ロールシャッハテストB

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Devilish

Devilish プロローグ

(1995/12/31)
 革張りの椅子に身を沈め、まどろむように目を閉じているのは若い男。
 どう年配に見積もっても三十半ばといったところ。
 暗闇にほの白く浮かび上がる横顔は東欧の俳優の如く端正だが、固く引き結んだ唇と怜悧な切れ長の眦が、細身のナイフに通じる研ぎ澄まされた風情を漂わせる。
 一見暴力沙汰とは最も縁遠い場所にいるエリート風だが、勘のいい者が接見すれば、スーツの下の筋肉が筋金のように鍛えられている事実が見てとれる。隆起を誇示して自尊心を充たすでもなく、徹底して贅を削ぎ落としバネの撓りをよくした肉体は、もう一枚の毛皮として艶めく闇をまとう静かなる黒豹のそれ。
 執務室にノックが響く。
 耳朶を打った空気の振動に男の瞼がぴくりと反応する。
 ゆっくりと瞼を開き、薄目を開ける。
 瞼を持ち上げると形よく切れ上がった眦が現れる。
 双眸に鋭利な光が宿る。
 誰何の黒瞳を扉へ向ける。
 「失礼します」
 扉が開く。
 黒背広の男が慇懃に一礼する。
 主の機嫌を損ねることを何より恐れる黒背広は、音をたてぬよう静かに扉を閉じる。
 部屋の入り口に立ち、壁に沿って視線を一巡させる。
 何度訪ねても部屋の暗さに慣れることはない。
 そして、目の前の男にも。
 額に浮いた冷や汗を悟られぬよう、絨毯を踏みしめ執務机へと向かう。
 毛足の長い絨毯が足音を吸収してしまうため、衣擦れの音のほかに耳に届くのは自身の荒い吐息と動悸ばかり。
 歩幅を意識して前後に足を繰り出しつつ、生唾を嚥下する。
 執務机の前に立つ。
 踵を揃えて直立した配下を、男は無関心に一瞥する。
 背筋を伸ばし直立不動の姿勢をとった配下は、こわばった舌を叱咤して要件を告げる。
 「例のブツのありかがわかりました」
 わずかに顎を反らし、野太い声で報告する。
 その間も体の脇に垂らした掌はじっとり汗ばみ、腋の下には粘液質の汗が滲み出す。
 男の目が忙しく動く。
 男の目の奥を凝視すると、期せずして冥府を覗き込んだかのような戦慄が走る。
 「どこだ?」
 一声で女の背骨をとろかす美声に申し分ない容姿。
 目の前の男は、自分のような醜男とは別世界に住んでいる。
 莫大な富に明かせて世界中の美女を侍らすことすら不可能ではない、脳天から爪先まで札束で磨き上げられた完璧な男。
 内心ひと回りも下の男に顎で使われる現状に忸怩たるものがないではなかったが、それ以上に彼が抱いていたのは、目の前の男に対する底冷えする畏怖と恐怖心。

 得体の知れない男。
 危険極まりない男。

 野生の動物が匂いで外敵を嗅ぎ分けるように、人間にも外敵を嗅ぎ分ける能力が備わっている。
たとえ相手が自分に害意を持っていなくても、その人物が強大なー…あまりにも自分とかけ離れた存在であると本能が感知すれば、人は自然その人物と距離をおくようになる。

 住む世界がちがうと痛感させるとてつもなく不吉な何かが、この男からは強烈なまでに放たれている。
 人から忌避し畏怖されることによって強大な力を得る
 悪魔的な何か。
 デビリッシュ。

 「……この男です」
 背広の内ポケットから一葉の写真を抜き取り、デスクに滑らせる。
 スタンドに点灯し、掌中の写真へと目を注ぐ男。
 無言。
 沈黙。
 上目遣いに主人の顔色を見る。あるじをさしおいて口をきいてよいものか迷う。
 男はじっくりと写真を検分する。間接と長さのバランスが絶妙な指に見惚れる。
 口を開きかけたまま凍り付いた男の耳を単調なリズムが叩く。
 男の人さし指が机を叩き、拍子をとる。しばらくそうしてから、おもむろに口を開く。
 「愚鈍だな」
 「は?」
 刹那、指に挟んだ写真を投擲。
 風切り音が耳朶を掠め、頬に朱の斜線が走る。
 頬に浮き出た血の筋に一呼吸遅れ我に返った配下は、炯炯たる眼光に気圧され後退する。
 顔面蒼白の配下を見下し、男ははっきりと歎息した。
 「今この場で殺されないことを感謝しろ。俺は愚鈍な男が嫌いだ。もう一度だけチャンスをやるから、この男について説明しろ」
 男が投げた写真が空を切り、頬の薄皮を裂いたのだとようやく合点がいった配下は、膝から下の震えを止めることができなかった。
 まさか恐ろしさで口が利けなかったとは言えない。
 ましてや写真を滑る指の美しさに目を奪われていたなど。
 大きく深呼吸し、酸素で肺を満たす。
 うわべだけでも平静を取り繕い、事務的な口上を述べる。
 「……名前はダンカン・フォーマシィ、42歳。我が組織の末端構成員で麻薬の運び屋として働いていました。ケチな小悪党です。組織では全く重きを置いてません、いくらでも換えの利く使い走りです。二週間前は埠頭での荷下ろしに駆り出されたようですが、例の銃撃戦のどさくさに紛れてとんずらこいたってのが一緒に働いてた男の証言です。経歴を簡単にまとめますと窃盗の前科五十八犯、二十代の頃に二度ムショにぶち込まれてます。今回はそう、悪い手癖がぶりかえしたといったところでしょうか。フォーマシィには親しい友人や近い身寄りもなく、腐れ縁の情婦にも門前払いをくって行き場をなくしてる模様。421丁目のアパートには二週間前より帰宅した形跡なし、現在自宅と情婦宅、行きつけの酒場とカジノに見張りをあたらせてます。現在八十名余りを動員して鋭意追跡中ですが、どうも場末のモーテルやら倉庫やらを転々としてるそうですね。機を見るに敏というか……もとコソ泥だけあって、はしっこいヤツです。いたちごっこですよ。まあ時間の問題です。多勢に無勢の鬼ごっこが二週間も続いてやっこさんは疲れきってる、そろそろ音を上げる頃合だ。フォーマシィは西へ西へと移動してます。先日遂に境界線をこえて旧市街に入りましたが、土地勘のないフォーマシィが俺たちを巻いてうまうま逃げおおせるとは思えません」
 「旧市街はデミトリ家の縄張りだ。共同戦線を組むべきだな」
 男の発言に、部下は驚く。
 「デミトリ家と……ですか?しかしデミトリ家は、」
 「背に腹は変えられん」
 男の言葉は心胆寒からしめる征服力をもち、異を唱えかけた部下の無能を暗に責め、おおいに萎縮させる。
 机上で組んだ五指に尖った顎を乗せ、暗い天井に目を馳せる。
 天井に視線を放り、韜晦を含んだ口調でひとりごつ。
 「間違いがあってはならない。絶対に。お前達は奪われた物の価値を正しく理解してない。ダンカン・フォーマシィ捕獲作戦には万全の体勢をもって臨む。くだらん見栄は捨てろ。体面?馬鹿らしい。使えるものは友だろうが敵だろうが徹底的に利用する。幸いデミトリ家当主から停戦の話し合いが来てる。歓楽街の土地権を分割して協調路線を歩まないかと、あの血のデミトリ家当主がわざわざ打診してきたのだ。折角の好機を無駄にする手はない……」
 天井に向けられていた視線がゆるやかに下降してくる。
 部下の顔をきっかりと正視し、低い声で念を押す。
 「本当にこの男で間違いないんだろうな」
 「裏はとりました。付け加えるなら、フォーマシィーは麻薬中毒で喉から手が出るほど金を欲してます」
 固い声で部下が肯定する。
 再びの沈黙。
 長々と息を吐き、表情を消して宣告。
 「……この男を殺せ」
 闇に沈んだ居室に死刑執行の宣告が殷殷と響く。
 姿勢を正した部下にはそれきり関心を失ったように、椅子の背凭れに上体を沈める。
 天井を仰いで目を閉じる。
 「……この男が奪ったものを絶対に取り返してこい。無傷でだ。もしひとつでも傷をつけたなら……」
 瞼が開く。
 現れたのは切れ長の眦。
 鬼気迫る燐光を灯した黒曜の目が、なによりも雄弁に部下を脅迫する。
 「その罪、お前の血で贖ってもらおう」
 途方もない威圧感に腰が砕けそうになる。
 「イエス、ボス」
 深々と頭を垂れ、踵を返す。足音は無音に近い。
 ドアが閉じる。
 部下が礼をして退室したあとも、男は微動だにせず革張りの椅子に上体を沈めていた。
 椅子の背凭れに上体を預け、虚空に目を馳せる。
 静寂。
 椅子が軋む。席を立つ。
 ゆっくりと執務机を迂回し、悠揚とした足取りで左手の棚へと歩み寄る。
 棚の中段に鎮座する香炉へ手を伸ばす。
 掌に抱いた香炉へと目を落とす。
 上品な趣のある、美しい香炉だった。
 乱れ飛ぶ胡蝶と艶やかに咲き誇った牡丹の絵柄が異国情緒を漂わせる。
 男の唇が開き、小さく声を発する。
 『ユーシン、招来』
 異変は唐突だった。
 男の手の中の香炉から、たなびく絹糸のようにか細い煙が立ち昇る。
 えもいわれぬ芳香が鼻孔をくすぐり、飴が溶けるように空間が歪む。
 次元の裂け目から生み落とされた極彩色の陽炎はやがて人の形をとり、優雅な挙作で男の前に降臨する。
 女は鮮やかに染め抜いた絹を何枚も重ねた東洋の衣装を身に纏っていた。
 腰の高い位置で絞った真紅の帯が、生ある炎のようにあでやかに吹き流れる。
 「……どうだ?」
 聞いたのは男だ。
 香炉を机の角におき、片手をズボンのポケットにひっかける。
 男はリラックスしていた。
 配下と問答していた時の殺気は完全には失せていなかったが、その顔に浮かんでいる表情は凪のように穏やかだ。
 抜き身のナイフのように鋭利な切れ長の双眸も、女と相対した今は別人のように柔和な光を湛えている。
 女のおとがいが持ち上がる。漆黒の目がひたりと男を見据える。
 『あの方は死にます』
 「そうか」
 大した感慨もなく、言下に切り捨てた男を咎めるように女は眉をひそめる。
 「奴は無能だ。あれの奪還は不可能だと半ばわかっていた」
 『では何故、行かせたのですか』
 女の喉からかすれた声が迸る。
 まるで我がことのように哀れな配下の末路を嘆く女に一瞥くれ、男はため息を吐く。
 悲痛な訴えにも心動かされることなく、淡々と続ける。
 「なに、座興だ」
 男の唇が綻ぶ。闇に閃くのは剃刀のように鋭利な微笑、邪悪な弦月を象った禍々しい微笑だ。

 それなのに。
 そんな風に笑う男は、悪魔のように美しかった。

 歯痒げに下唇を噛む。
 悲哀に歪む女の顔を目の端でとらえ、男が薄く歎息する。
 脇にたらしていた手がゆっくりと弧を描き、女の右頬へとあてがわれる。
 「お前はやさしい女だ」
 やさしい声音だ。
 もしこの場に第三者がいれば、男がこんな声をだせることに驚吃しただろう。
 男はいとおしげに目を細め、苦笑をまじえて指摘する。
 「まるで母のようにやさしい女だな」
 『……あなたも本当はやさしい人です、ジズ・フィロソフィア』
 男の顔から表情が消えた。女はなにも言わず、ただただ哀しげに男を見つめていた。
 男は所在なげにその場に立ち尽くしていたが、ふいにその全身に装填された銃のような殺気が漲る。
 「ユーシン」
 『はい』
 鞭打つように名を呼ばれ、女は遅滞なく返事する。
 顔をあげた男からは最前までの気弱な表情は払拭され、黒社会の頂点を狙う若き簒奪者の威厳と覇気が満ちていた。
 「俺が呼ぶまで香炉で待機してろ」
 『御意』
 着物の袖を泳がせ虚空に没した女の残像には一瞥もくれず、男は顎を反らして天井を仰いだ。
 椅子に身を投げ出し、長い足を無造作に組んだ男の喉から歪な声が漏れる。
 笑い声は次第に大きくなり、しまいには大音量となり部屋中に響き渡る。
 気違いじみた哄笑が終息するのを待ち、洗いざらしの紙のように乾ききった笑みで吐き捨てる。
 「おれがやさしいだと?やさしいだと。まさか」
 机の端に乗った香炉を冷ややかに一瞥、自嘲的に唇を歪める。
 「やさしさと愚かさは同義だ」
 男の独白は苦渋の滲んだ余韻を残し、闇に呑まれて消滅した。
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