ロールシャッハテストB

since2006/6/17
月別_1995年12月
10 06 05 04 03 02 01 12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01 08 07 06 05 04 03 02 01 07 06 05 07 06 05 04 03 02 01 08 11 12 11 12 06

Dvilish目次

(1995/12/31)
用語辞典

第一章
プロローグ
一話
二話
三話
四話
五話
六話
七話
八話
九話
十話
十一話
十二話
十三話
十四話
十五話
十六話
十七話
十八話
十九話
二十話
二十一話
二十二話
二十三話
二十四話
二十五話
二十六話
二十七話
二十八話
二十九話
三十話
三十一話
エピローグ
第二章
プロローグ
一話
二話
三話
四話
五話
六話
七話
八話
九話
十話
十一話
十二話
十三話
十四話
十五話
十六話
十七話
十八話
十九話
【Devilish目次】
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Devilish プロローグ

(1995/12/31)
 革張りの椅子に身を沈め、まどろむように目を閉じているのは若い男。
 どう年配に見積もっても三十半ばといったところ。
 暗闇にほの白く浮かび上がる横顔は東欧の俳優の如く端正だが、固く引き結んだ唇と怜悧な切れ長の眦が、細身のナイフに通じる研ぎ澄まされた風情を漂わせる。
 一見暴力沙汰とは最も縁遠い場所にいるエリート風だが、勘のいい者が接見すれば、スーツの下の筋肉が筋金のように鍛えられている事実が見てとれる。隆起を誇示して自尊心を充たすでもなく、徹底して贅を削ぎ落としバネの撓りをよくした肉体は、もう一枚の毛皮として艶めく闇をまとう静かなる黒豹のそれ。
 執務室にノックが響く。
 耳朶を打った空気の振動に男の瞼がぴくりと反応する。
 ゆっくりと瞼を開き、薄目を開ける。
 瞼を持ち上げると形よく切れ上がった眦が現れる。
 双眸に鋭利な光が宿る。
 誰何の黒瞳を扉へ向ける。
 「失礼します」
 扉が開く。
 黒背広の男が慇懃に一礼する。
 主の機嫌を損ねることを何より恐れる黒背広は、音をたてぬよう静かに扉を閉じる。
 部屋の入り口に立ち、壁に沿って視線を一巡させる。
 何度訪ねても部屋の暗さに慣れることはない。
 そして、目の前の男にも。
 額に浮いた冷や汗を悟られぬよう、絨毯を踏みしめ執務机へと向かう。
 毛足の長い絨毯が足音を吸収してしまうため、衣擦れの音のほかに耳に届くのは自身の荒い吐息と動悸ばかり。
 歩幅を意識して前後に足を繰り出しつつ、生唾を嚥下する。
 執務机の前に立つ。
 踵を揃えて直立した配下を、男は無関心に一瞥する。
 背筋を伸ばし直立不動の姿勢をとった配下は、こわばった舌を叱咤して要件を告げる。
 「例のブツのありかがわかりました」
 わずかに顎を反らし、野太い声で報告する。
 その間も体の脇に垂らした掌はじっとり汗ばみ、腋の下には粘液質の汗が滲み出す。
 男の目が忙しく動く。
 男の目の奥を凝視すると、期せずして冥府を覗き込んだかのような戦慄が走る。
 「どこだ?」
 一声で女の背骨をとろかす美声に申し分ない容姿。
 目の前の男は、自分のような醜男とは別世界に住んでいる。
 莫大な富に明かせて世界中の美女を侍らすことすら不可能ではない、脳天から爪先まで札束で磨き上げられた完璧な男。
 内心ひと回りも下の男に顎で使われる現状に忸怩たるものがないではなかったが、それ以上に彼が抱いていたのは、目の前の男に対する底冷えする畏怖と恐怖心。

 得体の知れない男。
 危険極まりない男。

 野生の動物が匂いで外敵を嗅ぎ分けるように、人間にも外敵を嗅ぎ分ける能力が備わっている。
たとえ相手が自分に害意を持っていなくても、その人物が強大なー…あまりにも自分とかけ離れた存在であると本能が感知すれば、人は自然その人物と距離をおくようになる。

 住む世界がちがうと痛感させるとてつもなく不吉な何かが、この男からは強烈なまでに放たれている。
 人から忌避し畏怖されることによって強大な力を得る
 悪魔的な何か。
 デビリッシュ。

 「……この男です」
 背広の内ポケットから一葉の写真を抜き取り、デスクに滑らせる。
 スタンドに点灯し、掌中の写真へと目を注ぐ男。
 無言。
 沈黙。
 上目遣いに主人の顔色を見る。あるじをさしおいて口をきいてよいものか迷う。
 男はじっくりと写真を検分する。間接と長さのバランスが絶妙な指に見惚れる。
 口を開きかけたまま凍り付いた男の耳を単調なリズムが叩く。
 男の人さし指が机を叩き、拍子をとる。しばらくそうしてから、おもむろに口を開く。
 「愚鈍だな」
 「は?」
 刹那、指に挟んだ写真を投擲。
 風切り音が耳朶を掠め、頬に朱の斜線が走る。
 頬に浮き出た血の筋に一呼吸遅れ我に返った配下は、炯炯たる眼光に気圧され後退する。
 顔面蒼白の配下を見下し、男ははっきりと歎息した。
 「今この場で殺されないことを感謝しろ。俺は愚鈍な男が嫌いだ。もう一度だけチャンスをやるから、この男について説明しろ」
 男が投げた写真が空を切り、頬の薄皮を裂いたのだとようやく合点がいった配下は、膝から下の震えを止めることができなかった。
 まさか恐ろしさで口が利けなかったとは言えない。
 ましてや写真を滑る指の美しさに目を奪われていたなど。
 大きく深呼吸し、酸素で肺を満たす。
 うわべだけでも平静を取り繕い、事務的な口上を述べる。
 「……名前はダンカン・フォーマシィ、42歳。我が組織の末端構成員で麻薬の運び屋として働いていました。ケチな小悪党です。組織では全く重きを置いてません、いくらでも換えの利く使い走りです。二週間前は埠頭での荷下ろしに駆り出されたようですが、例の銃撃戦のどさくさに紛れてとんずらこいたってのが一緒に働いてた男の証言です。経歴を簡単にまとめますと窃盗の前科五十八犯、二十代の頃に二度ムショにぶち込まれてます。今回はそう、悪い手癖がぶりかえしたといったところでしょうか。フォーマシィには親しい友人や近い身寄りもなく、腐れ縁の情婦にも門前払いをくって行き場をなくしてる模様。421丁目のアパートには二週間前より帰宅した形跡なし、現在自宅と情婦宅、行きつけの酒場とカジノに見張りをあたらせてます。現在八十名余りを動員して鋭意追跡中ですが、どうも場末のモーテルやら倉庫やらを転々としてるそうですね。機を見るに敏というか……もとコソ泥だけあって、はしっこいヤツです。いたちごっこですよ。まあ時間の問題です。多勢に無勢の鬼ごっこが二週間も続いてやっこさんは疲れきってる、そろそろ音を上げる頃合だ。フォーマシィは西へ西へと移動してます。先日遂に境界線をこえて旧市街に入りましたが、土地勘のないフォーマシィが俺たちを巻いてうまうま逃げおおせるとは思えません」
 「旧市街はデミトリ家の縄張りだ。共同戦線を組むべきだな」
 男の発言に、部下は驚く。
 「デミトリ家と……ですか?しかしデミトリ家は、」
 「背に腹は変えられん」
 男の言葉は心胆寒からしめる征服力をもち、異を唱えかけた部下の無能を暗に責め、おおいに萎縮させる。
 机上で組んだ五指に尖った顎を乗せ、暗い天井に目を馳せる。
 天井に視線を放り、韜晦を含んだ口調でひとりごつ。
 「間違いがあってはならない。絶対に。お前達は奪われた物の価値を正しく理解してない。ダンカン・フォーマシィ捕獲作戦には万全の体勢をもって臨む。くだらん見栄は捨てろ。体面?馬鹿らしい。使えるものは友だろうが敵だろうが徹底的に利用する。幸いデミトリ家当主から停戦の話し合いが来てる。歓楽街の土地権を分割して協調路線を歩まないかと、あの血のデミトリ家当主がわざわざ打診してきたのだ。折角の好機を無駄にする手はない……」
 天井に向けられていた視線がゆるやかに下降してくる。
 部下の顔をきっかりと正視し、低い声で念を押す。
 「本当にこの男で間違いないんだろうな」
 「裏はとりました。付け加えるなら、フォーマシィーは麻薬中毒で喉から手が出るほど金を欲してます」
 固い声で部下が肯定する。
 再びの沈黙。
 長々と息を吐き、表情を消して宣告。
 「……この男を殺せ」
 闇に沈んだ居室に死刑執行の宣告が殷殷と響く。
 姿勢を正した部下にはそれきり関心を失ったように、椅子の背凭れに上体を沈める。
 天井を仰いで目を閉じる。
 「……この男が奪ったものを絶対に取り返してこい。無傷でだ。もしひとつでも傷をつけたなら……」
 瞼が開く。
 現れたのは切れ長の眦。
 鬼気迫る燐光を灯した黒曜の目が、なによりも雄弁に部下を脅迫する。
 「その罪、お前の血で贖ってもらおう」
 途方もない威圧感に腰が砕けそうになる。
 「イエス、ボス」
 深々と頭を垂れ、踵を返す。足音は無音に近い。
 ドアが閉じる。
 部下が礼をして退室したあとも、男は微動だにせず革張りの椅子に上体を沈めていた。
 椅子の背凭れに上体を預け、虚空に目を馳せる。
 静寂。
 椅子が軋む。席を立つ。
 ゆっくりと執務机を迂回し、悠揚とした足取りで左手の棚へと歩み寄る。
 棚の中段に鎮座する香炉へ手を伸ばす。
 掌に抱いた香炉へと目を落とす。
 上品な趣のある、美しい香炉だった。
 乱れ飛ぶ胡蝶と艶やかに咲き誇った牡丹の絵柄が異国情緒を漂わせる。
 男の唇が開き、小さく声を発する。
 『ユーシン、招来』
 異変は唐突だった。
 男の手の中の香炉から、たなびく絹糸のようにか細い煙が立ち昇る。
 えもいわれぬ芳香が鼻孔をくすぐり、飴が溶けるように空間が歪む。
 次元の裂け目から生み落とされた極彩色の陽炎はやがて人の形をとり、優雅な挙作で男の前に降臨する。
 女は鮮やかに染め抜いた絹を何枚も重ねた東洋の衣装を身に纏っていた。
 腰の高い位置で絞った真紅の帯が、生ある炎のようにあでやかに吹き流れる。
 「……どうだ?」
 聞いたのは男だ。
 香炉を机の角におき、片手をズボンのポケットにひっかける。
 男はリラックスしていた。
 配下と問答していた時の殺気は完全には失せていなかったが、その顔に浮かんでいる表情は凪のように穏やかだ。
 抜き身のナイフのように鋭利な切れ長の双眸も、女と相対した今は別人のように柔和な光を湛えている。
 女のおとがいが持ち上がる。漆黒の目がひたりと男を見据える。
 『あの方は死にます』
 「そうか」
 大した感慨もなく、言下に切り捨てた男を咎めるように女は眉をひそめる。
 「奴は無能だ。あれの奪還は不可能だと半ばわかっていた」
 『では何故、行かせたのですか』
 女の喉からかすれた声が迸る。
 まるで我がことのように哀れな配下の末路を嘆く女に一瞥くれ、男はため息を吐く。
 悲痛な訴えにも心動かされることなく、淡々と続ける。
 「なに、座興だ」
 男の唇が綻ぶ。闇に閃くのは剃刀のように鋭利な微笑、邪悪な弦月を象った禍々しい微笑だ。

 それなのに。
 そんな風に笑う男は、悪魔のように美しかった。

 歯痒げに下唇を噛む。
 悲哀に歪む女の顔を目の端でとらえ、男が薄く歎息する。
 脇にたらしていた手がゆっくりと弧を描き、女の右頬へとあてがわれる。
 「お前はやさしい女だ」
 やさしい声音だ。
 もしこの場に第三者がいれば、男がこんな声をだせることに驚吃しただろう。
 男はいとおしげに目を細め、苦笑をまじえて指摘する。
 「まるで母のようにやさしい女だな」
 『……あなたも本当はやさしい人です、ジズ・フィロソフィア』
 男の顔から表情が消えた。女はなにも言わず、ただただ哀しげに男を見つめていた。
 男は所在なげにその場に立ち尽くしていたが、ふいにその全身に装填された銃のような殺気が漲る。
 「ユーシン」
 『はい』
 鞭打つように名を呼ばれ、女は遅滞なく返事する。
 顔をあげた男からは最前までの気弱な表情は払拭され、黒社会の頂点を狙う若き簒奪者の威厳と覇気が満ちていた。
 「俺が呼ぶまで香炉で待機してろ」
 『御意』
 着物の袖を泳がせ虚空に没した女の残像には一瞥もくれず、男は顎を反らして天井を仰いだ。
 椅子に身を投げ出し、長い足を無造作に組んだ男の喉から歪な声が漏れる。
 笑い声は次第に大きくなり、しまいには大音量となり部屋中に響き渡る。
 気違いじみた哄笑が終息するのを待ち、洗いざらしの紙のように乾ききった笑みで吐き捨てる。
 「おれがやさしいだと?やさしいだと。まさか」
 机の端に乗った香炉を冷ややかに一瞥、自嘲的に唇を歪める。
 「やさしさと愚かさは同義だ」
 男の独白は苦渋の滲んだ余韻を残し、闇に呑まれて消滅した。
【Devilish】
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Devilish第一話

(1995/12/31)
 其の血、生粋の邪悪なり。

 其の目、生粋の暗黒なり。

 其の者地獄の最も深き渕から召喚されし奈落の王なり。

 地をあまねく災厄で覆い屍の山を築く者なり。

 乳飲み子の悲鳴に耳を傾け骸の頂で眠る者なり。

 処女の断末魔を肴に美酒を傾ける暴君なり。

 老若男女問わず屠り尽くすサタンなり。

 其の者、実に悪魔なり。

                +



 状況によって、神を冒涜する言葉は、祈りよりも安息をもたらす
 マーク・トウェイン(Mark Twain)

     
                +

 桁外れに巨大な空間だった。
 巨象を三頭放し飼いにできるスペースを有した地下空間は四方を分厚い壁に隔てられ、完璧に外界と隔絶されていた。
 防音処置を施した壁が四方に聳えているため、度を越した饗宴の騒音も外部に漏れることはない。

 コンクリート打ち放しの殺風景な空間は車両が一台も停まっていない駐車場をおもわせた。
 規則的に建ち並んだ鉄筋コンクリートの柱が高い天井を支える様は、幾何学美さえ醸し出す不思議な光景だった。
 整然と並んだ柱に区分されているのは、横幅5メートルのパーソナルスペース。
 
 立ち定位置を示す白線の内側に狙撃手が一人。

 コンクリートに引かれた線ぎりぎりに革靴をおき、重心を腰に移動させる。
 腰を安定させ、腕を床と平行にする。
 まっすぐ伸ばした腕の先には拳銃が握られている。
 掌中にしっくりと納まったスリムな銃身は剣呑に黒光りし、極限まで無駄を殺ぎ落とされたシャープなシルエットを際立たせていた。

 銃底を左手で固定し、右手で銃把を握る。
 洗練されたフォルムの拳銃を一瞥、殺傷に足る重みを確かめるように掌を開閉する。
 掌にずっしり食いこむ重量感のある手応え。
 掌に走った神経の軸索が銃の構造を透視する、あの感覚。
 弾丸が排出される溝も小指の爪の先より小さいネジも、掌を密着させた部位から銃の内部構造が詳細に伝わってくる。

 カウンターに臨み立つ人物は小柄な背格好をしていた。
 華奢な背中、できあがってない肩の線。
 四肢はすらりとしている。
 スリムな体躯に一分の隙なく黒いスーツを着込んでいる。上等なスーツ。贔屓にしているブランドに上客の特権を行使し特注したのもの。成長途上の体には大きすぎず小さすぎず、適度な余裕を残して寸法を測られている。靴もまた牛皮製の高級品。ワックスで丹念に磨いた、光沢ある黒い靴。
 半弧を描いて靴が滑る。
 足を開き、腰を引き、反動に耐えられるよう下半身を安定させる。
 耳をすっぽり覆っているのはマフ付きのヘッドホン。
 ヘッドホンから微かに漏れてくるノイズが蜂の羽音に似た重低音を伴い、三半規管に微電流を流し鼓膜を震撼させ、水を打ったように静まり返った空気を微弱に振動させる。

 少年は鼻歌を口ずさんでいた。
 聴覚で知覚できない程度の音量の、鼻歌。
 なにを言っているかは聞き取れない。ただわかるのは、少年がわくわくしているというひどく単純な事実だ。パチンコの銀玉で片端から空き缶を倒す遊戯に熱中している子供のように。
 少年はふんふん鼻歌を唄いながら軽く引き金に指をかける。
 引き金に指をあてがったまま、遥か前方へと視線を飛ばす。
 前方25メートルには人型の的が並んでいる。
 警察や軍隊の訓練所にあるような屋内射撃場を私設で備えている事自体、この空間の創造主の並外れた財力を窺わせる。
 等身大の人間を模した的には人体の急所を示す同心円が精密に描かれ、顔は黒く塗り潰されている。平均的成人男性とほぼ同じ身長の的が端から端へとずらり林立したさまは、なかなかどうして壮観だ。

 顔のない木偶人形。
 哀れな身元不明死体ジョン・ドゥ。
 ネームレス、フェイスレス、ハートレスのないない三拍子。

 「藁のハート」

 引き金にかけた指に圧力を加える。
 発砲。銃口から迸った火線が直線の軌道を描いて虚空を灼き、銃身が跳ね上がる。
 轟音。続けざまに引き金を引く。
 的の胸が木片を散らして炸裂する。

 「おがくずの詰まった頭」

 唇が音を発する。引き金を引く。
 耳を聾する銃声が轟き、きな臭い硝煙が鼻孔を突く。
 銃口から迸った火線が電撃の鞭のように虚空で撓り、的の頭部を木っ端微塵に破砕する。

 「ブリキの右腕」

 予告どおり右腕を撃ち抜く。木片が飛散する。着弾の衝撃に不安定に傾ぐ的。

 「ブリキの左腕」

 それは予告ではなく、数瞬後に予定された現実を述べているにすぎなかった。
 銃口から発射された弾丸が左腕を撃ち抜く。的の左上腕部に穴が穿たれる。

 「メッキの左足」

 銃声。的の左足を銃弾が貫通する。

 「メッキの右足」

 銃声。的の右足を銃弾が貫通する。

 「そしてー……使いものにならねえディック!!」

 一際甲高い銃声が轟いた。
 全弾撃ち終わった後、私設射撃場には濛々と硝煙がたちこめる。
 コンクリートを敷いた床の一面には累々と空の薬莢が散らばっている。足元に散らばった薬莢を靴の 先端で蹴り、その行く先を視線で辿る。
 気まぐれに蹴飛ばした薬莢はカン、カンと澄んだ音を奏でて 床で跳ね、蜂の巣となった的の方へと転がっていった。
 無数の穴を穿たれた的を一瞥、ゆっくりと腕をおろす。
 下を向いた銃口からは今だ牙のような硝煙がたちのぼっている。
 手前のカウンターに拳銃を滑らし、ヘッドホンを毟り取る。
 途端に流れ出したのは大音量のへビィ・メタル。鼓膜が割れんばかりの騒音を発音の不明瞭な巻き舌出がなりたてるヘッドホンをカウンターに投げ出し、少年はすかっとした笑顔を浮かべる。

 「歯応えねえなあ木偶人形は。猫でも撃ってたほうがまだマシだ」

 白い歯を零して笑った少年の顔は驚くほど幼かった。あどけないと評していいだろう子供っぽい笑顔。
 年齢は十代半ばに届くか否かという微妙なところ。
 艶のある黒髪に映える白い肌は、人種の坩堝と称されるこの街でも特別目立つエキゾチックな配色。
 肉の薄い鼻梁と皮肉げに捲れ上がった唇が酷薄そうな印象を抱かせるが、銀縁眼鏡がよく似合う 涼しげな容姿は端正な部類に入る。
 コキコキと肩を鳴らす。
 肩鳴らしは済んだと言わんばかりのこまっしゃくれた動作だった。
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、前方の的を凝視する。

 的の股間に穴が開いていた。
 少年が狙い撃ちした穴。

 「性転換完了っと。チンポコなくしたオカマちゃんが黒塗りの仮面の下でひいひい泣いてるぜ」
 野卑な薄笑いを浮かべ、去勢された的を嘲弄する。
 少年がいるのは等間隔に区分された射撃訓練用スペースの一角。
 前方に並ぶのは等身大の人間を模した黒塗りの的。
 少年が破壊した的を除いてもまだ五十体はあるだろう。
 軍隊の点呼の如き規律正しさで人間大の的が整列したさまはなかなかどうしてシュールだ。
 カウンターに放置したヘッドホンからは大音量のへビィ・メタルが流れ続けている。
 興味のない者にとっては耳障りな雑音に他ならないが、すごぶるご機嫌な少年は最前から靴で拍子をとっている。ふんふんでたらめな鼻歌をなぞりつつ、律動的にコンクリ床を叩いていた少年の背後にぬっと気配が忍び寄る。
 カツンカツンカツン。
 靴音。振り向く。
 背後にはスキンヘッドの若い男。
 没個性な黒いスーツを着こんではいるが、鉄板でも入れたみたいに固い肩の線と厚い胸板は隠すことができない。がっしりと頑丈な体格。自然と発散される凄みと威圧。えらの張った武骨な顔にサングラスをかけ表情を隠しているが、眉の上を斜めに走った傷から剣呑な雰囲気が漂っている。
 「おい、みろよ」
 無造作に顎をしゃくる少年。
 股間が破裂した的を一瞥、黒服の眉間に皺が寄る。
 前方の的を顎で促した少年は、けたけたと下品な声で笑う。
 「やっこさんのオカマ掘ってやったぜ。トンネル開通してるだろ?」
 スリムな拳銃を掌中で弄びながら、けたたましく笑う。
 しまりのない笑みを満面に広げた少年に何を思ったか、黒服の顔をあきれたような、小馬鹿にしたような表情が掠める。が、それは一瞬のこと。再び表情を引き締めた黒服は分をわきまえた猟犬さながら素早く脇にどくと、哄笑する少年のために道を開ける。
 「坊ちゃん、ボスがお呼びです」
 慇懃無礼とでも呼びたくなる取り澄ました声とツラ。
 敬語を使ってやってるだけで有り難く思えという恩着せがましさが、伏せた目にちらつく軽侮を孕んだ不満の色から見てとれる。
 本音を言えばこの愚劣な少年に頭を下げる価値などこれっぽっちもないとばかり、分不相応な主人に対する猛烈な反発と反感が鉄面皮の下で燻っているのは明らかで、その全身からプライドの焦げ付きの匂いが漂っている。
 きな臭い殺意の匂い。
 ツンと鼻を刺す独特の。
 おが屑から立ち上る一筋の煙のような、甘苦く危険な味。
 笑い声が止み、不吉な静寂が落ちる。
 拳銃を手玉に取りつつ、少年は何事か言いたげに脇に控えた黒服を見る。
 無表情に徹する黒服。
 静寂を破ったのは少年の靴音。
 少年は片手に拳銃をさげたまま靴音高く射撃場を横切り、そして……

 乾いた銃声が響いた。

 「………!」
 膝を抱え悶絶する男。
 銃口から一筋硝煙がたちのぼる。
 すれ違いざま男の方を見もせずに革靴を撃ち抜いた少年は、苦虫を噛み潰したような顔をする。
 「犯されたいのかテメエ。二度と俺をその名で呼ぶな」
 手首を一閃し、火を噴いたばかりの拳銃を顔の前へと持ってくる。
 右足の甲を撃ち抜かれ、弛緩した口の端から白く濁った泡を噴いた男を見下ろし、少年は薄く笑う。
 悪意に満ち満ちた蔑笑。
 憎しみと憤りと一匙の嘲りをミキサーにかけらたらこんな顔ができあがるかもしれない。
 なぶるように下唇を舐め、拳銃をくるくる回す。
 円弧を描いて旋回する拳銃が黒い旋風となり、地に伏せた男の視界に暗い影を落とす。
 「俺の名はディアボロ」
 右手の拳銃を旋回させながら、少年が言う。
 底光りする黒瞳が嗜虐の笑みに細まり、細身のズボンを穿いた足が虚空に浮かぶ。
 耳を覆いたくなるような絶叫が射撃場に響く。
 コンクリ床に仰臥した男の右足を踏んづけ、少年はさも愉快げに喉を鳴らす。
 踏みにじった右足からじくじくと赤い血が滲み出す。
 絶叫、悲鳴。
 さかんに身を捩る男。コンクリ床に落ちたサングラスが砕け散り、脂汗に塗れた顔が醜悪に歪む。
 激痛に失禁、えびぞりになる。背骨がへし折れそうに撓る。ズボンの股間に恥辱の染みが広がる。憤死寸前の形相を滂沱とぬらすさまざまな体液、鼻水と涙と血のミックスジュース。四肢で床を掻き毟って極限の苦痛を訴える男の姿は、羽をもがれた蝉が地面でのたうち回る姿を連想させる。
 靴底に体重をかける。
 下に敷いた足首の骨が軋む。
 男が白目を剥く。失神した男の顔を直上から覗きこみ、少年ーディアボロは言った。
 「悪魔の名を持つ、血のデミトリ家四代目だ」
 最後に足首を蹴り、男の上から体をどかす。コンクリ床に散った血痕を見下ろす。
 男が履いた革靴には焦げ穴が開き、か細い硝煙がたなびいていた。
 失神した男には一片の関心も払うことなく、凱旋の靴音高く射撃場を横切る。
 奥の壁に設置されたエレベーターに乗りこむ。

 がしゃん。

 格子戸が閉まる。
 鳥篭がすべるように上昇を開始する。
 鉄の処女の名で畏怖される拷問具に似た可動式の棺は、なるほど人殺しを運ぶのにふさわしい。
 機械の唸りを伴い高度を上昇させる矩形の棺の中、壁に凭れたディアボロは、手にした拳銃をしげしげと眺める。
 固形化したコールタールのように黒光りする銃身。
 シャープなフォルムが美しい、デザイン的にも洗練された拳銃。
 殺傷力も申し分ない。
 「坊ちゃまだとよ。けっ」
 密室の中でディアボロは吐き捨てる。
 その顔に滲むのは紛れもない嫌悪感。
 「だれがあんな日干しの種もらって産まれてきたっつんだよ?気色わりい呼び方しやがって、どいつもこいつも気にくわねえ。顔を合わせば坊っちゃん・坊っちゃん・坊っちゃん……ボチャンと硫酸の池に突き落としてやろうか、全員」
 実際、この少年なら口にしたことを実行しかねないという危惧もあった。
 瞳の温度が氷点下まで下がる。
 目を過ぎった殺意を隠すかのようにブリッジを押し上げる。
 なにもかも気に食わない。そう、なにもかもだ。
 エレベーターの壁に凭れ、箱の天井を見上げる。
 無防備に腕を垂らす。
 緩慢に瞼を下ろす。
 まどろむように瞑想。
 瞼を閉ざしたディアボロは心もち顎を傾げ、鼓膜に被さる静寂に身を委ねているかにみえた。

 唐突に口を開く。

 「腐れインポのザーメン豚ども。ケツの穴に銃つっこんではらわた引きずり出してやろうか。鼻の穴に銃つっこんで頭蓋骨吹っ飛ばしてやろうか。目ん玉くりぬいた空洞に俺のモンを突っ込んでやろうか」
唄うような節回しで呪詛を連ねる。頭の中で妄想を膨らませる。

 真っ赤に灼けた銃身を肛門に突っ込み、ずるずると腸を引きずり出してやる。
 暴いたはらわたを千匹の蛆に食わせてやる。
 くりぬいた眼球を砂糖漬けにして美味しくしゃぶってやる。

 加速する暴力に比例する欲望。
 心臓がどくんと脈打つ。
 銃をにぎるじっとり汗ばむ。
 下半身でどろりとした熱塊がうねり、スーツの股間が勃起しはじめたのがわかる。
 ディアボロは息をつく。
 頭蓋骨の中にある骸と屍を積んだ楽園。そこだけが安息を与えてくれる。楽園は妄想の中にしかない。
 乱れた呼吸を整えるのに集中する。
 これから祖父のもとに出向くというのに、股間を膨らませたままではなんともばつが悪い。

 ガシャン。

 棺が停止、ガラガラと格子戸が開く。
 拳銃を背広の懐にしまい、気負いなく足を踏み出す。
 エレベーターから一歩出た刹那、周りの風景が豹変する。
 鏡のように磨きぬかれた花崗岩の床が最果てまで続き、左右の壁には先代・先々代の当主が暇に 明かせて収集した絵画や壺が飾られている。
 右手の壁にかかっている絵は半世紀も前に急逝した天才画家の遺作であり、オークションに出展すれば破格の値がつくだろうことは想像にかたくない。

 いつかかっぱらってやる。

 そう心に決めて額縁の前を通過する。
 廊下は長い。
 途中、何人かの黒服とすれ違った。
 ディアボロの姿を目にした途端、鞭打たれたように飛びのき頭を下げる。
 決して目を合わせぬ念の入れようは病原菌に対する待遇に似ている。
 まるで彼が一歩ごとに災厄を振りまいて地上を汚染してると言わんばかりの避けっぷり。
 あながち穿った見方ではなし、山ほどの前科があればこそだが。
 実際ディアボロへの部下の接し方は、その徹底した慇懃さを抜きにすれば、病原菌よりちょっとマシで疫病神に劣るといった微妙な線。
 少なくとも俺の通り道に雁首ならべて突っ立ってるコイツらは、マスク付き防護服を着てねーからな。
 礼儀正しく道を譲った男たちにも別段感謝を表すことなく、かえって軽蔑しきったようにディアボロは鼻を鳴らす。
 ポケットに指をひっかけ、大股に廊下を歩いていると目的のドアが現れた。

 樫材の重厚な扉。

 飴色に艶光りする重厚な見た目と同様、幅は分厚い。合板で補強せずともこれだけで十分防弾の盾となる。
 ノックもせず、金色に輝くノブを捻る。
かかさず油をさしているため殆ど音をたてず開いた扉の向こうには豪奢な内装が広がっている。
 床一面に敷き詰められた毛足の長い高価な絨毯。
 臙脂の絨毯の上に浮かんでいるのは、座り心地のよさそうな革張りのソファーが四脚。

 招待主は一目でわかる。
 
 一人掛けのソファーに端然と腰掛けたその人物は、ロマンスグレーの頭髪を丁寧に分けた老紳士。
 頬に刻まれた年輪の彫り深さはかなりの高齢を告げていたが、背筋はバイオリンの弦をおもわせてピンと伸び、おそろしく姿勢がよい。
 華奢なティーカップを捧げ持ち、紅茶の芳香を上品にたのしんでいるのどかな横顔からは老人が心ゆくまでリラックスしていることが窺える。
 右目に嵌めた単眼鏡は熟成された知性と深い教養を感じさせ、レンズの奥のアイスブルーの目は柔和な光をため、カップの面を見つめていた。
 「テメエの血尿飲んでんのかよ、ジジィ。ずいぶん斬新な健康法じゃねえか」
 老人が顔を上げる。
 片手に受け皿を、片手にカップを持ったまま、おっとりと振り向く。
 扉に凭れて腕を組んでいたのは、スーツ姿の少年ーディアボロだ。
 少年の姿を認めた老人は、目尻に皺を寄せて砕顔する。
 「重畳なり、我が孫よ。一緒に紅茶でもどうかね?」
 優雅なティータイムに土足で踏みこんできたディアボロを、老人はいやな顔ひとつせず歓迎する。
 ディアボロは足音荒く部屋を横切ると、向かいのソファーへどさっと腰を投げ出し、あろうことか卓上に足を乗せる。
 不作法を通り越し侮辱に値するこの傲慢な振る舞いにも、老人は眉をひそめることなくカップに口をつける。
 「わざわざ呼び出しやがってどういう算段だ、ジジィ。ついに代を譲る気になったか?」
 挨拶代わりの挑発をさらりと受け流し、音をたてずに紅茶を啜る。
 受け皿片手に品よく紅茶を啜り続ける老人にしびれを切らし、ディアボロが円卓を蹴る。
 がん!
 円卓が揺れ、手つかずのまま放置されていたディアボロの紅茶が零れる。
 透き通った紅色の液体がテーブルをひたして絨毯に滴る。
 ひっくり返った白磁のティーカップを一瞥、老人はやれやれと嘆息する。
 「まったく、お前には人の心がないの。ただ一人の孫と親交を暖めるため、多忙なスケジュールを割いてティータイムをもうけたワシの心がわからぬのか?」
 「俺のためを思うなら即刻死んでくれよジジィ。死因は問わねえからさ」
 なげかわしげにかぶりを振った老人にもほだされることなく、ディアボロはあっけらかんと言い放つ。
 背後に控えていた護衛が気色ばむのも無理はない。
 いきり立った護衛を「まあまあ」と宥め、老人は正面に向き直る。
 卓上に足を投げ出したディアボロは、据わった目で老人を睨む。
 「腹上死でも心臓発作でもこの際かまわねえからさ。なんならこの場で首括ってくれてもいいぜ?シャンデリアに吊られたジジィのミイラ見ながら優雅にティータイムきめこむのも一興だ。あんたがこの世を去ってくれれば、俺は自動的に血のデミトリ家の当主に昇格。デミトリ家が三代かけて築いてきた旧市街のマーケットとその莫大な利益が、丸ごと懐に転がりこむわけ。老後の心配せずに遊んで暮らせるなんて結構なご身分じゃねえか、なあ?」
 人さし指をまっすぐ老人の胸に向け、続ける。
 「首括る勇気ねえんならひと思いに俺が殺してやろうか。なに、ラクに殺してやるよ。今すぐにでもあんたの心臓を素敵なミンチにしてやる。掃除は後ろに突っ立ってる役立たずの木偶の坊どもにやらせりゃいい」
 「ばあん」と口で銃声を真似、炯炯と目を輝かせるディアボロ。有言実行の脅迫。
 緊迫した空気を破ったのは、老人の間延びした笑い声。
 緊張感のかけらもない顔で紅茶を啜りながら、老人が言う。
 「……ミンチにしてもらいたい相手は、別におる」
 「?」
 ディアボロの顔に疑問符が浮かぶ。
 きょとんとした孫を愉快そうに眺め、空のカップを卓上におく。
 足を組み、膝に掌を被せる。背凭れに上体を沈め一拍おいて本題を切り出す。
 「ディアボロ、お前の初仕事じゃよ」
【Devilish】
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Devilish第二話

(1995/12/30)
 『初仕事』。
 その一言がディアボロに与えた衝撃は相当だ。

 テーブルから足が滑り落ちる。
 毒気をぬかれたディアボロをかっきりと正視、背後へと顎をしゃくる。
 促されるがまま、スーツの内ポケットから一葉の写真をとりだす護衛。
 手元に滑ってきた写真を一瞥、ディアボロが眉をひそめる。
 「名前はダンカン・フォーマシィ。お前の標的じゃ」

 標的。
 背筋に電流が走る。
 
 写真に目を落とす。
 風采の上がらない醜男というのが第一印象。生まれてから不遇一筋、貧乏くじを引きっぱなしといった世を拗ねる風情が卑屈な目つきに滲み出る。
 みずからの不幸の最大の原因が怠慢と無能にあると自覚してもなお一切改善の努力をせず踏ん張って抗いもせず、ひとの親切をつっぱね意固地に我を通し、楽な方へ楽な方へとただひたすら流されてきたくせに文句だけは一人前といったクズの性根が顎のあたりの弛みに表れている。
 人さし指で写真を弾き、ディアボロが訊く。
 「結論、頭に脂肪しか詰まってねえ。こいつなにやったんだ?」
 「正確には、フォーマシィはデミトリ家の人間ではない」
 「?」
 まわりくどい言い回しにディアボロは怪訝な顔をする。
 優雅に足を組んだ老人は好々爺然とした笑みを浮かべ、続ける。
 「フォーマシィは新市街を支配下におくジズ・フィロソフィア……暗黒街の帝王の異名をとる、あの若造の部下じゃよ」
 ディアボロがかん高い口笛を吹く。
 俄然興味が沸いてきたといわんばかりに食いついたディアボロに、老人は苦笑して続ける。
 「部下といっても側近ではない。その下のさらに下の下……麻薬の売買を生業とする末端構成員じゃ。街のチンピラ相手に粗悪品の麻薬を卸しておった」
 「雑魚だな」
 「雑魚じゃな。だがこの雑魚は、網の目をすり抜けられるのが己の卑小さ故とも知らずに大それた過ちを犯した」
 「どんな?」
 「ジズ・フィロソフィアの大事にしている本を盗んだのじゃ」
 ディアボロはあっけにとられ、食い入るように写真を凝視する。
 写真の中で恨み骨髄の仏頂面をしてるのは、すれ違ったそばから忘れてしまいそうな存在感のなさが唯一の特徴である平凡な男。
 ディアボロは口角を釣り上げる。
 「判決。思い上がった豚はローストビーフの刑」
 とりつくしまもない判決を下したディアボロに、老人ーデミトリは小気味よさげに含み笑う。
 手にした写真を厭わしげに振りながら、ディアボロはうろんな目でデミトリを睨む。
 はやく本題に入れといわんばかりに。
 「で。フィロソフィアの飼ってる豚が本パクッてトンズラこいた。だからなんだ?ペットの躾がなってねえのは飼い主の責任だろ。フィロソフィアのインポ野郎が街に犬放って裏切り者の豚を八つ裂きにしようが、網の上でこんがり焼き目をつけて切り売りしようがデミトリ家には関係ねえ。高見の見物きめこんで万々歳。ちがうか?」
 ディアボロはソファーの背凭れに腕をかけ、高飛車に顎を反らす。
 「……つーか、本?本だと?フィロソフィアの奴もなに考えてんだか。これが麻薬1トンや拳銃五千挺なら話はわかる。だが、この豚がパクったのはたかだか本一冊。そうだよなジジィ」
 「ワシはそう聞いておる」
 「いくら下っ端の雑魚に後ろ足で泥かけられたからって、持ち逃げされたのはたかだか本一冊。大の男が目くじらたてるほどのもんか?フィロソフィアもキンタマちっちぇえ男だな」
 釈然としない面持ちのディアボロをちらりと流し見、デミトリは表情を変えずに補足する。
 「そう不思議がるほどのことでもない。熱烈な愛書狂(ビブリオマニア)の中には、欲しい本を手に入れるためなら手段を選ばぬ輩がいる。金に糸目をつけず、非合法な手段を講じても、目的の本を手中におさめたい。一人の人間の命より一冊の本の価値を重んじる連中がこの世界にはいるんじゃよ。フィロソフィアは社交界で有名な古書蒐集家じゃ。古今東西の稀講本を手広く蒐集しているジズ・フィロソフィアのもとから、彼のコレクションに加えられる予定だった本が忽然と消えた。しかも犯人はきゃつと面どおりしたこともない末端構成員。顔も名も知らぬ部下に大事なコレクションを持ち逃げされたフィロソフィアの心中、察するにあまりあるぞい」
 革張りのソファーに深く腰掛けたデミトリは好々爺然とした微笑の下に本心を隠したまま、澄んだアイスブルーの目を孫に向ける。

 デミトリとディアボロに外見上の共通点はない。
 同じ血を分けた孫だというのに、ディアボロの目と髪は生粋の暗黒。
 祖父のデミトリは癖のない銀髪と冬の湖水を映したアイスブルーの目の持ち主である。
 外見も対照的なら第一印象も対照的。
 革張りの椅子に腰掛けたデミトリは紳士然として、ティーカップの扱いから足の組み方に至るまで一挙手一投足に本物の気品が漂う。
 美しい年輪を刻んだ横顔には、豊富な人生経験と深い教養を裏付ける知的な微笑が終始浮かんでいる。
 決して結論を急くことなく、相手の表情を計りながらゆったりしたペースで会話を運ぶ。
 相手に警戒心を抱かせることなく、耳に心地よいトーンで、噛み含めるように滋味に富んだ口調で、ゆっくりと確実に相手を篭絡する。
 そうして相手の心を掌握し外堀を埋め話を自分の有利な方向へと導く手法を、彼は自身の経験則から学んでいた。

 この老人、マルコ・デミトリこそ、旧市街の裏社会を取り仕切る血のデミトリ家の現当主である。

 対するディアボロを語るとすればこの一語に集約される―『野蛮』。
 俗悪一歩手前の高級スーツとワックスでぴかぴかに磨き上げた牛皮製の革靴。
 シャツの胸元を飾るのは葬儀用と見まがう黒いネクタイ。
 スーツの肩から垂らした白い襟巻が靴の上で微かに揺れている。
 格好こそ一人前だが、顔だちはまだあどけない。年は先月ようやく十代半ばに届いたばかり。
 光沢のある黒髪の下にはかっきりと弧を描く凛々しい眉、さらにその下には怜悧な切れ長の目。
 色白の肌に冴え冴えと映える漆黒の髪と目は、この街では稀少な部類に属するエキゾチックな配色。
 細い鼻梁に乗ったカール・ツァイス社製の眼鏡が切れ味鋭い知性を加味しているが、整った顔は品性の卑しさを代弁するが如く下劣に歪められていることが多く、口を開けば辞書には載ってないスラングがマシンガンの勢いで飛び出す。
 皮肉げな角度に捲れた唇は常に人の神経を逆なでし、なまじ顔だちが整っているだけに最悪の第一印象を抱かせる。
 実際、それは偏見ではなく動かしがたい事実である。
 ディアボロ・デミトリにとって、他者は一人の例外なく自分より劣る存在である。
 人の愚劣さを嘲笑うことがディアボロの数ある娯楽の一つであり、人の無能を口汚く罵ることが趣味の一つである。

 ディアボロは剣呑な目で円卓を隔てた祖父をねめつける。
 返答次第で修羅場に発展しそうな殺気を満腔に充満させた孫をデミトリは宥める。
 「関係なくはない。……否、これから関係を作るのじゃ」
 「?」
 断固たる口調に困惑が深まる。
 眉間に縦皺を寄せ、尖った顎先を写真で仰ぐ孫に物問いたげな目で促され、デミトリはしゃんと背筋を伸ばす。  
 「ワシはジズ・フィロソフィアに恩を売りたい」
 デミトリの視線がまっすぐに孫へと向けられる。
 ディアボロの語彙はスラングに限って豊富、品性下劣な言動からは教育水準の低さが窺えるが頭の回転は舌を巻くほど速い。
 今も祖父が言わんとしていることを悟り、すべてを合点した笑みを広げる。
 「つーまーり。フィロソフィアの短小の本を取り返して、利子つけて恩を売る腹か。ジジィは奴の弱味をゲットしてえわけだな」
 「さすがワシの孫じゃ。飲み込みが早い」
 皆まで言わず意を汲んだ孫の利発さを褒めるようにデミトリは微笑する。
 一を聞いて十を知る洞察力は神童とうたわれたデミトリの少年時代を思い起こさせる。
 容姿こそ共通点はないが、二人は確かに濃い血縁関係で結ばれている。
 ディアボロは不作法に足を組むと、右手に掲げた写真を顔の前にもってきてダンカン・フォーマシィとまともに向き合う。
 口を尖らせ、値踏みするようにダンカン・フォーマシィを凝視。
 数呼吸の沈黙の後、孫の顔色を上目遣いに探りながらデミトリが口を開く。
 「フィロソフィアは新市街を勢力下におさめた新興マフィアのドン……暗黒街の帝王と異名をとる侮れぬ男じゃ。お前も知っていると思うが、フィロソフィアカンパニーとデミトリ家はここ数年来抗争を続けている。だが、銃弾のやりとりを言葉のやりとりに変えてこそ得られる収穫もあると考えを改めての」
 「ジジィの説教はいけねえ。ケツに火がついちまうよ」
 ディアボロが低く笑う。暗い愉悦に酔った笑顔。
 青白い殺気を帯びた双眸で正面のデミトリを一瞥、脅迫に近い口調で急かす。
 「言てえことはなんだ?残り少ない寿命が尽きる前に簡潔に話せ」
 威圧的な口調で脅されてもデミトリは動じない。
 組んだ足の上に掌を重ね、物思いに沈むように視線を遠方に馳せる。
 薄氷の目は底知れず深く澄み、笑顔の奥の本心は窺い知れない。
 「……仮にデミトリ家が無傷で本を奪還できたら、フィロソフィアは歓楽街の覇権を譲ってもいい、と申し入れてきた」
 ディアボロはひゅうと口笛を吹く。
 その顔に浮かぶのは変化球の行方を見極めようと手すりから身を乗り出した子供のような好奇心。
 ファイブリィの中心に位置する歓楽街は新市街と旧市街に跨っており、新興の企業マフィア・フロソフィアカンパニーとデミトリ家はどちらが歓楽街の覇権を握るかでここ数年激しく争ってきた。
 歓楽街を手中にすれば莫大な利益がもたらされる。
 カジノや酒場、淫売宿などさまざまな施設の収益を根こそぎ搾り取ることができればおおいに懐が潤うが、それ以外にも重大な意味をもつ。
 現在歓楽街はデミトリ家とフィロソフィアカンパニーが牽制しあってる状態だ。
 旧市街側はデミトリ家の縄張り、新市街側はフィロソフィアカンパニーの縄張りとして両組織が半分ずつを統治しているのだが、もしどちらかが歓楽街全域を支配下におけば、それ即ちファイブリィ全市を支配下におく布石となる。
 市の中央に位置する歓楽街を戦略上の拠点にすれば片方を追い落とすのはわけなく、自分たちの組織の方が実力が上だと広く世間に証明することにもなる。

 ことは組織の面子に関わる一大事なのだ。

 デミトリがなによりマフィアの沽券を重んじることを知っているディアボロは、背凭れに腕をかけてふんぞり返るや、好奇心もあらわに疑問を呈する。
 「おっでれーた。そりゃまたずいぶん気前がよくないか?歓楽街の実入りは莫大な額にのぼる。たった一冊の本と秤にかけるにしちゃまた、分の悪い取引じゃねえか。たとえるなら閉経直前の娼婦と股に毛も生えてねえ処女を交換するようなもんだぜ」
 ざっくばらんにまぜっかえすも、突き出した顔にふと疑念が過ぎる。
 対面の祖父は本心を露呈することなく優雅に微笑している。
 山羊のように柔和な風貌をした祖父に、ディアボロは不信と不審が等量に入り混じった視線を向ける。
 「……裏になにがある?」
 指の又に挟んだ写真を振りながら声のトーンを落として核心をつく。
 デミトリは答えない。
 沈黙を守ったまま、革張りのソファーに腰掛けている。
 眼鏡越しの黒瞳が剃刀の鋭さを帯びる。
 膨張する殺気。
 卓上で衝突する視線が不可視の火花を散らし、背後の護衛は固唾を呑んで祖父と孫とのやりとりを見守る。
 「さあな」
 答えは簡潔だった。
 ディアボロは拍子抜けした。
 脱力した体を背凭れに委ねると、あきれ返った声で反駁する。
 「痴呆症が進んだのか、ジジィ?それともフィロソフィアの野郎に諮られてるのかよ」
 「フィロソフィアの考えていることになど興味がない。ワシが興味あるのはただ一つ」
 デミトリが思わせぶりに言葉を切り、効果的な間をおく。これもまた計算し尽くされた演出の一つだろう。睫毛を伏せる角度、顎の傾げ方一つとってもデミトリは無駄なことをしない。自分の一挙一動が相手にどんな心証をもたらすか、十分に心得て行動に移しているのだ。
 一拍おいて、デミトリは言った。
 聴衆の心を掴むことに成功したカリスマ政治家のように矜持に胸を張り、張りのある声で。
 「我がデミトリ家の発展と、繁栄じゃよ」
 マルコ・デミトリはベテランの役者だ。
 単身舞台に立ち、脚光を浴びることに慣れている。デミトリがそこにいるだけでいかなる場所も劇場になってしまう。観衆の目をひきつけてやまぬ凄まじい吸引力。毅然たる態度で宿願を述べたデミトリの背後では、感銘を受けた護衛たちが頬を震わせている。
 とんだ茶番だ。
 ディアボロははっきりそれとわかるように嘆息する。
 「はいはい、栄えるといーね。で、俺はなにすりゃいいわけ?コイツ殺せばいーの?」
 伝法に言い放ち、行儀悪く足を組替える。
 護衛がいやな顔をする。
 同じ血を分けた孫なのに何故こうも違うのか、と嘆いているようにも見えた。
 デミトリはにっこり微笑んだ。
 「お前に頼みたいのは本の奪還じゃ。手段は問わん、無傷で本を取り返してこい」
 『本の奪還』
 デミトリ家次期当主の初仕事とは思えない内容に肩透かしを食らったディアボロだが、そんな内心はおくびにも出さず、表面上は平静を保って続ける。
 「手段は問わないー……リアリィ?」
 「リアリィ」
 重々しく首肯したデミトリをよそに、ディアボロは席を立つ。
 絨毯に零れた紅茶には一抹の未練なく踵を返し、会釈もせずにデミトリの横を素通りして居間を辞しかけたが、ドアのノブに手をかけたままふと立ち止まる。
 俯いたディアボロ。
 首を垂れているため、その表情は影になっている。
 背中から漂い出しているのは逸る興奮の気配。
 「俺様の初仕事が本の取り立てとはー……」
 ディアボロの肩が震える。
 呼吸にあわせて浮沈する肩を視界におさめ、デミトリは続きを待つ。
 呼吸の間隔が狭まり、肩の浮き沈みが激しくなる。

 ガンッ!

 鈍い音が鼓膜を打つ。
 護衛がぎょっとする。
 デミトリはポーカーフェイスのまま、孫の奇行をどこか楽しげに眺める。
 ガンガンガンガン。
 連続する音。
 渾身の力をこめた拳で扉を殴打するディアボロ。気のせいか、その背中はこの上なく楽しそうだ。
 「いいぜ、最高のチョイスだジジィ。なめた真似してくれるぜ、チンポの枯れた日干しの分際でよ。
  この俺様が本の取り立て係だと?んなもんは図書館の司書に任せろよ。たかが本一冊の為に、この俺が、このディアボロ様が出向けと?」
 振り上げる、振り下ろす、音が鳴る。破砕、破壊、暴力。鼓膜が痺れそうに重たい音、指が折れそうに重たい衝撃。憑かれたように扉を殴り続けるディアボロの唇が弦月の形に割れ、ひび割れた笑声が漏れる。
 笑い声は余韻嫋嫋と部屋中に響き渡り、ついにはどす黒い哄笑となって空気を殷殷と震わせる。
 狂気と狂喜の狭間を振り子のように揺れる、理性の箍が外れた笑い声。
 一際大きな音が響き渡る。
 剥落した木片がパラパラと絨毯に降り積もる。
 靴に積もった木片を振り落とし、ディアボロが顔を上げる。
 「いいぜ、やってやる。犯って姦って殺ってやる。この醜い豚野郎を犯って姦って殺って、腸詰にして美味しく食らってやる」
 ぐしゃりと写真を握り潰す。
 ディアボロの目は燃えていた。
 救いがたい暗さを秘めた、地獄の業火をおもわせる陰惨な炎。やがて宿主の身を灼く破滅の炎だ。
 嬉々とした孫を一瞥、デミトリは訓戒を垂れる。
 「ワシの前で汚い言葉を使うのはやめろ」
 顔をしかめたデミトリを肩越しに振り返り、ディアボロは鼻で笑った。
 憎たらしい顔。
 「この醜い豚の化身の玉門を犯してやりますわ。そうしてソーセージのように縦に裂いてやりますわ。極上の腸詰めにして美味しく頂いてやりますことよ」
 「もういい」
 手を振り、退室を促すデミトリ。
 ノブを回しながらディアボロは舌を出した。
 閉ざした扉の奥からデミトリのため息が聞こえてきたが、幻聴にちがいない。
【Devilish】
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Devilish第三話

(1995/12/29)
 魔がさしたのだ。
 ほんの出来心だったのだ。
 冒頭のように陳腐な言い訳は今時取り調べでも通用しない。
 「ツイてなかったんだよ、俺は……!」
 ダンカン・フォーマシィは追われていた。
 「はあ、はあ、はあ……」
 泥はねのついた革靴がしぶきを上げ水たまりを蹴散らす。
 ズボンの膝あたりまで飛沫がとぶも頓着してるゆとりはない、染み抜きは命拾いしてからで遅くはない。
 今宵の月は満月。
 芝居の書割のような夜空にぽっかり浮かぶ月はのっぺりと白く壁紙の覗き穴を思わせる。
 告解室の仕切り窓?
 いやいや、案外あのむこうは便所かもしれねーぜ。神様が便器におかけなすってるんだ。
 疲れと焦りで憔悴しきった顔を一瞬毒々しい嗤笑が掠めるも、次の瞬間自分がおかれた予断を許さぬ状況に立ち返り笑みが凍る。
 厄介なことになった。
 後悔の念がぎりぎりと胃を締め上げる。
 それでもフォーマシィは足を止めない。
 足を止めたら最後、フォーマシィの息の音も止まるからだ。
 常夜灯が白々照らす舗道に影が長く尾を曳く。
 葬列のように陰気にうなだれた常夜灯にさしかかるたび姿を暴き出される恐怖に苦しむ。
 影は不吉な染みのように、とうの昔に捨て去った良心の残像のように、どんなに速く駆けても離れることなくついてくる。
 足首に縫い付けられた影が重たい。ええい忌々しい。
 しつこくまとわりつく影を振り払おうと発奮、猛然と速度を上げ肺の限界に挑戦する。
 逃亡生活の辛酸を物語るすりへった靴底で石畳を蹴り、夜闇に包まれた街路をあてどなく疾走する。

 ダンカン・フォーマシィがどんな人間かと問われれば、彼を知る人間の殆どが「無能と怠惰が結婚して不運を生み出したような人間」と答える。

 当の本人以外の誰もが納得する非常に的を射た人物評。
 ダンカン・フォーマシィの生い立ち。とりたてて語るほどの事はない。
 道を踏み外したきっかけをしいて挙げるなら六歳の夏、駄菓子屋の店先で親父の目を盗んでキャンディーバーをしめしめと着服し、バレずに味をしめた。以来病み付きになり、十四で盗癖がバレて放校処分になった時にはいっぱしのコソ泥になっていた。覚せい剤ともその頃からの付き合いだ。
 盗みの前は必ずヤクをやってハイになる。
 二度ほど刑務所にぶちこまれたが、二十代の頃まではそんな感じで上手くいった。
 薬の力を借りてだましだまし、小手先頼みのケチな悪党でしかない自分をやれば出来るヤツとおだて持ち上げ生きてきた。
 三十になって急に腕の衰えを感じ始め、長年飯の種にしてきた泥棒家業を引退し、組織に飼われるケチな売人に転身してからは自堕落な生き方に拍車がかかり、酒と薬と女とにどっぷり溺れる生活を送ってきた。それまでは四十五度の傾きだったのが一気に八十度に傾斜し、あっというまに坂道を転がりおち、底辺におっぽりだされた。
 同じような境遇の売人は掃いて捨てるほどいるが、フォーマシィほど度胸のあるーあるいは無謀なー売人はほかにいないだろう。
 なぜなら俺は、あのジズ・フィロソフィア率いる組織に恐れ多くも楯突いたのだから。
 
 『ジズ・フィロソフィア』
 その名を舌の上で転がすたび、背筋に戦慄が走る。

 ジズ・フィロソフィア。
 発展著しい新市街の暗部、裏社会の頂点に君臨する暗黒街の帝王。
 巷に悪名高い血のデミトリ家に拮抗する勢力を十年弱の短期間で築き上げた手腕には、新旧内外のマフィアとて皆一目おいている。
 弱冠三十四歳にして二千人の配下を顎でこきつかう大層な身分。
 財政界にパイプを持ち数多の著名人と懇意にする実業家。
 女性ならばだれもがため息を禁じえない端正なマスクの色男。

 ジズ・フィロソフィアは俺にないものを全てもっている。
 あまりにも不公平じゃないか。

 憎悪に濁った呪詛、胸を灼く嫉妬。
 あの男は全てを持っている。なんでも持っている、富も地位も名声も容姿も。俺にはなにもない。生来容姿には恵まれず女から惚れられたことなど一度もない。地位もない。若い時分の放蕩と怠惰な性根が祟り、流れ流されいつしか麻薬の売人にまで身を堕としていたが、野心に見合うだけの才覚もなく、四十路半ばになるこの年まで組織の雑用としてこき使われてきた。
 金もない。街のチンピラ相手に粗悪品の麻薬を売りさばいてかつかつの収入を得ているが、それだけではとても糊口を凌げない。
 フォーマシィ自身年季の入ったヤク中なのだ。
 麻薬を売って得た金を麻薬を買って使い切る悪循環にフォーマシィは首までどっぷり浸かりきっていた。しかも、麻薬は高い。そこそこ質がよい麻薬を定期的に購入するためには金はいくらあっても足りない。
 「くそっ、」
 口汚く毒づく。
 くそっ、くそっ、くそっ。なんでこんなことになったんだ。
 裏切り者の末路は非を見るより明らか。
 なお悪いことに、自分が裏切った相手はあのジズ・フィロソフィアだ。
 奴の放った猟犬に見つかったらどんな制裁を加えられるか……想像したくもない。
 思えばこいつが諸悪の根源なのだ。
 フォーマシィは忌々しげに小脇に抱えたものを一瞥する。

 それは、一冊の本。

 骨董品としての価値さえありそうな、格調高い革の装丁の古書。
 こうして小脇に手挟んでいても、歴史を感じさせるずっしりした手ごたえが伝わってくる。
 モロッコ特産の山羊のなめし革を張った表紙の中心には自然界における芸術、完全無欠の黄金比で構成された五芒星が刻印されてる。
 美しい図形の代表格とされる五芒星が刻印された本を抱え、フォーマシィは夜道をひた走る。
 この星に何の意味があるかはわからない。
 わからないが一目見た瞬間、「こいつは金になる」と直感した。
 がめつさにかけては天下一品のフォーマシィーは、それが運命の分かれ道だと気付きもせず魅入られるがまま本を手に取っていた。

 きっかけは全くの偶然だった。

 古書の蒐集が趣味のジズ・フィロソフィアが長年捜し求める一冊の本の事は、フォーマシィも風の噂で知っていた。
 まず、めっぽう古いというだけで価値が生じる。
 本の誕生はグーテンベルクが活版印刷を発明する15世紀以前、最低でも八百年前に遡ると見なされ、現存する肉筆の本の中では間違いなく最古の部類に入る。
 肝心の内容については千差万別の憶測が乱れ飛び、今なお尽きせぬ議論の的となっている。
 とある艶福家はアラビアの後宮の日常を綴ったカーマ・ストラの流れを汲む猥本と主張し、さる無神論者はイエス・キリストの奇跡のタネを暴いた奇術の手引書と言い、とある戦史家は焚書を免れたヒトラーの遺産と吹聴する。
 いずれもオカルトめいた噂が付き纏い、迷信俗説のたぐいが紛糾してることからも、まともな本じゃないのは確か。
 現物に接したものが極少であり、伝説だけが独り歩きする状態がもう一世紀以上続いているが、この本を手に入れるためなら家財をなげうってもいいという熱烈な愛書狂は今だに後を絶たない。
 作者不詳でタイトルも不明。
 運命を狂わし身を滅ぼすと囁かれる禁断の本さえ陳列棚に加えんとする愛書狂という人種の業深さには呆れるしかない。
 以上の怪奇な経緯を下請けの下っ端のフォーマシィは当然知るべくもない。
 その本が遥か異国の地で見付かったと針の先の手がかりをたよりに現地に派遣した部下から連絡が入ったのが一ヶ月前、フォーマシィーとの出会いは今から二週間前に遡る。

 荷下ろしの作業は深夜、秘密裏に行われた。
 荷下ろしの作業に借り出されるのは決まってピラミッドの底辺の末端構成員…つまりフォーマシィは、数多いる人足の一人として召集をかけられたのだ。
 貨物船で運ばれてきたのは本だけではない。
 おが屑を敷いた木箱に入っているのは外国から密輸された拳銃で、これを裏で捌いて組織の資金源とする。
 木箱プラス拳銃数百挺を往復で運ぶきつい仕事と腰の痛みに夜通し耐えて得られるのはわずかな賃金のみという不法就労の外国人さえ真っ青な労働環境で、ちゃきちゃき精を出して働くのはマゾヒストだけ。フォーマシィーが気乗りしないのもむべなるかな。
 「ボスご所望の大事なブツだ。世界に一冊しかねえ貴重な本で、オークションにかけりゃ億の値が付くとさ。丁重に扱えよ」
 「そんなに大事な物ならどうしてボスじきじきに立ちあわねーんだよ」
 一人が抗議の声を上げれば、そうだそうだそのとおりと尻馬にのってまわりが追従する。
 見張りを仰せつかった黒背広は、しばらくやる気なさそうに紫煙をくゆらせていたが、ぶつくさ文句を垂れ始めた一同ににやけた笑みを向ける。
 「下っ端の知ったことか。けどな、特別に教えてやる。いいか?ボスはな、お忙しい身の上なんだ。今夜はどうしても抜けられない会合がおありなんだとさ。今頃はお前らが一生かかっても泊まれねえ高級ホテルで、お前らが一生お目にかかれねえ雲の上の方々と、極上のワインと料理に舌鼓みを打ってる頃さ。知ってるか?ボスが履いてる靴はお前らが一月で稼ぐ金と同じなんだぜ。ったく世知辛い世の中だよなあ」
 吸いさしの煙草を弾き、見張りが皮肉る。
 「お前らじゃ警備員に叩き出される前に回転ドアに激突してぶっ倒れるのが関の山、一流ホテルのパーティーなんぞにゃ生涯無縁だろうな。失業したら靴磨きに雇ってもらえよ、うまくすりゃボスが哀れみをおかけなすってパーティー料理をタッパーに詰めて持ち帰るのを許してくれるかもしれねーぜ」
 馬鹿にしきった哄笑を上げながら立ち去る見張りの背に、轟々と非難が飛ぶ。
 「ボスの威をかる三下のくせに威張り散らしてんじゃねーよ、お前だって似たりよったりのチンピラだろうが!」
 「いつ首切られるかわかんねーのはお互い様だろ!」
 「タッパーにお前の指詰めて女のとこに送りつけてやっからな!」
 憤激した仲間が貧困な語彙を総ざらいして罵声を浴びせる中、フォーマシィーは一人離れ、憤然と木箱に歩み寄る。 

 畜生、言いたい放題いいやがって。
 自分だって下っ端のくせに、背広着てるってだけでそんなに偉いのかよ。

 罵声の輪に加わらず一人作業を再開したのは、とにかく一刻も早くこのくだらない仕事を終えて家に帰りたかったからだ。
 情婦の柔肌が恋しい。眠りたい。しこたま酒を飲んで酔っ払いたい気分。
 フォーマシィーは半ば自棄となり、すわスト勃発かと気勢を上げる連中のロスを逆手にとり、自分が受け持つ分をてきぱき片付けて一抜けすると決意する。

 勝手にやってろ。
 お前らがぶーぶー言ってる間に俺はとっとと山を片しておさらばだ。
 せいぜいてめえの要領の悪さを恨むんだな。

 不機嫌に口を引き結び、足腰を踏ん張る。
 両手に力を込め関税の偽装テープが貼られた木箱を抱え上げる。
 カタン。
 やけに軽い。
 猪首を回し、戦々恐々と背後を窺う。
 監視役の男はえっちらおっちらと木箱を運ぶ人足に偉そうに指示をとばしている。
 胸の内でむずむずと好奇心が萌芽する。
 自分が運んでいるものが何なのか無性に知りたくなる。
 ジズ・フィロソフィアご執心の本、海を隔てた異国の地より御輿にのってやってきた本を一目見たい欲求が膨らむ。
 だいたい不公平じゃねえか。夜遅くまでこきつかわれたあげく、自分が運んでるものさえ知らずに帰されるなんてよ。くわえ煙草で威張り散らす監視役への反発が頭をもたげ、フォーマシィーは生唾を飲む。
 
 ちょっと盗み見るくらいなら、いいよな。

 頭の中で箱を運び入れる場所を復唱する。
 拳銃の詰まった他の木箱は埠頭に停まってるトラックの荷台に詰まれる予定だが、この本だけは高級車でお出迎えの特別待遇。
 ちらりと目を上げる。
 闇を透かして向こうを見る。
 埠頭に面した倉庫の前に黒塗りのベンツが数台停まっている。
 組織がさしむけた監視員の車。
 この本はあそこに運び込まれる予定だ。しかもトランクではなく後部シートのど真ん中に厳かに鎮座ましまし、その左右を腕利きの護衛ががっちり固める大統領並のVIP待遇である。

 ますます気に入らねえ。
 ベンツなんて俺だって乗ったことねえのに、無機物の分際で生意気な。
 
 謎は深まる。
 好奇心が激しく騒ぎ立てる。
 いわくつきの本をどうしても一目見たいと憑かれたような欲望が燃え上がる。
 幸い監視員はそっぽを向いて仲間と談笑している。
 今ならバレねえ。
 ベンツまで約五十歩の道のり、監視員に背を向けた瞬間がチャンス。
 後ろ暗いスリルと快感が背筋を毛羽立たせる。
 監視員の鼻をあかすところを想像し優越感に浸る。
 木箱を持って通り過ぎるふりをし、用心深く監視員の動向をうかがう。
 相棒がイケてるジョークをとばしたらしく大口かっぴろげて馬鹿笑いする姿に虐げられた怒りが募る。 奥歯の銀冠光る笑いはまるでフォーマシィを嘲笑っているようで、木箱を抱く手に力がこもる。
 蓋の四隅は釘で打ち付けられている。
 五十歩の距離間に羽目板をこじ開けるのは骨が折れる。 
 板の隙間に目をあてがい何とか中を覗けないかと試みる。
 板と板の隙間のか細い暗がりに目を凝らす。
 目張りされた闇の中心にうっすらと浮かび上がる、霊妙なる神秘と叡智を内包した摩訶不思議な図形。
 あれはー……

 乾いた銃声が炸裂する。
 「!なんだ、何がおきた!?」
 「チンピラどもの襲撃だ!」
 錯綜する怒声と罵声に混じるのは、かん高い銃声と雪崩れのような足音。
 フォーマシィはうろたえる。
 倉庫の方角から闇に乗じて襲撃を仕掛けてきたのは、組織と反目するチンピラの一党。
 新市街の大半はジズ・フィロソフィアの勢力圏であるとはいえ、フィロソフィアの台頭を快く思わぬ連中は大勢いる。荷下ろしの日取りを嗅ぎつけ奇襲を仕掛けてきたのも、おおかたそんな敵対勢力のひとつだろう。
 「くそっ、なんでバレてんだ!?」
 「まさか内部に裏切り者が……」
 「ボスに報告だ!」
 「今はそれどころじゃねえだろう!」
 「右、右に回れ!やつらは倉庫の影から撃ってきてる、ぐるっと回り込んで挟み撃ちだ!」
 「正面の倉庫の影に二人、クレーンの陰に一人……ちっ、ぞろぞろ沸いてきやがる!」
 完全に不意をつかれ指揮系統が混乱、監視役の顔から余裕が拭い去られ焦燥と激昂が取り代わる。流れ弾を食らってはたまらないと木箱を放り出して遁走する雑役夫をよそに、全く唐突に銃撃戦の火蓋は切って落とされる。
 場慣れした黒服が迅速に懐から銃を抜き発砲、応戦。
 殺気だった靴音に罵声と悲鳴が被さる。ちょうどフォーマシィーの横、肩が触れる距離にぼけっと突っ立ってた雑役夫の胸を弾丸が貫通する。
 心臓が爆ぜ、勢い良く噴出した血がフォーマシィーの顔にかかる。
 手の中で衝撃と爆音が爆ぜる。
 「ひぇぐっ……」
 落下と着弾は同時。
 二重の衝撃で蓋が弾け、木片が飛び散る。
 たった今フォーマシィーの隣の男を射殺したのと同一人物が、今度はフォーマシィーのもつ木箱を撃ち抜いたのだ。
 木箱の中、防弾ケースを被せて密封されていたのは一冊の本。
 破砕した木箱から滑り出した本の運命を終わりまで見届けず、抜けかけた腰に鞭打ち、地べたに這い蹲ってフォーマシィーは逃走する。
 巻き込まれちゃたまらねえ。
 裏社会の組織に籍をおいているが、運動音痴のフォーマシィはからきし荒事が苦手なのだ。
 低賃金でこきつかわれていた雑役夫がおのおの荷物を放り出し木挽き台を蹴倒し、てんでばらばらな方角へ悲鳴を発し逃げ惑う。うちいくつかが断末魔に変わり、流れ弾を喰らったツイてない奴らがばたばた倒れていく。
 人間ドミノ倒し。
 あっけない最期。
 さっきまで共に働いていた仲間が、監視役の暴言にいきりたって拳を振り上げた熱血漢が、頭の右上を吹っ飛ばされもんどりうって転がる。 
 倉庫の影から続けて発砲してくる姿の見えぬ敵を包囲網に追い込もうと、右回り左回り二手に分かれ展開する生き残りの黒服たち。
 コンクリートの波止場に血の海が広がっていく。
 恐怖の絶頂で錯乱に駆り立てられた生き残りがまた一人また一人流れ弾に当たり減っていき、足元には木箱の残骸と中身と人体の一部分とがごっちゃに散らばり地獄の台所の惨状を呈する。
 フォーマシィーは逃げる。
 無秩序に走り回る仲間の後ろ襟を引き戻し盾にし足をひっかけ転ばせ、追い抜き追い越しの熾烈な生き残り競争の勝者たらんと姑息な知恵をしぼり卑怯な手を使い、飛び交う銃弾を頭を低めかわし、地べたを這い、転がり、跳ね起き、累々たる屍を越えていく。
 「おりゃあごめんだぜ、こんな割にあわねえ仕事の最中にくっだらねえ撃ち合いの巻き添えで死ぬなんてよ!死ぬならてめえら勝手に死にな!」
 銃撃戦も佳境に入る。
 おが屑を燻したようなコルダイト火薬独特のきな臭い匂いが濃く漂う。
 銃弾が肩を掠め熱を感じる。
 「ぎっ、」
 血糊で足が滑る。
 顔面から突っ伏し鼻っ柱を痛打、濁流の如く血が噴き出す。
 激痛にうめきつつ鈍重な動作で鼻血まみれの顔を上げる。
 顔面を片手で覆うフォーマシィーの霞む視界に異様なものが映りこむ。
 あたり一面にぶち撒けられた木片とざらつく硝子の破片、死んだ仲間の体から流れ出す大量の血の海に、それはぽつねんと放置されていた。
 本。
 血染めの本が淡く光る。
 「な…………!?」
 燐をまぶしたように青白く、神々しく、幻想的な光の粒子を舞い上げる。
 ほんのかすかな光。目の錯覚を疑うほどの。
 
 心筋の働きに似て緩慢に膨張する光は、まるでー……

 『生 キ テ イ ル カ ノ ヨ ウ ダ』

 咄嗟に本を拾い上げる。
 パン!
 「!?ひっ、」
 一向に止まぬ銃声に鞭打たれ、脇目もふらずに駆け出す。
 両手にひしと本を抱きしめたまま。
 「はあ、とんだ目にあったぜ……」
 他の人足に紛れて波止場を抜けたフォーマシィは、銃声の聞こえない倉庫裏に身を潜め己の不運を嘆じた。
 銃撃戦の行われている場所からは十分離れているし、ここなら安全だろう。
 絶体絶命の窮地を脱して人心地ついたフォーマシィは、自分が後生大事に胸に抱きしめているものに気付いてハッとする。銃撃戦のどさくさで持ち逃げしてしまったが、元より読書の習慣がないフォーマシィが古書など持っていても無用の長物でしかない。活字を読むと眠くなる体質なのだ。
 「それに、この本開かねえじゃん」
 失念していた。
 無我夢中で本を拾い上げた時は気づかなかったが、フォーマシィが手にした本は錆びた蝶番で固定されていた。鍵はさっき、箱を落とした地点においてきちまったのか?最初からなかった?
 なにやってんだ、俺は。
 本の処遇に悩みため息を吐く。
 疫病神を疎んじる目で腕の中の本を覗きこんだフォーマシィの脳裏に名案が浮かぶ。
 監視役は本をさして「大事なブツ」だと言った。
 クソ忌々しいことに「丁重に扱え」とこの俺に命じやがった。
 ということは、この本にゃ大枚に換算できる値打ちがあるんじゃねえか?
 フォーマシィはまじまじと本を見る。
 ボロはボロだが、高価そうな本だ。
 古びた背皮といいいわくありげな五亡星の意匠といい、歴史の重みを感じさせる高尚な佇まいは神々しいオーラを放つ。

 ごくりと生唾を飲む。
 勝手に指が震える。
 馨しい光輝匂い立つ本に魂を奪われ、理性の判断が狂う。

 古書店にもちこめばいい金になる。
 ふれこみを誇張し強調すれば、貴族の物好きが大枚積んで欲しがるかもしれない。

 フォーマシィの惰弱な心は早くも悪魔の誘惑に傾きかけていた。
 制裁は怖いが要はバレなければいいのだ。
 銃撃戦の最中、命のとりあいをする極限状況下ではだれもフォーマシィに注目してなかった。
 あの場から本が消えたとしたら木箱ごと海に落ちたと考えるのが妥当で、現場から散り散りに逃げ出した下っ端のひとりが大胆にもボスご所望の品を着服したとは夢にも思わないだろう。
 希望が多分に入り混じった楽観的観測でありったけの勇気を鼓舞する。
 「……だれも見てなかったんだ。バレるわきゃねえよな」
 フォーマシィは追い詰められていた。
 喉から手が出るほど金が欲しかった。
 薬が尽きた時の禁断症状を思うと背中がびっしょりと汗をかく。
 腕の血管の中を虫がうぞうぞと這いずり回る幻覚に悩まされるのたまらない。
 静脈が突如線虫に豹変し内側から体を蚕食し始めると思うと、あまりのおぞましさに吐き気をもよおす。

 本を売れば金が手に入る。
 薬が買える。
 ジズ・フィロソフィアに一泡噴かせられる。

 喉から手が出るほど欲していた本を下っ端構成員に横取りされ、悔しさに地団駄踏むジズ・フィロソフィアを思い浮かべ、フォーマシィはこの上なく暗く楽しそうにほくそえむ。
 破滅への第一歩だとも知らずに。

 事態はフォーマシィの予想を遥かに超える速さで展開した。
 古書店に持ち込むより追っ手がかかるほうが早く、ダンカン・フォーマシィはボス寵愛の品を横取りした裏切り者として組織に手配され、ヤサを追われた。
 命からがらねぐらにしている安アパートを後にし、逃亡生活を余儀なくされること二週間。
 溝鼠のように路地の暗がりから暗がりへ、あるいはマンホール下の廃墟と化した旧下水道へと逃げ場を転々とし、血気盛んな追っ手を巻く生活に精も根も尽き果てた。
 こうして生き延びているのは奇跡に近い。
 今日に至るまでの二週間、間一髪危ういところを逃げ延びてこれたのは信号で三つ続いて青を引き当てるような偶然と幸運、プロのコソ泥として鳴らした時分の土地勘とが味方したからだ。
 もしくはフォーマシィーのゴキブリ並みにしぶとい生命力がなせる技か。

 これからどうすりゃいい。

 一生分の悪運を使い果たしたフォーマシィーは悶々と苦悩する。
 頼れる友人知人も帰る家もない。
 十年来ねぐらにしていた安アパートは組織の息のかかったチンピラに押さえられ、命からがら辿り着いた愛人宅ではけんもほろろに門前払いを食った。
 所詮は金の切れ目が縁の切れ目、別れの言葉はたった二音節。
 「しっしっ」
 犬かよ俺は。
 実際人生は犬のクソが散らばった道みてえなもんだ、どっちに行っても滑りやがる。
 新市街の隅々にまで根を張り巡らせた組織を敵に回し孤独な逃避行を続けるフォーマシィの疲労は心身ともに極限に達していた。
 首の薄皮一枚越しに死神の鎌の切っ先を突きつけられているようなちりちりした感覚。
 夜もふけた街角には客を引く娼婦の姿も泥酔した浮浪者の姿もない。
 終末が訪れた後の世界のように静寂が浸透した路地裏を駆けながら、フォーマシィは何度目かわからぬ舌打ちをする。
 小脇に抱えた本が重い。腕に食い込む重みが疎ましく煩わしい。
 この本のおかげで俺は裏切り者として追われることになったのだ。
 疫病神め、いっそさっぱり手を切ってやろうか。
 あの時はどうかしていた、なんだってばれずにすむと思ったんだか…本を目にした瞬間、精神状態に訪れた恍惚を何と説明すればいい?「魂を奪われた」という手垢のついた表現がぴたり当てはまる。
 催眠術にでもかけられたように模糊たる靄が思考野にかかって、抗い難い力に導かれ戦々恐々手を伸ばしていた。
 魔性の誘惑に抗いきるにはフォーマシィーの意志はあまりに弱く、見えざる触手を伸ばしくる何者かをはねつける力を持たなかった。

 本当に静かな夜だ。
 今にも心臓が破けそうなほど突っ走りつつ、奇妙に冷めた頭の片隅で漠然と考える。
 境界線を越えた途端街の様子はがらりと変わる。
 摩天楼が聳える近代的な新市街とは違い、古き良き下町といった風情の旧市街には戒厳令下のように厳粛な静けさがたゆとい、懐旧誘う石造りの家々が月の光を浴びてひっそり横たわっている。
 煉瓦と石畳と運河の街。
 フォーマシィーが一心不乱に駆け抜けるこのあたりは、もともと隣接した工場街で働く労働者の為に設けられた居住区だったが、第二次産業から第三次産業へと主幹が推移した現代では住民もほとんど立ち退いてしまい、半ばゴーストタウンと化している。
 歓楽街のネオンと喧騒もここには届かない。
 フォーマシィーは荒廃した工場街のほうへと向かう。
 煤けた煙突の群れを目印にいくつか角を曲がり雑多に込み入った道を抜け、人けのないほうへ人けのないほうへとただひたすらに、迷宮入りの袋小路を狂奔し本能的に逃げ場をもとめー……
 「いたぞ!!」
 路地の角から突然飛び出してきた黒い影。
 ぎょっとたたらを踏む。
 フォーマシィを射程距離圏内におさめる一、二、三……四つの銃口。
 黒いコートを羽織った凶悪な人相の男たちが四人、退路を塞ぐように半円の陣を敷き、行く手に立ちはだかる。
 
 先回りされた。

 脳裏で赤信号が点滅し警鐘が鳴り響く。
 夜が暴かれ、空襲が始まる。
 「裏切り者め!」
 暗い路地に銃声が響き、フォーマシィは石畳を蹴り加速し一心不乱に駆け出す。
 策はない、ただひたすら逃げる。胴体とアンバランスな短足を必死で操り石畳を夢中で叩き、収縮する肺が心臓を押し上げ、全身に二酸化炭素と沸騰する血液とを送り出すのを感じながら頓死を予言された道化のように遁走する。
 銃声が連続し、銃火が闇を切り裂く。
 きな臭い硝煙が鼻孔忍び込む。フォーマシィは走った。策も何もなくただ走った。
 「ぎゅわっ!」
 頭蓋骨を揺さぶる轟音と灼熱感。耳朶が焼けるように熱い。
 足を縺れさせ無様に転倒。
 石畳に膝を屈し、おそるおそる右耳へ手をやる。
 ぬるり。
 生温かい血のぬめりが掌に流れ、開いた口腔から豚の断末魔によく似た絶叫が迸る。
 耳を押さえた掌はべったりと血に染まっていた。
 爪の隙間に流れ込んだ血が膝へと滴り、石畳を斑に染めてゆく。
 ボタ、ボタ。
 赤い雨滴が降り注ぐ。
 激痛にかすんだ視界の端を赤い肉片が掠める。
 背後から発射された弾丸に吹っ飛ばされたフォーマシィの耳朶の残骸。
 「ふぉ、ふぉ……」
 塩辛い涙がしとどに顔を濡らす。
 嗚咽を堪えて立ち上がる。
 膝がくじける。
 逃げなければ逃げなければ逃げなければ。
 こけつまろびつ走り出す。
 足がもつれ上体が頼りなくぐらつき、地面が遠くなり近くなりを繰り返す。
 小脇に抱えた本をぎゅっと握り締める。
 じっとりと掌が汗ばむ。
 石畳の路地では音がよく響く。
 あちこちで銃声が聞こえ遠く近く怒号が飛び交い、西へ東へ南へと殺気だった靴音が駆け回る。
 右耳が燃えるように疼く。
 焼き鏝を押し付けられたような激痛に頭が煮える。
 くそっ、くそっ、くそっ……なんだって俺がこんな目に、たかが本一冊であんまりじゃねえか!
 おのれの運の悪さを呪いながら路地を抜け、身を隠す場所をさがして縋るようにあたりを見回す。
 一縷の希望にすがり、敵から逃れたい一心で必然銃声と足音がしない唯一の方角にむかう。
 向こうの路地を忙しく行き交う男達のヒステリックな怒鳴り声、いたか、いねえ、どこいきやがった、ずたずたにしてやる……人が増えた。合流したのか?
 四面楚歌ならぬ三面楚歌。
 出口は一方向に限定される。
 目に涙が浮かぶ。
 しょっぱい水が鉄くさい血と溶け混じりしとどに顔をぬらす。
 石畳にぼたぼた血が垂れる。
 石畳を染めるどす黒い血痕を靴裏でこそげ落とし気息奄々よろばい歩く。

 暗澹たる未来に一条の光明がさす。

 路地を抜けた正面に倉庫がある。
 入り口のシャッターは開きっぱなしだ。

 しめた!

 涙と鼻水で地崩れを起こした顔で、弛んだ頬肉を狂喜に波打たせ、滑車を回すハムスターのように短い足を遮二無二繰り出し、尻からジェット気流を噴射する勢いでまっしぐらに倉庫をめざす。
 もうすぐそこだ。
 中に飛び込むなりシャッターを下ろしゃ時間を稼げる、そのあいだに裏口から逃げ出しゃいい。
 楽観的な見通しの上に走り続けるフォーマシィーだが、倉庫が近付くにつれその目に疑問の色と怪訝な表情が浮かぶ。
 コンクリートで固めた前庭にゴムが焦げる臭気さえ漂ってきそうな生々しさで真新しいタイヤ痕が刷り込まれている。
 よほど運転手のハンドル捌きが荒いと見え、大胆に湾曲した軌跡を描いてコンクリートを蹂躙し尽くすタイヤ痕の延長線上に一台の車が斜めに傾いで停まっている。
 黒塗りのボディが迷彩の役目を果たしていたため間近に迫るまで気付かなかった。
 廃れた工場街にはどうにも場違いなその車は、光沢控えめのサテン・クロムとより透明感のある光沢に仕上げたブルー・クロムを採用し天鵞絨の黒に輝くロールス・ロイス。
 最低五千万は下らない高級車。

 客待ちのタクシーにしちゃえれえ洒落てるじゃねえか。

 フォーマシィの眼球が驚きに迫り出す。
 車のボンネットに人が座っている。
 目を凝らす。
 小柄な背格好は年端もいかない少年のそれ。
 線の細い肩と薄い背中が夜目にもはっきりと浮かび上がる。
 手足はすらりとしている。無駄な贅肉の一切ないスリムな体躯を際立たせるのは体にぴったりフィットした仕立ての良いスーツ。スーツの肩にひっかけた白いマフラーが夜風に優雅になびいている。
 
 ガキのくせに生意気な格好しやがって。

 命の危機に瀕しているというのに、フォーマシィは初対面の少年に呑気な怒りを覚える。
 夜風にマフラーをなぶらせた少年は、キザな角度に顎を傾げて夜空を仰いでいる。
 この距離からでは細部の造作まで視認できないが、どのみちこまっしゃくれた面をしてるに決まってる。
 こんな夜更けに出歩いてるなんてとんだ不良だ。ガキはクソして寝ろってんだ。
 逆恨みに近い感情に駆り立てられ、フォーマシィは憤然と地を蹴る。
 車が迫る。少年の後姿が迫る。
 フォーマシィの耳朶を歌が掠める。
 歌?
 
 「Baa Baa blak sheep……」

 夜風に乗じて流れてくるのは、歌だ。
 フォーマシィも知っている古い童謡。

 「Baa Baa blak sheep, have you any well」

 だれもが子供の頃に歌った他愛もない戯れ唄、だれもが子供の頃に親しんだ懐かしいわらべ歌。
 ボンネットの王座に腰掛けた少年は雲間の月を見上げたまま、涼しい夜風に吹かれて気持ちよさそうに歌を口ずさんでいる。
 壊れたハーモニカを彷彿とさせる音程の外れた歌が、連綿と闇に流れる。

 「Yeser Yeser, full bags hill……」

 雲が晴れ、斜めに降り注いだ月光が冴え冴えと少年の素顔を暴く。
 フォーマシィは目を見張る。
 眼前の闇に浮かび上がったのは、悪魔のように美しい少年だ。
 細身のスーツを一分の隙なく着こなし、ボンネットから垂らした足を揺らして拍子をとる。
 
 歌が止む。

 鼓膜に静寂が浸透するのを待ち、少年がゆっくりと振り向く。
 
 繊細な鼻梁にのった眼鏡がぎらりと月光を弾く。 
 「ようこそラム肉、ブラック・シープ。歓迎するぜ我らがマトン。火炙り挽肉なんでもござれ、お気に召すまま召しませってな」
 にっこり微笑んだ少年を仰ぎ、フォーマシィは慄然と立ち竦む。
 フォーマシィは少年の背に黒翼がないかと疑ったが、どんなに目を凝らしても肩甲骨から生えた翼は見分けられなかった。
 信じがたいことに、この少年は人間らしい。
 「よっと」
 反動をつけてボンネットからとびおりる。
 靴底が地面に着地し、硬質に澄んだ音をたてる。
 悠長な所作で膝を払い、上目遣いにフォーマシィの表情を探る。
 底光りする双眸に射竦められ、寿命が縮む。
 すり足であとじさるフォーマシィと対峙し、無造作に一歩を詰める。
 手首一閃、背広の懐から一葉の写真を取り出す。
 掌中の写真と眼前の男をしげしげと見比べる。
 少年の手に掲げられた写真にフォーマシィが顔色を変える。緩慢に正面を向いた少年が、ぞんざいな口調で尋ねる。
 「てめえだな、ダンカン・フォーマシィってのは」
 「!?な、なんで俺の名前を……」
 「仕事だからさ」
 フォーマシィの動揺を鼻で笑い、少年は続ける。 
 「短足の豚のくせに逃げ足だけは速えな、巻きじっぽが焦げ付いたからにゃ愚図愚図もしてられねえってか。だがな、お前の考えてることなんざお見通しだ。新市街の王様ジズ・フィロソフィアがおいぼれジジィに分の悪い取引持ちかけたのは、デミトリ家のが土地鑑と機動力に優れてるからだ。旧市街はデミトリ家の庭だ。新市街に居場所をなくしたお前が旧市街に越境してくるのは時間の問題だった。となれば簡単。俺はトンマな豚が逃げ込みそうな藁床をリストアップして張っときゃいい。例えば、そうー…地理的にも新市街に近く、夜にはすっからかんになっちまう工場街の入り口とかな」
 両手をヒラヒラさせつつくくっと笑った少年に、怒り心頭に発したフォーマシィが詰め寄る。
 「ガキ、一体何者だ!?」
 組織がさしむけた追っ手にしては年が若すぎる。せいぜい十代半ばではないか。
 こんなガキに裏切り者の始末を命じるほどボスは惚けてないはずだ。
 ツラにゃ見覚えねえ。
 面識は一度もないにもかかわらず、相手は自分のことをよく知っているようだ。
 
 薄気味わりい。
 
 得体の知れない少年はズボンのポケットに指をひっかけたまま、おどけたしぐさで肩を竦めてみせた。
 「これから脂肪の塊になる豚に教えてやるのも癪だがまあいい、餞別だ。俺様の最高にイカした名前を知っときゃ地獄の第一関門も顔パスで通過できるぜ、有難く思え」
 少年は無造作に足を繰り出す。
 一歩、また一歩。
 大股に歩み寄ってくる少年、全身から漂い出しているのは血と硝煙の匂い。
 一挙手一投足ごとに膨張する殺気と途方もない威圧感に気圧され、フォーマシィがあとじさる。
 ピンと写真を弾いた右手が弧を描いて顔前に戻ってきた時、その掌中に在ったのは見間違えようもない…拳銃。
 背広に手が滑り込む瞬間すら肉眼ではとらえられなかった。
 五指に握りこまれた拳銃は手入れを欠かさずによく使い込まれていると見え、銀粉を噴いたようにメタリックに輝いていた。
 「俺様は『悪魔』ー……」
 指揮者のタクト捌きを思わせる動作で月下に片腕を掲げる。 
 引き金に指をかける。
 月に向かい伸ばした腕の先に銃を握り、引き金を絞る。
 「ディアボロ・デミトリ……血のデミトリ家の四代目だ」
 乾いた銃声が炸裂する。
 路面に穿たれたマンホールがごとりと持ち上がりドラム缶の後ろから機敏に影が躍り出て倉庫の裏手から靴音が雪崩れ込む。
 駐車場に潜伏していた配下がフォーマシィを中心に輪を描いて出揃い尽くすのを待ち、悪魔は言う。
 「罠にかかったんだよ、お前は」
 配下が道を空ける。大股に歩む。
 フォーマシィの顔に理解不能といった色が浮かぶ。 
 「西・東・南、三方位からひっきりなしに響く銃声に追い立てられたお前は工場街の北をめざした。ここにくりゃ安全だと思ってな。ところがどっこいご覧のとおり、出口は入り口天国は地獄。びびりまくったお前なら、必ずこっちに来ると思ったのさ」
 仕組まれていた。
 フォーマシィーがここへ逃げ込むのは予めお見通しだった。
 三方向から聞こえてきた足音と人声と銃声は少年の指示により工場街に散らばった部下の陽動。彼らはフォーマシィを追い込むため道向こうに展開した上でじわじわと恐怖を煽り包囲網を狭めてゆき、えものを自発的に死地へと誘ったのだ。
 地の利と機動力の強みを最大限発揮した作戦を指揮した少年は、フォーマシィの胸に銃口を定め、もう片方の手で耳をほじりながら退屈そうに尋ねる。
 「ウェルダン?ミディアム?レア?」
 ああ、神様。
 これが究極の選択ってやつか?畜生。 
【Devilish】
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Devilish第四話

(1995/12/28)
 前後両方からの銃撃をフォーマシィは横跳びに身を投げ出し回避。
 ディアボロが放った銃弾は最前までフォーマシィの心臓があった位置を撃ち抜き、後方から放たれた弾丸は火花を散らし足元を抉る。
 「おお、バンジージャンプ」
 舌打ちがてら快活な笑顔を浮かべるディアボロにフォーマシィは絶句する。
 たった今引き金を引いたばかりのその笑顔が年相応に子供っぽかったからだ。
 人一人撃ち損じたにもかかわらずパチンコの的を外したのと同等の落胆しか抱いてないイカれたガキにフォーマシィは恐怖する。
 「ひえええええええええっ!」
 もはや一刻の猶予もない。
 耳に蓋をし、銃声に背を向け走り出す。
 あたふた慌てふためき開けっ放しのシャッターから工場内へと逃げ込んだ獲物を一瞥、別働でフォーマシィを追ってきた男たちに向き直る。
 「フィロソフィアの犬どもか?邪魔すんなよ、いいとこなのに」
 「デミトリ家の連中か?フォーマシィを追い込んでくれて助かった、あとは俺たちが……」
 駐車場に駆け込んできた男達の筆頭、額に傷のある中年男の下顎が炸裂する。即死。
 協力者のはずのデミトリ家が害意なく歩み寄りかけた男に凶弾を放ち、あっけなく命を奪う場面を目撃し、追っ手が凍りつく。
 銃口から上る硝煙をふっとひと吹きするディアボロを起因に動揺が伝染、側近が苦言を呈す。 
 「ディアボロ様、デミトリ老のお言葉をお忘れですか?今回の任にはフィロソフィアの部下と組んで当たれとの事、それをいきなりこんな……!」
 「気にすんな、挨拶代わりの出血サービスだ」
 「失血死ですよ!!」
 「デミトリ老が知ったらお怒りになられますよ!?」
 「俺じゃ役不足だってのか」
 「役不足もなにもフォーマシィは本来フィロソフィアの獲物、ヤツの始末はフィロソフィア側に任せて俺たちゃ後方支援に当たれってのがデミトリ様のご命令で……」
 「ジジィの遺言なんか知ったこっちゃねえよ」
 「デミトリ老」の名が彼にもたらしたのは凄まじい反感と怒り。眼鏡越しの双眸が憎しみにぎらつく。
 「ライナス!ライナス!」
 「一体全体こりゃあ何の真似だ、約束がちがうじゃねーか!!デミトリ家はサポートに回るって話だったのに、協定破る気か!?」
 「くそったれデミトリ家め、協力すると油断させててめえらのシマで俺たちを叩く気か!?こすい手使いやがって、マフィアの誇りはどこにやったよ!!」
 仲間を殺されたフィロソフィアの部下たちが猛り狂う。
 下顎の欠損した死体を抱き抱え気色ばむ男達は最初五人あまりだったのが、発砲騒ぎを聞き付け方々の路地から残党が合流し、十数人の大所帯に膨れ上がる。
 一触即発の緊迫した雰囲気。
 誤解を解こうにも相手側が感情的になり話し合いが成立しそうにない。
 「誤解するな、これはデミトリ家の総意でもデミトリ老の命令でもない!全部こいつが勝手に」
 両手を広げて弁解せんとした側近が膝からくずおれる。
 膝の皿が割れ砕けて血が噴出、みるみるコンクリートに溜まってゆく。
 銀にきらめき薬莢が跳ねる。
 デミトリ家の名誉を守らんと無実を主張しようとした側近の膝を撃ち抜いたディアボロは、悠長に弾丸を装填しながら続ける。
 「察しがいいじゃねーか。協調共闘だあ?笑わせる。我が物顔でこっち側に乗り込んできたのが運の尽き、なんだって悪名高きデミトリ家が昨日今日湧いて出たおしめのとれてねー赤ん坊のお守りをしなきゃなんねーんだよ」
 口をふさげ、これ以上しゃべらせるな!
 膝から大量の血を流しのたうちまわる男の遺志を継ぎ、忠誠心厚い部下が身を挺しディアボロの暴挙を諌めんとするより早く、決定的な一言を放つ。 
 弾丸を装填し終えた銃をフィロソフィアのさしむけた追っ手に照準、人の神経を逆なでする下劣な笑みを剥きだす。
 「お前らの体からはゴキブリの膿汁の匂いがぷんぷんする。調子こいてひとの縄張りに変な汁つけんじゃねえ」
 挑発に応じるは多数の怒号と銃声、憤激に駆り立てられたフィロソフィアの追っ手がよもや容赦はいらぬとばかりこちらに向かい次々と発砲する。彼らの頭にあるのは「嵌められた」という一点のみ、デミトリ家が協力するふりをして自分たちを誘き出し一網打尽の罠にかけたと誤解し怒り狂っている。
 銃撃戦の開幕。
 あるものは片膝立ち銃を構えあるものはドラム缶などの遮蔽物に巧みに身を隠し、苦りきった顔であるじの尻拭いに回る。
 「何を考えてるんですかディアボロ様っ、デミトリ老にばれたらただじゃすみませんよ!」
 「引き立て役だろお前らは。邪魔が入らねーようにきちんと足止めしとけよ。後始末は心配すんな、トラックの荷台に積んで採掘場の竪穴にGOだ」
 銃火閃き火線が交錯する駐車場をドラム缶や車の後ろから後ろへと跳び移り、抜群の瞬発力と反射神経と度胸とで激しい銃撃をかいくぐり、開け放たれたシャッターめざし背広を靡かせ疾走する。
 地を這うような低姿勢からコンクリートに手をつき反動で上体を立て、開けっ放しのシャッターに滑り込む。
 キン、と甲高い音たて靴の踵を弾丸が削る。
 工場内を視線で薙ぎ払い標的を絞る。
 幾何学的に交差する梁と柱と開放的な天井、コンクリート打ち放しの殺風景な床に乱雑に積み上げられたセメントの袋と錆びた鉄骨……
 「めっけ」
 ダンカン・フォーマシィは追われていた。
 シャッターの向こう側で勃発した銃撃戦に恐れをなし、すぐそこまで迫った追っ手に恐怖し、縺れる足を叱咤し、片手でぶざまに空を掻いて工場の奥へ奥へと逃げ込む。小脇に抱えた本が重い。ああ畜生なんだってこんな目に、六歳のあの夏に全てが狂いだした、カウンターでエロ本に夢中な親父の目を盗んでキャンディーバーを万引きした時から転落人生が始まったんだ。時よ戻れ六歳の夏に、駄目なら二週間前の埠頭に、腕の中の疫病神に魅入られた瞬間に……焼き鏝を押し付けられたように耳が疼き頭が酸欠でガンガン心肺のポンプが蒸気を噴き上げばくばくばくばくー
 
 錯乱する思考を遮ったのは、一発の銃声。

 「!!!!」
 げぼっ。
 喉に異物感。
 疑問符を顔に浮かべ、両手を首へとあてがう。
 首から顎へと、おそるおそる手を伸ばす。
 掌が赤い。べっとりと血に染まっている。
 右耳の血?いや、違う、これは……
 がくりと膝をつく。大量の血塊を吐き、フォーマシィの上体が崩れ落ちる。
 倒れた衝撃で小脇に抱えていた本が円を描いて床を滑る。
 自分の手を遠く離れた本を一瞥、フォーマシィの意識は朦朧と薄れてゆく。

 こんな、ぼろっちい本のために……。
 
 視力が急速に衰えてゆく。
 闇の帳が降りた視界が最期に映したのは、黒い光沢を放つ革靴。
 最後の力を振り絞り、のろのろと視線を上げる。
 細身のスーツを着こなした悪魔が右手に拳銃を握り締め、つまらなそうにこちらを見下ろしている。
 眼鏡のレンズに映ったのは、顔面神経痛の発作によく似たひきつり笑いを浮かべた滑稽な相の男。
 銃口からは細く硝煙がたなびいている。
 
 スーツを着た悪魔、か。洒落にもなりゃしねえ。

 苦笑を上塗りするフォーマシィ。
 あるいは自嘲の笑みだったのかもしれないが、真相を知る機会は彼の死によって永遠に失われた。
 瞼を落としたフォーマシィを冷然と見下ろし、ディアボロは鼻を鳴らす。
 なんだ、こんなものか。つまんねえ。
 忙しげに馳せ参じてくる靴音に入り口を振り返れば、銃撃戦を抜け出した黒服の男達が数名こちらにやってくる。
 いずれもフィロソフィアの部下、ここ二週間余りフォーマシィーを追っていた連中だ。
 ディアボロに遅れて現場に到着した男たちが凝然と目を見張る。
 視線の先にはフォーマシィの死体があった。
 うつ伏せに倒れ伏したフォーマシィは誰が見ても息絶えていることが一目瞭然の状態。
 弾丸はフォーマシィの右肺を貫通していた。致命傷だ。殆ど即死に近かっただろう。
 苦痛を感じる暇もなく天に召されたフォーマシィの顔には苦悶の相ではなく、うっすら苦味を帯びた諦念の笑みが漂っている。
 フォーマシィの手前に佇んでいるのはディアボロだ。
 横顔には声をかけるのを躊躇わせる、とんでもなく不安定で危険な何かがある。
 今しもシャッターをくぐり抜けた男が、フォーマシィの亡骸の傍らに立ち尽くすディアボロを見詰め、懐疑的な口ぶりで状況を確認する。 
 「お前が殺したのか……」
 
 高らかな銃声が響き渡る。

 「!」
 ぎょっとした男たちの方など見もせず、ディアボロは引き金を引く。
 銃のグリップを両手で握り締め、息絶えたフォーマシィに銃弾を撃ちこむ。
 哀れな男の亡骸に無残な弾痕が穿たれてゆく。
 肉片が飛び散り、血痕が床に付着する。
 銃声、轟音。鼓膜が麻痺し三半規管が揺さぶられる。
 銃が火を噴く。煙幕のような硝煙があたりを覆い、掌中の銃身が獲物に襲いかかる蛇のように俊敏に跳ね上がる。
 牙を剥いた毒蛇は攻撃の手を休める事なく弾丸を排出し続ける。
 熱風が吹く。
 灼熱の軌道を描き、肉塊の腹を抉る。
 もとはフォーマシィだった肉塊が電気を流されたように不規則に跳ねる。
 飛散した肉片が倉庫の床にはりつく。
 弾丸が左上腕部を穿つ。
 肘の関節が砕け、左腕がへし折られる。
 右肩を撃つ。死体が跳ねる。 
 「おがくずの詰まった頭」
 その間も指は躊躇わずに引き金を引き続けている。
 銃口から放たれた弾丸が直線の軌道を描きフォーマシィの頭部を撃ち抜く。
 弾丸の破壊力で南瓜のように破裂する頭。
 脳みその破片が飛び散り、透きとおった脳漿が床に筋を作り、ディアボロの足元へと白濁した触手を伸ばす。
 「メタルハート」
 ディアボロは笑っている。
 何より無邪気なのが手におえない邪悪な微笑。どす黒い愉悦に浮かされた狂気の笑み。
 唇を歪な形に割ったまま、引き金を引く。
 銃口から発射された弾丸が死体の心臓を抉る。
 床を蹴って跳ねた死体の下に黒い血だまりができる。
 白濁した脳漿と内臓と血が混濁した泥濘が床一面に筋をひいて緩慢に広がっていく。
 無数の黒点に蝕まれ、蜂の巣になったフォーマシィは物言わず、ディアボロに蹂躙されるがままとなる。
 「ブリキの左足」
 短く息を吸い、左膝を撃ち抜く。弾丸に撃ち抜かれた膝が砕け、靭帯がちぎれる。
 「ブリキの右足」
 ディアボロの目は炯炯と輝いていた。心底このお遊戯を楽しんでいるのだ。
 眼鏡のレンズに銃火が反射する。
 緋色に照り映えたレンズがディアボロの表情を隠す。
 だが、その口元は笑っている。
 弛緩した口元には唾液の泡が付着し、獰猛に剥かれた犬歯は滾った獣性を象徴していた。
 銃口を掲げる。引き金を引く。発砲。轟音。
 右膝が砕かれ、死体の足が大きく反り返って空を蹴る。
 返り血が全身を朱に染める。
 牛皮製の革靴を、上等のスーツを、黒いネクタイを、斑に染め替えてゆく。
 ぴちゃっ。
 頬に生温い水滴が付着する。血だ。返り血が散った頬にもかまうことなく、デイアボロは銃口を転じる。
 「干しぶどうのようなチンポコ」

 狂乱の宴に終焉を告げたのは一際甲高い銃声。

 死体の腰が跳ねる。
 絶頂を迎えたかのように尻を浮かし、腰を前に突き出した死体が、次の瞬間には完全に沈黙する。
 硝煙に巻かれて沈黙した死体を一瞥、銃をおろし、眼鏡のブリッジを押し上げる。幾筋もの硝煙を身に纏ったディアボロは、靴音高くフォーマシィの死体へ歩み寄る。
 それは、ただの肉塊だった。
 無数の穴が開いた肉塊。
 蹂躙し陵辱された哀れな男の亡骸。蜂の巣になった脂肪の塊。床に四肢を投げ出し、血の海に没した男の体には無数の銃弾がめり込んでいた。弾けた肉と脂肪の間から流れ出しているのは血だ。頭蓋骨の破砕された頭部からは半分ほど欠損した脳みそが覗いていた。弾丸に抉られた脳みそは羊のはらわたのような鮮紅色をしていた。
 食欲をそそる。
 無造作に手を伸ばしフォーマシィーのー正確には生前フォーマシィだった肉塊のー襟首を掴む。
 一体細腕のどこにこんな膂力があるのか、フォーマシィの襟首を引き上げるや光を映さぬ眼窩にずぶりと銃口を突っ込む。
 銃口に加える圧力を増す。
 筋肉組織の抵抗が手首を押し返す。
 グリップを握り締め、力づくで銃口を押し込む。
 ずぶ、ずぶぶ。重たい手応え。眼球を脳みその奥へと押し戻すあの感覚。
 「ぶひぶひ鳴いてるかわいい豚さん……」
 唇が動き、でたらめな節回しの歌を口ずさむ。即興の歌。狂った歌。
 眼窩に突っ込んだ銃口をぐりぐりと左右に回す。
 眼球が潰れるおぞましい感触が手に伝わり、白濁した水晶体がとろりと粘液質の輝きを放ち、手首を伝って床へと滴る。
 眼窩から銃口を引き抜く。眼球の陥没した眼窩は虚ろな闇を溜め、恨めしげにディアボロを見返していた。ディアボロは笑っていた。
 狂気に隈取られた、悪魔的な微笑。
 「かわいいかわいいめくらの豚さん、あんたのワイフはどこにいるっと」
 今度は左目だ。左の眼窩に銃口を突っ込み、手首のスナップを効かせて回す。
 銃口が半転する。視神経を轢断する感触がダイレクトに伝わる。
 軽快に口笛を吹く。
 眼球が潰れ、透き通った水晶体が涙のように眼窩から零れる。
 手首を濡らす液を見下ろし、ディアボロは黙り込む。手首を口へと運び、舌をだして舐めてみる。
 「苦え」
 顔をしかめる。銃口を引き抜く。
 眼窩を抉った銃口には、視神経の束が粘糸のように纏わりついていた。
 銃口に絡んだ視神経を手首を一閃して払い落とす。
 お次は口。
 中腰になり、断末魔の豚のように開いた口腔に銃口を突っ込む。
 エロティックな眺めに下半身が興奮する。
 ディアボロはぞくぞくしながら引き金を引きー

 銃声は響かなかった。

 「……あ?」
 怪訝そうに引き金を引く。
 カチャカチャ。むなしい手応え。弾切れか?使えねえ。せっかくいいところだってのに。
 
 銃声は遅れて聞こえた。

 上体のバランスが崩れ、視界が反転する。
 空気中に迸った銃火が全身を焼き貫く。
 薬莢が床に零れ落ちる甲高い音が耳朶を弾き、きな臭い硝煙と鉄錆びた血臭が混沌とたちこめ、撃たれた四肢が虚空で踊る。
 「………でえ………」
 頭がからっぽになる。
 なんだこりゃ。手をすり抜けた拳銃が円を描いて床を滑る。糸が切れたように床に膝をついたディアボロの体が、ずしゃりとその場にくずおれる。スーツの焦げ穴から染み出す血。全身が焼けるように熱い。この感覚を「痛み」というのだろうか。全身をよく熱した焼け火箸でほじくられているかのような筆舌尽くしがたい激痛がディアボロを苛む。
 目が眩む。
 耳鳴りが聞こえる。
 耳の底で輪郭の割れたへビィ・メタルが鳴り響いている。
 
 なんだこりゃ?

 脳裏で赤信号が点滅する。思考が空転する。鼓膜に蜂の大群が攻めてくる。
 重低音を伴ったノイズが鼓膜を蝕み、脳みそを浸食してゆく。
 床にうつぶせたディアボロは砕けそうになる肘を叱咤し、よろよろと上体を起こす。 
 「はしゃいでんじゃねえよ、ガキ」
 銃声。
 「!!」
 肘が滑り、血の泥濘に突っ伏す。
 右肩に激痛。
 焼き鏝を押し付けられたかのような灼熱感が肩甲骨を溶かし、喉から苦鳴が迸る。
 体勢を立て直す間もなく銃声が連続する。
 朦朧と霞む視界に黒い影が映りこむ。
 極限の生理的嫌悪と憤怒に顔を歪めた男達がディアボロに向かい無慈悲に引き金を引く。
 最初の一発は、おそらく事故だった。
 二週間余りもフォーマシィーを追い続け、漸く追い詰めたと思ったそばから横取りされ面目丸潰れ。
 共闘の提案を受け入れたデミトリ家の裏切りに憤り、しかも工場内に入ってみれば、自分たちに先んじてフォーマシィを仕留めたガキが嬉嬉として死体をいたぶってやがる。
 デミトリ家跡取りの特権を乱用しヤりたい放題の暴虐無人っぷり、狂気と悪趣味の成せる技たる死体蹂躙の光景をまざまざ見せつけられ、嫌悪の極みで引き金を引いた一人に仲間が追随し猛烈な勢いで銃弾を浴びせる。
 銃火に照らされ引き金を引く男たちの顔に憎悪の皺が波打つ。

 「ガキのくせに生意気なんだよ」
 「フォーマシィを殺るのは俺たちの仕事だ」
 「お前が足止めの銃撃戦なんか仕掛けなきゃ俺たちが仕留めてたんだ」
 「デミトリ家の分際ででしゃばるなよ」 
 「時代遅れのデミトリ家は旧市街にひっこんでろよ」
 「お前の出る幕なんてはなからなかったんだよこの包茎」
 「フォーマシィ殺った奴にはボスから報奨金がでるのに」
 「どうしてくれるんだよ包茎」

 『包茎じゃねえ』

 男達は怒りに駆られあるいは無表情に引き金を引く。
 わざと急所を外している。
 それが証拠に、ディアボロはちゃんと意識を保っている。
 痛覚の許容量はとうに超えた。
 全身を責め苛む激痛に神経が焼ききれる。
 脳みそを素手でかき回されているようだ。
 体中の痛みのツボに電極を繋がれ、マックスの電流を間断なく流されているようだ。
 「ッぐ、」
 前髪を掴まれ、強引に仰向かされる。
 髪を掴んだのとは逆の手で顎の下に銃口をさしこまれ、無理矢理仰け反らされる。
 ディアボロの前髪を雑草を毟るように掴んだのは、三人の刺客の中でも最も人相の悪い黒服の男。年齢は四十代前半だろうか。
 目と鼻の先にある男の顔を瀕死のディアボロは凝視する。
 男の目が酷薄に細まる。
 シュレッダーにかける直前の生ゴミでも見下すような目つき。
 「……まちげえねえ、ディアボロ・デミトリだ。部下にも煙たがれる四代目の特徴は祖父とどっこも似てねえ真っ黒い目と髪、カール・ツァイス社製のお高い眼鏡。こいつにゃ三拍子そろってる」
 「表でもえらっそうに命令してたしな」
 「こんなガキにへいこらしやがって、デミトリ家の連中ときたら情けねえ」
 「マフィアの名門もお先真っ暗だな」 
 周囲の黒服が口笛を吹きはやし立てる。
 好奇心も露わに歩を詰めるや、前髪を掴まれ苦痛に顔を歪めるディアボロをじろじろねめつける。
 不躾な視線が脳天からつま先まで上下し、重点的に顔の造作を舐める。
 目で犯されてるようで辟易する。
 自分を取り囲む男たちはどいつもこいつも鈍そうな間抜け面をしてる。
 隙をついて逃げ出せるか?
 選択肢の是非について検討する暇もなく、リーダー格の男に手荒く前髪を揺さぶられる。
 毛根に激痛が走り、たまらず苦鳴を漏らす。
 頭皮をひっぺがされるような激痛に喘ぎもがくディアボロを至近距離で鑑賞しながら男は舌なめずりする。
 男たちの嗜虐心を満たすためにこれから行われるショーがどんなものであるのか、ディアボロには漠と予想できる。
 何故ならディアボロはー認めるのも癪だがー男たちと同じ人種なのだから。
 「……名前を知ってるんなら話ははええ」
 息も絶え絶えになりながら反駁する。
 全弾急所を外してあるとはいえ出血量は洒落にならない。今も全身が痛いのだ。
 脇腹へ食い込んだ弾丸が声を絞り出すたびに尖った先端を奥へ奥へと侵入させている。
 胃壁を食い破るのも時間の問題。
 片手で脇腹を庇ったディアボロは、硬直する顔筋を無理に引き上げ、相手の神経を逆撫でする不敵な笑みを拵える。
 「即刻このイカ臭い手をはなせ。てめえの右手に三十八口径なんざ過ぎた玩具だ、お友達はお粗末なペニスで十分だろうが」
 リーダー格の顔に怒気が漲る。
 憤怒の形相に変じたリーダー格が銃口に圧力を加える。
 ディアボロは鼻でせせら笑う。火に油を注ぐ態度。

 身の程をわきまえぬガキに、リーダー格がキレる。

 「!!!!」
 鳩尾に蹴りが炸裂。
 体を二つに折り、声もなく悶絶するディアボロ。
 蹴られた脇腹からじくじくと赤い染みが滲み出す。
 傷口を抉る容赦ない一撃。口の端から糸を引いて唾液が滴る。
 一瞬天国が見えた。
 背中から翼を生やした金髪美女が『GoGo Heaven!』と書かれた看板を持ち、股をおっぴろげてカモンカモンとしてる幻覚が見えた。
 縁起でもねえ。
 つーかなんだこの安物ポルノみてーな幻覚は?ベタすぎ。即刻その弛んだ股閉じねーとぶっとい銃突っ込んで弾切れまで撃ちまくるぞ。
 迎えに下りてきた天使にダメ出しし、死に瀕しても貧困すぎるおのれの想像力を呪う。
 熱した鉄板の上の芋虫のように身を捩るディアボロ、その右肩に衝撃。
 黒服の一人に蹴倒されたのだと察した時には既に手遅れ。
 靴底が見えたと思った次の瞬間、泥まみれの平面で顔を踏まれた。
 靴底に体重がかかる。
 窒息。
 腰に衝撃。
 左肩に衝撃。
 右足を蹴られる。
 頭を蹴られて意識が飛ぶ。
 明滅する視界。
 遠近法の狂った天井。
 鈍い音、音、音。
 降り注ぐ靴底と飛び散る血痕。
 全身に張り巡らされた神経が悲鳴を上げ、ブスブスと音を立て焦げ付いていく。
 苦痛の信号が殺到して神経が焼き切れる。
 尖ったつま先で脇腹を蹴られる。
 体がゴム鞠のように跳ね、口から血塊を吐く。
 内蔵がひしゃげるおぞましい感触とともに脳天で真っ白な閃光が弾ける。
 今のディアボロをあらわす言葉は一語に尽きる。
 『なぶりもの』。
 「………でぇ」
 靴底が振り下ろされる。
 絶え間ないノイズが鼓膜を蝕む。
 ディアボロは混乱していた。
 何が起こっているのかわからなかった。
 否、脳が今自分に降りかかっている災難を冷静に分析することを拒否していたのだ。
 肘をつき、上体を起こす。
 瞼の上が切れ、大量の血が目に流れ込む。
 視界が赤く歪む。
 赤く歪んだ視界に立つは醜悪な笑みを浮かべた男たちが三人。
 満身創痍のディアボロを見下ろし、にやにやと笑っている。
 いけすかねえつら。ザーメンぶっかけてやろうか。
 「……てめぇら、俺がどこのだれだかわかってんだろうな」
 切れた唇を動かし、息も絶え絶えに罵倒する。
 不規則に乱れた呼吸の間からこぼれでた声は、自分でもびっくりするほどよわよわしかった。威圧感の欠片もない。
 命と秤にかけた脅迫にも男たちは動じない。
 眉一筋動かすことなく、かえって毒液の滴るような笑みを満面に広げてみせる。
 性根の腐りきったリーダーがディアボロの頬を踏み、囁く。
 「旧市街を支配下においた血のデミトリ家の後継者、次期当主のディアボロ・デミトリ様だろう?間違ってたら訂正してくれよ、お坊っちゃま」
 『お坊っちゃま』
 導火線に火がつく。
 血が滲むほどに下唇を噛み締め、憎悪に煮えた双眸でリーダー格をねめつける。
 激怒したディアボロを見下ろし、リーダー格は冷ややかにせせら笑う。
 「この呼び方は気に入らなかったようだな。なんてお呼びしたらいい、デミトリ老の七光りのお孫さま?」
 「!」
 咄嗟に懐を探るも求めた感触は得られない。
 当たり前だ、ディアボロの拳銃は手の届かぬ遥か遠くに転がっているのだ。
 激しい怒りにかられたディアボロの背を、残りの二人が情け容赦なく踏みつける。
 虐げられた野良犬さながらぶざまな格好で床に突っ伏したディアボロは、重圧に逆らい顎を上げて男達を睨む。
 殺意が装填された双眸を受け止め、リーダー格は絶対的優位を誇示するかのように微笑む。
 掌中で拳銃が踊る。
 右から左へ、左から右へ。
 両の掌を行き交う拳銃が時計の振り子のように見える。
 刻々と時を刻む無慈悲な振り子。カウントダウン。
 脈絡のない連想に笑みが浮かぶ。
 腹の底から沸々とどす黒い笑いが湧いてくる。
 突如として笑いの発作に襲われ、肩を震わせ低く低く笑う。
 口の端が歪に引き攣り、音程の外れた笑い声がこぼれる。
 陰陰滅滅とした笑い声が長く尾を引き、高い天井に殷殷と木霊する。
 最高に愉快な気分。どうしちまったんだ、度を越した激痛で頭がイカレちまったのか。
 胃袋を蜂の子にかじられてるようだ。じかに内蔵をくすぐられてるようだ。
 肩を痙攣させ、笑い続けるディアボロの右則頭部に衝撃。
 頭蓋骨が鳴り、火花が弾ける。
 銃身で殴打されたのだと気付いたのは、笑い声を上げる気力も尽き、床に四肢を投げ出して頭上を仰いだ時。
 リーダー格の掌中で鈍く光っているのは黒い拳銃。
 殺傷能力に特化した形状の無骨な銃で美しさのかけらもない。

 あんな拳銃は美学に反する。
 持ち主のセンスを疑うぜ、まったく。

 胸中毒づいたディアボロを見下ろし、リーダー格がうっそりと口を開く。
 「俺を殺せばデミトリ家が黙っちゃいないー……そう思ってんなら大間違いだ」
 「?」
 なにいってんだこの低脳ブタは?
 訝しげに眉をひそめたディアボロの鼻先に銃口をつきつけ、おもむろにしゃがみこむ。
 不気味な笑みを浮かべた顔を突き出し、ねっとりと耳元に囁きかける。
 「お前がひとりでフォーマシィを追って工場に駆け込んだのに、今んなっても仲間が助けにこねーのはどういうわけだ?当然表に銃声が漏れてるのに、だれひとりとして様子を見に来ねーのは?お前の悲鳴も表に聞こえた、けれどもだあれも助けにこねえ」
 「見殺しにされたんだよ、お前は」
 「デミトリ老にゃお前が勝手に銃撃戦しかけて飛び出してった、自分たちはお前の尻拭いで手一杯だったって釈明すりゃいい。寛大な人柄で知られるデミトリ老なら、跡取りの孫が死んだのは哀しいが自業自得なら仕方ねえって、もちろん許してくれるだろうさ」
 「お前が死にゃ全部まるくおさまる。お前の勝手な振る舞いにほとほと手を焼いてた部下どもは示し合わせて口を噤み、『四代目の暴走を止められなかったのは俺たちの責任、今後ますますデミトリ家に尽くすことでこの罪贖いたき所存』とか何とか、てきとーにお悔やみ申し上げるだろうさ」
 「その証拠にだーれも助けにこねーじゃねーか」 
 「いっそ死んでくれた方がいいって思ってんのさ、みんな」
 「俺達はボスに報告する。先に裏切ったのはお前達デミトリ家、撃たれたら撃ち返すのがマフィアの流儀。俺たちゃ『やむをえず』応戦して『仕方なく』お前を殺したんだ。ほら、筋は通るだろーが。お前が先に発砲した所は敵味方ひっくるめ全員が目撃してる。部下にも庇う義理はねえ、死人ならなおさらだ」
 男達の言葉をひとつひとつ斟酌し、片腕で懐を抱き、苦しげに上体をずり起こす。 
 「死人に口無し………そうか、そうか、なるほどね。憎まれ役のブラックシープはそこに散らばってるミンチじゃなく、実はこの俺様だったってわけか。反吐が出るほど素晴らしい提案だ。虫唾が走るほど悪知恵が回るじゃねえか。あっぱれだぜこの野郎」
 体からは大量の血が流れ出し、生命は底を尽きかけている。
 思考が次元を突き抜けて飛躍する。
 「そうだ、そうだ、そうだよな。核弾頭を始末しちまえば後々