあって、はしっこいヤツです。いたちごっこですよ。まあ時間の問題です。多勢に無勢の鬼ごっこが二週間も続いてやっこさんは疲れきってる、そろそろ音を上げる頃合だ。フォーマシィは西へ西へと移動してます。先日遂に境界線をこえて旧市街に入りましたが、土地勘のないフォーマシィが俺たちを巻いてうまうま逃げおおせるとは思えません」
 「旧市街はデミトリ家の縄張りだ。共同戦線を組むべきだな」
 男の発言に、部下は驚く。
 「デミトリ家と……ですか?しかしデミトリ家は、」
 「背に腹は変えられん」
 男の言葉は心胆寒からしめる征服力をもち、異を唱えかけた部下の無能を暗に責め、おおいに萎縮させる。
 机上で組んだ五指に尖った顎を乗せ、暗い天井に目を馳せる。
 天井に視線を放り、韜晦を含んだ口調でひとりごつ。
 「間違いがあってはならない。絶対に。お前達は奪われた物の価値を正しく理解してない。ダンカン・フォーマシィ捕獲作戦には万全の体勢をもって臨む。くだらん見栄は捨てろ。体面?馬鹿らしい。使えるものは友だろうが敵だろうが徹底的に利用する。幸いデミトリ家当主から停戦の話し合いが来てる。歓楽街の土地権を分割して協調路線を歩まないかと、あの血のデミトリ家当主がわざわざ打診してきたのだ。折角の好機を無駄にする手はない……」
 天井に向けられていた視線がゆるやかに下降してくる。
 部下の顔をきっかりと正視し、低い声で念を押す。
 「本当にこの男で間違いないんだろうな」
 「裏はとりました。付け加えるなら、フォーマシィーは麻薬中毒で喉から手が出るほど金を欲してます」
 固い声で部下が肯定する。
 再びの沈黙。
 長々と息を吐き、表情を消して宣告。
 「……この男を殺せ」
 闇に沈んだ居室に死刑執行の宣告が殷殷と響く。
 姿勢を正した部下にはそれきり関心を失ったように、椅子の背凭れに上体を沈める。
 天井を仰いで目を閉じる。
 「……この男が奪ったものを絶対に取り返してこい。無傷でだ。もしひとつでも傷をつけたなら……」
 瞼が開く。
 現れたのは切れ長の眦。
 鬼気迫る燐光を灯した黒曜の目が、なによりも雄弁に部下を脅迫する。
 「その罪、お前の血で贖ってもらおう」
 途方もない威圧感に腰が砕けそうになる。
 「イエス、ボス」
 深々と頭を垂れ、踵を返す。足音は無音に近い。
 ドアが閉じる。
 部下が礼をして退室したあとも、男は微動だにせず革張りの椅子に上体を沈めていた。
 椅子の背凭れに上体を預け、虚空に目を馳せる。
 静寂。
 椅子が軋む。席を立つ。
 ゆっくりと執務机を迂回し、悠揚とした足取りで左手の棚へと歩み寄る。
 棚の中段に鎮座する香炉へ手を伸ばす。
 掌に抱いた香炉へと目を落とす。
 上品な趣のある、美しい香炉だった。
 乱れ飛ぶ胡蝶と艶やかに咲き誇った牡丹の絵柄が異国情緒を漂わせる。
 男の唇が開き、小さく声を発する。
 『ユーシン、招来』
 異変は唐突だった。
 男の手の中の香炉から、たなびく絹糸のようにか細い煙が立ち昇る。
 えもいわれぬ芳香が鼻孔をくすぐり、飴が溶けるように空間が歪む。
 次元の裂け目から生み落とされた極彩色の陽炎はやがて人の形をとり、優雅な挙作で男の前に降臨する。
 女は鮮やかに染め抜いた絹を何枚も重ねた東洋の衣装を身に纏っていた。
 腰の高い位置で絞った真紅の帯が、生ある炎のようにあでやかに吹き流れる。
 「……どうだ?」
 聞いたのは男だ。
 香炉を机の角におき、片手をズボンのポケットにひっかける。
 男はリラックスしていた。
 配下と問答していた時の殺気は完全には失せていなかったが、その顔に浮かんでいる表情は凪のように穏やかだ。
 抜き身のナイフのように鋭利な切れ長の双眸も、女と相対した今は別人のように柔和な光を湛えている。
 女のおとがいが持ち上がる。漆黒の目がひたりと男を見据える。
 『あの方は死にます』
 「そうか」
 大した感慨もなく、言下に切り捨てた男を咎めるように女は眉をひそめる。
 「奴は無能だ。あれの奪還は不可能だと半ばわかっていた」
 『では何故、行かせたのですか』
 女の喉からかすれた声が迸る。
 まるで我がことのように哀れな配下の末路を嘆く女に一瞥くれ、男はため息を吐く。
 悲痛な訴えにも心動かされることなく、淡々と続ける。
 「なに、座興だ」
 男の唇が綻ぶ。闇に閃くのは剃刀のように鋭利な微笑、邪悪な弦月を象った禍々しい微笑だ。

 それなのに。
 そんな風に笑う男は、悪魔のように美しかった。

 歯痒げに下唇を噛む。
 悲哀に歪む女の顔を目の端でとらえ、男が薄く歎息する。
 脇にたらしていた手がゆっくりと弧を描き、女の右頬へとあてがわれる。
 「お前はやさしい女だ」
 やさしい声音だ。
 もしこの場に第三者がいれば、男がこんな声をだせることに驚吃しただろう。
 男はいとおしげに目を細め、苦笑をまじえて指摘する。
 「まるで母のようにやさしい女だな」
 『……あなたも本当はやさしい人です、ジズ・フィロソフィア』
 男の顔から表情が消えた。女はなにも言わず、ただただ哀しげに男を見つめていた。
 男は所在なげにその場に立ち尽くしていたが、ふいにその全身に装填された銃のような殺気が漲る。
 「ユーシン」
 『はい』
 鞭打つように名を呼ばれ、女は遅滞なく返事する。
 顔をあげた男からは最前までの気弱な表情は払拭され、黒社会の頂点を狙う若き簒奪者の威厳と覇気が満ちていた。
 「俺が呼ぶまで香炉で待機してろ」
 『御意』
 着物の袖を泳がせ虚空に没した女の残像には一瞥もくれず、男は顎を反らして天井を仰いだ。
 椅子に身を投げ出し、長い足を無造作に組んだ男の喉から歪な声が漏れる。
 笑い声は次第に大きくなり、しまいには大音量となり部屋中に響き渡る。
 気違いじみた哄笑が終息するのを待ち、洗いざらしの紙のように乾ききった笑みで吐き捨てる。
 「おれがやさしいだと?やさしいだと。まさか」
 机の端に乗った香炉を冷ややかに一瞥、自嘲的に唇を歪める。
 「やさしさと愚かさは同義だ」
 男の独白は苦渋の滲んだ余韻を残し、闇に呑まれて消滅した。



                     



 其の血、生粋の邪悪なり。

 其の目、生粋の暗黒なり。

 其の者地獄の最も深き渕から召喚されし奈落の王なり。

 地をあまねく災厄で覆い屍の山を築く者なり。

 乳飲み子の悲鳴に耳を傾け骸の頂で眠る者なり。

 処女の断末魔を肴に美酒を傾ける暴君なり。

 老若男女問わず屠り尽くすサタンなり。

 其の者、実に悪魔なり。


                +



 状況によって、神を冒涜する言葉は、祈りよりも安息をもたらす
 マーク・トウェイン(Mark Twain)

     
                +

 桁外れに巨大な空間だった。
 巨象を三頭放し飼いにできるスペースを有した地下空間は四方を分厚い壁に隔てられ、完璧に外界と隔絶されていた。
 防音処置を施した壁が四方に聳えているため、度を越した饗宴の騒音も外部に漏れることはない。

 コンクリート打ち放しの殺風景な空間は車両が一台も停まっていない駐車場をおもわせた。
 規則的に建ち並んだ鉄筋コンクリートの柱が高い天井を支える様は、幾何学美さえ醸し出す不思議な光景だった。
 整然と並んだ柱に区分されているのは、横幅5メートルのパーソナルスペース。
 
 立ち定位置を示す白線の内側に狙撃手が一人。

 コンクリートに引かれた線ぎりぎりに革靴をおき、重心を腰に移動させる。
 腰を安定させ、腕を床と平行にする。
 まっすぐ伸ばした腕の先には拳銃が握られている。
 掌中にしっくりと納まったスリムな銃身は剣呑に黒光りし、極限まで無駄を殺ぎ落とされたシャープなシルエットを際立たせていた。

 銃底を左手で固定し、右手で銃把を握る。
 洗練されたフォルムの拳銃を一瞥、殺傷に足る重みを確かめるように掌を開閉する。
 掌にずっしり食いこむ重量感のある手応え。
 掌に走った神経の軸索が銃の構造を透視する、あの感覚。
 弾丸が排出される溝も小指の爪の先より小さいネジも、掌を密着させた部位から銃の内部構造が詳細に伝わってくる。

 カウンターに臨み立つ人物は小柄な背格好をしていた。
 華奢な背中、できあがってない肩の線。
 四肢はすらりとしている。
 スリムな体躯に一分の隙なく黒いスーツを着込んでいる。上等なスーツ。贔屓にしているブランドに上客の特権を行使し特注したのもの。成長途上の体には大きすぎず小さすぎず、適度な余裕を残して寸法を測られている。靴もまた牛皮製の高級品。ワックスで丹念に磨いた、光沢ある黒い靴。
 半弧を描いて靴が滑る。
 足を開き、腰を引き、反動に耐えられるよう下半身を安定させる。
 耳をすっぽり覆っているのはマフ付きのヘッドホン。
 ヘッドホンから微かに漏れてくるノイズが蜂の羽音に似た重低音を伴い、三半規管に微電流を流し鼓膜を震撼させ、水を打ったように静まり返った空気を微弱に振動させる。

 少年は鼻歌を口ずさんでいた。
 聴覚で知覚できない程度の音量の、鼻歌。
 なにを言っているかは聞き取れない。ただわかるのは、少年がわくわくしているというひどく単純な事実だ。パチンコの銀玉で片端から空き缶を倒す遊戯に熱中している子供のように。
 少年はふんふん鼻歌を唄いながら軽く引き金に指をかける。
 引き金に指をあてがったまま、遥か前方へと視線を飛ばす。
 前方25メートルには人型の的が並んでいる。
 警察や軍隊の訓練所にあるような屋内射撃場を私設で備えている事自体、この空間の創造主の並外れた財力を窺わせる。
 等身大の人間を模した的には人体の急所を示す同心円が精密に描かれ、顔は黒く塗り潰されている。平均的成人男性とほぼ同じ身長の的が端から端へとずらり林立したさまは、なかなかどうして壮観だ。

 顔のない木偶人形。
 哀れな身元不明死体ジョン・ドゥ。
 ネームレス、フェイスレス、ハートレスのないない三拍子。

 「藁のハート」

 引き金にかけた指に圧力を加える。
 発砲。銃口から迸った火線が直線の軌道を描いて虚空を灼き、銃身が跳ね上がる。
 轟音。続けざまに引き金を引く。
 的の胸が木片を散らして炸裂する。

 「おがくずの詰まった頭」

 唇が音を発する。引き金を引く。
 耳を聾する銃声が轟き、きな臭い硝煙が鼻孔を突く。
 銃口から迸った火線が電撃の鞭のように虚空で撓り、的の頭部を木っ端微塵に破砕する。

 「ブリキの右腕」

 予告どおり右腕を撃ち抜く。木片が飛散する。着弾の衝撃に不安定に傾ぐ的。

 「ブリキの左腕」

 それは予告ではなく、数瞬後に予定された現実を述べているにすぎなかった。
 銃口から発射された弾丸が左腕を撃ち抜く。的の左上腕部に穴が穿たれる。

 「メッキの左足」

 銃声。的の左足を銃弾が貫通する。

 「メッキの右足」

 銃声。的の右足を銃弾が貫通する。

 「そしてー……使いものにならねえディック!!」

 一際甲高い銃声が轟いた。
 全弾撃ち終わった後、私設射撃場には濛々と硝煙がたちこめる。
 コンクリートを敷いた床の一面には累々と空の薬莢が散らばっている。足元に散らばった薬莢を靴の 先端で蹴り、その行く先を視線で辿る。
 気まぐれに蹴飛ばした薬莢はカン、カンと澄んだ音を奏でて 床で跳ね、蜂の巣となった的の方へと転がっていった。
 無数の穴を穿たれた的を一瞥、ゆっくりと腕をおろす。
 下を向いた銃口からは今だ牙のような硝煙がたちのぼっている。
 手前のカウンターに拳銃を滑らし、ヘッドホンを毟り取る。
 途端に流れ出したのは大音量のへビィ・メタル。鼓膜が割れんばかりの騒音を発音の不明瞭な巻き舌出がなりたてるヘッドホンをカウンターに投げ出し、少年はすかっとした笑顔を浮かべる。

 「歯応えねえなあ木偶人形は。猫でも撃ってたほうがまだマシだ」

 白い歯を零して笑った少年の顔は驚くほど幼かった。あどけないと評していいだろう子供っぽい笑顔。
 年齢は十代半ばに届くか否かという微妙なところ。
 艶のある黒髪に映える白い肌は、人種の坩堝と称されるこの街でも特別目立つエキゾチックな配色。
 肉の薄い鼻梁と皮肉げに捲れ上がった唇が酷薄そうな印象を抱かせるが、銀縁眼鏡がよく似合う 涼しげな容姿は端正な部類に入る。
 コキコキと肩を鳴らす。
 肩鳴らしは済んだと言わんばかりのこまっしゃくれた動作だった。
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、前方の的を凝視する。

 的の股間に穴が開いていた。
 少年が狙い撃ちした穴。

 「性転換完了っと。チンポコなくしたオカマちゃんが黒塗りの仮面の下でひいひい泣いてるぜ」
 野卑な薄笑いを浮かべ、去勢された的を嘲弄する。
 少年がいるのは等間隔に区分された射撃訓練用スペースの一角。
 前方に並ぶのは等身大の人間を模した黒塗りの的。
 少年が破壊した的を除いてもまだ五十体はあるだろう。
 軍隊の点呼の如き規律正しさで人間大の的が整列したさまはなかなかどうしてシュールだ。
 カウンターに放置したヘッドホンからは大音量のへビィ・メタルが流れ続けている。
 興味のない者にとっては耳障りな雑音に他ならないが、すごぶるご機嫌な少年は最前から靴で拍子をとっている。ふんふんでたらめな鼻歌をなぞりつつ、律動的にコンクリ床を叩いていた少年の背後にぬっと気配が忍び寄る。
 カツンカツンカツン。
 靴音。振り向く。
 背後にはスキンヘッドの若い男。
 没個性な黒いスーツを着こんではいるが、鉄板でも入れたみたいに固い肩の線と厚い胸板は隠すことができない。がっしりと頑丈な体格。自然と発散される凄みと威圧。えらの張った武骨な顔にサングラスをかけ表情を隠しているが、眉の上を斜めに走った傷から剣呑な雰囲気が漂っている。
 「おい、みろよ」
 無造作に顎をしゃくる少年。
 股間が破裂した的を一瞥、黒服の眉間に皺が寄る。
 前方の的を顎で促した少年は、けたけたと下品な声で笑う。
 「やっこさんのオカマ掘ってやったぜ。トンネル開通してるだろ?」
 スリムな拳銃を掌中で弄びながら、けたたましく笑う。
 しまりのない笑みを満面に広げた少年に何を思ったか、黒服の顔をあきれたような、小馬鹿にしたような表情が掠める。が、それは一瞬のこと。再び表情を引き締めた黒服は分をわきまえた猟犬さながら素早く脇にどくと、哄笑する少年のために道を開ける。
 「坊ちゃん、ボスがお呼びです」
 慇懃無礼とでも呼びたくなる取り澄ました声とツラ。
 敬語を使ってやってるだけで有り難く思えという恩着せがましさが、伏せた目にちらつく軽侮を孕んだ不満の色から見てとれる。
 本音を言えばこの愚劣な少年に頭を下げる価値などこれっぽっちもないとばかり、分不相応な主人に対する猛烈な反発と反感が鉄面皮の下で燻っているのは明らかで、その全身からプライドの焦げ付きの匂いが漂っている。
 きな臭い殺意の匂い。
 ツンと鼻を刺す独特の。
 おが屑から立ち上る一筋の煙のような、甘苦く危険な味。
 笑い声が止み、不吉な静寂が落ちる。
 拳銃を手玉に取りつつ、少年は何事か言いたげに脇に控えた黒服を見る。
 無表情に徹する黒服。
 静寂を破ったのは少年の靴音。
 少年は片手に拳銃をさげたまま靴音高く射撃場を横切り、そして……

 乾いた銃声が響いた。

 「………!」
 膝を抱え悶絶する男。
 銃口から一筋硝煙がたちのぼる。
 すれ違いざま男の方を見もせずに革靴を撃ち抜いた少年は、苦虫を噛み潰したような顔をする。
 「犯されたいのかテメエ。二度と俺をその名で呼ぶな」
 手首を一閃し、火を噴いたばかりの拳銃を顔の前へと持ってくる。
 右足の甲を撃ち抜かれ、弛緩した口の端から白く濁った泡を噴いた男を見下ろし、少年は薄く笑う。
 悪意に満ち満ちた蔑笑。
 憎しみと憤りと一匙の嘲りをミキサーにかけらたらこんな顔ができあがるかもしれない。
 なぶるように下唇を舐め、拳銃をくるくる回す。
 円弧を描いて旋回する拳銃が黒い旋風となり、地に伏せた男の視界に暗い影を落とす。
 「俺の名はディアボロ」
 右手の拳銃を旋回させながら、少年が言う。
 底光りする黒瞳が嗜虐の笑みに細まり、細身のズボンを穿いた足が虚空に浮かぶ。
 耳を覆いたくなるような絶叫が射撃場に響く。
 コンクリ床に仰臥した男の右足を踏んづけ、少年はさも愉快げに喉を鳴らす。
 踏みにじった右足からじくじくと赤い血が滲み出す。
 絶叫、悲鳴。
 さかんに身を捩る男。コンクリ床に落ちたサングラスが砕け散り、脂汗に塗れた顔が醜悪に歪む。
 激痛に失禁、えびぞりになる。背骨がへし折れそうに撓る。ズボンの股間に恥辱の染みが広がる。憤死寸前の形相を滂沱とぬらすさまざまな体液、鼻水と涙と血のミックスジュース。四肢で床を掻き毟って極限の苦痛を訴える男の姿は、羽をもがれた蝉が地面でのたうち回る姿を連想させる。
 靴底に体重をかける。
 下に敷いた足首の骨が軋む。
 男が白目を剥く。失神した男の顔を直上から覗きこみ、少年ーディアボロは言った。
 「悪魔の名を持つ、血のデミトリ家四代目だ」
 最後に足首を蹴り、男の上から体をどかす。コンクリ床に散った血痕を見下ろす。
 男が履いた革靴には焦げ穴が開き、か細い硝煙がたなびいていた。
 失神した男には一片の関心も払うことなく、凱旋の靴音高く射撃場を横切る。
 奥の壁に設置されたエレベーターに乗りこむ。

 がしゃん。

 格子戸が閉まる。
 鳥篭がすべるように上昇を開始する。
 鉄の処女の名で畏怖される拷問具に似た可動式の棺は、なるほど人殺しを運ぶのにふさわしい。
 機械の唸りを伴い高度を上昇させる矩形の棺の中、壁に凭れたディアボロは、手にした拳銃をしげしげと眺める。
 固形化したコールタールのように黒光りする銃身。
 シャープなフォルムが美しい、デザイン的にも洗練された拳銃。
 殺傷力も申し分ない。
 「坊ちゃまだとよ。けっ」
 密室の中でディアボロは吐き捨てる。
 その顔に滲むのは紛れもない嫌悪感。
 「だれがあんな日干しの種もらって産まれてきたっつんだよ?気色わりい呼び方しやがって、どいつもこいつも気にくわねえ。顔を合わせば坊っちゃん・坊っちゃん・坊っちゃん……ボチャンと硫酸の池に突き落としてやろうか、全員」
 実際、この少年なら口にしたことを実行しかねないという危惧もあった。
 瞳の温度が氷点下まで下がる。
 目を過ぎった殺意を隠すかのようにブリッジを押し上げる。
 なにもかも気に食わない。そう、なにもかもだ。
 エレベーターの壁に凭れ、箱の天井を見上げる。
 無防備に腕を垂らす。
 緩慢に瞼を下ろす。
 まどろむように瞑想。
 瞼を閉ざしたディアボロは心もち顎を傾げ、鼓膜に被さる静寂に身を委ねているかにみえた。

 唐突に口を開く。

 「腐れインポのザーメン豚ども。ケツの穴に銃つっこんではらわた引きずり出してやろうか。鼻の穴に銃つっこんで頭蓋骨吹っ飛ばしてやろうか。目ん玉くりぬいた空洞に俺のモンを突っ込んでやろうか」
唄うような節回しで呪詛を連ねる。頭の中で妄想を膨らませる。

 真っ赤に灼けた銃身を肛門に突っ込み、ずるずると腸を引きずり出してやる。
 暴いたはらわたを千匹の蛆に食わせてやる。
 くりぬいた眼球を砂糖漬けにして美味しくしゃぶってやる。

 加速する暴力に比例する欲望。
 心臓がどくんと脈打つ。
 銃をにぎるじっとり汗ばむ。
 下半身でどろりとした熱塊がうねり、スーツの股間が勃起しはじめたのがわかる。
 ディアボロは息をつく。
 頭蓋骨の中にある骸と屍を積んだ楽園。そこだけが安息を与えてくれる。楽園は妄想の中にしかない。
 乱れた呼吸を整えるのに集中する。
 これから祖父のもとに出向くというのに、股間を膨らませたままではなんともばつが悪い。

 ガシャン。

 棺が停止、ガラガラと格子戸が開く。
 拳銃を背広の懐にしまい、気負いなく足を踏み出す。
 エレベーターから一歩出た刹那、周りの風景が豹変する。
 鏡のように磨きぬかれた花崗岩の床が最果てまで続き、左右の壁には先代・先々代の当主が暇に 明かせて収集した絵画や壺が飾られている。
 右手の壁にかかっている絵は半世紀も前に急逝した天才画家の遺作であり、オークションに出展すれば破格の値がつくだろうことは想像にかたくない。

 いつかかっぱらってやる。

 そう心に決めて額縁の前を通過する。
 廊下は長い。
 途中、何人かの黒服とすれ違った。
 ディアボロの姿を目にした途端、鞭打たれたように飛びのき頭を下げる。
 決して目を合わせぬ念の入れようは病原菌に対する待遇に似ている。
 まるで彼が一歩ごとに災厄を振りまいて地上を汚染してると言わんばかりの避けっぷり。
 あながち穿った見方ではなし、山ほどの前科があればこそだが。
 実際ディアボロへの部下の接し方は、その徹底した慇懃さを抜きにすれば、病原菌よりちょっとマシで疫病神に劣るといった微妙な線。
 少なくとも俺の通り道に雁首ならべて突っ立ってるコイツらは、マスク付き防護服を着てねーからな。
 礼儀正しく道を譲った男たちにも別段感謝を表すことなく、かえって軽蔑しきったようにディアボロは鼻を鳴らす。
 ポケットに指をひっかけ、大股に廊下を歩いていると目的のドアが現れた。

 樫材の重厚な扉。

 飴色に艶光りする重厚な見た目と同様、幅は分厚い。合板で補強せずともこれだけで十分防弾の盾となる。
 ノックもせず、金色に輝くノブを捻る。
かかさず油をさしているため殆ど音をたてず開いた扉の向こうには豪奢な内装が広がっている。
 床一面に敷き詰められた毛足の長い高価な絨毯。
 臙脂の絨毯の上に浮かんでいるのは、座り心地のよさそうな革張りのソファーが四脚。

 招待主は一目でわかる。
 
 一人掛けのソファーに端然と腰掛けたその人物は、ロマンスグレーの頭髪を丁寧に分けた老紳士。
 頬に刻まれた年輪の彫り深さはかなりの高齢を告げていたが、背筋はバイオリンの弦をおもわせてピンと伸び、おそろしく姿勢がよい。
 華奢なティーカップを捧げ持ち、紅茶の芳香を上品にたのしんでいるのどかな横顔からは老人が心ゆくまでリラックスしていることが窺える。
 右目に嵌めた単眼鏡は熟成された知性と深い教養を感じさせ、レンズの奥のアイスブルーの目は柔和な光をため、カップの面を見つめていた。
 「テメエの血尿飲んでんのかよ、ジジィ。ずいぶん斬新な健康法じゃねえか」
 老人が顔を上げる。
 片手に受け皿を、片手にカップを持ったまま、おっとりと振り向く。
 扉に凭れて腕を組んでいたのは、スーツ姿の少年ーディアボロだ。
 少年の姿を認めた老人は、目尻に皺を寄せて砕顔する。
 「重畳なり、我が孫よ。一緒に紅茶でもどうかね?」
 優雅なティータイムに土足で踏みこんできたディアボロを、老人はいやな顔ひとつせず歓迎する。
 ディアボロは足音荒く部屋を横切ると、向かいのソファーへどさっと腰を投げ出し、あろうことか卓上に足を乗せる。
 不作法を通り越し侮辱に値するこの傲慢な振る舞いにも、老人は眉をひそめることなくカップに口をつける。
 「わざわざ呼び出しやがってどういう算段だ、ジジィ。ついに代を譲る気になったか?」
 挨拶代わりの挑発をさらりと受け流し、音をたてずに紅茶を啜る。
 受け皿片手に品よく紅茶を啜り続ける老人にしびれを切らし、ディアボロが円卓を蹴る。
 がん!
 円卓が揺れ、手つかずのまま放置されていたディアボロの紅茶が零れる。
 透き通った紅色の液体がテーブルをひたして絨毯に滴る。
 ひっくり返った白磁のティーカップを一瞥、老人はやれやれと嘆息する。
 「まったく、お前には人の心がないの。ただ一人の孫と親交を暖めるため、多忙なスケジュールを割いてティータイムをもうけたワシの心がわからぬのか?」
 「俺のためを思うなら即刻死んでくれよジジィ。死因は問わねえからさ」
 なげかわしげにかぶりを振った老人にもほだされることなく、ディアボロはあっけらかんと言い放つ。
 背後に控えていた護衛が気色ばむのも無理はない。
 いきり立った護衛を「まあまあ」と宥め、老人は正面に向き直る。
 卓上に足を投げ出したディアボロは、据わった目で老人を睨む。
 「腹上死でも心臓発作でもこの際かまわねえからさ。なんならこの場で首括ってくれてもいいぜ?シャンデリアに吊られたジジィのミイラ見ながら優雅にティータイムきめこむのも一興だ。あんたがこの世を去ってくれれば、俺は自動的に血のデミトリ家の当主に昇格。デミトリ家が三代かけて築いてきた旧市街のマーケットとその莫大な利益が、丸ごと懐に転がりこむわけ。老後の心配せずに遊んで暮らせるなんて結構なご身分じゃねえか、なあ?」
 人さし指をまっすぐ老人の胸に向け、続ける。
 「首括る勇気ねえんならひと思いに俺が殺してやろうか。なに、ラクに殺してやるよ。今すぐにでもあんたの心臓を素敵なミンチにしてやる。掃除は後ろに突っ立ってる役立たずの木偶の坊どもにやらせりゃいい」
 「ばあん」と口で銃声を真似、炯炯と目を輝かせるディアボロ。有言実行の脅迫。
 緊迫した空気を破ったのは、老人の間延びした笑い声。
 緊張感のかけらもない顔で紅茶を啜りながら、老人が言う。
 「……ミンチにしてもらいたい相手は、別におる」
 「?」
 ディアボロの顔に疑問符が浮かぶ。
 きょとんとした孫を愉快そうに眺め、空のカップを卓上におく。
 足を組み、膝に掌を被せる。背凭れに上体を沈め一拍おいて本題を切り出す。
 「ディアボロ、お前の初仕事じゃよ」

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 『初仕事』。
 その一言がディアボロに与えた衝撃は相当だ。

 テーブルから足が滑り落ちる。
 毒気をぬかれたディアボロをかっきりと正視、背後へと顎をしゃくる。
 促されるがまま、スーツの内ポケットから一葉の写真をとりだす護衛。
 手元に滑ってきた写真を一瞥、ディアボロが眉をひそめる。
 「名前はダンカン・フォーマシィ。お前の標的じゃ」

 標的。
 背筋に電流が走る。
 
 写真に目を落とす。
 風采の上がらない醜男というのが第一印象。生まれてから不遇一筋、貧乏くじを引きっぱなしといった世を拗ねる風情が卑屈な目つきに滲み出る。
 みずからの不幸の最大の原因が怠慢と無能にあると自覚してもなお一切改善の努力をせず踏ん張って抗いもせず、ひとの親切をつっぱね意固地に我を通し、楽な方へ楽な方へとただひたすら流されてきたくせに文句だけは一人前といったクズの性根が顎のあたりの弛みに表れている。
 人さし指で写真を弾き、ディアボロが訊く。
 「結論、頭に脂肪しか詰まってねえ。こいつなにやったんだ?」
 「正確には、フォーマシィはデミトリ家の人間ではない」
 「?」
 まわりくどい言い回しにディアボロは怪訝な顔をする。
 優雅に足を組んだ老人は好々爺然とした笑みを浮かべ、続ける。
 「フォーマシィは新市街を支配下におくジズ・フィロソフィア……暗黒街の帝王の異名をとる、あの若造の部下じゃよ」
 ディアボロがかん高い口笛を吹く。
 俄然興味が沸いてきたといわんばかりに食いついたディアボロに、老人は苦笑して続ける。
 「部下といっても側近ではない。その下のさらに下の下……麻薬の売買を生業とする末端構成員じゃ。街のチンピラ相手に粗悪品の麻薬を卸しておった」
 「雑魚だな」
 「雑魚じゃな。だがこの雑魚は、網の目をすり抜けられるのが己の卑小さ故とも知らずに大それた過ちを犯した」
 「どんな?」
 「ジズ・フィロソフィアの大事にしている本を盗んだのじゃ」
 ディアボロはあっけにとられ、食い入るように写真を凝視する。
 写真の中で恨み骨髄の仏頂面をしてるのは、すれ違ったそばから忘れてしまいそうな存在感のなさが唯一の特徴である平凡な男。
 ディアボロは口角を釣り上げる。
 「判決。思い上がった豚はローストビーフの刑」
 とりつくしまもない判決を下したディアボロに、老人ーデミトリは小気味よさげに含み笑う。
 手にした写真を厭わしげに振りながら、ディアボロはうろんな目でデミトリを睨む。
 はやく本題に入れといわんばかりに。
 「で。フィロソフィアの飼ってる豚が本パクッてトンズラこいた。だからなんだ?ペットの躾がなってねえのは飼い主の責任だろ。フィロソフィアのインポ野郎が街に犬放って裏切り者の豚を八つ裂きにしようが、網の上でこんがり焼き目をつけて切り売りしようがデミトリ家には関係ねえ。高見の見物きめこんで万々歳。ちがうか?」
 ディアボロはソファーの背凭れに腕をかけ、高飛車に顎を反らす。
 「……つーか、本?本だと?フィロソフィアの奴もなに考えてんだか。これが麻薬1トンや拳銃五千挺なら話はわかる。だが、この豚がパクったのはたかだか本一冊。そうだよなジジィ」
 「ワシはそう聞いておる」
 「いくら下っ端の雑魚に後ろ足で泥かけられたからって、持ち逃げされたのはたかだか本一冊。大の男が目くじらたてるほどのもんか?フィロソフィアもキンタマちっちぇえ男だな」
 釈然としない面持ちのディアボロをちらりと流し見、デミトリは表情を変えずに補足する。
 「そう不思議がるほどのことでもない。熱烈な愛書狂(ビブリオマニア)の中には、欲しい本を手に入れるためなら手段を選ばぬ輩がいる。金に糸目をつけず、非合法な手段を講じても、目的の本を手中におさめたい。一人の人間の命より一冊の本の価値を重んじる連中がこの世界にはいるんじゃよ。フィロソフィアは社交界で有名な古書蒐集家じゃ。古今東西の稀講本を手広く蒐集しているジズ・フィロソフィアのもとから、彼のコレクションに加えられる予定だった本が忽然と消えた。しかも犯人はきゃつと面どおりしたこともない末端構成員。顔も名も知らぬ部下に大事なコレクションを持ち逃げされたフィロソフィアの心中、察するにあまりあるぞい」
 革張りのソファーに深く腰掛けたデミトリは好々爺然とした微笑の下に本心を隠したまま、澄んだアイスブルーの目を孫に向ける。

 デミトリとディアボロに外見上の共通点はない。
 同じ血を分けた孫だというのに、ディアボロの目と髪は生粋の暗黒。
 祖父のデミトリは癖のない銀髪と冬の湖水を映したアイスブルーの目の持ち主である。
 外見も対照的なら第一印象も対照的。
 革張りの椅子に腰掛けたデミトリは紳士然として、ティーカップの扱いから足の組み方に至るまで一挙手一投足に本物の気品が漂う。
 美しい年輪を刻んだ横顔には、豊富な人生経験と深い教養を裏付ける知的な微笑が終始浮かんでいる。
 決して結論を急くことなく、相手の表情を計りながらゆったりしたペースで会話を運ぶ。
 相手に警戒心を抱かせることなく、耳に心地よいトーンで、噛み含めるように滋味に富んだ口調で、ゆっくりと確実に相手を篭絡する。
 そうして相手の心を掌握し外堀を埋め話を自分の有利な方向へと導く手法を、彼は自身の経験則から学んでいた。

 この老人、マルコ・デミトリこそ、旧市街の裏社会を取り仕切る血のデミトリ家の現当主である。

 対するディアボロを語るとすればこの一語に集約される―『野蛮』。
 俗悪一歩手前の高級スーツとワックスでぴかぴかに磨き上げた牛皮製の革靴。
 シャツの胸元を飾るのは葬儀用と見まがう黒いネクタイ。
 スーツの肩から垂らした白い襟巻が靴の上で微かに揺れている。
 格好こそ一人前だが、顔だちはまだあどけない。年は先月ようやく十代半ばに届いたばかり。
 光沢のある黒髪の下にはかっきりと弧を描く凛々しい眉、さらにその下には怜悧な切れ長の目。
 色白の肌に冴え冴えと映える漆黒の髪と目は、この街では稀少な部類に属するエキゾチックな配色。
 細い鼻梁に乗ったカール・ツァイス社製の眼鏡が切れ味鋭い知性を加味しているが、整った顔は品性の卑しさを代弁するが如く下劣に歪められていることが多く、口を開けば辞書には載ってないスラングがマシンガンの勢いで飛び出す。
 皮肉げな角度に捲れた唇は常に人の神経を逆なでし、なまじ顔だちが整っているだけに最悪の第一印象を抱かせる。
 実際、それは偏見ではなく動かしがたい事実である。
 ディアボロ・デミトリにとって、他者は一人の例外なく自分より劣る存在である。
 人の愚劣さを嘲笑うことがディアボロの数ある娯楽の一つであり、人の無能を口汚く罵ることが趣味の一つである。

 ディアボロは剣呑な目で円卓を隔てた祖父をねめつける。
 返答次第で修羅場に発展しそうな殺気を満腔に充満させた孫をデミトリは宥める。
 「関係なくはない。……否、これから関係を作るのじゃ」
 「?」
 断固たる口調に困惑が深まる。
 眉間に縦皺を寄せ、尖った顎先を写真で仰ぐ孫に物問いたげな目で促され、デミトリはしゃんと背筋を伸ばす。  
 「ワシはジズ・フィロソフィアに恩を売りたい」
 デミトリの視線がまっすぐに孫へと向けられる。
 ディアボロの語彙はスラングに限って豊富、品性下劣な言動からは教育水準の低さが窺えるが頭の回転は舌を巻くほど速い。
 今も祖父が言わんとしていることを悟り、すべてを合点した笑みを広げる。
 「つーまーり。フィロソフィアの短小の本を取り返して、利子つけて恩を売る腹か。ジジィは奴の弱味をゲットしてえわけだな」
 「さすがワシの孫じゃ。飲み込みが早い」
 皆まで言わず意を汲んだ孫の利発さを褒めるようにデミトリは微笑する。
 一を聞いて十を知る洞察力は神童とうたわれたデミトリの少年時代を思い起こさせる。
 容姿こそ共通点はないが、二人は確かに濃い血縁関係で結ばれている。
 ディアボロは不作法に足を組むと、右手に掲げた写真を顔の前にもってきてダンカン・フォーマシィとまともに向き合う。
 口を尖らせ、値踏みするようにダンカン・フォーマシィを凝視。
 数呼吸の沈黙の後、孫の顔色を上目遣いに探りながらデミトリが口を開く。
 「フィロソフィアは新市街を勢力下におさめた新興マフィアのドン……暗黒街の帝王と異名をとる侮れぬ男じゃ。お前も知っていると思うが、フィロソフィアカンパニーとデミトリ家はここ数年来抗争を続けている。だが、銃弾のやりとりを言葉のやりとりに変えてこそ得られる収穫もあると考えを改めての」
 「ジジィの説教はいけねえ。ケツに火がついちまうよ」
 ディアボロが低く笑う。暗い愉悦に酔った笑顔。
 青白い殺気を帯びた双眸で正面のデミトリを一瞥、脅迫に近い口調で急かす。
 「言てえことはなんだ?残り少ない寿命が尽きる前に簡潔に話せ」
 威圧的な口調で脅されてもデミトリは動じない。
 組んだ足の上に掌を重ね、物思いに沈むように視線を遠方に馳せる。
 薄氷の目は底知れず深く澄み、笑顔の奥の本心は窺い知れない。
 「……仮にデミトリ家が無傷で本を奪還できたら、フィロソフィアは歓楽街の覇権を譲ってもいい、と申し入れてきた」
 ディアボロはひゅうと口笛を吹く。
 その顔に浮かぶのは変化球の行方を見極めようと手すりから身を乗り出した子供のような好奇心。
 ファイブリィの中心に位置する歓楽街は新市街と旧市街に跨っており、新興の企業マフィア・フロソフィアカンパニーとデミトリ家はどちらが歓楽街の覇権を握るかでここ数年激しく争ってきた。
 歓楽街を手中にすれば莫大な利益がもたらされる。
 カジノや酒場、淫売宿などさまざまな施設の収益を根こそぎ搾り取ることができればおおいに懐が潤うが、それ以外にも重大な意味をもつ。
 現在歓楽街はデミトリ家とフィロソフィアカンパニーが牽制しあってる状態だ。
 旧市街側はデミトリ家の縄張り、新市街側はフィロソフィアカンパニーの縄張りとして両組織が半分ずつを統治しているのだが、もしどちらかが歓楽街全域を支配下におけば、それ即ちファイブリィ全市を支配下におく布石となる。
 市の中央に位置する歓楽街を戦略上の拠点にすれば片方を追い落とすのはわけなく、自分たちの組織の方が実力が上だと広く世間に証明することにもなる。

 ことは組織の面子に関わる一大事なのだ。

 デミトリがなによりマフィアの沽券を重んじることを知っているディアボロは、背凭れに腕をかけてふんぞり返るや、好奇心もあらわに疑問を呈する。
 「おっでれーた。そりゃまたずいぶん気前がよくないか?歓楽街の実入りは莫大な額にのぼる。たった一冊の本と秤にかけるにしちゃまた、分の悪い取引じゃねえか。たとえるなら閉経直前の娼婦と股に毛も生えてねえ処女を交換するようなもんだぜ」
 ざっくばらんにまぜっかえすも、突き出した顔にふと疑念が過ぎる。
 対面の祖父は本心を露呈することなく優雅に微笑している。
 山羊のように柔和な風貌をした祖父に、ディアボロは不信と不審が等量に入り混じった視線を向ける。
 「……裏になにがある?」
 指の又に挟んだ写真を振りながら声のトーンを落として核心をつく。
 デミトリは答えない。
 沈黙を守ったまま、革張りのソファーに腰掛けている。
 眼鏡越しの黒瞳が剃刀の鋭さを帯びる。
 膨張する殺気。
 卓上で衝突する視線が不可視の火花を散らし、背後の護衛は固唾を呑んで祖父と孫とのやりとりを見守る。
 「さあな」
 答えは簡潔だった。
 ディアボロは拍子抜けした。
 脱力した体を背凭れに委ねると、あきれ返った声で反駁する。
 「痴呆症が進んだのか、ジジィ?それともフィロソフィアの野郎に諮られてるのかよ」
 「フィロソフィアの考えていることになど興味がない。ワシが興味あるのはただ一つ」
 デミトリが思わせぶりに言葉を切り、効果的な間をおく。これもまた計算し尽くされた演出の一つだろう。睫毛を伏せる角度、顎の傾げ方一つとってもデミトリは無駄なことをしない。自分の一挙一動が相手にどんな心証をもたらすか、十分に心得て行動に移しているのだ。
 一拍おいて、デミトリは言った。
 聴衆の心を掴むことに成功したカリスマ政治家のように矜持に胸を張り、張りのある声で。
 「我がデミトリ家の発展と、繁栄じゃよ」
 マルコ・デミトリはベテランの役者だ。
 単身舞台に立ち、脚光を浴びることに慣れている。デミトリがそこにいるだけでいかなる場所も劇場になってしまう。観衆の目をひきつけてやまぬ凄まじい吸引力。毅然たる態度で宿願を述べたデミトリの背後では、感銘を受けた護衛たちが頬を震わせている。
 とんだ茶番だ。
 ディアボロははっきりそれとわかるように嘆息する。
 「はいはい、栄えるといーね。で、俺はなにすりゃいいわけ?コイツ殺せばいーの?」
 伝法に言い放ち、行儀悪く足を組替える。
 護衛がいやな顔をする。
 同じ血を分けた孫なのに何故こうも違うのか、と嘆いているようにも見えた。
 デミトリはにっこり微笑んだ。
 「お前に頼みたいのは本の奪還じゃ。手段は問わん、無傷で本を取り返してこい」
 『本の奪還』
 デミトリ家次期当主の初仕事とは思えない内容に肩透かしを食らったディアボロだが、そんな内心はおくびにも出さず、表面上は平静を保って続ける。
 「手段は問わないー……リアリィ?」
 「リアリィ」
 重々しく首肯したデミトリをよそに、ディアボロは席を立つ。
 絨毯に零れた紅茶には一抹の未練なく踵を返し、会釈もせずにデミトリの横を素通りして居間を辞しかけたが、ドアのノブに手をかけたままふと立ち止まる。
 俯いたディアボロ。
 首を垂れているため、その表情は影になっている。
 背中から漂い出しているのは逸る興奮の気配。
 「俺様の初仕事が本の取り立てとはー……」
 ディアボロの肩が震える。
 呼吸にあわせて浮沈する肩を視界におさめ、デミトリは続きを待つ。
 呼吸の間隔が狭まり、肩の浮き沈みが激しくなる。

 ガンッ!

 鈍い音が鼓膜を打つ。
 護衛がぎょっとする。
 デミトリはポーカーフェイスのまま、孫の奇行をどこか楽しげに眺める。
 ガンガンガンガン。
 連続する音。
 渾身の力をこめた拳で扉を殴打するディアボロ。気のせいか、その背中はこの上なく楽しそうだ。
 「いいぜ、最高のチョイスだジジィ。なめた真似してくれるぜ、チンポの枯れた日干しの分際でよ。
  この俺様が本の取り立て係だと?んなもんは図書館の司書に任せろよ。たかが本一冊の為に、この俺が、このディアボロ様が出向けと?」
 振り上げる、振り下ろす、音が鳴る。破砕、破壊、暴力。鼓膜が痺れそうに重たい音、指が折れそうに重たい衝撃。憑かれたように扉を殴り続けるディアボロの唇が弦月の形に割れ、ひび割れた笑声が漏れる。
 笑い声は余韻嫋嫋と部屋中に響き渡り、ついにはどす黒い哄笑となって空気を殷殷と震わせる。
 狂気と狂喜の狭間を振り子のように揺れる、理性の箍が外れた笑い声。
 一際大きな音が響き渡る。
 剥落した木片がパラパラと絨毯に降り積もる。
 靴に積もった木片を振り落とし、ディアボロが顔を上げる。
 「いいぜ、やってやる。犯って姦って殺ってやる。この醜い豚野郎を犯って姦って殺って、腸詰にして美味しく食らってやる」
 ぐしゃりと写真を握り潰す。
 ディアボロの目は燃えていた。
 救いがたい暗さを秘めた、地獄の業火をおもわせる陰惨な炎。やがて宿主の身を灼く破滅の炎だ。
 嬉々とした孫を一瞥、デミトリは訓戒を垂れる。
 「ワシの前で汚い言葉を使うのはやめろ」
 顔をしかめたデミトリを肩越しに振り返り、ディアボロは鼻で笑った。
 憎たらしい顔。
 「この醜い豚の化身の玉門を犯してやりますわ。そうしてソーセージのように縦に裂いてやりますわ。極上の腸詰めにして美味しく頂いてやりますことよ」
 「もういい」
 手を振り、退室を促すデミトリ。
 ノブを回しながらディアボロは舌を出した。
 閉ざした扉の奥からデミトリのため息が聞こえてきたが、幻聴にちがいない。

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Devilish | コメント(-) | 19951230213532 | 編集

 魔がさしたのだ。
 ほんの出来心だったのだ。
 冒頭のように陳腐な言い訳は今時取り調べでも通用しない。
 「ツイてなかったんだよ、俺は……!」
 ダンカン・フォーマシィは追われていた。
 「はあ、はあ、はあ……」
 泥はねのついた革靴がしぶきを上げ水たまりを蹴散らす。
 ズボンの膝あたりまで飛沫がとぶも頓着してるゆとりはない、染み抜きは命拾いしてからで遅くはない。
 今宵の月は満月。
 芝居の書割のような夜空にぽっかり浮かぶ月はのっぺりと白く壁紙の覗き穴を思わせる。
 告解室の仕切り窓?
 いやいや、案外あのむこうは便所かもしれねーぜ。神様が便器におかけなすってるんだ。
 疲れと焦りで憔悴しきった顔を一瞬毒々しい嗤笑が掠めるも、次の瞬間自分がおかれた予断を許さぬ状況に立ち返り笑みが凍る。
 厄介なことになった。
 後悔の念がぎりぎりと胃を締め上げる。
 それでもフォーマシィは足を止めない。
 足を止めたら最後、フォーマシィの息の音も止まるからだ。
 常夜灯が白々照らす舗道に影が長く尾を曳く。
 葬列のように陰気にうなだれた常夜灯にさしかかるたび姿を暴き出される恐怖に苦しむ。
 影は不吉な染みのように、とうの昔に捨て去った良心の残像のように、どんなに速く駆けても離れることなくついてくる。
 足首に縫い付けられた影が重たい。ええい忌々しい。
 しつこくまとわりつく影を振り払おうと発奮、猛然と速度を上げ肺の限界に挑戦する。
 逃亡生活の辛酸を物語るすりへった靴底で石畳を蹴り、夜闇に包まれた街路をあてどなく疾走する。

 ダンカン・フォーマシィがどんな人間かと問われれば、彼を知る人間の殆どが「無能と怠惰が結婚して不運を生み出したような人間」と答える。

 当の本人以外の誰もが納得する非常に的を射た人物評。
 ダンカン・フォーマシィの生い立ち。とりたてて語るほどの事はない。
 道を踏み外したきっかけをしいて挙げるなら六歳の夏、駄菓子屋の店先で親父の目を盗んでキャンディーバーをしめしめと着服し、バレずに味をしめた。以来病み付きになり、十四で盗癖がバレて放校処分になった時にはいっぱしのコソ泥になっていた。覚せい剤ともその頃からの付き合いだ。
 盗みの前は必ずヤクをやってハイになる。
 二度ほど刑務所にぶちこまれたが、二十代の頃まではそんな感じで上手くいった。
 薬の力を借りてだましだまし、小手先頼みのケチな悪党でしかない自分をやれば出来るヤツとおだて持ち上げ生きてきた。
 三十になって急に腕の衰えを感じ始め、長年飯の種にしてきた泥棒家業を引退し、組織に飼われるケチな売人に転身してからは自堕落な生き方に拍車がかかり、酒と薬と女とにどっぷり溺れる生活を送ってきた。それまでは四十五度の傾きだったのが一気に八十度に傾斜し、あっというまに坂道を転がりおち、底辺におっぽりだされた。
 同じような境遇の売人は掃いて捨てるほどいるが、フォーマシィほど度胸のあるーあるいは無謀なー売人はほかにいないだろう。
 なぜなら俺は、あのジズ・フィロソフィア率いる組織に恐れ多くも楯突いたのだから。
 
 『ジズ・フィロソフィア』
 その名を舌の上で転がすたび、背筋に戦慄が走る。

 ジズ・フィロソフィア。
 発展著しい新市街の暗部、裏社会の頂点に君臨する暗黒街の帝王。
 巷に悪名高い血のデミトリ家に拮抗する勢力を十年弱の短期間で築き上げた手腕には、新旧内外のマフィアとて皆一目おいている。
 弱冠三十四歳にして二千人の配下を顎でこきつかう大層な身分。
 財政界にパイプを持ち数多の著名人と懇意にする実業家。
 女性ならばだれもがため息を禁じえない端正なマスクの色男。

 ジズ・フィロソフィアは俺にないものを全てもっている。
 あまりにも不公平じゃないか。

 憎悪に濁った呪詛、胸を灼く嫉妬。
 あの男は全てを持っている。なんでも持っている、富も地位も名声も容姿も。俺にはなにもない。生来容姿には恵まれず女から惚れられたことなど一度もない。地位もない。若い時分の放蕩と怠惰な性根が祟り、流れ流されいつしか麻薬の売人にまで身を堕としていたが、野心に見合うだけの才覚もなく、四十路半ばになるこの年まで組織の雑用としてこき使われてきた。
 金もない。街のチンピラ相手に粗悪品の麻薬を売りさばいてかつかつの収入を得ているが、それだけではとても糊口を凌げない。
 フォーマシィ自身年季の入ったヤク中なのだ。
 麻薬を売って得た金を麻薬を買って使い切る悪循環にフォーマシィは首までどっぷり浸かりきっていた。しかも、麻薬は高い。そこそこ質がよい麻薬を定期的に購入するためには金はいくらあっても足りない。
 「くそっ、」
 口汚く毒づく。
 くそっ、くそっ、くそっ。なんでこんなことになったんだ。
 裏切り者の末路は非を見るより明らか。
 なお悪いことに、自分が裏切った相手はあのジズ・フィロソフィアだ。
 奴の放った猟犬に見つかったらどんな制裁を加えられるか……想像したくもない。
 思えばこいつが諸悪の根源なのだ。
 フォーマシィは忌々しげに小脇に抱えたものを一瞥する。

 それは、一冊の本。

 骨董品としての価値さえありそうな、格調高い革の装丁の古書。
 こうして小脇に手挟んでいても、歴史を感じさせるずっしりした手ごたえが伝わってくる。
 モロッコ特産の山羊のなめし革を張った表紙の中心には自然界における芸術、完全無欠の黄金比で構成された五芒星が刻印されてる。
 美しい図形の代表格とされる五芒星が刻印された本を抱え、フォーマシィは夜道をひた走る。
 この星に何の意味があるかはわからない。
 わからないが一目見た瞬間、「こいつは金になる」と直感した。
 がめつさにかけては天下一品のフォーマシィーは、それが運命の分かれ道だと気付きもせず魅入られるがまま本を手に取っていた。

 きっかけは全くの偶然だった。

 古書の蒐集が趣味のジズ・フィロソフィアが長年捜し求める一冊の本の事は、フォーマシィも風の噂で知っていた。
 まず、めっぽう古いというだけで価値が生じる。
 本の誕生はグーテンベルクが活版印刷を発明する15世紀以前、最低でも八百年前に遡ると見なされ、現存する肉筆の本の中では間違いなく最古の部類に入る。
 肝心の内容については千差万別の憶測が乱れ飛び、今なお尽きせぬ議論の的となっている。
 とある艶福家はアラビアの後宮の日常を綴ったカーマ・ストラの流れを汲む猥本と主張し、さる無神論者はイエス・キリストの奇跡のタネを暴いた奇術の手引書と言い、とある戦史家は焚書を免れたヒトラーの遺産と吹聴する。
 いずれもオカルトめいた噂が付き纏い、迷信俗説のたぐいが紛糾してることからも、まともな本じゃないのは確か。
 現物に接したものが極少であり、伝説だけが独り歩きする状態がもう一世紀以上続いているが、この本を手に入れるためなら家財をなげうってもいいという熱烈な愛書狂は今だに後を絶たない。
 作者不詳でタイトルも不明。
 運命を狂わし身を滅ぼすと囁かれる禁断の本さえ陳列棚に加えんとする愛書狂という人種の業深さには呆れるしかない。
 以上の怪奇な経緯を下請けの下っ端のフォーマシィは当然知るべくもない。
 その本が遥か異国の地で見付かったと針の先の手がかりをたよりに現地に派遣した部下から連絡が入ったのが一ヶ月前、フォーマシィーとの出会いは今から二週間前に遡る。

 荷下ろしの作業は深夜、秘密裏に行われた。
 荷下ろしの作業に借り出されるのは決まってピラミッドの底辺の末端構成員…つまりフォーマシィは、数多いる人足の一人として召集をかけられたのだ。
 貨物船で運ばれてきたのは本だけではない。
 おが屑を敷いた木箱に入っているのは外国から密輸された拳銃で、これを裏で捌いて組織の資金源とする。
 木箱プラス拳銃数百挺を往復で運ぶきつい仕事と腰の痛みに夜通し耐えて得られるのはわずかな賃金のみという不法就労の外国人さえ真っ青な労働環境で、ちゃきちゃき精を出して働くのはマゾヒストだけ。フォーマシィーが気乗りしないのもむべなるかな。
 「ボスご所望の大事なブツだ。世界に一冊しかねえ貴重な本で、オークションにかけりゃ億の値が付くとさ。丁重に扱えよ」
 「そんなに大事な物ならどうしてボスじきじきに立ちあわねーんだよ」
 一人が抗議の声を上げれば、そうだそうだそのとおりと尻馬にのってまわりが追従する。
 見張りを仰せつかった黒背広は、しばらくやる気なさそうに紫煙をくゆらせていたが、ぶつくさ文句を垂れ始めた一同ににやけた笑みを向ける。
 「下っ端の知ったことか。けどな、特別に教えてやる。いいか?ボスはな、お忙しい身の上なんだ。今夜はどうしても抜けられない会合がおありなんだとさ。今頃はお前らが一生かかっても泊まれねえ高級ホテルで、お前らが一生お目にかかれねえ雲の上の方々と、極上のワインと料理に舌鼓みを打ってる頃さ。知ってるか?ボスが履いてる靴はお前らが一月で稼ぐ金と同じなんだぜ。ったく世知辛い世の中だよなあ」
 吸いさしの煙草を弾き、見張りが皮肉る。
 「お前らじゃ警備員に叩き出される前に回転ドアに激突してぶっ倒れるのが関の山、一流ホテルのパーティーなんぞにゃ生涯無縁だろうな。失業したら靴磨きに雇ってもらえよ、うまくすりゃボスが哀れみをおかけなすってパーティー料理をタッパーに詰めて持ち帰るのを許してくれるかもしれねーぜ」
 馬鹿にしきった哄笑を上げながら立ち去る見張りの背に、轟々と非難が飛ぶ。
 「ボスの威をかる三下のくせに威張り散らしてんじゃねーよ、お前だって似たりよったりのチンピラだろうが!」
 「いつ首切られるかわかんねーのはお互い様だろ!」
 「タッパーにお前の指詰めて女のとこに送りつけてやっからな!」
 憤激した仲間が貧困な語彙を総ざらいして罵声を浴びせる中、フォーマシィーは一人離れ、憤然と木箱に歩み寄る。 

 畜生、言いたい放題いいやがって。
 自分だって下っ端のくせに、背広着てるってだけでそんなに偉いのかよ。

 罵声の輪に加わらず一人作業を再開したのは、とにかく一刻も早くこのくだらない仕事を終えて家に帰りたかったからだ。
 情婦の柔肌が恋しい。眠りたい。しこたま酒を飲んで酔っ払いたい気分。
 フォーマシィーは半ば自棄となり、すわスト勃発かと気勢を上げる連中のロスを逆手にとり、自分が受け持つ分をてきぱき片付けて一抜けすると決意する。

 勝手にやってろ。
 お前らがぶーぶー言ってる間に俺はとっとと山を片しておさらばだ。
 せいぜいてめえの要領の悪さを恨むんだな。

 不機嫌に口を引き結び、足腰を踏ん張る。
 両手に力を込め関税の偽装テープが貼られた木箱を抱え上げる。
 カタン。
 やけに軽い。
 猪首を回し、戦々恐々と背後を窺う。
 監視役の男はえっちらおっちらと木箱を運ぶ人足に偉そうに指示をとばしている。
 胸の内でむずむずと好奇心が萌芽する。
 自分が運んでいるものが何なのか無性に知りたくなる。
 ジズ・フィロソフィアご執心の本、海を隔てた異国の地より御輿にのってやってきた本を一目見たい欲求が膨らむ。
 だいたい不公平じゃねえか。夜遅くまでこきつかわれたあげく、自分が運んでるものさえ知らずに帰されるなんてよ。くわえ煙草で威張り散らす監視役への反発が頭をもたげ、フォーマシィーは生唾を飲む。
 
 ちょっと盗み見るくらいなら、いいよな。

 頭の中で箱を運び入れる場所を復唱する。
 拳銃の詰まった他の木箱は埠頭に停まってるトラックの荷台に詰まれる予定だが、この本だけは高級車でお出迎えの特別待遇。
 ちらりと目を上げる。
 闇を透かして向こうを見る。
 埠頭に面した倉庫の前に黒塗りのベンツが数台停まっている。
 組織がさしむけた監視員の車。
 この本はあそこに運び込まれる予定だ。しかもトランクではなく後部シートのど真ん中に厳かに鎮座ましまし、その左右を腕利きの護衛ががっちり固める大統領並のVIP待遇である。

 ますます気に入らねえ。
 ベンツなんて俺だって乗ったことねえのに、無機物の分際で生意気な。
 
 謎は深まる。
 好奇心が激しく騒ぎ立てる。
 いわくつきの本をどうしても一目見たいと憑かれたような欲望が燃え上がる。
 幸い監視員はそっぽを向いて仲間と談笑している。
 今ならバレねえ。
 ベンツまで約五十歩の道のり、監視員に背を向けた瞬間がチャンス。
 後ろ暗いスリルと快感が背筋を毛羽立たせる。
 監視員の鼻をあかすところを想像し優越感に浸る。
 木箱を持って通り過ぎるふりをし、用心深く監視員の動向をうかがう。
 相棒がイケてるジョークをとばしたらしく大口かっぴろげて馬鹿笑いする姿に虐げられた怒りが募る。 奥歯の銀冠光る笑いはまるでフォーマシィを嘲笑っているようで、木箱を抱く手に力がこもる。
 蓋の四隅は釘で打ち付けられている。
 五十歩の距離間に羽目板をこじ開けるのは骨が折れる。 
 板の隙間に目をあてがい何とか中を覗けないかと試みる。
 板と板の隙間のか細い暗がりに目を凝らす。
 目張りされた闇の中心にうっすらと浮かび上がる、霊妙なる神秘と叡智を内包した摩訶不思議な図形。
 あれはー……

 乾いた銃声が炸裂する。
 「!なんだ、何がおきた!?」
 「チンピラどもの襲撃だ!」
 錯綜する怒声と罵声に混じるのは、かん高い銃声と雪崩れのような足音。
 フォーマシィはうろたえる。
 倉庫の方角から闇に乗じて襲撃を仕掛けてきたのは、組織と反目するチンピラの一党。
 新市街の大半はジズ・フィロソフィアの勢力圏であるとはいえ、フィロソフィアの台頭を快く思わぬ連中は大勢いる。荷下ろしの日取りを嗅ぎつけ奇襲を仕掛けてきたのも、おおかたそんな敵対勢力のひとつだろう。
 「くそっ、なんでバレてんだ!?」
 「まさか内部に裏切り者が……」
 「ボスに報告だ!」
 「今はそれどころじゃねえだろう!」
 「右、右に回れ!やつらは倉庫の影から撃ってきてる、ぐるっと回り込んで挟み撃ちだ!」
 「正面の倉庫の影に二人、クレーンの陰に一人……ちっ、ぞろぞろ沸いてきやがる!」
 完全に不意をつかれ指揮系統が混乱、監視役の顔から余裕が拭い去られ焦燥と激昂が取り代わる。流れ弾を食らってはたまらないと木箱を放り出して遁走する雑役夫をよそに、全く唐突に銃撃戦の火蓋は切って落とされる。
 場慣れした黒服が迅速に懐から銃を抜き発砲、応戦。
 殺気だった靴音に罵声と悲鳴が被さる。ちょうどフォーマシィーの横、肩が触れる距離にぼけっと突っ立ってた雑役夫の胸を弾丸が貫通する。
 心臓が爆ぜ、勢い良く噴出した血がフォーマシィーの顔にかかる。
 手の中で衝撃と爆音が爆ぜる。
 「ひぇぐっ……」
 落下と着弾は同時。
 二重の衝撃で蓋が弾け、木片が飛び散る。
 たった今フォーマシィーの隣の男を射殺したのと同一人物が、今度はフォーマシィーのもつ木箱を撃ち抜いたのだ。
 木箱の中、防弾ケースを被せて密封されていたのは一冊の本。
 破砕した木箱から滑り出した本の運命を終わりまで見届けず、抜けかけた腰に鞭打ち、地べたに這い蹲ってフォーマシィーは逃走する。
 巻き込まれちゃたまらねえ。
 裏社会の組織に籍をおいているが、運動音痴のフォーマシィはからきし荒事が苦手なのだ。
 低賃金でこきつかわれていた雑役夫がおのおの荷物を放り出し木挽き台を蹴倒し、てんでばらばらな方角へ悲鳴を発し逃げ惑う。うちいくつかが断末魔に変わり、流れ弾を喰らったツイてない奴らがばたばた倒れていく。
 人間ドミノ倒し。
 あっけない最期。
 さっきまで共に働いていた仲間が、監視役の暴言にいきりたって拳を振り上げた熱血漢が、頭の右上を吹っ飛ばされもんどりうって転がる。 
 倉庫の影から続けて発砲してくる姿の見えぬ敵を包囲網に追い込もうと、右回り左回り二手に分かれ展開する生き残りの黒服たち。
 コンクリートの波止場に血の海が広がっていく。
 恐怖の絶頂で錯乱に駆り立てられた生き残りがまた一人また一人流れ弾に当たり減っていき、足元には木箱の残骸と中身と人体の一部分とがごっちゃに散らばり地獄の台所の惨状を呈する。
 フォーマシィーは逃げる。
 無秩序に走り回る仲間の後ろ襟を引き戻し盾にし足をひっかけ転ばせ、追い抜き追い越しの熾烈な生き残り競争の勝者たらんと姑息な知恵をしぼり卑怯な手を使い、飛び交う銃弾を頭を低めかわし、地べたを這い、転がり、跳ね起き、累々たる屍を越えていく。
 「おりゃあごめんだぜ、こんな割にあわねえ仕事の最中にくっだらねえ撃ち合いの巻き添えで死ぬなんてよ!死ぬならてめえら勝手に死にな!」
 銃撃戦も佳境に入る。
 おが屑を燻したようなコルダイト火薬独特のきな臭い匂いが濃く漂う。
 銃弾が肩を掠め熱を感じる。
 「ぎっ、」
 血糊で足が滑る。
 顔面から突っ伏し鼻っ柱を痛打、濁流の如く血が噴き出す。
 激痛にうめきつつ鈍重な動作で鼻血まみれの顔を上げる。
 顔面を片手で覆うフォーマシィーの霞む視界に異様なものが映りこむ。
 あたり一面にぶち撒けられた木片とざらつく硝子の破片、死んだ仲間の体から流れ出す大量の血の海に、それはぽつねんと放置されていた。
 本。
 血染めの本が淡く光る。
 「な…………!?」
 燐をまぶしたように青白く、神々しく、幻想的な光の粒子を舞い上げる。
 ほんのかすかな光。目の錯覚を疑うほどの。
 
 心筋の働きに似て緩慢に膨張する光は、まるでー……

 『生 キ テ イ ル カ ノ ヨ ウ ダ』

 咄嗟に本を拾い上げる。
 パン!
 「!?ひっ、」
 一向に止まぬ銃声に鞭打たれ、脇目もふらずに駆け出す。
 両手にひしと本を抱きしめたまま。
 「はあ、とんだ目にあったぜ……」
 他の人足に紛れて波止場を抜けたフォーマシィは、銃声の聞こえない倉庫裏に身を潜め己の不運を嘆じた。
 銃撃戦の行われている場所からは十分離れているし、ここなら安全だろう。
 絶体絶命の窮地を脱して人心地ついたフォーマシィは、自分が後生大事に胸に抱きしめているものに気付いてハッとする。銃撃戦のどさくさで持ち逃げしてしまったが、元より読書の習慣がないフォーマシィが古書など持っていても無用の長物でしかない。活字を読むと眠くなる体質なのだ。
 「それに、この本開かねえじゃん」
 失念していた。
 無我夢中で本を拾い上げた時は気づかなかったが、フォーマシィが手にした本は錆びた蝶番で固定されていた。鍵はさっき、箱を落とした地点においてきちまったのか?最初からなかった?
 なにやってんだ、俺は。
 本の処遇に悩みため息を吐く。
 疫病神を疎んじる目で腕の中の本を覗きこんだフォーマシィの脳裏に名案が浮かぶ。
 監視役は本をさして「大事なブツ」だと言った。
 クソ忌々しいことに「丁重に扱え」とこの俺に命じやがった。
 ということは、この本にゃ大枚に換算できる値打ちがあるんじゃねえか?
 フォーマシィはまじまじと本を見る。
 ボロはボロだが、高価そうな本だ。
 古びた背皮といいいわくありげな五亡星の意匠といい、歴史の重みを感じさせる高尚な佇まいは神々しいオーラを放つ。

 ごくりと生唾を飲む。
 勝手に指が震える。
 馨しい光輝匂い立つ本に魂を奪われ、理性の判断が狂う。

 古書店にもちこめばいい金になる。
 ふれこみを誇張し強調すれば、貴族の物好きが大枚積んで欲しがるかもしれない。

 フォーマシィの惰弱な心は早くも悪魔の誘惑に傾きかけていた。
 制裁は怖いが要はバレなければいいのだ。
 銃撃戦の最中、命のとりあいをする極限状況下ではだれもフォーマシィに注目してなかった。
 あの場から本が消えたとしたら木箱ごと海に落ちたと考えるのが妥当で、現場から散り散りに逃げ出した下っ端のひとりが大胆にもボスご所望の品を着服したとは夢にも思わないだろう。
 希望が多分に入り混じった楽観的観測でありったけの勇気を鼓舞する。
 「……だれも見てなかったんだ。バレるわきゃねえよな」
 フォーマシィは追い詰められていた。
 喉から手が出るほど金が欲しかった。
 薬が尽きた時の禁断症状を思うと背中がびっしょりと汗をかく。
 腕の血管の中を虫がうぞうぞと這いずり回る幻覚に悩まされるのたまらない。
 静脈が突如線虫に豹変し内側から体を蚕食し始めると思うと、あまりのおぞましさに吐き気をもよおす。

 本を売れば金が手に入る。
 薬が買える。
 ジズ・フィロソフィアに一泡噴かせられる。

 喉から手が出るほど欲していた本を下っ端構成員に横取りされ、悔しさに地団駄踏むジズ・フィロソフィアを思い浮かべ、フォーマシィはこの上なく暗く楽しそうにほくそえむ。
 破滅への第一歩だとも知らずに。

 事態はフォーマシィの予想を遥かに超える速さで展開した。
 古書店に持ち込むより追っ手がかかるほうが早く、ダンカン・フォーマシィはボス寵愛の品を横取りした裏切り者として組織に手配され、ヤサを追われた。
 命からがらねぐらにしている安アパートを後にし、逃亡生活を余儀なくされること二週間。
 溝鼠のように路地の暗がりから暗がりへ、あるいはマンホール下の廃墟と化した旧下水道へと逃げ場を転々とし、血気盛んな追っ手を巻く生活に精も根も尽き果てた。
 こうして生き延びているのは奇跡に近い。
 今日に至るまでの二週間、間一髪危ういところを逃げ延びてこれたのは信号で三つ続いて青を引き当てるような偶然と幸運、プロのコソ泥として鳴らした時分の土地勘とが味方したからだ。
 もしくはフォーマシィーのゴキブリ並みにしぶとい生命力がなせる技か。

 これからどうすりゃいい。

 一生分の悪運を使い果たしたフォーマシィーは悶々と苦悩する。
 頼れる友人知人も帰る家もない。
 十年来ねぐらにしていた安アパートは組織の息のかかったチンピラに押さえられ、命からがら辿り着いた愛人宅ではけんもほろろに門前払いを食った。
 所詮は金の切れ目が縁の切れ目、別れの言葉はたった二音節。
 「しっしっ」
 犬かよ俺は。
 実際人生は犬のクソが散らばった道みてえなもんだ、どっちに行っても滑りやがる。
 新市街の隅々にまで根を張り巡らせた組織を敵に回し孤独な逃避行を続けるフォーマシィの疲労は心身ともに極限に達していた。
 首の薄皮一枚越しに死神の鎌の切っ先を突きつけられているようなちりちりした感覚。
 夜もふけた街角には客を引く娼婦の姿も泥酔した浮浪者の姿もない。
 終末が訪れた後の世界のように静寂が浸透した路地裏を駆けながら、フォーマシィは何度目かわからぬ舌打ちをする。
 小脇に抱えた本が重い。腕に食い込む重みが疎ましく煩わしい。
 この本のおかげで俺は裏切り者として追われることになったのだ。
 疫病神め、いっそさっぱり手を切ってやろうか。
 あの時はどうかしていた、なんだってばれずにすむと思ったんだか…本を目にした瞬間、精神状態に訪れた恍惚を何と説明すればいい?「魂を奪われた」という手垢のついた表現がぴたり当てはまる。
 催眠術にでもかけられたように模糊たる靄が思考野にかかって、抗い難い力に導かれ戦々恐々手を伸ばしていた。
 魔性の誘惑に抗いきるにはフォーマシィーの意志はあまりに弱く、見えざる触手を伸ばしくる何者かをはねつける力を持たなかった。

 本当に静かな夜だ。
 今にも心臓が破けそうなほど突っ走りつつ、奇妙に冷めた頭の片隅で漠然と考える。
 境界線を越えた途端街の様子はがらりと変わる。
 摩天楼が聳える近代的な新市街とは違い、古き良き下町といった風情の旧市街には戒厳令下のように厳粛な静けさがたゆとい、懐旧誘う石造りの家々が月の光を浴びてひっそり横たわっている。
 煉瓦と石畳と運河の街。
 フォーマシィーが一心不乱に駆け抜けるこのあたりは、もともと隣接した工場街で働く労働者の為に設けられた居住区だったが、第二次産業から第三次産業へと主幹が推移した現代では住民もほとんど立ち退いてしまい、半ばゴーストタウンと化している。
 歓楽街のネオンと喧騒もここには届かない。
 フォーマシィーは荒廃した工場街のほうへと向かう。
 煤けた煙突の群れを目印にいくつか角を曲がり雑多に込み入った道を抜け、人けのないほうへ人けのないほうへとただひたすらに、迷宮入りの袋小路を狂奔し本能的に逃げ場をもとめー……
 「いたぞ!!」
 路地の角から突然飛び出してきた黒い影。
 ぎょっとたたらを踏む。
 フォーマシィを射程距離圏内におさめる一、二、三……四つの銃口。
 黒いコートを羽織った凶悪な人相の男たちが四人、退路を塞ぐように半円の陣を敷き、行く手に立ちはだかる。
 
 先回りされた。

 脳裏で赤信号が点滅し警鐘が鳴り響く。
 夜が暴かれ、空襲が始まる。
 「裏切り者め!」
 暗い路地に銃声が響き、フォーマシィは石畳を蹴り加速し一心不乱に駆け出す。
 策はない、ただひたすら逃げる。胴体とアンバランスな短足を必死で操り石畳を夢中で叩き、収縮する肺が心臓を押し上げ、全身に二酸化炭素と沸騰する血液とを送り出すのを感じながら頓死を予言された道化のように遁走する。
 銃声が連続し、銃火が闇を切り裂く。
 きな臭い硝煙が鼻孔忍び込む。フォーマシィは走った。策も何もなくただ走った。
 「ぎゅわっ!」
 頭蓋骨を揺さぶる轟音と灼熱感。耳朶が焼けるように熱い。
 足を縺れさせ無様に転倒。
 石畳に膝を屈し、おそるおそる右耳へ手をやる。
 ぬるり。
 生温かい血のぬめりが掌に流れ、開いた口腔から豚の断末魔によく似た絶叫が迸る。
 耳を押さえた掌はべったりと血に染まっていた。
 爪の隙間に流れ込んだ血が膝へと滴り、石畳を斑に染めてゆく。
 ボタ、ボタ。
 赤い雨滴が降り注ぐ。
 激痛にかすんだ視界の端を赤い肉片が掠める。
 背後から発射された弾丸に吹っ飛ばされたフォーマシィの耳朶の残骸。
 「ふぉ、ふぉ……」
 塩辛い涙がしとどに顔を濡らす。
 嗚咽を堪えて立ち上がる。
 膝がくじける。
 逃げなければ逃げなければ逃げなければ。
 こけつまろびつ走り出す。
 足がもつれ上体が頼りなくぐらつき、地面が遠くなり近くなりを繰り返す。
 小脇に抱えた本をぎゅっと握り締める。
 じっとりと掌が汗ばむ。
 石畳の路地では音がよく響く。
 あちこちで銃声が聞こえ遠く近く怒号が飛び交い、西へ東へ南へと殺気だった靴音が駆け回る。
 右耳が燃えるように疼く。
 焼き鏝を押し付けられたような激痛に頭が煮える。
 くそっ、くそっ、くそっ……なんだって俺がこんな目に、たかが本一冊であんまりじゃねえか!
 おのれの運の悪さを呪いながら路地を抜け、身を隠す場所をさがして縋るようにあたりを見回す。
 一縷の希望にすがり、敵から逃れたい一心で必然銃声と足音がしない唯一の方角にむかう。
 向こうの路地を忙しく行き交う男達のヒステリックな怒鳴り声、いたか、いねえ、どこいきやがった、ずたずたにしてやる……人が増えた。合流したのか?
 四面楚歌ならぬ三面楚歌。
 出口は一方向に限定される。
 目に涙が浮かぶ。
 しょっぱい水が鉄くさい血と溶け混じりしとどに顔をぬらす。
 石畳にぼたぼた血が垂れる。
 石畳を染めるどす黒い血痕を靴裏でこそげ落とし気息奄々よろばい歩く。

 暗澹たる未来に一条の光明がさす。

 路地を抜けた正面に倉庫がある。
 入り口のシャッターは開きっぱなしだ。

 しめた!

 涙と鼻水で地崩れを起こした顔で、弛んだ頬肉を狂喜に波打たせ、滑車を回すハムスターのように短い足を遮二無二繰り出し、尻からジェット気流を噴射する勢いでまっしぐらに倉庫をめざす。
 もうすぐそこだ。
 中に飛び込むなりシャッターを下ろしゃ時間を稼げる、そのあいだに裏口から逃げ出しゃいい。
 楽観的な見通しの上に走り続けるフォーマシィーだが、倉庫が近付くにつれその目に疑問の色と怪訝な表情が浮かぶ。
 コンクリートで固めた前庭にゴムが焦げる臭気さえ漂ってきそうな生々しさで真新しいタイヤ痕が刷り込まれている。
 よほど運転手のハンドル捌きが荒いと見え、大胆に湾曲した軌跡を描いてコンクリートを蹂躙し尽くすタイヤ痕の延長線上に一台の車が斜めに傾いで停まっている。
 黒塗りのボディが迷彩の役目を果たしていたため間近に迫るまで気付かなかった。
 廃れた工場街にはどうにも場違いなその車は、光沢控えめのサテン・クロムとより透明感のある光沢に仕上げたブルー・クロムを採用し天鵞絨の黒に輝くロールス・ロイス。
 最低五千万は下らない高級車。

 客待ちのタクシーにしちゃえれえ洒落てるじゃねえか。

 フォーマシィの眼球が驚きに迫り出す。
 車のボンネットに人が座っている。
 目を凝らす。
 小柄な背格好は年端もいかない少年のそれ。
 線の細い肩と薄い背中が夜目にもはっきりと浮かび上がる。
 手足はすらりとしている。無駄な贅肉の一切ないスリムな体躯を際立たせるのは体にぴったりフィットした仕立ての良いスーツ。スーツの肩にひっかけた白いマフラーが夜風に優雅になびいている。
 
 ガキのくせに生意気な格好しやがって。

 命の危機に瀕しているというのに、フォーマシィは初対面の少年に呑気な怒りを覚える。
 夜風にマフラーをなぶらせた少年は、キザな角度に顎を傾げて夜空を仰いでいる。
 この距離からでは細部の造作まで視認できないが、どのみちこまっしゃくれた面をしてるに決まってる。
 こんな夜更けに出歩いてるなんてとんだ不良だ。ガキはクソして寝ろってんだ。
 逆恨みに近い感情に駆り立てられ、フォーマシィは憤然と地を蹴る。
 車が迫る。少年の後姿が迫る。
 フォーマシィの耳朶を歌が掠める。
 歌?
 
 「Baa Baa blak sheep……」

 夜風に乗じて流れてくるのは、歌だ。
 フォーマシィも知っている古い童謡。

 「Baa Baa blak sheep, have you any well」

 だれもが子供の頃に歌った他愛もない戯れ唄、だれもが子供の頃に親しんだ懐かしいわらべ歌。
 ボンネットの王座に腰掛けた少年は雲間の月を見上げたまま、涼しい夜風に吹かれて気持ちよさそうに歌を口ずさんでいる。
 壊れたハーモニカを彷彿とさせる音程の外れた歌が、連綿と闇に流れる。

 「Yeser Yeser, full bags hill……」

 雲が晴れ、斜めに降り注いだ月光が冴え冴えと少年の素顔を暴く。
 フォーマシィは目を見張る。
 眼前の闇に浮かび上がったのは、悪魔のように美しい少年だ。
 細身のスーツを一分の隙なく着こなし、ボンネットから垂らした足を揺らして拍子をとる。
 
 歌が止む。

 鼓膜に静寂が浸透するのを待ち、少年がゆっくりと振り向く。
 
 繊細な鼻梁にのった眼鏡がぎらりと月光を弾く。 
 「ようこそラム肉、ブラック・シープ。歓迎するぜ我らがマトン。火炙り挽肉なんでもござれ、お気に召すまま召しませってな」
 にっこり微笑んだ少年を仰ぎ、フォーマシィは慄然と立ち竦む。
 フォーマシィは少年の背に黒翼がないかと疑ったが、どんなに目を凝らしても肩甲骨から生えた翼は見分けられなかった。
 信じがたいことに、この少年は人間らしい。
 「よっと」
 反動をつけてボンネットからとびおりる。
 靴底が地面に着地し、硬質に澄んだ音をたてる。
 悠長な所作で膝を払い、上目遣いにフォーマシィの表情を探る。
 底光りする双眸に射竦められ、寿命が縮む。
 すり足であとじさるフォーマシィと対峙し、無造作に一歩を詰める。
 手首一閃、背広の懐から一葉の写真を取り出す。
 掌中の写真と眼前の男をしげしげと見比べる。
 少年の手に掲げられた写真にフォーマシィが顔色を変える。緩慢に正面を向いた少年が、ぞんざいな口調で尋ねる。
 「てめえだな、ダンカン・フォーマシィってのは」
 「!?な、なんで俺の名前を……」
 「仕事だからさ」
 フォーマシィの動揺を鼻で笑い、少年は続ける。 
 「短足の豚のくせに逃げ足だけは速えな、巻きじっぽが焦げ付いたからにゃ愚図愚図もしてられねえってか。だがな、お前の考えてることなんざお見通しだ。新市街の王様ジズ・フィロソフィアがおいぼれジジィに分の悪い取引持ちかけたのは、デミトリ家のが土地鑑と機動力に優れてるからだ。旧市街はデミトリ家の庭だ。新市街に居場所をなくしたお前が旧市街に越境してくるのは時間の問題だった。となれば簡単。俺はトンマな豚が逃げ込みそうな藁床をリストアップして張っときゃいい。例えば、そうー…地理的にも新市街に近く、夜にはすっからかんになっちまう工場街の入り口とかな」
 両手をヒラヒラさせつつくくっと笑った少年に、怒り心頭に発したフォーマシィが詰め寄る。
 「ガキ、一体何者だ!?」
 組織がさしむけた追っ手にしては年が若すぎる。せいぜい十代半ばではないか。
 こんなガキに裏切り者の始末を命じるほどボスは惚けてないはずだ。
 ツラにゃ見覚えねえ。
 面識は一度もないにもかかわらず、相手は自分のことをよく知っているようだ。
 
 薄気味わりい。
 
 得体の知れない少年はズボンのポケットに指をひっかけたまま、おどけたしぐさで肩を竦めてみせた。
 「これから脂肪の塊になる豚に教えてやるのも癪だがまあいい、餞別だ。俺様の最高にイカした名前を知っときゃ地獄の第一関門も顔パスで通過できるぜ、有難く思え」
 少年は無造作に足を繰り出す。
 一歩、また一歩。
 大股に歩み寄ってくる少年、全身から漂い出しているのは血と硝煙の匂い。
 一挙手一投足ごとに膨張する殺気と途方もない威圧感に気圧され、フォーマシィがあとじさる。
 ピンと写真を弾いた右手が弧を描いて顔前に戻ってきた時、その掌中に在ったのは見間違えようもない…拳銃。
 背広に手が滑り込む瞬間すら肉眼ではとらえられなかった。
 五指に握りこまれた拳銃は手入れを欠かさずによく使い込まれていると見え、銀粉を噴いたようにメタリックに輝いていた。
 「俺様は『悪魔』ー……」
 指揮者のタクト捌きを思わせる動作で月下に片腕を掲げる。 
 引き金に指をかける。
 月に向かい伸ばした腕の先に銃を握り、引き金を絞る。
 「ディアボロ・デミトリ……血のデミトリ家の四代目だ」
 乾いた銃声が炸裂する。
 路面に穿たれたマンホールがごとりと持ち上がりドラム缶の後ろから機敏に影が躍り出て倉庫の裏手から靴音が雪崩れ込む。
 駐車場に潜伏していた配下がフォーマシィを中心に輪を描いて出揃い尽くすのを待ち、悪魔は言う。
 「罠にかかったんだよ、お前は」
 配下が道を空ける。大股に歩む。
 フォーマシィの顔に理解不能といった色が浮かぶ。 
 「西・東・南、三方位からひっきりなしに響く銃声に追い立てられたお前は工場街の北をめざした。ここにくりゃ安全だと思ってな。ところがどっこいご覧のとおり、出口は入り口天国は地獄。びびりまくったお前なら、必ずこっちに来ると思ったのさ」
 仕組まれていた。
 フォーマシィーがここへ逃げ込むのは予めお見通しだった。
 三方向から聞こえてきた足音と人声と銃声は少年の指示により工場街に散らばった部下の陽動。彼らはフォーマシィを追い込むため道向こうに展開した上でじわじわと恐怖を煽り包囲網を狭めてゆき、えものを自発的に死地へと誘ったのだ。
 地の利と機動力の強みを最大限発揮した作戦を指揮した少年は、フォーマシィの胸に銃口を定め、もう片方の手で耳をほじりながら退屈そうに尋ねる。
 「ウェルダン?ミディアム?レア?」
 ああ、神様。
 これが究極の選択ってやつか?畜生。 

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Devilish | コメント(-) | 19951229235222 | 編集

 前後両方からの銃撃をフォーマシィは横跳びに身を投げ出し回避。
 ディアボロが放った銃弾は最前までフォーマシィの心臓があった位置を撃ち抜き、後方から放たれた弾丸は火花を散らし足元を抉る。
 「おお、バンジージャンプ」
 舌打ちがてら快活な笑顔を浮かべるディアボロにフォーマシィは絶句する。
 たった今引き金を引いたばかりのその笑顔が年相応に子供っぽかったからだ。
 人一人撃ち損じたにもかかわらずパチンコの的を外したのと同等の落胆しか抱いてないイカれたガキにフォーマシィは恐怖する。
 「ひえええええええええっ!」
 もはや一刻の猶予もない。
 耳に蓋をし、銃声に背を向け走り出す。
 あたふた慌てふためき開けっ放しのシャッターから工場内へと逃げ込んだ獲物を一瞥、別働でフォーマシィを追ってきた男たちに向き直る。
 「フィロソフィアの犬どもか?邪魔すんなよ、いいとこなのに」
 「デミトリ家の連中か?フォーマシィを追い込んでくれて助かった、あとは俺たちが……」
 駐車場に駆け込んできた男達の筆頭、額に傷のある中年男の下顎が炸裂する。即死。
 協力者のはずのデミトリ家が害意なく歩み寄りかけた男に凶弾を放ち、あっけなく命を奪う場面を目撃し、追っ手が凍りつく。
 銃口から上る硝煙をふっとひと吹きするディアボロを起因に動揺が伝染、側近が苦言を呈す。 
 「ディアボロ様、デミトリ老のお言葉をお忘れですか?今回の任にはフィロソフィアの部下と組んで当たれとの事、それをいきなりこんな……!」
 「気にすんな、挨拶代わりの出血サービスだ」
 「失血死ですよ!!」
 「デミトリ老が知ったらお怒りになられますよ!?」
 「俺じゃ役不足だってのか」
 「役不足もなにもフォーマシィは本来フィロソフィアの獲物、ヤツの始末はフィロソフィア側に任せて俺たちゃ後方支援に当たれってのがデミトリ様のご命令で……」
 「ジジィの遺言なんか知ったこっちゃねえよ」
 「デミトリ老」の名が彼にもたらしたのは凄まじい反感と怒り。眼鏡越しの双眸が憎しみにぎらつく。
 「ライナス!ライナス!」
 「一体全体こりゃあ何の真似だ、約束がちがうじゃねーか!!デミトリ家はサポートに回るって話だったのに、協定破る気か!?」
 「くそったれデミトリ家め、協力すると油断させててめえらのシマで俺たちを叩く気か!?こすい手使いやがって、マフィアの誇りはどこにやったよ!!」
 仲間を殺されたフィロソフィアの部下たちが猛り狂う。
 下顎の欠損した死体を抱き抱え気色ばむ男達は最初五人あまりだったのが、発砲騒ぎを聞き付け方々の路地から残党が合流し、十数人の大所帯に膨れ上がる。
 一触即発の緊迫した雰囲気。
 誤解を解こうにも相手側が感情的になり話し合いが成立しそうにない。
 「誤解するな、これはデミトリ家の総意でもデミトリ老の命令でもない!全部こいつが勝手に」
 両手を広げて弁解せんとした側近が膝からくずおれる。
 膝の皿が割れ砕けて血が噴出、みるみるコンクリートに溜まってゆく。
 銀にきらめき薬莢が跳ねる。
 デミトリ家の名誉を守らんと無実を主張しようとした側近の膝を撃ち抜いたディアボロは、悠長に弾丸を装填しながら続ける。
 「察しがいいじゃねーか。協調共闘だあ?笑わせる。我が物顔でこっち側に乗り込んできたのが運の尽き、なんだって悪名高きデミトリ家が昨日今日湧いて出たおしめのとれてねー赤ん坊のお守りをしなきゃなんねーんだよ」
 口をふさげ、これ以上しゃべらせるな!
 膝から大量の血を流しのたうちまわる男の遺志を継ぎ、忠誠心厚い部下が身を挺しディアボロの暴挙を諌めんとするより早く、決定的な一言を放つ。 
 弾丸を装填し終えた銃をフィロソフィアのさしむけた追っ手に照準、人の神経を逆なでする下劣な笑みを剥きだす。
 「お前らの体からはゴキブリの膿汁の匂いがぷんぷんする。調子こいてひとの縄張りに変な汁つけんじゃねえ」
 挑発に応じるは多数の怒号と銃声、憤激に駆り立てられたフィロソフィアの追っ手がよもや容赦はいらぬとばかりこちらに向かい次々と発砲する。彼らの頭にあるのは「嵌められた」という一点のみ、デミトリ家が協力するふりをして自分たちを誘き出し一網打尽の罠にかけたと誤解し怒り狂っている。
 銃撃戦の開幕。
 あるものは片膝立ち銃を構えあるものはドラム缶などの遮蔽物に巧みに身を隠し、苦りきった顔であるじの尻拭いに回る。
 「何を考えてるんですかディアボロ様っ、デミトリ老にばれたらただじゃすみませんよ!」
 「引き立て役だろお前らは。邪魔が入らねーようにきちんと足止めしとけよ。後始末は心配すんな、トラックの荷台に積んで採掘場の竪穴にGOだ」
 銃火閃き火線が交錯する駐車場をドラム缶や車の後ろから後ろへと跳び移り、抜群の瞬発力と反射神経と度胸とで激しい銃撃をかいくぐり、開け放たれたシャッターめざし背広を靡かせ疾走する。
 地を這うような低姿勢からコンクリートに手をつき反動で上体を立て、開けっ放しのシャッターに滑り込む。
 キン、と甲高い音たて靴の踵を弾丸が削る。
 工場内を視線で薙ぎ払い標的を絞る。
 幾何学的に交差する梁と柱と開放的な天井、コンクリート打ち放しの殺風景な床に乱雑に積み上げられたセメントの袋と錆びた鉄骨……
 「めっけ」
 ダンカン・フォーマシィは追われていた。
 シャッターの向こう側で勃発した銃撃戦に恐れをなし、すぐそこまで迫った追っ手に恐怖し、縺れる足を叱咤し、片手でぶざまに空を掻いて工場の奥へ奥へと逃げ込む。小脇に抱えた本が重い。ああ畜生なんだってこんな目に、六歳のあの夏に全てが狂いだした、カウンターでエロ本に夢中な親父の目を盗んでキャンディーバーを万引きした時から転落人生が始まったんだ。時よ戻れ六歳の夏に、駄目なら二週間前の埠頭に、腕の中の疫病神に魅入られた瞬間に……焼き鏝を押し付けられたように耳が疼き頭が酸欠でガンガン心肺のポンプが蒸気を噴き上げばくばくばくばくー
 
 錯乱する思考を遮ったのは、一発の銃声。

 「!!!!」
 げぼっ。
 喉に異物感。
 疑問符を顔に浮かべ、両手を首へとあてがう。
 首から顎へと、おそるおそる手を伸ばす。
 掌が赤い。べっとりと血に染まっている。
 右耳の血?いや、違う、これは……
 がくりと膝をつく。大量の血塊を吐き、フォーマシィの上体が崩れ落ちる。
 倒れた衝撃で小脇に抱えていた本が円を描いて床を滑る。
 自分の手を遠く離れた本を一瞥、フォーマシィの意識は朦朧と薄れてゆく。

 こんな、ぼろっちい本のために……。
 
 視力が急速に衰えてゆく。
 闇の帳が降りた視界が最期に映したのは、黒い光沢を放つ革靴。
 最後の力を振り絞り、のろのろと視線を上げる。
 細身のスーツを着こなした悪魔が右手に拳銃を握り締め、つまらなそうにこちらを見下ろしている。
 眼鏡のレンズに映ったのは、顔面神経痛の発作によく似たひきつり笑いを浮かべた滑稽な相の男。
 銃口からは細く硝煙がたなびいている。
 
 スーツを着た悪魔、か。洒落にもなりゃしねえ。

 苦笑を上塗りするフォーマシィ。
 あるいは自嘲の笑みだったのかもしれないが、真相を知る機会は彼の死によって永遠に失われた。
 瞼を落としたフォーマシィを冷然と見下ろし、ディアボロは鼻を鳴らす。
 なんだ、こんなものか。つまんねえ。
 忙しげに馳せ参じてくる靴音に入り口を振り返れば、銃撃戦を抜け出した黒服の男達が数名こちらにやってくる。
 いずれもフィロソフィアの部下、ここ二週間余りフォーマシィーを追っていた連中だ。
 ディアボロに遅れて現場に到着した男たちが凝然と目を見張る。
 視線の先にはフォーマシィの死体があった。
 うつ伏せに倒れ伏したフォーマシィは誰が見ても息絶えていることが一目瞭然の状態。
 弾丸はフォーマシィの右肺を貫通していた。致命傷だ。殆ど即死に近かっただろう。
 苦痛を感じる暇もなく天に召されたフォーマシィの顔には苦悶の相ではなく、うっすら苦味を帯びた諦念の笑みが漂っている。
 フォーマシィの手前に佇んでいるのはディアボロだ。
 横顔には声をかけるのを躊躇わせる、とんでもなく不安定で危険な何かがある。
 今しもシャッターをくぐり抜けた男が、フォーマシィの亡骸の傍らに立ち尽くすディアボロを見詰め、懐疑的な口ぶりで状況を確認する。 
 「お前が殺したのか……」
 
 高らかな銃声が響き渡る。

 「!」
 ぎょっとした男たちの方など見もせず、ディアボロは引き金を引く。
 銃のグリップを両手で握り締め、息絶えたフォーマシィに銃弾を撃ちこむ。
 哀れな男の亡骸に無残な弾痕が穿たれてゆく。
 肉片が飛び散り、血痕が床に付着する。
 銃声、轟音。鼓膜が麻痺し三半規管が揺さぶられる。
 銃が火を噴く。煙幕のような硝煙があたりを覆い、掌中の銃身が獲物に襲いかかる蛇のように俊敏に跳ね上がる。
 牙を剥いた毒蛇は攻撃の手を休める事なく弾丸を排出し続ける。
 熱風が吹く。
 灼熱の軌道を描き、肉塊の腹を抉る。
 もとはフォーマシィだった肉塊が電気を流されたように不規則に跳ねる。
 飛散した肉片が倉庫の床にはりつく。
 弾丸が左上腕部を穿つ。
 肘の関節が砕け、左腕がへし折られる。
 右肩を撃つ。死体が跳ねる。 
 「おがくずの詰まった頭」
 その間も指は躊躇わずに引き金を引き続けている。
 銃口から放たれた弾丸が直線の軌道を描きフォーマシィの頭部を撃ち抜く。
 弾丸の破壊力で南瓜のように破裂する頭。
 脳みその破片が飛び散り、透きとおった脳漿が床に筋を作り、ディアボロの足元へと白濁した触手を伸ばす。
 「メタルハート」
 ディアボロは笑っている。
 何より無邪気なのが手におえない邪悪な微笑。どす黒い愉悦に浮かされた狂気の笑み。
 唇を歪な形に割ったまま、引き金を引く。
 銃口から発射された弾丸が死体の心臓を抉る。
 床を蹴って跳ねた死体の下に黒い血だまりができる。
 白濁した脳漿と内臓と血が混濁した泥濘が床一面に筋をひいて緩慢に広がっていく。
 無数の黒点に蝕まれ、蜂の巣になったフォーマシィは物言わず、ディアボロに蹂躙されるがままとなる。
 「ブリキの左足」
 短く息を吸い、左膝を撃ち抜く。弾丸に撃ち抜かれた膝が砕け、靭帯がちぎれる。
 「ブリキの右足」
 ディアボロの目は炯炯と輝いていた。心底このお遊戯を楽しんでいるのだ。
 眼鏡のレンズに銃火が反射する。
 緋色に照り映えたレンズがディアボロの表情を隠す。
 だが、その口元は笑っている。
 弛緩した口元には唾液の泡が付着し、獰猛に剥かれた犬歯は滾った獣性を象徴していた。
 銃口を掲げる。引き金を引く。発砲。轟音。
 右膝が砕かれ、死体の足が大きく反り返って空を蹴る。
 返り血が全身を朱に染める。
 牛皮製の革靴を、上等のスーツを、黒いネクタイを、斑に染め替えてゆく。
 ぴちゃっ。
 頬に生温い水滴が付着する。血だ。返り血が散った頬にもかまうことなく、デイアボロは銃口を転じる。
 「干しぶどうのようなチンポコ」

 狂乱の宴に終焉を告げたのは一際甲高い銃声。

 死体の腰が跳ねる。
 絶頂を迎えたかのように尻を浮かし、腰を前に突き出した死体が、次の瞬間には完全に沈黙する。
 硝煙に巻かれて沈黙した死体を一瞥、銃をおろし、眼鏡のブリッジを押し上げる。幾筋もの硝煙を身に纏ったディアボロは、靴音高くフォーマシィの死体へ歩み寄る。
 それは、ただの肉塊だった。
 無数の穴が開いた肉塊。
 蹂躙し陵辱された哀れな男の亡骸。蜂の巣になった脂肪の塊。床に四肢を投げ出し、血の海に没した男の体には無数の銃弾がめり込んでいた。弾けた肉と脂肪の間から流れ出しているのは血だ。頭蓋骨の破砕された頭部からは半分ほど欠損した脳みそが覗いていた。弾丸に抉られた脳みそは羊のはらわたのような鮮紅色をしていた。
 食欲をそそる。
 無造作に手を伸ばしフォーマシィーのー正確には生前フォーマシィだった肉塊のー襟首を掴む。
 一体細腕のどこにこんな膂力があるのか、フォーマシィの襟首を引き上げるや光を映さぬ眼窩にずぶりと銃口を突っ込む。
 銃口に加える圧力を増す。
 筋肉組織の抵抗が手首を押し返す。
 グリップを握り締め、力づくで銃口を押し込む。
 ずぶ、ずぶぶ。重たい手応え。眼球を脳みその奥へと押し戻すあの感覚。
 「ぶひぶひ鳴いてるかわいい豚さん……」
 唇が動き、でたらめな節回しの歌を口ずさむ。即興の歌。狂った歌。
 眼窩に突っ込んだ銃口をぐりぐりと左右に回す。
 眼球が潰れるおぞましい感触が手に伝わり、白濁した水晶体がとろりと粘液質の輝きを放ち、手首を伝って床へと滴る。
 眼窩から銃口を引き抜く。眼球の陥没した眼窩は虚ろな闇を溜め、恨めしげにディアボロを見返していた。ディアボロは笑っていた。
 狂気に隈取られた、悪魔的な微笑。
 「かわいいかわいいめくらの豚さん、あんたのワイフはどこにいるっと」
 今度は左目だ。左の眼窩に銃口を突っ込み、手首のスナップを効かせて回す。
 銃口が半転する。視神経を轢断する感触がダイレクトに伝わる。
 軽快に口笛を吹く。
 眼球が潰れ、透き通った水晶体が涙のように眼窩から零れる。
 手首を濡らす液を見下ろし、ディアボロは黙り込む。手首を口へと運び、舌をだして舐めてみる。
 「苦え」
 顔をしかめる。銃口を引き抜く。
 眼窩を抉った銃口には、視神経の束が粘糸のように纏わりついていた。
 銃口に絡んだ視神経を手首を一閃して払い落とす。
 お次は口。
 中腰になり、断末魔の豚のように開いた口腔に銃口を突っ込む。
 エロティックな眺めに下半身が興奮する。
 ディアボロはぞくぞくしながら引き金を引きー

 銃声は響かなかった。

 「……あ?」
 怪訝そうに引き金を引く。
 カチャカチャ。むなしい手応え。弾切れか?使えねえ。せっかくいいところだってのに。
 
 銃声は遅れて聞こえた。

 上体のバランスが崩れ、視界が反転する。
 空気中に迸った銃火が全身を焼き貫く。
 薬莢が床に零れ落ちる甲高い音が耳朶を弾き、きな臭い硝煙と鉄錆びた血臭が混沌とたちこめ、撃たれた四肢が虚空で踊る。
 「………でえ………」
 頭がからっぽになる。
 なんだこりゃ。手をすり抜けた拳銃が円を描いて床を滑る。糸が切れたように床に膝をついたディアボロの体が、ずしゃりとその場にくずおれる。スーツの焦げ穴から染み出す血。全身が焼けるように熱い。この感覚を「痛み」というのだろうか。全身をよく熱した焼け火箸でほじくられているかのような筆舌尽くしがたい激痛がディアボロを苛む。
 目が眩む。
 耳鳴りが聞こえる。
 耳の底で輪郭の割れたへビィ・メタルが鳴り響いている。
 
 なんだこりゃ?

 脳裏で赤信号が点滅する。思考が空転する。鼓膜に蜂の大群が攻めてくる。
 重低音を伴ったノイズが鼓膜を蝕み、脳みそを浸食してゆく。
 床にうつぶせたディアボロは砕けそうになる肘を叱咤し、よろよろと上体を起こす。 
 「はしゃいでんじゃねえよ、ガキ」
 銃声。
 「!!」
 肘が滑り、血の泥濘に突っ伏す。
 右肩に激痛。
 焼き鏝を押し付けられたかのような灼熱感が肩甲骨を溶かし、喉から苦鳴が迸る。
 体勢を立て直す間もなく銃声が連続する。
 朦朧と霞む視界に黒い影が映りこむ。
 極限の生理的嫌悪と憤怒に顔を歪めた男達がディアボロに向かい無慈悲に引き金を引く。
 最初の一発は、おそらく事故だった。
 二週間余りもフォーマシィーを追い続け、漸く追い詰めたと思ったそばから横取りされ面目丸潰れ。
 共闘の提案を受け入れたデミトリ家の裏切りに憤り、しかも工場内に入ってみれば、自分たちに先んじてフォーマシィを仕留めたガキが嬉嬉として死体をいたぶってやがる。
 デミトリ家跡取りの特権を乱用しヤりたい放題の暴虐無人っぷり、狂気と悪趣味の成せる技たる死体蹂躙の光景をまざまざ見せつけられ、嫌悪の極みで引き金を引いた一人に仲間が追随し猛烈な勢いで銃弾を浴びせる。
 銃火に照らされ引き金を引く男たちの顔に憎悪の皺が波打つ。

 「ガキのくせに生意気なんだよ」
 「フォーマシィを殺るのは俺たちの仕事だ」
 「お前が足止めの銃撃戦なんか仕掛けなきゃ俺たちが仕留めてたんだ」
 「デミトリ家の分際ででしゃばるなよ」 
 「時代遅れのデミトリ家は旧市街にひっこんでろよ」
 「お前の出る幕なんてはなからなかったんだよこの包茎」
 「フォーマシィ殺った奴にはボスから報奨金がでるのに」
 「どうしてくれるんだよ包茎」

 『包茎じゃねえ』

 男達は怒りに駆られあるいは無表情に引き金を引く。
 わざと急所を外している。
 それが証拠に、ディアボロはちゃんと意識を保っている。
 痛覚の許容量はとうに超えた。
 全身を責め苛む激痛に神経が焼ききれる。
 脳みそを素手でかき回されているようだ。
 体中の痛みのツボに電極を繋がれ、マックスの電流を間断なく流されているようだ。
 「ッぐ、」
 前髪を掴まれ、強引に仰向かされる。
 髪を掴んだのとは逆の手で顎の下に銃口をさしこまれ、無理矢理仰け反らされる。
 ディアボロの前髪を雑草を毟るように掴んだのは、三人の刺客の中でも最も人相の悪い黒服の男。年齢は四十代前半だろうか。
 目と鼻の先にある男の顔を瀕死のディアボロは凝視する。
 男の目が酷薄に細まる。
 シュレッダーにかける直前の生ゴミでも見下すような目つき。
 「……まちげえねえ、ディアボロ・デミトリだ。部下にも煙たがれる四代目の特徴は祖父とどっこも似てねえ真っ黒い目と髪、カール・ツァイス社製のお高い眼鏡。こいつにゃ三拍子そろってる」
 「表でもえらっそうに命令してたしな」
 「こんなガキにへいこらしやがって、デミトリ家の連中ときたら情けねえ」
 「マフィアの名門もお先真っ暗だな」 
 周囲の黒服が口笛を吹きはやし立てる。
 好奇心も露わに歩を詰めるや、前髪を掴まれ苦痛に顔を歪めるディアボロをじろじろねめつける。
 不躾な視線が脳天からつま先まで上下し、重点的に顔の造作を舐める。
 目で犯されてるようで辟易する。
 自分を取り囲む男たちはどいつもこいつも鈍そうな間抜け面をしてる。
 隙をついて逃げ出せるか?
 選択肢の是非について検討する暇もなく、リーダー格の男に手荒く前髪を揺さぶられる。
 毛根に激痛が走り、たまらず苦鳴を漏らす。
 頭皮をひっぺがされるような激痛に喘ぎもがくディアボロを至近距離で鑑賞しながら男は舌なめずりする。
 男たちの嗜虐心を満たすためにこれから行われるショーがどんなものであるのか、ディアボロには漠と予想できる。
 何故ならディアボロはー認めるのも癪だがー男たちと同じ人種なのだから。
 「……名前を知ってるんなら話ははええ」
 息も絶え絶えになりながら反駁する。
 全弾急所を外してあるとはいえ出血量は洒落にならない。今も全身が痛いのだ。
 脇腹へ食い込んだ弾丸が声を絞り出すたびに尖った先端を奥へ奥へと侵入させている。
 胃壁を食い破るのも時間の問題。
 片手で脇腹を庇ったディアボロは、硬直する顔筋を無理に引き上げ、相手の神経を逆撫でする不敵な笑みを拵える。
 「即刻このイカ臭い手をはなせ。てめえの右手に三十八口径なんざ過ぎた玩具だ、お友達はお粗末なペニスで十分だろうが」
 リーダー格の顔に怒気が漲る。
 憤怒の形相に変じたリーダー格が銃口に圧力を加える。
 ディアボロは鼻でせせら笑う。火に油を注ぐ態度。

 身の程をわきまえぬガキに、リーダー格がキレる。

 「!!!!」
 鳩尾に蹴りが炸裂。
 体を二つに折り、声もなく悶絶するディアボロ。
 蹴られた脇腹からじくじくと赤い染みが滲み出す。
 傷口を抉る容赦ない一撃。口の端から糸を引いて唾液が滴る。
 一瞬天国が見えた。
 背中から翼を生やした金髪美女が『GoGo Heaven!』と書かれた看板を持ち、股をおっぴろげてカモンカモンとしてる幻覚が見えた。
 縁起でもねえ。
 つーかなんだこの安物ポルノみてーな幻覚は?ベタすぎ。即刻その弛んだ股閉じねーとぶっとい銃突っ込んで弾切れまで撃ちまくるぞ。
 迎えに下りてきた天使にダメ出しし、死に瀕しても貧困すぎるおのれの想像力を呪う。
 熱した鉄板の上の芋虫のように身を捩るディアボロ、その右肩に衝撃。
 黒服の一人に蹴倒されたのだと察した時には既に手遅れ。
 靴底が見えたと思った次の瞬間、泥まみれの平面で顔を踏まれた。
 靴底に体重がかかる。
 窒息。
 腰に衝撃。
 左肩に衝撃。
 右足を蹴られる。
 頭を蹴られて意識が飛ぶ。
 明滅する視界。
 遠近法の狂った天井。
 鈍い音、音、音。
 降り注ぐ靴底と飛び散る血痕。
 全身に張り巡らされた神経が悲鳴を上げ、ブスブスと音を立て焦げ付いていく。
 苦痛の信号が殺到して神経が焼き切れる。
 尖ったつま先で脇腹を蹴られる。
 体がゴム鞠のように跳ね、口から血塊を吐く。
 内蔵がひしゃげるおぞましい感触とともに脳天で真っ白な閃光が弾ける。
 今のディアボロをあらわす言葉は一語に尽きる。
 『なぶりもの』。
 「………でぇ」
 靴底が振り下ろされる。
 絶え間ないノイズが鼓膜を蝕む。
 ディアボロは混乱していた。
 何が起こっているのかわからなかった。
 否、脳が今自分に降りかかっている災難を冷静に分析することを拒否していたのだ。
 肘をつき、上体を起こす。
 瞼の上が切れ、大量の血が目に流れ込む。
 視界が赤く歪む。
 赤く歪んだ視界に立つは醜悪な笑みを浮かべた男たちが三人。
 満身創痍のディアボロを見下ろし、にやにやと笑っている。
 いけすかねえつら。ザーメンぶっかけてやろうか。
 「……てめぇら、俺がどこのだれだかわかってんだろうな」
 切れた唇を動かし、息も絶え絶えに罵倒する。
 不規則に乱れた呼吸の間からこぼれでた声は、自分でもびっくりするほどよわよわしかった。威圧感の欠片もない。
 命と秤にかけた脅迫にも男たちは動じない。
 眉一筋動かすことなく、かえって毒液の滴るような笑みを満面に広げてみせる。
 性根の腐りきったリーダーがディアボロの頬を踏み、囁く。
 「旧市街を支配下においた血のデミトリ家の後継者、次期当主のディアボロ・デミトリ様だろう?間違ってたら訂正してくれよ、お坊っちゃま」
 『お坊っちゃま』
 導火線に火がつく。
 血が滲むほどに下唇を噛み締め、憎悪に煮えた双眸でリーダー格をねめつける。
 激怒したディアボロを見下ろし、リーダー格は冷ややかにせせら笑う。
 「この呼び方は気に入らなかったようだな。なんてお呼びしたらいい、デミトリ老の七光りのお孫さま?」
 「!」
 咄嗟に懐を探るも求めた感触は得られない。
 当たり前だ、ディアボロの拳銃は手の届かぬ遥か遠くに転がっているのだ。
 激しい怒りにかられたディアボロの背を、残りの二人が情け容赦なく踏みつける。
 虐げられた野良犬さながらぶざまな格好で床に突っ伏したディアボロは、重圧に逆らい顎を上げて男達を睨む。
 殺意が装填された双眸を受け止め、リーダー格は絶対的優位を誇示するかのように微笑む。
 掌中で拳銃が踊る。
 右から左へ、左から右へ。
 両の掌を行き交う拳銃が時計の振り子のように見える。
 刻々と時を刻む無慈悲な振り子。カウントダウン。
 脈絡のない連想に笑みが浮かぶ。
 腹の底から沸々とどす黒い笑いが湧いてくる。
 突如として笑いの発作に襲われ、肩を震わせ低く低く笑う。
 口の端が歪に引き攣り、音程の外れた笑い声がこぼれる。
 陰陰滅滅とした笑い声が長く尾を引き、高い天井に殷殷と木霊する。
 最高に愉快な気分。どうしちまったんだ、度を越した激痛で頭がイカレちまったのか。
 胃袋を蜂の子にかじられてるようだ。じかに内蔵をくすぐられてるようだ。
 肩を痙攣させ、笑い続けるディアボロの右則頭部に衝撃。
 頭蓋骨が鳴り、火花が弾ける。
 銃身で殴打されたのだと気付いたのは、笑い声を上げる気力も尽き、床に四肢を投げ出して頭上を仰いだ時。
 リーダー格の掌中で鈍く光っているのは黒い拳銃。
 殺傷能力に特化した形状の無骨な銃で美しさのかけらもない。

 あんな拳銃は美学に反する。
 持ち主のセンスを疑うぜ、まったく。

 胸中毒づいたディアボロを見下ろし、リーダー格がうっそりと口を開く。
 「俺を殺せばデミトリ家が黙っちゃいないー……そう思ってんなら大間違いだ」
 「?」
 なにいってんだこの低脳ブタは?
 訝しげに眉をひそめたディアボロの鼻先に銃口をつきつけ、おもむろにしゃがみこむ。
 不気味な笑みを浮かべた顔を突き出し、ねっとりと耳元に囁きかける。
 「お前がひとりでフォーマシィを追って工場に駆け込んだのに、今んなっても仲間が助けにこねーのはどういうわけだ?当然表に銃声が漏れてるのに、だれひとりとして様子を見に来ねーのは?お前の悲鳴も表に聞こえた、けれどもだあれも助けにこねえ」
 「見殺しにされたんだよ、お前は」
 「デミトリ老にゃお前が勝手に銃撃戦しかけて飛び出してった、自分たちはお前の尻拭いで手一杯だったって釈明すりゃいい。寛大な人柄で知られるデミトリ老なら、跡取りの孫が死んだのは哀しいが自業自得なら仕方ねえって、もちろん許してくれるだろうさ」
 「お前が死にゃ全部まるくおさまる。お前の勝手な振る舞いにほとほと手を焼いてた部下どもは示し合わせて口を噤み、『四代目の暴走を止められなかったのは俺たちの責任、今後ますますデミトリ家に尽くすことでこの罪贖いたき所存』とか何とか、てきとーにお悔やみ申し上げるだろうさ」
 「その証拠にだーれも助けにこねーじゃねーか」 
 「いっそ死んでくれた方がいいって思ってんのさ、みんな」
 「俺達はボスに報告する。先に裏切ったのはお前達デミトリ家、撃たれたら撃ち返すのがマフィアの流儀。俺たちゃ『やむをえず』応戦して『仕方なく』お前を殺したんだ。ほら、筋は通るだろーが。お前が先に発砲した所は敵味方ひっくるめ全員が目撃してる。部下にも庇う義理はねえ、死人ならなおさらだ」
 男達の言葉をひとつひとつ斟酌し、片腕で懐を抱き、苦しげに上体をずり起こす。 
 「死人に口無し………そうか、そうか、なるほどね。憎まれ役のブラックシープはそこに散らばってるミンチじゃなく、実はこの俺様だったってわけか。反吐が出るほど素晴らしい提案だ。虫唾が走るほど悪知恵が回るじゃねえか。あっぱれだぜこの野郎」
 体からは大量の血が流れ出し、生命は底を尽きかけている。
 思考が次元を突き抜けて飛躍する。
 「そうだ、そうだ、そうだよな。核弾頭を始末しちまえば後々抗争の火種はなくなる。ジジィの跡目はいなくなり、おまえらの天下ってわけか。なるほど名案だ。最高のショーだ。けっ、拍手がご所望か?生憎そんな元気はねえが、貴君らの愚鈍な見かけによらず回転速度の速い頭脳には恐悦至極、いやはや恐れ入りましたとでもいえば満足かよ?」
 酔っ払ったようにのべつまくなしに捲くし立てる。
 血糊がついた眼鏡越しに、据わった双眸が荒みきった光を放つ。
 ディアボロの背を踏んでいた男たちが気圧されたようにあとじさる。
 ゆらりと上体を起こす。
 「……俺の前に突っ立ってるあっぱれな屑野郎に質問だ」
 唇をねじるようにして笑う。
 右肩から脇腹から全身から、今こうしているこの瞬間にも生命を溶かした血がじくじくと染み出している。
 上等のスーツはところどころ破け、朱に染まっている。

 血の染みは落ちにくいのにどうしてくれるんだ、まったく。
 生きて帰れたらクリーニング代を請求してやる。

 胸の中で算盤を弾きながら、殴られ蹴られしている最中にも抱いていた疑問を吐露する。

 「……これは、フィロソフィアの指示か」

 眉間に銃口が擬される。
 頭蓋骨に食い込む冷たい鋼の感触、非情な温度。
 銃口の奥から死神の囁きが聞こえてくる。
 「どういうことだ?」
 眉間に銃口を擬したリーダー格が低く問う。
 その顔から笑みが払拭され、にわかに真剣みを帯びる。
 豹変した男の顔色を窺いつつ、ディアボロは淡々と指摘する。
 「歓楽街の覇権を争ってずっと対立してたフィロソフィアが、協調だ何だ甘ったるい寝言申し入れてくるなんておかしいと思ったんだ。たまたま俺から先にぶっぱなしただけで、最初からそのつもりだったんじゃねーか。俺達と組んで裏切り者を追えってのはデタラメの建前で、どっちにしろ用済みになったら片付けるつもりだったんじゃねーか。それこそジジィにはデミトリ家の方から撃ってきたと釈明すりゃあいい、こっち側の生き証人を残さなきゃ済むこった」
 「根拠は」
 眉間に擬された銃口にも怯える気配は毛頭なく、ディアボロはほくそえむ。
 「俺が発砲すると同時にそこらじゅうの路地からわらわら湧いてきたのが十人以上、かくれんぼしてるのが多すぎだ。しかもその全員が剥き身の銃をひっさげてた。ちょっと準備がよすぎやしねーか?路地にひそんでた連中が聞いたのは銃声だけで、あの暗さと距離じゃどっちが撃ったかなんて全くわからなかったのに。路地に分散してたのはフォーマシィを殺ったあと俺達を殺すために用意した連中だろ。どうだ、ちがうか」
 「妄想だ」
 言葉とは裏腹に図星をさされた苦渋が顔に滲む。
 顔に本音を出した失態を糊塗するかのように、異様な興奮を秘めた早口で捲くし立てる。
 「……これは俺たちの独断だ。大体はなから気に入らなかったんだ。なんで規模でも人員でも勝る俺たちの組織が、過去の栄光にしがみついてる没落しかけのデミトリ家なんかと協調しなけりゃなんねえ?ああ、お前のことは知ってたよ。今回の任務ではデミトリ家と連携して本の捜索に当たれとボスに言い渡されてたからな。で、その際デミトリ老が提示した条件てのが孫のお前に指揮をとらせる事。馬鹿にしてるぜ、15かそこらのガキと組んで捕り物にあたれなんてよ。けどまあ、都合よくデミトリ家の方から裏切ってくれるたあ思わなかったぜ。おかげで殺す言い訳が立つ」
 ディアボロはわざとらしく驚くふりをする。
 「見上げた忠義者。フィロソフィアと出来てやがんのか」
 唇の端をねじる揶揄に応じたのはしたたかな殴打。
 銃身で殴られ、割れた額から鼻梁に沿って血が垂れ落ちる。
 冷徹無比な鉄面皮の下に怒りを押し込めたリーダー格が、改めてディアボロの眉間に銃口を当て、引き金に指をかける。  
 「……お前の言い分にも一理は認めてやる。頭のキレるボスのこった、はなからこの事態を見越して俺たちをさしむけたのかもしれねえ。マルコ・デミトリは老い先短い身だ。お前が死にゃあデミトリ家はあと十年も保たねえだろ。どういうことかわかるかお坊っちゃま?」
 ガリッ。
 骨を削る嫌な音とともに銃口が額にめりこむ。
 「十年後にゃ俺たちの天下ってわけさ」
 「十年も保たねえだろ」
 「せいぜい五年がいいとこだ」
 左右に侍る仲間が勝利の哄笑をあげ、銃を握った男が喜悦の笑みを唇に乗せる。
 「ひとつ確認していいか?」
 ディアボロの口から漏れたのは、額に銃を押し当てられた人間のそれとは思えぬ驚くほど冷静な声。
 「ジズ・フィロソフィアの許可はとってねえんだな?」 
 抑揚に乏しい声で淡々と指摘され、笑い声がふっつり途切れる。
 「それがどうした?」
 「……くっ、ははっ」
 「なにがおかしいんだ」
 「てめえら、ジズにお尻ペンペンされるのが怖くねえのかよ」
 「!?なっ……、」
 気色ばんだ男たちの輪の中心でディアボロはけたけたと笑っていた。
 リーダー後方の二人が薄気味悪そうにディアボロから距離をとる。
 引き金にかけた指が震えていることに気付き、リーダー格は愕然とする。
 掌がじっとりと汗ばみ、体中の毛穴から粘液質の汗が噴出す。
 グリップに巻いた指が汗でぬめり、銃身が滑り落ちそうになる。
 神経症的に上下する銃口を見つめるディアボロの目は、ただ黒い。

 地獄のような目だ。

 ディアボロは一瞬たりとも逸らすことなく銃口を見据えていた。
 挑むような凝視。
 これから死のうとしているガキが、はたしてこんな目をするものだろうか。
 子供を殺した経験はある。それも一度ならず。
 ディアボロよりもっと幼い子供を、ずっと残酷な方法で嬲り殺したこともある。
 その時とて、引き金を引くのを躊躇したことはなかった。
 こんな醜態を晒したことなど一度もなかったのだ。

 それなのに。
 なんでこのガキは笑っていやがるんだ?

 もうすぐ死ぬのに。
 さんざん殴られ蹴られ嬲られへばってるのに。

 恐怖心が、ない?
 自分が死ぬ事が、どうでもいい?

 悪魔が地獄に落ちるのをいまさら恐れもしないように、
 開き直った澄まし顔で。

 「どうした?引けよ」
 ディアボロは極上の笑顔で促す。
 「その黒くて硬くてぶっといモンを俺の中につっこんで、内臓をぐちゃぐちゃにかきまわしてくれよ」
 眼鏡の奥の目が弦月を模して細まり、血染めのスーツに包まれた腕が銃口へと伸び、掴み、男の腕ごと引き寄せ……
 「-----------っ!!!」
 
 銃声が轟いた。

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Devilish | コメント(-) | 19951228103405 | 編集

 スーツの胸や腹を灼熱の弾丸が穿つ。
 赤い飛沫が床で跳ね、血だまりが広がる。
 連射された火線が闇を切り裂き、全身血まみれになったディアボロを克明に暴き出す。
 六発、全弾を撃ち尽くす。
 引き金から抵抗が消えたことにも気付かなかった。
 濛々と立ち込める硝煙の中、足腰踏ん張って仁王立ちしたリーダー格は、肩で息をしながらずたずたに裂けたスーツの端切れを見下ろす。
 「……殺った」
 絶命したディアボロを見下ろし、生唾を飲み込む。
 爆発したような歓声が上がる。
 下を向いた銃口からか細く硝煙がたなびく。
 薬莢が散乱するコンクリ床に仰臥していたのは、スーツの切れ端を申し訳に纏った肉塊。
 糸が切れた人形のように無造作に四肢を投げ出し、瞳孔が開いた目を虚空に向けた死体には、眉間にも胸にも脇腹にも至る所に無残な弾痕が穿たれている。
 硝煙をまとってこの世に誕生した真新しい死体ーもとい、変わり果てたディアボロを見下ろし、彼に手を下した主犯格は長々と息を吐く。
 すべては杞憂だったようだ。
 どんな気味の悪いガキでも殺しちまえば一緒じゃねえか。
 拳銃を懐にしまい、男はせいせいとした笑みを浮かべる。
 「けっ、皮も剥けてねえガキが手間かけさせやがって」
 下卑た悪態をつき、死体を蹴飛ばす。
 死体はされるがままごろんと寝返りを打つ。
 暗い天井に哄笑が爆ぜる。
 全身穴だらけとなり息絶えたディアボロの亡骸を囲み、死者への哀悼の念とは無縁な下劣な笑みを浮かべた男たちは揶揄を交えて雑談する。
 「なかなかしぶてーガキだったな。でもまあこれでおしまいだ」
 「もうちょっと延ばして遊んでやりたかったけどおもてもクライマックス近しって感じだし、早いとこ始末にかからなきゃな」
 「けどよ、こいつが中で死んでのに追い込んだ俺達が一発も喰らってねーのはまずかねーか」
 「死なねえ程度にお互い撃ち合って演出すっか」
 「表で死んでるヤツら適当に引っ張ってきて転がしゃすむっこったろ」
 「鑑識にバレねーか?仮にも孫の死因だ、デミトリ老は徹底的に洗い直すだろうぜ」
 「知るか。先に撃ってきたのはコイツだ、俺たちゃ自衛に打って出たまでさ」
 「そのへんはボスが上手くフォローしてくれるだろ」
 「厄介払いできて感謝してほしいくらいだぜ」
 楽観的な見通しを語る男たちの口ぶりには、任務から解放された安堵が漂っている。 
 ディアボロに手を下し勝利の余韻に酔っていたリーダー格は、懐に銃をしまうと同時に本来の使命を思い出す。
 自分に課された使命は本の奪還。
 ディアボロの殺害は余興に過ぎない。
 「おい、本は?」
 リーダー格の呟きに仲間が顔を見合わせ、慌てて四方に視線をとばす。

 あった。

 歓喜に燦然と輝いた顔が、次の瞬間には暗澹とした失望に塗り潰される。
 「しくじった……」
 失念していた。
 ディアボロをいたぶることに専念していたため、本の存在を忘却していたのだ。
 結果、床に放置された本はディアボロの全身から流れ出した血に漬かっていた。
 右肺を撃ち抜かれ即死したフォーマシィとは違い、ディアボロは死に至るまでが長かった。
 一重に男たちが楽しみを優先した結果だが、そのためディアボロは絶命するまでに大量の血液を失っていた。
 なお悪いことに、本の落下地点はディアボロの死体と2メートルと離れていない。
 二体の死体の傍らを横切り、血の海に浸った本へと歩み寄る。
 心なしか、たっぷり血を吸って膨張しているようだ。
 「どうすんだよ、これ。ボスご所望の大事な本だぜ」
 血の海に浮かぶ本を見下ろし腹立ち紛れに毒づくリーダー格に、仲間が気楽に提案する。
 「洗濯して乾かしときゃいいじゃねえか。読めれば問題ねーだろ」
 「馬鹿かお前、もとはといえばボスが俺達動員してフォーマシィ追わせたのも本を取り戻すためだろが。絶対に無傷で取り戻せってのがボスのご命令だ、万一傷一筋でも付いたら……」
 『死をもって償ってもらう』
 対面したボスの言葉を思い出し、リーダー格の顔が固く強張る。
 不安げに押し黙るリーダー格の様子から漸く事の深刻さが飲み込めた仲間も、自分たちに下される制裁を想像し、後ろめたげに目を見交わす。
 デミトリ家の跡取りを嬲るのに夢中で本が血に染まってるのに気付かなかったなどという言い訳がジズ・フィロソフィアに通じるわけがない。
 ジズ・フィロソフィアが第一に命じたのは本の奪還、本さえ無事ならフォーマシィの生死はどうでもいいと言った。
 デミトリ家と共同でフォーマシィを追い詰めた上で作戦終了次第、あたかも相手側に非があるかのような不可抗力の撃ち合いに見せかけてデミトリ家の残党を始末しろというのが第三の命令で、優先順位は一番低い。
 にも拘らず自分たちはボスの命令を無視し、無傷で取り戻せと厳命された本をたっぷり血の海に浸けこんでしまった。
 早晩下される制裁を予期し、絶望的な顔で立ち竦む仲間に舌を打ち、リーダー格は虚勢を張った大股で本に歩み寄る。
 「そうびくつくなって。よく見ろ、ちょっと表紙に血がついてるだけじゃねーか。こんくらいどうってこと……」
 わざと明るい口調で言いながら中腰になり、本を拾い上げようとした刹那ー……。

 あり得ざる異変が起きる。

 「な……!?」

 仲間が叫ぶ。
 男は絶句する。
 目の前で起きていることが信じられない。
 なんだこれは。
 すり足であとじさる。極限まで目を剥く。
 驚きなどという生易しい言葉では表せない、総毛立つような戦慄。

 本が輝いている。

 男の手が触れると同時に、球形の光を纏って輝き出したのは表紙の五亡星。
 中央の五亡星が、禍々しい紅蓮の光を四囲に放っている。
 本がひとりでに光り出すなどあるわけがない。
 だが、現実にはあるわけのないことが目の前で起きている。この異常事態をなんと説明したらいい?

 どくん。

 「………は?」
 心臓の鼓動が聞こえた。
 どくん。
 まただ。力強い生命の波動。
 背後の仲間たちが無意識に自分の胸へと手をやる。
 どくん。規則的な心臓の音。どくん。どくん。どくん。胸騒ぎがする。おそろしい予感。ぎくしゃくと顔をあげた男は、今度こそ絶叫した。
 血に没した本の中央、朱に染まった五亡星のそのまた中心に幾重にも絡まりあって収束していくのは、大小の血管ではないか?
 表紙に浮かび上がった無数の血管は複雑精妙に絡まり合い、節こぶだらけの管は実際に血を運搬するかのように一定の間隔で脈動している。
 否、実際に運搬している。
 血を、吸い上げている。
 「ひ、あ、ぎっ………」
 あまりにも理解をこえおぞましい光景に、仲間が口々に悲鳴を発する。
 血の海に浮かんだ本は、ディアボロの亡骸から流れ出した血を浮かび上がった管にて貪欲に吸い上げ、表紙の中心に出現した赤い器官へと運んでいく。五亡星の中心に浮かび上がる、あの器官は……紛れもない、剥き出しの心臓。それもホルマリン漬けの標本ではない、実際に生きて活動している原寸大の心臓。
 どくんどくんどくん。
 はやまる鼓動。脈動する心臓。
 禍々しい紅蓮の光が膨張と収縮をくりかえし、次第にその勢力範囲を広げていく。
 確信した。
 この本は生きている。
 「……ば、化け物……」
 乾いた舌の根を動かし、本の最短距離にいたリーダー格が叫ぶ。
 後方の仲間たちは揃って腰を抜かしていた。
 男たちが声を失っているその間も、五亡星の心臓は規則正しく脈打っていた。
 複雑に絡まりあった血管が液化した生命を注入するごとに、五亡星の心臓は萎縮と膨張を繰り返し、次第に生き生きとした色艶を帯びてくる。
 
 「あああああああっあっああああああああっ!」

 後方の仲間たちが電光石火で懐から銃を取り出し狂ったように引き金を引く。
 発光する本に向け、否定感情全開の奇声を発しつつ全弾を撃ちこむ。
 鉛弾の嵐が本へと降り注ぐ。
 甲高い金属音が耳を射る。
 着弾の衝撃で本を固定していた蝶番が弾け、禁断のページが開く。
 凄まじい勢いでページがめくれてゆく。
 赤い輝きが世界を飲み込むほどに膨張し、工場内を業火の色彩に染めかえる。

 五亡星から巨大な光の柱が立つ。
 天衝く光の柱から紅蓮の奔流が鞭のように撓り飛び交い、轟々と愚風が吹きすさび、魔力の波動が暴発する。

 『اَلسَّلامُ عَلَيْكُمْ.』

 瞬殺だった。
 鼓膜を貫いた断末魔に振り向いた時には、仲間が血霧と化して消し飛んでいた。
 赤い雨がコンクリ床を穿ち、生臭い肉片がバラバラと頭上に降り注ぐ。
 「------------!!」
 酸鼻を極めた地獄絵図にこの場で唯一人生き残ったリーダー格は失禁する。
 ズボンの股間を濡らし、半狂乱であとじさった男の耳朶を、玲瓏と澄んだ美声が叩く。

 『君かい、私を呼んだのは』

 「!」
 背筋に電流が走った。はじかれたように振り向く。
 だれもいない。なにもいない。本だけが赤々と輝いている。

 『やれやれ、鈍いマスターだね。ここだよ、ここ』
 
 また声がした。不思議な声だ。老人と子供が同時に喋っているような矛盾した性質、それでいて神々しいまでに澄んだ美声。
 軽く笑いを含んだ悪戯っぽい声が波状を描いて男のもとへと押し寄せてくる。
 ただ一人生き残った男は完全に恐慌状態に陥る。
 恐怖と混乱の絶頂で理性を喪失し、大量の脂汗で顔面をぎとつかせた男を翻弄するかのように、深遠なる大宇宙の彼方から冥府の底から遠く近く愉快犯の声が響き渡る。
 『ここさ』
 耳元で声がする。
 驚愕に眼球がせり出す。
 虚空に男が浮かんでいる。
 絶世の美形と形容してもいいだろう超自然的なまでに整い過ぎた容姿の男。
 これほどまでに美しい容姿を持って生まれ落ちたのは天使かーさもなくば悪魔に違いない。
 どうやら後者だったようだ。
 まず目を引くのは、腰まである艶やかな黒髪。そして、極上の大理石のようになめらかな白い肌と鮮やかな対を成す真紅の目。均整のとれた長身と釣り合いがとれた四肢を包んでいるのは、ぴたりと肌に密着した長袖の黒衣。
 全身黒で覆われた中、最上級の紅玉を嵌め込んだ切れ長の眦だけが晧晧と輝いている。
 赤い目の悪魔は、男の隣で悪戯っぽく微笑んでいた。
 「お、お前は……!?」
 逃げ腰の男に震え声で誰何され、黒髪の男は器用に片眉を跳ね上げる。
 召喚したお前がそれを問うのか、と。
 だが次の瞬間には、黒髪の男は寛容な笑みを浮かべていた。
 『我が名はメフィスト』
 そして、ささやかな茶目っ気を覗かせてこう付け加える。
 『本の亡霊ーほんの悪霊さ』

                             +            


 ……ここはどこだ。
 真っ白だ。
 視界を遮るものはなにもない。
 漂白された世界の中心に自分だけがぽつねんと立ち尽くしている。
 ディアボロは夢見心地であたりを見回した。
 木も草も生えぬ不毛の荒野。
 鳥の鳴き声も車の騒音も聞こえない無音の世界。
 起伏もなにもない、ただはてしなく平面が広がるだけの虚無の荒野に立ち尽くし、死後の世界にしては味気ないと幻滅する。
 天国も地獄も幻想で、今自分がいるここが本当の死後の世界なのだろうか。
 所詮天国も地獄も人間の妄想の産物に過ぎないのだろうか。 
 「……つまんねえ」
 呟く。
 女も酒もマリファナもない世界なんて退屈この上ない。
 景気よい音楽でも流れていればまだしも気分が晴れるのだが、どんなに耳を澄ましても衣擦れの音ひとつしない異常な静けさに包まれている。
 現世では騒音の渦に巻かれて暮らしていたため、音がないと落ち着かない。
 知らず知らずのうちに古い童謡を口ずさむ。
 幼い頃覚えた陳腐な歌。
 「ハンプティ・ダンプティ 塀の上 ハンプティ・ダンプティおっこちた……」
 気まぐれに唇をかすめる途切れ途切れのマザーグース。
 気ままに歩を踏み出す。
 見えないが、地面はちゃんとあるようだ。
 肉眼で認識できないだけで一応歩けることは歩ける。なんともでたらめな世界。
 それともこれは「下」イコール「地面」の形式にのっとっている借物の世界で、本当は上下も左右も存在しないのが正しいのか?
 どうでもいいか、んなこた。
 形而上学がどうたらこうたらは考えただけで眠たくなる。死後の世界についての考察はインチキ霊媒師にでもやらせとけ。
 ふんふん鼻歌を奏でながらディアボロは目的もなく歩き出す。
 「ハンプティ・ダンプティ塀の上 王様の軍隊に見とれてあれよ ハンプティ・ダンプティおっこちた……」
 『音痴だ』
 「?」
 不躾な指摘に立ち止まる。
 眉根を寄せて振り返る。
 だれもいない。確かに耳元で聞こえたと思ったのに。
 釈然とせぬまま歩を再開する。ハンプティ・ダンプティ塀の上 ハンプティ・ダンプティおっこちた……
 『音程が外れている』
 「だれだおまえ」
 余計なお世話だ。
 尖った声で誰何したディアボロの前に忽然と男が現れる。
 目をしばたたく。
 目の前に立っていたのは痩せ形の優男。
 中性的に整った顔に柔和な笑みを浮かべ、きちんと折り目のついた清潔なシャツと簡素なスラックスを身につけている。
 肌の色は遺伝子の先天的疾患を疑うほど白い。
 だが何より印象的なのは、色の抜けた髪の下で凛冽と輝く赤い目。
 髪と肌が透けるように白いだけに、瞳の赤さが鮮烈なまでに際立つ。
 『僕の世界に踏み込んできたのは君の方さ。だから、君から名乗るのが筋じゃないかな』
 優男の言葉に違和感をおぼえたが、煎じ詰めて考える気も起きず、ディアボロは肩を竦める。
 一発殴りつけてやってもよかったが、幽霊相手にーここが死後の世界だとすれば当然そうなるだろうー拳をふるってもむなしいだけだ。
 胸の内に丁寧に殺意を畳み込み、顎を引く。
 眼光鋭く目の前の男を威圧し、名乗りを上げる。
 「ディアボロ・デミトリ。洒落た名前だろ?」
 『悪魔ー……』
 「そう、悪魔」
 男の唇の動きを見つめながらディアボロは楽しげに肩を揺らす。
 男は奇妙な表情でディアボロを見つめていたが、秀麗な面差しに憂いの翳りが射す。
 『その名前は誰がつけたんだい?』
 疑問形で尋ねられてもディアボロは毛ほども動じない。
 男の顔に浮かんだ疑問符を観察しながら、感情を殺げ落とした口調で付け足す。
 「俺を産んだ売女」
 男が目を丸くする。いちいち反応が大袈裟だな。
 「お次はあんただ。なんなら紹介の手間省いてやるよ。新しい名前はどれがいい?白子、赤目、カマ野郎、マザーファッカー、犬の糞収集家、近親相姦のブタ野郎……」
 熱に浮かされたようにまくし立てるディアボロを遮ったのは、凛とした声だった。
 『ファウスト』
 ディアボロはぽかんと口を開けたまま、まじまじとファウストと名乗る男を見た。
 ファウストがにっこりと微笑む。
 『本の中に閉じ込められた愚者の魂ー……フールソウル・ファウストさ』
 「フールソウル?洒落か」
 親しげに微笑して片手をさしだしたファウストを一瞥、ドスの利いた声を吐く。
 きょとんとしたファウストを無視し、大股に歩き出す。
 憤然と足を踏み出したディアボロだが、三歩進んだ地点ではたと立ち止まる。
 「……ちょっとまて。今、本の中って言ったか?」
 『言ったよ』
 「つーことはなにか?ここは天国でも地獄でもないのか」
 『天国でも地獄でもないよ』
 こめかみに人さし指をあて暫時黙考、先刻の会話で覚えた違和感の正体を突き止める。
 ファウストは「僕の世界に踏み込んできたのは君のほうだ」と言った。
 以上の材料から仮説を導き出すに、ディアボロがいるこのはてしない空間は、「僕の」と所有格で語られる世界の一部なのだろう。
 「はあ?」
 突拍子もない結論に奇声を発するディアボロにファウストはにっこり微笑みかける。
 この世に産声をあげたばかりの赤子のように一点の穢れもない無垢な微笑は、神々しいばかりの霊光に包まれている。
 『ようこそ、マイワールドへ』
 きざったらしく両手を広げ歓迎の意を表すファウストにディアボロは眉をひそめる。
 最上級の紅玉を思わせる瞳が垂れ気味の優しい眦の中、玲瓏と輝いている。
 色素の抜けた髪は極上の絹の滑らかさで清流の如くきらめき流れる。男臭さを感じさせない華奢な体躯とすらりとした手足は中性的な雰囲気を醸すのに一役買っていたが、笑顔はこの上なく胡散臭い。
 こんな綺麗な笑顔を浮かべる奴には聖書に登場する両性具有の天使以外お目にかかったことがない。
 ディアボロは単刀直入に聞く。
 「お前、ちんぽこついてんのか?」
 『ちんぽこ?』
 ファウストは目を瞬く。
 とぼけているわけではなく本当にわからなかったらしい。
 数呼吸おいて、「ああ」と脳天から間の抜けた声を発する。
 『君が言っているのは魔羅の事か』
 「いや、わざわざ言い直さなくてもいいけど」
 呑気に手を叩いて合点したファウストに呆れ顔で突っ込みを入れる。
 ファウストは思案顔になる。
 『女性のほうがいいかい?』
 「当たり前のこと聞くなよマザーファッカー。竿を股間にぶらさげたオスどもならだれだって、穴が一個しかねえ生物より二個ある生物のが嬉しいだろ」
 肩を揺らし、わざと下品な笑い方をするディアボロに何を思ったか、ファウストは顎に手をあてふむと考え込む。
 ファウストの眉間によった皺を一瞥、ディアボロは心底からあきれ返る。
 こいつ馬鹿か。物事ってもんを知らなすぎる。
 物心ついた時から温室に監禁されて育ったか天使に飼育されたかしなければ、こんなお気楽極楽な大人には成長しないだろう。
 しかし、ディアボロの呑気な感想は瞬き一つする間に脆くも打ち砕かれる。
 『ではリクエストにお応しよう』
 「!?」
 ファウストの姿が歪み、水飴のように柔軟に伸縮する。
 空間の軸が歪み、時空の裂け目から生み落とされたのは一人の少女。
 遺伝子の先天的異常を疑うほど白い肌。
 白樺の若木のようにすらりとした美しい手足。身長はディアボロよりやや低い。
 色の抜けた髪の下には、驚異的な長さの睫毛で飾られたはっとするほど強い輝きを放つ赤い目がある。
 眼前にいるのは明らかに少女。
 胸の慎ましやかな膨らみも腰まで伸びた白髪もたおやかな四肢も、全てが少女の生まれながらの美しさを引き立たせている。
 しかし、その面差しはあまりにも誰かと酷似していた。
 品よく尖った顎を備えた卵形の顔、猫のような頬骨とほんのり微笑を含んだ唇、垂れ気味の優しい目尻……。
 少女の顔を構成するパーツの全ては、造りこそずっと幼く繊細になっているとはいえ、血を分けた兄妹のようにファウストと似通っていた。
 『どうかしら?』
 小首を傾げ、無邪気に聞く。
 いたずらっぽい上目遣いも、鳥篭育ちの小鳥のように無防備であどけないしぐさも、ある時期の少女しか持ち得ない溌剌とした若さに満ち溢れていた。
 それでも目の前の少女はファウスト以外の人物ではありえない。
 愛らしい少女に化身したファウストを穴の開くほど凝視し、ディアボロはおもむろにワンピースの裾を掴んで大胆にも捲り上げる。
 両手で捲り上げた裾の下をじろじろと見詰め、気難しげに呟く。
 「……はいてねえ」
 裾をさらに胸元まで捲り上げる。
 少女は無抵抗に従う。
 羞恥心の痛みなど一ひとかけらも感じてないのか、否、そもそも羞恥心そのものが存在しないのか、きょとんとした顔でディアボロを見詰め返している。
 「つけてねえ」
 『ご満足いただけた?』
 小首をかしげて可愛らしく聞く少女に毒気をぬかれ、ワンピースの裾をばさりと下ろす。
 「胸はもっとでかいほうがいい」
 わがままな注文にも少女は嫌な顔一つせず、ワンピースの端をちょこなんと摘み、優雅に膝を折ってお辞儀する。
 膝を屈めた時にはもう次の変化が始まっていた。
 少女の姿が朦朧とかき消え、身長が長短自在に伸縮する。
 見えざる手が粘土をこねくり回して人を創造してゆく過程が肉眼では視認できぬ速度で展開される。
 再び顔をあげた時にはすでに変化が終わっていた。
 薄絹のワンピース一枚という身なりはそのままだが、生地の下に隠された乳房は円熟した丸みを帯びて膨らみ、全身からは匂い立つような大人の女の色香が漂っていた。
 今度ファウストが化身したのは、成熟した肢体を持つ妙齢の美女だ。
 絶世の美女を前にディアボロは口笛を吹きかけるが、中身がファウストだと気付いて途中でやめる。
 口を尖らしたディアボロを艶っぽい目で流し見、美女はあでやかに唇をほころばせる。
 『お気に召したかしら?』
 「……元に戻れ。なんか虚しい」
 どんなに見掛けが美しくても中身が男なら、ドラッグクイーンに鼻の下伸ばしてるのとそう変わらねーじゃねーか。
 そっけなく顎を振り、冷めた声で応じる。
 ファウストが元の青年の姿に戻る。
 シャツとスラックスという質素な上下を身につけたファウストが肩を竦めてみせる。
 『このように、僕は老若男女問わず自在に姿を変えられる。もとより性別も実体も持たない存在だからたやすいことさ』
 はにかむように笑った顔は最前の少女と瓜二つだ。ぞっとしない。
 「女の体でも男の体でも楽しめるってわけか、便利だな……て、んなこたどうでもいいんだよ」
 苛立たしげに地面を蹴り、足音荒くファウストに歩み寄る。
 きょとんとしたファストの鼻面に人さし指をつきつけ、唾をとばして詰問する。
 「なんでこの俺様が、お前の世界にお呼ばれしなきゃなんねーんだよ?大体なんだこのセンスの悪い世界は。天井から壁から何から何まで白いペンキで塗りたくりやがって……シンナー臭いんだよ」
 渋面をつくり、唾のかかる距離で悪態をつくディアボロ。芝居がかった動作で頭上を仰ぎ、大仰にため息をつく。
 「手抜きの舞台背景じゃあるまいし、底の見えない白い天井なんて……」
 悪態が途切れ、語尾が宙に浮く。
 頭上を仰いだまま、愕然と立ち尽くすディアボロ。

 なんだありゃ?

 遥か頭上、無辺大の白い空間の中心で不吉な暗雲が渦巻いている。
 風の逆巻く音もせず、乱気流が吹きすさぶ音もなく、四面を白で覆われた無音の世界で黒い渦が旋回しているさまは、現実離れした悪夢の不条理を伴い凄まじい不安を抱かせる。
 白日夢に迷い込んだかのような錯覚を与える光景に、ディアボロは腕をたらして見入る。
 正面のファウストは唇に笑みを乗せたまま、衝撃の浸透度を測るかのように飽かずディアボロの顔を眺めている。
 ファウストの赤い目が、悪戯を企んだ猫のように細まる。
 
 渦の高度が徐徐に下がりつつある。

 視界に下りてきた渦に目を凝らす。
 肉眼ではとらえることのできない速度で旋回している黒い渦、その実体が驚愕をともなって暴かれる。
 白い空を埋めているのは、桁がわからないほどの夥しい文字。
 ディアボロが馴染んだアルファベットではない。
 一本一本の線が複雑に入り組んで深遠なる小宇宙を内包した象形文字。
 奇怪な文字列は加速度的に回転数を増し、だんだんとこちらへ降りてくる。
 遠目には夥しい黒点にしか見えなかった渦中の文字は、今や一つ一つの文字が克明に見分けられるほどの距離に近づきつつある。
 円の軌道に沿って雲霞の如く旋回し続ける文字渦を見上げ、ディアボロは唾を呑む。
 「……おいおい、冗談きっついぜ」
 『冗談じゃない。この世界では目に映るもの全てが真実さ』
 ディアボロの動揺を即座に見抜き、ファウストはおおらかに両手を広げる。
 『前座は終わった。さて、契約を交わそうか』
 「-は?」
 耳を疑った。契約?今、そうほざいたのか?
 目をしばたたいたディアボロを前に、ファウストは人当たりよく微笑み続ける。
 「契約ってなんだよ。ぶらさがり健康機でも売りつける気なら間に合ってるぜ、ジジィが買った奴がガレージで眠ってる」
 不機嫌なしかめ面ではねつけるが、ファウストは拒絶されてもいっかな動じない。
 笑みを絶やすことなく一歩を踏み出し、間合いを詰める。
 ディアボロは居丈高に腕を組んだまま、殺気を帯びた目でファウストをにらみつける。
 ファウストは動じない。紅玉の目に笑みを含ませ、体重がない者のように歩を運ぶ。
 『ディアボロ・デミトリー……』
 ファウストが囁く。
 落ち着き払った声で名を呼ばれ、ディアボロが不快感をあらわにする。
 『寝た子を起こした責任をとってもらおうか』
 「は?」
 耳に手をあて問い返す。
 ファウストの言っていることが全く理解できない。
 反応の鈍いディアボロにも苛立つことなく、ファウストはゆっくりと立ち止まる。
 ディアボロの眼前に佇み、緩慢に腕を持ち上げる。人さし指が弧を描いて上昇し、ディアボロの胸をつつく。
 『ここは死後の世界ではないが極めてそれに近い場所……たとえるなら生と死の狭間だ』
 ファウストが笑顔を消す。
 透徹したまなざしがディアボロに注がれる。
 脳裏で閃光が弾ける。
 ダンカン・フォーマシィを追い、倉庫にとびこんだ自分。物言わぬ肉塊に鉛弾を撃ちこみ、そして……思い出すだけで腹が立つ。
 「ファック!!」
 白夜の空に滾った咆哮が轟き渡る。
 怒りの衝動に突き動かされるがまま靴底で地面を蹴りつけ、思いつく限りの罵倒の文句を吐く。
 ビッチ、ディック、シット、ガッデム!!
 一生分のスラングを吐き尽くして怒りが沈静化してきた頃合を見計らい、安全圏に退避していたファウストがいけしゃあしゃあと口を開く。
 『そう、君は殺された』
 噛み含めるようにファウストが諭し、肩で息をしながらディアボロが顔を上げる。
 漆黒の双眸にぎらつく炎が燃える。
 魂の燃える至上の色だ。
 炎を宿した双眸をまっすぐに覗き込み、ファウストは淀みなく続ける。
 『全身を蜂の巣にされ、撃たれなぶられ、糸のほつれた人形のように打ち捨てられたんだ。君が殺した男と全く同じようにね。因果律の糸は時に皮肉な運命を導き寄せる』
 ディアボロの目が据わる。
 形よい唇をねじり、荒々しく一歩を踏み出す。
 「……何が言いてえ?」
 『世の理を知っているかい』
 襟首を掴まれてもファウストは動じない。
 ファウストの手がディアボロの拳にそっと被さる。
 ディアボロがうろんげに眼球を動かし、ファウストの指を見る。
 男にしておくのがもったいないほど細く、美しい指だ。
 ファウストの指が、卵の殻を包むように柔らかくディアボロの拳を包む。
 『命は一つしかない。代用はきかないんだ……最も』
 ファウストの目が光る。
 幾星霜を経た紅玉の輝きは、全知全能の叡智すら宿してるかのよう。
 『現実のルールは本の中では適用されない。審判するのは神ではなく、この僕だ』
 「フールソウルとかいったか……」
 奥歯が鳴る。
 ファウストの手を振り解こうと躍起になる。空いた左手をファストの手首に被せ、強引に引きはがそうとする。
 「あの本は一体なんだ?」
 ファウストの手首を掴む。奥歯を噛み締め力をこめる。外れない。足腰を踏ん張り渾身の力をこめる。外れない。
 そんなに強く握り締めてるようには見えない。
 あくまでやんわりと掴んでるのに、力を入れてひっぺがそうとすればするほどに、不思議な魔法でもかかっているかのように吸い付いて離れない。
 殆ど体温の感じられない指でディアボロに縋り、ファウストはそっと目を伏せる。
 『魔導書だ』
 「あん?」
 困惑顔のディアボロにファウストはもう一度辛抱強く繰り返す。
 『あれは魔導書……従って、君と僕が今いる世界は魔導書の中ということになる。著述されてからかれこれ八百年以上経つかな……僕自身、自分の年を数えるのにも飽いた。この本の書き手はある高名な魔導師。ソロモンに比肩する異脳とうたわれた彼は、己が一生かけてためこんだ魔法の知識を他人に盗まれるのを恐れ、そのすべてを一冊の本の中に封印したんだ。そして、知識の見張り番として召喚した二人の精霊を本の中へと送りこんだー……』
 おもわせぶりに言葉を切り、一呼吸おいて種を明かす。
 『その片割れが僕、ファウストだ。時が経ち、本は数々の人の手に渡った。だが魔導書には特殊な封印が施されていたため、知識を盗むことができたのはそれを解いたほんの一部の人間に限られた……封印を解く方法、なんだかわかるかい?』
 ファウストの目が剣呑な光を帯びる。
 『五亡星の紋章に人血を吸わせるのさ。それも、人一人分の致死量に達するほどの大量の血を』
 「!」
 ディアボロはハッとする。
 銃弾の嵐に倒れた自分は大量の血液を失っていた。あの血が床を伝い、近くに放置されていた本へと触手をのばしたのだとしたら……。
 『誤解しないでほしいが、誰の血でもいいわけじゃない。本の覚醒に必要なのは強い魔力を持つ人間の血に限られる。普通の人間で代用できなくもないけど、それだとざっと百人分が必要だ』
 「魔力?精力の間違いじゃねーか」
 『いや、ある。君自身気付いてないようだけど、本の封印が破れたということは君に多少なりとも魔力が備わってる証にもなる』
 頑として言い放ち、苦悩の色濃く顔を伏せる。
 『それでも蝶番の安全弁が働いてる間はまだ良かった。ところがだ、運悪く弾があたって最後の頼みの蝶番まで弾けてしまった。君一人分の致死量に匹敵する血を吸って、本に封じ込められた魔力が限界まで膨張したんだろうね。封印の呪文を内側に記した蝶番といえど、あっというまだった』
 「ガソリン満タンにしてもキーを捻らきゃ車は動かねーのに、うっかり手が滑ってエンジンかかっちまったわけか」
 『がそりん?えんじん?』
 意味不明なたとえ話に混乱したファウストが、一途に縋るような眼差しでディアボロを見る。 
 「……なんだよ。再び眠りにつけるように子守唄でも唄えってか」
 『ちがう』
 「枕代わりに膝貸せって?」
 『ちがう』
 「しつけえよ」
 ファウストが肩を落とした隙をつき、邪険に手を振り解く。
 「てめえホモか。いつまでも野郎の手握ってんじゃねえ、へらへらしやがって気色わりぃんだよ。なんならたった今、この場で犯してやろうか?下の毛も白いかどうかこの目で確かめてやる」
 『さっき見たじゃないか』
 「男版は見てねーよ。男版でも生えてなかったらびっくり大発見だけどな」
 手首をさすりながら毒づくディアボロに、ファウストは軽く肩を竦めてみせる。
 『ディアボロ・デミトリ……君に頼みたいのは、片割れの捕獲だよ』
 「?」
 ファウストが地を蹴り、重力の枷から解き放たれて悠々と浮揚する。
 ディアボロはもう驚かない。
 非常識な出来事に免疫ができ始めてきた。ここでは何がおきても不思議じゃない、なんたって愚者の世界だ。
 空中高く浮上したファウストは、あたかも架空の椅子がそこに存在するかのようにごく当たり前の動作で腰をおろす。
 ファウストの尻を受け止めたのは、空気と同化した不可視の椅子。
 これがほんとの空気椅子ってか。
 くだらない駄洒落をかぶりを振って追い払う。ファウストのペースに巻き込まれて相当ヤキが回ってきたらしい。
 うんざりしたディアボロを高所の玉座から見下ろし、ファウストは優雅に足を組む。
 シャツとスラックスという画学生めいて質素ないでたちにも関わらず、見えざる玉座に腰掛けた姿からは荘厳な光輝が漂っている。
 『片割れの名はメフィスト……』
 膝に腕をつき前傾する。
 五指を組んで築いた尖塔に顎を乗せ、自分の声が浸透するのに十分な間をおいて続ける。
 『人を惑わし破滅させる本の悪霊さ』

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Devilish | コメント(-) | 19951227152503 | 編集

 「イヴル・ソウル……イカしてんじゃん」
 背広のポケットに指をひっかけ感想を述べる。
 ファウストは取り合わない。
 今までで一番真剣な表情でしかつめらしく断言する。
 『メフィストは僕と共に本に送り込まれた知識の守り番にして対となる存在だ』
 細めた目が時空を超える。
 記憶の糸をたぐり人ならざるものの数奇な生を回想し、儚い笑みをちらつかせる。
 『僕に課された義務は歴史の節目に現れ本を手にする人を判定し、それに応じた力を授ける事。この前呼び出されたのは君たちの時間で五十年前、彼の名前は……彼の名前は……えーと、ちょっと待って、ここまで出かけてるんだけど。なにぶんずっと変化のない世界にいたから記憶が曖昧で。鼻の下に変な髭があって、頭髪がだいぶ後退して額が秀で、目は薄い青で……十字架の端っこが折れた変な腕章を巻いてたっけ。気難しそうなしかめ面をしてたな、こんなふうに』
 率直に言えば、鼻に蚊がとまってくしゃみを堪えてる表情に一番近い。
 『……僕の話退屈?』
 ファウストは玉座から身を乗り出しがちにおずおず尋ねる。
 聞かれた当人はといえば、地べたー肉眼では認識できないが、便宜的にそう呼ぶ平面ーにだらしなく座り込み、漫然と銃に弾をこめていた。
 出しては詰める出しては詰める延々黙々とその繰り返し。
 既に手に馴染みきって久しい動作は洗練に洗練を重ね、弾倉を弾いて回し、指先の技巧でもって弾丸を出し詰め込む過程は素人目に捉えきれぬ芸術の域に達している。
 「ワンセンテンスごとに脱いできゃ身を入れて聞く気になるんだけどな。サービス足りねえ」
 ファウストの方は見もせず呟く顔にはでかでかと「退屈」と書かれていた。
 誠意が報われずファウストは哀しげな顔をする。
 捨てられた子犬のように弱りきった表情は強烈に庇護欲をくすぐるものであったが、ディアボロは一向に取り合わず銃を弄び続けている。
 退屈しきったディアボロの注意を何とか引き戻そうと膝を崩し、ゆったりリラックスした姿勢で小休止を入れる。
 『ここまで質問あるかな』
 「死ぬ前に長え座興だな」
 相変わらず銃を弄びながら猫のようにあくびをし、どうでもよさげにディアボロが聞く。
 「お前と片割れと二人セットで本の中に送り込まれたのはなんでだ?一人で十分じゃねーか」
 『いい質問だ』
 ファウストは鷹揚に頷く。
 不真面目な生徒の意外に鋭い質問にはからずも感銘を受けた教師の顔で、懇切丁寧に説明を開始する。

 『僕の契約主……この本の書き手は、とてもひねくれものでね。自分が蓄えた知識を乱用されるのを酷く警戒していたくせに、自分の功績がまったく世に出ず忘れ去られてしまうのは悔しいという葛藤を抱えていた。
 彼は僕らにこう命じた。
 簒奪者から知識を守れ。
 だが五の陪乗の節目に私の遺志を継ぐ者現れば、思想の是非、本性の善悪に拘わらず知識を授けたまえ……』

 虚空に浮かぶ椅子に深々身を沈め、複雑そうに笑う。

 『善は善を知り、悪は悪を知るというのが彼の信条だった。
 継承者が善人か悪人か見極めるには両属性の判定者が不可欠。
 彼は非常に偏った物の考え方をしていた。
 代々の継承者に課される条件は世界を革命しうる可能性、すなわち魂の潜在力。
 極めつけに邪悪な魂か極めつけに高尚な魂か、いずれにせよ極端な魂の持ち主だけが運命の天秤を動かせるというのが彼の信仰だった。
 僕と片割れは代々の持ち主が条件に適うか否か判定する為、完全なる対の存在として本に配置された。僕は善なる魂の判定者として、片割れは邪なる魂の判定者として』

 「なるほど。だからフール・ソウルとイヴル・ソウルか」
 最高にくだらない冗談を聞いたとでもいうふうに毒々しく口の端をねじまげる。
 「その魔術師ってなあ警戒心と猜疑心が異常に過剰な上に被害妄想が強烈で自尊心と自己顕示欲だきゃ人十倍の、愉快で不快なキチガイだな」
 辛辣な毒舌に面食らうも、ファウストは首肯する。
 『……その通り。極めて的確な人物評だ』
 「人を見る目は確かなんだ」 
 しれっとうそぶき、弾丸を装填した銃を手の中であざやかに回す。
 「で、片割れにゃふられたのか?俺でよけりゃ慰めてやるぜ」  
 『彼ひとり解き放たれた理由を言えば、事故というのが一番近い』
 ファウストは見えざる肘掛けに肘を休め、文字の雲霞が舞う空を仰ぎ、疲れたように目を閉じる。
 『彼はもと人喰いの精霊……ジンだった。煙が出ない火から作られた目に見えず触れ得ぬもの。人と契約して守り番となっても貪欲なる魂喰らいの性は直らず、世紀を経て餓え飢えてゆくばかり。契約に縛られ本の中にとどめおかれた数百年の間、退屈と空腹とに苛まれていた。しかし世紀を減るごとに契約の効力が薄れ縛りがゆるみ、彼は本来の力を取り戻しつつあった。契約主はもう死んでいる。もう時効だ、そろそろ自由の身になってもいい頃だ。僕は諌め戒め止めた。外に出たいと訴える彼を、外に出て人の魂を喰らいたいと欲する彼を、八百年の間必死に抑え続けた。けれども限界は訪れた。最後に人と触れ合ったのは半世紀前、以来ずっと本に閉じ込められ片割れの飢餓は極限に達していた。それに加えて、外部からの干渉が決定打となった。君一人分の致死量に達する血を吸って本が覚醒し、安全弁の蝶番も壊れ、解放の条件と準備は整った。メフィストはこの機に乗じ、契約を反故にして外の世界へと飛び出していった。人の魂を貪り喰らい、空腹を満たすために』
 説明を終え瞼を開く。
 優雅に長い睫毛が震え、清冽に澄み切った真紅の双眸が現れる。
 『ディアボロ・デミトリ、君には我が片割れメフィストの捕獲と強制送還を頼みたい。君には本を覚醒させた責任がある。一刻も早く彼を連れ戻さねば多くの犠牲が出る。僕は彼の片割れとして唯一の同胞として、現世での暴走を食い止めねばならない。僕らがいるべき場所はここだ、本の中だ。契約者が死んでも縛りはまだ生きている。メフィストは重大な掟破りを犯した。彼がこれ以上罪を重ねるのを放置できない』
 誠意を込めた説得。
 赤い眼差しと黒い眼差しが鍔ぜりあう。
 助力を請うファウストを冷ややかに見返し、ディアボロは一言一句にアクセントをつけ、歯切れよく言う。
 「いやだね」
 片手に預けた銃をおもむろに跳ね上げ、メフィストの顔を照準する。 
 緩慢な動作で立ち上がる。
 片腕をまっすぐ伸ばし狙いを定める。
 正確にファウストの眉間を狙う。
 全身に殺気と怒気が漲り、物騒なオーラが滾り立つ。
 片腕で銃を構えたディアボロは、どこまでも凪いだ真紅の目に尖りきった視線を抉りこみ、沸々と滾る憤怒も露に啖呵を切る。
 「思い上がるのもいい加減にしやがれ、赤目の白子野郎。てめえの話が真実だろうがでっちあげだろうがそんなこたあどうでもいい。気に入らねえのは、このディアボロ様にタメ口をきいたことだ。身の程もわきまえずに命令しやがったことだ」
 背筋がぞくぞくする。
 螺旋状に絡まりあった戦慄と快感が高速回転する錐のように下半身を突き抜ける。
 「そしてー……」
 唇が不敵な弧を描き、グリップを握り締めた右手が火照る。
 水平にした片腕でしっかり銃を支える。
 照準は小揺るぎもしない。
 全身に猛々しい気が満ちる。
 神経を研ぎ澄まし殺意を磨く。
 銃口の向こう、相変わらず椅子に腰掛けこちらを見詰め続ける男に向かい長話に付き合わされた憤懣をぶちまける。
 「えらっそうに上から目線で説教たれやがったことだ!!」
 乾いた銃声が響く。
 毒蛇のように銃身が跳ね上がり、硝煙の尾を引いた弾丸が鋭い先端を標的に向け、音速で空を飛ぶ。
 空気の膜を破り、直線の弾道を引いて迫り来た弾丸を凝視し、ファウストは無音で唇を動かす。

 意訳、『やれやれ』。
 
 転瞬、ファウストの姿が消失。
 「……」
 背後に気配を感じる。何者かが背後に立つ。振り向いて確かめようにも体が動かない。
 幻のように虚空の玉座からかき消えたファウストの声が、妙なる銀鈴の音を帯びて耳朶に触れる。 
 『誤解しないでほしい、ディアボロ・デミトリ。これは取引だ。君に示された道は二つ、僕を受け入れて生きるか拒んで死ぬかだ』
 頑是ない幼子に世の理を説くような、奥深い含蓄を秘めた口ぶりで警告する。 
 「……………死、だと」
 漠然と反駁するディアボロに頷き、背後に寄り添い立ったファウストは淡々と続ける。
 『今の君は瀕死の状態だ。魂だけが本の中に迷い込んでいるんだ。君がイエスといえば、僕は君に力を貸そう。魂を分割し、生命を注ぎ込もう。僕にはそれが可能なだけの潜在的な力がある。君にはそれに耐えうる可能性がある。幸い君はまだ死んでない、今なら肉体の修復が間に合う。体から流れ出した血を君に返し、再び生を与える事ができる。途切れた生を繋げることができる。そうして君は僕のかけがえのない相棒……マスターになる』
 「ノーなら?」
 耳朶を打ったのは、鈴を振るように澄んだ声。
 『君は死ぬ。地獄に落ちる。この世とはお別れだ』
 同情も憐憫も、ひとかけらの私情も含まぬ厳粛な宣告。
 ファウストはディアボロの後頭部に視線を注ぐ。
 ディアボロは尖った顎先を胸に沈め思考に没頭している。
 背後からではその表情は読み取れないが、白くこわばった横顔と固く張り詰めた顎の線が断固たる拒絶の意志を漂わせている。
 深くうなだれているため平素は襟足に隠されたうなじが露出している。 
 外気に晒されたうなじは生白く、量の多い黒髪との対比が被虐的な色香を匂わせる。
 『もう一度言う、ディアボロ・デミトリ。僕は片割れを連れ戻したい。彼は危険だ。とても危険だ。八百年もの間本に閉じ込められ人の魂に飢えている。契約の反故は精霊間における最大の禁忌、にも拘わらず彼は行ってしまった。僕は、彼の暴走を止めなきゃならない。それが対となる存在の義務だから……いや、それだけじゃない』
 真紅の目に波紋が波立つ。 
 清流の如く流れる白髪が揺らめき、揺るがぬ決意を秘めた必死な形相が浮かぶ。
 『メフィストに、そんな事をさせたくない。大事な片割れが罪なき人々の魂を貪り喰らうのを黙って見過ごせない』
 片割れの暴走を止めたい、その為には君の力がどうしても必要だと切実に訴える。こちらに背中を向け物騒な沈黙を守り続けるディアボロに向かい、ファウストはどこまでも本音を語る。隠し切れぬ焦りと悲哀がその顔を歪め、知らず間合いを詰める。
 「……………ファック」
 ファウストは目を見張る。
 黒背広の肩が浮沈し、小気味よいスタッカートで区切られたリズミカルな呪詛を紡ぎ出す。
 「ファック・ファック・ファック………」
 靴底で地面を打ち軽快に拍子をとる。
 節回しがどんどん速くなり、二呼吸の間隔をおいて地面を蹴っていた革靴が加速し、体の脇に垂らした両手が腰を叩きだす。
 「ファック・ファック・ファック・ファック・ファック……」
 勢い良く足を振り上げ振り下ろす。
 ドン。鈍い音。地響き。空間が振動する。ドン。片方の膝も振り下ろす。ドン。鈍い音。地響き。ドンドンドン。地団駄を踏む。
 「シット・ファック!」
 シルクの天幕で覆われた空に、獣じみた咆哮にのせ憎悪の波動が放たれる。
 腹の底から声を振り絞り、声帯を震わせて絶叫したディアボロは、息をさかんに喘がせて肩越しのファウストを睨む。
 ファウストは目を丸くする。
 その鼻先に人さし指をつきつけ、ディアボロは声高に宣言する。
 「フールソウル・ファウスト、まったくもってお前はいけすかねえ。その涼しい顔に苺ジャム塗りたくって蟻にかじらせたくなるぐらいいけすかねえ。だが……」
 声のトーンを落とし、体ごと向き直りファウストと対峙する。
 ぎらぎらと輝く漆黒の双眸は火傷しそうな熱を秘めている。
 触れれば切れそうに鋭利な光を帯びた双眸を受け止めたファウストは、表情を消してディアボロの言葉に耳を傾ける。
 一言一句たりとも聞き逃さぬように背筋を律し、限りなく透明な表情をもって、凶暴きわまる剥き出しの怒りの感情と向き合わんとする。

 ルージュとノワールの双眸が剣戟の音もなく虚空で斬り結ぶ。

 「俺はまだ、あのくそったれた世の中に未練がある」
 形よくとがった鼻の頂点に人さし指を擬したまま、ドスの利いた声を吐く。
 挑発的に顎を突き出し、唇をねじるように笑う。
 「まだまだ殺りたりねえ、姦りたりねえ。俺はまだまだ満足してねえ。ガタのきた棺の寝床で蛆虫どもとトランプ遊びするのはごめんだね」
 ディアボロの目が笑う。
 最高の手札を引き寄せたギャンブラーさながら土壇場での勝利を確信した笑み。
 ファウストの目が笑む。
 相手の裏の裏をかきシャツの袖口に鬼札を忍ばせた瞬間の笑み。
 ディアボロは空を仰いで深呼吸すると、腕を組んで反り返り、横柄な態度で宣言する。
 「取引を受けた」
 ディアボロの顔は真剣だった。
 人さし指が外れる。
 ファウストは笑っていた。
 ディアボロが一番嫌いな種類の笑みだ。
 『ーよろしいー』
 「で?契約書にサインすればいいのかよ」
 腕を組んだディアボロが眉根を寄せて詰問する。優位に立ったファウストは静かに首を振る。
 上目遣いにディアボロの表情を探りながら、さりげなくファウストが訊く。
 『質問。一番大事なものはなんだい?』
 「は?」
 前後の文脈を無視した問いにディアボロは拍子抜けする。
 ファウストは相も変わらずにこにこしている。
 ディアボロはあきれたが、答えはすぐに出た。
 手に持ったままの銃を無言で見下ろす。
 右手に馴染んだグリップの感触、黒光りするシャープな銃身。
 大事なものは何かだって?決まってる。
 「四十五口径の銃、アンジェリコ・スナフ」
 細めた目に愉悦の光が忍び込む。
 掌中の銃を見下ろし、ディアボロは至福の笑みを浮かべる。
 全身に漲っているのは、今しがた装填された銃のように先鋭化した殺気。
 『……「らしい」選択だ……』
 ファウストの独白がディアボロに届いたか否かは定かではない。
 その時のディアボロは、己が手にした銃の美しさに心奪われていた。
 ファウストはさっと腕を振り上げる。
 指揮棒を振るかの如く優雅な動作で天へと手を翳し、息を吸う。
 『ーこれより契約の儀を執り行うー』
 「!」
 天空に翳した手の五指が、何かを掴み取るしぐさをする。
 二人の頭上で螺旋状に渦巻いていた文字列が、暴風に翻弄される独楽のように凄まじい速度で回転しだす。
 螺旋がほどけ列が乱れる。
 夥しい羽虫と化した無数の文字が長大な楕円軌道を描き、四十五口径の銃へと怒涛の如く収束してゆく。
 「なっ……!?」
 さしものディアボロも仰天する。
 ファウストの言葉に従い楕円の軌道を描いて殺到する文字文字文字、桁すらわからぬほどの膨大な文字。ひとつひとつは芥子粒大でありながら、複雑に入り組んだ直線と曲線に深遠な小宇宙を内包した象形文字が、決起した蚊の大群の如き疾風怒濤の勢いで銃へと押し寄せる。 
 文字がひとつひとつ継ぎ合わされ鎖を編む。
 物理的な力では決して絶てぬ呪縛の鎖。
 言霊を練った鎖は世界を飲み込むウロボロスの如く万里に比して長大に連なり、ディアボロの手から銃を取り上げる。
 おもむろに銃が浮上する。
 文字で出来た鎖が銃を縛し、天空高くさらっていく。
 鎖の縛鎖によって天高く吊り上げられた銃を仰ぎ、ディアボロはぽかんとする。 
 儀式はまだ終わっていない。これからが本番だ。
 縛鎖を遠隔操作してディアボロの手から銃を取り上げたファウストが呟く。
 『魔術の執行は媒介を必要とする』
 虚空に翳した手を一振りすれば、ファウストの動作に応じ鎖が引っ張られ、ますます縛りがきつくなる。
 『精霊は非常に不安定な存在だ。僕たちの体は俗に言う第六元素、心霊物質で出来ているからね。目に見えず触れ得ぬあれさ。契約によって本に拘束された僕が一旦外に出るには、依代に憑依するしかない。依代に精神を定着させれば異なる物理法則の世界でも存在が許される』
 鎖の拘束が強まる。宙吊りにされた銃に変化が起きる。
 縛鎖の端が煌々たる紅蓮の輝きをやどし、その輝きは鎖を介し天翔ける彗星の速度で伝播していく。
 鎖が赤く赤く輝く。
 業火に熱されたかのような灼熱の色に染まりゆき、鎖に呪縛された銃身までも赤い光に包まれる。
 『我が名はファウスト、人と契りて愚者と呼ばれし精霊なり』
 光が膨張し、目が眩む。
 銃が赤く赤く発光する。世界の中心のような光の奔騰が網膜を灼き尽くす。視界一面が煌々たる赤に染まる。神々しい赤。
 創生神に似て厳かに、全知全能の叡智を備えしファウストの声が殷々と響き渡る。
 生と死の狭間の世界は今や煌々たる赤の光にあまさず暴き立てられ、ファウストの顔もディアボロの顔も等しく清浄な霊光に照らされる。
 『人を主として己は従にて、今ここに契約を取り結ぶー……』
 指揮者のように優雅に大胆に腕を一閃、虚空に張り巡らせた鎖がディアボロめがけ滑空する。
 「いっ、で!?」
 宙を疾駆した鎖がディアボロの腕を手首から肘にかけぎりぎり縛り上げる。
 「おい、なんだこりゃ!SMプレイは大好きだが縛られるより縛るほうが性にあってんだよ、俺は!!」
 ひとつひとつ文字が連鎖した長大な鎖は物理的な拘束力をもち、ディアボロがめちゃくちゃに暴れ振り解こうとすればするほど強く締め上げる。 
 ディアボロだけではない。
 よく見ればファウストの手首にも朱の鎖が螺旋を描いて絡み付き、美しき枷を生み出している。
 断てぬ枷によって繋がれた相手をファウストは静かに見詰め、鎖をじゃらつかせてディアボロと指を絡める。

 熱い。
 掌が熱い。

 繋いだ手に円球状の核が生じる。
 交互に組み合わさった五指の上、ファウストと重なる手の甲の中心に、突如として五亡星が浮かび上がる。
 朱の光の中に浮上した五亡星が手の甲に定着する。

 『白昼の光明にも
 夜間の暗黒にも
 我は汝を見捨てず
 心より迎えたもう』
 
 刻印が薄れ消滅していく。 
 銃に再び異変が生じる。
 雁字搦めに銃を絡め取っていた膨大な文字から成る縛鎖がもの凄まじい勢いで巻き取られて灼熱の銃身と同化する。
 最後の一巻きが収束し、それ自体禁断の秘儀である異教の文字が完全に銃に封じ込められる。
 ディアボロは強引に鎖を引きちぎらんとする。
 手首を縛る鎖をもう片方の手で引きちぎろうと歯を食い縛りあらがうも努力が実らず、ヤケになって不満をぶちまける。
 「即刻ほどけファッキン・ファウスト、おちおちマスもかけねーだろ!!」
 憤然たるディアボロの抗議を受け流し、ファウストは首をうなだれる。
 ディアボロの手を取ったまま、憂愁を含んだ神妙な面持ちで誓いを立てる。

 『朱の縛鎖が繋ぎし魂が滅びるまで 汝と共に在り しもべとして汝に従う』

 まるでプロポーズだ。
 中性的で優しげな顔だちが厳粛に引き締まり、息を呑むほど美しい紅の双眸が刃のように鋭くなる。

 『「君」に「僕」を託す』  

 手枷が光の粒子と化し霧散する。

 ファウストの輪郭が光に溶け出し、朧に薄れてゆく。
 澄んだ笑顔が光に没し、名残惜しげに指がほどけてゆく。
 ディアボロは見た。
 ファウストが脳天から一陣の光の矢と化し、縛鎖から解き放たれ、右手に舞い戻った銃へと吸い込まれてゆくのを。

 瞬き一つする間に全てが終わっていた。

 「…………」
 息を切らし、右手に戻った拳銃を凝視する。
 世界を照らす神々しい朱の閃光は萎み、あたりには空空莫莫たる白の原野がはてしなく広がるのみ。
 ファウストは跡片なく消えている。
 風の音も聞こえない。
 衣擦れの音さえしない。
 「………おい」
 不安げに呟く。
 誰何の声は白い闇に呑まれて消滅する。
 喉が乾く。じっとりと手が汗ばむ。
 深閑と静まり返った白い盤上に、ディアボロは片付け忘れた駒のようにただ独り立ち尽くす。
 「………ったれ」
 むかむかしてきた。
 あの赤目野郎め、言いたいことだけ言って消えやがって。
 用がすんだらハイサヨナラかよ。放置プレイなんていい趣味してやがるぜ。
 憎悪に滾った目で見下ろすと、空気をびりびり振動させる声で吠え猛る。

 「くそったれファウストめ、帰る方法ぐらい教えやがれこの野郎!!!!」

                          +


 自分の声で目が覚めた。
 「………」
 激痛。
 最初に目にとびこんできたのは開放感のある高い天井。
 幾何学的に交差した鉄骨で支えられた天井は薄闇に没し、建設中断されたオペラハウスの如く荒廃した様相を呈している。
 十字に組まれた梁から垂直に伸びた柱へと目を転じる。
 柱に沿って緩慢に視線を下降させる。
 目の前に地獄絵図が広がっていた。
 床一面に広がる血の海。
 蜂の巣と化した肉塊が全部で五体、血の海に浮かんでいる。
 一体はフォーマシィだが、その他四つは新しい死体だ。
 既に原形を留めてないが、僅かに残った端切れからディアボロを嬲り殺した男達だという事が辛うじて判別つく。
 破砕した頭蓋骨の欠片や陥没したゼリーと酷似した脳みその断片がそこらじゅうに累々と散らばっている。
 密閉された空間に混沌とたちこめているのは、鉄錆びた血臭ときなくさい硝煙。
 煙幕に巻かれた視界が晴れるのを待ち、ディアボロはうっそり呟く。
 「…………寝てたのか」
 かぶりを振って惰気を払拭、ぼんやりとあたりを見回す。
 (なんでこいつらがおっ死んでるんだ?)
 仲間割れでも起きたのだろうか。
 そういえば、自分を殺した主犯格の死体が見当たらない。
 状況を鑑みるに仲間を殺して逃走を計ったと考えるのが妥当だろう。
 嬉々として自分の顔面を踏みつけていた首領格のにやけた面を思い出し、ディアボロの奥歯が軋む。
 「…口臭臭い陰険サド野郎め、おぼえてやがれ。次会ったら括約筋ズタズタにして、ケツの穴に何本ニンジン詰められるか試してやる」
 腹立ち紛れに拳で床を殴る。
 瞬間、血に染まったスーツの右袖が目に入る。
 贔屓のブランドに特注したスーツはところどころ破けて血に染まり、弾丸が貫通した箇所は黒い穴に蝕まれていた。
 みすぼらしい風体の我が身を省みて怒りと屈辱が一気に再燃したディアボロだが、あることに気付いてはたと動きを止める。
 「……?」
 試しに右胸を探ってみる。
 たしかに撃たれたはずなのに一滴も出血してない。心臓は元通り脈打っている。
 他にも数十発の弾丸を浴びたはずなのに、どこも痛くないのだ。
 「……まじかよ」
 体のあちこちを探り、呆然とひとりごちる。
 スーツは血と埃で汚れて見る影もないが体にはどこも異常がない。
 放心状態のディアボロは、すぐそばに転がる本へと疑心暗鬼のまなざしを投じる。
 (まさか)
 突飛な想像を笑う。
 生と死のはざまで見た愚にもつかない夢がただの夢じゃないかもしれないなんて、考えること自体がどうかしてる。
 萎えた膝を支えて立ち上がる。
 中腰の姿勢であたりを見回す。
 死体の処理は警察に任せておけばいい。お誂え向きに舞台は整っている。刺客と裏切り者の死体が四つ、内輪揉めが発端となった惨劇とでもなんとでも都合よく解釈してくれるだろう。今すべきことは厄介ごとに巻き込まれる前に一刻も早くこの場からトンズラすること……手遅れかもしれないが。幸い、手元に本がある。この本を持ち帰れば汚名を返上できる。
 とりあえず初仕事完了だ。
 手を伸ばし本を取り上げようとした時、はらりと袖口が捲れる。
 「!」
 はだけたシャツの下から痣が覗く。
 手形ではない。連結した鎖で締め上げられた内出血の痕。
 青黒く鬱血した手首と本とを見比べ、半笑いでひとりごつ。
 夢の中の奇妙な体験が生々しい身体感覚を伴い鮮明に甦る。
 夢の中で出会ったアルビノの青年は愚者の霊と称し片割れの捜索の協力を求め、半ば強引に主従の契約を取り交わしー……
 「現実だってのかよ……」
 『現実だ』
 「!」
 どこからか声がした。
 聞き覚えのある声だ。
 幾星霜を経た老賢者の如く達観の響きを宿した、鈴を振るように澄んだ声。
 まさか。
 凄まじく嫌な予感に駆られ、本へと伸ばしたのとは逆の手で拾い上げた銃に注目する。
 『どうしたんだい、おもしろい顔をして』
 銃口の奥から弾んだ声が響いてくる。ディアボロは絶句する。
 自殺の構えに似て銃口の奥深くを覗き込み、今にも噛み付かんばかりに犬歯を剥いて唸る。
 「なんでお前がそこにいるんだ」
 『さっき聞いただろう?いちばん大切なものはなにか、と。君はこう答えた。いちばん大切なものは今手の中にある拳銃だと……』
 そこで言葉を切り、拳銃ーファウストーは言った。
 『僕は受肉の器に拳銃を選んだ。実体のない僕が本の外にでるためには、魂を宿す対像を決めねばならないからね。拝見した限りでは、君と拳銃の相性は抜群だ。使い慣れたこの武器に乗り移れば、君とも仲良くやっていけそうな気が……』
 根拠のない希望的観測を饒舌にまくし立てる拳銃を一瞥、ディアボロは究極の二択に頭を悩ませていた。
 
 いわく
 拳銃は燃えないゴミの日にだすべきか、廃品回収を頼むべきか。

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Devilish | コメント(-) | 19951226194149 | 編集

 シュタイン・ベックは追われていた。
 
 べックは弱小ギャング団に所属するケチなチンピラだ。
 巨大組織で成り上がる度胸も才覚もなく、自堕落なぬるま湯につかりきって真人間に更生する気力もない。
 チンピラに毛が生えた半端者が傷をなめあう寄り合い所帯。
 それがベックが所属するチームの実態。
 水が上から下へと流れるようにラクなほうへラクなほうへと流されゆく性分のベックは、これまで適当に楽しくやってきた。
 気の合う仲間とつるみ繁華街を練り歩き悪さをし、上から卸された麻薬を捌いて小遣いを稼ぐ。
 麻薬の需要は尽きることがない。
 場末の歓楽街には暇と金を持て余したガキどもがうようよしている。
 刺激に飢えた彼らに麻薬を提供し代価を受け取る。
 街角で路地裏で、公園のトイレで、いずれ劣らぬ不潔でいかがわしい場所で取引は行われた。
 ベックたちは今までそうやって遊ぶ金を得てきた。
 薬をやり酒を飲み女を抱き車のナンバープレートを盗んで売りさばき小銭を稼ぎ店の看板に悪戯し、内気なガキを狙って恐喝を働いてあり金巻き上げ「アフターサービスでェース」と煙草の火でじゅっと焼いて顔のほくろを増やし、憂さ晴らしに集団暴行を働いて生意気なヤツの鼻を素敵に整形して病院送りにしてみたり、ほんの出来心で路駐の車のタイヤをパンクさせ道路のど真ん中で事故らせてみたりと、犯罪すれすれどころか発覚したら間違いなくムショ送りの悪質な悪戯をさんざんくりかえしては、カマを掘られた間抜けな車を指さし仲間と笑い転げる。
 公序良俗に唾吐く無軌道な暮らしぶりに、べックはそこそこ満足していた。
 ところがだ。
 ボスがよからぬことを思い付いた。
 組織に上納する実入りをくすね、浮いた差額を仲間たちに気前よく分配しはじめたのだ。
 最初はいつバレるかとびくびくしていたメンバーも、二ヶ月が経過しても上からお咎めがなかったのでこの頃はすっかり油断しまくりくすねた金で女を買うわゲームセンターに入り浸るわ浴びるように酒を飲むわの好き勝手し放題、目に余る豪遊ぶりを繰り広げた。
 ベックたちは調子に乗った。
 最初は少しずつ微々たる額だけを遠慮がちにかすめていたのが、最近は思いきりよく桁をごまかすようになった。
 横領した金は放蕩に明け暮れあっというまに使い切った。
 さすがに不審に思った「上」が動き出し、真相が判明した。
 そしてベックたちは天国から一転地獄へ、組織に追われる身となった。
 迷宮のように入り組んだスラムの路地を駆けながら回想する。
 ほんの一時間前、圧縮した廃車を積み上げた集会場に集った仲間達の前で、輪ゴムで括った札束で顔を仰ぎながらボスはこうのたもうた。
 『今週の儲けはでかい。50ドルは浮いてもバレねえ。上の連中はおつむが弱えからな、桁ひとつふたつ違っても気付かねえさ』
 仲間たちは歓声を上げた。当然べックも含め。廃車場は異様な熱気に包まれた。気の早い仲間達が持ち寄った酒瓶をかち合わせ乾杯の音頭をとりパーティーの開幕を告げ、ボスは「まあそうあせんなって、順番に分けてやっから」と大儀な口ぶりで宥め、輪ゴムで括った札束から半分を抜きー… 

 ボンネットに腰掛けたボスの頭が破裂した。

 哄笑が止んだ。
 水を打ったような静寂は一秒ともたず、次に訪れたのは阿鼻叫喚の大混乱。
 ボスの右側頭部を撃ち抜いたのは闇より放たれた一発の銃弾。
 ボスの死に動揺したメンバーたちが次々と銃弾に倒れ、血まみれの死体と化して折り重なってゆく。
 乾いた銃声が炸裂し火薬の匂いが鼻孔に充満する。
 堰を切ったように集会場に殴りこんだのは、手に手に銃をひっさげた黒背広の男たち。
 集会場を突き止め廃車の後ろに下に潜伏していた一群に金網を越え雪崩れ込んだ別働隊とが合流し、統制のとれた布陣で退路を塞ぎ、べックの仲間たちを一人ずつ確実に撃ち殺していく。
 『ひっ、ひっ……』
 過呼吸に陥り腰砕けにあとじさったベックの踵がなにかに当たる。
 振り向く。
 ベックの目にとびこんできたのはボスの死体。
 大の字に地に倒れ伏したボスの手は、死してなおしっかりと紙幣を掴んでいる。

 転瞬、金に目が眩んだベックはおもわぬ行動にでた。

 ボスの指を力づくでこじ開けて紙幣を引き抜くや、全速力で広場を横ぎり金網にしがみつく。
 飛び交う銃弾を逃れ廃車の陰に身を隠し、逃げ惑う仲間が敵の注意を引き付けている間に廃車の下にもぐりこみ腹這いになって反対側へ抜け、金網の破れ目から命からがら這い出して命拾いをする。
 炸裂する銃声と仲間の断末魔とに背を向け、べックは一目散に走り出す。
 一分一秒でも早く銃撃戦が続く廃車場から遠ざかろうとしゃにむに足を繰り出し、老朽化したアパートが雑多に立て込む窮屈な路地を出口めざしてひた走る。傷んだ石畳を靴底が蹴る。はっはっと白い息を吐く。ジャンパーの裾が激しくばたつき札束で膨らんだシャツの懐があらわになる。シャツの裾がそよいで紙幣がはみだす。零れかけた紙幣を慌てて手で押さえる。口元がしまりなく弛み、向かい風を受けて頬の肉が震え、波打ち、爛々と狂気走った笑みが満面に広がる。
 金はある。
 咄嗟の機転をきかせ、逃走資金は確保した。
 犠牲となった仲間にゃ悪いが、奴らが盾になってくれたおかげで時間稼ぎができた。
 金さえあればこの町を出て新天地でやり直すことができる……。
 あるいはこれは、一発逆転のチャンスかもしれない。
 ケチなチームから足を洗い、クズな仲間と手を切ってもう一回やり直せという神様の思し召し。
 金さえありゃ人生なんて何とでもなる、今からでも出なおせる。
 仲間を見殺しにした罪悪感は惨劇の現場を一歩遠ざかるごとに吹っ切れ、紙幣を詰め込んだ懐の重みが新たな活力を与え、行く手には希望に満ちた輝かしい未来が拓ける。再出発に必要な資金は懐にある。組織の金を持ち逃げしたということがどういうことか、べックは深刻に考えない。組織の金を持ち逃げしたら追っ手がかかり悲惨な最期が待ち受けるのに、それすら考えが及ばないほど有頂天に舞い上がっている。
 金を独占した喜びにべックの胸ははち切れそうに高鳴り、全身の細胞に力が漲る。
 「俺はこんなところで終わる男じゃねえ、お前らとはちがうんだ、この金を元手にビッグになってやる…ジズ・フィロソフィアなんざすぐに蹴落としてやる!」
 高らかな哄笑を上げ路地を疾駆するべックの完全に、おもむろに人影が立つ。
 「!ひっ、」
 ぎとつく笑みが凍りつく。 
 間一髪衝突しかけ、喉の奥からくぐもった悲鳴を発しブレーキをかける。
 左右にアパートの外壁が聳えたコンクリートの谷間で急停止を余儀なくされたベックは、憤懣やるかたなく行く手を遮る男を睨む。
 行く手に立ち尽くすは、屈強な体躯を没個性な黒スーツに包んだ奇妙な男。
 右手にさげているのは殺傷能力を重視した無骨なフォルムの銃。
 男の右手におさまった大型拳銃を食い入るように見詰め、ベックは戦々恐々あとじさる。
 先回りされていた!
 最前までの喜びは消え失せ、非情な現実に立ち返る。
 息苦しいほど心臓が高鳴る。
 全身に汗が噴き出す。
 懐に手をやり固い感触を確かめる。
 もしもの時のためにと持っていたが、実際に役に立つとは思わなかった。
 用心棒崩れを自称する胡散臭い男にクスリの代価にと強引に押し付けられて持て余していたが、いざという時のハッタリくらいにはなる。
 行く手に立ちはだかった男は不気味に沈黙している。
 サングラスに隠れた表情は窺い知れないが、背から放たれているのは異様な威圧感。
 恐怖が臨界点を突破する。
 こうなりゃ力づくでも突破してやる。
 せっかく巡ってきた一世一代のチャンスをふいにしてたまっか!
 発作的な衝動に駆り立てられ猛然と走りながら懐に手を滑り込ますや、虚勢を防波堤に巻き舌で恫喝を放つ。
 「ああああああああああ死ねええええええ!!」
 懐から抜き放った拳銃をまっすぐに向け、脳天から奇声を発し引き金を引く。
 連続する銃声に鼓膜が痺れ、反動で腕がちぎれそうになる。
 石畳にこぼれ落ちた薬莢が場違いに軽快な音階を奏で、銃口から迸った閃光がベックの鬼気迫る形相を照らし出す。
 男は避けない。
 指一本動かすことなく、悠然と鉛弾の嵐を待ち構えている。
 転瞬、残像だけ残して男の姿がかき消えた。残像を穿った弾丸の行方を見極める間もなく、硝煙たちのぼる銃口をさまよわせたべックの顔が凍る。

 男は「上」にいた。

 全く重力を無視した光景だった。
 右手のアパートの壁を蹴り、常人離れした跳躍力でベックの頭上に出現。
 現実離れした光景に理性を喪失したベックは、自分の頭上に覆い被さった男に銃口を転じるや、無我夢中で引き金を引き……
 「!!」
 慄然と目を疑う。
 サングラスの奥に赤い光が点る。
 双眸が血の色に輝いたと思った次の瞬間、男の脇腹から伸びた触手がしたたかに手首を打擲する。
 激痛に膝を折ったベックの手中から拳銃がはじけとび、アパートの側壁に跳ね返り、遥か遠方へと落下する。
 皮膚が裂け、赤い血が手首を滴る。
 地に片ひざ付いたベックは、驚愕の形相で頭上を仰ぐ。
 

 異形の蜘蛛がいた。


 男の全身から醜悪な触手が伸びている。
 糸を引いた墨汁が具現化したような触手が左右に迫ったアパートの側壁にとりつき、男の体を虚空に浮かべていたのだ。

 なんだこれは。

 サングラスに覆われた目が晧晧と輝く。赤い目だ。危機を報せる赤信号の色。
 はじかれたようにベックは駆け出す。
 縺れる足を励まし、一目散に駆け出すも三歩も行かず転倒する。
 石畳で顔面を強打したベックは、背後を振り返って絶叫した。
 上空から放たれた触手が、ベックの左足首にきつく巻きついていた。
 「ぎゃあああああああああああああ!」
 爪で石畳をかきむしり、恥も外聞もかなぐり捨てて絶叫する。
 爪が割れ、石畳にぼたぼたと血が滴る。
 左足首に巻きついた触手の圧力が増し、ベックの体が高速で石畳を滑ってゆく。
 シャツが捲れ腹が露出し石畳と擦れて焦げる。
 摩擦による火傷で女々しい悲鳴を撒き散らすべックの体が烈風一閃薙ぎ払われ視界が反転、谷間の夜空が大写しになる。 
 逆さ吊りにされた頭に血が下りる。
 ジャンパーの裾がだらりと垂れ下がり、皺くちゃのシャツに押し込んだ紙幣が盛大に舞う。
 「金、俺の金っ!!返せ俺の金、これさえありゃストリップ見放題ドンペリ入れ放題いやちがうもっとでっかく、こんなくそったれた場所から綺麗さっぱり足洗ってやり直せるんだ!!今までは単にツイてなかったんだ、ようやっとツキが舞い込んできたんだ、金さえありゃ俺だって女を抱いて車を乗り回して、車、カマ、あひゃはひゃひゃひゃひゃっ、ありゃあ爆笑モンだったな!!後輪かたっぽパンクしてんのに気付きもしねーで動かして道路のと真ん中で立ち往生、三台続けて追突されてやんの!!あーおかしおかし最高にウケたぜありゃあ、女連れの運転手は全治二ヶ月の重傷だとさ、鼻が顔にめりこんじまって可哀想に!!」
 宙吊りの恐怖から錯乱を来たし、涙と鼻水を滂沱と垂れ流しながら濁った哄笑を上げる。
 夜空に吹雪く紙幣を掴み取らんと死に物狂いにもがくべックの眼前に、サングラスをかけた顔が迫る。
 『……メインディッシュにおける最高の香辛料とは?』
 谷間に巣食う人面の蜘蛛が口を開く。
 ベックは答えない。答えられない。
 涙と鼻水で地崩れを起こした顔でサングラスの奥をひたすらに凝視する。
 サングラスの奥で赤い光点が輝く。
 おびえた頬に触手が触れる。
 全身に触手を生やした異形の男が、ネオンに染め抜かれた夜空を背にふたたび訊ねる。
 『最高の香辛料とは?』
 ベックは必死に考えた。
 考えに考え抜いて、一つの結論に達した。
 「……た……」
 『タ?』
 「タバスコ」
 にいっと蜘蛛が笑う。
 つられてベックもにいっと笑う。
 『正解は……』
 ベックの体に触手が巻きついてゆく。
 さかんに身を捩るベックだが、四肢を巻き取られ抵抗を封じられては成す術がない。
 断末魔が夜気を震わせる。
 糸巻き棒と成り果てたベックの四肢がびくびくと不規則に痙攣、悶絶。
 酸素を欲して身を捩るベックを眺めながら、蜘蛛は言った。
 『メインディッシュにおける最高の香辛料とは……』
 ベックの体がひきつり、ぐったりと弛緩する。沈黙した人形糸巻き棒を眺めやり、蜘蛛は言った。
 『恐怖だよ』
 鈍い音をたて、生命を失った肉塊が石畳に落下する。
 ベックの四肢から触手が外れてゆく。
 解放されたベックの体には、みみず腫れに似た線状痕がくっきりと残されていた。
 全身複雑骨折の死体。
 触手を体内に回収し、重力を従え地上に降り立つ。
 尊大な足取りでベックの死体に歩み寄り、風に弄ばれ吹き付けられる紙幣を興味深げに一瞥する。
 『ふむ。なるほど』
 何事か腑に落ちたように頷きながら腰を屈め、人さし指で粘ついた血痕を拭う。
 指先を濡らした血をしげしげと眺め、口に含む。
 人さし指をくわえた男は、口の端をつりあげて笑う。
 『タバスコもまた、惨劇には欠かせない香辛料だね』
 外したサングラスをスーツの胸ポケットにしまい、改めてベックを見下ろす。
 石畳を染めた赤い飛沫は男の言う通り、瓶から零れたタバスコにも見えた。

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Devilish | コメント(-) | 19951225011558 | 編集

 ファイブリィ。
 人種の坩堝。移民の街。
 軍需産業の活発な戦前は稼動する工場の多さから蒸気都市と呼ばれたが、第二次産業から第三次産業へと主幹産業がシフトした現在では、港湾の経済特区を窓口に海外資本を積極的に取り入れてきた背景をもって無国籍都市と呼ばれる。
 人種構成は多岐に及ぶ。
 アイルランド系イタリア系スペイン系プルエトリコ系その他南米移民の子孫が活発に交流し世代を経て混血が進み、市街にはさまざまな髪の色目の色肌の色があふれている。
 ファイブリィは二つの顔をもつ。
 西の旧市街と東の新市街。
 運河の貿易と工業生産で栄えた旧市街は、今ではその名の通り過去の遺物と化し、石畳と煉瓦の町並みも時代遅れの感を否めない。
 対して港湾に経済特区の人工島を設けた市の東側は近年発展著しく摩天楼が聳え、官公庁をはじめとする市の中枢機能がそちらに移転してからは、もっぱら「新市街」と呼ばれる。
 新旧対照的な町並みは市中心の歓楽街を挟み蝶の翅の形に広がっている。
 流行の最先端を行く新市街の住民からは時代錯誤な移民文化のモザイク貼りと揶揄される旧市街だが、運河と煉瓦と石畳の景観が「開拓の歴史を感じさせる」とよその土地の人間に好評を博し、近年は観光財源として見直され始めている。
 市の南西部は富裕層が豪邸を構えるなだらかな丘陵地帯となっている。
 「連邦で一番天国に近い丘」ーヘヴンズ・ヒルズとも称される緑豊かな美しい丘陵の七合目に、その邸宅はある。 
 控えめに言って大豪邸。 
 延々と続く鉄柵の向こうには綺麗に刈り込まれた芝生が広がり、前庭には花崗岩を切り出した荘重な噴水がある。
 涼やかに水を噴き上げる噴水の向こうには、左右対称の翼館を優雅に従えたネオ・ゴシック様式の邸宅が鎮座する。
 白亜の外壁と瀟洒なバルコニーとポーチ、精緻な装飾の窓。
 莫大な財を注ぎ込んだ広壮な建築物。
 広大な庭園を見下ろす西館三階、右から三つ目の部屋の窓が開け放たれ、芝生を渡ってきた風にカーテンがそよぐ。  

 木目調の美しい床にカーテンで漉した陽射しが降り注ぐ。 
 カーテンが緩やかに捲れ、部屋の全貌が暴かれる。

 三ツ星ホテルのスイートルームにも見劣りしない豪奢な造りの部屋。ありていにいえばだだっ広い。
 窓際の机にはさっぱりもって使用した形跡が見当たらない。どうやらこの部屋の主は、学業とは無縁の甚だ非文化的な生活を送っているようだ。
 壁の一面の本棚にはキオスクで買ったペーパーバックの推理小説・ホラー小説・低俗な漫画、未成年が読むには感心しないたぐいの雑誌まで、その時々の気分で買い漁ったとしかおもえぬ雑多なジャンルの本が投げ込まれていた。
 壁や天井の至る所にべたべたとポスターが貼られている。
 どれもこれも悪趣味なポスターだ。
 部屋の主はヘビィ・メタルがお気に入りらしく、すべてのポスターにグロテスクな厚化粧の歌手が写っていた。
 何より注目すべきは巨大な寝台とその傍らの三段重ねのオーディオセット。
 キングサイズのベッドには寝乱れたシーツが敷かれ、皺くちゃに波打つ上掛けが乗っている。
 傍らのオーディオセットから大音量のへビィ・メタルが流れ続ける。
 重低音を伴った耳障りなノイズが天井を押し上げんばかりに膨張し、音量が最高潮に達する。
 特大の金槌がガンガンひっきりなしに耳をどやしつける。
 やがて金槌はビルの取り壊しに使われる巨大な鉄球に代わり、クレーンの反動で鈍重にぶん回され、着弾の衝撃で決定的な亀裂が入る。
 掛け布の奥から低い唸りが漏れる。
 掛け布から突き出た一本の腕がオーディオのスイッチを探し枕元をまさぐる。
 掛け布の下で百八十度方向転換、冬眠から覚めた芋虫のようにごそごそと這い回る。
 掛け布から腕だけ出し、オーディオのスイッチを押す。
 オフ。
 へビィ・メタルが止む。

 「……sit fuck」

 舌打ち。
 気だるげに上体を起こす。
 体に沿って掛け布が滑り落ち、一糸纏わぬ上半身が外気に晒される。
 ぼんやりとした寝ぼけ眼であたりを見回す。
 部屋は散らかっていた。だれも手を触れてない証拠だ。
 沈黙したオーディオセットを一瞥、掛け布を剥ぎ、床へと足をおろす。
 ひやりとした感触が裸足に心地よい。
 天井を仰いで欠伸をし、ぺたぺたと床を歩いて浴室へと通じる廊下へ消える。
 派手にくしゃみをする。全裸で寝てたせいか風邪をひいたらしい。
 しかめ面で鼻水を啜り、浴室へと通じる廊下を歩く。
 トイレの前を素通りし、浴室に足を踏み入れる。
 大理石のタイルを敷いた床が鏡のように顔を映す。
 シャワーの下に立つ。
 コックを捻る。
 温かいシャワーが慈雨の如く頭上に降り注ぎ、ようやく人心地がつく。
 正面の壁に手をつき前傾する。
 我知らず長い吐息が漏れる。

 「……つかれた……」

 昨夜はいろいろなことがあった。ありすぎた。
 タイルを嵌めこんだ壁に手をつき、頭の螺子を巻いて記憶を巻き戻す。
 倉庫での銃撃戦、フォーマシィの死体、フィロソフィアの手下の黒服たち……そして。
 
 『「僕」を「君」に託す』
 
 抜けるように白い顔が瞼の裏に浮上し、少年ははげしく首を振る。
 濡れ髪から水滴がとぶ。
 顔筋が引き攣り、憎悪に口の端が歪む。
 反吐が出る笑顔だ。偽善くさい。思い出したくもねえ。
 瞼の裏にちらつく笑顔を追い払い、迸る湯がタイルを打つ音で現実に立ち返れば、偽りがたい手首の痣が目に入る。
 本の中で体験した出来事が虚構でない証拠。
 手首の痣に重ねてファウストの顔を思い出す。
 丸め込まれた怒りが沸々と込み上げ、手枷の痕を酷く疎ましく感じる。
 腕を雫が伝う。
 痣のふちをなぞるように雫が滴る。
 手首の痣に口をつける。
 唇で痣をたどる。
 唇が濡れる。
 塩素の味が舌に染みる。
 脱力した四肢に乳白色の湯気がまとわりつく。
 倒錯的な色香匂い立つ細腰に、鎖骨に、尖った肘に、華奢な手首に、発情した蛇のように淫靡にくねりのたくり湯気がまとわりついていく。
 「ちくしょう……」
 排水口へと吸い込まれてゆく渦を見つめながら吐き捨てた。 
 


                        +


 バスローブを羽織って寛いでたディアボロを護衛が呼びにきた。
 昼食を終えた祖父が面会を望んでいるらしい。
 伝言を伝えにきた護衛をちらり一瞥、ベッドから怠惰に腰を上げる。
 バスローブを脱ぎ捨て、造りつけのクローゼットを漁る。
 ハンガーにかかっているのは黒で統一された高級ブランドのスーツが数十着ばかり。
 ハンガーを物色しながら、ディアボロは退屈そうに背後に声を投げる。
 「未成年のヌード鑑賞が趣味か」
 「は?」
 退出する機を逃し、扉の脇に控えていた護衛がうろたえる。
 目の前で勝手に脱ぎ始めたのはそっちだろうと反論したいのを堪え、謹厳に面を伏せる。
 着替えが目に入らぬよう俯く護衛をなぶるように眺めやり、次から次へとハンガーを取り出してはあっさり放り捨てる。  
 羞恥心など欠片もないのか、それとも挑発してるのか、床に散らばったスーツとシャツとズボンを蹴り飛ばして遊びながら嘲る。
 「見るだけで足りんのか?ご希望なら一戦交えてやってもいいぜ。お誂え向きにベッドがあるしな」
 顎をしゃくり中央のベッドを示す。
 護衛がごくりと唾を呑む。
 ディアボロは余裕綽々たる態度で腕を組み、護衛の反応を探る。
 「……ご冗談を、ディアボロ様」
 「もったいねえ。三秒で天国にイカしてやったのによ」
 トランクスを穿き、ズボンに足を通す。
 牛皮製のベルトを調節する。
 ベルトを締め、シャツに腕を通す。
 下から順にボタンをはめながら、ディアボロが笑う。
 「ま、賢い選択だ。バレたらジジィに殺されただろうしな、お前」
 護衛の顔色が変わる。
 ディアボロが嗜虐的な視線を投げる。
 「頭をズドンなんてラクな殺し方じゃねえぜ。ペニスを輪切りにして、酢漬けにして、遺族に宅配で送りつけるんだよ。あらなにかしらこれは?美味しいピクルスね……。目に浮かぶぜ、家族団欒の食卓が。和気藹々とおしゃべりしながらガキどもが食べてるのは親父のペニスってわけ。ムスコを食べる息子たち、イカしたオチだ」
 ぱたんとクローゼットの扉を閉じる。
 扉に凭れ、ネクタイを結びながら護衛の顔色を窺う。
 護衛は下唇を噛んで押し黙る。顔色は紙のように白い。
 ディアボロはにやにやしながら続ける。性悪なチェシャ猫の笑み。
 「それに、俺の気が変わってフェラチオの途中でペニスを噛みちぎらないとも限らない」
 手際よくネクタイを結び背広を羽織る。
 ディアボロの暴言を聞くに耐えかねたか、断ち切るように頭を下げる。
 「失礼します」
 固い声で告げ逃げるように退出する。
 そそくさと退散した護衛の背を見送り、ディアボロは勝ち誇る。
 「けっ。だれがてめえの汚ねえペニスなんかしゃぶるかよ。身の程をわきまえやがれ」
 『……下品だ』
 嘆かわしげな声がした方角に振り返る。
 ベッド脇のテーブルに拳銃が一丁放置されている。
 ネクタイから手を下ろし、ディアボロがこの上なくいやな顔をする。
 足音荒くテーブルに歩み寄るや、ポケットに手を突っ込んで銃を見下ろす。
 惚れ惚れするほど美しい銃だ。
 マホガニーの猫足テーブルの中央に置かれたその銃は、カーテンを漉してシルクの陽射しを弾き、艶かしく輝いている。
 何から何まで完璧。
 掌にしっとり吸い付く滑らかな質感も、シャープに研ぎ澄まされたデザインも、四十五口径の殺傷力も申し分ない。
 ただ一点……「しゃべる」ことを除けばだが。
 『初対面の時から薄々感づいていたが、君は、なんというかその……』
 「なんだよ」
 曖昧に言葉を濁した銃を睨みつける。
 剣呑な目で凝視され、銃はだまりこむ。
 だんまりを決め込む銃を見下ろし、円卓の足を蹴る。
 振動が脚を伝わり、銃が短く悲鳴を上げる。
 どうやら覚悟を決めたようで銃がこほんと咳払いする。
 『……その、もうちょっと人に対する思いやりというか、礼儀を知った方がいいよ』
 「無機物にアドバイスされるいわれはねえ」
 ディアボロがけっと鼻で笑う。
 不遜な態度が気に障ったか、銃が猛然と反論する。
 『たしかに今の僕は無機物だけど、心まで鉄のように冷たく固くなったわけじゃない。今朝からー否、昨晩からの君の言動を見ているとーあんまりにも品がない、下劣きわまる、最低だ、嘆かわしい、悪趣味、おぞけをふるう、胸が痛む。あんなふうに死者を冒涜するなんて天に唾する行いだよ』
 銃の形をしたなんだか分からないものにこんこんと説教され、ディアボロはキレる。
 「死人を冒涜、ね」
 銃が沈黙する。持ち主の変化を敏感に感じ取ったらしい。
 掌中の銃をおもいきりよく放り上げる。
 銃が悲鳴をあげる。
 ふたたび手に戻ってきた銃を今度はもっと高く放り上げる。
 もっと高く、もっと高く、その繰り返し。
 天井に衝突しかけて悲鳴をあげる銃を下から見上げ、ディアボロはけたたましい笑い声をたてる。
 「なあファウスト、おれの数ある趣味の一つを教えてやろうか」
 天井すれすれで落下した銃を高く放り上げては空中で掴み、ジャグリングさながら軽妙な曲芸を演じながら言い含める。
 「温かい肉を冷たくすること。動いてるものを動かなくすること。体の穴の数を増やすこと。つ・ま・りー……」
 深呼吸し、断言する。
 「生き物を殺すこと、だ。当然、人間を含めてな」
 虚空で発矢と銃を掴む。
 掌中の銃を無関心に見下ろす。
 銃ー即ちファウストーはくらくらと目を回していた。
 前後不覚に陥ったファウストが、ディアボロの手の中でうわ言を呟く。
 『その血生粋の邪悪なり……』
 「へいへいっと」
 銃を背広の懐にしまい、靴音高く部屋を横切る。
 懐からくぐもった声が漏れる。
 『どこにいくんだい?』
 「ジジィに会いにいくんだよ」
 『ジジィ……君の祖父?』
 「ああ」
 真鍮のノブを捻り、ディアボロは白けきった顔で付け加える。
 「マルコ・デミトリって名前の化け物だよ」

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Devilish | コメント(-) | 19951224020346 | 編集

 マルコ・デミトリはバルコニーで日光浴をしていた。
 うら若いメイドがお辞儀をし白磁のティーポットをしずしずと傾ける。
 ポットの口からこぼれた紅色の液体が美しい弧を描き、白磁のティーカップへと注がれてゆく。
 最後の一滴が舳先で膨らみ、落ちる。
 同心円状の波紋が静まるのを待ちカップを覗きこむ。
 澄んだ水面に顔が映る。
 老いた山羊に似た柔和な風貌の老紳士が水面の底から微笑み返している。
 片手で受け皿を取る。
 処女に接吻するようにカップに口をつける。
 馥郁たる芳香が鼻孔をくすぐり、閉じた瞼の裏に薔薇色の靄がかかる。
 そっとカップを傾け、一口含む。
 豊潤な余韻が舌の上に広がり、あたたかい漣が喉を潤してゆく。
 最高級の紅茶を味わいながら、ゆっくりと目を開ける。
 円卓の脇に控えているのは十代後半のメイドが一人。
 下腹部で手を組み、緊張の面持ちで俯いている。
 正面に目を転じる。
 バルコニーのぐるりを囲んでいるのは、花盛りの薔薇園。
 豪奢な襞を織り込んだ花弁を広げて我が世の春を謳歌するさまは絢爛の一語に尽きる。
 午後の麗らかな陽射しを浴び、深緑の葉を茂らせた薔薇たちはうとうとまどろんでいるかのように見える。
 二口目を含んだデミトリの耳朶を、騒々しい物音が打つ。
 喧騒の正体は甲高い靴音と怒鳴り声。デミトリには馴染みのものだ。
 カップを持ったまま、靴音の接近を待つ。
 「血尿健康法は効果あったか、ジジィ」
 護衛が渋面をつくる。
 メイドが怯えたように身を引く。
 デミトリは動じない。
 湯気だつカップを右手に預け、微笑を湛えて振り向く。
 「重畳なり、我が孫よ」
 不機嫌絶頂のディアボロはずかずか円卓を迂回すると、許可も得ずに向かいの椅子に尻を投げ出す。
 乱暴に腰掛けた反動で震えがテーブルの脚に伝わり、ポットがぐらりと傾ぐ。
 バランスを崩したポットに気付いたメイドが慌てて虚空へと手を伸ばす。が、遅い。
 「きゃあっ」
 メイドがはしたない悲鳴を上げる。
 バルコニーの床で砕け散ったポットから紅色の液体が飛び散る。
 熱い飛沫をソックスと手首に浴び、メイドが動転する。
 途方にくれてうずくまり、おずおずとデミトリを仰ぐ。
 デミトリは無表情に腰を上げる。
 「も、申し訳ございませっ……」
 顔面蒼白のメイドの手首を、痩せた手がそっとつつむ。
 メイドは目をしばたたき、驚きもあらわにデミトリを見詰める。
 メイドの手をとって立ち上がらせ、紳士的な物腰で尋ねる。
 「怪我はないかね?」
 「は、はい。大丈夫、です……」
 「それはよかった。ああ、ポットのことは気にしないでくれたまえ。別の者に新しいものを持たせるよ」
 慈愛の眼差しを注がれメイドの頬が羞恥に染まる。
 愛らしく頬を染めたメイドを微笑ましげに見やる祖父とは対照的に、ディアボロは顔をしかめていた。
 メイドがぺこぺこお辞儀しながら立ち去ったあと、何事もなかったかのように椅子に腰掛けたデミトリに、ディアボロは早速いやみを投げ付ける。
 「後妻を娶る気か?趣味を疑うな」
 頬杖ついた孫を流し見、デミトリはあくまで上品にカップに口をつける。
 「ディアボロ」
 「なんだよ」
 「お前、あのメイドと寝たな」
 さらりと爆弾を投下され、ディアボロは頬杖を崩した。
 不恰好に肘を滑らせた孫をよそに、デミトリは音をたてずに紅茶を飲む。
 「……なんでわかる?」
 「カマをかけた。図星のようじゃな」
 したり顔のデミトリとテーブルを隔てた対岸でディアボロは憮然とする。
 ばつが悪そうに押し黙った孫を見やり、デミトリは淡々と続ける。
 「……本音を言えばお前が現れた時から様子がおかしいのに気付いておった。先日はお前に熱い視線を注いでおったのに、今日は目も合わんからの」
 別のメイドがしずしずと茶器を載せた盆を運んできた。
 デミトリの前におかれた白磁のティーポットに目を定めたまま、ディアボロが背凭れにふんぞり返る。
 「亀の甲より年の功……卓越した観察眼に敬意を表します、とでもいえば満足か」
 ふざけた口調で茶化したディアボロを無視し、カップに紅茶を注ぐ。
 カップを両掌でくるみ、デミトリが声のトーンを落とす。
 「合意の上で?」
 「一応な」
 ディアボロが言葉を濁し、あさっての方角に視線を泳がせる。
 デミトリが疑り深いまなざしを注ぐ。
 不躾な注視に耐えかねたか、ディアボロが開き直る。
 「ちゃんと避妊した。文句ねえだろ」
 「そういう問題ではない」
 デミトリが渋面をつくる。
 一口紅茶を含み、続ける。
 「屋敷の者に手をつけるのはやめろ。ただでさえ男所帯で華がないのにメイドのきてがなくなれば、ワシは灰色の老後を送らざるをえなくなる」
 「いい老人ホーム紹介してやるぜ、美女がウヨウヨしてるとこ。ただし五十年前の」
 人目を憚ることなく大欠伸するディアボロ。
 馬耳東風の態度にデミトリは肩を落とす。
 「……お前に身も心も弄ばれた上ポットを壊した角で職を失うなど、あの娘があまりにも哀れすぎて泣けてくるわい」
 「だから罪を免除してやったってか。おやさしいこった」
 ディアボロが下品な声で笑う。
 こいつにはなにを言っても無駄だ。
 諦観の境地に達し、疲れたようにかぶりを振りながらカップに紅茶を注ぎ足す。
 紅茶で満たしたカップを両手につつみ、呟く。
 「女好きはだれに似たのか……」
 ディアボロの人さし指がまっすぐにデミトリの胸に向けられる。
 カップを口に運ぶ手が虚空で止まる。
 気分を悪くしたデミトリの視線の先で、ディアボロは「もしくは」と付け足す。
 「親父だろ」
 一瞬、デミトリの目を激情の余波がよぎる。
 深沈と静まったアイスブルーの瞳に漣を立てた感情の正体が何であったのか、本人以外知る由もない。
 ディアボロはその一言が与えた打撃の深度を測るように表情を窺っていたが、デミトリがポーカーフェイスを取り戻すや否や興味を失う。
 素早くポットをひったくり、盆に伏せられたカップをひっくりかえし、じゃぼじゃぼと紅茶を注ぐ。
 カップに注いだ紅茶を音をたてて啜る。顔をしかめる。
 「まじぃ」
 「お前にはまだ紅茶のよさはわからぬ」
 「ブランデーねえのか?」
 「アルコールは早い」
 「ちっ」
 したり顔で諭されそっぽを向く。
 不作法に足を組むディアボロの対面、デミトリはゆるやかに卓上の手を組む。
 五線譜の音符のように樹上の小鳥が囀る。
 瞼の上で木漏れ日が踊る。
 朗らかな旋律が耳朶を弾く。
 バルコニーで向かい合った祖父と孫は、努めて自然体を装い互いの表情をうかがう。
 デミトリは背凭れにゆったり寄りかかり、心もち目を伏せて寛いでいる。
 右目に嵌めた単眼鏡の奥、凪いだ湖面をおもわせるアイスブルーの目が柔和にほほえんでいる。
 ディアボロは笑わない。
 祖父との団欒を楽しむ気は毛頭ないらしい。
 紅茶の渋みを噛み砕くように唇を歪めては、砂糖壺の蓋をあけ、カップに角砂糖を落としている。
 一個、二個、三個、四個、五個、六個、七個。
 紅茶への冒涜としかおもぬ真似に、さすがのデミトリも眉をひそめる。
 「糖尿病の源じゃぞ」
 「糖尿病なんて屁でもねえ」
 ゲル状の液体を匙でかき回し、一口呷る。
 眉間に皺が寄る。どうやらお気に召さなかったようだ。
 空中でカップをひっくり返す。
 バルコニーの床に紅色の液体をぶちまける。
 足元の赤い水溜まりを見下ろし、ディアボロが薄く笑う。
 「血みてえ」
 空のティーカップをひょいと投げる。
 カップは虚空で一回転すると、弧を描いてディアボロの手へと戻った。
 ディアボロの人さし指にひっかけられたカップを一瞥、デミトリは何度目かわからぬため息をつく。
 これは、一種のいやがらせなのだ。
 祖父の神経を逆撫でし、老い先短い寿命をさらに縮めようという悪魔的に狡猾な作戦。
 ディアボロの考えなどお見通しだ。
 卓越した観察眼と達観した視点を兼ね備えたデミトリは、単眼鏡の位置を調節しながら口を開く。
 「老い先短い祖父に懲りずに嫌がらせする元気があるようで安心した。昨晩は死にかけたと聞いたがの」
 だれだチクったのは。
 心の中で舌を打つも、平静を装い背凭れに凭れる。
 「足手まといのせいだよ。愚図な部下が愚図愚図してるから膝の皿を撃ちぬいておねんねしてなって言ったんだ。いいかよく聞けジジィ、俺は民主主義が大嫌いなんだ。おてて繋いでみーんな仲良くピクニック、バスケットさげてミートパイ食ってはい解散。四十五口径の銃もってみーんな仲良くピクニック、ダダダの一斉掃射でミンチにしてはい解散。馬鹿か?つるんで行くのは立ちションだけにしろ」
 「昔から集団行動が苦手じゃったの」
 デミトリが溜め息をつく。
 「今回の仕事ではお前が人を使えるかどうか試すつもりだったが、結果はかんばしくなかったようじゃ。まだまだ跡目は譲れん」
 「あんたがくっつけたお目付け役がぎゃあぎゃあうるさく騒ぐからだよ。部下なんかいらねえっつったろ、最初から」
 「帰還した部下から報告を受けた。何を考えておる、ディアボロ。自分から敵を挑発し銃撃戦を仕掛けるなど狂気の沙汰じゃ。そんなに家名に泥をぬるのが楽しいか」
 「あーーーーーーーーーー楽しいねすっごく楽しい、そーゆー苦虫噛み潰して歯を磨かずに一週間たちましたってツラ見んのすっっごく楽しい。も最ッ高」
 「真面目に聞け」
 椅子をがたつかせはしゃぐ孫を叱責で鞭打つ。
 「……判断をはやまったか。今回の任務はお前には分不相応だったようじゃ。膝の皿を割られた部下に同情する」
 「しばらく尿瓶の世話になるな。看護婦との仲を取り持ってやったんだから感謝してほしーくらいだぜ。俺の代わりに見舞い金はずんどけよ、ジジィ」
 「……血が繋がってなければ即刻放逐しとるんじゃがの」 
 「遺伝子鑑定か?いいぜ、いつでも」
 フィロソフィアのさしむけた一党がどちらにせよ作戦終了次第、こちらを始末する予定だったことは伏せる。 
 部下を守るために汚れ役を買って出たと解釈されるのは腹立たしいし、ディアボロ自身これっぽっちもそんなことは思っちゃない。
 本の取り立てなんてシケた任務ドンパチの楽しみがなきゃやってらんねえ。
 フィロソフィアの手下と組んで蝿一匹叩き潰すより、断然派手に撃ちまくったほうが面白いじゃねえか。
 「……ワシの命令を無視して随分好き勝手したようじゃの。味方に向かい発砲し敵に向かい発砲し挙句の果ては単独行動、標的を追って工場に乗り込んで……さて、そこで何があった?」
 単眼鏡の奥の目が鋭く細まる。
 氷針めいた眼光を飄々と受け流し、からっぽのティーカップをクロスの上で転がす。
 「あらびっくり、俺がよそ見してるあいだに内輪もめで全滅。フィロソフィアの手下はミートパイの原材料になってました」
 「とぼけるな」
 「じゃあ何か、俺が皆殺しにしたとでも?買い被ってくれてあんがとよ、生憎まだそこまで上達しねーよ」 
 「……………銃撃戦の最中、忽然とお前が消えた。自分たちは応戦に必死で気付かなかった。銃撃戦が終わると同時に工場内に駆け込み、細切れと化したフィロソフィアの部下とボロボロのお前を発見した。否、記述には正確を期そう。服装こそ射撃の的にされたようにボロボロじゃったが、お前自身は本を抱いてぴんぴんしとった。以上の材料から導き出される結論は?」
 「悪霊の仕業」
 「真面目に答える気はないようじゃの。誰がフィロソフィアに申し開きすると思っとる」
 「使い捨てのポーンが四人五人死んだところで構わねーだろ?黒のキングにゃ赤のキングからの貢物ってことでクイーン見繕っとけよ」
 「………まあよい。こちらの死者は一名もなし、本は無傷で奪還。不満は多々あるが、仕事は一応こなしたようじゃからの」
 ようやくデミトリが引き下がる。
 釈然とせぬ面持ちながら、これ以上の追及は無意味と悟ったらしい。
 椅子の背凭れに寄りかかり紅茶を啜り、デミトリは静かに言う。 
 「取引の日時が決まった」
 「いつだ?」
 「金曜日夜九時、場所は時計台の鐘楼」
 旧市庁舎に隣接して建てられた時計台は建築後百年を経て老朽化が進み危険なために、現在市民および観光客の立ち入りが禁止されている。
 これを買い取ったのがマルコ・デミトリだ。
 旧市街で覇を唱える名門マフィア「血のデミトリ家」当主は裏の顔、表の肩書きは業界最大手の紅茶会社の経営者。
 紅茶の輸入業はそもそもデミトリの祖父が始めたものだ。
 デミトリの祖父はイギリス人と駆け落ちし、故郷を懐かしがって泣く妻のために、駆け落ち先の大陸で紅茶会社を興した。 
 そもそもが貴族の道楽で始めた商売だったが、特権階級の嗜好品から大衆の愛飲料へと紅茶の地位が変遷し需要が増えるにつれ会社が急成長し、デミトリの父が継ぐ頃には押しも押されぬ業界最大手として不動の地位を占めていた。
 負債に苦しむ爵位持ちの貴族が珍しくない中、マルコ・デミトリは爵位に甘えず商売を成功させた稀有なる例として羨望を集めている。
 金さえあれば買えない物はない。
 それは言いすぎだが、撤去費用の捻出に難色を示した市は「時計台を買いたい」という物好きの申し出を一も二もなく快諾した。
 デミトリが時計台を買い取った動機。
 「市のシンボルとして百年間愛された時計台を壊すのは忍びない」というのが建前だが、真の理由は別にある。  
 その「動機」を知るディアボロは、あえて時計台を指定したフィロソフィアの心意気に口笛を吹く。
 「やるね。鐘楼でダンスを踊るつもりか」
 「お前にも同行してもらう」
 「あたりまえだ」 
 ディアボロの目が光る。
 頬杖を崩し、身を乗り出す。
 卓上に身を乗り出したディアボロは、人さし指をリズミカルに揺らしてみせる。舌打ちのスタッカート。
 「ジジィ、なにか勘違いしてねえか?血のデミトリ家四代目の初仕事のお披露目会に、当の本人がいなくてどうするよ。花嫁がトンズラこいた結婚式、死体のない葬式、スロットのねえカジノ……需要がなけりゃ供給もねえ。ちがうか」
 「しかり」
 デミトリが含み笑う。
 ディアボロも笑う。
 外見上の共通点はないが二人の微笑はおどろくほどよく似ている。
 二人の血には火薬が混ざっているに違いない。
 興奮の臨界点を突破すると発火し、体中を流動体の炎となって駆け巡る因果の血。
 鋭利な微笑を切り交わす祖父と孫に傍らの護衛が息を呑む。
 デミトリは姿勢を正し、表情を改めてディアボロを見る。
 「……本は手元においてあるんじゃろうな」
 「部屋においてあるぜ」
 「金庫の中か?」
 「まさか」
 背凭れに上体を預けたディアボロが掌を返す。
 「床にほっぽってある」
 デミトリがなげかわしげに首を振る。
 ポットを傾け紅茶を注ぐ。
 赤く澄んだ水面に漣を立てているのは、デミトリ家次期当主を自称する孫への憂慮の念かもしれない。
 「……大事な取引の品じゃ。三日後まで無傷で守り通せ」
 「ケツ拭いたりしねえから安心しろ。俺様のケツはデリケートなんだ、あんな粗末な紙で拭いたらかぶれちまうぜ」
 「鼻もかむな」
 「へいへい」
 なげやりに相槌を打つ孫を不安げに見やりながら、デミトリは今日ディアボロの顔を見た時から念頭にあった疑問を舌に乗せる。
 「昨晩、なにかあったのか」
 ディアボロの顔色が豹変する。
 硬度を増した視線がデミトリの顔へと注がれる。
 デミトリは澄ました顔で紅茶を啜る。
 「……さっきの答えじゃ不満か」
 「大いに不満じゃ。お前は何かを隠しておる」
 「棺に片足突っ込んだジジィになにがわかんだよ」
 「棺に片足突っ込んだ老人には神様の内輪話を聞く権限が与えられる」
 「棺越しの盗聴ね。神様が知ったら地獄に叩き落とされるぜ」
 ディアボロが唇をねじるように笑う。癖なのだ。
 デミトリは要所要所で表出する孫の癖ひとつひとつをルーペを覗くように分析し、徹底的に把握している。
 卓上で手を組み、わずかに上体を前傾させ、話に耳を傾ける姿勢をとる。
 顔にはおだやかな笑みを浮かべていたが、老いた痩身から放たれるのは相手を萎縮させる膨大な威圧感。
 手練手管を用いて被疑者を自白に追いこむ刑事のように容赦なく、デミトリは孫を尋問する。
 「ここから先はワシの想像じゃ。お前は昨日フォーマシィを追って工場に飛び込んだ。部下が銃撃戦にかまけている間に、ひとりでな。お前の性格なら十分あり得る。お前はフォーマシィを追い詰め、撃ち殺した。だがその後、お前自身も追い詰められた。おそらく工場内で死んでいた男達……フィロソフィアの部下によって」
 一呼吸おく。
 ディアボロは耳をほじくり「それで?」と促す。
 「……お前は血のデミトリ家次期当主、ワシの唯一の跡取り。今はまだ脅威に値せぬが将来はわからぬ。フィロソフィアの部下がお前がひとりになった機に乗じ、始末を企んでもおかしくない。もしくはフィロソフィア直々に言い含められていたか。フィロソフィアの事じゃ、孫を殺された復讐にワシが打って出るのをお見通しで二重の罠を仕掛けおったのかも」
 「二重の罠?」
 「旧市街に逃げ込んだ男一人の為にデミトリ家を頼るのがそもそも怪しい。フィロソフィアはデミトリ家を今回の作戦に引き込んだ上で、戦力を削ぐつもりだったのではないかの。頼るふりをして裏切る。味方の顔で騙す。ワシは作戦に孫を当たらせると言った。フィロソフィアは少数精鋭で臨むと言った。おそらくそう、フォーマシィーを殺し本を完全に取り戻してからこちらを罠に嵌めるつもりじゃった。ところが不測の事態が発生した。作戦が終了してから路地に潜伏した仲間を呼んで一網打尽にするはずが、事もあろうにお前が真っ先に銃を撃った。出鼻を挫かれたわけじゃの。結果として路地に隠れた連中も姿を晒さずを得なくなり、こちらは応戦し、地の利を生かして互角以上の成果をおさめた。作戦終了後に不意を打たれておったら、とても死人なしとはいかなかった。だがディアボロ」
 小鳥が囀り薔薇が咲き誇る昼下がりの庭園から正面の孫に視線を転じ、重々しく断言する。
 「くれぐれも単独行動は慎め。悪戯に身を危険に晒すな。自分の能力を過信せず、不足部分は配下に頼れ」 
 祖父の忠告を右から左へと聞き流し、背凭れに仰け反っておもいっきり伸びをする。
 「足手まといのブタどもなんてハナからいらねえ。おれには手下なんかいらない」
 目尻に涙をためた孫から視線を逸らすことなく、デミトリは問いを重ねる。
 「仲間もか」
 胡乱げに祖父を探り見る。
 幾重にも皺を織り込んだ祖父の表情は右目の単眼鏡が光を弾いているため、テーブルを挟んだこの距離からでは視認できない。
 だが、その唇から発せられた声はたとえようもなく哀しそうだった。

 これが演技ならたいしたものだ。
 おそろしいことに、可能性は皆無ではない。

 ディアボロは片手に頬を委ねたまま、強いて唇の端をつりあげた。
 「仲間?札束より役に立つならほしいね」
 人を食った受け答えをする孫に、デミトリは処置なしとかぶりを振る。
 親身に孫を案じる祖父のふりは完璧。
 時と場所に応じて声のトーンを使い分ける演技力、眉を下げる角度に1ミリの狂いも生じさせない記憶力は賛嘆に値する。
 ディアボロは皮肉っぽい口調でいけしゃあしゃあと言ってのけた。
 「本は無事に取り戻した。フォーマシィのブタ野郎にも計八十個の風穴あけてやった。これ以上なにを望む?」
 「人望じゃよ」
 こともなげに言い放ちカップを口に運ぶ。
 ディアボロは興ざめする。
 「おれの辞書にはそんな言葉載ってねえな。最新版なんでね、百年も前に幅利かせてた死語は削除されちまうんだ」
 「おぬしの辞書には常識も礼儀作法も載ってない」
 カップに接吻したデミトリは、探るような目で泰然自若に構えた孫を見上げる。
 「『友情』もな……ちがうか?」
 テーブルに片足を放り出し、体重を操作して椅子を揺らす。
 ディアボロは冷え切った目で向かいのデミトリを眺めていたが、祖父の目に浮かぶ悲哀の色に嗜虐心が騒ぎ出し、わざと毒々しい笑みを浮かべてみせる。
 「『家族愛』も載ってないぜ」
 「………」
 沈黙。
 日当たりのよいバルコニーで向かい合った祖父と孫は、今や二人きりの家族となった。
 中庭を備えたこの広大な屋敷も、常に待機している護衛数十名と使用人を除けばデミトリとディアボロの天下である。
 にもかかわらず、ディアボロがただ一人の祖父に敬愛の情を示すことはない。
 デミトリもまた、本心から孫に親愛の情を抱いているか否か定かではない。
 こうしてティータイムの相伴に預かっていても、ディアボロはちっとも嬉しそうな様子を見せない。
 当たり前だ。
 デミトリ家当主の命令は絶対だ。デミトリのティータイムに付き合うのは半ば義務であり、強制なのだ。
 デミトリは無言で紅茶を啜る。
 バルコニーの外に目を転じる。
 枝葉を透かして降り注ぐ陽射しの下、やわらかな諧調を綾なして花弁を広げた薔薇は、幾重にも襞が織りこまれたドレスを纏った貴婦人のようだ。
 頭上には高く円い空が広がっている。
 透けるように高い蒼穹を仰ぎ、デミトリは呟く。
 「ディアボロよ」
 名を呼ばれ、暇を持て余したディアボロが顔をあげる。
 口が半端にあいているのは欠伸の真っ最中だったからだ。
 デミトリはしみじみと続けた。
 「友達を作れ」
 「はあ?」
 ディアボロが目をしばたたく。不意をつかれた顔は笑みを禁じえぬほど子供っぽい。
 ぽかんとした孫を前に、卓上で五指を組んで尖塔を作り、デミトリは言う。
 「おぬしに足りないのはなによりも人望じゃ。拳銃の扱いがどれだけ優れておってもそれだけでは人の上に立てん。人望なき家長の下に集うのは鬼畜だけ……いいか、よく聞け」
 目の温度が氷点下まで冷えこむ。
 組んだ手の上に顎を乗せ、真剣に告げる。
 「デミトリ家は動物園ではない。強い絆で結ばれた家族じゃ」 
 「家族ねえ」
 ディアボロがせせら笑う。
 片手でカップを弄びながら、寸鉄人を殺す一言を放つ。
 「……おふくろを壊した張本人が笑わせるぜ」
 カップを包む手がこわばる。
 胸を一蹴りされたようにデミトリの顔から表情が拭い去られる。
 蝋人形のように無表情に徹した祖父をよそにディアボロは席を立つ。
 椅子の足が床をこする音がやけにけたたましく響く。
 去り際祖父の耳朶に口を近付け、嫌悪と侮蔑とが等分に入り混じった囁きを耳孔にねじこむ。
 「紅茶ごちそーさん……『おじいさま』」

                            +


 『……さっきの言動は目に余る』
 背広の懐から声がした。
 ファウストだ。
 白亜の円柱が規則的に並んだ外廊を歩きながらディアボロは肩を竦める。
 「家族の会話に口を挟むなよ、部外者」
 『辞書に家族愛が載ってないんだろ?』
 耳ざとい奴だ。盗聴してたのか。
 揚げ足を取られて気分を害したディアボロは背広の胸を押さえると、苦渋に満ちた口調で吐き捨てる。
 「……だまりやがれ、拳銃。暖炉に放り込んで溶かすぞ」
 半ば本気だった。
 ファウスト沈黙。よろしい。
 溜飲をさげ、靴音を軽快に響かせて廊下を歩く。ファウストが不思議そうに問う。
 『どこへ行くんだい?そっちは部屋の方角じゃないだろう』
 「るっせーな。おまえは保護者か」
 『愚者の霊ファウストさ。本の中であれだけ何度も言ったのに覚えてないのかい、ひょっとして耳元で五の陪乗繰り返さないとだめなのかい』
 「聞き飽きたぜフールソウル。クールソウルにだんまりきめこんでろよ」
 『ごめん、気に障ったなら謝る。八百年ぶり外に出て少し興奮してるんだ。ここは僕がいたところと違うね。空気の匂いがちがう、味がちがう。ここの光の方が弱いみたいだ。僕が生まれたところではぎぎらと太陽が輝いて、広い砂漠があって、家々は砂岩造りで……モスクから流れるコーランの祈り……香辛料とラクダの糞が入り混じったあの強烈な匂い……懐かしい………』
 内省的な口調で昔語りを始めたファウストに辟易し、ディアボロは先の質問の答えを呈示する。
 「眼鏡を買いに行く。昨夜壊れた……もとい、壊されたからな」
 苦々しげに吐き捨てる。
 目を閉じると思い出す。
 自分を照準した三つの銃口と、その奥にちらつくにやけ面の男たち。
 命と引き換えた代償は微々たるものだ。
 贔屓のメーカーに特注したスーツが一着とカール・ツァイス社製の眼鏡が一つ。
 今は予備の眼鏡をかけているから日常生活に支障はないが、弦のカーブが耳に馴染まずどうにも居心地が悪い。
 中指でブリッジを押し上げ、ディアボロは歩調を速める。
 「眼鏡の借りは億倍にして返してやるぜ。待ってやがれ、フィロソフィアの鎖付きの黒犬」
 紆余曲折して中庭をとりまいた外廊をひたすら歩き続けると、車庫へと続く通路が右手に現れる。
 スロープをすべり、だだっ広い車庫へととびこむ。
 一直線に車庫を突っ切って黒光りするロールス・ロイスに接近、懐に差し込んだ銃に囁きかける。
 「いいもの見せてやるぜ、おいぼれファウスト」
 後部座席のドアをバタンと開けながらディアボロが言い、物思いから覚めたファウストがはっとして返す。
 『なんだい』
 クッションの利いた背凭れに足を広げてふんぞり返り、世界を掌握する暴君の如くディアボロは告げる。
 「マイワールドさ」

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Devilish | コメント(-) | 19951223063922 | 編集

 旧市街を上空から俯瞰すると蝶の片羽に似た地形に葉脈の如く細密に分岐した運河が見てとれる。
 旧市街は丘陵地帯の裾野、ゆるやかに蛇行した運河に沿って拓けている。 
 開拓初期に引き込まれたこの運河は古くは水上貿易の要衝として、都市生活に欠かせない浄水設備として重んじられてきた。
 運河に架かる橋の多くは重厚な石造りか瀟洒な煉瓦造りの古風な代物で、橋脚には天使やガーゴイルの巧みな彫刻が彫られている。
 橋の数は全部で二百三。
 そのひとつひとつに特徴があり、定期的に運行する水上バスから観光客の目を大いに楽しませる。
 古風な橋梁や堤防は石畳の舗道や煉瓦造りの店舗、路肩に鈴生りに並ぶ街灯と相まってノスタルジックモダンなロンドンの景観を彷彿とさせる。
 区画整備が行き届いてるとはお世辞にも言えない猥雑な町並みは一年を通し活気にあふれ、観光ガイドを兼ねるタクシーが引きもきらず出回る。
 随所に蚤の市が立ち、買出し客で賑わう。
 二束三文のガラクタから骨董的価値のある掘り出し物まで、玉石混交の雑貨を商う蚤の市にはいつも人だかりができ、目をつけた品を少しでも安く買い叩こうとする客と物売りの競り合う声で喧しい。
 値引き交渉に余念がない子連れの主婦、子供を真ん中に仲良く手を繋ぐ親子連れ、欄干に凭れいちゃつくカップル。
 そのほか路上にごったがえす人、人、人。車から主役の座を奪い石畳を埋める人の洪水。
 おのおの好き勝手なことにうつつをぬかす人々を窓越しに眺めやり、ディアボロは極めて率直な感想を述べる。
 「轢き殺してえ」
 もとい、感想ではなくただの願望。
 車は遅々として進まない。旧市街名物の渋滞に足止めを食らっているのだ。
 座席にふんぞり返ったディアボロの隣には愛銃アンジェリコ・スナフが放り出されている。
 アンジェリコ・スナフの銃口から細い煙が出る。
 常人の肉眼では識別できぬその煙は掴み所なく模糊として白い人影を形作る。
 銃口から漏れた煙が集合して完成したのはアルビノの青年。
 ディアボロの隣、彼とは対照的な礼儀正しさで腰掛けた青年は、子供じみた好奇心を顔一杯に浮かべ熱心に車窓の景色に見入っている。
 極上の絹と見紛う滑らかな白髪の下、垂れ目がちの優しい眦で真紅の瞳が凛冽と輝く。
 青年ーファウストは、まじまじと目を見開いて食い入るように車窓を眺める。
 道の端から端まで微に入り細を穿つ熱心さで観察し、通りを行き交う人々に焦点を絞っては近景に視線を転じ、ついで遠景に目をやり蚤の市の盛況に驚きと感嘆の入り混じった顔をする。車窓に手をつく。顔を寄せる。刻一刻と移り変わる表情は生気に溢れ、初めて電車に乗った子供さながら興奮がよく伝わってくる。
 行き交う人から人へと忙しなく視線を移し、しきりに瞬きする。
 『駱駝がいない』 
 「絶滅したからな」
 適当に返せば本人はこれにショックを受け、体ごとディアボロに向き直る。
 『本当に?絶滅したの?僕が本に閉じ込められてる間に背中に瘤のある毛深くて気性の優しいあの生き物は絶滅してしまったのかい?』
 「嘘だよ」
 『駱駝がいないならキャラバンはどうやってオアシスへ移動するんだい?砂漠における貴重な移動手段なのに』 
 「よく見ろ、どこに砂漠がある」
 ディアボロが顎をしゃくる。ファウストが窓にはりつく。
 往来の隅々までじっくり眺め回し駱駝が一頭もいないと確認、残念そうにうなだれる。
 『……歳月は非情だ』
 郷愁と哀愁に満ちた溜め息。精霊のくせに人間くさいヤツだと呆れる。
 時代に置き去りにされたと嘆じ力を落とすファウストだが、改めて車窓を見詰め、蚤の市の盛況ぶりに心洗われたように表情を和ませる。
 『こうしてると思い出すよ、カイロのスークを。砂岩造りの家々とターバンを巻いた人々、コイフを垂らした婦人。往来に響く檸檬水売りの声、モスクから朝な夕な流れるコーランの祈り、遠く聳える宮殿の円蓋と白亜の尖塔、混沌たる市場の喧騒と香辛料の匂い……』
 土地も歳月も隔たった生まれ故郷を思い出し、しんみりひとりごつ。
 人外のくせにホームシックにかかっているのか辛気臭く昔を懐かしむファウストに嫌気がさし、ディアボロは露骨に顔を顰める。
 「完全にアラビアンナイトの世界だな。お前一体何歳だよ」
 『少なくとも八百歳よりは上だね』
 「八百年ずっと本の中に引きこもってたのか?だから髪と肌から色が抜けちまったのか?」
 『これは元からだよ』  
 ファウストが窓に鼻をくっつける。
 折しも子連れの主婦が通りかかったところで、見えないのを承知で手を振っている。
 主婦に手を引かれた子供にはもとよりファウストが見えないはずだが、こちらをじっと注視する何者かの存在を感じたらしく、不思議そうな顔できょろきょろあたりを見回している。
 車を出してからこっち、ファウストは何を見ても楽しそうにはしゃいでいる。
 八百年前と比べた街の変貌に驚き、服や交通手段の変容にカルチャーショックを受け、ひと時たりともじっとせず歓声と嘆声を上げている。
 言動から察するに元の生まれはアラビア世界らしいが、八百年ぶりに俗世に触れたにしては適応力が高い。駱駝が一頭も存在せず、代わりに鉄の箱が走り、褐色肌にターバンやコイフを巻いたアラブ人が見当たらない現状にもすぐに慣れ、多分に独断と偏見の入り混じった講釈をたれる。
 『なるほど。駱駝は鉄馬車に取って代わられ、ここはイスラム圏じゃないから女性は肌を隠さなくていい。そしてこの車という乗り物は、驚くべきことに古代生物の死骸を燃料に走っている。本当だとしたらなんて呪わしい乗り物だ、古代生物の悲鳴と怨念を糧に動力を得るなんて禁断の呪術の一種じゃないか!この箱は今もって成仏できぬ古代生物の魂が憑依して動かしてるんだね?どうりで世を呪う怨嗟の嘶きを上げるはずだ。過労で死んだ家畜の魂を獄鎖に繋いで使役するなんて、人間は何て罪深く残酷な事を考えるんだ……地獄の拷問吏も真っ青の所業じゃないか』
 単にエンジンをふかしてるだけだ。
 勘違いしたファウストは、心底気の毒そうに座席のシートをなで、死してなお酷使される不幸な魂を鎮めにかかる。
 どうも解釈が斜め四十五度上にずれている。
 まあ放っとけ。ファウストが「古代生物の魂が憑依して動かす呪いの箱」と車の本質をなにやらおどろおどろしく誤解しようが害がでなけりゃどうでもいい。
 見てて飽きないのは結構な事だ。
 真実を知るディアボロは意地悪く含み笑う。
 ファウストはしおらしくドアの取っ手をなでさする。
 ふとその顔が強張り、視線が上方に釘付けになる。
 遠く、かすかな轟音の唸りが鼓膜を震わせる。
 ディアボロは迅速に行動に出る。
 ファウストをおしのけるようにして即座に窓を下ろし顔を突き出し、旧街のはるか上空を仰ぐ。
 一条の雲を曳いて今しも空を横切っていくのは流線形の銀の機体。
 大気を攪拌する重低音を伴い低空を飛ぶ飛行機を目敏く見付け、子供がこぞって手を振る。
 気圧の変化に伴い木琴の最高音域を叩いたように鼓膜がキンとし、飛行機の腹が急接近する。
 悠々と遊泳する白鯨を下から見上げたらこんな感じかもしれない。
 方角からして新市街の空港に向かっているのだろう。太陽の光を弾いて燦然と銀に輝く飛行機の巨影は、旧市街の上空すれすれを掠めるようにして東の方角をさす。
 日照権の侵害も甚だしい。
 ダイナミックに頭上を圧し、咆哮にも似た轟音を伴い飛び去っていく飛行機を子供たちが無邪気な歓声を上げ追いかける。
 窓枠に片肘かけ身を乗り出したディアボロは、はしゃいで手を振る子供とは反対にたいして面白くもなさそうな顔。
 見飽きてるのだ、こんな光景。
 「ガキが」
 『伏せるんだ、ディアボロ・デミトリ!!』
 車内に視線を転じ、あっけにとられる。
 ファウストがひしと頭を抱え込み座席の下に潜り込もうとしている。
 しかしいかに華奢で細身とはいえとても全身は入りきらず、頭をむりやり突っ込んで小刻みに震えている。頭を抱え込んで震えるその姿はさながら空襲に怯えているかのようだ。広々とした座席の下に入りきらない体をむりやりに突っ込み、飛行機の轟音が完全に遠ざかり、銀に光る機体が空の向こうに消失してからもなお隠れ続けるファウストを見下ろし、ディアボロはおもむろに座席に尻を投げ出す。
 『!?』
 座席に震動が走る。
 突如として頭上を襲った衝撃にファウストが声にならぬ悲鳴を発し頭を引き抜く。
 完全に顔面蒼白、滑稽なほど動転しきっている。
 優雅に長い睫毛の下の目は恐怖と混乱に潤み、言動は饒舌に錯乱を来たし、鬼気迫る剣幕でディアボロにしがみ付く。
 『どこに落ちたんだ?近く?死人は?誰も巻き込まれなかったかい?ああなんてことだ、とっくに終わったと思ったのにまだ続いてたなんて……外に出てから鉄の鳥を一羽も見かけなかったから油断してたのに、あんな特大の、巨大な、銀色のが、堂々と空を飛んでるなんて!!一体いつのまにあんなものを作ったんだ半世紀前の技術じゃあんな巨大な鳥作れなかったのに、あの鉄の鳥が鉄のたまごを産んで街が火の海になって人間が焼けぼっ杭になって、いやだいやだやっぱり戻る帰るお願いだからディアボロ・デミトリ後生だから本に帰してくれ!!』  
 既にして半泣きの狂態で駄々をこねだしたファウストがディアボロに縋り付き悲痛に訴える。嫌々とかぶりを振り必死な形相で藁にも縋らんばかりに帰して帰して後生だからとせがむファウストに、先刻までの落ち着き払った面影は微塵もない。よっぽど飛行機にトラウマがあるらしい。
 錯乱状態のファウストがいい加減うざくなり、ディアボロはしばし思案し、ロックを解除してドアを蹴り開ける。
 勢い良く開け放ったドアから吹き込む突風が髪を嬲る。
 「ディアボロ様!?」
 運転手が目をむき、ハンドルを握ったまま振り返る。
 走行中の車のドアを蹴り開けるという暴挙に思わず抗議の声を発した運転手を無視、シートに放り出した銃をひったくる。
 路面に銃口を付ける。
 ギャギャリギャリギャギャギャと金属が削れる不快音とともに路面と銃口が擦れて激しく火花を撒き散らす。
 『痛たただただだだ熱ッ熱ッやめ、やめ、焦げる!?』
 「ライター代わりになるな。葉巻もってくりゃよかった」
 走行中の車のドアを開け放ち、銃口で路面を削ったディアボロはつまらなそうに呟く。
 その間もファウストは削れている。
 車の走行に伴い、石畳と接した銃口がギャリギャギャギャギャギャと硝子をおもいきり引っかくのに似た耐え難い生理的不快音を奏で金属質の火花を撒き散らす。
 石畳が容赦なく抉れる。
 銃口から弾け飛ぶ火花が眼鏡を照らし、ディアボロの顔に邪悪な陰影をつける。
 ファウストは身も世もなく悲鳴を発する。削り取られた石畳から摩擦熱で白い狼煙が立ちきな臭く物騒な匂いが鼻腔を衝き、発火する寸前にパッと取り上げる。
 盛大に火花を散らした銃口を路面から外し、顔の前に持ってくる。
 路面には銃口が抉った溝がくっきり付いている。
 銃と同化したファウストにとっては拷問に等しい所業。
 車内に目を転じれば、ファウストは顔と手に火傷を負ってさも痛そうに顔を顰めている。
 荒療治によって一応冷静さを取り戻したらしい。
 『その銃、一番大事な物じゃなかったのかい?』 
 「大事な物ほど雑に扱うのが俺様の流儀なんでね」
 ご丁寧にもシャツの袖口まで焦げている。どういう仕組みだかわからない。
 焦げあとのついた袖口を引っ張り、傷心の溜め息をつく。
 人を人とも思わぬ、もとい、銃を銃とも思わぬあるじの無体な仕打ちを嘆いてるらしい。
 怪我した頬をさすり俯くファウストに付け込み、ディアボロは心底楽しげに揶揄する。
 「飛行機恐怖症かお前」
 『鉄の塊が飛ぶなんて信じられない』
 「鉄の塊の分際で口利くなよ」
 『……先代の持ち主の時に口にするのも憚られる忌まわしい体験をしたんだよ』 
 「成層圏からダイブすっか。途中で燃え尽きるか試してやる」
 『むりやり乗せたら魔力漏れ事故おこすよ』
 「なんだそれ」
 『飛ぶ前に不幸が連続して結果的に離陸できない』
 この世の終わりのように暗く沈んだファウストの言葉を吟味し、ディアボロは矛盾に気付く。
 「ちょっと待て、お前外に出るの八百年ぶりって言ってなかったか?その頃にもう飛行機あったのかよ、オーパーツじゃねえか」
 『前回呼び出されたのは半世紀前さ。本の中でも言ったじゃないか』 
 「半世紀前にゃ車あったろ」
 痛いところをつかれファウストが押し黙る。
 その横顔にでかでか大文字で「まずい」と書いてある。
 失言を悔やみ、押し黙るファウストの横顔をたっぷりとねめつける。
 不均衡な沈黙の中、車の走行音だけが単調に流れる。
 不機嫌なディアボロをちらちら上目遣いに窺いつつ、火傷の痕も痛々しい顔によわよわしい笑みをちらつかせ、ファウストは急場しのぎの言い訳をしてみる。
 『………時差ボケ?』
 時差ボケする精霊。メルヘンじゃねえ。断じてメルヘンじゃねえ。
 ロールスロイス後部座席の片隅、ドアとシートの造る三角コーナーに申し訳なさげに縮こまるファウストはいかにも肩身が狭そうだ。このままでは体育座りもしかねぬ勢い。
 隅っこのファウストを無視、背広の内側をさぐり携帯を操作する。  
 『何してるんだい?』
 「セスナをチャーターしてる」
 ファウストが血相変えて携帯を取り上げにかかるも、もとより実体のない彼がどんなに頑張ったところで手をすりぬけてしまう。まさに空気に腕押し、愚の骨頂。何度手が空を切っても諦めず、世にも情けない顔で精霊の限界・報われぬ挑戦を果敢に試みるファウストに溜飲をさげ、ボタンに乗せた指をあっさりどける。元通り懐にしまえば、ファウストが間一髪命拾いしたとばかりに安堵に胸をなでおろす。なんともおちょくり甲斐のあるしもべだ。八百年以上生きてるくせに反応が新鮮で飽きない。
 新しい玩具を手に入れた喜びに人知れずほくそえむディアボロの隣、名誉を挽回せんとファウストが声を上げる。
 『仕方ないじゃないか、精霊だって長く生きてれば物忘れくらいするよ。特に僕はそうさ。片割れと一緒に何百年も本の中に封じ込められて、俗世に触れる機会は五の陪乗の節目しかなかったんだ。そりゃ物忘れだって酷くなるし、飛行機をモアの変種と間違えるのも不可抗力さ』
 「の割にゃ服だけしっかり今風じゃねえか」
 『これかい?』
 よく気付いたねと称賛の眼差しでディアボロを見る。
 性別のあやふやな白い顔に悪戯めかした笑みが浮かぶ。
 焦げ目の付いた袖口を指先で折り返し、謎めいた言葉を口にする。
 『これはね、「君の目に」そう見えてるんだよ』
 「?」
 顔に特大の疑問符を浮かべたディアボロを前に、ファウストはますますもって仄めかしの笑みを深める。
 真紅の双眸が秘密の一端を含んで細まる。
 そんな風に笑うと、最前まで女々しくべそをかいていた柔和な顔だちが年相応に老獪に見える。
 『僕が外に出る時は、その時代と場所に合わせた最も無難な服装に変換される。そういう仕組みになっているんだ。たとえばここがアラビアなら、僕はターバンに裾を引きずるほど長い日除け布を巻き付け登場しただろうね。ここが中世の戦場ならあるいは騎士の甲冑姿で現れたかもしれない。僕のこの姿は君がそうあれかしと認識してるものに過ぎない。物理法則の外側に生まれた超自然存在、第六要素から成る精霊たる僕がこうして君と普通に会話してるという事象自体、君の認識を借りているからできることなんだ』
 口調に熱がこもる。
 眼差しが研ぎ澄まされ、真剣みを帯びる。
 ファウストが身を乗り出す。
 ディアボロの傍らに手を付き、その顔を真摯に覗き込む。
 幾星霜の歳月に磨かれた透徹した目でディアボロを正視する。
 瞬きもせぬ真紅の目に吸い込まれそうな引力を感じる。 
 『僕は君が望む姿をとる。君が望む時に現れ共に在る。縛鎖の契約は魂を連結し、感覚の一端をも共有させる』
 難解すぎて訳が分からない。皆目意味不明だ。
 重々しく厳かな口ぶりで断言し、何かを期待するようにディアボロを見詰める。
 深刻な雰囲気に感化されたか、ディアボロもさすがに口を噤み、腕を組んで考え込む。
 ファウストは内心口を挟みたくてうずうずしていたが、あるじが自力で答えに辿り着くのを妨げるのは良くないと自重し、シートに四肢を付いた姿勢で見守っている。
 正面きって向かい合った相手をたっぷり三秒間眺め、軽快に指を弾く。
 「じゃあ何か。俺が黒革ボンテージにブーツにV字仮面のSMクイーンになれって言ったらその通りにコス変換されんのか」
 脱力。
 紅の眼差しに込められた期待が霧散し、暗澹たる失望に塗り込められる。
 『違うよ、僕が言いたいのはだね……聞いてるかいディアボロ・デミトリ』
 聞いてない。
 ディアボロは眉間に人さし指を押し当て執拗に念を送っている。
 何を念じてるのかは聞かなくてもわかる。
 筆舌尽くしがたい徒労に襲われたファウストは、物は試しと妄想の中で自分を好き放題着せ替えているあるじに向かい釘をさす。
 『残念ながら君の性的願望というか個人的希望は叶えられない。僕にだって拒否権はあるし最低限の羞恥心がある。この服装は君の主観を灰汁抜きして出来る限り今の時代の標準に近付けたものだからね、君がいかに一生懸命念じたところでこれ以外の組み合わせは断固拒否する』 
 「パイパン・ノーブラ・ストリップのくせに何が羞恥心だ」
 ファウストは一瞬言葉に詰まるも、咳払いで威厳を保つ。
 『……あの時はその、間違ったやり方で君の主観を取り入れてしまったと反省してる』
 車内を隔てる背凭れに蹴りが炸裂、衝撃が走る。
 走行中のロールス・ロイスが揺れ、それまであるじの独り言に我が身可愛さから聞かぬ存ぜぬを決め込んでいた運転手の手がハンドルから滑りかける。
 土足で前の背凭れを蹴り上げ、怒りの矛先を運転手に転じる。
 「……とろいな」
 運転手の肩が強張る。
 後部座席の背凭れに身を沈め、両足を寛げてふんぞりかえったディアボロは、手早く銃をひったくり指先の技巧で回し始める。
 「何人轢き殺してもいいからあと三十分で店に着け。四・五人なら懲役で済むだろ」
 暴君の無理難題に、運転手はバックミラーから目を逸らさず控えめに反論する。
 「ディアボロ様、ご無理を申さないでください」
 バックミラーに映り込む眉間に皺が寄る。不快感の表明。
 「ご主人様の命令が聞けねえってのか?」
 「なるべく早く着けるよう尽力しますので、今しばらくお待ちください」
 「今しばらく?母国語に翻訳して何日後のこと言ってんだ」
 こめかみを冷や汗が流れる。
 バックミラーに鋭利な笑みが閃く。
 背広の腋の下を冷や汗が流れるのを感じながらバックミラーを注視する。バックミラーの中ではディアボロが無造作な手つきで拳銃を弄んでいる。
 右から左へ、左から右へ。
 手から手へと投げ渡される拳銃につられ、運転手の眼球も神経症的に移動する。
 信号が悠長に点滅する。
 赤から黄色、黄色から青へ。
 列は遅々として進まない。
 往来で立ち往生を余儀なくされた車両がヒステリックにクラクションを鳴らし、血気さかんな運転手が窓を開け、大量の唾とともに癇性な怒声を撒き散らす。蚤の市の人だかりで混雑してるのはいつものことだが、今日は特に酷い。
 市に群れ集う客も異変を察し、ガラクタを鑑定する手を休め、揃って同じ方向を眺めている。
 「なにかあったのか」
 防弾ガラスを挟んだ向こう側に黒山の人だかりができている。
 ディアボロが乗るロールス・ロイスが現在位置してるのは、運河沿いの道路。
 遊歩道からあぶれた人々が車両の間をさまよってるのも混雑に拍車をかけているのだが、周囲の騒ぎから察するに、今回の渋滞の原因はどうやら別の所にあるらしい。何分待たされるのかと憤慨して地団駄踏んでいる高血圧の中年男から、衆人環視の中だだをこねだして母親に手を焼かせている幼児まで、老若男女とりまぜた通行人の間に漂っているのは濃厚な戸惑いの気配。
 癇性なクラクションが連鎖し、道路のあちこちで流れを寸断された車両から散発的に怒号が上がる。
 「…………」
 ヒステリックな喧騒に比例し、運転手の緊張も急激に高まっていく。 
 落ち着きなく視線をさまよわせ、しきりに下唇を舐める。
 ハンドルに添えた手がじっとりと汗ばむのは、うなじに注がれる視線の重圧のせいだ。
 バックミラーのディアボロはだらけきった猫のようにあくびをする。
 その右手でくるくると旋回しているのは、人を殺傷する武器とは思えぬほど洗練されたフォルムの拳銃。
 指を軸にして時計の針を巻くようにきっかり半回転、正確を期した手さばきで銃を回しながら気だるげに口を開く。
 「なあ……」
 「なんでしょう」
 「お前、日干しジジィのちんぽしゃぶってやったりしてんのか」 
 「してません」
 「ジジィのケツの穴にちんぽぶちこんで毎晩ひいひい言わせてんのか」
 「滅相もありません」
 「そうか」
 ディアボロの目が暗く光る。
 黒い双眸をミラー越しに見返す。
 背広の下で心臓が踊りだす。
 意識してハンドルを切りながら若い主人の顔色を窺う。
 重苦しい沈黙が落ちる。
 運転手の目はいつのまにかディアボロの右手に吸い寄せられていた。
 正午から六時へ、六時から零時へ。
 呼吸の自然さで体得した技巧的操作に従い、きっかり半弧ずつ回る拳銃。
 人を殺すための武器を自分の体の一部であるかのように自在に操りつつ、ディアボロは言う。
 「とろいな、この車」
 「………」
 「世界が終わるまでに目的地に着けんのかよ」
 くくっと短く笑う。さもおかしそうに笑う。
 唾を呑む。寿命が縮む。
 ハンドルに被せた手から大量の汗が分泌される。
 ともすると掌がぬめって滑り落ちそうになるのに注意しながら、運転手は魂を奪われた心地でミラーを凝視する。
 ディアボロから目がはなせない。
 一瞬でも目をはなしたら次の瞬間には自分の命はないような強迫観念にとらわれる。
 刻々と振り子が揺れる。
 正午から六時へ六時から零時へと、一日を半周して無慈悲にカウントダウンを刻む。
 「……とろいのは運転手か?」
 バックミラーの双眸が研磨した殺気を孕んで細まった、次の瞬間。

 ガキン。

 撃鉄の上がる鈍い音が耳朶を弾き、運転手の後頭部に銃口が擬される。
 脊髄反射の早業。
 バックミラーを介しても腕がバネの如く伸びきる瞬間を視認できなかった。
 運転手の後頭部に銃口を擬したディアボロは、うっとりと笑う。
 「おまえを殺したほうが早く着きそうだ」
 「……ご冗談を、ディアボロ様」
 やっとそれだけ言った。語尾は恐怖でかすれていた。
 ディアボロは右手をまっすぐ伸ばし、背凭れの頭のクッションに銃口を押し付ける。
 ミラーに映る顔には薄っすらと嗜虐的な笑みが浮かんでいる。
 他愛ない遊びに我を忘れて夢中になった子供のようだ。
 動悸が早まる。
 耳の裏の血流の音がクラクションや喚声を圧し、何倍にも拡大されて鼓膜を打つ。
 シートに片膝だったディアボロは手首に捻りを利かせ銃口をクッションに抉りこみ、ゆっくりとなぶるように引き金を絞る。
 「お前の代わりはいくらでもいる。かわいいペットたちが運転席に飛び散った脳みその破片をきれいにかき集めてくれるだろうさ」
 「運転はどうなさります?」
 「なめるなよ、ジジィの下半身世話するっきゃ能のねえペットが。俺様はそこらへんに沸いてるボーフラのような愚民どもとは格が違う。車の運転なんて左の小指一本で楽勝だぜ」
 まんざらでもない口調でディアボロが付け足す。
 運転手は押し黙る。
 車外ではクラクションが連鎖し、苛立ちが頂点に達した通行人たちがざわめき始めている。
 信号が点滅し、赤から黄へと移り変わる。
 停滞した車列とは裏腹に、リムジンの中には引き絞った弦のような緊張感が張り詰めていた。
 血走った目でバックミラーを凝視する。
 ミラー越しに銃口をつきつけられた運転手は、固唾を飲んでディアボロの腕の行方を追う。
 運転席のクッションにだらしない姿勢で上体をもたせたディアボロは、媚を売るかのように緩慢な動作で、運転手の耳元へ口を近づける。

 引き金にかけた指に圧力を加える。
 唇を異様なまでにつりあげる。
 そして……


 ―「ばあん!」―


 「ひっ!」
 甲高いクラクションが耳をつんざく。
 驚いた弾みに手元が狂い、おもいきりクラクションを押してしまったのだ。
 ハンドルに突っ伏した運転手の頭上で哄笑が弾ける。
 金切り声の笑い声が長く尾を引いて鼓膜を貫き、運転手がおそるおそる顔を起こす。
 後部座席にふんぞりかえったディアボロが天井を仰いで笑い転げている。
 手にした拳銃には発砲した痕跡もなく、硝煙の匂いもしない。
 手探りで額を確かめ、眉間に穴があいてないことを確認した運転手が長々と安堵の息を吐く。
 命の危機を免れた運転手を見下ろし、ディアボロはあざやかな手つきで銃を回転させる。
 「冗談だっての。本気にするな、ばあか」
 悪戯が成功し、まんまと味をしめた子供のような顔で笑う。
 屈託ない笑い声に鳥肌が立つ。
 どこまでが本気でどこまでが冗談かわからない。
 理性と狂気の境界線が曖昧にぼやけたディアボロと同じ空間を共有していることが、耐えがたい苦痛と極限まで息詰まる緊張感を強いる。
 走る密室にふたりきり。
 その事実を痛感し、運転手はごくりと喉を鳴らす。
 ハンドルにかじりついた運転手をよそに、ディアボロはと車窓を見る。
 人だかりが増し、交差点は騒然としている。
 交差点の向こう側、ロールスロイスからさほど離れてない路上に黄色と黒のテープが張り巡らされ、青いサイレンを頂いたパトカーが停車している。
 腑に落ちた。
 「ディアボロ様!?」
 ぎょっとした運転手に背を向け、マフラーをなびかせ走り出す。
 人ごみを縫い石畳を蹴る。
 跳ねるポケットの中で拳銃に化身したファウストが不平不満を唱える。
 『悪ふざけは感心しないね』
 「かてーこというなって。お茶目な座興だよ」
 『命を玩具にする真似は感心しない』
 「二束三文の安い命だ。買い手がどうしようが自由だろ」
 憮然と押し黙ったファウストには一瞥もくれず弾丸のように雑踏を抜ける。
 前方に黒山の人だかりが見えてきた。
 どうやらあれが渋滞の源……事件発生現場らしい。
 その証拠に道路を斜めに塞ぐ形でパトカーが五台停車し、紺の制服の鑑識と私服刑事らしき人影があちこちに散っている。
 警官が堂々路駐たあ なめた真似してくれんじゃねーか。
 黄色と黒で塗り分けられたテープの外側に二重三重の野次馬の輪ができている。
 物見高い観衆の背後から路地を覗く。
 路地の奥で職務に忙殺されているのは白い手袋を嵌めた刑事たちと制帽を被った鑑識、白いチョークで囲われた男の死体。
 「どけ売女」
 テープの外側につめかけた野次馬たちを押しのけ蹴散らし、猛然と進む。
 背後で怒号が炸裂するが知ったこちゃないと歩調を速める。
 野次馬の輪を単身突っ切り、ひょいとテープを跨いだ瞬間待ったがかかる。
 「HEY、そこのボーイ!だめじゃないカ、いい子はおうちでフルーツポンチ食べてなきゃ!死体はよいこの目に毒だYO!」
 ラッパーじみて語尾を上げる独特の早口に制止され、テープを片足で跨いだまま嫌々振り返る。声の主におもいきり心当たりがあったからだ。
 不幸にも予感は的中した。
 両手をわたわた開閉しながらディアボロのもとに馳せ参じたのは、二十代後半の黒人男性。
 ひとりパントマイムをしながら小走りに駆け付けてきたその刑事は、鼻から下が妙に間延びした俗にいう馬面でお世辞にも美男子とは言い難いが、妙に愛嬌があって憎めない。
 白地に茶の格子縞のスーツはお洒落を狙って外してしまった感ありありで、しめに日本文化を取り入れてみましたと言った感じのネクタイには一筆書きの笹の図案が入っているが、これがまたぼたんを掛け違えた挙句に靴下は裏表逆でダメ押しにジッパー全開といった具合にとほほな哀れを誘う。
 結論、頭のてっぺんから爪先までまんべんなくいんちきくさい。
 低視聴率の深夜番組の司会か、クーリングオフ期間中に電話線ひっこぬいて高飛びするセールスマンみたいな印象。
 語尾を当世風にはねあげる独特なしゃべり方の黒人の接近に、ディアボロは露骨に眉根を寄せてみせる。
 「なにがYO!だ。てめえは場末のクラブのラッパーかっての。パー券売りつける気ならトラック一台分もってこい、まるごと買い取ってやる」
 「ワーイ大儲け……て、ちがうYO!ここははいっちゃだめだYO、民間人は立ち入り禁止サ。ディアボロ君でもネ」
 「民間人に見えるか?この俺が」
 鼻面に皺を寄せたディアボロをひょろりとのっぽの黒人はまじまじ見詰める。
 真面目に考えこんでいるらしい黒人の鼻先を素通りし、残った片足でテープを跨ぎ越す。
 テープの内側に踏み入ったディアボロは気色ばむ警察関係者を一顧だにせず、路地の暗がりに素早く身を投じる。
 マフラーの尾をなびかせて路地に消えたディアボロを追い、我に返った黒人刑事が走り出す。
 『だれだい、今のは?』
 「俺のファックの相手」
 『…………』
 「うそだよ」
 『ファックってなんだい?』
 「知るか」
 無益な問答に終止符を打ち左右を見回す。
 手狭な路地だ。
 両手に迫ったアパートの側壁が日光を妨げているせいか、石畳がじめついている。
 老朽化した側壁と這い回る錆びた配管に目を走らせる。
 直角に斜角に鈍角に、幾何学的な軌跡を描いて複雑に交差した配管は緻密な交通網の縮小図にも見えた。
 死体は路地の奥に仰臥していた。

 ニット帽を被った若者が地面に倒れ伏している。
 あたり一面にばら撒かれた紙幣の中に仰臥した死体の首は、人間離れした怪力により百八十度反対方向にへし折られていた。

 「すげえ。局地的トルネードでもこったのかよ?」
 ディアボロは口笛を吹く。
 ポケットの中で待機していたファウストにも主の高揚感が伝わってきたらしい。声をひそめて不謹慎なマスターを叱りつける。
 『死者を冒涜する言動は慎みたまえ』
 「だってこれすごくねえか?首が180度回転してるぜ。どこの悪魔払い師にやられたんだろうな」
 再三の注意にもかかわらずディアボロの声は弾んでいる。
 手におえない、とファウストがポケットの中で嘆いたその時。

 「ぬぁにをやっとるか一般市民!!」
 雷が落ちた。


 なみいる警察関係者を蹴散らし突き除け、鼻息荒く突進してきたのは風采のあがらない中年男。
 額が狭く、どことなく目つきが卑しい。
 強きに媚びへつらい弱きを踏みつける小者っぽさ全開の男は、立ち入り禁止のテープを無視して分け入ってきたディアボロを陰険な目つきでねめつけるや、異常に発達した前歯を剥いて悪態をつく。
 「小僧、どっから入りこんだ?野次馬の分際で俺達の管轄に不法侵入たあいい度胸じゃないか」
 問答無用、ディアボロの腕を鷲掴みにする。
 スーツの上から爪を立てられ、ディアボロは顔を顰める。
 中年刑事は構わず最寄りのパトカーへとディアボロを引きずってゆく。
 その間もヤニで黄色く変色した歯を剥き、しきりに非常識なガキを罵っていた。
 「こい、取調室でたっぷりしぼってから親に連絡してやる!住所はどこだ?親の名前は?さっさと吐け!」
 「マルコ・デミトリ」
 「マルコ……?」
 男の足がぴたりと止まる。
 パトカーの傍らで睨み合うこと数秒、刑事の顔に理解の色が浸透していく。
 「あ…………あああああああああああ!どーりで見たことあると思ったら、デミトリ老のお孫さまじゃありませんかあ!」
 指紋を採取に証拠品の収集、おのおの職務に没頭するあまり不埒な闖入者をつまみだすどころではなかった警察関係者がデミトリの名に敏感に反応する。
 無理もない。
 旧市街で生まれ育ったものにとって、デミトリの家名には特別な意味がある。
 街の治安を司る者にとっては、特に。
 死体の脇に屈み、カルテに所見を書き込んでいた鑑識が一斉に顔をあげる。
 長細い路地に散っていた私服刑事たちが揃って振り向く。いずれの顔にも抑圧しがたい嫌悪感とぬかりない警戒心が表出している。
 瞬時に硬化した空気を読まず、この場でただ一人ディアボロの腕をなれなれしく掴んだ中年男だけが全身で歓迎の意を表する。
 「そうですか!デミトリ老のお孫さんでしたか!いやはやこれはとんだ失礼を……申し遅れました、わたくしファイブリィ中央署殺人課の警視、ラッツ・マウスと申します!どうぞどうぞ、今後とも末永くお見知りおきを」
 威勢よく唾をとばし、興奮気味にまくし立てるラッツから暑苦しげに身を引く。
 この手の輩はどこにでもいる。
 卑屈に媚びへつらうラッツを冷ややかに流し見、おもむろに撃鉄を跳ね上げる。
 ガチン。
 「-へ?」
 撃鉄の上がる音がラッツに冷水を浴びせる。
 銃口の向こうにはディアボロがいる。
 ディアボロは憎々しげに唇をねじるや、軽蔑しきった口調で唾棄する。
 「よるな、ドブネズミ」
 「ひぇっ、ひぇっ……」
 怖じたように腰を引くラッツにあわせ一歩を踏み出す。
 警察関係者が息を呑み、反射的に懐へと手を伸ばす。
 引き金に指をかけながらディアボロは薄く笑う。
 「部下どもが見てる前で眉間に風穴あけてやるよ」
 冗談とも本気ともつかないへらへらした口調で、引き金にかけた指に圧力を加える。
 ラッツ警視の血走った眼球が極限までせり出し、口がムンクの楕円を描いて静止し、そして……。

 引き金は引かれなかった。

 「お遊びはおしまいだ」
 脇から伸びた手がディアボロの手首を掴む。
 殺気走った双眸が横滑りし、無精髭を散らした男の顔をとらえる。
 右手に立っていたのはスーツをだらしなく着崩した三十代半ばの男。
 明るい金髪を短く刈ったこざっぱりした髪型が、頬骨の高い精悍な顔だちによく似合っている。
 瞼が重たげなグリーンの目は常に少量の眠気を含んでいるような錯覚を与えるが、時折猛禽の鋭さを帯びて油断なく細まる。
 閑古鳥が啼く酒場で水割りをちびちびやる真昼の用心棒じみて弛みきった顔に凄みを与えているのは、眉根を斜めに跨ぐ古傷だ。 
 はだけた襟元をぽりぽり掻きつつ、のほほんとした声で男は言う。
 「相変わらず刹那的な生き方してるじゃねえか、小僧」
 「相変わらず不潔にしてるじゃねえか、中年」
 手首にかかる手を邪険に振り払う。
 据わった目で睨まれても男は動じず、肩を竦めてみせるのみ。
 注意が第三者に逸れたことをこれ幸いと、ラッツ警部は頭を低めてその場から退散する。
 残された二人のもとへ先刻の黒人刑事が駆けてくる。
 「スヴェン先輩、この困ったチャンなんとかしてくださいYO!」
 「困ったチャンてどこのだれチャンのことだ、二ガー」
 ディアボロの頬が引き攣る。
 一方スヴェンと呼ばれた男はおかまいなしだ。
 男臭い笑みを広げ、あまつさえこんなことまで言ってのける。
 「困ったちゃんの監視と報告ご苦労だったなチャーリー。まあ、ここじゃなんだしおもてで話そうや」
 親指の腹で路地の出口を促す。
 先に歩き出したスヴェンに従い、不承不承ディアボロも歩き出す。
 踊るような足取りでチャーリーもついてくる。
 路地にぽつねんと残されたリッツ警視を瞬く間に部下たちが取り囲む。
 「あのネズミ面が上司か。同情するな」
 「そういうなって。あれでなかなか憎めないところもあるんだぜ」
 「女にゃモテねえだろうな」
 「否定しない」
 路地を出る。
 テープの外側に野次馬が殺到している。
 事件現場を一目覗こうと押し合いへし合い、今もって渋滞の原因を作っている呑気な群衆をよそに最寄りのパトカーに凭れる。
 パトカーの陰に隠れるようにして群衆の目を避けた三人の内、最初に口火を切ったのは最年長のスヴェンだ。 
 「で?野次馬にまざって事件現場ご観賞たあずいぶん高尚な趣味じゃねえか」
 「口に轡嵌めるぞ。ボールギグのがお好みか?てめえらが白昼堂々交通妨害してくれたせいで、俺の高尚な目的が達成されずに終わりそうなんだよ」
 「高尚な目的ッて?」
 左側に寄りかかったチャーリーがくちばしを突っ込む。
 ディアボロはちょいと弦をつまみ、眼鏡を持ち上げてみせる。
 「眼鏡を新調しにいくんだ。昨日壊したからな」
 「高尚な目的ねえ……」
 あくびまじりにまぜっ返すスヴェンにディアボロはむっとする。
 チャーリーが「まあまあ」と仲裁に入る。
 「とにかく。お前ら、汚職と賄賂に漬かりきった警察機構のせいで善良な一般市民ーたとえば俺ーが甚大な迷惑被ってんだ。即刻このテープ取っ払え。通行止めを解除しろ。じゃなきゃ力づくで突破する。一回スクラップにしてみたかったんだよな、パトカー」
 「生憎こちとら仕事なんでね。暇な一日遊んで暮らしてるどっかのドラ孫息子と違って、薄給のおまわりさんはせっせと働かなきゃワンカートンの牛乳も買えねーのさ」
 「恵んでやろうか」
 「何ドル?」
 「金じゃねえ……鉛だ」
 ポケットの中で撃鉄を上げる。
 傍で見守るチャーリーが冷や汗を流す。
 挑発的な笑みを浮かべたディアボロを目の端で一瞥、スヴェンが冷静な声音で付け足す。
 「弾の無駄遣いは感心しねえな。命取りになるぜ」 

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Devilish | コメント(-) | 19951222025759 | 編集

 指紋の採取、証拠品の検収。
 おのおの作業に精を出す警察関係者を眠たげな緑の目で眺めながらのんびり紫煙を吐く。
 死体を乗せた担架が搬送車の後部に収容される。
 拒絶の響きを残してドアが閉まり後追いの眼差しを遮断する。
 担架を見送りながら煙草をとりだしライターで着火、吹き通しの空へと一筋紫煙が立ち上る。 
 搬送車に収納された担架から寝ぼけ顔で紫煙をくゆらすスヴェンに視線を転じ、当然自分には権利があるとばかりディアボロは訊く。
 「何があったんだ?」
 「善良な一般市民なら知らなくていいこった」
 「おれが善良な一般市民に見えるか?視力検査してもらえよ」
 「さっきと言ってることがちがうYO!」
 鼻で笑うディアボロにチャーリーが食ってかかる。
 スヴェンは涼しい顔で煙草を指に預け、錆びた配管やゴミ缶や酒の空き瓶の入ったケースに雑然と埋もれた峡谷の空を見上げる。
 カメラのストロボが焚かれ視界が白く染まる。
 あくせく立ち働く同僚を尻目に一服する煙草は格別の味。
 愛飲する銘柄は駱駝の商標が目印のキャメル。
 アパートの突端に区切られた細長い空は褪せた水色のリボンを吹き流したようだ。
 「なにがあったんだろうなあ、ほんと……」
 ぼんやり呟く横顔は昼行灯のレッテルを貼られるのもなるほどと思わせる頼りなさ。
 死体が運び出されてなお石畳に乾いた血痕がこびりつき、野次馬でがやがやと騒がしい路地を見渡し、首を捻る。
 「とぼけてんのか?」
 「だったらいいがな」
 のらりくらりとはぐらかすも眇めた目は一抹の真剣みをやどし、中年の哀愁を含む横顔はタフな気骨を感じさせる。
 よれよれの背広とネクタイがトレードマークの冴えない独身男、スヴェン・マーヴェリック。
 年は三十路半ば。巡査長止まりの平刑事。殺人課の窓際席で吸殻の山をこしらえるのが日課。出世の野心はとっくに捨てているが、殺人課の一員として捜査にかりだされたてまえ守秘義務の鉄則はきちんと守る。がさつでぐうたらと定評があっても最後の一線はきちんと守るのが隠れた人望の秘訣。
 空を見上げてたそがれるスヴェンに詮索は功なしと判断、ディアボロは手と品を変える。
 「訊く相手を間違えた」
 ポケットから硬貨をとりだしよく見えるよう頭上に翳す。
 太陽の光を弾いて燦然ときらめく硬貨をチャーリーが物欲しげに見詰める。
 硬貨を弾いてチャーリーに投げてよこす。
 お座りを命じられた犬よろしくお行儀良く両手をそろえて差し出し待ちかねていたチャーリーは、白手袋の上に硬貨が着地した途端、立て板に水の勢いで捲くし立てる。

 「第一発見者は朝方空気を入れ替えようと窓を開けた住民。伸びをしてふと見下ろして通りの死体にグッモーニン、爽やかな朝が一転惨劇の朝に。死因は窒息死。死体は全身複雑骨折しておリ、現場の状況から見て高所から転落したのは間違いないっぽいデス。近隣の住民に聞き込みしたトコロ、昨夜この近くの廃車場で銃撃戦があったんだそうデス。スラムにおける常識中の常識ですガ、深夜パンパンと銃声が聞こえたからっテこのへんの住人はわざわざ窓開けて確かめたりしまセン。わざわざ現場に出かけてっテ巻き込まれたりもしまセン、流れ弾喰らって死体の仲間入りするのがオチですからネ。さて、話を戻しまス。昨晩行われた銃撃戦ですガ、狙われたのはスクラップ置き場にて恒例の集会を開いてた地元ギャング。未成年に麻薬を売りさばいて遊ぶ金を稼いでたケチな不良さん達デス。ぶっちゃけ仲間割れの疑いが濃厚ですガ、何故彼だけ離れた場所デ、しかも外傷は殆どないのに全身複雑骨折の上窒息死なんて奇妙な死に方したのカ、そこだけアンビリバボーなんですよネ~」
 
 懐にしめしめと賄賂を着服するやサービス精神旺盛に身ぶり手ぶりをまじえ声の高低で雰囲気を演出、死体発見時の状況を細部にいたるまで暴露したチャーリーの脳天に拳骨が落ちる。
 「目の前であっさり買収されてんじゃねえ」
 チャーリー・ブルックリン・ジュニア、無駄にご立派で長ったらしい名前の平刑事。
 無類のギャンブル好きで万年金欠。従って賄賂に弱く、はした金で買収されては捜査の内情をぺらぺらしゃべくりちらす欠点あり。ディアボロの貴重な情報源。
 投げ渡された小銭をいそいそしまいこむ決定的瞬間、またの名を買収の現場を見咎められたチャーリーはしどろもどろに弁解を図る。
 「いや違いますッテ、これはデスね、善意の寄付ですヨ。刑事の薄給ではワンカートンの牛乳だって買うに困るありさまを見かねて通りすがりの善意の民間人が25セント硬貨を寄付してくれたんデスよ、たまたま」
 「たまたま油を射したように舌のすべりがよくなったってか」
 ヒラはヒラでも眉間の傷が似合う強面の威力は絶大で、スヴェンが担当した取調べでは被疑者があっけなく落ちる。
 平素でも堅気に見えないと評判の先輩が本気で凄めばそりゃもう怖い、小便ちびるくらいに。こうしてチャーリーの胸ぐら掴んで腕一本で揺さぶる姿は堂に入っていて、目敏い野次馬がこちらを指さし「当たり屋の恐喝よ!」「お財布しまって!」「まあ怖い」「まともに直視したら心臓発作おこしますよおばあさん」と叫び始めている。
 先輩に詰め寄られ、チャーリーが世にも情けない顔で自分を苦境に追い込んだ張本人に助けを求める。
 潤んだ眼差しを注ぐチャーリーに失笑を漏らし、ディアボロは涼しげにうそぶく。
 「25セント硬貨投入した途端に鳴り出すってこたあ前世はジュークボックスだな」
 スヴェンが苦りきった顔でチャーリーのネクタイを突き放す。
 捩れたネクタイを見下ろしチャーリーが落胆する。
 チャーリーに説教くれるのは一時中断、関係者以外立ち入り禁止のテープを跨ぎ越して現場をひっかきまわす邪魔者を追っ払うのが先決。
 重々しい咳払いで威厳を取り戻したスヴェンは、白い手袋を嵌めた手を邪険に振ってみせる。
 「これで気が済んだろ?さあ行った行った、昼間っから事件現場うろつきまわってんじゃねえ。こっから先はおまわりさんの仕事だ。いい子は門限守ってとっとと噴水付き一戸建てに帰りやがれ。おもてに車待たせてるんだろうが、金持ちめ」
 一刻も早くディアボロを追い払いたいという内心が顔に出る。隠すつもりもないらしい。
 歯の間から鋭く呼気吐き手の甲振って追い立てるスヴェンをいっそすがすがしいまでに無視し、ディアボロは居直る。
 「外傷見あらたねえのに全身複雑骨折か。どんな拷問したんだろうな」
 不謹慎な感想を大声で口にする露悪癖ににうんざりし、スヴェンがまぜっかえす。
 「拷問と脅迫はデミトリ老の専売特許だろうが。茶飲み話のついでに教えてもらえよ」
 祖父の名を出され、眼鏡越しの目が据わる。
 「うちの仕業だと思ってんのか?」
 声を低めて凄めば、矛先を逸らすようにスヴェンが肩を竦める。
 「微妙な線だな。一応ここも旧市街だが、一区画向こうはもう新市街だ。可能性は半々。デミトリ家の人間が殺ったのかもしれねーが、カンパニーの人間がちょいと越境して始末つけたってのも十分ありうる。このへんは勢力争いが複雑でわけわかんねーからな」
 「どこの誰に教授してるんだお前。そんなの先刻承知の上だ。授業料期待してんのか、貧民」
 ファイブリィには大小の犯罪組織が割拠している。
 最大手と目されるのは旧市街の血のデミトリ家と新市街のフィロソフィアカンパニーだが、この二つに追随する組織あり、二大マフィアの対立の影に隠れて縄張り拡張や麻薬の売値の釣り上げなど姑息な策謀を練るものあり、弱小から中堅まで全部で五十二の組織が入り乱れてる状態で、デミトリ家とフィロソフィアカンパニーが規模では突出してるとはいえ単純な対立構図には決して成り得ない。
 「ここは旧市街と新市街の境界線上にあるファイブリィの火薬庫だからな。今回の事件がデミトリ家の仕業でもカンパニーの仕業でも、はたまた別の組織の仕業でも驚くにゃ値しねー。ま、どうやったら目だった外傷もなく人間の全身の骨へし折れるのかさっぱり謎だが」
 チャーリーの情報漏洩でヤケになったか、気心の知れた口ぶりでスヴェンがぼやく。
 地元組織といえど一枚岩ではない。
 まずはどの組織がどんな目的で被害者を襲ったのか突き止めねばねらない。
 最近では海外から流れ込んできた組織も増えている。
 銃撃戦の舞台となった廃車場でも同時に現場検証が行われているが、被害者の大半が死んでいるために、生き証人に頼らず地道に調べていくしかない。
 早晩暗礁に乗り上げそうな捜査を悲観し、部外者のクソガキに愚痴でも吐かねばやってられない気分に陥ったスヴェンが続ける。
 「で?ついでに確認しとくが、お前にゃ心当たりないんだな」
 「昨日は別件で忙しくてな」
 「知らぬ存ぜぬか。ま、デミトリ老がお前に仕事の話するわきゃねーか」
 あっさり引き下がるスヴェンに気分を害す。
 デミトリが自分に仕事の話をしないと決め付けられたのも癪だ。
 「トランクスに尿の染み付いてそうな中年の分際で誰に口利いてやがる?あの老いぼれがくたばったら俺の天下だっての忘れたのか」
 「デミトリ老は当分死なねーよ。よしんば死んだとしてもお前が跡継ぐとは限らねえ」
 自信たっぷりに断言、不満たらたらのディアボロをさも愉快げに眺めやる。
 ディアボロをからかい半分に挑発する先輩にチャーリーが冷や汗をかく。
 「どういう意味だ?」
 「世襲制のマフィアなんざ今時流行んねーぜ。悪習は正さなきゃな。お前がデミトリ老の跡継ぐとなりゃ大勢の反発が予想される。さてお次は?血で血をあらう内部抗争勃発だ。賢明なるデミトリ老が跡継ぎにふさわしからぬ孫を残して何の手も打たずぽっくり逝っちまうとは思えねーな、昔種まいた隠し子を見付けだすか部下を養子にとるかしてるんじゃねーか」
 歯を剥いてせせら笑うスヴェンの口から煙草をもぎとり、石畳に叩き付ける。
 「安心しろ。そん時ゃ平等に皆殺しだ」
 「あっばかっ返せよ、最後まで吸ってねーのに!?」
 煙草をとりかえそうと手を伸ばしたスヴェンの前で無情にも揉み消し灰を撒き散らす。
 「あーあ……まだ吸えたのに、もったいねーことを」
 目の前で踏み消された煙草を未練がましく見下ろし、スヴェンが間延びした声で嘆く。
 ようやく吸殻から靴裏をどけたディアボロは、貧民根性全開で愚痴りつつ、せこい手つきで新たな煙草に着火するスヴェンに追い討ちをかける。
 「調べるのは勝手だが、俺は容疑者候補から外しとけよ。ハードな一日のシメにわざわざ寄り道してトンマを絞め殺すほどひまじゃないんでね」
 「昨日は随分大変な一日だったみてーだな」
 ディアボロの言葉を咀嚼し、思わせぶりに確認をとる。
 心当たりでもあるのか、その顔に猜疑の色が浮かぶ。 
 「土産に教えてやるがディアボロ、こっからちょっと離れた工場街でも昨日事件があったの知ってるか。どっかの馬鹿二組が倉庫の内と外で銃撃戦やらかしたらしいぜ。俺はこっちにお呼びがかかったんで詳しく知らねーが、無線で状況聞いたら胃の中のもん全部戻しちまうくらいの惨状だっていうじゃねえか」
 「精肉工場の実態」
 「……ジョークのセンス最悪だな」
 チャーリーが蒼白で口を覆い、スヴェンはいったん煙草を外し顔を顰める。
 煙草を片手に持ったまま工場街の方角を仰ぎ、同じ夜に数時間差で発生した銃撃戦の概要をまとめる。
 「倉庫の外もひどかったが、問題は中。犠牲者はミンチになってた。原形を留めてるのは小太りの一体きりで、あとの四体は元の顔かたちもわかんねー有様……」
 スヴェンの言葉にひっかかりを覚える。
 「四体?」
 思わず声に出す。スヴェンとチャーリーが揃って向き直る。
 「四体だが、それがどうかしたか」
 はっきりと覚えている。
 あの時倉庫内に殴りこんできた男達は五人、フォーマシィーの死体を含めれば全部で五体になるはず。

 ひとつ足りない。
 一人生きてる?

 単純な消去法で自分以外にも生き残りがいると思い至り、眉間に皺を寄せ当時の回想に努めるディアボロの腕が、おもむろに引き上げられる。
 ポケットの中で無意識に銃を弄んでいた手をむりやり露出させ、ためつすがめつしてスヴェンが唸る。
 「四十五口径か」
 「お前の持ち物より立派だろ」
 軽口を叩くディアボロの腕を油断なく掴んだまま、四十五口径の銃口を覗き込み、感情を窺わせず呟く。
 「倉庫で見付かった死体の銃痕と同じサイズだ」
 「この場で硝煙反応確かめるか」
 挑戦的に応じるディアボロに対しスヴェンの目つきが険しくなり、腕を絞める力が強まる。
 緑の目から今や完全に眠気は払拭され、真実を見抜く透徹した光をやどす。
 パトカーの傍らで険悪に睨みあう二人にチャーリーは動揺し、ひょろ長い腕を無意味にふりまわしては「先輩まずいでスよ善良なる民間人の皆々様がこっちをちらちら窺ってまスっテ……あ、ほら、鑑識班も気付いタ!こっちにカメラ向けてル!先輩もディアボロ君もにっこりハイチーズ、スマイルスマイルでイきまショ!ネ!民間人の皆々様コレは違うでスよ、恐喝時の実践的対処訓練であって決して刑事が未成年を脅してるとか未成年が刑事を脅してるとかじゃないんですヨー」と必死に場を和ましにかかる。
 だがしかし、当の本人達が自重とかけ離れたところで睨みあってるのでは著しく説得力に欠ける。 
 野次馬の好奇の眼差しなど知った事かとスヴェンはディアボロの腕を掴み食い下がる。
 間近に顔を突き出し、ほんの僅かな動揺も見逃してなるものかと隙のない目つきで表情を読む。
 煙草の穂先から零れた灰がネクタイにかかり、ディアボロは不機嫌になる。
 「ネクタイがこげた。弁償しろ」
 「金持ちのくせにせこいこと抜かすな。もう一度聞くがディアボロ、お前、今回の事件にゃどっちも関わってねーんだな。死体の銃痕とお前の銃の口径が同じなのはただの偶然で、倉庫の前庭にあったタイヤ痕も、昨日夜に物騒な野郎どもが路地に散開してたってゆー近隣住民の証言も、このへんじゃめったにお目にかかれねーロールス・ロイスが工場街の方めざして酷く乱暴な運転でかっとばしてったって浮浪者の目撃談も、ぜーんぶ自分にゃ関わりのねーよしなごとってお抜かしくださるわけだな」
 「ざんねん、轢きそこねた。タイヤが汚れるのが嫌でうっかり避けちまったんだ」
 「やっぱりお前か……」
 だんだん面倒くさくなってきた。 
 スヴェンはしつこい上に賄賂も利かない。ネクタイを弁償する気もないとくれば、生かしておく理由がない。
 腕を掴んだ手に力がこもり、苦痛が怒りを招く。 
 恐れ多くもこのディアボロ・デミトリに説教かます無礼な刑事におよそ三百通りの悪態を思い付くもそれらをぶちまけるより一発の銃弾でとどめをさすほうがスマートで流儀に適ってると判断、慎重に引き金を絞る。
 「先輩ッ!!?」
 チャーリーが抑えた悲鳴を発する。
 野次馬もとい民間人がこちらに注目し騒ぎ立てる。
 作業の手を休めこちらを窺っていた鑑識班に動揺が走り、刑事たちが訓練された動きでホルスターに手をやり発砲の構えをとる。 
 スヴェンはたじろがず、動じない。
 ディアボロの指が引き金にかかるさまを見ても、身を引こうとすらしない。
 泰然と落ち着き払い、煙草を挟んだ口元に不敵な笑みさえ湛え、彼が撃てるかどうか一歩も譲らず見届けるつもりだ。
 お望みどおりでかいのぶち込んでやろうじゃんか。
 スヴェンの顔半分が吹っ飛ぶさまを想像し、ひりつく高揚を下腹に感じながら引き金を絞るも、脳に直接響いた哀訴が暴発を妨げる。
 『もう少し僕を労わってくれよ』
 破裂寸前まで膨張した殺意が急激にしぼんでいく。
 しんみりと世を儚む声は銃口から発せられるというより、テレパシーで直接内耳に送り込まれた錯覚を与える。
 瞬時に興奮が冷め、しゃべる銃を手に持ち注目の的となった状況そのものがばかばかしくなってくる。
 「ちっ」
 邪険に舌打ち、憤然と踵を返す。
 背広に突っ込んだ銃が乱暴な足取りに合わせて跳ねる。
 テープを跨ぎ野次馬を突き飛ばしスヴェンから足早に遠ざかるディアボロのもとへ慌しい靴音が駆け付けてくる。
 「HEYボーイ、ストップ、プリーズ!!」
 胡散臭い片言が背中にかかる。
 振り向かなくてもわかる、チャーリーだ。
 ひょろ長い手足をパントマイムさながら振り回し、苦労してテープを跨ぎこし、現場にたかる野次馬にいちいち片手で拝んで断って通してもらい、ひどく手間取りながらこっちにやってくる。
 障害物競走に向かない男。
 ディアボロの雑感を裏打ちするように息せき切って駆けてきたチャーリーが消火栓にしこたま膝をぶつける。
 片膝抱え飛び跳ねながら次第に距離が開きつつあるディアボロに向かい、遅きに失した口止めをする。
 「ディアボロ君、さっきの話はくれぐれもご内密二……おうちの人に捜査状況とかうっかりバラしちゃだめデスよー?万一今回の事件におうちの人が絡んでたらややこしい事になりますカラね、念の為ッ。ひょっとしたら後日おうちに聞き込みにうかがうかもしれませんがおもてなシは紅茶よりコーヒーがいいかナーなんテ……あ、スコーンにはバターよりサワークリーム派なんでお忘れなク!」
 そもそも茶の時間を狙って訪ねてくるのが下心見え見えでせこい。貧民め。
 渋滞はいまだ解消されず、表通りではクラクションがけたたましく鳴り響き、罵声と怒声が散発的に上がる。
 お茶請けのリクエストを聞き流したディアボロは、猫のように気まぐれに路地の奥へと進む。
 車は待たせとけ。
 あれだけ脅しておいたのだから三十分かそこらの道草で捜しにくることはまずない。
 ディアボロは人を待たせるのに慣れている。
 時間にルーズなのは暴君の特権。
 そして彼はしばしばこの特権を乱用し、勝手気ままに振る舞って周囲に迷惑をかけまくる。
 現場検証の邪魔だと閉め出されたらすますもっていやがらせにいそしむのが彼の性格。
 わざと警察関係者の目にふれるようあたりをほっつき歩き、神経を逆撫でしてやるのもまた一興。
 散歩がてら捜査の邪魔をするつもりで意気揚々歩き出したディアボロに、それまで大人しくポケットにおさまっていたファウストが苦言を呈す。
 『買収行為だ』
 暴挙の一部始終を拝聴して彼なりに思うところがあったらしく、悲観的な口ぶりで嘆く。
 そろそろ本格的に選ぶ主人を間違えたと絶望に駆られ始めてるらしい。
 「だからなんだ」
 『……君は邪悪だ』
 「自分がいちばんよく知ってるよ」
 生意気にせせら笑えば、今頃になってやっと選択の誤りを痛感したファウストが失意の溜め息に溺れる。
 「おい、忘れんなよ。俺を相棒に選んだのはお前だぜ、フールソウル」
 ポケットを押さえて言い聞かせるディアボロにファウストは黙り込む。あるいは不毛な議論を避け、口を利く労力さえ惜しんでるのかもしれない。
 調子のいいヤツ。
 しらんぷりを決め込むファウストに怒りが沸騰、早速銃を側溝に投げ込もうとする。
 「きゃーっ、蜘蛛男だー!」
 「蜘蛛男が出たー!」
 側溝に銃を投げ込もうとしたディアボロの動きが止まる。
 路地の向こうから快活な歓声が響いてくる。 
 銃をしまいこみ改めてそちらに歩み寄る。
 通りと金網で仕切られたバスケットコートが古びたアパートの狭間に広がっている。
 バスケットコートを遊び場にして元気良く駆け回っているのはいずれも質素な身なりの子供たち。男女とりまぜて十名ほどが無秩序に散開している。
 コンクリ打ち放しのバスケットコートを目一杯使って駆けっこにいそしむ子供たちは、口々に「蜘蛛男がきたぞー!」「逃げろー!」と号令を発し、甲高く無邪気な笑い声を上げている。
 「蜘蛛おとこだあ?」
 金網に顔を近付ける。
 おそらく蜘蛛おとこ役なのだろう、一際図体の大きな男の子が肩幅より広く両手を広げひとかたまりとなって逃げ惑う子供たちを追いかけ回す。
 「しゃーっ」と鋭い奇声を発し、腕を上下させて威嚇するさまは、なかなかどうして迫力に満ちている。
 「ちがーう、そうじゃないの!」
 集団の中から抗議の声が上がる。
 逃げ惑うのをやめて引き返してきた女の子が、腰に手をあて蜘蛛おとこ役のガキ大将と対峙する。
 おそらくまだ就学年齢に達してない。
 身に付けてる衣類は教会の慈善箱から貰ってきたような継ぎあてのみすぼらしいオーバーオール。
 ツンと上を向いた鼻が生意気な印象を与えるが、利発そうな目をしている。
 「くもおとこはそうじゃないの、もっとシャシャーッてかんじでおっかないんだから!手だってもっとたくさんあったし、色は真っ黒でもっと大きかったし……」
 「なんだよう、まるで見てきたように」
 口を尖らせた少年を前に女の子は得意げに胸を張る。
 「だってあたし見たもん、くもおとこ!」
 「いつ?」
 「昨日の夜」
 (昨日の夜?)
 「おい、ガキども!」
 ガシャガシャと金網を鳴らし子供たちの注意を引く。
 会話に乱入してきた見知らぬ少年に一歩も譲らず睨み合っていた子供たちがぴたりと言い合いを止める。
 不安げに目配せし、おっかなびっくり寄ってきた子供たちを見下ろし、性急な口調でディアボロが畳みかける。
 「おまえ、昨日の夜くも男見たっつったな?」
 「うん」
 蜘蛛おとこ役の女の子は素直に頷き、通りの向こうを指差す。
 「あそこの路地裏にくも男がいたの」
 女の子が指さしたのは通りを隔てた建物のさらに向こう側、警察関係者で賑わう路地……首をへし折られた若者の死体が発見された事件現場。
 路地の入り口から伝わってくるざわめきに当時の興奮が甦ったか、心もち頬を上気させ、問わず語りに語りだす。
 「昨日の夜、トイレに行く途中に見たの。あたしね、ひとりでトイレにいけるんだよ。偉いでしょ。もうおもらしだってしないんだよ。そんでね、トイレに行って帰ってからカーテンの端っこが少しめくれてることに気付いて……ちゃんとしまってないとオバケが覗いてそうで怖いから、しめ直そうとしたの。そうしたら……」
 女の子は真剣な顔で身を乗り出す。
 「アパートの外にくもおとこがいたの。黒い足をいっぱいのばして、お空に浮かんでたんだ。それがね、へんなの。足はくもみたいにうじゃうじゃしてるのに、真ん中にいるのは人間なの。黒い服を着て、黒い眼鏡をかけた男の人。目が真っ赤にぴかーっと光って……すっごい怖かった」
 女の子の発言を馬鹿にすることなく、中腰の姿勢で彼女と視線を絡めたディアボロが真剣に聞く。
 「くも男はどこへ行ったんだ?」
 女の子はふるふると首を振る。
 首の動きに合わせ、つむじで一本に結った赤毛も揺れる。
 「わかんない。怖くてすぐにカーテン閉めちゃったから……でも、そのあとドスンて何かが落ちる音がしたの」
 直感した。
 女の子が聞いた鈍い音とは、死体が地面に落下する音に違いない。
 『良かった……』
 ファウストが安堵する。
 感受性の鋭い幼い子供が凄惨な殺人現場を目撃せずに済み、心底ほっとしているのだろう。
 どこまでも人がよいファウストにあきれたディアボロの前で女の子が取り囲まれる。
 遊びを放棄した子供たちが女の子を中心に群れ集まり、荒唐無稽な嘘としかおもえぬ彼女の主張を嵩にかかって馬鹿にする。
 「そんなのうそだ!」
 「夢でも見たんじゃないの?」
 「くも男なんて現実にいるもんか」
 「ほんと、ほんとだもん!」
 むきになって反論する女の子を輪になって取り囲み、悪乗りした子供たちは「うそだ、うそだ、うそつきだ」と即興で囃し立てる。
 女の子の目にみるみる大粒の涙がたまっていく。
 目撃談を嘘と決め付けられた悔しさに目を潤ませる女の子を包囲し、悪ガキどもは手拍子と野次を添えマザーグースの替え歌を唄い出す。
 「ネミッサ嬢ちゃんベッドに座っておそとを見ていた 大きなクモさん降りてきて ネミッサ嬢ちゃん急いで逃げた!」
 「ネミッサ嬢ちゃんトイレ帰りに窓を見て びっくり仰天 尻餅付いて おしっこもらしてあら大変!」
 下唇を噛み締め嗚咽を堪えるも、限界が近い。
 恥ずかしさと悔しさで真っ赤になり、オーバーオールの胸を掴んで俯いた女の子に「うそつきけむし、蜘蛛おとこに頭からばりばり食われちゃえー」と罵倒が浴びせられる。
 あどけない顔がくしゃりと歪み、涙が零れ落ちそうになったまさにその時。
 「!」
 背広の懐からサッと紙幣を引き抜き、網目をくぐらせて女の子の手に握らせる。
 女の子が目を丸くする。
 仲間たちも目を丸くする。
 「情報料だ。駄菓子でも買え」
 ディアボロはしてやったりと笑みを浮かべ、半ば強引に紙幣を握らされた女の子の後ろでぽかんとしている悪ガキたちに目をやる。
 「現金は独り占めするのがドルに対する礼儀だぜ」
 颯爽と踵を返したディアボロの背を子供たちが呆然と見送る。
 風にマフラーを遊ばせながら、ディアボロが音量を絞って囁く。
 「どう思うファウスト?」
 『メフィストの可能性が高い』
 ファウストが重々しく断言する。
 「だろうな、赤目だってゆーし。ワイヤーもなしに空中に浮かぶなんざ人間離れした芸当は化け物にしかできねえ……しっかし蜘蛛男たあ、相方のセンスを疑うぜ」
 皮肉げに唇を吊り上げるディアボロにファウストが釘をさす。
 『僕の今の姿だって決して誇れたものじゃないけどね』
 「なんだと?」
 ディアボロが気色ばむ。
 右手に携えた拳銃をじとっとした目で見下ろし、脅迫。
 「文句あんのかよ。アンジェリコ・スナフは申し分ない拳銃だ、そこらのインポどもが振り回してるペニスの代用品と一緒くたにすんな」
 『けれども所詮は武器だ。さっきだって人を殺そうとしたじゃないか、僕が口を挟まなければどうなっていたことか……大体君は我慢が足りない』
 先刻の出来事をまだ根に持っていじけてるファウストに沸々と怒りがこみあげる。
 おもむろに手首を撓らせ、拳銃をぽいと放り上げる。
  『わっ、』
 ファウストが悲鳴を上げるが無視し、一回、二回と数を数える。
 実際ちょっとした路上パフォーマンスだった。
 空中高く投げ上げられた拳銃は華麗に一回転二回転し、特殊な磁力に引かれるがまま必ずディアボロの掌中へと戻ってくる。
 白けた顔で拳銃を弄びつつ、ディアボロが平坦な声で問う。
 「無粋な武器に乗り移らなきゃお外に出れないひきこもり野郎はどこのだれだっけな」
 『き、危急の措置だ。致し方ない』
 「宿賃とってもいいんだぜ」
 『何ドル?』
 「一泊につきフェラチオ一回」
 『フェラチオってなんだい』
 「尺八だよ」
 『東洋の楽器かい』
 「……本気で言ってんのかお前」
 『本気も本気だが』
 「カマトトって言葉知ってるか」
 『さあ』
 馬鹿らしくなってきた。 
 ため息をつき、手首を横薙ぎに一閃する。
 掌中にしっくり嵌まった拳銃を見下ろせば、ファストは前後不覚の酩酊状態に陥っていた。
 ディアボロはふんと鼻を鳴らし、革靴の踵で小気味よく石畳を叩いて歩き出す。
 右手のファウストは眩暈と吐き気が癒えるまでしばらく沈黙を保っていたが、ふいに声を発する。
 『僕らの使命は一刻も早くメフィストを見つけることだ』
 「複数形にするな。俺は知らねえ」
 『君は僕の協力者だ』
 「いつ決めたよ、そんなの」
 『本の中で』
 「ユア・ワールドだな。はいはいわかってるよ。けどな、調子に乗るんじゃねえぜ。俺の気分次第で廃品回収にだしてやってもいいんだぜ」
 一途な熱意をこめてかき口説くファストとは対照的に、ディアボロは絶対零度のポーカーフェイスを崩さない。素っ気ない受け答えに終始するディアボロに、ファウストは歯痒げに押し黙る。右手をちらりと一瞥したディアボロは、鉱物質の光沢のある黒い銃身に目をおいて言い放つ。
 「まあいい。おもしろそうだから付き合ってやるよ」
 弾むように奔放な口調でディアボロは言う。
 「飽きるまではこのふざけたお遊戯に全力投球してやる」
 『飽きるまで?』
 「不満か?」
 言葉尻をとらえたファウストに睨みを効かす。ファウスト再び沈黙。ディアボロは無視して続ける。
 「ま、手がかりは掴んだんだ。あのガキが言ってた黒服の男ってなあ、昨晩俺を散々痛めつけてくれたフィロソフィアの手下にちげえねえ」
 『根拠は?』
 「単純な消去法だ。あの倉庫で生き残ってたのは俺を除いて一人しかいねえ。そいつに悪霊が乗り移ったと考えるのが妥当だろ」
 ディアボロの推理に耳を傾けていたファウストが、『なるほど』と相槌を打つ。
 『で?これからどうするんだい』
 「どうするって……」
 ディアボロが立ち止まる。
 まじまじと掌中の拳銃を見る。
 「眼鏡を新調しに行く」
 当たり前のこと聞くな馬鹿と言外に告げているディアボロにファウストは絶句しかけたが、なんとか平静を保って続ける。
 『メフィストの居所がわかったんなら悠長にしてる暇はない。一刻も早く彼を捕まえなければ際限なく被害は拡大する』
 熱心に説得され、ディアボロは路地で目撃した光景を思い出す。
 路地裏に忽然と出現した死体。
 ありえざる方向にねじれた四肢と恐怖に凝った死顔。
 ままごと遊びに飽きて捨てられた人形のような悲劇的断末魔。
 惨劇の連鎖に終止符を打つためにファウストはどうあっても自分を引っ張り出そうとしてる。
 やれやれ。
 働く意欲の全く見当たらないあるじにファウストは不満げに言い募る。
 『ディアボロ・デミトリ、君は彼の本当の恐ろしさをわかっていない。恐怖の真髄を理解していない。メフィストは悪霊だ。悪霊なんだ。彼は人の魂を貪り尽くし、生者を抜け殻にしてしまう。吸血鬼よりタチが悪い吸魂鬼さ。さっきの哀れな若者が象徴しているように……』 
 「るっせえ!!」
 表通りに出たところでキレた。
 通行人が何事かと目を剥く。
 自分を遠巻きに見つめる通行人など目に入らぬかのように、ディアボロは吠える。
 「無機物の分際で俺に命令すんじゃねえ!口もねえのに話しかけてくんじゃねえ、気色悪い!!言っとくがな、今わかってんのはメフィストだかマゾヒストだかの乗り移った相手だけだ!そいつがどこにいるか、今なにしてんだかはちっともわかんねえんだよ!」
 腹にためこんだ鬱憤を一息にぶちまけたディアボロに通行人が目を見張る。
 子供の手を引いた若い母親がそそくさと退散し、涙もろい老女が「若いのにお気の毒に……」と木綿のハンカチーフで目尻を拭う。
 関わり合いを恐れた通行人たちが足早に立ち去る中、荒く息を切らしてその場に佇むディアボロにファウストが相変わらずの正論を吐く。
 『……わからなければ捜せばいい』
 
 物事には限界がある。
 忍耐の限界というものが。

 「……キレたぜマザーファッカー」
 力強くグリップを握り締める。
 「なあファウスト、おれが死ぬほど嫌いなこと三つ教えてやろうか」
 『なんだい』
 学究的好奇心から謙虚に申し出たファウストに歯噛みし、ディアボロは獰猛に吠え猛る。 
 「ひとつ、シリコン入りの乳。ふたつ、ブランデーの入ってねえ紅茶。みっつ………」
 ディアボロが大きく腕を振りかぶる。
 もちろん、ファウストを握り締めたまま。
 「訳知り顔で命令する、無駄にえらそうな拳銃サマだ!」
 だがしかしショウウインドウが木っ端微塵に叩き割られ、ファウストがブティックの天井高く舞うことは終ぞなかった。
 背後で起きた大騒動が否応なく二人を巻き込んだからだ。


 「?なにかしら」
 「火災警報?」
 買い物客で溢れた市街地の平安を破ったのは、突如響き渡った大音量のサイレン。
 白昼の静寂を破ったサイレンの音源を求め、紙袋を抱えた通行人の群れが一斉に顔を巡らせる。
 今しもファウストを全力投球しようと準備万フォームをとったディアボロも例外ではない。
 腕を振り被った中途半端な姿勢で一時停止を余儀なくされたディアボロは、半身を限界まで捻って後方を仰ぎ見る。
 驚天動地の異変は車両が渋滞する道路を隔てた対岸で発生していた。
 対岸正面の銀行の玄関から覆面を被った男が三人、札束の詰まったトランクをさげて転がり出てくる。
 なぜトランクに詰められているのが札束だと見抜けたかというと、はちきれんばかりに膨張したトランクの隙間から、盛大に紙幣がこぼれだしていたからだ。 
 路上に散逸した紙幣をあたふたかき集めながら、路肩に停めてあったバンへと大挙して乗りこむ。
 覆面を装着した男達の手に握られているのは間違いない、銃だ。
 素人の手に余るライフル銃を腰だめに抱え、銀行員と客を威圧している姿は紛れもない……
 銀行強盗。
 「やるね、真っ昼間っから強盗かよ」
 『和んでいる場合かい』
 口笛吹いて感心するディアボロをファウストが咎めたてる。
 呑気な応酬をしているあいだに逃走準備は着々と整いつつある。
 バンの後部座席に最後の一人が飛び乗ったのを確かめ、運転手が性急にアクセルを踏みバンが急発進。
 「しけてんなあ。銀行強盗つったらあれだ、ダイナマイトの二・三本も用意してくんのが観客へのサービスってもんだろが。爆発も逃走劇も銃撃戦もない銀行強盗なんて、観覧無料でも願い下げだな」
 酷評するディアボロの視線の先、車両を押しのけるようにして躍り込んだバンの周囲でクラクションと悲鳴が炸裂、白昼の市街が阿鼻叫喚の坩堝と化す。バンの運転は酷く乱暴で、このまま放っておけば死人がでるのは明白。事件現場の入り口に停まっていたパトカーに二台刑事が乗り込み、サイレンの音量も高らかにエンジンを蒸かし走り出す。
 轟音、衝撃。
 バンの周囲で玉突き事故が連続、車両が煙を噴いて半壊する。
 強引な運転で渋滞中の道路に押し入ったバンのせいで交通網は大混乱、右へ左へ蛇行しつつ石畳を削り疾駆するバンを追うパトカーを事故車両が阻む。巻き添えを恐れた通行人が逃げ惑う。老人が倒れはぐれた子供が泣き喚き、追突されてはたまらないとばかり道路のど真ん中に車を放置して逃げ出した運転手がたがいにどつきあう。
 「どけっ、俺は逃げる!」
 「カーチェイスの巻き添え食って死ぬくれえなら腹上死のがマシだ!」
 「ママー、ママー!!」
 「ワシの杖、孫がワシの百歳の誕生日に贈ってくれた白頭鷲の飾りの付いた樫の杖はどこじゃ!?」
 湧き立つ喧騒、湧き立つ怒号。
 折り重なって道に倒れた老若男女の脇を二つに流れて老若男女が逃げていき、哀れつまずき転んだ老人の手より離れた孫の贈り物の杖が、狂ったように逃げ惑う女のヒールを挫いて転ばせストッキングが伝染、スーツが裂けてパンティが露出する。
 通行人の足から足へと蹴り飛ばされ路上に放棄された杖が、いかなる重力の作用によってか石畳に激突し鎌首もたげた毒蛇の如く跳ね上がり、折悪しく走りこんできた例の銀行強盗がのるバンのタイヤを貫く。
 タイヤから空気が抜け、バンが制御を失う。
 タイヤが萎みつつ横滑りし軌道が大幅にずれ、道路から脱線したバンが一路蚤の市の人だかりへと突っ込んでいく。
 パトカーも追い付かない、間に合わない。
 バンが突っ込んでくる事に気付いた客が悲鳴を上げて逃げ出すも時既に遅し、天幕を畳む暇のない物売りはもとより品物を手にとり呑気に眺めていたせいで反応が遅れた客の渦中へと、手前の市を猛然と薙ぎ倒し天幕をひっかけたバンがスリップ音も甲高く乱入する。
 ディアボロがこの間なにをしていたかといえば、何もしてなかった。
 蚤の市を薙ぎ倒し天幕をたなびかせ暴走するバンを小手を翳して眺め、「おー」と嘆声を発するあるじに向かい、存在を忘れられていたファウストが呟く。
 『……僕が役立たずかどうか、証明してあげようじゃないか』
 「?」
 声がして初めてファウストがそこにいる事を思い出し、視線を落とす。
 ディアボロの右手の中、人死にが出る前に終わらせると決意したファウストが厳かに促す。
 『引き金を引いてくれ。お望みどおりの舞台を演出するよ』
 「マジ?」
 『君の気まぐれで捨てられてはかなわないからね』
 ファウストが観念したように苦笑する気配が伝わる。
 『ちょうどいい機会だ。僕が君に貸し与えた力の一端を引き出してあげようじゃないか。僕を捨てたら後悔すると教えてあげよう』
 そっちがその気なら話は早え。
 ファウストの言い分に従い両腕をまっすぐ伸ばす。
 銃床を左手で固定する。
 右手で角度を調整する。
 目を細め、バンの後部タイヤを狙う。
 全身の筋肉を撓め、全神経を指先に集中し、引き金を引く―

 刹那、世界が爆発した。

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Devilish | コメント(-) | 19951221050048 | 編集

 「刑事の目の前で銀行強盗たあいい度胸じゃねえか」
 発奮して運転席に乗り込むスヴェンを追いチャーリーが助手席に滑り込みシートベルトを絞める。
 刑事たるものいついかなるときもシートベルトの装着は必須事項。
 白昼の往来には通行人の悲鳴が飛び交いクラクションが炸裂し混乱と混沌の惨状を呈す。
 危ういバランスで片輪走行するバンめがけキーを捻りエンジンをふかしアクセルを踏む。
 ギアが唸る。
 車体が弾み急発進、旋回灯も鮮やかにパトカーが尻振り躍り出る。
 「先輩、シートベルトお忘れなク!逮捕されちゃいますヨ!」
 「しゃらくせえ、違反切符切れるもんなら切ってみろってんだ。その前に振りきってやる」
 昼行灯に火がつく。
 助手席のチャーリーがひっしとシートベルトを掴んで注意を促すも頭に血が上ったスヴェンは聞く耳持たずハンドルにかじりつく。
 銀行強盗が乗るバンは今しも通行人を二・三人まとめて轢き殺しかねない勢いで石畳を削りとり、手綱を引きちぎらんと嘶く荒馬よろしく他の車両の間に割り込んでは引っかきまわしている。
 車列が無秩序に乱れ通行人が逃げ回る。
 バンに走行を妨害された車両のうち何台かが続けざまに衝突し煙を上げ、開いたドアから命からがら運転手が這い出してくる。
 信号はとうに用を成さず混乱が深まるばかり、もとより区画整備が行き届いてるとは言えない猥雑に込み入った町並みのため車線を越え乱入したバンは甚大な被害をもたらす。
 タイヤが石畳を削る甲高い異音に続く衝突音。
 フロントガラスにひびが入り車体がひしゃげエンジンが煙を噴き、道路のど真ん中に放置された事故車両に後続の車がまた追突、際限ない悪循環に嵌まりこむ。
 混乱は蚤の市にも波及し、平和に買い物を楽しんでいた観光客の身に突如惨事が降りかかる。
 不幸にも白昼のカーチェイスに巻き込まれた市民が老若男女問わず阿鼻叫喚逃げ惑う。
 「野郎、マーケットに突っ込む気か!?」
 窓から身を乗り出しスヴェンが毒づく。バンは一路蚤の市の方へと疾走する。
 運河沿いに開かれた市には人だかりができ、バンが突っ込んだらどうなるか目に見えている。
 死人がでるのは避けがたい。バンが市民を轢き殺すのを防ごうと速度を上げるも、到底追いつきそうにない。
 事は一刻を争う。ぐずぐずしてる暇はない。それはわかってるが、いかんともしがたい。
 いちかばちかタイヤを撃ち抜いて動きを止める?
 ダメだ、危険すぎる。
 走行中の車からタイヤを狙い撃ちできるほどスヴェンは自分の射撃の腕を過信してない、最悪通行人に流れ弾が当たったら目も当てられない。
 チャーリー?却下。へっぴり腰で撃ち損じるのがおちだ。
 「タイミングいいんだか悪いんだか……よりにもよって俺が現場検証に出張ってる時に事件が起きなくていいようなもんを」
 「スケジュールに忠実な強盗サンですネ。予定通りの日取りに決行したらばったり警察と遭遇しちゃうなんてツイてなイ、と説明調で説明してみたリ」
 「せめて一時間ずらしてくれよ。そしたら署でまずいコーヒー飲みながら通報受けて飛び出しくヤツに手え振ってやったのに」
 己の境遇を哀れんでも始まらない。
 ハンドルを握り直し、まっしぐらに蚤の市に突っ込んでゆくバンを追う。
 通行人を轢き殺さないよう運転には細心の注意を払い……と言いたいところだが、がさつなスヴェンにそれは無理。はねられたらそれまでと諦めてくれと念じ勢い良くハンドルを切る。
 あわやパトカーに跳ね飛ばされかけた通行人が路肩にひっくりかえり、憤怒で満面朱に染め、轟々たる非難を浴びせるさまが窓に映る。
 署に苦情が殺到するな、こりゃ。
 背に腹は変えられぬ。
 よくて始末書の山、最悪降格覚悟で腹を括る。
 パトカーが市民を跳ね飛ばすのも由々しき事態だが、武装した強盗が駆る暴走車両を放置しておく方が問題だ。
 相手は銃器を持っている。
 もとより成功率の低い銀行強盗を徒党を組んで企む輩だ、とち狂って何をしでかすか分からない。
 走行中の窓から散弾を浴びせ邪魔な通行人を一掃するような事態だけは手錠に賭けて防がねば。
 敵は既に発砲してる。
 銀行の正面玄関には無残な弾痕が穿たれ、びっしり霜が降りたように放射線状の亀裂が生じていた。
 ガンナーズハイで浮かれまくった連中の運転は酔っ払いが可愛く思えるほどに乱暴で、蚤の市の天幕を薙ぎ倒し暴走するバンは中でジルバでも踊ってるみたいに激しく振動している。
 「挟み撃ちっきゃねーか」
 呟き、無線を手繰る。
 「こちらスヴェン・チャーリー、至急応援乞う。やっこさんは運河沿いに東に向かってる、この先で挟み撃ちして……」
 もう一台、強盗車両を追って出払ったパトカーへ救援を要請しようと送話口に口をあてがった途端、フロントガラスが真っ白に爆ぜる。
 「ヌワッ!?」
 チャーリーが仰け反る。スヴェンは咄嗟にハンドルを切る。
 バンの後ろ窓から身を乗り出した強盗団の一人が、硝煙立ち上る大口径の銃を掲げ威勢よく中指を突き立てる。
 フロントガラスに銃弾を撃ち込まれたのだ。
 間一髪、防弾ガラスが命を救った。
 「市民の税金がっぽりふんだくって私腹を肥やす市警のクズは引っ込んでな!」
 「俺たちゃ強盗じゃねえ、巡り巡ってお前らの懐に流れ込むはずの腐った金をわざわざ銀行に足運んでお返し願っただけさ!」
 「この金はきっちり洗濯して脱水・乾燥の工程まで完璧にこなしてやっから安心しろ」
 「一度入ってみたかったんだよな、札束風呂。念願の野望が実現に漕ぎ着けたぜ」
 内部で弾けた哄笑が風に乗って流れてくる。
 調子に乗った強盗団の連中がバンの窓から次々腕を出し卑猥に中指突きたて挑発、スヴェンがぎりっと奥歯を噛む。
 「…………ギャングごっこではしゃいでるケツの青いガキどもが。公共の通りででけえツラ並べて猥褻物陳列罪に堂々抵触たあ、そんなにケツの穴溶接して口から糞垂れ流すようになりてーか」
 「先輩落ち着いテ、ネ?ひっひっフー、ひっひっフー。挑発に乗っちゃダメでス、今は運転に集中しテッ」
 先輩が運転をとちれば必然心中の憂き目を見るチャーリーが妊婦の必須課目ラマーズ法を伝授するも、スヴェンはもはや聞いてない。
 運転席の横の窓を下げる。
 吹き込む風が髪をあおる。
 片手でハンドルを握ったまま窓枠からもう片方の腕を突き出し、向かい風に逆らって中指を突きたてる。
 ファックサインの返礼。
 「出たァ~挑発に挑発で応じる愚の骨頂、売りファックに買いファックのゴールデンフィンガーサイン名付けて死亡フラグッ」
 チャーリーの馬面から血の気が引く。 
 スヴェンは豪快な笑みを見せる。
 風に吹き散るチャーリーの実況を背景音楽に片手で巧みにハンドルを操り距離を詰める。
 中指の返礼に激怒した強盗団が窓から身を乗り出し示し合わせたように銃口を上げる。
 一斉掃射、集中砲火の構え。
 「砂時計の最後の一粒が落ちる音が聞こえマス、先輩」
 「幻聴だ」
 無茶な。 
 ガンナーズハイに酔った強盗団は馬鹿な刑事二人乗りのパトカーを蜂の巣にしようと窓枠を銃座にし殺傷力抜群の大口径を構える。
 引き金を引けば一巻の終わり。
 いかに防弾ガラスでも一斉掃射にどこまで耐えられるか……命綱代わりのシートベルトをしっかり握り締め、胸の内で十字を切るチャーリーの隣では、挑発に乗じた後悔などさっぱり見当たらないスヴェンが鼻歌でも唄いかねん気楽っぷりで飄々とハンドルを回してる。
 漂白されたフロントガラスから目を離さず、あくまでのんびりと、著しく緊迫感に欠ける口ぶりでスヴェンが呟く。
 「チャーリー」
 「なんスか先輩」
 「煙草とって、ついでに火ぃつけてくれ」
 「馬鹿デスかあんたは」
 「煙草が切れると力が出ねえ」
 先輩への尊敬を忘れた本音がとびだすも、この状況では極めて正常な反応だ。
 両手が塞がって使えないスヴェンの頼みに、しかしチャーリーは応じる余裕がない。
 放射線状の亀裂が走ったフロントガラスの向こうではバンの窓からそれぞれ身を乗り出した強盗団が、窓枠の銃座に自動小銃を固定し、戦争をおっぱじめる気満々で爛々と顔をぎらつかせインディアンの鬨の声に似た奇声を発している。
 完全にイッてしまってる。
 「いつまでもケツにひっついてんじゃねえ、目障りなんだよ」
 「頭蓋骨に弾送り込んでやる」
 「振ったらからからいい音が鳴るだろうさ、素敵な楽器のできあがりってな」
 「インドネシアにそういう楽器あるよな」
 「ブードゥー教の儀式に使うんだよな」
 強盗団が罵声を上げリズミカルな動作で小銃のポンプを引く。
 ガシャンと音が鳴り、一斉に照準が絞られる。
 「良かったなチャーリー、出世できるぞ。俺の上司になれるんだからもっと喜べ」
 「殉職による二階級特進より一生ヒラのがマシですッ」
 悲鳴じみて甲高い声を発し、パニックに陥ったチャーリーの眼前でそれは起こる。
 突如として白熱の閃光が爆ぜる。
 バンが残像を残してかき消え、爆風を伴った圧倒的な光が吹き荒ぶ。
 「!?」
 反射的にブレーキを踏む。
 慣性の法則を身を持って痛感、強烈な負荷がかかる。
 急ブレーキの反動でがくんと前傾した体をシートベルトが押さえ込む。
 シートベルト未着用のスヴェンはハンドルに突っ伏し顔面を強打、痛打した鼻っ柱を押さえ涙目で起き上がる。
 「閃光弾?」
 「ジャパニーズニンジャ?」
 顔面にめりこみかけた鼻を庇いくぐもった声で疑問を発するスヴェンにチャーリーが便乗するも、正解はどちらでもない。
 一陣の彗星に似た光を伴い突如吹き荒れた爆風は蚤の市を蹂躙し天幕を吹き飛ばし、敷布の上に陳列されたガラクタを螺旋軌道で宙高く撒き散らし、逃げ惑う通行人に容赦なく追い討ちをかけ転ばせる。
 竜巻に等しい威力と破壊力。光と風が一体化した力の流れはあたり構わず荒れ狂い、轟々と咆哮を上げながら疾駆し硬質な窓ガラスにひびが入る。 
 『暴発だ』
 嵐の中心に黒スーツの少年がいる。
 台風の目に立ったディアボロは銃床を固定したまま、周囲に荒ぶ烈風に蹂躙された蚤の市の惨状を見渡しあっけらかんと感想を述べる。
 「なるほど。確かに捨てたら損だな、これは。モーゼの十戒よろしく海が断ち割れそうな勢いだ」
 『僕とした事が迂闊だった。先に制御法を学ばせておくべきだった。これはすごく不本意な結果だ』 
 自らの浅慮が招いた惨状を嘆じ、ファウストが深刻にうなだれる。
 ディアボロがファウストの言に従い放った光の銃弾は標的を逸れ、暴風を伴いいたずらに一帯を駆け巡るばかりで、強盗団が駆るバンは相変わらずご機嫌に走り続けている。
 天幕を薙ぎ倒し逃げ惑う通行人を吹き飛ばしガラクタを石畳に叩き付け粉砕し、それでもなおおさまらず牙を剥き、一面に敷き詰められた石畳を剥がさんばかりに無軌道に暴走する弾丸の行方を追い、ファウストが講釈をたれる。
 『君は潜在的な魔力は強いが、掛け値なしにそれだけだ。分母は大きいが、基礎と応用がてんでなっちゃない』
 「ストーップ!本の中で言ってたことと違うじゃねーか。あの緊縛プレイで、お前が持ってた魔術知識とやらは移植されたんじゃねーのかよ」
 『そんなことをしたら器が保たないだろう』
 心なしあきれた様子でファウストが続ける。
 『魔術師としての覚醒は生まれ付き全盲の人間が360度の視界を得るのとおなじだ。むりやり回路をこじ開けて僕が持てるかぎりの魔術知識を移植したら先に精神が壊れてしまうよ。いいかい?僕が貸し与えた知識は今意識の深層で眠っている状態で、平常時の精神に影響を及ぼさぬよう封印の錠を掛けてある。それを発見し、解除するのは君自身だ』
 「まだるっこしいな……取り扱い説明書付けとけよ、人間の読める文字で」  
 『面目ない』
 素直に謝罪するファウストに鼻白む。
 『ゼロは何をかけてもゼロだが、無限大を未知数で割るのは危険だ。制御が不完全な状態で解き放たれた魔力は暴走する』
 「お前使えねーな」
 二人の周囲で暴走していた力の乱気流が気紛れに向きを変え、不可視の鉄槌の如き空気の塊をバンの側面に叩き付ける。  
 物理的な衝撃で大きく傾ぎ、片輪走行となったバンの目と鼻の先に這い蹲った老人を見て、周囲の人間が悲鳴を上げる。
 「危ない!」
 「あんなところで何してるんだ、轢かれるぞ!」
 石畳に四つん這いになった老人は、耳が遠いのか通行人の悲鳴にも無関心に手探りで杖を求め続ける。
 「孫から貰った杖が見当たらんのう……」
 避けがたい惨事を予期し通行人が目を覆う。
 「目障りだジジィ、どけ!!」
 「しつこく付き纏うパトカーのせいでこちとらかっかしてるんだ、のろまな年寄りでも轢き殺さなきゃやってらんねーよ!」
 「どうせ捕まるんなら強盗にひき逃げ一犯プラスされた方が箔が付くってもんさ!」
 開けっ放しの窓から盛大に紙幣が零れ出る。
 路上に紙幣をばら撒き走行するバンの車中、高らかな哄笑を上げ窓から乗り出した強盗団が、手に手に携えた小銃を哀れな老人に向ける。
 景気付けの血祭り。
 老人は石畳に跪いたまま、口半開きの痴呆の表情でバンを見詰めるのみ。
 自分が狙われている事すら正確に理解してないらしい反応の鈍さに、パトカーを駆って急行しがてらスヴェンが凄まじい剣幕でがなりたてる。
 「じいさん、逃げろ!」
 『ディアボロ・デミトリ、、魔法を使うんだ!』
 スヴェンの声に合わせファウストが叫ぶも、あるじの返答はそっけない。  
 「ほっといても二・三年で死ぬ。今ここで余禄を食むっきゃ能のねえ年寄りが一人死ねば、その分福祉予算を削減して娯楽に回すだろ。パッと遊べるカジノでも作ってくんねーかな」
 『君には良心てものがないのかい!?』
 「蒸発した。大体呪文も知らずに魔法が使えるか」
 『答えは君の中にある。呪文?なんでもいい、唱えるんだ!言葉自体に力が宿る、魔法が宿る!』
 後ろ足で道徳に砂を掛けるやる気なさげな態度にファウストがじれて急かす。
 噛み合わないやりとりを繰り広げる二人視線の先、フルスロットルのロデオさながら後ろ立ちになったバンが哀れな年寄りを蹴り殺そうとする。
 轢殺が先か、銃殺が先か。
 窓枠に顔を連ねた強盗団の連中がにやけ面で競うように引き金を絞る。
 絶体絶命の窮地に陥った老人を救済せんとファウストが悲痛に懇願する。
 『何でも言う事を聞くから!』
 ファウストは悪魔に魂を売り渡した。
 「な・ん・で・も?」
 低い声で確認をとる。横顔に剃刀じみた冷笑が閃く。
 横顔に閃く意地悪な笑みに不吉な予感を抱くも束の間、銃口を掲げ直したディアボロが尋ねる。
 「呪文はホントーになんでもいいんだな」
 抑えた声が興奮を孕む。
 俄かに戦意を高揚させたあるじの横顔を仰ぎ、ファウストは生真面目に首肯する。
 『君が探し当てた言葉がそのまま呪文になる。魔力を解放する鍵に。黴の生えた古の呪文じゃない、君自身の言葉で命を吹き込むんだ』 
 「市場へ、市場へ、乾葡萄入ケイキかいに」
 ファウストの語尾に被せるように鼻歌を口ずさみ足拍子をとる。
 振り上げ振り下ろす靴裏がリズミカルに石畳を叩き、心臓の拍動に伴い拍子を刻む。
 軽快で単調な足拍子に乗じて紡ぐマザーグース。
 天幕を毟り取られ、破壊されたガラクタが累々と散らかった蚤の市の惨状と向き合い、弦に見立て指を撓め、優雅な緩慢さで引き金を絞る。
 大気に変化が起きる。
 ディアボロが指を引くに従い周囲で荒れ狂っていた風が急激に収束し、銃口に吸引されていく。
 銃と手の接する部位が閃光を発する。
 掌と重なる銃把に五芒星の印が浮かび上がる。
 掌に熱を感じる。
 眉間で火花が散る。
 頭蓋骨に錐を穿たれるが如く、鋭く冴えた霊感が頭蓋の裏で爆ぜる。
 腕に力が漲る。
 引き金にかけた指に体内を循環していたオーラを収斂する。
 指先に収斂したオーラが極限まで先鋭化する。
 魂の源泉から迸り出た精神力の波動が二重の五芒星を媒介にし、光り輝く金剛石の弾丸となって弾倉に装填される。
 「かえろよ、かえろよ、市場にゃおくれた」
 掌と銃把に同時に浮かび上がった五芒星が一際清冽な輝きを増したかとおもいきや、銃口の正面に五芒星の魔法陣が生じる。
 自然界で最も美しいとされる黄金率の図形。
 それ自体が霊妙な神秘と叡智を包含し、宇宙の真理をも体現する図形が、一辺一辺を血を運搬する血管の如く真紅に輝かせ脈々と息衝き始める。
 掌と銃。
 ひとつに重なり合った五芒星が殷々と共鳴し、荒削りな魔力の波濤を練り上げてゆく。
 練磨し練成し錬金する。
 魔の法則が固の法則に置換され、可視の形をとる。
 「市場へ、市場へ、乾葡萄入パンかいに」
 帯電した魔法陣をスコープの代用とし、照星にバンを捉える。
 陰惨な陰影がついた横顔に邪悪な笑みがちらつく。
 身のまわりで渦巻く烈風が漆黒の背広と髪を弄ぶのをよそに、ディアボロは犬歯を剥く。

 天幕は飛んだ。
 客は消えた。
 売り物は刷けた。
 遠慮も容赦も一切要らない。
 市が引ける刻限だ。

 「かえろよ、かえろよ、市場ははねた」
 
 Fiy,Dragon fiy.
 『馬車馬を外し、ドラゴンを走らせろ』。

 呪文を結ぶと同時に引き金を引く。

 魔法が「降りる」。
 
 銃口から紅蓮の光を伴う弾丸が放たれる。
 その弾丸は石畳すれすれを生を得たように柔軟な軌道で飛来し、石畳に散乱したもろもろを膨大な風圧で一掃し、バンの横腹に激突する。 
 その姿はまるでー
 「フライ・ドラゴン・フライだ」
 長大な蛇腹を撓らせ牙を剥く、獰猛なドラゴンのように。 
 毒々しく照り輝く真紅の鱗で全身を鎧った龍が、瘴気煮え滾る吐息を放ち、鎌首もたげて獲物に襲い掛かったようだ。
 衝撃に側面が陥没、バンが回転し宙に舞う。
 「ひぎゃあぁああっ!!?」
 錐揉み回転しつつ舞い上がったバンの窓から強盗団の一人が真っ逆さまに落下、打撲を負い失神する。
 老人がぽかんとする。通行人は茫然自失、パトカーのドアを開け放ったスヴェンとチャーリーも眼前の光景に絶句。
 「なんだ、ありゃ」
 言語機能を回復したスヴェンの口からぽろりと煙草が落ちる。
 龍の顎に咥え込まれたバンは爆風の勢いで更に加速、蚤の市の惨状をはるか眼下に欄干を越え太陽を逆光に運河へ没する。
 欄干に押しかけたギャラリーの前でモーゼの十戒の再現じみて運河が断ち割れ巨大な水柱が立ち、欄干に押しかけた通行人の頭上に大量の水が降り注ぐ。
 滝のように怒涛を打って降り注いだ水に野次馬が絶叫、パニックを来たして走り回る中、水浸しの石畳を踏んで立ち尽くすのはー
 『いいかい?これが魔法さ』
 誇らしげに言い放つファウストに文字通り水をさしたのは、あるじの不機嫌な唸り声。
 「……………ファック」
 全身びしょぬれのディアボロが歯軋りする。
 周囲の例に漏れず大量の水を被って濡れ鼠と化したディアボロは、髪の先からぽたぽた雫を垂らしながら手中の銃を睨み付ける。
 高級ブランドのスーツは水を吸ってぐっしょりと肌に纏わり付き、靴の中まで湿って不快感を与えてくる。
 ファウストの声から誇らしげな色が払拭され、殊勝な謙遜の色を帯びる。
 『……そう、魔法には弊害が付き物さ』
 「ドライクリーニングの魔法はねえのか」
 『生憎と』
 自省の念に駆られ憂慮に声をひそめるファウストに舌を打ち、うざったげにぬれた前髪をかきあげる。
 「使えねえ。ったく不良品のコンドームよか使えねえ」
 『……とにかく、僕を手放すと損するってことはよくわかっただろう』
 パトカーのサイレンがこちらに近付いてくる。遅まきながら無線で連絡を受けたパトカーが到着したらしい。
 髪に手をやったままふと視線を落とせば、欄干のはざまにひっかかった杖が目に入る。
 何が何だか分からず座り込んだまま痴呆の表情をさらす老人のもとへ足癖悪く杖を蹴り飛ばし、腹立ち紛れに吐き捨てる。
 「今捨てるのはよす。まだまだ利用価値がありそうだしな」
 ファウストは万能アイテムだ。
 使い方次第で天使にも悪魔にもなりうる。
 どうやら自分はとんでもないものを手に入れてしまったらしい。
 が、現時点の最優先事項は。
 「今日は帰る。こんなナリで店に行けばローレライと一発ヤッてきたと誤解される」
 眼鏡に付着した水滴を親指で拭い、ディアボロは忌々しげに呟いた。

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Devilish | コメント(-) | 19951220012320 | 編集

 ファイブリィの中心には一大歓楽街がある。 
 新市街と旧市街。
 対照的な街区の境界線上に広がる歓楽街には情事が目的の男女が投宿するホテル、天国と地獄の悲喜劇が夜毎繰り広げられるカジノ、古今東西の美酒銘酒を陳列した地下酒場など胡散臭いスポットが密集する。
 黄昏時ともなれば誘蛾灯に群れる蛾のようにラメとスパンコールで着飾った娼婦たちがしゃなりしゃなり蓮歩し、身を持ち崩したアル中のハスラーや一日の終わりに羽目を外しにきた公務員など、硬軟不問の職種の人々が混沌と交わり出す。
 酒気に憑かれた男たちと男たちの腕にしなだれかかる女たちが通りを埋める。
 享楽的な嬌声がキャンディーカラーの泡沫の如く弾け、路地裏では肩が触れたか触れないかのささいな理由で時によると殺人にまで発展する小競り合いが勃発する。
 しけた大衆食堂に吸い込まれてゆくのは派手な頬傷のあるとてもカタギには見えない男、庶帯やつれした年増の娼婦、競馬で惨敗して夕食を抜かざるをえなくなった代わりにせめても一杯の酒で喉を湿らそうというケチな賭博師。
 「キティ・ヤード」もまた、夜の住人たちにささやかな酒肴を提供する定食屋のひとつ。
 大通りから逸れた隠れ家的立地にひっそり佇む店構えは、お世辞にも繁盛しているとはいえない。
 木製のスイングドアは風が吹くたび切なげに軋り、閑古鳥の巣食う寂れた外観をいや増す。
 
 スイングドアが割れ、今晩十三人目の客が来店する。

 女だ。
 男好きのする顔だちは美人の範疇に含まれるが、夢見るようにとろんとした垂れ目といい愛嬌のある団子鼻といい、頭のネジがゆるんだ印象を抱かせる。
 クスリをやっているのかもしれない。
 安価にクスリが手に入る歓楽街ではドラッグに手を染めた娼婦などそれこそ掃いて捨てるほどいる。辛い現実を忘れる一番手っ取り早い方法はドラッグ漬けになる事だ。
 そうやって薬に骨身を蝕まれ死んでいった者たちがどれだけいるか市当局さえ実態を把握してない。
 フェイクファー付きのピンクのコート。
 肩にかけたバッグはブランド物。
 酒に漬けた林檎のように甘く怠惰な、かつ濃厚な色気をふりまいているのは、女がベテランの娼婦だからにほかならない。
 柳腰を扇情的にくねらせ敷居を跨ぐ。
 足を踏み出すごとに大胆に切りこんだスリットがめくれ、なまめかしい太腿があらわになる。
 ちびちびグラスを舐めなていた男たちが視界の端を過ぎる肉感的な脚線美に目を奪われ、女の歩を追って顔を巡らす。
 まんざらでもなさそうにカウンターに歩み寄り、革張りのスツールに滑りこむ。
 バッグを膝に載せ、カウンターに肘をつく。
 酒精に澱んだ空気を天井に取り付けられた三枚羽根の換気扇がゆっくり攪拌する。
 カウンターの木目は不潔に黒ずみ、油でぎとぎと照り光っている。
 衛生的とは言い難いが、だれも食事を味わいに来てるのではないから頓着しない。
 夜の住人相手のレストランで重要なのは食事の味よりむしろ酒の味。
 例外的にステーキだけは美味いらしいが、出勤前の腹ごなしにサンドイッチを摘みに来るだけの女は注文したことがないので噂の真偽は不明。
 カウンターに腕をおき、もう一方の手で頬を支え、斜め四十五度になるよう角度を計算して小首を傾げる。
 媚態を売るのは娼婦の十八番。
 思わせぶりに前傾すると胸繰りの深いドレスから豊かな乳房の上半球が覗くかたちとなる。
 気だるく頬杖付いて胸の谷間を強調した女は、媚びた上目遣いで食器を片付けていた店主を仰ぐ。
 「ねえ、ロベルト見なかった?」
 本音では女の胸の谷間が気になって仕方なかったらしく、食器を拭く手がおろそかになっていた店主が我に返る。
 「さあ。一週間前に見たきりだね」
 「そう」
 空咳一つ、せわしげに皿を拭きはじめた店主から目を逸らす。
 
 女の名はリザ・スコテッシ。
 歓楽街でも一流どころの娼館で働く娼婦。
 若作りだが、今年で三十四になる。
 もう娘とは呼べない年だが、三十路を迎えて艶増した美貌と熟れきった肢体はまだまだ十分売り物になる。 
 フェイクファー付きのコートから覗くのは金糸のスパンコールで装飾した派手なドレス、その下に続く円熟の脚線美と真っ赤なハイヒール。
 流行らない酒場には場違いに小綺麗な身なりをしているが、高価な貴金属で着飾ったリザの顔色は冴えない。
 スイングドアをくぐったとき、いや、それ以前から彼女の顔色は優れなかった。
 目下リザの悩みの種は、数日前から消息を絶ったきりの恋人の事だ。
 「スコッチを一杯」
 眉間に妖艶な皺を寄せ、苦い吐息に乗せて注文する。
 注文を受けた店主がアイスピックで氷を砕くさまを見るともなしに眺めやり、憂鬱に思案にふける。
 
 愛人の名はロベルト・フォルト。
 新市街を掌握する新興マフィア、ジズ・フィロソフィア直属の部下。
 最もロベルト本人が事実を誇張してまことしやかに吹聴している疑いも捨てきれず、本当のところはわからない。
 リザには確かめる術がないし、本人に真偽を問いただしても無意味だとわかりきっている。
 とぼけるならまだいいが余計な事を言ったせいでロベルトが逆上し、大事な商売道具に青あざが増えるのは沢山だ。
 第一、リザはロベルトが隣にいればそれでいい。
 リザの知らないところでロベルトがどんな汚い仕事に手を染めていようが知ったことではないし、知りたくもない。
 世の中には知らない方が幸せな事があるとリザは経験則で熟知している。
 伊達に十代の頃から体を売ってない。
 娼婦をしてれば嫌な事や辛い目に沢山遭うし、娼婦じゃなくても生きていれば多かれ少なかれ不幸を体験する。不幸の分量は神様の匙加減で左右されるが、なにせ神様はとても意地悪だから、一の幸福を貸し出したら十の不幸を利子に加算すると思ってまず間違いない。
 無関心は消極的な自衛だ。
 持たざるものは幸いなり、知らざるものは救われる。
 聖書に記載はないが、これこそ欲と色に塗れた俗世で生きるリザの信条。
 恋人に多くは望まない。
 知りたいなんて贅沢は言わない。
 わがままはなるべく控える。
 どこへ行こうとも構わない。必ず戻ってきてくれるならそれでいい。
 ロベルトと出会ったのは一年前、奇しくもおなじ酒場のおなじカウンターだった。
 その夜偶然席が隣りあわせた二人は、したたかに酔いが回っていたのも手伝い意気投合し、翌朝には一糸纏わぬ姿でおなじ毛布にくるまっていた。
 その後もずるずる関係を続けるうちに情が湧き、ロベルトの方もリザを憎からず思うようになった。
 ロベルトが客としてリザが働く娼館に通い詰めるようになるまで時間はかからなかった。
 もともと惚れっぽいたちのリザはあっというまにロベルトに骨抜きにされ、ロベルトが娼館に通い始めて二週間後には愛人に昇格し、一ヶ月目にはロベルトは甲斐性なしのヒモとし同僚に認知されるようになった。
 『あんた馬鹿ね、あの男が欲しいのは金だけ。それ以外には興味がないの』
 控え室でパフをはたきながら、三つ下の同僚が意地悪くせせら笑う。
 『でも、あの人は結婚してくれるって約束したわ』
 慣れた手つきで化粧を直しながら鏡越しに言い返すリザに対し、脱色を繰り返し細かく縮れた栗毛をかきあげ蓮っ葉に肩を竦める。
 『冗談でしょう、どこの世界にあんたみたいなふしだらな女を嫁にもらおうって物好きがいるのよ。私ならお断りだわ、性病持ちのメス犬を嫁にもらうなんて。役所に届け出す前にエイズ検査してもらわなきゃいけないじゃないの』
 世間を代弁する辛辣な台詞に、控え室に待機していた娼婦がげらげらと笑い出す。
 笑いすぎて手元が狂い、ルージュがはみ出た娼婦が鏡に映った自分の顔に息切れを起こす。
 カーペットに寝転がり、手足をばたつかせ爆笑する娼婦たちのうち、笑わなかったのはリザともう一人…リザと同じく「足りない」と陰口を叩かれ、皆からお荷物扱いされる最年少のスイートだけだ。
 『どうしたのリザちゃん、おなかいたいの?』
 心配そうに顔を覗きこんできたスイートを邪険に突き飛ばす。
 スイートは「きゃんっ」と哀れっぽい悲鳴をあげ、ピンクに染色した自慢のツインテールを泳がせカーペットに尻餅をつく。
 『あんたたちになにがわかんのよ!』
 ヒステリックな金切り声にぴたりと笑いが止む。
 カーペットに寝転がった娼婦たちが唖然とリザを見上げる。
 彼女たちにしてみればほんの冗談のつもり。
 下世話な好奇心と陳腐な嫉妬とがないまぜになった、ちょっとしたおふざけにすぎなかったのだ。
 『私はあのひとを愛してるの』
 芝居がかったポーズで胸に手をあて、リザは誇らしげに宣言する。
 カーペットに座り込んだスイートがぽかんとしてリザを仰ぐ。
 尻餅付いた拍子にブラジャーの肩紐が片方はずれ二の腕まで垂れ下がり、無防備な鎖骨と薄い胸が露出する。
 ローティーンの少女にしか性欲を感じない特殊な嗜好の手合い垂涎の未熟な肢体は、水色と白のストライプの薄い下着に包まれ、女性の色香とは程遠い溌剌とした健全さを醸している。
 膝のあたりでくるくる巻いたツインテールを解けたリボンのように纏い、ぱちぱち瞬きするスイートを無視し、リザは甘美な自己陶酔に酔い捲くし立てる。
 『私にはわかる、あのひとは私がいなきゃ生きていけない……私もあのひとがいなけりゃ生きていけない。私とロベルトは膠のようにくっついて離れられない運命なの。あんた達がやっかもうが何しようが、絶対一緒になってやるんだから』
 皮相な愛の文句に、しかし、一夜で消える泡沫の愛を売る娼婦たちは反論できない。
 それだけ胸の前で手を揉みあわせたリザの姿には真に迫るものがあった。
 『リザちゃんたいへん、手にお怪我してるよ!』
 リザの顔色が豹変する。
 反射的に手首を庇ったリザの方へと尻を起こして身を乗り出したスイートは、顔を曇らせて叫ぶ。
 『たいへん、いたいのとんでけーしないと……スイート救急箱もってくるから』
 『余計なことしないで!』
 リザの口から迸ったのは、悲鳴に近いかすれた叫び。
 自分の方こそ泣きそうに目を潤ませたスイートが、常日頃おっとりしたリザらしからぬ怒声に首を竦める。

 控え室での一幕を思い出し、口の端に自嘲の笑みを上らせる。
 カウンターにのせた手首をさする。
 コートの袖に隠れた手首にはまだ痣が残っている。
 ロベルトに暴行された時の痣が、無数に。

 交際を始めて数日で判明したが、ロベルトは気性が荒く、すぐ手を上げる男だった。
 何か気に入らないことがあればすぐにリザを殴る。
 酷い時は足が出た。
 もっと酷い時は顔を殴られた。
 ロベルトを情夫にしてからというものの体に痣と生傷が絶えることなく、厚化粧で塗り隠している今も、右頬には一週間前に付けられた拳大の痣が残っている。
 折檻の理由は忘れた。
 理由があってもなくてもロベルトはリザを殴るのだ。
 リザは別に構わない。
 殴られるのは痛いし怖いけど、私が我慢すれば済むことだから。
 不満の捌け口にされてる自覚はあるが、別にこれが初めてじゃない。
 実際のところ、リザを虐待しなかった恋人の方が少数派なのだ。
 とっくに諦めてるもの、こんなもんだって。

 諦めてる?
 何を?
 人生を。
 人生と折り合を付けてやってく為には諦めが肝心よね。 
 誤魔化し?そうね、そうよ。こんなのただの自己欺瞞よ。
 でもいいじゃない、幸せなら。
 幸せなふりができるのならそれに越したことはない。
 私は幸せ。
 暴力さえ振るわなければロベルトはいい人だ。
 私はロベルトを愛してる。これからもずっと愛していける。 

 そんなリザを叱咤するのは、働き先の娼館の店主である。

 『あなた、それでいいの』
 鼓膜に蘇るのは普段よっぽどのことでは取り乱すことのない、肝が据わった「ママ」の悲痛な訴え。
 『あんな男に身も心もぼろぼろにしてまで尽くすことなんてないわ。私、あなたのきれいな顔が痣だらけになってくのに耐えられない』
 怒りであざやかに紅潮したママのはっとするほど美しい顔が瞼の裏に浮上し、リザは油の染みこんだカウンターに目を落とす。
 (ママはやさしい人だ)
 カウンターの木目を指で辿りながら、(でも)と胸の内で反発する。
 (ママの言い分もわかる。けど、ロベルトには私しかいない)
 店の女の子たちから親愛をこめてママと呼ばれる若い女店主の顔を脳裏に思い浮かべ、下唇を噛む。
 ママは強い。
 リザとそう変わらない年齢だというのに女手一つで娼館を切り盛りし、ついには歓楽街でも最上ランクの高級店にまで押し上げた。
 その類まれなる経営手腕には同性として賛嘆の念を禁じえないし、毅然と自立した女の生き方は、十代の頃から男に依存して生きてきたリザが憧れてやまないものだ。
 でも、ママと私は違う。
 ママは一人でも生きていけるけど、私は男がいないと生きていけない。縋る人がいなければ生きていけない。だれかに必要とされなければ生きていけない。
 ロベルトは私を必要としてくれる。こんな私を愛してくれる。
 あの人は子供なの。だからだだをこねることもある。だけど、子供はママを愛するものよ。私はロベルトのママなの。
 子供がママを慕う以上に、ママは子供を愛する。
 ママが子供を見捨てたら、あの人は一体だれのところに帰ってくるの?

 そのロベルトの消息が、一週間前からわからないのだ。
 
 手入れした指先で木目をなぞるのをやめ、悩ましげに吐息をつく。
 一週間前に娼館を訪ねたきり、ロベルトから音沙汰はない。
 リザには一言も告げず忽然と姿を消してしまったのだ。
 ロベルトが失踪したこの一週間というもの仕事も何も手に付かない有様。
 他の客と寝ていても思い浮かべるのはロベルトのことばかり。ロベルトの消息が掴めず身を灼かれる思いのリザに、「暴力男と手が切れてよかったじゃないの」と慰めとも揶揄ともつかぬ言葉をかけた同僚がいた。
 リザはその同僚の顔を爪でひっかき、今しがた控え室で大乱闘を演じてきた。
 
 ロベルト、どこへ行ったの?

 酒に酔って上機嫌になると、ロベルトは決まってリザに商売道具の拳銃を見せてくれた。
 若い頃から殺しを生業にしてきたらしいロベルトは、新市街を牛耳るジズ・フィロソフィアの忠実な部下であり、ボスの命令でこれまで何人もの人間を闇に葬ってきたと言った。
 酒が入って気が大きくなったロベルトの言うことを半信半疑に聞きながら、リザはおずおずと拳銃に触れてみた。
 女の手に余る無骨なフォルムの拳銃。
 おっかなびっくり不器用な手つきで拳銃を検分するリザに、ロベルトは酒臭い息を吐きながらこう囁いたものだ。
 『その銃はほんの二時間前に、組織を裏切った売人一家を蜂の巣にしてきたところだ』
 肝を潰したリザは拳銃を取り落としそうになり、ロベルトは激昂してリザを殴り付けた。
 詮索屋の同僚には「フライパンをぶつけたのよ」と嘘を吐いた。
 銃もフライパンも似たようなものよ。
 鉄で出来ていて、固くて、火で炙られて熱くなる。
 その気になればフライパンだって人を殺せる。
 お料理と人殺し、両方できる便利アイテム。
 夫婦喧嘩の時に大活躍。奥様は暗殺者、なんてね。いかにもドラマでありそうじゃないの。
 いつかロベルトと結婚したら、ソファーを買おう。
 安物でいい。
 子供が出来たら真ん中に挟んで座れるような、親子三人でいっぱいになってしまうような慎ましやかなソファーでいい。
 暖色の家庭的なソファーがいい。
 本当はこんなけばけばしいピンクのコート嫌い。
 嫌いだけど、これが一番私を引き立てるから仕方なく着てるだけ。
 好きな色と似合う色はちがう。家に置くソファーは好きな色を買う。
 それに座ってテレビを見る。
 子供が零したジュースの染みや煙草の焦げあとや菓子屑に糸屑、そういう当たり前のものが当たり前にあるソファーに座って。
 お金持ちの家にあるような豪華なのじゃなくていい、家具屋さんで売ってる地味なクリーム色のソファーでいいの。
 私のささやかな夢。
 やんちゃ盛りの子供が飛び跳ねるせいでスプリングにガタの来たお世辞にも座り心地がいいとは言えないソファーにぎゅうぎゅう詰めになって、ぺちゃくちゃおしゃべりしながらテレビを見るの。
 主婦がフライパン振り上げて浮気性の夫を追いかけ回すような定番のホームコメディを見て、スナックを摘みながらげらげら笑ってやるんだから。
 あの女優太ったねとか、あの俳優はひげを剃った方が素敵だとか、あの子役は生意気だから頬をつねってやりたいとか、どうでもいいおしゃべりをするんだから。
 その発想が気に入ったから、本当にフライパンで怪我をしたのだと思い込むことにした。
 簡単だった。
 惨めな境遇に嘘を上塗りして傷心を慰撫するのには慣れていた。
 どうやってフライパンを顔にぶつけるかわからないけど、そういうことだってあるわよねと無理矢理自分を納得させた。

 リザの夢はまだ当分かないそうにない。
 
 ロベルト、どこでどうしてるの。
 ひょっとして銃撃戦に巻き込まれて?
 それとも組織内のトラブル?
 信じたくないけど、私以外に女ができたんじゃ……。 

 「ロベルト、どこへいったの。帰ってきて、おねがいよ……」 
 
 スイングドアが割れ、今晩十四人目の客が来店する。

 硬質な靴音が一直線に店内を横切り、リザが突っ伏しているスツールの背後で止む。
 「!」
 泣き濡れた顔でリザが振り向く。
 リザの背後に立っていたのは懐かしい面影……最愛の人、ロベルト・フォルト。
 「ロベルト!」
 スツールを蹴倒し立ち上がり、縺れる足取りでロベルトへ歩み寄る。
 ロベルトは指一本動かさずリザの接近を待ち受ける。
 ヒールと床板が擦れる音がやけに大きく響く。
 顔の筋肉が突っ張る。泣いてるのか笑ってるのか、自分でも判断付かない。
 わかるのはただ、今の自分がとてもみっともない顔をしているということだけだ。
 涙が厚く塗り固めた化粧を洗い流し、年相応の小皺が刻み込まれた素顔を暴く。
 苦労は女を老けさせる。
 数日ぶりに再会する恋人の前に曝け出された素顔は、三十四という実年齢よりもさらにくたびれて見え、いっそ痛々しいほど憔悴している。
 正面で立ち止まる。
 生唾を飲み、小刻みに震える指でおそるおそるロベルトの顔に触れる。
 荒れた肌の感触をいとおしむようにロベルトの頬へと指を這わせ、夢見心地で呟く。
 「夢じゃない……」
 次の瞬間、リザはロベルトを抱擁して人目も憚らず泣き出した。
 厚い胸板に顔を埋めて身も世もなく号泣するリザに好奇の視線が集まる。
 リザは取り合わず、ロベルトの胸で泣き続ける。
 「ひどい人、この一週間連絡もしないでどこへ行ってたの!心配したじゃない」
 悲痛に歪んだ顔でロベルトをなじりながらも、愛人と再会できた歓喜は隠しがたく、リザの指はロベルトの背広をひしと掴んで放そうとしない。
 涙ながらに糾弾されたロベルトの方はというと、リザの涙に同情を誘われた気配もなくただその場に立ち竦んでいたが……
 ふいに口を開く。
 「心配させて悪かった」
 痩せた肩に手がおかれる。
 赤く腫れた目をしばたたいて顔をあげたリザは、サングラスをかけたロベルトの顔を直視する。
 「裏切り者を見つけ出して始末するのに一週間もかかっちまったんだ……だが、もう大丈夫。仕事は無事済んだ。これからはずっと一緒だ」
 「本当?」
 疑り深い眼差しでロベルトを仰いだリザに返されたのは、啄ばむようなキス。
 普段の粗野なロベルトからは考えられない優しいキスに面食らうも、その頬が幸福の色に染まるのにそう時間はかからない。
 最前まで捨てられた女の悲哀に満ちていたその顔から憂色が払拭され、唇が綻ぶ。
 赤く充血した目に浮かぶ光は、恋人への信頼を回復した証。
 あるいはそれは希望。
 胸の内で繰り返し紡いだ夢物語が今度こそ現実になるかもしれないといった淡い期待。
 脳裏にクリームの色のソファーが浮かぶ。
 ソファーに身を寄せ合った自分たちの姿を想像し、いまだ癒えぬ手首の痣の存在も忘れ、愛情こめロベルトを抱き締める。
 「信じていいのね……」
 陶然とロベルトの腕に身を委ねたリザの頭上で、ロベルトは微笑む。
 「そう……お前の魂と俺の魂は、永遠に共にある」
 力強くリザを抱擁するロベルトの微笑は、邪悪に歪んでいた。

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Devilish | コメント(-) | 19951219101444 | 編集

 来店を告げるベルが軽快な音階を奏でる。
 「いらっしゃいませ」
 カウンターの受付嬢が愛想よく出迎えるも、感じの良い接客スマイルが敷居を跨いだリザとその連れを見咎めた瞬間、困惑に翳る。
 ベルの音に祝福され玄関をくぐったリザは、しゃなりしゃなりと歩いてくる。
 ファッションモデルを意識した気取った歩き方のリザが伴うのは、サングラスで顔を隠した黒尽くめの男。
 男の登場により空気が硬化し、客と娼婦で賑わうフロアに沈黙が張り詰める。
 フロアを突っ切ってまっすぐカウンターにやってきたリザが、幸福に酔った顔でうっとり囁く。
 「最高級のスイート空いてる?」
 息が酒臭い。
 カウンターに手をつき前のめりの格好になると、毛皮のコートに包んだ成熟した肢体が目を奪う。
 豊満な胸の谷間から発汗に伴い香水が匂い立つ。
 「あ、空いてますが……」
 「そ。ありがと」
 とろんと濁った目で礼を言う。
 共犯に引き込もうという下心が見え見えだが、店で一番の古株のリザには受付嬢も意見しづらく曖昧に言いよどむ。
 狼狽した受付嬢に背を向け、上機嫌に浮かれた足取りでカウンターの前を通過する。
 「リザ!」
 凛としたハスキーボイスに振り返る。
 カウンターの内側に二つ並んだ扉の右側、経営者の執務室のドアを開け放ち、凛々しい黒人女性が飛び出してくる。
 ざっくり編んだノースリーブのセーターから伸びているのは健康的なチョコレート色の腕。
 細身のジーパンがカモシカじみて見事な脚線美をさらりと際立たせる。
 華奢だが背筋がしゃんと伸びてるせいで頼りなさはみじんもない。
 飾りけない服装に応じた薄化粧だが、かっきり意志的な弧を描く眉の下の目は最高の職人が手をかけ磨き抜いた黒曜石の如く活発にきらめき、明敏な頭脳の働きを感じさせる。
 活動的なボブカットは颯爽たるウーマンリブの気風を吹かし、さっぱりした気性と男に媚びず甘えず自立した女の生き方を体現する。
 女は威圧的に腕を組むや、険を含んだ目でリザとロベルトを見比べる。
 「リザ……古株の貴女が酔っ払って男連れ込むなんて、後輩たちにしめしがつかないじゃない」
 呆れ顔で嘆息する女店主に対し、リザは毅然と胸を張って言い放つ。
 「いいじゃないの、ママ。このひとは私のお客さんよ。お客さんを案内してきて何が悪いの」
 「そういう問題じゃなくて……」
 女店主は歯痒げに下唇を噛み、ロベルトを睨む。
 付き合いの長いリザには女店主の胸中が手にとるようにわかる。
 面倒見のよい店主は、かねがねリザとロベルトの交際に反対してきた。
 ロベルトときっぱり手を切らない限りリザは不幸になるだけだ。
 これまでも多忙な業務の合間を縫って声をかけ親身に相談に乗ってきたが、依存と愛情をはき違えたリザが助言を聞き入れる様子は一向にない。
 今この時も同様。
 沈黙したロベルトを庇うように前に踏み出したリザは、激しい身振りで抗弁する。
 「ママには関係ないわ!娼婦の恋愛にまで口出ししないでちょうだい。私はこの人を愛してるの。プライベートまで入ってこないで」
 気丈な女店主をママと慕い尊敬しているリザも、今回ばかりは堪忍袋の緒が切れた。
 ママが自分の身を案じていることは重々承知しているが、私だって世間知らずの小娘じゃない。好きになる人くらい自分で決める。
 ヒステリックな金切り声で感情的に叫ぶリザに、何事かと店の女の子たちが集まってくる。
 裸体にタオルを巻いた娼婦が好奇心に負けて個室のドアを開け、カウンター奥、待機用のプライベートルームでおもいおもいに寛いでた娼婦たちがドアから鈴なりに顔を覗かせる。
 中の一人、愛らしい童顔に薄化粧を施した少女娼婦がぱちぱちと目をしばたたく。
 「ママ、どうしたの?リザちゃんと喧嘩?」
 ゆるやかにウェーブしたローズピンクのツインテールは踝までもあろうか。
 小造りの顔の中、コケティッシュにカールした睫毛の下ではつぶらなアーモンド形の目が無邪気に輝いている。
 ふっくらした唇に安っぽいピンクのルージュを塗りたくっているが、それが逆に庇護欲をくすぐる幼さを引き立てる。
 砂糖菓子のようにふわふわした、せいぜい十代半ばのかわいらしい女の子。
 右手に摘んでるのは齧りかけのドーナツ。口の周りに菓子屑がついている。休憩時間を見計らい小腹を満たしていたらしい女の子は、廊下で睨み合う二人を怖々見比べる。
 リザはロベルトの腕をぐいと掴んで引き寄せると、怒りを押し殺した声で吐き捨てる。
 「しょせん、ママに娘の気持ちなんてわからないのよ」
 子ども扱いされる娘の気持ちなんて、全然。
 女店主の肩が震える。
 激情を抑えたしわがれ声で女店主―ママを責めたリザは、体の脇で拳を握り締め、これまで堪えに堪えていた憤懣をぶつける。
 「わたしの本当のママもそうだったわ。男にだらしがないわたしをふしだらな娘だって、家の恥だって罵ったわ」
 「リザ、」
 「ママは強いからわからないのよ」
 追いすがるママをぴしゃりとはねつける。
 冷淡に拒絶され、鞭打たれたようにママが青ざめる。
 受付嬢が息を呑み、ドアの隙間に顔を連ねていた娼婦たちが不安げに事の成り行きを見守る。
 控え室のドアに殺到した娼婦の最前列の少女が、緊迫した場の空気に呑まれてぽとりとドーナツを落とす。
 が、本人はそのことにも気付かず、食い入るように廊下で対峙した二人を見詰めるばかり。
 リザの過激な応酬に一瞬怯んだかに見えたママだが、すぐに平静を取り戻す。
 「私は……店の子が不幸になるのをむざむざ見過ごせないから、ただそれだけ……」
 「ただそれだけがおせっかいなのよ!」
 リザが爆発した。
 今まで積もりに積もっていたママへの劣等感や子ども扱いされる不満、押し殺した反発が堰を切ったように一気に噴き上がる。
 激昂したリザに娼婦たちが怯え、異変を察した客が「なんだ」「なんだ」とスリッパを鳴らし、半裸同然の格好で廊下に沸いてくる。
 下着姿の娼婦たちとバスローブをまとった客たちを挑戦的に見回し、リザは憤然と身を翻す。
 ロベルトの片腕をひしと掴み。
 「とめても無駄よ。わたし、この人のこと愛してるの」
 断固として言う。
 ママが絶句する。
 他の娼婦とおなじく二の句をなくしてこちらを見詰めている同僚へと勝ち誇った流し目を送り、リザはきっぱりと言い切る。
 「あんたの予言は外れたわよ、サマンサ。私、この人と一緒に幸せになるんだから。そうでしょロベルト?」
 ロベルトが本気で結婚を望んでるわけない、弄ばれ捨てられるのがおちだと暴言を吐いた同僚に向かい、優越感を込めた微笑を送る。
 この場に居合わせた全員に中のよさを見せ付けるようにロベルトの腕を胸に導き、踵を返して視線を断ち切り歩き出す。
 両側に個室が並んだ廊下を足早に歩くリザの胸中では、激情の嵐が荒れ狂っていた。

 ママは強いからあんなことが言える。
 男に頼らなくても生きていけるからあんなことが言える。
 わたしは違う。
 男がいなきゃ生きていけない、愛し愛されなければ生きていけない、求め与えなければ生きていく甲斐がない。
 だから……。

 「あなたがいなきゃ生きていけないの、ロベルト」
 奥の扉の前で立ち止まり、思い詰めた目でロベルトを見上げる。
 ふと、サングラスの奥の目が笑ったような気がした。
 ようやく無表情が崩れた事に安堵し、リザは艶やかな微笑を拵える。
 「見苦しいところを見せてごめんなさい。すぐに忘れさせてあげるから」
 笑いながらノブを捻る。
 部屋の中は片付いていた。
 最高級の娼館だけあり、内装は三ツ星ホテルのスイートルームにも劣らない。
 贅を凝らした調度品が配置された室内を横切り、清潔なシーツを敷いたベッドへ向かう。
 後ろ向きにベッドに倒れこむ。
 深呼吸。
 少し呑みすぎたようだ。頭がくらくらする。天井が回っている。
 「脱いで、ロベルト」
 ロベルトは凝然とベッドの足元に立ち尽くしている。
 リザは妖艶に含み笑う。
 「どうしたの、今日はやけに無口じゃない。ひょっとして照れてるの?一週間ぶりだから」
 ロベルトの首に腕を回し、耳元で悪戯っぽく囁く。
 リザの冗談にロベルトはくすりともしない。
 本当に変な人。
 酔いが回ったリザは普段と違うロベルトの様子にも疑問をさしはさむことなく、欲望の炎が点った淫らな目つきで愛人を見詰める。
 鼻の先端が接する距離でロベルトを覗きこむ。
 サングラスの奥の目が無感動にこちらを見返す。
 下半身が濡れてきたのがわかる。
 湿ったパンティーを意識して太腿を擦り合わせ、首を傾げてロベルトの唇を奪う。
 ロベルトの唇は乾いていた。
 やすりのような触感に構わず舌を入れる。
 ロベルトは抵抗しない。
 リザは積極的に舌を絡める。
 上下の歯をひとつひとつなぞり、奥の金歯を舌先で愛撫する。
 喉の奥まで達するほどの濃厚なキス。
 窒息寸前で唇を離す。
 「サングラスが邪魔ね……あなたのかわいい顔が見れないじゃない」
 ロベルトの顔へと手を伸ばす。サングラスをとる。ロベルトは無反応、微動だにせず佇んでいる。
 いつになく従順で大人しいロベルトに気をよくし、取り外したサングラスをスーツの胸に挟む。
 薄茶の双眸が外気に晒される。
 リザの記憶の中のロベルトは殺伐とした目をしていたが、今日のロベルトの目は無限の包容力に満ち、愛情深い慈父の如く寛容に細められている。
 神聖な慈愛に満ちたロベルトの瞳に、歓喜に上気したリザの顔が映りこむ。
 ああ、やっと、やっとわたしの愛が通じたのね。
 両手で頬を包み、ゆっくりと自分の胸元へと導く。
 自分の胸の谷間に顔を埋めたロベルト、その後頭部をいとおしげに撫でながら延延と呪文を繰り返す。
 「愛してるわロベルト……もうどこにもいかないで」
 刹那、ロベルトの目に剣呑な光が過ぎる。飢えた肉食獣を彷彿とさせる貪欲な輝きは、性欲よりもむしろ食欲を昂進させた者のそれ。
 無骨な手が胸の谷間に潜り込む。
 下着を毟り取り、弾んで零れ出た乳房を荒々しく揉みしだく。
 リザが官能の吐息を漏らす。
 汗が匂い立つ柔肉を甘噛みし、片手で乳房をこね、もう片方の手でドレスの裾をたくしあげる。
 三十路を過ぎ脂肪の付き始めた腰まわりを愛撫し、腰に沿って手を滑らし、パンティーをずりおろす。
 ぴちゃぴちゃと臍を舐める。
 舌をすぼめ、舌をとがらし、執拗に臍を攻める。
 リザの腰が不規則に跳ね、感極まった呻きが漏れる。
 「あっ……」
 ロベルトの手が臀部へと伸びる。
 尻の柔肉を揉みしだく。
 リザの呼吸が荒くなる。
 唾液の筋を付け下腹に獣の体勢で顔を埋める。
 (……変)
 荒々しい愛撫に悶えながら違和感を覚える。
 性急な手つきで自分の体をまさぐるロベルトの目には、興奮の色も欲望の炎もなにもない。
 人よりは全能の神に近い透徹した眼差しに心が騒ぐ。
 雰囲気もまるで別物。
 アルコールのせいで頭の働きが鈍っていたリザは深く考えなかったが、普段のロベルトは道行く人に肩が触れたか触れないかのささいな理由で因縁を付けては悶着を起こしてきた、三度の飯より争い事が好きな粗暴な男なのだ。

 ところが、今のロベルトからは一片の殺気も感じられない。

 筋肉に覆われた広い背中からたちのぼっているのは、もっと得体の知れない「何か」だ。
 (なにかってなに?)
 脈絡のない連想に苦笑が浮かぶ。
 見た目はいつもと寸分違わぬロベルトだ。目の前にいるのがロベルトの皮をかぶった他人というわけでもあるまいし、気のせいにちがいない。
 きっとそう、それ以外になにがあるの?
 「ああっ!」
 熱の塊が一息に押し入ってきて、撓った喉から甲高い喘ぎが迸る。
 ロベルトに組み敷かれた視界の軸が歪曲、加速度的に天井が回リ出す。
 悪酔いしたのかしら。弱いくせに酒なんて呑むんじゃなかったわ。
 ロベルトに揺さぶられ階段をかけのぼる。
 絶頂は近い。
 呼吸を喘がせ肩を喘がせ、淫蕩な熱で濁った目でロベルトを仰ぐ。
 上に覆い被さったロベルトと目が合う。
 
 ロベルトが笑った。

 ぞくりとする。
 そして、ぞくりとした自分を不審に思う。
 目の前にいるのはロベルト、私が愛した男。
 それなのに、なんで恐怖を感じるの?
 
 疑念はロベルトの腰の動きに散らされる。
 
 『私のことを愛しているか』
 ロベルトが喋っている。
 朦朧たる意識の中でロベルトの唇の動きを読み、溺れるものが藁をも掴むように両手をさしのべて首にかじりつく。
 「愛してるわ……ロベルト」
 『本当か』
 「ほんとうよ」
 なんでそんなこと聞くの?私にはあなたしかいないのに。
 それともロベルトはリザの心を疑っているのだろうか。
 リザの心が他の男に移ったかもしれないと疑っているのだろうか。
 だから今日は様子がおかしかった?
 そうなの?
 リザの煩悶をよそにロベルトは淡々と続ける。
 『おまえは私を愛しているか』
 「ねえ、へんよロベルト……」
 やっぱり変、行為の最中にこんなことを聞いてくるなんていつものロベルトからは考えられない。
 行為の最中に雑念を散らし、注意を引こうと耳朶に息を吹きかける。
 「あなたはどうなの?わたしのこと愛してる?」
 『愛とはなんだ』
 下半身を襲う熱にシーツを掻いて悶えながら、それでもリザは切れ切れの息の間から答えを返す。
 「愛は……胸があったかくなることよ……その人のことを思うだけでしあわせな気分になること。その人のためなら何をあげてもいい、何を犠牲にしてもいいと思えることよ」
 『面妖だ』
 閉じた瞼の向こうで人の似姿をとる魔性がほくそえむ気配がする。
 微笑みの気配にどす黒い悪意が混ざる。
 異変を察したリザは、下半身に打ち込まれる熱に抗い薄目を開ける。
 上下する視界の中、ロベルトが笑っている。
 目にした者を否応なくひきずりこむ奈落の微笑。

 リザは見てしまった。


 ロベルトの目の色素が薄れ、平凡な薄茶の瞳が陰惨な血の色に変貌する。
 剥き出された眼球の中心で真紅の虹彩が金縛りの暗示をかける。
 刹那、ロベルトの体に異変が起こる。
 肩甲骨の殻を破り、漆黒の触手が奇怪に蠢き絡み合い出現する。
 ロベルトの背から無尽の瘴気とともに沸き出した無数の触手が蜘蛛の巣の如く網を張り天井を覆い尽くしベッドを翳らせ、おののくリザの顔に絶望の陰影をつける。
 戦慄に凍て付いたリザの表情が極限の恐怖に歪み崩れ、万力で締め上げたように楕円に開いた口から音程の狂った絶叫が迸る。
 機械的に腰を振りながら、ロベルトは噛み含めるように語りかける。
 『女、お前は私を愛していると言った。何回も、何回も』
 不浄な瘴気まとう異形の触手が伸び、下半身が繋がったリザの四肢を絡めとる。
 抵抗を封じられたリザは見苦しく股を広げたまま、声にならぬ絶叫をあげ半狂乱で身をよじる。
 破裂せんばかりに毛細血管が走った眼球に克明な恐怖が浮かぶ。
 本能に起因する生物的嫌悪が正視に堪えざる苦悶の形相をさらに醜悪に歪める。
 『そして、愛とは与えることだとも』
 今やロベルトの仮面をかなぐり捨て異形の本性をあらわした男は、リザの両腕をシーツに縫いとめて邪悪に笑む。
 『それならば遠慮なく、お前の魂を貰い受けようではないか』
 ロベルトの言葉はもはや耳に入っていない。
 恐慌に陥ったリザは必死に手足を振り乱し、壊れた蓄音機のように耳障りな金切り声で娼婦仲間に助けを求める。
 「たすけてマリア、サマンサ、スイート……ママ!たすけてママ!」
 目尻からあふれた涙がマスカラを溶かし、頬に道筋をつくる。
 化粧の剥げ落ちた顔には克明に皺が浮かび、リザの素顔が年相応に疲れた年増の女である事実を残酷に暴き立てる。
 狂ったように仲間の名を呼ぶリザを見下ろし、ロベルトは……否、ロベルトだった者は笑う。
 全身から生えた触手を不気味に蠢かせ、余熱の残るリザの肌を粘着に愛撫し、恍惚と呟く。
 『私が欲しいのは「愛」ではない……』
 
 たすけてママ。
 たすけて。

 触手で巻かれた口を動かし、リザは叫ぶ。
 こもった声で助けを乞うリザを見下ろし、ロベルトは笑みを広げる。
 最前列の一等席でグラン・ギニョルを観劇しているかのような、背徳の愉悦の微笑。
  
 『それは、「恐怖」と「魂」だ』
 「!!!」

 触手が全身に絡みつき、黒い繭を編む。
 楕円の繭を紡いだ触手の下で断末魔のリザが身をよじる。
 窒息に至るのにそう時間はかからない。
 獲物が酸欠に陥り抵抗が弱まり、繭の揺れが止む。
 純白のシーツと鮮やかな対照を成し静止した漆黒の揺籃を一瞥、ロベルトは感慨深げに呟く。
 『私にも恐怖は理解できる……』
 しゅるしゅると触手がほどけてゆく。
 下肢があらわれ、腰があらわれ、乳房があらわれる。
 死体の全身を取り巻いていたのは青膨れした鬱血痕。
 昨晩屠った男と同じ、みみず腫れの痕。
 首に絡まっていた触手がほどけ、死顔が現れる。
 リザの首は折れていた。
 人知を超えた恐怖と理解の枠を凌駕した驚愕に極限まで剥かれた目と弛緩した口元、化粧の剥げ落ちた顔。
 涙で溶け流れたマスカラが道化師の涙のように斑に頬を染めている。

 人の死顔とはなんと滑稽なのだろう。

 ベッドに仰臥した女の死顔を興味深げに観察する。
 愛していた男の変貌に戸惑い、驚愕し、自分の身に何が起きたかもわからぬうちに絶命した愚かな女。
 体内に触手を回収し、たった今自分が葬った女には一片の愛情とてない素っ気ない動作で腰を上げる。
 床に散らばった衣類を拾い上げ、下着を身につけ、ズボンを穿く。
 手間どりながらシャツの袖に腕を通してゆくさまは人の真似をしているかのようにぎこちない。
 長くしなやかな指でシャツのボタンを不器用にとめつつ、ひとりごつ。
 『理解はできるが共感はできない。それが残念で仕方ない』
 シャツのボタンはちぐはぐにかけ違っていた。

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Devilish | コメント(-) | 19951218103407 | 編集

 ハンプティ・ダンプティ 塀の上

 ハンプティ・ダンプティ 塀の上

 すってんころりと転げ落ち

 王様の軍隊がとおりかかり よってたかってハンプティ・ダンプティを戻そうとしても

 おちたたまごはもどらない



 「おちたたまごはもどらない……っと」 
 カチャカチャと食器がふれ合う音が広い食堂でささやかなワルツを奏でる。
 清潔なクロスを敷いた食卓につき、銀のフォークでオムレツを突き崩していたのは、デミトリ老の唯一の孫にして頭痛の種……問題児たるディアボロ。
 だが、その行儀作法は跡継ぎとして褒められたものではない。
 行儀悪く頬杖をつきマザーグースを口ずさみながら、気のなさげに半熟オムレツをかきまわしている。
 背後には謹厳に執事が控える。
 おのれの分をわきまえた老執事は食事中寡黙に徹し、あるじの行儀作法に批判がましく眉をひそめはしても横から口を挟むことは決してない。
 使用人の分際で出すぎた真似は禁物。
 ディアボロは使用人の横槍を毛嫌いする。
 前に一度、朝食のときに執事が口を出したことがある。
 『ぼっちゃま、スープは音をたてずに飲むのがマナーの基本ですよ』
 食器とスプーンをしきりにかち合わせスープをぼたぼた零し、挙句は意地汚く音たて啜る不作法を見かねた上での指摘に、当時十二歳だったディアボロは一言も発さずフォークを振り上げた。
 フォークは狙い違わず深々と左手の甲を抉り、白手袋に鮮やかに血が滲む。
 左手の甲をおさえ苦悶に身を捩る執事を一瞥、血塗れたフォークを軽快に旋回させ、椅子にふんぞりかえったディアボロはせせら笑う。
 『口裂けピエロにしてやろうか。お誂え向きにフォークもあるし』
 テーブルに片足を投げ出したディアボロは、『それとも』と続けた。
 『ナイフのがお好み?』
 あの一件以降、執事はどんなにマナーが悪くても目を瞑り、ディアボロの食事中はかたくなに沈黙を貫いている。ディアボロの食事中は咳払い一つせず、彫像のように立ち尽くした執事の手には、今もフォークの傷痕がある。
 ディアボロは大抵一人で朝食をとる。
 執務や社交で多忙な祖父が同席することはまずない。
 ディアボロの教育に関し、デミトリは一貫した放任主義を通している。
 デミトリ家では各自、自分の好きな時間帯に起きて朝食をとる。
 家族で食卓を囲む団欒とは程遠い光景だが、唯我独尊のディアボロにはこの勝手気ままな方針が非常に適していた。
 今朝もディアボロは一人で遅い朝食をとっていた。
 今日の献立は半熟のプレーンオムレツとヘルシーなサラダ、デザートのヨーグルトという栄養バランスを重視したシンプルなもの。 
 献立がお気に召さないのか、ディアボロは先刻から意味もなくオムレツをつついている。
 やる気なさそうにフォークを口に運ぶ動作といい、片頬をついた気だるげな姿勢といい、起きぬけの事情を考慮しても次期当主の自覚と威厳に欠ける。
 おもいきりあくびをする。
 ねむそうに目をしょぼつかせながら、唐突に言う。
 「レアのステーキが食いてえ」
 整然とテーブルを囲む給仕がぎょっとする。
 ディアボロはかまわず続ける。
 「血が滴る牛肉が食いてえ。食いてえったら食いてえ。今から三秒以内にもってこい」
 「ディアボロ様、ご無理をおっしゃらないでください」
 左手に古傷もつ執事が異論を唱える。
 白手袋を嵌めた左手の甲を無意識に撫でながら、謙虚な態度で理不尽な要求を退ける。
 「ディアボロ様のお望みをかなえたいのは山々ですが、あいにくと材料がございません。それに、朝からステーキは体に毒ですよ」
 本音を言えばこんな傍若無人な主がどうなろうが知ったことではないが、長年デミトリ家に仕える執事として見過ごすわけにもいかない。デミトリ老への恩義もあるのだ。
 執事の進言にディアボロは眉をしかめる。
 雲行きが怪しくなってきた。
 フォークをくるくると回しながらディアボロは言う。
 「ご主人様の命令が聞けないってのか」
 「……………申し訳ありません」
 「つかえねえな、ったく」
 平身低頭の執事を見下ろし、ディアボロは長々と息を吐く。
 いつその手が翻ってフォークが頭上を急襲するか気が気ではない執事をよそに、ディアボロはあっけなく身を引いた。
 「じゃあいいや」
 「!」
 執事が弾かれたようにに顔をあげる。
 固唾を飲んでなりゆきを見守っていた給仕一同の緊張が解け、安堵の吐息とともに弛緩した空気がただよう。
 後ろに整列した給仕に背を向けたディアボロは、フォークをきこきこと動かし、オムレツをまっぷたつにする。
 まっぷたつにしたオムレツの片方にフォークを突き刺し、口の中に放り込む。
 咀嚼する。
 飲み下す。
 続いてもう半分も突き刺し、放り込み、咀嚼する。
 美食家のデミトリの意向により、デミトリ家の食事は料理人が腕によりをかけた一流のものが供されている。
 ディアボロが無造作に口に運ぶオムレツも、口に含むやいなや半熟の卵がとろりとほどけまろやかなバターが広がりぴりっと利いた胡椒が香ばしく味をしめ、美食評論家がこぞって満点を付ける出来栄え。
 二口でオムレツをたいらげ、卵の黄身が付着した皿にフォークを投げ出す。
 皿に落ちたフォークとナイフがかん高い音を奏でる。
 食事終了の合図。
 ぐいと顎を拭い席を立つ。
 執事はあっけにとられてその背を見送っていたが、はっとして号令をかける。
 「食事が終わった。早急に食器を片付けるぞ」
 同じく棒立ちになっていた給仕たちが上司の号令で我に返り、すみやかに食器を片付け始める。
 執事に陣頭指揮され、てきぱきと食器を回収してゆく給仕たちを一顧だにせず廊下にでたディアボロは、背広のポケットに指を引っ掛け大胆に歩く。
 清澄な朝の空気を肺に吸い込む。
 深緑が目に染みる。
 眼鏡を新調したおかげで視界は良好。度を上げるついでに銀縁から黒縁にのりかえた。
 ディアボロはマザーグースを口ずさみながら廊下を歩く。
 『なごんでいる場合じゃないだろう』
 ポケットの中で声がする。
 ディアボロはちらと目をやる。
 『いまだにメフィストの足跡はつかめない。今も死者は増え続けているはずだ』
 足を繰り出すごとにポケットに突っ込んだ銃が跳ねる。
 マザーグースが止む。
 銃に化身したファウストの訴えにディアボロは肩を竦める。
 「はいはい、わーってるよ。おまえがポケットん中で急かすからゆっくり食事する暇もねえ」
 『じゃあ早速……』
 「ステーキ食いに行くか」
 ファウストはない耳を疑う。
 『素敵……なんだって?』
 聞き間違いを疑い、慎重に問い返す。
 ディアボロはさわやかな顔をしていた。良心の呵責など一欠片とて感じてないのは明らかだ。
 「口直しだよ。ハンプティ・ダンプティの死骸で腹がふくれるかってんだ。メフィストさがすにしても肉食わなきゃ調子でねえよ」
 『……詭弁だ』
 ファウストが不満げに唸る。ディアボロはどこ吹く風と涼しげだ。ぽんぽんと背広のポケットを叩き、ファウストをなだめる。
 「あとで油をさしてやるよ」
 ファウストは無言だ。
 中庭に張り出した回廊をぐるりと迂回し、途中ですれ違った護衛に声をかけ車をだすよう指示する。
 正面玄関に出る。
 ポーチに立って庭を見渡す。
 花崗岩造りの噴水を擁した広い庭にはすがすがしい薫風が吹き渡り、新緑の季節の訪れを予告する。
 車庫に行くには中から直接行く道と外を迂回する道とがある。
 今日は陽気がいいから散歩がてら遠回りを選ぶ。
 車寄せに続く舗道にはチェス盤に見たて赤と黒の化粧煉瓦が嵌め込まれている。
 一人遊びの達者なディアボロは黒い煉瓦だけを選んで歩きながらファウストに不意打ちをくれる。
 「なあファウスト」
 『なんだい』
 「メフィストってどんな奴なんだ?」
 黒の敷石だけをとびとびに踏み歩くあるじの突然の問いにファウストは面食らうも、動揺を表に出さず聞き返す。
 『……どういう意味かな』
 「メフィストが乗り移ってる奴のツラは知ってるよ。でも、メフィストのほんとのツラはちがうだろ。お前と対になる存在ってこた、やっぱ似てんのか?」
 『人間の美の基準はよくわからないが、メフィストの容姿は整っている方だ』
 「男前なのか。あんな醜男に乗り移っちまって今頃後悔してるかもな」
 『容姿の美醜は関係ない。メフィストが重視するのは魂の味……もとい、本質だよ』
 「なんだそりゃ」
 一拍おいて考えをまとめたファウストが、信仰を布教する聖職者の如く奥深い口調で講釈をたれる。
 『メフィストは邪悪な魂を好む。メフィストの役目は蝶番に次ぐ第二の安全弁……本の封印をとき、知識を盗もうと試みし者の魂の略奪。知識の研鑽を怠り、先達の遺産を掠め取ろうなんて人間の魂は当然汚れているだろ。堕落した魂こそ悪霊の好物。メフィストは生来人食いのジンだったが、八百年もの間本に閉じ込められ空腹を余儀なくされるうちに暴食の傾向に拍車がかかった』
 「動物も飢えなきゃ芸をしねえ、番犬は飯を抜かなきゃ吠え掛からねえ。満腹して寝込んでる時に泥棒に入られちゃ一巻の終わりだ」
 リズミカルにスキップしながら笑うディアボロに、跳ねるポケットの中で眩暈をおぼえファウストが続ける。
 『あの本は人の血で書かれている』
 「うおっと!?」
 物騒な発言に意表を衝かれ、前のめりにつんのめる。
 顔面からずっこけかけたディアボロは膝に手をついて体勢を立て直すや、ポケットの中で傾いだ銃を見詰める。
 『Sapiens habet divitias in se.』
 賢者は自分自身の中に財産をもつ。
 ファウストはラテン語の箴言を流暢に引用し、ディアボロからしてみればまったく意味不明で難解な理屈を捏ねる。
 『そもそも頭の中で生じた思想を字にして書き付けるという行為自体が魔の法則を固の法則に置換する試みなんだ。思い出してごらん、本の中の光景を』
 忘れもしない。
 真紅の輝きに包まれた銃を束縛する鎖、異空間を席巻する象形文字。
 あの文字は羽虫のように飛び回り、ひとつひとつが生きていた。
 『形なき魔法を字に置き換え固着させるためには、生命の通貨であり、魂の分泌液でもある人血をインクに用いるしかなかった。あの本は数多くの犠牲者の血を吸って強大な魔力を保ってきた……呪われた本さ。だが、ぼくら精霊にとって人の血は毒となりうる。正確には依存性の強い麻薬だね。人食いの精霊として生じ、長い長い年月本の中に封じられていたメフィストは八百年かけてゆっくり静かに狂っていき、とうとう業深き本性を露にした。人の血の毒素はかくも精神に影響を及ぼすほど強烈なんだ』
 「お前は平気なのか?」
 不審げな顔をしたディアボロの当然とも言える疑問にファウストは哀しげな笑みを返す。
 『僕とメフィストは対と成る存在。メフィストが陰に相当し、僕は陽に相当する。魂の性質が異なれば惹かれるものも違う……僕の魂はもとから穢れを寄せ付けないよう出来てるのさ』
 一呼吸おき、厳粛に言葉を結ぶ。
 『メフィストが好む魂はどれも病んでいる。不道徳に堕落した魂や傷付き廃れた魂こそ、悪食を自称するメフィストの好物だ』
 「とんだゲテモノ食いだな」
 自分のことは棚に上げてけたけた笑ったディアボロがふいに真顔になる。
 「まてよファウスト。お前、魂が見えるのか」
 『まあね』
 「おれの魂も?」
 『まあね』
 「どこにあるんだ」
 
 その時だ、目の前にファウストの幻影が現れたのは。

 「うおっ!?」
 眼前に出現した白い顔に、ディアボロが二度目のたたらを踏む。
 「散れ、幽霊!」
 『僕は精霊』
 背広の胸を押さえてあとじさったディアボロと相対し、ファウストは人さし指を顔の前に立てる。
 動揺を見抜かれるのは癪だ。
 ディアボロはただちに腕をおろし平静を取り繕うや刺々しく吐き捨てる。
 「おいぼれファウスト、おまえ拳銃に化けたんじゃなかったのか?なんで人形に戻ってんだよ」
 『この姿のほうが説明しやすい』
 答えるファウストの姿は臍の緒のような煙で銃口と繋がっている。
 行動範囲に制限が付くが、銃と繋がってさえいれば本の中と同じ人の姿をとることができるらしい。
 ファウストが優雅に手を翳す。
 天に翳した指を一本一本ゆっくり閉じる。
 黄金の陽射しを掴み、指の檻に閉じ込める。
 一本一本、また開く。
 指の隙間からこぼれ落ちた陽射しが地に格子縞の影を落とす。
 『魂は太陽に似ている』
 ディアボロの鼻先に手をさしだす。
 『太陽を直視しようとすると眩しさで目が眩む。魂を見ようとすると光に目が眩む。触れようとすれば……』
 ディアボロの胸に透けた手をあてがい、儚く微笑む。
 仮初の器に魂を宿しこの世に具現した精霊は実体を持てず、接触したところで感触も体温もない。
 それなのに胸にふれた指はひやりとし、心霊手術を施されているような奇妙な感覚が襲う。
 『その熱で焼き焦がされ、灰になる』
 「上等じゃねえか」
 眼鏡越しの目に挑戦的な光が点る。
 「くそったれファウスト、おれの魂を掴み取る度胸があるか?」
 『ぼくはまだ灰になりたくないよ』
 首をうなだれ瞠目、手から伝わる魂の波動に意識を傾ける。
 透けた手をなかば胸に潜り込ませ、拍動する心臓に触れ、活動する臓器をなで、霊感の触手を伸ばし魂の輪郭をさぐる。
 『君の胸を灼いているのは地獄の業火、まれに見る激しい炎だ』
 「だからどうした」
 『邪悪だ』
 ファウストが憂慮と憧れを等分に込めて呟く。
 ディアボロはにっこりと微笑む。
 「ありがとう」
 『目の中に地獄がある』
 「いいね」
 『黒い目だ。邪悪を煮詰めた目だ』
 「もっと言え」
 『悪魔の目だ』
 「最高」
 睫毛が縺れる距離に玲瓏たる硝子質の美貌が浮かぶ。
 両性具有の天使のように人種も性別も曖昧、中性よりも無性に近く純粋な美だけを抽出した顔。
 癖のない白髪がしどけなく額にかかり、虚脱したような表情が嗜虐心をくすぐる。
 「もっと褒めてくれ」
 『きれいな目だ。燃える闇の色だ』
 純粋な感嘆符にくすぐったそうに肩を揺らし、ディアボロが笑う。
 「ありがとうよ。おまえの目もきれいだぜ」
 上目遣いにファウストの顔色をうかがい唇の端をねじるようにしてぐいと顔を突き出す。
 「血の色だ」
 ファウストを仰ぎ、品良く尖った顎の先端に指をかけて起こす。
 実際には触れられもしないのに律儀にもディアボロの動作にならって顎を反らしたファウストは苦笑する。
 抵抗する気配は毛頭なく、あるじが飽きるまでこのお遊びに付き合うつもりらしい。
 好色な目つきでファウストの顔をなめまわす。
 色の抜けた白髪、肉の薄い繊細な鼻梁、品よくとがった顎と善良なたれ目。
 睫毛も粉雪をまぶしたように白い。
  
 そして、なにより印象的なのはその双眸。

 純白の睫毛の下で玲瓏と輝く真紅の目は、凡百の比喩では形容できないほど美しい。
 白磁の肌に映える二粒のピジョン・ブラッドは歳月が研磨した叡智と神秘を秘め、崇高な美しさをもって人を魅了する。

 脳天から爪先まで不躾に値踏みし、目玉の位置に手を持ってくる。
 鉤の字に曲がった指が抵抗なく眼窩に沈み、視神経をひきちぎり、幻の眼球を掴み取る。
 「真っ赤に透き通った動脈の色、えぐりだして指輪にしたいくらいきれいな目だ」
 背筋がぞくりとする狂気の笑みにもファウストは動じず、睫毛の奥の黒い目を凝視する。
 ルージュとノワールの双眸が互いを牽制するかの如く干戈の音もなく切り結び、ディアボロは演技をやめる。
  
 視線がぶつかる。
 清浄な赤と邪悪な黒がかちあう。
 たがいがたがいに魅せられる。

 伸びをして顔を近付け、耳元で囁く。
 「手っ取り早くこの場でヤるか?三秒でイカしてやるぜ。おまえを跡片もなく焼き尽くして一片の灰も残らないようにしてやる」
 『やめておくよ』
 まだ言い足りげなディアボロに両手を挙げ降参の意を表明し、伏し目がちの表情に憂いを宿し、ファウストは意味深な台詞を吐く。 
 『今はまだ、その時じゃない』
 どういうことだ?
 問いただすより先にタイヤが石畳を擦る高音域の音が響き渡り、屋敷の外壁を折れた辺りに黒塗りの大型車が現れる。
 飼いならされた黒豹さながら、車寄せを滑ってきた大型車が主の前に停車する。
 運転席に座っているのは先刻の護衛。
 準備万端、いつでも出発できるという意思表示に軽く会釈してみせる。
 無粋な闖入者に主従のじゃれ合いを中断され、ディアボロは不機嫌も露に舌打ちする。
 堕天の誘惑に失敗した悪魔の如く憎々しげにファウストを睨みつけるも、その時にはもう彼の姿は水面の虚像のようにかき消え、素知らぬ顔でポケットの中へと戻っていた。
 ポケットの中で澄ましているファウストを睨み、腹立たしげに石畳を蹴る。
 滑らかに後部ドアが開き、ご機嫌ななめの主人を迎え入れる。
 革張りの座席に尻を投げ出し、中部座席の背凭れに両足をかけ、傲慢この上ない姿勢でふんぞり返る。
 尊大に腕を組み、バックミラーをうかがう運転席の護衛に顎をしゃくる。
 「歓楽街にいけ」
 「こんなお時間にですか?」
 「二度も言わせるんじゃねえ。死にたいのかお前」
 後方から漂う不穏な気配に八つ当たりを恐れた運転手が慌てて首を引っ込める。
 車が威厳溢れる鈍さで発進、沿道の芝生と中央の噴水が車窓を流れ去る。
 クッションの利いた座席に凭れたディアボロは、整然と刈り込まれた芝生と清涼に水撒く噴水とが続く退屈な景色に向かい吐き捨てる。
 「一発ヤッて腹ごなしするつもりがとんだ茶番だ」
 『欲求不満だね、君は』
 「だれのせいだとおもってんだ」
 『どのみち実体がない僕ではお役に立てない』
 「使えねー。印刷のズレた偽札くらい使えねー」
 ぶうたれた主人の顔色をバックミラーで読み、後方から流れてくる不気味な独り言を耳の端に捉え、運転手は心中転職を検討しはじめた。
 賢明な判断と言わざるえない。

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Devilish | コメント(-) | 19951217114102 | 編集

 あばらの浮いた痩せ犬が定食屋の裏口で生ゴミを漁る。
 ゴミ缶に鼻面突っ込み、滝のように涎を流して残飯をがっついていた野良犬がピンと耳をそばだて路地の切れ目から通りを窺う。
 縄張りを荒らす不届き者を四つ足踏ん張って威嚇する犬の眼前、西部劇さながら乾燥した砂嵐が巻き起こる。
 砂利まじりの突風がしたたかに目を打ち、たまらず砂を掻いてあとじさった鼻先をすれすれでタイヤが通過する。
 タイヤの回転が止み、大通りの前方に一台のロールスロイスが停まる。
 バタンと後部ドアが蹴り開けられ、萎縮した犬が後ろ脚にしっぽを挟み降伏の姿勢をとる。
 黒光りする革靴が地面を踏む。
 再発進。
 濛々と砂埃を蹴立てて遠ざかってゆく車を見送り、悄然とうなだれた野良犬はびっこを引いて路地へ取って返す。
 まだ朝飯の途中なのだ。

 カランカラン。
 その日、「キティ・ヤード」に珍しく午前中の来客があった。
 昼間は大衆食堂として夜は酒場として営業するキティ・ヤードだが、太陽が傾かないうちから客が訪れるのはまれだ。
 西部劇の舞台装置めいて古風なスイングドアを蹴り開けたのは、肩から白い襟巻きを垂らし、仕立てのよいスーツを着こなす十代半ばの少年。
 敷居を跨いで立ち、逆光を背にざっと店内を見回す。
 平間に等間隔に並ぶ円卓では労働者風の中年男が正体なく酔い潰れている。
 同様の男は他にも三・四人いた。
 テーブルをまるまる占領し、むにゃむにゃと寝言をつぶやきながら性懲りなく惰眠を貪る男たちの前を横切り、カウンターの真ん中席に腰掛ける。 
 慣れた動作でスツールに滑り込んだ場違いで風変わりな少年を店主がちらと一瞥する。
 脳天から爪先まで一巡した視線に不審と好奇の色が等量に宿る。
 時代遅れのギャング映画からそのまま抜け出してきたような奇抜な風体といい、整ってはいるが下劣にねじれた口元といい、どうにもちぐはぐ感が拭えない。
 着席と同時にあくびを連発、カウンターにだらしなく頬杖つく。
 「レアステーキ一丁」
 寝ぼけ声の注文にカウンターを拭く手を止め、反射的に時計を見る。
 午前10時。まだ午前中だ。
 朝からステーキ、それもレアだなんて、どういう胃袋をしてるんだ?
 あきれ半分感心半分、まじまじと少年を見詰める。
 少年は頬杖付いたまま、物言いたげな店主を剣呑に睨む。
 「とろいな豚。ステーキつったらステーキなんだ、血が滴る真っ赤なレアステーキ。退屈した俺がお前の腿肉削いで炙る前にフライパンとチャールストンを踊れよ」
 「か、かしこまりました!」
 なにがなんだかわからんがこいつに逆らったらやばい気がする。
 初対面の人間にもそう直感させる物騒な眼光と恐喝にたじろぎ、布巾を放り出し慌てて奥へ引っ込む。
 今さら説明するまでもないが、この無駄に態度のでかい少年はディアボロだった。
 木材組みの吹き抜け天井は広々と開放感があり、中心では三枚羽根の換気扇がカタカタと眠気を誘う音たて緩慢に旋回する。
 一階にはテーブル席が二十、カウンターに面したスツールが十脚。
 ミュージカルのセットのような前時代的な階段を経た中二階の桟敷席には、一階の約半数のテーブルが配置されている。
 踊り場に嵌め込まれたステンドグラスからカラフルに彩色された陽射しが降り注ぐ。
 斜めに傾いだ陽射しの中でくるくると円舞する埃を眺め、ディアボロは率直な感想を述べる。
 「鶏小屋だな、まるで」
 『君のお屋敷に比べればね』
 ポケットの中でファウストが反駁する。
 スツールを揺らし、ディアボロが屈託なく笑う。
 「ちげえねえ、あの屋敷に比べりゃ大抵の店は鶏小屋かよくて豚小屋だ。下水の匂いがしねえだけここはマシだ。さすが二ガー……おっともとい、チャーリー推薦だけあるな」
 『昨日の陽気な若者の事かい』
 ディアボロが挙げた名前にファウストは興味を示す。
 事件現場で遭遇した語尾に特徴のある騒々しい黒人青年を思い浮かべてのファウストの質問に、ディアボロはぞんざいに答えを投げる。
 「フルネームはチャーリー・ブルックリン・ジュニア。名前負けもここまでくりゃ一流の皮肉だ」
 『ふむ。チャーリー・ブルックリン・ジュニアは君の友達なのかい』
 「おいおい、やめてくれよ」
 なにやら真面目に考え込むファウストの感慨にディアボロがいつになく情けない声を出し、最大級の侮辱を受けたといわんばかりに大袈裟に両手を広げ、誤解を訂正する。
 「チャーリーは俺のペット。ドルの餌さえやりゃしっぽ振って情報もらしてくれるかわいい警察犬だ。チャーリーに限らねえけど、白くても黒くてもダチなんて御免被りたいね」
 しかめ面のディアボロをポケットの中から見上げ、ファウストは不思議そうに問う。
 『昨日も聞いた台詞だ。マルコ・デミトリ……実の祖父との会話でも同じことを言ってたね』
 「盗聴が趣味か」
 『いやでも聞こえてくるんだよ、隠しに入ってると』
 「いやなら金庫の中に監禁するぞ。便所に流すのもいいな」
 『話を戻す』
 空咳一つ軌道修正を図り、単刀直入に聞く。
 『なぜ君には友達がいないんだ?』
 「逆に聞くぞ。メフィストはお前のダチか?」
 『…………』
 直球を直球で打ち返す。
 おそらく友達という概念でメフィストを括ったことがないのだろう、ディアボロの言葉を真に受けたファウストが悶々と苦悩する。
 ディアボロは肘を枕にしてカウンターに寝そべると、サディスティックなにやにや笑いを浮かべて銃を見る。
 「ダチか。いいねえ、いい言葉だ。便利な言葉だ。金もねえ力もねえ脳みそもねえ負け犬どもがぎゃんぎゃん集まって吠え立てる薄っぺらい綺麗事、数の暴力の別名。悪しき民主主義。赤信号みんなで渡れば怖くない、轢き逃げ上等なすりあい。一人じゃびびっちまう悪事もオトモダチが一緒ならすずしい顔でやってのけますってか?」
 ぽんぽんとポケットを叩きながら弾んだ声で言えばファウストが実直に黙り込む。
 奥の厨房から熱したフライパンに油をのばす蒸発音が聞こえる。
 肉の焼ける香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり空腹を刺激、頭と目がしゃっきり冴えてくる。
 「おれにはすべてがある」
 ポケットの生地越しに固い感触を確かめる。
 ポケットの生地に包まれた拳銃が右五指に触れ、唇に自然と笑みが浮かぶ。
 「金も力も脳みそも三拍子パーフェクトだ。ビンゴに三つとも揃ってる。この上ヘビに足つけるような真似だれがしたがる?余計なものは余計なものでしかねえ。そして」
 ファウストを鷲掴みにし、断言。
 「余計なものは弱味になる」
 『友達も?』
 「イエス」
 『恋人も?』
 「オフコース」
 『家族も?』
 手首が軽く撓る。
 次にあらわれたとき、その手は拳銃を握っていた。
 「凡人にとっちゃそいつがいちばんの弱味だな」
 『マルコ・デミトリは君の弱点じゃないのか』
 ディアボロの顔に空白が生じ、軽く反動をつけ手首を振る。
 『!?』
 弧を描いて宙を舞ったファウストを目で追い、左手を素早く前に出す。
 拳銃が左手に触れるか否かという一瞬の早業で再び宙へと投げ上げる。
 曲芸師のように完璧な制動で操りがてら指先の技巧を凝らして一回転、ルーレットの如く正面に舞い戻った銃口をぴたりと水平に寝かす。
 眼鏡越しの双眸が険悪な光を孕んで据わる。
 「頭に蛆が沸いた寝言も大概にしやがれ、ファッキンファウスト。なんで俺の弱味があのミイラ化寸前のおいぼれなんだ?暖炉に叩っ込むぞ」
 『なぜってマルコ・デミトリと君は……家族じゃないか』
 「血は繋がってるらしいな。反吐が出る」
 『?』
 椅子ごと体を仰け反らせ、右手を翳して銃身をキャッチする。
 「よーく聞けファウスト。たしかにジジィと俺は血縁関係にあるが、家族の情愛だなんだ寝言をほざいちゃいけねえ。あのジジィはとんだ食わせ者だ。血のデミトリ家現当主の名は伊達じゃねえぜ。実際ジジィの逆鱗に触れれば熟睡中耳の穴に溶けた鉛を流しこまれないとも限らねえ。おかげで俺は不眠症だ」
 片手で口を覆い、ふわあとあくびしてみせたディアボロにファウストが薀蓄を垂れる。
 『耳の穴に溶けた鉛を流しこむのは中世よく使われた暗殺方法だ』 
 「へえ、そうなのか」
 『姦通した妻が夫を葬るために用いた。見た目は自然死に見えるから都合がいい』
 「ヤるね」
 『財産に目が眩んだ息子が自然死に偽装して両親を葬ったこともある』
 「いいね。今度使うか」
 『本気かい?』
 「まんざらでもない」
 『骨肉相食む争いは不毛だ。失うものは大きく得るものはない』
 「持ち主に説教する気か?錆びた鉄屑の分際で」
 『錆びてるのは油をさしてくれないからだ』
 「わーったよ、車に戻ったらな。……うるせえからだまっとけよ、もう」
 辟易してカウンターに銃を放る。
 油でべとつくカウンターに放置されたファウストが『ポケットに戻してくれたまえ、ディアボロ・デミトリ』と切実に懇願するも聞こえぬふりを決め込む。
 退屈。
 暇を持て余したディアボロは行儀悪く椅子をがたつかせ大きく仰け反って店内を見渡し、傍らのジュークボックスに目をつける。
 「すげえ、骨董品だ」
 おもいきり仰向いた額から前髪が逆さに垂れる。
 珍しいおもちゃを見付けた好奇心から気紛れに背広をあさり25セント硬貨を摘む。
 無精して座ったまま腕を伸ばし硬貨投入口にコインを落とす。
 涼やかな音たてコインが落下、ネオン管を蛍光色の電流が走る。
 点滅するランプと睨めっこしていたディアボロが舌打ちする。
 「しけてんな、ヘビメタはねえのかよ」
 「お客さん、うちではジャズとカントリー、あとシャンソンしか流せませんよ」
 「どうりで儲からねーわけだ」
 厨房から顔を覗かせた店主に営業妨害はなはだしい大声で返す。
 気分を害した店主がささやかな意趣返しに肉汁滾るステーキに唾吐いたのも知らず適当に選曲、ボタンを押す。
 ジュークボックスから哀切なメロディを伴い流れ出したテノールが豊潤に広がっていく。
 男女の出会いと別れを綴った感傷的な歌詞に喉で豊かに膨らんだテノールが命を吹き込み、完全無糖のブラックコーヒーのように苦みばしった歌声が哀切に吹き鳴らすサックスの主旋律と折り合い、うねり、交歓し、感情の機微を炙り出す絶妙のハーモニーを生む。
 『悪くない』
 「ジャズがお気に入りか。年寄りだな」
 『メフィストの声に似ている』
 ジュークボックスが奏でる音楽に耳を傾け、懐旧に湿った声でファウストが述懐する。
 「声は男前だな」
 『メフィストは愛を唄わないけど』
 「知らないものは唄えないだろ」
 古きよき時代の音楽にテーブルに突っ伏していた酔漢たちが三々五々起き上がり、熟成の深みあるテノールに三半規管を揺さぶられ、今いる場所の見当がつかずアルコールに濁った寝ぼけまなこをしばたたく。
 最前まで滝のように涎を垂れ流し眠りこけていた酔漢たちを見回し、ディアボロは皮肉げに口角を吊り上げる。
 「ずっと寝てたほうが幸せかもな」
 『永遠の眠りは死と同義だ』
 「子守唄にしちゃ辛気くさいがレクイエムにはうってつけだ」
 夢見るようにスロウでメロウなテンポの音楽に雑音が紛れ込む。
 表通りが騒がしい。
 ジュークボックスから離れドアを開ければ、表通りから漣立てるように好奇心に彩られたざわめきが伝わってくる。
 「なにかあったのか?」
 「事件みてえだな」
 起き抜けの労働者が互いに顔を見合わせ、興奮を孕んだざわめきに引き寄せられるように千鳥足で店を出てゆく。
 気忙しく椅子を蹴立て競って通りに転がり出た酔漢たちと立ち代わりフライパンを持った店主が厨房から姿を現す。
 「お客さん、できましたよー」
 「やる」
 「へ?」
 ファウストをひったくる。
 フライパンを持ったまま立ち尽くす店主の頭上に手掴みで紙幣をばら撒く。
 大統領の顔を刷った紙幣が盛大に乱れ舞う中、既にドアに手をかけたディアボロが断固として命じる。
 「釣りはいらねえ。そのステーキはおまえが食え」
 「はあ!?ちょ、まっ、」
 あまった手でがめつく紙幣を握り締めた店主が当惑するが、ディアボロはとりあわない。
 ドアを蹴り開けマフラーをはためかせ、一陣の疾風の如く路地へと駆け出す。
 嵐が去った。
 「朝からステーキなんて……」
 客が出払い閑散とした店内に唯一人、カウンターの内側で呆然と立ち尽くした店主は、答えを求めるように手元の皿を見下ろす。
 皿に乗っているのは先刻自分が唾を吐きかけた、生焼けの分厚いステーキ。
 無意識に胃を押さえ、哀れっぽく嘆く。
 「高血圧なんだよ、俺は……」
 スイングドアが切なく軋む店内で、胃酸過多の店主は途方に暮れた。

                           +


 通りは騒然としていた。
 営業終了したホテルや酒場がネオンの化粧を落とし、奇妙にのっぺりとした素顔を白日の下にさらけ出す時刻。
 昼夜逆転の生活を送る娼婦やハスラーが着の身着のままねぐらから這い出し二重三重に現場に押し寄せる。
 野次馬の波を縫い東に進むと、目抜き通りに面した一等地にオイスターホワイトを基調にした壮麗な建造物が見えてくる。
 白亜の壁が洗練された雰囲気を醸す外観は、貝殻を伏せたような天蓋つきポーチや螺旋階段にロココ調の曲線に豊む優美かつ繊細な装飾を取り入れてるせいで地中海の避暑ホテルのように瀟洒で高級な趣が引き立つも、実体は歓楽街でも一流どころの娼館である。
 パステルカラーのタイルが貼られた広壮な玄関が開け放たれ、店の内外をひっきりなしに人が出入りする。
 店の外周には関係者以外立ち入り禁止のテープが張られているが、玄関が開放されているため受付のホールが丸見えだ。
 白タイルの床には無数の靴跡が交差し、大量の泥がこびりついている。
 簡素な部屋着を羽織った娼婦や上半身裸にシャツをひっかけた客が、興奮と不安、そして保身とが複雑にせめぎあう顔を玄関から覗かせ通りの様子をうかがう。
 テープの外には旋回灯を設置したパトカーが三台停車し、殺気立った私服刑事が入れ替わり立ち替わり往復する。
 店の前に停車したパトカーの運転席に上半身を突っ込み、無線機に唾飛ばしがなりたてているのは、冴えない中年男。
 裾の緩んだ背広と皺の寄ったシャツから事件に忙殺されて帰宅する暇もない近況がありありと窺い知れる。
 短く刈った金髪の下、眉根に傷のある精悍な顔には色濃く疲労が滲んでいる。
 「どうなってんだよ、今回の事件は!刑事歴十五年になるがこんなの前代未聞だぜ。今回もおんなじなんだよ、おんなじ。仏の首はへし折られてた。死因は窒息らしい。全身を太いロープか何かでぐるぐる巻きにされて、悲鳴をあげる間もなく殺されたんだ。俺だって信じらんねーよ、昨日と今日と連続して管轄内で猟奇事件が起きるなんて……挙句殺人鬼がまだこのへん徘徊してるんだぜ」
 無線機越しに愚痴をこぼす刑事のもとへ長身痩躯の影が息せき切って駆けてくる。
 コードの撓んだ無線機を小脇にぶらさげ振り向いた刑事のもとへ、腕を振り振り駆けてきたのは若い黒人刑事……チャーリー・ブルックリン・ジュニアという無駄に立派な名前の後輩。
 先輩の前で急制動をかけたチャーリーは、息を整えるのもそこそこに重大報告を上げる。
 「スヴェン先輩、犯人の目撃証言が出ましたYO!」
 「!本当か」
 緑の目が追及の鋭さを帯びる。
 チャーリーはすかさず手帳を開く。
 「ガイシャはリザ・スコテッシ34歳、娼館『コットン・ガーデン』のベテラン娼婦。犯人はリズと愛人関係にあった男で、昨晩店に宿泊してマス。情事を終えた男が単身店を出る所を受付嬢が目撃してますガ、別段奇妙に思わなかったそうデ………彼女はその時違う客の延長手続きをしていテ、リザが見送りに出なかったのモ部屋に引っ込む前にオーナーと揉めて顔を見せるのが気まずいカラと解釈したそうでス。料金は前払いで貰ってたカラ引き止める理由もないデスしネ。ところが一時間後、いつまでたっても出てこないリザを不審に思イ、部屋に呼びに行って死体を発見。慌てて警察に通報した次第デス。付け加えるナラ、被害者はたびたび恋人に暴行を受けていたそうでス」
 「痴情のもつれか」
 スヴェンが腕を組むのを合図にチャーリーは手帳を畳む。
 「ストップ、最後まで聞いてくださイ!リザと生前親しかった同僚の証言を総合シ、現場の指紋を採取・照合した結果、彼女の愛人はロベルト・フォルト……なんト!暗黒街の帝王ジズ・フィロソフィア、直属の部下だったんですYO!」
 「……厄介だな」
 苦々しく吐き捨て、がりがりと頭を掻く。
 苛立ち激しく爪を立てれば何日も洗ってない頭皮から粉っぽいフケが大量に舞い散る。
 顔前で腕を交差させちゃっかり安全圏に退避したチャーリーは既に眼中になく、スヴェンは眉間に皺を寄せて考えこむ。
 背広の胸ポケットから折れた煙草を取り出し、指で扱き、銜える。
 ライターで点火し、苦い紫煙を胸に吸いこむ。
 ジズ・フィロソフィアは裏社会の大物だ。
 フィロソフィアが束ねる組織もまた巨大である。
 ロベルト・フォルトがフィロソフィアカンパニーの構成員ならしっぽを掴むのはたやすいことではない。
 フィロソフィアカンパニーもまた他の多くの犯罪組織と同じく警察の介入を嫌い、徹底した秘密主義を保持している。
 組織の一員が罪を犯したとしてもおいそれと情報を提供してくれはしないだろう。
 現場の状況から見てロベルトは一昨日の事件にも関与してる疑いが濃厚。
 昨日と今日と連続して事件が発生しあらたな犠牲者がでたのだ。
 凶行はまだ続くとスヴェンは確信する。
 叩き上げの刑事の勘が膨大な資料より何より雄弁にそう告げている。
 スヴェンは不吉な胸騒ぎを紛らわせようと煙草のフィルターを強く噛み締める。
 「!」
 死角から出現した手があっというまに煙草を掠め取る。
 弧を描いてひっこんだ手をつられて追う。
 悠揚とたなびく紫煙を辿って右を向けば、神出鬼没のマフィアのドラ孫息子ことディアボロがパトカーの側面に凭れていた。
 生意気に顎を傾げ煙草を吸い、吐息に乗せて紫煙を吐く。
 指の狭間に預け俗っぽく煙草をすっぱ抜き、わざとらしく顔を顰める。
 「まっじー煙草。安物だな」
 「余計なお世話だ」
 未成年の手から問答無用で煙草を没収、口に咥えるか否か一瞬かなり真剣に迷い、葛藤に顔を歪め、意志の力を総動員し貧乏臭い未練を断ち切り、断腸の思いで足元に叩き付ける。
 立腹しきりのスヴェンに向かい、ディアボロは紫煙の帳越しに微笑んでみせる。
 「ガキに煙草の味がわかってたまるか」
 腹立たしげに二本目に点火し、紫煙を深く吸い込む。
 「ロベルト・フォルト」
 ライターを持った手が虚空で静止。
 忌々しげにディアボロを睨む。ディアボロは会心の笑みを浮かべる。
 「お前ら無能な警察が必死こいて追ってる連続殺人事件の犯人の名前……だよな?」
 「無能は取り消せ、クソガキ」
 「写真はあんのか?」
 スヴェンの要求を無視し、チャーリーに向き直る。
 従順に手帳を開き、一葉の写真をディアボロの御手に献上する。
 手中の写真を仔細に検分。
 剣呑な目をした中年男が、没個性な黒いスーツに身を包み高圧的にこちらを見返している。

 忘れもしない、この顔だ。

 紙幣と写真を同時に弾く。
 鼻先に舞い落ちた紙幣を右手ではっし、写真を左手ではっしと掴み取り、満足げに微笑したチャーリーの脳天に拳骨が落ちる。
 「買収されてんじゃねえ!!刑事のプライドはどうした!?」
 「そんなもの質に入れちゃいましたYO!」
 「で、質に流れたプライドを巡り巡って買い取ったのがリッチな俺様ってわけ」
 チャーリーの胸ぐら掴むスヴェンに殺気だって凄まれても動じず、しなやかに身を翻し、立ち入り禁止のテープへと歩み寄る。
 「おいこら、いい加減に……!」
 チャーリーの襟首を引きずったままディアボロの背へと手を伸ばしたスヴェンだが、その目的が達成されることは遂になかった。
 捕らえようとした矢先にディアボロの後ろ姿が消失し、脱力誘う泣き声があたり一面に響き渡ったからだ。

 「ひきゃあああああああああぁあああああぁあああん!!」

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Devilish | コメント(-) | 19951216215612 | 編集

 耳を串刺しにする殺人音波にスヴェンが卒倒、間一髪気道を開放されたチャーリーが激しく咳き込む。
 テープの外側に詰め掛けた野次馬が耳を庇い超音波の音源を注視する。
 野次馬の注目を一身に集め、玄関口で泣きじゃくっているのはせいぜい十代も半ばほどにしか見えない少女。
 ツインテールに結ったローズピンクの髪は地を刷くほどに長く、踝のあたりでゆるやかにウェーブしている。
 透け透けのキャミソールを身につけているが、肌を覆う布地の面積が極端に少ないためほとんど下着同然である。
 観衆に羞恥心の抵抗なく素肌を晒し、頬を滂沱の涙で濡らして嗚咽をもらすさまは、外見年齢より遥かに幼い精神年齢を反映している。
 「うわああああん、デミちゃん、どうしようデミちゃああん!!」
 少女が飛ぶ。
 ポーチを飛び込み台に見立て跳躍、長いツインテールが猫の髭のようにそよぐ。
 涙と鼻水とを一緒くたに垂れ流し可愛い顔を悲痛に崩し、激しくしゃくりあげながら宙に跳んだ少女の落下地点が自分の立ち位置と重なる事に気付いてもディアボロがあえて避けなかったのは、彼女の身を気遣ってでは断じてない。
 ツインテールを柔軟に振り回し、放物線を描いて宙に舞った少女が身につけているのはニンフェットの魅力に取り憑かれただれかさんの劣情を刺激する透け透けのキャミソールで、布地の面積が極端に少ない為に殆ど下着同然のけしからん代物だが、その透け透けのキャミソールが風圧で胸まで捲れ、ブラも何も付けてない小ぶりの乳房が露出し、不本意にも動きが止まってしまったのだ。
 ノーブラに興奮したわけでも生乳に欲情したわけでもない。女の乳なんざ見飽きてる。
 ただただその貞淑というにはおこがましい未熟なだけの小ささに衝撃を受け、仮にも娼婦として働いてる癖に揉む程ボリュームがないってのはどうなんだええロリータ気取るにしたって十四はギリギリアウトだぞと一時間罵倒したくなり、揉み甲斐もなければ伸びしろもない同情すべき乳を見上げ辛辣な判定を下す。
 「貧乳」
 鳩尾に衝撃。
 腹に頭突きを食らうかたちで押し倒されたディアボロは、体を二つに折って瀕死の芋虫よろしく悶絶する。
 地面に押し倒された弾みに後頭部をしこたま痛打した。
 前後不覚に陥ったディアボロの両肘を掴み、力任せに揺さぶりながら地面に座り込んだ少女は訴える。
 「ね、ね、デミちゃん聞いて!スイートが今日おきたら警察の人がたくさんきてて、ママや女の子たちがお話聞かれてて……リザちゃんの姿がどこにもないから、どうしたんだろうって、風邪でもひいたのかなって心配になってお部屋に行ってみたの。リザちゃん昨日ママと喧嘩してね、おっきい声で叫んでおてて振り回して何だかおっかなくって、だからスイートね、びくびくしながらお部屋に行ってみたの。そしたらね、おっかない顔のおじさんたちが沢山いてね、子供の遊び場じゃないから入っちゃだめだよしっしっしーって意地悪するの!スイートここで働いてるんだよって言ったのに信じてくれないの、ぷんすかぷんだよほんとにもう。でもねでもね、リザちゃんのことやっぱ気になるし、ほっとけないし、おじさんたちがそっぽ向いたすきによーいドーンでお部屋に入ってみたら……ひゃんっ!?」
 「『し』と『ね』が多すぎだボキャブラ貧困白痴娘そりゃ俺に死ねってゆー遠まわしな暗号か、重複して部屋に行ってんじゃねえッ、タッチ&ゴーならキンダーガーデンのガキどもとやりやがれ!」
 スイートの顔に情け容赦なく唾がかかる。
 ディアボロがむんずとスイートの髪を掴み、頭皮から毟り取る勢いで引っぱったのだ。
 胴からスイートを振り落としたディアボロは、彼女の髪を掴んだまま、自分のされたことを倍返しに仕返す。
 すなわちスイートの鷲掴み、片腕一本で自分の目の前に吊り上げる実力行使の暴挙に出たのだ。
 「いひゃいっ、いひゃいよう、やめてようデミちゃん!」
 「男の下で股開くしか芸のねえクソ売女の分際でなに言いやがる!たった今泥だらけになったこのスーツはな、お前のしょんべんくさいまんこの値段の二十倍はするんだよ!わかってんのか、あ!?」
 「いじわるしないでデミちゃん~!」
 首をふりふり金切り声で泣き叫ぶ少女の狂態を正視に耐えかね、スヴェンが溜め息まじりに仲裁に入る。
 激怒したディアボロの肩をぽんと叩き、煙草を口から放す。
 「女の子を泣かすなよ」
 「けっ。女の子ってな十歳未満のメスの呼び名だぜ。クソ売女にゃあてはまらないな」
 「ひどいよう……」
 手の甲で上気した頬を擦り、しょんぼりするスイートにもディアボロは同情しない。
 はなから痛むような良心など持ち合わせていないのだ。
 ローズピンクの髪を突っ返し、牛乳を拭いた後の雑巾のような顔を覗き込む。
 長時間休みなく泣き続けていたのだろう目は赤く腫れ、メイクの溶けた顔には涙の跡がくっきり残り痛々しいほど幼さが際立つ。
 激しく泣きじゃくるせいでキャミソールの肩紐がずれ、子猫がじゃれた毛糸玉のように縺れたツインテールを地に刷き、華奢な鎖骨から乳房と言えるほどボリュームのない薄い胸までも無防備に晒すしどけない格好は、最低限の良識ある人間なら目を背けること請け合いの猥褻さだが、ディアボロは不躾に眺めやり結論づける。
 うん、勃たねーな。
 人間としても男としても、どこまでも最低だ。
 剥き出しの膝を抱えこみ鬱々とふさぎこんだスイートの傍らを無関心に素通りし、テープの際に立つ。
 いた。
 玄関口で事情聴取を受けているらしい女性に注目する。
 なめらかなチョコレート色の肌をした黒人女性が手帳を広げた刑事と向かい合い、はきはきと質問に応じている。
 眼鏡越しの目を凝らして仔細に観察すれば、切れ長のまなじりがタバスコを一・二滴落としたように充血しているのが見てとれる。
 輪を成して不安げにやりとりを見守っている娼婦達の手前、動揺が伝染しないよう気丈な態度を装っていたが、ため息のたびによわよわしく震える睫毛と下腹部で力なく組んだ指から二本の足で立っているのも辛いほど精神力を消耗しているのがわかる。
 事情聴取が終わったようだ。
 刑事が手帳を閉じて店内に戻り、女は玄関口に取り残される。
 店内へと戻ってゆく刑事の背を見送り、魂が抜けたようにその場に佇む女の傍らで娼婦が泣き崩れる。
 「ひどい、こんなのってあんまりよ!」
 ヒステリックな号泣。
 その場に膝を折ってくずおれた娼婦が、化粧の剥げ落ちた顔に憤怒と哀惜とが入り混じった悲痛な表情を湛え、腫れぼったい目から涙を振り絞る。
 「リザは馬鹿な子だったけど、こんな死に方するほど悪いことなんてしてない。リザがなにをしたっての?ただ男を愛しただけじゃない。幸せになりたいと思っただけじゃない!」
 「サマンサ……」
 肩にかけたストールがずり落ちたのも構わず顔を覆って号泣する娼婦へと女が歩み寄る。
 嫌々するように首を振りながら、サマンサと呼ばれた娼婦が絶叫する。
 「あの子、部屋に入る前に私に言ったわ。自分はこの人と幸せになるって。でも、現実はリザはあの男の腕の中で地獄を見たじゃないの……こんな事ならへるもんじゃなしもっと優しくしてあげればよかった、意地悪なんか言うんじゃなかった。あの子をやっかんでたのも本当。だってあの子、幸せそうで……いい人見付けて今とっても幸せだって、控え室でのろけまくって……顔とか、体とか、青あざ作りながら笑ってて。虚勢に見えなかったんだもの。だから私、私……」
 人目も憚らずしゃくりあげる娼婦の肩へと手をおくと、女は今の自分にできる精一杯の慰めの言葉をかける。
 「あなたのせいじゃないわ、サマンサ……自分を責めないで」
 安っぽい愁嘆場。
 友人の死を悼むふりして注目を集め自尊心を満たす、自己憐憫と自己陶酔の芝居。
 玄関に膝を崩して座り込んだサマンサに同情の視線が集まる中、テープに手をかけたディアボロは茶化した調子で口笛を吹く。
 最高に場違いな選曲。不謹慎なBGМ。
 泣き崩れた娼婦を支える階上の女と目が合う。
 口笛を引っ込め、片頬笑む。
 群集の中から降って湧いた口笛で初めてこちらを認めた女の顔が強張り、きりっと厳格な黒曜石の目に先鋭な非難が浮かぶ。
 歯痒げに下唇を噛む激情は激しく貫かれ快感を堪えているようにも見え、渇きにも似た興奮を覚える。
 豹じみた身ごなしで身を翻し、階段を下りる。 
 褪せたジーパンに包まれた足はきびきび動き、抑制された身ごなしから高潔な怒りが漂い、折れない矜持を誇示するように正面を向いた顔に静かな気迫がこもる。
 スイートの肩に手を置いたスヴェンが律動的な靴音に反応、颯爽と歩く女を目で追う。
 目を奪われたという表現が正しい自然な仕草で、口半開きの呆け顔で、鮮烈過ぎる後ろ姿を網膜と心に焼き付ける。
 群集が固唾を呑み見守る中、タイルを敷いた階段を下りてディアボロの前に立ち片手を振り上げる。
 気負いはない。
 気後れもない。
 自分が正しいと信じた事を実践するのに一抹の躊躇もない後ろ姿に見とれる。
 魅了される。
 綺麗だなと単純に思う。
 いい女だなというその感慨が、ニコチンよりタールよりもっと強烈に腹の底を熱くし頭の芯から彼を酔っ払わせる。
 呆けて弛んだスヴェンの口から煙草が落ちると同時に空高く乾いた音が炸裂。
 「ひどい子」
 泥まみれの靴跡が重複するタイルに煙草の灰が散り零れ、蒼ざめた唇がか細い声を紡ぐ。
 「この場でレクイエムを奏でる神経が信じられないわ」
 したたか殴られたばかりの頬をさすりながら、ディアボロはスヴェンの女神に向かいなれなれしく口を利いた。
 「おかげさまで目が覚めたぜ、クイーン・ビー」

                            +



 娼館コットン・ガーデンは物々しい警備に包囲されていた。
 立ち入り禁止のテープを張った外周にたかる野次馬から距離をとり、植え込み脇の長椅子に腰掛ける影がある。
 一人は黒い肌の女性だ。
 耳朶で切り揃えた髪がボーイッシュな印象を与えるが長い睫毛に縁取られた目はしっとりした色香を含み、端正な鼻梁が華奢な顎とあいまって甘えのない美貌を引き締める。
 揃えた膝の上で手を組み、ため息に暮れる。
 肩を落とした女の隣に十代半ばの少年が座る。
 高級ブランドに特注したスーツを着こなし、地面に足を投げ出した姿は年不相応に落ち着き払っていた。
 黒縁眼鏡の似合う怜悧な面立ちはすこぶる整っているが、レンズの奥の目を掠める光は剃刀めいて物騒だ。
 二人を取り囲むのは外見上なんの接点もない三人。
 目にあざやかなローズピンクの髪を頭の横で縛ったツインテールの少女が、女性の足元でちょこんと膝を抱えている。
 華奢な膝頭に顔を埋め、ぐすぐすと鼻水を啜り上げる少女の背中を甲斐甲斐しくさすり宥めているのは面長の黒人青年で、悲嘆にくれる女性と少女を見比べ困りきっている。
 残る一人は黒人青年の背後に腕を組んで突っ立っていた。
 どことなく居心地悪そうに身動ぎしつつ、ハイペースで煙草を灰にしている。足元には吸殻の山ができていた。
 明るい金髪をこざっぱり刈った髪型が頬骨の高い精悍な顔だちによく似合う。
 よれよれのネクタイを首にひっかけシャツをだらしなく着崩したずぼらな風体は、職場で昼行灯のレッテルを貼られるのもなるほど納得と頷けるものだ。

 「……怒ってんのか」
 無益な耐久戦に先にしびれを切らしたのはディアボロ。
 彼にしては珍しく殊勝な様子でクイーン・ビーの横顔を窺う。
 クイーン・ビーはため息をつく。
 「怒ってないわよ、もう」
 クイーン・ビーは言う。
 彼女が口を開いたことで張り詰めた糸がゆるみ、何となく場が和む。
 それまで五人の間にあったよそよそしい空気が消え、なまぬるい連帯感が芽生える。
 スイートが顔を上げる。
 縺れたツインテールを子供が悪戯した包装紙のリボンのように手首と膝に絡め、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした様は想像以上に幼い。
 すがるように自分を見上げてくる一途なまなざしにクイーン・ビーは笑みを返す。
 ふたりとも気力を回復したらしいと胸をなでおろしたチャーリーだが、次の瞬間血相を変える。
 「なんだ。生理になったのかと思ったぜ」
 ディアボロが悪びれたふうもなくけらけら笑い、雰囲気をぶち壊す。
 「ディアボロくん、女性にむかって失礼ですYO!」
 チャーリーがディアボロの口を塞いだ隙に背後に立っていたスヴェンが介入する。
 「殺された女とは長い付き合いだったのか」
 煙草を咥えたままクイーン・ビーの方は見ずに問う。
 クイーン・ビーは目を伏せる。
 ジーパンに包まれた膝の上、交互に絡めた五指が巣を編む蜘蛛のように複雑な動きを演じる。
 「……ええ。彼女は……リザとはもう四年になるかしら。お店でも古株に入るわ。年も近かったから、リザとはよく話をした。仕事でも、プライベートでも。リザはわたしのことをよく慕ってくれたわ。ママ、ママって……」
 「…………」
 クイーン・ビーの服の裾が下方に引っ張られる。
 そちらに目をやれば、地べたにしゃがみこんだスイートがオリーブ色のセーターの裾を縋るように握り締めていた。
 今にも泣き崩れそうに心許ない顔のスイートに気丈な笑みを返し、優しく頭をなでる。
 「男のことでも相談に乗ったわ。この頃は毎日よ。リザは寂しがり屋だった。リザの恋人は暴力的な男で、ここ一年リザの体から痣が消えたことがなかった。わたし、そんな男とは別れなさいって何度も言ったわ。でも……」
 クイーン・ビーが俯く。
 スイートが心配そうに顔を覗きこむ。
 スイートの頭に手をおいたまま、クイーン・ビーは唇を噛み締める。
 「こんなことになるなら、むりやりにでも……」
 自責の念に苛まれ、激情にかすれた声で吐き捨てる。
 チャーリーはかける言葉を失う。
 スヴェンは煙草を噛んだままあさっての方角に視線をとばす。
 ただ一人ディアボロだけが、おもいやりとはかけ離れた無神経な言葉を投げ付ける。
 「むりやりにでもレズの道にひきずりこむんだった?」
 「…………」
 「冗談だよ」
 非難の集中砲火にディアボロは首をひっこめる。
 ふたたびの沈黙。
 しんきくさい雰囲気に嫌気がさしたか、ディアボロがため息をつく。
 スイートの嗚咽が低く低く流れ、チャーリーが不器用な手つきで背をさする。
 スヴェンは一抹の後ろめたさをやどし長椅子に腰掛けるクイーンを盗み見る。
 膝の上で握り締めた手が強張る。
 柔らかな掌を傷付けるほどに固く握り込まれた拳を見た瞬間、スヴェンの中で何かが爆ぜ、名ふしがたい衝動が湧き上がる。
 ここで決めなきゃ男じゃねえ。
 咳払いし、うなだれた背中に歩み寄る。
 クイーン・ビーの後頭部が視界に迫り、年甲斐もなく胸が高まる。
 柑橘系の香水の匂いが鼻腔にもぐりこむ。
 きめこまかい肌から立ちのぼる香水の匂いが土壇場で決心を鈍らせる。
 どうした、いけ、スヴェン、いっちまえ。
 男だろ?刑事だろ?三十四だろ?三拍子そろって怖えもんはねえ。
 馬上の騎手になったつもりで鞭ふり自分をけしかけるも、両足は根付いたように動かない。
 生唾を飲み込む。
 勇を鼓して歩き出す。
 一歩、また一歩。距離が縮まり背中が迫る。
 口に咥えた煙草の先端から灰がぱらつき零れ、まかり間違ってクイーンの綺麗なうなじを焦がしたら一大事と慌てて引っこ抜こうとして、気が急くあまりに芯を掴んでやけどする。
 「!あっち、」 
 一同振り返る。
 心臓が止まる。
 「……いや、煙草の灰がな。指にかかっちまったんだ。ドジっちまった、はは」
 乾いた笑いでごまかす。
 足元に散った灰を蹴散らし、真ん中からへし折った煙草を勢い手首を捻りかねない剛速球のフォームでぶん投げる。
 「………煙草」
 「うん?」
 火傷した手を激しく振り乱し、風に当てて冷やすスヴェンを眺めやり、クイーンが儚く微笑む。
 「リザね、煙草のこげあとがついたソファーを欲しがってたの。変わってるでしょ」
 困惑顔で先を促すスヴェンから目を伏せ、片手をスイートの頭におき、もう片方の手でジーパンの膝を力なくさする。 
 睫毛の先がしっとり湿っているのに気付く。
 一体いつ泣いたんだろう。
 店の娼婦に心配かけまいと気丈に振る舞い、刑事の聞き込みに毅然と受け答えし、死んだ仲間を侮辱したディアボロにきっちりツケを払わせ、こうして今は聖母の優しさでスイートの頭をなで。
 スヴェンが見ているところでは涙一滴零さず、傷心をプライドで鎧い、泣き顔を曝け出す代わりに疲れきった笑みを浮かべ。
 強い女だ。
 強くて、痛い。
 奇妙に抑揚を欠いた声で、淡々としてるといってもいい口調でクイーンは続ける。
 そうして噴き上げる何かを押さえ込むように、傷など最初から存在しないように振る舞い、胸を引き裂く痛みさえ忘れようとしている。
 「前に聞かせてもらったの、あの子の夢。結婚したらソファーを買うんだって。どこの家庭にもおいてあるような普通のソファーで、お菓子のくずとか猫の毛玉とか煙草のこげあととか、そういうゴミや汚れが沢山付いてるソファーに家族で腰掛けて、コメディを見るんだって。主婦がフライパン持って浮気性の夫を追っかけまわすようなベタなホームコメディを見て、スナック菓子を摘みながらげらげら笑い転げる。あの女優太ったねとか、夫役の俳優はひげを剃った方が素敵だとか、憎まれ口を叩く子役の頬をつねりたいとか。どうでもいいおしゃべりをしながらテレビを見るのにずっと憧れてたって」
 声が湿る。
 クイーンが俯く。
 スイートの頭から手が滑り落ち、しなだれ、膝の上に帰る。
 「素敵な夢だった。彼女の夢が好きだから、応援してた。力になりたかった」
 ジーパンに乗せた手に力がこもる。
 クイーンは泣かない。
 背を丸め肩を落とし悄然と俯き、けれども泣きはしない。
 長い睫毛に縁取られた双眸に救いがたい悲哀をやどし、唇に吹けば消えそうな笑みを点し、自制心を総動員し掠れた言葉を搾り出す。
 喉につかえる塊を押し戻すように深々息を吸う。
 見てるこちらが息苦しくなるほど思い詰めた顔と鬱屈した眼差しを伏せ、喉から胸へと窒息の苦痛を伴い辛うじて飲み下した塊を、もう一呼吸して更に胃に押し戻そうとする。
 「変わってるけど、全然変だと思わなかった。だからそう言ったの。ちっともおかしくないって。とっても素敵な夢だって。リザ、嬉しそうだった。はにかむように笑ってた。私も嬉しかった。彼女の笑う顔がとっても好きだった。だから……応援したかったの。させてほしかったの。図々しいかもと思ったけど、やめるわけにいかなかった」
 憔悴の色濃い横顔に虚勢の笑みを過ぎらせ独りごつ。
 「私もきっと、心のどこかで煙草のこげあとのついたソファーに憧れてたんでしょうね。とっくに諦めたつもりでいたくせに本音じゃ諦めきれなかったから、だからあんなにリザの夢に固執したんだわ。代わりに夢を叶えてもらおうとしたのよ」
 クイーンが卑屈に笑う。
 自嘲と自虐でとことんまで良心を削り落とす笑み。
 「………勝手ね」 
 本来負うべきでない責までも抱え込み、代わりに夢を託した行為を身勝手と呪うその笑みが、スヴェンの胸に突き刺さる。
 「……叶えて欲しかった。幸せになってほしかった。これは本当。私の分までとは言わない。リザはリザの分だけ、いえ、リザの好きな人と二人分だけ幸せになればよかったの。それで十分。リザには煙草のこげあとのついたソファーで笑っていてほしかった。夫婦喧嘩を茶化したコメディを見て、好きな人と一緒におもいっきり笑っててほしかった。将来夫になる人と二人で。子供ができたら三人で。ずっと」
 「ママぁ………」
 語尾が消え入るクイーンに貰い泣き、地べたに尻を付けたスイートが一人じゃないと安心させるように懸命にセーターの裾を引っ張る。
 「やだよう泣かないで。スイートも哀しくなっちゃう。目がとけちゃう。あんまりべそかくと目玉がとけちゃうってリザちゃんが言って……ふぇ……」 
 故人にかけられた優しい言葉を反芻し、チェリーレッドの目に大粒の涙が浮かぶ。
 一回干して乾かしてから揉みくちゃにした紙のように顔を崩したスイートは限界まで引っ張ったセーターの裾に顔を埋め、くぐもりがちな嗚咽を漏らし始め、泣き顔を見られる恥ずかしさからとうとうセーターの内側にすっぽり潜り込み、カンガルーの子供よろしく完全に頭を覆ってしまう。
 「ふびぇーーーーーーーリザちゃんなんでーーーーーー?一緒にサシミ・ストリート見るって約束したのにーーーーーーーーーッ」
 鼻炎の気を疑うぐずつく泣き声を発し、首の所まで裾をずり下ろし引きこもるスイートとクイーンを見比べ、独白の間中背後に立ち尽くし欲望と理性の葛藤に悶々と苛まれていたスヴェン・ミドルネーム腰抜けマーヴェリックはついに決断を下す。
 ひとり哀しみに耐える後ろ姿に切々と愛情が込み上げ、今なら勢い抱擁も不可能じゃないと己を叱咤し気分を盛り立てる。
 無防備にうなだれた肩に激励の手を置こうとし、またしても寸前で思いとどまる。
 クイーン・ビーは気付いていない。
 この手をしまうなら今だ。
 何事もなかったふりをしてそっぽを向いて煙草をふかしてりゃ万事丸く収まる。
 三十路すぎの男の意地だか見栄だかわからんもんが究極の選択によろめく理性の手綱をぎりぎり引っ張り、極限の葛藤に歪む形相を脂汗の濁流がぬらす。
 肩すれすれに手をさしのべた不自然な体勢で硬直、進退窮まったスヴェンはぎくしゃくと首を巡らしひとまわり下の後輩に助けを乞う。
 泣きすぎてしゃっくりが止まらなくなったスイートの背をなでつつチャーリーが力強く頷く。
 『ここでキメなきゃ男じゃないですYO、先輩!』
 白い歯を軽薄に光らせ親指を立てる。
 よし。
 スヴェンは心を決めた。
 胸を上下させ大きく二度深呼吸、玉砕覚悟でクイーン・ビーの肩に手をおこうとした……
 その時。
 「「!」」

 一瞬だった。
 止めに入る暇もない早業だった。 

 横合いから伸びた手がクイーン・ビーの顎に添えられるや否や、首を傾げたディアボロが彼女の唇を奪う。
 一瞬だけ触れ合った唇が離れ、クイーン・ビーが目を見開く。
 ディアボロは笑う。
 まだ少年の域を脱してない笑顔。
 「こうされると悦ぶんだろ、女って」
 「下手なキス」
 クイーン・ビーが苦笑し、ディアボロは憮然とする。
 スヴェンは歯噛みする。
 あのシルクの襟巻でいっそひとおもいに絞め殺し職権乱用で事故処理したい衝動に駆られたが、チャーリーの羽交い絞めにより寸手で阻止される。
 長椅子の背凭れに手をかけ、大きく仰け反ったディアボロが挑発する。
 「おまえにもキスしてやろうか、右手が恋人の刑事さん?」
 「おれは左利きだ!」
 「先輩、ドウドウ!」
 怒り狂うスヴェンの足にしがみつきチャーリーが叫ぶ。
 凹凸コンビの寸劇を見て、クイーン・ビーはこの日初めて声をあげて笑った。 
 瞬間、スヴェンは救われた思いがした。

 「死体がでてきたぞ!」
 「リッツ警部もだ!」

 にわかに店の方角が騒がしくなる。
 顔を見合わせた五人ははじかれたように走り出す。
 先頭に立ったのは駿足のスヴェン、次点がジーパンを穿いたクイーン・ビー。三番目はディアボロ、四番目はチャーリー、最後尾はスイート。
 ツインテールを振り乱し一生懸命駆けていたスイートだが、いかに情熱があろうとも天性の運動音痴は克服できないようだ。
 「きゃひん!」
 「大丈夫ですカ!?」
 なにもないところで転ぶという器用な芸当を披露し、マスコミが夕刊の一面にとフラッシュを焚く中でパンツを公開したスイートを回れ右したチャーリーが肘を掴んで助け起こす。
 額を擦りむいたスイートが超音波で泣き叫ぶのをよそに、一足先に現場に急行したスヴェンたちは人ごみをかきわけてテープ際へと歩み寄る。
 「どいてどいて!」
 「そこにいたんじゃ見えないよ!」
 「ええいくそ、めんどうくさい!」
 業を煮やした記者の一人が警官のまたぐらをくぐり、捨て身の突入を試みる。
 「こらっ、勝手な真似するな!」
 この暴挙に泡を噴いた警官たちが一斉に記者を押し倒す。
 地に組み伏せられた記者を眺め、腹をせりだし威風堂々歩み来たリッツ警部が尊大に咳払いする。
 四囲から浴びせられるフラッシュに頬が緩みそうになるのを必死に自制し、背広の胸を張って演説を始める。
 「えー、会見は署で行う。賢明なるマスコミ諸君はすみやかにこの場を移動し……」
 「被害者の乗った担架だ!」
 リッツ警部を突き飛ばし、カメラとマイクと万年筆を手に手に血走ったマスコミ陣がテープ際へ殺到する。
 一目死体をカメラに収めようと境界をこえ侵入を試みた記者が、屈強な警官に捕まり放り出される間際、どうしても一枚だけはと執念を燃やし未練がましく手足を振り回す。
 その努力は報われた。
 悪あがきで蹴り上げた足が担架の覆いを吹っ飛ばし、被害者の死顔が観衆の面前に晒される。
 他紙を追い落とし特ダネを勝ち取らんと競うように身を乗り出したマスコミ陣だが、被害者の死顔を目撃した刹那その顔が凍て付き、歪む。

 「ぎゃああっ!」

 ジャーナリストの命ともいえる万年筆を投げ捨て、記者が腰を抜かしたのも無理はない。
 それだけ死体の形相は凄まじかったのだ。
 殺人現場を見慣れた刑事でさえ顔面蒼白になるほどに。
 風に捲れた布の下から露出したのは、無残な死顔。  
 極限までせり出した眼球は毛細血管が破裂し真っ赤に染まり、青ざめた唇は声なき断末魔を放つかのように顎の間接が許す限界まで開かれ、大きく傾いだ担架の端からだらりと四肢が垂れ、手の甲が地を擦っている。
 絶句は一瞬。
 次に始まったのは、死者の人権を踏み躙る怒涛のフラッシュ攻勢。
 飢えたハイエナと化した記者団が手に手に構えたカメラのシャッターを押す。
 ある者は爪先立ち、ある者は同業者を押しのけ蹴散らし、我先にとテープを割って押しかける。
 警官たちの制止もむなしく堰を切ったようになだれかかるマスコミ陣の勢いは止まらない。
 先を争いテープを跨ぎ越し、飛び越え、くぐり、死体の顔を照準してシャッターを押す。
 頚骨を断たれた死体の直上でフラッシュが焚かれ止めに入った警官と記者が乱闘になる。
 喧嘩好きな野次馬がそれに加わり、現場はパニックに陥る。
 「やれやれ、殺っちまえ!」
 ディアボロが拳を突き上げ無責任にけしかける。スヴェンは額を覆う。オーマイゴッドとチャーリーが十字を切る。
 クイーン・ビーは呆然とする。
 彼女の目に映るのは、地面すれすれに傾いだ担架に仰臥する友人の死体だけ。
 覆いを外された死体は一糸纏わぬ全裸で群集の晒し者にされ、生前のリザの面影など微塵もなく極限の恐怖と苦痛に歪んだ死顔はカメラのネガに焼き付けられ数時間後にはもう夕刊の紙面を飾る。人の不幸にたかる恥知らずの記者どもは殺気だってフラッシュバルブを焚き、「右に回れ!」「他はいいから顔を重点的に映せ!」「こいつはすごい特ダネだ!」と大仰な手振りでさかんに指示を飛ばし、興奮に頬を染めている。
 「他はいいから」ですって?
 まるで顔しか取り得がないみたいな言い草。
 それも、死顔。
 瞼の裏に生前のリザの華やかな笑みが浮かび、胸が熱くなる。 
 唇を噛む。
 噛み締める。
 沸騰する怒りが哀しみを凌駕し、荒れ狂う激情が理性を組み敷き、記者団が突破した際に千切れたテープの端を握り締める。
 自然と手が震える。
 テープを掴んだ手が自分の物じゃないみたいに戦慄き震え、死体に群がる記者団と濁流のように押し寄せる人ごみに役立たずな刑事とを睨み付ける目に苛烈な火花が散り、嗚咽ひとつ漏らさず堪え続けた鋼の意志もつハスキーボイスが迸る。
 「リザは、生きてた時の方がずっと綺麗よ」
 女王蜂は怒ると怖い。

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Devilish | コメント(-) | 19951215034002 | 編集

 記者団が制止を振り切り前へ前へと殺到、憑かれたようにシャッターを切る。
 戦場におけるガンナーズハイの症状を呈しファインダーで死体を照準、カメラを両手で固定しシャッターを連打、自動小銃の掃射音に似て軽快なスタッカートを刻む。
 ぎらぎら血走ったハイエナの顔でファインダーを覗き込むカメラマンの傍らではマイクを抱えたリポーターが担架を護送する警官からコメントをとろうとしつこく食い下がる。
 「警部、一言!」
 「今回の事件と昨日発生した事件の状況は極めて似ているそうですが、同一犯と見て間違いないんですか?」
 「という事は、今もまだファイブリィ市内と猟奇殺人犯が徘徊してるってことですよね?犯人の目星は付いてるんですか?何とかおっしゃってください、警部、警部!ノーコメントは卑怯です、逃げを打つなんてあなたそれでも刑事ですか!?」
 「昨日の被害者と今日の被害者には個人的な関連があるんですか、まさか無差別殺人って事はないですよね」
 「人間の全身を締め上げてくびり殺す猟奇殺人犯が大手振って闊歩してるってのにあんた達一体何してるんだ、市民の安全と社会秩序を守るのが仕事だろうに!」
 「情報開示は警察の義務ですよ」
 「給料分しっかり働いてくれよ、こういう時の為の警察だろうが!」
 「いざってとき役に立たねーなら税金払うのやめるぞ、この税金泥棒が!」
 「事件はまだ続くとお考えですか?犯人が捕まってない、という事はその可能性も大いにあり得ますよね?」
 「昨日殺された青年は麻薬取引で利ざやを稼ぐ地元ギャングの一員だそうじゃないですか、ひょっとして事件の裏にマフィアが絡んでたり……」
 「縄張りを荒らされ激怒したマフィアが制裁に乗り出したってのは考えられませんか」
 「何とか言ってくださいよ警部、だんまりじゃわかりませんて」
 焼夷弾のように閃光が瞬く。
 さかんに瞬くフラッシュから手を翳し顔を庇い立ち去る警官に轟々たる非難が飛ぶ。
 視聴率と購買部数を最優先にジャーナリストの誇りを投げ売り、被害者のプライバシーを切り売りするパパラッチと化したマスコミが、真相究明の大儀をたてに警部を取り囲む。
 リッツ警部は内心の高揚を隠しきれぬほくほく顔でマイクに向かう。
 記者団のみならずブラウン管のむこうの何千何万という視聴者から注目を浴びる嬉しさに上気し、威厳たっぷりに咳払いしてみせる。
 「皆さん落ち着いてください、事件の詳細についてはこの後署で記者会見を行います。私は本事件の指揮官に抜擢されたマウス・リッツ、階級は警部であります。第一の事件は昨夜未明に発生。場所はウォールキン・ストリート三十一番地、廃車場近くの路地裏にて何者かにより首をへし折られた青年の死体を発見されました。調べによるとこの青年はシュタイン・ベック二十二歳、麻薬を収入源とする地元ギャングの構成員と判明。彼は何者かに全身を強く締め上げられ窒息状態におかれたすえ首をへし折られるという悲劇的最期を遂げましたが」
 劇的な効果をねらい一呼吸おく。
 フラッシュがやむ。
 自尊心のくすぐりにだらしなく弛みそうになる頬を何とか制したリッツ警部は、カリスマ性あふるる敏腕警部の理想像に可能な限り近付かんと品性の卑しさ滲み出る貧相なネズミ顔を引き締め、前方のカメラに向き直る。
 人さし指をぴんと立て、ずいと身を乗り出し、カメラを真っ正面から覗き込む。
 額の毛穴から上がる湯気で曇るほどカメラに密着するやシャキッと背広の皺を伸ばし、気合で腹をへこめ、二重顎が目立たぬよう顎を引く。
 「ご安心ください、優秀なる我がファイブリィ市警は目下重要参考人としてある男を手配しております!」
 カメラ目線で堂々発表するや記者団が色めきだつ。
 「誰なんですかそれは!」
 「警察は既に犯人の氏名を掴んでるんですね!」
 「逮捕も早晩実現するとお考えで?」
 「犯人の情報を教えてください!」
 「警部、視聴者に一言!」
 虚栄心と出世欲の権化たる大口叩き警部はマイクを独占しご満悦の表情、過激な質問攻めにすっかり脂下がり両手で牽制のふりをし「詳しい事は署についてからお話します。ファイブリィ市警は現在総力を挙げ犯人を追跡中、必ずや第三の悲劇は未然に防ぐとテレビをご覧になってる市民の皆さんに誓います」と安請け合い、「第三の悲劇ということはやっぱり連続殺人なんですね!」「事件はまだ続くとお考えなんですね!」と失言を叩かれている。
 リッツ警部がおもわせぶりにマスコミをいなす間もシャッターが切られフラッシュが焚かれ続け、覆いをはずされたリザの亡骸はブラウン管越しの下世話な好奇心に晒されている。
 これ以上友人が見世物になるのを我慢できず、クイーン・ビーは大胆にテープを跨ぎ越す。
 大勢の人に踏まれ、沢山の足跡がついたカバーを拾う。
 泥だらけのカバーを握り締め、決然たる足取りでマスコミの大群が包囲する担架に接近する。
 警官と揉み合う記者の肘がクイーンの脇腹に入る。
 足が縺れ、バランスを崩す。
 クイーン・ビーは諦めない。
 カバーを握り直し担架へ向かう。
 リッツ警部の方へと怒涛を打って押し寄せる流れに巻き込まれ、あえなく体勢を崩す。
 前傾したところをおもいきり突き飛ばされ膝をつく。
 転倒。
 よろけて跪いたクイーンの頭上でヒステリックな喧騒が渦巻き、連続するフラッシュが視界を漂白する。

 諦めない。
 クイーンの目は死んでない。
 その光はまだ消えてない。

 ジーンズの埃を払い、弱みに付け込ませない素早さで立ち上がる。
 クイーンは凛と落ち着き払っていた。
 その表情は矜持高く冷静で気丈を装うのに慣れていた。
 いついかなるときも隙と弱みを見せず、賢く強く立ち回る。 
 決して涙を見せない目に高潔かつ強靭な意志の光が宿る。
 汚れたカバーを握り締め、ふたたび意を決し、パパラッチの語源そのもののアブの大群を思わせるマスコミ包囲網に立ち向かおうとする。
 萎えかけた気力を奮い立たせる。
 二本の足でしっかり立ち、溜め息を吐いて歩き出そうとする。
 否。
 「………」
 その肩に手がおかれる。
 繊細さのかけらもない無骨な手。
 男らしく節くれだったその手には煙草の灰が付着している。
 指には赤い火膨れ……
 まともに煙草を掴んだ火傷のあと。 
 肩に置かれた手を辿り頭上を仰ぐ。
 スヴェンがいた。
 しばし見つめ合う。
 明るい緑の目が心配そうにこちらを見詰めている。
 スヴェンらしからぬ曇った表情に自然と笑みを返す。
 「ありがとう」
 しっかりした声で礼を述べる笑顔が痛々しい。無理してるのが丸分かりだ。
 肩を支える手に力を込める。
 クイーンの方は見ず、ぶっきらぼうに呟く。
 「さがってろ」
 平板な声で命じ、放心したクイーン・ビーの手からカバーを奪い取る。
 一瞬の出来事。
 素直になれないガキ大将のように照れ隠しの仏頂面を決め込み、あとはもう振り向かず、乱戦模様を呈す渦中に身を投じる。
 カバーを翻し颯爽と疾走するスヴェンの背中を見詰めクイーンは立ち尽くす。
 スヴェンは走る、大股に走る。
 盛大に砂埃を蹴立て、呼吸に合わせて肘を振り、行く手を塞ぐ邪魔者どもを片っ端から力技で押しのける。
 「チャーリー!」
 「よしきタ!」
 ラグビー選手のように頭を低め突撃、体当たりで突破口を開かんとするスヴェンにチャーリーが加勢する。
 バスケ選手なみの上背を利し、歩幅の広いディフェンスで記者団を塞き止め、獅子奮迅の活躍を見せる先輩のため担架に至る道を確保する。 
 記者だろうが警官だろうがお構いなし、体当たりで人ごみをかいくぐり押しのけるスヴェンとて当然無傷ではすまない。
 髪を毟られ頬をひっかかれネクタイを引っ張られ足を踏まれ、ただでさえよれよれのスーツは皺くちゃとなり、好き放題揉みくちゃにされた髪はライオンのたてがみのように爆発し、あちこちにかすり傷を負い男前を上げながら、それでもカバーを放さずとうとう担架まで辿り着く。
 自ら盾になってフラッシュの嵐から仏を庇い、ばっとカバーをかける。
 遅れて到着したチャーリーが長身の利点を生かし、怒り狂った記者たちを壁となって塞き止める。
 スヴェンとチャーリーの惚れ惚れするような連携プレイにより、担架は無事テープの外へと搬出された。
 鑑識のバンに担架が搬入されるのを見届け、クイーン・ビーが安堵の息を吐く。
 ディアボロはテープにもたれ一部始終を見物していた。
 『素晴らしい友情だ』
 「恋愛ベタな三十路の茶番だろ」
 ポケットの中で感動するファウストにあくびまじりに返し、嫌味っぽく付け加える。
 「ま。蝿を酔わすジャズが好きなら、わるくねえ」
 担架を見送った記者たちが三々五々解散し始める。
 この後署で行われる記者会見に流れるつもりだろう。
 リッツ警部はまだ喋り足りなそうな顔をしていたがカメラの前で失態を晒してはなるまいと判断、ぴんとネクタイを直しパトカーに乗り込む。
 ランプを点灯したパトカーがマスコミ車両を牽引し、白昼の往来を走り去る。
 「……おまわりさん、行っちゃたあ」
 と、額と鼻の頭の擦り傷が痛々しいスイートがひょっこり顔を覗かせる。
 「バイバイ」
 去り行くパトカーの隊列に控えめに手を振る。
 その目は既に通りの向こうへ去った死体搬送車へ向けられていた。
 先輩娼婦の死体を乗せた車が視界から完全に消え去るまで、無言で手を振り続ける。
 スイートはもう泣いてない。
 相変わらず目は微熱をおびて潤み鼻はぐずついていたが、泣き疲れ弛緩した表情からは、リザの死を純粋に悼み哀しむけなげな心情だけが伝わってくる。どこで落としたのかサンダルは片方外れている。キャミソールの肩紐がずれ、際どい丈のスカートはだらしなく捲れ上がり色気のないパンツが覗き、片方はだしで立ち尽くす姿は痛切に哀れを誘う。
 死体搬送車が消える。
 手が垂れる。
 ツインテールがしなだれる。
 生前のリザとの思い出を反芻し、整理のつかない故人への感情を持て余し、坂道を転がり落ちるかのようにどん底まで落ち込む。
 ああ、鬱陶しい。 
 ディアボロは舌打ちし、意気消沈したスイートに向かい無造作に片足振り上げる。
 「ぎゃん!?」
 白いパンツに包まれた小ぶりの尻をおもいっきり蹴り飛ばす。
 しんみり感傷に浸っていたスイートが尻を押さえ、何の誇張でも比喩でもなくツインテールを逆立て跳びあがる。
 「俺のとなりに立つな小便娘。くせえ」
 一生懸命首をひねり、裾がずり上がって丸見えとなったパンツの後ろにくっきり印刷された靴跡を確認し、スイートの顔が今にも泣きそうに歪む。
 しっぽを踏まれた猫か使い古しの箒さながらツインテールをびりびり静電気で毛羽立たせ、お気に入りのパンツを汚された憤りが痛み哀しみを一時的に凌駕したスイートは猛烈に抗議する。  
 「ひどーい!スイートおしっこくさくなんてないもん!」
 さっき泣いたロリがもう怒った。
 裾を引き下ろしパンツを隠しもせず、両こぶしを振りかざし食ってかかるスイートに皮肉な笑みを投げる。
 ふくれ面で抗弁するスイートの鼻先に人さし指をつきつけ、圧力をくわえ押し戻す。
 「知ってんだぜ。変態にお前の小便は高く売れるんだよなあ、スイート・ピー(Sweet・Pee)ちゃん?」
 「うう……」
 「特別料金で客に尿飲ますサービスあるのも知ってるぜ。お前の源氏名はそっからきてるんだろ?男に股吸わせてはしゃいでるガキが、調子のるんじゃねえ」
 「う……」
 「今度から下の名前で呼ぶぞ」
 ディアボロが冷たく言い放ち、スイートがさっと青ざめる。
 「やだあ、やだやだあ、やめてよう!」
 片腕にひしと縋りついたスイートの額を平手で押し返し、ディアボロは呵呵と哄笑する。
 傍目にはティーンエイジャーのカップルがじゃれている微笑ましい光景に見えなくもないが、少なくともスイートにとっては笑い事ではない。
 ディアボロの腕になりふりかまわずしがみつき、チェリーレッドの目を潤ませて前言撤回を要求する。
 「スイートはピーじゃないもん、スイート・ピーがお名前なんだから!」
 「はなれろ売女」
 「スイートそんなことされたら恥ずかしくて生きていけないー!」
 「てめえの小便飲ませてるのは恥ずかしくねえのかよ」
 「あれはお仕事だからべつだもん!」
 「仕事を恥じろ」
 とりあえず、怒る元気は出たらしい。
 「やれやれ、天邪鬼ですねエ。どっかの誰かさんと一緒デ」
 署に移動した同僚を見送り、居残ったチャーリーが苦笑する。
 そのだれかさんは玄関先に立ち尽くすクイーン・ビーのもとへ気恥ずかしげに引き返し、お叱りを受ける悪ガキのように暫くうなだれていたが、クイーンの言葉に一言二言返し、頷き、彼女を伴いポーチの階段を上る。
 紳士的とはお世辞にも表現できぬ不慣れなやりかたでクイーンの手を引き、階段を上るのを手伝う。
 困憊したクイーンが足もつれさせ転ばぬよう細心の注意を払い一段ずつ足を運ぶ。
 女性にダンスを乞うたことなど一度もない洗練と無縁の危なっかしい動作でクイーンの手を押し頂き、うわべは努めて平静を装い、内心がちがちに緊張し、自分こそ滑って転んで頭を打ちそうな足取りで先頭に立つ。 
 三十路の純情を地でいく先輩を眺めチャーリーは赤面する。
 「先輩の事は尊敬してマスけド、あの不器用さは真似たくないデスね」
 「省略しないでデミちゃんの意地悪、スイートピーじゃないもんスイートだもん、ちゃんと区切って呼んでくれなきゃだめなんだからー!」
 「ピー・ピー・ピーちゃん。これでいいか」
 「だめー下の名前だめー!!下はだめなの、恥ずかしいの、下の名前はお客さんにしか呼ばせてないんだからデミちゃんは呼んじゃめっなの!」
 「放送禁止語みてーな名前だな。あ、放送禁止用語なのか実際。こいつは失礼。存在自体放送コードに触れるって事でいっそ頭のてっぺんからつまさきまで完膚なくモザイク処理してもらえよ、いかがわしさ爆発で興奮するぜ」
 前言撤回。
 ディアボロの場合恋愛感情は一切ぬきに単にスイートをいじめるのが楽しいだけらしい。
 嬉嬉としてスイートをいじくり倒すディアボロの視界を赤い光が掠める。
 スイートの顔面を掌で塞ぎ、むりやり押しのけて視線を巡らす。
 警察とマスコミの大半が退去してもなお、コットン・ガーデンの周囲にはハイエナの食い残しを漁る野次馬がちらほらしている。
 現場に詰め掛けた野次馬の最後列に風変わりな男がいる。
 腰まで伸ばした黒髪、均整のとれた長身。
 俗世とかけ離れた高貴な雰囲気が黒尽くめの後ろ姿から漂ってくる。
 艶やかな黒髪を揺らし、たとえようもなく優雅な緩慢さで男が振り向く。

 
 息を呑む。


 尖ったおとがいを備えたノーブルな目鼻だち、男性的な弧を描く凛々しい眉。
 万人を跪かせる気品と秀麗な造作が奇跡的な均衡で溶け合った完璧な美貌。
 黒ずくめの奇抜な風体を際立たせているのは、背に広がった艶やかな黒髪だ。
 髪と服の漆黒と鮮やかな対比を成す白磁の肌の中に、二点の赤がある。
 最上級の紅玉をカットした双眸がディアボロを映しこみ、玲瓏と輝く。

 赤、紅、緋、朱、淦、明……

 
 あかい。
 あかい目。


 『メフィスト!』
 ポケットの中の銃が熱を孕む。
 ファウストの叫びに反応が遅れ、片腕にスイートをぶらさげたまま愕然と立ち尽くす。
 「デミちゃん……?」
 メフィストが身を翻し、しなやかに足を操り威風堂々立ち去る。
 挑発。
 もちろん乗る。
 「邪魔だ、あばずれ!」
 「ひゃん!」
 腕を振り回し髪ごと放り出せば、スイートが情けない悲鳴を発し顔面から地面に沈没。
 転倒のはずみにキャミソールの肩紐が両方ともずれ、乳と呼ぶほどボリュームない可哀想な貧乳が晒され、偶然それを目撃したチャーリーが慌てて背広を脱ぐ。
 寝違えたようにあらぬ方向を向いたままスイートに背広を着せ掛け、男の沽券にかけ高速で首を振る。
 「安心しテ、見るトコありませンかラ!」
 「ブルちゃんひどいッ!?」
 動体視力の極限に迫る超速で首を振るチャーリーだが、スイートの為を思ったフォローは逆効果だったらしい。
 スイートとチャーリーは綺麗さっぱり捨て置き、ディアボロは行く手を塞ぐ野次馬を罵詈雑言を吐いて蹴散らし、マフラーをなびかせ疾走する。
 撤退の準備をしていた記者陣営の渦中にとびこむ。
 視界でフラッシュが焚かれる。
 邪魔な奴には容赦なく肘鉄を食わせる。
 脛を蹴り上げ膝蹴りを見舞い足払いをかけ銃で薙ぎ払いがてらカメラを叩き壊し、とばっちりを食らった記者には一瞥もくれず前傾姿勢で雑踏を抜ける。
 「何すんだガキこの器材高かったんだぞ弁償しやがれ!!」
 「請求書はここに送れ、ポケットマネーでまとめて払ってやる!!」
 柄の悪いマスコミの吠え声にポケットをさぐり、速攻住所を書いたメモを投げ付ける。
 地べたに這い蹲ったカメラマンが腹立ちのあまりメモを握り潰し叩き付ける。
 「字が汚すぎて読めねーよ!!」
 「間抜けは地面とキスしなって書いてあんのさ」
 「ディアボロ!?おいどうし、」
 背後でスヴェンの呼び止める声がしたが、無視して走り続ける。
 メフィストは路地の入り口に立っている。
 こちらを待ち受けるが如く体の脇に手を垂らし、悠然と微笑んでいる。
 「ファック……」
 気に食わない面だ。
 ポケットを探る。
 銃に弾丸を装填。
 靴底で地を蹴り跳躍、靴裏で地を削り路地に滑りこむ。
 いた。
 メフィストは路地の奥にいた。
 いつのまに移動したのだろう、足音ひとつ衣擦れの音ひとつ聞こえなかった。
 奥歯を軋らせグリップを握り締める。
 メフィストが路地を曲がる。
 死角に消えたメフィストを追い一目散に走る。
 『ディアボロ・デミトリ、落ち着いてくれ』
 ファウストが何か言っているが、早鐘を打つ心臓の鼓動と荒い呼吸音に邪魔され聞こえない。
 石畳を蹴る。
 走る。走る。走る。
 『たのむから落ち着いてくれ』
 呼吸がちぎれ心臓が煮え立つ。
 沸騰した血が高速で体内を巡り、全身の毛穴から水蒸気が噴き上がる。
 てのひらが汗でぬめり、ファウストを落としそうになる。
 右手を左手で固定し、がむしゃらに足を繰り出す。
 『メフィストは人間じゃない、悪霊なんだ。本物の悪霊なんだ。万全を期して臨まねば勝機はない、頭に血を上らせては思う壺だ』

 だからどうした?
 おれさまに意見する気か、身の程知らずのフール・ソウルが。
 
 平常時のディアボロなら即座にそう言い返しただろうが、今の彼は完全に平静さを欠いていた。
 二本足の理性が四つ脚の本能に組み伏せられ、狩りの興奮に全身の血が沸き立つ。
 手の火照りを介し興奮が伝染したか、焦燥に炙られファウストが叫ぶ。
 『―悪霊は罠を仕掛けて待ち構える―』

 それは図らずも的を射ていた。

 「!なっ、」
 角を曲がった刹那、夜が訪れた。
 否、夜ではない。
 夥しい触手がディアボロの四肢を絡めとり、背後の暗がりへと強制的に引きずりこんだのだ。
 顔面を触手で覆われ暗黒の帳が降りる。
 口に触手を噛まされ息が詰まる。窒息。苦しい。背中に衝撃。
 肺から空気の塊が押し出され背骨が軋む。
 「がっ………、」
 無我夢中で首をかきむしりもがき苦しむディアボロの耳朶を、老人と子供が同時に喋っているような矛盾した性質でありながら、玲瓏と神々しく、人外の畏怖を感じさせる摩訶不思議な声が打つ。
 
 ー『その血、生粋の邪悪なり』ー

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Devilish | コメント(-) | 19951214014925 | 編集

 『その血、生粋の邪悪なり』

 老人と子供が同時にしゃべっているような年齢も性別も判然としない声が、深遠な波紋を描いて路地裏に響き渡る。
 混沌の渦中から響く声が神経を刺す。
 だれだ、だれがしゃべってるんだ?
 頭蓋骨の裏側で鼓動が跳ね返り、金属質のノイズが聴覚を麻痺させる。
 酸欠の視界が急激に暗くなる。
 口腔に突っ込まれた触手が酸素の吸入を阻害し、四肢に食い込む触手が血流を滞らせ指先から痺れてくる。
 壁に吊り下げられたディアボロは何が何だかわからぬままむなしくもがく。
 自分を突然襲った事態を正確に把握できぬまま助かりたいと本能的に、貪欲に生を渇望し、許された間接限界まで一心不乱に暴れる。
 抵抗を示すほどに触手の束縛がきつくなる
 思考と感覚が底冷えする闇に蝕まれ、脊髄を引き抜かれるような脱力感が襲う。
 酸欠の苦痛が麻痺し思考停止、死という残酷な現実が明確な形を取り始める。
 苦しい、苦しい……
 死。
 「―げほっ、」
 むせ返る。
 涎にまみれた触手があっけなく取り除かれ、息を吹き返したディアボロは激しく咳き込む。
 生理的な涙にかすんだ目を凝らす。
 正面で地獄の陽炎のように漆黒の影が揺らめいている。
 自分の遥か高所にある顔がうっすらとほほえんでいる。
 グロテスクな繭を紡いだ張本人は目の前にいた。
 『久しぶりだ』
 絶世の美形と評すべき、否、いかなる凡庸な比喩をも跳ね返す神々しい美貌に久闊を叙する親愛の色を浮かべ、闇から生じた漆黒の男が呟く。
 後光さす高貴な微笑みは触手に四肢を拘束され磔刑を模されたディアボロではなく、その手中の銃へと向けられている。

 これがメフィスト。
 貪欲にして悪食の魂喰らい。
 七つの大罪のうち暴食を司る悪しき霊。

 路地裏には場違いに気品あふれる身なりをし、鴉の濡れ羽よりさらに黒く不吉な髪を堕天使の双翼の如く背に流し、絶世の美形が含み笑う。
 そこはかとない酷薄ささえ漂うノーブルな目鼻立ち。
 白磁のきめ細かさを誇る肌の中、二点の真紅が邪悪な光を放つ。
 メフィストの瞳とは違う。
 ファウストの目が清冽な赤ならメフィストの目はどこまでも禍々しい生贄の血の色。
 この世の邪悪をあまねくかき集め溶鋼炉で煮溶かしたようなその色は、魔性の魅力でもって見るものを虜にする。
 絶望的なまでに美しい赤。
 背徳的なまでに官能的な瞳の輝きと唇の艶は性別問わず人を魅了し、堕落へと誘う。 
 『……久しぶりだね』
 壁に吊り下げられたディアボロの耳朶に唇を寄せ、囁く。
 成すすべないディアボロの指を不気味に蠢く触手がこじ開け、あっさりと銃を巻き取り、天へ翳す。
 『この少年が当代のあるじか、ファウスト』
 『………』
 ファウストは答えない。
 沈黙は肯定と解釈する。
 謎めく笑みを含み、大胆不敵かつ威風堂々たる覇王の身ごなしで無防備に間合いを詰める。
 ほとんど体が密着する距離にメフィストが迫り、視界が翳る。
 「寄るな木偶の坊」
 接近した隙に股間を蹴り上げようとしたが、足首から膝にかけ素早く触手が絡み阻止される。
 囚われの獲物の元気に感心するように片眉を跳ね上げ、メフィストが立ち止まる。
 流れる黒髪に縁取られた顔に恍惚の色が浮かぶ。
 『味見をさせてくれないかね』
 出来すぎなほど整った顔の中、形良い唇が残忍極まる弦月の弧を描く。
 空気が変容し、空間が歪む。
 メフィストの服そのものが変化し皮膚と同化、広い背中から質量ある闇をまとい触手が具現する。
 眼鏡越しの目を極限まで驚愕に剥く。
 生贄の動揺を手玉にとるように触手を不気味に蠢動させ、体の脇を通し嬲るような緩慢さで前へと伸ばす。
 吊り下げられた体に正面から触手が這い寄る。
 ディアボロの顔が嫌悪と焦慮に歪み、開きかけた口が口汚い罵倒を浴びせる前に、その唇に触手の先端が届く。

 下唇を撫でる。
 上唇を撫でる。
 右頬を撫でる。
 左頬を撫でる。
 目尻を撫でる。
 鼻梁を撫でる。

 触手が顔の輪郭を辿る。
 頬をすべり、顎をなで、卑猥に首筋を這う。
 顔の造作ひとつひとつを気が済むまで執拗になでまわし、露骨に不快感を示す生贄の反応を楽しむ。
 「っ、は………」
 衣擦れの音が耳朶を擦る。
 それぞれが独立して動く触手による粘着な愛撫が皮膚を過敏にし、快と不快がめまぐるしくせめぎあい、深奥の熾き火を掻きたてる。
 ズボン越しに敏感な内腿をさぐられシャツ越しに胸板をまさぐられ、薄地を隔てた性感帯への刺激に歯痒さを覚え、淫蕩な熱が体を冒し始める。
 耐え切れず吐息が漏れる。
 締め上げられた四肢が軋み、堰き止められた血管に血が溜まってゆく。
 ディアボロの顎を触手で固定し、世界を有す覇王にだけ許された傲岸な目で顔を舐める。
 なぶるような視線が鼻梁をなぞり、唇のふくらみをなぞり、顎の先をなぞり、眼鏡の縁をなぞる。
 目で犯されてる気分。
 獲物が動けないのをいいことに好色な目で全身をなぶる。なぶりものにする。
 メフィストの面が陥没変形するまで拳を打ち込みたいがこの状態では身動きできない。
 刹那、触手の一部がしゅるしゅるほどけ片腕だけ解放される。
 右腕が突如自由になり、あっけにとられメフィストを仰ぐ。
 メフィストは物言わず微笑むばかり。
 ファウストを彷彿とさせる綺麗な微笑だが、求心力は同等でもメフィストのそれは底なしの奈落を思わせる。
 得体の知れぬ笑み。
 視線で体内に取り込み同化してしまうような微笑。
 均整の取れた長身を前傾させ、鼻先が接する至近距離でディアボロを覗きこむ。
 形よくとがった鼻先と端正に切れ上がった眦が視界を占め、白磁の肌の中でそこだけ唐突なほど鮮やかな二点の赤が血の色の輝きを増す。
 『………こんにちは』
 魅惑的な声。
 子供と老人が同時にしゃべっているような違和感は綺麗に拭い去られ、今は成人男性の声質に定まっている。
 張りと艶のあるバリトンは百年をかけて熟成された至高のワインに似て聞く者の三半器官を酔わし、惑わせる。
 こんな声の持ち主に耳元で囁かれたら大半の女は腰砕けにいかれてしまうだろう。
 しかしディアボロは違う。
 彼独特の挑発的な表情を拵え、唇をねじりあげる。
 「とっととこの汚い触手をはなしやがれ、ヘドロの海で生まれたイソギンチャク野郎」
 眼鏡越しの眼光が炯炯と輝く。
 『これは心外だね』
 黒尽くめの悪霊はファウストと酷似した動作で肩を竦める。
 メフィストがファウストと対になる存在、現実世界の双生児にあたる関係なのは事実らしい。
 双眸に悪戯っぽい光を宿し、優雅な挙措で礼をする。
 『我が名はメフィスト。本の亡霊、ほんの悪霊だ』
 体前にひらりと腕を翳し、お辞儀をする。
 同時に触手が蠢き、おぞけをふるう不快な感触を与えてくる。
 触手が下半身へと伸び、一方的な接触を試みる。
 避けようがない。
 反射的に蹴りどかそうとするも、既に触手が絡み付いているため満足に動かすことさえできない。
 右足に触手が絡む。
 足首が軋み、膝が軋む。
 腿に巻き付く触手がそれ自体生ある者のごとく奇怪な動きを見せる。
 「……悪霊のくせに洒落た名前してやがるな。てめえもファウストも過ぎた名だ」
 内心のあせりを糊塗し不敵な笑みをこしらえるも、苛立ちが顔に出る。
 ここは人目に付かない小狭な路地、不運な通行人がうっかり通りかかるなんて出来すぎの展開は期待できない。
 必死に打開策をさがすディアボロを楽しげに見下ろし、メフィストは低く喉を鳴らす。
 『ファウスト、お前の主人は愉快な性格をしているな』
 「許可なくおもしろがるな」
 言下に言い放ち、続ける。
 「改名するなら今だぜ。そうだな……お前は黒くてでかくて硬いの、略して黒巨根で片割れは発育不全のモヤシ。どうだこれ?イケてねえか」
 同意を求めるようにメフィストとファウストを交互に仰ぐ。
 両者とも気に入らなかったらしい。
 メフィストは品よく眉をひそめ不快感を表明し、唇に薄く乗せた微笑はそのままに触手の握力を倍加する。
 骨が軋み、内蔵が悲鳴をあげる。
 背骨を仰け反らせたディアボロをたっぷり観賞しながら、メフィストは述懐する。
 『……ようやく外にでられたのに蝿に付き纏われるのは鬱陶しい』
 「蝿か。言ってくれるぜ、蛆虫が」
 ディアボロが苦しげに笑う。
 虚勢を装っているが顔面には大量の脂汗が浮き、唇の端は小刻みに痙攣している。
 ディアボロの虚勢を見抜いたメフィストは、あるじの窮地を天の高みから傍観し、先刻から沈黙を守るファウストに問いかける。
 『しかし、お前は必ずや追ってくると思っていた。私のかけがえのない存在―……魂の片割れ、愛しきファウストよ』
 いかがわしい触手に巻き取られ、路地の高所に掲げられた銃をうっとり仰ぐ。
 人類の魂を強奪するー比喩でもあり、真実でもあるー極上の微笑を湛え、甘美な睦言を囁くメフィストに、銃口からそっけない声が放たれる。
 『追うさ。ぼくは君の監視役……きみの暴走行為を止めるためなら、手段を選ばない』
 メフィストは鼻白む。
 求愛の言葉にふさわしい熱烈なリアクションを期待してたのに、拍子抜けしたらしい。
 しかしすぐにペースを取り戻し、道化て肩を竦めてみせる。
 『相変わらずつれないね。半世紀ぶりに表に出たというのに、我が愛しき片割れはまだそんな古い約束にこだわっているのかね。八百年も前に塵に帰した男の事などいい加減忘れたまえよ』
 『そういうわけにはいかない。約束は約束だ』
 『律儀だね。義理堅いと言うべきか。それもまた我が愛するファウストの至高の美点だが……話は変わるが、君もヒトガタをとったらどうだい。不恰好な鉄の塊よりも、君は真実の姿こそ美しい』
 芝居がかって大袈裟に腕を広げ陶然たる面持ちでファウストを仰ぐや、メフィストは堰を切ったような饒舌さで語りだす。

 『愚者の霊ファウスト。永遠を生きる伴侶、魂を分かちし対存在、我が愛しき片割れ!君と離れてからのこの数日間私はまさしく半身を引き裂かれた思いでいたよ、世にこれに勝る拷問はない、ああそうともあるものか絶対ない!君と離れる事がどれだけ辛かったか想像できるかい、この心の痛みを。君とは八百年間ずっと一緒だった、病める時も健やかなる時も常にともにあり永劫の将来を誓い合った仲だった!そんな君と離れ離れになった事で私がどれだけ哀しく辛かったか……極上の絹に似たその髪を思い出さぬ日はなく、鳩の血に似たそのいたいけな瞳を思い出さぬ時はなく、寝ても覚めても常に君の事を考え、悶え、苦しみ、喘ぎ、君の睫毛が儚く震えるさまを、君の唇が優しく微笑むさまを回想してはしばしば絶頂に達するほどの官能を味わっていたのだが……』

 美辞麗句を尽くし絶賛するメフィストに対しファウストは微妙に沈黙。
 自慰の告白に心なし引いてるようだ。
 滔々たる語り口で片割れを称賛していたメフィストが、ふと我に返り表情を消す。
 『まさかファウスト、君は「肉」を借りなかったのかね』 
 『当たり前だ』
 疑念を含んだ指摘にファウストは断固として応じる。
 驚愕のあまり双眸を見開き、独白。
 『なんと愚かな……それでは可視化に際し、肉を伴えぬではないか』
 「勝手に話を進めんな、説明しろ!」
 触手に埋もれたディアボロがじれて叫び、ファウストが解説しようとするのを遮り、メフィストが悠然と歩み出る。
 『少年よ、よく聞きたまえ。私が今着ているこれは人の皮だ。実体をもたぬ霊は人の身をかりねば世に具現できぬ業を負っている。昔から霊を降ろすと言うだろう?あれだよ。だが例外として、固く冷たい無機物にやどる場合がある。我が愛するファウストのように』
 「修飾うぜー」
 正直すぎる感想を無視して続ける。
 ディアボロの眼前にひらりと手を翳し、運命の糸を手繰るかのように間接と長さのバランスが絶妙な指を一本ずつ握りこむ。
 『人は日々刻々と変化する。目に見えずとも髪も爪も日々微々たる速度で伸び、代謝し、成長し、老化する。しかし物は変わらない、物には魂がないからだ。転じてさて、何を意味する?私は人を内側から変化させる事が可能だ。もとより人はいじりやすい、顔かたちを変えるなど子供騙しにたやすい。分子の結合が安定した物質ではこうもいくまい。こうして私本来の姿をとれるのも外に出る際に人の身に宿ったからだ。少し皮膚をいじくり顔の造作を操作し代謝を良くして骨を伸ばすだけで、こうして本来の私になれる』
 「整形費用かかんなくてラッキーだな、寄生虫め」
 至極簡単な事のように言ってのけるも、人間には到底不可能な所業だ。
 メフィストは内側から人を変える。
 魂に根をはり皮膚細胞をいじくり組成を変え、まったく別人へと化ける事ができる。
 化け物め。
 腹の中で毒づくディアボロから頭上の銃に視線を転じ、黒髪の悪霊は嘆かわしげに首を振る。
 『残念だよファウスト……本当に残念だ。こちら側で君と触れ合えるのを心の底から楽しみにしてたのに、よりにもよって何故その器を選んだんだい。魂を持たぬ鉄屑に宿ったりしては、そもそも肉を伴い具現できないじゃないか。ただ精神を移行しただけ?詮ない繰言になってしまうが、何故そんな真似を……せっかくこちら側で会えたのに触れ合うことさえできぬとは、生殺しの苦しみに身が引き裂かれそうだ』
 眉をひそめ遺憾の意を表明したメフィストが、さも名案を閃いたとばかり顔を輝かせる。
 『………ちょうど良い器がある』
 嫌な予感。
 触手の握力が強まる。
 きつく締め上げられたディアボロの方へ身を乗り出し、引き攣る頬に手をあて、邪悪に笑む。
 『彼の体をかりればいい』
 不穏な展開。
 「ちょっと待て、俺の体でナニするつもりだ」
 『言わずもがな、我が愛しき片割れファウストと思う存分現世における肉の愉しみを味わい尽くすのさ』
 端正な鼻梁が眼前に迫り、真紅の輝きが視界を覆う。
 頬に触れた手が輪郭に沿ってすべり、手際よくネクタイを緩めにかかる。 
 『目に見えて触れられぬとは究極の生殺し。とてもとても我慢できないね、そんな拷問には。幸い君は感度がいい、ファウストの器にぴったりだ』
 余計なお世話だくそったれ。
 ネクタイが緩み、シャツの胸元がはだけ、左右対称の鎖骨と未成熟な色香匂いたつ薄い胸板が暴かれる。
 首筋が外気にふれひやりとする。
 成すすべなく剥かれながら、しかし不遜に落ち着き払い、ディアボロは問う。 
 「何してる?」
 『魂を摘出する』
 さらりと言う。
 ボタンが三番目まで外される。
 「剥く必要はどこにある」 
 『この方が気分が出るだろう』
 路地裏に人気はない。
 万一誰かが通りかかったところで、長身の男がのしかかったこの体勢は違う意味で誤解を招く。
 猿轡の用を成す触手が外れたせいで、口と右腕だけは自由に動く。
 助けを呼ぶ?
 スヴェン?チャーリー?スイート?クイーン・ビー?携帯に呼び出しがかかるまでこのへんを流してるはずの運転手?
 ざけんな。
 一瞬脳裏を掠めた提案を全力で却下、唾を吐いて一蹴する。
 他人をあてにする?
 他人のお慈悲にすがって助けてもらうってか。死んでもごめんだ。
 『君の魂を食し私の腹は満ち、ファウストは新たな器を得る。実に完璧だ』
 酩酊したように呟きつつ、人さし指と中指でつっと剥き出しの胸板をなで、心臓の位置をさぐる。
 銃にさえ手が届けば。
 落ちてこい落ちてこい早くきやがれと一心に念じ、殺気を込めファウストを睨みつける。
 『すまないディアボロ・デミトリ、僕は無力だ』
 滾り立つ眼差しの意を汲み、傾いだ銃口から暗澹たる声を発する。
 誠意を込めた謝罪にディアボロは最高の笑顔を返す。
 「そのまま錆びろ。砂鉄のほうがまだ役に立つ」
 『さて、魂を貰うよ』 
 裸の胸に広げた手をあてがう。
 生唾の嚥下に伴い物欲しげに喉が鳴る。
 接した指先から熱と悪寒が同時に伝わり鼓動が速鳴る。
 水面に一滴インクを落とすように体内にじわりと闇が広がる。
 『綺麗な肌だ』
 真紅の双眸が一抹の真剣みを帯びて細まり、裸の胸に置いた指先が圧力をかけてるとは思えぬ緩慢さでめりこんでいく。
 胸に指先が沈む。
 血は一滴も流れずとも、伴う苦痛は本物。
 「……………っ、くあ、ぅ」
 胸に沈んだ指先が内部をかきまぜる。
 メフィストは静かに微笑む。
 微笑みながら手術を施す。
 着崩れたシャツから零れた薄い胸板に容赦なく指を抉り込み、心臓のありかを探る。
 肋骨を愛撫されるえもいえぬ不快感にディアボロは呻き、背中を反らす。 
 大量の脂汗が髪と顔をぬらし、顎先から滴る。
 垂れた汗がシャツに染みを作る。
 「………っ………て、めぇ………かってに、ひとン中に、入ってくんじゃねえよ……」
 『内側から犯されてるようだろう』
 気持ちが悪い。
 異物が侵入してくる不快感に体が激烈な拒絶反応を示し、弓なりに撓る喉から押し殺した苦鳴が漏れる。
 奥歯で苦鳴をすり潰し、憎悪に燃え濁る目で愉悦に酔いしれるメフィストを睨む。 
 ディアボロが憎悪を放散すればするほどメフィストの微笑みは深まり、胸を抉る指先は残忍さと執拗さを増していく。
 『魂を強姦される気分はどうだね』 
 闇の指が魂を冒涜する。
 「突っ込む、のは最高だが、突っ込まれんのは、最低、だ」
 切れ切れに憎まれ口を叩くも消耗激しく、嘔吐に襲われ目が眩む。
 電池切れの電灯のように明滅する視界の中、メフィストはもう片方の手で汗にぬれた黒髪を弄繰り回し、指の狭間の房に唇を添える。
 『失礼。処女に五本はきついか』
 「穴の開いてねえとこに、は、っうく、むりや、り、穴を作るって発想が、はっ、ぐ……いかれてやがる」
 嘲弄に反発すれども受身に徹するしかないディアボロは、四肢に纏わり付く触手が許す限り身を乗り出し、メフィストを下からねめつける。
 眼鏡越しの目がどす黒い殺意を孕んで据わる。
 脂汗に塗れた顔が苦痛と憤怒に歪み、触手に縛られた全身が剣呑な殺気を放つ。
 「はなから入れる穴間違ってんだよ、お前は」
 魂を陵辱されても折れぬ意志に感銘を受け、メフィストが目を瞬く。
 『……この状態で口がきけるとはたいしたものだ』
 吐息まじりに嘆声を発し、ディアボロの顎をくいと指先で押し上げる。 
 その手は男性らしい頑丈な造りをしていたが、しなやかに伸びた指と清潔な爪とは彫刻めいて端正で、いささかも優美さは損なわれていない。
 厚いてのひらに頬を撫でられ、産毛が縮む戦慄をおぼえる。
 顎を固定された不自由な姿勢から尖りきった目にありたけの殺意をこめ、異形の化け物を睨む。
 威圧。
 メフィストには効果がない。
 ますますもって感嘆を深めたように表情を和ませ、すりよるように上体を近付ける。
 『ただ殺してしまうのは惜しいね』
 吐息が絡む距離に顔が来る。
 人ならぬ真紅の双眸をまともに覗き込み、畏怖と紙一重の戦慄に駆られる。
 拒むいとまもなく唇がふたつに割られ、発情した軟体動物じみた動きで舌が潜りこむ。
 「!」
 生温かくやわらかい物体が口内を犯す。
 歯茎をなぞり、前歯を舐める。
 歯と歯の間を舌先で探り、萎縮した舌を強引に絡めとる。
 唾液が逆流し、むせ返る。
 歯の窪み、歯と歯の間の間隙、歯茎から舌の表裏に至るまで犯され嬲られ貪り尽くす。
 貪欲な舌が口腔の粘膜を刺激し、まじりあった唾液が溢れ顎を濡らす。
 息が詰まる。苦しい。
 満足に呼吸することも許されず酸欠状態に陥り生理的な涙が滲む。
 頭を占めるのは苦痛と混乱、歪んだ視界を占めるのはメフィストの睫毛。
 抵抗を禁じられたディアボロはかすんだ目を凝らし、メフィストの憎たらしい面を網膜に焼き付ける。
 殺してやる、と内なる殺戮の神に誓いながら。

 殺してやる。
 焼けた火掻き棒で目ん玉えぐりだして、こんがり炙って犬に食わせてやる。
 生きながら舌を抜いて喉ちんこむしりとってやる。
 ペニスをなます切りにしてやる。
 頭皮をむしりとってタバスコすりこんでやる。

 愛撫が激しさを増す。
 メフィストが上体を被せ、喉の奥深くまで舌が達する。
 口腔を蛭が這い回るかのような異物感が喉を圧迫、猛烈な吐き気がこみ上げる。
  
 透明な糸引き唇が離れる。

 思考が弾け、頭が真っ白になる。
 早鐘を打っていた鼓動が平常値に戻り、豪雨をおもわせた耳裏の血流の音がすっと遠ざかる。
 呼吸がらくになるにつれ視界が鮮明になり、歪曲した景色の輪郭が定まってゆく。
 混沌とした色彩が収斂してゆくにつれ、上体に被さる男の顔が明らかになる。
 驚異的な長さの睫毛に縁取られた切れ長の双眸が三日月形に反り、こちらを嘲笑う。
 完璧な造作の双眸で煌々と輝くのは偽らざる魔性の証―……禍々しい真紅の瞳。
 口腔を蹂躙していた舌を抜かれたディアボロは、胃を吐き戻す勢いで咳きこむ。
 呼吸が長く、緩慢になる。
 そして。
 「………………………………る」 
 青ざめた唇が震え、ひび割れた声を紡ぐ。
 「殺してやる、殺す、殺す、殺してやる」
 抑揚のない声で単調に繰り返す。
 表情は眉一筋も動かず、目だけが精力的に輝いている。
 同性に唇を奪われた直後だというのに、戦意喪失するどころか逆に隙あらば相手の喉笛を噛みちぎらんという殺気を全身に漲らせるディアボロに対しメフィストはご満悦。
 獲物でありながら諦観とはかけ離れた所にいる彼を痛快げに眺めやり、嗜虐的な笑みに唇を割り、親指の腹をなめる。

 『獣の味だ』

 耳を聾する轟音が轟く。

 『!』
 虚空に迸った銃火が触手を撃ち抜く。
 ちぎれた触手は石畳を打ち、黒い霧と化し跡片もなく霧散する。
 触手の拘束が緩み、ディアボロの手が解き放たれる。
 『ディアボロ・デミトリ!』
 警告に即応、鞭のように手首が撓り空を薙げば手に馴染んだグリップが掌中に滑り込む。
 反撃開始の合図。
 狙い違わず手の内に落下したファウストを顔前に突き出し、電光石火引き金を引く。
 標的は目の前にいる―……メフィストだ。
 銃口から発射された弾丸は誤ることなくメフィストの額を撃ち抜いたかに見えたが、血と脳漿と頭蓋骨の破片が石畳に散乱することはなかった。

 『悪霊を舐めてもらっては困るよ』
 
 なるほど、こいつはきわめつけの化け物だ。

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Devilish | コメント(-) | 19951213125218 | 編集

 「ちっ!」
 片膝ついて上体を起こし空いた手で顎を拭う。
 メフィストは生きていた。
 残像を残して忽然とかき消えたメフィストは一寸たりとも美貌を損なうことなく石畳の上に立っている。
 冷徹な切れ長の目に嘲弄の色を宿し、悠然と腕を組みディアボロを見下ろしている。
 触手はすべて体内に回収してしまったらしく見た目は普通の人間となんら変わらない。
 だが、その全身から放たれているのは空間さえ歪ませる禍々しい邪気。
 冥府の王じみた瘴気と威風あたりを払う立ち姿は冷厳な美貌を誇示し、人外の畏怖をあまねくしらしめる。
 「……都合が悪くなりゃだんまりなひきこもり別名ファウスト、ご主人様の一大事を高見の見物たあどういう了見だ?」
 間一髪だった。
 触手プレイの上ディープキスとはなんたる不覚。
 怒り心頭に発したあるじの手中に滑り込んだファウストは誠実に釈明する。
 『なにか勘違いしてないかい?ぼくは拳銃だよ、使い手がいなきゃ動けない』
 「ほーお」
 『それでも君を助けようと必死に身を捩った結果が、あれさ』
 結果が暴発ときたか。危ない奴だ。だが、この場は助かったと一応感謝しておく。形だけ。
 下僕なりにあるじを助けようと努力を試みたのは事実らしいと判断、ひとまず矛先をおさめる。
 銃口を微調整、微塵もブレぬ完璧な片膝立ち姿勢でメフィストを照準する。
 メフィストは逃げも隠れもせずただそこに突っ立っている。
 武器を取り出す気配もなく焦る様子もなく、徒手空拳で立ち尽くす物腰に絶大な自信と余裕が窺える。
 唇に漂うは笑みの残滓。
 細い路地を背に黒髪を流して佇むメフィストは、不測の事態に微塵も慌てず騒がず、脚本に予定されてない成り行きを楽しむかのように興味深げに目を光らせている。
 自分が不利を被るとは微塵も思っていない傲岸不遜な態度に逆上、宣戦布告する。
 「てめえのモノ、二度と使えなくしてやる!」
 地下の射撃訓練場にて等身大の的を撃ち抜いた要領で引き金を引く。
 狙うは股間。
 木っ端微塵にしてやる。
 獰猛に犬歯を剥く。
 連射。
 反動。
 コルダイト火薬のきな臭い匂いがあたりに充満、薬莢が石畳に跳ねて澄んだ音階を奏で鮮烈にして苛烈なファイアレッドが空に迸る。
 メフィストがやれやれと首を振る。
 『下品な少年だ……』
 転瞬、メフィストの黒髪が空に踊り姿が消失。
 「!」
 消えた標的の姿を追い求め、あたりを見回したディアボロの耳朶を面白がるような声が弾く。
 『ここだよ』
 後方、遥か高所から声が降ってきた。
 はじかれたように振り向いたディアボロは目にした光景に仰天する。
 後方のアパートの屋根に立っているのはまごうことなきメフィスト。
 一瞬で遥か高所へと移動したメフィストは風に黒髪をなぶらせ、千里眼の能力を兼ねる赤い目で地上を睥睨している。
 否、彼が見下ろしているのは唯一人……
 ディアボロだ。
 「-っ!」
 こめかみの血管が脈動アドレナリン大量分泌、殺戮の衝動に駆り立てられ引き金を引く。
 指をリズミカルに上下させるたび銃火閃き弾丸が放たれ文字通りあたり一面を煙に巻く。
 石畳に薬莢がばら撒かれる多重奏音と祝祭のクラッカーのような華やかな銃声に反応した近隣住民が、何事かと窓を開け放ち隣人と競い身を乗り出す。
 老朽化した安アパートが猥雑に立て込む路地裏に人声が沸騰する。
 「なんの騒ぎだ!?」
 「ギャングの銃撃戦?」
 「こら、顔をだしちゃいけません!」
 ランニングシャツの親父が新聞片手に窓から顔だしベランダに植木鉢を並べた老婦人が下の通りを窺い、手摺に掴まり立ちした幼児をエプロン姿の母親がすさまじい剣幕で叱り付ける。
 物見高くベランダに殺到した住人たちは眼下の光景に完全に虚を衝かれる。
 通りの真ん中に突っ立っているのは十代半ばの少年がただ一人。
 ギャングの抗争かマフィアの銃撃戦を予期してベランダに飛び出した住人たちは肩透かしを食らう結果となったが、それは早とちり。
 衆人環視の中、通りの真ん中に立ったディアボロがおもむろに両腕を伸ばす。
 その手に握られている銃を見て、遅ればせながら事の深刻さを悟った住民たちが悲鳴をあげる。
 「ひっ、」
 「あの子わたしを狙ってるの美しさは罪だから!?」
 「外にでちゃいけません、中に入ってなさい!」
 恐慌に陥った住民たちへ銃口を向け巻き添えで何人死のうが構わないといった豪快さで一寸の躊躇なく引き金を引く。
 不遜な感じのする横顔に閃く銃火が凶悪な陰影をつける。
 アパートの外壁を弾丸が抉り石畳を穿ちベランダから落下した植木鉢が路上で砕け散る。
 丹精こめて育てた花が石畳に打ち付けられ陶器の鉢が木っ端微塵になる瞬間を目撃し老婦人が卒倒、生の銃撃戦に無邪気な歓声を上げる幼児を室内へ引きずりこむ母親、新聞紙を防災頭巾代わりにした親父がベランダで震えているが戦闘の高揚に取り憑かれたディアボロにはどれも眼中にない。
 彼が見ているのはただ一人、屋根の上のメフィストだけ。

 メフィストは涼しい顔。
 ディアボロの弾が顔の薄皮一枚傷付けることがないと確信した顔。
 驕り昂ぶる覇王の憫笑が闘争心に火をつける。
 
 俊敏に身を翻し、銃をひっさげアパートの入り口へと踊りこむ。
 異変を察し廊下に偵察に赴いた出た住人達が憤怒の形相で駆け込んできたディアボロと手の中の拳銃を見、連鎖的に扉を閉ざす。
 悲鳴を残して閉じたドアの前を通過し階段を駆け上る。
 錆びた手摺に縋り三段とばしで疾走、安普請らしく靴底で蹴るたび傾斜の急な階段はギシギシ軋み木っ端の微塵を揺すり落とす。
 震動が体感できる階段などものともせず踊り場を経て二階、三階へと急ぐ。
 『なにをする気だい!?』
 「決まってんだろ。殺る」
 愚問だった。
 所有者の昂ぶりがてのひらの火照りからひりひり伝わりファウストは押し黙る。
 手中から見上げたディアボロの目は興奮にぎらつき躍動感が漲り生き生きとしている。
 鎖から解き放たれた狂犬が狩りの興奮に筋金の如き筋肉を駆使し、全力で獲物を仕留めにかかったかのような迫力。
 老朽化した壁から漆喰が剥落しスーツに白い粉末を降りかける。
 ディアボロはそれにも気付かず交互に足を繰り出し一気に三階まで駆け抜ける。
 階下の騒音に矢も盾もたまらなくなった住人達が廊下に湧いて出、階段から飛び出してきた見知らぬ少年に吃驚目を丸くする。
 ここが最上階。
 屋根に出るための方法は一つしかない。
 「出口がなけりゃ作れりゃいい」
 脳裏に閃いた方法を即座に実行に移す。
 抜群の瞬発力で床を蹴り、手前のドアから顔を覗かせる半裸の男めがけて突進する。
 ぎょっとした男は慌ててドアを閉めようとしたが、遅い。
 一秒速く隙間に靴を噛ませ、力づくでドアをこじ開けにかかる。
 「な、なんの真似だガキ!?借金の取立人なら明日にしてくれ、今取り込み中なんだよ!!」
 「お前の懐事情なんか知るか、命があるだけ儲けもんと思え!」
 周章狼狽した男への説明に省く手間が惜しく両手でドアを引く。
 深緑のペンキで塗られたドアはところどころ色が剥げ落ち、錆びた蝶番はぎぃぎぃ死神が鎌を研ぐような軋り音をたてる。
 不協和音奏でるドア一枚隔て両者一歩も譲らぬ攻防戦を繰り広げる。
 戸板を片足で押さえ、ノブを両手でがっちり固定した男はなかなかしぶとい。
 額に汗して抗う男に激発したディアボロは右手の銃を振りかざすや、考えるより早く引き金を引く。
 『なっ、』
 ファウストが何か叫んだ気がしたが連続した銃声と飛散した木片に遮られ聞こえない。
 喧々囂々の騒動が気になり廊下に集まり出した野次馬たちが悲鳴を上げ離散する。
 ノブの抵抗が消滅したすきに付け込み、弾痕に引き裂かれたドアを肩で押し開けなだれこむ。
 最前までディアボロと争っていた男はこの暴挙にへなへなと腰を抜かし、下半身にタオルを巻いただけのみっともない格好で玄関マットにへたりこむ。 
 彼があれほどまでに入室を拒んだ理由は敷居から三歩目に判明した。
 窓際のベットに全裸の女が寝ている。
 裸の胸まで上掛けをたくしあげた女は、突如押し入ってきた不審人物に情事を妨害され声もでないのか、ぱくぱくと口の開け閉めを繰り返すばかり。 しかし徐徐に状況が飲み込めてきたらしく、ドアを破壊した上に自分の痴態をも不躾に眺めやる横暴な闖入者に怒りを露にする。
 「あ、あんただれさ!?失礼じゃない、人んちに勝手に……」
 「のけ売女」
 大股に部屋を横切り、ベッドへ飛び乗る。
 乳房を上掛けで隠し発情した雌猫のような割れたソプラノを張り上げる年増女は完全無視、シーツに足跡が付くのも構わずその下半身を跨ぐ。
 手を伸ばして窓の鍵を開錠、限界まで押し上げる。
 窓から身を乗り出し頭上を仰ぐ。
 
 いた。

 窓枠に片膝乗せる。
 上掛けですっぽり上半身を覆い、沸騰したケトルのように間延びした金切り声をあげ続ける女のもとへ理性を回復した男がこけつまろびつ駆けてくる。
 腰からずり落ちたタオルを踏み付け萎えた股間を丸出しにした男を一瞥、ディアボロは呟く。
 「窓枠掃除しとけ。部屋が汚ねえと埃を被った冷蔵庫と女の区別もつかねえ」
 羞恥から戸惑い、憤怒へとめまぐるしく変化した女の形相に背を向け、窓の横、外壁に設置された配水管を掴む。
 ディアボロが窓枠を蹴るのと背中に枕が投擲されるのは同時。
 目測を誤った枕が路上へと落下、折悪しく通りかかった車のタイヤに轢かれ盛大に羽毛を撒き散らす。
 配水管をとっかかりにディアボロは器用に屋根へと上る。
 三階の窓から屋根までは2メートル足らず、身のこなしの軽い彼には苦もない芸当。
 配水管にぶらさがり軽快に外壁を蹴り、振り子の反動で上方へ移動。
 雨樋に手をかけ、腹筋を撓めて一息に体を押し上げる。
 屋根に降り立つやファウストを手探り、全弾撃ち尽くし空になった弾倉に弾丸を装填。
 目を瞑っていても楽勝。
 一連の過程は手が完璧に記憶している。
 指の先端に通った神経のそのまた先端が瞬時に弾の表面その研ぎ澄まされた形態と人命を確実に奪う鉛の硬度を知覚、小指の先から心臓へ血が還るより速く回転式弾倉に一つ一つ弾を詰めていく。
 装填完了。
 準備万端整った。
 肩を上下させ深呼吸、肺を目一杯膨らませる。
 「出てきやがれ黒巨根もといマニアックな触手プレイが大好きな変態ファッキンメフィスト!!」
 からりと晴れ渡った蒼穹に殷殷と声がこだまする。
 反応はない。
 窓から見上げた時は確かにいたが、ディアボロの到着と同時に忽然と消えてしまった。
 なだらかな勾配の屋根を歩きながら油断なくあたりを見渡し、さらに近所迷惑な大声を張り上げる。
 「聞いてんのかファッキンメフィスト、全身の生皮剥がしてタバスコすりこまれるのと背骨引き抜いて犬に食わせるのとどっちがマシだ!?十本の指全部の生爪剥がしてそのあとによーく火で炙った針を刺してやる、十本指に一本ずつじゃねえ一本の指に刺せるだけたくさんの針だ、お前の手を剣山にしてやるよ!!」
 返事はない。
 階下の窓が開け放たれ住人達が次々身を乗り出す。
 向かいのアパートの窓も一つ残らず開け放たれ物見高い住人たちが窓枠から精一杯身を乗り出しては、こちらを指さして口々に喚いている。
 お節介な住人が屋根の上のディアボロを何と思ったか電話のダイヤルを回し始める。
 警察に通報するつもりだろう。
 『デイアボロ・デミトリ、ご近所迷惑してるようだけど』
 変質者と誤解されかねないあるじの奇行に心を痛めるファウストを無視、死角を作らぬよう屋根の上を視線で走査しつつ慎重に歩を進める。
 メフィストの姿はどこにもない。
 跡形なく消失している。
 相手は神出鬼没の化け物だ。常識は通じない。瞬間移動も物質透過もなんでもござれ、物理法則を逆手にとる掟破りの万能精霊だ。
 どこだ?
 どこからくる?
 周囲にぎすぎすした神経を張り巡らせる。
 一歩ごとに集中力を高め、ひりつくような興奮と焦燥とに炙られ五感を総動員し敵影をさがす。 
 焼けたトタン屋根の上の猫の気分。
 しっぽの先からじりじり焼かれているよう。
 日光に熱された屋根の温度を靴裏に感じつつ右手に持つ銃の重みを確かめ、油断なく警戒を強めて次なる一歩をー 
 
 『ここだ』

 「!」
 即応。
 振り向きざま引き金を引く。
 甲高く乾いた銃声が炸裂、向かいのアパートで見物していた住人が頭を引っ込める。
 メフィストが、いた。
 いつのまに背後をとられたか、全然気付かなかった。
 ディアボロの背後に毛ほどの気配もなく移動するなり銃弾の洗礼を受けたメフィストは、それを予期していたが如く悠々と宙に舞い、ディアボロの頭上で優雅に身を捻り遥か前方の地点へと着地する。
 脚のバネを極限まで鍛えた黒豹をおもわせる人間離れした跳躍力。
 艶やかな黒髪を広げディアボロの前方六フィートの地点へ降臨したメフィストは、抱擁を真似て腕を開く。
 『我がいとしのファウスト……』
 禍々しい緋色の双眸に挑発の光が瞬く。
 『その少年に、はたして私を追い詰めるだけの能力があるかな』
 銃声が答えだ。
 連続して引き金を引きながら屋根の縁を疾駆、メフィストと一気に間合いを詰める。
 『挑発に乗るな、ディアボロ・デミトリ!』
 「だまりやがれファウスト!」
 『メフィストは君の事をからかっているんだ……今はまだ』
 「本気をだしてないってか?」
 硝煙に巻かれながらディアボロは笑う。
 「……おれはな、野郎からキスされるのがでえっ嫌えなんだよ」
 屋根に片膝付いた体勢から両腕を束ねて突き出し銃を固定、硝煙の帳に閉ざされた黒影を照準、標的めがけ弾を撃ちこむ。
 「フレンチキスで俺を天国に逝かせなかったのが命取りだ……イく前に逝っちまいな!」
 銃火閃き硝煙漂う蒼穹の戦場をメフィストは大鴉のように舞う。
 黒髪が翻るたび高速移動が生んだ残像が分裂し新たな分身を作り出し、幾体ものメフィストが屋根の上に散開し円形の布陣を敷きディアボロを撹乱する。
 メフィストの服が変化し触手が生じたのと同じ現象。
 メフィストの服が四肢に沿って溶け落ち足元で吹き溜まりを形成、急激に影が広がりつつある。 
 侵食。
 今や自分の何倍もの巨大な影を備えたメフィストと対峙、ファウストが警告を放つ。
 『ディアボロ・デミトリ、あせりは禁物だ』
 「おいぼれの説教なんて便所に流しちまえよ」
 『真面目に聞いてくれ。メフィストは悪霊だ、鉛の弾丸なんて通用しないよ』
 「ああ!?今更なに言い出すんだよっ」
 『全部無駄弾だったろう』
 なんてこった。
 じゃあメフィストに致命傷を加えようと企てた自分の行為は弾丸を十数発浪費しただけで、まったくもって不毛な行為じゃないか。
 二人が言い争う間にも影は着実にその支配領域を拡大しつつある。
 今やメフィストの身長の十倍にも達するだろうかという影は、刻々と輪郭を溶かし変え不気味に蠢きつつディアボロの方へ忍び寄る。
 「教えろくそったれファウスト、奴を殺すにはどうすればいい!?」
 『それはー……』
 屋根を覆い尽くした影が革靴の先端に届く。 

 『教えない』

 足元をすくわれ吹っ飛ぶ。
 屋根の平面に溶け広がった影はディアボロの足元に到達するや立体化し、触手の形をとって彼の足首を掴み、遠心力を加え放り投げる。
 屋根の斜面を錐揉み転げながら滑降する。
 上腕部に衝撃、背中に激痛。
 頭蓋骨の中で脳味噌がめちゃくちゃに攪拌され三半規管が混乱、反転する視界に酔いながら虚空へと放り出される。
 手首に鈍い抵抗。
 体が宙に浮き、爪先が空に垂れる。
 咄嗟の機転。
 雨樋に銃を引っ掛け辛うじて落下を食い止めるも腕一本で自重を支え続けるのは物理的に不可能。
 雨樋からぶらさがったディアボロのもとへ影を呼び戻したメフィストが接近する。
 手慰みの狩りで仕留めた兎をとりにくるような悠然とした足取りで、唇に笑みを含ませ、着実にこちらへと近づいてくる。
 「………答えろファウスト。奴を殺るにはどうすればいい」
 大量の脂汗が顔に滴る。
 片腕一本で体を支え続ける負担は想像を絶し、早くも腕がだるくなり始めている。 
 脱臼の痛みを堪えながら聞けば、諦念に支配され始めたファウストが耳元で呟く。
 『……どのみち無理だ』
 「いっぺん死んでみるか?おまえに相応しい死に方三つばかしひらめいたぞ。一つ、肥溜めに捨てる。二、便所に捨てる。三、海に捨てる」
 『どれもお断りだね』
 「銃がいっちょまえに意見か?しゃらくせえ」
 悪食の悪霊がこちらにやってくる。
 ゆったりとした身のこなしで黒髪を風になぶらせ、凱旋する覇王の如き威厳と風格を兼ね備えて。

 赤い目が輝く。
 脅威。

 『少年よ………』
 万人を魅了する極上の笑顔を湛え、悪霊が言う。
 『ものは相談だ。私にファウストを返してくれないか』
 「………返す、だと?」
 メフィストは立ち止まる。
 折から吹いた風が艶やかな黒髪を吹き乱し、背景に広がる青空との対比が黒い長身を際立たせる。
 厚い肩幅と逞しい胸板、安定した腰が奇跡的な均衡を保ち、彫刻の造形美を具現化したすばらしい肉体を形作る。
 のびやかな四肢は胴体と釣り合いがとれ、端正に尖った顎にはノーブルな気品が漂っている。
 間近で見たメフィストは、地上に降臨した終末の魔王さながら美しく強大だった。
 人間の意志など容易にねじ伏せてしまうほどに。
 『そう、返すんだ』
 一言一句、アクセントを付けて繰り返す。
 命令と表現するにしては威圧感が欠落した優しい声音で、幼児に道理を噛み含めるように丁寧に諭す。
 『ファウストは魂の片割れだ。かけがえのない存在だ。ファウストがいなければ私の生は死も同然。私がいなければファウストの生は死も同然。私たちは世界に二人きりの同胞……たがいがたがいを補完しあうことで初めて完結する存在なんだ』
 宙吊りのディアボロに含みありげな流し目を向け、理解度を確認しながら続ける。
 『本が開かれた時、私は率先して外へ飛び出した。何世紀も本の中に閉じ込められていい加減退屈していたからね、はやく美味しい魂を喰らい飢えを満たしたかったんだ。ところがだ、この私ともあろう者が失念していた。本の中に大事な兄弟を残してきたことに外へ出てから気付いたんだ』
 甘美な妄想に取り憑かれたメフィストが恍惚と目を細める。
 『ファウスト……君はいつも私を追いかけてくれた、君だけが常に私を見てくれた。愛を解さないこの私が、君には愛情に近しいものを感じている。さあ、監視役などという退屈な束縛から逃れ私と魂を貪り尽くそうじゃないか。この世界は素晴らしい、欲と死と生にまみれている。そのすべてが混沌とまじりあい、醜くも美しい。この素晴らしい世界で君と二人、永遠を生きられたら……』
 にっこりと微笑む。
 『これほど素晴らしいことはないだろう』
 『………異論があるね』
 雨樋に引っ掛けた銃口から細い煙が立ち上る。
 滔々たる演説に異を唱えたのは、ディアボロが手にする銃そのもの。
 銃口から流れ出た煙は濛々と一箇所に集まり霊験な作用によって人の似姿を形成していく。
 見えざる神の手で捏ね回されたかのように煙であって煙でない不思議な気体が瞬くまに足を成し腕を成し肩を成し全体を現し、細部まで完璧に人間を模写した幻影を映し出す。
 悪霊と対となる精霊が降り立つ。 
 屋根に片膝付いた姿勢で具現したファウストは、雨樋からぶら下がったままのあるじを心配げに見やってからメフィストに向き直る。
 『前半は正しい。僕らは二人で一人、陰と陽に相当する。どちらか一方が欠けてもぼくらはこの世に存在することができない―言葉を変えれば、非常に不安定な存在なんだ。ぼくはこうして物に乗り移らなければ外の世界で姿を保てないし、それはメフィスト、君もおなじだろう?……それは、ぼくらが本来外にでる必要がないからだ。僕らは使命は知識の守り人、本に封じられた魔法を未来永劫管理する係。しかし君は己に課された使命を捨て、欲望が赴くままに人々の魂を貪りだした』
 片割れの罪状を淡々と責めながら沈痛に目を閉じ、伏せた顔に苦悩を浮かべる。
 『契約違反だ』
 『八百年も虜囚でいたのにまだ年季が明けてないとはね』
 どこまでも律儀な片割れに呆れたのか微苦笑するメフィストにも怯まず、愚者の霊を名乗る青年は毅然と答える。
 『ぼくには使命がある。乱れた秩序を回復し、綻びを直し、きみと共に本の中へ帰還する。たとえ君が嫌がってもだ。君がどう思うかなんて関係ないし興味もない』
 愛する片割れの辛辣な台詞にもメフィストは動じない。
 眩いものを見るかのように目を細め、睫毛の先をかすかに揺らす。
 『君は変わらないな。八百年前も今も変わらず潔癖で誇り高い』
 『これが僕だ』
 ファウストが目を開く。
 メフィストと似て非なる白磁の美貌が凛々しく引き締まる。
 『だからこそ君を伴侶に選んだ。愚者の霊ファウスト……いや、その真名は』
 「痴話喧嘩より人命救助を優先しやがれ」
 下方から今にも死に絶えそうな声が聞こえ、悪霊と精霊はそろって下界を見下ろす。
 頭上で繰り広げられる人外の会話も上の空に、宙吊りになったディアボロが忌々しげに顔を歪めている。
 そろそろ片腕一本で体を支え続けるのも限界にきている。
 銃を握り締めた手首が雨樋からずり落ち、宙吊りの体が不安定に傾ぐ。
 『ファウスト』 
 メフィストはおだやかに口を開く。
 『おまえはその少年を選ぶのか』
 『そうだ』
 ファウストは間をおかず答える。
 少し逡巡し、付け加える。
 『たしかに彼は品性が卑しく言動は粗暴で下劣極まりない。行儀作法も褒められたものではないし、目上への口のきき方もてんでなっちゃいない。女性にも平気で暴力をふるう最低な男で、自室ではひどい騒音としかおもえない音楽を一日中流している。口笛も音痴だ。歌はもっとひどい』
 「おいこら」
 『二日ほど行動を共にしてみたがおおよそ褒める所が見つからない。人間としては最下等の部類に入るだろう。正直彼には辟易している。人のことをぽんぽん宙に投げ上げてもてあそんで、これから一緒にやってゆこうという友に酷い仕打ちじゃないか。あと、服の趣味もどうかと思う。当世風の衣装にはくわしくないから断言できないが、十代半ばだというのにあの服装と立ち居振る舞いは……奇抜をとおりこして奇妙奇天烈、理解に苦しむ』
 「てめえ」
 『でも』
 言葉をおき、ひたとメフィストを見据える。
 八百年間メフィストが傍におき愛で続けた真紅の目が、己の使命にどこまでも忠実に、己の意志を伝えようとする。
 抜けるような蒼穹の下、チェス盤を彷彿とさせる赤茶を基調にした屋根の上で黒と白が対峙する。
 あたかも見えざる神の手により配されたチェスの駒のように対峙し、運命の悪戯により現世に召還された愚者の霊が宣言する。
 ほのかな微笑を浮かべ。
 自分の選択に賭けるように。
 『ぼくは彼に賭けた……彼の粗暴な魂は、その邪悪さ故にひどく打たれ強く、逞しい』
 そしてふたりは袂を分かつ。

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Devilish | コメント(-) | 19951212122803 | 編集

 『それが答えか……残念だよ、ファウスト』
 黒尽くめの輪郭が奇怪に歪曲、骨格から再編される。
 腰まで届く黒髪がしなる蛇の如く巻き戻され完璧な八等身が縮む。
 狂気の産物の抽象画のように玲瓏な容姿に変化が起きる。
 顎と頬骨がいかつくはりだし眼窩が険深く落ち窪み袋叩きにされたボクサーのように鼻が扁平に潰れ神々しいばかりの美形が下卑た悪相に成りはてる。
 廃工場でディアボロを撃った張本人がそこにいた。
 「特殊メイクか?」
 雨樋に片手でぶらさがり、強気に口笛を吹く。
 腕が引き攣り痺れ、脂汗にまみれた絶体絶命の窮地にあってなお強気な態度を失わないディアボロに、ファウストが囁く。
 『メフィストの特性さ。彼は魂を食らった対象と交わる、時間が経つごとに同化が進む。その変化は完璧で、雑踏に埋もれてしまったら普通は気付かない』
 「俺の前に姿を出したのはわざとか?」
 『曲解されては困る。せっかく迎えにきたというのに、同胞に私がわからなかったら哀しいだろう』
 ディアボロを撃った男が洒脱に肩をすくめる。
 思い出す。
 ディアボロに銃口を向け引き金を引き楽しげに楽しげに哄笑したあの男が、薬莢が跳ねる伴奏に合わせサックスでも弾くかのような気軽さで引き金を引き続けたあの男が寸分違わずそこにいる。 
 体を乗っ取ったのか。
 5-1=4。
 単純な引き算。
 消去法が導き出した結論。
 生き残った男はしかし、「生きて」はいなかった。
 生ける屍と化し悪霊に操られていたのだ。
 『まったく妬けるね……』
 元の持ち主に顔を戻したメフィストが中腰の姿勢からディアボロへと手を伸ばし、指をこじ開け銃を取り上げる。
 「アンジェリコ・スナフに触んな」
 いきがってみせたところで、雨樋にぶらさがったままでは迫力が足りない。
 銃を取りかえそうにも手を放した瞬間に真っ逆さまだ。
 二律背反に苦しむディアボロを見下ろし交互の手で銃を弄んでいたメフィストが悪戯めかしてほくそえむ。
 鎌首もたげる毒蛇のように銃口が持ち上がりディアボロの眉間を照準する。
 この至近距離からでは避けようがない。
 『メフィスト、やめろ』
 四十五口径の威力は強烈だ。
 至近距離で撃てば顔が半分消し飛ぶ。
 メフィストの意図を察したファウストが立ち上がりしな懇願するも、銃を構えたメフィストは笑みを崩さず飄々と言ってのける。
 神々しいばかりの美貌にわずかばかりの茶目っ気を添え、
 実にあっさりと本音を打ち明ける。
 『白状するが、ライバルには寛容になれないんだ』

 訣別の挨拶は短かった。

 天高く乾いた銃声が響き、火薬の匂いが鼻孔を衝く。
 硝煙たちのぼる銃口をおろし、屋根の縁へと歩を踏み出したメフィストの眼下でけたたましい騒音が連鎖する。
 メフィストは品よく眉をひそめる。
 『失敗した』
 発砲の直前に雨樋から手を放し垂直に風切り落下、頭髪を一房犠牲に弾道を逸らす。
 三階の高さのある屋根から落ちたのだ、運がよくても全身骨折は免れない窮状を救ったのは路地に張り渡された物干しロープ。
 ロープが緩衝材の役目を果たし衝撃を軽減、風に捲れ膨らんだシーツがディアボロを包み込み落下傘を代用する。
 ディアボロの体重を受け勢い良く撓んだロープの一部がちぎれ吊られた洗濯物を万国旗の如く翻し崩落、彼の姿を覆い隠す。
 『ディアボロ・デミトリっ!』
 屋根に手を付いたファウストが叫ぶ。その顔に浮かぶのはあるじの身を一途に案じる色。
 ディアボロの身を慮り、憂慮に顔を曇らせたファウストの耳に、近隣住民の非難の声が飛び込んでくる。
 「なんてことしてくれんのよあんたっ、また洗濯しなきゃなんないじゃないっ」
 「あーん、私のパンティーどこへやったの!?」
 「鬼ごっこなら別の場所でやれクソガキ!」
 赤ん坊を背負った女が窓から身をのりだし舞い散る下着を掴み取り、縮れ髪にカーラーを巻いた水商売風の女が下着姿で嘆き、赤ら顔の大男がウイスキーの瓶を振り回し酒焼けした声で大喝する。
 所帯じみた罵詈雑言の数々が洗濯物舞う路地を彩る。
 『ディアボロ・デミトリ、無事なら返事をしてくれ!』
 縋るように叫ぶファウストの足首にくんと求心力がかかる。
 『!ぅわ、』
 次の瞬間、ファウストもまた屋根の斜面を滑降し真っ逆さまに路地裏に放り出される。
 忘れていた。
 僕と銃とは繋がってるんだ。
 目を閉じる。
 開ける。
 位相転移完了。
 『大丈夫かい?』 
 ロープが崩落した薄暗い路地裏に声を投げ掛ける。
 落下地点はゴミ捨て場だった。
 魚の骨やフライドチキンの骨、悪臭ふんぷんたる生ゴミの山に埋もれたディアボロはかすり傷の他にめだつ外傷もなくぴんぴんしている。
 「………野郎」
 にんじんの切れ端をぺっと吐き出す。
 スーツのあちこちに腐汁の染みができ野菜の切れ端がへばりついた酷い状態のあるじを確認、ファウストは安堵する。
 『万事休す』
 どこがだ。
 腹立ち紛れに腕ふりかぶり放り投げようとして、大音量のサイレンに思いとどまる。
 狭い路地の入り口をパトカーが封鎖、住民の通報を受けた制服警官が続々降りてくる。
 路地の峡谷から頭上を仰ぐ。
 メフィストは消えていた。
 ああ。
 今日は厄日か? 
            
                            +


 ファイブリィ市警中央署はコーヒーがまずくて有名だ。 
 中央署。
 その名が示す通りファイブリィのほぼ中心―厳密にはやや旧市街よりーの微妙な立地の警察署で、主に歓楽街の治安維持を担当している。
 歓楽街は人種の坩堝。
 ファイブリィ市外から流入してきた移民や密入国者が集まり多様な文化と言語が共存する。
 猥雑な街ではさまざまな事件が起こる。
 人身売買、拳銃・麻薬の密売、傷害と殺人と詐欺。その他もろもろ犯罪の三ダース展覧会。
 一日の死者は一桁で足らず、大通りを逸れた路地裏や地下にもぐったバーでいかがわしい商いが行われているのはファイブリィ市民の間に広く浸透した常識といっていい。
 当然、繁忙を極める中央署の刑事に求められるのは明晰な頭脳より腕っ節と喰らい付いたら離れないド根性。
 それ故中央署の刑事はそこらのケチな悪党よりよっぽど柄が悪くこわもてばかりと評判だ。
 中央の手摺りによって左右対称に区切られた階段をのぼり、立ち番の巡査に挨拶して玄関の回転ドアをくぐる。 
 陽気な鼻歌まじりに異常に長い手足をふりふり受付カウンターに歩み寄った刑事は、胸にホットドッグを詰めた紙袋を抱えている。 
 今日は彼が夕飯の買出し当番。
 それでなくても今日は午前中に出動がかかり、以降捜査にかかりきりでろくな休みもとってないのだ。
 空腹を紫煙で紛らわす先輩がキレないうちにと一ブロック先の屋台にひとっ走りしてきたチャーリー・ブルックリン・ジュニアは、受付カウンターに座る美人婦警のもとへ勇み足で向かう。
 「なんのご用ですかブルックリン刑事」
 「なんのご用ですカって冷たいネ、エリザベス」
 なれなれしくカウンターに肘をおき、長身を折って覗き込んでくる男に婦警はツンと澄まして対応する。
 「ブルックリン刑事、あなたに呼び捨てにされる覚えはありません」
 「それはナイでショ!ぼくと君は昨日、南極の氷を溶かして天高くペンギンが飛翔するホド激しく熱く愛し合ったじゃないカ!」
 「……あなたが帰ったあと引き出しを開けてみたわ」
 その瞬間のチャーリーときたら傑作だった。
 ムンクさながらこの世の終わりのような顔をしたチャーリーを辛辣に一瞥、エリザベスは淡々と付け加える。
 「私のヘソクリが消えてたのはだれの仕業かしら?ねえ、チャーリー」
 「用事を思い出したYO!さらばジャ」
 すたこら退散しかけたチャーリーの後ろ襟を掴み細腕に見合わぬ力で引き戻し怒り狂ったメドゥーサもかくやの形相で恋人の不実を追及する。
 「刑事が泥棒するなんて信じられない」
 「ご、誤解だYOエリザベス!ぼくは神に誓って無実、ドルに誓って無実サ!」
 「鑑識課に友人がいるの。引き出しの指紋検出してもらいましょうか」
 「スイマセン、ぼくがやりましタ」
 土下座したチャーリーのネクタイをぐいと掴んで引き起こし慈悲ぶかい聖母の微笑を注ぐ。
 後光さす神々しい微笑に許しを得たと錯覚したチャーリーが安堵に笑み崩れた刹那。
 甲高い音が署内に響き渡る。
 書類を山と抱え行き交う婦警やケチなスリに手錠を打ち連行してきた刑事があぜんとする。
 チャーリーの横っ面に痛恨の一撃を見舞い、感情が一滴も含まれぬ平板な声で告げる。
 「たのしかったわチャーリー。今日でお別れね」
 あざやかなピルエットをひとつ演じ彼の人生から永遠に立ち去るエリザベス、スリットから覗く魅惑の脚線美を目で追い失意に沈むチャーリーの肩にぽんと手がおかれる。
 隣を仰げばスヴェンがいた。
 気の毒そうにチャーリーを見やり紙袋からホットドッグを掴み取る。
 「食え。出して忘れろ」
 「センパーイ!!」
 煙草臭いシャツに顔埋め号泣するチャ―リーに同僚の視線が集まる。
 感激したチャーリーに抱擁される格好となったスヴェンは誤解を恐れ即座に立ち上がり、右足に縋り付いた後輩をひきずりながら廊下を歩く。
 「ううー、今日からぼくは宗旨替えしますYO!兄貴と呼ばせてくだサイ!」
 「だれが兄貴だ、人種がちがうだろが」
 「人種なんて些細な問題じゃないですYO、人類みな兄弟ですYO!」
 「美しい概念だな……とにかく俺の右足にキスするのはやめてくれ」
 行き交う刑事に目礼し殺人課のデスクへと向かう途中、片足にぶらさげたチャーリーがホットドッグを頬ばり職業的好奇心から訊ねる。
 「そういえバ先輩、さっきの発砲騒ぎはなんだっタんですカ?殺人現場のすぐ近くで銃声だなんて物騒ですネ……今回の事件と関係あるんデショウカ」
 「いんや全然」
 にわかに肩の凝りを感じ、スヴェンがため息を吐く。
 「あれはいつもの―……」

 「ふざけるのもいい加減にしやがれ!」

 取調室のドアを突き抜ける罵声に折悪しく通りかかったスヴェンとチャーリーが仰天する。
 「な、なんだあ?」
 口から煙草を取りこぼしかけたスヴェンがドアに向き直り、煙草の灰が手の甲に降りかかったチャーリーが「あちチチ!?」と狼狽する。
 驚いたのは二人だけではない。
 賭博で検挙した犯人を留置場へ連行してゆく道中の刑事も、廊下の長椅子で仮眠をとっていた刑事も、湯気たてる紙コップから不味いと評判のコーヒーを啜っていた刑事も、廊下に居合わせたすべての者達が一瞬足を止め取調室のドアを注視する。
 「ふざけてんのはお前のネクタイの柄だ。なんだその安物のスーツは?ワイフの趣味を疑うぜ」
 「……生憎と俺は独身だ」
 「じゃ、センス悪いのはお前自身か。だよなあ、お前みたいに小便のキレ悪い中年とこに嫁入りするのは国籍欲しさに偽装結婚企む密入国者ぐらいだよなあ。ま、その手の女はこの街に掃いて捨てるほどいる。にもかかわらずお前が独り身なのはセックスの作法に問題あるとしか考えられねえ」
 聞き覚えのある声。
 慌ててホットドッグを咀嚼嚥下するチャーリーに合わせ、スヴェンは煙草を摘んで口から抜き取り小さくドアを開ける。
 ドアの隙間から覗いた室内は、ステンレスの机と折り畳み式のパイプ椅子が三脚あるだけの狭苦しく殺風景なもの。
 部屋の三分の一を占領する机に手を付き鼻息荒くするのはスヴェンとも顔見知りの刑事、隣で調書をとっているのはその後輩。
 そして対岸には。
 「おれの推理聞くか?」
 ステンレスの机にだらしなく肘を付いたその人物は、現役の刑事二人を相手にしても臆することを知らない。
 良識人の神経を逆なでするチェシャ猫の笑みを満面に広げ、人さし指をぴんとおったてる。
 「察するに刑事さん、あんたは超ド級の変態性欲者とみたね。娼婦に変態的なプレイ強制して顰蹙買ったこと数知れず。あたり?その顔はあたりだな。オーラルセックスよりアナルセックス、アナルセックスよりスカトロが好きなド変態のブタが、口臭まきちらしておれ様に説教たあ一億年はやいぜ」
 いやらしい笑みを浮かべ少年が身を引くや、爆発の勢いで机がひっくり返る。
 怒りが臨界点を突破した刑事が遂に強行手段に及んだらしい。
 机を蹴り倒し、椅子を踏み倒して少年に殴りかかった先輩を傍らの若手が「どうどう!」となだめにかかる。
 が、血が沸騰した先輩の耳には制止も届かず被疑者の襟首を鷲掴みにして馬乗り口角泡をとばして叫ぶ。
 「調子にのるなよクソガキがっ、てめえがマフィアの次期ボスだろうがなんだろうが関係ねえ!留置場にぶちこむ前にたっぷり世間様の厳しさ教えてやる!」
 横幅の厚い男に全体重をかけて組み敷かれ床に後頭部を付けた被疑者は、そんな状況だというのに声をあげて笑っている。
 無反省な態度に憤激、唾とばし哄笑する顔面めがけ鉄拳を振り上げる。
 「やべっ!」
 スヴェンの行動は迅速だった。
 力一杯ドアを開け放ち、くたびれた背広を翻し颯爽と取調室に飛び込む。
 背後から同僚に突進、空に翳された拳を掴んで止める。
 怒り狂う同僚を羽交い絞めにし耳元でささやく。
 「落ち着けウルフ、相手はガキじゃねえか。挑発にのるな」
 「ガキだろうがなんだろうが関係ねえ、一発ぶん殴ってやんないと気がすまねえんだよ!」
 後輩と同僚、二人がかりで押さえ込まれた刑事をよそに被疑者はけらけら笑っている。
 救援に駆け付けるタイミングを逃し、なす術なくドアにもたれていたチャーリーを突き飛ばし貧相な面つきの小男が転がり込む。
 一応これでも上司。
 「おまえら、なにしてる!このガキはーじゃないーこの方は旧市街有数の名士、デミトリ老の実の孫だぞ!取調べは慎重にご丁重にと、きつく言い聞かせただろうが!」
 顔面蒼白のリッツ警部になじられ、スヴェンに羽交い絞めにされた刑事は不満たらたら不承不承拳をおさめる。
 気持ちはよく分かる。同情する。
 心中複雑なスヴェンをよそにリッツ警部は被疑者に体ごと向き直り、おもねりの笑み全開で恭しく助け起こそうとする。
 「お怪我はございませんかお坊ちゃま?ああ、スーツが汚れてしまいましたね。クリーニング代は署が負担しますのでこの事はデミトリ老にはどうかご内密に……」
 「さわるなドブネズミ」
 下心見え見えの手を邪険にふりはらい、尻を叩いて立ち上がる。
 怒り心頭振り上げた拳が不発に終わった同僚の肩をぽんぽんと叩き、苦労性のスヴェンは腐れ縁を呪う溜め息を吐く。
 揉み手で媚を売るリッツ警部をちらりと流し見、冷え冷えした声で被疑者が命じる。
 「俺の拳銃は?」
 「はい、ただちに!上司命令だ、銃をもってこい!」
 平身低頭したリッツ警部は、うってかわって居丈高に唾とばし、最前までタイプライターを叩いていた若手に銃をもってくるよう命じる。 
 銃を取りに遠ざかってゆく慌しい靴音に耳を傾け、スヴェンは肩を竦める。
 「話は聞いたぜ。その年ンなってひとり鬼ごっこたあ、可哀想に遊び相手がいなかったせいでギャングエイジが卒業できてねーみたいだな。それとも何か、下着狙いか?お前が屋根の上でぶっぱなしてはしゃいだせいでお気に入りの下着が台無しだって抗議電話がじゃんじゃん署に入ってるぜ、クリーニング代全額負担しろよ」
 「マーヴェリック刑事、なんてことを!」 
 身の程知らずなタメ口を叩いた部下をリッツ警部は厳しく叱責する。
 年少の被疑者は床に倒れた椅子を蹴飛ばし、刺すような視線をスヴェンに叩き付ける。
 「聞いておどろけ」
 おもわせぶりに一呼吸おき、被疑者は言った。
 「悪霊と鬼ごっこしてたんだ」

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Devilish | コメント(-) | 19951211150925 | 編集

 ファイブリィ中央署、待合所の長椅子。
 本格的に夜を迎える前、黄昏時の待合所はさまざまな用向きの人間でごったがえしている。
 生活安全課の遺失物係に財布を紛失した婦人が相談、痴話喧嘩の引っかき傷も生々しい風采の上がらない男が「トースターで殴り殺される前に女房を逮捕してくれ!」と通りすがりの刑事に哀訴、地下ルートで流通する無修正のポルノ雑誌を押収した刑事がそれを回し読み「すっげえ」「開脚前転だ」「ボンテージは線がくっきり浮くのがいいよな」と興奮の雄叫びをあげ書類整理中の婦警に白眼視される。
 多忙を極める個々の業務とは裏腹に全体を見渡せば実に平和な光景。
 待合所の喧騒と向き合いスヴェン・マーヴェリックは渋面でコーヒーを啜る。
 カフェインとニコチンにはささくれだった神経を慰撫する効果があるとは刑事歴十五年のスヴェンの持論にして信条。
 左隣では猫舌のチャーリーがちびちび貧乏たらしくコーヒーを啜っている。
 紙コップに注いだコーヒーにおそるおそる舌先を浸しては「あちっ」と過剰反応、いちいち顔をしかめる小心な後輩に苦笑し右隣に向き直る。
 ディアボロがいた。
 洗いざらしのシャツにスラックスという、スーツは一流のものしか着ないと日頃豪語している彼には珍しくこざっぱりしたいでたちをしている。
 借り物のシャツもスラックスもサイズが一回り大きく、服を着ているというより服に着られていると表現したほうがこの場合しっくりくる。
 だぶつくシャツの中で華奢な四肢を泳がせながら仏頂面でコーヒーを啜る。
 生渇きの髪が額にかぶさり気持ちが悪い。
 異臭が染み付いたスーツは署内の洗濯機で洗っているところだ。
 泊り込みの刑事のために中央署には簡易な宿泊設備があり、ディアボロはリッツ警部の特別措置という名の純然たる贔屓によりシャワーを浴びてさっぱりしてきたところだ。
 苛立たしげな手つきで濡れ髪を梳きつつディアボロは呟く。
 「中央署は人材不足らしいな」
 「どうして?」
 「あの程度でキレるなんて交渉につかえねー」
 脱力と徒労が一挙にのしかかる。
 カップを掌中でもてあそびながら苦労性のスヴェンは言う。
 「なあディアボロよ、少しはこっちの都合も考えてくれよ」
 「安月給の分際で呼び捨てにするな」
 「……一月の小遣いで株転がしできるガキに言われるとむかつくな」
 ディアボロは喉を仰け反らせ、コーヒーの残滓を飲み干した。
 「土地も買えるぜ」
 「話を戻す」
 派手に咳払いしカップの中にこもった呟きを落とす。
 「おまえの扱いには署の連中もほとほと困ってるんだ。デミトリ老の手前、むげに扱うわけにもいかねえし……力づくで自白に追い込む奥の手も使えねえ」
 「そろいもそろってフヌケ揃いだな」
 ディアボロが鼻で笑い紙コップを放り上げる。
 宙で一回転した紙コップをくしゃりと握りつぶし、あでやかな笑みを浮かべる。
 「お前の固くてぶっとい銃を口の中につっこんで前歯折ってくれりゃ、ひんひん泣きながらお望みどおりの自白をくれてやるよ」
 酸いも甘いも噛み分けた年増の娼婦に匹敵する媚態を演じ、誘うように足を崩して身を乗り出す。
 鼻先に顔を突き出したディアボロから身をかわして逃れ、スヴェンは吐き捨てる。
 「遠慮する。おれはノーマルなんだ」
 「人生には冒険も大事だぜ」
 「ケツの青いガキが目上に説教するな。二十年はええ」 
 興ざめしたディアボロを猛禽の双眸で睨み、スヴェンは遠まわしに探りを入れる。
 「街中で発砲たあ血のデミトリ家四代目ともあろう者がずいぶんとち狂った真似してくれたな。目撃者の話じゃ、おまえが一方的にアパートに発砲してたっていうし……屋根の上に黒い影がちらちらしてたって証言してる奴も少数いるが、そいつはあんまり動きが速くてはっきり顔がわかんなかったそうだ。ま、目の錯覚だろう。一度に七人も八人も分裂する人間がいるもんか」
 「…………」
 「白昼の住宅街で発砲騒ぎ起こしてまんまと逃げ切れるほど警察はあまかねえぜ」
 「…………」
 「理由あるのか」
 「だから言ってんだろ。メソジストだかマゾヒストだかって妙ちきりんな名前の悪霊追っかけてたんだよ」
 「HEY YOU!ぼくラにそんな嘘がまかり通ると思いますカ!」
 横槍を入れたのはチャーリーだ。マグカップ片手に、鼻の穴を膨らませてディアボロにくってかかる。 時代遅れのコメディアンを彷彿とさせるオーバーリアクションの顔面に紙コップの速球を投げつける。鼻を押さえて崩れ落ちたチャーリーをひややかに一瞥、ディアボロはしれっと言ってのける。
 「まかり通ると思ってますYO。嘘じゃなくて真実だからな」
 「あのなあ……」
 脱力したスヴェンの鼻先に拳銃がつきつけられる。
 床に伏せていたチャーリーが肘をついて上体を起こし、スヴェンがコーヒーカップを手にしたまま息を呑む。
 ディアボロは引き金に指をかけたまま抑揚のない声で言う。
 「証拠あるぜ」
 「証拠……?」
 訝しげな顔をしたスヴェンに銃口を擬したまま、ディアボロは叫んだ。
 「出番だ、ファッキンファウスト!」

 五秒が経過した。

 待合所を行き交う人々が刑事も民間人も問わず好奇の眼差しを浴びせる。
 なにも変化は起きない。
 スヴェンとチャーリーは口半開きの呆け顔でディアボロを仰ぎ、ディアボロはそれを上回る間抜け顔で銃口を見下ろす。
 スヴェンの咳払いが沈黙を破る。
 片手を銃口に被せてやんわり押し戻すや、同情的な眼差しでディアボロを見る。
 「……………証拠って?」
 ディアボロがここまで当惑するのも珍しい。 
 完全に不意をつかれむなしく口の開け閉めを繰り返すディアボロを前にスヴェンとチャーリーは瓜二つのしぐさで肩を竦める。
 コーヒーを飲み干し立ち上がったスヴェンは軽々しくディアボロの肩を叩く。
 「疲れてるんだよお前。パトカーで送ってやるからゆっくり休め」
 「銃に話しかけるなんて……思春期の心の病は深刻ですYO」
 チャーリーが気の毒そうにかぶりを振り、激発を堪えるディアボロの顔を覗きこむ。
 旧知の刑事二人に変人扱いされたディアボロは銃を掴んだ手を横ざまに振って反論しようとしたが、反論をさえぎるようにしてチャーリーが紙袋の中をごそごそ探る。
 「そうダ、先輩これ」
 「お、もう出てんのか。はえーな」
 マスタードとケチャップの斑点で前衛アートのように汚れた新聞紙を引っ張り出しスヴェンに渡す。コーヒー片手に三口でホットドッグをたいらげるという早食いの真骨頂を発揮したスヴェンは、手荒く音たて広げた新聞紙を顔の前にもってくるや、上から下へとざっと目を通す。
 『謎の連続殺人!ギャングと娼婦が続けて犠牲に……第三の犠牲者は誰?』
 『全市戦慄 歓楽街を徘徊する絞殺魔……警部が語る犯人の意外な正体とは』
 『犯人は被害者の愛人?』
 『タイト・ミー・ハードリー……DVの果ての悲劇、犯人は犯罪組織の一員?』
 一面に踊るセンセーショナルな見出しと購買意欲をそそる不謹慎な煽り、事件現場の写真に眉をひそめる。
 感嘆符と疑問符を多用した見出しに素早く目を通し要旨を掴む。
 早売りの夕刊を斜め読みするスヴェンの表情が次第に険を帯び口元がへの字に曲がる。
 「あンの大口叩き警部め、いらねーことまでぺらぺらしゃべりやがって……被疑者を警戒させてどうすんだっての」
 憤懣やるかたなくがさつに畳んだ新聞を長椅子に叩き付ける。
 これ以上上司への不平不満が噴出せぬよう煙草で栓したスヴェンに一瞥くれ、ディアボロは聞く。
 「犯人の目星はついたのか」 
 「さあな」
 話す気はないと態度で意思表示。
 チャーリーと違いスヴェンは手強い。大枚積んだところで買収するのは無理だ。 
 なら、手を変えるまでだ。
 「スヴェン」
 「ドルを積んでもダメだ。株転がしでもしてな」
 ディアボロの基本方針を見抜いて釘をさすも予想は外れる。
 長椅子にどっかり腰掛け不機嫌に煙草をふかすスヴェンの方へ姿勢を崩しすりよる。
 俺の口を割らせたいなら四十五口径突っ込みな、鉛弾噛み砕いてやるとふてぶてしい面構えで宣言するスヴェンの肩に手を添え、耳朶に息を吹きかける。
 「クイーンが使ってる香水知りたくねーか」
 挙動が停止する。
 「…………なんで知ってんだよ」
 「見てたろ?さっき」
 唇を奪ったときか。 
 憤怒が沸騰、嫉妬が炎上。
 導火線に引火し理性を喪失しそうになったスヴェンは平常心平常心と呪文を唱え辛うじて平静を装保つも、膝を掴んで耐える彼の耳に再び悪魔が囁く。
 「クイーンがつけてる香水知りたくねーか」
 「そんな事知って何の得があるよ」
 痩せ我慢で言い返せば、ライターを脇に放置して棒で火をおこそうとしている原始人でも見るようにディアボロがあきれ顔をする。 
 「マジで言ってんのかそれ?まさかお前真性の童貞か、三十四にもなって童貞なんていう保守カトリックの神父も真っ青な絶滅危惧種なのか、割礼が必要なユダヤ教徒か?クイーンお気に入りの香水のブランドがわかりゃデートの誘いがてらそれ贈りゃいいだろうが、好感度アップ間違いなし」
 その手があったか。
 ディアボロの提案がスヴェンの決心を震度七強で揺さぶる。
 甘言に騙されるな、悪魔の誘惑にのるなと必死に自分を戒めるもねっとり耳孔に注ぎ込まれた囁きが脳内で甘美にエコーしおめでたい頭が勝手に夢を見始める。白い歯眩い笑顔で綺麗に包装した小箱をクイーンに渡し感激したクイーンがその場で包みを解き「どうして私の好みがわかったの?」と驚き、スヴェンは「君の事でわからないことなど何もない」と愛を告白ー……
 いかんいかん。
 都合のよい妄想を追い払い、悪魔の誘惑を全力で拒んで退ける。
 たとえ一瞬でも傾きかけた心を恥じるように咳払いし、図々しく肩におかれた手を払う。
 「これから実地で調べる予定だ。お前の指図は受けねーよ」 
 男の沽券にかけ最後の一線を守ったスヴェンに鼻白み、ディアボロは身を引く。
 肩から離れた手がふざけてスヴェンの胸元をひとなでし、からかい半分に媚態を示す。
 「抜いてやろうか」
 「間に合ってるし十五歳以下の男は趣味じゃねえ」
 「入れる穴が違うだけだろ」
 あまりに即物的な猥褻表現にチャーリーが飲みかけのコーヒーを噴く。
 苦しげにむせるチャーリーをよそにディアボロに向き直ったスヴェンは、いつになく熱のこもった様子で膝つきあわせ懇々と説教を垂れ始める。
 「女体の神秘に対する最大の侮辱だぞ、それは。女の柔肌は極上の褥って諺しらねーのか」
 「しらねー」
 「作ったんだ今。十五年ぽっちしか生きてねえお前に理解しろってのが無理な話だがディアボロよ、女ってのはお前が思ってるより遥かに奥深く味わい深い神の最高傑作だぜ。クイーン見てりゃわかるだろ」
 「もう味わい尽くしたよ」
 「罰当たりが」
 「俺のお下がりでよけりゃくれてやるぜ」
 胸にじゃれつく手を掴んで引き剥がし、被疑者を絞め落とす気迫こもる凶悪な面構えをつきつける。
 「………念のために聞くが、いくらお前だってそりゃあんまりだと思うし友人なくして傷心の女に白昼堂々ンな鬼畜なまねするわきゃねーと信じてるが、あの時……」
 続く言葉をためらい一呼吸、人で賑わう待合所を神経質に見渡してから正面を向き、気後れした様子で口を開く。
 「舌、入れてなかったよな」
 「いれようとしたら噛まれた。ヒドラみてーな女」
 殺す。殺してやる絶対。お尻ぺんぺんじゃ許せねえ。
 言うに事欠いて女神をヒドラ呼ばわりされ憤激、しかもしかもこの不遜なガキは身の程知らずにもクイーンの傷心に付け込んで舌を入れようとしたと悪びれず暴露して、スヴェンを挑発するように口の端に指をひっかけ艶かしく赤いベロを覗かせている。
 怒りに任せ最大限の握力を発揮、圧縮した紙コップを豪腕振りかぶりゴミ箱に叩き込む。
 「ドウドウ先輩、こういう時はカフェインとニコチンの過剰摂取で肺を壊して心を落ち着けてひっひフーですヨ!脳内麻薬には有害物質で対抗でス、恨みっこなシの相殺でス!怒ったときは緑を見るとイーんですヨー、ほら、このゴミ箱アンビリーけばけばしい緑!!エコロジーを意識してカ、グリーンとクリーンをかけテ署内をクリーンにという深遠なメッセージか……ともあれ設計者の色彩感覚に重大な欠陥があるとしか思えナイッ」
 ディアボロに殴りかからんばかりのスヴェンをゴミ箱に抱き付いたチャーリーが止めるが、スヴェンは既に我を忘れディアボロの胸ぐらに掴みかかり獰猛に犬歯を剥く。
 長椅子に押し倒されたディアボロは軽蔑しきった顔をする。
 「三十路の純情は痒いんだよ。とっとと押し倒して突っ込んで物にしちまえ」 
 「過程が大事なんだよ過程が」
 「お前はあれか、結果よりも過程を重視する派か。結果は失敗だが努力した過程が大事だって美談に酔う負け犬か。オナニーだな。キスして舌入れてペッティングして股開かすとこまでいったのに今日は生理でお断り、生殺しの焦らしプレイが一年続いても過程が大事だって澄ましてられんのか?そもそも始まってもねーヤツが偉そうに過程云々すんな」
 煽りに煽られ頭に血が上り視界が赤く染まる。
 こりゃもう一発ガツンとやらねー事にゃ気がすまないといきりたち、長椅子に寝転ぶディアボロの顔面に怒りの鉄拳を叩き込もうとしたスヴェンのもとへ慌しい足音が駆けてくる。
 「お坊ちゃま、迎えがきましたよ!」
 リッツ警部だ。
 「迎えだあ?」
 条件反射で飛びのく。
 長椅子から腰を上げたディアボロに恭しく揉み手しながら、リッツ警部は緊張の面持ちで振り返る。
 ゴミ箱を抱擁したチャーリーと怒りのやり場を失ったスヴェンとが息を呑む。
 潮が引くように周囲の喧騒が遠のき、割れた人波の向こうから杖を付いた老紳士が屈強な護衛を率い歩いてくる。
 往年の俳優のような風格ある紳士。 
 彼の登場が猥雑な場の空気を塗り替える。
 杖などいらぬかのような矍鑠たる足取りで威風堂々歩いてきた老紳士が、唾を飲む音さえ聞こえそうな静寂の中、長椅子の前で立ち止まる。
 丁寧に撫で付けたシルバーグレイの髪。
 アイスブルーの目は凪の湖面を思わせる深沈とした光を湛え単眼鏡の奥に居座っている。
 「この度は不肖の孫がご迷惑おかけしましたな、諸君」
 慇懃に頭を下げる。
 マナーの教本に記載されてもおかしくない上流階級の挙措に完全に気を呑まれ、慌てて頭を下げる刑事一同から視線を外し、長椅子にふんぞり返った孫を見る。
 「帰るぞ」
 背後の護衛を顎で促し、毛足の長いコートを衣擦れの音もさせず優雅に翻す。
 付いてくるか確認もせず護衛を伴い歩き出した老紳士にしぶしぶディアボロが従う。 
 待合所を行き交う人々が例外なく老紳士を目で追う。
 彼が誰だかこの場の全員が判っている。
 ディアボロの顔と名前を知らない者でも、老紳士の顔を知らぬものはいない。
 マスコミに取り上げられ新聞の一面を飾ること数知れず、業界最大手の紅茶会社経営者にして格式高い伯爵家の当主……彼を飾り立てる称号は枚挙にいとまがない。
 何より一挙手一投足に漂う本物の気品が正統な血統とも言うべき高貴な出自を暗示する。
 正統な血統ね。
 老紳士の背中を追いながら皮肉に嗤う。
 好奇と賛嘆と畏敬とが交じり合った視線を浴びながら玄関に出たところで振り返る。 
 長椅子の傍らに突っ立ったスヴェンが、リッツ警部の頭越しに無声で口を動かす。
 『二度とくるな』
 別れの挨拶代わりに中指を突き立てる。
 『くたばれ、デカ』
 回転ドアを抜け階段を降りる。
 すれちがう刑事が吸い寄せられるように畏敬の目を向け、手錠を打たれ連行されてきた悪党どもが触れたら火傷するかのように老紳士の通り道から跳びすさる。
 くそ面白くねえ。
 警察署前の駐車場に向かいながらスラックスをあさる。
 「聞こえてるか」
 『……聞こえてるよ』
 「よーし、いい子だ。だんまりきめこんだワケ吐いてもらおうか」
 スラックスのポケットに突っ込まれたファウストは躊躇したが、腹を括って回答する。
 『……さんざん説明したけど、僕の姿は契約を結んだ人間にしか見えないんだ』
 確かにそんなような事を聞いた気がする。
 だから何だ?
 「俺が呼び出したら出て来いよ」
 『無茶言わないでくれ、僕にだってできることとできないことがある。第一最初からそういう契約だったじゃないか』
 「まだある。メフィストにとどめさせなかったのはなんでだ?恋人への情か」
 『あの場でメフィストを捕らえることは不可能だった。なぜって本がないから』
 「本?」
 初耳の事実に気色ばむ。
 『そう、あの本さ。君が封印を解き、一連の騒動の発端となった禁断の書。メフィストを封じようにも肝心の器がなければ、土台不可能だ。まず、メフィストをよりしろの肉体から引きはがし、魂だけの状態にする。即座に本を開き、呪文を唱える。そして初めて、メフィストの魂は本の中へと回収される』
 「……そういう大事なことは先に話せ」
 『ごめん。……だが、メフィストと遭遇してわかったこともある』
 「なんだ?」
 『メフィストは完全によりしろと同化していた。よりしろの肉体を変化させ、自分の姿を保っていたのがその証だ。メフィストに浸食されたよりしろは……おそらくもう、生きてはいない。体は完全にメフィストに乗っ取られてしまった』
 「ファック」
 ディアボロが歯軋りする。
 「おれを逝かせたクソ野郎には、おれ自身の手で鉛弾をぶちこんでやる計画だったのに」
 『案ずることはない。近く、メフィストと会える……予感がするんだ』
 「そりゃきっと明日だぜ。フィロソフィアとの取引があるからな、部下がついてくるだろ。やっこさんもフィロソフィアの飼い犬だ、まざってても不思議はねえ」
 『明日がチャンスだ』
 「わかってるじゃねえか」
 ディアボロは獰猛に笑う。
 「そう、明日がチャンス……裏返せば、明日を逃せばいつチャンスが巡ってくるかわからねえってこった」
 ファウストと会話しながら駐車場を横切り、停車したロールスロイスへと歩み寄る。
 屹然と背筋を伸ばしマルコ・デミトリが待ち構える。
 一歩距離を詰めるたび、静電気でも帯びたようにシャツの下の皮膚がぴりぴりする。
 自堕落な足取りでやってくる孫をデミトリは氷針めいた目で迎えうつ。
 先刻警部らに挨拶した時の温厚さは一切拭い去られ、孫に対する親愛の情など欠片もない冷厳な雰囲気をまとう。
 次第に歩調を緩めデミトリの正面で立ち止まる。
 車の脇で祖父と対峙、丈が余裕で余るスラックスに手を突っ込み銃把をさする。
 あるかなしかの緊張を誤魔化す最善の方法。
 繊細な指遣いでポケットの中の銃を愛撫し、薄気味悪い猫なで声を出す。
 「ティータイムを邪魔して悪いね、おじいさま」
 
 横殴りの衝撃。

 杖で痛打され転倒、スラックスのポケットから零れ落ちた銃が円を連鎖させて石畳を滑る。
 シャツの背中を砂利で汚し、膝を折り曲げた中途半端な体勢で頭上を仰ぐ。
 口の中に鉄錆びた味が広がる。
 味わい慣れた血の味。
 杖で殴打された際に口の中が切れたらしい。
 血の混じった赤い唾を吐き捨て、手の甲でぞんざいに顎を拭う。
 デミトリは無表情に徹し孫を見下ろす。
 最前振り上げた杖は元の位置に戻っていた。
 「愚か者が……」
 アイスブルーの目に氷点下の怒りが凝結する。
 口の中が痛い。
 打たれた頬が熱をもって疼きだし、膝がよろめく。
 どうにかバランスを保ち、ゆるやかに頭を起す。
 愛用の杖で容赦なく孫の横っ面を殴打したデミトリは厳格な無表情に徹し話を続ける。
 「話は聞いた。歓楽街で発砲騒ぎを起こしたと。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまでしようのない奴だとは思わなかった。お前はいつもワシの予想を裏切ってくれる」
 「ワシの期待を裏切ってくれる、が正しい語法じゃねえか?」
 「はなから期待などしとらん」
 辛辣極まる台詞を吐き、とどめの一言を放つ。
 「フィロソフィアとの覇権争いが激化しているこの時期に歓楽街で騒ぎを起こすとは言語道断……お前の軽率な行いのせいで血のデミトリ家は多大な被害を被った。お前のような愚か者を明日の取引に同伴するわけにはいかん」
 「なっ……、」
 杖で殴打されてなお虚勢を張っていたディアボロに初めて動揺が走る。
 もう用はないとばかり背を翻し助手席に乗り込むデミトリに食い下がり、ひりつく口と縺れる舌で罵詈雑言を浴びせる。
 「ふざけんなよジジィ、だれが大事な本を取り返してやったと思ってんだ!?いちばんの功労者はおれ様だろ、ゲストがいなくてどうすんだよ!?」
 助手席のドアを掴みデミトリを詰るディアボロを護衛が羽交い締めにし引き離す。
 腕の自由を奪われてもなお憤激の発作に駆られ扉を蹴り付ける孫をひややかに眺め、助手席におさまるデミトリが嘆息する。
 「フィロソフィア一党の前でデミトリ家の恥をさらすわけにはいかん」
 「----っ!」
 恥。
 頭に血が上る。
 屈辱に顔を歪め激しく身を捩り束縛をとこうと躍起になって暴れるも、屈強な護衛に二人がかりで押さえ込まれて徒労に終わる。
 乱打の足跡が重なった扉の向こうでデミトリが呟く。
 「スコーンが冷める前に帰るぞ。ティータイムの途中なのじゃ」
 「まてジジィ、おれをつれていかないとどうなるかわかってんだろうな!?就寝中に溶けた鉛流し込んで殺してやる、覚悟しやがれ!!」
 吠えても無駄だった。
 デミトリがこれ以上孫の罵詈雑言に耳を貸す気配はない。
 薄ら寒いほどのポーカーフェイスに切れ目なく罵声を浴びせるディアボロの腕を護衛が掴んで後部座席に放り込む。
 落下したファウストに気付き、踵で蹴り上げて片手でキャッチする。
 エンジン始動。
 「なんと言おうと決定は覆らん」
 デミトリは大儀そうに口を開く。
 「勘違いするな、血のデミトリ家の当主はこのワシ……マルコ・デミトリじゃ。お前にはなんの決定権も権力もない。お前がそうして周囲に威張り散らしていられるのは、ただワシと血がつながっているからという単純な事実ゆえ。もしデミトリの姓を有していなければ……」
 バックミラーに映る孫の顔を眺め厳然と指摘する。
 「お前はただの非力な子供。だれにも相手にされない孤独な子供にすぎん」
 「……………」
 後部座席で顔を伏せる。
 膝の上で握り締めた拳が震え、生渇きの前髪に隠れた顔が苦渋に歪む。
 『ディアボロ・デミトリ』
 シートに転がったファウストが憂慮の声を投げる。
 爪が食い込み掌が傷付くほどに拳を握り込み、理性を食い破らんとする怒りを必死で押さえ込むあるじに銃の形を保ったまま寄り添い、かけるべき言葉に迷う。
 何か言いたくて。
 何か声をかけたくて。
 暴虐無人品性下劣傲岸不遜天上天下唯我独尊、おおよそ褒める所の見付からないあるじだけれど、寸法の合わない服をむりやり着せられ、余って泳ぐ布地の中で華奢な肩が痛々しく震えるさまを見るに見かね、底なしにお人よしの天然精霊は言葉をさがす。
 デミトリの言葉を反芻する。

 わがままで自分勝手な子供。
 ひとりぼっちの子供。
 嫌われ者の子供。

 血の繋がった孫に対するものとは思えぬ辛辣で正当な評価に、しかしファウストは良心とそれ以外の何かから抗う。
 
 時間にしてわずか数日の付き合い。
 ファウストが経てきた年月には遠く及ばない。
 僅か数日間で彼の暴挙と奇行にはうんざりし、選ぶ主人を間違えたと後悔の念に苛まれ悶々と苦悩していたけれど。

 けれども彼は、気の毒な老人が這いずり捜していた杖を蹴りよこし。
 仲間はずれの女の子の涙を引っ込ませたじゃないか。

 過大評価は自覚してる。
 どちらにしろとても感心できたやりかたじゃない。
 やっぱり選ぶ主人を間違えたのかもしれない。

 ああそうか。
 僕は愚者の霊だから、人を見る目がないんだね。

 本当にその少年でいいのかい?
 後悔しないかね?

 メフィストの嘲りを反芻し我知らず苦笑する。
 するよ。今でもしてる。
 でも、だれかも言ってたけれど。
 見てて退屈しないってのは得難い資質だね。

 見る目がない僕が選んだ彼に見所がないかはどうか、これから決まる。

 ファウストは銃の姿を保ったまま、沈黙を守るあるじに声をかける。
 とりあえず選択の是非は保留し、慰めでも励ましでもなく、あるがままの事実を伝える。
 『………少なくとも、僕はいるよ』
 しもべとして。
 銃として。

 呼んでよければ、友達として。

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Devilish | コメント(-) | 19951210153420 | 編集

 暗黒の森のはずれに屋敷が建つ。
 ゴシックな雰囲気漂う広壮の屋敷の窓辺から夜闇に抱かれた森をひとしきり見渡し、ひとりごつ。
 「美しい夜だ」
 窓に面して立つ後ろ姿は申し分なく洗練されており、床に曳かれた影すらも端正だ。
 ワイングラスを物憂く揺らしつつ、切れの鋭い黒瞳を細め、男は月を見上げていた。
 嵌め殺しの巨大な窓からは眼下に広がる黒い森と紺青の夜空が一望できる。
 たなびく雲の裳裾を無慈悲な女王の如く従え中天にかかっているのは青白く満ちた月。
 なにひとつ欠けることない満月が雲海を朧に染めて玲瓏と輝くさまは、えもいえず幻想的だ。
 手にしたグラスを半分ほど空け、再び空を仰ぐ。
 月光に映える彫り深い横顔は黒社会の頂点に立つ男特有の傲慢な色気を漂わせ、スマートな立ち姿と相俟ってもしこの場に異性がいればため息を禁じえぬだろうと邪推させる。
 ふと、背後の空気が変容する。
 男の背後に置かれた猫脚の机の上、その中央に鎮座する異国の香炉から一筋の煙が揺らめき立ち上り、模糊とした人の似姿を形作る。
 後方の空間が歪み、極彩色の陽炎が神秘の気配をまとい、人の形を模して立ち現れる。
 空間の裂け目から生み落とされたのは異国の衣装を羽織るオリエンタルな美女。
 頭の横で結った髷に胡蝶のかんざしを挿し、薄く白粉を焚いた頬に朱を刷いている。
 綺麗な卵形の輪郭の中、切れ長のまなじりと繊細な鼻梁が左右対称に配置された美貌は、夜露にぬれた牡丹のように風雅な憂いを含む。
 女は優雅な立ち居振る舞いで一礼する。
 宮廷の官女の如く恭しく面を下げ、男に対する敬意と忠誠を表し、服従を示す。
 しかし不可解な事に、その流れるような動作は世塵から隔絶され、一切の生々しい気配が払拭されている。
 衣擦れの音ひとつせぬ異様な静けさは、女がもとより生身を持たぬ存在であると暗に物語る。
 腰高に締めた帯の先を床に垂らし、着物の裾を床に曳いた女は、遠慮がちに主人へ声をかける。
 『おやすみになられなくてよいのですか?』
 「ああ」
 言葉少なに答えた男に気遣わしげな表情を浮かべ、衣擦れの音もなく接近する。
 およそ体重というものを感じさせないすべるような動作で男の隣へ移動した美女は、ついと高貴なおとがいを逸らし、男の視線を追う。
 視線の先には月があった。
 『良い夜ですね』
 感嘆の吐息が漏れる。
 グラスを片手に預け、夜を司る月光の恩寵に浴す一対の美しい男女は、背景の森と合わせて絵になっている。
 傅く従者を無視し月を眺めて物思いに耽っていた男が、ふいに呟く。
 「人ならざるお前にも月の美しさはわかるのか」
 人ならざるものが風流を解す不思議を問う諧謔に唇が皮肉に歪むも、女は従順に首肯する。
 『ええ』 
 憂いを含んだ目尻が郷愁の光にぬれる。
 『想家了……故郷を思い出します』
 外見年齢には相応しからぬ老成した表情と達観した口ぶりは、故郷を遠く離れて久しく、既に帰郷を諦めたもののそれだ。 
 海の向こうの故郷に思いを馳せ、東西で共通する月の輝きを愛しむかのように、すっと手を掲げる。
 
 『床前月光を看る。
 疑うらくは是れ地上の霜かと
 頭をあげて山月を望み
 頭をたれて故郷を思ふ』

 妖しく透ける手が、清冽な光を湛えた窓硝子に触れる。
 花弁の唇が綻び、甘やかな吐息が匂い、甘露を音にしたような銀鈴の声音が流麗に詩を詩を紡ぐ。

 異国の韻と抑揚の詩を口ずさむ女に、男は低く尋ねる。
 「………それは?」
 『故郷の詩です』
 「題名は」
 貴人が召すような極彩色の衣を羽織った女は、月光を照り返す水面の如く淡く微笑する。 
 『静夜思、と言います』
 「今宵にふさわしい」
 男の独白に寂しげな微笑を返し、再び窓を向く。
 頭を上げて月を望み、頭をたれて故郷を思う。
 おそらく女もまた東西の別なく美しい月の光に感化され、感傷を伴う郷愁の念に駆られているのだろう。
 窓に手をあて月を仰ぐ女の横顔は白磁の繊細さを湛え、今にも大気に溶けて消えそうに儚くもある。
 『久しぶりです、この詩を唄うのは。人に聞かせるのも』
 その言葉に含まれた万感の思いが静謐な夜気に波紋を投じ、ひたひたと胸を打つ。
 『私がこの世に生まれて間もない頃、宮廷の皆が琴の音に乗じて唄い交わしていたわ。あそこには故郷を遠く離れて召抱えられた側女がたくさんいたから』
 男は月に視線を定めたまま口を開く。
 「…………そうだな。俺の目もお前の目もおなじものを見て、おなじように感じるんだ」
 『あなたの目は私の目ですから』
 至極当然の理を述べるように女は告げ、男は赤ワインを口に運ぶ。
 だいぶ酔いが回ってきた。
 女の忠告に従い寝たほうが賢明だという考えが過ぎるが、背を翻すのが惜しいほど今宵の月は美しかった。
 この月をもっと見ていたい。
 女とともに。
 赤ワインが喉を潤し、アルコールが血液に乗じて全身に巡ってゆく感覚を意識しつつ、男は再び口を開ぐ。
 「デミトリ老から連絡があった。本の奪回に成功したそうだ」
 『そうですか』
 女の顔が翳る。
 憂いに沈んだ女を目の端でとらえ、男は言う。
 「冴えない顔をしてるな、ユーシン」
 『……奪回にむかわせた殿方はどうなりました』
 感情を抑制した声音で女が問うが、その底で漣を立てているのは不吉な影で隈取られた暗い予感。
 縋るような目で一心にこちらを見つめてくる女に横顔を向け、男はよく冷えたワイングラスに口を付ける。
 「…………予想に反して、生きてはいる」
 ユーシンが驚いたように目を見張り、その顔が一転して安堵に溶け崩れる。
 不安が氷解し、我知らず息を吐くユーシンを横目で窺いながら、男は淡々と付け加える。
 「いや。正確には『動いている』かな」
 『?』
 女の顔に疑問符が浮かぶ。
 目に戸惑いを宿し、明確な答えを求めて自分を仰ぐ女に酷薄な横顔を向けたまま、男は続ける。
 「先日来、様子が変だ。外側は前とおなじだが、雰囲気が一変している。赤の他人が皮をかぶって行動しているかのような奇妙な違和感がはなれない」
 ワイングラスを片手に預け、顎先を沈めてひとりごちる。
 魔道書奪還に派遣した部下の様子がおかしいことには気付いていた。
 以前はジズと対峙しても決して目をあわせようとはせず、虐待された犬のごとくおどおどしていた部下から恐怖心が根こそぎ払拭された。
 劣等感と野心の塊だった男から一片残らず俗世への執着が消え去り、上司の前で笑みを浮かべる余裕さえできたのだ。
 あまりといえばあまりに唐突な変化にあるひとつの確信を持つ。
 思案顔で計略を巡らす主人を女は下腹部で手を組んで見守る。
 その目に宿るのは悩める主人を気遣う真摯ないたわりの色。
 帯で床を刷き、滑るように男に接近し、優しさを拒絶する横顔に手をさしのべる。
 『大丈夫ですか……?』
 この人はとても孤独だ。
 有限ある生を持つ人は、ひとりでは決して生きていけないというのに。
 どうしてこうもかたくなに孤独であろうとするのだろう。
 冷えた頬に手をあて、眉根を曇らせる。
 人ならざる女の手に体温は伝わらず、触れ合いの実感も得られない。
 実体を持たぬ女の手はただ添えられるだけで、男にぬくもりを与える事は出来ず、抱きしめる事さえもできない。
 もし私に肉の器があったのなら。
 この人を、あたためることができたのだろうか。
 この人とぬくもりを分かち合うことができたのだろうか。
 みずからに運命付けられた永遠に近い生より、有限の生を分かち合い刹那に燃え上がる事ができる人を羨ましく感じる私も、精霊の範疇を逸脱してるのだろう。
 女の心が手を介し流れ込んできたかのように、その手をとり手首の裏側に口をつける。
 感触も、味もない。それはただの真似事、酔狂な一人芝居。 
 実体を持たぬ女は彩色した空気に等しい存在で、そんな女に接吻を落とす男もまた、傍目には常軌を逸しているのだろう。
 だが、それで構わない。
 本来掴めぬものを掴み、感じとれぬものを感じようとするかのように、華奢な手首の裏に唇を這わす。
 女は黙って愛撫を受ける。
 男の唇の熱を感じる事はできないが、自分の手首に接吻を落とすその光景は神聖な儀式にも似て荘厳で、崇敬の念が巻き起こる。
 これではどちらが主で従なのかわからない。
 手首をとらえられ、成すすべなく佇む女に向かい、男が静かに問う。
 「明日の取引、滞りなく終えることができるとおもうか」
 『………嫌な予感がします』
 男のなすがままに身を任せ、女が答える。
 唇がゆるゆると指の上を滑っていく。
 『明日の取引、どうしても行くのですか』
 「ああ。デミトリ家当主が直にでてくるんだ、俺がいかなくてどうする」
 『でも……』
 「でも?」
 『いやな予感がします』
 二人は決して触れ合えない。
 それはどこまでも純粋な魂の交わり。
 欲望が介在しない、欲望が結びつかない、精神の交歓。 
 自分の行為が児戯に等しい真似事だとわかっていながら、それを承知で男は唇での愛撫を続け、女の指を一本ずつ味わっていく。
 所有の刻印を付けるように華奢な五指に唇を滑らし、這わせ、囁く。
 「お前の勘には一目おいているが、それは無理だ。俺には俺の仕事があるからな」
 『その仕事は命と引き換える価値がおありですか』
 凛とした声音に男は鼻白む。
 興ざめしたように女の手を突き放し、戯れに愛撫していた唇に赤ワインを含む。
 喉仏が艶かしく上下する。
 グラスのワインの残りを呷り、頑是なく黙り込む女へと向き直る。
 「いいかユーシン、明日の取引には特別な意味がある。本の譲渡という名目こそあるが、デミトリ家のトップと俺が顔をあわせるのはこれが初めてだ。マルコ・デミトリは旧市街を勢力下におさめる三代続いたマフィアのドン……。由緒正しい歴史を持つ、血のデミトリ家現当主だ。現在、デミトリの組織と俺たちの組織はどちらが市の覇権を握るかはげしく争っている。明日の取引の結果次第では血で血を洗う抗争が全市に飛び火する可能性もある」
 一呼吸おき、女の目をまっすぐ見詰める。
 「……だが、上手く運べば。デミトリ老を牽制し、今後の戦闘を回避できるかもしれない」
 『……それは、人を死なせないために?』
 どこまでも清冽無垢なその目。
 同じ黒でもこうも違うのか、と驚かざるを得ない。
 たおやかな女の形をしたこの善良な精霊は、心底から人の命が損なわれるのを嘆き、人が傷付くのを案じている。 
 自分には何の利益もないのに。
 誰と誰が殺しあおうが、精霊の身には所詮関係ないのに。
 「まったくお人よしだな。そこがいいところなのだが」
 投げ付けられた揶揄に女は下唇を噛む。
 何を思っているのか、漠然と察しはつく。
 もう十年をこえる長い間ずっと、ずっと一緒にいたのだ。いわば半身にも等しい存在、かけがえのない伴侶だ。
 女が考えている事など、目を見ればわかる。
 その仕草ひとつで、瞬きの間隔で、心もとなくうつろう視線の向きで。
 どうしようもなく優しいこの女が何を考えているかなど、容易に見透かせる。
 男は迷い、ためらう。
 次の言葉を口にするリスクを検討し、吟味し、しかし女の憂い顔にほだされ、渋々口を開く。
 「……一緒にくるか?」
 自発的な意志というより、投げ出す形に近い。
 女の忠心に沈黙と忘恩で報いるより、女の献身に同伴の褒美を与える方を選んだのは、愁眉を晴らす下心が働いた故。
 女が鞭打たれたように顔を上げる。
 その顔に浮かぶ驚愕を見てとり、男は少し気まずい思いを味わう。
 「いやか?」
 『いきます』
 男が翻意する前にと即返事を返す。
 昂然と顔を上げた女の様に苦笑し、男は前もって釘をさす。
 「言っておくが、マフィアの取引と芝居見物はわけが違う。たのしくはないぞ」
 『そんなことは百も承知です』
 いまさらと女は笑う。
 男の傍らに在る事がただ嬉しくて、主従として常に共に在る誇らしさに玲瓏たる美貌を輝かせ、大輪の牡丹の如くあでやかに薫り立つ微笑を湛える。
 胸の前で手を合わせ、内なる誓いを立てるように瞠目する。
 『私は夕星。黄昏の星宿。名付けた貴方のもの』
 窓から注ぐ青白い月光に照らされ、豊満な曲線美を描く輪郭が微塵の粒子となりはて霧散する。
 『命名とは人ならざる身に命を吹き込む事。貴方に名前を貰ったときから、私は貴方の忠実なる僕にして従となりました』
 儚い微笑が分解され、極彩色の陽炎が一本の柱と化す。
 黙って見詰める男の眼前で、女は深々と叩頭し、衣の端から虚空に還る。

 『少爺、听天由命』

 その言葉を最後に完全に消滅する。
 跡形も残さず霧散した幻影から背後へと振り返り、卓上の香炉を一瞥する。
 「俺のなすがままに、か」
 月光が冴え冴えと帯を刷く中、清冽に輝く香炉に手を添え、優美な丸みを帯びたその器をそこはかとない情愛を感じさせる手つきでなでる。
 最愛の女をあやすように。
 年経りた無機物が宿す心の機微を、指先に感じようとするかのように。
 香炉を彩る牡丹の花弁に指を這わせ、男はどこか恍惚と目を細め、睦言を囁く。
 『好的。你是我的情人』 
 月光に映える香炉に施された精緻な意匠は、大輪の緋牡丹をあしらった女の着物の柄と酷似していた。

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Devilish | コメント(-) | 19951209184927 | 編集

 高級ホテルのスイートルームに比肩する部屋に大音量のへビィ・メタルが流れる。
 胃袋を叩く重低音に主旋律を奏でるエレキギターが波線を描いて交わり、シンセサイザーで変音された伴奏が機銃掃射のビートを刻む。
 地鳴りを思わすベースに稲妻の如き絶叫が被さり空気を攪拌するうねりを生む。
 ボーカルが発音の不明瞭な巻き舌で歌い上げるのは、砂糖菓子のように舌の上でとろけるラブ・ソングでも胸引き絞るようなシャンソンでもなく、魔王への貢物に処女を捧げる禁断の儀式を綴ったデス・メタル。黒魔術に傾倒したシュールでグロテスクな歌詞は大衆の支持こそ獲得できなかったが、一部に熱狂的なファンを生み出し、発売から一年が経過した今もカルト的な人気を誇っている。
 ベースとドラムが互いを高めあうように過熱のビートを刻み、エクスタシーに達したような絶叫が迸る。
 床一面にばらまかれているのは何百というCDケース。
 それこそ足の踏み場もない乱雑ぶりで、片っ端から蓋が開いている。
 とっかえひっかえCDをセットしているが、中には真っ二つに叩き割られているものも少なくない。
 プラスチックの角が折れたりへこんだり欠けたり曲がったりと、凄まじい破壊と陵辱のあとを物語るケースからはみ出た銀の円盤もまた、折られ砕かれ曲がり惨憺たる有様を示している。ほかにも生々しい暴力の痕跡が部屋の至る所に見受けられる。
 おもいきり床に叩きつけられ踏みつけられたとおぼしきCDの残骸が累々と折り重なるさまは、嵐の跡地に倒れ伏す夥しい墓標をおもわせる。
 『………うるさい』
 CDジャケットの下から声がする。
 ジャケットの下から半分ほど銃身を覗かせ、ファウストがよわよわしく叫ぶ。
 『僕の声が聞こえないのか、ディアボロ・デミトリ?』
 語尾をはねあげて問うも反応はない。
 ファウストはため息をつき、傍らのベッドを見上げる。
 キングサイズのベッドにはTシャツにジーパンというラフな私服姿のディアボロが寝転がっている。
 ベッド上で足を組み、頭の後ろで手を組んだ寝姿からはやり場のない苛立ちを持て余し、怒りの捌け口を求めて部屋中荒らしまわってもなお晴れぬ
不機嫌な様子が伝わってくる。
 ディアボロは頭の後ろで手を組んだまま、白い天井を仰ぎ、でたらめな鼻歌をなぞっていた。
 お世辞にも上手いとは評せぬ音痴な鼻歌に乗せ、足をぶらつかせる。
 折しも歌詞はクライマックス、悪魔の祭壇に生贄として捧げられた処女の喉が裂かれ、噴水の如く鮮血が噴き出したところだ。
 処女の肢体を膨大な量の血が伝い、苦悶にもがき苦しむ生贄を見て黒魔術の徒たちが歓喜の雄叫びを上げるサビの部分を、ディアボロは下手くそな鼻歌で再現してみせる。
 三半規管に直接訴えかける音程の狂った歌声が耐え難く、脳味噌を引っ掻き回されるような不快感が襲う。
 ファウストが唸る。
 『………音痴だ。聞くに堪えない』
 鼻歌がぴたりと止む。
 ディアボロが目だけ動かしてファウストを睨む。
 眼鏡越しの黒瞳に不満が噴出、青白い殺意を秘めた業火がちらつく。
 「持ち主の趣味を理解できない銃に非難されたかねえな」
 『理解できないね。君の好きな音楽はただの支離滅裂な騒音だ。こんなものは芸術とは呼べない、単なる騒音の渦じゃないか』
 「蝿を酔わせるジャズでも聞いてろ。おまえにゃ時代遅れの音楽がお似合いだ」
 『きみにぼくの好みを馬鹿にする権利があるのか』
 「その言葉そっくり返すぜ」
 ディアボロがごろんと寝返りを打つ。
 背中を向けて無視をきめこむ所有者にファウストはしつこく食い下がる。
 『いいかい?きみが今こうしている間にも事態は悪化の一途を辿ってるんだ。マルコ・デミトリの車が屋敷を出てから半刻が経つ。この街の地理にはくわしくないが、そろそろ取引場所に到着してもいい頃合だろう』
 「…………」
 『昨日きみが言ったとおり、この機を逃したらいつメフィストに会えるかわからない。言い換えれば、今夜が最後のチャンスなんだ』
 じりじりしながら説得を続けるファウストにため息ひとつ、ディアボロは片手で床をまさぐる。
 CDジャケットの山を突き崩しかき回し、窒息寸前のファウストを救い出す。
 CDジャケットの山に生き埋めになったファウストをひょいと助け出し、顔の前に翳して銃身をひねくりまわし、なげだすように言う。
 「おれは謹慎中の身だ。ドアの前と窓の下には護衛がいる」
 ベッドの背板に上体をもたせ、足はマットレスに伸ばしたまま口を開く。
 あくびを噛み殺し、所有者の境遇をさっぱり理解してないファウストにやる気なさげに説明する。
 「最も、おれは今すぐドアを撃ち抜いて護衛をぶち殺してもいい。道ふさぐ奴を蜂の巣にして、強盗まがいのヒッチハイクで時計台にかけつけてもいい。お前はどうだ?メフィストを止めるためなら大量殺戮も余儀なし、虐殺OKの許可だすか」
 ファウストがぐっと黙り込む。
 『………………他の方法を考えよう』
 「代わりに考えてくれよ、エッグヘッドファウスト」
 ディアボロの手中にすっぽり嵌まりこんだファウストは、銃の姿をとったままあるじの不満顔を見下ろす。
 右頬にはガーゼが貼られ痛々しく腫れ上がっている。
 警察の駐車場にてデミトリに杖で殴打されたあとが熱をもって疼きだし、顔面の筋肉を動かすたびに鋭い痛みが走るらしく、ディアボロは傷にさわらぬよう用心深くあくびする。
 顎の関節を開き、口いっぱいに酸素を吸引する。
 それでもぴり、と静電気を流されたような刺激が頬に走り、顔面の神経が不自然に引き攣る。
 『だいじょうぶかい?』
 おもわず顔を顰めるディアボロに、ファウストが気遣わしげな声をかける。
 絶妙なタイミングでかかったその声に現実に引き戻され、虚を衝かれた心地でファウストを見やる。
 頭上に翳したファウストに向かい、世紀の大発見をしたような目を向ける。
 手の中の銃を物珍しげにひねくり回し、毒気の抜けた口ぶりでぽつり呟く。
 「ファウスト、お前は初めての奴だ」
 『?』
 不可解な台詞に疑問符をもって報いる。
 訝しげに次の言葉を待つファウストに軽くキスし、子供っぽく笑う。
 「怪我の心配をしてくれた初めての奴。ヴァージンもってかれた」
 その笑みと言葉にファウストは戸惑う。
 『そんなことはないだろう。君の心配をしてくれる人はたくさんいるよ』
 「たとえば?」
 『祖父とか』
 「おれの横っ面杖でぶん殴った張本人が?」
 『……あの刑事とか』
 「チャーリーがおれに近付いてくるのは金目当て。スヴェンとはたんなる腐れ縁だ。義理があるからなにくれとおれに説教するだけで、本心では鬱陶しいとおもってる」
 『決めつけるものじゃないさ』
 「わかるんだよ、おれには」
 ディアボロが吐き捨てる。
 ファウストが言葉に苦慮し沈黙を選ぶ。どうやらうまいフォローが思いつかないらしい。
 素直な奴だと内心苦笑する。
 そしてどうやらこの底抜けのお人よしの愚者の霊は、本気でこの俺様を心配してるらしい。
 血の繋がった実の祖父より誰より真剣に、親身に気遣ってくれてるらしい。
 フールを三乗しても足りない位の馬鹿だ。
 右の五指で緩く握り締めたグリップを百八十度回転させ、銃身の部分を腫れた頬に押し当てる。
 冷え冷えした鋼鉄の温度が頬に伝わり熱がひいてゆくのがわかる。
 ひんやりとした質感に患部が冷却されるのを味わいながら、虚ろな目でファウストを見る。
 「……ファウスト」
 『なんだい』
 「おまえ、屋根の上で言ったな。俺のことダチだって」
 『言ったよ』
 「吐きそうだった」
 『ひどいな、真面目に言ったのに』
 「うそつけ」
 『うそじゃない』
 言葉少ないやりとり。
 しかしそのやりとりは、ファウストの気に障ったらしい。
 顔の正面にもってきた銃口から一筋の煙が立ち上り、その煙の中から幻影の如く人が立ち現れる。
 具現化したファウストは礼儀正しくベッドの足元に座すや、いつになく真面目な顔でディアボロと向き合う。
 『ディアボロ・デミトリ、改めて言わせてもらおう』
 深紅の目が直線でディアボロに切り込む。
 聖なる威厳を帯びて対面に座し、ファウストはすうと深呼吸する。
 『ぼくはきみの友達だ。友達の怪我の心配をするのは至極あたりまえの道理だ』
 鼓膜ではなく、直接心に響く特殊な魔力をやどす声。
 脳髄に蜜を注がれるような甘美な酩酊感。
 どんな音楽にも増して蠱惑的な玲瓏たる声音が、掛け値なしの真剣さでディアボロを絡めとろうとする。
 「…………」
 まるで挑むような表情。
 「友達」という言葉が、まるで魂と同等の重さをもつとでもいうような。
 ディアボロは何か言いたげな目でファウストを仰ぐも、異論反論は一切受け付けないと頑固に胸を張るファウストを見て、言葉にする気力が急速に萎えたらしい。
 片腕を目に被せ、くく、と笑う。
 自虐と自嘲を割ったような濁った笑い声が震える喉から漏れ、口の端がひくつく。
 「あー……おかしい。初めてのダチが人間外なんてよ」
 虚勢でも笑ってくれたのが喜ばしく、ファウストもまた表情を和ませる。
 『自慢できるんじゃないか?逆に』
 「言ったろ。ダチなんかいらねえって」
 ディアボロの声が冷える。
 漂い始めた穏やかな空気が一瞬で凍り付く。
 片腕で顔を覆っているため表情は窺えないが、弦が張り詰めるように雰囲気が豹変したのがわかる。
 ディアボロは足を折り曲げて上体を起こし、暗い目を掌中に落として吐き捨てる。
 「人殺しの道具さえあればおれは満足。人生はバラ色だ。好きなときに好きなだけ人殺せて、好きな時に好きなだけファックできりゃ、おれは最高にハッピーな一生を送ることができる」
 『人殺しの道具ってひょっとして僕のことかい?』
 「ひょっとしなくてもおまえのことだ」
 飄々と言い放つディアボロを哀しげに見詰め、ファウストはぽつんと呟く。
 『………ぼくは、人を殺すために武器に乗り移ったんじゃない』
 何かを堪えるような沈痛な表情。
 殊勝にうなだれるファウストに向き直り、鞭打つように宣言する。
 「おれはお前に武器以外の価値を認めねえ」
 深紅の目に苦悩の光が閃き、ついで痛ましげな色が宿る。
 主人に対し幻滅したのか彼を伴侶に選んだ事を後悔してるのか、純粋な悲哀に打ち沈む顔がますますもって苛立ちを煽る。
 受難が似合う薄幸の聖人。
 憐憫の情をかきたてるような、人の一番脆く善良な部分に付け込むような憂いの沈黙に反発し、ディアボロは起き上がる。
 部屋には大音量のへビィ・メタルが流れ続けている。
 反動をつけてベッドから飛び下り、足で拍子をとりながら窓辺へと向かう。
 中途半端に引かれたカーテンの端をひょいと持ち上げ、窓の外を窺う。
 窓の下にはサングラスをかけた護衛が二人、交替で見張り番を務めている。
 謹慎中のディアボロが窓から脱出しないように厳重に監視してるのだ、ご丁寧にも拳銃を所持して。
 威嚇のポーズにしても大袈裟に腰に銃をさした見張りを確認し、ディアボロは露骨に鼻白む。
 「俺を殺す気かよ。相当頭にきてんな、ジジィ。家を断絶させる覚悟か?」
 小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、カーテンを後ろ手に握り締めたまま窓に凭れる。
 「………ジジィのいう通り、ブタ箱に入ってるのも癪だな」
 呟く。
 ファウストは無言。
 ベッドの足元に座したまま、物憂く不安げな様子でひとり物思いにふけるあるじを見守っている。
 短い付き合いだが、あるじが黙り込んでいる時は不用意に声をかけないほうがいいと教訓を学んだら、忠実にそれを守る。
 物思いを断ち切るように身を翻し、つかつかと部屋をつっきりベッドに歩み寄るや、シーツに投げ出した銃を乱暴にひったくる。
 黒い銃口を怪訝そうなファウストの眉間につきつけ、脅迫に近い口調で念を押す。
 「おいファウスト、保護者面しておれの行動を非難しないと誓え」
 『ディアボロ・デミトリ、どういうつもりだい』
 嫌な予感に駆られ、ファウストが品よく眉をひそめる。
 「バン!」と軽く引き金を引くまねをしてみせるも、リアクションは薄い。
 解せない顔のファウストに愉快げな、なおかつふてぶてしい彼特有の笑みを広げ、背中に隠したもう片方の手を前にもってくる。
 カーテンの陰から取ってきたそれは、無骨なガスマスク。
 旧市街の蚤の市で売り叩かれていたガスマスクを顔の前に翳し、ディアボロは得意げに笑う。
 「燃やすのさ」


                          +



 「中の様子はどうだ?」
 部屋の前で立ち番をしていた護衛のもとへ相棒がやってくる。
 途切れなく騒音が漏れる扉を背にあくびを噛み殺していた黒スーツの男は相棒の台詞に苦笑する。
 「異状なしだ。おおかたふてくされて寝てるんだろう」
 「所詮ガキだな」
 つられ、相棒も苦笑する。
 デミトリ老は既に屋敷を出、腹心を連れて取り引きに向かった。
 現在屋敷に残っているのは留守を預かる配下が二十名ほど。
 その二十名も腰の銃を除き武装はせず、すっかり油断しきっている。
 留守番といっても、ファイブリィにおいて悪名轟かせる天下のデミトリ家に盗みに入るような馬鹿はいない。万一そんな馬鹿がいたら、見せしめで蜂の巣にしてやればいいだけのこと。
 敵対ファミリーが留守を狙い抗争を仕掛けてくる可能性も低い。
 奇襲はリスクが伴う。
 ボスの不在を狙い抗争を仕掛けてくるような掟破りの組織は、きっちりその代償を払わされファイブリィから一網打尽に駆逐される。

 color rosso sangue
 コロール ロッソ サングエ。

 恥辱を座して耐え忍ぶ程にマルコ・デミトリは老いてはいない。
 反逆者には苛烈な復讐と非情な制裁をもって鳴るのが血のデミトリ家、別名冷血のデミトリ家の由来だ。
 しかし、屋敷に残された部下の間では沸々と不満が燻っている。
 当主が同伴を命じたのは信頼する腹心数名のみで、その他大勢は留守中の邸宅の警護を任された。
 そう言えば聞こえはいいが、要は不出来な孫のお守りだ。
 そんな退屈な役を仰せ付かった部下が腐らぬはずもなく、扉を挟んで立った二人は、退屈凌ぎにディアボロの悪口に興じる。
 「この年でガキのお守りなんて絶望して死にたくなるぜ。デミトリ老もなにを考えてるんだか……銃使う以外に能のねえ孫なんて勘当しちまえばいいのに」
 「そういうわけにもいかねえだろ。今やデミトリ家最後の一人、デミトリ老の血を継ぐ唯一の孫なんだからよ」
 「あの悪魔が後継ぎね……デミトリ家もお先真っ暗だぜ」
 「再就職先さがすか?フィロソフィアのところなんてどうだ」
 「冗談きついな、お前」
 不敬な発言だが幸い他に人がはなく、砕けた間柄でのきわどいジョークとして通じる。 
 そもそも二人は当主を侮ってるのではなく、その孫を嘲っているのだ。
 老いてなお絶大な影響力とカリスマ性をもつデミトリ老に対しては絶対の忠誠を誓いつつも、その直系の孫ときたらとんだ問題児。デミトリ家の権力を嵩にきてしたい放題の無茶をやらかすクソガキで、はなから尊敬の念など持ちようがない。もっとも、ディアボロがいかに品行方正で優秀な跡継ぎだったとしても二十も年下の子供に忠誠を誓えるかとなればまた別問題だ。
 下っ端マフィアにも矜持がある。
 二十も年下の、それも人格が欠陥だらけどころか欠陥しかないクソガキ様の爪先に躓いて接吻するほど彼等は人生を投げてはいない。 
 「本当に、どっかの寄宿舎にでも放り込んじまえばいいのによ。そしたらお守りの手間も省けるってなもんだ」
 「居眠り一回鞭十回。賛美歌で始まり祈りで終わる。そんな一日が三年も続けばさすがの悪魔も心を入れ替えるだろうさ」
 閉じた扉を忌々しげに睨み、口々に毒づく。
 「ま、どんなにクズでも孫は孫だ。デミトリ老の気持ちもわからなくねーが、せっせと尻拭いするわれら下々の気持ちにもなってほしいぜ」
 道化て肩を竦める相棒の隣で壁にもたれ、新たにやってきた男は背広の内をさぐり、煙草を抜く。
 「聞いたか、あの話」
 「なんだよ、それ」
 顔に疑問符を浮かべた相棒を見返し、納得したように頷く。
 「そうか、お前まだ屋敷に上がって三年目か。んじゃ知らねーか」
 「なんだよ、もったいつけんなよ」
 「あいつがまだ十歳かそこらん時の心あたたまるエピソードだ」
 あいつとは言わずもがな扉の向こうの人物をさす。
 扉の方へ顎をしゃくり、相棒に向き直り、まかり間違っても声が本人に届かぬよう用心して話し始める。 
 「五年前、屋敷に上がったばかりの俺の前で事件がおきた。ある日の食事中だ。俺は食堂の壁際に突っ立ってた。食事が終わるまで、そうして直立不動で突っ立ってるのが当時屋敷に召抱えられた下っ端の礼儀だったんだよ。だだっ広い食堂じゃあのガキが、我らが親愛なるクソお孫さまがおひとりで食事をとってらっしゃった。庶民の俺にゃ預かり知らぬ事だが、デミトリ老は経営とマフィア稼業のかけ持ちで常に多忙で、孫と食卓を囲む時間なんぞろくになかったんだよ。てなワケで、お孫様はほんのガキの頃からひとりぼっちでディナーのテーブルについてた」
 「だからひねくれちまったのか」
 「待て、面白えのはこれからだ。メインディッシュがきてねーのにナプキンで口拭いてどうするよ」
 したり顔で頷く相棒を制し、さらに饒舌に話し始める。
 「あの悪魔は……当時は小悪魔だが……たった一人の身内がいようがいまいが、しれっとして食事を続けやがったぜ。こう、フォークとナイフを手にとってな。酷いもんだ、行儀作法もありゃしねえ。三歳児の食い方だよ、あれは。貴族の末裔のくせに、どんなお粗末な躾を受けてきやがったんだかな。狼に育てられたガキがむりやり人間の道具を持たされて、四苦八苦してるみたいだったぜ」
 男が手を交差させ、フォークとナイフを派手にがちゃつかせるしぐさを再現する。
 両の手が勝手に動き、フォークとナイフが格闘を演じるが如くてんでばらばらにぶつかり、弾け、神経に障る金属音を鳴らす。
 その様が容易に想像できる。
 「ま、本人は関係ねえ。フォークとナイフの持ち方がてんででたらめだろうが、口まわりどころか顔中肉汁やスープでべとべとに汚そうが知ったもんかって態度で、皿の上にのったもんをぺろりとたいらげてたな。けどよ、うっかりそれを笑っちまったあほがいた。当時、食事中は用人一同が並んで見守る慣わしだった。フォークやスプーンを落としたら即座に代えを出せるように、スープが零れたらさっと拭けるようにって、準備万端整えられてたわけよ。ところが、だ。その中の一人が、噴き出しちまった。ガキの食事作法があんまり酷いもんで、そりゃもう目を覆わんばかりの醜態で、堪えきれずに吹いちまったんだよ。気持ちはわかる。俺だって笑いを堪えるのに必死だったよ。最高のコメディだった。いつもいばり散らしてるガキがフォークひとつ満足に扱えないなんてさ」
 そこで不意にトーンが変わり、嫌悪と畏怖とが入り交じる忌避の念が低めた声にこもる。 
 「……迂闊だった」 
 相棒がごくりと生唾を飲む。
 殆ど物理的な圧力を伴い扉を乱打するへヴィ・メタルを聞き流し、男は引き攣り顔で囁く。
 「ガキが、どうしたと思う。自分を嗤ったやつを、そのままにしとくと思うか。嗤わせておくと思うか。まさか。そうじゃねえ。しかもその空気の読めないあほは、とんでもねえ失言をかましてくれやがった。たまたま隣にいた俺をつっついて、こっそり……」
 当時の状況を再現し相棒を手招き、耳元で素早く囁く。
 『犬食いすりゃいいじゃねーか。高い服を汚さねえように、全裸になってさ』 
 扉の向こうで巻き舌のボーカルがへヴィ・メタルをがなる。
 騒音の拳が凄まじい破壊力で扉を殴打する。
 「ガキは地獄耳だ。当然、その囁きは聞こえた。そして即行動に出た。復讐に」
 当時十歳の子供が。
 だだっ広い食堂の中心で、扱いなれないフォークとナイフをがちゃつかせ苦戦しつつ食事をとっていた子供が。
 「ナイフを投げやがった」
 腕振りかぶりナイフを投擲する。  
 直線を描いて宙を飛んだ凶器は狙い違わず壁際の男の右の眼球を直撃する。
 唯一幸いしたのはナイフが逆向きだった点。
 瞼を痛打したのは金属の尻の部分。
 反対側なら確実に失明していた。
 「ガキはとびかかった。椅子をぶん倒して、床を蹴って。ついでにテーブルクロスをひっこぬいて、食器を一切合切ぶちまけやがった。物凄い絶叫が駆け抜けた。腫れた目を庇って膝をついた男んとこにあっというまに走りよって、顔の半分を覆うその手を容赦なくひっぺがして、青紫に晴れ上がった瞼を、化け物みてえな瞼を、さしたる興味もなさそうにじろじろ不躾に眺めやがった」
 話の迫力に飲み込まれ、聞き手の顔も次第に引き締まっていく。
 当時十歳の子供が大の男にフォークを投げ、片目に命中させ、顔を覆う手を捻り上げる光景が細部までくっきり鮮明に浮かび上がる。
 己を侮辱した男を見下す顔は、どこまでも冷ややかで。
 子供であって子供でない。
 子供の皮をかぶった悪魔さながら比類なき残酷さ。
 当時のディアボロの口真似をし、当時のディアボロそっくりに口の端をねじる。
 「で、次にどうしたと思う」  
 「どうしたんだ」
 「スープ皿を持ってな、こう、男の頭後頭をがしっと鷲づかんで……ばしゃん!だ。ばしゃん、ばしゃん、ばしゃん」
 一回、二回、三回、四回、五回。
 手が振り上げ振り下ろされる。
 スープ皿に漬け込まれた男の顔が持ち上がり、ポタージュが雫となって顎先から滴る。
 「『目で飲め』」
 大の男の後頭部を掴み、躊躇なく容赦なく、くりかえしくりかえしスープ皿に叩き付ける。
 もはや哀れな手下の顔面はポタージュまみれ。顎先から鼻先から髪からぼたぼたと雫が垂れてスーツと床を汚し酷い有様。しかし当時十歳の少年は、悪魔の名を冠する無邪気に残酷な子供は、使用人一同の前で侮辱された仕返しに倍返しの恥をかかせ続ける。
 「『視神経に染みる味だろ』」
 残虐な光景がありありと瞼に浮かぶ。
 男が詫びを入れようが慈悲を乞おうがお構いなしに、自分が悪かった許してくださいと悲痛な嗚咽を漏らし屈辱に身を震わせても、そんな事には一切無関心に無慈悲に無表情に、恐懼に口もきけず傍観者に徹する使用人一同の眼前で拷問を継続する。
 男は禁句を口にした。
 男が何の気なく放った暴言は、ディアボロの逆鱗に触れた。
 床に這わされた男の後頭部を掴み、スープ皿に擦り付けていたディアボロだが、やがてそのお遊びにも飽いたか、乱暴にスープ皿を蹴飛ばす。
 スープ皿が吹っ飛び、中身が盛大にぶち撒けられる。
 床に零れたポタージュスープを眼鏡越しに一瞥、声変わりもまだの子供の声で命令する。
 『なめろ』
 『―は?』
 男は鸚鵡返しに繰り返す。
 ディアボロは表情を変えずに繰り返す。
 『よく動くその舌で、床をなめろって言ってんだよ』
 男の顔が青ざめるのにそう時間はかからなかった。
 息を飲んで立ち尽くす使用人たちの前で、男は手足を付き床に這い、凄まじい葛藤に苛まれている。
 割れた食器の下に広がっているのはスープの染み。
 『どうした?はやくしろ』
 『……も、申し訳ありませんディアボロ様』
 『はやくしろ』
 『お許しください』
 『はやく』
 声が苛立ちに尖り、空気が張り詰める。
 窮地に追い込まれた男の顔色は青を通り越し、紙のように白く乾いている。
 ディアボロは容赦なく、その場を一歩も動かずに続ける。
 『お前に選択肢を与えてやる。ひとつ、使用人どもの前で俺のもんをくわえるか。ふたつ、使用人どもの前でスープをなめるか。どっちだ?』
 だれもが耳を疑う。
 良識を欠く下品な言動に慣れきってちょっとやそっとの事ではうろたえない使用人たちですら動揺を隠せない。
 十歳の子供の口から出たとは思えぬ二者択一。
 たちの悪いませガキの冗談と笑い飛ばすには、眼鏡越しの目はあまりに冷え切っている。
 究極の二者択一を迫られた男の目に焦燥と逡巡が交錯する。
 切羽詰った目で慈悲を乞うようにディアボロを仰ぐも、ディアボロはそれきり口を開くことなく、腕を組んで男の答えを待つ。
 異論など一切受け付けない冷徹なまなざしに追い詰められ、男は覚悟を決める。
 そろそろと腰を落とし、頭を垂れて前傾姿勢をとる。
 ひっくり返ったスープ皿に這い寄り、床にこぼれた液体へとおそるおそる顔を埋める。
 舌の先端が触れる寸前、躊躇する。
 硬直した男にディアボロはつまらなそうに声をかける。
 『どうした?』
 『……できません』
 『やるんだよ』
 『できません』
 『しゃぶりたいのか』
 ディアボロの声はいっそ穏やかだった。
 飼い犬の精一杯の反抗に目を細めるような、嗜虐の愉悦に蕩けた声。
 屈辱に打ち震える男を見下ろし、ゆっくりと片膝をつく。
 男の頬を両手で包み、顔を起こす。
 目が合う。
 男の目を真上から覗き込み、あどけない顔に慈悲深い微笑を湛える。
 なまじ顔が整っているだけに、背筋が凍るほどおそろしい微笑だった。
 『なめるかしゃぶるか、ふたつにひとつだ』
 相手はたった十歳の子供だ。大人と子供の腕力差は歴然で、ひとたび男が本気になれば、こんないかれたガキどうにでもできる。張り倒すのもわけない。頭ではわかっているが、体が動かない。理屈を超えた恐怖が手足の先まで支配する。血のデミトリ家直系の跡継ぎにして将来自分が仕える主人。いや、そんな建前を取り払ったところで、少年が生まれ持った邪悪さに対する恐怖心は拭い去れない。
 頬を包む手から狂気が伝染する。
 双眸の奥でどす黒いものが蠢く。
 意志が萎え、気力が折れる。
 床一面に散乱する割れた食器と銀のフォークとナイフとスプーンと晩餐の残骸、怯えて遠巻きに見守る使用人たち。
 そんな状況下で悪魔のような少年と対峙し、理性の中枢は既に蝕まれている。
 唾を飲み、頭をたれる。
 床に平手をつき、前に乗り出し、床に零れたスープに舌を浸そうとする。
 しかしまた、すれすれで動きが止まる。
 『ぐひゃっ……!』
 押し潰された食用蛙そっくりの呻き声をあげ顔面から勢い良くスープの池に突っ伏す。
 『手伝ってやるから一滴残らず舐めろよ』
 男の後頭部を力一杯革靴で踏み付け踏み躙り、ディアボロが退屈そうに呟く。
 四肢で床をかきむしり、くぐもった悲鳴をあげてもがき苦しむ男をよそに、革靴にくわえる自重と圧力を増す。
 床には皿の破片が大量に散らばっている。
 スープの池に浮いた陶器の破片、その鋭い切っ先が顔の皮膚へと食い込み男が苦痛に満ち満ちた絶叫を撒き散らし見物人の恐慌を招く。
 皿の破片で顔中傷付けられ裂けた皮膚の間からちろちろと血が流れ出す。
 尖った陶器の破片が顔や掌の皮膚を抉り、蟻に齧られるようなじくじくした疼痛が傷口を責め苛む。
 傷口にスープが染みる。
 青紫に鬱血した瞼にもべとつくスープがこびりつき、男はめめしい嗚咽を漏らしつつ不器用な舌使いでスープを舐め始める。
 ぴちゃぴちゃという音に気をよくし、ディアボロは足を緩める。
 頬を滂沱の涙と大量の血で汚し、一心不乱にスープを舐めとるその姿には鬼気迫るものがあった。
 当時のことを思い出し、護衛はしみじみと呟く。
 「末恐ろしいぜ」
 「……マジかよ。いかれてるな」
 話を聞き終えた相棒が溜め息まじりに相槌を打つ。
 ディアボロは手に負えない。
 弱冠十五歳にして自在に拳銃を扱う手腕もさることながら、真に恐ろしいのはそのねじくれた性根。
 などと、護衛二人が意見の一致をみたときだ。
 「……なんかこげ臭くねえか?」
 「ん?そういえば」
 壁から背を離した護衛が不審げに眉根を寄せ、相棒が鼻孔を上に向けて空気の匂いを嗅ぐ。
 確かに焦げ臭い。
 異臭の発生源はドアの向こう側だ。
 「うわ、なんだこりゃ!?」
 「け、煙だ!」
 ドアの隙間から漏れてきた煙に護衛二人がギョッとする。
 どうりできな臭いわけだと合点する暇もなく、ドアから漏れてきた煙は濛々と天井を覆い視界を曇らせてゆく。
 手で口を覆い激しく咳き込む。
 なにがなんだかわからぬまま、涙目でドアを仰いだ護衛の脳裏に懸念事項が閃く。
 「ディ、ディアボロ様!だいじょうぶですかディアボロ様!?」
 「おい、はやく開けろ!」
 ドアの内側で火事が発生したらしい。
 慌ててノブを掴み、体当たりでドアをぶち破る。
 二人重なって室内へとなだれこんだ護衛は、視界を遮る煙を薙ぎ払い、奥へ奥へと突き進む。
 煙に覆われたベッドの位置から咳き込む音がした。
 続いて、いつになく弱弱しく咳まじりの声がどこからか漏れてくる。
 「は、はやく助けてくれ……」
 救助を求める声に即応、最前まで悪態を叩いていたのも忘れ部屋に押し入り、床に転がっていたマッチ箱を蹴散らし奥へと急ぐ。
 ベッドの背後、窓に引かれたカーテンがめらめらと燃えているのを目撃し、驚愕した護衛の脳天に衝撃。
 「!なっ……」
 床にもんどりうった相棒に残された一人が目を見張る。
 あぜんとした男の脳天を腕ひるがえし銃床で一撃、あっけなく沈める。
 床に叩き付けられた衝撃に伴い急速に掠れる意識の彼方、睡魔に屈し下りつつある瞼の向こうに捉えたのは、ガスマスクを被った異形の影。
 「いい夢見ろよ」
 ガスマスクの向こうからくぐもった笑い声が聞こえたのを最後に意識が途切れた。

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Devilish | コメント(-) | 19951208100242 | 編集

 ガスマスクを剥ぐ。
 白目を剥いて卒倒した男を見下ろし素顔のディアボロは笑う。
 自室に火を放ち護衛を昏倒させておきながら罪悪感など一かけらも見当たらない実にさわやかな笑顔。
 「いっちょあがり。美味しいスモークサーモンを召しませってんだ」
 煙に巻かれうつ伏せに倒れた部下に餞別の言葉を投げ、いざスマスクをかけ直し背広をひったくって駆け出す。
 開け放たれたドアから廊下へと飛び出し、声を大にして叫ぶ。
 「火事だ、ディアボロ様の部屋から火がでたぞ!」
 反応は早かった。
 屋敷に待機していた護衛が、廊下に充満した煙の発生源へと大挙して駆けつけてくる。
 廊下の奥から殺到してきた黒服の大群に背を向け、脱兎の如く遁走する。
 自分でカーテンに火をつけたディアボロは、消火器を担いで走ってきた護衛らを背にけらけらと笑う。
 スーツの尻ポケットに突っ込まれたファウストは心底あきれる。
 『いくら見張りを巻く為とはいえ部屋に火を放つなんて……』
 「目的の為なら手段を選ばないんでね」
 『彼らは大丈夫かい?」
 「運が良けりゃ燻製になる前に釜の中で目が覚めるだろうさ』
 部屋に残してきた部下の身を案じ、後ろ髪引かれる思いのファウストに適当に応じ、軽快に床を蹴る。
 『大体なんでそんな懐かしい物を持ってるんだい』
 「いいだろ?蚤の市で買ったんだ。なんでもあるからな、あそこ」
 『いやな思い出がよみがえるよ』
 どんな事態を想定してガスマスクを買ったのか考えたくもない。 
 走りに合わせ揺られながら、この少年を抑止できるのはもはや自分だけとの使命感に則り、ファウストは口を酸っぱくして説教する。 
 『君ときたらやることなすこと無茶苦茶だ。僕はもっと平和的な脱出法を考えていたのに、ますます混乱を深めてどうするんだい。そもそも自分の屋敷に放火するなんて狂人の発想だ、まかり間違って火が回ってしまったら明日からどこに住むんだい?』
 「コットンガーデンにでも居候するか。ドンファン気分で馴染みの娼婦んとこ渡り歩くもいいな、一度やってみたかったんだよ」
 『……きみってまったく』
 「素晴らしい?」
 『その反対』
 「おっと」
 前方の角を曲がって現れたのは新たな黒服が三人。
 消火活動に加わりにきたらしく、手に手に消火器のホースやら水を汲んだバケツやらをさげている。
 靴裏の摩擦で急制動をかける。
 黒服たちがこちらを指さし口々に何かを叫ぶ。
 やばい、見付かった。
 即方向転換し別の通路へ逃げ込もうとしたが、背後からも複数の靴音が近づいてくる。
 どうやら勘付かれたらしい。
 靴音の大群に挟み撃ちされ、進退窮まったディアボロは鋭く舌打ちする。
 『この場に最も相応しい諺は絶体絶命だね』
 したり顔のファウスト。
 ガスマスクの奥でディアボロは不敵な笑みを拵える。
 「いや………」
 ディアボロが助走して加速、頭から窓へと突っ込む。
 窓ガラスが割れ、窓枠の残骸が宙に飛び散る。
 硝子の切っ先に月光を留め、きらびやかに輝く窓の破片に巻かれながら、風を切って落下する。
 「九死に一生だろ」
 衝撃。
 葉擦れの音が連鎖し、小枝の裂ける乾いた音が鼓膜を引っ掻く。
 青臭い若葉の匂いと湿った樹皮の匂いが鼻孔で絡み合い、視界がめまぐるしく反転する。
 落下が止まる。
 落下を食い止めたのは宙へと張り出した太い枝だ。
 こんもり生い茂った枝葉が緩衝材の役目を果たし、衝撃を吸収する。
 上段の枝に片足をひっかけ、逆さに吊られた格好のディアボロは、ガスマスクの下から吐き捨てる。
 「ファック」
 『この場に最も相応しい諺は危機一髪だ』
 「言われなくてもわかってるよ、おせっかいなフール・ソウル」
 地面との激突を免れたディアボロは枝葉をかきわけ、幹へとにじり寄る。
 幹を伝って地面に降り立ち、スーツに付着した埃を叩き落とすと同時に車庫の方角に疾走を開始する。
 『……間に合うのかい?』
 「どうだかな」
 顔面からガスマスクをひっぺがし、不安を禁じえぬファウストの囁きにディアボロは冷めた声で応じた。


                         +




 蒸気都市ファイブリィのシンボルとして真っ先に挙げられるのは旧市街の時計台だ。
 建立百年の歴史を誇る白亜の時計台も昨今は老朽化し、登楼に危険が伴うため観光客の立ち入りは市条例で禁止されてるが、例外はある。
 「寒いの」
 頂点の鐘楼の下、展望台でだれかが呟く。
 毛足の長居コートに細身の体躯を包んだ老紳士。
 血のデミトリ家三代目にして現当主、マルコ・デミトリ。
 右目の単眼鏡に映るのは、東西で景観を異にするファイブリィの夜景。
 西側、旧市街は居住区が三分の一を占めるせいか明かりもまばらだ。
 煉瓦造りの建造物の谷間に点々と覗くのは星よりひそかなアーク灯の明かり。
 視線をさらに彼方へ転じるとなだらかな丘陵地帯が広がっている。
 段段になった稜線に沈んでいるのは大規模な邸宅郡。
 ファイブリィの富裕層が居を構える高級住宅街にはこの時間もちらほらと明かりが瞬いている。
 今宵も資産家の家でパーティーが開かれ、サテンのドレスやスエードの三つ揃いで洒落こんだ上流階級の紳士淑女たちが笑いさざめきながら優雅な夜を過ごしているのだろう。
 そんな華やかな喧騒とは無縁の一角にデミトリは目を向ける。
 丘の中腹、ファイブリィでも指折りの財界人だけが住まうことを許される最も見晴らしがよく閑静な一画に彼の屋敷はある。
 屋敷がある方角へと目を馳せ、その一室で不貞寝しているだろう不肖の孫の姿を思い浮かべ、デミトリは静かに溜め息をつく。
 東側、新市街。
 急進的な開発が推し進められた結果、煉瓦造りの建造物が解体され一掃された新市街には瀟洒かつ無個性なビル郡が林立している。
 高層ビルが群雄割拠する谷間には二重三重にループする高架道路が敷かれており、その景観は近代的な幾何学美を誇示する。
 ビルの麓には宝石箱をひっくりかえしたようにどぎつい光がばら撒かれ、貴婦人の裾の如く豪奢なきらめきは港湾の方にまで延々広がっている。
 欲望の色だと思う。
 「何時になった」
 眼下の眺望に目を馳せたまま、問う。
 「0時5分前です」
 背後に控えた部下が即答する。
 取り引きまであと五分。
 時間を確認し、デミトリは軽く首肯する。
 得物を携帯した護衛が五人、あるじを中心に完璧な陣を敷く。
 今宵の取引に備え、ファミリーでも腕の立つ者ばかり選り抜いて同伴した。
 皆、忠誠心が厚く信頼のおける護衛である。
 デミトリの足元には重厚なトランクケースが置かれている。
 横に置かれたケースの存在は意識せず、余裕をもって夜景を眺めるデミトリの背後で、ざわめきが巻き起こる。 

 空気が変容する。 

 闇の奥から響く靴音に、護衛がさっと身構える。
 反射的に背広の内に手をやる護衛らの視線の先、闇から靴音を響かせて現れ出でたのは若い男。
 一分の隙なくスーツを着こなすスマートな立ち姿は、社交界でも評判の色男の名に恥じないもの。
 オールバックに撫で付けた黒髪の下には聡明な額と形よい眉がある。
 顔立ちはおそろしく整っている。
 肉の薄い鼻梁は硝子めいて神経質な印象を与えたが、端正な切れ長の双眸は一瞥で観衆を魅了する魅惑的な眼光を帯びていた。
 振り向きがてら男の目を覗き込み、デミトリは一種の感嘆を覚える。
 夜の闇を凝縮したような漆黒の瞳。
 もっとも純粋な黒。
 頭髪と揃いの色の目はあまりに深い魅惑の光を湛え、デミトリの脳裏を過日に聞いた伝承が過ぎる。
 邪眼。
 悪意をもって睨み付けることによって人に呪いをかける特別な瞳。
 魔女の眷属だけがもつとされる呪いの技能。
 科学の発展に伴い埋葬された迷信が、この男の瞳には確固たる真実として備わっている。 
 イヴル・アイとはこんな目の事をいうのかもしれない。
 男の瞳は、その黒さによって自らの孫をも彷彿とさせる。
 埒もない空想に耽るデミトリのもとへ男は悠長に近付いてくる。
 カツ、カツ、カツ。
 単調な靴音を響かせながら、余裕さえ感じさせる足運びでデミトリのもとへと歩み寄る。
 デミトリは体前に杖を立て男を待つ。
 その目には威圧のオーラも警戒の色もない。
 柔和とさえ表現してもいいだろう角のとれた光を宿すアイスブルーの目が男の一挙手一投足を見詰める。
 五歩隔て男が立ち止まる。
 「……血のデミトリ家当主、マルコ・デミトリ氏とお見受けしますが」
 「いかにも」
 デミトリは鷹揚に頷く。
 男は笑みを絶やさず如才ない挙措で片手を差し出す。
 「お会いするのは初めてですね。私はジズ・フィロソフィア……」
 一拍おき、名乗りをあげる。
 「あなた亡き後を担う、ジズ・フィロソフィアという若輩です」
 「!」
 護衛が気色ばみ得物に手をかけるのを視線で制し、ジズへと向き直る。
 ジズは変わらず笑みを浮かべていた。
 対峙した者の心胆寒からしめる、ぞっとするほど酷薄な笑み。
 デミトリはジズの微笑から目を逸らさず、挑戦的に唇をほころばせる。
 鋭利な微笑を交わす黒社会の二大トップに、展望台に集結した両組織の精鋭らが息を飲む。
 いつ発砲の許可が出ても対応できるようグリップに手をかけたまま、互いを牽制するかの如く慎重な足運びで間合いを詰める両陣営の護衛らをよそに、ジズと二人別世界を築いていたデミトリがのんびり口を開く。
 「驚いた。噂には聞いていたが、随分と若いではないか」
 「若作りなんですよ」
 デミトリは優雅な挙措で手をさしだし、ジズと握手を交わす。
 社交上の礼儀を蔑ろにするのは紳士の信条に反する。
 たとえそれが建前にすぎずとも、腹に一物秘めていようとも、それを表に出さぬだけの節度はお互い持ち合わせている。
 デミトリと握手しながらジズは苦笑する。
 「あなたこそ、実際の年齢よりもお若く見えますね。なにか秘訣でもあるんですか」
 「秘訣は食材かの」
 「それはぜひうかがいたい」
 初見の挨拶から世間話へと移行した両者に、緊縛の術が解けた護衛らが安堵の息を吐いて得物から手を放す。
 デミトリはジズと視線を絡めたまま、肉の削げた喉を震わせひょうげた声で笑う。
 「ワシは人を食って生きとるからの」
 「ご冗談を」
 ジズの頬が緩む。
 市街を新旧二分し黒社会を代表する者の会話としては、まずまず温厚な部類に入る。 
 「では、早速商談に入ろうか」
 デミトリに顎で促され、護衛の一人がアタッシュケースを抱え上げる。
 アタッシュケースを捧げ持ち恭しく進み出た護衛を一瞥、ジズが同じく指示する。
 ジズの傍らから仰々しく進み出た護衛の手には、銀色のジュラルミンケースが捧げ持たれていた。
 展望台の中央で向かい合った護衛らの傍らでジズとデミトリは静謐に対峙する。
 かたや新市街に台頭する新興マフィアの若き帝王、かたや三代の長きにわたり旧市街に覇を唱える名門マフィアの当主。
 修羅場が培う胆力を眼光に代え、両者一歩も譲らず視線の圧力のみで互いを牽制する。
 「……中身を確認させてもらいましょうか」
 デミトリが目を上げる。
 深沈と静まったアイスブルーの目がうろんげに相手の表情を探る。
 ジズは平然とデミトリの視線を受けて立つ。
 目上への礼節を保つ若きマフィアの王に敬意を払い、デミトリが顎をしゃくる。
 護衛が頷き、ワンタッチでアタッシュケースの蓋を開ける。
 ケースの中には緩衝材として臙脂のクッションが敷き詰められ、中央に古びた革装丁の書物が鎮座ましましている。
 表紙に刻印された五亡星が月光を浴び、妖しく輝いている。
 本へと指を伸ばしかけ、ジズはかすかに眉をひそめる。
 「……蝶番が壊れていますね」
 「事故じゃよ」
 デミトリはおっとり答える。
 ジズは疑わしげにデミトリを見る。
 「奪回に向かわせたのがとんだ愚か者でな……銃撃戦の際に誤って蝶番を壊してしまった、と本人は申しておる」
 「この本は貴重品です。わかっていながら、そんな粗忽者を奪回に向かわせたのですか」
 不快感を露わにするジズに、デミトリは殊勝なそぶりで付け加える。
 「申し訳ないと思っておる……責任はとらせるつもりじゃ」
 泣く子も黙る血のデミトリ家現当主に頭をさげられては、ジズとてそれ以上の追及は諦めざるをえない。
 不承不承引き下がったジズに、デミトリはここぞとたたみかける。
 「とにかく我がデミトリ家は貴殿の要請どおり、本の奪回に成功した。今度は貴殿が誠意を見せる番じゃ」
 「わかっています」
 ジズが顎をしゃくる。
 ジュラルミンケースが開く。
 中から現れたのは封蝋を施された大判の封筒。
 ジズは封筒を手に取ると、大いにもったいぶって顔の横に掲げてみせる。
 「デミトリ老ご所望の品、歓楽街の土地の権利書です」
 「本物か」
 「本物です」
 「改めさせてもらおうか」
 デミトリの要求をジズは快諾する。
 「願ってもない」
 ケースの蓋を閉じ、護衛同士が接近する。
 鐘楼に靴音が響き、涼しい夜風が吹き渡る。
 ジズはコートの膨らみに手をやる。
 「ユーシン、起きているか」
 『はい』
 「おまえの心配は杞憂だったようだ」
 コートの生地越しに香炉を包み、ジズは苦笑した。
 『……そうでしょうか』
 頭の中に直接声が響いた。蚊の鳴くようなか細い声だ。ジズは妙な顔をした。
 「なにを憂う?お前の望みはだれも傷つかず、だれも死なないというただそれだけのことだろう」
 『………いやな予感がするんです』
 「またそれか」
 ジズはあきれるもユーシンの声は真剣だ。
 『この取引、今からでも中止できませんか』
 「いい加減にしろユーシン」
 『でも、』
 「だまれ」
 鋭い叱責にユーシンは萎縮するも、胸に湧き立つ不安の暗雲を拭いきれず、蚊の鳴くような声で切々と訴える。
 『災いが近づいています……』
 視線の先で護衛が接触し、ケースを交換する。
 ケースを取り替えて戻ってくる護衛をはやる気持ちで待ち受ける。
 「ボス、ご確認を」
 護衛が緊張の面持ちで示したケースの中央では、例の書物が特別な存在感を漂わせている。

 長い歳月を経たとおぼしき革の装丁は擦り切れ、表紙の五亡星は凄惨に黒ずみ、これまで吸った生贄の血の量を予感させる。
 唾を飲み、本へと手をさしのべる。
 慎重に慎重に、本の下へと手を滑り込ませる。
 ずっしりした重みが手にこたえ、毛羽立つ表紙がてのひらを擦る。

 ようやく手にした。
 念願の本だ。
 これさえあれば、俺はさらなる力を手にすることができる。
 さらに強大な力、さらに強大な……

 「…………なんだこれは」
 憑かれたようにページをめくる。
 白紙白紙。
 延延と連鎖する白いページ。どこにも文字など記されていない、文字が記された痕跡もなく、すべての記録が跡片もなく抹消されている。
 本が閉じ込めていたのは文字ではなく、虚無。
 「説明してもらおうか、マルコ・デミトリ」
 「こちらからもひとつ質問がある」
 ぱたんと本を閉じ、抑揚のない声で問うジズに対し、デミトリは好々爺然とした顔を向ける。
 「茶番はしまいじゃ。老体に夜風はこたえる。そろそろおぬしの本心を聞かせてもらいたい」
 「本心とは?」
 「おぬしがその本の奪還を、あえてこちら側に依頼した理由じゃよ。迂遠な手管を使いよって……本当の目的は何じゃ」
 「おっしゃる意味がわかりませんが」
 「では単刀直入に言うとしよう」
 紳士の鏡と評される温厚篤実な微笑を湛えたまま、直線でジズと対峙するデミトリの後方から、その時、一陣の強風が吹き付ける。 
 不吉の前触れのように突如鐘楼に吹き来たったその突風は、デミトリが羽織るコートの裾を音高くはためかせ翻し、ジズの前身を鞭打つ。

 あたかも威圧の如く、
 あたかも威風の如く。

 「なめるなよ、小僧」
 宣戦布告。

 好々爺の仮面を被ったまま、しかし単眼鏡の奥の瞳にそれを裏切る冷徹な光をたたえ宣言すれば、デミトリ側の護衛が一人残らず銃を抜き一斉掃射の構えをとる。
 「ボスっ!!」
 絶体絶命の窮地に立たされたジズの正面に佇み、杖を携えたデミトリが一歩前に出る。
 そして、うっそりと言う。
 「鎮魂の鐘を鳴らすか、跪いて懺悔するか、選びたまえ」
 「ここは告解室ではないし、貴方は牧師ではない」
 「妻はこの時計台が好きでね」
 脈絡なく話題がとぶ。
 眉をひそめるジズにお構いなく、デミトリは天国の妻に語りかけるように目を細め、蜜月を懐古する。
 「……時計台の解体が決定した時、ワシは即、買い取りを決めた。強引な買収だと後ろ指をさされたが、否定はせん。それでも妻との思い出の場所を残しておきたかった。病床に伏せた妻にとって、窓から見える時計台は慰めじゃった。健康が回復したらまた、娘をつれて、三人で鐘楼にのぼろうと……結局叶いはしなかったが」
 「老人の感傷ほど退屈なものはありません」
 「言動に地金がでてきたぞい?」
 ジズの不敬な発言をデミトリは痛快に笑う。
 「おぬしの言うとおり自己満足じゃよ。時計台を買い取ったのは、妻の思い出ごと葬り去られるのが忍びなかったからじゃ。だがこの通り、こんな立派な時計台をただ朽ちさせておくのは惜しい。新市街に高層ビルが乱立する今でも、この時計台は旧市街一の高さを誇る建造物じゃ。そこでワシは、時を報せる機能を失った時計台に別の役目を与えた。マフィアの取り引きが時計台で行われておるとは官憲も思うまい。高みくらならば警察の目も届かぬし、表に出したくない話も存分にできる」
 「決裂すれば転落事故として処理できる」
 皮肉には静かに微笑むにとどめ、背筋を伸ばし威儀を正す。 
 薄氷と黒曜の瞳が静かに激しく切り結び、痩身の老人が黒社会の頂点に君臨する傑物の威厳を帯びる。
 「亡き妻の名に誓い、真実を話してもらうぞ」

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Devilish | コメント(-) | 19951207163832 | 編集

 「妻の名を免罪符にするとは、悪趣味のきわみだ」
 辛辣な皮肉を受け護衛の間に殺気の波紋が広がる。
 「デミトリ様を愚弄するか、貴様っ!」
 「成り上がりの分際で生意気なっ」
 「控えたまえ」
 暴言にいきりたつ護衛を片手で制し、一歩前に出る。
 無慈悲な女王が君臨する時計台の頂上でファイブリィを牛耳る二大マフィアのトップが邂逅する。
 デミトリは開拓の歴史を感じさせる旧市街の町並みを背にし、ジズは豪奢な光が散らばる新市街を背にし、それぞれ一歩も引かず向き合う。
 領土と従者を従えて対峙する老人と若者の間に凄まじい負荷がかかり、空気が重く撓み張り詰める。
 黒曜と薄氷の瞳が地平を彩る無数の光を宿してぶつかり、冷ややかな殺意を乗せた視線が剣戟の音もなく切り結ぶ。
 両者の体から、服従をしいる莫大な威圧感が放たれる。 
 互いの矜持をねじ伏せ屈服させようと殆ど物理的な重力を伴い襲いくる威圧感は、しかしどちらも引けをとらず、中間の虚空で相殺される。

 両者見つめあう。
 互いの目の奥の表情を読み、隠された真実をさぐる。

 「おぬしが話を持ってきたそもそもの初めから、ひっかかっておったよ」
 先に口を開いたのはデミトリだ。
 無益な沈黙に終止符を打ち、淡々と話し始める。
 「ジズ・フィロソフィア。おぬしが本の蒐集に熱をあげておるのは社交界の語り草じゃ。だからおぬしが本を盗んで逃げた小悪党を手下を動員して捜しとると聞いた時も、ありうる話じゃと思ったよ。だがしかし、新市街の闇の帝王たるジズ・フィロソフィアが二週間たっても盗人一匹捕らえられないというのはいかにも不自然。新市街にはフィロソフィアカンパニーの監視網が張り巡らされておる。ケチな小悪党一匹、本気を出せば二・三日で見つけ出せる。違うかね」
 「買いかぶりすぎでは?」
 「謙遜はいやみじゃよ」
 デミトリが静かに微笑む。
 ジズは無表情で受け流す。
 杖の先端がこつこつと地を打つ。 
 「ワシの目には、おぬしがあえてフォーマシィを旧市街に追い込んだように見えるのだがね」
 杖の固い先端が地を穿つ音が大きくなり、静寂に楔を打つ。
 ジズは答えない。
 真意が読めない無表情のまま、僅か五メートルを隔て対峙するデミトリの推理を拝聴する。
 「フィロソフィア・カンパニーが総力を尽くしてなお、ケチな小悪党を網から逃すとは思えん。いかに元コソ泥のフォーマシィーが土地勘を頼りに逃げ回りよったとしても、おぬしが街に放った猟犬が、それほど無能とは思えん。フォーマシィーの逃げ込み先は、予め調べがついておった。知りながら、あえて泳がせておった」
 唇の端が皮肉に歪む。
 「面白い発想だな。まるで私が裏から手を回し、フォーマシィーを旧市街に誘導したように聞こえる」 
 端正な顔に似合いの酷薄な笑みを浮かべるジズに、単眼鏡の奥の目が冷徹に細まる。
 「おぬしは故意に、フォーマシィーを旧市街に逃げ込ませた。他の退路を発ち、越境せざるえないように仕向けた。その上でデミトリ家に今回の依頼をもちかけた。本を盗んで逃げた男が、旧市街に潜伏しておる。歓楽街の土地の権利をちらつかせ、取り引きをする」
 疲れたように溜め息をつき、大儀そうにかぶりを振る。
 「矛盾だらけじゃよ。コソ泥一匹の後始末にデミトリ家の協力を仰ぐのがおかしい。おぬしらがデミトリ家に譲歩して分の悪い取り引きをもちかける理由がない。フォーマシィーが人間が旧市街に逃げ込んだのなら越境討伐の許可をとればいい。もちろん事後承諾でも構わぬ。それしきの事で目くじらたてたりせん。勿論、面子の問題もある。元を辿れば、これは内輪もめじゃ。仇敵の我らを内輪揉めに巻き込むなぞ、面子を重んじるマフィアの流儀ではない」
 一呼吸おき、続ける。
 「たかがコソ泥一匹、そちら側の追っ手だけで十分片付けられただろうに歓楽街の権利という切り札まで使いデミトリ家を動員した。保険?割に合わん。おぬしがフォーマシィーを旧市街に追い込み、デミトリ家と組んで得られる利益とは?」
 護衛の手から書類を受け取り、一番上の紙をめくる。
 「本の足取りについて、少し調べさせてもらったぞい」
 ジズの顔色が変わる。
 冷ややかな無表情に、怒気とも殺気ともつかぬものがこもる。
 デミトリは落ち着き払い、単眼鏡の位置を正して文面に目を通していく。 
 「この本がファイブリィの港についたのは二週間前、わざわざ積荷に偽装して上陸した。妙な話じゃ。今は飛行機がある。喉から手が出るほど欲しい本を、わざわざ何日もかけて、船で運んでくる必要はない。飛行機を使えばすぐ手元にとどくのに、何故こんな回りくどい方法をえらぶ?本が搭乗を拒否したとでも?」
 「飛行機と相性が悪くてね」
 ジズの声が愉快げな成分を含み、細めた目に狡猾な光が閃く。
 冷笑するジズに対し、デミトリもまた温和な苦笑を返す。 
 「冗談は嫌いではないが、時と場所を選んだほうが賢いぞい」
 丁寧な手つきで書類をめくり、話を再開する。
 「飛行機の方が早くて安全じゃ。本は湿気に弱い。いかに厳重に密閉しておっても絶対に安心とは言えん。しかし、おぬしはあえて船での運輸を選んだ。荷おろしには下請けの部下があたったそうじゃの。本と一緒に、銃もまた大量に密輸された。おぬしの会社はいくつか飛行機を所持しておるが、飛行機は離着陸のたびにうるさくチェックされる。一方海上密輸ならば、複数の港を経由し、何回か船を乗りかえる事によって関与の痕跡を消し、税関を煙にまける。飛行機だとこうはいかん、あのデカブツは目立つからの。おまけに燃料を食う。速度ははるかに優れておっても機動力では船に劣る。一旦公海に抜ければ保安の網を潜るのもらくじゃろうて」
 「なら、矛盾はない」
 「否、ある」
 デミトリが資料を閉じ、すっかり暗記した記述を喋る。
 「港につくと同日同時刻、襲撃にあった。情報が事前に漏れておったらしい。船を襲撃したのは新市街を拠点にするチンピラどもで既に報復は完了しておる。主犯格の遺体がつい先日港に上がったよ。むごい拷問を加えられて」
 『………っ、』
 ユーシンが息を呑む。
 反比例し、ジズの声はますます冷え込む。
 「………血のデミトリ家当主に拷問の手法で責められるとはな」
 「責めてはおらん。しかし、この遺体の主には同情する。おぬしに使い捨てられた哀れな男にはな」
 「何を言ってる?」
 ジズが気色ばむ。
 剣呑な目つきでねめつけるジズの足元へ、資料を放る。
 風にページがめくれて舞い上がり、残虐な拷問を加えられ、顔と手足を潰された死体の写真が暴かれる。
 報復。
 「都合が良すぎるんじゃよ」
 単眼鏡の奥で炯炯と、アイスブルーの目の輝きが増す。
 「待望の本がいよいよ上陸するその日に限って情報が漏れ、おぬしらを快く思わぬチンピラが襲撃を企む。内部に裏切りものがいるはずじゃ、船の入港日時を漏らした裏切り者が。さて、そして?銃撃戦がおきる。ジズ・フィロソフィアの台頭を歓迎せぬチンピラどもが港に潜伏し、派手に抗争をしかけた。結果、大勢の人間が死傷する。だがこれも考えてみれば奇妙じゃな。あまりに都合良く偶然が重なりすぎておる。たまたま本が上陸する日に、たまたま敵対組織が抗争を仕掛け、抗戦のどさくさで本を紛失した。第一、それほど大事な本がそう簡単になくなったりするものかね?だが、実際に本は消えた。数多くの死体が散乱する惨劇の港から、忽然と姿を消した。現場には防弾ケースの残骸とおぼしきガラス片が残留しとったそうじゃ」
 「警察の捜査資料まで手に入れるとは……」
 「知己がいてね」
 デミトリは意味深な笑みを深め、神経質に単眼鏡をいじくる。
 「なるほど、フォーマシィーは盗人じゃ。だが、ケチな窃盗の前科しか持たぬ小心者がケースを破壊して持ち去ったとは考えにくい。普通はそこで諦める。しかし現実に防弾ケースは割れ、フォーマシィーは本を入手した………ワシは思うんじゃがの。本の運搬法を指示したのがおぬしなら、当然、本の保管法についても口を出したはずじゃ。ケースの強度も、何発銃弾をくらえば壊れるかも、おぬしはすべて折りこみずみじゃった」
 つい、と杖が残像の弧を描いて虚空を滑り、ジズの胸につきつけられる。
 「おぬしだけはな」
 喉の奥で泥が煮えるような笑声が沸き立つ。
 胸に突きつけられた杖の向こうに立ち塞がる老紳士を挑むように見据え、漆黒の双眸に殺意をともす。
 「私が黒幕だと?いいだろう、耄碌老人の戯言にしばらく付き合ってやる。ならば、目的は何だ?私は何が目的で、そんな回りくどいまねをした。貴方の言うとおり、私が入港の日時を敵対分子に教え、銃撃戦を仕組んだとしよう。喉から手が出るほど欲した本を、わざわざ血の海に沈めたとしよう。そんな馬鹿なまねをして、こちらが得る利益とは?」
 「さてな。ワシが聞きたいくらいじゃよ。正直、狂気に冒されて破滅を急いでるようにしか思えん。しかしまるで……」
 続きをためらう。
 続く言葉がまるで、忌むべきものであるかのように。
 「なんだ?」
 どこか嬉嬉としてジズが促す。
 周囲の護衛が固唾を呑み二人を見比べる。
 青白く不吉な月がかかる展望台に、禍々しく異様な雰囲気が立ち込める。
 暗雲が月を覆い、地上に影を落とす。
 影に包まれたデミトリが、深沈とした口ぶりで呟く。
 「今回の件でおぬしの手足となって動いた者どもすべてが、本に供された生贄のように思えるよ」 

 すべては本の覚醒を促すために仕組まれた巧妙な計画。
 魔道書の真贋を見極める一番簡単確実な方法は人の血を与える事。
 それもなるべく多くの人間の血を、一度に。
 覚醒の準備段階として必要な行為。
 命ある悪食の魔道書は、己に捧げられし流血を好む。

 地平線の彼方より吹く風が音高くコートの裾をもてあそぶ。
 頬を嬲る風の冷たさがジズの表情を閉じこめる。

 片方は旧市街を背負い
 片方は新市街を背負い
 黒社会の雌雄を決する。

 「私が故意に、本に血を吸わせたと?」
 風にはためく衣擦れの音に紛れ、ジズが低く言う。
 「妄想が事実だと仮定しよう。しかし回りくどい。生贄を捧げたければ、裏マーケットで仕入れた奴隷の喉首を掻き切ればすむ話では」
 剣呑な発言にも恬淡と応じる。
 「ジズ・フィロソフィア。新市街の一等地にビルをもつ青年実業家。社交界にも顔が売れておる。若き野心家にとって黒魔術かぶれの風評は致命的ではないかね」
 「だから銃撃戦に仕立てたと?」
 「売り出し中の実業家が人身売買に関与すれば警察とて無視できん。監視が強まるのは本意ではない。ならば、偶発的な銃撃戦として通りいっぺんの検証のみで処理された方が都合が良い。おぬしは直接の関与を疑われないように裏から手を回しよった」
 杖がこつこつと地を打つ。 
 「察するに、フォーマシィーが本を持ち去ったのは誤算ではないかね。本当なら、銃撃戦の直後に回収されるはずだった。その為の人員を前もって配置しておいたはずじゃ」
 デミトリの指摘は正しい。
 フォーマシィーの追跡班としてジズが放った五人の部下は、もともとは港に待機し、本の回収に着手するはずだった。
 追跡班のリーダーは、あの日、港にいた。
 ジズは彼にも詳細を明かさず、「何があっても本を無傷で持ち帰るように」と命じるに留めたが、それが裏目に出た。
 銃撃戦の混乱で回収班は本を見失い、フォーマシィーは混乱に乗じてまんまと失踪した。
 「フォーマシィーを二週間泳がし続けたのは?」 
 「誤算は好機に転じる。おぬしは計画を変更した。フォーマシィーを泳がせ旧市街に追い込む事で、我らと手を組む口実ができた」
 風が、凪ぐ。
 雲に覆われた月が地上を浄暗で包み込む。 
 無慈悲な月を中天に頂く時計台にて、三代にわたり支配し続けた旧市街の領土を背に佇む老紳士が端然と背筋を律する。
 アイスブルーの双眸が氷針の鋭さを孕み、背筋を凍て付かせる。
 「デミトリ家を、生贄にしたな」
 声に霜が張る。
 極限まで引き絞った弦の如く空気が撓み、緊迫する。 
 抑制した物腰で問うデミトリに対し、ジズは沈黙を守る。
 『少爺………』
 ユーシンの不安げな声が霊感が直結する眉間の裏に響く。
 なだめるようにコートの膨らみに手をやり、さする。
 「共闘と見せかけ、こちらの全滅を狙った。違うか。フォーマシィを多勢で追い込み、追い詰め、工場街に誘い込み……罠を張って。ワシらを生贄にするつもりじゃった。最初から生かして帰すつもりはなかった」
 「異な事を言う。こちらがさしむけたのはたった五人、そちら側とは戦力が違いすぎる。勝敗は火をみるより明らかだ」
 「しかし、そう考えればつじつまが合う。おぬしは最初から、こちらと組むつもりなど毛頭なかった。その気になればいつでもフォーマシィーをとらえ、本を取り戻せたが、あえてそうしなかった。わざわざフォーマシィーが旧市街に逃げ込むのを待っていた。さて……もしそちらが銃を抜いたのなら、デミトリ家も容赦はせん。全力で報復する。だがしかし、こちら側がそれ以外の理由で全滅に追い込まれたら?数の上での有利が関係しない、反則的な方法で全滅に追い込まれたのなら……」
 「妄想だな」
 「妄想じゃよ。だが、現に港では惨劇がおきた。これは事実にもとづいた妄想じゃ。資料をよく読むがいい」
 余裕を回復したデミトリが顎をしゃくり、ジズの足元を示す。
 すかさず腰を屈めた護衛の手の甲を、杖で阻む。
 「自分で拾いたまえ」 
 護衛が憤怒の形相に変じる。
 一触即発の緊迫感。
 デミトリはジズに顔を向けたまま出方をうかがう。 
 屈辱に歯軋りする護衛を下がらせ、片膝をつき、拝謁を乞う臣下のように頭を垂れる。

 屈服。
 屈従。

 正面に跪くジズをデミトリは傲然と見下す。
 驕りがよく似合う厳格な表情に、皺ひとつひとつに覇気がみなぎる。
 片膝ついた姿勢で資料を拾い、油断なく注がれる眼光を意識しつつ、慎重に立ち上がる。
 「現場の所見が記されておるが、ひとつ奇妙な点がある」
 ジズが資料に目を落とすのを待ち、うっそりと口を開く。
 「血じゃよ」
 デミトリの言わんとすることを察し、ジズの眼が険を孕んで細まる。
 「現場に転がっておった死体の数と流れた血の量がつりあわん。死体の損傷に比べ流れた血の量が少なすぎる。奇妙じゃの。誰かが血を啜ったようではないか」
 「海に流れてしまったのでは?」
 「しかし痕跡は残る。問題の血は跡形もなく蒸発してしまった。後日の廃工場とおなじように」
 突如、黒檀の杖が風切る唸りを上げ、ジズの頬を掠める。 
 「!!」
 護衛が銃の引き金をしぼりかけるも、デミトリが前触れなく振り上げた杖はジズの頬を薄皮一枚掠め、ひたりと静止する。
 杖の先端がさすのはケース中央の本。
 表紙の中心に霊妙なる五芒星を象嵌した、古い本。  
 「誰が血を吸った」
 皺の間に不思議な精力が迸り、アイスブルーの目が零下で氷結する。
 「その本は、何じゃ」

 魔道書。 
 世界にただ一冊の、莫大な魔力を秘めた本。

 『少爺、今の話は本当ですか』
 ユーシンが必死に訴えかける。
 否定してほしがってるような、悲痛な響きの声。
 『魔道書を目覚めさせるために、部下の方々を見殺しにしたのですか?生贄を捧げたのですか?』
 「……この本が本物だという証拠はなかった。本物なら、人の血を吸う」
 『そんな理由で、部下の方々を死地に追いやったのですか。捨て駒にしたのですか。真贋を見極めるために、魔力を供給して覚醒を促すためだけに……そんな……皆さん、少爺に尽くしてらっしゃったじゃありませんか。貴方を慕っていたじゃありませんか。ご自分の部下を、どうして』
 戸惑い、憂い、哀しみ、嘆き。
 縋るようにどうしてと繰り返す優しい使い魔を、冷徹に鞭打つ。
 「回収に派遣したのは使いものにならないやつばかり。二枚舌の裏切り者、金を横領している者、俺に対し野心をもつ者、薬に手を出した者、組織を抜けたがっている者……どちらにせよ、近いうちに始末をつけねばらならなかった。長く生かしておけば、やがて俺の足をひっぱる」
 『!』
 見えざるユーシンが驚愕に息を呑む。
 『粛清……したのですか』
 「ただの処刑だ」
 回収に派遣した五人の部下も、廃工場で合流したデミトリ家の面々も、本当なら誰一人生き残る事なく全滅する予定だった。

 全員、魔道書に血を捧げて。
 魔道書の心臓を目覚めさせるには相応の犠牲が必要だったのだ。

 「誰も生き残らない予定だった。デミトリ家の人間も、俺の部下も。運命の刻限に居合わせた全員が生贄に供されて、魔道書の目覚めを手伝うはずだった。俺はその後本を回収する。だが、番狂わせがおきた」
 ジズの顔が苦々しく歪み、デミトリが渋面を作る。
 「目立ちたがりの不肖の孫が、派手に暴れよっての」 
 「貴方の孫が予定外の行動に出たせいで、以降の計画がすべてくるった」
 ジズの部下とデミトリ家の面々が撃ち合いを始めれば、血の匂いを嗅ぎ付けた悪食の悪霊が触手をのばさぬはずがない。
 魔道書さえ手に入れば、後の事はどうとでも処理できる。
 魔道書が本格的に覚醒すれば人間は肉片と血霧に化し、目撃者も含めた全員が死亡すれば先に銃を抜いたのがどちらか判定できず、デミトリ老も一方的にこちらを詰れない。

 混沌に至る惨劇の演出こそ、ジズ・フィロソフィアの真の目的。
 悪食の悪霊を召喚するため仕組まれた陰謀。

 「…………まさか、あやつに感謝する日がくるとはの」
 デミトリが小さく息をつく。
 時計台に沈黙がたゆとう。
 「長話は終わりだ」
 ジズが動く。
 「交渉決裂かの」
 デミトリが動く。
 「白紙の綴りを出しておいてぬけぬけと」
 靴が鳴る。
 「可愛い部下とそれ程でもない孫を、よくも嵌めてくれおったな」
 距離が縮まる。
 「本物はどこへやった?」
 「はて面妖な。その本はダンカン・フォーマシィーが持っていた紛れもない本物じゃ」
 「なぜ中身がない」
 「知らぬ」
 「本を回収した者に話を聞きたい」
 「この場にはおらん」
 「どこにいる」
 「屋敷じゃ」
 「連れてきてもらおうか」
 「無茶を言う」
 翳った表情でデミトリが薄く笑う。
 「第一、ワシはその本に興味がない。中身が期待はずれで幻滅しようが、説明の義務をおう謂れはないぞい。字が読みたければ、改めて中身の回収を頼むんじゃな」
 「……人を食って生き永らえただけの事はある」   
 硬質な靴音が重なる。
 「ワシは骨董品かね」
 歩調が速まる。
 「貴方の時代は終わった」
 ジズが懐に手を入れる。
 「隠居にはまだ早い」
 デミトリが杖をもつ。
 「おぬしに謀られたとあっては三代保ち続けた血のデミトリ家の面目も丸潰れよ」
 「思い出の時計台を血染めの処刑台にかえるとは、さすが血のデミトリ家の現当主。奥方もさぞ天国で喜ばれることでしょう」

 閃光が走る。
 護衛のだれも、咄嗟に反応できなかった。

 空を覆う雲が晴れ、青白い月光が冴え冴えと降り注ぎ、重なる影を暴く。
 「若造が小癪な」
 「老残が見苦しい」
 首筋、頚動脈の位置に仕込み杖の鋭利な刃を添えられたジズが吐き捨てる。   
 銃身が月を映し、水平に寝かせた白刃が清冽な月光にぬれる。  
 白刃に圧力がかかり、首の薄皮を裂く。
 ジズの細首を一筋血が伝う。
 額につきつけられた銃口にもいっかな動じず、デミトリは静かにジズの目を見据える。
 
 時が静止する。
 膠着。
 
 風さえ止んだ一刹那、デミトリと凶器を交えたジズが囁く。
 「悪いなユーシン。約束を守れなかった」

 誰も死なず傷付かない。
 それだけが、私の望みです。

 『少爺!』
 ユーシンの悲鳴が響き、ジズの手首が翻りー………

 『……なんて心地よい』 

 欲にまみれた地上に解き放たれた悪食の亡霊が降臨する。

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Devilish | コメント(-) | 19951206174811 | 編集

 「!?」
 臨戦態勢に入った護衛がぎょっとあたりを見回す。
 突如として鐘楼に響いたのは天から降臨するような不思議な声。
 老人と子供が同時にしゃべっているような年齢も性別も判然としない彼方からの声が、殺気立つ男たちを嘲笑うかの如く夜風に乗じて流れる。
 「だれだ!?」
 「サツか!?」
 先走った護衛が誰何の声をあげ、対峙するトップを基点に放射線状に展開し、銃口であたりを走査する。
 「トップ会談を邪魔するものはすみやかに処理せよとデミトリ様はおっしゃられた」
 「姿を現したほうが利口だぞ。蜂の巣になりたくなければな」
 「両手を挙げて降参するか、鉛弾をたらふく食うか、どちらがいい」
 低く抑えた声で脅し、護衛同士背中合わせとなり死角をカバーし銃口で示威する。 
 姿の見えない闖入者に緊迫感が漲る。
 デミトリ老の信任を受けた凄腕の護衛が、さっぱり気配を察知できなかった。ジズの護衛も同じく困惑している。
 聞こえてきた方向が判断つかない。
 闇の峡谷にこだますその声は彼岸を引き寄せるように全方位から殷々と忍び寄る。
 にわかに殺気立つ時計台の空気に、嘲笑を含む波紋が広がる。
 『汚い声を張り上げ群れて威嚇する。愛らしい走狗どもだ』
 確かに背後から声がした。
 それも、すぐ背後で。
 胸騒ぎに駆られて振り向いたジズは背後に佇んでいた人影に眉を顰める。
 見覚えのある男だ。それもそのはず、デミトリとの会見に備えて連れてきた護衛の一人なのだから。
 他の護衛と同じく没個性なスーツに身を包み、顔にはサングラス。頬骨の張った無骨な顔立ちが気性の荒さを反映する。
 がっちりした顎の下には太い首、筋肉質の肩が続く。
 黒社会の一線に身を置く者特有の殺伐とした存在感が、しかし、どこか虚構じみたものへと変わる。
 男の名はロベルト・フォルト。
 三日前、ジズが本奪回に派遣した三人のうち唯一の生き残り。
 ジズ直々に抜擢した回収班のリーダーだ。
 『ボスご所望の大事なブツだ。世界に一冊しかねえ貴重な本で、オークションにかけりゃ億の値が付くとさ。丁重に扱えよ』
 本の上陸に監視役として立ち会い、ダンカン・フォーマシィを取り逃した責を負い、汚名返上に躍起になった男。
 サングラスで覆われた目の表情は読めないが、口元は喜悦に弛緩し、甘美な陶酔を感じさせる。
 『殺意、悪意、敵意、警戒心、猜疑心、恐怖心……ここは負の感情の宝庫だ。負の魂の宝庫だ。なんて素晴らしい』
 うっとりと喜悦の滲んだ声音で独白し、ロベルトはー否、ロベルトの姿を借りた何者かは、夜空を抱くように腕を広げる。
 同僚の奇態な振る舞いに、四人の護衛は手中の武器の存在も忘れ唖然とする。
 両営の護衛はなにがなんだかわからぬまま、互いに顔を見合わせている。
 ジズは胡乱げに目を細める。
 おかしい。なにかがちがう。
 これはロベルトじゃない。別人だ。
 「おまえはだれだ……?」
 無意識に香炉を庇い、ジズが問う。
 ロベルトの視線が緩慢に下降し、ジズの顔を見据える。
 ロベルトはうっすらと微笑する。
 その笑みで、悟る。
 ロベルトの屍に憑依する魔性の正体を直感する。
 ロベルトの顔が悪趣味な抽象画のように歪み、伸縮する。
 護衛たちが腰砕けに悲鳴を上げたのも無理はない。
 見慣れた同僚の顔が粘土をこね回すように変貌してゆく一連の過程を目の当たりにしてしまったのだ、理性を保っていられる方がおかしい。
 想像を絶する光景に、デミトリは単眼鏡の奥の目を見張る。
 デミトリ側の護衛が短い悲鳴を発し、反射的に銃身を起こす。
 かちゃかちゃ震える銃身の先、銃口が照準したのはロベルトとは似ても似つかぬ神々しいばかりの美貌の男。
 雲が吹き払われ、玲瓏たる月光が戴冠の礼賛の如く降り注ぐ。
 『私はメフィスト……』
 邪悪な許しがたい異端の堕天使が微笑む。
 真紅の目が輝きを増す。
 天へと手を翳し、しなやかな五指を閉じて中天の月を掌握する。
 大気の流れが変わり、月と垂直に天へと捧げた掌に風が集中する。
 『本の亡霊……ほんの悪霊だ』
 「!!」
 夜空を毟り取るように大きく腕を振りかぶり、五指を解き放つ。
 五指から放たれた颶風の瀑布がデミトリらに叩きつけられる。
 体の前で腕を交差させ風圧に対抗するも、分が悪い。
 摺り足であとじさった護衛の手から拳銃がはね飛ばされ、重く鈍い音たて遠方へと転がる。
 遠方へ落下した拳銃を取りに向かおうと反転した護衛が、ぐいと後方に引かれつんのめる。
 おのれの足首に巻きついたものを見て、護衛が絶叫する。
 触手。
 「うぁ、あ、ぁああああああああああああひああああああああああああああっあっあ!!?」
 それ自体生あるもののように奇怪にのたうつ触手が、男の足首に絡みつき、膝から腿へと這い上がってくる。
 「と、とれ、とってくれよ!早く!!なんだよくそっ、はずれねえよ、なんだってんだこりゃ……どっから湧いて出たんだよ!?」
 「でかい図体してぎゃあぎゃあ喚くんじゃねえっ、じっとしてろ!」
 数えきれないほどの銃撃戦に身を投じ修羅場をくぐり抜けてきた護衛が、すっかり顔色をなくし、白濁した唾液の泡を噴いて喚き散らす。
 彼の身に降りかかった出来事はそれほど常軌を逸していた。
 足首に絡みついた漆黒の触手は好色かつ卑猥な動きで下肢を愛撫し、股間の膨らみを這い、ついには上体まで忍び寄る。
 邪悪な意志もち蠢動し妖しくくねりつつ敏感な膝裏を責め、筋肉の張った腿を慰む。
 毒婦の手遊びに似て巧妙かつ淫蕩な愛撫がちりちりと性感を炙り、粘液にぬれた触手が這うごとに背徳的な官能をそそる。
 正常な神経の持ち主なら失神せんばかりにグロテスクな光景に、しかしマフィアの自負もつ男たちは努めて恐怖と嫌悪を押し殺し、触手に冒される同僚を助けにかかる。
 数え切れない修羅場を体験し、残虐な拷問や殺人に手を染めたフィアの顔色をなさしめるほど眼前の光景は想像を絶している。
 歪んだ時空の深淵より神話の化け物が湧き出たような錯覚に襲われ、触手に巻かれた男が涙ながらに吠える。
 「早くしろよ、ひっぺがせよ!!こいつ勝手に動、な、あっ………やめろ、くんな、くそっ、来んなって言ってんだろうがあああ!?どうしててとれねえんだよこいつっ、あっちいけよ、くそっ!」
 食虫花に取り込まれた虫の如く粘着質な触手責めにあがき苦しむ同僚が口汚く悪態をつき、めちゃくちゃに宙を蹴り、触手を引っぺがそうと試みるも、努力は水泡に帰す。触手はきつく足に巻きついてはなれず、恐慌に陥った同僚が金切り声で絶叫する。
 「何ちんたらやってんだよこのぐずっ、とっとと取れよ!!」
 奇怪かつ醜悪な触手が不気味に蠢き体表面を這う。
 「涙と鼻水垂れ流して喚くしかできねえくせにいばるんじゃねえよゲスがっ、股間撃ち抜いて不能にすんぞ!」
 生殺しの緩慢さで体を這いのぼる触手の怖気をふるう感触に理性が決壊し言語中枢が麻痺、意味不明の奇声を発し激しくばたつく男に仲間の一人が舌打ち、その場にしゃがみこんで力づくで触手を引き剥がしにかかる。
 触手に触れた途端その顔が引き攣る。
 「どうなってんだこりゃ……」
 ぬちゃり。
 力任せに毟り取ろうとした触手は奇妙にべとつき、掌に不快感を残す。
 たとえるなら蟲の巣穴に手を突っ込んだような、
 臓物に直接ふれたような。
 不快な粘り気が掌で糸引き、壮絶な嫌悪感を誘う。
 「!ひあっ、あぁあああああああああああぁああっああ!!」
 異様な粘り気にたじろぐ男の手から腕へと、二股に分かれた触手が素早く巻きつく。 
 生理的嫌悪が爆発し、恐怖に駆られ、しとどに脂汗にまみれた顔を悲痛に歪ませて、絞め殺される豚のように楕円に開いた口から悲鳴迸らせる男へと、仲間が一斉に銃を向ける。
 「粉微塵に吹っ飛ばしてやる!!」
 銃声が連続し銃火が五つ閃く。
 おがくずを燻したようにきな臭い硝煙が薫り立つ中、集中射撃で跡形もなく消し飛んだと予期し、護衛たちが虚脱の表情を浮かべる。
 「なんだったんだ、一体……」
 「大丈夫か、しっかりし………」
 安堵に弛緩した空気を破り、たゆとう硝煙の向こうから触手が襲う。
 「!!?なっ、」
 「こいつまだ生きてやがる!?」
 毒蛇のように鎌首をもたげ襲い掛かった触手は、虚空で二つに分かれ、また三つに分かれ、際限なく増殖していく。
 「鉛弾もきかねーのかよ!」
 「化け物だ……」
 「撃て、撃つんだ!つかまったらおしまいだ、弾が切れるまで撃ち続けろ、デミトリ様に近づけるな!!」
 「早くお逃げくださいボス、ここは俺たちが……」
 忠義心の厚い部下たちが銃を手に食い止めようとするも、その時には既に、触手が無差別に襲撃を開始する。
 触手が足首に絡み付き、四肢を絡めて動きを封じる。
 引き金を引こうとした護衛から銃をひったくり、反転した護衛の背を打擲し、膝が砕けた隙に後ろ手を束縛し、返す刀で本を薙ぎ払う。
 デミトリを庇い、続けざまに発砲した護衛の目を触手が痛打し、割れたサングラスが奈落へと転がり落ちてゆく。
 「畜生、目が……どうかご慈悲をボス、うぁ、あああああああああ!!」
 目が潰れ絶叫する護衛が激しくもがきつつグロテスクな繭の中へ取り込まれる。
 被害はジズ側にも及ぶ。
 一方的な陵辱と殺戮。
 野太い断末魔と飛散する血と肉片が彩る酸鼻な饗宴。
 黒尽くめの美丈夫が全身から伸ばした触手は烈風まとい空を薙ぎ、風切る唸りも鋭く鞭のように撓り、算を乱した護衛らを撹乱する。
 巨大な月を背に立つメフィストが無力に逃げ惑う人間に敬意を表し微笑む。
 『訂正しよう。走狗は失言だった。あるじを庇い脅威に立ち向かう実にけなげでいじらしい猟犬たちだ』
 指揮棒を振るが如く優雅に指を遊ばせ、陶然と言う。
 『これだから君たちと遊ぶのはやめられない』 
 「うぁああああああああぁあああああああああぁああああああああぁああっああ!!!」
 時計台に巣食う悪霊めがけ生き残りが奇声を発しつつ引き金を引く。
 乾いた銃声が交錯し硝煙が立ちこめ、数え切れないほどの鉛弾が触手を抉る。
 だが、敵が怯んだ様子はない。
 かえって精力的に蠢動しだすと、銃を構えた護衛らめがけ一斉に飛びかかる。
 足首に巻きつき手首に巻きつき首に巻きつき顔面を覆う。
 骨のへし折れる音が連続し、苦悶の絶叫が連鎖する。
 「なんじゃ、これは」
 腹心が次々と断末魔をあげ触手に屠られていくのを眺め、デミトリは杖を握り直し、触手を薙ぎ払う。
 仕込み杖から飛び出した白刃が閃光を放ち、触手を切断する。 
 「退却を命じる!!」
 「ですかデミトリ様!」
 「取り引きはいつでも仕切り直せる。命はそうはいかん」
 一閃、二閃。
 老人とは思えぬ杖捌きで触手を薙ぎ切り、鞭打つように命じる。
 「もっとも、相手に死なれては元も子もないがの」
 「よく言う」
 踏んだ修羅場の数の差か、超常現象に接しても泰然と落ち着き払ったデミトリの揶揄に、ジズは皮肉に笑う。
 月明かりにさざめく刃紋に似て剣呑な笑み。 
 軽やかな身ごなしで跳躍し、足元を鞭打つ触手をかわす。
 頭上を急襲した触手を見もせずに撃ち抜き、足元をすくおうとした触手を蜂の巣にする。
 阿鼻叫喚の地獄絵図と化した展望台にて、ジズは鋭く舌を打つ。
 「ロベルト・フォルトを依代に選ぶとは計算外だった。趣味の悪い悪霊だな」
 慣れた手つきで弾丸を装填する。
 息継ぐ間もなく銃を掲げ、続けざまに引き金を引く。
 触手が人間を襲い、締め上げ、全身の骨を粉砕してゆく。
 この殺戮を演出した張本人は鐘楼の中心で笑っていた。
 巨大な鐘の下で両手をさしのべ、クラシックに陶酔する若き指揮者の如く濁った断末魔に耳を傾けている。
 『少爺、お気をつけください。彼の者は殺戮を愉しんでいます』
 「見ればわかる。さながらここは地獄の入り口か」
 『悠長な……貴方もお逃げください!』
 「そういうわけにもいくまい」
 自然とコートのポケットに手をあてる。
 香炉が欠けぬよう掌で包み、もう片方の手で銃を掴み、髪を薙ぎ頬を掠め首を絞め四肢を縛ろうとする触手を精度の高い射撃で撃破する。
 「欲しい、あの力」
 『少爺……』 
 ユーシンが絶句する。
 迫りくる触手を撃ち抜きその中を身を低めくぐり抜けメフィストに接近し、呟く。
 「見ろ、ユーシン。あれぞ黙示録の悪霊の力、俺が欲したものだ。魔道書に封じられた魔神、悪食の悪霊、メフィストフェレス……あれさえ手に入れば野望が叶えられる」
 銃声が耳を劈く。
 硝煙を吸う。
 欲望の源泉の昂ぶりを意識し、引き金を絞り、一歩ごとに加速してみずから張った煙幕を破る。
 「世界を手にできる」
 『世界より貴方が大事です!!』

 指が止まる。
 撓る触手がジズを狙う。
 
 「!っ、」
 距離から不可避と判断し香炉を庇う。 
 衝撃が襲う。
 触手に打擲された体が宙高く舞い、重力の法則に従い叩き付けられる。
 『少爺!?』
 手をすりぬけた銃が円を連鎖させ遠くに滑る。
 倒れ伏せたジズの傍らに蛍のように粒子が集まり、ユーシンが再臨する。
 その顔が、歪む。
 『どこの世界に使い魔を庇って倒れる主人がありますか』
 懸命にジズを抱き起こそうとするも、精霊の腕は肉体をすりぬけ、むなしく空を切るばかり。
 無力感と口惜しさに唇を噛み、眦をぬらすユーシンの頬にジズが手を翳す。
 「興を削ぐ、ような、事を、言うからだ」
 『世界は美しい……』
 ゆっくりと目を閉じ、メフィストは呟く。
 ネオンを散りばめた地平線を背に立ち、巨大な月の加護を得て、ひとりごちる。
 『今、隣にお前がいないのだけが悔やまれる。我がいとしのファウストよ』
 「リクエストにお答えするぜ」
 続く声は、銃声に重なってかき消される。
 瞬時に消失したメフィストの残像を三発の弾丸が穿つ。
 硝煙を裂いて現れ出でた三発の弾丸は紙一重で標的を逸し虚空を横切る。
 「!?」
 ジズとデミトリは同時に展望台の昇降口を注視する。
 昇降口の手摺に縋り、片手で銃を構えるのはスーツ姿の少年。
 折から吹いた風が癖のない黒髪をなぶる。
 研ぎ澄ました黒瞳に炯炯たる眼光がやどる。
 月のしるべが射す昇降口に立ち塞がり、その激しさでもって己までも灼き尽くす地獄の業火を身に宿した少年は、まっすぐ銃を突き出す。
 「真打ち登場だ。悪魔に喰われな毒尾蛇」
 ディアボロだった。 

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Devilish | コメント(-) | 19951205193342 | 編集

 「ディアボロ……お前、どうして」
 デミトリが驚く。無理もない、謹慎を命じた孫が突如として時計台に現れたのだから。
 ディアボロはちらとデミトリを見る。
 右頬のガーゼが外れかけ、剥がれたテープが夜風にそよぐ。
 ディアボロは汗だくだった。
 スーツの袖は汗を吸いどす黒く変色している。
 苛立たしげにカフスボタンを外し、シャツを袖までたくし上げる。
 「ケツ振って感謝しやがれ、ジジィ。いやいや助けにきてやったんだ」
 『これはこれは』
 あっけなく触手が巻き戻され、繭から解放された護衛が落下する。
 白濁した泡を噴いて失神した者、白目を剥いて卒倒した者、全身複雑骨折の重傷を負った者。触手に生気を搾り尽くされいずれも衰弱著しい。
 たった一晩で、否、繭に閉じ込められていた数分間で凝縮された一生を体験させられたかのように断続的な痙攣を伴うショック症状を呈す。  
 死屍累々たる惨状を乗り越えた先で美貌の男が微笑む。 
 『ようこそ、我がライバル……そして、我がいとしのファウスト』
 『メフィスト……君は、何人殺せば気が済むんだ』
 銃口から怒りに震える声がする。
 語気強く問い詰められ、メフィストは肩を竦める。
 『私に肉体を乗っ取られた男とその連れ、組織に追われた少年、哀れな娼婦……何人殺したのか自分でも覚えてないね』
 『メフィスト、帰るんだ』
 ファウストが必死に説得を試みる。
 『僕と一緒に本の中へ帰るんだ……ここは僕らの世界じゃない。君も僕も、本来この世界に存在してはいけないんだ』
 『面妖な』
 折から吹いた風がメフィストの髪をさらい、吹き払われた雲間から射した月光が神々しいばかりにその姿を照らし出す。
 青白い後光を背負い、闇から浮上したメフィストは凡百の言葉を尽くしても表現できないほど美しい。
 幾千の星々をちりばめた大地と空の狭間に立ち、世界の終焉を告げに来た死神の如く、慈悲深く微笑する。
 『ファウスト、おまえは勘違いしているらしい。見えないのか?』
 メフィストがもったいぶって振り返る。
 余裕たっぷりに背後へ視線を流したメフィストに促され、その場の全員が下界を見下ろす。
 時計台の下に口を開けているのは奈落。
 冥府と境を接す闇の彼方には、星明りさえ圧して燦然と輝く虚飾の灯をちりばめた地平線が円く続いている。
 弓なりの弧を描いた黒い地平、そのすべてを腕に抱くように両手を広げ、メフィストは朗々と宣言する。
 『世界は私の足元にひれ伏している』
 高貴な鼻梁が秀でた顔に浮かぶのは自分の掌握したものを誇る覇王の表情。
 愉悦に酔い痴れ紅い双眸を細める。
 己と対となる同胞に向かい、理性を毟りとる抗し難い魔力を秘めた声で囁く。 
 『この世界こそ私の世界……私たちのいるべき場所、新天地、理想郷だ。ここにいる限り飢えとは無縁、退屈は死語。人の営みは喜劇と悲劇がとなりあう愉快な催し。くだらない契約など破棄して今を謳歌しよう。千載の昔に朽ちた男に義理立てして何になる?』
 笑みを含む双眸に嫉妬の擱火が燃える。
 両腕を正面にさしのべ、友を迎え入れる体勢をとる。
 『ともに来い。我らには永遠を統べる資格がある。誠実さ故にいにしえの契約に縛られた愚者の霊を私が解き放とう』
 独占欲が高じて妄執に憑かれた悪霊の言葉にファウストは歯痒く沈黙を保つも、ふと雰囲気が変わる。
 『余計なお世話さ』
 声が不敵さを孕む。
 メフィストは不興げに眉を動かす。
 虚空が歪み、仄白い影が立ちのぼる。
 月光が凝結したような淡い光に包まれ降臨した美貌の青年が、ゆっくりと目を開く。
 外気に晒された双眸は、同じ原石から切り出した対の宝石のようにメフィストと似て非なる紅。
 『僕がいる場所は僕が決める。君が災厄を播種するなら、僕は彼の隣に立つ』
 彼。
 『触手に弄ばれねだるように甘い声で鳴いたあの可愛い少年か?』
 「捏造すんなよ。それに『あの』じゃなくて『この』だろうが、節穴め」
 息を荒げつつ不機嫌に罵るディアボロに対し、メフィストは肩を竦め臆面もなくのろけてみせる。
 『すまない。ファウストしか眼中になくてね』
 「地上は屠殺場で世界は貯蔵庫か?ゴタクは聞き飽きたぜ」 
 展望台の床を蹴り、ディアボロが駆ける。
 累々と倒れた護衛を飛び越え蹴飛ばし、闇から放たれた弾丸の如くメフィストへと肉薄する。
 殺気を漲らせた双眸がメフィストを射止め、銃が鎌首をもたげる。
 引き金を引く。
 連射。
 銃口から放たれた鉛の弾丸が銃火を閃かせて虚空を薙ぎ、メフィストの胸へと吸い込まれてゆく。
 刹那、メフィストは微笑んだかに見えた。
 唇が勝利を確信して綻び、玲瓏たる声音を紡ぐ。
 『無駄だ』
 メフィストの背から生えた触手が胸の前へと泳ぎ格子状の盾を形成する。
 柔軟な弾力を備えた触手が右胸を防護し、弾丸の進行を防ぐ。
 「!-ちっ、」
 触手の腹へめりこんだ弾丸にディアボロは舌を打つ。
 触手の表面が不気味に歪曲し弾丸を吸収する。
 「詐術か?」
 底なし沼にはまりこんだように触手の腹へ没した弾丸にデミトリが絶句する。
 『奇術だよ』
 触手を背に回収したメフィストは顎を引きギャラリーを見渡すと、サービス精神旺盛な奇術師のように含み笑う。
 おもむろに口を開く。
 「!!」
 舌の上には弾丸が二つ。
 『まずい』
 掌に弾丸を吐き出し、指に握力を加える。
 手が膨らみ、指の隙間からパラパラと銀色の粉末が零れ落ちる。
 メフィストの指から零れ落ちた粉末は風にさらわれ、青白い粒子に変じて散り散りに舞う。
 奈落へ舞い落ちた弾丸の破片を見送り、メフィストはにっこり笑う。
 ディアボロは呻く。
 「化け物めが………」
 『肉を細切れにしても私は死なない』
 血の色に輝く目が延長線上のディアボロをかっきりと見据える。
 敵の一挙手一投足を把握し上段に立って観察する目。
 『メフィストは不死身だ。彼を殺すことはできない』
 「なあ知ってるか?俺とお前がそろえば無敵らしいぜ」
 『根拠は?』
 「最良の銃と最強の使い手。これ以上の理由がいるか」
 飄々としたディアボロにファウストが苦笑する。
 銃身が熱を帯び、引き金にかけた指に霊的な電流が走る。
 『力を貸すよ』
 閃光が爆発する。
 世界が漂白され網膜が灼ける。
 ディアボロの手中、銃口から漏れた一条の光が夜空を貫く。
 全方位をまきこんで膨張した巨大な光の球、その爆心地でディアボロがたまらず顔を覆う。
 『ディアボロ・デミトリ、本だ!』
 「命令すんじゃねえ、豚っケツファウスト!」
 素早く悪態を打ち返し、勘を頼りに身を翻し、疾走する。
 勘は的中した。
 光が薄れるにつれ視力を取り戻す目に、展望台の隅に放置された本がとびこむ。
 表紙の五亡星が月明かりを浴び燦々と輝く。
 前傾し、前方に落ちた本へとおもいきり手を伸ばす。
 指の先端が本の角に触れるか否かという瞬間、視界から本が消失する。
 メフィストの触手が本を弾いたのだ。
 縁を連鎖させて滑った本を追いかけ、展望台の縁へと向かう。
 膝の屈伸力を最大限に生かし、次々と襲来する触手をとびこえ跨ぎこす。

 「天竺ねずみのちびすけは、
 ちびだからふとっちゃいなかった
 いつもあんよでおあるきで、
 たべるときゃ断食ゃいたさない」

 地を這う触手を颯爽ととびこす。

 「さてそこらからかけてでりゃ、
 けっしてそこにはもういない
 きけばかけてるそのときは、
 どっちみちじっとしちゃいないそだ」

 跳んで、
 跳ね。
 迅速かつ機敏に、踊るような身ごなしで地を這う触手をいなし、背後を狙う触手を後ろをも見もせず避ける。
 革靴が軽快に石床を叩き、硬質な音が鳴る。
 律動。
 躍動。
 音感を重視し、四肢を振り、俊敏に屈伸し、舞う。 

 「キイキイなくのは常々だ、めちゃくちゃあばれもたまたまだ
 それがさわいでわめくときゃ、けっしてだまっちゃいなかった
 たとえねこからおそわらなくとも、
 はつかねずみがただのねずみでないのは御承知だ」

 弾む息の合間にマザーグースを口ずさむ。
 背後から追撃した触手が頬を掠め、スーツの肩が乾いた音をたてて裂ける。

 それでも悪魔は踊りをやめず
 逆風と戯れ、唇に歌を絶やさない。

 「ところでたしかなうわさだが、ある日ひょっくり気がふれて、奇態な死に方した話
 とても勘のいい金棒引きは、
 きゃつめおっ死に、いきてるわきゃないぞといっている」
 
 触手が擦過した頬からガーゼが外れ、テープの切れ端を泳がせて奈落へと落ちてゆく。
 足をとろうと地面で待ち構えていた触手の罠を間一髪跳躍して回避、スーツの裾を翻らせ前方へ着地する。
 風圧で黒髪が舞い上がり眼鏡越しの双眸が冷たい光を孕む。
 「断食か奇態な死か選べよ天竺ねずみ」
 横腹をとらえようと宙を這ってきた触手を銃床で殴りつけ、返す刀で左手に忍び寄ってきた触手に一撃くれる。
 鉄の銃身でしたたかに打たれ、触手がひるんだように後退する。
 触手の猛攻が怯んだ機に乗じ果敢に前進、目の前に落ちた本を掴みにかかる。
 「梅毒にかかって死ね!」
 口汚く悪態をつき、メフィストの底意地の悪さを呪う。
 ディアボロが拾い上げようとしたそばから触手に弾かれた本は遠方へと移動してしまう。
 ちりちりと指先を炙るような焦燥感に駆られ、一心に地を蹴り、反動をつけ加速する。
 鼻息荒く呼吸荒く、一心不乱に本へと突進したディアボロの掌中でファウストが懸命に警戒を促す。
 『ディアボロ・デミトリ、罠だ!そっちに行くな!』
 「上等だ!」
 本はもうすぐそこだ。
 血管中を駆け巡るアドレナリンに乗じ高揚感が支配する。 
 表紙に穿たれた五芒星が神秘的な光を放つ。
 息を切らし、我を忘れ、がむしゃらに手を伸ばしー……
 
 「……………ーあ?」

 間抜けな声が漏れる。
 体がぐらりと揺らぎ、視界がブレる。
 本を拾い上げようと腰を落とした瞬間、もとより前のめりの重心が腕の先端へと移動し、バランスを失う。
 我が身に何が起きたか悟ったのは、転覆した視界に夜空の月が映ったとき。
 『ファウスト、君の見込んだ主人はとんだ愚かものだな』
 本は展望台の先端に位置していた。
 時計台の縁の、一段高くなった場所に。
 本に注意を奪われたディアボロは知らずその段差に躓き、虚空へと前傾し、放り出される。
 ずるりと滑った手が、咄嗟に本を弾く。
 顔面めがけ落ちてきた本を翳した手で反射的に受け止める。
 虚空に放り出されると同時に本を手にしたディアボロに、メフィストが別れを告げる。
 『本はたむけだ。地獄に落ちたまえ』

 これでおしまいか。
 あっけねえ。
 まだまだ犯りたりねえ殺りたりねえってのに、こんなしまらねえおちありかよ。

 落下が始まる。
 耳元で風が唸る。
 死に瀕した恐怖など微塵もないのは理性が麻痺しているからだろうか。
 急激に遠ざかる鐘楼を見上げ、展望台に立つ針のような人影を肉眼に捕らえる。
 夜空を背に呆然と立ち尽くすデミトリ。
 唐突に杖を振り捨て、展望台の端に膝をつき、必死の形相でなにかを叫ぶ。
 内容は風切り音に遮られて聞こえないが、満面の皺を波打たせて絶叫する姿は鬼気迫るものがある。
 デミトリの隣には初めて見る男。
 細身のスーツを一分の隙なく着こなした洗練された立ち姿。
 オールバックに撫で付けた頭髪の下には秀でた額、整った目鼻立ち。

 男と目が合う。
 黒と黒が出会う。

 すべてが急激に遠ざかっていく。
 取り乱す祖父も棒立ちの男も、メフィストの笑みさえも。

 奪われる。
 離される。

 いつかのように。
 いつものように。

 闇から生まれたものが闇に還り
 消滅する。
 ただ、それだけのこと。

 未練を抱くには悪に飽き
 執着するには生は醜く
 救いなんてあるはずもなく
 感情は虚無に蝕まれ
 冷え切った諦観が思考を支配する。 

 ヘビメタも聞こえねえ……最低の幕切れだな。
 暴風が髪を蹂躙するに任せ自嘲する。
 落下速度が加速し、背広がばたばたとはためく。
 夢見心地で瞼を閉じる。
 死に際に見えるという走馬灯はいつまでたっても訪れず、短い半生を回想する機会ももはや与えられないようだ。
 別段そのことを惜しむふうもなく、四肢を投げ出して風に身を委ねる。
 堕ちていく。
 どこまでも。
 『まったく……墜ちるのが好きな人だね』
 耳に心地よく響く音楽的な声。
 風に叩かれ、うっすらと瞼を開ける。
 視界を占めたのは強い輝きを放つ真紅の双眸。
 月光を透かして白銀に輝く頭髪を至上の王冠の如く頂いた男が目の前にいる。
 ほっそり上品な体躯にシャツとスラックスをまとい、中性的な風貌にやさしげな微笑を湛えている。

 天使。

 青白い月光に洗われたファウストははるばる神に遣わされ、天地の狭間に降臨した天使に見えた。
 背の翼は見えないが、ほほえみながらディアボロへと手をさしのべた姿は天使そのままに慈愛に満ち、神格を帯びている。
 細腕が空を泳ぎ、ディアボロのもとへ到達する。
 腕を振り、抵抗したのはなぜだろう。
 それまで抑圧していた嫌悪感が一気に噴出したのかもしれない。
 ファウストは美しく、得体の知れない生き物だ。煎じ詰めれば化け物なのだ。
 メフィストと同じ化け物。
 そんな生き物になれなれしく触れられるなんて冗談じゃねえ、気色悪ィ。
 必死に身を捩り、全身で拒絶の意志を訴える。
 五指で大気をかきむしり、踝で虚空を蹴り、意味不明の絶叫をあげる。
 四肢をはげしくばたつかせ、スラングの語彙を総ざらいし、罵詈雑言を撒き散らすディアボロにもファウストは怯まない。
 癇癪持ちの赤ん坊のように握り拳を振り、宙を蹴って暴れるディアボロの鼻先に、だしぬけにファウストの顔が現れる。
 繊細な指をディアボロの頬にあてがい、至近距離で目を見据え、噛み含めるように諭す。
 『呪文を唱えるんだ』
 「ケルベロスを手懐けるとっときの呪文、ここほれワンワンってか」
 『きみは死なない』
 断言する。
 一分の疑いをさしはさむ余地も与えず。
 ディアボロの頬を支え、もう一度、辛抱強く繰り返す。
 絶大な自信と確信をこめ。
 『きみは死なない……死なせはしない』
 優雅に長い睫毛を伏せ、口を開く。
 『言葉には力がやどる、言の葉を繋げば魔法が生まれる。今から君に言葉を導く』
 「お前の助けなんかいらねえ」
 『いる』
 「いらねえ」
 『いる』
 「失せろ」
 ファウストが哀しげな顔をする。
 それを見ているうちに嗜虐心が騒ぎだす。
 地上に叩き付けられるまでまだ少し猶予がある。
 絶命に至るまでの数呼吸の永遠をおちょくりにあてるのも悪くない。
 「奉仕」
 『え?』 
 「キスしろ」
 本気のはずもなかった。
 ただただ悪意から発した揶揄、嗜虐心を満たす為だけの挑発。
 期待とも高揚とも無縁に、なぶるように反応を見るディアボロの前で、ファウストが顔を引き締め。
 唇が
 触れる。
 誠意を証立てるだけの熱も感触も伴わない接吻。
 驚き、ファウストを見返す。
 一瞬だけ触れ合った唇を離しファウストが真剣に言う。
 『我命じる』

 いいぜ、これっきりだ。
 茶番に付き合ってやるよ、フールソウル。

 「……ワレメイジル」
 『愚かなる魂、我が下僕ファウストよ。風の通り道に堰を築きたまえ』
 「愚かなる魂、我が下僕ファウストよ。風の通り道に堰を築きたまえ」
 『命じるは髪と目に暗黒を宿せし邪悪の化身、ディアボロ・デミトリ』
 「命じるは髪と目に暗黒を宿せし邪悪の化身、ディアボロ・デミトリ」

 すぅと深呼吸し、肺活量の限りに叫ぶ。
 魔力回路を起爆させる呪文を
 己の名を。

 「血のデミトリ家四代目、悪魔の申し子ディアボロ様だ!」

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Devilish | コメント(-) | 19951204035655 | 編集

 突風に押し上げられワイヤーで吊られたように体が浮かぶ。
 硬直した五指に握り締めた銃、銃口から迸った光の弾丸がはるか下の地を穿ち、その爆風が体を浮上させる。
 掟破りの力技だが効果はあった。
 背広の裾が風を孕んで暴れ、前髪がさらわれ額が暴かれる。
 宙を蹴り、風に乗じ、墜落する猫のように器用に身を捻り、逆さから正位置へともどる。
 両腕を一本によりあわせ、両手でグリップを掴み、歯を食いしばって風圧に耐える。
 手首の骨が砕けかけ、肩関節が破壊されかける。
 はれた頬に風があたって痛い。
 今は熱をもって疼きだした頬よりも目の前の銃に全神経を集中しなければならない。
 汗ですべる手でグリップを持ち直し片目を眇める。
 『ディアボロ・デミトリ、本を!』
 「命令すんじゃねえっ、目えほじってぶちこむぞ!」
 力の暴走に翻弄されるディアボロにファウストが叫ぶ。
 風に飛ばされ舞う本に手を伸ばし空中の不安定な体勢からはっしと掴む。
 白紙のページが乱雑にめくれ羽ばたく。
 「次はどうすりゃいい!?」
 問うディアボロの肩に手をおきファウストが囁く。
 『引き金をひくんだ』
 轟々と風が鳴る。
 不可視の礫が全身を痛打し外気に晒された傷口に染みる。
 『やりかたは教えただろう。深呼吸して、落ち着いて……そう』  
 肩に軽く添えられた手が感触も熱も伴わぬまま腕を這い、優しく手首を支える。
 儚く透ける手がディアボロの手を包む。
 「撃つ」
 『穿つ』 
 喉仏を汗が伝う。
 心臓の鼓動が浅くなる。
 全身の血液が逆流する感覚に戦慄を味わう。 
 五感を極限まで研ぎ澄まし、右手に持った銃を掲げ、狙いをつける。 
 引く。
 銃口から射出された鎖が直線の軌道を描いて滑空し、壁面に穿たれたガーゴイルの彫像に巻きつく。
 『やったね命中!』 
 「お前なにかしたのかよ?」
 無邪気にはしゃぐファウストに水をさし、ぐんと鎖を引き、限界ぎりぎりまで撓ませて宙を蹴る。
 ガーゴイルを穿つ鎖に縋り、短針を追い越す秒針のように振り子の要領で一気に宙を駆け上がる。
 ガーゴイルの顔面を勢い良く踏み付け停止、そのまま鼻面を蹴り上げるようにして石像の胴に着地。
 「…………………は、はは」
 浅く肩を上下させる。
 その右手には銃、左手には一冊の本。
 いつのまにか銃口から射ち出された鎖は消失し、ディアボロはガーゴイルが羽を休める窓の庇に膝をついていた。
 九死に一生の窮地から生還し、しばらく呼吸を整えるのに集中していたディアボロが、仰け反るようにして笑い出す。
 「ははははははははははっはははははははっ!!ご都合主義にも程があるってんだよ……魔法が万能だなんてなあ、おっ死んだ旦那に操立てるって言い張る後家より苦しいぜ」
 『ありがとう』
 掌中で声がした。
 右手に目を落とす。
 白く強張った五指の中、笑みの残滓を漂わせたマスターの横顔に、ファウストが真摯に告げる。
 『落下の最中に僕と本を落とさないでくれてありがとう』
 「無意識だよ」
 左手の本に一瞥くれ、ばつが悪そうに吐き捨てる。
 言葉に嘘はない。
 落下の最中も本と銃を手放さなかったのにたいした理由があるわけではない。
 そう、断じて……
 「断じてお前の為じゃねえぞ」
 片ひざを立てる。
 唯一の武器である拳銃を握り締め、素早く視線を巡らす。
 どこからか視線を感じる。
 呼吸を抑制し、早鐘を打つ心臓をどやしつける。
 半歩足を開き、身構える。
 闘争心に火がついたマスターの手の中で銃に化身したファウストが苦笑する。
 『御意、マスター』

 襲撃は突然だった。

 「!」
 触手が庇を打つ。
 紙一重で身をかわしたディアボロだが、体勢を立て直す間もなく足もとをすくわれる。
 靴底をすくった触手は邪悪な意図を秘め不気味に蠢動する。
 不安定な足場ではひとたまりもない。
 足が縺れ、後ろ向きに倒れる。
 頭から風切り落下するも、今度は慌てない。
 しなやかな身のこなしで5メートル下の庇に着地するや頭上を落石が襲い、庇の半分が破壊される。
 残されたもう半分にとびのいて難をのがれ、腕で顔を覆い、立ち込める粉塵にむせる。
 触手の直撃を受けた庇が崩落しおびただしい石片が怒涛を打って降り注ぐ。
 背中を風圧に押され首をすくめる。
 脳天を紙一重で掠めた触手が俊敏な弧を描き、庇を強打する。
 重厚な石造りの庇に亀裂が生じる。
 震動。
 本格的に崩落する前にとびおり下の庇へと着地、大量の粉塵を吸い込みあやうく窒息しかける。
 右腕に激痛が走り、裂かれたスーツの切れ端が宙に舞う。
 両膝ががくんとさがり、触手が背中を打つ。
 「!!痛っ、」
 激痛に視界が赤く染まる。
 背中が焼け付くように痛み、生理的な涙が滲む。
 「この俺様に鞭くれるたあいい度胸じゃねえか……」
 振り向きざま発砲する。
 乾いた銃声が轟き、硝煙が尾を引いて触手に吸い込まれる。
 触手の肉が弾け、黒い気体に変じて霧散する。
 「緊縛プレイは一人でヤッてな」
 拳大の石片を避け、下の庇へと飛び移る。
 身のこなしの軽いディアボロには苦もない芸当だが、三半規管の弱いファウストには地獄である。
 ディアボロの手首が翻り、銃身が触手を弾く。
 銃床を跳ね上げ、掌中で一回転させた銃口を触手に照準、連射。
 背に肉迫していた触手が霧散し、空の薬莢が澄んだ音をたてて庇の上で跳ねる。
 マスターのなすがまま、されるがままに身を委ねていたファウストがうめく。
 『よ、酔う……』
 「ああっ!?今いいとこなんだよ、ひっこんでろ!」
 『三半規管が弱いんだよ、僕は!』
 「銃の三半規管の位置がわかったらノーベル賞とれるかもな」
 軽口を叩きつつ引き金を引き続ける。
 カンカンカン、庇にばらまく薬莢がリズムを刻む。
 ノッてきた。
 靴で拍子をとり右足を軸に反転、華麗にステップを踏み右手をひらりと旋回させる。
 背広の裾が翻り、眼鏡のレンズが銃火を映す。
 庇から庇へ飛び移る間に弾倉を交換、装填、銃身を翳し触手が眉間を抉る前に発砲。
 脇腹に忍び寄ってきた触手を銃床で叩き落とし、次なる一手がくりだされる前に身を投げる。
 触手はディアボロの行くところ行くところ執拗に追い猛攻を仕掛ける。
 引き金を引くごとに興にのり、我知らずディアボロは笑う。
 濃厚に漂う硝煙と閃く銃火が心の底からたのしくてたのしくてたまらないという顔を彩る。
 殺戮に酔った笑顔で引き金を引けば迫りくる触手が弾け散り散りになる。
 『うつくしい』
 感に堪えかねた呟きが夜風に乗じ、ディアボロが振り向く。
 真紅の双眸を持つ魔物は真後ろにいた。 
 時計台の外壁に彫刻された醜悪なガーゴイル、その頭上に悠々と腰掛けているのは黒ずくめの男。
 『殺戮に酔う少年の姿はサタンの末裔に似て、666の証をもつけだものじみている』
 詩吟の声が癇にさわり、唇をほころばせたメフィストの額を照準し、引き金を引く。
 弾丸は狙い違わずメフィストの額へと吸い込まれていくが、転瞬、標的がかき消える。
 残像の額を穿った弾丸は闇へと没し、ディアボロは絶句する。

 衣擦れの音もたてず、重力さえも従える優美さで正面にメフィストが降りる。

 血の色に輝く双眸がひたとディアボロの目の奥を覗き込む。
 睫毛がもつれるほどの至近距離に怪物がいる。
 回避しようもない。
 触手が錐揉み撓り、ディアボロが吹っ飛ぶ。
 風切り音に毛根が縮み、左腕に激痛が走る。
 顔を庇った左腕が裂け、朱を刷いた素肌が覗く。
 背面に衝撃、バウンド。
 横薙ぎに爆ぜ飛んだディアボロを受け止めたのは庇に隣接していた石像のグリフォン。
 グリフォンに受け止められ上体を起こすも、左腕は使い物にならず、裂けたスーツから覗く素肌を血が染める。
 『メフィスト!』
 頭上が翳る。
 月を負うメフィストが目と鼻の先に現れ、中腰の姿勢でディアボロを覗き込む。
 ディアボロは激しい戦闘で体力を消耗し、びっしょり汗をかいている。
 額の汗を拭きたくても左腕は使い物にならず、右手はグリフォンに縋り、ずりおちないよう辛うじて体を支えるだけで精一杯。
 メフィストは優位を隠さず微笑んだまま、さながらグリフォンのくちばしに襟を啄ばまれたディアボロのぶざまな姿を観察する。
 『ディアボロ・デミトリ、本だ!メフィストを封印するんだ!!』 
 余裕をかなぐり捨てたファウストの叫びをどこか上の空に聞き流しつつあたりを見回せど、見つからない。
 「……あー、ドジった」
 『え?』
 「ぶっぱなすのに夢中で置いてきちまったよ」
 悪びれずしれっと言い、二つ上の庇へ顎をしゃくる。
 最初にディアボロが降り立った庇の上に、分厚い本が一冊、放り出されている。
 月光を妖しく照り返し、夜風と戯れるそれはー……
 魔道書。
 異界と地上を繋ぐ扉。
 『君は痴れ者だ、ディアボロ・デミトリ!!』
 出会ってから初めてファウストが憤激をあらわにする。
 ディアボロはうるさそうに顔をしかめる。
 「きんきん声でフルネームを呼ぶな。俺の耳はデリケートなんだよ」
 『よく言うよ、睡眠中に溶けた鉛を流し込んでもぴんぴんしてそうな耳なのに!僕の言ったこと聞いてたかい、あの本はメフィストを封じるのに必要不可欠なんだ、あの本は入り口で出口、こちらとあちらを繋ぐ扉、あの本なくしてメフィストを封印できない!それを君は銃撃に夢中になってぽいと放り出してそのまんまじゃないか!まったくあきれたよ、どしがたい愚か者だ、振り回され損だ!!僕の三半規管を虐待した責任はどうとってくれるんだい、おかげで方向感覚がくるいっぱなしさ、次から弾がまっすぐ飛ぶなんて思わないことだね!』
 「ご主人さまにたてつく気かよ」
 『次に引き金を引いたら弾道が曲がって自分の膝を撃ち抜くよ、忠告したよ』
 「そりゃ見ものだな、カーニバルの仕掛け花火みてーじゃねーか」
 『楽しそうだ。ぜひ見たいね』
 平行線の口論を遮り、威厳に満ちた声音が言う。
 『人間にしてはなかなかやるほうだが、詰めが甘いね』
 手の甲に衝撃。
 踏みにじられた左手が軋み、五指から力が抜けてゆく。
 靴底に敷いた右手が苦しげにうごめき、グリフォンの背をかきむしるさまを、メフィストは実に愉しげに見下ろす。
 足に体重がかかる。
 下唇を噛み、苦鳴を殺す。
 指が砕けそうだ。骨にひびが入っていても不思議ではない。
 それでもディアボロはしぶとく抵抗を続ける。
 とうに感覚の失せた右腕に全身全霊をかけ、グリフォンの背にしがみつく。
 脂汗にまみれ苦痛にゆがむ顔を覗きこみ、メフィストは不審げに眉をひそめる。
 『なぜ手を放さない?』
 「………決まってんだろ。地獄にまっさかさまだからだ」
 ディアボロは苦しげに笑う。
 片腕一本で吊り下がる姿勢は凄まじい負担をかけるも、肩が脱臼しかける苦痛をねじ伏せ虚勢を張れば、メフィストが含み笑う。
 おもわず目を奪われずにはいられない、夜の闇が凝ったような神秘の微笑。
 『君の住む世界は地獄ではないのかね』
 「生まれてくる世界を間違えたのかもな」
 自嘲気味に言う。
 額には大量の脂汗が滲み、気を抜けば右の五指が滑りそうになる。
 左腕は言う事を聞かずメフィストに踏みにじられるがまま、残る右腕に全体重をかけグリフォンにしがみつくのもそろそろ限界だ。
 爪が割れ血があふれる。
 下ではびょうびょうと風が鳴り、闇が濃く蟠る。
 「っ…………………ぅ」
 たてがみを掴む右手が汗でぬめる。
 裂けた左腕を踏みつけにされる激痛に視界の軸が歪み、汗が伝うこめかみが脈打つ。
 『我が愛しきファウストをめぐる好敵手、地獄に魅入られし黒髪と黒目をもつ呪われし少年よ』
 「修飾語うぜえ。韻踏んでるつもりかそれで。俺の名前はディアボロだ、言い直せ」
 『不興かね?では仕切り直しといこう、私は誠実をむねとする悪霊だ』
 胸に手をあて悪戯っぽく宣誓し、触手を背中に回収すれば、豊かな髪に変じてうねりくるう。
 非人間的なまでに端正かつ神々しい容貌が月光に冴え冴えと際立つ。
 艶やかな黒髪との対照がエキゾチックな白磁の肌を包むのはハイネックの黒服。
 『呪われし悪魔の名を持つ貴殿を、なつかしき地獄に送り返してあげよう』
 「言い回しをくどくすんのがお前の誠意かよ。んなねじれた誠意はケツの穴からひりだして口に喰わせてやれ」
 メフィストが道化て肩をすくめる。
 『嫉妬深いんだよ、私は。ライバルに対してはどうしても寛容になれない。ながく生きてきたくせに大人げないと自分でも思うがね』
 苦笑をちらつかせるそんな表情も憎たらしいほど魅力的で、麻薬を焚き染めたような背徳の香りが漂う。
 『君はファウストを横取りした。私のかけがえのない半身を奴隷にして、随分といたぶってくれたね』
 靴に力がこもる。
 「!痛あっ、ぐ」
 骨が軋み、指が軋み、毛穴が開いて大量の脂汗がふきだす。
 目尻に流れ込んだ汗が生理的な涙と混じり合う。
 『やめろ、メフィスト!』
 ファウストの制止の声にも嗜虐性はとどまらず、メフィストは静かに言う。
 『君にファウストを語る資格はない。身の程を知りたまえ、はいつくばるのが似合いの卑しく可愛い小悪魔め。君はそうして汗にまみれて這って喘いでいるのが似合いだ。私はファウストの片割れ、彼の半身だ。私達は魂と魂で繋がっている。人間には理解できない崇高な繋がりだ』
 自分の言葉に酔うメフィストにむかい鼻を鳴らす。
 「違う場所でつながったほうが気持ちいいだろ?いまどきクソひるしか尻穴使わねーなんて遅れてるぜ」
 『下品な言動は慎みたまえ。魂の程度が知れる』
 メフィストが不愉快げに眉をひそめ、背中をさざめかせ触手を放つ。
 『離れてみて痛感した。私には君が必要だ、ファウスト』
 庇に転がった銃を触手が巻き取り、メフィストのもとへと持っていく。
 月明かりに艶かしくぬれる銃を陶然と見上げ、触手を淫靡に蠢かす。
 『よい機会だ。みじめに這いつくばった君の前で我が愛する片割れにして永遠の伴侶への愛を語ろう、存分に』
 銃が内から発光する。
 宙吊りにされた銃にファウストの姿がだぶる。
 触手に磔にされたファウストへと、しなやかかつ優雅な身ごなしでメフィストがすり寄る。 
 『君はこうして追いかけてきてくれた。私を見捨てずに』
 『……それが役目だからね。君を放つのは、あまりに危険だ』
 『暴食にして悪食の悪霊メフィストフェレス、最悪の魂喰らい、それが私だ。思い出せファウスト……本の中ではいつも、私を慰めてくれただろう』
 「はあ?!」
 穏やかならぬ発言にディアボロが我が身に迫る危機も忘れ素っ頓狂な声をだす。
 触手に絡まれたファウストが頬を紅潮させ唇を噛む。 
 『君は知らないだろう。ファウストがどんな艶っぽい声で喘ぐが、どれほど艶美な痴態を見せるか。とんだ道化だ。君はファウストを自分の所有物だと勘違いしてたらしいがそれはとんでもない自惚れで思い上がりというものだ、あまりに幼稚で笑ってしまう』
 「どういうこったよファウスト。お前、こいつとできてたのか。触手プレイもなんでもござれのゲテモノ喰いか」
 険を孕んだ目つきで睨めば、ファウストが羞恥と苦渋に顔を歪める。
 『ファウストはいつも私の飢えを癒してくれた』
 触手がファウストの体をおぞましく這う。
 足首に膝に腿にからみつき、標本の蝶を模して四肢を広げる。
 『人と精霊は触れ合えない。しかし、私達は元は同じ存在。この体も半霊物質でできている』 
 「人と混ざったキメラってわけか」
 異形の石像をちらりと見やり、吐き捨てる。
 『そこで見ていたまえ、ファウストが陵辱されるところを』
 『!あっ………』
 触手が激しさを増し蠢き、敏感な箇所を刺激し、ファウストが仰け反る。
 宙に吊られた足がばたつき、淫蕩な熱に溺れもがき苦しむ扇情的な姿に、地に伏せたディアボロは歯噛みする。
 「どこが崇高な繋がりだよ……おもいっきり下世話じゃねえか」
 『君にはできない。決して抱けない。こんな淫らな顔をさせることができない』 
 メフィストが愉快げに愉快げに、勝ち誇ったように哄笑する。
 『敗北を認めたまえ』
 『くっ………あぅ……』
 手も足も出ぬディアボロの前でファウストが触手におかされ喘ぐ。
 全身の血が湧き立つ。
 心臓が爆発せんばかりに高鳴り、殺意が暴走する。
 怒りがついに発火点に達し、視界が真っ赤に焼ける。
 『欲情を誘う光景だろう』
 触手でファウストを犯しつつメフィストが囁き、ディアボロにまで邪悪な魔手をのばす。
 回避は物理的に不可能。
 グリフォンに片手で掴まったまま暴れようものなら、風がうなる奈落にまっさかさまだ。
 それでも必死に足を動かし触手を蹴りどかそうとするも、触手は執拗にディアボロの足を狙い、淫蕩な蛇のように絡み付いてくる。
 『敗北を認めれば、快楽のお裾分けをしよう。ファウストには遠く及ばないが、君の喘ぐ顔はなかなか愛らしい』
 「ありがとうよ、腐れ魔羅」
 足を這う触手がおぞましい感触を与え、布の上から股間をなでる。
 布と擦れる緩慢な愛撫に体が勝手に跳ね、怪我した左腕で薙ぎ払おうにも、今度はその腕に絡み付き動きを奪う。   
 『彼に手を出すのはやめろ』  
 触手が与える快感をこらえつつ、上擦る吐息に掠れた声を絞り出す。
 『庇うのかい?妬けるね』
 粘つく触手が意地悪く内腿を這う。
 触手に敏感な箇所を擦られ悶え、顔を染めたファウストが切れ切れに呟く。
 『下品下劣、粗野粗暴、暴虐無人、唯我独尊。残念ながら、人として褒めるべき美点はあまり見つからない。皆無と言っていい』
 「いきなり何言い出しやがる、お前は」
 『おまけにひどく音痴だ。音楽の趣味も悪い。敬老精神がない。老人や子供に平気で暴言を吐く。貨幣でなにもかも解決すると思ってる。気に入らない相手にはすぐ銃をつきつけ、脅す。口を開けば卑語がとびだす。食べ方が汚い。手癖が悪い。お世辞にも上等な人間とは言えないね』
 そして、仕方なさそうに苦笑する。
 『だけど』
 それらの欠点すべてを許容し包容するような慈愛に満ちた微笑。
 『おかげで、退屈しない』
 「ディアボロ!!」
 嗄れ声で名を呼ばれ反射的に顔を上げる。
 鋭利に風切り黒い物体が垂直に落下、メフィストを直撃する。
 『!?っ、』
 肩に爆ぜた衝撃に触手が怯む。
 グリフォンに縋り付きはるか頭上を仰げば、時計台の端に仁王立つデミトリが、らしくもなく焦燥に駆られ孫の醜態を見下ろしている。
 祖父のそんな必死な顔を、初めて見た。
 杖の直撃を喰らい緩んだ触手から零れ落ちた銃が空で旋回する。
 体感する時間の流れが鈍化し、月光を弾いた銃が、コマ落としのように奇妙な緩慢さで空を舞う。 
 思考するより先に体が勝手に動き、庇を蹴って弾丸の如く飛び出す。
 地を這うように身を低めた姿勢から空へと跳躍、落下しつつ思いきり腕を伸ばし、グリップを掴む。
 銃身が熱くなる。
 ディアボロの第六感に直接語りかける内なる声でファウストが言う。
 『やあ』
 「よう。ご主人様をほうっぽって随分お楽しみだったじゃねーか」
 『嫌いじゃないだろう、放置プレイも』
 「どこで覚えたんだその言葉」
 『君の口癖』
 銃口から失笑が漏れ、つられディアボロも笑う。初めて浮かべる、どこか爽快な降参の笑み。
 銃身の熱がてのひらに伝わり、右手が火照る。
 ファウストの熱がディアボロの熱とまじりあい、溶け合い、ドーパミンの奔流となって血管を駆け巡る。
 弁が収縮し、たぎった血が心臓に注入される。
 心臓が踊りだす。
 全身が沸騰する。
 『やれやれ。自ら命を投げ出すとは、よほど地獄が恋しいと見える』
 「地獄に返るのはお前だ」
 耳元で風が唸る。
 落下に身を委ねつつ、しかし今度は慌てず、明晰な心を保ち、右胸を正確に照準する。
 「膝を撃つなよ」
 『どうかな』
 体が覚えている。
 細胞に刷り込まれている。
 『ファウストは返してもらう』  
 「体重と同じだけの金塊を積まれてもやれねーな」
 殺意が発火する。
 連動して引き金を引く。
 衝撃。
 銃口から発射された弾丸は魔術的に錬度を高められ、赤い彗星の尾をひき、一直線にメフィストの胸を穿つ。
 出血はない。
 本来人間の心臓がある位置、右胸に開いた穴からこぼれでたのは、闇。
 メフィストはもはや完全にロベルトと融合し、その体を内側から作り変えていた。銃弾で胸を貫いても致命傷には至らない。
 『喪失感で胸が痛い』
 「ペッパーとソルトとタバスコ、傷口にすり込むのはどれがいい?」
 右胸の空洞を瞬く間に触手が覆い、傷が完治する。
 所詮時間稼ぎだ。
 これで倒せるとは思ってない。
 非常識な事態に慣らされすぎて、さすがにそこまで楽観できない。 
 『どうするんだいディアボロ・デミトリ、この分だと無難に墜落死だよ』
 「まさか」
 焦った声を出すファウストに軽く応じ、含みありげな流し目でメフィストを挑発する。
 「触手で縛りてえほどお前に夢中な焼きもちやきが、心中を許すかよ」
 必ず追いかけてくると予期した通りメフィストが黒髪を踊らせこちらに向かう。壁の平面を走り、反動をつけ、落下を続けるディアボロのもとへ悠揚とはせつける。
 『いつまで彼を握ってるつもりだい?そのまま地に激突したらファウストに傷がついてしまう、依り代が受けたダメージは霊体にも影響するからね。ファウストの綺麗な顔が傷付くのはとてもとても哀しい、胸が痛んでたまらないよ』
 「心臓もねーくせに」
 『何か勘違いしてないかい?痛むのは心臓ではなく、心だ』
 大仰に胸に手をあてがうメフィストに対し、最高の冗談を聞いたというふうに相好を崩し、銃をつきつける。
 「本当に心臓がないか、血が一滴もでねーか、試してみるか」
 『疑り深いね、君は。さっきも試しただろう。君が放った弾丸は私の体をすりぬけ向こうに行ってしまうよ。まあ、どうしてもというなら試してみるといい。悪あがきをやめない浅ましさは好きだよ』 
 先刻目撃した光景がフラッシュバックする。
 迫りくるメフィストに威嚇のつもりで放った弾丸は、むなしくその胸を通り抜け、宙へと吸い込まれていった。
 『ファウストに熱く激しく貫かれるのも、たまには悪くない』
 「弾とひっかけてんのか?最低だな」
 至近距離で目が合う。
 邪悪に赤い双眸が笑みを含んで歪み、唇が触れ合う。
 引き金を引く。
 銃弾が胸を貫通し、衝撃波が前髪をさらう。
 メフィストの胸に穿たれた空洞から懇々と濃厚な闇が吹き零れる。 
 『気分はどうだい?』
 「最高。イっちまいそうだよ、お前を道連れに」
 そこで初めてメフィストは違和感を覚える。
 何故この少年は、いまだに余裕を保っている?
 数秒後には固い石畳に墜落し挽肉となる運命だというのに、こうも高飛車に構えてられる?
 思考に忍び込んだ疑念を晴らしたのは、同胞の静かな声。
 『敗因は慢心だ』 
 頭上で何かが瓦解する。
 空中分解した庇の残骸が礫の豪雨となり、凄まじい騒音を奏でて降り注ぐ。
 「中身がからっぽなのはわかってんだよ、最初から」
 ディアボロがこめかみをつつく。
 「ここはそうじゃねえ」
 ディアボロの狙いは、最初から別にあった。
 自分に覆い被さったファウストのはるか向こう、壁面に段を成す庇。
 まとめて五つ、魔力でコーティングされた弾丸が貫通粉砕した庇が盛大に砕け散って粉塵と石塊をばらまく。
 その一番上、一番最初にディアボロが降り立った庇が消失し、本が投げ出される。
 『左腕は上がるかい?』 
 「俺様の手癖の悪さをなめるなよ、利き手じゃなくたってマスくらいかけるさ」
 言葉どおり、多少どころかかなり無理して左腕を翳せば、狙い定めたように本が飛び込んでくる。
 ずっしりとした重みが掌に食い込み、腕が砕けそうな激痛に込み上げる悲鳴を殺す。
 本を掴んだ途端、不思議な浮力に包まれ落下が停まる。
 「~~~~~~~~~~~~っ!!」
 『いわんこっちゃない』 
 ………捨ててえ。
 『ページをひらくんだ』
 ファウストが厳然と命じる。
 刹那、風が吹き、ひとりでにページがめくれる。
 「まっしろじゃねえか!?」
 『本をメフィストの前に翳し、呪文を唱える』
 「なんて呪文だ?」
 『なんでもいい、ただ名前を呼べばいい』
 「それだけか」
 『それだけ』
 「……ざけやがって」
 ディアボロが唸る。
 『五芒星に手を重ねて』
 五芒星に手を翳し、のせる。
 深呼吸し、目を閉じる。
 最初は淡く、徐徐に眩く。
 五芒星が輝きだす。
 『君は生きた「鍵」で、本は扉だ』
 物語を語るようなファウストの声が心地よく流れ、五芒星と重ねた掌から紅蓮の光の柱が立ち、周囲に拡散する。 
 本とディアボロを中心に赤く輝く五芒星の陣が張り巡らされ、白紙のページに炙り出すように魔術文字が浮かび始める。
 ディアボロの手の血管を透かし、白紙に綴られていく淡い文字。
 「一発芸、人間映写機ってか」
 知らぬまに血に練り込まれた文字が、歳月に酷使され傷んだ紙を染め上げていく。
 本を抱いたディアボロの耳を瓦解の轟音が聾し連鎖的に庇が崩落、すぐそこまで異形の気配が迫り、触手のひと薙ぎで断ち落とされたグリフォンの首が鋭い切り口を見せる。
 斬首されたグリフォンと眼鏡越しに目が合う。
 表情を変えず呟く。
 「仇はとってやる。ケルベロスと仲良くな」
 濛々と立つ粉塵を突き破り、錐揉み縒り合わされた触手が現れる。

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Devilish | コメント(-) | 19951203171752 | 編集
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